秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ
筆者はかつて日本国憲法研究の一環として,日本国の国号の由来について調べものをしたことがあります(「第22回サッカー・ワールド・カップ大会開催の年,倭国2682年又は日本国1353年の建国記念の日にちなんで」(2022年2月11日))https://donttreadonme.blog.jp/archives/1079413301.html)。しかしてその際そこで日本国の国号が採用された時期を天智朝期の670年とした上で,更に斉明天皇崩御後の中大兄皇子(天智天皇)称制期には何か易姓革命的情況があったのではないかとまでの余計なことを書いてしまったことから,当該称制期間は実際のところどのような時代であったのかがそれ以来ずっと気になっていたところです。
阪神甲子園球場(阪急阪神甲子園球場ではないのですね。)竣工100周年の令和6年(2024年)の秋もたけなわ🌾,晩酌をすればわが衣手はこぼれた酒🍶にぬれつつ,かねてからの当該課題について様々な思いをめぐらしていたところ,ようやく,この程度にとどまる思い付きであればお目こぼしの寛大に与り得て,歴史専門家及び尊皇家の方々の罵倒を被らずに済む内容であろうと思われるところの下記雑文の偶成を得たところです。要は,一種の辛酉(661年)革命・甲子(664年)革令論に逢着したのでした。
天皇より日本の敗戦に関し,かつて白村江の戦い〔663年〕での敗戦を機に改革が行われ,日本文化発展の転機となった例を挙げ,今後の日本の進むべき道について述べられる。
(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)173頁(1946年8月14日条))
1 臨時御歴代史実考査委員会による「称制」維持答申(1926年)
宮内庁の『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)中1926年10月20日条に次の記事があります。
〔前略〕これより先,帝室制度審議会において皇統譜令案の再査を行うに当たり,御歴代数その他重要の史実につき,いまだ疑似に渉るものがあり,その解決を待たなければ同案の施行を全うすることができないとして,帝室制度審議会総裁伊東巳代治は,同会総会に諮った上で,史実を明確にするための調査機関特設の議を宮内大臣牧野伸顕に具申した。その建議が採用されて大正13年〔1924年〕3月7日臨時御歴代史実考査委員会が設置され,翌8日,同会総裁に伊東巳代治が,委員として倉富勇三郎・平沼騏一郎・岡野敬次郎・三上参次・関屋貞三郎・二上兵治・入江貫一・三浦周行・黒板勝美・杉栄三郎・辻善之助・坪井九馬三・和田英松が任じられた。同年4月21日,宮内大臣牧野伸顕より左の3項が同会に諮問された。
一,神功皇后ヲ皇代ニ列スベキヤ否〔結論は,否〕
一,長慶天皇ヲ皇代ニ列スベキヤ否〔結論は,肯〕
一,宣仁門院〔四条天皇(数え十二歳で悪戯中に転んで崩御)の女御,〕中和門院〔後陽成天皇の女御・豊臣秀吉の養女〕及明子女王〔後光明天皇と霊元天皇との間の中継ぎの天皇である後西天皇の女御〕ハ其ノ取扱ヲ皇后ト同一ニスベキヤ否〔結論は,否〕
その他,右の諮問ニ附帯シ,左の8項目にわたり参考として意見が求められた。
〔2項略〕
一,天智天皇持統天皇ノ称制年間ハ御在位中ト見ルベキヤ否
〔2項略〕
一,天皇御追号中ノ院字ハ之ヲ省クベキヤ否〔肯。院字が省かれて,淳和天皇(西院帝)に倣った後西院帝が後西天皇になってしまっています。〕
〔2項略〕
(547-549頁)
現在,宮内庁ウェブページ「天皇系図」を見ると,第37代の斉明天皇の在位期間は「655-61」であるのに対して第38代の天智天皇のそれは「668-71」,第40代の天武天皇の在位期間は「673-86」であるのに対して第41代の持統天皇のそれは「690-7」とされていますから,「天智天皇持統天皇ノ称制年間ハ御在位中ト見ルベキヤ否」については「否」ということになったわけです。
2 斉明天皇崩御(661年)後の「天智称制」の理由
天智在位ではなく,天智称制という形が斉明天皇崩御後の当時採られた理由が問題となります。
(1)同母兄妹婚禁忌説
当該理由については,第36代の孝徳天皇がその妻である・別居中の間人皇后に送った「金木(鉗)つけわが飼ふ駒は引き出せずわが飼ふ駒を人見つらむか」との歌に隠された意味を「だれよりも愛していたお前を他人が奪ってしまったのではないか。お前はわたくしを捨てて他の男のもとに走ったのではないか」と解釈した国文学者の吉永登関西大学教授が,孝徳天皇から間人皇后を奪ったその男を同皇后の同父(舒明天皇(第34代))同母(皇極(第35代)=重祚して斉明天皇)の兄である中大兄皇子(後の天智天皇)であるものと判断した上で,中大兄皇子が皇位につくことができずに称制を続けたのはこの許されざる同母兄妹間の内縁関係のせいであったと論じ,直木孝次郎大阪市立大学助教授(当時)の賛同を得ています(直木孝次郎『日本の歴史2 古代国家の成立』(中央公論社・1965年)223-225頁参照)。
〔前略〕同母の兄妹の結婚が古代でもタブーであったことは事実だ。允恭天皇の皇太子軽皇子が,同母妹の軽大郎女と結婚したために皇太子の地位をうしない,皇位につくことができなかった話は,たんなる伝説かもしれないが記紀に伝えられている。中大兄も間人皇后との結婚を表むきにはできなかった。かれがこののちも長く皇太子のままでいるのはそのためではないか,というのが吉永氏の解釈である。天皇になれば皇后をきめなければならないが,それができないのである。
その証拠に,中大兄が正式に即位するのは間人皇后がなくなってからではないか,と吉永氏は論ずる。なるほど,間人皇后が死ぬのは665年(天智称制四),天智天皇の正式即位は668年(天智称制七)である〔後記(2)②説参照〕。いわれてみると,なぜ中大兄は〔645年の乙巳の変から〕23年もの長いあいだ皇太子のままでいたか,という古代史の疑問もとけるのである。
(直木225頁)
ただし,「同母の兄妹の結婚が古代でもタブーであったことは事実だ。」という点については論者もそう重くは捉えてはいないようです。反論を承けて発展した吉永説においては「さらに一歩つっこんで,日本の古代で同母兄妹が結婚することについてのタブーがあったかどうかも疑問だ,というのです。その証拠として,大祓とか,神話のなかに罪が列挙してありますが,そのなかに動物とのいわゆる畜姦だとか,上通下通婚つまり母子相姦とかについてのタブーは書かれているけれども,同母兄妹のタブーは書かれてないんですね。」ということになったそうです(直木・付録(1965年2月11日に大阪グランドホテルで行われた直木孝次郎・司馬遼太郎対談)2頁(直木発言))。「モラルのうえでは問題にならなくて,法律的には問題になるのですか。つまり,ふたりは結婚できないのですか。」との確認的質問(直木・付録2頁(司馬))に対しては,「正式には結婚できないのでしょうね。そして上流貴族のあいだでは中国的な道徳というものが,ぼつぼつ入りかかっているでしょうから,モラルのうえでも好ましくないことだ,というような意識は貴族間にはもう出ていたんじゃないでしょうか。」との回答がされています(直木・付録3頁(直木))。
あたしというものがありながら,他の女が図々しくあんたの法律上の正妻の地位につくことは許せない,という妹の嫉妬に苦しめられたということでしょうか。束縛の強烈に,愛が醒めることはなかったのでしょうか。なるほど,中大兄皇子は辛抱強い人だったのでしょう。
称制はほかの天皇のばあいにもあるが,中大兄は6年間も称制をつづけるので問題になる。そのおもな理由は,天皇になれば政治をしにくいという点〔後記(2)①説〕にあるのではなく,同母妹の間人皇后との関係にあったことはさきに述べた。そのほかに,〔663年の〕朝鮮〔白村江〕での敗戦のあと始末のため,あるいは敗戦責任のために即位がおくれたということも考えられる。しかし,敗戦後の危険な時期に天皇の位をあけたままにしておくのは,いろいろの意味で宮廷の動揺を深めることになる。北九州にいるのでは即位の手続きをすますことができないかもしれないが,大和へ帰れば,いくら敗戦後の処置に忙しいといっても,即位の式をあげることは不可能ではあるまい。それをしなかったのは,やはりほかに決定的な理由があったからだと思う。
(直木280頁)
文学の鑑賞から男女関係の機微に関する推理の翼を奔放に拡げた上での古代史新解釈の提示であって,古代史研究ってのは自由で楽しそうだな,とつい素人が悪乗りをしたくなる方法論です(だから筆者のような門外漢もこのような思い付きの駄文を草してしまうわけです。)。しかし,現在の学界の常識的評価としては,「この〔吉永〕説は歌謡の字句のみが根拠で,その証明が難しい。」ということになるようです(森公章『天智天皇』(吉川弘文館・2016年)191頁)。
(2)七つの説:間人「仲天皇」説等
そこで,天智称制が長く続いた理由として学界ではどのようなものが考えられているかといえば,七つほど説があるようです。
まず,既出の「①白村江戦の敗戦後の防衛体制構築を進めるには,天皇として即位するより,皇太子として自由な立場で強力に政治を行うためとする説」及び「②天智四(665)二月の間人皇女死去,六年二月の斉明と間人の小市岡上陵への合葬を経て,七年正月に即位するので,間人の存在が障害になっていたと見る説」の両説があります(森188頁参照)。更には,「即位時にもそのような過去を払拭できたとは思われない〔筆者註:換言すれば,そのような過去があっても即位できた〕ので,疑問とせざるを得ない」とされている「③乙巳の変や古人大兄皇子殺害など,中大兄の血塗られた足跡が一因であるとする説(遠山美都男『天智天皇』)」(森189頁参照),伊東巳代治ら臨時御歴代史実考査委員会の仕事を否定する「④二段階即位説,つまり中大兄の称制を否定し,中大兄は斉明崩御時に「治天下(大)王」として即位し,国内外の諸問題を克服する強力な政治体制の構築・王権強化の課題を果した上で,天智七年(668)正月に「治天下天皇」として即位したとする見解〔略〕(河内春人「天智「称制」考」)」(森189-190頁参照),「後継者決定のためにも早く即位した方が有利である」のに何だかおかしい説だねとされる「⑤中大兄は子大友皇子を後継者に考えており(遠山美都男『壬申の乱』),その成長を待っていた(大友は『懐風藻』によると,天武元年〈672〉死去時に二十五歳とある。大化四年〈648〉誕生で,斉明七年には十四歳,天智七年には二十歳)とする説」(森191頁参照)及び⑥「中大兄が長らく即位しなかった理由の一つとして,周囲に皇后たるに相応しい女性王族がいなかったことを考慮してみてはいかがであろうか。〔略〕中大兄の称制の一因としては,この〔天智天皇の皇后となる〕倭姫王の年齢,唯一の皇后候補者の成長を待つという事案が浮上し,斉明七年時点にはまだ婚姻関係はなかったと考えてみたい」との説(森210-211頁)があります(ただし,倭姫王が父の古人大兄皇子死亡の年(大化元年(645年))生まれだとしても斉明七年(661年)には満16歳になりますので,満15年以上であれば皇后に立てられ得るものとする後世の皇室親族令(明治43年皇室令第3号)7条の規定からすると問題はなかったところです。また,中大兄皇子は大化元年に「皇太子」になっているはずなのに,それから16年間,将来の皇后に相応しい皇族女子を娶ることなくぼんやり打ち過ごしていたというのも何だか変ですね。)。
しかして,森公章東洋大学教授は,上記6説中②説に再注目して,いわく。②´「間人は正式に即位しなかったとしても,天皇位を代行するような役割を果たし,その記憶が〔間人皇女に係る〕「仲天皇」の呼称に反映されているという理解はどうであろうか(坂本太郎「古代金石文二題」)。斉明崩御時に三十六歳の中大兄が即位しなかったのは,四十歳即位適齢説にはまだ少し若かったこと,そして何よりも斉明女帝-中大兄による権力安定の構造を維持し,白村江戦後の諸課題に取り組むには,間人の存在が必要であったことによるのではないか。」(森196頁),「白村江戦後の諸課題への対応と,中大兄即位までの確実な基盤作り(年齢問題も含めて)の時間を得るために,前皇后である間人を表に立てて,斉明→間人-中大兄の権力構造維持が求められ,「仲天皇」としての間人の存在が不可欠であったと考えてみたい。」と(森197頁)。
間人「天皇」とまではされずに,論者によって間人「仲天皇」にとどめられているのは,「記紀編纂に近接する間人皇女が即位したか否かは,人びとの記憶や事実認識も明白であったと思われるので,なぜ『日本書紀』はそれに触れないのかという大きな問題が残る」からなのでしょう(森195頁)。しかし,これについては,白村江での大敗で終った我が対唐戦争中の天皇は,戦勝国の目から見ると「反乱の首魁」ないしは「第一の戦犯」ということになってしまうし,国内的にも不逞の臣民からは「戦争(敗戦)責任」を追及されるので,当の大唐帝国さまの言語で記される『日本書紀』においては,いなかったことにしよう(ただし,後に天智天皇即位の運びとなったので,その間存在していた統治権の名目は,辛酉年まで前倒しに「天智称制」であったことにして埋めることにしよう),ということにした,というふうに考えることはできないものでしょうか。承久三年(1221年)の太政天皇御謀反の際にも,皇位は空位であったということになっていました(仲恭天皇の在位を認めない場合)。
〔前略〕天武天皇やその周辺においても,「敗軍の将,兵を語らず」であって,この〔対唐〕戦争については多くを語りたくなかったのであろう。あるいは,『日本書紀』が中国の唐王朝をひじょうに強く意識して書かれたことを思えば,この戦争に関して,負け戦を勝ち戦だったというように,あからさまな虚偽を記すわけにもいかず,さりとて戦争自体がなかったことにするわけにもいかなかったのではないかと思われる。
(遠山美都男『天智と持統』(講談社現代新書・2010年)54-55頁)
ということで,『日本書紀』における省筆を想定して間人天皇即位説を端的に採るとしても,なぜ中大兄が即位できなかったのかというそもそもの問題は残ります。
前記森説では中大兄の年齢問題が云々されていますが,別の箇所では「斉明天皇崩御の際,王族のなかで皇位継承可能な候補者は,中大兄,間人皇女,大海人皇子しかいなかった。いずれも舒明と皇極・斉明の所生子である。〔略〕同世代中の最年長者は中大兄であり,四十歳即位適齢説によっても,充分に即位可能な年齢に近づいており,中大兄即位には障害がなかったと思われる。」と説かれています(森187頁)。実は年齢については問題がなかったようでもあります(ただし,間人皇女の更に弟ということであれば,大海人皇子については年齢問題を認めることも可能であるようです。)。そうであれば,むしろ「中大兄即位までの確実な基盤作り」の必要こそが「仲天皇」が置かれた理由であったということになるのでしょうか。「確実な基盤」をこれから作らなければならないというのならば,「斉明女帝-中大兄による権力安定の構造」なるものは中大兄皇子にとってそもそも存在していなかったのではないでしょうか。
3 間人天皇推戴の理由:磐瀬宮派と朝倉宮派と
あるいは,辛酉の年(661年)七月二十四日の斉明天皇崩御時には,筑紫の地に移っていた我が政府内において不協和音があったのかもしれません。
『日本書紀』によればこの年三月二十五日に斉明天皇は娜大津に着いて磐瀬仮宮(福岡市南区三宅に比定されています(『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』(小学館・1998年)242頁註7)。)に入り,五月九日には朝倉橘広庭宮に遷居しているのですが(同地で崩御),「是の時に,朝倉社の木を斮り除ひて,此の宮を作りし故に,神忿りて殿を壊つ。亦,宮中に鬼火を見る。是に由りて,大舎人と諸の近侍,病みて死ぬる者衆し」ということになり,更に八月一日に「皇太子,天皇の喪を奉徙りて,還りて磐瀬宮に至る。是の夕に,朝倉山の上に,鬼有りて大笠を著て,喪の儀を臨み視る。衆,皆嗟怪ぶ。」とあって👹,いかにも不穏です。更に興味深い点は,朝倉宮の位置です。福岡県朝倉郡杷木町(現朝倉市)志波のあたりにあったようなのですが,これは簡単に「南方の」(直木264頁)といって済ませるべき場所ではなく,「磐瀬行宮から40キロメートル以上も離れた所」なのです(『古典文学全集4』242頁註13)。新羅=唐聯合軍征伐の大本営の場所としては,玄界灘に臨む現在の福岡市内の磐瀬宮が正にふさわしいところ,朝倉宮にあっては内陸に過ぎ,そこで斉明天皇と共にいる人々は遠征作戦の策定・実施から外れていたか,外されていたものと考えるべきもののようです。朝倉宮への遷居は「外敵の襲来を恐れたためか」とも言われていますが(『古典文学全集4』242頁註13),こちらから攻めるより先に攻められる心配をするということは,これは,いざ現地に着いたら腰が引けてしまったということでしょう。百済の遺民その他の遠征積極派内においては,弱腰の消極派に対する不信・不満の感情が存在していたことでしょう。
しかして中大兄皇子は,磐瀬宮にではなく,朝倉宮にいたのでした。『日本書紀』には,皇太子が大行天皇の柩を移して磐瀬宮に還ったという前記の記載のほかに,「是の月〔斉明天皇崩御の月〕に,〔略〕皇太子,長津宮〔磐瀬宮〕に遷り居しまして,稍に水表の軍政を聴しめす。」との記載があります。「皇太子は長津宮に移り住まれて,しだいに海外の軍政に着手された」(『古典文学全集4』250頁。下線は筆者によるもの)ということですから,中大兄皇子は斉明政権の首班として至上の国策たる百済復興救援作戦のため夙に三月の磐瀬宮到着時から直ちに大車輪の陣頭指揮を執っていた,ということではないようです。(なお,『角川新字源』によれば,「稍」には,「しだいに」のみならず「すこし」又は「すこしずつ」という意味があるそうです。)
結果として朝鮮半島に出兵して我が国はひどい目に遭ったということは,当時の政権内では遠征積極派が多かったということでしょうから,当該多数派の支持が得られないということで消極派の中大兄皇子は即位できず,(さりとて消極派もそれなりの勢力があったでしょうから)無難な選択として前々帝の皇后たりし間人皇女が推戴された,という説明は可能でしょうか。この説明を採用すると,「天智天皇が「海外の軍政」(原文は「水表の軍政」)をどのように統括したのか,換言すると,いわゆる百済救援においてどのような戦争指導を行ったかについて,どうしたわけか,『日本書紀』はまったく触れるところがない」(遠山53頁)との疑問に対しては,実際には政権の中枢から外されていて「統括」とか「指導」をしていなかったからだよ,と回答することができるようになります。(例外として,中大兄皇子が百済の王子の豊璋に織冠を授け,多臣蒋敷の妹を娶らせ,五千の兵をもって朝鮮に護送させたとの『日本書紀』天智即位前紀九月条の記事が挙げられていますが(遠山53-54頁),「このように,天智天皇が外国の王に冠位をあたえるとは,その王を天皇の臣下とすることを意味した」ものであるところ(遠山54頁),これは,後の天智朝下における百済遺民の我が国受入れの意義付けに資するものとして記載されたのだと解し置くのは便宜主義に過ぎるでしょうか。)
4 白村江敗戦(663年)後の間人天皇=大海人大皇弟体制と中大兄皇子の立場と
(1)間人天皇=大海人大皇弟体制
間人皇女即位説を採ると,白村江の敗戦の翌年(664年・甲子年)の「春二月の己卯の朔にして丁亥〔九日〕に,天皇,大皇弟に命して,冠位の階名を増し換ふること,及氏上・民部・家部等の事を宣ふ」とある『日本書紀』の記述については,「中大兄皇子が即位するのは天智称制七年〔668年〕正月ゆえ,〔甲子年(664年)の〕ここに「天皇」とあるのは不審」(『古典文学全集4』262頁註9)ということにはならず,間人女帝が――先の大戦の敗戦直後に皇族の東久邇宮稔彦王の内閣が成立せしめられたように――大皇弟である大海人皇子を政権の前面に立てて国内の引き締めを図った,と理解することになるのでしょう。しかし,大海人皇子が大皇弟であるということになると,中大兄皇子の皇位継承権はどこに行ってしまったのか,ということが問題になります。いろいろあったけれども結局白村江でボロ負けしてしまってあのことは終わったのですから,過去のいきがかりは捨てて,今は挙国一致で頑張りましょう,お兄さん頼りにしていますよろしくね,ということにはならなかったのでしょうか。
(2)中大兄皇子の立場
ア 出自の問題
ここで不図,前記2(2)の③説が想起されるところです。「「③乙巳の変や古人大兄皇子殺害など,中大兄の血塗られた足跡💀が一因」となって天智天皇の即位は遅れた,とする説ですが,即位の遅れとの結び付きの有無についてはここではともかくも,確かに,現天皇(皇極天皇)及び前天皇(舒明天皇)との間の長男たるやんごとなき王子様にしては,乙巳の変等における中大兄皇子は働き者に過ぎるなあ,という感想を抱いた者は筆者一人のみでしょうか。
高貴の王子が〇〇〇の鉄砲玉のように自らの手を血で汚すことはあり得ないのではないかという発想からなのでしょう,「近年中村修也氏は,天智天皇は入鹿暗殺の現場にいなかった(入鹿暗殺に手を下してはいない)とする新説を提唱している(『偽りの大化改新』講談社現代新書,2006年)。」とのことです(遠山25頁)。中村説によると「即位のチャンスが十分にあった天智天皇にしてみれば,入鹿暗殺という危ない橋を渡る必要などまったくなく,黙っていてもいずれ即位の順番が回ってきたというのである」ということであって(遠山25頁),更に「中村氏はいう,「大王位に就こうと思っている王子は自分の手を血で穢してはならないのです。/なぜなら,血の穢れの問題があるからです」」と(遠山27頁),ということだそうです。
しかし上記中村説を引っ繰り返して,敢えて自分の手を血で汚すことをもためらわない皇族は,皇位継承から遠い位置にある者なのであるという新命題を設定してみるとどうでしょうか。しかして引っ繰り返しついでに更に別の引っ繰り返しを行って,一部の論者が提唱している天智=天武異父兄弟論(ここでは,天智は舒明・皇極夫婦の子とするが,天武については「母宝皇女〔皇極天皇〕が田村皇子〔舒明天皇〕と結婚する前に高向王との間に儲けた漢皇子(斉明即位前記)に比定する説(大和岩雄『日本書紀成立考』)」(森2頁)を念頭に置いています。)の天智と天武とを入れ替えて,天智は実は舒明天皇の子ではなかったとしたらどうでしょうか。天智の身分が実は低かったことにすると,それはそれで結構辻褄が合う説明ができそうです〔田村皇子(舒明天皇)と宝皇女(皇極=斉明天皇)との「婚姻時期・契機としては,推古三十年(622)の厩戸皇子死去により,〔田村皇子の〕世代の王族に王位継承者としての光があたった時点がふさわし」いとされているところ(森12頁),『本朝皇胤紹運録』によると「天智は推古二十二年(614)降誕」,「大海人皇子(天武天皇)は推古三十一年(623)誕生」になっているそうです(森2頁参照)。〕。(ちなみに,『善光寺縁起』には皇極天皇が地獄に堕ちかけて,本田善佐(善光の子)の口添えで善光寺如来に救われたという話があるそうですが,それよりは罰当たりの程度が低い仮説として御海容ください。)
なお,『日本書紀』斉明天皇七年(661年)十月条には,大行天皇の柩を筑紫から難波に移送するに当たっての「是に皇太子,一所に泊てて,天皇を哀慕ひたてまつりたまひ,乃ち口号して曰はく,
君が目の恋しきからに泊てて居てかくや恋ひむも君が目を欲り
とのたまふ。」という記事がありますから,ここまで母子愛のメロドラマを書いた上で実は中大兄皇子は皇極=斉明天皇の子ではありませんでした,ということはないのでしょう。
イ 孝徳朝及び斉明朝における位地の問題
母方の軽の叔父貴(孝徳天皇)の話に乗って,蘇我入鹿に真っ先に斬りつけ,更に舒明天皇の子である古人大兄皇子を討滅し,働き者として孝徳政権内ではそれなりの位地を得たものの(「それなり」というのは,「大化の改新」を進める「孝徳天皇の部民制全廃に関する諮問に対して,中大兄は必ずしも賛成しておらず,この段階では急進的な改革に反対する「抵抗勢力」であったと位置づけられ」(森274頁),「少なくとも『日本書紀』は,「大化改新」が天智天皇によって主導されたとは描いていない」(遠山37頁)からです。),その叔父貴とも仲たがいして母(宝の姐さん)の許に帰順して,母,妹(間人皇后),弟(大海人皇子)らと共に孝徳朝の難波京を敢然退去したものの(白雉四年(653年)),中大兄皇子はその後パッとしない存在であった,ということでよいのではないでしょうか。(なお,皇極=斉明天皇を「宝の姐さん」と称し奉るのは不敬のようですが,明日香の南淵(稲渕)なる飛鳥川のほとりで自ら雨乞いをしたら「即雷大雨。遂雨五日,溥潤天下。」ということになって,人民こぞって「称万歳曰,至徳天皇」と唱和するに至ったということでありますから(『日本書紀』皇極天皇元年(642年)八月条),呪術的力に満ちた迫力のある女性であったと筆者は考えたいのです。)
『日本書紀』巻第二十六の斉明朝の記事中,偉大なる斉明女帝の崩御の前に「皇太子」が出て来るのは,筆者がざっと流し読みをしたところ,2箇所だけでした。謀反の企みがあると蘇我赤兄によって天皇に通報され,天皇の滞在地である紀温泉に護送された有間皇子(孝徳天皇の息子)に対して「於是皇太子親問有間皇子曰,何故謀反。」と尋問したという検察官(procureur de la reine)的仕事をした話(斉明天皇四年(658年)十一月条)と初めて水時計(漏剋)を作った(「又皇太子初造漏剋,使民知時」)という技官的仕事をした話(斉明天皇六年(660年)五月条)とです。なお,この漏剋は十年余お蔵入りであったようで,実際に「民に時を知らし」めたのは,天智天皇になってからのことのようです(『日本書紀』天智天皇十年(671年)四月二十五日条「夏四月丁卯朔辛卯,置漏剋於新台,始打候時。動鍾鼓,始用漏剋。此漏剋者天皇為皇太子時,始親所製造也」)。「現天皇である斉明ではなく,まだ「皇太子」にすぎない天智天皇が「漏剋」を造ったとされたことは,『日本書紀』が天智天皇をすでに天皇同然の存在とみなしていた証しといえよう。」ともいわれていますが(遠山50頁),これは8世紀になってからの『日本書紀』による事後的評価付けの話で,斉明朝期における同時代的評価の話ではないでしょう。
なお,有間皇子事件については,「〔自ら謀反の話を持ちかけておいて,有間皇子がその気になったところで同皇子の身柄を確保して天皇に通報した〕赤兄の謀略は中大兄の指令にもとづくものであろう」といわれてきていました(直木242頁)。しかして,そう解されているがゆえでしょうが,絞殺された有間皇子に連座して塩屋連鯯魚及び舎人新田部連米麻呂は斬刑,守君大石及び坂合部連薬はそれぞれ上毛野国及び尾張国に流刑となっていますところ,「守君大石は,〔略〕百済救援の出兵で将軍に起用され,天智四(665)には遣唐使にもなっており,坂合部連薬も壬申の乱で近江方の将として登場するので,彼らはむしろ中大兄とつながる人びとで,蘇我赤兄と同様,有間皇子を謀反に導くために送り込まれたのではないかと考えられる。」と説かれるに至っています(森153頁)。しかし,赤兄は単純にお咎めなし(むしろ褒められたのでしょう。)なのですから,同様に「送り込まれた」諜者であったのなら,守及び坂合部もお咎めなしであった方が自然でしょう。孝徳朝初期の自らの重用されていた時代に懇意になっていた軽の叔父貴派・国際派の守君大石らが有間皇子事件にかかわっていたことを知って驚いた中大兄皇子が,担当「検察官」として,つながりのある人々について苦心の軽め論告求刑を行った,という想像は許されないものでしょうか。(なお,ここで守君大石を孝徳天皇派の国際派であるものと想像したのは,息子の有間皇子とのつながりは父帝とのゆかりによるものであったと考えたとともに,遣唐使になる以上は国際派であるものといわざるを得ないからです。)また,あらかじめ赤兄と共謀していたのなら,懇意の守や坂合部が巻き込まれないように中大兄皇子としては赤兄に注意をしておいて然るべきではないでしょうか。すなわち,筆者としては,中大兄皇子が有間皇子事件の首謀者である,との断言論からはいささかの距離を置かせていただきたいところです(また,現在では,「この〔有間皇子〕事件に関して,『日本書紀』の記述から天智天皇の謀略を読み取ることはできない。」とも説かれています(遠山49頁)。)。
5 大唐帝国の干渉下の政権交代(664年)
(1)唐使到来から間人天皇の崩御まで
ところでそれでは,甲子年(664年)二月には存在していた間人天皇=大海人大皇弟体制から中大兄皇子執政への政権交代はいつどのように行われたのかということについては,戦勝の大唐帝国からの干渉の介在を,筆者は考えてみたいところです。『日本書紀』天智称制三年(664年)条から四年(665年)条にかけて次のようにあります。
夏五月の戊申の朔にして甲子〔十七日〕に,百済鎮将劉仁願,朝散大夫郭務悰等を遣して,表函と献物とを進る。
〔略〕
冬十月の乙亥の朔〔一日〕に,郭務悰等を発遣す勅を宣りたまふ。是の日に,中臣内臣,沙門智祥を遣して,物を郭務悰に賜ふ。
戊寅〔四日〕に,郭務悰等に饗賜ふ。
〔略〕
十二月の甲戌の朔にして乙酉〔十二日〕に郭務悰等,罷り帰りぬ。
是の月に,淡海国の言さく,〔坂田郡の小竹田史身の猪槽の水中に突然稲が生え,身はそれを収穫して次第に富を成しました。栗太郡の磐城村主殷の新婦の寝床に二晩連続して稲が生えるとともに当該新婦が庭に出ると鑰匙が二つ天から落ちて来て,同女がそれを拾って殷に与えたところ,殷はそれ以来富を得るに至りました。〕
是の歳に,対馬島・壱岐島・筑紫国等に防と烽とを置く。又,筑紫に大堤を築き水を貯へ,名けて水城と曰ふ。
四年の春二月の癸酉の朔にして丁酉〔二十五日〕に,間人大后薨りましぬ。
〔略〕
三月の癸卯の朔〔一日〕に,間人大后の為に,三百三十人を度せしむ。
「郭務悰等を遣して,表函と献物とを進る。」と枉げて表現されていますが,これは戦勝大国から戦敗の我が国に対して恩恤の下賜品と共に「ポツダム宣言」が突き付けられたということでしょう。(なお,『善隣国宝記』の「海外国記」には,この時日本側は「郭務悰のもたらした牒書を中国皇帝のものではなく,「在百済国大唐行軍摠管」(劉仁願)の私信として受け取りを拒否し,郭務悰たちも私使として追い返そうとしたことが記されている」そうですが,「「海外国記」は天平5年(733)に撰録されたと伝える書物であるため,天平期の対外観で記されていると評するべきである。劉仁願は対日外交を任されており,彼の命令は唐皇帝の命令でもある。まして敗戦国の日本が,戦勝国の前戦将軍の牒書を拒否できる立場にあったとは考えられない。」と,論者に一蹴されています(中村修也「天智朝――敗戦処理政府の実態――」教育学部紀要(文教大学教育学部)第47集(2013年)62頁)。)
日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セサレサルヘカラス(ポツダム宣言6項)
一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルヘシ(同10項)
平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ(同12項)
間人天皇=大海人大皇弟政権はここに存続不能となります(昭和天皇の皇位保持を認めた米国人の優しさは,大陸・半島的標準からすると例外だったものと解します。)。退位せしめられた間人大后は戦争責任を背負わされ,憂悶のうちに翌年二月に崩御し,「三月には間人のために330人の得度を行ったといい,これは〔後の〕天武不予時の100人よりも多い」(森197頁)――あるいは,当該得度は「前例を見ない大がかりな処置」であった(直木291頁)――ということになりましたが,この大量得度は「間人の死がそれだけ敬意を払われるべきものであったことをうかがわせる」もの(森197頁)であるのみならず,戦争責任を一人で負ってもらったことに対する負い目の感情が生き残った者たちにはあったからだ,と考えることはできないものでしょうか。(なお,『日本書紀』を検すると,朱鳥元年(686年)五月二十四日の天武天皇発病後同年九月九日の崩御までには何度か得度の措置が行われており(七月二十八日に70人,八月一日に80人及び同月二日に100人),これら得度者の合計は100人ではなく250人になるようです。)
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