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前口上

 1889211日に発布された大日本帝国憲法1条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定しています。一見分かりやすそうな規定であります。しかし,「万系一系ノ天皇」が具体的に何を意味するのかをいざ考えてみると,難しい。

 一「系」といっても,厳格に1本の直系の糸に連なる血族のみを示すものではなく,幅のある同一血族集団を指すものとされています。(第121)及び(2))

 また,ロエスレルの影響を承けてなのでしょうが,『皇室典範義解』によれば,皇位は常に単一でなければならないということも「一系」によって含意されているそうです。(第123))

 枢密院会議で,井上毅は「万世一系」と「祖宗ノ皇統」とは重複する概念であるとの趣旨の発言をしています。この片言隻句をあえて拡大すれば,「男系ノ男子」性が欠けても「万世一系」性が充足されるということもありそうだということになります。また,伊藤博文も,(これは別方向から井上と同趣旨の発言をしていることになるのでしょうが)「大日本皇位ハ万世一系ナル皇統ノ男子之ヲ継承スヘシ」との規定文言である場合には「万世一系ナル皇統」のみの限定句であるので女系継承を排除できない旨説明しています。(21及び2

 しかして「万世一系」は,元は「万世一()」ないしは「一()伝継」であって,易()革命の絶えない漢土の歴史及び文明に対する我が国の歴史及び国体の優越性を誇示するための表現であったようです。その際,優越性を測るための尺度としての「姓」は――尺度としての共通性の必要から――漢民族の伝統とする父系によるものとされたのでしょう。(第3

 女系継承排除の理由付けも,結局は易姓の忌避であったようです。(第44

 ところで,皇位継承に関する皇室自律主義にもかかわらず,大日本帝国憲法2条は「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇子孫之ヲ継承ス」と規定しています。ここでの「男」の字は,翌月11日における憲法発布を控えた1889129日の段階に至って,枢密院再審会議で急遽挿入されたものです。当該挿入の結果,女系又は女子の天皇を将来認めるか否かについては――憲法改正のための帝国議会の議決が必要になりますから――実は「将来に臣民の干渉を容れ」ることになります。皇室の立場からすると本来不要な修正であり,かつ,一見逆説的な修正です。これについてはどう解釈すべきかについての筆者得意の僻見によるこじつけは,嘉仁親王(大正天皇)の御病弱を前提に,最近生まれた皇女(具体的には昌子内親王)を自分の次の皇位に即けさせたいとの叡旨が将来あった場合における当該女帝践祚を実現させるべき手続は,むしろあえて臣民の協賛を帝国議会で確保して男尊女卑論者・伝統墨守論者らを黙らせ置く憲法改正の道筋を採った方がよろしい,との現実政治的判断がされた上での修正ではないか,というものです。(第5

 嘉仁親王御病弱という前提からさらに妄想を膨らませて,同親王及びその御子孫が仮にいらっしゃらなかった場合という仮設例における,明治天皇崩御後の「万世一系ノ天皇」規定の帰結するところを考えると,実は145箇月弱の大正時代はむしろ安定し,かつ,武張らずに文雅な時代であったという再評価に逢着します。伏見宮系旧皇族の子孫が将来皇位を継承するということはどういうことなのだということを論ずる向きが最近あるようでありますところ,時代を百十余年前に遡っての思考実験も無益ではないでしょう。(第6

 

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伊藤博文像(東京都品川区西大井伊藤博文公墓所)


第1 「万世一系」の語

 

1 その出現

 「万世一系」の語の初出時期を探るに,慶応三年(1867年)十月付けの岩倉具視の「王政復古議」に「抑皇家ハ連綿トシテ万世一系礼楽征伐朝廷ヨリ出テ候而純正淳朴ノ御美政万国ニ冠絶タリ然ルニ中葉以降覇府大柄ヲ掌握シ」云々との表現があります(大塚武松編『岩倉具視関係文書 第一』(日本史籍協会・1927年)301頁)。また,明治二年一月二十三日(186935日)発表の版籍奉還の上表文には「天祖肇テ国ヲ開キ基ヲ建玉ヒシヨリ,皇統一系万世無窮普天率土其有ニ非サルハナク其臣ニ非サルハナシ」との表現があり(島善高「「万世一系の天皇」について」明治聖徳記念学会紀要516号(19925月)57頁),その2日後の同月二十五日(186937日)に岩倉具視が提出した意見書の中において「万世一系ノ天子」という表現が用いられていたそうです(島66頁附記)。

しかして「明治四年頃から公式文書において「万世一系」なる成語が使用されるようになる」そうです(島57頁)。すなわち,岩倉右大臣,木戸孝允参議,大久保利通大蔵卿,伊藤博文工部大輔らの米欧諸国派遣に係る明治四年十一月四日(18711215日)付けの国書に「万世一系ナル皇祚」という表現があり,英国向けには “the Imperial throne occupied by a dynasty unchanged from time immemorial”と,米国向けには “the saved throne on which Our Ancestors reigned from time immemorial”と訳されていたそうです(島57-59頁)。

「これ以降,外交文書には「万世一系」の語が頻繁に使用されるようにな」り(「万世一系ノ帝祚」という形で),187610月の元老院日本国憲按1条では「日本帝国ハ万世一系ノ皇統ヲ以テ之ヲ治ム」と皇統の修飾句として用いられ,「爾来,「万世一系」は皇統を修飾する慣用句とな」ったわけです(島59頁)。

 

2 「万世一系」の語義

 

(1)血筋

 美濃部達吉は「〔大日本帝国憲法1条の宣言する日本の政体の根本原則は〕第1には,日本が世襲的の君主政体の国であること,及び第2には,その君主としての地位に在ますのは万世一系の天皇であることの2である。而してその「万世一系」といふ語の中には,啻に過去に於いて開闢以来常に同一系統の君主を奉戴して居たことの歴史的事実を言ひ表して居るのみならず,同時に将来永遠に亙りて,日本が同じ皇統を君主として奉戴する君主政体の国であることが,動かすべからざるものであることを示して居る。〔略〕独り此の第1条に定められた原則のみは万古不変の原則たるべきことが,此の「万世一系」の語に依つて言明せられて居るのである。」と(同『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)66-67頁。下線は筆者によるもの),あるいは「万世一系ノ語ハ唯我ガ憲法ニ於テノミ之ヲ見ルヲ得ベク,一面ニ於テ我ガ太古以来ノ歴史ニ於テ祖宗ノ皇統連綿トシテ絶エザリシコトヲ示スト共ニ,一面ニ於テハ将来永遠ニ亙リテ皇統ノ天壌ト共ニ窮ナカランコトヲ宣言セルモノナリ。」と(同『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)115頁)述べています。

ここでの「系統」は「家すじ。血すじ。」,「皇統」は「代々続く天子の血すじ。」でしょう(『角川新字源』(123版・1978年))。「血筋」を「血統の続いた親族。血縁。」と解すれば(『新明解国語辞典 第五版』(三省堂・1997年)),一つの同じ(「一」)・血族集団(「系」)の成員が過去・現在・未来において代々皇位を占めている様が「万世一系」でしょうか。血族集団であれば,幅を有し,傍系も含まれるわけでしょう(1889211日の皇室典範(以下「明治皇室典範」といいます。)自体がその第5条から第8条までで傍系継承を予定していたところです。)。岩倉使節団に係る国書の英国向け英語訳の “a dynasty unchanged from time immemorial” は,王朝(dynasty)の語を用いており,系に係る集団性をそのようにして表すものといえます。

 

(2)1本の糸ではない

これに対して,「系」は「糸が物にひっかかって下がっているさま」に係る字(『角川新字源』)だからとて,「一系」をもって1本の糸と解し,「神々の系統につながる子孫が1本の糸のようにずっと続いているということに,なによりものポイントが置かれた」ものとして(奥平康弘『「萬世一系」の研究(上)――「皇室典範なるもの」への視座――』(岩波現代文庫・2017年)6頁(単行本2005年)),「一系」が1本の直系の血族のみを指すものと解してはならないのでしょう。

「開闢以来常に同一系統の君主を奉戴して居たこと」が我が国の「歴史的事実」であっても,「開闢以来常に単一の直系で途切れなく継承された君主を奉戴して居た」わけではありません。近くは江戸時代後期において,中御門天皇の皇統が,その曽孫の後桃園天皇をもって断絶していたところです(閑院宮家出身の光格天皇(中御門天皇の大甥)が皇位を継承)。岩倉使節団に係る国書の米国向け英語訳では「朕の先祖(Our Ancestors)が開闢以来占めてきた皇位」ということになりますが,しかしこれは,後者的解釈の方向に親和的な翻訳でしょうか(さりとて,後桃園天皇は明治天皇の先祖ではないでしょう。)。

 

(3)大日本帝国憲法1条の英語訳文に関して

 

ア 英語訳文

 ところで,伊東巳代治による大日本帝国憲法1条の英語訳も悩ましい。伊東訳に係る同条は “The Empire of Japan shall be reigned over and governed by a line of Emperors unbroken for ages eternal.” です。しかして,ここでの “a line unbroken for ages eternal” は何によってつながれているかといえば,大日本帝国憲法2条は「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」(伊東訳では “The Imperial Throne shall be succeeded to by Imperial male descendants, according to the provisions of the Imperial House Law.”)ですから,皇男子孫による父子継承でしょう。一見するに,過去においても例外なく(unbroken)男系の直系継承であったということになりそうです。

 

イ 『皇室典範義解』の明治皇室典範1条解説

 しかしこの点,「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と規定する明治皇室典範1条(ちなみに,伊東巳代治による英語訳は, “The Imperial Throne of Japan shall be succeeded to by male descendants in the male line of Imperial Ancestors.”)に係る『皇室典範義解』の解説には次のようにあります。

 

   祖宗の皇統とは一系の正統を承くる皇胤を謂ふ。而して和気清麻呂の所謂皇緒なる者と其の解義を同くする者なり。皇統にして皇位を継ぐは必〔ず〕一系に限る。而して二三に分割すべからず。天智天皇の言に曰〔く〕「(てんに)無双(ふたつの)(ひなく)(くにに)無二王(ふたりのきみなし)と。故に,後深草天皇以来数世の間,両統互に代り,終に南北2朝あるを致しゝは,皇家の変運にして,祖宗典憲の存する所に非ざるなり。

 

なお,「祖宗」とは,「君主の始祖と,中興の祖。②初代から先代までの代々の君主。」の意味です(『角川新字源』)。

また,「和気清麻呂の所謂皇緒」は,清麻呂の有名な還奏が「我国家開闢以来,君臣分定矣,以臣為君未之有也,天之日嗣,必立皇緒」と言っているところの「皇緒」でしょう。そこでは,臣を以て君と為すことの不可性が強調されています。そうであれば,「正統を承くる皇胤」とは,祖宗の子孫(後胤)であって,かつ,臣籍に下っていないもの,ということになるのでしょうか。

 

しかして,「一系に限る。而して二三に分割すべからず。」ということですから,どうも専ら,1本(a lines)を超えた数の皇統(lines)が共時的に対立することがあってはならないということのようです。ただし,通時的に単一の直系による継承がされ続けなければならないということまでは要求されないのでしょう。同一皇統に属するものであれば,傍系継承も認められるところです。そうであれば,伊東訳に係る大日本帝国憲法1条の “unbroken” は,君主政体が中断されることがなかったということ(「万世・・・天皇之ヲ統治ス」)に係るのでしょう。

換言すれば,一つの同じ血族集団(一系)の成員が過去・現在・未来において代々皇位(南北朝時代のように共時的に複数であっても可)を占めていることまでをもって「万世一系」の定義として十分であるものとはしない,ということなのでしょう。皇位の単一性までをも要求するわけです。通常の「万世一系」理解よりは一歩踏み込むことになるのでしょう。この一歩の踏み込みについては,「井上毅は〔略〕,皇統が二三に分裂することを防ぐために説明文に加筆をしたが,そのために「一系」の意味がやや曖昧にな」ったと評されています(島64頁)。もっと大らかでよいではないか,ということでしょうか。「南北朝も同じ皇家内部での分裂であって〔略〕「2系」とまでいう必要はないと思われる」(島64頁),すなわち南北朝の分裂も「万世一系」内におさまる出来事である,と解するのが普通なのでしょう。

 

ウ ロエスレルの「日本帝國憲法草案」

上記の皇位に係る単一性の要請については,1887430日に成立した御雇外国人ロエスレルの「日本帝國憲法草案」1条の影響がありそうです。同条は,次のとおり(小嶋和司「ロエスレル「日本帝國憲法草案」について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)10-11頁)。

 

  Das Kaisertum Japan ist eine auf ewig untheilbare Erbmonarchie.

  Die Krone ist erblich in den Kaiserlichen Hause nach den Bestimmungen der Kaiserlichen Haus-gesetze.

 

  日本帝国ハ万世分割スヘカラサル世襲君主国トス

  帝位ハ帝室家憲ノ規定ニ従ヒ帝室ニ於テ之ヲ世襲ス

 

 「一系」の「一」は,君主政体のUnteilbarkeit(不可分性)ということになっています。

 なお,ロエスレルの上記条文案が大日本帝国憲法草案起案に影響を与えたことについては,1888618日午前の枢密院会議において伊藤博文議長の次の発言があります。大日本帝国憲法草案の第1条においては「永ク子孫ニ伝フル元質タル者ハ従来ノ国彊タリトノコトハ示サレス」であるが「其理由如何」,との佐野常民枢密顧問官の質疑に対する応答です(『枢密院会議筆記』)。

 

  去ル明治9年〔1876年〕97日元老院ニ憲法草案ノ諮詢アリテ〔18801228日の〕其上答文ヲ見ルニ第1章第1万世(〇〇)一系(〇〇)()皇統(〇〇)()日本(〇〇)()()君臨(〇〇)()トアリ〔伊藤博文編『秘書類纂 憲法資料下巻』(秘書類纂刊行会・1935年)385頁参照〕又世上ニ流布シタル「ロイスレル」草案の第1条ニモ万世(〇〇)分割(〇〇)スヘカラサル(〇〇〇〇〇〇)世襲(〇〇)()()()トアリテ其必要ヲ認メサルナリ

 

 それまでの草案起草過程において既に検討の上憲法の第1条には当該規定は不要と判断されていたのだ,ということでしょう(筆者註:ただし,18801228日の元老院の国憲案においては,「帝国」と題された第2篇に「第1条 帝国ノ土地彊域内ニ在ル者ヲ日本国トス」及び「第2条 帝国府県郡区町村ノ彊界ヲ変易スルハ法律ノ定ム所トス」との2箇条が設けられていたのでした(伊藤・憲法資料下巻387-388頁参照)。)。しかして伊藤議長がわざわざ言及していますから,ロエスレル草案は,憲法草案の起草・検討過程において重要な参考資料として位置付けられていたのだというわけです。

 ちなみに,ロエスレル草案が「世上ニ流布シタル」経緯は,18878月に大日本帝国憲法の「草案と称するものが洩れ,それが実はロエスレル草案であった」ということであって,「最初は,条約改正についての勝安芳,谷干城,ボアソナード,板垣退助の意見書とともに民権運動家によって秘密出版され」,「次いで10月グナイスト(Rudolf Gneist)憲法講義の秘密出版物『西哲夢物語』に付載され,また,谷,板垣,林有造,ボアソナード,松尾清二郎の条約改正意見とともに秘密出版されたこともある」ものだそうです(小嶋・ロエスレル4-5頁)。ただし「民権運動家たちはこれが参考案にすぎないことを最後まで気付かなかった」そうです(同5頁)。

 

第2 明治皇室典範1条の枢密院審議

 

1 1888525日:「万世一系」か「祖宗の皇統」か等

 1888525日午後の枢密院会議における明治皇室典範案の第二読会においては,第1条の草案(その後明治天皇によって裁定されたものと同文,すなわち「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」)に関して,次のような修正意見等があった旨記録されています(『枢密院会議筆記』)。

 

  大木喬任枢密顧問官 「万世(〇〇)一系(〇〇)ナル(〇〇)大日本(〇〇〇)皇位(〇〇)祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と改めるべし。「宝祚ノ万世一系ニシテ天壌ト無窮ナルコトノ意」を明治皇室典範1条にも掲げたいのである。

  土方久元枢密顧問官 「万世(〇〇)一系(〇〇)()皇位(〇〇)ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と改めるべし。「大日本(〇〇〇)ト云フハ外国ニ対スルノ字ナリ歴朝相承ケ綿々一系未タ曽テ宇内ニ比類ヲ見サル我国ニ取リテハ」,大日本(〇〇〇)よりも万世(〇〇)一系(〇〇)の方がよい。

  三条実美内大臣 「大日本国皇位ハ()()ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と改めるべし。(筆者註:三条は,この「天祖」をもって天照大神を指示しようとしたのでしょうか。しかし「天祖」概念もなかなか難物で,筧克彦によれば,「天祖」は,天照大神より前の,高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ),又は(こと)天神(あまつかみ)及び神代(かみよ)七代(ななよの)(かみ)(がみ),若しくは造化三神ということになってしまいます(筧克彦『大日本帝国憲法の根本義』(岩波書店・1936年)35-36頁,また,256頁及び270頁)。)

  山田顕義司法大臣 「本条ノ立言ハ専ラ既往ノミニ渉リ未来ニ及ホスノ意ヲ加ヘタシ」。(筆者註:同日の枢密院会議の初めの第一読会の段階で井上毅が「皇室典範ハ尋常ノ法律ト異ニシテ既往ニ亘リ且未来ヲ規定スルモノ」と説明していました。)

  大木喬任枢密顧問官 「万世(〇〇)一系(〇〇)()皇位(〇〇)ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承(〇〇)スヘシ(〇〇〇)と改めるべし。土方説に賛成し,前の自説を撤回する。明治皇室典範1条に未来に及ぼすの文意を加えるならば,「継承スヘシ」となる。

  井上毅枢密院書記官長 「万世(〇〇)一系(〇〇)ト云ヘハ祖宗(〇〇)()皇統(〇〇)ト重複ス」

  副島種臣枢密顧問官 「万世(〇〇)一系(〇〇)ナル(〇〇)皇位(〇〇)()今後(〇〇)男系ノ男子ノミ之ヲ継承ス」と改めるべし。皇位については「従来ハ男女共ニ之ヲ継承シタリ」なのである。

  東久世通禧枢密顧問官 「日本帝国(〇〇〇〇)()万世(〇〇)一系(〇〇)()天皇之(〇〇〇)()統治(〇〇)()男系ノ男子()()継承(〇〇)()と改めるべし。(筆者註:東久世案の前段は,大日本帝国憲法1条と重複してしまいます。)

 

2 1888528日:「万世一系」に係る大木=土方修正案の否決と男系要件と

 明治皇室典範案の第1条に係る第二読会の続きは1888528日午後に開催され,次のような経過をたどっています(『枢密院会議筆記』)。

 

   「万世一系ノ数字ハ我国体ノ最モ尊キ所以ヲ表彰スルモノナレハ必スコレヲ加ヘサルヘカラス〔略〕祖宗(〇〇)()皇統(〇〇)云フノミニテハ未タ我国体ノ如何ヲ表彰スルニ充分ナラス」と述べた上で,大木喬任枢密顧問官は土方久元枢密顧問官と共に明治皇室典範案1条に係る次の修正案を提議します。

 

  大日本皇位ハ万世一系ナル皇統ノ男子之ヲ継承スヘシ

 

 ここで伊藤博文議長が修正案に「男系」の文字がないことについて「(ことさ)ラ」であるかどうかについて確認しますが,大木枢密顧問官は「然リ」と回答します。そこで伊藤議長は警告的確認として「修正案ニハ故ラニ男系(〇〇)字ヲ削除セリ果シテ此ノ如クナルトキハ則将来ニ於テ我皇位ノ継承法ニ女系ヲモ取ルヘキニ至リ上代祖先ノ常憲ニ背クコトヲ免レス」と述べた上で大木=土方修正案について採決します。賛成者は8名のみで,当該修正案は廃滅に終わりました。なお,修正案に賛成した8名には,大木及び土方の外,議場で賛意を表明していた副島種臣,福岡孝弟,元田永孚及び勝安芳の4枢密顧問官が含まれていたものでしょう。

 ただし,大木=土方案に賛成した8名が全て女系の天皇(ただし,男子に限る。)の容認論者であったわけではなかったようです。「万世一系」の文字を加えるのはよいが確かに「男系」の文字を削ったのはまずかった,だから「以テ本条ヲシテ完全ナラシムヘキ修正ヲ加ユル為ニ之ヲ修正委員ニ附セラレンコトヲ建議ス」との佐野枢密顧問官の発言を承けて,未練がましく,副島枢密顧問官は「皇統(〇〇)()男子(〇〇)ト云ヘハ男系(●●)()男子(●●)タルコトニシテ説明ニ於テモ亦判然タリ」と,大木枢密顧問官は「〔副島枢密顧問官〕ノ発言シタル如ク皇統(〇〇)()男子(〇〇)ト云ヘハ男系(●●)()男子(●●)タルコトニ相違ナシ況ンヤ1条ハ大体ヲ論スルノ条ニシテ其男系(●●)()男子(●●)タルコトハ後条ノ所載ニ於テ判然タルニ於テヲヤ」と発言しています。

 大木=土方修正案の否決にもかかわらず「万世一系」の文字を加えるための修正をなおも求める佐野枢密顧問官並びに同枢密顧問官の当該建議に賛同する大木及び土方両枢密顧問官の執拗に辟易したものか,伊藤議長は原案について採決をします。採決の結果,伊藤議長以外の出席者27名中16名の賛成をもって原案が採択され,明治皇室典範案1条に係る第二読会は終了します。(1888615日午前開議の第三読会では議論はありませんでした。)

 

3 小括

 以上明治皇室典範1条の文言及び同条に係る議論に鑑みるに,「万世一系」とは「祖宗ノ皇統」と重複する概念であるそうです。ただし,「祖宗」の皇統であって,三条実美の提案した「天祖ノ皇統」ではありません。三条案には賛同者が全くなかったのですが,これは,天皇は神の子孫であると主張するものと解釈されることとなるであろう文言はやはり行き過ぎだ,ということだったのでしょうか。神武天皇であるならば,かたじけなくも人でありたもうた存在であります。

土方枢密顧問官は「大日本(〇〇〇)ト云フハ外国ニ対スルノ字ナリ」と,当該部分は外国との比較に係るものであるとの認識を示した上で「歴朝相承ケ綿々一系未タ曽テ宇内ニ比類ヲ見サル我国」としては大日本(〇〇〇)よりも万世(〇〇)一系(〇〇)の方がよいものとしています。「宇内ニ比類ヲ見サル」ものとして我が国が自慢できることは「万世一系」なのだ,ということなのでしょう。しかしてその自慢の相手方は,地理的にユーラシア大陸東方沖に位置する我が国の歴史からすると同大陸東部の大国ということになり,具体的には,易姓革命が相継ぎ諸王朝の興亡めまぐるしかりし漢土の帝国(当時は清国)及びその歴史なのでしょう。

副島枢密顧問官は,皇位について,「従来ハ男女共ニ之ヲ継承シタリ」と述べて,過去においては女帝のみならず女系天皇も存在していたとの認識であるような口吻です。すなわち,同枢密顧問官によって「今後(〇〇)男系ノ男子ノミ之ヲ継承ス」とされる場合においては,男系かつ男子であることを要するものとされて皇位継承要件が二重(男系と男子と)に制限されること(「ノミ」)が,「今後(〇〇)」たるところの新規性なのでしょう(「男系ニヨリ今後男子ノミ之ヲ継承ス」ではありません。)。しかし,井上書記官長によれば「皇室典範ハ尋常ノ法律ト異ニシテ既往ニ亘リ〔略〕規定スルモノ」なので(また,伊藤議長も「上代祖先ノ常憲」を重視しています。),女系の天皇及び女子の天皇を排除する明治皇室典範1条の規定は明治の御代に始まる新規の定めであるものだとする副島説は都合が悪い。

以下,漢土の歴史と比較した場合の優越性を示すものとしての「万世一系」については第3で,「上代祖先ノ常憲」としての女系継承排除原則については第4で検討します。

 

第3 北宋太宗の羨望した「一姓伝継」から,「万世一姓」を経て「万世一系」へ: Nostrum Regnum superius Sinis est.

 

1 奝然と太宗と

21において見たように,土方枢密顧問官が「歴朝相承ケ綿々一系未タ曽テ宇内ニ比類ヲ見サル我国」と自信をもって自慢できたのは,なぜか。それは,「一姓伝継」の天皇を戴く我が日本の国体を,漢土の偉大なる皇帝陛下が何と現に大変羨んでくださった,という歴史的事実があったからです。

時は10世紀の末(我が国では円融天皇の御代),渡宋した東大寺僧(ちょう)(ねん)が北宋の太宗こと(けい)(匡義)

皇帝に召見せられた際のことです。趙炅皇帝は976年に兄の初代太祖・趙匡胤皇帝を継ぎ,呉越及び北漢を平定して978年に五代十国の争乱を終わらせた大人物です。我が国の国体の話を奝然から聞いた同皇帝の深い感慨は,『宋史日本伝』の伝えるところ次のとおり。

 

 上,其の国王〔天皇〕は一姓継を伝へ,臣下も皆官を世々にするを聞き,因て嘆息して宰相に謂て曰く,此れ島夷のみ,乃ち世祚()久にして,其の臣も亦継襲して絶えず,此れ蓋し古の道なり,中国は唐李の乱より県分裂し,梁周の五代,歴を享くること尤も(はや)く,大臣の世冑,能く嗣続すること(すく)なし,朕,徳は往聖に慙ずと雖も,常に夙夜(つつ)しみ畏れ,治本を講求し,敢て暇逸せず,無窮の業を建て,可久の範を垂れ,亦以て子孫の計を為し,大臣の後をして世々禄位を襲はしむるは,此れ朕の心なりと,

 (島55頁)

 

 奝然は趙炅皇帝に対して日本国の「国王は王を以て姓と為し」と説明してしまっていましたから(島55頁),実は天皇に姓は無いのではありますが,皇帝陛下におかれては「一()伝継」(一姓継を伝へ)ということにされてしまったのでしょう。ちなみに『宋史』は,元代の14世紀半ばに至って完成しています(皮肉なことに当時,「一姓伝継」の我が皇室は,南北2朝に分裂していましたね。)。

 

2 「万世一姓」から「万世一系」へ

その後,弘化四年(ほぼ1847年)に水戸藩の藤田東湖が『講道館記述義』を脱稿したところ,「藤田東湖翁か講道館述(ママ)義を記さるゝ時万世()()ノ天皇とかゝれたるを,門人の石河幹次〔二〕郎と申す人か日本天皇に姓あること何の書に有之(これあり)やと太く詰問したるを,東湖翁,飼犬に手を喫はれたりとて大に閉口せられしと申す事,今に学者間の談柄となり候」云々(島52-53頁:1887年頃の小中村(池辺)義象の井上毅宛て書簡)という挿話があります。当該挿話に鑑みると,天皇に係る「万世一系」との表現には,実は「万世一姓」が先行していたのでしょう。漢土の歴史及び文明と比較して,我が国の歴史及び国体の優越性を我が漢学的知識人が宇内に誇示しようとする場合,無意識の裡に相手方の土俵で相撲を取ることになり,姓を中心とする相手方の思考の型にとらわれて,「万世一()」性を主張するという形にならざるを得なかったものでしょう。「「国王一姓伝継」なる表現は,わが皇統の連綿性を説明する場合,特に易姓革命の国たる中国の人に説明する場合には,極めて説得的」だったところです(島56頁)。

 「我が先人達は,皇統の連綿を「姓」の観点から捉え,これを「一姓」と表現した。けれども,やはり「一姓」は不当な表現であるから,〔文政九年(ほぼ1826年)に版行された岩垣東園(松苗)の〕『国史略』は「皇統一系,万世不革」と表現し直したのであろう。この「一系」は「一姓」に代わる表現であるから,恐らく「同一の家系」「同一の血筋」というような意味合いで使用されているのであろう。」ということになっています(島56頁)。

 

3 姓(=系)の漢式把握

しかして,「万世一系」が殊更な政治的理想として唱えられるときは,やはり漢土の歴史及び文明に対する対抗心がその根底にあるということが我が国のナショナリズムにおける心理ないしは生理でしょう。そうであればこそ,「一系」概念は,「同一の家系」「同一の血筋」という漠としたものよりも,漢学的により精確な「一姓」概念(すなわち男系によるもの)と同じものとされなければならないのでしょう(相手側に合わせる・律儀な整合性の追求ということになりますが)。

皇位継承における女系継承の排除(男系性の確定)の理由付けは次に詳しく見ていくこととなりますが,確かに漢民族における姓は,男系で承継されるのでした。

ただし,漢民族の伝統も徐々にながら変化しようとしているようではあります。「〔中華人民共和国の〕1980年婚姻法では,子は父の姓に従うことができるし,また母の姓に従うこともできると規定した(22条)。この時に採用されたいわゆる一人っ子政策(2015年末で終了)の影響もあり,母の姓を選ぶ子も徐々に現れてきたといわれる。2001年改正では,子は父または母の姓に従うものとされ,子の姓を定めるにあたっての父母の平等性が強化されている。もっとも,現在でもほとんどの子は父の姓を称するといわれる。」とのことです(二宮周平編『新注釈民法(17)親族(1)』(有斐閣・2017年)715頁(床谷文雄))。

 

第4 女系継承排除の理由付け

 

1 『皇室典範義解』:男系継承継続の実績

明治皇室典範1条の女系継承排除原則は,「既往」の歴史に根拠を有するものとされています。その点を示すものが,明治皇室典範1条に係る『皇室典範義解』の次の説明です。

 

  皇統は男系に限り女系の所出に及ばざるは皇家の成法なり。上代独〔り〕女系を取らざるのみならず,神武天皇より崇峻天皇に至るまで32世,曽て女帝を立つるの例あらず。故に神功皇后は国に当ること69年終に摂位を以て終へたまへり。飯豊(いひとよ)(あをの)(みこと)政を摂し清寧天皇の後を承けしも,亦未だ皇位に即きたまはず。清寧天皇崩じて皇子なし。亦近親の皇族男なし。而して皇妹春日(かすがの)大娘(おほいらつめ)あり。然るに皇妹位に即かずして群臣従祖履中天皇の孫顕宗天皇を推奉す。是れ以て上代既に不文の常典ありて易ふべからざるの家法を成したることを見るべし。其の後,推古天皇以来皇后皇女即位の例なきに非ざるも,当時の事情を推原するに,一時国に当り幼帝の歳長ずるを待ちて位を伝へたまはむとするの権宜に外ならず。之を要するに,祖宗の常憲に非ず。而して終に後世の模範と為すべからざるなり。本条皇位の継承を以て男系の男子に限り,而して又第21条に於て皇后皇女の摂政を掲ぐる者は,蓋〔し〕皆先王の遺意を紹述する者にして,苟も新例を創むるに非ざるなり。

 

 「皇家の成法」とされる女系継承排除の理由は,過去においてその例がなかったからだ,ということでしょう。

しかしそれは,男系の所出がめでたくも・たまたま今まで絶えることがなかったからでしょう。仮に,元老院の国憲案の「帝室継承」と題された第2章の第3条の規定(「上ノ定ムル所ニ依リ而シテ猶未ダ帝位ヲ継承スル者ヲ得ザルトキハ皇族親疎ノ序ニ由リ入テ大位ヲ嗣グ若シ止ムコトヲ得ザルトキハ女統入テ嗣グコトヲ得」(伊藤・憲法資料下巻386頁参照))が「皇家の成法」であったとしても,男系による皇位継承が断絶することは歴史上の事実においては結局なかったのですから,「若シ」以下の同条後段の発動は無くて,無用の規定であったわいとの空振り認定がされていただけのはずです。しかして,過去において無用であったことのみをもって直ちに当該非常時対応規定を排除すべしとの当為までを導き出す必然性はないものでしょう――特に将来が過去とは大いに異なるものであることが予想されるときには。

しかしなお,二千六百年余の実績は,通常の場面については当為と目さるべきものなのでしょう。1885ないしは1886年頃に井上毅が伊藤博文宮内大臣に提出した文書たる「謹具意見」(小林宏「井上毅の女帝廃止論――皇室典範第1条の成立に関して――」『明治国家形成と井上毅』(木鐸社・1992年)358頁・367頁参照)において引用された沼間守一の揚言にいわく。

 

 論者ハ言ハン,女帝ヲ立テザルガ為ニ皇統絶ユルトキハ如何ント,予ハ直チニ之ニ答ントス,既往二千五百年間,此事ナシ,爾後モ亦是レナカル可キノミト

(井上毅「謹具意見」・伊藤博文編『秘書類纂 帝室制度資料・上巻』(秘書類纂刊行会・1936年)266頁)

 

その間において,皇位継承が云々されるための前提である皇族たるの資格の問題について,「日本における「帝室ノ眷属」の形成原理は,父母の同等婚を要求しないかわり,たんに片親の皇統性で足りるとはせず,厳格に父系の皇族性を要求した。」(小嶋和司「「女帝」論議」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』(木鐸社・1988年)60頁)ということであったのでしょう。しかし,皇位継承に係る「止ムコトヲ得ザルトキ」における例外処理の可能性までをも排除する厳格な規範と解すべきものかどうか。また――関連する問題として――当該例外処理が行われる場合にあっては,そのためにする手当ては,日本国憲法次元の問題なのか,なおも昭和22年法律第3号たる皇室典範(以下「皇室典範法律」といいます。)の次元に留まり得るものか。

 なお,『皇室典範義解』の前記説明中,「神武天皇より崇峻天皇に至るまで32世,曽て女帝を立つるの例あらず。」以下の部分は,女系継承排除の理由付けというよりも,男系女子の即位を認めないこととするに当たって,過去存在した女帝の例外性を論証しようとするものでしょう。

ちなみに,神功皇后(息長宿禰王の娘,開化天皇4世の孫)は,『神皇正統記』では人皇第15代に数えられています。そもそも神功皇后を皇代に列することの正式な否定は,192437日設置の臨時御歴代史実考査委員会(総裁・伊東巳代治)の答申によるものであって(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)547-549頁),当該答申等に基づく皇統譜令(大正15年皇室令第6号)が公布されたのは19261021日だったのでした。

 

2 春日大娘の位置付け及び前例としての顕宗・仁賢兄弟

 

(1)雄略天皇から春日大娘(仁賢天皇皇后)を経て武烈天皇へ

 雄略天皇の皇女(清寧天皇の妹)にして仁徳天皇の曽孫たる春日大娘は自ら即位しなかったとしても,顕宗・仁賢と続いた播磨から来た兄弟天皇(なお,即位の順番は顕宗天皇が先ですが,仁賢が兄であって,顕宗は弟です。)のうち仁賢天皇の皇后となって,武烈天皇を生んでいます。

 

(2)顕宗・仁賢兄弟の皇籍喪失疑惑と養子皇族男子制度と

ところで,顕宗・仁賢兄弟の父(履中天皇の息子)である市辺押磐皇子はいとこの雄略天皇に同天皇の即位の前月に殺されていますところ,そうであれば,顕宗・仁賢兄弟は,雄略朝期には皇族とはされていなかったのではないか(市辺押磐皇子系の皇位継承をそもそも排除するために雄略は市辺押磐皇子を殺したもうたものでしょう。),お尋ね者として,人民並みないしは人民以下扱いであったのではないかとは,かつて筆者が考えたところです(「法学漫歩3:ベルギー国憲法の王朝交代条項から人臣摂政を経て「由緒物法人」まで」の21)ア)。しかもこの兄弟は,播磨で,牛飼い馬飼いとして(しじ)(みの)屯倉首(みやけのおびと)にこき使われるまで身をやつしています(ただし,日下部連吾田彦(あたひこ)が家来としてついていたそうです。嵯峨天皇の息子の源融は左大臣という貴い位であったにもかかわらず「皇胤なれど,姓給はりて,ただ人にて仕へて」しまったからということで天皇の位に即き損ねてしまったという有名な事例(「令和の皇室典範改正論議から仁和の阿衡の紛議まで(改正法案骨子の発表を承けて)」の242))に鑑みますと,正に地下(じげ)で牛馬を相手に庶民の暮らしを送っていた顕宗・仁賢兄弟の即位は異例です。

今般成立して2026724日に公布された皇室典範等の一部を改正する法律(令和8年法律第66号)の第1条により皇室典範法律の新第6章において定められることとなった養子皇族男子制度(20261024日から施行(令和8年法律第66号附則1条))の方が,顕宗・仁賢の前例よりもまだなだらかであるようです。養子皇族男子自身が皇位に即くことはなく(改正後の皇室典範法律384項),皇位継承資格が生ずるのはその息子の代からであるところです。

顕宗・仁賢兄弟については,履中天皇の男系子孫であるがゆえに当然即位できたというよりは,群臣の推奉(『日本書紀』顕宗天皇元年正月条参照)及び雄略皇女である春日大娘との婚姻(仁賢天皇)が,彼らの「皇位継承」については効いているように思われます。

 

(3)春日大娘中心の見方

春日大娘が中心で,仁賢がそこに婿入りし(すなわち,清寧の「皇太子」になったのは仁賢でした。なお,又従兄弟の皇嗣では,現在は皇太子にならないはずです(皇室典範法律8条及び明治皇室典範15条参照)。),先帝清寧の死後,内気な皇太子・仁賢に代わって,まずその姉の飯豊青尊が臨朝(へい)政し,次に活発なその・顕宗が先に皇位を摂したと考えることも可能でしょうか(播磨において伊与来目部小楯の前で歌って踊って市辺押磐皇子の子であるという身分を明かしたのも,丹波(たにはの)小子(わらは)と名を改めていた積極的な顕宗でした。)。女系で雄略皇統を嗣ぐ武烈天皇の即位まで,雄略の皇女である春日大娘の義姉並びに義弟及び夫が当該皇女に代わって政を摂し,及び皇位を摂したと解するわけです。

 

(4)感想

 以上のように考えると,顕宗・仁賢兄弟の事例は,養子皇族男子制度支持者及び女系天皇論者のいずれもが前例として援用できそうです。

 

3 皇胤を乱すことを防止するための女帝に対する未婚強制規範はそれとしてあったのか

 なお,18872月上旬ないしはその若干後に成立したものと推定されている井上毅の皇室典範「説明草案」(小林381頁・380頁参照)には,明治皇室典範1条に相当する条項の説明として,「皇緒ハ男系ニ限リ女系ノ所出ニ及ハザルハ皇家ノ成法ナリ,」に続いて「故ニ推古以来,時世ノ変ニ当リ,権宜位ヲ摂スルノ皇女ナキニ非ス,其皇夫ヲ納レ皇胤ヲ乱ルカ如キハ断シテコレアルヲ容サズ,歴世ノ史策明カナルコト日月ノ如ク誣フベカラザルナリ」とありました(小林382頁における引用)。元正,孝謙=称徳,明正及び後桜町の4女帝の例ですね。

しかし,孝謙=称徳天皇について言えば,道鏡は妻帯禁止の仏僧でしたからねぇ。

また,「皇夫ヲ納レ皇胤ヲ乱ルカ如キハ断シテコレアルヲ容サズ」といっても,皇女からなった女帝に皇配がなかったということは,そのことを端的に禁ずる「皇家ノ成法」がそれとしてあったがゆえでしょうか。むしろ直接的には,君臣分義論と男尊女卑観念との合同作用によって,女帝は結果的に皇配を得られなかったということであったようでもあります。「皇胤ヲ乱ルカ如キ」ことが無かったことは事実ですが,それは結果であって,それを明示的な直接の目的とした未婚強制規範があったとまでは簡単にはいえないのでしょう。更にそもそも未婚強制までするのは行き過ぎであって,所生子に皇位継承権を与えないだけで十分だったはずでしょう(例えば,1914628日のサライェヴォ事件で暗殺されたオーストリア=ハンガリー帝国皇嗣フランツ=フェルディナンドの妻ゾフィーはボヘミアの伯爵令嬢にすぎなかったので,当該夫妻間に所生の子には同帝国の帝位継承権が認められていませんでした(江口朴郎編『世界の歴史14 第一次大戦後の世界』(中公文庫・1975年(単行本1962年))11-12頁(江口)参照。また,「第一次世界大戦の勃発百周年に当たって法律家の目でサライェヴォ(サラエボ)事件を見る)。結局,「皇夫ヲ納レ皇胤ヲ乱ルカ如キハ断シテコレアルヲ容サズ」云々の部分は,後の『皇室典範義解』では削られています。

井上毅の「謹具意見」において引用された島田三郎(後に衆議院議長)の議論をここで見てみましょう。いわく。

 

  〔前略〕然ラバ則チ我ガ皇国内ノ人ニ〔女帝の〕皇婿ヲ求メンカ,是レモ亦甚ダ不可ナルモノアリ。夫レ皇帝ノ大位ヲ尊崇シ奉リ,人臣ノ得テ近ヅク可ラザルモノトスルハ,君主国ノ第一主義ナリ。天ニ二日ナク,国ニ二主ナキハ是レ亦君制国ノ第一主義ナリ。故ニ上御一人ヲ除キテハ日本国人悉ク臣民ナリ。臣民ニシテ至尊ニ配侍スルコトアラバ,其尊厳ヲ損ゼザル無キヲ得ンヤ。或ハ云ハン,理ニ因テ推スニ男女固ト尊卑ノ別ナシ,皇妃ハ人臣ニシテ至尊ニ配ス,皇婿人臣ヨリ出ヅル固ヨリ不可ナルコトナシト,予ハ此説ニ同意スル能ハザルナリ。何ゾヤ,政治ハ時勢人情ヲ以テ之ガ基本トセザル可ラズ,我国ノ現状男ヲ以テ尊シトナシ,之ヲ女子ノ上ニ位セリ。今皇婿ヲ以テ憲法上女帝ヲ第一尊位ニ置クモ,通国ノ人情ハ制度ヲ以テ之ヲ一朝ニ変ズル能ハザルモノナルガ故ニ,女帝ノ上ニ一ノ尊位ヲ占ムルノ人アルガ如キ想ヲ為スハ,日本国人ノ得テ免カルヽ能ハザル所ナルベシ。豈皇帝ノ尊厳ヲ損スルコトナキヲ得ンヤ。且ツ夫レ皇婿暗々裏ニ女帝ヲ動カシテ間接ニ政事ニ干渉スルノ弊ナキヲ保ツコト能ハズ。若シ此レアランカ,唯ダ女帝ノ威徳ヲ損スルノミナラズ,併セテ国家ノ福利ヲ破ブルニ至ラントス。〔後略〕

  (井上・謹具意見263-264頁)

 

 「時勢人情」が変わりさえすれば,女帝に皇配があっても「女帝ノ上ニ一ノ尊位ヲ占ムルノ人アルガ如キ想ヲ為ス」ことはなくなり,したがって,女帝が「皇夫ヲ納レ」ることも認容され得るようになるようでもあります(その子の皇位継承権の話は別として)。

 

4 易姓の忌避

 井上毅は女系継承云々以前に女帝に反対でしたが,その理由は,端的にいって,女帝の次代における易姓の忌避(「最モ恐シキコト」)です。「謹具意見」にいわく。

 

   〔略〕カシコクモ我国ノ女帝ニ皇夫ヲ迎ヘ,其ノ皇夫ハ一タビ臣籍ニ入リ,譬ヘバ源ノ某ト称フル人ナランニ〔略〕,其皇夫ト女帝トノ間ニ皇子アラバ即チ正統ノ皇太子トシテ御位ヲ継ギ玉フベシ。〔略〕然ルニ此ノ皇太子ハ女系ノ血統コソオハシマセ,氏ハ全ク源姓ニシテ源家ノ御方ナルコト即チ我ガ国ノ慣習ニ於テモ又欧羅巴ノ風俗ニテモ同一ナルコトナリ。但シ欧羅巴ナラバ源姓ト称ヘナガラ源姓ノ人モ女系ノ縁ニテ皇位ヲ嗣グコト当然ナリト(ママ)ラムルナリ,欧羅巴ノ女系ノ説ヲ採用シテ我ガ典憲トセントナラバ,序ニテ姓ヲ易フルコトヲモ採用アルベキカ,最モ恐シキコトニ思ハルナリ(女系ノ内親王ヨリ出デタル皇孫ナラバ更ニ是レヨリ甚シ)。

  (井上・謹具意見267頁)

 

易姓がなぜ「最モ恐シキコト」であるかというと,それは「万世一系」を破壊するからでした。

前記1880年の元老院の国憲案における第2章の第3条の規定(「上ノ定ムル所ニ依リ而シテ猶未ダ帝位ヲ継承スル者ヲ得ザルトキハ皇族親疎ノ序ニ由リ入テ大位ヲ嗣グ若シ止ムコトヲ得ザルトキハ女統入テ嗣グコトヲ得」)に対して,河田景与議官の意見はいわく。

 

 末条ニ所謂女統ナル者,皇女他人ニ配シテ挙グル所ノ子若クハ孫ナルトキハ,則現然異姓ナリ。譬ヘバ仁孝天皇ノ皇女故将軍家茂ニ降嫁スルガ如キ若シ其所在アレバ即徳川氏ニシテ王氏ニアラズ王族ニアラザルナリ 果タシテ然ラバ大ニ第1章第1条〔「万世一系ノ皇統ハ日本国ニ君臨ス」〕ニ抵触ス。如何トナレバ異姓ノ子ニシテ帝位継承スルコトヲ得バ之ヲ万世一系ノ皇統ト云可ラズ。故ニ其入嗣ノ文,男統全ク尽キ千万止ムヲ得ザルノ際ニ備フル者ト雖ドモ,恐ル後来言フ可ラザルノ弊害ヲ生ゼン。因テ朱書〔「上ノ定ムル所ニ依リ而シテ猶未ダ帝位ヲ継承スル者ヲ得ザルトキハ,皇族親疎ノ序ニ由リ入テ大位ヲ嗣グコトヲ得」〕ノ如ク修正アランコトヲ希望。

 (伊藤・憲法資料下巻403-404頁)

 

 また,1882121日付けで宮島誠一郎が筆記した伊地知正治宮内省一等出仕の講演には,次のようにありました。

 

  女帝 男院女院

   皇国帝系ハ男統一系ナル故ニ万世無窮 皇統連綿セリ。若シ女統ヲ立ツ,皇統直チニ他系ニ移ル,此ニ是ヲ皇統ヲ滅絶スルト云フ。

   (伊藤・憲法資料下巻499頁)

 

「欧羅巴ナラバ源姓ト称ヘナガラ源姓ノ人モ女系ノ縁ニテ皇位ヲ嗣グコト当然ナリト(ママ)ラムルナリ」という諦めが日本人には無いわけです。それは,「万世一系(姓)」が漢土に対する我が国の独自性・優越性を象徴するものであるのならば(第3参照),皇室(王室)に易姓があると漢土と同じ(低)水準になってしまうので,それが「最モ恐シキコト」なのであるからなのでしょう。井上毅の女系継承排除論に関しては,結局のところ,「わが国では王室即ち皇室が「姓」を変えることを忌むから女系継承を認めないということになる」ものと評されています(島61頁)。嗚呼,皇位の女系継承を認めるべきか否かの問題は,純粋な国内問題ではなく,我が国の対外的(特に対東アジア的)自尊意識にも実は関係する問題なのでもありましょうか。

そういえば,「友愛」の「東アジア共同体」構想を提唱した某政権は,その後「悪夢」呼ばわりされることになってお気の毒でした。


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1 はじめに

 毎年8月は,先の大戦に関する回顧物が旬となる季節です。

 今年(2023年)の8月はもう終わりますが(しかし猛暑はなお続くのでしょう。),筆者も夏休みの最後になって宿題に追われる小学生のごとく,つい,86年前の夏の出来事に関する疑問の一つの解明理解の試みに手を出し,少々の自由研究的抜き書きを作成してしまったところです。

 

2 盧溝橋から上海への「飛び火」

 193777日発生の盧溝橋事件が拡大して「北支事変」となり,更に上海に「飛び火」して「支那事変」,すなわち大日本帝国と中華民国との全面衝突となったという機序については,筆者はかねてから「飛び火」という責任所在不明の表現に違和感を覚えていました。

 これについては,名著の誉れ高い阿川弘之(1999年の文化勲章受章者https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/234460/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/99_1101/1101_3.html)の『米内光政』(新潮文庫・1982年(新潮社・1978年))の次のような記述を読むと,何だか我が帝国陸軍の関係者が怪しいようでもあります。

 

  第九章六

    日華事変の発端が悪名高い「陸軍の馬鹿」の仕組んだ陰謀だったか,相手方の挑発に乗せられた結果であったかは,こんにち尚はっきりしないらしいが,とにかくこの戦火を拡げたら厄介なことになるというのが,米内と山本〔五十六〕の共通した認識であった。当時の米内海相の手記には,

    「昭和12年〔1937年〕77日,蘆溝橋事件突発す。9日,閣議において〔杉山元〕陸軍大臣より種々意見を開陳して出兵を提議す。海軍大臣はこれに反対し,成るべく事件を拡大せず,速かに局地的にこれが解決を図るべきを主張す。(中略)

    五相〔首陸海外蔵〕会議においては諸般の情勢を考慮し,出兵に同意を表せざりしも,陸軍大臣は五千五百の平津軍と,平津〔北()(現在の北京)及び天()地方における残居留民を見殺しにするに忍びずとて,()つて出兵を懇請したるにより,渋々ながら之に同意せり。(中略)

    陸軍大臣は出兵の声明のみにて問題は直ちに解決すべしと思考したるが如きも,海軍大臣は諸般の情勢を観察し,陸軍の出兵は全面的対支作戦の動機となるべきを懸念し,再三和平解決の促進を要望せり」

   とある。

   (212頁) 

 

  同章212-214頁)は,主に,杉山元陸軍大将の昭和天皇に対する19377月と1941年秋との2度の「3カ月」奏上(実際には,北支事変も対米英蘭戦も3カ月では片付かず)エピソードの紹介

 

  

この時上海では,米内より2期下の長谷川清中将が支那方面海軍部隊の最高指揮官として,第三艦隊の旗艦出雲に将旗を上げていた。北支事変といっていたのが,8月に入ると上海に飛び火し,海軍も否応なしに戦いの一角に加ることになって,814日〔15日〕,世界を驚かせた海軍航空部隊(九六陸攻機)の〔南京等に対する〕渡洋爆撃が行われる。昭和12年の10月以降,第三艦隊は新設の第四艦隊と合して「支那方面艦隊」となり,長谷川長官の呼称も支那方面艦隊司令長官と変る。

   (214-215頁)

 

ここで,「飛び火」という表現が出て来ます。また,海軍も「否応なしに」戦いの「一角」に加わることになった,ということですから,我が帝国海軍は,大陸での戦闘行為に対して消極的であったにもかかわらず,いやいや巻き込まれていったように印象されます。

 

3 南京渡洋爆撃に対する驚き等

 

(1)米国大統領

ところで,第二次上海事変劈頭からの日本海軍による中華民国の首都・南京に対する渡洋爆撃は,日本人が無邪気に思うように単に「世界を驚かせた」のみならず,同じ1937年の426日にドイツ空軍により行われた内戦中のスペインのゲルニカ爆撃と共に,世界の憤りを日独両国民に対して喚起するものとなってしまっていたものと思われます。同年105日にシカゴでされたフランクリン・ルーズヴェルト米国大統領の「隔離演説」の次のくだりは,当該憤りを示すものでしょう。我が海軍は,勇ましぶって,かえって余計かつ有害なことをしてしまったのではないでしょうか。

 

  Without a declaration of war and without warning or justification of any kind, civilians, including women and children, are being ruthlessly murdered with bombs from the air. In times of so-called peace, ships are being attacked and sunk by submarines without cause or notice. Nations are fomenting and taking sides in civil warfare in nations that have never done them any harm. Nations claiming freedom for themselves deny it to others.

 (宣戦の布告及び何らの警告又は正当化もなしに,女性と子供とを含む文民が,空からの爆弾によって無慈悲に殺害されています。いわゆる平時において,船舶が,理由も通告もないまま,潜水艦によって攻撃され,沈められています。彼らに何らの害も一切与えたことのない国民の内戦において,煽動し,かつ,一方の側に加担する国民がいます。彼ら自身の自由を主張する国民が,それを他の国民に対して否認しているのです。)

 

 当該演説の前月,渡洋爆撃が最初にあってから1箇月余りたった後の9月の19日以降における我が海軍による南京爆撃の「目的は,軍事施設に加え,政治中枢や交通の要衝・工場など広範囲に爆撃して,民国側の戦意喪失をねらう戦略爆撃に移行していた」ところです(大坪慶之「日本軍による南京空襲の空間復元とその変遷:『中央日報』『申報』の記事から」近代東アジア土地調査事業研究ニューズレター(大阪大学文学研究科片山剛研究室)820186)。その段階での報道状況はいかにというに,「〔南京で発行されていた国民党の機関紙である〕『中央日報』や〔上海の〕『申報』は,〔略〕政治中枢や鉄道・港の被害記事が多くなっている〔略〕。また,城内西北の外国大使館が点在する新住宅区や,「門東」と呼ばれる中華門から入ってすぐの所にある庶民の住宅街についても,道路名を記して民家(「民房」)が破壊されたことを強調している。特に学校や病院の被害は,名称を明記したり特集を組んだりするなど紙面が割かれている。」ということでした(大坪6-7)。

(2)大日本帝国政府

また,南京渡洋爆撃は,「世界を驚かせた」ばかりではありませんでした。

近衛文麿内閣には寝耳に水の出来事であったようです。

 

上海に戦火がとび,前述の815日の政府声明〔支那軍の暴戻を膺懲する声明〕がおこなわれた当日である。海軍は,いわゆる渡洋爆撃を始め,南京,南昌を爆撃,それからまもなく漢口をも爆撃して,華中方面の戦局はにわかに拡大され,同時に〔租界のある上海に駐屯していた我が海軍の〕上海陸戦隊救援のため,陸軍部隊派遣の必要に迫られるにいたった。これとともに,華北方面においても,同じく拡大の兆候が顕著なるものあるを認むるにいたったのであるが,内閣としては,こうなってはなはだ困るのは,戦略面において,まったく知らされないことであった。現に海軍の渡洋爆撃なども,わたし〔風見内閣書記官長〕はもちろん,近衛氏とても,その日,閣議があったにかかわらず,新聞によってはじめて知ったのであった。

  (風見章『近衛内閣』(中公文庫・1982年(日本出版協同株式会社・1956年))48頁)

 

これが,大日本帝国憲法11条(「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」)に基づく統帥権の独立の帰結であったというわけです。

なお,南京渡洋爆撃に関する現地の新聞記事はどうであったかといえば,「前日午後の空襲を報じた『中央日報』1937816日,第三面には「二時三十五分在城南郊外,投弾六枚(中略)三時十五分,敵機盤飛七里街,廿一号住戸祖義良被敵機槍掃射受傷」とある。また,同日『申報』の第二面には,「見明故宮飛行場落有両弾,光華門外亦落下炸弾五枚,両処均無大損失」と出てくる」そうです(大坪5-6頁註13)。

 

(3)大日本帝国海軍大元帥

 昭和天皇にも,事前に詳しい作戦計画は知らされていなかったように筆者には思われます。

 

  〔19378月〕16 月曜日 〔略〕

   午後2時,御学問所において軍令部総長〔伏見宮〕博恭王に謁を賜い,この日朝までの中支方面の戦況につき奏上を受けられる。その際,昨日海軍航空部隊が台湾から大暴風雨を冒して南京及び南昌飛行場への渡洋爆撃を敢行したことを御嘉賞になるも,各国大使館がある南京への爆撃には注意すべき旨を仰せられる。また,上海その他の犠牲者につき,誠に気の毒ながら已むを得ない旨の御言葉を述べられる。〔後略〕

   (宮内庁『昭和天皇実録 第七』(東京書籍・2016年)395頁)

 

海軍から「敵の首都南京を爆撃します」とあらかじめ知らされていれば,各国大使館があるから注意せよ云々の老婆心的発言が後付け的にあることはないはずです。また,皇族の長老である伏見宮博恭王には,天皇とても,言葉を選ばざるを得ず,一応「御嘉賞」が最初にあったものでしょう。(なお,南京爆撃隊は台湾からではなく長崎県の大村基地から発進したのですが,実録の上記記載においてはその旨触れられていません。結局,南昌飛行場を爆撃した台湾発進部隊のみが真に御嘉賞に与ったということになるのでしょうか。)

海軍からの奏上については,1937105日(前記「隔離演説」の日ですね。)の対伏見宮軍令部総長賜謁の際に漏らされた綸言を反対解釈すると,どうも隠し事が多いようだと昭和天皇は思っていたようでもあります。すなわち,「去る922日,〔広東省の〕碣石湾沖において第一潜水戦隊の潜水艦が支那ジャンク10隻を撃沈した事件に関する真相,及びその対外措置につき奏上を受けられる。事件につき,将来を戒められるとともに,その真相を公表すれば日本が正直であるとの印象を与えて良いのではないかとのお考えを示される。これに対し,現地からの報告遅延のため,今に至って真相公表はかえって不利である旨の説明を受けられる。また,海軍が事実をありのままに言上し,かつその処置まで言上したことに対する御満足の意を表され,全てをありのままに言上するよう仰せになる。」ということでした(実録七426-427)。普段から「ありのまま」の言上がされていたのであれば,特に「御満足の意を表され」ることはなかったはずです。

なお,皇族の軍令部総長及び参謀総長には,大元帥たる昭和天皇も気詰まりを感じていたようです。

 

 〔19409月〕19 木曜日 午前,侍従武官長蓮沼蕃に謁を賜う。その後,内大臣木戸幸一をお召しになり,45分にわたり謁を賜い,参謀総長〔閑院宮〕載仁親王及び軍令部総長博恭王の更迭につき聖慮を示される。これより先,天皇は,いよいよ重大な決意をなす時となったことを以て,この際両総長宮を更迭し,元帥府を確立するとともに,臣下の中から両総長を命じることとしたいとの思召しを侍従武官長蓮沼蕃に対して御下命になり,内大臣とも協議すべき旨を御沙汰になる。よって,武官長は内大臣と協議の上,陸海軍両大臣に協議したところ,陸軍大臣〔東條英機〕は直ちに同意するも,海軍大臣〔及川古志郎〕は絶対に困るとし,この日に至り軍令部総長宮の離職に反対する旨を確答する。海軍側の意向につき武官長より相談を受けた内大臣は,この日の拝謁の際,聖慮に対し次善の策として,参謀総長宮に勇退を願い,海軍との権衡上さらに新たな皇族の就任を願うほかはないとの考えを言上,なお武官長とも協議すべき旨を奉答する。しかるにその後,陸軍側より,海軍の意向如何にかかわらず,この際参謀総長は臣下を以て充てたい希望が示されたため,その旨を武官長より言上することとなり,正午前,武官長は天皇に謁する。

(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(東京書籍・2016年)178頁) 

 

大御心を素直に忖度する東條は,忠臣ですな。むしろ,海軍の方が我がままで,困ったものです。

閑院宮参謀総長の後任には,杉山元陸軍大将が1940103日に親補されています。伏見宮軍令部総長の後任である永野修身海軍大将の親補は,194149日のことでした。

 

4 盧溝橋事件発生後第二次上海事変発生まで

さて以下では,193777日の盧溝橋事件発生後第二次上海事変発生までの諸事実を昭和天皇と海軍との交渉状況に関するものを中心に『昭和天皇実録 第七』等から拾ってみましょう。なかなか長くなりました。

 

 〔19377月〕11 日曜日 〔略〕

  〔葉山御用邸で午後〕541分,お召しにより参邸の内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜い,この日午後の臨時閣議において,事態不拡大・現地解決の条件の下に北支への派兵を決定した旨の奏上を受けられる。619分,陸軍大臣杉山元に謁を賜い,北支派兵について奏上を受けられる。728分,軍令部総長博恭王に謁を賜い,海軍の作戦事項として海軍特設聯合航空隊等を編(ママ)〔註〕することにつき上奏を受けられる。〔略〕

  なお,この日午後530分,政府は今次北支において発生の事件を「北支事変」とする旨を発表,ついで625分,北支派兵に関して帝国の方針を声明する。〔後略〕

  (実録七370頁)

 

      註: 少なくとも陸軍用語では,「編制」は「軍令ニ規定セラレタル国軍ノ永続性ヲ有スル組織ヲ言イ」,「編成」は「某目的ノ為メ所定ノ編制ヲ取ラシムルコト,又ハ臨時ニ定ムル所ニ依リ部隊ヲ編合組成スルヲ言」います(『統帥綱領・統帥参考』(偕行社・1962年)597頁(兵語の解))。

 

しかし,近衛内閣は,「事態不拡大・現地解決」を旨とするはずであるにもかかわらず,なぜ「北支事変」という大袈裟な命名を早期にしてしまったのでしょうか。折角立派な名前がついてしまうと,その名が表す期待に合わせるべく体も自ずから成長していくものではないでしょうか。「事態」ないし「事件」は事変に変じ,「現地」は北支全体に拡がってしまうのではないかという懸念は感じられなかったのでしょうか。「「渋々ながら」同意した北支派兵のはずなのに,近衛内閣が自発的に展開したパフォーマンスは,国民の戦争熱を煽る華々しい宣伝攻勢と見られてもしかたのないものであった」わけで(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会・1996年)265頁),政府広報は重要であるとしても,軽薄なパフォーマンス好きの方々には困ったものです。

     さて,軍令部総長による前記上奏があった1937711日,早くも第三艦隊司令長官の長谷川中将は,台湾の高雄から上海の呉淞への「回航の途中に得た諸情報から「情勢真に逆賭を許さざるものあり」と判断して,〔当該〕11日未明に海軍中央部へ航空隊と陸戦隊の派遣準備を要請し,さらに指揮下部隊の各指揮官へ「極秘裡に在留邦人引揚に対する研究を行い胸算を立ておくべし」と指示してい」ます(秦252頁)。同日夕から翌日にかけて海軍中央部は「陸軍の動員に匹敵する大規模な準備措置」を「次々と発動し」ており,その「主要なものをあげると,(1)青島,上海に増派する特別陸戦隊4隊の特設と輸送艦艇の指定,(2)渡洋爆撃用の中型陸上攻撃機(38機)と艦載機(80機)による第一,第二連合航空隊の特設と一部の台北,周水子への展開を予定して物資を艦艇により輸送,(3)第五戦隊などを北支へ,第八戦隊などを中南支へ増派,(4)陸軍増派部隊の海上護衛,(5)北支作戦に関する陸海軍作戦協定,陸海軍航空協定の締結,など」ということだったそうです(秦253頁)。なお,1937711日の陸海軍協定の内容は北支に係るものに限定されておらず「已むを得ざる場合に於ては青島上海付近に於て居留民を保護」すると規定」されており,「陸軍としては「中南支」への派兵は考えていなかったが,海軍の強い要請で承認し,その兵力も「3個師団というのを陸軍は最小限として2個師団で妥協」」がされています(秦254頁)。

     ところで,711日の前記上奏において伏見宮博恭王は,「今回の北支出兵のごときはいかに考えましても大義名分相立ちませぬ・・・古来名分のない用兵の終りをまっとうした例ははなはだ乏しいのでありまして,今回の北支出兵の前途につきましては私には全然見通しがつきませず深く憂慮にたえませぬ」(福留繁『海軍の反省』225ページ)と」述べたそうです(秦254頁)。中華民国との全面戦争に対する「不安」の現れでもありましょうが(秦254頁参照),名分がなく(なお,確かに同日20時に現地停戦協定が調印されますが(秦261頁・266頁),しかし伏見宮総長の上奏の際には当該調印の報は未着であったはずです。),かつ,不安ならば,そもそもの派兵に断乎反対をすればよかったように思われ,何だか評論家風な発言のようでもあります。どういうことでしょか。また,北支への陸軍の出兵には名分がなくとも,海軍がそれに備える中南支での戦闘については名分があるということだったのでしょうか。「海軍の不拡大論は,その責任地域である華中,華南への拡大を予期するという奇妙な構造」になっていたそうであって(秦251頁),すなわち,結局のところ,日本陸軍がどういう対応をしたとしても,中華民国と我が国との全面戦争は宿命的に起こるものと信じられていたのでしょう。

        「石原〔莞爾参謀本部〕第一部長は,のちに「上海事変は海軍が陸軍を引き摺って行ったもの」(石原応答録)と痛烈に批判するが,蒋緯国が強調するように,平津作戦における第二十九軍〔盧溝橋事件における我が支那駐屯軍(これは,義和団事件後の北清事変最終議定書(1901)に基づいて駐屯していたものです。)の相手方〕の急速崩壊を見た蒋介石は華北決戦を断念し,「日本軍を上海に増兵させ,日本軍の作戦方向を変更させる」(蒋緯国『抗日戦争八年』57ページ)戦略を採用した。いわば日本は仕掛けられたワナにはまりこんだ形」となったわけです(秦321頁)。しかし,そうなってしまったのは海軍が上海等を手放せなかったからであって,「「山東及長江流域は対支経済発展の三大枢軸」と見なす海軍にとって,上海防衛は「帝国不動の国策」(〔軍令部第一部甲部員である〕横井〔忠雄〕大佐が起案した〔1937年〕86日付の「閣議請議案」『昭和社会経済史料集成』第3604ページ)だったから,〔上海防衛の〕応戦にためらいはなかった」ところでした(秦321頁)。

     平津地区から上海への「飛び火」は,「華北の日本軍が南下して心臓部の武漢地区で中国を東西に分断されるのを防ぐため,華北では一部で遅滞作戦をやりつつ後退,主力を上海に集中し増兵してくると予想された日本軍に攻勢をかけ,主戦場を華北から華東へ誘致する戦略をとろうとしていた」(345)蒋介石の意図に沿ったものだったわけです。(なお,この点に関して,ナチス・ドイツから蒋介石のもとに派遣されていた軍事顧問のファルケンハウゼン将軍は,1937721日にドイツ国防相ブロムベルクに送った報告書において,「蒋介石は戦争を決意した。これは局地戦ではなく,全面戦争である。ソ連の介入を懸念する日本は,全軍を中国に投入できないから,中国の勝利は困難ではない。中国軍の歩兵は優秀で,空軍はほぼ同勢,士気も高く,日本の勝利は疑わしい(Hsi-Huey Liang, [The Sino-German Connection (Amsterdam, 1978),] pp.126-27)。」と述べていたそうです(372)。)

1937年「712日に軍令部は第三艦隊に加え,第二艦隊の参加による船団護衛,海上封鎖,陸戦隊の増強,母艦および基地航空部隊による航空撃滅戦,陸軍の上海投入などを骨子とする「対支作戦計画内案」を作成,一部の艦隊,航空隊の進出待機を逐次発令」しています(秦318頁)。これは「対中国全面戦争を想定したもの」でした(秦318頁参照)。確かに,当該「対支作戦計画内案」は,「「上海及青島は之を確保し作戦基地たらしむ」とか,「支那海軍に対しては一応厳正中立の態度及現在地不動を警告し違背せば猶予なくこれを攻撃す」とか「作戦行動開始は空襲部隊の概ね一斉なる急進を以てす」のような表現が目につく」ものであったとされています(秦254頁)。「硬軟両論が足をひっぱりあっていた陸軍とちがって,一枚岩の海軍は全面戦争への突入を見越して,いち早く整然たるプログラムを組めた」わけです(秦254頁)。「基地航空部隊による航空撃滅戦」,「作戦行動開始は空襲部隊の概ね一斉なる急進を以てす」などといわれると,「世界を驚かせた」南京渡洋爆撃は,実は我が海軍にとっては最初から当然想定されていたことであったようです。

     この1937712日の「「対支作戦計画内案」に対し,長谷川第三艦隊司令長官から〔同月〕16日付けで中央へ送った意見具申電があ」ったそうで,「彼はそのなかで,日支関係の現状を打破するには現支那中央政権の屈服以外にないとして,「支那第二十九軍の膺懲なる第1目的を削除し,支那膺懲なる第2目的を作戦の単一目的」(『現代史資料』9186ページ)とする全面的作戦を開始すべしと説き,上海,南京攻略をめざす陸軍5個師団の投入と,全航空部隊による先制攻撃を要望していた」そうです(秦319頁)。「支那中央政権の屈服」,「南京攻略」,そして「全航空部隊による先制攻撃」ということでありますから,これは南京渡洋爆撃の積極的容認論でしょう。「この「暴論」が却下されたのは当然だが,その後も第三艦隊はくり返し危機の切迫を説き,兵力の増援を要請していた」そうです(秦319-320頁)。

     なお「膺懲」とは,「征伐してこらす」という意味であって,『詩経』に「戎狄是膺,荊舒是懲」という用例があるそうです(『角川新字源 第123版』(1978年))。荊及び舒の両国は,どちらも周王朝初期の南方の異民族の国です(同)。西方の戎,北方の狄及び南方の荊舒であれば東方が欠けていますから,東方の倭は膺懲の対象とはならず,かえって漢土の側が我が貔貅(ひきゅう)によって膺懲されるべきもののようです。参謀本部第三課が1937716日にまとめた「情勢判断」にも「支那軍を膺懲」という用例があるそうで(秦296頁),当時は常用されていた熟語だったのでしょう。

 

  〔19377月〕28 水曜日 〔略〕

   午後130分,御学問所において海軍大臣米内光政に謁を賜い,北支事変の情勢とそれに伴う中支・南支における海軍の配備状況につき奏上を受けられる。〔略〕

   午後2時,御学問所において軍令部総長博恭王に謁を賜い,北支事変に対処するための海軍兵力増加,及び聯合艦隊司令長官永野修身等への命令等につき上奏を受けられる。本日午後10時,軍令部総長より聯合艦隊司令長官に対し,左の大海令第1号が発電される。

一,帝国ハ北支那に派兵シ平津地方ニ於ケル支那軍ヲ膺懲シ同地方主要各地ノ安定ヲ確保スルニ決ス

     二,聯合艦隊司令長官ハ第二艦隊ヲシテ派遣陸軍ト協力シ北支那方面ニ於ケル帝国臣民ノ保護並ニ権益ノ擁護ニ任ゼシムルト共ニ第三艦隊ニ協力スベシ

     三,聯合艦隊司令長官ハ第二艦隊ヲシテ派遣陸軍ノ輸送ヲ護衛セシムベシ

     四,細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ指示セシム

   〔後略〕

  (実録七381-382頁)

 

      大海令第1号の前提として,その前日27日には,内地3個師団に華北派遣命令が出るとともに,政府は北支事変に関し自衛行動を執ると声明しています。

 

  〔19378月〕6日 金曜日 〔略〕

   午後445分,御学問所において軍令部総長博恭王に謁を賜い,支那沿岸及び揚子江流域の警戒並びに用兵上の諸手配に関する奏上を受けられ,聯合艦隊司令長官永野修身への命令等につき上奏を受けられる。その際,上海において船津辰一郎在華日本紡績同業会総務理事が行う予定の和平交渉につき,日本側の和平条件に支那が同意しない場合にはむしろ公表し,日本の公明正大な和平条件が支那により拒否されたことを明らかにすれば,各国の輿論が日本に同情するとのお考えを示される。また,できる限り交渉を行い,妥結しなければ已むを得ず戦うほかなく,ソ聯邦の存在を考慮する必要上から用い得る兵力に限りがあっても可能な限り戦うほかはない旨を述べられる。〔後略〕

   (実録七388頁)

 

      この6日には,「軍令部が上海への陸軍派遣を閣議に要請するよう海軍省へ申し入れ」ていますが,米内海相は当該出兵論を抑えていました(秦322頁註(2))。無論,閣議の場で頭を下げねばならないのは,軍令部ではなく,海軍省の海軍大臣です。

      翌「7日に日本の陸海外三相会議が決定し,船津辰一郎を通じて国府に打診しようとした船津工作の条件(冀察・冀東〔の各地方政権〕を解消し,河北省北半を非武装地帯に,満州国の黙認,日支防共協定の締結,抗排日の停止など)は」,「廬山声明の4条件とはほど遠く,三相会議の時点で,すでに国府は上海を戦場とする対日決戦にふみ切っていたと思われる。」とされています(秦345-346頁)。

  蒋介石の廬山声明の4条件とは,「(1)中国の主権と領土の完整を侵害しない解決,(2)冀察行政組織の不合法改変を許さない,(3)宋哲元〔第二十九軍の軍長〕など中央政府が派遣した地方官吏の更迭を許さない,(4)第二十九軍の現駐地はいかなる拘束も受けない」というものでした(秦343頁。廬山声明は1937717日に演説され,公表は同月1920時(新聞発表は同月20日付け)にされたもの(秦340頁))。

 

  〔19378月〕9日 月曜日 〔略〕

   午後3時,御学問所において海軍大臣米内光政に謁を賜い,最近における山東省及び中支・南支方面の状況,並びにこれに対する海軍の処置につき奏上を受けられる。〔略〕

   夜,侍従武官平田昇より揚子江方面の居留民引き揚げにつき上聞を受けられる。〔後略〕

   (実録七389頁)

 

      「揚子江沿岸の在留邦人は続々引揚げをはじめ」ていたところ,「それが完了したのは8月上旬であった。〔近衛〕内閣としては,事端が同方面におこるのをおそれていたので,さいわい,事なく引揚げがおわったことを知り,胸をなでおろしていた。」とされています(風見41頁)。

      またこの89日には大山中尉殺害事件(後記昭和天皇実録同月13日条参照)が起きていますが,依然として米内海相は,当該事件「も「一つの事故」に過ぎぬとして,軍令部の出兵論を抑え」ていたそうです(322頁註(2)。

      同月11日,「1932年の第一次上海事変で戦った〔中華民国国民政府〕中央軍の精鋭第八十七師と第八十八師は」,「上海郊外の包囲攻撃線へ展開を終り,海軍も揚子江の江陰水域を封鎖」します(秦346頁)。また同日我が国では,伏見宮軍令部総長が米内海軍大臣を呼んで,それまでの同大臣の上海への陸軍派兵不要論を改めるよう説得を試みています(秦322頁註(2))。

 

  〔19378月〕12 木曜日 〔略〕

   午後1045分,海軍上奏書類「長谷川第三艦隊司令長官ニ命令ノ件」ほか1件を御裁可になる。「長谷川第三艦隊司令長官ニ命令ノ件」は,現任務のほかに上海を確保し,同方面における帝国臣民を保護すべきことにあり。天皇は御裁可に当たり,当直侍従武官に対し,状況的に既に已むを得ないと思われる旨の御言葉,また,かくなりては外交による収拾は難しいとの御言葉を述べられる。本件命令は午後1140分,軍令部総長より大海令を以て発出される。ついで同55分,軍令部総長より第三艦隊司令長官に対し,左の指示が発電される。

     一,第三艦隊司令長官ハ敵攻撃シ来タラハ上海居留民保護ニ必要ナル地域ヲ確保スルト共ニ機ヲ失セス航空兵力ヲ撃破スヘシ

     二,兵力ノ進出ニ関スル制限ヲ解除ス

     〔後略〕

   (実録七391頁)

 

       昭和天皇実録の記者は「長谷川第三艦隊司令長官ニ命令ノ件」の内容を,専ら「現任務のほかに上海を確保し,同方面における帝国臣民を保護すべきこと」まとめています。伏見宮軍令部総長の上記指示は,当該任務の達成方法について更に敷衍をしたものなのでしょう。しかし,「機ヲ失セス航空兵力ヲ撃破スヘ」く,そのためには「兵力ノ進出ニ関スル制限ヲ解除ス」るということですから,敵の首都・南京の飛行場に対する爆撃も可能であることになります。長谷川第三艦隊司令長官に当該意図がかねてからあることは,前月16の同司令長官意見具申電によって,軍令部は十分了解していたはずです。

            同じ12日のことでしょうが(秦347頁註(4)),「京()警備総司令の張治中将軍は〔翌〕13日未明を期し日本軍へ先制攻撃をかけたい,と南京に要請した」そうです(秦346頁)。

       「12日になると,一触即発の危機発生をみるにいたったというので,その夜,海軍側から,これに対する方針の決定につき,至急,相談したいとの申し出が」政府に対してあり,「さっそく,近衛氏の永田町私邸に,首相と海陸外三相の会談が開かれ,わたし〔風見内閣書記官長〕も参加して相談した。その結果,上海における海軍側自衛権発動を内定した。」ということになりました(風見41-42頁)。「上海における海軍側自衛権発動」という表現は分かりづらいのですが,要は,「海軍は12日夜の四相会議に内地から陸軍2個師団の派遣を要請し,翌日の閣議で承認された」ものということのようです(秦318-319頁)。「杉山陸相の要求を容れて内地から2個師団を上海に派遣することとした」(岡義武『近衛文麿』(岩波新書・1972年)67頁)というのは「米内海相」を「杉山陸相」とする誤りということになります。この間のことについて何も書かなかった米内贔屓の阿川弘之は,他の著作物から上手に借景したということになるのでしょう。

 

  〔19378月〕13 金曜日 午前915分,御学問所において軍令部総長博恭王に謁を賜い,上海情勢並びに用兵上の諸手配につき奏上を受けられる。〔略〕

   午後8時,御学問所において海軍大臣米内光政に謁を賜い,上海方面への陸軍の派兵の必要とその経緯につき奏上を受けられる。去る9日の支那保安隊による上海海軍特別陸戦隊第一中隊長大山勇夫ほか1名の射殺事件以来,同地の情勢が悪化,作夕,第三艦隊司令長官長谷川清は緊急電報を以て陸軍の出兵促進を要請する。これを受け,この日午前緊急閣議が開かれ,居留民の保護のため陸軍部隊を上海方面へ派遣することが決定される。午後5時,戦闘配置に就いた上海海軍特別陸戦隊は,支那便衣隊と交戦状態に入る。〔後略〕

   (実録七391-392頁)

 

  〔19378月〕14 土曜日 〔略〕

   午前1043分,御学問所において内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜う。総理より,昨日来の支那軍の攻勢による上海戦局の悪化に伴い,この日の緊急臨時閣議において陸軍3個師団の動員と現地派遣を決定したこと等につき奏上を受けられる。引き続き,陸軍大臣杉山元に謁を賜う。

   午後125分,御学問所において参謀総長載仁親王に謁を賜い,第三・第十一・第十四各師団ほかへの動員下令,第三・第十一両師団を基幹とする上海派遣軍の編成とその任務等につき上奏を受けられる。〔略〕55分,御学問所において再び陸軍大臣に謁を賜い,上海派遣軍司令官の親補に関する人事内奏を受けられる。〔略〕

   午後421分,侍従武官遠藤喜一より,上海方面における海軍の戦況と用兵上の諸手配に関する上聞を受けられる。なおこの日,聯合艦隊司令長官永野修身・第三艦隊司令長官長谷川清に対し,上海へ派遣の陸軍と協力して各々作戦を遂行することを命じる旨の海軍上奏書類を御裁可になる。〔後略〕

   (実録七392-393頁)

 

      この1937814日には,午前の緊急臨時閣議のほかに深夜にも緊急臨時閣議が開かれています。いわく,「14日の夕刻,わたし〔風間内閣書記官長〕は近衛氏を永田町の私邸にたずねて,同〔上海〕方面の情勢に関するニュースを伝えるとともに,善後処置について協議した。その結果,とりあえず海軍をして至急に救護物資と病院船とを,同地に送らしむることにした。それにしても,事態刻々に重大化の傾向にあるので,この夜,いちおう緊急臨時閣議を開いて,海相から情勢の報告をきき,かつ,善後処置についても話し合っておくのがよかろうというので,そうすることにした。ただし,戦局がかくまで拡大したことについての政府の意思表示は,なお形勢の推移をみた上のこととして,この夜の閣議では,ただ救護物資および病院船を送ることだけにしておこうと,話を決めたのである。わたしは,すぐに米内海相をたずねて,首相との話し合いを告げたところ,海相もただちに賛成したので,午後10時に緊急臨時閣議を開くよう手配したのであった。」と(風見42頁)。

      1937814日に開催された閣議において米内海軍大臣は次のように大興奮したとされているのですが,海相の当該激高について同日深夜の緊急臨時閣議に係る風見手記には触れるところがありませんので(風見42-47頁参照),当該大激高は午前の閣議におけるものなのでしょう。

 

        外相〔広田弘毅〕や蔵相〔賀屋興宣〕ばかりでなく,杉山陸相までが不拡大方針の維持を述べたのにいらだったのか,米内は「今や事態不拡大主義は消滅した」「日支問題は中支に移った」「今となっては海軍は必要なだけやる」「南京くらいまで攻略し模様を見ては」(高田〔万亀子「日華事変初期における米内光政と海軍」『政治経済史学』251号〕173ページ)と放言した。米内としては「今さら何を言うか」と激したのかもしれないが,この豹変ぶりは天皇をも心配させたらしく,翌日の上奏にさいし,「従来の海軍の態度,やり方に対しては充分信頼して居た。なお此上共感情に走らず克く大局に着眼し誤のないようにしてもらいたい」(島田日記)と海相を戒めている。

       (秦321頁)

 

  〔19378月〕15 日曜日 午前10時,鳳凰ノ間において親補式を行われ,陸軍大将松井岩根を上海派遣軍司令官に補される。〔略〕なおこの日,上海派遣軍司令官松井岩根に対して海軍と協力して上海付近の敵を掃滅し,上海並びにその北方地区の要線を占領して在留邦人の保護を命ずる件の陸軍上奏書類を御裁可になる。〔略〕

   午前1020分より1時間余にわたり,御学問所において内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜い,昨夜の緊急臨時閣議において決定した,上海における新事態に適応するための政府方針につき奏上を受けられる。なお今暁,帝国政府は支那軍の暴戻を断乎膺懲すべき旨の声明を発表する。〔略〕

   午後,内大臣湯浅倉平をお召しになり,1時間余にわたり謁を賜う。〔略〕

   午後5時過ぎ,御学問所において海軍大臣米内光政に謁を賜い,上海及び各地の情況,並びにこれに対する海軍の処置につき奏上を受けられる。終わって海軍大臣に対し,海軍の従来の態度,対応に対して充分信頼していたこと,及びこれ以後も感情に走らず,大局に着眼して誤りのないよう希望する旨の御言葉あり。〔後略〕

   (実録七394-395頁)

 

      「昨夜の緊急臨時閣議において決定した,上海における新事態に適応するための政府方針」とは,「帝国政府は支那軍の暴戻を断乎膺懲すべき旨の声明」がそれに基づくところの「方針」でしょうか。当該声明は,前日深夜の緊急臨時閣議が「予定のごとく〔略〕進行して,近衛氏が散会をいいわたそうとしたところ,突然杉山陸相が,ちょっと待ってもらいたい,この際ひとつ,政府声明書を出したほうがいいだろうといって,その案文の謄写刷りをカバンからとりだした」ものです(風見42-43頁)。当該閣議の予定の議事は,風見内閣書記官長によれば「海相から情勢の報告をきき,かつ,善後処置についても話し合っておくのがよかろうというので,そうすることにした。ただし,戦局がかくまで拡大したことについての政府の意思表示は,なお形勢の推移をみた上のこととして,この夜の閣議では,ただ救護物資および病院船を送ることだけにしておこうと」いうことだったはずであるところ,「予定のごとく」の進行なので,午前中暴れた米内海相は大人しく情勢報告などを事務的にしたのでしょう。なお,陸軍大臣から案文が提出されても,政府の声明は政府の声明であって,軍の声明とは異なるものであるということになります。

      当該深夜の閣議が散会した後,「杉山陸相は,中島〔知久平〕,永井〔柳太郎〕両氏がのべた意見〔「中島鉄相から,いっそのこと,中国国民軍を徹底的にたたきつけてしまうという方針をとるのがいいのではないかという意見の開陳があって,永井逓相が,それがいいといった意味のあいづちをう」ったという「意見」〕をとりあげ,わたしに,そっと,「あんな考えを持っているばかもあるから驚く,困ったものだ」と,ささやいたものである。これによっても,わたしは,杉山氏が,そのときには不拡大現地解決方針を守ろうとしていたのだと,信ずるのである。」と風見内閣書記官長は回想しています(風見46-47頁)。

      しかし,「中国国民軍を徹底的にたたきつけてしまう」ことと「不拡大現地解決方針」との間にはなお中間的な方針があったところです。「妥協論」と対立する陸軍内での「強硬論」は,「わが国がこの際断乎として強硬な態度で臨めば中国側はおそれて妥協あるいは降伏を申し出るであろうという論であり,従って,それは事変を拡大して中国との本格的全面戦争に入るべきことを主張したものではなかった」のでした(岡65頁)。

      風見自身は,「帝国政府は支那軍の暴戻を断乎膺懲すべき旨の声明」は「表面,日本政府は,不拡大方針を投げすてて,徹底的に軍事行動を展開するかもしれぬぞとの意向を,ほのめかしているもの」であって(風見45頁),不拡大現地解決方針を端的に表明するものではないことを認めています。米内海相は,午前の閣議で激高して近衛内閣閣僚間における事態不拡大主義を自ら消滅せしめていたのであって,杉山陸相の新たな強硬論に対してもはや異議を唱えず,また唱え得なかったものでしょう。むしろ内心では,海軍幹部の一員として積極的に,本格的全面戦争を期していたのではないでしょうか。「右の声明を発表したいという陸相の発言に,外相海相はじめ閣僚一同,たれも異議をとなえなかったので,近衛氏はそれを承認したのである」とのことです(風見46-47頁)。

      (なお,杉山陸相流「強硬論」の表明たる「帝国政府は支那軍の暴戻を断乎膺懲すべき旨の声明」においては,さわりの部分の「帝国としては,もはや隠忍その限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し」に続いて「もって南京政府の反省をうながす」とあり,更には「もとより毫末も領土的意図を有するものにあらず」,「無辜の一般大衆に対しては,何等敵意を有するものにあらず」云々ともあります(風見44-45)。すなわち,大日本帝国による膺懲の直接の対象は,南京政府に非ず,支那軍自体にも非ず,無辜の一般大衆ではもちろん非ず,飽くまでも支那軍の「暴戻」であるのだというわけです。しかし,我が国の人口に膾炙したという「暴支膺懲」という四文字熟語的スローガンは――そもそも人口に膾炙したのですからその点においては広報的にはよくできたものなのでしょうが――「暴支」と一般化することによって,軍も政府も人民も,およそ漢土の国家・社会を構成する者の本質は皆もって暴戻(『角川新字源』によれば「乱暴で道理に反する」ことです。)であるのだと決めつけることになってしまわなかったでしょうか。暴戻だから膺懲するのは当然であるし,むしろ進んで膺懲すべきである,ということになれば,確かに全面戦争は不可避でしょう。)



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南京といえば・・・しかし,最近は南京豆とはいわなくなりました。

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1 はじめに

 前回(2022830日)の記事(「国葬儀とState Funeralとの異同に関して」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079923416.html)掲載後,202298日には英国のエリザベス2世女王の崩御があって同月19日には同国のState Funeralが現実に挙行され,更に同月27日の我が国葬儀においては弔辞中に山縣有朋による伊藤博文を悼む和歌(什)を引用するものがあって反響を呼び,筆者としては自らの予感能力的なもの(当該記事3及び1参照)の有無についていささか思うところがありました。しかしながら,筆者の記事が全く読まれていないことは結構なことで,ああ伊藤と山縣とに関するそのエピソードならば,電通の入れ知恵ならぬ元内閣総理大臣官房の広報関係者である齊藤弁護士のブログ記事からの転用でしょう,などとのテレビ・コンメンテーターによる軽薄な発言も無かったところでした。

 ということで,国葬関係噺が続きます。

 

2 国葬令の効力の有無に関する再論

 

(1)位階令との比較からする失効説に対する疑問

 さて,件名を国葬令とする大正15年勅令第324号については,「日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定で,法律を以て規定すべき事項を規定するものは,昭和221231日まで,法律と同一の効力を有するものとする。」とする昭和22年法律第72号の第1条によって,1947年(昭和22年)1231日限り効力を失っているものと我が国政府は解釈しています。筆者も,当該見解を承けた記事を書いたところです(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079865197.html)。

 しかしながら,天皇の栄典授与大権(大日本帝国憲法15条(「天皇ハ爵位勲章及其ノ他ノ栄典ヲ授与ス」),日本国憲法77号「栄典を授与すること。」)に関する勅令仲間の位階令(大正15年勅令第325号)が現在政令としてなお効力を有していること(昭和22年政令第141項は,「日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定は,昭和22年法律第72号第1条に規定するものを除くの外,政令と同一の効力を有するものとする。」と規定しています。)との関係で,国葬令失効説にはなお釈然としないところが筆者には残ったのでした。

 

(2)受田衆議院議員対内閣法制局

 国葬令の効力の存否に係る問題の解明は,受田新吉衆議院議員が執念を燃やしていたところであり,同議員の質疑に基づき,当該問題に係る内閣法制局の解釈が国会答弁の形でいくつか残されています。

 

ア 吉國次長答弁:現行法令輯覧問題

 

  〇吉國(一〔郎〕)政府委員〔内閣法制次長〕 現行法令輯覧は,総理府の総務課で編さんはいたしておりますけれども,その内容につきましてまでしさいに私ども〔内閣法制局〕のほうで指導をいたしておるわけではございませんが,従来の解釈といたしましては,国葬令は昭和221231日限りその効力を失っておるというのが,ほぼ通説であろうと存じております。

  〇受田委員 通説であるならば,この廃止した法律,命令を法令輯覧の中に入れておるということは,どういう理由か,次会までに御答弁願いたい。

  〇吉國(一)政府委員 これは総理府の編さんでございますので,私が直接申し上げるわけにまいりませんが,何しろ具体的に廃止法律を出しまして,左に掲げる法律を廃止するというようなことで処理をいたしたものにつきましては議論がございませんが,その効力として解釈上失っているとかいうようなものにつきましては,議論のあるところでございます。そのような意味で,総理府におきましても国葬令がまだ効力を有するやいなやということにつきまして,確たる議論が立たないままにこれを掲げたもの,このような命令は,特に旧憲法施行前の太政官布告であるとかあるいは行政官布告等によりまして,旧憲法施行後に法律なり勅令なりの効力を持ちましたようなものにつきましては,現在でも疑義のあるようなものが若干ございます。そのようなものにつきましては,現行法令輯覧なり現行日本法規あるいはその他の法規集におきましても,その疑義の存するまま掲げてある例もございますので,国葬令も同様な例でございますというように考えております。

  196549日衆議院内閣委員会(第48回国会衆議院内閣委員会議録第304頁))

 

1965年当時,内閣総理大臣官房総務課編纂の現行法令輯覧に,国葬令はなお収載されていたのでした。

 

イ 林長官答弁:国葬令失効説の提示

 内閣法制局の奉ずる「通説」の由来するところは,1962226日の衆議院予算委員会第一分科会における林修三法制局長官の次の答弁でしょう。

 

  〇林(修)政府委員 御承知のように,これ〔国葬令〕は勅令で出ておりまして,結局,当時旧憲法下における独立命令であったと思うわけであります。従いまして,形式的に申しますと,ただいまにおいては効力は,まあちょっとないと言わざるを得ないと私は思います。しかし,これは御承知のように,実際新憲法後において問題がございましたのは,実は貞明皇后の御喪儀のときでございまして,このときには当時の政府当局は,国葬令に準じた,国葬令を実質的に踏襲したような考え方で御喪儀を営んだことになっておる,かように考えます。

  〇受田分科員 国葬令には天皇の大喪儀,それから「皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃及摂政タル親王内親王」等の喪儀は国葬とする。もう一つ,国家に偉勲のある者の死亡したときには特旨により国葬を賜う,こうあるわけです。しかし,これは現実に法律か何かで廃止してはいないのでしょう。

  〇林(修)政府委員 御承知のように,旧憲法と新憲法とでは,いわゆる行政機関と申しますか,による命令のきめ方が根本的に違うわけでございます。旧憲法時代は,御承知のように憲法第8条〔法律に代わる緊急勅令の規定〕あるいは第9条で,いわゆる天皇の独立命令という規定があったわけでございます。従って,今の大権事項,しかも一面においていわれる大権事項というものが憲法にいろいろ規定がございまして,この大権事項につきましては帝国議会は関与できないという解釈が法的解釈であります。従いまして,いわゆる大権事項,特に天皇の今の御喪儀というようなことについては,大権事項として,帝国議会の議決する法律によってはきめられないと考えられております。従って,勅令をもってきまっておったわけであります。新憲法は御承知のように,国会を唯一の立法機関とする規定を置きまして,行政機関による命令というものは,憲法第73条をごらんになるとわかりますが,あそこでは政令のことを直接言っておりますが,要するに法律を執行する命令あるいは法律の委任に基づく命令,この点にだけいわゆる行政機関の立法というものを認めておるわけであります。従いまして,新憲法下におきましては,旧憲法下の大権事項に属するような勅令で,結局において大部分が法律事項になった,かように考えられるわけであります。従いまして,新旧憲法の移り変わりにおきまして,御承知のように,昭和22年法律第72号という法律がございまして,旧憲法下のいわゆる独立命令で新憲法下においては法律をもって定めることを要する事項は,法律に移す。過渡的には,〔昭和〕22年の1231日までは独立命令も効力を持つ,かような法律をあの当時立法したわけでございます。その法律の規定によりまして,ただいまお話しの国葬令は,形式的には22年の末日限りで失効になっている。かように考えざるを得ないと思います。

  (第40回国会衆議院予算委員会第一分科会議録第740頁)

 

 林長官の上記答弁には明治皇室典範下の皇室令関係の説明が足りないようにも筆者には思われます。すなわち,大喪及び大喪儀については,国務に関する法規たる勅令によってではなく,いずれも皇室令である皇室服喪令(明治42年皇室令第12号)及び皇室喪儀令(大正15年皇室令第11号)によって規定されていました。皇室令は,「皇室典範ニ基ツク諸規則,宮内官制其ノ他皇室ノ事務ニ関シ勅定ヲ経タル規程ニシテ発表ヲ要スルモノ」(公式令(明治40年勅令第6号)51項)です。皇室の喪儀は,第一次的には,皇室の家長としての天皇に属する大権(皇室の大権)に係る事項であるのです。皇室の大権は,大日本帝国憲法上の天皇の大権ではありません。明治皇室典範系列の大権です。大日本帝国憲法に基づく勅令である――あるいは勅令でしかない――国葬令では,皇族の喪儀に関しては,大喪儀等を国葬として,それらの費用の国庫負担及び事務の政府取扱いが定められただけでした(同令1条及び2条)。

以上のことどもはともかくとして,林長官の前記答弁において問題なのは――国葬令が大日本帝国憲法9条の独立命令たる勅令であったのはそのとおりであるとして――日本国憲法の下では法律をもって定めることを要する規定は国葬令のどの部分であるのかが具体的に明示されていないことです。法律事項がなければ前記昭和22年政令第141項の規定によって国葬令はなお政令として効力を有しているということになってしまいますので,国葬令の効力に止めを刺すためには,そこまでの摘示をしなければならないところです。

 

ウ 高辻次長答弁:国葬令失効説の理由付け

 

(ア)国葬令3条1項及び5条の規定を理由とする一連の法令としての同令失効説

 林長官が提示した国葬令失効説については,1963329日の衆議院内閣委員会における高辻正巳内閣法制次長による次の答弁が追完をなすものなのでしょう。

 

  〇高辻政府委員 ただいま御指摘の勅令第324号,いわゆる国葬令〔筆者註:「国葬令」は,当該勅令の題名ではなく件名です。〕でございますが,御承知の通りに,国葬令自身を廃止した法令というものはございません。ございませんが,実はもうすでに御承知だと思いますが,昭和22年法律第72号という法律がございまして,〔略〕その立法によりまして,法律事項を規定しておるものは現在効力はない。22年の12月末日まではありましたけれども,その後はないということに相なっております。そこで,この国葬令が事実的に廃止されておりませんので,どうかという問題はございますが,この国葬令をながめて見ますと,「勅裁ヲ経テ之ヲ定ム」とか「特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアルヘシ」とかいうような規定があります関係からいたしまして,ただいま瓜生〔順良宮内庁〕次長が御指摘になりましたように,現在は効力がないというのが相当であろうと思います。

  (第43回国会衆議院内閣委員会議録第1413頁。下線は筆者によるもの)

 

  〇高辻政府委員 仰せの通りに,全く現在の皇室典範における25条の「大喪の礼を行う。」大喪の礼の方式をいかにするかという問題は,法律事項ではないと思います。また実際上,国葬令の形式的ないろいろなやり方というものに準じて〔筆者註:ここは正確には「皇室喪儀令及び皇室服喪令の形式的ないろいろなやり方というものに準じて」でしょう。〕やって一向にかまわないことだと思います。ただ,今申し上げましたのは,国葬令の中で,「特旨ニ依リ国葬ヲ賜フ」とかあるいは「勅裁ヲ経テ之ヲ定ム」とかいうような点がありますために,これだけを取り出して,それが効力がないといえばそれまででございますけれども,やはり一連の規定としての意味を持つものでございますので,そういう意味で,これは現在一つの法律としての効力はないだろうというわけでございまして,〔受田委員の〕仰せの中心である大喪の礼をどうするかというのは,事実としてきめればいいと思います。

  (同14頁。下線は筆者によるもの)

 

内閣法制局によれば,国葬令中第31項の「国家ニ偉勲アル者薨去又ハ死亡シタルトキハ〔天皇の〕特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアルヘシ」との規定及び第5条の「皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ノ式ハ内閣総理大臣〔が天皇の〕勅裁ヲ経テ之ヲ定ム」との規定が法律事項を定めるものであって,これらは19471231日限り失効し(昭和22年法律第721条),それに伴い「一連の規定としての意味を持つ」国葬令全体が失効した,ということになるようです。

 

(イ)位階令の解釈との整合性問題

前記の高辻次長説明については,まず,天皇が直接出て来るからいけないというのは,法律事項か否かの問題というよりも合憲か否かの憲法レヴェルの問題ではないか,そうであるのならば19471231日限りではなく,むしろ同年52日限りで失効したものと解すべきではないかという疑問が生じます。しかし,それ以前に,高辻次長の説明は,位階令に関する林法制局長官の次の解釈(1962226日衆議院予算委員会第一分科会)とそもそもどのように符合せしめられるべきものなのでしょうか。

 

 〇受田分科員 そうしますと,位階勲等,位階令その他の分はどうなっているのですか。

 〇林(修)政府委員 これは私どものただいままでの考え方で申しますと,大体旧憲法前のやつは,御承知のように太政官布告その他で出ております。旧憲法時代においては,文化勲章令等は勅令で出ております。これの新憲法下における効力いかんという問題が御指摘のようにあるわけでございます。これにつきましては,新憲法におきましていわゆる栄典の授与というものは,実は天皇の国事行為になっております。従いまして,新憲法下においても,天皇はもちろん栄典授与の権限を持っておられるわけであります。ただし,それを独立しておやりになるわけではもちろんなくて,すべて内閣の助言と承認に基づいてやることになっております。従いまして,新憲法下において,天皇が,栄典,たとえば勲章あるいは位階そういうものを授与される場合には,実は個別的に内閣の助言と承認ということももちろん可能だと思います。しかし,たとえば内閣が助言と承認をやるについて,内閣がその助言と承認をやる基準を,たとえば内閣の定める命令,政令でございます,の形できめることは,新憲法下においても要するに法律的にいえば可能である,かように考えるわけでございます。従いまして,そういう意味におきましては,旧憲法前のいわゆる勲章に関する太政官布告あるいは旧憲法時代に出ました文化勲章令等の勅令,これも先ほど申しましたいわゆる独立命令は効力を失なう。法律をもって規定すべき事項は効力を失ないますけれども,今言ったような勲章とか位階等の授与についての内閣の助言と承認の基準をきめたと考えられます今のもろもろの勅令あるいは太政官布告は,新憲法下においても政令の効力を持って続いているのではないか,かように考えておる次第でございます。従いまして,形式的にはこれは残っておるとわれわれは考えております。その結果から申しまして,これは御承知だと思いますが,昭和30年に褒章条例の一部を改正して二つの例の褒章〔筆者註:黄綬褒章及び紫綬褒章〕を加えたことがございます。これは政令改正の形でやっております〔筆者註:昭和30年政令第7号による改正〕。褒章条例は御承知と思いますが,たしか太政官布告だと思いますが〔筆者註:明治14年太政官布告第63号〕,これは現在においてもなお効力を持っておる,かような考え方で対処しておるわけでございます。

 (第40回国会衆議院予算委員会第一分科会議録第740頁。下線は筆者によるもの)

 

 「昭和30年政令7号による褒章条例改正を,政府は,憲法41条にいう「立法」についてせまい「法規」概念を採る解釈を前提としたうえで,憲法77号(栄典の授与)を実施するための政令として説明した〔略〕。しかし,一般的規範の定立という意味での立法が法律によらなければならない〔略〕,という見地からすると,憲法736号にいう「憲法及び法律」は一体のものとして読まなければならず,内閣は,直接には法律を実施するためにしか政令を制定できない,と考えられなければならない。」ということで(樋口陽一『憲法』(青林書院・1998年)325頁),学説からは評判の悪い解釈です。しかし,そのことは措きましょう。

 天皇が特旨により国葬を賜うこと(国葬令31項)が天皇の行う国事行為たる「栄典を授与すること」(日本国憲法77号)に該当するのであれば,当該国事行為に係る内閣の助言と承認(同条柱書き)の基準を定めるものとして,位階令,文化勲章令(昭和12年勅令第9号),褒章条例同様,国葬令はなお政令の効力をもって存続するものとしてよさそうです。

 現在政令の効力をもって存続している位階令3条は,「前条ニ掲クル者〔「国家ニ勲功アリ又ハ表彰スヘキ効績アル者」(同令21号)並びに「在官者及在職者」(同条3号。なお同条2号は削除)〕死亡シタル場合ニ於テハ特旨ヲ以テ其ノ死亡ノ日ニ遡リ位ヲ追贈スルコトアルヘシ」と規定しており,これは国葬令31項と同じ構造の条文です。

 国葬令5条も,「皇族ニ非サル者〔皇族の喪儀の式を定める皇室喪儀令は,昭和22年皇室令第12号により194752日限りをもって廃止されています。〕国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ノ式ハ当該事務を所掌する内閣府〔内閣府設置法(平成11年法律第89号)4333号(同号は,国の儀式に関する事務に関することを内閣府の所掌事務としています。なお,栄典の授与に関することも同項28号により内閣府の所掌事務です。〕の主任の大臣である内閣総理大臣〔同法62項〕が内閣の助言と承認による天皇の勅裁ヲ経テ之ヲ定ム」と読み替えればよさそうです。要は内閣府が企画立案して閣議決定をし,天皇に裁可せしめればよいのでしょう。

 

3 日本国憲法下における栄典の授与に係る天皇の国事行為に関して

 天皇の裁可といえば大日本帝国憲法めいていますが,日本国憲法下でも天皇は次のように執務しています。

 

  〔19637月〕12日 金曜日 生存者叙勲は,昭和21年〔1946年〕53日及び昭和28年〔1953年〕918日の閣議決定により,緊急を要するものを除いて停止されていたが,この日,生存者に対する叙勲の開始,及び「勲章,記章,褒章等の授与及び伝達式例」が閣議決定され,午後,これについての上奏書類を御裁可になる。なお,生存者叙勲は栄典制度に対する国民の期待その他の事情が考慮され,この度再開されることとなったが,生存者叙位は再開されなかった。

  (宮内庁『昭和天皇実録 第十三』(東京書籍・2017年)523頁。下線は筆者によるもの)

 

 すなわち,生存者叙勲を開始するという叡旨が示され,及びその伝達式例に係る勅裁がせられています。

 なお,194653日の閣議決定(というよりは当時はなお大日本帝国憲法下であったので,むしろ天皇の決定ということになりますが)は,次のようなものでした。

 

  この日,「官吏任用叙級令施行に伴ふ官吏に対する叙位及び叙勲並びに貴族院及び衆議院の議長,副議長,議員又は市町村長及び市町村助役に対する叙勲の取扱に関する件」が閣議決定され,午後8時,これについての上奏書類を御裁可になる。これにより官吏に対する現行の叙位・叙勲制度,貴族院及び衆議院の議長・副議長・議員又は市町村長及び市町村助役に対する現行の叙勲制度は,新憲法が制定され新たな栄典制度が確定するまでの間,一時停止される。またこれに伴い,叙位及び叙勲せられなかった者に対しては,新制度実現時に新制度を遡及適用するなどの方法により不利益を蒙らないように考慮することとされる。ただし,331日までに文武官叙位進階内則により初叙又は特旨叙位位階追陞を含むの資格の発生した者並びに叙勲内則により初叙進級の資格の発生した者に対しては,特に従前の例に依り叙位及び叙勲を取り扱うこと,在官在職中死没した官吏に対する叙位・叙勲については,民間功労者に対する死亡時の特旨叙位,又は叙勲・勲章加授の例に準じて取り扱うこととされる。

  この度叙位及び叙勲の取り扱いが決められたのは,これまで官吏に対する叙位・叙勲の取り扱いについては,文武官叙位進階内則又は叙勲内則に従い,官等あるいは在職年数により叙位・叙勲が行われていたところ,今般,官吏任用叙級令の施行に伴い官等が廃止されたことから,制度を改正する必要が生じたものの,現下の状勢に鑑み,新憲法が制定され新たな栄典制度が確定するまでの間,官吏への叙位・叙勲の取り扱いを一時停止する要があることによる。また貴族院及び衆議院の議長・副議長・議員又は市町村長及び市町村助役に対する叙勲についても,これまで叙勲内則中官吏の定例叙勲に関する規定を準用してきたところ,今般,官吏と同様に取り扱う必要が生じたことによる。

  (宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)108-109頁)

 

 ここでいう官吏に対する叙位・叙勲制度に係る「新たな栄典制度」の確定はどのような法形式をもってされることが予定されていたのでしょうか。1946417日発表の憲法改正草案の第694号では「法律の定める規準に従ひ,官吏に関する事務を掌理すること」は内閣の行う事務とされていましたところ(日本国憲法734号参照),叙位・叙勲制度を官吏本位のものと考えれば,それは法律によって定められなければならないものとも考えられ得たところでしょう。これに対して大日本帝国憲法下では,官吏に関する事務の基準を法律で定める必要はありませんでした(大日本帝国憲法10条)。

 1953918日の閣議決定は,次のようなものでした。

 

  生存者に対する叙勲について,原則としてその取扱を停止し,栄典制度を再検討した後に実施するという昭和21年以来の方針から,最近の状況に鑑み,緊急を要するものについては,現行の勲章を授与することとする旨が,この日閣議決定され,裁可される。

 (宮内庁『昭和天皇実録 第十一』(東京書籍・2017年)588頁)

 

 位階令23号に基づく在官者及び在職者に対する生存者叙位はなお再開されていませんが,憲法15条に関する昭和天皇の次の理解からすると,今後も再開はないのでしょう。

 

  〔幣原喜重郎内閣総理大臣による憲法改正草案の奏上に際し〕公務員の任免に関する第14現行第15について御懸念を示され,改正の要ある旨を仰せになる。〔略〕天皇は,〔略〕第14条に関し,特に宮内官吏の任免について御懸念を示される。翌日〔1946416日〕午前,侍従次長木下道雄をお召しになり,宮内官吏の任免については,天皇の認証を必要としたき旨の御希望を述べられる。なお政府は,17日,この草案前文を発表する。

  (実録第十94頁)

 

 1946417日発表の憲法改正案14条は,次のとおりでした。第2項と第3項との間に1項挿入されて,現在の日本国憲法15条となるものです。

 

14条 公務員を選定し,及びこれを罷免することは,国民固有の権利である。
すべて公務員は,全体の奉仕者であつて,一部の奉仕者ではない。
すべて選挙における投票の秘密は,これを侵してはならない。選挙人は,その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

 

 すなわち,新たな憲法に基づく公務員は国民の奉仕者であって,もはや朕(天皇)が官吏にあらずということが昭和天皇に痛感されたものでしょう。タンプル塔内において,自ら親しく任じた忠義の臣ならざる,愛国者エベール率いる共和国の公務員らに取り巻かれていたルイ16世とその家族の姿が脳裡に浮かんでもいたものか。

 

  彼〔エベール〕はいかがわしい前歴の持主で,劇場の金を着服したかどで公けに告発され,職もなければためらうこともなく,狩り立られたけものが川に飛びこむように革命の流れに飛びこんで,うまくその流れに乗った。それは彼が,サンジュストの言うように「時代の気分と危険に応じて爬虫類のように器用に色を変える」ことによるのである。革命が血によごれればよごれるほど,彼の書く,というよりは汚物をぬったくる「ペール・デュシェーヌ」紙――最も低劣な革命の赤新聞――にとる彼の筆はいよいよ赤くなった。おそろしく低級な口調で――カミーユ・デムーランに言わせれば,「まるでセーヌがパリの下水の出口ででもあるかのように」――彼は下層階級,最下層階級の最も下劣な本能に媚び,〔略〕こうやって賤民に人気を博したおかげで,たっぷり金もうけをした上に市の委員会に地位を得,ますます大きな権力を握った。不幸にもマリー・アントワネットの運命はこの男の手にゆだねられたのである。

  (ツワイク,関楠生訳『マリー・アントワネット』(河出書房・1967年)355-356

 

 位階は,「推古天皇始めて冠位十二階を定め,諸臣に頒ち賜」うたことに起因します(『憲法義解』第15条解説)。国民の選定罷免に係る公務員であって天皇の臣ならざる者に天皇から叙位があるということは,十七条憲法時代に発する位階の本義に反しますし,日本国憲法151項・2項からしてもおかしいことでしょう。公務員たるもの,生きている間は専ら全体国民の奉仕者たるべし,死して後初めて,希望する者は天皇の直臣たることを許さるることあるべし(人民を背景に立つエベールの徒からは口汚く罵倒されるでしょうが),ということになるわけでしょう。

 しかし,国葬の場合,国葬を賜わる者は,定義上既に死んでいます。生存者叙位のような問題はないわけです。

国葬令の効力の有無問題に戻りましょう。

 


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