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1 第213回国会の民法等の一部を改正する法律案及び民法821条:「人格を尊重」

 

(1)第213回国会の民法等の一部を改正する法律案における「人格を尊重」

 2024126日に召集された第213回国会において,現在,内閣から提出された民法等の一部を改正する法律案が審議されています。同法案が法律として成立した場合,2026年の春には(同法案における附則1条本文には「この法律は,公布の日から起算して2年を超えない範囲内において政令で定める日から施行する。」とあります。),民法(明治29年法律第89号)に次の条項が加えられることとなるそうです(下線は筆者によるもの)。

 

  (親の責務等)

  第817条の12 父母は,子の心身の健全な発達を図るため,その子の人格を尊重するとともに,その子の年齢及び発達の程度に配慮してその子を養育しなければならず,かつ,その子が自己と同程度の生活を維持することができるよう扶養しなければならない。

  2 父母は,婚姻関係の有無にかかわらず,子に関する権利の行使又は義務の履行に関し,その子の利益のため,互いに人格を尊重し協力しなければならない。

 

 「人格を尊重」という荘厳な文言が,まぶしい。目がつぶれそうです。「尊重」と「尊厳」ということで漢字は1字違いますが,「〔憲法〕13条は,「個人の尊重」(前段)と「幸福追求権」(後段)との二つの部分からなる。前段は,後段の「立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする」と一体化して,個人は国政のあらゆる場において最大限尊重されなければならないという要請を帰結せしめる。これは,一人ひとりの人間が「人格」の担い手として最大限尊重されなければならないという趣旨であって,これを「人格の尊厳」ないし「個人の尊厳」原理と呼ぶことにする。」(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)444頁),「「人格の尊厳」原理は,まず,およそ公的判断が個人の人格を適正に配慮するものであることを要請し,第2に,そのような適正な公的判断を確保するための適正な手続を確立することを要求する。したがって,例えば,一人ひとりの事情を不用意に概括化・抽象化して不利益を及ぼすことは許されない。行政の実体・手続の適正性の問題については諸説があるが,基本的にはまさしく本条によって要請されるところであると解される。」(同444-445頁)というような,憲法学における高邁な議論が想起されるところです。

 しかし,憲法学上の難しい議論はさておき,我ら凡庸な人民の卑俗な日常生活の場において,他者の「人格を尊重」し,自己の「人格を尊重」せしめるとは具体的にどのような発現形態をとるのでしょうか。これらについての探究が本稿の課題です。

 

(2)脱線その1:「個人の尊厳」論

 

ア 民法2条の「個人の尊厳」

 なお,民法2条には「人格の尊重」ならぬ「個人の尊厳」の語が出て来ます。憲法学的には「〔憲法13条の〕「個人の尊厳」原理は,直接には国政に関するものであるが,民法1条ノ2〔現第2条〕を通じて解釈準則として私法秩序をも支配すべきものとされ」ていますが(佐藤幸治445頁),民法学的には,同条に規定するところの同法の「個人の尊厳を旨とした解釈」の標準は「主として親族・相続両編の解釈について意義を有する」ものとされ,「というのは,親族編と相続編〔筆者註:昭和22年法律第74(なお,同法は一般に「日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律」と呼ばれますが,これは正式な題名ではなく,件名です。)で手当てがされ,昭和22年法律第222号によって改正されるまでのもの〕は,家族制度を骨子として構成され,家を尊重して個人の尊厳を無視し,家父長の権利を強大にして家族の意思を拘束し〔略〕ていたからである。」と説明されています(我妻榮『新訂民法総則(民法講義)』(岩波書店・1965年)29-30頁)。

「個人の尊厳」概念は,明治的な家制度及び家父長制度の各遺制に対処すべきものであるということになります。

昭和22年法律第74号の第1条は「この法律は,日本国憲法の施行に伴い,民法について,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚する応急的措置を講ずることを目的とする。」と規定していますところ,憲法242(「配偶者の選択,財産権,相続,住居の選定,離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては,法律は,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して,制定されなければならない。」)の射程は,すなわち昭和22年法律第74号が措置を講じた範囲であるのだというのが我が国の公式解釈であったことになります。同法及び昭和22年法律第222号によって家制度と家父長制度とが既に退治せられたので,現在,新しい家族の形を尊重しつつ働くべき法概念は壊し屋たりし「個人の尊厳」ではなく,それとは異なる,例えば「人格の尊重」のような新たに穏健なものたるべし,ということになったわけでしょう。というのは,「個人の尊厳」概念については,「家族の問題について「個人の尊厳」をつきつめていくと,憲法24条は,家長個人主義のうえに成立していた近代家族にとって,――ワイマール憲法の家族保護条項とは正反対に――家族解体の論理をも含意したものとして意味づけられるだろう」(樋口陽一『国法学 人権原論』(有斐閣・2004年)56頁)ということでもありますので,当該概念の濫用はうっかりすると「家族解体」につながりかねず剣呑であるからです。

なお,1919811日のドイツ国憲法たる「ワイマール憲法の家族保護条項」はその第1191項であって,「婚姻は,家族生活及び国民の維持発展の基礎として,憲法の特別の保護を受ける。それは,両性の同権に基礎を置く。(Die Ehe steht als Grundlage des Familienlebens und der Erhaltung und Vermehrung der Nation unter dem besonderen Schutz der Verfassung. Sie beruht auf der Gleichberechtigung der beiden Geschlechter.)」と規定するものです。

 

イ GHQ草案23条の“individual dignity and the essential equality of the sexes”と憲法24条の「個人の尊厳と両性の本質的平等」との間

 ちなみに,日本国憲法24条がそれに基づいた案文であるGHQ草案23条は,“The family is the basis of human society and its traditions for good or evil permeate the nation. Marriage shall rest upon the indisputable legal and social equality of both sexes, founded upon mutual consent instead of parental coercion, and maintained through cooperation instead of male domination. Laws contrary to these principles shall be abolished, and replaced by others viewing choice of spouse, property rights, inheritance, choice of domicile, divorce and other matters pertaining to marriage and the family from the standpoint of individual dignity and the essential equality of the sexes.”と規定していました。日本国憲法242項は,GHQ草案23条における“from the standpoint of individual dignity and the essential equality of the sexes”の部分を「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して」の意味であるものと解して制定されたわけですGHQ草案23条の我が外務省による訳文は「家族ハ人類社会ノ基底ニシテ其ノ伝統ハ善カレ悪シカレ国民ニ滲透ス婚姻ハ男女両性ノ法律上及社会上ノ争フ可カラサル平等ノ上ニ存シ両親ノ強要ノ代リニ相互同意ノ上ニ基礎ツケラレ且男性支配ノ代リニ協力ニ依リ維持セラルヘシ此等ノ原則ニ反スル諸法律ハ廃止セラレ配偶ノ選択,財産権,相続,住所ノ選定,離婚並ニ婚姻及家族ニ関スル其ノ他ノ事項ヲ個人ノ威厳及両性ノ本質的平等〔筆者註:この「的平等」の3文字は,和文タイプでは打ち漏れています。〕ニ立脚スル他ノ法律ヲ以テ之ニ代フヘシ」というものでした。)

しかし,“dignity of the individual”ならぬ“individual dignity”を,例えば「個々の尊厳」ではなく,「個人の尊厳(又は威厳)」と訳したことには何だかひっかかりが感じられます。そこで当該英文を改めて睨んでみると,あるいは,“individual dignity of the sexes”(両性各々の尊厳)及びそのように両性各々が尊厳あるものであることに基づく“the essential equality of the sexes”(両性の本質的平等)のstandpointから,と読むべきものだったのかもしれない,と思われてきました。男性性(夫)及び女性性(妻)はそれぞれ特有の尊厳を有するとともに,いずれも尊厳あるものであることにおいて,両性(夫婦)は本質的に平等である,という意味でしょうか。通常単数形で用いられるとされるstandpointがやはり単数形で用いられていますから,“individual dignity and the essential equality of the sexes”をひとかたまりのものとして捉える読み方を採るべきでもありましょう。Female sexのみならずmale sexにもdignityがあるのだと言われれば,男性は,救われます。

なるほど。そういえば確かに,GHQ草案23条においてそれらに反する法律は廃止せられるべしとされたところの婚姻に関する当該諸原則は,①家族は人間社会の基盤であること,及び婚姻は,②親の強要にではなく,(男女)相互の合意に基づき,かつ,③男性の支配によってではなく(夫婦の)協力によって維持されて,④両性の争うべからざる法的及び社会的平等の上に位置付けられたものたるべし,というものであって(なお,ここで男女の社会的平等までぬけぬけと憲法で保障しようとするのは,当時のソヴィエト社会主義共和国連邦憲法122条の影響でしょうか。GHQ草案23条の原案起草者であるベアテ・シロタ女史は起草準備作業の際に「ワイマール憲法とソビエト憲法は私を夢中にさせた」と回想しています(篠原光児「憲法24条の成立過程について」白鷗法学第8号(1997年)74頁)。),①はSollen(在るべきもの)ではなくSein(現に在るもの)について語っていますから,どうも②以下の男女平等が中心であったようです。④こそが主要原則でしょう。②及び③は,原則というには細かいですし,④に対する副次的なものでしょう(特に②については,昭和22年法律第222号による改正前の民法(以下「明治民法」といいます。)でも,男女の合意なしに親の意思のみで婚姻をさせることはできない建前でしたから(明治民法7781号は現行民法7421号と同旨),法律上の問題というよりは,社会事実上の問題でしょう。③に関しては,明治民法790条の「夫婦ハ互ニ扶養ヲ為ス義務ヲ負フ」及び789条の「妻ハ夫ト同居スル義務ヲ負フ/夫ハ妻ヲシテ同居ヲ為サシムルコトヲ要ス」が,現行民法752条では「夫婦は同居し,互いに協力し扶助しなければならない。」になっています。これで,「夫の権威中心から夫婦の協力に推移したことを明らかに看取しうるであろう。」ということであります(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)81頁)。なお,法定財産制に係る明治民法798条は「夫ハ婚姻ヨリ生スル一切ノ費用ヲ負担ス但シ妻カ戸主タルトキハ妻之ヲ負担ス/前項ノ規定ハ第790条及ヒ第8章〔扶養ノ義務〕ノ規定ノ適用ヲ妨ケス」というものでしたが,同条1項本文の規定は,男はつらいよ,というよりも,実は男性支配を法定する女性虐待規定であったということなのでしょう(婚姻費用を平等負担するものとする夫婦財産契約は可能であったはずですが(明治民法793条以下)。)。ちなみに現行民法には「協力」の語は2箇所でしか出現せず,憲法241項由来の第752条のそれのほかは離婚の際の財産分与に係る第7683項にあるのですが,同項における「協力」も,実はGHQの担当者から言い出した米国側由来のものであるそうです(我妻榮編『戦後における民法改正の経過』(日本評論社・1956年)140頁(小沢文雄(当時は司法省民法調査室主任)発言))。)。すなわち,家族法制全般について広く問題点が指摘されているというよりは,専ら男女間の婚姻の場面に焦点が当てられていたところです。

そもそもGHQ草案の起草段階におけるベアテ・シロタ女史の原案は,最終的にGHQ草案23条となった条項(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川ソフィア文庫・2014年)220-221頁参照)に続いて,母性保護条項,非嫡出子差別解消条項,養子に係る制限条項,長子権廃止条項,児童の教育,医療及び労働に関する各条項,労働権条項並びに社会保障条項が並ぶ長いものであって(鈴木279-281頁参照),最終的にGHQ草案23条となった条項も,実はそう広い射程のものとして意図されていなかったように思われます。

また,シロタ女史は「私は,どうしても女性の権利と子供の保護を憲法に詳しく書いておかなければならないと思って,とても細かく書きました。」と回想していますところ(鈴木276頁),保護されるべき者の細かい権利に専心する彼女にとっては,強い男性のそれをも包含する「個人の尊厳」というような普遍的な概念(なお,強い男性は,「個人の尊厳」の個人に包含されるというよりも,むしろ彼らによってこそ「個人の尊厳」が象徴されていたものでしょう。「近代西欧家族の「個人」が実は家長個人主義というべきものだった」こと(樋口56頁)に留意すべきです。)の称揚には興味がなかったのではないでしょうか。

また,「婚姻を「民族の維持・増殖の基礎」として憲法の保護対象とするワイマール憲法1191項と比べればもとより,〔1949年の〕ボン基本法6条が婚姻と家族に対する国家の保護に言及するにとどまっているのと比べても,「個人の尊厳」を家庭秩序内にまで及ぼそうとする点で,日本国憲法24条はきわ立っている」わけですが(樋口145頁),そのような「きわ立」ちまで,当時のGHQは意図していたものかどうか。現実には,明治民法の占領下における改正に関して,GHQは「正面きって家の制度を廃止しろといったようなことは全然ありませんでした」ということであって(我妻編13頁(奥野健一(当時は司法省民事局長)発言)),その報告書(Political Reorientation of Japan (1948))でも「家の制度の全面的廃止の問題は,憲法を履行するという憲法実施の要請以上の問題であるから,スキャップ〔聯合国最高司令官〕としてはこれを命令しなかった,スキャップとしては両性の平等とか個人の自由の原則は別として,家族法といったようなもののごときは,これを近代化し民主化するということはむしろ日本人自身の問題と考えたのであって,東洋の国に西洋的な家族関係の思想を標準として押しつけるというようなことは賢明とは考えなかったから命令しなかった,従って〔日本側の〕臨時法制調査会が家の制度の全廃を多数をもって決議〔19461024日の民法改正要綱決定〕したということを聞いたときは,スキャップとしては非常に驚いて,進歩的態度の表明としてその議決を歓迎した,というふうに報告して」いたところです(我妻編14頁(奥野による紹介))。家の制度と両立し難いものとしての「個人の尊厳」概念が,それとしてGHQ草案23条において提示されていたものとは考えにくいところです。

シロタ女史は,ワイマル憲法1191項を叩き台にして(篠原79頁(14)。同女史の原案には,GHQ草案23条においては削られている「したがって,婚姻及び家族は法によって保護される。(Hence marriage and the family are protected by law)」という文言が,「家族ハ人類社会ノ基底ニシテ其ノ伝統ハ善カレ悪シカレ国民ニ滲透ス」の部分の次にありました。これを再挿入すると,「婚姻は,家族生活及び国民の維持発展の基礎として,憲法の特別の保護を受ける」云々とするワイマル憲法1191項の組立てとの類似がより明らかになります。),同項を修正敷衍し,日本社会の当時の現実における男尊女卑的夫婦関係の問題点を指摘挿入し,かつ,当該問題点を是正すべき新立法を命ずることとして,結果として見られるような饒舌な条文をものしたものと思われます。

 

(3)民法821条の「人格を尊重」

 以上をもって長い憲法論をおえて,法令における「人格を尊重」のこれまでの用例に当たらんとするに,実は現行民法には既に「人格を尊重」云々の文言が存在していました。次のとおりです(下線は筆者によるもの)。

 

   (子の人格の尊重等)

  第821条 親権を行う者は,前条の規定による監護及び教育をするに当たっては,子の人格を尊重するとともに,その年齢及び発達の程度に配慮しなければならず,かつ,体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動をしてはならない。

 

令和4年法律第102号によって設けられ,20221216日から施行されている規定です(同法附則1条ただし書)。

 

(4)脱線その2:民法821条の位置論(「削除」を削る。)

ところで,ここでまた脱線して民法821条の位置について一言感想を述べれば,同条は「親権者の監護教育権(第820条)の行使一般についての行為規範を規定」する「総則的規律」であり,かつ,「監護教育権の各論的な規律の前の位置に」置かれるべきものであるそうですから(佐藤隆幸編著『一問一答 令和4年民法等改正――親子法制の見直し』(商事法務・2024年)130頁),「監護教育権の根拠規定」(同頁)である同法820(「親権を行う者は,子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し,義務を負う。」)の第2項として同条にまとめて規定される形でもよかったように思われます。しかし,あえてそれまでの第821(「子は,親権を行う者が指定した場所に,その居所を定めなければならない。」)を新822条に押しのけた上での新条追加の形が採られているところです。

そこでその理由をうがって考えれば,それまであった第822(「親権を行う者は,第820条の規定による監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる。」)の規定を令和4年法律第102号は敢然排除したところですが,そのために当該の条を削除しただけでは「第822条 削除」という形で痕跡が残り(これが,当該の条が全く蒸発し,したがってその後の全条が各々繰り上げられてその跡を埋める形となる「削る」との相違です(前田正道編『ワークブック 法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)468頁)。),将来,「おや,この条は「削除」か。削除されたここにはどういう規定があったのだろう。ああ,親権者の懲戒権に関する規定か。なるほど,日本が哀れな衰退途下国となってしまった平成=令和の国民元号の御代(筆者註:「国民元号」に関しては,「元号と追号との関係等について」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1073399256.html)の43)を御参照ください。)を迎える前の昔の立法者は丁寧だったんだね。親が自信をもって子のしつけを行うためにはやっぱり親権者の懲戒権の規定が必要なんだよね。そういうことであれば,いやいやいったんせっかく削ったことについては正当な理由があるのであって云々の難しい話はもういいから,一度は堂々あった懲戒権規定を新装復活させたらいいんじゃない。」という不必要に好奇心の強い者による旧規定の再発見及びそれを契機としての懲戒権規定の要否論争の蒸し返しを避けるためでしょう。民法典において「第822条 削除」との不審な表象が残らないように,そこを埋めるべく,新しい1条が必要であったわけでしょう。(なお,ここでいう懲戒権規定の要否論争については,「懲戒権に関する規定を削除してしまうと,親権の行使として許容される範囲内で行う適切なしつけまでできなくなるのではないかといった」心配は,「誤った受け止め方」であるということで(佐藤隆幸編著131頁),御当局筋では不要論が断乎採用され,けりがつけられています。)

回顧のよすがも残らないようにするdamnatio memoriaeを喰らうとは,民法旧822条の懲戒権規定は随分忌み嫌われていたものです。(筆者は民法旧822条に対して同情的であるようにあるいは思われるかもしれませんが,同情はともかくも,同条に関するblog記事(「民法旧822条の懲戒権及び懲戒場に関して」:

(前編)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080442857.html(モーセ,ソロモン,アウグストゥス,モンテスキュー,ナポレオン,カンバセレス及びミラボー)及び

(後編)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080442886.html(日本民法(附:ラヴァル政権及びド=ゴール政権によるフランス民法改正))

をかつて書いた者としては,思い入れは深いところです。)

 

2 新民法817条の12総論

 

(1)第1項前段

 さて,まず「子の人格を尊重」することに関して,民法821条と新民法(第213回国会の審議に付された頭書法律案が法律として成立して施行された後の民法を以下「新民法」といいます。)の第817条の121項前段とを比較すると,前者は「監護及び教育」をするに当たっての規律であり,後者は「養育」をすることについての規律です。規律の場面が異なっています。後者の場面については,20231128日に開催された法制審議会家族法制部会第34回会議に提出された家族法制部会資料34-2において「この資料では,父母の子への関わり合いのうち経済的・金銭的な側面から子の成長を支えるものを「扶養」と記載しており,これに加えて精神的・非金銭的な関与を含む広い概念として「養育」という用語を使っている。」と説明されている一方(4頁(注3)),「子の監護及び教育は,親権者の権利義務であり(〔民〕法第820条),〔中略〕この資料のゴシック体の記載のような規律〔新民法817条の12に対応〕を設けたとしても,親権者でない父母が監護及び教育をする権利義務を得ることとなるわけではな」いものとされています(4-5頁(注1))。

ところが,当該部会の部会長である大村敦志教授の著書の一節には,「「養育」という言葉の意味は明らかである。その「子の養育及び財産の管理の費用」(828条)という表現から,この言葉は,「監護・教育」を総称するものとして用いられていることがわかる」とあったところです(大村敦志『民法読解 親族編』(有斐閣・2015年)246頁)。したがって,夫子御自身の当該所論の扱いが問題になる可能性があったところ(世の中には,筆者のように面倒臭い人間がいるのです。)20231219日に開催された同部会第35回会議に提出された同部会資料35-2において,「なお,「養育」という用語は,民法第828条ただし書にも規定されているが,同条は親権者による子の養育等の費用の計算に関する規律である一方で,要綱案(案)第1の1で提示している規律〔新民法817条の12に対応〕における「養育」は,父母(親権者に限られない。)によるものであり,また,費用の支出を伴うものに限定するものではない点で,民法第828条ただし書の想定する「養育」と必ずしも一致しないと考えられる。」と,如才なく整理し去られています。そもそも民法上の父母の子へのかかわり合いのうちの「精神的・非金銭的な関与」の例としては,家族法制部会資料34-2は,監護及び教育ならざる「親子交流や親権喪失等の申立てなど」を挙げていました(2頁)。

ちなみに,フランス民法373条の215項は,「親権を行使する者ではない親は,子の監護及び教育を見守る権利及び義務を保持する。同人は,子の生活に関する重要な選択について了知していなければならない。同人は,第371条の2〔親の扶養義務に関する規定〕に基づき同人が負う義務を尊重しなくてはならない。(Le parent qui n'a pas l'exercice de l'autorité parentale conserve le droit et le devoir de surveiller l'entretien et l'éducation de l'enfant. Il doit être informé des choix importants relatifs à la vie de ce dernier. Il doit respecter l'obligation qui lui incombe en vertu de l'article 371-2.」と規定しており,親権を行使する者でない親であっても子の監護教育について全くの無権利ではないものとされています。これに対して,同項第1文流に我が新民法817条の12は解釈されるものではない,というのが立案御当局の御理解なのでしょうが,同条の文言のみからはやや分かりづらいところです。

 

(2)第2

 新民法の第8181項は,親権全般について,「親権は,成年に達しない子について,その子の利益のために行使しなければならない。」と規定します。これに対して,必ずしも親権者ならざる父母による新民法817条の121項の養育についても,当該父母はそれに係る「権利の行使又は義務の履行に関し」ては,「その子の利益のため」に「協力」すべきものとされています(同条2項)。父母の「協力」に関しては,新民法824条の21項本文(「親権は,父母が共同して行う。」)も,父母双方が親権者である場合について,親権共同行使の原則を定めています。これら新民法8181項及び同法824条の21項本文の規律(親権者による親権の行使に関するもの)と同法817条の122項の規律(父母による子に関する権利の行使及び義務の履行に関するもの)との関係は,親権者に限られぬ父母一般に係る後者の規律が総則的な位置に立つというものでしょうか。新民法817条の122項の「権利」及び「義務」は,文言上,同条1項の「養育」に係るものに必ずしも限定されてはいませんし,法制審議会家族法制部会資料34-2によれば,新民法817条の122項の「協力義務」に違反した場合には「親権者の指定・変更の審判や,親権喪失・親権停止の審判等において,その違反の内容が当該父母の一方にとって不利益に考慮されることになるとの解釈があり得る」とのことで(7頁(注1)),同項は親権行使の場面にも適用があることが前提とされています。

 しかし,新民法817条の122項については,「子の利益のため」はよいのでしょうが,「部会のこれまでの議論の中では,離婚後の父母の中には,子の養育に無関心・非協力的な親がいるとの指摘があった」ことから(法制審議会家族法制部会資料34-26頁),軽々(かるがる)と直ちに,婚姻関係にない「他人」の男女にまで両者間の「協力」を義務付けるのはいかがなものでしょうか。養育妨害禁止というような消極的なものにとどまらぬ積極的な協力の義務であるならば,それはやはり当事者の合意にその根拠付けを見出すべきもののように思われますが,両者間におけるそのような「合意」の契機のない子の父母というものも存在するのではないでしょうか。我が国の御当局には,いわゆる経済官庁による儚き「オール・ジャパン(日の丸)」プロジェクトの濫造に見られるように,「協力」のもたらすであろう神秘なsynergy効果を――「協力」が美しくも可能であることの絶対性と共に――安易かつ篤く信仰せられてしまう御傾向があるようではあります。「船頭多くして船山に登る」というような俗なことわざよりも,やはり「以和(わをもつて)(たふと)(しとなす)」と宣う聖徳太子の御訓えの方が重いのでしょうか。いずれにせよ,法的義務として成立するのならば,期待値の水準如何(いかん)はともかくも,そのときはそのようなものとしての取扱いがされなければなりません。(しかし,前記のとおり,これまでの民法において「協力」の語は,GHQ由来のものが2箇所(752条及び7683項)にしかなかったところであって,民法用語として熟したものであるかどうか。民法752条の「協力」の由来するところは,憲法のGHQ草案23条に鑑みると男性支配(male domination)の排除要請という消極的なものです。しかして「夫婦の協力義務は,義務の内容においても,分量においても,限定することはできない」漠としたものです(我妻・親族法84頁)。同法7683項の「協力」のそれは,財産分与の際に妻の取り分が2分の1になるべきことの確保にこだわるGHQ担当官が「協力によってえた財産の半分」などと口走ったことによるものです(我妻編140頁(小沢発言))。(この場面においては,「協力」に係る動機付けは,財産分与に当たっての有利性という形で,専ら経済的に劣位の配偶者に与えられることになります。)ちなみに,「婚姻中の財産の取得又は維持についての各当事者の寄与の程度は,その程度が異なることが明らかでないときは,相等しいものとする。」と規定する新民法7683項は,こうしてみると当該GHQ担当官の主張に近付いたもののように観察されます。)

なお,民法820条の「子の利益のために」との文言は,新民法8181項における当該文言と一見重複することになりそうですが,削られないようです。子の監護及び教育の場面においてこそ親権の濫用(「体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動」)が一番問題になるから重複をいとわなかったのだ,という説明になるのでしょう。ちなみに,民法821条の「「子の人格を尊重するとともに,その年齢及び発達の程度に配慮しなければならな」いとの規律」は,「監護及び教育が「子の利益のために」行われるべきとの〔同法820条の〕規律をより明確に表現する観点から」設けられた,当該規律を監護及び教育における「行為規範として更に具体化するもの」であるそうです(佐藤隆幸編著139頁)。

 

(3)第1項後段

ところで,新民法817条の121項後段の規定の意義は,「法律上の親である限り,たとえ親権がなくても,親として子に対する扶養義務を負う」こと及び当該扶養義務の負担については「「子に対し親権を有する者,又は生活を共同にする者が,扶養義務につき当然他方より先順位にあるものではなく,両者は,その資力に応じて扶養料を負担すべきものである」(大阪高決昭和37131日家月14-5-150。離婚後の非親権者についての判示)という立場が通説であり,裁判例の傾向でもある(非嫡出子の父について同旨,仙台高決昭和37615日家月14-11-103)」ということ(内田貴『民法 親族・相続』(東京大学出版会・2002年)296頁)並びに親の子に対する扶養義務は,「相手方に自己と同一程度の生活を保障する義務(生活保持義務とよばれる)」であるということ(同23頁)を明文化したものということになります。

「親の未成年子に対する扶養義務に関しても877条によるという見解はあるものの,親であることによる,あるいは,親権の効力による,という見解が説かれてい」たところ(大村464-465頁),つとに,「夫婦間の扶養義務のほかに,親の未成年子に対する扶養義務を明文化すべきであろう。これらの義務については,権利者・義務者の同居・別居にかかわらず義務は存続することも明示した方がよい。」と唱えられていたところです(同472-473頁)。

新民法817条の121項後段においては,扶養を受けるべき子は未成年子に限定されていませんが,この非限定性は,フランス民法371条の22(「子の養育料を負担する親の義務は,親権が剥奪され,若しくは停止されたこと又は子が成年であることによっては当然消滅しない。(Cette obligation ne cesse de plein droit ni lorsque l'autorité parentale ou son exercice est retiré, ni lorsque l'enfant est majeur.)」)の後段においても同様です。ただし,新民法817条の121項の扶養義務については,同項においては「父母が子との関係で生活保持義務を負うのが「子の心身の健全な発達を図るため」であるとしている」ことに注目すべきでしょう(家族法制部会資料34-26頁(注)参照)。

 

3 民法821条における「子の人格を尊重する」こと。

ここで具体的に,既存の規定である民法821条における「子の人格を尊重する」ことの趣旨の検討をしてみましょう。

 

(1)御当局の解説について

民法821条の趣旨を手っ取り早く知るために御当局の改正法立案御担当者の解説本を参照すると,次のようにあります。「親権者に「子の人格を尊重するとともに,その年齢及び発達の程度に配慮しなければなら」ないとの義務を課すこととしていますが,その趣旨は何ですか。」との問いに対して回答がされ,いわく。

 

   親権者による虐待の要因としては,親が自らの価値観を不当に子に押し付けることや,子の年齢や発達の程度に見合わない過剰な要求をすることがあるとの指摘がされています。

   改正法では,このような指摘を踏まえ,親子関係において,独立した人格としての子の位置付けを明確にするとともに,子の特性に応じた親権者による監護及び教育の実現を図る観点から,親権者の監護教育権の行使における行為規範として,子の人格を尊重する義務並びに子の年齢及び発達の程度に配慮する義務を規定することとしたものです。

  (佐藤隆幸編著138頁。下線は筆者によるもの)

 

わざわざ押し付けようとする「価値観」ですから,高尚なものなのでしょう。「過剰な要求」も,よかれと思われる方向に向けての要求なのでしょう。このような過剰な要求の問題に対処するために「年齢及び発達の程度に配慮」することが求められ,その余の価値観の押し付け等の問題に対処するために「子の人格を尊重する」ことが求められるのでしょう。

しかしながら残念なことにあんたの子供の「特性」すなわち生来の資質・志向・能力は,そのような高尚な価値観に見事に適合し,かつ,よかれと思っての諸々の要求に着々応えることができるという高度な水準に達した立派なものではないんだよ,むしろ出来の良くない方なのだよ,早熟の天才であるわけなど全然ないんだよ,諦めるべきところは早々に諦めた方が変な「虐待」騒動に巻き込まれずに済んで家族みんなの幸福のためになるんだよ,子とはいっても所詮は他人(「独立の人格」)なのだよ,諦めるんだよ,と勧告するのが,民法821条の趣旨なのでしょうか。そうであれば,「人格の尊重」なるEuphemismusの内実は,高尚な価値観を受け付けない当該人の具合の悪さをそれとして認識・受容した上で,同人に期待するところをその人物(personne)の程度・性向に合わせて変更せよ,という消極的なResignationの勧めなのでしょう。高い価値に向かって引き上げよ,押し上げよ,相共に前進せよ,という積極的なものではないのでしょう。

「人格を尊重」せよと言われると,つい当該人格の帰属者の「価値観」に迎合してかいがいしく当該人物に(かしず)かねばならないように思ってしまいます。しかし,それは忖度の先走り過ぎであって,敬してあえて遠ざかる対応もあってよいはずです。内面における「人格の尊重」と外面的かつ積極的な「人格を尊重している旨の表示行為」とは同一ではありません。むしろ,尊重するに値する人格は手のかからないものであって,巧言令色(すう)恭なる表示行為を恥とするものでしょう(論語公冶長)「人格の尊重」は,積極的な給付を行うことを必ずしも義務付けるものではないのでしょう。

 

(2)家族法制部会長・大村教授の所説に関して

民法821条における「人格を尊重」の意義については,また,令和4年法律第102号として結実することとなった要綱案202221日「民法(親子法制)等の改正に関する要綱案」。そのまま採択された要綱は,佐藤隆幸編著147頁以下に掲載)を取りまとめた法制審議会の民法(親子法制)部会の部会長であった大村敦志教授の次の文章も参照されるべきでしょう。

 

〔略〕暴力によらない教育 懲戒権についても,基本的には削除してよい。ただし,〔民法旧822条の〕削除によってしつけができなくなるという誤解を避けるために,親権を行う者には,子に対してしつけ(discipline)を行うことができる,という趣旨の規定を置いた方がよいかもしれない。もっとも,懲戒(correction)の場合と異なり,しつけには「暴力 violence」の行使は含まれず子を「尊重 respect」して行われなければならない旨を注記することも必要だろう。

(大村256頁)

 

 フランス派である大村教授の用いるrespectの語は,「レスペ」と発音するフランス語でしょう。同教授の著書には,「フランスでは,最近の民法改正によって,夫婦の義務に「尊重(respect)」が追加されたが,これは,相互の尊重を害する行為として暴力行為を位置づけるためではないかと思われる。」との一節があります(大村117-118頁。ただし同258頁は,フランス民法212条に加えられた夫婦の義務を「尊敬 respect」であるものとし,訳語が異なっています。また,同条は“Les époux se doivent mutuellement respect, fidélité, secours, assistance. (夫婦は相互に尊重,貞操,扶助及び協力の義務を負う(大村258頁参照)。)ですので,尊重されるのは相手方配偶者そのものであって,その人格ではありません。)。

当該単語“respect”の意味をLe Nouveau Petit Robert (1993)で検してみると,①古義は「考慮すること(Fait de prendre en considération)」,②現代では「同人について認められる価値のゆえに当該某に対する嘆賞の思い(une considération admirative)を抱かしめ,かつ,同人に対して節度及び自制をもって(avec réserve et retenue)振る舞うようにさせる感情(sentiment)」,③複数形では「敬意の印」,④「よいと判断されたもの(une chose jugée bonne)に対する,侵害せず,違背しないようにとの気遣いを伴う(avec le souci de ne pas y porter atteinte, de ne pas l’enfreindre)配慮(considération)」,⑤やや古い表現である“respect humain”は「他者の判断に対する恐れ(crainte)であって,一定の態度を避けるに至らしめるもの」及び⑥熟語として“tenir qqn en respect”は,「武器を用いて誰それを近づけない」ということである,というような説明がありました。⑥において顕著ですが,respectは,相手と距離を置くこと(le tenir à distance)を伴うものであって,節度及び自制(②)並びに侵害及び違背の避止(④)という消極的な配慮によって特徴付けられる態度であるわけです。かしこんで,みだりに関与しないということでしょう。べたべたと積極的に世話を焼くことが求められているわけではありません。②の語義に関するバルザックからの引用には「尊重(le respect)は,父母もその子らも同様に保護する障壁(une barrière)である。」とありました。分け隔てる障壁であって,(ぬる)かな一体化を促進するものではありません。(ところで,余計なことながら,⑤のrespect humainは,我が新型コロナウイルス対策流行時代の日本語では「思いやり」ですね。)

 しかし,衒学的にフランス語辞典を振り回さずとも,「尊重(respect)」するとは,単に,相手方に暴力を振るわず,かつ,その「個人の尊厳」たる「名誉」を害しない,ということを意味するにすぎないのだ,ということでもよいのでしょうか。大村教授の著書においては,前記のとおり,フランス民法で夫婦の義務にrespectが追加されたのは「これは,相互の尊重を害する行為として暴力行為を位置づけるためではないかと思われる。日本法においても,同様の規定を置くことは考えられないではない。」と記載されているとともに(大村118頁。また,258頁),「今日においては,侮辱こそが重要な離婚原因であるのではないか」,婚姻において「再び「名誉」が重要になりつつある。もっとも,ここでの「名誉」とは,「個人の尊厳」にほかならない。「尊重」という言葉はこのことを表すのである。」との見解が表明されています(同118頁)。

ただし,専ら暴力及び侮辱の禁止ということであれば民法821条後段の「体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動をしてはならない」で読めてしまうので,同条前段にいう「人格を尊重」は,それより広義なものと解さなくては,後段との単なる重複規定となって面白くないことになります。そこで,「価値観の不当な押し付け等」の禁止が含まれるものとされたのでしょう。他方,新民法817条の12は,父母は「体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動をしてはならない」旨まで明定することをしていませんが,これは,当該規律は「その子の人格を尊重する」というところに当然含まれているから,ということなのでしょう。

 

(3)フランス民法371条の1

 その後,フランス民法において,子の人格の尊重(respect)規定が設けられています。

 

   Article 371-1

L'autorité parentale est un ensemble de droits et de devoirs ayant pour finalité l'intérêt de l'enfant.

Elle appartient aux parents jusqu'à la majorité ou l'émancipation de l'enfant pour le protéger dans sa sécurité, sa santé, sa vie privée et sa moralité, pour assurer son éducation et permettre son développement, dans le respect dû à sa personne.

L'autorité parentale s'exerce sans violences physiques ou psychologiques.

Les parents associent l'enfant aux décisions qui le concernent, selon son âge et son degré de maturité.

 

  第371条の1 親権は,子の利益を志向する権利及び義務の総体である。

    親権は,その安全,健康,私生活及び徳性において子を保護するため,並びに,その人格に対して正当に払われるべき尊重をもって(dans le respect dû à sa personne)その教育を確保し,及びその発展を可能とするため,子の成年又は親権解放まで,父母に(aux parents)帰属する。

    親権は,肉体的又は精神的な暴力を伴わずに行使される。

    父母は,その年齢及び発達に応じて,子にかかわる決定にその子を参与させる。

 

フランス民法371条の1では,親権の行使における肉体的又は精神的な暴力の禁止の規律(同条3項。佐藤隆幸編著128頁では「親権は身体的暴力又は精神的暴力を用いずに行使される。」と訳されています。)とは直接結び付けられない場所において,子の「人格に対する正当に払われるべき尊重」が語られています(同条2項)。

「その人格に対する正当に払われるべき尊重をもって」の部分は「その安全,健康,私生活及び徳性において子を保護する」の部分にまでかかるものかどうかは難しいところですが,pour… pour…の区切りを大きいものと解してみました。確かに,安全やら健康にかかわる場面においては,最近の新型コロナウイルス感染対策の「徹底」的実施情況に鑑みても,いちいち各人の「人格に対する正当に払われるべき尊重」など気にしてはいられないでしょう。

しかしながら,子の「教育を確保し,及びその発展を可能とする」という場面(なお,ここでの教育及び発展は,単に肉体的なものではなく,そこにおいて尊重せられるべきものたる「人格」に係る「人格」的なものなのでしょう。)ならざる徳性(moralité)の保護の場面においては,その子の「人格に対する正当に払われるべき尊重」などというものに頓着する必要はないということになると,難しいことになるようです。教育及び発展に関する配慮と徳性の保護との切り分けが大きな重要性を帯びることになってしまうからです。特に家庭における宗教実践は,子の教育及び発展に係る配慮の側面とその徳性の保護の側面との両面を有するものでしょう。前者においては子の人格を尊重するが,後者においては子の異議は一切許さない,というような使い分けがうまく行くものかどうか。また,神聖な宗教の価値観の押し付けが「不当」なものであることは,切り分け云々以前に,そもそもあり得ないとの主張も当然あるでしょう。

なお,フランス民法371条の12項は子の「人格に対する正当に払われるべき()尊重」といって,単純に「人格に対する尊重」といっていませんが,父母としてふさわしからざる,子の人格に対する迎合的尊重まではする必要はない,という趣旨でしょうか。

 

(4)解釈論

 以上フランス民法をも参考にして民法821条における「子の人格を尊重」の意味するところを解せば,親権を行う者による子に対する暴力及び侮辱を禁止する(これは,子の虐待防止の緊要性に鑑み,同条後段において再び,単純な暴力及び侮辱の禁止よりもやや包括的な形で文字化されていることになります。)ほか,子の教育及びその人格的発展に係る監護においては,親権者はその理想を,子の特性(資質・志向・能力の限界又は偏向)の前に諦念と共に譲って(ただし,フランス民法371条の12項の“dû”の文言を重視すれば,無節操に子に迎合するということではないことになります。),自らの価値観の承継などということに執着すべからず,と義務付けるものということになるでしょうか。

 

4 新民法817条の12における「人格を尊重」すること。

 

(1)第1項

 新民法817条の121項の「子の人格を尊重」については,民法821条におけるもののように理解すれば大体のところはよいのでしょう。

ただし,新民法817条の121項の「子の人格を尊重」に関しては,法制審議会家族法制部会において,子の意見等を尊重・考慮(これは,2024130日に開催された同部会第37回会議に提出された同部会資料37-22頁によれば,「子の「意見」・「意思」・「意向」・「心情」等の「考慮」又は「尊重」」ということのようです。)する旨の規定を別に明示すべきではないかということが問題となり,最終的な整理は,同部会第37回会議における法務省民事局参事官である北村治樹幹事の発言(同会議議事録2頁)によれば,同項の「子の人格を尊重する」ことは,「子の意見等が適切な形で尊重されるべきとの考え方を含むもの」であるとされたとのことです。しかして結局このようにして子の意見等の尊重に係る規定を特に設けなかったことの意味は,同部会の資料34-2における記載(「子の人格の尊重等を掲げることに加えて,子の意見等を尊重・考慮すべきことを父母の義務として掲げるべきかどうかを検討するに当たっては,子の意見等を明示的に規定することの法的意味やそれが父母の行動に与える影響等を踏まえつつ,どのような表現により規律することが相当かも含め,慎重に検討する必要があるように思われる。この部会のこれまでの議論においても,例えば,具体的な事情の下では子が示した意見等に反しても子の監護のために必要な行為をすることが子の利益となることもあり得るとの指摘や,子の意見等を尊重すべきことを過度に重視しすぎると,父母が負うべき責任を子の判断に転嫁する結果となりかねないとの指摘,父母の意見対立が先鋭化している状況下において子に意見表明を強いることは子に過度の精神的負担を与えることとなりかねないとの指摘などが示されていた。」(5-6頁))等に鑑みると,子の意見等の尊重といっても,そこには自ずと限界があるということを含意するものでしょう(フランス民法371条の12項の“dû”参照)。確かに,子の意見表明権といってもその際親が「自己の都合のいいようにこどもに意見を言わせるというような行為は不適切な行為であって,それこそ子の人格の尊重にもとる行為」(202419日に開催された法制審議会家族法制部会第36回会議における池田清貴委員発言(同会議議事録14頁))となるものでしょう。子の人格の独立性もあらばこそ,親が子の人格を否認して,自己の人格に従属させることになるからです。

 

(2)第2項

他方,新民法817条の122項は,子の父母は「子に関する権利の行使又は義務の履行に関し,その子の利益のため,互いに人格を尊重し協力しなければならない」ということですから,そこでは父母間における相互的な「人格の尊重」が求められています。

これについては,親による「子の人格の尊重」の場面とは異なりますから――新民法817条の122項における父母は,夫婦すなわち婚姻関係にあるものに限定されていないものの――フランス民法212条の規定する夫婦相互の義務に関する前記大村教授流の解釈を採用することが可能であるようです(ただし,夫婦ではないので,「貞操,扶助及び協力(なおこの「協力」は "assistance"ですので,新民法817条の122項の「協力」とは異なる「助力」「補佐」といったものでしょう。)」の義務は相互に負いません。)。そうであれば,「互いに人格を尊重し」と文言は抽象的ながらも,その意味するところは両者間における暴力・侮辱の禁止にとどまることになりましょう(法制審議会家族法制部会資料34-2によれば「部会のこれまでの議論においては,離婚後の父母双方が子の養育に関して責任を果たしていくためには,父母が互いの人格を尊重できる関係にある必要があることや,父母が平穏にコミュニケーションをとることができるような関係を維持することが重要であることなどの意見が示された」ことを踏まえて「父母がその婚姻関係の有無にかかわらず互いの人格を尊重すべきである」との規定が生まれたそうですが(6頁),「互いの人格を尊重できる関係」といわれただけではなお具体的にどのようなものかが分かりにくいところ,「平穏なコミュニケーション」の確保が主眼ということになりましょうか。)。「協力」することの前提条件としてはこれで満足すべきなのでしょう。価値観の相違等は,協力の過程の中で解きほぐされて何とかされていくべきものでしょう。新民法817条の122項の「互いに人格を尊重し・・・なければならない」との「人格尊重義務」の違反には,「親権者の指定・変更の審判や,親権喪失・親権停止の審判等において,その違反の内容が当該父母の一方にとって不利益に考慮されることになるとの解釈があり得る」とのことですので(法制審議会家族法制部会資料34-27頁(注1)),当該義務の外延は明確に限定されてあるべきものでしょう。ちなみに,離婚後等の父母共同親権状態を父母のうちいずれか一方の単独親権に変更する場合の審判において適用される新民法81972号は,「父母の一方が他の一方から身体に対する暴力その他の心身に有害な影響を及ぼす言動(次項において「暴力等」という。)を受けるおそれ」等の事情を考慮するものとしています。父母が協力してする子の養育においても,両者間における当該暴力等が協力の阻害要因として特に懸念されるということでしょう。

その余の種々の注文を取り除いた狭い解釈(専ら暴力・侮辱を禁ずるものとの解釈)を採用した方が,それについて「互いに人格を尊重」すべきものとされた(暴力・侮辱禁止以外の)多様な事項に係る諸々の事情が理由ないしは口実(例えば,「全面的に私の人格を尊重しないような奴と子育てについて協力するいわれはない」云々)とされて「その子の利益のため」の「協力」及びそれに向けた努力が放棄されてしまうという(子にとって残念であろう)場面が,より少なくなるものと思われます。

法制審議会家族法制部会第36回会議において示された原田直子委員の理解によれば,新民法317条の122項の「互いに人格を尊重し」なければならないとの規律に違反して「親権の変更とか,そういう問題に通じる」行為は,「父母間の対立をあおる行為」であって,①「DVや虐待」,②「濫訴的な申立て」,③「父母の同意なしに勝手にこどもの写真とかをネットに上げ」ること及び④「元配偶者の批判をするとかいう行為」が含まれるとされています(同会議議事録5頁)。しかし,同項での「人格を尊重し」の射程の限界付けを重んじようとする立場からすると,①はともかく,②は非協力・反協力の問題であり,③は子の利益に反するとともに非協力であるから問題なのでしょうし(なお,ちなみにフランス民法372条の11項は「父母は,第9条に規定する私生活の権利を尊重して,彼らの未成年子の肖像権を共同して保護する。(Les parents protègent en commun le droit à l'image de leur enfant mineur, dans le respect du droit à la vie privée mentionné à l'article 9.)」と規定しています。),④も,相手方に対する侮辱に相当することとなる場合に当然問題となるほかは,子に対してされる場合において,子の利益に反するときに問題となり,かつ,間接的に反協力行為となるものであると考えるべきではないでしょうか。

なお,別居親(les parents séparés)による親権行使に関するフランス民法373条の22項は「父母の各々は,子との個人的な関係を維持し,かつ,その子と他方の親とのつながりを尊重しなければならない。(Chacun des père et mère doit maintenir des relations personnelles avec l'enfant et respecter les liens de celui-ci avec l'autre parent.)」と規定しています。ここで父母の各々が尊重すべきもの(doit respecter)として規定されているのは,「子と他方の親とのつながり」です(ちなみに,当該つながり(liens)に対する「尊重」の意味するところは,要は,積極的作為義務ではなく,他方の親と子とのつながりを阻止し,又は稀薄化し,若しくは消滅せしめるような意地悪をするな,という消極的なものでしょう。)。これに対して,我が新民法817条の122項において,父母によって尊重されるべきものは専ら互いの人格です。しかし,相手方によって尊重されるべき父又は母の各「人格」にその子とのつながりまでが当然含まれるものかどうか。やはりそこまでは,ちょっと読み取りにくいように思われます(なお,20231128日開催の法制審議会家族法制部会に提出された同部会資料34-2には「部会資料32-1の第23の注2では,「監護者による身上監護の内容がその自由な判断に委ねられるわけではなく,これを子の利益のために行わなければならないこととの関係で,一定の限界があると考えられる。例えば,監護者による身上監護権の行使の結果として,(監護者でない)親権者による親権行使等を事実上困難にさせる事態を招き,それが子の利益に反する場合がある」との指摘を注記しているが,このような監護者による監護の限界を父母間の人格尊重義務と結びつけて整理することもできると考えられる。」とありますが,当該監護の限界は,やはり直接的には「子の利益に反する」ことによるとともに,親権者に対してはそもそもその権利を侵害してはならないことによるのではないでしょうか。)

父母の各々と子とのつながりに対する他方の「尊重」については,我が国ではむしろ,「親子の交流等」に係る新民法817条の131項の規定(「第766条〔協議離婚〕(第749条〔婚姻の取消し〕,第771条〔裁判上の離婚〕及び第788条〔父による認知〕において準用する場合を含む。)の場合のほか,子と別居する父又は母その他の親族と当該子との交流について必要な事項は,父母の協議で定める。この場合においては,子の利益を最も優先して考慮しなければならない。」)における「〔父母の協議〕の場合においては,子の利益を最も優先して考慮しなければならない」の部分が対応するということなのでしょう。しかし,「子の利益を最も優先して考慮」した結果,他方の親とのつながりを阻止し,又は稀薄化し,若しくは消滅せしめるべきであるとの結論に達した父母の一方の当該結論を,同項の規定自体によって否定することは難しいのではないでしょうか。

「面会交流はかえって父母の間の関係を複雑にする,という危惧も強く,その権利性を認めるのに慎重な見解」があったところ(大村98頁),2023718日に開催された法制審議会家族法制部会第29回会議に提出された同部会資料29に記載されているところは「(抽象的な)親子交流の法的性質についていかなる見解を採るにせよ,本文記載のとおり,父母の協議又は審判によって具体的に親子交流の定めがされた場合には,父母間に具体的な権利義務が発生するものと考えられる。この部会における議論の中では,父母は,離婚後も,子の養育に関して双方の人格を尊重しなければならないとする考え方も示されていたところ,仮にこの考え方を採用する場合には,父母の協議又は審判によって親子交流の定めがされ,これが具体的な権利となったときには,父母は,その実施に当たって相互に協力するとともに,互いの人格を尊重しなければならないとする考え方があり得る。他方で,仮に親子交流をすることが親の権利であると考える意見に立ったとしても,この「権利」は,子の利益のために行使すべきものである上,父母の協議又は審判によって親子交流の定めがされるまでは,その権利の内容が具体的に定まらないため,子と別居する親が,親であること(又は親権者であること)のみをもって,同居親に対し,自己の希望する方法や頻度での親子交流の実施を一方的に請求し,その強制をすることができるわけではないと考えられる。」というものでありました(35頁(注1))。結局,家族法制部会資料34-2においては,「親子交流については,父母の協議又は家庭裁判所の手続によって定めることが想定されているため(〔民〕法第766条),この資料のゴシック体の記載のような規律〔新民法817条の12に対応〕を設けたとしても,〔中略〕父母の協議等を経ることなく別居親が親子交流の実施を一方的に求めることができるようになるわけではないと考えられる。」とされています(4-5頁(注1))。

ちなみに,フランス民法373条の212項は,「訪問及び宿泊受入れの権利の行使は,重大な事由によらなければ,他方の親に対して拒絶され得ない。(L'exercice du droit de visite et d'hébergement ne peut être refusé à l'autre parent que pour des motifs graves.)」と規定しています。

 

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(前編):モーセ,ソロモン,アウグストゥス,モンテスキュー,ナポレオン,カンバセレス及びミラボー

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080442857.html



7 西暦1872年の監獄則(明治五年太政官第378号布告)及び西暦1881年の監獄則(明治14年太政官第81号達)

 

明治五年十一月二十七日(18721227日)の我が監獄則中典造十二条の第10条懲治監には,次のような規定がありました。第3項に御注目ください。

 

    第10条懲治監

 此監亦界区ヲ別チ他監ト往来セシメス罪囚ヲ遇スル他監ニ比スレハ稍寛ナルヘシ

 20歳以下懲役満期ニ至リ悪心未タ悛ラサル者或ハ貧窶営生ノ計ナク再ヒ悪意ヲ挟ムニ嫌アルモノハ獄司之ヲ懇諭シテ長ク此監ニ留メテ営生ノ業ヲ勉励セシム21歳以上ト雖モ逆意殺心ヲ挟ム者ハ獄司ヨリ裁判官ニ告ケ尚此監ニ留ム

 平民其子弟ノ不良ヲ憂フルモノアリ此監ニ入ン(こと)ヲ請フモノハ之ヲ聴ス

 〔第4項以下略〕

 

懲治監は,1881年に至って,明治14年太政官第81号達の監獄則では「懲治人ヲ懲治スルノ所」たる懲治場となり(同則13款),同則19条は,懲治人を定義して,旧刑法(明治13年太政官布告第36号)79条,80条及び82条の不論罪に係る幼年の者及び瘖啞者(明治14年監獄則191款)並びに「尊属親ノ請願ニ由テ懲治場ニ入リタル者」を掲げています(同条2款)。この尊属親の請願による懲治人については,「前条第2款ニ記載シタル懲治人ハ戸長ノ証票ヲ具スルニ非サレハ入場ヲ許サス但在場ノ時間ハ6個月ヲ1期トシ2年ニ過ルヲ得ス」(明治14年監獄則201項)及び「入場ヲ請ヒシ尊属親ヨリ懲治人ノ行状ヲ試ル為メ宅舎ニ帯往セント請フトキハ其情状ニ由リ之ヲ許スヘシ」(同条2項)という規定がありました。

 しかし,懲治場は,明治22年勅令第93号の監獄則では専ら「不論罪ニ係ル幼者及瘖啞者ヲ懲治スル所」となってしまっています(同則16号)。なお,明治22年勅令第93号は1889713日の官報で布告されていますが,その施行日は,公文式(明治19年勅令第1号)10条から12条までの規定によったのでしょう。

その附則2項で明治22年の監獄則を廃止した監獄法(明治41年法律第28号)は現行刑法(明治40年法律第45号)と共に1908101日から施行されたものですが(監獄法附則1項,明治41年勅令第163号),そこには懲治場の規定はありません(ただし,懲治人に関する明治22年の監獄則の規定は当分の内なお効力を有する旨の規定はありました(同法附則2項ただし書。また,刑法施行法(明治41年法律第29号)16条)。)。

なお,現行刑法の施行は旧少年法(大正11年法律第42号)のそれを伴うものではなく(後者の法律番号参照),旧少年法の施行は,192311日(同法附則及び大正11年勅令第487号)を待つことになります。

 

8 西暦1890年の旧民法人事編


(1)旧民法人事編の規定


  第149条 親権ハ父之ヲ行フ

   父死亡シ又ハ親権ヲ行フ能ハサルトキハ母之ヲ行フ

   父又ハ母其家ヲ去リタルトキハ親権ヲ行フコトヲ得ス

 

  第151条 父又ハ母ハ子ヲ懲戒スル権ヲ有ス但過度ノ懲戒ヲ加フルコトヲ得ス

  第152条 子ノ行状ニ付キ重大ナル不満意ノ事由アルトキハ父又ハ母ハ区裁判所ニ申請シテ其子ヲ感化場又ハ懲戒場ニ入ルルコトヲ得

   入場ノ日数ハ6个月ヲ超過セサル期間内ニ於テ之ヲ定ム可シ但父又ハ母ハ裁判所ニ申請シテ更ニ其日数ヲ増減スルコトヲ得

   右申請ニ付テハ総テ裁判上ノ書面及ヒ手続ヲ用ユルコトヲ得ス

   裁判所ハ検事ノ意見ヲ聴キテ決定ヲ為ス可シ父,母及ヒ子ハ其決定ニ対シテ抗告ヲ為スコトヲ得

 

旧民法人事編151条は,ナポレオンの民法典375条を承けたもののようではありますが,フランスでは「日常的な懲戒権は,「監護権の存在からも出てくる」が,「自然に慣習上存する」(谷口知平『現在外国法典叢書(14)佛蘭西民法[1]人事法』有斐閣1937 p.361ものとされる」とのことですから(広井多鶴子「親の懲戒権の歴史-近代日本における懲戒権の「教育化」過程-」教育学研究632号(19966月)17頁註2)),我が国産規定なのでしょう。確かに,ナポレオンの民法典375条は厳密にいえば懲戒の手段(moyens de correction)たるその次条以下の拘禁について,更にその前身である1802930日国務院提出案6条は矯正の施設に拘禁させる父の権能についていきなり語っているものであって,いずれもそれに先立つ懲戒権それ自体を基礎付けるものではありません。旧民法人事編151条の前身は,熊野敏三,光明寺三郎,黒田綱彦,高野真遜,磯部四郎🎴及び井上正一が分担執筆し,18887月頃に起草が終了(大久保泰甫『日本近代法の父 ボワソナアド』(岩波新書・1977年(1998年追補))157頁)した旧民法人事編第一草案の第243条(「父若クハ母ハ家内ニ於テ其子ヲ懲戒スルノ権ヲ有ス但シ過度ノ懲戒ヲ加フルコトヲ得ス」)であったところですが,そこにおいて「画期的」であったのはただし書で,理由書によれば「「我国ノ如キ父母・・・懲戒モ往々過度残酷ニ流ル」,ゆえに「過度ノ懲戒ヲ禁」じる必要があるという趣旨」で設けられ,更に親権の失権制度までも準備されていたのでした(小口恵巳子「明治民法編纂過程における親の懲戒権-名誉維持機能をめぐって-」比較家族史研究20号(2005年)71頁)。その際の起草委員らの意気込みは,これも理由書によれば,「此思想〔「親権ハ父母ノ利益ノ為メ之ヲ与フルモノニ非ス」,「子ノ教育ノ為」であるとの思想〕ハ我国ノ親族法ニ反スヘシト雖モ従来ノ慣習ヲ維持スルヲ得ヘカラス」,「其原則ヲ一変セスンハ是等ノ不都合ヲ改正スルヲ得ヘカラス」」(小口77頁)という勢いであって,「かなりヨオロッパ的,進歩的」であるのみならず(大久保157頁),むしろフランス民法よりも更に「進歩的」であったように思われます。当時の「仏国学者中ニハ民法ノ頒布以来父母ノ権力微弱ト為リタルコトヲ歎息シ羅馬ノ古制ヲ追慕スル者」がなおあったようです(旧民法人事編第一草案理由書『明治文化資料叢書第3巻 法律編上』(風間書房・1959年)183頁(熊野敏三起稿))。

旧民法人事編152条は,フランス的伝統が原則とするナポレオンの民法典376条には倣ってはいません。同法典377条以下の規定に倣っています。

旧民法人事編1524項は入場申請に関する決定に対する抗告を認めていますが,父の権威のために父子間の争訟を避けようという1802930日の国務院審議におけるブウレ発言の立場からするとどうしたものでしょうか。旧民事訴訟法(明治23年法律第29号)4622項には「抗告裁判所ハ抗告人ト反対ノ利害関係ヲ有スル者ニ抗告ヲ通知シテ書面上ノ陳述ヲ為サシムルコトヲ得」とありました。ナポレオンの民法典3822項の手続においては,父子直接対決ということにはならないようです。

 

(2)西暦1888年の旧民法人事編第一草案244条及び245

なお,旧民法人事編152条の前身は,その第一草案の第244条及び第245条ですが,両条の文言及びその理由は,次のとおりです。

 

 第244条 父若クハ母其子ノ行状ニ付重大ナル不満ノ事由ヲ有スルトキハ地方裁判所長ニ請願シテ其子ヲ相当ノ感化場若クハ懲戒場ニ入ルコトヲ得

  此請願ハ口頭ニテ之ヲ為スコトヲ得ヘク又拘引状ニハ其事由ヲ明示シ且ツ其他裁判上ノ書面及ヒ手続ヲ用ユルコトヲ得ス

  入場ノ日数ハ16年未満ノ子ナレハ3个月又満16年以上ノ子ナレハ6个月ヲ超過スルコトヲ得ス但シ父若クハ母ハ常ニ裁判所長ニ請願シテ其日数ヲ延長シ又ハ減縮スルコトヲ得(仏第375条以下,伊第222条)

 第245条 父母及ヒ子ハ裁判所長ノ決定ニ対シテ控訴院長ニ抗告スルコトヲ得

  所長及ヒ院長ハ検事ノ意見ヲ聴キ裁判ス可シ(伊第223条)

 (理由)若シ子ノ性質不良ニシテ尋常ノ懲戒ヲ以テ之ヲ改心セシムル能ハサルトキハ法律ハ一層厳酷ナル懲戒処分ヲ用フルコトヲ允許ス即チ其子ヲ拘留セシムルノ権是レナリ本条ハ其手続ヲ規定スルモノトス父母ハ其事由ヲ具シテ地方裁判所長ニ請願スヘシ所長ハ其事情ヲ調査シ検事ノ意見ヲ聴キ其請願ノ允当ナルトキハ其允許ヲ与フヘシ此拘留ハ子ノ為メ一生ノ恥辱トナルヘケレハ成ル可ク之ヲ秘密ニシ其痕跡ヲ留メサルヲ要ス故ニ其請求ハ口頭ニテモ之ヲ為スヲ得ヘク且ツ一切ノ書類及ヒ手続ヲ要セサルモノトス拘引状云々ハ之ヲ削除スヘシ然レトモ其子ヲ拘留スヘキ場所ハ如何是レ特別ノ懲戒場タラサルヘカラス若シ之ヲ普通ノ監獄ニ入レ罪囚ト同居セシムルトキハ懲戒ニ非ラスシテ却テ悪性ヲ進ムルニ至ルヘシ拘留ノ日数ハ子ノ年齢ニ従ヒ之ヲ定メ満16年以下ナレハ3ケ月又16年以上ナレハ6ケ月ヲ超ユヘカラサルモノトナセリ但シ場合ニ由リ其期限ヲ伸縮スルヲ得ヘシ若シ子其拘留ヲ不当ト信スルトキハ之ヲ控訴院長ニ抗告スルヲ得ヘシ

   (旧民法人事編第一草案理由書187頁(熊野))

 

「拘引状云々ハ之ヲ削除スヘシ」と条文批判をしている熊野敏三は,「理由」は起稿したものの,当該条項の起草担当者ではなかったのでしょう。確かに,「拘引状ニハ其事由ヲ明示シ」では,ナポレオンの民法典3781項(身体拘束令状に理由は記載されない。)と正反対になっておかしい。あるいは,「拘引状ニハ其の事由ヲ明示シ〔する〕コトヲ得ス」の積もりだったのかもしれませんが,それでも誤訳的仏文和訳だったというべきなのでしょう(筆者も人様のことは言えませんが。)。しかし,「拘引状」が消えてしまうと,ミラボー的問題児の身柄を強制的に抑える肝腎の手段がないことになって,同人が同意して自ら感化場又は懲戒場に入ってくれなければいかんともし難いことになり,かつ,素直に感化場又は懲戒場に入ってくれるようなよい子には,そもそもそこまでの懲戒は不要であるということにはならなかったでしょうか。

 

9 西暦1898年の民法第4編第5編(明治31年法律第9号)及び旧非訟事件手続法(明治31年法律第14号)

 

(1)親権

 

  民法877条 子ハ其家ニ在ル父ノ親権ニ服ス但独立ノ生計ヲ立ツル成年者ハ此限ニ在ラス  

   父カ知レサルトキ,死亡シタルトキ,家ヲ去リタルトキ又ハ親権ヲ行フコト能ハサルトキハ家ニ在ル母之ヲ行フ

 

 親権について,梅謙次郎は次のように説明しています。

 

  我邦に於ては,従来,法律上確然親権を認めたるの迹なし。唯,事実に於て多少之に類するものなきに非ずと雖も,戸主権熾なりしが為めに十分の発達を為すことを得ざりしなり。維新後に至りては漸く戸主権の必要を減じたるを以て,茲に親権の必要を生じ,民法施行前に在りても父は父として子の代理人となり,子の財産に付き全権を有するものとせるが如し。是れ即ち親権なりと謂ふも可なり。然りと雖も,其父は子の身上に付き果して如何なる権力を有せしか頗る不明に属す。又其財産に付ても多少の制限なくんば竟に子の財産は,寧ろ父の財産たるかの観あるを免れず。

  (梅謙次郎『民法要義巻之四 親族編(第22版)』(私立法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1912年)342-343頁。原文は片仮名書き,句読点・濁点なし。)

 

  蓋し親権は,自然の愛情を基礎とし,父をして子の監護,教育等を掌らしむるものな〔り〕。

  (梅346-347頁)

 

「自然の愛情を基礎」とする梅の考え方の根底は,ローマ法的というよりはフランス法的なのでしょう。

 

(2)懲戒権

 

ア 条文

 

  民法882条 親権ヲ行フ父又ハ母ハ必要ナル範囲内ニ於テ自ラ其子ヲ懲戒シ又ハ裁判所ノ許可ヲ得テ之ヲ懲戒場ニ入ルルコトヲ得

   子ヲ懲戒場ニ入ルル期間ハ6个月以下ノ範囲内ニ於テ裁判所之ヲ定ム但此期間ハ父又ハ母ノ請求ニ因リ何時ニテモ之ヲ短縮スルコトヲ得

 

民法旧882条の参照条文としては,旧民法人事編151条及び152条,フランス民法375条から383条まで,オーストリア民法145条,イタリア民法222条,チューリッヒ民法662条,スペイン民法156条から158条まで,ベルギー民法草案3612項及び363条並びにドイツ民法第1草案1504条及び同第2草案15262項が挙げられており(日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録第50巻』6丁裏-7丁表),1896115日の第152回会合において梅謙次郎が「本条ハ人事編ノ第151条及ヒ第152条ト同シモノテアリマス」と述べていますから(民法議事速記録507丁表),民法旧882条はフランス民法の影響を色濃く受けた条文であったものといってよいのでしょう。

 

イ ドイツ民法(参考)

ちなみにドイツ民法第1草案1504条は,次のとおりでした。

 

§. 1504.

      Die Sorge für die Person umfaßt insbesondere die Sorge für die Erziehung des Kindes und die Aufsicht über dasselbe. Sie gewährt die Befugniß, bei Ausübung des Erziehungsrechtes angemessene Zuchtmittel anzuwenden.

  (身上に対する配慮は,特に,子の教育に対する配慮及びその子の監督を包含するものであるとともに,教育権の行使に当たって,相応な懲戒手段を用いる権限を与えるものである。)

      Das Vormundschaftsgericht hat den Berechtigten auf dessen Antrag durch geeignete Zwangsmaßregeln in der Ausübung des elterlichen Zuchtrechtes nach verständigem Ermessen zu unterstützen.

  (後見裁判所は,当該権利者からの申立てがあるときには,適切な強制手段を執ることにより,親の懲戒権の行使において権利者を賢慮ある裁量をもって支援しなければならない。)

 

 結果として,ドイツ民法1631条は次のとおりとなりました。

 

§. 1631.

   Die Sorge für die Person des Kindes umfaßt das Recht und die Pflicht, das Kind zu erziehen, zu beaufsichtigen und seinen Aufenthalt zu bestimmen.

  (子の身上に対する配慮は,子を教育し,監督し,及びその居所を定める権利及び義務を包含する。)

      Der Vater kann kraft des Erziehungsrechts angemessene Zuchtmittel gegen das Kind anwenden. Auf seinen Antrag hat das Vormundschaftsgericht ihn durch Anwendung geeigneter Zuchtmittel zu unterstützen.

  (父は,教育権に基づき,相応な懲戒手段を子に対して用いることができる。父の申立てがあるときには,後見裁判所は,適切な懲戒手段を用いることによって同人を支援しなければならない。)

 

ウ 懲戒権に関する学説

 懲戒権については,次のように説かれ,ないしは観察されています。

 

  蓋し懲戒権は,主として教育権の結果なりと雖も,我邦に於ては之を未成年者に限らざるを以て,必ずしも教育権の結果なりと為すことを得ず。而して懲戒権の作用は敢て一定せず。或は之を叱責することあり,或は之を打擲することあり,或は之を一室内に監禁することあり。此等は皆,親権者が自己の一存にて施すことを得る所なり。唯,其程度惨酷に陥らざることを要す。法文には「必要ナル範囲内ニ於テ」と云ひ,実に已むことを得ざる場合に於てのみ懲戒を為すべきことを明かにせり。而して其方法も,亦自ら其範囲を脱することを得ざるものとす(若し惨酷に失するときは,896〔親権の喪失〕の制裁あり。)。

  (梅355-356頁)

 

  懲戒権は監護・教育には収まりきらない特殊な性質を持っている。おそらくこれは,親権が私的な権力であることが端的に表れている,と見るべきだろう。父は子に対して自律的な権力を有しており,子が社会に対して迷惑を及ぼさないよう,予防をする義務を負い権利を有するというわけである。

  (大村254頁)

 

懲戒権の対象となる子を未成年者に限るように起草委員の原案を改めるべきではないかという提案が法典調査会の第152回会合で井上正一から出ましたが,当該提案は賛成少数で否決されています(民法議事速記録5011丁表-12丁表)。その際原案維持(すなわち,成年の子も親権に服する以上懲戒の対象とする。)の方向で「実際ハ未成年者ヨリ成年者カ困ルカモ知レヌ未成年ハ始末カ付クガ成年ニ為ルト始末ノ付カヌコトカアラウト思ヒマス」(民法議事速記録5012丁表)と発言したのが村田保であったのが(筆者には)面白いところです。人間齢を取ると素直さを失って始末に困るようになる,ということでしょうが,夫子自身も,「村田は性格が執拗,偏狭という評を受け,貴族院における「鬼門」だといわれた」そうです(大久保164頁)。

 

エ 懲戒場に関して

 

(ア)梅謙次郎の説明

 

  親権者は尚ほ進んで之を懲戒場に入るることを得べし。唯,是が為めには特に裁判所の許可を得ることを必要とせり。蓋し子の身体を拘束すること殊に甚しく,且,其処分が子の徳育,智育,体育に重大なる影響を及ぼすべきを以て,単に親権者の一存に任せず,裁判所に於て果して其必要なるや否やを審査し,又之を必要なりとするも,其期間の長短に付き裁判所に於て必要と認めたる範囲内に於てのみ之を許すべきものとせり。而して,如何なる場合に於ても其期間は6个月を超ゆることを得ざるものとし,尚ほ一旦定めたる期間も亦親権者の請求に因り何時にても之を短縮することを得るものとせり。

  (梅356頁)

 

旧民法人事編1521項の「感化場又ハ懲戒場」から感化場が落ちたことについて梅は,「字ノ如ク感化丈ケテアルナラハ寧ロ之ハ教育上ニ属スヘキモノト思ヒマス夫レテアレハ之ハ教育権ノ範囲内テ態々裁判所ヲ煩スコトヲ要セス父カ勝手ニ出来ル事テアラウト思ヒマス」と述べる一方,「若シ又感化場ト云フ名ハアツテモ矢張リ幾分カ懲戒ノ方法ヲ用ヰルモノテ身体ヲ拘束スルトカ苦痛ヲ与ヘルトカ云フモノテアレハ矢張リ法律ノ上カラ見レハ懲戒場テアリマス詰リ此箇条ノ精神ト云フモノハ子ヲ監禁スルノテアリマス其監禁スルコトハ幾ラ父ト雖モ勝手ニハ出来ヌ幾ラ父ト雖モ裁判所ノ許可ヲ得ナケレハナラヌト云フコトテアラウト思ヒマス」と弁じて,懲戒場の機能における拘禁(détention)の本質性を明らかにしています(民法議事速記録507丁表裏)。

ただし,フランス語の“correction”は「懲戒」と訳し得るものの,“maison de correction”には「感化院」という訳が現在あるところです(1938年のフランス映画『格子なき牢獄(Prison sans barreaux)』の舞台であるmaison de correctionは,「感化院」であるとされています。わざわざ「格子なき」というのですから,感化院には通常は格子があるわけでしょう。〔ないしは,牢獄性が本質とされるのでしょう。〕)。これに対して,我が国初の感化院は1883年に池上雪枝が大阪の自宅に開設したものだそうですが,自宅であったそうですから,その周囲を格子で囲みはしなかったものでしょう。1885107日には高瀬眞卿により東京の本郷区湯島称仰院内に私立予備感化院が開設されていますが,これはお寺ですね。フランス式の方が,日本式よりごついのでしょう。

梅はフランス式で考えていたのでしょうが,感化場ではない懲戒場とは,具体的には何でしょうか。

 

   懲戒場(〇〇〇)とは如何なる場所なるか民法に於て之を定めざるのみならず,民法施行法其他の法令に於て未だ之を定むるものあらず。故に裁判所は,親権者の意見を聴き,適当の懲戒場を指定することを得べし。然と雖も,将来に於ては之に付き一定の規定を設くる必要あるべし。

  (梅356-357頁)

 

ただし,梅は,旧刑法79条(また,80条及び82条)の懲治場との関係については,当該施設において「刑事ノ被告人カ出マシテサウシテ年齢ノ理由ヲ以テ放免サレタ者ト又普通ノ唯タ暴ハレ小僧ト一緒ニスルト云フコトハ如何テアラウカ」,「例ヘハ無闇ト近所ノ子供ト喧嘩ヲシテ困ルト云フヤウナ事丈ケテ別ニ盗坊ヲスルト云フヤウナ者テモナイ者ヲ刑事ノ被告人ト一緒ニスルト云フコトハ危険テアラウト思ヒマス」ということで,「可成ハ別ナ処ヘ入レルコトカ出来ルナラハ別ノ所ニ入レタイト云フ考ヲ持ツテ居リマスカラ夫レテ態サト「懲治場」ト云フ字ヲ避ケマシタ」と述べています(民法議事速記録509丁表)。

また,梅は家内懲戒場を認めていたようであって,「此「相当ノ」ト云フコトカ這入ツテ居ル以上ハ親カ内ニ檻テモ造ツテ入レルト云フコトナラハ夫レヲモ許ス積リテアリマスカ」との横田國臣の質問に対して,「私ハ其積リテアリマス身分テモアル人ハ其方カ却テ宜シイカモ知レヌ」と回答しています(民法議事速記録509丁裏-10丁表)。しかし,当該問答がされた際の条文案は「親権ヲ行フ父又ハ母ハ必要ナル範囲内ニ於テ自ラ其子ヲ懲戒シ又ハ裁判所ノ許可ヲ得テ之ヲ相当ノ懲戒場ニ入ルルコトヲ得」というものであったのでしたが(下線は筆者によるもの),当該「相当ノ」の文言は,法律となった民法旧8821項からは落ちています。したがって,やはり「懲戒場」は「公の施設であることはいうまでもない」(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)331頁)という整理になるのでしょうか。後記17で見る平成23年法律第61号による懲戒場関係規定の削除に当たっては,法定の懲戒場の不存在がすなわち懲戒場の不存在としてその理由とされていること等に鑑みると,梅の意思にかかわらず,懲戒場=公の施設説が公定説となったものでしょう。


DSCF2164

20233月の称仰院(東京都文京区湯島四丁目)


(イ)手続規定

 

  旧非訟事件手続法13条 審問ハ之ヲ公行セス但裁判所ハ相当ト認ムル者ノ傍聴ヲ許スコトヲ得

 

  旧非訟事件手続法15条 検事ハ事件ニ付キ意見ヲ述ヘ審問ヲ為ス場合ニ於テハ之ニ立会フコトヲ得

   事件及ヒ審問期日ハ検事ニ之ヲ通知スヘシ

 

  旧非訟事件手続法20条 裁判ニ因リテ権利ヲ害セラレタリトスル者ハ其裁判ニ対シテ抗告ヲ為スコトヲ得

   申立ニ因リテノミ裁判ヲ為ス場合ニ於テ申立ヲ却下シタル裁判ニ対シテハ申立人ニ限リ抗告ヲ為スコトヲ得

 

  旧非訟事件手続法25条 抗告ニハ前5条ニ定メタルモノヲ除ク外民事訴訟法ノ抗告ニ関スル規定ヲ準用ス

 

  旧非訟事件手続法92条 子ノ懲戒ニ関スル事件ハ子ノ住所地ノ区裁判所ノ管轄トス

   検事ハ前項ノ許可ヲ与ヘタル裁判ニ対シテ抗告ヲ為スコトヲ得

   第78条ノ規定〔抗告手続の費用及び抗告人の負担に帰した前審の費用の負担者を定めるもの〕ハ前項ノ抗告ニ之ヲ準用ス

 

10 西暦17世紀末-18世紀前半の日本国

懲戒場に関する梅の所論がどうしても抽象的になってしまうのは,公の施設としてのhôpitaux générauxVincennes城等に対応するものが,我が国には現実のものとしてなかったからでしょうか。

我が国の伝統的な子の懲戒観及び懲戒方法はどのようなものだったのか,時代は前後しますが,ここで江戸時代の様子を見てみましょう。

 

   父母は子を懲戒(〇〇)するの権利を有す。西沢与四作「風流今平家」〔元禄十六年(1703年)〕五六之巻第三に

    「入道耳にいれず,()()()()くゝり(〇〇〇)せつ(〇〇)かん(〇〇)する(〇〇)()誰何(〇〇)といはん(〇〇〇〇),汝等がしる事にあらず」

とあるはその一例なり。この懲戒権に基づきて親はまた,子を座敷牢に監禁することを得,(みやこ)(にしき)作「風流日本(やまと)荘子(そうじ)」(元禄十五年1702年))巻之二(勘当の智恵袋の段)に,

    「父母今は詮方尽,流石(さすが)名高き山下さへ,閉口せし上からは,外の評議に及まじ,(さて)是非もなき仕合と,おどり揚つて腹立し,座敷(〇〇)()に入置,さま〔ざま〕のせつかん目も当られず,一門を初め親しき友どち集り,色替品替詫言すれど,さら〔さら〕以て聞入れず,終に公に訴へ元禄十三辰1700年〕の秋,あり〔あり〕と勘当帳にしるし,(あわせ)壱枚あたへ,それから直に追出す」

とあり。また後に出す「傾城歌三味線」〔享保十七年(1732年)〕にも,「或時は座敷(〇〇)()に追込まれ,又或時は内証勘当して云々」と見えたり。

 父母が子を勘当(〇〇)することもまた,その懲戒権の行使なり。〔後略〕

(中田薫『徳川時代の文学に見えたる私法』(岩波文庫・1984年)170頁)  

 

 座敷牢への監禁措置のためには,公儀のお許しは不要であったわけでしょう。

ただし,「親が願い出て「官獄」に入れたり,放蕩の子を他領の親類に預けるといった制度・慣習は従来から存在」してはいたそうです(広井13頁)。それらはどのようなものかといえば,「『全国民事慣例類集』によれば,「官ニテ厳戒シ手鎖足鎖ヲ加エテ拘留シ或ハ其家ニ付シテ監守セシム」(伊賀)といった監禁や,「辺土ノ村」(対馬)へ移したり,「遠島」(大隅)にするといった「流罪」の場合もあった」そうです(広井13頁)。しかしながら,あるいは当該「制度・慣習」は全国的かつ強固なものではなく,それゆえに1889年の監獄則による請願懲治廃止及び1898年の現行民法施行時における法定懲戒場不存在状態が生じていたのではないでしょうか。

 

11 西暦1900年の感化法(明治33年法律第37号)及び1933年の少年教護法(昭和8年法律第55号)

 

(1)感化法

梅謙次郎が民法旧882条の懲戒場について「将来に於ては之に付き一定の規定を設くる必要あるべし」と述べたのは,1899年のことでしたが(梅初版発行年),その翌年に当該規定が整備されています。感化法です(190039日裁可,同月10日布告)。ただし,感化法制定のための主な推進力としては,梅らの不満もあったのでしょうが,18971月の英照皇太后大喪の際に各府県等に御下賜のあった慈恵救済資金の使用先の一つに感化院が想定されていたということがあったようです(第14回帝国議会貴族院感化法案特別委員会議事速記録第12-4頁参照)。(なお,感化法の施行日は「府県会ノ決議ヲ経地方長官ノ具申ニ依リ内務大臣之ヲ定ム」ということで(同法14条),全国一律ではありませんでした。当初の政府案では,勅令で施行日を定めることとしていたものが衆議院において修正されたものです。)

感化法53号は,「裁判所ノ許可ヲ経テ懲戒場ニ入ルヘキ者」を感化院の入院者として規定しています。同号による入院者は,民法旧882条の子は未成年者に限られないものとする法意に忠実に,20歳を超えても在院できることになっています(感化法6条)。

しかし,親権の行使として子を懲戒場たる感化院に入れた父又は母は,財産の管理を除いて在院又は仮退院中の子に対して親権を行うことができなくなるという規定(感化法82項・3項。感化院長が親権を行使(同条1項))は,感化院に子の世話をお願いする以上仕方がないとしても(なお,現在,児童福祉施設に入所中の子の親権者はなお親権を行い得るものとされつつ(児童福祉法(昭和22年法律第164号)471項),児童福祉施設の長に監護・教育に関して措置をする権限が認められています(同条3-5項)。),子を退院させて自己の親権行使を再開させることが自由にできなければ本来の親権者としては変なことではあります。ところが,感化法では在院者の親族又は後見人が子を退院させようとすると地方長官に出願して許可を受けなければならないことになっています(同法12条(1度不許可となると6箇月は再出願不可(2項))・13条(不許可処分には訴願が可能))。そこで民法旧8822項により期間短縮をしようとすると,今度は裁判所の裁判が必要なようでもあります。親権を発揮したつもりが,実は自ら親権を制限ないしは停止したような形になるというのはどうしたものでしょうか(ナポレオンの民法典379条参照)。

また,旧民法人事編152条の「感化場」を排し置いた梅としては,民法旧882条の「懲戒場」とは感化院のことである,となってしまった成り行きをどう思ったものでしょうか。ただし,感化院法9条は「感化院長ハ命令ノ定ムル所ニ依リ在院者ニ対シ必要ナル検束ヲ加フルコトヲ得」と規定していますから,拘禁と全く無縁の施設ではないようではあります。しかし,この「検束」は,「矢張リ親権ノ作用ノ懲戒ニ過ギナイノデアリマス,〔略〕大体検束ト申シマスモノハ民法ナドニ申シテ居ル親ノ懲戒権ノ範囲ニ止マル積リデアリマスガ,其懲戒ノ手段トシテハ或ハ禁足ヲスルトカ若クハ必要ニ応ジマシテハ1食或ハ2食ヲ減食ヲ致シマス,又ハ一室ニ閉禁ヲスルトカ云フヤウナ懲戒手段ヲ加ヘル考デアル,是ガ若シ此規定ガゴザイマセヌト不法監禁デアルト云フヤウナ疑ヲ来スモノデゴザリマスカラ,明ニ此明文ヲ掲ゲタ方ガ明瞭ニナッテ宜カラウト云フ考デ検束ト云フ字ヲ加ヘマシタノデアリマス」ということであって(第14回帝国議会貴族院感化法案特別委員会議事速記録第14頁(小河滋二郎説明員)),感化法9条は,同法81項の感化院長の親権行使規定で本来十分であるものの誤解なきよう念のために設けた規定であるという位置付けでした。感化院は,親権を行う父又は母のためにその懲戒権の実行を専ら担当するものであるというわけではなく,親権を代行しつつ必要があれば検束を含む懲戒権の行使もするものである,ということのようです。

感化院は地方長官が管理するのが原則でしたが(感化法2条),内務大臣の認可を受けた民営の代用感化院も認められていました(同法4条)。

なお,「地方長官ハ在院者ノ扶養義務者ヨリ在院費ノ全部又ハ一部ヲ徴収スルコトヲ得」との規定(感化法111項)は,1804年のフランス民法3782項を彷彿とさせるものがあります。

明治41年法律第43号(同法の施行は,旧法例(明治31年法律第10号)1条により1908428日から)による改正後の感化法52号は「18歳未満ノ者ニシテ親権者又ハ後見人ヨリ入院ヲ出願シ地方長官ニ於テ其ノ必要ヲ認メタル者」も感化院への入院者としています(それまでの同号は「懲治場留置ノ言渡ヲ受ケタル幼者」でしたが,同年101日から施行の現行刑法では,そのような懲治場留置の幼者はいなくなります。)。受け身の裁判所よりも,積極的においコラしてくる府県庁の方が,臣民には親しまれていたのでしょうか。あるいは,「司法的措置に対抗しつつ,より教育的な子どもの保護を制度化しようとする行政的措置の流れ」(広井20頁註76))をそこに見るべきでしょうか。

 

(2)少年教護法

感化法は,1934101日からの少年教護法の施行によって廃止され(同法附則2項),従来の感化院及び代用感化院は,同法による少年教護院となりました(同法附則4項・5項)。少年教護院の入院者に「裁判所ノ許可ヲ得テ懲戒場ニ入ルベキ者」が含まれることについては少年教護法814号に,その年齢が20歳を超えてよいことについては同法11条に規定があります。また,「少年ニシテ親権者又ハ後見人ヨリ入院ノ出願アリタル者」も地方長官は少年教護院に入所させることになっていましたが(少年教護法812号),ここでの「少年」は,「14歳ニ満タザル者ニシテ不良行為ヲ為シ又ハ不良行為ヲ為ス虞アル者」です(同法1条)。

少年教護法は,児童福祉法によって,194811日から廃止されました(同法65条・63条)。従来の少年教護院は,児童福祉法44条の教護院となり(同法67条),当該教護院は,平成9年法律第74号による児童福祉法の改正の結果,199841日からは児童自立支援施設となっています(平成9年法律第74号附則1条・附則51項)。

 

12 西暦1922年の矯正院法(大正11年法律第43号)

旧少年法に併せて矯正院法が制定され,192311日から施行されています(同法附則及び大正11年勅令第487号)。矯正院法1条は「矯正院ハ少年審判所ヨリ送致シタル者及民法第882条ノ規定ニ依リ入院ノ許可アリタル者ヲ収容スル所トス」と規定しています。ただし,「矯正院ニ収容シタル者ノ在院ハ23歳ヲ超ユルコトヲ得ス」とされていました(矯正院法2条)。

感化院は内務省の所管でしたが,矯正院は司法省の所管でした(矯正院法7条)。

矯正院法は,旧少年院法(昭和23年法律第169号)19条によって194911日から(同法18条)廃止されています。

 

13 フランスにおける父の懲戒権のその後

 

(1)19351030日のデクレ

193568日にフランス共和国では,我が国家総動員法(昭和13年法律第55号)も三舎を避くべき法律が成立し(1935316日にドイツがヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄して再軍備宣言を発していますが,戦争はまだ始まってはいません。),ラヴァルを首相とする当時の政府に,「フラン通貨の防衛及び投機との戦いを確乎たるものとするために」,法律と同じ効力を有するデクレを同年1031日を期限として発することのできる授権がされます。

同年1030日,どういうわけかこれもフラン防衛のためであるということで,駆け込み的に,父の子に対する懲戒権に係る民法376条以下の改正が同日付けのデクレによってされます(官報掲載は同月31日)。大統領宛ての内閣報告書によれば,新制度は,従来のものと違い,「懲罰の性格を失っており(…perdent leur caractère de pénalité),専ら子の利益のためのもの」であるとされています。もはや懲戒ではなく,矯正の権ということになるのでしょう。主な被改正条項を見てみましょう。

新第376条は,次のとおり(デクレ1条)。

 

  子が満16歳未満であるときは,父は,司法当局をしてその託置(placement)を命じさせることができる。そのために,民事裁判所の所長は,申立てがあったときは身体拘束令状を発付しなければならない。民事裁判所の所長は更に,その定める期間(ただし,成年期には及ばない。)について,観護教育施設(maison d’éducation surveillée),慈善教育施設(institution charitable)又はその他行政当局若しくは裁判所によって認可され,かつ,子の監護(garde)及び教育を確保する責めを負う者を指定する。

 

 新377条は,次のとおり(デクレ2条)。

 

   満16歳から成年又は解放までのときは,父は,その子の託置を請求することができる。請求は民事裁判所の所長に宛ててされ,当該所長は,検察官の意見により,身体拘束令状を発して,前条に規定する条件における子の監護を確保することができる。

 

 新379条は,次のとおり(デクレ3条)。

 

   命じられた監護措置は,検察官の要求又は父若しくはその他当該措置を求めた者の請求に基づき,裁判所の所長によって,いつでも撤回され,又は変更されることができる。

 

(2)1945年9月1日のオルドナンス

 194591日,対独敗戦後ヴィシー政権に参画していたラヴァル元首相は獄中にあって,同年10月の裁判(及び同月15日の国家叛逆罪による刑死。ただし,ギロチンによる斬首ではなく,銃殺です。)を待っていたところですが,臨時政府のド=ゴールはオルドナンス(n˚45-1967)を発し(官報掲載は同年92日),ラヴァル政権によって改正されていたフランス民法における子の矯正に関する父の権力条項(375条から382条まで)は更に全面改正されます。理由書によれば,父の恣意を避けるために,全ての場合において矯正措置は司法当局の自由な判断に服するものとされ(旧376条関係),②矯正措置の請求権は,もはや父のみにではなく,母及び子の監護権者一般に認められ,③専ら子の利益のために矯正措置が採られるよう,その裁判手続が改善され,④裁判所の職権による矯正措置の撤回及び変更,託置を請求しなかった親による変更の請求並びに検察官及び矯正措置請求者による不服の申立てがそれぞれ認められることとなり,最後に,⑤託置された未成年者の賄い費用負担の国庫による全部又は一部の肩代わり制度の導入がされています。

 改正後のフランス民法の条項は,次のとおり。

 

  第375条 21歳未満の未成年者の父,母又は監護権者は,子について重大な不満意の事由があるときは,当該未成年者の住所地の少年裁判所(tribunal pour enfants)の所長に対して,父性的矯正措置(mesure de correction paternelle)を同人について採るよう求める申立てをすることができる。

    当該の子に対して監護権を行使していない父又は母も,監護権を喪失していない限り,申立てをすることができる。

 

  第376条 所長は,申立の評価のために有益な全ての情報を取得するものとする。特に,資格のある者による,当該家族の物的及び心的状況についての,当該の子の性格及び前歴ついての並びに同人が個人財産を有しているか及び職業を営んでいるかを知るための調査を行わなければならない。

    調査期間中において未成年者の身柄を確保する必要があると判断するときは,所長は,上訴にかかわらず執行することができる仮監護命令をもって,当該未成年者の利益にかなうものと判断される託置措置を執り,及び,必要があれば,観護教育施設への付託をすることができる。

    当該所長は,前項の措置を執る権限を,未成年者の居所の少年裁判所の所長に委託することができる。

 

  第377条 検察官の意見のほか,所長は,未成年者,申立人及び,必要があれば,申立てをしなかった父又は母の陳述を聴いて裁判する。

    有益であると認められるときは,未成年者の託置を命ずる。その際所長はそのために,その定める期間(ただし,成年期には及ばない。)について,観護教育施設,慈善教育施設又はその他行政若しくは司法当局によって認可され,かつ,子の監護及び教育を確保する責めを負う者を指定する。

 

  第378条 前条の命令は,上訴にかかわらず仮に執行される。

 

  第379条 第376条,第2(ママ)77条〔第377条〕及び第381条に基づき所長のした命令に対しては,検察官,父性的矯正措置を受けた未成年者,申立人及び申立てをしなかった父又は母であって手続に関与したものは,10日以内に,裁判所に対する書面により抗告することができる。

 

380条 前条の抗告に対する裁判は,当事者の陳述を聴き又は当事者を適式に呼び出した上で,検察官の意見を聴いて,控訴院の未成年事件担当部がする。

 

  第381条 採られた措置は,職権により,検察官の申立てにより,その他措置申立権を有する者又は未成年者の請求により,当該命令をした司法当局によって撤回され,又は変更されることができる。

 

  第382条 親族(les parents)は,その貧困を証明することにより,託置を命ずる司法当局から,未成年者の賄い費用負担の全部又は一部の免除を受けることができる。免除された費用は,国庫が負担する。

 

 何だかフランス民法が日本民法に追いついてきたような感じがします。

 

(3)19581223日のオルドナンス

 ところがフランス共和国は,更に我が日本国を出し抜きます。その年105日に第五共和制憲法を公布したばかりの19581223日,ド=ゴール首相の政府はオルドナンス(n˚58-1301)を発し(官報掲載は同月24日),その第1条によって父性的矯正措置(フランス民法375条から382条まで)を廃して,育成扶助措置(mesures d’assistance éducative)に入れ替えてしまったのでした。

 当該改正後のフランス民法375条は「その健康,安全,徳性又は教育が危うくなっている21歳未満の未成年者(Les mineurs de vingt et un ans dont la santé, la sécurité, la moralité ou l’éducation sont compromises)は,以下第375条の1から第382条までに規定する条件による育成扶助措置を受けることができる。」と規定していて,もはや親がその子について「重大な不満意の事由」を有しているかどうかは問題になっていません。また,同じく改正後のフランス民法375条の11項は,未成年者自身からも育成扶助を求めて裁判官に対して申立てをすることができるものとしています。子本位の制度の作りになっているわけです。

 

14 西暦1948年の我が民法(昭和22年法律第222号による改正(194811日)後のもの)

 

(1)条文

 

  第818条 成年に達しない子は,父母の親権に属する。

    子が養子であるときは,養親の親権に服する。

    親権は,父母の婚姻中は,父母が共同してこれを行う。但し,父母の一方が親権を行うことができないときは,他の一方が,これを行う。

 

  第822条 親権を行う者は,必要な範囲内で自らその子を懲戒し,又は家庭裁判所の許可を得て,これを懲戒場に入れることができる。

    子を懲戒場に入れる期間は,6箇月以下の範囲内で,家庭裁判所がこれを定める。但し,この期間は,親権を行う者の請求によつて,何時でも,これを短縮することができる。

 

(2)学説

 

現行民法の規定(822条)は明治民法の規定を引き継いでいるが,「懲戒場」はもはや存在しない。また,懲戒権に服するのは未成年の子に限られる。そうだとすると,起草者たちの認識とは異なり,懲戒権は監護・教育権に含まれると考えてもよいことになる。こう考えるならば,懲戒権の規定も廃止してもよいということになる。ただし,ここでも若干の配慮が必要になる〔略〕。

  (大村254頁)

 

   ()監護教育のためには,時に「愛の鞭」を必要とする。しかし,その限界は,社会の倫理観念によって定まる。これを越える場合には,親権の濫用であるばかりでなく,暴行罪を構成する(大刑判明治3721日刑録122頁,札幌高裁函館支部刑判昭和28218日高裁刑集61128頁)。()「家庭裁判所の許可を得て,懲戒場に入れる」という制度は,現行法の下では存在しない。ここにいう懲戒場は公の施設であることはいうまでもない。ところが,現行制度でこれに当るものは,児童福祉法による教護院(同法44条参照)と少年法による少年院(同法24条,少年院法1条参照)とであるが,いずれも親権者の申請によって未成年の子を入所させる途を開いていない(少年法24条,児童福祉法27条参照(少年院法の前身たる矯正院法では認められていた))。

  (我妻330-331頁)

 

 なお,我妻が「少年院法の前身たる矯正院法では認められていた」という部分には,感化法及び少年教護法も付け加えられるべきものでしょう。

 

   親権者はその子をこれらの施設〔少年院,教護院など〕に入れる処分に同意しまたはすすんで申請することができる。民法はこのような親の責務を定めたものと解すべきである。

  (我妻榮=有泉亨著,遠藤浩補訂『新版民法3 親族法・相続法』(一粒社・1992年)179頁)

 

この学説では,親の権利ないしは権限ではなく「責務」であるものとしつつ,義務とまではしていません。

少年法(昭和23年法律第168号)313号の虞犯少年について,保護者(少年に対して法律上監護教育の義務ある者及び少年を現に監護する者(同法22項))は,家庭裁判所に通告ができます(同法6条)。

児童相談所に相談があり(児童福祉法1112号ロ・123項(202341日の前は2項))又は要保護児童(保護者のない児童又は保護者に監護させることが不適当であると認められる児童(同法6条の38項))発見の通告があると(同法251項),相談又は通告を受けた児童相談所長がその旨都道府県知事に報告をして(同法2611号),当該報告を受けた都道府県知事が当該児童を児童自立支援施設に入所させる(同法2713号)ということがあり,また,当該入所措置には親権者の同意が必要である(同条4項)ということがあるところです。

ただし,少年院への収容についてですが,「特に親権者は,家庭裁判所に通告し,または児童相談所に相談して知事が家庭裁判所への送致措置をとった結果として(少6,児福27),家庭裁判所の行う保護処分を受けることを通して少年院収容の強制的な矯正教育を受けることもありうるが,それも本条〔民法822条〕にかかわる親権者個人の懲戒権の実行としてではない。」とされています(於保不二雄=中川淳編『新版注釈民法(25)親族(5)(改訂版)』(有斐閣・2004年)115頁(明山和夫=國府剛))。

 

   親権者にこのような懲戒権が与えられていることの法的な意味は,子の監護教育上必要な範囲で実力を行使しても,親権者が民事・刑事上の責任を問われることはないという点にあるに過ぎない。規定にある懲戒(ママ)に該当する施設は,戦後の児童福祉法・少年院法の制定とともに存在しなくなった(したがって,懲戒場に入れる期間について規定する8222項の意味は失われている)。

   懲戒権も必要な範囲を超えると親権の濫用となり(いわゆる児童虐待〔略〕),親権喪失原因になるとともに,暴行罪を構成する。

  (内田貴『民法 親族・相続』(東京大学出版会・2002年)212頁)

 

 懲戒場に該当する施設はもはや存在しない,その結果(旧)8222項の意味も失われているのだ,と淡白に説明を受けて,やれ民法の勉強は覚えることばかりではなく実は覚えないということもあるのだなと安易に安堵した学生は,当面の試験を前に当該安直な感想を早々に忘れつつ,それでも心の奥底に何やら物足りない思いをその後長く抱き続けることとなったのでした。

 

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はじめに

20221210日に成立し,同月16日に公布された令和4年法律第102号の第1条によって,民法(明治29年法律第89号)の一部がまた改正されることとなり(令和4年法律第102号は,一部を除いて,2024615日以前の政令で定める日から施行されます(同法附則1条本文)。),そのうちの更に一部は公布の日である20221216日から既に改正されてしまっています(令和4年法律第102号附則1条ただし書)。2023年度版の各種「六法」が2022年の秋に出てしまった直後の改正であって,20234月の新学期からの民法(親族編)の学びにとっては余り嬉しくない時期の改正です。

令和4年法律第102号による民法改正の内容は,提出された法案に内閣が付記した「理由」によれば,「子の権利利益を保護する観点から,嫡出の推定が及ぶ範囲の見直し及びこれに伴う女性に係る再婚禁止期間の廃止,嫡出否認をすることができる者の範囲の拡大及び出訴期間の伸長,事実に反する認知についてその効力を争うことができる期間の設置等の措置を講ずるとともに,親権者の懲戒権に係る規定を削除し,子の監護及び教育において子の人格を尊重する義務を定める等の措置を講ずる」というものです。女性に係る再婚禁止期間の廃止は,愛する彼女の婚姻解消又は取消後直ちに再婚してもらいたい人妻好き男性にとっての朗報でしょうが,子の嫡出推定及び嫡出否認並びに認知に関する改正は――難しい女性との関係又は女性との難しい関係の無い者にとっては余計なこととはいえ――男性が父となることないしは父であることについての意味を改めて考えさせるものでありそうです。子の父であるということは,まずは法的な問題なのです。親権者の懲戒権に係る規定(旧822条)の削除並びに子の監護及び教育における子の人格尊重義務の規定(新821条)は,父母双方にかかわるものですが,頑固親父,雷親父その他の厳父の存在はもはや許されなくなるものかどうか,これも父の在り方にとってあるいは小さくない影響を及ぼし得るものでしょう。

本稿は,令和4年法律第102号附則1条ただし書によって既に施行されてしまっている「民法第822条を削り,同法第821条を同法第822条とし,同法第820条の次に1条を加える改正」に触発されて,旧822条に規定されていた親権者の懲戒権及び更にその昔同条に規定されていた懲戒場に関して,諸書からの抜き書き風随想をものしてみようとしたものです。どうもヨーロッパその他の西方異教の獰猛な男どもは,我々柔和かつ善良な日本男児とは異なり,歴史的に,婦女子を暴力的かつ権力的に扱ってきていたものであって,したがって,西洋かぶれの民法旧822条はそもそも我が国体・良俗には合わなかったのだ,令和の御代に至って同条を削ったことは,あるべき姿に戻っただけである,と当初は簡単に片付けるつもりだったのでしたが,確かに父子関係は各国の国体・政体・民俗の重要な要素をなすものであるのでなかなか面白く,ローマやらフランスやらへの脱線(といっても,おフランスは我が母法国(ああ,法国ではないのですね。)なので,脱線というよりは,長逗留でしょう。)をするうちに,ついつい長いものとなってしまいました。

なお,令和4年法律第102号附則1条ただし書をもって施行が特に急がれた改正は,実は民法のそれではなく,児童虐待の防止等に関する法律(平成12年法律第82号)141項の規定の差し替え(令和4年法律第1024)であったかもしれません(後編の19及び20参照)。


1 西暦紀元前13世紀のシナイ半島

 

    Honora patrem tuum et matrem tuam, ut sis longevus super terram quam Dominus Deus tuus dabit tibi.

  (Ex 20, 12

    汝の父母を敬へ。是は汝の神ヱホバの汝にたまふ所の地に汝の生命の長からんためなり。

 

これは,心温まる親孝行の勧めでしょうか。しかし,うがって読めば,単純にそのようなものではないかも知れず,異民族をgenocideしつつ流血と共にこれから侵入する敵地・カナンにおける民族の安全保障のための組織規律にかかわる掟のようでもあります。

 

2 西暦紀元前53世紀の中近東

 

  Qui parcit virgae suae odit filium suum; qui autem diligit illum instanter erudit. (Prv 13, 24)

  鞭をくはへざる者はその子を憎むなり。子を愛する者はしきりに之をいましむ。

 

  Noli subtrahere a puero disciplinam; si enim percusseris eum virga, non morietur. (Prv 23, 13)

  子を懲すことを為さざるなかれ。鞭をもて彼を打とも死ることあらじ。

 

  Erudi filium tuum ne desperes; ad interfectionem autem ejus ne ponas animam tuam. (Prv 19, 18)

  望ある間に汝の子を打て。これを殺すこころを起すなかれ。

 

これは・・・ひどい。「児童の身体に外傷が生じ,又は生じるおそれのある暴行を加えること」たる児童虐待(児童虐待の防止等に関する法律21号)など及びもつかぬ嗜虐の行為をぬけぬけと宣揚する鬼畜の暴言です。外傷が生ずるおそれだけで震撼してしまうユーラシア大陸東方沖の我が平和愛好民族には想像を絶する修羅の世界です。死んでしまってはさすがにまずいが,半殺しは当たり前であって,しかもそれがどういうわけか世にも有り難い親の愛だというのですね。正しさに酔ってへとへとになるまで我が子を鞭打ち続ける宗教的なまで真面目な人々は,恐ろしい。これに比べれば,冷静に買主の不安心理を計測しつつ安心の壺を恩着せがましく売り歩くやり手の人々の方が,善をなす気はなくとも,あるいはより害が少ない存在ではないでしょうか。

 

3 西暦紀元前後のローマ

 

(1)アウグストゥスによる三つのおでき懲戒

 

Sed laetum eum atque fidentem et subole et disciplina domus Fortuna destituit. Julias, filiam et neptem, omnibus probris contaminatas relegavit; ….. Tertium nepotem Agrippam simulque privignum Tiberium adoptavit in foro lege curiata; ex quibus Agrippam brevi ob ingenium sordidum ac ferox abdicavit seposuitque Surrentum. ….. Relegatae usum vini omnemque delicatiorem cultum ademit neque adiri a quoquam libero servove nisi se consulto permisit, ….. Ex nepte Julia post damnationem editum infantem adgnosci alique vetuit. Agrippam nihilo tractabiliorem, immo in dies amentiorem, in insulam transportavit saepsitque insuper custodia militum. ….. Nec aliter eos appellare quam tris vomicas ac tria carcinomata sua.

(Suetonius, De Vita Caesarum, Divus Augustus: 65)

けれども〔sed〕運命の女神は〔Fortuna〕,一家の子孫とその薫陶に〔et subole et disciplinā domūs〕喜ばしい期待と自信を抱いていたアウグストゥスを〔eum (Augustum) laetum atque fidentem〕見捨てたのである〔destituit〕。娘と孫娘の〔filiam et neptem〕ユリアは〔Julias〕,あらゆるふしだらで〔omnibus probris〕穢れたとして〔contaminatas〕島に流した〔relegavit〕。〔略〕3番目の孫アグリッパ〔tertium nepotem Agrippam〕と同時に〔simul〕継子ティベリウスと〔privignum Tiberium〕も,民会法に則り〔lege curiatā〕広場で〔in foro〕養子縁組を結ぶ〔adoptavit〕。このうち〔ex quibus〕アグリッパの方は〔Agrippam〕,まもなく〔brevi〕野卑で粗暴な性格のため〔ob ingenium sordidum ac ferox〕勘当し〔abdicavit〕,スレントゥムへ〔Surrentum〕隔離した〔seposuit〕。〔略〕追放した娘からは〔relegatae〕飲酒を〔usum vini〕始め,快適で優雅な暮しに必要な一切の手段を〔omnem delicatiorem cultum〕とりあげ〔ademit〕,誰であろうと自由の身分の人でも奴隷でも〔a quoquam libero servove〕,自分に相談せずに〔nisi se consulto〕面接することは許さなかった〔neque permisit adiri〕。〔略〕孫娘ユリアが〔ex nepte Juliā(孫娘ユリアから)〕,断罪された後で〔post damnationem〕生んだ赤ん坊を〔editum infantem(生まれた赤ん坊に対して)〕,アウグストゥスは認知し養育することを〔adgnosci et ali(認知されること及び養育されることを)〕拒否した〔vetuit〕。孫のアグリッパは〔Agrippam〕従順になるどころか,日に日にますます気違いじみてきたので〔nihilo tractabiliorem, immo in dies amentiorem〕,島へ転送した〔in insulam transportavit〕上に〔insuper〕,幽閉し〔saepsit〕兵士の監視をつけた〔custodiā militum〕。〔中略〕そして彼らを〔eos〕終始ただ〔nec aliter…quam〕,「わたしの三つのおでき(﹅﹅﹅)tris vomicas〕」とか「三つの癌」〔ac tria carcinomata sua〕とのみ呼んでいた〔appellare (solebat)〕。

(スエトニウス,国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(上)』(岩波文庫・1986年)161-162頁)

 

(2)ローマ法における家父権

 

   ローマ法によれば,子供は生涯にわたって「家父権」に服した。父親が生きている限り,60歳になってもまだこの「家父権」に服しているということがあり得たし,執政官もまたそうであった。従って,そのような父を持つ子供は,その祖父の権力下におかれていたわけである。

   これに対して,「母権」のようなものは存在せず,従って,「親権」というものもない。そのかぎりで,家族の構成は,極端に家父長主義的であった。しかも,古典期の学説によると,父親は,妻を含む家族成員の全てに対して「生殺与奪の権利(ius vitae ac necis)」を有していた。これは,実際上,ある種の刑罰権として家内裁判の基礎をなしたものである。このような極端な法の中に,大ローマ帝国内部での,ほとんど君主制度に近い木目細かに監督された初期の経済的一体性を持った集団としての家父長主義的家族の興隆が,反映している。

  (オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法――ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)149頁)

 

「ほとんど君主制度に近い・・・家父長主義的家族」の理念型は共和政下の貴族階層の中にあったのでしょうが,これに関しては,次のような説明があります。

 

  〔共和革命後のローマの政治制度の成立にとって〕最も重要であったのが,政治という活動を直接担う階層の創出である。上位の権力や権威に制約されない頂点を複数確保し続けるという意義を有した。政治はさしあたりこれら頂点の自由な横断的連帯として成立した。ギリシャでもそうであったが,このために身分制,つまり貴族制が採用される。言うならば,世襲により頂点が維持され続ける仕組の「王」=王制を複数設定するのである。patriciと呼ばれる人々が系譜により特定され,彼らのうち独立の各系譜現頂点は〔略〕「父達」(patres)と呼ばれた。そしてpatriciの中から300人が(ただし選挙ではなく職権で)選ばれ元老院(senatus)を構成した。〔後略〕

 (木庭顕『新版 ローマ法案内――現代の法律家のために』(勁草書房・2017年)18頁)


Lupa Romana4

Patriam potestatem nondum habent.

 

(3)モンテスキューによるローマの家父権とローマ共和政との関係解説

しかし,アウグストゥスはなお自らの家族(おでき)に家父権を断乎行使したわけですが,当該家父権自体は,夫子御導入の元首政体がそれに取って代わってしまった共和政体の重要な支柱の一つであったとは,18世紀フランスの啓蒙主義者の観察であるようです。民衆政体の原理にとって有益なもの(moyen de favoriser le principe de la démocratie)の一つとして,モンテスキューは家父権を挙げます。

 

  家父権(l’autorité paternelle)は,良俗(les mœurs)の維持のために,なお非常に有用である。既に述べたように,共和政体には,他の政体におけるような抑圧的な力は存在しない。したがって,法はその欠缺の補充の途を求めねばならず,それを家父権によってなすのである。

  ローマでは,父たちは子らに対して生殺与奪の権を有していたe。スパルタでは全ての父が,他者の子に対する懲戒権を有していた。

  家父の権力(la puissance paternelle)は,ローマにおいては,共和政体と共に衰微した。風俗が純良であって申し分のない君主政下にあっては,各個人が官の権力の下に生活するということが望まれるのである。

  若者を依存状態に慣れさせたローマ法は,長期の未成年期を設けた。この例に倣ったことは,恐らく間違いであったろう。君主政下にあっては,そこまでの規制は必要ではないのである。

  共和政体下における当該従属関係が,そこにおいて――ローマにおいてそのように規整されていたように――生きている限り父はその子らの財産の主であることを求めさせ得たものであろう。しかしながらそれは,君主政の精神ではないのである。

 

 e)共和政体のためにいかに有益にこの権力が行使されたかをローマ史に見ることができる。最悪の腐敗の時代についてのみ述べよう。アウルス・フルウィウスは〔国家を転覆せしめようとする陰謀家〕カティリナに会うために外出していた。彼の父は彼を呼び戻し,彼を死なしめた(サルスティウス『カティリナの戦争〔陰謀〕』)。他の多くの市民も同様のことをした(ディオン〔・カッシウス〕第3736)。

Montesquieu, De l’Esprit des lois: Livre V, Chapitre VII

 

共和国を民衆政的腐敗堕落から守るのは,共和主義的頑固親父の神聖な義務であって,お上のガイドラインを慎重謙虚に待つなどと称しての偸安退嬰は許されない,ということでしょう。

 

  〔エルバ島における皇帝執務室の中〕

 皇帝ナポレオン: 私は,皇帝だぞ。

 市民ポン(=「石頭の共和主義者」): わっ,わしは市民です。

        〔ポンの両脚は震えている。〕

  〔皇帝執務室の外〕

 近衛兵A: 毎日喧嘩しているな。

 近衛兵B: うむ。

       あの爺ィ,とっちめるか。

 近衛兵A: おう。

 ベルトラン将軍: やめておけ。

   せっかくケンカ相手ができたのだ。

   皇帝の楽しみを邪魔するな。

 近衛兵A: はい?

  〔再び皇帝執務室の中〕

 P: わしを牢に,ぶち込めばええだろ。

 N: 君は法を破っていない。

   私は暴君ではない。

   だが,

    (バアン)

     〔NPの左胸に何かを叩き付ける。〕

  P: (勲章!)

  N: 君は勇敢で心正しい。

    さらにこの私を何度も負かした。

  P: あ・・・

    ありがとうございます。

    伯爵(●●)

  〔Pのいつもの言い間違いに,Nは口もとを歪めている。〕

  N: あんたは,男だ。

  (長谷川哲也「ナポレオン-覇道進撃-」129; Young Kingアワーズ 334号(202111月)538-541頁)

 

なお,君主政体(gouvernement monarchique)及び専制政体(gouvernement despotique)においては,前者には法の力(la force des lois),後者には常に行使の用意がある権力者の腕力(le bras du prince toujours levéがあるので,実直(probité)が政体の保持ないしは支持のためにさほど必要であるものとはされていないのに対して,民衆国においては,それを動かす力として更に(un resort de plus)徳(vertu)が,その原理として必要であるものとされています(cf. Montesquieu: III, 3)。しかして,共和国(république)における徳は,共和国に対する愛(amour de la république)であって,それは知識によって得られるものではなく,感情的なものであるそうです(cf. Montesquieu: V, 2)。この共和国に対する愛は,民衆政体においては,平等(égalité)及び質素(frugalité)に対する愛ということになります(cf. Montesquieu: V, 3)。

ちなみに,徳に代わる,君主政体における原理は,名誉(honneur)です(cf. Montesquieu: III, 6-7)。

 

4 西暦1790824:革命期フランス王国の司法組織に関する法律(Loi sur l’Organisation judiciaire

 

Titre X.  Des bureaux de paix et du tribunal de famille

(第10章 治安調停所及び家内裁判廷に関して)

 

Article 15.

Si un père ou une mère, ou un aïeul, ou un tuteur, a des sujets de mécontentement très-graves sur la conduite d’une enfant ou d’un pupille dont il ne puisse plus réprimer les écarts, il pourra porter sa plainte au tribunal domestique de la famille assemblée, au nombre de huit parens les plus proches ou de six au moins, s’il n’est pas possible d’en réunie un plus grand nombre; et à défaut de parens, il y sera suppléé par des amis ou des voisins.

  (子又は未成年被後見人の行状について重大な不満意の事由があり,かつ,その非行をもはや抑止することのできない父若しくは母若しくは直系尊属又は未成年後見人は,8名又はそれより多くの人数を集めることができないときは少なくとも6名の最近親の親族(ただし,親族の曠欠の場合には,友人又は隣人をもって代えることができる。)が参集した一族の内的裁判廷に訴えを起こすことができる。)

Article 16.

Le tribunal de famille, après avoir vérifié les sujets de plainte, pourra arrêter que l’enfant, s’il est âgé de moins de vingt ans accomplis, sera renfermé pendant un temps qui ne pourra excéder celui d’une année, dans les cas les plus graves.

  (家内裁判廷は,訴えの対象事項について確認をした後,事案が最も重い場合であって,その年齢が満20歳未満であるときは,1年の期間を超えない期間において子が監禁されるものとする裁判をすることができる。)

Article 17.

L’arrêté de la famille ne pourra être exécuté qu’après avoir été présenté au président du tribunal de district, qui en ordonnera ou refusera l’exécution, ou en tempérera les dispositions, après avoir entendu le commissaire du Roi, chargé de vérifier, sans forme judiciaire, les motifs qui auront déterminé la famille.

  (一族の裁判は,地区の裁判所の所長に提出された後でなければ執行されることができない。当該所長は,国王の検察官の意見を聴いた上で,裁判の執行を命じ,若しくは拒絶し,又はその内容を緩和するものとする。当該検察官は,司法手続によらずに,一族の決定の理由を確認する責務を有する。)


 1790824日の司法組織に関する法律第1015条以下の制度は,「共和暦4年風月9日〔1796228日〕のデクレによって家族裁判所〔tribunal de famille〕が廃止されたのちも,通常裁判所の関与による懲戒制度として残」ったそうです(稲本洋之助『フランスの家族法』(東京大学出版会・1985年)381頁)。


5 西暦1804年のフランス民法(ナポレオンの民法典)

 

(1)条文

 

TITRE IX

DE LA PUISSANCE PATERNELLE

(第9章 父の権力について)

 

371.

L’enfant, à tout âge, doit honneur et respect à ses père et mère.

(子は,いかなる年齢であっても,父母を敬い,尊ばなくてはならない。)

372.

Il reste sous leur autorité jusqu’à sa majorité ou son émancipation.

(子は,成年又は解放まで,父母の権威の下にある。)

373.

Le père seul exerce cette autorité durant le mariage.

(婚姻中は,専ら父が当該権威を行使する。)

 

375.

Le père qui aura des sujets de mécontentement très-graves sur la conduite d’un enfant, aura les moyens de correction suivans.

  (子の行状について重大な不満意の事由がある父は,以下の懲戒手段を有する。)

376.

Si l’enfant est âgé de moins de seize ans commencés, le père pourra le faire détenir pendant un temps qui ne pourra excéder un mois; et, à cet effet, le président du tribunal d’arrondissement devra, sur sa demande, délivrer l’ordre d’arrestation.

  (子が満16歳未満であるときは,父は1月を超えない期間において子を拘禁させることができる。そのために,区裁判所の所長は,申立てがあったときは身体拘束令状を発付しなければならない。)

377.

Depuis l’âge de seize ans commencés jusqu’à la majorité ou l’émancipation, le père pourra seulement requérir la détention de son enfant pendant six mois au plus; il s’adressera au président dudit tribunal, qui, après en avoir conféré avec le commissaire du Gouvernement, délivrera l’ordre d’arrestation ou le refusera, et pourra, dans le premier cas, abréger le temps de la détention requis par le père.

  (満16歳から成年又は解放までのときは,父は,最長6月間のその子の拘禁を請求することのみができる。請求は区裁判所の所長に宛ててされ,当該所長は,検察官と協議の上,身体拘束令状を発付し,又は請求を却下する。身体拘束令状を発付するときは,父によって求められた拘禁の期間を短縮することができる。)

378.

Il n’y aura, dans l’un et l’autre cas, aucune écriture ni formalité judiciaire, si ce n’est l’ordre même d’arrestation, dans lequel les motifs n’en seront pas énoncés.

  (前2条の場合においては,身体拘束の令状自体を除いて,裁判上の書面及び手続を用いず,身体拘束令状に理由は記載されない。)

Le père sera seulement tenu de souscrire une soumission de payer tous les frais, et de fournir les alimens convenables.

  (父は,全ての費用を支払い,かつ,適当な食糧を支給する旨の引受書に署名をしなければならないだけである。)

379.

Le père est toujours maître d’abréger la durée de la détention par lui ordonnée ou requise. Si après sa sortie l’enfant tombe dans de nouveaux écarts, la détention pourra être de nouveau ordonnée de la manière prescrite aux articles précédens.

  (父は,いつでも,その指示し,又は請求した拘禁の期間を短縮することができる。釈放後子が新たな非行に陥ったときは,前数条において定められた手続によって,新たに拘禁が命ぜられ得る。)

380.

Si le père est remarié, il sera tenu, pour faire détenir son enfant du premier lit, lors même qu’il serait âgé de moins de seize ans, de se conformer à l’article 377.

  (父が再婚した場合においては,前婚による子を拘禁させるには,その子が16歳未満であっても,第377条に従って手続をしなければならない。)

381.

La mère survivante et non remariée ne pourra faire détenir un enfant qu’avec le concours des deux plus proches parens paternels, et par voie de réquisition, conformément à l’article 377.

  (寡婦となり,かつ,再婚していない母は,父方の最近親の親族2名の同意があり,かつ,第377条に従った請求の方法によってでなければ,子を拘禁させることができない。)

382.

Lorsque l’enfant aura des biens personnels, ou lorsqu’il exercera un état, sa détention ne pourra, même au-dessous de seize ans, avoir lieu que par voie de réquisition, en la forme prescrite par l’article 377.

  (子が個人財産を有し,又は職業を営んでいる場合においては,16歳未満のときであっても,第377条に規定された形式での請求によってでなければ拘禁は行われない。)

L’enfant détenu pourra adresser un mémoire au commissaire du Gouvernement près le tribunal d’appel. Ce commissaire se fera rendre compte par celui près le tribunal de première instance, et fera son rapport au président du tribunal d’appel, qui, après en avoir donné avis au père, et après avoir recueilli tous les renseignemens, pourra révoquer ou modifier l’ordre délivré par le président du tribunal de première instance.

  (拘禁された子は,控訴院に対応する検察官に意見書を提出することができる。当該検察官は,第一審裁判所に対応する検察官に報告をさせた上で,自らの報告を控訴院長に対して行う。当該院長は,父に意見を通知し,かつ,全ての記録を受領した上で,第一審裁判所の所長によって発せられた命令を撤回し,又は変更することができる。)

383.

Les articles 376, 377, 378 et 379 seront communs aux pères et mères des enfans naturels légalement reconnus.

  (第376条,第377条,第378条及び第379条は,認知された非嫡出子の父及び母にも共通である。)

 

(2)国務院における審議模様

1804年のナポレオンの民法典における前記条文に関するそもそも論について理解するため,共和国(まだ帝国ではありません。)11葡萄(ヴァンデミ)(エール)8日(1802930日)の国務院(コンセイユ・デタ)における審議模様を見てみましょう(Procès-Verbaux du Conseil d’État, contenant la Discussion du Projet de Code Civil, Tome II; L’Imprimerie de la République (Paris, 1804): pp.43-52)。

当日の議長は,「諸君,休んでるヒマは無いぞ。国民が民法典を待っている。」と叱咤する(長谷川哲也『ナポレオン-覇道進撃-第3巻』(少年画報社・2012年)123頁参照)精力的かつ野心的な若きボナパルト(Bonaparte)終身第一統領(まだ皇帝ではありません。)ではなく,いい男・カンバセレス(Cambacérès)第二統領であって,報告者はビゴ=プレアムヌ(Bigot-Préameneu)でした。

 

ナポレオンの民法典371条に係る原案は,法律となったものと同じ内容でした。当該原案について,ベレンジェ(Bérenger)が,法律事項(disposition législative)がないから削るべきだと言いますが,ブウレ(Boulay)は婚姻の章に配偶者の義務について述べる条項を置いたのと同様,息子であることによって課される義務を章の冒頭に置くことは有用であると反論し,更にビゴ=プレアムヌが,当該条項は,他の条項はその結果を展開し確定するだけであるという関係にあるところの諸原則を含むものであること,及び他にも多くの場合において裁判官の一つの拠り所となるものであることを付言し,そのまま採択されます。

cf. Conseil d’État, p.44

 

 「「子の義務」に関する規定は,「親の義務」を基礎づけるのである。親の義務性の強調とのバランスをとるためにこの種の規定を置くことは,日本法でも考えられるのではないか。」といわれています(大村敦志『民法読解 親族編』(有斐閣・2015年)258頁)。

 

ナポレオンの民法典372条に係る原案は,「又は解放まで」のところが「又は婚姻による解放まで」となっていて,成年以外の親権を脱する事由を婚姻に限定するものでした。結果として,トレイラアル(Treilhard)の提案に基づき「婚姻により」との限定句が削られています。

当該結果自体は単純ですが,その間トロンシェ(Tronchet)からフランス私法の歴史に関する蘊蓄ばなしがありました。いわく,慣習法地域(北部)では法律行為による解放(émancipation par acte)ということはなく,そこでは,父の権力は保護のための権威(autorité de protection)にすぎず,成年に達するか婚姻するかまでしか続かなかった,これに対して成文法地域(南部)においては法律行為によって解放とするということがあったのは,そこでは父の権力は,身体及び財産についての絶対的かつ永久的なものであったからなのだ,ところが当院は財産関係の父の権力を慣習法地域式に作ったのだから,よって,法律行為によって解放するということにはならないのではないか,というわけです。また,トレイラアルは,トロンシェの紹介したもののほかに18歳での法定解放(émancipation légale)というものがあると付け足しますが,こちらは未成年被後見人に関するものです。ビゴ=プレアムヌは,交通整理を試みて,それぞれの種類の解放について固有の規定は法律で定められるのであるから混乱を恐れる必要はないと述べ,また,確かに新法においては古い成文法ほどには父の権力からの解放は必要ないであろうが,現在審議中の(父の権力に関する)当章の全条項の適用を排除するのであるから,効用がないわけではない,解放された子は父の居宅を離れてよいし,もう拘禁施設(maison de détention)に入れられることは許されないし,父母による財産の利用は終了する,これらの関係では重要な効果があるのだ,と述べています。

cf. Conseil d’État, pp.44-47

 

 家父権からの解放(emancipatio)は,ローマ法では「いくつかの法律行為の組み合わせによって行われた。すなわち,子供は,先ず親から第三者に「譲渡」され,これによって生じた「召使い」の状態から,その譲受人によって「棍棒による解放(manumissio vindicta)」の手段で解放された。そこで,子供は再びもとの家父権に服することになる。このようなことが,さらに二度繰り返されると,最終的に子供は家父権から自由となる。〔略〕この儀式は,「十二表法」にある「もし父がその息子を三度売ったなら,息子は父から自由になるべし(Si pater filium ter venum du(u)it [venumdet] filius a pater [sic (patre)] liber esto)」という文章を利用したものである。」とのことです(ベーレンツ=河上150頁)。フランス成文法地域での法律行為による解放も,この流れを汲むものだったのでしょうか。

 なお,我が旧民法人事編(明治23年法律第98号)213条以下には,自治産の制度がありました。

 

   ナポレオンの民法典373条に係る原案は,法律となったものと同じ内容でした。ルニョ(Regnaud)が,父が長期間不在のときには当該権威は母によって行使されるものと決定すべきである,提示された案のままではその間子が監督されない状態になってしまう,などと細かいことを言いましたが,トロンシェからその辺のことは不在者の章において規定されていると指摘されて,原案どおり採択となりました。

  (Conseil d’État, p.47

 

 ナポレオンの民法典375条以下の条項に対応する原案の審議は,次の原案3箇条をまず一括して始められました。

 

Art. VI.

Le père qui aura des sujets de mécontentement très-graves sur la conduite d’un enfant dont il n’aura pu réprimer les écarts, pourra le faire détenir dans une maison de correction.

   (子の行状について重大な不満意の事由があり,かつ,その非行を抑止することのできない父は,その子を矯正の施設に拘禁させることができる。)

Art. VII..

À cet effet, il s’adressera au président du tribunal de l’arrondissement, qui, sur sa demande, devra délivrer l’ordre d’arrestation nécessaire, après avoir fait souscrire par le père une soumission de payer tous les frais, et de fournir les alimens convenables.

   (そのために,区裁判所の所長に宛てて申立てをするものとし,当該所長は,父の申立てがあったときは,全ての費用を支払い,かつ,適当な食糧を支給する旨の引受書に当該父の署名を得た上で,必要な身体拘束令状を発付しなければならない。)

    L’ordre d’arrestation devra exprimer la durée de la détention et la maison qui sera choisie par le père.

   (身体拘束令状には,拘禁期間及び父によって選択された施設が記載されなければならない。)

Art. VIII.

La détention ne pourra, pour la première fois, excéder six mois: elle pourra durer une année, si l’enfant, redevenu libre, retombe dans les écarts qui l’avaient motivée.

   (初回の拘禁期間は6月を超えることができない。ただし,釈放後,前の拘禁の原因となったものと同じ非行に子が陥ったときは,拘禁を1年続けることができる。)

    Dans tous les cas, le père sera le maître d’en abréger la durée.

   (全ての場合において,父は,いつでも,拘禁期間を短縮することができる。)

 

 出来上がりのナポレオンの民法典375条以下と比較すると,原案では,子の年齢による区別も,その職業・財産の有無による区別もなしに,およそ父から子の拘禁を要求されると,区裁判所の所長殿は,費用及び食糧の提供の約束がされる限り,言われるがまま身体拘束令状を発しなければならないという仕組みになっています。身体の自由の剥奪を実現するためには国家の手によらなければならないとはいえ,子に対する父の権力の絶対性が際立っています。当該絶対性は,国務院における審議を経て緩和されたわけですが,当該緩和は,カンバセレス第二統領による修正の指示によるものです。「🌈色執政」たるカンバセレス(長谷川哲也『ナポレオン-覇道進撃-第4巻』(少年画報社・2013年)61頁)には,自らが父になるなどという気遣いはなかったのでしょうが,やはり,男の子に優しいのでした。

 絶対的であるとともに国家的手段を用いるものである父による子の拘禁権の淵源は,ベルリエ(Berlier)による下記の原案批判発言から推すに,モンテスキュー経由のローマ法的家父権の共和主義的復活と旧体制(アンシャン・レジーム)下の国王による封印状(lettre de cachet)制度の承継とが合流したmariageの結果ということになるようです。国父たるルイ16世が斬首されてしまった以上,父の権力の発動権能が個々の父に戻るということは当然であると同時に,フランス的伝統として,国家権力がその執行を担わせられるということになったものか。具体的な審議状況を見てみましょう。

 

    第6条,第7条及び第8条が議に付される。

    ビゴ=プレアムヌ評定官いわく,父の申立てと身体拘束令状発付との間に3日の期間を置くことが適当であるというのが起草委員会(la section)における意見である,と。

    ベルリエ評定官いわく,第6条は修正されなければならない,と。皆が父に与えようとしている権利に私は反対するものではない。しかしながら,この権利の行使が,他のいかなる権威の同意もなしに,一人の父の意思又は恣意のみによってされるべきものとは私は信じない。しかして本発言者としては,監禁の申立てについて審査も却下もできない裁判官なる者が,当該権威であるものと見ることはできない。

    諸君は,父たちは一般的に正しいと言うのか!しかしながら,当該与件を否定しないにしても,法は,悪意ある,又は少なくとも易怒性の父たちがこの権利を付与されたことによって行い得る濫用を予防しなければならない。

    諸君は,モンテスキュー及び他の著述家を,家父権擁護のために引用するのか?しかし,本発言者は,当該権力について争うものでは全くない。本発言者は,当該権力を,我々の良俗にとって適切な限界内に封ずることを専ら求めるものである。本発言者は,父の権威を認める。しかし,父による専制を排するものであり,かつ,専制は,国家においてよりも家庭においてよく妥当するものではないと信ずるものである。

    続いてベルリエ評定官は,王制下における状況がどのようなものであったかを検討していわく,親族による協議が,一家の息子の監禁に係る封印状(lettres de cachet)に先行しないということは非常に稀であった,と。

    いわく,本発言者は封印状及び旧体制を称賛しようとするものでは更にない,しかし,我々の新しい制度が君主政下の当該慣行との比較において劣ったものと評価され得ることがないよう用心しようではないか,したがって,本件と同じように重要な行為が問題となるときには,父の権威に加えて,明らかにし,又は控制する権力の存在が必要となるのである,と。

    当該権力はどのようなものであろうか?通常裁判所であろうか,又はその構成員によるものであろうか?それは親族会(conseil de famille)であろうか?

    多くの場合において,法的強制手段を要する事件を司法に委ねることが非常に微妙かつ難しいことになり得るのであり,当該考慮が,ベルリエ評定官をして,親族会に対する選好を表明せしめる。
 その意見表明を終えるに当たって,同評定官は,1790824日法及び多くの控訴院――特に,本件提案に係る権利に対して全て制限を求めるレンヌ,アンジェ,ブリュッセル及びポワチエの控訴院――の意見を援用する。

    ビゴ=プレアムヌ評定官が,当該条項の理由を説明する。

    同条は,次のような正当な前提の上に立つものである。父は,専ら,愛情(un sentiment d’affection)によって,かつ,子の利益のためにその権威を行使するものであること,父は,専ら,その愛する子を,その名誉を損なうことなく,名誉ある道(le chemin de l’honneur)に立ち戻らせるために行為するものであること,しかし,この優しさ(tendresse)自体が,懲戒を行う(corriger)べく父を義務付けること。これが,実際のところ,最も通常の場合(le cas le plus ordinaire)であって,したがって,法が前提としなければならないものなのである(celui par conséquent que la loi doit supposer)。1790824日法は,父に十分大きな権威を与えたものであるものとは観察されない。良俗,社会及び子ら自身のその利益とするところが,父の権力がより大きな範囲にわたることを求めるのである。警察担当官の証言するところでは,不幸な父らはしきりに,彼らの子らの不行跡問題を裁判所に引き継がなくてもよいような懲戒権を求めているのである。しかしながら,起草委員会は,父の権威の行使を和らげる必要があると信じた。しかしてその観点から,当該委員会は,裁判所の所長から身体拘束令状の発付を受けることを父に義務付けるものである。

    ブウレ評定官いわく,起草委員会は一族の前のものであろうとなかろうと父子間の全ての争訟を防止しようとしていたものである,と。すなわち,父が敗れた場合,その権威の大きな部分も同時に失われてしまうのである。また,一族は,余りにも多くの場合分裂しており,その各員は,余りにも多くの場合,その将来についての審議のために招集された当の未成年者の利害よりも自分の子らの利害の方に関心を有しているのであって,この両者の利害が競合する場合,後者が前者を全面的に圧伏するということが懸念されるのである。

    トレイラアル評定官いわく,子らの咎は通常,父たちの弱さ,無配慮又は悪い手本の結果である,したがって父たちに絶対的な信頼を寄せるわけにはいかない,と。他方,息子の懲戒を裁判沙汰にするということは,よくよく避けられなければならないのである。しかしながら,身体拘束令状の発付前に一族の意見を聴くことを裁判所所長に義務付ければ,調和が得られるのである。この令状には,更に,理由が記載されてはならない。

    カンバセレス統領いわく,2件の修正提案はいずれも不十分であると信ずる,と。

    非常に多くの場合において,憎悪と利害とが,血が結び付けるものを分裂させていることに鑑みると,一族の同意を要するものとすることを私は望むものではない。本職は,全ての紛争に係る中正かつ自然な裁判者である通常裁判所を選好するものである。

    また,父の申立てと身体拘束令状発付との間に置かれる3日の期間は長すぎるものと思う。子が企み,かつ,正に実行しようとしている犯罪を防止するということが必要となるからである。

    しかしながら,子の年齢及びその置かれた状況についてされる考慮に従って,父の権力を規制することは非常に重要である。

    既に社会的地位もあるであろう20歳と10箇月の青年を,15歳の少年同様に,父による懲戒に服させるべきものではない。

    12歳の児童をその一存で数日間監禁させる権利を父に与えることが理にかなっているのと同程度に,よい教育を受けた年若い青年であって早熟な才能を示そうとしているもの(un jeune adolescent d’une éducation soignée, et qui annoncerait des talens précoces)を父に委ね,いわば彼の裁量に任すということは不当なことであろう。父たちがいかほどの信頼に値するとしても,全員が同様に優秀かつ有徳であるという誤った仮定の上に,法は基礎付けられるべきものではない。法は,衡平との間にバランスを保たねばならず,厳しい法はしばしば国家の革命を準備するということを忘れてはならない。

    したがって,裁判所の所長及び検察官には,父が16歳を超えた若者を監禁しようするとき又は16歳未満の子を一定の日数を超えて拘禁させようとするときにおいて,その理由を検討する権限が与えられなければならない。

    彼らには,身体拘束令状の発付を拒絶し,また,拘禁の期間を定めることが許されなければならない。

    〔後略〕

    これら各種の修正は,採択された。

   (Conseil d’État, pp.48-51) 

 

 16歳以上の「よい教育を受けた年若い青年(男性形です。)であって早熟な才能を示そうとしているもの」には,第二統領閣下は,ウホッ!と格別の配慮をしてくださったものでしょう。いや「チュッ,チュッ,チュッ」でしょうか。

 

   🌈: 今夜はわたしと一緒に・・・

   若い髭の軍人: もちろんです,カンバセレス執政閣下。

   🌈: 堅苦しいな,ジャンちゃんとでも呼んでくれ。

   髭: はい,ジャンちゃん。

    (チュッ,チュッ,チュッ)

   (長谷川・覇道460頁)

 

ここで採択された制度ともはや調和しない,として削られた原案の第9条は,「父が再婚したときは,前婚の子を拘禁させるには,その子の母方の最近親の親族2名の同意がなければならない。」と規定するものでした(Conseil d’État, pp.51, 44)。出来上がりのナポレオンの民法典380条と比べてみると,当該制度(システム)の採択とは,父権行使の規制を行う者を親族ではなく裁判所とする旨の決定のことのようです。

ナポレオンの民法典381条に「かつ,再婚していない」との修飾句が付されているのは,「子に対する権力を再婚した母に保持させることには大きな難点がある。寡婦であるときに当該権力を彼女に与えるということが,既に大したことだったのである。」とのカンバセレス第二統領発言を承けてのビゴ=プレアムヌによる修正の結果です(Conseil d’État, p.51)。新しいボーイ・フレンドのみならず,前夫の息子までをも支配し続けようとする欲張り女は許せない,との憤り(死別ならぬ離別のときはなおさらでしょう)があったものでしょうか。(なお,ナポレオンの民法典381条の文言自体は,寡婦は再婚するとかえって子の父方親族からの掣肘なく子を拘禁させることができるようになるようにも読めますが,それは誤読ということになるのでしょう。)ちなみに同条については,19351030日のデクレに係るラヴァル内閣のルブラン大統領宛て報告書(同月31日付けフランス共和国官報11466頁)において,「立法者は,母の2番目の夫の憎悪を恐れたのである。」との忖度的理解が示されています。しかし,自らを女の夫の立場に置いて考えるというところまで,「🌈色執政」の頭は回ったものでしょうか。

ナポレオンの民法典383条は,非嫡出子であっても認知されたものの父及び母に父の権力を認めていますが,これについては,ブウレが「父の権力(puissance paternelle)は婚姻(mariage)に由来するのであるから,その対象は嫡出子に限定されるべきである」と反対意見を述べたのに対し,トロンシェが「出生のみ(la naissance seule)で,父とその生物学的子(enfans naturels)との間の義務が創設されるのである。非嫡出子(enfans naturels)らは,何者かによる監督(direction)の下になければならない。したがって,彼らを世話するように自然(la nature)によって義務付けられる者の監督下に当該の子らを置くことは正当なことなのである。」と反論しています(Conseil d’État, pp.51-52)。ナポレオンの民法典がトロンシェの所論に与したものであるのならば,“puissance paternelle”は「父の権力」であって,「家父権」ではないのでしょう。ブウレの考え方はローマ法的なのでしょう。ローマ法においては「合法婚姻の子のみ父に従い,父又はその家長の家父権に服する」とされ(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)296頁),家父権が取得される場合は,「合法婚姻よりの出生」,「養子縁組」及び「準正」とされています(同286-292頁)

 

(3)制度の利用状況

 ナポレオンの民法典375条以下の懲戒制度の利用状況については,次のように紹介されています。

  

  〔前略〕リペェル/ブゥランジェが引用する司法省統計では,1875年~1895年の年平均は1,200件弱,1901年~1910年の年平均は800件弱であり,その85%は――別の調査によれば――貧困家庭の子を対象とするものであった。1913年の数字では,男子271人,女子233人(その3分の2は,パリのセェヌ民事裁判所長管轄事件),1931年ではさらに減少して男子69人,女子42人となり,制度の存在理由は,その威嚇的効果を考慮しても大きく失われたことを否定することができない。Ripert et Boulanger, Traité de droit civil, t. I, n˚2305.

  (稲本93-94頁註(47))

 

6 西暦18世紀フランス王国旧体制下の封印状

 さて,ここで,時間は前後しますが,18世紀のフランス王国旧体制下における封印状(lettre de cachet)の働きを見てみましょう。

 封印状とは,「一般的には《国王の命令が書かれ,(国王の署名及び)国務大臣の副署がなされ,国王の印璽で封印された書状》と定義付けられ」,そのうち「特定の個人や団体にその意思を知らせるもので,該当者に宛てられ,封をし,封印を押した非公開の書状lettre close」が「一般に封印状と称されるもの」です(小野義美「フランス・アンシアン・レジーム期における封印状について」比較家族史研究2号(1987年)51-52頁)。

 

   18世紀のパリ市民は貴賤を問わず,家庭内で生じた深刻なトラブルを国王に訴え出ることで,その解決を図ることができた。一般の市民が,それも下層階級に属する市民までもが,殴打する夫を,酒浸りの妻を,駆け落ちした娘を,遊蕩に耽る息子を,(まかない)費の支払いを条件として総合施療院(hôpital général)に監禁してくれるよう王権に縋り出たのである。

   庶民からのこうした切実な請願に対して国王は,当事者の監禁を命ずる封印状(lettre de cachet)を発してこれに応えた。驚くべきことに君主自らが,政治や外交といった国事からすれば何とも些細な最下層階級の家庭生活にまで介入し,庶民の乏しい暮しをいっそう惨めなものとしている家族の一員を,裁判にかけることもなければ期間も定めない,拘留措置によって罰したのである。

   もちろん庶民が畏れ多くも国王にじかに願い出たわけではない。両者を仲介し,封印状による監禁という解決策を推進したのが,当時のパリ警察を統括する立場にあった警察総監(lieutenant général de police)である。〔後略〕

  (田中寛一「18世紀のパリ警察と家族封印状」仏語仏文学41巻(2015年)113頁)

 

  〔前略〕この警察総監がさまざまな警察事案を解決するにあたり,柔軟で単純で迅速な国王封印状制度を好んで多用したのである。徒党を組んだ労働争議の首謀者,公序良俗を乱す売春婦,騒乱の扇動者と化す喜劇役者や大道芸人,もはや火刑に処せられはしない魔女は,これが封印状によって監獄や施療院へ送り込んだ常連である。

   だからこそ一般市民も,民事案件に過ぎない家庭内の混乱を収拾するべく,国王からの封印状を取り付けてくれるよう警察総監に依頼することができた。封印状による監禁は法制上の刑罰ではなく,その性質から逮捕も秘密裏に行われるので,醜聞を撒き散らさずに済んだからである。警察総監にしても,民政を掌握している以上はその苦情処理も引き受けざるを得ず,持ち込まれた民事案件に介入せざるを得なかったが,むしろ「18世紀にあって警察は,そのままが民衆の幸福を建設するというひとつの夢の上に築かれている」Arlette Farge et Michel Foucault, Le désordre des familles, Gallimard/Julliard, 1982, p.345という命題からすれば,進んでこれを受け付けていたとも言えるだろう。「パリでの家族に対する監禁要請は首都に特有の手続を経る。名家はその訴え(請願書)を国王その人にあるいは宮内大臣に差し出す。請願書が注意深く吟味されるのは,国王の臨席する閣議においてである。庶民はまったく異なる手続を踏む。彼らは警察総監に請願書を提出する。総監はこれを執務室で吟味し,調査を指揮し,判断を下す。調査は必然的に地区担当警視に案件を知らしめる。警視はその情報収集権限を警部に委ねる。(・・・)情報を得た総監は大臣宛に詳細な報告書を作成し,国務大臣が命令を発送するのを待つのである。それが少なくともルイ14世下に用いられた最も習慣的手続である。これがルイ15世の治世下になると,たちまち変形し,次第に速度を増すのである。よく見かけるのは警察総監がごく短い所見しか記さず,もはや国王の返答を待つことさえなく国王命令の執行に努める姿である」Farge et Foucault, pp.15-16

   だがこうして封印状を執行された庶民が収監される施設は,身分あり高貴なる者を待遇よく監禁したバスチーユやヴァンセンヌといった国家監獄でない。民衆には民衆のための監禁施設が整備されていたのである。すなわち1657年の王令により開設されていた総合施療院がそれである。本来は当時の飢饉と疫病に苦しむ生活困窮者を収容する慈善的な目的で設置されたビセートルやサルペトリエールといった施療院が,物乞いや浮浪者のみならず,警察総監が封印状によって送り込んできた,放浪者・淫蕩家・浪費家・同性愛者・性倒錯者・瀆神者・魔術師・売春婦・性病患者・自殺未遂者・精神病者などなど,不道徳または非理性にある者すべてを公共福祉の一環として閉じ込め,これを監禁したのである。〔後略〕

  (田中114-115頁)

 

   もとより封印状とは,周知のように,反乱を企てた貴族とか不実を働いた臣下といった国事犯の追放または監禁を,一切の司法手続を経ることなく国王が専横的に命ずるために認めた書状を意味し,その措置は王権神授に基づく国王留保裁判権の一環としての行政処分と解されたが,確かにヴォルテールやディドロのように,何らかの筆禍事件により国王の逆鱗に触れたことで監禁された例も少なくはない。「封印状というのは法律とか政令ではなくて,一人の人物に個人的に関わって何かをするように強制する国王命令でした。封印状により誰かに結婚するよう強制することさえできました。けれども大部分の場合,それは処罰の道具だったのです」Foucault, La vérité et la forme juridique›, Dits et écrits, tome 2, Gallimard, 1994, p.601

  (田中116頁)

 

   ルイ15世の治世後半1741年から1775年の35年間で2万通を超える国王命令が発されたといい,確かに濫用の目立った封印状ではあったが,その大部分はしかし,庶民からの請願によって発令された家族封印状であって,君主の専横のみの結果ではなかった。家庭生活を悲嘆の淵へと追い込んだ家族の一員を排除することによって事態の収拾を図るべく,身内により請願された結果に過ぎず,その実態は国王の慈悲による一種の「公共サーヴィス」に他ならなかったのである。だから書面が画一的で半ばは印刷されており,国王は令状執行官と被監禁者の名前およびその投獄先,それに決定の日付を記入するだけでよかったというのも当然であろう。

  (田中117頁)

 

   親子間の衝突には,盗癖・非行・同棲・淫行・放蕩・怠惰などを訴因として挙げることができるが,その底には利害の対立が隠されている場合が多い。「(・・・)それは後見行為を弁明すべき時期が両親に訪れたときに,あるいは最初の結婚でできた子供がその権利を,義父母または再婚でできた子供に対して主張するときに起こるのである」Farge et Foucault, p.159

  (田中131-132頁)

 

 封印状の濫用については旧体制下において既に高等法院の批判があり,政府側にも改善に向けた動きがあります。

 

  〔前略〕1770年,租税法院長Maleshelbesも建言書を草し,その濫用を批判した。彼は後に国務大臣になり,全監獄について監禁者と監禁理由を調査したり,あるいは一時的ではあったが,家族問題のための封印状の濫用を防止すべく家族裁判所tribunal de familleを組織化した。〔後略〕

  (小野・アンシアン55-56頁)

 

  〔前略〕更に1784年には宮内大臣Breteuilが地方長官及びパリ警視総監に対し封印状の濫用を防止すべく注目すべき「回状circulaire」を発した。この「回状」はとくに家族問題のための封印状に対し大きな制約を加えるものであった。先ず監禁期間について問題とし,精神病者や犯罪者についてはともかくも,不身持,不品行,浪費等による監禁については「矯正」が目的故,原則として12年を越えてはならないとする。次に家族員に対する監禁請求について,未成年者に関しては父母の一致した要請では足らず23人の主だった親族の署名が必要である。夫の妻に対する,あるいは妻の夫に対する監禁請求については最大の慎重さで対処することが必要である。更に,もはや親族の支配下にない成人に対しては,治安当局の注意をひくに足る犯罪のない場合には,たとえ家族の一致した要請があっても監禁されてはならない,とした。〔後略〕

  (小野・アンシアン56頁)

 

「以上の如く封印状の濫用に対する批判や対策が相次いだが,実態は改められなかった」まま(小野・アンシアン56頁),ルイ16世治下のフランス王国は,1789年を迎えます。

 

   1789年に三部会が召集されることになり,それに向けて各層からの陳情書cahier de doléanceが多数提出され,その殆ど全てが市民的自由の保障と封印状の廃止を要求した。ただ,家族問題のための封印状については,全廃ではなく,親族会assemblée de familleの公正な判断に基づく封印状の必要性を主張するものもあった。封印状廃止問題が積極化したのは立憲議会assemblée constituanteにおいてであった。178911月にはCastellane伯爵,Mirabeau伯爵ら4名による封印状委員会が組織され,委員会は,封印状により監禁されている者の調査をした上で,封印状廃止に関するデクレ草案を議会に提出した。デクレ草案は1790316日可決され,326日裁可・公布された。〔後略〕

(小野・アンシアン56頁)

 

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1 「双務契約」

 我が民法(明治29年法律第89号)中の重要概念として,「双務契約」というものがあります。同法533条及び553条,破産法(平成16年法律第75号)531項,551項及び2項並びに14818号等に出て来る語です。平成29年法律第44号による改正(202041日から(同法附則1条,平成29年政令第309号))によって削除される前の民法534条及び535条にも出て来ていたところです。

 なお,平成29年法律第44号による改正前の民法5361項は「前2条〔第534条及び第535条〕に規定する場合を除き,当事者双方の責めに帰することができない事由によって債務を履行することができなくなったときは,債務者は,反対給付を受ける権利を有しない。」と規定しており,現在の同項は「当事者双方の責めに帰することができない事由によって債務を履行することができなくなったときは,債権者は,反対給付の履行を拒むことができる。」と規定していますが,この民法536条の適用のある契約は双務契約であるものと一般に説かれています(内田貴『民法Ⅱ 債権各論』(東京大学出版会・1997年)62-63頁等)。しかし,同条に「双務契約」との明文はありません。ある債務と対になる「反対給付」(の債務)の語の存在でもって,「双務契約」との語がなくとも双務契約関係にあることが分かるということでしょうか。当該「反対給付」のフランス語は,富井政章及び本野一郎の訳によれば,“la contre-prestation”です。

 民法に双務契約の定義規定が無いのは,18935月の法典調査会の法典調査ノ方針13条に「法典中文章用語ニ関シ立法上特ニ定解ヲ要スルモノヲ除ク外定義種別引例等ニ渉ルモノハ之ヲ刪除(さんじょ)ス」とあったからでしょう。確かに「また定義は,むしろ研究の結果次第にかかわり,最後にでてくるものである」ところです(星野英一『民法概論Ⅰ(序論・総則)』(良書普及会・1993年)はしがき3頁)。189545日の第75回法典調査会で,富井政章が「既成法典ハ仏蘭西民法抔ニ傚ツテ〔財産編〕297条カラ303条迄合意ノ種類ヲ列挙シテアリマス,是レモ学説ニ委ネテ少シモ差支ナイ法典全体ノ規定カラ契約ニ斯ウ云フ種類カアル又其種類分ケヲスルニ付テ(どう)云フ結果ニ違ヒカアルト云フコトハ法典全体ノ上カラ自ラ分ルト思フ依テ此合意ノ種類ニ関スル規定ハ悉ク削除致シマシタ」と説明していたところです(日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録第23巻』158丁表裏)。

 

2 旧民法の定義による「双務合意(契約)」

ということで削られたとはいえ,旧民法財産編(明治23年法律第28号)297条には,「双務合意(契約)」の定義規定がありました。いわく。

 

  第297条 合意ニハ双務ノモノ有リ片務ノモノ有リ

   当事者相互ニ義務ヲ負担スルトキハ其合意ハ双務ノモノナリ

   当事者ノ一方ノミカ他ノ一方ニ対シテ義務ヲ負担スルトキハ其合意ハ片務ノモノナリ 

 

「合意」であって「契約」ではないのですが,旧民法財産編2962項は,「合意」と「契約」との関係について,「合意カ人権〔債権〕ノ創設ヲ主タル目的トスルトキハ之ヲ契約ト名ツク」と規定していました。

旧民法財産編297条のフランス語文は,次のとおり。

 

 Art.297 Les conventions sont bilatérales ou unilatérales.

La convention est bilatérale ou synallagmatique, lorsque les parties s’obligent réciproquement;

    Elle est unilatérale, lorsqu’une des parties s’oblige seule envers l’autre.

 

これは,次のボワソナアド案を若干簡約したものになっています。なお,法典調査会の審議が契約の章に入った18954月の前月の8日(189538日),「政府との契約もすでに終了した「禿頭白髯の老博士」〔ボワソナアドはこの時69歳〕は,朝野の熱烈な見送りを受けつつ,令嬢とともに新橋駅を発ち,午後6時,横浜港でシドニイ号に乗船した。その数日前,かれは外国人として初めて,勲一等瑞宝章を贈られることに決定していた。しかし老博士は,第二の祖国と呼び,永住するつもりであった日本を,結局は去っていった。」ということがありました(大久保泰甫『日本近代法の父 ボワソナアド』(岩波新書・1998年)195-196頁)。

 

 Art.318 Les conventions sont bilatérales ou unilatérales.

La convention est bilatérale ou synallagmatique, lorsque les parties s’obligent l’une envers l’autre ou réciproquement;

    Elle est unilatérale, lorsqu’une ou plusieurs parties s’obligent envers une ou plusieurs autres, sans réciprocité.

  (Boissonade, Projet de Code Civil pour l’Empire du Japon accompagné d’un Commentaire, Nouvelle Édition, Tome Deuxième, Droits Personnels et Obligations (Tokio, 1891). p.21)

 

 しかしてこのボワソナアド案は,フランス民法の次の両条に由来します。

 

Art.1102 (ancien) Le contrat est synallagmatique ou bilatéral lorsque les contractants s’obligent réciproquement les unes envers les autres.

 

      Art.1103 (ancien) Il est unilatéral lorsqu’une ou plusieurs personnes sont obligées envers une ou plusieurs autres, sans que de la part de ces dernières il y ait d’engagement.

 

上記両条は,現在は第1106条にまとめられています。

 

Article 1106 Le contrat est synallagmatique lorsque les contractants s’obligent réciproquement les uns envers les autres.

Il est unilatéral lorsqu’une ou plusieurs personnes s’obligent envers une ou plusieurs autres sans qu’il y ait d’engagement réciproque de celles-ci.

 

 ここで“synallagmatique”とは難しい綴りの単語ですが,元は古代ギリシア語のσυνάλλαγμαであるそうです(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)171頁)。

 なお,フランス民法における契約の種類の列挙及び定義に係る規定は,提案者であるビゴー=プレアムヌ(Bigot-Préameneu)によれば,「それを損なういくつかの煩瑣(quelques subtilités)を取り除きつつも,ほとんど全面的にローマ法から汲み出されたもの(sont puisées presque en entier dans le droit romain)」ということになるようです(共和国12(ブリュ)(メール)11日(1803113日)の国務院審議。民法典に関するコンセイユ・デタ議事録第3243頁)。確かにローマ法上の双務契約は,「一個の契約により当事者双方に(ultro citroque)債務を発生するもの」をいうそうです(原田171頁)。

 

3 民法533条の「双務契約」(富井政章)

 我が民法の起草担当者の意図していた同法533条の「双務契約」の意味については,1895416日の第78回法典調査会において富井政章から説明がありました。いわく。

 

双務契約ト云フコトハ契約ニ依ツテ双方ガ義務ヲ負フト云フ場合テアル然ウシテアル格段ナル場合ニ是レハ双務契約テアルカナイカト云フコトヲ法律()極メルコトハナイノテアリマスカラ夫レハ一々学者ニ任カス日本学術振興会『法典調査会民法議事速記録第24巻』206丁裏)

 

ここで負担付贈与について一言していわく。

 

而シテ〔略〕仏蘭西当リテ負担附ノ贈与ト云フコトガアル斯ウ云フ品ヲオマヘニ贈与スルカラ其代リ斯ウ云フコトヲシテ呉レト云フ契約ガアル夫レハ双務カ片務カト云フコトニ付テ余程議論ガアル,ケレトモ苟モ反対給付ヲ以テ一方ノ義務ノ成立スル条件ト当事者ガシタ以上ハ矢張リ双務契約ノ中ニ入レルト云フ説ガ今日ニ於テハ最モ勢力ヲ持ツテ居ル,矢張リ事実ニ依テ極メナケレハナラヌコトテアツテ一般ニ極メルコトハ出来得ナイト思フ,ケレトモ概シテ然ウ云フ場合ハ双務契約ト云フ方カ宜カラウ(民法議事速記録第24206丁裏-207丁表)

 

また改めていわく。

 

何処迄モ原則ハ契約ニ依テ双方ガ義務ヲ負フノガ双務契約テアルト云フ趣意テ立テ居ル併シ或ル格段ナル場合ニハ我々デモ各々意見ヲ異ニスル様ナコトガアラウト思フ(民法議事速記録第24207丁表裏)

 

「有償契約」との関係について更にいわく。

 

例ヘハ貸借ト云フモノニ付テハ此事ニ付テ少シ説ガアリマスガ我々ノ内テモ意見ガ皆同一テナイカモ知ラヌガ利息附ノ貸借ハ確カニ有償契約テアル債権者ハ利息ヲ取ル債務者ハ其借リタモノヲ使用シテ利益ヲ受クルト云フノテアルカラドチラニモ利益ヲ生スルカラ立派ナ有償テアリマスガ是レガ双務契約テアルカト云フト普通ノ見方テハ双務契約テナイ貸借ト云フモノハ貸主カラ物ヲ引渡シテ初メテ成立スル〔民法587条参照〕其成立シタ契約ニ依テドンナ義務ガ生シタカト言ヘハ借主ト云フ一方ニ返還スル義務ガ生ジタト云フ丈ケノ話シテ是レハ双務契約テハナイ,ケレトモ有償契約テアルニハ違ヒナイ,夫故ニ有償契約ニシテ双務契約テナイモノハアルガ双務契約ニシテ有償契約テナイト云フモノハナカラウ(民法議事速記録第24208丁表裏)

 

 「双務契約ト云フコトハ契約ニ依ツテ双方ガ義務ヲ負フト云フ場合テアル」ないしは「何処迄モ原則ハ契約ニ依テ双方ガ義務ヲ負フノガ双務契約テアルト云フ趣意テ立テ居ル」ということであれば,削られたとはいえ,なお旧民法財産編2972項の規定が生きていたようです。

 

4 双務・有償契約たりし負担付贈与

 また,富井政章の負担付贈与(イコール)双務契約説を承けてということになるのでしょうが,民法553条の旧規定は「負担附贈与ニ付テハ本節〔贈与の節〕ノ規定ノ外双務契約ニ関スル規定ヲ適用ス」でありました(下線は筆者によるもの)。梅謙次郎も,当該旧規定について「本条ハ負担附(○○○)贈与(○○)ノ性質ヲ定メタルモノナリ〔略〕本条ニ於テハ本節ノ規定ノ外双務契約ニ関スル規定ヲ適用スヘキコトヲ明言セルカ故ニ其性質ノ双務契約即チ有償契約ナルコト蓋シ明カナリ〔略〕而シテ余ハ之ヲ以テ最モ正鵠ヲ(ママ)タル学説ニ拠レルモノナリト信ス蓋シ贈与者カ自己ノ財産ヲ相手方ニ与ヘ相手方モ亦之ニ対シテ一ノ義務ヲ負担スル以上ハ是レ固ヨリ報償アルモノニシテ且当事者双方ニ義務ヲ生スルモノナルコト最モ明カナレハナリ」と賛意を表しています(梅謙次郎『民法要義巻之三 債権編(第33版)』(法政大学=有斐閣書房・1912年)470-471頁)。

 しかし,民法553条は,平成16年法律第147号によって,200541日から(同法附則1条,平成17年政令第36号)「負担付贈与については,この節に定めるもののほか,その性質に反しない限り,双務契約に関する規定を準用する。」に改められてしまっています(下線は筆者によるもの)。適用ではなく準用ですから,負担付贈与は双務契約ではない,ということが前提となっています。同条旧規定に対する「(法文は適用といつているが,正確にいえば準用である)」との我妻榮の括弧書きコメント(我妻榮『債権各論中巻一(民法講義Ⅴ₂)』(岩波書店・1973年)235頁)を承けての変更でしょうか。我妻の負担付贈与()双務契約説の理由付けは,後に出て来ます(6,11(3)。また,7(3))。

 

5 双務契約にして有償契約でないものの存在(梅謙次郎及びボワソナアド)

 富井政章は「有償契約ニシテ双務契約テナイモノハアルガ双務契約ニシテ有償契約テナイト云フモノハナカラウ」と述べています。現在の民法学者も,「双務契約は常に有償契約であるが,有償契約が全て双務契約であるとは限らない。」と,同様のことを語っています(内田20頁)。

 ちなみに,有償契約については,これも旧民法財産編298条に定義規定がありました。

 

  第298条 合意ニハ有償ノモノ有リ無償ノモノ有リ

   各当事者カ出捐ヲ為シテ相互ニ利益ヲ得又ハ第三者ヲシテ之ヲ得セシムルトキハ其合意ハ有償ノモノナリ

   当事者ノ一方ノミカ何等ノ利益ヲモ給セスシテ他ノ一方ヨリ利益ヲ受クルトキハ其合意ハ無償ノモノナリ

 

 同条のフランス語文は,次のとおり。

 

  Art.298 Les conventions sont à titre onéreux ou à titre gratuit.

La convention est à titre onéreux, quand chacune des parties fait un sacrifice en faveur de l’autre ou en faveur d’un tiers;

Elle est à titre gratuit, quand l’une des parties reçoit avantage de l’autre, sans en fournir aucun, de son côté.

 

 ボワソナアドは,次のように解説しています。

 

当該「onéreux」の語は,「負担 “charge”」の意たるラテン語の「onus」に由来する。有償(à titre onéreux)契約においては,両当事者に負担ないしは出捐(sacrifice)が存在する。(Boissonade, p.34

 

 ところで,我が民法の制定当初において,梅謙次郎は,何と「双務契約ニシテ有償契約テナイト云フモノ」があることを高唱していました。いわく。

 

  双務(○○)契約(○○)Contrat synallagmatique, gegenseitiger Vertarg)トハ其成立ニ因リテ直チニ当事者双方ニ債務ヲ負担セシムルモノヲ謂フ例ヘハ売買,賃貸借,組合等ノ如キ是ナリ使用貸借ハ古来之ヲ片務契約トセリト雖モ余ハ双務契約ナリト信ス旧民法ニ於テモ初ノ草案ノ理由書ニハ之ヲ片務契約トセリト雖モ竟ニ其双務契約タルコトヲ認メタリ(梅411頁。下線は筆者によるもの)

  使用貸借ニ因リテ貸主ハ借主ヲシテ其所有物ノ使用及ヒ収益ヲ為サシムルノ義務ヲ負ヒ借主ハ其使用,収益ヲ為シタル後其物ヲ返還スル義務ヲ負フ〔したがって,双務契約である。〕(梅607頁)

古来一般ノ学説ニ拠レハ使用貸借ハ唯借主ヲシテ返還ノ義務ヲ負ハシメ貸主ハ何等ノ義務ヲモ負ハサルモノトセリ蓋シ使用貸借ハ概ネ貸主ノ好意ニ因レルモノナルカ故ニ古代ノ法律ニ在リテハ借主ハ敢テ物ヲ使用スル権利ヲ有スルニ非ス唯貸主ノ好意カ変セサル限リハ徳義上借主ヲシテ物ノ使用ヲ為サシムルニ過キサルモノトシ即チ貸主ハ何時ニテモ物ノ返還ヲ求ムルコトヲ得ルモノトセシヲ以テ使用貸借ハ真ニ借主ニ義務ヲ負ハシムルノミニシテ之ニ権利ヲ与ヘサリシモノト謂フヘシ(梅607-608頁)

然リト雖モ法律漸ク進歩スルニ及ヒテハ敢テ貸主カ故ナク物ノ返還ヲ求ムルコトヲ許サス唯自己ノ入用アルトキハ之ヲ求ムルコトヲ得ルモノトシ竟ニ普通ノ入用アルモ未タ返還ヲ求ムルコトヲ許サス唯臨時ノ必要ヲ生シタル場合ニ限リ其返還ヲ促スコトヲ得ルモノトスルニ至レリ(梅608頁)

殊ニ新民法ニ於テハ貸主ハ自己ノ為メニ如何ナル必要アルモ敢テ契約ヲ無視シテ物ノ返還ヲ求ムルコトヲ得サルモノトセルカ故ニ借主ハ純然タル権利ヲ有スルコト敢テ疑ナシト雖モ仏国法〔1889条〕,我旧民法〔財産取得編(明治23年法律第28号)2032項〕等ニ於テハ或場合ニ貸主ヲシテ物ノ返還ヲ求ムルコトヲ得セシムルニ拘ハラス余ハ夙ニ借主カ一ノ債権ヲ有スルコトヲ信シテ疑ハサリシナリ而シテ「ボワッソナード」氏カ之ヲ認メタルハ仏法学者中ニ在リテハ実ニ卓見ト謂フヘシ(同頁。下線は筆者によるもの)

 

使用貸借は「当事者の一方がある物を引き渡すことを約し,相手方がその受け取った物について無償で使用及び収益をして契約が終了したときに返還をすることを約することによって,その効力を生ずる」契約ですから(民法593条。下線は筆者によるもの),当然無償契約であり(梅605頁,606頁等),有償契約ではありません。しかし,梅及びボワソナアドによれば,双務契約であるというのです。(ただし,ボワソナアドは「しかし最後まで心中のしこりとして残るのは,かくして我々は,無償(gratuit ou de bienfaisance)であると同時に双務(synallagmatique)である契約を有するわけであるが,この二つの性質は,通常は両立不能なのである。」との苦衷を明かしてはいます(Boissonade, p34: note(4))。)

我が民法制定時の二大権威の使用貸借=双務・無償契約説に対して,現在の民法学説の使用貸借=片務・無償契約説(我妻榮『債権各論上巻(民法講義Ⅴ₁)』(岩波書店・1954年)49-50頁,内田165-166頁等)が対立します。

 

6 双務契約の現在の定義

前記の対立の由来はいずこにありや,と法律書の小さな文字を追って気が付くのは,現在の双務契約の定義が,旧民法財産編2972項のそれと微妙に異なっていることです。

 

  契約の各当事者が互に対価的な意義を有する債務を負担する契約が双務契約で,そうでない契約が片務契約である。(我妻Ⅴ₁・49頁。下線は筆者によるもの)

 

(イ)対価的な意義があるかどうかは,客観的に定められるのではなく,当事者の主観で定められる。代金がいかに廉くとも,当事者が売買のつもりなら,その代金は,対価的な意義があり,負担がいかに重くとも,当事者が贈与のつもりなら,その負担は対価的意義がない。〔負担付贈与≠双務契約説の理由付けは,これでしょう。

  (ロ)契約の各当事者が債務を負担する場合でも,その債務が互に対価的な意義をもたないときは,片務契約である。すなわち,(a)契約の当然の効果として双方の当事者が債務を負担するが,その債務が互に対価的な意義をもたない場合,例えば,使用貸借(貸主の使用させる債務と借主の返還債務とは対価的意義がない)は,不完全双務契約と呼ばれることもあるが,民法のいう双務契約ではない。また,(b)契約の成立後に一方の当事者が特別の事情で債務を負担する場合,例えば,無償委任(委任者は費用償還債務を負担することがある)は,双務契約ではない。(我妻Ⅴ₁・49頁)

 

 ここでは,「対価性」の要件が,旧民法ないしはフランス民法流の双務契約概念に追加されています(したがって,双務契約の範囲がより狭くなる。)。

また,現在の学説においては,一方当事者の債務と他方当事者の債務との間に対価的な関係があることこそが,「双務契約上の債務における牽連性」が認められる理由とされています。

 

   売主と買主の債務は,対価的な関係にあるために,両債務の間には特別な関係が生ずる。売主の債務をα,買主の債務をβで表すと,αとβとは,双務契約上の債務として特殊な関係に立つのである。この関係のことを牽連関係とか牽連性といい,3つのレベルに分けて論ずることができる。すなわち,債務の成立上の牽連性,履行上の牽連性,そして債務の存続上の牽連性である。(内田46頁。下線は筆者によるもの)

 

 しかし,梅謙次郎の理解する「双務契約」は,上記の牽連関係もあらばこそ,負担付贈与及び使用貸借も含むものであったのですから,我が民法の双務契約関係規定は,制定時においては,上記学説にいう牽連関係ないしは牽連性なるものを必ずしも前提とするものではなかったのでしょう。


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第5 フランス民法894条

 

1 影響の指摘

 民法549条の分かりにくさ(前出我妻Ⅴ₂223頁参照)に関しては,「フランス民法894条の規定の体裁に従ったがためであろう。」とも説かれています(柚木馨=高木多喜男編『新版注釈民法(14)債権(5)』(有斐閣・1993年)26頁(柚木馨=松川正毅))。

 

2 条文及びその解釈

 

(1)条文

フランス民法894条は,次のとおり。

 

  Art. 894   La donation entre vifs est un acte par lequel le donateur se dépouille actuellement et irrévocablement de la chose donnée en faveur du donataire qui l’accepte.(生前贈与は,それによって贈与者が現在において,かつ,不可撤回的に,それを受ける受贈者のために,被贈与物を委棄する行為である。)

 

(2)山口俊夫教授

フランス民法894条に係る山口俊夫教授の説明は,「生前贈与は,贈与者(donateur)が現実に(actuellement)かつ取消しえないものとして(irrévocablement),それを受諾する受贈者(donataire)に対し無償で自己の財産を与える法律行為(片務契約)である(894条)。」というものです(山口俊夫『概説フランス法 上』(東京大学出版会・1978年)526頁)。筆者の蕪雑な試訳よりもはるかにエレガントです。

 

(3)矢代操

しかし,筆者としては,矢代操による次のように古格な文章を面白く思います。

 

  今日は,〔フランス〕民法中無償名義にて財産を処置するの方法唯2箇あるのみ。生存中(○○○)()贈遺(○○)及び(○○)遺嘱(○○)()贈遺(○○)是なり〔フランス民法893条〕。其生存中の贈遺の定義は載せて第894条にあり。曰く,⦅生存中の贈遺とは,贈遺者贈遺(○○)()領承(○○)する(○○)受贈者の為め即時(○○)()確定(○○)()贈遺物を棄与する所為(○○)を云ふ⦆。此定義中に所為(○○)と記するは妥当ならず。蓋し契約と云ふの意にあるなり。何となれば遺嘱の贈遺は契約にあらずして唯一の所為なりと雖ども,生存中の贈遺は純粋の契約なればなり。

  又本文中に即時(○○)と記するの語に糊着するときは,生存中の贈遺の適法となるには其目的物を引渡し(○○○)受贈者之を占有するを要するものの如し。然れども決して其意に解釈す可からず。蓋し其即時とは,〔略〕生存中の贈遺は〔略〕贈遺の時直に其効を生す可しとの意にあるなり。故に其契約成立の後此執行は之を贈遺者の死去に至るまで遅引するを得可きなり。

  又此生存中の贈遺は遺嘱の贈遺と異にして,一たび贈遺を為したる以上は一般の契約の原則に従ひ法律に定めたる原由あるにあらざれば之を取消すを得ざるなり。(明治大学創立百周年記念学術叢書出版委員会編『仏国民法講義 矢代操講述』(明治大学・1985年)46-47頁)

 

(4)生前贈与は契約か否か

はて,「蓋し契約と云ふの意にあるなり」との矢代の指摘に従ってフランス民法894条の生前贈与(donation entre vifs)の定義を見ると,確かに行為(acte)であって,契約(contrat)でも合意(convention)でもないところです(なお,フランス民法1101条は,「契約(contrat)は,それにより一又は複数の者が他の一又は複数の者に対して,何事かを与え,なし,又はなさざる義務を負う合意(convention)である。」と定義しています。)。しかも当該行為を行う者は贈与者のみです(“un acte par lequel…et le donataire l’accepte.”とは規定されていません。)。

こうしてみると,フランス民法931条と932条との関係も気になってくるところです。同法931条は“Tous actes portant donation entre vifs seront passés devant notaires dans la forme ordinaire des contrats; et il en restera minute, sous peine de nullité.”(生前贈与が記載される全ての証書は,公証人の前で,契約に係る通常の方式をもって作成される。また,その原本が保管され,しからざれば無効となる。)と規定しています。贈与者と受贈者とが共に当事者となって「契約に係る通常の方式」で証書が作成されるのならば,受贈者の出番もこれで終わりのはずです。しかしながら,同法932条はいわく。“La donation entre vifs n’engagera le donateur, et ne produira aucun effet, que du jour qu’elle aura été acceptée en termes exprès. / L’acceptation pourra être faite du vivant du donateur par un acte postérieur et authentique, dont il restera minute; mais alors la donation n’aura d’effet, à l’égard du donateur, que du jour où l’acte qui constatera cette acceptation lui aura été notifié.”(生前贈与は,それが明確な表示によって受諾された(acceptée)日からのみ贈与者を拘束し,及び効力を生ずる。/受諾(acceptation)は,贈与者の存命中において,事後の(postérieur)公署証書であって原本が保存されるものによってすることができる。しかしながら,この場合においては,贈与は,贈与者との関係では,当該受諾を証明する証書が同人に送達された日からのみ効力を生ずる。)と。すなわち,同条2項は,生前贈与がまずあることとされて,それとは別に,事後的に当該生前贈与の受諾があり得ることを前提としているようなのです(贈与者の意思表示とそれとが合致して初めて一つの合意ないし契約たる生前贈与が成立するということではないのならば,フランス民法9322項の“acceptation”に,契約に係るものたるべき「承諾」の語は用い難いところです。また,フランス民法894条で受贈者が受けるものである「それ」は,生前贈与ということになるようです。)。

梅謙次郎は「贈与(○○)Donatio, donation, Schenkung)ノ性質ニ付テハ古来各国ノ法律及ヒ学説一定セサル所ニシテ或ハ之ヲ契約トセス遺贈ヲモ此中ニ包含セシムルアリ或ハ贈与ヲ以テ贈与者ノ単独行為トシ受贈者ノ承諾ナキモ既ニ贈与ナル行為ハ成立スルモノトスルアリ」と述べていますが(梅謙次郎『訂正増補第30版 民法要義巻之三 債権編』(法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1910年)462頁),これは実はフランス民法のことだったのでしょうか。

 

(5)コンセイユ・デタ

ここで,小樽商科大学ウェブ・サイトの「民法典に関するコンセイユ・デタ議事録(カンバセレス文庫)」を検すると,フランス民法894条の原案は,共和国11雨月(プリュヴィオーズ)7日(1803127日)に“La donation entre-vifs est un contrat par lequel le donateur se dépouille actuellement et irrévocablement en faveur du donataire, de la propriété de la chose donnée.”(生前贈与は,それによって贈与者が現在において,かつ,不可撤回的に,受贈者のために,被贈与物の所有権を委棄する契約である。)という形でビゴー・プレアムヌ(Bigot-Préameneu)からコンセイユ・デタ(国務院)に提出されており,同条に関する審議に入った劈頭ボナパルト第一執政閣下から「契約(contrat)っていうものは両当事者に相互的な負担を課するものだろう。よって,この表現は贈与にはうまく合わないようだな。」との御発言があり,ベレンジェ(Bérenger)があら捜しに追随して「この定義は,贈与者についてのみ述べて受贈者については述べていない点において不正確ですな。」と述べ,続いてルグノー(Regnaud)がそもそも定義規定は不必要なんじゃないのと言い出して法典における定義規定の要不要論に議論は脱線しつつ,その間トロンシェ(Tronchet)は「贈与及び遺言を定義することによってですな,我々は各行為に固有の性質を示そうとしており,そしてそこから両者を区別する相違点を引き出そうとしているのですよ。ここのところでは,両者を分かつ性質は,撤回可能性と不可撤回性ですな。」と指摘し,他方マルヴィル(Maleville)は「もし定義規定が必要であると判断されるのなら,贈与は“un acte par lequel le donateur se dépouille actuellement et irrévocablement d’une chose, en faveur du donataire qui l’accepte.”(それによって贈与者が現在において,かつ,不可撤回的に,それを受ける受贈者のために,ある物を委棄する行為である。)と定義できるのではないですか。」と,第一執政閣下の御指摘及びベレンジェ議員のいちゃもんを見事に取り入れた現行フランス民法894条の文言とほぼ同じ文言の案を早くも提示していたところですが,その場での結論は,一応,「同条は,「契約」(contrat)の語を「行為」(acte)の語に差し替えて,採択された。」ということでした。(Tome II, pp.321-323

 なお,ベレンジェが受贈者についての規定が必要だと言ったことの背景には,「生前贈与は,それによって,それを受諾する者がその条件を満たすべき義務を負う行為である。」,「また,全ての生前贈与は,相互的に拘束するもの(engagement réciproqueと観念されるので,与える者及び受諾する者の両当事者が関与することが不可欠である。このことは,宛先人が知っておらず,又は合意していないときは,恵与は存在するものとはなおみなされないものとするローマ法にかなうことである。」及び「全ての贈与について受諾は不可欠の要件であるので,それは明確な言葉でされることが求められる。」という認識がありました(カンバセレス文庫Ⅱ, p.804。共和国11花月(フロレアル)3日(1803423日)にコンセイユ・デタに提出された,立法府のための法案理由書)。正にフランス法では,「受贈者は贈与者に対して感謝の義務を負う。これは単なる精神的義務ではなく,〔略〕忘恩行為(ingratitude)は,一定の場合には贈与取消の制裁を蒙る」ところです(山口526-527頁)。(ボナパルト第一執政の前記認識との整合性をどううまくつけるかの問題はここでは措きます。)

 

第6 旧民法及びボワソナアド原案

 

1 旧民法

また,民法549条がその体裁に従うべき条文としては,フランス民法894条よりもより近い先例(というより以前にそもそもの改正対象)として,旧民法の関係規定があったところです。梅は,民法549条の参照条文として,旧民法財産取得編349条及び358条を掲げています(梅462頁)。当該両条は,次のとおり。

 

  第349条 贈与トハ当事者ノ一方カ無償ニテ他ノ一方ニ自己ノ財産ヲ移転スル要式ノ合意ヲ謂フ

 

  第358条 贈与ハ分家ノ為メニスルモノト其他ノ原因ノ為メニスルモノトヲ問ハス普通ノ合意ノ成立ニ必要ナル条件ヲ具備スル外尚ホ公正証書ヲ以テスルニ非サレハ成立セス

   然レトモ慣習ノ贈物及ヒ単一ノ手渡ニ成ル贈与ニ付テハ此方式ヲ要セス

 

2 ボワソナアド原案

旧民法に先立つボワソナアド原案の第656条は,次のように贈与を定義しています(Boissonade, Projet de Code Civil pour l’Empire du Japon accompagné d’un commentaire, nouvelle édition, Tome Troisième, des Moyens d’Acquérir les Biens. (Tokio, 1891) p.170)。

 

Art. 656.   La donation entre-vifs est une convention par laquelle le donateur confère gratuitement ou sans équivalent, au donataire qui accepte, un droit réel ou un droit personnel; [894.]

Elle peut consister aussi dans la remise ou l’abandon gratuit d’un droit réel du donateur sur la chose du donataire ou d’un droit personnel contre lui.

  (第656条 生前贈与は,贈与者が,承諾をする受贈者に対して物権又は債権を無償又は対価なしに与える合意である。(フランス民法894条参照)

  ( 受贈者の物を目的とする物権又は同人に対する債権に係る無償の免除又は放棄もまた生前贈与とすることができる。)

 

ボワソナアドは,贈与を典型契約又は有名契約(contrat nommé)の一とし,「既に何度も言及された全ての法律効果,すなわち,物権又は債権の設定又は移転,変更又は消滅を生じさせることのできる唯一の無償合意(convention gratuite)である。これだけの可能な射程(étendue possible)を持つ他の契約は,有償である。もちろんなお他にも,使用貸借,寄託,委任のような無償又は無約因の契約が存在するが,それらは債権を生じさせるのみである。」と述べています(Boissonade III, p.172)。

ボワソナアド原案656条の解説は,次のとおり(Boissonade III, pp.172-173)。

 

   法は,生前贈与の定義から始める。その性質は,遺言とは異なり,合意(convention),すなわち意思の合致(un accord de volontés)である。疑いもなく,〔略〕人は自分の意思に反して受遺者となることはできない。しかし,遺贈は,受諾される(accepté)前に存在するのである。すなわち,受遺者は,それと知らずに,拒絶することなく取得するのである。他方,受贈者は,彼が欲する場合であって彼が欲する時にのみ取得するのである。すなわち,彼の承諾(acceptation)は,当該法律行為(l’acte)の成立自体(la formation même)のために必要なのである。

   フランスでは,法は明確な受諾(acceptation)を求めている(フランス民法894条及び932条)。感謝のためのものではない場合においては,その性質からして,受贈者を義務付けるものではないそのような行為〔生前贈与〕というもの〔があり得るなどということ〕には驚かされ得るところである。

   ここで条文は,承諾(acceptation)を求めているが,それ以上の具体的な規定は無い。すなわち,この承諾(acceptation)に要式的かつ明確な性格を与えることが適当であると判断されるのならば,贈与の方式について規定するときにそのことについての説明が必ずやされるであろう。

   当該定義は更に,贈与は利益を無償で〔下線部は原文イタリック〕与えるものであると我々に述べ,かつ,その文言が不確定性を残さないように,別の概念である「対価なしに」によって説明がされている。

   贈与者が受贈者に与えることのできる多様な利益が,同条の文言によって明らかになるようにされている。次のようなものである。

1に,物に係る物権。すなわち,所有権,用益権,使用権,地役権。

2に,債権(droit personnel)又は贈与者が債務者となり受贈者が債権者となる債権(créance)。

3に,贈与者が受贈者の物について有する用益権,使用権又は地上権のような物権の受贈者への移転(remise〔筆者註:これで当該物権は混同で消滅するはずです。〕又は放棄(abandon)。

4に,贈与者が受贈者に対して有していた債権についての受贈者の債務を消滅させる免除(remise)。

法は,これまで既に論ぜられた種々の区別,すなわち,まず特定物の所有権と種類物ないしは定量物の所有権との間の区別,及び次に作為債務と不作為債務との間の区別について再論する要を有しない。より特殊な事項であることから遺贈については再掲することが必要であると解されたこれらの区別は,合意が問題になっているところであるから,ここでは問題にならない。

 

第7 穂積陳重原案の背景忖度

 

1 不要式契約

 現行民法では,贈与は公正証書によることを要する要式契約ではありませんから(旧民法財産取得編3581項対照),旧民法財産取得編349条からその要式性を排除することとして条文を考えると「贈与トハ当事者ノ一方カ無償ニテ他ノ一方ニ自己ノ財産ヲ移転スル合意ヲ謂フ」となります。

 

2 「移転スル」から「与える」へ

旧民法財産取得編349条では財産を「移転スル」こととなっていますが,現行民法549条では財産を「与える」ことになっています。これは,現行民法の贈与には,財産権の移転のみならず,財産権の設定等も含まれているからでしょう(なお,穂積陳重は「財産」について「物質的ノ権利ニシテ民法ニ認メラレテ居ル所ノ即チ物権,債権ノ全部ヲ含ム積リナノテアリマス」と述べています(民法議事速記録25141丁表)。)。いわく,「例ヘハ無償ニテ所有権,地上権,永小作権等ヲ移転若クハ設定スルハ勿論新ニ債権ヲ与ヘ又ハ既存ノ債権ノ為メニ無償ニテ質権,抵当権等ヲ与フルモ亦贈与ナリ之ニ反シテ相手方ノ利益ノ為メニ物権又ハ債権ヲ抛棄シ又ハ無利息ニテ金銭ヲ貸与シ其他無償ニテ自己ノ労力ヲ他人ノ用ニ供スル等ハ皆贈与ニ非ス」と(梅464頁)。

 

3 「合意」から「意思を表示し,相手方が受諾をする」へ

 

(1)民法549条の「趣旨」

 民法549条と旧民法財産取得編349条との相違は,更に,後者では単に「・・・合意ヲ謂フ」としていたところが前者では「・・・意思を表示し,相手方が受諾をすることによって,その効力を生ずる。」となっているところにあります。民法549条の趣旨は,穂積陳重によれば「贈与ノ効力ヲ生スル時ヲ定メマシタノテアリマス」,「本案ハ受諾ノ時ヨリ其効力ヲ生スルト云フコトヲ申シマシテ一方ニ於テハ此契約タル性質ヲ明カニ致シ一方ニハ何時カラシテ其効力ヲ生スルカト云フコトヲ示シタモノテアリマス」ということとなります(民法議事速記録25139丁表及び裏)。

しかし,贈与が契約であることは,贈与について規定する民法549条から554条までは同法第3編第2章の契約の章の第2節を構成しているところ,その章名からして明らかでしょう。更に,契約の成立については契約に係る総則たる同章の第1節中の「契約の成立」と題する第1款で既に規定されており(申込みと承諾とによる。),かつ,契約の効力の発生時期については,「契約上の義務は,一般に,特に期限の合意がない限り,契約成立と同時に直ちに履行すべきものである」ので(『増補民事訴訟における要件事実第1巻』(司法研修所・1986年)138頁),特殊な性質の契約でない限り,これらの点に関する規定は不要でしょう(民法549条は,これらの原則を修正するものではないでしょう。)。すなわち,筆者としては,穂積陳重のいう民法549条の前記趣旨には余り感心しないところです。

(2)民法550条との関係

 単純に考えれば,民法549条の原案は,「贈与ハ当事者ノ一方カ無償ニテ他ノ一方ニ自己ノ財産ヲ与フルコトヲ約スルニ因リテ其効力ヲ生ス」ないしは「贈与ハ当事者ノ一方カ自己ノ財産ヲ無償ニテ相手方ニ与フルコトヲ約スルニ因リテ其効力ヲ生ス」でよかったように思われます(終身定期金契約に係る同法689条参照)。

 しかし,民法550条(「書面によらない贈与は,各当事者が解除をすることができる。ただし,履行の終わった部分については,この限りでない。」)があって書面によらない贈与の拘束力は極めて弱いものになっていますので(同条について梅は「本条ハ贈与ヲ以テ要式契約トセル学説ノ遺物」であると指摘しています(梅464頁)。),他の典型契約同様の「約ス」という言葉では贈与者に対する拘束が強過ぎるものと思われたのかもしれません。そこで「贈与ハ当事者ノ一方カ自己ノ財産ヲ無償ニテ相手方ニ与フル意思ヲ表示スルコトニ因リテ其効力ヲ生ス」としてみると,今度は単独行為のようになってしまう。で,単独行為ではなく契約であることをはっきりさせるために「贈与ハ当事者ノ一方カ自己ノ財産ヲ無償ニテ相手方ニ与フル意思ヲ表示シ其相手方カ之ヲ承諾スルニ因リテ其効力ヲ生ス」とすると,お次はあるいは民法643条の委任の規定(受任者の「承諾」をいうもの)との関係で面白くない。同じ「承諾」であるのに,受任者は債務を負うのに受贈者は債務を負わないというのは変ではないか。ということで「受諾」の語を持って来たということはなかったでしょうか。

 と以上のように考えると一応もっともらしいのですが,第81回法典調査会において穂積陳重がそのような説明をせずに混乱してしまっているところからすると,違うようではあります。また,あえてフランス民法的発想を採るならば「全ての生前贈与は,相互的に拘束するもの」となるのですから,受贈者は何らの義務も負わないから「承諾」ではなく「受諾」なのだともいいにくいでしょう。

 それともあるいは民法550条との関係で,「承諾」であると契約が確定してしまうので,暫定的合意である場合(書面によらない贈与の場合)もあることをば示すために「受諾」ということにしたものか(梅によって「嫌ヤナ事ヲ承諾スル」と言われた際の「嫌ヤナ事」とは,この確定性を意味するのでしょうか。)。その上で,「暫定的合意であることを示すものです」と言ってしまうと,暫定的合意たる民法549条の贈与(書面によらないもの)は果たして契約か,また,要物契約だということになるとまだ契約は成立していないことになるのではないか云々ということで議論が面倒臭くなるので,「詰マリ感覚テアリマスナ」という,説明にならない説明的発言に留めたものであったのでしょうか。

穂積陳重は,第81回法典調査会で民法550条の原案(「贈与ハ書面ニ依リテ之ヲ為スニ非サレハ其履行ノ完了マテハ各当事者之ヲ取消スコトヲ得」)に関し「書面ナラバモウ完全ニ贈与契約ハ成立ツ」(民法議事速記録25146丁裏-147丁表)とは言いつつも,「書面テナクシテ口頭又ハ其他ノ意思表示ニ依テ為シタ贈与契約ハ如何ナモノテアルカ」という問題については,要式性を前提とする外国の法制における例として,①「此贈与契約ト云フモノハ成立タヌノテアル総テ成立タタヌノテアル手渡シヲシタナラバ之ヲ取返ヘスコトハ出来ヌ」とするもの〔筆者註:フランスでは,要式性の例外として,現実の手渡しによる現実贈与(don manuel)の有効性が判例で認められていますが,「しかし,現実の引渡が必要であるという要件から,現実贈与の約束なるものには効力を認めていない」そうです(柚木=高木28頁(柚木=松川))。この場合,必要な方式を欠くために無効である約束に法的に拘束されているものと誤信してされた出捐の履行は,返還請求可能の非債弁済と観念され得るようです(Vgl. Motive zu dem Entwurfe eines Bürgerlichen Gesetzbuches für das Deutsche Reich, Bd. II (Amtliche Ausgabe, 1888) S.295.)。(本稿の註1参照)並びに②「手渡ヲ以テ之ニヤツタトキニ於テハ其前カラ効力カアルト云フコトニナツテ居ル」もの及び③「前ニハ丸テ効力ガナカツタノテアルガ後トカラシテ其缺点ヲ補フト云フヤウナコトニナツテ居ル」もの〔筆者註:ドイツ民法5182項は„Der Mangel der Form wird durch die Bewirkung der versprochenen Leistung geheilt.“(方式の欠缺は,約束された給付の実現によって治癒される。)と規定しています。〕があると紹介した上で,「兎ニ角何時カラ契約トシテ成立ツカト云フコトハ能ク明カニナツテ居ラヌ」との残念な総括を述べ,更に旧民法〔財産取得編3582項〕について「此単一ノ手渡ニ為ル贈与ト云フコトハ贈与ノトキニ直クニ手渡ヲスルト云フコトテアラウト思ヒマス永イ間口頭ノ贈与ト云フモノガ成立ツテ居ルト云フコトテハアルマイト思フ」〔同項後段〕,「此慣習ノ贈物ト云フコトモ其範囲ガ明カテアリマセヌ」〔同項前段〕との解釈を語った上で,「夫故ニ書面ニ依ラナイモノハ兎ニ角贈与トシテ成立ツケレドモ其履行ノ完了ガアリマスルマテハ取消スコトガ出来ル」と述べるに留まっています(民法議事速記録25147丁表及び裏)。これはあるいは,方式を欠く贈与契約の拘束力欠如を前提とした上で,当該契約を無効としつつもその履行結果は是認することとした場合(債務がないのにした弁済ではないかとの問題を乗り越えることとした場合)の法律構成の難しさ(上記②及び③)を避けるために,契約は「兎ニ角」有効としつつ,拘束力の欠如をいう代わりに「取消し」の可能をいうことをもって置き換えたということでしょうか。この説明を思い付いて,筆者には自分なりに納得するところがあります。
 なお,この「取消し」の可能性は強行規定であって,弟の八束との兄弟対決において陳重は「書面ニ依ラスシテ取消サレヌ契約ヲ為スト云フヤウナ風ノコトハ許サナイ積リテアリマス」と述べています(民法議事速記録25169丁裏)。〔筆者註:ちなみに,米国では,“Because a gift involves no consideration or compensation, it must be completed by delivery of the gift to be effective. A gratuitous promise to make a gift is not binding.”ということになっているそうです(Smith et al., pp.1109-1110)。「英米法では捺印証書による贈与の場合にも特定履行を請求しえない」(来栖三郎『契約法』(有斐閣・1974年)235頁)。〕

また,穂積陳重の原案では「其履行ノ完了マテハ」当該贈与契約全体を取り消し得ることになっていましたが,第81回法典調査会での議論を経て出来上がった民法550条では「履行の終わった部分」以外の部分に対象が限定されてしまっています。これは,履行が終ったという事実の重みの方が優先されて,書面によらない贈与についてその諾成契約としての単位(契約の「取消し」は,その契約を単位としてされるべきものでしょう。)を重視しないということでしょう。当該修正も,書面によらない贈与も契約であるとの性格付けの意義を弱めるものでしょう。

我妻榮は,書面によらない贈与を「不完全な贈与」と呼んでいます(我妻Ⅴ₂230頁)。

 さてここまで来て不図気付くには,平成29年法律第44号による民法550条の改正が問題になりそうです。当該改正については,「旧法第550条本文は,各当事者は書面によらない贈与を「撤回」することができると定めていたが,ここでの「撤回」は契約の成立後にその効力を消滅させる行為を意味するものであった。もっとも,民法の他の条文ではこのような行為を意味する用語としては「解除」が用いられていることから,新法においては,民法中における用語の統一を図るため,「撤回」を「解除」に改めている(新法第550条本文)。」とされています(筒井=村松264頁)。しかしこれは,書面によらない贈与も堂々たる完全な普通の契約であることを前提とするものでしょう。すなわち,平成16年法律第147号による民法改正の結果として「意思表示に瑕疵があることを理由としないで契約の効力を消滅させる行為を意味する語として,「解除」と「撤回」が併存することとなったが」,用例を調べると,「この意味での撤回は同〔550〕条においてのみ用いられ」,「他方で,「撤回」の語については,同法第550条を除けば,意思表示の効力を消滅させる意味で用いられている」から,贈与という契約の効力の消滅に係るものである同条の「撤回」を「解除」に改めるということでした(法制審議会民法(債権関係)部会資料84-3「民法(債権関係)の改正に関する要綱案の原案(その1)補充説明」(20141216日)15頁)。一人ぼっちの550条を,「撤回」の仲間から省いて,「解除」の大勢に同調させようというわけです。20141216日の法制審議会民法(債権関係)部会第97回会議では,中田裕康委員から「これ自体は十分あり得ると思います。それから,要物契約が諾成化されたことに伴う引渡し前の解除という制度とも,恐らく平仄が合っているんだろうなとは思いまして,これでいいのかなという気もします。」と評されています(同会議議事録36頁)。(なお,当該改正は,深山雅也幹事にとって思い入れの深い,永年の懸案事項であったようで,次のような同幹事の発言があります。いわく,「今の「贈与」の点です。撤回を解除に変えるということについて,私はこの部会の当初,議論が始まった頃に,解除の方がいいのではないかという趣旨で,撤回という用語はあまりよくないということを申し上げた記憶があります。そのときは,ここは〔平成〕16年改正で変えたばかりなんだという御指摘を頂いて一蹴されて残念な思いをした覚えがあって,それで諦めていたところ〔筆者註:同部会第16回会議(20101019日)議事録6頁及び10頁参照〕,この土壇場で敗者復活したことについて非常に喜ばしく思っています。」と(同部会第97回会議議事録36頁)。ここで,「敗者復活」というのは,当該改正は,2014826日の民法(債権関係)の改正に関する要綱仮案には含まれていなかったからです。「この土壇場で」というのは,何やら,どさくさ紛れにという響きもあって不穏ですが,無論そのようなことはなかったものでしょう。)

 これに対して,民法549条において承諾ならぬ「受諾」の語にあえて固執した民法起草者らが,更に同法550条においては解除ならぬ「取消し」の語(同条の「解除」は,最初は「取消し」でした。「取消し」が「撤回」となったのは前記の平成16年法律第147号による改正の結果でした。ちなみに,富井=本野のフランス語訳では,民法550条の「取り消す」は“révoquer”,総則の「取り消す」は“annuler”,契約を「解除する」は“résilier”です。)をわざわざ用いたのは,彼らの深謀遠慮に基づくものではなかったと果たしていってよいものかどうか。(フランス民法的伝統の影をいうならば,生前贈与は契約にあらずとの前記ナポレオン・ボナパルト発言の重み及び贈与と遺贈との恵与(libéralités)としての統一的把握が挙げられるところです(「受諾」の語との関係で出て来た民法旧1217号及び旧142号は,いずれも贈与と遺贈とを一括りにする規定でした。また,「撤回」の語が示すものは,旧民法において「言消」(rétractation)又は「廃罷」(révocation)と呼称されたものを含んでいますが,旧民法においては廃罷は銷除,解除(本稿の註2参照)その他と共に義務の消滅事由の一つとされ(旧民法財産編4501項),贈与及び遺贈についてはその廃罷に係る規定があったところです(旧民法財産取得編363条から365条まで並びに399条から403条まで及び405条)。)。)

 とはいえ,民法549条の「受諾」の外堀が埋まりつつあるようにも思われます。同条の「受諾」の語は,早々に「承諾」に置き換えられるべきもの歟,それともなお保存されるべきもの歟。


 

  (註1)ドイツ民法第一草案の第440条は贈与契約の要式性を定めてその第1項は「ある者が他の者に何物かを贈与として給付する旨約束する契約は,その約束が裁判手続又は公証手続に係る方式で表示された場合にのみ有効である。(Der Vertrag, durch welchen Jemand sich verpflichtet, einem Anderen etwas schenkungsweise zu leisten, ist nur dann gültig, wenn das Versprechen in gerichtlicher oder notarieller Form erklärt ist.)」と規定し,続く同草案441条は「譲渡によって執行された贈与は,特別な方式の履践がない場合であっても有効である。(Die durch Veräußerung vollzogene Schenkung ist auch ohne Beobachtung einer besonderen Form gültig.)」と規定しています(ここの「譲渡」が誤訳でないことについては,以下を辛抱してお読みください。)。

   上記両条の関係について,第一草案理由書は,次のように説明しています(S.295)。ドイツ人は,理窟っぽい。

 

    第440441条の両規定は,自立しつつ並立しているものである。それらの隣接関係は,方式を欠く(受諾された(akzeptirten))贈与約束(Schenkungsversprechen)から,訴求不能ではあるものの,しかし履行のために給付された物の返還請求は許されない義務(自然義務(Naturalobligation))が発生すること,又は贈与約束の方式違背から生ずる無効性が執行によって治癒されることを意味するものではない。反対に,方式を欠き,又は方式に違背する贈与約束は,無効であり,かつ,執行によって事後的に治癒せられるものでもないのである。贈与者が,方式に違背し,したがって無効である契約の履行に法的に拘束されているという錯誤によって(solvendi causa(弁済されるべき事由により))給付した場合においては,第441条の意味において執行された贈与ではなく,存在するものと誤って前提された拘束力の実現があるだけである。したがって,存在しない債務(Nichtschuld)に係る給付に基づく返還請求に関する原則の適用がみられることになる。この結論は,反対の規定が欠缺しているところ(in Ermangelung entgegenstehender Bestimmungen),一般的法原則自体から生ずるものである〔略〕。このような場合,事実行為は,草案の意図するところの,譲渡によって執行された贈与である,との外観を有するだけである。贈与として給付されたのではなく,むしろ,〔有効な債務と誤解した無効な贈与債務を〕animo solvendi(弁済する意図で)されたものである。すなわち,有効な贈与約束の履行も,即自的にはそれ自体は贈与ではなく,存在する拘束力の実現であるがごとし,なのである。しかしながら,贈与者が,有効ではない贈与約束を見逃して(unter Absehen von dem ungültigen Schenkungsversprechen),ないしはその無効性の認識の下で(in Kenntnis von der Nichtichkeit des letzteren),贈与として給付すると約束したその物をanimo donandi(贈与する意図で)給付したときは,別様に判断される。そのときには,第441条によって有効な,独立の財産出捐が,すなわち,新しい,しかも執行済みの贈与が存在するのである。仮に,無効な約束がその動機をなしていたとしても,そうである。この法律関係は,先立つ約束なしに贈与者が直ちに「譲渡によって」受贈者に対してanimo domandi(贈与する意図で)贈与を執行する,かの場合と同一である。したがって,第441条の規定は,既存の(方式を欠く,又は方式に違背した)贈与約束を前提とするものでは全くないのである。それは,贈与者が既存の(無効な)約束を見逃して,又は先立つ約束なしに,被贈与物に応じた事実行為をもって贈与を執行したときに適用されるのである。



 (註
2)「解除」,「銷除」及び「廃罷」の使い分けについて,ボワソナアドは次のように説明しています(Boissonade II, pp.861-862)。

 

    慣用及び法律は,事実既に長いこと,「解除(résolution)」の語を,当該契約の成立後に生じた事情に基づく契約の廃棄(destruction)――ただし,合意又は法によってあらかじめ当該効果が付されている契約についてである――について使用するものと認めている。また,“résiliation”の語も,同じ意味で,特に賃貸借について,また場合によっては売買について,慣用に倣って法律において時に用いられる。「銷除(rescision)」の語は,〔略〕その成立における意思の合致(consentement)の瑕疵又はその際の無能力の理由をもって契約が廃棄される場合に用いられる。最後に,「廃罷(révocation)」の語は,まずもって,かつ,最も正確には,契約当事者が「その言葉を撤回する(retire sa parole)」,すなわち,譲渡した物を取り戻す(reprend ce qu’il a aliéné)場合に用いられる。特に,贈与の場合において,受贈者が忘恩的であり,又は課された負担の履行を欠くときである(フランス民法953条以下参照)。〔略〕

    「廃罷」の語は,また,債務者がした債権者の権利を詐害する譲渡又は約束を覆すためにされる債権者の訴訟(action)について用いられる。〔後略〕

 

なお,旧民法における契約の「解除」については,その財産編421条に「凡ソ双務契約ニハ義務ヲ履行シ又ハ履行ノ言込ヲ為セル当事者ノ一方ノ利益ノ為メ他ノ一方ノ義務不履行ノ場合ニ於テ常ニ解除条件ヲ包含ス/此場合ニ於テ解除(résolution)ハ当然行ハレス損害ヲ受ケタル一方ヨリ之ヲ請求スルコトヲ要ス然レトモ裁判所ハ第406条ニ従ヒ他ノ一方ニ恩恵上ノ期限ヲ許与スルコトヲ得」と規定していました(下線は筆者によるもの)。

  

 

 
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1 民法370条ただし書後段に係る違和感

 

(1)条文

 民法(明治29年法律第89号)370条は次のような規定であって,難解ですが,筆者にとっては特にそのただし書後段の書きぶりが,かねてからしっくり感じられなかったところです。

 

  (抵当権の効力の及ぶ範囲)

  第370条 抵当権は,抵当地の上に存する建物を除き,その目的である不動産(以下「抵当不動産」という。)に付加して一体となっている物に及ぶ。ただし,設定行為に別段の定めがある場合及び債務者の行為について第424条第3項に規定する詐害行為取消請求をすることができる場合は,この限りでない。

 

民法4243項は「債権者は,その債権が第1項に規定する行為の前の原因に基づいて生じたものである場合に限り,同項の規定による請求(以下「詐害行為取消請求」という。)をすることができる。」と規定しています。ですから,民法370条ただし書後段の「第424条第3項に規定する詐害行為取消請求」とは,同法4241「項の規定による請求」ということになるようです。民法4241項は「債権者は,債務者が債権者を害することを知ってした行為の取消しを裁判所に請求することができる。ただし,その行為によって利益を受けた者(以下この款において「受益者」という。)がその行為の時において債権者を害することを知らなかったときは,この限りでない。」と規定していますから,「同項の規定による請求」とは,債務者が債権者を害することを知ってした行為であって,かつ,(以下は抗弁に回りますが)受益者がそのされた時において悪意であったものの取消しに係る債権者による裁判所に対する請求,ということになります。

民法4241項にいう「行為」には,法律行為のほか,弁済など厳密な意味では法律行為には当たらない行為も含まれるものとされますが(筒井健夫=村松秀樹編著『一問一答 民法(債権関係)改正』(商事法務・2018年)100頁),「旧法〔平成29年法律第44号による改正前の民法〕下では,単なる事実行為は含まれないと解されていたが,このような解釈を否定するものではない。」(同頁(注1))とされています。端的にいえば,「単なる事実行為は含まれない」そうです(内田貴『民法Ⅲ(第4版)債権総論・担保物権』(東京大学出版会・2020年)365頁)。

さて,抵当不動産に物が付加されて一体となるのは厳密にいえば事実行為であるから,それについて,本来は法律行為を対象とする(平成29年法律第44号による改正前の民法4241項は,詐害行為取消請求の対象として「法律行為」のみを規定していました。)詐害行為取消請求を云々するのはおかしいんじゃない,というのが筆者の違和感でありました。

 

(2)学説

 

  新370条ただし書後段は,どのような場合を想定しているのだろうか。たとえば,債務者が一般財産に属する自分の高価な貴金属を抵当権の目的物である建物の壁に埋め込んだとする。壁に埋め込めば,不動産の構成部分となるが,これは一般債権者を害する行為である。旧4241項は取消しの対象を法律行為に限定していたが,新4241項は単に「行為」に改めた。しかし,「行為」にはこのような純然たる事実行為は含まないと解されている(⇒365頁〔前掲〕)。そこで,新370条ただし書後段は,このような場合も,詐害行為としての要件を満たしていれば,付加一体物の例外を認めることにしたのである。不動産の構成部分である以上,一体として売却されるが,詐害行為であることについて悪意の抵当権者は,当該貴金属の価額分からは優先弁済を受けることができない。(内田495頁)

 

 事実行為であっても,民法4241項の「行為」性以外の「詐害行為としての要件を満たしていれば」,同法370条ただし書後段は働くということでしょうか。しかし,「第424条第3項に規定する詐害行為取消請求をすることができる場合」(なお,平成29年法律第44号による改正前は「第424条の規定により債権者が債務者の行為を取り消すことができる場合」)とまで具体的に書き込まれて規定されてしまうと,やはり,事実行為については「第424条第3項に規定する詐害行為取消請求をすることができる場合」なる場合はそもそもあり得ないのではないですか,と依然文句を言いたくなるところです。

 「一般債権者を詐害するような付加行為を認めない趣旨だが,付加行為は法律行為ではないからそれを取り消すことは無意味なので,抵当権者はそのような付加物に優先弁済権がないとしたものである。」といわれると(遠藤浩=川井健=原島重義=広中俊雄=水本浩=山本進一編『民法(3)担保物権(第3版)』(有斐閣・1987年)123頁(森島昭夫)),取り消すことができるのだが取り消しても「無意味」であるというよりはむしろ,そもそも取り消すことができないのではないですか,とこれまた文句を申し上げたくなります。

「第370条は「第424条ノ規定ニ依リ債権者(ママ)債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合」をも,例外とする。実際に生じた事例は見出しえないが,強いて考えれば,負債の多い債務者が,一般財産に属する樹木または大きな機械などを,抵当権の目的となっている土地に移植しまたは据えつけて附合させる場合などがありうるであろう。債務者のかような行為は,一般債権者を詐害するものであるが,法律行為ではないから,第424条のように,これを取消すということは意味をなさない。一般債権者は何もしなくとも,抵当権の効力の及ばないことを主張しうる,と解すべきである。/建物についても全く同様である。とくに述べるべきことはない。」(我妻榮『新訂担保物権法』(岩波書店・1968年)266頁)とまでいわれると,ようやく,ああ,「取消権」の行使は「意味をなさない」からしないということであれば当該「取消権」なるものはそもそも無いっていうことが言いたいのではないかな,との感想が生じてきます。

 「抵当債(ママ)者が自分の物を抵当不動産に附着させて抵当権の目的物とすることによって他の債権者への弁済額を減らそうとして,つまり,抵当権者以外の債権者(同条の「債権者」は,この者のことである)を「害スルコトヲ知リテ」この附着行為をした場合,という意味であり,民法424条の要件が必要である(民法424条は「法律行為」に関するものだから同条そのものの問題ではない)。もっとも,実際はあまり問題になるまい。なお,〔略〕抵当不動産との附着の程度の強い場合には,抵当権の効力が及ぶと解されている。」(星野英一『民法概論Ⅱ(物権・担保物権)』(良書普及会・1976年)249頁),すなわち,民法370条ただし書後段は「第424条ノ規定ニ依リ債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合」と規定してはいるものの「民法424条は「法律行為」に関するものだから同条そのものの問題ではない」のだ,わざわざ「第424条」云々と書いてあるけれども空振っているのだ,ちょっと変な条文なのだ,と割り切った説明をされる方が,筆者には分かりがよいところです。しかし,我は立法技術的にはおかしな条文なり,と堂々胸を張られるというのでは,困ったことです。

「法文トシテハ如何(いか)ニモ解シ()クイ」もので,「唯タ精神上テハ取消スコトカ出来ル場合ニ見エテ其実ハ其訴権ヲ以テ取消スコトノ出来ヌト云フコトニ為ツテ仕舞(ママ)考ヘ」られるところ,「其精神ハ宜シイカ法文ノ分ラサルカ為メニ〔現行民法〕起草委員ノ折角ノ御骨折カ水泡ニ帰シハスマイカ」とも思われてしまいます。

 

2 民法370条ただし書後段の沿革

 この難解な民法370条ただし書後段の条文の沿革をたどると,次のとおりとなります。

 

(1)ナポレオンの民法典2133条

 まず,1804年のナポレオンの民法典2133条。

 

   L’hypothèque acquise s’étend à toutes les améliorations survenues à l’immeuble hypothéqué.

  (成立した抵当権は,抵当不動産に生じた全ての改良に及ぶ。)

 

これは,我が明治政府のお雇い外国人・ボワソナアドにいわせれば,「恐らく言葉(ラコー)足らず(ニック)に過ぎ,かつ,疑問点を残すもの」であって(Boissonade, Projet de Code Civil pour l’Empire du Japon accompagné d’un Commentaire, Tome Quatrième: des Sûretés ou Garanties des Créances ou Droits Personnels. Tokio, 1889. pp.386-387),「〔抵当不動産の〕増加については沈黙しており,また,改良の原因となるべき事由について説明していない」ものでした(Boissonade p.387)。

 

(2)ボワソナアド草案1206条及び旧民法債権担保編200条

フランス民法2133条の前記欠陥に対して,「ここに提案された解決策は,我々の考えによれば,フランス民法によって与えられるべきものである(celles qu’on doit…donner d’après le Code français)。」ということで起草された「解決策(solutions)」が(Boissonade p.387),旧民法に係るボワソナアド草案1206条です(Boissonade p.372)。

 

   1206.  L’hypothèque s’étend, de plein droit, aux augmentations ou améliorations qui peuvent survenir au fonds, soit par des causes fortuites et gratuites, comme l’alluvion, soit par le fait et aux frais du débiteur, comme par des constructions, plantations ou autres ouvrages, pourvu qu’il n’y ait pas fraude à l’égard des autres créanciers et sauf le privilége des archtectes et entrepreneurs de travaux, sur la plus-value, tel qu’il est réglé au Chapitre précédent. (2133)

      Elle ne s’étend pas aux fonds contigus que le débiteur aurait acquis, même gratuitement, encore qu’il les ait incorporés au fonds hypothéqué, au moyen de nouvelles clôtures ou par la suppression des anciennes.

  (抵当ハ寄洲ノ如キ意外及ヒ無償ノ原因ニ由リ或ハ建築,栽植又ハ其他ノ工作ニ因ル如ク債務者ノ所為及ヒ費用ニ因リテ不動産ニ生スルコト有ル可キ増加又ハ改良ニ当然及フモノトス但他ノ債権者ニ対シテ詐害ナキコトヲ要シ且前章ニ規定シタル如キ建築技師及ヒ工事請負人ノ増価ニ付キテノ先取特権ヲ妨ケス

  (抵当ハ債務者カ縦令無償ニテ取得シタルモノナルモ其隣接地ニ及ハサルモノトス但新囲障ノ設立又ハ旧囲障ノ廃棄ニ因リテ隣接地ヲ抵当不動産ニ合体シタルトキモ亦同シ)

 

 「債務者ノ所為及ヒ費用ニ因リテ不動産ニ生スルコト有ル可キ改良」に関して,ボワソナアドは次のように説明しています。

 

   次に,債務者の所為により,かつ,彼の費用負担によるところの改良,すなわち「建築,栽植又ハ其他ノ工作ノ如キモノ」である。ここにおいては,債務者がその資産(patrimoine)から取り出す物は債権者のうち一人の担保の増加のために債権者らの共同担保財産(gage général)から取り去られてしまう物であるという関係から,疑惑が生ずることになる。しかしながら,支出額(dépenses)の大きさは多様であり得ること及び多くの場合において当該支出は正当であり得ることから,法は,原則として,当該支出は抵当債権者の利益となるものとした。他方,濫用は可能であるところ,対抗策を直ちに示すためと同時にそれを防止するため,法は,まず,他の債権者に対して詐害となる場合を除外する。法は,次に,建築及びその他の工作は建築技師及び請負人に対して第1178条及び第1179条において規定される先取特権をもたらし得るものであることから,抵当による担保は,彼らが満足を得た後に残る増価分にしか及ばないことに注意を促す。(Boissonade p.387

 

ボワソナアド草案1206条が,ほぼそのまま旧民法債権担保編(明治23年法律第28号)200条となります。

 

  第200条 抵当ハ意外及ヒ無償ノ原因ニ由リ或ハ債務者ノ所為及ヒ費用ニ因リテ不動産ニ生スルコト有ル可キ増加又ハ改良ニ当然及フモノトス但他ノ債権者ニ対シテ詐害ナキコトヲ要シ且前章ニ規定シタル如キ工匠,技師及ヒ工事請負人ノ先取特権ヲ妨ケス

   抵当ハ債務者カ縦令無償ニテ取得シタルモノナルモ其隣接地ニ及ハサルモノトス但新囲障ノ設立又ハ旧囲障ノ廃棄ニ因リテ隣接地ヲ抵当不動産ニ合体シタルトキモ亦同シ

 

 旧民法債権担保編200条を梅謙次郎が修正したものが,現行民法370条となります。

 

(3)梅案365条ただし書後段

 

ア 条文

1894124日の第50回法典調査会に梅謙次郎が提出した現行民法370条の原案は,次のとおり(法典調査会民法議事速記録第168)。

 

 第365条 抵当権ハ其目的タル不動産ニ附加シテ之ト一体ヲ成シタル物ニ及フ但設定行為ニ別段ノ定アルトキ及ヒ第419条ノ規定ニ依リ債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合ハ此限ニ在ラス

 

 この梅案(松・竹・梅のうちの梅案ということではなくて,梅謙次郎案ということです。)では,更地であった抵当地の上に建物が建つと,その建物は抵当地に附加シテ之ト一体ヲ成シタル物であるということで,当該建物にも抵当権が及ぶことになっていたことに注意してください。

 なお,1895122日の第58回法典調査会に提出された民法419条案は次のとおりでした(法典調査会民法議事速記録第18119-120丁)。

 

  第419条 債権者ハ債務者カ其債権者ヲ害スルコトヲ知リテ為シタル法律行為ノ取消ヲ裁判所ニ請求スルコトヲ得

   前項ノ請求ハ債務者ノ行為ニ因リテ利益ヲ受ケタル者又ハ其転得者ニ対シテ之ヲ為ス但債務者及ヒ転譲者ヲ其訴訟ニ参加セシムルコトヲ要ス

 

イ 梅の冒頭説明

梅の365条案ただし書後段について,同人の説くところは次のとおりでした(原文の片仮名書きを平仮名に改め,濁点及び句読点を補いました。)。

 

原文〔旧民法債権担保編200条〕1項の但書の処でありますが,「他ノ債権者ニ対シテ詐害ナキコトヲ要シ」,斯うあります。此趣意は勿論本条に於ても採用したのであります。即ち彼の廃罷訴権と法典に名附けてあります「アクシユ(ママ)ーレヤナ」の矢張り適用の中であることは疑ひないのであります。夫れならば寧ろ向ふの規定に総て従ふやうにしないと,御承知の通りに「アクシパーレヤナ」には夫れ夫れ条件がありまするので,唯だ詐害と云ふ丈けでは「アクシパーレヤナ」のことを意味しない。去ればと云つて此場合に限つて「アクシユパーレヤナ」と違つて規則に依て取消を許すと云ふのも理由のないことゝ思ひます。夫れで之は「第419条ノ規定ニ依リ」としたので,之は「アクシユパーレヤナ」の箇条を規定する積りであります。尤も一寸考へると,之は条文は要らぬのではないか「アクシユパーレナヤ」と云ふものは総ての場合に当嵌まるから此処でも言はぬで置けば総ての場合に当嵌りはしないかと云ふ疑ひが起るかも知れませぬが,夫れは然う云ふ訳には徃きませぬ。何ぜ然うかならば,「アクシユパーレヤナ」の規定が何か云ふやうな規定になるか知れませぬが,何れにしても,沿革上から考へて見ても,又私共が起草の任に当つたとして考へて見ても然うでありますが,此「アクシユパーレヤナ」と云ふものは法律行為を取消すと云ふのが其目的であらうと思ひます。夫れは「アクシユパーレヤナ」で出来る。即ち此処の所で言うても,債務者が或る請負人か何にかと或る契約を結んで,然うして家を建てるとか,或は建て増しをするとか不動産に改良を加へるとか,詰り其土地を抵当に取つて居る債権者に特別なる利益を与へやうと云ふ考へで然う云ふ事を致すと云ふ場合でありますれば其建築契約を取消すことは無論出来ますが,建築は既に成つて其代価は払つて仕舞つた其建物夫れ自身を「アクシユパーレヤナ」に依て取消す訳に徃きませぬ。建物を取消す訳に徃きませぬ。夫れで「アクシユパーレヤナ」の直接の適用としては,此場合に於ては適用はないでありませうが,唯だ条件を同じ条件にして「アクシユパーレヤナ」を行ふことが出来るやうな場合でありますれば,其加へた物丈けは,抵当権者の担保と為らずして債権者の一般の担保に為ると云ふならば,「アクシユパーレヤナ」の精神を無論貫くことが出来る。無論原文も然う云ふ意味であつたらうと思ひますが,唯だ条件は「アクシユパーレヤナ」と同じやうにしないと徃けないと思ひますから斯う云ふ風に書きました。(法典調査会民法議事速記録第169-11丁)。

 

ウ パウルス訴権(actio Pauliana

「アクシユパーレヤナ」とは何かといえば,ラテン語のactio Pauliana。「所謂「パウルス(○○○○)訴権(○○)actio Pauliana, action Paulienne ou révocatoire, Paulianische Klage oder Anfechtungsklage)」だそうです(梅謙次郎『訂正増補第27版 民法要義巻之二 物権編』(私立法政大学=有斐閣書房・1908年)508頁)。

パウルス訴権(パウリアーナ訴権)はローマ法上の制度であって,法務官法上の不法行為に係る訴権の一であり,次のように解説されています(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)232-234頁)。

 

  (一)歴史 4年のlex Aelia Sentiaは債権者詐害in fraudem creditorisの奴隷解放を無効とした〔同法(lex)は奴隷解放の要件を絞るためのもの〕。爾余の債務者の詐害行為には法務官は,(1)詐害的特示命令(interdictum fraudatorium〔特示命令は,訴権(actio)による普通手段の外に,純粋に法務官が創設した保護手段〕,(2)原状恢復in integrum restitutio。法律上一応は合法的形式を備えるが不当な結果が生じたときにその不当な結果を排除するのに用いられる。特示命令の外に法務官が創設した権利保護手段の一つ〕,(3)事実訴権actio in factum concepta。請求の表示が法律訴権のように一定の型にあてはめることを得ずして,具体的事実を記載し,判決をその有無にかからしめる場合の訴権〕等の救済手段を認めたが,ユ〔スティーニアーヌス〕帝は是等の保護手段を融合統一してパウリアーナ訴権(actio Pauliana)――glossema〔写本中の附註〕に基づく名称?――を作つたため,以前の歴史は不明になつている。

  (二)ユ帝法のパウリアーナ訴権の要件 (1)債務者の詐害行為 債務者の行つた譲渡,免除,新債務の負担の如き積極的行為のみならず,期限訴権の不提起,時効中断の懈怠の如き不作為も亦詐害行為である。但し人格権侵害訴権iniuriaの訴権。市民法上の不法行為訴権の一。iniuriaは,人の身体を傷つけ,無形的名誉を毀損し,公共物の使用を妨げるような行為(窃盗の未遂まで包含される。)〕,不倫遺言の訴〔適当額の遺産を近親に与えない遺言を不倫遺言(inofficiosum testamentum)といった。〕の如き訴を提起せず,又は相続を承継せず,遺贈を受領しないような利得行為をなさずとも,債権者は取消ができない。

  (2)債権者に対する実害の発生(eventus damni

  (3)債務者の詐害意思(consilium fraudis

  (4)債務者以外の者――実際的には最も通常の場合――に提起するには,有償行為の場合にはその者が詐害を知つたこと(conscius fraudis)。無償のときは知るを要しない。

  (三)性質効果 専決訴権actio arbitraria。金銭判決をなるべく避けるため,審判人に対し,判決前訴訟物自体の給付返還を被告に勧告すべき旨を命ずる文言の含まれている訴権〕,期限訴権actio temporalis。訴権消滅時効期間が30年以下のもの〕で,1年内に提起せられると全部の賠償義務,1年後は利得額の返還義務を発生する。加害者委附〔加害した奴隷又は動物を被害者に委附して復讐に委ね,あるいはその労働をもって罰金額損害額を弁済せしめる。〕を許さず,重畳的競合〔数人の加害者が存するとき,加害者の一人が罰金を支払っても他の加害者は依然責任を免れないこと。〕もしない〔略〕

 

 あるいは,「信義に反して債権者を害するような債務者の財産減少行為も,債権者を欺くものとして詐欺の関連で問題とされ,法務官法上,原状回復のための訴え(破産手続における破産財団への財産取戻し)や悪意の受益者に対する返還命令(特示命令)が認められた。ユスチニアヌス帝のもとで両者は統合され,その内容がパウルスの章句(Paulus, D.22,1,38,4)として伝えられるところから,「パウリアナ訴権(actio Pauliana)」と呼ばれる。債務者の詐害的行為に対する債権者取消権制度の原点である(日本民法第424条。〔略〕)。」ともいわれています(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法―ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)194-195頁)。ユスティーニアーヌス帝のDigesta(学説彙纂)中上記パウルスの章句は,次のとおり(拙訳は,あやしげですね。)。

 

In fabiana quoque actione et pauliana, per quam quae in fraudem creditorum alienata sunt revocantur, fructus quoque restituuntur: nam praetor id agit, ut perinde sint omnia, atque si nihil alienatum esset: quod non est iniquum (nam et verbum "restituas", quod in hac re praetor dixit, plenam habet significationem), ut fructus quoque restituantur.

  (債権者らに係る詐害となって逸出した物quae in fraudem creditorum alienata suntがそれによってper quam回復されるrevocanturファビウス及びパウルス訴権のいずれにおいてもin fabiana quoque actione et pauliana,果実もまたfructus quoque返還されるrestituuntur。というのはnam,法務官がpraetor,何も逸失しなかった場合とちょうどatque si nihil alienatum esset同様に全てがなるようにut perinde sint omnia取り運ぶからであるid agit。果実も返還されるようにすることもut fructus quoque restituantur,(というのはnam,本件において法務官が宣したquod in hac re praetor dixit「原状回復すべし」との言葉もet verbum "restituas",完全な意味を有しているのであるからplenam habet significationem)不当ではないところであるquod non est iniquum。)

 

 パウルス訴権は「ローマ共和政末期の法務官パウルス(Paulus)が提案した刑事懲罰の性格を有する制度」であって「ローマ法において,actio paulianaは,もともと商人の民事破産手続における制度として登場した」と一応説かれていますが(張子玄「フランス法における詐害行為取消権の行使と倒産手続(1)」北大法学論集706号(20203月)32頁・註1),「実は謎に包まれた制度であり,この「パウルス」(Paulus)がどの時代の誰かも判然としない遅い産物」だそうです(木庭顕『新版ローマ法案内』(勁草書房・2017年)199頁)。

 ナポレオンの民法典1167条においては,次のように規定されていました。

 

   Ils peuvent aussi, en leur nom personnel, attaquer les actes faits par leur débiteur en fraude de leurs droits.

       Ils doivent néanmoins, quant à leurs droits énoncés au titre des Successions et au titre du Contrat de Mariage et des Droits respectifs des époux, se conformer aux règles qui y sont prescrites.

  (彼ら〔債権者〕はまた,彼ら個人の名で,債務者によってされた彼らの権利を詐害する行為を攻撃することができる。/ただし,相続の章並びに婚姻契約及び各配偶者の権利の章に掲げられた彼らの権利については,そこにおいて定められた規定に従わなければならない。)

 

 現在のフランス民法1341条の2は,次のとおりです。

 

   Le créancier peut aussi agir en son nom personnel pour faire déclarer inopposables à son égard les actes faits par son débiteur en fraude de ses droits, à charge d'établir, s'il s'agit d'un acte à titre onéreux, que le tiers cocontractant avait connaissance de la fraude.

  (債権者はまた,彼個人の名で,債務者によってされた彼の権利を詐害する行為を彼との関係において対抗することができないものと宣言せしめることができる。ただし,有償行為に関する場合においては,第三者である契約当事者が詐害について悪意であったことを立証したときに限る。)

 

 フランスでは,「詐害行為の取消請求が認められた場合,逸出財産を債務者財産に取り戻す必要はなく,取消債権者は受益者の手元に置いたまま財産売却を求めることができる。つまり,取消債権者は裁判所に対し対象財産に対する強制売却(vente forcée)を求める権限を有することになる。その結果,取消債権者は財産売却によって自ら債権回収を図ることができる。この点から見ると,「対抗不能」の終局的意義は,取消債権者に対して差押債権者に相当する権限を与えることにあるといえる。なぜなら取消債権者は自ら強制売却の申立てを行わなければ,債権回収をすることはできないからである。」ということになるそうです(張35-36頁)。

 Dalloz2011年版Code Civil, 110e éditionを見ると,フランス民法1167条(当時)によって攻撃される行為の例の性質(Nature des actes attaqués (exemples))として,贈与(donations),合併に基づくある会社から他の会社への不動産の承継(apport d’immeubles par une société à une autre, à titre de fusion),債権譲渡(cession de créance),代物弁済(dation en paiement),会社の合併(fusion de sociétés),不動産の売却(vente d’immeuble)及び買戻権付きの家財売却(vente à réméré de meubles meublants)並びに(以下は第2項関係でしょう。)贈与分割(donation-partage),無償譲与の減殺権の放棄(renonciation à réduction d’une libéralité),相続放棄(renonciation à succession),財産分割(partage)及び復帰権条項付き贈与契約に基づき贈与を受けた財産の当該受贈者による贈与(donation d’un bien que le donateur a lui-même reçu par donation assortie d’une clause de retour)が挙げられています(Actes visés, pp.1445-1446)。

 相続放棄もaction paulienneの対象となるとされると,相続を承継しないことないしは相続の放棄は詐害行為にならないとする前記ローマ法の規範内容及び我が最高裁判所の昭和49920日判決(民集2861202頁)との関係でいささか説明が必要となります。しかし,この点については,「相続放棄」は「ローマ法と異なり,フランス民法が明文の規定〔旧788条・現779条〕で詐害行為の対象とした」ものであるとつとに紹介されています(工藤祐巌「民法4242項の「財産権を目的としない法律行為」の意味について」名古屋大學法政論集254号(2014年)336頁及び353頁・註(15))。また,「ローマ法と異なり,フランス法ではすべての相続が被相続人の死亡によって完全に効力を生じる」ものとされているそうです(工藤337。ボワソナアドも同様の理解を有していたことについて,同346)。

フランス民法旧11672項と我が民法4242(なお,同項に対応する規定は旧民法にはありませんでした。)との関係が気になりますが,我が民法4242項が典型的に想定していたのは,「隠居,家督相続ノ承認等」であったようで(梅謙次郎『訂正増補第30版 民法要義巻之三 債権編』(私立法政大学=中外出版=有斐閣書房・1910年)87頁。「仮令財産上ニ影響ヲ及ホシ而シテ債務者カ債権者ヲ害スルコトヲ知リテ之ヲ為スモ敢テ其隠居,承認等ヲ取消スコトヲ得ス」),しかも,「但是等ノ場合ニ於テ債権者ヲ保護スヘキ規定ハ親族編及ヒ相続編ニ之ヲ設ケタリ(761〔「隠居又ハ入夫婚姻ニ因ル戸主権ノ喪失ハ前戸主又ハ家督相続人ヨリ前戸主ノ債権者及ヒ債務者ニ其通知ヲ為スニ非サレハ之ヲ以テ其債権者及ヒ債務者ニ対抗スルコトヲ得ス」〕988〔「隠居者及ヒ入夫婚姻ヲ為ス女戸主ハ確定日附アル証書ニ依リテ其財産ヲ留保スルコトヲ得但家督相続人ノ遺留分ニ関スル規定ニ違反スルコトヲ得ス」〕989〔「隠居又ハ入夫婚姻ニ因ル家督相続ノ場合ニ於テハ前戸主ノ債権者ハ其前戸主ニ対シテ弁済ノ請求ヲ為スコトヲ得/入夫婚姻ノ取消又ハ入夫ノ離婚ニ因ル家督相続ノ場合ニ於テハ入夫カ戸主タリシ間ニ負担シタル債務ノ弁済ハ其入夫ニ対シテ之ヲ請求スルコトヲ得/前2項ノ規定ハ家督相続人ニ対スル請求ヲ妨ケス」〕1041乃至1050〔財産ノ分離〕)」ということでした(同頁)。「現行民法起草者の立場は,「非財産的権利に関する行為」のみを詐害行為取消の対象となる行為の範囲を画する枠組みとして有していたということができる。すなわち,一身専属権の中で,債務者の資産としての財産的価値を有しないが故に一身専属権とされる権利,すなわち,主として身分行為を取消の対象から排除する立場であった。これに対し,債務者の資産としての財産的価値を有するものの,それを行使するか否かを債務者自身が決すべき権利,すなわち,狭義の一身専属権については,詐害行為取消権の行使の対象となりうることになる」(工藤349頁),「なぜ,4231項但書きと同様に一身専属権の言葉を用いなかったのかといえば,その範囲が異なるから」である(同350頁),とのことです。

  

エ 梅謙次郎 vs. 磯部四郎

梅の365条案ただし書後段に関する前記最初の説明を聴いた上で,磯部四郎🎴が「又「第419条」と云ふのは多分「アクシヨンポーリアンド」〔ここの語尾の「ド」は,磯部の発音するおフランス語の“action Paulienne”に速記者が勝手に付加したものでしょう。ちなみに磯部は富山の出身です。〕の場合であらうと思ひますが,其条文の規定ニ依テ債権者と云ふのは抵当債権者でなく一般の債権者であらうと思ひますが,夫れを以て債務者の行為を取消した場合には,抵当権者の行為を取消したと云ふことは言はずして分つて居らうと思ひますが,殊に此但書以下の必要なる所以を伺ひたい」と改めて質問をしたのに対し(法典調査会民法議事速記録第1613丁),梅は次のように回答します。

 

 今御疑ひに為つたやうな意味でありませぬ。此「第419条」と云ふのは無論「アクシヨンポーリエス」〔梅のフランス語については,“action Paulienne”が「アクションポーリエス」となってしまっています。これはあるいは,和文タイピストが「ヌ」を「ス」と取り違えたのかもしれません。なお,ついでにいえば,国立国会図書館デジタルコレクションにおいてせっかく公開していただいている法典調査会民法議事速記録(日本学術振興会)でありますが,和文タイプの印字が,いささか潰れ気味で読みづらい。〕の積りであります。或は準用に為るかも知れませぬ。「アクシヨンポーリエス」の規則に従へば一般の債権者たる者が債務者の行為を取消すことの出来るやうな場合には,抵当設定者が取消される場合には,其行為を取消すのでない。家ならば家を建つて仕舞つた,其契約抔はてんで履行して仕舞つて金は払つて仕舞つた,けれども其金を払つたと云ふのは,例へばもう自分は無資力である近(ママ)内に破産の宣告を受けるかも知れぬ,抵当債権者は自分の親友である,是に少し特別の利益を与へたい,土地の価では足らぬから家を建てやるとか,或は今家は建つて居るが小さい,夫れに建て増しをして土地の価を増してやらうと云ふ,斯う云ふ訳で建てる。其建てた物を壊はすと云ふのではない,其行為を取消すと云ふのではない,けれども其建てた物に及ばない。抵当権が及ばない。矢張り夫れは一般の債権者の担保に為ると云ふ,斯う云ふ意味に為りますから,夫れで此明文が要ると云ふ考へであります。(法典調査会民法議事速記録第1613-14丁)

 

磯部はなおも釈然としません。むしろ不要論を唱えます。

 

  一般の債権者が取消すことを得る場合,其理由は能く分りましたが,勿論是丈けのことにして置いた所が,是れが行為を取消すことが出来る場合である場合でないと云ふことは矢張り裁判所でずつと調べて徃かなければ分ることでないと思ひます。果して裁判所で調べると云ふことになると,先刻仰言つた所の「アクシヨンポーリアンド」の中に為るか或は「アクシヨンポーリアンド」を実行し得ざる場合と為るかも知れぬと思ひます。然うして見ると,斯の如き規定がなくとも実際の便宜から考へて,却てない方が簡略で能く分りはしないかと云ふ考へが浮んで来ました。今,一体ヲ為シタル物ニ及フと云ふ通則の所に於て斯うして置かぬと不都合である,其不都合の所は特別の契約でしたときは仕方がないと云ふ先刻の御説明でありますが,特別の契約でも然う云ふ不都合が生ずるときは何んとか他に始末をしなければならぬ。夫れが甘く始末が着くならば,普通の場合でも甘く始末が着て徃かなければならぬと思ひますが,其処の所を一つ伺ひたい。夫れで「債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合」と云ふものを定めるには,矢張り裁判所で定めなければならぬ。然うすれば寧ろ裁判所では「コントラクシヨン」をやつて来たもので差支へないではないか。又先程・・・実際に取消すことを得ると云ふ中に或は数へられると云ふことでありますが,私の考へでは数へられぬかも知れぬと云ふ考へが起りましたが,然うすると折角斯う云ふ明文が出来ましたが,実際には不必要に為りはしないかと云ふ疑ひが起りましたが,何う云ふものでございませうか,一寸伺ひます。(法典調査会民法議事速記録第1617-18丁)

 

確かに,民法370条ただし書後段については,その後「実際に生じた事例は見出しえない」(我妻266頁)とされたところではあります。

 梅の回答。起草の趣旨の繰り返しであって,磯部の不要論には正面から答えていません。

 

  私は斯う云ふ積りであります。即ち,私が磯部君に金を借りて居る,私の所有の地面を抵当に入れて金を借りて居る所が,私が無資力と為つて売ると云ふときに為ると,借りて居る丈けの価ひがない。夫れで私は無資力と云ふことを自から知つて居る,夫れであなたに向つて言つても宜し,言はなくても宜しいが,私の意思では,何うせ外の債権者に取られる位ならば外の人よりも磯部君丈けは迷惑を少なくさせたいものであると云ふ所から,然う云ふ場合に新たに入りもしない家を建てたとか,又は新に建て増しをしたとか,其場合に「アクシヨンポーリエス」を直ぐに行ふと云つても行はれぬ,「アクシヨンポーリエス」は行為を取消す名を持つて居るが,今のは行為を取消すのではない,行為は・・・先づ履行にてせんであつたと仮定を致します。其場合には,其建てた家と云ふものは磯部君の担保には為らぬと云ふことにならんと,磯部君の為めには大変都合が宜しいが外の債権者の為めには大変迷惑であると云う,斯う云ふことであります。然う云ふ場合には,即ち斯う云ふ意味に依て,夫れが法律行為であつたならば取消せる行為である,其場合には抵当権が後とから喰着けた物には及ばぬ。斯う云ふ意味に為るのであります。(法典調査会民法議事速記録第1618-19丁)

 

磯部はなおも喰い着いてきます。

 

  然うすると,債務者が一の債権者の利益を図る為めに他の債権者を詐害する考へを以て一つの建物を建てた,之は其建物に付て代価を払つた以上は其建物を壊はすことは出来ぬ,けれども其建物に付ては抵当債権者は権利は持たない,其土地丈けに付てしか抵当権は持たない,建物は他の普通債権者の権利が及ぶと云ふことに為る。其処で,何うでせう,他の債権者の利益を願つた為めに抵当債権者の利益を大変害するやうなことがありはしますまいか。何ぜならば,矢張り建物ならば何時でも其場合には地上権を設定しなければ仕方がないものと思ひますが,此「一体ヲ成シタル物ニ及フ」と云ふ通則の御説明の理由と,又此「第419条ノ規定ニ依リ債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合ハ此限ニ在ラス」と云うことの御説明と大変抵触して来るやうな考へがありますが,どんなものでございませうか。(法典調査会民法議事速記録第1620-21丁)

 

 梅の回答。

 

  私は抵触しない積りであります。此場合に於てはどちらも債務者の所有物であつて然うして前の例の場合・・・其手続は競売法にても極まると思ひますが,然う云ふ場合は,土地と建物と同時に売る,売つて其内で土地の価が幾ら,家の価が幾らと云ふことを競売の場合に極める。然うして土地の価は抵当債権者に与へ,家の価は他の債権者に与へると云ふことに為らうと思ひます。(法典調査会民法議事速記録第1621丁)

 

次に磯部は――不要論はもう捨てたのか――要件論を論じ始め,梅と議論になります(法典調査会民法議事速記録第1621-24)。

 

  磯部四郎君 其処で抵当権の主義と云ふものがありますので,之が抵当債権者が・・・知つた時計りに夫れ丈けの規則で特に利益を与へやうと云ふのは,債務者丈けの考へで債権者に其考へがなかつたときは何うか。「アクシヨンポーリアンド」の実行条件でありますが,其処は何う為るのでございませうか。「ボアソナード」氏の元との200条でありますが,唯だ「他ノ債権者ニ対シテ詐害ナキコトヲ要シ」と云ふ丈けで,必ず「アクシヨンポーリアン(ママ)」の規則の適用を此処に持つて来たやうには見(ママ)ませぬが,今あなたの御起草に為つたのを見ると「第419条ノ規定ニ依リ」とありますから「アクシヨンポ(ママ)リアンド」の規則を其儘適用するやうに為らうと思ひますが,然うすると抵当権者が通牒してやつた場合を言ふのであるか,又は通牒せずとも唯だ債務者丈けが,私なら私を一つ利益してやらうと云ふとき丈けに当たるのでございませうか。

  梅謙次郎君 恰も其為めに此「第419条ノ規定ニ依リ」と云ふ規定が必要であらうと思つたのであります。即ち「アクシヨンポーリエス」の規定は何う云ふ風に極まるか分りませぬが,今の法典の儘であつたならば,御承知の通りに,有償行為に付ては双方の悪意を要し無償行為に付ては債務者丈けで宜しいと云ふ規定は或は変へらるるかも知れませぬが,若し其通りであつたならば,債務者が債権者から別段今催促を受けて居ると云ふのでも何んでもない,唯だ先刻私が申したやうに磯部君は親友であるから外の債権者は損をしても宜しいが是丈けは損をさせたくないと云ふ考へでやつたならば,夫れは無償行為であります。金を借りるときは是丈けで宜しいと云ふことで借りた,債権者は知らなくても宜しいことである。是は無償行為であります。然うでなく,債権者と談判をしてもう期限が来て催促をされる,夫れでは家を建つて斯う云ふことにしたい,実は私は斯う云ふ位置に為つて居るから私に差押抔の手続抔をしてからに破産の宣告でも受けるやうにしたらお前は損をしなければならぬから,今の内に自分から急いで家を建つて置かう,然うすればお前の抵当の目的物と為つてお前の方で損をせぬやうに為るから其代はり1ヶ月なり2ヶ月なり待つて呉れろ,宜しい,と云ふことに為つたらば,夫れは有償行為であります。夫れは一つの例でありますが,此有償行為ならば双方の悪意がなければならぬ。然うい云ふことになります。無償行為には悪意は要らぬと云ふことになるかも知れませぬが,何れにしても,「アクシヨンポーリエス」の場合に相手方の悪意が要ると云ふのに,此処の場合に限つて相手方の悪意が要らぬと云ふことは何うしても分らぬのであります。夫れで権衡を得るやうにして置かなければならぬと云ふので,態々「第419条ノ規定ニ依リ債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合」と云ふ風に書いたのであります。

磯部四郎君 一寸修正案を出さうと云ふ考へであります。段々伺ひましたが,何れ此「第419条ノ規定」と云ふもので,只今御述べになつた如くに,一の債務者が一の抵当債権者を特に利益する積りで抵当物に向つて一の建築をした,其費用等は已に弁済をして仕舞つて完全の所有権を持つて居る,夫れを即ち其建築物の配当金を抵当債権者に与へたと云ふ場合が「アクシヨンポーリアンド」で取消し得る場合と云ふものに嵌まりませうか。私の考へでは嵌まるまいと思ひます。「アクシヨンポーリアンド」と云ふものは,詰,債務者が債権者を詐害するの意思を以て己れの財産を匿して仕舞つたとか或は虚妄の負債でも拵へたとか云ふやうな場合に当嵌まるものと思ひます。現に自分の持つて居る物で金を借りても自分の土地に一の建物を拵へて自分の所有物を増加すると云ふのを取消し得る場合に於ては,到底此「アクシヨンポーリアンド」の規則では嵌まらぬと思ひますが,此一点からして既成法典の200条の「但他ノ債権者ニ対シテ詐害ナキコトヲ要シ」と云ふことは之は「アクシヨンポーリアンド」の適用を此処に挙げたのではない,特に斯う云ふ場合を挙げたのと思ひます。「アクシヨンポーリアンド」の「アナロジー」でないか知れませぬけれども決して「アクシヨンポーリアンド」の適用を此処に挙げたのでないと思ひます。何ぜならば,只今御示しに為つたやうな場合は「アクシヨンポーリアンド」の規則の適用に依て徃くことの出来ぬ場合であらうと思ひますが,何うでございませいか。

  梅謙次郎君 私は然うは思ひませぬ。「アクシヨンポーリエス」の適用が当嵌まらぬと云ふのは,行為を取消すのでないから当嵌まらぬので,其事柄は矢張り「アクシヨンポーリエス」の規定で取消し得べき性質のものであると思ひます。何ぜならば,家を建てる,其家は競売に因て消(ママ)るのでありますが,其代はり代価を払はなければならぬ,成程相当の代価を,高い価を払へば損が徃く,夫故に随分建築夫れ自身ですらも取消されるかも知れぬ,契約夫れ自身でも随分取消されるかも知れぬ,殊に其建築した物をば直ぐ或る独りの債権者の特別担保にして仕舞(ママ)と云ふ,夫れは徃かぬと云ふのであります。若し此処で新に,磯部君に金を借りて居る,其抵当として1000円の形に500円の価しかない不動産を抵当に入れて居つた,夫れでは磯部君が損をするであらうと云ふので更らに私のもう一つ所有して居る500円の不動産を附け加へて抵当にすると仮定致します。此場合には,無論,「アクシヨンポーリエス」で適用が出来る。唯だ名義であるが,此処は「アクトアニユレー」〔acte annulé(取り消された行為)〕でないから,純然たる適用でない,所謂準用でありますが,準用は余程風の変つた準用でありますから,夫れで明文が要ります。

 
オ 磯部修正案及びその取下げ

 その後,磯部は次のように修正案を提出します。

 

  尚ほ私は末項の分に付て一の修正案を出さうと云ふ勇気を持つて提出致します。其訳は,法文の全体から考へると,精神と云ひ何うも斯くなければなるまいと私も考へるが,如何せん,「第419条ノ規定ニ依リ債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合」と云ふ法文は,精神は分りましたが,法文としては如何にも解し悪くい。先程梅君から御示しになつた例の如き場合は,所謂第419条の規則を以て取消すことは出来ないことに帰して仕舞(ママ)と思ひます。唯だ精神上では取消すことが出来る場合に見えて,其実は其訴権を以て取消すことの出来ぬと云ふことに為つて仕舞(ママ)と考へますから,其精神は宜しいが法文の分らざるが為めに今日の起草委員の折角の御骨折が水泡に帰しはすまいかと思ひます。却て右様な場合は利益を得る抵当債権者が実際上適用すると云ふ恐れがあります。寧ろ此処に「第419条ノ規定」と云ふことは言はぬで置て,既成法典の文章に傚つて私は二た通りに書て見ましたが,夫れは「及ヒ」の下に持つて来て「及ヒ他ノ債権者ニ対シテ詐害アルトキハ此限ニ在ラス」。斯うやつた方が此精神を悉く取りまして,然うして「アクシヨンポーリアンド」の規定でもなし,一の抵当債権者を単へに利するが為めにありもしない資力を以て建築をして他の債権者を害するやうな不都合をやつたときは,則ち抵当債権者は通謀のあると無きとに拘はらず兎に角債務者が他の債権者に対して詐害を為すの目的を以て右様な建築を為した場合には,縦令其一体を成した建築物と雖も抵当債権者は夫れに対しては先取特権(ママ)を持たないぞ,と云ふことが明に為らうと思ひますから,夫れで私は此365条の「及ヒ」までは此儘にして,「及ヒ」以下の「第419条ニ依リ債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合ハ」と云ふこと丈け削除して,其代はりに唯だ此処に持つて来て「他ノ債権者ニ対シテ詐害アルトキハ」と云ふ丈けの文字を加へて,「此限ニ在ラス」を存して置くが宜しいと思ひます。夫れで然う云ふ修正説を提出して置きます。(法典調査会民法議事速記録第1631-32丁)

 

 しかしながら賛同者が無かったこと(あるいは単に“action Paulienne”の発音比べをさせられるのがいやなので,他の委員は黙っていたのかもしれません。)もあってか,磯部は上記修正説を取り下げてしまいます(法典調査会民法議事速記録第1638丁)。梅365条案の修正案(有名な「抵当地ノ上ニ存スル建物ヲ除ク外」が挿入されました。)が議された第51回法典調査委員会(189412月〔法典調査会民法議事速記録第1683丁には「11月」とあるが,これは誤り。〕7日)においても,再提出は結局されませんでした(法典調査会民法議事速記録第16131丁)。

 明治天皇に裁可せられた民法370条は,次のとおりとなりました。

 

  第370条 抵当権ハ抵当地ノ上ニ存スル建物ヲ除ク外其目的タル不動産ニ附加シテ之ト一体ヲ成シタル物ニ及フ但設定行為ニ別段ノ定アルトキ及ヒ第424条ノ規定ニ依リ債権者カ債務者ノ行為ヲ取消スコトヲ得ル場合ハ此限ニ在ラス

 

同条ただし書後段に係る「法文トシテハ如何ニモ解シ悪クイ」との磯部の批判に対して敢然自己の原案を枉げなかった梅は,いわゆる確信犯だったわけです。
 梅は1910825日に大韓帝国の漢陽において歿しますが,翌1911827日付け読売新聞に掲載された磯部の回顧談には,「私は法典問題の起つた時のみ〔梅〕博士と一所になつた。兎も角博士は勉強家であり,又弁論家であつた。彼は〔略〕法律に関係したことは総て研究し,読破したが,余りにも議論家であつた為めに,時に或は其の論鋒にいくらか疑を抱かしめることもあつた。」とありました(東川徳治『博士梅謙次郎』(法政大学=有斐閣・1917年)231頁)。
 

3 民法370条ただし書後段の要件論及び立法論

 梅謙次郎によるところ,民法370条ただし書後段の要件は,次のとおりです。

 

其条件モ亦「パウルス」訴権ニ同シ即チ(第1)債務者カ他ノ債権者ヲ害スルコトヲ知リテ之ヲ為シタルコトヲ要ス而シテ他ノ債権者ヲ害スルトハ債務者カ已ニ無資力ナル場合ニ於テ金銭其他ノ財産ヲ以テ特ニ不動産ニ工作ヲ施シ以テ抵当権者ノ特別担保ヲ増加シ為メニ他ノ債権者カ受クヘキ弁済額ヲ減殺スルカ如キヲ謂フ(第2)其工事ヲ施スノ当時抵当権者カ右ノ事情ヲ知レルコトヲ要ス故ニ実際ハ大抵抵当権者ト抵当権設定者ト通謀シテ之ヲ為シタル場合ナルヘシ(424)然リト雖モ本条ノ規定ノ純然タル「パウルス」訴権ト異ナル所ハ(第1)「パウルス」訴権ハ以テ一ノ法律行為ヲ取消スヲ目的トスルニ本条ノ規定ハ工作ヲ施スニ付キ為シタル法律行為ヲ取消スニ非ス其行為ハ依然其効力ヲ存シ又工作物モ敢テ之ヲ除去スルニ非ス唯其工作物ヲ以テ抵当権ノ目的ト為スコトヲ得サルニ止マリ(第2)「パウルス」訴権ハ必ス裁判所ニ於テ之ヲ行フコトヲ要スルニ本条ノ規定ハ特ニ裁判所ニ請求スルコトヲ必要トセス右ニ掲ケタル条件ヲ具備スル以上ハ当然適用セラルヘキニ在リ是レ本条但書ニ於テ特ニ規定ヲ設クルノ必要アル所以ナリ(梅巻之二508-509頁)

 

 民法370条ただし書後段が問題となるのは,抵当権が実行されて(民事執行法(昭和54年法律第4号)180条),配当異議の申出の段階となって以降のようではあります(同法188条,89条・90条,111条)。しかしこの場合,債権者は配当異議の申出(民事執行法891項)をし,更に配当異議の訴えの提起(同法901項)をしなければならないのですから,やはり,「本条ノ規定ハ特ニ裁判所ニ請求スルコトヲ必要トセス右ニ掲ケタル条件ヲ具備スル以上ハ当然適用セラル」るわけではなく,結局「裁判所ニ請求スルコトヲ必要」とすることになるようです。なお,「配当期日において配当異議の申出をしなかった一般債権者は,配当を受けた他の債権者に対して,その者が配当を受けたことによって自己が配当を受けることができなかった額に相当する金員について不当利得返還請求をすることができないものと解するのが相当である。けだし,ある者が不当利得返還請求権を有するというためにはその者に民法703条にいう損失が生じたことが必要であるが,一般債権者は,債権者の一般財産から債権の満足を受けることができる地位を有するにとどまり,特定の執行の目的物について優先弁済を受けるべき実体的権利を有するものではなく,他の債権者が配当を受けたために自己が配当を受けることができなかったというだけでは右の損失が生じたということができないからである。」と判示する最高裁判所判決があります(最判平成10326日民集522513頁)。

 ところで,平成29年法律第44号による今次民法改正により,民法に第424条の3が加わったことをどう考えるべきでしょうか。民法370条ただし書後段の場合は,要は抵当債権者のために追加的に担保が供与された場合であるようですので,同法424条よりもむしろ同法424条の3にそろえて修文した方がよかったのではないでしょうか。「既存の債務について特定の債権者に担保を供与する行為は,〔平成29年法律第44号による民法の〕改正前の判例では,典型的な詐害行為とされてきた」ものの,「改正法は,特定の債権者に優先的に弁済する行為と同様に扱い,偏頗行為の一種として〔新424条の3の〕のルールを適用した。判例法の修正といえる。」とされています(内田369-370頁)。すなわち,「典型的な詐害行為」に係る「第424条第3項に規定する詐害行為取消請求をすることができる場合」とは異なるということでしょう。

 そうであるとすれば,民法370条ただし書を,更に次のように改めてはいかん。

 

  ただし,設定行為に別段の定めがある場合及び第424条の3第1項又は同条第2項に規定する場合においては,この限りでない。

 

「○項場合において」と「○項に規定する場合において」との違いは,「「前項に規定する場合において」という語は,〔略〕当該前項に仮定的条件を示す「・・・の場合において(は)」,「・・・の場合において,・・・のときは」又は「・・・のときは」という部分がある場合に,この部分をうけて「その場合」という意味を表そうとするときに用いられる。したがって,当該前項中の一部分のみをうけるのであり,「前項の場合において」という語が,前項の全部をうけるのとは,明らかに異なる。」という説明(前田正道編『ワークブック法制執務(全訂)』(ぎょうせい・1983年)618-619頁)から御理解ください。

さて,「債務者カ已ニ無資力ナル場合」は,支払不能の場合(民法424条の311号)ということでよいのでしょう(「支払不能は,債務超過とともに,いわば,無資力概念を具体化・実質化するもの」です(内田367頁)。)。また,当該行為が債務者の義務に属せず,又はその時期が債務者の義務に属しないものであるときは更に30箇日支払不能前に遡るのであれば(民法424321号),民法370条ただし書後段においてもそうなるべきなのでしょう。「実際ハ大抵抵当権者ト抵当権設定者ト通謀シテ之ヲ為シタル場合ナルヘシ」なのですから,「その行為が,債務者と受益者とが通謀して他の債権者を害する意図をもって行われたものであるとき」でよいのでしょう(民法424条の312号・第22号)。

泉下の磯部四郎も梅謙次郎も納得するものかどうか。

ちなみに,修正が必要であるとボワソナアドが批判していたナポレオンの民法典2133条ですが,現在はフランス民法23972項となっています。現在の同項の文言は“L’hypothèque s’étend aux améliorations qui surviennent à l’immeuble.”(抵当権は,当該不動産に生ずる改良に及ぶ。)です。確かに「全ての改良」が「改良」に改められるような微修正がされていますが,結局,ボワソナアドが細かくもわざわざ構想し,梅謙次郎が更に難しく手を入れて(かつ,磯部四郎の忠告的異論を撥ねつけて)出来上がった我が民法370条ただし書後段的規定の採用は,なかったわけです。


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磯部四郎の建てた墓(東京都港区虎ノ門三丁目光明寺)ただし,磯部の遺骨はここには眠っていません。
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光明寺のこの山号の意味は,「梅が,上」か,はた「梅の上」か。
梅上山光明寺
磯部としては,上の方にいるつもりだったのでしょう。

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192391日,関東大震災により発生した火災旋風🔥に襲われ,数万の避難民と共に磯部が落命した被服廠跡の地(東京都墨田区横網町公園)

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今度は大丈夫,なのでしょう。


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梅謙次郎の墓(東京都文京区護国寺)
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1 民法884条

 民法884条に相続回復請求権という七文字熟語があって,なかなか難しい。「そもそも884条が何を定めているのかという点からして見解は一致せず,この規定がどのような紛争類型に適用されるのか等をめぐって学説・判例が分かれ,百花繚乱という状態となった」とされています(内田貴『民法Ⅳ 親族・相続』(東京大学出版会・2002年)433頁)。条文は,次のとおりです。

 

   (相続回復請求権)

  第884条 相続回復の請求権は,相続人又はその法定代理人が相続権を侵害された事実を知った時から5年間行使しないときは,時効によって消滅する。相続開始の時から20年を経過したときも,同様とする。

 

「本条は,相続回復請求権の短期消滅時効を規定するだけのように見えるが,実は,相続回復請求権という特殊の請求権を認める,という意味をももつている。かような請求権を認めることは,ローマ法に淵源し,ドイツ民法(同法2018条以下),スイス民法(同法598条以下)に承継されているが,フランスでも,判例の努力によつて,ほぼ同一の制度が認められている。かような制度を認める理由は,相続権のない者が相続人らしい地位にあつて相続財産の管理・処分をする場合に,真正の相続人に対して,相続財産を一括して回復することができるような便宜を与えようとすることである。」と,1952年段階では確信あり気に述べられています(我妻榮=立石芳枝『親族法・相続法』(日本評論新社・1952年)361頁(相続法は我妻執筆)。下線は筆者によるもの)。しかし,1947年の昭和22年法律第222号による民法親族編・相続編の「改正の際,戸主制度を廃止したにもかかわらず,遺産相続に関して以上の規定〔現行884条の前身である昭和22年法律第222号改正前民法966条及び993条〕がそのまま維持されてしまった。しかも,はっきりとした確信のもとに維持されたというより,改正を急いだために十分な検討を経ずに旧規定が承継されたという面が強い。」というのが実相だったのではないかとも説かれています(内田433頁)。

 

2 民法旧966条及び旧993条並びに起草者によるそれらの解説

昭和22年法律第222号改正前民法966条及び993条の条文は,次のとおりです。

 

 第966条 家督相続回復ノ請求権ハ家督相続人又ハ其法定代理人カ相続権侵害ノ事実ヲ知リタル時ヨリ5年間之ヲ行ハサルトキハ時効ニ因リテ消滅ス相続開始ノ時ヨリ20年ヲ経過シタルトキ亦同シ

 

第993条 第965条乃至第968条ノ規定ハ遺産相続ニ之ヲ準用ス

 

 我が民法の起草者の一人たる梅謙次郎は,民法旧966条について次のように解説します。

 

  本条ハ家督(○○)相続権(○○○)()消滅(○○)時効(○○)ヲ定メタルモノナリ蓋シ家督相続ナルモノハ頗ル複雑ナルモノニシテ一旦事実上ノ相続ヲ為シタル者アルノ後数年乃至数十年ヲ経テ其者ノ相続権ヲ奪ヒ之ヲ他ノ者ニ与フルトキハ之カ為メニ生スル当事者間及ヒ第三者ニ対スル権利義務ノ関係非常ノ攪乱ヲ受ケ為メニ経済上,社会上容易ナラサル結果ヲ惹起スルコト多カルヘシ故ニ之ニ関シテ時効ノ規定ヲ設クヘキハ勿論其時効ハ寧ロ普通ノ時効ヨリモ其期間ヲ短ウスルノ理由アリ相続権シテ貴重ナルモノナルカ正当相続人権利サレタル場合事情リテ不問クカキハ人情ヘカラサルナリ外国テハ相続権普通時効最長期時効リテノミ消滅スヘキモノトセルカラス民法ヘリ〕(証155後略(梅謙次郎『第18版民法要義巻之五 相続編』(私立法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1910年)10-11頁)

  

 旧993条については,次のとおり。

 

  本条ニ於テハ家督相続ニ関スル第965条乃至第968条ノ規定ヲ遺産相続ニ準用セリ蓋シ〔略〕相続権ノ時効(966)〔略〕ニ付テハ家督相続ト遺産相続トノ間ニ区別ヲ設クル理由ナキカ故ニ此等ノ事項ニ付テハ家督相続ニ関スル規定ヲ遺産相続ニ準用スルヲ以テ妥当トシタルナリ(梅93頁)

 

民法966には「家督相続回復ノ請求権」と大きく打ち出されてはいるものの,梅謙次郎の解説を読む限りでは同条は飽くまでも相続権の短期時効による消滅(この点外国法制と異なる。)について定めたいわば消極的規定であるようで,新たに「家督相続回復ノ請求権」なる特殊な請求権を積極的に創出するという趣は窺われません。

 

3 旧民法証拠編155条並びにボワソナアド草案1492条及びボワソナアド解説

民法旧966条の前身規定は旧民法証拠編155条とされていますので(梅10頁),更に旧民法の当該規定を見てみましょう。同編第2部「時効」の第8章「特別ノ時効」の章にあります。

 

 第155条 相続人又ハ包括権原ノ受遺者若クハ受贈者ノ分限ヲシテ効用ヲ致サシムル為メノ遺産請求ノ訴権ハ相続人又ハ包括権原ノ受贈者若クハ受遺者ノ権原ニテ占有スル者ニ対シテハ相続ノ時ヨリ30个年ヲ経過スルニ非サレハ時効ニ罹ラス

 

 民法旧規定の「相続回復ノ請求権」とは,旧民法の「相続人ノ分限ヲシテ効用ヲ致サシムル為メノ遺産請求ノ訴権」に対応するということでしょうか。

 旧民法証拠編155条は,次のボワソナアド草案に基づくものです。

 

   Art. 1492. L’action en pétition d’hérédité, pour faire valoir la qualité d’héritier légitime ou de légataire ou donataire à titre universel ne se prescript que par trente ans, à partir de l’ouverture de la succession, contre ceux qui possèdent, à l'un des mêmes titres, tout ou partie des biens du défunt. [133, 137]

  (Boissonade, M. Gve, Projet de Code Civil pour l’Empore du Japon accompagné d’un Commentaire, Tome Cinquième: Des Preuves et de la Prescription (Tokio, 1889) p. 388)

 

旧民法証拠編155条は,ボワソナアド草案1492条そのままですね。ただし,ボワソナアド草案1492条の“L’action en pétition d’hérédité”の部分が「遺産請求ノ訴権」と訳されており,その相手方である「占有スル者」が占有する物であるtout ou partie des biens du défunt”(死者(被相続人)の財産の全部又は一部)の部分は省略されているものです。後者については,恐らく,「遺産請求ノ訴権で問題になっているのは遺産なんだから,その相手方たる「占有スル者」が占有している物が被相続人の財産の全部又は一部であることは自明だろう」ということだったのでしょう。

[133, 137]は,ナポレオンの民法典における対応条項でしょう。

 

 第133条 失踪者の子及び直系卑属も同様に,〔関係権利者への〕確定的占有付与から30年間は,前条に定めるところに従い当該失踪者の財産の返還を請求することができる。

 

   第132条 失踪者が帰還し,又はその生存が証明されたときは,確定的占有付与の後であっても,当該失踪者は,現状におけるその財産及び処分された財産の対価又は売却されたその財産の対価の使用によって得られた財産を回復する。

 

   (旧民法人事編第284条 失踪者ノ相続順位ニ在ル者ハ他ノ者カ財産占有ヲ得タル日ヨリ30个年間其財産ノ返還ヲ請求スルコトヲ得

    此場合ニ於テモ果実ハ前条ノ規定ニ従ヒテ之ヲ取戻スコトヲ得)

 

第137条 前2条の規定は,失踪者又はその承継相続人若しくは承継人に帰属し,かつ,所定の時効期間の経過によらなければ消滅しないもの(lesquels)である遺産請求の訴権(actions en pétition d’hérédité)及び他の権利(autres droits)を害しない。

 

第135条 その生存が確認されていない個人に帰属した権利を主張する者は,当該権利が生じた時に当該個人が生存していたことを証明しなければならない。当該証明がされない限り,同人の請求は受理されない。

 

第136条 生存が確認されていない個人を相続権利者とする相続が開始された場合においては,相続財産は,専ら同人と同等の権利を有する者又は同人の代襲者に対してのみ帰属する。

 

    (旧民法人事編第287条 前2条ノ規定ハ失踪者又ハ其相続人及ヒ承継人ニ属スル相続ノ請求其他ノ権利ヲ行フヲ妨クルコト無シ此等ノ権利ハ普通ノ時効ニ因ルニ非サレハ消滅セス)

 

 その草案1492条に係るボワソナアドの解説は,次のとおりです。

 

   法は,かつて(autrefois),特にローマ法において,非常によく使われた表現(une expression très-usitée)であって,フランスの法典(第137条)ではただ1回のみ使用されているもの――“la pétition d’hérédité”――をあらかじめ定立する(La loi consacre…)。これは,物的訴権の一つ(une action réelle)であって,我々の条項にいうとおり「被相続人の財産の全部又は一部を相続人又は包括承継人の権原をもって占有する者に対して,相続人又は包括承継人の分限(qualité)をして効用を致さしむるため(à faire valoir)」のものである。〔追記:1891年の新版第41005頁では,「我々の条項にいうとおり「相続人又は包括承継人の分限(qualité)をして効用を致さしむるため(à faire valoir)」のものである。当該訴権は「被相続人の財産の全部又は一部を相続人又は包括承継人の権原をもって占有する者に対して」行使される。」と微妙に修正されています。〕相続人又は包括の受遺者若しくは受贈者の分限の承認(reconnaissance)は,結果として(pour conséquence),相続において当該分限に伴うところの財産(les biens de la succession attachés à cette qualité)の原告に対する回復(restitution au demandeur)をもたらすものである。

   相続財産中のある財産の占有者が,当該財産を買主若しくは特定の受贈者として,又は他の同様の特定の権原をもって占有している場合においては,la pétition d’héréditéによって訴えが提起されるべきものではなく,通常の返還請求の訴え(la revendication ordinaire)によるべきものであって,かつ,そうであるので時効期間は,不動産については15年又は30年,動産については即時となる。

   これに対して,占有が包括の権原によるものである場合においては,動産不動産の区分,正権原及び善意の有無を問わず,時効期間は一様に(uniformément30年である。

   この長い時効期間は,伝統的なものであり,並びに家産(patrimoine)の全体又は割り前が問題になっているという状況によって,及び相続の開始又は相続人若しくは受遺者としてのその権利に係る無知という相続権利者が陥り得る宥恕すべき情況によって説明されるものである。

   この訴権については(sur cette action),失踪に関して第1編において,相続並びに包括の贈与及び遺贈に関して第3編第2部においても触れられる(On reviendra…)。

                           (Boissonade pp.393-394

 

上記解説の最終段落について更に解説を加えれば,ボワソナアド当初案による旧民法の編別は次のとおりであったところです(大久保泰甫『日本近代法の父 ボワソナアド』(岩波新書・1998年(第3刷))135頁)。

 

 第1編 人事編

 第2編 財産編

 第3編 財産取得編

第1部 特定名義の取得法

    第2部 包括名義の取得法

  第4部 債権担保編

  第5編 証拠編

 

 「ここで注意しなければならないのは,このうち第1編人事編(すなわち家族法)と,第3編第2部包括名義の取得法(すなわち相続,贈与と遺贈,夫婦財産契約)は,初めから日本人委員が起草するてはず(●●●)になっていたことである。つまりはっきりいえば,ボワソナアドは,家族法相続法の起草は依頼されなかったのである。」ということでした(大久保135-136頁)。であるので,la pétition d’héréditéの実体についての詳しい規定の起草を,ボワソナアドとしては日本人委員(熊野敏三,光明寺三郎,黒田綱彦,高野真遜,磯部四郎及び井上正一(大久保157頁))に期待していたのでしょう。しかしながら,そのような起草はされず,旧民法におけるla pétition d’héréditéに関する規定は証拠編155条のみと観念される結果となったようです(梅10頁は民法旧966条に係る参考条項として旧民法証拠編155条のみを掲げています。)。旧民法人事編287条はナポレオンの民法典137条のほぼそのままの翻訳なのですが,そこではナポレオンの民法典137条における“actions en pétition d’hérédité”が「相続ノ請求」とされていて,証拠編155条における“action en pétition d’hérédité”に係る「遺産請求ノ訴権」の語と整合していません。結局,日本人委員はla pétition d’héréditéについて特に考えることはなかったのでしょう。

結果として,旧民法におけるaction en pétition d’héréditéの内実は,ボワソナアドが前記解説で説いたところに尽きるものであったことになるようです。すなわち,飽くまでも時効に係るものにすぎず(なお,旧民法証拠編155条の文言は,action en pétition d’héréditéのうち「相続人又ハ包括権原ノ受贈者若クハ受遺者ノ権原ニテ占有スル者ニ対シテ」行使されるものに限って時効期間の特別規定を設けた形になっています。),「真正の相続人に対して,相続財産を一括して回復することができるような便宜を与えようとすること」(前掲我妻等361頁)や,「相続回復請求権」を「「自分が相続人であるから遺産を全部返還せよ」と一括して請求」できる「個々の財産の返還請求権とは別の独立の請求権と構成」すること(内田434頁の紹介する「独立権利説」)までは,少なくともその旨明示的かつ積極的に表明されてはいなかったということになります。「相続回復請求権は,ローマ法以来の制度で,ドイツにもフランスにも存在する。日本にも,ボワソナード草案を通じて継受され」たとされてはいますが(内田432頁),ボワソナアドとしては,自分は「遺産請求ノ訴権」(l’action en pétition d’hérédité)との「表現」(expression)の定立(consacrer)を法典においてすることにはしたが,その定義は時効に係るものとしての自分の草案1492条に書いてある限りのものであって,相続に係るローマ法以来の西洋の制度をそれとしてそのまま日本の民法に積極的に持ち込むまでのことはしていない,飽くまでも当該「表現」を使った(あるいは「有り難く頂戴」(consacrer)した)にすぎない,そもそも相続法本体の起草は日本人の領分である,といささかの修正的弁明を試みたくなるかもしれません。

ちなみに,ボワソナアドのProjetは,現在国立国会図書館デジタルコレクションで自由にアクセスできるようになっています。当該書籍の印刷発行についてボワソナアドは後世読者のために紙や活字にまで気を配り精魂を傾けていますから,今日民法について何か語ろうとする者は,当該Projetを避けて通るわけにはいきません。

 

 〔略〕磯部〔四郎〕の談話によると,明治16,7年〔1883-1884年〕頃のこと,ボワソナアドが草案を「出版スルノニ,是レデハ紙質ガ悪イダノ,是レデハ活字ガ鮮明デナイダノト,兎角下ラナイ処ニ気ヲ配ツテ」,「肝腎ナ事務ガ運バナイ」ようになった。そこで今後は,いっさいボワソナアドに口をきかせないようにしようとして,大木〔喬任〕司法卿に会い,「ボアソナード氏ハ,卿ニ向テ何ト申スカハ存ジマセヌガ,民法編纂ノ実際ハ斯クノ如キ状態デアルカラ」,以後は,かれこれいわせないようにしたい,と申し出たところ,大木卿にたいそう叱られた。同卿は,「お前,ボワソナアドに1年どれほど金を払うか知っているだろう。1万5千円支払っているではないか。ずいぶん高い出費だが,国家の急務であるから,このような高い金を払って仕事をさせているのである。それを,わずかに活字のことや紙質のことぐらいで,けんか(●●●)をして感情を害し,その結果草案の起草がはかどらぬ時には,それこそ政府の損だから,そんな片々たることはやめて,ボワソナアドをだまして,仕事をさせるようにいたさねばならぬ」といったという。(大久保138-139頁)

 

後に芸妓をあげての花札ばくち🎴大好き大審院検事となる磯部四郎(大久保177-178頁参照。令和の聖代における事例のように,むくつけき新聞記者相手にこそこそと賭け麻雀🀄をしていたというような謙虚なものではないようです。)は,さすが人間が小さい。実は自分らの手間暇等の問題にすぎない事務方的正義論による悪口を偉い人に言いつけて,本当の仕事を一生懸命している真に有能な人の心を折ろうとする。

しかし,ここでボワソナアドを救ったのは,その高給であったということは興味深いところです。変に良心的に薄給に甘んじていると,甘く見られて,真の仕事をなす前に横着かつ感情的な事務方的正義に圧倒され揉みくちゃにされあるいは排除されてしまうことがあるということでしょう。高い報酬を請求するということにも,正義があるものです。

閑話休題。

ボワソナアド草案1492条(旧民法証拠編155条)及びそのボワソナアド解説から分かる範囲での遺産請求ノ訴権の性質を考えるに,まずこれは,物的訴権(action réelle)であるとされています。物的訴権とは,日本の法律家としては見慣れない概念なのですが,これはローマ法にいう対物訴権なのでしょう。対物訴権は,債権の訴権ではない訴権です。

 

  〔略〕対物訴権(actio in rem),対人訴権(actio in personam) ローマ人の考では前者は物自体に対する訴権,後者は人に対する訴権である。前者は物権,家族法上の権利,相続法上の権利に関する訴権及び確認〔略〕の訴権,後者は債権の訴権である。債権は相手方の行為を要求する権利であるから,法律関係成立の時から被告となり得べき者が定まり,従つて当然請求の表示〔略〕の部分に被告の名が見えて来るが,物権に於ては個別的な相手方はなく,その訴の相手方は法律関係自体からは定まらずして,権利侵害という後発事情の附加によつて定まらざるを得ない。この法律関係の非個別性に基づいて,請求の表示の部分には被告の名は示されない。〔略〕(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣全書・1955年)398-399頁)

 

  〔略〕物権とその基本観念 ローマ法には物権の語はない。ただ訴訟上対物訴権と対人訴権の区別があり〔略〕,現代人はローマ法上物に対する支配権にして対物訴権を附与せられた権利をば物権と称して,訴訟法上の区別を実体法上の観念に建て直しているのである。その対物訴権とはローマ人自身の考では,物自体に対して訴訟を提起しているのであつて,結局物的追求,第三者対抗可能がその基本観念である。(原田94頁)

 

  〔略〕対物訴訟〔略〕に於ては被告に応訴の義務がない。被告が認諾もせず,争点の決定もしないときは,法務官の命令によつて,訴訟物の占有は原告にうつるだけである。訴訟は確定しない。被告が後日争うときは,原告となるためにその地位が不利となるだけである。(原田386頁)

 

 相続財産返還請求訴訟は,基本的に「対物訴訟(actio in rem)」で,「所有物返還請求訴訟(rei vindicatio)」に類似したものであるといわれる〔略〕。そして,その場合の「正しい被告」(被告となるべき者)は,相続財産占有者のみである。(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法――ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)297頁)

 

ところで,旧民法証拠編155条の遺産請求ノ訴権は,相続財産を直ちに取り戻す訴権と等号で結ばれるものではなかったように思われます。ボワソナアドは,遺産請求ノ訴権に関して「相続人又は包括の受遺者若しくは受贈者の分限(qualité)の承認(reconnaissance)は,結果として(pour conséquence),相続において当該分限に伴うところの財産(les biens de la succession attachés à cette qualité)の原告に対する回復(restitution au demandeur)をもたらす(a (=avoir))」と述べていますが,「結果として(pour conséquence)」という間接効果的文言がありますので,遺産請求ノ訴権の効果についてボワソナアドは腰が引けているな,というのが一読しての筆者の感想です。確かに,「相続人又ハ包括権原ノ受遺者若クハ受贈者ノ分限ヲシテ効用ヲ致サシムル為メノ」訴権というのはもって回った表現であって,物の引渡し(Herausgabe)を求めるためのものに限定されねばならないということにはならないようです。

あるいは,原告に係る「相続人又は包括の受遺者若しくは受贈者の分限(qualité)の承認(reconnaissance)」の可否が争われる訴訟の訴権であることこそが,実はボワソナアドの考えた遺産請求ノ訴権のメルクマールであったものと解すべきでしょうか。この点,最高裁判所大法廷昭和531220日判決(民集3291674頁)は,民法884条の相続回復請求権について「思うに,民法884条の相続回復請求の制度は,いわゆる表見相続人が真正相続人の相続権を否定し相続の目的たる権利を侵害している場合に,真正相続人が自己の相続権を主張して表見相続人に対し侵害の排除を請求することにより,真正相続人に相続権を回復させようとするものである。」と判示しています(下線は筆者によるもの)。原告たる「真正相続人の相続権」の有無が争われるわけであって,ここでの「相続権」を「相続人ノ分限」で置き換えることができるのであれば(当該「相続権」は「相続開始後の相続人の地位」とも一応いい得るようですが(我妻榮=有泉亨著,遠藤浩=川井健=水本浩補訂『民法3 親族法・相続法(新版)』(一粒社・1992年)305頁),しかし,上掲最判昭和531220日の大塚喜一郎=吉田豊=団藤重光=栗本一夫=本山亨=戸田弘意見は「相続人の地位と相続権とは別個の観念」であるとします。とはいえ,当該判例の事案においては,被告たる他の共同相続人によって,原告たる共同相続人の相続権は全否定されていた(したがって相続人扱いされていなかった)のではないでしょうか(内田436-437頁によれば,原告の母は姑(その夫(原告の祖父)が被相続人)と折り合いが悪く,実家に帰って原告を出産してそのままとなり,その後原告と他の共同相続人との間には親戚付き合いもなかったそうです。。),相続回復請求の制度は,ボワソナアドの言及した原告たる相続人の分限(qualité)の承認(reconnaissance)の可否の争いに係るものと考えた場合における遺産請求ノ訴権の制度とパラレルなものと捉えることができそうです。相続回復請求訴訟においては,原被告は「互いに被相続人の権利を前提としながら,その承継を争う」ものとされています(我妻=有泉312頁)。

ただし,ボワソナアド草案1492及び旧民法証拠編155条は,「通常の返還請求の訴え」による場合においては「不動産については15年又は30年,動産については即時」の期間による時効取得によって真正相続人が害されるところ,相手方の「占有が包括の権原によるものである場合」に係る特則を設けて,その場合おいては「動産不動産の区分,正権原及び善意の有無を問わず,時効期間は一様に30年である」ものとして,より長い時効期間によって真正相続人を特に保護しようとするものでした。ところが,これとは反対に,民法旧966条及び旧993条以降の相続回復の請求権に係る消滅時効制度は,「表見相続人が外見上相続により相続財産を取得したような事実状態が生じたのち相当年月を経てからこの事実状態を覆滅して真正相続人に権利を回復させることにより当事者又は第三者の権利義務関係に混乱を生じさせることのないよう相続権の帰属及びこれに伴う法律関係を早期かつ終局的に確定させるという趣旨に出たものである。」とされ(前記最判昭和531220日。下線は筆者によるもの),むしろより短い時効期間によって表見相続人等を特に保護しようとするものとされています。「日本の相続回復請求権制度は,単に時効期間が短くなったというにとどまらない質的変化を遂げ,ローマ法以来の相続回復請求権とは異なる制度になったとすらいえる」(内田433頁)とは正にむべなるかなであって,ここでの「質的変化」とは,あえていえば正反対のものとなったということでしょう。日本人は「家」を大事にするといわれているようでもありますが,実は相続の真正には余り重きを置かず,その場その時の家関係者「みんな」の便宜こそが最優先されるということでしょうか。天一坊が徳川第9代将軍として政権を把握し,かつ,その政権が一応安定して「みんな」の居場所と出番とが確保されたのならば,将軍位継承権を否定されたとて家重やら宗武やら宗尹やらが今更がたがた言うな,引っ込んでおれ,ということなのでしょう。また,相続の真正について一番文句を言いそうな家の関係者「みんな」が忖度し,認許する以上は,法律関係が「早期かつ終局的に確定」されるという利益が「第三者」に対しても及んで当然ということになるのでしょう。


4 ドイツ民法のErbschaftsanspruch及びその影響

ドイツ民法2018条以下の規定が,日本民法の解釈に影響を与えてしまったようです。しかしながら,前記のとおり,ローマ法以来の流れを汲むドイツ民法は真正相続人を保護しようとしているのに対して,日本民法の相続回復請求権の消滅時効制度は表見相続人及び第三者を保護しようとするものとなってしまっているのですから,もっともらしくドイツ法を参照すればするほど混乱が深まったのかもしれません。

なお,ドイツ民法においては「〔相続回復〕請求権を個別的請求権とは独自の請求権とし,その中に相続財産の包括性を考慮した効果,相続財産の所在等に関する遺産占有者の通知義務など,主として相続人に有利な内容を付与している。そして,起草者によれば,こうした規定の背景には次のような考慮があった。すなわち,相続回復請求権の対象としての相続財産はいわゆる特別財産ではないが,その包括性を考慮した取扱がなされるのが妥当であること,そして,その際,法規や法律関係の簡明化という立法技術的要請から法文上個別的請求権とは独立の相続回復請求権を創立する,というものである。」ということだそうです(副田隆重「相続回復請求権」星野英一編集代表『民法講座第7巻 親族・相続』(有斐閣・1984年)444頁・註(20))。
 

節 相続回復請求権Erbschaftsanspruch

 

  第2018条 相続人(Erbe)は,現実には(in Wirklichkeit)その者に帰属しない相続権に基づいて(auf Grund eines...Erbrechts)相続財産(Erbschaft)から物(etwas)を入手した(erlangt hat)者(相続財産占有者(Erbschaftsbesitzer))に対し,当該入手物の引渡し(Herausgabe des Erlangten)を請求することができる。

 

第2019条 相続財産に属する手段をもってする(mit Mitteln)法律行為によって相続財産占有者が取得した物(was)も,相続財産から入手したものとみなされる。

債務者(Schuldner)は,当該帰属についての認識を得たときは,前項のような方法で取得された債権(Forderung)が相続財産に帰属するということ(Zugehörigkeit...zur Erbschaft)をまず自らについて実現させなければならない(hat…erst dann gegen sich gelten zu lassen)。この場合において,第406条から第408条までの規定が準用される。

 

第2020条 相続財産占有者は,得られた収益(die gezogenen Nutzungen)を相続人に引き渡さなければならない。引渡しの義務は,相続財産占有者が所有権(Eigentum)を取得した果実(Früchte)にも及ぶ。

 

第2021条 相続財産占有者が引渡しについて無能力(außer Stande)であるときは,その義務は,不当利得の引渡し(Herausgabe einer ungerechtfertigen Bereicherung)に係る規定により定められる。

 

第2022条 相続財産占有者は,当該費用(Verwendungen)が前条により引き渡す利得の計算において算入されていない(nicht…gedeckt werden)ときは,全ての費用の償還(Ersatz)と引換えにのみ相続財産に属する物の引渡しの義務を負う。この場合において,所有権に基づく請求権(Eigenthumsanspruch)について適用される第1000条から第1003条までの規定が準用される。

相続財産の負担に係る支出(Bestreitung von Lasten der Erbschaft)又は遺産債務(Nachlaßverbindlichkeiten)の弁済(Berichtigung)のために相続財産占有者がした出費(Aufwendungen)も,費用に含まれる。

個別の物についてされたものではない出費,特に前項に掲げられた出費に対して相続人が一般の条項によってより広い範囲で償還をしなければならない範囲において,相続財産占有者の請求権は変更されない(bleibt…unberührt)。

 

第2023条 相続財産占有者が相続財産に属する物を引き渡さなければならないときは,不良品化(Verschlechterung),沈没(Untergang)又は他の原因により生じる引渡しの不能に起因する損害賠償に係る相続人の請求権は,訴訟の係属の時から,所有者と占有者との間の関係について所有権に基づく請求権に係る訴訟の係属の時から適用される規定に従う。

収益の引渡し又は償還(Vergütung)に係る相続人の請求権及び費用の償還に係る相続財産占有者の請求権についても,前項と同様である。

 

第2024条 相続財産占有者は,相続財産占有の開始時において善意(in gutem Glauben)でなかった場合においては,その時において相続人の請求が訴訟係属していた(rechtshängig)ときと同様の責任を負う(haftet)。相続財産占有者が後に自分が相続人でないことを知った場合においては,当該事実を認識した時から同様の責任を負う。遅滞に基づく(wegen Verzugs)継続的責任(weitergehende Haftung)は,変更されない。

 

第2025条 相続財産占有者は,相続目的物(Erbschaftsgegenstand)を犯罪行為(Straftat)により,又は相続財産に属する物を禁じられた自力救済(verbotene Eigenmacht)により取得した場合においては,不法行為に基づく(wegen unerlaubter Handlungen)損害賠償に係る規定により責任を負う。ただし,当該規定により善意の相続財産占有者が禁じられた自力救済に基づく責任を負うのは,相続人が当該物件の占有を既に現実に(thatsächlich)獲得していたときに限る。

 

第2026条 相続財産占有者は,相続回復請求権が時効にかかっていない限りは,相続人に対して,相続財産に属するものとして占有していた物の時効取得(Ersitzung)を主張できない。

 

第2027条 相続財産占有者は,相続財産の状況(Bestand)及び相続目的物の所在(Verbleib)を相続人に通知する義務を負う。

相続人が当該物件の占有を現実に獲得する前に遺産(Nachlaß)から物を取得して占有した者は,相続財産占有者ではなくとも,前項と同じ義務を負う。

 

第2028条 相続開始時に(zur Zeit des Erbfalls)被相続人(Erblasser)と家庭共同体を共にしていた者は(Wer sich...in häuslicher Gemeinschaft befunden hat),その行った相続に関する行為(erbschaftliche Geschäfte)及び相続目的物の所在について知っていることを相続人に対し,求めに応じて通知する義務を負う。

必要な注意をもって(mit der erforderlichen Sorgfalt)前項の通知がされなかったとの推定(Annahme)に理由があるときは,同項の義務者は,相続人の求めに応じ,調書において(zu Protokoll),同人はその申述(seine Angaben)をその最善の知識に基づき(nach bestem Wissen),かつ,可能な限り(als er dazu imstande sei)完全に(vollständig)行った旨の宣誓に代わる(an Eides statt)保証をしなければならない(hat...zu versichern)。

   第259条第3項及び第261条の規定が準用される。

 

第2029条 個別の相続目的物について見た場合において(in Ansehung der einselnen Erbschaftsgegenstände)相続人に帰属する請求権に係る相続財産占有者の責任も,相続回復請求権に係る規定によって定められる。

 

  第2030条 相続財産占有者から相続分(Erbschaft)を契約(Vertrag)によって取得した者は,相続人との関係においては,相続財産占有者と同様の立場にある。

 

  第2031条 死亡したものと宣告された者又は失踪法の規定(Vorschriften des Verschollenheitsgesetzes)によりその死亡時期(Todeszeit)が定められた者であって,その死亡の時とされた時の経過後も生存したものは,相続回復請求権に適用される規定によりその財産の引渡し(Herausgabe ihres Vermögens)を請求することができる。同人がなお生存するときは,同人がその死亡宣告(Todeserklärung)又は死亡時期の定め(Feststellung der Todeszeit)を認識した時から1年を経過するまではその請求権は時効にかからない。

    死亡宣告又は死亡時期の定めなしに不当に(mit Unrecht)ある者が死亡したものとされたときも,同様である。

 

 以上ドイツ民法の関連条項を訳してみて思う。ドイツ人は,細かい。

さて,ドイツ民法の相続回復請求権は「包括的な返還請求権」であるということですが(中川善之助『相続法』(有斐閣・1964年)36頁),これは,「個々の財産に対する既存の個別の請求権」(「集合権利説」に関する内田435頁参照)について同法の相続回復請求権の規律を及ぼすための規定と解されるべきものであろうところの同法2029条の反対解釈に基づき,そのようなものとして理解すべきものでしょうか。なお,ローマ法においても,「相続人は相続財産を一括しての保護手段と,相続財産を構成する個々の財産の保護手段の2を享有」していたそうです(原田360頁)。

「今日わが民法で相続回復請求権といっているのは,真正相続人が,〔略〕自己の相続権を主張して,遺産の占有を回復せんとする請求」といわれますが(中川36頁),ここで「占有を回復」することが目的とされるのは,ドイツ民法の相続回復請求権が,引渡し(Herausgabe)を請求するものだからでしょうか。

日本民法の相続回復請求権について「相続開始の時以後に,遺産が滅失して損害賠償に代わったり,僭称相続人の処分によって代金債権に代わったりした場合,この請求権はこれらの代わりのものの上に行使することができる」と(我妻=有泉307頁),また「相続財産の果実は相続財産に属するから,表見相続人は善意であっても,取得することはできない。」と(泉久雄『民法(9)相続(第3版)』(有斐閣双書・1987年)136頁)説明されていますが,当該説明とドイツ民法2019条及び2020条とは関係がありそうです。

「ドイツ民法は,相続回復請求権――Erbschaftsanspruch――の相手方を表見相続人に限ったから(独民2018条),表見相続人から相続財産を譲受けた第三者に対し,その財産の返還を求めるのは,相続回復請求ではないとしている。わが大審院もこれと同じ見解を固執して来た」(中川39頁)といわれています。すなわち,当該学説においては,「表見相続人」とは「現実にはその者に帰属しない相続権に基づいて相続財産から物(etwas)を入手した(erlangt hat)者」(ドイツ民法2018条)ということになるようです。また,ドイツ民法2030条のErbschaftは,相続財産中の個々の財産ではなく包括的な相続分であるということになります。

ところで,「現実にはその者に帰属しない相続権(ein ihm in Wirklichkeit nicht zustehenden Erbrecht)」に基づき占有するのが表見相続人だということになると,現実にその者に帰属している共同相続権に基づき占有する共同相続人は(全く相続権を有さない者である)表見相続人にはならないということになってしまいます。しかし,我が判例は,民法884条は共同相続人間についても適用されるものとしています(前掲最高裁判所昭和531220日判決)。当該判例においては「共同相続人のうちの一人又は数人が,相続財産のうち自己の本来の相続持分をこえる部分について,当該部分の表見相続人として当該部分の真正共同相続人の相続権を否定し,その部分もまた自己の相続持分であると主張してこれを占有管理し,真正共同相続人の相続権を侵害している場合につき,民法884条の規定の適用をとくに否定すべき理由はない」と判示していますので(下線は筆者によるもの),「表見相続人」の概念について拡張解釈がされたものでしょう。また,「相続持分」の「占有」ということがいわれていますが,相続持分は有体物たる物(民法85条)ではないですから,当該「占有」は,「物を所持」することに係る占有(同法180条)ではなく,厳密にいえば,財産権の行使に係る準占有(同法205条)ということになるのでしょうか。

なお,相続回復の請求権の消滅時効に係る規定の効果が及ぶ相手方の範囲について,民法旧966条及び現行884条には,旧民法証拠編155条(「相続人又ハ包括権原ノ受贈者若クハ受遺者ノ権原ニテ占有スル者ニ対シテハ」)のような明文での限定規定はありません。そういうこともあるがゆえでしょうか,つとに,表見相続人から相続財産を譲り受けた第三者に対して真正相続人がする相続財産の返還請求について「思うに,かような返還請求は,仮に判例のいうように相続の回復請求ではないとしても,表見相続人に相続権がないこと(正確にいえば,当該財産について処分権のないこと)を前提とするものであつて,相続回復請求権が時効によつて消滅し,真正の相続人において,表見相続人にその処分権のないことを主張することができなくなつた以上,〔相続権侵害者から相続財産を譲り受けた〕第三者はその時効の利益を援用できるというべきであろう。いいかえれば,この問題は,右のような第三者に対する返還請求を相続の回復請求とみるべきかどうかには必ずしも関係なく,時効の利益を援用しうる者の範囲だけの問題としても,解決しうるように思う。そして,第三者に援用権を与えないと,本条に短期消滅時効を規定した実益の大半は失われるであろう。」と説かれていたところです(我妻等369-370頁)。「相続の回復請求」なる積極的なものがされるべき相手方の範囲の限定に係る問題と民法884条の消滅時効という消極的なものの援用権者の範囲に係る問題とは別の問題であることを明らかにしたところが,快刀乱麻を断った部分です。その後,「仮に〔表見相続人からの〕第三取得者に対する真正相続人からの物権的請求権に884条が直接適用されないとしても,表見共同相続人のもとで完成した消滅時効を第三取得者が援用できれば同じことである。そして,前掲最(大)判昭和531220日〔略〕は,第三取得者もそのような時効の利益を享受できることを前提としている(第三者の利益を共同相続人への適用肯定の根拠としてあげるのだから)。」と説かれるに至っています(内田442頁)。

なお,「相続財産が僭称相続人から第三者に譲渡された場合に,その処分は無効」(我妻=有泉312頁)であるのが原則です。

第三取得者ではなく,すなわち表見相続人を介しないで,「自分の相続権を主張しないで,単に相続人の相続権を否認し,または相続以外の特定の権原を主張して相続財産を占有する者」は相続「回復請求権の消滅時効を援用」できないと解すべきものとされています(我妻=有泉309-310頁)。旧民法証拠編155条の「相続人又ハ包括権原ノ受遺者若クハ受贈者ノ分限ヲシテ効用ヲ致サシムル為メノ遺産請求ノ訴権」については,間口が広くとも,消滅時効について「相続人又ハ包括権原ノ受贈者若クハ受遺者ノ権原ニテ占有スル者ニ対」するものかどうかで絞りをかけることができたところです。民法884条の「相続回復の請求権」に関してはそのような限定規定がないので,当該請求権自体について,相手方を「相続を理由に占有を開始または継続している者に限るべき」ものとする(我妻=有泉310頁)書かれざる定義規定を(恐らく旧民法証拠編155条からではなくドイツ民法2018条から)解釈で読み込むものでしょう。

さらには,相続を理由とするとしても,単に相続人と自称するだけでは駄目であるようです。前記最高裁判所昭和531220日判決は,「自ら相続人でないことを知りながら相続人であると称し,又はその者に相続権があると信ぜられるべき合理的な事由があるわけではないにもかかわらず自ら相続人であると称し,相続財産を占有管理することによりこれを侵害している者は,本来,相続回復請求制度が対象として考えている者にはあたらない」ものと判示しています(なお,共同相続の場合には,「たとえば,戸籍上はその者が唯一の相続人であり,かつ,他人の戸籍に記載された共同相続人のいることが分明でないとき」が上記「合理的事由」であるそうですから,むしろ原告(相続回復請求をする者)が共同相続人ではないと信ずることに係る合理的事由が問題となっているともいえそうです。)。確かに,天一坊程度のちゃちな僭称者(「自己の侵害行為を正当行為であるかのように糊塗するために口実として名を相続にかりているもの又はこれと同視されるべきもの」であって「いわば相続回復請求制度の埒外にある者」)にいちいち表見相続人としての保護を与えてはいられないでしょう(なお,判例が上記部分で「相続回復請求制度」という場合,相続回復の請求権の消滅時効制度という意味でしょう。)。また,無権利者によって対外的・社会的には客観的な外観が存在するように作為されていても(老中・奉行も信じてしまうように暴れん坊将軍のお墨付きが精巧に偽造されていても),結局静的安定が優先されるべきものとされています(最判昭和531220日の高辻正己=服部高顯補足意見及び環昌一補足意見参照)。保護を受けるのならば,当該保護に値する旨自ら証しをなすべし,ということになります(最判平成11719日(民集5361138頁))。

なお,真正相続人を保護するためのErbschaftsanspruch制度下ならば,自ら相続人と称していわば不利な状態になることは,その者の勝手であって,この辺は論点とならないのでしょう。ちなみに,古代ローマの市民法上の相続請求権(hereditatis petitio)については,被告には,自己が相続人であるとの主張をなさず「何故に占有するかと問われたならば,「占有するが故に占有する」と答えるより外ない者ではあるが,なお原告の相続人であることを争う者(possessor pro possessore 占有者として占有する者)」までもが含まれていました(原田360-361頁)。

 本来の消滅時効の期間が相続回復請求権よりも短い場合には,その期間は相続回復請求権のもの(5年及び20年)に揃えよといわれています(我妻=有泉313頁)。旧民法証拠編155条の遺産請求ノ訴権に係る30年との関係についても,ボワソナアド解説によれば,「一様に(uniformément)」当該長い期間に揃えるべきものであったと解されます。

 相続回復請求権の消滅時効とは別に,(特に表見相続人のもとで)相続財産上の取得時効は進行するかについては,互いにその進行を妨げないと解すべきだといわれています(中川49頁(「特に表見相続人から譲渡をうけた第三者の場合を考えれば一層明白」),我妻=有泉313-314頁(「表見相続人の相続財産の上」のものについて),内田444頁(一般に「相続財産を占有している者のもと」の場合について),泉138頁(「表見相続人についても」))。これに対して,ドイツ民法2026条は表見相続人はその相続財産上の取得時効を主張できないとし,旧民法証拠編155条の遺産請求ノ訴権に関するボワソナアド解説によれば当該占有が包括の権原によるものである場合には取得時効期間は当該訴権の消滅時効期間に揃うものとされています(大判昭和729日(民集11192頁)も僭称相続人のもとでの取得時効の成立を否定)。しかし,表見相続人及び「みんな」の保護のためには,取得時効の進行及び成立を認めた方が一貫するのでしょう。これについては,「判例・学説は従来から第三取得者による時効取得を認めていたが,最判昭和4798日民集2671348頁は,従来判例上否定されていた表見相続人による時効取得を一定の場合に肯定した。」とされています(副田464頁・註(77))。

 


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1 新しい相続法の施行(201971日)

 平成30年法律第72号が今年(2019年)71日から施行され(同法附則1条本文及びそれに基づく平成30年政令第316号),同日以後に被相続人が死亡して開始された相続(民法882条)については新しい相続法が適用されることになっています(平成30年法律第72号附則2条参照)。

 ところで,平成30年法律第72号によって追加された諸規定中,筆者に特に興味深く思われた条項が二つあります。「遺産の分割の方法の指定として遺産に属する特定の財産を共同相続人の一人又は数人に承継させる旨の遺言(以下「特定財産承継遺言」という。)があったときは,遺言執行者は,当該共同相続人が第899条の21項に規定する対抗要件を備えるために必要な行為をすることができる。」という民法10142項及び同項において言及されている同法899条の21項(「相続による権利の承継は,遺産の分割によるものかどうかにかかわらず,次条及び第901条の規定により算定した相続分〔法定相続分〕を超える部分については,登記,登録その他の対抗要件を備えなければ,第三者に対抗することができない。」)の二つの条項です。

 

2 香川判決から特定財産承継遺言に関する規定の導入まで

実は,特定財産承継遺言に関する規定の民法への導入とは,東京大学出版会の民法教科書シリーズで有名な内田貴・元法務省参与の東京大学法学部教授時代の主張(「私見」)等の諸学説が圧伏せられた上での,いわゆる「相続させる」遺言に関する判例理論の実定法化でした。内田元参与の当該「私見」は,「私は,遺産分割方法の指定は,本来想定されていたように,現物分割か換価分割かなどの分割方法の指定に限り,処分行為は遺贈によって行なうのが筋だと思う。その点で,税法や登記手続上の考慮を民法の論理に優先させたように見える本件判決〔最高裁判所平成3419日判決民集454477頁〕には反対である。」(内田貴『民法Ⅳ親族・相続』(東京大学出版会・2002年)484頁)というものでした。司法試験受験者その他の読者には印象的な記述であったであろうと思われます。(なお,判例はあったものの,「旧法〔平成30年法律第72号による改正前の民法〕においては,特定財産承継遺言については,規定上の根拠が必ずしも明確でな」いものと解されていたところです(堂薗幹一郎=野口宣大編著『一問一答 新しい相続法――平成30年民法等(相続法)改正,遺言書保管法の解説』(商事法務・2019年)142頁)。)

 上記最判平成3419日の「本件判決」は,当該判決を出した最高裁判所第二小法廷の香川保一裁判長の名を冠して「香川判決」と呼ばれるそうです(内田483頁)。香川判決は,次のように判示しています。

 

   被相続人の遺産の承継関係に関する遺言については,遺言書において表明されている遺言者の意思を尊重して合理的にその趣旨を解釈すべきものであるところ,遺言者は,各相続人との関係にあっては,その者と各相続人との身分関係及び生活関係,各相続人の現在及び将来の生活状況及び資力その他の経済関係,特定の不動産その他の遺産についての特定の相続人のかかわりあいの関係等各般の事情を配慮して遺言をするのであるから,遺言書において特定の遺産を特定の相続人に「相続させる」趣旨の遺言者の意思が表明されている場合,当該相続人も当該遺産を他の共同相続人と共にではあるが当然相続する地位にあることにかんがみれば1,遺言者の意思は,右の各般の事情を配慮して,当該遺産を当該相続人をして,他の共同相続人と共にではなくして,単独で相続させようとする趣旨のものと解するのが当然の合理的な意思解釈というべきであり,遺言書の記載から,その趣旨が遺贈であることが明らかであるか又は遺贈と解すべき特段の事情がない限り,遺贈と解すべきではない。そして,右の「相続させる」趣旨の遺言,すなわち,特定の遺産を特定の相続人に単独で相続により承継させようとする遺言は,前記の各般の事情を配慮しての被相続人の意思として当然あり得る合理的な遺産の分割の方法を定めるものであって,民法908条において被相続人が遺言で遺産の分割の方法を定めることができるとしているのも2,遺産の分割の方法として,このような特定の遺産を特定の相続人に単独で相続により承継させることをも遺言で定めることを可能にするために外ならない。したがって,右の「相続させる」趣旨の遺言は,正に同条にいう遺産の分割の方法を定めた遺言であり,他の共同相続人も右の遺言に拘束され,これと異なる遺産分割の協議3,さらには審判4もなし得ないのであるから,このような遺言にあっては,遺言者の意思に合致するものとして,遺産の一部である当該遺産を当該相続人に帰属させる遺産の一部の分割がなされたのと同様の遺産の承継関係を生ぜしめるものであり,当該遺言において相続による承継を当該相続人の受諾の意思表示にかからせたなどの特段の事情のない限り,何らの行為を要せずして,被相続人の死亡の時(遺言の効力の生じた時5)に直ちに当該遺産が当該相続人に相続により承継されるものと解すべきである。そしてその場合,遺産分割の協議又は審判においては,当該遺産の承継を参酌して残余の遺産の分割がされることはいうまでもないとしても6,当該遺産については,右の協議又は審判を経る余地はないものというべきである。もっとも,そのような場合においても,当該特定の相続人はなお相続の放棄の自由を有するのであるから7,その者が所定の相続の放棄をしたときは8,さかのぼって当該遺産がその者に相続されなかったことになるのはもちろんであり9,また,場合によっては,他の相続人の遺留分減殺請求権の行使を妨げるものではない10

 

註(1)民法898条「相続人が数人あるときは,相続財産は,その共有に属する。」

註(2)民法908条「被相続人は,遺言で,遺産の分割の方法を定め,若しくはこれを定めることを第三者に委託し,又は相続開始の時から5年を超えない期間を定めて,遺産の分割を禁ずることができる。」

註(3)民法9071項「共同相続人は,次条〔908条〕の規定により被相続人が遺言で禁じた場合を除き,いつでも,その協議で,遺産の全部又は一部の分割をすることができる。」

註(4)民法9072項「遺産の分割について,共同相続人間に協議が調わないとき,又は協議をすることができないときは,各共同相続人は,その全部又は一部の分割を家庭裁判所に請求することができる。ただし,遺産の一部を分割することにより他の共同相続人の利益を害するおそれがある場合におけるその一部の分割については,この限りでない。」

註(5)民法9851項「遺言は,遺言者の死亡の時からその効力を生ずる。」

註(6)「分割にあたって,この家作は何某相続人へ割り当てよ,という意味であるから,分割方法の指定には違いない。/もしその家作の価額が,何某相続人の法定相続分を(ママ)廻っているに拘わらず,何某はそれだけをもって満足せよという意味であるならば,それは分割方法の指定であるとともに,相続分の指定でもある。もしまた,法定相続分に達しない不足分は,別に遺産中から,補充的の分割をうけよ,という意味であるならば,法定相続分の変更は少しもないのであるから,単なる分割方法の指定と見るべきであろう。/これを要するに,家作の価額が法定相続分を超える場合は,原則として法定相続分の変更であり,それは相続分の指定を含む分割方法の指定ということになる。ただもし,法定相続分を超過する価額だけ,他の共同相続人に補償すべきことを命じているような特別な意思がうかがわれる場合のみ,それは単なる分割方法の指定となるであろう。」(中川善之助『相続法』(有斐閣・1964年)172-173頁)

註(7)民法9151項「相続人は,自己のために相続の開始があったことを知った時から3箇月以内に,相続について,単純若しくは限定の承認又は放棄をしなければならない。ただし,この期間は,利害関係人又は検察官の請求によって,家庭裁判所において伸長することができる。」

註(8)民法938条「相続の放棄をしようとする者は,その旨を家庭裁判所に申述しなければならない。」

註(9)民法939条「相続の放棄をした者は,その相続に関しては,初めから相続人とならなかったものとみなす。」

註(10)民法10461項「遺留分権利者及びその承継人は,受遺者(特定財産承継遺言により財産を承継し又は相続分の指定を受けた相続人を含む。以下この章において同じ。)又は受贈者に対し,遺留分侵害額に相当する金銭の支払を請求することができる。」

 

3 香川判決批判

 

(1)内田元参与の「私見」

 内田元参与の前記「私見」においては,香川判決に対し,①民法908条の「遺産分割の方法」の限定性(「現物分割か換価分割か」というようなものに限定されるべきである。)に反するのではないかとの問題性,②税法上の考慮を民法の論理に優先させることの問題性及び③登記手続上の考慮についても同じく民法の論理に優先させることの問題性が指摘されていました。(その前提として,「遺産の分割は,最終的には相続人が決めるべきこと」なのに被相続人に「過大な権力」を与えることになること及び遺贈との重複が問題視されています(内田483-484頁)。)

このうち,②の税法上の考慮とは,登録免許税額が,「遺贈は贈与扱いになって課税標準額の1000分の25であるが,相続扱いだと1000分の6となり,4分の1以下で済むのである。」ということでしたが(内田482頁),この不均衡は,平成15年法律第85条による登録免許税法(昭和42年法律第35号)17条新1項の規定(「所有権の相続(相続人に対する遺贈を含む。以下同じ。)」と定義(下線は筆者によるもの))によって200341日から解消されています。現在,登録免許税額は,相続によるものであっても,相続人に対する遺贈によるものであっても,いずれも不動産の価額の1000分の4となっています(登録免許税法別表第1一(二)イ(ちなみに,200341日から2006331日までに登記を受ける場合は,平成15年法律第812条によって改正された租税特別措置法(昭和32年法律第26号)721項の規定により1000分の2となっていました。)。免税措置として,租税特別措置法の現84条の23)。(なお,「この税率は,2003(平成15)年には両方同一となり,その後また変更。2013年現在は4‰と20‰になっている(登税別表一,一(二)イ,ハ)」との記述(谷口知平=久貴忠彦編『新版注釈民法(27)相続(2)(補訂版)』(有斐閣・2013年)408頁)の解釈は難しいところです。)

③の登記手続については,相続による権利の移転の場合は登記権利者が単独で申請できるのに対して(不動産登記法(平成16年法律第123号)632項),遺贈の場合は遺言執行者(民法10122項)又は相続人と受遺者との共同申請によらねばならないものとされています(不動産登記法60条)。

 

(2)伊藤教授の「呪詛」

しかして内田元参与の「私見」①の「遺産分割の方法」の限定性ですが,これについては伊藤昌司教授が次のように詳しく述べています。

 

  〔民法908条の「被相続人は,遺言で,遺産の分割の方法を定め」との規定が遺言による財産処分(同法964条)に当たるかについては〕筆者〔伊藤教授〕は次の理由で否定する。①民法の規定上,遺言による財産処分の代表が遺贈であるのは疑いない〔また,民法964条の「「財産の・・・処分」とは遺贈を意味するものと解されてきた」ところであって(伊藤昌司「「相続させる」遺言は遺贈と異なる財産処分であるか」法政研究57巻(1991年)4170頁),かつ,平成16年法律第147号によって同条に付された見出しは「包括遺贈及び特定遺贈」です。〕。なぜなら,民法は,遺贈について多くの条文を用意し〔略〕,他の死因財産処分(死因贈与・遺言寄附行為)には遺贈の規定を準用しているが(554,旧41〔Ⅱ「遺言ヲ以テ寄附行為ヲ為ストキハ遺贈ニ関スル規定ヲ準用ス」〕(一般法人158〔「遺言で財産の拠出をするときは,その性質に反しない限り,民法の遺贈に関する規定を準用する。」〕)),本条〔908条〕の指定には準用しない。②被相続人による財産処分は(生前贈与,遺贈,そして死因贈与も寄附行為も)遺留分を侵害するおそれがあり,その場合には減殺請求できる(〔平成30年法律第72号による改正前の民法〕1031〔条は「遺留分権利者及びその承継人は,遺留分を保全するのに必要な限度で,遺贈及び前条に掲げる贈与の減殺を請求することができる。」と規定〕)。ところが,遺贈の規定が準用されない本条の指定は減殺請求の対象にも含まれていないばかりか,本条の指定による遺留分侵害の可能性さえも想定されていない。〔遺留分侵害の可能性に言及しない民法908条に対して,平成30年法律第72号による改正前の民法9021項は「被相続人は,前2条の規定にかかわらず,遺言で,共同相続人の相続分を定め,又はこれを定めることを第三者に委託することができる。ただし,被相続人又は第三者は,遺留分に関する規定に違反することができない。」と,同じく964条は「遺言者は,包括又は特定の名義で,その財産の全部又は一部を処分することができる。ただし,遺留分に関する規定に違反することができない。」と規定しており,遺留分侵害の可能性を前提に各ただし書が置かれていました。〕③本条による遺産分割禁止の遺言がある場合のみは遺産分割協議ができないけれども(907Ⅰ・Ⅱ),本条の指定がなされても協議分割が,したがって裁判分割ができる。このことは,本条の指定がいずれの方式による遺産分割とも重なりうる内容のものであること,つまりは家事事件手続法195〔「家庭裁判所は,遺産の分割の審判をする場合において,特別の事情があると認めるときは,遺産の分割の方法として,共同相続人の一人又は数人に他の共同相続人に対する債務を負担させて,現物の分割に代えることができる。」〕(旧家審規109〔「家庭裁判所は,特別の事由があると認めるときは,遺産の分割の方法として,共同相続人の一人又は数人に他の共同相続人に対し債務を負担させて,現物をもつてする分割に代えることができる。」〕)にいう「遺産の分割の方法」,すなわち補償(代償)分割,換価分割(家事194),現物分割といった手法を強く示唆している(少なくとも,旧家審規109の用語は,本条に合わせて立案されたに違いない)からである。(谷口=久貴406-407頁)

 

香川判決及び平成30年法律第72号による今次民法改正の支持者からすれば,①民法908条の遺産の分割の方法の指定に遺贈の規定を準用しないのは同条の指定と遺贈とは別だから当然であったし(「財産処分ではあるが遺贈とは全く異なる性質のものであるが故に準用規定がない」又は「財産処分であるかどうかは準用規定の有無とは無関係」(伊藤・法政172頁参照)),遺贈の規定の準用がどうしても必要だというのならば,現在の民法10471項括弧書きでは,特定財産承継遺言による財産の承継は遺贈に含まれるものとなっている,②遺留分侵害の問題については今次改正で対応済みである(民法10461項括弧書き,10471項括弧書き),また,民法起草者は旧1010条(現908条の前身)について「本条ハ単ニ分割ノ方法ニ付テ規定スルモノニシテ其結果遺留分ヲ侵スコトヲ得サルハ固ヨリ言フヲ竣タサル所ナリ」と述べて遺留分侵害の可能性をも想定していた(梅謙次郎『民法要義巻之五(第18版)』(私立法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1910年)135。また,これにつき,水野謙「「相続させる」旨の遺言に関する一視点―東京高裁昭和63711日判決の検討を兼ねて」法時627号(19906月号)83頁及び84頁・註(24),及び③条文はともかくも特定財産承継遺言によって承継された遺産については遺産分割の協議又は審判を経る余地がないことは香川判決で判示済みであった,また,民法起草者も旧1010条(現908条の前身)について「蓋シ被相続人ハ甲ノ財産ヲ以テ必ス太郎ノ手ニ在ラシメ乙ノ財産ヲ以テ必ス次郎ノ手ニ欲スルコトアルヘ」きことをも前提として解説していた(梅134頁),といった反論があるところでしょうか。

とはいえ伊藤昌司教授は,香川判決は「その裁判長が法務省在勤時に推進した不合理な登記実務〔「「相続させる」(あるいは「遺産分割の方法を指定する」)文言の遺言書を添付して移転登記を申請する場合には,これが遺贈同様の財産処分であって保存行為ではないことが公言されていながら,相続登記一般の単独申請とは内容の異なる「単独申請」,つまり共同相続人の一部である当該遺言の受益者のみによる申請でも(他の共同相続人の同意を証する書面も印鑑も印鑑証明も必要なしに)単独名義登記が許される」,また,「遺産分割協議書の偽造よりも遺言書の偽造の方がより簡単で,可能性もより高いだけでなく,1023条以下の抵触により無効となった遺言書が登記に用いられることも大いにありうる」〕に判例の重みを加えるものとなった」と述べ(谷口=久貴412頁・410-411頁),更に「筆者には相続法解釈学の鬼子としか思えない香川判決」と呼ばわって(谷口=久貴414頁),辛辣です。否,辛辣というよりは,大村敦志教授によれば,「異例の情熱」に支えられた「呪詛」ということになります(大村敦志『フランス民法――日本における研究状況』(信山社・2010年)96-97頁)。大村教授があえて「呪詛」と言うのは,高々と罵倒の言を投げつけるばかりではなく(「この判例は,民法史に残るスキャンダルであり,将来必ず変更されるであろう。」(伊藤昌司『相続法』(有斐閣・2002年)123頁)),諦めようとしても諦めきれない恨みを込めた執念がそこにはあるからでしょう(「この判決は,遺贈の諸規定を粉々に砕いたのみでなく,相続人間の平等を死滅に追い込む流れを加速させた。なぜなら,この判決により,「相続させる」の文言による遺言受益者は,財産を簡単に独り占めすることができるようになったし,その後は,「相続させない」遺言によって法定相続人の権利を簡単に否定することもできると考える実務をも勇気づけたからである。後世の学者は,上記の日付〔平成3419日〕に平等主義が死の床に運ばれたと記述するであろう。現在は,進み行く死を見守り,もはや諦念の祈りを呟くだけの日々が流れている」(伊藤・相続法22頁・註(3))。)。(なお,「スキャンダラス」な香川判決の判例が変更される可能性を消滅させた今次民法改正に係る平成30年法律第72号制定の基礎となった法制審議会の「民法(相続関係)等の改正に関する要綱」(2018216日)の案を作成した同審議会の民法(相続関係)部会の部会長は,大村教授でした(堂薗=野口5-6頁)。)

また,「スイス民法6083項は,遺産に属する特定財産を一相続人に指定することは,被相続人の反対意思がうかがえない限り,単なる分割方法の指定であって,遺贈ではない,といっている」ことから(中川177頁註(1)),民法902条の相続分の指定が特定財産を指示する形で行われたときは,これは「遺産に属する特定の財産を,特定の相続人に帰属せしめようという意思表示であるから,私はこれを遺贈と見ることは,原則的に,不当であると思う。/しかし分割方法の指定であるという性質は含まれている。分割にあたって,この家作は何某相続人へ割当てよ,という意味であるから,分割方法の指定には違いない。」(中川172頁)とする「日本の家族法学の父ともいえる中川善之助教授」(内田4頁)の解釈に対して,伊藤昌司教授は,「しかしながら,スイス法のこの規定は,筆者が調べた限りでは,当該処分の目的財産は名宛人の相続分に充当するのが原則であることを定めたものであり,各相続人が承継する財産の価額間の比率自体を増減させないこと,名宛人が遺留分権利者であれば,自由分にではなく遺留分に充当すべきことを意味している」のであって「遺贈とは別個に「分割方法の指定」という財産処分を認める規定ではない。」と批判しています(谷口=久貴415頁)。伊藤教授にとっては,中川相続法学は「「曖昧な基本概念」と「立法論的提言」に満ちた」ものにすぎず,「否定」されるべきものです(大村123。伊藤・相続法ⅱ参照)。「過去の学説は,ローマ法的・ドイツ法的な相続観・遺贈観をわが民法の条文解釈に力ずくでネジ込もうとしたり,そのような先入主からスイス民法規定を,条文の表面的理解のみで我田引水して,わが相続法規の論理構造をかき乱してきたのである。」ということになります(谷口=久貴415頁(伊藤))。

 

(3)スイス民法608

問題のスイス民法608条は,フランス語文では次のとおりとなります。

 

Art. 608

 

B. Règles de partage

I. Dispositions du défunt

1  Le disposant peut, par testament ou pacte successoral, prescrire à ses héritiers certaines règles pour le partage et la formation des lots.

2  Ces règles sont obligatoires pour les héritiers, sous réserve de rétablir, le cas échéant, l’égalité des lots à laquelle le disposant n’aurait pas eu l’intention de porter atteinte.

3  L’attribution d’un objet de la succession à l’un des héritiers n’est pas réputée legs, mais simple règle de partage, si la disposition ne révèle pas une intention contraire de son auteur.

 

ドイツ語文では次のとおり。

 

Art. 608

 

B. Ordnung der Teilung

I. Verfügung des Erblassers

  

1  Der Erblasser ist befugt, durch Verfügung von Todes wegen seinen Erben Vorschriften über die Teilung und Bildung der Teile zu machen.

2  Unter Vorbehalt der Ausgleichung bei einer Ungleichheit der Teile, die der Erblasser nicht beabsichtigt hat, sind diese Vorschriften für die Erben verbindlich.

3  Ist nicht ein anderer Wille des Erblassers aus der Verfügung ersichtlich, so gilt die Zuweisung einer Erbschaftssache an einen Erben als eine blosse Teilungsvorschrift und nicht als Vermächtnis.

 

 拙訳をつけると次のようになりましょうか。

 

608

  B. 分割の規則

  Ⅰ 被相続人の処分

 1 処分者は,遺言又は相続に係る合意(「死因処分」と総称する。)により,その相続人に対し,相続による取得分の分割及び組織に係る一定の規則を定めることができる。

 2 当該規則は,相続人を拘束する。ただし,必要となった場合においては,処分者がそれを侵害する意図を有していなかった相続による取得分の平等の回復ができるものとする。

 3 相続財産のうちのある物の一の相続人への割り当ては,当該処分がそれを行った者の反対の意図を明らかにしていない場合においては,遺贈ではなく,単なる分割の規則とみなされる。

 

 伊藤教授の前記指摘は,第2項の清算規定に関係するものでしょうか。第3項については,遺贈ではない点については仕方がないので,そうではあっても「「分割方法の指定」という財産処分を認める規定ではない」と論じられることになったものでしょう。

 なお,筆者は,スイス民法6083項のsimple règle de partageないしはeine blosse Teilungsvorschriftを「単なる分割方法の指定」ではなく「単なる分割の規則」と訳したところです(attributionないしはZuweisungとの訳し分け)。しかし,こう訳してしまうと,当該「規則」に従った共同相続人間での遺産の分割が更に必要となるようにも思われます。香川判決の調査官解説では「遺産分割方法というと,相続人間で行う遺産分割協議の基準が連想されるかもしれない。しかし,遺産を主体にみた上で,被相続人がする遺産分割の指定(特定の遺産が一部の場合は一部分割の指定)と捉えれば,当該遺産については相続人が更に加えて遺産分割する余地はないと素直に考えることができ,本判決〔香川判決〕の意図するところは明らかとなろう。」と述べられていますが(『最高裁判所判例解説民事篇(平成三年度)』(法曹会・1994年)226-227頁(塩月秀平)),スイス民法608条の「規則(règle, Vorschriftは,遺産を直接対象とするものではなく,正に相続人を名宛人にしているものです(à ses héritiers, seinen Erben)。同条1項により「遺産の分配を受けた相続人は,他の相続人に対して,被相続人の指定どおりに分配すべきことを請求することができるが,遺言分配それ自身には物権的効力はない。相続人が分配をうけた遺産について単独名義の相続登記を行うなど自己の単独所有とするには,相続人間の協議もしくは裁判所の判決が必要だとされる」ものだそうです(島津一郎「分割方法指定遺言の性質と効力―いわゆる「相続させる遺言」について―」判時1374号(1991411日号)7頁)。したがって,相続人を名宛人とする「遺産分割方法の指定とすれば,〔共同相続人間の〕分割の協議または調停においてそのように決められるはず」べきものであり,それにとどまる,したがって,直接の効果を認める香川判決は「新しい(民法にない)型の遺言による処分を認めたものと見るのが素直な見方のように思われる」ともなおいえそうです(星野英一『家族法』(放送大学教育振興会・1994年)165頁参照)。

  

(4)多田判決

となると,香川判決の前に「長らくリーディング・ケースとして機能していた」(内田483頁)とされる多田判決(東京高等裁判所昭和45330日判決高裁判例集232135頁(裁判長・多田貞治,裁判官・上野正秋,裁判官・岡垣学))が,改めて想起されて来るところです(なお,多田判決は上告棄却により確定していますが,上告審判決は積極的な理由を示しておらず,上告棄却に至る判断過程は明らかでないとされています(塩月220頁)。)。

多田判決は,「相続させる」遺言の性質を,特段の事情がない限り遺産分割方法の指定ないしは相続分の指定を伴う遺産分割方法の指定としつつ,遺産分割手続はなお必要であるとして,判示していわく。

 

よつて案ずるに,被相続人が自己の所有に属する特定の財産を特定の共同相続人に取得させる旨の指示を遺言でした場合に,これを相続分の指定,遺産分割方法の指定もしくは遺贈のいずれとみるべきかは,被相続人の意思解釈の問題にほかならないが,被相続人において右の財産を相続財産の範囲から除外し,右特定の相続人が相続を承認すると否とにかかわりなく(たとえばその相続人が相続を放棄したとしても),その相続人に取得させようとするなど特別な事情がある場合は格別,一般には遺産分割に際し特定の相続人に特定の財産を取得させるべきことを指示する遺産分割方法の指定であり,もしその特定の財産が特定の相続人の法定相続分の割合を超える場合には相続分の指定を伴なう遺産分割方法を定めたものであると解するのが相当である。〔略〕

Fの遺言の趣旨が右のとおりであるとすれば,同人の遺産を相続した共同相続人の間で遺産分割の協議または調停をするに際しては,右遺産の趣旨をできるだけ尊重すべく,遺産分割が審判によつて行われるときは右遺言の趣旨に従わねばならぬのはもとよりであり,その結果第一審原告が本件第二建物の所有権を取得する旨の遺産分割が成立した場合には,同人は相続開始の時にさかのぼり右所有権取得を付与されることになる。しかしながら,それがいかなる方法によつてなされるにせよ,右遺産分割が成立するにいたるまでは,第一審原告は単にFの相続財産たる本件建物につき同人の死亡当時の配偶者として民法の定めるところによつて3分の1の共有持分(法定相続分)を有するにとどまり,ただ将来財産分割によつて右建物の所有権を取得しうる地位を有するけれども,未だ遺産分割のされていない今日にあつては右建物につき確定的な所有権を有するものではない。してみると,Fの遺言によつて直ちに本件第二建物の確定的な所有権を取得したことを前提とする第一審原告の第一審被告A5名に対する請求は,その余の点につき判断するまでもなく,すべてその理由なしとしなければならない。

 

(5)フランス民法の尊属分割中の遺言分割をめぐる議論

 ただし,民法旧1010条(現908条の前身)はフランス民法の「生前行為による贈与分割の規定を除外した遺言分割の規定に由来」し,「フランス民法の尊属分割(父母等の尊属が財産の分割をする制度)中の遺言分割のメリットは,一般に協議分割や裁判上の分割に伴う不都合を回避し,遺産の合理的な分配を可能にすること」にあるところ,また,「フランス民法の尊属分配中の遺言分配の制度は,遺産共有の状態を経ないで遺産分割の効果を生じさせるもの」であるとの説明もあるようです(塩月223頁の紹介する水野・前掲法時論文及び島津・前掲論文。なお,当時北海道大学大学院の学生であった水野謙学習院大学教授の当該法時論文は,「香川判決が遺産分割効果説を採用した理論的背景に,同判決が言い渡される直前に提示された水野謙の研究があることは,周知のことがらと言ってよいであろう。」と紹介されています(吉田克己「「相続させる」旨の遺言・再考」野村豊弘=床谷文雄編著『遺言自由の原則と遺言の解釈』(商事法務・2008年)47頁)。「通説化していない新説を最高裁が採用した珍しい事例と評されている」ものです(水野謙「「相続させる」遺言の効力」法教254号(200111月号)21頁)。)。

しかし,これに対して伊藤昌司教授は,「潮見〔佳男〕の著書が908条の沿革をフランスの尊属分割に結びつけた学説水野・前掲法時及び法教両論文を厳しく批判したように,吉田〔克己〕もこの主張には根拠がなく,また,香川判決の意図とフランスの尊属分割の制度趣旨が全く矛盾することなどを克明に批判している」と学界における批判の存在を紹介しています(谷口=久貴418頁)。

 上記の塩月調査官及び伊藤教授による紹介においては,肝腎の御本尊の「尊属分割中の遺言分割」ないしは「尊属分配中の遺言分配」の条文が具体的に記されていないのですが,現在のフランス民法1075条,1075条の1及び1079条は次のとおり。

 

  Art. 1075  Toute personne peut faire, entre ses héritiers présomptifs, la distribution et le partage de ses biens et de ses droits.

      (全ての人は,彼の推定相続人の間における彼の財産及び彼の権利の分配及び分割をすることができる。)

        Cet acte peut se faire sous forme de donation-partage ou de testament-partage. Il est soumis aux formalités, conditions et règles prescrites pour les donations entre vifs dans le premier cas et pour des testaments dans le second.

   (当該行為は,贈与分割又は遺言分割の形式で行われることができる。前者は生者間贈与について定められた方式,条件及び規則に,後者は遺言についてのそれらに従う。)

 

  Art. 1075-1  Toute personne peut également faire la distribution et le partage de ses biens et de ses droits entre des descendants de degrés différents, qu’ils soient ou non ses héritiers présomptifs.

   (全ての人は,同様に,彼の推定相続人であるか否かにかかわらず,異なる親等の卑属間における彼の財産及び彼の権利の分配及び分割をすることができる。)

 

  Art. 1079  Le testament-partage produit les effets d’un partage. Ses béneficiaires ne peuvent renoncer à se prévaloir du testament pour réclamer un nouveau partage de la succession.

   (遺言分割は,分割の効果を生ずる。その受益者らは,遺産の新たな分割を求めるために当該遺言の援用を放棄することはできない。)

 

 これが,1804年のナポレオンの民法典では次のようになっていました。当時,「父,母又は他の尊属らによってされる彼らの卑属間における分割について」の節は第1075条から第1080条までありましたが,現在の第1079条に該当する規定はありませんでした。(なお,我が民法旧第5編制定当時(1898年)のフランス民法の当該規定はナポレオンの民法典のものでしたが,水野・法時82頁及び84頁・註(18)並びに島津6頁が「フランス民法」の当該規定として紹介するものは,その後改正された(「重要なのは197173日の法律による改正」です(吉田48頁)。)各論文執筆当時のフランス民法でした。)

 

  Art. 1075  Les père et mère et autres ascendans pourront faire, entre leurs enfans et descendans, la distribution et le partage de leurs biens.

   (父母及び他の尊属らは,彼らの子ら及び卑属らの間における彼らの財産の分配及び分割をすることができる。)

 

       Art. 1076  Ces partages pourront être faits par actes entre-vifs ou testamentaires, avec les formalités, conditions et règles prescrites pour les donations entre-vifs et testamens.

   (当該分割は,生者間贈与及び遺言について定められた方式,条件及び規則により,生者間の又は遺言の行為によって行われることができる。)

         Les partages faits par actes entre-vifs ne pourront avoir pour objet que les biens présens.

   (生者間の行為による分割は,現存する財産以外のものを目的とすることができない。)

   

  Art. 1077  Si tous les biens que l’ascendant laissera au jour de son décès n’ont pas  été compris dan le partage, ceux de ces biens qui n’y auront pas été compris, seront partagés conformément à la loi.

 (尊属が彼の死の日に遺す財産の全てが分割に含まれていない場合においては,当該財産のうちそこに含まれないものは,法律に従って分割される。)

 

  Art. 1078  Si le partage n’est pas fait entre tous les enfans qui existeront à l’époque du décès et les descendans de ceux prédécédés, le partage sera nul pour le tout. Il en pourra être provoqué un nouveau dans la form légale, soit par les enfans ou descendans qui n’y auront reçu aucune part, soit même par ceux entre qui le partage aurait été fait.  

   (死亡時に現存する子ら及びそれより以前に死亡した子らの卑属らの全員の間で分割がされない場合においては,当該分割は,全員について無効となる。何らの分割も受けない子ら若しくは卑属らは,又はそれらの間において当該分割がされるものとされていた者らも,法の定めるところによる新らたな分割を求めることができる。)

 

  Art. 1079  Le partage fait par l’ascendant pourra être attaqué pour cause de lésion de plus du quart; il pourra l’être aussi dans le cas où il résulterait du partage et des disposiotions faites par préciput, que l’un des copartagés aurait un avantage plus grand que la loi ne le permet.

   (尊属のした分割は,4分の1を超える侵害を理由として攻撃され得る。分割及び先取的処分の結果,共に分割を受けた者らのうちの一人が法律の認めるものよりも大きな優位を有することとなるときも同様である。)

 

  Art. 1080  L’enfant qui, pour une des causes exprimées en l’article précédent, attaquera le partage fait par l’ascendant, devra faire l’avance des frais de l’estimation; et il les supportera en définitif, ainsi que les dépens de la contestation, si la réclamation n’est pas fondée.

   (前条に定める理由の一に基づき尊属のした分割を攻撃する子は,評価の経費の前払をしなければならない。同人は,請求に理由がないものとされたときは,訴訟費用とともに,当該前払に係る経費を確定的に負担する。)

  

  ナポレオンの民法典の第1078条を見ると,遺言分割と遺贈との違いが分かるような気がします。遺言分割は全員を対象としてその間で遺産を分け合わせるもの(みんな仲良くするように遺産を分配及び分割するのが尊属たるものの腕の見せどころということになったのでしょう。)とされていますが,遺贈は特定の者だけを対象として(他の者は取りあえず無視して)財産を与えるものということで切り分けができそうです(吉田48-49頁参照)。「我が子何某に〇を遺贈する」と書かずに「我が子何某に〇を相続させる」と書いただけで,何某の他の兄弟姉妹に言及しないのであれば,遺言分割ということにはならなかったものでしょう。

 遺言分割の効果は,「遺言者の死亡の日から,共同相続人間において,〔卑属が〕自分達で分割を行った場合と同様の効果を生じさせる。なお,分割の主たる効果は,共有を終了させることである。」ということだそうです(室木絢子「フランスの遺言分割制度:「相続させる」旨の遺言への示唆を求めて」北大法学研究科ジュニア・リサーチ・ジャーナル13号(2007年)77頁)。

 民法旧1010条(現908条)の起草に際しては,ナポレオンの民法典の第1075条から第1078条までが参照条文として挙げられていた等の事実はあるそうです(室木83-84頁。また,島津6頁(ただし「旧法1011条」に関するものとする。))。

 遺産分割効果説(水野説)の根拠基盤は,「わが国の立法者が,遺言分割は遺産分割の効果を有するというフランス民法の少なくとも結論部分を参考にしたことはおそらく事実である」ということであるそうです(水野・法教21頁)。しかしながら,「参考」にしたその結果を改めてどう解すべきかが正に問題として残されていたのであり,かつ,そもそも出発点自体が「おそらく」なので,何だか腰が引けた印象です。

 吉田克己教授は,水野説を次のように批判します。「水野説は,フランスの遺言分割の効果論にだけ着目し,その前提となる〔ナポレオンの民法典1078条等の〕要件論を無視したのである。水野説は,民法908条がフランス遺言分割の系譜を引くことを根拠として遺産分割効果説を説いた。しかし,フランス民法典原始規定の下では,特定財産を一定の相続人を除外した少数の特定相続人に承継させる旨の遺言分割は認められない。したがって,少なくともこの部分に関する水野説は,立論の基礎を欠くと言わなければならない。」と(吉田49-50頁)。したがって,「水野説は,立法者意思を参照しながら,遺産分割効果説を,とくに限定なしに,とりわけ特定財産を少数の特定相続人に「相続させる」旨の遺言にも妥当するものとして主張した。この点に,水野説の問題があったものと考える。」ということになります(吉田51-52頁)。ただし,伊藤教授のように「この主張には根拠がなく,また,香川判決の意図とフランスの尊属分割の制度趣旨が全く矛盾する」とまでの無慈悲な宣告は行ってはいません。首の皮は一枚残っているようです。すなわち,日本民法の「立法者は,たしかに遺言が遺産分割の効果を持つ場合を想定している」ということは,吉田教授も認めているところです(吉田51頁。また,50頁)。ただし,「立法者は,遺産分割方法の指定がすべて遺産分割を排除するものと捉えているわけではないことが重要である。そして,遺産分割手続が排除されるべきケースについては,必ずしも明確ではないが,全相続人に対する遺産割付が念頭にあると見るべきもののように思われる。」との大きな限定が存在していたわけです(吉田51頁)。

 潮見佳男教授の著書(同『相続法(第5版)』(弘文堂・2014年))には,「最高裁判例が理論的によりどころとするフランス法の理解(当時,一部の民法学者により説かれていたもの)にはフランス法の理論に対する決定的な誤解があり,最高裁の命題を正当化する論拠とならない」とあります(199-200頁)。
 なお,ローマ法における類似の制度については,遺産の共有に関して,「尊属が相続財産の分配をなすことも古典時代より行われ,別に特則はなかつたが,ユ〔スティニアヌス〕帝は書面の作成を要求している。この尊属の分配(divisio parentum)はただ遺産分割訴訟に於ける審判人の裁定に対する参考資料となるに過ぎない」と説明されています(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)360頁)。


4 相続による権利の承継に係る対抗要件主義導入の理由

 民法899条の2の新設の理由は,「旧法の下では,特定財産承継遺言(相続させる旨の遺言のうち遺産分割方法の指定がされたもの)や相続分の指定がされた場合のように,遺言による権利変動のうち相続を原因とするものについて,判例は,登記等の対抗要件を備えなくても,その権利の取得を第三者に対抗することができると判示していた(特定財産承継遺言につき最二判平成14610日家月55177頁。相続分の指定につき最二判平成5719日家月46523頁)」ことによる「遺言の有無及び内容を知る手段を有していない相続債権者や被相続人の債務者に不測の損害をあたえるおそれ」の除去等とされています(堂薗=野口160-161頁)。従来の「判例の考え方によると,遺言によって利益を受ける相続人が登記等の対抗要件を備えようとするインセンティブが働かない結果,その分だけ実体的な権利と公示の不一致が生ずる場面が増えることになり,取引の安全が害され,ひいては不動産登記制度等の対抗要件制度に対する信頼を害するおそれがある」ため(堂薗=野口160頁),そのおそれの除去も目的に含まれているようです。

 

5 不動産登記に関する不一致問題

 

(1)実体的な権利と公示との不一致及び公信の原則の不採用

不動産に係る実体的な権利と登記による公示との不一致は,困った問題です。

なお,我が国においては,不動産登記について,「物権の存在を推測させる表象(登記・登録・占有等)を信頼した者は,たといその表象が実質的の権利を伴なわない空虚なものであった場合にも,なおその信頼を保護されねばならない,という原則」たる公信の原則(我妻榮著=有泉亨補訂『新訂物権法(民法講義Ⅱ)』(岩波書店・1983年)43頁)は認められていません。「不動産物権の表象たる登記に公信力がないことについては,とくに規定があるわけではない。しかし,真実権利をもたない者から権利を譲り受けることができるというのは,法律理論として全く異例のことだから,公信力を認める規定がない以上,公信力はないと解さなければならない。」とされています(我妻=有泉213頁)。

 

(2)地番と住居表示との不一致及び「ブルーマップ」

しかし,不動産登記に関する不一致問題といえば,土地に係る地番表示と住居表示との不整合の問題もあります。

地番は,一筆の土地ごとに付されます(不動産登記法217号・35条,3412号)。

これに対して住居表示は,住居表示に関する法律(昭和37年法律第119号)2条によれば,建物その他の工作物につけられる住居表示のための番号たる住居番号が最小単位となっています。ただし,住居番号といっても実際には,「街区方式による住居表示の実施基準」(昭和38年自治省告示第117号(住居表示に関する法律12条参照))の5によれば,市町村(又はこれを区分した一定区域)の中心に近い街区の角を起点として原則として右廻りに街区の境界線をあらかじめ市町村で定める一定の間隔(概ね10ないしは15メートル)に区切って当該間隔に順次つけられた基礎番号のうち,当該建物等の主要な出入口又は道路への通路が街区境界線(道路)に接している所のものが,当該建物等の住居番号としてつけられます。(なお,住居表示の方法には街区方式(住居表示に関する法律21号)及び道路方式(同条2号)があるところ,「街区」とは,「町又は字の区域を道路,鉄道若しくは軌道の線路その他の恒久的な施設又は河川,水路等によつて区画した場合におけるその区画された地域」をいいます(同条1号)。)

地番と住居表示との不一致に関しては,福島地方法務局のウェブ・ページにおいて,次のように記載されています(「Q 住宅地図から土地の所有者を調べるには?」に対する回答)。

 

  住宅地図については,住んでいる人の氏名(土地・建物の所有者とは限らない)と住所が表示されています。

住所については,住居表示の実施地区(都市部などで,〇〇番〇〇号)と非実施地区(都市部以外で,〇〇番地)とがあります。

住居表示の番号(住所)は,土地の地番と違うことから,そのままでは,法務局で登記簿の閲覧等を請求して,土地の所有者を調べることはできません。そこで,建物に住んでいる人や所有者等から地番を確認するか,隣接の地番が分かれば,それを基に法務局備付けの公図から目的の地番を探すことになります。

住居表示の未実施地区では,住所と地番が同じである場合が多いので,住宅地図に表示されている住所(地番)で,法務局へ登記簿の閲覧等を請求することができますが,同一でない場合もありますので,その場合は,隣接の地番が分かれば,それを基に法務局備付けの公図で目的の地番を探すことになります。

なお,住宅地図に地番(ママ)記載した「ブルーマップ」(社団法人民事法情報センター発行)を備え付けた法務局もありますので,それを利用していただくこともできますが,都市部のみ発行のため,利用できない場合があります。

 

住宅地図に地番が青字で併せ記載された「ブルーマップ」は,不動産登記に関係する仕事をする者にとっては非常に便利なものです。

  

6 「ブルーマップ」発行体たりし民事法情報センターの悪夢

前記「ブルーマップ」の発行体たる「社団法人民事法情報センター」は社会に大きな貢献をしている社団法人である,ということになります。

「このブルーマップにつきましては,住居表示と重ね合わせることによって大変便利になるのではないかという,もともとそういう考え方を提供したのはこの〔民事法〕情報センターと聞きました。」とは2010416日の衆議院法務委員会における千葉景子法務大臣の答弁です(174回国会衆議院法務委員会議録第77頁)。民事法情報センターは,2008年度には「ブルーマップ」を11480万円分売り上げ,費用・租税公課額2700万円を差し引いて9千万円近い利益を上げていたとされています(174回国会衆議院法務委員会議録第77頁(竹田光明委員))。

しかしながら,実は現在「ブルーマップ」を発行しているのは民事法情報センターではなく,株式会社ゼンリンです。それでは社団法人民事法情報センターはその間どうしたのかといえば,次のようなことになってしまったそうです(毎日新聞2010427日朝刊1422面)。

 

 法相ら要請,解散へ

 理事長に無利子融資の法人

  法務省所管の社団法人「民事法情報センター」(東京都新宿区)が理事長に無利子・無担保で1500万円を貸し付けていた問題で同センターは26日,解散する方針を決めた。千葉景子法相ら政務三役が法務省を通じて働きかけた結果で,約4億円の内部留保は国庫に寄付する見通し。今後,会員の4分の3以上の賛成を取り付け,6月までに総会を開いて正式に解散する。

  この問題は「事業仕分け第2弾」の準備として民主党の新人議員が公益法人を対象に行った調査で判明。民主党政権の一連の見直しの中で問題となった公益法人が解散するのは初めてと見られる。

  同センターは093月,理事長を務める元最高裁判事のK氏に1500万円を貸し付けた。借用書は作成したが,返済期限は設けず「長期貸付金」として処理した。また,センターが借りているビル内にK氏が共同経営する法律事務所が066月から入居していたことも判明。年間約340万円の家賃を受け取っているが,入居時に敷金や保証金は受け取っていなかった。

  K氏は8691年に最高裁判事を務め,同年にセンター理事に就任し,05年から理事長。センターは86年に設立され,登記所に備え付けの地図帳「ブルーマップ」や月刊誌を発行している。【田中成之】

 

 この「民主党の新人議員」とは誰かといえば,竹田光明衆議院議員及び山尾志桜里衆議院議員でした(第174回国会衆議院法務委員会議録第75頁・7頁(竹田委員))。

なお,2010416日の衆議院法務委員会における千葉法務大臣の答弁によると,理事長への1500万円の貸付金は,同月15日に返還されています(174回国会衆議院法務委員会議録第76頁。利息等の支払はなし。)。

本件は,2010413日の読売新聞朝刊(1439面)の記事(「1500万円無利子・無担保貸し/元最高裁判事の理事長に/法務省所管法人」)から火が付いたようで,同日直ちに千葉法務大臣から民事法情報センターへの臨時検査の指示があり,同月14日に臨時検査が早速行われています(174回国会衆議院法務委員会議録第75頁(千葉法務大臣))。

上記読売新聞の記事によれば,「センターによると,昨年2009年〕3月,K氏に1500万円を無担保で貸し付けた際,借用書を作成したものの,利息や返済期限は明記していなかった。貸し付けにあたって,理事長と常務理事各1人,さらに無報酬の非常勤理事10人で構成する理事会で事前に審議したこともなく,同年6月に「理事長に貸し付けた」と報告されただけだった。センターの2008年度決算報告書には「長期貸付金」として記載されている。/センターでは同じ昨年3月,理事長の報酬を月50万円から100万円に,常務理事の報酬も50万円から70万円にする報酬の改定も実施したが,これも6月の理事会まで報告していなかった。/1500万円をどんな目的で貸し付けたのかについて,センターのI常務理事は「当時,使用目的ははっきりとは聞いていなかった」としている。」ということでした。

更に読売新聞の当該記事は,当時88歳のK理事長の肉声をも伝えていて(「理事長「懸賞論文の費用に」」),興味深いところです。

 

  K氏は今月,数回にわたって読売新聞の取材に応じ,「1500万円は懸賞論文の費用に使ったもので,私的なことに使ったわけではない」と語り,報酬についても「職員の給与を上げた時に一緒に増額しただけ」と話した。

  ――懸賞論文とは何か

   「『K登記研究奨励基金』という名前で毎年,全国の法務局職員を対象に懸賞論文を実施していた。その費用に使った。賞金は1位が30万円。昨年度の応募は10件ほどだった」

 ――私的に使っていなくても問題ではないか

  「センターは,お金を相当持っている。それを有効に使わないといけない」

 ――センターからなぜ資金を借りたのか

「懸賞論文の事業はいずれセンターに引き継ぐつもりだった。事務手続き上,貸し付けという形を取ったが,寄付と同じ。利息を払わなくても問題はない」

  ――では,返済しないのか

   「6月までに,全額をきちんと返済する」

 

 さて,2010416日の衆議院法務委員会において竹田光明委員は,民事法情報センターについて「交通違反の取り締まりをしていたらいきなり殺人犯が出てきた,そのような気分でございます。」と冒頭厳しい発言を行った上で(174回国会衆議院法務委員会議録第75頁),「理事長は,民事法情報センターのお金も自分のお金も日ごろから一緒になっているんじゃないか,そういうふうな印象を強く持ちました。」(同6頁)と述べつつ,「法人がこれだけの大金を貸し出すに当たって理事会の決議は必要ではないということは問題だと思いますが,大臣,いかがでしょうか。」と問うたところですが(同頁),これに対して千葉大臣は「確かにこれは定款の定めで行うものでございますので,法的には法令違反というようなことにはならないかと思います」と答弁しています(同頁)。

これについては,2008121日から施行された一般社団法人及び一般財団法人に関する法律(平成18年法律第48号。以下「一般社団・財団法人法」といいます。)8412号及921項並びに一般社団法人及び一般財団法人に関する法律及び公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律(平成18年法律第50号。以下「一般社団・財団法人法等整備等法」といいます。)401項及び49条括弧書きからすると,確かに20093月にされた民事法情報センターから同センター理事長への金銭貸付けには同センターの理事会の事前承認がなければならないように一見思われるところです。しかしながら,他方,一般社団・財団法人法等整備等法803項は「旧社団法人の定款における理事会又は会計監査人を置く旨の定めは,それぞれ一般社団・財団法人法に規定する理事会又は会計監査人を置く旨の定めとしての効力を有しない。」と規定していますので,どうも社団法人民事法情報センターの「理事会」は一般社団・財団法人法602項の理事会ではなかったということのようです。そうであれば,民事法情報センターには一般社団・財団法人法等整備等法49条の適用があって民法旧57条(「法人と理事との利益が相反する事項については,理事は,代理権を有しない。この場合においては,裁判所は,利害関係人又は検察官の請求により,特別代理人を選任しなければならない。」)の例によることとなったところ,民法旧57条の解釈としては,「数人の理事があり,その一部の者と法人との利益相反する場合には,他の理事が代表して妨げない」(我妻榮『新訂民法総則(民法講義Ⅰ)』(岩波書店・1965年)171頁),すなわち常務理事が法人を代表して理事長に貸付けを行えば大丈夫ということであったようです(ただし,四宮和夫『民法総則(第四版)』(弘文堂・1986年)107頁註(4)(c)は「理事たちの親密さを考えると,禁止されると解すべきだろう」と反対)。

また,読売新聞の前記記事には「法務省民事局商事課の話」として「貸付金の目的が法人の設立目的と合致しているかどうかが問題」であるとのコメントが出ていましたが,この点も「クロ」とはならなかったものでしょう(一般社団・財団法人法762項は「理事が二人以上ある場合には,一般社団法人の業務は,定款に別段の定めがある場合を除き,理事の過半数をもって決定する。」と規定しています(下線は筆者によるもの)。)。

なお,民事法情報センターと同センター理事長との間の金銭消費貸借は商人間の金銭消費貸借ではないので,そうなると無利息が原則でした(商法5131項及び平成29年法律第44号による改正後の民法5891項)。

 「理事会の決議もなく,理事長と常務理事のお手盛りで役員の報酬が引き上げられる,こういうことはやはり問題じゃないかと私は思いますが,大臣,いかがでしょうか。」との竹田委員の質疑に対しても,千葉法務大臣は「これもまた,確かに法違反ということではないとは思います」と答弁しています(174回国会衆議院法務委員会議録第76頁)。確かに,一般社団・財団法人法89条は「理事の報酬等(報酬,賞与その他の職務執行の対価として一般社団法人等から受ける財産上の利益をいう。以下同じ。)は,定款にその額を定めていないときは,社員総会の決議によって定める。」と規定しているものの,社団法人民事法情報センターがそうであった特例民法法人には,同条の規定は適用されていませんでした(一般社団・財団法人法等整備等法501項)。

 竹田委員は,「社団法人である民事法情報センターの敷地(ママ)を,これは民間から借りていると思うんですが,その一部又貸ししているというのは,これはどういうものなのか。本当に,あきれ,あきれ,あきれた事態だと思っております。との感想を述べていますが(174回国会衆議院法務委員会議録第77頁),賃貸人との関係については,賃借物の転貸についてその承諾(民法6121項)を得たものであれば問題はないところです。賃借地上の自社ビルの一部を第三者に賃貸するのであれば,そもそも賃借地の転貸にはなりません。

 「実務においては,建物等を賃貸借するに当たって敷金が授受される事例が多く見られる」そうです(筒井健夫=村松秀樹編著『一問一答 民法(債権関係)改正』(商事法務・2018年)327頁)。しかし,だからといって必ず敷金を授受しなければならないことにはならないでしょう。

 「千葉景子法相ら政務三役が法務省を通じて働きかけた結果」の社員総会の決議による解散(一般社団・財団法人法1483号,一般社団・財団法人法等整備等法85条・民法旧69条)となったのは,社団法人民事法情報センターがその目的以外の事業をし,又は設立の許可を受けた条件若しくは監督上の命令に違反し,その他公益を害すべき行為をしたもの(一般社団・財団法人法等整備等法981項)とは認められず,法務省としては一般社団・財団法人法等整備等法982項の解散命令(なお,同法63条・一般社団・財団法人法1487号)を発するに至ることができないので,「この民事法情報センターが,まさに理事長の公私混同,そして法人の私物化の疑いが極めて濃いということは,私自身大変大きな問題だと思っておりますし,また,そもそも,公益法人の趣旨からいって,本当に存在価値があるんだろうかという気持ちを抱いてお」るところ(174回国会衆議院法務委員会議録第78頁(加藤公一法務副大臣)),「これまで表面に出てこなかったうみを出し切り,民主党中心の政権にかわって本当によかったと国民の皆様に思っていただけるように,目に見える形でぜひ成果を上げ」るべく(同頁(竹田委員)),当時の鳩山由紀夫内閣下の民主党政権として同センターの社員の忖度を求めることとなったものでしょう。

 「特例民法法人の清算については,なお従前の例による。」ということで(一般社団・財団法人法等整備等法651項),社団法人民事法情報センターの清算後残余財産は,定款で指定した者(民法旧721項)がなく,また,社員総会の決議を経,かつ,主務官庁(一般社団・財団法人法等整備等法95条参照)の許可を得てする理事の処分(民法旧722項)もなければ,最終的に国庫に帰属することとなっていました(同条3項。また,一般社団・財団法人法2393項参照)。これは「国庫の一般収入」となるものとされていました(我妻192頁)。しかし,「国庫に寄付」ということになれば,民法旧722項の理事の処分となったものでしょうか。

1948130日の閣議決定である「官公庁に対する寄附金等の抑制について」の第3項は「自発的行為による寄附の場合においても,割当の方法によるものではなく,且つ主務大臣が弊害を生ずる恐れがないと認めたものの外その受納はこれを禁止すること。」として,国に対する寄附の受納の可否は主務大臣が決定するものとし,同第4項は「前項によつて主務大臣が寄付の受納を認めた場合」においては「醵金にあつては,これを歳入に繰入,醵金の主旨を考慮の上予算的措置を講ずるものとすること。」とありました。ただし,当該閣議決定の第2項は,「官庁自身による場合はもとより,後援団体を通じてなす場合においても寄附金の募集は厳にこれを禁止すること。」と定めていました。したがって,「解散せい,残余財産は寄附せい。」との埋蔵金発掘的「働きかけ」はなかったものでしょう。

201059日の読売新聞朝刊(1428面)に次のような記事が出ています。

 

  民事法情報センター法人解散を正式決定

  法務省所管の社団法人「民事法情報センター」(東京都新宿区)が,理事長で元最高裁判事のK氏(89)に1500万円を貸し付けていた問題に絡み,同センターの社員総会が8日開かれ,法人を解散することが正式に決まった。センターが抱える約4億円もの内部留保は,民法の規定で国庫に寄付される見通し。〔以下略〕

 

 426日の幹部による解散の方針決定から12日での社員総会開催。関係者は,大型連休を楽しむいとまもないおおわらわったしょう。なお,「民法の規定で国庫に寄付」ということは,清算後残余財産に係る定款の規定も,理事の処分も,社団法人民事法情報センターについては無かったということでしょう。

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我,日本の柱とならん(東京都大田区池上本門寺)

1 電波的無

 筆者はかつて電波法(昭和25年法律第131号)関係の仕事をしていたのですが,電波を利用した通信は無線通信ということで,「無」の付く略号をよく見たものです。

 

   無,というのはニヒルだなぁ。

   色即是空。煩悩を去った涅槃の境地に近い業界なのかしらね,これは。

 

 と思ったものですが,実は電波法の規定自体が,深い煩悩を蔵するものとなっています。冒頭部総則の第2条等から若干御紹介しましょう。

 電波法22号は「「無線電信」とは,電波を利用して,符号を送り,又は受けるための通信設備をいう。」と,同条3号は「「無線電話」とは,電波を利用して,音声その他の音響を送り,又は受けるための通信設備をいう。」と定義しています。したがって,同条4号の「無線設備」も通信設備かといえば,実は案に相違してそうではないのです。同号は,「「無線設備」とは,無線電信,無線電話その他電波を送り,又は受けるための電気的設備をいう。」と定義していて,無線設備は通信設備に限定されてはいません。電波法2条に関して,「ここに通信設備という語を使用しているがこの通信とは意思,観念,感情等の人の精神活動を伝達することをいう」とされていますから(荘宏=松田英一=村井修一『電波法放送法電波監理委員会設置法詳解』(日信出版・1950年)(以下,かつての業界での言い方に倣って「三法詳解」といいます。)81-82頁),「人の精神活動を伝達」するものではない「ラジオゾンデ,レーダー,方向探知機等は無線設備」ではあっても(三法詳解82頁),確かに通信設備ではないのでしょう。なかなか面倒臭い。「放送は音響送受のみを行う限りその設備は無線電話であるが,テレビジョンは放送の形式により行われてもそれは無線電話ではない無線設備でありトーキーを伴うときは無線電話との混合設備となる」ということですから(三法詳解82頁),指先をシャカシャカ仏の名のように動かしてはいるもののいかにも煩悩まみれに背中を丸めて皆さんのぞき込んでいるスマート・フォンの類は,専ら無線電話である,ということではなくて,無線電話との混合設備たる無線設備なのでしょう。

 更にまた電波法が面倒なのは,同法41項の無線局の免許又は同法27条の181項の無線局の登録の対象は無線設備ではないことです。すなわち,無線局と無線設備とは別のものなのです。電波法25号は,「「無線局」とは,無線設備及び無線設備の操作を行う者の総体をいう。但し,受信のみを目的とするものを含まない。」と規定しています。例えていえば,電波によって鉄人28号を操縦する正太郎君と当該電波を発射するリモコンとの総体が無線局であって,リモコンそれのみではいかに大事であっても無線設備にすぎないということになります(電波法25号本文)。鉄人28号は,電波を受けて操縦されていることは確かですが,自らは電波を発射しないのであれば無線設備(電波を受けるための電気的設備)ではあっても無線局ではないということになります(電波法25号ただし書)。この無線局の概念については,「無線設備とその操作を行う者とを包含する一つの運行体を無線局といい,免許その他の点で単なる無線設備とは異る法の規律の下に置かれている。」と説明されています(三法詳解83頁)。当該「運行体」について,塩野宏教授の論文には,「法は端的に,人的物的総合体と定義しているのであって,伝統的な行政法学上の用語をもってすれば,組織法的な意味での営造物が無線局ではないであろうか」と述べられています(塩野宏「放送事業と行政介入―放送局免許法制を中心として―」同『放送法制の課題』(有斐閣・1989年)81頁注(44))。

「営造物」については,「国又は公共団体により特定の公の目的に供される人的物的施設の統一体をいうのが通常の用法である。地方財政法23条〔略〕等において使用されているが,個々の設備を指すのでなく,一定の目的の下に統一して考えられる施設の全体を指す。学問上は,「公企業」という場合が多い。」と説明されています(吉国一郎等編『法令用語辞典〈第八次改訂版〉』(学陽書房・2001年)33頁)。地方財政法(昭和23年法律第109号)231項は「地方公共団体が管理する国の営造物で当該地方公共団体がその管理に要する経費を負担するものについては,当該地方公共団体は,条例の定めるところにより,当該営造物の使用について使用料を徴収することができる。」と規定しています。1936年段階の行政法学においては,営造物の例として官立の大学,郵便,鉄道及び簡易生命保険が挙げられつつ(美濃部達吉『日本行政法 上巻』(有斐閣・1936年)482頁),法人格までを有する営造物法人の「実例は唯我が歴史的な固有の制度としての神宮及び神社に於いてのみ,これを見ることが出来る。」とされていました(同661頁)。より最近の説明では,「法人格を有する独立営造物を営造物法人ということがある。三公社とか地方住宅供給公社・地方道路公社・土地開発公社・港務局等は独立営造物の例とされ,国公立学校・図書館・病院等は非独立営造物の例としてあげられる。」とされています(田中二郎『新版行政法中巻全訂第2版』(弘文堂・1976年)327頁)。「三公社」とは,かつての日本国有鉄道,日本電信電話公社及び日本専売公社のことです。なお,国家賠償法(昭和22年法律第125号)21項の「営造物」は「組織法的な意味での営造物」ではありません。同項の営造物は「行政主体により特定の公の目的に供用される建設物又は物的設備」を指すものであって「大体,公物の概念に相当」し,「特に営造物の概念を構成する必要はない」ものです(田中325頁)。

 「組織法的な意味での営造物」たる無線局には人の要素が入って来ます。我々法律家も,時に人でなし呼ばわりされますが,やはり人です。しかし,困ったことに,無線通信を愛好する法律家協会は「無法協」であるということです(山内貴博「無線通信と法の支配~「無法協」へのお誘い~」自由と正義6611号(201511月号)8頁)。何と,法律家であっても,無線通信絡みでは,電波法もものかは「無法」状態となるのです。仏「法」僧の三宝への帰依を通じた涅槃の境地どころか,由々しい事態です。

 「無」の語は軽々に用いるべきではないのでしょう。

 しかしながら,我々の貴重する諸権利も,所詮形無きものなのです。

 

  或ハ之〔工業所有権〕ヲ無形財産権〔略〕ト称スル者アリト雖モ,総テノ権利ハ皆無形ニシテ有形ノ財産権アルニ非ズ,唯権利ノ目的物ガ或ハ有体物タリ或ハ無体物タルノミ,故ニ無形財産権ノ名称ハ取ラズ(美濃部達吉『行政法撮要下巻〔第3版〕』(有斐閣・1938年)522頁)

 

「総テノ権利ハ皆無形ニシテ」と言われれば,確かにごもっとも,と答えざるを得ません。

 

2 無から知へ

しかし,「無体物権」という名称(美濃部・撮要下522頁)もやはり何やら物哀しいのか,日本人は「知的」なるものが好きなのか,最近は知的財産権という言葉が用いられます。「知的財産権」とは,「特許権,実用新案権,育成者権,意匠権,著作権,商標権その他の知的財産に関して法令により定められた権利又は法律上保護される利益に係る権利」をいいます(知的財産基本法(平成14年法律第122号)22項)。21世紀においては「内外の社会経済情勢の変化に伴い,我が国産業の国際競争力の強化を図ることの必要性が増大している状況」であるので,「新たな知的財産の創造及びその効果的な活用による付加価値の創出を基軸とする活力ある経済社会を実現する」のだ,「知的財産の創造,保護及び活用」が重要なのだということです(知的財産基本法1条参照)。

しかして我々人民は,知的財産との関係でお国からどのように教育されてしまうのかといえば,「国は,国民が広く知的財産に対する理解と関心を深めることにより,知的財産権が尊重される社会が実現できるよう,知的財産に関する教育及び学習の振興並びに広報活動等を通じた知的財産に関する知識の普及のために必要な施策を講ずるものとする。」ということです(知的財産基本法21条)。当該国民の「理解と関心」は,まず,「知的財産権」って何だかすごいのだぞ,そのすごい「知的財産権」を自分も持っているのかなと見回せばここにあったぞ,だからそのすごいこの「知的財産権」を皆は尊重しなければいけないのだぞ,というようなところから始まるのでしょうか。お互い気遣いが必要です。

 

3 「物に関するパブリシティ権」と所有権

 知的財産権の尊重が進んだ昨今は,「物に関するパブリシティ権」までが主張されているそうです。「パブリシティ権は,著名人などの氏名・肖像に伴う経済的価値を保護するものであるが,物や動物にもパブリシティ権があるとする捉え方もある。ある物や動物の形態等が経済的価値を有する場合に,その利用をコントロールする権利として捉える考え方である。」とのことです(作花文雄『詳解 著作権法(第5版)』(ぎょうせい・2018年)161頁)。

 「物に関するパブリシティ権」に関しては,「物や動物等の所有権の使用・収益権の権利内容として,どの範囲にまで及ぶかという観点から,いくつかの判決が出されている」そうです(作花161頁)。「有体物に対する排他的支配権である所有権の射程を無体財産権的に構成しているとも考えられる。」とのことです(作花161頁)。

所有権の効力の問題ということですが,我が民法206条は,所有権の内容を「所有者は,法令の制限内において,自由にその所有物の使用,収益及び処分をする権利を有する。」と規定しています。旧民法財産編(明治23年法律第28号)30条では「所有権トハ自由ニ物ノ使用,収益及ヒ処分ヲ為ス権利ヲ謂フ/此権利ハ法律又ハ合意又ハ遺言ヲ以テスルニ非サレハ之ヲ制限スルコトヲ得ス」と規定されていたところです。フランス民法544条には 

“La propriété est le droit de jouir et disposer des choses de la manière la plus absolue, pourvu qu’on n’en fasse pas un usage prohibé par les lois ou par les règlements.”(所有権は,法令によって禁じられた用法ではない限りにおいて,最も絶対的な方法によって物を使用収益し,及び処分する権利である。)と規定されています。ローマ法学の後期注釈学派(13世紀半ばから16世紀初頭まで)の定義では,“Dominium est ius utendi e abutendi re sua, quatenus iuris ratio patitur.”(所有権(dominium)とは,自己の物(res sua)を法理(juris ratio)が許容する(pati)範囲内で(quatenus)使用し(uti),及び消費する(abuti)権利(jus)である。)ということであったそうです(O.ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法―ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)166頁参照)。Dominiumとは,厳めしい。

 

   東京地裁昭和52317日判決「広告宣伝用ガス気球」事件(判例時報86864頁)では,「所有者は,その所有権の範囲を逸脱しもしくは他人の権利・利益を侵奪する等の場合を除いて,その所有物を,如何なる手段・方法によっても,使用収益することができる(従って,所有物を撮影してその影像を利用して使用収益することもできる。),と解すべきである。さらに,第三者は・・・他人の所有物を如何なる手段・方法であっても使用収益することが許されない(従って,他人の所有物を撮影してその影像を利用して使用収益することも許されない。),と解すべきである。」とされている(ただし,本件事案では,原告の権利を侵害することについての予見可能性がなかったとして請求は棄却)

   高知地裁昭和591029日判決「長尾鶏」事件(判例タイムズ559290頁)は,本件被告が長年の品種改良の末に育成した長尾鶏を本件原告が写真撮影し観光写真として販売したことに対して,本件被告が著作権侵害等を理由として本件原告を被告として提訴し,後日請求放棄したが,この本件被告の提訴により本件原告が精神的苦痛等を被ったとして損害賠償請求した事件である。

   本判決では,長尾鶏の著作物性を否定した上で,「本件長尾鶏には・・・独特な美しさがあり,その管理,飼育にもそれなりの工夫と人知れぬ苦労があり,永年の努力のつみ重ねの結果,ようやくにしてこれが育て上げられたものであることを考えると,本件長尾鶏を写真にとったうえ絵葉書等に複製し,他に販売することは,右長尾鶏所有者の権利の範囲内に属するものというべく,その所有者の承諾を得ることなくして右写真を複製して絵葉書にして他に販売する所為は,右所有権者の権利を侵害するものとして不法行為の要件を備えるものとみられ,右権利を侵害した者はその損害を賠償する義務がある。」(したがって以前した本件被告の提訴は「主張する権利が立証不能な違法不当なものであるとまではいえない」「被告が提起した訴が原告主張の如き不法行為に当たるとは認めがたい」)と判示されている。

   神戸地裁平成31128日判決「サロンクルーザー」事件(判例時報1412136頁)では,「原告は,本件クルーザーの所有者として,同艇の写真等が第三者によって無断でその宣伝広告等に使用されることがない権利を有していることが明らかである。」と判示されている(ただし,被告は本件クルーザーの写真を雑誌に掲載されたことにより「原告が蒙った損害を賠償すべき責任があるといわざるを得ない」と判示されているものの,実際に認定された損害の内容としては本件クルーザーのパブリシティ的価値というよりも,本件クルーザーが売りに出されているとの誤解,原告経営のホテルの経営悪化などに係る「信用,名誉の侵害による原告の損害は,弁護士費用分も含めて100万円が相当」とされている)

  (作花161-162頁)

 

 私の所有物を無断で写真撮影してその影像を勝手に使用収益するのはひどいじゃないですか!との所有者の怒りは正当なものであって,当該怒れる所有権者から不法行為に基づく損害賠償請求の訴えを起こされても,(実際に損害の賠償までせねばならなくなるかどうかはともかくも)横着に写真撮影等をしてしまった者は訴訟対応の苦労を甘受しなければならない,ということでしょうか。なかなか剣呑です。銅像等を自分で撮影した写真を当ブログに掲載することの多い筆者としてはドキドキしてしまいます。「このような一連の判決には,所有権と知的財産権との法制的な関係が整理されて判示されておらず,判然としない面が残る。」とは(作花162頁),もっともな批判です。

 さすがに最高裁判所第二小法廷昭和59120日判決(民集3811頁)は,「所有権は有体物をその客体とする権利であるから,美術の著作物の原作品に対する所有権は,その有体物の面に対する排他的支配権能であるにとどまり,無体物である美術の著作物自体を直接排他的に支配する権能ではない」,著作権法(昭和45年法律第48号)451項及び47条の定めも「所有権が無体物の面に対する排他的支配権能までも含むものであることを認める趣旨のものではない」と判示しています(「顔真卿自書建中告身帖」事件)。

ただし,上記最高裁判所判決の次の判示部分は少し考えさせられるところです。いわく,「博物館や美術館において,著作権が現存しない著作物の原作品の観覧や写真撮影について料金を徴収し,あるいは写真撮影をするのに許可を要するとしているのは,原作品の有体物の面に対する所有権に縁由するものと解すべきであるから,右の料金の徴収等の事実は,一見所有権者が無体物である著作物の複製等を許諾する権利を専有することを示しているかのようにみえるとしても,それは,所有権者が無体物である著作物を体現している有体物としての原作品を所有していることから生じる反射的効果にすぎないのである。」と。すなわち,物の写真撮影に許可を要することは,たとえ「反射的効果」にすぎないとしても,当該物自体の所有権に基づいて求め得るものなのであると解し得るような判示であるとも思われます。しかし,やはり「反射的効果」なのですから,当該物の所有権に直接根拠を有するものではないのでしょう。筆者としては,「美術館所蔵(著作権を有していない場合)の絵画について,観覧者が写真撮影することを美術館の管理権により規制することは可能」(作花162頁)というような表現の方が落ち着くのですが,どうでしょうか。「対象物が著作権の原作品や複製物である場合などは別として,通常の有体物である場合,その写真撮影などは,それ自体としては一般的には当該所有者の権利侵害とはならないものと考えられる。」(作花164頁)というのが,常識的な見解というものでしょう。

東京地方裁判所平成1473日判決(判時1793128頁・判タ1102175頁)は,長野県北安曇郡池田町の(かえで)(acer)の大木(「大峰高原の大かえで」)及び当該楓の生育している土地の所有者による当該楓の所有権に基づく当該楓の写真を掲載した写真集書籍の出版差止めの請求について「所有権は有体物をその客体とする権利であるから,本件かえでに対する所有権の内容は,有体物としての本件かえでを排他的に支配する権能にとどまるのであって,本件かえでを撮影した写真を複製したり,複製物を掲載した書籍を出版したりする排他的権能を包含するものではない。そして,第三者が本件かえでを撮影した写真を複製したり,複製物を掲載した書籍を出版,販売したとしても,有体物としての本件かえでを排他的に支配する権能を侵害したということはできない。したがって,本件書籍を出版,販売等したことにより,原告の本件かえでに対する所有権が侵害されたということはできない。/したがって,原告の上記主張〔「本件かえでを撮影した写真を複製したり,複製物を掲載した書籍を出版等する権利は,本件かえでの所有者たる原告のみが排他的に有する」〕は,主張自体失当である。」と一刀両断にしています。原告による前記「広告宣伝用ガス気球」事件,「長尾鶏」事件及び「サロンクルーザー」事件各判決の援用も空しかったところです。当該楓に係る所有権の侵害が認められなかった以上,当該楓の所有権侵害の不法行為に基づく原告の損害賠償請求も棄却されています。ただし,裁判所は,木を見てその所在する土地を見なかったもののようである原告に対して,土地の所有権の効能に注意を向けるべく付言しています。いわく,「しかし,原告が,本件土地上に所在する本件かえでの生育環境の悪化を憂慮して,本件かえでの生育等に悪影響を及ぼすような第三者の行為を阻止するためであれば,本件土地の所有権の作用により,本件かえでを保全する目的を達成することができる。既に述べたとおり,現に,原告は,本件土地への立ち入りに際しては,本件かえでの生育等に悪影響を及ぼす可能性のある行為をしてはならないこと,許可なく本件かえでを営利目的で撮影してはならないことを公示しているのであるから,第三者が上記の趣旨に反して本件土地に立ち入る場合には,原告は当該立入り行為を排除することもできるし,上記第三者には不法行為も成立する。」と。


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こちらは,みずなら(quercus crispula)の木(札幌市南区真駒内泉町)

 

4 公開の美術の著作物等と著作権法46

 ところで,屋外で撮る銅像等の美術の著作物及び建物の写真については,著作権法46条に救済規定があります。

 

   (公開の美術の著作物等の利用)                          

46 美術の著作物でその原作品が前条第2項に規定する屋外の場所〔街路,公園その他一般公衆に開放されている屋外の場所又は建造物の外壁その他一般公衆の見やすい屋外の場所〕に恒常的に設置されているもの又は建築の著作物は,次に掲げる場合を除き,いずれの方法によるかを問わず,利用することができる。

   一 彫刻を増製し,又はその増製物の譲渡により公衆に提供する場合

   二 建築の著作物を建築により複製し,又はその複製物の譲渡により公衆に提供する場合 

   三 前条第2項に規定する屋外の場所に恒常的に設置するために複製する場合

   四 専ら美術の著作物の複製物の販売を目的として複製し,又はその複製物を販売する場合

 

 「街路,公園その他一般公衆に開放されている屋外の場所」については,「仮に私有地であっても一般公衆に開放されていれば該当する」とされ(作花372頁),かつ,「入場に際して料金が必要とされていても,すべからく「一般公衆に開放されている屋外の場所」でないということにはならない。当該場所と美術作品の位置づけとの相関関係により捉えるべきである。例えば,入場料を徴収する公園の中に彫像を設置する場合,公園の入場料は徴収されるとしても,当該公園に入場した者は,自由にその中にある彫像を観覧することができ,また,その入場料は当該観覧の対価としての趣旨はないと通常では考えられ,その意味では「一般公衆に開放されている屋外の場所」に設置されていると考えられる」とされる一方(同373頁),「美術館内や美術館の中庭などは屋外ではないと解される。美術館の前庭で外部から観覧できる位置に設置されている美術作品の場合,入場者に対して観覧させる目的で設置されていると考えられ,美術館のこのような設置態様は「一般公衆に開放されている屋外の場所」への設置とは言えない」とされています(同372頁)。

 著作権法461号の場合は,「彫刻(この彫刻には彫塑を含む)を彫刻としてそのレプリカを作成する場合」です(作花374頁)。

 なお,著作権法4813号によって,同法46条の規定により著作物を利用する場合において「その出所を明示する慣行があるとき」は当該著作物の出所を明示しなければならないものとされていますので(違反者には同法122条により50万円以下の罰金),当該慣行が存在しているかどうかが問題となります。この点,文化庁ウェブ・サイトの「著作権なるほど質問箱」の「著作権QA」における著作権法46条に係る質問(「公園に設置されている彫刻は,屋外の場所に恒常的に置いてある美術の著作物として,大幅な自由利用が認められていると考えていいのですか。」)に対する回答は,出所の明示義務に触れていません(「販売を目的として複製すること,屋外の場所に恒常的に設置するために複製することなど著作権法で定める限られた場合を除き,複製,公衆送信などの利用方法を問わず,著作権者の了解なしに,彫刻を利用することができます(第46条)。例えば,当該彫刻を写真に撮って無料頒布のカレンダーに入れることや,ドラマの撮影の背景にすることなども自由に行うことができます。」)。すなわち当局としては,出所明示の慣行の存在を認識してはいないということなのでしょうか。なお,この「出所の明示」を行うことになったときには,「当該著作物につき表示されている著作者名」を示さなければならないほか(著作権法482項),著作物の題号の表示は基本的な事柄であり,美術作品の場合であれば作品の所有者や設置場所などの表示が望まれるそうですから(作花393-394頁),なかなか大変です。

 著作権法46条の趣旨については,「横浜市営バス車体絵画掲載」事件に係る東京地方裁判所平成13725日判決(判時1758137頁・判タ1067297頁)において「美術の著作物の原作品が,不特定多数の者が自由に見ることができるような屋外の場所に恒常的に設置された場合,仮に,当該著作物の利用に対して著作権に基づく権利主張を何らの制限なく認めることになると,一般人の行動の自由を過度に抑制することになって好ましくないこと,このような場合には,一般人による自由利用を許すのが社会的慣行に合致していること,さらに,多くは著作者の意思にも沿うと解して差し支えないこと等の点を総合考慮して,屋外の場所に恒常的に設置された美術の著作物については,一般人による利用を原則的に自由にした」ものと判示されています。

 ところで,市営バスは移動し,また夜間は車庫内に駐車されるので,市営バスの車体に描かれた美術の著作物は「恒常的に設置されているもの」ではないのではないかが問題になり得ます。しかしながら,上記東京地方裁判所判決は,「広く,美術の著作物一般について,保安上等の理由から,夜間,一般人の入場や観覧を禁止することは通常あり得るのであって,このような観覧に対する制限を設けたからといって,恒常性の要請に反するとして同規定〔著作権法46条柱書き〕の適用を排斥する合理性はない。」,「確かに,同規定が適用されるものとしては,公園や公道に置かれた銅像等が典型的な例といえる。しかし,不特定多数の者が自由に見ることができる屋外に置かれた美術の著作物については,広く公衆が自由に利用できるとするのが,一般人の行動の自由の観点から好ましいなどの同規定の前記趣旨に照らすならば,「設置」の意義について,不動産に固着されたもの,あるいは一定の場所に固定されたもののような典型的な例に限定して解する合理性はないというべきである。」と判示して,継続的に運行される市営バスの車体に描かれた美術の著作物について著作権法46条柱書きの適用を認めました。

 

5 著作権法46条から民法861項へ

 前記「横浜市営バス車体絵画掲載」事件判決によれば,著作権法46条の「恒常的に設置」は,民法861項の「定着物」の「定着」とは異なる概念であるということになります。民法861項は「土地及びその定着物は,不動産とする。」と規定し,同条2項は「不動産以外の物は,すべて動産とする。」と規定しているところ,動き回るバスは不動産ではなく,動産であることは明らかです(旧民法財産編11条本文は「自力又ハ他力ニ因リテ遷移スルコトヲ得ル物ハ性質ニ因ル動産タリ」と規定していました。)。

なお,「不動産に固着されたもの,あるいは一定の場所に固定されたもののような典型的な例」としての「公園や公道に置かれた銅像等」は,民法861項の土地の定着物ということになるのでしょう。「土地の定着物」とは,「(a)土地に附着する物であって,(b)継続的に一定の土地に附着させて使用されることが,その物の取引上の性質と認められるものである。」とされています(我妻榮『新訂民法総則(民法講義Ⅰ)』(岩波書店・1965年)212頁)。「「定着物」とは,土地に固定されており,取引観念上継続的に固定されて使用されるものをいう。例えば,建物,銅像,線路,植物の苗などである。」と説明されており(内田貴『民法Ⅰ 総則・物権総論』(東京大学出版会・1994年)300頁),すなわち銅像は不動産の一典型ということになります。フランス民法には,“Quant aux statues, elles sont immeubles lorsqu’elles sont placées dans une niche pratiquée exprès pour les recevoir, encore qu’elles puissent être enlevées sans fracture ou détérioration.” (彫像については,その設置のために殊更に使用される壁龕に据え付けられた場合には,破壊又は破損なしに除去し得るときであっても不動産である。)という規定があります(同法5254項)。旧民法財産編9条は「動産ノ所有者カ其土地又ハ建物ノ利用,便益若クハ粧飾ノ為メニ永遠又ハ不定ノ時間其土地又ハ建物ニ備附ケタル動産ハ性質ノ何タルヲ問ハス用方ニ因ル不動産タリ」とし,当該用方ニ因ル不動産の例として同条の第9は,「建物ニ備ヘ」られ「毀損スルニ非サレハ取離スコトヲ得サル〔略〕彫刻物其他各種ノ粧飾物」を挙げています。

 

6 銅像等とその定着する土地との関係

 ところで銅像等は,その定着する土地とは別個の独自の不動産たり得るのでしょうか。

「定着物は,すべて不動産であるが,その不動産としてのとり扱いには,差異がある。(a)一は,土地と離れて独立の不動産とみられるものであって,建物はその典型的なものであり,(b)二は,その定着する土地の一部分とされ,土地に関する権利の変動に随伴するものであって,石垣・溝渠・沓脱石などがこれに属する。前者は,独立して物権の客体となるが,後者は,原則として,土地に定着したままでは独立の物権の客体となることができず,ただ債権関係が成立しうるだけである。そして,(c)樹木は,あたかもこの中間に位するものである〔略〕。結局,土地から離れて独立の不動産となりうる定着物は,建物,立木法による立木,立木法の適用を受けない樹木の集団,個々の樹木である。」(我妻Ⅰ・213頁)とだけいわれると,そこにおいて「土地から離れて独立の不動産となりうる定着物」として挙示されていない銅像は,「石垣・溝渠・沓脱石など」と同様に,「その定着する土地の一部分とされ,土地に関する権利の変動に随伴するもの」ということになりそうです。

しかし,銅像は,線路・鉄管・庭石(場合による)などと同様に,「一般には土地の構成部分だが,それだけの取引も不可能ではなく,それだけの所有権を取得したときは,明認方法を対抗要件とする(庭石につき大判昭9725判決全集1-8-6)」と説かれています(四宮和夫『民法総則(第四版)』(弘文堂・1986年)127頁)。その背景として,銅像等については,一般の立木(りゅうぼく)と同様に,原則としては「不動産の所有者は,その不動産に従として付合した物の所有権を取得する。」として,それが付合する土地所有者の所有物となるものの(民法242条本文),権原によって付属させられたときには例外として「権原によってその物を附属させた他人の権利を妨げない。」との規定(同条ただし書)が適用されるものと解されているところです(四宮129頁補注)。民法242条ただし書の「「権利を妨げない」というのは,その者が所有権を留保する,という意味であって,単に除去または復旧の権利を有するという意味ではない」とされています(我妻榮著=有泉亨補訂『新訂物権法(民法講義Ⅱ)』(岩波書店・1984年)309頁)。

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弘法大師像(千葉県成田市成田山新勝寺)


 これに対して「石垣(大判大7413民録24-669)・敷石・くつぬぎ石・トンネル・井戸・舗装・庭石(場合による)などは,独立の所有権の客体となることはない」ものとされ(四宮126頁),民法に規定のない「土地の構成部分」という特殊な類型であるものとされています(同129頁補注。民法242条ただし書の適用はないものとされます。)。「土地の構成部分」概念については,最高裁判所昭和37329日判決(民集163643頁)において「民法861項にいう土地の定着物とは,土地の構成部分ではないが土地に附着せしめられ且つその土地に永続的に附着せしめられた状態において使用されることがその物の取引上の性質であるものをいう」と傍論ながら触れられています(下線は筆者によるもの)。「民法861項にいう土地の定着物」とは土地以外の不動産のことですから,結局「土地の構成部分」は,正に土地の構成部分として,土地の定着物としての不動産とはならないということなのでしょう。

 

7 一物一権

 ここで「一物一権主義」に触れておきましょう。当該主義について標準的に説かれているところは,「1個の物権の目的物は1個の物であることを必要とする。1個の物の上に1個の所有権が,1個の所有権は1個の物の上に成立するのが原則である(一物一権主義)。共有は1個の所有権の分属である。数個の物の上に1個の物権を成立させることはできない。目的物の特定性・独立性を確実にし,公示に便ならしめるためである。」ということでしょう(我妻=有泉15-16頁。また,内田305頁)。更に,「1個の物の一部分には独立の物権は存在しえず」ともいわれているとされています(星野英一『民法概論Ⅰ(序論・総則)』(良書普及会・1993年)162頁,同『民法概論Ⅱ(物権・担保物件)』(良書普及会・1980年)16頁)。

 それでは「1個の物」とは何だ,ということが次に問題になりますが,銅像等に係る本件絡みでは,「経済的に一応1個の物としてその価値を認められるが,構成物のそれぞれが,なお独立の価値を認められる場合(例えば地上の樹木・家屋の造作・果樹の果実)においては,法律上も,一応1個の物とする。しかし,(a)これを結合させた者が,これを結合させる正当な権(ママ)を有した場合には,この者の権利を否定すべきではないから,その者のために,独立の物としての存在を是認すべきである(242条但書参照)。また,(b)とくに独立の物として取引をなし,相当の公示方法を備えるときは,独立の物としての存在を是認すべきである」と説かれています(我妻Ⅰ・205頁)。原則として,土地及びその上の樹木(銅像)は併せて1個の土地となるということでしょう。しかしこれに対しては,「民法242条も,起草者によれば,土地とは別個の物だが土地所有権者の所有に帰するとする趣旨だった」し,植物は土地とは別個の物と立法者も考えていたとの指摘があります(星野Ⅰ・161-162頁)。確かに,梅謙次郎は民法242条について「不動産ニ附着シタル物ハ慣習上之ヲ別物トシテ観察スルモノ多キカ故ニ本条〔242条〕ニ於テハ概シテ之ヲ2物トシテ観察セリ例ヘハ土地ニ建築シタル家屋之ニ栽植シタル草木ノ如シ然リト雖モ場合ニ因リテハ到底2物トシテ之ヲ観ルコト能ハサルコトアリ例ヘハ木材ヲ以テ家屋ノ一部ニ使用シタルカ如キ又ハ壁土若クハ漆喰ヲ以テ建物,塗池其他ノ工作物ニ使用シタルカ如キ此類ナリ」と述べています(梅謙次郎『民法要義巻之二物権篇』(和仏法律学校=明法堂・1896年)152頁)。(なお,ここで付合の例として「土地ニ建築シタル家屋」が梅謙次郎によって挙げられていることは興味深いところです。「土地に建物を建てたときは,建物は土地とは別個の物であり,本条〔民法242条〕の適用がない」(星野Ⅱ・124頁)とは当初直ちにはいえず,「請負人が全ての材料を提供して建築した場合について,かつては,建物の土地への付合が問題になった。しかし,判例(大判明37622民録10861,大判大31226民録201208)と学説(鳩山秀夫・日本債権法各論(下)〔大9578,末弘厳太郎・債権各論〔大8695等)によって請負建築の建物は土地に付合しないとされた。」という経緯があったようです(五十嵐清=瀬川信久『新版注釈民法(7)物権(2)』(有斐閣・2007年)403-404頁)。)

 何だかますます分かりにくいですね。これは,一物一権「主義」が悪いのでしょうか。当該主義については,「この考え方は,ドイツ法に強いが,必ずしもすべての立法に存在するものではなく,我が学説はドイツの影響によって」言っているとのことです(星野Ⅱ・16頁)。ドイツ式です。ドイツ民法93条には,“Bestandteile einer Sache, die voneinander nicht getrennt werden können, ohne dass der eine oder der andere zerstört oder in seinem Wesen verändert wird (wesentliche Brstandteile), können nicht Gegenstand besonderer Rechte sein.”(物の構成要素であって,一方又は他方が,毀損され,又はその本質が変ぜられなければ相互に分離することができないもの(本質的構成要素)は,個別の権利の目的となることができない。)と規定されています。

土地及びその定着物に関しては,「ドイツ民法では,土地のみが不動産であり,建物や土地と結合した土地の産物は,土地の本質的構成部分となる(ド民9411文)。種は蒔くことによって,樹木は植えることによって土地の本質的構成部分となる(同項2文)。」とされています(小野秀誠『新注釈民法(1)総則(1)』(有斐閣・2018年)799頁)。「ドイツ民法は,動産と土地(Grundstück)とを対立させ」るということです(我妻Ⅰ・211頁)。問題のドイツ民法941項は,“Zu den wesentlichen Bestandteilen eines Grundstück gehören die mit dem Grund und Boden fest verbundenen Sachen, insbesondere Gebäude, sowie die Erzeugnisse des Grundstücks, so lange sie mit dem Boden zusammenhängen. Samen wird mit dem Aussäen, eine Pflanze wird mit dem Einpflanzen wesntlicher Bestandteil des Gründstücks.”(当該地所に固着させられた物,特に建物及び地面に結合している限りにおいて当該土地の産物は,土地の本質的構成要素である。種子は播種によって,植物は植栽によって当該土地の本質的構成要素となる。)と規定しています。(ただし,同法951項本文には“Zu den Bestandteilen eines Grundstücks gehören solche Sachen nicht, die nur zu einem vorübergehenden Zweck mit dem Grund und Boden verbunden sind.”(一時的な目的のみのために当該地所に付合させられた物は,土地の本質的構成要素ではない。)とあります。)更にドイツ民法は周到に所有権の面に係る規定をも有していて,同法946条は“Wird eine bewegliche Sache mit einem Grundstück dergestalt verbunden, dass sie wesentlicher Bestandteil des Grundstücks wird, so erstreckt sich das Eigentum an dem Grundstück auf diese Sache.” (動産が土地に当該土地の本質的構成要素となるように付合させられたときは,当該土地に係る所有権が当該動産に及ぶ。)と規定しています。単に土地の所有者が当該動産の所有権を取得するのではなく,土地所有権が当該動産をも呑み込んでしまうわけです。

フランス民法については,「フランス民法は,土地と一体をなす建物などは,性質による不動産immeuble par naturnature,土地に従属する物(民法の従物に近いもの)は,用途による不動産(immeuble par destination)と称する(フ民517条以下)。いずれにおいても,建物を独立の不動産としない点でわが民法と異なる。」ということですから(我妻Ⅰ・211頁),「ドイツ・フランスなどでは,地上物は土地所有権に吸収され」て「建物は土地所有権に吸収される」(四宮和夫=能見善久『民法総則(第九版)』(弘文堂・2018年)191頁)ということでよいのでしょうか。しかし,これに対しては,「フランス民法は,土地および建物は「性質による不動産」immeuble par naturnatureとされる(518条)ので,建物は土地の所有権と別個の不動産所有権の目的となるが,建物は反証のない限り土地所有者に属するものと推定される(553条〔略〕)」という非一物説的見解もあります(水本浩「借地の法政策上いま最も重要な課題」日本不動産学会誌1012号(19957月)99頁)。フランス民法518条は “Les fonds de terre et les bâtiments sont immeubles par leur nature.”(土地及び建物は,性質による不動産である。)と,同法553条は“Toutes constructions, plantations et ouvrages sur un terrain ou dans l’intérieur, sont présumés faits par le propriétaire à ses frais et lui appartenir, si le contraire n’est prouvé; sans préjudice de la propriété qu’un tier pourrait avoir acquise ou pourrait acquérir par prescription, soit d’un souterrain sous le bâtiment d’autrui, soit de toute autre partie du bâtiment.”(土地の上又は内部の全ての建造物,植栽物及び工作物は,反証のない限り,所有者がその費用によってなしたものであり,かつ,彼に帰属するものと推定される。ただし,第三者が時効により取得した,又は取得することのある,あるいは他者所有建物の下の地窖,あるいは当該建物の全ての他の部分の所有権を妨げない。)と規定しています。我が旧民法財産取得編(明治23年法律第28号)81項及び2項は「建築其他ノ工作及ヒ植物ハ総テ其附著セル土地又ハ建物ノ所有者カ自費ニテ之ヲ築造シ又ハ栽植シタリトノ推定ヲ受ク但反対ノ証拠アルトキハ此限ニ在ラス/右建築其他ノ工作物ノ所有権ハ土地又ハ建物ノ所有者ニ属ス但権原又ハ時効ニ因リテ第三者ノ得タル権利ヲ妨ケス」と規定していました。なお,フランス民法5521項は “La propriété du sol emporte la propriété du dessus et du dessous. ”(土地の所有権は,上方及び下方の所有権を伴う。)と規定していますが,これは,「不動産に関する添付の権利について」(Du droit d’accession relativement aux choses immobilières)の款の冒頭規定です。

この辺に関しては “Superficies solo cedit.”との法諺がよく引用されます。しかしてその実体はいかにというと,古代ローマのガイウスの『法学提要』2.73には,“Praeterea id, quod in solo nostro ab aliquo aedificatum est, quamvis ille suo nomine aedificaverit, jure naturali nostrum fit, quia superficies solo cedit.”(さらには(praeterea),何者かによって(ab aliquo)我々の土地に(in solo nostro)建築された物は(id, quod…aedificatum est),彼が(ille)自分の名前で(suo nomine)建築した(aedificaverit)としても(quamvis),自然法により(jure naturali)我々のもの(nostrum)になる(fit)。これすなわち(quia),地上物は(superficies)土地(solum)に従う(cedere)のである。)とあったところです。ユスティニアヌスの『学説彙纂』41.1.7.10(ガイウス)の第1文にも“Cum in suo loco aliquis aliena materia aedificaverit, ipse dominus intellegitur aedificii, quia omne quod inaedificatur solo cedit.”(自分の地所に(in suo loco)他の者が(aliquis)他の材料をもって(aliena materia)建築を行った(aedificaverit)ときは(cum),〔当該地所の所有者〕自身が(ipse)建築物の所有者(dominus…aedificii)と認められる(intellegitur)。これすなわち,全て建築された物は(omne quod inaedificatur)土地に従うのである。)とあります。Cedere(フランス語のcéder)の意味が問題です。(なお,フランス法の位置付けは実は我妻榮にとっても微妙であったようで,「フランスでは,地上物は土地に附属する(superficies solo cedit)という原則は,〔ドイツ及びスイス〕両民法ほど徹底していない(同法553条は建物だけが時効取得されることを認めている)。その結果,宅地または農地の借主が建物を建設する承諾を得ているときは,その建設した建物は賃借人の所有に属するものとみられ,学者は,かような場合の賃借人の権利を「地上の権利(droit de superficie)と呼んでいる。」とのことです(我妻榮『債権各論中巻一(民法講義Ⅴ₂)』(岩波書店・1973395-396頁)。)

 

8 銅像等のみの取引

いろいろ脱線してきましたが,土地とは別に銅像等のみについて取引をするときはどうしたらよいのかという点が筆者には気になりますので,庭石の取引に係る大審院昭和9725日判決(大審院判決全集1-8-6)を見てみましょう。

これはどうも立山を仰ぐ富山市界隈での事件だったようで,宅地上にある庭石の所有権者がだれかが争われたものです。当該宅地上に庭石(約40個)を設置した元地主がその後当該宅地及びその上の建物に抵当権を設定し(抵当権者は(株)岩瀬銀行),当該抵当権が結局実行されてXが競落により193059日に当該抵当不動産の所有権を取得したところ,問題の庭石は当該競落前の1929830日に元地主から第三者に売却されてその際公証人から証書に確定日付(民法施行法(明治31年法律第11号)4条「証書ハ確定日附アルニ非サレハ第三者ニ対シ其作成ノ日ニ付キ完全ナル証拠力ヲ有セス」)を得,かつ,簡易の引渡し(民法1822項。当該第三者は既に当該宅地上の建物に住んでいたのでしょう。)がされており,更に競落後の1931912日に当該第三者からYに売却されていたという事案です。当該庭石は動産にあらざる土地の定着物(したがって不動産)であるとの原審の認定が前提となっています。元地主による抵当権の設定がYの前主に対する1929830日の庭石の売却前なのか後なのかが判決文からははっきりしないのですが(一応,抵当権の設定は庭石のYの前主への売却の後だったものと解します。),大審院は「土地ノ定着物ノミ他人ニ譲渡シタルトキハ買受人ニ於テ其所有権取得ヲ第三者カ明認シ得ヘキ方法ヲ採ルニアラサレハ其取得ヲ以テ第三者ニ対抗スルコトヲ得ス而シテ原審ハ上告人〔YYの前主も含むのでしょう。〕ニ於テ本件定着物ノ所有権取得ヲ明認シ得ヘキ方法ハ毫モ講セラレサリシ事実ヲ確定シ上告人〔Y〕ハ本件物件ノ所有権取得ヲ第三者タル被上告人〔X〕ニ対抗スルコトヲ得サルモノト判定シタルコト判文上明白ニシテ毫モ違法ノ点アルコトナシ」と判示して,Xを勝たせました。

民法施行法4条の規定は,平成29年法律第45号によって202041日から(平成29年政令第309号)削除されます。ナポレオンの民法典の第1328条も既に改正されてしまっています。

元地主の設定に係る岩瀬銀行を抵当権者とする本件宅地建物を目的とした抵当権の効力が本件庭石に及んでいたとして,その説明はどうなるのでしょうか。当該宅地の定着物たる本件庭石は本来当該宅地の一部であるから,明認方法を施して土地から分離の上更に所有権を移転してその明認方法をも施しておかなければ,抵当権の目的たる土地そのものとして抵当権の効力が及び(そもそも明認方法が施されていない場合),又はなお抵当権設定者の所有に係る従物(民法871項)として抵当権の効力が及ぶ(同法370条)のだ(土地からの分離に係る明認方法はあるが,次段階の所有権移転に係る第三者対抗要件たる明認方法まではない場合),ということになるでしょうか。「この場合の庭石は,未分離果実と異なり,明認方法をほどこさないと土地所有権に吸収され,独立の取引対象とならない。したがって,明認方法は,それによって庭石を土地から分離し,土地から独立して処分できる対象であることを示す,分離公示機能の意味もあるのではないか。その上で,対抗要件としての意味も有する。」との能見善久教授の見解(四宮=能見193頁)に従った上で,煩瑣に考えると上記のような細かい説明もできそうであるところです。なお,土地の所有権者がその土地上の自己所有の定着物について分離公示のための明認方法をあらかじめわざわざ施すというのも変な話のようですが,前主から取得した土地上に当該土地取得に係る移転登記がされない間に立木を植栽していたところ前主が当該土地を第三者に売って移転登記を経たために当該立木の所有権の所在が争われることとなった事案に係る最高裁判所昭和3531日判決(民集143307頁)は,「〔民法242条ただし書の類推により本件立木の地盤への付合が遡って否定されることに係る〕立木所有権の地盤所有権からの分離は,立木が地盤に附合したまま移転する本来の物権変動の効果を立木について制限することになるのであるから,その物権的効果を第三者に対抗するためには,少なくとも立木所有権を公示する対抗要件を必要とすると解せられるところ,原審確定の事実によれば,被上告人ら〔当該地盤の二重売買における移転登記を経た第2買主の後主(登記済み)〕の本件山林所有権の取得は地盤の上の立木をその売買の目的から除外してなされたものとは認められず,かつ,被上告人らの山林取得当時には上告人〔登記を経なかった第1買主〕の施した立木の明認方法は既に消滅してしまつていたというのであるから,上告人の本件立木所有権は結局被上告人らに対抗しえないものと言わなければならない。」と判示しています。

これについては,前記梅謙次郎の考え方に従い,宅地と庭石と,又は地盤と立木とを最初から「2物トシテ観察」すれば,土地からの分離の公示のための明認方法は不要ということになるのでしょう。しかしながら,梅説の復活というのも今更遅すぎるでしょう。前記最高裁判所昭和3531日判決に関して中尾英俊西南学院大学教授による,そもそも「立木が土地の一部であると解するべきではない」との主張がありますが(同『民法判例百選Ⅰ総則・物権(第三版)』(有斐閣・1989年)135頁(第63事件)),「植物は植栽によって当該土地の本質的構成要素となる」とするドイツ民法941項的解釈の力の方が強そうです。前記楓事件に係る東京地方裁判所平成1473日判決では,楓の所有権のほかに「念のために」当該楓の生育している土地の所有権について,立入りによる不法行為の成否を「進んで検討」していますが(結果は否定),楓と土地とが分離していない一物を構成するものであれば「楓の所有権」は土地の所有権をも意味し得るので,確かに必要な検討であったということになるのでしょう。

なお,従物は動産に限られるか,不動産も含まれるか,という問題もあります。庭石と宅地とが一つの物ではなく2物であって,かつ,庭石が不動産であっても,宅地に係る売却等の処分の際には民法872項により庭石はその従物として主物たる宅地の処分に従うのか,という問題です。ドイツ民法971項第1文では,従物は動産に限定されています。いわく,“Zubehör sind bewegliche Sachen, die, ohne Bestandteile der Hauptsache zu sein, dem wirtschaftlichen Zwecke der Hauptsache zu dienen bestimmt sind und zu ihr in einem dieser Bestimmung entsprechenden räumlichen Verhältnis stehen.”(従物は,動産であって,主物の構成要素たることなく,主物の経済的目的に役立つべく定められ,かつ,当該用途に対応するそれ〔主物〕との空間的関係にあるものである。)

しかしながら,我が民法では「主物・従物ともに動産たると不動産たるとを問わない。2個の不動産の間にも,この関係は成立しうる。例えば納屋・茶の間等も従物となりうる(大判大正77101441頁(納屋,便所,湯殿の例),大決大正10781313頁(判民112事件我妻評釈,増築された茶の間と抵当権の効力に関する)参照)。農場の小屋などもそうである。」ということになります(我妻Ⅰ・224頁。また,四宮135頁,小野秀誠『新注釈民法(1)』809-810頁)。梅謙次郎も不動産に付合した従たる物について「附合物カ独立ノ存在ヲ有スル場合ト雖モ多クハ従ハ主ニ従フ(Accessorium sequitur principale)ノ原則ニ拠リ主タル不動産ヲ処分スルトキハ従タル物モ亦共ニ処分セラレタルモノト看做スヘキヲ以テ其従物カ独立ノ一物ヲ成スヤ否ヤヲ論スル必要ナキコト多カルヘシ(872項〔略〕)但家屋ハ土地ノ従物ト看做サス」と述べていました(梅152頁)。

 

9 「五重塔」

ところで,従物の例として「五重塔」が挙げられています(四宮129頁)。五重塔といえば不動産たる堂々とした建物が想起されます。無論,前記のとおり,不動産たる従物というものもあり得ます。

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五重塔(池上本門寺)


 しかしながら,判例(大判昭和15416日評論29巻民370頁)に出て来る「五重塔」は,料理店の庭ないしは庭園に配置されたもののようです(四宮135頁注(1),我妻Ⅰ・223頁,小野『新注釈民法(1)』810頁)。五重塔までをもそこに建立する随分大きくかつ豪勢な庭を有する料理店があったものです。一体そんな料理屋はどこにあったのかいなと気になって,原典の掲載誌に当たってみると,当該「五重塔」は,「本訴物件タル石灯籠8個花崗岩七福神一揃花崗岩五重塔1基石ノ唐獅子1個ハ訴外〔略〕カ其所在土地ヲ営業(料理店)家屋ノ用地トシテ堀池,庭園ヲ築造シ之ニ風致ヲ添フル為其ノ地上ニ接触シテ配置シタルモノニシテ何レモ〔訴外者〕ノ営業ノ目的ニ資スルカ為主物タル其ノ所在土地ノ常用ニ供シタル従物」のうちの一つでした。花崗岩製の「五重塔」であれば,むしろ五輪塔・五層塔の類だったのではないでしょうか。また,「地上ニ接触シテ配置」したものにすぎず,更に石灯籠は動産とされていますから(四宮126頁及び小野『新注釈民法(1)』801頁が引用する大判大10810民録271480頁),本件「五重塔」は建物たる不動産ではなく,動産だったのでしょう。

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五輪塔(池上本門寺)


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五層塔(ただし元は十一層塔)(池上本門寺)

10 民事執行法その他

民事執行法(昭和54年法律第4号)においては,「登記することができない土地の定着物」は動産として扱われます(同法1221項)。これについては,『民事弁護教材改訂民事執行(補正版)』(司法研修所・2005年)に,「登記することのできない土地の定着物には,土地上の庭石,石灯籠,建設中の建物,容易に土地から分離できるガソリンスタンドの給油設備がある。」とあります(63頁注(2))。当該例示のものは全て動産にあらず,ということになるのでしょうか。しかしながら,取り外しの困難でない(取り外しのできる)庭石は土地の構成部分ではない従物とされ(最高裁判所昭和44328日判決(民集233699頁)),石灯籠については前記のように動産とする裁判例がありましたし,工場内においてコンクリートの土台にボルトで固着された程度ではそもそも定着物ではないとする裁判例もあります(我妻Ⅰ・213頁が引用する大判昭和41019新聞308115頁)。

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石灯籠=動産(東京都文京区六義園)

 くたびれました。空の鳥,地の獣等をかたどった銅像等にあるいは語りかけ(adorare),あるいは拝礼し(colere),心を安らげ,励ましたいとも思います。しかしながら,そういうことは絶対に許さない,四代祟るぞ,との強硬な要求をする律法もあります。

 

non facies tibi sculptile

neque omnem similitudinem quae est in caelo desuper et quae in terra deorsum

nec eorum quae sunt in aquis sub terra

non adorabis ea neque coles

ego sum Dominus Deus tuus fortis zelotes

visitans iniquitatem patrum in filiis

in tertiam et quartam generationem eorum qui oderunt me

(Ex 20, 4-5)


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Avis est in caelo desuper...(池上本門寺)

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Aper est in terra deorsum.(千葉県成田市)
 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002 東京都渋谷区渋谷三丁目516 渋谷三丁目スクエアビル2

電子メール: saitoh@taishi-wakaba.jp  

DSCF1311(ニコライ堂)
Pater omnipotens abigat tales photographos fulmine ad umbras! (東京復活大聖堂)

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Libera nos a malo!(函館ハリストス正教会)


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1 不動産登記及び民法177条並びに対抗問題
 職業柄,不動産の登記の申請手続を自らすることがあります。(なお,登記をするのは登記所に勤務する登記官であって,申請人ではありません。不動産登記法(平成16年法律第123号)11条は「登記は,登記官が登記簿に登記事項を記録することによって行う。」と規定しています。)

 不動産の登記といえば,まず民法(明治29年法律第89号)177条が想起されます。同条は,大学法学部の学生にとっての民法学習におけるつまづゆうなるものの一つではないでしょうか。

 

 (不動産に関する物権の変動の対抗要件)

 第177条 不動産に関する物権の得喪及び変更は,不動産登記法(平成16年法律第123号)その他の登記に関する法律の定めるところに従いその登記をしなければ,第三者に対抗することができない。

 

この民法177条に関する知識は,それを持っていると他人を出し抜くことができる法律の知識の典型のような感じが初学者にはするでしょう。

 

・・・甲乙の売買契約により甲の土地の所有権は乙に移転するというのが民法の原則であるが,甲はなお同じ土地について丙と有効に売買契約を結べる。

しかし,土地の所有権はひとつであるから,たとえ有効な売買契約が2つあっても2人の買主がともに所有権を取得するというわけにはいかない。そこで,このとき乙と丙のどちらが勝つかを決めておく必要がある。ひとつの考え方として,甲が乙に売ったことにより乙が所有権者となり,丙は無権利者甲からの買主であるから所有権を取得できない,と考えることも可能である。しかし,民法は,不動産については登記の先後で決めることにした(177条)。つまり,丙が甲から先に登記の移転を受けると,乙に優先するのである。したがって,結果的に,甲乙の売買による所有権の移転は確定的なものではなかったことになる。このときの登記を対抗要件と呼び,二重譲渡のように対抗要件で優先劣後を決める問題を対抗問題という・・・(内田貴『民法Ⅰ 総則・物権総論』(東京大学出版会・1994年)53頁)。

2 「誰も自己の有する以上の権利を他人に移転できない」 

「ひとつの考え方として,甲が乙に売ったことにより乙が所有権者となり,丙は無権利者甲からの買主であるから所有権を取得できない,と考えることも可能である。」というのならばその考え方を素直に採用すればよいではないか,と考えたくなるところです。

 

  ・・・ものによっては,うっかりすると〔民法典には書かれていないけれども,条文と同じ価値をもっているような法命題・準則に〕気が付かないことがあります。「誰も自己の有する以上の権利を他人に移転できない」の原則などです。私自身の学生時代の経験をいいますと,この命題は,民法では教わった記憶がなく――居眠りをしていたのかもしれませんが――ローマ法の講義と,ドイツ法の講義で教わったことを覚えています。(星野英一『民法のもう一つの学び方(補訂版)』(有斐閣・2006年)93頁)

 

「誰も自己の有する以上の権利を他人に移転できない」ということであれば,ますます売買の先後で決めればよいではないか,登記の先後で出し抜くことを認めるとは,制度を知らない普通の人間は損をするみたいでいやらしいなぁ・・・などという違和感を抱懐し続けると,法律学習から脱落してしまう危険があります。

3 フランス法における制度の変遷

しかしながら,実際に,「甲が乙に売ったことにより乙が所有権者となり,丙は無権利者甲からの買主であるから所有権を取得できない,と考え」,そのように民法を制定した例があります。1804年のナポレオンの民法典です。

 

  〔意思主義と対抗要件主義の組合せという我が国のやり方は,〕フランス民法に由来するが,フランスでは,1804年の民法典においては,177条にあたる規定がなく,先に買った者が,万人に対する関係で完全に所有権を取得し,後から買った者は負けるということになっていた。(星野英一『民法概論Ⅱ(物権・担保物権)』(良書普及会・1980年)40頁)

 

 ところが,ナポレオンの民法典における上記制度は,甥のナポレオン3世の時代に現在の日本のやり方の形に変更されます。

 

 しかし,これでは,不動産を占有するので所有者だと信じて買ったり,これに抵当権をつけても,先に買った者がいるならばこれに負けることになり,非常に取引の安全を害する。そこで,約50年後の1855年に,先に買っても,登記をしないと後から買って登記をした者に負けるということにした。取引の安全を保護するための制度だが,第三者の保護に値する事情を考慮せず,権利取得者でも登記を怠った者は保護されないという面から規定したのである。ただ,その結果,不動産を買おうとする者は,売主に登記があるならば,これを買って登記を自分に移せば,先に買った者があっても安心だ,ということになった。日本民法は,フランスにおける50年の発展の結論だけをいわば平面的に採用したのである。そのために,わかりにくい制度となっているが,この沿革を考えれば,たやすく理解できるであろう。(星野・概論Ⅱ・4041頁)

 

 「たやすく理解できるであろう」といわれても,まだなかなか難しい。


4 フランス1855年3月23日法

ところで,フランスの民法典(Code Civil)の本体が1855年に改正されたかといわれれば,そうではありません。1855年3月23日法という特別法が制定されています。

同法の拙訳は,次のとおり。(同法はフランス政府のLegifranceサイトでは見ることができませんので,ここで紹介することに何らかの意義はあるのでしょう。条文の出典は後出のトロロンのコンメンタールです。同法の概要については,つとに星野英一「フランスにおける不動産物権公示制度の沿革の概観」(1954年10月のシンポジウム報告に手を加えたもので初出1957年)同『民法論集第2巻』(有斐閣・1970年)49頁以下において紹介されています。なお,同法は現在は1955年1月4日のデクレ(Décret n˚ 55-22 du 4 janvier 1955)に代わっています。当該デクレについては,星野英一「フランスにおける1955年以降の不動産物権公示制度の改正」(初出1959年)同・論集第2巻107頁以下を参照ください。)

 

第1条 財産の状況に係る次に掲げる事項は,抵当局において(au bureau des hypothèques)謄記される(sont transcrits)。

 一 不動産の所有権又は抵当に親しむ物権(droits réels susceptibles d’hypothèque)の移転を伴う生者間における全ての証書による行為(acte)〔筆者註:acteには,行為という意味と証書という意味とがあります。星野「沿革」・論集第2巻95頁等の整理では,フランス法において登簿されるacteとは証書のことであるとされています。

 二 上記の権利の放棄に係る全ての証書による行為

 三 前各号において示された性質の口頭合意(une convention verbale)の存在を宣言する全ての裁判(jugement

 四 共有物競売(licitation)において共同相続人の一人又は共有者の一人のためにされるもの(celui rendu … au profit d’un cohéritier ou d’un copartageant)を除く全ての競落許可(adjudication)の裁判〔筆者註:「共同相続人または共有者間における分割のための競売・・・において共有者の一人が競落人となったときは除かれる」のは,「共有分割と同じ関係だから」だそうです(星野「沿革」・論集第2巻52頁)。「相続財産の分割については,分割部分を受けた者は初めからその部分につき単独で直接に被相続人から相続したことになり(民883条),分割は最初からのこの状態を確認するにすぎないもので,移転行為でなく確認行為であると解されている。この理は一般原則であるとされ」ているそうです(星野「沿革」・論集第2巻54頁)。〕

 

第2条 次に掲げる事項も同様に謄記される。

 一 不動産質権(antichrèse),地役権(servitude),使用権(usage)及び住居権(habitation)の設定に係る全ての証書による行為(Tout acte constitutif)〔筆者註:我が民法の不動産質権のフランス語訳は,富井政章及び本野一郎によれば,droit de gage sur les immeublesです(第2編第9章第3節の節名)。使用権及び住居権についいては,星野「沿革」・論集第2巻48頁註11において「使用権とは,他人の物の使用をなしうる権利であり(もっとも,収益を全くなしえないのか否かの点,および,なしうるとしてその範囲につき,問題がある),住居権とは,他人の家屋を使用しうる権利である。」と説明されています。我が旧民法財産編(明治23年法律第28号)110条1項には「使用権ハ使用者及ヒ其家族ノ需要ノ程度ニ限ルノ用益権ナリ」と,同条2項には「住居権ハ建物ノ使用権ナリ」と定義されています。〕

 二 上記の権利の放棄に係る全ての証書による行為

 三 当該権利の口頭合意による存在を宣言する全ての裁判

 四 18年を超える期間の賃貸借(les baux

 五 前号の期間より短い期間の賃貸借であっても,3年分の期限未到来の賃料又は小作料(fermages)に相当する金額の受領又は譲渡(quittance ou cession)を証する全ての証書による行為又は裁判

 

第3条 前各条に掲げる証書による行為及び裁判から生ずる権利は,謄記されるまでは,当該不動産に係る権利を有し,かつ,法律の定めるところに従い当該権利を保存した(qui les ont conservés)第三者に対抗することができない(ne peuvent être opposés)。

謄記されなかった賃貸借は,18年の期間を超えて第三者に対抗することは決してできない(ne peuvent jamais)。

 

 第4条 謄記された証書による行為の解除(résolution),無効(nullité)又は取消し(rescision)の全ての裁判は,確定した日から1月以内に,登記簿にされた謄記の欄外に付記されなければならない(doit…être mentionné en marge de la transcription faite sur le registre)。

   当該裁判を獲得した代訴人(avouéは,自ら作成し,かつ,署名した明細書(un bordereau)を登記官(conservateur)に提出して当該付記がされるようにする義務を負い,違反した場合においては100フランの罰金(amende)を科される。登記官は,代訴人に対して,その明細書に係る受取証(récépisséを交付する。

 

 第5条 登記官は,請求があったときは,その責任において,前各条において規定された謄記及び付記に係る抄本又は謄本を発行する(délivre…l’état spécial ou général des transcriptions et mentions)。

 

 第6条 謄記がされてからは,先取特権者又はナポレオン法典第2123条〔裁判上の抵当権〕,第2127条〔公正証書による約定抵当権〕及び第2128条〔外国における契約に基づく抵当権〕に基づく抵当権者は,従前の所有者について(sur le précédent propriétaire)有効に登記(inscription)をすることができない。〔筆者註:裁判上の抵当権については,「裁判上の抵当権とは,裁判を得た者のために,債務者の財産に対して法律上当然に発生する抵当権であって,法定抵当権におけると同様,債務者の現在および将来のすべての不動産に対して効力が及ぶものである」と説明されています(星野「沿革」・論集第2巻23頁註6)。〕

   しかしながら,売主又は共有者は,売買又は共有物の分割から45日以内は,当該期間内にされた全ての証書による行為の謄記にかかわらず,ナポレオン法典第2108条〔不動産売買に関する先取特権〕及び第2109条〔共有物分割に関する先取特権〕により彼らが取得した先取特権を有効に登記することができる。

   民事訴訟法第834条及び第835条は,削除される。〔筆者註:星野「沿革」・論集第2巻26頁にこの両条の訳がありますが,民事訴訟法834条によれば,抵当不動産譲渡及びその謄記があってもその後なお2週間はナポレオン法典2123条,2127条及び2128条に基づく当該譲渡前の抵当権者は登記ができるものとされていました(ただし,2108条及び2109条の権利者を害することを得ない。)。〕

 

 第7条 ナポレオン法典第1654条〔買主の代金支払債務不履行に基づく売主の売買契約解除権〕に規定する解除は,売主の先取特権の消滅後は,当該不動産に係る権利の移転を買主から受け,かつ,当該権利の保存のための法律に従った第三者を害する場合は行うことができない。

 

 第8条 寡婦(veuve),成年者となった未成年者,禁治産の宣告の取消しを受けた禁治産者,これらの者の相続人又は承継人が婚姻の解消又は後見の終了後から1年以内に登記しなかった場合においては,上記の者の抵当は,第三者との関係においては,その後に登記がされた日付のものとする(ne date que du jour des inscriptions prises ultérieurement)。〔筆者註:この条は,妻並びに未成年者及び成年被後見人の法定抵当権(登記を要しなかった(ナポレオンの民法典2135条)。)に関する規定であって,「法定抵当権とは,法律上当然に一定の債権について与えられるもので(2117条1項),妻がその債権等につき夫の財産に対して有するもの,未成年者および禁治産者がその債権等につき後見人の財産に対して有するもの,国,地方公共団体および営造物がその債権等につき収税官吏および会計官吏の財産に対して有するもの,の3種がある(2121条)。」と紹介されています(星野「沿革」・論集第2巻22‐23頁註6)。なお,星野「沿革」・論集第2巻51頁は,この1855年3月23日法8条について「1年内に登記をしないともはや第三者に対抗することができない。」と記しています。〕

 

 第9条 妻(les femmes)がその法定抵当を譲渡し,又は放棄することができる場合においては,それらの譲渡及び放棄は公署証書(acte authentique)によってされなければならず,並びに譲受人は,彼らのためにされた当該抵当の登記によらなければ,又は既存の登記の欄外における代位の付記(mention de la subrogation)によらなければ,第三者との関係においては,当該権利を取得することができない。

   譲渡又は放棄を受けた者の間における妻の抵当権の行使の順位は,登記又は付記の日付によって定まる。

 

 第10条 この法は,1856年1月1日から施行する。

 

 第11条 上記第1条,第2条,第3条,第4条及び第9条は,1856年1月1日より前に確定日付を付された証書による行為及び下された裁判には適用されない。

   それらの効果は,その下でそれらが行われた法令による。

   謄記はされていないが前記の期日より前の確定日付のある証書による行為の解除,無効又は取消しの裁判は,この法律の第4条に従い謄記されなければならない。

   その先取特権がこの法律の施行の時に消滅している売主は,第三者に対して,ナポレオン法典第1654条の規定による自らの解除(l’action résolutoire qui lui appartient aux termes de l’article 1654 du Code Napoléon)を前記の期日から6月以内にその行為を抵当局に登記することによって保存することができる。

       10条により必要となる登記は,本法律が施行される日から1年以内にされなければならない。当該期間内に登記がされないときは,法定抵当はその後にそれが登記された日付による順位を得る(ne prend rang que du jour où elle ultérieurement inscrite)。

   贈与(donation)に係る,又は返還を条件とする規定(des dispositions à charge de rendre)を含む証書による行為の謄記に関するナポレオン法典の規定については従前のとおりである(Il n’est point dérogé aux)。それらの規定は,執行を受け続ける(continueront à recevoir leur exécution)。

 

 第12条 特別法により徴収すべき手数料(droits)が定められるまでは,証書による行為又は裁判の謄記であって,この法律の前には当該手続に服するものとされていなかったものは,1フランの定額手数料と引き換えにされる。

  

 「謄記」という見慣れぬ用語については,次の説明を御覧ください。

 

・・・「謄記transcription」と「登記inscription」の使い分けについてである。transcriptionとは文字通りには転記することであるが,フランスにおける不動産の公示は,原因証書(売買契約書)の写しを綴じ込むことによって行われており,原因証書とは別に権利関係が登録されるわけではない。transcriptionという用語はこのことを示すものである。(大村敦志『フランス民法』(信山社出版・2010年)148頁)

 ただし,謄記の方法が,文字どおりの証書の筆写(transcription)から当事者によって提出された証書を編綴するシステムになったのは,1921年7月24日法(Loi relative à la suppression du registre de la transcription et modifiant la loi du 23 mars 1855 et les art. 1069, 2181 et 2182 du Code civil),1921年8月28日命令(Décret fixant le type et le coût des formules destinées à la rédaction des documents déposés aux conservations des hypothèques)及び192110月6日命令(Décret fixant le prix des bordereaux de transcription hypothécaire)による制度改正がされてからのことです(星野「沿革」・論集第2巻7778頁。また,同「改正」・論集第2巻111頁)。


5 トロロンのコンメンタール 

1855年3月23日法については,第二帝政フランスの元老院議長にして破毀院院長(Premier Président)たるレイモン=テオドール・トロロン(Troplong)によるコンメンタールであるCommentaire de la Loi du 23 mars 1855 sur la Transcription en Matière Hypothècaire≫(抵当関係謄記に関する1855年3月23日法逐条解説)1856年にパリのCharles Hingrayから出ており,これは現在インターネット上で読むことができます。実に浩瀚なものです。おしゃれたるべき書籍の狙いや書籍としての編集上の事由から一次資料に基づく整理の多くを削除するような横着なことをすることなく,むしろ長過ぎる(trop long)くらいのこのような大著を出す西洋知識人の知的タフネスには,非常に知識に富んでいて聡明である程度であるところの我が国の一部学者諸賢では太刀打ちできないものでしょうか。無論,仕事に厳しい法律実務家は,婦女子生徒にもめちゃくちゃフレンドリーであるというようなことはなく,かえって迷惑がられ,悪くすると嫌われてしまうのでしょうが。

そのトロロンによる1855年3月23日法第3条解説の冒頭部分(167169頁)を以下訳出します。

 

142. 第3条は,謄記(transcription)の効果を定める。

 ナポレオン法典の原則によれば,合意(consentement)は,当事者間においても,第三者との関係でも,所有権(propriété)を移転せしめる。売買は,その締結により,買主を所有者とする。権利を失った売主(le vendeur dépouillé)は,譲渡された不動産に係る何らの権利ももはや与えることはできない。このように,誠実(la bonne foi)は欲するであって,そこからのインスピレーションがこの制度(ce système)の導き(guide)となったのである。売買について知らずに,所有者だと思って売主と取引をした者は,買主に対して何らの権利も絶対的に有さない。本人(leur auteur)が有する以上の権利を人々は取得することはできない。当該本人は,既に権利を失っているので,彼らに何も移転することはできないのである。

 唯一,約定(convention)が証明されなければならない。しかして,第三者との関係では,証書(acte)は,確定日付あるものとなった時から(du moment où sa date est certaine)しかその示す約定の存在を証明しないのである〔筆者註:ナポレオン法典1328条が「私署証書は,第三者に対しては,それらが登録された日,それらに署名した者若しくは署名した数名中の一人の死亡の日又は封印調書若しくは目録調書のような官公吏によって作成された証書においてそれらの内容が確認された日以外の日付を有さない。」と規定していました。〕。したがって,第三者との関係では,所有権の移転は,その先行性の証明となる証書の存在という条件の下に置かれることになる。同一の財産に係る2名の前後する買主の間においては,契約書が先に確定日付を受けた者が他の者に対して勝つのである。これが,ナポレオン法典による立法に基づく状況である。これが,1855年3月23日法まで支配した理論である。

 

143. しかしながら,不動産信用の必要(les nécessités du crédit foncier〔なお,「フランスでは1852年に抵当貸付銀行(Crédit foncier)というものができ」たそうです(星野英一「物権変動論における「対抗」問題と「公信」問題」同『民法論集第6巻』(有斐閣・1986年)145頁)。また,星野「沿革」・論集第2巻49頁(ここでは「土地信用銀行」と訳されています。)参照〕によって起動されたものであるこの法律は,前記の原則に抵触し,ナポレオン法典はその点において重大な変更を被ることとなった。もちろん,当事者及び彼らの承継人間においては,所有権の変動は常に合意のみによって行われるのであって,ナポレオン法典の母なる理念(l’idée mère),すなわち深く哲学的かつ倫理的な理念(idée profondément philosophique et morale)は,その全効力の中に存続する。しかしながら,第三者との関係においては,以後変動は,公の登記簿に証書が謄記されることによって(par la transcription du titre sur un registre public)初めて達成されるのである。謄記がされるまでは,売主は,当事者及び彼らの包括承継人(leurs successeurs universels)以外の者との関係では所有権の属性(les attributs de la propriétéを保持している。彼によって第三者に移転され,かつ,しかるべく正規化された(dûment régularisés)権利は,時期的には先行していてもその証書をいまだに謄記していなかった買主に対して対抗することができるのである。買主は,それらその契約を公告した第三者に対して,当該本人(son auteur)は彼自身有していなかった権利を彼らに移転することはできなかったのだと言うことをもはや許されない。買主は,少なくとも第三者との関係では,謄記によって日付をはっきりさせず(en ne prenant pas date contre lui par la transcription),売主は権利を失っていないと公衆が信ずることを正当化してしまった(en autorisant)ことによって,売主がそれらの権利をなお有するものとしたのである(l’a laissé investi de ces droits)。彼は,競合する権利に対抗されることによって被った損害について,自分のみを(à lui seul)及びその懈怠を(à sa négligence)咎めるべきである(doit imputer)。

 以上からして,所有権の移転は,現在は二重の原則によって規律されていることになる。当事者間においては,それは合意から生ずる。第三者との関係では,証書の謄記をもってその日付とする(elle ne date que de la transcription du titre)。同一の不動産に係る物権を主張する2名の間では,公示の法律に先に適合するようにした者が(celle qui se sera conformée la première à la loi de la publicité),その主張について勝利を得るのである。

 

144.以上のように論じたところで(Ceci posé),当該状況下においては,通常の理論では単なる承継人であって本人を代表し(représentant son auteur)かつ譲渡人の写し絵(image du cédant)であるところの者が,他の者のためにされた当該本人に由来するところの行為(les actes émanés de cet auteur)を争うことのできる第三者となるように見える。周知のとおり,当該二重効(ce dualisme)は,法においては新奇なものではない。どのようにして同一の個人が,ある場合には譲渡人の承継人であり,他の場合にはそうではないこととなり得るかについては,他の書物で示し置いたところである。

 難しい点は,どのような場合に第三者の利益が生じ,どのような他の場合に1855年3月23日法にかかわらずナポレオン法典の規定がそのまま適用される(demeure intacte)かを知ることにある。

 まず,買主は,その契約書を謄記していなくとも,売主に対しては,取得した不動産を請求する権利を有する。公示の規定は,このような仮定例のために設けられたものでないことは明白である。当事者は彼らの締結した契約を知らないものではなく,かつ,彼らに関しては公告は無用のものである。

 

 星野英一教授の以下のような論述には,上記トロロンの説明を彷彿とさせるものがあるように感じられます。

 

  ・・・つぎの疑問が出るかもしれない。甲は乙に完全に所有権を移したのなら,丙に移すべき権利を持っていないではないかということである。この点の説明は難しいように見えるが,実はなんのこともない。甲乙間において乙に完全に所有権が移っているということは,乙は甲に対して所有権から生ずる法律効果を主張でき,甲は乙に対して所有権から生ずる効果を主張できない,ということである。しかし,乙は丙に対しては所有権から生ずる効果を主張できないのであり,その限りで,乙の権利は不完全なものであり,甲になにものか,つまり,丙に登記を移転し,その結果乙が丙に所有権を対抗できなくなって,結局丙が完全な意味で所有権者になるようにすることのできる権能が残っている,ということである。(星野・概論Ⅱ・39頁)

 

  所有権を,ある物質的存在のように考えると,ある物の所有権はどこかにしかないことになり,甲から乙に移った以上甲から丙には移りえない,ということにもなりそうだが,所有権とは,そのような存在でなく,要するに誰かが他の人にある法律効果を主張するさいの根拠として用いられる観念的存在にすぎない。故に,乙は甲に対しては所有権を主張しうるが,丙に対してはそう主張できない,甲は乙に対しては所有権を主張できないが,丙に対してはこれを移転しうる,と考えることになんらおかしなところはないのである。このことは,所有権に限ったことではなく,法律概念にはこのようなものが多い。その実体化(物質的存在のように考えること)は誤りであることをはっきり弁えなければならない。どうしても実体的に考えたいのなら,先に述べたように乙の持っている「所有権」は,完全なものでなく「所有権マイナスα」であり,甲にαが残っている,といえばよい。そのαは,強力なもので,丙に移転され登記がされると,乙にある「所有権マイナスα」を否定する力を有するというわけである。いったん甲から乙に所有権が完全に移転する以上,甲にはもはやなにも残らないから,二重譲渡は論理的に不可能である,などといわれ,この点を説明しようとして,古くから色々の説が唱えられており,最近も新しい説が出ている。しかし,そもそもをいえば,もしも176条しかないならば二重譲渡は不可能だが,177条,178条がある以上,そんなことはなく,そのような説明は不要なのである。(星野・概論Ⅱ・3940頁)

 

 未謄記の買主間における優劣に関するトロロンの次の議論も面白いところです(177頁)。

 

 151. 謄記をしていない買主間においては,一方から他方に対して1855年3月23日法が援用されることはできない。なおもナポレオン法典の規律下にあるところであって,他方との関係における証書の日付の先行性によって紛争は解決せられるのである。第2の買主は,空しく第1の買主に対して言うであろう。もしあなたがあなたの取得を公示していたのならば,私は購入することはなかったでしょう,あなたの落ち度(faute)が私を誤りに陥らせたのです,と。第1の買主は論理的に(avec raison)答えるであろう。現在の原則によれば,あなたの購入を他のだれよりも先に謄記したときにならなければ,あなたは所有権について確実なものと保証されていないのです。で,あなたは何もしていませんでしたね。

 

 6 「日本民法の不動産物権変動制度」講演その他

 トロロンのコンメンタールの第151項を読んで面白がるのはméchantでしょうか。しかし,大村敦志教授の著書に次のようなくだりがあるところが,筆者の注意を惹いたのでした。

 

  ・・・〔不動産物権変動におけるフランス法主義に関する研究者である〕滝沢〔聿代〕はここ〔「法定取得+失権」説と呼ばれる滝沢の見解〕から重要な解釈論的な帰結を導く。それは,「第一譲渡優先の原則」あるいは「非対称性の法理」とでも言うべき帰結である。滝沢によれば,第二買主は登記を備えることによって初めて権利を取得するのであり,登記以前に所有権を有するのは第一買主である。第一買主は登記を備えた第二買主に対抗することはできないが,第二買主が登記を備えるまでは第一買主はその権利を対外的に主張できるというのである。つまり,双方未登記の第一買主と第二買主とでは前者が優先する,言い換えれば,両者の立場は対等ではないというわけである。

  以上に対して,星野〔英一〕は異を唱えた(星野「日本民法の不動産物権変動制度」同『民法論集第6巻』〔1986,初出は1980〕)。星野の論点は次の3点にあった。一つは,議論の仕方についてである。滝沢のような議論はフランスではなされていないのであり,無用の法律構成であるというのである。もう一つは,歴史的な経緯の異同についてである。フランスでは,意思主義は1804年の民法典によって,対抗要件主義は1855年の登記法によってそれぞれ導入されたのに対して,日本では,両者は同時にセットとして民法典に書き込まれたことを重視すべきであるというのである。それゆえ最後に,フランス法では第一買主と第二買主の地位が非対称であるとしても,日本では両者を対称的に考えるべきであるというのである。(大村150頁)


 ここで大村教授は星野教授の「日本民法の不動産物権変動制度 ――母法フランス法と対比しつつ――」講演を典拠として挙げていますが,同講演において星野教授が滝沢説(ないしはその方法)に「異を唱えた」という部分は,筆者の一読したところ,以下のようなものでした。

 

 ・・・先に述べたような立場〔「・・・プロセスとしてどうしても,文理解釈,論理解釈といわれる操作から出発し,つぎに立法者や起草者がどう考えたかを探究し,進んで立法にさいしてもととなった外国法やその歴史に遡って調べなければなりません。これは,少なくとも学者にとって必要な作業です。これらの基礎的な作業を経たうえで,現在の立場から,先に述べた利益考量・価値判断をするわけです。その論証のしかたとしては,たとえば,日本の民法は,立法者の考え方そして立法のもととなっている外国法によれば,こういうもの,こう解釈されるべきものであった,しかし現在においては,社会情勢が立法者の前提としていたところと変わっていたり,人々の考え方が変わっているので,今日ではそれは取り得ない,としたうえで,現在の解釈としてはこうあるべきだ,というふうに論ずるわけです。」という立場〕から日本民法を理解するために,その沿革,そしてフランス民法の沿革に遡ったよい研究をした滝沢助教授が,この点〔二重譲渡の可能性の説明〕になると一転して――というより実はそもそも同氏の問題意識というか問題の出発点がそこにあるのですが――,フランスの学者もほとんど問題にしていないところの――このことは同氏の研究からも明らかです――二重譲渡の可能性ないし第二買主の権利取得の説明に苦心しているのは,やや一貫しない感があります。ここでも,というよりここでこそ――というのは日本民法もこの点では同じ,というより始めから二つの規定〔176条及び177条〕を併存させているのですから――,もっとあっさりと,フランス式で押しとおすほうが当初の方法に忠実であり,すなおではなかったか,と思われるのです。つまり,同助教授はせっかく立派な実証的研究をしているのに,ドイツ法学的(?)問題意識をもってフランス法をかなり強引に利用したように思われます。それとも,日本の学説が盛んに議論している問題だから,日本に密着した問題だということでしょうか。それなら一応わかりますが,日本の学界において盛んに問題とされているものがあまり問題とするほどのものではない〔すなわち,「どちらの問題〔二重譲渡の説明及び物権の「得喪及ヒ変更」の範囲〕についても,文理解釈・論理解釈ではわからないため,立法者,起草者,場合によりそのもととなった法律に遡らねばならないので,それなしの議論は,いわば砂上の楼閣になりかねないのです。率直に言って,従来の議論は,我妻〔榮〕先生のものでさえその辺が不十分で,現在もその弱い基盤の上に議論されているために,迷路に陥っている感がありました。」という情況〕,ということを外国法を参考にして明らかにするのも重要な意義のあることであり,私はこの問題についてはむしろそれが必要だと考えるものです。しかし,これも法律学の任務に関する考え方の違いによるものでしょうか。ただ,少なくとも,前述したやや一貫しない感じの所についての説明は必要でしょう。(星野・論集第6巻9495頁,107108頁)

 

上記部分は,「滝沢〔聿代「物権変動における意思主義・対抗要件主義の継受(一)~(五完)」法学協会雑誌93巻9号,11号,12号,94巻4号,7号(昭和5152年)〕によって,ようやく論議のためのほぼゆるぎない基礎が確立されたといってよい,ただ後に二,三の点について述べるように,同論文にもなおこの点〔立法者・起草者,そのもととなった外国法に遡った議論〕でも若干の不統一ないし不徹底が見られるのは惜しい。」(星野「日本民法の」・論集第6巻97頁註8)とされた「二,三の点」に係るものでしょう。

なお,星野教授も,滝沢「物権変動における意思主義・対抗要件主義の継受」論文を引用しつつ,「同条〔民法177条〕をあえて説明すれば,物権を取得しても登記をしないでいて第三者が登記をすると失権する規定だともいえましょう」と述べています(星野「日本民法の」・論集第6巻115頁)。また,「同条〔民法177条〕は物権を取得したが登記を怠った者の懈怠を咎めるという客観的意味を持つ規定だといってもよいでしょう。」との星野教授の理解(星野「日本民法の」・論集第6巻115頁)は,トロロンの前記コンメンタール第143項第1段落の最終部分と符合するようですが,この点に係る「民法の起草者もそんなことは言っていない」との石田喜久夫教授の批判に関し星野教授は,「民法の構造に立った理解として,滝沢助教授および私の理解以外にうまい理解のしかたがほかにあれば再考するにやぶさかではない。」と述べています(星野「日本民法の」・論集第6巻121頁註9)。少なくともこれらの点においては,星野教授は滝沢説に「異を唱えた」ものではないでしょう。(なお,石田教授と星野教授とは,「私どもは,公刊された文章でかなり厳しい批判をしあいました。契約の基本原理から,多方面の解釈論に及びます。個人的な会話においても悪口をいいあっていましたが,学者としても,人間としても,互いに尊敬しあい,心が通じていたからだと信じています。」という間柄でした(星野英一『法学者のこころ』(有斐閣・2002年)288頁)。)

 そもそも1977年2月11日に広島市における全国青年司法書士連絡協議会大会おいてされた星野教授の「日本民法の不動産物権変動制度」講演は,「幸い,この点に関する優れた研究〔滝沢「物権変動における意思主義・対抗要件主義の継受(一)~(五完)」〕が最近発表されましたので,これを参考にしながらお話を進める」こととしたというものでした(星野・論集第6巻89頁)。(なお,大村敦志=道垣内弘人=森田宏樹=山本敬三『民法研究ハンドブック』(有斐閣・2000年)103頁においては,「二重譲渡において双方未登記の場合,フランスでは第一譲受人が優先するとされるのに対して,日本では双方とも相手方に優先しないとされる」というのが星野教授の認識であったとされています(下線は筆者によるもの)。)

 

7 第三者の善意要件に関して 

 なお,ボワソナアドの旧民法財産編350条1項は「第348条ニ掲ケタル行為,判決又ハ命令ノ効力ニ因リテ取得シ変更シ又ハ取回シタル物権ハ其登記ヲ為スマテハ仍ホ名義上ノ所有者ト此物権ニ付キ約束シタル者又ハ其所有者ヨリ此物権ト相容レサル権利ヲ取得シタル者ニ対抗スルコトヲ得ス但其者ノ善意ニシテ且其行為ノ登記ヲ要スルモノナルトキハ之ヲ為シタルトキニ限ル」と規定して,第三者に善意を要求していました。初学者的には違和感の無い結果となったようです。しかしながら,いろいろ問題があるということで当該規定は現行民法には採用されなかったのでしょうか。残念ながら本稿においては,そこまで現行民法の編纂過程を調べて論ずるには至らなかったところです。(この点については,多田利隆西南学院大学法科大学院教授の「民法177条と信頼保護」論文(西南学院大学法学論集47巻2=3号(2015年)129頁以下)において現行民法の起草者である穂積陳重,富井政章及び梅謙次郎の見解が紹介されており(「不動産登記が「公益ニ基ク」公示方法として十分な効果をあげるためには「絶対的」のもの〔「第三者の善意・悪意に応じて取り扱いを分けるという相対的な取り扱いはしないということ」〕でなければならないからだというのである」(穂積について),「其意思ノ善悪ニ関シテ争議ヲ生シ挙証ノ困難ナルカ為メニ善意者ニシテ悪意者ト認定セラルルコト往々コレナキヲ保セズ。故ニ法律ハ第三者ノ利益ト共ニ取引ノ安全ヲ保証スルタメニ上記ノ区別ワ採用セザリシモノト謂ウベシ」(富井の『民法原論 第二巻 物権』における記述の紹介)及び「実際には善意・悪意の区別は困難であって,第三者によって物権変動を認めたり否定したりすると「頗ル法律関係ヲ錯雑ナラシムルモノニシテ実際ノ不便少カラス」,したがって,「第三者ノ善意悪意ヲ問ハス登記アレハ何人ト雖モ之ヲ知ラスト云フコトヲ得ス登記ナケレバ何人モ之ヲ知ラサルモノト看做シ畢竟第三者ニ対シテハ登記ノ有無ニ因リテ権利確定スヘキモノトセル」立場を採用したのだと説明」(梅の『民法要義 巻之二 物権篇』の記述に関して)),「そこでは共通して,本来であれば善意の第三者のみを保護すべきであるが,公示制度の実効性を高めることや,善意・悪意をめぐる争いの弊害を防ぐことなど,実際上あるいは便宜上の理由によって,具体的な善意要件は掲げなかったことが説かれている」と総括されています(131‐133頁)。)
 ところで,トロロンは前掲書において1855年3月23日法第3条に関してつとに次のように述べていました(229230頁)。

 

 190.謄記を援用する者に対してはまた,それは悪意(mauvaise foi)によってされたものであると主張して対抗することができる。しかし,ここでいう悪意とは何を意味するのであろうか?

取り急ぎ述べれば,謄記されていない先行する売買に係る単純な認識(la simple connaissance)は,同一の不動産を新たに買った者を悪意あるもの(en état de mauvaise foi)とはしない。このことは,贈与の謄記に関して,既に確立されたものとなっている。しかして共和暦13年テルミドール3日に破毀院は,ブリュメール法〔共和暦7年ブリュメール11日(179811月1日)の抵当貸付法(Loi de crédit hypothécaire)であって,同法の内容については星野「沿革」・論集第2巻9頁・13‐14頁註5を,所有権の移転を第三者に対抗するためには謄記が必要であるとする同法の規定がナポレオンの民法典においては採用されなかった経緯については星野「沿革」・論集2巻16頁・17頁註5註6(「ある者は,不注意か手違いのためであろうかと疑い,ある者は,部会が最後の瞬間に思い直して意見を変えたのであろうか,という」)を参照〕を適用してそのように裁判している。

  「(同院は当該判決(arrêt)においていわく)最初の売買が謄記されておらず,かつ,したがって所有権の移転がない限りにおいては,既に他者に売られていることを知り得た不動産を買う者を不正行為(fraude)をもってとがめる(accuser)ことはできない。法律によって提供された有利な機会から利益を得ることは不正行為ではないからである(car il n’y a pas fraude à profiter d’un avantage offert par la loi)。しかして,証書を謄記させるために同様の注意(une égale dilligence)を用いなかったのならば,最初の買主は自分自身を咎めるべきである。」

  しかしながら,第2の買主は,第1の買主が自らの懈怠によるというよりも売主によって第2の買主と共謀の上(avec complicité)共同してされた陰謀(une manœuvre concertée)の犠牲者であるという場合においては,第1の買主を裏切る(tromper)ために売主によって企まれた(machinée)不正行為に加担したものである。この場合においては,著しく格別な悪意(la plus insigne mauvaise foi)による行為(acte)を謄記によって掩護(couvrir)せしめることは不可能である。この意見は,新法を提案するに当たっての政府のものである。実際に,提案理由中には次のようにある。「同一の不動産又は同一の物権について同一の権利者(propriétaire)によって2ないしは多数の譲渡(aliénations)がされた場合においては,最初に謄記されたものが他の全てのものを排除する(exclurait)。ただし,最初に当該手続(cette formalité)を充足した(a rempli)者が不正行為(fraude)に加担していない(n’eût participé)ときに限る。」と。


弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

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1 契約書チェックと「直接損害」

 企業法務の仕事の一環として,契約書のチェックがあります。

 契約書のチェックをしていて悩まされる問題は多々ありますが,次のような条項がいつも出て来るので,当該条項をどう解釈すべきか,修正すべきか否か,修正するのならどのようにすべきか,という問題が,皆さん頭痛の種となっているのではないでしょうか。

 

 (損害賠償)

第〇条 甲又は乙は,相手方が本契約に違反したことにより損害を被ったときは,相手方に対して被った直接損害に限り賠償請求をできるものとする。

 

 筆者において下線を付した「直接損害」なるものの概念が,分からないのです。

 

2 法令用語辞典・法律学辞典及び不法行為法学・債権総論と「直接損害」

 契約書案を持ち込んで来た悩みなき担当者は,「弁護士なのに「直接損害」の意味すら分からないんですか?」というような様子をしているので,こちらはなかなか弱音を吐けず,まずは自分で調べることになります。しかし,法令用語辞典・法律学辞典の類,更に不法行為法学及び債権総論の書物からは,はかばかしい解決が得られません。

 

(1)法令用語辞典

 吉国一郎等編『法令用語辞典<第八次改訂版>』(学陽書房・2001年)においては,「直接強制」,「直接請求」及び「直接選挙」の語は解説されているのですが,「直接損害」の語は取り上げられておらず,ついでながら「間接損害」も掲載されていません。同書は,内閣法制局関係者が執筆しているものですので,すなわちこれは,「直接損害」は我が国の法令用語ではないということでしょうか。

 

(2)法律学辞典と会社法学上の「直接損害・間接損害」

 金子宏等編集代表『法律学小辞典 第4版補訂版』(有斐閣・2008年)には,「直接損害」について定義があるのですが,株式会社の取締役,会計参与,監査役,執行役又は会計監査人の損害賠償責任に関する講学上の概念であって,契約当事者間一般における債務不履行による損害賠償の範囲に係る法令上の概念とはいえないようです。同辞典における「直接損害」の定義は,次のとおり。

 

  株式会社の役員等(会社423①)の悪意・重過失による任務懈怠(けたい)によって第三者が直接に損害を被った場合のその損害をいう。任務懈怠により株式会社に損害が生じ,その結果として第三者が損害を被るわけではない点で,間接損害と区別される。会社法429条1項(役員等の第三者に対する損害賠償責任)にいう「損害」には,直接損害と間接損害のいずれも含まれるというのが,判例である(最大判昭和441126民集23112150)。(金子等編871頁)

 

 会社法(平成17年法律第86号)423条1項は,株式会社の取締役,会計参与,監査役,執行役又は会計監査人をもって同法第2編第4章第11節(役員等の損害賠償責任)における「役員等」であるものと定義しています。また,同節はまず役員等の株式会社に対する損害賠償責任について規定していますから(同法423条以下),ここでの「第三者」とは当該役員等がその機関であるところの株式会社以外の者ということになります。

 会社法429条1項は「役員等がその職務を行うについて悪意又は重大な過失があったときは,当該役員等は,これによって第三者に生じた損害を賠償する責任を負う。」と規定しています。(他の役員等も当該損害を賠償する責任を負うときは,これらの者は連帯債務者となります(同法430条)。)

 第三者に「直接損害」(「典型的には,会社が倒産に瀕した時期に取締役が返済見込みのない金銭借入れ,代金支払の見込みのない商品購入等を行ったことにより契約相手方である第三者が被る損害である。」)を被らせる(会社には損害が無い。)役員等の悪意・重過失による任務懈怠は,当該任務懈怠行為における「契約相手方に対する不法行為(民709条)にも当たり得るが(最判昭和47・9・21判時68488頁),判例によれば,不法行為は第三者に対する加害についての故意・過失を要件とするのに対し,この責任は,取締役の会社に対する任務懈怠についての悪意・重過失を要件とする点が異なるという(最判昭和441126民集23112150頁)。」と説明されています(江頭憲治郎『株式会社法 第6版』(有斐閣・2015年)505頁)。

 

(3)不法行為法学における「間接損害」

債務不履行ならぬ不法行為に関する我が法学用語には,「間接損害」というものがあります。

 

 直接には甲に対する加害行為がなされることによって,同時に,かねてから甲と特別の社会関係に立っている乙にも――この甲乙間の社会関係を媒介として――損害を与える,という場合がある。このような場合に,加害者は,甲に対する不法行為責任のほかに,乙に対する関係においても不法行為を負うべき場合があるのか。あるとすれば,それはいかなる要件のもとにおいてであり,またこの責任と,甲に対する責任とはいかなる関係に立つのかという〔問題を,〕「間接損害」ないし「間接被害者」と不法行為の問題,とよぶこともできよう。具体的には,甲の生命や身体が侵害されたことにより近親者乙がある種の損害を受けた場合〔略〕,および甲の生命・身体が侵害されることにより,甲の雇主たる乙企業が企業独自の損害――いわゆる「企業損害」――を受けた場合〔略〕,が主として問題になる。(幾代通著・徳本伸一補訂『不法行為法』(有斐閣・1993年)245頁)

 

とはいえ,この「間接損害」の概念も確乎としたものではなく,「企業損害」だけを「間接損害」の語で呼ぶこともあれば,「間接損害」の語を避けて「反射損害」の語を用いる学者もいるそうです(幾代246頁)。

「間接損害」以外の損害を「直接損害」ということにして,上記の不法行為法学的用法をパラレルに契約当事者間の債務不履行の場面に当てはめると,債務者の債権者に対する債務不履行によって当該債権者に対して与えられた損害は全て「直接損害」ということになって,わざわざ「直接」との形容詞を付する必要はなさそうです。前記条項の「相手方に対して被った直接損害に限り賠償請求をできるものとする。」との規定の意味は,債権者は自分以外の者に生じた損害の賠償を請求することはしない,という当たり前のことを確認した規定ということになります。面白くないですね。
 なお,不法行為法の議論においては,次のような指摘もあります。


  ・・・同一主体に生ずる損害としては,たしかに交通事故などの場合には,最初にまずごく単純明快な「直接的」といえるような損害が生じ,ついでこの損害があったということが原因(の一つ)となって後続の「間接的」損害が発生する,という場合が多いけれども,不法行為一般についてみれば,必ずしもこのような態様のものばかりとはかぎらない。一被害主体にとっての最初の損害それ自体が,加害者(と擬せられる者)の行為から発して必ずしも直線的でない複雑で複合的な事実的因果関係の連鎖によって初めて生ずる,という場合もある。このような場合をも視野に入れて考察するとき,「直接的結果(損害)」「間接的結果(損害)」という区分の実用法学上の有用性には疑問をいだかざるをえないのである。(幾代129頁)

 

(4)債権総論

不法行為ではなく,債務不履行により生じた損害に係る「直接損害」概念について説いた書物はないものか,ということで,我妻榮『新訂債権総論(民法講義Ⅳ)』(岩波書店・1972年)の事項索引に当たってみると,そこには「直接損害」も「間接損害」も見出しとして掲げられてはいません。内田貴『民法Ⅲ債権総論・担保物権』(東京大学出版会・1996年)の事項索引にも「直接損害」は見出しとなっておらず,「間接損害」とあるのはそこでも不法行為法上の概念としての掲載です(同書173175頁)。

どうもよく分からない。

 

3 小説的会話

 

「この,「直接損害」って何ですか。」

「えっ,先生は弁護士なんだから御存知なんじゃないですか。」

「いや,日本の法学上は,株式会社の役員等の第三者に対する損害賠償責任の場面において「直接損害」と「間接損害」との区別が論じられたり,不法行為法における「間接損害」の取扱いが問題になったりしていますけれども,債務不履行により生じた損害の賠償の範囲について「直接損害」が云々という議論はちょっと聞いたことがないですねぇ。うーん,民法416条では,第1項で「債務の不履行に対する損害賠償の請求は,これによって通常生ずべき損害の賠償をさせることをその目的とする。」と,第2項で「特別の事情によって生じた損害であっても,当事者がその事情を予見し,又は予見することができたときは,債権者は,その賠償を請求することができる。」と規定しているんですが,第1項の損害は「通常損害」,第2項の損害は「特別損害」と呼ばれていて,「直接損害」の語は用いられていないんですよねぇ。契約書のこの「直接損害」条項は,民法416条とどう違うことになるんですかねぇ。」

「私は存じ上げません。先生がお考え下さい。」

「えっ。しかし,私にはこの「直接損害」の意味が分からないんで,困りましたねぇ。ここは日本民法416条の原則にそのまま乗っかってしまうことにして,この「直接損害」云々が含まれている条項はいっそ削ってしまいましょうか。契約書にわざわざ書かなくても,債務不履行によって債権者に損害を与えたら債務者は損害賠償しなきゃならないということは民法上当り前のことでしょう。」

「いや,契約書に書いておかないと,相手方が損害賠償に応じてくれない可能性があります。」

「(そんな屁理屈をこきそうな困った相手と何で契約を結ぶのかなぁ。)うーん,この条項は,あなたの部の契約書では昔から使っているんでしょ。」

「そうです。」

「そうだとしたら,昔からいる人もいるんでしょうから,だれか部内で「直接損害」の意味を知っている人はいませんかねぇ。」

「当部は法務部ではありません。」

「しかし,意味の分からぬ契約書をそのまま長いこと使っていたんですか。ちょっとこれは変だとか,気持ち悪いとか思わなかったんですか。」

「先生,細かいですねぇ。契約書なんてだれも細かく読みませんよ。」

「(うっ,それなら何で契約書のチェックを求めて来るんだろう。)困りましたねぇ。契約書はビジネスの基本ツールなんだけど,御存知ない,でやってこられましたか。困りましたねぇ。」

「先生,あなたは私たちが長年やってきたことを馬鹿にされるのですか。」

「いやいや,そんなことはありません。ただちょっと困っているだけです。(その「長年」のうちにだれかちゃんと調べてくれればよかったのになぁ。みんな長年しあわせに,何を考えて仕事をしていたのかしら。)・・・そうですねぇ,この「直接損害」の概念って,英文契約書の翻訳あたりからウィルスのように日本国内向けの契約書に侵入した,っていうことはないでしょうかね。その辺分かるような英文契約書とかその参考書とか,心当たりはありませんか。」

「何で契約書チェックを受けるのに,英文契約についてまでこちらで調べなければならないんですか。先生,それって,パワハラじゃないですか。」

「いやいや,パワハラなど滅相もない。(危ない,危ない,パワハラ認定がされると干されてしまう。)」

「先生は,英語はできないんですか。先生は,超一流法律事務所の先生方と違って,ナニが高くないって聞いてますからね,困りましたねぇ。」

「はは・・・。(良心的報酬額設定がかえって仇となるのかい。)」

「とにかく先生,こちらは締切りが迫っているんです。急いでいるんで早くチェックを済ませてください。先生のせいでみんなが迷惑するんです。」

「ははははいーぃ。」

 

4 英米法

 筆者が英米法の法律辞典類を見て,direct damagesとかdirect lossの定義を調べてみても,はっきりとしたことは分かりませんでした。

 ところが,最近某得意先企業の空いている役員室で作業をさせてもらっているとき,そこに置いてあった英米法辞典を見てピンと来るものがありました。(なお,この英米法辞典は,後で確認しましたが,Black’s Law Dictionaryの第10版ではありませんでした。)

 

 「これはやはり,Hadleyじゃないかな。」

 

(1)ハドリー事件判決と日本民法416

 我が民法(明治29年法律第89号)416条の規定がそれに由来する(平井宜雄『損害賠償法の理論』(東京大学出版会・1971年)146‐158頁参照)イングランドにおける1854年2月23日(嘉永七年二月二十三日ならば横浜応接所でペリー持参の献上品である汽車模型が円型レールで試運転された日なのですが,日本におけるその日はグレゴリオ暦では1854年3月21日です(『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年))。)のHadley v. Baxandale判決は,代表的民法教科書の一つにおいて,次のように紹介されています。

 

 ・・・ハドリー事件とはどのような事案だったのだろうか。原告Xは製粉所を経営していたが,製粉機の回転軸(クランク・シャフト)が壊れて製粉機が動かなくなったので,その回転軸を遠方にある機械製作所に見本として送って,新しい回転軸を作ってもらうことにした。そこで,運送会社Yに対し,その運搬を依頼したが,Yの懈怠のために運送が遅れ,結局新しい回転軸は予定より数日遅れて届くことになった。その結果,その間Xの製粉所は操業の停止を余儀なくされ,操業していたら得られたであろう利益を失った。これを賠償請求したのが,この事件である〔略〕。

  〔原審はXの請求を認容したが,控訴審の本件〕判決は,契約違反に対する損害賠償を,契約締結時に当事者が予見しえた範囲に限定すべきだとし,当該回転軸がなければXの工場が操業を停止せざるを得なくなるかどうかは,Yにはわからなかったとして(予備の回転軸がある場合もあるから),結論的にはXの請求を認めなかった。(内田148頁)

 

我が民法416条1項の通常損害の賠償請求には債権者による「予見可能性の立証は不要であるが,〔同条2項の〕特別損害なら,債権者の方で「特別の事情」の予見可能性を立証する必要がある」とされています(内田149頁)。民法「416条で予見の対象となっているのは,「特別の事情」であって「損害」そのものではないことは,文言上も明らかである」ところです(内田149頁)。民法416条2項の予見の主体である「当事者」は,富井政章及び本野一郎のフランス語訳では“les parties”と複数の両当事者とされていますが(《Code Civil de L’Empire du Japon 1896》(新青出版・1997年)),判例・通説上は債務者とされ(内田151頁),予見の時期は,Hadley判決では契約締結時とされていましたが,我が判例・通説上は履行期ないしは不履行時とされています(内田152頁)。

 

(2)英米法学におけるハドリー事件判決解説と直接損害(Direct Damages)概念

英米法の法律家はどう言っているものかと“Hadley v. Baxandale”でインターネット検索をすると,カリフォルニア大学バークレー校ボールト・ホール法科大学院のメルヴィン・アロン・エイゼンバーグ教授の「ハドリー対バクセンデール原則」という論文が見つかりました(Melvin Aron Eisenberg, The Principle of Hadley v. Baxendale, 80 CAL. L. REV. 563 (1992))。以下同教授の当該論文により,ハドリー対バクセンデール事件及び判決並びにそこにおいて表明された原則を見てみましょう(なお,同教授は,「ハドリー対バクセンデール原則」のAufhebenを主張しています。)。

事件について。新しいシャフトの原型とすべく(as a pattern)壊れたクランク・シャフトが送られた先は,原製作者であるグリニッジのJoyce & Co.という会社でした。(なお,原告の製粉所はGloucesterにありました。)原告はその従業員を,Pickford & Co.の商号で営業している大きな運送事業者の現地事務所に行かせ,当該従業員はピックフォードの事務員に製粉所が止まったからシャフトは直ちに送られなければならないと告げたところ,当該事務員は正午までにシャフトを預かればその翌日にはグリニッジに届くと答えました。その翌日正午前に当該シャフトはピックフォードに委ねられ,ハドリーは運送賃として2ポンド4ペンス(追記:川元主税「ハドレイ対バクセンデール再読」名城法学6834号(2019年)45頁によれば,2ポンド4シリングを支払いました。ピックフォードの事務員は,急いで送ってくれと告げられています。しかしながら,運送は何らかの懈怠("by some neglect”)によって5日間遅れます。ピックフォードは荷物をロンドンに送ったのですが,シャフトをロンドンからグリニッジに直ちに鉄道で転送せずにそのまま数日止め置き,別の鉄製品と一緒に運河でジョイスに送ったのでした。その結果,製粉所は5日間余計に操業ができませんでした。原告(複数形になっています。(追記:当該製粉所は,Joseph及びJonahのハドリー兄弟によって経営されていました(川元43頁)。)300ポンドの損害賠償を請求したところ,一審判決(陪審)は100ポンド分を認容しました。(Eisenberg pp.563-564(追記:陪審員評議の結果認められた損害賠償額は,実は50ポンドであったようです(川元56頁,溜箭将之「損害賠償の範囲」『アメリカ法判例百選』(有斐閣・2012年)206頁)。)

ハドリーの製粉所の名前はCity Steam-Mills,ピックフォードの経営者がバクセンデールです(溜箭206頁)。(追記:川元44頁註67によれば,当該製粉所の名前は,正確にはCity Flour Millsです。

(なお,止まってしまった機械を製粉機ではなく「製麺機」であると紹介する書物もありますが(北川善太郎=潮見佳男「§416(損害賠償の範囲)」『新版注釈民法(10)Ⅱ債権(1)債権の目的・効力(2)』(有斐閣・2011年)334頁),ハドリーの製粉所で機械が止まって供給できなくなった商品は“flour, sharps, and bran”(小麦粉,(小麦の)二番粉及びぬか・ふすま)とされていて(Eisenberg p.564),パスタ類は挙げられていません。)

ところが,原告にとって,控訴(追記:正確には,陪審のした事実審理の再審理を求める申立てがされたということです(川元57頁)。)審の判決(Hadley v. Baxandale (1854), 9 Exch. 341, 156 Eng. Rep. 145)はがっかりものでした。

 

 〔控訴を受けた〕Exchequer Chamber1873年にCourt of Appealとなります(田中英夫『英米法総論上』(東京大学出版会・1980年)164頁)。(追記:ハドリー事件が取り扱われたのはCourt of Exchequer(財務府裁判所)であって,Exchequer Chamberではなく,「なお,ハドレイ事件の裁判所をCourt of Exchequer Chamber(財務府会議室裁判所)とする誤記が時折みられるが,これは中央裁判所〔財務府裁判所,王座裁判所(Court of King’s Bench)及び民訴裁判所(Court of Common Pleas)〕の判決に対する誤審審理を行う上訴裁判所(判決を下した裁判所以外の2つの裁判所の裁判官で構成される)であり,まったくの別物である」そうです(川元47頁註78)。)〕は判決を覆した。しかしながら,〔損害の〕遠隔性の理論(theory of remoteness)によってではなかった。その代わり,当該裁判所は,契約違反(a breach of contract)によって損害を被った(injured)当事者は,「自然に,すなわち,通常のことの成り行きによって生ずるものと・・・合理的に認められる(“reasonably be considered … [as] arising naturally, i.e., according to the usual course of things”」べきものである損害(damages)又は「当該契約の違反による蓋然的結果として,契約の締結時において両当事者の予期するところにあったものと合理的に想定され(reasonably be supposed to have been in the contemplation of both parties, at the time they made the contract, as the probable result of the breach of it”)」得るものである損害のみを回復することができると述べた。裁判所は,原告はいずれのテストも満足させることができなかったものと結論した。当該裁判所の判決の二つの肢(the two branches of the court’s holding)は,ハドリー対バクセンデールの第1及び第2のルール(the first and second rules of Hadley v. Baxandale)として知られるようになった。(Eisenberg p.564

 

ハドリー対バクセンデールの第1ルールは我が民法416条1項(「債務の不履行に対する損害賠償の請求は,これによって通常生ずべき損害の賠償をさせることをその目的とする。」)に,同第2ルールは同条2項(「特別の事情によって生じた損害であっても,当事者がその事情を予見し,又は予見することができたときは,債権者は,その賠償を請求することができる。」)に対応するものであることは明らかです。ただし,ハドリー対バクセンデールでは,予期の対象は損害であって損害の原因たる事情の予見は問題になっておらず,予期の主体は契約の両当事者,予期の時期は契約の締結時です。

しかして,エイゼンバーグ論文の次の一節に至って,「直接損害」概念の英米法的淵源を尋ねんとする筆者の肩の荷は下りたのでした。

 

ハドリー対バクセンデールの二つのルールの基礎の上にあって,契約法は,伝統的に,一方における一般又は直接損害general or direct damages)と他方における特別又は派生損害(special or consequential damages)とを区別してきた。一般又は直接損害は,買主〔債権者〕に係る特有の事情とは関係なく所与のタイプの不履行から生ずる損害である。一般損害の賠償は,ハドリー対バクセンデールの原則によって妨げられることは全くない。定義それ自体によって,そのような損害は「自然に,すなわち,通常のことの成り行きによって当該不履行から生ずるものと・・・合理的に認められる」べきものだからである。例えば,売主が物品売買契約に係る債務を履行しなかったときには,買主は,契約代金額と市場価格又は代替品の価格との差額に等しい損害を被るということは自然の成り行きである。この差額は,通常,一般損害として回復され得る。(Eisenberg p.565。下線による強調は筆者)

 

 何のことはない,実は「直接損害(direct damages)」≒「民法416条1項の通常損害(le préjudice qu’entraînerait l’inexécution, d’après le cours ordinaire des choses (富井=本野訳))」だったのでした。

 (なお,平井204頁は「イギリスにおいて,Hadley v. Baxendaleのルールは,動産売買法Sale of Good[s] Act (1893)が制定されるに及んでその51条および54条として規定されている。すなわち,51条1項は売主が買主に対し引渡をせず又は拒んだ場合において買主は損害賠償の訴を提起できる旨を定め,同2項はこの場合における賠償の範囲が売主の契約違反から事物の通常の経過にしたがって直接的かつ自然的に生じた損失であるべき旨を定める。〔略〕54条は,これに加えて特別損害の賠償を請求する買主の権利がこの法律によって影響を受けない旨を定めているのである。」と紹介しています(下線は筆者によるもの)。1893年法51条2項の文言は“The measure of damages is the estimated loss directly and naturally resulting, in the ordinary course of events, from the seller’s breach of contract.”というものです。ここで“direct”が副詞形で出てきています。Hadley v. Baxendaleでは“naturally, i.e., according to the usual course of things”であったものが,“directly and naturally, i.e., in the ordinary course of events”とパラフレーズされたものと解すべきなのでしょう。)


5 フランス民法

 我が民法416条のフランス語訳における“d’après le cours ordinaire des choses”と英語のaccording to the usual course of thingsとはよく似た表現ですが,これは,ハドリー対バクセンデール事件判決の理論が,「フランスのポチェという学者(フランス民法典に大きな影響を与えた学者)の理論の影響を受けているといわれ」ている(内田148頁)からでもあるのでしょうか。(なお,ポチェから英米法への影響は,スコットランド経由だったようです。すなわち,「Hadley事件の6年前にスコットランドの裁判所から貴族院に上告された事件があり,その時コテナム卿(Lord Cottenham)はスコットランド法にもとづいて意見を述べた。スコットランド法は大陸法系に属し,フランス民法に大きな影響を与えたポチエ(Pothier, Traité des Obligations, 1761)の学説にしたがっていた。この意見がHadley事件を審理した財務裁判所に大きな影響を与えたと言われる。」ということでした(平井156頁註(21))。)

 

  (b)〔債務不履行による損害の賠償の範囲〕の点の原則的な考え方および実際の範囲についての立法例は,大別して二つに分かれる。賠償すべき損害の範囲を比較的狭くしているもの(例えば英米,フランス)が多いが,比較的広く,建前としては全損害を賠償すべしとするもの(「完全賠償の原則」などと呼ばれる。ドイツ)もある。前者は,フランスのポチエ(Pothier)という学者(さらに古くはデュムーランDumoulin, Molinaeus)に由来する。ポチエの考えは,原則として債務者が契約時に予見可能であった損害のみ賠償すればよいとすること,故意の不履行の場合については過失による不履行の場合よりも賠償すべき損害の範囲を広くしていること(損害を直接損害・間接損害に分け,前者では間接損害の賠償まで,後者は直接損害の賠償に止まる,とある)に特色がある。後者は,これを批判し,いったん債務者に故意過失があって賠償すべきであるとされた以上は,その範囲は原則として損害のすべてに及ぶとするのが債権者のために必要であるとの立場に立ちつつ,あまり範囲が広がるのは適当でないとして,相当の範囲,つまり「相当因果関係」のある損害の範囲に止めようとするものである。〔略〕

  (c)わが民法は,416条でこれを定めているが,読めばわかるとおり,基本的には前者の立場をとっている。(α)これは,ポチエの影響を受けた英米法を参照にして作られたものである(民法〔34条〕,526条〔略〕などと共に英米法の影響を受けた規定の一つである。)ポチエを祖父とするとその孫ということになり,ポチエの子法であるフランス民法とは叔父おいの関係にあることになる(フランス民法と異なり,直接損害・間接損害の区別をしていない)。〔後略〕(星野英一『民法概論Ⅲ(債権総論)』(良書普及会・1981年)6869頁。下線は筆者によるもの)

 

 フランス法には,「直接損害」と「間接損害」の区別があるようです。しかし,そこでいう「直接損害」は,ハドリー対バクセンデールの第1ルールについていわれる「直接損害(direct damages)」と同じものでしょうか,違うものでしょうか。

当該「叔父」法のフランス民法を見てみようと思いますが,実は同法は昨年(2016年)10月に改正があって,以前とは条文番号がずれたりなどしています。

 

1231条の2(旧1149条) 債権者に対する損害賠償は,以下の例外及び修正を別にして,一般に,その被った損失及び失われた利益についてである。

1231条の3(旧1150条) 不履行が重大な懈怠又は悪意(une faute lourde ou dolosive)によるものではない場合においては,債務者は,契約締結の時に予見され,又は予見されることができた(qui puvaient être prévus)損害賠償の責任のみを負う。

1231条の4(旧1151条) 契約の不履行が重大な懈怠又は悪意によるものである場合であっても,損害賠償は,不履行に接着しかつ直接の結果であるもの以外を含まない(les dommages et intérêts ne comprennet que ce qui est une suite immédiate et direct de l’inexécution)。

 

 債務者が悪意により(à une faute dolosive“dolosif”には仏和辞典的には「詐欺の」との訳語が当てられています。))債務不履行をした場合であっても,損害賠償の対象範囲は「間接損害」にまで及ぶものではなく,なおも「直接損害(une suite immédiate et direct)」にとどまるようです(星野教授による前記ポチエ説紹介の下線部分との関係は,ちょっと分かりづらいところです。)。

 

 〔フランス民法旧1151条(現1231条の4)〕では,間接の結果である損害は排除されている。しかも,フランス民法上,直接損害(dommage direct)は,損害の予見性とともに因果関係の制限の問題として理解されている(イタリア民法1223条も同旨)。直接損害・間接損害の古典的な例として,次のものをあげることができる。病気の馬を給付したところ,買主の所有している他の健康な馬にその病気が感染し,その馬も死亡した場合は,直接損害が発生している。他方,馬の死亡のために,農地の耕作ができず,収入を得られず,他の借金の返済にまわせず,その結果として財産の差押えを受けた場合は,(他の借金を返済できないという損害が生じているため)間接損害が発生している(Pothier, Traité des obligations)。(北川=潮見329頁)

 

  わが民法の起草者は,直接損害・間接損害という区別を〔略〕フランス流に解したうえで,直接の結果か間接の結果かという区別は不明確であるとして排斥した〔略〕。(北川=潮見329頁。また,332333頁)

 

6 民法416条の起草経緯管見

我が現行民法起草前のフランス法学者ボワソナアドによる我が旧民法財産編(明治23年法律第28号)385条は,フランス民法旧1149条から旧1151条に倣って,次のように規定していました。

 

385条 損害賠償ハ債権者ノ受ケタル損失ノ償金及ヒ其失ヒタル利得ノ填補ヲ包含ス

 然レトモ債務者ノ悪意ナク懈怠ノミニ出テタル不履行又ハ遅延ニ付テハ損害賠償ハ当事者カ合意ノ時ニ予見シ又ハ予見スルヲ得ヘカリシ損失ト利得ノ喪失トノミヲ包含ス

 悪意ノ場合ニ於テハ予見スルヲ得サリシ損害ト雖モ不履行ヨリ生スル結果ニシテ避ク可カラサルモノタルトキハ債務者其賠償ヲ負担ス

 

我が旧民法財産編385条3項とフランス民法旧1151条(現1231条の4)との相違は,ボワソナアドによれば「間接の損害とは,たとえば,買主が転売契約上の債務を履行できなくなったために負うに至った巨大な賠償額のようなものであるが,フランス民法がこれを排して,悪意の不履行でも直接の損害に限定しているのは,不履行より直接生じた損害以外のものは義務不履行の確実な結果とはいえないことと,間接の損害は買主が注意すれば避けることができたものと推測されることによる。したがって,直接・間接の結果に代わって,債権者が損害を避けることができたかどうかが範囲決定の標準とされた」ということだそうです(北川=潮見330頁)。

しかし,いわゆる民法典論争を経て旧民法の施行延期,現行民法案の起草という流れとなり,債務不履行による損害の賠償の範囲に関する我が旧民法及び現行民法の各規定間に断絶が生じます。

法典調査会に提出された原案の410条は,次のとおり(北川=潮見332頁。下線は筆者によるもの)。

 

損害賠償ノ請求ハ通常ノ場合ニ於テ債務ノ不履行ヨリ生スヘキ損害ノ賠償ヲ為サシムルヲ以テ目的トス

当事者カ始メヨリ予見シ又ハ予見スルコトヲ得ヘカリシ損害ニ付テハ特別ノ事情ヨリ生シタルモノト雖モ其賠償ヲ請求スルコトヲ得

 

原案410条にも「予見」が出て来ますが,これは旧民法財産編385条の「予見」とは「異なる原理に基づいてい」ました(北川=潮見333頁)。「つまり,旧民法上,過失による不履行は予見された損害または予見可能な損害の賠償責任を生じさせ,故意による不履行は予見することのできなかった損害の賠償責任を生じさせていた(旧民法財産編385Ⅱ・Ⅲ)。これに対して,原案410条は,「債務関係ノ性質ヨリシテ」損害賠償の範囲および額を決めるうえでは,予見を標準とせざるをえないとの理解を基礎に据え,「特別の事情より生じた損害」の予見ないし予見可能性を標準としている(法典調査会民法議事速記録185455丁)。そして,「英吉利(など)ノ有名ナ判決例ノ規則(など)デモ詰リ之ニ帰スルノデアツテ通常ノ結果カラ予見シテ居レバ特別ノ結果デモ之ヲ償フコトヲ要スル如何ニモ穏カナ規則ジヤラウト思ヒマス」(法典調査会民法議事速記録1855丁)と述べられている。」と紹介されています(北川=潮見333334頁)。これは,旧民法では損害の分類基準として「避ク可カラサルモノ」か否か(避ク可カラサルモノであれば「直接損害」として損害賠償の範囲内,避けることができたのなら「間接損害」であって範囲外)をなお採用した上でその「避ク可カラサルモノ」枠内において悪意の無い懈怠者については予見可能性をもって更に損害賠償の範囲を限定するという構造であったのに対し,現行民法416条の原案では,損害賠償の範囲(大枠)自体を予見可能性でもって直接画するということになったということでしょう(「1項には「予見」という字句が入っていないが,「通常生スヘキ損害」は「予見スヘキモノ」(梅〔『民法要義巻之三』〕56)と考えられるものであるという理解からすれば,2項のみならず1項も含めて,「予見」という要素が,賠償されるべき損害の範囲を確定するための標準として捉えられていたとみるのが適切である」(北川=潮見334335頁)。)。「直接損害・間接損害」というフランス民法流の損害区分の概念がここで消えたわけです。

旧民法財産編385条に代わる我が民法「416条は,イギリス法の先例であるハドレー事件に大きく依拠して作られた面がある。1項の通常損害と2項の特別損害の区別は,ヨーロッパ大陸法においては一般的には認められていないものであり,すぐれてイギリス法的な区分であるといえる。」とされていますから(北川=潮見341頁),我が通常損害はハドリー対バクセンデール事件判決以来の英米法的「直接損害(direct damages)」に由来するものであるとしても,ヨーロッパ大陸法の雄たるフランス民法1231条の4的な「直接損害(une suite immédiate et direct)」とは異なることになるのでしょう。すなわち,英米法の「直接損害」とフランス法の「直接損害」とは異なるものとなることになるようです(前者は我が通常損害と親和的であるが,後者はそうではない。)。

 

7 予見可能性の意味をめぐって

 

(1)民法416

ところで,我が民法416条における「予見することができた(予見可能)」(les parties ont…pu prévoir(富井=本野訳))については,「予見可能とは,事実可能ということでなく,予見すべきであるという規範的な意味である」とされています(星野74頁)。しかし,これに対して前田達明教授は,「ハドレー事件,ドイツ法,フランス法は,どれも『事実としての予見可能性』を述べているし,ボアソナード草案405条2項を受けた旧民法財産編385条2項も,それを受けた416条2項も,『事実としての予見可能性』を規定したものとみるのが素直である」と,予見可能性の規範的把握(これでは「極端な言い方をするならば,信義則(1条2項)でもって損害賠償の範囲が定まるというのと同じことになってしまう」)に反対しています(北川=潮見415416頁)。

この論点に関しては,平成29年法律第44号による改正後の民法416条2項は「特別の事情によって生じた損害であっても,当事者がその事情を予見すべきであったときは,債権者は,その賠償を請求することができる。」となりますから(下線は筆者),我が国では規範的把握論者に軍配が上がったようです。(追記:筒井健夫=村松秀樹編著『一問一答 民法(債権関係)改正』(商事法務・2018年)によれば,従来から「裁判実務においては,当事者が特別の事情を実際に予見していたといった事実の有無によるのではなく,当事者がその事情を予見すべきであったといえるか否かという規範的な評価により,特別の事情によって生じた損害が賠償の範囲に含まれるかが判断されていた。」とされています(77頁)。ただし,「例えば,不動産の売主が引渡債務を履行しなかったが,買主は既にその不動産について高額の違約金の定めがある転売契約を結んでいたという事案において,契約の締結後に買主が売主に対してその違約金の定めという特別の事情の存在を告げた場合に,当事者がその事情を予見していたとして,違約金に係る損害が全て賠償の範囲に含まれるとするのは相当でない。この場合に,規範的な評価により判断されると,賠償の範囲は,飽くまでも当事者が予見すべきであったと客観的に評価される事情によって生じた損害に限定される。」という解釈を「条文上も明確化するため」に平成29年法律第44号による改正がされるということは(筒井=村松77頁),従来の裁判実務の追認を超えて,大審院大正7年8月27日判決の判例(不履行時説)を覆して予見又は予見可能性の有無の判断時期を契約締結時に戻すということにもなるのでしょうか。)

 

(2)ハドリー事件判決

しかしながら,予見可能性が規範的に把握されるということは,我が民法416条がハドリー対バクセンデール事件判決の準則からより遠ざかるということにもなりそうです。

実は,ハドリー対バクセンデール事件判決の準則における予見可能性(foreseeability)は,「伝統的」に,「当該損害が予見され得たこと,及びそれ〔当該損害〕が発生する見込み(prospect)が限界的なものを超えており(more than marginal)又は取るに足らないものではない(not insignificant)ことのみではなく,事前的に見て(viewed ex ante),当該損害が結果することが蓋然的probable)又は高度に蓋然的(highly probable)であったことまでをも要求するもの」とされていたのでした(Eisenberg p.567)。「比較的素直に(in a relatively straightforward way)適用された場合であっても,ハドリー対バクセンデール原則は,逸失利益(lost profit)を典型的に排除し(typically cuts off),本来的に損害賠償を制限するものである。」ということになります(Eisenberg p.569)。逸失利益は,special or consequential damagesの典型とされていたのですが(Eisenberg p.565)。

なお,Koufos v. C. Czarnikow Ltd., [1969] 1 App. Cas. 350 [The Heron II] (1967)事件判決においてライド卿は,ハドリー対バクセンデール事件判決におけるオールダソン裁判官の思考を次のように解説します(Eisenberg p.579)。

 

〔彼は,〕明らかに,遅滞が製粉所の操業再開を妨げるだろうということが合理的に予見可能(reasonably foreseeable)ではなかった,ということを言おうとはしていなかったし,言おうとすることはできなかった。彼は単に,非常に多くの(in the great multitude)――これは,私は大多数(the great majority)という意味にとるが――場合には,それは起こらないものである(this would not happen)と述べただけである。彼は,予見できる結果と予見できない結果とをではなく,大多数の場合に生ずるものであるのでありそうな(likely)結果と,極少数の場合(in a small minority of cases)にのみ起るものであるのでありそうにない(unlikely)結果とを区別していたのである。・・・彼は,明らかに,大多数の場合において起る結果は,両当事者の予期の中(in the contemplation of the parties)にあったものと公正かつ合理的に認められるべき(should fairly and reasonably be regarded)であるが,相当な可能性として(as a substantial possibility)予見することはできるが極少数の場合にしか起こらない結果は,彼らの予期の中にあったものと認められるべきではないということを言おうとしていたのである。・・・

  

 ハドリー対バクセンデール事件判決について「今日では,この判例は,Koufos v. C. Czarnikow Ltd., [1969] 1 A.C. 350 [The Heron II]・・・に照らして,理解されなければならない。」とされていますが(田中英夫『英米法総論下』(東京大学出版会・1980年)539頁),なかなか難しい。The Heron II判決は,後にH. Parsons (Livestock) Ltd. v. Uttley Ingham & Co., [1978] 1 Q.B. 791 (Eng. C.A. 1977)において,デニング卿によって次のようにまとめられています(Eisenberg p.580)。

 

  契約違反の場合においては,裁判所は,当該結果が,合理的な人間(a reasonable man)が契約締結の際非常に大きな程度の蓋然性があるものとして(as being of a very substantial degree of probability予期するcontemplate)ようなものであったかどうかを検討しなければならない・・・

  不法行為の場合においては,裁判所は,当該結果が,合理的な人間が不法行為の際上記より相当低い程度の蓋然性があるものとして(as being of a much lower degree of probability予見するforesee)ようなものであったかどうかを検討しなければならない・・・

 

 ちょっとした可能性(possibility)ではだめで,高度の蓋然性(probability)がなければ債務不履行に基づく損害賠償の範囲内に入る前に足切りをされてしまうということでしょうか。契約締結時における予見(foresee)ないしは予期(contemplate)に係る損害の可能性ないしは蓋然性の程度が問題とされているのですね。これに対して我が民法416条では,損害の原因となった事情に係る債務不履行時における予見(prévoir)の有る無しないしは予見の可能性(pouvoir)の有る無しが問題になっているということのようです。

 

8 小括

 要するに,「直接損害」は英文契約書由来の概念であるとの前提で考えれば沿革的には我が民法416条の通常損害に対応するが,必ずしも一致はしない,そこで英米法的なものとして直接理解しようとしてみれば英米法の大変な勉強が必要になってしまってとてもじゃないがやってられない,さりとて日本法においては適当な対応概念が他に見当たらない(フランス法的な直接損害・間接損害の区別は現行民法起草時に放棄されている。),ということでしょう。概念が曖昧な語は,使用しない方が無難だと思うのですが,どうでしょうか。

 

9 ドイツ民法

 最後は附録です。「比較的広く,建前としては全損害を賠償すべしとするもの(「完全賠償の原則」などと呼ばれる。ドイツ)」と紹介されているライン川の向こうのドイツ民法における我が民法416条に係る対応条項を見ておきましょう。(なお,以下の条項は,「ドイツ民法典は,債務法総則の一部として債務不履行であると不法行為であるとを問わず,損害賠償一般に関する通則的規定(249‐255条)を有しており」といわれる(平井23頁)「通則的規定」に当たります。)ただし,翻訳は覚束ないところです。

 

  (損害賠償の(des Schadensersatzes)性質(Art)及び範囲)

 第249条 損害賠償の義務を負う者は,賠償を義務付けることとなった事情(Umstand)が生じなかった場合において存在したであろう状態を回復しなければならない。

 2 人身の傷害又は物の損壊による損害賠償をすべきときは,債権者は,原状回復(Herstellung)に代えてそれに必要な費用の額を請求することができる。物の損壊の場合には,現実に課されたときであって,かつ,その範囲内においてのみ,消費税(Umsatzsteuer)が,前文の必要な金額に含まれる。

  (期間設定後の金銭による損害賠償)

 第250条 債権者は,賠償義務者に対して,当該期間経過後に原状回復を拒絶するために,原状回復のための相当の(angemessene)期間を意思表示により定めることができる。原状回復が適時(rechtzeitig)にされない場合には,当該期間の経過後,債権者は金銭による賠償を請求することができ,原状回復請求権は消滅する(ist ausgeschlossen)。

  (期間設定を要しない金銭による損害賠償) 

251条 原状回復が不可能であるとき,又は債権者の補償(Entschädigung)のために不十分であるときは,賠償義務者は,債権者に対して,金銭で補償しなければならない。

2 原状回復が過大な費用によって(mit unverhältnismäßigen Aufwendungen)のみ可能である場合には,賠償義務者は,債権者を金銭で補償することができる。傷害を負った動物の治療行為(Heilbehandlung)によって生ずる費用は,その価額を著しく超えるだけでは過大ではない(sind nicht bereits dann unverhältnismäßig, wenn sie dessen Wert erheblich übersteigen)。

  (逸失利益)

 第252条 賠償されるべき損害には,逸失利益が含まれる。逸失された利益とは,物事の通常の成り行きに基づき(nach dem gewöhnlichen Lauf der Dinge),又は特別の事情(den besonderen Umständen),特に,執られた手配及び備えに基づき(nach den getroffenen Anstalten und Vorkehrungen),蓋然性(Wahrscheinlichkeit)をもって期待されることができた(erwartet werden konnte)利益である。

  (非物的損害(Immaterieller Schaden))

 第253条 財産上の損害(Vermögensschaden)ではない損害については,法律によって定められた場合にのみ金銭による補償を請求することができる。

 2 身体,健康,自由又は性的自己決定の(der sexuellen Selbstbestimmung)傷害又は侵害によって(wegen einer Verletzung)損害賠償がされるべきときは,財産上の損害ではない損害についても金銭による相当な補償(eine billige Entschädigung)を請求することができる。

  (双方の過失)

254条 損害の発生について被害者の過失(Verschulden des Beschädigten)があったときは(Hat…mitgewirkt),賠償(Ersatz)の義務又はなされるべき賠償の範囲は,どの程度まで損害が一方又は他方当事者によって主に(vorwiegend)生じさせられたかに係る事実を主要なもの(insbesondere)とするところの事情により定まる(hängt von den Umständen)。

2 被害者の過失が,債務者が知ることができず,若しくは知るべきもの(kennen musste)でもなかった特に高額な損害に係る危険(die Gefahr eines ungewöhnlich hohen Schadens)に債務者の注意を喚起しなかったこと,又は損害の回避若しくは減少について懈怠があったこと(dass er unterlassen hat, den Schaden abzuwenden oder zu mindern)に限り存在する場合(darauf beschränkt)においても,前項と同様である。第278条の規定〔履行補助者等の過失に係る債務者の責任〕が,準用される。

 (損害賠償請求権の譲渡)

 第255条 物又は権利の毀損(Verlust)に対して損害賠償(Schadensersatz)を行うべき者は,当該物の所有権又は当該権利の対第三者効に基づき賠償権利者に(dem Ersatzberechtigten)属する請求権の譲渡と引換えにのみ当該賠償の義務を負う。 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

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1 内田貴『民法Ⅳ』と浅田次郎「ラブ・レター」

 東京大学出版会の『民法Ⅰ~Ⅳ』教科書シリーズで有名な内田貴教授は,現在弁護士をされているそうです。

 専ら民事法関係の仕事をされるわけでしょうか(最高裁判所平成28年7月8日判決・判時232253頁の被上告人訴訟代理人など)。しかし,刑事弁護でも御活躍いただきたいところです。

 

 内田貴教授の『民法Ⅳ 親族・相続』(2002年)6364頁に「白蘭の婚姻意思」というコラムがあります。

 

  外国人の日本での不法就労を可能とするための仮装結婚が,ときにニュースになる。そのような行為も目的を達すれば有効だなどと言ってよいのだろうか。ベストセラーとなった浅田次郎の『鉄道員(〔ぽっぽや〕)』(集英社,1997年)に収録されている「ラブ〔・〕レター」という小説が,まさにそのような婚姻を描いている。中国人女性(ぱい)(らん)新宿歌舞伎町の裏ビデオ屋の雇われ店長である吾郎との婚姻届を出し,房総半島の先端付近にある千倉という町で不純な稼ぎをしていたが,やがて病死する。死を前にした白蘭は,会ったこともない夫の吾郎に宛てて感謝の手紙を書いた。遺体を荼毘に付すため千倉に赴いた吾郎はこの手紙を読む。

  さて,白蘭の手紙がいかに読者の涙を誘ったとしても,見たこともない男との婚姻など無効とすべきではないだろうか。

  〔中略〕小説とは逆に,白蘭ではなく吾郎が病死し,法律上の妻である白蘭と吾郎の親〔ママ。小説中の吾郎の夢によれば,吾郎の両親は既に亡くなり,オホーツク海沿いの湖のほとりにある漁村に兄が一人いることになっていました。〕との間で相続争いが生じたとしたらどうだろうか。伝統的な民法学説は,吾郎と白蘭の婚姻は無効だから,白蘭に相続権はないと言うだろう。しかし,たとえ不法就労を助けるという目的であれ,法律上の婚姻をすれば戸籍上の配偶者に相続権が生ずることは当事者にはわかっていたことである。それを覚悟して婚姻届を出し,当事者間では目的を達した以上,評価規範としては婚姻を有効として相続権をめぐる紛争を処理すべきだというのが本書の立場である。つまり,評価規範としては,見たこともない相手との婚姻も有効となりうる。法制度としての婚姻を当事者が利用した以上,第三者が口を挟むべきではない,という考え方であるが,読者はどのように考えられるだろうか。

 

「裏ビデオ屋」であって「裏DVD屋」でないところが前世紀風ですね。(ちなみに,刑事弁護の仕事をしていると,裏DVDに関係した事件があったりします。証拠が多くて閉口します。)

「目的の達成」とか「評価規範」といった言葉が出てきます。これは,婚姻の成立要件である婚姻意思(民法742条1号は「人違いその他の事由によって当事者間に婚姻をする意思がないとき」は婚姻は無効であると規定しています。)に係る内田教授の次の定式と関係します。

 

 「婚姻意思とは,法的婚姻に伴う法的効果を全面的に享受するという意思である。しかし,〔事後的な〕評価規範のレベルでは,たとえ一部の効果のみを目的とした婚姻届がなされた場合でも,結果的に婚姻の法的効果を全面的に生ぜしめて当事者間に問題を生じない場合には,有効な婚姻と認めて差し支えない」(内田63頁)

 

法的婚姻には数多くの法的効果(同居協力扶助義務(民法752条),貞操義務(同法770条1項1号),婚姻費用分担義務(同法760条),夫婦間で帰属不明の財産の共有推定(同法762条2項),日常家事債務連帯責任(同法761条),夫婦間契約取消権(同法754条),相続(同法890条),妻の懐胎した子の夫の子としての推定(同法772条),準正(同法789条),親族(姻族)関係の発生(同法725条),成年擬制(同法753条),夫婦の一方を死亡させた不法行為による他方配偶者の慰謝料請求権(同法711条),離婚の際の財産分与(同法768条)等)が伴いますが,これらの効果は一括して相伴うmenuであって,自分たちに都合のよい一部の効果のみを目的としてà la carte式に摘み食いするわけにはいきません。

吾郎と白蘭としては,白蘭が日本人の配偶者としての地位を得て,出入国管理及び難民認定法(昭和26年政令第319号。以下「入管法」といいます。)別表第2の上欄の日本人の配偶者等としての在留資格に在留資格を変更(入管法20条)することができるようになる効果のみを目的として婚姻届をした(民法739条1項)ということでしょう。
 (なお,婚姻の成立は吾郎については日本民法,白蘭については中華人民共和国民法により(法の適用に関する通則法(平成
18年法律第78号。以下「法適用法」といいます。)24条1項(旧法例(明治31年法律第10号)13条1項)。白蘭には,中華人民共和国の駐日代表機関が発給した証明書の添付が求められることになります(谷口知平『戸籍法』(有斐閣・1957年)107頁参照)。),婚姻の方式は日本民法及び戸籍法により(法適用法24条2項・3項(旧法例13条2項・3項)),婚姻の効力は日本民法による(法適用法25条(旧法例14条))こととなったもののようです。ちなみに,中華人民共和国婚姻法5条は,婚姻は男女双方の完全な自由意思によらなければならない旨規定しています。)

入管法の「「別表第2の上欄の在留資格をもつて在留する者」すなわち地位等類型資格をもって在留する外国人は,在留活動の範囲について〔入管法上〕何ら制限がないので,本法においてあらゆる活動に従事することができ」ます(坂中英徳=齋藤利男『出入国管理及び難民認定法逐条解説(改訂第四版)』(日本加除出版・2012年)366頁)。ただし,日本人の配偶者等の在留期間は,入管法2条の2第3項の法務省令である出入国管理及び難民認定法施行規則(昭和56年法務省令第54号。以下「入管法施行規則」といいます。)3条及び別表第2によれば,5年,3年,1年又は6月となります。入管法20条2項の法務省令である入管法施行規則20条2項及び別表第3によれば,白蘭は,日本人の配偶者等に在留資格を変更する申請をするに当たって,資料として「当該日本人〔吾郎〕との婚姻を証する文書及び住民票の写し」,「当該外国人〔白蘭〕又はその配偶者〔吾郎〕の職業及び収入に関する証明書」及び「本邦に居住する当該日本人〔吾郎〕の身元保証書」の提出を求められたようです。また,在留期間の更新(入管法21条)の都度「当該日本人〔吾郎〕の戸籍謄本及び住民票の写し」,「当該外国人〔白蘭〕,その配偶者〔吾郎〕・・・の職業及び収入に関する証明書」及び「本邦に居住する当該日本人〔吾郎〕の身元保証書」を提出していたことになります(入管法21条2項,入管法施行規則21条2項・別表第3の5)

(なお,入管法20条3項及び21条3項は「法務大臣は,当該外国人が提出した文書により・・・適当と認めるに足りる相当の理由があるときに限り」と規定していますが,文書審査以外をしてはいけないわけではなく,同法20条3項につき「法務大臣は原則として書面審査により在留資格の変更の許否を決定するという趣旨である。しかし,法務大臣が適正な判断を行うために必要と認める場合には入国審査官をして外国人その他の関係人に対し出頭を求め,質問をし,又は文書の提出を求める等の事実の調査(第59条の2)をさせることができるほか,審査の実務においては,任意の方法により外国人の活動実態等を実地に見聞することが行われている。」と説明されています(坂中=齋藤454455頁)。)

内田教授は,「「婚姻には婚姻意思がなければならない(婚姻意思のない婚姻は無効である)」という法的ルールが〔事前の〕行為規範として働く場面では,〔略〕やはりその法的効果を全面的に享受するという意思をもって届出をなすべきであり,単なる便法としての婚姻〔略〕は望ましくないという議論は,十分説得的である。」としつつ,「しかし,ひとたび便法としての婚姻届〔略〕が受理されてしまった場合,この行為をどのように評価するかという局面では別の考慮が働く。たとえ婚姻の法的効果を全面的に享受する意思がなかった場合であっても,当事者が便法による目的をすでに達しており,婚姻の法的効果を全面的に発生させても当事者間にはもはや不都合は生じないという場合には(たとえば,当事者間には紛争がなく,もっぱら第三者との関係で紛争が生じている場合など),〔事後の〕評価規範を〔事前の〕行為規範から分離させて,実質的婚姻意思(全面的享受意思)がなくても婚姻は有効であるという扱いを認める余地がある。〔略〕最判昭和381128日〔略〕は,便法としての離婚がその目的を達した事案であるが,まさにこのような観点から正当化できるのである。」と説いています(内田62頁)。「最判昭和381128日」は,「旧法下の事件であるが,妻を戸主とする婚姻関係にある夫婦が,夫に戸主の地位を与えるための方便として,事実上の婚姻関係を維持しつつ協議離婚の届出を行ない,その後夫を戸主とする婚姻届を改めて出したという事案」であって,「訴訟は,妻の死後,戸籍上いったん離婚したことになっているために戦死した長男の遺族扶助料を受けられなくなった夫が,離婚の届出の無効を主張してものであるが,最高裁は便法としての離婚を有効とした」ものです(内田58頁)。

「〔以上の内田説が採用されたならば〕便法として婚姻届を出すことが増えるのではないかという心配があろう。しかし,〔当事者間で〕もめごとが生ずればいつ無効とされるかもしれないというリスクはあるのであって,それを覚悟して行なうなら,あえて問題とするまでもないだろう。なぜなら,便法としての婚姻届そのものは,道徳的に悪というわけではないからである。」というのが内田貴弁護士の価値判断です(内田63頁)。

 

2 吾郎と白蘭の犯罪

しかしながら,吾郎と白蘭とが婚姻届を出した行為は,「道徳的に悪というわけではない」日中友好のほのぼのとした話であるどころか,犯罪行為なのです。

 

 (公正証書原本不実記載等)

刑法157条 公務員に対し虚偽の申立てをして,登記簿,戸籍簿その他の権利若しくは義務に関する公正証書の原本に不実の記載をさせ,又は権利若しくは義務に関する公正証書の原本として用いられる電磁的記録に不実の記録をさせた者は,5年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。

2 〔略〕

3 前2項の罪の未遂は,罰する。

 

 吾郎と白蘭との婚姻の方式は日本民法及び戸籍法によったものと解されるわけですが,「日本人と外国人との婚姻の届出があつたときは,その日本人について新戸籍を編成する。ただし,その者が戸籍の筆頭に記載した者であるときは,この限りでない。」と規定されています(戸籍法16条3項)。「日本人と外国人が婚姻した場合,婚姻の方式について日本法が準拠法になれば必ず婚姻届が出され,その外国人は日本戸籍に登載されないとしても,この婚姻は日本人配偶者の身分事項欄にその旨の記載がなされるので,婚姻関係の存在だけは戸籍簿上に表示される」ところです(澤木敬郎・道垣内正人『国際私法入門(第4版補訂版)』(有斐閣・1998年)136137頁)。「国籍の変更はないから日本人たる夫或は妻の戸籍に何国人某と婚姻の旨記載する。氏や戸籍の変更はない(夫婦の称する氏欄の記載の要がない)」ところ(谷口107頁),日本国民の高野吾郎と中華人民共和国民の康白蘭とが婚姻したからといって両者の氏が同一になるわけではありません(民法750条どおりというわけにはいきません。ただし,戸籍法107条2項により吾郎は婚姻から6箇月以内の届出で氏を康に変えることができたところでした。)。「外国人にも戸籍法の適用があり出生,死亡などの報告的届出義務を課せられ(日本在住の外国人間の子及び日本在住米国人と日本人間の子につき出生届出義務を認める,昭和24年3月23日民甲3961号民事局長回答),創設的届出も日本において為される身分行為についてはその方式につき日本法の適用がある結果,届出が認められる。但し外国人の戸籍簿はないから,届書はそのまま綴り置き戸籍に記載しない。ただ身分行為の当事者一方が日本人であるときは,その者の戸籍にのみ記載することとなる。」というわけです(谷口5455頁)。

吾郎の戸籍の身分事項欄に当該公務員によって記載又は記録(戸籍法119条1項)された白蘭との婚姻の事実が虚偽の申立てによる不実のものであれば,刑法157条1項の罪が,婚姻届をした吾郎及び白蘭について成立するようです。第一東京弁護士会刑事弁護委員会編『量刑調査報告集Ⅳ』(第一東京弁護士会・2015年)144145頁には「公正証書原本不実記載等」として2008年7月から2013年2月までを判決日とする19件の事案が報告されていますが,そのうち18件が吾郎・白蘭カップル同様の日本人と外国人との「偽装婚姻」事案となっています。大体執行猶予付きの判決となっていますが,さすがに同種前科3犯の被告人(日本人の「夫」)は実刑判決となっています。外国人の国籍は,ベトナム,中華人民共和国,大韓民国,フィリピン及びロシアとなっていて,その性別は女性ばかりではなく男性もあります。

 内田弁護士の前記理論は,見事に無視されている形です。

 実務は次の最高裁判所の判例(昭和441031日第二小法廷判決民集23101894頁)に従って動いているのでしょう。

 

 〔民法742条の〕「当事者間に婚姻をする意思がないとき」とは,当事者間に真に社会観念上夫婦であると認められる関係の設定を欲する効果意思を有しない場合を指すものと解すべきであり,したがってたとえ婚姻の届出自体について当事者間に意思の合致があり,ひいて当事者間に,一応,所論法律上の夫婦という身分関係を設定する意思はあったと認めうる場合であっても,それが単に他の目的を達するための便法として仮託されたものにすぎないものであって,前述のように真に夫婦関係の設定を欲する効果意思がなかった場合には,婚姻はその効力を生じないものと解すべきである。

  これを本件についてみるに,〔中略〕本件婚姻の届出に当たり,XYとの間には, B女に右両名間の嫡出子としての地位を〔民法789条により〕得させるための便法として婚姻の届出についての意思の合致はあったが,Xには,Y女との間に真に前述のような夫婦関係の設定を欲する効果意思はなかったというのであるから,右婚姻はその効力を生じないとした原審の判断は正当である。所論引用の判例〔便法的離婚を有効とした前記最判昭和381128日〕は,事案を異にし,本件に適切でない。

 

 内田弁護士の主張としては,最判昭和441031日の事案では「一方当事者が裏切った」ことによって「便法が失敗」したから「全面的に婚姻〔略〕の法的効果を生ぜしめることは,明らかに当事者の当初の意図に反する。そこで,原則通り行為規範をそのまま評価規範として用いて,結果的に意思を欠くから無効という判断」になったのだ(内田63頁),しかし,最判昭和381128日の事案では問題の便法的離婚について「当該身分行為の効果をめぐって当事者間に紛争が生じた場合」ではなかったのだ(夫婦間で紛争のないまま妻は既に死亡),最判昭和441031日で最高裁判所の言う「事案を異にし」とはそういう意味なのだ,だから,吾郎・白蘭間の「偽装婚姻」被告事件についても当事者である吾郎と白蘭との間で紛争がなかった以上両者の婚姻は有効ということでよいのだ,公正証書原本不実記載等の罪は成立しないのだ,検察官は所詮第三者にすぎないのだからそもそも余計な起訴などすべきではなかったのだ,ということになるのでしょうか。

 (なお,筆者の手元のDallozCODE CIVIL (ÉDITION 2011)でフランス民法146条(Il n’y a pas de mariage lorsqu’il n’y a point de consentement.(合意がなければ,婚姻は存在しない。))の解説部分を見ると,19631120日にフランス破毀院第1民事部は,「夫婦関係とは異質な結果を得る目的のみをもって(ne…qu’en vue d’atteindre un résultat étranger à l’union matrimoniale)両当事者が挙式に出頭した場合には合意の欠缺をもって婚姻は無効であるとしても,これに反して,両配偶者が婚姻の法的効果を制限することができると信じ,かつ,特に両者の子に嫡出子としての地位(la situation d’enfant légitime)を与える目的のみのために合意を表明した場合には,婚姻は有効である。」と判示したようです。)
 (入管法74条の8第1項は「退去強制を免れさせる目的で,第24条第1号又は第2号に該当する外国人を蔵匿し,又は隠避させた者は,3年以下の懲役又は300万円以下の罰金に処する。」と規定していますが(同条2項は営利目的の場合刑を加重,同条3項は未遂処罰規定),入管法24条1号に該当する外国人とは同法3条の規定に違反して本邦に入った者(不法入国者(我が国の領海・領空に入った段階から(坂中=齋藤525頁))),同法24条2号に該当する外国人は入国審査官から上陸の許可等を受けないで本邦に上陸した者(不法上陸者)であって,白蘭は合法的に我が国に入国・上陸しているでしょうから,白蘭との「偽装婚姻」が入管法74条の8に触れるということにはならないでしょう。むしろ,平成28年法律第88号で整備され,2017年1月1日から施行されている入管法70条1項2号の2の罪(偽りその他不正の手段により在留資格の変更又は在留資格の更新の許可を受けた者等は3年以下の懲役若しくは禁錮若しくは300万円以下の罰金又はその懲役若しくは禁錮及び罰金を併科)及び同法74条の6の罪(営利の目的で同法70条1項2号の2に規定する行為の実行を容易にした者は3年以下の懲役若しくは300万円以下の罰金又はこれを併科)が「偽装婚姻」に関係します。「偽りその他不正の手段」は,入管法22条の4第1項1号について「申請人が故意をもって行う偽変造文書,虚偽文書の提出若しくは提示又は虚偽の申立て等の不正行為をいう。」と説明されています(坂中=齋藤489頁)。「営利の目的で」は,入管法74条2項について「犯人が自ら財産上の利益を得,又は第三者に得させることを目的としてという意味」であるとされています(坂中=齋藤1016頁)。入管法74条の6の「実行を容易にした」行為については,「「営利の目的」が要件になっているが,行為態様の面からは何ら限定されていないから,「〔略〕実行を容易にした」といえる行為であれば本罪が成立する。」とされています(坂中=齋藤1027頁)。)


3 婚姻事件に係る検察官の民事的介入

 しかし,検察官は婚姻の有効・無効について全くの第三者でしょうか。

 

(1)検察官による婚姻の取消しの訴え

 

ア 日本

民法744条1項は「第731条から第736条までの規定に違反した婚姻〔婚姻適齢未満者の婚姻,重婚,再婚禁止期間違反の婚姻,近親婚,直系姻族間の婚姻又は養親子等の間の婚姻〕は,各当事者,その親族又は検察官から,その取消しを家庭裁判所に請求することができる。ただし,検察官は,当事者の一方が死亡した後は,これを請求することができない。」と規定しているところです。検察庁法(昭和22年法律第61号)4条に規定する検察官の職務に係る「公益の代表者として他の法令がその権限に属させた事務」に当たるものです。「前記のような要件違反の婚姻が存続することは,社会秩序に反するのみならず,国家的・公益的立場からみても不当であって放置すべきでないため,たとえ各当事者やその親族などが取消権を行使しなくても,公益の代表者たる検察官をして,その存続を解消させるべきだという理由によるものと思われる。」とされています(岡垣学『人事訴訟の研究』(第一法規・1980年)61頁)。

 

イ フランス

 母法国であるフランスの民法では,「婚姻取消の概念はなく,合意につき強迫などの瑕疵があって自由な同意がない場合(同法180条),同意権者の同意を得なかった場合(同法182条)には,その婚姻は相対的無効であり(理論上わが民法の婚姻取消に相当),特定の利害関係人が一定の期間内に無効の訴を提起することができるが,検察官が原告となることはない〔ただし,その後の改正により,第180条の自由な同意の無い場合は検察官も原告になり得ることになりました。〕。これに対して,不適齢婚,〔合意の不可欠性,出頭の必要性,〕重婚,近親婚に関する規定(同法144条・〔146条・146条の1・〕147条・161条‐163条)に違反して締結された公の秩序に関する実質的要件を欠く婚姻は絶対無効とし,これを配偶者自身,利害関係人のほか,検察官も公益の代表者として主当事者(Partieprincipale(sic))となり,これを攻撃するため婚姻無効の訴を提起することができるのみならず,その義務を負うものとしている(同法184条・190条)」そうです(岡垣6162頁)。フランス民法190条は「Le procureur de la République, dans tous les cas auxquels s’applique l’article 184, peut et doit demander la nullité du mariage, du vivant des deux époux, et les faire condamner à se séparer.(検察官は,第184条が適用される全ての事案において,両配偶者の生存中は,婚姻の無効を請求し,及び別居させることができ,かつ,そうしなければならない。)」と規定しています。

 フランスにおける婚姻事件への検察官による介入制度の淵源は,人事訴訟法(平成15年法律第109号)23条の検察官の一般的関与規定(「人事訴訟においては,裁判所又は受命裁判官若しくは受託裁判官は,必要があると認めるときは,検察官を期日に立ち会わせて事件につき意見を述べさせることができる。/検察官は,前項の規定により期日に立ち会う場合には,事実を主張し,又は証拠の申出をすることができる。」)に関して,次のように紹介されています。

 

 〔前略〕フランス法が婚姻事件につき検察官の一般的関与を認めた淵源を遡ると,近世教会法における防禦者(matrimonü)関与の制度にいたる。もともとローマ法には身分関係争訟に関する特別手続がなく,民事訴訟の原則がそのまま適用されており,右の特別手続を定めたのは教会法である。すなわち,近世ヨーロッパでは婚姻事件は教会(教会裁判所)の管轄に属しており,174111月3日の法令をもって,婚姻無効事件には防禦者が共助のために関与すべきものとし,これに婚姻を維持するための事情を探求し,また証拠資料を提出する職責を与えたため,防禦者は事件に関する一切の取調に立ち合うことを必要とした。――今日のバチカン教会婚姻法が,婚姻無効訴訟を審理する教会裁判所は,3名の裁判官,1名の公証人のほかに,被告の弁護人で婚姻の有効を主張して争うことを職務とする婚姻保護官(defensor vinculi)からなるとしているのは(同法1966条以下),この流れを引くものとみられる。――その後婚姻事件に関する管轄が教会から通常裁判所に移るとともに,フランスでは防禦者に代って公益の代表者たる検察官が訴訟に関与するものとされたのである。(岡垣116頁)

 

  フランスでは,人事訴訟のみならず民事事件全般につき,検察官の一般的関与の権限を認める1810年4月20日の法律(Sur l’organization(sic) de l’odre(sic) judiciaire et l’administration de la justice46条が現在でも有効である。検察官は当事者でない訴訟においても,法廷で裁判官に意見を述べるため,従たる当事者(partie jointe)として関与するのである。この関与は原則として任意的であって,検察官はとくに必要であると認めるときでなければ関与しない。しかし,破毀院の事件,人の身分および後見に関する事件その他検察官に対し事件の通知――記録の事前回付――をすべきものと法定されている事件ならびに裁判所が職権をもって検察官に対し通知すべきことを命じた事件(フランス民訴法83条)については,検察官の関与が必要的であって,意見の陳述をなすべきものとされている。(岡垣118頁)

 

  1810年4月20日の司法部門組織及び司法行政に関する法律46条は,次のとおり(どういうわけか,ルクセンブルク大公国の官報局のウェッブ・サイトにありました。)。

 

 46.

  En matière civile, le ministère public agit d’office dans les cas spécifiés par la loi.

  Il surveille l’exécution des lois, des arrêts et des jugements; il poursuit d’office cette exécution dans les dispositions qui intéressent l’ordre public.

(民事については,検察官(le ministère public)は,法律で定められた事件において職責として(d’office)訴訟の当事者となる(agit)。

 検察官は,法律並びに上級審及び下級審の裁判の執行を監督し,公の秩序にかかわる事項における当該執行は,職責として訴求する。)

 

 この辺,現在のフランス民事訴訟法は次のように規定しています。

 

Article 421

Le ministère public peut agir comme partie principale ou intervenir comme partie jointe. Il représente autrui dans les cas que la loi détermine.

(検察官は,訴訟の主たる当事者となり,又は従たる当事者として訴訟に関与することができる。検察官は,法律の定める事件において他者を代理する。)

 

Article 422

Le ministère public agit d’office dans les cas spécifiés par la loi.

(検察官は,法律で定められた事件において職責として訴訟の当事者となる。)

 

Article 423

En dehors de ces cas, il peut agir pour la défense de l’ordre public à l’occation des faits qui portent atteinte à celui-ci.

 (前条に規定する場合以外の場合において,検察官は,公の秩序に侵害を及ぼす事実があるときは,公の秩序の擁護のために訴訟の当事者となることができる。)

 

Article 424

Le ministère public est partie jointe lorsqu’il intervient pour faire connaître son avis sur l’application de la loi dans une affaire dont il a communication.

 (検察官は,事件通知があった事件について法の適用に係る意見を述べるために関与したときは,従たる当事者である。)

 

Article 425

Le ministère public doit avoir communication:

1° Des affaires relatives à la filiation, à l’organisation de la tutelle des mineurs, à l’ouverture ou à la modification des mesures judiciaires de protection juridique des majeurs ainsi que des actions engagées sur le fondement des dispositions des instruments internationaux et européens relatives au déplacement illicite international d’enfants;

2° Des procédures de sauvegarde, de redressement judiciaire et de liquidation judiciaire, des causes relatives à la responsabilité pécuniaire des dirigeants sociaux et des procédures de faillite personnelle ou relatives aux interdictions prévues par l’article L.653-8 du code de commerce.

Le ministère public doit également avoir communication de toutes les affaires dans lesquelles la loi dispose qu’il doit faire connaître son avis.

(次に掲げるものについては,検察官に対する事件通知がなければならない。

第1 親子関係,未成年者の後見組織関係,成年者の法的保護のための司法的手段の開始又は変更関係の事件並びに子供の国際的不法移送に係る国際的及び欧州的文書の規定に基づき提起された訴訟

第2 再生,法的更生及び法的清算の手続,会社役員の金銭的責任に関する訴訟並びに個人の破産又は商法典L第653条の8の規定する差止めに関する手続

それについて検察官が意見を述べなくてはならないと法律が定める全ての事件についても,検察官に対する事件通知がなければならない。)

 

Article 426

Le ministère public peut prendre communication de celles des autres affaires dans lesquelles il estime devoir intervenir.

(検察官は,その他の事件のうち関与する必要があると思料するものについて,事件通知を受けることができる。)

 

Article 427

Le juge peut d’office décider la communication d’une affaire au ministère public.

 (裁判官は,その職責に基づき,事件を検察官に事件通知することを決定することができる。)

 

Article 428

La communication au ministère public est, sauf disposition particulière, faite à la diligence du juge.

Elle doit avoir lieu en temps voulu pour ne pas retarder le jugement.

 (検察官に対する事件通知は,別段の定めがある場合を除いては,裁判官の発意により行う。

 事件通知は,裁判の遅滞をもたらさないように適切な時期に行われなければならない。)

 

Article 429

Lorsqu’il y a eu communication, le ministère public est avisé de la date de l’audience.

 (事件通知があったときには,検察官は弁論期日の通知を受ける。)

 

ウ ドイツ

ドイツはどうかといえば,第二次世界大戦敗戦前は「詐欺・強迫などの事由のある婚姻は取り消しうるものとし,特定の私人が一定の期間内に婚姻取消の訴を提起することができるが,検察官の原告適格を認めていない。しかし,重婚,近親婚などの制限に違反した婚姻は無効とし,該婚姻につき検察官および各配偶者などにその訴の原告適格を認めていた。ところが,〔略〕右の無効原因がある場合につき,第二次大戦後の婚姻法改正によって,西ドイツでは検察官の原告適格を全面的に否定した」そうです(岡垣62頁)。

 

(2)検察官による婚姻の無効の訴え(消極)

 民法742条1号に基づく婚姻の無効の訴え(人事訴訟法2条1号)の原告適格を検察官が有するか否かについては,しかしながら,「民法その他の法令で検察官が婚姻無効の訴について原告適格を有することを直接または間接に規定するものはなく,その訴訟物が〔略〕私法上の実体的権利であることを考えると,民法は婚姻取消の特殊性にかんがみ,とくに検察官に婚姻取消請求権なる実体法上の権利行使の権能を与えたものとみるべきであり,婚姻取消の訴につき検察官の原告適格が認められているからといって,婚姻無効の訴にこれを類推することは許されないというべきである。」と説かれています(岡垣66頁)。

婚姻関係の存否の確認の訴え(人事訴訟法2条1号)についても,「この訴における訴訟物は夫婦関係の存否確認請求権であって,その本質は実体私法上の権利であるところ,民法その他の法令で検察官にその権利を付与したとみるべき規定がないため」,婚姻の無効の訴えについてと同様「この訴についても検察官の原告適格を認めることができないであろう。」とされています(岡垣73頁)。

戸籍法116条2項は,適用の場面の無い空振り規定であるものと解されているところです(法務省の戸籍制度に関する研究会の第5回会合(2015年2月19日)に提出された資料5の「戸籍記載の正確性の担保について」6頁・11頁)。戸籍法116条は,「確定判決によつて戸籍の訂正をすべきときは,訴を提起した者は,判決が確定した日から1箇月以内に,判決の謄本を添附して,戸籍の訂正を申請しなければならない。/検察官が訴を提起した場合には,判決が確定した後に,遅滞なく戸籍の訂正を請求しなければならない。」と規定しています。これに対して,検察官の提起した婚姻取消しの訴えの勝訴判決に基づく戸籍記載の請求に係る戸籍法75条2項の規定は生きているわけです。

 

(3)検察官による民事的介入の実態

 婚姻の無効の訴えについて検察官には原告適格は無いものとされているところですが,そもそも検察官による婚姻の取消しの訴えの提起も,2001年4月1日から同年9月30日までの間に調査したところその間1件も無く,検察庁で「これについて実際にどういう手続をとっているかということも分からない」状態でした(法制審議会民事・人事訴訟法部会人事訴訟法分科会第3回会議(20011116日)議事録)。

 また,検察官の一般的関与について,旧人事訴訟手続法(明治31年法律第13号)には下記のような条項があったところですが,同法5条1項は大審院も「検事ニ対スル一ノ訓示規定ニ外ナラ」ないとするに至り(大判大正9・1118民録261846頁),弁論期日に検察官が出席し立ち会わないことは裁判所が審理を行い判決をするにつきなんらの妨げにもならないとされていたところです(岡垣129頁・128頁)。同法6条については,「人事訴訟手続法6条・26条に「婚姻(又ハ縁組)ヲ維持スル為メ」という文言のあるのは,単に〔当時のドイツ民事訴訟法を範としたという〕沿革的な意味をもつにとどまり,一般に婚姻または縁組を維持するのが公益に合致することが多く,かつ,望ましいところでもあるので,その趣旨が示されているにすぎず,それ以上の意義をもつものではない。したがって,右人事訴訟手続法上の文言にもかかわらず,検察官は婚姻事件および養子縁組事件のすべてにつき,婚姻または縁組を維持する為めであると否とを論ぜず,事実および証拠方法を提出することが可能というべきである。」と説かれていました(岡垣149頁)。要は,旧人事訴訟手続法の規定と検察官の仕事の実際との間には齟齬があったところです。2001年4月1日から同年9月30日までの間に係属した人事訴訟事件について,検察庁は4248件の通知を受けていますが(旧人事訴訟手続法5条3項),「これに対して検察官の方がとった措置というのはゼロ件」でありました(法制審議会民事・人事訴訟法部会人事訴訟法分科会第3回会議(20011116日)議事録)。

 

 第5条 婚姻事件ニ付テハ検察官ハ弁論ニ立会ヒテ意見ヲ述フルコトヲ要ス

  検察官ハ受命裁判官又ハ受託裁判官ノ審問ニ立会ヒテ意見ヲ述フルコトヲ得

  事件及ヒ期日ハ検察官ニ之ヲ通知シ検察官カ立会ヒタル場合ニ於テハ其氏名及ヒ申立ヲ調書ニ記載スヘシ

 

 第6条 検察官ハ当事者ト為ラサルトキト雖モ婚姻ヲ維持スル為メ事実及ヒ証拠方法ヲ提出スルコトヲ得

 

(4)仏独における婚姻の無効の訴え

 

ア フランス

 これに対してフランスはどうか。「フランス民法は,その146条で,合意なきときは婚姻なしと規定し,婚姻は当事者の真に自由な合意の存在を要するという大原則を宣言するとともに,右の規定に違反して締結された婚姻は,前に婚姻取消の関係において述べたと同じく配偶者自身,利害関係人または検察官が主当事者としてこれを攻撃しうべく,検察官は配偶者双方の生存中にかぎって婚姻無効の訴を提起することができ,しかもこれを提起すべき義務を有するとしている(同法184条・190条)。さらに婚姻の形式的要件とされる公開性の欠如または無管轄の身分官吏の面前で挙式された婚姻は,配偶者自身,父母などのほか検察官もこれを攻撃するため,婚姻無効の訴を提起することができるとしている(同法191条)。」と報告されています(岡垣6667頁)。

 

イ ドイツ

 次は,ドイツ。「ドイツでは,もと民事訴訟法632条が婚姻無効の訴につき検察官の原告適格を認めるとともに,1938年の婚姻法は検察官のみが婚姻無効の訴を提起しうる場合,検察官および配偶者の一方が婚姻無効の訴を提起しうる場合,婚姻が当事者の一方の死亡や離婚によって解消後は検察官のみが原告適格を有すること,当事者双方が死亡したときは何びとも訴を提起しえない旨を規定し(同法21条ないし28条。同民訴法632条・636条・628条参照),1946年の婚姻法も手続的には同趣旨の規定をしていた(同法24条。1938年婚姻法28条において,検察官が訴を提起しうる場合についてはナチス的色彩が強度であったが,これが改正された点が著しく異る)。そのほか,同民事訴訟法640条3項後段は,検察官が子の両親に対して,または一方の親の死亡後生存する親に対して婚姻無効の訴を提起した場合に,判決確定前両親が死亡したときは,検察官は婚姻無効の訴を子に対する非嫡出確定の訴に変更すべきものとしていた。しかるに,西ドイツでは第二次大戦後1961年の改正婚姻法が非嫡出子確定の訴を削除したため,それにともなって右の制度も廃止されるにいたった。」とのことです(岡垣67頁)。

 

4 婚姻の無効の性質と刑事訴訟

 婚姻の無効の性質については,「多数説は当然無効説を支持」しているところ(すなわち,裁判による無効の宣言をもって無効となるとする形成無効説を採らない。),「判例も当然無効説に立つ(最判昭和34年7月3日民集13‐7‐905。その結果,人訴法2条1号の定める婚姻無効の訴えは確認の訴えと解することになる。ただし,同法24条により対世的効力がある)」ものとされています(内田82頁)。

 日本の民法の世界では検察官には婚姻の無効の訴えを吾郎及び白蘭を被告として提起する(人事訴訟法12条2項)原告適格はないにもかかわらず,刑法の世界では,婚姻の無効は当然無効であることを前提として,公正証書原本不実記載等の罪の容疑で吾郎及び白蘭を逮捕・勾留した上でぎゅうぎゅう取り調べ,公訴を提起して有罪判決を得て二人を前科者にしてしまうことができるという成り行きには,少々ねじれがあるようです。「婚姻意思」が無い婚姻であっても「社会秩序に反するのみならず,国家的・公益的立場からみても不当であって放置すべきでない」ほどのものではないから婚姻の無効の訴えについて検察官に原告適格を与えなかったものと考えれば,民事法の世界では関与を謝絶された検察官が,刑事法の世界で「夫婦たるもの必ず「食卓と床をともにする関係」たるべし(星野英一『家族法』(放送大学教育振興会・1994年)55頁参照),「社会で一般に夫婦関係と考えられているような男女の精神的・肉体的結合」あるべし(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)14頁参照),「永続的な精神的及び肉体的結合を目的として真しな意思をもって共同生活を営む」べし(最高裁判所平成141017日判決・民集56巻8号1823頁参照)。そうでないのに婚姻届を出したけしからぬ男女は処罰する。」と出張(でば)って来ることにやややり過ぎ感があります。検察官が原告適格を有する婚姻取消事由のある婚姻を戸籍簿に記載又は記録させても,それらの婚姻は取消しまでは有効なので(民法748条1項),公正証書原本不実記載等の罪にならないこととの比較でも不思議な感じとなります。実質的には出入国管理の問題として立件されてきているのでしょうから,今後は入管法70条1項2号の2及び同法74条の6を適用するか(ただし,日本弁護士連合会の2015年3月19日付けの意見書の第2の1(2)は,従来の刑法157条による対処で十分だとしているようではあります。),あるいは後記フランス入管法L623‐1条のような規定を我が入管法にも設けて対処する方が分かりやすいかもしれません。

 
  
5 有罪判決の後始末:戸籍の訂正

 検察官が婚姻の取消しの訴えを提起して勝訴したときについては,前記の戸籍法75条2項が「裁判が確定した後に,遅滞なく戸籍記載の請求をしなければならない。」と規定しています。これに対して,吾郎と白蘭との婚姻が無効であることが公正証書原本不実記載等の罪に係る刑事事件の判決で明らかになり,当該判決が確定した場合は吾郎の戸籍をどう訂正すべきでしょうか。

 戸籍制度に関する研究会の第5回会合に提出された資料5「戸籍記載の正確性の担保について」に「偽装婚姻について,刑事訴訟法第498条第2項ただし書の規定により市区町村に通知があった件数は,統計を開始した平成201218日から平成261231日までの累計で448件に及ぶ。」とありますので(5頁(注17)),「偽装婚姻」に係る公正証書原本不実記載等の罪の裁判を執行する一環として,「〔偽造し,又は変造された〕物が公務所に属するときは,偽造又は変造の部分を公務所に通知して相当な処分をさせなければならない。」との刑事訴訟法498条2項ただし書に基づく処理をしているようです。(この「公務所への通知も,没収に準ずる処分であるから,押収されていると否とにかかわらず,490条および494条の規定に準じて,検察官がなすべきである。」とされています(松尾浩也監修・松本時夫=土本武司編集代表『条解刑事訴訟法 第3版増補版』(弘文堂・2006年)1008頁)。)通知を受ける公務所は上記会合に提出された参考資料6「戸籍訂正手続の概要」によれば本籍地の市区町村長であり,これらの市区町村長が届出人又は届出事件の本人に遅滞なく通知を行い(戸籍法24条1項),届出人又は届出事件の本人が戸籍法114条の家庭裁判所の許可審判(家事事件手続法(平成23年法律第52号)別表第1の124項)を得て市区町村長に訂正申請をするか,又は同法24条1項の通知ができないとき,若しくは通知をしても戸籍訂正の申請をする者がないときは,当該市区町村長が管轄法務局又は地方法務局の長の許可を得て職権で戸籍の訂正(同条2項)をすることになるようです。

ところが,「戸籍訂正の対象となる事件の内容が戸籍法114条によって処理するを相当とする場合には本人にその旨の通知をし,本人が訂正申請をしないときは戸籍法24条2項により監督法務局又は地方法務局長の許可を得て市町村長が職権訂正をすべきであり(昭和25年7月20日民甲1956号民事局長回答),そしてこの場合のみ市町村長の職権訂正を監督庁の長は許可する権限がある」ものの,「戸籍法116条によって処理するのを相当とするものに対しては許可の権限がないとせられる(昭和25年6月10日民甲1638号民事局長回答)。」ということであったようであって(谷口162頁),前記戸籍制度に関する研究会の第5回会合においても「戸籍法第114条の訂正は,創設的な届出が無効な場合が対象となるが,一つ条件があり,無効であることが戸籍面上明らかであることが必要とされている。例えば,婚姻届の届出がされ,戸籍に記載された後,夫か妻の(婚姻前の日付で)死亡届が出されて,死亡の記載がされたような場合が考えられる。」との,呼応するがごとき発言がありました(議事要旨3頁)。「戸籍法114条は,届出によって効力を生ずべき行為について戸籍の記載をした後に,その行為が無効であることを発見したときは,届出人または届出事件の本人は,家庭裁判所の許可を得て,戸籍の訂正を申請することができると定めている。だから,第三者が戸籍の訂正をするには審判または判決によらねばならないが,婚姻の当事者がなすには,この規定によって家庭裁判所の許可だけですることもできると解する余地がある。前記の116条は「確定判決によ(ママ)て戸籍の訂正をすべきときは,・・・」というだけで,いかなる場合には確定判決もしくは家裁の審判によるべく,いかなる場合には家裁の許可で足りるか,明らかでない。実際の取扱では,利害関係人の間に異議がないときは許可だけでよいとされており,判例〔大判大正13年2月15日(民集20頁),大判大正6年3月5日(民録93頁)〕も大体これを認めているようである。正当だと思う。」と説かれていたところですが(我妻57頁。大村敦志『民法読解 親族編』(有斐閣・2015年)45頁は,簡単に,「婚姻が無効となった後,戸籍の記載はどうなるのだろうか。この場合,届出人または届出事件の本人は,家裁の許可を得て,戸籍の訂正を申請することができる。」と述べています。),しかし判例はそうだが「戸籍実務上は,無効が戸籍の記載のみによって明かな場合(戦死者との婚姻届の場合,昭和241114日民甲2651号民事局長回答。甲の既に認知した子を,乙が認知する届をなし受理記載され後の認知は無効となる場合,大正5年11月2日民1331号法務局長回答)は,114条の手続でよいが,戸籍面上明かでない場合は,当事者間の異議の有無にかかわらず116条の手続即ち確定判決又は審判を得て訂正すべきものと解せられている(昭和26年2月10日民甲209号民事局長回答)。」と言われていたところでした(谷口160頁)。利害関係者に異議のないまま戸籍法114条の手続を執ってくれれば,又は大げさながら婚姻の無効の訴えを提起して同法116条1項の手続を執ってくれればよいのですが,そうでない場合,同法24条2項に基づく職権訂正にはなおもひっかかりがあるようでもあります(「戸籍法116条によって処理するのを相当とするものに対しては〔管轄法務局又は地方法務局の長に〕許可の権限がないとせられる(昭和25年6月10日民甲1638号民事局長回答)。」)。すなわち,「訂正事項が身分関係に重大な影響を及ぼす場合には,職権で戸籍訂正を行うことができないと解する見解」もあるところです(「戸籍記載の正確性の担保について」9頁)。しかし,「実務上は,十分な資料により訂正事由があると認められる場合には,職権訂正手続を行っている」そうです(同頁)。

 

6 吾郎と白蘭の弁護方針

吾郎又は白蘭を公正証書原本不実記載等の罪の被告事件において弁護すべき弁護人は,前記内田理論を高唱して両者間の婚姻の有効性を力説する外には,どのような主張をすべきでしょうか。

愛,でしょうか。

前記Dallozのフランス民法146条(「合意がなければ,婚姻は存在しない。」)解説を見ると,「妻にその出身国から出国するためのヴィザを取得させ得るようにするのみの目的をもって挙式がされた婚姻は,合意の欠缺のゆえに無効である。」とされつつも(パリ大審裁判所1978年3月28日),「追求された目的――例えば,在留の権利,国籍の変更――が,婚姻の法的帰結を避けることなく真の夫婦関係において生活するという将来の両配偶者の意思を排除するものでなければ,偽装婚姻ではない。」とされています(ヴェルサイユ控訴院1990年6月15日)。フランス入管法L623‐1条1項も「在留資格(titre de séjour)若しくは引き離しから保護される利益を得る,若しくは得させる目的のみをもって,又はフランス国籍を取得する,若しくは取得させる目的のみをもって,婚姻し,又は子を認知する行為は,5年の禁錮又は15000ユーロの罰金に処せられる。この刑は,婚姻した外国人が配偶者に対してその意図を秘匿していたときも科される。」と規定しており,「目的のみをもって(aux seules fins)」が効いています。

しかし,吾郎は,前年の夏「戸籍の貸し賃」50万円を仲介の反社会的勢力からもらったきりで,白蘭とは一度も会ったことがなく,翌春同女が死んだ後になって初めてその名を知った有様です。トゥールーズ控訴院1994年4月5日も,同棲及び性的関係の不存在を,婚姻が在留資格目的で偽装されたものと認定するに当たって重視しています(前記Dallozフランス民法146条解説)。

やはり内田弁護士の理論にすがるしかないのでしょうか。

 なお,内田弁護士の尽力によって吾郎と白蘭との間の婚姻は民法上有効であるものとされても,入管法上は白蘭の日本在留は必ずしも保証されません。「外国人が「日本人の配偶者」の身分を有する者として〔入管法〕別表第2所定の「日本人の配偶者等」の在留資格をもって本邦に在留するためには,単にその日本人配偶者との間に法律上有効な婚姻関係にあるだけでは足りず,当該外国人が本邦において行おうとする活動が日本人の配偶者の身分を有する者としての活動に該当することを要」し,「日本人との間に婚姻関係が法律上存続している外国人であっても,その婚姻関係が社会生活上の実質的基礎を失っている場合には,その者の活動は日本人の配偶者の身分を有する者としての活動に該当するということはでき」ず,そのような「外国人は,「日本人の配偶者等」の在留資格取得の要件を備えているということができない」からです(前記最高裁判所平成141017日判決)。(しかも「婚姻関係が社会生活上の実質的基礎を失っているかどうかの判断は客観的に行われるべきものであり,有責配偶者からの離婚請求が身分法秩序の観点からは信義則上制約されることがあるとしても,そのことは上記判断を左右する事由にはなり得ない」とされています(ということで,当該最高裁判所判決は,4年前に日本人の夫が別に女をつくって家を出て行って,その後は在留資格更新申請の際等を除いて夫に会うこともなく,また相互に経済的関係もなかったタイ人妻に係る日本人の配偶者等としての在留資格更新を不許可とした処分を是認しました。)。)入管法22条の4第1項7号は,日本人の配偶者等の在留資格で在留する日本人の配偶者たる外国人が,「その配偶者の身分を有する者としての活動を継続して6月以上行わないで在留していること(当該活動を行わないで在留していることにつき正当な事由がある場合を除く。)」を在留資格取消事由としています(同条7項により30日以内の出国期間を指定され,当該期間経過後は退去強制になります(同法24条2号の4)。)。「偽装婚姻一般に共通して見られる同居の欠如(配偶者の身分を有する者としての活動実体の欠如)は,本号〔入管法22条の4第1項7号〕にいう「配偶者としての活動を行わずに在留している場合」にも該当し,同居していないことにつき正当理由がないことも明らかであるので,本号の取消し事由は偽装婚姻対策上も有効であると考えられる。」と説かれています(坂中=齋藤498頁)。 


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1 分娩による母子関係の成立(判例)

 「生んだのは私です。」と女性が啖呵を切れば男は引っ込む。「母は強し。」ですね。

 しかし,法律的には,「母」とは何でしょう。

 民法の代表的な「教科書」を見てみると,「母子関係の発生に母の認知を要するかについては,学説が分かれていた。現在では,判例・通説は分娩の事実によって母子関係は成立するから認知は不要としている。」とあります(内田貴『民法Ⅳ 親族・相続』(東京大学出版会・2002年)196頁)。当該判例たる最高裁判所昭和37年4月27日判決(民集1671247)は,「母とその非嫡出子との間の親子関係は,原則として,母の認知を俟たず,分娩の事実により当然発生すると解するのが相当であるから,被上告人〔母〕が上告人〔子〕を認知した事実を確定することなく,その分娩の事実を認定したのみで,その間に親子関係の存在を認めた原判決は正当である。」と判示しています。

 当たり前でしょ,そもそも「母子関係の発生に母の認知を要する」なんて何てお馬鹿なことを言っているのかしら,というのが大方の反応でしょう。

 しかし,民法には困った条文があるのです。

 

 第779条 嫡出でない子は,その父又は母がこれを認知することができる。(下線は筆者によるもの)

 

 素直に読めば,「嫡出でない子」については,その子を分娩した女性であっても改めて認知するまではその子の法律上の母ではないということになるようです。

なお,ここで,「嫡出でない子」の定義が問題になりますが,「嫡出子」については,「婚姻関係にある夫婦から生まれた子」(内田169頁),あるいは「婚姻関係にある男女の間の子」ということになり(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)214頁),かつ,その子は「夫との性的交渉によって懐胎された子でなければならない。」とされています(我妻214頁)。「嫡出でない子」は,「父と母との間に婚姻関係のない子」ですから(我妻230頁),婚姻していない女性が生んだ子(「未婚の子」)及び人妻の生んだ子であるが夫との性的交渉により懐胎された子でないもの(「母の姦通の子」)ということになるのでしょう。

 前記昭和37年最高裁判所判決までの古い判例は,「民法が,非嫡出子と親との関係は,父についても,母についても,認知によって生ずるものとして差別を設けない」ことから,民法の条文どおりの解釈を採っていて,非嫡出子を分娩した女性が出生届をしたときは母の認知の効力を認めるものの(なお,戸籍法(昭和22年法律第224号)522項は「嫡出でない子の出生の届出は,母がこれをしなければならない。」と規定しています。),原則として非嫡出子とその子を生んだ女性との関係については「分娩の事実があっても「生理的ニハ親子ナリト雖モ,法律上ハ未ダ以テ親子関係ヲ発生スルニ至ラズ」」としていたそうです(我妻248頁)。この判例の態度を谷口知平教授は支持していて「(ⅰ)母の姦通の子や未婚の子が虚偽の届出または棄児として,身分をかくそうとしている場合に,第三者から出生の秘密をあばくことは許さるべきではない。子の朗らかな成人のためにその意思を尊重し,母または子のいずれかの発意と希望があるときにのみ母子関係を認むべきだ。(ⅱ)養育しなかった生母が,子の成人の後に,子の希望しないにもかかわらず,母子関係を認め,子に扶養義務を負わせたり(認知を必要とすれば子の承諾を要する(782条)),母の相続権を認める(認知を必要とすれば,子の死亡後は,直系卑属のあるとき(母の相続権のないとき)でないとできない(783条2項))のは不当である。」と主張していたとされています(我妻249頁)。「わが民法においては親子関係については英米法の自然血縁親子主義を採らず,親子関係を,法律関係とする社会的法律関係主義ともいうべきものを採用している。」ということでしょう(谷口知平『戸籍法』(有斐閣・1957年)170頁)。

これら当時の判例及び学説に対して我妻榮は,「非嫡出子と母との関係は,その成立についても,成立した関係の内容についても,嫡出子と区別しない,というのが立法の進路であり,その途に横たわる障害については合理性を見出しえない」と宣言し(我妻232頁),「母との関係は,生理的なつながり(分娩)があれば足りる。母の認知または裁判を必要としない。従って,何人も,何時でも,この事実を主張することができる。母の認知という特別の制度は不要となる」(同235頁)との解釈論を展開していました。母子関係について「なお認知または裁判によって成立するものとしている」フランス民法的解釈から,「出生によって当然に母子関係が生ずる」とするドイツ民法及びスイス民法的解釈へと(我妻231頁参照,解釈を変更せしめようとし,前記昭和37年最高裁判所判決によってその目的が達成されるに至ったわけです。当該判例変更の理由について,当該判決に係る裁判長裁判官であった藤田八郎最高裁判所判事は,当該判決言渡しの4年後,「父と嫡出でない子の生理的な事実上のつながりは甚だ機微であって,今日の科学智識をもってしても,必ずしも明確に認識し難いのに反して,母と嫡出でない子のそれは,分娩出産という極めて明瞭な事実関係によって把握されるということに縁由するのである。」と明らかにしています(藤田八郎「「母の認知」に関する最高裁判所の判決について」駒澤大學法學部研究紀要24号(1966年4月)16頁)。ただし,これだけのようです。

以上の点に関しては,かつて,「ナポレオンの民法典とナポレオンの子どもたち」の記事で御紹介したところです(http://donttreadonme.blog.jp/archives/2166630.html)。

 

2 法律の明文vs.血縁主義(事実主義)

 

(1)我妻榮の覚悟

我妻榮は,嫡出でない子に係る母子関係の成立には母による認知を不要とする自説を提示するに当たって,「非嫡出子と母との関係は,分娩という事実(生理的なつながり)によって当然発生すると解するときは,民法その他の法令の規定中の父または母の認知という文字から「または母」を削除して解釈することになる。解釈論として無理だと非難されるであろうが,止むをえないと考える。」との覚悟を開陳しています(我妻249頁)。確かに,法律に明らかに書いてある「又は母」を公然無視するのですから,立法府たる国会の尊厳に正面から盾突く不穏な解釈であるとともに,民法第4編及び第5編を全部改正した昭和22年法律第222号の法案起草関係者の一人としては立場上少々いかがなものかと思わせる解釈です(我妻榮自身としては,「戦後の大改正には,責任者の一人ともなった」が,「身分法は,私の身についていないらしい。大学では,随意科目・・・といっても,時間割にも組んでなかった。鳩山先生が,学生の希望を入れて,時間割外に講義をして下さったのだから,正式の随意科目でもなかったかもしれない。むろん試験もなかった。そのためか,どうも身についていない。」と弁明しているのですが(我妻・しおり「執筆を終えて」)。)。

 

(2)最高裁判所の妥協と「折衷説」

この点,前記最高裁判所昭和37年判決は,法律の条文の明文を完全に無視することになるというドラスティックな解釈変更を避けるためか「原則として,母の認知を俟たず,分娩の事実により当然発生すると解する」と判示して(下線は筆者によるもの),嫡出でない子に係る母による認知の規定が働き得る余地を残す形にしたように思われます。嫡出でない子の母による認知は,「棄児の場合」にはあり得ると解釈されているそうです(内田196頁)。

しかしながら,「これに対しては鈴木禄弥教授が「はなはだしく便宜的かつ非論理的」だと批判」し,「母子関係に原則として認知不要とする立場は血縁主義(事実主義)を根拠にしているが,そうであるなら,棄児であろうとなかろうと認知は不要としないとおかしい」と述べているそうです(内田197頁)。「便宜的」なのは,国会との正面衝突を避けるために正に便宜的に設けた「例外」の辻褄合わせなんだから仕方がないよ,ということにでもなるのでしょうか。民法779条の文言は男女平等に書かれていますから,同条については,憲法14条1項などを動員して「女性差別だ」として大胆に一部の文言を無効とする違憲判決をするわけにもいかなかったのでしょう。

以上の点についてはそもそも,藤田最高裁判所判事が,「〔(母の認知の存在を前提とする)最高裁判所昭和29年4月30日判決(民集84118)によれば〕認知の法律上の性質〔親子関係の確認ではなく創設〕について,父と母を区別しないのであって,今更,母の認知に,その法律上の性質に関し別異の解釈を施すの余地もなく,従来の大審院判例の趨向をも考慮しつつ,いわゆる認知説によって生ずる不都合を避けながら,法文の文理をも全然無視しないという,妥協的な態度をとって,この最高裁判決はいわゆる「折衷説」の立場に立ったものと理解されるのである。」と述べていました(藤田16頁)。

 

(3)現場の状況

ちなみに,インターネット上で認知の届書の書式を札幌市役所及び下野市役所について見てみると,「認知する父」とのみ印刷してあって,認知する母があることが想定されていないものとなっています(なお,戸籍法施行規則59条では出生,婚姻,離婚及び死亡の届出の様式について規定されていますが(戸籍法28条参照),そこに認知の届出の様式は含まれていません。すなわち,「認知届は法律上届出様式が定まっていない」わけです(内田190頁)。)。

 

3 ドイツ民法及びフランス民法と日本民法

 

(1)日本民法の解釈とその「母法」

我が民法の「実親子法は,日本的な極端な血縁主義が肯定されて,民事身分の根幹である親子関係の設定について法的な規律をいかに設計するかという議論は行われないこと」になったとみられていますが(水野紀子「比較法的にみた現在の日本民法―家族法」『民法典の百年Ⅰ』(有斐閣・1998年)661頁),民法779条の解釈も,「母法を学ぶことを基礎にして民法の条文の意味を解釈するという姿勢が財産法より弱」い中生み出された「民法の条文が本来もっていた機能を理解しない独自の日本的解釈」だったのでしょうか(同676頁参照)。ただし,我が民法の「母法」が何であるかには多様な見解があり得るようです。ドイツ法及びフランス法が民法の母法と解されていますが(水野662頁),民法779条は,ドイツ民法を継受したものなのでしょうか,フランス民法を継受したものなのでしょうか。

 

(2)ドイツ民法における母子関係の成立:分娩

ドイツ民法1591条は,「子の母は,その子を分娩した女(Frau)である。(Mutter eines Kindes ist die Frau,die es geboren hat.)」と規定しています。

 

(3)フランス民法における母子関係の成立:出生証書,任意認知又は身分占有

 フランス民法310条の1は「親子関係は,本章第2節に規定する条件に基づき,法律の効果により,任意認知により,又は公知証書によって証明された身分占有によって法律的に成立する。/当該関係は,本章第3節に規定する条件に基づき, 裁判によっても成立する。(La filiation est légalement établie, dans les conditions prévues au chapitre II du présent titre, par l’effet de la loi, par la reconnaissance volontaire ou par la possession d’état constatée par un acte de notoriété.Elle peut aussi l'être par jugement dans les conditions prévues au chapitre III du présent titre.)」と規定し,それを受けて第2節第1款「法律の効果による親子関係の成立(De l’Établissement de la Filiation par l’Effet de la Loi)」中の同法311条の25は,「母に係る親子関係は,子の出生証書における母の指定によって成立する。(La filiation est établie, à l’égard de la mère, par la designation de celle-ci dans l’acte de naissance de l’enfant.)」と規定しています。これに関して,出生証書に係る同法57条1項後段には「子の父母の双方又はその一方が戸籍吏に対して指定されないときは,当該事項について帳簿に何らの記載もされないものとする。(Si les père et mère de l’enfant, ou l’un d’eux, ne sont pas désignés à l’officier de l’état civil, il ne sera fait sur les registres aucune mention à ce sujet.)」との規定があります。

フランス民法316条1項は「親子関係は,本節第1款〔第311条の25を含む。〕に規定する条件によって成立しない場合においては,出生の前又は後にされる父性又は母性に係る認知によって成立し得る。(Lorsque la filiation n’est pas établie dans les conditions prévues à la section I du présent chapitre, elle peut l’être par une reconnaissance de paternité ou de maternité, faite avant ou après la naissance.)」と規定しています。同法316条3項は「認知は,出生証書において,戸籍吏に受理された証書によって,又はその他公署証書によってされる。(Elle est faite dans l’acte de naissance, par acte reçu par l’officier de l’état civil ou par tout autre acte authentique.)」と規定しています。なお,フランス民法56条1項によると,子を分娩した女性自身は出生届をすべき者とはされていません(「子の出生は,父により,又は父がない場合は医師,助産婦,保健衛生担当吏その他の分娩に立ち会った他の者によって届け出られるものとする。さらには,母がその住所外で分娩したときは,その元において分娩がされた者によってされるものとする。(La naissance de l’enfant sera déclarée par le père, ou, à défaut du père, par les docteurs en médecine ou en chirurgie, sages-femmes, officiers de santé ou autres personnes qui auront assisté à l’accouchement; et, lorsque la mère sera accouchée hors de son domicile, par la personne chez lui elle sera accouchée.)」)。

フランス民法317条1項は「両親のそれぞれ又は子は,反証のない限り身分占有を証明するものである公知証書を交付するよう,出生地又は住所地の小審裁判所の裁判官に対し請求することができる。(Chacun des parents ou l’enfant peut demander au juge du tribunal d’instance du lieu de naissance ou de leur domicile que lui soit délivré un acte de notoriété qui fera foi de la possession d’état jusqu’à preuve contraire.)」と規定しています。

 

(4)日本民法の採っていた主義は何か

 ドイツ民法の場合は,嫡出でない子を分娩した女性も当該分娩の事実により直ちにその子の母になります。フランス民法の場合は,嫡出である子を分娩した女性についても当該分娩の事実だけでは直ちにその子の母とはなりません(フランス「現行法の下では,法的母子関係は自然子のみならず嫡出子についても,分娩の事実により当然に確定するとは考えられていない。」とされています(西希代子「母子関係成立に関する一考察―フランスにおける匿名出産を手がかりとして―」本郷法政紀要10号(2001年)403頁)。)。翻って我が日本民法はどうかといえば,嫡出でない子に係る第779条はあるものの,実は,嫡出である子を分娩した女性とその子との母子関係の成立に関する規定はありません。

 この点嫡出でない子に関し,旧民法人事編(明治23年法律第98号)には母による認知に係る規定はなかったにもかかわらず(我が旧慣においても母の認知ということはなかったとされています(藤田1213頁)。)その後民法779条(旧827条)に母による認知の規定を入れることについて,梅謙次郎は次のように述べていたそうです。いわく,「生んだ母の名前で届けると姦通になるから之を他人の子にするか或は殺して仕舞うか捨てて仕舞う甚だ忌はしいことであるが西洋にはある」,そこで「原則は母の名前を書いて出すべきことであるが戸籍吏はそれを追窮して問ふことは出来ぬ」,それでも「十の八九は私生子は母の名で届けるから斯うなつても実際母なし子は滅多にはないと思ふ」と(大村敦志『民法読解 親族編』(有斐閣・2015年)155頁による。)。すなわち,母による認知を要するのは子の出生届にその子を生んだ「母」が記載されていなかった場合である,つまり,嫡出でない子については出生届において母が明らかにされないことがあるだろうとされ(なお, この民法起草時の認識とは反対に旧民法においては,母の知れない子はないものと見ていたところです(大村154頁参照)。父ノ知レサル子たる私生子(同法人事編96条)について同法人事編97条は「私生子ハ出生証書ヲ以テ之ヲ証ス但身分ノ占有ニ関スル規定ヲ適用ス」と規定していて「証ス」る対象が不明瞭ですが,同条の属する節の題名が「親子ノ分限ノ証拠」であり,かつ,定義上私生子の父は知れないのですから,同条における「証ス」る対象事実は母子関係だったのでしょう。すなわち,私生子を分娩した女性を母とする出生証書が作成されること又は当該子による当該女性の子としての身分占有(同法人事編94条)があることが前提とされています。),また,嫡出でない子であってもその分娩をした女性が母として出生届をすれば母のある子となる(旧戸籍法(大正3年法律第26722項後段は「嫡出子又ハ庶子ニ非サル子ノ出生ノ届出ハ母之ヲ為スコトヲ要ス」と規定していました。),ということであるようです。(なお,藤田13頁によれば,そもそも民法中修正案理由書には次のようにまとまった記述がありました。いわく,「既成法典ニ於テハ父ノ知レサル子ヲ私生子トシ父ノ認知シタル私生子ヲ庶子ト為シタルニ拘ラス母ノ知レサル子ニ関スル規定ヲ設ケス是レ蓋シ母ノ知レサル場合ナキモノト認メタルカ為メナラン,今若シ母ハ毎ニ出生ノ届出ヲ為スモノトセハ母ノ知レサル場合決シテ之ナカルヘシト雖モ或ハ母カ出生子ヲ棄テ又ハ母カ法律ニ違反シテ出生ノ届出ヲ為サス後ニ至リテ認知ヲ為スコトアルヘキカ故ニ本案ニ於テハ母ノ知レサル場合アルモノト認メ父又ハ母ニ於テ私生子の認知ヲ為スコトヲ得ルモノト定メタリ」。この母の認知の制度は,「フランス法の影響を受け」たものと認識されています(藤田13頁)。)

以上の議論では,嫡出である子については分娩した女性を母とする出生届が当然されるものであるということが前提とされているようです(専ら嫡出でない子について母を明らかにする出生届がされないことが懸念されています。)。そうであれば,嫡出である子たるべく分娩された子も当該分娩をした女性を母とする出生届がされなければ,当然されるべきことがされていないことになるので,そのままではやはり「母なし子」になる,というフランス民法的に一貫した解釈も可能であるようにも思われます。谷口知平教授は,嫡出子に係る母子関係についても「母子としての戸籍記載は勿論,血縁母子関係の存在を推定せしめるが・・・親子の如き身分の存否については,戸籍記載を唯一の証拠として身分関係の対世的統一取扱を確保することにし,先ず,人事訴訟を以て確定の上戸籍訂正をしてからでなければ,一切の訴訟において親子でないことを前提とする判断をなし得ないとする解釈が妥当だ」と,戸籍記載を重視する見解を表明しています(谷口74-75頁)。確かに,そもそも旧民法人事編92条は「嫡出子ハ出生証書ヲ以テ之ヲ証ス」と,同93条は「出生証書ヲ呈示スル能ハサルトキハ親子ノ分限ハ嫡出子タル身分ノ占有ヲ以テ之ヲ証スルコトヲ得但第291条ノ規定〔帳簿に問題があり,又は証書が作られなかったときは「証人又ハ私ノ書類ヲ以テ先ツ其事実ヲ証シ且身分上ノ事件ヲ証スルコトヲ得」〕ノ適用ヲ妨ケス」と,分娩の事実を直接援用しない形で規定していたところです。

しかし,民法779条の反対解釈からすると,嫡出である子を分娩した女性は認知を要さずにその子の母となる,すなわち分娩の事実から直ちに母子関係が成立するものとする,とここはドイツ民法流に解することも自然なようでもあります。(婚姻は,生まれ出た嬰児に対して,直ちに,父のみならず母をも与える制度であるということでしょうか。)とはいえ,やはり,「わが民法の規定にはフランス民法の影響が大きいのに,わが民法学はドイツ民法学の影響が強く,フランス式民法をドイツ式に体系化し解釈するという,奇妙な状況」(星野英一『民法概論Ⅰ(序論・総則)』(良書普及会・1993年)62頁)の一環であるということになるのかもしれませんが。

 

4 匿名出産制度について

ところで,「母子の絆は父子のそれよりも強い(意思で左右されるようなものではない)。」といわれていますが(内田198頁),万古不変全世界共通の原理ではないようにも思われます。子を生む女性の意思によって,当該女性とその子との絆を明らかにしないという選択を認める制度(匿名出産制度)がフランス民法にあるからです。同法325条は「母の捜索」を認めているのですが,その次の条が匿名出産制度について規定します。

 

326条 分娩に際して,母は,その入院及びその身元に係る秘密が保持されることを請求することができる。(Lors de l’accouchement, la mère peut demander que le secret de son admission et de son identité soit préservé.

 

「フランス人として個人の自由や権利を尊重することを当然のこととする・・・気持ちや人格」を有するのがフランス女性であるということでしょうか(東京高等裁判所平成26612日判決(判時223747)参照。なお,羽生香織「実親子関係確定における真実主義の限界」一橋法学7巻3号(200811月)1017頁は,「個人の自由の尊重要請に基づく真実主義の制限」が匿名出産から生まれた子に関して存在すると述べています。)。

歴史的に見ると,フランスでの匿名出産制度は,1556年にアンリ2世が出生隠滅を厳禁し,妊娠した女性に妊娠・分娩届の提出を義務付ける勅令を発布したことを直接の契機として,パリ施療院(Hôtel-Dieu de Paris)等による組織的対策として始まったそうです(西400頁)。その後も,「1804年に成立した民法典には匿名出産について直接規定する条項はなかったが,匿名出産を間接的に認める,あるいは意識した条項は存在していた。例えば,57条原始規定は,出生証書には,「出生の日時,場所,子の性別,子に与えられる名,父母の氏名,職業,住所,及び証人のそれら」を記載するものとしていたが,施行当初から,父母の名を記載しないことは認められていた。」という状況であったそうです(西402頁)。ナポレオン1世没落後のパルマ公国の女公マリー=ルイーズも,当該制度を利用したものか。

 

La vérité est un charbon ardent qu’il ne faut manier qu’avec d’infinies précautions.(P. HEBRAUD)

 

匿名出産制度はフランス以外の国にもあるのですが,ドイツ民法の場合,女性は分娩の事実によって当該分娩によって生まれた子の母になってしまうので,同法では親権停止のテクニックが採用されています。

 

1674a 妊娠葛藤法第25条第1項に基づき秘匿されて出生した子に対する母の親権は停止する。同人が家庭裁判所に対してその子の出生登録に必要な申立てをしたものと当該裁判所が確認したときは,その親権は復活する。(Die elterliche Sorge der Mutter für ein nach §25 Absatz 1 des Schwangerschaftskonfliktgesetzes vertraulich geborenes Kind ruht. Ihre elterliche Sorge lebt wieder auf, wenn das Familiengericht feststellt, dass sie ihm gegenüber die für den Geburtseintrag ihres Kindes erforderlichen Angaben gemacht hat.

 

 仏独のお話はこれくらいにして,我が日本民法の話に戻りましょう。

 

5 棄児に対する「母の認知」に関して

 前記最高裁判所昭和37年4月27日判決によって採用された母子親子関係の成立に係る分娩主義における例外について,藤田八郎最高裁判所判事は,母子親子関係が認知によって成立するものとされるこの例外の場合は,「判決にいうところの例外の場合とは棄児その他,分娩の事実の不分明な場合を指すものであることは,十分に理解されるのである。」と述べています(藤田16頁)。更に藤田最高裁判所判事は,棄児に対する母の認知について敷衍して説明しているところがあります。少し見てみましょう。

 まず,「棄児のごとく何人が分娩したか分明でない場合は例外として母の認知によって母子関係が発生する」ことにするとされています(藤田17頁)。そうであれば,この場合,認知をする女性も,当該棄児を自分が分娩したのかどうか分明ではないことになります。なお,分娩の事実の不分明性については,「分娩なる事実が社会事実として不明であるかぎり,法律の社会では,これを無視して無と同様に考えることもまた,やむを得ないのではあるまいか。」と説かれています(藤田18頁)。戸籍吏には実質的審査権がないということでよいのでしょうか。出生届の場合(戸籍法492項)とは異なって,母の認知の届書に出生証明書の添付が求められているわけではありません。

 任意認知の法的性質については,事実主義(血縁主義)を強調する我妻榮は,「事実の承認」であって,「父子関係の存在という事実を承認する届出」(父の認知の場合)であるとしています(我妻235頁)。「母の認知」(我妻榮自身は「母の認知」を認めていませんが)の場合は,分娩による母子関係の存在という事実が承認されるものということになるのでしょう。任意認知の法的性質を意思表示と解する立場(内田188頁等)では,「父または母と子の間に生理的なつながりのあることを前提とした上での父または母の意思表示」ということになるようです(我妻234頁)。しかし,そうだとすると,自分が分娩したのかどうか分明ではない棄児について母子関係の存在を承認し,又は当該棄児を分娩したという事実を前提とすることができぬまま母子関係を成立させる意思表示をすることを,「認知」と呼んでよいものかどうか。ここで違和感が生じます。むしろ養子縁組をすべき場合なのではないでしょうか。

上記の「違和感」については,藤田最高裁判所判事も認容するところです。「父の認知は,父子の事実上のつながりがあきらかな場合に,認知の効力を有するものであるのに,母の認知は,母子の事実上のつながりが不明の場合にはじめて認知の効力を生ずると解釈することは,同じく民法の規定する認知について余りにも父と母の間に格段の差異を作為するものであるとの非難も,もっともである」と述べられています(藤田18-19頁)。しかしながらそこで直ちに,「これは結局,父と母の間に子との事実上のつながりを探究する上に前に述べたような本質的な相違のあることに基因するものであって,これ亦やむを得ないとすべきであろう。」(藤田19頁)と最高裁判所判事閣下に堂々と開き直られてしまっては閉口するしかありません。さらには,男女間の取扱いの差異を正当化するために, いささか難しいことに不分明性における「男女平等論」が出てきます。「母子の事実上のつながりが不分明の場合に母の認知によって母子関係の成立をみとめることは不合理であると考えられるのであるが,実はかような事態は父の認知の場合にさらに多くあり得るのである。父子の事実上の関係が不分明のまま,父の認知によって法律上親子関係が発生せしめられた場合には,反対の事実が立証されないかぎり,この親子関係を打破る方途はないのである。・・・花柳界に生れた子を認知する父は,多かれ少かれ,この危険を負担しているものと云っても失言とは云えないであろう。」と論じられています(藤田20頁)。花柳界の女性と関係のある男性の話が出てくるあたり,藤田八郎最高裁判所判事は意外と洒脱な人物だったのかもしれません(大阪の旧藤田伝三郎家の養子だったそうです。)。

しかし,藤田最高裁判所判事のいう,事実上の親子のつながりを探究する上での父と母との間における「前に述べたような本質的な相違」とは,「父と嫡出でない子の生理的な事実上のつながりは甚だ機微であって,今日の科学智識をもってしても,必ずしも明確に認識し難いのに反して,母と嫡出でない子のそれは,分娩出産という極めて明瞭な事実関係によって把握されるということに縁由するのである。」ということでしょう(藤田16頁(前出))。そうであり,かつ,当該男女間の「本質的相違」を尊重して更に一貫させるのであれば,むしろ,母の認知においては父の認知におけるよりも更に強い生理的ないしは事実上の親子のつながり(分娩出産)の事実に係る認識が必要である,ということにならないでしょうか。男性の場合,父子関係は「機微」でよいのでしょうが,女性の場合,母子関係は本来「極めて明瞭な事実」であるはずです。

「生んだのは私です。」と母は赤裸々に事実を語るのに対し,その地位が機微に基づくところの「父」は,「男はつらいよ。」と子ら(特に息子ら)にしみじみ語りかけるということにならざるを得ないのかもしれません。

 

承認なしの個人(子)も承継なしの個人(親)も,苦しくてはかない。(大村310頁)

 

母と父とはやはり違うのでしょう。

しかし,母と父とが仲たがいして別居するようになり,更には離婚すると,その間にあって板挟みになる子らが可哀想ですね。せっかく別居している親と面会交流ができることになっても,「監護している親が監護していない親の悪口を言ったり,相手のことを子から聞き出そうと根掘り葉掘り尋ねる,というのでは子の精神的安定に良いわけはない」(内田135頁)。セント=ヘレナ島から遠く離れたパルマの女公の場合,長男のナポレオン2世とも別居したので,その分ライヒシュタット公は父母間の忠誠葛藤に悩まされずにすんだものでしょうか。

とはいえ,話を元に戻すと,そもそもDNA鑑定の発達した今日において,認知をしようとする女性と相手方である子との間において,たといその子が棄児であったとしても,当該女性による当該子の分娩の事実の有無が分明ではないということはあり得るでしょうか。DNA鑑定を行えば,それ自体は直接分娩の有無を証明するものではありませんが,当該鑑定の結果は分娩の事実の有無を推認するに当たっての非常に強力な間接事実であるはずです(生殖医療の話等が入ってくるとまた難しくなってきますが。)。


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(承前。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1052466195.html)

5 裁判例

 裁判所の解釈をいくつか見てみましょう。

 

(1)昭和53年富山家庭裁判所審判

 富山家庭裁判所昭和531023日審判(昭和53年(家)第326号限定承認申述受理申立事件)(家月31942,判時917107頁)は,「前示・・・1ないし5の事実は,その動機が大口の相続債権者の示唆によるものであり,また,本件遺産中の積極財産の処分が,もつぱらその消極財産の弁済に充当するためなされたものであることを考慮に容れても,処分された積極財産が本件のすべての積極財産中に占める割合などからみて,その結果,本件遺産の範囲を不明確にし,かつ,一部相続債権者(特に大口の相続債権者)の本件相続債務に対する権利の行使を著しく困難ならしめ,ひいては本件相続債権者間に不公平をもたらすことになることはこれを否定できないので,前示のような行為は,民法921条第1号にいういわゆる法定単純承認に該当する事由と解せざるを得ない。」と判示しています。「1ないし5の事実」は,次のとおり。被相続人の妻M及び被相続人とMとの間の二人の息子が相談の上行った事実です。本件における被相続人は,生前事業をしていました。

 

 1 昭和53年2月27日,前示ロの普通預金から219,000円を払い戻し,これに申述人M所有の現金を加えて資金をつくり,

 2 同年3月6日ころ,前示ハの株式全部〔株式会社A,券面額合計2,485,000円〕を,株式会社Bに対する買掛金債務(手形取引による分で,前示ホ〔支払手形(合計約2800万円)〕の一部であり,1,000万円以上と推定される)の代物弁済として提供し,

 3 同年3月20日ころ,前示1の資金をもつて前示トの買掛金債務〔株式会社Bに対するもので手形取引外の分728,147円〕を弁済し,

 4 同日ころ,被相続人が生前に受領していた約束手形1枚(額面100万円),および,前示1の資金のうちの現金58万円をもつて,前示チの買掛金債権〔株式会社Aに対する買掛金1,580,866円〕を弁済し(残額866円の支払義務は免除されている),

 5 前示ニの売掛金債権〔C合資会社に対する売掛金(373,000円)〕全額を回収して,同年4月1日ころヘの買掛金債務〔株式会社Dに対する買掛金(304,956円)〕への弁済に充当し(過払分について申述人らはまだその返還を受けていない)た事実

 

1の前半を見ると,この場合,元本の領収は保存行為に当たらないということでしょうか。2は代物弁済ですが,代物弁済については「相続人・・・カ限定承認申述前為シタル前記代物弁済ハ其ノ目的タル不動産ノ所有権移転行為トシテ被相続人・・・ノ為シタル代物弁済予約ニ基クモノナルト否トニ拘ラス相続財産ノ一部ノ処分ニ外ナラサルモノトス」とする判例があります(大審院昭和12年1月30日判決・民集161)。株式の譲渡の部分が相続財産の一部の処分ということになるようです。3は弁済。4の「弁済」中約束手形による部分は代物弁済,現金部分は弁済でしょう。5は債権の取立て及び債務の弁済ですが,債権の取立てに関しては「上告人〔相続人〕が右のように妻W〔被相続人〕の有していた債権を取立てて,これを収受領得する行為は民法921条1号本文にいわゆる相続財産の一部を処分した場合に該当するもの」とする判例があります(最高裁判所昭和37621日判決・家月1410100)。この判例に関しては「単なる取立ては保存行為管理行為と考えるべきだろうから,取り立てた金を固有財産と明分して管理している事実が証明されれば法定単純承認は否定され得る」と説かれていますが(新版注釈民法(27)〔補訂版〕491頁(谷口知平=松川正毅)),当該学説に従えば,5では取り立てた金銭は分別管理されていたようですから,専ら弁済の方が問題とされたということになるのでしょうか。

本件審判の読み方は難しい。「1ないし5の事実」は,全体として民法921条1号の法定単純承認をもたらしているのか,それとも各個の事実がそれぞれ法定単純承認をもたらしているのか,という問題がまずあります。しかし,いずれにせよ,法定単純承認となることを避けたいのならば相続債権者に対する債務の弁済のためであっても積極財産の処分は一切許されないし,相続債権者に対する相続財産からの弁済もそもそも一切許されない,ということではないのでしょう。期限の到来した債務を弁済することは保存行為に該当するのが原則であるということを前提とした上で,当該審判については次のように解せられないでしょうか。すなわち,相続債権者に対する相続財産による弁済の場合においては,弁済をするに至った事情,積極財産中処分されたものの割合の大きさ,相続財産と固有財産との分別が不明確になった度合い及び他の相続債権者に及ぶ不利益の大きさを勘案して,民法921条1号ただし書の保存行為に当たらないことになることがあり得るし,相続債権者に対する弁済のために相続財産を処分する場合には,上記事項を勘案して上記保存行為に当たるものとされることがあり得るということを示した審判であるというふうに。

 

(2)昭和54年大阪高等裁判所決定

 行方不明となっていた男性(被相続人)が死亡したと警察から連絡を受けて,その妻及び子ら2名(相続人ら)が警察署に駆けつけて火葬場で被相続人の遺骨を貰い受けた際,同署から①「金2万0,423円の被相続人の所持金と,ほとんど無価値に近い着衣,財布などの雑品の引渡を受け」,②「その場で医院への治療費1万2,000円,火葬料3万5,000円の請求を受けたので,右被相続人の所持金に抗告人ら〔相続人ら〕の所持金を加えてこれを支払つた」行為に関して大阪高等裁判所昭和54年3月22日決定(家月311061,判時93851)は,①については「右のような些少の金品をもつて相続財産(積極財産)とは社会通念上認めることができない(このような経済的価値が皆無に等しい身回り品や火葬費用等に支払われるべき僅かな所持金は,同法〔民法〕897条所定の祭祀供用物の承継ないしこれに準ずるものとして慣習によつて処理すれば足りるものであるから,これをもつて,相続財産の帰趨を決すべきものではない)。」と判示し,②については「前示のとおり遺族として当然なすべき被相続人の火葬費用ならびに治療費残額の支払に充てたのは,人倫と道義上必然の行為であり,公平ないし信義則上やむを得ない事情に由来するものであつて,これをもつて,相続人が相続財産の存在を知つたとか,債務承継の意思を明確に表明したものとはいえないし,民法921条1号所定の「相続財産の一部を処分した」場合に該るものともいえないのであつて,右のような事実によつて抗告人〔相続人ら〕が相続の単純承認をしたものと擬制することはできない。」と判示しています。

なお,②に関する判示は,「医院への治療費1万2,000円,火葬料3万5,000円」の債務は相続財産たる消極財産には当たらないとする客観面の部分(「相続人が相続財産の存在を知つたとか・・・いえない」)と,「人倫と道義上必然の行為であり,公平ないし信義則上やむを得ない事情に由来する」弁済をもって債務承継の意思を表明したものと擬制することはできないとする主観面の部分(別の箇所で「921条による単純承認の擬制も相続人の意思を擬制する趣旨であると解すべき」と判示されています。)とに分けて理解すべきでしょうか。債務の種類及び額が問題になるようです。

 

(3)平成10年福岡高等裁判所宮崎支部決定

 福岡高等裁判所宮崎支部平成101222日決定(家月51549)は,「抗告人ら〔相続人ら〕代理人はその熟慮期間中に,本件保険契約によって受領した〔相続人らの固有財産である被相続人の死亡〕保険金〔200万円〕を,抗告人らの意向を受けて,被相続人の債務の一部である○○農業協同組合に対する借受金債務330万円の〔一部の〕弁済に充てた」行為について,「抗告人らのした熟慮期間中の被相続人の相続債務の一部弁済行為は,自らの固有財産である前記の死亡保険金をもってしたものであるから,これが相続財産の一部を処分したことにあたらないことは明らかである。」と判示して,相続人らの相続放棄の申述は受理されるべきものと判示しています。

 相続債権者に対する被相続人の債務の弁済は,相続人の固有財産からその資金を出しておけば法定単純承認になることはない,ということでしょうか。そうであれば,分かりやすい解釈です。

 しかし,自腹を切ってまでの弁済は,かえって「債務承継の意思を明確に表明したもの」(前記大阪高等裁判所決定参照)と解され,単純承認の黙示の意思表示が認定され得べきおそれがあるもののようにも思われます。

 なお,相続財産からの相続債権者に対する弁済は全て法定単純承認の事由となる,とまでの反対解釈をする必要はないのでしょう。

 

(4)平成27年東京地方裁判所判決

 東京地方裁判所平成27年3月30日判決(平成25年(ワ)第31643号求償金請求事件)は,平成25年5月21日の被相続人の死亡後熟慮期間中にその保証債務の弁済を行っていた相続人(主債務者でもある。その債務額は昭和631221日現在で1750842円であった。)がその後した相続の放棄に関して,「本件相続開始後弁済がされたのは,平成25年5月31日及び同年7月1日と,いずれもC〔被相続人〕の相続放棄の熟慮期間中のものであり・・・,かつ,本件相続開始後弁済は,期限が到来した債務の弁済として,法定単純承認事由に該当しない保存行為である(民法921条1号ただし書)。」と述べた上で,当該相続の放棄の有効性を前提とした判示をしています。弁済資金が,相続財産から出たのか相続人の固有財産から出たのかは問題にされていません。

 しかし,「本件相続開始後弁済は,期限が到来した債務の弁済として,法定単純承認事由に該当しない保存行為である(民法921条1号ただし書)」と端的に判示されると,民法103条の管理行為への該当性を問題とした当初の場面に戻って来たわけですね。すがすがしい感じがします。

 

6 フランス民法784

 なお,相続人による相続債権者に対する弁済に関する問題について参考になる規定はないかと探したところ,2006年法によって設けられたフランス民法784条(第3項4号は2015年法により挿入)が次のように規定していました(同条は,同条1項に対応する規定のみであったナポレオンの民法典の第779条を拡充したもの)。

 フランス民法では,相続の単純承認(l’acceptation pure et simple de la succession)は意思表示に基づくものであって,当該意思表示には明示のものと黙示のものとがあります(同法782条)。

 

 第784条 暫定相続人(le successible)が相続人と称さず,又は相続人としての立場をとらなければ(n’y a pas pris le titre ou la qualité d’héritier),純粋保存(purement conservatoires)若しくは調査(surveillance)の行為又は暫定的管理行為(les actes d’administration provisoire)は,相続の承認とされることなく行われることができる。

 ② 相続財産(la succession)の利益のために必要な他の全ての行為であって,暫定相続人が相続人と称さず,又は相続人としての立場をとらずに行おうとするものについては,裁判官の許可を得なければならない。

③ 次に掲げるものは純粋保存に係るものとみなされる(Sont réputés purement conservatoires)。

  一 葬式及び最後の疾病の費用,故人の負担に係る租税,家賃(loyers)並びに他の相続債務であってその決済が急を要するもの(dont le règlement est urgent)の支払(paiement

  二 相続財産に係る天然及び法定果実の収取(le recouvrement des fruits et revenus

des biens successoraux)又は損敗しやすい物の売却。ただし,当該資金が前号の債務の弁済に用いられ,又は公証人に寄託され,若しくは供託されたことを証明(justifier)しなければならない。

    三 消極財産の増加(l’aggravation du passif successoral)を避ける(éviter)ための行為

四 死亡した個人的使用者(particulier employeur)の労働者(salarié)に係る労働契約の終了(rupture)に関する行為,労働者に対する報酬及び損害賠償金の支払並びに契約の終了に係る書類の交付

 ④ 日常業務(opérations courantes)であって,相続財産(la succession)に依存した(dépendant)事業の活動の当面の継続に必要なものは,暫定的管理行為とみなされる。

 ⑤ 賃貸人又は賃借人としての賃貸借の更新であってそれをしなければ損害賠償金を支払わねばならないもの並びに故人によりなされ,かつ,事業の良好な運営(bon fonctionnement)のために必要な管理又は処分に係る決定の実行は,同様に,相続の黙示の承認(acceptation tacite)とされずに行われ得るものとみなされる。

 

およそ「期限が到来した債務の弁済」は全て純粋保存行為だとまでは広くかつ端的に規定されていません。第3項1号及び4号との関係からすると同項3号に債務の弁済まで読み込み得るのかどうかは考えさせられるところです(インターネットで調べると,同号の行為の例としては,賃借契約の解除及び応訴がパリのSabine Haddad弁護士によって挙げられていました。)。しかし,十分参考になる規定だと思われます。病院への支払,自宅の電気・ガス・水道等の料金支払はこれでいけそうです。無論,ことさらに「相続人として,親から相続した私の債務として承認して弁済します。」などと明示されると困ったことになるでしょうが。

 

 内田〔貴〕 私は〔星野英一〕先生の授業のプリントを下敷きにして講義を始めまして,そうやって徐々にできあがった講義ノートをもとに教科書を書いたものですから,私の教科書は星野理論を万人にわかるように書いたものであると言われるのです。・・・(星野英一『ときの流れを超えて』(有斐閣・2006年)225頁)

 

星野〔英一〕 ・・・解釈論の最後のところは利益考量・価値判断だけれども,まず条文を見る。初めは文法的な解釈つまり文理解釈や他の条文との関係から考える論理解釈をしますが,それだけではよくわからないので,日本のような継受法においては,その沿革の研究が不可欠だと考えていました。これは,「民法解釈論序説」で書いていることで,「日本民法典に与えたフランス民法の影響」の二つの論文は,一体のつもりです。・・・(星野・同書155頁)

 ・・・

  ・・・特に外国法は現地に行ってよく調べてきて,単に条文上のことを知るだけでなく,実際の運用を含めて各国の制度を理解するなどは,日本の制度の理解のためにも立法論にとっても大いに役立つことでいいことです。・・・(星野・同書328頁)

追記

20161013日から成年後見の事務の円滑化を図るための民法及び家事事件手続法の一部を改正する法律(平成28年4月13日法律第27号)が施行され,民法873条の次に次の一条が加えられました。

 

  (成年被後見人の死亡後の成年後見人の権限)

 第873条の2 成年後見人は,成年被後見人が死亡した場合において,必要があるときは,成年被後見人の相続人の意思に反することが明らかなときを除き,相続人が相続財産を管理することができるに至るまで,次に掲げる行為をすることができる。ただし,第3号に掲げる行為をするには,家庭裁判所の許可を得なければならない。

  一 相続財産に属する特定の財産の保存に必要な行為

  二 相続財産に属する債務(弁済期が到来しているものに限る。)の弁済

  三 その死体の火葬又は埋葬に関する契約の締結その他相続財産の保存に必要な行為(前2号に掲げる行為を除く。)

 

民法873条の2第3号後段は「その他相続財産の保存に必要な行為(前2号に掲げる行為を除く。)」と規定していますので,わざわざ「相続財産の保存に必要な行為」から除かれている同条2号の「相続財産に属する債務(弁済期が到来しているものに限る。)の弁済」は,本来「相続財産の保存に必要な行為」であるということになります。相続財産の処分であっても民法921条1号ただし書の「保存行為」に該当するものとして法定単純承認をもたらすものではないものはどのようなものか,についての解釈問題にとっても重要な条文であることになるものでしょう。(ただし,四文字熟語の「保存行為」ではなく「相続財産の保存に必要な行為」という文言が用いられています。)

平成28年法律第27号は議員立法(衆議院内閣委員会)であったのですが,法務省のウェッブ・ページに,民法873条の2第2号及び第3号の「具体例」が示されています。同条2号については「成年被後見人の医療費,入院費及び公共料金等の支払」が掲げられ,同条3号については「遺体の火葬に関する契約の締結」並びに「成年後見人が管理していた成年被後見人所有に係る動産の寄託契約の締結(トランクルームの利用契約など)」,「成年被後見人の居室に関する電気・ガス・水道等供給契約の解約」及び「債務を弁済するための預貯金(成年被後見人名義口座)の払戻し」が掲げられています。

なお,民法873条の2第3号の前段と後段とは「その他の」ではなく「その他」で結ばれていますから,「その遺体の火葬又は埋葬に関する契約の締結」は,そもそも「相続財産の保存に必要な行為」ではないことになります(「「その他」は,・・・「その他」の前にある字句と「その他」の後にある字句とが並列の関係にある場合に,「その他の」は,・・・「その他の」の前にある字句が「その他の」の後にある,より内容の広い意味を有する字句の例示として,その一部を成している場合に用いられる。」(前田正道編『ワークブック法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)620頁))。遺骨についてですが,「遺骨については,戦前の判例に相続人に帰属するとしたものがあるが(大判大正10年7月25日民録271408),そもそも,被相続人の所有物とはいえないから相続の対象になるというのはおかしい」といわれています(内田Ⅳ・372頁)。

 

前編はこちら:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1052466195.html

    


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 民法733条 女は,前婚の解消又は取消しの日から6箇月を経過した後でなければ,再婚をすることができない。

 2 女が前婚の解消又は取消しの前から懐胎していた場合には,その出産の日から,前項の規定を適用しない。

 

1 最高裁判所大法廷平成271216日判決

 最近の最高裁判所大法廷平成271216日判決(平成25年(オ)第1079号損害賠償請求事件。以下「本件判例」といいます。)において,法廷意見は,「本件規定〔女性について6箇月の再婚禁止期間を定める民法733条1項の規定〕のうち100日の再婚禁止期間を設ける部分は,憲法14条1項にも,憲法24条2項にも違反するものではない。」と判示しつつ,「本件規定のうち100日超過部分〔本件規定のうち100日を超えて再婚禁止期間を設ける部分〕が憲法24条2項にいう両性の本質的平等に立脚したものでなくなっていたことも明らかであり,上記当時〔遅くとも上告人が前婚を解消した日(平成20年3月の某日)から100日を経過した時点〕において,同部分は,憲法14条1項に違反するとともに,憲法24条2項にも違反するに至っていた」ものとの違憲判断を示しています。

 女性が再婚する場合に係る待婚期間の制度については,かねてから「待婚期間の規定は、十分な根拠がなく,立法論として非難されている。」と説かれていましたが(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)31頁。なお,下線は筆者によるもの),最高裁判所は本件判例において違憲であるとの判断にまで踏み込んだのでした。

 

2 我妻榮の民法733条批判

 待婚期間規定に対して,我妻榮は次のように批判を加えていました(我妻3132頁)。

 

  第1に,この制度が父性決定の困難を避けるためなら,後婚がいやしくも成立した後は,〔民法744条に基づき〕取り消しても意味がない。少なくとも,この制度を届書受理の際にチェックするだけのものとして,取消権を廃止すべきである。

  第2に,父性推定の重複を避けるためには,――父性の推定は・・・,前婚の解消または取消後300日以内であって後婚の成立の日から200日以後だから〔民法772条〕――待婚期間は100日で足りるはずである。

  第3に,待婚期間の制限が除かれる場合(733条2項)をもっと広く定むべきである。

  第4に,以上の事情を考慮すると,待婚期間という制限そのものを廃止するのが一層賢明であろう。ことにわが国のように,再婚は,多くの場合,前婚の事実上の離婚と後婚の事実上の成立(内縁)を先行している実情の下では,弊害も多くはないであろう。

 

 民法733条を批判するに当たって我妻榮は,同条は「専ら父性確定に困難を生ずることに対する配慮」から設けられたものと解する立場を採っています(我妻3031頁)。

 

  妻は,婚姻が解消(夫の死亡または離婚)しても,あまりに早く再婚すべきものではない,とする制限は,以前から存在したが,それは別れた夫に対する「貞」を守る意味であった・・・。しかし,現在の待婚期間には,そうした意味はなく,専ら父性確定に困難を生ずることに対する配慮である。第2項の規定は,このことを示す。

 

3 待婚期間に係る梅謙次郎の説明

民法起草者の一人梅謙次郎は,民法733条の前身である民法旧767条(「女ハ前婚ノ解消又ハ取消ノ日ヨリ6个月ヲ経過シタル後ニ非サレハ再婚ヲ為スコトヲ得ス/女カ前婚ノ解消又ハ取消ノ前ヨリ懐胎シタル場合ニ於テハ其分娩ノ日ヨリ前項ノ規定ヲ適用セス」)に関して,次のように説明しています(梅謙次郎『民法要義 巻之四 親族編 訂正増補第二十版』(法政大学・中外出版社・有斐閣書房・1910年)9193頁)。

 

 本条ノ規定ハ血統ノ混乱ヲ避ケンカ為メニ設ケタルモノナリ蓋シ一旦婚姻ヲ為シタル女カ其婚姻消滅ニ帰シタル後直チニ再婚ヲ為ストキハ其後生マレタル子ハ果シテ前婚ノ子ナルカ将タ後婚ノ子ナルカ之ヲ判断シ難キコト稀ナリトセス而シテ若シ其判断ヲ誤レハ竟ニ血統ヲ混乱スルニ至ルヘシ故ニ前婚消滅ノ後6个月ヲ経過スルニ非サレハ再婚ヲ為スコトヲ得サルモノトセリ而シテ此6个月ノ期間ハ法医学者ノ意見〔本件判例に係る山浦善樹裁判官反対意見における説明によれば「懐胎の有無が女の体型から分かるのは6箇月であるとの片山国嘉医学博士(東京帝国大学教授)の意見」〕ヲ聴キテ之ヲ定メタルモノナリ

 ・・・

 民法施行前ニ在リテハ婚姻解消ノ後300日ヲ過クルニ非サレハ再婚ヲ為スコトヲ得サルヲ原則トシ唯医師ノ診断書ニ由リ遺胎ノ徴ナキコトヲ証明スルトキハ例外トシテ再婚ヲ許シ若シ遺胎ノ徴アルトキハ分娩ノ後ニ非サレハ之ヲ許ササルコトトセリ〔明治7年(1874年)9月29日の太政官指令では「自今婦タル者夫死亡セシ日又ハ離縁ヲ受ケシ日ヨリ300日ヲ過サレハ再婚不相成候事/但遺胎ノ徴ナキ旨2人以上ノ証人アル者ハ此限ニアラス」とされていました。〕是レ稍本条ノ規定ニ類スルモノアリト雖モ若シ血統ノ混乱ヲ防ク理由ノミヨリ之ヲ言ヘハ300日ハ頗ル長キニ失スルモノト謂ハサルコトヲ得ス蓋シ仏国其他欧洲ニ於テハ300日ノ期間ヲ必要トスル例最モ多シト雖モ是レ皆沿革上倫理ニ基キタル理由ニ因レルモノニシテ夫ノ死ヲ待チテ直チニ再婚スルハ道義ニ反スルモノトスルコト恰モ大宝律ニ於テ夫ノ喪ニ居リ改嫁スル者ヲ罰スルト同一ノ精神ニ出タルモノナリ(戸婚律居夫喪改嫁条)然ルニ近世ノ法律ニ於テハ此理由ニ加フルニ血統ノ混乱ヲ防クノ目的ヲ以テシタルカ故ニ分娩後ハ可ナリトカ又ハ遺胎ノ徴ナケレハ可ナリトカ云ヘル例外ヲ認ムルニ至リシナリ然リト雖モ一旦斯ノ如キ例外ヲ認ムル以上ハ寧ロ血統ノ混乱ヲ防クノ目的ヲ以テ唯一ノ理由ト為シ苟モ其混乱ノ虞ナキ以上ハ可ナリトスルヲ妥当トス殊ニ再婚ヲ許ス以上ハ6月〔約180〕ト10月〔約300〕トノ間ニ倫理上著シキ差異アルヲ見ス是新民法ニ於テモ旧民法ニ於ケルカ如ク右ノ期間ヲ6个月トシタル所以ナリ 

 
4 6箇月の待婚期間の立法目的

 

(1)山浦反対意見

 梅謙次郎の上記『民法要義 巻之四』等を検討した山浦善樹裁判官は,本件判例に係る反対意見において「男性にとって再婚した女性が産んだ子の生物学上の父が誰かが重要で,前夫の遺胎に気付かず離婚直後の女性と結婚すると,生まれてきた子が自分と血縁がないのにこれを知らずに自分の法律上の子としてしまう場合が生じ得るため,これを避ける(つまりは,血統の混乱を防止する)という生物学的な視点が強く意識されていた。しかし,当時は血縁関係の有無について科学的な証明手段が存在しなかった(「造化ノ天秘ニ属セリ」ともいわれた。)ため,立法者は,筋違いではあるがその代替措置として一定期間,離婚等をした全ての女性の再婚を禁止するという手段をとることにしたのである。・・・多数意見は,本件規定の立法目的について,「父性の推定の重複を回避し,もって父子関係をめぐる紛争の発生を未然に防ぐこと」であるとするが,これは,血縁判定に関する科学技術の確立と家制度等の廃止という社会事情の変化により血統の混乱防止という古色蒼然とした目的では制度を維持し得なくなっていることから,立法目的を差し替えたもののように思える。・・・単に推定期間の重複を避けるだけであれば,重複も切れ目もない日数にすれば済むことは既に帝国議会でも明らかにされており,6箇月は熟慮の結果であって,正すべき計算違いではない。・・・民法の立案者は妻を迎える側の立場に立って前夫の遺胎を心配していたのであって,生まれてくる子の利益を確保するなどということは,帝国議会や法典調査会等においても全く述べられていない。」と述べています(下線は筆者によるもの)。

 しかし,「蓋シ一旦婚姻ヲ為シタル女カ其婚姻消滅ニ帰シタル後直チニ再婚ヲ為ストキハ其後生マレタル子ハ果シテ前婚ノ子ナルカ将タ後婚ノ子ナルカ之ヲ判断シ難キコト稀ナリトセス而シテ若シ其判断ヲ誤レハ竟ニ血統ヲ混乱スルニ至ルヘシ」といった場合の「血統」の「混乱」とは,再婚した母の出産した子について前夫及び後夫に係る嫡出の推定(民法772条2項,旧820条2項)が重複してしまうこと(前婚解消の日及び後婚成立の日が同日であれば,その日から200日経過後300日以内の100日間においては嫡出推定が重複によって父を定めることを目的とする訴え(同法773条,旧821条)が提起されたところ,生物学上の父でない方を父と定める判決又は合意に相当する審判(家事事件手続法277条)がされてしまう事態を指すように一応思われます(重複なく嫡出推定が働いていれば,少なくとも法律上の父子関係については「混乱」はないはずです。)。嫡出の推定が重複するこの場合を除けば,「生物学な視点」から問題になるのは,「前夫の子と推定されるが事実は後夫の子なので,紛争を生じる」場合(前夫との婚姻期間中にその妻と後夫とが関係を持ってしまった場合)及び「後夫の子と推定されるが事実は前夫の子なので,紛争を生じる」場合(妻が離婚後も前夫と関係を持っていた場合。後夫の視点からする,山浦裁判官のいう前記「血統の混乱」はこの場合を指すのでしょう。)であるようですが,これらの紛争は,嫡出推定の重複を防ぐために必要な期間を超えて再婚禁止期間をいくら長く設けても回避できるものではありません(本件判例に係る木内道祥裁判官の補足意見参照)。確かに,“Omnia vincit Amor et nos cedamus Amori.”(Vergilius)です。

 

(2)再婚の元人妻に係る妊娠の有無の確認及びその趣旨

 「血統ノ混乱ヲ避ケンカ為メ」には,元人妻を娶ろうとしてもちょっと待て,妊娠していないことがちゃんと分かってから嫁に迎えろよ,ということでしょうか。

旧民法人事編32条(「夫ノ失踪ニ原因スル離婚ノ場合ヲ除ク外女ハ前婚解消ノ後6个月内ニ再婚ヲ為スコトヲ得ス/此制禁ハ其分娩シタル日ヨリ止ム」)について,水内正史編纂の『日本民法人事編及相続法実用』(細謹舎・1891年)は「・・・茲ニ一ノ論スヘキハ血統ノ混淆ヨリ婚姻ヲ防止スルモノアルコト是ナリ即夫ノ失踪シタル為ニ婦ヲ離婚シタル場合ヲ除キ其他ノ原因ヨリ離婚トナル場合ニ於テハ女ハ前婚期ノ解消シタル後6ヶ月ハ必ス寡居ス可キモノニシテ6ヶ月以内ハ再婚スルコトヲ得ス是レ6ヶ月以内ニ再婚スルヿヲ許ストキハ其生レタル子ハ前夫ノ子ナルカ将タ後夫ノ子ナルカ得テ知リ能ハサレハナリ而シテ寡居ノ期間ヲ6ヶ月ト定メタルハ子ノ懐胎ヨリ分娩ニ至ル期間ハ通常280日ナレトモ時トシテハ180日以後ハ分娩スルコトアルヲ以テ180日即6ヶ月ヲ待ツトキハ前夫ノ子ヲ懐胎シタルニ於テハ其懐胎ヲ知リ得ヘク従テ其生レタル子ハ前夫ノ子ナルコトヲ知リ得レハナリ此故ニ此制禁ハ其胎児ノ分娩シタルトキハ必スシモ6ヶ月ヲ待ツヲ要セス其時ヨリ禁制ハ息ムモノトス(32)」と説いており(2728頁。下線は筆者によるもの),奥田義人講述の『民法人事編』(東京専門学校・1893年)は「()()失踪(・・)()源因(・・)する(・・)離婚(・・)()場合(・・)()除く(・・)外女(・・)()前婚(・・)解消(・・)()()6ヶ月内(・・・・)()再離(・・)〔ママ〕()()さる(・・)もの(・・)()なす(・・)()()()()制限(・・)()()なり(・・)(第32条)而して此の制限の目的は血統の混合を防止するに外ならさるものとす蓋し婚姻解消の後直ちに再婚をなすを許すことあらんか再婚の後生れたる子ハ果して前夫の子なるか将た又後夫の子なるか之れを判明ならしむるに難けれはなり其の前婚解消の後6ヶ月の経過を必要となすは懐胎より分娩に至るまての最短期を採りたること明かなり去りなから若充分に血統の混淆を防止せんと欲せハ此の最短期を採るを以て決して足れりとすへからさるは勿論なるのみならす既に通常出産の時期を300日となす以上は少なく共此時限間の経過を必要となさるへからさるか如し・・・」と説いていました(85頁)。ちなみに,旧民法人事編91条2項は「婚姻ノ儀式ヨリ180後又ハ夫ノ死亡若クハ離婚ヨリ300日内ニ生マレタル子ハ婚姻中ニ懐胎シタルモノト推定ス」と規定していました(下線は筆者によるもの)。

 しかし,民法旧767条1項の文言からすると,女性の前婚解消後正に6箇月がたってその間前婚期間中に懐胎したことが分かってしまった場合であっても,当事者がこれでいいのだと決断すれば,再婚は可能ということになります。ところが,これでいいのだと言って再婚したとしても,後婚夫婦間に生まれた子が直ちに後夫の法律上の子になるわけではありません。民法旧820条も「妻カ婚姻中ニ懐胎シタル子ハ夫ノ子ト推定ス/婚姻成立ノ日ヨリ200日後又ハ婚姻ノ解消若クハ取消ノ日ヨリ300日内ニ生レタル子ハ婚姻中ニ懐胎シタルモノト推定ス」と規定していました。すなわち,前婚中前夫の子を懐胎していた女性とその前婚解消後6箇月たって当該妊娠を確実に承知の上これでいいのだと婚姻した後夫にとって,新婚後3箇月足らずで妻から生まれてくる子(通常の妊娠期間は9箇月)は自分の子であるものとは推定されません(3箇月は約90日であって,200日には足りません。)。そうであれば,後の司法大臣たる奥田義人の前記講述中「もし充分に血統の混淆を防止せんと欲せハ此の最短期を採るを以て決して足れりとすへからさるは勿論なるのみならす既に通常出産の時期を300日となす以上は少なく共此時限間の経過を必要となさるへからさるか如し」の部分に注目すると,「血統の混淆」とは,再婚した元人妻が新しい夫との婚姻早々,前夫の子であることが嫡出推定から明らかな子を産む事態を実は指しているということでしょうか。本件判例に係る木内裁判官の補足意見における分類によれば,「前夫の子と推定され,それが事実であるが,婚姻後に前夫の子が出生すること自体により家庭の不和(紛争)が生じる」事態でしょう。

旧民法人事編32条及び民法旧767条は,嫡出推定の重複を避けることに加えて,当該重複を避けるために必要な期間(旧民法で120日,民法で100日)を超える部分については,恋する男性に対して,ほれた元人妻とはいえ,前夫の子を妊娠しているかいないかを前婚解消後6箇月の彼女の体型を自分の目で見て確認してから婚姻せよ,と確認の機会を持つべきものとした上で,当該確認の結果妊娠していることが現に分かっていたのにあえて婚姻するのならば「婚姻後に前夫の子が出生すること自体により家庭の不和(紛争)が生じる」ことは君の新家庭ではないものと我々は考えるからあとは自分でしっかりやってよ,と軽く突き放す趣旨の条項だったのでしょうか。彼女が妊娠しているかどうか分からないけどとにかく早く結婚したい,前夫の子が産まれても構わない,ぼくは彼女を深く愛しているから家庭の平和が乱されることなんかないんだと言い張るせっかちな男性もいるのでしょうが,実際に彼女が前夫の子かもしれない子を懐胎しているのが分かったら気が変わるかもしれないよなとあえて自由を制限する形で醒めた配慮をしてあげるのが親切というものだったのでしょうか。そうだとすると,一種の男性保護規定ですね。大村敦志教授の紹介による梅謙次郎の考え方によると,「兎に角婚姻をするときにまだ前の種を宿して居ることを知らぬで妻に迎へると云ふことがあります・・・さう云ふことと知つたならば夫れを貰うのでなかつたと云ふこともあるかも知れぬ」ということで〔(梅・法典調査会六93頁)〕,「「6ヶ月立つて居れば先夫の子が腹に居れば,・・・もう表面に表はれるから夫れを承知で貰つたものならば構はぬ」(法典調査会六94頁)ということ」だったそうです(大村敦志『民法読解 親族編』(有斐閣・2015年)2829頁)。なお,名古屋大学のwww.law.nagoya-ふu.ac.jp/jalii/arthis/1890/oldcivf2.htmlウェッブページによれば,旧民法人事編の待婚期間の長さは,第1草案及び再調査案においては嫡出推定の重複を避け,かつ,切れ目がないようにするためのきっちり4箇月(約120日)であったところ,法取委〔法律取調委員会〕上申案以後6箇月になっています。旧民法人事編の「第1草案」については「明治21年〔1888年〕7月頃に,「第1草案」の起草が終わった。分担執筆した幾人かの委員とは,熊野敏三,光明寺三郎,黒田綱彦,高野真遜,磯部四郎,井上正一であり,いずれもフランス法に強い「報告委員」が担当した。「第1草案」の内容は,かなりヨオロッパ的,進歩的なものであった。」と述べられ(大久保泰甫『日本近代法の父 ボアソナアド』(岩波新書・1998年)157頁),更に「その後,法律取調委員会の・・・本会議が開かれ,「第1案」「第2按」「再調査案」「最終案」と何回も審議修正の後,ようやく明治23年〔1890年〕4月1日に人事編が・・・完成し,山田〔顕義〕委員長から〔山県有朋〕総理大臣に提出された。」と紹介されています(同158頁)。

 

(3)本件判例

 本件判例の法廷意見は,民法旧767条が目的としたところは必ずしも一つに限られてはいなかったという認識を示しています。いわく,「旧民法767条1項において再婚禁止期間が6箇月と定められたことの根拠について,旧民法起訴時の立案担当者の説明等からすると,その当時は,専門家でも懐胎後6箇月程度経たないと懐胎の有無を確定することが困難であり,父子関係を確定するための医療や科学技術も未発達であった状況の下において,①再婚後に前夫の子が生まれる可能性をできるだけ少なくして家庭の不和を避けるという観点や,②再婚後に生まれる子の父子関係が争われる事態を減らすことによって,父性の判定を誤り血統に混乱が生ずることを避けるという観点から,再婚禁止期間を厳密に父性の推定が重複するための期間に限定せず,一定の期間の幅を設けようとしたものであったことがうかがわれる。③また,諸外国の法律において10箇月の再婚禁止期間を定める例がみられたという事情も影響している可能性がある。」と(①②③は筆者による挿入)。続けて,法廷意見は「しかし,その〔昭和22年法律第222号による民法改正〕後,医療や科学技術が発達した今日においては,上記のような各観点から,再婚禁止期間を厳密に父性の推定が重複することを回避するための期間に限定せず,一定の期間の幅を設けることを正当化することは困難になったといわざるを得ない。」と述べていますが,ここで維持できなくなった観点は,②の「父子関係が争われる事態」における「父子関係」とは飽くまでも法的なものであると解せば,①及び③であろうなと一応思われます(③については判決文の後の部分で「また,かつては再婚禁止期間を定めていた諸外国が徐々にこれを廃止する立法をする傾向にあり,ドイツにおいては1998年(平成10年)施行の「親子法改革法」により,フランスにおいては2005年(平成17年)施行の「離婚に関する2004年5月26日の法律」により,いずれも再婚禁止期間の制度を廃止するに至っており,世界的には再婚禁止期間を設けない国が多くなっていることも公知の事実である。」と述べられています。)。

 ところで,本件判例の法廷意見は更にいわく,「・・・妻が婚姻前から懐胎していた子を産むことは再婚の場合に限られないことをも考慮すれば,再婚の場合に限って,①前夫の子が生まれる可能性をできるだけ少なくして家庭の不和を避けるという観点や,②婚姻後に生まれる子の父子関係が争われる事態を減らすことによって,父性の判定を誤り血統に混乱が生ずることを避けるという観点から,厳密に父性の推定が重複することを回避するための期間を超えて婚姻を禁止する期間を設けることを正当化することは困難である。他にこれを正当化し得る根拠を見いだすこともできないことからすれば,本件規定のうち100日超過部分は合理性を欠いた過剰な制約を課すものとなっているというべきである。」と(①②は筆者による挿入)。さて,100日を超えた約80日の超過部分を設けることによって防止しようとした「婚姻後に生まれる子の父子関係が争われる事態」とはそもそも何でしょう。当該約80日間が設けられたことによって,前婚解消後6箇月で直ちに再婚した妻の産む子のうち後婚開始後約120日経過後200日経過前の期間内に生まれた子には前夫及び後夫いずれの嫡出推定も及ばないことになります。むしろ(認知のいかんをめぐって)父子関係が争われやすくなるようでもありました(昭和15年(1940年)1月23日の大審院連合部判決以前は,婚姻成立の日から200日たたないうちに生まれた子を非嫡出子としたものがありました(我妻215頁参照)。)。嫡出推定の切れ目がないよう前婚解消後100日経過時に直ちに再婚したがる女性には何やら後夫に対する隠し事があるように疑われ,後夫が争って,つい嫡出否認の訴えを提起したくなるということでしょうか。しかし,(DNA鑑定を通じて)嫡出否認の訴えが成功すればそもそも父子関係がなくなるので,この争い自体から積極的な「血統に混乱」は生じないでしょう。(なお,前提として,「厳密に父性の推定が重複することを回避するための期間」の範囲内については②の観点は依然として有効であることが認められていると読むべきでしょうし,そう読まれます。)「再婚禁止期間を厳密に父性の推定が重複するための期間に限定せず,一定の期間の幅を設けようとした」ことと②の「再婚後に生まれる子の父子関係が争われる事態を減らすことによって,父性の判定を誤り血統に混乱が生ずることを避けるという観点」との結び付きはそもそも強いものではなかったように思われます。また,前夫の嫡出推定期間内に生まれる子の生物学上の父が実は後夫である場合は,むしろ嫡出推定が重複する期間を設けて紛戦に持ち込み,父を定めることを目的とする訴えを活用して生物学上の父と法律上の父とが合致するようにし,もって「血統の混乱」を取り除くことにする方がよいのかもしれません。しかし,そのためには逆に,待婚期間は短ければ短い方がよく,理想的には零であるのがよいということになってしまうようです(なお,待婚期間がマイナスになるのは,重婚ということになります。)。この点については更に,大村教授は「嫡出推定は婚姻後直ちに働くとしてしまった上で,二つの推定の重複を正面から認めよう,という発想」があることを紹介しています(大村29頁)。

それでは,①の「再婚後に前夫の子が生まれる可能性をできるだけ少なくして家庭の不和を避けるという観点」と現在は「医療や科学技術が発達した」こととの関係はどうでしょうか。現在は6箇月たたなくとも妊娠の有無が早期に分かるから,そこまでの待婚期間は不要だということでしょう。しかし,「懐胎の有無が女の体型から分かるのは6箇月であるとの片山国嘉医学博士(東京帝国大学教授)の意見」においては「女の体型」という外見が重視されているようであり,女性が妊娠を秘匿している事態も懸念されているようではあります。妊娠検査薬があるといっても,女性の協力がなければ検査はできないでしょうが,その辺の事情には明治や昭和の昔と平成の現代とで変化が生じているものかどうか。

本件判例の法廷意見は,憲法24条1項は「婚姻をするかどうか,いつ誰と婚姻をするかについては,当事者の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨を明らかにしたもの」と解した上で「上記のような婚姻をするについての自由」は「十分尊重に値するもの」とし,さらには,再婚について,「昭和22年民法改正以降,我が国においては,社会状況及び経済状況の変化に伴い婚姻及び家族の実態が変化し,特に平成期に入った後においては,晩婚化が進む一方で,離婚件数及び再婚件数が増加するなど,再婚をすることについての制約をできる限り少なくするという要請が高まっている事情も認めることができる」ものとしています。「婚姻をするについての自由」に係る憲法24条1項は昭和22年民法改正のそもそもの前提だったのですから,その後に①の「再婚後に前夫の子が生まれる可能性をできるだけ少なくして家庭の不和を避けるという観点」の有効性が減少したことについては,やはり,後者の「再婚をすることについての制約をできる限り少なくするという要請が高まっている事情」が大きいのでしょうか。「再婚」するにはそもそも主に離婚が前提となるところ,離婚の絶対数が増えれば早く再婚したいという人の絶対数も増えているのでしょう。ちなみに,女性が初婚時よりも再婚時の方が良い妻になることが多いという精神分析学説がありますが(„Ich meine, es muß dem Beobachter auffallen, in einer wie ungewönlich großen Anzahl von Fällen das Weib in einer ersten Ehe frigid bleibt und sich unglücklich fühlt, während sie nach Lösung dieser Ehe ihrem zweiten Manne eine zärtliche und beglückende Frau wird.“(Sigmund Freud, Das Tabu der Virginität, 1918)),これは本件判例には関係ありません。

しかし,現代日本の家族は核家族化したとはいえ,「家庭の不和」の当事者としては,夫婦のみならず,子供も存在し得るところです。

 

5 待婚期間を不要とした実例:アウグストゥス

 

(1)アウグストゥスとリウィアとリウィアの前夫の子ドルスス

 ところで,前夫の子を懐胎しているものと知りつつ,当該人妻の前婚解消後直ちにこれでいいのだと婚姻してしまった情熱的な男性の有名な例としては,古代ローマの初代皇帝アウグストゥスがいます。

 

  〔スクリボニアとの〕離婚と同時にアウグストゥスは,リウィア・ドルシラを,ティベリウス・ネロの妻でたしかに身重ですらあったのにその夫婦仲を裂き,自分の妻とすると(前38年),終生変らず比類なく深く愛し大切にした。(スエトニウス「アウグストゥス」62(国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(上)』(岩波文庫・1986年)))

 

 前63年生まれのアウグストゥスは,前38年に25歳になりました。リウィアは前58年の生まれですから,アウグストゥスの5歳年下です。両者の婚姻後3箇月もたたずに生まれたリウィアの前夫ティベリウス・クラウディウス・ネロの息子がドルススです。

 

  〔4代目皇帝〕クラウディウス・カエサルの父ドルススは,かつて個人名をデキムスと,その後でネロと名のった。リウィアは,この人を懐妊したまま,アウグストゥスと結婚し,3ヶ月も経たぬ間に出産した(前38年)。そこでドルススは,継父の不義の子ではないかと疑われた。たしかにドルススの誕生と同時に,こんな詩句が人口に膾炙した。

  「幸運児には子供まで妊娠3ヶ月で生れるよ」

  ・・・

  ・・・アウグストゥスは,ドルススを生存中もこよなく愛していて,ある日元老院でも告白したように,遺書にいつも,息子たちと共同の相続人に指名していたほどである。

  そして〔前9年に〕彼が死ぬと,アウグストゥスは,集会で高く賞揚し,神々にこう祈ったのである。「神々よ,私の息子のカエサルたちも,ドルススのごとき人物たらしめよ。いつか私にも,彼に授けられたごとき名誉ある最期をたまわらんことを」

  アウグストゥスはドルススの記念碑に,自作の頌歌を刻銘しただけで満足せず,彼の伝記まで散文で書いた。(スエトニウス「クラウディウス」1(国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(下)』(岩波文庫・1986年)))

 

(2)アウグストゥス家の状況

しかし,共和政ローマの名門貴族クラウディウス一門(アッピア街道で有名なアッピウス・クラウディウス・カエクスもその一人)のティベリウス・クラウディウス・ネロ(前33年没)を法律上の父として持つドルススは,母の後夫であり,自分の生物学上の父とも噂されるアウグストゥスの元首政に対して批判的であったようです。

 

 〔ドルススの兄で2代目皇帝の〕ティベリウスは・・・弟ドルスス・・・の手紙を公開・・・した。その手紙の中で弟は,アウグストゥスに自由の政体を復活するように強制することで兄に相談をもちかけていた。(スエトニウス「ティベリウス」50(国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(上)』(岩波文庫・1986年)))

 

 少なくとも皇帝としてのアウグストゥスに対しては,反抗の意思があったわけです。

 

 ところでドルススには名声欲に劣らぬほど,民主的な性格が強かったと信じられている。

 ・・・彼はそうする力を持つ日がきたら,昔の共和政を復活させたいという希望を,日頃から隠していなかったといわれているからである。

 ここに,ある人らが大胆にも次のような説を伝えている根拠があると私は思うのである。

 ドルススはアウグストゥスに不信の念を抱かれ,属州から帰還を命じられても逡巡していて毒殺されたと。この説を私が紹介したのは,これが真実だとか,真相に近いと思ったからではなく,むしろこの説を黙殺したくなかったからにすぎない。(スエトニウス「クラウディウス」1)

 

 自分の本当の父親が誰であるのか悩むことがあったであろうドルススの心事を忖度することには興味深いものがあります。

 アウグストゥスの家庭は,余り平和ではありませんでした。

 

 〔アウグストゥスは,リウィアと再婚する際離婚した〕スクリボニアからユリアをもうける。リウィアからは熱烈に望んでいたのに一人の子供ももうけなかった。もっとも胎内に宿っていた赤子が月足らずで生まれたことはあるが。(スエトニウス「アウグストゥス」63

 

  娘と孫娘のユリアは,あらゆるふしだらで穢れたとして島に流した。(スエトニウス「アウグストゥス」65

 

6 待婚期間を回避した実例:ナポレオン

 

(1)ナポレオンの民法典

 「我々は,良俗のためには,離婚と2度目の婚姻との間に間隔を設けることが必要であると考えた。(Nous avons cru, pour l’honnêteté publique, devoir ménager une intervalle entre le divorce et un second mariage.)」と述べたのは,ナポレオンの民法典に係る起草者の一人であるポルタリスです(Discours préliminaire du premier projet de Code civil, 1801)。1804年のナポレオンの民法典における待婚期間に関する条項にはどのようなものがあったでしょうか。

 

 第228条 妻は,前婚の解消から10箇月が経過した後でなければ,新たに婚姻することができない。(La femme ne peut contracter un nouveau mariage qu’après dix mois révolus depuis la dissolution du mariage précédent.

 

これは我が民法733条1項及び旧767条1項並びに旧民法民事編32条1項に対応する規定ですね。ただし,待婚期間が6箇月ではなく10箇月になっています。また,ナポレオンの民法典228条は,離婚以外の事由による婚姻の解消(主に死別)の場合に適用がある規定です。

共和国10年葡萄月(ヴァンデミエール)14日(180110月6日)に国務院(コンセイユ・デタ)でされた民法典に関する審議の議事(同議事録http://archives.ih.otaru-uc.ac.jp/jspui/handle/123456789/53301第1巻294295頁)を見ると,同条の原案には,décence”(品位,節度)がそれを要請するであろうとして(ブーレ発言),後段として「夫も,当該解消から3箇月後でなければ,2度目の婚姻をすることができない。(le mari ne peut non plus contracter un second mariage qu’après trois mois depuis cette dissolution.)」という規定が付け足されていました。同条の原案に対する第一執政官ナポレオンの最初の感想は,「10箇月の期間は妻には十分長くはないな。」であり,司法大臣アブリアルが「我々の風習では,その期間は1年間で,喪の年(l’an de deuil)と呼ばれています。」と合の手を入れています。トロンシェが,「実際のところ,妻に対する禁制の目的は,la confusion de partを防ぐことであります。夫についてはそのような理由はありません。彼らの家計を維持する関係で妻の助力を必要とする耕作者,職人,そして人民階級の多くの諸個人にとっては,提案された期間は長過ぎます。」と発言しています。議長であるナポレオンが「アウグストゥスの例からすると妊娠中の女とも婚姻していたのだから,古代人はla confusion de partの不都合ということを気にしてはいなかったよな。夫の方については,規定せずに風習と慣例とに委ねるか,もっと長い期間婚姻を禁ずるかのどちらかだな。この点で民法典が,慣習よりもぬるいということになるのはまずい。」と総括し,結局同条については,後段を削った形で採択されています。しかして残った同条は,端的にla confusion de partを防ぐための条項であるかといえば,アウグストゥスの例に触れた最終発言によれば第一執政官はその点を重視していたようには見えず,さりとて「喪の年」を2箇月縮めたものであるとも言い切りにくいところです。(ただし,この10箇月の期間にはいわれがあるところで,古代ローマの2代目国王「ヌマは更に喪を年齢及び期間によつて定めた。例へば3歳以下の幼児が死んだ時には喪に服しない。もつと年上の子供も10歳まではその生きた年数だけの月数以上にはしない。如何なる年齢に対してもそれ以上にはせず,一番長い喪の期間は10箇月であつて,その間は夫を亡くした女たちは寡婦のままでゐる。その期限よりも前に結婚した女はヌマの法律に従つて胎児を持つてゐる牝牛を犠牲にしなければならな」かった,と伝えられています(プルタルコス「ヌマ」12(河野与一訳『プルターク英雄伝(一)』(岩波文庫・1952年)))。また,ヌマによる改暦より前のローマの暦では1年は10箇月であったものともされています(プルタルコス「ヌマ」18・19)。なお,“La confusion de part”“part”は「新生児」の意味で,「新生児に係る混乱」とは,要は新生児の父親が誰であるのか混乱していることです。これが我が国においては「血統ノ混乱」と訳されたものでしょうか。

離婚の場合については,特別規定があります。

 

296条 法定原因に基づき宣告された離婚の場合においては,離婚した女は,宣告された離婚から10箇月後でなければ再婚できない。(Dans le cas de divorce prononcé pour cause déterminée, la femme divorcée ne pourra se remarier que dix mois apès le divorce prononcé.

 

297条 合意離婚の場合においては,両配偶者のいずれも,離婚の宣告から3年後でなければ新たに婚姻することはできない。(Dans le cas de divorce par consentement mutuel, aucun des deux époux ne pourra contracter un nouveau mariage que trois ans après la pronunciation du divorce.

 

 面白いのが297条ですね。合意離婚の場合には,男女平等に待婚期間が3年になっています。ポルタリスらは当初は合意離婚制度に反対であったので(Le consentement mutuel ne peut donc dissoudre le mariage, quoiqu’il puisse dissoudre toute autre société.(ibid)),合意離婚を認めるに当たっては両配偶者に一定の制約を課することにしたのでしょう。男女平等の待婚期間であれば,我が最高裁判所も,日本国憲法14条1項及び24条2項に基づき当該規定を無効と宣言することはできないでしょう。

 ただ,ナポレオンの民法典297条が皇帝陛下にも適用がある(ないしは国民の手前自分の作った民法典にあからさまに反することはできない)ということになると,一つ大きな問題が存在することになったように思われます。

 18091215日に皇后ジョゼフィーヌと婚姻解消の合意をしたナポレオンが,どうして3年間待たずに1810年4月にマリー・ルイーズと婚姻できたのでしょうか。

 ジョゼフィーヌの昔の浮気を蒸し返して法定原因に基づく離婚(ナポレオンの民法典296条参照)とするのでは,皇帝陛下としては恰好が悪かったでしょう。どうしたものか。

 

(2)18091216日の元老院令

 実は,18091215日のナポレオンとジョゼフィーヌとの合意に基づく婚姻解消は,合意離婚ではなく,立法(同月16日付け元老院令)による婚姻解消という建前だったのでした。合意離婚でなければ,夫であるナポレオンが再婚できるまで3年間待つ必要はありません。

 上記元老院令は,その第1条で「皇帝ナポレオンと皇后ジョゼフィーヌとの間の婚姻は,解消される。(Le mariage contracté entre l’Empereur Napoléon et l’Impératrice Joséphine est dissous.)」と規定しています。

 大法官は,カンバセレス。ナポレオンに最終的に「婚姻解消,やらないか。」と言ったのは,フーシェでもタレイランでもなく彼だったものかどうか。いずれにせよ,厄介な法律問題を処理してくれたカンバセレスの手際には,皇帝陛下も「いい男」との評価を下したことでしょう。

 こじつけのようではありますが,1809年においても2015年においても,1216日は,離婚後の長い待婚期間の問題性が表面化された日でありました。



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1 相続編

 

(1)相続の開始

 フランス太陽王ルイ14世治下の文士であるペロー(Charles Perrault)の『猫大先生(Le Maître Chat ou Le Chat Botté)』の冒頭部分は,次のように物語られています。

 

  ある粉屋が,その3人の子供に,全財産として製粉所とろばと猫しか残さなかった。

 

 ここで「製粉所」と訳したのはmoulinなのですが,風車なのか水車なのか不明です。Moulin rougeといえば赤い風車ですが,パリの同所においては,粉がひかれているわけではありません。

 ろばと猫とは粉屋のもとで何をしていたか,また,製粉所,ろば及び猫が残された(laissa)原因は具体的には何だったのかは,ライン川の向こう側は19世紀の学者兄弟グリム(Brüder Grimm)による説明(„Der gestiefelte Kater)の方が詳しいようです。

 

 ・・・息子たちは粉をひき,ろばは穀物を運び入れて粉を運び出し,そして猫はねずみを駆除しなければならなかった。粉屋が死んだので,3人の息子たちは遺産を分割し,長男は製粉所を,二男はろばを,三男は猫を相続したが,三男には他に何も残されてはいなかった。

 

 父が,遺言を残さないで死亡して,相続が開始され(民法882条。なお,民法旧964条によれば家督相続は戸主の死亡のみならず隠居等によっても開始しました。),3人の息子が相等しい相続分の相続人となったわけです(民法8871項,9004号本文)。「相続人が数人あるときは,相続財産は,その共有に属する」ので(民法898条),父の死亡直後は,製粉所の土地,同建物,ろば及び猫のそれぞれが3人兄弟によって共有されていたことになります(持分は各自3分の1)。

 

(2)相続財産に係る共有説

 ペローの時代はプロイセン一般ラント法(ALR)の前の時代ですから,ドイツは普通法(Gemeines römisches Recht)の時代だったということになります。「普通法時代のドイツ相続法では,共同相続人個人の利益が,相続債権者の利益に優先し,各相続人は,個々の相続財産の上に共有持分を取得し,その持分は任意に処分することを許され」ており(中川善之助『相続法』(有斐閣・1964年)154頁),すなわち,「共同相続人が,3分の1の相続分を持っているということは,相続財産を構成するあらゆる個々の財産上に3分の1の持分をもつということであり,その持分は普通の共有持分と同じであるから,自由に他人へ譲渡することもできた。また被相続人が金銭債権の如き可分債権をもっていたとすれば,共同相続人は,相続開始と同時に,当然に分割されたその債権の一部を承継することになる。例えば100万円の預金が5人の子たちに相続されるとすれば,この共同相続人各自は,相続開始によって,20万円ずつに分割された預金債権の一つを承ける,とされたのであった。」というわけです(同155頁)。「このローマ式の考え方を共有説という。」とされています(中川155頁)。我が国の判例は,共有説です。

 

(3)遺産分割協議

 相続財産が共有になっている状態から,「共同相続人は,・・・被相続人が遺言で禁じた場合を除き,いつでも,その協議で,遺産の分割をすることができ」ます(民法9071項)。「遺産の分割は,遺産に属する物又は権利の種類及び性質,各相続人の年齢,職業,心身の状態及び生活の状況その他一切の事情を考慮」してするものとされています(民法906条)。

ところで,『猫大先生』の場合,三男坊は,遺産分割協議が調った結果猫を相続することになったのですが(なお,遺産の分割には被相続人の死亡時にさかのぼる遡及効があります(民法909条本文)。),当該遺産分割協議には不満だったようです。

 

 ・・・彼にとっては,こんなに乏しい分け前では,自らの慰めようもなかった。

  「兄さんたちは,」と彼は言った。「一緒になってやっていけば,結構な稼ぎで暮らしていける(pourront gagner leur vie honnêtement)。ところが僕ときたら,猫を食って(j’aurai mangé mon chat),その皮でマフを作らせちまったら,あとは飢え死にするしかないんだ。」

 

しかし,フランス人は,でんでん虫のみならず,猫をも食べてしまうのでしょうか。ドイツでは,猫の毛皮で手袋を作るだけだったようですが(ein Paar Pelzhandschuhe aus seinem Fell machen)。

閑話休題。

遺産「分割は,〔被相続人の〕指定または法定の相続分に従い,また906条の分割基準に従うべきを本旨とするが,相続人の自由な意思に基くものである限り,これに違反しても,直ちに無効とすることはできない。錯誤や詐欺強迫があった場合は格別,そうでなければ,自己の取得分をゼロとする如き分割協議でも有効である。」とされています(中川223頁)。「協議分割による場合は,協議が成立する限り,内容的にどのような分割がなされてもよい。具体的相続分率に従わない分割も有効」であるわけです(内田貴『民法Ⅳ補訂版 親族・相続』(東京大学出版会・2004年)423頁)。いったん遺産分割協議が調った以上,「第三者への影響を考えると,錯誤無効の認定は慎重になされる必要」があります(内田424頁)。三男坊がいくら嘆息しても,後の祭りでありました。

さて,不動産たる製粉所の土地及び建物について相続を原因とする所有権移転の登記を申請すべき長男にとっては,登記原因を証する情報(不動産登記法61条)として遺産分割協議書などは必要なかったものか。法的書面の作成となれば,法律家の関与はなかったものか。しかし,『猫大先生』でペローの伝えるところでは,法律家は,当時はなはだ評判が悪かったところです。(ウィキペディア情報では,ペロー自身が弁護士をやってはみたが,すぐに辞めてしまっていたと伝えられています。)

 

・・・遺産分割がやがてされたが,公証人(notaire)も代訴人(procureur)もお呼びではではなかった。そもそも多からぬ相続財産が,ほどなくすっかり食い物にされかねなかったからである(Ils auraient eu bientôt mangé tout le pauvre patrimoine.)。

 

 Procureurは,つい「検察官」と訳したくなりますが,そのためには,ただのprocureurではなくて,“Procureur du roi”(国王の代官)でなければなりません。フランスでは「封建制が確立される以前は,刑罰権の発動が私人弾劾の方法で行われていた」が,「封建制度が確立されるに従い,国王の収入に帰する罰金や財産の没収についてまで私人弾劾の方式にゆだねるわけにはいかなくなり,13世紀ころには,国王の裁判所が職権で審判をすることとし,広い管轄地域を有する裁判所では,国王の代理人として「国王の代官(Procureur de roi)」を置いて国王の収入上の利益を監視させていた。その後,刑罰観念の進化と王権の振興に伴い,国王の代官が訴追に関与するようになり,次第にその訴追権の範囲を拡大させ,15世紀ころには,一般犯罪について訴追権を有するとともに裁判を執行し,裁判官を監督する任務をもつようになった。これが検察制度の起源であるとされている。」とされているところです(司法研修所検察教官室『平成18年版 検察講義案』1頁)。

 

(4)相続税法における遺産に係る基礎控除額

 ちなみに,粉屋三兄弟は相続税を納付する必要はなかったものでしょうか。粉屋の遺産の額は,今年(2015年)から減額されたとはいえなお相続税の基礎控除額の枠内に収まったものだったのでしょうか。遺産に係る基礎控除額は,3000万円と600万円に当該被相続人の相続人の数を乗じて算出した金額との合計額です(相続税法151項)。三兄弟の場合の遺産に係る基礎控除額は,4800万円になります(=3000万円+(600万円×3))。製粉所,ろば及び猫の価額の合計額が4800万円以下であれば,相続税の課税価格が無いことになって(「相続税の総額を計算する場合においては,同一の被相続人から相続又は遺贈により財産を取得した全ての者に係る相続税の課税価格・・・の合計額から,・・・遺産に係る基礎控除額・・・を控除する。」(相続税法151項)),相続税を納付せずに済んだわけです。

 

2 物権編及び総則編

 猫大先生は,野生のうさぎとうずらとをわなにはめて捕獲し,王様に対し,カラバ侯爵(le Marquis de Carabas)こと三男坊からの贈り物だといってせっせと献上し,王様に気に入られます(なお,ドイツ版においてはうさぎの捕獲の話はなく,また,三男坊は氏名不詳の伯爵(Graf)ということにされています。)。

 

(1)無主物先占及び権利能力

 さて,この間の法律関係ですが,野生のうずら等を捕獲するのですから,「所有者のない動産は,所有の意思をもって占有することによって,その所有権を取得する。」という民法239条1項が働く場面ということになります。そうであれば,まず当該うずら等の所有権を無主物先占によって取得したのはだれになるのでしょうか。ペローのお話では猫大先生がうさぎ又はうずらの捕獲及び献上について三男坊に報告していた気配がないようなので,三男坊はその間の様子を全く知らず,そうであれば同人については所有権取得のための「所有の意思」どころではないということになりそうです。であれば,猫大先生が,無主物先占によりうずら等の所有権を取得し,当該捕獲物を王様に贈与したものであるということになるようです。しかしながら,猫大先生は,飽くまでも「猫」であって,自然「人」でもなく法「人」でもないので,権利能力を有しておらず,無主物先占によって人間の権利たる所有権を取得することはできません。したがって,無主物先占をまずしたのは,実は王様ということになります。

 

(2)所有権放棄

 それでは今度は,王様が猫大先生にお小遣いに金銭を与える場合(lui fit donner pour boire)の法律関係はどうかということになれば,権利能力のない猫大先生相手に贈与契約は成立しませんから,当該金銭に係る王様の所有権放棄がされたということになるようです。所有権放棄についてドイツ民法959条は,「所有者が所有権を放棄する意思をもって動産の占有を放棄したときは,当該動産は無主となる。(Eine bewegliche Sache wird herrenlos, wenn der Eigentümer in der Absicht, auf das Eigentum zu verzichten, den Besitz der Sache aufgibt.)」と規定しています。

 

3 親族編

 『猫大先生』の最後では,三男坊はカラバ侯爵として,世界で一番美しいお姫様(la plus belle princesse du monde)である王女と結婚します(épousa)。しかしこれは,花嫁とその父の王様とが,粉屋の三男坊を侯爵と勘違いし,かつ,本来は人食い鬼(Ogre。ドイツ版では魔術師(Zauberer))のものであった立派なお城や豊かな領地を三男坊のものだと勘違いしてされた婚姻でありました。「人違いその他の事由によって当事者間に婚姻をする意思がないとき」に当たる無効の婚姻だということにならないでしょうか(民法7421号)。それとも王女は,「詐欺又は強迫によって婚姻をした者」であるとして,家庭裁判所に三男坊との婚姻の取消しを請求できないでしょうか(民法7471項)。

 

  この点ドイツ人は慎重で,三男坊が王女と婚約したところまでの記述となっています(Da ward die Prinzessin mit dem Grafen versprochen)。その後,国王が死んで三男坊が王となり,猫大先生が筆頭大臣(erster Minister)となったとグリム兄弟は書いていますが,あるいは当該即位は,相続によらぬ,猫大先生の策謀による王位簒奪だったのかもしれません。

 

(1)婚姻の無効

「婚姻意思は,あくまでも相手方その人と婚姻するという意思である。相手方の地位,性格,品性,才能などは,いずれも附随的なものに過ぎない。これらの点に錯誤があり,夫婦関係が円満にゆかないときも,離婚の原因となることがあっても,婚姻意思の欠缺とはならない。ただし,これらの錯誤が詐欺による場合には取消の原因となりうる・・・。」(我妻栄『親族法』(有斐閣・1961年)1516頁)ということでは,三男坊と王女との婚姻は,なかなか無効ということにはならないでしょう。(ただし,我が明治皇室典範39条(「皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ル」)のような規定があれば,王女と華族(侯爵)ではない三男坊との婚姻は無効となり得るのでしょうが(伊藤博文の『皇室典範義解』41条解説には「皇族の婚嫁本法に違ひ勅許を得ざる者は其婚嫁を認めず。其の婦は皇族たるの礼遇及名称を得ざるべし。」とあります。なお,大正7年の皇室典範増補では「皇族女子ハ王族又ハ公族ニ嫁スルコトヲ得」としています。ここに出てくる王公族の制は日韓併合に伴い設けられたものです。),ここではこれ以上論じないことにしましょう。)

なお,フランスの裁判例では,アイデンティティの錯誤(erreur sur l’identité)ということで,「身分の同一性(l’identité civile)若しくは国籍又は名及び家柄(nom et l’appartenance familiale)に係る錯誤は,決定的(déterminante)なものでない限り同意の瑕疵を構成しない。」(反対解釈すると,決定的なものならば瑕疵になる。)とされていますが(Dalloz “Code Civil Edition 2011” p.317),『猫大先生』の場合には,王女が三男坊と結婚する気になった決定的要因は,三男坊が「美男で容姿端麗(beau, et bien fait de sa personne)」だったことであるので(ドイツ版では,更に若さも挙げられています(denn der Graf war jung und schön)。),カラバという名の侯爵家の人物でなくても問題ではないものでしょうね。三男坊を裸で川(ドイツ版では湖)にいれさせて,溺れるのではないかと心配した王様に三男坊を助けさせた上,その衣裳を着せさせてもらって,その豪奢な衣裳のおかげをもって,王様に同行していた王女の前で三男坊の男っぷりを上げることに成功(les beaux habits qu’on venait de lui donner relevaient sa bonne mine)した猫大先生の作戦勝ちでありました。

婚姻の詐欺取消しの問題に移ります。

 

(2)婚姻の詐欺取消し

「詐欺・・・とは,違法な手段によって,相手方を欺いて錯誤に陥し入れ,・・・よって婚姻の合意をさせることである。婚姻の相手方の行うものに限らず,第三者の行うものも含まれる。抽象的にいえば,一般の意思表示の瑕疵を生ずる詐欺・・・(96条)と同じである。しかし,婚姻が成立する場合のわが国社会の実情を見るときは,・・・詐欺においては,その欺罔行為の違法性は相当に強度なものでなければならないのみならず,欺罔行為によって生ずる錯誤は,一般人にとっても相当重要なものとされる程度(その人の品性・能力・地位などについての詐欺も程度が重ければ取り消しうるものとなる)でなければならない(この点普通の場合と異なる・・・)。」とされています(我妻65頁)。詐欺による婚姻取消しを認める敷居は相当高いと考えるべきでしょう。「薬剤士の免許を有し月給90円以上と偽った(免許なく月給は70円足らず)事例を詐欺とならず」とした東京地方裁判所昭和13年6月18日判決は,「むろん正当」とされています(我妻6667頁注5)。

我が旧民法人事編第4章(婚姻)第5節(婚姻ノ不成立及ヒ無効)には,「強暴」による婚姻の不成立及び無効請求に関する規定はあったものの(同編551項,63条・64条),詐欺による無効の請求に関する規定はありませんでした。

伝統的に「フランス民法(180条)は強迫だけを取消原因とし詐欺を取消原因としない」ものとしていたようです(我妻66頁注5参照)。1804年のナポレオン(Ogre de Corse)の民法典180条は「配偶者の双方又は一方において自由な同意(le consentement libre)の欠けたままされた婚姻は,配偶者の双方又は自由ではない同意をした一方の配偶者によってのみ攻撃され得る。/人違い(erreur dans la personne)の場合においては,婚姻は,配偶者中錯誤に陥っていたもののみによって攻撃され得る。」と規定していました。なるほど,詐欺は表に出て来ません。これに対してフランス民法1109条は,一般的に,「同意が錯誤のみによってされた場合,又は強迫によって喝取(extorqué par violence)され,若しくは詐欺によって騙取(surpris par dol)された場合においては,有効な同意は存在しない。」と規定しています。

 

(3)人の本質的資質に係る錯誤

ところで,現在のフランス民法180条は,「配偶者の双方又は一方において自由な同意の欠けたままされた婚姻は,配偶者の双方若しくは自由ではない同意をした一方の配偶者又は検事局(le ministère public)によってのみ攻撃され得る。配偶者の双方又はその一方に対する強制(l’exercice d’une contrainte)(優越者に対する畏怖(crainte révérencielle)によるものを含む。)は,婚姻の無効(nullité du mariage)原因である。/人違い又は人の本質的資質(des qualités essentielles de la personne)に係る錯誤がある場合においては,相手方配偶者は婚姻の無効を請求できる。」と規定していて,人の本質的資質に関する錯誤が婚姻無効事由として認められるに至っています(1975年の改正)。 ただし,人の本質的資質の錯誤としては,お金の有無は問題にはなり難いもののようではあります。別れるつもりの全く無い愛人がいることを配偶者に隠していた場合,離婚歴,犯罪歴若しくは売春歴があることを知らせないでいた場合,国籍,性的能力,生殖能力若しくは精神の健全性について錯誤があった場合,相手方が成年被後見人であることを知らなかった場合,相手方に婚姻意思が欠けている場合,又は婚姻数箇月後まで相手方の病気を知らなかった場合が,人の本質的資質の錯誤の認められた場合として挙げられています(Dalloz pp.317-318)。処女性に係る欺罔については認められていません(Douai, 17 nov. 2008)。

 

4 侯爵関係法編

 

(1)軽犯罪法

なお,侯爵であるとの詐称は,軽犯罪法1条15号前段の罪の構成要件(「官公職,位階勲等,学位その他法令により定められた称号若しくは外国におけるこれらに準ずるものを詐称」)に該当する行為でしょうか。どうも,該当しないようです(安西溫『特別刑法7準刑法・通信・司法・その他』(警察時報社・1988年)152154頁参照)。侯爵は,官職又は公職ではなく,位階(正○位の類)でも勲等(勲○等の類)でもありません。学位ではもちろんないですし,法令上の根拠たるべきものとしても,大日本帝国憲法15条(「天皇ハ爵位勲章及其ノ他ノ栄典ヲ授与ス」)と共に,爵に関する華族令(明治40年皇室令第2号)は,「皇室令及附属法令ハ昭和22年5月2日限リ之ヲ廃止ス」と規定する昭和22年皇室令第12号でばっさり廃止されてしまっています。ただし,軽犯罪法附則2項で廃止された警察犯処罰令(明治41年内務省令第16号)の第2条20号前段の構成要件(「官職,位記,勲,学位ヲ詐リ」(下線は筆者))には該当していたものでしょう(30日未満の拘留又は20円未満の科料)。なお,現在においては,刑事事件の被疑者として司法警察職員から取調べを受けるときであっても,位記,勲章,褒賞等について訊かれることはあっても,もはや爵について訊かれることはありません(犯罪捜査規範(昭和32年国家公安委員会規則第2号)17813号参照)。そもそも,日本国憲法14条2項は「華族その他の貴族の制度は,これを認めない。」と規定しており,華族の定義は華族令1条1項で「凡ソ有爵者ヲ華族トス」とされていたのですから,爵なるものは憲法違反ということになるようです。

 

(2)宮中席次令

ちなみに,侯爵はどれくらい偉いかというと,宮中席次令(大正4年皇室令第1号)においては,侯爵は第22に出てくるところです。正二位(第23)の一つ上です。他方,侯爵より一つ偉いのが,麝香間祗候の華族で(第21),その一つ上が貴族院副議長及び衆議院副議長(第20)です。すなわち,侯爵は,従一位(第17)や勲一等(第18)よりは下ですが,勲二等(第30)よりは上です。ところで,ただの貴族院議員及び衆議院議員の席次は,第39低く,華族の中では一番下の男爵(第36)にも及びません。そういえば,大隈重信が侯爵でしたね。(なお,爵の序列は,公侯伯子男です。)

 

5 その後編

 

(1)人食い鬼の財産の行方

人食い鬼(Ogre)は,その自慢するところの変身の術について猫大先生におだてあげられて,ねずみになったところで猫大先生に食べられてしまったのですが,人食い鬼の死に伴い,その財産の帰属はどうなったものか。人食い鬼に相続人のあることは明らかでないので,人食い鬼の相続財産は,まずは法人になってしまい(民法951条),最終的には国庫に帰属してしまうことになったようです(同法959条)。そうであれば,国庫が帰属していたであろう国王の女婿となった三男坊が人食い鬼の財産を自分のものとしてしまっても,結果オーライでしょうか。

 

(2)猫大先生のその後

さて,猫大先生,ドイツ版では最終的には国王の筆頭大臣にされてしまって寧日のないところ,ペローの報告するフランス版では,大貴族(grand Seigneur)となって,余暇にねずみ狩りを楽しむ生活を送ったとされています。

これに対して,我が日本版の猫大先生はどうでしょうか。『長靴をはいた猫』(東映・1969年)における猫大先生ことペロは,政治家にもならず有閑貴族にもならず,相も変わらず刺客に追われ続ける旅の剣士であって,現在も東映アニメーション株式会社のマスコット・キャラクターとして健在です。そもそも『長靴をはいた猫』の主題歌(井上ひさし・山元護久作詞)におけるペロの人格ならぬ猫格設定は,「インチキ野郎」及び「お世辞野郎」の面の皮をひっぺがし,ひっかかざるを得ない,怒れる猛烈な猫であって,そのためには「幸せすてて」「苦しみ求め」ることを厭わない,大人気なく,かつ,若々しい大先生(Maître)でありました。

当時34歳の井上ひさしが猛烈な怒りを向けていた「インチキ野郎」及び「お世辞野郎」とはどのような人々だったのでしょうか。まぁ,しかし,せっかくの大樹の下でそのような方々にいちいち怒っていては, 図々しくサラリーマンは務まりませんし,お花畑のような気持ちのよい職場も,安心と安全の老後も確保できませんよね。

しかし,1969年ころの日本では,よい子は「びっくりしたニャ」と歌声をあげて元気いっぱいでしたねぇ。お父さんに映画館に連れて行ってもらって,「長靴をはいた猫」ペロの活躍,ローザ姫のために頑張る三男坊ピエールの冒険を見て大喜びでした。

 

(と,東映アニメーション万歳というお話で終わりにしようとしていたところ,20141217日付けで公正取引委員会が,同社に対して勧告をし,その旨公表していたことをインターネットを調べていて知り,驚きました。消費税の円滑かつ適正な転嫁の確保のための消費税の転嫁を阻害する行為の是正等に関する特別措置法(平成25年法律第41号。「消費税転嫁対策特別措置法」)という舌をかみそうな題名の法律に違反して,「買いたたき」という悪いことをしたそうです。消費税は恐ろしいですね。経済法学的思考の感じられる消費税転嫁対策特別措置法と合わせ技のカクテルとなるとなおさらです。我が国の文化産業にも影響があるようです。ぜひ,文化の柱たる新聞の販売については消費税を非課税にして(消費税法61項),我が国の文化を守りましょう。軽減税率などといって遠慮していてはいけません。ずばり非課税です。)



DSCF0121

 目の色が左右で違う猫。「びっくりしたニャ!」
 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

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  少々遅れましたが,明けましておめでとうございます。

 今年の初記事です

 また長々しいものになってしまいました。しかし,あえて開き直ってしまえば,生産性の高い一年の幕開けにふさわしい,ということではありましょう。


1 はじめに

 大陸軍(ダイリクグン)をもってヨーロッパを席捲したフランス皇帝ナポレオン1世(1769815日生まれ,18215551歳で没)には,複数の子どもがあったと伝えられています。(他方,大西洋の彼方のタイリクグンを率い,後にナポレオンの仇敵となるイギリスを相手に独立戦争を戦ったアメリカ合衆国のワシントン大統領には子どもは生まれませんでした。)

 公式には,皇后ジョゼフィーヌとの離婚後1810年に再婚したオーストリア皇女マリー・ルイーズとの間に生まれた夭折の嫡男ナポレオン2世(ローマ王,ライヒシュタット公。1811320日生まれ,183272221歳で没)の存在が認められているだけです。しかしながら,ナポレオンには,その他幾人かの「隠し子」があったところです。

 これらの子どもとナポレオンとの「父子」関係を,ナポレオンが自らの名の下に公布した1804年のフランス民法典(以下「ナポレオンの民法典」)を仏和辞書片手に参照しつつ,見てみることとしましょう。フランス法については門外漢であるとはいえ,ナポレオンの民法典における具体的な規定が,その後ヨーロッパ大陸法を継受して形成された我が国の民法の関係諸制度にどのような影響を与えているのかは,日本の法律家として,いささか興味のあるところです。

画像 002

立法者ナポレオン,Hôtel des Invalides à Paris

(ナポレオンの右手は「ローマ法/ユスティニアヌスの法学提要」を,左手は「ナポレオン法典/万人に平等かつ理解可能な正義」を指す。足下の言葉は「私の一箇の法典が,その簡明さによって,先行するすべての法律の総体よりも多大な福祉をフランスにもたらした。」)



2 実子かつナポレオンの嫡出子:ナポレオン2世 

 まず,ナポレオン2世。

 ナポレオン2世には,ナポレオンの民法典の「第1編 人事」,「第7章 父性(paternité)及び親子関係(filiation)」,「第1節 嫡出ないしは婚内子(enfans légitimes ou nés dans le mariage)の親子関係」(第312条から第318条まで)における次の規定がそのまま適用になります。



3121

 婚姻中に懐胎された子は,夫を父とする。

L'enfant conçu pendant le mariage, a pour père le mari.


 これは,我が民法7721項が「妻が婚姻中に懐胎した子は,夫の子と推定する。」として,慎重な規定ぶりになっているのと比べると,子を主語とした,堂々たる原則宣言規定になっています。

 (なお,我が民法の規定からは,嫡出子は妻と「夫との性的交渉によって懐胎された子でなければならない」(我妻栄『親族法』(1961年)214頁)のが原則であるということになるようです。これに対して,「嫡出親子関係に関する限り,フランス法の出発点は『人為』にあり,『自然』は『人為』の枠の中で一定の役割を占めるに過ぎない」とされています(大村敦志『フランス民法―日本における研究状況』2010年)96頁)。ちなみに,明治23年法律第98号として公布されながら施行されないまま廃止された旧民法人事編911項は,ナポレオンの民法典3121項と同様「婚姻中ニ懐胎シタル子ハ夫ノ子トス」と規定していました。)

 ナポレオンとマリー・ルイーズとのパリでの結婚式は18104月のことだったそうですから,マリー・ルイーズがナポレオンとの婚姻中にナポレオン2世を懐胎したことについては問題はありません(妊娠期間はおおよそ9箇月)。2世は,1世の嫡出の子です。

 なお,わが民法7722項の「婚姻の成立の日から200日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から300日以内に生まれた子は,婚姻中に懐胎したものと推定する。」との規定に対応する規定は,ナポレオンの民法典では次のようになっています。



314

 婚姻から180日目より前に生まれた子は,次の各場合には,夫によって否認され得ない。第1,同人が婚姻前に妊娠を知っていた場合,第2,同人が出生証書に関与し(s'il a assisté à l’acte de naissance),かつ,当該証書が同人によって署名され,又は署名することができない旨の同人の宣言が記されている場合,第3,子が生育力あるもの(viable)と認められない場合。


315

 婚姻の解消から300日後に生まれた子の嫡出性は,争うことができる。


 なお,l’acte de naissance「出生証書」ではなく,「出生届」としたくもなったところですが,我が旧民法の規定から推すに,同法の母法国であるフランスにおいては,出生の届出があると証書(acte)が身分取扱吏の関与の下で作られるとともに,身分登録簿(le registre de l'état civil)に登録(inscrire)されていたもののようです。すなわち,旧民法によれば,出生があれば「届出」がされ(旧民法人事編95条,99条参照),当該「出生・・・ハ身分取扱吏ノ主管スル帳簿ニ之ヲ記載ス可」きものであるところ(同289条),その「帳簿ニ記載シタル証書ハ公正証書ノ証拠力ヲ有」するものとされ(同2901項本文),また,「身分取扱吏ノ詐欺若クハ過失ニ因リテ証書ヲ作ラサリシトキ」があるもの(同291条)とされている一方,本人は,出生証書を婚姻等の場合に提出すべきものとされていたところです(同441号等)。


3 実子であるが他の男性の嫡出子:アレクサンドル及びジョゼフィーヌ


(1)アレクサンドル・ヴァレウスキ伯爵

 ナポレオンの隠し子で最も有名なのは,ポーランド生まれで,後にナポレオン3世の政府の外務大臣にもなったアレクサンドル・ヴァレウスキ伯爵(181054日生まれ)でしょう。甥の3世よりも息子の方が当然1世によく似ているので,ヴァレウスキ家の外務大臣がボナパルト家の皇帝と勘違いされることも間々あったとか。ちなみに,1858年の日仏修好通商条約の締結は,アレクサンドル・ヴァレウスキ外務大臣時代の出来事です。

 さて,アレクサンドルの母親は,マリア・ヴァレウスカ。しかし,マリアは,1807年の初めポーランドでナポレオンに出会った当時既に,同地の貴族であるヴァレウスキ伯爵の妻でした。すなわち,アレクサンドルは,母マリアとヴァレウスキ伯爵との婚姻中に懐胎された子です。

 アレクサンドルが生まれた当時のポーランド(ワルシャワ大公国)における民法がどのようなものであったかはつまびらかにできないのですが(追記:フランスのペルピニャン大学のLa Digithèque de Matériaux Juridiques et Politiquesに掲載されているワルシャワ大公国憲法(1807722日)のフランス語訳(Statut constitutionnel du duché de Varsovie)を見ると,その第69条に,「ナポレオンの民法典が,ワルシャワ大公国の民法たるものとする。(Le Code Napoléon formera la loi civile du duché de Varsovie.)」との規定がありました。),ナポレオンの民法典に則って考えると,前記3121項(同項の原則によれば,アレクサンドルの父は母の夫であるヴァレウスキ伯爵になる。)のほか次の条項が問題になります。



3122

 しかしながら,夫は,子の出生前300日目から同じく180日目までの期間において,遠隔地にいたこと(éloignement)により,又は何らかの事故により(par l'effet de quelque accident),その妻と同棲(cohabiter)することが物理的に不可能であったこと(l'impossibilité physique)を証明した場合には,その子を否認することができる。


313

 夫は,自己の性的不能(son impuissance naturelle)を理由として,子を否認することはできない。夫は,同人に子の出生が隠避された場合を除きà moins que la naissance ne lui ait été cachée),妻の不倫を理由としても(même pour cause d'adultère)その子を否認することはできない。ただし,上記の〔子の出生が隠避された〕場合においては,夫は,その子の父ではないことを理由づけるために適当なすべての事実を主張することが許される。


316

 夫が異議を主張(réclamer)することが認められる場合には,同人がその子の出生の場所にあるときは(s'il se trouve sur le lieux de la naissance de l'enfant),1箇月以内にしなければならない。

 出生時に不在であったときは,帰還後2箇月以内にしなければならない。

 同人にその子の出生が隠避されていたときは,欺罔の発見後2箇月以内にしなければならない。


 ヴァレウスキ伯爵がアレクサンドルの嫡出を否認することができた場合(アレクサンドルの出生は伯爵に隠避されていなかったようですから,ナポレオンの民法典313条ではなく3122項が問題になるのでしょう。また,マリア夫人は長くポーランドの家を離れてナポレオンと一緒にいたようです。)であっても,最短では, 181064日までに否認しなかったのであれば(同法典3161項参照),ことさら「認知」をするまでもなく,アレクサンドルの父はヴァレウスキ伯爵であると確定したわけです。


(2)モントロン伯爵令嬢ジョゼフィーヌ

 ナポレオンは,皇帝退位後も,別の機会に人妻に子を産ませています。

 1815年にセント・ヘレナ島に流されたナポレオンに,同島においてなおも仕えた側近の中に,モントロン伯爵夫妻がありました。その間無聊をかこつナポレオンとモントロン伯爵夫人との間には,一人の女児が生まれています。しかし,幼女ジョゼフィーヌ(1818126日生まれ,1819930日没)の父が,ナポレオンの民法典によれば,母の夫であるモントロン伯爵であることは,動かせないでしょう。

 すなわち,ジョゼフィーヌの出生はモントロン伯爵に隠避されていたわけではなく(ナポレオンの民法典313条参照),モントロン伯爵夫妻はどちらも狭いセント・ヘレナ島で生活していたのですから,「同棲することが物理的に不可能であった」わけでもないところです(同法典3122項参照)。したがって,夫であるモントロン伯爵による否認はできず,「婚姻中に懐胎された子は,夫を父とする。」とするナポレオンの民法典第3121項の原則が貫徹するのでしょう。


4 実子であるが「父が不在である子」:シャルル・レオン

 180612月(出生日は,インターネット上では,13日,15日等あって十分一定していません。)にエレオノール・ドゥニュエルから生まれたシャルル・レオンの場合は,法律の適用関係がどうなっていたのかまた難しいところです(なお,Léonというのは,Napoléonの最後の4文字ですね。。シャルル・レオンの身分登録簿には,母はエレオノール・ドゥニュエルであるが,父は不在(absent)として登録されていた(officiellement inscrit)とされています(La Fondation NapoléonのサイトにあるHenri Ramé氏による記事)。


(1)母の前夫の嫡出子とされる可能性

 ところで,実は,エレオノール・ドゥニュエルは1806429日に離婚が成立するまでは,ルヴェルという男の妻であったところです。

 通常の妊娠期間の長さから考えると,ルヴェルとの離婚の前にシャルル・レオンが懐胎されたのでしょうから,前記のとおり,ナポレオンの民法典の第3121項(また,同法典315条参照)によれば,シャルル・レオンはルヴェルの嫡出の子となるのが順当であったところです。どうしたものでしょう。

 とはいえ,実は,シャルル・レオンが懐胎されたころには,母エレオノール・ドゥニュエルの夫であるルヴェルは詐欺罪で収監されていたようですから(夫の収監で困ったエレオノールは,そこで,ナポレオンの妹であるカトリーヌの「朗読係」をすることになっていたわけです。),ナポレオンの民法典3122項に基づき,ルヴェルからシャルル・レオンが子であることを否認することは可能ではあったわけです。しかし,そのような訴訟沙汰が本当にあったものかどうか(なお,ナポレオンの民法典318条によれば,夫が訴訟外で子の否認をしても,1箇月内に訴え(une action en justice)を提起しなければ効力のないものとされています。)。いろいろと面倒ではなかったでしょうか。


(2)嫡出でない子の場合


ア ナポレオンによる認知に対する障害

 フランスにおける身分登録の手続に関する実際の詳細に立ち入るのはまた大変ですから,取りあえず,シャルル・レオンは,改めてルヴェルの嫡出子とされる可能性はないものと考えましょう。すなわち,シャルル・レオンは,婚姻外(hors mariage)で生まれた,嫡出でない子(enfant naturel)であるものとしましょう。

 その場合,ナポレオンによるシャルル・レオンの認知のいかんが次の問題になります。

 ナポレオンの民法典第1編第7章の「第3節 嫡出でない子」,「第2款 嫡出でない子の認知」(第334条から第342条まで)における第334条は,認知の手続について次のように規定しています。



334

 嫡出でない子の認知は,その出生証書においてされていなかった場合は,公署証書によって(par un acte authentique)されるものとする。


 一見単純です。しかしながら,1806年当時,ナポレオンにはジョゼフィーヌという正妻がいたところです。したがって,ナポレオンの民法典の次の条項の存在は,ナポレオンによるシャルル・レオンの認知の障害となったものでしょう。

 


335

 近親間又は不倫の関係から生まれた子(enfans nés d'un commerce incestueux ou adultérin)のためには,認知をすることができない。


 さすがに,皇帝陛下の不倫行為を示唆してしまうような身分登録をすることはまずかったわけでしょう。


イ 「父の捜索」の否定

 同様に,エレオノール・ドゥニュエルの子であるシャルル・レオンから,ジョゼフィーヌという正妻のいるナポレオンに対して認知を求めることもできなかったところです。ナポレオンの民法典の次の条項は,このことを明らかにしています。



342

 第335条により認知が許されない場合においては,子は,父の捜索をすることも母の捜索をすることも許されない。


 ちなみに,母子関係は母の認知をまたず分娩の事実によって発生するとするのが我が国の判例(最判昭37427民集1671247)ですが,これに対して,民法の条文の文言どおり母の認知を要するものとする谷口知平教授の説は「母の姦通の子や未婚の子が虚偽の届出または棄児として,身分をかくそうとしている場合に,第三者から出生の秘密をあばくことは許さるべきではない。子の朗らかな成人のためにその意思を尊重し,母または子のいずれかの発意と希望があるときにのみ母子関係を認むべきだ」ということを実質的な根拠の一つとしているものとされているところ,当該谷口説を,我妻教授は,「虚偽の出生届を公認してまで,人情を尊重すべしとの立場には賛成しえない」,谷口「教授の懸念されることは,社会教育その他の手段によって解消すべきもの」と批判していたところです(我妻『親族法』248-249頁)。我妻教授は「非嫡出子と母との関係は,その成立についても,成立した関係の内容についても,嫡出子と区別しない,というのが立法の進路であり,その途に横たわる障害については合理性を見出しえない」として,フランス民法よりもドイツ民法・スイス民法(いずれも当時のもの)を評価して(同232頁,234頁)上記判例を先取りする説を唱えていました。

 しかしながら,ナポレオンの民法典については,その第335条との関係からして,「人情」論を別としても,認知を介さずに分娩の事実のみから直ちに母子関係を認めるものとすることに対するためらいが,立法者においてあったのではないでしょうか。

 なお,そもそもナポレオンの民法典340条が,「父の捜索は許さず」の原則を明らかにしていたところです。



340

 父の捜索は禁止される(La recherche de la paternité est interdite.)。かどわかし(enlèvement)の場合においては,当該かどわかしの時期が懐胎の時期と符合するときは,利害関係者の請求により,かどわかしを行った者(ravisseur)を子の父と宣言することができる。


 この規定と「同一」(我妻『親族法』233頁)とされるのが,我が民法施行前の,次に掲げる明治6年太政官21号の布告です(1873118日)。



妻妾ニ非サル婦女ニシテ分娩スル児子ハ一切私生ヲ以テ論シ其婦女ノ引受タルヘキ事

 但男子ヨリ己レノ子ト見留メ候上ハ婦女住所ノ戸長ニ請テ免許ヲ得候者ハ其子其男子ヲ父トスルヲ可得事


 父に対する認知請求権は,フランス革命時代に否定されるに至ったものとされますが,その理由としては,「革命以前にこの請求権が濫用されたこと」のほか,「平等の理想の他に,男女関係において,愛情とそこに向かう意思を尊重した(離婚の自由もそこから出てくる)」フランス革命時代において,「親子関係においても同様に血のつながりでなく,父としての愛情とそのような父になる意思が父子関係の基礎であると考えた」当該時代の法律家の「奇妙な論理」が挙げられています(星野英一『家族法』(1994年)112-113頁)。「通常生理的な父は子に対して愛情を持ち,父となる意思を持つが,そうでない場合には,父たることを強制することはできない」とされたわけです(同)。


(余話として)「司馬遼太郎の『歳月』の謎の読み方」補遺

 なお,明治6年太政官21号の布告は江藤新平司法卿時代のものですが,当該布告では妾(「妻妾」の「妾」)が公認されていたことになります。

 以前御紹介した司馬遼太郎の『歳月』には,江藤司法卿がフランスからの御雇外国人ブスケと「蓄妾問答」を行った場面があり,そこでは,ブスケとの議論に負けて妾の制度を「民法に組み入れる思案をすてた以上,江藤の法家的気分からいえば積極的にこの蓄妾の風を禁止する覚悟をした。上は当然,公卿,旧大名家にまで及ぶことであり,どのような排撃をうけるかわからなかったが,とにかくもここ数年のあいだには断固としてこの禁止を立法化し,違反の者に対しては容赦なく法をもってさばくつもりであった。」と,江藤司法卿の断固たる決意が力強く叙述されています。しかしながら,そもそも当該江藤司法卿の下で,妾の禁止はしないまま,かえってわざわざそれを公認してしまったような形の布告が出されてしまっていたことになります。

 となると,明治6年太政官21号の布告は上記「蓄妾問答」の前に出されたものでしょうか。しかしながら,「父の捜索は許さず」がフランス法由来の原則であるのならば,あえて当該原則を導入しようとする当該布告がフランスの法律家であるブスケの意見を徴さずに制定されたということは考えられにくいところです。『歳月』の描くような「蓄妾問答」がその際されたとなると,江藤新平は,実際には,「妾廃止」という考えに必ずしも小説で描かれているほどには固執していなかったということになるわけで,当該小説から受ける印象とは異なり,意外と妥協的ないしは便宜主義的な人物ということになるのかもしれません。

 井上清教授は,江藤新平の人物について,「本質的に保守官僚主義者であり,急進主義と見えるものは功業欲の発現にすぎない」,「貧窮のなかに成長した秀才官僚型の大物で,立身出世の機を見るに敏」と評しています(『日本の歴史20 明治維新』(中央公論社・1966年)350頁。なお,同書のしおりは,同教授と司馬遼太郎との対談)。


(余話の余話:補遺の補遺)

 江藤新平が妾廃止論者であった証拠としては,「明治五年十一月二十一日,司法卿江藤新平,司法大輔福岡孝悌両人より,「自今妾の名義を廃し,一家一夫一婦と定め度の件」を太政官に建議せり。」という事実があります(石井研堂『明治事物起原Ⅰ』(ちくま学芸文庫・1997年)269頁)。しかしながら,「翌6115なお,明治五年の十二月は2日間しかなかった。,太政官が,「伺の趣,御沙汰に不被及候事」と指令」し,江藤及び福岡の建白は採用されませんでした(石井・前掲270頁)。司法卿及び司法大輔の当該建議が退けられた明治6年(1873115日の3日後に,前記明治6年太政官21号の布告が出ています。なお,この布告は,同月13日の太政官宛て司法省伺が契機となって出されたものです(二宮周平「認知制度は誰のためにあるのか」立命館法学310号(2006年6号)316頁,村上一博「明治6年太政官第21号布告と私生子認知請求」法学論叢67巻2=3号(1995年1月)512頁)。ちなみに,当時戸籍事務を所管していたのは,民部省から当該事務を吸収していた大蔵省であって,司法省ではありませんでした(戸籍事務は,内務省設立以後は内務省に移る。)。江藤とブスケとのせっかくの「蓄妾問答」も,江藤のせっかくの妾廃止の「覚悟」も,政府内において十分かつ決定的な重要性を持ち得なかったということのようです。しかしながらそもそも,明治五年十一月二十一日(なお,村上一博「明治前期における妾と裁判」法律論叢71234頁では,同月二十三日に正院に提出されたとされる。)の妾廃止の建白は,上司である江藤新平と部下である福岡孝悌との連名で提出されています。偉い人とそうでない人との連名文書に係る通常の作成実態からすると,当該文書の実質的作成主体は偉くない方の人であるはずです。となると,妾廃止を言い出した本当の妾廃止論者は福岡孝悌であって,江藤は福岡ほどではなかったかもしれません。


5 実子ではないが「証明されない嫡出子」:アルベルティーヌ及びギヨーム

 以上は,ナポレオンが嫡出子又は隠し子の実父となった場合です。しかし,ナポレオンの「隠し子」というよりはナポレオンに隠された子ということになりますが,ナポレオンの妻がナポレオン以外の者を実父とする子を産んだ場合もあったところです。 


(1)マリー・ルイーズとナイペルク伯爵

 ナポレオンの妻マリー・ルイーズは,実は,ナポレオンの没落後,オーストリア貴族のナイペルク伯爵と愛人関係になってしまい,二人の間には1817年にアルベルティーヌという女児が,1819年にはギヨームという男児が生まれています(名前はここではフランス語読みです。)。

 さて困ったことになりました。1819年には,マリー・ルイーズの夫であるナポレオンはまだセント・ヘレナ島で生きています。マリー・ルイーズが女公となったイタリアのパルマ公国の臣民の手前も問題です。上記の子らをマリー・ルイーズが分娩した事実は,秘密とされることになりました。

 この隠避は少なくともナポレオンに対しては成功し,最期までナポレオンは,前記事情は御存知なかったものと思われます。すなわち,ナポレオンは,1821年に死ぬ前のその遺言で,「私は最愛の妻マリ=ルイーズに満足の意を表したいと常に思っていた。私は最後の瞬間まで妻に対して最もやさしい感情を抱きつづけている。妻に頼む,どうか気を配って,私の息子(mon fils)の子供時代をまだ取りかこんでいる数々の陥穽から私の息子を守ってもらいたい。」(大塚幸男訳『ナポレオン言行録』(岩波文庫)201頁)と述べているからです。当該遺言での「私の息子(mon fils)」は単数形ですので,ナポレオン2世のみを指し,ギヨームは含まれないものでしょう。


(2)否認の不存在

 ナポレオンは大西洋の孤島であるセント・ヘレナ島に流されており,マリー・ルイーズがそこを訪れていないことは明らかですから,ナポレオンは,その民法典の第3122項に基づき,あるいはまた,子の出生が隠避されたことから第313条に基づき,第3121項によって自分の子であるとされているアルベルティーヌ及びギヨームについて,子であることの否認をすることができ,その際その否認は,同法典3163項により「欺罔の発見後2箇月以内」にすべきであったところです。しかしながら,当該否認をしないまま,ナポレオンは死んでしまいました。ナポレオンの民法典第1編第7章「第1節 嫡出ないしは婚内子の親子関係」の規定の建前からすると,ナポレオンの側からの否認(なお,同法典317条は夫の相続人(les héritiers)による否認が認められる場合について規定しています。)がされない以上,パルマのアルベルティーヌ及びギヨームは,ナポレオンの嫡出子であったわけです。


(3)証明の不存在

 しかしながら,ナポレオンとアルベルティーヌ及びギヨームとの父子関係は,ナポレオンの民法典第1編第7章「第2節 嫡出子の親子関係の証明」(第319条から第330条まで)との関係で,証明ができないもの,というのが正確なところであったようです。アルベルティーヌ及びギヨームには,ナポレオンの嫡出子としての出生証書及び身分登録(ナポレオンの民法典319条)も身分占有(同法典320条)もなかったはずだからです。

 アルベルティーヌ及びギヨームにはvon Montenuovo(モンテヌオヴォ)という氏が与えられていたところです(NeippergNeuberg(ドイツ語で「新山」)Montenuovo(イタリア語で「新山」))。(なお,Wilhelm(ギヨーム)von Montenuovoは,オーストリア帝国のFürst(公爵又は侯爵)となりました。)



319

 嫡出子の親子関係は,身分登録簿(le registre de l'état civil)に登録された出生証書によって証明される。


320

 前条による証書(titre)がないときは,嫡出子身分の継続的占有(la possession constante de l'état d'enfant légitime)による。


322

 何人も,その出生の証書(titre de naissance)及び当該証書に合致する身分の占有によって与えられる身分と異なる身分を主張することはできない。

 また,反対に,何人も,出生の証書に合致する身分を占有している者の身分を争うことはできない。


 無論,身分登録が虚偽の場合については,ナポレオンの民法典3231項は,「・・・又は子が,虚偽の名前で(soit sous de faux noms),若しくは知れない父及び母から生まれたものとして(soit comme né de père et mère inconnus)登録された場合には,親子関係の証明は,証拠によることができる。」と規定していました。民事裁判所(tribunaux civils)のみが管轄を有する事件です(同法典326条)。

 しかしながら,身分登録と異なる親子関係の証明が認められる場合については制限的な規定があったのみならず(ナポレオンの民法典3232項,324条,325条),そもそもアルベルティーヌ及びギヨームが法律上はナポレオンの子であることをわざわざ証明しようとする者はいなかったようです。

 ちなみに,我が旧民法の親子法も「フランス法と同様」に,「証拠法的な色彩を強く帯びていた」ところです(大村『フランス民法』91頁)。

画像 003

ナポレオンの墓,Hôtel des Invalides à Paris



6 おわりに:最高裁判所平成25年12月10日決定

 実は,今回の記事を書くきっかけになったのは,先月出た,我が最高裁判所の平成251210日第三小法廷決定(平成25年(許)第5号戸籍訂正許可申立て却下審判に対する抗告棄却決定に対する許可抗告事件)でした。次にその一部を掲げます。



「特例法
性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(平成15年法律第111号)41項は,性別の取扱いの変更の審判を受けた者は,民法その他の法令の規定の適用については,法律に別段の定めがある場合を除き,その性別につき他の性別に変わったものとみなす旨を規定している。したがって,特例法31項の規定に基づき男性への性別の取扱いの変更の審判を受けた者は,以後,法令の規定の適用について男性とみなされるため,民法の規定に基づき夫として婚姻することができるのみならず,婚姻中にその妻が子を懐胎したときは,同法772条の規定により,当該子は当該夫の子と推定されるというべきである。もっとも,民法7722項所定の期間内に妻が出産した子について,妻がその子を懐胎すべき時期に,既に夫婦が事実上の離婚をして夫婦の実態が失われ,又は遠隔地に居住して,夫婦間に性的関係を持つ機会がなかったことが明らかであるなどの事情が存在する場合には,その子は実質的には同条の推定を受けないことは,当審の判例とするところであるが(最高裁昭和43年(オ)第1184号同44529日第一小法廷判決・民集2361064頁,最高裁平成8年(オ)第380号同12314日第三小法廷判決・裁判集民事189497頁参照),性別の取扱いの変更の審判を受けた者については,妻との性的関係によって子をもうけることはおよそ想定できないものの,一方でそのような者に婚姻することを認めながら,他方で,その主要な効果である同条による嫡出の推定についての規定の適用を,妻との性的関係の結果もうけた子であり得ないことを理由に認めないとすることは相当でないというべきである。」


 ナポレオンが現在も生きているものとした場合,性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律が立法されたこと及び当該法律の第41項に係る最高裁判所の上記解釈についてどのような態度をとるのかは,分かりません。しかしながら,上記決定の引用部分の「もっとも」以下の判示については,ナポレオンは,その民法典の第3122項の規定(我が民法の第772条の推定を実質的に受けない場合に係る判例(特に上記決定において引用されている平成12年最高裁判決参照)のいわゆる外観説に符合)及び第313条の規定(「夫は,自己の性的不能を理由として,子を否認することはできない。」)に照らせば,是認できるものであるとの見解を表明するのではないでしょうか。

 ただし,「最後の瞬間まで・・・最もやさしい感情を抱きつづけてい」た「最愛の妻マリ=ルイーズ」に,アルベルティーヌ及びギヨームという自分のあずかり知らぬ子が生まれていたと知ったならば,嫡出父子関係ないしは嫡出否認の在り方について,改めてその見解に変化を生じさせるかもしれませんが。

 前記最高裁判所平成251210日決定においても,裁判官の意見は32に分かれていました。
(追記:最高裁判所第一小法廷平成26年7月17日判決は,DNA鑑定の結果生物学上は99.99パーセント以上他の男の子であるとされた子であっても,妻が婚姻中に懐胎した子であって嫡出推定が働く以上なお法律上は夫の子である,としました。)


補遺 出生証書に関するナポレオンの民法典の規定(抄)

  「2 実子かつナポレオンの嫡出子:ナポレオン2」の最後の部分で紹介した出生証書に関する旧民法の規定に対応するナポレオンの民法典の規定は,次のとおりです。



55

 出生届(déclarations de naissance)は,分娩から3日以内に(dans les trois jours de l'accouchement),その地の身分取扱吏に対してされるものとし,当該身分取扱吏に子が示されるものとする。


56

 子の出生は,父によって,若しくは父によることができないときは,医師,助産婦,衛生担当吏その他の分娩に立ち会った者によって,又は母がその住所外(hors de son domicile)で分娩した場合においては,分娩がされた場所を管理する者によって,届けられるものとする。

 続いて,2名の証人の立会いの下に,出生証書(l'acte de naissance)が作成されるものとする。


57

 出生証書(l'acte de naissance)には,出生の日,時刻及び場所,子の性別並びにその子に与えられる名,父母の氏名,職業及び住所並びに証人の氏名,職業及び住所が記載されるものとする。


40

 身分証書は,各市町村において,一つ又は複数の登録簿に(sur un ou plusieurs registres tenus doubles)登録されるものとする(seront inscrits)。


70

 身分取扱吏は,これから婚姻しようとする各配偶者の出生証書(l'acte de naissance)を提出させるものとする。同条以下略

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