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1 自由民主党=日本維新の会連立政権の副首都構想

 

(1)「連立政権合意書」及び内閣総理大臣所信表明演説

 20251020日付けの「自由民主党・日本維新の会 連立政権合意書」に,次のようにあります。

 

  11. 統治機構改革

    首都の危機管理機能のバックアップ体制を構築し,首都機能分散及び多極分散型経済圏を形成する観点から,令和7年〔2025年〕臨時国会中に,両党による協議体を設置し,首都及び副首都の責務及び機能を整理した上で,早急に検討を行い,令和8年〔2026年〕通常国会で法案を成立させる。

 

 成立させるものは「法案」にとどまるものではなくて,法律なのでしょう。

いわゆる副首都構想ですね。「バックアップ」といえば重複が含意されているようですが,「機能分散」といえば,単に分解した上で重ならぬように散らし置くのでしょう。分散であって分割ではないのであれば,副首都は2箇所以上あることになるのでしょうか。多極分散型「経済圏」といわれていますが,これは,首都機能は政治的なものにはとどまらず,経済発展をももたらすものであると考えられているのでしょう(首都に集められた国庫の金銭が,政治家ないしはお役人を通じて優先的に同地に大量に漏れ落ちることが期待されているのでしょうか。)。しかし,米国などを見ると,連邦の首都ワシントンDC.はひとまず措くとしても,州都は必ずしもその州の経済の中心にはなっていません(ニュー・ヨーク市,フィラデルフィア市,デトロイト市,シカゴ市,ヒューストン市,ロサンゼルス市,サン・フランシスコ市,シアトル市などはいずれも州都ではありません。)。

自由民主党と日本維新の会との「連立政権」成立後,第219回国会において20251024日に行われた高市早苗内閣総理大臣の所信表明演説では次のようになりました。

 

 首都の危機管理機能のバックアップ体制を構築し,首都機能分散及び多極分散型経済圏を形成する観点から,首都及び副首都の責務と機能に関する検討を急ぎます。

 

(2)日本維新の会の「副首都法案」骨子案並びに大都市法及びいわゆる大阪都構想

 

ア 「副首都法案」骨子案

 高市内閣総理大臣が急ぐと述べた「首都及び副首都の責務と機能に関する検討」の結果はどうなるかについてですが,これについては既に2025930日に日本維新の会が「副首都法案」の骨子案をまとめているところです。当該骨子案はどのようなものかといえば,同日2247分に毎日新聞ウェブサイトに掲載された鈴木拓也及び岡崎英遠両記者による「維新,副首都法案の骨子案まとめる 26年の通常国会で提出の意向」記事によると,副首都の機能は「東京圏と並ぶ経済の中心として経済成長をけん引し,災害時に首都中枢機能を代替」することだそうで,副首都になると「事業の高度化や生産性向上などのための規制緩和国からの税源移譲国税の減免独自の税率設定」といった特例措置が受けられ,副首都の指定は道府県からの申請に基づき内閣総理大臣が行い,その指定のための要件は「大都市法に基づく特別区が設置されている経済活動が活発に行われている東京圏と同じ災害で被害を受ける恐れが少ない」であるそうです。

 

イ 大都市法及びいわゆる大阪都構想

前記の「大都市法」とは,大都市地域における特別区の設置に関する法律(平成24年法律第80号)のことです。同法は「道府県の区域内において関係市町村を廃止し,特別区を設けるための手続」等について定めるもので(同法1条),「特別区を包括する道府県は,地方自治法その他の法令の規定の適用については,法律又はこれに基づく政令に特別の定めがあるものを除くほか,都とみなす」ものとされています(同法10条)。いわゆる大阪都構想における「都」とは何かといえば,大阪市を廃止して特別区を設置し,大阪府が大都市法10条によって「都とみな」されることだったのでした。しかして当該構想に基づく大都市法7条による大阪市(同法にいう関係市町村)における選挙人の投票が2015年及び2020年に行われていますが,いずれも有効投票の過半数の賛成を得ることができず,現在のところいわゆる大阪都構想は実現していません(同法81項参照)。

日本維新の会の今次副首都構想は,副首都となることによる利点を大阪市民に提示しつつ「大都市法に基づく特別区が設置されている」ことをその要件とすることによって,いわゆる大阪都構想の最終的実現を,「三度目の正直」として副首都化と併せて目指すものでもありましょうか。

 

2 天武天皇政権の複都構想

 

(1)天武天皇十二年十二月十七日の詔

 ところで副首都といえば,我が国においては,『日本書紀』天武天皇十二年(西暦683年にほぼ相当)十二月十七日(西暦ではもう684年でしょう)条にある天武天皇の次の詔が想起されるところです。

 

  詔曰,凡都城・宮室非一処。必造両参。故先欲都難波。是以百寮者各往之請家地。

 

およそ都城・宮室は一処ではなく必ず二つ三つ造るものだ,といきなり宣言されていて,「首都の危機管理機能のバックアップ体制を構築し,首都機能分散及び多極分散型経済圏を形成する観点」は丁寧に云々されていません。とはいえ,既に孝徳天皇が大化元年(西暦645年にほぼ相当)十二月九日(西暦ではもう646年でしょう)から白雉五年(西暦654年にほぼ相当)十月まで難波長柄豊碕(なにはのながらのとよさき)に都していたところから(ただし,難波長柄豊碕宮(なにはのながらのとよさきのみや)に同天皇が遷居したのは白雉二年(西暦651年にほぼ相当)十二月末(同月末は,西暦では652年になっています)であって,また,同宮の完成は白雉三年九月のことでした。),副首都の場所については,故にまず難波に都するものとしよう,ということになったのでしょう。大阪を副首都とすることについての先例です。そうであるから百寮の役人は各々該地へ行って宅地を請い受けよ,という点は,首都機能とはすなわちそこに住む中央官庁の役人らであるということの現れでしょう。

 

(2)飛鳥及び難波以外の地における都の構想

「先づ難波」には続きがあって,『日本書紀』の天武天皇十三年(西暦684年にほぼ対応)二月二十八日条には次のようにあります。

 

 遣浄広肆広瀬王・小錦中大伴連安麻呂及判官・録事・陰陽師・工匠等於畿内,令視占応都之地。是日,遣三野王・小錦下采女臣筑羅等於信濃,令看地形。将都是地歟。

 

浄広肆の広瀬(のおほきみ)及び小錦中(せうきむちう)の大伴(のむらじ)安麻呂並びに判官,録事(ふびと),陰陽師,工匠等を畿内に派遣してまさに都すべきの地を視占()させた,というのですから,畿内に,飛鳥及び難波に次ぐ三つ目の都を造る構想があったのでしょう(なお,藤原京に持統天皇が遷居したのは,10年後の持統八年(西暦694年にほぼ相当)の十二月六日(西暦では695年になっています)でした。)。しかして,同日(天武天皇十三年二月二十八日),三野(みの)王,小錦下の采女(うねめ)(のおみ)筑羅(ちくら)等を信濃に派遣して,地形を()しめた,その地に都しようとしたのであろうか,ということですから,あるいは歴史の成行き次第では,畿外の信州にも副都が置かれることになったかもしれません。

信州の副都については「信濃に遷都の地を求めたのは国際関係の緊迫のためか。唐と戦って朝鮮より撃退した新羅の勢力を警戒したからではないか。」と註されています(小島憲之=直木孝次郎=西宮一民=蔵中進=毛利正守校註・訳『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』(小学館・1998年)433頁註21(西宮執筆=小島補訂))。しかし,天武天皇の信州に対する思い入れは,単に温泉付きの別荘(行宮)を造りたいということだったかもしれません。『日本書紀』の天武天皇十四年(西暦685年にほぼ相当)十月十日条に「遣軽部朝臣(たる)()・高田首新家(にひのみ)荒田尾(あらたを)連麻呂於信濃,令造行宮。蓋擬幸束間(つかま)温泉歟。」とあるところです。最後のところで,けだし天皇はそこに幸せむと(おも)ったのではないか,と推測された束間温泉については,「『和名抄』に「信濃筑摩郡,豆加万つかま」。筑摩郡は長野県松本市・塩尻市・東摩郡などの地で,浅間温泉・入山辺温泉などがある。そのどれかであろう。」と註されています(新編日本古典文学全集4451頁註29(西宮=小島))。ただし,天武天皇はその前月不豫となっており,翌年九月には崩御していますから,副都云々以前に純粋に湯治がしたかったのかもしれません。

 

3 旧東京都制等に関して

 

(1)昭和天皇の帝都からの御移動計画に関して

信州といえば,そういえば,先の大戦中に同地で松代大本営の建設工事がされていたのでした。

これに関してでしょうが,1944725日に小磯国昭内閣総理大臣から昭和天皇に対して「帝都からの御移動に関して言上」があったところ(宮内庁『昭和天皇実録 第九』(東京書籍・2016年)401頁),翌26日昭和天皇から木戸幸一内大臣に対して「自身が帝都を離れる時は臣民,殊に都民に不安の念を起こし,敗戦感を懐かしめる恐れがあるため,統帥部において統帥の必要上これを考慮するとしても,できる限り最後まで帝都に留まりたく,時期尚早な実行は決して好まないところであること,なお戦争の推移によっては,あるいは一部に大陸への移動等を考える者もあらんも,あくまで皇大神宮の鎮座するこの神州にあって死守しなければならない旨のお考えを示される。」ということがありました(同402頁)。

なお,ここでの昭和天皇の発言中にある「都民」との語は,前年以来の新語でしょうか。旧東京都制(昭和18年法律第89号)が施行されて東京都が置かれて東京府及び東京市が廃止されたのは(同制180条),194371日からのことでした(同制179条及び昭和18年勅令第503号)。同日「本日より東京都制及び東京都官制が施行される。午前950分,鳳凰ノ間において親任式を行われ,陸軍司政長官大達茂雄を東京都長官に任じられる。」という運びになっています(実録第九132頁)。

 

(2)旧東京都制に関して

 

ア 三つの立法趣旨

東京府及び東京市を廃止して東京都を設ける旧東京都制の立法趣旨は,194333日の貴族院東京都制案特別委員会における湯澤三千男内務大臣の説明によれば3点に帰着します。すなわち「其ノ一ツハ,帝都タル東京ニ真ニ其ノ国家的性格ニ適応致シマシタ確乎タル体制ヲ確立スルコト」,「其ノ2ハ,帝都ニ於ケル所ノ従来ノ府市並存ノ弊ヲ是正解消致シ,帝都一般行政ノ一元的ニシテ強力ナル遂行ヲ期スルコト」,「其ノ3ハ,帝都行政ノ運営ニ付キマシテ根本的刷新ト高度ノ能率化トヲ図ルコト」です(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第21頁)。

なお,旧東京都制の戦時立法性が云為されることがあります。しかし,これについては,「併シナガラ此ノ案ハ申ス迄モナク臨時的ノ戦時立法デハナイノデゴザイマシテ,帝都ノ性格ト帝都行政ノ過去ノ実績トニ深イ考慮ヲ払ッタモノデゴザイマスルカラ,戦後ニ於キマシテモ帝都行政ハ本案ノヤウナ体制ヲ以テ運営シテ行クコトガ必要デアルト考ヘテ居ルト云フノガ政府ノ答弁デゴザイマス」ということになっています(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第23頁(山崎巌政府委員(内務次官)))。

 

イ 府市並存の弊の是正解消

趣旨3点中,まず第2点の府市並存の弊の是正解消は,従来のいわゆる大阪都構想が目的としていたものと同様です。現在の大都市法による関係市町村の廃止及び特別区の設置の手続は,正にこのために用意されているものでしょう。

なお,旧東京都制下の区については,「所謂区ノ自治権ヲ拡張致シ,都ヲ35ノ独立市ニ分割スルト云フコトハ,独リ都民生活ノ実情ニ即セザルノミナラズ,都行政ノ統一ヲ破壊シ,更ニ都民ノ負担ヲ区々ナラシメテ,決シテ適当ナル結果ヲ得ルモノデナイト信」ぜられたことから,「所謂区ノ自治権ニ付キマシテハ概ネ従来ノ制度ニ則」ることとなっていました(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第22頁(湯澤内務大臣))。

 

ウ 帝都の国家的性格に適応した体制の確立

趣旨の第1点については,東京都の「機構ガ全国他地方ノ機構ニ比シテ更ニ一段ト国家的色彩ヲ濃厚ニ致シ,国家トノ間ニ緊密ナル聯繋ヲ保持スベキコトハ当然ノコト」であることから「府知事ト市長トノ職務権限ヲ合セ」る「都ノ首長ハ官吏タルヲ至当トスル」ものとされています(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第22頁(湯澤内務大臣))。

市長の選任については,市会による選挙又は(昭和18年法律第80号による改正後の旧市制(明治44年法律第68号)733項においては)市会の推薦した者に係る勅裁を経ての内務大臣の任命によるものとされていましたが,従来の東京市長の職務権限をも兼ねる新しい東京都長官は,親任官たる官吏として(旧東京都官制(昭和18年勅令第504号)1条),前記大達茂雄の任命がそうであったとおり天皇から任命されることとなりました。また,東京都の区の区長も,書記官たる国の奏任官吏をもって充てられることにされていました(旧東京都官制361項及び1条)。東京都の幹部職員は,公吏ではなく「全部官吏トスルノガ適当デアラウ」と内務省は考えていたところです(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第26頁(山崎政府委員))。

となると現在でも,複都制に係る当該道府県の首都性ないしは副首都性が必要以上に強調されると,国の干与を正当化する「国家的色彩」ないしは「国家トノ間ニ緊密ナル聯繋ヲ保持ス」る必要性が併せて想起され(東京都と国との関係の現状を見ると杞憂かもしれませんが),本来国に対して自治ないしは独立を主張すべき地方公共団体としては痛しかゆしということになるかもしれません。

 

エ 行政運営の根本的刷新及び高度の能率化

以上の第1点と第2点とに係る合わせ技をもって,「又斯様ニ致シマシテ理事機関ノ地位ヲ確立強化スルコトニ依リ,従来東京市政ニ付キマシテ,世上ノ批評ヲ招キタルガ如キ弊風ハ茲ニ一掃セラレ,帝都行政ノ真ノ刷新ト能率化トガ確保セラルコトヲ固ク信スルノデゴザイマス」として,第3の趣旨が達成されるものとされています(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第22頁(湯澤内務大臣))。

「従来東京市政ニ付キマシテ」ですから,弊風及び非能率の問題は東京府ではなく東京市にあり,というのが内務省の認識だったわけです。これについては曽我祐邦子爵委員が,東京市会議員経験者として同市会の弊風を指摘し,「自治ト云フモノニ日本人ハ落第シテ居ル」,「自治ト云フコトニ付テ日本人ガ明カニ落第シタト云フコトヲ知ッタ」,「過去ニ於ケル東京市会ノ如キモノガ存在シテ居ルコトハ,実ニ日本人ノ恥ダ」と切言しています(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第29頁)。しかして「吏僚組織ノ整備ハ,都行政ノ能率化ヲ図ル上ニ於キマシテナカ〔ナカ〕重要ナコトデア」り,「都長官ト云フ官吏ニ依ラザレバ〔東京市における状況の〕抜本塞源的な行政ノ所謂浄化ト申シマスカ,純化ト申シマスルカ,ソレノ企図ガ出来ナイ,又根本的ナ刷新,高度ノ能率化ガ出来ナイ」というのが内務省の考えでした(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第22頁及び11頁(湯澤内務大臣))。弊風自ずと吹きすさぶ人民自治は不純・非能率であって,天皇の優秀な官吏による民本主義的統治をもって代えることが望ましいということでしょう。

『はだしのゲン』における有名人たるかの鮫島伝次郎氏も先の大戦後,東京市ならぬ広島市(日清戦争中の帝国議会召集地にして大本営所在地たりしかつての首都ないしは副都)の市会議員に立候補したわけですが,地方議会議員になりたがるような人の典型が彼なのでしょうか。しかし,現代の進んだ意識の下にある日本国における地方議会の状況は,曽我子爵及び湯澤大臣が嘆いたかつての東京市会とは全く異なったものなのでしょう。

 

4 難波副都のその後

さて話は元に戻って,天武朝の副都であった難波です。残念なことに,そこにおける肝腎の宮殿は,前記天武天皇十二年十二月十七日の詔の2年ほど後にまる焼けになってしまいました。朱鳥元年(西暦686年にほぼ相当)一月十四日に「酉時〔18時頃〕,難波大蔵省失火,宮室悉焚。」ということになっています。そして同年九月九日,複都構想を唱道した天武天皇は崩御します。

その後神亀三年(西暦726年にほぼ相当)十月の庚午の日に聖武天皇が難波で「以式部卿従三位藤原朝臣宇合。為知造難波宮事。」という人事を行っています(『続日本紀』)。難波宮がまた造営されたわけですが(聖武天皇は,天平十六年(西暦744年にほぼ相当)に難波に都しています。),この難波宮の建物は,後に桓武天皇によって長岡京が造営される際に解体して運ばれて新京のために利用されています(長岡遷都は延暦三年(西暦784年にほぼ相当))。「天平宝字六年(762年)四月,安芸国で建造した遣唐使船を難波に廻送しようとしたところ,難波の河口が浅瀬のために座礁するということがあったように,長年にわたる堆積作用で,難波津とそれに付随する難波宮の機能は当時すでに衰えていた。淀川水系に立地する長岡遷都に際して,大和川の河口に位置する難波宮はこうして解体することが決定され,その歴史に幕を閉じることになった。」ということでした(瀧波貞子『桓武天皇――決断する君主』(岩波新書・2023年)88-89頁)。

 

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第1 持統天皇と天武天皇と

 

1 持統天皇による禁制

 『日本書紀』によれば,持統称制三年「十二月の己酉の朔の丙辰〔十二月八日ですので,西暦ではもう690年でしょう。〕双六(すぐろく)禁断(いさめや)む。」とあります。

この「双六」については,小学館の『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』の註(500頁)に「駒と賽で行う室内遊戯。養老「雑律」に「博戯して財物を賭」けるを禁じ,その注に「双六樗蒲,雖不賭即坐」とある。『続紀』天平勝宝六年十月条にも双六禁断の勅が出されたとみえる。」とあります。「樗蒲」は「ちょほ」又は「ちょぼ」と読んで,「一種のばくち」であるとされています(『角川新字源 第123版』(1978年))。養老律の注では「賭け()ると雖も即ち坐す」ということで,賭けなくともそれで遊んだだけで罰せられるということですから,厳しい。なお,博は「すごろく」です(角川新字源)。「賭」の字については,「貝と,音符者シヤ→ト(ねらう意→射セキ)とから成り,財貨をねらって事をする,「かける」意を表わす。」との説明がされています(同)。

(天平勝宝六年十月754年)の孝謙天皇(持統天皇の玄孫)の勅は,「勅すらく。官人百姓,憲法を畏れず,私かに徒衆を聚め,意に任せて双六して,淫迷するに至る。子父に順ふ無く,終に家業を亡ひ,亦孝道を虧く。斯に因て,京畿七道の諸国に仰て,固く禁断せ令めよ。其六位已下は,男女を論ずること無く,決杖一百〔以下略〕」というものでした。)

なお,「賭博」は博戯と賭事とに分かれますが(平成7年法律第91号による改正前の刑法(明治40年法律第45号)185条は「偶然ノ輸贏ニ関シ財物ヲ以テ博戯又ハ賭事ヲ為シタル者ハ50万円以下ノ罰金又ハ科料ニ処ス但一時ノ娯楽ニ供スル物ヲ賭シタル者ハ此限ニ在ラス」と規定していました。現在は「賭博をした者は,50万円以下の罰金又は科料に処する。ただし,一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるときは,この限りでない。」です。),「一般に,行為者自身(又はその代理人)の動作により勝敗が決せられる,賭将棋や賭麻雀が博戯であり,行為者の動作等と無関係に結果が出る場合が賭事であるとされてきた。その限界は必ずしも明確でないが,どちらにせよ同様に処罰されるので厳密に論じる実益に乏しい。」とのことです(前田雅英『刑法各論講義 第4版』(東京大学出版会・2007年)492頁註2)。


双六岳
 北アルプスの双六岳(巻き道を通る横着をしてはなりません。)

 

2 最高裁判所の理解等

「賭博行為は,一面互に自己の財物を自己の好むところに投ずるだけであつて,他人の財産権をその意に反して侵害するものではなく,従つて,一見各人に任かされた自由行為に属し罪悪と称するに足りないようにも見えるが,しかし,他面勤労その他正当な原因に因るのでなく,単なる偶然の事情に因り財物の獲得を僥倖せんと相争うがごときは,国民をして怠惰浪費の弊風を生ぜしめ,健康で文化的な社会の基礎を成す勤労の美風(憲法271〔「すべて国民は,勤労の権利を有し,義務を負ふ。」〕参照)を害するばかりでなく,甚だしきは暴行,脅迫,殺傷,強窃盗その他の副次的犯罪を誘発し又は国民経済の機能に重大な障害を与える恐れすらあるのである。これわが国においては一時の娯楽に供する物を賭した場合の外単なる賭博でもこれを犯罪としその他常習賭博,賭場開張等又は富籖に関する行為を罰する所以であつて,これ等の行為は畢竟公益に関する犯罪中の風俗を害する罪であり(旧刑法第2篇第6章参照),新憲法にいわゆる公共の福祉に反するものといわなければならない。」とは最高裁判所大法廷昭和25年(1950年)1122日判決(刑集4112380頁)における弁護人の上告趣意に対するお説教です。しかして,当該有り難いお説教を踏まえて前記養老律の注(「賭け不ると雖も即ち坐す」)のいわんとすることを忖度すれば――他人の財物の獲得云々以前に――怠惰にゲームばっかりしていて働かない奴は勤労の美風を害してけしからず目障りなのでそれだけでも当罰性があるのだ,ということでしょうか。日がな一日PCを睨んでソリティアばかりして(令和の今でもソリティアでよいのでしょうか?)ちっとも働かない窓際をぢさんらは,当局者の発する「やってる感」をこそ選好する善良な国民の(他人の)「勤労の美風」信仰を愚弄するような存在ではあるものの,見当はずれの余計なことをして彼らの捨扶持(すてぶち)額を超えた積極損害を国民経済にもたらすことはないのだからむしろその方がよいではないか,と考えてはいけないのでしょう。

あるいは博戯のような悪業を奨励すると罰が当たって冥加が尽きるというような心配もなかったものかどうか。

 

3 天武天皇の博戯奨励並びにその不豫及び崩御

『日本書紀』天武天皇十四年九月(西暦では685年)条には「辛酉〔十八日〕に,天皇(すめらみこと)大安(おほあん)殿(どの)(おは)しまして,(おほきみ)(まへつきみ)(たち)を殿の前に()して,博戯せしめたまふ以令博戯()の日に,宮処(みやところの)(おほきみ)・難波王・竹田王・三国真人(とも)(たり)・県犬養宿禰大侶(おほとも)・大伴宿禰御行(みゆき)境部(さかひべの)宿禰石積(いはつみ)(おほの)朝臣(ほむ)()采女(うねめの)朝臣(ちく)()・藤原朝臣大島(おほしま)(すべ)て十人に,御衣(おほみそ)(はかま)を賜ふ。」とあるところ,博戯を奨励してしまった天武天皇(持統天皇の夫)は,6日後の同月二十四日(丁卯)に病気になってしまい(体不豫),「三日〔間〕大官大寺・川原寺・飛鳥寺に誦経せしむ」という騒動になっています(同天皇は,翌年九月九日に崩御。)。やはりばくち(博打)はよろしくありません。

なお,天武天皇がさせたという博戯については,『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』の註(450頁)に「ばくち。当時のその方法については未詳。『史記』巻百二十九・貨殖伝に「博戯ハ悪業也。而シテ桓発之ヲ用ヰテ富ム」。」とあるばかりで,具体的な内容はそこでは不明です。ただし「悪業」だという認識は皆持っていたはずだろう,というのが註釈者の考えなのでしょう。

「日本では,賭博は古くから違法なものと考えられており,妾がそれほど違法と考えられなかった時代においてさえ,賭博は違法とされていたようである。〔大〕判昭和13330日(民集17-578)は,賭博をするための資金を貸す場合のみならず,賭博後の弁済資金を貸すことも,賭博をなすことを容易にするから,公序良俗に反するとした。」(内田貴『民法Ⅰ 総則・物権総論』(東京大学出版会・1994年)234-235頁)といわれる我が醇風美俗の濫觴は,前記持統称制三年の禁制にあるのでしょう。

 なお,天武天皇の妻は,持統天皇一人ではありませんでした。

 

第2 新律綱領と児島惟謙の意見及びナポレオンの刑法典4101項等と

 

1 新律綱領の賭博処罰規定

明治三年十二月二十日(187129日)頒布の新律綱領の巻五の雑犯律の中に賭博処罰に係る次の規定がありました。

 

    賭博

 凡財物ヲ賭シ。博戯ヲ為ス者ハ。皆杖80。賭場ノ財物ハ。官ニ入ル。其賭房ヲ開張スル人ハ。其列ニ与ラスト雖モ。同罪。飲食ヲ賭スル者ハ。論スル(〔こと〕)勿レ。

 若シ産業無クシテ。常ニ腰刀ヲ挟帯シ。無頼ノ徒ヲ招結シ。賭場ヲ開張シ。四鄰ニ横行スル者ハ。皆流一等〔「流一等」は,北海道で役1年〕

 

 「80」なので,明治天皇は,「決杖百」の孝謙女帝よりも優しい。

 新律綱領巻一の名例律上の中の閏刑条によれば,士族・卒の場合,杖80は閉門80日,流は辺戍(北海道で辺疆の戍役に就く)となり,「若シ賊盗。及ヒ賭博等ノ罪ヲ犯シ。廉恥ヲ破ルヿ甚シキ者。笞杖ニ該ルハ。廃シテ庶人ト為スニ止メ。徒以上ハ。仍本刑ヲ加フ。」ということでした。ただし,賭博については,明治五年五月十四日(1872619日)以降「除族」にはせず,「常律ト一体ニ閏刑」が科せられることとなっていたそうです(霞信彦「児島惟謙「賭博罪廃止意見」に関する若干の考察」同『明治初期刑事法の基礎的研究』(慶応義塾大学法学研究会・1990年)132頁参照)。

 

2 児島惟謙の賭博罪廃止意見

ところで,18924月に問題となった司法高官の行った賭博に係る弄花事件(「大審院長児島惟謙をはじめ,同院判事の中定勝,栗塚省吾,加藤祖一,高木豊三,岸本辰雄,亀山貞義らが,日本橋浜町の待合茶屋初音屋などで,しばしば芸妓を交え,花札を使用して金銭をかけ,()くち(●●)をしたという事件で,その風聞が新聞に取り上げられ,大審院をゆるがす大問題となった」もの(大久保泰甫『日本近代法の父 ボワソナアド』(岩波新書・1998年)177-178頁))の中心人物の一人であった児島惟謙は,ある意味一貫性のある人物でした。(なお,弄花事件の「事の発端は,大審院検事磯部四郎が,同僚と雑談中にこれをしゃべったことにあっ」て,「磯部は,問題が大きくなって55日に辞表を出す」に至っています(大久保178頁)。)

 実は児島は,少壮の大坂裁判所司法少判事時代において既に,司法卿(江藤新平)及び同大輔(福岡孝弟)宛てに1873318日付け及び同年418日付けの2件の「伺」を提出し,新律綱領において設けられた賭博罪規定について疑義を呈していたのでした(霞129-131頁)。

318日付けの伺にいわく。

 

 賭博ハ天下ノ制禁ニシテ〔略〕是(〔けだし〕)労セスシテ巨利ヲ(〔ねらひ〕)シコトヲ慮リ遂ニ産業ヲ破リ(ママ)〔賊〕盗ノ階梯タランコトヲ責レハナリ然リ而シテ翻テ之ヲ考ルニ止タ骰子骨牌ヲ用ヒ僅々数銭ヲ賭注スルカ如キ真箇一時ノ遊戯ニシテ彼ノ(ママ)〔黠〕商猾民時価ノ低昂ヲ計リ空(〔たく〕)〔空の袋〕ヲ賄シテ巨利ヲ釣リ一敗直チニ窮民ニ陥ル如キ者ニ比スル時ハ其情状固ヨリ霄壤懸隔ス

 然ルニ其情ノ悪ムヘキ所ノ者〔投機〕ハ従来黙許ニ属シ其諒スヘキ所ノ者〔真箇一時ノ遊戯〕ハ法ニ依リテ科スル亦苛ナラスヤ況ヤ今親ク交際スル所ノ欧亜各洲ニ於テ已ニ之ヲ禁セス故ニ(〔も〕)シ内外人民共ニ謀テ賭注セハ他ノ罪ヲ問フ能ハスシテ特リ我人民ヲ責ム亦至公ノ理ニ近カラサルニ似タリ(ママ)〔冀〕クハ広ク万国ノ法ニ倣ヒ賭博ノ律ヲ廃センコトヲ若シ夫天下ノ成憲遂ニ変更スル能ハスンハ新タニ其軽重ヲ衡スルノ条例ヲ起シ情状的実候様有之度(〔さうらふやうこれありたく〕)此段宜敷(〔よろしく〕)御評議ヲ希候也

 (霞129頁)

 

 児島はヨーロッパの例を引いていますが,確かに,ドイツでは「単純賭博を処罰しない」そうです(前田491頁註1。ただし,当局の許可を得ずに公然と(öffentlich)催される賭博(Glücksspiel)に参加した者が処罰される規定(ドイツ刑法285条)のみがある,ということですから,むしろ「非公然賭博及び当局の許可を得た公然賭博を処罰しない」と言う方が精確でしょう。)。ところが,上記児島伺を撥ねつける187343日の司法省の指令においては「仏律第410条ノ厳ナルヲ見ルヘシ」とあって(霞130頁),フランスでは単純賭博をも処罰していると指摘するもののようです。確かに,当時の箕作麟祥訳のフランス刑法4101項は「賭博場ヲ設ケ人ヲシテ自由ニ入ラシメシ者又ハ賭博場ニ管スル者ニ於テ唱邀ヲ為シ人ヲ入ラシメシ者及ヒ其賭博場ニ於テ賭博ヲ為ス者又ハ法律ニ於テ允許セサル賑給場ヲ設ケシ者及ヒ其場所ノ管当者又ハ其他管照ノ托ヲ得タル者等ハ2月ヨリ少カラス6月ヨリ多カラサル時間禁錮ノ刑ニ処セラレ且100「フランク」ヨリ少カラス6000「フランク」ヨリ多カラサル罰金ノ言渡ヲ受ク可シ」であったそうです(霞136-137頁註5。下線は筆者によるもの)。しかし,箕作訳は精確であったものかどうか。

 

3 ナポレオンの刑法典4101項等

 

(1)ナポレオンの刑法典4101

 1810年のナポレオンの刑法典の第4101項は次のとおりでした。

 

  Ceux qui auront tenu une maison de jeux de hasard, et y auront admis le public, soit librement, soit sur la présentation des intéressés ou affiliés, les banquiers de cette maison, tous ceux qui auront établi ou tenu des loteries non autorisées par la loi, tous administrateurs, préposés ou agents de ces établissements, seront punis d'un emprisonnement de deux mois au moins et de six mois au plus, et d'une amende de cent francs à six mille francs.

 

 拙訳では,次のとおり。

 

  賭場施設を開張し,かつ,自由に,又は関係者若しくは会員の紹介に基づいてそこに公衆を入場せしめた全ての者,当該賭場における胴元,法律によって認められていない富籤を施設し,又は営んだ全ての者,これらの施設の全ての管理者,係員又は仲介者は,2月以上6月以下の懲役及び100フランから6000フランまでの罰金に処せられる。

 

「開張」は,漢和辞典的には「店を開いて商売する」ことです(角川新字源)。我が刑法1862項前段的には「賭博場開張とは,行為者自身が中心となって,その支配下に賭博をさせる場所を開設することである。〔略〕設備のいかんは問わず,また一時的な開設でもよい。」とされています(前田494頁)。ただし,ナポレオンの刑法典4101項のmaisonの場合は,「設備のいかんは問わず」というわけにはいかないのでしょう。

箕作は「賭博ヲ為ス者」と,一般化してしまった表現を採用していますが,banquierはトランプや賭博の「親」又は胴元の意味です(『ロワイヤル仏和中辞典』(旺文社・1985年))。「親」又は胴元相手に賭けをする者はponte(「[ルーレット・バカラで]胴元に対抗して賭ける人」(ロワイヤル仏和中辞典))であるべきところ,banquiersならざるこれらpontesは,本来的には罰せられるべき者ではないのでしょう。(『ロワイヤル仏和中辞典』はまた,banquierに「出資者」の訳語を充てていますが,これは「個人的に,かつ,商業的意図なしに他者に金銭を貸す者」ということですので(Le Nouveau Petit Robert (1993)),ここにおいて処罰されるべき者ではないでしょう。)

ナポレオンの刑法典の第410条は,その第3編「重罪,軽罪及びそれらの刑罰」中第2章「私人に対する(contre les particuliers)重罪及び軽罪」の第2節「財産に対する重罪及び軽罪」の第2款「破産犯罪,詐欺及びその他の不正行為(Banqueroutes, Escroqueries, et autres espèces de Fraude)」中第3目「賭場施設,富籤及び質屋に対する規則違反(Contravention aux Règlements sur les maison de jeu, les loteries, et les maisons de prêt sur gages)」に属するものです。同条の保護法益に係る刑法典中の当該位置付けからすると,同条については,賭場施設の経営者が大数の法則に乗じて哀れなギャンブル中毒者の「財産に対して危険を与えるから処罰するという説明」が可能で,「この賭博罪を一種の財産犯として捉える考え方を徹底すると,自ら財産的損害を被る単純賭博は処罰すべきではない」ということになるようです(前田491頁参照)。スタンダールいわく,“La loterie: duperie certaine et bonheur cherché par des fous.”(富籤。すなわち,確実な騙取の業にして分別を失った者たちによって求められる幸福。)と(Le Nouveau Petit Robert)。

「賑給」は「金品をほどこしあたえる」という意味ですが(角川新字源),箕作の言う賑給場は富籤札を発給する場所ということでしょうか。

 

(2)ナポレオンの刑法典4755

なお,ナポレオンの刑法典は更に,その第4編「違警罪及び刑」中第4755号において,6フラン以上10フラン以下の科料に処せられる者として次の者を掲げていました。

 

 5° Ceux qui auront établi ou tenu dans les rues, chemins, places ou lieux publics, des jeux de loterie ou d'autres jeux de hasard

 五 街頭,路上,広場又は公共の場所において,籤引き又は他の賭博を施設し,又は催した者

 

4101項の賭場施設(maison de jeux de hasard)のようなそれ用の立派な施設におけるものではなくて,屋外で臨時かつ簡易に行なわれるもののようです。

 

当時のフランス刑法に関する詳しい事情を知るには,旧刑法(明治13年太政官布告第36号)の起草に際して表明されたボワソナアド(フランスからの御雇外国人)の見解に当たることが有益でしょう。

 

第3 旧刑法

 

1 条文

旧刑法の第2編「公益ニ関スル重罪軽罪」中第6章「風俗ヲ害スル罪」には,次の諸規定がありました。

 

 第260条 賭場ヲ開張シテ利ヲ図リ又ハ博徒ヲ招結シタル者ハ3月以上1年以下ノ重禁錮ニ処シ10円以上100円以下ノ罰金ヲ附加ス

 第261条 財物ヲ賭シテ現ニ博奕ヲ為シタル者ハ1月以上6月以下ノ重禁錮ニ処シ5円以上50円以下ノ罰金ヲ附加ス其情ヲ知テ房屋ヲ給与シタル者亦同シ但飲食物ヲ賭スル者ハ此限ニ在ラス

  賭博ノ器具財物其現場ニ在ル者ハ之ヲ没収ス

 第262条 財物ヲ醵集シ富籤ヲ以テ利益ヲ僥倖スルノ業ヲ興行シタル者ハ1月以上6月以下ノ重禁錮ニ処シ5円以上50円以下ノ罰金ヲ附加ス

 

また,第4編「違警罪」中4284号は,「路上ニ於テ賭博ニ類スル商業ヲ為シタル者」を1日の拘留又は10銭以上1円以下の科料に処するものとしていました。

 

2 単純賭博罪規定(旧刑法261条)の条文立案作業

旧刑法261条は,単純賭博を罰するものの現行犯罪たるもののみを対象とする点において,単純賭博を単純に処罰する現行刑法185条と異なり,他方pontesも罰せられるのですから,banquiersを罰する建前のナポレオンの刑法典とも異なっています。

 

(1)司法省内案の変遷

ボワソナアドの協力の下に行われた司法省による旧刑法261条の条文立案作業(1876年から1877年まで)におけるその文言の変遷を必要に応じて同法260条のそれと共にたどると次のとおり。

 

 まず,第1案(この段階から,「一般ノ風俗ヲ害シ及ヒ教法ニ対スル不敬ノ罪」の章中にありました。)。

 

 第3条 自己ノ利ヲ得ル為メ賭場ヲ開張シタル者ハ1月ヨリ6月ニ至ル重禁錮20円ヨリ100円ニ至ル罰金ニ処ス

  (『日本刑法草案会議筆記第分冊』(早稲田大学出版部・1977年)1427頁)

4条 賭場ニ於テ現ニ賭博ヲ為ス者ハ2円ヨリ10円ニ至ル罰金ニ処ス

  賭博ニ用ヒタル財物ハ没収ス

  (第分冊1428

 

 第2案(初案)。

 

 第309条 賭場ヲ開張シテ利ヲ図ル者ハ1月以上6月以下ノ重禁錮20円以上100円以下ノ罰金ニ処ス

 第310条 公然財物ヲ賭シテ現ニ博戯ヲ為ス者ハ15日以上3月以下ノ重禁錮10円以上50円以下ノ罰金ニ処シ其財物ハ之ヲ没収ス

  (第分冊1436

 

 第2案の校正第1案(第1稿)。

 

 第 条 自己ノ利ヲ図リ家屋又ハ公ケノ場所ニ於テ賭博ヲ為サシメタル者ハ1月以上6月以下ノ重禁錮10円以上100円以下ノ罰金ニ処ス

 第 条 前条ニ記載シタル場所ニ於テ現ニ賭博ヲ為ス者ハ15日以上3月以下ノ重禁錮5円以上50円以下ノ罰金ニ処ス賭博ニ用ヒタル(ママ)物ハ没収ス

  現ニ飲食物ヲ賭シ又ハ戯ニ賭博ヲ為シタル者ハ本条ノ刑ヲ科サス

  (第Ⅲ分冊1442頁)

 

 第2案校正第1案の第2稿。

 

 第299条 賭場ヲ開張シテ利ヲ図ル者ハ1月以上6月以下ノ重禁錮10円以上100円以下ノ罰金ニ処ス

 第300条 公然財物ヲ賭シテ現ニ博奕ヲ為シタル者ハ15日以上3月以下ノ重禁錮5円以上50円以下ノ罰金ニ処シ且其財物ヲ没収ス但戯ニ飲食物ヲ賭スル者ハ其罪ヲ論セス

  (第分冊1443頁)

 

 18771128日に太政官に上呈された司法省の確定稿(「一般ノ風俗ヲ害シ及ヒ教法ニ対スル不敬ノ罪」の章中にありました。)。

 

 第294条 公然財物ヲ賭シテ現ニ博奕ヲ為シタル者ハ15日以上2月以下ノ重禁錮3円以上30円以下ノ罰金ニ処シ現場ノ器具財物ヲ没収ス但戯ニ飲食物ヲ賭スル者ハ其罪ヲ論セス

  (第分冊1423

 

(2)ボワソナアドのProjet

なお,ボワソナアドのProjet Révisé de Code Pénal pour l’Empire du Japon (1886)には,賭博罪に対応するフランス語条文として次のものが掲げられています。

 

  293.  Sera puni d’un emprisonnement avec travail de 1 à 3 mois et d’une amende de 5 à 50 yens quiconque aura tenu des jeux de hasard dans sa maison ou dans un lieu public, pour en tirer un profit personnel.

294.  Seront punis d’un emprisonnement avec travail de 15 jours à 2 mois et d’une amende de 3 à 30 yens tous individus trouvés en flagrant délit de jeu de hasard, dans les conditions de l’article précédent.

Les enjeux seront confisqués.

Sont exceptés de la présente disposition les jeux de hasard purement gratuits ou portant seulement sur des objets de consommation actuelle et de pur agrément.

  (Boissonade: pp.801-802

 

 拙訳は,次のとおり。

 

  第293条 利益を図って自己の施設又は公の場所で賭博を催す者は,1月から3月までの重禁錮及び5円から50円までの罰金に処せられる。

  第294条 前条に規定する場合において,現に賭博を行っている際発覚した全ての個人は,15日から2月までの重禁錮及び3円から30円までの罰金に処せられる。

    賭けられた物は,没収される。

    この規定は,純粋に無償のものとしてされる賭博又はその場において消費される純粋な娯楽のための物のみが賭けられた賭博については適用されない。

 

(3)司法省確定稿の単純賭博罪規定と旧刑法のそれとの比較

司法省確定稿294条((1)オ)と旧刑法261条とを比較すると(両者の間には太政官の刑法草案審査局の審査及び元老院の審議が介在しています。),刑が重くなっているほか(15日以上2月以下ノ重禁錮1月以上6月以下ノ重禁錮,3円以上30円以下ノ罰金5円以上50円以下ノ罰金),「公然」性要件が落ち,③知情房屋給与者(旧刑法260条の図利賭場開張者とは異なります。)も同罪とされて(これはあるいは,新律綱領における「其賭房ヲ開張スル人ハ〔同人に図利目的は要求されていません。〕。其列ニ与ラスト雖モ。同罪。」の影響でしょうか。),④「戯ニ飲食物ヲ賭スル者」から「戯ニ」が落ちているほか(確かに,新律綱領では「戯ニ」との限定が付されてはいませんでした。),⑤没収対象の器具財物に「賭博ノ」との限定が付されています(なお,現行刑法の賭博(事+戯)とは異なり,旧刑法2612項の「賭博」は,財物をした奕という意味のようでもあります。)。

以下においては,単純賭博は現行犯罪であるもののみが罰されることになった理由及び落とされた公然性要件の意味並びにそもそも単純賭博も罰せられることになったことに係る事情を中心に検討しましょう。

 

3 単純賭博罪に係る現行犯罪性要件の導入に関して

 

(1)ボワソナアドによるナポレオンの刑法典410条運用関連説明

司法省内第1案の第3条に関する鶴田皓との議論の際(21)ア)における次のボワソナアドの発言が注目されます。

 

 然リ〔第3条は〕仏国刑法第410条ノ例ニ傚ヒタル者ナリ尤同条ニハ自ラ賭博ヲ為シタル罪ナケレ𪜈(〔ども〕)元来賭場ヲ開張シタル者ヲ罰スル以上ハ其現ニ自ラ賭博ヲ為シタル者ヲモ罰セサル可カラス仏国ノ実際ニ於テハ或ヒハ然リ之レハ矢張共ニ之ヲ開張シテ賭博ヲ為シタル者ト見做ス故ナリ故ニ日本刑法ニハ其自ラ賭博ヲ為シタル罪ヲ次条ニ置キタリ

 (第分冊1427頁)

 

「或ヒハ然リ」ということでややはっきりしないところがありますが,ナポレオンの刑法典4101項の解釈においては,pontesは不可罰の必要的共犯とはされなかった,ということでしょうか。確かに,同項の罪は賭場施設への公衆の入場を許した時に成立するので,当該入場者(admis)にとどまる限りにおいては不可罰の必要的共犯であるのでしょう。しかしそこから先,banquiersなど相手に賭博を始めて,admisからponteにまでなってしまうと,賭博による当該賭場施設の金儲けに協力する共犯になってしまうということなのでしょう。賭博は一人ではできません。ただし,ボワソナアドは後には「フランス法は単純賭博者(les simples joueurs)を罰することは決して(aucunement)ない,罰するのは賭博の主催者(entrepreneurs de jeux)のみである(第410条及び第4755号)。」と述べてはいます(Boissonade: p.811(d))。

 

(2)単純賭博罪の証拠の性質及びそれに伴う捜査上の問題論等

現行犯罪としての単純賭博のみが罰せられるべきことについて,ボワソナアドはProjetにおいて更に次のように説明しています。

 

   法律が,〔単純賭博の追及のためにはそれが〕現行犯罪であることを要求していることには理由がある。それは,犯罪が現行犯罪であるか否かという状況の違いが道徳的ないしは社会的害悪に変化をもたらすものではないのではあるが,そうなのである。

   というのは,違反行為の終了後における追及を容認することは,真実の発見にとって危険であるように観察されたのである。すなわち,そうすると,極めて一過的な事実であって痕跡を残さないものについての供述証拠を認めざるを得ないことになるが,それについての遅行捜査は,十分な有用性のないものであろうとともに,不愉快なもの(vexatoire)にたやすくなるであろう。他方,法律は,前条においては賭博の主催者〔略〕に対する追及のために現行犯罪性を要求してはいないのである。

  (Boissonade: pp.810-811

 

単純賭博罪の証拠の性質及びそれに伴う捜査上の問題論ですが,ちょっと分かりづらい。

要は,悪いのは専ら賭場の開張者である(ナポレオンの刑法典4101項参照),単純賭博者は賭場開張者捜査の際たまたまそこに居合わせて現行犯罪を行っていたものならば仕方がないが,本来それとして捜査の対象とすべきものではない,という趣旨でしょうか。賭博に対して峻厳な持統天皇以来の日本の伝統に従って単純賭博を処罰しようとしつつ,他方単純賭博に寛容なフランス法的伝統と折り合いをつけようとしたがゆえの苦心のacrobaticsでしょうか。

「ローマの十二表法では盗罪を現行犯(furtum manifestum)と非現行盗(furtum nec manifestum)とに分ち,前者の刑は後者の刑よりも重かつたことは有名な事実である」ところ(小野清一郎『刑事訴訟法講義 全訂第三版』(有斐閣・1933年)263頁),「古代に於て現行犯が特別の取扱を受けたことは,主として犯罪の新しい印象と之によつて惹起された道義的感情の興奮とによって説明される」(同265頁)ないしは「古代には憤怒が制裁の尺度であつた」(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)225頁)というような興奮・憤怒の大小による説明は,旧刑法261条については「犯罪が現行犯罪であるか否かという状況の違いが道徳的ないしは社会的害悪に変化をもたらすものではない」以上,ボワソナアドは採用していません。

なお,現行犯罪(infraction flagrant)とは,「現ニ行ヒ又ハ現ニ行ヒ終リタル際ニ発覚シタル罪ヲ謂」います(治罪法(明治13年太政官布告第37号)100条)。この治罪法時代の現行犯罪については,「犯行中に確認されればそこで「現行犯」という身分が生じ,それが後までついてまわった。いわば身分的・実体法的概念だったといえる。」とされています(田宮裕『刑事訴訟法(新版)』(有斐閣・1996年)77頁)。

 

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  秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ

 

 筆者はかつて日本国憲法研究の一環として,日本国の国号の由来について調べものをしたことがあります(「第22回サッカー・ワールド・カップ大会開催の年,倭国2682年又は日本国1353年の建国記念の日にちなんで」(2022211日)https://donttreadonme.blog.jp/archives/1079413301.html)。しかしてその際そこで日本国の国号が採用された時期を天智朝期の670年とした上で,更に斉明天皇崩御後の中大兄皇子(天智天皇)称制期には何か易姓革命的情況があったのではないかとまでの余計なことを書いてしまったことから,当該称制期間は実際のところどのような時代であったのかがそれ以来ずっと気になっていたところです。

 阪神甲子園球場(阪急阪神甲子園球場ではないのですね。)竣工100周年の令和6年(2024年)の秋もたけなわ🌾,晩酌をすればわが衣手はこぼれた酒🍶にぬれつつ,かねてからの当該課題について様々な思いをめぐらしていたところ,ようやく,この程度にとどまる思い付きであればお目こぼしの寛大に与り得て,歴史専門家及び尊皇家の方々の罵倒を被らずに済む内容であろうと思われるところの下記雑文の偶成を得たところです。要は,一種の辛酉(661年)革命・甲子(664年)革令論に逢着したのでした。

 

  天皇より日本の敗戦に関し,かつて白村江の戦い〔663年〕での敗戦を機に改革が行われ,日本文化発展の転機となった例を挙げ,今後の日本の進むべき道について述べられる。

  (宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)173頁(1946814日条))

                                                                                                    

1 臨時御歴代史実考査委員会による「称制」維持答申(1926年)

宮内庁の『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)中19261020日条に次の記事があります。

 

  〔前略〕これより先,帝室制度審議会において皇統譜令案の再査を行うに当たり,御歴代数その他重要の史実につき,いまだ疑似に渉るものがあり,その解決を待たなければ同案の施行を全うすることができないとして,帝室制度審議会総裁伊東巳代治は,同会総会に諮った上で,史実を明確にするための調査機関特設の議を宮内大臣牧野伸顕に具申した。その建議が採用されて大正13年〔1924年〕37日臨時御歴代史実考査委員会が設置され,翌8日,同会総裁に伊東巳代治が,委員として倉富勇三郎・平沼騏一郎・岡野敬次郎・三上参次・関屋貞三郎・二上兵治・入江貫一・三浦周行・黒板勝美・杉栄三郎・辻善之助・坪井九馬三・和田英松が任じられた。同年421日,宮内大臣牧野伸顕より左の3項が同会に諮問された。

一,神功皇后ヲ皇代ニ列スベキヤ否〔結論は,否〕

    一,長慶天皇ヲ皇代ニ列スベキヤ否〔結論は,肯〕

    一,宣仁門院〔四条天皇(数え十二歳で悪戯中に転んで崩御)の女御〕中和門院〔後陽成天皇の女御・豊臣秀吉の養女〕及明子女王〔後光明天皇と霊元天皇との間の中継ぎの天皇である後西天皇の女御〕ハ其ノ取扱ヲ皇后ト同一ニスベキヤ否〔結論は,否〕

  その他,右の諮問ニ附帯シ,左の8項目にわたり参考として意見が求められた。   

2項略〕

   一,天智天皇持統天皇ノ称制年間ハ御在位中ト見ルベキヤ否

  〔2項略〕

一,天皇御追号中ノ院字ハ之ヲ省クベキヤ否〔肯。院字が省かれて,淳和天皇(西院帝)に倣った後西院帝が後西天皇になってしまっています。〕

    〔2項略〕

    (547-549頁)

 

 現在,宮内庁ウェブページ「天皇系図」を見ると,第37代の斉明天皇の在位期間は「655-61」であるのに対して第38代の天智天皇のそれは「668-71」,第40代の天武天皇の在位期間は「673-86」であるのに対して第41代の持統天皇のそれは「690-7」とされていますから,「天智天皇持統天皇ノ称制年間ハ御在位中ト見ルベキヤ否」については「否」ということになったわけです。

 

2 斉明天皇崩御(661年)後の「天智称制」の理由

天智在位ではなく,天智称制という形が斉明天皇崩御後の当時採られた理由が問題となります。

 

(1)同母兄妹婚禁忌説

当該理由については,第36代の孝徳天皇がその妻である・別居中の間人皇后に送った「金木(かなき)(鉗)つけわが飼ふ駒は引き()せずわが飼ふ駒を人見つらむか」との歌に隠された意味を「だれよりも愛していたお前を他人が奪ってしまったのではないか。お前はわたくしを捨てて他の男のもとに走ったのではないか」と解釈した国文学者の吉永(よしなが)(みのる)関西大学教授孝徳天皇から間人皇后を奪ったその男を同皇后の同父(舒明天皇(第34代))同母(皇極(第35代)=重祚して斉明天皇)の兄である中大兄皇子(後の天智天皇)であるものと判断した上で,中大兄皇子が皇位につくことができずに称制を続けたのはこの許されざる同母兄妹間の内縁関係のせいであったと論じ,直木孝次郎大阪市立大学助教授(当時)の賛同を得ています(直木孝次郎『日本の歴史2 古代国家の成立』(中央公論社・1965年)223-225頁参照)。

 

 〔前略〕同母の兄妹の結婚が古代でもタブーであったことは事実だ。(いん)(ぎょう)天皇の皇太子(かる)皇子が,同母妹の軽大郎女(かるのおおいらつめ)と結婚したために皇太子の地位をうしない,皇位につくことができなかった話は,たんなる伝説かもしれないが記紀に伝えられている。中大兄も間人皇后との結婚を表むきにはできなかった。かれがこののちも長く皇太子のままでいるのはそのためではないか,というのが吉永氏の解釈である。天皇になれば皇后をきめなければならないが,それができないのである。

  その証拠に,中大兄が正式に即位するのは間人皇后がなくなってからではないか,と吉永氏は論ずる。なるほど,間人皇后が死ぬのは665年(天智称制四),天智天皇の正式即位は668年(天智称制七)である〔後記(2説参照〕。いわれてみると,なぜ中大兄は〔645年の乙巳の変から〕23年もの長いあいだ皇太子のままでいたか,という古代史の疑問もとけるのである。

 (直木225頁)

 

 ただし,「同母の兄妹の結婚が古代でもタブーであったことは事実だ。」という点については論者もそう重くは捉えてはいないようです。反論を承けて発展した吉永説においては「さらに一歩つっこんで,日本の古代で同母兄妹が結婚することについてのタブーがあったかどうかも疑問だ,というのです。その証拠として,大祓(おおはらえ)とか,神話のなかに罪が列挙してありますが,そのなかに動物とのいわゆる畜姦だとか,上通下通婚(おやこたわけ)つまり母子相姦とかについてのタブーは書かれているけれども,同母兄妹のタブーは書かれてないんですね。」ということになったそうです(直木・付録(1965211日に大阪グランドホテルで行われた直木孝次郎・司馬遼太郎対談)2頁(直木発言))。「モラルのうえでは問題にならなくて,法律的には問題になるのですか。つまり,ふたりは結婚できないのですか。」との確認的質問(直木・付録2頁(司馬))に対しては,「正式には結婚できないのでしょうね。そして上流貴族のあいだでは中国的な道徳というものが,ぼつぼつ入りかかっているでしょうから,モラルのうえでも好ましくないことだ,というような意識は貴族間にはもう出ていたんじゃないでしょうか。」との回答がされています(直木・付録3頁(直木))。

 あたしというものがありながら,他の女が図々しくあんたの法律上の正妻の地位につくことは許せない,という妹の嫉妬に苦しめられたということでしょうか。束縛の強烈に,愛が醒めることはなかったのでしょうか。なるほど,中大兄皇子は辛抱強い人だったのでしょう。

 

   称制はほかの天皇のばあいにもあるが,中大兄は6年間も称制をつづけるので問題になる。そのおもな理由は,天皇になれば政治をしにくいという点〔後記(2〕にあるのではなく,同母妹の間人皇后との関係にあったことはさきに述べた。そのほかに,〔663年の〕朝鮮〔白村江〕での敗戦のあと始末のため,あるいは敗戦責任のために即位がおくれたということも考えられる。しかし,敗戦後の危険な時期に天皇の位をあけたままにしておくのは,いろいろの意味で宮廷の動揺を深めることになる。北九州にいるのでは即位の手続きをすますことができないかもしれないが,大和へ帰れば,いくら敗戦後の処置に忙しいといっても,即位の式をあげることは不可能ではあるまい。それをしなかったのは,やはりほかに決定的な理由があったからだと思う。

  (直木280頁)

 

文学の鑑賞から男女関係の機微に関する推理の翼を奔放に拡げた上での古代史新解釈の提示であって,古代史研究ってのは自由で楽しそうだな,とつい素人が悪乗りをしたくなる方法論です(だから筆者のような門外漢もこのような思い付きの駄文を草してしまうわけです。)。しかし,現在の学界の常識的評価としては,「この〔吉永〕説は歌謡の字句のみが根拠で,その証明が難しい。」ということになるようです(森公章『天智天皇』(吉川弘文館・2016年)191頁)。

 

(2)七つの説:間人「仲天皇」説等

そこで,天智称制が長く続いた理由として学界ではどのようなものが考えられているかといえば,七つほど説があるようです。

まず,既出の「①白村江戦の敗戦後の防衛体制構築を進めるには,天皇として即位するより,皇太子として自由な立場で強力に政治を行うためとする説」及び「②天智四(665)二月の間人皇女死去,六年二月の斉明と間人の小市岡上(おちのおかのうえの)(みささぎ)への合葬を経て,七年正月に即位するので,間人の存在が障害になっていたと見る説」の両説があります(森188頁参照)。更には,「即位時にもそのような過去を払拭できたとは思われない〔筆者註:換言すれば,そのような過去があっても即位できた〕ので,疑問とせざるを得ない」とされている「③乙巳の変や古人大兄皇子殺害など,中大兄の血塗られた足跡が一因であるとする説(遠山美都男『天智天皇』)」(森189頁参照),伊東巳代治ら臨時御歴代史実考査委員会の仕事を否定する「④二段階即位説,つまり中大兄の称制を否定し,中大兄は斉明崩御時に「(あめの)天下(したしろしめす)(おお)(きみ)として即位し,国内外の諸問題を克服する強力な政治体制の構築・王権強化の課題を果した上で,天智七年(668)正月に「治天下天皇(すめらみこと)」として即位したとする見解〔略〕(河内春人「天智「称制」考」)」(森189-190頁参照),「後継者決定のためにも早く即位した方が有利である」のに何だかおかしい説だねとされる「⑤中大兄は子大友皇子を後継者に考えており(遠山美都男『壬申の乱』),その成長を待っていた(大友は『懐風藻』によると,天武元年〈672〉死去時に二十五歳とある。大化四年〈648〉誕生で,斉明七年には十四歳,天智七年には二十歳)とする説」(森191頁参照)及び⑥「中大兄が長らく即位しなかった理由の一つとして,周囲に皇后たるに相応しい女性王族がいなかったことを考慮してみてはいかがであろうか。〔略〕中大兄の称制の一因としては,この〔天智天皇の皇后となる〕倭姫王の年齢,唯一の皇后候補者の成長を待つという事案が浮上し,斉明七年時点にはまだ婚姻関係はなかったと考えてみたい」との説(森210-211頁)があります(ただし,倭姫王が父の古人大兄皇子死亡の年(大化元年(645年))生まれだとしても斉明七年(661年)には満16歳になりますので,満15年以上であれば皇后に立てられ得るものとする後世の皇室親族令(明治43年皇室令第3号)7条の規定からすると問題はなかったところです。また,中大兄皇子は大化元年に「皇太子」になっているはずなのに,それから16年間,将来の皇后に相応しい皇族女子を娶ることなくぼんやり打ち過ごしていたというのも何だか変ですね。)。

しかして,森公章東洋大学教授は,上記6説中②説に再注目して,いわく。´「間人は正式に即位しなかったとしても,天皇位を代行するような役割を果たし,その記憶が〔間人皇女に係る〕「仲天皇」の呼称に反映されているという理解はどうであろうか(坂本太郎「古代金石文二題」)。斉明崩御時に三十六歳の中大兄が即位しなかったのは,四十歳即位適齢説にはまだ少し若かったこと,そして何よりも斉明女帝-中大兄による権力安定の構造を維持し,白村江戦後の諸課題に取り組むには,間人の存在が必要であったことによるのではないか。」(森196頁),「白村江戦後の諸課題への対応と,中大兄即位までの確実な基盤作り(年齢問題も含めて)の時間を得るために,前皇后である間人を表に立てて,斉明→間人-中大兄の権力構造維持が求められ,「仲天皇」としての間人の存在が不可欠であったと考えてみたい。」と(森197頁)。

間人「天皇」とまではされずに,論者によって間人「仲天皇」にとどめられているのは,「記紀編纂に近接する間人皇女が即位したか否かは,人びとの記憶や事実認識も明白であったと思われるので,なぜ『日本書紀』はそれに触れないのかという大きな問題が残る」からなのでしょう(森195頁)。しかし,これについては,白村江での大敗で終った我が対唐戦争中の天皇は,戦勝国の目から見ると「反乱の首魁」ないしは「第一の戦犯」ということになってしまうし,国内的にも不逞の臣民からは「戦争(敗戦)責任」を追及されるので,当の大唐帝国さまの言語で記される『日本書紀』においては,いなかったことにしよう(ただし,後に天智天皇即位の運びとなったので,その間存在していた統治権の名目は,辛酉年まで前倒しに「天智称制」であったことにして埋めることにしよう),ということにした,というふうに考えることはできないものでしょうか。承久三年(1221年)の太政天皇御謀反の際にも,皇位は空位であったということになっていました(仲恭天皇の在位を認めない場合)。

 

 〔前略〕天武天皇やその周辺においても,「敗軍の将,兵を語らず」であって,この〔対唐〕戦争については多くを語りたくなかったのであろう。あるいは,『日本書紀』が中国の唐王朝をひじょうに強く意識して書かれたことを思えば,この戦争に関して,負け戦を勝ち戦だったというように,あからさまな虚偽を記すわけにもいかず,さりとて戦争自体がなかったことにするわけにもいかなかったのではないかと思われる。

 (遠山美都男『天智と持統』(講談社現代新書・2010年)54-55頁)

 

 ということで,『日本書紀』における省筆を想定して間人天皇即位説を端的に採るとしても,なぜ中大兄が即位できなかったのかというそもそもの問題は残ります。

前記森説では中大兄の年齢問題が云々されていますが,別の箇所では「斉明天皇崩御の際,王族のなかで皇位継承可能な候補者は,中大兄,間人皇女,大海人皇子しかいなかった。いずれも舒明と皇極・斉明の所生子である。〔略〕同世代中の最年長者は中大兄であり,四十歳即位適齢説によっても,充分に即位可能な年齢に近づいており,中大兄即位には障害がなかったと思われる。」と説かれています(森187頁)。実は年齢については問題がなかったようでもあります(ただし,間人皇女の更に弟ということであれば,大海人皇子については年齢問題を認めることも可能であるようです。)。そうであれば,むしろ「中大兄即位までの確実な基盤作り」の必要こそが「仲天皇」が置かれた理由であったということになるのでしょうか。「確実な基盤」をこれから作らなければならないというのならば,「斉明女帝-中大兄による権力安定の構造」なるものは中大兄皇子にとってそもそも存在していなかったのではないでしょうか。

 

3 間人天皇推戴の理由:磐瀬宮派と朝倉宮派と

あるいは,辛酉の年(661年)七月二十四日の斉明天皇崩御時には,筑紫の地に移っていた我が政府内において不協和音があったのかもしれません。

『日本書紀』によればこの年三月二十五日に斉明天皇は娜大津に着いて磐瀬仮宮(福岡市南区三宅に比定されています(『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』(小学館・1998年)242頁註7)。)に入り,五月九日には朝倉(あさくらの)(たちばなの)広庭宮(ひろにわのみや)に遷居しているのですが(同地で崩御),「是の時に,朝倉社(あさくらのやしろ)の木を()(はら)ひて,此の宮を作りし故に,神忿(いか)りて殿(おほとの)(こぼ)つ。(また)宮中(みやのうち)に鬼火を見る。是に由りて,大舎人(おほとねり)(もろもろ)近侍(ちかくはべるひと),病みて死ぬる者(おほし)し」ということになり,更に八月一日に「皇太子(ひつぎのみこ),天皇の(みも)奉徙(うつしまつ)りて,(かへ)りて磐瀬宮に至る。是の(ゆふへ)に,朝倉山の上に,鬼有りて大笠を()て,(みも)(よそほひ)を臨み視る。(ひとびと),皆(あや)()ぶ。」とあって👹,いかにも不穏です。更に興味深い点は,朝倉宮の位置です。福岡県朝倉郡杷木町(現朝倉市)志波のあたりにあったようなのですが,これは簡単に「南方の」(直木264頁)といって済ませるべき場所ではなく,「磐瀬行宮から40キロメートル以上も離れた所」なのです(『古典文学全集4242頁註13)。新羅=唐聯合軍征伐の大本営の場所としては,玄界灘に臨む現在の福岡市内の磐瀬宮が正にふさわしいところ,朝倉宮にあっては内陸に過ぎ,そこで斉明天皇と共にいる人々は遠征作戦の策定・実施から外れていたか,外されていたものと考えるべきもののようです。朝倉宮への遷居は「外敵の襲来を恐れたためか」とも言われていますが(『古典文学全集4242頁註13),こちらから攻めるより先に攻められる心配をするということは,これは,いざ現地に着いたら腰が引けてしまったということでしょう。百済の遺民その他の遠征積極派内においては,弱腰の消極派に対する不信・不満の感情が存在していたことでしょう。

しかして中大兄皇子は,磐瀬宮にではなく,朝倉宮にいたのでした。『日本書紀』には,皇太子が大行天皇の柩を移して磐瀬宮に還ったという前記の記載のほかに,「是の月〔斉明天皇崩御の月〕に,〔略〕皇太子(ひつぎのみこ)長津宮(ながつのみや)〔磐瀬宮〕に(うつ)(おは)しまして,(やくやく)水表(をちかた)軍政(いくさのまつりごと)(きこ)しめす。」との記載があります。「皇太子は長津宮に移り住まれて,しだいに海外の軍政に着手された」(『古典文学全集4250頁。下線は筆者によるもの)ということですから,中大兄皇子は斉明政権の首班として至上の国策たる百済復興救援作戦のため(つと)三月磐瀬宮到着時から直ちに大車輪の陣頭指揮を執っていた,ということではないようです。(なお,『角川新字源』によれば,「稍」には,「しだいに」のみならず「すこし」又は「すこしずつ」という意味があるそうです。)

結果として朝鮮半島に出兵して我が国はひどい目に遭ったということは,当時の政権内では遠征積極派が多かったということでしょうから,当該多数派の支持が得られないということで消極派の中大兄皇子は即位できず,(さりとて消極派もそれなりの勢力があったでしょうから)無難な選択として前々帝の皇后たりし間人皇女が推戴された,という説明は可能でしょうか。この説明を採用すると,「天智天皇が「海外の軍政」(原文は「水表の軍政」)をどのように統括したのか,換言すると,いわゆる百済救援においてどのような戦争指導を行ったかについて,どうしたわけか,『日本書紀』はまったく触れるところがない」(遠山53頁)との疑問に対しては,実際には政権の中枢から外されていて「統括」とか「指導」をしていなかったからだよ,と回答することができるようになります。(例外として,中大兄皇子が百済の王子の豊璋に織冠を授け,多臣蒋敷(おほのおみこもしき)の妹を娶らせ,五千の兵をもって朝鮮に護送させたとの『日本書紀』天智即位前紀九月条の記事が挙げられていますが(遠山53-54頁),「このように,天智天皇が外国の王に冠位をあたえるとは,その王を天皇の臣下とすることを意味した」ものであるところ(遠山54頁),これは,後の天智朝下における百済遺民の我が国受入れの意義付けに資するものとして記載されたのだと解し置くのは便宜主義に過ぎるでしょうか。)

 

4 白村江敗戦(663年)後の間人天皇=大海人大皇弟体制と中大兄皇子の立場と

 

(1)間人天皇=大海人大皇弟体制

間人皇女即位説を採ると,白村江の敗戦の翌年(664年・甲子年)の「春二月の己卯の朔にして丁亥〔九日〕に,天皇(すめらみこと)大皇(ひつぎの)(みこ)(みことのり)して,冠位の階名を増し換ふること,(また)氏上(うちのかみ)民部(かきべ)家部(やかべ)()の事を(のたま)」とある『日本書紀』の記述については,「中大兄皇子が即位するのは天智称制七年〔668年〕正月ゆえ,〔甲子年(664年)の〕ここに「天皇」とあるのは不審」(『古典文学全集4262頁註9)ということにはならず,間人女帝が――先の大戦の敗戦直後に皇族の東久邇宮稔彦王の内閣が成立せしめられたように――大皇弟である大海人皇子を政権の前面に立てて国内の引き締めを図った,と理解することになるのでしょう。しかし,大海人皇子が大皇(ひつぎの)(みこ)であるということになると,中大兄皇子の皇位継承権はどこに行ってしまったのか,ということが問題になります。いろいろあったけれども結局白村江でボロ負けしてしまってあのことは終わったのですから,過去のいきがかりは捨てて,今は挙国一致で頑張りましょう,お兄さん頼りにしていますよろしくね,ということにはならなかったのでしょうか。

 

(2)中大兄皇子の立場

 

ア 出自の問題

ここで不図,前記22)の③説が想起されるところです。「「③乙巳の変や古人大兄皇子殺害など,中大兄の血塗られた足跡💀が一因」となって天智天皇の即位は遅れた,とする説ですが,即位の遅れとの結び付きの有無についてはここではともかくも,確かに,現天皇(皇極天皇)及び前天皇(舒明天皇)との間の長男たるやんごとなき王子様にしては,乙巳の変等における中大兄皇子は働き者に過ぎるなあ,という感想を抱いた者は筆者一人のみでしょうか。

高貴の王子が〇〇〇の鉄砲玉のように自らの手を血で汚すことはあり得ないのではないかという発想からなのでしょう,「近年中村修也氏は,天智天皇は入鹿暗殺の現場にいなかった(入鹿暗殺に手を下してはいない)とする新説を提唱している(『偽りの大化改新』講談社現代新書,2006年)。」とのことです(遠山25頁)。中村説によると「即位のチャンスが十分にあった天智天皇にしてみれば,入鹿暗殺という危ない橋を渡る必要などまったくなく,黙っていてもいずれ即位の順番が回ってきたというのである」ということであって(遠山25頁),更に「中村氏はいう,「大王位に就こうと思っている王子は自分の手を血で穢してはならないのです。/なぜなら,血の穢れの問題があるからです」」と(遠山27頁),ということだそうです。

しかし上記中村説を引っ繰り返して,敢えて自分の手を血で汚すことをもためらわない皇族は,皇位継承から遠い位置にある者なのであるという新命題を設定してみるとどうでしょうか。しかして引っ繰り返しついでに更に別の引っ繰り返しを行って,一部の論者が提唱している天智=天武異父兄弟論(ここでは,天智は舒明・皇極夫婦の子とするが,天武については「母宝皇女〔皇極天皇〕が田村皇子〔舒明天皇〕と結婚する前に高向(たかむこ)(おう)との間に儲けた(あや)皇子(斉明即位前記)に比定する説(大和岩雄『日本書紀成立考』)」(森2頁)を念頭に置いています。)の天智と天武とを入れ替えて,天智は実は舒明天皇の子ではなかったとしたらどうでしょうか。天智の身分が実は低かったことにすると,それはそれで結構辻褄が合う説明ができそうです〔田村皇子(舒明天皇)と宝皇女(皇極=斉明天皇)との「婚姻時期・契機としては,推古三十年(622)の厩戸皇子死去により,〔田村皇子の〕世代の王族に王位継承者としての光があたった時点がふさわし」いとされているところ(森12頁),『本朝皇胤紹運録』によると「天智は推古二十二年(614)降誕」,「大海人皇子(天武天皇)は推古三十一年(623)誕生」になっているそうです(森2頁参照)。〕。(ちなみに,『善光寺縁起』には皇極天皇が地獄に堕ちかけて,本田善佐(善光の子)の口添えで善光寺如来に救われたという話があるそうですが,それよりは罰当たりの程度が低い仮説として御海容ください。)

なお,『日本書紀』斉明天皇七年(661年)十月条には,大行天皇の柩を筑紫から難波に移送するに当たっての「(ここ)皇太子(ひつぎのみこ)一所(あるところ)()てて,天皇を哀慕(しの)ひたてまつりたまひ,(すなは)ち口号して(のたま)はく,

 

  君が目の(こほ)しきからに()てて居てかくや恋ひむも君が目を()

 

とのたまふ。」という記事がありますから,ここまで母子愛のメロドラマを書いた上で実は中大兄皇子は皇極=斉明天皇の子ではありませんでした,ということはないのでしょう。

 

イ 孝徳朝及び斉明朝における位地の問題

母方の(かる)の叔父貴(孝徳天皇)の話に乗って,蘇我入鹿に真っ先に斬りつけ,更に舒明天皇の子である古人大兄皇子を討滅し,働き者として孝徳政権内ではそれなりの位地を得たものの(「それなり」というのは,「大化の改新」を進める「孝徳天皇の部民制全廃に関する諮問に対して,中大兄は必ずしも賛成しておらず,この段階では急進的な改革に反対する「抵抗勢力」であったと位置づけられ」(森274頁),「少なくとも『日本書紀』は,「大化改新」が天智天皇によって主導されたとは描いていない」(遠山37頁)からです。),その叔父貴とも仲たがいして母((たから)の姐さん)の許に帰順て,母,妹(間人皇后弟(大海人皇子らと共に孝徳朝の難波京を敢然退去したものの(白雉四年(653年)),中大兄皇子はその後パッとしない存在であった,ということでよいのではないでしょうか。(なお,皇極=斉明天皇を「宝の姐さん」と称し奉るのは不敬のようですが,明日香の南淵(稲渕)なる飛鳥川のほとりで自ら雨乞いをしたら「即雷大雨。遂雨五日,(あまねく)潤天下。」ということになって,人民こぞって「称万歳曰,至徳天皇」と唱和するに至ったということでありますから(『日本書紀』皇極天皇元年(642年)八月条),呪術的(パワー)満ちた迫力のある女性であったと筆者は考えたいのです。)

『日本書紀』巻第二十六の斉明朝の記事中,偉大なる斉明女帝の崩御の前に「皇太子(ひつぎのみこ)」が出て来るのは,筆者がざっと流し読みをしたところ,2箇所だけでした。謀反の企みがあると蘇我赤兄によって天皇に通報され,天皇の滞在地である紀温泉に護送された有間皇子(孝徳天皇の息子)に対して「於是皇太子親問有間皇子曰,何故謀反。」と尋問したという検察官(procureur de la reine)的仕事をした話(斉明天皇四年(658年)十一月条)と初めて水時計(漏剋)を作った(「又皇太子初造漏剋,使民知時」)という技官的仕事をした話(斉明天皇六年(660年)五月条)とです。なお,この漏剋は十年余お蔵入りであったようで,実際に「民に時を知らし」めたのは,天智天皇になってからのことのようです(『日本書紀』天智天皇十年(671年)四月二十五日条「夏四月丁卯朔辛卯,置漏剋於新台,始打候時。動鍾鼓,始用漏剋。此漏剋者天皇為皇太子時,始親所製造也」)。「現天皇である斉明ではなく,まだ「皇太子」にすぎない天智天皇が「漏剋」を造ったとされたことは,『日本書紀』が天智天皇をすでに天皇同然の存在とみなしていた証しといえよう。」ともいわれていますが(遠山50頁),これは8世紀になってからの『日本書紀』による事後的評価付けの話で,斉明朝期における同時代的評価の話ではないでしょう。

なお,有間皇子事件については,「〔自ら謀反の話を持ちかけておいて,有間皇子がその気になったところで同皇子の身柄を確保して天皇に通報した〕赤兄の謀略は中大兄の指令にもとづくものであろう」といわれてきていました(直木242頁)。しかして,そう解されているがゆえでしょうが,絞殺された有間皇子に連座して塩屋連鯯魚(このしろ)及び舎人新田(にひた)(べの)(むらじ)(こめ)麻呂(まろ)は斬刑,(もりの)(きみ)大石(おほいは)及び坂合部連(さかひべのむらじ)(くすり)はそれぞれ上毛野国及び尾張国に流刑となっていますところ,「守君大石は,〔略〕百済救援の出兵で将軍に起用され,天智四(665)には遣唐使にもなっており,坂合部連薬も壬申の乱で近江方の将として登場するので,彼らはむしろ中大兄とつながる人びとで,蘇我赤兄と同様,有間皇子を謀反に導くために送り込まれたのではないかと考えられる。」と説かれるに至っています(森153頁)。しかし,赤兄は単純にお咎めなし(むしろ褒められたのでしょう。)なのですから,同様に「送り込まれた」諜者であったのなら,守及び坂合部もお咎めなしであった方が自然でしょう。孝徳朝初期の自らの重用されていた時代に懇意になっていた軽の叔父貴派・国際派の守君大石らが有間皇子事件にかかわっていたことを知って驚いた中大兄皇子が,担当「検察官」として,つながりのある人々について苦心の軽め論告求刑を行った,という想像は許されないものでしょうか。(なお,ここで守君大石を孝徳天皇派の国際派であるものと想像したのは,息子の有間皇子とのつながりは父帝とのゆかりによるものであったと考えたとともに,遣唐使になる以上は国際派であるものといわざるを得ないからです。)また,あらかじめ赤兄と共謀していたのなら,懇意の守や坂合部が巻き込まれないように中大兄皇子としては赤兄に注意をしておいて然るべきではないでしょうか。すなわち,筆者としては,中大兄皇子が有間皇子事件の首謀者である,との断言論からはいささかの距離を置かせていただきたいところです(また,現在では,「この〔有間皇子〕事件に関して,『日本書紀』の記述から天智天皇の謀略を読み取ることはできない。」とも説かれています(遠山49頁)。)。

 

5 大唐帝国の干渉下の政権交代(664年)

 

(1)唐使到来から間人天皇の崩御まで

ところでそれでは,甲子年(664年)二月には存在していた間人天皇=大海人大皇弟体制から中大兄皇子執政への政権交代はいつどのように行われたのかということについては,戦勝の大唐帝国からの干渉の介在を,筆者は考えてみたいところです。『日本書紀』天智称制三年(664年)条から四年(665年)条にかけて次のようにあります。

 

  夏五月の戊申の朔にして甲子〔十七日〕に,百済鎮将劉仁願,朝散大夫郭務悰等を(まだ)して,表函(ふみはこ)献物(みつき)とを(たてまつ)

  〔略〕

冬十月の乙亥の朔〔一日〕に,郭務悰等を(たて)(つかは)(みことのり)()りたまふ。是の日に,中臣(うちの)(おみ),沙門智祥を遣して,物を郭務悰に賜ふ。

戊寅〔四日〕に,郭務悰等に(あへ)賜ふ。

〔略〕

十二月の甲戌の朔にして乙酉〔十二日〕に郭務悰等,罷り帰りぬ。

是の月に,(あふ)(みの)国の(まを)さく,〔坂田郡の小竹田(しのだの)(ふびと)()猪槽(ゐかふふね)の水中に突然稲が生え,()はそれを収穫して次第に富を成しました。栗太(くるもと)郡の(いは)(きの)(すぐ)()(おほ)の新婦の寝床に二晩連続して稲が生えるとともに当該新婦が庭に出ると()()が二つ天から落ちて来て,同女がそれを拾って(おほ)に与えたところ,殷はそれ以来富を得るに至りました。〕

  ()の歳に,対馬島・壱岐島・筑紫国等に(さきもり)(とぶひ)とを置く。又,筑紫に大堤(おほつつみ)()き水を貯へ,(なづ)けて水城と()ふ。

  四年の春二月の癸酉の朔にして丁酉〔二十五日〕に,間人大后(おほきさき)(かむさ)りましぬ。

  〔略〕

  三月の癸卯の朔〔一日〕に,間人大后の(みため)に,三百三十人を(いへで)せしむ。

 

 「郭務悰等を(まだ)して,表函(ふみはこ)献物(みつき)とを(たてまつ)。」と枉げて表現されていますが,これは戦勝大国から戦敗の我が国に対して恩恤の下賜品と共に「ポツダム宣言」が突き付けられたということでしょう。(なお,『善隣国宝記』の「海外国記」には,この時日本側は「郭務悰のもたらした牒書を中国皇帝のものではなく,「在百済国大唐行軍摠管」(劉仁願)の私信として受け取りを拒否し,郭務悰たちも私使として追い返そうとしたことが記されている」そうですが,「「海外国記」は天平5年(733)に撰録されたと伝える書物であるため,天平期の対外観で記されていると評するべきである。劉仁願は対日外交を任されており,彼の命令は唐皇帝の命令でもある。まして敗戦国の日本が,戦勝国の前戦将軍の牒書を拒否できる立場にあったとは考えられない。」と,論者に一蹴されています(中村修也「天智朝――敗戦処理政府の実態――」教育学部紀要(文教大学教育学部)第47集(2013年)62頁)。)

 

 日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セサレサルヘカラス(ポツダム宣言6項)

 一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルヘシ(同10項)

 平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ(同12項)

 

間人天皇=大海人大皇弟政権はここに存続不能となります(昭和天皇の皇位保持を認めた米国人の優しさは,大陸(ユー)()半島(シア)的標準からすると例外だったものと解します。)。退位せしめられた間人大后は戦争責任を背負わされ,憂悶のうちに翌年二月に崩御し,「三月には間人のために330人の得度を行ったといい,これは〔後の〕天武不予時の100人よりも多い」(森197頁)――あるいは,当該得度は「前例を見ない大がかりな処置」であった(直木291頁)――ということになりましたが,この大量得度は「間人の死がそれだけ敬意を払われるべきものであったことをうかがわせる」もの(森197頁)であるのみならず,戦争責任を一人で負ってもらったことに対する負い目の感情が生き残った者たちにはあったからだ,と考えることはできないものでしょうか。(なお,『日本書紀』を検すると,朱鳥元年(686年)五月二十四日の天武天皇発病後同年九月九日の崩御までには何度か得度の措置が行われており(七月二十八日に70人,八月一日に80人及び同月二日に100人),これら得度者の合計は100人ではなく250人になるようです。)

 

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