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      Glockenklang und Chorgesang

 

    CHOR DER ENGEL.

       Christ ist erstanden!

       Freude dem Sterblichen,

       Den die verderblichen,

       Schleichenden, erblichen

       Mängel umwanden. 

 

  FAUST.

     Welch tiefes Summen, welch ein heller Ton,

     Zieht mit Gewalt das Glas von meinem Munde?

     Verkündiget ihr dumpfen Glocken schon

     Des Osterfestes erste Feierstunde?

     Ihr Chöre singt ihr schon den tröstlichen Gesang?

     Der einst, um Grabes Nacht, von Engelslippen klang,

     Gewißheit einem neuen Bunde.

 

 多くの人々にとって神聖かつ意義深いであろう春の一週末👼🥚🐇を迎え,またも季節物の記事を書いてしまいました。(2021年には「De Falsis Prophetis(旧刑法及び警察犯処罰令における若干の条項に関して)」(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1078468873.html)という記事を書きましたが,今見ると非常に読みづらいですね。本稿もその二の舞になりそうです。)

 

1 違法勾引

 

  Et adhuc eo [Jesu] loquente venit Judas Scarioth unus ex duodecim

     et cum illo turba cum gladiis et lignis

     a summis sacerdotibus et a scribis et a senioribus

     …..

 et cum venisset statim accedens ad eum [Jesum] ait rabbi

     et osculatus est eum

     at illi manus injecerunt in eum et tenuerunt eum

     (Mc 14,43; 14,45-46)

 

 これは違法勾引です(逮捕ではなく勾引であると判断した理由は,裁判所の(a summis sacerdotibus et a scribis et a senioribus(祭司長ら,律法学者ら及び長老らの))手の者ら(turba)たる「彼らは(illi)彼に(in eum)手をかけ(manus injecerunt),かつ,彼を確保した(et tenuerunt eum)」ということだからです。身柄被拘束者が裁判所に引致されるべき勾引(刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)731項参照)であって,検察官,検察事務官又は司法警察職員による逮捕(同法1991項参照)ではないでしょう(検察事務官又は司法巡査が逮捕したときの被疑者の引致先は検察官又は司法警察員です(同法202条)。)。剣及び棒を持っていた(cum gladiis et lignis)というのですから直接強制性は歴然としており,召喚(刑事訴訟法57条)ではないですね(「召喚は強制処分ではあるけれども直接強制力を使うことはできず,不出頭の制裁もな」いものです(田宮裕『刑事訴訟法(新版)』(有斐閣・1996年)254頁)。)。ちなみに,旧治罪法(明治13年太政官布告第37号)の下では告訴・告発を直接受けた予審判事(同法931項・97条)の発した勾引状による勾引があり得たこと(同法932項・115条)を御紹介申し上げ置きます(荻村慎一郎「比較法・外国法で学べることの活かし方――スペイン法における「起訴」を題材として――」,岩村正彦=大村敦志=齋藤哲志編『現代フランス法の論点』(東京大学出版会・2021年)380頁参照)。)。ここでは,然るべき令状が被告人に示されていません(刑事訴訟法731項前段には「勾引状を執行するには,これを被告人に示した上,できる限り速やかに且つ直接,指定された裁判所その他の場所に引致しなければならない。」とあります。)。日本国憲法33条は「何人も,現行犯として逮捕される場合を除いては,権限を有する司法官憲が発し,且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ,逮捕されない。」と規定しており,「ここに「逮捕」とは,刑事訴訟法による被疑者の逮捕のみならず,勾引・勾留をも含むと解される」ものです(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)592頁)。令状を所持しないためこれを示すことができない場合において急速を要するときは,被告人に対して公訴事実の要旨及び令状が発せられている旨を告げて,その執行をすることができますが(刑事訴訟法733項),「到着したので(cum venisset),直ちに被告人に近付いて(statim accedens ad eum)「先生」と呼びかけ(ait rabbi),そして同人に接吻した(et osculatus est eum)」ということをもって当該告知があったものとするわけにはいかないでしょう。

 なお,「なおも彼(被告人)が話していたところ(adhuc eo loquente)」において12人中の一人がやって来て(venit … unus ex duodecim)の身柄確保ですが,当該話の内容が犯罪を構成することを理由とした現行犯逮捕(刑事訴訟法212条以下)というわけではないでしょう。

 

2 土着法における瀆神の罪

 引致された先の裁判所における手続はグダグダになりかけたようですが(公訴事実自体がはっきりしていなかったのでしょう。),被告人が自爆的供述をして,裁判所の面子は確保されました。

 

  ille autem tacebat et nihil respondit

     rursum summus sacerdos interrogabat eum et dicit ei

     tu es Christus Filius Benedicti

     Jesus autem dixit illi

     ego sum

     et videbitis Filium hominis a dextris sedentem Virtutis

     et venientem cum nubibus caeli

     Summus autem sacerdos scindens vestimenta sua ait

     Quid adhuc desideramus testes

     audivistis blasphemiam quid vobis videtur

     qui omnes condemnaverunt eum esse reum mortis

     (Mc 14,61-64)

 

 「しかし彼(被告人)は沈黙しており,何も答えなかったので,/裁判長(summus sacerdos)は彼に改めて質問を行い,彼に言うには」ということで被告人に対して君はこれこれの者かねと誘導的に訊いたところ,被告人は当該誘導に応えて,そうなのだ(ego sum),俺は油を塗られた者で,かつ,祝福されたる高き存在の息子なのだ,「で,お前さん方は人の子たるおらが至徳の存在の右側に座しておって,/そして天の雲と一緒にやって来るのを見るんだずら。」と,今度は彼(裁判長)に供述したので(autem dixit illi),そこで裁判長は「自らの法服を引き裂き言うには,/これ以上証人の不足を嘆く理由があろうか,/諸君は瀆神の言を聞いたのである,諸君はどうすべきと思われるのか(quid vobis videtur)。/そこで全会一致で,被告人は死刑に処せられるべき者であるとの有罪判決が下された。」というわけです。法廷でいきなり裁判官が自分で自分の法服を引き裂くのは,その「品位を辱める行状」(裁判所法(昭和22年法律第59号)49条)にならないのかどうかちと心配ですが,この場合は問題がなかったのでしょう。

 瀆神罪を犯した者は死刑に処せられる旨律法に規定されています。

  

     et qui blasphemaverit nomen Domini morte moriatur

     lapidibus opprimet eum omnis multitudo

     sive ille civis seu peregrinus fuerit

     qui blasphemaverit nomen Domini morte moriatur

     (Lv 24,16)

 

  しかして,主の名を冒瀆した者は死刑に処せられるべし。

  全ての民が彼を石打ちにする。

     国民であっても外国人であっても,

  主の名を冒瀆した者は死刑に処せられるべし。

 

 当該の神(主=Dominus)を信じない外国人(peregrinus)に対しても瀆神罪が成立するものとされています。なお,この点我が刑法(明治40年法律第45号)のかつての不敬罪(同法旧74条及び旧76条(天皇,太皇太后,皇太后,皇后,皇太子若しくは皇太孫又は神宮若しくは皇陵に対するものについては3月以上5年以下の懲役(旧74条),皇族に対するものについては2月以上4年以下の懲役(旧76条)))は更に一歩念入りに規定されていて,日本国内及び日本国外の日本船舶内で不敬行為を行った外国人に対して成立する(同法1条)のみならず(ここまでならば,上記律法並びに礼拝所不敬及び説教等妨害に係る刑法188条と同じ。),日本国外において不敬行為を行った全ての者についても成立したのでした(昭和22年法律第124号による削除前の刑法21号)。

 ちなみに,公判廷において重罪(死刑が主刑である罪は重罪です(旧刑法(明治13年太政官布告第36号)71号)。)が発生したときの取扱いについて旧治罪法275条は「公廷ニ於テ重罪ヲ犯シタル者アル時ハ裁判長被告人及ヒ証人ヲ訊問シ調書ヲ作リ裁判所ニ於テ検察官ノ意見ヲ聴キ通常ノ規則ニ従ヒ裁判スル為メ予審判事ニ送付スルノ言渡ヲ為ス可シ」と規定していました。

 

3 刑の執行権の所在問題及び適用される法の問題

 しかし,前記石打刑の執行は当時の当該地においては停止されていたようです。

 

     dixit ergo eis Pilatus

     accipite eum vos et secundum legem vestram judicate eum

     dixerunt ergo ei Judaei

     nobis non licet interficere quemquam

  (Io 18,31)

 

  そこで(ergo)総督が彼らに(eis)言ったには(dixit),「君らが彼を引き取って,君らの法律に従って彼を裁きなさい。」と。そこで(ergo),彼に対して(ei)彼ら土着民が言ったには(dixerunt),「いかなる者についても我々は死刑を行う(interficere=殺す)ことを許されておりません。」と。

 

二つの解釈が可能であるようです。専ら死刑執行の権限が土着民政府から総督府に移されていたという趣旨か,②土着刑法に基づいては死刑を科することができず,被告人を死刑に処し得る法は当該地に施行されている総督の本国法に限られるという趣旨か。

 

4 死刑の執行命令制度の機能

 

(1)旧治罪法460条と恩赦大権と

前記①については,裁判所による死刑の裁判と行政機関によるその執行との関係ということでは,刑事訴訟法475条(「死刑の執行は,法務大臣の命令による。/前項の命令は,判決確定の日から6箇月以内にこれをしなければならない。但し,上訴権回復若しくは再審の請求,非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間は,これをその期間に算入しない。」)が不図想起されるところです。同条は,そもそもは旧治罪法460条(「死刑ノ言渡確定シタル時ハ検察官ヨリ速ニ訴訟書類ヲ司法卿ニ差出ス可シ/司法卿ヨリ死刑ヲ執行ス可キノ命令アリタル時ハ3日内ニ其執行ヲ為ス可シ」)に由来します。

ボワソナアドのProjet de Code de Procédure Criminelle (1882)を見ると,旧治罪法460条に対応するボワソナアド案は次のとおりです(pp. 916-917)。(なお,これらボワソナアド622条及び623条にはフランス治罪法(1808年法)の対応条文が掲げられていません。これに対して旧治罪法461条(「死刑ヲ除クノ外刑ノ言渡確定シタル時ハ直チニ之ヲ執行スヘシ」)の原案であったボワソナアド案624条については(ただし,そこでは刑の執行時期は「直チニ」ではなく「3日以内」になっています。,フランス治罪法375(同条では刑の執行期限は24時間以内です。)が対応条文として掲げられています(Boissonade, p.917)。)

 

   Art. 622.  En cas de condamnation à mort, s’il n’y a pas eu de pourvoi en cassation, soit du condamné, soit du ministère public, et qu’il y ait, ou non, recours en grâce, le commissaire du Gouvernement près le tribunal qui a statué transmettra, sans délai, au Ministre de la justice les pièces de la procédure. 

 第622条 死刑判決の場合において,被告人からも検察局からも破毀上告がされないときは,恩赦申立ての有無を問わず,当該裁判をした裁判所に対応する検察官は,遅滞なく,訴訟書類を司法卿に送付するものとする。

 

   623.  S’il n’y a pas eu recours en grâce et que le Ministre de la justice ne croye pas devoir proposer à l’Empereur la grâce ou une commutation de peine, comme il est prévu au Chapitre IIIe, ci-après, il renverra les pièces, dans les dix jours, audit commissaire du Gouvernement, avec l’ordre d’exécution, laquelle aura lieu dans les trois jours. 

  623条 恩赦申立てがなく,かつ,後の第3章に規定されるところにより天皇に特赦又は減刑の上奏をしなければならないものではないと司法卿が信ずるときは,同卿は,執行の命令と共に当該検察官に対して10日以内に書類を返付するものとする。当該執行は3日以内に行われるものとする。

 

 ボワソナアド案622条及び623条に関する解説は次のとおり(Boissonade, pp.923-924)。

 

ここにおいて死刑の有罪判決は,被告人の利益のためにする,共同の権利に対する一つの例外を提示するが,それはその絶対的不可修復性によるものである。破毀上告の棄却後にも,行使されなかった上告の期限の経過後にも,すぐに刑の執行がされるものではない。

裁判をした裁判所に対応する検察局は全ての訴訟書類を司法卿に送付しなければならず,同卿は,それを取り調べて,第3章において取り扱われている特赦又は減刑を天皇に上奏する余地があるかどうかを判断する。同卿が特赦も減刑も上奏しないときは,刑法(〔旧刑法13条〕)に則った執行の命令と共に,10日以内に当該書類を返付する。当該命令の到達から3日以内に執行がされなければならない。

司法卿による当該特別命令の必要性の正当化は容易である。もし執行が,特別な命令の到達までは延期されるものではなく,反対に,猶予命令のない限りは当該官吏にとって義務的なものであったならば,(不幸なことにこの事象の発生は1箇国にとどまらないが)猶予命令が発送されたものの到達せず,しかして取り返しのつかない不幸が実現せしめられたということが起り得るのである。


 死刑判決に対する破毀上告が棄却され,又は大審院が自ら死刑判決をしたときも同様の手続(ボワソナアド案622条及び623の手続)が採られるものとされていました(ボワソナアド案625条(Boissonade, p.917

 執行権者による恩赦の許否の判断過程が,裁判所の死刑判決と当該裁判の執行との間に介在するわけです。なお,当該判断の量的重大度をボワソナアドがどのように見ていたかといえば,ボワソナアドがその1115日に来日した1873大久保泰甫『日本近代法の父 ボワソナアド』(岩波新書・1977年(第3刷・199850当時のフランスでは,「1873を境に,死刑判決にたいする恩赦の数が,実際の執行の数を上回るようになった」ところであって(福田真希「フランスにおける恩赦の法制史的研究(八・完)」法政論集2442012120),すなわち,死刑判決を受けた者の少なくとも半数近くは減刑(さすがに特赦にまではいかないでしょうが)の恩典に浴するものとボワソナアドは考えていたのではないでしょうか。ちなみに,フランス七月王制の「1830年の憲章第58条は,1814年の憲章と同じように,国王による恩赦と減刑を認めた」ところ「国王ルイ=フィリップ(在位1830年~1848)は積極的に恩赦を与え,1830927日の通達からは,死刑判決の場合には,たとえ嘆願がなかったとしても,恩赦の可能性が検討されることとな」り(福田真希「フランスにおける恩赦の法制史的研究(七)」法政論集2432012122),第二帝制及び第三共和制の下においても同様に「死刑の場合には,嘆願がなかったとしても,恩赦の可能性が検討された」ところです(同124)。

 我が国では恩赦については,大日本帝国憲法16条(「天皇ハ大赦特赦減刑及復権ヲ命ス」)の恩赦大権がかかわっていました。旧治罪法4773項は「特赦ノ申立アリタル時ハ司法卿ヨリ其書類ニ意見書ヲ添ヘ上奏ス可シ」と,同法4781項は「司法卿ハ刑ノ言渡確定シタル後何時ニテモ特赦ノ申立ヲ為ス(〔こと〕)ヲ得」と,旧恩赦令(大正元年勅令第23号)12条は「特赦又ハ特定ノ者ニ対スル減刑若ハ復権ハ司法大臣之ヲ上奏ス」と規定していました。

 なお,旧恩赦令131項はまた「刑ノ言渡ヲ為シタル裁判所ノ検事又ハ受刑者ノ在監スル監獄ノ長ハ司法大臣ニ特赦又ハ減刑ノ申立ヲ為スコトヲ得」と規定していたところ,いわゆる朴烈事件に係る大逆罪(刑法旧73)による大審院(旧裁判所構成法(明治23年法律第650条第2により大逆罪についての第一審にして終審の裁判所)の朴烈及び金子文子に対する死刑判決(1926325)については,直ちに「検事総長〔旧裁判所構成法561項により大審院の検事局に置かれていました。〕ヨリ恩赦ノ上申ガアリマスルヤ,内閣ニ於キマシテハ10日ニ亙リマシテ仔細ノ情状ヲ調査致シマシテ,而シテ後ニ総理大臣ハ〔摂政に対して減刑の〕奏請ヲセラレタ」(1927118日の衆議院本会議における江木翼司法大臣の答弁(第52回帝国議会衆議院議事速記録第430))という運びとなり(すなわち,192645日に摂政宮裕仁親王は「午前,内閣総理大臣若槻礼次郎参殿につき謁を賜い,言上を受けられ」ています(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015439頁)。),192645,朴・金子に対する無期懲役への減刑がされています。また,恩赦をするについては,有罪判決を受けた者について「決シテ改悛ノ情ガ必ズシモ必要デナイ」旨が明らかにされています(江木司法大臣(第52回帝国議会衆議院議事速記録第430)。朴・金子に係る減刑問題は内閣で取り扱われ,内閣総理大臣から上奏がされていますが,これは,事件が大きくて司法大臣限りでは処理できなかったからでしょう。

 

(2)日本国憲法下における恩赦法等との関係

しかしながら,日本国憲法737号は「大赦,特赦,減刑,刑の執行の免除及び復権を決定すること」を内閣の事務としており,更に恩赦法(昭和22年法律第20号)12条は「特赦,特定の者に対する減刑,刑の執行の免除及び特定の者に対する復権は,中央更生保護審査会の申出があつた者に対してこれを行うものとする。」と規定しています(「中央更生保護審査会の申出があった者についてのみ行なうものとされている」わけです(佐藤213頁。下線は筆者によるもの)。)。しかして恩赦法15条に基づき同法の施行に関し必要な事項を定める恩赦法施行規則(昭和22年司法省令第78号)1条を見ると,恩赦法12条の規定に拠る中央更生保護審査会の申出は刑事施設若しくは保護観察所の長又は検察官の上申があった者に対してこれを行うものとする,ということにされていて,法務大臣閣下の直接の出番はないようです(なお,本人から特赦,減刑若しくは刑の執行の免除又は復権の出願があったときは,刑事施設の長,保護観察所の長又は検察官は,意見を付して「中央更生保護審査会にその上申をしなければならない」と規定されています(同規則1条の22項,32項)。)。恩赦に係る司法卿ないしは司法大臣の上奏権に基づくボワソナアド的ないしは旧治罪法460条的な理由付けは,現在の刑事訴訟法4751項には妥当しづらいようです。(ただし,刑事訴訟法の施行(194911日から)の後6箇月間(同630日まで)は,恩赦法12条は「特赦,特定の者に対する減刑,刑の執行の免除及び特定の者に対する復権は,検察官又は受刑者の在監する監獄の長の申出があつた者に対してこれを行うものとする。」と規定されていました(下線は筆者によるもの。犯罪者予防更生法施行法(昭和24年法律第1436によって申出をする機関が「中央更生保護委員会」に改められ(同委員会は,国家行政組織法(昭和23年法律第12032項の委員会でした(旧犯罪者予防更生法(昭和24年法律第14231)。),195281日からは更に「中央更生保護審査会」に改められています(法務府設置法等の一部を改正する法律(昭和27年法律第2685)。)。)

現在は「まず執行指揮検察官の所属する検察庁から,検事長ないし検事正の名義で,死刑執行に関する上申書が法務大臣に提出される。法務省では,裁判の確定記録など関係資料を取り寄せ,再審,非常上告,あるいは刑の執行の停止の事由がないかどうか,また,恩赦を認める余地がないかどうかを綿密に審査した上で,執行起案書を作成する。刑事局,矯正局,保護局のすべてが関与して,誤りなきを期するための努力が払われ,最後に大臣の命令が発せられるのである。」ということですが(松尾浩也『刑事訴訟法(下)新版』(弘文堂・1993年)310頁),恩赦について中央更生保護審査会に上申するのは前記のとおり法務大臣ではなく刑事施設若しくは保護観察所の長又は検察官ですし,再審の請求ができる者は検察官並びに有罪の言渡しを受けた者,有罪の言渡しを受けた者の法定代理人及び保佐人並びに有罪の言渡しを受けた者が死亡し,又は心神喪失の状態に在る場合の配偶者,直系の親族及び兄弟姉妹に限られており(刑事訴訟法439条),非常上告ができる者は専ら検事総長であり(同法454条),死刑の執行停止を命ずる者は法務大臣ですが,当該停止事由である心神喪失及び女子の懐胎(同法479条)の有無の判断は医師の診断に頼ればよいようです(なお,当該死刑の執行停止制度は,刑法施行法(明治41年法律第29号)48条によって旧々刑事訴訟法(明治23年法律第96号)318条ノ3として追加されています。懐胎した女子のそれは,旧刑法15条(分娩後100日経過まで執行停止)に既にあったものです。)。法務大臣閣下が御自らくよくよされる必要は余りないのではないでしょうか。

 

5 死刑判決執行前の特赦か

 本件における総督閣下も,特赦の可否を考えたようです。

 

  Per diem autem sollemnem consueverat praeses dimittere populo unum vinctum quem voluissent

  Habebat autem tunc vinctum insignem qui dicebatur (Jesus) Barabbas

     congregatis ergo illis dixit Pilatus

 quem vultis dimittam vobis

 (Jesum) Barabban an Jesum qui dicitur Christus

       (Mt 27,15-17)

 

 括弧内の語は,これを記さない写本も多いそうです。

 「ところで(autem)長官は(praeses),祭日には(per diem sollemnem),人民に対して(populo)彼らの欲する囚人を一人(unum vinctum quem voluissent)特赦してやる習慣であった(consueverat dimittere)」ということです。当該総督は自ら特赦することができる点で,天皇への特赦上奏権までしかなかった大日本帝国の朝鮮総督・台湾総督(旧恩赦令12条・19条)よりも権限が大きかったようですが,中央更生保護審査会ならぬ群衆に(congregatis illis)だれを特赦すべきか(「JBJCか,諸君のためにどちらを特赦するのを諸君は希望するのかな(quem vultis dimittam vobis J.B. an J. … C.)」)と諮る必要があった点では権限が制限されていたというべきでしょう。(なお,barabbasの意味は,インターネットを処々検するに,何のことはない,「親父(abba)の息子(bar)」ということであるそうです。)

 

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旧制第二高等学校蜂章碑(仙台市青葉区片平丁)

Immensee (1851)

  蜜蜂湖1851

  Es war sonnige Nachmittagsstille; nur nebenan schnurrte der Mutter Spinnrad, und von Zeit zu Zeit wurde Reinhards gedämpfte Stimme gehört, wenn er die Ordnungen und Klassen der Pflanzen nannte oder Elisabeths ungeschickte Aussprache der lateinischen Namen korrigierte.

     日差しの明るい午後の静寂(しじま)であった。ただ隣室で母の糸車が鳴っており,時折,植物の綱目名を挙げときにあるいエリーザベトのぎこちないラテン語名の発音を訂正するときに,ラインハルトの低い声が聞こえるだけであった。

 

      Bald ging es wieder sanft empor, und nun verschwand rechts und links die Holzung; statt dessen streckten sich dichtbelaubte Weinhügel am Wege entlang; zu beiden Seiten desselben standen blühende Obstbäume voll summender, wühlender Bienen.

  やがて道は再び緩やかな上り坂となった,そして左右の林が消えた。それに代わって,葉のよく茂った葡萄畑の丘陵が道に沿って開けた。道の両側には花盛りの果樹が並び,それらは,ぶんぶんうなり,花にもぐって蜜を集める蜜蜂でいっぱいであった。

 DSCF1393

      BGB § 961 Eigentumsverlust bei Bienenschwärmen (1896)

Zieht ein Bienenschwarm aus, so wird er herrenlos, wenn nicht der Eigentümer ihn unverzüglich verfolgt oder wenn der Eigentümer die Verfolgung aufgibt.

ドイツ民法961条(蜂群に係る所有権喪失)(1896年)

蜂群が飛び去った場合であって,所有者が遅滞なくそれを追跡しなかったとき又は所有者が追跡を放棄したときは,その群れは無主となる。

(註:養蜂振興法(昭和30年法律第180号)1条において「蜜蜂の群(以下「蜂群」という。)」と,特に用語の指定がされています。蜂群(ほうぐん)というのはちょっとなじみのない言葉ですあしからず。)

 

Begründung zum 1. Entwurf, Band III, S.373 (1888)(インターネット上で見ることができる当該理由書の原文は髭文字で印刷されているので,非髭文字体でここに書き写すことにもなにがしかの意味はあるでしょう。)

2. Die Bienen gehören zu den wilden aber zähmbaren Thieren. Der Eigenthumsverlust in Folge Rückerlangung der natürlichen Freiheit bestimmt sich also nach § 905 Abs. 2, 3 [Gefangene wilde Thiere werden herrenlos, wenn sie die natürliche Freiheit wiedererlangen. / Gezähmte Thiere werden herrenlos, wenn sie die Gewohnheit, an den ihnen bestimmten Ort zurückzukehren, ablegen.]. Die Bienenschwärme fliegen frei umher. Das Band, welches dieselben in der Inhabung und unter der Herrschaft des Eigenthümers erhält, ist die Gewöhnung an eine bestimmte Bienenwohnung. Diese Gewöhnung wird nicht durch allmähliche Verwilderung abgelegt, sondern es liegt in der Natur der Bienen, daß periodisch in Folge der im Stocke erfolgten Aufzucht junger Brut ein Bienenhaufe den plötzlichen Entschluß der Auswanderung behufs Begründung einer neuen Kolonie faßt- und auszieht. Der ausziehende Bienenhaufe hat die consuetudo revertendi abgelegt. Die Frage bleibt, in welchem Augenblicke diese Ablegung der Rückkehrgewohnheit zur Aufhebung des Eigenthumes führe. Mit dem Beginne des Ausziehens ist die thatsächliche Gewalt des Eigenthümers noch nicht aufgehoben und bis zu der Entziehung dieser Gewalt bleibt selbstverständlich das Eigenthum bestehen. Bezüglich des Zeitpunktes der definitiven Aushebung der Inhabung und des Besitzes könnte man vielleicht auch ohne besondere gesetzliche Bestimmung zu dem in § 906 bestimmten Resultate [Ein ausgezogener Bienenschwarm wird herrenlos, wenn der Eigenthümer denselben nicht unverzüglich verfolgt, oder wenn der Eigenthümer die Verfolgung aufgiebt oder den Schwarm dergestalt aus dem Gesichte verliert, daß er nicht mehr weiß, wo derselbe sich befindet] gelangen. Der vorliegende Fall hat eine gewisse Aehnlichkeit mit dem Falle der Nacheile (§ 815 Abs. 2 [Ist eine bewegliche Sache dem Inhaber durch verbotene Eigenmacht weggenommen, so ist derselbe berechtigt, dem auf der That betroffenen oder bei sofortiger Nacheile erreichten Thäter die Sache mit Gewalt wieder abzunehmen. Im Falle der Wiederabnahme ist der Besitz als nicht unterbrochen anzusehen.]). So lange die Verfolgung dauert, ist Besitz und Inhabung und damit das Eigenthum noch nicht definitiv verloren. In einigen Gesetzgebungen sind Fristen für das Einfangen gesetzt, nach deren Ablauf erst die Herrenlosigkeit eintritt; doch hat man sich bei dem [sic] neuerdings in Ansehung einer Neuordnung des Bienenrechtes von sachverständiger Seite gemachten Vorschlägen nicht für eine derartige Fristbestimmung ausgesprochen. 

ドイツ民法第一草案理由書第3373頁(1888年)

2.蜜蜂は,野生ではあるが馴らすことができる動物に属する。したがって,自然の自由の再獲得の結果としての所有権喪失は,第一草案9052項・3項〔捕獲された野生の動物は,自然の自由を再獲得したときは,無主となる。/馴らされた動物は,戻るようしつけられた場所に戻る習性を失ったときは,無主となる。〕によるものである。蜂群は,自由に飛び回る。それらを所有者の所持及び支配の下に留める紐帯は,特定の巣箱に対する定着(Gewöhnung)である。この定着は,徐々に進行する野生化によって失われるものではない。むしろ,蜜蜂は次のような性質を有している。すなわち,定期的に,巣箱の中で若い虫たちの群れが増えた結果,一団の蜜蜂が,新しい定住地に住み着くために移住しようとの突然の決定を行い,かつ,飛び去るのである。この飛び去る一団の蜜蜂は,戻る習性(consuetudo revertendi)を失っている。残る問題は,どの瞬間において,戻る習性の喪失が所有権の消滅をもたらすかである。移動の開始によっては所有者の現実の力はなお消滅しないし,この実力がなくなるまでは所有権は明らかに存在し続ける。所持及び占有の確定的消滅の時点との関係では,特段の法の規定なしに,第一草案906条に規定する結果〔移動する蜂群は,所有者がそれを遅滞なく追跡しなかったとき又は所有者が追跡を放棄したとき若しくは当該群れを見失った結果もはやどこにいるのか分からなくなったときに無主となる。〕に到達することがひょっとしたら可能であったかもしれない。これは,第一草案8152項の追跡の場合〔禁じられた私力によって動産が所持者から奪われたときは,当該所持者は,現場で取り押さえられ,又は即時の追跡によって捕捉された当該行為者から,当該物件を実力で再び取り上げることができる。取戻しがあった場合は,占有は中断されなかったものとみなされる。〕とある程度類似しているところである。追跡が継続している間は,占有及び所持並びにこれらと共に所有権が確定的に失われることはないのである。その期間が経過したことによって初めて無主性が生ずるものとする,捕獲のための期間を定めたいくつかの立法例があるが,蜜蜂法の新秩序に係る考慮の上専門家の側から最近された提案においては,そのような期間の定めは提唱されていない。

 

BGB § 962 Verfolgungsrecht des Eigentümers (1896)

Der Eigentümer des Bienenschwarms darf bei der Verfolgung fremde Grundstücke betreten. Ist der Schwarm in eine fremde nicht besetzte Bienenwohnung eingezogen, so darf der Eigentümer des Schwarmes zum Zwecke des Einfangens die Wohnung öffnen und die Waben herausnehmen oder herausbrechen. Er hat den entstehenden Schaden zu ersetzen.

ドイツ民法962条(所有者の追跡権)(1896年)

蜂群の所有者は,追跡の際他人の土地に立ち入ることができる。群れが他人の空の巣箱(Bienenwohnung)に入ったときは,群れの所有者は,捕獲の目的で箱を開け,蜂の巣(Wabe)を取り出し,又は抜き取ることができる。彼は,生じた損害を賠償しなければならない。

 

Begründung zum 1. Entwurf, Band III, S.373 (1888)

3. Die Vorschriften des § 907 [Der Eigenthümer eines ausgezogenen Bienenschwarmes kann bei dem Verfolgen des Schwarmes fremde Grundstücke betreten und den Schwarm, wo derselbe sich angelegt hat, einfangen. / Ist der Schwarm in eine fremde, nicht besetzte Bienenwohnung eingezogen, so kann der verfolgende Eigenthümer zum Zwecke der Einfangung des Schwarmes die Wohnung öffnen, auch die Waben herausnehmen oder herausbrechen. / Die Vorschriften des §. 867 finden Anwendung.] beziehen sich auf den besonderen Fall der Anwendbarkeit des § 867 [Der Eigenthümer eines Grundstückes, auf dessen Gebiete eine fremde bewegliche Sache sich befindet, hat dem Eigenthümer oder bisherigen Inhaber der letzteren die zur Aufsuchung, Erlangung und Fortschaffung der Sache erforderlichen Handlungen zu gestatten. / Der Eigenthümer oder bisherige Inhaber der beweglichen Sache hat dem Eigenthümer des Grundstückes den aus diesen Handlungen entstandenen Schaden zu ersetzen und, wenn ein solcher zu besorgen ist, wegen Ersatzes desselben vorher Sicherheit zu leisten.], wenn die von einem fremden Grundstücke abzuholende Sache ein Bienenschwarm ist, und erweitern die Befugnisse des verfolgenden Eigenthümers insoweit, als durch die Sachlage geboten ist, wenn der Zweck des Einfangens erreicht werden soll. Die Natur des hier bestimmten Rechtes ist dieselbe, wie die Natur des in § 867 bestimmten Rechtes. Ein Vorgehen des Verfolgenden im Wege der Selbsthülfe ist nur insoweit erlaubt, als die in § 189 bestimmten Voraussetzungen zutreffen.

ドイツ民法第一草案理由書第3373頁(1888年)

3.第一草案907条の規定〔飛び去った蜂群の所有者は,当該群れの追跡の際他人の土地に立ち入り,かつ,当該群れをその移転先の場所で捕獲することができる。/群れが他人の空の巣箱に入ったときは,追跡中の所有者は,当該群れの捕獲の目的で当該箱を開けることができ,更に蜂の巣を取り出し,又は抜き取ることもできる。/第867条の規定が適用される。〕は,他人の土地から回収する物が蜂群である場合における第一草案867条〔その上に他人の動産が現在する土地の所有者は,当該動産の所有者又はそれまでの所持者に対して,その物の捜索,確保及び持ち去りのために必要な行為を許容しなければならない。/動産の所有者又はそれまでの所持者は,土地の所有者に対して,そのような行為から生じた損害を賠償しなくてはならず,必要があれば,その賠償のためにあらかじめ担保を提供しなければならない。〕の適用の特例に関するものであり,かつ,追跡中の所有者の権能を捕獲の目的が達成されるべく状況が必要とする限りにおいて拡張するものである。ここに規定される権利の性格は,第867条において規定される権利の性格と同様である。自救行為の手段としての追跡者の措置は,第一草案189条に規定する前提条件が満たされる限りにおいてのみ許される。

 

BGB § 963 Vereinigung von Bienenschwärmen

Vereinigen sich ausgezogene Bienenschwärme mehrerer Eigentümer, so werden die Eigentümer, welche ihre Schwärme verfolgt haben, Miteigentümer des eingefangenen Gesamtschwarms; die Anteile bestimmen sich nach der Zahl der verfolgten Schwärme.

ドイツ民法963条(蜂群の合体)

複数の所有者の飛び去った蜂群が合体した場合においては,彼らの群れの追跡を行った所有者は,捕獲された合体群の共有者となる。持分は,追跡のされた群れの数に応じて定まる。

 

Begründung zum 1. Entwurf, Band III, S.373 -374 (1888)

4. Die Vorschrift des §908 [Vereinigen sich mehrere ausgezogene Bienenschwärme verschiedener Eigenthümer bei dem Anlegen, so erwerben diejenigen Eigenthümer, welche ihre Schwärme verfolgt haben, an dem eingefangenen Gesammtschwarme das Miteigenthum nach Bruchtheilen; die Antheile bestimmen sich nach der Zahl der verfolgten Schwärme.] betrifft einen besonderen Fall der Anwendbarkeit des §892. Die hinzugefügte Besonderheit besteht darin, daß die Antheile der verschiedenen Eigenthümer an dem eingefangenen Gesammtschwarme, welcher sich möglicherweise durch einen herrenlosen Schwarm vergrößert haben kann, nach der Zahl der verfolgten Schwärme und nicht nach dem Werthverhältnisse dieser Schwärme sich bestimmen sollen. Eine solche durchgreifende Entscheidung erledigt in sachgemäßer Weise eine sonst schwer zu lösende Beweisfrage.

ドイツ民法第一草案理由書第3373-374頁(1888年)

4.第一草案908条の規定〔様々な所有者の複数の飛び去った蜂群が移転先において合体した場合には,彼らの群れの追跡を行った当該所有者は,捕獲された合体群について部分的な共同所有権を取得する。持分は,追跡のされた群れの数に応じて定まる。〕は第一草案892条の適用における特例に係るものである。付加的な特殊性は,捕獲された合体群(これは場合によっては無主の群れによって更に増大している可能性がある。)に対する様々な所有者の持分は,追跡のされた群れの数に応じて定められるべきものであり,これらの群れの価格関係に応ずべきものではないという点に存在する。このような思い切った決断によって,解決が難しいものともなり得る立証問題を実際的な方法によって取り除くものである。

 

      BGB § 964 Vermischung von Bienenschwärmen

Ist ein Bienenschwarm in eine fremde besetzte Bienenwohnung eingezogen, so erstrecken sich das Eigentum und die sonstigen Rechte an den Bienen, mit denen die Wohnung besetzt war, auf den eingezogenen Schwarm. Das Eigentum und die sonstigen Rechte an dem eingezogenen Schwarme erlöschen.

  ドイツ民法964条(蜂群の混和)

  蜂群が既に蜂群の入れられている他人の巣箱に入ったときは,当該巣箱に入れられていた蜜蜂に係る所有権及びその他の権利が,入ってきた当該群れに及ぶ。新たに入った群れに係る所有権及びその他の権利は,消滅する。

 

  Begründung zum 1. Entwurf, Band III, S.374 (1888)

  5. Die Vorschriften des §909 [Ist ein Bienenschwarm in eine fremde, besetzte Bienenwohnung eingezogen, so erstrecken sich das Eigentum und die sonstigen Rechte an den Bienen, mit welchen die Wohnung besetzt war, auch auf den eingezogenen Schwarm. Das Eigentum und die sonstigen Rechte, welche an dem letzteren bisher bestanden, erlöschen. Ein Anspruch wegen Bereicherung steht bem bisherigen Berechtigten gegen den neuen Eigenthümer nicht zu.] modifizieren die Bestimmungen über die Folgen einer Vermischung verschiedener Schwärme zu Ungunsten des Eigenthümers eines sog. Noth=, Hunger= oder Bettelschwarmes, welcher in eine fremde besetzte Bienenwohnung eingezogen ist. Nach sachverständiger Darstellung zieht zuweilen, besonders im Frühjahre oder Herbst, aus Mangel an Nahrung das gesammte Volk aus, wirft sich auf andere Stöcke, verursacht ein gegenseitiges Abstechen und bringt dadurch Schaden. Hier ist das Ausziehen Folge nachlässig betriebener Zucht; solche Völker bilden keine Schwärme im technischen Sinne, man nennt sie Bettel= und Hungerschwärme. Sie sollen nach den Vorschlägen der Bienenwirthe als herrenlos gelten. Es ist aber nicht über das Herrenloswerden solcher Schwärme eine besondere Bestimmung nöthig, sondern nur über die vermöge einer Art von commixtio erfolgende Eigenthumserwerbung, wenn der Schwarm mit einem fremden Schwarme durch Einziehen in dessen Wohnung sich vermischt. Mit Rücksicht auf die der Regel nach durch Vernachlässigung des bisherigen Eigenthümers des Bettelschwermes gegebene Ursache des Ausziehens und der Vermischung erledigt der Entwurf jeden möglichen Streit durch die durchgreifende Bestimmung, daß der Gesammtschwarm nach allen Richtungen unter das rechtliche Verhältniß des in der Wohnung bereits früher vorhandenen Schwarmes tritt und daß in Abweichung von der Vorschrift des §897 ein Bereicherungsanspruch des verlierenden bisherigen Eigenthümers des Bettelschwarmes ausgeschlossen ist. 

  ドイツ民法第一草案理由書第3374頁(1888年)

  5.第一草案909条の規定〔蜂群が既に蜂群の入れられている他人の巣箱に入ったときは,当該巣箱に入れられていた蜜蜂に係る所有権及びその他の権利が,入ってきた当該群れにも及ぶ。後者についてそれまで存在した所有権及びその他の権利は,消滅する。それまでの権利者に,新しい所有者に対する不当利得返還請求権は生じない。〕は,様々な群れによる混和の効果に関する規定を,他人の蜜蜂の巣箱に入り込んだいわゆる困窮,飢餓又は乞食蜂群Noth=, Hunger= oder Bettelschwarmの所有者の不利に修正するものである。専門家の述べるところによると,時折,特に春又は秋に,食物の不足により蜜蜂の集団Volk全体が飛び去り,他の巣箱に飛来して刺し殺し合いを惹起し,そしてそのことにより損害をもたらすことがある。ここでの飛び去りは,おろそかにされた飼育の結果である。そのような蜜蜂の集団は専門技術的な意味では群れを構成するものではなく,乞食及び飢餓蜂群と名付けられる。それらは,養蜂家の提案によれば無主であるものとみなされるべきものである。しかしながら,特則が必要であるのは,そのような群れが無主となることに関してではなく,むしろ専ら,当該群れが他の群れの巣箱に入り込むことによって当該他の群れと混和する場合における,一種の混合コンミクスティオによって招来される所有権の取得に関してである。定めに照らせば乞食蜂群のそれまでの所有者の怠慢によって与えられたところの飛び去り及び混和の原因に鑑みて,この案は,思い切った規定によって,可能性ある全ての紛争を取り除くものである。すなわち,全ての方面において合体群は,巣箱に既に早くから存在していた群れの法関係の下に入ること,及び第一草案897条の規定にかかわらず,権利を失う乞食蜂群のそれまでの所有者の不当利得返還請求権を排除することこれである。

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旧制第二高等学校旧正門(仙台市青葉区片平丁)
 

  Institutiones Justiniani 2.1.14 (533)

      Apium quoque natura fera est. Itaque quae in arbore tua consederint, antequam a te alveo includantur, non magis tuae esse intelleguntur, quam volucres quae in tua arbore nidum fecerint: ideoque si alius eas incluserit, is earum dominus erit. Favos quoque si quos hae fecerint, quilibet eximere potest. Plane integra re, si provideris ingredientem in fundum tuum, potes eum jure prohibere, ne ingrediatur. Examen quod ex alveo tuo evolaverit eo usque tuum esse intellegitur donec in conspectu tuo est nec difficilis ejus persecutio est: alioquin occupantis fit.

  ユスティーニアーヌス『法学提要』第2編第114533年)

  同様に,蜜蜂(apis)の性質は,野生(ferus)である。したがって,汝の木に居着いた蜜蜂たちも,汝によって巣箱(alveus)に入れられる前においては,汝の木に巣(nidus)を作った鳥たちより以上に汝のものであるとはみなされない。したがって,それゆえに,別の者が当該蜜蜂たちを収容(includere)したときは,彼がそれらの所有者である。同様に,それらが蜂の巣(favus)を作ったときは,誰でもそれを取り出すことができる。もちろん,当然に,汝の地所に立ち入る者について予見したならば,汝は,法により,彼が立ち入らないように禁ずることができる。汝の巣箱から逃げ去った蜂群(examen)は,汝の視界内(in conspectu)にあり,その追跡が困難でない限りにおいては汝のものであるとみなされる。そうでなければ,先占者(occupans)のものとなる物となる。

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1 ドイツ民法とローマ法等と

 

(1)ドイツ民法961

ドイツ民法961条は,ローマ法の“Examen quod ex alveo tuo evolaverit eo usque tuum esse intellegitur donec in conspectu tuo est nec difficilis ejus persecutio est: alioquin occupantis fit.”の法理に由来していることが分かります。ただし,見えなくなったらもうおしまい,というわけではありません(しかし,実際のところ,見えなくなったら追跡は難しいのでしょう。)。フランスの1791928日法(sur la police rurale)も,蜂群の所有者の追跡について期間制限を設けていませんでした(Boissonade, Projet de code civil pour l’Empire du Japon, accompagné d’un commentaire, Livre III, 1888. p.66)。すなわち,同法第1編第35条は,“Le propriétaire d’un essaim a le droit de le réclamer et de s’en ressaisir, tant qu’il n’a point cessé de le suivre; autrement l’essaim appartient au propriétaire du terrain sur lequel il s’est fixé.(蜂群(essain)の所有者は,その追跡を終止しない限りは,それに対する権利を主張し,かつ,再捕獲することができる。原則としては(autrement),蜂群は,それが定着した土地の所有者に帰属する。)と規定していたところです。

なお,上記ローマ法理の規定の対象となる事象は「既に採取され所有物になっている蜜蜂の群に分蜂または逃去が生じ,その捕獲に失敗した場合について規定しているものと考えられる。養蜂家が適切な処置をとらなかったために,蜂群が一体となって巣箱を逃げ出してしまったケースである。」(五十(やすた)()麻里子「蜜蜂は野か?――ローマ法における無主物先占に関する一考察」法政研究704号(200431日)20頁)とされていますが,ドイツ民法は,この分蜂及び逃去のうち分蜂のみを対象にして,逃去は念頭に置いていなかったそうです(五十君32頁註74)。(確かに,前記のドイツ民法第一草案理由書第3373頁の2の記載を見るとそのようですが,同374頁の5の乞食蜂群は以下に説明される逃去との関係でどう考えるべきでしょうか。)逃去は,冬の寒さの厳しくない地で見られる現象(五十君17頁)とされています。分蜂と逃去との相違は,「分蜂が古い群から新たな群が分かれる群の再生産であるのに対して,逃去は群全体がより良い環境を求めて巣を立ち去る現象なのである。したがって,分蜂においては一匹の女王蜂が働き蜂の一部と,時には雄蜂の一部を伴って巣を飛び立つのに対して,逃去では幼虫や貯蜜を残し全ての大人の蜜蜂が巣を去ってしまう。」ということです(五十君16頁)。逃去の場合,「群は数時間以内に巣を後にし,10分ほどで新たに巣を設ける場所へと移動する」そうですが,「他方,花や水が不足する場合には,蜜蜂は20日から25日かけて準備をし,卵やさなぎもあらかじめ働き蜂が食べたうえで,時には50キロメートル離れた場所まで移動する」そうです(五十君17頁)。

分蜂する蜜蜂たちのローマ時代における収容の様子は,ウァッロー(Varro)によれば,分蜂の数日前から巣門の前に蜂球が形成されているところ,激しく音が発せられて分蜂が始まり,「先に飛び立った蜜蜂は付近を飛び回って後続の蜜蜂を待」っているところで,「養蜂家は,蜂群がこのような状況にあることを発見したならば,「土を投げ付け,金を打ち鳴らして」これを脅かす一方,近くに蜜蜂の好むものを置いた巣箱を用意し,蜂群を誘導する。さらに,蜂群が巣箱に入った所を見計らって周囲に軽く煙をかけ,巣箱内に逃げ込むようしむける。すると蜂群は新しい巣箱に止まり,新しい蜂群が成立することとなるのである。」というものでした(五十君17-18頁)。

フランスの1791928日法第1編第35条後段の「原則としては,蜂群は,それが定着した土地の所有者に帰属する。」との規定は,巣箱への収容までを要件としないようですから,蜜蜂に係る“Itaque quae in arbore tua consederint, antequam a te alveo includantur, non magis tuae esse intelleguntur, quam volucres quae in tua arbore nidum fecerint: ideoque si alius eas incluserit, is earum dominus erit. Favos quoque si quos hae fecerint, quilibet eximere potest.”との法理とは異なるもののようです。ということは,ルイ16世時代のフランス王国においては,もはや古代ローマのように“apium natura fera est.”とは考えられておらず,蜜蜂は家畜扱いだったということでしょうか。1791928日法は同年106日にルイ16世の裁可を受けていますが,1792810日の事件の後にタンプル塔にあっても「時間つぶしのために希望して,257冊――たいていはラテンの古典作家である――もの優に図書館ぶんほども本を手に入れた」(ツヴァイク=関楠生訳『マリー・アントワネット』)教養人であった同王としては,裁可を求められた当該法案についてローマ法との関係で何か言いたいことがあったかもしれません。

 

(2)ドイツ民法962

ドイツ民法962条においては,“si provideris ingredientem in fundum tuum, potes eum jure prohibere, ne ingrediatur.”の法理(ただしこれは,無主物先占のための立入りに係るものですね。)とは異なり,養蜂家の所有権に配慮して,「蜂群所有者,追跡際他人土地ることができる。」とされています。前記フランス1791928日法も他人の土地内への追跡を所有者に認めていたそうです(Boissonade p.66)。

なお,ローマ時代の巣箱(alveus)は「直径30センチメートル,長さ90センチメートルの筒状に成型し,適切な場所に水平に置く。蜜蜂の出入口の反対側から蜂蜜の採取などの作業ができるよう,後部を閉じる際には後で取り外せるようにしておく。」というものであり(五十君15頁),材料にはいろいろなものがあって(ローマ帝国は広かったのです。),「コルクなどの樹皮,オオウイキョウの茎,植物を編んだ籠,空洞の丸木,木板」や「牛糞,土器,レンガさらには透明な角や石」が用いられていたそうです(五十君15頁)。現在の形の巣箱は,19世紀の発明であるそうですから(五十君15頁),ドイツ民法はこちらの方の近代的巣箱を想定しているものでしょう。ローマ時代には「人工的に与えられるものは外側の巣箱だけで,中の巣板は,蜜蜂達が,自身の体を物差にして六角形の巣房を両面に無駄なく組み合わせ,作って行くのに任せられていた」そうであり(五十君15頁),「採蜜の際にも蜂蜜の貯まった巣を壊して搾り取るしかなく,蜂群は再生できない場合が多かった」ことになります(五十君15頁)。

なお,蜜蜂たちを収容(includere)する方法はどうだったかといえば,「森の群を捕獲する方法(ratio capiendi silvestria examina)」においては,「巣が岩の窪みにある場合には,煙で蜜蜂を燻り出して音をたて,この音に驚いた蜜蜂が茂み等に蜂球を形成した所を,入れ物(vas)に収容」し,「巣が木のうろにあった場合には,巣の上下の木を切り,布に包んで持ち帰る」というものだったそうです(五十君16頁)。その後「筒を寝かせたような形状の巣箱に移され」,「こうしてはじめて「〔略〕巣箱に閉じ込められ」たものとされ,その獲取者の所有物」となりました(五十君19頁,94頁註94)。

 

(3)ドイツ民法963条及び964

ドイツ民法963条は日本民法245条・244条の混和の規定を(ただし,持分は,後者は価格の割合で決まるのに対し,前者は群れの数に応じて決まります。),ドイツ民法964条は日本民法245条・243条の混和の規定を彷彿とさせます(Vermischungは,正に「混和」です。)。

 

2 我が旧民法と民法と

 

(1)旧民法と蜜蜂と

さて,実は我が国においても,旧民法(明治23年法律第28号)財産取得編132項には「群ヲ為シテ他ニ移転シタル蜜蜂ニ付テハ1週日間之ヲ追求スルコトヲ得」という規定がありました。これは,ボワソナアドの原案6212項では,À l’égard des abeilles qui se sont transportées en essaim sur le fonds voisin, elles peuvent y être suivies et réclamées pendant une semaine; toutefois, ce droit cesse après 3 jours, si le voisin les a prises et retenues.(群れをなして隣地に移動した蜜蜂については,1週間はそこへの追跡及び回復が可能である。しかしながら,隣人がそれらを捕獲し,かつ,保持したときは,当該権利は3日の後に消滅する。)であったものです(Boissonade p.36)。隣人が保持するとは,retunues prisonnières dans une ruche ou autrement(巣箱に入れるか他の方法で捕えておく)ということであったそうです(Boissonade p.67)。「隣地に」が「他ニ」になったのは,188842日の法律取調委員会における渡正元委員(元老院議官)の提案の結果です(法務大臣官房司法法制調査部監修『日本近代立法資料叢書9』(㈳商事法務研究会・1987年)「法律取調委員会民法草案財産取得編議事筆記」51頁)。これについては,「可笑クハ御座イマセンカ加様ナモノハ能サソウナモノデス蜂ガ必ズシモ隣ヘ往クト云フ極ツタモノデモアリマセンカラ」及び「蜂ナゾハ何処ヘ飛ンデ往クカ分リマスカ」と同日鶴田皓委員(元老院議官)に言われてしまっていたところです(法律取調委員会議事筆記50頁)。「隣人がそれらを捕獲し,かつ,保持したときは,当該権利は3日の後に消滅する」の部分を削ることは,これも同日,山田顕義委員長(司法大臣)が「隣人ダノ3日ダノト謂フコトハ刪ツテモ宜シウ御座イマセウ」と言い出していたところです(法律取調委員会議事筆記50頁)。ドイツ民法962条第3文のような損害賠償責任の規定が書かれなかった理由は,“cela va de soi, et même il est certain que la poursuite devrait être empêchée ou suspendue dans les cas où elle causerait des dommages difficiles à réparer.”(当然のことであり,また,償い難い損害が追跡によって惹起される場合には,追跡は妨げられ,又は中止されることになることがまた確かであるからである。)ということでした(Boissonade p.67)。

どういうわけか「不動産上ノ添附」の節の中にありました。ボワソナアドは,フランス1791928日法(当時も効力を有していました(Boissonade p.66)。)第1編第35条後段の規定を前提として,蜂群が定着した土地の所有者は,当該土地への添附によって当該蜂群の所有権を取得すると考えていたものでしょうか。そうだとすると,旧民法財産編(明治23年法律第28号)232項は「所有者ナキ不動産及ヒ相続人ナクシテ死亡シタル者ノ遺産ハ当然国ニ属ス」と規定していて無主の土地は我が国では無いのですから,我が国には無主の蜂群は存在しないものと考えられていたことになりそうです。

旧民法財産取得編132項は,ローマ法の“Examen quod ex alveo tuo evolaverit eo usque tuum esse intellegitur donec in conspectu tuo est nec difficilis ejus persecutio est.”の法理と比較すると,視界の中にあるか否か,追跡が困難か否かという要件を簡素化して,蜂群の移転(分蜂又は逃去(ニホンミツバチは,比較的寒い地域に生息するものであっても逃去を行うそうです(五十君32頁註74)。))後一律「1週日間」はなお前主の所有権が及ぶものとしたもののように解されます。期間無制限のフランス1791928日法と比較すると,追跡可能期間が短縮されたということになります(Boissonade p.67)。

 

(2)旧民法と魚及び鳩並びに野栖ノ動物と

旧民法財産取得編13条(全3項)の残りの条項をここで見ておくと,第1項は「私有池ノ魚又ハ鳩舎ノ鳩カ計策ヲ以テ誘引セラレ又ハ停留セラレタルニ非スシテ他ノ池又ハ鳩舎ニ移リタルトキ其所有者カ自己ノ所有ヲ証シテ1週日間ニ之ヲ要求セサレハ其魚又ハ鳩ハ現在ノ土地ノ所有者ニ属ス」と,第3項は「飼馴サレタルモ逃ケ易キ野栖ノ禽獣ニ付テハ善意ニテ之ヲ停留シタル者ニ対シ1个月間其回復ヲ為スコトヲ得」と規定していました。それぞれ,ボワソナアドの原案6211項では“Les poissons des étangs privés et les pigeons des colombiers qui passent dans un autre étang ou colombier, sans y avoir été attirés ou retenus par artifice, appartiennent au propriétaire chez lequel ils se sont établis, s’ils ne sont pas réclamés dans une semaine, avec justification de leur identité.”と,同条3項では“S’il s’agit d’animaux de nature sauvage, mais apprivoisés et fugitifs, la revendication pourra en être exercée pendant un mois contre celui qui les a recueillis de bonne foi.”とあったものを日本語訳したものです。なお,旧民法財産取得編133項の「飼馴サレタルモ逃ケ易キ野栖ノ動物」の語句における「逃ケ易キ」の語については,「仏原語ノ意義ヲ誤解シタルモノニシテケタル﹅﹅﹅ナリ」指摘ていす(本野一郎=正=日本民法義解 財産取得編債権担保社・189012月印行)56頁)。確かに,仏和辞典を検する限り,“fugitif”はそう解すべきです。

旧民法財産取得編131項は,当時のフランス民法564条(“Les pigeons, lapins, poissons, qui passent dans un autre colombier, garenne ou étang, appartiennent au propriétaire de ces objets, pourvu qu'ils n'y aient point été attirés par fraude et artifice.”(他の鳩舎,棲息地又は池に移った鳩,野兎,魚は,欺罔及び計策によって誘引されたものでなければ,当該物件の所有者に帰属する。))の承継規定ですね(同条は,同法第2編(財産編)第2章(所有権について)第2節(付合及び混和に係る添附について)の第2“Du droit d’accession relativement aux choses immobilières”(不動産に関する添附について)にありました。)。ボワソナアドが自ら,同項に対応する自分の原案はフランス民法564条を参考にした旨註記しています(Boissonade p.36)。ただし,フランス民法564条には無かった1週間の猶予期間が付されています。当該猶予期間を設けた理由は,フランス民法564条では,魚や鳩の所有権が,それらが自発的に移った(passés spontanément)先の隣人によって直ちに(immédiatement)取得されてしまうのでやや正義に欠ける(moins juste)ところ,当該隣人の新しい権利を当該動物の一種の意思(une sorte de volonté des animaux)にかからしめるのであれば一定の期間の経過を待つのが自然であること,並びに当該期間の経過は,前主における一種の放棄又は無関心(une sorte d’abandon ou d’indifférence)を示し,及び隣人に係る尊重すべき占有(une possession digne d’égards)を構成するからであるとされています(Boissonade pp.65-66)。

なお,当時のフランス民法はまた,その第524条において,les pigeons des colombiers(鳩舎の鳩),les lapins des garennes(棲息地の野兎)及びles poissons des étangs(池の魚)を用法による不動産として掲げていました

現行民法195条(「家畜以外の動物で他人が飼育していたものを占有する者は,その占有の開始の時に善意であり,かつ,その動物が飼主の占有を離れた時から1箇月以内に飼主から回復の請求を受けなかったときは,その動物について行使する権利を取得する。」)についてフランス留学組の梅謙次郎が「旧民法ニハ本条ノ規定ト同様ナル規定ヲ添附ノ章ニ置キ之ヲ以テ不動産ノ添附ニ関スルモノノ如クセルハ殆ト了解ニ苦シム所ナリ」と評したのは(梅謙次郎『民法要義巻之二(訂正増補第21版)』(法政大学=明法堂・1904年)58頁),専ら旧民法財産取得編133項についてでしょう。(ただし,同じくフランス留学組の富井政章は旧民法財産取得編13条について,全般的に,「既成法典ハ取得篇第13条ノ場合ヲ添附ノ場合トシテ規定シテ居ル是ハ少シ穏カデナイト思ヒマスル且例ノナイコトデアリマス」と述べています(法務大臣官房司法法制調査部監修『日本近代立法資料叢書2 法典調査会民法議事速記録二』(㈳商事法務研究会・1984年)11頁(1894911日))。しかしこれも,専ら第3項についての発言でしょうか。)

確かに,旧民法財産取得編133項の規定においては,野(せい)ノ禽獣が不動産との関係で添附したというよりは,当該野栖ノ禽獣を停留した者の停留(占有)行為がむしろ主要要件であるようです。

ボワソナアドは,旧民法財産取得編133項に対する原案には参考立法例を示しておらず(Boissonade p.36, pp.67-68),同項はボワソナアドの独自案のように思われます。ただし,同項を承けた民法195条の1894911日原案(第239条「所有ノ意思ヲ以テ他人ガ飼養セル野栖ノ動物ヲ占有スル者ハ其占有ノ始善意ナルトキハ其動物ノ所有権ヲ取得ス但20日内ニ所有者ヨリ返還ノ請求ヲ受ケタルトキハ此限ニ在ラズ」)の参照条文として,法典調査会には,旧民法財産取得編13条のほか,イタリア民法7132項,スペイン民法6123項,ドイツ民法第一草案9052項・3項及び同民法第二草案8752項・3項(第二草案の当該規定は既に現行ドイツ民法9602項・3項と同じ内容の規定です。)が挙げられていました(民法議事速記録二11頁)。しかしながら,少なくとも,フランス民法には対応する規定は無かったようです。なお,1894911日原案239条は,無主物先占に係る規定と遺失物及び埋蔵物に係る規定との間におかれていました。同条が旧民法財産取得編133項を承けたものであることは,「本条ハ原文ノ第3項ニ修正ヲ加ヘテ之ヲ採用シタノデアリマス」との富井政章発言によって明白です(民法議事速記録二11頁)。

  

(3)民法195条と蜜蜂と

 現行民法制定の際旧民法財産取得編131項及び2項の規定は削られました。その理由について,富井政章の説明はいわく。「第1項ヲ削除致シマシタ理由ハ私有池ノ魚デアルトカ或ハ鳩舎ノ鳩デアルトカ云フモノハ野栖ノ動物トハ見ラレマスマイ併シナガラ之等ノモノニ付テ原文ニ在ル如ク特別ノ規定ヲ設ケル必要ハ実際アルマイト考ヘタ之等ノ動物ハ少シ時日ヲ経レバ外観ガ変ツテ其所有者ニ於テ此金魚此鳩ハ吾所有デアルト云フ其物ノ同一ヲ証明スルコトハ実際甚ダ困難デアラウト思フ特別ノ規定ガナクテモ決シテ不都合ハナカラウト思ヒマス夫レモ実際屢々斯カル場合ガ生ズルモノデアレバ或ハ規定ガ要リマセウケレドモ滅多ニ然ウ云フ場合ハ生ズマイト思ヒマシタ其故ニ削リマシタ〔蜜蜂に関する〕第2項モ同ジ理由デ欧羅巴諸国ノ法典ニ細密ナ規定ガアリマスケレドモ日本ニハソンナ必要ハナカラウト思ヒマス」ということでした(民法議事速記録二11頁(1894911日))。

 1890年から始まっていた帝国議会で,民法法案の審議に当たる議員諸賢の玩弄物おもちゃにされるのがいやだった,ということはあったものやら,なかったものやら。つとに188842日の前記法律取調委員会において,清岡公張委員(元老院議官)が「此ガアリマスト民法一般ヲ愚弄スル口実ニナリマス蜜蜂トカ鳩舎中ノ鳩抔ト申スコトハ実ニ可笑シウ御座イマス」と発言していました(法律取調委員会議事筆記52頁)。

鳩ポッポ(相模原市南区)

鳩ぽっぽ(相模原市南区を徘徊中)

 そもそも旧民法に係る「法律取調委員会の蜜蜂に関する議論を見ても,蜜蜂に関する知識が乏しく,分蜂についてさえも十分に認識していなかったことがうががえる」との批評があるところです(五十君
35頁註112)。(同委員会における蜜蜂に関する発言を見てみると,尾崎忠治委員(大審院長)が「天草デハ蜜蜂ガ沢山出ルノデアノ蜜ハ何ウシテ取リマスルカ」と訊いたのに対して松岡康毅委員(大審院刑事第二局長,後に日本大学初代総長)が「采ルノデアリマス彼ノ辺デハ此等ニ就テ訴訟ハアリマセン」とやや明後日あさって方向の回答をしたり,栗塚省吾報告委員(後に1892年の弄花事件(大審院長以下の同院高官が「日本橋浜町の待合茶屋初音屋などで,しばしば芸妓を交え,花札を使用して金銭をかけ,くち••という事件大審一人(大久保日本近代法父 ボワソナアド』(岩波新書・1998年)177-178頁参照))が「大将ト称スルノハ女王ダソウデアリマス故ニ英国ノ王〔当時はヴィクトリア女王が在位〕ヲ蜂ダト謂ツテ居ル位デアリマス」との新知識を語ったりといった程度ではありましたが,山田委員長(司法大臣,日本大学学祖)が「私ノ国ナゾハ蜂ハ逃ルト大騒ヲ仕マスルガ大概村抔デ着クト人ノ中ニアロウトモ人ガ沢山掛ツテ竜吐水ヲ以テ方々ヘ往カン様ニ致シマス余程巧者ナ者デナケレバ之ヲ取ルコトハ出来マセン」との思い出(これは,蜂群の分蜂又は逃去があったときのことでしょうか。)を披露したりなどもしていました(法律取調委員会議事筆記50-51頁(188842日))。)確かに蜜蜂の位置付けは低かったようで,民法195条に関して梅謙次郎が挙げる生き物に蜜蜂は含まれていません。いわく,「家畜外〇〇〇動物〇〇トハ例ヘハ狐,狸,虎,熊,鶯,金糸雀,鯉,鮒,鯛等ノ如キ物ヲ謂フ之ニ反シテ牛,馬,犬,猫,家鴒,鶏,家鴨,金魚等ノ如キハ皆家畜ノ動物ナリ」と(梅59頁)。(なお,我妻榮著=有泉亨補訂『新訂物権法(民法講義Ⅱ)』(岩波書店・1983年)499頁には「ライオンも日本では家畜外ではない」とありますので,梅謙次郎のせっかくの説明にもかかわらず,虎には民法195条の適用はないのでしょう。)さらには,日本養蜂史の始まりの記事が『日本書紀』皇極天皇二年条の最後にありますが,「是年,百済太子余豊以蜜蜂房四枚,放養於三輪山。而終不蕃息。」,すなわち「つひうまらず」ということですから,繁殖失敗であり,なかなか我が国と蜜蜂とは相性がよくなかったところです。

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(日本では)家畜の親子(我妻説)(東京都千代田区神田神社)

蜜蜂は,前記民法195条にいう「家畜以外の動物」でしょうか,そうでないのでしょうか。“Apium natura fera est.”ですから,ローマ法では家畜以外の動物です。しかし我が国においては,「ニホンミツバチは自然状態でも生息することができるが,セイヨウミツバチは人の手を借りなければ生きていけない」ので,セイヨウミツバチは家畜であるが,ニホンミツバチは家畜以外の動物であると主張されています(五十君26頁)。ニホンミツバチとセイヨウミツバチとのこの法的位置付けの相違は,「ニホンミツバチは,キイロスズメバチやオオスズメバチからの攻撃に対し,優れた防衛行動をとって対処することができるが,セイヨウミツバチは全滅させられてしまう」ことに由来します(五十君35頁註117頁)。

なお,「家畜以外の動物」という表現は,「立法過程の当初の案では,「野栖ノ動物」(案239)となっていた。しかし,それでは旧民法(財産取得編13Ⅰ)と異なり魚や鳥などが含まれないおそれがあるとして,より広く包含させるため消極的側面から「家畜外ノ動物」と表現することとした(法典調査会民法議事9190裏以下)。」ということですが(川島武宜=川井健編『新版注釈民法(7)物権(2)』(有斐閣・2007年)230頁(好美清光),ちょっと分かりにくい。「野栖ノ動物」に魚や鳥などが含まれないのは,魚は水栖(animalia quae in mari nascuntur),鳥は空栖(animalia quae in caelo nascuntur)であって,野栖(animalia quae in terra nascuntur)ではないからだ,ということでしょうか。しかしそうだとすると,旧民法財産編133項の「野栖ノ禽獣」の(とり)は,空を飛ぶことのできない駝鳥の類ということになります。(これについては,民法議事速記録二13頁(1894911日)の高木豊三発言を見ると,実は「此野栖ノママコトニナリマスルト鳥獣マルコトニナルダラウヘル」ということで鳥は含まれており,高木は魚が含まれないことを問題としています。「池沼ノ魚類」をも含む「家畜外ノ動物」との表現は,同日の法典調査会における磯部四郎の発案に係ります(同17)。これに対して更に同日,「家畜トシマスト鶏抔ハ這入ラヌト云フ御説ガ段々アル様デスガ,若シ家畜ノ中ニ鶏ガ這入ラヌト云フ御説ナラバ家禽家畜ヲ除クノ外ノ動物トシテハ如何ガデセウ」との念入りな提案が尾崎三良からあったところです(同18頁)。鳥問題はここで出て来ます。

ところで,民法195条は,富井政章及び本野一郎によるフランス語訳では“Celui qui possède un animal non domestique apprivoisé par une autre personne, s’il a été de bonne foi au début de sa possession et si, cette personne n’a pas réclamé l’animal dans le mois qui suit sa fuite, acquiert le droit qu’il exerce sur cet animal.”となっています。「家畜以外の動物で他人が飼育していたもの(元は「他人カ飼養セシ家畜外ノ動物」)」は“un animal non domestique apprivoisé par une autre personne”ということになります。“apprivoisé”は,ボワソナアドの原案以来用いられているフランス語です。

お,『星の王子さま』か,と筆者は思ってしまうところです。

 

  ----Non, dit le petit prince. Je cherche des amis. Qu’est-ce que signifie “apprivoiser”?

  ----C’est une chose trop oubliée, dit le renard. Ça signifie “créer des liens...”

     ---- Créer des liens?

  ----Bien sûr, dit le renard. Tu n’est encore pour moi qu’un petit garçon tout semblable à cent mille petits garçons. Et je n’ai pas besoin de toi. Et tu n’as pas besoin de moi non plus. Je ne suis pour toi qu’un renard semblable à cent mille renards. Mais, si tu m’apprivoises, nous aurons besoin l’un de l’autre. Tu sera pour moi unique au monde. Je serai pour toi unique au monde...  

  ――ちがうよ,と小さな王子は言いました。ぼくは友だちを探しているんだ。で,“apprivoiser”ってどういう意味?

  ――それはひどく忘れられてしまったものなんだ,と狐は言いました。その意味は,「(きずな)を創る・・・」

  ――(きずな)を創る?

  ――もちろん,と狐は言いました。きみはまだぼくにとって,十万の小さな男の子とそっくりの一人の小さな男の子でしかない。ぼくはきみを必要としないし,きみもぼくを必要としない。ぼくはきみにとって,十万の狐と似た一匹の狐でしかない。けれども,もしきみがぼくをapprivoiserすれば,ぼくらはお互いが必要になるんだ。きみはぼくにとって世界でただ一人の存在になる。ぼくはきみにとって世界でただ一匹の存在になる。

 

ただし,ここでの狐の説明に係る“apprivoiser”は,無主物先占に係る「所有の意思をもって占有」(民法2391項)することまでを意味するものではないように思われます。

てっぽうぎつね
 鉄砲狐(東京都台東区山谷堀公園)


ところで,日本民法195条の“apprivoisé(「飼育していた」)の語義は,ドイツ民法9603項の„gezähmt“(飼いならされた)とは異なるものであるように思われます。ボワソナアドは,“animaux apprivoisés”(飼馴らされた禽獣)について,“devenus familiers avec l’homme”(人と親しくなったもの(なお,ラテン語でres familiarisといえば,私有財産のことだそうです。))であると定義しつつ,その「飼馴らされた禽獣」が “fugitifs”(旧民法財産取得編133項の「逃ケ易キ」)であるとは,「それらが所有者のもとに戻らなくなったこと」(qu’ils ont cessé de revenir chez leur propriétaire)をいうものとしています(Boissonade p.67)。他方,ドイツ民法9603項は,「飼いならされた動物は,戻るべき場所としてならされた場所に戻る習性を失ったときには,無主となる。」(Ein gezähmtes Tier wird herrenlos, wenn es die Gewohnheit ablegt, an den ihm bestimmten Ort zurückzukehren.)と規定しています。ボワソナアドの原案の第6213項は,mais apprivoisés et fugitifsetでつないで表現していて,「飼いならされた」ことと「所有者のもとに戻らなくなったこと」とが両立するものとしています。これに対してドイツ民法9603項は,「戻るべき場所としてならされた場所に戻る習性を失ったとき」はもはやその動物は「飼いならされた」ものではない,ということを定めるものと解することができるところです。

ドイツ民法9603項は,いったん飼いならされた野生動物も再び無主になり得ることを規定しているわけですが(ローマ法も同様),他方,ボワソナアドの原案の第6213項(並びにそれを承けた我が旧民法財産取得編133項及び民法195条)は,野生動物もいったん飼いならされた以上は無主になることを許してはくれないものとなっています。また,フランス人ボワソナアドによれば,飼いならされる前の捕まっただけの野生動物(les animaux sauvages, mais captifs)が逃失(échappés)しても,なお遺失物(épaves terrestres)扱いで(Boissonade p.68),無主物とはなりません。ドイツ人もローマ人も野生動物に対してその「自由」の回復を認めてさばさばしているのに対して,フランス人は業が深いもののように見えます。あるいはこれは,178984日,6日,7日,8日及び11日のデクレ3条をもって廃止された旧体制(ancien régime)下の狩猟権(le droit exclusive de la chasse)に対して存したフランス人民の怨念と何らかの関係があるものか。(「フランスでは15世紀以来,いはゆるRoture即ち小都市の市民及農民の狩猟を禁じて,領主に狩猟の権を帰せしめ,領地を有する者は狩猟の権をも有す(Qui a fief a droit de chasse)の原則を確立してゐた」ところ(栗生武夫「狩猟権及漁撈権」法学93号・4号(19403月・4月)第一節四(和田電子出版・2003年)),「庶民は狩猟から遠ざけられ,貴族のみがこれを独占するやうになつたが,かうなると,貴族の狩猟熱は益々高まるばかりであつた。彼等は彼等のなすべき公の任務を忘れて狩猟にのみ熱狂するやうになつたのである。それも猪狩とか鹿狩とかいふ荒々しい種類のものばかり好むやうになつたのである。彼等は猟期の娯楽を高めるために,平素から野猪の類を蕃殖させておく方針をとつたから,彼等の猟区に隣接する農民の田畑は,常住野猪の害に曝されてゐなければならなかつた。而もかうした野獣害(Jagdschaden)に対して,彼等は賠償の責任に任じなかつた。野獣の蕃殖は貴族の狩猟権そのものの中に含まれる当然の権能だと見られてゐたからである。農民は彼等の農作物を現に荒らしつつある鳥獣をば殺すことはできたが,殺した鳥獣は狩猟権者たる貴族に納付しなければならなかつた。又農民は彼等の農作物を保護するために田畑の周囲に障囲をめぐらすことはできたが,障囲の費用は自分で負担しなければならなかつた。それのみか猟期になると,農民は貴族の狩猟行為を援助するために勢子(Treiberdienst)その他の雑役にも服さねばならなかつたが,これもまた無償であつた。勢子の役目は,彼等が貴族に対して負ふ夫役労働の一種だとされてゐたからである。」という状況とはなり(栗生・同),その結果「貴族の狩猟権に対する農民の不平がフランス革命の一原因となつた」のでした(栗生・同註13)。狩猟が大好きだったルイ16世は,悪王だったのですな。「フランス革命は,封建制度の遺物として当時なほ残存してゐた貴族の諸特権を一撃的に払拭したが,封建的狩猟権即ち貴族がその身分特権として他人の土地においても狩猟をなしうるといふ権利もまたこの嵐のなかに覆滅し去つたのであつた。即ち178984日,国民議会(Assemblée nationale)は徹夜の会議を以て封建的諸特権――領主裁判権・十分の一税・夫役労働制・買官制等々の廃止を決議したが,封建的狩猟権の廃止もまた,この決議の一項目として包含されたのであつた。尤も同夜の決議は,貴族に対する民衆の反抗心を一時的に鎮静せしめんとする動機に出たので,決議条項の中には,あとから修正を受け内容を抜かれて,空文化したものもないではなかつたが,狩猟権に関するかぎりは,即時の実行を見たのであつた。けだし地方の農民は,84日夜の決議内容を伝聞するや,『封建特権は廃止された。狩猟特権もまた廃止された。狩猟は今や万人のものだ』と叫び,それぞれ自己の土地においての狩猟を開始し,貴族がその身分特権をふりかざして農民の土地へまで入猟して来るのを事実上阻止してしまつたからである。ゆゑに同夜の決議第1条の冒頭にいふ,国民議会は完全に封建制を破壊したり(L’Assemblée nationale détruit entièrement le régime féodal)の句は,狩猟権に関するかぎり,直ちに効力を発生したと見ねばならない。/即ちここに貴族身分を基礎として他人の土地へまで立入つて狩猟をなすといふ,封建型の狩猟権が廃止されて,土地所有者がそれぞれ自己の土地において狩猟をなすといふ,あくまでも土地所有権者を本位にした,市民社会型の狩猟権が発生した次第であつた。」ということになります(栗生・第一節五)。「地主狩猟主義(Grundeigentümerjagdrecht)」が採用されたわけですが,「地主狩猟主義の下においては,狩猟は単なる自由でなくして私法上の一権利」となり「地主が一定の猟区を設定し,一般人の入猟を排斥しつつ,独占的に狩猟を行ひうる」こととなります,すなわち「狩猟権者は自己の猟区における狩猟鳥獣を排他的に捕獲しうる」ところです(栗生・第一節七)。狩猟権者たる地主がその土地の上の鳥獣に排他的私権を有する以上,野生動物の側の「自由」は云々できないのではないか,ということになるようにも思われます。無主物先占は野生動物の自由を前提とするのでしょうが,これは地主等の狩猟権とは食い合わせが悪く,「ローマ継受法の規定にしてゲルマン固有法の規定のために,その適用を阻止されたものは多々あつたが,先占自由の原則もその一つだつたのである。即ちこれを現代に見るも,ローマ法に由来する先占自由の原則は,ゲルマン法に由来する狩猟権及漁撈権のために,その適用力の半以上を失墜せしめられてゐるありさまである。」ということになるようです(栗生・はじがき)。)

(また,歴史噺に関連しての余談ですが,我妻=有泉499頁が我が民法における無主の野生動物の捕獲による所有権取得(民法239条)に関して「山で捕獲したが,帰途逃げられた場合は無主物に戻ると解される」と述べていることは,我が国の民俗を反映しているようにも思われ,興味深く感じられるところです。「山」はなお動物たちの世界であって,人の世界である「里」に戻って初めて人の動物に対する所有権が確立するということでしょうか。)

所有権の対象たる動物であって逸走したもののうち家畜以外の動物については,民法195条が適用されます(我妻=有泉300)。飼いならされた(apprivoisé)ものであることまでは不要なのでしょうし(単に捕獲された(captif)だけのものも含む。),当該家畜以外の動物がapprivoisé et non fugitif(飼いならされ,かつ,所有者のもとに戻るもの)であっても家畜扱いはしないということでしょう。家畜については,民法240条(「遺失物は,遺失物法(平成18年法律第73号)の定めるところに従い公告をした後3箇月以内にその所有者が判明しないときは,これを拾得した者がその所有権を取得する。」)が,遺失物法21項(逸走した家畜は,準遺失物であるとされます。)及び同法3条によって準用されます。セイヨウミツバチを拾得(「物件の占有を始めること」(遺失物法22項))した者は,速やかに,そのセイヨウミツバチを養蜂家に返還し,又は警察署長に提出しなければならないことになります(同法41項)。犬又は猫ではないので,動物の愛護及び管理に関する法律(昭和48年法律第105号)353項による都道府県等による引取りはしてもらえません。


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歴史は厳粛なる判官(はんがん)なり。(しか)るにこの判官の前に立ちて今の日本国民は(すべ)て事実を(ママ)蔽し解釈を迂曲(うきょく)して虚偽を陳述しつゝあり。〔略〕(いわ)く,日本民族の凡ては忠臣義士にして乱臣賊子は例外なりと。〔略〕(しか)しながら吾人(ごじん)〔われわれ〕は断言す,――太陽が〔天動説に従って〕世界の東より西を()ぐる者に(あら)らざることの明らかなりしが(ごと)く,必ず一たび地動説の出()ゝ,例外は皇室の忠臣義士にして日本国民の(ほとん)ど凡ては皇室に対する乱臣賊子なりとの真実に顚倒(てんとう)されざるべからずと。(北輝次郎『国体論及び純正社会主義』(北輝次郎1906年)619頁)

 

 当時23歳の若き天才の言は,百十余年を経た今日更にその真理たるの輝きを増しつつあるものか。ふと気が付けば,今年(2017年)8月19日は,二・二六叛乱事件に連座した「乱臣賊子」・一輝北輝次郎54歳にしての銃殺による刑死から80年になります。

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北一輝先生之墓(東京都目黒区の瀧泉寺(目黒不動)墓地)
 

第1 一輝北輝次郎の刑死

 

1 銃殺

宮内庁の『昭和天皇実録 第七』(東京書籍・2016年)1937年8月19日(木曜日)の項にいわく。

 

 午前1140分,二・二六事件被告の村中孝次・磯部浅一・北輝次郎・西田税の死刑執行この日午前5時50に関する陸軍上聞を受けられる。

 

銃殺は,陸軍刑法(明治41年法律第46号)21条の定める死刑の執行方法です(「陸軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ陸軍法()ヲ管轄スル長官ノ定ムル場所ニ於テ銃殺ス」)。これに対して,通常の死刑の執行は,「死刑は,刑事施設内において,絞首して執行する。」ということになっています(刑法(明治40年法律第45号)11条1項)。法文上は絞首とされていますが,法医学的には縊首(首を吊った状態での死亡)ということになります(前田雅英『刑法総論講義 第4版』(東京大学出版会・2006年)519頁)。

通常の死刑の執行は司法大臣の命令によるもの(旧刑事訴訟法(大正11年法律第75号)538条)であったのに対して,陸軍軍法会議法(大正10年法律第85号)の適用される場合においては,死刑の執行は陸軍大臣の命令によるものとされていました(同法502条)。1937年8月の陸軍大臣は,第1次近衛内閣の杉山元でした。

 

2 反乱の首魁

 

(1)罰条及び罪名

北死刑囚の罰条及び罪名は,陸軍刑法25条1号の反乱の首魁ということだったそうです(なお,陸軍刑法第2編第1章(25条から34条まで)の章名には()乱とありますが,25条では()乱となっています。)。陸軍刑法25条は,次のとおり。

 

25条 党ヲ結ヒ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス

 一 首魁ハ死刑ニ処ス

 二 謀議ニ参与シ又ハ群衆ノ指揮ヲ為シタル者ハ死刑,無期若ハ5年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他諸般ノ職務ニ従事シタル者ハ3年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

 三 附和随行シタル者ハ5年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

 

 刑法77条の内乱罪がつい彷彿とされる規定振りです。

 

(2)内乱罪との関係

内乱罪と軍刑法の反乱罪との関係については,海軍刑法(明治41年法律第48号)20条の反乱罪(陸軍刑法25条と同一文言)との関連で,五・一五事件に係る昭和10年(1935年)1024日の大審院判決が「〔海軍〕刑法20条に依り構成すべき所謂(いわゆる)反乱罪とは海軍軍人党を結び兵器を執り官憲に反抗して多衆的暴動を為すを()ひ,内乱罪の如く朝憲を紊乱(ぶんらん)することを目的とするものに限らず,其の他の公憤又は私憤に出づる場合をも包含し,その目的には拘らざるを以て,軍人たる身分及び犯罪の目的に於て内乱罪とは其の構成を異にすることあるべき特別罪なりと解するを相当とす」と判示しています(日高巳雄『軍事法規』(日本評論社・1938年)635頁における引用)。内乱罪の目的は,当該判決においては朝憲紊乱(憲法の定める統治の基本秩序の壊乱)のみが挙げられていますが,政府の顚覆(国の統治機構の破壊)又は邦土の僭窃(国の領土における国権を排除しての権力の行使)も含まれます。

 

(3)共犯と身分

ところで,陸軍刑法は身分犯に係る法律でした。同法1条は「本法ハ陸軍軍人ニシテ罪ヲ犯シタル者ニ之ヲ適用ス」と規定しています。ただし,陸軍軍人ではない者が犯しても陸軍刑法が適用される同法の罪が同法2条に掲げられています。しかしながら,二・二六事件で問題となった陸軍刑法25条の罪は,同法2条に掲げられていません。陸軍軍人にあらざる北輝次郎に陸軍刑法25条が適用されるに当たっては,刑法8条(「この編〔刑法総則〕の規定は,他の法令の罪についても,適用する。ただし,その法令に特別の規定があるときは,この限りでない。」)により,同法65条1項(「犯人の身分によって構成すべき犯罪行為に加功したときは,身分のない者であっても,共犯とする。」)が発動されたものでしょう。前記昭和101024日大審院判決は,海軍刑法20条の反乱罪につき,「(しこう)して被告人大川周明,頭山秀三,本間憲一郎は(いず)れも軍人たる身分なきも資金又は拳銃弾を供与し〔海軍軍人である〕古賀清志,中村義雄等の上の反乱行為を幇助し之に加〔功〕したるものなれば刑法第65条第1項,第62条第1項〔「正犯を幇助した者は,従犯とする。」〕に依り右反乱罪の従犯として処断すべきもの」と判示しています(日高634頁における引用)。ちなみに,大川周明らは反乱幇助ということで,刑法65条1項の「共犯」は教唆・幇助に限るという説によっても説明可能でしたが,北輝次郎の場合は首魁ということであって首魁の教唆・幇助ではないのですから,同項の「共犯」には共同正犯が含まれるという判例・通説に拠るべきでしょう(前田総論473頁参照)。二・二六事件の判決においては,多数の者が首魁とされています。内乱罪においても,「首謀者は必ずしも1人とは限らない」とされています(前田雅英『刑法各論講義 第4版』(東京大学出版会・2007年)504頁)。

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大川周明の墓(瀧泉寺墓地)
北一輝先生之墓とは,墓1基を隔てて向かい側です。墓地は芝貼り作業中。後方は,林試の森公園です。

 

(4)騒乱罪との関係

ところで,刑法77条の内乱罪について「首謀者〔首魁〕は必ず存在しなければならない点が騒乱罪との相違点である」とされていますが(前田各論504頁),これは条文の書き振りからの解釈なのでしょうか。しかしながら,同様の書き振りである海軍刑法20条の反乱罪においては首魁の存在は必須ではなかったようで,五・一五事件の犯人で死刑になった者はいません(同条1号において,首魁の法定刑は死刑のみ。)。前記昭和101024日の大審院判決においても「就中(なかんずく)海軍軍人古賀清志,中村義雄両名は主として同志の糾合(きゅうごう)連絡実行計画の起案武器及資金の調達等の任に当り,其の他本件犯罪遂行に(つき)画策謀議を為したるものなれば,右両名の行為は本件犯行の謀議に参与したるものとして海軍刑法第20条第2号前段に該当する反乱罪を構成するものと謂ふべく,之を以て単に海陸軍人及軍人に非ざる者多衆聚合して暴行又は脅迫を為したる騒擾(そうじょう)〔現在は騒乱罪〕を構成するに止まるものと()すを得ず」と判示されており(日高633634頁における引用),反乱罪においてはむしろ謀議参与者こそが必須であると解されたように思われるところです。海軍の東京軍法会議(海軍軍法会議法(大正10年法律第91号)8条2号)における公判においては,検察官は古賀中尉に対して海軍刑法20条1号の首魁として死刑を求刑していましたが(山本政雄「旧陸海軍軍法会議法の意義と司法権の独立―五・一五及び二・二六事件裁判に見る同法の本質に関する一考察―」戦史研究年報(防衛省防衛研究所戦史部編)11号(2008年3月)71頁),1933年11月9日言渡しの判決では古賀は同条2号の謀議参与者ということに格落ち認定されています(山本72‐73頁)。

 

3 陸軍軍法会議の裁判権

陸軍刑法が陸軍軍人にあらざる者に適用される場合があることは分かりましたが,陸軍軍法会議の裁判権が北輝次郎ら陸軍軍人にあらざる者に及ぶ場合はいかなる場合でしょうか。

 

(1)陸軍軍法会議法

陸軍軍法会議法1条及び3条1項によれば,陸軍軍法会議の裁判権は,通常,陸軍の現役にある者,召集中の在郷軍人,召集によらず部隊にあって陸軍軍人の勤務に服する在郷軍人,現に服役上の義務履行中の在郷軍人,志願により国民軍隊に編入され服役中の者,陸軍所属の学生・生徒,陸軍軍属及び陸軍の勤務に服する海軍軍人(同法1条1項1号),陸軍用船の船員(同項2号),陸軍の部隊に属し又は従う者(同項3号)並びに俘虜(同項4号)に対してその犯罪について(身分発生前の犯罪を含み(同条2条1項),身分継続中に捜査の報告又は逮捕,勾引若しくは勾留があったときは身分喪失後も裁判権は存続(同条2項)),並びに制服着用中の在郷軍人に対しその犯した陸軍刑法の罪について(陸軍軍法会議法3条1項。同法2条2項が準用される。)及ぶものとされていました。陸軍軍法会議法4条は合囲地境(戒厳令(明治15年太政官布告第36号)2条第2号)にある者に対する裁判権について規定し,同法5条は「軍法会議ハ戒厳令ニ定メタル特別裁判権ヲ行フ」と規定し,同法6条は「戦時事変ニ際シ軍ノ安寧ヲ保持スル為必要アルトキ」の裁判権の拡張について規定していましたが,二・二六事件の際は戒厳令に基づき戒厳が宣告されたわけではなく(1936年2月27日の昭和11年勅令第18号(大日本帝国憲法8条1項の法律に代わるべき緊急勅令。同年1月21日の衆議院解散により帝国議会は閉会中でした。)により「一定ノ地域ヲ限リ別ニ勅令ノ定ムル所ニ依リ戒厳令中必要ノ規定ヲ適用スルコトヲ得」るものとした上で,同じ2月27日の昭和11年勅令第18号によって東京市に戒厳令9条(臨戦地境内においては地方行政事務及び司法事務(司法行政事務であっていわゆる審判は包含せず(日高665頁)。)の軍事に関係ある事件は司令官の管掌下に入る。)及び14条(司令官の強制権限を挙示)の規定が適用されることになっただけです。),二・二六事件は戦時事変でもないでしょうしその鎮圧後は軍の安寧を保持するための必要もなかったでしょう。

 

(2)昭和11年勅令第21

結論的には,1936年3月4日の昭和11年勅令第21号(東京陸軍軍法会議に関する勅令(件名)。これも大日本帝国憲法8条1項の法律に代わるべき緊急勅令)第5条(「東京陸軍軍法会議ハ陸軍軍法会議法第1条乃至第3条ニ記載スル者以外ノ者ガ同法第1条乃至第3条ニ記載スル者ト共ニ昭和十一年二月二十六日事件ニ於テ犯シタル罪ニ付裁判権ヲ行フコトヲ得」)によって北輝次郎らに陸軍軍法会議の裁判権が及ぶことになったものです。

上記昭和11年勅令第21号の味噌は,第5条と共にその第6条(「東京陸軍軍法会議ハ陸軍軍法会議法ノ適用ニ付テハ之ヲ特設軍法会議ト看做ス」)であって(戦時事変に際し必要により特設され,又は合囲地境に特設される特設軍法会議(陸軍軍法会議法9条2項から4項まで)があれば,それに対応するものとして常設軍法会議があるわけですが,常設軍法会議は,高等軍法会議及び師団軍法会議でした(同条1項)。),特設軍法会議である結果,裁判官を5人から3人に減員すること(ただし,上席判士及び法務官たる裁判官は減員の対象外。)が可能になり(同法47条3項),予審官及び検察官の職務を陸軍法務官ではなく陸軍将校が行うことが可能になり(同法63条,70条),裁判官,予審官及び録事の除斥及び回避の規定の適用がなく(同法86条)(この結果,同法81条7号の規定にかかわらず,北輝次郎・西田税の予審官を務めた伊藤章信法務官が当該被告人らの裁判官ともなっています(山本78頁)。),被告人の弁護人選任権は認められず(同法93条,また同法370条),審判の公開に関する規定の適用がなく(同法417条),師団軍法会議ではないので高等軍法会議に対する上告ができない(同法418条)というようなことになったわけです。

昭和11年勅令第21号の案は,二・二六事件鎮定(1936年2月29日)早々の1936年3月1日に閣議決定がされ,同日昭和天皇に書類上奏がされています。

 

本日閣議決定の東京陸軍軍法会議に関する緊急勅令を枢密院に御諮詢の件につき,書類上奏を受けられる。後刻,侍従武官長本庄繁をお召しになり,同勅令につき言上を受けられる。(昭和天皇実録七48頁)

 

更に同月2日には,二・二六事件参加者の詳細について,戒厳司令官から昭和天皇に言上がされています。

 

午後2時15分,御学問所において戒厳司令官香椎浩平に謁を賜い,叛乱軍参加将兵及び叛乱に関与の民間人の詳細につき言上を受けられ,叛乱事件の根底は極めて広汎・深刻にて迅速かつ徹底的検挙を要する旨の奏上を受けられる。(昭和天皇実録七50頁)

 その午後に昭和11年勅令第21号が裁可公布された同月4日,昭和天皇に次の発言があったとされます。


本庄〔繁〕武官長によれば,「此日,午後2時御召アリ,已ニ,軍法会議ノ構成モ定マリタルコトナルガ,〔1935年8月12日に永田鉄山陸軍軍務局長を斬殺した〕相沢〔三郎〕中佐ニ対スル裁判ノ如ク,優柔ノ態度ハ,却テ累ヲ多クス,此度ノ軍法会議ノ裁判長,及ビ判士ニハ,正シク強キ将校ヲ任ズルヲ要ス,ト仰セラレタリ」とある。(大江志乃夫『戒厳令』(岩波新書・1978年)194頁)


 ただし,『昭和天皇実録 第七』においては,上記御召に係る言及がありません(
5152頁)。


(3)通常裁判所の裁判権との関係

軍法会議と裁判所構成法(明治23年法律第6号)に基づく通常裁判所との関係については,「軍法会議に属する事件に付き通常裁判所は裁判権を有せぬ。此の種の事件に付ては被告人に対し裁判権を有せざるものとして,公訴棄却を言渡さねばならぬ(〔旧〕刑訴第315条第1号,第364条第1号)」と説明されています(小野清一郎『刑事訴訟法講義』(有斐閣・1933年)8081頁)。管轄(ちがい)(旧刑事訴訟法309条・355条)ではなく「被告人ニ対シテ裁判権ヲ有セサルトキ」として公訴棄却の決定(旧刑事訴訟法315条1号(予審判事によるもの))又は判決(同法364条1号(公判の裁判))をすべきものとすることについては,大審院の判例もあるそうです(小野81頁)。裁判所構成法2条1項は「通常裁判所〔区裁判所,地方裁判所,控訴院及び大審院(同法1条)〕ニ於テハ民事刑事ヲ裁判スルモノトス但シ法律ヲ以テ特別裁判所ノ管轄ニ属セシメタルモノハ此ノ限ニ在ラス」と規定していますが,ここでは,裁判権が問題になっているわけです。現行刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)に関して,裁判権については,「刑事裁判権は,わが国にいるすべての者に及ぶ。日本人であると,外国人であるとを問わない。」とされつつ,当該裁判権から「国法上,天皇および摂政は,除外されるものと解される(皇典21条)」とされ,「国際慣習法上,外国の君主,使節およびその随員は,いわゆる治外法権を持っており,これらの者には,わが国の裁判権は及ばない。」とされています(平野龍一『刑事訴訟法』(有斐閣・1958年)55頁)。大日本帝国時代においては,通常裁判所から見ると,陸軍軍人等及び海軍軍人等はあたかも治外法権を持っているような具合になっていたわけです。

ところで,東京陸軍軍法会議に関する昭和11年勅令第21号の第5条が存在せず,北輝次郎が通常裁判所において,旧刑事訴訟法の手続によって裁かれ,刑法65条1項を介して陸軍刑法25条1号の反乱の首魁(の共同正犯)とされて死刑判決が下され,確定した場合,その執行方法は,銃殺ではなく,やはり司法大臣の命令により絞首ということになったのでしょう。陸軍刑法21条は,飽くまでも「陸軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ」と規定していたところです。

 

第2 一輝北輝次郎の乱臣賊子論

 

1 『国体論及び純正社会主義』

本ブログ筆者の悪癖でつい回り道をしました。二・二六事件発生からちょうど30年前,1906年に一輝北輝次郎が自費出版したのが『国体論及び純正社会主義』です(発行日付は同年5月9日)。ただし,同書の書名は「内容に即していないばかりでなく,読まずに偏見だけで判断する世人をミスリードする」ものであって,「内容に即した命名をするとすれば,『社会民主主義の進化論的基礎づけ――併せて講壇社会主義と国体論の徹底的批判』というようなものとなろう」とされています(長尾龍一「『国体論及び純正社会主義』ノート」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)88頁)。『国体論及び純正社会主義』は,現在,国立国会図書館デジタルコレクションで自由に見ることができます。第4編(第9章から第14章まで)が「所謂国体論の復古的革命主義」と題され,国体論の批判がされている部分です。以下本稿は,この第4編(及び第5編「社会主義の啓蒙運動」)を読んでの抜き書きということになります。

批判の対象たる国体論は,北の説くところでは次のとおり。

 

吾人は始めに本編の断案として世の所謂『国体論』とは決して今日の国体に非らず,又過去の日本民族の歴史にても非らず,明らかに今日の国体を破壊する『復古的革命主義』なりと命名し置く。(北484頁)

 

 また,北のいう社会民主主義とは,次のとおり。

 

  『社会民主々義』とは個人主義の覚醒を受けて国家の凡ての分子に政権を普及せしむることを理想とする者にして個人主義の誤れる革命論の如く国民に主権存すと独断する者に非らず。主権は社会主義の名が示す如く国家に存することを主張する者にして,国家の主権を維持し国家の目的を充たし国家に帰属すべき利益を全からしめんが為めに,国家の凡ての分子が政権を有し最高機関の要素たる所の民主的政体を維持し若しくは獲得せんとする者なり。(北566頁)

 

「当時の第一級の学者と見えていた人々を,客観的に見ても相当程度,主観的には恐らく完膚なきまでに論駁し,人類史の発展方向を予言した青年北は,非常な抱負を抱いて本書を自費出版したものと思われる。西園寺内閣〔内務大臣は原敬〕の開明性,(天皇制の正当化,革命方法の議会主義など)主張の一定の穏健さからしても,本書は発禁にならず,学界・思想界に革命的衝撃を与えると期待していたに相違ない。それが直ちに発禁処分にされたことは,非常な衝撃で,北は生涯それから立ち直れなかった。」ということですが(長尾107108頁),『国体論及び純正社会主義』の国立国会図書館デジタルコレクション本は,帝国図書館の蔵書印が押捺された「北輝次郎寄贈本」であって,1906年5月9日に寄贈された旨の押印があります。出版法(明治26年法律第15号)19条は「安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムル文書図画ヲ出版シタルトキハ内務大臣ニ於テ其ノ発売頒布ヲ禁シ其ノ刻版及印本ヲ差押フルコトヲ得」と規定していますが,焚書までは行われなかったものです。

しかし,青年北の文体は,なかなか口汚い。「穂積博士は最も価値なき頭脳にして歯牙にだも掛くるの要なき者なりしに係らず,法科大学長帝国大学教授の重大なる地位にあるが為めに吾人の筆端に最も多く虐待されたる者なり。」(北834835頁),「更に〔穂積〕氏にして拙者と天子様とは血を分けたる兄弟分なりと云は査公必ず手帳を出して一応の尋問あるべく,子が産れた親類の天子様に知らせよと云は産褥の令夫人は驚きて逆上すべく,大道に立ちて穂積家は皇室の分家なりと云は腕白の小学生徒等は必ず馬鹿よ々々よと喚めきて尾行し来るべし。」(北596頁),「若し〔穂積博士の〕銅像が建てらるゝならば必ず両頭を要し,而して各々の頭に黄色の脱糞を要す。」(北771頁)等々とまで書かれ嘲弄された穂積八束が訴えたのならば,北方ジャーナル事件に係る最高裁判所大法廷昭和61年6月11日判決(民集40巻4号872頁)よりもはるか前に,人格権に基づく出版差止めの判例が出たかもしれません。

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隅田川越しに東京都墨田区方面を望む(駒形橋の東京都台東区浅草側から)


 なお,腕白小僧らは,路上で風変わりなおじさんにつきまとって馬鹿よ馬鹿よとはやし立てるに当たっては,よくよく注意すべきでしょう。

 

And he went up from thence unto Beth-el: and as he was going up by the way, there came forth little children out of the city, and mocked him, and said unto him, Go up, thou bald head; go up, thou bald head.

And he turned back, and looked on them, and cursed them in the name of the LORD. And there came forth two she bears out of the wood, and tare forty and two children of them. (II Kings 2.23-24)
 

(ただし,穂積八束の写真を見るに,エリシャのごとく禿頭ではなかったようです。) 

 

2 日本国民=乱臣賊子論

さて,青年北は,日本国民の正体は,当時のいわゆる国体論者の説くがごとく,()く忠孝に万世一系の皇位を扶翼して万邦無比の国体を成せるものでは全くないと主張します。

 

茲に於て所謂国体論者は云ふべし,〔略〕日本国民は克く忠孝に万世一系の皇位を扶翼して万国無比の国体を成せるなりと。是れ忠孝主義と系統主義とが東洋の土人部落に取られたるが為めに前提と結論とを顚倒せられたる者なり。――日本民族は系統主義を以て家系を尊崇せしが故に皇室を迫害し忠孝主義を以て忠孝を最高善とせしが故に皇室を打撃したるなり。(北617618頁)

 

 189010月の明治天皇の教育勅語に「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世()ノ美ヲ()セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ」及び「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(かく)ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ(なんじ)祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」とあります。ただし,北によれば,これは天皇の側からする社交辞令のごときものであって,「教育勅語中の其文字の如きは単に天皇の国民を称揚したる者として見れ〔ば〕可なり。幾多の戦争に於て勝利を得る毎に,天皇より受くる称讃に対して皆型の如く,是れ皆大元帥陛下の御稜威に依るとして辞退しつゝあるに非ずや。」ということになります(北622頁)。

 なお,「系統主義」及び「忠孝主義」については,まず次のように説明されています。

 

一家と云ひ一致と云ふが如き誠に迷信者の捏造(ねつぞう)に過ぎずと雖も,君臣一家論の拠て生ずる根本思想たる『系統主義』と,忠孝一致論の基く『忠孝主義』とは決して軽々に看過すべからざることなり。

固より特殊に日本民族のみに限らず如何なる民族と雖も社会意識の覚醒が全民族全人類に拡張せられざる間は,系統を辿りて意識が漸時的に拡張するの外なきを以て血縁関係に社会意識が限定せられて系統主義となり,従て其進化の過程に於て生ずる家長国に於ては当然に忠孝主義を産むべきものにして,天下凡て系統主義と忠孝主義とを経過せざる国民は無し。(北616617頁)

 

 北は,我が国民による皇室に対する迫害打撃の歴史をこれでもかとばかりに書き連ねるのですが,以下はそのほんの一部です。

 

吾人は学理攻究の自由によりて,皇室の常に優温閑雅なりしにも係らず,国民の祖先は常に皇室を迫害打撃し,万世一系の傷けられざりしは皇室自家の力を以て護りしなりと断定するに於て何の憚りあらんや。(北621頁)

 

例外の乱臣賊子は彼等〔いわゆる国体論者〕の考ふる如く〔北条〕義時一人に止まるべき者に非らずして,義時の共犯或は従犯として〔承久三年(1221年)の変の後〕3帝〔後鳥羽上皇,土御門上皇及び順徳上皇〕を鳥も通はぬ遠島〔ただし,土御門上皇の配流先は土佐〕に放逐せし他の十九万の下手人,尚後より進撃せんと待ちつゝありし二十万の共謀者を忠臣義士の中に数ふることは国体論をして神聖ならしむる所以(ゆえん)に非らず。〔現在の立場から歴史を逆進的に見る〕逆進的批判者が3帝を遷し奉れりと云ふに対して吾人は放逐の文字を用ゆ。何となれば(かか)る潤飾を極めたる文字は戦々競々の尊崇を以てする行動を表白すべく,後鳥羽天皇が隠岐に39年間〔ママ。現実には承久三年から18年後の延応元年(1239年)に崩御〕巌崛に小屋を差し掛けて住ひ,順徳帝が佐渡に於て今日尚順徳坊様と呼ばれつゝあるが如く物を乞ひて過ごせし如き極度迄の迫害窮(ママ)を表はすべき言葉に非らず。〔略〕居住の自由を奪ひて都会の栄華より無人島に流竄(りゅうざん)したることは明白なる放逐非らずや。神官が恭敬恐縮を以て旧殿より大神宮を捕へて新殿に放逐したりと云ふものあらば発狂視せらるべきが如く,義時が兵力を以て3帝を隠岐佐渡に移し奉れりと云ふが如き文字の使用は逆進的叙述も沙汰の限りと云ふべし。(北649650頁)

 

 乱臣賊子による仲恭天皇(九条廃帝)廃位の事実も,「日本国民は克く忠孝に万世一系の皇位を扶翼して万国無比の国体を成せるなり」なのだとの前提に基づく「逆進的叙述」によれば,特例による御「譲位」ないしは生前御「退位」ということになるのでしょう。

 

  明かに降服の態度を示して東軍を迎へたるに係らず全国民の一人として死より苦痛なる3帝の流竄を護らんとせし者なきは,外国干渉の口実を去らんが為めの余儀なき必要ながら而も僅かに1票の差を以て〔ルイ16世の〕死刑を決せし〔1793年の〕仏蘭西国民よりも遥かに残忍なる報復に非ざりしか。(吾人は今尚故郷なる〔佐渡の〕順徳帝の(ママ)〔陵〕に到る毎に詩人の断腸を思ふて涙流る。(北749頁)

 

 なお,承久の変に関しては,今年(2017年)2月のブログ記事である「北条泰時の宇治川渡河の結果について:廃位及び空位」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1064426577.htmlも御参照ください。

 

14世紀半ばの〕高師直のごときは『都に王と云ふ人のまし〔まし〕て若干の所領を塞げ,内裏,院,御所と云ふ所ありて馬より降るむつかしさよ。若し王なくして叶ふまじき道理あらば木にて造るか金にて鋳るかして,生きたる院国王をば何方へも流し捨て奉らばや』と放言したり。〔略〕今日,幾多の政党者流が穂積〔八束〕忠臣等の憂慮するが如く事実上の共和政体――若しくは共和政体を慣習によりて実現する不文憲法たるべき政党内閣,責任内閣を主張し,政党内閣責任内閣に於ては亦実に穂積忠臣等の憂慮するが如く天皇の意義に大なる変動を及ぼすべきを知りつゝも,尚且つ民主々義を解せざるかの如き面貌を装ふ国民の狡猾とは反対なる露骨なりと雖も〔,〕而も全国民が彼〔高師直〕を〔1898年8月に〕共和演説を為せる〔尾崎行雄文部〕大臣を打撃したる如く排斥せずして,〔足利〕尊氏に次ぐ権力者として奉戴せるは〔略〕祖先たるに恥(ママ)ざる乱臣賊子の国民と云ふべし。(北652653頁)

 

 上記高師直の放言に関しては,こちらは昨年(2016年)10月のブログ記事である「「木を以て作るか,金を以て鋳るかして,生きたる院,国王をば,いづくへも皆流し捨てばや」発言とそれからの随想」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1062095479.htmlを御参照ください。

 「事実上の共和政体――若しくは共和政体を慣習によりて実現する不文憲法たるべき政党内閣,責任内閣を主張し」,「天皇の意義に大なる変動を及ぼすべきを知りつゝも,尚且つ民主々義を解せざるかの如き面貌を装ふ国民の狡猾」とありますが,この「国民の狡猾」は蒲魚(かまとと)流のものかあるいは無意識に行われていたものなのか。いずれにせよ,無意識の狡猾というのが,一番たちが悪そうです。輓近の様子にもかんがみるに,天皇に関するこの「国民の狡猾」は,無意識裡に,主観的「善意」の不離の反面として生ずるもののようです。(Pater, dimitte illis; non enim sciunt quid faciunt.)

 

あゝ今日四千五百万〔現在であれば一億二千万〕の国民は殆ど挙りて乱臣賊子及び其の共犯者の後裔なり。吾人は日本歴史の如何なる頁を開きて之が反証たるべき事実を発見し,億兆心を一にして克く忠に万世一系の皇室を奉戴せりと主張し得るや。

而しながら万世一系の一語に殴打されたる白痴は斯る事実の指示のみを以ては僅かに疑問を刺激さるゝに止まるべし。(北670頁)

 

乱臣賊子は義時と尊氏とのみにして其他の日本国民は皆克く忠に万世一系の皇統を扶翼せる皇室の忠臣義士なりきと云ふが如き痴呆は土人部落に非らずして何ぞ。歴史は二三人物の(ほしいまま)なる作成に非らず。彼らは単に民族の思想を表白する符号として歴史(ママ)の上に民族の行為を代表して其所為を印するに過ぎず。故に〔略〕民族の歴史としての日本史は実に皇室に対する乱臣賊子の物語を以て補綴せられたるものなり。記録せられたる代表者若しくは符号のみが乱臣賊子に非らず,其の下に潜在する『日本民族』が即ち皇室に対する乱臣賊子なりしなり。(北677678頁)

 

 「系統主義」及び「忠孝主義」が,何故皇室に対する乱臣賊子を生ずるのかについて,改めて説明がされます。

 まず「系統主義」。

 

系統崇拝は海洋の封鎖によりて進化の急速なる能はざりし日本の中世史に於ては特に甚しく,如何なる乱臣賊子も自家の系統の尊貴なることによりて国民の崇拝を集め以て乱臣賊子を働くを得たりしなり。(北695696頁)

 

而して系統主義は一面下層階級に対して系統崇拝たると共に,崇拝さるべき系統の貴族階級に取りては天皇と自家とが同一の天皇より分れたる同一系統の同一なる枝なりと云ふ理由によりて平等主義の殺伐なる実行に於て説明なりき。平氏の将門が『我は桓武の末なり』として自立せんとしたる如き,源氏の足利義満が『我れ清和の末なれば非理の道に非らず』〔と〕して簒奪せんとしたる如き実に系統を辿りて平等観の漸時に発展したる者に外ならざるなり。(北699頁)

 

 次に「忠孝主義」。

 

源平以後の貴族国時代に入りては同じき強力による土地の掠奪によりて経済上の独立を得たる貴族階級は天皇に対して政治的道徳的の自由独立を以て被治者たるべき政治的義務と奴隷的服従の道徳的義務を拒絶し,而して其等の乱臣賊子の下に在る家の子郎等武士或は()百姓(ーフ)は其等の貴族階級に対する経済的従属関係よりして貴族を主君として奉戴すべき政治的義務と其下に奴隷的に服従すべき道徳的義務とを有して従属したりしなり。従て其従属する所の貴族が其の政治的道徳的の自由独立を所謂乱臣賊子の形に於て主張する場合に於ては,貴族の下に生活する中世史の日本民族は,其経済的従属関係よりして忠の履行者となり,以て乱臣賊子の加担者となりて皇室を打撃迫害したりしなり。(北709710頁)

 

維新革命に至るまでの上古中世を通じての階級国家は実に此の眼前の君父と云ふこと〔水戸斉昭のいう『人々天祖の御恩を報ひんと悪しく心得違ひて眼前の君父を差し置きて直ちに天朝皇辺に忠を尽くさんと思は却て(ママ)〔僭〕乱の罪逃るまじく候ということ。〕を以て一貫したるなり。此の『眼前の君父』を外にして真の忠孝なし。(北717頁)

 

故に吾人は断言す,皇室を眼前の君父として忠臣義士たりし者は其れに経済的従属関係を有する公(ママ)〔卿〕のみにして,(即ち今日の公〔卿〕華族の祖先のみにして,日本民族の凡ては貴族階級の下に隷属して皇室の乱臣賊子なりしなりと。而して貴族の萌芽は歴史的生活時代の始めより存したるを以て,日本民族は其の歴史の殆ど凡てを挙げて皇室の乱臣賊子なりしなりと。(北719720頁)

 

3 「万世一系」の維持をもたらした事由

 「万世一系の傷けられざりしは皇室自家の力を以て護りしなり」と断定するについては,次のような理由が挙げられています。

 神道の国家起原論の力がなおあっただろうとされ,更に系統主義は皇室迫害につながる面もあったがやはり最も尊貴な系統としての皇室を侵犯から守る面を有していたとされます。

 

  神道の信仰よりしたる攘夷論が其の信仰の経典によりて尊王論と合体したる如く,斯る〔神道の〕国家起原論ある間国家の起原と共に存すと信仰せらるゝ皇室に対して平等主義の制限せられたるは想像せらるべし。加ふるに系統の尊卑によりて社会の階級組織なりし系統主義の古代中世なりしを以て,優婉閑雅なりし皇室が理由なき侵犯の外に在りしは誠に想像せらるべし。彼の藤原氏に於て,其族長の下に忠孝主義を奉ずる家族々党は其族長の命ならば内閣全員のストライキをも憚らざりしに係らず,尚その族長〔が〕其の団結的強力を〔率ゐ〕て皇位を奪ふに至らざりし者,実に皇族と云ふ大族が最も貴き系統の直孫なりとせられたればなり。(北737738頁)

 

ヨーロッパ中世のローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝との関係になぞらえて,武家政権時代の天皇は「神道の羅馬法王」,将軍は「鎌倉の神聖皇帝」とそれぞれ称されます。

 

 吾人は実に考ふ――中世史の天皇は其所有する土地と人民との上に家長君主たりしと共に全国の家長君主等の上に『神道の羅馬法王』として立ちたるなりと。(北740頁)

 

 当時の征夷大将軍とは其の所有する土地人民の上に全部の統治権を有すること恰も天皇及び他の群雄諸侯等が其れぞれの土地人民の上に家長君主として其れぞれ家長君主たりしがごとく,只異なる所は神道の羅馬法王としての天皇によりて冠を加へらるゝ『鎌倉の神聖皇帝』なりしなり。(北740741頁)

 

 この関係から,皇室から皇位が奪われ,又は皇位が廃されることがなかった理由が説明されます。両者の存在意義が異なったものだったからだということです。

 

 欧州の神聖皇帝が自ら立ちて基督教の羅馬法王の位を奪ひしことなく又其の必要なかりし如く,神道の羅馬法王が天下を取て最上の強者たることを目的とせる鎌倉の神聖皇帝によりて奪はれざりしは各々存在の意義を異にせるよりの必要なかりしを以てなり。(北745頁)

 

貴族階級(北の用語法では,武家も含まれます。)が乱臣賊子であったにもかかわらず「万世一系」が維持されたということから,天皇は「神道の羅馬法王」であったということが裏側からも論証されるとされます。乱臣賊子がボルシェヴィキのごとく天皇及び皇族の生命・身体に手をかけなかった理由は,「絶望」した天皇及び皇族が「優温閑雅なる詩人として政権争奪の外に隔たりて傍観者たりしが故」であったにすぎないとされます。

 

 〔吾人は〕中世の天皇が神道の羅馬法王としての万世一系なりしことを,貴族階級の乱臣賊子なりし事実によりて亦何者よりも強烈に主張す。

 あゝ国体論者よ,この意味に於ける万世一系は国民の克く忠なりしことを贅々する国体論者に対して無恥の面上に加へらるべき大鉄槌なり。即ち,天皇は深厚に徳を樹てゝ全人民全国土の上に統治者たらんことを要求したりき,実に如何なる迫害の中に於ても衣食の欠乏に陥れる窮迫の間に於ても寤寐に忘れざる要求なりき,然るに国民は強力に訴へて常に之を拒絶したりと云ふことなり。――何の国体論ぞ,斯る歴史の国民が克く忠に万世一系の皇室を奉戴せりと云は義時も尊氏も大忠臣大義士にして,楠公父子〔楠木正成・正行〕は何の面目ありや。或は云ふべし,而しながら万世一系に刃を加へざりしと。――亦何の国体論ぞ,是れ国民の凡てが悉く乱臣賊子に加担して天皇をして其の要求の実現を絶望せしめたればなり。斯ることが誠忠の奉戴ならば北条氏の両統迭立と徳川氏の不断の脅迫譲位は何よりも誠忠なる万世一系の奉戴にして幽閉の安全によりて系統は断絶する者ならんや。問題は万世一系の継続其事に非らずして如何にして万世一系が継続せしかの理由に在り。――斯る理由によりて継続されたる万〔世一〕系は誠に以て乱臣賊子が永続不断なりしことの表白に過ぎずして,誠忠を強(ママ)する国体論者は宮城の門前に拝謝して死罪を待て!何の奉戴ぞ。日本民族の性格はルヰ16世を斬殺せる仏蘭西人と同一なりと云はれつゝあるに非らずや,只皇室が日本最高の強者たりし間は二三のものを除きて多くルヰ14世の如くならず殆ど良心の無上命令として儒教の国家主権論を政治道徳として遵奉し,皇室の其れが他の強者の権利に圧伏せられたる時には優温閑雅なる詩人として政権争奪の外に隔たりて傍観者たりしが故なり。万世一系は皇室の高遠なる道徳の顕現にして誇栄たるべきものは日本国中皇室を外にして一人だもあらず,国民に取りては其の乱臣賊子たりし所以の表白なり。(北747749頁)

 

 なお,「天皇は深厚に徳を樹てゝ全人民全国土の上に統治者たらんことを要求したりき」とは,教育勅語冒頭の「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」に対応するものでしょう。

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 桜井駅址楠公父子像(大阪府三島郡島本町)
 

4 維新革命後の天皇

 青年北の冷静な観察によれば,維新革命時の勤皇運動における天皇に対する「忠」は,「眼前の君父」に対する忠からの民主主義的解放のための方便にすぎなかったということになります。

 

 〔維新革命においては〕天皇に対する忠其事は志士艱難の目的にあらず,貴族階級に対する忠を否認すること其事が目的なりき。貴族階級は(すで)に忠を否認して独立したり,一般階級は更に其れに対する忠を否認して自由ならざるべからず。(北807頁)

 

 彼等は嘗て貴族階級に対する忠を以て皇室を打撃迫害せる如く,皇室に対する忠の名に於て貴族階級をも顚覆せんと企てたり。貴族階級に対する古代中世の忠は誠のものなりき,今の忠は血を以て血を洗はんとせる民主々義の仮装なり。〔略〕曰く――幕府諸侯が土地人民の上に統治者たるは覇者の強のみと,而して是れに対抗して皇室は徳を以て立てる王者なりと仮定したり。国民は切り取り強盗に過ぎざる幕府諸侯に〔対〕して忠順の義務なしと,而して是れに対抗して皇室は高天か原より命を受けたる全日本の統治者なりと仮定したり。

 維新革命は国家間の接触によりて覚醒せる国家意識と〔大化革命後〕一千三百年の社会進化による平等観の普及とが,未だ国家国民主義(即ち社会民主々義)の議論を得ずして先づ爆発したる者なり。決して一千三百年前の太古に逆倒せる奇蹟にあらず。(北810頁)

 

 維新革命の国体論は天皇と握手して貴族階級を顚覆したる形に於て君主々義に似たりと雖も,天皇も国民も共に国家の分子として行動したる絶対的平等主義の点に於て堂々たる民主々義なりとす。(北812頁)

 

 維新革命を経た後の明治天皇は,日本史上の伝統的天皇というよりは,広義の国民の一員にして国家機関たる天皇ということになります。「民主々義の大首領として英雄の如く活動」したというのですから,日本版ジョージ・ワシントン()

 

 而して現天皇〔明治天皇〕は維新革命の民主々義の大首領として英雄の如く活動したりき。『国体論』は貴族階級打破の為めに天皇と握手したりと雖も,その天皇とは国家の所有者たる家長と云ふ意味の古代の内容にあらずして,国家の特権ある一分子,美濃部〔達吉〕博士の所謂広義の国民なり。即ち 天皇其者が国民と等しく民主々義の一国民として天智〔天皇〕の理想を実現して始めて理想国の国家機関となれるなり。――維新革命以後は『天皇』の内容を斯る意味に進化せしめたり。(北814頁)

 

 ただし,維新革命は民主主義の建設という課題を残したものであって,貴族主義の復活に抗して社会民主主義者は,大日本帝国憲法に基づく国体及び政体を承けて,理想の実現に向けて努力を続けなければなりません。

 

 維新革命は〔戊〕辰戦役に於て貴族主義に対する破壊を為したるのみにして,民主々義の建設は帝国憲法によりて一段落を劃せられたる23年間の継続運動なりとす。明らかに維新革命の本義を解せよ。『藩閥』と『政党』との名に於て貴族主義と民主々義は建設の上により多くの勢力を占めんことを争ひぬ。(北815頁)

 

 伊藤博文の帝国憲法は独乙的専制の飜訳に更に一段の専制を加へて,敗乱せる民主党の残兵の上に雲に轟くの凱歌を挙げたり。――あゝ民主党なる者顧みて感や如何に!〔衆議院〕解散の威嚇と黄白〔金銭〕の誘惑の下に徒らに政友会と云ひ進歩党と云ふのみ。(北817頁)

 

 社会民主々義は維新革命の歴史的連続を承けて理想の完き実現に努力しつゝある者なり。(北818頁)

 

 社会民主々義と云ふは彼の個人主義時代の革命の如く国家を個人の利益の為めに離合せしめんとするものにあらずして,個人の独立は『国家の最高の所有権』と云ふ経済的従属関係の下に条件附なり。而して社会国家と云ふ自覚は維新前後の社会単位の生存競争に非ずして社会主義の理想を道徳法律の上に表白したり。国民(広義の)凡てが政権者たるべきことを理想とし,国民の如何なる者と雖も国家の部分にして,国家の目的の為め以外に犠牲たるべからずとの信念は普及したり。即ち民主々義なり。――故に吾人は決して或る社会民主々義者の如く現今の国体と政体とを顚覆して社会民主々義の実現さるゝものと解せず,維新革命其の事より厳然たる社会民主々義たりしを見て無限の歓喜を有するものなり。(実例を挙ぐれば彼の勝海舟が自己を天皇若しくは将軍と云ふが如き忠順の義務の外に置きて国家単位の行動を曲げざりし如きこれなりとす)(北827828頁)

 

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隅田川畔の海舟勝麟太郎像(東京都墨田区)

 

 「万世一系」を歴史的真実であるかのように取り扱うことに対して批判的な北は,天皇の位置付けについて乾いた考え方をしていたように思われます。

 

 憲法第1条の『大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す』とある『万世一系』の文字は皇室典範の皇位継承法に譲りて棄却して考へて可なり〔略〕。何となれば,〔略〕現〔明治〕天皇以後の天皇が国家の最も重大なる機関に就くべき権利は現憲法によりて大日本帝国の明らかに維持する所なるを以てなり。〔略〕而して又『天皇』と云ふとも時代の進化によりて其の内容を進化せしめ,万世の長き間に於て未だ嘗て現天皇の如き意義の天皇なく,従て憲法の所謂『万世一系の天皇』とは現天皇を以て始めとし,現天皇より以後の直系或は傍系を以て皇位を万世に伝ふべしと云ふ将来の規定に属す。憲法の文字は歴史学の真理を決定するの権なし。従て『万世一系』の文字を歴史以来の天皇が傍系を交へざる直系にして,万世の天皇皆現天皇の如き国家の権威を表白せる者なりとの意義に解せば,重大なる誤謬なり。故に『万世一系』の文字に対しては多くの憲法学者が〔大日本帝国憲法3条(「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」)の〕『神聖』の文字に対して棄却を主張しつゝあるが如く棄却すべきか,或は吾人の如く憲法の精神によりて法文の文字に歴史的意義を附せず万世に皇位を伝ふべしとの将来の規定と解するかの二なり。而して後者とせば一系とは皇室典範によりて拡張されたる意義を有す。(北829830頁)

 

 大日本帝国憲法1条は将来に向かってのみの規定だといわれれば,明治天皇を初代とする新しい天皇制が大日本帝国憲法によって創始されたようにも受け取られ得ます。

 国家主権論者たる北にとって天皇は,飽くまでも国家の機関であって,その地位は国家の法たる憲法に基づくものでした。

 

 吾人は〔略〕,日本の現代は国家主権の国体にして天皇と国民とは階級国家時代の如く契約的対立にあらず,〔略〕従て日本現時の憲法は天皇と国民との権利義務を規定せず,広義の国民〔天皇を含む。〕が国家に対する関係の表白なりと云へり。(北830頁)

 

 天皇は国家の利益の為めに国家の維持する制度たるが故に天皇なり。如何なる外国人と雖も,末家と雖も一家と雖も,全く血縁的関係なき多数国民と雖も,この重大なる国家機関の存在を無視することは大日本帝国の許容せざる犯罪なり。(北839840頁)

 

「神道の羅馬法王」としての万世一系の維持も,伝統的系統崇拝による万世一系の維持も,鎖国を脱して文明開化した明治の御代においては時代遅れであるというのが北の認識であったようです。

 

 若し『国体論』の如く現今の天皇が国家機関たるが故に天皇にあらず,其の天皇なるは原始的宗教の信仰あるが故なりと云は,是れ今日の仏教徒と基督教徒と旧宗教の何者をも信ぜざる科学者と〔を〕して〔崇仏派であった〕蘇我の馬子たるべき権利を附与するものにして〔,〕内地雑居によりて帰化せる外国人の凡てをして〔崇峻天皇の暗殺者である〕〔(やまと)()(あや)氏の駒たるべき道徳上の放任に置くものなり。(北838頁)

 

 又或は,万世一系連綿たりと云ふ系統崇拝を以て天皇と国民との道徳関係を説かんとする者あるべし。固より〔略〕日本の下層的智識の部分に於ては日本天皇の意義を解せずして中世的眼光を以て仰ぎつゝある者の多かるべきは論なし。而しながら〔略〕未開国の良心を以て日本国民の現代に比することは国民に対する無礼たる外に皇室を以て斯る浮ける基礎に立てりとの推論に導きて皇室其者に対する一個の侮辱なり。否!系統崇拝を以て中世的良心が支配されしが為めに皇統より分派したる将軍諸侯の乱臣賊子となり,今日其の乱臣賊子を回護して尊王忠君なりと云ふ所の穂積〔八束〕博士の如きが君臣一家論を唱へて下賤なる穂積家を皇室の親類なり〔末〕家なりと云ふ精神病者が生ずるなり。(北840頁)

 

伝統による支え無く,実定憲法にのみ基づく国家の利益のための国家機関となると,北の見る天皇は,むしろ世襲の大統領とでもいうべきものでしょうか。

『天』は幾多貴族の手より〔天下を〕奪ひて現〔明治〕天皇の賢に与へたり,而して『天』は更に帝国憲法に於て後世子孫たとへ現天皇の如く賢ならずとも子に与ふべきことを国家の生存進化の目的の為めに命令しつゝあり。〔略〕機関の発生するは発生を要する社会の進化にして其の継続を要する進化は継続する機関を発生せしむ。日本の天皇は国家の生存進化の目的の為めに発生し継続しつゝある機関なり。(北975976頁)

 
 ちなみに,北は,湯武放伐論の孟子を高く評価しています。
 なお,天皇をめぐる理想と現実との齟齬の可能性についても論じられています。

 

 天皇が家長君主にして忠の目的が天皇の利己的慾望の満足に向つての努力なるならば,論理的進行の当然として例へば諸侯将軍等の如く天皇の個人性が其の社会性を圧伏して(即ち国家の機関として存する国家の意志を圧伏して)働くときに於ては,国民は圧伏されたる天皇の社会性を保護することなく,国家機関たる地位を逸出せる個人としての天皇と共に国家に向つて叛逆者とならざるべからず。斯る場合を仮想する時に於て,天皇は政治道徳以外に法律的責任なきは論なしと雖も,国家は其の森厳なる司法機関の口を通じて国民を責罰すべき法律を有す。是れ忠君愛国一致論の矛盾すべき時にあらずや。天皇なるが故に斯る矛盾なし,若し蛮神の土偶が天皇を駆逐して蛮神の個人的利益の為めに国家の臣民に忠を命ずるならば,国家の生存進化の為めに国家の全部を成せる天皇と国民とは必ず之を粉砕せざるべからず。〔略〕

 即ち,〔教育勅語にいう〕『爾臣民克く忠に』とある忠の文字の内容は上古及び近世の其れの内容とは全たく異なりて,国家の利益の為めに天皇の政治的特権を尊敬せよと云ふことなり。(北847848頁)

 

承詔必謹することがかえって「国家に向つて叛逆者」となることとなる場合があるのだ,という認識は,冷たい。(ただし,「天皇なるが故に斯る矛盾なし」であって,「みずか民主的革命首領明治天皇歴史以来事実日本今後天皇高貴愛国心喪失推論皇室典範規定摂政場合想像余地し。」ていす。(965966頁))

なお,ここにいう「蛮神の土偶」とは,固有の文脈においては教育勅語を盾に取った「国体論」のことでしょうが,「君側の奸」と言い換えてしまうと,「国家の生存進化の為めに国家の全部を成せる天皇と国民とは必ず之〔君側の奸〕を粉砕せざるべからず」という剣呑なことともなり得るわけだったようです。しかして当該君側の奸としては,あるいは「資本家地主等」ないしはそれらの走狗が想定されていたもの歟。

明治23年〔1890年〕の帝国憲法〔施行〕以後は国家が其の主権の発動によりて最高機関の組織を変更し天皇と帝国議会とによりて組織し,以て『統治者』とは国家の特権ある一分子と他の多くの分子との意(ママ)の合致せる一団となれり。従て〔略〕孟子の如く天皇をのみ社会民主々義者たらしめて足れりとする能はず,資本家地主等が上下の議院に拠りて天皇の社会民主々義国家経済的源泉主権体土地生産機関経営」(958頁)〕を実現せざらしむる法理的可能を予想せざるべからず。(北961962頁。下線は筆者によるもの)

 

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渋谷税務署脇の二・二六事件慰霊像(東京都渋谷区)

 

1936年7月〕12日 日曜日 この日早朝,二月二十六日の事件において死刑判決を受けた17名のうち香田清貞以下15名に対する刑の執行が行われる。天皇は昨日,侍従武官より香田以下の死刑執行予定に関して上聞を受けられ,この日,死刑が執行されたことを改めて侍従武官よりお聞きになる。刑の執行のため,この日思召しにより特に御運動も行われず,終日御奥においてお過ごしになる。(昭和天皇実録七138139頁)


1936年〕8月11

悪臣どもの上奏した事をそのままうけ入れ遊ばして,忠義の赤子を銃殺なされました所の 陛下は,不明であられると云うことはまぬかれません,此の如き不明を御重ね遊ばすと,神々の御いかりにふれますぞ,如何に陛下でも,神の道を御ふみちがえ遊ばすと,御皇運の(ママ)〔果〕てす(磯部獄中日記獄中手記中公文庫・2016年)95頁)


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二十二士之墓(東京都港区元麻布賢崇寺)

 

なお,1920223日,当時18歳の皇太子であった昭和天皇に対し「東宮御学問所幹事小笠原長生より,北輝次郎献上の「法華経」が伝献される。」ということがあったところです(宮内庁『昭和天皇実録 第二』(東京書籍・2015年)547頁)。その時,青年裕仁親王に,何らかの不吉な予感がきざしたものかどうか。


弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

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電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

              



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1 大日本帝国憲法草案からの「法律ノ前ニ於テ平等トス」規定の消失

 1889年2月11日に発布された大日本帝国憲法にはそれとしての平等条項が無いところですが,その第19条は「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得」と規定しています。これは,1888年3月の「浄写三月案」(国立国会図書館の電子展示会「史料にみる日本の近代―開国から戦後政治までの軌跡」の「第2章 明治国家の展開」27ウェブ・ページ参照)の段階で既にこの形になっていました(ただし,「其他」の「」は朱筆で追記)

 しかし,伊東巳代治関係文書の「憲法説明 説明(第二)」は,1888年1月17日付けで作成され同年2月に条文が修正されたものですが(国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができます。),そこでの「第22条」は,「日本臣民タル者法律ノ前ニ於テ平等トス又法律命令ニ由リ定メタル資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其他ノ公務ニ就クコトヲ得」とありました(なお,「法律ノ前ニ於テ平等」は「法律ニ対シ」とすべきか「法律ニ於テ」とすべきか迷いがあったようで,「ニ対シ」及び「ニ於テ」の書き込みがあります。)。すなわち,1888年1月段階では「法律ノ前ニ於テ平等」という文言があったところです。

 188710月の修正後の夏島草案(「浄写三月案」と同様に国立国会図書館のウェブ・ページを参照)では「日本臣民タル者ハ法律ノ前ニ於テ平等トス又適当ノ法律命令ニ由リ定メタル資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其他ノ公務ニ就クコトヲ得」とありました。同年8月作成時の夏島草案では「第50条 日本臣民タル者ハ政府ノ平等ナル保護ヲ受ケ法律ノ前ニ於テ平等トス又適当ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其他ノ公務ニ就クコトヲ得」とあり,「政府ノ平等ナル保護」まであったところです。

 夏島草案の1887年8月版は,同年4月30日に成立した(小嶋和司「ロエスレル「日本帝國憲法草案」について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)4頁)ロエスレルの草案の第52条の影響を受けたものでしょう。

 

 第52条 何人タリトモ政府ノ平等ナル保護,法律ニ対スル平等及凡テ公務ニ従事シ得ルノ平等ヲ享有ス

 Art. 52.  Jeder geniesst den gleichen Schütz des Staats, Gleichheit vor dem Gesetz und die gleiche Zulassung zu allen öffentlichen Ämtern.

  (小嶋24-25頁参照)

 

「法律ニ対スル平等Gleichheit vor dem Gesetz」は,もっと直訳風にすると「法律の前の平等」になりますね。

なお,「政府」の語は,本来「国家」であるべきものStaatの誤りです(小嶋53頁)

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神奈川県横須賀市夏島(現在は埋立てで地続きになっており,かつ,日産自動車株式会社の工場の敷地内となっています。)

 

2 1831年ベルギー国憲法,1849年フランクフルト憲法及び1850年プロイセン憲法

ところで,ロエスレル草案の「表現は,あくまでロエスレルの脳漿に発するロエスレルの言葉でおこなわれた」ところですが(小嶋39頁),そもそも,臣民権利義務に係る大日本帝国憲法第2章については,「その規定の内容に於いて最も多くプロイセンの1850年1月の憲法の影響を受けて居ることは,両者の規定を対照比較することに依つて容易に知ることが出来る,而してプロイセンの憲法は,此の点に於いて,最も多く1831年のベルジツク憲法及び1848年のフランクフルト国民会議に於いて議決せられた『ドイツ国民の基礎権』の影響を受けて居るもので,随つてわが憲法も亦間接には此等の影響の下に在るものと謂ふことが出来る。」ということですから(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)329頁)1831年ベルギー国憲法,1849年フランクフルト憲法及び1850年プロイセン憲法の当該条文をそれぞれ見てみましょう。

 

(1)ベルギー国憲法6条

まず,1831年ベルギー国憲法。

 

第6条 国内にいかなる身分の区別も存してはならない。

  ベルギー国民は,法律の前に平等である。ベルギー国民でなければ,文武の官職に就くことができない。ただし,特別の場合に,法律によって例外を設けることを妨げない。

  (清宮四郎訳『世界憲法集 第二版』(岩波文庫・1976年)71頁)

 Article 6

    Il n’y a dans l’État aucune distinction d’ordres.

    Les Belges sont égaux devant la loi; seuls ils sont admissibles aux emplois civils et militaires, sauf les exceptions qui peuvent être établies par une loi pour des cas particuliers.

 

(2)フランクフルト憲法137

次に1849年フランクフルト憲法。

 

137条(1)法律の前に,身分Ständeの区別は存しない。身分としての貴族は廃止されたものとする。

 (2)すべての身分的特権は,除去されたものとする。

 (3)ドイツ人は,法律の前に平等である。

 (4)すべての称号は,役職とむすびついたものでないかぎり,廃止されたものとし,再びこれをみとめてはならない。

 (5)邦籍を有する者は,何人も,外国から勲章を受領してはならない。

 (6)公職は,能力ある者がすべて平等にこれにつくことができる。

 (7)国防義務は,すべての者にとって平等である,国防義務における代理はみとめられない。

  (山田晟訳『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)172頁)

§.137.

  [1]Vor dem Gesetze gilt kein Unterschied der Stände. Der Adel als Stand ist aufgehoben.

[2]Alle Standesvorrechte sind abgeschafft.

[3]Die Deutschen sind vor dem Gesetze gleich.

[4]Alle Titel, in so weit sie nicht mit einem Amte verbunden sind, sind aufgehoben und dürfen nie wieder eingeführt werden.

[5]Kein Staatsangehöriger darf von einem auswärtigen Staate einen Orden annehmen.

[6]Die öffentlichen Aemter sind für alle Befähigten gleich zugänglich.

[7]Die Wehrpflicht ist für Alle gleich; Stellvertretung bei derselben findet nicht statt.

 

 なお,美濃部達吉の言う「1848年のフランクフルト国民会議に於いて議決せられた『ドイツ国民の基礎権』」とは,後にフランクフルト憲法に取り入れられた18481227日のドイツ国民の基本権に関する法律Gesetz, betreffend die Grundrechte des deutschen Volksのことでしょうか(山田170頁参照)

 

(3)プロイセン憲法4条

最後に1850年プロイセン憲法。

 

 第4条(1)すべてのプロイセン人は,法律の前に平等である。身分的特権は,みとめられない。公職は,法律の定める条件のもとに,その能力あるすべての者が,平等にこれにつくことができる。

   (山田訳189頁)

 Art.4.  Alle Preußen sind vor dem Gesetz gleich. Standesvorrechte finden nicht statt. Die öffentlichen Aemter sind, unter Einhaltung der von den Gesetzen festgestellten Bedingungen, für alle dazu Befähigten gleich zugänglich.

 

(4)大日本帝国憲法19条との比較

 これらの条項を眺めていると,お話の流れとしては,①身分制を廃止し(ベ1項,フ1項),身分的特権を除去すれば(フ2項,プ2文),②国民は法律の前に平等になり(ベ2項前段,フ3項,プ1文),③その結果国民は均しく公職に就くことができるようになる(ベ2項後段,フ6項,プ3文)ということのようです。フランクフルト憲法137条4項及び5項は身分制の復活の防止,同条7項は平等の公職就任権の裏としての平等の兵役義務ということでしょうか。①は前提,②は宣言,③がその内容ということであれば,我が大日本帝国憲法19条は,前提に係る昔話や難しい宣言などせずに,単刀直入に法律の前の平等が意味する内容(③)のみを規定したものということになるのでしょう。

なお,『憲法義解』における第2章の冒頭解説の部分では,「抑中古,武門の政,士人と平民との間に等族を分ち,甲者公権を専有して乙者預らざるのみならず,其の私権を併せて乙者其の享有を全くすること能はず。公民〔おほみたから〕の義,是に於て滅絶して伸びざるに近し。維新の後,屢大令を発し,士族の殊権を廃し,日本臣民たる者始めて平等に其の権利を有し其の義務を尽すことを得せしめたり。本章の載する所は実に中興の美果を培殖し,之を永久に保明する者なり。」とあって,「士族の殊権を廃し」,すなわち身分的特権を除去して(①),「日本臣民たる者始めて平等に其の権利を有しその義務を尽す」,すなわち法律の前の平等が達成されたものとする(②)との趣旨であろうところの補足的説明がされています1888年3月の「浄写三月案」における当該部分の朱字解説にはなかった文章です。「浄写三月案」では,代わりに,「彼ノ外国ニ於テ上下相怨ムノ余リニ国民ノ権利ヲ宣告シテ以テ譲予ノ契約トナスカ如キハ固ヨリ我カ憲法ノ例ヲ取ル所ニ非サルナリ」とのお国自慢が記されています。)

 

3 ベルギー国憲法流の「法律の前の平等」の意味

 しかし,身分的特権を除去して国民が均しく公職に就けるようにすることのみが法律の前の平等の意味だったのでしょうか。「法律の前の平等」にはもう少し多くの内容があってもよさそうな気もします。そもそもの規定である1831年ベルギー国憲法6条2項における“Les Belges sont égaux devant la loi”の意味を詳しく見てみる必要があるようです。

 便利になったことに,Jean Joseph ThonissenLa Constitution belge annotée, offrant, sous chaque article, l’état de la doctrine, de la jurisprudence et de la legislation1844 年版が現在インターネットで読むことができるようになっています(「東海法科大学院論集」3号(2012年3月)113頁以下の「憲法21条の「通信の秘密」について」を書く際には国立国会図書館まで行って,「これってもしかしたら井上毅も読んだのだろうか」というような古い現物の本(1876年版)に当たったものでした。ちなみに,上記論文執筆当時,1831年ベルギー国憲法の解説本を読もうとして国立国会図書館でフランス語本を探したとき見つかった一番古い本が,当該トニセン本でした。トニセンは,1844年には27歳。刑法学者,後にベルギー国王の大臣)。その22頁以下に第6条の解説があります。

 

 22 立憲国家において法律の前の平等l’égalité devant la loiは,主に4種の態様において現れる。①全ての身分ordresの区別の不在において,②全ての市民が差別なく全ての文武の官職に就任し得ることにおいて,③裁判権juridictionに関する全ての特権の不在において,④課税に関する全ての特権の不在において。平等l’égalitéに係る前2者の態様が第6条によって承認されている。他の2者は,第7条,第8条,第92条及び第112条において検討するものとする。Thonissen, p.23

 

ベルギー国憲法7条は「個人の自由は,これを保障する。/何人も,あらかじめ法律の定めた場合に,法律の定める形式によるのでなければ,訴追されない。/現行犯の場合をのぞいては,何人も,裁判官が理由を付して発する令状によらなければ,逮捕されない。逮捕状は,逮捕のとき,または遅くとも逮捕ののち24時間以内に,これを示さなければならない。」と,第8条は「何人もその意に反して,法律の定める裁判官の裁判を受ける権利を奪われない。」と規定していました(清宮訳71頁)。第92条は「私権にかかわる争訟は,裁判所の管轄に専属する。」と規定しており(同92頁),第112条は「租税に関して特権を設けることはできない。/租税の減免は,法律でなければ,これを定めることができない。」と規定していました(同99頁)。これらはそれぞれ,大日本国帝国憲法23条,24条,57条1項及び62条1項に対応します。

 

 23 このように理解された法律の前の平等は,いわば,立憲的政府の決定的特徴を成す。それは,フランス革命の最も重要,最も豊饒な成果である。かつては,特権privilège及び人々の間の区別distinctions personnellesが,人間精神,文明及び諸人民の福祉の発展に対する障碍を絶えずもたらしていた。ほとんど常に,人は,出生の偶然が彼を投じたその境遇において生まれ,そして死んでいった。立憲議会は,それ以後全ての自由な人民の基本法において繰り返されることになる次の原則を唱えることによって新しい時代を開いた。いわく,「人は,自由かつ権利において平等なものとして出生し,かつ生存する。社会的差別は,共同の利益の上にのみ設けることができる。・・・憲法は,自然的及び市民的権利として次のものを保障しなければならない。第一,全て市民は徳性及び才能以外の区別なしに地位及び職務に就任し得ること。第二,全ての税contributionsは,全ての市民の間においてその能力に応じて平等に配分されること。第三,人による区別なく,同一の犯罪には同一の刑罰が科されること。」と(1791年憲法,人権宣言,第1条及び第1編唯一の条)。Thonissen, p.23

 

「人は,自由かつ権利において平等なものとして出生し,かつ生存する。社会的差別は,共同の利益の上にのみ設けることができる。」とは,1789年の人及び市民の権利宣言の第1条の文言です(山本桂一訳『人権宣言集』(岩波文庫)131頁)1789年の人及び市民の権利宣言は,1791年の立憲君主制フランス憲法の一部となっています(当時の王は,ルイ16世)。トニセンがした上記引用部分の後半は,フランス1791年憲法の第1編(憲法によって保障される基本条項(Dispositions fondamentales garanties par la Constitution))の最初の部分です(ただし,フランス憲法院のウェブ・ページによると,原文は,「保障しなければならない(doit garantir)」ではなく,単に「保障する(garantit)」であったようです。)

前記伊東巳代治関係文書の「憲法説明 説明(第二)」の第22条(大日本帝国憲法19条)の朱書解説1888年1月)は「本条ハ権利ノ平等ヲ掲ク蓋臣民権利ノ平等ナルコト及自由ナルコトハ立憲ノ政体ニ於ケル善美ノ両大結果ナリ所謂平等トハ左ノ3点ニ外ナラズ第一法律ハ身分ノ貴賤ト資産ノ貧富ニ依テ差別ヲ存スルヿナク均ク之ヲ保護シ又均ク之ヲ処罰ス第二租税ハ各人ノ財産ニ比例シテ公平ニ賦課シ族類ニ依テ特免アルコトナシ第三文武官ニ登任シ及其他ノ公務ニ就クハ門閥ニ拘ラズ之ヲ権利ノ平等トス」と述べていますが,トニセンの書いていることとよく似ていますね。日本がベルギーから知恵を借りたのか,それとも両者は無関係だったのか。最近似たようなことが問題になっているようでもありますが,井上毅はフランス語を読むことができたところです(と勿体ぶるまでもなく,トニセン本及びその訳本は,大日本帝国憲法草案の起草に当たっての参考書でした(山田徹「井上毅の「大臣責任」観に関する考察:白耳義憲法受容の視点から」法学会雑誌(首都大学東京)48巻2号(2007年12月)453頁)。)。ただし,上記引用部分に続く「彼ノ平等論者ノ唱フル所ノ空理ニ仮托シテ以テ社会ノ秩序ヲ紊乱シ財産ノ安全ヲ破壊セントスルカ如キハ本条ノ取ル所ニ非サルナリ」の部分は,トニセンのベルギー国憲法6条解説からとったものではありません。

なお,「①全ての身分ordresの区別の不在」については,「憲法説明 説明(第二)」の第22条(大日本帝国憲法19条)朱書解説は,「維新ノ後陋習ヲ一洗シテ門閥ノ弊ヲ除キ又漸次ニ刑法及税法ヲ改正シテ以テ臣民平等ノ主義ニ就キタリ而シテ社会組織ノ必要ニ依リ華族ノ位地ヲ認メ以テ自然ノ秩序ヲ保ツト雖亦法律租税及就官ノ平等タルニ於テ其分毫ヲ妨クルナシ此レ憲法ノ保証スル所ナリ」と述べています。「法律租税及就官ノ平等タルニ於テ其分毫ヲ妨クルナシ」なのだから,華族制度も問題は無い,ということのようです。

 

 24 1815年の基本法は,この関係において,大いに足らざるところがあった。同法は,三身分ordresの封建的区別を再定立していた。すなわち,貴族又は騎士団身分,都市身分及び村落身分である。主にこの階層化classificationこそが,国民会議Congrès nationalが,国内にいかなる身分の区別も存してはならないと決定して禁止しようとしたものであった(第75〔国王の栄典授与権に関する条項〕のレオポルド勲章を制定した法律に関する議論の分析を参照)。Thonissen, p.23

 

 25 第6条第2項は,全ての市民は全ての文武の官職に差別なしに就任し得ることを宣言するものである。この規定は,法律の前の平等の原則を採用したことの必然的帰結であった。「第二次的な法律において初めてseulement規定されるべきではなく,憲法自身において規定されるべきものである原則は,公職に対する全ての市民の平等な就任可能性の原則である。実際,この種の特典faveursの配分における特権及び偏頗ほど,市民を傷つけ,落胆させるものはない。そして,ふさわしくかつ有能な人物のみを招聘するための唯一の方法は,職を才能及び徳性によるせりにかける以外にはない〔Macarel1833年版Élèm. de dr. pol. (『政治法綱要』とでも訳すべきか)246頁からの引用〕。」Thonissen, pp.23-24

 

 上杉慎吉は,大日本帝国憲法19条について「第19条は仏蘭西人権宣言の各人平等の原則に当たるものである,我憲法は各人平等の原則を定めずして,唯た文武官に任ぜられ公務に就くの資格は法律命令を以て予め定むべく,而して法律命令が予め之を定むるには均しくと云ふ原則に依らなければならぬことを定めたのである・・・均くと云ふのは門閥出生に依りて資格の差等を設けざるの意味である,諸国の憲法が此規定を設けたる理由は従来門閥出生に依つて官吏に任じ公務に就かしめたることあるのを止める趣意でありまするから,均くと云ふのは必しも文字通りに解すべきではありませぬ,例へば男女に就て差等を設くるとも第19条の趣意に反するものではない」と述べていました(同『訂正増補帝国憲法述義』(有斐閣書房・1916年)294-295頁)。大日本帝国憲法19条と1789年のフランスの人及び市民の権利宣言とのつながりがこれだけでは分かりにくかったのですが,その間に1791年フランス憲法並びに1831年ベルギー国憲法及び1850年プロイセン憲法が介在していたのでした。

 しかし,ヨーロッパAncien Régimeの身分制のえげつなさが分からなければ,当時唱えられるに至った「法律の前の平等」の意味もまたなかなか分からないようです。
 なお,尊属殺人罪に係る刑法200条を違憲とした最高裁判所大法廷昭和48年4月4日判決(刑集27巻3号265頁)に対する下田武三裁判官の反対意見では「わたくしは,憲法14条1項の規定する法の下における平等の原則を生んだ歴史的背景にかんがみ,そもそも尊属・卑属のごとき親族間の身分関係は,同条にいう社会的身分には該当しないものであり,したがつて,これに基づいて刑法上の差別を設けることの当否は,もともと同条項の関知するところではないと考えるものである。」と述べられていましたが,そこにいう「歴史的背景」とは,前記のようなものだったわけでしょう。

 


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1 2015年4月の日米防衛協力のための指針と米国からの電子メール
 

(1)米国内での報道

 今年(2015年)4月末の安倍晋三内閣総理大臣の米国訪問に際して米国ABCのウェッブサイトに「米日防衛協定:中国に対する懸念の中,日本軍により幅広い役割を認める「歴史的」な新ルール」(US-Japan defence deal: Historic new rules to allow Japanese forces wider role amid concerns over China)と題するニュース記事が掲載されました。

 そこでは,「改訂されたガイドラインにおいては,日本は,第三国から脅威を受けている米国軍のために来援することができ,又は,例えば,中東地域での活動のために掃海艇を派遣することができる。」(Under the revised guidelines, Japan could come to the aid of US forces threatened by a third country or, for example, deploy minesweeper ships to a mission in the Middle East.)と報ぜられています。これに対して従前のルールでは,「日本軍は,日本を直接防衛する行動をしている米国兵のみを支援することができた」(Under the previous rules, Japanese forces could assist American troops only if they were operating in the direct defence of Japan.)ものにすぎなかったとされるところです。米国のケリー国務長官は,共同記者会見において,「本日(2015年4月27日),我々は,日本が自国の領土のみならず,必要であれば米国及び他のパートナーをも防衛する権能を確立したことを確認するものであります。」("Today we mark the establishment of Japans capacity to defend not just its own territory, but also the United States and other partners as needed.)と発言したとされています。


(2)米国からの電子メール

 このニュースを読んだ米国人の知人から早速電子メールが届きました。



  どのようにして事態は変わったものやら。今や日本は,米国が第三者によって攻撃されたときには来援してくれるし,中東での
○○対策で私たちを助けてくれるのですね。

 

 実はいささか返事に困っているところです。
 

(3)日米防衛協力のための指針

 2015年4月27日の日米防衛協力のための指針The Guidelines for Japan-U.S. Defense CooperationⅣ章「日本の平和及び安全の切れ目のない確保」(Seamlessly Ensuring Japan's Peace and Security)のD「日本以外の国に対する武力攻撃への対処行動」(Actions in Response to an Armed Attack against a Country other than Japan)には,「自衛隊は,日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し,これにより日本の存立が脅かされ,国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態に対処し,日本の存立を全うし,日本国民を守るため,武力の行使を伴う適切な作戦を実施する。」とあります。米国が第三者(a third party)によって攻撃されたときの我が自衛隊の米国来援は,この部分に基づいてされるのでしょう。英文では次のとおりです。

     The Self-Defense Forces will conduct appropriate operations involving the use of force to respond to situations where an armed attack against a foreign country that is in a close relationship with Japan occurs and as a result, threatens Japan's survival and poses a clear danger to overturn fundamentally its people's right to life, liberty, and pursuit of happiness, to ensure Japan's survival, and to protect its people. 


(4)ワシントン陥落の場合における我が国の存立いかん

 しかし,コロンビア特別区ワシントンに向けて第三国軍の兵士がその南東方面の上陸地点から進軍し,迎え撃つ米国大統領直率の民兵等部隊はあえなく敗走して当該第三国軍の首都侵入を許し,同大統領夫人は初代大統領の肖像画を抱えてほうほうの態でホワイト・ハウスを脱出し,侵入軍兵士らは残された大統領官邸正餐の食事に舌鼓を打った上で上機嫌をもって同官邸等の政府庁舎に放火したからといって,我が日本国の存立が脅かされるわけでもなければ,日本人の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があったわけでもないでしょう。少なくとも光格天皇の御代たる文化十一年(1814)夏の我が国は,百姓一揆等はあれども,天下泰平でありました(征夷大将軍は徳川家斉)。


2 我が国における安全保障法制の整備に向けた動き


(1)
2014年7月1日閣議決定

 前記日米防衛協力のための指針Ⅳ章Dの部分は,2014年7月1日の閣議決定「国の存立を全うし,国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」の3(3)における次の部分に対応するものと解されます。いわく,「・・・我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず,我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し,これにより我が国の存立が脅かされ,国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において,これを排除し,我が国の存立を全うし,国民を守るために他に適当な手段がないときに,必要最小限度の実力を行使することは,従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として,憲法上許容されると考えるべきであると考えるに至った。」(英訳では,...the Government has reached a conclusion that not only when an armed attack against Japan occurs but also when an armed attack against a foreign country that is in a close relationship with Japan occurs and as a result threatens Japan's survival and poses a clear danger to fundamentally overturn people's right to life, liberty and pursuit of happiness, and when there is no other appropriate means available to repel the attack and ensure Japan's survival and protect its people, use of force to the minimum extent necessary should be interpreted to be permitted under the Constitution as measures for self-defense in accordance with the basic logic of the Government's view to date.


(2)武力攻撃事態等法等の改正法案等

 2015年5月14日に閣議決定された「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案」の予定する改正後の武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(平成15年法律第79号。以下「改正武力攻撃事態等法」)の改正2条4号は「存立危機事態」を「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し,これにより我が国の存立が脅かされ,国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態をいう。」と規定しています。

 前記2014年7月1日閣議決定の「他に適当な手段がないときに,必要最小限度の実力を行使すること」の部分に対応するものとしては,改正武力攻撃事態等法改正9条2項1号ロが,武力攻撃事態等又は存立危機事態に至ったときに政府が定める対処基本方針(同条1項。内閣総理大臣が案を作成して閣議決定を受け(同条6項),更に国会の承認を承ける(同条7項)。)においては「事態が武力攻撃事態又は存立危機事態であると認定する場合にあっては,我が国の存立を全うし,国民を守るために他に適当な手段がなく,事態に対処するため武力の行使が必要であると認められる理由」を定めるものとし,同法改正3条4項は「存立危機事態においては,存立危機武力攻撃を排除しつつ,その速やかな終結を図らなければならない。ただし,存立危機武力攻撃を排除するに当たっては,武力の行使は,事態に応じ合理的に必要と判断される限度においてなされなければならない。」と規定しています。

 存立危機事態においては,対処基本方針の定めるところに基づき,内閣総理大臣は国会の事前の承認を受け,又は特に緊急の必要があり事前に国会の承認を得るいとまがないときは当該承認なしに,自衛隊法76条1項の防衛出動を命ずることができるとされています(改正武力攻撃事態等法9条4項)。自衛隊法76条1項の規定により出動を命ぜられた自衛隊は,我が国を防衛するため,必要な武力を行使することができることはもちろんです(同法88条1項)。

 米「国に対する武力攻撃が発生し,これにより我が国の存立が脅かされ」るという事態における政府の対処基本方針においては,次のような文言が見られることになるのでしょうか。



・・・帝国ノ重ヲ米国ノ保全ニ置クヤ一日ノ故ニ非ス是レ両国累世ノ関係ニ因ルノミナラス米国ノ存亡ハ実ニ帝国安危ノ繋ル所タレハナリ然ルニ・・・某国ハ既ニ帝国ノ提議ヲ容レス米国ノ安全ハ方ニ危急ニ瀕シ帝国ノ国利ハ将ニ侵迫セラレムトス事既ニ茲ニ至ル帝国カ平和ノ交渉ニ依リ求メムトシタル将来ノ保障ハ今日之ヲ旗鼓ノ間ニ求ムルノ外ナシ政府ハ汝有衆ノ忠実勇武ナルニ倚頼シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス

  
  20世紀初頭風の文章ですが,これではまだ,存立危機事態の認定には足りないでしょうか。なお,「我が国と密接な関係にある他国」は,米国だけではないでしょう。


3 存立危機事態


(1)我が国の存立と生命,自由及び幸福追求の権利

 しかし,「他国に対する武力攻撃が発生し,これにより我が国の存立が脅かされ,国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」との存立危機事態の定式における前半部分と後半部分との関係は分かりにくいところです。「我が国の存立が脅かされ」,かつ,「国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があるときにのみ存立危機事態が認定されるとすると,「国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があっても「我が国の存立が脅かされ」なければ自衛隊の防衛出動はないわけですが,「我が国の存立が脅かされ」ても「国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」が無い場合も存立危機事態ではないことになり,自衛隊の防衛出動はないということでよいのでしょうか。

 この点2015年5月15日付けの自由民主党安全保障法制整備推進本部「切れ目のない「平和安全法制」に関するQ&A」の「答40」では,「存立危機事態」とは,「他国に対する武力攻撃が発生した場合において,そのままでは,すなわち,その状況の下,武力を用いた対処をしなければ,国民に我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な,深刻,重大な被害が及ぶことが明らかな状況」をいうものであって,「事態の個別具体的な状況に即して,主に攻撃国の意思,能力,事態の発生場所,その規模,態様,推移などの要素を総合的に考慮し,我が国に戦禍が及ぶ蓋然性,国民が被ることとなる犠牲の深刻性,重大性などから客観的,合理的に判断する」ものとされています。「我が国の存立」に対する脅威には直接言及されていません。また,急迫性も明示的には要件にされていないようです。


(2)自衛権と生命,自由及び幸福追求の権利

 前記2014年7月1日閣議決定は,その3(2)において,憲法13条の「生命,自由及び幸福追求の権利」に言及します。いわく,「憲法9条はその文言からすると,国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えるが,憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法13条が「生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると,憲法9条が,我が国が自国の平和と安全を維持し,その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されない。一方,この自衛の措置は,あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫,不正の事態に対処し,国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり,そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容される。これが,憲法第9条の下で例外的に許容される「武力の行使」について,従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹,いわば基本的な論理であ」ると。


(3)アメリカ独立宣言における生命,自由及び幸福追求の権利と抵抗権

 憲法13条の「生命,自由及び幸福追求の権利」は,1776年のアメリカ独立宣言に由来します。

     We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal; that they are endowed by their Creator with certain inalienable rights; that among these, are life, liberty, and the pursuit of happiness. That, to secure these rights, governments are instituted among men, deriving their just powers from the consent of the governed; that, whenever any form of government becomes destructive of these ends, it is the right of the people to alter or to abolish it, and to institute a new government...     

 (我々にとって,以下の真理は自明のことである。すなわち,全ての人は平等に創造されていること。彼らは,彼らの造物主によって,一定の不可譲の権利を付与されていること。それらの権利のうちには,生命,自由及び幸福の追求があること。政府は,当該権利を確保するため,被治者の同意にその正当な権限を基礎付けられつつ,人々の間に設立されるものであること。いかなる形体の政府であっても,これらの目的に対して有害となったときにはいつでも,これを変更又は廃止し,及び新たな政府を設立することは人民の権利であること。)

 「生命,自由及び幸福追求の権利」は,北アメリカ植民地人のジョージ3世の英国政府に対する叛逆を,抵抗権の行使として大義付けるために持ち出されたものでした。

 さて,そうであれば,「すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。」との我が憲法13条の規定(All of the people shall be respected as individuals. Their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extend that it does not interfere with the public welfare, be the supreme consideration in legislation and in other governmental affairs.)を,そのそもそも由来するアメリカ独立宣言風に理解すると,「各個人の生命,自由及び幸福追求の権利を政府が尊重しないと,ジョージ3世の政府に対して北アメリカ植民地人がしたように,抵抗権が発動されて独立革命を起こされても文句は言えないぞ。すなわち国家の存立が脅かされるぞ。」ということになるでしょうか。物騒な条文です。

 なお,アメリカ独立宣言には,ジョージ3世の秕政として,植民地議会の同意なしに平時に常備軍を駐屯させたこと(He has kept among us, in time of peace, standing armies, without the consent of our legislatures.)及び軍を市民の政府から独立し,かつ,優越するものとしようとしたこと(He has affected to render the military independent of, and superior to, the civil power.)が挙げられています。北アメリカ植民地人は,自分たちの防衛のためには本国の常備軍になど頼らず,自ら武器を所持しつつ,民兵組織で対処するつもりだったのでしょう。(とはいえ,アメリカ独立戦争においてはルイ16世のフランス王国と同盟し,フランス軍の来援を受けていますが。)

 抵抗権は,権利であるばかりではなく,その行使が義務である場合もあるとされます。再びアメリカ独立宣言。

     ...But, when a long train of abuses and usurpations, pursuing invariably the same object, evinces a design to reduce them* under absolute despotism, it is their right, it is their duty, to throw off such government and to provide new guards for their future security...(* このthemmankindを受ける。)

 (しかしながら,長期の連続した権限の濫用及び簒奪が,一貫して同一の目的を追求し,人類を絶対的専制の下へ引き下ろそうとする意図を明らかにするときにあっては,そのような政府を投げ棄て,彼らの将来の安全のための新たな防護を講ずることは,彼らの権利であり,義務である。)

 ジョージ3世治下の英国のような悪の帝国による世界征服(world conquest)ノ挙は,国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険であって,それに対して積極的に抵抗する権利(英国臣民ならば抵抗権ですが,外国人にとっては自衛権ということになるのでしょう。)を行使するのが,生命,自由及び幸福追求の権利を有する人たるものの権利であり,かつ,義務であるということになるようです。

 ルイ16世は,このような高邁な考えを持っていたのでしょうか。

 しかし,アメリカ独立戦争の支援等によってルイ16世の政府の財政は破綻し,やがてフランス革命が起きて1792年9月には王制廃止,1793年1月21日にルイ16世は処刑されてしまいます(かくして一つのレジームからの脱却がされたわけです。)。財政的に無理がある国がアメリカに肩入れするのは剣呑ですね。戦費調達が大変です。そのために国債を発行した場合,国債が値崩れしないかどうか。

 ところで,アメリカ独立宣言の起草者ジェファソンは,やがて国王の処刑に至る血なまぐさいフランスの動向に対して冷静でした。1793年1月3日付けのジェファソン国務長官のウィリアム・ショート(駐ハーグ米国公使)あて書簡にいわく。



 ・・・全地上の自由は,この抗争の結果いかんにかかっていたのです。そして,このような貴重な獲得物が,かつてこれほど少ない無辜の血によってあがなわれたことがあったでしょうか。私自身の愛情は,この大義のための殉難者らによって深く傷つけられています。しかし,それが失敗するのを見るよりは,地上の半分が無人の地となるのを見る方がましです。それぞれの国にアダムとイヴとだけが残されることになっても,自由な者として残されるのならば, 今よりましなのです。・・・

 
  同年3月24日付けの同郷(ヴァジニア)の後輩マディソン(1814年夏の米国大統領)あて書簡において,ジェファソンは,ある夕食会でルイ16世の処刑が話題になったことを取り上げていますが,同席者の政治的傾向の分析(最左翼のジャコバン支持者から最右翼の貴族政論者まで各人をその傾向に従って順番付けた。)を書くためのものだったようです。アメリカ独立革命の恩人の死に対して,ジェファソンは冷淡ですね。

 「人命は地球より重い。」とか,「国民の命と平和な暮らしを守り抜く。」などと考えていた人ではないようですね。実際ジェファソンは,1787年1月30日付けのマディソンあてのパリからの書簡において,マサチューセッツ邦でのシェイズの叛乱を論じつつ,叛乱が起こることはよいことだとまで言っています。いわく,「小さな叛乱が時々起こることはよいことであり,物質界において嵐がそうであるように,政治の世界において必要なものだと思います。失敗に終わった叛乱は,実際のところ,その原因となった人民の権利に対する制限(incroachments)を確立(establish)するのが一般です。この真理の認識は,叛乱を過度に抑制(discourage)しないように,正直な共和国の知事ら(honest republican governors)を,叛乱の処罰において穏和にすべきものです。これは,政府の健全性のために必要な薬なのです。」


(4)存立危機事態認定要請への対処

 存立危機事態の認定をするよう米国から要請があることもあるのでしょう。

 前記自由民主党Q&Aの「答12」には,「平和安全法制の整備は,国民の命と平和な暮らしを守り抜くために,我が国として主体的に取り組んでいるものです。我が国の存立と国民の命や平和な暮らしに関係のない集団的自衛権の行使の要請が,仮に米国からあったとしても,断るのは当然のことです。」とあります。

 しかし,そのようにピシャリとはねつけることができるような明らかに無理無体な要請ではない,それなりの理屈付けがされた要請が来ると面倒ですね。第一次世界大戦中の欧州派兵要請への対処問題の再演ということになりましょうか。

http://donttreadonme.blog.jp/archives/944591.html

 米国側にそれなりの期待を持たせてしまっているということでもあると,厄介ですね。

 なお,前記日米防衛協力のための指針の第Ⅳ章Dには,「日米両国が,各々,米国又は第三国に対する武力攻撃に対処するため,主権の十分な尊重を含む国際法並びに各々の憲法及び国内法に従い,武力の行使を伴う行動をとることを決定する場合であって,日本が武力攻撃を受けるに至っていないとき,日米両国は,当該武力攻撃への対処及び更なる攻撃の抑止において緊密に協力する。共同対処は,政府全体にわたる同盟調整メカニズムを通じて調整される。」とあります。同盟調整メカニズムまで用意されているのですから,米国からの要請をそう容易に振り切ることはできないでしょう。


 結局,米国の知人からの電子メールに対する返信の内容は,国会での議論を見ながら考えるということになりました。


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1 また『この国のかたち』から

 司馬遼太郎の『この国のかたち』を読むと,統帥権の独立の制度については,1908年の制度改正が画期であったとされています。




 参謀本部にもその成長歴があって,当初は陸軍の作戦に関する機関として,法体制のなかで謙虚に活動した。

 日露戦争がおわり,明治41年(1908年),関係条例が大きく改正され,内閣どころか陸軍大臣からも独立する機関になった。やがて参謀本部は“統帥権”という超憲法的な思想(明治憲法が三権分立である以上,統帥権は超憲法的である)をもつにいたる・・・(司馬遼太郎「3 “雑貨屋”の帝国主義」『この国のかたち 一』)

 

 明治憲法はりっぱに三権分立の憲法で,三権に統帥権は入らない。

 が,やがてこの憲法思想外の権がガン細胞のように内閣から独立し(1908年),昭和10年以後はあらゆる国家機関を超越する権能を示しはじめた。このことへいたる情念の歴史として,前記の正成の劇的情景〔楠木正成湊川出陣決定御前会議〕がある。(司馬遼太郎「5 正成と諭吉」『この国のかたち 一』)

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 (皇居前広場楠木正成像)

 上記の各文章によれば,1908年の参謀本部条例の改正によって,それまで内閣及び陸軍大臣に属していた参謀本部が,新たにこれらの機関から独立することになったということのようです。



2 参謀本部条例の1908年改定の前と後




(1)1908年改定前後の参謀本部条例

 190812月の改正前後の新旧参謀本部条例を見てみましょう。

 まずは,新参謀本部条例。




朕参謀本部条例ヲ改定シ之カ施行ヲ命ス

 御 名 御 璽

  明治411218日〔官報・同月19日〕

     陸軍大臣 子爵 寺内正毅

軍令陸第19

   参謀本部条例

第1条 参謀本部ハ国防及用兵ノ事ヲ掌ル所トス

第2条 参謀総長ハ陸軍大将若ハ陸軍中将ヲ以テ親補シ 天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル計画ヲ掌リ参謀本部ヲ統轄ス

第3条 参謀総長ハ参謀ノ職ニ在ル陸軍将校ヲ統督シ其ノ教育ニ任シ陸軍大学校及陸地測量部ヲ管轄ス

第4条 参謀次長ハ参謀総長ヲ輔佐シ本部一切ノ事務整理ニ任ス

第5条 参謀本部部長ハ参謀総長ノ命ヲ承ケ課長以下ヲ指揮シ其ノ主務ヲ掌理ス

第6条 参謀本部ノ編制ハ別ニ定ムル所ニ拠ル

第7条 参謀本部ニ於ケル服務規則ハ参謀総長之ヲ定ム



 なるほど,第2条で参謀総長は「天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画」するとありますから,天皇直属であって,内閣からも陸軍大臣からも独立しているわけです。

 司馬遼太郎によれば,当該規定は,1908年の改定前の旧参謀本部条例にはなかったということでしょう。旧参謀本部条例(1905年の第4条改正後のもの)は,次のとおり。




朕参謀本部条例ノ改正ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 御 名 御 璽

  明治32年1月14日〔官報・同月16日〕

     内閣総理大臣 侯爵 山縣有朋

     陸軍大臣 子爵 桂太郎

勅令第6号

   参謀本部条例

第1条 参謀本部ハ国防及用兵ノ事ヲ掌ル所トス

第2条 参謀総長ハ陸軍大将若クハ陸軍中将ヲ以テ親補シ

 天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル一切ノ計画ヲ掌リ又参謀本部ヲ統轄ス

第3条 参謀総長ハ国防ノ計画及用兵ニ関スル命令ヲ立案シ

 親裁ノ後之ヲ陸軍大臣ニ移ス

第4条 参謀総長ハ陸軍参謀将校ヲ統督シ其教育ヲ監視シ陸軍大学校,陸地測量部,陸軍文庫並在外国大使館附及公使館附陸軍武官ヲ統轄ス

第5条 参謀本部次長ハ陸軍中将若クハ陸軍少将ヲ以テ之ニ補シ参謀総長ヲ輔佐シ本部一切ノ事務整理ニ任ス

第6条 参謀本部ノ編制ハ別ニ定ムル所ニ拠ル



おやおや,ほとんど同じですね。特に新旧条例各2条の「参謀総長ハ・・・天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参画シ」は,全く同一です。



(2)1878年の参謀本部条例と統帥権の独立

実は,参謀本部の独立は,187812月5日の参謀本部条例(右大臣岩倉具視から参謀本部あて「其部条例別冊ノ通被定候条此旨相達候事」との達)によって既に達成されていたのでした。




・・・従来の参謀局は陸軍省に隷属し,参謀局長は陸軍卿に隷してゐたけれども,参謀本部は陸軍省より独立し,本部長は天皇の「帷幕ノ機務ニ参画スルヲ司トル」〔
1878年参謀本部条例2条〕ところの最高の統帥機関となつたのである。即ち参謀本部長は統帥権に関する天皇の幕僚長として「軍中ノ機務,戦略上ノ動静,進軍,駐軍,転軍ノ令,行軍路程ノ規,運輸ノ方法,軍隊ノ発差等,其軍令ニ関スル者」を管知し,之を「参画シ,親裁ノ後直ニ之ヲ陸軍卿ニ下シテ施行セシム」〔同5条〕るものであり,又「戦時ニ在テハ凡テ軍令ニ関スルモノ,親裁ノ後直ニ之ヲ監軍部長,若クハ特命司令将官ニ下ス」〔同6条〕ものである。従つて参謀本部長は,統帥権に関する最高の輔弼機関である関係上,軍政に於ける陸軍卿の地位にあるのではなくて,寧ろ其の上の太政大臣〔三条実美〕に相等する地位に在るものである。何となれば陸軍卿は直接天皇輔弼の責に任ずるものではなく,それは専ら太政官の三職〔太政大臣・左右大臣・参議〕,就中太政大臣にあつたからである。換言すれば参謀本部長の権限は,従来の陸軍卿及び太政大臣の権限より統帥権に関する部分を独立せしめたものといふことが出来る。従つて参謀本部長の地位は,陸軍卿に優越するものと解せられるのである。

 かくして陸軍に在つては,明治11年に於て名実共に統帥部の独立が実現したのである。・・・(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)227228頁)



3 勅令から軍令へ

 さて,それでは,司馬遼太郎は1908年の参謀本部条例のどこに注目して警鐘を鳴らしたのでしょうか。

 法形式と副署者に注目しましょう。

 1899年の参謀本部条例は,勅令であって,内閣総理大臣及び陸軍大臣が副署しています。

 これに対して,1908年の参謀本部条例は,軍令であって,副署者は陸軍大臣だけです。



(1)勅令

 勅令は,「旧憲法時代,天皇によって制定された法形式の一つで,天皇の権能に属する事項(皇室の事務及び統帥の事務を除く。)について抽象的な法規を定立する場合に用いられた法形式」です(前田正道編『ワークブック法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)49頁)。美濃部達吉は次のように説明しています。

 


・・・〔公文式(明治
19年勅令第1号)〕は,等しく天皇の勅定したまふ国家の意思表示の中に,法律と勅令との2種の形式を区別したのであるが,併し憲法実施までは,法律と勅令とは唯名称だけの区別で,何等法律上の意義ある区別ではなかつた。憲法の実施に依りて,それは単に名称だけの区別ではなく,(1)その制定手続に於いて,(2)その規定し得べき内容に於いて,(3)及びその効力に於いて相異なるものとなつたのである。(1)制定手続に於いては,法律は議会の議決を経て定められ,勅令はその議決を経ずして定められる。(2)内容に於いては,法律は原則として如何なる事項でも定むることが出来るが,勅令は唯憲法上限られた事項だけを定むることができる。(3)効力に於いては,法律は勅令の上に在り,法律を以ては勅令を変更することが出来るが,勅令を以ては法律を変更することは出来ない。(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)168169頁)

 ・・・勅令が他の国務上の詔勅と区別せらるゝ所以は,勅令は国民に向つて法規を定めることを主たる目的とすることに在る。固より勅令を以て規定せらるゝ所が常に法規のみに限るといふのではない。行政命令〔「電信規則・電話規則・各種の学校令・鉄道乗車規程の如く,全然国民の権利義務に付いての規律を定むるものではなく,唯人民が自己の自由意思を以て之を利用するに付いての条件たるに止まる」もの〕の性質を有するものが,勅令を以て定めらるゝものは甚だ多いけれども,その主たる目的とする所が,法規を定むるに在ることは疑を容れぬ所である。・・・(美濃部・235頁,232頁)



(2)軍令及びその誕生




ア 軍令

 軍令は,軍令に関する件(明治40911日軍令第1号。同令には題名なし。件名をもって,軍令に関する件と呼ばれています。)の第1条において,「陸海軍ノ統帥ニ関シ勅定ヲ経タル規程ハ之ヲ軍令トス」と定められていたものです。(なお,軍令に関する件の官報掲載日は1907912日ですが,上諭の日付は同月11日であって,同令4条は「軍令ハ別段ノ施行時期ヲ定ムルモノノ外直ニ之ヲ施行ス」と規定しています。)「統帥権の作用として定めらるゝ命令」であって,「国務上の命令ではない」ものであり,「唯統帥権に服する者即ち平時に於いては唯軍人に対してのみ効力を有するもので,一般の人民に対して効力を有するものではない」ものです(美濃部261頁)。「軍隊内部の命令たるに止まるのであるから,国の法令に牴触することを得ないのは勿論」です(同)。公布によって初めて「以て臣民遵行の効力を生ず」る(『憲法義解』)法規とは異なり,軍令は正式に公布されませんでした(軍令に関する件2条参照)。「公示」を要する軍令は,官報で公示されました(同令3条)。「故らに公布なる文字を用ひないのは,軍令は勅令と其の性質を同じくせざることを示し,以て軍令を特殊の勅令と認むるが如き嫌ひを避けたもの」と考えられています(山崎248頁)。

 「予算に影響を及ぼさない限度に於いて,軍隊の内部の編制を定むるの権」は「内部的編制権」であり,内部的編制権は,美濃部においても大日本帝国憲法11条(「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」)の統帥権の範囲内にあるものとされていました(美濃部259頁)。参謀本部条例は,統帥権の一環たる内部的編制権の発動により参謀本部の構成について天皇が定める規程であるから,1908年の参謀本部条例については軍令の形式が採られたということでしょう。



イ 軍令の誕生

 それでは,1899年の参謀本部条例はなぜ軍令の形式ではなく,勅令の形式で定められたのでしょうか。理由は簡単です。軍令の形式は,1907年の明治40年軍令第1号によって初めてできたものであって,それ以前には軍令の形式は存在しておらず,当該形式の採りようがなかったからです。



(ア)公式令制定に伴う内閣総理大臣の副署対象の全勅令への拡大

 それでは更に,なぜ1907年9月に軍令という形式が定められたのでしょうか。これは,同年2月1日から施行されていた公式令(明治40年勅令第6号)7条2項の規定が原因です。勅令に係る国務大臣の副署(大日本帝国憲法552項「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」)については,それまでの公文式3条が「法律及一般ノ行政ニ係ル勅令ハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ主任大臣ト倶ニ之ニ副署ス其各省専任ノ事務ニ属スルモノハ主任大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス」と規定していて,各省専任の事務に属する勅令については内閣総理大臣の副署を要さず主任の国務大臣の副署だけで足りるものとしていたのに対して,新しい公式令7条2項は,「〔勅令〕ノ上諭ニハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ国務各大臣若ハ主任ノ国務大臣ト倶ニ之ニ副署ス」と規定し,各省専任の事務に属する勅令をも含めて例外なく,すべての勅令について内閣総理大臣が副署するものとしていたからです。

 勅令に対する国務大臣の副署の効力については,「法律勅令及其の他国事に係る詔勅は大臣の副署に依て始めて実施の力を得。大臣の副署なき者は従て詔命の効なく,外に付して宣下するも所司の官吏之を奉行することを得ざるなり。」とされていました(『憲法義解』)。



(イ)公文式時代の慣行及びその維持

 明治40年軍令第1号の起案を担当したのは,陸軍省軍務局軍事課です(陸軍省であって,参謀本部ではないですね。)。同課によれば,軍令の形式を定める「理由」は,次のとおりでした(中尾裕次「史料紹介「軍令ニ関スル件」」戦史研究年報4号(防衛省防衛研究所(20013月))。




従来軍機軍令ニ関スル事項ハ内閣官制第7条ニ依リ陸軍大臣海軍大臣ヨリ帷幄上奏ヲ以テ親栽ヲ仰キ而シテ陸海軍部外ニ発表ヲ要スルモノハ公文式第3条ニ依リ単ニ陸軍大臣海軍大臣ノ副署ノミヲ以テ公布シ来レリ然ルニ先般公式令制定ト共ニ公文式ヲ廃止セラレタル結果勅令ハ総テ内閣総理大臣ノ副署ヲ要スルコトトナレリ抑モ事ノ軍機軍令ニ関シ若ハ之レト同一ノ性質ヲ有スル軍事命令ハ憲法第
11条同第12条ノ統帥大権ノ行使ヨリ生スルモノニシテ普通行政命令ト全ク其性質軌道ヲ異ニシ専門以外ノ立法機関若ハ行政機関ノ干与ヲ許ササルヲ以テ建軍ノ要義ト為ス

統帥大権ノ行使夫レ斯ノ如ク又内閣官制第7条ハ現行法トシテ尚ホ存在スルカ故ニ此際統帥事項ニ関スル命令ハ特別ノ形式即チ軍令ヲ以テ公布シ主任大臣ノミ之ニ副署スルコトト為シ以テ行政事項ニ属スル命令ト判然之ヲ区別シ統帥大権ノ発動ヲ明確ナラシメントス

 

 お前のサインなどもらわないぞと,内閣総理大臣も嫌われたものですね。しかし,確かに,内閣総理大臣もいろいろではあります。

 内閣官制(明治22年勅令第135号)7条は,「事ノ軍機軍令ニ係リ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニ依リ之ヲ内閣ニ下付セラルノ件ヲ除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」と規定していました。いわゆる帷幄上奏に関する規定です。内閣官制7条の前は,1885年の内閣職権6条ただし書で「但事ノ軍機ニ係リ参謀本部長ヨリ直ニ上奏スルモノト雖トモ陸軍大臣ハ其事件ヲ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」と規定されていました。帷幄上奏は「本来参謀総長・海軍軍令部長の職務として規定せられたのであるが,其の後陸軍大臣又は海軍大臣からも帷幄上奏を為し得る慣習が開かれ,陸軍及び海軍大臣だけは,総理大臣を経由せず単独に上奏し得ることが慣習上認められて居」たものです(美濃部532533頁)。これに対して,陸海軍大臣以外の国務大臣の上奏については,内閣総理大臣が「機務ヲ奏宣スル」(内閣官制2条)ものとされていることから,「総理大臣を経由するか,又は少くとも総理大臣の承認を得た場合であることを要するので,総理大臣の知らぬ間に,各大臣から直接に上奏することは,総理大臣の職責から見て,許されない」とされていました(美濃部532頁)。

 従来陸軍大臣は,統帥事項については内閣総理大臣にも内緒で勅令案を持って行って天皇に上奏して綸言汗のごとき裁可を得て,自分一人がその勅令に副署してそうして施行できたのだから,今更公式令ができたからといって,(政党政治家である可能性もある)内閣総理大臣に「そんな勅令の話,おれは聞いてない。だから,統帥事項だか何だか知らぬがこの勅令には副署しない。」といやがらせをされ得るようになるのはいやだ,ということだったのでしょう。性格の悪い内閣総理大臣との悶着を避けるべく,軍令に関する件2条は,「軍令ニシテ公示ヲ要スルモノニハ上諭ヲ附シ親署ノ後御璽ヲ鈐シ主任ノ陸軍大臣海軍大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス」と規定していました。軍部の主観的意見としては,軍令の形式は部外者には一見あやしげに見えるといっても,統帥事項に係る勅令に関する従来の権限・慣行を維持せしめただけで,「ガン細胞」呼ばわりは心外だ,ということになるのでしょう。

 なお,軍令に対する陸軍大臣又は海軍大臣の副署は,「是は国務大臣としての副署ではなく,帷幄の機関として奉行の任に当たることを証明する行為たるに止まるものと見るべき」とされています(美濃部261頁)。「蓋し我が国法に於ける副署には2種の意義がある。即ち一は憲法第55条の大臣副署と,他は憲法以前より行ひ来りたる副署とである。・・・後者は単に執行当局者たることを表明するものである。宮内大臣の皇室令に副署し,賞勲局総裁の勲記に副署するが如きは専ら後者に属する。陸海軍大臣の軍令に副署するのも亦之と其の性質を同じくするもの」というわけです(山崎249250頁)。



(3)「一般行政」から統帥権の聖域へ

 しかし,1899年の段階では参謀本部条例はなお「一般行政ニ係ル」ものとして内閣総理大臣の副署をも受けていたのに対して(公文式3条),1908年になると,参謀本部条例は純粋な統帥事項に係るものであるとして,内閣総理大臣の副署を要さぬ軍令の形式が採用されるに至っています。この点においては,「一般行政」の領域から自らを引き離すことによって政治の統制から離れ,統帥権が「ガン細胞」化して「一般行政」を侵食することが可能になり始めたといえそうです。

 さらにいえば,「行政各部ノ官制其ノ他ノ官規ニ関スル重要ノ勅令」は枢密院に諮詢することになっていて(枢密院官制69号)厄介でしたが,参謀本部条例が軍令であるということになると,堂々と当然「枢密院ノ諮詢ヲ経ヘキモノニアラス」ということになりました(『統帥綱領・統帥参考』(偕行社・1962年)18頁)。

 いずれにせよ,公文式時代においても,軍部関係の勅令について「傾向としては年を経るにしたがい,軍部大臣だけの副署によるものが多くなったようである」そうです(戸部良一『日本の近代9 逆説の軍隊』(中央公論社・1998年)158頁)。



4 統帥権の独立の「効用」:福沢諭吉の『帝室論』等
 ところで一体,先の大戦以前における我が統帥権の独立の「効用」としては,何が考えられていたのでしょうか。最後は「ガン細胞」になったとはいえ,そもそもの初めには,もっともな目的のために働くべき正常細胞であったはずです。

 「統帥権の独立は,軍の政治介入を意図してつくられた制度ではない。むしろそれは,軍の政治的中立性を確保し,軍人の政治不関与を保証するものとさえ,期待されたのである。」とされています(戸部77頁)。

(1)政治の統帥関与の弊害防止
 政治家が統帥に関与し,あるいは統帥権を握った場合の弊害について,美濃部達吉は「軍人以外の政治家が兵馬の事に容喙することが軍の戦闘力を弱くする虞」がある旨軍事側から見た危惧に言及しているところですが(美濃部257頁),他方,1932年にまとめられた陸軍大学校の『統帥参考』においては,次のように述べられていました。




抑々統帥ノ独立ハ反面ヨリ観レハ政治ノ独立少クモ其保障ニシテ我国ニ於ケル往昔ノ武家政治又ハ現代労農露国ノ政治ノ如ク政府カ兵権ト政権トヲ把握行使スルトキハ政権ノ自然ナル移動授受カ行ハレサルノ虞アリ(『統帥綱領・統帥参考』
7頁)

 

 統帥権の独立は,政府に対抗する在野勢力をもその対象に含めた「政治ノ独立」のためのものだというのです。

先の大戦末期満洲国等に侵入して大暴れした恐ろしい「労農赤軍ノ如キハ彼等ノ意識ヲ以テスレハ元首ノ軍隊ニモアラス所謂国家ノ軍隊ニモアラス全ク共産党ノ軍隊」であったところ(『統帥綱領・統帥参考』1頁),共産党支配下のソ聯においては,「政権ノ自然ナル移動授受」は行われてはいませんでした。

 軍隊の政党化は,明治十四年の政変後,立憲政治の導入に向けた動きの中で,福沢諭吉も憂慮したところでした。




・・・然るに爰に恐る可きは政党の一方が兵力に依頼して兵士が之に左袒するの一事なり国会の政党に兵力を貸す時は其危害実に言ふ可らず仮令ひ全国人心の多数を得たる政党にても其議員が議に在る時に一小隊の兵を以て之を解散し又捕縛すること甚だ易し殊に我国の軍人は自から旧藩士族の流を汲て政治の思想を抱く者少なからざれば各政党の孰れかを見て自然に好悪親疎の情を生じ我は夫れに与せんなどと云ふ処へ其政党も亦これを利して暗に之を引くが如きあらば国会は人民の論場に非ずして軍人の戦場たる可きのみ斯の如きは則ち最初より国会を開かざる方,万々の利益と云ふ可し・・・(福沢諭吉『帝室論』(
1882年))



 1776年7月4日のアメリカ合衆国の独立宣言では,イギリス国王について,「彼は,平時において,我々の立法機関の同意なしに,我々の間において常備軍を保持した」ことが非難されています。そもそも軍隊は,外国と無名の戦争をすることが問題であるばかりではなく,それによって国内において市民の自由が抑圧されることが恐れられていたのでした。同年6月12日のヴァジニア権利章典の第13条は「人民団体によって組成され,武器の使用について訓練された紀律正しい民兵は,自由な邦にふさわしく,自然かつ安全な防衛者である。平時における常備軍は,自由にとって危険なものとして避けられるべきである。あらゆる場合において,軍隊は,市民の権力(the civil power)に厳格に服し,規制されるべきである。」と規定しています。これに対して,自由民主党の日本国憲法改正草案(2012427日決定)9条の2第1項では,「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため,・・・国防軍を保持する。」と,高らかに常備軍の設置がうたわれています。国王に反逆したアメリカ人らの常備軍に対する暗い猜疑の目と比べて,長い歴史にはぐくまれた日本人同士の厚い信頼をそこに見るべきでしょう。いわゆる「安保闘争」に係る1960年6月10日のハガチー事件後,「同事件の原因を「警察力の脆弱さ」に求める岸〔信介内閣総理大臣〕は,・・・〔赤城宗徳〕防衛庁長官にたいして,今度は「研究」ではなく,実際に「自衛隊出動」そのものを求め〔たが〕(結局,防衛庁内の「反対」を岸が受け入れて,これは実現しなかった)」といった激動の時代(原彬久『岸信介―権勢の政治家―』(岩波新書・1995年)220頁)は,遠い過去のことになりました。なお,ちなみに,「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため」に必要な最低限以上の戦力を保持することが憲法上の要請ということになると,財務省の主計官殿がうっかり国防予算に厳しい査定をすると,「国防権干犯!」といって怒られるようになるかもしれません。また,自由民主党の日本国憲法改正草案9条の2第1項の規定する国防軍の目的は,自衛隊法31項の文言を基礎に,そこに「国民の安全」の確保が加えられたもののようですが,ここにいう「国民」には,外国在留の我が同胞が含まれるのでしょうか(同草案25条の3参照)。「居留民保護其他我権益擁護ノ為必要已ムヲ得サル場合ニ於テハ断然目的ヲ達成スル為十分ナル兵力ヲ出動セシメ速ニ其目的ヲ達成」する必要があるとされていたところです(『統帥綱領・統帥参考』29頁)。

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ヴァジニア植民地議会議事堂(Williamsburg, VA)
(ヴァジニア権利章典はジョージ・メイソンの起草に係ります。)

(2)天皇統帥の必要性及び功徳
 統帥権者が政治家ではなく,天皇でなければならない理由は,取り戻すべき日本のかたちとして,軍人勅諭(188214日)において明らかにされていました。いわく,「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある」,「夫兵馬の大権は朕か統ぶる所なれば其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を伝へ天子は文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降の如き失体なからむことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそ」と。
 さらに,実際的な理由としては,福沢諭吉が次のように述べています(『帝室論』)。

 まず,軍人に政治的中立を守らせること。




・・・今この軍人の心を収攬して其運動を制せんとするには必ずしも〔ママ〕帝室に依頼せざるを得ざるなり帝室は遥に政治社会の外に在り軍人は唯この帝室を目的にして運動するのみ,帝室は偏なく党なく政党の孰れを捨てず又孰れをも援けず軍人も亦これに関し,固より今の軍人なれば陸海軍卿の命に従て進退す可きは無論なれども卿は唯其形体を支配して其外面の進退を司るのみ内部の精神を制して其心を収攬するの引力は独り帝室の中心に在て存するものと知る可し・・・



 また,命を賭して戦う戦士の心を受けとめて支えることは,議会政治家の大臣ごときでは,器量不足です。




・・・仮令ひ其大臣が如何なる人物にても其人物は国会より出たるものにして国会は元と文を以て成るものなれば名を重んずるの軍人にして之に心服せざるや明なり唯帝室の尊厳と神聖なるものありて政府は和戦の二議を帝室に奏し其最上の一決御親裁に出るの実を見て軍人も始めて心を安んじ銘々の精神は恰も帝室の直轄にして帝室の為に進退し帝室の為に生死するものなりと覚悟を定めて始めて戦陣に向つて一命をも致す可きのみ帝室の徳至大至重と云ふ可し・・・



 さらに,いったん戦いがあり,それが終わった後に,なお殺気立った戦場帰りの大軍を平穏に日常生活に復帰させることは,議院内閣制政府の首班ごときでは到底無理な大事業であろうと考えられていました。(兵士らのみならず,栄光に包まれた凱旋将軍も危険でしょう。アメリカ独立戦争のときも,ジョージ3世の軍をヨークタウンで破ったジョージ・ワシントン将軍を立てて,王制を樹立しようという動きがあったようです。)




・・・〔
1877年の西南戦争の徴募巡査らは〕戦場には屈強の器械なれども事収るの後に至て此臨時の兵を解くの法は如何す可きや殺気凛然たる血気の勇士,今日より無用に属したれば各故郷に帰りて旧業に就けよと命ずるも必ず風波を起すことならんと我輩は其徴募の最中より後日の事を想像して窃に憂慮したりしが同年9月変乱も局を結で臨時兵は次第に東京に帰りたり我輩は尚当時に至る迄も不安心に思ひし程なるに兵士を集めて吹上の禁苑に召し簡単なる慰労の詔を以て幾万の兵士一言の不平を唱る者もなく唯殊恩の渥きを感佩して郷里に帰り曽て風波の痕を見ざりしは世界中に比類少なき美事と云ふ可し仮に国会の政府にて議員の中より政府の首相を推撰し其首相が如何なる英雄豪傑にても明治10年の如き時節に際してよく此臨時兵を解くの工夫ある可きや我輩断じて其力に及ばざるを信ずるなり

 

 福沢諭吉は不安心のため西南戦争中お腹が痛くなったことでしょうが,偉大な明治天皇の力をもって,無事に兵らは復員して行きました。同様のことが,先の大戦の終了時にも起こったわけです(194581415日夜の宮城を舞台としたクーデタ未遂事件等いろいろありましたが。)。

 自由民主党の日本国憲法改正草案は,天皇を日本国の元首としつつも(同1条),その第9条の2第1項及び第72条3項において,内閣総理大臣をもって国防軍の最高指揮官としています。福沢諭吉がその将来を懸念し,帝室への依頼をなお不可欠と考えていた明治の日本から,今の日本は随分変わり,進歩したわけです。「慶応ブランド」創始者の福沢諭吉も,時代遅れになりました。

現在の問題はむしろ,ゆるゆると続く不況に伴う心優しい閉塞状況の副作用なのか,貔貅たるべき我が国の男児から,真面目な獰猛さが失われてしまってはいないか,ということかもしれません。

(3)蛇足
 なお,憲法に統帥権者を書き込んでしまった場合,「聯合作戦ニ際シ外国軍司令官ヲシテ一時タリトモ帝国軍隊〔国防軍〕ヲ統帥指揮セシムルハ法律的ニ言ヘハ憲法違反ナリ」(『統帥綱領・統帥参考』12頁)というようなうるさいことにならないでしょうか。ちなみに,あるいは意外なことながら,先の大戦前の陸軍(少なくとも陸軍大学校の教官)は「政略上ノ目的ヲ以テ平時妄リニ海外ニ軍隊ヲ出動セシムルコトハ努メテ之ヲ避ケサルヘカラス」と考えていたようです(『統帥綱領・統帥参考』29頁)。「帝国軍ハ皇軍ニシテ皇道ヲ擁護シ皇威ヲ発揚スル為ニ設ケ置カルルモノナリ故ニ妄リニ政略的ニ兵ヲ動カスコトハ之ヲ慎マサルヘカラス」ということで(同),政治家のみだりな政略の道具にされたくはないということだったのでしょう。「而シテ国際関係ノ錯綜,世相ノ変化等ノ為海外出兵ニ依リ所望ノ政略目的ヲ達成スルノ如何ニ困難ナルカハ往年の西伯利出兵並最近ニ於ケル支那出兵ノ明証スル所ナリ」と(同書2930頁),少なくとも当時は懲りていたようです。シベリア出兵において,日米両国は同盟国の関係にあったはずですが,うまくいかなくなったようです。


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ヨークタウン古戦場(Yorktown, VA)
(ヨークタウンに陣取ったコーンウォリス将軍のイギリス軍は優勢な米仏連合軍の攻撃を受けて,1781年10月19日,終に降伏。敗報に接したイギリスのノース首相は「神よ,すべては終わった!」と叫び,アメリカ独立戦争は実質的に終結しました。降伏式においてイギリス側は最初,連合軍の主力だったフランス軍のロシャンボー将軍にコーンウォリス将軍の剣を渡そうとしましたが,こっちじゃないよあっちだよとジョージ・ワシントン将軍を示されて,降伏の印の剣はアメリカ大陸軍が受け取りました。フランスの王さまルイ16世は,いい人でしたね。)

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イギリス軍降伏の場所(Surrender Field, Yorktown, VA) 

 弁護士 齊藤雅俊
  大志わかば法律事務所
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  電話: 03-6868-3194 (法律問題について,何でも,お気軽にお問い合わせください。)
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