1 庶系継承・庶系相続
(1)庶系継承
明治22年(1889年)2月11日の皇室典範の第4条は「皇子孫ノ皇位ヲ継承スルハ嫡出ヲ先ニス皇庶子孫ノ皇位ヲ継承スルハ皇嫡子孫皆在ラサルトキニ限ル」と規定し,庶出の天皇の存在を認めていました(そもそも,明治天皇(母・中山慶子)及び大正天皇(母・柳原愛子)も庶出だったのでした。)。『皇室典範義解』の第4条解説において,庶出の天皇を認める必要性を説いて伊藤博文(井上毅)はいわく。
〔前略〕皇緒万世一日も曠くすべからず。故に,既に嫡出なきときは庶出亦位を継ぐことを得せしむ。蓋清寧天皇崩じ皇嗣なし。履中天皇の孫顕宗天皇位を継ぐ。而して天皇は実に,其の姉,飯豊青尊,兄仁賢天皇と倶に,履中天皇の庶出磐坂市邊押羽皇子の子なり(清寧天皇の妹春日大娘あり。亦庶出なり)。武烈天皇崩じて皇嗣なし。応神天皇5世の孫継体天皇を迎へ,位に即く。而して天皇は実に応神天皇の庶出,稚渟毛二派皇子の後なり。此の時に当て皇統絶えざること綫の如し。若庶系を立つることなかりせば,当時既に言ふべからざるの事あらむ。我が国の庶出を絶たざるは実に已むを得ざるに出る者なり。
神武天皇から雄略天皇(21代)までは嫡系相続が続いたわけですが,雄略の息子にして跡継ぎの天皇たる清寧天皇(22代)の母は,雄略の皇后であった草香幡梭姫皇女(仁徳天皇(16代)の皇女)ではなく葛城円の娘である韓媛でしたから,清寧は雄略の嫡子といってよいものかどうか(なお,春日大娘の母は春日和珥臣深目の娘である童女君です。童女君は雄略の僅か一夜の寵(とはいえ,「七廻喚之」)で春日大娘を懐妊したそうです。)。ただし,『日本書紀』によれば韓媛は雄略の「元妃」であって,これは「初めからの妃。本妻。」(『日本書紀② 新編日本古典文学全集3』(小学館・1996年)149頁註8)ということのようですから,あるいはこの辺を勘案して,『皇室典範義解』は庶系継承の初めを,清寧ではなく顕宗天皇(23代)に置いたものなのでしょうか。履中天皇(17代)の皇后は草香幡梭皇女(草香幡梭姫皇女とは別人です。)であり,市邊押羽皇子の母は葦田宿禰の娘である黒媛でした(黒媛の死後に草香幡梭皇女が立后されています。)。応神天皇(15代)の皇后は仲姫で,仲姫が仁徳天皇の母となります。稚渟毛二派皇子の母は,河派仲彦の娘の弟媛です。
(2)庶系相続
ところで,庶出の天皇を認めた明治22年の皇室典範に係る起草者の一人である井上毅家の相続についても「彼は生涯を終える最後の段階で「特旨ヲ以テ」華族に列せられ,子爵に叙せられたが,その爵位はどう受け継がれたのであろうか。死の直前,井上は,自分の娘(庶長女)のために婿養子をとった。この手紙を経由することによって,爵相続の受け皿となる井上家は安泰たり得た」と紹介されています(奥平康弘『「萬世一系」の研究(下)――「皇室典範的なるもの」への視座』(岩波現代文庫・2017年(単行本2005年))174頁)。庶系による継承・相続の必要は井上毅にとっても実に身につまされる話であった,ということでしょう。
ここでの婿養子は井上匡四郎(1876年‐1959年),「庶長女」はふじ(富士子)であって,「彼女は,井上毅が本妻以外の女性(近藤いね)との間にもうけた3人の娘」の一人だったそうです(七戸克彦「山田喜之助・正三・作之助・弘之助――神戸学院大学・山田作之助関係資料に寄せて――」神戸学院法学46巻2号(2016年10月)93頁)。当該3姉妹は,ふじ(1886年‐1944年),とき(1888年‐1914年)及びいと(1889年‐1948年)です(七戸93頁)。1844年生まれの井上の41・42歳から45歳にかけての子ということになります。
しかし,井上は病魔に苦しめられており,1885年「8月20日佐野常民宛書翰には「昨秋来多病ニ而疲弱を覚候」とある。同年11月19日伊藤〔博文〕宛書翰に「少々不快ニて引籠り」とあり,翌〔1886年〕3月3日付には「少々頭痛を感じ候」とある。その秋の11月22日には胃痛を訴え,翌〔1887年〕1月24日には病欠の詫びを伊藤に書いている。春には痔疾の治療をして「起坐自由ならず」(伊藤宛・〔1887〕・4・26),5月23日にも胃痙攣の「病苦之身」であることの諒察を乞うている。〔1888年〕2月5日伊東巳代治宛書翰には「風雪ニ感冒候哉,昨夜来歯痛いたし,頭熱を帯ひ,体重万鈞に覚候」とあり,5月8日の枢密院の開院式にも,書記官長の彼が痔疾による就席の困難を理由に欠席している(伊藤宛〔1888〕・5・8)。同年7月31日の伊東巳代治宛書翰に「病脳頓軽」とあるから,頭痛に悩んでいたらしく,8月6日には「少シ脳ヲ痛メ候故歟,眩暈を覚」え(伊藤宛),同19日には今度は胃痛を訴えている(同)。」という有様であったとされていますから(長尾龍一「陰沈たる鬼才の謀臣 井上毅」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)25-26頁),その頃元気一杯に妾宅に通って子づくりに励んでいたようには思われにくいところです。むしろ,徳島出身の翻訳家にして官吏であった井上勤(1950年-1928年)についてその三男の井上芳人(1918年生)が語ったという「〔明治〕19年〔1886年〕以後に勤は近藤いねとの間に3女を得たが貧乏のためかこの3人の子供を井上毅の養女にした」(昭和女子大学近代文学研究室「井上勤」『近代文学研究叢書 第三十巻』(昭和女子大学光葉会・1969年)105頁)ということの方が筆者には本当らしく思われます。
井上勤は1884年6月に参事院御用掛となり,同年7月には太政官内閣制度取調局法律取調掛,同年12月から1885年12月まで参事院内務部勤務で月俸70円,その後非職期間を挟んで,1888年7月に元老院雇(第二課議事掛)となって月俸70円,1889年1月に宮内省帝室制度取調局書記,1890年10月に官界を去った,というのが3姉妹誕生当時の経歴になります(昭和女子大学近代文学研究室104-105頁)。井上勤の参事院勤務時代に,井上毅は参事院議官を務めていたところです。井上勤は1883年8月に吉澤こうと入籍しましたが,こうは肋膜炎を患っていたそうなので(昭和女子大学近代文学研究室104-105頁),その後68歳にしてなお父となることとなる精力漢たる勤が,三十代半ばの元気の余り,近藤いねの許につい足繫く通うようになったとしてもむべなるかな,と思われます。
いずれにせよ,子孫繁栄・家名存続は難しいものです。
そこで,井上毅が起草に参画した明治22年の皇室典範は庶出の天皇を認めるとともに永世皇族制を採ったのですが(永世皇族制に関しては「伊藤博文の変わり身と柳原前光の「深謀」」を御参照ください。),実は現実にはこの辺の懸念は,皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の妃である節子妃(後の貞明皇后)の力によって払拭されたのでした。
2 皇后の力
(1)貞明皇后
1900年5月10日の皇太子嘉仁親王の公爵令嬢九条節子との御成婚後,1901年4月29日には裕仁親王,1902年6月25日には雍仁親王,1905年1月3日には宣仁親王と3皇子が皇太子妃から続々誕生。こうなれば遠縁の皇族の特権保持に係る永世皇族制を堅持する必要はないよということで,明治40年(1907年)2月11日の皇室典範増補1条から6条までは皇族の臣籍降下制度を規定するに至ったのでした。昭和21年(1946年)の改正前において同増補1条はいわく「王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムルコトアルヘシ」と。
更に大正時代に入った1915年(大正4年)12月2日には崇仁親王が誕生。皇后所生の皇子が4方も揃われるという誠におめでたい成り行きとはなりました。
このおめでたさがどれくらいおめでたいのかということを知るべく,我が史上の各皇后のうち皇子を4名以上産まれた方々を,Wikipedia先生などをも参考にしつつ表にしてみたところ,次のとおりです。
(2)出産皇子数4以上の皇后に関して
ア 一覧
(天皇) (皇后) (皇子)
崇神天皇 御間城姫 活目入彦五十狭茅天皇(垂仁天皇),彦五十狭茅命,倭彦命,五十日鶴彦命(『古事記』では伊賀比売命と女性名)
景行天皇(『古事記』) 針間の伊那昆能大郎女 櫛角別王,大碓命,小碓命(仲哀天皇の父),倭根子命,神櫛王
景行天皇 八坂入媛命 稚足彦天皇(成務天皇),五百城入彦皇子,忍之別皇子,稚倭根子皇子,大酢別皇子,五十狭城入彦皇子,吉備兄彦皇子 (『古事記』では,若帯日子命,五百木の入日子命,押別命)
仁徳天皇 磐之媛命 大兄去来穂別天皇(履中天皇),住吉仲皇子,瑞歯別天皇(反正天皇),雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)
允恭天皇 忍坂大中姫 木梨軽皇子,境黒彦皇子,穴穂天皇(安康天皇),八釣白彦皇子,大泊瀬稚武天皇(雄略天皇)
用明天皇 穴穂部間人皇女 厩戸皇子,来目皇子,殖栗皇子,茨田皇子
淳和天皇 正子内親王(中宮) 恒貞親王,基貞親王,恒統親王,皇子
三条天皇 藤原娍子(皇后宮) 敦明親王,敦儀親王,敦平親王,師明親王
鳥羽天皇 藤原璋子(中宮) 顕仁親王(崇徳天皇),通仁親王,君仁親王,雅仁親王(後白河天皇),本仁親王
後嵯峨天皇 西園寺姞子(中宮) 久仁親王(後深草天皇),恒仁親王(亀山天皇),雅尊親王,貞良親王
後村上天皇 近衛勝子(皇后宮) 寛成親王(長慶天皇),泰成親王,(熙成親王(後亀山天皇),惟成親王)
大正天皇 九条節子(皇后) 裕仁親王(昭和天皇),雍仁親王,宣仁親王,崇仁親王
ちなみにこれを調べていて気付いたのは,英照皇太后は孝明天皇(121代)の女御ではあっても立后はされておらず,明治天皇の養母として皇太后の追号を贈られたのでした。
貞明皇后(九条節子)所生の雍仁親王は胸部疾患のため1953年1月4日に50歳で薨去されていますが(「墓地,埋葬等に関する法律等に関して(上):秩父宮雍仁親王火葬の前例等」),4人の皇子が全員無事に成人を迎えたというのは稀有のことです。
イ 貞明皇后の位置付け
さて,貞明皇后の偉大さをどう説明しましょうか。
まず,出産された皇子の数(なお,明治22年皇室典範1条及び昭和22年法律第3号1条は女子が天皇になることを認めていないので,皇女はカウントしません,悪しからず。)では,八坂入媛命(『日本書紀』)の7名,針間の伊那昆能大郎女(『古事記』),押坂大中姫及び待賢門院(藤原璋子)の各5名に次ぐ5番目ということになります。しかし,八坂入媛命の皇子数は『古事記』では3名ですし,待賢門院の5人の皇子中顕仁親王は実は「叔父子」とされおり,通仁親王及び君仁親王は,後に見るように無事成人できなかったところです。そうなると,保守的に見て,貞明皇后に係る成人皇子数4は,景行天皇の一皇后(『日本書紀』の「7」と『古事記』の「5」とのうちどちらかを採らねばならぬとしたら,所生皇子数が少ない方である『古事記』の針間の伊那昆能大郎女を採りましょう。)及び押坂大中姫の各5名に次ぐ3番目ということになりましょうか。
4人の皇子数が一応カウントされる皇后のうち,嘉喜門院(近衛勝子)及び御間城姫については実はそれぞれ2名及び3名ではないかと考えられるところです。また,正子内親王及び大宮院(西園寺姞子)の皇子で成人されたものは,後にそれぞれ見るように各2名のみでしょう。穴穂部間人皇女及び藤原娍子のそれぞれの皇子たち及び彼らの子孫からは天皇が出ていません。皇位継承につながる者を含む成人4人皇子ということでは磐之媛命が残るのですが,磐之媛命の産んだ仁徳天皇の4人の皇子たちのグダグダぶりについては,以前御紹介申し上げおいたところです(「副首都構想ないしは複都制から信州,洛陽,長安等を経て大阪の「ジンクス」まで」の6(2)イ)。
そうであれば,針間の伊那昆能大郎女(『古事記』)及び押坂大中姫の各5人兄弟にまつわる芳しからぬ話柄を御紹介すれば,貞明皇后の4皇子の素晴らしさが際立つのでしょう。
ウ 針間の伊那昆能大郎女及び押坂大中姫の各息子たち
(ア)兄に対する弟の暴力
まずは針間の伊那昆能大郎女の息子である大碓命・小碓命の話。
〔12代景行〕天皇,小碓命に詔りたまひしく,「何しかも汝の兄は,朝夕の大御食に参出来ざる。専ら汝ねぎ教へ覚せ〔慰撫して会食に出るように教えさとせ〕。」とのりたまひき。かく詔りたまひて以後,五日に至りて,なほ参出ざりき。ここに天皇,小碓命に問ひたまひしく,「何しかも汝の兄は,久しく参出ざる。もし未だ誨へずありや。」ととひたまへば,「既にねぎつ。」と答へ白しき。また「如何にかねぎつる。」と詔りたまへば,答へて白しけらく「朝曙に厠に入りし時,待ち捕へて搤み批ぎて,その枝を引き闕きて,薦に裹みて投げ棄てつ。」とまをしき。
(倉野憲司校注『古事記』(岩波文庫・1963年)118頁)
宮中殺人事件の容疑者であらせられる陽成天皇(御諱・貞明)もびっくりの野蛮ですね。昭和天皇と弟宮の宣仁親王とが「御討論」になることがあっても(1946年7月2日の皇族討論会(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)155頁)など),貞明皇后の皇子たちの間での危険な暴力沙汰はなかったはずです。
なおそもそも,播磨稲日大郎女所生の皇子は,『日本書紀』では大碓命及び小碓命の2名又は当該2名及び稚倭根子皇子の3名のみとされていました。4名には足りません。したがって,忍坂大中姫所生の5皇子の身辺調査こそが,本稿における本番的課題でしょう。
(イ)兄妹相姦,連れ子に仇討ちされての頓死及び「大悪天皇」による兄ら殺し
仁徳天皇(16代)の息子世代は前記のとおりグダグダでしたが,允恭天皇(19代)の子として孫世代となる・忍坂大中姫の5人の息子たちの運命もひどい。
木梨軽皇子は,同父同母妹の軽大娘皇女と懇ろになってしまい(『日本書紀』允恭天皇二十三年三月条),事現れて皇女は伊予に流罪(同二十四年六月条)。その後允恭天皇四十三年正月の父たる同天皇崩御後の同年十月には「是の時に,太子〔木梨軽皇子〕,暴虐を行ひ,婦女に淫けたまふ。国人謗り,群臣従はずして,悉に穴穂皇子に隷きまつる。」ということになって,行き詰った木梨軽皇子は自害して果てています(一説には,伊予に流罪)。(なお,『古事記』では,伊予に流された木梨軽皇子を軽大郎女皇女が追って行って,再会した二人は情死することになっていますから,こちらの方が文学的にはよろしいでしょうか。)
木梨軽皇子の弟の穴穂皇子は允恭天皇の次の安康天皇(20代)となりましたが,同天皇は,安康天皇元年二月に冤罪で大草香皇子(仁徳天皇の子)を殺してしまった上にその妻の中蒂姫(履中天皇の皇女)を自分の皇后にした挙げ句,同三年の八月,昼から酔っ払って中蒂姫皇后の膝枕で熟睡していたところ,同皇后の連れ子の眉輪王(大草香皇子の子)に仇討ちで刺殺されます(『日本書紀』安康天皇紀及び雄略天皇即位前記)。
眉輪王による安康天皇暗殺に対して,大泊瀬稚武皇子はすぐに取調べ及び討伐に乗り出します(安康と雄略とは仲がよかったのでしょう。)。しかして,取調べに対して黙秘する八釣白彦皇子を自ら斬殺,眉輪王と共に葛城円(韓媛の父ですね。)の屋敷に逃げ込んだ境黒彦皇子は屋敷ごと皆殺しに焼殺してしまいました(『日本書紀』雄略天皇即位前紀)。「天皇,心を以ちて師とし,誤りて人を殺したまふこと衆し。天下,誹謗りて言さく,「大だ悪しくまします天皇なり(大悪天皇也)」とまをす」(同二年十月条)とは誠にもっともなことでした。
男女問題は,当事者間においてのみならず,社会規範の問題としても難しい。
兄弟同族の殺し合いは,酸鼻を極めます。
1936年7月12日,二・二六事件の叛乱者の死刑執行。「安藤〔輝三大尉〕はチチブの宮殿〔下〕の万歳を祈って死んだ」そうですが(磯部浅一「獄中日記」1936年8月14日条),昭和天皇の弟宮たる秩父宮雍仁親王にとっては迷惑なことだったでしょう。
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フリードリッヒ=ヴィルヘルム4世は子の無いまま歿し,プロイセン王位は,弟である後の初代ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルムが継ぎます。








で行ったいわゆる大阪会議の結果に基づくものでした。