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第1 選挙の秋における日本国憲法15条再見

 今年(2024年)の秋は我が国では衆議院議員総選挙,米国でも大統領選挙ということで,選挙が気になるところです。

 

1 条文

 選挙(及び公務員)に関する日本国憲法の条項としては,その第15条があります。

 

  第15条 公務員を選定し,及びこれを罷免することは,国民固有の権利である。

    すべて公務員は,全体の奉仕者であつて,一部の奉仕者ではない。

    公務員の選挙については,成年者による普通選挙を保障する。

    すべて選挙における投票の秘密は,これを侵してはならない。選挙人は,その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

 

  Article 15.   The people have the inalienable right to choose their public officials and to dismiss them.

         All public officials are servants of the whole community and not of any group thereof.

         Universal adult suffrage is guaranteed with regard to the election of public officials.

         In all elections, secrecy of the ballot shall not be violated. A voter shall not be answerable, publicly or privately, for the choice he has made.

 

2 基本書の説明

この憲法15条に関して筆者の書架にある基本書を検すると,次のように説明されています。

まず憲法151項は,「ひろく公務員についての国民の選定罷免権を理念として承認している(15条)」ものです(樋口陽一『憲法』(青林書院・1998年)156頁)。(なお,ここでは「公務員」であって「官吏」(憲法734号参照)ではないのは,公務員ではあっても官吏ではなく,選挙されるもの(国会議員等)があるからでしょう。大日本帝国憲法下では「総ての官吏は天皇の使用人として,天皇の下に奉公の義務を負ふ者」でした(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)248頁)。)つまり,「憲法151項は,最広義の公務員,すなわち,国および公共団体の公務に従事することを職務とする者につき,その地位の正統性根拠が国民のみにあること,その意味で,その最終的な任免権が国民に由来することをのべ」る「原理的な前提」です(樋口164頁)。同項については更に,「憲法上の権利の分類のひとつとして「参政権」と呼ばれるものがあり,国民主権のもとでは,それは,総体としての国民が主権を持つということを,国民を構成する各人の権利の側面で言いあらわす,という意味を持つ。憲法15条の言い廻しは,国民主権(●●)と参政権=権利(●●)との間のそのような関係をのべたものとして,受けとることができる。と述べられています(樋口163-164頁)。ただし,権利といっても,直接「各人」に与えられる天賦の権利ではなく,「国民を構成する各人」の権利ではあります。

憲法151項の規定は「国民主権主義のもとにおける公務員が,国民(●●)()公務員(●●●)であることを観念的に表現したものであり」,同条2項の規定は「公務員が,国民全体に奉仕すべき国民(●●)()ため(●●)()公務員(●●●)でなければならないことを示したものである。」ということになります(田中二郎『新版行政法 中巻 全訂第2版』(弘文堂・1976年)226-227頁)。

また,憲法15条は,「選挙について,憲法は,いくつかの明示的な憲法上の要請(15条,431項,44条但書)を示した」もの(樋口158頁)のうちの一部ということになるようです。憲法431項は「両議院は,全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」と規定していますが,「全国民を代表する」の部分は152項の,「選挙された」の部分は同条1項の具体化ということになり,両議院の議員及びその選挙人の資格について「人種,信条,性別,社会的身分,門地,教育,財産又は収入によつて差別してはならない」と規定する44条ただし書は153項の具体化ということになるのでしょう。憲法47条は「選挙区,投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は,法律でこれを定める」と規定していますが,「投票の方法」として秘密投票の方法を採用すべきことは154項で憲法的に先取りされています。この秘密投票の方法は,「有権者の自由な意思に基づく投票を確保する趣旨から」採用されたものとされています(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)112頁)。「自由な意思」の尊重ということですから,なかなか高尚そうです。

上記のようなことどもを覚えておけば,試験対策としては十分なのでしょう。

 

3 私的違和感

しかし,筆者は,かねてからどうも憲法15条に違和感がありました。

憲法15条における第1項及び第2項の公務員に係る一般論と第3項及び第4項の選挙制度に係る具体論との結び付きの具合がどうも滑らかではありません。全国に数多くいる公務員のうち,選挙で選ばれるものはむしろ例外でしょう。

また,通説的な基本的人権分類論の説くところは「消極的権利(国家の不作為を要求することを内実とする自由権),積極的権利(国家に対して積極的作為を要求する,従来の受益権と社会権)および能動的権利(国家意思形成に参加することを内実とする参政権)を〔基本的人権の〕基本的類型として把握し,これらの権利の根底にあって統合せしめると同時に,それ独自の存在理由と内実をもつ包括的基本権という類型を設け,これに従って〔包括的基本権,消極的権利,積極的権利,能動的権利の順序で〕論ずることにする。」ということですので(佐藤410頁),基本書では最後に来る「能動的権利」に係る条項が早くも第15条で登場するのは――基本書主義的受験勉強者には――位置的に先走り過ぎるように思われました。

無論,日本国憲法がそれに基づいたGHQ草案の起草者たちには条文の排列についての彼らなりの理論があったのでしょうが,それが分からないもどかしさがありました。

大日本帝国憲法の「臣民権利義務」の章においては,冒頭の「日本臣民タルノ要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」(18条)に続いて臣民の公務就任権に関する第19条(「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得」)がありますので,それに倣ったようにも思われますが(ただし,大日本帝国憲法19条を一種の平等条項(日本国憲法14条参照)として捉える見方もあります。これについては,当blogの「大日本国帝国憲法19条とベルギー国憲法(1831年)6条」記事(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1038090379.html)を御参照ください。),他の権利の日本国憲法第3章における排列は大日本帝国憲法第2章のそれに対応していませんので,大日本帝国憲法準拠説は採り得ないでしょう。GHQ民政局の起草者らが参照したであろう1919年のヴァイマル憲法第2編の「ドイツ人の基本権および基本的義務」の編は第1章「個人」,第2章「共同生活〔Das Gemeinschaftsleben〕」,第3章「宗教および宗教団体」,第4章「教育および学校」及び第5章「経済生活」の5章によって構成されており,選挙(第125条)及び公務員(第128条から第130条まで)に関する規定は第2章にありました(高木八尺=末延三次=宮沢俊義編『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)201-217頁(山田晟))。また,1936年のソヴィエト社会主義共和国聯邦憲法では,第10章が「市民の基本的権利および義務」の章ですが,選挙制度は第11章「選挙制度」として,別立てで規定されていました(宮沢俊義編『世界憲法集 第二版』(岩波文庫・1976年)305-311頁(藤田勇))。

と悩むより先にGHQ草案及びその成立過程について調べればよいではないかということで若干の調べものをした結果が本稿です。

 

第2 GHQ草案14条と日本国憲法15条と

 

1 GHQ草案14条の条文

まず,1946213日に大日本帝国政府に手交されたGHQ草案における「人民の権利及び義務(Rights and Duties of the People)」の章にある同草案14条を見てみましょう。

 

      Article XIV. The people are the ultimate arbiters of their government and of the Imperial Throne. They have the inalienable right to choose their public officials and to dismiss them.
     All public officials are servants of the whole community and not of any special groups.
     In all elections, secrecy of the ballot shall be kept inviolate, nor shall any voter be answerable, publicly or privately, for the choice he has made.

 

我が外務省による訳文は次のとおりです。

 

14条 人民ハ其ノ政府及皇位ノ終局的決定者ナリ彼等ハ其ノ公務員ヲ選定及罷免スル不可譲ノ権利ヲ有ス
一切ノ公務員ハ全社会ノ奴僕ニシテ如何ナル団体ノ奴僕ニモアラス
有ラユル選挙ニ於テ投票ノ秘密ハ不可侵ニ保タルヘシ選挙人ハ其ノ選択ニ関シ公的ニモ私的ニモ責ヲ問ハルルコト無カルヘシ

 

 日本国憲法153項に相当する規定が欠けています。同項は実は,第90回帝国議会における帝国憲法改正案審議の過程において,貴族院によって当該場所に挿入されたものでした(1946103日特別委員会修正議決・同日付け安倍能成委員長報告書作成,同月6日同院可決)。ただし,同条における当該規定の要否は,実はGHQ民政局においても一旦検討がされ,結局あえて採用されなかったもののようではありました。すなわち,国立国会図書館ウェブサイトの「日本国憲法の誕生」電子展示会における「資料と解説」3-14GHQ原案)にある市民の権利委員会(Civil Rights Committee)の作成に係る原案の紙(Drafts of the Revised Constitution)を見ると,当該当初原案になかった普通選挙保障の規定を正に当該場所に挿入すべきか否かの問題が運営委員会(Steering Committee)との協議の場で浮上していたようで,“universal suffrage”云々の書き込みがされていますが,結局抹消されているところです(第103齣,第124齣及び第127齣参照)。〔ただし,201611月の衆議院憲法審査会事務局資料・衆憲資90号「「日本国憲法の制定過程」に関する資料」7・48によれば,日本国憲法153項の貴族院における挿入はGHQの要求によるものであったそうですから,一旦は思い切ったGHQ民政局のスタッフも,結局未練から逃れることはできなかったわけでしょうか。あるいは未練というよりも,1項の「公務員を選定」からいきなり「選挙における投票の秘密」につなぐのでは関連性が分かりづらいとの気付きがあって,その間に,両者をつなぐべき「公務員の選挙」というものに関する項を設けることとしたものでしょうか。無論,米国憲法修正15条(人種,体色又は過去の強制労務服役状況を理由とした選挙権の否定及び制限の禁止)及び修正19条(性別を理由とした選挙権の否定及び制限の禁止)の前例も念頭にあったものでしょうが。

 

2 GHQ草案141項とアメリカ独立宣言と

 「人民は,彼らの政府及び皇位についての究極の裁定者である。(The people are the ultimate arbiters of their government and of the Imperial Throne.)」との,現在の日本国憲法151項からは削られている冒頭規定を見ると,筆者には「ああこれはアメリカ独立宣言ではないか。」と思われたところです。

すなわち,日本国憲法13条に対応する “We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal; that they are endowed by their Creator with certain inalienable rights; that among these, are life, liberty, and the pursuit of happiness.”(我々はこれらの真実を自明のものと信ずる。すなわち,全ての人は平等に創造されていること,彼らは彼らの創造主によって一定の不可譲的権利を賦与されていること,これらには生命,自由及び幸福追求が含まれていることである。)に直ちに続く部分にGHQ草案141項の冒頭規定は対応するように思われるのです。アメリカ独立宣言の当該部分は次のとおりです。

 

  That, to secure these rights, governments are instituted among men, deriving their just powers from the consent of the governed; that, whenever any form of government becomes destructive of these ends, it is the right of the people to alter or to abolish it, and to institute a new government, laying its foundation on such principles, and organizing its powers in such form, as to them shall seem most likely to effect their safety and happiness.

  これらの権利を確保するために,その正当な権力は被治者の同意に由来するところの諸政府が人々の間に設立されたこと,いかなる政体についても,これらの目的にとって破壊的なものとなったときには,それを変更又は廃止して,彼らの安全及び幸福の実現のために最もふさわしいと思われる原則の上及び形式の下に,それぞれ基礎付けられ,及び権力構成のされた新しい政府を設立することは,人民の権利であること。

 

ジョージ3世時代の英国国制下のアメリカ独立革命においては実力行使がされてしまったところですが,せっかくの新政体を樹立する日本国憲法下の我が国においては,当該政体自体にはあえて手を触れずに,それを構成する人的要素の人民の意思に基づく入替えによって同様の目的を達成しようではないか,ということがGHQ草案14条の趣旨だったのではないでしょうか。Bullet(弾丸)では剣呑だからballot(投票)にしようということでしょう。市民の権利委員会の当初原案では,GHQ草案141項では“choose”(選定する)となっているところが, “elect”(選挙する)となっていたところです。当該当初原案は次のとおりです。

 

      7.  The people are the ultimate arbiters of their government. They have the inalienable right to elect their public officials, and to dismiss them by due process of impeachment or recall.
     All public officials are servants of the whole community and not of any special groups. In all elections, secrecy of the ballot shall be kept inviolate, nor shall any voter be answerable, publicly or privately, for the choice he has made.

 

 194628日の運営委員会と市民の権利委員会との協議の場において,運営委員会のケーディス大佐から,「憲法上の規定は国会議員の選挙についてのみ設けられているのに,これでは全ての公務員が選挙されなければならないことになってしまう」との発言があって, “elect” “choose”に改められたのでした(「日本国憲法の誕生」資料と解説3-14エラマン・ノート第18齣)。

 GHQ草案起草の最終段階である1946212日の運営委員会において,“the ultimate arbiters of their government”に続いて “and of the Imperial Throne”が加えられていますが,これは「皇位の人民に対する従属(subordination)を再び再強調(again reemphasize)するため」です(エラマン・ノート第31齣)。

 ただし,「人民は,彼らの政府及び皇位についての究極の裁定者である。」との規定は,194634日から同月5日にかけてのGHQと日本政府との折衝において,日本側の発意により削られています。「何故削レルヤ」とのGHQ側からの問いに対して「之ハ第1条ニ明ナリト答ヘタルニ了承セリ」ということですから(「日本国憲法の誕生」資料と解説3-21「三月四,五両日司令部ニ於ケル顚末」第7齣),あっさりしています。規定の重複を避けるという日本的法制執務の美学(「分類をするときに〔略〕日本の場合には1号,2号,3号を絶対重複しないように書きます」,「例えば1号に米と書いたら2号には麦と書き,3号には馬鈴薯と書き,4号は甘藷と書くとすると,そこへ,その他前各号に掲げるもののほか政令に定めるものというような書き方は,もちろんしますけれども」)を,「そういうとき〔分類をするとき〕に米と書いたあとで食糧なんて平気で書く」ラフな米国人(放送法制立法過程研究会『資料・占領下の放送立法』(東京大学出版会・1980年)446頁(吉國一郎発言))も理解してくれるようになっていたのでしょう。

 

3 GHQ市民の権利委員会の基本的人権分類論及びGHQ草案14条=日本国憲法15条の規定場所に関して

ところで,GHQ草案第3章における基本的人権に関して,市民の権利委員会はやはり分類論を有していました。運営委員会によって最終的に不採用とされる前は,同章は四つの節に分かれており,第1節は「総則(General)」,第2節は「自由(Freedoms)」,第3節は「社会的及び経済的権利(Social and Economic Rights)」,そして第4節は「司法上の権利(Juridical Rights. 具体的には刑事手続上の権利です。)」でした(「日本国憲法の誕生」資料と解説3-14 “Original drafts of committee reports”13齣から第28齣まで参照)。日本国憲法第3章の条文に即していえば,第18条の前までが総則条項で,第18(「何人も,いかなる奴隷的拘束も受けない。又,犯罪に因る処罰の場合を除いては,その意に反する苦役に服させられない。」)から第23(「学問の自由は,これを保障する。」)までが自由に関する条項,第24条から第31条の前までが社会的及び経済的権利に関する条項(なお,憲法24条は結婚の自由を規定したものであるという主張にとっては,同条は自由に関する規定ではないとされるのは,いささかすっきりしない分類学ということになりましょうか。),第31(「何人も,法律の定める手続によらなければ,その生命若しくは自由を奪はれ,又はその他の刑罰を科せられない。」)以降が司法上の権利に関する条項ということになります。ちなみに第3節の節名は,「社会的及び経済的権利」に落ち着くまでは「特定の権利及び機会(Specific Rights and Opportunities)」であり,第4節は,当初は総称を有する節としては構想されていませんでした(「日本国憲法の誕生」資料と解説3-14 “Drafts of the Revised Constitution”101齣から第167齣まで参照)。「特定の権利及び機会」は,自由とは異なり,積極的立法を必要とするというわけでしょう。

 市民の権利委員会が総則であるものとした諸条項中,我が憲法学の通説的見解が包括的基本権とするものは専らGHQ草案12条=日本国憲法13条の生命・自由及び幸福追求権並びにGHQ草案13条=日本国憲法14条の法の下の平等ということになるようなのですが(佐藤443頁以下),それら以外の条項をも統合して一つの総則とする理由付けとなるものとしては,筆者としてはやはりアメリカ独立宣言を推したいところです。請願権条項は,大日本帝国憲法(30条)では信教の自由(28条)並びに言論著作印行集会及び結社の自由の条項(29条)に続き,米国憲法でもその修正第1条において政教の分離及び信教の自由並びに言論出版及び集会の自由と併せて規定されているところですが,日本国憲法では第20条及び第21条の次にではなく,両条より前の第16条において突出して規定されています。この逸脱については,ヴァイマル憲法では選挙に関する第125条に続いて第126条で請願権について規定されていたからドイツ人のまねをしたのだと言うよりもむしろ,米国人ならばその正統的正当化事由としては,独立宣言に拠るべきでしょう。

 アメリカ独立宣言においては,政体の変更廃止及び政府の設立に関する人民の権利に係る前記の宣言に続き,十三殖民地人民による抵抗及び革命を正当化するため,ジョージ3世の行った秕政の数々の羅列があって,それが終って,いわく。

 

       In every stage of these oppressions, we have petitioned for redress, in the most humble terms; our repeated petitions have been answered only by repeated injury. A prince, whose character is thus marked by every act which may define a tyrant, is unfit to be the ruler of a free people.

   これらの圧政の各段階において,我々は最も恭しい礼譲をもって,匡救を求めて請願を行った。累次の我々の請願は,侵害の反復をもって答えられたのみであった。かようにしてその性格が,暴君を定義するにふさわしくあるべき各行為をもって特徴付けられるところの君主は,自由な人民の支配者たるにふさわしくない者である。

 

抵抗及び革命の前段階として,請願があるべきであるところ,日本国憲法は人民の抵抗権・革命権をそれとして規定せず(GHQに対する不埒な抵抗権など,とても認められません。),第15条の政府の人的要素を入れ替える権利と第16条の請願権とをもって,日本国の人民には既に十分であることを所期しているのでしょう〔ただし,16条の請願権は,人民(people)の権利ではなく,各人(every person)の権利です。〕。ちなみに,1946212日のGHQ民政局の運営委員会において,市民の権利委員会の原案にはなかった日本国憲法16条の「公務員の罷免」(removal of public officials)の部分が追加されたようです(「日本国憲法の誕生」資料と解説3-14 “Original drafts of committee reports”14参照)。当の請願相手を否認する請願も許されるということでしょうか。

なお,1946212日のGHQ民政局の運営委員会において,GHQ草案第3章の章名がそれまでの「市民の権利(Civil Rights)」から「人民の権利及び義務(Rights and Duties of the People)」に改められています(エラマン・ノート第31齣)。エラマン・ノートには記されていませんが,その理由は――大日本帝国憲法における「臣民権利義務(Rights and Duties of Subjects)」という用語にやはり倣うことにしたのかもしれませんが194624日のホイットニー局長主宰の民政局会議では「憲法を起草するに当たっては,構造,標題等については(for structure, headings, etc.)既存の日本憲法に従うものとする(will follow)。」とされていました(「日本国憲法の誕生」資料と解説3-14 “Summary Report on Meeting of the Government Section, 4 February 1946”3齣)。ただし,GHQ草案第3章には,兵役の義務(大日本帝国憲法20条参照)及び納税の義務(同21条参照)の規定はありませんでした。)しかし,CitizensPeopleかの問題はなおも残ります――同章では,国家(civitas)成立後の市民ら(cives)の権利のみならず,アメリカ独立宣言的な,国制の根本の確立にかかわる主権者たる人民(populus)の権利及び義務についても規定されていることに気付かれたからであるようにも思われます。(実は,GHQ草案の第3章の本文においては,“duty”又は“duties”の語は用いられていません。なお,アメリカ独立宣言においては,人類(mankind)についてですが,「しかし,長い一連の権力濫用と簒奪とが,変わらず同一の目的を目指し,彼らを絶対的圧制の下に陥れんとする意図を明らかにするとき,そのような政府を転覆し,かつ,彼らの将来の安全のための新たな防御策を講ずることは,すなわち彼らの権利であり,彼らの義務(duty)なのである。」と述べられています。)

 

4 GHQ草案142項及び3項=日本国憲法152項及び4項に関して

 さて,GHQの市民の権利委員会の原意によれば日本国憲法151項は政体変更のための革命ないしは内戦に代えるに選挙をもってしようとする趣旨の規定ならば,同項と同条2項及び4項との関係はどうなるのでしょうか(同条3項は,前記のとおり後から貴族院で入った規定ですので,ここでは触れません。)。

 

(1)GHQ草案142項=日本国憲法152項(「全体の奉仕者」)と米国における「1800年の革命」と 

 日本国憲法152項は,選挙の勝利者に対して自制を促すための規定でしょうか。敗れた反対派を処刑したり(フランス革命式),外国(カナダ🍁)に去らしめる(アメリカ独立革命式)ようなことはせず,勝利後は,反対派をも含む共同体全体の奉仕者として振る舞ってくれよということでしょうか。

 確かに,米国聯邦政府における選挙による初の政権交代(180134日,聯邦党(フェデラリスツ)2代目大統領ジョン・アダムズから共和党(リパブリカンズ)(注意:今の共和党ではなく,むしろ民主党の前身)のトーマス・ジェファソン新大統領へのもの(なお,初代のジョージ・ワシントンから2代目アダムズへの大統領交代(1797年)は,聯邦党内における,同党の大統領からその副大統領への大統領職の引継ぎでした。))は,大統領選挙が行われた年の名を採って「1800年の革命」といわれたのでした(ただし,1800年に行われたのは大統領選挙人の選挙及び大統領選挙人による投票までであって(この段階でアダムズ敗退),第3代大統領を最終的に決める聯邦代議院(下院)における選挙(ジェファソン対アーロン・バー(実は,このバーは共和党の副大統領候補者だったのですが,修正第12条発効前の米国憲法においては大統領に係るものと副大統領に係るものとを区別せずに大統領選挙人は2名に投票することになっていたという欠陥(バグ)があったので,両者の得票が同数になってのこのようなことが起ったのでした。))が決着したのは1801217日のことでした。)

 1800年の米国大統領選挙における各候補者に対する中傷はひどいものだったようです。

ジェファソンについてある聯邦党員が言うには「〔ジェファソン〕は卑しい心根の,下劣な奴で,白黒(ムラ)混血(ットー)の父親に(はら)まされた混血のインディアン女の息子で・・・粗挽きの南部の玉蜀黍(とうもろこし)できた玉蜀黍(ホウ・ケ)パン(イク),ベーコン,皮剥き(ホミ)玉蜀黍(ニィー)そしてたまに(ブル)(フロッグ)のフリカッセばかり食べて育ったとのことで🌽🐸,コネチカット・クーラント新聞は,ジェファソンが当選したときには「殺人,強盗,強姦,不倫及び近親相姦が全て大っぴらに教えられ,実践されるだろう」と警告し,コネチカットの小さな町のある聯邦派の女性はジェファソンが当選したときには家庭(ファミリー)()聖書(バイブル)📕が取り上げられて廃棄されてしまうのではないかと心配して,唯一知っているジェファソン派(デモクラット)の人物に当該聖書を隠し持ってもらうことにした(ジェファソン派の家であれば捜索されないだろうと考えて)とのことです(Willard Sterne Randall, Thomas Jefferson: a life; HarperPerennial, New York, 1994: p.543)。他方,アダムズに対する中傷は,むしろ同じ聯邦党内の抗争においてあのアレグザンダー・ハミルトン(10ドル札)が担当しており,したがって「反対派ら〔聯邦党員〕が彼ら自らの大統領を中傷するため極めて十分の働きをしているということをあからさまに確信しつつ,彼ら〔共和党員〕はアダムズについては多くを語らなかった。」ということでした(John Ferling, John Adams: a life; Oxford University Press, New York, 2010: p.399)。

ジェファソンの伝記作家はいわく。

 

   少なくとも一人の候補者について,彼が国家の最高官職にふさわしくないように見せるために,あてこすり,噂及び嘲弄によってその評判を傷つけようとする試みがされなかった大統領選挙は,1800年以降存在しない。しかし,1800年の選挙戦ほどこれらの戦術が容赦なく粗暴なかたちで結合されたものはなかったのであり,ジェファソンを驚愕させ,その後何年もの間,国家は深く分断された。最初のものとなった相手方打倒指向で,かつ,長期化した選挙戦において,米国人は,彼らは小冊子又は書籍よりも新聞を好むこと,更に,彼らは醜聞記事が満載された新聞を好むことを明らかにした。それは最初の近代的選挙戦であり,一歴史家の言うところによれば,「当該選挙における候補者の徳性及び廉潔に対する攻撃は,それらの獰猛さ又は真実からの乖離において,いずれについてもその後凌駕されることはなかった。当該選挙戦において彼の評判は打撃を蒙り,それは当該打撃から依然として回復していない。」というものであった。〔後略〕

  (Randall: p.541

 

 ジェファソンが180134日に行った第3代米国大統領就任演説には,次のようなくだりがあります。

 

  今や本件〔大統領選挙〕が,憲法の定めるところに従って表明された国民の声によって決着せられた以上,全ての人々が,当然のことながら,法の意思の下に自ずと処を得,かつ,共同の善に向けた共同の努力において団結するのであります。また,全ての人々が,この神聖な原則,すなわち,多数派の意思が全ての場合において通るべきではあるが,当該意思は,正当であるためには道理(リー)()則った(ナブ)もの()でなければならないということ,少数派は,平等な法がその保護の義務を負い,かつ,それを蹂躙することは抑圧であるところの彼らの平等な権利を有しているということを心得ていくものであります。さあ,市民諸君,一つの心と一つの思いとをもって団結しようではありませんか。それなしには自由のみならず人生自体も味気ないものとなってしまうかの調和と親愛とを社会交際に復活せしめようではありませんか。

 

  我々は皆共和(リパブ)党員(リカンズ)であります――我々は皆聯邦(フェデ)党員(ラリスツ)であります。

 

  人民による選挙の権利を細心な熱意をもって大切にすること――それは,平和的解決方法が備わっていない場所においては革命の剣(the sword of the revolution)をもって切除されていた権力の濫用に対する穏和かつ安全(mild and safe)な匡正の制度なのであります。

 

 選挙による平和的政権交代はほとんど前代未聞のことでした。サミュエル・ハリソン・スミス(ナショナル・インテリジェンサー新聞の編集者)の妻が,ジェファソンの第3代大統領就任式典につめかけた群衆の中にいましたが,興奮気味(thrilled)の彼女は当該政権交代について,その書簡の中で次のように述べています。

 

  政権交代は,全ての政府及び全ての時代において最も一般的に,混乱,悪行及び流血の時期となっていましたが,この私たちの幸福な国では,何らの種類の騒動又は無秩序もなしに行われるのです。

  (Randall: p.548

 

 ところで,ヴァイマル憲法1301項も「公務員は,全体の奉仕者であって,一党派の奉仕者ではない。(Die Beamten sind Diener der Gesamtheit, nicht einer Partei.)」と規定していました。GHQ草案142項の文言は,あるいはここから採られたのかもしれません。しかしながら,ヴァイマル憲法上の公務員は終身雇用並びに恩給等及び既得権が保障された特権的存在であって(同憲法1291項(「公務員の任用は,法律で別に定める場合を除き,終身である。恩給及び遺族扶助は,法律により規定される。公務員の既得権は,不可侵である。公務員の財産権上の請求については,出訴が可能である。(Die Anstellung der Beamten erfolgt auf Lebenszeit, soweit nicht durch Gesetz etwas anderes bestimmt ist. Ruhegehalt und Hinterbliebenenversorgung werden gesetzlich geregelt. Die wohlerworbenen Rechte der Beamten sind unverletzlich. Für die vermögensrechtlichen Ansprüche der Beamten steht der Rechtsweg offen.)参照),同憲法1301項の規定は,当該身分保障特権があるがゆえの戒めの規定であるように思われます〔また,現在のドイツ聯邦共和国基本法335項もなお,「公務に係る法は,職業官吏制度に係る伝来の諸原則の尊重の下に規制され,かつ,拡充されなければならない。(Das Recht des öffentlichen Dienstes ist unter Berücksichitigung der hergebrachten Grundsätze des Berufsbeamtentums zu regeln und fortzuentwickeln.)」と規定しています。。人民がその罷免権を留保している建前〔したがって,spoils systemにも親和的でしょう。であるGHQ草案14条(日本国憲法15条)の公務員とは,異なる事情の下にあるようです。

しかし我が国の「公務員」観は,GHQ草案的というよりは,ヴァイマル憲法的なのでしょう。

 

(2)GHQ草案143項=日本国憲法154項:秘密投票制

 

ア 秘密投票制度に関する評価

 日本国憲法154項が規定する秘密投票制度に関しては,次のような議論があります。

 

(ア)ゲルマン戦士

 

    「かつてゲルマン民族において,重要事項の決定には武装権者の集会を開き,指導者の提案への賛成者は,楯を叩いて呼応した。こうすることによって,彼はその賛成した戦闘に命がけで参加することを,公衆の前で表明したのである。彼の意思表明は,彼の生命という裏づけをもつものであった。

     これに比べて,秘密投票制は,人前で表明できない,非公的・私的な意思に基づくものである。その投票には,責任の裏づけが欠けている。俺はその提案に賛成だ,しかし自分でそれを実践する用意はない。誰かがやってくれるだろう,私は御免だが,というわけである。

     秘密投票制に基づく近代民主制は,臆病者・卑怯者たちの私的意思を量的に積み重ねただけの無責任の体制である。」

   こういう議論はナチ時代に広く行なわれたし,かつて学生自治会や労働組合の集会などで,投票派に反対する挙手派によっても,しばしば唱えられた。〔後略〕

  (長尾龍一『憲法問題入門』(ちくま新書・1997年)134頁)

 

(イ)モンテスキュー

公開選挙を是とする論者の理由とするところは,ゲルマン戦士的男らしさの称揚ばかりではありません。愚かかつ浮薄な民衆に対する不信ということもあるようです。かのモンテスキュー師は,いわく。

 

   人民がその政治的意思表示(suffrages)をするときは,疑いなく,それは公開のものでなければならない(アテネでは,挙手で行われた。)。しかしてこれは,民衆政における基本法制の一つとみなされなければならない。下層民(petit peuple)は有力者ら(principaux)によって啓蒙されなければならないし,一定の人物らの重みによって控制されなければならない。かくして,共和制ローマにおいては,政治的意思表示が秘密にされるようになって,全てが破壊されたのである。自らを滅ぼしつつある下層民(populace)を啓蒙することは,最早不可能だったのである。しかしながら,貴族政下において貴族団が,又は民衆政下において元老院が政治的意思表示をする場合においては,そこでは専ら党派的術策(brigues)の防止が問題であるところ,政治的意思表示の方法が秘密に過ぎるということはないのである。

   党派的術策は元老院において危険である。それは貴族団において危険である。しかし,情動(passion)によって動かされる性質である人民のもとにあっては,それはそうではないのである。人民が政治に参与できない諸国家においては,政事についてそうであったであろうように,人民は役者に熱を上げるのである。共和政体における不幸は,党派的術策が絶えたときである。しかしてそれは,金銭給付によって人民が腐敗させられた場合に生ずるのである。人民は無関心になる。人民は金銭に愛着する。しかし政事には最早興味がない。政府及びその打ち出す政策について不安を抱くことなく,人民は,給付物を大人しく待つのである。

  (Montesquieu, De l’Esprit des Lois: Livre II, Chapitre II

 

  〔前略〕人民の動きは常に過剰であるか,又は過少であるかである。あるときは,人民は十万の腕をもって全てを覆す。またあるときは,十万の足をもってしても,人民は虫のようにしか進まないのである。

  (ibidem

 

 多数の「弱き」民衆についてこそ秘密投票がふさわしく,それに対して貴族やら元老院議員やらの「エリート」は,自らの政治上の決定・政見を堂々積極的に公開すべし,という「常識」(ちなみに,我が国では,1900年に改正された衆議院議員選挙法(明治33年法律第73号)以来衆議院議員の選挙について秘密投票制が行われ,他の選挙にもそれが及んでいましたが,例外として,貴族院の伯爵議員,子爵議員及び男爵議員をそれぞれ同爵において互選する方法は,選挙人が自らの爵氏名を記載しての投票でした(貴族院伯子男爵議員選挙規則(明治22年勅令第78号)102項)。)に反する意見が述べられています。人民はせっかくその「自由な意思に基づく投票を確保」(佐藤前掲)してやっても,その蒙昧な「自由な意思」では役者に熱を上げる仕方と同じような仕方でしか政事を考えることができず,結局情動次第の投票結果となるのであるから甲斐がないし危険である,そうであるのであれば有力者が代わりに考えてやって,しかして有力者間で人民の支持をめぐって正々堂々公然たる党派的術策の争いをする方がむしろよくはないか,他方,「エリート」は少数であるから各自において党派的術策の攻撃の集中を受けやすく,かえって秘密投票制度で守ってやらねばせっかくの独立的思考力を国家のための政治決定に生かすことができない・・・というようなpolitically incorrectなことをモンテスキュー師は考えていたのでしょうか。

なるほど確かに,「〔ライヒ議会の〕代議員は,20歳より上の男女による普通,平等,直接及び秘密の選挙において,比例代表式選挙の原則に基づき選出される(Die Abgeordneten werden in allgemeiner, gleicher, unmittelbarer und geheimer Wahl von den über zwanzig Jahre alten Männern und Frauen nach den Grundsätzen der Verhältniswahl gewählt.)」ものとされ(ヴァイマル憲法221項前段。下線は筆者によるもの),かつ,「選挙の自由及び選挙の秘密は保障される。その詳細は,選挙法が定める。(Wahlfreiheit und Wahlgeheimnis sind gewährleistet. Das Nähere bestimmen die Wahlgesetze.)」とされていた(同憲法125条。下線は筆者によるもの)1930年代のドイツにおいて,国民社会主義ドイツ労働者党が躍進したのでした。なお,ここであるいは余計な付言をすれば,モンテスキュー師は,人民が人を選ぶのではなく「政策」=政党なるものを選ぶ比例代表式選挙(Verhältniswahl)についても眉を顰めたかもしれません。

 

  人民は,その権威の一部を委ねるべき人々の選択においては称賛され得るものである。その判断に当たって人民は,知らずには済まぬことども及び感覚に応ずる事実のみに拠ればよいのである。ある人物がしばしば戦争に赴き,これこれの成功をした,ということを人民はよく知っている。したがって人民は,将軍を選出する高い能力を有しているのである。ある裁判官が勤勉であること,彼の法廷からは多くの人々が彼に満足して退出してくること,彼が腐敗しているとは認められていないことを人民は知っている。そうであれば,人民が法務官を選出するには十分である。人民が,ある市民の贅沢又は富に感心させられた。これで,人民が造営官を選出し得るということには十分である。全てこれらのことどもは,宮殿の中にいる君主よりもよりよく,公共の広場において(dans la place publique)人民が自ずと了知する事実である。しかし,政事を処理すること(conduire une affaire),場所,機会,時期を知ること,それを利用することを人民はできるであろうか。否。人民にはできないのである。

 (De l’Esprit des Lois: Livre II, Chapitre II

 

いずれにせよ,現在の某自由で民主的な国家におけるように,何かあればすぐに安易に政府から金銭給付をむしろ公明正大に受け取ることに主権者国民が慣れっこになっていると,確かに政府及びその政策(ばらまき政策を除く。)に係る党派的術策というような難しいことよりも先に,選挙において誰又はどこに投票すれば当面において一番沢山給付物を更にもらえるのかな,というようなことにしか国民の関心は無いようになり,国家・民族の更生及び再建のために肝腎な,主体的かつ真面目な主権意思の発動がされるという見込みもなくなるのでしょう。

 

イ オーストラリアにおける秘密投票制度の採用及びその事情

秘密投票制度は,1856年にオーストラリア🐨で始まったもので,『ブリタニカ』のホームページ(https://www.britannica.com/topic/Australian-ballot)によれば,「当該制度は,選挙人の保護(protection of voters)を求める公衆及び議会の増大する要求に応ずるため,ヨーロッパ及び米国に拡がった。」ということです。しかしてここでいわれる選挙人の保護とは,何からの保護だったのでしょうか。

オーストラリア国立博物館(National Museum of Australia)のウェブページ(https://digital-classroom.nma.gov.au/defining-moments/secret-ballot-introduced及びhttps://www.nma.gov.au/defining-moments/resources/secret-ballot-introduced)によると,秘密投票制度導入前の公開制の選挙は極めて暴力的で,人々は誰を選んだかをめぐって互いに襲撃し合っていたそうです。現在の秘密投票制下の選挙観察の楽しみ(関係者の悲喜こもごも)は,実は夜の開票速報の段階からなのですが,公開選挙制下では,選挙当日の朝から,各選挙人が人々の眼前で誰を選ぶかの意思表示をする都度,観衆の血は沸いて興奮が刻々と高まり,やがては肉が躍って荒れ狂うということになっていたわけです。「アルコール,賄賂,強制及び暴力は,〔選挙〕過程に内在的なものであった。そして,当時の選挙はしばしば,多くの負傷者を伴う暴動をもって終わったのである。〔略〕アイルランドのジャーナリストであるウィリアム・ケリーが初期のヴィクトリア州における選挙について言ったように,それらは,「熱狂の中のパントマイムそのもの」であった。」その熱狂の中「例えば,1843年には,シドニー及びメルボルンにおいて,選挙に係る意思表示をしている際2名の男性が撃たれました。」ということでした。しかして,「185512月,ヴィクトリア州立法評議会に秘密投票の法制化に係る法案が提出されました。当該法制化は,秘密に投票することを認め,他の人々によって影響され,又は強迫されないようにするものでした。これによって,選挙における暴力が減少することが期待されました(It was hoped this would reduce violence during elections.)。」とオーストラリア国立博物館は書いています。この書き振りを見る限りにおいては,秘密投票制導入時のそもそもの又は直接の目的においては,「有権者の自由な意思に基づく投票を確保する趣旨」(佐藤前掲)ということよりは,社会的に,選挙の平和を維持することが主眼であったように思われます。

しかし,いずれにせよ,革命ないしは内戦(bullet)に代えるに平和な選挙(ballot)をもってしようということが日本国憲法151項の本来の趣旨であると解するのであれば,「穏和かつ安全」な選挙を確保するためのものとして同条4項の秘密投票制を理解することも,あながち間違いとはいえないでしょう

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1 令和3年5月の思索:新型コロナウイルス感染症問題猖獗,ナポレオン歿後200周年及び東京オリンピック問題

 令和の御代(みよ)になってからの日本の4月は,光輝く新学年・新学期を迎えての若さ(みなぎ)放埓(ほうらつ)の季節というよりは,新型コロナウイルス感染症なる空前の業病(ごうびょう)(はら)うべく連年発せらるるところの「緊急事態宣言」を各自粛然として拳々(けんけん)服膺(ふくよう)し,「世界」に遅れぬ高い意識に導かれつつ,人と地球とに優しい深い思いやりの心をもって,「新しい生活様式」を真摯(しんし)かつ厳格に斎行するという気高い精神性に満ちた季節となりました。当該「様式」には,マスクを着用し,かつ,同時に食事もするというが(ごと)き高難度の(いん)(じゅ)的儀礼までもが含まれます。アルコール性飲料の提供は厳禁ですから,もちろんしらふです。同月末から5月初めにかけての連休の時期においても,忠良なる我が日本国民は,門扉を(ちぬ)る必要はありませんがマスクを着用して“STAY HOME”をしつつ,業病の(すぎ)()しを待こととなりました

 

  Transibit enim Dominus percutiens homines qui coronavira non metuunt;

    cumque viderit integumentum medicum in ore,

    transcendet eum et non sinet percussorem ingredi domum ejus et laedere.

(cf. Ex. 12, 23)

 

 とはいえ,自宅にこもってばかりいると辛気臭くなります。今(2021年)からちょうど200年前の182155日に南大西洋の孤島セント・ヘレナで死亡したナポレオン・ボナパルト幽囚の憂苦は,かくの如きものたりしか。つれづれのまま,セント・ヘレナ島には現在新型コロナウイルス感染症は伝播していないのかなとか,ラテン語の“virus”(単数主格)は当該語形(単数属格は“viri”)にもかかわらず男性名詞ではなく中性名詞であって,かつ,古代にはその複数形がなかったところ,兇悪の変異株が多々発生していて複数として表現したいときにはその複数主格・対格の形は“viri”となるのかそれとも“vira”となるのかというような細かいことで悩んだりします(後者のようです。)。セント・ヘレナ島についていえば,同島政府の2021414日付け“Coronavirus (COVID-19) IEG Update”というものを見るに“Management of the first positive cases of COVID-19”(「最初の新型コロナウイルス感染症陽性事例への対処」)という見出しの記事があるので,いよいよ同島にも新型コロナウイルスが上陸したのかと,ざわざわ思いつつ読んでみれば,その結語は,「セント・ヘレナのコミュニティに対するリスクは回避されました。セント・ヘレナは新型コロナウイルス感染症非汚染地のままです。」(“The risk to St Helena’s community was avoided and St Helena remains COVID-19 free.”)という平穏なものでした。ナポレオンは随分文句を言ったようですが,現在のセント・ヘレナは,何とも素晴らしい健康地であるようです。

今年の夏の東京オリンピックはどうなるのだろうかとも心配になります。海外からの観客は謝絶ということですから地元の日本人観客も締め出されての無観客開催は最悪の場合仕方がないとしても,来日できない海外の有名アスリートさまたちが大勢になって,日本人選手だらけの競技ばかりとなってしまってはカッコ悪いなぁ,盛り上がらないなぁ,などとの弱気の意見も出て来そうです。

 

  「わたしは,主に,スポーツイベントをテレビ局に買わせる仕事をやっていたんですが,それで,言いようのないコンプレックスが知らない内に溜まってしまったんです,最初は,アメリカン・フットボールにしてもテニスにしても陸上にしても,金で横つらを引っ叩いて,わが崇高なる日本民族の前で芸をさせてるんだからこんな愉快なことはないと自分に言い聞かせていたんですが,そのうち何だか自分達が昔のバカ殿になったような気がして・・・向こうのスポーツ選手はどうしようもなくきれいなんですよ,うまく言えないんですが,おわかりいただけますか?」(村上龍『愛と幻想のファシズム 下』(講談社・1987年)318頁)

 

 わが崇高なる日本民族の前で芸をすべき,どうしようもなくきれいな向こうのスポーツ選手がいなければ,横つらを引っ叩くつもりのオリンピック大予算も,裏を返せば後進世代に丸投げされる単なる大借金であったものかとの不穏な正体が我々の意識の中に浮かぶばかりとなりましょう。海外から御光臨の有名アスリートさまたちの欠けた,祝祭感無き地味な諸競技であっては,それらを見て,御機嫌のバカ殿となって「あいーん」とはしゃぐこともまた難しい。

これらの冴えない見通しを前にしてもやもやと鬱屈する感情の捌け口は,後期高齢者の方々等の尊い命を守らんとする気高い姿勢の道徳的高みから発せられる「コロナなのに不謹慎だっ!」との魂の叫びとなります。その場合においては,既に多々味噌がついていて迷走感グダグダ感のあるオリンピック東京大会の開催の中止ないしは延期の提案を凛然として申し立てるという角度を選択するのが,高い意識の様式美となるのでしょうか。我が()えある皇紀2600年の年に開催が予定されていた1940年オリンピック東京大会は,大陸における漢口作戦準備中の1938715日に,早々返上が決定されています。当時は(かしこ)くも,昭和天皇(おん)自ら真摯な自粛に努めておられところでした

 

1938712日〕 去月22日に〔池田成彬〕大蔵大臣より経済事情等に関する奏上を御聴取の後,ガソリンを始め種々の節約につき注意を払われ,御自身の御食事についても省略のことに及ばれる。これにつき,この日,侍従長百武三郎は,国家安危を軫念(しんねん)され率先して範を示されることは(おそ)れ多き限りであるものの,常時余りに局部的事項につき御軫念になることは玉体に影響し,重大な御政務に対する精力の集中が不十分となる(おそれ)もあり,また聖旨の影響は(やや)もすれば極端に走ることから,あるいは萎縮退嬰に陥り(かえっ)て成績が挙がらないこともあり,この重大な時局においては,各有司を信頼され,泰然とあらせられることが大切と考える旨を言上する。天皇は,侍従長の言上を御傾聴の上,御聴許になる。(宮内庁『昭和天皇実録 第七』(東京書籍・2016年)598頁)

 

大陸における「暴戻ぼうれい」を「ようちょう」する戦いに伴う困難は,(かしこ)き辺りも「泰然」とすることが許される程度のものだったようです。これに対して,現在我々が直面している大陸発の新型コロナウイルスに対する撲滅の戦いにおいては,「極端に走る」人民の「萎縮退嬰」ごときを小賢しく恐れて気を緩めることはおよそ許されません。

 

2 1904年のセント・ルイス・オリンピック

しかし,筆者は,今次オリンピック東京大会がそれに対照されるべき近代オリンピック夏季大会の前例は,中止された1916年(ベルリン),1940年(東京→ヘルシンキ)及び1944年(ロンドン)の各幻のオリンピックではなく,1904年に71日から1124日まで(国際オリンピック委員会系のhttps://olympics.com/による。日本オリンピック委員会の「オリンピックの歴史(2)」ウェブページでは「1123日」までとされています。A&E Television Networks社のhistory.comに掲載された記事(“8 Unusual Facts About the 1904 St. Louis Olympics”, August 29, 2014 (updated: August 30, 2018))においてEvan Andrews記者は,「後にされた見直し(a review)においては,1904年大会は公式には(officially71日から1123日まで続き,かつ,94のイベントからなるものであったと結論されることとなった。」と述べています。)の5箇月間近くをかけてだらだら,かつ,ばらばらと開催された第3回のセント・ルイス・オリンピックである,とここに強く主張したいところであります。(ただし,セント・ルイス大会の独自性(“Memorable? Absolutely.”「記憶に残る?全くそのとおり。」)を強調するAP通信社のDave Skretta記者は,「米国で開催された最初の夏季オリンピック大会は,それより前にヨーロッパであったものとはまるで違った相貌を呈していた。/あるいは,他の場所でこれからまた行われるものにも。」と述べてはいます(“St. Louis Olympics was really World’s Fair with some sports”, July 25, 2020)。)


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Pierre de Coubertin: “Je n’ai pas visité la cité de St. Louis en 1904.”

 

(1)参加国・地域の多寡心配無用

まず,参加国・地域数(「チーム」数)が少なくなっても気にすることはありません。

olympics.comによれば,夏季オリンピック大会の参加「チーム」数が200を超えたのは2004年のアテネ大会(第2次)からにすぎず(同大会で2012008年の北京及び2012年のロンドン(第3次)各大会はいずれも2042016年のリオ・デ・ジャネイロ大会で207),100を超えたのは1968年のメキシコ大会からで(同大会で1121972年のミュンヘン大会では1211984年のロサンゼルス大会(第2次)で1401988年のソウル大会で1591992年のバルセロナ大会で1691996年のアトランタ大会で1972000年のシドニー大会は199。なお,1976年のモントリオール大会及び1980年のモスクワ大会は,それぞれ92及び80であって,いずれも100に達していません。),そもそも最初の1896年アテネ大会は,14「チーム」(Juergen Wagner氏のhttps://olympic-museum.de/によれば,当該14「チーム」は,オーストラリア,オーストリア,ブルガリア,チリ,デンマーク,フランス,ドイツ,グレート・ブリテン及びアイルランド,ギリシア,ハンガリー,イタリア,スウェーデン,スイス並びに米国とされています。)及び選手総数241名で,簡素に始まったのでした。

しかして,史上最少参加「チーム」数を誇るのが,我らがセント・ルイス大会であって,その数はわずか12olympics.comによる。ただし,日本オリンピック委員会によれば「13カ国」。なお,上記Wagner氏は,オーストラリア,オーストリア,カナダ,キューバ,フランス,ドイツ,グレート・ブリテン,ギリシア,ハンガリー,イタリア,ノルウェー,ニューファウンドランド,南アフリカ,スイス及び米国の15か国から参加があったとしています。しかし,オーストラリア・オリンピック委員会(olympics.com.au)は,英国及びフランスからの参加はなかったものとしています。)。12であれば,1776年の夏にフィラデルフィアにおいて独立宣言にその代表が署名した北米の邦の数よりも少ない。

なお,セント・ルイス大会に何か国から参加があったのかの数字が1213又は15とグダグダになっているのは,「〔1908年に〕ロンドンで開催された第4回大会から,オリンピックへの参加が各国のオリンピック委員会を通して行われるようになりました。それまでは個人やチームで申し込めば参加できたのです。」ということであって(日本オリンピック委員会),換言すれば,それまでは「参加国数」などという概念は存在していなかったということゆえなのでしょう。脚力自慢・腕力自慢が勝手に集まって開かれる,飛び入り歓迎の運動会の如し。グダグダながらも,牧歌的でよいですね。牧歌的運動会といえばセント・ルイス・オリンピックでは綱引き競技も行われ,米国(ミルウォーキー,ニュー・ヨーク及びセント・ルイス2),ギリシア及び南アフリカから計6組が参加,ギリシア及び南アフリカは早々に脱落して,優勝は91日の決勝戦でニュー・ヨーク・アスレチック・クラブを破ったミルウォーキー・アスレチック・クラブ,2位及び3位は,ニュー・ヨーク組が順位決定戦に出てこなかったため,地元セント・ルイスの2組となっています(Andrews)。高校の物理によれば,綱引きは,要は摩擦力の増す体重の重い方が勝ちということでしたが,当時から米国には肥満者が多かったのでしょうか。


NY v. Milwaukee

New York Athletic Club v. Milwaukee Athletic Club   (Missouri History Museum)(過度の肥満者はいないようです。)


 ちなみに,olympics.comによれば,セント・ルイス大会及びアテネ大会(第1次)に次いで参加「チーム」数が少なかったのは,1908年ロンドン大会(第1次)の22,これもまだグダグダ時代の1900年パリ大会(第1次)の24及び大日本体育協会を通じた参加(東京帝国大学の三島弥彦及び東京高等師範学校の金栗四三)が我が国から初めてあった1912年ストックホルム大会の28ということになります。

 セント・ルイス大会における参加選手総数はolympics.comによれば651名ですが,前記Andrews記者は,当該数字を630名とした上で,そのうち523名が米国からの参加者であり(83パーセント),かつ,半数以上の競技が地元選手のみによって行われていたものと述べています(ただし,いまだ米国への帰化が認められていないヨーロッパからの移民も横着に米国選手として取り扱われていたようで,2012年に至ってもなおレスリングの優勝者2名について,ノルウェーは,同国の国民であるものと認められるべきだと国際オリンピック委員会に申し立てているそうです。)。カナダからの参加者は43名とされています(olympic.ca)。

 セント・ルイス大会への北米外からの参加が低調だった原因については,「ヨーロッパから離れたアメリカでの開催のため,〔1900年の〕パリ大会よりも出場選手数が減っています。」とされています(日本オリンピック委員会)。確かに,ミシガン湖に面した当初の開催予定地であるイリノイ州シカゴならばともかくも,更に内陸に位置するミズーリ州セント・ルイスは交通至って不便であったわけですが,これに加えて,当時戦われていた日露戦争の影響もあったことが挙げられています(Skretta)。やはり日本が悪いのです。


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Kanô Jigorô: “MCMXII anno domini Holmiae fui.”

 

(2)メダル寡占遠慮無用

オリンピックの金銀銅メダルの授与はセント・ルイス大会から始まりますが(olympics.com),遠慮も会釈も無い米国人は,金メダル97個中の76個と,その78パーセント強を図々しく確保しています(olympics.com“Medal Table”から筆者が数字を手ずから拾って電卓計算したもの)。ただし,ここの数字も実はグダグダで,Skretta記者はセント・ルイス大会の96個の金メダル中78個を米国勢が得たものとし,オーストラリア・オリンピック委員会は77個を米国が得たものとしています。また,同委員会によると,同大会におけるオリンピック競技と一般的に認められている91イベント中49は米国人のみが参加したものであったとされています。

この図々しい米国人が参加しなかったのが1980年のモスクワ大会です。当該大会において最も多く金メダルを確得したのは開催国であるソヴィエト社会主義共和国聯邦でありましたが,米国人らがいなかったにもかかわらず,その数及び比率は,全204個中の80個,39.2パーセントでありました。人類の理想社会を築くべきものたりし社会主義の力をもってしても,オリンピックでの全勝は難しい。

 今年の夏に東京でオリンピックが開催されるのであれば,我が日本選手団は,1904年の米国選手団の如く無慈悲無作法にメダルの荒稼ぎをすることになるものかどうか。当該荒稼ぎの結果,国際的非難ないしは揶揄を受けることになってしまわないかどうか。しかしこれは杞憂でしょう。20222月に開催される北京冬季オリンピック大会の成功必達を期する中華人民共和国オリンピック委員会としては,先陣の血祭りたるその前年の夏季大会には精鋭すぐって我が帝都に大選手団を派遣してくるでしょうから(確か,同国においては,新型コロナウイルス感染症は既に制圧済みとのことでした。),新型コロナウイルス感染症蔓延で腰砕けになった他の諸国からの有力選手の参加がたとえなくとも,我らの日本人選手らが,全体の8割,4割の金メダルをごっそり確保してウハウハということは,残念ながらあり得ないことでしょう。

 

(3)1年延期の気兼ね無用:ルイジアナ購入百周年博覧会に係る1年のずれ

 でも2021年の東京オリンピックは1年延期されてしまった結果であるけれども,1904年のセント・ルイス・オリンピックはそういう目に遭っていないからね,そこは違うよね,という意見もあるかもしれません。しかし,実はここにおいても両者間には共通性があるのです。

セント・ルイス・オリンピック自体は延期されてはいないとしても,当該大会がそれに併催されていたセント・ルイス万国博覧会(ルイジアナ購入百周年博覧会:Louisiana Purchase Exposition)は当初1903年開催の予定が,1年延期されていたのでした(u-s-history.comは,博覧会の規模が大き過ぎて延期を余儀なくされたものと説明しています。190228日付小村外相宛高平公使公信第19号においては「聞ク所ニ拠レバ本件博覧会ノ招待状発送方余リ遅カリシヲ以テ欧州諸国中露墺ノ如キハ出品準備ノ余日ナキヲ理由トシテ賛同ヲ謝絶シ他ノ諸国ヨリハ未タ確答無之」という状況が報告されています(加藤絵里子「セントルイス万国博覧会における日米関係~世紀転換期の日本の外交的意図に着目して~」お茶の水史学61号(20183月)11頁)。)。米国のトーマス・ジェファソン政権を買主としてフランス共和国のナポレオン・ボナパルト政権がルイジアナ(現在のルイジアナ州を含むが更にその北西方向に広がるミシシッピ川からロッキー山脈までに及ぶ広大な領域)を売却したのは1803年のことだったのです。

なお,セント・ルイスの博覧会とオリンピックとではどちらが親亀でどちらが子亀かといえば,博覧会が親亀です。既に準備が進んでいた博覧会と併せてオリンピックをも開催するために,セント・ルイス側は国際オリンピック委員会に圧力をかけて,シカゴからオリンピックの開催権を奪ったのでした。

 

(4)そもそものルイジアナ購入について

 

   1803411日,モンロー〔米国特使。後の第5代大統領〕がパリに到着する前に,フランス外相タレイランはリビングストン〔駐仏米国公使。独立宣言起草委員の一人〕を呼び出し,米国はルイジアナの購入に興味があるかと訊いた。同日,それより前にナポレオンは,彼の大蔵大臣であり,かつ,ジェファソンのフィラデルフィアにおける旧友であるバルベ=マルボワ〔フィラデルフィア駐在書記官のバルベ=マルボワの問いに答える形でジェファソンの『ヴァジニア覚え書』は書かれています。〕に対して,当該大領域(テリトリー)を売却する意思がある旨告げていた。は,サント・ドミンゴ〔ハイチ〕再征服計画を放棄しよう。英国との戦争再開が近いが,予は,ルイジアナは北方カナダからの英国の侵入に対して脆弱であるものと見ている,と。その余のことについては,バルべ=マルボワはわきまえていたナポレオンには金が必要なのだ。430日までにモンロー及びリビングストンは,1500万ドルでルイジアナを米国に譲渡する合意に頭文字署名した。フランス側〔バルべ=マルボワが交渉担当〕は2日後に署名した。(Willard Sterne Randall, Thomas Jefferson: a life. (HarperCollins, New York, NY,1994) pp.566-567

 

ナポレオンのいうサント・ドミンゴ(フランス語風には「サン・ドマング」)の再征服とは,名目的にはなおフランスの版図内にある同島におけるトゥッサン・ルーヴェルチュール率いる黒人自立政権を打倒する計画でした。当時の同島は,貴重な砂糖利権の中心でありました。ナポレオンの義弟であるルクレール将軍を長とした2万の軍勢が同島に派遣されていました。「ルクレール(ポリーヌの夫)を司令官にしてサン=ドマングに出兵する/うまくいけばルクレールも出世させ/俺も国家も潤う」と,第一統領閣下は皮算用をしたものか(長谷川哲也『ナポレオン―覇道進撃―第3巻』(少年画報社・2012年)182頁)。

 

1799年,ナポレオン・ボナパルトがフランスで政権を奪取し,フランス帝国の名で知られる瞠目の冒険を開始した。本質的にそれはヨーロッパの事件であったが,ナポレオンの野心には彼のエネルギー同様限界が無かったので,彼はその計画にアメリカをも加えるべく時間を割いた。彼の基本的考えは,スペインにルイジアナの返還を強いることによって〔ルイジアナは,ルイ14世にちなむその名が示すとおり元はフランス領でしたので「返還」ということになります。フレンチ=インディアン戦争(1754-1763年)の結果ルイ15世のフランスは北米から撤退することとし,ミシシッピ川以西のルイジアナは同盟国スペインに帰属することとなったものです。なお,ミシシッピ川以東のルイジアナは英国に帰した後,アメリカ独立戦争を終結させた1783年のパリ条約で米国領となっていました。〕,フランスを再び新世界の強国とすることであった。1800年,適切な恫喝的外交(bullying)が効を奏して,スペインはナポレオンの欲した合意に署名した。〔とはいえ,当時のスペイン国王カルロス4世の一族についての「すごい/こいつら全員馬鹿だ」との評価は,文字どおりの漫画的誇張なのでしょう(長谷川哲也『ナポレオン―覇道進撃―第9巻』(少年画報社・2015年)118頁)。〕ただし,実際の移譲は,ナポレオンが総督及び駐屯軍をニュー・オーリンズに置くことができるときまで延期されていた。〔当該実際の移譲は,18031130日のこととなりました(明石紀雄「ジェファソンと「ルイジアナ購入」」同志社アメリカ研究10号(19743月)15頁註(22))。〕

〔略〕メキシコ湾におけるフランスの作戦行動のためにはサン・ドマング島の基地の使用が必要であったが,同島の政治情勢に鑑みるに,それが可能であることをだれも確信することはできなかった。〔略〕

〔略〕

ルクレールは1802年の早期にサン・ドマング島に到着し,夏までに同島の状況をよくコントロールの下に置いた。トゥッサンは逮捕され,フランスに檻送され,翌年同地で死んだ。サン・ドマングの大部分はフランス軍によって占領された。〔略〕

〔略〕

〔略〕次いで彼〔ナポレオン〕はサン・ドマングからの報告を受け,考えを変えた。その年のうちに彼が同島に送った35千の兵員のうち,ルクレール将軍〔1802112日歿〕を含む3分の2が黄熱病のために斃死していた〔ナポレオンがルクレールの死を知ったのは,18031月初めとされています(明石7頁)。〕。フランスによる同地の支配を維持するためには同じような数の兵員をまた派遣しなければならないが,彼らがよりうまくやり,又はより長く生きるとの保証は無かった。更に悪いことには,フランスにとっての機会の扉が閉ざされつつあることが明らかであった。英国は,ナポレオンによるヨーロッパ秩序に再び挑戦する準備をしており,フランスの海運にとって,遠からず海が安全なものとはならなくなる成り行きであった。この情勢下にあって,彼がサン・ドマングを保持し得るということは難しかった。ルイジアナについてはいわずもがなである

Colin McEvedy, The Penguin Atlas of North American History to 1870. (Penguin Books, 1988) p.68)。

 

仏英間のアミアンの和約(1802327日締結)による平和は,18035月までしか続きませんでした。

ボナパルト第一統領がもはや執着しなくなったサン・ドマングにおいては,「世の人の熟く知れる如く,1803年に将官デツサリンが三万の黒人を率ゐてポオル,トオ,プレンスを襲ひしをり,島に住みたる白人といふ白人は悉く興りてこれに抗せんとしき。宜なり,今此島にて仏人の手に残りたるは此一握の土のみにて,これをしも失はん日には白人は夷滅を免かれがたかるべければ。」というような状況となりました(ハインリッヒ・フォン・クライスト『悪因縁』(森鷗外訳『鷗外選集第16巻 翻訳小説一』(岩波書店・1980年)105頁)。「夷滅」とは,一族を皆殺しにすることです。)。その際,「家は大路のほとりに在りて,白人雑種などの余所に奔らむとするが立寄りて,食を乞ひ,宿を求めなどするを,おのれが帰りこむまでは欺きて停めおかせ,帰りて直ちに殺すを常と」していた(クライスト105頁)「おそろしき老黒奴」コンゴ・ホアンゴ(ゴールド・コースト出身のアフリカ人であって,サン・ドマングで「黒人の一揆起りしをり」,それまでに「自由なる身」としてくれ「隠居料あまた取らせ,猶飽かでや,遺言して若干の産を与へむ」とまで言ってくれていた「主人が頭を撃ちぬきて,主人の妻が三たりの子を伴ひて難を避けたりし家に火をかけ,ポオル,トオ,プレンスに住める遺族の手に落つべき開墾地を思ふまゝにあらし,この領内に立たる家をなごりなく打毀ち,相識りたる黒人をつどへて武器をとらせ,これを率ゐて近郷に横行し,黒人方の軍を援けき。」という所業の者)の不在宅に,同人の「妾のやう」なる「あひの子バベガン」(同104頁)に正に欺かれて停めおかれていたPort-au-Princeへ向かう途上のスイス人・グスタアフ・フオン・デル・リイドは,バベガンとフランス商人との間に生まれた娘である15歳のトオニイ・ベルトランに対し,首尾よく共に一夜を過ごした仲(同118頁)となったにもかかわらず,種々悶着のあった後,「歯ぎしりしてトオニイに向ひ,火蓋を切て放しつ。/弾丸はトオニイが胸のたゞ中を打貫きたり。/〔略〕手に持ちし短銃を少女が体に投げつけ,よろめきながら足を挙げてしたゝかに蹴り,一声この淫婦と叫」ぶ(同133-134頁)という無残無慈悲な行為をなし,更には「短銃もてわれと我脳を撃ちぬいたり。再度の変に驚慌てたる人々,いまは少女が屍を打棄てゝ,グスタアフを救はむとしたれど,憫むべし,頭蓋は微塵に砕けて,短銃の火口を我口にあてしことなれば,血にまみれたる骨の片々は,かなた,こなたの壁に飛びかゝりて,そがまゝにつき居たり。」(同136頁)というグダグダ情態を惹起しています。無論,サン・ドマングの白人残存勢力は,ほどなく英雄デサリーヌに打ち破られます。フオン・デル・リイドの親戚「一族英吉利ぶねに便乗して,ふる里なる瑞西にかへり,残り僅かばかりの金にてリギのあたりに地を買ひて住みぬ。」ということにはなりました(クライスト137頁)。デサリーヌは,大西洋の彼方でナポレオンがフランス皇帝となった1804年(5月18日即位ですが,ダヴィッドの絵で有名な戴冠式は同年122日のこととなりました。),こちらはハイチ皇帝となっています(108日戴冠)。

ハイチ北方の米国は,なお1803年の秋です。

 

   彼〔ジェファソン〕が第8議会を18031017日に召集した際,彼はルイジアナ購入を求めたが,憲法問題には言及しなかった。同日上院に提出された当該条約は,わずか3日後に批准された。〔18031020日の上院における表決結果は賛成24名,反対7名であり,批准書の交換は同月21日であったそうです(明石3頁)。〕

   1220日にニュー・オーリンズにおける儀式をもってフランスが米国に対して正式にルイジアナを移譲した際ジェファソンは,議会演説において,「自由の帝国(the empire of liberty)」の領土並びに「我々の子孫に対するその豊富な供給物及び自由の恵沢のための広大な領域」の倍増を祝った。これらの自由については,奴隷制が繁栄することができる領土を倍僧する自由を有する白人に対してのみ及ぶものであることには疑いはなかった。1804年にコネティカットの一上院議員が,奴隷制を禁ずるようにルイジアナ領土(テリトリー)の組織を行う修正案を提出した。18031021日から1804320日まで,米国議会はルイジアナ領土の統治に必要な規定及び規則を審議していました(明石3頁)。〕ジェファソン及び〔民主〕共和党員は当該提案を支持せず,代わりに,外国からの奴隷の輸入を禁ずるというはるかに生ぬるい施策を採用した。(Randall, p.567

 

(5)下品な偏見と高い意識と

 1904年のセント・ルイス・オリンピックはまた,あからさまに人種差別的とされる2日間の「人類学の日(Anthropology Days)」の見世物によって悪名が高いところです。博覧会の「人間動物園(human zoo)」展示に参加していたアイヌ,パタゴニア人,ピグミー,イゴロト族(フィリピン),スー族等が,お金をあげるからと言われて,走り幅跳び,弓術及び槍投げのほか,棒登り,泥投げ勝負等をさせられています。参加者は碌に競技指導を受けておらず,出来栄えは惨めなものだったようで,当該見世物の主催者であるジェイムズ・サリヴァンは「未開人たちは,運動競技能力の観点からすると,過大評価されていたものである」と得々として語ったものと伝えられています。(Andrews

下品だったようですね。

翻って2021年の今次オリンピック東京大会に向けては,差別問題は,差別的意識の抱懐が少しでも疑われた段階で既に当該被疑者が直ちに社会的に抹殺されてしまうという,高い意識に基づいた極めて厳格な取扱いを受けつつあります。あらわれとしては一方は偏見の不当な放置,他方は厳格な是正,と逆方向になっていますが,差別問題が問題になるという点で,やはり両大会は,宿命として密な関係を有しているものといえましょう。

なお,日本は,セント・ルイス・オリンピックには参加していなくとも,博覧会には「1900年のパリ万博に次ぐ80万円の経費を計上して参加」していました(宮武公夫「人類学とオリンピック―アイヌと1904年セントルイス・オリンピック大会―」北大文学研究科紀要108号(200212月)3頁)。しかして,「人類学の日」の開催日は812日及び同月13日で(宮武5頁),18種類の競技が行われたところ(宮武7頁),日本から来ていた,クトロゲ,ゴロ,オオサワ及びサンゲアの4名のアイヌ男性が(宮武6頁),16ポンド投げ,幅跳び,野球投げ,槍投げ及びアーチェリーの5種目に参加していました(宮武8頁)。そこで,彼らこそ「最初にオリンピックに参加した「日本人」と考えるのが妥当ではないだろうか」と主張されています(宮武17頁)。「20世紀初頭のオリンピックは,帝国主義と植民地主義を支えた人種理論に彩られていたとはいえ,多くの人々を一つの世界規模でのスペクタクルの中に包摂するだけの,規模の大きさと異種混合を許すだけの普遍主義的な受容性を持っていた」ところです(宮武19頁)。

ゴロこと辺泥(ぺて)五郎生涯については家族による興味深い講演記録あります近森アイヌ文化祖父・辺五郎足跡たどってhttps://www.ff-ainu.or.jp/about/files/sem2007.pdf)。


(6)東京=セント・ルイス=武漢

 なお,最後に付け加えれば,セント・ルイス市は,同市でオリンピックが開催された年から100年後の2004年の927日以来,中華人民共和国湖北省武漢市と国際友好交流城市関係にあります。後者は,現在流行の新型コロナウイルス感染症とは浅からぬ因縁のあるかの都市です(世界的なlockdownの流行は,「武漢封城」に触発されたchinoiserieでしょう。1938年の我が漢口作戦の漢口は,現在の武漢市の一部です。)。ただし,国際友好交流城市関係は友好城市(姉妹都市)関係とは違うもののようです。しかし,セント・ルイス側は,余り頓着せずに,両市はsister citiesであるものと観念しているようです。Budweiser Beerの工場が,武漢にもあるそうです。Sisters in Budsuitですね。

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1 衆議院議員選挙区画定審議会設置法3条2項及び公職選挙法13条7項

「いわゆるアダムズ方式」というものがあります。

当該方式は,①各都道府県における衆議院小選挙区選出議員の選挙区の数(「小選挙区」なので,各選挙区において選挙すべき議員の数は1人になります(公職選挙法(昭和25年法律第100号)131項後段)。)及び②衆議院比例代表選出議員の各選挙区(北海道,東北,北関東,南関東,東京都,北陸信越,東海,近畿,中国,四国又は九州(同法132項・別表第2))において選挙すべき議員の数の割当てに係る方式です。

衆議院議員選挙区画定審議会設置法及び公職選挙法の一部を改正する法律(平成28年法律第49号)の第1条によって改正された①衆議院議員選挙区画定審議会設置法(平成6年法律第3号)32に「次条第1項の規定〔同法41項は「第2条の規定〔当該規定は「〔衆議院議員選挙区画定〕審議会は,衆議院小選挙区選出議員の選挙区の改定に関し,調査審議し,必要があると認めるときは,その改定案を作成して内閣総理大臣に勧告するものとする。」と定めるもの〕による勧告は,国勢調査(統計法第5条第2項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査に限る。)の結果による人口が最初に官報で公示された日から1年以内に行うものとする。」と規定〕による勧告に係る前項〔衆議院議員選挙区画定審議会設置法31項は「前条〔同法2条〕の規定による改定案の作成は,各選挙区の人口(最近の国勢調査(統計法〔略〕第5条第2項の規定により行われる国勢調査に限る。)の結果による日本国民の人口をいう。以下この条において同じ。)の均衡を図り,各選挙区の人口のうち,その最も多いものを最も少ないもので除して得た数が2以上とならないようにすることとし,行政区画,地勢,交通等の事情を総合的に考慮して合理的に行わなければならない。」と規定〕の改定案の作成に当たっては,各都道府県の区域内の衆議院小選挙区選出議員の選挙区の数は,各都道府県の人口を小選挙区基準除数(その除数で各都道府県の人口を除して得た数(1未満の端数が生じたときは,これを1に切り上げるものとする。)の合計数が公職選挙法(昭和25年法律第100号)第4条第1項に規定する衆議院小選挙区選出議員の定数289人〕に相当する数と合致することとなる除数をいう。)で除して得た数(1未満の端数が生じたときは,これを1に切り上げるものとする。)とする。」(下線は筆者によるもの)と,

同じく平成28年法律第49号のこちらは第2条によって改正された②公職選挙法137項に「別表第2〔衆議院(比例代表選出)議員の選挙区及び各選挙区において選挙すべき議員の数を定めるもの(同条2項)〕は,国勢調査(統計法(平成19年法律第53号)第5条第2項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査に限る。以下この項において同じ。)の結果によつて,更正することを例とする。この場合において,各選挙区の議員数は,各選挙区の人口(最近の国勢調査の結果による日本国民の人口をいう。以下この項において同じ。)を比例代表基準除数(その除数で各選挙区の人口を除して得た数(1未満の端数が生じたときは,これを1に切り上げるものとする。)の合計数が第4条第1項に規定する衆議院比例代表選出議員の定数176人〕に相当する数と合致することとなる除数をいう。)で除して得た数(1未満の端数が生じたときは,これを1に切り上げるものとする。)とする。」(下線は筆者によるもの)と規定されています。

卒然と思い付く筆者の発想であれば,まずそれぞれ小選挙区選出議員定数(289)及び比例代表選出議員定数(176)で日本国民の全国人口を除して小選挙区及び比例代表の各基準除数(議員一人当たりの日本国民の人口に係るあるべき数)を求めて,かつ,それを確定させた上で,当該各基準除数でそれぞれ各都道府県及び比例代表選出議員の各選挙区に係る日本国民の人口を除して,その結果得られた各都道府県及び比例代表選出議員の各選挙区に係る商(都道府県に係るもの47個,比例代表選出議員の選挙区に係るもの11個)を見て,さて端数が出てしまったがこの処理をどうしようか,と考えるところでしょう(この発想に係る方法は,quota methodというそうです(Shannon Guerrero and Charles M. Biles, “The History of the Congressional Apportionment Problem through a Mathematical Lens” (2017), pp.3, 4 (http://digitalcommons.humboldt.edu/apportionment/27))。)。これに対して,衆議院議員選挙区画定審議会設置法32項及び公職選挙法137のいわゆるアダムズ方式は,端数は切上げで処理するとあらかじめ決め置いた上で,議員の各総定数に見合うように基準除数を変動させる操作を行う,というところが,犬(基準除数)が尾を振るのか尾が犬(基準除数)を振るのか的ひねりがあって面白い。いわゆるアダムズ方式の処理の仕方は,後記の修正除数方式(modified divisor method (MDM))の一種ということになります(Guerrero & Biles, pp.8-9)。

平成28年法律第49号は2016527日に公布されているところ,同法における衆議院議員選挙区画定審議会設置法の改正規定(平成28年法律第491条)は同日から施行され(同法附則1条本文),公職選挙法の改正規定(平成28年法律第492条)は,2017716日から施行されています(2017616日に公布・施行された衆議院議員選挙区画定審議会設置法及び公職選挙法の一部を改正する法律の一部を改正する法律(平成29年法律第58号)による改正後の平成28年法律第49号附則1条ただし書)。

 

2 統計法5条2項本文の国勢調査=2020年国勢調査及びその結果公表日程

いわゆるアダムズ方式による公職選挙法別表1(衆議院(小選挙区選出)議員の選挙区を定めるもの(同法131項))の改定(衆議院議員選挙区画定審議会設置法41)及び公職選挙法別表2の更正(同法137項)を発動せしめる「統計法(平成19年法律第53号)第5条第2項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査」とは何かが問題となります。

これは,統計法52項を見ただけでは分かりません(同項は「総務大臣は,前項に規定する全数調査(以下「国勢調査」という。)を10年ごとに行い,国勢統計を作成しなければならない。ただし,当該国勢調査を行った年から5年目に当たる年には簡易な方法による国勢調査を行い,国勢統計を作成するものとする。」と規定)。5年ごとに行われる国勢調査(2020年にもありました。)のうち,統計法52項本文の国勢調査に当たるものは西暦末尾0の年のものか5の年のものかは,同項には書かれていないところです。ではどこを見ればよいのかといえば,統計法の附則4条であって,同条は,「新法第5条第2項本文の規定による最初の国勢調査は,平成22年に行うものとする。」と規定しています。すなわち,統計法52項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査の第1回は2010年に行われ,2020年の国勢調査はその第2回ということになります。

2020年の国勢調査の結果が出ると,いわゆるアダムズ方式による公職選挙法別表第1の改定及び同法別表第2の更正に係る各規定が初作動ということになり,同法の改正関係作業(あるいは,改正をせずに済むかもしれませんが)をしなければならなくなるわけです。

小選挙区の区割りに係る公職選挙法別表1の地理的改定案の勧告は,国勢調査の結果による人口が最初に官報で公示された日から1年以内に行うものとされています(衆議院議員選挙区画定審議会設置法41)。

他方,選挙すべき議員数に係る公職選挙法別表2の算術的更正については,そのスケジュール感を示す規定がありません。これは,同表の更正については,国勢調査の結果がいったん出てしまうと直ちに計算がされて比例代表選出議員の各選挙区の新定数が一義的に明らかになってしまうので,直ちにとまではいわないものの,それだけの改正にすぎないのだから(とはいえ,減員となる選挙区選出の代議士らは心穏やかではないでしょうが。)国会は速やかに公職選挙法を改正せよ,ということなのでしょう。平成28年法律第49号によって削られる前の公職選挙法別表第2の「この表は,国勢調査(統計法(平成19年法律第53号)第5条第2項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査に限る。)の結果によつて,更正することを例とする。」という十分抽象的な規定であれば,そもそもの更正の要否,更正するとした場合の方法等についての議論が更に十分過ぎるほどできたのでしょうが,もはやそのような思弁及び議論にふけって日子を費やすわけにはいきません。

2020年の国勢調査の結果に基づく改定に係る衆議院議員選挙区画定審議会設置法41項の1年の期間はいつから始まるかといえば,同項にいう人口は,日本国民の人口に限られず(同法31項括弧書き対照),かつ,「人口が最初に官報で公示された日」が起算日とされていますので,20216月公表の「人口速報集計」について「人口は公表日に官報に公示」するとの公示措置がされた日からとなるようです(「令和2年国勢調査の集計体系及び結果の公表・提供等一覧」を総務省統計局のウェブページで見ると,20216月に,「男女別人口及び世帯数の早期提供」のための「人口速報集計(要計表による人口集計)」が表章地域を「全国,都道府県,市区町村」として公表され,「人口は公表日に官報に公示」されるそうです。同「一覧」によれば,官報公示がされるのは,当該人口速報集計の人口のほか,202111月公表の「人口等基本集計」の人口及び世帯数(確定・人口世帯数)(こちらの公示日は公表日ではなく,「公表後」)のみです(なお,同「一覧」における国勢調査の結果の公表に係る「インターネットを利用する方法等」の「等」には官報公示は含まれないのでしょう。)。)。

ところで,公職選挙法の別表第1及び第2の改定及び更正は,単なる人口ではなく,日本国民の人口に基づいてされることになっています。人口から日本国民ではない者の人口を減じて初めて得られる日本国民の人口は,「人口,世帯,住居に関する結果及び外国人,高齢者世帯,母子・父子世帯,親子の同居等に関する結果」(下線は筆者によるもの)までが集計された「全国,都道府県,市区町村」を表章地域とする人口等基本集計が202111月に公表されるまでは明らかにならないように思われます。事実,2020226日付けの総務省統計局国勢調査課の「令和2年国勢調査の概要」を見ると,「人口速報集計(速報値)は,調査員が調査活動中に作成する調査世帯一覧を基に作成した要計表を用いて集計⇒外国人人口は把握できない」とあります(10頁)。

しかしながら,上記「概要」には更に,「人口速報集計(2()()),人口基本等集計(9()())の各段階で,選挙区別の「日本国民の人口」を算出する特別集計を実施」とあります(10頁)。(なお,ここで2021年の「2月」及び「9月」というのは,2020226日段階における予定であって,その後の新型コロナウイルス感染症騒動がもたらした遅延によって,現在はそれぞれ20216月及び同年11月に後ろ倒しになっているものでしょう。)この特別集計は,衆議院議員選挙区画定審議会設置法32項及び公職選挙法137項の付託に,国勢調査制度が正に応えようとするものでしょう。20216月の人口速報集計においては,わざわざ「外国人人口は,平成27年国勢調査結果に,住民基本台帳による5年間の増減等を勘案して推計」するそうです(国勢調査課10頁)。ただし,公職選挙法別表第1を見ると,市区町村レヴェルにとどまらずより細かい単位で衆議院(小選挙区選出)議員の選挙区は画定されているところ,これに必要となるのであろう「町丁・字等,基本単位区,地域メッシュ」を表章地域とする小地域集計は,「該当する基本集計等の公表後に集計し,地理データ等を活用して秘匿処理を施した上で,速やかに公表」とされています。公職選挙法別表第1の改定に必要なデータが全部そろうためには時間がかかるものでしょう。

人口速報集計段階における特別集計は,公職選挙法別表第1の改定については,あらかじめ速報値をもって一応の改定案作成作業を進めさせて人口基本等集計公表後の確定を迅速ならしめることが目的であるものと考えるべきものでしょうか。

人口速報集計段階における特別集計と公職選挙法別表第2の更正との関係については,あるいはあえて問題となし得るかもしれません。公職選挙法137項は,当該更正は「国勢調査の結果」によるべきものとのみ規定しています。これに対して,2012年の衆議院小選挙区選出議員の選挙区間における人口較差を緊急に是正するための公職選挙法及び衆議院議員選挙区画定審議会設置法の一部を改正する法律(平成24年法律第95号)附則321号には「人口(官報で公示された平成22年の国勢調査の結果による確定した人口をいう。以下この項において同じ。)」という表現があります(下線は筆者によるもの)。公職選挙法137項の解釈は,平成24年法律第95号附則321号を反対解釈してされるべきものか(確定値によらなくともよいことになります。となると,速報値が出た時及び確定値が出た時の両度にわたって更正をすることになるのでしょうか。),それともあるいは,2012年の立法においては「確定した」を明示したが,「結果」によるべき場合のその結果の数値は確定していなければならないのは当然であるから公職選挙法137項にはくどく「確定した」云々とはあえて書かなかったのだ,というものであるべきか。後者の解釈の方が常識的でしょう。

20171022日を期日とする総選挙において当選した衆議院議員らの任期は20211021日までです(日本国憲法45条,公職選挙法256条)。当該任期中においては――2020年の国勢調査に係る人口基本等集計の公表は202111月ですので――いわゆるアダムズ方式による公職選挙法別表第1の改定及び同法別表第2の更正はないということになるようです。しかし,20216月公表の人口速報集計に伴う特別集計の結果次第では,議員数の増減が確実に生ずることが同年11月の人口基本等集計の公表を待たずに歴然たる都道府県ないしは選挙区が明らかになってしまって,そのまま総選挙が行われると,居心地の悪い当選者,未練たらたらの落選者が出て来る可能性もあるものでしょう。

 

3 JQA及び米国憲法1条2節3項

 いわゆるアダムズ方式のアダムズとはだれかといえば,米国のアダムズ大統領だ,といわれます。しかし,1789年就任のジョージ・ワシントン(1797年まで在任)から2021年就任のジョー・バイデンまでの45人の米国大統領(バイデンは46代目ですが,19世紀後期のグローヴァ―・クリーヴランドが一人で22代目(1885-1889年在任)と24代目(1893-1897年在任)とを兼ねています。)中,アダムズは二人います。しかも,ファースト・ネームはどちらもジョン。父親の2代目ジョン・アダムズ(1797-1801年在任)及び息子の6代目ジョン・クインジー・アダムズ(1825-1829年在任)です。しかしていわゆるアダムズ方式の淵源たる方式の考案者は父子のうちどちらかといえば,息子の6代目の方です(以下当該息子を「JQA」と表記します。JQAといえば35代目のジョン・F・ケネディ(1961-1963年在任)のJFKみたいですが,実はちなみにJFKはその著書『勇気ある人々(Profiles in Courage)』の中でJQAを取り上げて称揚しています。)。なお,アダムズ方式はJQAの大統領時代に考案されたものではなく,1828年の大統領選挙でアンドリュー・ジャクソン(1829-1837年在任)に敗れた後,マサチューセッツ州の地元選出の連邦下院(代議院)議員になってから(1830年の選挙で初当選。その後再選を重ねます。)考案されたものです。1832年のことだとされています(William Lucas and David Housman, “Apportionment: Reflections on the Politics of Mathematics”, Engineering: Cornell Quarterly, Vol. 16 (1981), No.1, p.19)。(なお,JQAを破ったアンドリュー・ジャクソン第7代大統領はどういう人かといえば,「OK」の人であるのみならず(「ジョージ3世と3代のアメリカ合衆国大統領」参照(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1013251045.html)),その肖像画がドナルド・トランプ第45代大統領の執務室に飾ってあった人,といえばイメージがつかめるでしょうか。トランプ政権の終幕は大統領支持派大衆による連邦議会議事堂占拠で味噌が付きましたが,ジャクソン政権の開幕は,合衆国大統領官邸におけるレセプションに蝟集した大統領支持派大衆による大混乱(「「人民の威厳なるもの(Majesty of the People)は消滅して,突進し,喧嘩をし,跳ね回る少年,黒人,女,子供からなる群衆,すなわち暴徒(a rabble, a mob)」にとって代わられた」(Jon Meacham, American lion: Andrew Jackson in the White House (New York: Random House, 2009), p.61)。)によって彩られています。)

 アダムズ方式が考案された前提としては,米国憲法123項の次の規定があります。

 

  Representatives and direct Taxes shall be apportioned among the several States which may be included within this Union, according to their respective Numbers, which shall be determined by adding to the whole Number of free Persons, including those bound to Service for a Term of Years, and excluding Indians not taxed, three fifths of all other Persons. The actual Enumeration shall be made within three Years after the first Meeting of the Congress of the United States, and within every subsequent Term of ten Years, in such Manner as they shall by Law direct. The Number of Representatives shall not exceed one for every thirty Thousand, but each State shall have at Least one Representative; and until such enumeration shall be made, the State of New Hampshire shall be entitled to chuse three, Massachusetts eight, Rhode-Island and Providence Plantations one, Connecticut five, New-York six, New Jersey four, Pennsylvania eight, Delaware one, Maryland six, Virginia ten, North Carolina five, South Carolina five, and Georgia three.

  (下院(代議院)議員及び直接税は,この連邦を構成すべき諸州間において,それぞれの基準数に従って割り当てられる。当該基準数は,課税されないインディアンを除き,年季役務に拘束される者を含む自由人の全数に,それ以外の全ての者の5分の3を加えることによって決定されるものとする。法律によって定められるところにより,実際の人口調査は,合衆国議会の第1回会議の後3年以内に行われるものとし,その後は10年の期間内ごとに行われるものとする。下院議員の数は,3万当たり1人を超えないものとする。ただし,各州は少なくとも1人の下院議員を有するものとする。しかして,当該人口調査が行われるまでは,ニュー・ハンプシャー州は3人,マサチューセッツ州は8人,ロウドアイランド州は1人,コネティカット州は5人,ニューヨーク州は6人,ニュー・ジャージ州は4人,ペンシルヴェイニア州は8人,デラウェア州は1人,メアリランド州は6人,ヴァジニア州は10人,ノース・キャロライナ州は5人,サウス・キャロライナ州は5人及びジョージア州は3人を選出することができるものとする。)

 

4 米国第1回国勢調査,1792年の下院議員数割当法,最初の大統領拒否権発動及びハミルトン対ジェファソン

 米国の第1回の国勢調査(Census)は,1790年,トーマス・ジェファソン国務長官の下で実施され,その結果は,17911028日に連邦議会に提出されました(Guerrero & Biles, p.4)。

15州(建国13州にヴァモント州及びケンタッキー州が加わっています。)の合計基準人口概数3,615,920(「基準人口概数」といって端的に「人口」といわないのは,この数字は奴隷1人を5分の3人として数えた数を含む数字であろうからです。「3/5人間」なる存在は,筆者としてはどうも実感しにくい。そもそも議員について「3/5議員」というような面妖な存在が許されないからこそ議員数割当てにおける端数処理で苦労しているのです。)を30,000で除したところ(合衆国憲法123項により得ることが可能な最大限の下院議員総数を目指したようです。),得られた商が120.531なので下院議員の定員を120人とし(ちなみに,当時の下院定数は67人でした(合衆国憲法123項の65人にヴァモント州分の2人を加えたもの。ケンタッキー州の連邦加入は179261日のことになります。)。),これに各州の基準人口概数を全国合計基準人口概数で除した商(各州の基準人口概数の全国基準人口概数に対する比率)を掛けて得られた積が各州の割当数(quota)になりますが,これには端数が出るのでそれを全部切り捨てた上で合計すると111となって,120の定数を満たすにはまだ9人分余裕がある,そこで,端数部分の値の大きな順に9州に各1議席をプラスして得られた議員数割当ての法案が連邦議会で成立し(この割当方式は,quota methodの一種であり,ハミルトン方式と呼ばれます。アレグザンダー・ハミルトンは,ワシントン政権の財務長官にして,かつ,与党・連邦党(Federalists)の首領でした。),1792326日にワシントン大統領に対しその承認を求めて提出されます(Guerrero & Biles, p.5)。しかし,同年4月,ワシントンは,それまでその行使に消極的であった議会立法に対する大統領拒否権を合衆国史上初めて発動(Ron Chernow, Washington: a life (New York: The Penguin Press, 2010), p.685),その理由は,ワシントンの合衆国憲法解釈によれば当該法案は違憲だからであって,すなわち,当該法案で8議席を得ることとなったコネティカット州の基準人口概数は236,841にすぎないところ,8議席では同州における下院議員1人当たりの基準人口概数は29,605となって「下院議員の数は,3万当たり1人を超えないものとする。」との合衆国憲法123項の規定に違反する(ワシントンは,当該規定は,合衆国全体についてのみならず,各州についてもそれぞれ守られなければならいと解していました。)というものでした(Guerrero & Biles, p.5)。ハミルトンの不倶戴天の敵であるジェファソンからの,拒否権を発動すべしとの進言もあったそうです(Lucas & Hausman, p.18)。

大統領の拒否権発動を承けて議会は,各州の基準人口概数を基準除数33,0003万の1割増しですね。)で除した商の端数を切り捨てた数を各州の下院議員数とする法案(そうして得られた各州の下院議員数の合計が結果的に下院議員の総数となり,この時は105でした。)を新たに可決し,今度はワシントンも承認,当該端数切捨て割当方式(ジェファソン方式といわれます。)が1830年の国勢調査に基づく割当てまで続く方式となります(Guerrero & Biles, pp.5, 8)。ただし,ジェファソン方式は,ワシントンのお目こぼしにはあずかれたものの,小州に比べて大州にとって有利であり(切り捨てられた端数の重みは,割当下院議員数が少ない州の方が重く感ずるところです。),かつ,各州の前記quota(各州の基準人口概数の全国総基準人口概数に対する比率を下院の総議席数に掛けたもの)からその端数を切り上げ,又は切り捨てて得られる数(これは,quota値直近の2個の整数になります。)から外れた数の議席割当てが当該州について生ずる事態(例えば,quota19.531の州に19又は20ではなく,一つ飛んだ21議席が割り当てられるような事態。クォータ原則違反(quota rule violation)といわれます。)の可能性があるところです(Guerrero & Biles, pp.5, 8)。また,1792年法でも,全体の105議席中,ヴァジニア州(基準人口概数630,560)に19議席,デラウェア州(基準人口概数55,540)に1議席が与えられたものの,両州のquotaを計算すると((630,560 or 55,540 / 3,615,920)×105それぞれ18.3101.613とであって,端数部分のより大きいデラウェアが切捨てを被り,端数部分のより小さいヴァジニアが切上げの恩恵に浴するという不体裁を抱えていました(Guerrero & Biles, pp.4, 5)。


5 1832年の下院議員数割当て:アダムズ方式,ディーン方式及びウェブスター方式並びにジェファソン方式継続下でのポークの辣腕

 1830年の国勢調査を承けた州別下院議員数割当法案に係る議論に際して,上院(元老院)の割当委員会(apportionment committee)の委員長であるダニエル・ウェブスター(マサチューセッツ州選出)は,JQAからアダムズ方式(端数切上げ方式)を提案する書簡を受領します(Guerrero & Biles, p.6)。ただし,この原始アダムズ方式は,下院の総議席数の枠をまず前提とはしないものであって,我が国の衆議院議員選挙区画定審議会設置法32項及び公職選挙法137項のそれと全く同一のものではなかったようです。前記ジェファソン方式のように基準除数(divisor. 1792年法における33,000)を先に決めて各州の基準人口概数を除した上でその商の端数を処理してその州の議員割当数を決める方法(しかして,下院の総議員定数は,各州の議員割当数を足し合わせて決まる。)はbasic divisor methodBDM)といわれますが(Guerrero & Biles, p.4),その一種とされています(Guerrero & Biles, p.6)。ジェファソン方式では端数切捨てですが,アダムズ方式は端数切上げです。端数を切り上げるこころは,JQAとしては,「合衆国の人口が西部に向かって拡大することに伴い,下院の議席がマサチューセッツ及びニュー・イングランドから失われて行くことを懸念していた」からとされます(Lucas & Housman, p.19)。

 「アダムズ方式は全然真剣に検討されなかった。それは,ジェファソン方式と同様の欠陥を抱えていた。特に,それはクォータ原則違反を起し得たし,かつ,偏りを示し得た。アダムズ方式の偏りは,常に大州に対して小州を優遇するものであった」(Guerrero & Biles, p.6)。「彼〔JQA〕の提案は,しかしながら,議会に採用されることはつゆなかった」(Lucas & Housman, p.19)。

 米国ではアダムズ方式は全く相手にされなかったとは,JQA前大統領閣下もお気の毒です。

 近年のJQAの伝記においても,下院議員数割当てに係るアダムズ方式の提案に関しては,次のように間接的に触れられているだけです。

                                                                                         

   〔連邦議会閉会後〕アダムズは1832年の夏を,『デルモット』JQAがその前年に執筆した,イングランドに征服された12世紀のアイルランドをめぐる叙事詩。Dermot MacMorroghは当時のアイルランド貴族の名〕の出版の手配をし,時々思い出したように彼の父〔ジョン・アダムズは182674日に死去〕の伝記の執筆を行って1767年まで進め,遺言書を書き直し,マウント・ウォラストン〔マサチューセッツ州クインジー所在のアダムズ家の地所〕に木を植えて過ごした。彼は,ハリソン・グレイ・オーティス〔かつては若きJQAの友人であったが,ジェファソン政権(1801-1809年)の対英強硬政策に対する姿勢(JQAは賛成,JQAの地元は反対)をめぐって政敵になっていたボストンの有力者〕の訪問を受けた。オーティスは,議席割当てに関する連邦議会における激しい議論において,ニュー・イングランドの利益を守ってくれたことについてアダムズに礼を述べた。長かった諍いは終わりを迎えた。アダムズはもはや,ハートフォード会議181412月にニュー・イングランドの親英派がハートフォードで開催した会議。合衆国からの離脱を決議するまでには至らなかった。〕に係る,本一冊ほどの分量のある攻撃文書を公にしようなどという気は起こさない。(James Traub, John Quincy Adams: militant spirit (New York: Basic Books, 2016), p.402. 下線は筆者によるもの)

 

1965年の米国連邦議会下院の文書(89th Congress, 1st Session; House Document No.250)はもう少し詳しく,1832年のJQAの日記“vol. III pp.471-472”とありますが,これは活字印刷された公刊本でしょうか。JQA日記の自筆原本はマサチューセッツ歴史協会のウェブサイトで公開されているのですが(http://www.masshist.org/jqadiaries/php.),筆者にはJQAの手書きの文字は難物で,何月何日の記事であったものかつまびらかにできません。)から,次の記述を引用しています。

 

  私は全く眠れない一夜を過ごした。法案の不正(iniquity)及びかくも偏頗(partial)かつ不正義(unjust)な代表の割当てをもたらしたそのいかがわしい方法論(disreputable means)が私を憤らせ,私は目を閉じることができなかった。私は一晩中,この重大な衝撃をマサチューセッツ及びニュー・イングランドが被ることがないようにする手立て(device)がもしや何かないものかと思いを巡らしていた。(History of the House of Representatives, p.21

 
 JQAからアダムズ方式の提案を受けた同じ頃,ウェブスター委員長は,ヴァモント大学のジェームズ・ディーン教授からもディーン方式(端数の切上げ又は切捨ては,どちらを採用した方が当該州の1議員当たりの基準人口概数が基準除数(1792年法の場合は33,000)に近くなるか(差が小さくなるか)によって決めるBDM)の提案を受け,更には自らもウェブスター方式(端数が0.5を超えれば切上げ,超えなければ切下げとするBDM。どちらを採用した方が当該州の基本人口概数1当たりの議員数が基準除数の想定する基本人口概数1当たり議員数(基準除数の逆数)に近くなるか(差が小さくなるか)によって端数を切り上げるか切り捨てるかを決めるBDMともいえます。)を考案します(Guerrero & Biles, pp.6-7)。切上げ・切捨てを判断するための閾値は,ウェブスター方式ではquota原値の前後の整数に係る算術平均値,ディーン方式では調和平均値である,ということになります(Guerrero & Biles, pp.6-7)。しかしながら,これらジェファソン方式に代わる方式について上院のウェブスター委員会でのアイデア提示はあったものの,連邦議会は結局従来からなじんだジェファソン方式を継続することにしますGuerrero & Biles, p.7。ただし,米国国勢調査局のウェブページによると,JQAは,ウェブスター方式(アダムズ方式ではない!)の採用を求めて頑張っていたそうです(https://www.census.gov/history/www/reference/apportionment/apportionment_legislation_1790_-_1830.html)。)。

 いやはや,やはりまだまだジェファソンですか,と嘆息されたものかどうか。切捨て派ジェファソンの回顧録を1831年に読んだ切上げ派JQAの感想は次のようなものでした。

 

  ジェファソンは,と彼は思った,自分に甘過ぎて,理屈では分かっている奴隷制の悪についてもそうだが,彼自身の幸福のためにならない真実を受け容れることができなかった。彼が有していた「記憶力は,彼の意思のためには実に迎合的なもの(so pandering)であったので,他者を欺くに当たっては,彼は自らを欺くことから始めていたようである。」彼は神も死後の世界も恐れなかった。「偉大な目的と強力な資質とに恵まれた精神におけるこのような情況がもたらすものといえば,不誠実と二枚舌と(insincerity and duplicity)であって,これらは彼の生涯に付きまとう罪であった。」ジェファソンは,一言でいえば,偉大な才能はあるが志操薄弱な(with great talents but weak principles)人間の典型であった。(Traub, p.391

 

 ルイ16世治下ベルサイユのばら時代の1784年のパリで出会った頃には,41歳のジェファソン公使は,17歳の青年JQAの崇拝を享受していたのでしたが・・・。

1832年の下院議員数割当ての際辣腕を振るったのが下院の割当委員会の委員長であり,かつ,数学に強かったジェイムズ・K・ポークであって(ポークは,当時のジャクソン大統領の地元であるテネシー州からの選出。後に第11代大統領(1845-1849年在任)となって米墨戦争を遂行),ジェファソン方式を前提に,基準除数が47,700というあえて丸まっていない数になるよう政略を働かせ,ジョージア,ケンタッキー及びニュー・ヨークというジャクソン大統領にとって政治的に重要とされる州(ただし,ケンタッキーは1832年選挙における対立大統領候補となるヘンリー・クレイ(JQA政権の国務長官)の地元であって,実際にもクレイが獲得しています。)に余分の議席を確保することに成功しています(Guerrero & Biles, p.7)。1832年秋の大統領選挙は,結果としてはジャクソンが大統領選挙人219人を獲得して,同49人のクレイに対して圧勝しますが(一般投票得票率は,ジャクソンが55パーセント弱,クレイは約37パーセント),その直前までは接戦が予想されており,在米の一英国外交官も,選挙は下院での決戦投票に持ち込まれ結果としてジャクソンが敗れるものとの予想をしていたところです(Meacham, p.220)。

なおちなみに,ジェファソン方式下において,1790年国勢調査を承けた下院議席割当てに際しての基準除数は33,000で,結果としての下院総議席数は前記のとおり105でありましたが,1800年の国勢調査を承けた割当てでは基準除数33,000で下院総議席数は1411810年の国勢調査を承けた割当てでは基準除数35,000で下院総議席数は1811820年の国勢調査を承けた割当てでは基準除数40,000で下院総議席数は2141830年の国勢調査を承けた割当てでは基準除数は47,700で下院総議席数は240となっています(Guerrero & Biles, p.5)。ポークは,総議席数が丸くなることをもって,基準除数47,700という中途半端な数を正当化したものでしょうか。

 

6 ウェブスター方式並びにハミルトン方式及びその欠点

 1840年の国勢調査を承けた1842年の割当ての議論においては,十年前のポークの深謀に倣おうということで,実に多くの基準除数の提案がされました。最終的には,後の第15代大統領(1857-1861年在任。リンカンの前任)となるジェイムズ・ブキャナン上院議員が提案した70,680が採用された上,端数処理は新たにウェブスター方式によってなされ,下院総議席数は233となることとなりました(Guerrero & Biles, pp.7-8)。

 1850年にはサミュエル・ヴィントン下院議員(ホィッグ党,オハイオ州)の提案に係る法律(1850年ヴィントン法)が成立し,下院の総議席数をまず決めた上でのハミルトン方式での議席割当てが再導入されます(Guerrero & Biles, p.8)。

しかし,ハミルトン方式は,「アラバマ・パラドクス」(総議席数が増えたのに,割当議席数が減る州が生ずる。),人口増加パラドクス(人口がより早く増加する州が人口増のより遅い州に対して議席を失う。),新加入州パラドクス(新しい州が合衆国に加入し,その分の下院議席の追加割当てを受けた場合において,新たな下院総議席数に基づいて再計算してみると,他の州の割当議席数が変動すること。)のような困難な問題を発生させる欠点を有しており,連邦議会において弥縫策が多々講じられるに至っています(Guerrero & Biles, p.8)。1900年の国勢調査を承けた割当ては,当初はハミルトン方式(総議席数384を前提とする。)で始められたものの,最終的にはウェブスター方式で処理されることになりました(結果として総議席数は386)(ibid.)。

「アラバマ・パラドクス」は,総議席数の増加に伴い各州のquotaの数値も比例的に増加するところ,もとのquotaの数値が小さいとその際端数の増加幅の絶対値も小さくなってしまい,その結果増加幅の絶対値が大きい大quotaの州との間で端数の大小に逆転が生ずることが原因であるようです(大和毅彦「議員定数配分方式について――定数削減,人口変動と整合性の観点から――」オペレーションズ・リサーチ20031月号25頁参照)。人口増加パラドクスが起こる場合については,全国の人口増加速度(増加率)>大州の人口増加速度(増加率)&小州の人口増加速度(増加率)である場合,下院の総議席数が一定であるときには大小両州とも全国との関係でquotaが減少しなければなりませんが,大州の方がquota減少の絶対値が大きくなるので(同じ1割減でも10からのそれと1からのそれとでは絶対値が異なります。),小州の人口増加速度が大州のそれよりも遅い場合であっても,quotaの端数の価の逆転が起こり得るということのようです(大和25-26頁参照)。


7 修正除数方式:ウェブスター方式及びハンティントン=ヒル方式

 1910年に米国連邦議会は,ハミルトン方式から,修正除数方式(MDM)にはっきりと移行します(Guerrero & Biles, p.8)。

MDMにおいては,①総議席数の決定,②基準除数の決定,③各州の人口(南北戦争を経て,合衆国にはもう奴隷はいません。)を基準除数で除してその商(quota)を得る,④③の商の端数処理をして(その処理方式として,ジェファソン方式,アダムズ方式,ディーン方式,ウェブスター方式等),各州の割当議員数候補値を得る,⑤④の各州割当議員数候補値を合計して,合計値が①の総議席数に合致すれば終了,合致しなければ②に戻る,との5段階処理ループが設定されます(Guerrero & Biles, p.9)。すなわち例えば我が公職選挙法137項は,上記①の総議席数を176,④の端数処理方式を切上げ(アダムズ方式)としたMDMですね。

1910年の米国国勢調査に基づく下院議員数割当てに係る①の数は433,④の方式はウェブスター方式であって,1920年の国勢選挙に基づいた下院議員数割当ては禁酒法時代の議会の紛糾で実施できず,1930年の国勢調査に基づく下院議員数割当ての①は435,④はウェブスター方式でした(Guerrero & Biles, p.9)。

 1940年の国勢調査に基づく下院議員数割当てからは,①の数を435,④の方式をハンティントン=ヒル方式(切上げ・切捨てを判断する閾値をquota原値の前後に係る自然数の幾何平均値とする方式。下院議員1人当たりの州人口と基準除数との比率がより1に近くなる方の自然数を割当議員数として採用することになります。)とするMDMが用いられています(Guerrero & Biles, p.9)。国勢調査局(Bureau of the Census)職員のジョーゼフ・A・ヒルが1911年に当該方式を考案し,ハーヴァード大学の数学及び機械工学の教授であるエドワード・V・ハンティントンが1920年から当該方式の採用を提唱していたものです(Lucas & Housman, p.20)。民主党支配下の連邦議会において1942年にハンティントン=ヒル方式が法制化されましたが,早分かりのその採用理由は,ウェブスター方式の端数処理であると共和党優位のミシガン州に1議席が行くが,ハンティントン=ヒル方式であれば,代わって民主党優位のアーカンソー州に1議席が来るからであった(したがって,ハンティントン=ヒル方式に共和党は反対,民主党は賛成(ただし,ミシガン州選出の民主党議員はさすがに反対)),ということだったそうです(Lucas & Housman, p.21)。理論的には,ハンティントン=ヒル方式はquota methodではないところから,「アラバマ・パラドクス」及び「人口パラドクス」を避けることができるが,クォータ原則違反が発生する可能性があり,また,やや小州にとって有利な割当結果をもたらすものであるそうです(ibid.)。

 

ここで算術平均のウェブスター方式,幾何平均のハンティントン=ヒル方式及び調和平均のディーン方式間の具体的違いを見てみましょう。例えば某州についてその人口を基準除数で除して得られた商たるquotaの値が12との間(1<q<2)であれば,当該quota値とその前後1及び2という二つの自然数の平均値(算術平均値,幾何平均値又は調和平均値)との比較をして,quota値が当該平均値より上ならば2議席,下ならば1議席が割り当てられることとなるわけですが,12との算術平均値は1.5=(1+2)/2),幾何平均値は1.41421356…=(1x2)),調和平均値は1.333…=2/(1/1+1/2))となります。したがって,某州のquota1.4であれば,ウェブスター方式では1議席(q<1.5),ハンティントン=ヒル方式でも1議席(q<1.41421356…),ディーン方式なら2議席(q>1.333…)ということになります。切上げ方式のアダムズ方式ならば,細かい計算なしに2議席です。他方,切捨て方式のジェファソン方式ならばquota1.999…でも1議席,ハミルトン方式ならば端数(0.4)の大きさを他州と比べることになります。(なお,23との平均値は,算術平均ならば2.5=(2+3)/2),幾何平均ならば約2.44949(=(2x3)),調和平均なら2.4=2/(1/2+1/3))となります。)


8 ハミルトンからJQAへ,そして日本へ 


(1)1人別枠方式+ハミルトン方式からいわゆるアダムズ方式へ

 1994年の制定時から20121126日公布の平成24年法律第953条によって同日から削られるまでの衆議院議員選挙区画定審議会設置法3条旧2項は,「前項の改定案の作成に当たっては,各都道府県の区域内の衆議院小選挙区選出議員の選挙区の数は,1に,公職選挙法(昭和25年法律第100号)第4条第1項に規定する衆議院小選挙区選出議員の定数に相当する数から都道府県の数を控除した数を人口に比例して各都道府県に配当した数を加えた数とする。」と規定していました。衆議院小選挙区選出議員の定数に相当する数(小選挙区の総数)から,まず各都道府県に1区ずつを配当し(これは,最高裁判所大法廷平成23323日判決・民集652755頁では「1人別枠方式」といわれています。),当該配当後に残った小選挙区数を,今度は「人口に比例して」各都道府県に配当するものでした。しかしてここでの「人口に比例して」部分に係る各都道府県への小選挙区数の配当方式は,法律レヴェルでは規定されていませんでしたが,実はハミルトン方式で行われていました(大和24-25頁及び総務省統計局のなるほど統計学園高等部ウェブサイトの「選挙区割りの見直し」ウェブページ参照)。

 最大判平成23323日が,2009830日施行の衆議院議員総選挙(これは,民主党等による鳩山由紀夫内閣の成立に至ることとなった総選挙でしたね。)に関して,その施行当時には「本件区劃基準〔衆議院議員選挙区画定審議会設置法3条が定めている基準〕のうち1人別枠方式に係る部分は,憲法の投票価値の平等の要求に反するに至っており」と述べて1人別枠方式は憲法の要求に反しているとの判断をしたことにより,平成24年法律第95号によって「1人別枠方式+ハミルトン方式」の衆議院議員選挙区画定審議会設置法3条旧2項が削られ,その後の検討を経た上での平成28年法律49号によっていわゆるアダムズ方式を採用した衆議院議員選挙区画定審議会設置法3条新2項及び公職選挙法137項が設けられるのに至ったのでした。1人別枠方式については,最大判平成23323日の紹介するところでは,「法案提出者である政府側から,各都道府県への定数の配分については,投票価値の平等の確保の必要性がある一方で,過疎地域に対する配慮,具体的には人口の少ない地方における定数の急激な減少への配慮等の視点も重要であることから,人口の少ない県に居住する国民の意思をも十分に国政に反映させるために,定数配分上配慮して,各都道府県にまず1人を配分した後に,残余の定数を人口比で配分することとした旨の説明がされている。」とのことでしたところ,人口の少ない県に特に配慮するものである1人別枠方式は,確かに小州を優遇するアダムズ方式に親和的です。ハミルトン方式に代えるに宿敵ジェファソンの名を冠したジェファソン方式ではハミルトンが可哀想だ,というような,ブロードウェイ・ミュージカルのファン的おもんぱかりがあったわけではありません。大州優遇のジェファソン方式では,ハミルトン云々以前に,1人別枠方式を失うことによって小さな県が被った傷口に更に塩を擦り込むことになるばかりだったということでしょう。

 採用に至った理由はともかくも,ハミルトンを排してJQAを採ったことになる我が国会の判断は,JQAの父たる泉下のジョン・アダムズを喜ばせたことでしょう。ハミルトンは敵の多い人物でしたが,2代目合衆国大統領にも激しく憎まれていました。

 

  彼JQAの父は,アダムズ大統領と決裂して,1800年の選挙〔再選を目指す現職大統領のジョン・アダムズが副大統領のジェファソンに敗れた大統領選挙〕においてはアダムズに代えて副大統領候補のトーマス(ママ)・ピンクニー1800年の選挙についてならばチャールズ・コーツワース・ピンクニーの誤りでしょうか。トーマスがジョン・アダムズと共に候補になったのは,1796年の大統領選挙です。〕を推そうと党員を唆した連邦党員アレグザンダー・ハミルトンに対する預言者的怒りで一杯であった。1802年頃には〕老アダムズは彼の自伝を執筆中であり,そこにおいて彼は,彼に逆らった全ての者を暴き出す計画であった。(Traub, p.115

 

(2)「日米同盟」の同床異夢?

とはいえ,「日米同盟」もあらばこそ,議員数割当方式の呼称は,我が国では必ずしも米国式に統一されていません。ハミルトン方式はヘア式最大剰余法と呼ばれ(前記なるほど統計学園高等部ウェブサイトの「選挙区割りの見直し」ウェブページ参照),ジェファソン方式がドント方式,ウェブスター方式はサンラグ方式と呼ばれています(20141120日に衆議院議長公邸で開催された衆議院選挙制度に関する調査会(第4回)の議事概要を見ると,事務局から「除数方式による定数配分方式のうち,各都道府県の人口を任意に設定した除数(例えば人口何万人というような形で設定)で割り,小数点部分を切り捨てるものがドント方式,四捨五入するものがサンラグ方式,切り上げるものがアダムズ方式であるとの説明の後,アダムズ方式については,最初に配分される定数1は,それ以降の定数と同一の計算から決まるものであり,全ての団体について人口を除数で割った商に小数点以下の端数が立つ場合は,繰り上げてプラス1の形で定数が配分されることになり,計算過程に1人別枠という考え方は一切入っておらず,ディーン方式,ヒル方式についても同様である」との説明がされています。)。

我々日本人は,義務教育段階から英語と格闘させられて,米国のことをお勉強させられたような気分になってよく知っているつもりでいても,所詮内在的理解まで達することは到底できないものか。

(3)日米関係事始におけるフィルモア政権国務長官

アメリカ独立宣言の起草者たるジェファソン,10ドル札のハミルトンを知らないのでは,確かにちょっと「同盟国の知識人」(づら)できなくて恥ずかしいというのは分かるけど,ウェブスターまでは勘弁してよ,との苦情があるかもしれません。とはいえ,ダニエル・ウェブスターは,日本開国のためにペリー艦隊を派遣したフィルモア政権(1850-1853年)の国務長官だったのですぞ(ただし,ペリーが出航する18521124日の1箇月前の同年1024日に死亡)。

ちなみに,1852116日にウェブスターの後任国務長官となり,ミラード・フィルモア大統領から日本帝国皇帝に宛てられた親書(同月13日付け)の起草に当たったエドワード・エヴァレットは,JQAのハーヴァード大学ボイルストン修辞学教授時代(1806-1809年)の学生の一人でした(Traub, p.144)。当該親書は嘉永六年六月九日(1853714日),久里浜において幕府応接掛戸田氏栄に手交されます。当時の和訳には味わいがあってよろしいのですが(https://www.ndl.go.jp/modern/img_t/001/001-002tx.html),つい試みてしまったフィルモア親書に係る屋上屋の拙訳は次のとおりです。

 

   偉大にして善良なる友へ。私は,この公書簡を,合衆国海軍最高位の士官であり,かつ,皇帝陛下の版図を現在訪問中である艦隊の司令官であるマシュー・C・ペリー代将を通じてお届けします。

   私は,ペリー代将に対して,私は陛下御自身及びその政府に対して最も温かい感情を抱懐しており,かつ,合衆国と日本国とが友好関係のうちに共存するとともに相互に通商関係を有すべきことを皇帝陛下に御提案すること以外の目的をもって同人を日本国に派遣するものではないことを皇帝陛下に明らかにするように指示しております。

   合衆国の憲法及び法律は,他国の宗教的又は政治的な問題に係る全ての干渉を禁じています。特に,ペリー代将に対して私は,皇帝陛下の版図の静穏を害する可能性のあるあらゆる行為を行わないように命じております。

   アメリカ合衆国は大洋から大洋までの広がりを有し,我々のオレゴン準州及びキャリフォーニア州は,皇帝陛下の版図に正対して位置しております。我々の蒸気船は,キャリフォーニアから日本国まで18日間で達することができます。

   我々の大いなるキャリフォーニア州は,銀,水銀,宝石及び多くの他の価値ある物産に加えて毎年約6千万ドル相当の金を産出しています。日本国もまた,豊かかつ肥沃な国であり,多くの非常に価値ある物産を産出しています。皇帝陛下の臣民は多くの技芸に長じています。日本国及び合衆国双方の利益のために,我々両国が相互に貿易を行うことを私は望んでおります。

   皇帝陛下の政府の古き法が清人及びオランダ人とのもの以外の外国貿易を許していないことは,我々の承知しているところです。しかしながら,世界の情勢は変化し,かつ,新らたな諸政府が樹立されますところ,時宜に応じて新たな法を定めることが賢明であるものと思われます。皇帝陛下の政府の古き法が初めて定められましたのは,昔のことでありました。

   ほぼ同じ頃,ときに新世界と呼ばれるアメリカが初めて発見され,ヨーロッパ人が入植しました。長いこと人口は少なく,かつ,彼らは貧しくありました。現在に至りまして,彼らの数は非常に多くなり,彼らの商業は大いに拡大し,そして彼らは,もし皇帝陛下によって古き法が改められて両国間の自由な貿易が許されるようになれば双方にとって極めて有益なこととなろうと考えております。

   外国貿易を禁ずる古き法を一挙に廃しても全く安全である,と皇帝陛下が御得心されないのであれば,試験的に5ないしは10年の間それらの法を停止することもあり得ましょう。期待したような利益がないことが明らかになれば,古き法を復活させることができます。合衆国は,しばしば外国との条約に数年の期限を付し,更新の有無をその都度判断しています。

   皇帝陛下にもう一つの事項を申達するよう,私はペリー代将に指示しています。毎年多くの我々の船舶がキャリフォーニアから清国まで航海し,また,多数の我々の人民が日本国近海で捕鯨漁に従事しています。荒天時において,我々の船舶が皇帝陛下の海岸に打ち上げられることが時折生じております。このような全ての場合において,我々が艦船を派遣して彼らを引き取ることができる時まで,我々の不幸な人民が親切に取り扱われ,かつ,彼らの財産が保護されんことを我々は求めるとともに,期待するものであります。我々は,本件について,極めて真剣な関心を有しております。

   更にペリー代将は,日本帝国には石炭及び糧食が極めて豊富であるものと我々は認識していることを皇帝陛下に伝達するよう,私から指示されています。広大な大洋を渡るに当たって,我々の蒸気船は大量の石炭を焚焼させますが,それらをはるばるアメリカから持参することは便利なことではありません。我々の蒸気船及び他の艦船が日本国に寄港し,石炭,糧食及び水の供与を受けることが許されることを我々は望んでいます。支払は,金銭又は皇帝陛下の臣民の好む他の物をもってされるでしょう。また,当該目的のために我々の艦船が寄港することのできる一の便宜な港を,帝国の南部において,皇帝陛下が指定されることを我々は求めるものです。我々のこれを要望するところ,切であります。

   友好,通商,石炭及び糧食の供給並びに海難に遭った我々の人民の保護。これらが,皇帝陛下の誉れ高き江戸市を強力な艦隊と共に訪問すべく私がペリー代将を派遣した目的の全てです。

   いささかの贈り物を皇帝陛下が嘉納されるよう,我々はペリー代将に指示を与えています。それら自身は高価なものではありません。しかしながら,合衆国において製造された物品の見本となるものがありますでしょうし,また,それらは,我々の真摯かつ敬意に満ちた友情の証たるべきものであります。

   全能者の大いにして神聖な加護が皇帝陛下にありますように!

   上記の証として,18521113日,我が政府の所在地であるアメリカのワシントン市において,予は合衆国国璽をここに鈐せしめ,かつ,署名せり。

 

   (国璽印影)

   善良なる友

  ミラード・フィルモア

 

  大統領の命により

   国務長官エドワード・エヴァレット


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A monument at Natsu-shima (Natsu Island), which was once nicknamed WEBSTER Island by the then-Yedo-Bay-intruding Perry squadron (The "island" is now connected by later land reclamation to the Yokosuka mainland, Kanagawa.)

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Commodore Matthew C. Perry (in Hakodate, Japan) 


(4)米国のオレゴン及びキャリフォーニア領有並びにモンロー政権国務長官による大陸横断条約という布石

 「アメリカ合衆国は大洋から大洋までの広がりを有し,我々のオレゴン準州及びキャリフォーニア州は,皇帝陛下の版図に正対して位置しております。(The United States of America reach from ocean to ocean, and our Territory of Oregon and State of California lie directly opposite to the dominions of your imperial majesty.)」ということはすなわち,米国による日本の開国は,米国領土拡大の太平洋到達に続くところの必然的な成り行きであったということでしょう。

 米国によるオレゴン地方(Oregon Country)併合は1846年,キャリフォーニア(通常「カリフォルニア」と表記されますが,これは,英語を片仮名にしたというよりは独自の日本語でしょう。英語の発音に近づけた表記である田中英夫『英米法総論』(東京大学出版会・1980年)の表記を採用してみました。)のメキシコからの獲得は1848年のことでした。

それらの前史として1819222日に米国国務長官とスペイン駐米公使ドン・ルイス・デ・オニスとが署名した米西「大陸横断(Transcontinental)」条約が,北米のスペイン領土と米国との間の国境線を太平洋までの北緯42度線(現在のキャリフォーニア州とオレゴン州との州境)と定めています(ただし,当初米国側は,北緯41度の国境線を要求していました(Traub, p.228)。)。1818年夏のオニス公使との交渉において米国国務長官はその要求するところを地図上の「ミズーリ川の北に線を引き,「そこから太平洋まで真っすぐに」延ばして」示しましたが,「これが,アメリカの主権を大洋から大洋まで拡張することをアメリカの外交官が提議した最初の場面であるとみられる」ところです(Traub, p.224)。北緯42度線の北がオレゴン地方ですが,同地は,米英戦争中に米国勢力が撤退し,英国勢力が進出した後,モンロー大統領(1817-1825年在任)の指示を受けた同政権の国務長官が軍艦オンタリオを派遣してそこに米国国旗を再び掲げしめて巻き返し(Traub, p.225),18181020日にロンドンで署名された米英協定によって米英の共同管理地ということになっていました。

 モンロー政権の国務長官は,もちろんJQAです。

大陸横断条約に関し,「私の人生において,恐らく最も重要な日」たる同条約署名の日の日記にJQAは記していわく,「南海〔the South Sea=太平洋〕に至る確定した国境線の承認は,我々の歴史における偉大な時代(a great Epoch in our History)を画するものである。交渉中,本件に係る最初の提案をした者は,私であった。」と(Traub, p.231)。英国との関係でオレゴン地方がどうなるかは予断を許さないものの(つまり,北からの英国領土が南のスペイン領土に直に接することになって,米国の太平洋への出口がふさがれてしまう可能性はなおあったものの),当該「(ライン)」は,米国の「将来の目的に係る宣明」でありましたTraub, p.228)。JQAの昂揚の理由は,彼による当該布石がもたらすであろう太平洋における米国(及び日本を含む太平洋諸国)の「偉大な時代」に係る予感にあったわけです。

 1846年の米英オレゴン協定(同年615日署名)によって米国がオレゴンを単独領有することになりましたが,当該協定の成立に向けて,モンロー政権の国務長官たりしJQA下院議員は,もちろん強硬な賛成派でした。フィルモア親書中,オレゴン準州への言及部分は,JQAとしては我が意を得たりとするところだったものでしょう。オレゴンの次に,対岸の日本が来るのは自然です(エヴァレットくん,そのとおり!)

 他方,キャリフォーニアの獲得(1846年から始まった米墨戦争の終結に係る184822日署名(ただしその後修正あり。)のグアダルーペ・イダルゴ条約によるもの)については,JQAはそもそもの米墨戦争自体に大反対でした。新領土に対する米国南部からの奴隷制の拡張を恐れたからです(せっかく自分がオニスを締め上げて締結したのに,米国の太平洋岸領土画定に係る大陸横断条約の意義が,メキシコとの新たな講和条約で上塗りされて消されてしまうのが残念だ,というようなけちな料簡ではなかったものでしょう。)。したがって,フィルモア親書中,キャリフォーニア州関係部分は,JQAとしては不本意と感ずるものだったでしょう(なお,キャリフォーニア自体は,ヘンリー・クレイによる「1850年の妥協」の結果,自由州として合衆国に加入しています。)。米墨戦争はJQAに祟っています。

 

   〔18482月〕21日,アダムズは連邦議会に正午頃到着した。彼の前には,恐らくヴァッテマールの図書館提案〔フランス人ヴァッテマールは,図書館間における本の交換制度を提案していました。〕に係るものであろう書類の束があった。目下の議事は,対墨戦争の英雄に対して連邦議会の感謝を表明するとともに8名の功績顕著な将軍のために金貨を鋳造する権限を〔ポーク〕大統領に付与することを内容とする決議に係るものであった。アダムズは,当該戦争に係るあらゆる形態の是認行為に対して反対し続けていた。点呼投票が行われ,アダムズは――一報告者が後に記したところによると――「断乎とした様子で,かつ,常よりも大きな声」で「反対(ノウ)」と叫んだ115分,〔ウィンスロップ〕下院議長は議案を第3回の最終採決にかける準備をしていた。『ボストン解放者・共和主義者』新聞のヘンリー・B・スタントンが15ないし20フィート離れたところにすわって見ていると,アダムズは明らかに興奮して紅潮し,不明瞭な声でいくつかの発言をした。続いて老人80歳〕は,死人のように蒼白になった。「彼の右手は神経質に机の上を動いた。」とスタントンは記している。「それは何物かをつかもうとするかのようだった。」下院議長に向かって発言しようとするかのようにアダムズの唇は動いた。しかし声は出なかった。「次に机上の彼の手の動きはより痙攣的となり,彼はそれを,机の角をつかむために伸ばしているように見えた。」

   人々が立ち上がり動き回っているさなかにあって,老人の苦悶に気が付いていたのは当該記者だけであった。と,身体を真っ直ぐに支えようとしてなお机をつかみつつ,アダムズは左側に倒れ始めた。「アダムズさんが死んでしまう!」との叫び声が上がった。幾人かの議員が,彼を支えようとして駆け寄った。(Traub, pp.525-526

 

  〔前略〕数十年の長い間アダムズのライヴァルであり,かつ,同僚であったヘンリー・クレイが下院議長室にやって来た。彼は無言のままアダムズの傍らに立ち,彼の手を取り,そして泣いた。元大統領は今や昏睡状態にあった。彼はなお,その日及びその翌日一杯を生きた。(Traub, p.526

 

三日目の184822319時過ぎ,米国連邦議会の下院議長室で,JQAは息を引き取りました。

 



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1 「すべて国民は,個人として尊重される。」

 「すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。」と規定する日本国憲法13条は,憲法条文中もっとも有名なもののうち一つでしょう。英語文では“All of the people shall be respected as individuals. Their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extent that it does not interfere with the public welfare, be the supreme consideration in legislation and in other governmental affairs.”です。

 「戦後,日本国憲法を手にした日本社会にとって,日本国憲法の何がいちばん肝心なのか。それをあえて条文の形で言うと,憲法第13条の「すべて国民は,個人として尊重される」という,この短い一句に尽きています。」といわれています(樋口陽一『個人と国家』(集英社新書・2000年)204頁)。

 しかしながら,「すべて国民は,個人として尊重される。」との規定における「個人として尊重される」とはどういう意味でしょうか。

 

2 「かけがえのない個人として尊重される」

 

(1)五つの法律

我が国国権の最高機関たる国会(憲法41条)の解釈するところを知るべく,現行法律における「個人として尊重」の用例を法令検索をかけて調べてみると,5例ありました。①障害者基本法(昭和45年法律第84号)1条,②障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律(平成17年法律第123号)1条の2,③自殺対策基本法(平成18年法律第85号)21項,④部落差別の解消の推進に関する法律(平成28年法律第109号)2条及び⑤ユニバーサル社会の実現に向けた諸施策の総合的かつ一体的な推進に関する法律(平成30年法律第100号)1条です。

このうち,障害者基本法1条に「全ての国民が,障害の有無にかかわらず,等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念にのつとり,全ての国民が,障害の有無によつて分け隔てられることなく,相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会を実現するため」の部分が加えられたのは同法の平成23年法律第90号による改正によってであり,障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律に1条の2が挿入されたのは同法が,地域社会における共生の実現に向けて新たな障害保健福祉施策を講ずるための関係法律の整備に関する法律(平成24年法律第51号)によって改正されたことによってであり,自殺対策基本法21項が追加されたのは同法の平成28年法律第11号による改正によってでありました。

すなわち,現行法律中に存在する「個人として尊重される」概念のうち初めて登場したものは障害者基本法1条のそれであり,同条に当該概念が導入されたのは,日本国憲法公布後65年となろうとする2011年の民主党菅直人政権下のことでありました。

 

(2)「かけがえのない」性の追加修正

 平成23年法律第90号に係る政府提出の当初法案では,障害者基本法1条に挿入されるべき語句は「全ての国民が,障害の有無にかかわらず,等しく基本的人権を享有する個人として尊重されるものであるとの理念にのつとり,全ての国民が,障害の有無によつて分け隔てられることなく,相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会を実現するため」とのものでした。この政府提出案に対して,2011615日の衆議院内閣委員会において西村智奈美委員外2名から民主党・無所属クラブ,自由民主党・無所属の会及び公明党の共同提案による修正案が提出され(第177回国会衆議院内閣委員会議録第143頁・22頁),その結果「等しく基本的人権を享有する個人として尊重される」の部分が「等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重される」に改まっています(同会議録18頁)。

この,個人に係る「かけがえのない」性の追加修正は広く与野党の賛成を得てのものですから,政府案に最初から「かけがえのない」があってもよかったもののようにも思われます。しかしながらそのようにはならなかったのは,これは,「かけがえのない個人」との文言は法制上問題があって剣呑だ云々というような余計なことを言い立てる内閣法制局筋によって阻止されていたものでしょう。

 「個人として尊重される」との文言が「かけがえのない個人として尊重される」へと敷衍された結果,どのような法的効果が生ずるのかについては,提出者代表である高木美智代委員が次のように答弁しています(第177回国会衆議院内閣委員会議録第1416頁)。

 

この表現を「かけがえのない個人」と修正することにしましたのは,社会の中において,各個人が,障害の有無にかかわらず,それぞれ本質的価値を有することを一層明確にするためでございます。これによりまして,障害者基本法の理念が国民にとってわかりやすい言葉で示されることになると考えております。

この基本法で示された理念は,関係法令の運用や整備の指導理念となることは御承知のとおりでございます。したがいまして,今後の障害者施策におきましては,国民一人一人がかけがえのない存在であるということを基本とした運用等が要請されることとなります。

この結果,障害者基本法が目指している共生社会,すなわち,すべての国民が相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現が促進されることになることを期待いたしております。

 

 各個人の「本質的価値」とは,それぞれが「かけがえのない存在」であるということになるようです。全ての国民が「かけがえのない個人として尊重される」べきであるということは,前記①から⑤までの5法の全てが当該文言を採用して,前提としているところです(なお,自殺対策基本法21項は,「全ての国民」よりも広く,「全ての人」となっています。)。だとすると,憲法13条前段も今や,「すべて国民は,かけがえのない個人として尊重される。」という意味であるものとして読まれるべきもののようです。「「個人として尊重される」ト云フコトハ,結局是ダケノ意味デアリマシテ,国民ト云フ言葉ガ集団的ナ意味ニモ使ハレテ居リマスシ,各個ノ人間トシテモ国民ト云フ文字ハ使ハレテ居リマス,此処ノ所ハ集団的デハナイ国民ト云フモノハ,国家ヲ構成シテ居ル単位トシテノ人間トシテ大イニ尊重サレルト云フ原則ヲ此処デ声明シタ訳デアリマス,サウ特別ニ深イ意味デハナイ,此ノ原則ノ発展トシテ,是カラ出テ来ル具体的ナ規定ガ生レテ来ル,斯ウ云フ風ニ考ヘマス」(1946916日貴族院帝国憲法改正案特別委員会における金森徳次郎国務大臣の答弁(第90回帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員会議事速記録第149頁))というような素っ気ないものでは,もはやありません。全て国民は,「国家ヲ構成シテ居ル単位トシテノ人間」であるにとどまらず,「かけがえのないもの」として尊重されなければなりません。

 

(3)「共生」社会から,支え合う「ユニバーサル社会」へ

 「全ての国民が・・・等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念」が目指すところは「共生」社会であり,当該「共生」社会においては「全ての国民が,・・・分け隔てられることなく,相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する」ものであるようです(障害者基本法1条,障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律1条の2各参照)。

 具体的な生活の場(障害者基本法3条並びに障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律1条及び1条の2は身近なものたる「地域社会」における「共生」を問題としています。)において「相互に人格と個性を尊重し合いながら共生」しなければならない責務を負う者は私人たる各日本人でしょうから(障害者基本法8条,障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律3条各参照),憲法13条前段の射程は私人間関係にも及ぶもののようであり,単なる「国政の上」での「最大の尊重」を問題とする同条後段のそれよりもはるかに広いものなのでした。

 しかしてこの「共生社会」の内実は,2018年のユニバーサル社会の実現に向けた諸施策の総合的かつ一体的な推進に関する法律において,同法21号が規定する「ユニバーサル社会」として,より具体的に規定されるに至っています。

  

  一 ユニバーサル社会 障害の有無,年齢等にかかわらず,国民一人一人が,社会の対等な構成員として,その尊厳が重んぜられるとともに,社会のあらゆる分野における活動に参画する機会の確保を通じてその能力を十分に発揮し,もって国民一人一人が相互に人格と個性を尊重しつつ支え合いながら共生する社会をいう。

 

 なお,「ユニバーサル社会」に係る同号の定義については,議案を提出した衆議院国土交通委員会の盛山正仁委員長代理から更に,「一般的に,ユニバーサル社会というのは,障害の有無,年齢,性別,国籍,文化などの多様な違いにかかわらず,一人一人が社会の対等な構成員として尊重され,共生する社会を意味」するものであるとの説明がありました(第197回国会参議院国土交通委員会会議録第54頁)。

 しかして,「相互に人格と個性を尊重し合いながら共生」するということは,ユニバーサル社会の実現に向けた諸施策の総合的かつ一体的な推進に関する法律21号の定義によれば,現実に,具体的な一人一人が相互に「支え合」うということになるのでした。

 その結果,国民は,「職域,学校,地域,家庭その他の社会のあらゆる分野において,ユニバーサル社会の実現に寄与するように努めなければならない」ものとされています(ユニバーサル社会の実現に向けた諸施策の総合的かつ一体的な推進に関する法律5条)。これは,「その他の法令で,国民の努力という規定につきましては様々な法律において既に定められているところ」であって「国民の言わば心構えを定めるようなもの」であり,「この規定を根拠にして国民の皆様に義務を押し付けようというものではございません」が,「全ての国民が配慮すべきであるというふうに考えるものですからこのような規定を設けたもの」だそうです(盛山衆議院国土交通委員長代理・第197回国会参議院国土交通委員会会議録第54頁)。憲法13条前段解釈の現段階は,「是ハ矢張リ国家ガ国民ニ対スル心構ヘト云フ風ニ思ッテ居リマスガ」(佐々木惣一委員)との問いかけに対して「其ノ通リデアリマス」(金森国務大臣)と簡単に答えて済むもの(1946916日貴族院帝国憲法改正案特別委員会(第90回帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員会議事速記録第149頁))ではなくなっているもののようです。国家のみの問題ではありません。

 ユニバーサルは元々英語のuniverseの形容詞形のuniversalなのでしょうが,当該universeの語源は「L ūnus (one)L vertere (to turn)の過去分詞versusから成るL ūniversus (turned into one; combined into one; whole; entire)」ということですから(梅田修『英語の語源辞典』(大修館書店・1990年)212頁),「ユニバーサル社会」とは,一なる全体社会ということでしょうか,全一社会というべきでしょうか。全国民は,「個人として尊重」されつつ最後は全一社会実現への寄与を求められることになる,ということのようです。

 

(4)「支え」られる「かけがえのない個人」

 「かけがえのない個人として尊重される」ものであるところの国民の一人を「支え」る場合,どこまでの「支え」が必要になるのでしょうか。

「かけがえ」とは「掛(け)替え」であって,「必要な時のために備えておく同じ種類のもの。予備のもの。かわり。」ということですから(『岩波国語辞典第4版』(1986年)),かけがえのない物は亡失してしまっては大変であり,かけがえのない人は死亡させてしまってはいけないことになるのでしょう。自殺対策基本法21項は「自殺対策は,生きることの包括的な支援として,全ての人がかけがえのない個人として尊重されるとともに,生きる力を基礎として生きがいや希望を持って暮らすことができるよう,その妨げとなる諸要因の解消に資するための支援とそれを支えかつ促進するための環境の整備充実が幅広くかつ適切に図られることを旨として,実施されなければならない。」と規定していますから,「かけがえのない個人として尊重される」者は,正に「生きることの包括的な支援」までをも受けることが保障されるのでした。

 この高邁な理念の前に,人が「生きること」に対する昔風のつまらぬ悪意などいかほどのことがありましょう。

 

quia pulvis es et in pulverem reverteris (Gn 3, 19)

  Viel zu viele leben und viel zu lange hängen sie an ihren Ästen. Möchte ein Sturm kommen, der all diess Faule und Wurmfressne vom Baume schüttelt! (Vom freien Tode)

   Quid est autem tam secundum naturam quam senibus emori? (De Senectute

高齢者の医療・福祉政策に係る政府の失態等に対して「お前たちは,老人に死ねというのか。」とお年寄りの方々が激怒されている旨の報道に度々接しますが,お怒りは全く当然のことです。「かけがえのない個人として尊重される」我々個々人は,その代わりがないにもかかわらず死亡してしまわないように,「生きることの包括的な支援」までをも受けるべき権利を有しているのです。「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」などという言葉は,弱い者をたすけるべき立場にある者にあるまじき最低の暴言である,謝罪せよ,ということに,188214日から137年半後の今日ではなるようです。

 以上,各日本人は,日本国憲法13条前段に基づき「個人として尊重される」結果,自己が生きるに当たって他者からの支えを期待する権利を有し,当該支えを得る際にも自己のあるがままの人格及び個性は差別を受けることなく,むしろ傷つけられないように優しく配慮され,かつ,尊重され,更にその前提として,全一(ユニバーサル)社会においてそのような人々に囲まれて「共生」していることを当然のこととして期待することが許されている存在である,ということになるようです。

 

  et sumat etiam de ligno vitae

       et comedat et vivat in aeternum (Gn 3, 22)


3 束にならず,寂しい個人主義者たち

 ところで,個人に係る個人主義といえば夏目漱石や永井荷風が有名ですが,漱石・荷風流の「個人主義」は,上記のような「共生」的日本国憲法13条前段解釈とはどのような関係に立つことになるのでしょうか。

 

   〔前略〕夏目漱石の『私の個人主義』という学習院で行った講演1914(大正3)年が,有名です。個人というのは寂しさに耐えるんだ。その辺の雑木の薪なんていうのも束になっていれば気持ちが楽だ。しかし,個人というのは自分自身で自分の去就を決め,自分で腹を決めるということだ。だから,本来寂しいことなんだという,ズバリ個人の尊重ということの重みを語っています。〔略〕

   他方で文字どおり個人であることに徹したのが荷風散人(永井荷風)だったのです。その点について彼から引用しようと思えば枚挙にいとまがないのですけれども,あえて一つ。――「わたくしは元来その習癖よりして党を結び群をなし,その威を借りて事をなすことを欲しない。・・・わたくしは芸林に遊ぶものの往々社を結び党を立てて,己に与するを掲げ与せざるを抑えようとするものを見て,これを怯となし,陋となすのである」(『濹東綺譚』)。文字どおり彼は名実ともに「個」であることの純粋さを貫いたのです。(樋口・個人と国家205頁)

 

 ここに現れる漱石も荷風も,心温まる,かつ,素晴らしい「共生社会」の住人ではなさそうです。束になれず,群れから離れ,党を立てず,結社に属し得ず,寂しい。分離の感覚。

 しかし,分離(separate)してあることこそが,individualなのだということになるのでしょう。筆者の手許のOxford Advanced Lerner’s Dictionary of Current English, 6th edition (2000)には,名詞individualの語義として冒頭 “a person considered separately rather than as part of a group”と,形容詞individualの語義として冒頭“considered separately rather than as part of a group”と記載されてあります。個人(individual)は本来,束(fascis),群れ,党,結社その他のグループの一員として存在するものとしては観念されていないのです。

個人主義は,ぬるい生き方ではないようです。

 

 scio opera tua

    quia neque frigidus es neque calidus

    utinam frigidus esses aut calidus

    sed quia tepidus es et nec frigidus nec calidus

    incipiam te evomere ex ore meo (Apc. 3, 15-16)

 

4 GHQ草案12条の起草

 さて,個人主義は本来非日本的なものであり(「個人の欠如というのは長い間,いわば,日本の知識人を悩ませてきたオブセッション(強迫観念)だったのです。」(樋口・個人と国家206頁)),西洋由来のもののようですが,西洋人の一種たるGHQの米国人らは,日本国憲法13条の原案を起草するに当たって一体そこにどのような意味を込めていたのでしょうか。

 1946213日に我が松本烝治国務大臣らに手交されたGHQ草案の第3章(Chapter III  Rights and Duties of the People)中の第12条には次のようにありました。

 

  Article XII. The feudal system of Japan shall cease. All Japanese by virtue of their humanity shall be respected as individuals. Their right to life, liberty and the pursuit of happiness within the limits of the general welfare shall be the supreme consideration of all law and of all governmental action.

 

これが外務省罫紙に和文タイプ打ちされた我が国政府の翻訳では次のようになっています(1946225日)。

 

 第12条 日本国ノ封建制度ハ終止スヘシ一切ノ日本人ハ其ノ人類タルコトニ依リ個人トシテ尊敬セラルヘシ一般ノ福祉ノ限度内ニ於テ生命,自由及幸福探求ニ対スルソノ権利ハ一切ノ法律及一切ノ政治的行為ノ至上考慮タルヘシ

 

 GHQ民政局内国民の権利委員会(Committee on Civil Rights)が194628日に同局内運営委員会(Steering Committee)に提出した原案は,次のとおり(Civil Rightsの章の第1節総則(General)(この総則は,現行憲法の11条から17条までに当たります。)中の第5条)。同日の両委員会の会合で運営委員会側から意見があり,これに“within the general welfare”という限定句が挿入されることになりました(エラマン・ノート)。

 

  5. All Japanese by virtue of their humanity shall be respected as individuals. Their right to life, liberty and the pursuit of happiness shall be the supreme consideration of all law, and all governmental action.

 

そこで第2稿では次のようになり,更に最終的に“The feudal system of Japan shall cease.”が加えられて国民の権利委員会最終報告版となっています。

 

 All Japanese by virtue of their humanity shall be respected as individuals. Their right to life, liberty and the pursuit of happiness within the limits of the general welfare shall be the supreme consideration of all law, and all governmental action.

 

 “The feudal system of Japan shall cease.”は後付けとはなりましたが,重要な規定です。194623日の日本国憲法改正案起草に関するマッカーサー三原則(マッカーサー・ノート)第3項の冒頭に“The feudal system of Japan will cease.”とあったからです。

 マッカーサー三原則の第3項には続けて“No rights of peerage except those of the Imperial family will extend beyond the lives of those now existent.”(「貴族の権利は,皇族を除き,現在生存する者一代以上には及ばない。」(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川文庫・2014年)22頁))及び“No patent of nobility will from this time forth embody within itself any National or Civic power of government.”(「華族の地位は,今後どのような国民的または市民的な政治権力も伴うものではない。」(鈴木22頁))とありましたから,“The feudal system of Japan will cease.”(「日本国ノ封建制度ハ終止スヘシ」)は平等条項(日本国憲法14条)の冒頭に来てもよかったように思われるのですが,あえて「一切ノ日本人ハ其ノ人類タルコトニ依リ個人トシテ尊敬セラルヘシ一般ノ福祉ノ限度内ニ於テ生命,自由及幸福探求ニ対スルソノ権利ハ一切ノ法律及一切ノ政治的行為ノ至上考慮タルヘシ」の前に置かれています。


5 アメリカ独立宣言,ヴァジニア権利章典及びトーマス・ジェファソン

 

(1)アメリカ独立宣言

 GHQ草案12条の原起草者はロウスト中佐であったのか,又はワイルズ博士であったのか。しかしいずれにせよ,トーマス・ジェファソンらの手になる北米十三植民地独立宣言(177674日)の影響は歴然としています。

 

  〔日本国憲法13条の〕規定は,〔略〕独立宣言にその思想的淵源をもつことは,文言自体からして明瞭であり,さらにはロックの「生命,自由および財産」と何らかの関連を有するであろうことも推察される。(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)443頁)

 

 独立宣言は,いわく。

 

   We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal; that they are endowed by their Creator with certain inalienable rights; that among these, are life, liberty, and the pursuit of happiness. That, to secure these rights, governments are instituted among men, deriving their just powers from the consent of the governed; that, whenever any form of government becomes destructive of these ends, it is the right of the people to alter or to abolish it, and to institute a new government, laying its foundation on such principles, and organizing its powers in such form, as to them shall seem most likely to effect their safety and happiness.(我々は,以下の諸真理を自明のことと認識する。すなわち,全ての人々(メン)は平等なものとして創造されていること,彼らは彼らの創造主によって一定の不可譲の権利を付与されていること, これらのうちには,生命,自由及び幸福の追求があること。これらの権利を保全するために,統治体(ガヴァメンツ)が,その正当な権力を被治者の同意から得つつ,人々(メン)の間に設立されていること,いかなる政体であっても,これらの目的にとって破壊的なものとなるときにはいつでもそれを廃止し,又は変更し,並びにその基礎がその上に据えられるところ及びその権力がそれに従って組織されるところ彼らの安全及び幸福を実現する見込みの最も高いものとして彼らに映ずる諸原則及び政体であるところの新しい統治体(ガヴァメント)を設立することは,人民(ピープル)の権利であること。

 

 GHQ民政局の運営委員会によって挿入せしめられた語句に対応する「公共の福祉に反しない限り」を除いて,同局の国民の権利委員会による原案流に日本国憲法13条後段を読むと「生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。」となりますが,それらの権利について「立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする」ことが必要なのは,そうしないと,アメリカ独立宣言的世界観によれば,人民によって政体(form of government)の変更又は廃止(to alter or to abolish)がされてしまう革命が起きてしまうからなのでした。

 

(2)トーマス・ジェファソンとジョン・ロック

 なお,ジェファソンは,ロックの崇拝者でした。

 

  しかし,ロックは,ジェファソンのウィリアム・アンド・メアリー大学在学並びにスモール博士,フォーキエ知事及びジョージ・ウィスとの食卓討論の時代から,ジェファソンのお気に入りであった。彼は,〔パリから〕1789年〔215日〕にジョン・トランブルに対して書くには,ロックを「全くの例外なしに,かつて生きた者の中での最大の三偉人」のうちの一人であるものとみなすようになっていた。(他の二人は,アイザック・ニュートン及びフランシス・ベーコンであった。)ジェファソンは,スモール博士によって,〔1772年の〕十年も前から啓蒙の三英雄全員について手ほどきを受けていた。1771年〔83日〕に,ジェファソンは,スキップウィッズの蔵書として推薦する政治関係本のショート・リストに,「ロックの政治本」,すなわち明らかにその『統治二論』を含めていた。彼がこの精選本リストに前書きして言うには「政治と交易とについては,私は君に,最善の本を少数のみ提示したものである。」ということであったが,これは,この頃までにこれらの本の全てに彼自身精通しているものと彼が思っていたことを明瞭に示している。(Randall, Willard Sterne. Thomas Jefferson: a life. New York: HarperPerennial, 1994. p.164

 

(3)ヴァジニア権利章典1条からの変更

 ところで,独立宣言で確認された「生命,自由及び幸福追求」の諸権利は,その前月の1776612日にジェファソンの出身地であるヴァジニア邦でジョージ・メイソンの主導で採択された権利章典の第1条では「財産(property)の取得及び保持並びに幸福及び安全の追求及び獲得に係る手段を伴う,生命及び自由の享受」の諸権利ということになっていました。ジェファソンは,財産の取得及び保持,幸福の獲得並びに安全の追求及び獲得に係る手段までをも人間の不可譲の権利に伴うものとして主張することは欲張りに過ぎる,と判断した上で,生命,自由及び幸福の追求に絞ったのでしょうか。ただし,生命及び自由に並んで,幸福の追求自体も人々の不可譲の権利であるものとされた形になっています。(なお,独立宣言においては,人民の安全及び幸福を実現することが統治体(ガヴァメント)の目的に含まれることは認められています。換言すると,手段としての政府なしには人民の安全及び幸福の実現は難しいということでしょうか。なお,人民(ピープル)人々(メン)との語の使い分けにも注意すべきなのでしょう。ちなみに,ロックの『統治二論』第二論文第95節では,人々が共同体コミュニティー設立目的彼ら固有プロパテものィーズ確実享受当該共同体安全保障相互快適安全平穏生活comfortable, safe, and peaceable living)であるものとされていました。

 

  SECTION 1.   That all men are by nature equally free and independent, and have certain inherent rights, of which, when they enter into a state of society, they cannot, by any compact, deprive or divest their posterity; namely, the enjoyment of life and liberty, with the means of acquiring and possessing property, and pursuing and obtaining happiness and safety.(全ての人々は本来均しく自由かつ独立であり,かつ,彼らが社会状態に入るときにおいていかなる協定によっても彼らの子孫から剥奪し,又は奪い去るこのとできない一定の生得の権利,すなわち,財産の取得及び保持並びに幸福及び安全の追求及び獲得に係る手段を伴う,生命及び自由の享受の権利を有していること。)

 

ジョージ・メイソン主導のヴァジニア邦の政体案は,ジェファソンには不満をもたらすものだったようです。

 

 このヴァジニアの文書は,一世紀半にわたってヴァジニアを支配してきた荘園(プラン)(ター)寡頭(・オリ)体制(ガーキー)の手中に権力を保持せしめるとともに,現状を維持る,深く保守的な代物であった。メイソンの宣言は投票資格のための財産所有要件を保存しており人口の1パーセントの10分の1未満の手中に権力を留め続けていた。

  自身で彼の反対意見及び修正案を提出できないため,古い郷紳(ジェントリー)支配体制が永続化されてしまうばかりということになるのではないかと深く憂慮するジェファソンは,フィラデルフィアとしては珍しい涼しい期間を,ヴァジニアの国憲に係る彼自身の案を次々と起草するために利用した。ジェファソンのものは,主に,〔略〕はるかに広い投票権を認める点において異なっていた。〔中略〕メイソンのものは,権力を有する少数の富裕な大土地所有エリートの支配の継続にとって有利なものであって,当該事実は1776年のこの夏においてジェファソンを警戒させた。彼は生涯,「建国者(ファウンディング)(・グレ)大家系(ート・ファミリーズ)」に対して米国人が夢中になることに苦言を呈し続けた。(Randall pp.268-269

 

大きな財産を保持する幸福かつ安全な保守的荘園(プラン)(ター)寡頭(・オリ)体制(ガーキー)に対する敵対者としては,財産の取得及び保持,幸福の獲得並びに安全の追求及び獲得に係る手段までをも人間の不可譲の権利伴うものとして言及して現状の変革を難しくするわけにはいかなかった,ということになるのでしょうか。なお,ジェファソンについて,「ジョン・ロックの「財産(プロパティ)」に代わる彼の「幸福の追求」の語の選択は,イングランド中産階級の財産権に係るホイッグ主義からの鋭い断絶を示している。」と評されています(Randall p.275)。

1776年夏のフィラデルフィアにおける大陸会議出席期間中,33歳のジェファソンが独立宣言の原案を起草する様子は,次のようなものだったそうです。

 

  それ〔アメリカ独立宣言案〕は,委員会会合及び拡大する内戦の最新状況を憂慮する論議の日々のかたわら,この激動の1776年夏,朝早くそして夜遅く,ジェファソンがものした多量の文書のうちの一つにすぎなかった。613日から28日までの2週間,涼しい朝,蒸し暑い夕べ,ジェファソンは彼の風通しのよい部屋にいくらかの平和及び静寂を求め,彼の周りに書類を拡げ,彼の新しい持ち運び机の上でせっせと仕事をした。〔略〕ジェファソンはいかなる書物にも当たる必要はなかったにしろ,彼は少なくとも一つの文書を所持していた。ヴァジニアのための彼の心を込めた憲法の最終草案である。そこから彼は,国王に対する苦情の長いリストを書き写すことになる。ジェファソンには何か独自なものを創出することは求められていなかった。その正反対であった。しかし彼は,古代ギリシア時代からつい先般のトム・ペインの熱のこもった修辞まで,百もの著述家から,彼の選ぶ言葉を摘み出す自由を有していた。(Randall pp.272-273

 

6 アメリカ独立宣言,ヴァジニア権利章典及び日本国憲法13

 

(1)「平等なものとして創造されている」又は「本来均しく自由かつ独立」と「個人として尊重される」と

日本国憲法13条前段の「すべて国民は,個人として尊重される。」の部分は,GHQ草案12条では“All Japanese by virtue of their humanity shall be respected as individuals.”となっています。しかし,何ゆえに“All Japanese are created equal. ”(アメリカ独立宣言流)とか“All Japanese are by nature equally free and independent.”(ヴァジニア権利章典流)という表現ではなかったのでしょうか。

「全ての日本人は,平等なものとして創造されている。」又は「全ての日本人は,本来均しく自由かつ独立である。」という前提からでは,それら日本人の有する生命,自由及び幸福追求に対する権利について国は「立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする」こととがうまく結び付かないからでしょうか。確かに,「平等」には悪平等もあるので,平等に「最大の尊重」をするのではなく平等に「踏みにじる」こともあり得るのでしょう(これに対して,日本人内限りでの「平等」であるからこそ,むしろそのようなことはないのだ,とはいい得るものでしょうか。)。(なお,ジョン・ロック的な平等(equality)は,およそ全ての事柄における平等といったものではなく,「各人が,他者の意思又は権威に服することなく,彼の自然の自由に対して有するところの平等な権利」でした(『統治二論』第二論文第54節)。)また,「自由かつ独立」ならば(なお,ここでは"equally""equally as Japanese"を含意しないものと解します。),そもそもそんな人たちは国家以前の存在で,直ちに「国政の上で,最大の尊重」をされる必要もないのでしょう。さらには,占領下の敗戦国民に対して,実は君たちは本来自由かつ独立なのだよ,と当の占領軍当局からわざわざ言ってやるのも余計なことだと思われたのかもしれません。「全ての人々は平等なものとして創造されている」又は「全ての人々は本来均しく自由かつ独立」と米国の原典からそのまま引き写すのも同様,戦争で負けた日本人が,それにもかかわらず米国その他の戦勝国の人々とも「全ての人々」仲間で平等ということになってしまって具合が悪かったのでしょう。(反抗的といえば反抗的な文言であるわけですが,1776年のヴァジニアの指導者たちは正にそのような人たちだったのでした。)

 

(2)日本国憲法13条前段と後段との間の社会契約

日本国憲法13条後段における国の義務の発生に係る直接の論理的前提は,日本国という統治体の設立に係る社会契約なのでしょう。ヴァジニア権利章典では“when they enter into a state of society…by…compactとあり,アメリカ独立宣言では“to secure these rights, governments are instituted among men, deriving their just powers from the consent of the governed”といっているところです。(なお,ヴァジニア権利章典2条には“That all power is vested in, and consequently derived from, the people; that magistrates are their trustees and servants, and at all times amenable to them.”(全ての権力は,人民に帰属し,したがって人民に由来すること。官職保有者は彼らの受託者かつ使用人であり,及び常に彼らに従属するものであること。)と,同章典3条終段には“that, when any government shall be found inadequate or contrary to these purposes, a majority of the community hath an indubitable, inalienable, and indefeasible right to reform, alter, or abolish it, in such manner as shall be judged most conductive to the public weal.”(いかなる統治体であっても,これらの目的について不十分又は反するものとみなされるようになった場合には,共同体の多数は,公共の福祉にとって最も親和的であると判断される方法に従って,それを改善し,変更し,又は廃止する不可疑,不可譲かつ不壊の権利を有する。)とあります。) 

そうであれば,日本国憲法13条前段と同条後段との間には,社会契約があることになるようです。日本国は国民国家なのでしょうが,「「国民国家」は,諸個人のあいだの社会契約によってとりむすばれるという論理の擬制のうえに成り立つ人為の産物であり,そのようなものとして,身分制や宗教団体の拘束から個人を解放することによって,人一般としての個人を主体とする「人」権と表裏一体をなすものだった。」とされているところです(樋口陽一『国法学』(有斐閣・2004年)25頁。また同104頁)。ただし,社会契約説は,「契約説ハ国民ガ国家ノ権力ニ服従スルノ根拠ヲ国民自身ノ意思ニ帰セシメントスルモノナルコトニ於テ,近世ノ民主主義ノ根柢ヲ為セルモノナリト雖モ,歴史的ノ事実トシテ此ノ如キ契約ノ存在ヲ認ムベカラザルハ勿論,論理上ノ仮定説トシテモ,此ノ如キ契約ガ何故ニ永久ニ子孫ヲ拘束スルカヲ説明スル能ハザルノ弱点ヲ有ス」と(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)11頁),また,「之は種々の点に誤もあるけれども,其根本に於て人性を見誤つたものと申さなければならぬ,国家を成すのは之を成さずとも宜いのであるが,利害得失を比較して,強て之を造り成したるものではなくして,人間の本質上自然に国家を成すに至るものであるから,人の意思を以て国家存立の基礎とする社会契約説は其根本に於て誤であると言はなければならぬ」(上杉慎吉『訂正増補帝国憲法述義』(有斐閣・1916年)34-35頁)と批判されていたところではあります。

しかしながら,18世紀後半の北米十三植民地の知識人の間では,社会契約説こそが常識だったのでした。母国政府との関係におけるマサチューセッツでの険悪な情勢等を承けて大量に政治小冊子が書かれた1774年のヴァジニアでは,次のごとし。

 

 教育を構成するものは何かということに人々がなお合意することができた時代に教育を受けた人間であるジェファソンは,政治小冊子の全論文執筆者中の典型であった。彼ら全てが――更に全読者についても前提されていたのだが――政治哲学者であるハリントン,ヒューム,ロック,ハリファックス,モンテスキュー,シドニー及びボリングブロークの,並びにグロチウス,フランシス・ハッチソン,プーフェンドルフ及びヴァッテルのような道徳哲学者の著作に精通していた。それに加えて,全員がトゥキディデス及びタキトゥスからクラレンドン伯爵に至るまでの歴史家の見解を諳んずることができた。全員が抑制と均衡のシステム並びにイングランドの憲法を構成する法律及び伝統に詳しかった。「これらは皆,我々の耳に余りにも何度も繰り返し叩き込まれたので,政治についての全くの素人でもそれから長いこと暗記してしまっていたはずだ。」と〔ロバート・カーター・〕ニコラスはぼやいた。全ての学識ある自由()保有(リー)不動産(ホール)保有者(ダー)は,国制上の「イングランド人の権利」を構成するものは何か,「自然法」とは何か――それが「自然」によって定立されて以来何が正しいとされ何が誤っているとされてきたか――及び彼らの「自然権」,すなわち,自然状態から人は契約によって社会に入ったのであり,したがって人は,彼自身又は彼の子孫のいずれによっても失われ,又は処分することのできない権利を保有しているとの彼らの確信, とは何か,並びに以上の結果として,正にその財産(プロパティー)に課税する権力を有するあらゆる政府においては財産(プロパティー)が代表されなければならないことを理解しているものと想定されていた。人民(ピープル)」とは何者かということは必ずしも常に明瞭ではなかったが,主権は人民(ピープル)属すると彼らは信ずるに至っていた。このような同一のイデオロギー基盤を政治小冊子論文執筆者らと自由保有不動産保有者らとは有していたものの,自由に関するこの夏の論争において,確認された論文執筆者中において唯一ジェファソンのみが,いかなる人も他の人を拘束する権利を有しないと主張して奴隷制問題を取り上げた。Randall p.201

 

ということであれば,日本国憲法13条前段の「個人」は,社会契約と何らかの関係があるのだろうということになります。

 

(3)社会契約の当事者としての個人(individuals

すなわち,個人(individuals)こそが,社会契約の当事者なのでした。正にジョン・ロックの『統治二論』の第二論文の第96節にいわく。

 

 For when any number of men have, by the consent of every individual, made a community, they have thereby made that community one body, with a power to act as one body, which is only by the will and determination of the majority… (というのは,任意の数の人々が,各個人の同意によって(by the consent of every individual共同体(コミュニティ)を作ったときには,彼らは,そのことによって当該共同体(コミュニティ)を,多数の意思及び決定によってのみであるが,一体として活動する力を有する一体のものとしたところなのである。)

 

(4)「尊重される」の意味

 さて,それでは,“All of the people shall be respected as individuals.”(「すべて国民は,個人として尊重される。」)における“shall be respected”(「尊重される」)の意味は何でしょうか。ここでの「個人」は日本国定立の社会契約の当事者の地位にある個人であるとして,彼らの「生命,自由及び幸福追求」に対する権利の保全(to secure)が不十分であるときには暴れて革命を起こす人民(ピープル)の構成員としての尊重でしょうか。それとも,社会契約を締結して国家(コミュニティー)の構成員となったとはいえ,彼らの生得不可譲の権利である「生命,自由及び幸福追求」の権利にはなお国家は手を触れるべからず,という意味での尊重(ただし,さすがに公共の福祉に反するようになれば介入して規制するのでしょう。)でしょうか。

「国政の上で,最大の尊重を必要」とするときの「尊重」はconsiderationですが,「consider(考える)は,L com- (intensive)L sīdus〔星,天体〕からなるL cōnsīderāre (to observe attentively; to contemplate; to examine mentally)が語源である。古典ラテン語においては占星術用語としての用法はないが,原義はto observe the starsであったと考えられている。」(梅田109頁)といわれれば,「生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政において遠くに輝く導きの星か,はた妖星か。

 日本国憲法13条の二つの「尊重」はそれぞれrespect及びconsiderationですが,後者の語源は上記のとおり,前者の語源もラテン語のrespicereですからどちらも「見ること」から派生した言葉です。見るということは距離・分離を含意し,手を差し伸ばして触れ合ったり支え合ったり,助け合ったりすることには直接結び付かないようです。

19464月付け法制局の「憲法改正草案に関する想定問答(第3輯)」においては,日本国憲法13条(政府提出案では第12条)前段の「個人として」に関する「個人としてとの意味如何」との想定問に対して,「個々一人一人の人間としてと言ふ意味であり,個人の人格尊重を規定したもので,全体の利益の為に,部分を不当に無視することなきの原則を明にしたものである」との回答が準備されていましたが,確かに,全体のために不当に無視しません,視ていますよとの消極的な性格のものとしての「個人の人格尊重」の位置付けでした。

19465月付け法制局の「憲法改正草案逐条説明(第1輯の2)」ではやや敷衍されて,次のように説明されています。

 

 本条前段は国民が各個人として尊重せらるべきものなることを定めて居ります。即ち従来稍〻もすれば全体を尊重する結果,誤まつて個人を無視し,全体の利益のために部分の利益を犠牲にする傾向に陥ることがあり,特に我国に於てこの弊が大きかつたと言ふことができるのでありますが,前段は国民の個人々々が何れも完全なる人格を有するものとして尊重されねばならぬとし,不当なる外力によつて国民の個性が抑圧せられることを防止しようとする趣旨であります。蓋し民主政治は自主独立なる個人の国政に対する積極的参与を精神とするものであるからであります。而して個人の人格を尊重すると言ふことは,要するに前2条に定めた所の基本的人権の尊重を,立法その他万般の国政の施行の際の基調とせねばならぬと言ふに帰着するのでありまして,本条後段はこの趣旨であります。

 

なお,日本国憲法13条後段の「最大の尊重」との表現については,「大イニ考慮ヲ払ツテ」という意味ではないかとの質疑(佐々木惣一委員)に対して,「サウ云フ意味デアラウト存ジテ居リマス,唯考慮スルト云フヤウナコトニナルト,専門家ガ御使ヒニナル言葉トシテハ,ソレデ十分デアリマセウケレドモ,一般的ニ国民ニ見セル法ト致シマシテ,左様ナ専門家的ナ渋イ描写デハ響キマセヌ,ソコデ政府ハ,サウ云フコトハ最モ尊重シテヤラナケレバナラヌ,斯ウ云フ気持ヲ現シタノデアリマス」との国務大臣答弁があったところです(1946916日の貴族院帝国憲法改正案特別委員会における金森国務大臣答弁(第90回帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員会議事速記録第149-10頁))。「渋イ」ものではいけないとなると,口当たりよく,甘やかで優しくなるのでしょうか。

 

7 GHQ草案12条釈義

 

(1)「日本国ノ封建制度ハ終止スヘシ」

 GHQ草案12条に戻ってアメリカ独立宣言及びヴァジニア権利章典との読み合わせをすれば,冒頭の「日本国ノ封建制度ハ終止スヘシ」は,最高上司のものしたマッカーサー三原則の第3項に敬意を表しつつ,当該一文によって大日本帝国憲法から日本国憲法への社会契約の変更が必要となった事由を示したものなのでしょう。アメリカ独立宣言であれば,北米十三植民地が独立を余儀なくされた理由としての英国ジョージ3世王の悪口が延々と続くところですが,まさか大日本帝国憲法下における昭和天皇の失政をあげつらうわけにもいかず,さらりと「日本国ノ封建制度ハ終止スヘシ」と書かれたものでしょう。明治の聖代における1869725日の版籍奉還,1871829日の廃藩置県の詔書などは高く評価されなかったようです。

 

(2)天皇の臣民(subjects)から社会契約の当事者たる個人(individuals)へ

 次の「一切ノ日本人ハ其ノ人類タルコトニ依リ個人トシテ尊(ママ)セラルヘシ」の部分は,「全ての日本人(又は人々)は,平等なものとして創造されている。」又は「全ての日本人(又は人々)は,本来(均しく)自由かつ独立である。」とも書かないこととしつつ,日本人を,続く後段の不可譲権(生命,自由及び幸福追求に対する権利)を有する自由,平等かつ独立である社会契約の当事者として位置付けようとしたものでしょうか。ロックの個人(individual)も,『統治二論』の第二論文第95節に“Men being, as has been said, by nature all free, equal, and independent, no one can be put out of this estate, and subjected to the political power of another without his own consent.”(今まで述べられてきたように,人々は本来全て自由,平等かつ独立であるので,だれも彼自身の同意なしにこの状態の外に置かれ,及び他者の政治権力に服せしめられることはない。)と紹介されています。
 ここで,“
not subjected to the political power of another”ということは重要です。それまでの日本人は,他者たる天皇の政治権力に,同意などという畏れ多いこともなしにひたすら服する臣民(subjects)でしたが,individualsとなることによって,明文では書かれずとも,アメリカ独立革命期における自由,平等かつ独立の愛国者(ペイトリオッツ)並みの存在たり得るもの位置付けられ得ることができたのでした。ただし,愛国者ペイトリオッツ英国国王ジョージ3世陛下に叛逆した乱臣賊子らでありましたから,「初より本質上日本人の活動は此御一人〔天祖及天祖の系統の御子孫〕の意思を基礎として存在するものであつた,各人は己を没却して絶対的に此御一人の意思に憑依するに由つて自己を完成し永遠ならしむることを得たのであります〔中略〕此御一人の意思は其以外に人性の活動を支配すべき意思あることなき各人が絶対的に憑依し奉る唯一の意思であります」(上杉229頁)ということにその道徳的存在性の基礎を置き,歴代天皇から恵撫慈養されてきた忠良な日本臣民としては,乱臣賊子ら並みになったといわれると,若干の没落ないしは堕落感があったものでしょうか。

 なお,「其ノ人類タルコトニ依リ」と書かれると,日本人はそれまでは人類として認められていなかったのか失礼な,という感じを受けるのですがどうでしょうか。あるいはこれは,最初はby natureと書いたところ,それでは「一切の日本人はその日本人たることにより個人として尊重せらるべし」ということになってかえって日本人ではない者は個人として尊重されなくなってしまうことになるので,くどくはなるものの,by virtue of their humanityと書くことになった(くどくそう書いたのは,個人として尊重されることには憲法までを要しない,という趣旨でしょう。「(法によって権利が認められるのではなく)権利はそれ自身で存在し,憲法・法律は権利の保護のためにあるという自然法的立場」をとる「既得権(vested right)の理論」が,正にロックを通じて米国に導入されていたところです(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)248頁)。),ということでしょうか。

 

(3)「生命,自由及幸福探求ニ対スルソノ権利ハ一切ノ法律及一切ノ政治的行為ノ至上考慮タルヘシ」

 「生命,自由及幸福探求ニ対スルソノ権利ハ一切ノ法律及一切ノ政治的行為ノ至上考慮タルヘシ」の部分は,国家設立の社会契約の目的の再確認ではありますし,日本国憲法においては,その第15条から第17条までの伏線となるところでしょう。日本国憲法14条の位置が問題になりますが,アメリカ独立宣言でもヴァジニア権利章典でも人々の平等ということが政府の位置付け論に対して先行しているところ,1946年の日本国においては,平等だと宣言するだけでは足りない積極的に片付けるべき封建遺制がなおあるものと認められたので,第14条が第13条に直ちに続いて,第15条以下の前に設けられたということでしょうか。

 なお,「幸福追求」について,法制局の「憲法改正草案逐条説明(第1輯の2)」は,「新しい表現でありますが,この語を用ひた気持ちとしましては,権利にも現状を維持するための権利と,一歩幸福の方に進めるための権利との区別があり,この後者の種類のものを表現したのであります。語感として享楽主義の誤解を招くとの非難があり得るかとも存じますが,従来の如く犠牲の面のみを強調することから生ずる暗さを払拭して,社会生活,国家生活の上に明るさを齎すと云ふ方針を表現し得たと考へて居ります。」と説明しています。「享楽主義の誤解を招くとの非難」に係る心配とは,専ら天皇に「其ノ康福ヲ増進」(ただし,「康福」は,伊東巳代治訳ではwelfare)することを願ってもらう(大日本帝国憲法上諭)受け身の姿勢には慣れてはいても,自分で自分の幸福を主体的かつ能動的に追求するとなると,生来享楽を求める己れの本性が下品に暴露されてしまいそうでかえって怖い,ということもあったのでしょうか。
 ちなみに,ジェファソン自身は,18191031日付けウィリアム・ショート宛て書簡において,自分も「古代ギリシア及びローマが我々に遺した道徳哲学における合理的なもの全て」がその教説にあるところのエピクロスの信奉者であると述べつつ,エピクロスの教説では幸福(happiness)が人生(life)の目的であり,その幸福の基礎は徳(virtue)であり,徳は①賢慮(Prudence),②節度(Temperance),③剛毅(Fortitude)及び④正義(Justice)から構成される,とまとめています(まとめ自体は書簡執筆時から二十年ほど前のものだと述べられています。)。享楽主義ではありません。

   

 8 「個人の尊厳」

 ところで,日本国憲法13条前段(「すべて国民は,個人として尊重される。」)は,「「個人の尊厳」を定めた規定であると一般に説明され」ているそうで(樋口陽一=石川健治=蟻川恒正=宍戸常寿=木村草太『憲法を学問する』(有斐閣・2019年)151頁(蟻川恒正)),さらには当該「「個人の尊厳」については尊厳こそが重要だ」ともされています(樋口等153頁(蟻川))。「〔日本国〕憲法13条は,「個人の尊重」(前段)と「幸福追求権」(後段)との二つの部分からなる。前段は,後段の「立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする」と一体化して,個人は国政のあらゆる場において最大限尊重されなければならないという要請を帰結せしめる。これは,一人ひとりの人間が「人格」の担い手として最大限尊重されなければならないという趣旨であって,これを「人格の尊厳」ないし「個人の尊厳」原理と呼ぶことにする。」とも説かれていたところです(佐藤444頁)。

この「尊厳」という概念については,「本気で使うなら,高い身分と不可分のものであるという,ヨーロッパの伝統社会でずっと引き継がれてきた理解を簡単に捨ててはいけない」ということで,「近代社会というのは身分が撤廃された社会というわけではない,そう見えるかもしれないけどもそうではない,では何なのか,みなが高い身分になった社会なのだと考える」べきなのだとの主張があります(樋口等155頁・156頁(蟻川))。当該論者によれば,「重い義務を引き受け,それを履行する人が高い身分の人であるという感覚」から,「尊厳というものは,義務を前提としてでなければ成り立たない。高い身分の人というのは,それだけ普通の人より重い義務を負う存在でなければならない」ということになるそうです(樋口等158頁・159頁(蟻川))。「自分は社会の基本的な構成員だという自覚を与えることが,その人を尊厳ある存在として認めることになるし,そういう社会を作っていくという社会自身のミッションでもある」ということだそうです(樋口等200頁(蟻川))。

民法2条の「個人の尊厳」については,「個人の尊厳とは,すべての個人は,個人として尊重され(憲13条参照),人格の主体として独自の存在を認められるべきもので,他人の意思によって支配されまたは他の目的の手段とされてはならない,ということである。」と説かれています(我妻榮『新訂民法総則(民法講義Ⅰ)』(岩波書店・1965年)29頁)。「他の目的の手段とされてはならない」となると,カント的ですね。教養主義的とも申せましょう。

 

 Handle so, daß du die Menschheit sowohl in deiner Person, als in der Person eines jeden andern jederzeit zugleich als Zweck, niemals bloß als Mittel brauchest. (Grundlegung zur Metaphysik der Sitten)

 

ところで「人格」ですが,これは「近世法が,すべての個人に権利能力を認め,これを人格者(Person)とする」ということですから(我妻46頁),権利能力の主体という意味でしょうか。仮にそうだとすると「人格の尊厳」とは,権利能力の「尊厳」ということになりそうです。何だかこれでは味気ない。であるとすれば,「ここにおいて,現代法は,個人を抽象的な「人格」とみることから一歩を進め,これを具体的な「人間」(Mensch)とみて,これに「人間らしい生存能力(menschenwürdige Existenzfähigkeit)を保障しようと努めるようになった(ワイマール憲法151条)。わが新憲法第25条もこの思想を表明するものである。」(我妻47頁)とはむべなるかな,ということになります。2012427日決定の自由民主党の日本国憲法改正草案では第13条は「全て国民は,人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公益及び公の秩序に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大限に尊重されなければならない。」と改正されることになっていて,「個人」が「人」になっています。


9 GHQ草案12条の「個人」の肖像

最後に,GHQ草案12条の想定していたindividualsとはどのような人々だったのでしょうか。

ロックの説くところでは,自然法の違反者を処罰する自然法執行の任に当たり,また,自らに対する損害賠償を求める自力救済をも行う者でした(『統治二論』第二論文第2章)。なかなか能動的です。自らのproperty(もの)である労働(labour)によって彼に固有のもの(プロパティ)を取得する者であり『統治二論』第二論文27節・第32節),理性の法に服し(同第57節),それに足る精神的能力を有していなくてはならず(同第60節),配偶者,子供及び召使からなる家庭を有する者ともなり(同第77節), 彼に固有のもの(プロパティ),すなわち彼の生命,自由及び財産(estate)を他の人々による侵害又はその試みに抗して保持する権力(a power)を生来(by nature)有する者でありました(同第87節)。

米国的文脈では,独立宣言の最後でアメリカ独立革命の大義のために“we mutually pledge to each other our lives, our fortunes, and our sacred honor.”(我々は,相互に,我々の生命,我々の運命(財産)及び我々の神聖な名誉をかけることを誓う。)と誓った「壮麗に古代ローマ的な」(Randall p.273愛国者(ペイトリオッツ)でしょうか。それとも後の大統領フーヴァーが19281022日に説いた,分権的自治,秩序ある自由,平等な機会及び個人の自由の諸原則(the principles of decentralized self-government, ordered liberty, equal opportunity, and freedom to the individual)を奉ずるrugged individualism(徹底的個人主義)の信奉者でしょうか。「アメリカは,英国の公共の負担によってではなく,諸個人(individuals)の負担によって征服され,並びにその定住地が建設され,及び確立されたものである。彼ら自らの血が彼らの定住地の土地を確保するために流され,彼ら自らの財産が当該定住地を持続可能とするために費やされた。彼ら自身で彼らは戦った,彼ら自身で彼らは征服した,そして彼ら自身のみのために彼らは保持の権利を有するのである。」とは17747月にジェファソンが執筆した「ブリティッシュ・アメリカの権利の概観」の一説です。

フーヴァーは,その米国式徹底的個人主義の対極にあるものとして欧州の家父(パター)長主義(ナリズム)及び国家(ステート)社会(・ソーシ)主義(ャリズム)を挙げていました。

全ての国民を「かけがえのない個人として尊重」する国家及び社会においては,徹底的個人主義を奉ずる個人は稀であり,むしろフーヴァーのいう欧州的な哲学を奉ずる者が大多数なのでしょう。

  



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   »Jahrtausende mußten vergehen, ehe du ins Leben tratest, und andere Jahrtausende warten schweigend«: - darauf, ob dir diese Konjektur gelingt.

 

1 佐藤幸治名誉教授と憲法97条 

 今月(2015年6月)6日,東京大学法学部25番教室で開催された立憲デモクラシーの会において,佐藤幸治京都大学名誉教授が「世界史の中の日本国憲法―立憲主義の史的展開を踏まえて」と題する基調講演をされましたが,当該講演の締めくくりとして同教授は,日本国憲法97条を読み上げられました。

 

  この憲法が日本国民に保障する基本的人権は,人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて,これらの権利は,過去幾多の試錬に堪へ,現在及び将来の国民に対し,侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 

 英文では,次のとおり。

 

 The fundamental human rights by this Constitution guaranteed to the people of Japan are fruits of the age-old struggle of man to be free; they have survived the many exacting tests for durability and are conferred upon this and future generations in trust, to be held for all time inviolate.

 

2 自由民主党憲法改正草案と憲法97条(GHQ草案10条)

 なかなか格調の高い響きの条文なのですが,憲法97条は,自由民主党からは評判が悪いところです。2012年4月27日に決定された同党の日本国憲法改正草案では,削られて,なくなってしまっています。その理由にいわく。

 

 ・・・我が党の憲法改正草案では,基本的人権の本質について定める現行憲法97条を削除しましたが,これは,現行憲法11条と内容的に重複している(※)と考えたために削除したものであり,「人権が生まれながらにして当然に有するものである」ことを否定したものではありません。

 ※現行憲法の制定過程を見ると,11条後段と97条の重複については,97条のもととなった総司令部案10条がGHQホイットニー民政局長の直々の起草によることから,政府案起草者がその削除に躊躇したのが原因であることが明らかになっている。

(自由民主党「日本国憲法改正草案Q&A・増補版」(201310月)のQ44の答)

 

  1946年2月13日に日本国政府に手交されたGHQ草案10条は,次のとおり(国立国会図書館ウェッブ・サイト電子展示会「日本国憲法の誕生」参照)。

 

 Article X.  The fundamental human rights by this Constitution guaranteed to the people of Japan result from the age-old struggle of man to be free. They have survived the exacting test for durability in the crucible of time and experience, and are conferred upon this and future generations in sacred trust, to be held for all time inviolate.

 

 外務省罫紙に和文タイプ打ちのGHQ草案10条の日本語訳は次のとおりです。

 

10 此ノ憲法ニ依リ日本国ノ人民ニ保障セラルル基本的人権ハ人類ノ自由タラントスル積年ノ闘争ノ結果ナリ時ト経験ノ坩堝ノ中ニ於テ永続性ニ対スル厳酷ナル試練〔ママ〕ニ克ク耐ヘタルモノニシテ永世不可侵トシテ現在及将来ノ人民ニ神聖ナル委託ヲ以テ賦与セラルルモノナリ 

 

3 GHQホイットニー民政局長と憲法97条(GHQ草案10条)

 

(1)憲法97条の原型

 国立国会図書館ウェッブ・サイト電子展示会「日本国憲法の誕生」にある1946年2月の「ハッシー文書」(GHQ民政局内での憲法検討草案の綴り)の120枚目に手書きで"The fundamental human rights hereinafter by this constitution conferred upon and guaranteed to the people of Japan result from the age-old struggle of man to be free. They have survived the exacting test for durability in the crucible of time and experience and are conferred upon this and future generations in sacred trust, to be held for all time inviolate."と書いたものがありますが,そうであれば,これが自由民主党の「日本国憲法改正草案Q&A・増補版」が言及するところのホイットニー局長の手による現行憲法97条のそもそもの原案の現物なのでしょうか。

 

(2)憲法97条の原型条項に代わって削られた2条項

 

ア 人権委員会原案第2条及び第4条

 なお,現行憲法97条に相当する当該条項の挿入の際,その前後の場所で代りに削られている条項としては,GHQ民政局内の人権委員会(Committee on Civil Rights)による当初原案第2条の"The enumeration in this Constitution of certain freedoms, rights and opportunities shall not be construed to deny or disparage others retained by the people."(この憲法において一定の自由,権利及び機会が掲げられていることをもって,人民に留保された他の自由等を否認し,又は軽視するものと解釈してはならない。)及び同第4条の"No subsequent amendment of this Constitution and no future law or ordinance shall in any way limit or cancel the rights to absolute equality and justice herein guaranteed to the people; nor shall any subsequent legislation subordinate public welfare, democracy, freedom or justice to any other consideration whatsoever."(今後の憲法改正並びに将来の法律又は命令は,ここにおいて人民に保障された絶対の平等及び正義に対する権利をいかなる形においても制限し,又は取り消してはならない。今後の立法は,公共の福祉,民主主義,自由又は正義を他のいかなる配慮にも従属するものとしてはならない。)があります。

 

イ 人権委員会原案第2条(米国憲法第9修正)の不採用とその意味

  「エラマン・ノート」(国立国会図書館の展示では17枚目から18枚目まで)によれば,GHQ民政局内での運営委員会(Steering Committee)と人権委員会との1946年2月8日の会議において,前記第2条に対して運営委員会のハッシー中佐は,残余の権力(residual power)は国会に属する,人民は自らの設立に係る国会に反対する権利を有しない,国会を通じて行使される意思が至高のものなのであると憲法の他の場所で規定されている,と言って反対しています(なお,児島襄『史録日本国憲法』(文春文庫・1986年(単行本1972年))287-288頁,鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川文庫・2014年(単行本1995年))272頁も参照)。人権委員会原案の第2条は,アメリカ合衆国憲法の第9修正("The enumeration in the Constitution, of certain rights, shall not be construed to deny or disparage others retained by the people.")をほぼそのままなぞったものなので,このハッシー中佐の反対(及びそれを認めたGHQ民政局の決定)は注目に値します。アメリカ合衆国憲法における人民の権利と日本国憲法における国民の権利とは違うという前提で,GHQ民政局は日本国憲法草案の作成作業をしたということになるからです。この場面は,「人権という観念を,「実定法の世界の外あるいはそれを超えたところで活発に生きており,まさにそうであることに格別の意義をも」つものとしてとらえ,「憲法が保障する権利」とのあいだで意識的に区別をする,という考え方」(樋口陽一『国法学 人権原論』(有斐閣・2004年)22頁が紹介する奥平康弘『憲法Ⅲ―憲法が保障する権利』(有斐閣・1993年)20-21頁)が端的に現れた場面と解し得るのではないでしょうか。その場合, 17911215日成立のアメリカ合衆国憲法第9修正の人民の権利は実定法の世界の外の人権であり得るのに対し,1946年の日本国憲法における国民の権利は飽くまでも「憲法が保障する権利」に限られるということになります。

 

ウ 人権委員会原案第4条(基本的人権を制限又は廃棄する憲法改正を禁止する条項)をめぐる論争

  人権委員会原案第4条について更に「エラマン・ノート」(1946年2月8日の部)を見ると,

 

・・・運営委員会と起草担当委員会〔人権委員会〕との間で,尖鋭かつ根本的な意見の相違が展開された。同条〔第4条〕は,将来の憲法,法律又は命令は,この憲法で保障された権利を制限し,又は取り消してはならず,また,公共の福祉及び民主主義を他のいかなる配慮にも従属させてはならない,と規定するものである。〔運営委員会の〕ケーディス大佐は,同条は無謬性を暗黙の前提としている点及び一つの世代が将来世代の自己決定権を否認する点に強く反対した。書かれているところによれば,人権宣言に対する改正は無効ということになり,及びその変更は革命によるよりほかは不可能になってしまうと。

 〔人権委員会の〕ロウスト中佐は,現在の時代は人類進歩における一定の段階に達したものであること,及び人間の存在にとって固有のものであるとして現在受容されている権利の廃棄はいかなる将来の世代にも許されないことを論じて当該条項を弁護した。彼は続けて,ケーディス大佐が信ずるように日本に民主的な政府を作るだけでは不十分であって,現段階までの社会的かつ道徳的な進歩を将来にわたって保障しなくてはならないと発言した。〔人権委員会の〕ワイルズ氏は,第4条を削ることは不可避的に日本においてファシズムに門戸を開くことになるとの信念を表明した。

 ハッシー中佐は,第4条は,政府に係る意見及び一つの理論を憲法レベルの法としての高みにまで上昇させようと試みるものであるだけではなく,実効性に欠けるもの(impractical)でもあると指摘した。当該条項の執行は,この憲法に記された文言いかんではなく,むしろ最高裁判所の解釈にかかっているのであると。

 満足できる妥協に達することはできなかった。・・・

 

 ということで,結局同条の採否の決定はホイットニー局長に一任ということになっています(なお,児島287-288頁,鈴木273-274頁も参照)。

 

(3)ホイットニー局長の起草とマッカーサー決裁

 ホイットニー局長は問題の第4条を採用しないことにしたのですが,その際,人権委員会側の強い懸念もあったことから,自ら新たな1条として,将来の日本国憲法97条の源となる条文を書き加えたということでしょう。

 人権委員会案の第4条の不採択は,最終的には,1946年2月10日(日曜日)夜にマッカーサー元帥の決裁を経ています(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」,鈴木304頁。児島296頁では同月11日夜)。

 

4 3月2日日本国政府案から3月6日憲法改正案要綱まで

 

(1)3月2日日本国政府案

 1946年2月13日交付のGHQ草案を承けた同年3月2日の日本国政府案の第10条1項は「国民ハ凡テノ基本的人権ノ享有ヲ妨ゲラルルコトナシ。」,同2項は「此ノ憲法ノ保障スル国民ノ基本的人権ハ其ノ貴重ナル由来ニ鑑ミ,永遠ニ亙ル不可侵ノ権利トシテ現在及将来ノ国民ニ賦与セラルベシ。」となっています。第2項がGHQ草案10条に対応します(第1項はGHQ草案9条に対応)。 

 

(2)3月4・5日の顛末と「役人」ケーディス大佐及び「上役」ホイットニー将軍

 1946年3月4日から同月5日までGHQと佐藤達夫法制局第一部長とが逐条討議を行い,現在の日本国憲法の条文がほぼ確定しますが,佐藤部長の手記『三月四,五両日司令部ニ於ケル顛末』には次のようにあります(国立国会図書館のウェッブ・ページでは5枚目)。

 

  第10条 〔日本国政府案10条〕2項ハ交付案第10条ニ依ルモノナルモ何故カ斯ク簡単ニセルヤトノ反問アリ。我ガ立法ハ簡約ヲ旨トスルヲ以テカヽル歴史的,芸術的ノ表現ハ其ノ例ナシト答フ。

「此ノ憲法ノ保障スル」ヲ削ルベシトノ論アリタルモ,原文ニモアリ,復活,「其ノ貴重ナル由来ハ分ラヌト云フ故削ルコトトシ,一応先方了承セルモ後ニ打合セタルモノノ如ク(ホイツトネー将軍ト)之ハ将軍ノ自ラノ筆ニ成ル得意ノモノ故何トカシタシ,セメテ後ノ章ニ入レテ呉レトノ懇望アリ承認ス。

(従テ最後案10条2項ヲ存セルハ整理漏ナリ。英文ニモ其ノ儘存セリ。)

 

 本来削られるべきは憲法11条後段であって,97条ではなかったようです。

 児島襄の『史録日本国憲法』は,前記の事情を多少敷衍しています(364-365頁)。

 

   ・・・あたふたと帰ってきて,大佐は佐藤部長に,いったものである。「まずい。第10条は,じつは“チーフ”(局長)自身の文章でお得意なんだ。せめて第10章あたりにでもいれてもらえないだろうか」

 佐藤部長は,ニヤリと破顔した。上役の意向を重んずる役人の心情は,洋の東西を問わないものらしい。しかし,条文の趣旨そのものは結構なので,ケーディス大佐の“点数かせぎ”的配慮とは別に,第9条第1項〔ママ〕にいれることにした。

 もっとも,ケーディス大佐,つまり総司令部側が佐藤部長に懇願的な言辞をひれきしたのは,このときだけであった。

 

(3)3月5日案

 閣議で配布された1946年3月5日案の訳文は次のようになっていました。

 

  第94条 此ノ憲法ノ日本国民ニ保障スル基本的人権ハ人類ノ多年ニ亙ル自由獲得ノ努力ノ成果ニシテ,此等ノ権利ハ過去幾多ノ試錬ニ堪ヘ現在及将来ノ国民ニ対シ永遠ニ神聖不可侵ノモノトシテ賦与セラル。

    天皇又ハ摂政及国務大臣,両議院ノ議員,裁判官其ノ他ノ公務員ハ此ノ憲法ヲ尊重擁護スルノ義務ヲ負フ。

 

 この段階では,現在の憲法97条と99条とが一体のものとされています。

 

(4)3月6日憲法改正案要綱

 1946年3月6日内閣発表の憲法改正案要綱の第94項は次のとおりでした。

 

94 此ノ憲法ノ日本国民ニ保障スル基本的人権ハ人類ノ多年ニ亙ル自由獲得ノ努力ノ成果ニシテ,此等ノ権利ハ過去幾多ノ試錬ニ堪ヘ現在及将来ノ国民ニ対シ永劫不磨ノモノトシテ賦与セラレタルモノトスルコト

 天皇又ハ摂政及国務大臣,両議院ノ議員,裁判官其ノ他ノ公務員ハ此ノ憲法ヲ尊重擁護スルノ義務ヲ負フコト

 

 同日付けGHQ内での英文は次のとおり。

 

   Article XCIV.   The fundamental human rights by this Constitution guaranteed to the people of Japan result from the age-old struggle of man to be free. They have survived the exacting test for durability in the crucible of time and experience, and are conferred upon this and future generations in sacred trust, to be held for all time inviolate.

   The Emperor or the Regent, the Ministers of State, the members of the Diet, judges, and all other public officials have the obligation to respect and uphold this Constitution. 

 

5 1946年4月中の修正

 

(1)口語化第1次草案及び憲法尊重擁護義務条項との分離

 1946年4月5日には日本国憲法の口語化第1次草案ができます。そこでの第94条(後の順序変更後93条)は,次のとおり(国立国会図書館ウェッブ・ページ23枚目)。同年3月6日の憲法改正案要綱第94項前段と大体同じですね。ただし,要綱の第94項後段(憲法尊重擁護義務条項)は分離されて独立の第95条とされています。

 

94条〔順序変更後第93条〕 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は,人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて,これらの権利は過去幾多の試錬に堪へ,現在及び将来の国民に対し,侵すことのできない永久の権利として与へられたものである。

 

 なお,鉛筆書きで「93条ハ形式的,第94条ハ実質的 最高法規タル憲法トシテ一番重要ナ部分故コヽニ置ク」と書き込みがあります。順序変更前の第93条(変更後94条)は,現在の憲法98条(国の最高法規,条約・国際法規遵守条項)の前身です。

 

(2)口語化第2次草案及び「与へられた」から「信託された」へ

 これが,同年4月13日の口語化第2次草案では次のようになります(国立国会図書館ウェッブ・ページ34枚目)。

 

93条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は,人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて,これらの権利は,過去幾多の試錬に堪へ,現在及び将来の国民に対し,侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 

 現在の憲法97条の文言になっています。しかし,口語化第1次案までの「・・・侵すことのできない永久の権利として与ヘられた・・・」が,「・・・侵すことのできない永久の権利として信託された・・・」に変更されています。1946年3月6日のGHQによる英文の表現(in sacred trust)に近づいてきたわけです。ところが当該変更自体はそう容易なものではなかったようで,鉛筆で種々書き込みがあって当該場所以外についての改訳も考えられていたことが窺われます。最終的には「信託」に落ち着いたわけですが,鉛筆書きからは,なお,「崇高な信託として」あるいは「神聖の信託として」という訳語(これらの方が元の"in sacred trust"により近い。)も考えられていたらしいことが分かります。

 

(3)1946年4月9日GHQ=法制局会談

 1946年4月5日の口語化第1次案の段階から同月13日の第2次案までの間に何があったのかといえば,同月9日午後,法制局の入江長官,佐藤次長らがGHQ民政局のケーディス大佐及びハッシー中佐と会談を行ったところ,次のようなやりとりがあったところです。

 

15)(第94条)本条第1項ヲ第93条(新)トシ第93条(旧)ヲ第94条(新)トシ本条第2項ヲ独立ノ条文トシ第95条(新)トシ以下1条宛ヲ増ス

    (註)先方ハ当方ノ提案通本条第2項ヲ独立ノ条文トセバ第1項ノ意義ナクナルベク而モ本項ハ本草案中ノ傑作トシテ米国ニ於テモ評判良ク之ヲ削ル訳ニ行カザルヲ以テ之ヲ第10章最高法規ノ冒頭ニ移スベキコトヲ提案シ右ノ如ク決定ス

 

 GHQとしては,現在の憲法97条(「本条第1項」)と99条(「本条第2項」)とは本来一体のものと考えていたことが分かります。また,第97条が最高法規に係る第10章の冒頭に来たのはGHQの指示によるものであったことも分かります(当初は現在の第98条(「第93条(旧)」)が先頭)。現行97条についてはここでも「本草案中ノ傑作トシテ米国ニ於テモ評判良」しと執拗に言われており,米国においては当然英文で読まれているところから,日本側としては改めて,英文と訳文(とはいえ日本語が正文)との関係を見直すことになったように思われます(お気付きのように,"in sacred trust"をめぐって両者の間には齟齬がありました。)。

 

6 法制局における理解の試み及び枢密院における批判

 

(1)「信託された」の理解

 しかし,「信託(trust)」とは何か。元の英語に近づけて訳したものの,日本側としては実はなかなかはっきりとは分かっていなかったようです。法制局の「昭和21年5月 憲法改正案に関する想定問答(第7輯)」には次のようにあります(国立国会図書館のウエッブ・ページの114枚目及び115枚目)。

 

問 「信託された」といふ意味如何

答 これを学問的な信託法理で説明することは,必ずしも当を得てゐまいが,基本的人権は国民生得の不可譲の権利であるからといつて,全くの無拘束な,我儘勝手な権利ではなく,第11条〔現行第12条〕に明文があるやうに,この基本的人権の主体たる国民は,その保持に積極的に努め,任意にこれを抛棄することは許されぬし,第二にその濫用は禁ぜられてゐるし,第三に常に公共の福祉に適合するやうにこれを利用する責任を負つてゐるのであつて,畢竟するに,国家社会全体の進歩発達のためにこそ,基本的人権を各個の国民に委ねてゐると考へ,またかく考へてこそ,各個の国民の基本的人権は,相互の摩擦衝突を避けてはじめて永久に確立され得ると考へられるのであつて,かやうな考へ方を端的に表現した語である。したがつて前文第1段の中に用ひられた場合の信託といふ語よりやや漠然たる意味内容に用ひられてゐる。

 

 現行憲法の第12条の趣旨を別の形でいえば「信託された」ということになるのだ,ということでしょうか。憲法11条後段とのみならず,むしろ第12条との重複が問題になりそうです。また,「信託」としての「受託者」は,「各個の国民」とされています。

 ちなみに,憲法学界においても,「「与へられる」と「信託された」とのあいだには,言葉そのものの意味にちがいはあるが,本条〔日本国憲法97条〕の場合においては,格別の区別をみとめる必要がないとおもう。」ということにされています(宮澤俊義著・芦部信喜補訂『全訂日本国憲法』(日本評論社・1978年)801頁)。(ただし,「「信託された」というときは,後々の世代の利益のために永く守って行くべきものだという意味が特に強調されるといえようか。」程度の違いはある,ということのようです(同頁)。)

 

(2)「日本国民」の理解

 ところで,前記の法制局の解釈では「受託者」は「各個の国民」であるのに,現行の第97条の文言は「日本国民」と大きく出ています(なお,同条後半に出てくる「国民」は,generations(世代)であってpeopleではない。)。法制局の「昭和21年5月 憲法改正案に関する想定問答(第7輯)」は,そこでいわく。

 

問 ここでは国民といはず,特に「日本国民」と規定している理由如何

答 前文の中の用語と同じく,特に力点ををいて表記したためである。なほ后段に出て来る「現在及び将来の国民」を,一括して表現する趣旨もある。

 

 単なる「力点をを」くための修辞的表現だというのでしょうか。しかし,こういわれてみると日本国憲法における「日本国民」と「国民」との使い分けが気になります。

 調べてみると,日本国憲法の現行条文で「日本国民」が使われているのは,前文のほか,第1条,第9条,第10条及び第97条だけです。ところで,英文を見ると,前文及び第9条はthe Japanese people,第1条はthe People,各個の国民の日本国籍に関す第10条の日本国民はa Japanese nationalで,問題の第97条ではthe people of Japanです。

 

(3)枢密院における批判

 さて,法制局が日本国憲法草案の想定問答作りに励んでいたころ,日本国憲法草案93条(現行97条)は,1946年4月から5月にかけての枢密院の審査委員会でさっそく火だるまになっていました。

 4月24日の第2回会合。

 

 ・・・

幣原〔坦顧問官〕 第93につき,日本の憲法になにゆえこれをかかねばならぬか。「人権は」は「侵すことのできない云々」に直結すべきでないか。

松本〔烝治国務大臣〕 重複する嫌もあり,又世界の基本的人権の歴史を書いてゐるのでおかしいといへるが,基本的人権の重大性に鑑みここに再録したものである。

 ・・・

 

 5月15日の第8回会合。

 

 ・・・

河原〔春作枢密顧問官〕 93条は削つた方がよい。

美濃部〔達吉枢密顧問官〕 第10章の中,93条は法律的に無意味・・・従つて第10章は全部削るべし。これを存置する理由如何。

松本 御尤もと思ふ。全部削つても何等支障ないと思ふ。しかし強いて弁護すれば,93条はこの憲法の精神を更に強く云ふ主旨・・・。

 ・・・

遠藤〔源六枢密顧問官〕 93条は前文の重複としか思へない。又,「人類の」より「試練に堪へ」までは日本と関係ない。

松本 日本を除外した意味に読む必要はないと思ふ。日本にも自由獲得のための長い歴史があつた。政治的,徳義的な意味でこの条文を残す価値はあると思ふ。基本的人権をせばめる様なことは余程重大な必要がなければ出来ないと云ふことを明かにする意味があると思ふ。

河原 日本に於ては自由は陛下の寛大な御心持によつて与へられたものとする方が,国体の上から見ても適当ではないかと思ふ。削ることは出来ないか。

松本 政府原案として削らうと云ふ考へはない。

 ・・・

 

 松本烝治大臣もお気の毒です。

 なお,草案93条(現行97条)を最高法規の章に置く理由としては,前記の「昭和21年5月 憲法改正案に関する想定問答(第7輯)」は,「・・・日本国民に保障せられた基本的人権が如何なる努力の結果獲得されたかの沿革を明にし,且つ将来不可侵なることを明にし,この基本的人権の保障がこの憲法の眼目として真に貴重なる旨を明かにしたものである。」と説明しています。しかし,なお,美濃部達吉の「法律的に無意味」との発言は,厳しい。
 ちなみに,幣原坦枢密顧問官は,幣原喜重郎の兄にして,かつ,森鷗外の史伝『澀江抽斎』(1916年)の登場人物でもありました。

是より先,弘前から来た書状の(うち)に,かう云ふことを報じて来たのがあつた。津軽家に仕へた澀江氏の当主は澀江保である。保は広島の師範学校の教員になつてゐると云ふのであつた。わたくしは職員録を検した。しかし澀江保の名は見えない。それから広島高等師範学校長幣原坦(しではらたん)さんに書を遣つて問うた〔当該書簡は1915年8月14日に発送されたもののようです(松本清張『両像・森鷗外』(文藝春秋・1994年)147頁参照)。〕。しかし学校には此名の人はゐない。又(かつ)てゐたこともなかつたらしい。(『澀江抽斎』その七)


(4)「逐条説明」における説明

 法制局の「昭21.5 憲法改正草案 逐条説明(第5輯)」は,草案93条(現行97条)について次のように説明しています(国立国会図書館のウエッブ・ページの276枚目及び277枚目)。これが,紆余曲折の末たどり着いた,日本国憲法97条に関する説明の標準的なところでしょう。

 

本条は,この憲法全体――恐らくは近代的憲法のすべて――を通じ,最も顕著な特色を成す国民の基本的人権につき,重ねてその歴史的意義を謳ひ,その本質を闡明した規定であつて,かくして,かやうな基本的人権の保障規定を有する憲法こそ,まさに我国の最高法規として最上の遵由に値する法であり,その施行に主として携はる官憲は,まづ率先してよくこれを尊重し,擁護する義務があるといふ所以の根拠を明かにしてゐるのである。第10条〔現行11条〕によると,「国民は,すべての基本的人権の享有を妨げられない。」と規定して,まづ基本的人権を国民に対して保障し,次にこの「基本的人権は侵すことのできない永久の権利として,現在及び将来の国民に与へられる」と規定して,その不可侵性及び永久性を闡明している。本条は,あたかもこの第10条〔現行11条〕の規定を,やや敷延〔ママ〕して再録し両々相俟つてこれを強調してゐるのであつて,后者が「第3章 国民の権利及び義務」の冒頭に,それ以下一聯の保障規定の大前提として規定されてゐるに反し,前者,即ち本条は,「第10章 最高法規」の冒頭に置かれて,最高法規の最高法規たる実質的所以を明かにしてゐるのである。

 本条によると,まづ,この憲法が主として第3章において日本国民に保障してゐる基本的人権は,何も唐突として我国の現代に至つて確立されたものではなく、実に人類が,専制君主治下のまだ個人の自由の確立されてなかつた境涯よりはじまつて,多年にわたる自由獲得の努力の過程を経て,その手に収めた成果であつて,時間的にも古い歴史を有し,又空間的にも世界人類に普遍のものであるといへる。しかして,次に,これらの権利は,過去において幾多の試錬に遭ひ,これを超克してその存在を強化してきたのであつて,いはばすでに試験済の間違ひのないものである。そこで,さらに,これらの権利は,現在の国民及その後継者たる将来の国民に対し,永久不可侵の権利にして,託されたものである。すなはち,現在及び将来の国民は,これを恣意的に我儘勝手に用ひてはならぬのであつて,一般の信に応へるべく心して用ひなければならぬのである。本条は,以上の趣旨を述べた規定である。

 

 「日本国憲法の「最高法規」の章の冒頭に,基本的人権の本質に関する97条がおかれていることにつき,その位置を誤ったものと解する見解があるが,そのように解すべきではなく,むしろ,それは,日本国憲法の「最高法規」性の実質的根拠が何よりも人権の実現にあることを明確にしようとする趣旨であろうと解される。」とする佐藤幸治名誉教授の立場(同『憲法〔第三版〕』(青林書林・1995年)22頁)はこの流れを汲むものでしょう。

 とはいえ,「我儘勝手に用ひてはならぬ」云々とは何だかお説教臭いですね。また,憲法97条は憲法11条と「両々相俟つてこれを強調」するだけであるとすると,余り面白くはないです。

 日本国憲法97条について別の解釈はあり得ないものでしょうか。

 

7 日本国憲法97条とGHQ人権委員会原案第4条との関係再見

 日本国憲法97条の濫觴はGHQ民政局内の人権委員会による起草原案の第4条(基本的人権を制限又は廃棄する憲法改正を禁止する規定)にありますから(ケーディス大佐の回想によると,人権委員会原案第4条の「精神」を受け継いだものが日本国憲法97条であるそうです(鈴木304頁)。),同条をめぐる1946年2月8日のロウスト中佐対ケーディス大佐の前記論争に遡ってみるべきようです。

 

(1)18世紀のジェファソンの有効期間19年説

 一つの世代が将来世代の自己決定権を否認することはできない,というケーディス大佐のそこでの主張は,アメリカ法思想史的には,ジェファソンの思想を継ぐものでしょう。

 

・・・いかなる社会も永久の憲法を,ましてや永久の法律を作ることはできないということが証明できるでしょう。大地(the earth)は常に,現に生きている世代に帰属するものです。彼らはその用益期間中,大地及びそこから生ずるものを好きなように管理することができます。彼らは自分たちの身体の主人でもあり,したがって,好きなようにそれらを統御することができます。しかし,身体と財産とが,統治の客体の総和です。ですから,先行世代の憲法及び法律は,それらに存在を与えた人々と共に自然の経過として消滅するものです。後者の存在は,それ自身であることをやめるまでは,前者の存在を維持することができますが,それまでです。ゆえに,すべての憲法及びすべての法律は,本来的に19年の経過とともに失効するのです。それがなおも依然として執行されるとすれば,それは正当なものではなく,力の行使です。・・・(ジェファソンの1789年9月6日付け(パリ発)マディソン宛て書簡)

 

 アメリカ独立宣言の起草者にとっては,憲法といえども不磨の大典であってはいけなかったわけです。

 

(2)20世紀のロウスト中佐の時代とその主張

 しかしながら,苛烈な第二次世界大戦を戦い抜いた1946年初めの戦勝アメリカ合衆国民としては,「現在の時代は人類進歩における一定の段階に達したものであること,及び人間の存在にとって固有のものであるとして現在受容されている権利の廃棄はいかなる将来の世代にも許されないこと」は,ロウスト中佐ならずとも,深く実感するところであったのでしょう。また,民主的な政府だけでは不十分であることは,ドイツのヴァイマル共和国の崩壊や日本の大正デモクラシーの没落という最近の敵国の例があったところです。ドイツのファシズムはヴァイマル民主主義から生れたと思えば,たとい民主的な政府があっても「第4条を削ることは不可避的に日本においてファシズムに門戸を開くことになる」とのワイルズ氏の懸念もあながち杞憂とばかりはいえないようです。

 以上のような思いがGHQ民政局内で共有されていたからこそ,基本的人権を制限又は廃棄する憲法改正を禁止する人権委員会案第4条を却下するためには,ジェファソンの権威のみならず,マッカーサー元帥の決裁も必要だったのでしょう。

 

(3)将来の改正を禁止する条文の書き方

 

ア ヴァジニア信教自由法最終節

 憲法制定権者自らによる基本的人権の制限又は廃棄を憲法によって無効とすることはできないとしても,憲法制定権者に何らかの歯止めをかけるための条文は考えられないか,ということが次の問題となったことでしょう。しかし,これはなかなか難しい。またジェファソンの例になりますが,彼が墓石に刻んで自慢したヴァジニア信教自由法(1777年ころジェファソンが起草。マディソンがヴァジニア邦議会で頑張って1786年1月16日に同邦の法律として成立したもの(なお,当時ジェファソンは駐仏公使)。)の最終節は次のようになっています。

 

 しかして,我々は,立法に係る通常の目的のみをもって人民によって選出されたこの議会は我々のものと同等の権限を有するものとして構成される後続の議会の行為を制限する何らの力を有するものではなく,したがって,この法律は不可侵である(irrevocable)と宣言することには法的効力は無いということを十分承知しているものであるが,この法律において表明された権利は人類の自然権に属するものであること,及びこの法律を廃止し,又はその適用を縮減する法律が今後議決された場合には,そのような法律は自然権に対する侵害であることを宣言する自由を有し,かつ,宣言する。

 

 どうも迫力不足ですね。やることを止める力も権限もないけど,悪口だけは事前に言っておくぞ,みたいですね。正直ではあるのでしょうが。

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  ジェファソンの墓(Monticello, VA)

イ 日本国憲法97

 これらに対して,日本国憲法97条は日本国憲法「草案中ノ傑作トシテ米国ニ於テモ評判良ク」,ホイットニー局長も「得意」だったといいますが,どういうことでしょうか。以下,97条を分析してみましょう。

 なお,基本的人権を制限し,又は廃棄する憲法改正を行う者として人権委員会案第4条が窮極的に警戒していた対象は,論理的には憲法制定権者,すなわち主権者たる日本国民ということになるようです(独裁者は最初から独裁者ではなく,まず,主権者国民の名において,喝采とともに独裁権を掌握するものでしょう。)。

 

(ア)信託構成

 まず,憲法97条における「信託」は,「与へる」の単なる言い換えではなく,実際に信託ないしはそれに類似の「神聖な信託」であるものと考えましょう。憲法11条後段との最大の相違はここにあるようだからです。

 信託であるとすると,そこには,信託をする「委託者」(信託法2条4項),信託の目的の達成のために必要な行為をすべき義務を負う「受託者」(同条5項)及び受益権を有する「受益者」(同条7項)がいることになります。憲法97条ではそれぞれがだれに当たるのでしょうか。法学協会の『註解日本国憲法』(有斐閣・1953年・1954年)及び佐藤功教授(『憲法〔新版〕下(ポケット註釈全書)』(有斐閣・1984年))がこの問題を取り扱っています。

 

(イ)信託の委託者

 委託者としては,法学協会の『註解日本国憲法』は「神」とし,佐藤功教授は「天または神あるいはこの憲法そのもの」又は「人類」としているそうです(樋口陽一・佐藤幸治・中村睦男・浦部法穂『注解法律学全集4 憲法Ⅳ[76条~第103]』(青林書院・2004年)327頁(佐藤幸治執筆))。

 しかし,「人類」が委託者ということになると,そこでの「人類」代表はマッカーサー元帥さまやGHQさまや全人類の自由のさきがけたる米国民さまということになってしまわないのでしょうか。また,GHQ民政局内の人権委員会原案第2条の不採択についてさきに見たように,同局としては日本国憲法における国民の権利は「憲法が保障する権利」であるものと考えていたようですから,「神」や「天」にまで遡る必要は必ずしもないのではないでしょうか。

 

(ウ)信託の受託者

 受託者としては,『註解日本国憲法』は「現在及び将来の日本国民」,佐藤功教授は「現在及び将来の日本国民」又は「個々の日本国民」(後者は,委託者が「人類」の場合)としています(樋口等・327頁(佐藤幸治執筆))。

 憲法97条後段の「現在及び将来の国民」に対して信託されているのですが,ここでの「現在及び将来の国民(this and future generations)」は,個々の国民と対立する憲法制定権者たる日本国民ではないでしょうか。信託構成で縛られる者は受託者であるところ,ここでの信託構成は憲法制定権者を縛って基本的人権を制限又は廃棄する憲法改正を妨げるために採用されたものと考えてみているところですから。

 

(エ)信託の受益者

 受益者は,『註解日本国憲法』は「人類一般」,佐藤功教授は「人類一般」又は「日本国民全体」(後者は,委託者が「人類」,受託者が「個々の日本国民」の場合)としています(樋口等・327頁(佐藤幸治執筆))。

 「日本国民は,その生命,自由及び幸福追求に対する権利を挙げて信託の受益者たる「人類一般」のために奉仕せよ。すなわち具体的には,人類の自由獲得の努力の先頭に立つアメリカ合衆国のたたかいに協力奉仕せよ。」ということにでもなれば昨今の「平和安全法制」をめぐる議論も面白くなるのですが,日本の庶民としては,自分の基本的人権を海の向こうの「人類一般」なる抽象的なもののために捧げるということは,どうも難しいようです。「すべて国民は,個人として尊重される」のですから(憲法13条前段),受益者は,素直に,個々の国民でよいように思うのですが,どうでしょうか。

 

(オ)信託構成による図式

 個々の国民を受益者として,憲法制定権者たる日本国民を受託者として基本的人権が信託される一方(なお,委託者と受託者とが同一人である自己信託について信託法3条3号参照),当該信託の目的は,基本的人権が"to be held for all time inviolate"であるようにすること,すなわち,個々の国民に受益させつつ基本的人権が「永久に侵されないようにすること」(基本的人権を侵害する憲法制定権力の行使をしないこと)とすることが憲法97条の意図する図式であると考えることはできないでしょうか。「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて,これらの権利は,過去幾多の試錬に堪へ」の部分は,かかる煩瑣な図式(しかも,必ずしも実効性があるとはいえない)を特に設定せざるをえなくなったので,その理由までを示す必要があったということでありましょう。なお,この部分は,1946年2月8日の会議でのロウスト中佐の口吻を髣髴とさせます。

 信託の受託者による権限違反行為は直ちには無効ではないので(信託法27条等参照),憲法97条も,憲法制定権者たる日本国民による憲法制定権力行使であって基本的人権を制限し,又は取り消すものを直ちに無効とするものではないでしょう(そもそも,受益者たる個々の国民は,憲法制定権者たる受託者・日本国民のしたことを認めざるを得ないでしょう。)。「神聖な」信託であれば,なおさら法的義務違反というわけでもないでしょう。しかし,憲法制定権力の行使を制約するための文言としては,ヴァジニア信教自由法の最終節式のものよりも気が利いているようです。現在の憲法で将来の世代までをも信託の受託者とすることはできないではないか,というようなそもそも論的な批判もあり得るのでしょうが,そこは「神聖な」信託なのでしょう(いずれにせよ最初の一世代さえ無事にもてば,日本国憲法も安定するだろうとの見切りもあったかもしれません。)。

 なお,1946年3月6日の憲法改正案要綱第94項では日本国憲法の現行97条と99条とが一体のものとされていましたが,これは,前段の憲法97条における信託の受託者たる憲法制定権者たる日本国民が,信託の目的の達成のために必要な行為として,後段の憲法99条によって,更に憲法の尊重擁護義務を天皇以下の各国家機関に課したということでしょう(なお,前記のとおり,1946年2月8日にハッシー中佐は「人民は自らの設立に係る国会に反対する権利を有しない」と発言していますから,あらかじめ国会等を縛っておかなければならないということであったのでしょう。)。憲法改正の発議権を持つ国会(憲法96条1項)の国会議員までが憲法尊重擁護義務を負う者に含まれていますから,憲法改正権の行使によって「この憲法が日本国民に保障する基本的人権」を制限し,又は取り消す憲法改正はされないことになるということだったのでしょう。

 


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1 2015年4月の日米防衛協力のための指針と米国からの電子メール
 

(1)米国内での報道

 今年(2015年)4月末の安倍晋三内閣総理大臣の米国訪問に際して米国ABCのウェッブサイトに「米日防衛協定:中国に対する懸念の中,日本軍により幅広い役割を認める「歴史的」な新ルール」(US-Japan defence deal: Historic new rules to allow Japanese forces wider role amid concerns over China)と題するニュース記事が掲載されました。

 そこでは,「改訂されたガイドラインにおいては,日本は,第三国から脅威を受けている米国軍のために来援することができ,又は,例えば,中東地域での活動のために掃海艇を派遣することができる。」(Under the revised guidelines, Japan could come to the aid of US forces threatened by a third country or, for example, deploy minesweeper ships to a mission in the Middle East.)と報ぜられています。これに対して従前のルールでは,「日本軍は,日本を直接防衛する行動をしている米国兵のみを支援することができた」(Under the previous rules, Japanese forces could assist American troops only if they were operating in the direct defence of Japan.)ものにすぎなかったとされるところです。米国のケリー国務長官は,共同記者会見において,「本日(2015年4月27日),我々は,日本が自国の領土のみならず,必要であれば米国及び他のパートナーをも防衛する権能を確立したことを確認するものであります。」("Today we mark the establishment of Japans capacity to defend not just its own territory, but also the United States and other partners as needed.)と発言したとされています。


(2)米国からの電子メール

 このニュースを読んだ米国人の知人から早速電子メールが届きました。



  どのようにして事態は変わったものやら。今や日本は,米国が第三者によって攻撃されたときには来援してくれるし,中東での
○○対策で私たちを助けてくれるのですね。

 

 実はいささか返事に困っているところです。
 

(3)日米防衛協力のための指針

 2015年4月27日の日米防衛協力のための指針The Guidelines for Japan-U.S. Defense CooperationⅣ章「日本の平和及び安全の切れ目のない確保」(Seamlessly Ensuring Japan's Peace and Security)のD「日本以外の国に対する武力攻撃への対処行動」(Actions in Response to an Armed Attack against a Country other than Japan)には,「自衛隊は,日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し,これにより日本の存立が脅かされ,国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態に対処し,日本の存立を全うし,日本国民を守るため,武力の行使を伴う適切な作戦を実施する。」とあります。米国が第三者(a third party)によって攻撃されたときの我が自衛隊の米国来援は,この部分に基づいてされるのでしょう。英文では次のとおりです。

     The Self-Defense Forces will conduct appropriate operations involving the use of force to respond to situations where an armed attack against a foreign country that is in a close relationship with Japan occurs and as a result, threatens Japan's survival and poses a clear danger to overturn fundamentally its people's right to life, liberty, and pursuit of happiness, to ensure Japan's survival, and to protect its people. 


(4)ワシントン陥落の場合における我が国の存立いかん

 しかし,コロンビア特別区ワシントンに向けて第三国軍の兵士がその南東方面の上陸地点から進軍し,迎え撃つ米国大統領直率の民兵等部隊はあえなく敗走して当該第三国軍の首都侵入を許し,同大統領夫人は初代大統領の肖像画を抱えてほうほうの態でホワイト・ハウスを脱出し,侵入軍兵士らは残された大統領官邸正餐の食事に舌鼓を打った上で上機嫌をもって同官邸等の政府庁舎に放火したからといって,我が日本国の存立が脅かされるわけでもなければ,日本人の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があったわけでもないでしょう。少なくとも光格天皇の御代たる文化十一年(1814)夏の我が国は,百姓一揆等はあれども,天下泰平でありました(征夷大将軍は徳川家斉)。


2 我が国における安全保障法制の整備に向けた動き


(1)
2014年7月1日閣議決定

 前記日米防衛協力のための指針Ⅳ章Dの部分は,2014年7月1日の閣議決定「国の存立を全うし,国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」の3(3)における次の部分に対応するものと解されます。いわく,「・・・我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず,我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し,これにより我が国の存立が脅かされ,国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において,これを排除し,我が国の存立を全うし,国民を守るために他に適当な手段がないときに,必要最小限度の実力を行使することは,従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として,憲法上許容されると考えるべきであると考えるに至った。」(英訳では,...the Government has reached a conclusion that not only when an armed attack against Japan occurs but also when an armed attack against a foreign country that is in a close relationship with Japan occurs and as a result threatens Japan's survival and poses a clear danger to fundamentally overturn people's right to life, liberty and pursuit of happiness, and when there is no other appropriate means available to repel the attack and ensure Japan's survival and protect its people, use of force to the minimum extent necessary should be interpreted to be permitted under the Constitution as measures for self-defense in accordance with the basic logic of the Government's view to date.


(2)武力攻撃事態等法等の改正法案等

 2015年5月14日に閣議決定された「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案」の予定する改正後の武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(平成15年法律第79号。以下「改正武力攻撃事態等法」)の改正2条4号は「存立危機事態」を「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し,これにより我が国の存立が脅かされ,国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態をいう。」と規定しています。

 前記2014年7月1日閣議決定の「他に適当な手段がないときに,必要最小限度の実力を行使すること」の部分に対応するものとしては,改正武力攻撃事態等法改正9条2項1号ロが,武力攻撃事態等又は存立危機事態に至ったときに政府が定める対処基本方針(同条1項。内閣総理大臣が案を作成して閣議決定を受け(同条6項),更に国会の承認を承ける(同条7項)。)においては「事態が武力攻撃事態又は存立危機事態であると認定する場合にあっては,我が国の存立を全うし,国民を守るために他に適当な手段がなく,事態に対処するため武力の行使が必要であると認められる理由」を定めるものとし,同法改正3条4項は「存立危機事態においては,存立危機武力攻撃を排除しつつ,その速やかな終結を図らなければならない。ただし,存立危機武力攻撃を排除するに当たっては,武力の行使は,事態に応じ合理的に必要と判断される限度においてなされなければならない。」と規定しています。

 存立危機事態においては,対処基本方針の定めるところに基づき,内閣総理大臣は国会の事前の承認を受け,又は特に緊急の必要があり事前に国会の承認を得るいとまがないときは当該承認なしに,自衛隊法76条1項の防衛出動を命ずることができるとされています(改正武力攻撃事態等法9条4項)。自衛隊法76条1項の規定により出動を命ぜられた自衛隊は,我が国を防衛するため,必要な武力を行使することができることはもちろんです(同法88条1項)。

 米「国に対する武力攻撃が発生し,これにより我が国の存立が脅かされ」るという事態における政府の対処基本方針においては,次のような文言が見られることになるのでしょうか。



・・・帝国ノ重ヲ米国ノ保全ニ置クヤ一日ノ故ニ非ス是レ両国累世ノ関係ニ因ルノミナラス米国ノ存亡ハ実ニ帝国安危ノ繋ル所タレハナリ然ルニ・・・某国ハ既ニ帝国ノ提議ヲ容レス米国ノ安全ハ方ニ危急ニ瀕シ帝国ノ国利ハ将ニ侵迫セラレムトス事既ニ茲ニ至ル帝国カ平和ノ交渉ニ依リ求メムトシタル将来ノ保障ハ今日之ヲ旗鼓ノ間ニ求ムルノ外ナシ政府ハ汝有衆ノ忠実勇武ナルニ倚頼シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス

  
  20世紀初頭風の文章ですが,これではまだ,存立危機事態の認定には足りないでしょうか。なお,「我が国と密接な関係にある他国」は,米国だけではないでしょう。


3 存立危機事態


(1)我が国の存立と生命,自由及び幸福追求の権利

 しかし,「他国に対する武力攻撃が発生し,これにより我が国の存立が脅かされ,国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」との存立危機事態の定式における前半部分と後半部分との関係は分かりにくいところです。「我が国の存立が脅かされ」,かつ,「国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があるときにのみ存立危機事態が認定されるとすると,「国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があっても「我が国の存立が脅かされ」なければ自衛隊の防衛出動はないわけですが,「我が国の存立が脅かされ」ても「国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」が無い場合も存立危機事態ではないことになり,自衛隊の防衛出動はないということでよいのでしょうか。

 この点2015年5月15日付けの自由民主党安全保障法制整備推進本部「切れ目のない「平和安全法制」に関するQ&A」の「答40」では,「存立危機事態」とは,「他国に対する武力攻撃が発生した場合において,そのままでは,すなわち,その状況の下,武力を用いた対処をしなければ,国民に我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な,深刻,重大な被害が及ぶことが明らかな状況」をいうものであって,「事態の個別具体的な状況に即して,主に攻撃国の意思,能力,事態の発生場所,その規模,態様,推移などの要素を総合的に考慮し,我が国に戦禍が及ぶ蓋然性,国民が被ることとなる犠牲の深刻性,重大性などから客観的,合理的に判断する」ものとされています。「我が国の存立」に対する脅威には直接言及されていません。また,急迫性も明示的には要件にされていないようです。


(2)自衛権と生命,自由及び幸福追求の権利

 前記2014年7月1日閣議決定は,その3(2)において,憲法13条の「生命,自由及び幸福追求の権利」に言及します。いわく,「憲法9条はその文言からすると,国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えるが,憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法13条が「生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると,憲法9条が,我が国が自国の平和と安全を維持し,その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されない。一方,この自衛の措置は,あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫,不正の事態に対処し,国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり,そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容される。これが,憲法第9条の下で例外的に許容される「武力の行使」について,従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹,いわば基本的な論理であ」ると。


(3)アメリカ独立宣言における生命,自由及び幸福追求の権利と抵抗権

 憲法13条の「生命,自由及び幸福追求の権利」は,1776年のアメリカ独立宣言に由来します。

     We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal; that they are endowed by their Creator with certain inalienable rights; that among these, are life, liberty, and the pursuit of happiness. That, to secure these rights, governments are instituted among men, deriving their just powers from the consent of the governed; that, whenever any form of government becomes destructive of these ends, it is the right of the people to alter or to abolish it, and to institute a new government...     

 (我々にとって,以下の真理は自明のことである。すなわち,全ての人は平等に創造されていること。彼らは,彼らの造物主によって,一定の不可譲の権利を付与されていること。それらの権利のうちには,生命,自由及び幸福の追求があること。政府は,当該権利を確保するため,被治者の同意にその正当な権限を基礎付けられつつ,人々の間に設立されるものであること。いかなる形体の政府であっても,これらの目的に対して有害となったときにはいつでも,これを変更又は廃止し,及び新たな政府を設立することは人民の権利であること。)

 「生命,自由及び幸福追求の権利」は,北アメリカ植民地人のジョージ3世の英国政府に対する叛逆を,抵抗権の行使として大義付けるために持ち出されたものでした。

 さて,そうであれば,「すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。」との我が憲法13条の規定(All of the people shall be respected as individuals. Their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extend that it does not interfere with the public welfare, be the supreme consideration in legislation and in other governmental affairs.)を,そのそもそも由来するアメリカ独立宣言風に理解すると,「各個人の生命,自由及び幸福追求の権利を政府が尊重しないと,ジョージ3世の政府に対して北アメリカ植民地人がしたように,抵抗権が発動されて独立革命を起こされても文句は言えないぞ。すなわち国家の存立が脅かされるぞ。」ということになるでしょうか。物騒な条文です。

 なお,アメリカ独立宣言には,ジョージ3世の秕政として,植民地議会の同意なしに平時に常備軍を駐屯させたこと(He has kept among us, in time of peace, standing armies, without the consent of our legislatures.)及び軍を市民の政府から独立し,かつ,優越するものとしようとしたこと(He has affected to render the military independent of, and superior to, the civil power.)が挙げられています。北アメリカ植民地人は,自分たちの防衛のためには本国の常備軍になど頼らず,自ら武器を所持しつつ,民兵組織で対処するつもりだったのでしょう。(とはいえ,アメリカ独立戦争においてはルイ16世のフランス王国と同盟し,フランス軍の来援を受けていますが。)

 抵抗権は,権利であるばかりではなく,その行使が義務である場合もあるとされます。再びアメリカ独立宣言。

     ...But, when a long train of abuses and usurpations, pursuing invariably the same object, evinces a design to reduce them* under absolute despotism, it is their right, it is their duty, to throw off such government and to provide new guards for their future security...(* このthemmankindを受ける。)

 (しかしながら,長期の連続した権限の濫用及び簒奪が,一貫して同一の目的を追求し,人類を絶対的専制の下へ引き下ろそうとする意図を明らかにするときにあっては,そのような政府を投げ棄て,彼らの将来の安全のための新たな防護を講ずることは,彼らの権利であり,義務である。)

 ジョージ3世治下の英国のような悪の帝国による世界征服(world conquest)ノ挙は,国民の生命,自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険であって,それに対して積極的に抵抗する権利(英国臣民ならば抵抗権ですが,外国人にとっては自衛権ということになるのでしょう。)を行使するのが,生命,自由及び幸福追求の権利を有する人たるものの権利であり,かつ,義務であるということになるようです。

 ルイ16世は,このような高邁な考えを持っていたのでしょうか。

 しかし,アメリカ独立戦争の支援等によってルイ16世の政府の財政は破綻し,やがてフランス革命が起きて1792年9月には王制廃止,1793年1月21日にルイ16世は処刑されてしまいます(かくして一つのレジームからの脱却がされたわけです。)。財政的に無理がある国がアメリカに肩入れするのは剣呑ですね。戦費調達が大変です。そのために国債を発行した場合,国債が値崩れしないかどうか。

 ところで,アメリカ独立宣言の起草者ジェファソンは,やがて国王の処刑に至る血なまぐさいフランスの動向に対して冷静でした。1793年1月3日付けのジェファソン国務長官のウィリアム・ショート(駐ハーグ米国公使)あて書簡にいわく。



 ・・・全地上の自由は,この抗争の結果いかんにかかっていたのです。そして,このような貴重な獲得物が,かつてこれほど少ない無辜の血によってあがなわれたことがあったでしょうか。私自身の愛情は,この大義のための殉難者らによって深く傷つけられています。しかし,それが失敗するのを見るよりは,地上の半分が無人の地となるのを見る方がましです。それぞれの国にアダムとイヴとだけが残されることになっても,自由な者として残されるのならば, 今よりましなのです。・・・

 
  同年3月24日付けの同郷(ヴァジニア)の後輩マディソン(1814年夏の米国大統領)あて書簡において,ジェファソンは,ある夕食会でルイ16世の処刑が話題になったことを取り上げていますが,同席者の政治的傾向の分析(最左翼のジャコバン支持者から最右翼の貴族政論者まで各人をその傾向に従って順番付けた。)を書くためのものだったようです。アメリカ独立革命の恩人の死に対して,ジェファソンは冷淡ですね。

 「人命は地球より重い。」とか,「国民の命と平和な暮らしを守り抜く。」などと考えていた人ではないようですね。実際ジェファソンは,1787年1月30日付けのマディソンあてのパリからの書簡において,マサチューセッツ邦でのシェイズの叛乱を論じつつ,叛乱が起こることはよいことだとまで言っています。いわく,「小さな叛乱が時々起こることはよいことであり,物質界において嵐がそうであるように,政治の世界において必要なものだと思います。失敗に終わった叛乱は,実際のところ,その原因となった人民の権利に対する制限(incroachments)を確立(establish)するのが一般です。この真理の認識は,叛乱を過度に抑制(discourage)しないように,正直な共和国の知事ら(honest republican governors)を,叛乱の処罰において穏和にすべきものです。これは,政府の健全性のために必要な薬なのです。」


(4)存立危機事態認定要請への対処

 存立危機事態の認定をするよう米国から要請があることもあるのでしょう。

 前記自由民主党Q&Aの「答12」には,「平和安全法制の整備は,国民の命と平和な暮らしを守り抜くために,我が国として主体的に取り組んでいるものです。我が国の存立と国民の命や平和な暮らしに関係のない集団的自衛権の行使の要請が,仮に米国からあったとしても,断るのは当然のことです。」とあります。

 しかし,そのようにピシャリとはねつけることができるような明らかに無理無体な要請ではない,それなりの理屈付けがされた要請が来ると面倒ですね。第一次世界大戦中の欧州派兵要請への対処問題の再演ということになりましょうか。

http://donttreadonme.blog.jp/archives/944591.html

 米国側にそれなりの期待を持たせてしまっているということでもあると,厄介ですね。

 なお,前記日米防衛協力のための指針の第Ⅳ章Dには,「日米両国が,各々,米国又は第三国に対する武力攻撃に対処するため,主権の十分な尊重を含む国際法並びに各々の憲法及び国内法に従い,武力の行使を伴う行動をとることを決定する場合であって,日本が武力攻撃を受けるに至っていないとき,日米両国は,当該武力攻撃への対処及び更なる攻撃の抑止において緊密に協力する。共同対処は,政府全体にわたる同盟調整メカニズムを通じて調整される。」とあります。同盟調整メカニズムまで用意されているのですから,米国からの要請をそう容易に振り切ることはできないでしょう。


 結局,米国の知人からの電子メールに対する返信の内容は,国会での議論を見ながら考えるということになりました。


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1 1860年春のカリフォルニア州における福沢諭吉のワシントンの「子孫」問答

 福沢諭吉の『福翁自伝』(1899年)に,次の有名なくだりがあります。

 時は1860年3月18日(安政七年二月二十六日)ないしは5月9日(万延元年閏三月十九日),所はアメリカ合衆国カリフォルニア州(1848年3月メキシコから割譲。1850年9月州昇格)のサン・フランシスコ又はその近郊(咸臨丸の一行はサン・フランシスコ近傍メールアイランドの米国海軍港官舎に止宿)。

 

  ところで私がふと胸に浮んである人に聞いてみたのは,ほかでない,いまワシントンの子孫はどうなっているかと尋ねたところが,その人の言うに,ワシントンの子孫には女があるはずだ,いまどうしているか知らないが,なんでもだれかの内室になっている様子だと,いかにも冷淡な答でなんとも思っておらぬ。これは不思議だ。もちろん私もアメリカは共和国,大統領は4年交代ということは百も承知のことながら,ワシントンの子孫といえばたいへんな者に違いないと思うたのは,こっちの脳中には源頼朝,徳川家康というような考えがあってソレから割り出して聞いたところが,いまのとおりの答に驚いてこれは不思議と思うたことはいまでもよく覚えている。理学上のことについては少しも肝をつぶすということはなかったが,一方の社会上のことについては全く方角がつかなかった。(テキストは,慶応義塾創立百年記念版(1958年)104頁)

 

 これは質問がよろしくないです。日本人のアメリカ合衆国理解に,若干の不正確を生じさせたように思われる問答です。また,サン・フランシスコ(又はその近傍)の「ある人」も,親切なようでいて知ったかぶりはいけない。「いかにも冷淡」だったのは,知識が必ずしも十分ではなかったゆえでしょう。

 アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンには子どもが生まれませんでした。子どものいないワシントンの「子孫」について訊かれても,本来答えようがありません。

 

2 初代アメリカ合衆国大統領にとっての子の不在の意味

 実は,子どもがいなかったからこそ,ワシントンが初代大統領に選ばれたふしがあります。

 

  ワシントンが大統領になるべきだとの輿論は,彼の英雄的行動,彼の無私の愛国心及び戦時の統帥権を進んで返上した彼の意志から生じた。もう一つの――大きなものではないにしても――要因は,彼には見たところ生殖能力が欠けており(apparent sterility),かつ,子どもがいないことであった。このことは,彼は,神意によって,彼の国の国父(the Father of His Country)となるべき清浄なる地位(immaculate state)に定められているように思わせるものであった。1788年3月に「マサチューセッツ・センティネル」紙は,ワシントンを選出すべき理由を枚挙して掲載したが,その中には「息子がいない――したがって,世襲の後継者という危険に我々をさらすことがない」というものが含まれていた。このことは,諸君主が政略結婚を当然のこととし(routinely made dynastic marriages),また,欧州列強による新しい共和制政府の転覆を人々がおそれていた当時にあっては,もっともな懸念であった。ジョン・アダムズは,ジェファソンに対して,ワシントンが子どものいない大統領となることに覚えた安堵について述べている。「ワシントン将軍に娘がいたら,フランスかイングランドの王室,若しくはおそらく両方から,求婚されたものと私は堅く信じます。また,もし彼に息子がいたら,彼は花嫁さがしの旅にヨーロッパに招待されたことでしょう。」と。ワシントンに出馬を説得するため,彼に子どもがいない事実を示唆しつつ,グーヴェルヌール・モリスは茶目に言った。いわく,「あなたは三百万人を超える子どもらの父になるのですぞ。〔178812月6日付け書簡〕」(Chernow, Ron. Washington: a life. Penguin, 2010. pp.549-550

 

ワシントンに子どもができなかったのは,マーサ夫人に原因があったのか,ワシントン自身の若いころの病気によるものか,議論があるようです。

 

・・・この子どもの生まれなかった婚姻について説明する多くの仮説(theories)が提示された。マーサは,彼女の最後の子であるパッツィー(Martha Parke Custis)の分娩の際に傷害を負い,その後の出産が不可能になったのかもしれない。ジョージの若いころの天然痘又は他の病気が, 彼から生殖能力を奪ったのではないかと考える学者もいる。・・・(Chernow, p.103

 

 ワシントンと結婚した時(1759年1月6日),マーサ・ダンドリッジは二人の子持ちの富裕な未亡人でした(亡夫はDaniel Parke Custis)。二人の連れ子のうち,兄のジャッキー(John Parke Custis)は,178110月のヨークタウン戦に参加しますが陣中で病を得て翌11月に幼い3人の娘と一人の息子(George Washington Parke Custis)を残して死亡しました。妹のパッツィーは,てんかんに苦しんで早逝しています。

 
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ヴァジニア州マウント・ヴァーノンのワシントン邸
 

3 息子の不在と人妻:初期アメリカ合衆国大統領の妻子について

 

(1)息子の不在

どうもアメリカ合衆国大統領は,息子と縁のない人物が多いようです。福沢諭吉の渡米時までに2期8年を務め上げた大統領はワシントンのほか次の4名がいますが,みな男児には恵まれていません。

 第3代(18011809年)のジェファソンには娘はいましたが,アメリカ独立宣言起草後の9月にジェファソンがMonticelloの妻のもとに戻った時に懐胎され,1777年5月28日に生まれたただ一人の息子は,洗礼を受ける間もなく死亡してしまいました(Randall, Willard Sterne. Thomas Jefferson: a life. HarperPerennial, 1994 (H. Holt, 1993). pp.282, 305)。

第4代(1809年‐1817年)の虚弱なマディソンには子どもがありませんでした。

第5代(18171825年)のモンローの一人息子は夭折しています。

第7代(18291837年)の武闘派ジャクソンにも子どもがいませんでした。

 

(2)人妻ないしは未亡人

 ちなみにこれらの大統領は,5代目のモンローを除いて,人妻であった女性と結婚しています。

ジェファソン夫人もマーサですが,また未亡人でもありました(亡夫はBathhurst Skelton)。マディソン夫人のドリーも未亡人で(亡夫はJohn Todd),連れ子のジョン・ペイン(John Payne Todd)は浪費家となってマディソン家の頭痛の種になりました。ジャクソン夫人のレイチェルもジャクソンと婚姻する前から人妻でした(夫はLewis Robards)。文字どおりの人妻で,レイチェルに懸想しているジャクソンが「おれにこんな素敵な女房がいたら,かわいい瞳に涙を浮かべさせるようなことをわざわざしたりはしないぜ。」と言えば,「ほう,多分な・・・けれど,あの女はてめえの女房じゃないよ。」と亭主のロバーズが言い返すという西部劇的場面もテネシーはナッシュヴィルの街であったそうです(Meacham, Jon. American Lion. Random House, 2008. p.22)。ジャクソン夫妻は,妻の前夫との離婚が法的に完了する前に結婚してしまい,その後不倫・重婚の非難に悩まされることになりました。1828年の大統領選挙の時のネガティヴ・キャンペーンは大変なもので,心痛のレイチェル夫人は,ジャクソンの大統領当選後,ホワイト・ハウス入りすることなく亡くなりました。

 

4 福沢諭吉のワシントンの「子孫」架空問答

 

(1)ヴァジニア州編

 ところで,1860年の春,福沢諭吉が太平洋岸のカリフォルニア州ではなく,首都ワシントンに隣接する南部のヴァジニア州(アーリントン付近)にいたらどうだったでしょうか。

 

  ・・・私がふと胸に浮んである人に聞いてみたのは,ほかでない,いまワシントンの子孫はどうなっているかと尋ねたところが,その人の言うに,ワシントンにはそもそも子どもが生まれなかった,ただ内室の連れ子から,男児の孫が一人いて,それに女(むすめ)がある,その女がいまどうしているかといえば,メキシコとの戦争で手柄を立て,去年当州のハーパーズ・フェリーで黒人奴隷解放の叛乱の陰謀を粉砕した当州出身のロバート・リーという陸軍軍人の内室になっていると。なるほどワシントンの縁者だけあって武門の家柄のようだ。・・・

 

 ロバート・E・リー将軍は,1861年からの米国の南北戦争において,南軍の総司令官になる人物ですね。妻は前記のGeorge Washington Parke Custisの娘です。

 

(2)マサチューセッツ州編

 それではヴァジニア州ではなく,北東部ニュー・イングランドのマサチューセッツ州(ボストン近辺)だったらどうでしょうか。

 

  ・・・私がふと胸に浮んである人に聞いてみたのは,ほかでない,いまワシントンの子孫はどうなっているかと尋ねたところが,その人の言うに,ワシントンには子どもが生まれなかったと。こっちの脳中には源頼朝,徳川家康というような考えがあってソレから割り出して聞いたところがいかにも淡泊な答で拍子抜けだ。これは参った。そこで初代に子孫がいないのなら,2代目はどうかと聞いてみたところが,その人が嬉しそうに言うには,2代目大統領はアダムズというが,当地の出身で,その同名の長男は6代目の大統領になったと。6代目も今は亡くなったが,その息子も政事家であって,黒人奴隷の解放を主張する党派に属して大統領の札入れの際副大統領候補に推されたことがあり,現在は当地からの代議員としてワシントン府で公議に参与している,これもナカナカの人物だという。これは不思議だ。私は,アメリカは共和国,大統領は4年交代ということを承知していたが,アメリカでも大統領の子が大統領になるということで,いまのとおりの答に驚いてこれは不思議と思うたことはいまでもよく覚えている。理学上のことについては少しも肝をつぶすということはなかったが,一方の社会上のことについてはそれまで全く方角がつかなかったのだけれども,子は親に似て親の稼業を継ぐものであるということは不思議なことにやはり東西変わらぬものだと思うたわけだ。

 

2代目のジョン・アダムズと区別するため,6代目はジョン・クインジー・アダムズ又はジョン・Q・アダムズと表記されることになります(6代目はQですが,41代目H.Wの子の43代目はWですね。)。ジョン・クインジー・アダムズの人となりについては,「少年期から(あるいは外交官であった父に随行しあるいは単独で留学して)しばしばヨーロッパで生活し,アメリカに帰ってはハーヴァード大学を卒業し,11歳の時から名文で自己反省に満ちた日記をつけ,大統領となってからも早朝4時に起きて読書を楽しんでいた物静かで学究的」な人物であったと紹介されています(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)258頁)。

6代目大統領ジョン・Q・アダムズの息子で1860年当時マサチューセッツ州選出の連邦下院議員(1858年当選)をしていたのは,三男のチャールズ・フランシスです。チャールズ・フランシスが,奴隷制の新しい州への拡大に反対する自由土地党(Free Soil Party)から副大統領候補として,同党の大統領候補である元大統領(8代目)ヴァン・ビューレンと共に出馬したのは,1848年の大統領選挙です。チャールズ・フランシス・アダムズは,南北戦争中には,リンカン大統領に駐英公使に任命されて活躍しています(なお,祖父のジョン及び父のジョン・クインジーも駐英公使経験者でした。)。

 

5 米国における自然の貴族

 

(1)ジェファソン書簡

米国にも名家名門というものがあるのですね。4代目マディソン大統領時代の1813年,ジョン・クインジーの父にしてチャールズ・フランシスの祖父たる前々大統領ジョン・アダムズあての書簡(同年1028日付け)において,前大統領トーマス・ジェファソンは,自然の貴族(natural aristocracy)と人造の貴族(artificial aristocracy)に関して次のように論じています。

 

 ・・・というのは,私は,人々の間には自然の貴族がいるのだということについてあなたに同意するからです。徳と才と(virtue and talents)に基づくものです。・・・また,徳も才もないのではあるが,富と家柄と(wealth and birth)に基づいた人造の貴族もいます。・・・社会の教化,信託及び統治のため,自然の貴族は,自然の与える最も貴重な賜物であると思います。・・・政府の官職にこれら自然の貴族たち(natural aristoi)をこそ選任するために最も効果的な方策を講じた政府の形体が最善のものであるとまで,我々は言わないものでしょうか。人造の貴族は,政府にとって有害な分子であって,その進出を抑える方策が講じられるべきです。何が最善の方策かという問題においては,あなたと私の意見は分かれます。・・・あなたは,擬似貴族(pseudo-aristoi)を立法府の一院に置くのが最善だと考えています。そこでは,彼らの策謀は他の部門(co-ordinate branches)によって妨げられるのでしょうし,また,彼らは人民の多数による土地分配的かつ収奪的な試みに対する富のための防壁となるのでしょう。私の方は,彼らの策謀を抑えるために彼らに権力を与えることは,そのために彼らを武装させるものであり,害悪を匡正するのではなくかえって増大させるものだと考えます。というのは,他の部門が彼らの行動を停止させることができるのならば,彼らも他の部門に対して同じことができるだろうからです。策謀は,積極的にのみならず,消極的にも行い得るものです。このことについては,合衆国元老院(Senate)における一徒党が多くの証拠を提供しています。富者を守るために必要だとも思われません。すなわち,彼らのうちから十分な数の者が,彼ら自身を守るため,立法府の全ての部門に入り込むことだろうからです。・・・最善の解決策は,正に全ての我々の憲法において講じられているところのものであると考えます。すなわち,市民に,自由な選挙及び擬似貴族からの貴族のより分け,小麦のもみ殻からのより分けを委ねることです。一般的に,彼らは真に善い者及び賢い者を選ぶものです。時には富が彼らを腐敗させ,家柄が彼らの目を曇らせることがあるでしょう。しかしながら,社会を危険に陥らせるほどのものではありません。

  私たちの意見の相違は,ある程度は,我々の住む地域の人々の性格の相違に由来するものでもあるようです。私自身がマサチューセッツ及びコネチカットで見たところ,並びに更に私が聞いたところ,及び両州についてよりよく御存じのあなたが御自身の著作において示された前者の性格によりますと,これらの両州においてはいくつかの名家に対する伝統的な崇敬(traditionary reverence)があるようで,それによって政府の官職がこれらの名家にとって世襲のものに近いものになっているようです。あなたがたの歴史の初期の段階から,たまたまこれらの名家の人々は徳と才との所有者であって,人民の利益のためにそれらを公正に行使し,そして彼らの奉仕によって彼らの家名を人民にとって親しいものにしたものであると想像します。・・・しかしながら,あなたがたのもとにおけるこの官職の世襲的継承は,ある程度は真の一族の実力に基づくものでしょうが,より多くは,あなたがたのもとにおける政教の緊密な協調関係(your strict alliance of Church and State)に由来するものです。それらの名家は,人民の見るところにあっては,「あなたが私を掻き,私はあなたを掻いてあげよう。」との共通原則において列聖されているのです。我々のヴァジニアにあっては,そのようなことは全くありません。革命前,我々の聖職者たちは,固定給によって競争者から保護されていて,人民に対する影響力を獲得しようとする努力をしませんでした。富については,イングランドの継嗣限定法の下,世代から世代に受け継がれて特定の家への大きな集中が存在していました。しかしながら,富裕者の唯一の野心の目標は,政府の参議会(King’s Council)における議席でした。彼らは王冠とその取り巻きの機嫌ばかり伺っていました。・・・したがって,彼らは不人気でした。そして,その不人気は彼らの家名になおも付着しています。・・・独立宣言後最初に開かれた我々の議会の会期においては,継嗣限定法を廃止する法律を制定しました。長子の特権を廃止するとともに無遺言被相続人の土地を全ての子又は他の相続人に平等に分割するものとする法律が続きました。私自身によって起草されたこれらの法律は,擬似貴族(pseudo-aristocracy)の根本に大なたをふるったものです。そして,私の準備したもう一つの法案が議会によって採択されていれば,我々の仕事は完了していたところでした。それは,より全般的に知識を広めるための法案でした。・・・各学区に読み書き及び基礎的な算数のための無料の学校を設立するようにします。これらの学校から最優秀の生徒を毎年選抜するようにし,それらの生徒は公費でより高等な教育を地区の学校で受けることができるようにします。そして,これらの地区学校から,一定数の最も前途有望な生徒を選ぶようにし,全ての有益な科学が教授される大学において学業を完了させるようにします。このようにして,あらゆる境遇の中から,ふさわしい者及び天才が探し出され,公共の信託をめぐる競争において富と家柄とに基づく競争者を打ち倒すべく教育によって完全に準備されるのです。・・・聖職貴族(aristocracy of the clergy)を押さえ付けることによってこのシステムの一部をなすとともに市民に精神の自由を回復させた信教自由法並びに市民間の条件の平等を促進する継嗣限定及び不動産相続に関する各法律。この教育に関する法律は,人民大衆を,彼ら自身の安全及び秩序ある統治のために必要な道徳的立派さの高みにまで向上させるはずのものであって,偽者(pseudalists)を排除し,統治の信託のために真の貴族を選び得る資質を彼らに備えさせるという大目標を完結させるはずのものでありました。・・・

 貴族というもの(aristocracy)については,我々は更に次のことを考えなければなりません。すなわち,アメリカ各邦の成立前には,歴史において,狭く又は混雑した境界内にあくせくし,そのような環境がもたらす悪習に染まった旧世界の人間しか知られていなかったということです。そのような連中に適合する政府というものは一つあります。しかし,我らが各州の人間に適合する政府とは非常に異なったものです。こちらにおいては,そう望めば,だれもがそこで自らのために働くべき土地を取得することができます。また,他の仕事をするのが好みであれば,相当の生活(comfortable subsistence)ができるのみならず仕事をやめた老後に備えることもできるだけの収入をそこから得ることができます。全ての人が,彼の財産ないしは満足すべき境遇からして,法と秩序との擁護に利益を有しています。そして,そのような人々は,安全かつ有益に,彼らの公共事務に係る堅実な監理並びに,ヨーロッパの都市のごろつきどもの手に落ちたならば公私にわたる全てのものの解体及び破壊に直ちに変ぜられてしまうこととなるところの高度の自由までを自ら保持することができるのです。過去25年間のフランスの歴史及び過去40年,否,過去二百年間のアメリカの歴史は,この観察の双方の真実を証明してくれます。

 しかし,ヨーロッパでも,目立って人間の精神に変化が生じています。科学が,読みかつ考える人たちの考え方を解放し,アメリカの範例が,人民の権利の感情を喚起しました。続いて,軽蔑されるようになった地位及び家柄に対する,科学,才能及び勇気の叛乱が始まりました。それは,最初の試みにおいては失敗しました。というのは,その達成のために使われた道具たる都市の群衆(mobs)は,無知,貧困及び悪習によって堕落しており,理性的な行動の枠内にとどめることができなかったからです。しかしながら,世界はこの最初の惨害の恐慌から回復するでしょう。科学は進歩しつつあり,才能と企業心は覚醒しています。かれらの節操及び従順からしてより統御可能な勢力であるところの地方人民に対する働きかけがされることでしょう。そして,地位及び家柄並びに虚飾の貴族制度(tinsel-aristocracy)は,かの地においても小さなものとなって最終的に意義薄きものとなるでしょう。しかしながら,このことには,我々は介入する権利を有しておりません。我々にとっては,不忠実なしもべが企む策謀が取り返しのつかない段階に進む前に彼を取り除くことができるように短い期間を置いて行われるものとされた選挙制度の下,我々自身の市民の精神的及び物質的な条件(moral and physical condition)が,彼らを彼らの政府の運営のために有能かつ善良な者を選ぶことができるものと資格づけるものであれば,十分です。

私はこのようにして,我々の意見が相違する点について私の意見を申し述べましたが,これは論争のためではありません。研究及び思索に過ごした長い人生の結果である意見を変えるには,我々は齢を取り過ぎているからです。あなたの以前のお手紙にあった,我々は我々自身をお互いに説明する前には死ぬべきではない,との御提案に従った次第です。・・・

 

 181310月といえば,同月16日からのライプツィヒにおける「諸国民の戦いVölkerschlacht」でナポレオンは敗れ,フランス第一帝政は既に終末期となっていました。しかし,この段階ではジェファソンも,フランス革命は失敗だったと認めていたのですね。ワシントン政権内におけるアレグザンダー・ハミルトンとの抗争の際には,ジェファソンはフランス革命を支持していたはずであり,1792年に王政が廃止されて共和国となり過激化するフランス革命について,「全地上の自由は,この抗争の結果いかんにかかっていたのです。そして,このように貴重な獲得物が,かつてこれほど少ない無辜の血によってあがなわれたことがあったでしょうか。」,「かの地における停滞は,他の諸国における自由の回復を遅らせるでしょう。私は,彼らの政府の確立とその成功とを,我々自身の政府を支持し,かつ,それが英国的国制なる中途半端なものへ転落することを防ぐために必要なものであるとみなしています。」と言って弁護していたのですが(1793年1月3日付けWilliam Shortあて書簡。Randall, p.512)。

 
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ジェファソンを創立者とするヴァジニア大学 (ヴァジニア州シャーロッツヴィル)
 

(2)ジョン・アダムズ家の場合

 ジョン・アダムズの長男の第6代アメリカ合衆国大統領ジョン・クインジーは,徳と才とに満ちた自然の貴族(natural aristocrat)だったのでしょう。ところでそれでは,ジョン・クインジーの二人の弟たちはどのような人物だったのでしょうか。

 第2代大統領の次男のチャールズは,十代の半ばには既に両親の心配の種で,ハーヴァード大学の学部学生時代にはアルコール中毒(母方に,アルコール中毒で若くして死んだおじがいました。)の兆候を示しており,更に独立戦争の功労者ながら同性愛者であると見られていたフォン・シュトイベン将軍とニュー・ヨークで同居するなど一般的ならざる性癖を示していたようです(Ferling, John. John Adams: a life. Oxford University Press, 2010 (The University of Tennessee Press, 1992), pp.322-323)。1792年には弁護士業を始めましたが,結局アルコール中毒で肝臓を壊し,父のジョンが大統領選挙でジェファソンのリパブリカン党に敗れた年である1800年の1130日に30歳で死亡しました。チャールズの死の前年の秋,回復不能のダメ人間になっていた次男をニュー・ヨークで見たアダムズ大統領は激怒し,「放蕩者」,「けだもの」,「悪魔に取りつかれた狂人」とののしり,もう二度と会わないし,かかわりも持たないと宣言して,結局そのとおりとなってしまっています(Ferling, p.386)。

 「幸せなワシントン!子どもがないのは幸せだ!」「私の子どもたちは,私の敵全体からよりも多くの苦痛を私に与える。」とは,妻アビゲイルへの書簡中におけるジョン・アダムズの嘆きです(Ferling, p.388)。

 三男のトーマス・ボイルストンも弁護士になりましたが,結局当該稼業は好きになれず,フィラデルフィアからマサチューセッツの地元に移って「青い悪魔」と自ら呼んだ憂鬱の発作に悩まされるようになりました。33歳で結婚し,それから偉大な親のプレッシャーを感じてマサチューセッツ州議会議員となりますが,1年もたたないうちに辞任しています。彼をも蝕むようになったアルコール中毒に関係があるようです。(Ferling, pp.420-42118181028日に母アビゲイルが亡くなった後,父の住むピースフィールド(マサチューセッツ州クインジーにある1788年からのアダムズ邸)に妻と6人の子どもと共に移って来ますが,それには,老父を介助するという目的だけではなく,経済的な理由もあったところです。長兄のジョン・クインジーはワシントンでモンロー政権の国務長官になっていましたが,トーマス・ボイルストンはアルコール中毒が進み,頼りない初老の男になっていました。父の元大統領は,次男チャールズに係る辛い思い出のゆえか,三男のアルコール中毒にかかわることから逃げています。(Ferling, p.438

 

 酒は恐ろしく,子育ては難しい。

 

6 再び福沢諭吉

 

(1)酒

 ところで,酒といえば,我らが福沢諭吉先生も大変なものでした。『福翁自伝』にいわく。

 

  ・・・そもそも私の酒癖は,年齢の次第に成長するにしたがって飲み覚え飲み慣れたというでなくして,生まれたまま物心のできたときから自然に好きでした。いまに記憶していることを申せば,幼少のころ月代をそるとき頭のぼんのくぼをそると痛いからいやがる。スルトそってくれる母が「酒をたべさせるからここをそらせろ」というその酒が飲みたさばかりに,痛いのをがまんして泣かずにそらしていたことは,かすかに覚えています。天性の悪癖,まことに恥ずべきことです。・・・(慶応義塾創立百年記念版48頁)

  ・・・年25歳のとき江戸に来て以来,嚢中も少し暖かになって酒を買うくらいのことはできるようになったから,勉強のかたわら飲むことを第一の楽しみにして,朋友の家に行けば飲み,知る人が来ればスグに酒を命じて,客に勧めるよりも主人の方がうれしがって飲むというようなわけで,朝でも昼でも晩でも時をきらわずよくも飲みました。(同293頁)

 

しかしながら,福沢諭吉は,32ないし33歳のころ,節酒を決意し,3年ほどかけて成功します。健康な人物です。

 

 ・・・支那人が阿片をやめるようなものでずいぶん苦しいが,まず第一に朝酒を廃し,しばらくして次に昼酒を禁じたが,客のあるときはやはり客来を名にして飲んでいたのを,ようやくがまんして,のちにはその客ばかりにすすめて自分は一杯も飲まぬことにして,これだけはどうやらこうやら首尾よくできて,サア今度は晩酌の一段になって,その全廃はとても行われないから,そろそろ量を減ずることにしようと方針を定め,口では飲みたい,心では許さず,口と心と相反してけんかをするように争いながら,次第次第に減量して,やや穏やかになるまでには3年もかかりました・・・私が生涯鯨飲の全盛はおよそ10年間と思われる。その後酒量は減ずるばかりで増すことはない。初めの間はみずから制するようにしていたが,自然に減じて飲みたくも飲めなくなったのは,道徳上の謹慎というよりも年齢老却のせいでしょう。・・・(同293頁)

 

(2)子どもの教育

 さて,子どもの教育は,自然の貴族たるべく厳しくしつけるべきかどうか。

 

  ・・・長男一太郎と次男捨次郎と両人を帝国大学の予備門に入れて修学させていたところが,とかく胃が悪くなる,ソレカラ宅に呼び返していろいろ手当すると次第によくなる。よくなるからまた入れるとまた悪くなる。とうとう3度入れて3度失敗した。・・・なにぶんらちがあかず,子供は相変わらず3ヵ月やっておけば3ヵ月引かしておかなければならぬというようなわけで,なんとしても予備門の修業に堪えず,私もついに断念してしもうて,それからこちらの塾(慶応義塾なり)に入れて普通の学科を卒業させて,アメリカにやって,かの大学校の世話になりました。・・・なんとしてもからだが大事だと思います。(『福翁自伝』慶応義塾創立百年記念版269頁)

 

 優しいお父さんでよかったですね。

まずは独立自尊。

「心身の独立を全うし,自ら其身を尊重して,人たるの品位を辱めざるもの,之を独立自尊の人と云ふ。」ですね(修身要領第2条『福沢諭吉選集第3巻』(岩波書店・1980年)293頁)。自然の貴族となるまでの無理はしなくともよいのでしょう。


諭吉墓
His admirers know well that he adores alcoholic drinks. (東京都港区麻布山善福寺

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1 リップ・ヴァン・ウィンクル

 米国の小説家ワシントン・アーヴィングに“Rip van Winkle”という作品があります。18世紀,北アメリカはハドソン川流域のオランダ系植民者の村に住んでいたリップ・ヴァン・ウィンクルを主人公とした物語です。森鷗外による邦題は,『新浦島』。

アメリカ独立革命が起こる前のこと,怖い奥さんを苦手とするリップが,難を避け,いつも仲間とその前のベンチにたむろして駄弁っていた旅館には「ジョージ3世陛下の血色のよい肖像(a rubicund portrait of His Majesty George III)」が目印の看板として掲げられていました。ところが,リップがうっかりキャッツキルの山中に入って一眠りして20年を過ごしてしまってから村に戻って来た時には,その間に建て替えられた旅館の看板に依然として描かれてある赤々とした顔(ruby face of King George)はかつてと同じようであっても,赤い袍は青と淡黄褐色のコートに変わっていて,手は笏の代わりに剣を持っており,頭には三角帽,そして看板の下部には大きな文字で「ワシントン将軍(GENERAL WASHINGTON)」と書いてありました・・・というようなお話です。

 

2 ジョージ3世

 ところでリップの村の旅館の看板になっていたアメリカ独立革命時の英国及び北米13植民地の王であったジョージ3世とは,どのような人だったのでしょうか。

 

ジョージ3世は,〔ドイツから来たハノーヴァー朝の〕先代のジョージ1世や2世と異なり,イギリスで生まれ,イギリス風の教育を受けた生粋のイギリス人で,母からつねに「ジョージよ,王者たれ」とはげまされ,テューターのボリングブルックから「愛国王の思想」を吹きこまれていた。ジョージ3世は王権の回復をめざし,ウォルポール以来の議会政治を変更しようと試みたが,ステュアート朝の諸王のような絶対君主たらんとしたわけではない。ただ曽祖父〔ジョージ1世〕や祖父〔ジョージ2世〕が失った権力をとりかえして,ウィリアム3世〔名誉革命で即位した王〕の昔に帰り,一政党,一党派ではなく,あらゆる政党,党派のベストメンバーをすぐって王に奉仕させようとしたにとどまる。王は,「王の側近(キングス‐フレンド)」を中心として親政を行ない,「君臨すれども統治せず」の原則に暗影を投じたが,アメリカの植民地の独立やアイルランド問題などで失敗した。そして1783年,24歳の青年小ピットが首相の地位につくにおよび,議会政治がふたたび回復にむかったのである。(大野真弓『世界の歴史8絶対君主と人民』(中央公論社・1961年)475476頁)

 

  1760年に即位したジョージ3世は,国王が自らCabinetに臨み,行政権の首長として行動するという体制を復活しようとした。ビュート(Earl of Bute; John Stuart)がPrime Minister176263年,ノース(Frederick North)がPrime Minister177082年と,ジョージ3世は国王親政を試みる。

  ・・・

  もしジョージ3世がその統治に成功していれば,あるいは,国王が名実ともに行政権の首長であるという体制が〔英国に〕一時復活したかもしれない。しかし彼は,アメリカ植民地問題をかかえて,結局その処理に失敗し,アメリカの独立を招いた。この失敗がどこまで国王個人に帰せられるべきかは,はっきりしないが,失敗したという事実は決定的である。また,ジョージ3世の政治指導力が,例えば〔その孫の〕ヴィクトリア女王などに比べれば劣っていることは否めまい。また彼が,1765年,178889年,180304年と精神病にかかったことも,その指導力を低下させたに違いない。(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)143頁)

 

 アメリカ独立宣言では暴君呼ばわりされていて,ややお気の毒な王様です。

 

3 トーマス・ジェファソン

これに対して,ジョージ3世の当該悪口をアメリカ独立宣言に書き連ね,かつ,同王治下の英国が大嫌いであったトーマス・ジェファソンの人柄は,どのようなものだったのでしょうか。

 ジェファソン(5セント玉)の宿命の政敵であったワシントン政権の元財務長官アレグザンダー・ハミルトン(10ドル札)が,ジェファソンが第3代大統領に当選した1801年の米国大統領選挙(連邦議会下院における投票にまでもつれ込んだもの)の際,フェデラリスト党の仲間であるJ.A.Bayardあてに同年1月16日付けで書いた書簡にいわく。

 

 ・・・恐らく私が最初に,自分の不人気と引換えにジェファソンの正体(true character)をあばいたわけですから,今更彼の弁護人(apologist)になるのには遅過ぎますし,その気にもなれません。私は,彼の政見(politics)には狂信(fanaticism)の気味があること,彼がその民衆政治論(democracy)において大真面目に過ぎること,彼は我らが今までの政権〔初代ワシントン及び第2代ジョン・アダムズ政権〕の主要政策に対して有害な敵(mischevoussic enemy)であったこと,彼はその目的のためには狡猾かつ執拗(crafty & persevering)であること,彼は成功のためには手段を選ばない(not scrupulous)こと,彼は真実を必ずしも尊重しないこと(not very mindful of truth),そして彼は見下げ果てた偽善者(contemptible hypocrite)であることを認めます。・・・

 

なかなか取り柄がなさそうです。しかし,不幸中の幸い,その悪さには限界があるようです。

 

・・・彼は,私の知る他の人間と同様に俗物的です(to temporize)――何が彼自身の評判を高め,彼の有利に働くだろうかを計算するわけです。そして,このような気質から想定される結果は,当初は反対したとはいえ,いったん出来上がった以上は,それを試みる者に対する危険なしにはそれを覆し得ないところの諸制度の維持ということになります。私の思うところでは,J氏の性格の正確な衡量からは,暴力的なシステムというよりは妥協的なシステム(a temporizing rather than a violent system)を期待することが保障されるところです。・・・彼が腐敗させられ得るとの考えを支持すべき相当な理由はない(no fair reason)ということもつけ加えましょう。このことは,彼はある一定の限度を越えることはないということの保証になります。・・・

 

 同じくハミルトンの18001226日付けG.Morrisあて書簡には次のとおり。

 

 ・・・この世界において私が憎むべき者がいるならば,それは,ジェファソンです。・・・

 

というのは,ジェファソンは,「宗教においては無神論者(Atheist),政治においては狂信者(Fanatic)」だったからでしょう(A.ハミルトン・同年5月7日付けJ.Jayあて書簡)。「無神論者」は,米国では負の評価を帯びた由々しい言葉です。

自分と同じくヴァジニア出身である国務長官ジェファソンと独立戦争における有能な副官であった財務長官ハミルトン(こちらはカリブ海出身)との不仲は,初代大統領ジョージ・ワシントンにとって心痛の種でした。両者の和解の勧試がされたものの,両雄は並び立ちません。

 

・・・私〔ハミルトン〕は,ジェファソン氏が同氏の現在の職〔国務長官〕に就くためにニュー・ヨーク市〔アメリカ合衆国の最初の首都〕に来着した当初〔1790年〕から,私が同氏からの変わることなき妨害(uniform opposition)の対象であったことを知っています。最も信頼の置ける情報源から,私がしばしば当該方面からの意地悪なささやき(most unkind whispers)やあてこすりの対象とされていたことを知らされています。私は,彼の後援の下に私を失脚させようとして形成された党派〔Republicans又はDemocratic-Republicans。ただし,現在の共和党の前身ではなく,民主党の前身〕が,立法府に存在しているのを見てきました。私の手元にある証拠からして,〔ワシントン政権を攻撃する〕ナショナル・ガゼット紙が政治的目的のために彼によって設立されたこと,並びに同紙の主要目的の一つが,私及び私の省が関係する政策のすべてが可能な限りいとわしいものとして認識されるようにすることであったことを疑うことはできません。・・・(A.ハミルトン・1792年9月9日付けG.ワシントンあて書簡)

 

 ハミルトンの言い分ばかり伝えるのは不公平でしょうか。とはいえ筆者には,ハミルトンについては格別の思い出があります。

 初めて米国に渡った時,同国のお札に肖像が出ている人物中,ベンジャミン・フランクリン(100ドル札),グラント(50ドル札),ジャクソン(20ドル),リンカン(5ドル)及びワシントン(1ドル)は何者だか分かっていても(フランクリン,リンカン及びワシントンについては我が国に子供向けの伝記もあって周知。グラントは,南北戦争の北軍の有名な司令官であって後に大統領になったということで記憶がありました(なお,グラントは実は尖閣諸島問題にもからむ人のようです。)。ジャクソンについては,山川の高校世界史の教科書に「ジャクソニアン・デモクラシー」ということが書かれていて,これは大学受験勉強的には何やら重要なのであろうという認識がありました。まあ,ジャクソンは,簡単にいえばOKの人なのですが。),しかし10ドル札のハミルトンというのが分からない。大統領でもないのになぜお札に顔が出ているのか。田舎の街の雑貨用品店で,他にお客もいないようなので,レジの中年女性に,10ドル札を出しながら,それまでなかなか通じず苦労した下手な英語で図々しく“Who is he?”と訊いてみたところ,怪しい東洋人の妙な質問でありながらも親切にも理解してくれて,

 

 “Ooh, Alexander Hamilton. Our first Secretary of the Treasury!”

  (うーん,アレグザンダー・ハミルトン。初代の財務長官ね。)

 

 とのご名答。

 アメリカの女性は偉いものだ,と思ったことです。

 
U. Grant
こちらは,第18代アメリカ合衆国大統領ユーリシーズ・
Sグラント(東京都台東区上野公園)


4 ジョージ3世vs.ジェファソン

 この性格の悪いジェファソンが,北米独立13邦の駐仏公使として,ロンドンで「暴君」ジョージ3世に接見せられたことがあります。1786年3月17日,セント・ジェイムズ宮殿における接見会でのことでした。35年後のジェファソンの自伝にいわく。

 

  例によって私が接見会(levees)に国王及び王妃に伺候したところ,アダムズ氏〔当時の駐英公使〕及び私を見た彼らの態度ほど不快(ungracious)なものはなかった。私は,このラバ的生物(mulish being)の狭隘な精神に生じている潰瘍からして,私の伺候からは何も期待できないことを直ちに了知した。(Randall, W.S. Thomas Jefferson: a life. New York; HarperPerennial, 1994. P.412

 

分かりにくいのですが,どうも,駐英公使アダムズが接見会において駐仏公使ジェファソンをジョージ3世及びシャルロット王妃に紹介して両公使がお辞儀をしたところ,王及び王妃はつと玉座から立ち上がって両者に背を向け,満座の外交団の前で北アメリカ13邦を代表する両閣下(しかも両者とも将来の合衆国大統領)に恥をかかせた,ということのようです(Randall, p.413)。

しかし,極めて几帳面なジョン・アダムズ自身がこの時のことを書いておらず,また,シャルロット王妃はジョージ3世の接見会には臨席しない仕来りだったようで,上記の話には疑わしいところがあります。つまり,実際のところは違うようです。すなわち,ジョージ3世の接見会は,弧状に並んだ外交官たちの前を,お付き二人を従えただけの国王が,その右側に立つ各国外交官と短い会話を交わしながら歩いて行くという格式張らない形式のものであって,華麗なヴェルサイユ宮殿の儀式に慣れたジェファソンとしては興ざめし,かつ,ジョージ3世もジェファソンとは特に話すべき話題はなかったので(さすがにアメリカ独立宣言の内容について「あれはひどいね」と議論するわけにはいかなかったでしょう。)さっさと次の外交官との会話に移ってしまったということだったようです。英国の歴史家Ritchesonによれば,ジョージ3世自身は,公の場で横柄な態度をとること(public rudeness)は国王のすべきこととは考えていなかったようで,また,「彼の親しみやすさ,礼儀正しさ,打ち解けやすさ並びに小咄,お上手及び冗談の種を豊富に持っていることは称賛されていた。」とのことでありました。(以上,Randall, p.413

ジェファソンとしてはジョージ3世に馬鹿にされたように感じたのかもしれませんが,確かに,ハミルトンによれば,ジェファソンは「真実を必ずしも尊重しない」人物でありました。

 

5 二人のジョージ

ジェファソンにかかるとラバ並みの扱いですが,ジョージ3世は,むしろ公正な人物であったように思われます。

パリ条約(1783年)後の北米13邦からの初代駐英公使であるアダムズ(彼もアメリカ独立宣言起草委員の一人でしたね。)の英国国王による接受(1785年)は,「アダムズにとって感動的な経験(moving experience)であった」そうです。「かつての叛臣であるアダムズは,神経質に震える声で,今や連合13邦は英国との友誼を求めている旨言上した。国王は,アメリカの離脱を押しとどめることはできなかったが,今やそれがなされてしまった以上,彼も同様に友好関係を望むと答えた。会見は短かった。ジョージ3世は,堅苦しくお辞儀をして,アダムズに下がってよい旨を伝えた。当該使節は外交儀礼に従い3度お辞儀をし,おぼつかなく後ずさりして接受の間から引き下がった。直後のロンドン・クロニクル紙は「ジョン・アダムズ閣下は,極めて丁重に(most graciously)接受された。」と報道した。」ということです(Ferling, John. John Adams: a life.  New York; Oxford University Press, 2010. p.280)。「うわさ好きの外交団の間では,アダムズが信任状を捧呈した後,アダムズを歓迎するに当たって国王の目には涙があり,そして,胸がいっばいであるとの様子であったとの話までが伝えられた。」ともいわれています(Randall, p.412)。

ジョージ3世は,ジョージ・ワシントンの偉大さを,率直に評価していました。

北アメリカ出身の宮廷画家ベンジャミン・ウェストとの間での会話。

 

・・・ある日,国王〔ジョージ3世〕はウェストに対し,〔アメリカ独立〕戦争が終わったときにワシントンは軍の最高司令官になるのか国家元首になるのかどちらかと訊いた。ワシントンの唯一の望みは自分の地所に戻ることだとウェストが答えると,雷に撃たれたようになって国王は叫んだ。「もし彼がそうするとなると,彼は世界で最も偉大な男だということになる。」と。(Chernow, Ron. Washington: a life. New York; Penguin, 2010. P.454

 

その後,ワシントンが2期8年をもって合衆国の大統領を辞するに当たってのジョージ3世の総括。

 

・・・最初は統帥権を,そして今,統治権を返上することによって,彼は「現代最大の偉人」として屹立した,とジョージ3世は言ったと伝えられている(By giving up first military and now political power, he stood out as “the greatest character of the age” according to George III)。彼は,かつての敵を,遅ればせながら評価するようになっていた。・・・(Chernow, p.757

 

 ジョージ3世にとって,ジョージ・ワシントンはやはり格別の存在だったのです。

 

・・・〔1789年〕2月末には二人のジョージの奇妙に対照的な運命は更に一層奇妙なものになったところであって,パリからグーヴェルヌール・モリスが,王の狂気の思いがけぬ進行について報告してきた。「ところで」と彼はワシントンに書いた。「哀れなイングランド国王が陥った悲しむべき情況についてなのですが,あなたとの関係で私が聞いたところによりますと,何やら妙なことがあったようです。」狂気の発作の中で――モリスが書くには――王は「自分のことを,何とだれあろう,アメリカ軍の先頭に立つジョージ・ワシントンだと思っていたのです。つまりあなたは,彼のはらわたに一番ひどくわだかまっている何やらをやったのだったというわけですね。」妄想は一過性のものであった。1789年4月23日,すなわちジョージ・ワシントンが群衆の歓呼の中で大統領に就任する精確に1週間前に,ジョージ3世は奇跡的に譫妄状態から回復し,ロンドンのセント・ポール教会では感謝の儀式が執り行われた。彼は,稀な遺伝性疾患であるporphyria(ポルフィリン症。20世紀になるまでは正確に診断することができなかった。)を患っていたのではないかとの仮説が提出されている。・・・(Chernow, p .570

 

 ジョージ3世とジョージ・ワシントンとを区別することが難しかったのは,リップ・ヴァン・ウィンクルばかりではなかったわけです。

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所(弊事務所の鈴木宏昌弁護士が,週刊ダイヤモンドで辣腕弁護士として紹介されました。)

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ヨークタウン戦勝塔(Yorktown, VA)

1 はじめに

 米国といえば民主主義(democracy)の本家本元で,君主制(monarchy)とは氷炭相容れぬ国柄であるとされています。

 しかしながら,アメリカの建国期においては,実はデモクラシーは理想政体にそぐわないものと考えられており,君主制も全く支持者がいないわけではありませんでした。

 


2 ワシントンを国王に推戴する動き

君主制論者の間では,アメリカ独立戦争を実質的に終結させたヨークタウンの戦いの勝利者ジョージ・ワシントン将軍を新生アメリカの王にしようという動きがありました。

その一例としては,1782522日に大陸軍のルイス・ニコラ大佐からワシントンにあてて送られた書簡があります。当該書簡の中で,ニコラ大佐は,アメリカ諸邦の脆弱,さらには連合会議(178131日に連合規約(The Articles of Confederation)が発効しましたので,それ以降のCongressは,大陸会議ではなく,連合会議と訳すことにします。)の無能ゆえの大陸軍の窮乏について痛憤し,「専制と君主制とを同一視してしまい,両者を分けて考えることが困難になっている人々がいますが・・・しかし,いったん他の事項がしかるべく手当てされれば,王の称号を認めるべきことを推し進める強い議論を提出することができるものと信じます。」と論じて,ワシントンを国王とする政体構想を提示しました。イギリスのKing George IIIの退場の次は,アメリカのKing George Iの登場というわけです。

この書簡に恐慌したワシントンは,同日直ちに回答を発出します。

 



・・・よって貴官に依頼する。貴官にして,国家に対する顧慮,貴官自身若しくは貴官の子孫に対する配慮又は本職に対する敬意を幾分なりとも有せられるものであるならば,かかる思いつきを貴官の思考から排除せられたい。

 


 ワシントンは,ニコラ大佐あての当該回答に封がされ,発送されたことを副官らに確認させるほどの念の入れようでした(これは,弁護士業においてはおなじみの,内容証明郵便物の取扱いですね。)。

 ニコラ大佐は慌てて総司令官にわびを入れました。

(以上Ron Chernow, Washington: a life, p.428参照)

 


 王になろうという野心があると思われたら,カエサルのように暗殺されてしまう,という恐怖があったものでもありましょう。あるいはワシントンの脳裡には,印紙税反対運動において若きパトリック・ヘンリーがヴァジニア植民地議会でした1765年演説に係る次の有名な場面が浮かんでいたかもしれません。

 



○パトリック・ヘンリー君
 ・・・

タルクィニウス及びカエサルには各々彼のブルートゥスあり,チャールズ1世には彼のクロムウェルあり,しかしてジョージ3世に・・・

○議長(ジョン・ロビンソン君) 大逆ですぞ,大逆ですぞ。

(「大逆だ,大逆だ」と呼ぶ者あり。議場騒然)

○パトリック・ヘンリー君 ・・・おかせられては,叡慮をもってこれらの前例をよろしくかんがみられんことを。もしこれをもして大逆であるとせば,よろしくこれを善用せられたし。

 


 さすがはパトリック・ヘンリー弁護士,うまいものです。

 なお,王政ローマ最後の王であるタルクィニウスは当時のブルートゥスらによって追放され,カエサルは暗殺され,チャールズ1世は清教徒革命で処刑され,アメリカ独立革命期のイギリス国王であったジョージ3世は精神病に倒れました。恐ろしいことです。 

 


3 「君主制論者」ハミルトンとワシントン政権

 


(1)ワシントン政権と「君主制」

 ニコラ大佐による君主制構想を直ちに否認抹殺し,17831224日にはメリーランド邦アナポリスにおいて連合会議に大陸軍最高司令官職の任命書を恭しく返上して,王位への野心など全く無いことを示すことに常に努めたワシントンですが,1789年発足のアメリカ合衆国連邦政府の初代ワシントン政権は,底意において君主制を目指しているのではないかとなお疑われ,また,非難され続けました。

 アメリカ独立戦争中はワシントン総司令官の副官を務め,また,178110月のヨークタウンの戦いでは同月14日の夜襲でイギリス軍の第10堡塁(Redoubt No.10)を攻め落とし,その後ワシントン大統領の下,初代財務長官に任命されて実質的な首相格として政権を切り盛りしたアレグザンダー・ハミルトンの政策と思想とのゆえでしょう。

 


(2)ハミルトンの君主制論

 17875月から9月までフィラデルフィアで開催され,現行のアメリカ合衆国憲法を起草した憲法会議(Constitutional Convention)(議長・ワシントン)において,ニュー・ヨーク邦代表の若きハミルトン弁護士(1755111日生まれの32歳。ただし,本人は1757年生まれだと思っていたようでもあります。)は,1787618日,5ないしは6時間に及ぶ長い演説をし,その中で彼の君主政観を展開しています。すなわち,そこにおいてハミルトンは,イギリスの君主政体を最善のものとして賛美し,終身制の大統領(ただし,ハミルトンの原案では,President”ではなく “Governor”の語が用いられています。)制度の導入を提唱したところです。秘密会であったとはいえ,大胆な演説であって(ニュー・ヨーク邦代表団の会議対処方針とは全く異なる。),ハミルトンが後々まで君主制主義者(monarchist)であるとの厳しい批判を受ける一因となりました。

 ニュー・ヨーク邦代表のロバート・イェイツによる記録(イェイツはハミルトンと政見を異にしていましたが,こちらの方が,コンパクトです。)を基に,ヴァジニア邦代表でありこの時点ではハミルトンの協力者であったジェイムズ・マディソンの詳細な記録(斜字体)で適宜補い,また適宜改行しつつ,当該演説の当該部分を御紹介しましょう(The Library of AmericaAlexander Hamilton Writingsによる。)。

 



・・・

 しかし,白状しますと,ふさわしい人物を共同体(the Community)の周辺部から中央にまで集めることは非常に難しいことです。例えば,財産もあり能力もある紳士諸氏を,その家庭と仕事とから離れさせて,毎年,長期間にわたって参集させるものは,何でありましょうか。報酬ではあり得ません。予想するに,その額は小さいものであろうからです。3ドルかそれぐらいがせいぜいでしょう。したがって,権力は,少額の手当又は立身の望みのために候補者として自ら名乗り出る煽動政治屋(demagogue)又は凡庸な政治家の手に帰してしまい,重みと影響力のある真の人物は地元にとどまって邦政府の力を増し加えるということにはならないでしょうか。

私は,どうしたらよいのか途方に暮れています。共和政体(a republican form of government)が,これらの難点を取り除くことができるとは思い得ない(despair)ところです。広大な領域において(over so great an extent)共和政体(a Republican Govt.)は樹立され得ないのではないでしょうか。私の意見はともあれ,しかしながら,当該政体〔註・共和政体〕を変更することは賢明ではないものと思います。

私の信ずるところでは,英国の政府(the British government)が,世界にこれまであったものの中で最も優れたモデルとなっています。そこまで立派なものでなくとも,アメリカではうまく行くなどということは,はなはだ疑わしいことです。多くの人の心の中に広まりつつ,この真理は徐々にその地歩を固めています。かつては,連合会議の権限は,制度目的達成のために十分なものであると考えられていました。現在,その誤りは,すべての人の目に映るところです。私の見るところ,共和主義の最も強固な支持者も,民主主義の悪(the vices of democracy)を他の人々に負けず声高にあげつらっています。公衆の認識のこの進歩は,他の人々も私と同様に,ネッケル氏〔註・フランス国王ルイ16世の財務総監〕によって英国の国制(British Constitution)に捧げられた称賛に賛同されるようになる時が来るということを私に期待させてくれます。すなわち,英国の政府は,「公共の力(public strength)と個人の安全(individual security)とを統一する」世界で唯一の政府なのであります。この政府の目的は,公共の力及び個人の安全です。このことは我々においては達成できないといわれていますが,もし,いったん成立すれば,それは自らを維持していくものでしょう。

産業の進んだ(where industry is encouraged)すべての共同体は,少数者と多数者とに分かれます。前者は豊かで生まれが良い者たち(the rich and well born)で,後者は人民の集団(the mass of the people)です。そこから異なった利害が生じます。債務者,債権者等が現れます。すべての権力を多数者に与えると,彼らは少数者を抑圧します。民の声は天の声といわれておりますが,いかに広くこの格言が引用され,かつ,信じられているとしても,事実においては正しくはありません。人民は動揺し,変心します(turbulent and changing)。彼らが正しく判断し,正しく決定することはめったにありません。他方,少数者にすべての権力を与えると,彼らは多数者を抑圧します。したがって,相互に相手方から自らを守るために,両者とも権力を有するものとすべきです。・・・英国人は,彼らのすぐれた国制(Constitution)によって,適切な調整を行っています。貴族院(house of Lords)は,最も貴い制度です。変化によって望むものはなく,財産を通じて十分な利害を有しており,国益に忠実であることによって,彼らは,国王(Crown)の側から試みられるものにせよ庶民院(Commons)の側から試みられるものにせよ,あらゆる有害な変革に対する恒久的な防壁をなしています。したがって,第1の人々〔註・少数者〕に,政府における画然とした,恒久的な位置(a distinct, permanent share in the government)を与えなければなりません。彼らは第2の人々〔註・多数者〕に係る不安定(unsteadiness)を抑制するでしょうし,彼らは変化から何らの利益を受け得ることもないので,したがって,善き統治(good government)を永く維持し続けるでしょう。毎年人民の集団の中で展開される民衆集会(a democratic assembly)が公共善(the public good)を追求するということが確かなものとして考えられるでしょうか。恒久的な団体(a permanent body)のみが,民衆支配の軽率(imprudence of democracy)を抑制することができるのです。彼らの動揺し,かつ,無規律(uncontrouling sic)な性向は,抑制されなければなりません。

短い任期の上院は,この目的に応じた十分な強靭さを持ちません。ニュー・ヨークの上院は,4年の任期で選任されていますが,十分有効なものではありません(inefficient)。ヴァジニア代表の提案に従って,7年継続するものならばよいのでしょうか。随分言及されるところの多いように見受けられる(メリーランドの)上院〔註・同邦の上院は,選挙民は選挙人団を選ぶ間接選挙制に基づくものであった。〕は,いまだ十分に試験されているものではありません。紙幣発行が求められた最近の要求において,人民が一致団結し真剣であったのなら,彼らは奔流に流されていたことでしょう〔註・メリーランド邦の上院は,同邦代議院からの紙幣発行法案を178512月及び178612月の2度にわたって否決していました。〕。・・・紳士諸氏は上院に必要な強靭さを与えるには7年が十分な期間だと考えていますが,民衆心理(democratic spirit)の驚くべき暴威と激動とを適切に考慮していないからです。民衆の情熱をわしづかみにする政治の重大問題が追求されるとき,その情熱は野火のように拡がり,抵抗できないものとなります。私は,ニュー・イングランド諸邦からの紳士諸氏に,かの地における経験が今申し上げたことを証明するものでないのかどうかお尋ねしたい〔註・ニュー・イングランドでは,増税及び農地差押えに対するマサチューセッツ邦西部の農民の抗議運動から,シェイズの反乱(17869月から17872月まで)が発生していました(首謀者ダニエル・シェイズ大尉はアメリカ独立戦争参加者)。〕

よき執行部(a good executive)は,民主的な構成をもって(upon a democratic plan)〔共和的原則に基づいて(on Republican principles)設けられ得るものではないということは,認められているところです。英国の執行権者の素晴らしさ(the excellency of the British executive)を御覧いただきたい。この問題については,イギリスのモデル(the English model)が唯一結構なものなのであります。彼は誘惑から超然としています。彼は公共の福祉とは別の利害を有していません。国王の世襲の利害は,国民(the Nation)のそれと十分結びつき,彼の個人的収入は十分大きいので,海外勢力から腐敗させられるという危険から超然としているのです。――また同時に,国内の制度目的にこたえるために,十分独立しており(sufficiently independent),かつ,十分規制されています(sufficiently controuled)このような執行権者でなければすべて不十分です。共和政体(a republican government)の弱点は,外国勢力からの影響力の危険性です。第一等の人物たちをその維持のために動員するようにできていない限り,このことは不可避です。小人物(men of little character)は,大きな権力を得ると,簡単に隣国の干渉勢力の手先になってしまいます。したがって,私は,全国政府(general government)を支持するものですが,共和制の原則(republican principles)については,最広義のところまでおし進めたいと思うものです。我々は,共和制の原則が許す限り,安定及び永続性(stability and permanency)を求めて進むべきであります。

 立法府のうち一院は,罪過なき限りの間(during good behaviour),又は終身を任期とする議員によって構成されるものとしましょう。

 その権限を断行し得る(…dares execute his powers)一人の終身の執行権者が任命されるものとしましょう。

 私は,最良の市民たちの奉仕を確保するためのものとして,7年の任期が,公的任務の受諾に伴う私的生活の犠牲を受け容れさせるものであるのかどうか,御出席の代表者の方々の御感想をお尋ねしたいのです。この案〔註・ハミルトン案〕によってこそ,元老院に,本質的目的にこたえるべき恒久的な意思,重要な利害の代表(a permanent will, a weighty interest),を確保することができるのです。

 これは共和制(a republican system)なのか,と問われるかもしれませんが,厳密にいって,そうであります,政府のすべての高官(all the Magistrates)が人民によって,又は人民に由来する選挙で選ばれる限りは。

 更に言わせていただけば,人民の自由にとって,執行権者は,終身その職にあるときの方が7年の任期であるときよりも危険が少ないものであります。7年任期制案では,私は,執行権者にはわずかな権力のみを与えるべきだと思います。彼は,手下となる者を調達する手段を持った野心家でありましょう。そして,彼の野心の目的は,権力をより長く握ることでしょうから,戦争のときには,その地位からの降格を避け,又はそれを拒絶するために,緊急事態であることを恐らく濫用するでしょう。終身執行権者の場合は,忠誠を忘却させるこのような動機を持たないものであって,したがって,権力を委ねるためにはより安全な機関なのであります。

 これは選挙君主制(an elective monarchy)である,といわれるかもしれません。ああ,君主制とは何でしょうか。「君主」とは定義のはっきりしない用語であるものとお答えしましょう。権力の大きさ又は権力を握る期間の長さのいずれを示すものでもありません。もし,この執行長官(Executive Magistrate)が終身君主であるのなら――当会議の全体委員会の報告書によって提案されたものは七年君主ということになります。選挙制であるという事情はともに両者に当てはまるところです。各邦の知事は,そのようなものとして見られ得ないでしょうか。しかし,執行権者が弾劾制度に服せしめられていますので,君主制の語は当てはまり得ません。

賢明な著述家たちは,競争者たちの野心及び策謀によって惹起される動乱(tumults)に対する防止策が講ぜられるのならば,選挙君主制は最良のものであろうと述べています。私は,動乱が,避けることのできない欠点であるものと確言するものではありません。選挙君主制のこの性格論は,むしろ,一般的な原則からというよりは,特定の事例から由来しているものと思います。選挙制君主は,ローマにおいて動乱を引き起こしましたし,ポーランドにおいても同様に平和に対して危険を与えています。ローマ皇帝は,軍隊によって選挙されたところです。ポーランドにおいては,独立した権力,及び騒動を起こすための十分な手段を持った,互いに競争関係にある大貴族たち(princes)によって選挙が行われます。ドイツ帝国〔註・神聖ローマ帝国〕では,密謀集団及び党派を使嗾する同様の動機及び手段を有する選帝侯及び諸侯によって任命が行われています。しかし,このことは,私が選挙について提案するところの方法については当てはまり得ません。執行権者を選挙する選挙人が各邦において任命されるものとしましょう――

(ここで,H氏は,写しがここに添付されているところの彼の案を取り出した。)

・・・執行権者(the executive)は,すべての法律に対して拒否権を持つものとする――元老院の助言により和戦のことを決する(to make war or peace)――彼らの助言により条約を締結する,しかしすべての軍事行動に係る単一の統帥権を有する(to have the sole direction of all military operations),並びに大使を派遣し,及びすべての軍士官を任命する,並びにすべて罪過を犯した者(国家反逆罪を犯した者を除く。ただし,元老院の助言があるときはこの限りでない。)に対する赦免権を有する。彼の死亡又は罷免の場合には,後継者が選挙されるまで,元老院議長(president of the senate)が,同一の権限を持つ代行者となる。最高の司法官らは執行権者及び元老院によって任命される。・・・

 ・・・

 ・・・しかし,人民は,徐々に政府に係る彼らの意見において成熟しつつあります――彼らは,民主政の行き過ぎ(an excess of democracy)に倦み始めています〔,連合(the Union)は分裂しつつあり,又は既に分裂しているものと私は観察します――人民をその民主政体志向(fondness for democracies)から治癒させることになるところの諸悪が,諸邦において猖獗している様子が私には観察されるところです〕――ヴァジニア案であっても,しかし,依然としてソースが少々変わっただけの豚料理であります〔註・憲法会議に提出された憲法構想のうち,ニュー・ジャージー案は既存の連合規約の改正にとどまっていたのに対して,ヴァジニア案は各邦の上に,執行部門,立法部門及び司法部門を有する全国政府を設けることを提案していました。しかし,ヴァジニア案であっても,ハミルトンの過激案に比べればまだ生ぬるいということです。〕。

 


 共和主義(republicanism)が理想として掲げられているのですが,democracy, democratic等民主主義関係用語は否定的な意味で使われています。

 共和政体(gouvernement républicain)と民主政(démocratie)との関係を,当時読まれていたモンテスキューの『法の精神』における分類学でもって説明すると,共和政(république)のうち,人民団(le peuple en corps)が主権を持つものが民主政,人民のうちの一部分が主権を持つものが貴族政(aristocratie)ということになります(第1編第2章第2節)。共和制を主張しつつ民主主義を排斥する者は貴族政主義者,ということになるようです。なお,モンテスキューの分類では,共和政体と対立するのはいずれも一人が統治する政体である君主政体(gouvernement monarchique)及び専制政体(gouvernement despotique)であって,君主政体では法による支配がされるが,専制政体では法によらず,統治者の意思ないしは恣意による支配がされるものと定義されています(第1編第2章第1節)。

 ギリシャ・ローマの古典古代の例が念頭にあったでしょう。(デモクラシーの前例としてアメリカ合衆国を持ち出すわけにはまだいきません。)

ローマも領域が大きくなって,共和政から君主政に移行しました。古代ギリシャで外国からの干渉といえば,ペルシャ帝国からのそれが問題であったでしょう。

なお,ハミルトンが称賛したジョージ3世治下のイギリスの政体における統帥権の所在は,一応,国務大臣輔弼の外に独立していたもののようです。すなわち,1932年の『統帥参考』には,英国における統帥権の位置付けの推移について,「「チャールス」2世ハ国務大臣以外ニ特別ナル軍令機関(「セクレタリー・アット・ワー」)ヲ設ケテ統帥権ノ独立ヲ保障シ更ニ1793年ニハ国王直属ノ総司令官ヲ設ケテ軍隊内部ノ組織,軍ノ規律,指揮運用ニ関スル権限ヲ附与シ国務大臣ト対立セル軍令機関ト為シタリ」とあります(『統帥綱領・統帥参考』(偕行社・1962年)45頁)。(ちなみに,ジョージ3世は,アメリカ独立戦争中は精神病を発症しておらず,1788年から翌年にかけてはそうだったものの,1793年は大丈夫だった時期であるようです。)ただし,その後は,「然ルニ民権ノ伸張,議会政治ノ発達ハ国王ノ軍令権ヲ圧迫蚕食シ1854年従来国王ニ直属シ国務大臣ヨリ独立セル総司令官ヲ国務大臣ノ監督下ニ置クコトニ改メ次テ1870年ノ改革ニ於テ軍令機関タル総司令官ハ陸軍大臣ノ隷下ニ入リ茲ニ現今ノ制度ノ基礎確立シタルナリ」ということになりました(『統帥綱領・統帥参考』5頁)。

 


4 エスマン中尉とハミルトン財務長官

 さて,三つ子の魂百までとやら。人と同様に国も,生まれたころの性格を後々まで引きずるものなのでしょうか。

知米派の日本人の方々がどう言われるのかは分かりませんが,日本国憲法起草時のGHQ民政局内で展開された議論において,強い執行権者を求めた27歳のエスマン中尉の姿が,何やらアメリカ合衆国憲法起草時に選挙制君主的な執行権者を求めた32歳のハミルトン弁護士の面影を宿していたように思われます。(そもそも,連合規約を改正すると言ってアメリカ合衆国憲法を起草してしまった手妻のような手口と,大日本帝国憲法の改正を求めつつ,日本国憲法の草案を起草してしまった仕事ぶりとは,何だかよく似ていますね。)

 それはともかく,元々はイギリス流立憲君主制論者であったハミルトン初代財務長官が,時代を超えてトルーマン政権の国務長官であったのなら,伊東巳代治が『憲法義解』を訳した “Commentaries on the Constitution of the Empire of Japan”を読んでも,それほど機嫌が悪くはならず,時代に合わせた立憲君主制の改善のための大日本帝国憲法の改正はあっても,新しい日本国憲法の制定がされるということまでにはならなかったのではないかとも空想されます。

 とはいえ,国務省はハミルトンにとって鬼門です。

 ワシントン政権内で,初代国務長官ジェファソンは,政見において真っ向からハミルトンと対立します。例えば,ハミルトンが執行権の強化を目指せば,ジェファソンは議会の権限や州権を重視するという具合です。両者の対立は,やがてハミルトンらのフェデラリスト党とジェファソン=マディソンらのリパブリカン党という二つの党派及び両者間の抗争を生むに至ります。(なお,系譜的にはジェファソンの党が現在のアメリカ民主党につながるのですが,前記のとおり,アメリカの建国当初は“democratic”はよい意味の言葉では必ずしもなかったところです。リパブリカン党への悪口として, Democraticリパブリカン党と言われるようになり, 後にリパブリカンが落ちたものです。アメリカ合衆国憲法4条で連邦が各州に保障しているのは,共和政体(a Republican Form of Government)であって,民主政体(a Democratic Form of Government)ではありません。)

こうしてみると,日本国憲法における内閣の章の規定をめぐるエスマン中尉とハッシー中佐との対立も,米国の知識人の間における建国以来の政治思想の対立を反映していたものと思えなくはありません。

 


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イギリス軍第10堡塁(Yorktown, VA) 


 


長い記事をお読みいただき毎度ありがとうございます。

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 以前の記事「看板は簡潔たるべきこと」(
20131110日)では,フィラデルフィアでの大陸会議においてされたアメリカ独立宣言の原案修正に対して,原案起草者であったトマス・ジェファソンは心穏やかではなく,177674日に採択された独立宣言の出来上がりには当初不満足であったとの話を紹介しました。

 ジェファソンは,大陸会議による修正をmutilationsと呼んでいますから,当該「修正」は彼の原案に対する不当な毀損行為であるものと感じていたのでしょう。(Mutilationは,手足切断の意味です。)

 前の記事で取り上げた古代ローマの毒舌弁護士キケローが法廷で揶揄嘲笑した「天分も学識もないくせに法律家を自称している男」(河野与一教授の注によると,この男の名前についてはカストゥスその他諸説あるようです。よくあるタイプの人間なのでしょう。)のような気取った似非エリートらが北アメリカの大陸会議にもおり,もったいぶった態度で,青年ジェファソン渾身の仕事に対して不遜かつ不適正な削除・改変を加え,しかもさもありがたいことをしてやったかのような恩着せがましい顔をしていたのでしょうか。ありそうな話ではあります。

 しかしながら,大陸会議においてされた独立宣言案修正の実際を見ると,さすがは米国の建国の父たち(Founding Fathers)であって,"mutilations"といわれることから想像されるような余計な台無し仕事のようなものではなかったところです。「トムくん,まあ,そうカリカリしなさんな」とは,ジョン・トンプソンの小咄をしている際にベンジャミン・フランクリンが思っていたところでしょう。

 以下,米国の独立記念館協会のushistory.orgウェッブ・サイトにある資料に基づき,大陸会議において独立宣言案から削除された部分のうち主なものを見てみましょう。



 「未来においては,一人の人間
イギリス現国王(ジョージ3世)が大胆不敵にも,わずか12年の短い期間中に,自由の原則において育まれ,かつ,その下に定住する北アメリカ植民地の人民に対して,専制のためのかくも広範かつ無差別的な基礎を築くことを敢えてしたということが,ほとんど信じられないことであろう。」


 この部分は,その前の部分で,ジョージ3世(在位1760‐1820年)について,植民地人からの重ね重ねの請願に対して侮辱の繰り返しのみによって応じたことから,「このように専制者的行為によって特徴づけられる性格を有している君主は,自由な人民の支配者としてふさわしくない。」と既に書かれてあるので,余計ではあったところでしょう。いずれにせよ,人民からの請願に誠実に対応しない,仁愛なき君主とされたジョージ3世は,植民地人の叛乱という大きな困難に逢着してしまったところです。



 我々(北アメリカ植民地人)の移住及び植民の事情の「いずれも,
イギリス立法府が我々に対する管轄を有しているとの当該奇妙な主張を基礎付けるものではない。すなわち,それらは,イギリスの富及び力に頼ることなく,我々が自ら血を流し,及び財を費やすことによってなされたものである。また,我々の各種政体を実際に樹立するに当たっては,我々は一人の共通の王を戴くことにし,彼らイギリスの同胞との恒久的連盟及び友好の基礎を置いたところであるが,彼らの議会に対して服従することは,我々の国制の一部をなすものではなく,歴史の伝えるところを信ずれば,そのようなことは考えられてもいなかったところである。


 七年戦争(1756‐1763年)において,イギリスは北アメリカでフランス及びアメリカ原住民族の連合軍と戦い(フレンチ=インディアン戦争),その出費で国庫が疲弊したために,相応の分担を求めて当の現地である植民地に対する課税が試みられたという経緯であるはずなのに┉┉ちょっと恩知らずに聞こえますね。また,17世紀末の名誉革命の後はイギリスは議会主権の国制(正確にいうと,ここで主権を有する「議会」は"King in Parliament"であって,国王は議会の外にあってこれと対抗するのではなく,議会の一構成要素と観念されます。)となっていたので,90年近くたってから今更,イギリス国王とは関係があるが,イギリス議会とは関係が無い,と言うのも,これまたちょっと難しいですね。

 なお,大英帝国ならぬ大日本帝国においては,美濃部達吉によれば,日本内地と法域の異なる「殖民地に於ける立法権は憲法上当然に天皇の大権に属し,初より議会の協賛を必要としない」とされつつも(『逐条憲法精義』159頁。すなわち,大日本帝国憲法5条は内地にのみ係る属地的規定であるものと説かれたわけです。),「帝国議会┉┉は天皇に協賛るもので,天皇の統治の及ぶ限りは,┉┉当然之に追随してその権限を有し,帝国議会に関する大日本帝国憲法の規定も亦施行区域を限らるべきものでないことは明瞭」とされていました(同37頁)。すなわち,「敢て殖民地に関する立法に付いては議会は全く之に協賛するの権が無いといふのではない。議会は広く天皇の立法権に協賛する権能を有するもので,それは内地と殖民地とに依つて異なるものではなく,随つて殖民地に施行せらるべき立法についても,議会の協賛を経て行はることは,勿論差支ないのみならず,事情の許す限りはそれが正則の方法である。┉┉唯殖民地の立法に付いて一々議会の協賛を経ることは,事情の許さない所であるから,それを以て憲法上の要件と認むることが出来ぬといふに止まる。」とされていたところです(同150‐151頁)。朝鮮においては,内地では法律をもって規定されるべき事項を朝鮮総督の発する「制令」をもって定めることができ(ただし,天皇の勅裁を要する。),台湾では同様に,台湾総督の「律令」によって定めることができたところです。



 「彼ら
イギリスの同胞が,彼らの法律による通常の手続に従い,我々の間の調和を乱す者たちを彼らの諸院から排除する機会を有したときにおいても,彼らは,その自由な選挙によって,その者たちを再び権力の座につけた。正に現時においても,彼らは,我々と同血の兵士たちのみならず,スコットランド人及び外国人の傭兵を,我々を侵略し,破壊するために派遣することを,彼らの政府(their chief magistrate)に対して許容している。これらの事実は,悩める情愛に対して最後の一刺しを加えたものであって,男性的精神は,我らをして,これら無情の同胞(unfeeling brethren)を永遠に否認せしめるものである。我々は,彼らに対するかつての愛を忘れるべく努めなければならない┉┉。我々は共にあって自由かつ偉大な国民であり得たかもしれない。しかし,見るところ,偉大及び自由を共にすることは,彼らの潔しとしないところである。そうあらしめよ, 彼らがそれを欲するのであるから。幸福と栄光とへの道は,我々にも開かれている。我々は,彼らとは別個に,その道を歩むものである。」


 「スコットランド人の傭兵」という文言は,スコットランド出身の代議員のお気に召さなかったそうです。

 しかし,イギリスの同胞(British Brethren)に対して何やら恨みがましいですね。男性的精神(manly spirit)をもって男らしく,つれない彼女と別れて,昔の愛も忘れるんだぁ,とわざわざ言うのは,かえって未練があるようでもあり,何だか心配です。「これからは,いいお友だちでいましょうね。」ということにするのなら,むしろ余計なことを言わない方がいいわけです。あるいは,後にフランス革命戦争の時代に親仏派を率いることとなるジェファソンとしては,文字どおりイギリスとは縁切りするつもりだったようでもありますが。



 我々(大陸会議代議員)は,これら植民地の善き人民の名及び権威において,「イギリス国王に対するすべての忠誠及び服従(王により,王を通じ,又は王の下でそれらを要求する者に対するものを含む。)を拒否し,かつ,否認する。我々は,我々とイギリスの人民又は議会との間にこれまで存在したとされるすべての政治的関係を完全に解除する。」


 イギリスの人民及び議会の中には,なお良好な関係を保つに値する勢力が存在すると考えることは,ジェファソンが非難するように,怯懦な考え(pusillanimous idea)であると単純にいうわけにはいかないでしょう。後々のことを考えれば,余計な敵を作る必要はないでしょう。しかしながら,イギリス人民及び議会に対する直接の非難の言葉が削られた結果,ジョージ3世ばかりが悪者にされる形になったことは,何やらお気の毒ではあります。(ジョージ3世は,1765年,17881789年及び18031804年に精神病を発症し,1811年からのそれは,その最期まで治癒しませんでした。

 

 次の削除部分が,最も議論を喚起しているところです。



 「彼
現国王(ジョージ3世)は,人間性それ自体に対する残酷な戦争を遂行した。すなわち,彼は,彼に何らの害をも加えたことのない遠い土地の人々に対して,身体に係る生命及び自由という人間性にとって最も神聖な権利の侵害をしたのであって,それは,他の半球において奴隷にするために,又はそこへ彼らを運送する過程において悲惨な死を被らしめるために,彼らを捕らえ,運搬することによって遂行された。異教国にとっておぞましいこの海賊的戦争行為は,キリスト教徒たるイギリス国王による戦争行為である。人間が売買される市場が開かれてあることを維持せんがために,彼はその拒否権を濫用し,この忌まわしい商取引を禁止し,又は制限しようとするすべての立法の試みを抑圧した。そして,that this assemblage of horrors might want no fact of distinguished die, 今や彼は,この当の人々黒人奴隷が我々のただ中において武装蜂起し,正に彼によって彼らを押し付けられた(obtruded)ところの人々を彼らが殺すことによって,彼らから彼が奪った当の自由をあがなうように彼らをけしかけている。このようにして彼は,一方の人々の自由に対して犯した以前の犯罪を,その人々が犯すべくそそのかしている他の人々の生命に対する犯罪によって,清算するのである。


 奴隷の輸入を求めていたサウス・カロライナ及びジョージアの代議員の強い反対によって,奴隷貿易を激しく非難するこの部分は削除されたそうです。また,北部植民地の商人も奴隷貿易に関与していないわけではなかったところです。


 しかし,奴隷制度を非難する,この理想主義的な一節を書いたジェファソン自身が,終生奴隷所有主であったところです。

 なぜ奴隷所有主がこのようなことが書けたのでしょうか。矛盾を感じなかったのでしょうか。飽くまでも悪いのはジョージ3世で,ジェファソンが奴隷を所有していたのは,悪いイギリス国王によって押し付けられた(obtruded)仕方のない事情によるものだったからでしょうか。それとも,ジェファソンはジェファソンだったからでしょうか。

 

 アメリカ独立革命期において既に大きな問題であった奴隷制が廃止されるためには,南北戦争を待たなければならなかったところでした。(リンカンによる奴隷解放は1863年のことであって,我が国へのペリー来航から10年後のことです。) 


 ジェファソンの人物論は難しいところですが,また,"that this assemblage of horrors might want no fact of distinguished die"の部分をどう訳すかも少々首をひねるところです。

 常識的なところでは,ここでの"die""dye"のことであるとして(ushistory.orgウェッブ・サイトにおける独立宣言案の文言変化比較表では,最初の"die"が次には"dye"になっています。),「これら一連の恐るべきことどもがおどろおどろしさを欠くことのないように」とでも訳すべきでしょうか。『リーダーズ英和辞典』には,"of the deepest dye"をもって,「第一級の,極悪の」という意味であるとあります。

 ただし,Greg Warnusz氏のウェッブ・ページでは,"fact""facet"又は"facets"の誤りであって,"want no facet of distinguished die"切り出されたさいころ(die)の六つの面がすべてそろっていること,すなわち完全であることを意味し,問題の部分は,「これら一連の恐るべきことどもを完結させるために」という意味ではないか,としています。


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(旧ジェファソン邸: Monticello, VA


(参考)田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980140頁,143Randall, W.S., Thomas Jefferson: a life: 276-278

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 「我に自由を与えよ,しからずんば死を与えよ。」


有名なこの言葉は,アメリカ独立革命が胎動していた1775323日,イギリス総督が駐在する首都ウィリアムズバーグを避けてリッチモンドのセント・ジョン教会に集会していた植民地人の第2回ヴァジニア会議(Virginia Convention)において,植民地人の武装防衛準備を主張するパトリック・ヘンリーの名演説中の名せりふです。



……後退は,屈服及び隷従以外の何物でもない。我々の鉄鎖が準備されている。ボストンの平原では,その金属音が鳴っているのが聞こえているであろう。戦争は避けられない。では,それを来たらしめよ。私は繰り返す,議長,それを来たらしめよ。

議長,事態を緩和しようとしても,それはむなしい。紳士諸君は唱えるであろう,平和,平和と。しかし,平和は存在しない。戦争は現実に始まっているのである。北部から吹き付ける次の強風は,大いなる剣戟の響きを我々の耳にもたらすであろう。我々の同胞は,既に戦場にある。なぜ我々は,手をつかねたままここにいるのか。

紳士諸君は何を求めているのか。彼らは何を得るのであろうか。

鉄鎖と隷従とをもってあがなうべきほど,生命は貴く,平和は甘美なものであるのか。やめていただきたい,全能の神よ。

他の人々がどのような途をとろうとするのか,私は知らない。しかし, as for me, GIVE ME LIBERTY OR GIVE ME DEATH!



 米国建国史中の劇的場面の一つです。

 赤毛で大柄な,当時38歳のパトリック・ヘンリーの雄弁の力があずかり,また,新開の西部諸郡及び若手の代議員の賛成があって,武装防衛準備案は辛くも6560で可決されました。

 売れっ子弁護士であったパトリック・ヘンリーは,ヴァジニアにおける対イギリス独立革命の指導者となります。

 パトリック・ヘンリーの「自由か死か」演説があった翌月の19日には,緊張が高まっていたマサチューセッツ(首都ボストン)のレキシントン及びコンコードでイギリス本国軍と植民地人との間に武力衝突が発生。アメリカ独立戦争が始まります。

1776年にヴァジニアイギリスから独立を宣言。パトリック・ヘンリーは13邦中の最大邦である独立ヴァジニアの初代知事に選出され,合衆国の建国の父の一人として米国史に名をとどめることになります。


 さて,このパトリック・ヘンリー大弁護士,政治家として偉大であったのみならず,弁護士業においても売れっ子だったということですから,さぞや弁護士資格試験も優秀な成績で合格したのだろうな,とつい考えてしまうところです。


 ところがさにあらず。


 商店経営に2度失敗し,義父の居酒屋でバーテンダーをし,そして法律家道を志したパトリック・ヘンリー先生の弁護士資格試験に向けての法律修行は,極めて横着かつ短いものでありました。6週間ほど法律書を読んだだけであります。(とはいえ,法律教育の制度がいまだに整備されていなかった当時のヴァジニアでは,下級裁判所又は郡裁判所だけで仕事をするつもりであれば,法律書を読み,無給の法律事務員をして,数箇月から数年がたったところで,筆記試験及び口頭試験からなる弁護士資格試験を受けてしまうのが普通であったそうです。)

有名な法学者で,かつ,ジェファソンや後の米国連邦最高裁判所首席判事であるジョン・マーシャルの師匠でもあったジョージ・ウィス(Wythe)が試験委員の一人であったのですが,真面目なウィス先生はパトリック・ヘンリー受験生の前記修行成果にぞっとした余り,当該受験生に与える弁護士免許状への署名を拒否したと伝えられております。


知人の一人であった秀才ジェファソンは,弁護士パトリック・ヘンリーの能力について,その得意とする雄弁が物をいう郡裁判所での「陪審裁判案件以外については,全くなってなかった」との評価を後に下しています。更にいわく,パトリック・ヘンリーは「最も簡単な案件についても,法律的な批判はいうもおろか,文体及び思考の正しさに係る通常の批判に耐えられる書面を書くことができなかった。というのも,彼の頭の中には,思考の正確というものが全く欠落していたからだ。彼の想像力は,豊富で,詩的で,崇高だったが,しかし漠然としていた。彼は最美の言葉で最強のことを語った。しかし,論理がなく,構成もなかった。」と。