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1 自由民主党=日本維新の会連立政権の副首都構想

 

(1)「連立政権合意書」及び内閣総理大臣所信表明演説

 20251020日付けの「自由民主党・日本維新の会 連立政権合意書」に,次のようにあります。

 

  11. 統治機構改革

    首都の危機管理機能のバックアップ体制を構築し,首都機能分散及び多極分散型経済圏を形成する観点から,令和7年〔2025年〕臨時国会中に,両党による協議体を設置し,首都及び副首都の責務及び機能を整理した上で,早急に検討を行い,令和8年〔2026年〕通常国会で法案を成立させる。

 

 成立させるものは「法案」にとどまるものではなくて,法律なのでしょう。

いわゆる副首都構想ですね。「バックアップ」といえば重複が含意されているようですが,「機能分散」といえば,単に分解した上で重ならぬように散らし置くのでしょう。分散であって分割ではないのであれば,副首都は2箇所以上あることになるのでしょうか。多極分散型「経済圏」といわれていますが,これは,首都機能は政治的なものにはとどまらず,経済発展をももたらすものであると考えられているのでしょう(首都に集められた国庫の金銭が,政治家ないしはお役人を通じて優先的に同地に大量に漏れ落ちることが期待されているのでしょうか。)。しかし,米国などを見ると,連邦の首都ワシントンDC.はひとまず措くとしても,州都は必ずしもその州の経済の中心にはなっていません(ニュー・ヨーク市,フィラデルフィア市,デトロイト市,シカゴ市,ヒューストン市,ロサンゼルス市,サン・フランシスコ市,シアトル市などはいずれも州都ではありません。)。

自由民主党と日本維新の会との「連立政権」成立後,第219回国会において20251024日に行われた高市早苗内閣総理大臣の所信表明演説では次のようになりました。

 

 首都の危機管理機能のバックアップ体制を構築し,首都機能分散及び多極分散型経済圏を形成する観点から,首都及び副首都の責務と機能に関する検討を急ぎます。

 

(2)日本維新の会の「副首都法案」骨子案並びに大都市法及びいわゆる大阪都構想

 

ア 「副首都法案」骨子案

 高市内閣総理大臣が急ぐと述べた「首都及び副首都の責務と機能に関する検討」の結果はどうなるかについてですが,これについては既に2025930日に日本維新の会が「副首都法案」の骨子案をまとめているところです。当該骨子案はどのようなものかといえば,同日2247分に毎日新聞ウェブサイトに掲載された鈴木拓也及び岡崎英遠両記者による「維新,副首都法案の骨子案まとめる 26年の通常国会で提出の意向」記事によると,副首都の機能は「東京圏と並ぶ経済の中心として経済成長をけん引し,災害時に首都中枢機能を代替」することだそうで,副首都になると「事業の高度化や生産性向上などのための規制緩和国からの税源移譲国税の減免独自の税率設定」といった特例措置が受けられ,副首都の指定は道府県からの申請に基づき内閣総理大臣が行い,その指定のための要件は「大都市法に基づく特別区が設置されている経済活動が活発に行われている東京圏と同じ災害で被害を受ける恐れが少ない」であるそうです。

 

イ 大都市法及びいわゆる大阪都構想

前記の「大都市法」とは,大都市地域における特別区の設置に関する法律(平成24年法律第80号)のことです。同法は「道府県の区域内において関係市町村を廃止し,特別区を設けるための手続」等について定めるもので(同法1条),「特別区を包括する道府県は,地方自治法その他の法令の規定の適用については,法律又はこれに基づく政令に特別の定めがあるものを除くほか,都とみなす」ものとされています(同法10条)。いわゆる大阪都構想における「都」とは何かといえば,大阪市を廃止して特別区を設置し,大阪府が大都市法10条によって「都とみな」されることだったのでした。しかして当該構想に基づく大都市法7条による大阪市(同法にいう関係市町村)における選挙人の投票が2015年及び2020年に行われていますが,いずれも有効投票の過半数の賛成を得ることができず,現在のところいわゆる大阪都構想は実現していません(同法81項参照)。

日本維新の会の今次副首都構想は,副首都となることによる利点を大阪市民に提示しつつ「大都市法に基づく特別区が設置されている」ことをその要件とすることによって,いわゆる大阪都構想の最終的実現を,「三度目の正直」として副首都化と併せて目指すものでもありましょうか。

 

2 天武天皇政権の複都構想

 

(1)天武天皇十二年十二月十七日の詔

 ところで副首都といえば,我が国においては,『日本書紀』天武天皇十二年(西暦683年にほぼ相当)十二月十七日(西暦ではもう684年でしょう)条にある天武天皇の次の詔が想起されるところです。

 

  詔曰,凡都城・宮室非一処。必造両参。故先欲都難波。是以百寮者各往之請家地。

 

およそ都城・宮室は一処ではなく必ず二つ三つ造るものだ,といきなり宣言されていて,「首都の危機管理機能のバックアップ体制を構築し,首都機能分散及び多極分散型経済圏を形成する観点」は丁寧に云々されていません。とはいえ,既に孝徳天皇が大化元年(西暦645年にほぼ相当)十二月九日(西暦ではもう646年でしょう)から白雉五年(西暦654年にほぼ相当)十月まで難波長柄豊碕(なにはのながらのとよさき)に都していたところから(ただし,難波長柄豊碕宮(なにはのながらのとよさきのみや)に同天皇が遷居したのは白雉二年(西暦651年にほぼ相当)十二月末(同月末は,西暦では652年になっています)であって,また,同宮の完成は白雉三年九月のことでした。),副首都の場所については,故にまず難波に都するものとしよう,ということになったのでしょう。大阪を副首都とすることについての先例です。そうであるから百寮の役人は各々該地へ行って宅地を請い受けよ,という点は,首都機能とはすなわちそこに住む中央官庁の役人らであるということの現れでしょう。

 

(2)飛鳥及び難波以外の地における都の構想

「先づ難波」には続きがあって,『日本書紀』の天武天皇十三年(西暦684年にほぼ対応)二月二十八日条には次のようにあります。

 

 遣浄広肆広瀬王・小錦中大伴連安麻呂及判官・録事・陰陽師・工匠等於畿内,令視占応都之地。是日,遣三野王・小錦下采女臣筑羅等於信濃,令看地形。将都是地歟。

 

浄広肆の広瀬(のおほきみ)及び小錦中(せうきむちう)の大伴(のむらじ)安麻呂並びに判官,録事(ふびと),陰陽師,工匠等を畿内に派遣してまさに都すべきの地を視占()させた,というのですから,畿内に,飛鳥及び難波に次ぐ三つ目の都を造る構想があったのでしょう(なお,藤原京に持統天皇が遷居したのは,10年後の持統八年(西暦694年にほぼ相当)の十二月六日(西暦では695年になっています)でした。)。しかして,同日(天武天皇十三年二月二十八日),三野(みの)王,小錦下の采女(うねめ)(のおみ)筑羅(ちくら)等を信濃に派遣して,地形を()しめた,その地に都しようとしたのであろうか,ということですから,あるいは歴史の成行き次第では,畿外の信州にも副都が置かれることになったかもしれません。

信州の副都については「信濃に遷都の地を求めたのは国際関係の緊迫のためか。唐と戦って朝鮮より撃退した新羅の勢力を警戒したからではないか。」と註されています(小島憲之=直木孝次郎=西宮一民=蔵中進=毛利正守校註・訳『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』(小学館・1998年)433頁註21(西宮執筆=小島補訂))。しかし,天武天皇の信州に対する思い入れは,単に温泉付きの別荘(行宮)を造りたいということだったかもしれません。『日本書紀』の天武天皇十四年(西暦685年にほぼ相当)十月十日条に「遣軽部朝臣(たる)()・高田首新家(にひのみ)荒田尾(あらたを)連麻呂於信濃,令造行宮。蓋擬幸束間(つかま)温泉歟。」とあるところです。最後のところで,けだし天皇はそこに幸せむと(おも)ったのではないか,と推測された束間温泉については,「『和名抄』に「信濃筑摩郡,豆加万つかま」。筑摩郡は長野県松本市・塩尻市・東摩郡などの地で,浅間温泉・入山辺温泉などがある。そのどれかであろう。」と註されています(新編日本古典文学全集4451頁註29(西宮=小島))。ただし,天武天皇はその前月不豫となっており,翌年九月には崩御していますから,副都云々以前に純粋に湯治がしたかったのかもしれません。

 

3 旧東京都制等に関して

 

(1)昭和天皇の帝都からの御移動計画に関して

信州といえば,そういえば,先の大戦中に同地で松代大本営の建設工事がされていたのでした。

これに関してでしょうが,1944725日に小磯国昭内閣総理大臣から昭和天皇に対して「帝都からの御移動に関して言上」があったところ(宮内庁『昭和天皇実録 第九』(東京書籍・2016年)401頁),翌26日昭和天皇から木戸幸一内大臣に対して「自身が帝都を離れる時は臣民,殊に都民に不安の念を起こし,敗戦感を懐かしめる恐れがあるため,統帥部において統帥の必要上これを考慮するとしても,できる限り最後まで帝都に留まりたく,時期尚早な実行は決して好まないところであること,なお戦争の推移によっては,あるいは一部に大陸への移動等を考える者もあらんも,あくまで皇大神宮の鎮座するこの神州にあって死守しなければならない旨のお考えを示される。」ということがありました(同402頁)。

なお,ここでの昭和天皇の発言中にある「都民」との語は,前年以来の新語でしょうか。旧東京都制(昭和18年法律第89号)が施行されて東京都が置かれて東京府及び東京市が廃止されたのは(同制180条),194371日からのことでした(同制179条及び昭和18年勅令第503号)。同日「本日より東京都制及び東京都官制が施行される。午前950分,鳳凰ノ間において親任式を行われ,陸軍司政長官大達茂雄を東京都長官に任じられる。」という運びになっています(実録第九132頁)。

 

(2)旧東京都制に関して

 

ア 三つの立法趣旨

東京府及び東京市を廃止して東京都を設ける旧東京都制の立法趣旨は,194333日の貴族院東京都制案特別委員会における湯澤三千男内務大臣の説明によれば3点に帰着します。すなわち「其ノ一ツハ,帝都タル東京ニ真ニ其ノ国家的性格ニ適応致シマシタ確乎タル体制ヲ確立スルコト」,「其ノ2ハ,帝都ニ於ケル所ノ従来ノ府市並存ノ弊ヲ是正解消致シ,帝都一般行政ノ一元的ニシテ強力ナル遂行ヲ期スルコト」,「其ノ3ハ,帝都行政ノ運営ニ付キマシテ根本的刷新ト高度ノ能率化トヲ図ルコト」です(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第21頁)。

なお,旧東京都制の戦時立法性が云為されることがあります。しかし,これについては,「併シナガラ此ノ案ハ申ス迄モナク臨時的ノ戦時立法デハナイノデゴザイマシテ,帝都ノ性格ト帝都行政ノ過去ノ実績トニ深イ考慮ヲ払ッタモノデゴザイマスルカラ,戦後ニ於キマシテモ帝都行政ハ本案ノヤウナ体制ヲ以テ運営シテ行クコトガ必要デアルト考ヘテ居ルト云フノガ政府ノ答弁デゴザイマス」ということになっています(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第23頁(山崎巌政府委員(内務次官)))。

 

イ 府市並存の弊の是正解消

趣旨3点中,まず第2点の府市並存の弊の是正解消は,従来のいわゆる大阪都構想が目的としていたものと同様です。現在の大都市法による関係市町村の廃止及び特別区の設置の手続は,正にこのために用意されているものでしょう。

なお,旧東京都制下の区については,「所謂区ノ自治権ヲ拡張致シ,都ヲ35ノ独立市ニ分割スルト云フコトハ,独リ都民生活ノ実情ニ即セザルノミナラズ,都行政ノ統一ヲ破壊シ,更ニ都民ノ負担ヲ区々ナラシメテ,決シテ適当ナル結果ヲ得ルモノデナイト信」ぜられたことから,「所謂区ノ自治権ニ付キマシテハ概ネ従来ノ制度ニ則」ることとなっていました(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第22頁(湯澤内務大臣))。

 

ウ 帝都の国家的性格に適応した体制の確立

趣旨の第1点については,東京都の「機構ガ全国他地方ノ機構ニ比シテ更ニ一段ト国家的色彩ヲ濃厚ニ致シ,国家トノ間ニ緊密ナル聯繋ヲ保持スベキコトハ当然ノコト」であることから「府知事ト市長トノ職務権限ヲ合セ」る「都ノ首長ハ官吏タルヲ至当トスル」ものとされています(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第22頁(湯澤内務大臣))。

市長の選任については,市会による選挙又は(昭和18年法律第80号による改正後の旧市制(明治44年法律第68号)733項においては)市会の推薦した者に係る勅裁を経ての内務大臣の任命によるものとされていましたが,従来の東京市長の職務権限をも兼ねる新しい東京都長官は,親任官たる官吏として(旧東京都官制(昭和18年勅令第504号)1条),前記大達茂雄の任命がそうであったとおり天皇から任命されることとなりました。また,東京都の区の区長も,書記官たる国の奏任官吏をもって充てられることにされていました(旧東京都官制361項及び1条)。東京都の幹部職員は,公吏ではなく「全部官吏トスルノガ適当デアラウ」と内務省は考えていたところです(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第26頁(山崎政府委員))。

となると現在でも,複都制に係る当該道府県の首都性ないしは副首都性が必要以上に強調されると,国の干与を正当化する「国家的色彩」ないしは「国家トノ間ニ緊密ナル聯繋ヲ保持ス」る必要性が併せて想起され(東京都と国との関係の現状を見ると杞憂かもしれませんが),本来国に対して自治ないしは独立を主張すべき地方公共団体としては痛しかゆしということになるかもしれません。

 

エ 行政運営の根本的刷新及び高度の能率化

以上の第1点と第2点とに係る合わせ技をもって,「又斯様ニ致シマシテ理事機関ノ地位ヲ確立強化スルコトニ依リ,従来東京市政ニ付キマシテ,世上ノ批評ヲ招キタルガ如キ弊風ハ茲ニ一掃セラレ,帝都行政ノ真ノ刷新ト能率化トガ確保セラルコトヲ固ク信スルノデゴザイマス」として,第3の趣旨が達成されるものとされています(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第22頁(湯澤内務大臣))。

「従来東京市政ニ付キマシテ」ですから,弊風及び非能率の問題は東京府ではなく東京市にあり,というのが内務省の認識だったわけです。これについては曽我祐邦子爵委員が,東京市会議員経験者として同市会の弊風を指摘し,「自治ト云フモノニ日本人ハ落第シテ居ル」,「自治ト云フコトニ付テ日本人ガ明カニ落第シタト云フコトヲ知ッタ」,「過去ニ於ケル東京市会ノ如キモノガ存在シテ居ルコトハ,実ニ日本人ノ恥ダ」と切言しています(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第29頁)。しかして「吏僚組織ノ整備ハ,都行政ノ能率化ヲ図ル上ニ於キマシテナカ〔ナカ〕重要ナコトデア」り,「都長官ト云フ官吏ニ依ラザレバ〔東京市における状況の〕抜本塞源的な行政ノ所謂浄化ト申シマスカ,純化ト申シマスルカ,ソレノ企図ガ出来ナイ,又根本的ナ刷新,高度ノ能率化ガ出来ナイ」というのが内務省の考えでした(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第22頁及び11頁(湯澤内務大臣))。弊風自ずと吹きすさぶ人民自治は不純・非能率であって,天皇の優秀な官吏による民本主義的統治をもって代えることが望ましいということでしょう。

『はだしのゲン』における有名人たるかの鮫島伝次郎氏も先の大戦後,東京市ならぬ広島市(日清戦争中の帝国議会召集地にして大本営所在地たりしかつての首都ないしは副都)の市会議員に立候補したわけですが,地方議会議員になりたがるような人の典型が彼なのでしょうか。しかし,現代の進んだ意識の下にある日本国における地方議会の状況は,曽我子爵及び湯澤大臣が嘆いたかつての東京市会とは全く異なったものなのでしょう。

 

4 難波副都のその後

さて話は元に戻って,天武朝の副都であった難波です。残念なことに,そこにおける肝腎の宮殿は,前記天武天皇十二年十二月十七日の詔の2年ほど後にまる焼けになってしまいました。朱鳥元年(西暦686年にほぼ相当)一月十四日に「酉時〔18時頃〕,難波大蔵省失火,宮室悉焚。」ということになっています。そして同年九月九日,複都構想を唱道した天武天皇は崩御します。

その後神亀三年(西暦726年にほぼ相当)十月の庚午の日に聖武天皇が難波で「以式部卿従三位藤原朝臣宇合。為知造難波宮事。」という人事を行っています(『続日本紀』)。難波宮がまた造営されたわけですが(聖武天皇は,天平十六年(西暦744年にほぼ相当)に難波に都しています。),この難波宮の建物は,後に桓武天皇によって長岡京が造営される際に解体して運ばれて新京のために利用されています(長岡遷都は延暦三年(西暦784年にほぼ相当))。「天平宝字六年(762年)四月,安芸国で建造した遣唐使船を難波に廻送しようとしたところ,難波の河口が浅瀬のために座礁するということがあったように,長年にわたる堆積作用で,難波津とそれに付随する難波宮の機能は当時すでに衰えていた。淀川水系に立地する長岡遷都に際して,大和川の河口に位置する難波宮はこうして解体することが決定され,その歴史に幕を閉じることになった。」ということでした(瀧波貞子『桓武天皇――決断する君主』(岩波新書・2023年)88-89頁)。

 

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  秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ

 

 筆者はかつて日本国憲法研究の一環として,日本国の国号の由来について調べものをしたことがあります(「第22回サッカー・ワールド・カップ大会開催の年,倭国2682年又は日本国1353年の建国記念の日にちなんで」(2022211日)https://donttreadonme.blog.jp/archives/1079413301.html)。しかしてその際そこで日本国の国号が採用された時期を天智朝期の670年とした上で,更に斉明天皇崩御後の中大兄皇子(天智天皇)称制期には何か易姓革命的情況があったのではないかとまでの余計なことを書いてしまったことから,当該称制期間は実際のところどのような時代であったのかがそれ以来ずっと気になっていたところです。

 阪神甲子園球場(阪急阪神甲子園球場ではないのですね。)竣工100周年の令和6年(2024年)の秋もたけなわ🌾,晩酌をすればわが衣手はこぼれた酒🍶にぬれつつ,かねてからの当該課題について様々な思いをめぐらしていたところ,ようやく,この程度にとどまる思い付きであればお目こぼしの寛大に与り得て,歴史専門家及び尊皇家の方々の罵倒を被らずに済む内容であろうと思われるところの下記雑文の偶成を得たところです。要は,一種の辛酉(661年)革命・甲子(664年)革令論に逢着したのでした。

 

  天皇より日本の敗戦に関し,かつて白村江の戦い〔663年〕での敗戦を機に改革が行われ,日本文化発展の転機となった例を挙げ,今後の日本の進むべき道について述べられる。

  (宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)173頁(1946814日条))

                                                                                                    

1 臨時御歴代史実考査委員会による「称制」維持答申(1926年)

宮内庁の『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)中19261020日条に次の記事があります。

 

  〔前略〕これより先,帝室制度審議会において皇統譜令案の再査を行うに当たり,御歴代数その他重要の史実につき,いまだ疑似に渉るものがあり,その解決を待たなければ同案の施行を全うすることができないとして,帝室制度審議会総裁伊東巳代治は,同会総会に諮った上で,史実を明確にするための調査機関特設の議を宮内大臣牧野伸顕に具申した。その建議が採用されて大正13年〔1924年〕37日臨時御歴代史実考査委員会が設置され,翌8日,同会総裁に伊東巳代治が,委員として倉富勇三郎・平沼騏一郎・岡野敬次郎・三上参次・関屋貞三郎・二上兵治・入江貫一・三浦周行・黒板勝美・杉栄三郎・辻善之助・坪井九馬三・和田英松が任じられた。同年421日,宮内大臣牧野伸顕より左の3項が同会に諮問された。

一,神功皇后ヲ皇代ニ列スベキヤ否〔結論は,否〕

    一,長慶天皇ヲ皇代ニ列スベキヤ否〔結論は,肯〕

    一,宣仁門院〔四条天皇(数え十二歳で悪戯中に転んで崩御)の女御〕中和門院〔後陽成天皇の女御・豊臣秀吉の養女〕及明子女王〔後光明天皇と霊元天皇との間の中継ぎの天皇である後西天皇の女御〕ハ其ノ取扱ヲ皇后ト同一ニスベキヤ否〔結論は,否〕

  その他,右の諮問ニ附帯シ,左の8項目にわたり参考として意見が求められた。   

2項略〕

   一,天智天皇持統天皇ノ称制年間ハ御在位中ト見ルベキヤ否

  〔2項略〕

一,天皇御追号中ノ院字ハ之ヲ省クベキヤ否〔肯。院字が省かれて,淳和天皇(西院帝)に倣った後西院帝が後西天皇になってしまっています。〕

    〔2項略〕

    (547-549頁)

 

 現在,宮内庁ウェブページ「天皇系図」を見ると,第37代の斉明天皇の在位期間は「655-61」であるのに対して第38代の天智天皇のそれは「668-71」,第40代の天武天皇の在位期間は「673-86」であるのに対して第41代の持統天皇のそれは「690-7」とされていますから,「天智天皇持統天皇ノ称制年間ハ御在位中ト見ルベキヤ否」については「否」ということになったわけです。

 

2 斉明天皇崩御(661年)後の「天智称制」の理由

天智在位ではなく,天智称制という形が斉明天皇崩御後の当時採られた理由が問題となります。

 

(1)同母兄妹婚禁忌説

当該理由については,第36代の孝徳天皇がその妻である・別居中の間人皇后に送った「金木(かなき)(鉗)つけわが飼ふ駒は引き()せずわが飼ふ駒を人見つらむか」との歌に隠された意味を「だれよりも愛していたお前を他人が奪ってしまったのではないか。お前はわたくしを捨てて他の男のもとに走ったのではないか」と解釈した国文学者の吉永(よしなが)(みのる)関西大学教授孝徳天皇から間人皇后を奪ったその男を同皇后の同父(舒明天皇(第34代))同母(皇極(第35代)=重祚して斉明天皇)の兄である中大兄皇子(後の天智天皇)であるものと判断した上で,中大兄皇子が皇位につくことができずに称制を続けたのはこの許されざる同母兄妹間の内縁関係のせいであったと論じ,直木孝次郎大阪市立大学助教授(当時)の賛同を得ています(直木孝次郎『日本の歴史2 古代国家の成立』(中央公論社・1965年)223-225頁参照)。

 

 〔前略〕同母の兄妹の結婚が古代でもタブーであったことは事実だ。(いん)(ぎょう)天皇の皇太子(かる)皇子が,同母妹の軽大郎女(かるのおおいらつめ)と結婚したために皇太子の地位をうしない,皇位につくことができなかった話は,たんなる伝説かもしれないが記紀に伝えられている。中大兄も間人皇后との結婚を表むきにはできなかった。かれがこののちも長く皇太子のままでいるのはそのためではないか,というのが吉永氏の解釈である。天皇になれば皇后をきめなければならないが,それができないのである。

  その証拠に,中大兄が正式に即位するのは間人皇后がなくなってからではないか,と吉永氏は論ずる。なるほど,間人皇后が死ぬのは665年(天智称制四),天智天皇の正式即位は668年(天智称制七)である〔後記(2説参照〕。いわれてみると,なぜ中大兄は〔645年の乙巳の変から〕23年もの長いあいだ皇太子のままでいたか,という古代史の疑問もとけるのである。

 (直木225頁)

 

 ただし,「同母の兄妹の結婚が古代でもタブーであったことは事実だ。」という点については論者もそう重くは捉えてはいないようです。反論を承けて発展した吉永説においては「さらに一歩つっこんで,日本の古代で同母兄妹が結婚することについてのタブーがあったかどうかも疑問だ,というのです。その証拠として,大祓(おおはらえ)とか,神話のなかに罪が列挙してありますが,そのなかに動物とのいわゆる畜姦だとか,上通下通婚(おやこたわけ)つまり母子相姦とかについてのタブーは書かれているけれども,同母兄妹のタブーは書かれてないんですね。」ということになったそうです(直木・付録(1965211日に大阪グランドホテルで行われた直木孝次郎・司馬遼太郎対談)2頁(直木発言))。「モラルのうえでは問題にならなくて,法律的には問題になるのですか。つまり,ふたりは結婚できないのですか。」との確認的質問(直木・付録2頁(司馬))に対しては,「正式には結婚できないのでしょうね。そして上流貴族のあいだでは中国的な道徳というものが,ぼつぼつ入りかかっているでしょうから,モラルのうえでも好ましくないことだ,というような意識は貴族間にはもう出ていたんじゃないでしょうか。」との回答がされています(直木・付録3頁(直木))。

 あたしというものがありながら,他の女が図々しくあんたの法律上の正妻の地位につくことは許せない,という妹の嫉妬に苦しめられたということでしょうか。束縛の強烈に,愛が醒めることはなかったのでしょうか。なるほど,中大兄皇子は辛抱強い人だったのでしょう。

 

   称制はほかの天皇のばあいにもあるが,中大兄は6年間も称制をつづけるので問題になる。そのおもな理由は,天皇になれば政治をしにくいという点〔後記(2〕にあるのではなく,同母妹の間人皇后との関係にあったことはさきに述べた。そのほかに,〔663年の〕朝鮮〔白村江〕での敗戦のあと始末のため,あるいは敗戦責任のために即位がおくれたということも考えられる。しかし,敗戦後の危険な時期に天皇の位をあけたままにしておくのは,いろいろの意味で宮廷の動揺を深めることになる。北九州にいるのでは即位の手続きをすますことができないかもしれないが,大和へ帰れば,いくら敗戦後の処置に忙しいといっても,即位の式をあげることは不可能ではあるまい。それをしなかったのは,やはりほかに決定的な理由があったからだと思う。

  (直木280頁)

 

文学の鑑賞から男女関係の機微に関する推理の翼を奔放に拡げた上での古代史新解釈の提示であって,古代史研究ってのは自由で楽しそうだな,とつい素人が悪乗りをしたくなる方法論です(だから筆者のような門外漢もこのような思い付きの駄文を草してしまうわけです。)。しかし,現在の学界の常識的評価としては,「この〔吉永〕説は歌謡の字句のみが根拠で,その証明が難しい。」ということになるようです(森公章『天智天皇』(吉川弘文館・2016年)191頁)。

 

(2)七つの説:間人「仲天皇」説等

そこで,天智称制が長く続いた理由として学界ではどのようなものが考えられているかといえば,七つほど説があるようです。

まず,既出の「①白村江戦の敗戦後の防衛体制構築を進めるには,天皇として即位するより,皇太子として自由な立場で強力に政治を行うためとする説」及び「②天智四(665)二月の間人皇女死去,六年二月の斉明と間人の小市岡上(おちのおかのうえの)(みささぎ)への合葬を経て,七年正月に即位するので,間人の存在が障害になっていたと見る説」の両説があります(森188頁参照)。更には,「即位時にもそのような過去を払拭できたとは思われない〔筆者註:換言すれば,そのような過去があっても即位できた〕ので,疑問とせざるを得ない」とされている「③乙巳の変や古人大兄皇子殺害など,中大兄の血塗られた足跡が一因であるとする説(遠山美都男『天智天皇』)」(森189頁参照),伊東巳代治ら臨時御歴代史実考査委員会の仕事を否定する「④二段階即位説,つまり中大兄の称制を否定し,中大兄は斉明崩御時に「(あめの)天下(したしろしめす)(おお)(きみ)として即位し,国内外の諸問題を克服する強力な政治体制の構築・王権強化の課題を果した上で,天智七年(668)正月に「治天下天皇(すめらみこと)」として即位したとする見解〔略〕(河内春人「天智「称制」考」)」(森189-190頁参照),「後継者決定のためにも早く即位した方が有利である」のに何だかおかしい説だねとされる「⑤中大兄は子大友皇子を後継者に考えており(遠山美都男『壬申の乱』),その成長を待っていた(大友は『懐風藻』によると,天武元年〈672〉死去時に二十五歳とある。大化四年〈648〉誕生で,斉明七年には十四歳,天智七年には二十歳)とする説」(森191頁参照)及び⑥「中大兄が長らく即位しなかった理由の一つとして,周囲に皇后たるに相応しい女性王族がいなかったことを考慮してみてはいかがであろうか。〔略〕中大兄の称制の一因としては,この〔天智天皇の皇后となる〕倭姫王の年齢,唯一の皇后候補者の成長を待つという事案が浮上し,斉明七年時点にはまだ婚姻関係はなかったと考えてみたい」との説(森210-211頁)があります(ただし,倭姫王が父の古人大兄皇子死亡の年(大化元年(645年))生まれだとしても斉明七年(661年)には満16歳になりますので,満15年以上であれば皇后に立てられ得るものとする後世の皇室親族令(明治43年皇室令第3号)7条の規定からすると問題はなかったところです。また,中大兄皇子は大化元年に「皇太子」になっているはずなのに,それから16年間,将来の皇后に相応しい皇族女子を娶ることなくぼんやり打ち過ごしていたというのも何だか変ですね。)。

しかして,森公章東洋大学教授は,上記6説中②説に再注目して,いわく。´「間人は正式に即位しなかったとしても,天皇位を代行するような役割を果たし,その記憶が〔間人皇女に係る〕「仲天皇」の呼称に反映されているという理解はどうであろうか(坂本太郎「古代金石文二題」)。斉明崩御時に三十六歳の中大兄が即位しなかったのは,四十歳即位適齢説にはまだ少し若かったこと,そして何よりも斉明女帝-中大兄による権力安定の構造を維持し,白村江戦後の諸課題に取り組むには,間人の存在が必要であったことによるのではないか。」(森196頁),「白村江戦後の諸課題への対応と,中大兄即位までの確実な基盤作り(年齢問題も含めて)の時間を得るために,前皇后である間人を表に立てて,斉明→間人-中大兄の権力構造維持が求められ,「仲天皇」としての間人の存在が不可欠であったと考えてみたい。」と(森197頁)。

間人「天皇」とまではされずに,論者によって間人「仲天皇」にとどめられているのは,「記紀編纂に近接する間人皇女が即位したか否かは,人びとの記憶や事実認識も明白であったと思われるので,なぜ『日本書紀』はそれに触れないのかという大きな問題が残る」からなのでしょう(森195頁)。しかし,これについては,白村江での大敗で終った我が対唐戦争中の天皇は,戦勝国の目から見ると「反乱の首魁」ないしは「第一の戦犯」ということになってしまうし,国内的にも不逞の臣民からは「戦争(敗戦)責任」を追及されるので,当の大唐帝国さまの言語で記される『日本書紀』においては,いなかったことにしよう(ただし,後に天智天皇即位の運びとなったので,その間存在していた統治権の名目は,辛酉年まで前倒しに「天智称制」であったことにして埋めることにしよう),ということにした,というふうに考えることはできないものでしょうか。承久三年(1221年)の太政天皇御謀反の際にも,皇位は空位であったということになっていました(仲恭天皇の在位を認めない場合)。

 

 〔前略〕天武天皇やその周辺においても,「敗軍の将,兵を語らず」であって,この〔対唐〕戦争については多くを語りたくなかったのであろう。あるいは,『日本書紀』が中国の唐王朝をひじょうに強く意識して書かれたことを思えば,この戦争に関して,負け戦を勝ち戦だったというように,あからさまな虚偽を記すわけにもいかず,さりとて戦争自体がなかったことにするわけにもいかなかったのではないかと思われる。

 (遠山美都男『天智と持統』(講談社現代新書・2010年)54-55頁)

 

 ということで,『日本書紀』における省筆を想定して間人天皇即位説を端的に採るとしても,なぜ中大兄が即位できなかったのかというそもそもの問題は残ります。

前記森説では中大兄の年齢問題が云々されていますが,別の箇所では「斉明天皇崩御の際,王族のなかで皇位継承可能な候補者は,中大兄,間人皇女,大海人皇子しかいなかった。いずれも舒明と皇極・斉明の所生子である。〔略〕同世代中の最年長者は中大兄であり,四十歳即位適齢説によっても,充分に即位可能な年齢に近づいており,中大兄即位には障害がなかったと思われる。」と説かれています(森187頁)。実は年齢については問題がなかったようでもあります(ただし,間人皇女の更に弟ということであれば,大海人皇子については年齢問題を認めることも可能であるようです。)。そうであれば,むしろ「中大兄即位までの確実な基盤作り」の必要こそが「仲天皇」が置かれた理由であったということになるのでしょうか。「確実な基盤」をこれから作らなければならないというのならば,「斉明女帝-中大兄による権力安定の構造」なるものは中大兄皇子にとってそもそも存在していなかったのではないでしょうか。

 

3 間人天皇推戴の理由:磐瀬宮派と朝倉宮派と

あるいは,辛酉の年(661年)七月二十四日の斉明天皇崩御時には,筑紫の地に移っていた我が政府内において不協和音があったのかもしれません。

『日本書紀』によればこの年三月二十五日に斉明天皇は娜大津に着いて磐瀬仮宮(福岡市南区三宅に比定されています(『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』(小学館・1998年)242頁註7)。)に入り,五月九日には朝倉(あさくらの)(たちばなの)広庭宮(ひろにわのみや)に遷居しているのですが(同地で崩御),「是の時に,朝倉社(あさくらのやしろ)の木を()(はら)ひて,此の宮を作りし故に,神忿(いか)りて殿(おほとの)(こぼ)つ。(また)宮中(みやのうち)に鬼火を見る。是に由りて,大舎人(おほとねり)(もろもろ)近侍(ちかくはべるひと),病みて死ぬる者(おほし)し」ということになり,更に八月一日に「皇太子(ひつぎのみこ),天皇の(みも)奉徙(うつしまつ)りて,(かへ)りて磐瀬宮に至る。是の(ゆふへ)に,朝倉山の上に,鬼有りて大笠を()て,(みも)(よそほひ)を臨み視る。(ひとびと),皆(あや)()ぶ。」とあって👹,いかにも不穏です。更に興味深い点は,朝倉宮の位置です。福岡県朝倉郡杷木町(現朝倉市)志波のあたりにあったようなのですが,これは簡単に「南方の」(直木264頁)といって済ませるべき場所ではなく,「磐瀬行宮から40キロメートル以上も離れた所」なのです(『古典文学全集4242頁註13)。新羅=唐聯合軍征伐の大本営の場所としては,玄界灘に臨む現在の福岡市内の磐瀬宮が正にふさわしいところ,朝倉宮にあっては内陸に過ぎ,そこで斉明天皇と共にいる人々は遠征作戦の策定・実施から外れていたか,外されていたものと考えるべきもののようです。朝倉宮への遷居は「外敵の襲来を恐れたためか」とも言われていますが(『古典文学全集4242頁註13),こちらから攻めるより先に攻められる心配をするということは,これは,いざ現地に着いたら腰が引けてしまったということでしょう。百済の遺民その他の遠征積極派内においては,弱腰の消極派に対する不信・不満の感情が存在していたことでしょう。

しかして中大兄皇子は,磐瀬宮にではなく,朝倉宮にいたのでした。『日本書紀』には,皇太子が大行天皇の柩を移して磐瀬宮に還ったという前記の記載のほかに,「是の月〔斉明天皇崩御の月〕に,〔略〕皇太子(ひつぎのみこ)長津宮(ながつのみや)〔磐瀬宮〕に(うつ)(おは)しまして,(やくやく)水表(をちかた)軍政(いくさのまつりごと)(きこ)しめす。」との記載があります。「皇太子は長津宮に移り住まれて,しだいに海外の軍政に着手された」(『古典文学全集4250頁。下線は筆者によるもの)ということですから,中大兄皇子は斉明政権の首班として至上の国策たる百済復興救援作戦のため(つと)三月磐瀬宮到着時から直ちに大車輪の陣頭指揮を執っていた,ということではないようです。(なお,『角川新字源』によれば,「稍」には,「しだいに」のみならず「すこし」又は「すこしずつ」という意味があるそうです。)

結果として朝鮮半島に出兵して我が国はひどい目に遭ったということは,当時の政権内では遠征積極派が多かったということでしょうから,当該多数派の支持が得られないということで消極派の中大兄皇子は即位できず,(さりとて消極派もそれなりの勢力があったでしょうから)無難な選択として前々帝の皇后たりし間人皇女が推戴された,という説明は可能でしょうか。この説明を採用すると,「天智天皇が「海外の軍政」(原文は「水表の軍政」)をどのように統括したのか,換言すると,いわゆる百済救援においてどのような戦争指導を行ったかについて,どうしたわけか,『日本書紀』はまったく触れるところがない」(遠山53頁)との疑問に対しては,実際には政権の中枢から外されていて「統括」とか「指導」をしていなかったからだよ,と回答することができるようになります。(例外として,中大兄皇子が百済の王子の豊璋に織冠を授け,多臣蒋敷(おほのおみこもしき)の妹を娶らせ,五千の兵をもって朝鮮に護送させたとの『日本書紀』天智即位前紀九月条の記事が挙げられていますが(遠山53-54頁),「このように,天智天皇が外国の王に冠位をあたえるとは,その王を天皇の臣下とすることを意味した」ものであるところ(遠山54頁),これは,後の天智朝下における百済遺民の我が国受入れの意義付けに資するものとして記載されたのだと解し置くのは便宜主義に過ぎるでしょうか。)

 

4 白村江敗戦(663年)後の間人天皇=大海人大皇弟体制と中大兄皇子の立場と

 

(1)間人天皇=大海人大皇弟体制

間人皇女即位説を採ると,白村江の敗戦の翌年(664年・甲子年)の「春二月の己卯の朔にして丁亥〔九日〕に,天皇(すめらみこと)大皇(ひつぎの)(みこ)(みことのり)して,冠位の階名を増し換ふること,(また)氏上(うちのかみ)民部(かきべ)家部(やかべ)()の事を(のたま)」とある『日本書紀』の記述については,「中大兄皇子が即位するのは天智称制七年〔668年〕正月ゆえ,〔甲子年(664年)の〕ここに「天皇」とあるのは不審」(『古典文学全集4262頁註9)ということにはならず,間人女帝が――先の大戦の敗戦直後に皇族の東久邇宮稔彦王の内閣が成立せしめられたように――大皇弟である大海人皇子を政権の前面に立てて国内の引き締めを図った,と理解することになるのでしょう。しかし,大海人皇子が大皇(ひつぎの)(みこ)であるということになると,中大兄皇子の皇位継承権はどこに行ってしまったのか,ということが問題になります。いろいろあったけれども結局白村江でボロ負けしてしまってあのことは終わったのですから,過去のいきがかりは捨てて,今は挙国一致で頑張りましょう,お兄さん頼りにしていますよろしくね,ということにはならなかったのでしょうか。

 

(2)中大兄皇子の立場

 

ア 出自の問題

ここで不図,前記22)の③説が想起されるところです。「「③乙巳の変や古人大兄皇子殺害など,中大兄の血塗られた足跡💀が一因」となって天智天皇の即位は遅れた,とする説ですが,即位の遅れとの結び付きの有無についてはここではともかくも,確かに,現天皇(皇極天皇)及び前天皇(舒明天皇)との間の長男たるやんごとなき王子様にしては,乙巳の変等における中大兄皇子は働き者に過ぎるなあ,という感想を抱いた者は筆者一人のみでしょうか。

高貴の王子が〇〇〇の鉄砲玉のように自らの手を血で汚すことはあり得ないのではないかという発想からなのでしょう,「近年中村修也氏は,天智天皇は入鹿暗殺の現場にいなかった(入鹿暗殺に手を下してはいない)とする新説を提唱している(『偽りの大化改新』講談社現代新書,2006年)。」とのことです(遠山25頁)。中村説によると「即位のチャンスが十分にあった天智天皇にしてみれば,入鹿暗殺という危ない橋を渡る必要などまったくなく,黙っていてもいずれ即位の順番が回ってきたというのである」ということであって(遠山25頁),更に「中村氏はいう,「大王位に就こうと思っている王子は自分の手を血で穢してはならないのです。/なぜなら,血の穢れの問題があるからです」」と(遠山27頁),ということだそうです。

しかし上記中村説を引っ繰り返して,敢えて自分の手を血で汚すことをもためらわない皇族は,皇位継承から遠い位置にある者なのであるという新命題を設定してみるとどうでしょうか。しかして引っ繰り返しついでに更に別の引っ繰り返しを行って,一部の論者が提唱している天智=天武異父兄弟論(ここでは,天智は舒明・皇極夫婦の子とするが,天武については「母宝皇女〔皇極天皇〕が田村皇子〔舒明天皇〕と結婚する前に高向(たかむこ)(おう)との間に儲けた(あや)皇子(斉明即位前記)に比定する説(大和岩雄『日本書紀成立考』)」(森2頁)を念頭に置いています。)の天智と天武とを入れ替えて,天智は実は舒明天皇の子ではなかったとしたらどうでしょうか。天智の身分が実は低かったことにすると,それはそれで結構辻褄が合う説明ができそうです〔田村皇子(舒明天皇)と宝皇女(皇極=斉明天皇)との「婚姻時期・契機としては,推古三十年(622)の厩戸皇子死去により,〔田村皇子の〕世代の王族に王位継承者としての光があたった時点がふさわし」いとされているところ(森12頁),『本朝皇胤紹運録』によると「天智は推古二十二年(614)降誕」,「大海人皇子(天武天皇)は推古三十一年(623)誕生」になっているそうです(森2頁参照)。〕。(ちなみに,『善光寺縁起』には皇極天皇が地獄に堕ちかけて,本田善佐(善光の子)の口添えで善光寺如来に救われたという話があるそうですが,それよりは罰当たりの程度が低い仮説として御海容ください。)

なお,『日本書紀』斉明天皇七年(661年)十月条には,大行天皇の柩を筑紫から難波に移送するに当たっての「(ここ)皇太子(ひつぎのみこ)一所(あるところ)()てて,天皇を哀慕(しの)ひたてまつりたまひ,(すなは)ち口号して(のたま)はく,

 

  君が目の(こほ)しきからに()てて居てかくや恋ひむも君が目を()

 

とのたまふ。」という記事がありますから,ここまで母子愛のメロドラマを書いた上で実は中大兄皇子は皇極=斉明天皇の子ではありませんでした,ということはないのでしょう。

 

イ 孝徳朝及び斉明朝における位地の問題

母方の(かる)の叔父貴(孝徳天皇)の話に乗って,蘇我入鹿に真っ先に斬りつけ,更に舒明天皇の子である古人大兄皇子を討滅し,働き者として孝徳政権内ではそれなりの位地を得たものの(「それなり」というのは,「大化の改新」を進める「孝徳天皇の部民制全廃に関する諮問に対して,中大兄は必ずしも賛成しておらず,この段階では急進的な改革に反対する「抵抗勢力」であったと位置づけられ」(森274頁),「少なくとも『日本書紀』は,「大化改新」が天智天皇によって主導されたとは描いていない」(遠山37頁)からです。),その叔父貴とも仲たがいして母((たから)の姐さん)の許に帰順て,母,妹(間人皇后弟(大海人皇子らと共に孝徳朝の難波京を敢然退去したものの(白雉四年(653年)),中大兄皇子はその後パッとしない存在であった,ということでよいのではないでしょうか。(なお,皇極=斉明天皇を「宝の姐さん」と称し奉るのは不敬のようですが,明日香の南淵(稲渕)なる飛鳥川のほとりで自ら雨乞いをしたら「即雷大雨。遂雨五日,(あまねく)潤天下。」ということになって,人民こぞって「称万歳曰,至徳天皇」と唱和するに至ったということでありますから(『日本書紀』皇極天皇元年(642年)八月条),呪術的(パワー)満ちた迫力のある女性であったと筆者は考えたいのです。)

『日本書紀』巻第二十六の斉明朝の記事中,偉大なる斉明女帝の崩御の前に「皇太子(ひつぎのみこ)」が出て来るのは,筆者がざっと流し読みをしたところ,2箇所だけでした。謀反の企みがあると蘇我赤兄によって天皇に通報され,天皇の滞在地である紀温泉に護送された有間皇子(孝徳天皇の息子)に対して「於是皇太子親問有間皇子曰,何故謀反。」と尋問したという検察官(procureur de la reine)的仕事をした話(斉明天皇四年(658年)十一月条)と初めて水時計(漏剋)を作った(「又皇太子初造漏剋,使民知時」)という技官的仕事をした話(斉明天皇六年(660年)五月条)とです。なお,この漏剋は十年余お蔵入りであったようで,実際に「民に時を知らし」めたのは,天智天皇になってからのことのようです(『日本書紀』天智天皇十年(671年)四月二十五日条「夏四月丁卯朔辛卯,置漏剋於新台,始打候時。動鍾鼓,始用漏剋。此漏剋者天皇為皇太子時,始親所製造也」)。「現天皇である斉明ではなく,まだ「皇太子」にすぎない天智天皇が「漏剋」を造ったとされたことは,『日本書紀』が天智天皇をすでに天皇同然の存在とみなしていた証しといえよう。」ともいわれていますが(遠山50頁),これは8世紀になってからの『日本書紀』による事後的評価付けの話で,斉明朝期における同時代的評価の話ではないでしょう。

なお,有間皇子事件については,「〔自ら謀反の話を持ちかけておいて,有間皇子がその気になったところで同皇子の身柄を確保して天皇に通報した〕赤兄の謀略は中大兄の指令にもとづくものであろう」といわれてきていました(直木242頁)。しかして,そう解されているがゆえでしょうが,絞殺された有間皇子に連座して塩屋連鯯魚(このしろ)及び舎人新田(にひた)(べの)(むらじ)(こめ)麻呂(まろ)は斬刑,(もりの)(きみ)大石(おほいは)及び坂合部連(さかひべのむらじ)(くすり)はそれぞれ上毛野国及び尾張国に流刑となっていますところ,「守君大石は,〔略〕百済救援の出兵で将軍に起用され,天智四(665)には遣唐使にもなっており,坂合部連薬も壬申の乱で近江方の将として登場するので,彼らはむしろ中大兄とつながる人びとで,蘇我赤兄と同様,有間皇子を謀反に導くために送り込まれたのではないかと考えられる。」と説かれるに至っています(森153頁)。しかし,赤兄は単純にお咎めなし(むしろ褒められたのでしょう。)なのですから,同様に「送り込まれた」諜者であったのなら,守及び坂合部もお咎めなしであった方が自然でしょう。孝徳朝初期の自らの重用されていた時代に懇意になっていた軽の叔父貴派・国際派の守君大石らが有間皇子事件にかかわっていたことを知って驚いた中大兄皇子が,担当「検察官」として,つながりのある人々について苦心の軽め論告求刑を行った,という想像は許されないものでしょうか。(なお,ここで守君大石を孝徳天皇派の国際派であるものと想像したのは,息子の有間皇子とのつながりは父帝とのゆかりによるものであったと考えたとともに,遣唐使になる以上は国際派であるものといわざるを得ないからです。)また,あらかじめ赤兄と共謀していたのなら,懇意の守や坂合部が巻き込まれないように中大兄皇子としては赤兄に注意をしておいて然るべきではないでしょうか。すなわち,筆者としては,中大兄皇子が有間皇子事件の首謀者である,との断言論からはいささかの距離を置かせていただきたいところです(また,現在では,「この〔有間皇子〕事件に関して,『日本書紀』の記述から天智天皇の謀略を読み取ることはできない。」とも説かれています(遠山49頁)。)。

 

5 大唐帝国の干渉下の政権交代(664年)

 

(1)唐使到来から間人天皇の崩御まで

ところでそれでは,甲子年(664年)二月には存在していた間人天皇=大海人大皇弟体制から中大兄皇子執政への政権交代はいつどのように行われたのかということについては,戦勝の大唐帝国からの干渉の介在を,筆者は考えてみたいところです。『日本書紀』天智称制三年(664年)条から四年(665年)条にかけて次のようにあります。

 

  夏五月の戊申の朔にして甲子〔十七日〕に,百済鎮将劉仁願,朝散大夫郭務悰等を(まだ)して,表函(ふみはこ)献物(みつき)とを(たてまつ)

  〔略〕

冬十月の乙亥の朔〔一日〕に,郭務悰等を(たて)(つかは)(みことのり)()りたまふ。是の日に,中臣(うちの)(おみ),沙門智祥を遣して,物を郭務悰に賜ふ。

戊寅〔四日〕に,郭務悰等に(あへ)賜ふ。

〔略〕

十二月の甲戌の朔にして乙酉〔十二日〕に郭務悰等,罷り帰りぬ。

是の月に,(あふ)(みの)国の(まを)さく,〔坂田郡の小竹田(しのだの)(ふびと)()猪槽(ゐかふふね)の水中に突然稲が生え,()はそれを収穫して次第に富を成しました。栗太(くるもと)郡の(いは)(きの)(すぐ)()(おほ)の新婦の寝床に二晩連続して稲が生えるとともに当該新婦が庭に出ると()()が二つ天から落ちて来て,同女がそれを拾って(おほ)に与えたところ,殷はそれ以来富を得るに至りました。〕

  ()の歳に,対馬島・壱岐島・筑紫国等に(さきもり)(とぶひ)とを置く。又,筑紫に大堤(おほつつみ)()き水を貯へ,(なづ)けて水城と()ふ。

  四年の春二月の癸酉の朔にして丁酉〔二十五日〕に,間人大后(おほきさき)(かむさ)りましぬ。

  〔略〕

  三月の癸卯の朔〔一日〕に,間人大后の(みため)に,三百三十人を(いへで)せしむ。

 

 「郭務悰等を(まだ)して,表函(ふみはこ)献物(みつき)とを(たてまつ)。」と枉げて表現されていますが,これは戦勝大国から戦敗の我が国に対して恩恤の下賜品と共に「ポツダム宣言」が突き付けられたということでしょう。(なお,『善隣国宝記』の「海外国記」には,この時日本側は「郭務悰のもたらした牒書を中国皇帝のものではなく,「在百済国大唐行軍摠管」(劉仁願)の私信として受け取りを拒否し,郭務悰たちも私使として追い返そうとしたことが記されている」そうですが,「「海外国記」は天平5年(733)に撰録されたと伝える書物であるため,天平期の対外観で記されていると評するべきである。劉仁願は対日外交を任されており,彼の命令は唐皇帝の命令でもある。まして敗戦国の日本が,戦勝国の前戦将軍の牒書を拒否できる立場にあったとは考えられない。」と,論者に一蹴されています(中村修也「天智朝――敗戦処理政府の実態――」教育学部紀要(文教大学教育学部)第47集(2013年)62頁)。)

 

 日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セサレサルヘカラス(ポツダム宣言6項)

 一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルヘシ(同10項)

 平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ(同12項)

 

間人天皇=大海人大皇弟政権はここに存続不能となります(昭和天皇の皇位保持を認めた米国人の優しさは,大陸(ユー)()半島(シア)的標準からすると例外だったものと解します。)。退位せしめられた間人大后は戦争責任を背負わされ,憂悶のうちに翌年二月に崩御し,「三月には間人のために330人の得度を行ったといい,これは〔後の〕天武不予時の100人よりも多い」(森197頁)――あるいは,当該得度は「前例を見ない大がかりな処置」であった(直木291頁)――ということになりましたが,この大量得度は「間人の死がそれだけ敬意を払われるべきものであったことをうかがわせる」もの(森197頁)であるのみならず,戦争責任を一人で負ってもらったことに対する負い目の感情が生き残った者たちにはあったからだ,と考えることはできないものでしょうか。(なお,『日本書紀』を検すると,朱鳥元年(686年)五月二十四日の天武天皇発病後同年九月九日の崩御までには何度か得度の措置が行われており(七月二十八日に70人,八月一日に80人及び同月二日に100人),これら得度者の合計は100人ではなく250人になるようです。)

 

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1 はじめに

 

 今年(2013年)1031日の赤坂御苑での園遊会以来,天皇に対する請願の可否に関する議論がかまびすしいようです。
 しかしながら,インターネット検索をしてみると,「請願法違反で逮捕か」というような見出しが躍っており,請願法(昭和
22313日法律第13号)の条文に実際に当たらないまま勇ましい議論が先行してしまっていたようです。逮捕というのは刑事訴訟法に基づく犯罪被疑者の逮捕のことでしょうが,請願法には罰則の定めはありません(請願法違反の罪はない。)。したがって,直ちに「請願法違反で逮捕」ということはありません。
 司法試験合格者の増員,裁判員制度の導入等の司法制度改革が進められてきましたが,法はなお国民に身近なものとはなっていないようです。法律イコール国民を縛り,罰するもの,という意識には根強いものがあるようです。せっかく増強された法曹関係者としては,機会あるごとに,法を真に国民のものとすべく,法知識の普及に協力すべきでしょう。


 もちろん,請願法の条文に実際に当たった上での記事も見出すことができます。ただし,いわゆる憲法基本書において日本国憲法16条の請願権及び請願法に関する説明は簡略に済まされている傾向があるせいか,立法経緯に現われた政府見解等までを具体的に踏まえた議論は必ずしも多くはないようです。
 しかしながら,2000年に森内閣がIT革命を唱導して以来,インターネット上での情報提供サービスは充実してきています。国立国会図書館のウェッブサイトからは新旧の法令,帝国議会及び国会の議事録等の資料に容易にアクセスすることができます。国立公文書館のアジア歴史資料センターのウェッブサイトからは,枢密院の会議の議事筆記等にもアクセスすることができます。
 これらの興味深い資料を紹介し,現在の議論に若干なりとも広がりをもたらすことに寄与することは,
IT革命を,日本経済の発展という物的方面においてのみならず,知的方面においても公の議論の充実という形で更に前進させるための,ささやかながらも具体的な一つの実践であり得るものと思われます。


 以上前置きが長くなりました。
 要は本稿は,つい関心の赴くままにしてしまった天皇に対する請願に関する法的問題に係る調査結果を,中途半端かつお節介ながらも,法律業及びIT革命にかかわる一関係者として,「つまらないものですが,御興味があればどうぞ」と皆さんに御提供するものです。
 ただし,無論,現実の問題は複雑微妙であって,在野の一処士が,そのわずかに管見し得たところをもって,すべてについて正確に論じ得る限りではありません。したがって本稿も,何らかの具体的な問題について快刀乱麻を断たんというような大それたことを意図していないことはもちろんです。



2 参考条文

 法令の条文は,ややもすれば非常に読みづらいものです。しかしながら,日常の「法律論」においてあやふやな自説を得々と展開し,議論を
長引かせてしまう人は実は関係条文に丁寧に当たっていなかった,ということはよくある話です。換言すると,長々思案するよりも,さっさと関係条文を見た方が早い場合は少なくありません。

 請願法は全条文を掲げます。請願法には罰則規定は「無い」ということを立証するためには,その全部を見てみなければならないからです。

   
請願法

第1条 請願については,別に法律の定める場合を除いては,この法律の定めるところによる。

第2条 請願は,請願者の氏名(法人の場合はその名称)及び住所(住所のない場合は居所)を記載し,文書でこれをしなければならない。

第3条 請願書は,請願の事項を所管する官公署にこれを提出しなければならない。天皇に対する請願書は,内閣にこれを提出しなければならない。

②請願の事項を所管する官公署が明らかでないときは,請願書は,これを内閣に提出することができる。

第4条 請願書が誤つて前条に規定する官公署以外の官公署に提出されたときは,その官公署は,請願者に正当な官公署を指示し,又は正当な官公署にその請願書を送付しなければならない。

第5条 この法律に適合する請願は,官公署において,これを受理し誠実に処理しなければならない。

第6条 何人も,請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。

    附 則

  この法律は,日本国憲法施行の日194753日〕から,これを施行する。

 請願法の前提として,憲法16条で請願権が保障されています。

   日本国憲法
(昭和21113日公布,昭和2253日施行)(抄) 
第16条 何人も,損害の救済,公務員の罷免,法律,命令又は規則の制定,廃止又は改正その他の事項に関し,平穏に請願する権利を有し,何人も,かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。

 旧大日本帝国憲法においても請願権が認められていました。ただし,文言は異なります。


  大日本帝国憲法
(明治22211日発布,明治231129日発効)(抄)

第30条 日本臣民ハ相当ノ敬礼ヲ守リ別ニ定ムル所ノ規程ニ従ヒ請願ヲ為スコトヲ得


 旧大日本帝国憲法30条の請願権を実質化する同条の「別ニ定ムル所ノ規程」としての旧請願令は,1917年に至って制定されました。現在の請願法の前の法規です。
 天皇等に対する「直訴(直願)の処罰」が,旧請願令
16条に定められていましたが,現行憲法が施行された1947年5月3日から旧請願令は廃止されています(したがって天皇等に対する直願の処罰規定も廃止)。


請願令(大正645日勅令第37号(施行同月25日),昭和2253日政令第4号により同日から廃止。〔 〕は,昭和201124日勅令第654号による改正(同日施行))(抄)

第10条 天皇ニ奉呈スル請願書ハ封皮ニ請願ノ二字ヲ朱書シ内大臣府〔宮内省〕ニ宛テ其ノ他ノ請願書ハ請願ノ事項ニ付職権ヲ有スル官公署ニ宛テ郵便ヲ以テ差出スヘシ

第14条 天皇ニ奉呈スル請願書ハ内大臣〔宮内大臣〕奏聞シ旨ヲ奉シテ之ヲ処理ス

第16条 行幸ノ際沿道又ハ行幸地ニ於テ直願ヲ為サムトシタル者ハ1年以下ノ懲役ニ処ス行啓ノ際沿道又ハ行啓地ニ於テ直願ヲ為サムトシタル者亦同シ


行幸は天皇のお出ましのこと,行啓は現在の警衛規則(昭和5421日国家公安委員会規則第1号)1条によれば皇后,皇太后,皇太子及び皇太子妃のお出ましのことです。
 「行幸ノ際沿道又ハ行幸地ニ於テ」天皇に直願をしようとするものでなければ旧請願令
16条には当たらなかったところです。

「不敬罪」という言葉は現在でも生きていますが,現実の当該罰則規定は,昭和22年法律第124号により19471115日から削除されています。天皇に対する不敬罪に係る削除前の条文は,次のとおりです。


刑法74条1項 天皇,太皇太后,皇太后,皇后,皇太子又は皇太孫ニ対シ不敬ノ行為アリタル者ハ3月以上5年以下ノ懲役ニ処ス


3 天皇に対する請願の可能


日本国憲法4条1項が「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」と規定していることから,請願権に係る憲法16条に関し,天皇に対する請願があり得るのか,そもそもそのような請願に意味があるのかが問題になります。
 これについては,旧大日本帝国憲法の改正案を審議した
1946年の第90回帝国議会において,既に英米法学者である高柳賢三貴族院議員から疑問が呈されていたところです。
 しかしながら,憲法担当の金森徳次郎国務大臣は,「天皇ニ対シテ請願ヲスルト云フコトノ実際的ナ効果ハ非常ニナクナルト申シマスルカ,或ハ絶無ニ近キモノトナルト思ツテ居リ」つつも,天皇に対する請願のあるべきことを力説し,肯定説で当該議論を押し切ったところです。


1946年9月17日貴族院帝国憲法改正案特別委員会


○高柳賢三君 ……天皇ハ国政ニハ干与シナイト云フ建前デアリマスガ,請願ハ総テ国政ニ関スルコトデハナイカ,サウ云フヤウナ点カラ天皇ニ請願ヲスルト云フコトハ出来ナイト云フヤウナ解釈ガ取レナイモノデスカ,其ノ点ヲ御答ヘ願ヒマス

○国務大臣(金森徳次郎君) 天皇ハ第6条,及ビ第7条ニ於テ権能ヲ御持チニナツテ居ルノデアリマシテ,其ノ範囲ニ於テ現レテ来マスル請願ニ付テハ,殊に其ノ範囲ニ於テ天皇ノ御耳ニ達スルコトノ必要ノアルコトニ付テハ,請願ヲ天皇ニ差出スコトハ許サレテ居ルト考ヘテ居リマス,併シナガラ之ガ内容ニ付テノ実行ノ面ニ動ク場合ニ於テハ,総テ内閣ノ助言ト承認ト云フ段階ニ入ツテ行クモノト想ヒマシテ,其ノ点ニ於テ矛盾ナク説明ガ出来ルモノト考ヘマス

○高柳賢三君 大体6条,7条ニ関スルコトハ天皇ノ広イ意味ノ儀礼的ナル御権能デアルヤウニ取レマスガ,請願ノ客体トナルコトハサウ云フコトヂヤナクテ,寧ロ実質的ナ国政ニ関スルコトデ,色々斯ウヤツテ欲シイト云フヤウナコトガ請願ニ関スル大部分ヂヤナイカ,サウ云フヤウナコトハ,矢張リ天皇ガサウ云フコトニ捲込マレルト云フコトハ,ソレハ天皇ノ御地位ト矛盾スルコトニナルノデハナイカ,従ツテ請願ト云フモノハ,大部分ハ陛下ニ対スル請願ト云フモノハナクナルノダ,斯ウ云フ風ニ解釈シテ宜イノデハナイカ,其ノ点ヲ御伺ヒ致シマス

○国務大臣(金森徳次郎君) 大体御説ノ通リ,天皇ニ対シテ請願ヲスルト云フコトノ実際的ナ効果ハ非常ニナクナルト申シマスルカ,或ハ絶無ニ近キモノトナルト思ツテ居リマス,併シ此ノ第6条,第7条ノ天皇ノ権能ハ,勿論大キイ目デ見レバ儀礼的要素ヲ主ニシテ居リマスケレドモ,憲法ノ規定ノ建前ト致シマシテハ,例ヘバ第7条第7号ノ栄典ヲ授与スルコト,ト云フガ如キコトハ,政治的ニ儀礼デアルト云フコトハ固ヨリ正常デアリマスルケレドモ,憲法自身ニ於キマシテハ左様ナ言葉ヲ使ツテハ居リマセヌ,従ツテ請願ノ場面ニ於キマシテモ,ソレト関聯スル程度ニ於テ,観念的ニ請願ハ成リ立ツモノト存ジテ居ル次第デアリマス

○高柳賢三君 其ノ点ハ相当重要ナ,7条ノ解釈トシテモ,例ヘバ栄典ノ授与ノ場合デモ之ヲ決定スルノハ内閣ガスル,実質的ニハ内閣ガスルト云フコトニナルノダト思ヒマスノデ,是等ノコトモサウ云フ見地カラ致シマスレバ,天皇ニ対スル請願ノ問題ハ,天皇ノ御地位ニ非常ニ影響ノアル論点ヲ含ンデ居ルノダト云フコトヲ十分ニ御注意ヲ御願ヒシタイト思ヒマス……

○国務大臣(金森徳次郎) ……天皇ニ関スル請願ノ場合デアリマスルガ,是ハ現行制度ニ於キマシテモ,天皇ニ対スル請願ト云フモノハ存在シテ居リマスケレドモ,併シ是ガ国務大臣ノ輔弼ト云フコトト矛盾シナイヤウニ扱ハレテ居ルト私ハ存ジテ居リマス,寧ロ主タル点ハ形ノ問題デアリマス,今回ノ場合ニ於キマシテモ主タル点ハ形ノ問題デアリマシテ,ドウ云フ風ニナツテ行クカト云フコトヲ今ハツキリハ申上ゲラレマセヌケレドモ,結局サウ云フモノハ,事ノ性質ニ応ジテ内閣ニ移シテ研究ヲセシメラレルト云フノガ筋ニナツテ居リマシテ,天皇自ラ之ヲ御処置ニナルト云フコトハ,其ノ点ハ余程能ク考ヘテ行カナケレバナラヌコトハ御説ノ通リト存ジテ居リマス……(第90回帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員会議事速記録1545頁)


ここで金森大臣がこだわった「形ノ問題」とは何でしょうか。実体においては「内閣ニ移シテ研究」するが,形としては天皇が国民から請願を受けるということにしたいということでしょうか。

確かに,旧大日本帝国憲法30条において臣民から請願を受ける者は,本来的には天皇が想定されていたところです。伊藤博文の『憲法義解』は,同条について次のように説明しています(岩波文庫版61-62頁)。


  請願の権は至尊仁愛の至意に由り言路を開き民情を通る所以なり。孝徳天皇の時に鐘を懸け匱を設け諫言憂訴の道を開きたまひ,中古以後歴代の天皇朝殿に於て百姓の申文を読ませ,大臣納言の輔佐に依り親く之を聴断したまへり……之を史乗に考ふるに,古昔明良の君主は皆言路を洞通し冤屈を伸疏することを力めざるはあらず。……猶臣民請願の権を存し匹夫匹婦疾苦の訴と父老献芹の微衷とをして九重の上に洞達し阻障する所なきを得せしむ。此れ憲法の民権を貴重し民生を愛護し一の遺漏なきを以て終局の目的と為すに由る。而して政事上の徳義是に至て至厚なりと謂ふことを得べし。

  ……

  請願の権は君主に進むるに始まり,而して推広して議院及官衙に呈出するに及ぶ。……


「明良の君主」を戴く国家としては,当然その君主に対する人民の言路を洞通する仕組みが整っていなければ,その形をなさないということでしょう。

この点,旧請願令の制定が,内閣総理大臣以下の政府のイニシャティヴによってではなく,天皇周辺の宮中(帝室制度審議会)のイニシャティヴによってされたことは示唆的です。
 旧「請願令ハ至尊御仁愛ヲ発露スルモノニシテ実ニ治国上重大ナル関係アリ」との位置付けが確認されていたところです(1917328日の枢密院会議における寺内正毅内閣総理大臣の発言)。

あるいは,現行憲法制定時にも,天皇制が存続される以上,「明良の君主」を戴くことに伴う形の一つとして,天皇に対する請願が認められなければならないものと考えられていたのでしょうか。
 しかしながら,その後
1947年の請願法案の国会審議において金森大臣は,上記の点に触れずに,天皇がその国務上の権能を行使するに当たって意思を用いるということから,天皇に対する請願のあるべきことを説明しています。
 いわく,「何故天皇に対して請願が出来るかと云へば,天皇は此の憲法に基きまして国務上の権能を御持になつて居る,既に権能を御持になるとすれば,其処に何等かの形に於て天皇の御意思が働く面があると云ふことの考を持たなければならぬ,……従つて天皇が此の憲法に依つて理論的に御意思を御用ひになる範囲があるものと云ふ解釈を執りますれば矢張り天皇に対して請願の途を設くることが正当であらうと云ふことで考へて居つた訳であります……」(第
92回帝国議会貴族院請願法案特別委員会議事速記録19頁)。

現行の請願法3条1項後段は,天皇に対する請願書は内閣(内閣官房の方であって,内閣府ではない。)に提出すべきことのみを定め,その後の当該請願書の処理がどうされるかは明らかに規定していません。
 これに対して旧請願令
14条は,行き届いた規定になっています。同条の趣旨は,1917年3月19日の枢密院請願令第1回審査委員会で岡野敬次郎帝室制度審議会委員から次のように説明されています。いわく,「受理セラルルモ之ニ対シテ別ニ指令ヲ与ヘサルコトヲ定ルカ故ニ臣民ハ其ノ呈出セル請願書カ如何ニ処理セラレタル乎ヲ知ル由ナキヲ以テ其ノ請願書ハ徒ラニ高閣ニ束ネラルルコトナク夫々相当ニ処理セラルヘキモノナルコトヲ一般ニ公示スル必要アリ……「之ヲ処理ス」ト謂フハ単ニ其ノ事ノ内容ニ依リ之ヲ内閣総理大臣又ハ宮内大臣ニ下付スルノ義ナリ内閣ニ於テ天皇ヨリ下付セラレタル請願書ヲ審査スルハ明カニ内閣官制ノ定ムル所ナリ〔同官制55号参照〕即チ内大臣旨ヲ奉シテ直ニ左右ヲ決定スルノ謂ニ非サルナリ」。
 天皇あての請願書は単に機械的に処理されていたわけではないようで,同じ委員会で,当時の請願処理の統計表を示しながら岡野委員は,「統計表中上奏シテ留置トアルハ思召ニ依リ御手許ニ留置カレタルモノ又上奏ニ至ラスシテ留置トアルハ内大臣府ニ留置カレタルモノナリ今後ト雖上奏後御手許ニ留置カルルモノナキニ非サルヘキモ是レ一ニ思召ニ属ス」と説明しています。

現行請願法3条1項後段の規定に関しては,金森大臣が次のように説明しています。


……内閣は何と考へても経由機関であると云ふことに帰著する訳であります,併し経由機関ではあると申しまするけれども,単純なる経由機関ではなくて是は憲法の規定から考へまして,内閣と天皇とが複雑なる組合せの下に第6条第7条の天皇の権能が行はれて行きまするので,それに合せるやうに内閣に於て処理して行かなければならぬ……此の請願書は天皇に御届けをしなければならぬ,併しながら之に付きまして,内閣が「助言と承認」〔憲法3条〕と云ふ其の字句に当るだけの働きをしなければならぬ……現実に処理されて行きます時も,矢張り内閣の助言と承認を基本としての天皇の御働きに依つて処理せられて行くと云ふやうに考へて居ります,唯それが婉曲な所でありますから,第3条の規定にはあつさりと内閣に提出する,斯う云ふ風に書いて居る訳であります(第92回帝国議会貴族院請願法案特別委員会議事速記録19頁)


4 天皇に対する直願の否定


天皇に対する直訴(正確な法令用語では直願)は不敬罪になったのでしょうか(不敬罪は,前記のとおり,現行憲法施行後の19471115日から廃止)。
 必ずしもそうではなかったようです。
 1917年の旧請願令制定の際刑法旧74条1項に天皇等に対する不敬罪が既に存在していたのに,新たに同令16条は天皇等に対する直願の罪を定め,不敬罪よりも軽く罰するものとしているからです。すなわち,同条の直願の「所為ハ直チニ刑法ニ所謂不敬罪を以テ論シ難キ場合アルヘキ」ものとの認識の下,「サリトテ之ヲ不問ニ附シ難キハ勿論」であることから,直願の罪が定められたものとされているところです(枢密院請願令第1回審査委員会での岡野委員の説明)。不敬罪に当たらない直願はあり得るが,やはり直願は迷惑なので罰しておこう,ということだったのでしょうか。

現行の請願法下における天皇への直願については,金森大臣の次の国会答弁があります。


天皇に対する直訴と云ふ点に付きましては,固より現行の制度〔旧請願令〕に於きまして之を規律致しておりますが,今回の請願法に於きましては,第3条にありまするやうに,「天皇に対する請願書は,内閣にこれを提出しなければならない。」と云ふことになつて居りますから,直訴を致しますれば,此の請願法に於いては適法ならざることは,是は一点の疑はございませぬ,従つて左様な請願と云ふものに付きましては,此の請願法に依る処置をすべき限りでないことは固よりでありまするが,唯行幸の途中を御妨げをしましたり,其の外紛擾を惹き起しまする,斯う云ふものをどう扱うかと云ふことになりますれば,此の請願法はそれに触れて居りませぬ,一般の取締と同じ立場になる訳であります,従つて文書を差出す為に行幸を紊つた場合,其の外の考から行幸を紊りました場合と同じ扱ひにならうと存じて居ります,又現実にそれが如何に処理されて行くかと云ふことは,其の時々の情勢に依りまして,之に当て嵌る一般法規で臨むと云ふ風になります,左様な法規があるかと云ふことに今度はなりまするけれども,其の点は今の処まだはつきりは致して居りませぬ,不敬罪になりますればそれはなりまするし19472月段階では不敬罪はなお存続〕,公務妨害と云ふことになりますればなりまするし,其の外一般的に処置するより外に別段の考を致して居りませぬ(第92回帝国議会貴族院請願法案特別委員会議事速記録13頁)


 請願法の保護を受けない請願として提出された文書の処置は,「一般の法規に従つて解決して行く」ものと考えられており,当該処置は「其の時の自由」であって,「却下するのも宜しいし,持つて居つて其の儘にして置くと云ふのも宜い」ものとされています(第92回帝国議会貴族院請願法案特別委員会議事速記録13頁・金森大臣)。「請願法に依る処置をすべき限りでない」のであるから,同法5条に基づき受理され,誠実に処理されることはないわけです。

 天皇への直願は,憲法16条により保護される「平穏に請願する」ことには当たらないのでしょうか。「単に請願をするのではなくて,之に力,暴力と云ふものを伴つて行」われるものが平穏な請願でないことは明らかです(第92回帝国議会貴族院請願法案特別委員会議事速記録13頁・金森大臣)。そのほか,天皇に対しては,力を伴わないものであっても,直願それ自体がそれだけで平穏ではないことになるのでしょうか。しかしながら,天皇に対する平穏でない直願は不敬罪を犯すものとされ得たものと思われる一方,天皇に対する不敬罪に当たらない直願はあり得るものとされていたところです。

 実は,天皇のみならず,公務員個人に直接請願書を出すことも,請願法に適合しない請願であるとされています。
 請願書を「どこかに出すならば,官公署に出すということが原則で,不思議はないように思いますが,これにも若干の事情がありまして,たとえば外を歩いておる役人に対して,いきなり請願書を出すということは,請願の慎重なる手続に反しますので,まず常識的にそれは官公署に出すべきものであるということ」が定められている(請願法
3条),と金森大臣から説明されています(第92回帝国議会衆議院華族世襲財産法を廃止する法律案委員会議録(速記)第12頁)。官公署とは,いわゆる役所という意味です。
 平穏でないからではなく,「請願の慎重なる手続」に反するので,「外を歩いておる役人に対して,いきなり請願書を出す」ことは請願法の手続には乗らない(受理され,誠実に処理されることはない。)ということのようです。
 金森大臣は続いて,「助言と承認とによつて行動せられます天皇に,直ちに請願書を出すことは不適当でありますし,それかと申しまして現在の〔旧請願令の〕如く内閣抜きに出るということも不合理でありまして,そこで助言と承認の責任を持つております内閣に提出すべきものであるといたしておるわけであります。」と説明していますが(同会議録(速記)
2頁),この説明だけからでは,天皇に対する直願が認められないのは天皇に対する直願は平穏な請願ではないからである,ということにはならないようです。
 「施行法律と云ふものとして書き得る事項は相当に幅のあるもの」であり,「憲法は国民の願を国家に申出ると云ふ所に重点がありますので,其の願を申出る時に,社会の一般の通念に照らしまして妥当と認めらるゝ方法を選ばせると云ふことは,是は施行法律で出来る」ということでしょう(第
92回帝国議会貴族院請願法案特別委員会議事速記録14頁・金森大臣(請願の形式が文書によるものに制限されることについて))。


5 請願者に対する差別待遇の憲法による禁止


憲法16条の「何人も,かかる〔平穏な〕請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。」の意味については,金森大臣は次のように説明しています。


……差別待遇ヲ受ケルト云フコトハ,是ハ沿革的ニ考ヘテ見マシテ,請願ハ国民ノ重大ナル権利デアリマスルケレドモ,併シ請願ハ封建思想ノ強イ時代ニ於キマシテハ,当局者ガ甚ダシク嫌ツタモノデアリマシテ,物語ニ伝ツテ居リマスル佐倉宗五郎ノ事件ト云フノハ,即チ其ノ請願ガ其ノ請願者ノ生命ヲ奪フト云フヤウナ結果ニナツテ居ル,ダカラ請願ヲシタカラトテ,何等不利益ナル取扱ヒヲ受ケナクチヤナラヌ〔ママ〕,刑罰ハ固ヨリ,刑罰デナクテモ,何処カノ処置デ或ル利益ヲ奪ハレタリスルヤウナ不利益ヲ受ケテハナラヌ,斯ウ云フ趣旨デアリマス……(第90回帝国議会衆議院帝国憲法改正案委員会議録(速記)第332頁)


何等の不利益をも受けない」というのですから(第92回帝国議会貴族院請願法案特別委員会議事速記録16頁・金森大臣),1689年の英国の権利章典における請願権の保障よりも手厚いものになっています。英国の権利章典では,国王に対する請願を理由とした拘禁及び訴追が違法であるとされているだけです。
   … 
it is the right of the subjects to petition the king, and all commitments and prosecutions for such petitioning are illegal


 また,国家機関の側は,その「人間ノ弱点」を克服して,請願者に対して寛容であることが求められています。


……併シナガラ請願ヲ受ケルコトニ依ツテ或ル行政部局担任者等ガ自然不利益ナル立場ニ置カルヽコトノアルコトモ亦予想サレマス,例ヘバ自己ノ措置ガ悪カツタト云フコトニ対シテ請願ガアルト云フコトニナリマスト,人間ノ弱点カラ何トナク此ノ請願ニ対シテ不愉快ナル思ヒヲスルト云フ虞ガアル訳デアリマス,其ノ結果ト致シマシテ請願者ニ何等カノ不利益ヲ掛ケルソレガ行政上ノ手加減或ハ取締規定トカ云フモノニ依リマシテ不利益ヲ与フルコトナシト言ヘナイ訳デアリマス,例ヘテ申シマスレバ請願ヲシタ為其ノ人ヲ官庁ニ採用スル時ニハ後廻シニスルト云フヤウナコトガ考ヘラレマス,サウ云フ不届キナ考ヘヲ起スコトハ,予メ憲法ニ於テハツキリ区別シテ置カナケレバナリマセヌ,正キ請願ヲシタ者ニ対シテ,如何ナル関係ニ於テモ差別待遇ヲシテハナラナイト云フ意味ヲ之ニ表ハシテ居ル訳デアリマス(第90回帝国議会衆議院帝国憲法改正案委員会議録(速記)第14254頁・金森大臣)


……不利益ヲ受ケルコトガナイト,斯ウ云フコトニナラウト思ヒマス,例ヘバ官吏ガ請願ヲシタ,而モソレハ仕事ニ関シテ他ノ権限ヲ批評シタト云フヤウナコトガアツタト致シマシテモ,ソレガ為ニ官吏秩序ノ中ニ於テ不利益ヲ受ケルト云フコトガアツテハ相成ラヌノデアリマス……(第90回帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員会議事速記録155頁・金森大臣)


現行請願法の法案の国会審議に当たっても,金森大臣は,「国の側と致しましては,其の請願に対しては出来るだけ深切な態度をとるべきものであるという趣旨を明らかにする」ことが同法の「眼目」の一つであると表明していたところです(第92回帝国議会貴族院請願法案特別委員会議事速記録12頁)。

なお,いわゆる関ヶ原町署名調査事件に係る最近の名古屋高等裁判所平成24年4月27日判決(平22(ネ)1473号・平23(ネ)452号)は,「請願権は,国民の政治参加のための重要な権利であり,請願をしたことにより処罰されたり不利益を課されたり,その他差別を受けることはないとされるべきであり,官公署は請願を受理し,誠実に処理する義務を負う(請願法5条)。官公署において,これを「誠実に」処理するとは,放置したりしてはならないことであり,誠実に処理するという名の下に,将来の請願行為をしにくくすることや請願をした者を萎縮させることが許されないのはいうまでもない。」と判示しています。


6 非国民の請願権


 非国民には請願権は認められないのでしょうか。
 しかし,「外国人でも請願が出来る」と考えられているところです(第
92回帝国議会貴族院請願法案特別委員会議事速記録15頁・金森大臣)。

                                              




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