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第1 戒厳宣告 v. 「戒厳令発出」

 

1 戒厳宣告:大日本帝国憲法14条及び旧戒厳令

 かつて「戒厳令(明治15年太政官布告第36号)の周囲を巡る」と題した記事を当ブログに掲載(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1035523162.html)した筆者としては,戒厳は,戒厳法(註1)の定める要件に従って,憲法により「宣告」されるものであり(註2),かつ,「解止」されるもの(註3)と思っていました(註4)。戒厳法又は法律としての効力を有する戒厳令があって既に施行されている場合には,「普通の行政行為を以て」戒厳の宣告を行えばよいのであって(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)285頁),更に戦時又は事変(旧戒厳令1条)若しくは土寇(同令5条)の都度,一般命令たる「戒厳令を発出」したり「戒厳令を布(し)」いたりすることは無用のことであり,巷間横行しているそれらの表現は誤用であると思っていました。

 

(註1)大日本帝国憲法14条2項によって「戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」るものとされていたところ(下線は筆者によるもの),明治15年8月5日太政官布告第36号たる旧戒厳令は,同憲法76条1項(「法律規則命令又ハ何等ノ名称ヲ用ヰタルニ拘ラス此ノ憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ総テ遵由ノ効力ヲ有ス」)により,同憲法下において「法律として効力を有」していました(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)285頁及び739頁)。

   旧戒厳令は,昭和22年5月17日政令第52号(件名は,昭和20年勅令第542号ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基づき陸軍刑法を廃止する等の政令)1条によって,遡及的に,1947年5月3日から廃止されています(昭和22年勅令第52号6条)。昭和20年勅令第542号は大日本帝国憲法8条1項の緊急勅令(「法律ニ代ハルヘキ勅令」)であって,したがって,当該勅令(「政府ハ「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ聯合国最高司令官ノ為ス要求ニ係ル事項ヲ実施スル為特ニ必要アル場合ニ於テハ命令ヲ以テ所要ノ定ヲ為シ及必要ナル罰則ヲ設クルコトヲ得」)に基づく政令であれば,それによって法律を廃止することも可能だったのでした。

(註2)大日本帝国憲法14条1項(「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」(下線は筆者によるもの))及び旧枢密院官制(明治21年勅令第22号)6条7号(「帝国憲法第14条ノ戒厳ノ宣告」(下線は筆者によるもの)について諮詢を受けて会議を開き意見を上奏することを枢密院の職掌とするもの)並びに旧戒厳令4条及び5条(いずれも司令官(同令6条)による戒厳の「宣告」に係るもの))参照。

なお,旧戒厳令3条は,司令官の宣告による臨時戒厳(同令4条及び5条)ならざる戒厳は「布告」されるもの(布告は「布告式にもとづいて勅旨を奉じて太政大臣」が行い(大江志乃夫『戒厳令』(岩波新書・1978年)60頁),旧戒厳令の布告自体も「奉勅旨布告候事」という形でされています。)と規定していましたが,この「布告」は大日本帝国憲法14条1項の「宣告」によっていわば上書きされました(大江・同頁)。日清戦争に際して明治天皇の発布した明治27年10月6日(裁可は同月5日)勅令第174号(件名は,戒厳宣告の件)の第1項の文言は「広島県下広島市全部及宇品ヲ臨戦地境ト定メ本令発布ノ日ヨリ戒厳ヲ施行スルコトヲ宣告ス」というものでした(下線は筆者によるもの)。日露戦争に際しての明治37年2月14日(裁可も同日)勅令第36号ないし第39号(それぞれ長崎要塞地帯及びその隣接区域(第36号),佐世保要塞地帯及びその隣接区域(第37号),対馬島及びその沿海(第38号)並びに函館要塞地帯及びその隣接区域(第39号)を臨戦地境とするもの),明治38年4月14日(裁可は同月13日)勅令第133号(澎湖島馬公要港境域内及びその沿海を臨戦地境とするもの)及び明治38年5月13日(裁可は同月12日)勅令第160号(台湾全島及びその沿海を臨戦地境とするもの)も同様の件名及び書式でした(ただし「戒厳ヲ施行スルコト」が「戒厳ヲ行フコト」に改められています。)。

   これらの戒厳の宣告は,直接大日本「帝国憲法第14条ニ依」ったものとされていて,旧戒厳令によるものとはされていなかったことについては,上記各勅令の上諭を参照してください。

   なお,臨戦地境とは「戦時若クハ事変ニ際シ警戒ス可キ地方ヲ区画シテ臨戦ノ区域ト為ス」ものであって(旧戒厳令2条第1号),旧戒厳令におけるもう一つの戒厳の種類に係る合囲地境(同条第2号(「合囲地境ハ敵ノ合囲若クハ攻撃其他ノ事変ニ際シ警戒ス可キ地方ヲ区画シテ合囲ノ区域ト為ス者ナリ」))とは戒厳の効力において差がありました。合囲地境の方が強い効力を有するのであって,当該地境においては,地方行政事務及び司法事務の軍事に関係ある事件のみならず(臨戦地境に係る旧戒厳令9条),地方行政事務及び司法事務は(同令10条)その地の司令官の管掌するところとなり(なお,ここでの司法事務とは「裁判権を含まず,司法警察,刑の執行,不動産登記その他民事非訟事件に関する事務」をいいます(美濃部286頁)。),一部の裁判管轄は民事刑事とも軍法会議に移るものとされ(同令11条),更に「合囲地境内ニ裁判所ナク又其管轄裁判所ト通路断絶セシ時」は全ての裁判管轄が軍法会議に移りました(同令12条。なお,合囲地境内での軍法会議の裁判に対する上訴は認められていませんでした(同令13条)。)。戒厳下における司令官による人民の権利の制限(補償は認められず。)についても,①集会又は新聞,雑誌,広告等の時勢に妨害ありと認めるものの停止,②軍需用品の調査及び輸出禁止,③危険物の検査及び押収,④通信の検閲(「郵信電報ヲ開緘」),出入りの船舶及びその物品の検査並びに陸海通路の停止並びに⑤やむを得ざる場合における動産不動産の破壊燬焼のみならず,合囲地境においては,⑥家屋,建造物及び船舶への随時の立入検察並びに⑦寄宿者を退去させることが可能となるのでした(旧戒厳令14条)。

(註3)旧戒厳令15条は「戒厳ハ平定ノ後ト雖𪜈(〔ども〕)解止ノ布告若クハ宣告ヲ受クルノ日迄ハ其効力ヲ有スル者トス」と規定していました(下線は筆者によるもの)。ただし,同条には「布告若クハ宣告」とありましたが,日清戦争の際の戒厳の解止に係る明治28年6月19日(裁可は同月18日)勅令第76号(件名は,戒厳解止の件)は「広島県下広島市全部及宇品ノ戒厳ハ明治28年6月20日限リ解止ス」と規定していて,「布告」の語も「宣告」の語も用いていません。日露戦争の際の戒厳の解止に係る2件の勅令であっていずれも件名を戒厳解止の件とする明治38年7月7日(裁可は同月6日)勅令第193号(台湾全島及び澎湖島馬公要港境域内並びにそれらの沿海に係る戒厳の分)及び明治38年10月16日(裁可は同日)勅令第219号(長崎要塞地帯及びその隣接区域,佐世保要塞地帯及びその隣接区域,対馬島及びその沿海並びに函館要塞地帯及びその隣接区域に係る戒厳の分)も,単に「解止ス」と表現しています。

   なお,上記3勅令の上諭を見ると,いずれも枢密顧問の諮詢を経たものとされています。すなわち,旧枢密院官制6条7号の「帝国憲法第14条ノ戒厳ノ宣告」には,戒厳の解止も含まれるものと解されていたのでしょう。

(註4)なお,そもそも戒厳とは,戦時又は事変に際して「兵備ヲ以テ全国若クハ一地方ヲ警戒スル」こととされていました(旧戒厳令1条)。「兵備ヲ以テ」とは,「兵力を以て」の意味であり(日高巳雄『軍事法規』(日本評論社・1938年)663頁註4),「警戒スル」とは「兵力を以てする対内的防衛を謂ふ」ものとされています(同663頁註5及び10頁註8)。すなわちここでの「警戒」は,「兵力を以てする対外的防衛」である「守備」(日高10頁註7)とは異なるようです。

伊藤博文の『憲法義解』は,戒厳について,「戒厳は外敵内変の時機に鑑み,常法を停止し,司法及行政の一部を挙げて之を軍事処分に委ぬる者なり。」と説明しています(第14条解説)。更に戒厳の目的とするところについては,美濃部達吉は「専ら,軍事上の必要の為にするもの」(美濃部282頁)ないしは「専ら軍事行動の必要の為にするもので,戦争又は内乱に際し,軍隊を以て戦闘行為を為す場合にのみ行はれ得べきもの」(同285頁)と解しています。

旧陸軍大学校の「統帥参考」(1932年7月)においては「戒厳の宣告せられたる場合に於ては,国家統治作用の一部は軍権の権力に移され,行政及司法権の全部又は一部は軍権の掌る所と為る。軍事占領地の統治亦然り。而して戒厳の宣告其物に就ては政府責任を負はざるべからざれども,其後軍権の行使する行政に関しては議会に対し責任を負ふ者なく,軍事占領地の統治亦然り。」と述べられています(『統帥綱領・統帥参考』(偕行社・1962年)28頁。原文は,片仮名書きで句読点なし。)。戒厳が宣告された地は,我が国内であっても,我が軍によって軍事占領されたことになってしまうのだ,ということでしょうか。なお,「議会に対して責任を負ふ者なく」とは,「兵権に付いて天皇を輔弼し,又は天皇の下に兵権の一部を委任せられて居る者は,国務大臣の監督の下に属せずして天皇に直隷するものとせられて居」るところ(美濃部255頁),「議会の参与し得べき政務の範囲は,国務大臣の職務に属する国家事務の範囲と同一であ」る(同424頁)にすぎない,という理論によるものでしょう。

ところで,外国の領土の軍事占領に係る美濃部達吉の説明はいわく。「或る地域が既に平定して完全にわが軍の勢力の下に置かれた後には,その地域に於いては敵国の統治権を排除し,軍隊の実力を以てその統治を行ふことになるのであつて,その占領中は一時日本の統治権がその地域に行はれる。併し此の場合の日本の統治は一時の経過的現象であつて,法律上の権利として統治権が成立するのではなく,実力に依る統治に外ならぬ。それが結局に於いて,日本の権利として承認せらるゝや又は原状に回復せらるゝやは,講和条約に待たねばならないのである。」と(美濃部96頁)。ここでは「実力に依る統治」という文句が目を惹きます。しかし,よく読むと,法によらざる無法の「実力に依る統治」ということではなく,そこでの統治権行使の根拠となるものが端的に専ら実力であるということのようです。統治自体は,占領地の現行法令を尊重して行われなければなりません。明治天皇が1911年11月6日に批准した陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(明治45年1月13日条約第4号)の附属書たる陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則(いわゆるハーグ陸戦法規)43条には「国ノ権力カ事実上占領者ノ手ニ移リタル上ハ占領者ハ絶対的ノ支障ナキ限占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ尽スヘシ」との規定があります。

 

 「戒厳令を発出」ないしは「戒厳令を布く」誤用説に対しては,日清戦争及び日露戦争の際の戒厳の宣告は「戒厳宣告の件」を件名とする勅令の発布によってされているので(なお,件名とは何かについては,これも昔のものですが,「題名のないはなし」記事(https://donttreadonme.blog.jp/archives/2986694.html)を御参照ください。),「「戒厳宣告の勅令の発布」をつづめ,かつ,微修正して「戒厳令の発出」と言い得るのだ」とあるいは強弁する人もいるかもしれません。しかし,戒厳の宣告を勅令の発布をもって行う形式は,旧公式令(明治40年2月1日勅令第6号)の施行(1907年2月1日から(同令附則1項))と共に終焉を迎えています。

旧公式令1条1項は「〔略〕大権ノ施行ニ関スル勅旨ヲ宣誥スルハ別段ノ形式ニ依ルモノヲ除クノ外詔書ヲ以テス」と規定しており,このように「勅令と詔書とを判然区別するに至つてから後は,凡て法律に基いて勅旨を以て行はるる行政行為は,詔書の形式を以てするの例となつたから,戒厳の宣告も将来は恐くは詔書の形式に依ることと信ぜられる」こととなっていたのでした(美濃部283-284頁)。詔書とは「国の機関としての天皇の意思表示に係る公文書で一般に公示されるもの」です(吉国一郎等編『法令用語辞典〈第八次改訂版〉』(学陽書房・2001年)400頁)。

(ただし,旧公式令の施行後には,大日本帝国憲法14条による戒厳の宣告は行われませんでした。先の大戦末期の聯合国軍が迫る時期にも戒厳宣告がなかったとは,不思議なことではありました。なお,関東大震災(1923年)及び二・二六事件(1936年)の際の「戒厳」は,同憲法8条1項の緊急勅令に基づき,旧戒厳令9条及び14条が適用されることとなったものです。)

 

2 2024年12月3日の大韓民国における「戒厳令の発出」

 と,以上は(註が特に)長い前置きだったのですが,今月(2024年12月)3日から4日にかけて大韓民国の大統領が惹起した同国憲法77条の戒厳に係る戒厳宣告・解止騒動に関しての感慨が,筆者による本稿執筆の動機となっており,当該騒動の理解・解釈のための補助線としてまず我が国の旧戒厳制度に関する復習がされたものであったのでした。

しかして筆者の当該動機は具体的にはどのように生じたかといえば,一番大きなところは,大韓民国における上記騒動の直後,次のような記事(同月4日の石破茂内閣総理大臣の記者会見)が我が内閣総理大臣官邸ホームページに掲載されているのを筆者は見てしまったことであるのでした。唖然とし,「軍事オタク」っぽくないなと思いました。

 

韓国における戒厳令発出についての会見

 

他国の内政について,あれこれ申し上げる立場にはございません。しかしながら,昨晩の戒厳令発出以来,私どもとして,特段の,かつ重大な関心を持って,注視をいたしておるところであります。在留邦人の安全につきましては,領事メールを直ちに発出する等々において,できる限りの対応をとっております。在留邦人の安全については,引き続き,その安全に万全を期してまいる所存でございます。〔以下略〕

  (https://www.kantei.go.jp/jp/103/statement/2024/1204kaiken.html)

 

 下線は筆者によるものです。「戒厳令発出」ではなく,大韓民国憲法77条の文言及び我が法制の伝統に則って日本語で言えば「戒厳宣告」(又は同国憲法の用語の基底にある漢字にこだわれば「戒厳宣布」)とあるべきところでしょう。

大韓民国憲法77条の日本語訳は次のとおりです(一般的に流通しているものとして,Wikisourceから転載)。

 

第77条 大統領は,戦時・事変又はこれに準ずる国家非常事態において,兵力を以つて軍事上の必要に応じ,又は公共の安寧秩序を維持する必要があるときは,法律の定めるところに依り,戒厳を宣布することができる。

 2 戒厳は,非常戒厳及び警備戒厳とする。

3 非常戒厳が宣布されたときは,法律が定めるところに依り令状制度,言論・出版・集会・結社の自由,政府又は裁判所の権限に関して,特別の措置を取ることができる。

4 戒厳を宣布したときは,大統領は,遅滞なく国会に通告しなければならない。

5 国会が在籍議員過半数の賛成に依り戒厳の解除を要求したときは,大統領は,これを解除しなければならない。

 

大韓民国憲法77条の用語の基底にある漢字に忠実に訳すれば,確かに,戒厳は宣告されるものではなく・(皇道又は大教ならねど)「宣布」されるものであり,解止されるものではなく・(契約ならねど)「解除」されるもののようです。この点については,念のためには「https://ko.wikisource.org/wiki/%EB%8C%80%ED%95%9C%EB%AF%BC%EA%B5%AD%ED%97%8C%EB%B2%95_(%ED%95%9C%EC%9E%90%ED%98%BC%EC%9A%A9)」を御確認ください。

しかしながら,大韓民国は漢字離れをして,現在はハングル中心の国語政策をとっているそうですから,同国の国語から日本語訳をするときにはハングルで書かれた当該国語からの翻訳として,日本語としての自然さを重視して文を綴ることは許されるものと思われます。すなわち,同国の国語のいわば頭越しに,当該国語の単語の基底にある漢字を直接訳語として採用する必要はないのではないでしょうか。

更にいえば,大韓民国憲法77条の規定には,我が大日本帝国憲法14条及び旧戒厳令が大きな影響を与えているようにも思われるのです(旧戒厳令は,大正2年勅令第283号により,1913年9月25日から朝鮮においても施行されています。)。

 

3 大日本帝国のそれとの比較における大韓民国の戒厳法制検討

 

(1)大日本帝国憲法14条との比較

大韓民国憲法77条1項の「大統領は〔略〕戒厳を宣布することができる。」の部分は大日本帝国憲法14条1項を,大韓民国憲法77条1項の「戦時・事変〔略〕において,兵力を以つて軍事上の必要に応じ〔略〕るときは,法律の定めるところに依り,戒厳を宣布することができる。」の部分は大日本帝国憲法14条2項前段及び旧戒厳令1条を,大韓民国憲法77条3項は大日本帝国憲法14条2項後段をそれぞれ承けたものでしょう。

 

(2)行政戒厳の戒厳への取り込み

ただし,大韓民国憲法77条1項の「大統領は,戦時・事変又はこれに準ずる国家非常事態において,兵力を以つて〔略〕公共の安寧秩序を維持する必要があるときは,法律の定めるところに依り,戒厳を宣布することができる。」の部分は,大日本帝国憲法8条1項の緊急勅令によって行われていたいわゆる行政戒厳を戒厳に取り込んだもののようです。

行政戒厳について,美濃部達吉はいわく,「是は兵力を以て或る地域を警備することに於いて戒厳の宣告と頗る類似して居るものであるが,真の戒厳は,専ら軍事行動の必要の為にするもので〔略〕あるに反して,行政戒厳は或る地方の秩序が乱れて警察力を以ては秩序を維持することが出来なくなつた為に,兵力を以てその地域の治安を回復し之を維持せんとするものであることに於いて性質を異にして居る。一は軍事の必要の為すものであり,一は治安の必要の為にするものである。」と(美濃部284-285頁)。すなわち,大韓民国憲法上の戒厳概念は,大日本帝国憲法上のそれよりも行政戒厳が含まれる分だけ広いことになります。

なお,軍事の必要のための戒厳が「真の戒厳」であるというのは,「戒厳という言葉は漢語であり,その語義は,「厳,およそ彊敵のまさに至らんとして備を設く戒厳といい,敵退きやや備を弛む解厳という」(正字通)の意」であるから(大江志乃夫『戒厳令』(岩波新書・1978年)i頁)なのでしょう。戒厳は本来,外からの彊(強)敵の襲来に備えるものです。ただし,「戒厳という漢語を誰が法律用語に転用したのかはわからない」そうです(大江5頁)。

 

(3)戒厳宣告権者及び宣告手続

我が旧戒厳令4条及び5条は軍の司令官が臨時戒厳を宣告することができる場合について規定していましたが,大韓民国における戒厳宣告は大統領のみができるものとされているそうです(方勝柱「大韓民国憲法上の国家緊急権制度」ノモス30号(2012年6月)39頁。なお,大韓民国戒厳法の条文の日本語訳をインターネット上で見つけることができなかったので,同法の内容については,方博士の当該論文における記述を手掛かりにした推定に基づき以下論じます。)。

大韓民国では,大統領による戒厳の宣告及び解止については国務会議の審議を経なければならないものとされていますが(同国憲法89条5号),これは我が旧枢密院官制6条7号の規定に対応するものでしょうか。大韓民国の国務会議は「大統領・国務総理及び15人以上30人以下の国務委員で構成」され(同国憲法88条2項),「行政各省の長は,国務委員の中から国務総理の提請に依り大統領が任命する」ものとされています(同憲法94条)。(なお,我が枢密院においては「各大臣ハ其職権上ヨリ枢密院ニ於テ顧問官タルノ地位ヲ有シ議席ニ列シ表決ノ権ヲ有ス」るものとされていました(旧枢密院官制11条前段)。)

 

(4)非常戒厳及び警備戒厳と合囲地境及び臨戦地境と

大韓民国憲法77条2項の非常戒厳と警備戒厳とについては,同国戒厳法2条において,「非常戒厳は大統領が戦時・事変又はこれに準ずる国家非常事態において敵と交戦状態にあり,又は社会秩序が極度に攪乱され,行政および司法機能の遂行が著しく困難な場合に軍事上の必要に応じ,又は公共の安寧秩序を維持するために宣布する」と(同条2項),「警備戒厳は大統領が戦時・事変又はこれに準ずる国家非常事態において社会秩序が攪乱され,一般の行政機関だけでは治安を確保できない場合に公共の安寧秩序を維持するために宣布する」と(同条3項)と規定しているそうです(方34頁)。

非常戒厳には美濃部達吉が言うところの真の戒厳(又は「軍事戒厳」(方38頁))及び行政戒厳が含まれ,警備戒厳は非常戒厳よりも緊急度の低い(「一般の行政機関だけでは治安を確保」できないが「行政及び司法機能の遂行が著しく困難」なところまでは至っていない。)行政戒厳であるということになるようです(ただし,方博士は,大韓民国憲法77条1項が「軍事上の必要に応じ」という目的を挙げていることから,警備戒厳レヴェルの軍事戒厳も認めるべきだという意見のようです(方37-38頁)。)。

なお,非常戒厳と警備戒厳との2種類の戒厳は「義勇戒厳令における臨戦地境と合囲地境(義勇戒厳令第2条)に対応したものである」そうです(方38頁)。臨戦地境及び合囲地境といえば,我が旧戒厳令そのものです。

 

(5)国家非常事態

戦時・事変に「準ずる国家非常事態」とは「戦時又は事変に該当しない場合であって,武装又は非武装の集団や群衆による社会秩序攪乱状態と,自然災難による社会秩序攪乱状態」をいうそうです(方37頁)。

「戦時又は事変に該当しない場合」ですから,当該「国家非常事態」は行政戒厳を行うための要件ということになります。「兵力を以て」対応するのにふさわしいものとして,集団若しくは群衆又は自然災害による社会秩序攪乱状態が挙げられているのでしょう(ただし,方博士は,非武装の集団及び群衆による,並びに自然災害による社会秩序攪乱状態において兵力を動員するのは行き過ぎだとしています(方37頁)。)。

 

(6)人民の権利の制限

 大韓民国憲法77条3項を承けた同国「戒厳法第9条によると,非常戒厳地域内で戒厳司令官は軍事上必要なときには逮捕・拘禁・押収・捜索・居住・移転・言論・出版・集会・結社又は団体行動に対して特別措置を行うことができる」そうです(方41頁。下線は筆者によるもの)。我が旧戒厳令14条によっては,逮捕・拘禁をし,並びに結社及び団体行動に対する制限まではできなかったはずであるところです(なお,大韓民国戒厳法においても(同法13条),国会議員の不逮捕特権は,現行犯の場合を除き,非常戒厳によっても制限できないそうです(方41頁)。)。

また,大韓民国「戒厳法第9条第2項は非常戒厳地域内で戒厳司令官は法律が定めるところにより,動員又徴発することができ,必要な場合には軍需に供する物品の調査・登録と搬出禁止を命ずることができるとしている」そうで,そこでは「国民財産に対する破壊又は焼燬措置」も含まれるもののようですが(方42頁),それらは戒厳法以外の法律によってされるものでしょうか(なお,我が国においては,旧戒厳令と並んで旧徴発令(明治15年太政官布告第43号)がありました。)。我が旧戒厳令14条第2号は司令官に対し「軍需ニ供ス可キ民有ノ諸物品ヲ調査シ又ハ時機ニ依リ其輸出ヲ禁止スルヿ(〔こと〕)」を,同条第5号は「戦状ニ依リ止ムヲ得サル場合ニ於テハ人民ノ動産不動産ヲ破壊燬焼スルヿ」を認めていました。

 

(7)司令官による行政事務及び司法事務の管掌

 「非常戒厳が宣布されれば,戒厳司令官は戒厳地域のすべての行政事務と司法事務を管掌する(戒厳法第7条第1項)」とは(方42頁),合囲地境に係る我が旧戒厳令10条の規定に対応します。また,「警備戒厳が宣布されれば,戒厳司令官は戒厳地域の軍事に関する行政事務と司法事務とを管掌する(〔戒厳法7〕条第2項)」とは(方42頁),臨戦地境に係る我が旧戒厳法9条の規定に対応するものです(ただし,同条について美濃部達吉は「軍事ニ関係アル事件ニ限リ」は司法事務のみを修飾するものと解しています(美濃部286頁)。)。

「戒厳地域の行政機関(情報および保安業務を管掌する機関を含む)および司法機関は遅滞なく,戒厳司令官の指揮・監督を受けなければならない(戒厳法第8条第1項)」との規定(方42頁)は,我が旧戒厳令9条及び10条の各後段に対応します(ただし,両条においては,「遅滞なく」ではなく「速カニ」司令官に「指揮ヲ請フ可シ」と規定されています。)。

 

(8)軍法会議の裁判管轄

 大韓民国では「非常戒厳地域で第14条(戒厳司令官の措置に対する不応又は違反罪など),又は次の各号のいずれかに該当する罪を犯した人に対する裁判は軍事法院が行う。但し,戒厳司令官は必要な場合には当該管轄法院に裁判を行わせることができる。1.内乱の罪,2.外患の罪,3.国交に関する罪,4.公安を害する罪,5.爆発物に関する罪,6.公務妨害に関する罪,7.防火の罪,8.通貨に関する罪,9.殺人の罪,10.強盗の罪,11.「国家保安法」に定められた罪,12.「銃砲・刀剣・火薬類など取締法」に定められた罪,13.軍事上の必要により制定された法令に定められた罪がそれである(法第10条第1項)。そして非常戒厳地域に法院がない場合,又は当該管轄法院との交通が遮断された場合にはすべての刑事事件に対する裁判は軍事法院が行うようになっている(同条第2項)。」と説かれる(方43-44頁)ところの同国戒厳法10条の第1項及び第2項の規律は,それぞれ,合囲地境に係る我が旧戒厳令11条(ただし,そこで掲げられている罪は大韓民国戒厳法10条1項のものとは完全に一致はしません。)及び12条に対応するものです。

なお,旧戒厳令11条では軍事に係る民事事件,同令12条では全ての民事事件をも軍法会議の管轄に属せしめています。

 

(9)戒厳解止の効果

 大韓民国戒厳法では「戒厳が解除されると,そのときからすべての行政事務と司法事務は平常状態に復帰する(法第12条第1項)」そうですが,この規律は「戒厳解止ノ日ヨリ地方行政事務司法事務及ヒ裁判権ハ統テ其常例ニ復ス」という我が旧戒厳令16条の文言を彷彿とさせます。

 

4 元検察総長閣下取調べ

 以上の検討を前提として,大韓民国の戒厳の要件及び効力に鑑み,今次の尹錫悦同国大統領による非常戒厳の宣告が適法であったかどうかを見てみましょう。

 

(1)非常戒厳宣告の要件の面から

 まず,非常戒厳宣告の要件が満たされていたかどうかなのですが,今月3日の戒厳宣告に当たって,尹大統領は次のような緊急談話を出したそうです(読売新聞オンライン2024年12月4日0時29分掲載記事(ソウル=小池和樹特派員)。

 

私は大統領として,血を吐くような心境で国民の皆さんに訴える。

   これまで国会は,我が政府発足以来,22件の政府官僚の弾劾(だんがい)訴追を発議し,今年6月の国会発足後も10回目の弾劾を推進中だ。世界のどの国にも前例がないだけでなく,韓国建国以来,全く前例がない状況だ。

   国家予算の処理も,国家の本質機能と麻薬犯罪の取り締まり,民生治安維持のためのすべての主要予算を全額削減し,国家の本質機能を損ない,韓国を麻薬天国に,民生治安をパニック状態にした。

   このような暴挙は国家財政をもてあそぶことだ。予算さえも政争の手段として利用する「共に民主党」の立法独裁は予算の弾劾さえもちゅうちょしなかった。

   国政はまひし,国民のため息は増えている。これは韓国の憲政秩序を踏みにじり,憲法と法律によって建てられた正当な国家機関を妨害するもので,内乱を画策する明らかな反国家的行為だ。

   国会は犯罪者集団の巣窟となり,立法独裁を通じて国家の司法行政システムをまひさせ,自由民主主義体制の転覆をたくらんでいる。

   私は北朝鮮の共産主義勢力の脅威から韓国を守り,国民の自由と幸福を略奪している悪徳な従北反国家勢力を一挙に粛清し,自由憲法秩序を守るために非常戒厳を宣言する。

   私はこれまで悪事を働いた亡国の元凶である反国家勢力を必ず殲滅(せんめつ)する。これは,体制転覆を狙う反国家勢力の蠢動(しゅんどう)から国民の自由と安全,そして国家の持続可能性を保証し,未来世代に正しい国を引き継ぐための必然的な措置だ。

   可能な限り早い時間内に反国家勢力を粛清し,国家を正常化させる。戒厳令の宣布により善良な国民に多少の不便があるが,不便を最小化することに力を注ぐ。

   このような措置は,韓国の永続性のためにやむを得ないもので,韓国が国際社会で責任と貢献を果たすという対外政策基調には何の変化もない。

   私は身命をささげて韓国を守る。私を信じてください。

 

 大韓民国戒厳法2条2項の非常戒厳宣告の要件中,「敵と交戦状態」にあることはないでしょう。そうだとすると,「国家非常事態において社会秩序が極度に攪乱され,行政および司法機能の遂行が著しく困難な場合に公共の安寧秩序を維持する」必要があるかどうかが問題になるのでしょう。ソウルの一角における政治上の混乱はともかくも,大韓民国の「社会秩序が極度に攪乱され」ていたものかどうか,行政のみならず「および司法機能の遂行」も「著しく困難」になっていたものかどうか。そもそも国会における野党の抵抗は,「兵力を以つて」対処するにふさわしいものたる「国家非常事態」に該当するものかどうか。要件未達と考える方が自然ではないでしょうか。

 

(2)非常戒厳の効力の面から

 更には,非常戒厳の効力としても,大韓民国戒厳法9条によれば「軍事上必要なとき」にのみ「逮捕・拘禁・押収・捜索・居住・移転・言論・出版・集会・結社又は団体行動に対して特別措置を行うことができる」ようですが(方41頁),そうであれば,国家非常事態における公共の安寧秩序を維持するための行政戒厳の場合にはそれらの措置を執ることはできないのでしょう。大統領は国会議員の逮捕を考えていたという報道もあるようですが,議員の不逮捕特権を確認する大韓民国戒厳法13条からすると,戒厳の効力を越えた違法行為ということになるようです。そもそも,「非常戒厳が宣布されれば,戒厳司令官は戒厳地域のすべての行政事務と司法事務を管掌する(戒厳法第7条第1項)」というだけであって,管掌対象には立法事務は含まれておらず,非常戒厳下であれば国会の閉鎖が合法的にできると考えるなど烏滸の沙汰であったということにもなるようです(なお,戒厳宣告によって臨戦地境とされた広島市において,1894年10月18日から同月21日まで,第7回帝国議会が堂々開かれています。これはむしろ帝国議会が広島に召集されるからこそ戒厳が宣告されたもののようで,「狙いは,〔略〕戒厳を宣告し,臨戦地境という疑似戦地を作りだし,この疑似戦地に第7議会を召集することによって,議会に戦時議会であるということの認識を叩きこみ,〔日清〕戦前以来の対議会政策の最終的実現をはかるにあったと考えてよい。〔略〕この策はみごとに的中した。第7議会においては,もはや〔政党対藩閥政府の〕「横断」的対抗も〔対外硬六派対政府・自由党の〕「縦断」的対抗もなく,ただ議会をあげての戦争の追認と戦争政策への積極的支持があったのみであった。」と説かれています(大江91頁)。これに対して日露開戦時の戒厳宣告の主目的は,間諜に対する警戒(軍事情報の漏洩防止)及び海面防備でした(大江92頁及び94頁)。)。

 

(3)感慨

 元検察総長たる大統領閣下ともあろう方が,一体何を考えておられたものか。閣下が企図せられていたものは,本当に,フランス,ドイツ及び大日本帝国の流れを汲む戒厳の宣告(declaration of a state of siege)であったものか。(ちなみに,大日本帝国憲法14条の伊東巳代治による英語訳は,第1項が“The Emperor declares a state of siege.”,第2項は“The conditions and effects of a state of siege shall be determined by law.”です。)

 

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1 大日本帝国憲法14条と31条

 大日本帝国憲法14条1項は「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」と,同条2項は「戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」と規定しています。これに対して,同憲法31条は「本章〔臣民権利義務の章〕ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」と規定しています。(なお,「戒厳」は,ドイツ語の「Belagerungszustand」,フランス語の「l’état de siège」に対応するものとされていますが,後2者は,直訳風には,「被包囲状態」ということですね。〔伊東巳代治による大日本帝国憲法14条の英語訳においては,「戒厳」は "martial law"ではなく,"state of siege"であるものとされています。〕)

 美濃部達吉は,大日本帝国憲法31条に相当する規定として旧プロイセン憲法111条(「戦争又ハ内乱ニ際シ公共ノ安寧ニ対シ危害切迫スルトキハ時及場所ヲ限リ憲法第5条第6条第7条第27条第28条第29条第30条及第36条ノ効力ヲ停止スルコトヲ得。詳細ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」)を挙げつつ「併しプロイセン憲法の此の規定は即ち戒厳の宣告に付いての規定に外ならぬ。然るにわが憲法に於いては第14条に別に戒厳の事を定めて居るのであつて,若し本条〔第31条〕の規定を以てプロイセンの右の規定に相当するものと為さば,本条と第14条とは全く相重複したものとならねばならぬ。本条の規定が甚だ不明瞭な所以は此の点に在る。」と述べています(同『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)415頁)。大日本帝国憲法14条の戒厳の規定と同憲法31条の「非常大権」の規定との違いは何なのかが問題になっているわけです。(美濃部の大日本帝国憲法31条解釈については,「軍事機密『統帥参考』を読んでみる」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1000685083.html参照)

 

2 プロイセン憲法111条と関係条項

 なお,旧プロイセン憲法111条に掲げられた同憲法の諸条項は,次のとおり。

 

第5条 身体の自由(persönliche Freiheit)は,保障される。その制限,特に身柄拘束が許される条件及び方式については,法律で規定される。

第6条 住居は,不可侵である。そこへの立入り及び家宅捜索並びに信書及び書類の押収は,法律によって規定された場合及び方式においてのみ許される。

第7条 何人も,法律で定められた裁判官から阻隔されることはない(Niemand darf seinem gesetzlichen Richter entzogen werden.)。例外裁判所及び非常委員会は,認められない。

第27条 各プロイセン人は,言葉,文章,印刷物又は図画的表現をもってその意見を自由に表明する権利を有する。

検閲は,導入され得ない。プレスの自由(Preßfreiheit)に係る全ての他の制限は,立法による。

第28条 言葉,文章,印刷物又は図画的表現によって犯された違法行為は,一般の刑法に従って処罰される。

第29条 全てのプロイセン人は,事前の官庁の許可を要さずに,平和的に,かつ,武器を携帯しないで,閉鎖された場所で(in geschlossenen Räumen)集会する権利を有する。

当該規定は,屋外での(unter freiem Himmel)集会には関係しない。屋外での集会は,事前の官庁の許可についても,法律の規定に服する。

第30条 全てのプロイセン人は,刑法に反しない目的のために,結社する権利を有する。

法律によって,特に公安の維持のために,本条及び上記第29条において保障された権利の行使は規制される。

政治団体は,立法によって,制限及び一時的禁止に服せしめられ得る。

第36条 兵力(bewaffnete Macht)は,国内の暴動の鎮圧及び法の執行のために,法律により定められた場合及び方式において,かつ,文官当局(Zivilbehörde)の要請に基づいてのみ使用されることができる。後者に関しては,法律は例外を定めるものとする。

 

3 プロイセン戒厳法とフリードリッヒ=ヴィルヘルム4世

 

(1)プロイセン戒厳法

 我が戒厳令(明治15年太政官布告第36号)はプロイセンの戒厳法(Gesetz über den Belagerungszustand vom 4. Juni 1851)の影響を受けたものでしょうが(ただし,日露戦争前の陸軍省内では「日本の戒厳令が1849年のフランス合囲法を参考に立案された」とされていたようです(大江志乃夫『戒厳令』(岩波新書・1978年)99頁参照)。),それでは当該プロイセン戒厳法はどのようなものであったのか。まずは,以下に訳出を試みます。インターネット上にあるwww.verfassungen.deのテキストが,底本です。

 

第1条 戦時において,敵に脅かされ又は既に一部占領された地方(Provinzen)においては,各要塞司令官は指揮下の要塞及びその周辺地帯(Ravonbezirke)を,ただし軍団司令官(der kommandirende General)は軍団管区又はその一部を,防衛の目的のために,戒厳状態にあると宣告する(in Belagerungszustand zu erklären)権限を有する。

第2条 暴動の場合(Fall eines Aufruhrs)においても,公安(die öffentliche Sicherheit)上急迫の危険があるときは,戒厳は,戦時又は平時を問わず宣告され得る。

戒厳宣告(Erklärung des Belagerungszustandes)は,そこで(alsdann)内閣(Staats-Ministerium)から発せられる。ただし,暫定的(provisorisch)かつ内閣による即時の確認(Bestätigung)又は撤回(Beseitigung)にかからしめられたものであり得る。急迫の場合においては,個別の場所及び地域に関して,該地における最高位軍事指揮官によって(durch den obersten Militairbefehlshaber in denselben),地方長官の要請に基づき(auf den Antrag des Verwaltungschefs des Regierungsbezirks),又は遅滞が危険をもたらすときは当該要請なしに,発せられ得る。

要塞においては,暫定的戒厳宣告は,要塞司令官から発せられる。

第3条 戒厳宣告は,太鼓の打鳴又は喇叭の吹鳴によって公示され,並びに更に地方自治体役場への連絡,公共の広場での掲示及び公衆向け新聞(öffentliche Blätter)によって遅滞なく周知される。戒厳の解止(Aufhebung)は,地方自治体役場への通知及び公衆向け新聞によって周知される。

第4条  戒厳宣告の公示(Bekanntmachung der Erklärung des Belagerungszustandes)に伴い,執行権は軍事指揮官に移譲される。文官当局及び地方自治体役場は,軍事指揮官の命令及び指示に従わなければならない。

その命令について,当該軍事指揮官は,個人的に責任を負う(persönlich verantwortlich)。

第5条  戒厳宣告に当たって憲法第5条,第6条,第7条,第27条,第28条,第29条,第30条及び第36条又はその一部の効力を時及び場所を限って停止することが必要であると認められた場合には,関係する規定が戒厳宣告の公示中に明示されるようにし,又は別の,同様の方法(第3条)で公示される命令において公布されるようにしなければならない。

上記の条項又はその一部の停止は,戒厳状態にあると宣告された地域及び戒厳期間中においてのみ効力を有する。

第6条 軍関係者には,戒厳期間中,戦時のための法令が適用される。この命令の(dieser Verordnung [sic])第8条及び第9条も彼らに適用される。

第7条 戒厳状態にあると宣告された場所及び地域にあっては,部隊の指揮官(要塞においては,司令官)が部隊に所属する軍関係者全体に対して上級軍事裁判権(höhere Militairgerichtsbarkeit)を有する。

彼には,軍関係者に対する戦時法上の裁判(kriegsrechtlichen Erkenntnisse)を認可する(bestätigen)権利も帰属する。そこにおける例外は,平時における死刑判決のみである。これは,地方の軍司令官の認可(Bestätigung des kommandirenden Generals der Provinz)に服する。

下級裁判権の行使については,軍刑法典の規定のとおりである。

第8条 戒厳状態にあると宣告された場所又は地域において,故意による放火,故意による溢水の惹起,又は武装軍人若しくは文武の当局関係者に対する公然たる暴力による,及び武器若しくは危険な道具を用意しての攻撃若しくは反抗の罪を犯した者は,死刑に処する。

酌むべき情状がある場合は,死刑に代えて,10年以上20年以下の懲役に処することができる。

第9条 戒厳状態にあると宣告された場所及び地域において次に掲げる行為をした者は,既存の法律にそれより重い自由刑が規定されていない場合は,1年以下の軽懲役に処せられる。

a)敵又は叛徒の数,進軍方向又は勝利の風聞に関し,文武の当局をしてその措置において過誤を生ぜしめるおそれのある虚偽の風評を故意に拡散し,又は広めること。

b)戒厳宣告に当たって又はその期間中において軍事指揮官が公安のために発した禁制に違反し,又は当該違反をすることを求め,若しくはそそのかすこと。

c)暴動,反抗的行為,囚人の解放の犯罪又はその他第8条に規定された犯罪を行うよう,たとい成功しなくとも,求め,又はそそのかすこと。

d)軍人身分の者に対して,不服従の罪を犯し,又は軍の規律及び秩序に違反するよう誘うことを試みること。

第10条 憲法第7条の停止下で軍法会議の管轄が生ずるときは(Wird...zur Anordnung von Kriegsgerichten geschritten),叛逆(Hochverrat),外敵通謀(Landesverrat),謀殺,暴動,反抗行為,鉄道及び電信の破壊,囚人の解放,集団反抗(Meuterei),強盗,略奪,恐喝,兵士の裏切りへ向けた誘惑の犯罪並びに第8条及び第9条において刑罰の定められた犯罪及び違反行為に係る予審(Untersuchung)及び審判(Aburtheilung)は,これらの犯罪及び違反行為が戒厳宣告及び戒厳の公示の後に着手され,又は続行された犯罪である限り,軍法会議が行う。

全王国に統一刑法典が施行されるまでは,ケルンのライン控訴裁判所管区においては,内外に係る国家の安全に対する犯罪及び違反行為(ライン刑法典第75条から第108条まで)は,叛逆及び外敵通謀とみなされる。

憲法第7条の停止が内閣から宣告されない場合は,平時においては,軍法会議によって開始された予審に係る判決の執行は,当該憲法条項の停止が内閣によって承認される(genehmigt ist)まで延期される。

第11条 軍法会議は5名の裁判官によって構成される。そのうち2名は該地の司法裁判所の幹部によって指名された司法文官,3名は該地における指揮権を有する軍事指揮官によって任命される士官でなければならない。士官は,大尉以上の階級でなければならない。当該階級の士官が不足するときは,欠員は次位の階級の士官をもって補充される。

敵に包囲されている要塞において必用な数の司法文官がいないときは,責任ある軍事指揮官によって(von dem kommandirenden Militairbefehlshaber),市町村会の議員から(aus den Mitgliedern der Gemeindevertretung)補充される。要塞に司法文官がいない場合でも,軍法会議には一人の文民法務官がいるものとする(Ist kein richterlicher Civilbeamte in der Festung vorhanden, so ist stets ein Auditeur Civilmitglied des Kriegsgerichts)。

一地方全部又はその一部が戒厳状態にあると宣告された場合,軍法会議の数は,必要によって定められる。このような場合において,各軍法会議の管轄区域は,軍団司令官(der kommandirende General)が定める。

第12条 軍法会議の期日において,裁判長は司法官(ein richterlicher Beamter)が務める。

裁判長は,軍法会議が事務(seine Geschäfte)を開始する前に,当該軍法会議の裁判官となった士官及び場合によっては司法官ではないにもかかわらず裁判官となった文民に対して,委嘱された司法官としての義務を良心と不偏不党性をもって,法に従って果たす旨宣誓させる。

士官である軍法会議裁判官を任命した軍事指揮官は,一人の法務官(Auditeur)又は法務官がいない場合は一人の士官を報告官(Berichterstatter)〔検察官〕として委嘱する。報告官は,法の適用及び運用に注意し,申立てを通じて真実を捜査することを求める義務を有する。報告官は,評決に加わらない。

手続事項の処理(Führung des Protokolls)のため,軍法会議裁判長によって指名され,同人によって宣誓させられる文官行政官(Beamter der Civilverwaltung)が,裁判所書記官(Gerichtsschreiber)として召致される。

第13条 軍法会議における手続には,次の規定が適用される。

1 手続は口頭かつ公開である。ただし,公共の福祉の見地から適当と認めるときは,軍法会議は,公表される決定をもって,公開性を排除することができる。

2 被告人は,一人の弁護人によって弁護されることができる。一般刑法によれば(nach dem allgemeinen Strafrecht)1年以下の軽懲役より重い刑を科される犯罪又は違反行為の場合において,被告人が弁護人を選任しないときは,軍法会議裁判長は,職権で弁護人を付さなければならない。

3 報告官は,被告人出席の下,同人の責めに帰せられる事実を陳述する。

被告人は,当該事実についての意見陳述を求められ,続いて,他の証拠の申出を行う。

次に,報告官に対して尋問の結果及び法の適用に関する陳述が,最後に,被告人及び弁護人に対して意見陳述が認められる。

判決は,即時かつ非公開である軍法会議の評議において多数決で決せられ,直ちに被告人に宣告される。

4 軍法会議は,法定の刑を科し,若しくは無罪を宣告し,又は通常裁判官への(an den ordentlichen Richter)移送を命ずる。

無罪を宣告された者は,直ちに勾留から釈放される。通常裁判官への移送は,軍法会議が管轄を有しないものと認めた場合に行われる。この場合において,軍法会議は,勾留の継続又は終了について,判決において同時に別途定めをする。

5 判決書には,公判の日付,裁判官の氏名,被告人に対する公訴事実に対する同人の弁明の要旨,証拠調べに係る言及並びに事実問題及び法律問題に係る判断並びに当該判決が基づいた法令が記載されなければならず,全ての裁判官及び裁判所書記官によって署名されなければならない。

6 軍法会議の判決に対する上訴は,認められない。ただし,死刑に処する裁判は,第7条に規定する軍事指揮官の認可に服し,平時であれば地方の軍司令官の認可に服する。

7 死刑を除く全ての刑は裁判の宣告の後24時間以内に,死刑はそれに続く認可の公示から同期間内に,被宣告者に対して執行される。

8 死刑は,銃殺によって執行される。死刑に処する裁判が戒厳の解止の時になお執行されていなかった場合においては,その刑は,証明済みのものとして軍法会議によって認められた事実に対する戒厳を除外した場合の法的帰結たるべき刑に,通常裁判所によって(von den ordentlichen Gerichten)変更される。

第14条 軍法会議の活動は,戒厳の終結(Beendigung)に伴い終了する。

第15条 戒厳の解止後は,関連事項(Belagstücken)及びそれに属する審理(dazu gehörenden Verhandlungen)を含む軍法会議のした全ての判決並びに進行中の予審は,通常裁判所に移管される。通常裁判所は,軍法会議がなお審判していない事項については通常刑法に従い(nach den ordentlichen Strafgesetzen),及び第9条の場合に限り同条において規定された罰則に従って,裁判しなければならない。

第16条 戒厳が宣告されていない場合であっても,戦争又は暴動の場合において公安に対する急迫の危険があるときは,憲法第5条,第6条,第27条,第28条,第29条,第30条及び第36条又はその一部は,内閣によって,期間及び場所を定めて,効力を停止されることができる。

第17条 戒厳宣告並びにそれに伴う(第5条),又は第16条の場合に行われる,第5条及び第16条に掲げられた憲法の条項の停止(一部の停止を含む。)の宣告については,直ちに,それぞれ次の召集の際に両議院に(den Kammern)報告されなければならない。

第18条 この法律と抵触するすべての規定は,廃止される。

この法律は,1849年5月10日の命令及び1849年7月4日の宣言(法律全書165頁及び250頁)に代わるものである。

 

     フリードリッヒ=ヴィルヘルム

     〔以下大臣の署名は略〕

 

 背景事情もよく知らないまま辞書だけを頼りに訳すのは,いささか大きな困難を伴いました。「Ravonbezirke」及び「Belagstücken」が特に難物で,手元のドイツ語辞書を引いても出てこないので,それぞれの訳は推測によるものです。他日の補正を期せざるを得ません。

 ただし,少なくとも訳してみて分かったのは,プロイセン王国の場合,戒厳宣告を発する主体として法文上,内閣(Staats-Ministerium)や軍の司令官は出てきますが,国王(König)は出てこないことです。

 

(2)フリードリッヒ=ヴィルヘルム4世

 なお,1851年6月4日のプロイセン戒厳法に署名したフリードリッヒ=ヴィルヘルムは,第4世(在位1840年‐1861年)でした。「父王〔フリードリッヒ=ヴィルヘルム3世〕は外交でも内政でも,自由主義と反動主義のあいだをさまよい,軍人気質が強かったが,新しい王は美貌の母ルイゼをしのばせる,ととのった顔つきをし,芸術や学問のディレッタントで,どこか文化のにおいをただよわせていた。国民は,プロイセンにも明るい時代がおとずれることを期待した。」とは,即位時のフリードリッヒ=ヴィルヘルム4世に関する描写です(井上幸治『世界の歴史12 ブルジョワの世紀』(中央公論社・1961年)283頁)。(父王フリードリッヒ=ヴィルヘルム3世とその王妃ルイゼとは,ナポレオン相手の戦いに苦労しています。)ワイマルの老ゲーテも1828年3月11日の段階において当時のプロイセン皇太子フリードリッヒ=ヴィルヘルムを高く評価していました。いわく,「私は今プロイセンの皇太子に,大きな期待を寄せている。私が彼について見聞したことのすべてから推測すると,彼は,そうとうな傑物だよ。また役に立つ才能豊かな人材をみとめて登用するということは,傑物にしてはじめてできることだ。なぜなら,何といっても類は友を呼び,自分自身偉大な才能をそなえている君主だけが,またその臣下や従僕の偉大な才能をそれ相応に認め,評価できるにちがいないからだ。『人材に道をひらけ!』とは,ナポレオンの有名な金言であった・・・」(山下肇訳『ゲーテとの対話』(岩波文庫・2012年))。ところが,フランス二月革命の1848年になると「フリードリヒ=ウィルヘルム4世は,即位以来,しだいに絶対君主になろうとしていた。興奮と銷沈をくりかえす安定性のない性格の持主で,西欧デモクラシーと対決する決意ばかりはかたかった。」というような人物になっていました(井上383頁)。同年3月18日のベルリンでの騒乱に際しては,王宮の窓からその様子を見つつ「「人民の暴力と違法には耳をかさない」と強気なことをいっていた」そうです(井上384頁)。その翌年になると,「〔18〕49年4月3日,フリードリヒ=ウィルヘルムは,帝冠と憲法をささげるフランクフルト議会の代表をポツダム宮殿に引見した。しかし王は,他の諸王侯の同意のあるまではこれをうけるわけにはいかない,と拒絶した。人民集会の手から,「恥辱の帝冠」をうけることはできないという意味だった。フリードリヒ=ウィルヘルムは,そこで,この憲法を支持した下院を解散し,フランクフルト議会の派遣議員に解任を申しわたした」ところです(井上397‐398頁)。「恥辱の帝冠」とはSchweinekrone(豚の冠)の訳のようですフリードリッヒ=ヴィルヘルム4世は子の無いまま歿し,プロイセン王位は,弟である後の初代ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルムが継ぎます。
 なお,フリードリッヒ=ヴィルヘルム4世の人材鑑識眼に関する逸話として,同王は1848年の「三月革命のとき,ある書類のビスマルクの名の余白に,「銃剣が無制限の支配をおこなうときにのみ採用すべき人物」と書きつけたといわれ,彼は王の意中の人物であった。」とされています(井上459頁)。 

 

4 フランス1878年戒厳法の場合

 大日本帝国憲法起草期に施行されていたフランスの1878年4月3日の戒厳(l’état de siège)に関する法律においては,戒厳の宣告(déclaration)は法律によってされることが本則とされていました(同法1条2項)。ただし,両議院が会期外にあるときには,共和国大統領が,内閣の意見に基づいて,臨時に戒厳を宣告することができました(同法2条,3条。戒厳の継続又は解止は,両議院の判断に服しました(同法5条)。)。アルジェリアにおいては,通信が途絶した場合には,総督が,アルジェリアの全部又は一部が戒厳下にあることを宣告できました。他のフランス植民地においては,総督が戒厳宣告を行い,本国政府に直ちに報告すべきものとされていました(同法6条によって維持された1849年8月9日の戒厳に係る法律4条)。国境又は国内の要塞(places de guerre)又は軍事基地(postes militaires)においては,1791年7月10日の法律及び1811年12月24日のデクレによって規定された場合には,軍事司令官が戒厳宣告をすることができ,当該司令官は政府に直ちに報告すべきものとされていました(1878年4月3日の法律6条によって維持された1849年8月9日の法律5条)。

 

5 大日本帝国憲法14条

 以上,プロイセン及びフランスとの比較で見てみると,大日本帝国憲法14条1項には,戒厳の宣告についてフランス第三共和国流に議会が中心的な役割を果たすことを排除する一方,戒厳の宣告をプロイセン式に軍の司令官や内閣に任せるものとすることもせずに天皇自らが掌理するものとする,という意味があったもののように思われます。

 確かに,国立国会図書館ウェッブ・サイトにある「大日本帝国憲法(浄写三月案)」(1888年3月)記載の第14条の解説を見ると,「(附記)之ヲ欧洲各国ニ参照スルニ戒厳宣告ノ権ヲ以テ或ハ専ラ之ヲ議会ニ帰スルアリ 仏 或ハ之ヲ内閣ニ委ヌルアリ 普1881年法 独リ独逸帝国ノ憲法ニ於テ之ヲ皇帝ニ属シタルハ尤立憲ノ精義ヲ得ル者ナリ」とあって,大日本帝国憲法14条の主眼としては,戒厳宣告権を天皇に属するものとしたということがあるようです。

 ただし,大日本帝国憲法における天皇の戒厳宣告の大権については,「特に憲法又は法律に依り之を帷幄の大権に任ずることが明示されて居らぬ限りは,国務上の大権の作用として,言ひ換ふれば内閣の責任に属する行為として行はるゝのが,当然である。枢密院官制〔6条7号〕に依り戒厳の宣告が枢密院の諮詢を経べき事項として定められて居るのを見ても,わが国法が之を国務上の大権の行為として認めて居ることを知ることが出来る。」ということになっていました(美濃部282頁)。すなわち,天皇の独裁というわけではありません。公式令(明治40年勅令第6号)制定前の日清・日露戦争時の戒厳の宣告は,勅令の形式でされ,陸軍大臣のみならず内閣総理大臣も副署しています(美濃部283頁)。
 ちなみに,1882年に元老院の審査に付された戒厳令案においては,第3条に基づき戒厳の「布告」をする者は太政大臣であるものと記されていました(大江55頁参照)。しかしながら,元老院での審議を経て当該「太政大臣」の文字は削られ,制定された戒厳令では同令3条の「布告」の主体は明示されなくなりましたが,これは,「布告とは布告式にもとづいて勅旨を奉じ太政大臣が布告することに定められた制定公布の手続をへたものに限られ」たからだそうです(大江60頁)。「勅旨を奉」ずるわけですから,天皇の意思に基づくものであるわけです。 

 1887年8月完成同年10月修正の大日本帝国憲法の「夏島憲法案」の画像を見ますと,後の大日本帝国憲法14条については,当初は同条1項の規定に相当するものしかなかったところが,後から同条2項の前身規定(「戒厳ノ要件ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」)が別の筆跡で追記されています。同年4月30日成立のロエスレル草案76条2項「天皇ハ戒厳ヲ宣告スルノ権ヲ有ス其結果ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム(Er 〔der Kaiser〕 hat das Recht, den Belagerungszustand zu erklären; die Folgen desselben werden durch Gesetz bestimmt.)」(小嶋和司「ロエスレル「日本帝國憲法草案」について」『明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)30‐31頁)の方向に戻ったとも評し得るでしょうか(ただし,「要件」と「効果」(Folgen)とはなお違いますが。)。大日本帝国憲法14条の第2項追加の趣旨は,1888年6月22日午後の枢密院会議において伊藤博文議長から明らかにされています。「外敵内乱其他非常〔「アジア歴史資料センター」のクレジットに隠れて1字見えず〕事変ニ遭遇シタルトキニハ戒厳ノ要件ハ其時機ニ応シテ定ムルモノニシテ予メ法律ヲ以テ之ヲ定メ置クコト頗ル困難ナラントス」云々という森有礼文部大臣の第14条2項削去論に対する回答です。

 

 ・・・抑戒厳令ハ平時ニ之ヲ施行スルモノニアラサレトモ予メ議会ノ議ヲ経タ法律ト為スヘキモノナリ何トナレハ戒厳ヲ宣告スレハ其地方ニ於テハ民権ヲ検束シ人民ノ自由権ヲ禁制スルモノナレハナリ但之ヲ実施スルヤ否ニ至テハ天皇陛下ノ権限ニシテ議会ノ議ヲ経ルニ及ハサルモノナリ

 

ただし,大日本帝国憲法第14条2項に「及効果」が入ったのは,1889年1月16日の枢密院会議の段階でした。大きな変更であるはずですが,その際に議論はありませんでした。なお,法令の形式をそれにより定めた公文式(明治19年勅令第1号)の施行後,戒厳令は,法律ではなく勅令の扱いであったところですが(戒厳令の改正が,法律ではなく,明治19年勅令第74号でされている。),大日本帝国憲法の発布に伴い法律レベル(勅令と異なり, 民選議院を含む帝国議会の協賛を要する。)に昇格したことになります。

 

6 戒厳令と大日本帝国憲法31条

大日本憲法14条と31条との関係については,1888年6月27日午後の枢密院会議で,井上毅枢密院書記官長が「本条〔大日本帝国憲法31条〕ハ即チ明治15年発布ノ戒厳令ニ関係アルモノニシテ事変(○○)ノ文字ハ仏語ノニテ「インサルレクシヨン」ト云フ」と述べています。同じ会議で井上はまた,山田顕義司法大臣の大日本帝国憲法31条の「事変(○○)ノ文字ハ意味甚ク漠然タリ日本ノ戒厳令ヨリ転シテ来ルモノナルヤ若シ法律ノ明文ニ此文字ナケレハ本官ハ事変(○○)ノ文字ヲ内乱(○○)ト修正センコトヲ望ム」との発言に対して,「戒厳令第1条ニ「戦時若クハ事変(○○)ニ際シ」云々トアリ是レ即チ法律ノ明文ナリ」と答えています。大日本帝国憲法31条と14条(戒厳令)とは相互に関係あるものとあっさり認めていながら,美濃部達吉のように,両条が「相重複」して第31条の規定が「甚だ不明瞭」になっているとは考えていなかったようです。ただし,前記の1889年1月の修正によって戒厳の効果も法律によって定められることとなる前の段階における議論ではあります(すなわち,戒厳宣告の場合,臣民の権利は法律に基づかずとも制限され得るものとすると構想されていた段階での議論です。)。ちなみに,以上のような枢密院での議論は,美濃部は詳しくは知らなかったようです。1927年の段階で美濃部は,大日本帝国憲法案を審議した「枢密院に於ける議事録も今日まで秘密の中に匿されて居つて,吾々は全く之を知ることの便宜を得ないのは遺憾である。」と述べています(美濃部15頁)。

なお,「事変」に係る大日本帝国憲法31条の用語は,1889年1月29日午後の枢密院会議で,やはり「内乱」に一度改められています。伊藤博文の説明は,「単ニ事変トノミニテハ其区域分明ナラス故ニ内乱ト改ム戦時ハ主トシテ外国ニ対シテ云フ」とのことだったのですが,山田顕義はどう思ったことやら。しかしながら,「内乱」の文字はやはり「穏当ナラサル」ものだったようで,同月31日の枢密院会議の最後になって「国家事変」に最終的に改められています。榎本武揚逓信大臣が「事変」でよいではないかと発言したところ,伊藤枢密院議長の回答は「唯事変ノミニテハ瑣細ノ事変モ含蓄スルノ嫌ヒアリ故ニ国家事変トシタルナリ」ということでした。

大日本帝国憲法31条が戒厳に関係のあることが当然とされていたところで,森有礼の大日本帝国憲法14条2項(戒厳宣告要件法定条項)削去論があえて排斥され,実は1889年1月16日の段階に至ってから戒厳宣告の効果について法律で定める旨枢密院で明文化されているのですから,「本条〔大日本帝国憲法31条〕の規定の結果としては,戒厳の宣告せられた場合の外に,尚大本営の命令に依つても一般人民に対し軍事上必要なる命令を為し得るものと解せねばならぬ」もの(美濃部417-418頁)であったと直ちに論断すべきものかどうか。「本条〔大日本帝国憲法31条〕の規定を以て戒厳の場合のみを意味するものと解するならば,本条は第14条と全然相重複し無意味の規定とならねばならぬ。」として(美濃部417頁),わざわざ統帥権の独立を前提とした議論(「本条〔大日本帝国憲法31条〕の大権は政務に関する天皇の大権に属するものではなく,陸海軍の大元帥としての天皇の大権に属するものである」(同416頁)。)までをすべきだったものかどうか。考えさせられるところです。あるいは,1889年1月16日にされた第14条2項の修正がもたらす第31条への跳ね返りを,当時の枢密顧問官らは後の枢密顧問官美濃部達吉ほど鋭く見通してはいなかったということはないでしょうか。(なお,国立国会図書館デジタルコレクションにある伊東巳代治関係文書の「憲法説明 説明(第二)」(1888年1月・同年2月条文修正)における大日本帝国憲法31条に対応する第35条(「本章ニ掲クル条規ハ戦時又ハ事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルヿナシ」)の朱書解説は,あっさりと,「本条ハ即チ・・・非常処分ノ変例ヲ掲ケ以テ本章ノ為ニ非常ノ変ヲ疏通スル者ナリ此ノ非常処分ヲ行フニ一個ノ方法アリ第一戒厳令ヲ宣告ス第二戒厳ノ一部ヲ行フコト是ナリ」と述べています。大日本帝国憲法の「第14条と第31条は完全な重複規定であり,第31条が第14条とは別個の非常大権を規定したものとは考えがたい。」という評価(大江77頁)は,「完全な重複」という表現において強過ぎますが,確かに,第31条が「別個の非常大権を規定したものとは考えがたい」ということでもよかったのではないでしょうか。) 

 

7 ドイツ帝国憲法68条

なお,「大日本帝国憲法(浄写三月案)」によれば大日本帝国憲法14条1項の規定が参考としたのは1871年のドイツ帝国憲法ですが,当該憲法における戒厳に関する規定について,美濃部達吉は次のように紹介しています。

 

・・・旧ドイツ帝国憲法(68条)に依れば,皇帝が戒厳宣告の権を有するものとせられて居り,而も,それは第9章の「帝国軍隊」と題する章に規定せられて居り,且つドイツ帝国の前身である北ドイツ聯邦の憲法には,戒厳の宣告は元首(Reichspräsidium)の大権でなくして,大元帥(Bundesfeldherr)の大権であることが明示せられて居つた為に,旧ドイツ憲法に於いてもそれは大元帥としての皇帝の軍令大権に属するものと解せられ,随つてその宣告には国務大臣の副署を要しないものとせられて居た。(美濃部283頁)

 

  1871年ドイツ帝国憲法68条は,「皇帝は,連邦の領域において公安(die öffentliche Sicherheit)が脅かされているときは,当該地域について,戦争状態にあるもの(in Kriegszustand)と宣告できる。そのような宣告の要件,公布の方式及び効果について規定する帝国法律が発せられるまでは,1851年6月4日のプロイセン法(法律全書1851年451頁以下)の規定が適用される。」と定めていました。1851年6月4日のプロイセン法とは,プロイセン戒厳法のことです。独立統帥権を有する大元帥が宣告する戒厳であっても,その要件及び効果は,法律で縛られていたのでした。(なお,我が国における戒厳の宣告の方式については,法律ではなく勅令である公式令で定められており,その第1条によって,詔書によるべきものでありましたが(美濃部283‐284頁参照),公式令施行後は本来の戒厳の宣告はされていません。日比谷焼打ち事件,関東大震災及び二・二六事件の際の「戒厳」は,戒厳令それ自体による本来の戒厳ではありませんでした(行政戒厳)。)。
 ところで,注意すべきは,ドイツ帝国は諸王国・自由都市から構成される連邦国家であったことです。プロイセン国王たる皇帝は,帝国内の他の王国・自由都市については,大元帥ではあっても,軍事その他の帝国管轄事項以外の分野では第一次的統治権者ではなかったはずです。天皇による戒厳の宣告及び戒厳宣告の効果の法定主義を規定するロエスレル草案76条は,「第1章 天皇(Vom Kaiser)」にではなく,「第6章 行政(Von der Verwaltung)」に置かれていたところです(なお,ロエスレル草案でも統帥関係の「第9条 天皇ハ陸海軍ノ最高命令ヲナシ平時戦時ニ於ケル兵員ヲ定メ及兵ニ関スル凡テノ指揮命令ヲナス」及び「第10条 天皇ハ宣戦講和ノ権ヲ有シ戦権ヲ施行スル為必要ナル勅令ヲ発ス」といった規定はやはり,「行政」の章ではなく,「天皇」の章にありました(小嶋12‐13頁)。)。ロエスレルらドイツの法学者も,戒厳の宣告は本来国務であって,ドイツ皇帝の大元帥としての戒厳宣告は,ドイツ帝国が連邦国家であるという事情ゆえのものとしていたと考えられるように思われます。

 

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1 統帥権及び「機密の中の“国家”」
 自由民主党の日本国憲法改正草案(2012年4月27日決定)を見ていると,第9条の2(国防軍)1項に「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため,内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。」との規定,第72条(内閣総理大臣の職務)3項に「内閣総理大臣は,最高指揮官として,国防軍を統括する。」との規定があります。勇ましいですね。
 大日本帝国憲法11条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」との規定に対応するものであるわけです。「内閣総理大臣ハ国防軍ヲ統帥ス」ということでしょうか。
 この「統帥」という言葉からの次の連想は,やはりというべきか,統帥権の問題性について論ずるところ多かった司馬遼太郎の,次の文章に飛びます(『この国のかたち』「6 機密の中の“国家”」)。


 かつて,一冊の古本を見つけた。
 『統帥綱領・統帥参考』という題の本である。復刊されたもので,昭和37年,偕行社(註・旧陸軍の正規将校を中心とした親睦団体)刊となっている。
 ・・・
 もとは2冊だったようである。『統帥綱領』のほうは昭和3年,『統帥参考』のほうは昭和7年,それぞれ参謀本部が本にしたもので,むろん公刊の本ではない。公刊されれば,当然,問題になったはずである。内緒の本という以上に,軍はこの本を最高機密に属するものとし,特定の将校にしか閲覧をゆるさなかった。
 ・・・
 『統帥参考』のなかに,憲法(註・明治憲法)に触れたくだりがある。おれたちは――という言葉づかいではむろんないが――じつは憲法外なのだ,と明快に自己規定しているのである。
 ・・・
 一握りの人間たちが,秘密を共有しあった以上は,秘密結社としか言いようがないが,こまったことには参謀本部は堂々たる官制による機関なのである。その機関が,憲法を私議し,私的に合意して自分たちの権能を“憲法外”としている以上は,帝国憲法による日本帝国のなかに,もう一つの国があったことになる(むろん日露戦争のころの参謀本部はそういう鬼胎ともいえるような性格のものではなかった)。
 そのことについては『統帥参考』の冒頭の「統帥権」という章に,以下のように書かれている。

 ・・・之ヲ以テ,統帥権ノ本質ハ力ニシテ,其作用ハ超法規的ナリ。(原文は句読点および濁点なし。以下,同じ)

 超法規とは,憲法以下のあらゆる法律とは無縁だ,ということなのである。
 ついで,一般の国務については憲法の規定によって国務大臣が最終責任を負う(当時の用語で輔弼する)のに対して,統帥権はそうじゃない,という。「輔弼ノ範囲外ニ独立ス」と断定しているのである。

 従テ統帥権ノ行使及其結果ニ関シテハ,議会ニ於テ責任ヲ負ハズ。議会ハ軍ノ統帥・指揮並之ガ結果ニ関シ,質問ヲ提起シ,弁明ヲ求メ,又ハ之ヲ批評シ,論難スルノ権利ヲ有セズ。・・・

 すさまじい断定というほかない・・・。
 国家が戦争を遂行する場合,作戦についていちいち軍が議会に相談する必要はない。このことはむしろ当然で,常識に属するが,しかし『統帥参考』のこの章にあっては,言いかえれば,平時・戦時をとわず,統帥権は三権(立法・行政・司法)から独立しつづけている存在だとしているのである。
 さらに言えば,国家をつぶそうがつぶすまいが,憲法下の国家に対して遠慮も何もする必要がない,といっているにひとしい。いわば,無法の宣言(この章では“超法規的”といっている)である。こうでもしなければ,天皇の知らないあいだに満洲事変をおこし,日中戦争を長びかせ,その間,ノモンハン事変をやり,さらに太平洋戦争をひきおこすということができるはずがない。

 ・・・然レドモ,参謀総長・海軍軍令部長等ハ,幕僚(註・天皇のスタッフ)ニシテ,憲法上ノ責任ヲ有スルモノニアラザルガ故ニ・・・

 天皇といえども憲法の規定内にあるのに,この明文においては天皇に無限性をあたえ,われわれは天皇のスタッフだから憲法上の責任なんかないんだとするのである。
 さらにこの明文にはおそるべき項目がある。戦時や“国家事変”の場合においては,兵権を行使する機関(統帥機関・参謀本部のこと)が国民を統治することができる,というのである。・・・統治権は天皇にある。しかしながらこの『統帥参考』の第2章「統帥ト政治」の章の「非常大権」の項においては,自分たちが統治する,という。

 ・・・兵権ヲ行使スル機関ハ,軍事上必要ナル限度ニ於テ,直接ニ国民ヲ統治スルコトヲ得・・・

 とあって,この文章でみるかぎり,天皇の統治権は停止されているかのようである。天皇の統治権は憲法に淵源するために――そしてその憲法が三権分立を規定しているために――超法機関である統帥機関は天皇の統治権そのものを壟断もしくは奪取する,とさえ解釈できるではないか(げんにかれらはそのようにした)。
 要するに,戦時には,日本の統治者は参謀本部になるのである。しかもこの章では「軍権ノ行使スル政務ニ関シテハ,議会ニ於テ責任ヲ負ハズ」とあくつよく念を押している。
 ・・・いまふりかえれば,昭和前期の歴史は,昭和7年に成立したこの“機密”どおりに展開したのである。
 ・・・
 美濃部達吉博士は・・・昭和10年,その学説(いわゆる天皇機関説)を攻撃され,内閣によってその著作『憲法撮要』(大正12年刊)などが発売禁止の処分をうける。
 ・・・
 統帥機関としては,法学界をおおっている美濃部学説を痛打することによって,自前の憲法観(というより非立憲化)への大行進を出発させなければならなかったにちがいない。
 ・・・
 ともかくも昭和10年以後の統帥機関によって,明治人が苦労してつくった近代国家は扼殺されたといっていい。このときに死んだといっていい。
 ・・・

 さて,たまたま手もとに1962年の偕行社版『統帥綱領・統帥参考』が存在します。「日本国を支配しようとしたことについて」の陸軍部内の「思想的合意の文書というべき機密文書」です(司馬遼太郎『この国のかたち』「81 別国」)。『統帥参考』等の実物に当たりつつ,司馬遼太郎の上記の議論を跡付けてみましょう。

2 統帥権の「超法規」性
 まず,「・・・之ヲ以テ,統帥権ノ本質ハ力ニシテ,其作用ハ超法規的ナリ。」の部分ですが,司馬遼太郎の引用では省略されている前段後段部分をも含めた原文は,


政治ハ法ニ拠リ,統帥ハ意志ニ拠ル。一般国務上ノ大権作用ハ,一般ノ国民ヲ対象トシ,其生命,財産,自由ノ確保ヲ目的トシ,其行使ハ『法』ニ準拠スルヲ要スト雖,統帥権ハ,『陸海軍』ト云フ特定ノ国民ヲ対象トシ,最高唯一ノ意志ニ依リテ直接ニ人間ノ自由ヲ拘束シ,且,其最後ノモノタル生命ヲ要求スルノミナラズ,国家非常ノ場合ニ於テハ主権ヲ擁護確立スルモノナリ。
之ヲ以テ,統帥権ノ本質ハ力ニシテ,其ノ作用ハ超法的ナリ。即チ爾他ノ大権ト其本質ニ於テ大ニ趣ヲ異ニスルモノト言ハザルベカラズ。而モ軍隊ハ最高唯一ノ意志ニ基キテ教育訓練セラレ一糸紊レザル統一ト団結トヲ保持シ,一旦緩急アルニ際シテハ完全ナル自由ト秘密トヲ保持シテ神速機敏ノ行動ニ出デザルベカラザルガ故ニ,統帥権ノ輔翼及執行ノ機関ハ政治機関ヨリ分離シ,軍令ハ政令ヨリ独立セザルベカラズ。(『統帥綱領・統帥参考』3‐4頁)

 となっています(見出しは「統帥権独立ノ必要」)。司馬遼太郎は,「超法的」を「超法規的」と写し間違えていますね。「超法的」であればやや形而上学のもやがかかっているようですが,「超法規的」であるとより法学的に明晰な表現になるようです。
 『統帥参考』のいう「超法的」の意味は,三つの側面から見ることができるようです。
 第1には,実定法学的に考えれば,一般国務における「『法』ニ準拠スル」法治主義が,特別権力関係にある軍隊内では適用されないということでしょう。「特別の権力関係に於いては,権利者は単に特定の作為・不作為・給付を要求し得るだけではなく,一定の範囲に於いて包括的な権力を有し,其の権力の及ぶ限度に於いては不特定な作為・不作為を命令し及び時としてはこれを強制し得る権利を有する」ものとされていました(美濃部達吉『日本行政法 上』(有斐閣・1936年)132頁)。「現役兵及び戦時事変に際し又は勤務演習其の他のために召集中の兵」は,国家の単独の意思による公法上の勤務関係に服するものとされています(美濃部・同書135頁)。特別権力関係に基づき権力者のなす命令は,「公法的の行為であり,民事訴訟を以つて争ひ得ないことは勿論,法律は多くの場合に行政訴訟をも許して居らぬ」ところでした(美濃部・同書139頁)。
 また,同じ公法上の勤務関係に服するものであっても,「一般官吏の職務上の義務は勅令たる官吏服務紀律に依り定められて居るが,軍人の職務上の義務は主としては統帥権の発動としての命令に依つて定められ」ており,「軍人の勤務義務に関しては,官吏に於けるとは異なり,必ずしも勅令の定めに依るを要せず,所属上官の命ずる所が直ちに其の義務の内容を為す」ものとなっていました(美濃部達吉『日本行政法 下』(有斐閣・1940年)1361‐1362頁)。さらには,「一般の官吏に在りては,上官の命令が有効であるや否やに付いては官吏が自らこれを審査する責任が有」るのに対して,「軍人は上官の命令に対しては絶対の服従義務を負ひ,これに反抗することは,其の事の如何を問はず許されないのであるから,仮令上官の命令が其の内容に於いて犯罪に相当し,随つて其の命令は無効であると見るべき場合であつても,其の命令に従つて犯罪行為を為した者は,それに付いての責任を負はず,其の命令を為した上官に於いて,専ら其の責に任ずるものと解せねばならぬ。上官の命令に従つて殺人の幇助を為した陸軍軍人が,軍法会議に於いて無罪を判定せられた実例の有るのは此の理由に因るのである。」とされていました(美濃部・同書1364頁)。統帥権の発動として上官から軍人に下された命令には「違法により無効」ということがないのならば,確かにこれは一種の「超法的」なものではあります。そもそも大日本帝国憲法の臣民権利義務の章にある第32条は「本章ニ掲ケタル条規ハ陸海軍ノ法令又ハ紀律ニ牴触セサルモノニ限リ軍人ニ準行ス」と規定しており,帝国議会の協賛を要する法律(大日本帝国憲法5条,37条)によらなくとも,軍人に対する権利制限は可能であったところです。
 第2には,「統帥権ハ,・・・国家非常ノ場合ニ於テハ主権ヲ擁護確立スルモノ」であり,法のよって立つ基盤である主権自体を支えるものは兵権であって,その意味では統帥権は法に先立つのだ,ということのようです。「抑々主権ヲ確立スル為ノ第一次的要素ヲ為スモノハ兵権ニシテ,此主権ヲ擁護シ,法ヲ支持スル最後的ノモノモ亦兵権ナリトス」とされ(『統帥綱領・統帥参考』4頁),「元来国権乃至政権ガ兵権ニヨリ確立セラルルモノナルコトハ古今ノ歴史ノ明証スル所ニシテ,我源,平,北条,足利,織田,豊臣,徳川ノ武家政権,王政復古,仏国革命政権,露国ノ労農政権,支那ノ国民党政権等皆然ラザルナシ。之ヲ以テ国家非常ナル場合兵権ガ最後ノ断案ヲ下シ政権ヲ確立スルノ作用ハ,理論ヲ超越シタル事実上ノ必要ニ基クモノナリ」と述べられています(同書28‐29頁)。
 第3は,「統帥ハ意志ニ拠ル」として,統帥の意志性が強調されているということです。「人ハ各々其意志ノ自由ヲ有シテ自己ノ存在ヲ意識シ,其存在ヲ成ルベク永ク保持セントスル本能ヲ有ス。統帥ハ,即チ,意志ノ自由ヲ有スル人間ヲシテ,其本能的ニ保持セントスル生命ヲ抛チ,敵ノ意志ノ自由ヲ奪ヒ之ヲ圧伏センガ為ニ邁進セシムルモノナリ。之ヲ以テ統帥ニ関スル学理ハ,『意志ノ自由』ト『死』ニ関スル学理ナリト言フモ過言ニアラズ」(『統帥綱領・統帥参考』64‐65頁)との説明は,一種形而上学的であります。『統帥参考』を作成した陸軍大学校には,このような哲学的修辞が好きな軍人が教官として集まっていたのでしょうか。「戦争,会戦,戦闘等ハ総テ彼我自由意志ノ大激突ニシテ,戦勝トハ則チ意志ノ勝利ナリ。勝利ハ物質的破壊ニ依リテ得ラルルモノニアラズ,敵ノ勝利ヲ得ントスル意志ヲ撃砕スルコトニヨリ獲得セラルルモノトス。「ジョセフ・ド・メストル」ガ『敗レタル会戦トハ,敗者ガ敗レタルヲ自認シタル会戦ナリ。之,会戦ハ決シテ物質的ニ敗ルルモノニアラザレバナリ。』ト道破シタルハ至言ナリト言フベシ。/軍ノ意志ハ則チ将帥ノ意志ニ関シ,軍ノ勝敗ハ主トシテ将帥ノ意志如何ニ因ル」ものとされ(同書45頁),カエサル,ハンニバル,アレクサンドロス大王,フリードリッヒ大王等の人物が称揚されています(同書46頁)。過去の軍事的天才の意志に思いを馳せつつ,陸軍大学校教官氏は,筆を休めては英雄崇拝の少年時代を想起したものでしょう。意志と法との関係についてはなお,「国民参政,即チ議会制度ノ出現ハ,実ニ国民各種ノ意志・利害ノ平均点ヲ発見シテ『法』ヲ定メ,以テ政治運用ノ基調タラシメントスル目的ニ出ヅルモノナリ。従テ,政治ニ於テハ合議,妥協,中庸,平均等ハ重要ナル価値ヲ有シ,『法』ハ絶対ノ権威アリト雖,統帥ハ最高唯一ノ『意志』ヲ断乎トシテ強制シ,直ニ人間ノ生命ヲ要求スルモノニシテ,統帥ニハ『法』ナルモノナク,其緩急,政治ト同日ノ論ニアラズ」とされています(同書32頁)。そもそも「意志」に伴い「死」が出てくれば,「法」も引っ込むのでしょう。また,「蓋シ一般政治ノ実施ハ『法』ニ拠ルモノナルヲ以テ,国務大臣ハ只管『法』ニ準拠・・・スレハ可ナリト雖,作戦行動ニハ『法』ナルモノナク到ル処ニ臨機ノ独断ヲ必要トシ,情況ニ適スル略ト術トヲ機ニ投ジ応用スルモノ」であるともされています(同書9頁)。
 以上,『統帥参考』は,「法」的の性質と「超法」的の性質とを対立させることにより,「統帥権ノ輔翼及執行ノ機関ハ政治機関ヨリ分離シ,軍令ハ政令ヨリ独立」すべきことを,大日本帝国憲法制定前からの慣行論(下記3(1)において見ます。)からのみならず,本質論からも基礎付けることを,当該記述の直接の目的としていたのではないでしょうか。この場合,統帥権があえて「憲法以下のあらゆる法律とは無縁」である必要まではないことになるようですが,どうでしょう。

3 統帥権と議会との関係
 統帥権は「輔弼ノ範囲外ニ独立ス」と「すさまじい断定」をしている部分は,『統帥参考』の原文では次のとおりです。


陸海軍ニ対スル統治ハ,即チ統帥ニシテ,一般国務上ノ大権ガ国務大臣ノ輔弼スル所ナルニ反シ,統帥権ハ其輔弼ノ範囲外ニ独立ス。従テ統帥権ノ行使及其結果ニ関シテハ,議会ニ於テ責任ヲ負ハズ。議会ハ軍ノ統帥・指揮並之ガ結果ニ関シ,質問ヲ提起シ,弁明ヲ求メ,又ハ之ヲ批評シ,論難スルノ権利ヲ有セズ。(『統帥綱領・統帥参考』7頁)

(1)統帥権独立の根拠論
 統帥権の国務大臣輔弼の範囲からの独立の効果として,議会おいて責任を負わなくてよいことになるとされているわけですが,その前に,統帥権が国務大臣の輔弼の範囲外に現に独立していると「断定」するについて『統帥参考』が挙げている理由を見ると,次のとおりです。
 
・・・我帝国ニ於テハ立憲政治ノ反面ノ弊竇ヲ認メ,其害ヲ局限スルガ為,統帥,祭祀,栄典授与等ニ関スル大権ノ行使ハ,国務大臣輔弼ノ範囲外ニ置キタリ。之帝国憲法ノ精神ナリト雖,統帥権ノ独立ハ,憲法ノ成文上ニ於テ明白ナラザルガ故ニ屡々問題ト為レリ。然レドモ,憲法制定ノ前後ヲ通ズル慣行ト事実並憲法以外ノ附属法ハ叙上ノ憲法ノ精神ヲ明徴シ,統帥権独立ノ法的根拠ハ実ニ茲ニ存ス。憲法義解ニモ『兵馬ノ統一ハ至尊ノ大権ニシテ専ラ帷幄ノ大令ニ属ス』ト述ベ,事実ニ於テ参謀本部,軍事参議院等ノ軍令機関ハ既ニ憲法制定以前ニ於テ政治機関ト相対立シテ存在シ,憲法ハ其第76条(法律,規則,命令又ハ何等ノ名称ヲ用ヒタルニ拘ラス此憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ総テ遵由ノ効力ヲ有ス)ニ於テ之ヲ承認シタルモノナリ。(『統帥綱領・統帥参考』8頁)

 「統帥権独立ノ法的根拠」として,「憲法制定ノ前後ヲ通ズル慣行ト事実並憲法以外ノ附属法」が挙げられているわけです。さらには,これらに加えて,「一般政治ノ実施」については「議会ハ『法』ノ実行ヲ監視スレバ可ナリ」ではあるが,「作戦行動ニハ『法』ナルモノナク」,したがって,法に準拠すべき国務大臣が統帥について議会に対してどう責任を負担し得るのか疑問であるとの実質論,憲法学者の大多数が統帥権独立制を擁護又は承認しているとの学説の大勢及び1925年2月20日の貴族院における「政府ハ憲法第11条ノ統帥権ハ憲法第55条ニ於ケル各大臣輔弼ノ範囲ヨリ除外セラルルモノト考フ」との政府委員答弁が挙げられています(同書9頁)。
 「すさまじい断定」ではあっても,「秘密結社」における得手勝手な独断とまでは必ずしもいえないようです。 
 なお,統帥に関する「立憲政治ノ反面ノ弊竇(へいとう)」としては,第一次大戦中のフランスにおいて「軍ノ統帥ガ政治機関ノ干与,議会ノ干渉ニ因リテ禍セラルルノ極メテ危険ナルヲ立証シ,1917年春仏国ニ於テハ有名ナル「ニヴェル」,「パンルウェー」事件ヲ惹起シ軍隊ノ一部ハ叛乱ヲ起シ,人ヲシテ仏軍ノ瓦解近キニアラザルヤヲ思ハシメタコト」及び英国に係る1915年ダーダネルス作戦の「大失敗」等の第一次大戦初期における不振が挙げられ,結論的に「政府ハ事実上議会ノ監督下ニ在ルノミナラズ,其政策ハ内閣ノ更迭ト共ニ変動ス。而モ立憲政治ノ発達ハ政党内閣ノ出現ヲ常態タラシムルト共ニ,其党争ハ愈々激甚ヲ加ヘツツアルハ事実ナリ。国軍ノ統帥ガ此ノ如キ政治機関乃至議会等ノ干与ニ依リテ行ハルルモノトセバ,其危険窮リナキモノト言フベシ」と述べられています(同書5‐6頁)。

(2)議会における責任追及の限界
 国務大臣の輔弼の範囲外にあると議会において責任を負わなくなるということについては,大日本帝国憲法54条(「国務大臣及政府委員ハ何時タリトモ各議院ニ出席シ及発言スルコトヲ得」)及び55条1項(「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」)が関係します。
 大日本帝国憲法55条1項については,そこにおける「国務大臣に特別なる責任は,専ら其の議会に対する責任に在る」ものとされています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)544頁)。「議会は国民に代つて政府を監視する機関であつて,議会が国務大臣の職務行為に付いて之を論難し得ることは当然であり,憲法第54条にも国務大臣が議会と交渉する職権あることを規定して居るのは,議会が国務大臣の行為を是非し,批評し得る権能あることを暗示して居るもの」であるわけです(美濃部・同書545頁)。議会が国務大臣の責任を質す方法としては,質問権,不信任決議の権及び弾劾的上奏権が挙げられています(美濃部・同書545‐547頁)。ただし,「国務大臣が憲法上に責任を負担するのは,唯その国務大臣としての職務の範囲に限ることは言ふまでもな」く,「就中,天皇の大権に付き国務大臣が輔弼の責任を負ふのは,唯法律上に輔弼すべき職務を有する範囲に限る」のであって,「随つて現在の制度に於いては,陸海軍統帥の大権,栄典授与の大権,祭祀に関する大権,国務に関係なき皇室の大権に付いては,国務大臣の責任に属するものではない」ものとされていました(美濃部・同書543‐544頁)。すなわち,統帥事項について議員が議会で国務大臣を攻撃しようにも,そもそも国務大臣の責任の範囲外ということで,肩透かしということになります。
 そこで,議会政治家としては,統帥部の軍人を議会に呼び付けて,「質問ヲ提起シ,弁明ヲ求メ,又ハ之ヲ批評シ,論難」したいのですが,なかなかそうはいきません。大日本帝国54条がそこに立ちはだかっており,「議会が政府と交渉し得るのは,専ら国務大臣及び国務大臣の代理者としての政府委員を通じてのみであつて,その他の機関に対しては,文書を以て天皇に上奏し得ることの外には,直接には全く交渉の権能を有たないもの」とされていました(美濃部『逐条憲法精義』502頁)。同条の趣旨に基づくとされる議院法75条は,「各議院ハ国務大臣及政府委員ノ外他ノ官庁及地方議会ニ向テ照会往復スルコトヲ得ス」と明言していたところです。さらには,同法73条は「各議院ハ審査ノ為ニ人民ヲ召喚シ及議員ヲ派出スルコトヲ得ス」と規定していました(ただし,美濃部によれば,同条の規定は大日本帝国憲法の要求するところではないものです(美濃部・同書490頁)。)。大日本帝国憲法下においては,天皇を輔弼するからといってすべての者が議会に対して責めに任ずるわけではなく,内大臣,枢密顧問,元老等に対して,「議会は此等の者に対して其の責任を問ふべき何等の行為をも為し得ない」ものとされていたのでした(美濃部・同書547‐548頁)。また,「厳格なる三権分立を基礎とするアメリカ主義の憲法に於いては,議会と政府とを全く没交渉の地位に置いて居る」との例もあったところです(美濃部・同書502頁)。
 ちなみに,議会が軍事に口を出すことを軍人が恐れるのももっともかなとあるいは思わせる事例が,第一次大戦中のフランスでありました。


1918年3月,独逸軍ハ仏国「ビカルヂー」地方ニ於ケル聯合軍ノ戦線ヲ突破シ「アミアン」附近ニ迫レル時,議会ハ責任将軍ノ処刑ヲ要求スルヤ,首相「クレマンソー」ハ答ヘテ曰ク。『国軍ニ対スル信用ハ,之ガ為毫モ変化ナシ。然ルニ吾人狼狽シ,或ハ最善ナリシヤモ知レザル指揮官ニ迄早々手ヲ触レ,以テ軍中ニ不安ノ念ヲ投ズルガ如キハ罪悪ニシテ,予ハ断ジテ此罪悪ヲ犯スモノニアラズ云々』ト。(『統帥綱領・統帥参考』23頁) 

 単なる更迭ではなく,処刑の要求です。
 人材豊富な大日本帝国の政界といえども,クレマンソーのような大政治家が常にいて議会を抑えて守ってくれるものとは,陸軍大学校の教官らは安んじて信頼できなかったものでしょう。(ちなみに,「ビカルヂー」とは,Picardieのことですよね。)

4 「憲法上ノ責任」をめぐる政治機関と統帥機関との相違
 「・・・然レドモ,参謀総長・海軍軍令部長等ハ,幕僚(註・天皇のスタッフ)ニシテ,憲法上ノ責任ヲ有スルモノニアラザルガ故ニ・・・」の『統帥参考』における原文は,統帥権の独立を保障するものとしての「武官ノ地位ノ独立」及び「其職務執行ノ独立」の必要性並びに政治機関と統帥機関との対立平等性を説く場面に登場しており,詳しくは次のとおりです。


国務大臣ハ憲法上ノ輔弼ノ責ニ任ズル者ナルヲ以テ,主権者ガ大臣ノ意見ニ反シテ決裁セラレタルトキハ,憲法上ノ責任ヲ採リテ辞職セザルベカラズ。然レドモ,参謀総長,海軍軍令部長等ハ幕僚ニシテ憲法上ノ責任ヲ有スルモノニアラザルガ故ニ,其進退ハ国務大臣ト大ニ趣ヲ異ニス。之『法』ニ拠ル政治ト『意志』ニ拠ル統帥トノ本質的差異ヨリ生ズル自然ノ帰結タラズンバアラズ。(『統帥綱領・統帥参考』11頁)

 「われわれは天皇のスタッフだから憲法上の責任なんかないんだ」ということは,無責任宣言ということでしょうか。確かに,国務大臣が有する「憲法上ノ輔弼ノ責」と同一の「憲法上ノ責任」は,参謀総長や軍令部総長は国務大臣ではないですから,有してはいなかったところです。しかし,ここでは天皇が奏上を嘉納しなかった場合の進退が問題になっているわけですが,「其進退ハ国務大臣ト大ニ趣ヲ異ニス」というのですから,国務大臣は辞職しても(「若し国務大臣が自己の責任上国家の為に是非或る行為を為すことが必要であると信じてその御裁可を奏請し,而もそれが嘉納せられなかつたとすれば,国務大臣は当然辞職せねばならぬ」(美濃部『逐条憲法精義』513頁)。),参謀総長・軍令部総長等は辞職せずに留まり,大元帥の命令に従うのだ,ということが本来の文意であるのだと解することも可能であるように思われます(国務大臣であれば,「・・・必ずしも君命に服従することを要するものではない。・・・君命と雖も若しそれが憲法法律に違反し若くは国家の為に不利益であると信ずるならば,国務大臣は之に従ふことを得ない」ところでした(美濃部・同書513頁)。)。あるいは,政治機関の進退と統帥機関の進退との相互独立性が言いたかったのではないでしょうか。上記部分に続けて『統帥参考』は,「参謀総長,海軍軍令部長等ノ地位ガ内閣又ハ陸,海軍大臣ノ意志ニ依リテ左右セラレザルコトモ亦統帥ノ独立ヲ保障スル為ニ極メテ必要」であると述べています(『統帥綱領・統帥参考』11頁)。
 事変下南京陥落後1938年1月15日の大本営と政府との連絡会議における出来事が,興味深い素材を提供します。第1次近衛内閣(外務大臣・広田弘毅,海軍大臣・米内光政)側はトラウトマン工作による中華民国国民政府との和平交渉を打ち切る方針であったのに対して,参謀本部(多田駿次長)は和平交渉継続を主張して反対したところ,これに対して政府側は内閣総辞職の威嚇をもって参謀本部に圧力をかけ,参謀本部は政変回避のため屈服したという出来事です(内閣が和平交渉を打ち切っての事変継続を主張し,参謀本部がそれに反対していたのですから,通常のステレオタイプの見方からすると,倒錯した事態であったわけです。)。辞職の可能性に裏付けられた「憲法上ノ責任」が「統帥権」の反対にかかわらず貫徹したような具合です。参謀本部側は辞職ということは言い出さなかったようです(多田次長は,「天皇に辞職なし」であるのに総辞職を云々する内閣は無責任だとなじったとも伝えられていますから,自らの辞職をちらつかせて開き直ることはできなかったでしょう。)。辞職できるということは,実は強みでもあります(「国務大臣の進言に対し,一応の注意を加へたまふことはあつても,裁可を拒ませらるゝことは,内閣瓦解の原因ともなるべき容易ならぬ事態を生ずる」のでしたから(美濃部『逐条憲法精義』513頁),天皇も政府に対して拒否権を発動できなかったわけです。)。(ちなみに,トラウトマン工作による和平交渉を打ち切る旨の上奏が嘉納されなかった場合には,近衛内閣はあるいは総辞職したのでしょうが,参謀本部が近衛内閣と進退を共にすることは当然なかったわけでしょう。)なお,統帥部の人事が内閣によって左右されていたのならば,大激論になる前に,多田次長を更迭すればよいだけだったはずであり,そもそもそれ以前に,楽観的かつ勇ましい政権側の軍人をもって統帥部が固められていたはずでしょう。
 いずれにせよ,1938年1月15日のこの場面では,「日中戦争を長びかせ」たのは参謀本部ではないですね。なお,『統帥参考』の認識では,「開戦,和戦,戦争ノ目的,同盟,聯合其他戦時外交ノ方針等ハ事重大ナルヲ以テ,事実上統帥部ト政府トノ意見ノ一致ヲ見ザレバ決定シ得ベキモノニアラズ」であって,これらの事項については政府から最高統帥部に協議するのが至当,ということではありました(『統帥綱領・統帥参考』24頁)。

5 大日本帝国憲法31条の非常大権の解釈論
 「・・・兵権ヲ行使スル機関ハ,軍事上必要ナル限度ニ於テ,直接ニ国民ヲ統治スルコトヲ得・・・」の部分について,司馬遼太郎が省略したところをも含めた『統帥参考』の原文は,次のとおりです。


兵・政ハ原則トシテ相分離スト雖,戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テハ,兵権ヲ行使スル機関ハ,軍事上必要ナル限度ニ於テ,直接ニ国民ヲ統治スルコトヲ得ルハ憲法第31条ノ認ムル所ナリ。而シテ此軍権ノ行使スル政務ニ関シテハ議会ニ於テ責任ヲ負ハズ。(『統帥綱領・統帥参考』28頁)

 一応しおらしく,大日本帝国憲法31条に拠った立言になっています。臣民権利義務の章にある同条は,「本章ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」と規定していました。同条は「天皇大権ノ施行」といっていますから,『統帥参考』の上記部分も天皇を全くないがしろにするものではないでしょう。
 「戦時又ハ国家事変ノ場合」に「軍事上必要ナル限度ニ於テ,直接ニ国民ヲ統治」する「兵権ヲ行使スル機関」について『統帥参考』は,「戦時大本営ハ,所謂非常大権ノ発動ニ依リ,軍事上必要ナル限度ニ於テ直接国民ヲ拘束スル命令ヲ発スルコトヲ得ベク,又戒厳ノ宣告セラレタル場合ニ於テハ,国家統治作用ノ一部ハ軍権ノ権力ニ移サレ,行政及司法権ノ全部又ハ一部ハ軍権ノ掌ル所トナル。軍事占領地ノ統治亦然リ。」と説明しており(『統帥綱領・統帥参考』28頁),直接「参謀本部」に言及してはいません。大本営については更に,「大本営ハ,国軍直接統帥ノ外,国軍ノ動員,新設,補充・補給ヲ規画シ,且,国内警備ヲ統轄シ,戒厳ノ布告ナキ場合ニ於テモ,要スレバ憲法第31条非常大権ノ発動ニ基キ,軍事行動ニ直接必要ナル限度ニ於テ,直接一般国民ヲ拘束スベキ命令ヲ発スルコトヲ得ルモノナリ(美濃部博士著『憲法提要』参照)。」と述べられていました(『統帥綱領・統帥参考』34頁)。
 おや,と思わせるのは,美濃部達吉の『憲法提要』が,『統帥参考』において典拠として引用されていた事実です。統帥機関としては,1932年の段階においては,「法学界をおおっている美濃部学説を痛打」するどころか,進んでその権威に依拠しようとしていたもののごとくです。昭和10年の天皇機関説事件のわずか3年前のことでありました。
 『憲法提要』は手もとにないのですが,大日本帝国憲法31条に関する美濃部達吉の所説は,次のとおり。


 要するに,本条の規定は戦争又は内乱に際し軍隊を動かす場合には,軍隊の活動の為に必要なる限度に於いて,大元帥としての天皇の命令に依り又は天皇の委任に基く軍司令官の命令に依り,法律に依らずして人民の自由及び財産を侵害し得べきことを定めて居るものである。平時に於いては,軍隊の権力は唯軍隊の内部に行はれ得るに止まり,軍隊以外の一般の人民に及び得るものではないが,戦時又は国家事変に際しては,軍隊が軍事行動の必要の限度において一般人民を支配する権力を得るのであつて,約言すれば本条は軍隊統治の制を認めたものに外ならぬのである。
 軍隊の権力に依つて人民を支配し得る最も著しい場合は,戒厳の宣告せられた場合である。・・・併しながら若し本条の規定を以て戒厳の場合のみを意味するものと解するならば,本条は第14条と全然相重複し無意味の規定とならねばならぬ。随つて本条の規定の結果としては,戒厳の宣告せられた場合〔筆者註:天皇による戒厳の宣告は,内閣の責任に属する行為たる国務上の大権の作用として行われ,枢密院への諮詢を要する(枢密院官制(明治21年勅令第22号)6条7号)とともに(美濃部『逐条憲法精義』282頁参照),その効力は法律(実際には,法律としての効力を有していた(大日本帝国憲法76条1項)明治15年太政官布告第36号たる戒厳令)によって定められていました(同憲法14条2項)。〕の外に,尚大本営の命令に依つても一般人民に対し軍事上必要なる命令を為し得るものと解せねばならぬ。又兵力を以て敵地を占領した場合には,軍隊にその地域の統治を委任し得ることは当然で,即ち此の場合にも本条に依る軍隊統治が行はれるのである。(美濃部『逐条憲法精義』417‐418頁)

 非常の事変に際し,普通の警察隊の力を以つては治安を保つことが困難である場合には,特に軍隊の力を以つて治安維持の任に当ることが有る。これを非常警察と称する。それは実質上から見て警察と称し得るのであるが,行政権の作用ではなく,軍隊の権能に依つて行はるるもので,其の権能の源は統帥大権に在り,形式的の意義に於いては行政作用には属しない。唯其の実質に於いては,等しく社会公共の秩序を維持するが為めにする命令強制の権力作用であり,此の意義に於いて警察作用たるのである。非常事変に際して行はれるのであるから,憲法第31条の適用を受くるもので,一般法律の拘束を受けず,治安を維持するに必要なる限度に於いては,法律に依らずして人民の自由を拘束し得るのである。(美濃部『日本行政法 下』56頁)

 「軍事機密」である『統帥参考』も,作成の現場においては,いろいろなソースから「コピペ」して,それらを「おれたちは」的言葉づかいでまとめて出来上がったものなのでしょう。
 日本の秀才のすることは,古今余り変わらないものです。

(補足)なお, 国は違いますが, 非常大権の発動例として有名なものに1863年1月1日付けの米国リンカン大統領の奴隷解放宣言があります。当時は, アメリカ合衆国憲法を改正しても全国一斉に奴隷を解放することはできない(憲法改正権の範囲外)と考えられていたのに対して, 「大統領のwar power(戦時権限)に基づいた・いわば戦争遂行の一手段としてのもの」として, 「連邦に対して叛乱状態にある地域の奴隷を解放するという内容」の奴隷解放宣言が出されたものです。(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)277頁)

6 統帥権の範囲に係る美濃部説と『統帥参考』との相違
 『統帥参考』は,必ずしも美濃部達吉の学説に全面的に背馳するものではなく,むしろ美濃部説を援用して所説を正当化するところもありました。しかし,「統帥権の正当なる範囲」を①指揮権,②内部的編制権,③教育権及び④紀律権の4種の作用に限るものとしている美濃部説(美濃部『逐条憲法精義』259頁)に対して,『統帥参考』の見解には,大きな相違が3点あります。
 第1に,指揮権において,美濃部は「軍隊の出動を命ずることは政務の作用に属する」(美濃部『逐条憲法精義』259頁)としていますが,『統帥参考』では「軍隊ヲ動員シ,軍隊ニ出動ヲ命ジ」ることは統帥権の範囲に属するものとしています(『統帥綱領・統帥参考』15頁)。「外国ニ於テハ軍隊ニ出動ヲ命ズルノ権利ハ多ク議会ノ掌握スル所」であるが,「統帥上ニ於ケル 天皇ト大統領トノ地位ノ異ナル主要点ハ実ニ茲ニ存ス」るものとされています(同書16頁)。「我帝国ノ軍隊ハ,国家ノ軍隊タルノミナラズ皇軍ニシテ,外国ノ軍隊ト全然異ナル」のは(同書1頁),こういった点に現れるということでしょうか。ただし一応,「動員及軍隊ノ出動派遣ハ統帥ノ第一歩ニシテ,統帥部之ヲ計画スルモ,其目的,必要ニ応ジ範囲等ヲ決定スル為ニハ,政府ト協議スルヲ至当トス。」として(同書27頁),政府と「協議スルヲ至当」とするものとはされています。しかし,至当に至らなくとも妥当ではあるという場合もあるものと解されそうではあります。
 第2に,武官人事について,美濃部は大日本帝国憲法10条(「天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル」)による政務上の大権に属するものとし,「勅任官及地方長官ノ任命及進退」は閣議を経るべきものとする内閣官制5条1項7号を引いて「少くとも陸海軍将官の任免に付いては閣議を経ることを要する」としているのに対して(美濃部『逐条憲法精義』259頁),『統帥参考』は大日本帝国憲法11条は同10条ただし書の特例に当たるのだとして「勅任官ノ人事ハ閣議ヲ経ルヲ要スル規定ナルモ,陸軍武官ノ進級ハ奏任,勅任,親任共ニ陸軍進級令ニ依リ帷幄上奏ニ属」するものとしています(『統帥綱領・統帥参考』16頁)。人事を仲間内で決めたがるのは,官僚集団(のうちムラの人事権を握る主流派)の秩序本能ですね。官僚機構内において,人生の意義をかけて展開される暗闘あるいは公然たる派閥抗争は,結局人事権をめぐる争いでしょう。サラリーマンの仕事は,人事権者の方を見ながらされるものです。
 第3は,「等」の有無です。美濃部説では統帥権の範囲に属する事項は限定列挙ですが,『統帥参考』では「原則トシテ,国軍ヲ対象トシ之ニ対スル総ユル命令権ハ,即チ統帥権ニ属スルモノトス」とした上で,「軍隊ヲ動員シ,軍隊ニ出動ヲ命ジ,之ヲ指揮運用シ,又ハ其内部ノ編制ヲ定メ,或ハ之ヲ教育訓練シ,若ハ其軍紀ヲ維持スル等ノ権限ハ,総テ統帥権ノ範囲ニ属スルモノナリ。」とされています(『統帥綱領・統帥参考』15頁)。後段部分は美濃部説の4項目は当然統帥権の範囲に入るものであるということを確認確保するだけの記載ですね。しっかりと「等」がありますから,統帥権の範囲の大枠は,結局前段にいう原則の解釈によって決まるということになります。
 なお,「超法的」な統帥権も現実には,先立つものがなければどうしようもないのが泣き所でした。「国の歳出は予算に依つて議会の議を経ることを要し,予算外の支出も亦議会の事後承諾を要するものであるから,軍の行動殊に国防計画に関しても,その経費の支出を要する限度に於いては,帷幄の大権に依つては決することの出来ないもので,必ず内閣の輔弼に待たねばならぬ」ものとされ(美濃部『逐条憲法精義』258頁),この点は『統帥参考』も,「兵力ノ増加モ亦統帥部之ヲ計画スルモ,政府ノ同意ヲ得ルニアラザレバ之ヲ実行スルヲ得ズ。」と認めていました(『統帥綱領・統帥参考』27頁)。

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