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前口上

 1889211日に発布された大日本帝国憲法1条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定しています。一見分かりやすそうな規定であります。しかし,「万系一系ノ天皇」が具体的に何を意味するのかをいざ考えてみると,難しい。

 一「系」といっても,厳格に1本の直系の糸に連なる血族のみを示すものではなく,幅のある同一血族集団を指すものとされています。(第121)及び(2))

 また,ロエスレルの影響を承けてなのでしょうが,『皇室典範義解』によれば,皇位は常に単一でなければならないということも「一系」によって含意されているそうです。(第123))

 枢密院会議で,井上毅は「万世一系」と「祖宗ノ皇統」とは重複する概念であるとの趣旨の発言をしています。この片言隻句をあえて拡大すれば,「男系ノ男子」性が欠けても「万世一系」性が充足されるということもありそうだということになります。また,伊藤博文も,(これは別方向から井上と同趣旨の発言をしていることになるのでしょうが)「大日本皇位ハ万世一系ナル皇統ノ男子之ヲ継承スヘシ」との規定文言である場合には「万世一系ナル皇統」のみの限定句であるので女系継承を排除できない旨説明しています。(21及び2

 しかして「万世一系」は,元は「万世一()」ないしは「一()伝継」であって,易()革命の絶えない漢土の歴史及び文明に対する我が国の歴史及び国体の優越性を誇示するための表現であったようです。その際,優越性を測るための尺度としての「姓」は――尺度としての共通性の必要から――漢民族の伝統とする父系によるものとされたのでしょう。(第3

 女系継承排除の理由付けも,結局は易姓の忌避であったようです。(第44

 ところで,皇位継承に関する皇室自律主義にもかかわらず,大日本帝国憲法2条は「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇子孫之ヲ継承ス」と規定しています。ここでの「男」の字は,翌月11日における憲法発布を控えた1889129日の段階に至って,枢密院再審会議で急遽挿入されたものです。当該挿入の結果,女系又は女子の天皇を将来認めるか否かについては――憲法改正のための帝国議会の議決が必要になりますから――実は「将来に臣民の干渉を容れ」ることになります。皇室の立場からすると本来不要な修正であり,かつ,一見逆説的な修正です。これについてはどう解釈すべきかについての筆者得意の僻見によるこじつけは,嘉仁親王(大正天皇)の御病弱を前提に,最近生まれた皇女(具体的には昌子内親王)を自分の次の皇位に即けさせたいとの叡旨が将来あった場合における当該女帝践祚を実現させるべき手続は,むしろあえて臣民の協賛を帝国議会で確保して男尊女卑論者・伝統墨守論者らを黙らせ置く憲法改正の道筋を採った方がよろしい,との現実政治的判断がされた上での修正ではないか,というものです。(第5

 嘉仁親王御病弱という前提からさらに妄想を膨らませて,同親王及びその御子孫が仮にいらっしゃらなかった場合という仮設例における,明治天皇崩御後の「万世一系ノ天皇」規定の帰結するところを考えると,実は145箇月弱の大正時代はむしろ安定し,かつ,武張らずに文雅な時代であったという再評価に逢着します。伏見宮系旧皇族の子孫が将来皇位を継承するということはどういうことなのだということを論ずる向きが最近あるようでありますところ,時代を百十余年前に遡っての思考実験も無益ではないでしょう。(第6

 

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伊藤博文像(東京都品川区西大井伊藤博文公墓所)


第1 「万世一系」の語

 

1 その出現

 「万世一系」の語の初出時期を探るに,慶応三年(1867年)十月付けの岩倉具視の「王政復古議」に「抑皇家ハ連綿トシテ万世一系礼楽征伐朝廷ヨリ出テ候而純正淳朴ノ御美政万国ニ冠絶タリ然ルニ中葉以降覇府大柄ヲ掌握シ」云々との表現があります(大塚武松編『岩倉具視関係文書 第一』(日本史籍協会・1927年)301頁)。また,明治二年一月二十三日(186935日)発表の版籍奉還の上表文には「天祖肇テ国ヲ開キ基ヲ建玉ヒシヨリ,皇統一系万世無窮普天率土其有ニ非サルハナク其臣ニ非サルハナシ」との表現があり(島善高「「万世一系の天皇」について」明治聖徳記念学会紀要516号(19925月)57頁),その2日後の同月二十五日(186937日)に岩倉具視が提出した意見書の中において「万世一系ノ天子」という表現が用いられていたそうです(島66頁附記)。

しかして「明治四年頃から公式文書において「万世一系」なる成語が使用されるようになる」そうです(島57頁)。すなわち,岩倉右大臣,木戸孝允参議,大久保利通大蔵卿,伊藤博文工部大輔らの米欧諸国派遣に係る明治四年十一月四日(18711215日)付けの国書に「万世一系ナル皇祚」という表現があり,英国向けには “the Imperial throne occupied by a dynasty unchanged from time immemorial”と,米国向けには “the saved throne on which Our Ancestors reigned from time immemorial”と訳されていたそうです(島57-59頁)。

「これ以降,外交文書には「万世一系」の語が頻繁に使用されるようにな」り(「万世一系ノ帝祚」という形で),187610月の元老院日本国憲按1条では「日本帝国ハ万世一系ノ皇統ヲ以テ之ヲ治ム」と皇統の修飾句として用いられ,「爾来,「万世一系」は皇統を修飾する慣用句とな」ったわけです(島59頁)。

 

2 「万世一系」の語義

 

(1)血筋

 美濃部達吉は「〔大日本帝国憲法1条の宣言する日本の政体の根本原則は〕第1には,日本が世襲的の君主政体の国であること,及び第2には,その君主としての地位に在ますのは万世一系の天皇であることの2である。而してその「万世一系」といふ語の中には,啻に過去に於いて開闢以来常に同一系統の君主を奉戴して居たことの歴史的事実を言ひ表して居るのみならず,同時に将来永遠に亙りて,日本が同じ皇統を君主として奉戴する君主政体の国であることが,動かすべからざるものであることを示して居る。〔略〕独り此の第1条に定められた原則のみは万古不変の原則たるべきことが,此の「万世一系」の語に依つて言明せられて居るのである。」と(同『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)66-67頁。下線は筆者によるもの),あるいは「万世一系ノ語ハ唯我ガ憲法ニ於テノミ之ヲ見ルヲ得ベク,一面ニ於テ我ガ太古以来ノ歴史ニ於テ祖宗ノ皇統連綿トシテ絶エザリシコトヲ示スト共ニ,一面ニ於テハ将来永遠ニ亙リテ皇統ノ天壌ト共ニ窮ナカランコトヲ宣言セルモノナリ。」と(同『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)115頁)述べています。

ここでの「系統」は「家すじ。血すじ。」,「皇統」は「代々続く天子の血すじ。」でしょう(『角川新字源』(123版・1978年))。「血筋」を「血統の続いた親族。血縁。」と解すれば(『新明解国語辞典 第五版』(三省堂・1997年)),一つの同じ(「一」)・血族集団(「系」)の成員が過去・現在・未来において代々皇位を占めている様が「万世一系」でしょうか。血族集団であれば,幅を有し,傍系も含まれるわけでしょう(1889211日の皇室典範(以下「明治皇室典範」といいます。)自体がその第5条から第8条までで傍系継承を予定していたところです。)。岩倉使節団に係る国書の英国向け英語訳の “a dynasty unchanged from time immemorial” は,王朝(dynasty)の語を用いており,系に係る集団性をそのようにして表すものといえます。

 

(2)1本の糸ではない

これに対して,「系」は「糸が物にひっかかって下がっているさま」に係る字(『角川新字源』)だからとて,「一系」をもって1本の糸と解し,「神々の系統につながる子孫が1本の糸のようにずっと続いているということに,なによりものポイントが置かれた」ものとして(奥平康弘『「萬世一系」の研究(上)――「皇室典範なるもの」への視座――』(岩波現代文庫・2017年)6頁(単行本2005年)),「一系」が1本の直系の血族のみを指すものと解してはならないのでしょう。

「開闢以来常に同一系統の君主を奉戴して居たこと」が我が国の「歴史的事実」であっても,「開闢以来常に単一の直系で途切れなく継承された君主を奉戴して居た」わけではありません。近くは江戸時代後期において,中御門天皇の皇統が,その曽孫の後桃園天皇をもって断絶していたところです(閑院宮家出身の光格天皇(中御門天皇の大甥)が皇位を継承)。岩倉使節団に係る国書の米国向け英語訳では「朕の先祖(Our Ancestors)が開闢以来占めてきた皇位」ということになりますが,しかしこれは,後者的解釈の方向に親和的な翻訳でしょうか(さりとて,後桃園天皇は明治天皇の先祖ではないでしょう。)。

 

(3)大日本帝国憲法1条の英語訳文に関して

 

ア 英語訳文

 ところで,伊東巳代治による大日本帝国憲法1条の英語訳も悩ましい。伊東訳に係る同条は “The Empire of Japan shall be reigned over and governed by a line of Emperors unbroken for ages eternal.” です。しかして,ここでの “a line unbroken for ages eternal” は何によってつながれているかといえば,大日本帝国憲法2条は「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」(伊東訳では “The Imperial Throne shall be succeeded to by Imperial male descendants, according to the provisions of the Imperial House Law.”)ですから,皇男子孫による父子継承でしょう。一見するに,過去においても例外なく(unbroken)男系の直系継承であったということになりそうです。

 

イ 『皇室典範義解』の明治皇室典範1条解説

 しかしこの点,「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と規定する明治皇室典範1条(ちなみに,伊東巳代治による英語訳は, “The Imperial Throne of Japan shall be succeeded to by male descendants in the male line of Imperial Ancestors.”)に係る『皇室典範義解』の解説には次のようにあります。

 

   祖宗の皇統とは一系の正統を承くる皇胤を謂ふ。而して和気清麻呂の所謂皇緒なる者と其の解義を同くする者なり。皇統にして皇位を継ぐは必〔ず〕一系に限る。而して二三に分割すべからず。天智天皇の言に曰〔く〕「(てんに)無双(ふたつの)(ひなく)(くにに)無二王(ふたりのきみなし)と。故に,後深草天皇以来数世の間,両統互に代り,終に南北2朝あるを致しゝは,皇家の変運にして,祖宗典憲の存する所に非ざるなり。

 

なお,「祖宗」とは,「君主の始祖と,中興の祖。②初代から先代までの代々の君主。」の意味です(『角川新字源』)。

また,「和気清麻呂の所謂皇緒」は,清麻呂の有名な還奏が「我国家開闢以来,君臣分定矣,以臣為君未之有也,天之日嗣,必立皇緒」と言っているところの「皇緒」でしょう。そこでは,臣を以て君と為すことの不可性が強調されています。そうであれば,「正統を承くる皇胤」とは,祖宗の子孫(後胤)であって,かつ,臣籍に下っていないもの,ということになるのでしょうか。

 

しかして,「一系に限る。而して二三に分割すべからず。」ということですから,どうも専ら,1本(a lines)を超えた数の皇統(lines)が共時的に対立することがあってはならないということのようです。ただし,通時的に単一の直系による継承がされ続けなければならないということまでは要求されないのでしょう。同一皇統に属するものであれば,傍系継承も認められるところです。そうであれば,伊東訳に係る大日本帝国憲法1条の “unbroken” は,君主政体が中断されることがなかったということ(「万世・・・天皇之ヲ統治ス」)に係るのでしょう。

換言すれば,一つの同じ血族集団(一系)の成員が過去・現在・未来において代々皇位(南北朝時代のように共時的に複数であっても可)を占めていることまでをもって「万世一系」の定義として十分であるものとはしない,ということなのでしょう。皇位の単一性までをも要求するわけです。通常の「万世一系」理解よりは一歩踏み込むことになるのでしょう。この一歩の踏み込みについては,「井上毅は〔略〕,皇統が二三に分裂することを防ぐために説明文に加筆をしたが,そのために「一系」の意味がやや曖昧にな」ったと評されています(島64頁)。もっと大らかでよいではないか,ということでしょうか。「南北朝も同じ皇家内部での分裂であって〔略〕「2系」とまでいう必要はないと思われる」(島64頁),すなわち南北朝の分裂も「万世一系」内におさまる出来事である,と解するのが普通なのでしょう。

 

ウ ロエスレルの「日本帝國憲法草案」

上記の皇位に係る単一性の要請については,1887430日に成立した御雇外国人ロエスレルの「日本帝國憲法草案」1条の影響がありそうです。同条は,次のとおり(小嶋和司「ロエスレル「日本帝國憲法草案」について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)10-11頁)。

 

  Das Kaisertum Japan ist eine auf ewig untheilbare Erbmonarchie.

  Die Krone ist erblich in den Kaiserlichen Hause nach den Bestimmungen der Kaiserlichen Haus-gesetze.

 

  日本帝国ハ万世分割スヘカラサル世襲君主国トス

  帝位ハ帝室家憲ノ規定ニ従ヒ帝室ニ於テ之ヲ世襲ス

 

 「一系」の「一」は,君主政体のUnteilbarkeit(不可分性)ということになっています。

 なお,ロエスレルの上記条文案が大日本帝国憲法草案起案に影響を与えたことについては,1888618日午前の枢密院会議において伊藤博文議長の次の発言があります。大日本帝国憲法草案の第1条においては「永ク子孫ニ伝フル元質タル者ハ従来ノ国彊タリトノコトハ示サレス」であるが「其理由如何」,との佐野常民枢密顧問官の質疑に対する応答です(『枢密院会議筆記』)。

 

  去ル明治9年〔1876年〕97日元老院ニ憲法草案ノ諮詢アリテ〔18801228日の〕其上答文ヲ見ルニ第1章第1万世(〇〇)一系(〇〇)()皇統(〇〇)()日本(〇〇)()()君臨(〇〇)()トアリ〔伊藤博文編『秘書類纂 憲法資料下巻』(秘書類纂刊行会・1935年)385頁参照〕又世上ニ流布シタル「ロイスレル」草案の第1条ニモ万世(〇〇)分割(〇〇)スヘカラサル(〇〇〇〇〇〇)世襲(〇〇)()()()トアリテ其必要ヲ認メサルナリ

 

 それまでの草案起草過程において既に検討の上憲法の第1条には当該規定は不要と判断されていたのだ,ということでしょう(筆者註:ただし,18801228日の元老院の国憲案においては,「帝国」と題された第2篇に「第1条 帝国ノ土地彊域内ニ在ル者ヲ日本国トス」及び「第2条 帝国府県郡区町村ノ彊界ヲ変易スルハ法律ノ定ム所トス」との2箇条が設けられていたのでした(伊藤・憲法資料下巻387-388頁参照)。)。しかして伊藤議長がわざわざ言及していますから,ロエスレル草案は,憲法草案の起草・検討過程において重要な参考資料として位置付けられていたのだというわけです。

 ちなみに,ロエスレル草案が「世上ニ流布シタル」経緯は,18878月に大日本帝国憲法の「草案と称するものが洩れ,それが実はロエスレル草案であった」ということであって,「最初は,条約改正についての勝安芳,谷干城,ボアソナード,板垣退助の意見書とともに民権運動家によって秘密出版され」,「次いで10月グナイスト(Rudolf Gneist)憲法講義の秘密出版物『西哲夢物語』に付載され,また,谷,板垣,林有造,ボアソナード,松尾清二郎の条約改正意見とともに秘密出版されたこともある」ものだそうです(小嶋・ロエスレル4-5頁)。ただし「民権運動家たちはこれが参考案にすぎないことを最後まで気付かなかった」そうです(同5頁)。

 

第2 明治皇室典範1条の枢密院審議

 

1 1888525日:「万世一系」か「祖宗の皇統」か等

 1888525日午後の枢密院会議における明治皇室典範案の第二読会においては,第1条の草案(その後明治天皇によって裁定されたものと同文,すなわち「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」)に関して,次のような修正意見等があった旨記録されています(『枢密院会議筆記』)。

 

  大木喬任枢密顧問官 「万世(〇〇)一系(〇〇)ナル(〇〇)大日本(〇〇〇)皇位(〇〇)祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と改めるべし。「宝祚ノ万世一系ニシテ天壌ト無窮ナルコトノ意」を明治皇室典範1条にも掲げたいのである。

  土方久元枢密顧問官 「万世(〇〇)一系(〇〇)()皇位(〇〇)ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と改めるべし。「大日本(〇〇〇)ト云フハ外国ニ対スルノ字ナリ歴朝相承ケ綿々一系未タ曽テ宇内ニ比類ヲ見サル我国ニ取リテハ」,大日本(〇〇〇)よりも万世(〇〇)一系(〇〇)の方がよい。

  三条実美内大臣 「大日本国皇位ハ()()ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と改めるべし。(筆者註:三条は,この「天祖」をもって天照大神を指示しようとしたのでしょうか。しかし「天祖」概念もなかなか難物で,筧克彦によれば,「天祖」は,天照大神より前の,高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ),又は(こと)天神(あまつかみ)及び神代(かみよ)七代(ななよの)(かみ)(がみ),若しくは造化三神ということになってしまいます(筧克彦『大日本帝国憲法の根本義』(岩波書店・1936年)35-36頁,また,256頁及び270頁)。)

  山田顕義司法大臣 「本条ノ立言ハ専ラ既往ノミニ渉リ未来ニ及ホスノ意ヲ加ヘタシ」。(筆者註:同日の枢密院会議の初めの第一読会の段階で井上毅が「皇室典範ハ尋常ノ法律ト異ニシテ既往ニ亘リ且未来ヲ規定スルモノ」と説明していました。)

  大木喬任枢密顧問官 「万世(〇〇)一系(〇〇)()皇位(〇〇)ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承(〇〇)スヘシ(〇〇〇)と改めるべし。土方説に賛成し,前の自説を撤回する。明治皇室典範1条に未来に及ぼすの文意を加えるならば,「継承スヘシ」となる。

  井上毅枢密院書記官長 「万世(〇〇)一系(〇〇)ト云ヘハ祖宗(〇〇)()皇統(〇〇)ト重複ス」

  副島種臣枢密顧問官 「万世(〇〇)一系(〇〇)ナル(〇〇)皇位(〇〇)()今後(〇〇)男系ノ男子ノミ之ヲ継承ス」と改めるべし。皇位については「従来ハ男女共ニ之ヲ継承シタリ」なのである。

  東久世通禧枢密顧問官 「日本帝国(〇〇〇〇)()万世(〇〇)一系(〇〇)()天皇之(〇〇〇)()統治(〇〇)()男系ノ男子()()継承(〇〇)()と改めるべし。(筆者註:東久世案の前段は,大日本帝国憲法1条と重複してしまいます。)

 

2 1888528日:「万世一系」に係る大木=土方修正案の否決と男系要件と

 明治皇室典範案の第1条に係る第二読会の続きは1888528日午後に開催され,次のような経過をたどっています(『枢密院会議筆記』)。

 

   「万世一系ノ数字ハ我国体ノ最モ尊キ所以ヲ表彰スルモノナレハ必スコレヲ加ヘサルヘカラス〔略〕祖宗(〇〇)()皇統(〇〇)云フノミニテハ未タ我国体ノ如何ヲ表彰スルニ充分ナラス」と述べた上で,大木喬任枢密顧問官は土方久元枢密顧問官と共に明治皇室典範案1条に係る次の修正案を提議します。

 

  大日本皇位ハ万世一系ナル皇統ノ男子之ヲ継承スヘシ

 

 ここで伊藤博文議長が修正案に「男系」の文字がないことについて「(ことさ)ラ」であるかどうかについて確認しますが,大木枢密顧問官は「然リ」と回答します。そこで伊藤議長は警告的確認として「修正案ニハ故ラニ男系(〇〇)字ヲ削除セリ果シテ此ノ如クナルトキハ則将来ニ於テ我皇位ノ継承法ニ女系ヲモ取ルヘキニ至リ上代祖先ノ常憲ニ背クコトヲ免レス」と述べた上で大木=土方修正案について採決します。賛成者は8名のみで,当該修正案は廃滅に終わりました。なお,修正案に賛成した8名には,大木及び土方の外,議場で賛意を表明していた副島種臣,福岡孝弟,元田永孚及び勝安芳の4枢密顧問官が含まれていたものでしょう。

 ただし,大木=土方案に賛成した8名が全て女系の天皇(ただし,男子に限る。)の容認論者であったわけではなかったようです。「万世一系」の文字を加えるのはよいが確かに「男系」の文字を削ったのはまずかった,だから「以テ本条ヲシテ完全ナラシムヘキ修正ヲ加ユル為ニ之ヲ修正委員ニ附セラレンコトヲ建議ス」との佐野枢密顧問官の発言を承けて,未練がましく,副島枢密顧問官は「皇統(〇〇)()男子(〇〇)ト云ヘハ男系(●●)()男子(●●)タルコトニシテ説明ニ於テモ亦判然タリ」と,大木枢密顧問官は「〔副島枢密顧問官〕ノ発言シタル如ク皇統(〇〇)()男子(〇〇)ト云ヘハ男系(●●)()男子(●●)タルコトニ相違ナシ況ンヤ1条ハ大体ヲ論スルノ条ニシテ其男系(●●)()男子(●●)タルコトハ後条ノ所載ニ於テ判然タルニ於テヲヤ」と発言しています。

 大木=土方修正案の否決にもかかわらず「万世一系」の文字を加えるための修正をなおも求める佐野枢密顧問官並びに同枢密顧問官の当該建議に賛同する大木及び土方両枢密顧問官の執拗に辟易したものか,伊藤議長は原案について採決をします。採決の結果,伊藤議長以外の出席者27名中16名の賛成をもって原案が採択され,明治皇室典範案1条に係る第二読会は終了します。(1888615日午前開議の第三読会では議論はありませんでした。)

 

3 小括

 以上明治皇室典範1条の文言及び同条に係る議論に鑑みるに,「万世一系」とは「祖宗ノ皇統」と重複する概念であるそうです。ただし,「祖宗」の皇統であって,三条実美の提案した「天祖ノ皇統」ではありません。三条案には賛同者が全くなかったのですが,これは,天皇は神の子孫であると主張するものと解釈されることとなるであろう文言はやはり行き過ぎだ,ということだったのでしょうか。神武天皇であるならば,かたじけなくも人でありたもうた存在であります。

土方枢密顧問官は「大日本(〇〇〇)ト云フハ外国ニ対スルノ字ナリ」と,当該部分は外国との比較に係るものであるとの認識を示した上で「歴朝相承ケ綿々一系未タ曽テ宇内ニ比類ヲ見サル我国」としては大日本(〇〇〇)よりも万世(〇〇)一系(〇〇)の方がよいものとしています。「宇内ニ比類ヲ見サル」ものとして我が国が自慢できることは「万世一系」なのだ,ということなのでしょう。しかしてその自慢の相手方は,地理的にユーラシア大陸東方沖に位置する我が国の歴史からすると同大陸東部の大国ということになり,具体的には,易姓革命が相継ぎ諸王朝の興亡めまぐるしかりし漢土の帝国(当時は清国)及びその歴史なのでしょう。

副島枢密顧問官は,皇位について,「従来ハ男女共ニ之ヲ継承シタリ」と述べて,過去においては女帝のみならず女系天皇も存在していたとの認識であるような口吻です。すなわち,同枢密顧問官によって「今後(〇〇)男系ノ男子ノミ之ヲ継承ス」とされる場合においては,男系かつ男子であることを要するものとされて皇位継承要件が二重(男系と男子と)に制限されること(「ノミ」)が,「今後(〇〇)」たるところの新規性なのでしょう(「男系ニヨリ今後男子ノミ之ヲ継承ス」ではありません。)。しかし,井上書記官長によれば「皇室典範ハ尋常ノ法律ト異ニシテ既往ニ亘リ〔略〕規定スルモノ」なので(また,伊藤議長も「上代祖先ノ常憲」を重視しています。),女系の天皇及び女子の天皇を排除する明治皇室典範1条の規定は明治の御代に始まる新規の定めであるものだとする副島説は都合が悪い。

以下,漢土の歴史と比較した場合の優越性を示すものとしての「万世一系」については第3で,「上代祖先ノ常憲」としての女系継承排除原則については第4で検討します。

 

第3 北宋太宗の羨望した「一姓伝継」から,「万世一姓」を経て「万世一系」へ: Nostrum Regnum superius Sinis est.

 

1 奝然と太宗と

21において見たように,土方枢密顧問官が「歴朝相承ケ綿々一系未タ曽テ宇内ニ比類ヲ見サル我国」と自信をもって自慢できたのは,なぜか。それは,「一姓伝継」の天皇を戴く我が日本の国体を,漢土の偉大なる皇帝陛下が何と現に大変羨んでくださった,という歴史的事実があったからです。

時は10世紀の末(我が国では円融天皇の御代),渡宋した東大寺僧(ちょう)(ねん)が北宋の太宗こと(けい)(匡義)

皇帝に召見せられた際のことです。趙炅皇帝は976年に兄の初代太祖・趙匡胤皇帝を継ぎ,呉越及び北漢を平定して978年に五代十国の争乱を終わらせた大人物です。我が国の国体の話を奝然から聞いた同皇帝の深い感慨は,『宋史日本伝』の伝えるところ次のとおり。

 

 上,其の国王〔天皇〕は一姓継を伝へ,臣下も皆官を世々にするを聞き,因て嘆息して宰相に謂て曰く,此れ島夷のみ,乃ち世祚()久にして,其の臣も亦継襲して絶えず,此れ蓋し古の道なり,中国は唐李の乱より県分裂し,梁周の五代,歴を享くること尤も(はや)く,大臣の世冑,能く嗣続すること(すく)なし,朕,徳は往聖に慙ずと雖も,常に夙夜(つつ)しみ畏れ,治本を講求し,敢て暇逸せず,無窮の業を建て,可久の範を垂れ,亦以て子孫の計を為し,大臣の後をして世々禄位を襲はしむるは,此れ朕の心なりと,

 (島55頁)

 

 奝然は趙炅皇帝に対して日本国の「国王は王を以て姓と為し」と説明してしまっていましたから(島55頁),実は天皇に姓は無いのではありますが,皇帝陛下におかれては「一()伝継」(一姓継を伝へ)ということにされてしまったのでしょう。ちなみに『宋史』は,元代の14世紀半ばに至って完成しています(皮肉なことに当時,「一姓伝継」の我が皇室は,南北2朝に分裂していましたね。)。

 

2 「万世一姓」から「万世一系」へ

その後,弘化四年(ほぼ1847年)に水戸藩の藤田東湖が『講道館記述義』を脱稿したところ,「藤田東湖翁か講道館述(ママ)義を記さるゝ時万世()()ノ天皇とかゝれたるを,門人の石河幹次〔二〕郎と申す人か日本天皇に姓あること何の書に有之(これあり)やと太く詰問したるを,東湖翁,飼犬に手を喫はれたりとて大に閉口せられしと申す事,今に学者間の談柄となり候」云々(島52-53頁:1887年頃の小中村(池辺)義象の井上毅宛て書簡)という挿話があります。当該挿話に鑑みると,天皇に係る「万世一系」との表現には,実は「万世一姓」が先行していたのでしょう。漢土の歴史及び文明と比較して,我が国の歴史及び国体の優越性を我が漢学的知識人が宇内に誇示しようとする場合,無意識の裡に相手方の土俵で相撲を取ることになり,姓を中心とする相手方の思考の型にとらわれて,「万世一()」性を主張するという形にならざるを得なかったものでしょう。「「国王一姓伝継」なる表現は,わが皇統の連綿性を説明する場合,特に易姓革命の国たる中国の人に説明する場合には,極めて説得的」だったところです(島56頁)。

 「我が先人達は,皇統の連綿を「姓」の観点から捉え,これを「一姓」と表現した。けれども,やはり「一姓」は不当な表現であるから,〔文政九年(ほぼ1826年)に版行された岩垣東園(松苗)の〕『国史略』は「皇統一系,万世不革」と表現し直したのであろう。この「一系」は「一姓」に代わる表現であるから,恐らく「同一の家系」「同一の血筋」というような意味合いで使用されているのであろう。」ということになっています(島56頁)。

 

3 姓(=系)の漢式把握

しかして,「万世一系」が殊更な政治的理想として唱えられるときは,やはり漢土の歴史及び文明に対する対抗心がその根底にあるということが我が国のナショナリズムにおける心理ないしは生理でしょう。そうであればこそ,「一系」概念は,「同一の家系」「同一の血筋」という漠としたものよりも,漢学的により精確な「一姓」概念(すなわち男系によるもの)と同じものとされなければならないのでしょう(相手側に合わせる・律儀な整合性の追求ということになりますが)。

皇位継承における女系継承の排除(男系性の確定)の理由付けは次に詳しく見ていくこととなりますが,確かに漢民族における姓は,男系で承継されるのでした。

ただし,漢民族の伝統も徐々にながら変化しようとしているようではあります。「〔中華人民共和国の〕1980年婚姻法では,子は父の姓に従うことができるし,また母の姓に従うこともできると規定した(22条)。この時に採用されたいわゆる一人っ子政策(2015年末で終了)の影響もあり,母の姓を選ぶ子も徐々に現れてきたといわれる。2001年改正では,子は父または母の姓に従うものとされ,子の姓を定めるにあたっての父母の平等性が強化されている。もっとも,現在でもほとんどの子は父の姓を称するといわれる。」とのことです(二宮周平編『新注釈民法(17)親族(1)』(有斐閣・2017年)715頁(床谷文雄))。

 

第4 女系継承排除の理由付け

 

1 『皇室典範義解』:男系継承継続の実績

明治皇室典範1条の女系継承排除原則は,「既往」の歴史に根拠を有するものとされています。その点を示すものが,明治皇室典範1条に係る『皇室典範義解』の次の説明です。

 

  皇統は男系に限り女系の所出に及ばざるは皇家の成法なり。上代独〔り〕女系を取らざるのみならず,神武天皇より崇峻天皇に至るまで32世,曽て女帝を立つるの例あらず。故に神功皇后は国に当ること69年終に摂位を以て終へたまへり。飯豊(いひとよ)(あをの)(みこと)政を摂し清寧天皇の後を承けしも,亦未だ皇位に即きたまはず。清寧天皇崩じて皇子なし。亦近親の皇族男なし。而して皇妹春日(かすがの)大娘(おほいらつめ)あり。然るに皇妹位に即かずして群臣従祖履中天皇の孫顕宗天皇を推奉す。是れ以て上代既に不文の常典ありて易ふべからざるの家法を成したることを見るべし。其の後,推古天皇以来皇后皇女即位の例なきに非ざるも,当時の事情を推原するに,一時国に当り幼帝の歳長ずるを待ちて位を伝へたまはむとするの権宜に外ならず。之を要するに,祖宗の常憲に非ず。而して終に後世の模範と為すべからざるなり。本条皇位の継承を以て男系の男子に限り,而して又第21条に於て皇后皇女の摂政を掲ぐる者は,蓋〔し〕皆先王の遺意を紹述する者にして,苟も新例を創むるに非ざるなり。

 

 「皇家の成法」とされる女系継承排除の理由は,過去においてその例がなかったからだ,ということでしょう。

しかしそれは,男系の所出がめでたくも・たまたま今まで絶えることがなかったからでしょう。仮に,元老院の国憲案の「帝室継承」と題された第2章の第3条の規定(「上ノ定ムル所ニ依リ而シテ猶未ダ帝位ヲ継承スル者ヲ得ザルトキハ皇族親疎ノ序ニ由リ入テ大位ヲ嗣グ若シ止ムコトヲ得ザルトキハ女統入テ嗣グコトヲ得」(伊藤・憲法資料下巻386頁参照))が「皇家の成法」であったとしても,男系による皇位継承が断絶することは歴史上の事実においては結局なかったのですから,「若シ」以下の同条後段の発動は無くて,無用の規定であったわいとの空振り認定がされていただけのはずです。しかして,過去において無用であったことのみをもって直ちに当該非常時対応規定を排除すべしとの当為までを導き出す必然性はないものでしょう――特に将来が過去とは大いに異なるものであることが予想されるときには。

しかしなお,二千六百年余の実績は,通常の場面については当為と目さるべきものなのでしょう。1885ないしは1886年頃に井上毅が伊藤博文宮内大臣に提出した文書たる「謹具意見」(小林宏「井上毅の女帝廃止論――皇室典範第1条の成立に関して――」『明治国家形成と井上毅』(木鐸社・1992年)358頁・367頁参照)において引用された沼間守一の揚言にいわく。

 

 論者ハ言ハン,女帝ヲ立テザルガ為ニ皇統絶ユルトキハ如何ント,予ハ直チニ之ニ答ントス,既往二千五百年間,此事ナシ,爾後モ亦是レナカル可キノミト

(井上毅「謹具意見」・伊藤博文編『秘書類纂 帝室制度資料・上巻』(秘書類纂刊行会・1936年)266頁)

 

その間において,皇位継承が云々されるための前提である皇族たるの資格の問題について,「日本における「帝室ノ眷属」の形成原理は,父母の同等婚を要求しないかわり,たんに片親の皇統性で足りるとはせず,厳格に父系の皇族性を要求した。」(小嶋和司「「女帝」論議」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』(木鐸社・1988年)60頁)ということであったのでしょう。しかし,皇位継承に係る「止ムコトヲ得ザルトキ」における例外処理の可能性までをも排除する厳格な規範と解すべきものかどうか。また――関連する問題として――当該例外処理が行われる場合にあっては,そのためにする手当ては,日本国憲法次元の問題なのか,なおも昭和22年法律第3号たる皇室典範(以下「皇室典範法律」といいます。)の次元に留まり得るものか。

 なお,『皇室典範義解』の前記説明中,「神武天皇より崇峻天皇に至るまで32世,曽て女帝を立つるの例あらず。」以下の部分は,女系継承排除の理由付けというよりも,男系女子の即位を認めないこととするに当たって,過去存在した女帝の例外性を論証しようとするものでしょう。

ちなみに,神功皇后(息長宿禰王の娘,開化天皇4世の孫)は,『神皇正統記』では人皇第15代に数えられています。そもそも神功皇后を皇代に列することの正式な否定は,192437日設置の臨時御歴代史実考査委員会(総裁・伊東巳代治)の答申によるものであって(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)547-549頁),当該答申等に基づく皇統譜令(大正15年皇室令第6号)が公布されたのは19261021日だったのでした。

 

2 春日大娘の位置付け及び前例としての顕宗・仁賢兄弟

 

(1)雄略天皇から春日大娘(仁賢天皇皇后)を経て武烈天皇へ

 雄略天皇の皇女(清寧天皇の妹)にして仁徳天皇の曽孫たる春日大娘は自ら即位しなかったとしても,顕宗・仁賢と続いた播磨から来た兄弟天皇(なお,即位の順番は顕宗天皇が先ですが,仁賢が兄であって,顕宗は弟です。)のうち仁賢天皇の皇后となって,武烈天皇を生んでいます。

 

(2)顕宗・仁賢兄弟の皇籍喪失疑惑と養子皇族男子制度と

ところで,顕宗・仁賢兄弟の父(履中天皇の息子)である市辺押磐皇子はいとこの雄略天皇に同天皇の即位の前月に殺されていますところ,そうであれば,顕宗・仁賢兄弟は,雄略朝期には皇族とはされていなかったのではないか(市辺押磐皇子系の皇位継承をそもそも排除するために雄略は市辺押磐皇子を殺したもうたものでしょう。),お尋ね者として,人民並みないしは人民以下扱いであったのではないかとは,かつて筆者が考えたところです(「法学漫歩3:ベルギー国憲法の王朝交代条項から人臣摂政を経て「由緒物法人」まで」の21)ア)。しかもこの兄弟は,播磨で,牛飼い馬飼いとして(しじ)(みの)屯倉首(みやけのおびと)にこき使われるまで身をやつしています(ただし,日下部連吾田彦(あたひこ)が家来としてついていたそうです。嵯峨天皇の息子の源融は左大臣という貴い位であったにもかかわらず「皇胤なれど,姓給はりて,ただ人にて仕へて」しまったからということで天皇の位に即き損ねてしまったという有名な事例(「令和の皇室典範改正論議から仁和の阿衡の紛議まで(改正法案骨子の発表を承けて)」の242))に鑑みますと,正に地下(じげ)で牛馬を相手に庶民の暮らしを送っていた顕宗・仁賢兄弟の即位は異例です。

今般成立して2026724日に公布された皇室典範等の一部を改正する法律(令和8年法律第66号)の第1条により皇室典範法律の新第6章において定められることとなった養子皇族男子制度(20261024日から施行(令和8年法律第66号附則1条))の方が,顕宗・仁賢の前例よりもまだなだらかであるようです。養子皇族男子自身が皇位に即くことはなく(改正後の皇室典範法律384項),皇位継承資格が生ずるのはその息子の代からであるところです。

顕宗・仁賢兄弟については,履中天皇の男系子孫であるがゆえに当然即位できたというよりは,群臣の推奉(『日本書紀』顕宗天皇元年正月条参照)及び雄略皇女である春日大娘との婚姻(仁賢天皇)が,彼らの「皇位継承」については効いているように思われます。

 

(3)春日大娘中心の見方

春日大娘が中心で,仁賢がそこに婿入りし(すなわち,清寧の「皇太子」になったのは仁賢でした。なお,又従兄弟の皇嗣では,現在は皇太子にならないはずです(皇室典範法律8条及び明治皇室典範15条参照)。),先帝清寧の死後,内気な皇太子・仁賢に代わって,まずその姉の飯豊青尊が臨朝(へい)政し,次に活発なその・顕宗が先に皇位を摂したと考えることも可能でしょうか(播磨において伊与来目部小楯の前で歌って踊って市辺押磐皇子の子であるという身分を明かしたのも,丹波(たにはの)小子(わらは)と名を改めていた積極的な顕宗でした。)。女系で雄略皇統を嗣ぐ武烈天皇の即位まで,雄略の皇女である春日大娘の義姉並びに義弟及び夫が当該皇女に代わって政を摂し,及び皇位を摂したと解するわけです。

 

(4)感想

 以上のように考えると,顕宗・仁賢兄弟の事例は,養子皇族男子制度支持者及び女系天皇論者のいずれもが前例として援用できそうです。

 

3 皇胤を乱すことを防止するための女帝に対する未婚強制規範はそれとしてあったのか

 なお,18872月上旬ないしはその若干後に成立したものと推定されている井上毅の皇室典範「説明草案」(小林381頁・380頁参照)には,明治皇室典範1条に相当する条項の説明として,「皇緒ハ男系ニ限リ女系ノ所出ニ及ハザルハ皇家ノ成法ナリ,」に続いて「故ニ推古以来,時世ノ変ニ当リ,権宜位ヲ摂スルノ皇女ナキニ非ス,其皇夫ヲ納レ皇胤ヲ乱ルカ如キハ断シテコレアルヲ容サズ,歴世ノ史策明カナルコト日月ノ如ク誣フベカラザルナリ」とありました(小林382頁における引用)。元正,孝謙=称徳,明正及び後桜町の4女帝の例ですね。

しかし,孝謙=称徳天皇について言えば,道鏡は妻帯禁止の仏僧でしたからねぇ。

また,「皇夫ヲ納レ皇胤ヲ乱ルカ如キハ断シテコレアルヲ容サズ」といっても,皇女からなった女帝に皇配がなかったということは,そのことを端的に禁ずる「皇家ノ成法」がそれとしてあったがゆえでしょうか。むしろ直接的には,君臣分義論と男尊女卑観念との合同作用によって,女帝は結果的に皇配を得られなかったということであったようでもあります。「皇胤ヲ乱ルカ如キ」ことが無かったことは事実ですが,それは結果であって,それを明示的な直接の目的とした未婚強制規範があったとまでは簡単にはいえないのでしょう。更にそもそも未婚強制までするのは行き過ぎであって,所生子に皇位継承権を与えないだけで十分だったはずでしょう(例えば,1914628日のサライェヴォ事件で暗殺されたオーストリア=ハンガリー帝国皇嗣フランツ=フェルディナンドの妻ゾフィーはボヘミアの伯爵令嬢にすぎなかったので,当該夫妻間に所生の子には同帝国の帝位継承権が認められていませんでした(江口朴郎編『世界の歴史14 第一次大戦後の世界』(中公文庫・1975年(単行本1962年))11-12頁(江口)参照。また,「第一次世界大戦の勃発百周年に当たって法律家の目でサライェヴォ(サラエボ)事件を見る)。結局,「皇夫ヲ納レ皇胤ヲ乱ルカ如キハ断シテコレアルヲ容サズ」云々の部分は,後の『皇室典範義解』では削られています。

井上毅の「謹具意見」において引用された島田三郎(後に衆議院議長)の議論をここで見てみましょう。いわく。

 

  〔前略〕然ラバ則チ我ガ皇国内ノ人ニ〔女帝の〕皇婿ヲ求メンカ,是レモ亦甚ダ不可ナルモノアリ。夫レ皇帝ノ大位ヲ尊崇シ奉リ,人臣ノ得テ近ヅク可ラザルモノトスルハ,君主国ノ第一主義ナリ。天ニ二日ナク,国ニ二主ナキハ是レ亦君制国ノ第一主義ナリ。故ニ上御一人ヲ除キテハ日本国人悉ク臣民ナリ。臣民ニシテ至尊ニ配侍スルコトアラバ,其尊厳ヲ損ゼザル無キヲ得ンヤ。或ハ云ハン,理ニ因テ推スニ男女固ト尊卑ノ別ナシ,皇妃ハ人臣ニシテ至尊ニ配ス,皇婿人臣ヨリ出ヅル固ヨリ不可ナルコトナシト,予ハ此説ニ同意スル能ハザルナリ。何ゾヤ,政治ハ時勢人情ヲ以テ之ガ基本トセザル可ラズ,我国ノ現状男ヲ以テ尊シトナシ,之ヲ女子ノ上ニ位セリ。今皇婿ヲ以テ憲法上女帝ヲ第一尊位ニ置クモ,通国ノ人情ハ制度ヲ以テ之ヲ一朝ニ変ズル能ハザルモノナルガ故ニ,女帝ノ上ニ一ノ尊位ヲ占ムルノ人アルガ如キ想ヲ為スハ,日本国人ノ得テ免カルヽ能ハザル所ナルベシ。豈皇帝ノ尊厳ヲ損スルコトナキヲ得ンヤ。且ツ夫レ皇婿暗々裏ニ女帝ヲ動カシテ間接ニ政事ニ干渉スルノ弊ナキヲ保ツコト能ハズ。若シ此レアランカ,唯ダ女帝ノ威徳ヲ損スルノミナラズ,併セテ国家ノ福利ヲ破ブルニ至ラントス。〔後略〕

  (井上・謹具意見263-264頁)

 

 「時勢人情」が変わりさえすれば,女帝に皇配があっても「女帝ノ上ニ一ノ尊位ヲ占ムルノ人アルガ如キ想ヲ為ス」ことはなくなり,したがって,女帝が「皇夫ヲ納レ」ることも認容され得るようになるようでもあります(その子の皇位継承権の話は別として)。

 

4 易姓の忌避

 井上毅は女系継承云々以前に女帝に反対でしたが,その理由は,端的にいって,女帝の次代における易姓の忌避(「最モ恐シキコト」)です。「謹具意見」にいわく。

 

   〔略〕カシコクモ我国ノ女帝ニ皇夫ヲ迎ヘ,其ノ皇夫ハ一タビ臣籍ニ入リ,譬ヘバ源ノ某ト称フル人ナランニ〔略〕,其皇夫ト女帝トノ間ニ皇子アラバ即チ正統ノ皇太子トシテ御位ヲ継ギ玉フベシ。〔略〕然ルニ此ノ皇太子ハ女系ノ血統コソオハシマセ,氏ハ全ク源姓ニシテ源家ノ御方ナルコト即チ我ガ国ノ慣習ニ於テモ又欧羅巴ノ風俗ニテモ同一ナルコトナリ。但シ欧羅巴ナラバ源姓ト称ヘナガラ源姓ノ人モ女系ノ縁ニテ皇位ヲ嗣グコト当然ナリト(ママ)ラムルナリ,欧羅巴ノ女系ノ説ヲ採用シテ我ガ典憲トセントナラバ,序ニテ姓ヲ易フルコトヲモ採用アルベキカ,最モ恐シキコトニ思ハルナリ(女系ノ内親王ヨリ出デタル皇孫ナラバ更ニ是レヨリ甚シ)。

  (井上・謹具意見267頁)

 

易姓がなぜ「最モ恐シキコト」であるかというと,それは「万世一系」を破壊するからでした。

前記1880年の元老院の国憲案における第2章の第3条の規定(「上ノ定ムル所ニ依リ而シテ猶未ダ帝位ヲ継承スル者ヲ得ザルトキハ皇族親疎ノ序ニ由リ入テ大位ヲ嗣グ若シ止ムコトヲ得ザルトキハ女統入テ嗣グコトヲ得」)に対して,河田景与議官の意見はいわく。

 

 末条ニ所謂女統ナル者,皇女他人ニ配シテ挙グル所ノ子若クハ孫ナルトキハ,則現然異姓ナリ。譬ヘバ仁孝天皇ノ皇女故将軍家茂ニ降嫁スルガ如キ若シ其所在アレバ即徳川氏ニシテ王氏ニアラズ王族ニアラザルナリ 果タシテ然ラバ大ニ第1章第1条〔「万世一系ノ皇統ハ日本国ニ君臨ス」〕ニ抵触ス。如何トナレバ異姓ノ子ニシテ帝位継承スルコトヲ得バ之ヲ万世一系ノ皇統ト云可ラズ。故ニ其入嗣ノ文,男統全ク尽キ千万止ムヲ得ザルノ際ニ備フル者ト雖ドモ,恐ル後来言フ可ラザルノ弊害ヲ生ゼン。因テ朱書〔「上ノ定ムル所ニ依リ而シテ猶未ダ帝位ヲ継承スル者ヲ得ザルトキハ,皇族親疎ノ序ニ由リ入テ大位ヲ嗣グコトヲ得」〕ノ如ク修正アランコトヲ希望。

 (伊藤・憲法資料下巻403-404頁)

 

 また,1882121日付けで宮島誠一郎が筆記した伊地知正治宮内省一等出仕の講演には,次のようにありました。

 

  女帝 男院女院

   皇国帝系ハ男統一系ナル故ニ万世無窮 皇統連綿セリ。若シ女統ヲ立ツ,皇統直チニ他系ニ移ル,此ニ是ヲ皇統ヲ滅絶スルト云フ。

   (伊藤・憲法資料下巻499頁)

 

「欧羅巴ナラバ源姓ト称ヘナガラ源姓ノ人モ女系ノ縁ニテ皇位ヲ嗣グコト当然ナリト(ママ)ラムルナリ」という諦めが日本人には無いわけです。それは,「万世一系(姓)」が漢土に対する我が国の独自性・優越性を象徴するものであるのならば(第3参照),皇室(王室)に易姓があると漢土と同じ(低)水準になってしまうので,それが「最モ恐シキコト」なのであるからなのでしょう。井上毅の女系継承排除論に関しては,結局のところ,「わが国では王室即ち皇室が「姓」を変えることを忌むから女系継承を認めないということになる」ものと評されています(島61頁)。嗚呼,皇位の女系継承を認めるべきか否かの問題は,純粋な国内問題ではなく,我が国の対外的(特に対東アジア的)自尊意識にも実は関係する問題なのでもありましょうか。

そういえば,「友愛」の「東アジア共同体」構想を提唱した某政権は,その後「悪夢」呼ばわりされることになってお気の毒でした。


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1 序説

 

(1)日本国及び日本国民統合の象徴

 19461030143分に昭和天皇が裁可した日本国憲法(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)219頁参照)の第1条は,次のように規定します。

 

  第1条 天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く。

 

日本列島に居住する人民が日本国民として統合するには日本国の存在が前提されます。しかしてそれと同時に,日本国自体が日本国民の統合したものでもあります(「「日本国」と「日本国民統合」と」の関係については,両者「の間には,特に有意味な差があるとは解されない。「日本国」は,領土ほかの物的要素に,「日本国民統合」とは,国民という人的要素に着眼したもの,あるいは,前者は,時間的な継続のなかでとらえられる国家それ自体,後者は,それを成立させている国民の統合体に着目したものという,観点の差があるにとどまる。」と説かれています(樋口陽一『憲法』(青林書院・1998年)125頁)。)

「象徴とは,抽象的で無形ないし無定形な何ものかに対応しそれをあらわす具体的で有形なもののこと」であります(樋口124頁)。「抽象的で無形ないし無定形な」ものたる日本国ないしは日本国民統合について,日本国憲法1条前段は,天皇をもってその象徴としているということになります。しかしここで筆者に気になるのは,これは創設的規定であるのか,それとも確認的規定であるのかということです。日本国憲法1条後段に規定されている国民主権との関係で,「天皇が国民主権を前提とした「国民統合の象徴」でありうるためには,国民自身の手による「統合」が先行しなければならない」と説かれていますところ(樋口126頁),天皇抜きでの「日本国民統合」が先行していたのならば,天皇が日本国民統合(ひいては日本国)の象徴であるということは日本国憲法1条前段が創設した規範命題ということになります。しかし,少なくとも19461030143分の時点においては,既に社会心理的事実として「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつ」たのでしょう。論者も「日本国憲法が天皇を「象徴」としたのは,何よりも,1条の文章構成どおり,天皇の正統性根拠が神勅から「主権の存する国民の総意」に転換したことに対応して,旧憲法下の天皇のあり方を否定する消極的文脈でうけとられなければならない」ものとしています(樋口125頁。下線は筆者によるもの)。万世一系の統治者(大日本帝国1条)であることは否定されたものの全否定ではなく,日本国及び日本国民統合に係る各象徴性だけは天皇に残された,ということなのでしょう。

 

(2)王朝の「物語」

天皇をそこにおいて日本国ないしは日本国民統合と結び付けている日本国民の社会心理はどこから生ずるかといえば,天皇と日本国民とが共有する物語からでしょう。長谷川哲也師の描く18144月のフランスにおけるタレイランとダールベルク公爵との次の会話においては,「著作権」という表現が登場します。当該「著作権」は,物語(言語の著作物)に係るものでしょう。

 

タレイラン  国家には正統性が必要だ

        それは長年かけて作られ相続される

        著作権のようなものだと思う

 

        共和国のような集団システムでは政治機構が崩れるとその正統性は失われる

        君主制の場合国王が死んでも家族の誰かがそれを受け継ぐ

        わたしは共和国より君主制が安定していると思う

        これは国民がその王朝を信任している限りにおいてだが

 

        〔略〕

 

ダールベルク ・・・

       成る程

 

       それで納得がいった

       今の話で君の行動は全部つじつまが合う

 

       かつてナポレオンに皇帝即位を勧めたこと

       先日までマリー=ルイーズ皇后の摂政政府を作ろうとしたこと

       ここに至ってブルボン王朝の復活を決めたこと

       全て矛盾しない

 

       君は変節漢と呼ばれながらも

       実はひたすら国家の安定のために行動していたんだな

 

タレイラン  わたしはいつもフランスから得た以上のものをフランスに与えてきた

  (長谷川哲也『ナポレオン~覇道進撃~ 第21巻』(少年画報社・2021年)90-93頁)

 

 しかし,「長年かけて作られ相続される」点については,「スマホ」いじりにその日を暮らして記憶力も弱化した21世紀の人民の嗜好に投ずるとなると物語づくりも自転車操業となって,スキンシップ的「寄り添い」及び「交流」,「幸福を常に願」っているよとの語りかけ並びに「苦楽を共に」しているよとの姿勢の維持が常時必要になっているようです。

 

   皇室の活動は,このような国際親善のほかにも,地方への訪問や被災地のお見舞いなどを通して,国民の皆さんに寄り添い,あるいは多くの国民の皆さんと交流することを始め,多岐にわたっております。こうした皇室の活動を,将来にわたり安定的に続けていくための皇族数の確保の在り方については,現在,議論されているものと承知しています。制度に関わる事項については,私から言及することは控えたいと思いますが,皇室の在り方や活動の基本は,国民の幸福を常に願い,国民と苦楽を共にすることだと考えており,こうした皇族数の確保の在り方についての議論においても,国民の皆さんの理解が得られるものとなることを望んでおります。

  (2026611日の記者会見における今上天皇の御発言)


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2 大日本帝国の天皇制の「物語」

 ところで,明治典憲体制における天皇制の正統性の物語は何であったのでしょうか。

 

(1)神勅ないしは祖宗ノ遺烈

 「天皇の正統性根拠が神勅」にあったといわれるときの神勅は,『憲法義解』の第1条解説の引用する瓊瓊(にに)(ぎの)(みこと)に対する天照大神の「瑞穂国是吾子孫可王之地宜爾皇孫就而治焉」(瑞穂(みづほの)(くに)は,(これ)()子孫(うみのこ)(きみ)たるべき(つち)なり。(なむぢ)皇孫(すめみま)()きて()らせ。)との勅でしょう(『日本書紀』巻第二神代下(第9段)一書第1)。

 1889211日発布の大日本帝国憲法の上諭には「朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ」とあります。「祖宗」は「君主の始祖と,中興の祖。初代から先代までの代々の君主。」,「遺烈」は「後世に残る功績。」です(『角川新字源』(1968年))。同日の憲法発布勅語には「惟フニ我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼ニ倚リ我カ帝国ヲ肇造シ以テ無窮ニ垂レタリ此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威徳ト並ニ臣民ノ忠実勇武ニシテ国ヲ愛シ公ニ殉ヒ以テ此ノ光輝アル国史ノ成跡ヲ貽シタルナリ」とあります。明治天皇は「我カ祖我カ宗」のことを語って自分のことを語ってはいませんから,当該勅語では明治維新のことが説かれているわけではないことになります。「帝国ヲ肇造」するのに「臣民ノ忠実勇武」が必要であったのですから,「我カ祖」は,天下っただけの瓊瓊杵尊ではなく,猛々しい南九州人を率いて現在の奈良県地方を征服した神武天皇のことでしょう。「我カ宗」は,「中興の祖」というよりは,ひとまずは代々の天皇であるものと理解しておきましょう。

天照大神の神勅に従い,ないしは神武天皇の遺烈を承けて「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」ということになったわけです。

 

(2)万世一系の経路

 

ア 北朝正統論

今上天皇につながる万世一系については,仁治三年(1242年)の後嵯峨天皇即位以来の本筋は――すなわち一系なのですから――後嵯峨天皇,後深草天皇,伏見天皇,後伏見天皇,光厳天皇,崇光天皇,(よし)(ひと)親王,(さだ)(ふさ)親王,後花園天皇(中略)光格天皇,仁孝天皇,孝明天皇,明治天皇,大正天皇,昭和天皇,上皇,今上天皇という代々の自然の父子関係でつながっているのだな,と考えられるところです(なお,栄仁・貞成両親王が天皇になっていないのは,弟の直義との兄弟喧嘩に苦戦していた足利尊氏が南朝に降参して北朝が一時廃された正平一統1351-1352年)のハプニングの結果,北朝の皇統が崇光天皇の弟の後光厳天皇の系列に移ってしまったからです。)。すなわち,北朝正統論が素直な結論になります。(なお,後光厳の系列は,後光厳,後円融,後小松,称光と順次父子継承がされ,後小松天皇の時に南朝の後亀山天皇との間で南北朝合一がされ,称光崩御後は,後小松太上天皇の猶子として後花園天皇(実父は貞成親王)が即位しています。)

したがって,「両朝合一より江戸時代の初期に至る間,南北朝御歴代は北朝によりて数へられたるのみならず,史家の皇統を記す者亦多く北朝を正統とせり」ということであり(野村玄「安定的な皇位継承と南北朝正閏問題――明治天皇による「御歴代ニ関スル件」の「聖裁」とその歴史的影響――」大阪大学大学院文学研究科紀要59巻(2019年)8頁の引用する『明治天皇紀 第十二』(吉川弘文館・1975年)563-564頁から),また,「明治以前ノ宮中内ノ風習ハ北朝ヲ尊重」していたそうです(野村20頁の引用する191131日の枢密院総委員会における東久世通禧副議長の発言)。

 

イ 南朝正統との勅定

 しかし,1911年(明治44年)33日,徳大寺実則侍従長から,内閣総理大臣桂太郎及び宮内大臣渡邊千秋に対し,次のような明治天皇の認定が伝達されています。

 

  御歴代ニ関スル明治44228日内閣総理大臣ノ上奏及右御諮詢ニ対スル枢密顧問ノ奉答並宮内大臣ノ上奏ヲ御採納アラセラレ後醍醐天皇ヨリ後小松天皇ニ至ルノ皇統ハ後醍醐天皇後村上天皇後亀山天皇後小松天皇ナルコトヲ御認定アラセラレタリ

 

いわゆる南朝正統論の採用です(ちなみに,この時点では長慶天皇の在位が未確認であったので,念のため。)。

なお,閏統墜ちした北朝天皇の処遇はどうなったかというに,「此の御裁定に際し,宮内大臣,北朝の天皇に対する宮中の取扱方に就きて聖旨を候せしに,光厳・光明・崇光・後光厳・後円融の各天皇に対しては尊崇の思召により,尊号・御陵・御祭典等総て従来の儘たるべき旨を命じたまふ」ということでした(野村22頁の引用する『明治天皇紀 第十二』565頁)。歴代天皇からは外れたものの尊号は「天皇」のままとする,しかしこれは「宮中の取扱方」に限られるということです。

政務面では,光厳・光明・崇光・後光厳・後円融は歴代天皇扱いされないことになったのでした。すなわち,228日の桂内閣総理大臣の上奏の際明治天皇に見せたという閣議書(同月27日決定)には次のようにありました(下線は筆者によるもの)。

 

 謹テ案スルニ皇統一系ニシテ天ニ二日ナキハ我国体ノ基本ニシテ国民道義ノ源泉タリ然ルニ後醍醐天皇ヨリ後小松天皇ニ至ルノ間北条氏ノ奉セル光厳天皇及足利氏ノ奉セル光明天皇以下5世トノ6朝相対シテ存在セルノ現象アリ従テ後世ニ至リ史家ノ所謂南北両朝ノ正閏論ヲ生シテ帰一スル所ナク又維新以降公文書中孰レノ朝ノ正統ナルヤニ付劃然明記スルモノナシ小学校歴史教科書教師用書中偶〻両朝ノ正閏ヲ論議セサルノ主旨ヲ記述シタル為現ニ世論ヲ惹起スルニ至レリ就テハ此際世論ヲ一定シ国民ヲシテ疑惑ナカラシムルハ最モ重要ノコトニ属ス思フニ維新以降朝廷ニ於テ南朝(史家ノ指称スル)ノ忠臣及南朝正統論ヲ主持セル者ニ優旨ヲ賜リタル

 聖旨ニ副ヒ我国民普通ノ信念ヲ維持スルハ至当ノ儀ナルニ付爾後教科用書其他皇統ヲ明記スル場合ニ於テハ後醍醐天皇ヨリ後小松天皇ニ至ル間ノ皇統ヲ

   後醍醐天皇

   後村上天皇

   後亀山天皇

   後小松天皇

 トシ光厳光明崇光後光厳後円融ノ各天皇ハ御歴代中ニ記載セサルコトトシ政務上ノ関係ハ総テ此方針ニ依リ処理相成ルコトニ

 聖裁ヲ仰カレ然ルベクヤ

 〔後略。長慶天皇の在位があったかどうかが未確定なので,確定後同天皇を歴代に加えたき旨のおって書き〕

 

『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)の1911年の「学術・教育・思想」欄には「7.21 文部省教科用図書調査委員会総会,南朝正統論に立つ国定小学日本歴史教科書の改訂を決定(南北朝正閏問題,終息)。」とあります。しかしそもそも,明治天皇までをも巻き込んだ南北朝正閏問題は政務の問題であって,専ら教科用書に関するものとして文部省の一委員会の総会決定で終息するような矮小なものではありませんでした。しかして,当該委員会総会決定による改訂はなお不十分と見られており,同年811日には更に閣議決定がされており,「光厳天皇」,「光明天皇」及び「後光厳天皇」との記載がそれぞれ「光厳院」,「光明院」及び「後光厳院」と改められることになり(小学生に,「「天皇」と言われるけれど天皇ではないんだよ」と説明するのはさすがに無理ですからね。),かつ,光厳以下5主に関する説明を次の旨趣で教師用教科書に記載することになりました。

 

 光厳院は御追号なり。又これを光厳天皇と称することあれどもこれ嘗て皇位に即き給ひしとの義にあらず一の尊称なり。皇位に即き給はざる文武天皇御父草壁皇子を岡宮天皇と称し,光格天皇御父典仁親王を慶光天皇と称するが如し。此の書御歴代の天皇と区別するが為に御追号のままに光厳院と記せり。後に足利氏の擁立せる光明院等亦同じ。

 

筆者は前稿(「令和の皇室典範改正論議から仁和の阿衡の紛議まで(改正法案骨子の発表を承けて)」)において,今次の「皇室典範等の一部を改正する法律案」(2026630日に内閣から国会に提出された第221回国会閣法第64号)にいう養子皇族男子(同法案が法律として施行された場合の昭和22年法律第3号である皇室典範の第384項参照)が「崇光天皇の〇〇世の子孫」と紹介される場合には,「「崇光天皇?それ誰?北朝!じゃ,それってニセ天皇の子孫ってこと?」などととんでもないことを言い出す輩もいそうで」云々という心配があると述べたところです(第312))。当該心配は衷心からのものなのですが,ニセ巻機山ならぬ「ニセ天皇」という表現はさすがに不敬であるなと反省しておりました。今回南朝正統論の帰結について学ぶところがありましたので,ここに謹んで,「崇光天皇?それ誰?北朝!あぁ,「天皇」の尊号は有してはおられるものの皇位に即き給うたことはない興仁王の御子孫ですね。」との表現に改めます。

191133日の明治天皇の認定及び当時の桂内閣の閣議決定を前提とすると,やはり今日の高市早苗内閣においても,後伏見天皇の御子孫として養子皇族男子の世数が数えられるべきもののようです。ただし,明治天皇の当該認定が侍従長の伝宣書をもって通知されたことに関して,「〔公式令(明治40年勅令第6号)に基づく〕詔書の形式を避け,勅書の形式をも採らなかった背景・意図が問題なのではなかろうか。南朝正統論に基づく皇統の歴代確定については,国民に宣誥できないとの判断があったか,あるいは積極的には確定させたくないとの明治天皇の意図があったとは考えられないだろうか。なぜなら,当時の内閣の命運を懸けて決定された事項は,官報にも告示されていないからである。」と評されています(野村23頁)。しかしいずれにせよ,養子皇族男子の子孫は,遠いながらも後伏見天皇の子孫として,皇位継承資格を得るのでしょう。

 

ウ 南朝正統論の場合

南朝正統論であると,後伏見天皇以降の万世一系は,持明院統の後伏見天皇から大覚寺統の後二条天皇に譲位がされ,後二条天皇から持明院統の花園天皇(後伏見天皇の弟)に譲位がされ,花園天皇から大覚寺統の後醍醐天皇(後二条天皇の弟)に譲位がされて(以上両統迭立),後醍醐天皇から後村上天皇を経て長慶天皇まで3代は父子相伝で,長慶天皇から後亀山天皇へは兄弟継承,最後の南朝天皇である後亀山天皇から持明院統後光厳天皇流の後小松天皇へはまた譲位(南北朝合一),後小松天皇から,早逝したその子の称光天皇を経て持明院統崇光天皇流出身の後花園天皇へは同天皇が後小松太上天皇の猶子となってつながったということになります。正統性の流れもまた同じですね。

1889211日の皇室典範(以下「明治皇室典範」といいます。)以来排斥されている制度である譲位(天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)2条は譲位ではなく廃立についての定めでしょう。)及び養子(猶子)縁組による皇位継承によって正統性が継承されていますが,まあ昔はよかったのでしょう。

しかし,何でまたわざわざ,万世一系性やら正統性の継承経路が複雑になる南朝正統論が採用されたのでしょうか。

 

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第1 序論

 

1 「皇室典範」法律に係る過去2回の改正に関して


(1)昭和24年法律第134号及び平成29年法律第63号による各改正

 「不磨の大典」と考えられがちな「皇室典範」という題名の昭和22年法律第3号(以下「「皇室典範」法律」といいます。)ですが,実は早くも1949年の段階で,総理府設置法の制定等に伴う関係法令の整理等に関する法律(昭和24年法律第134号)1条によってその不磨性が破られていました(194961日から(同法附則1項),「皇室典範」法律282項及び306項の「宮内府」が「宮内庁」に改められています。)。その後は,天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号。以下「退位等特例法」といいます。)の2019430日からの施行(同法附則11項及び平成29年政令第302号)に伴い,同法附則3条によって「皇室典範」法律附則に新たな第4項が加わっています。

 しかし,これら2回の改正は,日本人民の政府における組織の変更に伴うもの(昭和24年改正)並びに法典編制原理に係る日本人のある一定の形式への執着及び日本国憲法5条の「皇室典範」の法律性確保に係る要請に応じたものと解されるもの(平成29年改正)であって,皇室の家法としての本体的規定事項について変更をもたらすものではありませんでした。


(2)昭和24年法律第134号による改正及び昭和天皇の1949年6月1日

「皇室典範」法律28条から37条まで(282項及び306項が含まれます。)において規定される皇室会議は,紛らわしい名称ではあるものの,皇室の機関ではなく,国家の機関です。宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)の1946920日条には「御会食後,天皇より各皇族・王公族に対し,皇室典範の改正問題について,〔略〕皇室会議については国政の問題として,内閣総理大臣を議長とし,皇族2名を参加させる方針となったことをお話しになる。」とありました(185-186頁。下線は筆者によるもの)。

ちなみに,「皇室典範」法律の第1次改正が施行された194961日には昭和天皇は熊本県水俣市を訪問しており,「午後零時57分,水俣駅に御到着,それより日本窒素肥料株式会社水俣工場を御訪問になる。〔中略〕同社取締役社長北山恒より会社概況をお聞きになり,硫酸アンモニウム,酢酸人絹を始めとする製品を御覧になる。続いて工場長前田与三より工場の事業概要をお聞きになり,雨のなか御手ずから御傘を用いて移動され,前田工場長の先導にて酢酸人絹を製造するミナリーズ工場・酢酸ビニール工場等を御巡覧,諸所に堵列の工員に激励のお言葉を賜う。」ということがありました(実録第十853頁)。


(3)平成29年法律第63条による改正及びその二つの意義

 「皇室典範」法律の附則現4項は「この法律の特例として天皇の退位について定める天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)は,この法律と一体を成すものである。」と規定しています。同項は一体何を言わんとしているかといえば,まずはさきに述べた・法典編制原理に係る日本人のある一定の形式への執着に応じましたというものでしょう。すなわち,「〔1887430日に成立した御雇外国人ロエスレルの「日本帝国憲法」草案においては〕第16条第2項の「帝室家憲」はDie Kaiserliche (sic)[Kaiserlichen] Hausgesetzeと複数形で述べられている。それは単一の成文法ではなく,たとえば皇位継承にかんする帝室の家法,摂政設置にかんする家法等々,複数のものがありうることを意味する」にもかかわらず,「邦訳文は単数形,複数形を区別せず〔「帝国家憲ハ国会ノ承諾ヲ受クルヲ要セス」〕のように訳した」ため「後に皇室典範が単一の成文法とされたこと」(小嶋和司「ロエスレル「日本帝國憲法草案」について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)58頁)によって生じた,「皇室典範」に係る単一法典性への執着に応じたわけなのでしょう。

 しかのみならず,「皇室典範」の単一法典性の維持には,更に憲法上の意義もあるようなのです。これは,日本国憲法5条(「皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは,摂政は,天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には,前条第1項の規定を準用する。」)における「皇室典範」は,同2条のように「国会の議決した皇室典範」とは書かれていないにもかかわらず,当該(同5条の)「皇室典範」も同2条の「皇室典範」同様「国会の議決した」法律であることが自明のこととされていることにかかわります。しかしてこの自明性の前提として存在しているものは,「皇室典範」の単一法典性(日本国憲法2条の「皇室典範」も同5条の「皇室典範」も同じ単一法典であるので,前者が法律であれば後者も当然法律になる。)なのでしょう(「法学漫歩3:ベルギー国憲法の王朝交代条項から人臣摂政を経て「由緒物法人」まで」の62)ア参照)。

 

2 今次国会で予期されている「皇室典範」法律第3回改正における二つの柱

 現在の第221回国会(会期は2026218日から同年717日まで)においてされることが期されている「皇室典範」法律の第3回改正はどのような内容になるかというに,2026610日に内閣総理大臣に手交された「「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議に基づく政府における検討結果の報告を受けた立法府の対応」に関する衆参正副議長による議論のとりまとめ」(以下「両議院正副議長とりまとめ」といいます。)によると,「現時点において講ずべき皇族数確保の具体的方策」として,「内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することとする」とともに,「昭和22年(1947年)10月に皇籍を離脱した,いわゆる旧11宮家の皇族男子の子孫である男系の男子の方々を対象」にして「皇族には認められていない養子縁組を可能とし,皇統に属する男系の男子を皇族とする」ための改正がされることになるようです。皇室の家法事項についての,日本国憲法施行後における,退位等特例法の制定(同法は皇室の家長の地位の継承に関するものとして,皇室の家法事項について定める法律なのでしよう。)に続いて2回目の改正であり,「皇室典範」法律の本体規定に直接触れるものとしては初めての法律改正ということになります。

 

3 皇室典範の改正手続における皇室の立場に関して

 ところで,「国会の議決した皇室典範」は法律である(日本国憲法2条参照)とともに(また,国会が「国の唯一の立法機関」です(同41条)。),「天皇は,〔略〕国政に関する権能を有しない」(同41項)ものとされています。したがって,今次「皇室典範」法律改正も,皇室の意向とは無関係に専ら人民の議会及び政府によって行われるべきものであって,当該畏き辺りの意向を徴したりなどすることはかえって違憲である,ということが現在の正統的憲法解釈でしょう。

 

しかし,筆者はかつて,日本国憲法2条及び5条に出現する「皇室典範」の法的性格に関して,そもそものGHQ草案における起草者の意図は,皇室の制定するその家法は国会の制定する国家法に破られる・という前提条件の下において皇室及び国会が重畳的にその立法管轄を有するもの,ということではなかったかと論じたことがあります(「日本国憲法2条に関する覚書」の32)イ(オ))。

また,日本国憲法41項後段の「国政に関する権能を有さない」については,GHQ草案の“He shall have no governmental powers”のままの方が天皇及び摂政(並びに皇族)に対する禁止規範としてはかえって狭く済んだが,「天皇ハ政治ノ大権ヲ有サス」との直截な表現にためらいを感じたのであろう松本烝治憲法担当国務大臣が「政治ニ関スル権能」という朧化表現を1946226日のそのモデル案で採用してしまい,その結果かえって天皇及び皇族の意向表明の自由がはなはだ広く制約されることになったのではないかと考えたことがあります(日本国憲法4条1項及び元法制局長官松本烝治ニ関スル話」の342)及び91)を参照)。実は「天皇ハ政治ノ大権ヲ有サス」であれば,幕府時代に戻るだけだったのですが(188214日の軍人勅諭に,「兵馬の権は一向(ひたすら)に其武士どもの棟梁たる者に帰し,世の(みだれ)と共に政治の大権も亦其手に落ち,(およそ)七百年の間武家の政治とはなりぬ。」との表現があります(下線は筆者によるもの)。),それでは「(かつ)は我国体に(もと)り,且は我祖宗の御制(おんおきて)(そむ)き奉り,浅間しき次第」なので(軍人勅諭),松本大臣としては耐えられなかったのでしょう。

  以上要するに,「皇室典範」法律の改正に当たっては天皇及び皇族の意向を完全に無視すべきだ,という皇室に対する厳格な態度は,GHQによって押し付けられたものでは全くなく,我ら日本の人民の自生的共和主義に基づくものなのでしょう。

 

 「〔前略〕皇室の活動を,将来にわたり安定的に続けていくための皇族数の確保の在り方については,現在,議論されているものと承知しています。制度に関わる事項については,私から言及することは控えたいと思いますが,皇室の在り方や活動の基本は,国民の幸福を常に願い,国民と苦楽を共にすることだと考えており,こうした皇族数の確保の在り方についての議論においても,国民の皆さんの理解が得られるものとなることを望んでおります。」とは,2026611日の記者会見における天皇の御発言でした。(なお,1889211日の皇室典範(以下「明治皇室典範」といいます。)40条は「皇族ノ婚嫁ハ勅許ニ由ル」と規定していたところ,当該規定がなお不文の皇室の家法として婚嫁について皇族方に適用されているのならば,養子をすることについても当然その類推適用があるものと解せられます(おって,民法(明治29年法律第89号)の旧7501項は,「家族カ婚姻又ハ養子縁組ヲ為スニハ戸主ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス」と規定していました。)。そうであれば,養子問題に関しての天皇の上記御発言は,「国民の皆さんの理解」さえあれば将来当該養子各案件について当該大権の消極的御行使を控えられるという御趣旨のもの(),それともあるいは,まあ人民の政府はその立法活動において肝腎の人民の理解を失って自ら崩壊しないようにせいぜい自愛しなさいよ,という突き放した叡旨の御表明歟。更にそれともあるいは,「国民の皆さんの理解」ならぬ二条良基ら(臣)及び足利尊氏ら(民)による観応三年の推戴をその正統性の根拠として即位した後光厳天皇の当該正統性を継承する現皇室の天皇として,王朝の原点に思いを致されたもの歟。)

 「皇室典範」法律の改正手続の話から,改正内容の話に戻りましょう。

本稿では専ら,「昭和22年(1947年)10月に皇籍を離脱した,いわゆる旧11宮家の皇族男子の子孫である男系の男子の方々を対象」にして「皇族には認められていない養子縁組を可能とし,皇統に属する男系の男子を皇族とする」ための改正について論じます。

 

第2 「皇族には認められていない養子縁組を可能とし,皇統に属する男系の男子を皇族とする」ための改正に関しての予備的検討

 

1 皇族が養子をすることの憲法論

 そもそも皇族に養子縁組を認めるということが憲法上可能なのでしょうか。

 

(1)日本国憲法2条の「世襲」の意味

 日本国憲法2条は「皇位は,世襲のものであつて,国会の議決した皇室典範の定めるところにより,これを継承する。」とのみ規定するので,日本国の一般人民の理解する「世襲」の範囲内ならば,国会はその裁量で「皇室典範」法律を改正できるのだ,という割り切りがされたのでしょうか。「養子は,皇族については,皇室典範9条により認められていませんが,一般の国民には,民法(明治29年法律第89号)に基づき広く活用されています。/実際の養子の目的は様々であり,十分な監護が得られるよう未成年の子のために行われる養子縁組もありますが,例えば家名・家業を継がせるという目的で,養子となるのにふさわしい人を,当事者間の合意により養子とすることも行われています。」ということですから(「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議「報告」(20211222日。以下「有識者会議報告」といいます。)の52)②(11頁)),一般人民に認められている養子による世襲(家名・家業を継がせること)の自由を皇族にも回復させるだけなのである,ただし,「皇族が男系による継承を積み重ねてきたことを踏まえると,養子となり皇族となる者も,皇統に属する男系の男子に該当する者に限るのが適切であると考えます」(同頁)なのである,養子縁組の自由の全面回復ではなく一部回復であるが,全くの不自由が解消されるのであって,皇族の「人権」尊重の観点からすれば褒められこそすれ非難されるいわれはない,ということなのでしょう。

「皇族が男系による継承を積み重ねてきたことを踏まえると,養子となり皇族となる者も,皇統に属する男系の男子に該当する者に限るのが適切である」とされる理由は,あるいは日本国憲法2条の「世襲」概念の固有性にあるのでしょうか(有識者会議報告は「考える」とだけ述べて,憲法的要請であるか否かを明示していませんが)。「「世襲」とは,一般に,ある地位につく資格が特定の系統に属するものに限定されていることをいうが,皇位継承の場合の系統は血統を意味する。この血統は,いうまでもなく従来「皇統」とされてきたものを指し,そのことを前提にして将来皇位が世襲されることを本条は明らかにしたものである。」ということですから(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)247頁。なお,小嶋和司「「女帝」論議」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』(木鐸社・1988年)45-65頁参照),「従来」の「皇統」の枠は外せないわけです。明治皇室典範1条は正に「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と規定していました。「皇統に属する男系の男子」です(「皇室典範」法律1)。

なお,明治皇室典範42条は「皇族ハ養子ヲ為スコトヲ得ス」と規定していましたが,伊藤博文の『皇室典範義解』には,過去において「皇家養子猶子の習」はあったが「凡此れ皆中世以来の沿習にして古の典例に非ざる」ところ,「本条は独異姓に於けるのみならず,皇族互に男女の養子を為すことを禁ずるは,宗系紊乱の門を塞ぐなり。」とあります。『義解』の同条解説には源忠房(順徳天皇の曽孫)が後宇多院の猶子であったことが紹介されています。忠房は親王宣下を受けて皇籍を取得していますから,「皇族には認められていない養子縁組を可能とし,皇統に属する男系の男子を皇族とする」ための今次「皇室典範」法律改正推進者が前例として注目しているところでしょう(ちなみに,仁和三年の宇多天皇の皇籍復帰及び醍醐天皇の皇籍取得に養子縁組が介在しなかったのは,両天皇とも実父が天皇であったからでしょう。「戸籍の先例は〔民法〕798条但書における直系卑属中には嫡出子は包含されないとし,自己の嫡出子または養子をさらに養子とすることは,戸籍を同じくすると否とにかかわらず新法〔昭和22年法律第222号〕施行後は認められないとする(昭和23113民事甲17号通達等多数)。これが戸籍実務の基本的態度である。」とされています(中川善之助=山畠正男編『新版注釈民法(24)親族(4)』(有斐閣・1994年)165頁(中川高男))。)。現在の「皇室典範」法律改正論は,「宗系紊乱」の心配をする以前に皇族数の減少問題が焦眉の急なのだから,明治皇室典範42条を承けた「皇室典範」法律9条(「天皇及び皇族は,養子をすることができない。」)をそのまま維持する必要はないじゃないか,皇統に属する男系の男子に該当する者が養子となるのならばいいじゃないか,というわけなのでしょう(なお,明治皇室典範42条も,それまでにされた養子猶子を無効とまではしていません。同58条は「皇位継承ノ順序ハ総テ実系ニ依ル現在皇養子皇猶子又ハ他ノ継嗣タルノ故ヲ以テ之ヲ混スルコトナシ」と規定していました。)。

 

(2)日本国憲法4条1項の「国政に関する権能」の行使に当たるかの問題

しかし,皇族数確保のために必要なのだといっても,皇族がその意思に基づき某男子と養子縁組をしてその養子を皇族とすることは,天皇(又は後に見るように摂政若しくは監国)となり得る者の範囲を当該意思によって拡大するということになるのであるが,これは日本国憲法41項からしていかがなものか,国政に関する権能の行使ではないのか,という議論もあり得るでしょう。崩御によらざる皇位継承については,天皇と皇嗣との合意(譲位)によるものとする構成は排除され,退位等特例法2条の直接の効力によるものとされたこととの平仄が問題になりそうです。

しかし,「皇室典範」法律111項を見ると,王(3世以下の嫡男系嫡出の男子孫(同法6条))はその意思に基づき皇族の身分を離れることができるものとされているので,出ると入るとの違いはありますが,王の代になってからの皇族の出入りについては日本国憲法41項との関係で「国政に関する権能」云々までをも気にすることはないのだ,これは現行憲法の施行時からそうなのだ,という憲法解釈でよいのでしょうか(ただし,入り得る者は日本国憲法2条の規定する「世襲」の範囲内のものに限られることは無論でしょう。)。確かに,「皇室典範」法律の規定上,途中で皇族の身分を離れない限り,天皇の嫡男系嫡出の子孫は何代たっても永世にわたって皇族であるので(永世皇族主義が採用されているわけでしょう。),さすがに何代か経てば,憲法的規律はそれに応じて途中で緩まざるを得ないでしょう。

なお,「皇室典範」法律111項の前身規定は明治天皇の裁定に係る1907211日公布の皇室典範増補(以下「明治皇室典範増補」といいます。)1条の臣籍降下規定であるところ,同条の解説を見ると臣籍降下制度の目的は「費ヲ節シ幹ヲ強クシ以テ皇室ノ尊厳ヲ保持スル」ことである一方,皇室財政が許す限り「恵ヲ推シ徳ヲ施シ以テ親親ノ恩ヲ顧念スル」ことが本意であるのだということだったようです(伊藤博文編,金子堅太郎=栗野慎一郎=尾佐竹猛=平塚篤校訂『秘書類纂 雑纂 其壱』(秘書類纂刊行会・1936年)29頁)。王の数の増減が「国政に関する」としても,それは憲法次元のものではなく,皇室費用の負担に係る国庫の余裕いかんの問題に限られるのでしょうか。

 

(3)法律による直接の皇族化の問題

ところで,養子縁組などというまどろっこしいことをせずに皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすればよいではないか,という考え方もあるわけですが,当該方策は「現皇族の御意思は必要としない制度であるという面もあります」が(筆者註:これは日本国憲法41項対策としてはよいが,ということでしょう。),「他方,皇統に属するとはいえ現在一般国民である方が,現在皇室にいらっしゃる皇族方と何ら家族関係を有しないまま皇族となることは,国民の理解と支持の観点からは,〔養子の〕方策〔筆者註:なお,この少し前で,養子方策に関して「養子のような一般国民に広く受け入れられている家族制度」という評価がされています。〕に比べ,より困難な面があるのではないかとの指摘もある」(有識者会議報告の52)③(12-13頁))との理由で断念されています。

更にいえば,一方的に権利を制限し義務を課し得る法形式である法律だからといって,日本国の人民としての自由及び権利を現在謳歌している者及びその子孫から,皇室経済法(明治22年法律第4号)6条の皇族費の支給と引換えだからとて,承諾なしに当該自由及び権利を剥奪するわけには――平等原則違反云々については日本国憲法2条の世襲原則に基づく例外ということで処理するのでしょうが―さすがにいかないわけなのでしょう。ちなみに,皇室経済法61項の定額が3050万円であるところ(皇室経済法施行法(昭和22年法律第113号)8条),養子皇族が独立の生計を営む王であるとすると,独身時代にその家計に支給される皇族費は毎年2135万円です(皇室経済法635号及び1号)。

 

2 養子皇族に対する皇位継承資格の否定

 ところで注目すべきことは,森英介衆議院議長が,「今回は皇族数の確保に関する取りまとめであり,将来の皇位継承のあり方を縛るものではない」と,両議院正副議長とりまとめについて強調していることです(20266101820分付け朝日新聞ウェブサイト記事「森議長「言葉足らずだった」と釈明 「養子の子に皇位継承権」発言」(大久保貴裕=深瀬真由)。同日の安定的な皇位継承をめぐる各党派の代表者協議の冒頭での同議長の発言として,玉木雄一郎国民民主党代表が記者団に語ったものとされています。)。「森氏は〔20266月〕8日の代表者協議後の記者会見で,「養子となった男子は皇位継承権を持たないが,男の子が生まれれば,その子は皇位継承権を持つことになる」と発言。主要な論点としていなかった皇位継承のあり方に踏み込んだことで,中道〔改革連合〕などの一部野党が問題視していた。」とのことです(同記事)。

「養子は,縁組の日から,養親の嫡出子の身分を取得する。」(民法809条)ということであるはずで,かつ,養子になって皇族とされるための改正のはずなのに,養子となった当該男子は皇位継承権を持たないとは変だな(「皇室典範」法律21項柱書きには,「皇位は,〔略〕皇族に,これを伝える。」とあります。)と思って両議院正副議長取りまとめの一4の第2段落の④を見ると「養子となって皇族となられた方は皇位継承資格を持たないこととすること」などと記されていたのでした。

養子として皇族となった者(以下「養子皇族」と略称します。)には皇族なのに皇位継承を認めないとはこれいかに,ということになりますが,確かに,皇族であっても女性であれば天皇にはなれないのですから(「皇室典範」法律1条),皇位継承権のない皇族という存在はおかしい,ということにはならないのでしょう。

 数として確保された養子皇族は,皇位の継承はできないとして,それではどのような役割を担うのかといえば,国事行為の臨時代行に関する法律(昭和39年法律第83号)に基づき国事行為の臨時代行をすること,②皇室会議の議員及び予備議員になること(「皇室典範」法律28条及び30条),③摂政となること(「皇室典範」法律16条等),④「文化・学術,スポーツなどの各種式典や大会等へ臨席することや各種団体の活動に関わること,災害等に関わる慰問・慰霊,外国訪問など,国民の安寧な生活のため様々な公的活動を行うこと」並びに⑤天皇の身近な親族として天皇を支えることだそうです(有識者会議報告書の51)(8-9頁))。「皇籍を離脱して以来,長年一般国民として過ごしてきた方々であり,また,現在の皇室との男系の血縁が遠いことから,国民の理解と支持を得るのは難しいという意見もあります。しかしながら,養子となった後,現在の皇室の方々と共に様々な活動を担い,役割を果たしていかれることによって,皇族となられたことについての国民の理解と共感が徐々に形成されていくことも期待されます。」とのことです(有識者会議報告書の52)②(12頁))。

 養子皇族に皇位継承を認めない理由は,有識者会議報告書の文章の流れからすると,「国民の理解と共感」は彼には生涯不十分だからだろう(「皇族となられたことについての国民の理解と共感が徐々に形成されていくことも期待され」るにすぎないので),ということのようです(有識者会議報告書の52)②(12頁))。「国民の皆さんの理解が得られるものとなることを望んでおります」との天皇の前記御発言に照らすと,なかなか苦しい。

 

3 養子皇族の憲法的任務:摂政及び監国

 

(1)養子皇族に期待されている役割の分類学

 

ア 摂政及び監国

 ところで,憲法次元で論ずれば,皇族でなければできない役割は,摂政のみではないでしょうか。日本国憲法5条が「皇室典範の定めるところにより摂政を置く」と規定していることには,摂政に就任する者は,皇室典範の本来的名宛人である皇族であるべきことが憲法的要請であるという意味も含まれているのでしょう(「法学漫歩3:ベルギー国憲法の王朝交代条項から人臣摂政を経て「由緒物法人」まで」の62)イ参照)。

国事行為の臨時代行は,現在は準摂政ないしは監国として法制化されています(国事行為の臨時代行に関する法律21項の要件と「皇室典範」法律162項の要件とを対比すること。国事行為の臨時代行の受任者は「摂政となる順位にあたる皇族」です。なお,天皇の外国訪問は「事故」なのですな。)。しかしこれは,日本国憲法42項の想定していた本来的場合ではないようです。「国事行為の中の比較的軽度であり,しかも相当頻度が高いというようなものにつきまして,天皇が一定の機関に対して権能を授与してその行為を行なわせるという場合」が,「皇室典範」ならざる「法律の定めるところによ」ってされる日本国憲法42項の国事行為の委任の場合と想定されていたように思われます(詳しくは,「法学漫歩3:ベルギー国憲法の王朝交代条項から人臣摂政を経て「由緒物法人」まで」の63)を御覧ください。)。「一定の機関」は皇族に限られるわけではないでしょう。「比較的軽微な国事行為,たとえば,栄典の授与のうち下級の勲章の授与を他の国家機関に委任することを法律で定めることも可能である,と考えられる。」とされています(樋口陽一『憲法』(青林書院・1998年)137頁)。国事行為の臨時代行に関する法律は,ゆゆしき「皇室典範」法律の改正という難路(監国という重い存在に係るものですから,こちらこそが正統な手続ではないかという問題意識もありました。)を避けたかった御当局が,通常の法律たるべきものとしてその法案を国会に提出したもの歟。

 

イ 皇室会議議員

皇室会議は皇室の機関ではなく,国家の機関にすぎません。その定足数は6人以上ですから,皇族たる議員又は予備議員が全員欠席しても議事を開き議決をすることができます(「皇室典範」法律34条)。また,「国政に関する権能を有しない」天皇(日本国憲法41項)の眷属たる皇族議員が「国政の問題」に係る皇室会議の場でどれだけの働きができているもの歟。

 

ウ その他

 天皇の身近な親族として天皇を支えることは正に皇室の内事ですから,我ら人民が喋々すべきことではないでしょう。また,支えられる側としても,支える者の量ばかりがあってもなお不足があるということもあるのでしょう。

 「国民の安寧な生活のため様々な公的活動を行うこと」については,我ら人民としては誠に有り難いことではあります。しかし,皇族のお出まし,かかわり,慰め等がなければ「安寧な生活」を維持できないということでは,日本の人民は情けない。いつまでも皇室の御仁愛に狎れ縋っているのならば,主権者(づら)はやめよ,ということになるのでしょう。むしろ,あちらに皇族がお出ましになるのならこちらにも,といったような人民間の見えの張り合いに皇族方が巻き込まれているといったようなことはないものか。

 しかし,「〔養子皇族が〕皇族となられたことについての国民の理解と共感が徐々に形成されていく」ための手段としては,「現在の皇室の方々と共に」その一員として「国民の安寧な生活のため様々な公的活動を行うこと」が最も重要なのでしょう。ちなみにこれが皇族身位令(明治42年皇室令第2号)の時代ならば,皇族男子は同令172項(「親王王ハ満18年ニ達シタル後特別ノ事由アル場合ヲ除クノ外陸軍又ハ海軍ノ武官ニ任ス」)に基づいて大元帥陛下及び国家のために軍隊で体を張って頑張っております,ということで臣民における「理解と共感」が醸成されていたのでしょう。しかして改めて当該規定を今日見てみると,後光厳天皇=後花園天皇系に伝わる皇位に対して,崇光天皇=貞常親王系の伏見宮系皇族も継承権を持つことを臣民に納得させるには有益な制度であったように思われます。

 

(2)世襲摂政家

 養子皇族の最重要任務(憲法的任務)は,摂政又は監国(国事行為臨時代行)に就くことなのでしょう。養子皇族の子孫の代になっても皇位継承権は与えられないとしても,世襲摂政家の創立が,今回の「皇室典範」法律の改正によって可能となるわけです。筆者はかつて,皇位継承者が明らかでない事態にとうとうなったときには,最終的には先の大戦中のハンガリー王国のように人臣摂政で凌ぐことになろうかという議論をしたことがありますが(「法学漫歩3:ベルギー国憲法の王朝交代条項から人臣摂政を経て「由緒物法人」まで」の61)),現在の「皇室典範」法律の規定による摂政の時代と人臣摂政の時代との間に,世襲摂政家による摂位の時代が挟まることになる,ということでしょう。

 

4 「皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス」問題

 

(1)明治皇室典範増補6条に関して

 森衆議院議長は養子皇族の男子孫は皇位継承権を持つと言ってしまい,中道改革連合等の一部野党がこれを「問題視」したことになっています。当該「問題視」が由来するところは,明治皇室典範増補6条の次の規定でしょうか。

 

  第6条 皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス

 

 この規定の趣旨は次のとおりとされています。

 

  恭デ按ズルニ,上下ノ名分一タビ定リテ復タ変易スベカラザルハ我ガ肇国以来ノ通義トス中世一二臣列ニ降リシ皇族ニシテ復タ親王トナリ或ハ竟ニ皇祚ヲ踐ミタマヒシ宇多天皇例ナキニ非ズト雖,以テ永世率由スベキ恒範ト為スベカラズ。故ニ本条ハ分義ノ正キニ従ヒ,宗潢ノ貴ト雖降リテ臣籍ニ入リタル者ハ再皇族ニ(ママ)ヲ容サルノ制ヲ取レリ

  (伊藤編・雑纂32頁)

 

 これと『皇室典範義解』の表明する明治皇室典範1条の三大則(「第1 皇祚を踐むは皇胤に限る。/第2 皇祚を踐むは男系に限る。/第3 皇祚は一系にして分裂すべからず。」)中の第1則たる皇胤主義との関係をどう考えるべきでしょうか。同条に係る『皇室典範義解』の解説中の皇胤主義の部分については,「恭て按ずるに,皇位の継承は祖宗以来既に明訓あり。和気清麻呂還奏の言に曰,「我国家開闢以来,君臣分定矣,以臣為君未之有也,天之日嗣,必立皇緒」と。」とあります。「我が国家開闢以来,君臣の分定まる。臣を以て君と為す,未だこれ有らざる也。天之日嗣は,必ず皇緒を立てよ。」ということですが,天皇の子孫であっても今後一旦臣下になってしまったら皇位は以後継承できないよ,ということなのでしょうか。しかし,井上毅等の頑張りによって明治皇室典範は当初は例外なき永世皇族主義を採っていて臣籍降下ということはないことになっていましたから(「伊藤博文の変わり身と柳原前光の「深謀」」参照),『義解』の当該解説部分での「皇緒」に関しては,皇族身分が併せ必要であるかどうかについて,ないことになっている将来の臣籍降下まで先取りして考えて心配する必要はやはり無かったのでしょう。

なお,「胤」の字は「肉と,八(分かれる)と,幺(続く)とにより,親から分れて血縁が長く続く,また,血縁の意を表わす」との成り立ちだそうです(『角川新字源』)。月(にくづき)が効いていて,自然の血統ですな。「緒」は「糸と音符者シャシヨ(はじめの意初シヨ)とから成り,糸のはじめの意を表わす」そうですが(同),皇緒の緒は糸の端でも末の方でしょう。

 皇族の定義に係る明治皇室典範30条(「皇族ト称フルハ太皇太后皇太后皇后皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃内親王王王妃女王ヲ謂フ」)についての『皇室典範義解』の解説には「皇族とは凡そ皇胤の男子及其の正配及皇胤の女子を謂ふ。凡そ皇族の男子は皆皇位継承の権利を有する者なり。故に,中世以来空費府庫〔府庫を空しく費す〕を以て姓を賜ひ臣籍に列するの例は本条の取らざる所なり。」とありました。それまでの歴史において姓を賜わり臣籍に列した者及びその子孫等はさすがに今や皇胤扱いできないが,明治皇室典範施行時を基準に,今後は「凡そ皇胤の男子及其の正配及皇胤の女子」であって皇族でないものはいないということになったわけです。(なお,『皇室典範義解』の明治皇室典範31条解説では,「大宝令5世以下は皇親の限に在らず。而して正親司の司る所は4世以上に限る。」との令制の規定が紹介されています。天皇の玄孫(4)までは皇親=皇族であるが,玄孫の子の世代以降になると「王」の称号があったとしても最早そうではない,ということだったのでした。)

大らかな永世皇族制度のせいか,明治皇室典範においては,皇位継承のための皇族身分の必須性は直接明示されていなかったものとされています。すなわち,「皇位継承資格は「祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子」とのみ述べられ,「皇族」身分の要求は皇位継承順序についての次の規定中に間接的に述べられただけである。/「皇伯叔父及其ノ子孫皆在ラサルトキハ其ノ以上ニ於テ最近親ノ皇族(●●)伝フ」(第7条)」ということでした(小嶋・女帝59頁)。

 ところで,養子皇族の子孫による皇位継承について否定的であるものと推察される我が一部野党の人々は,「上下ノ名分」ないしは「君臣ノ分」についてなかなか厳しい方々なのでしょう。摂政までは,藤原良房から二条斉敬までの人臣摂政の例もあり何とか許せるが(また,皇位継承権の無い女性皇族の摂政就任可能性も現在認められているが(「皇室典範」法律1713号以下)),一旦皇族の身分を離れて一般国民となった者及びその子孫が皇位を踐むことは罷りならん,血はつながっているかもしれないが糸は切れたのだ,というわけなのでしょう。


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「我国家開闢以来,君臣分定矣,以臣為君未之有也,天之日嗣,必立皇緒」


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