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1 第213回国会の民法等の一部を改正する法律案及び民法821条:「人格を尊重」

 

(1)第213回国会の民法等の一部を改正する法律案における「人格を尊重」

 2024126日に召集された第213回国会において,現在,内閣から提出された民法等の一部を改正する法律案が審議されています。同法案が法律として成立した場合,2026年の春には(同法案における附則1条本文には「この法律は,公布の日から起算して2年を超えない範囲内において政令で定める日から施行する。」とあります。),民法(明治29年法律第89号)に次の条項が加えられることとなるそうです(下線は筆者によるもの)。

 

  (親の責務等)

  第817条の12 父母は,子の心身の健全な発達を図るため,その子の人格を尊重するとともに,その子の年齢及び発達の程度に配慮してその子を養育しなければならず,かつ,その子が自己と同程度の生活を維持することができるよう扶養しなければならない。

  2 父母は,婚姻関係の有無にかかわらず,子に関する権利の行使又は義務の履行に関し,その子の利益のため,互いに人格を尊重し協力しなければならない。

 

 「人格を尊重」という荘厳な文言が,まぶしい。目がつぶれそうです。「尊重」と「尊厳」ということで漢字は1字違いますが,「〔憲法〕13条は,「個人の尊重」(前段)と「幸福追求権」(後段)との二つの部分からなる。前段は,後段の「立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする」と一体化して,個人は国政のあらゆる場において最大限尊重されなければならないという要請を帰結せしめる。これは,一人ひとりの人間が「人格」の担い手として最大限尊重されなければならないという趣旨であって,これを「人格の尊厳」ないし「個人の尊厳」原理と呼ぶことにする。」(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)444頁),「「人格の尊厳」原理は,まず,およそ公的判断が個人の人格を適正に配慮するものであることを要請し,第2に,そのような適正な公的判断を確保するための適正な手続を確立することを要求する。したがって,例えば,一人ひとりの事情を不用意に概括化・抽象化して不利益を及ぼすことは許されない。行政の実体・手続の適正性の問題については諸説があるが,基本的にはまさしく本条によって要請されるところであると解される。」(同444-445頁)というような,憲法学における高邁な議論が想起されるところです。

 しかし,憲法学上の難しい議論はさておき,我ら凡庸な人民の卑俗な日常生活の場において,他者の「人格を尊重」し,自己の「人格を尊重」せしめるとは具体的にどのような発現形態をとるのでしょうか。これらについての探究が本稿の課題です。

 

(2)脱線その1:「個人の尊厳」論

 

ア 民法2条の「個人の尊厳」

 なお,民法2条には「人格の尊重」ならぬ「個人の尊厳」の語が出て来ます。憲法学的には「〔憲法13条の〕「個人の尊厳」原理は,直接には国政に関するものであるが,民法1条ノ2〔現第2条〕を通じて解釈準則として私法秩序をも支配すべきものとされ」ていますが(佐藤幸治445頁),民法学的には,同条に規定するところの同法の「個人の尊厳を旨とした解釈」の標準は「主として親族・相続両編の解釈について意義を有する」ものとされ,「というのは,親族編と相続編〔筆者註:昭和22年法律第74(なお,同法は一般に「日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律」と呼ばれますが,これは正式な題名ではなく,件名です。)で手当てがされ,昭和22年法律第222号によって改正されるまでのもの〕は,家族制度を骨子として構成され,家を尊重して個人の尊厳を無視し,家父長の権利を強大にして家族の意思を拘束し〔略〕ていたからである。」と説明されています(我妻榮『新訂民法総則(民法講義)』(岩波書店・1965年)29-30頁)。

「個人の尊厳」概念は,明治的な家制度及び家父長制度の各遺制に対処すべきものであるということになります。

昭和22年法律第74号の第1条は「この法律は,日本国憲法の施行に伴い,民法について,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚する応急的措置を講ずることを目的とする。」と規定していますところ,憲法242(「配偶者の選択,財産権,相続,住居の選定,離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては,法律は,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して,制定されなければならない。」)の射程は,すなわち昭和22年法律第74号が措置を講じた範囲であるのだというのが我が国の公式解釈であったことになります。同法及び昭和22年法律第222号によって家制度と家父長制度とが既に退治せられたので,現在,新しい家族の形を尊重しつつ働くべき法概念は壊し屋たりし「個人の尊厳」ではなく,それとは異なる,例えば「人格の尊重」のような新たに穏健なものたるべし,ということになったわけでしょう。というのは,「個人の尊厳」概念については,「家族の問題について「個人の尊厳」をつきつめていくと,憲法24条は,家長個人主義のうえに成立していた近代家族にとって,――ワイマール憲法の家族保護条項とは正反対に――家族解体の論理をも含意したものとして意味づけられるだろう」(樋口陽一『国法学 人権原論』(有斐閣・2004年)56頁)ということでもありますので,当該概念の濫用はうっかりすると「家族解体」につながりかねず剣呑であるからです。

なお,1919811日のドイツ国憲法たる「ワイマール憲法の家族保護条項」はその第1191項であって,「婚姻は,家族生活及び国民の維持発展の基礎として,憲法の特別の保護を受ける。それは,両性の同権に基礎を置く。(Die Ehe steht als Grundlage des Familienlebens und der Erhaltung und Vermehrung der Nation unter dem besonderen Schutz der Verfassung. Sie beruht auf der Gleichberechtigung der beiden Geschlechter.)」と規定するものです。

 

イ GHQ草案23条の“individual dignity and the essential equality of the sexes”と憲法24条の「個人の尊厳と両性の本質的平等」との間

 ちなみに,日本国憲法24条がそれに基づいた案文であるGHQ草案23条は,“The family is the basis of human society and its traditions for good or evil permeate the nation. Marriage shall rest upon the indisputable legal and social equality of both sexes, founded upon mutual consent instead of parental coercion, and maintained through cooperation instead of male domination. Laws contrary to these principles shall be abolished, and replaced by others viewing choice of spouse, property rights, inheritance, choice of domicile, divorce and other matters pertaining to marriage and the family from the standpoint of individual dignity and the essential equality of the sexes.”と規定していました。日本国憲法242項は,GHQ草案23条における“from the standpoint of individual dignity and the essential equality of the sexes”の部分を「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して」の意味であるものと解して制定されたわけですGHQ草案23条の我が外務省による訳文は「家族ハ人類社会ノ基底ニシテ其ノ伝統ハ善カレ悪シカレ国民ニ滲透ス婚姻ハ男女両性ノ法律上及社会上ノ争フ可カラサル平等ノ上ニ存シ両親ノ強要ノ代リニ相互同意ノ上ニ基礎ツケラレ且男性支配ノ代リニ協力ニ依リ維持セラルヘシ此等ノ原則ニ反スル諸法律ハ廃止セラレ配偶ノ選択,財産権,相続,住所ノ選定,離婚並ニ婚姻及家族ニ関スル其ノ他ノ事項ヲ個人ノ威厳及両性ノ本質的平等〔筆者註:この「的平等」の3文字は,和文タイプでは打ち漏れています。〕ニ立脚スル他ノ法律ヲ以テ之ニ代フヘシ」というものでした。)

しかし,“dignity of the individual”ならぬ“individual dignity”を,例えば「個々の尊厳」ではなく,「個人の尊厳(又は威厳)」と訳したことには何だかひっかかりが感じられます。そこで当該英文を改めて睨んでみると,あるいは,“individual dignity of the sexes”(両性各々の尊厳)及びそのように両性各々が尊厳あるものであることに基づく“the essential equality of the sexes”(両性の本質的平等)のstandpointから,と読むべきものだったのかもしれない,と思われてきました。男性性(夫)及び女性性(妻)はそれぞれ特有の尊厳を有するとともに,いずれも尊厳あるものであることにおいて,両性(夫婦)は本質的に平等である,という意味でしょうか。通常単数形で用いられるとされるstandpointがやはり単数形で用いられていますから,“individual dignity and the essential equality of the sexes”をひとかたまりのものとして捉える読み方を採るべきでもありましょう。Female sexのみならずmale sexにもdignityがあるのだと言われれば,男性は,救われます。

なるほど。そういえば確かに,GHQ草案23条においてそれらに反する法律は廃止せられるべしとされたところの婚姻に関する当該諸原則は,①家族は人間社会の基盤であること,及び婚姻は,②親の強要にではなく,(男女)相互の合意に基づき,かつ,③男性の支配によってではなく(夫婦の)協力によって維持されて,④両性の争うべからざる法的及び社会的平等の上に位置付けられたものたるべし,というものであって(なお,ここで男女の社会的平等までぬけぬけと憲法で保障しようとするのは,当時のソヴィエト社会主義共和国連邦憲法122条の影響でしょうか。GHQ草案23条の原案起草者であるベアテ・シロタ女史は起草準備作業の際に「ワイマール憲法とソビエト憲法は私を夢中にさせた」と回想しています(篠原光児「憲法24条の成立過程について」白鷗法学第8号(1997年)74頁)。),①はSollen(在るべきもの)ではなくSein(現に在るもの)について語っていますから,どうも②以下の男女平等が中心であったようです。④こそが主要原則でしょう。②及び③は,原則というには細かいですし,④に対する副次的なものでしょう(特に②については,昭和22年法律第222号による改正前の民法(以下「明治民法」といいます。)でも,男女の合意なしに親の意思のみで婚姻をさせることはできない建前でしたから(明治民法7781号は現行民法7421号と同旨),法律上の問題というよりは,社会事実上の問題でしょう。③に関しては,明治民法790条の「夫婦ハ互ニ扶養ヲ為ス義務ヲ負フ」及び789条の「妻ハ夫ト同居スル義務ヲ負フ/夫ハ妻ヲシテ同居ヲ為サシムルコトヲ要ス」が,現行民法752条では「夫婦は同居し,互いに協力し扶助しなければならない。」になっています。これで,「夫の権威中心から夫婦の協力に推移したことを明らかに看取しうるであろう。」ということであります(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)81頁)。なお,法定財産制に係る明治民法798条は「夫ハ婚姻ヨリ生スル一切ノ費用ヲ負担ス但シ妻カ戸主タルトキハ妻之ヲ負担ス/前項ノ規定ハ第790条及ヒ第8章〔扶養ノ義務〕ノ規定ノ適用ヲ妨ケス」というものでしたが,同条1項本文の規定は,男はつらいよ,というよりも,実は男性支配を法定する女性虐待規定であったということなのでしょう(婚姻費用を平等負担するものとする夫婦財産契約は可能であったはずですが(明治民法793条以下)。)。ちなみに現行民法には「協力」の語は2箇所でしか出現せず,憲法241項由来の第752条のそれのほかは離婚の際の財産分与に係る第7683項にあるのですが,同項における「協力」も,実はGHQの担当者から言い出した米国側由来のものであるそうです(我妻榮編『戦後における民法改正の経過』(日本評論社・1956年)140頁(小沢文雄(当時は司法省民法調査室主任)発言))。)。すなわち,家族法制全般について広く問題点が指摘されているというよりは,専ら男女間の婚姻の場面に焦点が当てられていたところです。

そもそもGHQ草案の起草段階におけるベアテ・シロタ女史の原案は,最終的にGHQ草案23条となった条項(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川ソフィア文庫・2014年)220-221頁参照)に続いて,母性保護条項,非嫡出子差別解消条項,養子に係る制限条項,長子権廃止条項,児童の教育,医療及び労働に関する各条項,労働権条項並びに社会保障条項が並ぶ長いものであって(鈴木279-281頁参照),最終的にGHQ草案23条となった条項も,実はそう広い射程のものとして意図されていなかったように思われます。

また,シロタ女史は「私は,どうしても女性の権利と子供の保護を憲法に詳しく書いておかなければならないと思って,とても細かく書きました。」と回想していますところ(鈴木276頁),保護されるべき者の細かい権利に専心する彼女にとっては,強い男性のそれをも包含する「個人の尊厳」というような普遍的な概念(なお,強い男性は,「個人の尊厳」の個人に包含されるというよりも,むしろ彼らによってこそ「個人の尊厳」が象徴されていたものでしょう。「近代西欧家族の「個人」が実は家長個人主義というべきものだった」こと(樋口56頁)に留意すべきです。)の称揚には興味がなかったのではないでしょうか。

また,「婚姻を「民族の維持・増殖の基礎」として憲法の保護対象とするワイマール憲法1191項と比べればもとより,〔1949年の〕ボン基本法6条が婚姻と家族に対する国家の保護に言及するにとどまっているのと比べても,「個人の尊厳」を家庭秩序内にまで及ぼそうとする点で,日本国憲法24条はきわ立っている」わけですが(樋口145頁),そのような「きわ立」ちまで,当時のGHQは意図していたものかどうか。現実には,明治民法の占領下における改正に関して,GHQは「正面きって家の制度を廃止しろといったようなことは全然ありませんでした」ということであって(我妻編13頁(奥野健一(当時は司法省民事局長)発言)),その報告書(Political Reorientation of Japan (1948))でも「家の制度の全面的廃止の問題は,憲法を履行するという憲法実施の要請以上の問題であるから,スキャップ〔聯合国最高司令官〕としてはこれを命令しなかった,スキャップとしては両性の平等とか個人の自由の原則は別として,家族法といったようなもののごときは,これを近代化し民主化するということはむしろ日本人自身の問題と考えたのであって,東洋の国に西洋的な家族関係の思想を標準として押しつけるというようなことは賢明とは考えなかったから命令しなかった,従って〔日本側の〕臨時法制調査会が家の制度の全廃を多数をもって決議〔19461024日の民法改正要綱決定〕したということを聞いたときは,スキャップとしては非常に驚いて,進歩的態度の表明としてその議決を歓迎した,というふうに報告して」いたところです(我妻編14頁(奥野による紹介))。家の制度と両立し難いものとしての「個人の尊厳」概念が,それとしてGHQ草案23条において提示されていたものとは考えにくいところです。

シロタ女史は,ワイマル憲法1191項を叩き台にして(篠原79頁(14)。同女史の原案には,GHQ草案23条においては削られている「したがって,婚姻及び家族は法によって保護される。(Hence marriage and the family are protected by law)」という文言が,「家族ハ人類社会ノ基底ニシテ其ノ伝統ハ善カレ悪シカレ国民ニ滲透ス」の部分の次にありました。これを再挿入すると,「婚姻は,家族生活及び国民の維持発展の基礎として,憲法の特別の保護を受ける」云々とするワイマル憲法1191項の組立てとの類似がより明らかになります。),同項を修正敷衍し,日本社会の当時の現実における男尊女卑的夫婦関係の問題点を指摘挿入し,かつ,当該問題点を是正すべき新立法を命ずることとして,結果として見られるような饒舌な条文をものしたものと思われます。

 

(3)民法821条の「人格を尊重」

 以上をもって長い憲法論をおえて,法令における「人格を尊重」のこれまでの用例に当たらんとするに,実は現行民法には既に「人格を尊重」云々の文言が存在していました。次のとおりです(下線は筆者によるもの)。

 

   (子の人格の尊重等)

  第821条 親権を行う者は,前条の規定による監護及び教育をするに当たっては,子の人格を尊重するとともに,その年齢及び発達の程度に配慮しなければならず,かつ,体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動をしてはならない。

 

令和4年法律第102号によって設けられ,20221216日から施行されている規定です(同法附則1条ただし書)。

 

(4)脱線その2:民法821条の位置論(「削除」を削る。)

ところで,ここでまた脱線して民法821条の位置について一言感想を述べれば,同条は「親権者の監護教育権(第820条)の行使一般についての行為規範を規定」する「総則的規律」であり,かつ,「監護教育権の各論的な規律の前の位置に」置かれるべきものであるそうですから(佐藤隆幸編著『一問一答 令和4年民法等改正――親子法制の見直し』(商事法務・2024年)130頁),「監護教育権の根拠規定」(同頁)である同法820(「親権を行う者は,子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し,義務を負う。」)の第2項として同条にまとめて規定される形でもよかったように思われます。しかし,あえてそれまでの第821(「子は,親権を行う者が指定した場所に,その居所を定めなければならない。」)を新822条に押しのけた上での新条追加の形が採られているところです。

そこでその理由をうがって考えれば,それまであった第822(「親権を行う者は,第820条の規定による監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる。」)の規定を令和4年法律第102号は敢然排除したところですが,そのために当該の条を削除しただけでは「第822条 削除」という形で痕跡が残り(これが,当該の条が全く蒸発し,したがってその後の全条が各々繰り上げられてその跡を埋める形となる「削る」との相違です(前田正道編『ワークブック 法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)468頁)。),将来,「おや,この条は「削除」か。削除されたここにはどういう規定があったのだろう。ああ,親権者の懲戒権に関する規定か。なるほど,日本が哀れな衰退途下国となってしまった平成=令和の国民元号の御代(筆者註:「国民元号」に関しては,「元号と追号との関係等について」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1073399256.html)の43)を御参照ください。)を迎える前の昔の立法者は丁寧だったんだね。親が自信をもって子のしつけを行うためにはやっぱり親権者の懲戒権の規定が必要なんだよね。そういうことであれば,いやいやいったんせっかく削ったことについては正当な理由があるのであって云々の難しい話はもういいから,一度は堂々あった懲戒権規定を新装復活させたらいいんじゃない。」という不必要に好奇心の強い者による旧規定の再発見及びそれを契機としての懲戒権規定の要否論争の蒸し返しを避けるためでしょう。民法典において「第822条 削除」との不審な表象が残らないように,そこを埋めるべく,新しい1条が必要であったわけでしょう。(なお,ここでいう懲戒権規定の要否論争については,「懲戒権に関する規定を削除してしまうと,親権の行使として許容される範囲内で行う適切なしつけまでできなくなるのではないかといった」心配は,「誤った受け止め方」であるということで(佐藤隆幸編著131頁),御当局筋では不要論が断乎採用され,けりがつけられています。)

回顧のよすがも残らないようにするdamnatio memoriaeを喰らうとは,民法旧822条の懲戒権規定は随分忌み嫌われていたものです。(筆者は民法旧822条に対して同情的であるようにあるいは思われるかもしれませんが,同情はともかくも,同条に関するblog記事(「民法旧822条の懲戒権及び懲戒場に関して」:

(前編)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080442857.html(モーセ,ソロモン,アウグストゥス,モンテスキュー,ナポレオン,カンバセレス及びミラボー)及び

(後編)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080442886.html(日本民法(附:ラヴァル政権及びド=ゴール政権によるフランス民法改正))

をかつて書いた者としては,思い入れは深いところです。)

 

2 新民法817条の12総論

 

(1)第1項前段

 さて,まず「子の人格を尊重」することに関して,民法821条と新民法(第213回国会の審議に付された頭書法律案が法律として成立して施行された後の民法を以下「新民法」といいます。)の第817条の121項前段とを比較すると,前者は「監護及び教育」をするに当たっての規律であり,後者は「養育」をすることについての規律です。規律の場面が異なっています。後者の場面については,20231128日に開催された法制審議会家族法制部会第34回会議に提出された家族法制部会資料34-2において「この資料では,父母の子への関わり合いのうち経済的・金銭的な側面から子の成長を支えるものを「扶養」と記載しており,これに加えて精神的・非金銭的な関与を含む広い概念として「養育」という用語を使っている。」と説明されている一方(4頁(注3)),「子の監護及び教育は,親権者の権利義務であり(〔民〕法第820条),〔中略〕この資料のゴシック体の記載のような規律〔新民法817条の12に対応〕を設けたとしても,親権者でない父母が監護及び教育をする権利義務を得ることとなるわけではな」いものとされています(4-5頁(注1))。

ところが,当該部会の部会長である大村敦志教授の著書の一節には,「「養育」という言葉の意味は明らかである。その「子の養育及び財産の管理の費用」(828条)という表現から,この言葉は,「監護・教育」を総称するものとして用いられていることがわかる」とあったところです(大村敦志『民法読解 親族編』(有斐閣・2015年)246頁)。したがって,夫子御自身の当該所論の扱いが問題になる可能性があったところ(世の中には,筆者のように面倒臭い人間がいるのです。)20231219日に開催された同部会第35回会議に提出された同部会資料35-2において,「なお,「養育」という用語は,民法第828条ただし書にも規定されているが,同条は親権者による子の養育等の費用の計算に関する規律である一方で,要綱案(案)第1の1で提示している規律〔新民法817条の12に対応〕における「養育」は,父母(親権者に限られない。)によるものであり,また,費用の支出を伴うものに限定するものではない点で,民法第828条ただし書の想定する「養育」と必ずしも一致しないと考えられる。」と,如才なく整理し去られています。そもそも民法上の父母の子へのかかわり合いのうちの「精神的・非金銭的な関与」の例としては,家族法制部会資料34-2は,監護及び教育ならざる「親子交流や親権喪失等の申立てなど」を挙げていました(2頁)。

ちなみに,フランス民法373条の215項は,「親権を行使する者ではない親は,子の監護及び教育を見守る権利及び義務を保持する。同人は,子の生活に関する重要な選択について了知していなければならない。同人は,第371条の2〔親の扶養義務に関する規定〕に基づき同人が負う義務を尊重しなくてはならない。(Le parent qui n'a pas l'exercice de l'autorité parentale conserve le droit et le devoir de surveiller l'entretien et l'éducation de l'enfant. Il doit être informé des choix importants relatifs à la vie de ce dernier. Il doit respecter l'obligation qui lui incombe en vertu de l'article 371-2.」と規定しており,親権を行使する者でない親であっても子の監護教育について全くの無権利ではないものとされています。これに対して,同項第1文流に我が新民法817条の12は解釈されるものではない,というのが立案御当局の御理解なのでしょうが,同条の文言のみからはやや分かりづらいところです。

 

(2)第2

 新民法の第8181項は,親権全般について,「親権は,成年に達しない子について,その子の利益のために行使しなければならない。」と規定します。これに対して,必ずしも親権者ならざる父母による新民法817条の121項の養育についても,当該父母はそれに係る「権利の行使又は義務の履行に関し」ては,「その子の利益のため」に「協力」すべきものとされています(同条2項)。父母の「協力」に関しては,新民法824条の21項本文(「親権は,父母が共同して行う。」)も,父母双方が親権者である場合について,親権共同行使の原則を定めています。これら新民法8181項及び同法824条の21項本文の規律(親権者による親権の行使に関するもの)と同法817条の122項の規律(父母による子に関する権利の行使及び義務の履行に関するもの)との関係は,親権者に限られぬ父母一般に係る後者の規律が総則的な位置に立つというものでしょうか。新民法817条の122項の「権利」及び「義務」は,文言上,同条1項の「養育」に係るものに必ずしも限定されてはいませんし,法制審議会家族法制部会資料34-2によれば,新民法817条の122項の「協力義務」に違反した場合には「親権者の指定・変更の審判や,親権喪失・親権停止の審判等において,その違反の内容が当該父母の一方にとって不利益に考慮されることになるとの解釈があり得る」とのことで(7頁(注1)),同項は親権行使の場面にも適用があることが前提とされています。

 しかし,新民法817条の122項については,「子の利益のため」はよいのでしょうが,「部会のこれまでの議論の中では,離婚後の父母の中には,子の養育に無関心・非協力的な親がいるとの指摘があった」ことから(法制審議会家族法制部会資料34-26頁),軽々(かるがる)と直ちに,婚姻関係にない「他人」の男女にまで両者間の「協力」を義務付けるのはいかがなものでしょうか。養育妨害禁止というような消極的なものにとどまらぬ積極的な協力の義務であるならば,それはやはり当事者の合意にその根拠付けを見出すべきもののように思われますが,両者間におけるそのような「合意」の契機のない子の父母というものも存在するのではないでしょうか。我が国の御当局には,いわゆる経済官庁による儚き「オール・ジャパン(日の丸)」プロジェクトの濫造に見られるように,「協力」のもたらすであろう神秘なsynergy効果を――「協力」が美しくも可能であることの絶対性と共に――安易かつ篤く信仰せられてしまう御傾向があるようではあります。「船頭多くして船山に登る」というような俗なことわざよりも,やはり「以和(わをもつて)(たふと)(しとなす)」と宣う聖徳太子の御訓えの方が重いのでしょうか。いずれにせよ,法的義務として成立するのならば,期待値の水準如何(いかん)はともかくも,そのときはそのようなものとしての取扱いがされなければなりません。(しかし,前記のとおり,これまでの民法において「協力」の語は,GHQ由来のものが2箇所(752条及び7683項)にしかなかったところであって,民法用語として熟したものであるかどうか。民法752条の「協力」の由来するところは,憲法のGHQ草案23条に鑑みると男性支配(male domination)の排除要請という消極的なものです。しかして「夫婦の協力義務は,義務の内容においても,分量においても,限定することはできない」漠としたものです(我妻・親族法84頁)。同法7683項の「協力」のそれは,財産分与の際に妻の取り分が2分の1になるべきことの確保にこだわるGHQ担当官が「協力によってえた財産の半分」などと口走ったことによるものです(我妻編140頁(小沢発言))。(この場面においては,「協力」に係る動機付けは,財産分与に当たっての有利性という形で,専ら経済的に劣位の配偶者に与えられることになります。)ちなみに,「婚姻中の財産の取得又は維持についての各当事者の寄与の程度は,その程度が異なることが明らかでないときは,相等しいものとする。」と規定する新民法7683項は,こうしてみると当該GHQ担当官の主張に近付いたもののように観察されます。)

なお,民法820条の「子の利益のために」との文言は,新民法8181項における当該文言と一見重複することになりそうですが,削られないようです。子の監護及び教育の場面においてこそ親権の濫用(「体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動」)が一番問題になるから重複をいとわなかったのだ,という説明になるのでしょう。ちなみに,民法821条の「「子の人格を尊重するとともに,その年齢及び発達の程度に配慮しなければならな」いとの規律」は,「監護及び教育が「子の利益のために」行われるべきとの〔同法820条の〕規律をより明確に表現する観点から」設けられた,当該規律を監護及び教育における「行為規範として更に具体化するもの」であるそうです(佐藤隆幸編著139頁)。

 

(3)第1項後段

ところで,新民法817条の121項後段の規定の意義は,「法律上の親である限り,たとえ親権がなくても,親として子に対する扶養義務を負う」こと及び当該扶養義務の負担については「「子に対し親権を有する者,又は生活を共同にする者が,扶養義務につき当然他方より先順位にあるものではなく,両者は,その資力に応じて扶養料を負担すべきものである」(大阪高決昭和37131日家月14-5-150。離婚後の非親権者についての判示)という立場が通説であり,裁判例の傾向でもある(非嫡出子の父について同旨,仙台高決昭和37615日家月14-11-103)」ということ(内田貴『民法 親族・相続』(東京大学出版会・2002年)296頁)並びに親の子に対する扶養義務は,「相手方に自己と同一程度の生活を保障する義務(生活保持義務とよばれる)」であるということ(同23頁)を明文化したものということになります。

「親の未成年子に対する扶養義務に関しても877条によるという見解はあるものの,親であることによる,あるいは,親権の効力による,という見解が説かれてい」たところ(大村464-465頁),つとに,「夫婦間の扶養義務のほかに,親の未成年子に対する扶養義務を明文化すべきであろう。これらの義務については,権利者・義務者の同居・別居にかかわらず義務は存続することも明示した方がよい。」と唱えられていたところです(同472-473頁)。

新民法817条の121項後段においては,扶養を受けるべき子は未成年子に限定されていませんが,この非限定性は,フランス民法371条の22(「子の養育料を負担する親の義務は,親権が剥奪され,若しくは停止されたこと又は子が成年であることによっては当然消滅しない。(Cette obligation ne cesse de plein droit ni lorsque l'autorité parentale ou son exercice est retiré, ni lorsque l'enfant est majeur.)」)の後段においても同様です。ただし,新民法817条の121項の扶養義務については,同項においては「父母が子との関係で生活保持義務を負うのが「子の心身の健全な発達を図るため」であるとしている」ことに注目すべきでしょう(家族法制部会資料34-26頁(注)参照)。

 

3 民法821条における「子の人格を尊重する」こと。

ここで具体的に,既存の規定である民法821条における「子の人格を尊重する」ことの趣旨の検討をしてみましょう。

 

(1)御当局の解説について

民法821条の趣旨を手っ取り早く知るために御当局の改正法立案御担当者の解説本を参照すると,次のようにあります。「親権者に「子の人格を尊重するとともに,その年齢及び発達の程度に配慮しなければなら」ないとの義務を課すこととしていますが,その趣旨は何ですか。」との問いに対して回答がされ,いわく。

 

   親権者による虐待の要因としては,親が自らの価値観を不当に子に押し付けることや,子の年齢や発達の程度に見合わない過剰な要求をすることがあるとの指摘がされています。

   改正法では,このような指摘を踏まえ,親子関係において,独立した人格としての子の位置付けを明確にするとともに,子の特性に応じた親権者による監護及び教育の実現を図る観点から,親権者の監護教育権の行使における行為規範として,子の人格を尊重する義務並びに子の年齢及び発達の程度に配慮する義務を規定することとしたものです。

  (佐藤隆幸編著138頁。下線は筆者によるもの)

 

わざわざ押し付けようとする「価値観」ですから,高尚なものなのでしょう。「過剰な要求」も,よかれと思われる方向に向けての要求なのでしょう。このような過剰な要求の問題に対処するために「年齢及び発達の程度に配慮」することが求められ,その余の価値観の押し付け等の問題に対処するために「子の人格を尊重する」ことが求められるのでしょう。

しかしながら残念なことにあんたの子供の「特性」すなわち生来の資質・志向・能力は,そのような高尚な価値観に見事に適合し,かつ,よかれと思っての諸々の要求に着々応えることができるという高度な水準に達した立派なものではないんだよ,むしろ出来の良くない方なのだよ,早熟の天才であるわけなど全然ないんだよ,諦めるべきところは早々に諦めた方が変な「虐待」騒動に巻き込まれずに済んで家族みんなの幸福のためになるんだよ,子とはいっても所詮は他人(「独立の人格」)なのだよ,諦めるんだよ,と勧告するのが,民法821条の趣旨なのでしょうか。そうであれば,「人格の尊重」なるEuphemismusの内実は,高尚な価値観を受け付けない当該人の具合の悪さをそれとして認識・受容した上で,同人に期待するところをその人物(personne)の程度・性向に合わせて変更せよ,という消極的なResignationの勧めなのでしょう。高い価値に向かって引き上げよ,押し上げよ,相共に前進せよ,という積極的なものではないのでしょう。

「人格を尊重」せよと言われると,つい当該人格の帰属者の「価値観」に迎合してかいがいしく当該人物に(かしず)かねばならないように思ってしまいます。しかし,それは忖度の先走り過ぎであって,敬してあえて遠ざかる対応もあってよいはずです。内面における「人格の尊重」と外面的かつ積極的な「人格を尊重している旨の表示行為」とは同一ではありません。むしろ,尊重するに値する人格は手のかからないものであって,巧言令色(すう)恭なる表示行為を恥とするものでしょう(論語公冶長)「人格の尊重」は,積極的な給付を行うことを必ずしも義務付けるものではないのでしょう。

 

(2)家族法制部会長・大村教授の所説に関して

民法821条における「人格を尊重」の意義については,また,令和4年法律第102号として結実することとなった要綱案202221日「民法(親子法制)等の改正に関する要綱案」。そのまま採択された要綱は,佐藤隆幸編著147頁以下に掲載)を取りまとめた法制審議会の民法(親子法制)部会の部会長であった大村敦志教授の次の文章も参照されるべきでしょう。

 

〔略〕暴力によらない教育 懲戒権についても,基本的には削除してよい。ただし,〔民法旧822条の〕削除によってしつけができなくなるという誤解を避けるために,親権を行う者には,子に対してしつけ(discipline)を行うことができる,という趣旨の規定を置いた方がよいかもしれない。もっとも,懲戒(correction)の場合と異なり,しつけには「暴力 violence」の行使は含まれず子を「尊重 respect」して行われなければならない旨を注記することも必要だろう。

(大村256頁)

 

 フランス派である大村教授の用いるrespectの語は,「レスペ」と発音するフランス語でしょう。同教授の著書には,「フランスでは,最近の民法改正によって,夫婦の義務に「尊重(respect)」が追加されたが,これは,相互の尊重を害する行為として暴力行為を位置づけるためではないかと思われる。」との一節があります(大村117-118頁。ただし同258頁は,フランス民法212条に加えられた夫婦の義務を「尊敬 respect」であるものとし,訳語が異なっています。また,同条は“Les époux se doivent mutuellement respect, fidélité, secours, assistance. (夫婦は相互に尊重,貞操,扶助及び協力の義務を負う(大村258頁参照)。)ですので,尊重されるのは相手方配偶者そのものであって,その人格ではありません。)。

当該単語“respect”の意味をLe Nouveau Petit Robert (1993)で検してみると,①古義は「考慮すること(Fait de prendre en considération)」,②現代では「同人について認められる価値のゆえに当該某に対する嘆賞の思い(une considération admirative)を抱かしめ,かつ,同人に対して節度及び自制をもって(avec réserve et retenue)振る舞うようにさせる感情(sentiment)」,③複数形では「敬意の印」,④「よいと判断されたもの(une chose jugée bonne)に対する,侵害せず,違背しないようにとの気遣いを伴う(avec le souci de ne pas y porter atteinte, de ne pas l’enfreindre)配慮(considération)」,⑤やや古い表現である“respect humain”は「他者の判断に対する恐れ(crainte)であって,一定の態度を避けるに至らしめるもの」及び⑥熟語として“tenir qqn en respect”は,「武器を用いて誰それを近づけない」ということである,というような説明がありました。⑥において顕著ですが,respectは,相手と距離を置くこと(le tenir à distance)を伴うものであって,節度及び自制(②)並びに侵害及び違背の避止(④)という消極的な配慮によって特徴付けられる態度であるわけです。かしこんで,みだりに関与しないということでしょう。べたべたと積極的に世話を焼くことが求められているわけではありません。②の語義に関するバルザックからの引用には「尊重(le respect)は,父母もその子らも同様に保護する障壁(une barrière)である。」とありました。分け隔てる障壁であって,(ぬる)かな一体化を促進するものではありません。(ところで,余計なことながら,⑤のrespect humainは,我が新型コロナウイルス対策流行時代の日本語では「思いやり」ですね。)

 しかし,衒学的にフランス語辞典を振り回さずとも,「尊重(respect)」するとは,単に,相手方に暴力を振るわず,かつ,その「個人の尊厳」たる「名誉」を害しない,ということを意味するにすぎないのだ,ということでもよいのでしょうか。大村教授の著書においては,前記のとおり,フランス民法で夫婦の義務にrespectが追加されたのは「これは,相互の尊重を害する行為として暴力行為を位置づけるためではないかと思われる。日本法においても,同様の規定を置くことは考えられないではない。」と記載されているとともに(大村118頁。また,258頁),「今日においては,侮辱こそが重要な離婚原因であるのではないか」,婚姻において「再び「名誉」が重要になりつつある。もっとも,ここでの「名誉」とは,「個人の尊厳」にほかならない。「尊重」という言葉はこのことを表すのである。」との見解が表明されています(同118頁)。

ただし,専ら暴力及び侮辱の禁止ということであれば民法821条後段の「体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動をしてはならない」で読めてしまうので,同条前段にいう「人格を尊重」は,それより広義なものと解さなくては,後段との単なる重複規定となって面白くないことになります。そこで,「価値観の不当な押し付け等」の禁止が含まれるものとされたのでしょう。他方,新民法817条の12は,父母は「体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動をしてはならない」旨まで明定することをしていませんが,これは,当該規律は「その子の人格を尊重する」というところに当然含まれているから,ということなのでしょう。

 

(3)フランス民法371条の1

 その後,フランス民法において,子の人格の尊重(respect)規定が設けられています。

 

   Article 371-1

L'autorité parentale est un ensemble de droits et de devoirs ayant pour finalité l'intérêt de l'enfant.

Elle appartient aux parents jusqu'à la majorité ou l'émancipation de l'enfant pour le protéger dans sa sécurité, sa santé, sa vie privée et sa moralité, pour assurer son éducation et permettre son développement, dans le respect dû à sa personne.

L'autorité parentale s'exerce sans violences physiques ou psychologiques.

Les parents associent l'enfant aux décisions qui le concernent, selon son âge et son degré de maturité.

 

  第371条の1 親権は,子の利益を志向する権利及び義務の総体である。

    親権は,その安全,健康,私生活及び徳性において子を保護するため,並びに,その人格に対して正当に払われるべき尊重をもって(dans le respect dû à sa personne)その教育を確保し,及びその発展を可能とするため,子の成年又は親権解放まで,父母に(aux parents)帰属する。

    親権は,肉体的又は精神的な暴力を伴わずに行使される。

    父母は,その年齢及び発達に応じて,子にかかわる決定にその子を参与させる。

 

フランス民法371条の1では,親権の行使における肉体的又は精神的な暴力の禁止の規律(同条3項。佐藤隆幸編著128頁では「親権は身体的暴力又は精神的暴力を用いずに行使される。」と訳されています。)とは直接結び付けられない場所において,子の「人格に対する正当に払われるべき尊重」が語られています(同条2項)。

「その人格に対する正当に払われるべき尊重をもって」の部分は「その安全,健康,私生活及び徳性において子を保護する」の部分にまでかかるものかどうかは難しいところですが,pour… pour…の区切りを大きいものと解してみました。確かに,安全やら健康にかかわる場面においては,最近の新型コロナウイルス感染対策の「徹底」的実施情況に鑑みても,いちいち各人の「人格に対する正当に払われるべき尊重」など気にしてはいられないでしょう。

しかしながら,子の「教育を確保し,及びその発展を可能とする」という場面(なお,ここでの教育及び発展は,単に肉体的なものではなく,そこにおいて尊重せられるべきものたる「人格」に係る「人格」的なものなのでしょう。)ならざる徳性(moralité)の保護の場面においては,その子の「人格に対する正当に払われるべき尊重」などというものに頓着する必要はないということになると,難しいことになるようです。教育及び発展に関する配慮と徳性の保護との切り分けが大きな重要性を帯びることになってしまうからです。特に家庭における宗教実践は,子の教育及び発展に係る配慮の側面とその徳性の保護の側面との両面を有するものでしょう。前者においては子の人格を尊重するが,後者においては子の異議は一切許さない,というような使い分けがうまく行くものかどうか。また,神聖な宗教の価値観の押し付けが「不当」なものであることは,切り分け云々以前に,そもそもあり得ないとの主張も当然あるでしょう。

なお,フランス民法371条の12項は子の「人格に対する正当に払われるべき()尊重」といって,単純に「人格に対する尊重」といっていませんが,父母としてふさわしからざる,子の人格に対する迎合的尊重まではする必要はない,という趣旨でしょうか。

 

(4)解釈論

 以上フランス民法をも参考にして民法821条における「子の人格を尊重」の意味するところを解せば,親権を行う者による子に対する暴力及び侮辱を禁止する(これは,子の虐待防止の緊要性に鑑み,同条後段において再び,単純な暴力及び侮辱の禁止よりもやや包括的な形で文字化されていることになります。)ほか,子の教育及びその人格的発展に係る監護においては,親権者はその理想を,子の特性(資質・志向・能力の限界又は偏向)の前に諦念と共に譲って(ただし,フランス民法371条の12項の“dû”の文言を重視すれば,無節操に子に迎合するということではないことになります。),自らの価値観の承継などということに執着すべからず,と義務付けるものということになるでしょうか。

 

4 新民法817条の12における「人格を尊重」すること。

 

(1)第1項

 新民法817条の121項の「子の人格を尊重」については,民法821条におけるもののように理解すれば大体のところはよいのでしょう。

ただし,新民法817条の121項の「子の人格を尊重」に関しては,法制審議会家族法制部会において,子の意見等を尊重・考慮(これは,2024130日に開催された同部会第37回会議に提出された同部会資料37-22頁によれば,「子の「意見」・「意思」・「意向」・「心情」等の「考慮」又は「尊重」」ということのようです。)する旨の規定を別に明示すべきではないかということが問題となり,最終的な整理は,同部会第37回会議における法務省民事局参事官である北村治樹幹事の発言(同会議議事録2頁)によれば,同項の「子の人格を尊重する」ことは,「子の意見等が適切な形で尊重されるべきとの考え方を含むもの」であるとされたとのことです。しかして結局このようにして子の意見等の尊重に係る規定を特に設けなかったことの意味は,同部会の資料34-2における記載(「子の人格の尊重等を掲げることに加えて,子の意見等を尊重・考慮すべきことを父母の義務として掲げるべきかどうかを検討するに当たっては,子の意見等を明示的に規定することの法的意味やそれが父母の行動に与える影響等を踏まえつつ,どのような表現により規律することが相当かも含め,慎重に検討する必要があるように思われる。この部会のこれまでの議論においても,例えば,具体的な事情の下では子が示した意見等に反しても子の監護のために必要な行為をすることが子の利益となることもあり得るとの指摘や,子の意見等を尊重すべきことを過度に重視しすぎると,父母が負うべき責任を子の判断に転嫁する結果となりかねないとの指摘,父母の意見対立が先鋭化している状況下において子に意見表明を強いることは子に過度の精神的負担を与えることとなりかねないとの指摘などが示されていた。」(5-6頁))等に鑑みると,子の意見等の尊重といっても,そこには自ずと限界があるということを含意するものでしょう(フランス民法371条の12項の“dû”参照)。確かに,子の意見表明権といってもその際親が「自己の都合のいいようにこどもに意見を言わせるというような行為は不適切な行為であって,それこそ子の人格の尊重にもとる行為」(202419日に開催された法制審議会家族法制部会第36回会議における池田清貴委員発言(同会議議事録14頁))となるものでしょう。子の人格の独立性もあらばこそ,親が子の人格を否認して,自己の人格に従属させることになるからです。

 

(2)第2項

他方,新民法817条の122項は,子の父母は「子に関する権利の行使又は義務の履行に関し,その子の利益のため,互いに人格を尊重し協力しなければならない」ということですから,そこでは父母間における相互的な「人格の尊重」が求められています。

これについては,親による「子の人格の尊重」の場面とは異なりますから――新民法817条の122項における父母は,夫婦すなわち婚姻関係にあるものに限定されていないものの――フランス民法212条の規定する夫婦相互の義務に関する前記大村教授流の解釈を採用することが可能であるようです(ただし,夫婦ではないので,「貞操,扶助及び協力(なおこの「協力」は "assistance"ですので,新民法817条の122項の「協力」とは異なる「助力」「補佐」といったものでしょう。)」の義務は相互に負いません。)。そうであれば,「互いに人格を尊重し」と文言は抽象的ながらも,その意味するところは両者間における暴力・侮辱の禁止にとどまることになりましょう(法制審議会家族法制部会資料34-2によれば「部会のこれまでの議論においては,離婚後の父母双方が子の養育に関して責任を果たしていくためには,父母が互いの人格を尊重できる関係にある必要があることや,父母が平穏にコミュニケーションをとることができるような関係を維持することが重要であることなどの意見が示された」ことを踏まえて「父母がその婚姻関係の有無にかかわらず互いの人格を尊重すべきである」との規定が生まれたそうですが(6頁),「互いの人格を尊重できる関係」といわれただけではなお具体的にどのようなものかが分かりにくいところ,「平穏なコミュニケーション」の確保が主眼ということになりましょうか。)。「協力」することの前提条件としてはこれで満足すべきなのでしょう。価値観の相違等は,協力の過程の中で解きほぐされて何とかされていくべきものでしょう。新民法817条の122項の「互いに人格を尊重し・・・なければならない」との「人格尊重義務」の違反には,「親権者の指定・変更の審判や,親権喪失・親権停止の審判等において,その違反の内容が当該父母の一方にとって不利益に考慮されることになるとの解釈があり得る」とのことですので(法制審議会家族法制部会資料34-27頁(注1)),当該義務の外延は明確に限定されてあるべきものでしょう。ちなみに,離婚後等の父母共同親権状態を父母のうちいずれか一方の単独親権に変更する場合の審判において適用される新民法81972号は,「父母の一方が他の一方から身体に対する暴力その他の心身に有害な影響を及ぼす言動(次項において「暴力等」という。)を受けるおそれ」等の事情を考慮するものとしています。父母が協力してする子の養育においても,両者間における当該暴力等が協力の阻害要因として特に懸念されるということでしょう。

その余の種々の注文を取り除いた狭い解釈(専ら暴力・侮辱を禁ずるものとの解釈)を採用した方が,それについて「互いに人格を尊重」すべきものとされた(暴力・侮辱禁止以外の)多様な事項に係る諸々の事情が理由ないしは口実(例えば,「全面的に私の人格を尊重しないような奴と子育てについて協力するいわれはない」云々)とされて「その子の利益のため」の「協力」及びそれに向けた努力が放棄されてしまうという(子にとって残念であろう)場面が,より少なくなるものと思われます。

法制審議会家族法制部会第36回会議において示された原田直子委員の理解によれば,新民法317条の122項の「互いに人格を尊重し」なければならないとの規律に違反して「親権の変更とか,そういう問題に通じる」行為は,「父母間の対立をあおる行為」であって,①「DVや虐待」,②「濫訴的な申立て」,③「父母の同意なしに勝手にこどもの写真とかをネットに上げ」ること及び④「元配偶者の批判をするとかいう行為」が含まれるとされています(同会議議事録5頁)。しかし,同項での「人格を尊重し」の射程の限界付けを重んじようとする立場からすると,①はともかく,②は非協力・反協力の問題であり,③は子の利益に反するとともに非協力であるから問題なのでしょうし(なお,ちなみにフランス民法372条の11項は「父母は,第9条に規定する私生活の権利を尊重して,彼らの未成年子の肖像権を共同して保護する。(Les parents protègent en commun le droit à l'image de leur enfant mineur, dans le respect du droit à la vie privée mentionné à l'article 9.)」と規定しています。),④も,相手方に対する侮辱に相当することとなる場合に当然問題となるほかは,子に対してされる場合において,子の利益に反するときに問題となり,かつ,間接的に反協力行為となるものであると考えるべきではないでしょうか。

なお,別居親(les parents séparés)による親権行使に関するフランス民法373条の22項は「父母の各々は,子との個人的な関係を維持し,かつ,その子と他方の親とのつながりを尊重しなければならない。(Chacun des père et mère doit maintenir des relations personnelles avec l'enfant et respecter les liens de celui-ci avec l'autre parent.)」と規定しています。ここで父母の各々が尊重すべきもの(doit respecter)として規定されているのは,「子と他方の親とのつながり」です(ちなみに,当該つながり(liens)に対する「尊重」の意味するところは,要は,積極的作為義務ではなく,他方の親と子とのつながりを阻止し,又は稀薄化し,若しくは消滅せしめるような意地悪をするな,という消極的なものでしょう。)。これに対して,我が新民法817条の122項において,父母によって尊重されるべきものは専ら互いの人格です。しかし,相手方によって尊重されるべき父又は母の各「人格」にその子とのつながりまでが当然含まれるものかどうか。やはりそこまでは,ちょっと読み取りにくいように思われます(なお,20231128日開催の法制審議会家族法制部会に提出された同部会資料34-2には「部会資料32-1の第23の注2では,「監護者による身上監護の内容がその自由な判断に委ねられるわけではなく,これを子の利益のために行わなければならないこととの関係で,一定の限界があると考えられる。例えば,監護者による身上監護権の行使の結果として,(監護者でない)親権者による親権行使等を事実上困難にさせる事態を招き,それが子の利益に反する場合がある」との指摘を注記しているが,このような監護者による監護の限界を父母間の人格尊重義務と結びつけて整理することもできると考えられる。」とありますが,当該監護の限界は,やはり直接的には「子の利益に反する」ことによるとともに,親権者に対してはそもそもその権利を侵害してはならないことによるのではないでしょうか。)

父母の各々と子とのつながりに対する他方の「尊重」については,我が国ではむしろ,「親子の交流等」に係る新民法817条の131項の規定(「第766条〔協議離婚〕(第749条〔婚姻の取消し〕,第771条〔裁判上の離婚〕及び第788条〔父による認知〕において準用する場合を含む。)の場合のほか,子と別居する父又は母その他の親族と当該子との交流について必要な事項は,父母の協議で定める。この場合においては,子の利益を最も優先して考慮しなければならない。」)における「〔父母の協議〕の場合においては,子の利益を最も優先して考慮しなければならない」の部分が対応するということなのでしょう。しかし,「子の利益を最も優先して考慮」した結果,他方の親とのつながりを阻止し,又は稀薄化し,若しくは消滅せしめるべきであるとの結論に達した父母の一方の当該結論を,同項の規定自体によって否定することは難しいのではないでしょうか。

「面会交流はかえって父母の間の関係を複雑にする,という危惧も強く,その権利性を認めるのに慎重な見解」があったところ(大村98頁),2023718日に開催された法制審議会家族法制部会第29回会議に提出された同部会資料29に記載されているところは「(抽象的な)親子交流の法的性質についていかなる見解を採るにせよ,本文記載のとおり,父母の協議又は審判によって具体的に親子交流の定めがされた場合には,父母間に具体的な権利義務が発生するものと考えられる。この部会における議論の中では,父母は,離婚後も,子の養育に関して双方の人格を尊重しなければならないとする考え方も示されていたところ,仮にこの考え方を採用する場合には,父母の協議又は審判によって親子交流の定めがされ,これが具体的な権利となったときには,父母は,その実施に当たって相互に協力するとともに,互いの人格を尊重しなければならないとする考え方があり得る。他方で,仮に親子交流をすることが親の権利であると考える意見に立ったとしても,この「権利」は,子の利益のために行使すべきものである上,父母の協議又は審判によって親子交流の定めがされるまでは,その権利の内容が具体的に定まらないため,子と別居する親が,親であること(又は親権者であること)のみをもって,同居親に対し,自己の希望する方法や頻度での親子交流の実施を一方的に請求し,その強制をすることができるわけではないと考えられる。」というものでありました(35頁(注1))。結局,家族法制部会資料34-2においては,「親子交流については,父母の協議又は家庭裁判所の手続によって定めることが想定されているため(〔民〕法第766条),この資料のゴシック体の記載のような規律〔新民法817条の12に対応〕を設けたとしても,〔中略〕父母の協議等を経ることなく別居親が親子交流の実施を一方的に求めることができるようになるわけではないと考えられる。」とされています(4-5頁(注1))。

ちなみに,フランス民法373条の212項は,「訪問及び宿泊受入れの権利の行使は,重大な事由によらなければ,他方の親に対して拒絶され得ない。(L'exercice du droit de visite et d'hébergement ne peut être refusé à l'autre parent que pour des motifs graves.)」と規定しています。

 

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1 文化,明治及び昭和の各元号に応当する「国民の祝日」を差別なく整備する必要性

 国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)2条には,次のような「国民の祝日」が定められています。

 

  昭和の日  429日  激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代を顧み,国の将来に思いをいたす。

 

  文化の日  113日  自由と平和を愛し,文化をすすめる。

 

これは,明治の日を実現するための議員連盟(会長・古屋圭司衆議院議員)によって現在準備が進められている超党派の議員立法によって,次のように改められるそうです(「文化の日と「明治の日」と」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081161133.html参照)。

 

昭和の日  429日  激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代を顧み,国の将来に思いをいたす。

 

  文化の日  113日  自由と平和を愛し,文化をすすめる。

 明治の日  113日  近代化を果した明治以降を顧み,未来を切り拓く。

 

 昭和の日及び明治の日は,いずれも各元号をその名に冠する時代――「激動・復興」の昭和時代は19261225日から198917日まで(なお,本稿でのアラビア数字による年月日はグレゴリオ暦によるものであって,赤化前の()蝦夷(シア)国が使用していたユリウス暦によるものではありません。),「近代化」の明治時代は1868125(明治改元に係る明治元年九月八日(18681023日)の行政官布告が基づく同日付けの詔書には「改慶応四年為明治元年」とありますので,明治の元号の適用は,慶応四年一月一日(1868125日)にまで遡及するのでしょう。)から1912729日まで――を顧みた上で,国の将来に思いをいたしたり未来を切り拓いたりしなければならない日であるものとされています。

 ところで,明治の日が同じ日となる文化の日の最初の2文字は「文化」ですが,実は,文化の元号もかつて我が国で使用されていたのでありました(1804322日から1818525日まで)。そうであると,元号にちなんだ一連の「国民の祝日」仲間ということで,文化の日の趣旨(object)も昭和の日及び明治の日のそれらと同様の構成(簡潔に特徴付けられた当該の時代を顧みた上で何かをする,という構成)のものに改めるべきものであると思われます。昭和及び明治は元号であるが,文化だけは元号ではない,と仲間外れにするのは,どうもそれでは差別であってなだらかではありません。

 そうであれば,まず,顧みるべき文化年間とはどのような時代であったのかを顧みなければなりません。

 

2 化政文化にちなむ新しい文化の日

 高等学校の日本史の勉強などから得られた印象では,文化年間及びそれに続く文政年間といえば,お江戸を中心に,天下太平を謳歌する庶民をその担い手とする化政文化というものが我が国では栄えていたのであるな,ということになります。蘭学もまた,徳川大公儀のもたらしたもうた天下太平の御恩沢の下,隆盛を迎えていたところでありました。文化十二年四月(181559日から同年67日まで)中に記された杉田玄白翁の述懐は次のごとし。

 

   かへすがへすも翁は殊に喜ぶ。この道開けなば千百年の後々の医家真術を得て,生民救済の洪益あるべしと,手足舞踏雀躍に堪へざるところなり。翁,幸ひに天寿を長うしてこの学の開けかゝりし初めより自ら知りて今の如くかく隆盛に至りしを見るは,これわが身に備はりし幸ひなりとのみいふべからず。伏して考ふるに,その実は(かたじけな)く太平の余化より出でしところなり。世に篤好厚志の人ありとも,いづくんぞ戦乱干戈(かんか)の間にしてこれを創建し,この盛挙に及ぶの(いとま)あらんや。恐れ多くも,ことし文化十二年乙亥は,(ふた)()の山の大御神,二百(ふたもも)とせの御神忌にあたらせ給ふ。この大御神の天下太平に一統し給ひし御恩沢数ならぬ翁が(ともがら)まで加はり被むり奉り,くまぐますみずみまで神徳の日の光照りそへ給ひしおん徳なりと,おそれみかしこみ仰ぎても猶あまりある御事なり。

   その卯月これを手録して玄沢大槻氏へ贈りぬ。翁次第に老い疲れぬれば,この後かゝる長事(ながごと)記すべしとも覚えず。未だ世に在るの絶筆なりと知りて書きつゞけしなり。あとさきなることはよきに訂正し,繕写しなば,わが孫子(まごこ)らにも見せよかし。

                       八十三(れい)(きゅう)(こう)翁,漫書す。

(杉田玄白著,緒方富雄校註『蘭学事始』(岩波文庫・1982年)69-70頁)

 

 ユーラシア大陸東方沖の我が神国は,薫風駘蕩として,実にめでたい。化政文化ならぬ元禄文化期の元禄二年四月一日(1689519日)に詠まれた句ではありますが,卯月の二荒山こと日光山には東照大権現の御神徳輝き,正に「あらたうと青葉若葉の日の光」(芭蕉)であるのであります。これに対して,当時,ユーラシア大陸の最西部では,ヨーロッパの近代の建設者の一員たるコルシカの食人鬼が,エルバ島から束の間フランスの帝位に復帰して,戦乱干戈の血腥き風を再び呼び寄せつつあったのでありました(ワーテルローの戦いは,文化十二年五月十一日(1815618日)に戦われました。)。

 ワーテルローにおける大殺戮(「時計の針はすでに9時を回っていた。ワーテルローの戦場には3万人のフランス軍と28千人のウェリントン軍の死骸が横たわっていた」(鹿島茂『ナポレオン フーシェ タレーラン 情念戦争1789-1815』(講談社学術文庫・2009年)541頁)。)等に現れる西洋人の粗暴残酷なエネルギーと比べると,しかし我が太平の民はいささかみみっちい。

 

  〔前略〕けれどもそういう明い晴やかな場所へ意気揚々と出しゃばるのは,自分なぞが先に立ってやらずとも,成功主義の物欲しい世の中には,そういう処へ出しゃばって歯の浮くような事をいいたがる連中が,あり余って困るほどある事を思返すと,先生はむしろ薄寒い妾宅の置炬燵にかじりついているのが,涙の出るほど嬉しく淋しく悲しく同時にまた何ともいえぬほど皮肉な得意を感ずるのであった。表の河岸(かし)(どおり)には日暮と共に吹起る空ッ風の音が聞え出すと,妾宅の障子はどれが動くとも知れず,ガタリガタリと妙に気力の抜けた陰気な音を響かす。その度々に寒さはぞくぞくと襟元へ浸み入る。勝手の方では,いつも居眠りしている下女が,またしても皿小鉢を(こわ)したらしい物音がする。炭団(たどん)はどうやらもう灰になってしまったらしい。先生はこういう時,つくづくこれが先祖代々日本人の送り過越(すご)してきた日本の家の冬の心持だと感ずるのである。宝井其角の家にもこれと同じような冬の日が幾度(いくたび)となく来たのであろう。喜多川歌麿の絵筆持つ指先もかかる寒さのために(こお)ったのであろう。馬琴北斎もこの置炬燵の火の消えかかった果敢(はか)なさを知っていたであろう。京伝一九春水種彦を始めとして,魯文黙阿弥に至るまで,少くとも日本文化の過去の誇りを残した人々は,皆おのれと同じようなこの日本の家の寒さを知っていたのだ。しかして彼らはこの寒さと薄暗さにも恨むことなく反抗することなく,手錠をはめられ板木(はんぎ)を取壊すお上の御成敗を甘受していたのだと思うと,時代の思想はいつになっても,昔に代らぬ今の世の中,先生は形ばかり西洋模倣の倶楽部やカフェーの煖炉のほとりに葉巻をくゆらし,新時代の人々と舶来の(ウイ)(スキー)を傾けつつ,恐れ多くも天下の御政事を云々したとて何になろう。われわれ日本の芸術家の先天的に定められた運命は,やはりこうした置炬燵の肱枕より(ほか)にはないというような心持になるのであった。

  (永井壮吉「妾宅」(1912)『荷風随筆集(下)』(岩波文庫・1986年)10-11頁)

 

    世に立つは苦しかりけり腰屏風

      まがりなりには折りかがめども

   われ京伝が描ける『狂歌五十人一首』の(うち)掲げられしこの一首を見しより,始めて狂歌捨てがたしと思へり。

  (「矢立のちび筆」(1914年)荷風下181頁) 

 

歌麿,馬琴,北斎,京伝及び一九は文化年間の人物です。ただし,「江戸のむかし,吉原の曲輪がその全盛の面影を留めたのは山東京伝の著作と浮世絵とであった」(永井壮吉「里の今昔」(1934)『荷風随筆集(上)』(岩波文庫・1986年)219頁)といわれる場合の京伝の著作は,文化年間前に遡るものでしょう。宝井其角は,芭蕉の弟子であって,元禄文化期の人。為永春水の活躍は文化年間より後のことで,『春色梅児誉美』が出たのは天保三年から同四年にかけてです。柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』は文政から天保にかけての人気作品ですが,同人の活動自体は文化年間から始まっています。仮名垣魯文・河竹黙阿弥となると,幕末から明治にかけての作家ということになります。

「恨むことなく反抗することなく,手錠をはめられ板木(はんぎ)を取壊すお上の御成敗を甘受」云々についていえば,京伝が,寛政の改革期に手鎖の刑を受けています(「寛政のむかし山東庵京伝洒落本をかきて手鎖はめられしは,版元蔦屋重三郎お触にかまはず利を得んとて京伝にすすめて筆を執らしめしがためなりといひ伝ふ。とかくに作者あまり版元と懇意になるは間違のもとなり」(「書かでもの記」(1918年)荷風下87頁)。)。歌麿も文化元年に受刑。更に春水及び種彦は,天保の改革期に,前者は手鎖の刑を受け,後者は譴責されています(種彦は幕臣でした。)。京伝は受刑後も長く生きましたが。春水・種彦は,処分後ほどなくして歿しています。

爛熟の化政文化を顧みた上で新たな文化の日の趣旨を考えた場合,次のようなものではどうでしょうか。

 

  文化の日  113日  天下太平の恩沢を庶民までもが刹那刹那に享楽することを得た近代化前の文化の時代を顧み,過去を愛惜する。

  明治の日  113日  近代化を果した明治以降を顧み,未来を切り拓く。

 

 しかし,「過去を愛惜する」では,置炬燵の肱枕的であり,かつ,退嬰的ですね。同時代のヨーロッパではナポレオンが元気一杯に暴れ回っていたというのに,我が文化年間にも何か勇ましい事業がなかったものかどうか。(なお,勇ましいといっても,ここでは,「柳亭種彦『田舎源氏』の稿を起せしは文政の末なり。然ればその齢既に五十に達せり。為永春水が『梅暦』を作りし時の齢を考ふるにまた相似たり。彼ら江戸の戯作者いくつになつても色つぽい事にかけては引けを取らず。浮世絵師について見るに歌麿『吉原青楼年中行事』2巻の板下絵を描きしは五十前後即ち晩年の折なり。我今彼らの芸術を品評せず唯その意気を嘉しその労を思ひその勇に感ず」るところの専ら色っぽい方面における不良老人の意気・労・勇(「一夕」(1916年)荷風下211頁)は,論外です。)


偏奇館跡の碑
偏奇館跡の碑(東京都港区(後方に泉ガーデンタワー))「不良老人」荷風は,
79歳まで生きました。


滝沢馬琴生誕地碑(江東区平野)
曲亭馬琴誕生の地碑(東京都江東区平野)

 

3 北の守りにもちなむ新しい文化の日

 文化年間(その間の天皇は光格天皇,征夷大将軍は徳川家斉,老中首座は松平(のぶ)(あきら))の出来事を北島正元『中公バックス 日本の歴史18 幕藩制の苦悶』(中央公論社・1984年)の年表(-)等から拾うと次のとおりです(斜字は,児玉幸多責任編集『中公バックス 日本の歴史 別巻5 年表・地図』(中央公論社・1984年)からの補充)。

 文化年間は,我が国防・国土開発史上,蝦夷地を幕府が直轄して,()蝦夷(シア)帝国当時の皇帝はアレクサンドル1世)の南下に対峙していた緊張の時代であったのでした。

 

  寛政十一年 一月,幕府,東蝦夷地を直轄とする。〔「浦河から知床にいたる地域および島嶼を,むこう7ヵ年試験的に」(北島195頁)。「幕府は東蝦夷地の仮直轄にともなって,同地方の場所請負制度を廃止し,これまでの運上屋を会所と改称して幕吏の監視下に直捌制(じきさばきせい)(直接交易)を実施した。幕府みずから米・味噌その他の商品を買い入れ,これを直捌地の各場所に輸送してアイヌまたは和人に供給し,またかれらから産物を買い入れて他に販売する事業をおこなった」(同197-198頁)。「この直捌制は,「御救(おすくい)交易」と幕府みずから称したように,交易の方法を正して幕府にたいするアイヌの信用をたかめ,かれらを北辺防衛のとりでにするのが主眼であった。その結果,これまでアイヌを苦しめていた場所請負人の誅求もいちおうなくなり,現地の風俗も改善されたが,それにともなう出費が多く,直捌の利潤は二の次とされたため,初年度は赤字となり,その後も年間1万数千両しか上がらないので,幕府勘定方から強い反対意見がだされるようになった〔筆者註:勘定方が強く反対したというのは,実は実質赤字だったということでしょうか。〕。またアイヌも幕府の急激な風俗改善策になかなかついてゆけず,たとえば月代さかやきを剃って日本髪に改めるようなことはやめて,なるべくアイヌの固有の風俗を残すようにしてほしいと嘆願するありさまであった」(同198頁)。〕

        七月,高田屋嘉兵衛,エトロフ航路の開拓に成功する。

        〔十月十二日(1799119日),ブリュメールのクーデタ。ナポレオン・ボナパルトがフランスの政権を奪取。〕

    十三年 二月五日,享和に改元。

        〔二月九日(1801323日),ロシア皇帝パーヴェル1世が暗殺され,アレクサンドル1世即位〕

        三月,伊能忠敬,全国の測量を開始する。

        六月,富山元十郎・深山宇平太,ウルップ島に渡り,「天長地久大日本属島」の標柱をたてる。

  享和二年  二月,幕府,蝦夷地奉行をおく(五月に箱館奉行と改称)。

        七月,東蝦夷地を永久上知とする〔北島199頁では,享和三年七月のこととされる。〕

        この年,十返舎一九『東海道中膝栗毛』を著わす。〔「十返舎一九の『膝栗毛』も篇を重ねて行くに従い,滑稽の趣向も人まちがいや,夜這いが多くなり,遂に土瓶の中に垂れ流した小便を出がらしの茶とまちがえて飲むような事になる」(「裸体談義」(1949年)荷風下253頁)。〕

  文化元年  二月十一日,享和四年から改元。

九月〔六日〕,ロシア使節レザノフ,長崎に来航,通商を要求。

  〔一茶が「春風の国にあやかれおろしや船」「門の松おろしや(えびす)魂消(たまげ)べし」などと詠んだのは,このときのことである。(北島200頁)〕

〔十一月一日(1804122日),ナポレオンの皇帝戴冠式。〕

        この年,喜多川歌麿,『太閤五妻洛東遊観図』を描いたため,入牢〔,手鎖〕50日に処せられる。〔「ときの将軍家斉の大奥生活を諷刺したと疑われ」たため(北島335頁)。〕

    二年  〔三月二十日,レザノフ,長崎から出帆。〕 

               六月,関東取締出役(八州廻り)を設置する。〔「四手代官(品川・板橋・大宮・藤沢)の手附・手代のなかから経験者8人(のち10人に増員)を選んでこれに任じ,関東の幕領・私領の別なく廻村させ,博徒や無宿者などの検察・逮捕にあたらせることにしたのである」(北島245頁)。〕

        〔十月十二日(1805122日),アウステルリッツの三帝会戦。アレクサンドル1世,ナポレオンに敗れる。〕

    三年  一月,幕府,沿海諸藩に防備をきびしくし,難破の異国船〔ロシア船〕には薪水を与えて,穏かに退去させるように命ずる(文化の撫恤令)

        九月,〔レザノフの指示に基づき,フヴォストフの〕ロシア船,カラフトのクシュンコタンを砲撃〔筆者註(2024614):「砲撃」は誇張でしょう。北海道編集『新北海道史第2巻通説1』(1970489頁〔及び『新北海道史第9巻史料』(198097頁〕には,「〔フヴォストフは〕九月〔十一日〕樺太のオフイトマリに上陸し,蝦夷〔の子供〕1人を捕え,真鍮版をその家に掛けて去り,翌日久春古丹におもむき,フ〔ヴ〕ォストフ自ら短艇隻,革船1隻〔の計三十名ほど〕を率いて上陸し,運上屋に押し入った。ときに松前藩勤番の官吏はすでに退去しておらず,越年番人だけが残っていたが,言語は通じず,酒食を出したところ,彼は酒盃,茶碗をなげうち,怒色を見せたので,番人,蝦夷らはおそれて逃げようとすると,小銃を放って威嚇し,ついに番人富五郎,源七郎ら4人を捕え,倉庫に入り,米,塩,酒,正油および,諸器材をかすめとり,運上屋,倉庫および弁天社を焼き,真鍮版1枚,書面2通,鳥銃1挺,衣服3枚〔及びオフイトマリで捕らえたアイヌの子供〕を残して〔同月十八日に〕去った。」とあります。〔翌年にかけて,文化露寇〕 

    四年  〔一月二日(180728日),アイラウでナポレオン,ロシア軍と死闘。〕

        〔二月五日(1807313日),シベリアのクラスノヤルスクでレザノフ客死。〕

三月〔二十二日〕,幕府,東西蝦夷地を直轄とし,箱館奉行を廃して松前奉行をおく。松前氏,陸奥梁川に移封。

        四月,〔レザノフの生前の指示に基づき,フヴォストフ及びダヴィドフの〕ロシア船,エトロフ島のナイホ〔二十四日〕,シャナ〔二十九日〕を砲撃〔筆者註(2024614):ナイホは,上陸した兵により放火はされたが砲撃はされていないようです。『新北海道史第2巻通説1490頁参照,掠奪する。〔筆者追記(2024614):「〔五月〕三日,〔ロシア船は〕帆をあげて北西に向かって去った。この時ロシア人1人は酩酊して紗那に残されたが,蝦夷に殺害された。」(『新北海道史第2巻通説1491)とあります。ロシア人のお酒好きも度が過ぎるようです。〕

        五月,ロシア船,礼文・利尻島で日本船を襲い,掠奪。筆者追記(2024614):礼文の件は同月二十九日のことですが,島でのことではなく,沖合でのことです。利尻島の件は,六月に入ってからのことになります。また,礼文島沖の件より先にロシア船は再び樺太に来寇しています(五月二十一日・オフイトマリ(番屋・倉庫を焼く。)及び久春古丹,同月二十二日・ルウタカ(番屋・倉庫を焼く。))。利尻島では,船舶のほか,番屋・倉庫・家屋もロシア兵によって焼かれており,彼らは六月五日には同島内において我が方の指揮官を捜したそうですが,礼文島沖の事件を聞いた幕吏森重左仲らは既に避難していたそうですから,よかったですね。(以上『新北海道史第2巻通説1493頁参照)〕

        〔五月九日(1807614日),フリートラントの戦いで,ナポレオン,ロシア軍を大破。同月二十日(625日),ニーメン川でナポレオンとアレクサンドル1世とが会見。〕

    五年  八月〔十五日〕,イギリス船,長崎に来航,〔同月十七日夜半〕長崎奉行松平康英,引責自殺する(フェートン号事件)。

    六年  一月,式亭三馬の浮世風呂前編刊行される。

二月,江戸の〔主要な問屋商人の連合体である〕十組(とくみ)仲間の出金で三橋(さんきょう)会所を設立する。〔茂十郎は「永代橋のほかに年数久しい仮橋である新大橋と大川橋を合わせた3橋の架替えと修復を,三橋会所で永久に引き受け,しかも渡銭も取らないと申し出たのである」(北島136頁)。〕

        七月,間宮林蔵,東韃靼(黒江地方)を探検,間宮海峡を発見する。

    七年  二月,白河・会津両藩に相房総海岸の砲台築造を命じる。

        〔「文化七年(1810)に刊行された『飛鳥川』は,「近年女髪結が多くなり,町方などでは自分で髪を結う女がいなくなった」とのべている」(北島274頁)。「『飛鳥川』(文化七年)にも「昔手習の町師匠も少く数へる程ならではなし。今は1町に23人づつも在り,子供への教へ方あるか,幼少にても見事に(かく)也」とある」(北島311頁)。〕

    八年  五月,天文方に蛮書和解用の局を設ける。

        六月〔十一日〕,ロシア軍艦長ゴロヴニンをクナシリ島で捕える。

        十二月,幕府,むこう5ヵ年間の倹約令を公布する。

    九年  〔この年(1812年),ナポレオンのロシア遠征〕

八月〔十四日〕,高田屋嘉兵衛,クナシリ島沖でロシア艦に捕われる。

        〔「文化九年に直捌制は廃止となり,東蝦夷地の各場所はすべてもとの請負制度に復帰した」(北島199頁)。〕

        この年,『寛政重修諸家譜』なる。

    十年  四月,江戸伊勢町に,三橋会所経営の米立会所設立。〔茂十郎は「江戸で最初の米穀取引所を開設し,幕府ののぞむ米価引上げをかねて一攫千金をねらった」(北島145頁)。〕

        〔九月二十三-二十五日(18131016-18日),ライプツィヒの「諸国民の戦い」でナポレオン敗れる。〕

        九月〔二十八日〕,高田屋嘉兵衛とゴロヴニンを交換する。

    十一年 〔二月十日(1814331日),アレクサンドル1世パリに入城。〕

〔二月十六日(181446日),ナポレオン,退位宣言。〕

〔「十一月,松前奉行服部備後守(さだ)(かつ)は,蝦夷地警備体制の変更について伺いをたて,第1案としてエトロフ,クナシリ,カラフトの警備は中止して,東はネモロ(根室),西はソウヤ(宗谷)を境とする〔略〕と申し出た。〔中略〕けっきょく幕府は第1案を採用した」(北島214頁)。〕

この年,滝沢馬琴『南総里見八犬伝』初輯刊行。

〔この年,『北斎漫画』初編刊行。〕

    十二年 この年,〔大坂積出しの〕阿波藍,〔藩の蔵屋敷収蔵物たる〕蔵物として〔幕府により〕公認,〔蜂須賀〕藩の専売制となる。

        四月,家康二百回忌法会を日光山に行なう。

        〔五月十一日(1815618日),ワーテルローの戦い。〕

        〔八月二十四日(1815926日),アレクサンドル1世,オーストリア皇帝及びプロイセン国王と神聖同盟を結ぶ。〕

        〔この頃江戸の寄席の数75軒(北島340頁)〕 

    十三年 九月〔七日〕,山東京伝没

    十四年 三月二十二日,光格天皇,仁孝天皇に譲位。

        〔九月,老中首座松平信明が病死(北島222頁)。〕

        〔文化年間のアイヌ人の人口は26350余人(北島185頁)〕

        〔「深川芸者に代表される女芸者は,すでに田沼時代に現れているが,化政期にはまったく遊芸と売春で身をたてる職業婦人と化し,文化年間には男芸者とあわせて,江戸市中に2万人以上もいたというからすさまじい」(北島271-272頁)。〕

    十五年 四月二十二日,文政に改元。

        四月,伊能忠敬没

  文政二年  〔六月,北町奉行所から「三橋会所および伊勢町米会所は廃止する,三橋修復・十組冥加金の上納・株札などの事務は町年寄がひきつぐことなどの申渡し」(北島148頁)。「また幕府から茂十郎への貸下金残額3800両は十組全体で返納するほか,永代橋・新大橋架替えの立替金,両町奉行の貸付金,塩問屋仲間の十組への貸付金などもそれぞれ十組で処理するように命じられた。/こうして十組仲間は,茂十郎の追放で多年の苦悩から解放されたものの,その食い荒らした会所経理の尻ぬぐいでまたまた大きな犠牲を払わされたのである」(同頁)。〕

四年  七月,伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』完成。

十二月,東西蝦夷地を松前氏に返し,松前奉行を廃する。〔「これは,ナポレオン戦争を契機としてロシアの極東戦略が後退し,北地警備の意義がうすれたこと,幕府の防衛体制と密接な関係のあった直捌制が,場所請負人の強烈な抵抗をうけて動揺し,また幕府財政にとっても蝦夷地直轄への依存度が低下したことなどが,あずかって力があった。さらに復領をめざして,松前藩が文政の幕閣を主宰した老中水野忠成(ただあきら)へさかんに贈賄したことも,ものをいったのだといわれる」(北島215頁)。〕


伊能忠敬像(富岡八幡宮)
伊能忠敬像(東京都江東区富岡八幡宮)

(寛政十二年閏四月十九日に忠敬が出発したのは,「蝦夷地」の「測量試み」のためでした。)

 

 北の守りの我が国にとっての緊要性に係る認識を,隣国に対する不信をあからさまに表明しない形での表現をもって取り入れつつ,新たな文化の日を考えてみる場合,次のような改正案は如何(いかん)

 

  昭和の日  429日  激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代を顧み,国の将来に思いをいたす。

  文化の日  923日  天下太平が守られ得て,かつ,その恵沢を広く国民が享受し得た文化の時代を顧みるとともに,北の国土の開発に思いをいたす。

  明治の日  113日  近代化を果した明治以降を顧み,未来を切り拓く。

 

 文化の日の日が923日となっているのは,文化期の天皇である光格天皇の誕生日が1771923日(明和八年八月十五日)だったからであります。やはり,元号シリーズの「国民の祝日」の日は,当該元号の時代に君臨せられていた天皇の誕生日に揃えた方がきれいでしょう。(文化の日と明治の日とではなく,新・文化の日と秋分の日とが重複する形になります。なお,光格天皇も明治天皇も祐宮という御称号を共有しておられますが,だからといって曽孫たる祐宮殿下の誕生日をもって曽祖父たる祐宮殿下が即位しておなりになられた光格天皇の御代の元号にちなむ「国民の祝日」の日とすることまではできないでしょう。)

 ところでここで,「北の国土の開発」ということを言挙げし,文化の日を北海道開拓の日でもあることにしてしまうのは,北海道人としての筆者の悪のりでしょうか。

 

4 北海道開拓の記念の要否

 

(1)北海道「開拓」の記念

 しかし,北海道の開拓を記念する日としては,文化ではなく明治の時代に由来する別の日がありました。

 

●開道百年を迎える

   私〔町村金五〕にとって終生忘れようにも忘れられない日時は昭和43年〔1968年〕92日午後2時である〔当時町村は68歳(1900816日生)。東京・旧制私立開成中学校出身。〕。開道百年記念祝典はこの時,札幌市を先頭に道内212市町村の青年諸君が郷土の旗を掲げて入場行進を合図に始められた。続いて6人の青年男女が七光星を鮮やかにデザインした道旗を持して入場する。

   国旗,道旗の掲揚が終わり,午後230分,〔昭和〕天皇,〔香淳〕皇后両陛下が会場の札幌円山陸上競技場のメーンスタンド最上部のローヤルボックスにお着きになられた。その寸前まで低くたれこめていた雨雲がまるで奇跡が起こったように消え失せ,青空がのぞいた。夜来の雨に洗われた木々の緑がなんと美しかったことか。

   総理大臣佐藤栄作氏,衆議院議長石井光次郎氏,駐日アメリカ大使ジョンソン氏ら賓客と北海道開拓功労章の栄誉に輝く先輩道民諸氏の居並ぶ中,開会を告げるファンファーレが高々と響き渡った。

   私は両陛下に心からの礼を捧げ,式辞を読み上げた。涙をためて聞き入る開拓功労者たち,未来へのひとみを輝かせた青少年たち,北海道百年の重みがひしひしと迫る一刻であった。佐藤総理の祝辞,青少年代表の誓いの言葉が終わって,天皇陛下のお言葉である。

 

     本日,北海道百年記念式典に臨み,親しく道民諸君と会することは,まことに喜びにたえません。

 北海道に,開拓の業がおこされて以来,ここに百年,進取の気風と不屈の精神をもつて,今日の繁栄を築き上げて来た人々の努力は,深く多とするところであります。

 北海道は,きびしい気候風土の下にありますが,美しい自然と多くの資源に恵まれ,将来,さらに大きな発展を期待することができると思います。

 今後とも,道民一同が,たくましい開拓者精神をうけつぎ,一致協力して,北海道の開発を推進し,国運の進展に寄与するよう,切に希望します。

 

蝦夷(えぞ)」が「北海道」と命名され,政府が開拓使を設置したのは明治二年(ママ)十五(ママ)日(旧暦(ママ))のことであった。ちょうど百年経た歴史的な年が昭和43年〔1968年〕である。この年を,私は,全道民が過去百年にわたる先人の労苦に感謝の誠を捧げ,さらに,来るべき新たな百年に向かって努力を誓う年にしなければならないと考えた。

私は昭和41年〔1966年〕3月に,北海道百年記念事業実施方針を立案し,道民代表からなる記念事業推進協議会に諮って,意義深い記念事業の数々を企画することにした。先に紹介した赤レンガ庁舎の復元保存も,実はこの記念事業の一つであった。百年記念にちなんで,標語を募集すると,予想外の応募があり,その中から「風雪百年 輝く未来」の一句が当選した。

私はこの記念すべき時点を単なるお祭り的行事に終わらせないため,熟考を重ねた。そうして,百年前の北海道の面影を今に伝える野幌原始林を永遠に保存することに決した。これに隣接する大地に「開拓記念館」を建設し,さらに「百年記念塔」を創建することにした。道旗,道章を制定することも忘れぬようにした。

開拓記念館は,我々の先祖が血の滲む苦闘を積み重ねた歴史を,次代の人々に引き継いでもらい,先人をしのぶよすがにしてもらうため,建物自体に壮重さを与えるように配慮したのである。

百年記念塔は,北海道の偉大な将来を切り開こうとする希望と意欲を天空の星につなげんものと,高さ100メートルの豪壮な鋼鉄の塔とし,発展する未来のシンボルとして建設したものである。

いずれの記念事業も,広く道民の間に先人の偉業をしのび,偉大な北海道の建設に前進せんとする機運が醸成されるように配慮したものであった。

開道百年という文字どおり100年に一度の歴史的な時点に,私は北海道の知事として,両陛下の御来道を仰ぎ,記念すべき諸行事を執り行う機会に恵まれたことは,まことに幸せであったと思う。

同時に私は,道民諸君が,風雪の百年から輝く未来の開拓者として,新しい歴史を切り開いてくれることを心から願ったのである。

(町村金五伝刊行会『町村金五伝』(北海タイムス社・1982年)261-266頁。なお,昭和天皇のお言葉は,宮内庁『昭和天皇実録 第十四』(東京書籍・2017年)535頁により修訂。)

 

(2)北海道開拓のその後及び現状

 

 196892日に昭和天皇は,(少なくともそれまでの)北海道民を「進取の気風」及び「不屈の精神」並びに「たくましい開拓者精神」を有するものとして称揚し,北海道は「今日の繁栄」を迎えているものと評価し,「将来,さらに大きな発展を期待することができる」との期待の下,以後も道民が「北海道の開発を推進」するよう希望せられました。

 しかし,それから55年余が経過した今日,北海道は目下繁栄しているものといえるでしょうか(町村知事は苫小牧東部開発に大きな期待を置いたようですが(町村金五伝刊行会276-280頁参照),当該開発は,少なくとも現在までのところ,壮大な空振りとなっています。)。沈滞萎靡の状況下に既に老化してしまった道民はなお,進取の気風,不屈の精神,たくましい開拓者精神などというものを保持し得ているのでしょうか。

ここで,不本意にも消極方向に判断を傾かしめるべき象徴的な事実を指摘すべきでしょうか。すなわち,「北海道の偉大な将来を切り開こうとする希望と意欲を天空の星につなげんものと,高さ100メートルの豪壮な鋼鉄の塔とし,発展する未来のシンボルとして建設」せられたはずの札幌市厚別区の北海道百年記念塔自体が,早々の老朽化により,1970年の竣工後百年ももたずに,2023年,あえなく解体撤去せられてしまっているところです。新千歳空港から札幌市内に向かう電車の右手車窓から石狩平野の広い空を背景に屹立する深い焦げ茶色のその姿がいつもよく見えた当該塔の不在の事実に車中不図気付いた筆者は,やや狼狽したものでした。発展する未来を支えるべき希望も意欲ももはや道民には無い(道庁には財力が無い)ということであれば,令和のフヴォストフ・ダヴィドフ(Хвостов и Давыдов)の徒輩は,その南下進出を樺太・択捉などの地までにあえてとどめるという遠慮など,今やせずともよいということにはならないでしょうか。


北海道百年記念塔撤去跡地
北海道百年記念塔撤去後跡地(
202312撮影)


北海道百年記念塔の絵
北海道百年記念塔は,周辺地域のシンボルなりき。


(3)北海道「命名」の記念

 北海道150年記念式典が,201885日,札幌市豊平区の北海道立総合体育センターで行われています。一見,前記の北海道百年記念式典の続編であったもののように思われます。しかしこれは,北海道「開拓」150年を記念するものではなく,北海道「命名」150年を記念するものでした。すなわち,当該式典の式辞において,北海道150年事業実行委員会会長である高橋はるみ北海道知事は「今年,平成30年,北海道は,その命名から150年という大きな節目を迎えています。本日,ここに、天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ,多くの皆様のご参加のもと,北海道150年記念式典を挙行できますことは,誠に喜びに堪えません。」云々と述べていたところです(下線は筆者によるもの。なお,北海道庁のウェブサイトからの「北海道150年事業記録誌」へのリンクが切れてしまっているので,当該式辞の文言については「北海道開拓倶楽部」のウェブページのものを参照しました。)。「蝦夷地自今(いまより)北海道ト被称(しょうせられ)11ヶ国ニ分割国名郡名等別紙之通〔別紙の「北海道11ヶ国」は,渡島国,後志国,石狩国,天塩国,北見国,胆振国,日高国,十勝国,釧路国,根室国及び千島国〕(おほせ) 仰出(いだされ)候事」との明治二年八月十五日(1869920日)の太政官布告をもってその由緒とするものであったわけでしょう。

ここで,あれれ町村金五元知事は「明治二年八月十五日」に開拓使が設置されて云々と言っていたようだが開拓使を設置する旨の同日付けの太政官布告等はないぞ,と不審を覚えてよくよく調べてみると,開拓使の設置は,実は蝦夷地の北海道への改称に先行しており,同年七月八日の職員令(政体書を改めて,二官六省を定める。)によってされたものだったのでした(開拓使長官は「掌総判諸地開拓。」)。しかして何たる偶然か,明治二年七月八日は1869815日に当たっており,確かに,開拓使の設置も蝦夷地の北海道への改称も,いずれも明治に(ねん)のはち(がつ)じゅうご(にち)のことではあるのでした。両者が同日に行われたとの誤解が生ずるのは已むを得ないところでありました(とはいえ,元北海道知事が誤解を招く記述をしてはいけませんね。)。

 しかし,昭和の北海道「開拓」記念が,平成には北海道「命名」記念に化けたということは興味深いことです。

確かに開拓使の設置と蝦夷地の北海道への改称とは同時に一体のものとして行われたわけではないので,両者を分離して後者のみを記念することは可能です。当初の開拓使は樺太地方も管轄していましたので(明治三年二月十三日の開拓長官宛て御沙汰の反対解釈),北海道への改称とその開拓とは直結するものではないわけです(なお,「からふと島」の名称は,185527日調印の日魯通好条約で使用されています。)。ここでまず一つ,なるほどなぁという感嘆が生じます。

更にもう一つなるほどと思わせるのは,歴史は繰り返すのだな,という感慨です。前記北海道150年記念式典での高橋知事の式辞の続きは「私たちの愛する北海道は,独自の歴史と文化を育んでこられたアイヌの方々,さらには,明治期以降,全国各地から移住され,幾多の困難にも耐え抜いてこられた方々のご努力により形づくられてきました。」というものですので,北海道の発展は道内外の人民の自発的活動によるものであったのであって,実は国主導の開拓などによるものではない,という認識が打ち出されているように解されます。北海道はもはや国家事業としての開拓又は開発の対象ではないのだということであれば,これは,文化年間の蝦夷地大公儀直轄体制から文政四年以降の松前藩復帰体制への変遷と同様の国策の変遷が,昭和と平成との間にもあったのだということになるわけです。

しかして上記変遷は,うがって見れば,寛政初期の幕閣における松平定信と本多忠籌との間の蝦夷地認識の相違及びそれらの間の力関係の変化を反映するものでもありましょう。(なお,寛政期は古いといえば古いのですが,18世紀末の政府当局者間の政見の違いがその後現在にも通用する意義を有し続けているということについては,米国ワシントン政権内でのジェファソン国務長官とハミルトン財務長官との路線対立の例があります。)

 

(4)松平定信の蝦夷地観及びその今日性

 

ア 本多忠籌の蝦夷地観との関係

 寛政初期の幕閣の首班であった松平定信は,蝦夷地は未開のままにされ置くべきであるという意見でした。

 

   定信の蝦夷地にたいする関心は田沼〔意次〕に劣らず,北方の精密な地図をつくらせたり,幕府所蔵の文書・記録などをよく研究していた。定信は,田沼とちがって蝦夷地非開拓論をとなえ,この厖大な土地を不毛にゆだねて,日露両国間の障壁にした方が日本の安全のためになると考えていた。だから同僚の本多忠籌(ただかず)が,蝦夷地を幕府の直轄に移してじゅうぶんな防備をすべきであると主張したのに反対し,これまでどおり松前藩の支配にしておく方針をとった。

(北島182-183頁)

 

  〔寛政元年(1789年)のクナシリ・メナシ〕騒動の鎮圧後には老中間で評議がなされている。その際,定信はロシアが武力による領土の拡大よりも交易を望んでいると見ていた。そこで,「異域」である蝦夷地を開発すれば,かえってロシアに狙われるので,日本の安全のためには,未開のままにして松前藩に統治を委任し続けるべきであると唱えている。

(高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館・2012年)125-126頁)

 

 『宇下人言』において,定信自ら次のように述べています。

 

  此蝦夷てふ国は,いといたうひろければ,世々の人米穀などう()てその国をひらくべしなどいふものことに多かりけれど,天のその地を開き給はざるこそ難有(ありがた)けれ。いま蝦夷に米穀などおしへ侍らば,極めて辺害をひらくべし。ことにおそるべき事なりと建義してその義は止にけり。忠籌朝臣初めはその国をひらく事をのみ任とし給ひしが,これも予がいひしによて止めて,今にてはその蝦夷の人の御恩沢にしたひ奉るやうにとの建議なり。これらものちにはいか様成る弊をや生じぬらんとおもふなり。

  (松平定信著,松平定光校訂『宇下人言・修行録』(岩波文庫・1942年)144-145頁)

 

北方防衛策については,当初は本多忠籌が担当であったのが,やがて定信自身が乗り出します。

 

  蝦夷地は山丹満洲ヲロシヤ之国々に接し,ことに大切之所成るに,いままでその御備なきこそふしんなれ。未年(天明七)御役を蒙りしよりして,このことに及びことに霜臺侯(本多弾正大弼忠籌・老中格)同意なりしが,そのなす所の趣法はたがひぬ。はじめは霜臺侯建義とりあつかひありしかば,予もゆづりてたゞその相談にのみあづかりぬ。すでに酉年(寛政元)蝦夷のクナジリ騒擾のときも,この機に乗じて御とりしまりあらんなどいひ合ひたれど,重き御方々を初め,これぞといふ御許しもなかりけり。ついに子年〔寛政四年(1792年)〕に至り霜臺侯これまで心をつくされ,見分なんどもやられたりけれど,その御備の処はこれぞと可被(けんぎ)(さるる)(べく)なし。予にゆづり給はんとまことに数度いひこされたれど,この御備は後々までものこることにあんなれ。幸ひ始め建義し給ひたれば,相談はいかやうともすべしとて,その度ごとにいひたれども,のちには是非ゆづるべしと之事,その理こまやかにいひこし給へるも,やむことを()ず,つ()にその事を引うけて,まづ三奉行と御儒者にその御備のある哉なし哉の義をとふ。そのこたへまてども出ず。よてわがおもふ所をかい付けて,子十一月比にかありけん,同列へ廻したるが,いづれもことにしかるべしとて,一条の異議もなし。御けしき伺,重き御かた〔かた〕へも申上しに,御かん被成(なられ)候など仰下されけり。これによつて,つ()にく()しき(く)記し伺ひたれば可せられぬ。さてその御備てふ建義は,手記にく()しければ略す。只その境をかたく守り,蝦夷の地は松前に依任せられ,日本之地は津がる・南部にてその御備を守り,渡海の場所へ奉行所(たてら)(るる)べしと之事なり。その奉行所可被(たてらるる)(べき)には南部・津がるの領地をも少しばかり村がへ之御さたに及び可然(しかるべく)候。左もあらば両家旧領引かへらるるなどなげくべし。なげかばその位官を少し引立られて,その家をばとり立あらば事すみなんとの建義なり。この外松前をも少し家格御取立之事などもあり,又は松前之備向勤惰見分御救交易なんど之事もあれど,く()しくは記さず。

 (松平174-176頁)

 「略す」とか「くわしくは記さず」と言われると困ってしまいますが,次のような建議であったようです。

 

  〔松平定信は〕「蝦夷地御取〆建議」を作成して寛政四年一二月一四日〔1793125日〕に同僚たちに回覧させている。そこには,①蝦夷地は非開発を原則とし,松前藩に委任して大筒を配備させるが,幕府役人は数年に1回巡視させるだけでなく“御救貿易”を行わせる,また②盛岡藩領と,弘前藩領の三馬屋の周辺などを,ともに3-4000石ずつ収公して北国郡代を置く,③この職には,船の検査や俵物の集荷を行わせ,ここと江戸湾周辺に設ける奉行所には,オランダの協力をえて西洋式の軍船を建造して配備する,などとある。

(高澤130頁)

 

 結局,日本国の本格的な防衛線は蝦夷地の手前の津軽海峡に置いて,蝦夷地自体は削り(しろ)的な緩衝地帯(火除地)にしておこうということのようです(いざとなったら蝦夷地から内地(日本之地)に引き揚げればよい,ということでしょう。)質素倹約の寛政の改革時代とはいえ,いささか退嬰的であるように思われます。しかし,平成・令和の長期衰退を経た現在においては確かに既によぼよぼたる我が国力では北方領土の返還要求などをする以前に北海道本体の保持すらも覚束ないようにも思われ(これは,かつて繁かったJR北海道の路線が次々廃止されているというよく目に見える事実に接して特に強く感じられます。根室までの花咲線も維持できない経済力でしかないのであれば,根室の更に先にある北方領土を,その返還を受けた後一体どうするのでしょうか。),かえって妙な現実味が感じられるところです。前記北海道150年記念式典での高橋知事の式辞においてされた北海道の現状の描写は「そして,北海道は今,個性豊かで魅力にあふれる北の大地として発展し,四季折々の美しい自然景観や安全・安心と高い評価をいただいている食など,様々な分野で国内外の関心を集めています。」というものであって,確かに北海道の主役は未だに人及び人が築き上げた産業ではなく,依然として「いといたうひろ」い「北の大地」(及び食については北の海も)であり続けており,また今後もそうであるべきものなのでしょう。当該式辞では更に,北海道の将来について,「アイヌの方々の自然に対する畏敬の念や共生の想いを大切に」することが強調されています。ここでの「アイヌの方々の自然に対する畏敬の念や共生の想い」は当然伝統的なものなのでしょうが,それはあるいは,幕府直轄期よりも前の寛政期にまで遡り,「天のその地を開き給はざる」蝦夷地の状態及びその維持を理想とするものであるのでしょうか。

 松平定信は寛政五年七月に将軍補佐役及び老中職を免ぜられて失脚します。現実の江戸幕府の蝦夷地政策はその後,樺太・千島を保持してそこにおいてロシアの南下を防がんとする文化年間の直轄体制(という今にして思えば前のめりの脇道であったと思われる方向)へと進んでいったことは前記年表において見たとおりです。

 

イ 北海道の「みんなの地層とみんなの自然」モニュメントとの関係

 ところで,北海道百年記念塔の跡地はどうなるのでしょうか。

 2024110日付けの報道によると(筆者は朝日新聞社ウェブページの松尾一郎記者の記事を参照しました。),同日開催された北海道議会環境生活委員会において道から,撤去された北海道百年記念塔に代わって設置される後継モニュメントのデザインが決定された旨の報告があったそうです。「みんなの地層とみんなの自然」と題された樹木を使った作品(幅8.66メートル,奥行き9.71メートル,高さ3.34メートル,樹木を含めた高さは10メートル以下)であって,有識者懇談会において「地層が太古からの北海道の歴史を感じさせ,権威的ではなく自然環境を楽しむ場づくりとなっている」などとの高い評価を受けたものであるそうです。地層を模した多層の四角い箱型の土台の上に木が何本か植えられるものとなるようです。

しかし太古からの自然といえば,当該モニュメントの後背地にある野幌原始林が,既に永遠に保存されることになっていたのであって,両者はその趣旨において重複します。あるいはまた,新モニュメントについては,それが五十年ないしは百年間存続することなどはそもそも想定されておらず,むしろ自然にひっそり野幌原始林に吸収され()えることが所期されているのかもしれません。

いずれにせよ,「天のその地を開き給はざる」状態の蝦夷地の自然の姿から,魅力的で美しい側面だけを切り取って構成した作品であるということでしょうか。飽くまでも自然がよいのであって,余計な人為・開発(国家的なそれは,「権威的」なものなのでしょう。)は加えるべからずということであれば,やはり松平定信的ですね。

 であれば,当該モニュメントの傍らに,楽翁公にちなんだささやかな歌碑が建て添えられてもよいように思われます。

 

  今更に何かうらみむうき事も楽しき事も見はてつる身は(たそがれの少将の辞世)

  蝦夷の地の風と雪とに住みかねて人去り鮭の戻る白河(筆者の腰折れ)

 

 北の大地の風にも雪にも寒さにも一向平気な,ウォッカに泥酔した赤ら顔の無頼漢らによって,襲撃・破壊されないことを祈るばかりです。


松平定信の墓(霊巌寺)
松平定信の墓(東京都江東区霊巌寺)

 

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1 はじめに

 113日の文化の日の由来については,194875日に制定され,同月20日に公布されると共に同日から施行された国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)の制定時における参議院の担当委員会たる文化委員会の委員長たりし山本勇造(作家としては,山本有三)の手記があります。筆者が参照し得たものは,高橋健二編『人生論読本 第九巻 山本有三』(角川書店・1961年)に収載されたもので,「文化の日」と題されています(同書189-194)。

 本稿は,当該文章に関して筆者が行ったいささかの考証を記すものです。

 

2 1948年4月14日の両議院文化委員会合同打合会(憲法記念日:衆=5月3日,参=11月3日)まで

 

  〔前略〕当時われわれのおった参議院の文化委員会では,〔略〕われわれのやるべきことは,国民の祝日を選ぶことであって,皇室の祝日を選ぶのではな〔かった〕。われわれが最も力を入れたのは,113日であった。この日は新憲法公布の日だから「憲法記念日」としたかったのである。

   しかし〔総司令部(GHQの〕CIE(民間情報教育局)は,それを許さなかった。「憲法記念日」なら,53日でいいではないかというのである。そのうちに,衆議院は53日を承諾してしまったので,交渉は一層やりにくくなった。

  (山本「文化の日」190頁)

 

皇室の祝日を選ぶのではなかったところ,参議院文化委員会においては,当時の昭和2年勅令第25号(休日に関する件)にあった「大正天皇祭〔同天皇の崩御日である1225日〕,春秋二季の皇霊祭,明治節〔113日〕等は皇室中心の祝祭日であるから,今度の新憲法の精神と照らし合わせて,存置しないことに決定」されています(参議院議長・松平恒雄宛ての同年73日付けの同議院文化委員長・山本勇造の「調査報告書/祝祭日の改正に関する件」(第2回国会参議院会議録第60号附録141-150頁)の144頁)。また,「「元始祭」〔13日〕,「新年宴会」〔15日〕,「神嘗祭」〔1017日〕,「新嘗祭」〔1123日〕はいずれも天皇がみずから行われる祭典であつて,皇室中心のものであり,一般の国民には縁遠いものである」から,参議院文化「委員会としては,これらは,いずれも国民の祝祭日として適当のものとは考えられないので,採用しないことに意見が一致した」とされています(同報告書145頁)。43日の神武天皇祭は,そもそも,日本書紀の「七十有六年春三月甲午朔甲辰,天皇崩〔于〕橿原宮,時年一百二十七歳」との記述が,根拠として「むろん信を置くわけにいかない」とされて落とされていました(同報告書144頁。ここでの「根拠」は,当該事実(神武天皇の崩御)発生の日付の根拠のことでしょう。)。ただし,「春秋二季の皇霊祭はそれ〔ぞれ〕春分,秋分の日にあたつているし,時候もよい時であるから,もとの姿の「春分の日」「秋分の日」としてこの二つの日は生かしたいというのが,多数の委員の意見であつた」そうです(同報告書144頁)。

ところで,19484月の14日及び15日にそれぞれ開催された衆議院文化委員会と参議院文化委員会との合同打合会及び合同小委員会(山本報告書142頁参照)に提出された両委員会の仮案においては,既に衆議院側のものが,53日を「憲法記念日」の祝祭日たるべきものとしていました(山本報告書150頁)。これは,憲法記念日の日付について,衆議院文化委員会は当時既にGHQの御指導に服していたということでしょうか。これに対して,参議院側の仮案はなお,同日をもって「こどもの日」又は「母の日こどもの日」の祝祭日たるべきものとし,「憲法記念日」は113日たるべきものとしています(同頁)。

55日でなくて同月3日が「こどもの日」とは,今となっては奇異に感じられますが,これについては参議院文化委員会なりのもっともな理由付けがあったところです。「こどもの日を選ぶにあたつて,特に注意すべきことは,季節の問題である。風習からいえば,こどもの日にあたるものは33日の「ひな祭り」と55日の「たんごの節句」であるが,男の子の日,女の子の日というように別々にすることは,祝祭日の数をふやすことになるし,また男女の差別をつけることも好ましくないので,まずこれを一本にちじめることにした。そこで一本にまとめるとすると,季節の上からいえば55日のほうがよいが,これは男の子の日であるから,女の子のことも考慮して,新しく折衷案を作つた。すなわち,月はたんごの節句からとり,日はひな祭りからとつて,53日としたのである。しかも,この日は憲法実施の日であるから,この日をこどもの日とすることによつて,次ぎの時代の人々に新憲法の精神を普及させたいという意図も含めたのである。」ということでした(山本報告書146頁)。男女の中間の44日ということは考えられていなかったようです。確かに,4月の上旬では,北海道などはあたかもどろどろの雪解けの時期で,季節としては依然よろしくないところです。(ちなみに,衆議院文化委員会の仮案では,41日に「子供の日」が祝祭日ならぬ休日として設けられることとなっていました(山本報告書149頁参照)。)なお,「母の日こどもの日」というのは,「婦人の日」を採択しない代償としての命名です(山本報告書147頁)。当該趣旨は,現在の国民の祝日に関する法律2条におけるこどもの日の趣旨説明文に「こどもの人格を重んじ,こどもの幸福をはかるとともに,母に感謝する。」として残っているわけでしょう(下線は筆者によるもの)。しかし,「次ぎの時代を背負う「こどもの日」を設けるなら,そのこどもを育てあげるのは,大部分婦人の力であるから,当然「婦人の日」も設けるべきである。」というような当時の参議院文化委員会における議論(山本報告書147頁)は,意識の向上した令和の人民の御代においては,およそ通用するものではないでしょう。育児は母のワンオペでされるべきものと決めつけることは男女共同参画社会においては許されず,更に婦人イコール母となるものと考えるのは生き方の多様性を否定する遅れた思考であるとともに若い女性を「産む機械」と捉える発想につながり,そもそも婦人の「婦」の字は箒を持つ女性ということであって,男は散らかし母なり妻がそのあと片付けをして掃除をするという性差による役割分担に係る偏見を助長する差別文字です。

 

3 11月3日にGHQが反対した理由:「ホウジュ」課長の打ち明けばなし

 衆議院文化委員会は憲法記念日を53日とするのでよいのだとしていましたが,参議院文化委員長は113日説を持して譲りません。

 

しかし,わたくしはあきらめなかった。〔略〕この法案の担当課長であったCIEのバンス氏は,いつも「ノー」といっていたけれども,全く理解していないわけではなかった。思い余った彼は,最後に企画のホウジュ課長を紹介した。ところが同課長もやはり「ノー」であった。それでも引きさがらずに,なお,こちらの意見を述べたが,結局113日という日が,どうしてもいけないのだというのである。

   なぜかと追求すると,困った顔をしながら,あなただから話すのだが,これは委員会には報告しないでくれといってこう語ったのである。

   「あなたがたは,総司令部が干渉しすぎると思っているでしょうが,総司令部もまた干渉を受けているのです。なにしろ連合軍なのですからね。ソ連やオーストラリアをはじめ各国から非難や注文が絶えず殺到しているのです。そう。――ここに,『フォーリン・アフェアーズ』があります。ご覧なさい。前イギリス代表であったオーストラリアのマクマホンボール氏は,こんなにながながとマッカーサー元帥を非難しています。このなかにも,113日のことが出ていますよ。憲法公布は111日にやるはずであったにもかかわらず,3日に変更した。理由は,半年後の実施の日が,メーデーとかち合って,混乱をおこすおそれがあるというのだが,日本の実際の腹は,明治節を温存し,ふたたび復古的な日本に立ち返ろうとしているのだ。元帥は甘い。日本にだまされているのだ。――どうです。そう書いているでしょう。こういう意見は,これだけではありません。こういう次第ですから,この日は憲法記念日として許可するわけにはいかないのです。あなたの意見はもっともですが,こちらにも,つらい事情があるのです。」

   こう腹を割った話をされては,それでもとはいえなかった。〔略〕その日は退出した。〔後略〕

  (山本「文化の日」190-192頁)

 

日本国民が113日をもって国民の祝日とすることはまかりならぬと立ちはだかった共産主義・社会主義,白濠主義等を奉ずる諸外国勢力中の巨頭は,オーストラリアの外交官であったW. Macmahon Ball氏(19464月から19478月まで聯合国の対日理事会における英国代表兼在日オーストラリア公使)であって,日本国憲法が公布された194611月から国民の祝日に関する法律が制定された19487月までに発行されたForeign Affairs誌のどれかに,日本国における新憲法公布日にかこつけた113日=明治節保存の「陰謀」を糾弾する主張を含む論文を掲載したということのようです。しかして,参議院文化委員会は,その祝祭日の選定基準10項目中の第4において「国際関係を慎重に考慮すること」としていたところでもありました(山本報告書142頁)。「この度祝祭日を定めるというので,世界では,日本がどんな日を選ぶかということに非常に注目を払つております。日本は日本の日本でない,世界の中の日本であります。殊に今日は連合軍の占領下にあるのであります。我々は十分に国際間のことを考慮し」なければならなかったわけです(194874日の参議院本会議における山本勇造文化委員長報告(第2回国会参議院会議録第59号(2954頁))。

 

4 マクマホン・ボールの『日本――敵か味方か?』

なるほど,憲法記念日が113日ではなく53日になったことについては,113日を誹謗する厄介な論文がForeign Affairsに掲載されていたという事情があったのか。

 ということで,余計なことながら筆者は図書館に出かけて,Foreign Affairs誌(年4回発行)の実物の194610月号,19471月号,同年4月号,同年7月号,同年10月号,19481月号,同年4月号及び同年7月号の各目次を検してみたのですが・・・何と,Macmahon Ball御大の論文はそれらの中には見当たりませんでした。山本有三に限らず,年寄りの回顧談には,記憶の曖昧やら混乱やらがあるものなので眉に唾をつけて用心しなくてはならないということなのでしょう。(なお,Foreign Affairs19487月号には高木八尺教授の“Defeat and Democracy in Japan”(「日本の敗北及び民主主義」)と題された論文が掲載されています。しかし,そこにおいて,“Japan needs Protestant Christianity, with emphasis on the teaching of Christ, not on institutionalism. […] Japan’s spiritual revolution will remain incomplete until Christianity is integrated in the Japanese code of morality.”p.651. 「日本には,制度主義にではなくキリストの教えに重点を置いたところのプロテスタントのキリスト教が必要なのです。〔略〕キリスト教が日本人の道徳律に統合されるまでは,日本の精神革命は未完のままなのであります。」)とまで書いて敬虔なキリスト教徒たる米国の読者にリップ・サービスしてしまっているのはいかがなものでしょうか。とはいえ,1948414日の衆議院文化委員会の仮案では1225日を「クリスマス」として休日とするものとしていましたが(山本報告書150頁参照),これは「世論調査では相当の希望者があつた」からでしょう(同報告書147頁)。) 

 しかしながら,マクマホン・ボールは,1948年後半にメルボルンで,Japan—Enemy or Ally?(『日本――敵か味方か?』)と題された本を出しています(ただし,同年12月付けの同氏の序文によればメルボルンでの出版は同月の数箇月前(a few months ago)のことですから,我が国における国民の祝日に関する法律の制定後のことでしょう。なお,増補改訂版が1949年にニュー・ヨークで,the International Secretariat, Institute of Pacific Relations, and the Australian Institute of International Affairsの合同名義で(under the joint auspices of),The John Day Companyから出版されています。筆者が利用することができたのは,このニュー・ヨーク版です。)。しかして,「ホウジュ」課長が山本有三に紹介したというマクマホン・ボールの文章に近いものと考えられる記述が,出版時期の問題は別として,Japan—Enemy or Ally? には確かにあるのでした。(なお,同書の出版名義として上記のとおりオーストラリアのインターナショナル・アフェアーズ協会(Australian Institute of International Affairs)という名称が出て来ますところ,山本有三はこれを,「フォーリン・アフェアーズ」ともっともらしく記憶したものでしょうか。)

 

   I think it was significant that the day the Japanese Government chose for inaugurating the Constitution, which was to strip the Emperor of all political power and separate religion from the state, was Meiji Day, and that the Emperor’s first act that day was to report on this strange event to his ancestors at the three main shrines in the Palace precincts. Later a great rally of citizens was organized on the Imperial Plaza. After the crowd had listened below the Palace to speeches by political leaders explaining the significance of the new Constitution, the national anthem was sung. Suddenly the imperial carriage was seen crossing the bridge over the moat. The Emperor was arriving. The crowd shouted itself hoarse in a fever of devotion. Allied newspapermen present told me they had never heard such banzais since the death charges of the war. When, after two minutes, the Emperor withdrew, the crowd surged after him, treading many underfoot in their excitement. Priests beat their drums to ward off evil spirits. For hours afterwards the crowd filed over the dais for the honor of treading where the Emperor had trod.

     (Macmahn Ball, pp.53-54)

 

   私は,天皇から全ての政治上の権限を剥奪し,かつ,宗教を国家から分離せしめるべきものである憲法を公布するために日本国政府が選んだ日が明治節(Meiji Day)であったこと及びその日における天皇の最初の行為が宮中三殿においてこの奇妙な出来事を皇祖皇宗に親告することであったことを注目すべきものと考える。その後宮城前広場に市民大会が組織された。新憲法の意義を説明する政治指導者らの演説を宮城の下で群衆が聞いた後,国歌が歌われた。突然,濠の上の橋を渡る天皇の馬車が見えた。天皇が現れるのである。群衆は,献身の熱情と共に声をからして絶叫した。その場にいた聯合国の新聞記者らは,戦争中の玉砕突撃以来,そのようなバンザイを聞いたことは全くなかったと私に語った。2分後に天皇が戻る際,群衆は彼に向って殺到し,多くの者が踏みつけられた。僧侶らが悪霊を祓うために太鼓を叩いた。その後何時間も,天皇が立った場所に立つという栄誉のために,群衆は列をなして式壇の上を歩いたのだった。

 

       It is my strong impression, despite all efforts at democratization, that the Emperor is still the political sovereign and still the Son of Heaven in the hearts and minds of the overwhelming majority of the Japanese people. I think it probable that his real political power is even stronger than before the war. He is all the Japanese people have to hold on to. […] He is the divine ruler, who preserves their national unity and who will restore that leadership among nations that has been temporarily lost through the blundering of their generals and the overwhelming material resources of the United States.

     (Macmahon Ball, p.55)

 

   民主化のための全ての努力にもかかわらず,日本人民の圧倒的多数の心中胸中において,天皇はなお政治的主権者であり,かつ,なお天子さまである,というのが私の抱く強烈な印象である。彼の実質的な政治権力は戦前よりもむしろ強くなったといい得るものであると私は考える。彼は,そこに縋るべきものとして日本人民が有するものの全てなのである。〔略〕彼は神たる支配者であり,彼らの国民的統一を維持しており,かつ,彼らの将軍らの失策及び合衆国の圧倒的物量によって一時的に失われた諸国民間における指導的地位を回復せしめるのである。

 

       The Emperor system was to be the facade behind which they [the Satsma and Choshu clans] ruled Japan. We need to be wary today lest those conservative groups that are so anxious to protect the Emperor system are not merely hoping to exploit the Emperor’s new human and democratic attributes in the same way that the Satsumo(sic) and Choshu clans tried to exploit the Emperor Meiji’s divine attributes. A feudal system could hardly have a more acceptable front than a human and democratic Emperor.

     (Macmahon Ball pp.55-56)

 

  天皇制は,その背後において彼ら〔薩長閥〕が日本を支配した前面建築物たるべきものなのであった。今日我々は,天皇制を守ることにしかく熱心な守旧派諸グループは,明治天皇の神的属性を薩長閥が利用しようとしたのと同じようにして現天皇の人間的かつ民主的な新属性を利用すべく望んでいるだけではないのではないか,ということを憂慮しなければならない。封建制度にとって,人間的かつ民主的な天皇以上に結構な隠れ蓑はそうないものであろう。

 

マクマホン・ボールの記述に関連する1946113日の昭和天皇の動静については,宮内庁において次のような記録があります。

  

  明治節祭につき,午前,賢所・皇霊殿・神殿への御代拝を侍従徳川義寛に仰せつけられる。なお聯合国最高司令部は日本政府の請求により,去る1026日付を以て,この日の日章旗掲揚は差し支えない旨を通知する〔筆者註:日本国憲法案が枢密院によって可決されたのは同月29日,昭和天皇によって裁可されたのは同月30日〕。また,明治神宮例祭につき,勅使として掌典酒井忠康を同神宮に差し遣わされる。同例祭へは,御服喪中の年を除き,戦後も引き続き毎年勅使を御差遣になる。〔略〕

  日本国憲法公布につき,午前9時,賢所皇霊殿神殿に親告の儀を行われ,御拝礼になり御告文を奏される。ついで朝融王・盛厚王・故成久王妃房子内親王・恒德王・春仁王が拝礼し,内閣総理大臣吉田茂・枢密院議長清水澄以下29名が拝礼する。

  (宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)223-224頁)

 

  東京都議会主催日本国憲法公布記念祝賀都民大会に御臨場のため,午後220分,皇后と共に御文庫を発御され,馬車にて宮城前広場に行幸される。崇仁天皇・同妃百合子・春仁王・同妃直子が参列する。天皇が玉座に着かれた後,内閣総理大臣吉田茂の発声による万歳三唱を皇后と共に受けられ,同所をお発ちになる。御帰途,鉄橋宮城正門鉄橋,通称二重橋上において馬車を停められ,奉拝者の歓呼にお応えになる。同50分,還御される。

  (実録第十227-228頁)

 

 マクマホン・ボールの日本に対する警戒心は徹底しています。

 

  I can see no reason why Japan will be less likely in the 1950’s than in the 1930’s to want to use war as an instrument of national policy. Imperialism and militarism may well be the inevitable expression of the sort of economic and social system that still stands in Japan.

     (Macmahon Ball, p.187)

 

  1950年代の日本が1930年代に比べて,国家政策の手段として戦争に訴えようとする傾向をより少なく持つようになるという理由を私は見出すことができない。帝国主義及び軍国主義は,日本においてなお存在する種類の経済社会システムにとって,不可避の発現形態であろう。

 

       […] I believe it is rash and dangerous to assume that Japan cannot in the foreseeable future again become a danger to her neighbors.

       (Macmahon Ball, p.188)

 

  〔略〕私は,想定され得る限りの未来において日本が近隣諸国に対する脅威に再びなることはあり得ないと想定することは,早計であり,かつ,危険であると信ずる。

 

       It seems probable, nevertheless, that strong controls will be necessary for at least a generation, or, say, twenty-five years. It is hard to believe that the re-education of the Japanese and the consolidation of new leadership could be achieved in a shorter period.

     (Macmahon Ball, p.191) 

 

  しかしながら,少なくとも一世代,又は,例えば25年間,強力な監督が必要となるであろうと思われる。日本人の再教育及び新指導者層の確立がそれより短い期間中に達成され得るものとは信じ難いのである。

 

    I was often told in Tokyo, not only by Japanese, but by Americans and others, that Australians seemed more bitter and revengeful toward the Japanese people than any other of the Allied peoples. I once had the disagreeable distinction of being described in part of the United States press as the “leader of the revenge school” in Japan.

     (Macmahon Ball, pp.5-6)

 

  東京において私はよく,日本人からのみならずアメリカ人その他の人々からも,オーストラリア人は他の聯合国人民のいずれよりも日本人民に対してより意地悪であり,かつ,より強い復讐心を抱いているように見える,と言われた。私は一度,合衆国のプレスの一部から日本における「復讐派の首領」として記述されるという有り難くない栄誉を頂戴した。

 

先の大戦中における日本からの侵略に対する恐怖は,人口の小さなオーストラリアにとっては甚大なものがあったのでしょう。現実には,帝国海軍は194257-8日の珊瑚海海戦に勝てず,帝国陸軍はニュー・ギニア島のオーエン・スタンレー山脈で消耗し果ててしまったのですが。

ちなみに,珊瑚海海戦を戦った我が第四艦隊の司令長官は,阿川弘之の小説『井上成美』において立派な軍人として描かれる井上成美です。ただし,194258日の昭和天皇の御様子は次のとおりであって,なかなか厳しい。

 

夕刻,御学問所において軍令部総長永野修身に謁を賜い,珊瑚海海戦の戦果につき奏上を受けられる。戦果に満足の意を示され,残敵の全滅に向けての措置につき御下問になる。軍令部総長より第四艦隊司令長官は追撃を中止し,艦隊に北上を命じた旨の奉答あり。天皇は,かかる場合は敵を全滅させるべき旨を仰せになる。軍令部総長の退出後,侍従武官長蓮沼蕃をお召しになり,今回の戦果は美事なるも,万一統帥が稚拙であれば勅語を下賜できぬ旨を仰せられ,勅語下賜の可否を御下問になる。

(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(東京書籍・2016年)709頁)

 

 閑話休題。

しかし,改めて,マクマホン・ボールは剣呑な人でした。Japan—Enemy or Ally? の結語にいわく。

 

    In a word, if we want Japan as our ally, the way to succeed is not by subsidizing reactionary governments, or resuming trade relations with a disguised Zaibatsu, but by giving firm friendship and effective help to the Japanese people. At present the Japanese masses lack political consciousness and experienced leaders; they are still sunk in the past. But when they are without food or clothing or shelter, they want radical change. Those who help them achieve this change will be their friends; those who resist the change will be their enemies.

     (Macmahon Ball, p.194)

 

  一言でいえば,我々が味方としての日本を欲するのならば,成功への道は,反動政権を援助したり,装いを改めた財閥との貿易を再開したりすることにではなく,日本人民に対して強固な友情と効果的な手助けとを与えることにあるのである。現在,日本の大衆は,政治的自覚と,経験を積んだ指導者とを欠いている。彼らはなお過去の中に沈んでいるのである。しかし,彼らが食糧,あるいは衣料,あるいは住居を欠くときには,彼らは急進的変革を欲するのである。彼らが当該変革を達成することを手助けする者が彼らの友人となるのである。当該変革に抵抗する者は,彼らの敵となるのである。

 

日本人民の衣食住をあえて欠乏せしめて,混乱の中から急進的変革(radical change)を日本にもたらしめよ,ということでしょうか。対外敗戦を通じての国内の革命を構想したというレーニン的思考の臭いがします。(なお,マクマホン・ボールとボリシェヴィキとの関係については,「マクマホン・ボールについては,〔GHQ民政局次長の〕ケーディスが報告をしているのですが,それによると,ソ連のデレビヤンコなどが何かをしようとする時,必ずマクマホン・ボールのところに来ていたようです」との福永文夫独協大学教授による報告があります(福永文夫「講演会 占領と戦後日本-GHQ文書と外務省文書から-」外交史料館報第30号(20173月)52頁)。)

 

5 バンス宗教課長に関して

 前記CIEのバンス氏は,同局の宗教課長で,1948528日に開催された参議院文化委員会の祝日に関する懇談会に臨場し(山本報告書144頁。また,同142頁),紀元節はまかりならん,と(のたも)うています。その反対理由は,1,紀元節は,日本民族成立の特殊性,優越性を,国民に教えこむために,明治初年にはじめて設けられたものである。」,「2,世論調査において紀元節を支持する者が多かつたのは,75年間にわたる,この誤つた教育の結果である。」及び「3,紀元節を存置することは,過去の日本政府が紀元節によつて意図したものを残すことを意味する。」ということでした(山本報告書144頁)。しかし,神武東征記においては,現在の奈良県の吉野には何と尾のある人((おびと)()及び国樔部(くにすら)始祖)が,葛城には「身短而手足長,与侏儒相類」という外見の土蜘蛛がいたとあり,その他一般人民も「民心朴素。巣棲穴住,習俗惟常。」という有様であったとされています。征服王の配下たりし猛々しき一部九州人を除いて,我ら日本人の大部分の御先祖たる征服民族どもは,特殊ではあっても,特段の優越性を有するものではなかったようであります。

 なお,バンス氏は,先の大戦前に旧制松山高等学校で英語の教師をしています。四国松山の英語教師といえば夏目漱石的『坊っちゃん』なのですが,旧制中学ではなく旧制高校なので,蒲団にバッタないしはイナゴを入れられるというようないたずらを,後の日本占領軍の高官にして神道指令の起草者たるオハイオ州出身の青年が被ることはなかったのでしょう。

 バンス氏は,100歳まで生きて,2008723日にメアリランド州で亡くなっています。

 

6 参議院文化委員長による5月3日の憲法記念日の容認

 話は元に戻って,山本参議院文化委員長とGHQの「ホウジュ」課長との談判の続きです。

 

  〔前略〕もう一度ホウジュ課長と交渉した。

   「あなたの(ママ)あけ話をうかがった以上,憲法記念日は53日にします。〔略〕」

  (山本「文化の日」192頁)

 

 これは,「衆議院がわが前からこの日を憲法記念日にしており,現に今年〔1948年〕も,その日にその記念の祝いをおこない,また司令部の意向もそこにあつたので,まことにやむを得なかつたのである。」ということでしょう(山本報告書148頁)。

 確かに,194853日には「国会・内閣・最高裁判所共催の日本国憲法施行一周年記念式典へ御臨席のため,〔昭和天皇は〕午前1040分御出門になり,参議院議場に行幸される。御到着後,便殿において衆議院議長松岡駒吉・参議院議長松平恒雄・内閣総理大臣芦田均・最高裁判所長官三淵忠彦の拝謁を受けられ,参列の崇仁親王・同妃と御対面になる。ついで式場に臨まれ,御着席の上,松岡衆議院議長・松平参議院議長・芦田内閣総理大臣・三淵最高裁判所長官の式辞をお聞きになる。終わって,1130分還幸される。」という運びになっています(実録第十642-643頁)。参議院も,53日をもって日本国憲法に係る目出度い日であるものと公式に認めていたことになります。これに対して,1947113日には,天皇臨御の日本国憲法公布一周年記念式典は行われていなかったのでした(実録第十533-534頁参照)。確かに,施行後6箇月で早くも公布一周年式典を行うのでは慌ただし過ぎるでしょうし,やはり,新憲法が実際に施行されて以後の変化及びそれらに対応する多忙の印象の方が強烈だったことでしょう。

 ちなみに,日本国憲法公布の1946113日には,前記の東京都議会主催日本国憲法公布記念祝賀都民大会の前に,帝国議会貴族院で日本国憲法公布記念式典が開催され,昭和天皇から「〔前略〕朕は,国民と共に,全力をあげ,相携へて,この憲法を正しく運用し,節度と責任とを重んじ,自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。」との勅語が下されていますが(実録第十226-227頁。同日付けの英文官報によれば,当該部分の英語訳は"It is my wish to join with my people in directing all our endeavours toward due enforcement of this Constitution and the building of a nation of culture tempered by the sense of moderation and responsibility and dedicated to freedom and peace."です。),憲法が施行された194753日には政府主催・天皇臨御の記念式典は行われていません(同書320-323頁参照)。むしろ,我が現行憲法施行の初日は前途多難を思わせる悪天候であって,「憲法普及会主催による日本国憲法施行記念式典に〔昭和天皇は〕御臨席の予定なるも,風雨のためお取り止めとなっていた」という状況でした(実録第十321頁)。晴の特異日である113日に比べて,53日は間が悪い。194753日の東京における降雨量に係る気象庁のデータを検すると,その日は夜来雨で,6時から7時までの間の降雨量は4.1ミリメートル,10時から11時までは1.5ミリメートル,11時から12時までは0.3ミリメートルでありました。しかしながら,11時近くなると雨も小降りになったようです。そこで,

 

  〔昭和天皇は〕特に思召しにより予定を変更され,午前1055分御出門,〔日本国憲法施行記念〕式典の終了した宮城前広場に行幸になる。憲法普及会会長芦田均の先導により壇上にお立ちになり,参会者より万歳三唱をお受けになる。11時還幸される。(実録第十321頁)

 

ということになりました。サプライズ行幸ですね。

 

7 「ホウジュ」課長による11月3日の祝日の容認

 他方,113日の憲法記念日を諦めた山本委員長と「ホウジュ」課長との会談は,それでもなお続いています。山本委員長が演説をぶったことになっています。

 

   「われわれが113日を固執しているのは,これが新憲法の発布の日だからである。マクマホンボール氏の意見は難くせに過ぎない。この記念すべき日を祝日から除いてしまったら,今後,新憲法はどうなるか。われわれは新しい憲法によって,新しい日本を作りあげてゆきたいのである。この日が消えてしまったら,国民は新憲法に熱意を失うと思うが,あなたはどう考えますか。われわれは,なんか,ほかの名まえにしてでも,この日だけは残したいのです。」

   ホウジュ氏はしばらく考えていたが,「では,なんという名まえにするのか。」と聞き返してきた。しかし,わたくしたちは,そこまで考えていなかった。113日はいけないといわれていたので,なんとか,この日を生かしたいというだけが,精いっぱいであった。いろいろ話し合った結果,つごうによっては,考えてみてもよいというところまで,ホウジュ課長も折れてきた。しかし,復古的なにおいのするものであっては,絶対に許可しないとクギをさされたのである。

  (山本「文化の日」192-193頁)

 

 これが,113日が国民の祝日となった瞬間なのである,ということのようです。

 

8 Osborne Hauge, one of the young GHQ drafters of the Constitution of Japan

しかし実は,山本委員長のしつこい頑張りは,「ホウジュ」課長にとっては渡りに舟だったかもしれません。「ホウジュ」課長にも,113日には格段の思い入れがあったはずだったからです。

国立国会図書館のデジタルコレクションにあるGHQ/SCAP Records, Government Section文書中Box No.2204, Folder No.(2)“House of Representatives – 2nd National Diet”という文書の3齣目の18を見ると,624日付けの“Bill concerning the National Feast Days” (国民の祝日に関する法律案)がいずれも630日にCIE及びGSGovernment Section:民政局)によって承認(App’d)され,O.K.となった旨が記されています(イタリック体は,原文手書き)。CIEの担当者は,Bunceと読めますから,バンス宗教課長ということになります。しかしてGSの担当者はHaugeです。これは,ホウジュとも読めるのでしょうが(hの音が発音できるフランス人の読み方),「〔サウス・ダコタとの州境に近いミネソタ州マディソン生まれで〕ミネソタ州ノースフィールドのセイント・オーラフ大学を卒業後,1935年から37年まで,中西部〔ノース・ダコタ州〕で週刊新聞〔3紙〕の編集長をつとめた。1937年からは〔(又は)1940年にルター派牧師の娘と結婚し〕ニューヨークに本部を置く全米ルーテル派教会会議で広報・渉外を担当し,1942年からワシントンDCでノルウェー大使館のスタッフをつとめている。/終戦に近い1944年に海軍の召集を受け,プリンストン大学の軍政学校とスタンフォードの民事要員訓練所を経て,日本占領のスタッフに選ばれた」という経歴を有する「1914年生まれのノルウェー系アメリカ人」である「オズボーン・ハウギ海軍中尉」ではないですか(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川ソフィア文庫・2014年(単行本版:創元社・1995年))53-54頁。〔 〕内は,2004821日付けのワシントン・ポスト紙のハウギ氏の死亡記事によって筆者が補ったもの)。

ハウギ中尉は,GHQの民政局員として,我が現行憲法に係る19462月のGHQ草案作成の際の立法権に関する小委員会のメンバーであり,かつ,「民間情報教育局(CIE)の手助け」もしていたのでした(鈴木50頁以下・54頁)。「1946113日,日本国憲法は公布される。民政局の25人は,その日,〔貴族院〕本会議場の傍聴席の片隅に座っていた。」ということでありましたから(鈴木362頁。同363頁に写真),113日は,彼らにとって思い出深い日となったはずなのでした。日本国憲法は,ハウギ課長にとって,おらが憲法であったはずなのでした。「日本が他の国に先んじて,〈理想〉のゴールに達したという感じがしています。まさに,新しい国の新しい憲法といえますね。」とは,後年のハウギ翁の言葉です(鈴木363頁)。

日本怖い,天皇怖いとやかましい小国オーストラリアの怖がり外交官の神経質な難癖に過剰な忖度をして,せっかくの〈理想〉のゴール到達がなされた日を国民の祝日として日本人民に祝わしめ,感謝せしめ,記念せしめることを自粛してしまう思いやりなど馬鹿馬鹿しいではないかと,〈理想〉の使徒たる米国人であるハウギ課長は腹を括ったのでしょう。しかし,「憲法記念日」の名は53日に既に取られてしまっているのでその名は使えないところ,113日の祝日の名称は,やはり濠ソ等の手前,天皇臭(「復古的なにおい」)の無いものでなければならない,ということになったのでしょう。
 (なお,日本国憲法の公布の日付についてのそもそもの米国政府の判断は,
やはり明治天皇との関係で113日が選ばれたのであろうが,だからといってそこから重大な意味が派生するというものではないだろう,という見切りでした。すなわち,対日理事会における中華民国代表の朱世明が同理事会議長の米国代表ジョージ・アチソン宛ての19461025日付け書簡において「日本の大陸における隣国に対する二つの侵略戦争によって特記される明治時代は,主に彼らの帝国の拡大について達成された成功のゆえに日本人民に記憶されている」のであるから明治節の日に日本国の新憲法が公布されるのは幸先がよろしくないとの懸念を示していたところ(「二つの侵略戦争」と述べて,日清戦争のみならず日露戦争にも言及していますから,ロシア人の代弁をもしているということになるのでしょう。),同月31日付けのアチソン回答はいわく,「新しい日本国の憲法の公布日として113日が選ばれることに係る19461025日付け貴簡に関して申し述べますところ,当該日付が日本国政府によって選択されたのは,最初の日本国の憲法が主に明治天皇の計らいによるものであったからである(because the Emperor Meiji was mainly responsible for the first Japanese Constitution),というのが当職の理解であります。/当該日付の選択から,何か重大な意味が派生するもの( has any far-reaching significance)とは当職には思われません。ということでありますから,したがって,当職の意見では,現地政府の行政事務と見られるところの事項に干渉するための手段を執ることは望ましくないものと思われます。」と(国立国会図書館電子展示会「日本国憲法の誕生」資料と解説4-16)。いわゆるマッカーサー三原則と共にGHQ民政局内で大日本帝国憲法全部改正案を作成する9日間の作業が発起されることになったのは194623日のことでしたが,だからちょうど9箇月後の113に公布するのが切りがよくてよいのだ,また,1+1=2なのであるから実は11323日に通ずるのだ,素晴らしい符合ではないか,日本人民及びその国家は明治天皇に縋って己れの過去に執着しようとしつつも無意識のうちに運命の力で戦勝米国に迎合してしまう定めなのだ,とまでは米国側もさすがに言えなかったわけでしょう。

 

9 聖徳太子(十七条憲法)の退場及び昭和天皇の勅語の隠蔽

ところで,113日の名称を「文化の日」とすることについては,山本有三が頭をひねった,ということになっています。

 

  そこで,わたくしと岩村〔忍〕君とは,その名称について頭をひねったのであるが,今まで,憲法記念日としてしか考えてこなかったので,なんとしても名案が浮かばなかった。その時,「文化の日」という暗示を与えてくれたのは,現最高裁判所判事,入江俊郎(いりえとしお)氏であった〔筆者註:入江俊郎は日本国憲法制定時の法制局長官〕。新憲法は,戦争放棄というような,世界に類例のない条文を持った憲法である。こんな文化的な憲法はない。これなら,復古思想といわれることはないであろう。そこで,この案を持って,先方に行ったところ,よく考えてみようということであった。数日後,呼びだしがあったので,行ってみると,「あなたがたの熱意を買って,許可することにしましょう。」といってくれた。これでやっと113日は残ったのである。こういういきさつであるから,その名称がぴったりしないのは,やむを得ないのである。

 (山本「文化の日」193-194頁)

 

 しかしこれはどうも,余り正確ではないように思われます。

 実は1948414日の両議院文化委員会合同打合会において衆議院側から提出された仮案において既に,113日は「文化祭」なる祝祭日として提案されていたのでした(山本報告書150頁参照)。何やら学校生徒の学園祭みたいな名称ですが,出所は当然,「自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。」との1946113日の勅語でしょう。

 参議院文化委員長が113日と「文化国家」とを積極的に結び付けようとの思いに至らなかったのは,実は同委員会には聖徳太子好きな人々がいて,日本国憲法ならぬ十七条憲法発布の日である43日(旧暦)又は56日(新暦)をもって「文化日本の日」なる祝祭日にしようという動きがあったからでした(山本報告書149-150頁参照)。「「文化日本の日」――この名まえは本委員会としては確定的のものではなかつたが,この日を設けようということになつたのは,文化国家としての日本の再出発に当たつて,わが国最初の成文法である聖徳太子の十七条憲法の制定の日を採りたいという有力な意見が出たからである。〔略〕その第1条の「以和為貴」は,平和思想を鼓吹されたものであり,最後の第17条は「夫事不可独断。必与衆宜論。」とあつて,一種の民主主義思想を説かれたものとも解せられる。千三百数十年の昔,今日の新憲法の精神とあい通ずるところのものを制定されたということは,いわば文化国家の礎をきずかれたものであつて,われら国民のひとしく仰ぎ,ひとしく誇りとすべきところでなければならない。」というわけです(山本報告書145頁)。

 しかし,「聖徳太子に関する日は〔1948年〕614日の合同打合会において,衆議院がわから,国民の祝祭日としてはまだ熟さない感があるという反対があつたので,参議院がわはこれに対して大いに論戦したが,衆議院がわが応じないので,ついに落ちることになつた。」ということです(山本報告書148頁)。参議院文化委員長が113日を「文化祭」ならぬ「文化の日」とすべく最終的に決心したのはその時でしょう。1948617日の参議院文化委員会最終草案の第2条において,「文化の日 113日 自由と平和を愛し,文化をすゝめる。」という形になっています(山本報告書150頁)。

 衆議院文化委員会仮案に既に「113日 文化祭」があったので,入江判事からの「暗示」は,「文化の日」という名称自体についてのものではないでしょう。それでは何についての「暗示」であったのかといえば,筆者思うに,文化の日の意義付けは,それを明治節はもちろん1946113日の昭和天皇の勅語にも求めるべきではないところ(「復古的なにおいのするものであっては,絶対に許可しない」),日本国憲法の内容論をもって直接説明することが可能であり,また,そうすべきである,との天皇抜きでする説明の方法論についてのものではなかったでしょうか。

 文化の日の意義付けは,最終的には次のようになっています。

 

   113日は「文化の日」と決定した。この日は明治天皇のお生れになつた日であり,明治節の祝われた日であるが,それは同時に,新憲法の公布された日であり,その新憲法において,世界のいかなる国も,いまだかつて言つたことのない「戦争放棄」という重大な宣言をした日である。これは日本国民にとつて忘れがたい日であると共に,国際的にも,文化的意義を持つ大事な日である。したがつて,この日を「文化の日」としたのは平和をはかり,文化をすゝめるという意味からである。「平和の日」という名まえも考えられたが,それは別に,講和条約締結の日を予定しているので避けたのである。また,この日は一年を通じて最もよい季節にあたつており,従来も体育大会その他の行事が催されているので,これからもこの新しい祝祭日を中心として,その前後に,例えば芸術祭,科学祭,体育祭などを行うと同時に,文化上の功労者に栄典を授けるというような行事を催すことも望ましいという意見であつた。

  (山本報告書148頁)

 

  11月の3日を文化の日といたしましたのは,これは明治天皇がお生れになつた日であり,明治節の祝われた日でございますが,立法の精神から申しますと,この日御承知のように,新憲法の公布された日でございます。そうしてこの新憲法において,世界の如何なる国も,未だ曽て言われなかつたところの戦争放棄という重大な宣言をいたしております。これは日本国民にとつて忘れ難い日でありますと共に,国際的にも文化的意義を持つ重大な日でございます。そこで平和を図り,文化を進める意味で,この日を文化の日と名ずけたのでございます。平和の日といたしましてもよいのでありますが,それは別に講和条約締結の日を予定しておるのでございますので,それを避けたのでございます。

  (194874日の参議院本会議における山本勇造文化委員長報告(第2回国会参議院会議録第59号(2954頁))

 

 「「文化の日」という日ぐらい,わからない日はない,と,ことしもまたわる口をいわれている。非難をする人から見れば,この日は,昔の明治節である。明治節の日をなんで「文化の日」なぞとするのだ,わけがわからないというのだろう。」という「一応もっともな非難」(山本「文化の日」189-190頁)に対して山本有三は立法経緯論で答えて,「こういういきさつであるから,その名称がぴったりしないのは,やむを得ないのである。」と言って,何やら当該分かりづらさを「名称」に係る入江判事の「暗示」のせいにしているように見えます。しかし筆者には,当該分かりづらさの存在ないしぴったり感の欠如は,文化の日を説明するに当たって,そもそもの1946113日の昭和天皇の勅語を無視することにしてしまった隠蔽的方法論に由来するように思われます。現在の各種六法においては,大日本帝国憲法については,上諭及び題名以下の条文のみならず明治天皇の告文及び憲法発布勅語までを掲載していますが,日本国憲法については,上諭は掲載されても昭和天皇の告文及び勅語は掲載されていないことも問題なのかもしれません。1946113日には,占領下といえども,大日本帝国憲法はなお名目的には効力を有していたので,同日の天皇の勅語は無視できなかったはずです(当該勅語も同日付けの官報に掲載されています。なお,同日の昭和天皇の告文は,『昭和天皇実録』にも記載されていません(実録第十223-229頁参照)。)。
 (おって,国民の祝日に関する法律2条における文化の日の趣旨説明の文は「自由と平和を愛し,文化をすすめる。」であって,日本国憲法公布記念式典における勅語の「自由と平和とを愛する文化国家を建設する」の部分との呼応関係を(筆者は)感ずることができるのですが,オーストラリア人らが読んだであろう同法の英語訳文を英文官報で見てみると,文化の日は"Culture Day"であり,その目的( object )は"To love liberty and peace and to promote culture."となっています。これは一見するに,"love and peace"cultureの日ですね。天皇と共に文化国家を建設するというような大仰な意図をそこに看取すべきものではない,ということになるようです。


山本有三旧宅跡(馬込文士村)1
山本勇造参議院文化委員長宅跡地(東京都大田区山王)


山本有三旧宅跡(馬込文士村)2

10 その後

 「文化国家」建設の国是は,その後忘れられてしまい,「経済大国」実現のそれに取って代わられたようです。しかして昭和末期の“Japan as Number One”時代を経て198917日の昭和天皇崩御後の平成の時代に入ってからは,我が国経済は停滞し,2010年にはGDP世界第2位の地位を中華人民共和国に明け渡してしまい,更に衰退途下国化がいよいよはっきりしてきた令和の御代の今年(2023年)にはドイツにも抜き返されて世界第4位に落ちるそうです。平成時代には「生活大国」,「やさしい国」,「美しい国」等の理想が我が国の在るべき姿として唱えられましたが,そのような国の人民には,猛々しいeconomic animal的なanimal spiritは最早不要でしょう。貧すれば鈍する。日本のソフトパワーを強化し,日本の優れた文化を世界に宣布せんとのCool Japan”戦略も,お寒いものであったとして尻すぼみになりそうです(2013年に設立された株式会社海外需要開拓支援機構(クールジャパン機構)については,同社のウェブサイトを見るに,政府から1156億円,民間から107億円が出資されていますが(202210月現在),2023331日現在の累積赤字(利益剰余金のマイナス)が35584196千円にのぼっています(同日付けの同社貸借対照表)。)。

 1887年生まれの山本有三は,1974111日に86歳をもって亡くなりました。当時はなおマクマホン・ボール的敵意が東南アジア諸国に健在であったものか,山本が死亡した月に田中角榮内閣総理大臣が当該地域を訪問中でしたが,同月9日にはバンコクで学生反日デモ,同月15日にはジャカルタで反日暴動が起きていました。

 マクマホン・ボールは,その後の円高,低金利を経ての我がバブル景気の時代をもたらすこととなったプラザ合意(1985922日)の翌年である19861226日に85歳で亡くなっています。1980年に我が国は,ワーキング・ホリデー制度を初めてオーストラリアとの間で開始していましたが,「帝国主義・軍国主義国家」の若者が大勢オーストラリア国内をうろうろする様を,晩年のマクマホン・ボールは苦々しい目で見ていたものかどうか。

 山本よりも27歳年下のオズボーン・ハウギは,ワシントンD.C.において,1951年からは予算局で,1961年から1974年まで外交官として勤務し,アジアの美術品の収集家として知られていました。ヴァジニア州フォールス・チャーチ在住。2004721日に90歳で肺炎により亡くなっています。(前記ワシントン・ポスト紙の死亡記事参照。なお,当該記事によれば,オズボーンには,同時期に日本に駐在し,かつ,同様にアジアの美術品の収集家であるヴィクター(Victor)という名の兄弟がいたそうです。このヴィクターは何者かといえば,GHQの民政局ならぬ民間通信局(Civil Communications Section)に勤務していたV. L. Haugeでしょう。V. L.ハウギは,逓信省の鳥居博を呼び出して19481230日にCCSの次長室で行われた「放送法に関する会議」の出席者として記録せられています(放送法制立法過程研究会編『資料・占領下の放送立法』(東京大学出版会・1980年)221)。確かに,「ハウギ」又は「ハウギー」という名は,筆者が電波法・放送法の立法過程を調べていると,ちょくちょく出て来ていたのでした(『資料・占領下の放送立法』218頁・552頁等)。このヴィクターが,1978年にInternational Exhibitions Foundationから出版されたFolk Traditions in Japanese Artの著者なのでしょう。同書はヴィクター及びタカコ・ハウギの共著ということになっていますから,ヴィクターは日本駐在中に将来の配偶者と出会ったものでもあったのでしょうか。日本文化の愛好家たりしハウギ兄弟にとって,日本国に「文化の日」の祝日があることは,当然そうあるべきものだったわけです。)

 

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草田男句碑
  降る雪や明治は遠くなりにけり   中村草田男(
1931年)

                  ――明治の終焉は,1912730日のことでした。

 

1 文化の日と「明治の日」との併記に向けた動き

 今月(202311月)1日付けの共同通信社のニュースに「文化の日に「明治」併記を 超党派議連が法案提出へ」と題されたものがあります(同社ウェブページ)。「超党派の「明治の日を実現するための議員連盟」は〔202311月〕1日,国会内で民間団体と合同集会を開き,明治天皇の誕生日に当たる113日の「文化の日」に「明治の日」と併記を求める祝日法改正案を提出する方針を確認した。来年〔2024年〕の通常国会で成立を目指すとしている。」とのことです。当該議員連盟の会長は自由民主党の古屋圭司衆議院議員であって,上記合同集会には同党のみならず,公明党,立憲民主党,日本維新の会及び国民民主党からも参加があったそうですから,国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)の当該改正は成立しそうではあります。

 「「国民の祝日」を次のように定める」ところの国民の祝日に関する法律2条における文化の日に関する部分は,現在次のようになっています。

 

  文化の日 113日 自由と平和を愛し,文化をすすめる。

 

 前記ニュースによれば,当該合同集会で古屋会長は「「明治は,日本が近代国(ママ)に生まれ変わった重要な足跡だ」と訴え」たそうですから,文化の日と「明治の日」とが併記された後の国民の祝日に関する法律2条の当該部分は次のようになるのでしょうか。

 

  文化の日 113日 自由と平和を愛し,文化をすすめる。

明治の日 右同日 日本が近代国家に生まれ変わった重要な足跡である明治の時代を顧み,国の将来に思いをいたす。

 

 しかし,「右同日」との表記や,あるいは重ねて「113日」と書くのは何だか恰好が悪いですね。国民の祝日に関する法律の第2条全体を表方式に変えるべきことになるかもしれません。

 (2023114日追記:なお,本記事掲載後,毎日新聞ウェブサイトにおいて,20231131943分付けの関係記事(「113日に二つの祝日⁉ 「明治の日」併記,折衷案で動く政界」)に接しました。当該記事によって,明治の日を実現するための議員連盟が準備したという法案(新旧対照表方式)の画像を見ることができましたが,同議員連盟は国民の祝日に関する法律2条に表方式を導入するという新機軸を切り拓くまでの蛮気に満ちた団体ではないようで,現在の同条における文化の日の項の次に「明治の日 113日 近代化を果した明治以降を顧み,未来を切り拓く。」という1項を挿入する形が採用されていました(「113」重複方式)。しかし,形式の話は別として,当該趣旨説明の文言はどうでしょうか。文学部史学科日本近代史専攻の学生を募集するための宣伝文句のようでもあり,折からの学園祭の季節,当該専攻の学生らが自らの若々しい研究成果を展示する際の惹句にこそふさわしいようでもあります。また,窮境にある日本の社会・経済・国家が未来を切り拓くためには専ら近代化の一層の推進によるべしということであれば,我が国の文化・伝統・歴史であっても非近代=非西洋的なものは切り捨てるべしというように反対解釈できるようです。ありのままの過去は捨てて,近代化イデオロギーの立場からの歴史の再編成を行おうということになるのでしょうか。あるいは,非西洋的なものを切り捨てるのではなく,専ら非科学技術的なものを切り捨てるのだ,ということかもしれません。そうであれば,西洋化ではなく,むしろ,人為に更に信頼して,進んだ科学的〇〇主義に基づいた理想的近代社会を実現する実験に新たに挑戦するのだということになりそうです。復古主義ではないですね。)

 なお,民間団体たる明治の日推進協議会(田久保忠衛会長)は,文化の日に差し替えて「「近代化の端緒となった明治時代を顧み,未来を切り拓く契機とする」祝日「明治の日」を制定することのほうが有意義ではないか」と考えているとのことです(同協議会ウェブページ)。

 

   しかし,我が国の「近代化の端緒」というならば,185378日(嘉永六年六月三日)のペリー浦賀来航の方が,その前年1852113日の京都中山邸における孝明天皇の皇子誕生よりも重要でしょう。

また,当該協議会は,1946113日(日曜日)に貴族院議場で行われた日本国憲法公布記念式典において昭和天皇から下された「朕は,国民と共に,全力をあげ,相携へて,この憲法を正しく運用し,節度と責任とを重んじ,自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。」との勅語(宮内庁『昭和天皇実録第十』(東京書籍・2017年)226-227頁参照。下線は筆者によるもの)に示された叡旨をどう評価しているのでしょうか。

   2013410日の衆議院予算委員会で田沼隆志委員は,文化の日の趣旨とされる「自由と平和を愛し,文化をすすめる」について,「まず,この意味がわからない。「文化をすすめる。」これはどういう意味なんでしょうか。日本語としてまずよくわからないので官房長官にお尋ねします。ぜひわかりやすく教えてください。」と発言していますが(第183回国会衆議院予算委員会議録第2232頁),同委員は,1946113日の昭和天皇の勅語を読んではいなかったものでしょう。これに対して「ぜひわかりやすく教えてください」と頼まれた菅義偉国務大臣(内閣官房長官)は,議員立法された法律の文言の難しい解釈を,当該立案者ならざる政府に対して訊かれても困るという姿勢でした。「これは議員立法で成立したわけであります。さまざまな政党がお祝いをしようという中で,それぞれ理念の異なる政党の中でこの法律〔国民の祝日に関する法律〕をつくったわけでありますから,今委員が指摘をされたように,何となくどうにでもとれるような形で,多分,当時,この祝日をつくるについて議員立法で取りまとめられた結果,こういう表現になったのではないかなというふうに思います。」ということですが(同頁),前提となるべきものとしての昭和天皇の勅語があったことを知っていた上で,それは「何となくどうにでもとれるような形」の文章なのだと答弁したのであれば・・・何をかいわんや。

 

 とはいえ,文化の日と「明治の日」とは併記となるそうです。そうであれば,「平和を愛」する文化の日と同じ日において明治の時代を顧みる際には,戊辰戦争における官軍による賊軍制圧及び西南戦争その他の士族反乱の鎮定並びに日清日露両戦争における勝利といった物騒なことどもを想起・礼賛してはならないのでしょう。

 

2 192733日の詔書渙発及び昭和2年勅令第25号の裁可

 

(1)明治節を定める詔書及び休日に関する勅令

 ちなみに,「明治の日」と似ている明治節を定めた昭和天皇の勅旨を宣誥する詔書(192733日付けの官報号外)は,次のとおりでした。

 

  朕カ皇祖考明治天皇盛徳大業(つと)ニ曠古ノ隆運ヲ(ひら)カセタマヘリ(ここ)113日ヲ明治節ト定メ臣民ト共ニ永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ明治ノ昭代ヲ追憶スル所アラムトス

    御 名   御 璽

      昭和233

                    内閣総理大臣 若槻礼次郎

 

現在の令和民主政下においては,我ら人民が明治「天皇ノ遺徳ヲ仰」ぐ必要はないのでしょう。

なお,上記詔書には宮内大臣の副署がありませんから,明治節を定めることは,皇室の大事ではなく大権の施行に関するものであり,かつ,内閣総理大臣の副署のみで他の国務各大臣の副署がありませんから,大権の施行に関するものの中での最重要事ではなかったわけです(公式令(明治40年勅令第6号)12項参照)。

しかして,「臣民ト共ニ永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ明治ノ昭代ヲ追憶スル」ための具体的な大権の施行はどのようなものであったかといえば,休日に関する勅令が改正されて,113日が国の官吏の休日とされたのでした(192733日裁可,同月4日公布の昭和2年勅令第25号。題名のない勅令です。)。

 

なお,昭和2年勅令第25号は大正元年勅令第19号を全部改正したものです。この昭和2年勅令第25号は,国民の祝日に関する法律附則2項によって1948720日から廃止ということになっていますが,これは,日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する昭和22年法律第721条による19471231日限りで失効したものであるところの法律事項を定める勅令に対する重複する廃止規定ではないものであるとすると,それまでの政令事項を規律する命令を法律で上書きしたということなのでしょう(各「国民の祝日」について (参考情報)祝日法制定の経緯 - 内閣府 (cao.go.jp))。)。

 

昭和2年勅令第25号の副署者は若槻内閣総理大臣のみですが,当該事項に係る主任の国務大臣(公式令72項参照)は内閣総理大臣だったというわけでしょう(「官吏ノ進退身分ニ関スル事項」を内閣官房の所掌事務とする内閣所属部局及職員官制(大正13年勅令第307号)214号参照)。ちなみに,別途,宮内職員の休日に関する昭和2年宮内省令第4号が,勅裁を経て192734日に一木喜徳郎宮内大臣によって定められ,同日公布されています。昭和2年勅令第25号の案は192731日に閣議決定されていますから,同月2日午後の「内閣総理大臣若槻礼次郎・一木宮内大臣にそれぞれ謁を賜う。」という昭和天皇の賜謁は(宮内庁『昭和天皇実録第四』(東京書籍・2015年)657頁),昭和2年勅令第25号及び同年宮内省令第4号並びに同月3日の詔書に関するものだったのでしょう。

 

(2)帝国議会における動き

なお,当時開会中の第52回帝国議会においては,明治節制定に向けた動きが活発でした。

貴族院においては,1927125日に公爵二条厚基,子爵前田利定,男爵阪谷芳郎,和田彦次郎,倉知鉄吉,松本烝治,中川小十郎及び菅原通敬各議員提出の「明治節制定ニ関スル建議案」(「明治節制定ニ関スル建議/明治天皇ノ御偉業ヲ永久ニ記念シ奉ル為毎年113日ヲ祝日トシテ制定セラレムコトヲ望ム/右建議ス」)が全会一致で可決され(第52回帝国議会貴族院議事速記録第787-88頁。各議院がその意見を政府に建議できることについては,大日本帝国憲法40条に規定があります。),同年222日には東京市日本橋区蠣殻町平民田中巴之助外17名呈出の請願書(大日本帝国憲法50条)について「右ノ請願ハ明治節ヲ制定シ明治大帝ノ聖徳偉業ヲ憶念欽仰スルハ民意ヲ粛清向上セシメ世態民風ヲ統一正導スル所以ナルニ依リ速ニ之カ実現ヲ図ラレタシトノ旨趣ニシテ貴族院ハ願意ノ大体ハ採択スヘキモノト議決致候因リテ議院法第65条ニ依リ別冊及送付候(そうふにおよびさうらふ)」との政府宛て意見書が異議なく採択されています(52回帝国議会貴族院議事速記録第14272頁)。

衆議院においては,同年125日に大津淳一郎,小川平吉,三上忠造,元田肇,松田源治,鳩山一郎,山本条太郎等の18議員提出の「明治節制定ニ関スル建議案」(「明治節制定ニ関スル建議/明治天皇ノ盛徳大業ヲ永久ニ記念シ奉ル為113日ヲ以テ明治節トシ之ヲ大祭祝日ニ加ヘラレムコトヲ望ム/右決議ス」)がこれも全会一致で可決されています(第52回帝国議会衆議院議事速記録第785頁)。元田議員述べるところの建議案提出理由においては「〔前略〕明治天皇〔の〕御盛徳御偉業〔略〕中ニ付キマシテ王政復古ノ大業ヲ樹テラレ,開国進取ノ国是ヲ定メ給ヒ,立憲為政ノ洪範ヲ垂レサセラレ,国民道徳ノ確立ノ勅教ヲ屢下シ給ヒマシタコト,殊ニ帝国ノ天職ハ平和ヲ保持シ,文明ノ至治ヲ指導扶植スルニ在ルコトヲ世界ニ知ラシメ給ヒシコトハ,其最モ大ナル所デアリマス(拍手)御承知ノ如ク明治天皇ノ崩御遊バサレマシタ730日ヲ以テ是迄祝祭日トナッテ居リマシタガ,本年以後ハ此祝祭日ガ廃止シタコトニ相成リマシタニ付キマシテハ,明治天皇御降誕ノ当日タル113日ヲ以テ大祭祝日ト致シマシテ,大帝ノ御盛徳御偉業ヲ永遠ニ欽仰シ奉リタイト存ズルノデアリマス〔後略〕」とありました(同頁)。また,衆議院にも「明治節制定ノ件」に係る請願書が提出されており,同年24日には同議院の請願委員会(議院法(明治22年法律第2号)63条)において,採択すべきものと異議なく認められています(第52回帝国議会衆議院請願委員会議録(速記)第32頁)。ただし,当該請願書についての政府に対する衆議院の意見書送付(議院法65条)までは不要とされていました(同頁)。

 

(3)追憶されるべき明治ノ昭代

専ら明治「天皇ノ遺徳ヲ仰」ぐのみならず,広く「明治ノ昭代ヲ追憶スル」こととする旨の追加は,昭和天皇の政府においてなされたものであると解されます。明治ノ昭代の主な出来事は,元田肇の述べたところに従えば,慶応三年十二月九日(186813日)の王政復古の大号令から慶応四年(明治元年)四月十一日(186853日)の江戸開城を経て明治二年五月十八日(1869627日)の蝦夷共和国の降伏まで(王政復古ノ大業),慶応四年(明治元年)三月十四日(186846日)の五箇条の御誓文(開国進取ノ国是),③1889211日の大日本帝国憲法(立憲為政ノ洪範),④18901030日の教育勅語及び19081013日の戊申詔書(国民道徳確立ノ勅教),⑤1900814日の在北京列国公使館解放をもたらした八箇国連合のごとき国際協調(平和ノ保持)並びに⑥それぞれ1895529日及び1910829日以降の台湾及び朝鮮の統治(文明ノ至治ヲ指導扶植)ということでしょう。

以上6項目のうち,の官軍か賊軍か噺を今更持ち出すのは古過ぎるでしょう。徳川宗家第16代当主の徳川家達公爵は貴族院議長となり,蝦夷島総裁たりし榎本武揚は逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣となり,新撰組を預かった京都守護職・松平容保の孫娘は昭和初期の皇嗣殿下たりし秩父宮雍仁親王妃となりました。④式にお上から有り難い道徳の教えを授からないと何時までも自治自律ができない人委(ひとまかせの)人のままでは,情けない。また,衰退途下の我々よりも今や豊かになった人々に対して⑥の話をするのは論外でしょう。

 

3 明治節制定に伴う官吏の休日数の不変化

 

(1)昭和2年勅令第25号及び大正元年勅令第19号(大正2年勅令第259号による改正後のもの)(11箇日)と明治6年太政官布告第344号(10箇日)と

ところで,明治節を祝って明治大帝の遺徳を仰ぎ奉ることには忠良なる臣民としては反対できないとしても(とはいえ,明治節に参内して参賀簿に署名できるのは,昭和2年皇室令第14号により改正された皇室儀制令(大正15年皇室令第7号)の附式によると「文武高官有爵者優遇者」のみであり,かつ,「判任官同待遇者ハ各其ノ所属庁ニ参賀ス」ということであって,専ら「宮中席次を有する者始め一定の資格者が参内もしくは各官庁において記帳していた」資格者限定制であったものです(実録第十534頁)。),だからといって,臣民の税金で食っている分際である国の官吏の休日が図々しく一日増えるのはけしからぬ,というような反発が生ずることにはならなかったのでしょうか。

実は,明治節が加わっても,それによって大正時代よりも1日多くお役人が休むことができるということにはなっていませんでした。

大正元年勅令第19号(大正2年勅令第259号による改正後のもの)における休日数と昭和2年勅令第25号のそれとは,いずれも11箇日で変わっていないのです。

昭和2年勅令第25号による休日は次のとおり。

 

 元始祭    13

 新年宴会   15

 紀元節    211

 神武天皇祭  43

 天長節    429

 神嘗祭    1017

 明治節    113

 新嘗祭    1123

 大正天皇祭  1225

 春季皇霊祭  春分日

秋季皇霊祭  秋分日

 

このうち,今上帝の誕生日である天長節は,大正元年勅令第19号では大正天皇の誕生日である831日であり(ただし,同勅令が公布されたのは191294日であるので,大正に入っても,同年831日はいまだ休日ではありませんでした。),先帝の命日に係る祭日(昭和2年勅令第25号では大正天皇崩御日の1225日)は,大正元年勅令第19号では明治天皇崩御日の730日となっていました。他の元始祭,新年宴会,紀元節,神武天皇祭,神嘗祭,新嘗祭,春季皇霊祭及び秋季皇霊祭については,変化はありません。以上の10箇の休日は,1878年の明治11年太政官第23号達によって春季皇霊祭及び秋季皇霊祭が明治6年太政官布告第344号(当該1873年の太政官布告は,大正元年勅令第19号附則2項で廃止されています。)の8箇の休日に追加されて以来変わっていなかったものです(ただし,神嘗祭の日は1879年の明治12年太政官布告第27号によって改められるまでは917日でした。なお,明治6年太政官布告第344号における天長節はもちろん113日で,先帝際は,孝明天皇の命日である130日でした。)。大正元年勅令第19号には,何かもう一つ休日の隠し玉があったようです。

当該隠し玉は,1913716日に裁可され,同月18日に公布された大正2年勅令第259号にありました。隠し玉というよりは,某製菓会社の伝説的宣伝文句に倣えば「一粒で2度おいしい」🍫ということになるようです。

大正2年勅令第259号によって,1031日に「天長節祝日」が休日として追加されていたのでした。すなわち,大正時代の日本帝国臣民は,大正天皇の御生誕を,そのお誕生日である831日のみならず,1031日にもお祝い申し上げていたのでした。

113日に明治節の休日を,昭和時代になって設けることは,大正時代中の1031日の天長節祝日からの差替えであるという形に結果としてはなったわけです。明治大帝に対する崇敬の念は満たされつつ,官吏に対する「税金泥坊」という罵詈雑言も避けることができるという至極結構な次第となるべき下拵えをした大正天皇もまた偉大な君主だったのではないでしょうか。(しかしあるいは,昭和になって休日が1日減ると,休みたがりで不遜不埒な不逞官吏らの仲間内において昭和天皇の評判が悪くなってしまうのではないかという懸念も,25歳の若き新帝を輔翼弼成すべき重責を担う若槻礼次郎内閣にはあったかもしれません。)

 

(2)大正2年勅令第259号による天長節祝日追加の次第

ところで,大正2年勅令第259号による天長節祝日の追加の次第はどのようなものだったでしょうか。

これについては,アジア歴史資料センターのウェブサイトで一件書類を見ることができ(A13100056400),また,当時の第1次山本権兵衛内閣の内務大臣であった原敬の日記(『原敬日記(第5巻)』(乾元社・1951年))に記述があります。

まず,大正天皇は病弱でしたので,大暑の831日の東京で,天長節関係の諸行事の負担に耐えられるかどうかが,明治・大正代替わりの際の第2次西園寺内閣時代から懸念されていました。

 

  〇〔1913年〕416

  閣議〔略〕。天長節の事に関し831日は大暑中にて御儀式を挙ぐる事困難に付西園寺内閣時代にも之を如何すべきやとの相談ありしが,余〔原敬〕は国民中希望者も多き様になるに付御宴会は113日と制定相成りては如何と云ひたり,宮内省の草案にては11月にあらず1031日となせり。〔後略〕

 (原226頁)

 

 しかし,113日案は,半ば冗談でなければ,明治天皇とは別人格の大正天皇に対して不敬ではありましょう。

 その後,1913421日付けの渡辺千秋宮内大臣から山本権兵衛内閣総理大臣宛て官房調査秘第6号をもって,次の照会が宮内省から政府に対してされます。

 

  天長節ノ儀ハ831日ニシテ時(あたか)モ大暑ノ季節ニ有之候(これありそさうらふ)ニ付自今賢所皇霊殿神殿ニ於ケル天長節祭ノミハ皇室祭祀令規定ノ通当日之ヲ行ハセラレ其ノ他拝賀参賀賀表捧呈及宴会等宮中ニ於ケル一切ノ儀式ハ総テ1031日ニ於テ行ハセラレ候様(さうらふやう)奏請致度(いたしたき)(ところ)一応御意見承知致度(いたしたく)此段及照会候(しょうかいにおよびさうらふ)

 

天長節祭は小祭ですので(皇室祭祀令(明治41年皇室令第1号)21条),大祭と異なり天皇が親ら祭典を行う必要はなかったのですが(同令81項参照),「小祭ハ天皇皇族及官僚ヲ率ヰテ親ラ拝礼シ掌典長祭典ヲ行フ」ということになっていました(同令201項)。ただし,「天皇喪ニ在リ其ノ他事故アルトキハ前項ノ拝礼ハ皇族又ハ侍従ヲシテ之ヲ行ハシム」ということで(同条2項),天皇に事故があるときは,代拝措置が可能でした。

 

  〇〔19134月〕23

  閣議,天長節の件に付即ち宮内省案831日は御祭典のみに止め1031日を御宴会日となすの件に付内議し,結局今一応宮内省と打合せをなす事に決せり。〔後略〕

 (原229-230頁)

 

1913年宮内省官房秘第6号に対する同年630日付け山本内閣総理大臣から渡辺宮内大臣宛て回答は,次のとおりでした。

 

 421日付官房調査秘第6号照会天長節ノ儀ニ関スル件ハ大体異存無之候(これなくさうらふ)唯宮中ニ於ケル一切ノ儀式ヲ行ハセラルル期日ヲ1031日トスルニ於テハ明治節設定ニ関スル帝国議会ノ建議モ有之(これあり)或ハ113日ヲ休日ト定メラルルカ如キ場合ヲ予想スレハ余リニ休日接近ノ嫌有之(きらひこれあり)(つき)既ニ831日以外ノ日ヲ選定(あひ)(なる)以上ハ或ハ101(くらゐ)カ適当ノ期日カト被存候(ぞんぜられさうらふ)

   追テ当日ハ一般ノ休日トスル必要可有之(これあるべし)存候(ぞんじさうらふ)ニ付本件ハ休日ニ関スル勅令改正案ト同時ニ奏請相成様致度(あひなるやういたしたし) 

 

「ハッピー・マンデー」云々と,休日の接近はおろか,進んで休日の長期間接続をもってよしとし,補償金が貰えるならば「思いやり」の「自粛」継続は当然とする衰退途下の人委(ひとまかせの)人の国たる現代日本とは異なり,休日の接近を嫌う良識が,大正の聖代にはなおあったのでした。

明治節設定の動きは,明治天皇崩御後早くからあり,第30回帝国議会の衆議院では,1913326日,松田源治議員外13名提出の次の「明治節設定ニ関スル建議案」が全会一致で可決されています(第30回帝国議会衆議院議事速記録第16309頁)。

 

    明治節設定ニ関スル建議

 政府ハ国民ヲシテ 明治天皇ノ御偉業ヲ頌シ永久其ノ御洪恩ヲ記念セシムル為113日ヲ以テ大祭祝日ト定メムコトヲ望ム

 右建議ス

 

専ら明治天皇に対する「国民ノ忠愛ノ至情」(石橋為之助,松田源治)から出た建議でありました。しかし,明治天皇御一人をとことん忠愛するのならば,前年1912913日の乃木希典大将のように殉死しなければならなくなるようにも思われるのですが,松田代議士,石橋代議士等は,そこまで思い詰めてはいなかったのでしょう。

大正元年勅令第19号を改正する勅令案に係る191373日付け閣議請議書が残されています。しかし,『原敬日記』では,地方官会議があるので原内務大臣は同月2日の閣議を欠席したとしており,かつ,同月3日の記載は地方官会議関係のことばかりで,同日に閣議があったことは記されていません(原259-260頁)。

いずれにせよ同月初めの勅令案では,天長節祝日の日は101日であったようです。すなわち,191374日付けの渡辺宮内大臣から山本内閣総理大臣宛て官房調査秘第9号には「天長節ニ関スル件ニ付630日付ヲ以テ御回答ニ接シ候処御注意ノ次第モ有之候ニ付更ニ101日ヲ以テ天長節式日ト被定候様(さだめられさうらふやう)奏請可致候(いたすべくさうらふ)条右ニ御承知相成度(あひなりたく)此段申進候(まうしすすめさうらふ)也」と記載されているからです。「奏請」とは,大正天皇の内諾を得るということでしょう。

しかし,現実の大正2年勅令第259号における天長節祝日は,421日の照会案どおりの1031日となっていたのでした。この間の事情については,次の記載がされた紙が,一件書類中に綴られています。

 

 本件ハ更ニ総理大臣宮内大臣協議ノ上更ニ1031日ト決定セラレ大正元年勅令第19号中改正勅令案上奏ノ手続ヲ為セリ

 

 これは,天長節祝日を101日とする旨の宮内大臣からの奏請を大正天皇が敢然却下した結果,宮内大臣・内閣総理大臣が大慌てとなった一幕があったものか,と一瞬ぎょっとする成り行きです。

 しかしながら『原敬日記』によれば,実は閣議において,やはり天長節祝日は10月の1日よりも31日の方がよいのではないかとの賢明な内務大臣の提言があって再考がなされることになり,最終的にはしかるべく同大臣案に落ち着いたということでありました。

 

   〇〔19137月〕11

   有栖川御邸に弔問せり。

   閣議,天長節は831日にて大暑中なれば,御祝宴は101日に定められ此日を天長節の祝宴日となさん事を山本首相閣議に提出せり,之に対し奥田〔義人〕文相は天長節は大祭日となしあるを,天長節と天長節祝日と分別するは如何あらんと云ひたるも,閣議天長節は831日なるも天長節祝日は別に之を定むる事に決せり,但山本の提案なる101日は何等根拠なき日なれば,月を後に送るも日は改めざる一般の国風をも斟酌し,1031日となすを適当なりとの余〔原敬〕の主張に閣僚一同賛成せり,山本は既に内奏を経たりとて101日に決せんとするも,余は此事は御一代の定制となる重大事件なれば再び奏聞するも可ならんと主張し,遂に山本は宮内省と更に相談すべき旨山之内〔一次〕書記官長に命じたり,宮内省にては1031日と提出せしものを内閣側にて101日に主張せしものゝ由。

  〔略〕

  (原263-264頁)

 

 なお,奥田文部大臣は釈然としなかったようですが,君主の誕生祝賀が年2回行われることは外国にも例があります。英国の現国王チャールズ3世の誕生日は1114日ですが,同国王の誕生祝賀は,同日のほか,気候のよい6月にも行われています(2023年は617日)。

 我が国における1913831日の天長節は次のような次第となりました。

 

  31日 日曜日 午後,〔大正天皇の〕行幸御礼並びに天長節御祝のため,〔皇太子裕仁親王は〕東宮大夫波多野敬直を御使として日光に遣わされる。なお天長節は大暑の季節に当たるため,去る7月18日勅令〔第259号〕並びに宮内省告示〔第15号〕をもって,1031日を天長節祝日と定め,831日には天長節祭のみを行い,1031日の天長節祝日に宮中における拝賀・宴会を行う旨が仰せ出される。

  (宮内庁『昭和天皇実録第一』(東京書籍・2015年)681頁)

 

大正天皇は,その天長節の日を涼しい日光の御用邸で過ごすことを好んでおられたようです。

 

 19131031日の初の天長節祝日については次のとおり。

 

  31日 金曜日 天長節祝日につき,午前,〔皇太子裕仁親王は〕東宮仮御所の御座所において東宮職高等官一同の拝賀をお受けになる。午後零時30分御出門,御参内になり,雍仁親王・宣仁親王とお揃いにて天皇・皇后に祝詞を言上になる。また鮮鯛を天皇に御献上になり,天皇からは五種交魚等を賜わる。

  (実録第一696-697頁)

 

   〇31日 天皇節祝日に付参内御宴に陪し,晩に外相の晩餐会に臨み夜会には缺席せり,今上陛下始めての天長節にて市中非常に賑へり。

   〔略〕

   (原334頁)

 

4 五箇条の御誓文から文化国家建設へ

 この記事も何とかまとまりを付けねばなりません。

 で,正直なところを申し上げると,113日は,昭和天皇から「節度と責任とを重んじ,自由と平和とを愛する文化国家を建設す」べしとの新国是(すなわち現在の我が国の国是)が日本国憲法と共に下された日として,既に専ら昭和天皇の日となってしまっているのではないかと筆者には思われます。

 であれば,「明治の日」については,別途そのあるべきところを求めるに,明治時代の我が国の国是(開国進取ノ国是)たる五箇条の御誓文が宣明せられた46日が,その日としてよいのではないかと思われるところです(なお,立憲為政ノ洪範たる大日本帝国憲法が発布された211日は,趣旨はともかく,既に「国民の祝日」とされています。)。113日の文化の日を譲らない代償として,429日の昭和の日を,同月6日の「明治の日」に振り替えればよいのではないでしょうか。4月末から5月初めまでの連休期間は,今や衰退途下国たる分際の我が国としては長過ぎるようなので,429日の日の休日からの脱落は,問題視すべきことではないでしょう。

 昭和の日が五箇条の御誓文の日に差し替えられることが昭和天皇の逆鱗に触れるかといえば,そういうことはないでしょう。五箇条の御誓文の精神から出発して文化国家の建設に進むことこそが,惨憺たる失敗・敗戦の後,日本国憲法と共に昭和天皇が目指した昭和の日本だったはずです。

 1946年元日のかの詔書にいわく。

 

  茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク,

一,広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ

一,上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ

一,官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス

一,旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

一,智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

  叡旨公明正大,又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ,旧来ノ陋習ヲ去リ,民意ヲ暢達シ,官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ,教養豊カニ文化ヲ築キ,以テ民生ノ向上ヲ図リ,新日本ヲ建設スベシ。

 

 旧来の陋習を去った暢達たる心と共に,向上した民生下において生きるということは,自由であるということでしょう。負ける戦争や効果の乏しい対策の徹底から去ること遠い,慎重賢明狡猾な平和主義は当然でしょう。しかして自由及び平和の下で高められた精神は,教養豊かに文化を築くところにこそその満足を見出すのでしょう。

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1 「感動」の法定化

 2002年サッカー・ワールド・カップ大会の決勝トーナメント1回戦における日本チーム対トルコ・チームの試合に係る同年6月18日の生中継テレビジョン放送を,友人らと一緒に,我が日本チームを熱く応援し,狂乱しながら観た結果,次のような想いを抱いた中年男は,非国民でしょうか。

 

  あの日・・・

  あの日・・・

  分かってしまった・・・!

  オレは・・・

  唐突に・・・

  分かってしまった・・・!

 

  感動などないっ・・・!

 

  あんなものに・・・

  感動などないのだ・・・!

  人一倍・・・

  そう・・・まわりの誰よりも大騒ぎしながら,

  オレは・・・

  胸の奥がどんどん冷えていくのを感じていた・・・!

  そうだ・・・

  そう・・・

  オレが求めているのは・・・

 

   「中田っ・・・!」

   「森島っ・・・!」

 

  っていうようなことじゃなくて・・・

  オレの鼓動・・・

  オレの歓喜。

  オレの咆哮。

  オレのオレによる,

  オレだけの・・・

  感動だったはずだ・・・!

 

  他人事じゃないか・・・!

  どんなに大がかりでも,あれは他人事だ・・・!

  他人の祭りだ・・・!

  いったい・・・

  いつまで続けるつもりなんだ・・・?

  こんな事を・・・!(福本伸行『最強伝説黒沢』第1話)

 

 これに対して,2011年8月24日からそれまでのスポーツ振興法(昭和36年法律第141号)が全部改正されたものである,新たな我がスポーツ基本法(平成23年法律第78号)は,その前文第5項において,次のように高らかに謳い上げています。

 

  〔前略〕国際競技大会における日本人選手の活躍は,国民に誇りと喜び,夢と感動を与え,国民のスポーツへの関心を高めるものである。これらを通じて,スポーツは,我が国社会に活力を生み出し,国民経済の発展に広く寄与するものである。〔後略〕

 

すなわち,我が国国権の最高機関たる国会(日本国憲法41条)が立法を通じて示した判断によると(ちなみに,スポーツ基本法は正に議員立法です。),「国際競技大会における日本人選手の活躍」を見ても「誇りと喜び」を感じず,「夢」を抱かず「感動」もしない者は,「国民」に非ずということになるようです。

福本伸行作品は,反日漫画なのでしょうか。

否。前記福本作品主人公に生じたところの「感動などないっ・・・!」との唐突な感覚については,日本チームとトルコ・チームとの当該試合において,日本チームが0対1で不甲斐なくも敗退したことが原因であったというべきです。

予選リーグ突破でさんざん期待を高めておいた挙句に決勝トーナメント1回戦であっさり零敗してしまう当該日本人選手らは,国際競技大会において「活躍」していたものとはいえません(「競」技大会なので,勝ち負けが争われ,したがって,勝つことが重要です。)。「活躍」なければ「感動」なし。これはスポーツ基本法からしても当り前のことです。そうであれば,国際競技大会における勝利なき日本人選手らは,何ら我ら国民の「誇り」の対象とはならず,罵声を浴びることなく無関心をもって遇されれば上々ということになるのでしょう。

 

2 健全な肉体と健全な精神

ところで,スポーツ基本法は,「国は,優秀なスポーツ選手及び指導者等〔スポーツの指導者その他スポーツの推進に寄与する人材(同法11条)〕が,生涯にわたりその有する能力を幅広く社会に生かすことができるよう,社会の各分野で活躍できる知識及び技能の習得に対する支援並びに活躍できる環境の整備の促進その他の必要な施策を講ずるものとする。」(同法25条2項)と規定していますが,国からの「生涯にわた」る当該支援の対象となるスポーツ選手は飽くまでも「優秀な」スポーツ選手です。ここでの優秀なスポーツ選手に係る「その有する能力」とは,健全な身体のみならず輝くばかりの健全な精神に裏打ちされたものなのでしょう(そうでなければそもそも「幅広く社会に生かす」べきものとはならないでしょう。なお「JOC強化指定選手を対象にした調査では,競技引退後の職業としてもっとも希望が多いのは「スポーツ指導者」である」そうです(日本スポーツ法学会編『詳解スポーツ基本法』(成文堂・2011年)189頁)。)。他方,国民に感動を与えられなかった優秀ではないスポーツ選手は,支援対象にはなりません。優秀なスポーツ選手に比べて精神の健全性がなお不十分だということになるからでしょうか。

 

mens sana in corpore sano. (Juvenalis, Saturae 10.356)

健全な精神は健全な肉体に宿る。

 

有名なユウェナリスの句は,「〔前略〕「身体を健全に保っておきさえすれば,精神なんていうものはおのずと健全になるものだ」と読める〔後略〕」ものです(柳沼重剛『ギリシア・ローマ名言集』(岩波文庫・2003年)112頁)。(ただし,原文の一部のみが切り取られて人口に膾炙したものだそうで,正確には“orandum est ut sit mens sana in corpore sano.”の形で引用されるべきものだそうです。「健全な精神が健全な肉体に宿るようにと祈られるべきである」が原意であって,“mens sana in corpore sano est.”との事実を述べる文ではありません。)

スポーツ基本法前文第2項は,伝ユウェナリスの“mens sana in corpore sano”原則に関して,「スポーツは,心身の健全な発達〔略〕等のために個人又は集団で行われる運動競技その他の身体活動であり,今日,国民が生涯にわたり心身ともに健康で文化的な生活を営む上で不可欠なものとなっている。」と宣言しています。スポーツは身体活動ですから第一次的には身体の健全な発達をもたらし(健全な肉体corpus sanum),その結果として精神(心)も健全に発達するものでしょう(mens sana)。しかして,スポーツは,心身ともに健康で文化的な生活を営む上で「不可欠」であるとされています。すなわち,スポーツなければ心身ともに健康で文化的な生活なし,という関係の存在が認定されているわけです。

 

3 スポーツ参加への熱きすゝめ

ということは,物臭なのか信念なのか何らかの理由でスポーツをしない者は,心身ともに健康で文化的な生活を営むことが不可能になりますから,日本国憲法25条1項によってありがたくも国民に与えられた「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を不逞にもなみする者ということになります。

 

  Il faut sauver les peoples malgré eux. (Napoléon Bonaparte)

  人民は,その意に反して救われねばならぬ。

  

 2011年8月23日以前の古いスポーツ振興法1条2項は,やや慎重に,「この法律の運用に当たつては,スポーツをすることを国民に強制し,又はスポーツを前項の目的〔「国民の心身の健全な発達と明るく豊かな国民生活の形成に寄与する」目的〕以外の目的のために利用することがあつてはならない。」と規定していましたが,スポーツをすることを強制することの禁止等に係る当該条項は,スポーツ基本法からは削られています。

「施策の方針」との見出しが付されたスポーツ振興法3条の第1項は,また,「国及び地方公共団体は,スポーツの振興に関する施策の実施に当たつては,国民の間において行われるスポーツに関する自発的な活動に協力しつつ,ひろく国民があらゆる機会とあらゆる場所において自主的にその適性及び健康状態に応じてスポーツをすることができるような諸条件の整備に努めなければならない。」と規定してなお国民の側からする「自発的な活動」を待つ受け身の姿勢を前提としていたようなのですが,「基本理念」との見出しが付されたスポーツ基本法2条の第1項は「スポーツは,これを通じて幸福で豊かな生活を営むことが人々の権利であることに鑑み,国民が生涯にわたりあらゆる機会とあらゆる場所において,自主的かつ自律的にその適性及び健康状態に応じて行なうことができるようにすることを旨として,推進されなければならない。」と規定して今や直接的にスポーツの推進がされる形になっています(要は「スポーツは・・・推進されなければならない。」ということです。)。「国,地方公共団体及びスポーツ団体」は,飽くまでも,「スポーツへの国民の参加及び支援を促進するように努めなければならない。」ので(スポーツ基本法6条),スポーツ嫌いだからとわがままを言ってもスポーツへの参加及び支援を促す熱い働きかけは止まりません。

 

4 スポーツの目的

 

(1)スポーツ基本法による拡大

スポーツ振興法の目的は「国民の心身の健全な発達と明るく豊かな国民生活の形成に寄与する」こと(同法1条1項)に限定されていましたが(同条2項後段),スポーツ基本法は欲張って,「国民の心身の健全な発達,明るく豊かな国民生活の形成」に加えて「活力ある社会の実現及び国際社会の調和ある発展に寄与すること」をも同法の目的にしています(同法1条)。スポーツの利用目的も限定的なものとはされていません(スポーツ振興法1条2項後段対照)。

 

(2)スポーツによる「活力ある社会の実現」

スポーツによる「活力ある社会の実現」の具体的イメージは,「スポーツは,人と人との交流及び地域と地域との交流を促進し,地域の一体感や活力を醸成するものであり,人間関係の希薄化等の問題を抱える地域社会の再生に寄与するものである。さらに,スポーツは,心身の健康の保持増進にも重要な役割を果たすものであり,健康で活力に満ちた長寿社会の実現に不可欠である。」というもの(スポーツ基本法前文第4項)等のようです。

その結果,「スポーツは,人々がその居住する地域において,主体的に協働することにより身近にスポーツに親しむことができるようにするとともに,これを通じて,当該地域における全ての世代の人々の交流が促進され,かつ,地域間の交流の基盤が形成されるものとなるよう推進されなければならない。」ということになって(スポーツ基本法2条3項),なかなか面倒臭い。

 

(3)スポーツによる「国際社会の調和ある発展」

スポーツによる「国際社会の調和ある発展」の具体的イメージは,「スポーツの国際的な交流や貢献が,国際相互理解を促進し,国際平和に大きく貢献するなど,スポーツは,我が国の国際的地位の向上にも極めて重要な役割を果たすものである。」というもののようです(スポーツ基本法前文第5項後段)。

しかし,サッカー・ワールド・カップ予選での両国チームの対戦を契機に勃発した1969年7月のエル・サルバドルとホンジュラスとの間のサッカー戦争というものもありましたから,スポーツが国際平和に常に直ちに貢献するとは限らないようなので,「国際相互理解を促進し,国際平和に大きく貢献」する国際スポーツ交流は,洗練された「接待ゴルフ」的なものが想定されているのでしょうか。確かに,我が国の内閣総理大臣は,アメリカ合衆国大統領と親しくゴルフをしつつ,「我が国の国際的地位の向上」に努めています。

 

 Playing golf with Prime Minister Abe and Hideki Matsuyama, two wonderful people!

   Donald J. Trump, @realDonaldTrump, November 4, 2017 (U.S. Time)

 

  While they were on the green at the swanky Kasumi[gaseki] Country Club on Sunday, Abe fell into a bunker and performed a ninja-like stunt – all without Trump’s knowledge.

   The Washington Post website (by Anna Fifield), November 8, 2017


  
Q Did you see Abe fall at the sand trap?

       PRESIDENT TRUMP: I didn’t. I say this: If that was him, he is one of the greatest gymnasts  because the way he – (laughter) – it was like a perfect – I never saw anything like that.

         Remarks by President Trump in Press Gaggle aboard Air Force One en route Hanoi, Vietnam (November 11, 2017) whitehouse.gov

 

七転び八起き

そうであれば,むきになって日本人選手による勝利の独占ばかりを目指して諸外国の不興をかってはいけないように思われます。しかし,この点,スポーツ基本法2条6項は「大人の対応」的ではない条項です。「スポーツは,我が国のスポーツ選手(プロスポーツの選手を含む。以下同じ。)が国際競技大会(オリンピック競技大会,パラリンピック競技大会その他の国際的な規模のスポーツの競技会をいう。以下同じ。)又は全国的な規模のスポーツの競技会において優秀な成績を収めることができるよう,スポーツに関する競技水準(以下「競技水準」という。)の向上に資する諸施策相互の有機的な連携を図りつつ,効果的に推進されなければならない。」と規定されています。文部科学大臣が2017年3月24日に定めた第2期スポーツ基本計画(平成29年度~平成33年度)(スポーツ基本法9条1項に基づくもの)においては,「政策目標」として,「日本オリンピック委員会(JOC)及び日本パラリンピック委員会(JPC)の設定したメダル獲得目標を踏まえつつ,我が国のトップアスリートが,オリンピック・パラリンピックにおいて過去最高の金メダル数を獲得する等優秀な成績を収めることができるよう支援する。」と記されています(第3章3)。

なお,プロスポーツの選手についても,スポーツ基本法2条6項の括弧書きによってアマチュアのスポーツ選手と同様に取り扱われることになっています。この点,スポーツ振興法3条2項は「この法律に規定するスポーツの振興に関する施策は,営利のためのスポーツを振興するためのものではない。」と規定していたところです。

 

(4)勝ちにこだわるべき競技水準重視主義

 プロスポーツの選手は,スポーツ振興法においては,その第16条の2で「国及び地方公共団体は,スポーツの振興のための措置を講ずるに当たつては,プロスポーツの選手の高度な競技技術が我が国におけるスポーツに関する競技水準の向上及びスポーツの普及に重要な役割を果たしていることにかんがみ,その活用について適切な配慮をするように努めなければならない。」との形で登場していました。「競技技術」が高度だからプロスポーツの選手も活用をするに足りる,ということです。「技」は定義上優劣を争うものであって勝ち負けがありますから,「競技技術」が高度なプロスポーツの選手とはよく勝つプロスポーツの選手ということであり,「スポーツに関する競技水準の向上」ということはスポーツ競技で勝てるようにするということでしょう。スポーツ競技で勝てば,当該「スポーツの普及」は後からついてくる,という発想だったのでしょう。なお,枝番号であることから分かるとおり,スポーツ振興法16条の2は1961年の制定当初にはなかった条文で,1998年の平成10年法律第65号によって後から挿入されたものです。

 スポーツ振興法16条の2と3条2項との関係については,1998年2月17日の参議院文教・科学委員会において,馳浩委員から「本法律案の16条の2はプロ選手の協力を仰ぐ形になっておりまして,すなわちプロ選手の技術指導に期待しております。この点は非常によいことと評価したいと思います。/しかし,プロ選手からの恩恵を受けることを考えながらも,3条において「この法律に規定するスポーツの振興に関する施策は,営利のためのスポーツを振興するためのものではない。」,プロスポーツの振興はこの法律では無関係だとうたっております。これは語弊があるかもしれませんが,プロ選手の技術指導等の恩恵を受けることを念頭に置きながらも,第3条があることによってプロ選手,プロ協会に対して恩をあだで返すような,非常に国や自治体は虫がよ過ぎるのではないかというふうな印象を受けますが,この点についてどうお考えでしょうか。」との質疑がありました。

 スポーツ振興法においては,競技水準の向上は同法16条の2に出て来る程度でした。同法14条は「国及び地方公共団体は,わが国のスポーツの水準を国際的に高いものにするため,必要な措置を講ずるよう努めなければならない。」と規定していましたが,努力義務にとどまるとともに,「スポーツの水準」という漠とした言い方を採用して具体的な「競技水準」の向上云々にまでは言及していません。

 これに対してスポーツ基本法においては,「競技水準」の語が頻出します(2条6項,5条1項,12条1項,16条2項,18条,19条及び28条並びに第3章第3節節名)。およそスポーツ団体(スポーツの振興のための事業を行うことを主たる目的とする団体(スポーツ基本法2条2項括弧書き))たるものはちんたらのどかにスポーツの普及をすることにとどまることなく「競技水準の向上」にも「重要な役割」を果たすべきものと位置付けられ(同法5条1項),国及び地方公共団体の努力義務の対象たるスポーツ施設整備等はのんびり「国民が身近にスポーツに親しむことができるようにする」ためのみならず厳しく「競技水準の向上を図ることができるよう」にするためにも行われるべきものとされ(同法12条1項),「競技水準の向上を図るための調査研究の成果及び取組の状況に関する〔略〕国の内外の情報の収集,整理及び活用について必要な施策を講ずる」ことまでをも国がするものとされ(同法16条2項),更に国は「スポーツ産業の事業者」が「スポーツの普及又は競技水準の向上」を図る上で重要な役割を果たすことを認め(同法18条),国及び地方公共団体による「スポーツに係る国際的な交流及び貢献を推進」するための施策は端的に「我が国の競技水準の向上を図るよう努める」ことの一環であるとされ(同法19条),並びに企業は事業でお金儲け,学生は学問が本分であるように思われるにもかかわらず「国は,スポーツの普及又は競技水準の向上を図る上で企業のスポーツチーム等が果たす役割の重要性に鑑み,企業,大学等によるスポーツへの支援に必要な施策を講ずるもの」とまでされています(同法28条。同条については,大学スポーツ支援に関して「具体的なことはまったく不明であるし,そもそも法律で規定する必要があるのか疑問である。」と評されています(日本スポーツ法学会編61頁)。)。

 「国は,優秀なスポーツ選手を確保し,及び育成するため,〔略〕必要な施策を講ずるものとする。」ということであれば(スポーツ基本法25条1項),外国選手に対して次々と勝利を重ねる「優秀なスポーツ選手」は,今や国家的に期待される日本の宝なのでしょう。

 スポーツ振興法15条は「国及び地方公共団体は,スポーツの優秀な成績を収めた者及びスポーツの振興に寄与した者の顕彰に努めなければならない。」と規定していましたが,スポーツ基本法20条は「国及び地方公共団体は,スポーツの競技会において優秀な成績を収めた者及びスポーツの発展に寄与した者の顕彰に努めなければならない。」と一部修正しています。顕彰に値する「スポーツの優秀な成績」とは「スポーツの競技会」における「優秀な成績」,すなわちスポーツ競技における勝利でしかあり得ない,ということを明らかにしたという趣旨なのでしょう(日本スポーツ法学会編127頁参照)。
 「日本スポーツ法学会」も,スポーツの要素は競争であるとの認識を有しているようです。「スポーツについて,本学会〔日本スポーツ法学会〕の初代会長であった故千葉正士先生は「一定の規則の下で,特殊な象徴的様式の実現をめざす,特定の身体行動による競争」と定義し(千葉正士=濱野吉生編『スポーツ法学入門』6頁(1995年))」ていたとのことです(日本スポーツ法学会編・はしがきⅰ)。

 

5 体育の日と被収容者等のスポーツを通じて幸福で豊かな生活を営む権利との関係

 

(1)スポーツの日から体育の日へ

 スポーツ基本法においては,スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことが権利である旨謳われるとともに(同法2条1項,前文第2項),「国及び地方公共団体は,国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)第2条に規定する体育の日において,国民の間に広くスポーツについての関心と理解を深め,かつ,積極的にスポーツを行う意欲を高揚するような行事を実施するよう努めるとともに,広く国民があらゆる地域でそれぞれその生活の実情に即してスポーツを行うことができるような行事が実施されるよう,必要な施策を講じ,及び援助を行うよう努めなければならない。」と規定しています(スポーツ基本法23条。努力規定なのは,せっかくの「国民の祝日」の休日(国民の祝日に関する法律3条1項)に行事があるのは,お役人さま方にとってしんどいからでしょうか。)。これは,1961年の成立当初のスポーツ振興法5条に「国民の間にひろくスポーツについての理解と関心を深めるとともに積極的にスポーツをする意欲を高揚するため,スポーツの日を設ける。/スポーツの日は,10月の第1土曜日とする。/国及び地方公共団体は,スポーツの日の趣旨にふさわしい事業を実施するとともに,この日において,ひろく国民があらゆる地域及び職域でそれぞれその生活の実情に即してスポーツをすることができるような行事が実施されるよう,必要な措置を講じ,及び援助を行なうものとする。」と規定されていたものを承けたものです。当時のスポーツの日は「国民の祝日」ではなかったわけで,したがって休日ではありませんでした。
 体育の日が建国記念の日及び敬老の日と共に「国民の祝日」に加えられたのは,
1966年の昭和41年法律第86号によってでした(同法によるスポーツ振興法5条のスポーツの日及び老人福祉法(昭和38年法律第133号)5条の老人の日の各「国民の祝日」化は,政治的に大議論となった建国記念の日を「国民の祝日」に加えることを呑んでもらうためのいわば甘いオブラートだったのでしょう。)。体育の日の趣旨は,「スポーツにしたしみ,健康な心身をつちかう」となっています(国民の祝日に関する法律2条)。その後の体育の日及び敬老の日関係の法改正を見ると,1998年の平成10年法律第141号によって体育の日は1010日から10月の第2月曜日に変更になり(スポーツ振興法においてスポーツの日が復活することはなし。),他方,2001年の平成13年法律第59号によって敬老の日が9月15日から9月の第3月曜日に変更されるとともに,9月15日の老人の日が老人福祉法5条において復活しています。

 

(2)体育の日における被収容者等の運動

しかし,国民の祝日に関する法律2条及びスポーツ基本法23条は,刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律(平成17年法律第50号)との関係でいささか皮肉な規定となっています。

 刑事施設の被収容者(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律2条1号),留置施設の被留置者(同条2号)及び海上保安留置施設の海上保安被留置者(同条3号)も日本国民である限りにおいては,スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営む権利を有するはずです(スポーツ基本法2条1項,前文第2項)。これに対応して,刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律57条1項本文は「被収容者には,日曜日その他法務省令で定める日を除き,できる限り戸外で,その健康を保持するため適切な運動を行う機会を与えなければならない。」と規定しており,当該規定は被留置者について準用され(同法204条。「法務省令」を「内閣府令」に読み替える。),海上保安被留置者については「海上保安被留置者には,国土交通省令で定めるところにより,その健康を保持するための適切な運動を行う機会を与えなければならない。」と規定されています(同法255条)。
 しかるに,刑事施設及び被収容者の処遇に関する規則(平成
18年法務省令第57号)24条1項1号は国民の祝日に関する法律に規定する休日(同規則19条2項2号)をも刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律57条に規定する法務省令で定める日(被収容者に運動を行う機会を与えない日)とし,国家公安委員会関係刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律施行規則(平成19年内閣府令第42号)16条は同法204条において準用する同法57条の内閣府令で定める日(運動を実施しない日)を当該留置施設の属する都道府県の休日(のうち日曜日を除いた日)としています(国民の祝日に関する法律に規定する休日は都道府県の休日となります(地方自治法(昭和22年法律第67号)4条の2第2項2号)。)。すなわち,国民の祝日に関する法律の規定する休日たる体育の日には,同法2条及びスポーツ基本法23条の規定にかかわらず,被収容者及び被留置者は運動ができないのです。(ただし,海上保安留置施設及び海上保安被留置者の処遇に関する規則(平成19年国土交通省令第61号)11条柱書きは「法第255条に規定する運動の機会は,海上保安被留置者が運動を行いたい旨の申出をした場合において,次に掲げるところにより与えるものとする。」と規定し,「次に掲げるところ」は「運動の場所は,居室外の採光,通風等について適当な場所とすること。」(同規則11条1号)及び「運動の時間は,1日につき30分を下回らない範囲で海上保安留置業務管理者が定める時間とすること。」(同条2号)のみであるので,体育の日()あって(﹅﹅﹅)()海上保安被留置者は運動ができるようです。)

 

6 「スポーツ立国」とは何か

 

(1)スポーツ基本法前文の文言

 ところで,スポーツ基本法前文第7項は「国民生活における多面にわたるスポーツの果たす役割の重要性に鑑み,スポーツ立国を実現することは,21世紀の我が国の発展のために不可欠な重要課題である。」と記し,同第8項は「ここに,スポーツ立国の実現を目指し,国家戦略として,スポーツに関する施策を総合的かつ計画的に推進するため,この法律を制定する。」と結んでいます。ここでいう「スポーツ立国」とは何を意味するのでしょうか。(2011年6月16日の参議院文教科学委員会において江口克彦委員から「スポーツ立国」とは何かという端的な問いかけがあったのですが,これに対して髙木義明文部科学大臣は「スポーツ立国戦略」の説明をもって答えており,噛み合っていません。)

 

(2)“Sport Nation”

 文部科学省のウェブサイトにある非公式の英語への仮訳では,「スポーツ立国」は“sport nation”ということだそうです。手元の辞書(Oxford Advanced Learner’s Dictionary of Current English, 4th edition)によれば“make sport of somebody”との熟語があり,当該熟語は“mock or joke about somebody”の意味であるとありますから,“The ‘sport nation’ idealized by Japan’s Basic Act on Sport shall be realized through making sport of the Japanese Nation.”ということになるとまずいですね。生物学ではsport“plant or animal that deviates in some unusual way from the normal type”という意味で使うこともあるようです。確かに日本は特殊ではあるのでしょう。(20231224日追記:ところで実際に,日本は“sport nation”であるという趣旨の英語の用例がありました。先の大戦における我が国の惨敗からなお程もない1949,米国ニュー・ヨークでジョン・デイ社から白濠主義オーストラリアの外交官Wマクマホン・ボール(Macmahon Ball)の著書である『日本--敵か味方か?』(Japan--Enemy or Ally?)が出版されているのですが,コロンビア大学のナサニエル・ペッファー(Nathaniel Peffer)教授が同書に寄せた序文(Introduction)にそれはあったところです。いわく,"Modern Japan is a variant from national type. It is in politics the equivalent of a biplogical sport. It conforms to nothing in the history of modern nations, whether European or Western, industrial or agrarian. Certainly in Eastern Asia its development has been unique, especially in the last hundred years. [...]"と。すなわち,「近代日本は,国家型式(national type)における変異株である。それは,政治における,生物学的変種(sport)の等価物なのである。ヨーロッパ又は西側の,工業的あるいは農業的のいかんを問わぬ近代諸国民(modern nations)の歴史において起ったことに,それは対応することがないのである。確かに,東アジアにおいて,特に過去百年間,その発展は独特なものであった。」云々,ということでした。なお,現在文部科学省は“Sports Nation”との表記を採用しています。)

 

(3)スポーツ基本法における「スポーツ」   

 スポーツ基本法の本則には「スポーツ」の定義はないのですが,「心身の健全な発達,健康及び体力の保持増進,精神的な充足感の獲得,自律心その他の精神の(かん)養等のために個人又は集団で行われる運動競技その他の身体活動」ということなのでしょう(同法前文第2項)。スポーツ振興法2条では「この法律において「スポーツ」とは,運動競技及び身体運動(キャンプ活動その他の野外活動を含む。)であって,心身の健全な発達を図るためにされるものをいう。」と定義されていました。目的についていろいろとうるさいのは,推進ないしは振興されるべき「スポーツ」が邪悪な目的のものであっては困るからでしょう

 しかし,「スポーツは,次代を担う青少年の体力を向上させるとともに,他者を尊重しこれと協同する精神,公正さと規律を尊ぶ態度や克己心を培い,実践的な思考力や判断力を育む等人格の形成に大きな影響を及ぼすものである。」ということになると(スポーツ基本法前文第3項),真面目過ぎて息苦しく,楽しくないですね。無論,このような立派な効能は,「次代を担う」青少年にのみ期待されるものであって,人格が既に形成されてしまった残念な大人は,スポーツをしても,他者を尊重しこれと協同する精神,公正さと規律を尊ぶ態度や克己心などはもはやつゆ培われず,実践的な思考力や判断力も今更身に付かないのでしょう。期待値が低いということは,ある意味気楽ではあります。しかして,そのような大人から生まれた子であるのですから,「次代を担う」ほどの才質に恵まれない平凡な多数青少年にとっても事情は同様でしょう。(ただし,スポーツ基本法2条2項は,およそ「心身の成長の過程にある青少年」であれば「公正さと規律を尊ぶ態度や克己心を培う」スポーツの効能は全員に及ぶべきものであるという認識を前提としています。)なお,青少年が学校で行うべきものと国会が考えるスポーツの種類はスポーツ基本法17条の規定から窺知されるところです。同条においては「体育館,運動場,水泳プール,武道場その他のスポーツ施設の整備」が国及び地方公共団体の努力義務の対象とされていますから,「武道場」で行われるべき武道が含まれるようです。相手方に物理的実力を加えることによって勝つことを学ぶ術ですね。
  スポーツ基本法2条2項は児童の権利に関する条約(平成6年条約第2号)31条1項の「休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利」と「関連」するものであるとも説かれています(日本スポーツ法学会編24‐25頁)。しかし,大人びて「規律を尊」び「克己心を培」いつつ過ごすのでは,休息や余暇もなかなか子供らの疲れを回復させにくいようです。


(4)Sportの原義

 とはいえ,スポーツ基本法のように「スポーツ」をひたすら真面目一方かつ御立派なものと位置付けるのは,sportの本来の語義からの逸脱であるように思われます。

 

   sportdisport(遊ぶ;戯れる)から15世紀に語頭音消失(aphesis)によって生まれた言葉である。L dis- (away)L portareから造語されたOF desporter (to seek amusement)が借入されたものであり,この言葉の原義はto carry oneself in the opposite direction,すなわち,to carry oneself from one’s workである。(梅田修『英語の語源辞典』(大修館書店・1990年)306頁。なお,Lはラテン語,OFは古フランス語の意味です。)

 

 仕事(one’s work)から逃避して時間潰しの楽しみを求める(to seek amusement)のが本来のsportならば,sportで立国が可能なものかどうか。福沢諭吉流には立国の大本は瘠我慢ということになるのですが(『瘠我慢の説』),瘠我慢は楽しくはありません。「スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営む」ことと瘠我慢とは別でしょう。

 

  duas tantum res anxius optat,

     panem et circenses. (Juvenalis, Saturae 10.80)

  二つのことばかりを心配し望んでいる,すなわち,麵麭と大円形競技場における競技とを。

 
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 optamus, calidum canem et basipilam.

(5)頑張れ!日本ニッポン

 あるいは「スポーツ立国」とは,スポーツ競技における国別対抗性を是認した上で,「すでに一国の名を成すときは人民はますますこれに固着して自他の分を(あきらか)にし,他国他政府に対しては(あたか)も痛痒相感ぜざるがごとくなるのみならず,陰陽表裏共に自家の利益栄誉を主張してほとんど至らざるところなく,そのこれを主張することいよいよ盛なる者に附するに忠君愛国等の名を以てして,国民最上の美徳と称する」(『瘠我慢の説』)ところの現実に棹さして,我が国人民が日本人選手・日本チームの勝利栄誉を主張支援してほとんど至らざるところなきことを全からしめようとするものでしょうか。そうであれば,「スポーツは,我が国の国際的地位の向上にも極めて重要な役割を果たすものである」とは国際競技大会における日本人選手・日本チームの勝利栄誉あってのことであり,「国際相互理解」とは外国及び外国人が「我が国の国際的地位」の高きことを認めることであり,「国際平和」にとっては我が国の国際的地位の高さに係る他国による当該「国際相互理解」が前提として不可欠であるということになるようにも思われます(スポーツ基本法前文第5項)。2009年5月29日にスポーツ議員連盟(超党派)によって了承された「スポーツ基本法に関する論点整理」には,「スポーツの普遍的な価値や公共的な意義」の一つとして,「スポーツを通じた国際交流によって〔略〕健全な国家アイデンティティの育成に貢献すること」が挙げられていたところです。

 しかし,「国際相互理解」や「国際平和」に関する点については,2010年8月26日に文部科学大臣が決定した「スポーツ立国戦略」においては「スポーツの国際交流は,言語や生活習慣の違いを超え,同一ルールの下で互いに競い合うことなどにより,世界の人々との相互の理解を促進し,国際的な友好と親善に資する」ものであるとされています。一応もっともらしいのですが,「同一ルールの下」に共にいる姿となっていることによって深い「国際相互理解」等があたかも達成されているかのように見える(実は,双方とも,理解しているのは相手ではなく,「ルール」だけかもしれません。),ということだけのようにも思われます。どうでしょうか。

 

(6)「新たなスポーツ文化」

 前記「スポーツ立国戦略」は,「スポーツの意義や価値が広く国民に共有され,より多くの人々がスポーツの楽しさや感動を分かち,互いに支え合う「新たなスポーツ文化」を確立することを目指すものである。」とされています。それなら「スポーツ立国戦略」といわずに「新たなスポーツ文化確立戦略」とでもいってくれた方が分かりやすかったようです。

 「スポーツ立国戦略」では,「さらに多くの人々が様々な形態(する,観る,支える(育てる))でスポーツに積極的に参画できる環境を実現することを目指している。」ともいわれています。スポーツをする人がスポーツの「楽しさ」を感じて,スポーツを観る人がトップアスリートに「感動」して,それらの人々がトップアスリート等を支える(お金を出す等)といった形が想定されているのでしょうか(ただし,「支える(育てる)人」については,清貧に,「指導者やスポーツボランティア」といった人たちが一応考えられていたようです(日本スポーツ法学会編17頁)。)。いずれにせよ,「感動」は「スポーツ立国」における鍵概念であるようです。スポーツを観ることには「感動などないっ・・・!」と一方的に言い募られてしまっては全てがぶち壊しです。2018年の今年は,ロシアでサッカー・ワールド・カップ大会が開催されます

 

  頑張れ!日本(ニッポン)

 

  Libenter homines id quod volunt credunt. (Caesar, De Bello Gallico 3.18)

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp


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1 国民の祝日に関する法律に定める休日と死刑不執行

 「国民の祝日」と刑事弁護との関係について前回の記事で少し触れるところがありました。しかし,死刑廃止論者の方々は,国民の祝日に関する法律に規定する休日の拡大は歓迎されるのではないでしょうか。刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律(平成17年法律第50号)178条2項が次のように規定しているからです。



  日曜日,土曜日,国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)に規定する休日,1月2日,1月3日及び1229日から1231日までの日には,死刑を執行しない。



 なお,死刑の執行について,刑事訴訟法は次のように規定しています。



 475 死刑の執行は,法務大臣の命令による。

   前項の命令は,判決確定の日から6箇月以内にこれをしなければならない。〔以下略〕



 476 法務大臣が死刑の執行を命じたときは,5日以内にその執行をしなければならない。



しかし,死刑廃止は「世界の大勢」です。ギロチンでルイ16世以下多数の人々をどしどし処刑したフランス人まで,なぜ日本は死刑を廃止しないのかなどと言います。



  Pourquoi n’abolissez-vous pas la peine de mort au Japon? La peine de mort, c’est inhumaine, n’est-ce pas?



 しかし,死刑をしないという点については,日本の政府には過去に実績があります。フランス人に教えを垂れられる必要はありません。



  Nous l’avons fait une fois. Notre ancien gouvernement bouddhiste suspendait l’exécution capitale du neuvième siècle au douzième siècle. Car on avait peur des esprits mauvais des morts autrefois. Mais, sans la peine capitale, ça ne marchait pas.



 実際の会話では,つっかえつっかえなのですが,このように,日本国では9世紀から12世紀まで死刑が停廃されていた云々と何やら難しいことを言い出すと,むこうも閉口してくれます。

 一般的には,9世紀初めの薬子の変から12世紀半ばの保元の乱までが我が国における死刑停廃期間とされています。



  ・・・たとえ二,三の民族がほんの短い間にせよ,死刑を廃止していたのだとしたら,私は人類のためにこのことをほこりに思う。人類をおおっている暗愚の長い夜のさなかに,たった一すじだけかがやいているのが,こうした偉大な真理の運命なのだ。(ベッカリーア『犯罪と刑罰』(岩波文庫・1959年)101頁)



2 保元の乱

 保元の乱は,共に待賢門院を母とする崇徳上皇(顕仁)と後白河天皇(雅仁)の兄弟(ただし,待賢門院を中宮とした鳥羽天皇から見ると,雅仁は子であるが,顕仁は叔父子であって疎外の対象でした。なお,待賢門院は,先月(20144月)30日に亡くなった渡辺淳一の小説『天上紅蓮』のヒロインです。)をそれぞれ擁する勢力の間で,保元元年(1156年)七月,鳥羽法皇崩御直後に起こりました。戦いは天皇方の勝利で終わり,同月二十七日,敗れた上皇方にくみした公卿・武士らの罪が定められ,翌「二十八日には平清盛が六波羅のへんで,叔父の平忠貞(忠正)・同族の長盛・忠綱・正綱,忠貞の郎党道行を斬り」ますが,これが12世紀に至っての死刑執行復活です(源義朝が父の為義らを斬ったのは同月三十日(竹内理三『日本の歴史6 武士の登場』(中央公論社・1965年)351頁))。

 武士はやはり野蛮だねぇ,ということになりそうですが,現実に死刑執行復活を主張したのは,元少納言の藤原通憲(出家して信西)でした。



 保元の「乱後の敵方の処分も峻烈をきわめ,平安朝の初めの藤原薬子の乱以後二百〔ママ〕年間たえて行われなかった死罪を復活し,子に親を,甥に叔父を斬首させたのも信西であった。『法曹類林』〔全230巻。法律家が罪状判定のさいに参考にするために,古くからの明法家の意見や慣例あるいは法令などを事項別に集めたもの〕を著した知識がフルに活用され,法理にもとづくかれの裁断にはだれも反対することができなかったろう」(竹内361362頁,359頁)。


 崇徳上皇は,讃岐に流されます。


 おしなべて憂き身はさこそなるみ潟満ち干る潮の変るのみかは

3 薬子の変

大同五年(810年)九月の薬子の変も,平城上皇(安殿)と嵯峨天皇(賀美能)の兄弟(父は平安遷都の桓武天皇,母は藤原乙牟漏)間での争いでした。

さて,変の名前となった藤原薬子とはどういう女性でしょうか。

薬子は藤原式家の種継(桓武天皇の側近で長岡京遷都を推進,延暦四年(785年)に暗殺される。)の娘であって,種継は乙牟漏といとこですから,薬子と平城天皇とはまたいとこです。さらに,薬子は,平城天皇の義母にも当たります。



薬子は・・・藤原縄主(式家)に嫁し,3男2女をうんだ。そしてその長女が平城の東宮時代に選ばれてその宮にはいった。これがきっかけとなり,薬子は安殿太子に近づき,関係を結ぶにいたった。桓武はこの情事をきらい,薬子を東宮からしりぞけたと伝えられている。

安殿が即位すると,二人の仲はもとにもどった。この女の朝廷でのポストは尚侍(天皇に常侍する女官の長)であった。平城にあっては,これ以後,人妻薬子との関係はいっそう深まったようである。しかし天皇は,さすがに上記のごときかんばしからぬ来歴をもつこの女性を,公然と妻の座―一夫多妻の―にすえることができなかった。(北山茂夫『日本の歴史4 平安京』(中央公論社・1965年)113頁)



 藤原縄主はまた,どういう人なのか興味がわきますが,大同元年(806年)五月の平城天皇即位当初における政府高官名簿では,参議になっています(北山104105頁)。平城天皇との関係は円満だったということのようです。(縄主は後に中納言)

 平城天皇は,「そうとうの政治的見識をそなえていたとみてよく,また天皇としての執政に強い意欲(パトス)をもっていた」とされますが(北山105頁),大同四年(809年)に病み,同年四月,弟の嵯峨天皇に譲位します。平城上皇は,自分の「身体の不調を怨霊のしわざに帰して悩みつづけ,王位をはなれさえすればその禍いからまぬがれて生命をたもちうるのではないかと考えた」ようです(北山115頁)。
 同年十二月,平城上皇は,平城古京に移ります。嵯峨天皇の平安京と平城上皇の平城京との間で「二所朝廷」という状況が生じます。

  ふるさととなりにし奈良の都にも色はかはらず花は咲きけり

 翌大同五年(810年)九月六日,「平城は異例にも,上皇の立場において,平安京を廃して皇都を平城の故地にうつすことを命令した。・・・嵯峨天皇と政府にとっては,この遷都宣言はまさに青天の霹靂ともいうべき大事件であったろう。」ということになります(北山119頁)。しかし,嵯峨天皇は,4日後の同月十日には決意を固め,断乎たる処置に出ます。同日,政府は伊勢・近江・美濃に使節を派して関と当該3国を固めさせたほか,薬子の位官を奪い,その兄である参議・仲成を逮捕監禁します(北山120121頁)。これに対して,平城上皇は「激怒のあまり,ついにみずから東国におもむき,大兵を結集して朝廷に反撃しようとした。薬子がそばで挙兵をすすめたらしい。・・・上皇は,薬子とともに駕に乗じて平城宮から進発した」ということになったのですが(北山121頁),「途中で士卒の逃れ去るものが続出したらしい。そして,上皇らが大和国添上郡越田村(奈良市帯解付近)にいたったときに,朝廷の武装兵が前方をさえぎっていた。上皇はやむなく平城宮にひきかえした。わるあがきのうちにすべてが終わったのである。平城上皇は頭をまるめて出家し,薬子は自殺した。」というあっけない結末とはなりました(北山121122頁)。「嵯峨天皇は,平城宮における上皇の出家,薬子の自害の報をえて,〔同月〕十三日に,詔をくだして乱の後始末をつけ」,寛大な措置をとる旨を明らかにし(北山122123頁),同月十九日には元号を大同から弘仁に改めています。寛大な措置の中でだれが死刑になったかといえば,薬子の兄の藤原仲成で,同月十一日の「夜,朝廷は官人を遣わして,仲成を禁所〔右兵衛府〕において射殺させた。」とあります(北山121頁)。これより後, 死刑が停廃されたわけです。

  なお,死刑停廃は弘仁元年からではなく,弘仁九年又は同十三年からであるという説もあります。刑法の大塚仁教授いわく,「嵯峨天皇の弘仁九年(818年)から,後白河天皇の保元元年(1156年)にいたる339年の間,少なくとも朝臣に対しては,死刑が行なわれなかったという刑政史上特筆すべき事実があったことに注意すべきである」(同『刑法概説(総論)〔増補〕』(有斐閣・1975年)32頁)。またいわく,「わが国でも,平安初期の弘仁一三年の太政官符以来,337年にわたって,死刑が,少なくとも朝臣に対しては停廃されていた事実があることはすでに述べた」(同338頁)。しかし,「すでに述べた」と言われても,弘仁九年が正しいのか,同十三年が正しいのかはっきりしないのは困ります。それに,弘仁九年から保元元年までを339年と数えるのならば,弘仁十三年から337年目の年は保元元年ではなく,保元三年になるのではないでしょうか。



4 嵯峨天皇と後白河天皇

 天皇家におけるいずれも弟側が勝った兄弟争いの結果,死刑が打ち止めになり,また死刑が再開されたわけです。

「嵯峨天皇は,性格的に兄の上皇とはちがい,おだやかでゆったりした人物であった。かれは,けっして親政の姿勢をくずさなかったが,政治を多く公卿グループにゆだねるという方針をとっていた。そして,父桓武とは大いに異なり,14年間の執政にあきあきして,なんとかして王座をはなれようとしていた。かれのせつに欲したところは,「山水に詣でて逍遥し,無事無為にして琴書を翫ぶ」ことであった」そうですから(北山132133頁),三筆の一人でもある文人であり,かつ,子沢山の嵯峨天皇の時代に死刑が停廃されたのは,いかにもと思われます。それに,嵯峨天皇も死者の怨霊に苦しめられるタイプで,薬子の変の前の大同五年七月中旬に病臥したときには,「朝廷は天皇の平復のために,早良・伊予,そして吉子の追福ということで,それぞれ100人・10人・20人の度者(得度した者)をさだめ」ています(北山119頁)。早良親王(崇道天皇)は桓武天皇の同母の皇太弟で,藤原種継暗殺事件への関与を疑われて自ら飲食を断って憤死しています(延暦四年)。伊予親王は平城・嵯峨両天皇の異母兄弟で,藤原吉子はその母,平城天皇時代に謀叛の嫌疑をかけられ,両名は幽閉先の大和国川原寺で毒を仰いで自死しています(大同二年)。(また,薬子の変で処刑された藤原仲成も祟るようになったらしく,貞観年中の御霊会では,仲成も御霊として,崇道天皇,伊予親王,藤原吉子らと共になぐさめられています(北山226頁)。)
 以上に対して,後白河天皇の人物の評ですが,側近であるはずのところの信西が,次のようなけしからぬことを言っています。



  後白河法皇は和漢を通じて類の少ないほどの暗君である。謀叛の臣がすぐそばにいても全然ご存じない。人がお気付きになるように仕向けても,それでもおさとりにならぬ。こんな愚昧な君主はいままでに見聞したことがないほどだ。(竹内375頁)



  ・・・ただ二つだけ徳をもっていられる。その一つは,もし何かしようと思われることがあれば,あえて人の制法(とりきめ)に拘束されず,かならずこれをなしとげられる。これは賢主のばあいには大失徳となることだが,当今〔後白河天皇〕はあまりに暗愚であるのでせめてこれが徳にあげられる。つぎの徳は,聞かれたことはけっしてお忘れにならない。年月がたっても心の底におぼえておられることである。(竹内185186頁)



 俗にいう,「根に持つタイプ」ということでしょうか。

 また,後白河天皇は,親王時代から今様,すなわち当時流行の歌謡曲が大好きで,毎日毎晩歌い暮らしていたといいますから(竹内370372頁参照),今でいえば,カラオケ・セットを献上申し上げれば,龍顔莞爾ということでしょうか。父親としては行く末を心配するところで,「鳥羽上皇をはじめ一部の人々のあいだでは,天子のなすべきことではないとの批判」がささやかれていました(竹内373頁)。息子の二条天皇ともうまくいっていなかったようで,後白河上皇宿願の三十三間堂完成供養(長寛二年(1164年)十二月)に当たっても二条天皇は全然協力する気配を見せず,「上皇は目に涙をいっぱいうかべて,「ああ,なにが憎さにそんな仕打ちをするのか」と仰せられ・・・当時の人々は,「今上天皇(二条)は他のことについてはまことに賢主であるが,孝行という点でははなはだ欠けておられる。だから聖代とはいえない」とささやきあった」といいます(竹内386頁)。

 源頼朝による「日本国第一の大天狗はさらに他に居申さぬぞ」との後白河法皇評はどうでしょうか。これは,平氏滅亡後,文治元年(1185年)に義経・行家に与えられた頼朝追討宣旨に対する鎌倉からの法皇糾弾状の一節であって,「法皇の無責任を痛撃・罵倒する威嚇の第一砲であり,院中はこれを見て色を失った」というものです(石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』(中央公論社・1965年)166頁)。

 讃岐に配流された崇徳「上皇は五部大乗経を血書し,「われ日本国の大魔王となり,皇を取って民となし,民を皇となさん」と誓ったといい,1164年(長寛二)八月二十六日,上皇が崩ぜられて火葬したときには,その烟は都のほうへとなびいた」そうですが(竹内353頁),後白河上皇は兄のものを含め怨霊には余り苦しめられないタイプだったのでしょうか。さきにも見たように,同年十二月に気に病んでいたのは専ら息子の二条天皇との不仲だったようです。



5 「大死神」の末路

 死刑執行を進める者は「死神」ということになるようですが,我が国の長きにわたる死刑停廃を終了せしめた「大死神」たる信西入道の末路はいかん。

 後白河上皇の側近であった信西に出世の望みを阻止され,また面目をつぶされた藤原信頼・源義朝らの反信西勢力が,平治元年(1159年)十二月九日夜半にクーデタを敢行(平治の乱の始まり),信西はいち早く京都南方綴喜郡の田原に逃走します。しかしながら,大学者信西(渡来した宋人と唐語で会話もできたそうです。)の知恵を振り絞った土遁の術も空しく,同月「十三日には,信西を追及していた検非違使源光保が,田原の山中で土中に穴を掘って身をかくしていた信西を発見し,首を切ってかえったので梟首にした。」ということになりました(竹内376頁)。ここでの信西の直接の死因については,自殺したとするものもありますが,さて,どうでしょうか。やはり,土中から無残に掘り出されて首を斬られる方がそれらしく思われます。

 平治の乱の戦闘は,その後,クーデタ派のもとから脱出した二条天皇を奉じた清盛率いる平家の勝利をもって終わりますが,それはまた別の話です。



 死刑廃止論者であるベッカリーアも,死刑が許される場合として,「混乱と無秩序が法律にとってかわっている無政府状態の時代にあって,国家の自由が回復されるか失われるかのせとぎわにあるとき,ある一人の国民の生存が,たとえ彼が自由を束ばくされていても,彼のもつ諸関係と名望とによって公共の安全に対する侵害となるような状勢にあるばあい,彼の生存が現存の政体をあやうくする革命を生む危険があるなら,その時その一国民の死は必要になる。」と説いています(『犯罪と刑罰』9192頁)。信西はかつて不遇の時代,後に保元の乱では敵対関係となる藤原頼長相手に「わたくしは運がわるくて一職も帯びていません。もしこのさいわたくしが出家したならば,世間の人は,才がすぐれているから天がその人を亡ぼすのだと考えて,いよいよ学問をしなくなるでしょう。どうかあなただけは学をやめないでください」と語り,それに対して頼長は「けっしてお言葉は忘れますまい」と答えつつ思わず落涙したということがあるそうですが(竹内360頁),才すぐれ,その諸関係と名望とが国家的な危険をももたらし得るような人物になってしまった以上,時代の中心にいて時代の変転ゆえに天に亡ぼされることとなることも,あるいは信西としてはもって瞑すべきことであったのかもしれません。

 学問をやり過ぎるのも危険人物への途のようです。みんなで気持ちよく過ごす職場に気持ちよく調和するためには,お勉強は,ちょっとかしこそうに見えるアクセサリー程度にとどめておくべきでしょうか。しかしそれは,平和なサラリーマン(ウーマン)の道ではあっても,自由な法律家の道ではないでしょう。


つけたり:ベッカリーアの死刑廃止論

 イタリアのベッカリーア(1738年‐1794年)は,近代死刑廃止論の首唱者とされています(『犯罪と刑罰』が最初に出たのが1764年)。ただし,その死刑廃止論の理由は,刑死者の御霊の祟りを恐れるというようなものではなくて,社会契約論,犯罪抑止力への疑問,犯罪抑止力における終身隷役刑の優位性及び公開処刑が社会の良俗に与える悪影響が挙げられています。

 まず,社会契約において各人は彼の生命を奪う権利を法律ないしは社会に譲渡していない,というのがベッカリーアの社会契約論です(『犯罪と刑罰』(前記風早八十二・二葉訳の岩波文庫版)9091頁)。しかし,この点については,社会契約論者中にも別異に解するものが多いようです。

「あらゆる時代の歴史は経験として証明している。死刑は社会を侵害するつもりでいる悪人どもをその侵害からいささかもさまたげなかった。」とは,死刑の現実の犯罪抑止力に対する疑問です(同92頁)。これに対して我らが弁護士(第一東京弁護士会会長)・小野清一郎博士は,1956年5月10日,第24回国会参議院法務委員会の公聴会で,当時の死刑廃止法案に反対の立場から,死刑の犯罪抑止作用の実在を力強く公述しました。いわく,「・・・死刑廃止の結果として,殺人罪の永続的増加を証明した例はありませんとありますが,その資料として用いられている統計の類は,はなはだ不十分なものであります。犯罪は社会科学的に見ますると,複雑な原因と条件とによって生ずるものであります。死刑の存在は犯罪を抑制する一つの契機であるにすぎないのであります。でありますから,これを廃止したからといって,直ちに殺人その他の犯罪が増加を見ないことは,むしろ当然のことであります。10年や15年の粗末な統計を材料にして,数字の魔術にかかるようでは科学的なものということができないと思うのであります。・・・いかなる場合にも自己の生命についてだけは絶対の安全を保障されつつ犯罪に着手することができるというのでは,現実の政治的社会的秩序は相当の危惧を感ぜざるを得ないでありましょう。死刑の威嚇力を過重に評価してはなりません。しかし死をおそれない政治犯人や,絶望的な強盗犯人に対して死刑が無意味であるからといって,その威嚇力または一般予防の作用を否定することはできないと思います。死刑の存在が社会一般に対して抑制の作用を持つことは明らかな心理的事実であります。これを否定されるならば全刑法の組織を否定するほかないのであります。刑法は応報的な社会教育の機構であります。死刑の存在するということが意識下の意識として,いわば無意識的な抑制作用を営むことを,私は心理学的な事実として十分立証することができると思います。死刑を廃止した国における若干の刑事統計によって,死刑に予防作用がないということを立証しようとすることは,その方法自体に疑問があるのであります。私はもっと深い心理学的な研究を必要とすると思っているものであります。以上。(拍手)」

死刑の犯罪抑止力に対する疑問に続いて,ベッカリーアは,犯罪抑止力における終身隷役刑の死刑に対する優位性を説きます。いわく,「人間の精神にもっとも大きな効果を与えるのは刑罰の強度ではなくてその継続性である。・・・この道理でいけば,犯罪へのクツワとしては,一人の悪人の死は力よわいものでしかなく,強くながつづきのする印象を与えるのは自由を拘束された人間が家畜となりさがり,彼がかつて社会に与えた損害を身をもってつぐなっているその姿である」(『犯罪と刑罰』93頁)。またいわく,「・・・死刑と置きかえられた終身隷役刑は,かたく犯罪を決意した人の心をひるがえさせるに十分なきびしさを持つのである。それどころか,死刑より確実な効果を生むものだとつけ加えたい」(同95頁)。更にいわく,「・・・不幸な者たちによってあらわされるみせしめは死刑よりも強く人の心をうつ。死刑は人を矯正しないで,かえって人の心をかたくなにしてしまうが」(同98頁)。

ただし,「家畜」やら「みせしめ」という言葉からすると,ベッカリーアの想定している終身隷役刑は,「被収容者・・・の人権を尊重」する(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律1条参照)我が無期懲役刑とは少々違うようです。「・・・狂熱も虚栄も,鉄格子の中,おう打の下,くさりの間では罪人どもを見すてて行ってしまう。」というのですから(『犯罪と刑罰』95頁),鎖につながれ,殴られるのは当たり前ということでしょう。また,「永い年月あるいは全生涯をドレイ状態と苦しみのうちにすごし,かつてはなかまであつた人々の目にさらされ,今は彼らと同等ではなく,彼らのように自由でもなく社会の一員でもなくなりかつては自分を保護した法律のドレイとなった自分を感じねばならない・・・」と(同98頁),奴隷状態の姿を人々の目にさらされるものとされています。したがって,「へき地での隷役という刑」は,「いいかえれば犯人の侵害行為を受けない地方の国民に無用な犯罪人の手本を送ること」であり,「犯罪が事実行われた地方の国の国民からはみせしめをなくす結果になる」わけです(同113頁)。(なお,我が国でも囚人の使役について, 1885年の金子堅太郎の『北海道三県巡視復命書』では,「彼等〔囚人〕ハ固ヨリ暴戻ノ悪徒ナレバ,其苦役ニ堪ヘズ斃死スルモ,尋常ノ工夫ガ妻子ヲ遺シテ骨ヲ山野ニ埋ムルノ惨情ト異ナル」,「斃レ死シテ其人員ヲ減少スルハ,監獄費支出ノ困難ヲ告グル今日ニ於テ,万止ムヲ得ザル政策ナリ」,「囚人ヲ駆テ尋常工夫ノ堪ユル能ハザル困難ノ衝ニ当ラシムベシ」と,囚人の北海道における土木工事従事について書かれていましたが(色川大吉『日本の歴史21 近代国家の出発』(中央公論社・1966年)245246頁参照),現在ではなかなか許されないことでしょう。)
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  博物館網走監獄(向かって左の人形が「五寸釘寅吉」)

 ベッカリーアのいう「死刑はまた,人々にざんこく行為の手本を与えるということで,もう一つ社会にとって有害だ。」との立論は(『犯罪と刑罰』98頁),当時の公開処刑制度を前提とするものでしょう。「「われわれに非道な犯罪として示されている殺人が,いま目のまえで冷然と,なんの良心の苛責もなく犯された。この手本を合法的なものとみていけないことはないはずだ。・・・」以上が,・・・その精神がすでに正常を欠いて犯罪にはしりかけている人々の考えることだ。」とは(同100頁),死刑の見物人の心理に関する描写でしょう。なお,我が国における死刑の執行は非公開で,「死刑は,刑事施設内において,絞首して執行する」ものとされ(刑法111項),「検察官又は刑事施設の長の許可を受けた者でなければ,刑場に入ることはできない」ものとされています(刑事訴訟法4772項)。

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1 「ゴールデン・ウィーク」と「国民の祝日」

 世は「ゴールデン・ウィーク」。これも国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)のおかげです。

 ということで,今回は国民の祝日に関する法律について書いてみようと思ったのですが,手元の「実務家向け」と銘打たれている六法を開いても,同法が掲載されていないのには閉口しました。かつては小さな六法にも掲載されていた記憶があるのですが,どうしたものでしょう。最近の六法編集委員・編集者には,「国民」の祝日を軽視する「非国民」が多いのでしょうか。

 ともあれ,いざというときのトホホのお上頼みで総務省行政管理局提供の法令データ提供システムで国民の祝日に関する法律を見ると,その第1条では「自由と平和を求めてやまない日本国民は,美しい風習を育てつつ,よりよき社会,より豊かな生活を築きあげるために,ここに国民こぞつて祝い,感謝し,又は記念する日を定め,これを「国民の祝日」と名づける。」とうたわれおり,第2条柱書きでは「「国民の祝日」を次のように定める。」と規定され,同条中「ゴールデン・ウィーク」関係部分は次のとおりとなっています。



 昭和の日  4月29日 激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代を顧み,国の将来に思いをいたす。

 憲法記念日 5月3日  日本国憲法の施行を記念し,国の成長を期する。

 みどりの日 5月4日  自然に親しむとともにその恩恵に感謝し,豊かな心をはぐくむ。

 こどもの日 5月5日  こどもの人格を重んじ,こどもの幸福をはかるとともに,母に感謝する。



 なかなか味わい深い文章が並んでいますね。

 第1条冒頭の「自由と平和を求めてやまない日本国民」というのは,1948年当時の我が国民の実感だったものでしょう。しかしながら当該文言については,



・・・紳士諸君は唱えるであろう,平和,平和と。しかし,平和は存在しない。戦争は現実に始まっているのである。・・・鉄鎖と隷従とをもってあがなうべきほど,生命は貴く,平和は甘美なものであるのか。やめていただきたい,全能の神よ。・・・我に自由を与えよ,しからずんば死を与えよ。



と,平和と自由との野蛮な二者択一間において獅子吼したパトリック・ヘンリーを建国の父の一人に持つ米国人ら当時の占領当局の人々からしてみると,自由も平和もと欲張ってこともなげに両立せしめ得るものとする我が国の驚嘆すべき文化水準の高さを示すものと思われたことでしょう。

 昭和の日の項にいう「激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代」という昭和時代の性格づけは,現在の平成の時代との対比においてされたものでしょうか(平成17年法律第43号)。しかしながら,まさか,我が国会議員の選良諸氏が,平成の時代について,「人に優しい穏便の日々を経て,衰退を遂げた平成の時代」になるものと考えているわけではないのでしょう。けれども,無論,国の将来に「思いをいたす」だけで実行が伴わないと,困るところではあります。

 憲法記念日の項の「国の成長を期する。」という文言も,高齢社会の現在からすると,感慨深いものがありますね。日本国憲法を教科書としてそこに書かれたことを学習しつつ成長すべき,なお成熟していない若き日本国とその国民という自己認識だったものでしょうか。(なお,1948年の国民の祝日に関する法律の制定当初には,9月の敬老の日はいまだありませんでした。「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し,長寿を祝う。」といっても,多くの青年兵士の犠牲の末先の大戦をしくじったことについては,国家の指導的地位にあった老人たちはなかなか敬愛してもらうわけにはいかなかったのでしょう。敬老の日は,10月の体育の日と一緒に,建国記念の日が制定されたことで有名な昭和41年法律第86号による1966年の改正によって追加されたものです。ところで,この昭和41年法律第86号を見ると,「スポーツにしたしみ」(体育の日),かつ,「老人を敬愛」(敬老の日)すると「国を愛する心」(建国記念の日)が養われるようでもあり,何だか三題噺みたいでもあります。ちなみに,昭和41年法律第86号の法案は,議員立法主導の国民の祝日に関する法律の歴史では珍しく,内閣(佐藤榮作内閣)提出でした。もう一つ法案が内閣から提出された国民の祝日に関する法律の改正法は,今上天皇の誕生日である12月23日を天皇誕生日とし,4月29日を(旧)みどりの日とした平成元年法律第5号でした。)

 みどりの日の項は,苦労して書かれています。しかし,春分の日が既に「自然をたたえ,生物をいつくしむ。」ことになっているので,趣旨が重複しているようではあります。むしろ,憲法記念日とこどもの日という二つの「国民の祝日」の中間にはさまれた日であるミドル(middle)の日が転訛したものと解すべきか。(というのは後付けの理屈で,4月29日だったみどりの日が5月4日になったのは平成17年法律第43号によってです。)

 こどもの日は,母に感謝する日でもありました。しかし,男女共同参画社会の手前,父が感謝される日が無いということは不当な差別ではないでしょうか。国民の祝日に関する法律を合憲的に解釈するとして,父は,生物として,春分の日においていつくしまれる生物に含まれるということでしょうか,それともあるいは,男は,父になっても依然としてこどもだから,いつまでもこどもの日にこどもとして人格を重んじてもらい,幸福をはかってもらえるということでしょうか。



2 国民の祝日に関する法律に規定する休日

 さて,定められた「国民の祝日」の効果についてですが,これは,国民の祝日に関する法律の第3条に書かれています。



 第3条 「国民の祝日」は,休日とする。

 2 「国民の祝日」が日曜日に当たるときは,その日後においてその日に最も近い「国民の祝日」でない日を休日とする。

 3 その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(「国民の祝日」でない日に限る。)は,休日とする。

 

国民の祝日に関する法律の制定当初は,振替休日等に係る第2項以下は無かったんですけどねえ。

今年(2014年)の「ゴールデン・ウィーク」では5月6日の火曜日までが休日になっているのは,国民の祝日に関する法律3条2項の適用の結果です。5月4日のみどりの日が日曜日に当たったので,「その日後においてその日に最も近い「国民の祝日」でない日」である5月6日が休日になったものです(月曜日の5月5日はこどもの日であって「国民の祝日」だから,翌火曜日に繰り越し。)。

国民の祝日に関する法律3条3項は,現在,9月の第3月曜日である敬老の日と秋分の日との間において機能する規定となっています。来年(2015年)は,9月21日が敬老の日で,同月23日が秋分の日ですから,同月22日が同項の適用を受け,同月19日の土曜日から同月23日の水曜日までの5日間は,お役所等はお休みです。



3 法律と休日

 さて,上記のように,国民の祝日に関する法律は多大の効果を発揮しています。同法の規定次第で,皆さん休めることになったり休めなかったり一喜一憂です。我が国の①法律で,②休日であると規定されている以上,その日休まないのでは非国民みたいですからね。



(1)休む義務及び仕事をする権利の制限に係る法規性の問題



ア モーセの十戒

 休む義務(義務ですぞ。)ということについては,モーセの十戒が有名な先例です。いわく,「安息日を覚えて,これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神,主の安息であるから,なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ,娘,しもべ,はしため,家畜,またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに,天と地と海と,その中のすべてのものを造って,七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」(出エジプト記20811。また,申命記51215)。

この安息日を守らないと,死刑,であったようです。

「六日のあいだは仕事をしなさい。七日目は全き休みの安息日で,主のために聖である。すべて安息日に仕事をする者は必ず殺されるであろう」(出エジプト記3115)。「六日の間は仕事をしなさい。七日目はあなたがたの聖日で,主の全き休みの安息日であるから,この日に仕事をする者はだれでも殺されなければならない」(同352)。また,「七月の十日」の「贖罪の日」についても同様でした。いわく,「その日には,どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのために,あなたがたの神,主の前にあがないをなすべき贖罪の日だからである。すべてその日に身を悩まさない者は,民のうちから断たれるであろう。またすべてその日にどのような仕事をしても,その人をわたしは民のうちから滅ぼし去るであろう。あなたがたはどのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて,代々ながく守るべき定めである。これはあなたがたの全き休みの安息日である。あなたがたは身を悩まさなければならない。またその月の九日の夕には,その夕から次の夕まで安息を守らなければならない」(レビ記232632)。なお,古代ユダヤでは,一日は日没に始まり,日没に終わったそうです(だから,キリストの最後の晩餐は木曜日のことではなくて金曜日)。



イ 昭和天皇の昭和2年勅令第25号と国民の祝日に関する法律

 しかし,国民の祝日に関する法律は,法形式としては「法律」なのですが,モーセの律法のように,国民に休む義務を課し,又は国民の仕事をする権利を制限するいわゆる法規たる事項を定めたものではありません。同法の附則2項は「昭和2年勅令第25号は,これを廃止する。」と規定していて,同法が昭和2年勅令第25号(休日に関する件)に代わるものであることを明らかにしていますが,日本国憲法下では,昭和2年勅令第25号は政令と同一の効力を有するものでしかなかったからです(昭和22年政令第14号1項)。政令で決め得る事項の限界について内閣法11条は,「政令には,法律の委任がなければ,義務を課し,又は権利を制限する規定を設けることができない。」と規定しています。昭和2年勅令第25号は法律の委任を受けたものではありませんでしたから,当然当該勅令の規定をもって国民に義務が課され,権利が制限されたものではなく,また,そうであれば,それを引き継いだ国民の祝日に関する法律も,直接国民に義務を課し,その権利を制限するものとは解されないものであるわけです。

そもそも同法が議員立法により第2回国会で制定されることになったきっかけは,新しい休日に関する命令を政令で定めるという動きが194712月上旬に政府においてあったことに対する国会側の反発であったそうです(194874日衆議院本会議における小川半次同議院文化委員長の発言参照)。本来は内閣制定の政令で決め得ることではあるが,内閣に代わって国会が定めることにした以上,鶏を割くに牛刀の類とはなりますが,法形式としては国会制定の法律となってしまったということのようです。

 なお,昭和2年勅令第25号は,次のとおり。



朕大正元年勅令第19号休日ニ関スル件改正ノ件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 御 名 御 璽

  昭和2年3月3日〔公布同月4日〕

     内閣総理大臣 若槻礼次郎

勅令第25

左ノ祭日及祝日ヲ休日トス

  元始祭    1月3日

  新年宴会   1月5日

  紀元節    2月11

  神武天皇祭  4月3日

  天長節    4月29

  神嘗祭    1017

  明治節    11月3日

  新嘗祭    1123

  大正天皇祭  1225

  春季皇霊祭  春分日

  秋季皇霊祭  秋分日

   附 則

本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス



 おや,キリスト教国同様1225日もお休みだったのですね。

 ただし,同日は大正天皇の命日ということで休日なので,そうそうはしゃぐわけにはいかなかったものでしょう。
 ちなみに,昭和2年勅令第25号にいう「祭日及祝日」のうち,祭日は元始祭,神武天皇祭,神嘗祭,新嘗祭,大正天皇祭,春季皇霊祭及び秋季皇霊祭であって,祝日は新年宴会,紀元節,天長節及び明治節です。
 元始祭は,「年のはじめに天孫降臨,すなわち天津日嗣(皇位)の始源を祝う祭り」です(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)76頁)。明治三年(1870年)一月三日に神祇官の八神殿に八神,天神地祇,歴代皇霊を鎮祭したことが起源ですから(村上76頁),必ずしも古来のものではありません。1月3日が元始祭の日となったのは,直接には上記明治三年一月三日の鎮祭に由来しますが,「1月4日には政始(まつりごとはじめ)の朝儀が行われるので,その前日で,宮中参賀〔元日及び2日〕のない3日が,元始祭の祭日として選ばれたのであろう。」とされています(村上77頁)。天皇守護の「八神」は,カミムスビ,タカミムスビ,タマツメムスビ,イクムスビ,タルムスビ,オホミヤノメ,ミケ及びコトシロヌシです(村上15頁)。「天神」は「ヤマト政権が信仰する神々」,「地祇」は「もともとの土地神」である「国神(くにつかみ)」です(村上9頁)。「皇霊」は,「神武天皇から前天皇にいたる歴代の天皇の霊と,故人となった皇后,皇妃,皇親等の霊の総称であり,天皇ないし皇室の祖先の霊」を意味します(村上87頁)。
 「元始祭は祝祭であるが,当日には宮中の祝宴はなく,1月5日に宮中で「新年宴会」が開かれるきまりになっていた」そうです(村上77頁)。
 神武天皇の崩御日は三月十一日と伝えられており,明治改暦後初年の1873年(明治6年)には天保暦三月十一日に当たる4月7日が神武天皇祭でしたが,古代には用いられていなかった天保暦に基づき,かつ,毎年移動する「この祭日には難点があるため,紀元節を2月11日と算出したのとは別の計算によったらしく,1874年(明治7)から,祭日を4月3日とさだめ」られました(村上86頁)。
 神嘗祭と新嘗祭との違いは何かといえば,「近代の皇室祭祀において,新嘗祭は,天皇が親祭する13の祭典中で,古代の皇室祭祀を受けついだ唯一の祭り」であるのに対し,「伊勢神宮の収穫祭である神嘗祭」は明治四年(1871年)から「新たに天皇が親祭する皇室祭祀に加えられた」ものです(村上71頁,73頁)。「新嘗祭の祭日は,701年(大宝元)の大宝令において,十一月下卯日,同月に3度卯日があるときは中卯日とさだめられた。この祭日は,イネの収穫期よりもかなり遅く,収穫祭としては不自然な感じを受ける。もともと新嘗祭は,晩秋の祭りであったろうが,5世紀ごろ,それまで宮中に祀っていたアマテラスオホミカミを外に遷して伊勢に祀ったのちは,皇祖神に新穀をささげる伊勢神宮の神嘗祭がまず行われ,そののちに重ねて新嘗祭が行われるようになったのであろう。また皇室神道の新嘗祭は,天皇の再生の儀礼としての性格が強いため,農耕社会でひろく見られる生命の再生の祭りである冬至祭と複合して,この祭日となったのかもしれない。」と考えられています(村上13‐14頁)。神嘗祭は九月十七日でしたが,「太陽暦の9月中旬では,新穀がまだ稔らないことから」,「1879年(明治12)にいたり,祭日を1ヵ月ずらして10月17日に改め」られました(村上74頁)。新嘗祭の日が11月23日なのは,明治改暦後初年の1873年(明治6年)11月の下卯日が23日だったからです(村上70頁)。天保暦の十一月下卯日は,グレゴリオ暦では12月下旬頃に当っていました。
 「神仏分離以前には,宮中の祖先祭祀は仏教式であったから,一般と同じく,春秋の彼岸会に,祖先の祭りが営まれてい」ました(村上89頁)。1878年(明治11年)に「綏靖天皇以下後桜町院天皇迄,御歴代の御式年御正辰共廃せられ」(歴代天皇の正辰日(命日)の祭祀だけで年百祭を超えてしまうので,整理して,まとめて祭祀することにしたわけです。),春分日及び秋分日にそれぞれ春季皇霊祭及び秋季皇霊祭を新設したことについては,「国民の生活に仏教行事として定着している春秋の彼岸の祖先まつりを,皇室祭祀の皇霊祭と直結するねらいがあったためであろう。」とされています(村上90‐91頁)。
 明治節は昭和2年勅令第25号で設けられ,明治天皇の誕生日(天保暦九月二十二日,グレゴリオ暦11月3日)は,明治時代の天長節,昭和時代からの明治節及び現在の文化の日と三つの祝日となったことになります。昭和天皇の誕生日(4月29日)も,天長節,天皇誕生日,(旧)みどりの日及び昭和の日と四つの祝日となりました。しかし,この点で最も偉大だったのは大正天皇だったかもしれません。大正元年9月4日勅令第19号(裁可同月3日)は大正天皇の誕生日である8月31日を天長節としましたが,「暑中のため」(村上126頁),大正2年7月18日勅令第259号(裁可同月16日)によって10月31日が天長節祝日として更に休日に加えられています。大正2年7月18日宮内省告示第15号によれば,8月31日には天長節祭のみが行われ,宮中における拝賀宴会は10月31日に行われました。大正時代は15年しかありませんでしたが,天皇の誕生日にちなむ休日は28日あったことになるようです。
 

(2)「休日」の性格の問題

 ところで,そもそも国民の祝日に関する法律その他の法令にいうところの「休日」とはどういう意味でしょうか。



ア 3種類の「休日」

実は,休日にも三つの種類があります。

すなわち,休日とは「一般には,業務を行わない日をいう」のですが,第1には「ある種の事業や一定の地域において,一般的に業務の執行をしないものと慣習上定まっている日」と,民法142条等の用例が挙げられ(慣習によるもの),第2に「国,地方公共団体等の一般の機関が原則として職務の執行をしないものと定められた日」がそうであるとされ(お役所に係るもの),最後に「労働者が労働を休む日をいう」と労働基準法35条の意味での休日(契約によるもの)が挙げられています(吉国一郎ほか『法令用語辞典【第八次改訂版】』(学陽書房・2001年))。労働基準法35条は,その第1項で「使用者は,労働者に対して,毎週少くとも1回の休日を与えなければならない。」と,第2項で「前項の規定は,4週間を通じ4日以上の休日を与える使用者については適用しない。」と規定しています。



イ 国民の祝日に関する法律に規定する休日と慣習又は労働契約に基づく休日との別次元性 

 国民の祝日に関する法律3条にいう休日は,前記休日の3種類のうち,第1及び第3のものではどうやらない旨,1948年7月4日の衆議院本会議で,法案を提出した同議院文化委員会の小川半次委員長が言明しています。



 国民の祝日に関する法律3条の「この休日とは,いわゆる一般の休日の意味でありますので,これ以外の休日を決して排除するものではありません。すなわち第1には,ある社会,階級,地方の全般を通じて業務を休み,取引をなさない日,すなわち日曜日とか土曜日午後のいわゆる銀行休日とか,ぼんとかひがんなども,民法第142条,手形法第72条,第87条,なお小切手法第60条,第75条などに,いわゆる休日として当然残されるのであります。第2には,労働者が就業制限の一方法として毎週少くとも1回休む日も労働基準法上の休日となるわけであり,また,年末,年始にかけてのいわゆる官庁の休暇日なども依然として生きているわけであります。この点,世間に往々誤解がありますので,一応お断り申し上げておきます。」



 かつての民法142条は「期間ノ末日カ大祭日,日曜日其他ノ休日ニ当タルトキハ其日ニ取引ヲ為ササル慣習アル場合ニ限リ期間ハ其翌日ヲ以テ満了ス」と規定しており,よく読むと,「休日」であっても取引はされるものであることが原則となっていました。これは,現在の同条の規定である「期間の末日が日曜日,国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)に規定する休日その他の休日に当たるときは,その日に取引をしない慣習がある場合に限り,期間は,その翌日に満了する。」においてむしろより明らかになっており,国民の祝日に関する法律で定められた休日であっても,同法のみによっては当該休日に取引が行われることを妨げる効力はないことを前提とした規定になっています(取引が行われないものとされるのは,直接には同法によってではなく,慣習によってである。)。

これに対して,我が民法に影響を与えたドイツ民法を見ると,同法の193条は,現在,„Ist an einem bestimmten Tage oder innerhalb einer Frist eine Willenserklärung abzugeben oder eine Leistung zu bewirken und fällt der bestimmte Tag oder der letzte Tag der Frist auf einen Sonntag, einen am Erklärungs- oder Leistungsort staatlich anerkannten allgemeinen Feiertag oder einen Sonnabend, so tritt an die Stelle eines solchen Tages der nächste Werktag.(意思表示又は履行をある期日又はある期間内にすべき場合であって,当該期日又は当該期間の末日が,日曜日,意思表示若しくは履行の場所において国家的に認められた一般の休日又は土曜日に当たるときは,次の取引日をもってその日に替えるものとする。)と規定していて,取引をしない慣習の存在をまたずに,期日又は期間の末日が日曜日等に当たるときは端的にその日を次の取引日に振り替えるものとしています。こちらは,モーセの十戒以来,安息日には仕事をしないものだということが確乎たる法的確信となっているからでしょうか。(ちなみに,1919年のヴァイマル憲法の「第2編 ドイツ人の基本権および基本的義務」における「第3章 宗教および宗教団体」中第139条は,「日曜日および国の承認した祭日は,仕事の休日および精神的向上の日として,法律上保護される。」と規定しており(山田晟訳『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)208-209頁),同条は現在もドイツ連邦共和国基本法の構成部分です(同法140条)。)ドイツにおける日曜日の様子は具体的にはどのようなものかといえば,少々昔の話になりますが小塩節教授によれば,「・・・友人の話で,彼は医者なのだが,週末に買ってきた苗木を1本,ある晴れた初夏の日曜日の午後,自分の家の広い庭の一隅に植えた。休息の日である日曜日に働いたかどで彼は訴えられ,裁判所に呼び出されて,有罪の判決を言い渡された。誰の邪魔をしたわけでもない。自分のホビーでやったことだ,と言い張ったがだめだった。/かなり距離のある隣家の3階か4階から,植え込み越しに望遠鏡で一生懸命彼の仕事を見ていたヒマな人が二,三人いたのである。彼らが,法によって定まっている安息日に精神的な被害を受けた,と告訴したのだという。」というようなものだそうです(小塩節『ドイツ語とドイツ人気質』(講談社学術文庫・1988年)91‐92頁)。民法起草者の一人である梅謙次郎は,「西洋ニ於テハ日曜日,大祭日等ニハ各人大抵皆其業ヲ休ミ一切ノ取引ヲ為ササルヲ以テ常トスルカ故ニ広ク本条〔日本民法142条〕ノ規定ヲ適用スルコト或ハ穏当ナラン」と述べていました(梅謙次郎『訂正増補第31版 民法要義 巻之一 総則編』(法政大学・有斐閣書房・1910年)362頁)。

なお,そもそも日本において日曜日を休むことにしたのは,院省使庁府県のお役人あての明治9年太政官達第27号が「従前一六日休暇ノ処来ル4月ヨリ日曜日ヲ以テ休暇ト被定候条此旨相達候事/但土曜日ハ正午12時ヨリ休暇タルヘキ事」(1876312日)と定めて以来,お役人の世界から始まったことであって,国民こぞってキリスト教に改宗して安息日を守ることにしたものではありません(なお,お役人の休みは一六日とされていても,31日は休みではありませんでした(下記明治6年太政官第2号布告参照)。)。梅謙次郎は「我邦ニ於テハ日曜日,大祭日等ニ其業ヲ休ム者ハ極メテ少数ニシテ未タ西洋ノ如キ慣習アラサルカ故ニ一般ニ此規定〔民法142条の規定〕ヲ適用セハ頗ル不当ノ結果ニ陥ルヘシ故ニ本条ニ於テハ此等ノ日ニ取引ヲ為ササル慣習アル場合ニ限リ此規定ヲ適用セリ」と言っていました(梅364頁)。
 (民法が制定された1896年当時における「大祭日」の用法について参考となるものとしては,1891年の小学校祝日大祭日儀式規程(明治24年文部省令第4号)があります。そこでは「祝日大祭日」として,紀元節,天長節,元始祭,神嘗祭及び新嘗祭(同規程1条),孝明天皇祭,春季皇霊祭,神武天皇祭及び秋季皇霊祭(同2条)並びに1月1日(同3条)が挙げられています。紀元節及び天長節並びに1月1日が祝日で(「1月1日も,「四方拝」の名称で,祝日の扱いを受けるようになった。」とされています(村上126頁)。),それ以外が大祭日ということになるのでしょうか。ただし,紀元節の日及び天長節の日並びに1月1日には宮中でそれぞれ紀元節祭及び天長節祭並びに歳旦祭が行われるので(皇室祭祀令(明治41年項皇室令第1号)9条,21条),これらについても祭日ではないとはいえません。しかしながら,紀元節祭は天皇が親祭する大祭であるのに対して(皇室祭祀令8条1項,9条),天長節祭及び歳旦祭は掌典長が祭典を行って天皇が拝礼する小祭です(同令20条1項,21条)。四方拝は,歳旦祭の当日にそれに先立ち(皇室祭祀令23条2項)天皇によって行われる儀式です。)
 ちなみに,民法142条の「その他の休日」について梅謙次郎は,「各地方ノ慣習上ノ休日ヲ云ヘルナリ例ヘハ1月2日ハ大祭日ニ非サルモ往往其業ヲ休ムノ慣習アリ又氏神ノ祭礼ニハ其業ヲ休ムノ慣習稀ナリトセス又旧外国人居留地ニ於テハ耶蘇教ノ祭日ニ其業ヲ休ムカ如キ是ナリ」と説明しています(梅364頁)。
 国民の祝日に関する法律に規定する休日が,ある労働者にとって労働基準法35条の休日になるかどうかも,直接には,当該労働者とその使用者との間の労働契約関係いかんによって決まります。国民の祝日に関する法律によって直ちに決まるものではありません。(「国民の祝日」に働いている労働者はたくさんおり,かつ,だからといって非国民であるわけではありません。「労基法上付与すべき休日は週1日であるので,「国民の祝日に関する法律」の定める「国民の祝日」は,労基法上の休日ではなく,週休日を与えている限り労基法上,休日としなくとも労基法違反は生じない」こととなっています(荒木尚志『労働法 第2版』(有斐閣・2013年)143頁)。)



ウ 官庁執務日と国民の祝日に関する法律

 となると,慣習も要さず,契約も要さずに,「「国民の祝日」は,休日とする。」等との国民の祝日に関する法律3条の規定の適用を直接受け得る受益者は,だれなのでしょうか。

 お役人のようです。

 

 ・・・国の制定した今の祝祭日は,当然官庁の休日になるわけであります・・・

 (苫米地義三国務大臣(内閣官房長官)の1948622日参議院文化委員会における国民の祝日に関する法律案に関する答弁)



そもそも昭和2年勅令第25号の休日に関する件も,本来は官吏の執務日に関する規定であって,直接人民の生活を規制するものではなかったはずです。美濃部達吉は『日本行政法 上巻』(有斐閣・1936年)の「第2編 行政組織法」,「第3章 公の勤務法」,「第2節 官吏法」,「4 官吏の義務」という場所において,当該勅令に言及しています(次の最初の括弧書き)。



(ロ)官吏は休日(明治6太政官布告2号に依り1月1日より3日まで1229日より31日までを休暇とし,明治9太政官達27号に依り同年4月より日曜日を休暇とし,昭和2勅令25号により大祭祝日を改定し,これを休日と定めらる)又は賜暇休養・忌服等特別の場合を除くの外,執務時間(大正11閣令6号官庁執務時間)中は執務の場所に現在して執務を為すべき義務が有る。(711頁)

 

 なお,明治6年太政官第2号布告(187317日)は次のとおりでした(ただし,下線部は,同年623日の太政官221号布告で朝令暮改的に取消し)。



 自今休暇左ノ通被定候事

  1月1日ヨリ3日迄 6月28日ヨリ30日迄 1229日ヨリ31日迄

  毎月休暇是迄ノ通

   但大ノ月31日ハ休暇ニ非ス



 現在は法律が整備され,国民の祝日に関する法律に規定する休日とお役所の閉庁日とは明文をもって連動します。



    行政機関の休日に関する法律(昭和63年法律第91号)

  (行政機関の休日)

第1条 次の各号に掲げる日は,行政機関の休日とし,行政機関の執務は,原則として行わないものとする。

  一 日曜日及び土曜日

  二 国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)に規定する休日

  三 1229日から翌年の1月3日までの日(前号に掲げる日を除く。)

2 前項の「行政機関」とは,法律の規定に基づき内閣に置かれる各機関,内閣の統轄の下に行政事務をつかさどる機関として置かれる各機関及び内閣の所轄の下に置かれる機関並びに会計検査院をいう。

3 第1項の規定は,行政機関の休日に各行政機関(前項に掲げる一の機関をいう。以下同じ。)がその所掌事務を遂行することを妨げるものではない。



    裁判所の休日に関する法律(昭和63年法律第93号)

  (裁判所の休日)

第1条 次の各号に掲げる日は,裁判所の休日とし,裁判所の執務は,原則として行わないものとする。

  一 日曜日及び土曜日

  二 国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)に規定する休日

  三 1229日から翌年の1月3日までの日(前号に掲げる日を除く。)

2 前項の規定は,裁判所の休日に裁判所が権限を行使することを妨げるものではない。



 しかし,お役人のみならず,立派な大企業にお勤めの方々も,多くは,国民の祝日に関する法律に規定する休日がそのまま休業日に連動する形の労働契約を締結されていることでしょう。

 なお,銀行法15条1項は「銀行の休日は,日曜日その他政令で定める日に限る。」と規定し,同項を承けた銀行法施行令5条1項は「法第15条第1項に規定する政令で定める日は,次に掲げる日とする。」と規定して,そこでは,国民の祝日に関する法律に規定する休日1231日から翌年の1月3日までの日(国民の祝日に関する法律に規定する休日を除く。)及び土曜日を掲げています(銀行法施行令5条1項1号から3号まで)。要は,国民の祝日に関する法律に規定する休日には銀行での振込送金はできず,また,自分の預金を引き出すときでも,わざわざ休日勤務してくださったATMさまに休日手数料を余計に支払わねばならないということになるわけです。



4 新たな「国民の祝日」としての「山の日」

 ところで,再来年(2016年)から,8月11日が新たに「国民の祝日」に加わるようです。



(1)第186回国会の国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律案

 国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律案が衛藤征士郎衆議院議員ほか9名から現在の第186回国会に提出され(衆第9号),衆議院内閣委員会で可決された後,今年(2014年)4月25日に衆議院本会議で可決され,現在参議院で審議中です。



    国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律案

  国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)の一部を次のように改正する。

  第2条海の日の項の次に次のように加える。

   山の日  8月11日  山に親しむ機会を得て,山の恩恵に感謝する。

    附 則

  この法律は,平成28年1月1日から施行する。



 ここでの「山に親しむ機会を得て,山の恩恵に感謝する。」との「山の日」の趣旨は,さきに春分の日との関係で苦労しているように思われる旨申し述べたみどりの日の趣旨とまた重複していますね。みどりの日は「自然に親しむとともにその恩恵に感謝し,豊かな心をはぐくむ」ことになっているので,「山の日」にいう「山」が自然の一部ということになると,なぜ既に自然全般に係るみどりの日があるのにまた殊更に山についてだけ別の「国民の祝日」が要るのか,ということになりそうです。みどりの日は「豊かな心」まで育まなくてはならなくて面倒だから,「山の日」の場合は山に親しんでも,気楽に,貧しい心のまま下山してよいよ,ということでしょうか。それとも「山の日」の「山」は,自然の山ではないのでしょうか。古文で山といえば延暦寺を指す場合もあるそうですから,比叡山延暦寺に親しむ機会を得て伝教大師最澄の恩恵に感謝する,ということでしょうか。三井寺や興福寺の僧兵が暴れそうですね。それとも,安息日に係るものをも含む十戒がモーセに授けられたシナイ山の「山の日」でしょうか。海の日の場合は「海の恩恵に感謝するとともに,海洋国日本の繁栄を願う。」ということで,通商の道としての海を考えれば,必ずしも自然としての海ばかりを見ているということにはならないようなのですが,「山の日」の場合はどう解すべきか。

また,国際連合総会決議による国際山の日(International Mountain Day)1211日という立派な日にあるのに,どうしてまた8月11日が「山の日」なのか。

国会の関係議事録がまだ国立国会図書館のウェッブ・サイトに掲載されていない段階で本稿を書いているのでなおよく分かりませんが,昨年(2013年)1030日の共同通信社のインターネット記事によると,「山の日」の議員連盟の事務局が同日の当該議員連盟の会合に,「山の日」の候補日として,①6月上旬,②海の日(7月第3月曜日)の翌日,③8月のお盆前又は④日曜日を祝日に定め振替休日を設けないとの4案を提示したところ,経済活動に影響の小さいお盆時期の8月12日にまずは決まったそうです。ところが,8月12日は1985年に日本航空ジャンボ機が御巣鷹の尾根に墜落した大事故の日であるために,避けてくれということになり,結局20131122日の議員連盟の会合で,「企業が夏休みに入るお盆の時期を中心に再検討し,「家族で山に親しみ,国民全体が有効利用できる」として8月11日に落ち着いた。」ということだったそうです(20131122日共同通信社インターネット・ニュース)。
(注)なお,第186回国会衆議院内閣委員会議録第15号11頁(2014年4月23日の同委員会)及び同国会参議院内閣委員会会議録第16号1頁(同年5月22日の同委員会)を見ると,発議者の衛藤征士郎衆議院議員は「大自然の根本たる山と向き合い,その恩恵に感謝し,山との共存,共生を図ることは極めて有意義であります。」と説明していますから,「山の日」の「山」は,やはり自然の山ですね。また,同議員は,「多くの国民がお盆休み,夏休みでもあるこの期間に,大人も子供も,こぞって山に親しみ,山を考える日となるものと考えております。」とも更に述べています。


(2)弁護人は非国民か

「企業が夏休みに入るお盆の時期」であるのならば,正に慣習によって既に人民の世界は夏休み=休日であるので,国民の祝日に関する法律3条を発動して重ねて休日にし,お役人の勤務日を公的に減らして差し上げ,ATMについてわざわざ銀行に手数料を払うことにする必要はないように思うのですが,どうでしょう。

というのは,刑事弁護も行う弁護士として,「国民の祝日」ということでお役所や銀行が閉まってしまう休日が増えると困ってしまうことがあるからです。例えば,平日ではありませんから,拘置所における刑事被告人との接見・面会がどうしても制約されることになりますし(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律118条1項,刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律施行令2条1項),保釈請求をしたときも,検察官の意見及び裁判所の決定をじりじりしながら待ち,また,保釈金を調達するについても,休日には銀行送金ができないことになります。

「国民の祝日」が増えてみんなせっかく単純に喜んでいるのに何だ,和を乱すな,弁護士なんぞ非国民だ,との非難を覚悟してあえて申し上げれば,国民の祝日に関する法律という題名はややミスリーディングであり,やはり昭和2年勅令第25号の伝統等をも踏まえますと,「官公署及び銀行等の休日に関する法律」などという題名の方がより正確なものなのではないでしょうか。その方が,「国民の祝日」という言葉の輝きに幻惑されずに,より実質的な議論ができるように思われます。国民と一口にいいますが,現実には多様な立場の個人の集まりなのです。

無論,「国民の祝日」であろうが何であろうが,その日に仕事をすると死刑になるわけではない以上,正当な依頼者の方の信頼に応える必要のために休まず仕事をすることは,必ずしも平和でなければ豊かでもないわけではありますが,自由な弁護士の名誉とするところであります。


110822_120505
八幡平( ここも日本百名山の一つです。)


  弁護士 齊藤雅俊
  大志わかば法律事務所 

  東京都渋谷区代々木一丁目57番2号ドルミ代々木1203

  電話: 03-6868-3194 (法律に関する問題について,お気軽に御相談ください。) 


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