1 自由民主党=日本維新の会連立政権の副首都構想
(1)「連立政権合意書」及び内閣総理大臣所信表明演説
2025年10月20日付けの「自由民主党・日本維新の会 連立政権合意書」に,次のようにあります。
11. 統治機構改革
● 首都の危機管理機能のバックアップ体制を構築し,首都機能分散及び多極分散型経済圏を形成する観点から,令和7年〔2025年〕臨時国会中に,両党による協議体を設置し,首都及び副首都の責務及び機能を整理した上で,早急に検討を行い,令和8年〔2026年〕通常国会で法案を成立させる。
成立させるものは「法案」にとどまるものではなくて,法律なのでしょう。
いわゆる副首都構想ですね。「バックアップ」といえば重複が含意されているようですが,「機能分散」といえば,単に分解した上で重ならぬように散らし置くのでしょう。分散であって分割ではないのであれば,副首都は2箇所以上あることになるのでしょうか。多極分散型「経済圏」といわれていますが,これは,首都機能は政治的なものにはとどまらず,経済発展をももたらすものであると考えられているのでしょう(首都に集められた国庫の金銭が,政治家ないしはお役人を通じて優先的に同地に大量に漏れ落ちることが期待されているのでしょうか。)。しかし,米国などを見ると,連邦の首都ワシントンD.C.はひとまず措くとしても,州都は必ずしもその州の経済の中心にはなっていません(ニュー・ヨーク市,フィラデルフィア市,デトロイト市,シカゴ市,ヒューストン市,ロサンゼルス市,サン・フランシスコ市,シアトル市などはいずれも州都ではありません。)。
自由民主党と日本維新の会との「連立政権」成立後,第219回国会において2025年10月24日に行われた高市早苗内閣総理大臣の所信表明演説では次のようになりました。
首都の危機管理機能のバックアップ体制を構築し,首都機能分散及び多極分散型経済圏を形成する観点から,首都及び副首都の責務と機能に関する検討を急ぎます。
(2)日本維新の会の「副首都法案」骨子案並びに大都市法及びいわゆる大阪都構想
ア 「副首都法案」骨子案
高市内閣総理大臣が急ぐと述べた「首都及び副首都の責務と機能に関する検討」の結果はどうなるかについてですが,これについては既に2025年9月30日に日本維新の会が「副首都法案」の骨子案をまとめているところです。当該骨子案はどのようなものかといえば,同日22時47分に毎日新聞ウェブサイトに掲載された鈴木拓也及び岡崎英遠両記者による「維新,副首都法案の骨子案まとめる 26年の通常国会で提出の意向」記事によると,副首都の機能は「東京圏と並ぶ経済の中心として経済成長をけん引し,災害時に首都中枢機能を代替」することだそうで,副首都になると「事業の高度化や生産性向上などのための規制緩和▽国からの税源移譲▽国税の減免▽独自の税率設定」といった特例措置が受けられ,副首都の指定は道府県からの申請に基づき内閣総理大臣が行い,その指定のための要件は「①大都市法に基づく特別区が設置されている②経済活動が活発に行われている③東京圏と同じ災害で被害を受ける恐れが少ない」であるそうです。
イ 大都市法及びいわゆる大阪都構想
前記の「大都市法」とは,大都市地域における特別区の設置に関する法律(平成24年法律第80号)のことです。同法は「道府県の区域内において関係市町村を廃止し,特別区を設けるための手続」等について定めるもので(同法1条),「特別区を包括する道府県は,地方自治法その他の法令の規定の適用については,法律又はこれに基づく政令に特別の定めがあるものを除くほか,都とみなす」ものとされています(同法10条)。いわゆる大阪都構想における「都」とは何かといえば,大阪市を廃止して特別区を設置し,大阪府が大都市法10条によって「都とみな」されることだったのでした。しかして当該構想に基づく大都市法7条による大阪市(同法にいう関係市町村)における選挙人の投票が2015年及び2020年に行われていますが,いずれも有効投票の過半数の賛成を得ることができず,現在のところいわゆる大阪都構想は実現していません(同法8条1項参照)。
日本維新の会の今次副首都構想は,副首都となることによる利点を大阪市民に提示しつつ「大都市法に基づく特別区が設置されている」ことをその要件とすることによって,いわゆる大阪都構想の最終的実現を,「三度目の正直」として副首都化と併せて目指すものでもありましょうか。
2 天武天皇政権の複都構想
(1)天武天皇十二年十二月十七日の詔
ところで副首都といえば,我が国においては,『日本書紀』天武天皇十二年(西暦683年にほぼ相当)十二月十七日(西暦ではもう684年でしょう)条にある天武天皇の次の詔が想起されるところです。
詔曰,凡都城・宮室非一処。必造両参。故先欲都難波。是以百寮者各往之請家地。
およそ都城・宮室は一処ではなく必ず二つ三つ造るものだ,といきなり宣言されていて,「首都の危機管理機能のバックアップ体制を構築し,首都機能分散及び多極分散型経済圏を形成する観点」は丁寧に云々されていません。とはいえ,既に孝徳天皇が大化元年(西暦645年にほぼ相当)十二月九日(西暦ではもう646年でしょう)から白雉五年(西暦654年にほぼ相当)十月まで難波長柄豊碕に都していたところから(ただし,難波長柄豊碕宮に同天皇が遷居したのは白雉二年(西暦651年にほぼ相当)十二月末(同月末は,西暦では652年になっています)であって,また,同宮の完成は白雉三年九月のことでした。),副首都の場所については,故にまず難波に都するものとしよう,ということになったのでしょう。大阪を副首都とすることについての先例です。そうであるから百寮の役人は各々該地へ行って宅地を請い受けよ,という点は,首都機能とはすなわちそこに住む中央官庁の役人らであるということの現れでしょう。
(2)飛鳥及び難波以外の地における都の構想
「先づ難波」には続きがあって,『日本書紀』の天武天皇十三年(西暦684年にほぼ対応)二月二十八日条には次のようにあります。
遣浄広肆広瀬王・小錦中大伴連安麻呂及判官・録事・陰陽師・工匠等於畿内,令視占応都之地。是日,遣三野王・小錦下采女臣筑羅等於信濃,令看地形。将都是地歟。
浄広肆の広瀬王及び小錦中の大伴連安麻呂並びに判官,録事,陰陽師,工匠等を畿内に派遣してまさに都すべきの地を視占させた,というのですから,畿内に,飛鳥及び難波に次ぐ三つ目の都を造る構想があったのでしょう(なお,藤原京に持統天皇が遷居したのは,10年後の持統八年(西暦694年にほぼ相当)の十二月六日(西暦では695年になっています)でした。)。しかして,同日(天武天皇十三年二月二十八日),三野王,小錦下の采女臣筑羅等を信濃に派遣して,地形を看しめた,その地に都しようとしたのであろうか,ということですから,あるいは歴史の成行き次第では,畿外の信州にも副都が置かれることになったかもしれません。
信州の副都については「信濃に遷都の地を求めたのは国際関係の緊迫のためか。唐と戦って朝鮮より撃退した新羅の勢力を警戒したからではないか。」と註されています(小島憲之=直木孝次郎=西宮一民=蔵中進=毛利正守校註・訳『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』(小学館・1998年)433頁註21(西宮執筆=小島補訂))。しかし,天武天皇の信州に対する思い入れは,単に温泉付きの別荘(行宮)を造りたいということだったかもしれません。『日本書紀』の天武天皇十四年(西暦685年にほぼ相当)十月十日条に「遣軽部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂於信濃,令造行宮。蓋擬幸束間温泉歟。」とあるところです。最後のところで,けだし天皇はそこに幸せむと擬ったのではないか,と推測された束間温泉については,「『和名抄』に「信濃筑摩郡,豆加万つかま」。筑摩郡は長野県松本市・塩尻市・東摩郡などの地で,浅間温泉・入山辺温泉などがある。そのどれかであろう。」と註されています(新編日本古典文学全集4:451頁註29(西宮=小島))。ただし,天武天皇はその前月不豫となっており,翌年九月には崩御していますから,副都云々以前に純粋に湯治がしたかったのかもしれません。
3 旧東京都制等に関して
(1)昭和天皇の帝都からの御移動計画に関して
信州といえば,そういえば,先の大戦中に同地で松代大本営の建設工事がされていたのでした。
これに関してでしょうが,1944年7月25日に小磯国昭内閣総理大臣から昭和天皇に対して「帝都からの御移動に関して言上」があったところ(宮内庁『昭和天皇実録 第九』(東京書籍・2016年)401頁),翌26日昭和天皇から木戸幸一内大臣に対して「自身が帝都を離れる時は臣民,殊に都民に不安の念を起こし,敗戦感を懐かしめる恐れがあるため,統帥部において統帥の必要上これを考慮するとしても,できる限り最後まで帝都に留まりたく,時期尚早な実行は決して好まないところであること,なお戦争の推移によっては,あるいは一部に大陸への移動等を考える者もあらんも,あくまで皇大神宮の鎮座するこの神州にあって死守しなければならない旨のお考えを示される。」ということがありました(同402頁)。
なお,ここでの昭和天皇の発言中にある「都民」との語は,前年以来の新語でしょうか。旧東京都制(昭和18年法律第89号)が施行されて東京都が置かれて東京府及び東京市が廃止されたのは(同制180条),1943年7月1日からのことでした(同制179条及び昭和18年勅令第503号)。同日「本日より東京都制及び東京都官制が施行される。午前9時50分,鳳凰ノ間において親任式を行われ,陸軍司政長官大達茂雄を東京都長官に任じられる。」という運びになっています(実録第九132頁)。
(2)旧東京都制に関して
ア 三つの立法趣旨
東京府及び東京市を廃止して東京都を設ける旧東京都制の立法趣旨は,1943年3月3日の貴族院東京都制案特別委員会における湯澤三千男内務大臣の説明によれば3点に帰着します。すなわち「其ノ一ツハ,帝都タル東京ニ真ニ其ノ国家的性格ニ適応致シマシタ確乎タル体制ヲ確立スルコト」,「其ノ2ハ,帝都ニ於ケル所ノ従来ノ府市並存ノ弊ヲ是正解消致シ,帝都一般行政ノ一元的ニシテ強力ナル遂行ヲ期スルコト」,「其ノ3ハ,帝都行政ノ運営ニ付キマシテ根本的刷新ト高度ノ能率化トヲ図ルコト」です(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第2号1頁)。
なお,旧東京都制の戦時立法性が云為されることがあります。しかし,これについては,「併シナガラ此ノ案ハ申ス迄モナク臨時的ノ戦時立法デハナイノデゴザイマシテ,帝都ノ性格ト帝都行政ノ過去ノ実績トニ深イ考慮ヲ払ッタモノデゴザイマスルカラ,戦後ニ於キマシテモ帝都行政ハ本案ノヤウナ体制ヲ以テ運営シテ行クコトガ必要デアルト考ヘテ居ルト云フノガ政府ノ答弁デゴザイマス」ということになっています(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第2号3頁(山崎巌政府委員(内務次官)))。
イ 府市並存の弊の是正解消
趣旨3点中,まず第2点の府市並存の弊の是正解消は,従来のいわゆる大阪都構想が目的としていたものと同様です。現在の大都市法による関係市町村の廃止及び特別区の設置の手続は,正にこのために用意されているものでしょう。
なお,旧東京都制下の区については,「所謂区ノ自治権ヲ拡張致シ,都ヲ35ノ独立市ニ分割スルト云フコトハ,独リ都民生活ノ実情ニ即セザルノミナラズ,都行政ノ統一ヲ破壊シ,更ニ都民ノ負担ヲ区々ナラシメテ,決シテ適当ナル結果ヲ得ルモノデナイト信」ぜられたことから,「所謂区ノ自治権ニ付キマシテハ概ネ従来ノ制度ニ則」ることとなっていました(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第2号2頁(湯澤内務大臣))。
ウ 帝都の国家的性格に適応した体制の確立
趣旨の第1点については,東京都の「機構ガ全国他地方ノ機構ニ比シテ更ニ一段ト国家的色彩ヲ濃厚ニ致シ,国家トノ間ニ緊密ナル聯繋ヲ保持スベキコトハ当然ノコト」であることから「府知事ト市長トノ職務権限ヲ合セ」る「都ノ首長ハ官吏タルヲ至当トスル」ものとされています(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第2号2頁(湯澤内務大臣))。
市長の選任については,市会による選挙又は(昭和18年法律第80号による改正後の旧市制(明治44年法律第68号)73条3項においては)市会の推薦した者に係る勅裁を経ての内務大臣の任命によるものとされていましたが,従来の東京市長の職務権限をも兼ねる新しい東京都長官は,親任官たる官吏として(旧東京都官制(昭和18年勅令第504号)1条),前記大達茂雄の任命がそうであったとおり天皇から任命されることとなりました。また,東京都の区の区長も,書記官たる国の奏任官吏をもって充てられることにされていました(旧東京都官制36条1項及び1条)。東京都の幹部職員は,公吏ではなく「全部官吏トスルノガ適当デアラウ」と内務省は考えていたところです(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第2号6頁(山崎政府委員))。
となると現在でも,複都制に係る当該道府県の首都性ないしは副首都性が必要以上に強調されると,国の干与を正当化する「国家的色彩」ないしは「国家トノ間ニ緊密ナル聯繋ヲ保持ス」る必要性が併せて想起され(東京都と国との関係の現状を見ると杞憂かもしれませんが),本来国に対して自治ないしは独立を主張すべき地方公共団体としては痛しかゆしということになるかもしれません。
エ 行政運営の根本的刷新及び高度の能率化
以上の第1点と第2点とに係る合わせ技をもって,「又斯様ニ致シマシテ理事機関ノ地位ヲ確立強化スルコトニ依リ,従来東京市政ニ付キマシテ,世上ノ批評ヲ招キタルガ如キ弊風ハ茲ニ一掃セラレ,帝都行政ノ真ノ刷新ト能率化トガ確保セラルヽコトヲ固ク信スルノデゴザイマス」として,第3の趣旨が達成されるものとされています(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第2号2頁(湯澤内務大臣))。
「従来東京市政ニ付キマシテ」ですから,弊風及び非能率の問題は東京府ではなく東京市にあり,というのが内務省の認識だったわけです。これについては曽我祐邦子爵委員が,東京市会議員経験者として同市会の弊風を指摘し,「自治ト云フモノニ日本人ハ落第シテ居ル」,「自治ト云フコトニ付テ日本人ガ明カニ落第シタト云フコトヲ知ッタ」,「過去ニ於ケル東京市会ノ如キモノガ存在シテ居ルコトハ,実ニ日本人ノ恥ダ」と切言しています(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第2号9頁)。しかして「吏僚組織ノ整備ハ,都行政ノ能率化ヲ図ル上ニ於キマシテナカ〔ナカ〕重要ナコトデア」り,「都長官ト云フ官吏ニ依ラザレバ〔東京市における状況の〕抜本塞源的な行政ノ所謂浄化ト申シマスカ,純化ト申シマスルカ,ソレノ企図ガ出来ナイ,又根本的ナ刷新,高度ノ能率化ガ出来ナイ」というのが内務省の考えでした(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第2号2頁及び11頁(湯澤内務大臣))。弊風自ずと吹きすさぶ人民自治は不純・非能率であって,天皇の優秀な官吏による民本主義的統治をもって代えることが望ましいということでしょう。
『はだしのゲン』における有名人たるかの鮫島伝次郎氏も先の大戦後,東京市ならぬ広島市(日清戦争中の帝国議会召集地にして大本営所在地たりしかつての首都ないしは副都)の市会議員に立候補したわけですが,地方議会議員になりたがるような人の典型が彼なのでしょうか。しかし,現代の進んだ意識の下にある日本国における地方議会の状況は,曽我子爵及び湯澤大臣が嘆いたかつての東京市会とは全く異なったものなのでしょう。
4 難波副都のその後
さて話は元に戻って,天武朝の副都であった難波です。残念なことに,そこにおける肝腎の宮殿は,前記天武天皇十二年十二月十七日の詔の2年ほど後にまる焼けになってしまいました。朱鳥元年(西暦686年にほぼ相当)一月十四日に「酉時〔18時頃〕,難波大蔵省失火,宮室悉焚。」ということになっています。そして同年九月九日,複都構想を唱道した天武天皇は崩御します。
その後神亀三年(西暦726年にほぼ相当)十月の庚午の日に聖武天皇が難波で「以式部卿従三位藤原朝臣宇合。為知造難波宮事。」という人事を行っています(『続日本紀』)。難波宮がまた造営されたわけですが(聖武天皇は,天平十六年(西暦744年にほぼ相当)に難波に都しています。),この難波宮の建物は,後に桓武天皇によって長岡京が造営される際に解体して運ばれて新京のために利用されています(長岡遷都は延暦三年(西暦784年にほぼ相当))。「天平宝字六年(762年)四月,安芸国で建造した遣唐使船を難波に廻送しようとしたところ,難波の河口が浅瀬のために座礁するということがあったように,長年にわたる堆積作用で,難波津とそれに付随する難波宮の機能は当時すでに衰えていた。淀川水系に立地する長岡遷都に際して,大和川の河口に位置する難波宮はこうして解体することが決定され,その歴史に幕を閉じることになった。」ということでした(瀧波貞子『桓武天皇――決断する君主』(岩波新書・2023年)88-89頁)。
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