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歴史は厳粛なる判官(はんがん)なり。(しか)るにこの判官の前に立ちて今の日本国民は(すべ)て事実を(ママ)蔽し解釈を迂曲(うきょく)して虚偽を陳述しつゝあり。〔略〕(いわ)く,日本民族の凡ては忠臣義士にして乱臣賊子は例外なりと。〔略〕(しか)しながら吾人(ごじん)〔われわれ〕は断言す,――太陽が〔天動説に従って〕世界の東より西を()ぐる者に(あら)らざることの明らかなりしが(ごと)く,必ず一たび地動説の出()ゝ,例外は皇室の忠臣義士にして日本国民の(ほとん)ど凡ては皇室に対する乱臣賊子なりとの真実に顚倒(てんとう)されざるべからずと。(北輝次郎『国体論及び純正社会主義』(北輝次郎1906年)619頁)

 

 当時23歳の若き天才の言は,百十余年を経た今日更にその真理たるの輝きを増しつつあるものか。ふと気が付けば,今年(2017年)8月19日は,二・二六叛乱事件に連座した「乱臣賊子」・一輝北輝次郎54歳にしての銃殺による刑死から80年になります。

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北一輝先生之墓(東京都目黒区の瀧泉寺(目黒不動)墓地)
 

第1 一輝北輝次郎の刑死

 

1 銃殺

宮内庁の『昭和天皇実録 第七』(東京書籍・2016年)1937年8月19日(木曜日)の項にいわく。

 

 午前1140分,二・二六事件被告の村中孝次・磯部浅一・北輝次郎・西田税の死刑執行この日午前5時50に関する陸軍上聞を受けられる。

 

銃殺は,陸軍刑法(明治41年法律第46号)21条の定める死刑の執行方法です(「陸軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ陸軍法()ヲ管轄スル長官ノ定ムル場所ニ於テ銃殺ス」)。これに対して,通常の死刑の執行は,「死刑は,刑事施設内において,絞首して執行する。」ということになっています(刑法(明治40年法律第45号)11条1項)。法文上は絞首とされていますが,法医学的には縊首(首を吊った状態での死亡)ということになります(前田雅英『刑法総論講義 第4版』(東京大学出版会・2006年)519頁)。

通常の死刑の執行は司法大臣の命令によるもの(旧刑事訴訟法(大正11年法律第75号)538条)であったのに対して,陸軍軍法会議法(大正10年法律第85号)の適用される場合においては,死刑の執行は陸軍大臣の命令によるものとされていました(同法502条)。1937年8月の陸軍大臣は,第1次近衛内閣の杉山元でした。

 

2 反乱の首魁

 

(1)罰条及び罪名

北死刑囚の罰条及び罪名は,陸軍刑法25条1号の反乱の首魁ということだったそうです(なお,陸軍刑法第2編第1章(25条から34条まで)の章名には()乱とありますが,25条では()乱となっています。)。陸軍刑法25条は,次のとおり。

 

25条 党ヲ結ヒ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス

 一 首魁ハ死刑ニ処ス

 二 謀議ニ参与シ又ハ群衆ノ指揮ヲ為シタル者ハ死刑,無期若ハ5年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他諸般ノ職務ニ従事シタル者ハ3年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

 三 附和随行シタル者ハ5年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

 

 刑法77条の内乱罪がつい彷彿とされる規定振りです。

 

(2)内乱罪との関係

内乱罪と軍刑法の反乱罪との関係については,海軍刑法(明治41年法律第48号)20条の反乱罪(陸軍刑法25条と同一文言)との関連で,五・一五事件に係る昭和10年(1935年)1024日の大審院判決が「〔海軍〕刑法20条に依り構成すべき所謂(いわゆる)反乱罪とは海軍軍人党を結び兵器を執り官憲に反抗して多衆的暴動を為すを()ひ,内乱罪の如く朝憲を紊乱(ぶんらん)することを目的とするものに限らず,其の他の公憤又は私憤に出づる場合をも包含し,その目的には拘らざるを以て,軍人たる身分及び犯罪の目的に於て内乱罪とは其の構成を異にすることあるべき特別罪なりと解するを相当とす」と判示しています(日高巳雄『軍事法規』(日本評論社・1938年)635頁における引用)。内乱罪の目的は,当該判決においては朝憲紊乱(憲法の定める統治の基本秩序の壊乱)のみが挙げられていますが,政府の顚覆(国の統治機構の破壊)又は邦土の僭窃(国の領土における国権を排除しての権力の行使)も含まれます。

 

(3)共犯と身分

ところで,陸軍刑法は身分犯に係る法律でした。同法1条は「本法ハ陸軍軍人ニシテ罪ヲ犯シタル者ニ之ヲ適用ス」と規定しています。ただし,陸軍軍人ではない者が犯しても陸軍刑法が適用される同法の罪が同法2条に掲げられています。しかしながら,二・二六事件で問題となった陸軍刑法25条の罪は,同法2条に掲げられていません。陸軍軍人にあらざる北輝次郎に陸軍刑法25条が適用されるに当たっては,刑法8条(「この編〔刑法総則〕の規定は,他の法令の罪についても,適用する。ただし,その法令に特別の規定があるときは,この限りでない。」)により,同法65条1項(「犯人の身分によって構成すべき犯罪行為に加功したときは,身分のない者であっても,共犯とする。」)が発動されたものでしょう。前記昭和101024日大審院判決は,海軍刑法20条の反乱罪につき,「(しこう)して被告人大川周明,頭山秀三,本間憲一郎は(いず)れも軍人たる身分なきも資金又は拳銃弾を供与し〔海軍軍人である〕古賀清志,中村義雄等の上の反乱行為を幇助し之に加〔功〕したるものなれば刑法第65条第1項,第62条第1項〔「正犯を幇助した者は,従犯とする。」〕に依り右反乱罪の従犯として処断すべきもの」と判示しています(日高634頁における引用)。ちなみに,大川周明らは反乱幇助ということで,刑法65条1項の「共犯」は教唆・幇助に限るという説によっても説明可能でしたが,北輝次郎の場合は首魁ということであって首魁の教唆・幇助ではないのですから,同項の「共犯」には共同正犯が含まれるという判例・通説に拠るべきでしょう(前田総論473頁参照)。二・二六事件の判決においては,多数の者が首魁とされています。内乱罪においても,「首謀者は必ずしも1人とは限らない」とされています(前田雅英『刑法各論講義 第4版』(東京大学出版会・2007年)504頁)。

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大川周明の墓(瀧泉寺墓地)
北一輝先生之墓とは,墓1基を隔てて向かい側です。墓地は芝貼り作業中。後方は,林試の森公園です。

 

(4)騒乱罪との関係

ところで,刑法77条の内乱罪について「首謀者〔首魁〕は必ず存在しなければならない点が騒乱罪との相違点である」とされていますが(前田各論504頁),これは条文の書き振りからの解釈なのでしょうか。しかしながら,同様の書き振りである海軍刑法20条の反乱罪においては首魁の存在は必須ではなかったようで,五・一五事件の犯人で死刑になった者はいません(同条1号において,首魁の法定刑は死刑のみ。)。前記昭和101024日の大審院判決においても「就中(なかんずく)海軍軍人古賀清志,中村義雄両名は主として同志の糾合(きゅうごう)連絡実行計画の起案武器及資金の調達等の任に当り,其の他本件犯罪遂行に(つき)画策謀議を為したるものなれば,右両名の行為は本件犯行の謀議に参与したるものとして海軍刑法第20条第2号前段に該当する反乱罪を構成するものと謂ふべく,之を以て単に海陸軍人及軍人に非ざる者多衆聚合して暴行又は脅迫を為したる騒擾(そうじょう)〔現在は騒乱罪〕を構成するに止まるものと()すを得ず」と判示されており(日高633634頁における引用),反乱罪においてはむしろ謀議参与者こそが必須であると解されたように思われるところです。海軍の東京軍法会議(海軍軍法会議法(大正10年法律第91号)8条2号)における公判においては,検察官は古賀中尉に対して海軍刑法20条1号の首魁として死刑を求刑していましたが(山本政雄「旧陸海軍軍法会議法の意義と司法権の独立―五・一五及び二・二六事件裁判に見る同法の本質に関する一考察―」戦史研究年報(防衛省防衛研究所戦史部編)11号(2008年3月)71頁),1933年11月9日言渡しの判決では古賀は同条2号の謀議参与者ということに格落ち認定されています(山本72‐73頁)。

 

3 陸軍軍法会議の裁判権

陸軍刑法が陸軍軍人にあらざる者に適用される場合があることは分かりましたが,陸軍軍法会議の裁判権が北輝次郎ら陸軍軍人にあらざる者に及ぶ場合はいかなる場合でしょうか。

 

(1)陸軍軍法会議法

陸軍軍法会議法1条及び3条1項によれば,陸軍軍法会議の裁判権は,通常,陸軍の現役にある者,召集中の在郷軍人,召集によらず部隊にあって陸軍軍人の勤務に服する在郷軍人,現に服役上の義務履行中の在郷軍人,志願により国民軍隊に編入され服役中の者,陸軍所属の学生・生徒,陸軍軍属及び陸軍の勤務に服する海軍軍人(同法1条1項1号),陸軍用船の船員(同項2号),陸軍の部隊に属し又は従う者(同項3号)並びに俘虜(同項4号)に対してその犯罪について(身分発生前の犯罪を含み(同条2条1項),身分継続中に捜査の報告又は逮捕,勾引若しくは勾留があったときは身分喪失後も裁判権は存続(同条2項)),並びに制服着用中の在郷軍人に対しその犯した陸軍刑法の罪について(陸軍軍法会議法3条1項。同法2条2項が準用される。)及ぶものとされていました。陸軍軍法会議法4条は合囲地境(戒厳令(明治15年太政官布告第36号)2条第2号)にある者に対する裁判権について規定し,同法5条は「軍法会議ハ戒厳令ニ定メタル特別裁判権ヲ行フ」と規定し,同法6条は「戦時事変ニ際シ軍ノ安寧ヲ保持スル為必要アルトキ」の裁判権の拡張について規定していましたが,二・二六事件の際は戒厳令に基づき戒厳が宣告されたわけではなく(1936年2月27日の昭和11年勅令第18号(大日本帝国憲法8条1項の法律に代わるべき緊急勅令。同年1月21日の衆議院解散により帝国議会は閉会中でした。)により「一定ノ地域ヲ限リ別ニ勅令ノ定ムル所ニ依リ戒厳令中必要ノ規定ヲ適用スルコトヲ得」るものとした上で,同じ2月27日の昭和11年勅令第18号によって東京市に戒厳令9条(臨戦地境内においては地方行政事務及び司法事務(司法行政事務であっていわゆる審判は包含せず(日高665頁)。)の軍事に関係ある事件は司令官の管掌下に入る。)及び14条(司令官の強制権限を挙示)の規定が適用されることになっただけです。),二・二六事件は戦時事変でもないでしょうしその鎮圧後は軍の安寧を保持するための必要もなかったでしょう。

 

(2)昭和11年勅令第21

結論的には,1936年3月4日の昭和11年勅令第21号(東京陸軍軍法会議に関する勅令(件名)。これも大日本帝国憲法8条1項の法律に代わるべき緊急勅令)第5条(「東京陸軍軍法会議ハ陸軍軍法会議法第1条乃至第3条ニ記載スル者以外ノ者ガ同法第1条乃至第3条ニ記載スル者ト共ニ昭和十一年二月二十六日事件ニ於テ犯シタル罪ニ付裁判権ヲ行フコトヲ得」)によって北輝次郎らに陸軍軍法会議の裁判権が及ぶことになったものです。

上記昭和11年勅令第21号の味噌は,第5条と共にその第6条(「東京陸軍軍法会議ハ陸軍軍法会議法ノ適用ニ付テハ之ヲ特設軍法会議ト看做ス」)であって(戦時事変に際し必要により特設され,又は合囲地境に特設される特設軍法会議(陸軍軍法会議法9条2項から4項まで)があれば,それに対応するものとして常設軍法会議があるわけですが,常設軍法会議は,高等軍法会議及び師団軍法会議でした(同条1項)。),特設軍法会議である結果,裁判官を5人から3人に減員すること(ただし,上席判士及び法務官たる裁判官は減員の対象外。)が可能になり(同法47条3項),予審官及び検察官の職務を陸軍法務官ではなく陸軍将校が行うことが可能になり(同法63条,70条),裁判官,予審官及び録事の除斥及び回避の規定の適用がなく(同法86条)(この結果,同法81条7号の規定にかかわらず,北輝次郎・西田税の予審官を務めた伊藤章信法務官が当該被告人らの裁判官ともなっています(山本78頁)。),被告人の弁護人選任権は認められず(同法93条,また同法370条),審判の公開に関する規定の適用がなく(同法417条),師団軍法会議ではないので高等軍法会議に対する上告ができない(同法418条)というようなことになったわけです。

昭和11年勅令第21号の案は,二・二六事件鎮定(1936年2月29日)早々の1936年3月1日に閣議決定がされ,同日昭和天皇に書類上奏がされています。

 

本日閣議決定の東京陸軍軍法会議に関する緊急勅令を枢密院に御諮詢の件につき,書類上奏を受けられる。後刻,侍従武官長本庄繁をお召しになり,同勅令につき言上を受けられる。(昭和天皇実録七48頁)

 

更に同月2日には,二・二六事件参加者の詳細について,戒厳司令官から昭和天皇に言上がされています。

 

午後2時15分,御学問所において戒厳司令官香椎浩平に謁を賜い,叛乱軍参加将兵及び叛乱に関与の民間人の詳細につき言上を受けられ,叛乱事件の根底は極めて広汎・深刻にて迅速かつ徹底的検挙を要する旨の奏上を受けられる。(昭和天皇実録七50頁)

 その午後に昭和11年勅令第21号が裁可公布された同月4日,昭和天皇に次の発言があったとされます。


本庄〔繁〕武官長によれば,「此日,午後2時御召アリ,已ニ,軍法会議ノ構成モ定マリタルコトナルガ,〔1935年8月12日に永田鉄山陸軍軍務局長を斬殺した〕相沢〔三郎〕中佐ニ対スル裁判ノ如ク,優柔ノ態度ハ,却テ累ヲ多クス,此度ノ軍法会議ノ裁判長,及ビ判士ニハ,正シク強キ将校ヲ任ズルヲ要ス,ト仰セラレタリ」とある。(大江志乃夫『戒厳令』(岩波新書・1978年)194頁)


 ただし,『昭和天皇実録 第七』においては,上記御召に係る言及がありません(
5152頁)。


(3)通常裁判所の裁判権との関係

軍法会議と裁判所構成法(明治23年法律第6号)に基づく通常裁判所との関係については,「軍法会議に属する事件に付き通常裁判所は裁判権を有せぬ。此の種の事件に付ては被告人に対し裁判権を有せざるものとして,公訴棄却を言渡さねばならぬ(〔旧〕刑訴第315条第1号,第364条第1号)」と説明されています(小野清一郎『刑事訴訟法講義』(有斐閣・1933年)8081頁)。管轄(ちがい)(旧刑事訴訟法309条・355条)ではなく「被告人ニ対シテ裁判権ヲ有セサルトキ」として公訴棄却の決定(旧刑事訴訟法315条1号(予審判事によるもの))又は判決(同法364条1号(公判の裁判))をすべきものとすることについては,大審院の判例もあるそうです(小野81頁)。裁判所構成法2条1項は「通常裁判所〔区裁判所,地方裁判所,控訴院及び大審院(同法1条)〕ニ於テハ民事刑事ヲ裁判スルモノトス但シ法律ヲ以テ特別裁判所ノ管轄ニ属セシメタルモノハ此ノ限ニ在ラス」と規定していますが,ここでは,裁判権が問題になっているわけです。現行刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)に関して,裁判権については,「刑事裁判権は,わが国にいるすべての者に及ぶ。日本人であると,外国人であるとを問わない。」とされつつ,当該裁判権から「国法上,天皇および摂政は,除外されるものと解される(皇典21条)」とされ,「国際慣習法上,外国の君主,使節およびその随員は,いわゆる治外法権を持っており,これらの者には,わが国の裁判権は及ばない。」とされています(平野龍一『刑事訴訟法』(有斐閣・1958年)55頁)。大日本帝国時代においては,通常裁判所から見ると,陸軍軍人等及び海軍軍人等はあたかも治外法権を持っているような具合になっていたわけです。

ところで,東京陸軍軍法会議に関する昭和11年勅令第21号の第5条が存在せず,北輝次郎が通常裁判所において,旧刑事訴訟法の手続によって裁かれ,刑法65条1項を介して陸軍刑法25条1号の反乱の首魁(の共同正犯)とされて死刑判決が下され,確定した場合,その執行方法は,銃殺ではなく,やはり司法大臣の命令により絞首ということになったのでしょう。陸軍刑法21条は,飽くまでも「陸軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ」と規定していたところです。

 

第2 一輝北輝次郎の乱臣賊子論

 

1 『国体論及び純正社会主義』

本ブログ筆者の悪癖でつい回り道をしました。二・二六事件発生からちょうど30年前,1906年に一輝北輝次郎が自費出版したのが『国体論及び純正社会主義』です(発行日付は同年5月9日)。ただし,同書の書名は「内容に即していないばかりでなく,読まずに偏見だけで判断する世人をミスリードする」ものであって,「内容に即した命名をするとすれば,『社会民主主義の進化論的基礎づけ――併せて講壇社会主義と国体論の徹底的批判』というようなものとなろう」とされています(長尾龍一「『国体論及び純正社会主義』ノート」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)88頁)。『国体論及び純正社会主義』は,現在,国立国会図書館デジタルコレクションで自由に見ることができます。第4編(第9章から第14章まで)が「所謂国体論の復古的革命主義」と題され,国体論の批判がされている部分です。以下本稿は,この第4編(及び第5編「社会主義の啓蒙運動」)を読んでの抜き書きということになります。

批判の対象たる国体論は,北の説くところでは次のとおり。

 

吾人は始めに本編の断案として世の所謂『国体論』とは決して今日の国体に非らず,又過去の日本民族の歴史にても非らず,明らかに今日の国体を破壊する『復古的革命主義』なりと命名し置く。(北484頁)

 

 また,北のいう社会民主主義とは,次のとおり。

 

  『社会民主々義』とは個人主義の覚醒を受けて国家の凡ての分子に政権を普及せしむることを理想とする者にして個人主義の誤れる革命論の如く国民に主権存すと独断する者に非らず。主権は社会主義の名が示す如く国家に存することを主張する者にして,国家の主権を維持し国家の目的を充たし国家に帰属すべき利益を全からしめんが為めに,国家の凡ての分子が政権を有し最高機関の要素たる所の民主的政体を維持し若しくは獲得せんとする者なり。(北566頁)

 

「当時の第一級の学者と見えていた人々を,客観的に見ても相当程度,主観的には恐らく完膚なきまでに論駁し,人類史の発展方向を予言した青年北は,非常な抱負を抱いて本書を自費出版したものと思われる。西園寺内閣〔内務大臣は原敬〕の開明性,(天皇制の正当化,革命方法の議会主義など)主張の一定の穏健さからしても,本書は発禁にならず,学界・思想界に革命的衝撃を与えると期待していたに相違ない。それが直ちに発禁処分にされたことは,非常な衝撃で,北は生涯それから立ち直れなかった。」ということですが(長尾107108頁),『国体論及び純正社会主義』の国立国会図書館デジタルコレクション本は,帝国図書館の蔵書印が押捺された「北輝次郎寄贈本」であって,1906年5月9日に寄贈された旨の押印があります。出版法(明治26年法律第15号)19条は「安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムル文書図画ヲ出版シタルトキハ内務大臣ニ於テ其ノ発売頒布ヲ禁シ其ノ刻版及印本ヲ差押フルコトヲ得」と規定していますが,焚書までは行われなかったものです。

しかし,青年北の文体は,なかなか口汚い。「穂積博士は最も価値なき頭脳にして歯牙にだも掛くるの要なき者なりしに係らず,法科大学長帝国大学教授の重大なる地位にあるが為めに吾人の筆端に最も多く虐待されたる者なり。」(北834835頁),「更に〔穂積〕氏にして拙者と天子様とは血を分けたる兄弟分なりと云は査公必ず手帳を出して一応の尋問あるべく,子が産れた親類の天子様に知らせよと云は産褥の令夫人は驚きて逆上すべく,大道に立ちて穂積家は皇室の分家なりと云は腕白の小学生徒等は必ず馬鹿よ々々よと喚めきて尾行し来るべし。」(北596頁),「若し〔穂積博士の〕銅像が建てらるゝならば必ず両頭を要し,而して各々の頭に黄色の脱糞を要す。」(北771頁)等々とまで書かれ嘲弄された穂積八束が訴えたのならば,北方ジャーナル事件に係る最高裁判所大法廷昭和61年6月11日判決(民集40巻4号872頁)よりもはるか前に,人格権に基づく出版差止めの判例が出たかもしれません。

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隅田川越しに東京都墨田区方面を望む(駒形橋の東京都台東区浅草側から)


 なお,腕白小僧らは,路上で風変わりなおじさんにつきまとって馬鹿よ馬鹿よとはやし立てるに当たっては,よくよく注意すべきでしょう。

 

And he went up from thence unto Beth-el: and as he was going up by the way, there came forth little children out of the city, and mocked him, and said unto him, Go up, thou bald head; go up, thou bald head.

And he turned back, and looked on them, and cursed them in the name of the LORD. And there came forth two she bears out of the wood, and tare forty and two children of them. (II Kings 2.23-24)
 

(ただし,穂積八束の写真を見るに,エリシャのごとく禿頭ではなかったようです。) 

 

2 日本国民=乱臣賊子論

さて,青年北は,日本国民の正体は,当時のいわゆる国体論者の説くがごとく,()く忠孝に万世一系の皇位を扶翼して万邦無比の国体を成せるものでは全くないと主張します。

 

茲に於て所謂国体論者は云ふべし,〔略〕日本国民は克く忠孝に万世一系の皇位を扶翼して万国無比の国体を成せるなりと。是れ忠孝主義と系統主義とが東洋の土人部落に取られたるが為めに前提と結論とを顚倒せられたる者なり。――日本民族は系統主義を以て家系を尊崇せしが故に皇室を迫害し忠孝主義を以て忠孝を最高善とせしが故に皇室を打撃したるなり。(北617618頁)

 

 189010月の明治天皇の教育勅語に「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世()ノ美ヲ()セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ」及び「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(かく)ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ(なんじ)祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」とあります。ただし,北によれば,これは天皇の側からする社交辞令のごときものであって,「教育勅語中の其文字の如きは単に天皇の国民を称揚したる者として見れ〔ば〕可なり。幾多の戦争に於て勝利を得る毎に,天皇より受くる称讃に対して皆型の如く,是れ皆大元帥陛下の御稜威に依るとして辞退しつゝあるに非ずや。」ということになります(北622頁)。

 なお,「系統主義」及び「忠孝主義」については,まず次のように説明されています。

 

一家と云ひ一致と云ふが如き誠に迷信者の捏造(ねつぞう)に過ぎずと雖も,君臣一家論の拠て生ずる根本思想たる『系統主義』と,忠孝一致論の基く『忠孝主義』とは決して軽々に看過すべからざることなり。

固より特殊に日本民族のみに限らず如何なる民族と雖も社会意識の覚醒が全民族全人類に拡張せられざる間は,系統を辿りて意識が漸時的に拡張するの外なきを以て血縁関係に社会意識が限定せられて系統主義となり,従て其進化の過程に於て生ずる家長国に於ては当然に忠孝主義を産むべきものにして,天下凡て系統主義と忠孝主義とを経過せざる国民は無し。(北616617頁)

 

 北は,我が国民による皇室に対する迫害打撃の歴史をこれでもかとばかりに書き連ねるのですが,以下はそのほんの一部です。

 

吾人は学理攻究の自由によりて,皇室の常に優温閑雅なりしにも係らず,国民の祖先は常に皇室を迫害打撃し,万世一系の傷けられざりしは皇室自家の力を以て護りしなりと断定するに於て何の憚りあらんや。(北621頁)

 

例外の乱臣賊子は彼等〔いわゆる国体論者〕の考ふる如く〔北条〕義時一人に止まるべき者に非らずして,義時の共犯或は従犯として〔承久三年(1221年)の変の後〕3帝〔後鳥羽上皇,土御門上皇及び順徳上皇〕を鳥も通はぬ遠島〔ただし,土御門上皇の配流先は土佐〕に放逐せし他の十九万の下手人,尚後より進撃せんと待ちつゝありし二十万の共謀者を忠臣義士の中に数ふることは国体論をして神聖ならしむる所以(ゆえん)に非らず。〔現在の立場から歴史を逆進的に見る〕逆進的批判者が3帝を遷し奉れりと云ふに対して吾人は放逐の文字を用ゆ。何となれば(かか)る潤飾を極めたる文字は戦々競々の尊崇を以てする行動を表白すべく,後鳥羽天皇が隠岐に39年間〔ママ。現実には承久三年から18年後の延応元年(1239年)に崩御〕巌崛に小屋を差し掛けて住ひ,順徳帝が佐渡に於て今日尚順徳坊様と呼ばれつゝあるが如く物を乞ひて過ごせし如き極度迄の迫害窮(ママ)を表はすべき言葉に非らず。〔略〕居住の自由を奪ひて都会の栄華より無人島に流竄(りゅうざん)したることは明白なる放逐非らずや。神官が恭敬恐縮を以て旧殿より大神宮を捕へて新殿に放逐したりと云ふものあらば発狂視せらるべきが如く,義時が兵力を以て3帝を隠岐佐渡に移し奉れりと云ふが如き文字の使用は逆進的叙述も沙汰の限りと云ふべし。(北649650頁)

 

 乱臣賊子による仲恭天皇(九条廃帝)廃位の事実も,「日本国民は克く忠孝に万世一系の皇位を扶翼して万国無比の国体を成せるなり」なのだとの前提に基づく「逆進的叙述」によれば,特例による御「譲位」ないしは生前御「退位」ということになるのでしょう。

 

  明かに降服の態度を示して東軍を迎へたるに係らず全国民の一人として死より苦痛なる3帝の流竄を護らんとせし者なきは,外国干渉の口実を去らんが為めの余儀なき必要ながら而も僅かに1票の差を以て〔ルイ16世の〕死刑を決せし〔1793年の〕仏蘭西国民よりも遥かに残忍なる報復に非ざりしか。(吾人は今尚故郷なる〔佐渡の〕順徳帝の(ママ)〔陵〕に到る毎に詩人の断腸を思ふて涙流る。(北749頁)

 

 なお,承久の変に関しては,今年(2017年)2月のブログ記事である「北条泰時の宇治川渡河の結果について:廃位及び空位」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1064426577.htmlも御参照ください。

 

14世紀半ばの〕高師直のごときは『都に王と云ふ人のまし〔まし〕て若干の所領を塞げ,内裏,院,御所と云ふ所ありて馬より降るむつかしさよ。若し王なくして叶ふまじき道理あらば木にて造るか金にて鋳るかして,生きたる院国王をば何方へも流し捨て奉らばや』と放言したり。〔略〕今日,幾多の政党者流が穂積〔八束〕忠臣等の憂慮するが如く事実上の共和政体――若しくは共和政体を慣習によりて実現する不文憲法たるべき政党内閣,責任内閣を主張し,政党内閣責任内閣に於ては亦実に穂積忠臣等の憂慮するが如く天皇の意義に大なる変動を及ぼすべきを知りつゝも,尚且つ民主々義を解せざるかの如き面貌を装ふ国民の狡猾とは反対なる露骨なりと雖も〔,〕而も全国民が彼〔高師直〕を〔1898年8月に〕共和演説を為せる〔尾崎行雄文部〕大臣を打撃したる如く排斥せずして,〔足利〕尊氏に次ぐ権力者として奉戴せるは〔略〕祖先たるに恥(ママ)ざる乱臣賊子の国民と云ふべし。(北652653頁)

 

 上記高師直の放言に関しては,こちらは昨年(2016年)10月のブログ記事である「「木を以て作るか,金を以て鋳るかして,生きたる院,国王をば,いづくへも皆流し捨てばや」発言とそれからの随想」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1062095479.htmlを御参照ください。

 「事実上の共和政体――若しくは共和政体を慣習によりて実現する不文憲法たるべき政党内閣,責任内閣を主張し」,「天皇の意義に大なる変動を及ぼすべきを知りつゝも,尚且つ民主々義を解せざるかの如き面貌を装ふ国民の狡猾」とありますが,この「国民の狡猾」は蒲魚(かまとと)流のものかあるいは無意識に行われていたものなのか。いずれにせよ,無意識の狡猾というのが,一番たちが悪そうです。輓近の様子にもかんがみるに,天皇に関するこの「国民の狡猾」は,無意識裡に,主観的「善意」の不離の反面として生ずるもののようです。(Pater, dimitte illis; non enim sciunt quid faciunt.)

 

あゝ今日四千五百万〔現在であれば一億二千万〕の国民は殆ど挙りて乱臣賊子及び其の共犯者の後裔なり。吾人は日本歴史の如何なる頁を開きて之が反証たるべき事実を発見し,億兆心を一にして克く忠に万世一系の皇室を奉戴せりと主張し得るや。

而しながら万世一系の一語に殴打されたる白痴は斯る事実の指示のみを以ては僅かに疑問を刺激さるゝに止まるべし。(北670頁)

 

乱臣賊子は義時と尊氏とのみにして其他の日本国民は皆克く忠に万世一系の皇統を扶翼せる皇室の忠臣義士なりきと云ふが如き痴呆は土人部落に非らずして何ぞ。歴史は二三人物の(ほしいまま)なる作成に非らず。彼らは単に民族の思想を表白する符号として歴史(ママ)の上に民族の行為を代表して其所為を印するに過ぎず。故に〔略〕民族の歴史としての日本史は実に皇室に対する乱臣賊子の物語を以て補綴せられたるものなり。記録せられたる代表者若しくは符号のみが乱臣賊子に非らず,其の下に潜在する『日本民族』が即ち皇室に対する乱臣賊子なりしなり。(北677678頁)

 

 「系統主義」及び「忠孝主義」が,何故皇室に対する乱臣賊子を生ずるのかについて,改めて説明がされます。

 まず「系統主義」。

 

系統崇拝は海洋の封鎖によりて進化の急速なる能はざりし日本の中世史に於ては特に甚しく,如何なる乱臣賊子も自家の系統の尊貴なることによりて国民の崇拝を集め以て乱臣賊子を働くを得たりしなり。(北695696頁)

 

而して系統主義は一面下層階級に対して系統崇拝たると共に,崇拝さるべき系統の貴族階級に取りては天皇と自家とが同一の天皇より分れたる同一系統の同一なる枝なりと云ふ理由によりて平等主義の殺伐なる実行に於て説明なりき。平氏の将門が『我は桓武の末なり』として自立せんとしたる如き,源氏の足利義満が『我れ清和の末なれば非理の道に非らず』〔と〕して簒奪せんとしたる如き実に系統を辿りて平等観の漸時に発展したる者に外ならざるなり。(北699頁)

 

 次に「忠孝主義」。

 

源平以後の貴族国時代に入りては同じき強力による土地の掠奪によりて経済上の独立を得たる貴族階級は天皇に対して政治的道徳的の自由独立を以て被治者たるべき政治的義務と奴隷的服従の道徳的義務を拒絶し,而して其等の乱臣賊子の下に在る家の子郎等武士或は()百姓(ーフ)は其等の貴族階級に対する経済的従属関係よりして貴族を主君として奉戴すべき政治的義務と其下に奴隷的に服従すべき道徳的義務とを有して従属したりしなり。従て其従属する所の貴族が其の政治的道徳的の自由独立を所謂乱臣賊子の形に於て主張する場合に於ては,貴族の下に生活する中世史の日本民族は,其経済的従属関係よりして忠の履行者となり,以て乱臣賊子の加担者となりて皇室を打撃迫害したりしなり。(北709710頁)

 

維新革命に至るまでの上古中世を通じての階級国家は実に此の眼前の君父と云ふこと〔水戸斉昭のいう『人々天祖の御恩を報ひんと悪しく心得違ひて眼前の君父を差し置きて直ちに天朝皇辺に忠を尽くさんと思は却て(ママ)〔僭〕乱の罪逃るまじく候ということ。〕を以て一貫したるなり。此の『眼前の君父』を外にして真の忠孝なし。(北717頁)

 

故に吾人は断言す,皇室を眼前の君父として忠臣義士たりし者は其れに経済的従属関係を有する公(ママ)〔卿〕のみにして,(即ち今日の公〔卿〕華族の祖先のみにして,日本民族の凡ては貴族階級の下に隷属して皇室の乱臣賊子なりしなりと。而して貴族の萌芽は歴史的生活時代の始めより存したるを以て,日本民族は其の歴史の殆ど凡てを挙げて皇室の乱臣賊子なりしなりと。(北719720頁)

 

3 「万世一系」の維持をもたらした事由

 「万世一系の傷けられざりしは皇室自家の力を以て護りしなり」と断定するについては,次のような理由が挙げられています。

 神道の国家起原論の力がなおあっただろうとされ,更に系統主義は皇室迫害につながる面もあったがやはり最も尊貴な系統としての皇室を侵犯から守る面を有していたとされます。

 

  神道の信仰よりしたる攘夷論が其の信仰の経典によりて尊王論と合体したる如く,斯る〔神道の〕国家起原論ある間国家の起原と共に存すと信仰せらるゝ皇室に対して平等主義の制限せられたるは想像せらるべし。加ふるに系統の尊卑によりて社会の階級組織なりし系統主義の古代中世なりしを以て,優婉閑雅なりし皇室が理由なき侵犯の外に在りしは誠に想像せらるべし。彼の藤原氏に於て,其族長の下に忠孝主義を奉ずる家族々党は其族長の命ならば内閣全員のストライキをも憚らざりしに係らず,尚その族長〔が〕其の団結的強力を〔率ゐ〕て皇位を奪ふに至らざりし者,実に皇族と云ふ大族が最も貴き系統の直孫なりとせられたればなり。(北737738頁)

 

ヨーロッパ中世のローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝との関係になぞらえて,武家政権時代の天皇は「神道の羅馬法王」,将軍は「鎌倉の神聖皇帝」とそれぞれ称されます。

 

 吾人は実に考ふ――中世史の天皇は其所有する土地と人民との上に家長君主たりしと共に全国の家長君主等の上に『神道の羅馬法王』として立ちたるなりと。(北740頁)

 

 当時の征夷大将軍とは其の所有する土地人民の上に全部の統治権を有すること恰も天皇及び他の群雄諸侯等が其れぞれの土地人民の上に家長君主として其れぞれ家長君主たりしがごとく,只異なる所は神道の羅馬法王としての天皇によりて冠を加へらるゝ『鎌倉の神聖皇帝』なりしなり。(北740741頁)

 

 この関係から,皇室から皇位が奪われ,又は皇位が廃されることがなかった理由が説明されます。両者の存在意義が異なったものだったからだということです。

 

 欧州の神聖皇帝が自ら立ちて基督教の羅馬法王の位を奪ひしことなく又其の必要なかりし如く,神道の羅馬法王が天下を取て最上の強者たることを目的とせる鎌倉の神聖皇帝によりて奪はれざりしは各々存在の意義を異にせるよりの必要なかりしを以てなり。(北745頁)

 

貴族階級(北の用語法では,武家も含まれます。)が乱臣賊子であったにもかかわらず「万世一系」が維持されたということから,天皇は「神道の羅馬法王」であったということが裏側からも論証されるとされます。乱臣賊子がボルシェヴィキのごとく天皇及び皇族の生命・身体に手をかけなかった理由は,「絶望」した天皇及び皇族が「優温閑雅なる詩人として政権争奪の外に隔たりて傍観者たりしが故」であったにすぎないとされます。

 

 〔吾人は〕中世の天皇が神道の羅馬法王としての万世一系なりしことを,貴族階級の乱臣賊子なりし事実によりて亦何者よりも強烈に主張す。

 あゝ国体論者よ,この意味に於ける万世一系は国民の克く忠なりしことを贅々する国体論者に対して無恥の面上に加へらるべき大鉄槌なり。即ち,天皇は深厚に徳を樹てゝ全人民全国土の上に統治者たらんことを要求したりき,実に如何なる迫害の中に於ても衣食の欠乏に陥れる窮迫の間に於ても寤寐に忘れざる要求なりき,然るに国民は強力に訴へて常に之を拒絶したりと云ふことなり。――何の国体論ぞ,斯る歴史の国民が克く忠に万世一系の皇室を奉戴せりと云は義時も尊氏も大忠臣大義士にして,楠公父子〔楠木正成・正行〕は何の面目ありや。或は云ふべし,而しながら万世一系に刃を加へざりしと。――亦何の国体論ぞ,是れ国民の凡てが悉く乱臣賊子に加担して天皇をして其の要求の実現を絶望せしめたればなり。斯ることが誠忠の奉戴ならば北条氏の両統迭立と徳川氏の不断の脅迫譲位は何よりも誠忠なる万世一系の奉戴にして幽閉の安全によりて系統は断絶する者ならんや。問題は万世一系の継続其事に非らずして如何にして万世一系が継続せしかの理由に在り。――斯る理由によりて継続されたる万〔世一〕系は誠に以て乱臣賊子が永続不断なりしことの表白に過ぎずして,誠忠を強(ママ)する国体論者は宮城の門前に拝謝して死罪を待て!何の奉戴ぞ。日本民族の性格はルヰ16世を斬殺せる仏蘭西人と同一なりと云はれつゝあるに非らずや,只皇室が日本最高の強者たりし間は二三のものを除きて多くルヰ14世の如くならず殆ど良心の無上命令として儒教の国家主権論を政治道徳として遵奉し,皇室の其れが他の強者の権利に圧伏せられたる時には優温閑雅なる詩人として政権争奪の外に隔たりて傍観者たりしが故なり。万世一系は皇室の高遠なる道徳の顕現にして誇栄たるべきものは日本国中皇室を外にして一人だもあらず,国民に取りては其の乱臣賊子たりし所以の表白なり。(北747749頁)

 

 なお,「天皇は深厚に徳を樹てゝ全人民全国土の上に統治者たらんことを要求したりき」とは,教育勅語冒頭の「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」に対応するものでしょう。

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 桜井駅址楠公父子像(大阪府三島郡島本町)
 

4 維新革命後の天皇

 青年北の冷静な観察によれば,維新革命時の勤皇運動における天皇に対する「忠」は,「眼前の君父」に対する忠からの民主主義的解放のための方便にすぎなかったということになります。

 

 〔維新革命においては〕天皇に対する忠其事は志士艱難の目的にあらず,貴族階級に対する忠を否認すること其事が目的なりき。貴族階級は(すで)に忠を否認して独立したり,一般階級は更に其れに対する忠を否認して自由ならざるべからず。(北807頁)

 

 彼等は嘗て貴族階級に対する忠を以て皇室を打撃迫害せる如く,皇室に対する忠の名に於て貴族階級をも顚覆せんと企てたり。貴族階級に対する古代中世の忠は誠のものなりき,今の忠は血を以て血を洗はんとせる民主々義の仮装なり。〔略〕曰く――幕府諸侯が土地人民の上に統治者たるは覇者の強のみと,而して是れに対抗して皇室は徳を以て立てる王者なりと仮定したり。国民は切り取り強盗に過ぎざる幕府諸侯に〔対〕して忠順の義務なしと,而して是れに対抗して皇室は高天か原より命を受けたる全日本の統治者なりと仮定したり。

 維新革命は国家間の接触によりて覚醒せる国家意識と〔大化革命後〕一千三百年の社会進化による平等観の普及とが,未だ国家国民主義(即ち社会民主々義)の議論を得ずして先づ爆発したる者なり。決して一千三百年前の太古に逆倒せる奇蹟にあらず。(北810頁)

 

 維新革命の国体論は天皇と握手して貴族階級を顚覆したる形に於て君主々義に似たりと雖も,天皇も国民も共に国家の分子として行動したる絶対的平等主義の点に於て堂々たる民主々義なりとす。(北812頁)

 

 維新革命を経た後の明治天皇は,日本史上の伝統的天皇というよりは,広義の国民の一員にして国家機関たる天皇ということになります。「民主々義の大首領として英雄の如く活動」したというのですから,日本版ジョージ・ワシントン()

 

 而して現天皇〔明治天皇〕は維新革命の民主々義の大首領として英雄の如く活動したりき。『国体論』は貴族階級打破の為めに天皇と握手したりと雖も,その天皇とは国家の所有者たる家長と云ふ意味の古代の内容にあらずして,国家の特権ある一分子,美濃部〔達吉〕博士の所謂広義の国民なり。即ち 天皇其者が国民と等しく民主々義の一国民として天智〔天皇〕の理想を実現して始めて理想国の国家機関となれるなり。――維新革命以後は『天皇』の内容を斯る意味に進化せしめたり。(北814頁)

 

 ただし,維新革命は民主主義の建設という課題を残したものであって,貴族主義の復活に抗して社会民主主義者は,大日本帝国憲法に基づく国体及び政体を承けて,理想の実現に向けて努力を続けなければなりません。

 

 維新革命は〔戊〕辰戦役に於て貴族主義に対する破壊を為したるのみにして,民主々義の建設は帝国憲法によりて一段落を劃せられたる23年間の継続運動なりとす。明らかに維新革命の本義を解せよ。『藩閥』と『政党』との名に於て貴族主義と民主々義は建設の上により多くの勢力を占めんことを争ひぬ。(北815頁)

 

 伊藤博文の帝国憲法は独乙的専制の飜訳に更に一段の専制を加へて,敗乱せる民主党の残兵の上に雲に轟くの凱歌を挙げたり。――あゝ民主党なる者顧みて感や如何に!〔衆議院〕解散の威嚇と黄白〔金銭〕の誘惑の下に徒らに政友会と云ひ進歩党と云ふのみ。(北817頁)

 

 社会民主々義は維新革命の歴史的連続を承けて理想の完き実現に努力しつゝある者なり。(北818頁)

 

 社会民主々義と云ふは彼の個人主義時代の革命の如く国家を個人の利益の為めに離合せしめんとするものにあらずして,個人の独立は『国家の最高の所有権』と云ふ経済的従属関係の下に条件附なり。而して社会国家と云ふ自覚は維新前後の社会単位の生存競争に非ずして社会主義の理想を道徳法律の上に表白したり。国民(広義の)凡てが政権者たるべきことを理想とし,国民の如何なる者と雖も国家の部分にして,国家の目的の為め以外に犠牲たるべからずとの信念は普及したり。即ち民主々義なり。――故に吾人は決して或る社会民主々義者の如く現今の国体と政体とを顚覆して社会民主々義の実現さるゝものと解せず,維新革命其の事より厳然たる社会民主々義たりしを見て無限の歓喜を有するものなり。(実例を挙ぐれば彼の勝海舟が自己を天皇若しくは将軍と云ふが如き忠順の義務の外に置きて国家単位の行動を曲げざりし如きこれなりとす)(北827828頁)

 

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隅田川畔の海舟勝麟太郎像(東京都墨田区)

 

 「万世一系」を歴史的真実であるかのように取り扱うことに対して批判的な北は,天皇の位置付けについて乾いた考え方をしていたように思われます。

 

 憲法第1条の『大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す』とある『万世一系』の文字は皇室典範の皇位継承法に譲りて棄却して考へて可なり〔略〕。何となれば,〔略〕現〔明治〕天皇以後の天皇が国家の最も重大なる機関に就くべき権利は現憲法によりて大日本帝国の明らかに維持する所なるを以てなり。〔略〕而して又『天皇』と云ふとも時代の進化によりて其の内容を進化せしめ,万世の長き間に於て未だ嘗て現天皇の如き意義の天皇なく,従て憲法の所謂『万世一系の天皇』とは現天皇を以て始めとし,現天皇より以後の直系或は傍系を以て皇位を万世に伝ふべしと云ふ将来の規定に属す。憲法の文字は歴史学の真理を決定するの権なし。従て『万世一系』の文字を歴史以来の天皇が傍系を交へざる直系にして,万世の天皇皆現天皇の如き国家の権威を表白せる者なりとの意義に解せば,重大なる誤謬なり。故に『万世一系』の文字に対しては多くの憲法学者が〔大日本帝国憲法3条(「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」)の〕『神聖』の文字に対して棄却を主張しつゝあるが如く棄却すべきか,或は吾人の如く憲法の精神によりて法文の文字に歴史的意義を附せず万世に皇位を伝ふべしとの将来の規定と解するかの二なり。而して後者とせば一系とは皇室典範によりて拡張されたる意義を有す。(北829830頁)

 

 大日本帝国憲法1条は将来に向かってのみの規定だといわれれば,明治天皇を初代とする新しい天皇制が大日本帝国憲法によって創始されたようにも受け取られ得ます。

 国家主権論者たる北にとって天皇は,飽くまでも国家の機関であって,その地位は国家の法たる憲法に基づくものでした。

 

 吾人は〔略〕,日本の現代は国家主権の国体にして天皇と国民とは階級国家時代の如く契約的対立にあらず,〔略〕従て日本現時の憲法は天皇と国民との権利義務を規定せず,広義の国民〔天皇を含む。〕が国家に対する関係の表白なりと云へり。(北830頁)

 

 天皇は国家の利益の為めに国家の維持する制度たるが故に天皇なり。如何なる外国人と雖も,末家と雖も一家と雖も,全く血縁的関係なき多数国民と雖も,この重大なる国家機関の存在を無視することは大日本帝国の許容せざる犯罪なり。(北839840頁)

 

「神道の羅馬法王」としての万世一系の維持も,伝統的系統崇拝による万世一系の維持も,鎖国を脱して文明開化した明治の御代においては時代遅れであるというのが北の認識であったようです。

 

 若し『国体論』の如く現今の天皇が国家機関たるが故に天皇にあらず,其の天皇なるは原始的宗教の信仰あるが故なりと云は,是れ今日の仏教徒と基督教徒と旧宗教の何者をも信ぜざる科学者と〔を〕して〔崇仏派であった〕蘇我の馬子たるべき権利を附与するものにして〔,〕内地雑居によりて帰化せる外国人の凡てをして〔崇峻天皇の暗殺者である〕〔(やまと)()(あや)氏の駒たるべき道徳上の放任に置くものなり。(北838頁)

 

 又或は,万世一系連綿たりと云ふ系統崇拝を以て天皇と国民との道徳関係を説かんとする者あるべし。固より〔略〕日本の下層的智識の部分に於ては日本天皇の意義を解せずして中世的眼光を以て仰ぎつゝある者の多かるべきは論なし。而しながら〔略〕未開国の良心を以て日本国民の現代に比することは国民に対する無礼たる外に皇室を以て斯る浮ける基礎に立てりとの推論に導きて皇室其者に対する一個の侮辱なり。否!系統崇拝を以て中世的良心が支配されしが為めに皇統より分派したる将軍諸侯の乱臣賊子となり,今日其の乱臣賊子を回護して尊王忠君なりと云ふ所の穂積〔八束〕博士の如きが君臣一家論を唱へて下賤なる穂積家を皇室の親類なり〔末〕家なりと云ふ精神病者が生ずるなり。(北840頁)

 

伝統による支え無く,実定憲法にのみ基づく国家の利益のための国家機関となると,北の見る天皇は,むしろ世襲の大統領とでもいうべきものでしょうか。

『天』は幾多貴族の手より〔天下を〕奪ひて現〔明治〕天皇の賢に与へたり,而して『天』は更に帝国憲法に於て後世子孫たとへ現天皇の如く賢ならずとも子に与ふべきことを国家の生存進化の目的の為めに命令しつゝあり。〔略〕機関の発生するは発生を要する社会の進化にして其の継続を要する進化は継続する機関を発生せしむ。日本の天皇は国家の生存進化の目的の為めに発生し継続しつゝある機関なり。(北975976頁)

 
 ちなみに,北は,湯武放伐論の孟子を高く評価しています。
 なお,天皇をめぐる理想と現実との齟齬の可能性についても論じられています。

 

 天皇が家長君主にして忠の目的が天皇の利己的慾望の満足に向つての努力なるならば,論理的進行の当然として例へば諸侯将軍等の如く天皇の個人性が其の社会性を圧伏して(即ち国家の機関として存する国家の意志を圧伏して)働くときに於ては,国民は圧伏されたる天皇の社会性を保護することなく,国家機関たる地位を逸出せる個人としての天皇と共に国家に向つて叛逆者とならざるべからず。斯る場合を仮想する時に於て,天皇は政治道徳以外に法律的責任なきは論なしと雖も,国家は其の森厳なる司法機関の口を通じて国民を責罰すべき法律を有す。是れ忠君愛国一致論の矛盾すべき時にあらずや。天皇なるが故に斯る矛盾なし,若し蛮神の土偶が天皇を駆逐して蛮神の個人的利益の為めに国家の臣民に忠を命ずるならば,国家の生存進化の為めに国家の全部を成せる天皇と国民とは必ず之を粉砕せざるべからず。〔略〕

 即ち,〔教育勅語にいう〕『爾臣民克く忠に』とある忠の文字の内容は上古及び近世の其れの内容とは全たく異なりて,国家の利益の為めに天皇の政治的特権を尊敬せよと云ふことなり。(北847848頁)

 

承詔必謹することがかえって「国家に向つて叛逆者」となることとなる場合があるのだ,という認識は,冷たい。(ただし,「天皇なるが故に斯る矛盾なし」であって,「みずか民主的革命首領明治天皇歴史以来事実日本今後天皇高貴愛国心喪失推論皇室典範規定摂政場合想像余地し。」ていす。(965966頁))

なお,ここにいう「蛮神の土偶」とは,固有の文脈においては教育勅語を盾に取った「国体論」のことでしょうが,「君側の奸」と言い換えてしまうと,「国家の生存進化の為めに国家の全部を成せる天皇と国民とは必ず之〔君側の奸〕を粉砕せざるべからず」という剣呑なことともなり得るわけだったようです。しかして当該君側の奸としては,あるいは「資本家地主等」ないしはそれらの走狗が想定されていたもの歟。

明治23年〔1890年〕の帝国憲法〔施行〕以後は国家が其の主権の発動によりて最高機関の組織を変更し天皇と帝国議会とによりて組織し,以て『統治者』とは国家の特権ある一分子と他の多くの分子との意(ママ)の合致せる一団となれり。従て〔略〕孟子の如く天皇をのみ社会民主々義者たらしめて足れりとする能はず,資本家地主等が上下の議院に拠りて天皇の社会民主々義国家経済的源泉主権体土地生産機関経営」(958頁)〕を実現せざらしむる法理的可能を予想せざるべからず。(北961962頁。下線は筆者によるもの)

 

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渋谷税務署脇の二・二六事件慰霊像(東京都渋谷区)

 

1936年7月〕12日 日曜日 この日早朝,二月二十六日の事件において死刑判決を受けた17名のうち香田清貞以下15名に対する刑の執行が行われる。天皇は昨日,侍従武官より香田以下の死刑執行予定に関して上聞を受けられ,この日,死刑が執行されたことを改めて侍従武官よりお聞きになる。刑の執行のため,この日思召しにより特に御運動も行われず,終日御奥においてお過ごしになる。(昭和天皇実録七138139頁)


1936年〕8月11

悪臣どもの上奏した事をそのままうけ入れ遊ばして,忠義の赤子を銃殺なされました所の 陛下は,不明であられると云うことはまぬかれません,此の如き不明を御重ね遊ばすと,神々の御いかりにふれますぞ,如何に陛下でも,神の道を御ふみちがえ遊ばすと,御皇運の(ママ)〔果〕てす(磯部獄中日記獄中手記中公文庫・2016年)95頁)


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二十二士之墓(東京都港区元麻布賢崇寺)

 

なお,1920223日,当時18歳の皇太子であった昭和天皇に対し「東宮御学問所幹事小笠原長生より,北輝次郎献上の「法華経」が伝献される。」ということがあったところです(宮内庁『昭和天皇実録 第二』(東京書籍・2015年)547頁)。その時,青年裕仁親王に,何らかの不吉な予感がきざしたものかどうか。


弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

              



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 Imperial Palace, Tokyo

According to an article of The Economist (“Banyan/ The shrinking monarchy”, May 27, 2017), “the cabinet of Shinzo Abe, the prime minister, approved a bill last week
[May 19, 2017] to allow for the emperor’s abdication” and “the Diet is likely to pass an abdication law next month [June 2017]”.

Under the new law His Imperial Majesty Emperor Akihito is thought to abdicate in late 2018 with dignity (though He “is said to have been offended when conservative scholars last year [in 2016] said he should just stick to praying and carrying out Shinto rituals” in the pre-drafting hearings for the “abdication” law), unlike the hapless infantile Emperor Chûkyô, who was deposed ignominiously by rampant savage samurai subjects nearly eight hundred years ago. (On the other hand, though the recalcitrant barons had gone so far as to force King John to sign the Magna Carta in 1215, the English subjects were lenient enough to let him remain king. In the 13th century, at least, the Japanese may have been more republican than the English. Later, in 1688/89 even the Convention Parliament of England dared not depose King James II, but found instead the Throne already vacated.(...whereas the said late King James the Second haveing Abdicated the Government and the Throne thereby Vacant...))

Unlike in Japan, where “Mr. Abe, an arch-conservative himself on matters of the imperial family”, is now the Prime Minister, in this age of republicanism monarchies elsewhere may be being threatened by silent revolutions proceeding slowly with such innocent-looking legislations as shown below.  

 

Special Act to the Royal House Law for the King’s Retirement, etc.

 

Article 1

Considering that having performed sincerely as the Symbol of the State and of the unity of the people such official activities as visits to various parts of the country and consolation of those affected by disasters as well as the acts provided for in the Constitution in matters of state for the very long period of nearly thirty years since His Ascension to the Royal Throne on the first day of His Reign and attained more than eighty years of high age, His Majesty King is now deeply concerned that it should become difficult for Him to continue to perform such activities by Himself as King;

Considering on the other hand that the Good People of this country are adoring deeply His Majesty King, who has sincerely performed such activities mentioned above into such high age, understanding such feelings of His Majesty King as mentioned above, and sympathizing with such feelings;

And considering that the His Highness Crown Prince, the Royal Heir, has attained nearly sixty years of age and has been performing diligently such official activities as the acts provided for in the Constitution in matters of state as Delegate of His Majesty King for long time by now;

We [, the representatives of the Good People of this country in the National Convention assembled,] do now ordain and establish this Act [without the Sanction by His Majesty King Himself] to provide for the realization of His Majesty King’s retirement from the Throne and of the Enthronement of the Royal Heir, as an exception of the existing provisions of the Royal House Law, and for supplementary arrangements, including those concerning His Majesty King’s status after the retirement.

 

Article 2

When the first day of the enforcement of this Act has passed, the King shall be made [by this Act] to have retired from the Throne [with no particular Royal Will to have been expressed] and the Royal Heir shall be made to have ascended to the Throne immediately.

 

……………….

 

Supplementary Article 1

This Act shall come into force within three years from the day of its promulgation, with the date of enforcement to be determined by a Cabinet Order [, the enactment of which does not require any Sanction by His Majesty King]. (…)

When the Cabinet Order of the precedent paragraph is to be enacted, the Prime Minister must consult beforehand opinions of the Royal House Council [, of which His Majesty King is not a member].

 

……………….

 

Is the above-provided king’s retirement a case of abdication or deposition (dethronement)?

Though said to be concerned with his very old age and accompanying fragility, the king does not seem to have expressed explicitly his will to abdicate. His ministers and the representatives of the people, on their part, do not seem to consider the will of the king essential. Isn’t an abdication to be based on the clearly-expressed will of the monarch to do so? When the will of the people makes the royal throne vacant through the form of democratic legislation, with the very will of the monarch playing no formal role, shouldn't it be called a dethronement?

If it is a case of abdication, the above law can be called monarchist. (Being a human being himself, a monarch should be allowed to abdicate when circumstances require.) If deposition (dethronement), it is rashly and rudely republican.

A rudimentary non-native user of English, however, I cannot decide by myself by which term the above-shown royal retirement act should be titled: an “abdication” law or a “deposition” law.


Le Roi est déposé,

Vive le Roi!

Vive la République! 


 

Masatoshi Saitoh, attorney at law

Taishi-Wakaba Law Office

2nd floor, Shibuya 3-chome Square Building,

5-16, Shibuya 3-chome, Shibuya-ku, Tokyo. 150-0002

e-mail: saitoh@taishi-wakaba.jp


2頭の一角獣
  Duo unicornui bene dicunt novae publicae REI VAlde! (Meijijingu-gaien, Tokyo) 


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1 三種ノ神器と後鳥羽天皇及び後醍醐天皇

 安徳天皇を奉じ三種ノ神器を具しての平家都落ちを承けて前年急遽践祚した第82代後鳥羽天皇の即位の大礼を,後白河法皇が翌七月に行おうとしていることに関する元暦元年(寿永三年)(1184年)六月廿八日の九条兼実日記(『玉葉』)の批判的記述。

 

 ・・・何況(なんぞいわんや)不帯剣璽(けんじをおびざる)即位之例出来者(いできたらば),後代乱逆之(もとい),只可在(このことに)此事(あるべし)・・・

 

 壇ノ浦の合戦において安徳天皇が崩御し,平家は滅亡,三種ノ神器のうち鏡及び璽は回収されたものの剣は失われてしまったのは,その翌年のことでした。
 承久三年の乱逆は,元暦元年から37年後のことです。九条家は,兼実の孫の道家の代となっていました。 

 また,頼山陽『日本外史』巻之五新田氏前記楠氏にいわく。

 

 〔建武三年(1336年),後醍醐〕帝の(けつ)(かえ)るや,〔足利〕尊氏(すで)に新帝〔光厳天皇〕の弟を擁立す。これを北朝光明帝となす。帝に神器を伝へんことを請ふ。〔後醍醐〕帝(ゆる)さず。尊氏,〔後醍醐〕帝を花山院に(とら)へ,従行の者僧(ゆう)(かく)らを殺し,その余を(こう)(しゅう)す。・・・〔三条〕(かげ)(しげ)(ひそか)に計を進め,(のが)れて大和に(みゆき)せしむ。〔後醍醐〕帝,夜,婦人の()を服し,(かい)(しょう)より出づ。(たす)けて馬に(のぼ)せ,景繁,神器を(にな)つて従ふ。・・・ここにおいて,行宮(あんぐう)を吉野に(),四方に号令す。(頼成一=頼惟勤訳『日本外史(上)』(岩波文庫・1976年)313314頁)

 

 同じく巻之七足利氏正記足利氏上にいわく。

 

 〔後醍醐〕帝,〔新田〕義貞をして,太子を奉じ越前に赴かしめ,(しこう)して()を命じて闕に還る。〔足利〕直義,兵に将としてこれを迎へ,(すなわ)ち新主〔光明天皇〕のために剣璽を請ふ。〔後醍醐〕帝,偽器(ぎき)を伝ふ。(頼成一=頼惟勤訳『日本外史(中)』(岩波文庫・1977年)26頁)

 

 しかし,偽器まで使って(あざむ)き給うのは,さすがにどうしたものでしょうか。

 

2 天皇の退位等に関する皇室典範特例法案要綱

昨日(2017年5月10日),京都新聞のウェッブ・サイトに「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案要綱」というものが掲載されていました。当該要綱(以下「本件要綱」といいます。)の第二「天皇の退位及び皇嗣の即位」には「天皇は,この法律の施行の日限り,退位し,皇嗣が,直ちに即位するものとすること。」とあり,第六「附則」の一「施行期日」には「1 この法律は,公布の日から起算して3年を超えない範囲内において政令で定める日から施行するものとすること。」とあります。すなわち,全国民を代表する議員によって組織された我が国会が,3年間の期間限定ながら,内閣(政令の制定者)に対し,在位中の天皇を皇位から去らしめ(「天皇は,この法律の施行の日限り,退位し」というのは,法律施行日の夜24時に天皇は退位の意思表示をするものとし,かつ,当該意思表示は直ちに効力を生ずるものとするという意味ではなくて,シンデレラが変身したごとく同時刻をもって天皇は自動的に皇位を失って上皇となるという意味でしょう。),皇嗣をもって天皇とする権限を授権するような形になっています。

 

3 「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承と三種ノ神器

「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承の際三種ノ神器はどうなるのかが気になるところです。

手がかりとなる規定は,本件要綱の第六の七「贈与税の非課税等」にあります。いわく,

 

第二により皇位の継承があった場合において皇室経済法第7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物については,贈与税を課さないものとすること。

 

 皇室経済法(昭和22年法律第4号)7条は,次のとおり。

 

 第7条 皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。

 

(1)皇室経済法7条をめぐる解釈論:相続法の特則か「金森徳次郎の深謀」か

 本件要綱の第六の七には「皇室経済法第7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物」とあります。ところで,これは,皇位継承があったときに,皇室経済法7条によって直接,三種ノ神器その他の「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」の所有権は,特段の法律行為を要さずに前天皇から新天皇に移転するということでしょうか。見出しには「贈与税の非課税等」とありますが,ここでの「等」は,皇室経済法7条のこの効力を指し示すものなのでしょうか。

 皇室経済法7条については,筆者はかつて(2014年5月)「「日本国民の総意に基づく」ことなどについて」と題するブログ記事で触れたことがあります。ここに再掲すると,次のごとし。

 

皇室経済法7条は「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。」と規定しています。同条の趣旨について,19461216日,第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会において,金森徳次郎国務大臣は次のように説明しています。天皇にも「民」法の適用があることが前提とされています。

 

次ぎに第7条におきまして,日本国の象徴である天皇の地位に特に深い由緒ある物につきましては,一般相続財産に関する原則によらずして,これらのものが常に皇位とともに,皇嗣がこれを受けらるべきものなる旨を規定いたしております,このことはだいたいこの皇室経済法で考えておりまするのは,民法等に規定せられることを念頭にはおかないのでありまするけれども,しかし特に天皇の御地位に由緒深いものの一番顕著なものは,三種の神器などが,物的な面から申しましてここの所にはいるかとも存じますが,さようなものを一般の相続法等の規定によつて処理いたしますることは,甚はだ目的に副わない結果を生じまするので,かようなものは特別なるものとして相続法より除外して,皇位のある所にこれが帰属するということを定めたわけであります。

 

  天皇に民法の適用があるのならば相続税法の適用もあるわけで,19461217日,第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会におけるその点に関する小島徹三委員の質疑に対し,金森徳次郎国務大臣は次のように答弁しています。

 

・・・だいたい〔皇室経済法〕第7条で考えております中におきましては,はつきり念頭に置いておりますのは,三種の神器でありますけれども,三種の神器を物の方面から見た場合でありますけれども,そのほかにもここに入り得る問題があるのではないか,かように考えております,所がその中におきまして,極く日本の古典的な美術の代表的なものというようなものがあります時に,一々それが相続税の客体になりますと,さような財産を保全することもできないというふうな関係になりまして,制度の関係はよほど考えなければなりませんので,これもまことに卑怯なようでありますけれども,今後租税制度を考えます時に,はっきりそこをきめたい,かように考えております

 

  相続税法12条1項1号に,皇室経済法7条の皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,相続税の非課税財産として掲げられています。

  三種の神器は,国有財産ではありません。19461221日,第91回帝国議会貴族院皇室経済法案特別委員会における大谷正男委員の質疑に対する金森徳次郎国務大臣の答弁は,次のとおり。

 

此の皇位に非常に由緒のあると云ふもの・・・今の三種の神器でありましても,皇位と云ふ公の御地位に伴ふものでありますが故に,本当から云へば国の財産として移るべきものと考ふることが,少くとも相当の理由があると思つて居ります,処がさう云ふ風に致しますると,どうしても神器などは,信仰と云ふものと結び付いて居りまする為に,国の方にそれは物的関係に於ては移つてしまふ,それに籠つて居る精神の関係に於ては皇室の方に置くと云ふことが,如何にも不自然な考が起りまして,取扱上の上にも面白くない点があると云ふのでありまするが故に,宗教に関しまするものは国の方には移さない方が宜いであらう,と致しますると,皇室の私有財産の方に置くより外に仕様がない,こんな考へ方で三種の神器の方は考へて居ります・・・

 

  http://donttreadonme.blog.jp/archives/1003236277.html

 

 要するに筆者の理解では,皇室経済法7条は民法の相続法の特則であって,崩御によらない皇位継承の場合(相続が伴わない場合)には適用がないはずのものでした。生前退位の場合にも適用があるとすれば(確かに適用があるように読み得る文言とはなっています。),これは,皇位継承の原因は崩御のみには限られないのだという理解が,皇室典範(昭和22年法律第3号)及び皇室経済法の起草者には実はあったということになりそうです(両法の昭和天皇による裁可はいずれも同じ1947年1月15日にされています。)。「金森徳次郎の深謀」というべきか。

 しかし,皇室経済法7条が生前退位をも想定していたということになると,現行皇室典範4条の規定(「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」)は崩御以外の皇位継承原因を排除しているのだという公定解釈の存立基盤があやしくなります。そうなると,本件要綱の第一にある「皇室典範(昭和22年法律第3号)第4条の規定の特例として」との文言は,削るべきことになってしまうのではないでしょうか。

 

(2)贈与税課税の原因となる贈与と所得税の課税対象となる一時所得

 更に困ったことには,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承に伴い直ちに皇室経済法7条によって「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」の所有権が前天皇から新天皇に移転するのであれば,これは新旧天皇間の贈与契約に基づく財産の授受ではなく,そもそも贈与税の課税対象とはならないのではないでしょうか。

相続税法(昭和25年法律第73号)1条の4第1項は,贈与税の納税義務者を「贈与により財産を取得した個人」としていますが,ここでいう「贈与」とは民法549条の贈与契約のことでしょう(金子宏『租税法(第17版)』(弘文堂・2012年)543頁参照)。相続税法5条以下には贈与により取得したものとみなす場合が規定されていますが,それらは,保険契約に基づく保険金,返還金等(同法5条),定期金給付契約に基づく定期金,返還金等(同法6条),著しく低い価額の対価での財産譲渡(同法7条),債務の免除,引受け及び第三者のためにする債務の弁済(同法8条),信託受益権(同法第1章第3節),並びにその他対価を支払わないで,又は著しく低い価額の対価で利益を受けること(同法9条)であるところ,皇室経済法7条による「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」の所有権の移転がみなし贈与であるためには, 相続税法9条の規定するところに該当するか否かが問題になるようです。しかしながら,相続税法9条の適用がある事例として挙げられているのは,同族会社等における跛行増資,同族会社に対する資産の低額譲渡及び妻が夫から無償で土地を借り受けて事業の用に供している場合(金子546頁)といったものですから,どうでしょうか。同条の「当該利益を受けさせた者」という文言からは,当該利益を受けさせた者の効果意思に基づき利益を受ける場合に限られると解すべきではないでしょうか。

むしろ新天皇(若しくは宮内庁内廷会計主管又は麹町税務署長若しくは麻布税務署長)としては,一時所得(所得税法(昭和40年法律第33号)34条1項)があったものとして所得税が課されるのではないか,ということを心配すべきではないでしょうか。一時所得とは「利子所得,配当所得,不動産所得,事業所得,給与所得,退職所得,山林所得及び譲渡所得以外の所得のうち,営利を目的とする継続的行為から生じた所得以外の一時の所得で労務その他の役務又は資産の譲渡の対価としての性質を有しないもの」をいいます。(ちなみに,所得税法上の各種所得中最後に定義される雑所得は,「利子所得,配当所得,不動産所得,事業所得,給与所得,退職所得,山林所得,譲渡所得及び一時所得のいずれにも該当しない所得」です(同法35条1項)。)個人からの贈与により取得する所得には所得税は課税されませんが(所得税法9条1項16号),そうではない所得については,所得税の課税いかんを考えるべきです。(なお,民法958条の3第1項の特別縁故者に対する相続財産の分与については,1964年の相続税法改正後は遺贈による取得とみなされることとなって相続税が課されることになっていますが(相続税法4条),1962年の制度発足当初は,「相続財産法人からの贈与とされるところから」ということで所得税法による課税対象となっていたとのことです(久貴忠彦=犬伏由子『新版注釈民法(27)相続(2)(補訂版)』(有斐閣・2013年)958条の3解説・767頁。また,阿川清道「民法の一部を改正する法律について」曹時14巻4号66頁)。ただし,「贈与」とした上で「法人からの贈与」だからという理由付けで贈与税非課税(相続税法21条の3第1項1号)とせずとも,所得税の課される一時所得であることの説明は可能であったように思われます。1964年3月26日の参議院大蔵委員会において泉美之松政府委員(大蔵省主税局長)は「従来は一時所得といたしておりました」と答弁していますが(第46回国会参議院大蔵委員会会議録第20号10頁),そこでは「法人からの贈与」だからとの言及まではされていません。そして,神戸地方裁判所昭和58年11月14日判決・行集34巻11号1947頁は「財産分与は,従前は,相続財産法人に属していた財産を同法人から役務又は資産の譲渡の対価としてではなく取得するものであるから,所得税法に規定する一時所得に該当するものとして,所得税が課税されていた。」と判示していて,「贈与」の語を用いていません。)

しかし,今井敬座長以下「高い識見を有する人々の参集」を求めて開催された天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(2016年9月23日内閣総理大臣決裁)の最終報告(2017年4月21日)のⅣ2には「天皇の退位に伴い,三種の神器(鏡・剣・璽)や宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)などの皇位と共に伝わるべき由緒ある物(由緒物)は,新たな天皇に受け継がれることとなるが,これら由緒物の承継は,現行の相続税法によれば,贈与税の対象となる「贈与」とみなされる。」と明言されてしまっています。贈与税課税規定非適用説は,今井敬座長らの高い識見に盾突く不敬の解釈ということになってしまいます。

 

(3)本件要綱の第六の七の解釈論:贈与契約介在説

そうであれば,三種ノ神器等の受け継ぎが相続税法上の贈与税の課税原因たる「贈与」に該当することになるように,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承に際しての三種ノ神器等の承継の法律構成を,本件要綱の第六の七の枠内で考えなければなりません。

 

第二により皇位の継承があった場合において皇室経済法第7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物については,贈与税を課さないものとすること。

 

とあるのは,

 

第二により皇位の継承があった場合において皇室経済法第7条の規定の趣旨に基づく前天皇との贈与契約により皇位とともに皇嗣が受けた物については,贈与税を課さないものとすること。

 

との意味であるものと理解すべきでしょうか。(「贈与税の対象となる「贈与」と見なされる。」との文言からは贈与それ自体ではないはずなのですが,みなし贈与に係る相続税法9条該当説は難しいと思われることは前記のとおりです。)

皇室経済法7条により直接三種ノ神器等の所有権が移転するとしても,その原因たる「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承は実のところ現天皇の「譲位意思」に基づくものなのだから広く解して贈与に含まれるのだ,と頑張ろうにも,そもそも「83歳と御高齢になられ,今後これらの御活動〔国事行為その他公的な御活動〕を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じ」ていること(本件要綱の第一)のみから一義的に退位の意思,更に三種ノ神器の贈与の意思までを読み取ってしまうのは,いささか忖度に飛躍があるように思われるところです。

新旧天皇間の贈与については日本国憲法8条の規定(「皇室に財産を譲り渡し,又は皇室が,財産を譲り受け,若しくは賜与することは,国会の議決に基かなければならない。」)の適用いかんが一応問題となりますが,同条は皇室内での贈与には適用がないものと解することとすればよいのでしょう。

贈与税の非課税措置の発効は「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日の午前零時からです(本件要綱の第六の一)。課税問題を避けるためには,新旧天皇間の贈与契約の効力発生(書面によらない贈与の場合はその履行の終了(金子543頁))はそれ以後でなければならないということになります(国税通則法(昭和37年法律第66号)15条2項5号は贈与による財産の取得の時に贈与税の納税義務が成立すると規定)。しかし,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日当日の24時間中においてはなおも皇位継承は生じないところ(本件要綱の第二参照),その日のうちに三種ノ神器の所有権が次期天皇に移ってしまうのはフライングでまずい。そうであれば,あらかじめ天皇と皇嗣との間で,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日の翌日午前零時をもって三種ノ神器その他の皇位とともに伝わるべき由緒ある物の所有権が前天皇から新天皇に移転する旨の贈与契約を締結しておくべきことになるのでしょう(午前零時きっかりに意思表示を合致させて贈与契約を締結するのはなかなか面倒でしょう。)。

ちなみに,上の行うことには下これに倣う。相続税については,皇室経済法7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物の価額は相続税の課税価格に算入しないものとされていること(相続税法12条1項1号)にあたかも対応するように,人民らの墓所,霊廟及び祭具並びにこれらに準ずるものの価額も相続税の課税価格に算入しないこととされています(同項2号)。そうであれば,贈与税について,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承に際して皇嗣が贈与を受けた皇位とともに伝わるべき由緒ある物については贈与税を課さないものとするのであれば,人民向けにも同様の非課税措置(高齢による祭祀困難を理由とした祭祀主宰者からの墓所,霊廟及び祭具並びにこれらに準ずるものの贈与について非課税措置を講ずるといったようなもの)が考えられるべきなのかもしれません。

 

(4)三種ノ神器贈与の意思表示の時期

とここまで考えて,一つ難問が残っていることに気が付きました。

天皇から皇嗣に対する三種ノ神器の贈与は,正に皇室において新天皇に正統性を付与する行為(更に人によっては三種ノ神器の授受こそが「譲位」の本体であると思うかもしれません。)であって,三種ノ神器も国法的には天皇の私物にすぎないといえども,当該贈与の意思表示を華々しく天皇がすることは日本国憲法4条1項後段の厳しく禁ずるところとされている「国政に関する権能」の行使に該当してしまうのではないか,という問題です。皇位継承が既成事実となった後に,もはや天皇ではなくなった上皇からひそやかに贈与の意思表示があるということが憲法上望ましい,ということにもなるのではないでしょうか。(三種ノ神器の取扱いいかんによっては信教の自由に関する問題も生じ得るようなので,その点からも三種ノ神器を受けることが即位の要件であるという強い印象が生ずることを避けるべきだとする配慮もあり得るかもしれません。「天皇に対してはもろに政教分離の原則が及ぶ,と考えざるを得ない。なぜか。憲法第20条第3項は「国及びその機関は,宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定しているからである。実際のところ,神道儀式を日常的に公然とおこなう天皇が,神道以外のありとあらゆる宗教・宗派を信奉する国民たちの「統合の象徴」であるというのは,おかしな話である。天皇は「象徴」であるためには,宗教的に中立的であらねばならない。」と説く論者もあるところです(奥平康弘『「萬世一系」の研究(下)』(岩波現代文庫・2017年(単行本2005年))264頁)。)

しかしそうなると,新天皇は「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日の翌日午前零時に即位した時点においては三種ノ神器の所有権を有しておらず,当該即位は,九条兼実の慨嘆した不帯剣璽(けんじをおびざる)即位之例となるということもり得るようです。ただし,後醍醐前天皇が光明天皇にしたような三種ノ神器を受けさせないいやがらせは,現在では考えられぬことでしょう。(後醍醐前天皇としては,光明天皇の贈与税御負担のことを忖度したのだと主張し給うのかもしれませんが。)

なお,三種ノ神器は,国法上は不融通物ではありませんが(世伝御料と定められた物件は分割譲与できないものとする明治皇室典範45条も1947年5月2日限り廃止されています。),天皇といえども任意に売却等できぬことは(ただし,日本国憲法8条との関係では,相当の対価による売買等通常の私的経済行為を行う限りにおいてはその度ごとの国会の議決を要しません(皇室経済法2条)。なお,相当の対価性確保のためには,オークション等を利用するのがよろしいでしょうか。),皇室の家法が堅く定めているところでしょう。

面倒な話をしてしまいました。しかし,源義経のように三種ノ神器をうっかり長州の海の底に取り落としてしまうようなわけにはなかなかいきません。

ところで,長州といえば,尊皇,そして明治維新。現在,政府においては,明治元年(1868年)から150年の来年(2018年)に向け「明治150年」関連施策をすることとしているそうです。明治期の立憲政治の確立等に貢献した先人の業績等を次世代に(のこ)す取組もされるそうですが,ここでの「先人」に大日本帝国憲法の制定者である明治大帝は含まれるものか否か。
 大日本帝国憲法3条は,規定していわく。

 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

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仲恭天皇九条陵(京都市伏見区)(2017年11月撮影)
(後鳥羽天皇の孫である仲恭天皇は,武装関東人らが京都に乱入した承久三年(1221年)の乱逆の結果,在位の認められぬ廃帝扱いとされてしまいました。)
 
(ところで,その仲恭天皇陵の手前の敷地に,長州出身の昭和の内閣総理大臣2名が記念植樹をしています。)
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「明治維新百年記念植樹 佐藤榮作」(佐藤は,東京オリンピック後の1964年11月9日から沖縄の本土復帰後の1972年7月6日まで内閣総理大臣在職)
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「明治維新百年記念植樹 岸信介」(岸は,1957年2月25日から現行日米安全保障条約発効後の1960年7月19日まで内閣総理大臣在職)
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(1868年1月27日(慶応四年一月三日)から翌日にかけての鳥羽伏見の戦いにおける防長殉難者之墓が実は仲恭天皇陵の手前にあるところ,1867年11月9日(慶応三年十月十四日)の大政奉還上表提出(有名な徳川慶喜の二条城の場面はその前日)から100年たったことを記念して,1967年(昭和42年)11月に信介・榮作の兄弟は東福寺(京都市東山区)の退耕庵に共に宿して秋の京都を楽しみ,かつ,長州・防州(山口県)の尊皇の先達の霊を慰めた,ということなのでしょう。当時現職の内閣総理大臣であった榮作は,この月12日から20日まで訪米し(米国大統領はジョンソン),15日ワシントンD.C.で発表された日米共同声明においては,沖縄返還の時期を明示せず,小笠原は1年以内に返還ということになりました。帰国後11月21日の記者会見において佐藤内閣総理大臣は,国民の防衛努力を強調しています。)

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東福寺の紅葉
(東福寺を造営した人物は,仲恭天皇の叔父にして,かつ,摂政だった九条道家。しかし,ふと思えば,承久の変の際箱根迎撃論を抑えて先制的京都侵攻を主張し,鎌倉方の勝利並びに仲恭天皇の廃位及び後鳥羽・順徳・土御門3上皇の配流に貢献してしまった大江広元は,長州藩主毛利氏の御先祖でした。その藩主の御先祖のいわば被害者である仲恭天皇の陵の前で,長州人らが自らの尊皇を誇り,明治維新百年を祝うことになったとは・・・。) 


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1 承久三年の宇治川渡河戦

 当ブログにおける今年(2017年)最初の前々回の記事(「カエサルのルビコン川渡河の日付について」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1063677215.html)においては,共和政から帝政に向け古代ローマの歴史を大きく変えた紀元前49年のカエサルによるルビコン川の渡河について書きました。

 となれば渡河つながりで,我が国の歴史を大きく変えたものとして一番重要な渡河は何であっただろうかと考えれば,公家の世から武家の世に向かう歴史の流れの節目となった承久の変における,承久三年(1221年)六月十四日に敢行された北条泰時率いる鎌倉方の軍勢による宇治川渡河こそがそれでありましょうか。


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宇治橋から宇治川上流方向を望む(京都府宇治市)


  明けて十四日の宇治川合戦も必ずしも幕軍に有利ではなかった。〔その前日,「足利義氏・三浦義村は,泰時に連絡せず宇治に進出した。そのため京方の猛反撃をうけて死者続出,平等院(京都府宇治市)にたてこもり,栗子山(宇治市西南部)の泰時に援軍を求めた」ところです。〕ここ〔宇治〕は近江から山城への要衝で京方の抵抗もきびしかった。泰時はこの日,元服の際〔建久五年(1194年)〕に〔源〕頼朝から与えられた剣を帯びていた。泰時の命により芝田兼義,春日貞幸,佐々木信綱等が敵前渡河を試みた。・・・

  京方の激しい抵抗と,宇治の急流〔前夜は豪雨〕に,幕軍の犠牲はおびただしかった。泰時は「味方の敗色濃く,今や大将の死すべき時。河を渡り軍陣に命を棄てよ」と〔数え年〕十九歳になる子の時氏〔経時及び時頼の父〕に命じた。三浦泰村らも渡河を試みた。泰時は黙然として,不利な戦局を見詰める目も血走っていた。京方には勝ち誇る気色があった。「あたら侍共を失い,わが身一人残り止っても益なし。運尽きた今は死あるのみ」と意を決した泰時は,自ら乗馬して渡河しようとした。これを留めたのは〔春日〕貞幸であった。・・・そして宇治川先陣の殊勲は佐々木信綱に輝いた。〔なお,佐々木信綱が先か芝田兼義が先だったかは,勲功調査において問題となったところです。〕

  抗戦をしりぞけ幕軍は遂に宇治川渡河に成功した。その夜泰時は,深草河原(京都市伏見区)に陣取った。・・・(上横手雅敬『北条泰時』(吉川弘文館・1958年)3739頁)

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201711月撮影)暑苦しい関東武者の勲功争いは,一時お上の預りです。なお,「『平家物語』に有名な佐々木高綱(信綱の叔父)と梶原景季の先陣争いは,〔承久三年の佐々木・芝田間の〕この事件を素材として作り上げたものだという説」(上横手48頁)を筆者は採用しましょう。
 

承久の変の戦後処理は,「在位わずか七十余日〔承久三年四月二十日「即位」(児玉幸多編『日本の歴史 別巻5 年表・地図』(中央公論社・1967年)469頁)〕の天皇は廃位され(当時は九条廃帝,または半帝とよばれ,明治時代になって初めて仲恭天皇とおくり名された)〔承久三年七月九日「譲位」,同日後堀河天皇「践祚」(児玉編108頁)〕,後鳥羽上皇の兄(ぎょう)(じょ)法親王の子が新たに天皇の位をついだ〔同年十二月一日即位(児玉編469頁)〕。後堀河天皇である。・・・」ということになりました(石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』(中央公論社・1965年)380頁)。

仲恭天皇は,臣下によって廃位されたというわけです。

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京方が陣取った宇治川右岸にあるモニュメント。さすがに京方は(みやび)す。

ここで用語法について一言しておくと,君主がその意思表示に基づきその位を去ることを退位(Abdankung)といい,君主に当該意思表示が無いにもかかわらずその位から去らしめられることを廃位(Absetzung)ということにしましょう。『岩波国語辞典 第四版』(1986年)においては,「退位」は「帝王が位を退くこと。」と,「廃位」は「君主をその位から去らせること。」と定義されています。

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常楽寺(鎌倉市大船)にある北条泰時の墓 
(北条泰時は仁治三年(1242年)「六月十五日亥刻(午後10時)に永眠した。享年六十歳。死因は過労の上に,赤痢を併発したためという。」(上横手199頁)宇治川渡河戦の勝利の翌日入京してから奇しくも21年目の当日でした。)
 

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常楽寺山門


 
2 皇統における仲恭天皇の位置等


(1)明治三年に諡号が追贈された三天皇:弘文,淳仁及び仲恭 

明治三年七月二十三日(1870年8月19日)に弘文天皇,淳仁天皇及び仲恭天皇の諡号が追贈されています。しかし,現実に皇位についてはいたものの怖い太上天皇(孝謙=稱德女帝)によって廃位されたということが明らかな奈良時代の淳仁天皇はともかくも,7世紀天智天皇の崩御後の皇位争いにおいて大海人皇子(天武天皇)に敗れた弘文天皇(太政大臣大友皇子)及び鎌倉時代の仲恭天皇については,皇位についていたこと自体がはっきりしていなかったのではないでしょうか。

(2)牧野伸顕宮内大臣の懸念及び考査対象からの除外:弘文天皇及び仲恭天皇 

大正時代,皇統譜令案の施行を全うするために必要な史実を明確にするために1924年3月7日に設置された臨時御歴代史実考査委員会に対して,同年4月21日に牧野伸顕宮内大臣から諮問事項が示されたところですが,その際牧野宮内大臣から同委員会の伊東巳代治総裁に対して,「弘文・仲恭両天皇に関しては,すでに御歴代に数え,皇霊殿に奉祀されているため,今更問題にすべからざることなどの指示があった」そうです(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)547549頁)。これは,反対解釈すると,「今更問題にす」ると,弘文・仲恭両天皇についてはやはり皇位についていなかったという結論となることが十分あり得るということが宮中自身の認識であったということでしょう。

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 弘文天皇陵(滋賀県大津市)

(3)『神皇正統記』における仲恭天皇:日嗣にくはへたてまつられざる廃帝 

仲恭天皇の皇統における位置付けについて,現在はともかく,承久の変から百二十年ほど後の当時における公家知識人の認識はいかん。

 

 廃帝。諱は(かね)(なり),順徳の太子。御母東一条院,藤原立子(のりつこ),故摂政太政大臣良経(のむすめ)也。

 承久三年春の比より〔順徳〕上皇おぼしめしたつことありければ,にはかに譲国したまふ。順徳御身をかろめて合戦の事をも(ひとつ)御心にせさせ給はん御はかりことにや,新主に譲位ありしかど,即位登壇までもなくて軍やぶれしかば(ははかたの)(をぢ)摂政道家の大臣の九条の(てい)へのがれさせ給。三種(さんしゅの)神器をば閑院の内裏にすて((お))かれにき。譲位の後七十七ヶ日のあひだ,しばらく神器を伝給しかども,日嗣にはくはへたてまつらず(イ﹅)(とよ)の天皇の(ためし)になぞらへ申べきにこそ。元服などもなくて十七歳にてかくれまします。北畠親房(岩佐正校注『神皇正統記』(岩波文庫・1975年)152頁。下線は筆者)

 

北畠親房はその『神皇正統記』において,「第八十四代,(じゅん)(とくの)院。」,「第八十五代,()堀河(ほりかわの)院。」と記していて北畠149頁,154頁),その間仲恭天皇はスキップされています(なお,何の位の第何代かといえば,神武天皇が「(にん)(わう)第一代」とされていますから(北畠45頁),順徳天皇は人皇第84代,御堀河天皇は人皇第85代ということになります。人皇の前は(あま)(てらす)(おほ)(みかみ)以下地神(ちじん)五代です北畠29頁,44頁)。ちなみに,前記伊東巳代治の臨時御歴代史実考査委員会には牧野宮内大臣から附帯事項として「皇統譜中太古ノ神系ハ之ヲ神武天皇ノ前ニ特書スベキヤ否」について参考意見が求められたところ(『昭和天皇実録 第四』548頁),同委員会の意見は積極だったようで,旧皇統譜令(大正15年皇室令第6号)39条は「神代ノ大統ハ勅裁ヲ経テ大統譜ノ首部ニ登録スヘシ」と規定しています。)。

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 仲恭天皇陵(京都市伏見区)

(4)『神皇正統記』における淳仁天皇:人皇第四十七代たる淡路廃帝 

淳仁天皇についてはさすがに,北畠親房によっても「第四十七代,淡路廃(あはぢのはい)(たい)一品(いつぽん)舎人(とねりの)親王の子,天武の御孫也。・・・(つちのえ)(いぬの)年即位。/天下を治給こと六年。事ありて淡路国にうつされ給き。三十三歳おましましき。と記されて北畠8990頁),人皇第47代にしっかりカウントされています。

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 淳仁天皇を祭る白峯神宮(京都市上京区)

(5)飯豊天皇:日嗣にはかぞへたてまつられざる「女帝」 

仲恭天皇というよりは九条廃帝ないしは半帝がその「例になぞらへ申すべき」ものとされた飯豊の天皇とはだれかといえば,清寧天皇と顯宗(けんぞう)天皇(在位期間は宮内庁ウェッブ・サイトの「天皇系図」によればそれぞれ西暦480年から484年まで及び同485年から487年まで)の間「しばらく位に居給」うた「天皇」であるそうです。すなわち,清寧天皇の後は本来顯宗の「御(このかみ)仁賢(まづ)位に(つき)(たまふ)べかりしを,〔仁賢・顯宗の兄弟は〕相共に(ゆづり)ましまししかば,同母の御姉飯豊(いひとよ)の尊しばらく位に居給き。されどやがて顯宗定りましまししによりて,飯豊天皇をば日嗣にはかぞへたてまつらぬなり。」ということです(北畠69頁)。伊藤博文の『皇室典範義解』における明治皇室典範1条(「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」)の解説には「飯豊(いひとよ)(あをの)(みこと)政を摂し清寧天皇の後を承けしも,亦未だ皇位に即きたまはず。」とあります(同じく『皇室典範義解』における明治皇室典範19条解説では,「飯豊青尊の摂政に居たまへるは此れ〔「君祚を仮摂」〕に近し。」とあり,「人臣を以て大政を摂行」する「摂政」とは異なるものとされています。)。推古天皇以来女帝の例もあったのですから,現在の女帝可不可論の問題は別にして,仲恭天皇を歴代天皇に数えることにしたのならば飯豊天皇飯豊青尊代に列せしめることにしてもよかったように思われますが,どうでしょうか。とはいえ,吉野の長慶天皇を1926年に皇代に列した際には「宮内大臣一木喜徳郎は,御歴代大統中に御一代を加えることは皇室の大事にして,詔書を以て宣誥せらるべきもの」とし,同年1021日に摂政宮裕仁親王により詔書が出されていますが(『昭和天皇実録 第四』549550頁),「皇室ノ大事ヲ宣誥」するための詔書(公式令(明治40年勅令第6号)1条1項)という形式は現在もそのようなものとしてあるものかどうか。

(6)順徳天皇・後堀河天皇間における「空位」の意味等 

ところで,『神皇正統記』の記載から窺われる,承久三年四月二十日に順徳天皇が退位し同年七月九日に後堀河天皇が践祚するまでは実は皇位は空位であったことにしよう,という整理ないし事件処理は,敢えて絶妙であったというべきでしょう。関東の東夷どもが人民の分際であるにもかかわらず畏れ多くも現在の天皇を廃位申し上げてしまったのだなどというスキャンダラスな事態(美濃部達吉は,大日本帝国憲法3条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」との規定に関して,「日本ではその固有の歴史的成果として古来既に久しく認められて居た」原則であり,当該原則によれば「既に践祚あつた後に於いては,如何なる事由の起ることが有つても・・・皇位を廃することは法律上絶対に不可能」,「天皇の廃位は絶対に不可能」と強調しています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)115頁,118頁,120頁)。)は,実は我が光輝ある国史においてはなかったのだ,北条義時・泰時父子は,天皇OBの後鳥羽上皇・順徳上皇父子の勢力と争ったものではあるが,現役の天皇に対して刃向かったものではないのだ,空位期間だったのだ,すなわち明治大帝が大日本帝国憲法発布の勅語において畏くも確認しておられるように,日本国民の祖先は全て飽くまでも一貫して,天皇たる「祖宗ノ忠良ナル臣民」であったのである,ということになり得るからです。だからこそ北畠親房も安心して承久三年の宇治川渡河戦の勝利者にして京都への乱入者である北条泰時をほめ,「大方泰時心ただしく(まつりこと)すなほにして,人をはぐくみ物におごらず,公家の御ことをおもくし,本所のわづらひをとどめしかば,風の前にちりなくして,天の下すなはちしづまりき。かくて年代をかさねしこと,ひとへに泰時が力とぞ申伝ぬる。」と記すことができたのでしょう(北畠156頁)。

承久の変の際仲恭天皇はなお満3歳に満たない幼児であらせられました。物心もついておられたものかどうか。飯豊青皇女は自ら政を摂したとのことですが,仲恭天皇の場合はそれもなかったわけです。また,意思能力も有しておられなかったわけで,退位の意思表示は無理だったわけでしょう。摂政が天皇を代理して,退位の意思表示をするわけにもいかなかったでしょう。しかも当時は人臣摂政の時代。ちなみに, 仲恭天皇の摂政であった九条道家は, 次代鎌倉将軍予定者たる三寅(頼経)の実父でもありました。

なお,源平合戦期に後白河法皇が後鳥羽天皇を立てた際安德天皇は同法皇によって廃位されたのかどうかが問題になり得,前記臨時御歴代史実考査委員会には牧野宮内大臣から附帯事項として「安德天皇ノ御在位年数後鳥羽院天皇登極ノ時期ハ如何ニ定ムベキカ」についても参考意見が求められていたところ(『昭和天皇実録 第四』548頁),「記載は原則として皇統譜に基づく」ものとされる宮内庁ウェッブ・サイトの「天皇系図」によれば,第81代の安德天皇は壇ノ浦の戦いの西暦1185年まで在位していたものとされている一方,第82代の後鳥羽天皇は平家都落ちの同1183年から在位していたものとされています。治天の君たる後白河法皇といえども,二人目の天皇を立てることはできても現天皇を一方的に廃位することはできなかった,ということでしょうか(なお, 時代は近いもののまた別の話ですが,当時3歳児であらせられた第79代六条天皇から第80代高倉天皇(安徳天皇の父, その中宮は平清盛の娘である徳子)への「譲位」の有効性については,そもそも問題にされていないようです。)。承久の変後,高倉天皇の皇子である行助法親王が後高倉院として院政を始めましたが,その後高倉院にとっては,後白河法皇は余り手本にしたくはない祖父だったかもしれません(平家都落ち後の新天皇選びの際後高倉院は後白河法皇に気に入られずに践祚できなかったとも伝えられています(代わりに弟の後鳥羽天皇が践祚)。すなわち,現役の天皇がなお在位しているのに,治天の君があえて新天皇を践祚させるというあくの強いなしざまの際の一種の被害者であった者としては,自ら同様のことはしたくはなかったことでしょう。)。他方,孝謙太上天皇による淳仁天皇の廃位はどう考えるべきかということについては,「太上天皇とは・・・律令の規定では,天皇と同じ待遇と政治的権限を有していた」ところであり,かつ,「8世紀においては,まだ権力を天皇一人のみに集中させることはできず,太上天皇や皇后・皇太后など,2~3名の皇族による権力の分掌体制が残っていたのである。」ということ(大隅清陽「君臣秩序と儀礼」大津透=大隅清陽=関和彦=熊田亮介=丸山裕美子=上島享=米谷匡史『日本の歴史08 古代天皇制を考える』(講談社・2001年)65頁,66頁)並びに,つとに淳仁天皇在位中の「天平宝字六年(762)六月孝謙上皇は,「政事は,常の(まつり)へ。国家大事賞罰(もと)(われ)天皇さい賞罰国家大事宣言ていと(丸山裕美子天皇祭祀変容大津218頁)などを参考にすべきでしょうか。

 

3 我が国史における皇位に係る空位の存否

しかし,我が国の皇位に空位期間があってよいものでしょうか。『皇室典範義解』の明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)の解説は「本条は皇位の一日も曠闕すべからざるを示」すと記しています。

しかしこれは,明治皇室典範以降のことであって,万古不易の定則ではなかったところです。

美濃部達吉も「皇位の継承には何等の時間の経過なく,先帝位を去りたまふ瞬間は即ち新帝の践祚したまふ瞬間であり,皇位は寸毫の間隙も無く連続する。此の原則も亦純粋の意義に於いての世襲主義から生ずる当然の結果である。」と唱えつつも,「日本の歴史に於いても,例へば清寧天皇崩ずるの後皇嗣定まらざること3年に及び,その間飯豊青皇女が政を摂せられたやうな例も有る。」という事実は認めざるを得なかったところです(美濃部103頁)。

そもそも前記臨時御歴代史実考査委員会には宮内大臣から附帯事項として「天智天皇持統天皇ノ称制年間ハ御在位中ト見ルベキヤ否」及び「我国古代ニ於ケル皇位継承ノ際ノ空位ハ之ヲ如何ニ取扱フベキカ」についても参考意見が求められていましたが(『昭和天皇実録 第四』548頁),宮内庁ウェッブ・サイトの前記「天皇系図」によれば,結局皇位継承に当たって空位期間が生じることはあり得べきことであったものとされています。第37代の齊明天皇の在位は西暦661年までであるのに対して第38代の天智天皇の在位は同668年から始まったことになっており,かつ,第40代の天武天皇の在位は同686年で終わったものとされる一方第41代持統天皇の在位は同690年から始まったものとされています。他方,古代最初の皇位継承があった神武天皇と綏靖天皇との間で早速空位期間(西暦紀元前585年と同581年との間)が生じています。また,第14代の仲哀天皇の在位期間は西暦200年までとされているのに対して第15應神天皇の在位期間は同270年から始まったことになっていて,その間の空位期間は極めて長い。『神皇正統記』では,仲哀天皇と應神天皇との間のこの長い期間において「第十五代」として神功皇后が人皇の位にあったこととされています(北畠57頁)。承久の変後にも,1242年,第87代四条天皇と第88代後嵯峨天皇との間には「空位期間12日」(上横手197頁)がありました(皇子のないまま突如崩御した四条天皇(後高倉院の孫)の後は承久の変に関与していなかった土御門天皇の皇子である後嵯峨天皇(後高倉院の大甥)が践祚すべき旨は,鎌倉の鶴ケ岡八幡宮の神意として鎌倉から京都に伝えられ,その際,北条「泰時は順徳院の皇子の即位が実現するようなことがあれば,退位させよという決意を,使者の安達義景に伝えた」そうであるところ(上横手197頁),ここでうっかり「皇位は一日も曠闕すべからず」などとしてお公家さんらが間の悪い順徳上皇(なお佐渡で存命)の皇子を勝手に践祚させていたならば承久三年の二の舞。空位に効用があったわけです。)。そもそも,第121代孝明天皇の在位期間が西暦1866年までとされ,第122代明治天皇の在位期間が同1867年から始まったものとされているのは,実に明治時代の直前まで皇位継承に当たって空位期間が生ずることが容認されていたということでしょうか(なお,孝明天皇の崩御日は慶応二年(十一月二十五日まで1866年)十二月二十五日ではありますが,グレゴリオ暦では1867年1月30日になります。)。

1887年3月20日の伊藤博文邸における高輪会議に提出された柳原前光の「皇室典範再稿」第39条柱書きには「空位又ハ左ノ事項ニ関シ天皇政ヲ親ラスル能ハサル間ハ摂政一員ヲ置クコト神功皇后以来ノ例ニ依ル」とあったところ,同会議の決定によって「空位」が削られていますから(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」同『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)193頁),「皇位の一日も曠闕すべからざる」原則も,同会議において初めて決定されたものでしょう(伊東巳代治も当該会議に出席していました。)。(なお,柳原前光は神功皇后を摂政の原型としていましたが,「本朝には應神うまれ給て襁褓にましまししかば,神功皇后天位にゐ給。しかれども摂政と申伝たり。これは今の儀にはことなり。」(北畠107頁。下線は筆者)という認識の存在を前提とすれば,天皇が皇位にあることを前提とした摂政を説明するのに適当な先例であったとはいえないでしょう。「神功皇后ヲ皇代ニ列スベキヤ否」は前記臨時御歴代史実考査委員会に対し1924年4月21日に諮問された事項の第一であり,その答申は皇代に列せざるを可とすだったのですが(『昭和天皇実録 第四』548‐549頁),換言すれば,神功皇后の皇統中の位置付けは,大正時代の末まではっきりしていなかったということです。)

 

4 「国政に関する権能を有しない」ことと天皇の退位の意思

日本国憲法4条1項は「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」と規定していることから,国事行為の臨時代行に関する法律(昭和39年法律第83号)に基づく天皇によるその国事に関する行為の委任における天皇の意思の位置付けが問題になり得ます(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)139頁参照)。当該委任及びその解除について,天皇の意思が実質的に働く余地が認められるのか認められないのか。天皇の国事行為の委任及びその解除には内閣の助言と承認が必要とされているところ(国事行為の臨時代行に関する法律2条,3条),国事に関する行為の委任もまた国政に関することであるとして天皇の意思が実質的に働く余地が認められないということでしょうか,そうであるのならば,その延長で,天皇の意思に基づく退位(国事行為の臨時代行の委任よりも極めて重大な行為です。)は認められないことになるのでしょうか(2017年1月1日に毎日新聞ウェッブ・サイトに掲載された野口武則記者の記事によると「政府は,〔今上〕天皇陛下に限り退位を認める特別立法に関し,退位の要件として「天皇の意思」は書き込まない方針を固めた。・・・内閣法制局は天皇の意思を退位の要件とすることは「憲法改正事項になる」との見解を示しているという。・・・法制局は,天皇の意思による退位を法律で明記すると・・・天皇が政治に影響を及ぼす可能性が残るとする。」ということですが,この「政府方針」は,同様の消極解釈に基づくものでしょう。)。それともやはり,退位となると次元の異なる場面であるということで,ベルギー国憲法の解釈(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060127005.html)に倣って,究極的には天皇個人の決断に基づく退位が認められるものかどうか。

天皇の退位の意思表示を要件とせずに天皇をその位から去らしめることは,これはもはや退位ではなく廃位であるといい得るように思われます(無論,言葉の問題に過ぎないということであれば,そうなのでしょう。)。国会においてみんなで決めた法律である退位特例法によるのだからよいのだ,廃位特例法などと変な言い方で言うのはやめろ,和を尊べ,と言われても,天皇には国会議員の選挙権はありませんから,そこでの「みんな」に含まれておられるものと直ちに解し得るものかどうか。また,英国とは異なり,現行憲法下,天皇には名目的にも立法に係る裁可権はありませんから,1936年のエドワード8世のように,自分の意思に基づく裁可によって自らを王位から去らしめる法律を制定したという形にもなりません。(なお,園部逸夫『皇室法概論』(第一法規・2002年)462頁は,「天皇の自由意思によらない廃立であっても,象徴性・世襲制に反しない場合もあり得ないとは言えず,直ちに違憲とは考えない。」と述べています。美濃部のような廃位ダメ絶対論は,飽くまでも,天皇の神聖不可侵を規定する大日本帝国憲法3条があってのものである,ということになるのでしょう(「諸国の立憲主義憲法は「国王の身体は〔原文は傍点〕不可侵」とするにとどまる。この体制において廃位の考えられるこというまでもないが,明治憲法第3条は意図してこれを避けたのである。」との指摘があります(小嶋和司「再び天皇の権能について」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』(木鐸社・1988年)118頁)。)。「廃立」とは,『岩波国語辞典 第四版』によれば,「臣下が勝手に今の君主をやめさせて別人を君主にすること」です。)

 

5 北条義時の最期

仲恭天皇を廃位したものではない建前とはなった模様である北条義時でしたが,承久の変の後3年で急死しています。「吾妻鏡では脚気の上に霍乱をわずらって死んだとあるが,保暦間記四には「元仁元年〔1224年〕六月十五日義時思ひの外めしつかひける若侍に突き殺されける」と述べて,承久の乱における身の業因の然らしめるところで「とりわきかかるむくい」と覚えて恐ろしい限りだと評している。」とのことです(北畠233頁(岩佐正の補注))。ただし,「六月十五日」は承久の変における鎌倉方の入京日なので,日付には作為があるのかもしれません。一般には義時の死亡日は六月十三日と伝えられています(上横手58頁)。義時の死因には上記の近侍による殺害説のほか,妻による毒殺説もありますが,「・・・上皇を配流したり,道徳的には道ならぬ事の限りをつくしたこのあくの強い人物の死については・・・噂こそが真実だったのかもしれない。」とされています(上横手60頁)。

 山の端に隠れし人は見えもせで入りにし月はめぐり来にけり 泰時

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北条義時の墳墓堂たる法華堂の跡地(鎌倉市。源頼朝の墓の東)

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義時法華堂とは別にインターネット情報の伝える「義時やぐら」(義時法華堂跡から更に東。向かって右側の穴がそれであるようです。)

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(承久三年の勝報を受けて「今ハ義時,思フ事ナシ。義時ハ,果報ハ,王ノ果報ニハ猶勝リマイラセタリケレ」(上横手41頁における『承久記』からの引用)とまでの揚言をあえてした北条義時も空しくなりました。)   

 

6 ロマノフ王朝の最期

しかしながらそもそも,今年(2017年)から百年前のロシア革命のことを思えば,王家に生まれた者にとっては,退位の自由や践祚拒否の自由があったとしても,詮無いことかもしれません。革命騒擾の中,グレゴリオ暦1917年3月15日にロシア帝国の皇帝ニコライ2世は退位宣言に署名して帝位を弟のミハイル大公に譲り,同大公は翌同月16日に帝位を拒否してロマノフ王朝は終焉を迎えましたが,このように降りかかる火の粉を払い,火中の栗を避けてはみたものの,ニコライもミハイルも,結局,ボルシェヴィキによる虐殺の赤い魔の手からは逃れることはできなかったところです。1918年7月17日にニコライとその家族はエカテリンブルクで皆殺しにされ,ミハイルもその前に殺されています。

 
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1891年5月11日に発生した大津事件の現場(滋賀県大津市)

大津では助かったニコライも,エカテリンブルクでは助かりませんでした。ボルシェヴィキは,津田三蔵よりも上手(うわて)


弁護士 齊藤雅俊

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