1 第213回国会の民法等の一部を改正する法律案及び民法821条:「人格を尊重」
(1)第213回国会の民法等の一部を改正する法律案における「人格を尊重」
2024年1月26日に召集された第213回国会において,現在,内閣から提出された民法等の一部を改正する法律案が審議されています。同法案が法律として成立した場合,2026年の春には(同法案における附則1条本文には「この法律は,公布の日から起算して2年を超えない範囲内において政令で定める日から施行する。」とあります。),民法(明治29年法律第89号)に次の条項が加えられることとなるそうです(下線は筆者によるもの)。
(親の責務等)
第817条の12 父母は,子の心身の健全な発達を図るため,その子の人格を尊重するとともに,その子の年齢及び発達の程度に配慮してその子を養育しなければならず,かつ,その子が自己と同程度の生活を維持することができるよう扶養しなければならない。
2 父母は,婚姻関係の有無にかかわらず,子に関する権利の行使又は義務の履行に関し,その子の利益のため,互いに人格を尊重し協力しなければならない。
「人格を尊重」という荘厳な文言が,まぶしい。目がつぶれそうです。「尊重」と「尊厳」ということで漢字は1字違いますが,「〔憲法〕13条は,「個人の尊重」(前段)と「幸福追求権」(後段)との二つの部分からなる。前段は,後段の「立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする」と一体化して,個人は国政のあらゆる場において最大限尊重されなければならないという要請を帰結せしめる。これは,一人ひとりの人間が「人格」の担い手として最大限尊重されなければならないという趣旨であって,これを「人格の尊厳」ないし「個人の尊厳」原理と呼ぶことにする。」(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)444頁),「「人格の尊厳」原理は,まず,およそ公的判断が個人の人格を適正に配慮するものであることを要請し,第2に,そのような適正な公的判断を確保するための適正な手続を確立することを要求する。したがって,例えば,一人ひとりの事情を不用意に概括化・抽象化して不利益を及ぼすことは許されない。行政の実体・手続の適正性の問題については諸説があるが,基本的にはまさしく本条によって要請されるところであると解される。」(同444-445頁)というような,憲法学における高邁な議論が想起されるところです。
しかし,憲法学上の難しい議論はさておき,我ら凡庸な人民の卑俗な日常生活の場において,他者の「人格を尊重」し,自己の「人格を尊重」せしめるとは具体的にどのような発現形態をとるのでしょうか。これらについての探究が本稿の課題です。
(2)脱線その1:「個人の尊厳」論
ア 民法2条の「個人の尊厳」
なお,民法2条には「人格の尊重」ならぬ「個人の尊厳」の語が出て来ます。憲法学的には「〔憲法13条の〕「個人の尊厳」原理は,直接には国政に関するものであるが,民法1条ノ2〔現第2条〕を通じて解釈準則として私法秩序をも支配すべきものとされ」ていますが(佐藤幸治445頁),民法学的には,同条に規定するところの同法の「個人の尊厳を旨とした解釈」の標準は「主として親族・相続両編の解釈について意義を有する」ものとされ,「というのは,親族編と相続編〔筆者註:昭和22年法律第74号(なお,同法は一般に「日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律」と呼ばれますが,これは正式な題名ではなく,件名です。)で手当てがされ,昭和22年法律第222号によって改正されるまでのもの〕は,家族制度を骨子として構成され,家を尊重して個人の尊厳を無視し,家父長の権利を強大にして家族の意思を拘束し〔略〕ていたからである。」と説明されています(我妻榮『新訂民法総則(民法講義Ⅰ)』(岩波書店・1965年)29-30頁)。
「個人の尊厳」概念は,明治的な家制度及び家父長制度の各遺制に対処すべきものであるということになります。
昭和22年法律第74号の第1条は「この法律は,日本国憲法の施行に伴い,民法について,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚する応急的措置を講ずることを目的とする。」と規定していますところ,憲法24条2項(「配偶者の選択,財産権,相続,住居の選定,離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては,法律は,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して,制定されなければならない。」)の射程は,すなわち昭和22年法律第74号が措置を講じた範囲であるのだというのが我が国の公式解釈であったことになります。同法及び昭和22年法律第222号によって家制度と家父長制度とが既に退治せられたので,現在,新しい家族の形を尊重しつつ働くべき法概念は壊し屋たりし「個人の尊厳」ではなく,それとは異なる,例えば「人格の尊重」のような新たに穏健なものたるべし,ということになったわけでしょう。というのは,「個人の尊厳」概念については,「家族の問題について「個人の尊厳」をつきつめていくと,憲法24条は,家長個人主義のうえに成立していた近代家族にとって,――ワイマール憲法の家族保護条項とは正反対に――家族解体の論理をも含意したものとして意味づけられるだろう」(樋口陽一『国法学 人権原論』(有斐閣・2004年)56頁)ということでもありますので,当該概念の濫用はうっかりすると「家族解体」につながりかねず剣呑であるからです。
なお,1919年8月11日のドイツ国憲法たる「ワイマール憲法の家族保護条項」はその第119条1項であって,「婚姻は,家族生活及び国民の維持発展の基礎として,憲法の特別の保護を受ける。それは,両性の同権に基礎を置く。(Die Ehe steht als Grundlage des Familienlebens und der Erhaltung und Vermehrung der Nation unter dem besonderen Schutz der Verfassung. Sie beruht auf der Gleichberechtigung der beiden Geschlechter.)」と規定するものです。
イ GHQ草案23条の“individual dignity and the essential equality of the sexes”と憲法24条の「個人の尊厳と両性の本質的平等」との間
ちなみに,日本国憲法24条がそれに基づいた案文であるGHQ草案23条は,“The family is the basis of human society and its traditions for good or evil permeate the nation. Marriage shall rest upon the indisputable legal and social equality of both sexes, founded upon mutual consent instead of parental coercion, and maintained through cooperation instead of male domination. Laws contrary to these principles shall be abolished, and replaced by others viewing choice of spouse, property rights, inheritance, choice of domicile, divorce and other matters pertaining to marriage and the family from the standpoint of individual dignity and the essential equality of the sexes.”と規定していました。日本国憲法24条2項は,GHQ草案23条における“from the standpoint of individual dignity and the essential equality of the sexes”の部分を「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して」の意味であるものと解して制定されたわけです(GHQ草案23条の我が外務省による訳文は「家族ハ人類社会ノ基底ニシテ其ノ伝統ハ善カレ悪シカレ国民ニ滲透ス婚姻ハ男女両性ノ法律上及社会上ノ争フ可カラサル平等ノ上ニ存シ両親ノ強要ノ代リニ相互同意ノ上ニ基礎ツケラレ且男性支配ノ代リニ協力ニ依リ維持セラルヘシ此等ノ原則ニ反スル諸法律ハ廃止セラレ配偶ノ選択,財産権,相続,住所ノ選定,離婚並ニ婚姻及家族ニ関スル其ノ他ノ事項ヲ個人ノ威厳及両性ノ本質的平等〔筆者註:この「的平等」の3文字は,和文タイプでは打ち漏れています。〕ニ立脚スル他ノ法律ヲ以テ之ニ代フヘシ」というものでした。)。
しかし,“dignity of the individual”ならぬ“individual dignity”を,例えば「個々の尊厳」ではなく,「個人の尊厳(又は威厳)」と訳したことには何だかひっかかりが感じられます。そこで当該英文を改めて睨んでみると,あるいは,“individual dignity of the sexes”(両性各々の尊厳)及びそのように両性各々が尊厳あるものであることに基づく“the essential equality of the sexes”(両性の本質的平等)のstandpointから,と読むべきものだったのかもしれない,と思われてきました。男性性(夫)及び女性性(妻)はそれぞれ特有の尊厳を有するとともに,いずれも尊厳あるものであることにおいて,両性(夫婦)は本質的に平等である,という意味でしょうか。通常単数形で用いられるとされるstandpointがやはり単数形で用いられていますから,“individual dignity and the essential equality of the sexes”をひとかたまりのものとして捉える読み方を採るべきでもありましょう。Female sexのみならずmale sexにもdignityがあるのだと言われれば,男性は,救われます。
なるほど。そういえば確かに,GHQ草案23条においてそれらに反する法律は廃止せられるべしとされたところの婚姻に関する当該諸原則は,①家族は人間社会の基盤であること,及び婚姻は,②親の強要にではなく,(男女)相互の合意に基づき,かつ,③男性の支配によってではなく(夫婦の)協力によって維持されて,④両性の争うべからざる法的及び社会的平等の上に位置付けられたものたるべし,というものであって(なお,ここで男女の社会的平等までぬけぬけと憲法で保障しようとするのは,当時のソヴィエト社会主義共和国連邦憲法122条の影響でしょうか。GHQ草案23条の原案起草者であるベアテ・シロタ女史は起草準備作業の際に「ワイマール憲法とソビエト憲法は私を夢中にさせた」と回想しています(篠原光児「憲法24条の成立過程について」白鷗法学第8号(1997年)74頁)。),①はSollenではなくSeinについて語っていますから,どうも②以下の男女平等が中心であったようです。④こそが主要原則でしょう。②及び③は,原則というには細かいですし,④に対する副次的なものでしょう(特に②については,昭和22年法律第222号による改正前の民法(以下「明治民法」といいます。)でも,男女の合意なしに親の意思のみで婚姻をさせることはできない建前でしたから(明治民法778条1号は現行民法742条1号と同旨),法律上の問題というよりは,社会事実上の問題でしょう。③に関しては,明治民法790条の「夫婦ハ互ニ扶養ヲ為ス義務ヲ負フ」及び789条の「妻ハ夫ト同居スル義務ヲ負フ/夫ハ妻ヲシテ同居ヲ為サシムルコトヲ要ス」が,現行民法752条では「夫婦は同居し,互いに協力し扶助しなければならない。」になっています。これで,「夫の権威中心から夫婦の協力に推移したことを明らかに看取しうるであろう。」ということであります(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)81頁)。なお,法定財産制に係る明治民法798条は「夫ハ婚姻ヨリ生スル一切ノ費用ヲ負担ス但シ妻カ戸主タルトキハ妻之ヲ負担ス/前項ノ規定ハ第790条及ヒ第8章〔扶養ノ義務〕ノ規定ノ適用ヲ妨ケス」というものでしたが,同条1項本文の規定は,男はつらいよ,というよりも,実は男性支配を法定する女性虐待規定であったということなのでしょう(婚姻費用を平等負担するものとする夫婦財産契約は可能であったはずですが(明治民法793条以下)。)。ちなみに現行民法には「協力」の語は2箇所でしか出現せず,憲法24条1項由来の第752条のそれのほかは離婚の際の財産分与に係る第768条3項にあるのですが,同項における「協力」も,実はGHQの担当者から言い出した米国側由来のものであるそうです(我妻榮編『戦後における民法改正の経過』(日本評論社・1956年)140頁(小沢文雄(当時は司法省民法調査室主任)発言))。)。すなわち,家族法制全般について広く問題点が指摘されているというよりは,専ら男女間の婚姻の場面に焦点が当てられていたところです。
そもそもGHQ草案の起草段階におけるベアテ・シロタ女史の原案は,最終的にGHQ草案23条となった条項(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川ソフィア文庫・2014年)220-221頁参照)に続いて,母性保護条項,非嫡出子差別解消条項,養子に係る制限条項,長子権廃止条項,児童の教育,医療及び労働に関する各条項,労働権条項並びに社会保障条項が並ぶ長いものであって(鈴木279-281頁参照),最終的にGHQ草案23条となった条項も,実はそう広い射程のものとして意図されていなかったように思われます。
また,シロタ女史は「私は,どうしても女性の権利と子供の保護を憲法に詳しく書いておかなければならないと思って,とても細かく書きました。」と回想していますところ(鈴木276頁),保護されるべき者の細かい権利に専心する彼女にとっては,強い男性のそれをも包含する「個人の尊厳」というような普遍的な概念(なお,強い男性は,「個人の尊厳」の個人に包含されるというよりも,むしろ彼らによってこそ「個人の尊厳」が象徴されていたものでしょう。「近代西欧家族の「個人」が実は家長個人主義というべきものだった」こと(樋口56頁)に留意すべきです。)の称揚には興味がなかったのではないでしょうか。
また,「婚姻を「民族の維持・増殖の基礎」として憲法の保護対象とするワイマール憲法119条1項と比べればもとより,〔1949年の〕ボン基本法6条が婚姻と家族に対する国家の保護に言及するにとどまっているのと比べても,「個人の尊厳」を家庭秩序内にまで及ぼそうとする点で,日本国憲法24条はきわ立っている」わけですが(樋口145頁),そのような「きわ立」ちまで,当時のGHQは意図していたものかどうか。現実には,明治民法の占領下における改正に関して,GHQは「正面きって家の制度を廃止しろといったようなことは全然ありませんでした」ということであって(我妻編13頁(奥野健一(当時は司法省民事局長)発言)),その報告書(Political Reorientation of Japan (1948))でも「家の制度の全面的廃止の問題は,憲法を履行するという憲法実施の要請以上の問題であるから,スキャップ〔聯合国最高司令官〕としてはこれを命令しなかった,スキャップとしては両性の平等とか個人の自由の原則は別として,家族法といったようなもののごときは,これを近代化し民主化するということはむしろ日本人自身の問題と考えたのであって,東洋の国に西洋的な家族関係の思想を標準として押しつけるというようなことは賢明とは考えなかったから命令しなかった,従って〔日本側の〕臨時法制調査会が家の制度の全廃を多数をもって決議〔1946年10月24日の民法改正要綱決定〕したということを聞いたときは,スキャップとしては非常に驚いて,進歩的態度の表明としてその議決を歓迎した,というふうに報告して」いたところです(我妻編14頁(奥野による紹介))。家の制度と両立し難いものとしての「個人の尊厳」概念が,それとしてGHQ草案23条において提示されていたものとは考えにくいところです。
シロタ女史は,ワイマル憲法119条1項を叩き台にして(篠原79頁(14)。同女史の原案には,GHQ草案23条においては削られている「したがって,婚姻及び家族は法によって保護される。(Hence marriage and the family are protected by law)」という文言が,「家族ハ人類社会ノ基底ニシテ其ノ伝統ハ善カレ悪シカレ国民ニ滲透ス」の部分の次にありました。これを再挿入すると,「婚姻は,家族生活及び国民の維持発展の基礎として,憲法の特別の保護を受ける」云々とするワイマル憲法119条1項の組立てとの類似がより明らかになります。),同項を修正敷衍し,日本社会の当時の現実における男尊女卑的夫婦関係の問題点を指摘挿入し,かつ,当該問題点を是正すべき新立法を命ずることとして,結果として見られるような饒舌な条文をものしたものと思われます。
(3)民法821条の「人格を尊重」
以上をもって長い憲法論をおえて,法令における「人格を尊重」のこれまでの用例に当たらんとするに,実は現行民法には既に「人格を尊重」云々の文言が存在していました。次のとおりです(下線は筆者によるもの)。
(子の人格の尊重等)
第821条 親権を行う者は,前条の規定による監護及び教育をするに当たっては,子の人格を尊重するとともに,その年齢及び発達の程度に配慮しなければならず,かつ,体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動をしてはならない。
令和4年法律第102号によって設けられ,2022年12月16日から施行されている規定です(同法附則1条ただし書)。
(4)脱線その2:民法821条の位置論(「削除」を削る。)
ところで,ここでまた脱線して民法821条の位置について一言感想を述べれば,同条は「親権者の監護教育権(第820条)の行使一般についての行為規範を規定」する「総則的規律」であり,かつ,「監護教育権の各論的な規律の前の位置に」置かれるべきものであるそうですから(佐藤隆幸編著『一問一答 令和4年民法等改正――親子法制の見直し』(商事法務・2024年)130頁),「監護教育権の根拠規定」(同頁)である同法820条(「親権を行う者は,子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し,義務を負う。」)の第2項として同条にまとめて規定される形でもよかったように思われます。しかし,あえてそれまでの第821条(「子は,親権を行う者が指定した場所に,その居所を定めなければならない。」)を新822条に押しのけた上での新条追加の形が採られているところです。
そこでその理由をうがって考えれば,それまであった第822条(「親権を行う者は,第820条の規定による監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる。」)の規定を令和4年法律第102号は敢然排除したところですが,そのために当該の条を削除しただけでは「第822条 削除」という形で痕跡が残り(これが,当該の条が全く蒸発し,したがってその後の全条が各々繰り上げられてその跡を埋める形となる「削る」との相違です(前田正道編『ワークブック 法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)468頁)。),将来,「おや,この条は「削除」か。削除されたここにはどういう規定があったのだろう。ああ,親権者の懲戒権に関する規定か。なるほど,日本が哀れな衰退途下国となってしまった平成=令和の国民元号の御代(筆者註:「国民元号」に関しては,「元号と追号との関係等について」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1073399256.html)の4(3)を御参照ください。)を迎える前の昔の立法者は丁寧だったんだね。親が自信をもって子のしつけを行うためにはやっぱり親権者の懲戒権の規定が必要なんだよね。そういうことであれば,いやいやいったんせっかく削ったことについては正当な理由があるのであって云々の難しい話はもういいから,一度は堂々あった懲戒権規定を新装復活させたらいいんじゃない。」という不必要に好奇心の強い者による旧規定の再発見及びそれを契機としての懲戒権規定の要否論争の蒸し返しを避けるためでしょう。民法典において「第822条 削除」との不審な表象が残らないように,そこを埋めるべく,新しい1条が必要であったわけでしょう。(なお,ここでいう懲戒権規定の要否論争については,「懲戒権に関する規定を削除してしまうと,親権の行使として許容される範囲内で行う適切なしつけまでできなくなるのではないかといった」心配は,「誤った受け止め方」であるということで(佐藤隆幸編著131頁),御当局筋では不要論が断乎採用され,けりがつけられています。)
回顧のよすがも残らないようにするdamnatio memoriaeを喰らうとは,民法旧822条の懲戒権規定は随分忌み嫌われていたものです。(筆者は民法旧822条に対して同情的であるようにあるいは思われるかもしれませんが,同情はともかくも,同条に関するblog記事(「民法旧822条の懲戒権及び懲戒場に関して」:
(前編)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080442857.html(モーセ,ソロモン,アウグストゥス,モンテスキュー,ナポレオン,カンバセレス及びミラボー)及び
(後編)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080442886.html(日本民法(附:ラヴァル政権及びド=ゴール政権によるフランス民法改正))
をかつて書いた者としては,思い入れは深いところです。)
2 新民法817条の12総論
(1)第1項前段
さて,まず「子の人格を尊重」することに関して,民法821条と新民法(第213回国会の審議に付された頭書法律案が法律として成立して施行された後の民法を以下「新民法」といいます。)の第817条の12第1項前段とを比較すると,前者は「監護及び教育」をするに当たっての規律であり,後者は「養育」をすることについての規律です。規律の場面が異なっています。後者の場面については,2023年11月28日に開催された法制審議会家族法制部会第34回会議に提出された家族法制部会資料34-2において「この資料では,父母の子への関わり合いのうち経済的・金銭的な側面から子の成長を支えるものを「扶養」と記載しており,これに加えて精神的・非金銭的な関与を含む広い概念として「養育」という用語を使っている。」と説明されている一方(4頁(注3)),「子の監護及び教育は,親権者の権利義務であり(〔民〕法第820条),〔中略〕この資料のゴシック体の記載のような規律〔新民法817条の12に対応〕を設けたとしても,親権者でない父母が監護及び教育をする権利義務を得ることとなるわけではな」いものとされています(4-5頁(注1))。
ところが,当該部会の部会長である大村敦志教授の著書の一節には,「「養育」という言葉の意味は明らかである。その「子の養育及び財産の管理の費用」(828条)という表現から,この言葉は,「監護・教育」を総称するものとして用いられていることがわかる」とあったところです(大村敦志『民法読解 親族編』(有斐閣・2015年)246頁)。したがって,夫子御自身の当該所論の扱いが問題になる可能性があったところ(世の中には,筆者のように面倒臭い人間がいるのです。),2023年12月19日に開催された同部会第35回会議に提出された同部会資料35-2において,「なお,「養育」という用語は,民法第828条ただし書にも規定されているが,同条は親権者による子の養育等の費用の計算に関する規律である一方で,要綱案(案)第1の1で提示している規律〔新民法817条の12に対応〕における「養育」は,父母(親権者に限られない。)によるものであり,また,費用の支出を伴うものに限定するものではない点で,民法第828条ただし書の想定する「養育」と必ずしも一致しないと考えられる。」と,如才なく整理し去られています。そもそも民法上の父母の子へのかかわり合いのうちの「精神的・非金銭的な関与」の例としては,家族法制部会資料34-2は,監護及び教育ならざる「親子交流や親権喪失等の申立てなど」を挙げていました(2頁)。
ちなみに,フランス民法373条の2の1第5項は,「親権を行使する者ではない親は,子の監護及び教育を見守る権利及び義務を保持する。同人は,子の生活に関する重要な選択について了知していなければならない。同人は,第371条の2〔親の扶養義務に関する規定〕に基づき同人が負う義務を尊重しなくてはならない。(Le parent qui n'a pas l'exercice de l'autorité parentale conserve le droit et le devoir de surveiller l'entretien et l'éducation de l'enfant. Il doit être informé des choix importants relatifs à la vie de ce dernier. Il doit respecter l'obligation qui lui incombe en vertu de l'article 371-2.)」と規定しており,親権を行使する者でない親であっても子の監護教育について全くの無権利ではないものとされています。これに対して,同項第1文流に我が新民法817条の12は解釈されるものではない,というのが立案御当局の御理解なのでしょうが,同条の文言のみからはやや分かりづらいところです。
(2)第2項
新民法の第818条1項は,親権全般について,「親権は,成年に達しない子について,その子の利益のために行使しなければならない。」と規定します。これに対して,必ずしも親権者ならざる父母による新民法817条の12第1項の養育についても,当該父母はそれに係る「権利の行使又は義務の履行に関し」ては,「その子の利益のため」に「協力」すべきものとされています(同条2項)。父母の「協力」に関しては,新民法824条の2第1項本文(「親権は,父母が共同して行う。」)も,父母双方が親権者である場合について,親権共同行使の原則を定めています。これら新民法818条1項及び同法824条の2第1項本文の規律(親権者による親権の行使に関するもの)と同法817条の12第2項の規律(父母による子に関する権利の行使及び義務の履行に関するもの)との関係は,親権者に限られぬ父母一般に係る後者の規律が総則的な位置に立つというものでしょうか。新民法817条の12第2項の「権利」及び「義務」は,文言上,同条1項の「養育」に係るものに必ずしも限定されてはいませんし,法制審議会家族法制部会資料34-2によれば,新民法817条の12第2項の「協力義務」に違反した場合には「親権者の指定・変更の審判や,親権喪失・親権停止の審判等において,その違反の内容が当該父母の一方にとって不利益に考慮されることになるとの解釈があり得る」とのことで(7頁(注1)),同項は親権行使の場面にも適用があることが前提とされています。
しかし,新民法817条の12第2項については,「子の利益のため」はよいのでしょうが,「部会のこれまでの議論の中では,離婚後の父母の中には,子の養育に無関心・非協力的な親がいるとの指摘があった」ことから(法制審議会家族法制部会資料34-2の6頁),軽々と直ちに,婚姻関係にない「他人」の男女にまで両者間の「協力」を義務付けるのはいかがなものでしょうか。養育妨害禁止というような消極的なものにとどまらぬ積極的な協力の義務であるならば,それはやはり当事者の合意にその根拠付けを見出すべきもののように思われますが,両者間におけるそのような「合意」の契機のない子の父母というものも存在するのではないでしょうか。我が国の御当局には,いわゆる経済官庁による儚き「オール・ジャパン(日の丸)」プロジェクトの濫造に見られるように,「協力」のもたらすであろう神秘なsynergy効果を――「協力」が美しくも可能であることの絶対性と共に――安易かつ篤く信仰せられてしまう御傾向があるようではあります。「船頭多くして船山に登る」というような俗なことわざよりも,やはり「以和為貴」と宣う聖徳太子の御訓えの方が重いのでしょうか。いずれにせよ,法的義務として成立するのならば,期待値の水準如何はともかくも,そのときはそのようなものとしての取扱いがされなければなりません。(しかし,前記のとおり,これまでの民法において「協力」の語は,GHQ由来のものが2箇所(752条及び768条3項)にしかなかったところであって,民法用語として熟したものであるかどうか。民法752条の「協力」の由来するところは,憲法のGHQ草案23条に鑑みると男性支配(male domination)の排除要請という消極的なものです。しかして「夫婦の協力義務は,義務の内容においても,分量においても,限定することはできない」漠としたものです(我妻・親族法84頁)。同法768条3項の「協力」のそれは,財産分与の際に妻の取り分が2分の1になるべきことの確保にこだわるGHQ担当官が「協力によってえた財産の半分」などと口走ったことによるものです(我妻編140頁(小沢発言))。(この場面においては,「協力」に係る動機付けは,財産分与に当たっての有利性という形で,専ら経済的に劣位の配偶者に与えられることになります。)ちなみに,「婚姻中の財産の取得又は維持についての各当事者の寄与の程度は,その程度が異なることが明らかでないときは,相等しいものとする。」と規定する新民法768条3項は,こうしてみると当該GHQ担当官の主張に近付いたもののように観察されます。)
なお,民法820条の「子の利益のために」との文言は,新民法818条1項における当該文言と一見重複することになりそうですが,削られないようです。子の監護及び教育の場面においてこそ親権の濫用(「体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動」)が一番問題になるから重複をいとわなかったのだ,という説明になるのでしょう。ちなみに,民法821条の「「子の人格を尊重するとともに,その年齢及び発達の程度に配慮しなければならな」いとの規律」は,「監護及び教育が「子の利益のために」行われるべきとの〔同法820条の〕規律をより明確に表現する観点から」設けられた,当該規律を監護及び教育における「行為規範として更に具体化するもの」であるそうです(佐藤隆幸編著139頁)。
(3)第1項後段
ところで,新民法817条の12第1項後段の規定の意義は,「法律上の親である限り,たとえ親権がなくても,親として子に対する扶養義務を負う」こと及び当該扶養義務の負担については「「子に対し親権を有する者,又は生活を共同にする者が,扶養義務につき当然他方より先順位にあるものではなく,両者は,その資力に応じて扶養料を負担すべきものである」(大阪高決昭和37年1月31日家月14-5-150。離婚後の非親権者についての判示)という立場が通説であり,裁判例の傾向でもある(非嫡出子の父について同旨,仙台高決昭和37年6月15日家月14-11-103)」ということ(内田貴『民法Ⅳ 親族・相続』(東京大学出版会・2002年)296頁)並びに親の子に対する扶養義務は,「相手方に自己と同一程度の生活を保障する義務(生活保持義務とよばれる)」であるということ(同23頁)を明文化したものということになります。
「親の未成年子に対する扶養義務に関しても877条によるという見解はあるものの,親であることによる,あるいは,親権の効力による,という見解が説かれてい」たところ(大村464-465頁),つとに,「夫婦間の扶養義務のほかに,親の未成年子に対する扶養義務を明文化すべきであろう。これらの義務については,権利者・義務者の同居・別居にかかわらず義務は存続することも明示した方がよい。」と唱えられていたところです(同472-473頁)。
新民法817条の12第1項後段においては,扶養を受けるべき子は未成年子に限定されていませんが,この非限定性は,フランス民法371条の2第2項(「子の養育料を負担する親の義務は,親権が剥奪され,若しくは停止されたこと又は子が成年であることによっては当然消滅しない。(Cette obligation ne cesse de plein droit ni lorsque l'autorité parentale ou son exercice est retiré, ni lorsque l'enfant est majeur.)」)の後段においても同様です。ただし,新民法817条の12第1項の扶養義務については,同項においては「父母が子との関係で生活保持義務を負うのが「子の心身の健全な発達を図るため」であるとしている」ことに注目すべきでしょう(家族法制部会資料34-2の6頁(注)参照)。
3 民法821条における「子の人格を尊重する」こと。
ここで具体的に,既存の規定である民法821条における「子の人格を尊重する」ことの趣旨の検討をしてみましょう。
(1)御当局の解説について
民法821条の趣旨を手っ取り早く知るために御当局の改正法立案御担当者の解説本を参照すると,次のようにあります。「親権者に「子の人格を尊重するとともに,その年齢及び発達の程度に配慮しなければなら」ないとの義務を課すこととしていますが,その趣旨は何ですか。」との問いに対して回答がされ,いわく。
親権者による虐待の要因としては,親が自らの価値観を不当に子に押し付けることや,子の年齢や発達の程度に見合わない過剰な要求をすること等があるとの指摘がされています。
改正法では,このような指摘を踏まえ,親子関係において,独立した人格としての子の位置付けを明確にするとともに,子の特性に応じた親権者による監護及び教育の実現を図る観点から,親権者の監護教育権の行使における行為規範として,子の人格を尊重する義務並びに子の年齢及び発達の程度に配慮する義務を規定することとしたものです。
(佐藤隆幸編著138頁。下線は筆者によるもの)
わざわざ押し付けようとする「価値観」ですから,高尚なものなのでしょう。「過剰な要求」も,よかれと思われる方向に向けての要求なのでしょう。このような過剰な要求の問題に対処するために「年齢及び発達の程度に配慮」することが求められ,その余の価値観の押し付け等の問題に対処するために「子の人格を尊重する」ことが求められるのでしょう。
しかしながら残念なことにあんたの子供の「特性」すなわち生来の資質・志向・能力は,そのような高尚な価値観に見事に適合し,かつ,よかれと思っての諸々の要求に着々応えることができるという高度な水準に達した立派なものではないんだよ,むしろ出来の良くない方なのだよ,早熟の天才であるわけなど全然ないんだよ,諦めるべきところは早々に諦めた方が変な「虐待」騒動に巻き込まれずに済んで家族みんなの幸福のためになるんだよ,子とはいっても所詮は他人(「独立の人格」)なのだよ,諦めるんだよ,と勧告するのが,民法821条の趣旨なのでしょうか。そうであれば,「人格の尊重」なるEuphemismusの内実は,高尚な価値観を受け付けない当該人の具合の悪さをそれとして認識・受容した上で,同人に期待するところをその人物(personne)の程度・性向に合わせて変更せよ,という消極的なResignationの勧めなのでしょう。高い価値に向かって引き上げよ,押し上げよ,相共に前進せよ,という積極的なものではないのでしょう。
「人格を尊重」せよと言われると,つい当該人格の帰属者の「価値観」に迎合してかいがいしく当該人物に傅かねばならないように思ってしまいます。しかし,それは忖度の先走り過ぎであって,敬してあえて遠ざかる対応もあってよいはずです。内面における「人格の尊重」と外面的かつ積極的な「人格を尊重している旨の表示行為」とは同一ではありません。むしろ,尊重するに値する人格は手のかからないものであって,巧言令色足恭なる表示行為を恥とするものでしょう(論語公冶長)。「人格の尊重」は,積極的な給付を行うことを必ずしも義務付けるものではないのでしょう。
(2)家族法制部会長・大村教授の所説に関して
民法821条における「人格を尊重」の意義については,また,令和4年法律第102号として結実することとなった要綱案(2022年2月1日「民法(親子法制)等の改正に関する要綱案」。そのまま採択された要綱は,佐藤隆幸編著147頁以下に掲載)を取りまとめた法制審議会の民法(親子法制)部会の部会長であった大村敦志教授の次の文章も参照されるべきでしょう。
〔略〕暴力によらない教育 懲戒権についても,基本的には削除してよい。ただし,〔民法旧822条の〕削除によってしつけができなくなるという誤解を避けるために,親権を行う者には,子に対してしつけ(discipline)を行うことができる,という趣旨の規定を置いた方がよいかもしれない。もっとも,懲戒(correction)の場合と異なり,しつけには「暴力 violence」の行使は含まれず子を「尊重 respect」して行われなければならない旨を注記することも必要だろう。
(大村256頁)
フランス派である大村教授の用いるrespectの語は,「レスペ」と発音するフランス語でしょう。同教授の著書には,「フランスでは,最近の民法改正によって,夫婦の義務に「尊重(respect)」が追加されたが,これは,相互の尊重を害する行為として暴力行為を位置づけるためではないかと思われる。」との一節があります(大村117-118頁。ただし同258頁は,フランス民法212条に加えられた夫婦の義務を「尊敬 respect」であるものとし,訳語が異なっています。また,同条は“Les époux se doivent mutuellement respect, fidélité, secours, assistance. (夫婦は相互に尊重,貞操,扶助及び協力の義務を負う(大村258頁参照)。)”ですので,尊重されるのは相手方配偶者そのものであって,その人格ではありません。)。
当該単語“respect”の意味をLe Nouveau Petit Robert (1993)で検してみると,①古義は「考慮すること(Fait de prendre en considération)」,②現代では「同人について認められる価値のゆえに当該某に対する嘆賞の思い(une considération admirative)を抱かしめ,かつ,同人に対して節度及び自制をもって(avec réserve et retenue)振る舞うようにさせる感情(sentiment)」,③複数形では「敬意の印」,④「よいと判断されたもの(une chose jugée bonne)に対する,侵害せず,違背しないようにとの気遣いを伴う(avec le souci de ne pas y porter atteinte, de ne pas l’enfreindre)配慮(considération)」,⑤やや古い表現である“respect humain”は「他者の判断に対する恐れ(crainte)であって,一定の態度を避けるに至らしめるもの」及び⑥熟語として“tenir qqn en respect”は,「武器を用いて誰それを近づけない」ということである,というような説明がありました。⑥において顕著ですが,respectは,相手と距離を置くこと(le tenir à distance)を伴うものであって,節度及び自制(②)並びに侵害及び違背の避止(④)という消極的な配慮によって特徴付けられる態度であるわけです。かしこんで,みだりに関与しないということでしょう。べたべたと積極的に世話を焼くことが求められているわけではありません。②の語義に関するバルザックからの引用には「尊重(le respect)は,父母もその子らも同様に保護する障壁(une barrière)である。」とありました。分け隔てる障壁であって,温やかな一体化を促進するものではありません。(ところで,余計なことながら,⑤のrespect humainは,我が新型コロナウイルス対策流行時代の日本語では「思いやり」ですね。)
しかし,衒学的にフランス語辞典を振り回さずとも,「尊重(respect)」するとは,単に,相手方に暴力を振るわず,かつ,その「個人の尊厳」たる「名誉」を害しない,ということを意味するにすぎないのだ,ということでもよいのでしょうか。大村教授の著書においては,前記のとおり,フランス民法で夫婦の義務にrespectが追加されたのは「これは,相互の尊重を害する行為として暴力行為を位置づけるためではないかと思われる。日本法においても,同様の規定を置くことは考えられないではない。」と記載されているとともに(大村118頁。また,258頁),「今日においては,侮辱こそが重要な離婚原因であるのではないか」,婚姻において「再び「名誉」が重要になりつつある。もっとも,ここでの「名誉」とは,「個人の尊厳」にほかならない。「尊重」という言葉はこのことを表すのである。」との見解が表明されています(同118頁)。
ただし,専ら暴力及び侮辱の禁止ということであれば民法821条後段の「体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動をしてはならない」で読めてしまうので,同条前段にいう「人格を尊重」は,それより広義なものと解さなくては,後段との単なる重複規定となって面白くないことになります。そこで,「価値観の不当な押し付け等」の禁止が含まれるものとされたのでしょう。他方,新民法817条の12は,父母は「体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動をしてはならない」旨まで明定することをしていませんが,これは,当該規律は「その子の人格を尊重する」というところに当然含まれているから,ということなのでしょう。
(3)フランス民法371条の1
その後,フランス民法において,子の人格の尊重(respect)規定が設けられています。
Article 371-1
L'autorité parentale est un ensemble de droits et de devoirs ayant pour finalité l'intérêt de l'enfant.
Elle appartient aux parents jusqu'à la majorité ou l'émancipation de l'enfant pour le protéger dans sa sécurité, sa santé, sa vie privée et sa moralité, pour assurer son éducation et permettre son développement, dans le respect dû à sa personne.
L'autorité parentale s'exerce sans violences physiques ou psychologiques.
Les parents associent l'enfant aux décisions qui le concernent, selon son âge et son degré de maturité.
第371条の1 親権は,子の利益を志向する権利及び義務の総体である。
親権は,その安全,健康,私生活及び徳性において子を保護するため,並びに,その人格に対して正当に払われるべき尊重をもって(dans le respect dû à sa personne)その教育を確保し,及びその発展を可能とするため,子の成年又は親権解放まで,父母に(aux parents)帰属する。
親権は,肉体的又は精神的な暴力を伴わずに行使される。
父母は,その年齢及び発達に応じて,子にかかわる決定にその子を参与させる。
フランス民法371条の1では,親権の行使における肉体的又は精神的な暴力の禁止の規律(同条3項。佐藤隆幸編著128頁では「親権は身体的暴力又は精神的暴力を用いずに行使される。」と訳されています。)とは直接結び付けられない場所において,子の「人格に対する正当に払われるべき尊重」が語られています(同条2項)。
「その人格に対する正当に払われるべき尊重をもって」の部分は「その安全,健康,私生活及び徳性において子を保護する」の部分にまでかかるものかどうかは難しいところですが,pour… pour…の区切りを大きいものと解してみました。確かに,安全やら健康にかかわる場面においては,最近の新型コロナウイルス感染対策の「徹底」的実施情況に鑑みても,いちいち各人の「人格に対する正当に払われるべき尊重」など気にしてはいられないでしょう。
しかしながら,子の「教育を確保し,及びその発展を可能とする」という場面(なお,ここでの教育及び発展は,単に肉体的なものではなく,そこにおいて尊重せられるべきものたる「人格」に係る「人格」的なものなのでしょう。)ならざる徳性(moralité)の保護の場面においては,その子の「人格に対する正当に払われるべき尊重」などというものに頓着する必要はないということになると,難しいことになるようです。教育及び発展に関する配慮と徳性の保護との切り分けが大きな重要性を帯びることになってしまうからです。特に家庭における宗教実践は,子の教育及び発展に係る配慮の側面とその徳性の保護の側面との両面を有するものでしょう。前者においては子の人格を尊重するが,後者においては子の異議は一切許さない,というような使い分けがうまく行くものかどうか。また,神聖な宗教の価値観の押し付けが「不当」なものであることは,切り分け云々以前に,そもそもあり得ないとの主張も当然あるでしょう。
なお,フランス民法371条の1第2項は子の「人格に対する正当に払われるべき(dû)尊重」といって,単純に「人格に対する尊重」といっていませんが,父母としてふさわしからざる,子の人格に対する迎合的尊重まではする必要はない,という趣旨でしょうか。
(4)解釈論
以上フランス民法をも参考にして民法821条における「子の人格を尊重」の意味するところを解せば,親権を行う者による子に対する暴力及び侮辱を禁止する(これは,子の虐待防止の緊要性に鑑み,同条後段において再び,単純な暴力及び侮辱の禁止よりもやや包括的な形で文字化されていることになります。)ほか,子の教育及びその人格的発展に係る監護においては,親権者はその理想を,子の特性(資質・志向・能力の限界又は偏向)の前に諦念と共に譲って(ただし,フランス民法371条の1第2項の“dû”の文言を重視すれば,無節操に子に迎合するということではないことになります。),自らの価値観の承継などということに執着すべからず,と義務付けるものということになるでしょうか。
4 新民法817条の12における「人格を尊重」すること。
(1)第1項
新民法817条の12第1項の「子の人格を尊重」については,民法821条におけるもののように理解すれば大体のところはよいのでしょう。
ただし,新民法817条の12第1項の「子の人格を尊重」に関しては,法制審議会家族法制部会において,子の意見等を尊重・考慮(これは,2024年1月30日に開催された同部会第37回会議に提出された同部会資料37-2の2頁によれば,「子の「意見」・「意思」・「意向」・「心情」等の「考慮」又は「尊重」」ということのようです。)する旨の規定を別に明示すべきではないかということが問題となり,最終的な整理は,同部会第37回会議における法務省民事局参事官である北村治樹幹事の発言(同会議議事録2頁)によれば,同項の「子の人格を尊重する」ことは,「子の意見等が適切な形で尊重されるべきとの考え方を含むもの」であるとされたとのことです。しかして結局このようにして子の意見等の尊重に係る規定を特に設けなかったことの意味は,同部会の資料34-2における記載(「子の人格の尊重等を掲げることに加えて,子の意見等を尊重・考慮すべきことを父母の義務として掲げるべきかどうかを検討するに当たっては,子の意見等を明示的に規定することの法的意味やそれが父母の行動に与える影響等を踏まえつつ,どのような表現により規律することが相当かも含め,慎重に検討する必要があるように思われる。この部会のこれまでの議論においても,例えば,具体的な事情の下では子が示した意見等に反しても子の監護のために必要な行為をすることが子の利益となることもあり得るとの指摘や,子の意見等を尊重すべきことを過度に重視しすぎると,父母が負うべき責任を子の判断に転嫁する結果となりかねないとの指摘,父母の意見対立が先鋭化している状況下において子に意見表明を強いることは子に過度の精神的負担を与えることとなりかねないとの指摘などが示されていた。」(5-6頁))等に鑑みると,子の意見等の尊重といっても,そこには自ずと限界があるということを含意するものでしょう(フランス民法371条の1第2項の“dû”参照)。確かに,子の意見表明権といってもその際親が「自己の都合のいいようにこどもに意見を言わせるというような行為は不適切な行為であって,それこそ子の人格の尊重にもとる行為」(2024年1月9日に開催された法制審議会家族法制部会第36回会議における池田清貴委員発言(同会議議事録14頁))となるものでしょう。子の人格の独立性もあらばこそ,親が子の人格を否認して,自己の人格に従属させることになるからです。
(2)第2項
他方,新民法817条の12第2項は,子の父母は「子に関する権利の行使又は義務の履行に関し,その子の利益のため,互いに人格を尊重し協力しなければならない」ということですから,そこでは父母間における相互的な「人格の尊重」が求められています。
これについては,親による「子の人格の尊重」の場面とは異なりますから――新民法817条の12第2項における父母は,夫婦すなわち婚姻関係にあるものに限定されていないものの――フランス民法212条の規定する夫婦相互の義務に関する前記大村教授流の解釈を採用することが可能であるようです(ただし,夫婦ではないので,「貞操,扶助及び協力(なおこの「協力」は "assistance"ですので,新民法817条の12第2項の「協力」とは異なる「助力」「補佐」といったものでしょう。)」の義務は相互に負いません。)。そうであれば,「互いに人格を尊重し」と文言は抽象的ながらも,その意味するところは両者間における暴力・侮辱の禁止にとどまることになりましょう(法制審議会家族法制部会資料34-2によれば「部会のこれまでの議論においては,離婚後の父母双方が子の養育に関して責任を果たしていくためには,父母が互いの人格を尊重できる関係にある必要があることや,父母が平穏にコミュニケーションをとることができるような関係を維持することが重要であることなどの意見が示された」ことを踏まえて「父母がその婚姻関係の有無にかかわらず互いの人格を尊重すべきである」との規定が生まれたそうですが(6頁),「互いの人格を尊重できる関係」といわれただけではなお具体的にどのようなものかが分かりにくいところ,「平穏なコミュニケーション」の確保が主眼ということになりましょうか。)。「協力」することの前提条件としてはこれで満足すべきなのでしょう。価値観の相違等は,協力の過程の中で解きほぐされて何とかされていくべきものでしょう。新民法817条の12第2項の「互いに人格を尊重し・・・なければならない」との「人格尊重義務」の違反には,「親権者の指定・変更の審判や,親権喪失・親権停止の審判等において,その違反の内容が当該父母の一方にとって不利益に考慮されることになるとの解釈があり得る」とのことですので(法制審議会家族法制部会資料34-2の7頁(注1)),当該義務の外延は明確に限定されてあるべきものでしょう。ちなみに,離婚後等の父母共同親権状態を父母のうちいずれか一方の単独親権に変更する場合の審判において適用される新民法819条7項2号は,「父母の一方が他の一方から身体に対する暴力その他の心身に有害な影響を及ぼす言動(次項において「暴力等」という。)を受けるおそれ」等の事情を考慮するものとしています。父母が協力してする子の養育においても,両者間における当該暴力等が協力の阻害要因として特に懸念されるということでしょう。
その余の種々の注文を取り除いた狭い解釈(専ら暴力・侮辱を禁ずるものとの解釈)を採用した方が,それについて「互いに人格を尊重」すべきものとされた(暴力・侮辱禁止以外の)多様な事項に係る諸々の事情が理由ないしは口実(例えば,「全面的に私の人格を尊重しないような奴と子育てについて協力するいわれはない」云々)とされて「その子の利益のため」の「協力」及びそれに向けた努力が放棄されてしまうという(子にとって残念であろう)場面が,より少なくなるものと思われます。
法制審議会家族法制部会第36回会議において示された原田直子委員の理解によれば,新民法317条の12第2項の「互いに人格を尊重し」なければならないとの規律に違反して「親権の変更とか,そういう問題に通じる」行為は,「父母間の対立をあおる行為」であって,①「DVや虐待」,②「濫訴的な申立て」,③「父母の同意なしに勝手にこどもの写真とかをネットに上げ」ること及び④「元配偶者の批判をするとかいう行為」が含まれるとされています(同会議議事録5頁)。しかし,同項での「人格を尊重し」の射程の限界付けを重んじようとする立場からすると,①はともかく,②は非協力・反協力の問題であり,③は子の利益に反するとともに非協力であるから問題なのでしょうし(なお,ちなみにフランス民法372条の1第1項は「父母は,第9条に規定する私生活の権利を尊重して,彼らの未成年子の肖像権を共同して保護する。(Les parents protègent en commun le droit à l'image de leur enfant mineur, dans le respect du droit à la vie privée mentionné à l'article 9.)」と規定しています。),④も,相手方に対する侮辱に相当することとなる場合に当然問題となるほかは,子に対してされる場合において,子の利益に反するときに問題となり,かつ,間接的に反協力行為となるものであると考えるべきではないでしょうか。
なお,別居親(les parents séparés)による親権行使に関するフランス民法373条の2第2項は「父母の各々は,子との個人的な関係を維持し,かつ,その子と他方の親とのつながりを尊重しなければならない。(Chacun des père et mère doit maintenir des relations personnelles avec l'enfant et respecter les liens de celui-ci avec l'autre parent.)」と規定しています。ここで父母の各々が尊重すべきもの(doit respecter)として規定されているのは,「子と他方の親とのつながり」です(ちなみに,当該つながり(liens)に対する「尊重」の意味するところは,要は,積極的作為義務ではなく,他方の親と子とのつながりを阻止し,又は稀薄化し,若しくは消滅せしめるような意地悪をするな,という消極的なものでしょう。)。これに対して,我が新民法817条の12第2項において,父母によって尊重されるべきものは専ら互いの人格です。しかし,相手方によって尊重されるべき父又は母の各「人格」にその子とのつながりまでが当然含まれるものかどうか。やはりそこまでは,ちょっと読み取りにくいように思われます(なお,2023年11月28日開催の法制審議会家族法制部会に提出された同部会資料34-2には「部会資料32-1の第2の3の注2では,「監護者による身上監護の内容がその自由な判断に委ねられるわけではなく,これを子の利益のために行わなければならないこととの関係で,一定の限界があると考えられる。例えば,監護者による身上監護権の行使の結果として,(監護者でない)親権者による親権行使等を事実上困難にさせる事態を招き,それが子の利益に反する場合がある」との指摘を注記しているが,このような監護者による監護の限界を父母間の人格尊重義務と結びつけて整理することもできると考えられる。」とありますが,当該監護の限界は,やはり直接的には「子の利益に反する」ことによるとともに,親権者に対してはそもそもその権利を侵害してはならないことによるのではないでしょうか。)。
父母の各々と子とのつながりに対する他方の「尊重」については,我が国ではむしろ,「親子の交流等」に係る新民法817条の13第1項の規定(「第766条〔協議離婚〕(第749条〔婚姻の取消し〕,第771条〔裁判上の離婚〕及び第788条〔父による認知〕において準用する場合を含む。)の場合のほか,子と別居する父又は母その他の親族と当該子との交流について必要な事項は,父母の協議で定める。この場合においては,子の利益を最も優先して考慮しなければならない。」)における「〔父母の協議〕の場合においては,子の利益を最も優先して考慮しなければならない」の部分が対応するということなのでしょう。しかし,「子の利益を最も優先して考慮」した結果,他方の親とのつながりを阻止し,又は稀薄化し,若しくは消滅せしめるべきであるとの結論に達した父母の一方の当該結論を,同項の規定自体によって否定することは難しいのではないでしょうか。
「面会交流はかえって父母の間の関係を複雑にする,という危惧も強く,その権利性を認めるのに慎重な見解」があったところ(大村98頁),2023年7月18日に開催された法制審議会家族法制部会第29回会議に提出された同部会資料29に記載されているところは「(抽象的な)親子交流の法的性質についていかなる見解を採るにせよ,本文記載のとおり,父母の協議又は審判によって具体的に親子交流の定めがされた場合には,父母間に具体的な権利義務が発生するものと考えられる。この部会における議論の中では,父母は,離婚後も,子の養育に関して双方の人格を尊重しなければならないとする考え方も示されていたところ,仮にこの考え方を採用する場合には,父母の協議又は審判によって親子交流の定めがされ,これが具体的な権利となったときには,父母は,その実施に当たって相互に協力するとともに,互いの人格を尊重しなければならないとする考え方があり得る。他方で,仮に親子交流をすることが親の権利であると考える意見に立ったとしても,この「権利」は,子の利益のために行使すべきものである上,父母の協議又は審判によって親子交流の定めがされるまでは,その権利の内容が具体的に定まらないため,子と別居する親が,親であること(又は親権者であること)のみをもって,同居親に対し,自己の希望する方法や頻度での親子交流の実施を一方的に請求し,その強制をすることができるわけではないと考えられる。」というものでありました(35頁(注1))。結局,家族法制部会資料34-2においては,「親子交流については,父母の協議又は家庭裁判所の手続によって定めることが想定されているため(〔民〕法第766条),この資料のゴシック体の記載のような規律〔新民法817条の12に対応〕を設けたとしても,〔中略〕父母の協議等を経ることなく別居親が親子交流の実施を一方的に求めることができるようになるわけではないと考えられる。」とされています(4-5頁(注1))。
ちなみに,フランス民法373条の2の1第2項は,「訪問及び宿泊受入れの権利の行使は,重大な事由によらなければ,他方の親に対して拒絶され得ない。(L'exercice du droit de visite et d'hébergement ne peut être refusé à l'autre parent que pour des motifs graves.)」と規定しています。
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