カテゴリ: 民事訴訟法

1 「異次元の少子化対策」宣言

 岸田文雄内閣総理大臣は,今年(2023年)14日の伊勢神宮における年頭記者会見で,同年を「異次元の少子化対策に挑戦する」年としたいとの力強い抱負を述べられました。

異次元とは由々しい言葉です。これまでの常識を覆すような,行儀のよい保守派からするとスキャンダラスと指弾されるような「対策」が講じられるものかと緊張させられます。

しかし,続けて提示された三つの「対策の基本的な方向性」はどのようなものかといえば,「第1に,児童手当を中心に経済的支援を強化することです。第2に,学童保育や病児保育を含め,幼児教育や保育サービスの量・質両面からの強化を進めるとともに,伴走型支援,産後ケア,一時預かりなど,全ての子育て家庭を対象としたサービスの拡充を進めます。そして第3に,働き方改革の推進とそれを支える制度の充実です。」というものでした。より大きな財政赤字及び徴税並びに増額された社会保険料によって折角集めたお金を国民に撒き戻しつつ,関係省庁の関係業界を細やかな干渉を通じて助長する一方,従業員福祉を更に強化する実践及びその負担を企業に求めるということであれば,従来の政策次元の拡大延長面上にあるようでもあります。現状が既にスキャンダラスな衰退途下国においては,陳腐化した前例を同一次元において偸安的に踏襲することこそが,あるいは最悪のスキャンダルとなるかもしれません。

しかし,岸田救国内閣たるもの,謙虚を装いつつも,そのような因循姑息策にとどまることはあり得ません。別次元に飛び移るような爆発的な量的拡大による「異次元」化が意図されているのかもしれません。

 

2 民法新773条からの同法732条への脚光

 ところで最近筆者は,20221216日公布の令和4年法律第102号たる民法等の一部を改正する法律を研究していて,「実はこれが,岸田内閣からの隠された「異次元」メッセージなのではないか」などと不図妄想してしまう民法(明治29年法律第89号)の改正条項に逢着したのでした(当該改正は,202441日から施行されます(令和4年法律第102号附則1条本文,令和5年政令第173号)。)。

 

    (父を定めることを目的とする訴え)

 (現)第773条 733条第1の規定に違反して再婚をした女が出産した場合において,前条の規定によりその子の父を定めることができないときは,裁判所が,これを定める。

 

    (父を定めることを目的とする訴え)

 (新)第773条 732の規定に違反して婚姻をした女が出産した場合において,前条の規定によりその子の父を定めることができないときは,裁判所が,これを定める。

 

 民法732条は,重婚禁止の規定です(「配偶者のある者は,重ねて婚姻をすることができない。」)。

 これは,女性の再婚禁止期間を定める民法現733条が令和4年法律第102号によって削除され,かつ,同法によって民法772条の嫡出推定規定が整備されることに伴って現773条が不要となるはずのところ(人妻である彼女の前婚の解消又は取消しがあれば直ちに(再婚禁止期間なしに)人妻好き男性は当該彼女と婚姻できることになるのですから,「第733条第1項の規定に違反して再婚」をすることとなる女性はそもそもいなくなるわけです。),従来「重婚関係が存在する場合にも,〔嫡出〕推定重複の場合が生じうる。その場合にも,773条を準用(ママ)すべきである。」(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)218頁)とされて潜在していた重婚妻の生んだ子に係る現773条類推適用の必要性が,その背後にうまく隠れ得るとともに当該類推適用については抜かりなく可能であるものとしてくれていた773条の現行文言を失うことによってはしなくも表面化し,あからさまな適用規定たる新773条としてはしたなくも規定し直されたということになります。(202459日追記:令和4年法律第102号の立案御担当者の御説明は,「改正法では,女性の再婚禁止期間の廃止により,再婚禁止期間の定めに違反して再婚をした女性が出産すること自体がなくなるものの,重婚禁止の定めに違反して婚姻した女性が出産し,父性推定が重複することは今後も引き続き生じ得るため,父を定めることを目的とする訴えに関する規定を,重婚禁止の定めに違反して婚姻した女性が出産した場合に適用されるものであることを明確にする形で見直しています(773)。」というものです(佐藤隆幸編著『一問一答 令和4年民法等改正――親子法制の見直し』(商事法務・202497)。)

 

3 重婚の有効性

 重婚が成立してもそれは婚姻の取消事由にしかならず(民法744条。無効ではありません。「婚姻ヲ無効トスルハ重大ナル影響ヲ夫婦間ノ関係及ヒ其子ノ利害ニ及ホシ延イテ一家ノ浮沈ニモ関スルコト稀ナリトセサルカ故ニ苟モ利害関係人ノ請求ナキ以上ハ暫ク之ヲ黙認シ敢テ之ニ干渉セサルコトトセリ」と梅謙次郎は説明しています(同『民法要義巻之四 親族編(第22版)』(私立法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1912年)120頁)。),かつ,婚姻の取消しは将来に向かってのみ効力を有する(遡及効はない)のですから(同法7481項),確かに重婚夫婦から生まれた子は,後婚配偶者の子であっても,本来は堂々たる嫡出子たるべきものであるところです。婚姻が取り消されても「夫婦間ニ挙ケタル子ハ之ヲ嫡出子ト看做シ総テ嫡出子ノ権利義務ヲ有スル者トスル」わけです(梅139-140頁)。

 しかし,重婚の後婚も取消しまでは有効な婚姻である(ちなみに,重婚でない婚姻も所詮は離婚まで有効なものにすぎず,後処理は重婚中の後婚取消しの場合のそれと同様です(民法749条)。),ということを想起せしめる規定振りは,余りうまくないように思われます(「第732条」と具体的な条番号が書かれていても,条文に当らない者が大部分なのでしょうが,たまに筆者のように細かくうるさい人間もいます。)。民法現7331項違反であるならば所詮再婚禁止期間違反にすぎず(梅も「余ハ敢テ我邦ノ公安ヲ害スルモノト云フヲ得スト信ス」と言っています(梅112)。),また,妻の前婚解消後直ちにされたアウグストゥスとリウィアとの婚姻に係る前例(ちなみに,両者婚姻時,リウィアは離婚した前夫ティベリウス・クラウディウス・ネロとの間の子であるドルススを妊娠中でした。)もあって,激しい愛の情熱が二人を急がせてしまったのだということでなお許されるのでしょうが(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1048584997.html),重婚となれば,刑法(明治40年法律第45号)184条に拘禁刑(令和4年法律第67号の施行までは「懲役」)の規定のある堂々たる犯罪です。重婚の民法上の有効性を示唆してしまって横着者に高を括らせてしまうような規定は,避けるべしというのが立法技術上の美学ではないでしょうか。我が国の戸籍吏は戸籍制度を前提に民法740条に基づき真面目に確認を行うから同法732条違反の重婚となる婚姻の届出を受理することはあり得ないのだ,だから気にするには及ばないのだ,とは言い切れないでしょう。いわんや法の適用に関する通則法(平成18年法律第78号)24条が適用される婚姻がからむ場合においてをや(刑法184条は,日本国外でも日本国民には適用はされますが(同法35号),ボワソナアドの旧刑法(明治13年太政官布告第36号)354条(「配偶者アル者重子テ婚姻ヲ為シタル時ハ6月以上2年以下ノ重禁錮ニ処シ5円以上50円以下ノ罰金ヲ附加ス」)解釈に倣えば,重婚罪は継続犯ではなく,状態犯となります(Gve. Boissonade, Projet Révisé de Code Pénal pour l’Empire du Japon accompagné d’un Commentaire, Tokio, 1886, pp.1046-1047)。2年以下の拘禁刑が法定刑である場合,公訴時効期間は3年です(刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)25026号)。)。

 

  (重婚)

  〔刑法〕第184条 配偶者のある者が重ねて婚姻をしたときは,2年以下の拘禁刑に処する。その相手方となって婚姻をした者も,同様とする。

 

4 多夫の妻が生んだ子の父を定める訴え

 嫡出推定に係る民法新7721項(「妻が婚姻中に懐胎した子は,当該婚姻における夫の子と推定する。女が婚姻前に懐胎した子であって,婚姻が成立した後に生まれたものも同様とする。」)及び同条新3項(「第1項の場合において,女が子を懐胎した時から子の出生の時までの間に2以上の婚姻をしていたときは,その子は,その出生の直近の婚姻における夫の子と推定する。」)を重婚の場合に適用し,新773条を不要化できないかと考えても(すなわち,後婚の夫が父と推定されるものとする。),同時に2箇所で婚姻届が受理されて重婚が成立したとき(星野英一『家族法』(放送大学教育振興会・1994年)60頁の挙げる例)はどうするのだ,という問題が残ります。というよりも,そもそも,民法新773条の立案者は,新7723項の規定は重婚の場合には適用されないものと考えているのでした。すなわち,2021112日の法制審議会民法(親子法制)部会第21回会議に提出された「部会資料21-2 補足説明(要綱案のたたき台(1))」の7頁には,「母が離婚した後に再婚したところ,前婚の離婚が無効とされた場合は,重婚状態となる。そして,その状態で子が生まれた場合には,前婚の夫も再婚後の夫も,子の出生時に母と婚姻中となり,子の出生の直近の婚姻における夫として,いずれも嫡出推定が及ぶこととなる。」と記されていたところです。

 竹内まりや作詞・作曲(河合奈保子が歌ったのは1982年ですか。嗚呼昭和は遠くなりにけり。)の「けんかをやめて」状態的一妻多夫の重婚の場合,共通妻のために二人が争うことはもはやなくとも,子が生まれてしまうと今度はパパを決めるために,二人はやはり争わなければならないのでした(令和4年法律第102号による改正後の人事訴訟法(平成15年法律第109号)4522号及び3号(前婚の夫vs.後婚の夫)。ただし,子又は母が男たちを訴える場合もあります(同項1号)。)。その間出生届は,取りあえず父未定として母がすることになっています(戸籍法(昭和22年法律第224号)54条)。生まれるとともに当然母の夫が父となる一夫多妻の重婚から生まれた子の場合とは異なります。嫡出推定が重複するから両方パパだよ,けんかをやめて,ということにはならないようです。あるいはこの辺が,将来,憲法24条ないしは141項に違反する男女差別の違憲立法だということで問題になるところかもしれません(一夫の妻と多夫の妻との間における女性対女性の同性内差別問題なのだということには,ならないのでしょうね,きっと。)。

なお,父を定めることを目的とする訴えについては「訴えの性質上,嫡出推定が重複しているため判決で父を定めるべき旨を主張すればよい。請求の趣旨において重複する父のいずれかを特定する必要はない。また,特定したとしても,裁判所は請求の趣旨に拘束されない」とのことで(二宮周平編『新注釈民法(17)親族(1)』(有斐閣・2017年)570頁(野沢紀雅)),民事訴訟法(平成8年法律第109号)246条の適用のない形式的形成訴訟(実質的には非訟事件)であるとされています。二人をとめる裁判官の作業は,「法が形成原因をはじめから具体的に規定せず」という状態なので,「要件事実の存否を判定するというよりは,合理的と思われる結果を直接に実現する合目的的処分行為という性格を強く帯び,法を適用するという性格(要件事実の存否を判断し,法的効果の有無を判断するという性格)が稀薄」となっているとのことです(新堂幸司『新民事訴訟法(第二版)』(弘文堂・2001年)181頁)。法的に父であることの要件事実とは何ぞや,という問題がここでも出て来ます。ちなみに,父を定めることを目的とする訴えについては「常に裁判上の形成の必要性が肯定され,裁判所は何等かの形成をしなければならぬ〔略〕(従って請求棄却の余地はない)」ということ(三ケ月章『民事訴訟法』(有斐閣・1959年)53頁)だったそうですが,現在は「審理の結果双方とも父でないとの心証に至った場合について,多数説は請求を棄却すべきであるとする〔略〕が,訴えを却下すべきであるとする説もある」とのことです(二宮編571頁(野沢))。

 

5 重婚の効用

 ところで,重婚といえば,通常は一夫多妻の場合が念頭に浮かんでしまうところです。

 しかして,民法新773条における一夫多妻等婚姻(同法732条違反)の(取消しがあるまでの)有効性の摘示と「異次元の少子化対策」とがなぜつながるのかというと,筆者がかつて読んだ経済学の教科書に(したがって,以下は筆者の私見ではありません。),一夫多妻制の方が一夫一婦制よりも女性の経済的厚生が高くなるのだなどというけしからぬことが書いてあったからでした(Roger D. Blair & Lawrence W. Kenny, Microeconomics with Business Applications, John Wiley & Sons, 1987, pp.8-9)。

 

   婚姻を,供給曲線と需要曲線とによって描写することができる。妻らの需要曲線と妻らの供給曲線とが存在しているのである。同様に,夫らの需要曲線と夫らの供給曲線とが存在する。一夫一婦制社会においては,婚姻は,(同時的には)一人の夫と一人の妻とによってなされるものと制限されている。一夫多妻婚は,一人の夫と複数の妻らとによってなされる婚姻である。一夫多妻婚は,世界中で行われてきた。例えば,イスラム教徒及び初期モルモン教徒は一夫多妻婚者である。一夫多妻婚は一人の男に1を超えた数の妻を持つことを認めるところから,一夫一婦制の下におけるよりも,一夫多妻制の下における方が妻らに対する需要が大きくなる。一夫多妻制下における高い妻需要は,彼女らの収入を増加させる。すなわち,女性は,一夫一婦制よりも一夫多妻制における方が,よい暮らしができるのである。この興味深い仮説は,経験的証拠によって支持されている。一夫一婦制社会においては,しばしば花嫁は,婚姻するに当たって持参金――これは,花嫁の家からの夫に対する贈物である――を用意しなければならない。反対に,一夫多妻制社会における花婿は,妻に対して,婚資と呼ばれる贈物をするのである。一夫多妻制社会における女性に対する婚姻のより大きな利益は,彼女らをして,一夫一婦制社会の女性たちよりも若い年齢での婚姻に向かわせる。恐らくよりよい暮らしを求めてのことであろうが,一夫一婦制社会から一夫多妻制社会に移住する女性もいる。a

   a  Gary A. Becker, A Treatise on the Family, Cambridge, Mass.; Harvard Univ. Press, 1981, pp.56-57

 

一夫一婦制社会は,あるいはむしろ,けんかをやめた男たちの互助協定によって皆に花嫁が行きわたるようにする,平凡な男本位の発想に基づく微温的な社会にすぎないのかもしれません。

シェアリング・エコノミーといいますが,有り余るほどお金のある男の当該余裕資産を一人の妻が不当に独占しないで他の女性たちと一緒に仲良く快適にシェアすれば,女性の経済的厚生が全体的に向上し,ひいてはその経済的余裕がより多くの嫡出子出産につながるのではないか,という発想は異次元的でしょうか,それとも単に,古臭い男性(ただし,男性といっても,競争に敗れ,かつ,うまく立ち回れない劣位男子を除く。)優位社会的発想への回帰にすぎないものでしょうか。

 重婚噺が続きそうです。

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 本稿は,「準消費貸借(民法588)の藪を漕ぐ(下)」ブログ記事中「9 準消費貸借山域の鳥瞰図」の「(3)要物性緩和論の由来」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079396090.html)に関しての追記となります。

 

1 純消費貸借における要物性の緩和

「要物性の緩和」は,準消費貸借(民法(明治29年法律第89号)588条「金銭その他の物を給付する義務を負う者がある場合において,当事者がその物を消費貸借の目的とすることを約したときは,消費貸借は,これによって成立したものとみなす。」)についてのみならず,本来の消費貸借(同法587条「消費貸借は,当事者の一方が種類,品質及び数量の同じ物をもって返還することを約して相手方から金銭その他の物を受け取ることによって,その効力を生ずる。」)についても観念され得るところです。

すなわち,本来の消費貸借についても「要するに,一定量の経済的価値が,貸主の負担において,適法に,借主に帰属することを要するだけである。」(我妻榮『債権各論中巻一(民法講義Ⅴ₂)』(岩波書店・1957年(補注1973年))358頁),「例えば,契約額の一部を借主に渡し,残部を借主及び保証人の旧債務と差し引きにしたとき(大判大正756890頁),借主が貸主に対する第三者の債務を弁済することにしてその金額を消費貸借にしたとき(大判明治4468379頁)などにも,要物性を充たす。けだし,これらの場合にも,貸主の負担において借主にそれだけの経済的価値が帰属するからである。」(同358-359頁),「判例は,消費貸借の要物性をゆるやかに解釈し,現実に目的物の授受がなくても借主に現実の授受があったと同一の経済上の利益を得しむれば足りるとしている。」(来栖三郎『契約法』(有斐閣・1974年)253頁註(3))等と説かれています。

 

2 準消費貸借=消費貸借

こうなると,消費貸借と準消費貸借との区別は曖昧になってきます。その結果が赴くところは,両者の同一視です。いわく。「消費貸借の要物性を厳格に解する立場に対して,次第に強調されてきた要物性緩和の傾向は,本条〔民法588条〕の解釈にも当然影響し,今日では本条は,民法自身消費貸借の要物性を緩和している場合と解されている(松坂123,我妻365366,山主123,柚木・民法下129,宗宮164,石田穣187,星野171)。すなわち,消費貸借における物的要件は,既存債務の存在をもって足るというところまでゆるめられているのだと考えられるのである(我妻366)。そして,このように本条が要物性緩和の規定であり,本条の契約は結局消費貸借にほかならぬと解する場合には,準消費貸借という名称は,前述(イ)の説〔「本条はドイツ民法と異なって,消費貸借が成立したものと「看做ス」というのみであるから,本条の契約は,純粋の消費貸借ではなくして,単に消費貸借と同じ法律効果を生ずる契約というにすぎないのであって,したがって,そのような準消費貸借においては,純消費貸借におけると同じ物的要件〔厳格な要物性〕の具備を説明する必要はないとする理論」〕のような積極的な意味〔「この立場からすれば,本条の契約に準消費貸借という名称を与えることは,まさに妥当である」〕を含んでいないのであって,したがって,本条の契約を特別にそう呼ばねばならないかどうかは疑わしいとの説もとなえられている」と(幾代通=広中俊雄編『新版注釈民法(15)債権(6)』(有斐閣・1989年)21頁(平田春二)。下線は筆者によるもの)。

ただし,平成16年法律第147号による改正においては,民法588条に「(準消費貸借)」との見出しがわざわざ付けられてしまっています。民法587条の前に「消費貸借」との共通見出しを一つ付けて済ますことはされていません。同一の条において規定されているドイツ民法旧6071項(「金銭又はその他の代替物を消費貸借の目的として受領した者は,貸主に対して,同じ種類,品質及び数量の物をもって受領物を返還する義務を負う。」)と同条2項(「他の原因により金銭又はその他の代替物に係る債務を負う者は,当該金銭又は物について,消費貸借の目的としての債務を負うものとする旨の合意を債権者とすることができる。」)との関係には倣わなかったわけです。

 

3 裁判例

(1)消費貸借から準消費貸借へ

判例も「当事者が金銭消費貸借に基づき金員支払を求める場合において,その貸借が現金の授受によるものでなく,既存債務を目的として成立したものと認めても,当事者の主張に係る範囲内においてなした認定でないとはいい得ない」としています(最判昭和41106日集民84543頁・判時47331頁)。(昭和38年(1963年)2月末か3月初めに3万円の敷金返還債権の譲渡があった場合における譲渡人(原告)から譲受人(被告)に対する「原告は被告に対し昭和3831日金3万円を弁済期(ママ)同年6月末日利息の定なく貸与した」ことを請求原因とする3万円の支払を求める訴えについて,事実審は「右事実によれば,昭和382月末か3月始め,現金の授受はないが,これと同視すべき金3万円の経済的利益の授受が原告より被告にあり,被告は同年6月末までにこの返還を約したのであるから,消費貸借の成立があつたというべきであり,被告は原告に対し右借受金3万円を支払う義務がある」との判決を下したところ,「X〔原告・被上告人〕は3万円の貸金債権に付単純なる貸金債権を主張して居るに過ぎず準消費貸借の成立を主張して居らない,〔略〕Xの主張を認容したことは明らかにXの主張して居らない事実を判決したか審理不尽又は理由不備の違法があるものと謂わざるを得ない。」との理由による上告があり,それに対して最高裁判所第一小法廷が「原審の事実認定は挙示の証拠によつて肯認し得るところである。」とした上で,「本件金3万円の債権につき原審は所論のごとき認定をしたのであるが,当事者が金銭消費貸借に基づき金員支払を求める場合において,その貸借が現金の授受によるものでなく,既存債務を目的として成立したものと認めても,当事者の主張に係る範囲内においてなした認定でないとはいい得ないから,畢竟,原判決には何等所論の違法はなく,論旨は採用に値しない。」と判示したものです(鈴木重勝「金銭消費貸借に基づく金員支払請求に対し,準消費貸借に基づく金員支払請求として認容することの可否」ジュリ増刊『昭和4142年度重要判例解説』(1973年)84頁)。)

つとに福岡高判昭和32910日判決高裁民集102435頁が「もつとも,消費貸借に基いて,貸与した金銭の返還を請求する訴訟においては,当事者が準消費貸借によつては請求しない旨特に表明しないかぎり,金銭の現実の消費貸借(狭義の消費貸借をいう)が認められない場合でも,裁判所はいわゆる準消費貸借の成否を判断し,その成立を認めて請求認容の判決をなしても,民事訴訟法第186条〔現246条「裁判所は,当事者が申し立てていない事項について,判決をすることができない。」〕に違背することはない」と判示していたところです。これについて将来の法務大臣は,「本件を眺めれば,準消費貸借と認めて認容しても申立の範囲内であるとすることは,実は消費貸借・準消費貸借という法律構成は原告に定立することを要求されている訴訟物の概念の中には要素としては入ってはいないのだ,という認識を表明するとみねばならない。」と述べています(三ケ月章「訴訟物をめぐる戦後の判例の動向とその問題点」『民事訴訟法研究 第一巻』(有斐閣・1962年)188頁)。

つまり,「消費貸借契約に基づく貸金返還請求につき,消費貸借の主張を準消費貸借の主張に変更しても,訴訟物は同一である」ということになります(岡口基一『要件事実マニュアル 第2版 上』(ぎょうせい・2007年)531頁)。

大判昭和18520日法学13167頁は「仮令該〔消費貸借〕契約成立に至るまでの来歴たる事実関係及該契約が現金の授受に基く消費貸借なるや或は現存の債務を目的としたる所謂準消費貸借なるや否の点等に於て被上告人〔貸主〕の主張するところを否定し却て上告人〔借主〕主張の一部を容れたる結果となるも右判定が〔消費貸借契約を表示する〕右甲第2号証の表示する契約其のものの成立と其の内容以外に亙るものにあらざる以上は之を以て被上告人の主張せざる事項を被上告人に帰せしめたるものと謂ふことを得ざるや勿論」と判示しています。

なお,民法666条が「受寄者カ契約ニ依リ受寄物ヲ消費スルコトヲ得ル場合ニ於テハ消費貸借ニ関スル規定ヲ準用ス但契約ニ返還ノ時期ヲ定メサリシトキハ寄託者ハ何時ニテモ返還ヲ請求スルコトヲ得」と規定していた時代の大判昭和269日民集68341頁は「消費寄託ヲ原因トスル訴訟ニ於テ初ニ現金ノ交付ニ因リ消費寄託成立シタリト主張シ後ノ弁論ニ於テ他ノ原因ニ因リ給付スヘキ債務アル金銭ヲ以テ消費寄託ノ目的ト為シタリト主張シタルトキハ単ニ民事訴訟法第196条〔「原告カ訴ノ原因ヲ変更セスシテ左ノ諸件ヲ為ストキハ被告ハ異議ヲ述フルコトヲ得ス」との柱書〕第1号ニ依リ事実上ノ申述ヲ更正シタルニ過キスシテ消費寄託タル訴ノ原因ヲ変更シタルモノト云フヲ得サルヲ以テ訴ノ変更アリタルモノニ非ス」と判示していました。

 

(2)準消費貸借から消費貸借へ

準消費貸借成立の主張に対して消費貸借の成立を認めたのは大判昭和9630日民集13151197頁で,「然レトモ当事者間ニ準消費貸借成立シタリト云フハ帰スルトコロ消費貸借ニ因ル債務ノ成立シタル事実ヲ主張スルニ外ナラサルヲ以テ当事者カ前者ノ事実ヲ主張シタル場合ニ裁判所カ簡易ノ引渡ニ因リ現金ノ授受ヲ了シ之ニ因リテ消費貸借ニ因ル債務ノ成立シタル旨ヲ判示シタレハトテ該認定カ訴訟資料ニ基クモノナル以上当事者ノ主張ニ係ル範囲内ニ於テ為シタル事実上ノ判断ニ非スト為スヲ得ス〔略〕所論ノ如ク当事者ノ主張セサル事実ニ基キ判決ヲ為シタリト言フヘカラサルヲ以テ論旨ハ理由ナシ」と判示しています。


(3)少数説

 以上の諸判例に抗して,小倉簡判昭和40112日判タ172222頁は,「消費貸借に基づいて貸与した金銭の返還を請求する訴訟においては,当事者が準消費貸借によつては請求しない旨を特に表明しない限り,金銭の現実の消費貸借が認められない場合でも裁判所は,準消費貸借の成否を判断し,その成立を認めて請求認容の判決をしても民事訴訟法186条〔現246条〕に違背しない旨の見解(福岡高等裁判所昭和32910日判決)があるけれども,当裁判所は,消費貸借に基づく返還請求権と準消費貸借に基づく返還請求権とは,その発生原因たる構成要件を異にするものであつて,全く異つた訴訟物であると解するので,訴の変更のない限りは,消費貸借に基づく金銭の返還請求訴訟において準消費貸借の成立の有無を判断することは違法であると考える(本件において原告は,準消費貸借に基く返還請求を主張しない旨明言しているので,右判例の見解にたつても同じ結論となる)。」と判示しています。最後の括弧書きを見るとあらずもがなということになるのですが,あえて上級裁判所である福岡高等裁判所の見解に公然異を立てています。しかし,前記最判昭和41106日の出現後も頑張り続け得たものかどうか。

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第1 「北方領土の日」

 我が国においては,鈴木善幸内閣時代の198116日の閣議了解によって,毎年27日は「北方領土の日」となっています。

上記閣議了解によれば,「北方領土問題に対する国民の関心と理解を更に深め,全国的な北方領土返還運動の一層の推進を図るため「北方領土の日」を設ける」ものであり,「行事」としては,「北方領土問題関係機関,民間団体等の協力を得て集会,講演会,研修会その他この日の趣旨に沿った行事を全国的に実施するものとする」そうです。飽くまでも主体はお国であって,お国のお許しを得て「北方領土問題関係機関,民間団体等」として御「協力」申し上げるという形で参加する以外は,我々一般人民はお呼びでない,ということで安心してよいようです。

 とはいえ,「北方領土問題」に「関心」を持つこと程度までは,その結果としての「理解」がたとえ忖度(そんたく)不足の粗笨なものにとどまるとしても,そのような粗「理解」的雑音ごときはものともせずに正しい理解のみが最終的に残るものである以上,直ちに非国民の所行ということにはならないでしょう。

 

第2 グレゴリオ暦185527

 実は,かねてから暦の多様性に係る問題にこだわりがある筆者(「暦に係る法制に関する覚書」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1916178.html参照)としては,「27日」という日付自体を面白く思っているところです。

前記閣議決定に付された「「北方領土の日」設定の理由書」を見ると最後に「なお,27日は,1855年〔略〕日魯通好条約が調印された日である。」とありますので,当該条約の調印日にちなんでの日付の選択であったものと解されます。しかしながら,当該条約に下田で署名したロシア帝国代表のプチャーチンに対して当該署名がされた月はфевраль (February)であったものと皇帝に報告したのかと問えば,恐らくнет(ニェット)との回答が返って来,日本代表に対して「川路〔聖謨〕殿,安政二年二月の下田における魯国人との条約調印の儀,御苦労でござった」と言っても,ぽかんとした顔をされただけでしょう。グレゴリオ暦185527は,依然ユリウス暦を使用していた正教国ロシアでは1855126日であり,明治6年(1873年)の改暦より前の段階であって太陰太陽暦を使用していた我が国においてはなお正月前の慌ただしい年末である安政元年十二月二十一日だったのでした(上記「理由書」引用部分における〔略〕の箇所には,「(安政元年1221日)」とありました。)。

「北方領土の日」の日付を,当の日魯通好条約調印時においては両当事国のいずれもその日と認識していなかった「27日」と設定したということは,「北方領土問題」自体が,日露それぞれの愛国的観点のみからしてはよく分からず,かつ,解けないものなのだよ,という寓意を込めてのことだったのでしょうか。いずれにせよ,鈴木善幸内閣総理大臣は,なかなか奥の深い人物でした(「北方領土の日」設定の前記閣議了解がされた日の前日に,真藤恒氏が日本電信電話公社総裁に就任していますが,鈴木内閣総理大臣がその前月に白羽の矢を立てていた真藤総裁の実現(内閣総理大臣ではなく内閣の任命によるもの)は,198541日からの同公社民営化及び我が国の電気通信自由化に向けての最初の布石であったように思われます(『コンメンタールNTT法』(三省堂・2011年)2頁以下。また,同書268頁以下参照)。)。

 

第3 「北方領土問題」

 「北方領土問題」とは,前記閣議了解「理由書」によれば,「我が国の固有の領土である歯舞群島,色丹島,国後島及び択捉島の北方四島は,戦後35年〔73年〕を経過した今日,なおソ連〔ロシア〕の不当な占拠下にある」ことであるものと解されます。

その「問題」の解決の形は,当該「理由書」に「これら北方領土の一括返還を実現して日ソ〔露〕平和条約を締結し,両国の友好関係を真に安定した基礎の上に発展させるという政府の基本方針」とありますから,「北方領土の一括返還」であるようです(なお,「これら」は「歯舞群島,色丹島,国後島及び択捉島の北方四島」を承けるのでしょうから,「北方領土」の語は歯舞群島,色丹島,国後島及び択捉島の北方四島を意味するものと解されます。)。

そうであれば,「日ソ〔露〕平和条約」は「北方領土の一括返還」のための手段にすぎないようです。しかしながら,我が政府の基本方針は,「日ソ〔露〕平和条約」という一つの石で二羽の鳥を獲ろうとしているようでもあって,「北方領土の一括返還」の外に,日露「両国の友好関係を真に安定した基礎の上に発展させる」ことも目的であるようです。「日露平和条約」の締結に向け現に交渉されている政府御当局が,この二羽の鳥のうちどちらが重要であると実は考えておられるのか,あるいは手段としての石の投擲たるべき「日露平和条約」の締結そのものがかえって最重要の目的となっていないかは,正に忖度するしかありません。2019130日に掲載された読売新聞オンライン版の記事「北方領土の日,「島を返せ」たすきの使用中止」を読むと,同年の「北方領土の日」根室管内住民大会では「例年,参加者が着用している「島を返せ」と書いたたすきの使用を取りやめ」,「はちまきも「返せ!北方領土」から「平和条約の早期締結を」などに変更する」そうですが,これは,根室市ないしは北方領土隣接地域振興対策根室管内市町村連絡協議会なりの忖度の結果であるものと思われます(「名は体を表す」ものであるならば,当該協議会の目的は,まずは当該地域(北方四島自体は含まれない。)の振興なのでしょう。)。

 

第4 北方四島一括返還に係る「請求原因」

 とはいえ,やはり,我が国政府はロシアの「不当な占拠下」にある北方四島について北方「領土」の飽くまで一括しての返還を実現しようとしているのでしょう。領土権に基づいて,当該領土の返還を当該領土の無権原占拠国に対して要求するものと解されます。

領土権と土地の所有権とは異なるものの,日本民法における法律構成との類比で考えると,「北方領土の一括返還」の請求は,占有者に対する所有権に基づく不動産明渡請求訴訟の場面に似ています。以下,この類比の構図に沿って,要件事実論などの復習をしてみましょう。

まず,訴訟物は「所有権に基づく返還請求権としての土地明渡請求権」です(司法研修所『改訂 紛争類型別の要件事実』(司法研修所・2006年)46頁)。訴訟物の個数ですが,「所有権に基づく物権的請求権が訴訟物である場合の訴訟物の個数は,侵害されている所有権の個数と所有権侵害の個数によって定ま」るところ(司法研修所『改訂 問題研究 要件事実』(司法研修所・2006年)57頁),筆数を数えるのも何ですし「一括」返還ということですから北方四島をまとめて所有権は1個として,侵害態様も北方四島を「一括」した「不当な占拠」であって1個ということで,1個の訴訟物ということになるのでしょうか。
 上記請求権の発生要件は①原告X(日本)が不動産を所有していること及び②被告Y(ロシア)がその不動産を占有していることとなります(類型別
47頁)。

まず②から見れば,これについては,現在ロシアが占有していること(現占有説(類型別50頁))について当事者間に争いがないということで,「概括的抽象的事実としての「占有」について自白が成立したもの」(類型別51頁)としてよいわけでしょう。

次に①の「要件事実は,Xの所有権取得原因となる具体的事実であるが,現在若しくは過去の一定時点におけるX又はその前主等の所有について権利自白が成立する場合には,Xは,X又はその前主等の所有権取得原因となる具体的事実を主張立証する必要がない」ところです(類型別47頁)。

「権利自白」については,「請求の当否の判断の前提をなす先決的な権利・法律関係についての自白」のことであって「通説・判例は,権利自白がなされると相手方は一応その権利主張を根拠づける必要はなくなるが,なお裁判所の事実認定権は排除されず,当事者はいつでも撤回できるとみる。ただし,権利自白であっても,売買や賃貸借のような日常的な法律概念を用いている場合には具体的な事実の陳述と解して自白の成立を認める」と説明されています(上田徹一郎『民事訴訟法(第二版)』(法学書院・1997年)348頁)。

「①の要件事実が,Xの所有権取得原因となる具体的な事実であると考えると,Xは,究極的には甲土地が原始取得された時まで遡り,その後の所有権の移転をすべて主張しなければならず,これが立証できなければ請求が棄却される」ことになってしまうところ,「これではXに不可能を強いることになりますし,他方,所有という概念は日常生活にとけ込んでおり,一般人にとっても理解が容易ですから,これについて自白を認めても不当な結果は生じないと考えられます。そこで,所有権については,権利自白が認められる」ものと考えられています(問題研究61-62頁)。領土権も国家にとっては理解が容易でしょう。

権利自白の成立時点としては現在に最も近い時点を把握すべきところ(問題研究63頁),北方四島の日本による領有を認めるロシアの権利自白は,その第2条で「今より後日本国と魯西亜国との境「ヱトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし」と規定した1855年の日魯通好条約の時点においてまず確かに成立していますが,その第1条で「両締約国ハ両国間ニ平和及友好ノ関係ヲ維持シ且相互ニ他方締約国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スヘキコトヲ約ス」と協定した19414月の日ソ中立条約で再成立したと解してもよいように思われます。1941413日にモスクワで署名され,同月25日に両国が批准した日ソ中立条約の方が現在により近いところです。

以上の請求原因(日本の「もと所有」(問題研究62頁)及びロシアの現占有)が認められるとなると,土地の明渡請求に係る民事訴訟ならば,ロシアとしては,有効な抗弁を提出しないと負けてしまうような成り行きとなります。(なお,我が国は北方四島の返還のみを現在要求していますが,南樺太及びこれに近接する諸島並びに得撫島から占守島までの諸島も1941年の日ソ中立条約による権利自白の対象になっていたはずです。)

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択捉島ゆかりの高田屋嘉兵衛(北海道函館市)


第5 領有権喪失の「抗弁」

ロシアは我が国の北方四島一括返還要求に対して,北方四島は自国の領土だと主張しているようですから,日本の領有権喪失の抗弁を提出しているものと解されます。

北方四島に係る日本の領有権喪失の事由は1941年の日ソ中立条約より後のものとなるわけですが,当該事由としては,①1945年のヤルタ協定,②同年のポツダム宣言及び③1951年のサン・フランシスコ平和条約が挙げられているようです。

 

1 ヤルタ協定

1945211日のヤルタ協定では,“The leaders of the three Great Powers—the Soviet Union, the United States of America and Great Britain—have agreed that in two or three months after Germany has surrendered and the war in Europe has terminated the Soviet Union shall enter into the war against Japan on the side of the Allies on condition that […]3. The Kuril islands shall be handed over to the Soviet Union.”(三大国,すなわちソヴィエト連邦,アメリカ合衆国及びグレート・ブリテンの指導者は,ソヴィエト連邦が,ドイツが降伏し,かつ,欧州における戦争が終了した後2箇月又は3箇月で,次のことを条件として,連合国に味方して日本国に対する戦争に参加すべきことを協定した。〔略〕3.千島列島がソヴィエト連邦に引き渡されること。)及び “The Heads of the three Great Powers have agreed that these claims of the Soviet Union shall be unquestionably fulfilled after Japan has been defeated.”(三大国の首脳はこれらのソヴィエト連邦の要求が日本国が敗北した後に確実に満たされるべきことを合意した。)と合意されています。

「ローマ法では,契約は,当事者以外の者に利益を与えることも不利益を与えることもできないという原則があった」ところです(我妻榮『債権各論 上巻(民法講義Ⅴ₁)』(岩波書店・1954年)114頁)。ヤルタ協定の当事国であった米国も,195697日にダレス国務長官から駐ワシントンの我が国の谷正之大使に手交された覚書(aide-mémoire)において,“the United States regards the so-called Yalta agreement as simply a statement of common purposes by the then heads of the participating powers, and not as a final determination by those powers or of any legal effect in transferring territories.”(米国はいわゆるヤルタ協定なるものは,単にその当事国の当時の首脳者が共通の目標を陳述した文書にすぎないものと認め,その当事国によるなんらの最終的決定をなすものでなく,また領土移転のいかなる法律的効果を持つものではないと認めるものである。)との見解を表明しています。日本はそもそもヤルタ協定の当事国ではないことに加え,当該協定の当事国によってもロシアの解釈が否定されているわけです。

 

2 ポツダム宣言

 

(1)第8項及びカイロ宣言

合衆国大統領,中華民国政府主席及びグレート・ブリテン国総理大臣の名で1945726日に発せられたポツダム宣言の第8項は,“The terms of the Cairo Declaration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, Shikoku and such minor islands as we determine.”(「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州,北海道,九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ)とするものです。そこで引用されるローズヴェルト大統領,蒋介石総統及びチャーチル総理大臣の名で出されたカイロ宣言(19431127日)には, “The Three Great Allies are fighting this war to restrain and punish the aggression of Japan. They covet no gain for themselves and have no thought of territorial expansion. It is their purpose that Japan shall be stripped of all the islands in the Pacific which she has seized or occupied since the beginning of the first World War in 1914, and that all the territories Japan has stolen from the Chinese, such as Manchuria, Formosa, and The Pescadores, shall be restored to the Republic of China. Japan will also be expelled from all other territories which she has taken by violence and greed. The aforesaid three great powers, mindful of the enslavement of the people of Korea, are determined that in due course Korea shall become free and independent.”(三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ズ又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ/右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ1914年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国ガ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲,台湾及澎湖島ノ如キ日本国ガ中国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニアリ/日本国ハ又暴力及貪欲ニ依リ日本国ガ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルベシ/前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ(やが)朝鮮自由独立ノモノタラシムルノ決意)とありました。

ポツダム宣言にはその後ソヴィエト社会主義共和国連邦が参加します(adhered to by the Union of Soviet Socialist Republics194592日の降伏文書の文言))。194588日のモロトフ・ソ連外務人民委員から佐藤尚武駐モスクワ大使に手交した対日宣戦布告書にソ連政府は「本年726日の連合国宣言に参加せり」とあったところです(迫水久常『機関銃下の首相官邸』(恒文社・1964年)249頁の引用する外務省編「日ソ外交交渉記録」)。同月14日の同宣言受諾に係る「帝国政府の米英ソ支4国政府宛通告文は,現地時間の14日午後85分,帝国公使よりスイス国外務次官に手交」されています(宮内庁『昭和天皇実録第九』(東京書籍・2016年)770頁)。ポツダム宣言第8項にいう,日本がその主権を保持することを認められる「諸小島」の範囲を決定すべき「吾等」(we)は,米国,英国,中華民国及びソ連の四大国であったと解し得るように思われます。しかしてその「決定」は,そうであれば,四大国の一致によってされるべきものだったのでしょう。(ただし,米国国務省のOffice of Historian(「史料室」とでも訳すのでしょうか。)ウェブ・サイトに掲載されている195697日のダレス国務長官の谷大使との会見記録によれば,同長官は「“we”は〔ポツダム宣言の〕条項を作成した三国〔米国,英国及び中華民国〕を指し,それらの国々は特別の発言権を有する(entitled to an exceptional voice)。例えば,これら三国の政府の共同見解を得ることができて,かつ,公表されたならば,それは大きな重みを持つであろう。」というような発言をしています。)

 

(2)美濃部達吉の解釈

ポツダム宣言第8項について美濃部達吉は,同宣言の受諾によって直ちに領土権の変動がもたらされる部分とそうでない部分とがあるものと解釈していたようです。194641日付けの序文が付された美濃部の著作にいわく。「而シテポツダム宣言ニハ『日本国ノ主権ハ本州,北海道,九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ』トアリ,即チ明治二十七八年ノ日清戦役以後日本ノ取得シタル新領土ハ租借地及委任統治区域ト共ニ総テ之ヲ喪失スルコトトナレリ。台湾及澎湖列島ハ関東州租借地ト共ニ支那ニ復帰シ,朝鮮ハ独立ノ国家トナリ,樺太ハ蘇聯邦ニ帰属シ,南洋群島ハ米国ノ占領スル所トナリタリ。〔略〕支那事変及太平洋戦争中日本ノ占領シタル地域ガ各其ノ本国ニ復帰シタルコトハ言ヲ俟タズ。/此ノ如クシテ現在ニ於ケル帝国ノ領土ハ,明治二十七八年戦役以前ノ旧来ノ領土即チ本州,四国,九州,北海道及附属諸島ニ止マリ,而モ附属諸島ニ付テハ,追テ平和条約ニ依リ其ノ範囲ヲ確定セラルルニ至ル迄ハ,其ノ領土権ハ尚不確定ノ状態ニ在リ。」と(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)125頁)。

美濃部がなぜ1894-1895年の日清戦争以後とそれより前との間に線を引いたのかはなおはっきりしませんが,美濃部が引用していないポツダム宣言第8項前段の「「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク」の部分の解釈によるものでしょうか。「樺太ハ蘇聯邦ニ帰属シ」の部分はカイロ宣言に直接出ていないのですが,日清戦争の結果得た「台湾及澎湖島」も「暴力及貪欲ニ依リ日本国が略取シタル」ものであって「中華民国ニ返還」されるものならば,日露戦争の結果得た樺太も同様にソ連に返還されるのだと考えられたものでしょうか(国際法事例研究会『日本の国際法事例研究(3)領土』(慶応通信・1990年)22頁(芹田健太郎)参照)。「諸小島」は “minor islands”であって,minorは本来ラテン語parvusの比較級の「より小さい」という意味であるから,四国より広い南樺太は「諸小島」としてその主権が日本に保持されることはないのだ,という算数的解釈もあったものかどうか。


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(3)連合国の解釈

しかしながら,四大国は,ポツダム宣言の受諾によって直ちに大日本帝国の領土に変更が生じたものとは解していなかったようです。
 1946129日段階におけるGHQの「若干の外廓地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」 “Governmental and Administrative Separation of Certain Outlying Areas from Japan”の第4項において,わざわざ「(a1914年の世界大戦以来,日本が委任統治その他の方法で,奪取又は占領した全太平洋諸島,(b)満洲,台湾,澎湖列島,(c)朝鮮及び(d)樺太(Karafuto)」を「更に,日本帝国政府の政治上行政上の管轄権から特に除外せられる地域」(Further areas specifically excluded from the governmental and administrative jurisdiction of the Imperial Japanese Government)としています。また,19501124日に米国国務省によって公表されたいわゆる対日講和七原則においても「日本国は〔略〕(c)台湾・澎湖諸島・南樺太・千島列島の地位に関しては連合王国・ソヴィエト連邦・中国及び合衆国の将来の決定を受諾する。条約が効力を生じた後1年以内に決定がなかった場合には,国際連合総会が決定する。中国に於ける特殊な権利及び利益は放棄する。」とあったところです(国際法事例研究会24頁(芹田)参照)。

ところで,上記1946129日の覚書において北方四島は,その第3項後段において「(c)千島列島,歯舞群島(水晶,勇留,秋勇留,志発,多楽島を含む),色丹島」((c) the Kurile (Chishima) Islands, the Habomai (Hapomaze) Island Group (including Suisho, Yuri, Akiyuri, Shibotsu and Taraku Islandsand Shikotan Island)として当該指令の目的からする(For the purpose of this directive)日本(Japan)の定義において日本から除かれています。ここでは国後島及び択捉島は特に挙示されていませんので千島列島(the Kurile Islands)に含まれているのでしょう。ただし,第4項において除かれている満洲,台湾,澎湖島,朝鮮等と比べると,第3項では日本(Japan)から除く旨わざわざ言及されていますから,千島列島,歯舞群島及び色丹島は,第4項で除かれる樺太などと比べるとより日本に近いものとして分類されたものなのでしょう。もっとも,当該覚書の第6項は「この指令中の条項は何れも,ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。」(Nothing in this directive shall be construed as an indication of Allied policy relating to the ultimate determination of the minor islands referred to in Article 8 of the Potsdam Declaration.)と規定しています。

 

3 サン・フランシスコ平和条約

 

(1)第2条(c)

問題は,195198日に調印され,1952428日に発効したサン・フランシスコ平和条約です。北方四島については,同条約の第2条(c)が “Japan renounces all right, title and claim to the Kurile Islands, and to that portion of Sakhalin and the islands adjacent to it over which Japan acquired sovereignty as a consequence of the Treaty of Portsmouth of September 5, 1905”(日本語文では「日本国は,千島列島並びに日本国が190595日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄する。」)と規定しています。

ここで若干,ここでの「放棄」の字義解釈をすると,まず,当該「放棄」によってどこかの国が当該「放棄」に係る領土権を取得するということはありません。19515月の米英暫定草案では「ソ連に割譲する旨」が記されていたのが,同年7月の段階になって「アメリカはソ連に直接利益を与える形式を好まないほか,ソ連の条約不参加の場合に譲渡方式では現実に支配するソ連と日本との間の紛争にまきこまれることを懸念し,領土条項のなかで,朝鮮・台湾・南樺太・千島などを一括して取り扱い,統一的に日本による主権放棄のみを規定することを〔英国に〕提案し,結局これが採用された」ものです(国際法事例研究会26頁(芹田))。また,当該「放棄」に係る地域が,単純な先占により領土権を取得し得る無主地になるわけでもありません。後に見るように,日本が「放棄」した地域の「最終処分」に係る「未決の点は将来この条約外の国際的解決策で解きほごしていく」べきであるとするのが,サン・フランシスコ講和会議で示された,共同起草国中の一国である米国の意思でした。

ちなみに,所有権の放棄については現行日本民法に規定はありませんが,旧民法財産編(明治23年法律第28号)42条の第5は「物ヲ処分スル能力アル所有者ノ任意ノ遺棄」によって所有権は消滅するものと規定されていました。「所有権は〔略〕放棄により,目的物は無主物あるいは国有となって存続しても,元の所有権は観念的にその存在を失って消滅する」ところ(我妻榮著=有泉亨補訂『新訂物権法(民法講義Ⅱ)』(岩波書店・1983年)247頁),物権の放棄は単独行為であって,「所有権〔略〕の放棄は,特定の人に対する意思表示を必要としない(承役地の所有権を地役権者に対して委棄する場合は例外である。287条〔略〕参照)。占有の放棄その他によって,放棄の意思が表示されればよい。ただし,不動産所有権の放棄は,登記官に申請して登記の抹消をしなければ第三者に対抗しえないといわねばならない」とされています(我妻=有泉248頁)。国家の国土領有権についての登記官は考え難いところです。なお,注意すべきは,「物権の放棄も公序良俗に反してはならない(例えば危険な土地の工作物の放棄。717条参照)が,さらに,これによって他人の利益を害さない場合にだけ認められる」ものとされていることです(我妻=有泉249頁)。美濃部達吉は領土の放棄について,「無人地を抛棄するのは,何人の権利をも侵害するものではないから,敢て立法権の行為を必要とすべき理由は無いのである〔勅令をもって無人地たる領土の放棄は可能〕。之に反して現に臣民の居住して居る土地を抛棄することは之を独立の一国として承認する場合にのみ可能であつて,之を無主地として全く領土の外に置くことは,憲法上許されないところと見るのが正当である。何となれば臣民は国家の保護を要求する権利を有するもので,国家は之をその保護から排除することを得ないものであるからである。」と述べています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)83頁)。ただし,ここでは単独行為としての領土の抛棄について論ぜられているものでしょう。北方四島に居住していた我が国民については,「戦前,北方四島には,約17千人の日本人が住んでいましたが,その全員が,1948年までに強制的に日本本土に引き揚げさせられました。」とのことです(外務省「北方領土に関するQ&A」ウェブ・ページ(A4))。すなわち,サン・フランシスコ平和条約調印の時点において北方四島は「現に臣民の居住して居る土地」ではなかったようではあります。

  

(2)「千島列島」の範囲論による領有権喪失の否認

 

ア 北方四島=非「千島列島」

サン・フランシスコ平和条約2条(c)に関して,内閣府北方対策本部の「北方領土問題とは」ウェブ・ページには,「サン・フランシスコ平和条約で我が国は,千島列島に対する領土権を放棄しているが,我が国固有の領土である北方領土はこの千島列島には含まれていない。このことについては,樺太千島交換条約の用語例があるばかりでなく,米国政府も公式に明らかにしている(195697日付け対日覚書)。」とあります。サン・フランシスコ平和条約において日本は北方四島を放棄していない,それは,北方四島は同条約2条(c)にいう「千島列島」に含まれていないからだ,したがって結局日本は同条約によっても北方四島の領有権を喪失していない,ということのようです。

しかしながら,日本語でいう「千島列島」はどの範囲の島々を意味するのかということであれば日本語話者間における用法でもって決まるということでよいのでしょうが,サン・フランシスコ平和条約の正文は英語,フランス語及びスペイン語です。

 

イ 樺太千島交換条約

1875年の樺太千島交換条約はフランス語によるものなので,内閣府北方対策本部のウェブ・ページは同条約における用語例を援用したのでしょうか。

確かに,半年に及ぶ対露交渉の末同条約に調印した榎本武揚による和訳文を見ると,前文では「大日本国皇帝陛下ハ樺太島即薩哈嗹島上ニ存スル領地ノ権理/全魯西亜国皇帝陛下ハ「クリル」群島上ニ存スル領地ノ権理ヲ互ニ相交換スルノ約ヲ結ント欲シ」とありますから,同条約によって日本に譲与された島々イコール「クリル群島」なのだ,ということになりそうです。しかしながら,ここで相交換される「「クリル」群島」はフランス語文では “le groupe des îles Kouriles”です。“un groupe des îles Kouriles”でないのはよいのですが,端的に“les îles Kouriles”でないところが少々面白くないところです。

しかして,同条約第2款には「全魯西亜皇帝陛下ハ〔略〕現今所領「クリル」群島(le groupe des îles dites Kouriles qu’Elle [Sa Majesté l’Empereur de toutes les Russies] possède actuellement)即チ第1「シュムシュ」島〔中略〕第18「ウルップ」島共計18島ノ権理及ビ君主ニ属スル一切ノ権理ヲ大日本国皇帝陛下ニ譲リ而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ(désormais ledit groupe des Kouriles appartiendra à l’Empire du Japon)〔以下略〕」とあります。“le groupe des îles dites Kouriles, qu’Elle possède actuellement”というようにカンマがあるわけでもないので,「クリル全島中のうち現在ロシア領であるもの」が譲られるのだ,とも読み得るものでしょうか。“ledit groupe des Kouriles”であって“le groupe des Kouriles”ではないことも,“le groupe des îles Kouriles”が固有名詞ではないようでいやらしい。サン・フランシスコ平和条約2条(c)のフランス語文は,“Le Japon renounce à tous droits, titres et revendications sur les îles Kouriles, ainsi que sur la partie de l’île Sakhaline et sur les îles y adjacentes passées sous la souveraineté du Japon en vertu du Traité de Portsmouth du 5 septembre 1905.”です(イタリックは筆者によるもの)。「樺太千島交換条約」(これに相当するフランス語による題名も,日本外交文書デジタルコレクション掲載の当該条約を見る限りは無いようです。ただし,外務省条約局『旧条約彙纂第1巻第2部』(1934年)680頁には表題として“Traité d’Échange de l’Île de Sakhaline contre le Groupe des Îles Kouriles”とあります。)における「用語例」から北方四島は「千島列島」には含まれないのだ,と直ちに言い切って済ましては,不全感が残るようです。

ちなみに,1855年の日魯通好条約2条における択捉・得撫両島間国境関係部分のフランス語訳文は “La frontière entre la Russie et le Japon passera désormais entre les îles Itouroup et Ouroup. L’île Itouroup appartient tout entière au Japon, et l’île Ouroup, ainsi que les autres îles Kouriles situées au nord de cette île, appartiennent à la Russie.”となっています(『旧条約彙纂第1巻第2部』523頁)。ここで,カンマがあって"les autres îles Kouriles, situées au nord de cette île" であれば,「得撫島及び他のクリル諸島,すなわち該島〔得撫島〕より北に所在する島々は,ロシアに属す」(「「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す」)ということになって正確(つまり,得撫島以北の島々がクリル諸島であるということになります。),かつ,疑問を残さなかったようなのですが(しかし,クリル諸島の範囲が自明であれば不要のはずで,くどいといえばくどい。),カンマが無いばかりに,「得撫島及び他のクリル諸島のうち該島〔得撫島〕より北のもの」と解されて,では得撫島より南にもクリル諸島はあるのだね,との誤解が生じ得てしまうところです(得撫島より南ではなく得撫島以南であって,かつ,以南といえば得撫島を含むが実は同島だけであって,択捉島・国後島は含まれないのだよ,ともなお言い張り得ますが。)。

   

ウ ダレス9月覚書

 

(ア)「日本国の主権下にあるものとして認められなければならない」国後・択捉両島並びに北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島

内閣府北方対策本部が援用した195697日付けの前記ダレス米国国務長官の対日覚書(両国政府の協議の後同月12日に公表。当時の「日ソ平和条約交渉中に提起された諸問題」に関するもの。以下「ダレス9月覚書」といいます。)には,確かに,「米国は,歴史上の事実を注意深く検討した結果,択捉,国後両島は(北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島とともに)常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり,かつ,正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に達した。米国は,このことにソ連邦が同意するならば,それは極東における緊張の緩和に積極的に寄与することになるであろうと考えるものである。」(The United States has reached the conclusion after careful examination of the historical facts that the islands of Etorofu and Kunashiri (along with the Habomai Islands and Shikotan which are a part of Hokkaido) have always been part of Japan proper and should in justice be acknowledged as under Japanese sovereignty. The United States would regard Soviet agreement to this effect as a positive contribution to the reduction of tension in the Far East.)とあります。しかし,これでは,「北海道の一部」である歯舞群島及び色丹島はthe Kurile Islandsに含まれないものであると英語では理解されていることは分かりますが(また,19515月の対日平和条約米英暫定合同草案の段階において英語の本家の「英の解釈では,歯舞・色丹は千島列島の範囲に含まれていなかった」そうです(国際法事例研究会26頁(芹田))。),国後島及び択捉島は「千島列島」には含まれないのであるぞ,とまでは明文で述べられてはいません。

 

(イ)国後・択捉両島と「千島列島」

国後島及び択捉島と「千島列島」との関係については,米国国務省のOffice of Historianウェブ・サイトに掲載されている195693日付け極東担当国務次官(ロバートソン)発国務長官宛てメモ(Memorandum From the Assistant Secretary of State for Far Eastern Affairs (Robertson) to the Secretary of State)において,「しかしながら,これらの島〔国後島及び択捉島〕は日本の,及び国際的用法においては千島弧の一部として記述されてきており,サン・フランシスコ条約において用いられた語であるところの千島列島の一部ではないということは難しいであろう。」(The islands have been described in Japanese and international usage as part of the Kurile chain, however, and it would be difficult to prove that they are not a part of the Kurile Islands as the term is used in the San Francisco treaty.)と記されており,かつ,Office of Historianの註するところでは,同年8月に国務省歴史部政策研究課のハーバート・スピールマン(Herbert Spielman, Policy Studies Branch, Historical Division)が行った調査の結論は,「本件に関する米国文書のほとんど(most)において,国後及び択捉は千島列島(the Kuriles)の一部であるものとして認識されている。また,日本国内閣総理大臣〔吉田茂〕は平和条約調印のために招集されたサン・フランシスコ会議〔195197日の第8回全体会議〕において演説しつつ,「南千島に属するもの」(‘Of the South Kuriles’)であるものとしてこれら二島に特に言及している。」であったものとされています(スピールマンの調査結果については,溝口修平「日ソ国交正常化交渉に対する米国の政策の変化と連続性」国際政治(日本国際政治学会)第176号(20143月)119頁参照)

(なお,195197日の吉田茂発言は,内閣府北方対策本部の「北方領土問題」ウェブ・サイトの「外交文書(11)」では同月「8日」に行われたものとされていますが,「7日」の間違いです。当該発言は,日本外交文書デジタルコレクションの「平和条約の締結に関する調書第4冊」の「平和条約の締結に関する調書Ⅶ」中「Ⅱ桑港編」でも読むことができます(128-129頁(118-119頁)。1970年になってからの外務省条約局法規課作成の資料)。ただし,そこでは「千島南部の二島,択捉,国後両島」との日本語となっています。千島があって,その外の南側に位置する二島ということでしょうか。しかしながら,前後を含めて当該部分の英文は,“With respect to the Kuriles and South Sakhalin, I cannot yield to the claim of the Soviet Delegate that Japan had grabbed them by aggression. At the time of the opening of Japan, her ownership of two islands of Etoroff and Kunashiri of the South Kuriles was not questioned at all by the Czarist government. But the North Kuriles north of Urruppu and the southern half of Sakhalin were areas open to both Japanese and Russian settlers. On May 7, 1875 the Japanese and Russian Governments effected through peaceful negotiations an arrangement under which South Sakhalin was made Russian territory, and the North Kuriles were in exchange made Japanese territory.”となっています(日本外交文書デジタルコレクション「平和条約の締結に関する調書Ⅶ」の「付録3150325頁(313頁))。ただし,185527日調印の日魯通好条約では得撫島以北はロシア領とされたはずであり,また,1853年の交渉中にプチャーチンは我が国代表者に対して択捉島の分割を提案していたそうです(国際法事例研究会94頁(安藤仁介))。ちなみに,1956824日にロンドンの米国大使邸で行われた重光外務大臣とダレス国務長官等との会談において,重光大臣は“The legal question is clear. The Japanese surrendered this territory [Etorofu and Kunashiri (perhaps)] under the San Francisco Treaty with the Allies, among whom the Soviets were not included.”と口走り,ダレス長官は「サン・フランシスコ平和条約の時には,吉田政府から,歯舞及び色丹はthe Kurilesの一部ではないという立場を採るよう米国は頼まれていた。択捉及び国後については,彼らは同様の依頼をしてこなかった。」と述べています(米国国務省Office of Historianウェブ・サイト)。)

 

エ 国後・択捉両島=非「千島」の事実に対する雑音について

樺太千島交換条約及びダレス9月覚書を援用して国後島及び択捉島はサン・フランシスコ平和条約2条(c)の「千島列島」に含まれないものとする主張は,愛国的かつ真摯なものではありますが,なお全ての雑音を一掃し去るには至っていないようです。
 所有権に基づく土地明渡請求の例え話に戻れば,
Y(ロシア)によるサン・フランシスコ平和条約の調印・発効に係る事実の主張は,歯舞諸島及び色丹島に係るX(日本)の所有権喪失の抗弁を成り立たせるものではないものの,国後島及び択捉島についての当該抗弁に係る主張としては,当該条約の殊更な反日的解釈においては――天道(てんどう)()()非邪(ひか)――ひょっとすると成功することになるかもしれぬという懸念は完全には払拭できません(当該懸念が仮に現実のものとなるとしたら,同条約によって北方四島が,歯舞・色丹と国後・択捉との2筆に分筆されてしまったことにもなるものか)。ただし,サン・フランシスコ平和条約によるXの所有権の当該喪失は,Yによる当該所有権の取得までを意味するものではありません。

 

(3)サン・フランシスコ講和会議における米英全権の説明

ここで,サン・フランシスコ講和会議において対日平和条約案を共同提案した米英の代表がした演説中,サン・フランシスコ平和条約2条に関する部分を紹介しておきましょう。いずれも195195日午後の第2回全体会議でされたものです。

まず,米国全権のダレスいわく,「第2章(領域)は日本の領域について規定する。日本は6年前現実に実施された降伏条項の領土条項をここで正式に承認することになる。ポツダム降伏条項は日本と連合国が全体として拘束される唯一の平和条項の規定である。23の連合国政府間の私的了解が23あるけれどもそれらは日本や他の連合国を拘束しない。だから,条約は,降伏条項第8項を具体化した。第2章第2条の定める放棄は厳格に降伏条項に一致している。/第2条,(c)の千島列島(“Kurile Islands”)という地理的称呼がハボマイ諸島(the Habomai Islands)をふくむかどうかの問題が提起されたが,ふくまないというのが合衆国の見解である。この点について紛争があれば,紛争は第22条によって国際司法裁判所に付託しうる。/第2条は日本に主権を放棄させるだけでなく当該領域の最終処分を規定すべきであるという連合国もあった。しかし,どちらに与ゆべきであるかの問題の起る地域がある。ポツダム降伏条項にしたがつて日本に平和を与えるか,それとも,日本が放棄する用意があり放棄を求められる地域をどうするか連合国が争う間日本に平和を与えないかのどちらかである。日本に関するかぎり,今平和を与え未決の点は将来この条約外の国際的解決策で解きほごしていくのが明らかに賢明ないきかたである。(Clearly, the wise course was to proceed now, so far as Japan is concerned, leaving the future to resolve doubts by invoking international solvents other than this treaty.)」と(日本外交文書デジタルコレクション「Ⅱ桑港編」75頁(65頁))。

次に英国全権のヤンガーいわく,「これらの条項はポツダム宣言の規定を基礎にするものである。ポツダム宣言の規定は日本の主権が四大島と後日宣言署名国の決定する諸島に制限されることを規定している。琉球諸島と小笠原諸島については条約はこれらの諸島を日本の主権から切り離さない。条約は北緯29度以南の琉球諸島にたいする合衆国管治の継続を規定する。すなわち日本に至近の島々は日本の主権のもとに残るばかりでなく日本の管治のもとに残ることになる。これは,日本本土にきわめて接近しそして現在ソヴィエト連邦によつて占領されているも一つの重要な群島である千島列島にたいする日本主権の完全放棄の規定と顕著な対照をなすものである。われわれは千島列島にたいする日本主権の放棄に合意したが,より南にある琉球諸島と小笠原諸島に関する規定を非難する人たちはこの比較を銘記すべきであると思う。」と(日本外交文書デジタルコレクション「Ⅱ桑港編」90頁(80頁))。

ちなみに,第2回全体会議でソ連全権グロムイコは「琉球・小笠原諸島・西之島・火山列島・沖鳥島・南鳥島」に日本の主権を及ぼさせるべきだと主張しましたが(南西諸島等に係るサン・フランシスコ平和条約3条に反対。日本外交文書デジタルコレクション「Ⅱ桑港編」108頁(98頁)),翌6日午前の第4回全体会議においてセイロン代表は当該主張に痛烈な批評を加え,「ソヴィエト連邦は西南諸島を日本に返還せよという。では,南樺太・千島列島を日本に返還してはどうか。ソヴィエト連邦は日本は基本的人権を享有すべきであるといわれるが,その自由はソヴィエト国民こそ欲しているものである。」と述べています(日本外交文書デジタルコレクション「Ⅱ桑港編」113頁(103頁))。サン・フランシスコ平和条約3条に規定された諸島は,1972515日の沖縄の本土復帰を最後に既に米国から日本に返還されています。

 

(4)ダレス9月覚書における国後・択捉両島問題の位置付けに関する仮定論

 

ア ダレス9月覚書の関係部分

なお念のため,国後島及び択捉島がサン・フランシスコ平和条約2条(c)の「千島列島」に仮に含まれるのならば,同条約によって「放棄」された日本の領土に係るダレス9覚書における次の部分が,両島についても適用されることになるようです。
 いわく,「サンフランシスコ平和条約――この条約はソ連邦が署名を拒否したから同国に対してはなんらの権利を付与するものではないが――は,日本によって放棄された領土の主権帰属を決定しておらず,この問題は,サンフランシスコ会議で米国代表が述べたとおり,同条約とは別個の国際的解決手段に付せられるべきものとして残されている。/いずれにしても日本は,同条約で放棄した領土に対する主権を他に引き渡す権利を持っていないのである。このような性質のいかなる行為がなされたとしても,それは,米国の見解によれば,サンフランシスコ条約の署名国を拘束し得るものではなく,また同条約署名国は,かかる行為に対してはおそらく同条約によって与えられた一切の権利を留保するものと推測される。」(
The San Francisco Peace Treaty (which conferred no rights upon the Soviet Union because it refused to sign) did not determine the sovereignty of the territories renounced by Japan, leaving that question, as was stated by the Delegate of the United States at San Francisco, to ‘international solvents other than this treaty’. / It is the considered opinion of the United States that by virtue of the San Francisco Peace Treaty Japan does not have the right to transfer sovereignty over the territories renounced by it therein. In the opinion of the United States, the signatories of the San Francisco Treaty would not be bound to accept any action of this character and they would, presumably, reserve all their rights thereunder.)と。

 

イ “demonstration of moral support”

それでは「択捉,国後両島は・・・常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり,かつ,正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論」とは何だったのかといえば,ダレス9月覚書の原案作成者であるロバートソン国務次官の前記195693日付けメモ(以下「ロバートソン・メモ」といいます。)によれば,“demonstration of moral support”ということのようです。

つまり,“If we cannot directly assist Japan in its negotiations, there may be steps which would strengthen our bonds with Japan by way of contrast with Soviet imperialism. Any demonstration of moral support would be of some value from this standpoint, such as a declaration that we believe Japanese claims to Etorofu and Kunashiri are just.”(日本をその〔対ソ国交回復・北方四島返還〕交渉において我々は直接支援できないとしても,ソヴィエト帝国主義との対比によって我々の日本との絆を強化することとなるであろう方策はあり得るところである。この観点からすると,択捉島及び国後島に対する日本の請求権は正しいものであると我々は信ずる旨の宣言のような精神的弾込め(demonstration of moral support)には意味があるであろう。)という考え方が,ダレス9月覚書の背景にはあったのでした。

「精神的弾込め」とは意訳が過ぎるようですが,当該語句を筆者がつい用いた理由は,当時の重光葵外務大臣は前月の1956年「8月中旬,歯舞・色丹引き渡しを条件とするソ連案での妥協を日本政府に請訓したが,日本政府がこれを拒否した」という状態であって(国際法事例研究会108頁(安藤)),重光外務大臣には相当の叱咤が必要であったようであるからです(同年819日には,ロンドンにおいて同大臣に対する「ダレスの恫喝」として知られる「パワハラ」事件が起きています。なお,同月14日付けの在東京米国大使館から同国国務省への電報は,ソ連案で妥協するとの方針には外務大臣以外の日本の閣僚は一致して反対であるとの消息筋の情報を既に伝えていました(同月19日のダレス=重光会談に係る米国国務省のメモランダムに付された註参照(同省Office of Historianウェブ・サイト))。「ダレスの恫喝」といっても米国国務長官ダレスのみの発意によるものではなく,当の鳩山一郎内閣に代わって,その方針を同内閣の外務大臣に改めて告げたというお節介の側面もあったものでしょう(日本国憲法732号及び3に明らかなように,外務省は内閣の方針に従わなければなりません。)。同年1122日の衆議院日ソ共同宣言等特別委員会において重光外務大臣は,米国からの「俗にいうハッパ」について語っています(第25回国会衆議院日ソ共同宣言等特別委員会議録第519頁)。同年822日のダレス長官からの国務省宛て電報には「ソヴィエトとの平和条約締結交渉の頓挫(collapse)の結果,重光が憂慮し,取り乱した状態(in worried and distraught condition)にあるのは明白であった。彼は,最終的に地域の帰属を決定する(final territorial dispositions)問題を検討するための日ソ英及び恐らくその他による会議を米国が招集することが望ましいことを何度か仄めかした。」とあります(同省Office of Historianウェブ・サイト)。)。

 

ウ 日本の権能

なお,ロバートソン・メモは更にいわく。“In the light of Japanese reactions, it appears wise to […] assert simply that having renounced sovereignty over the territories, Japan does not have the right to determine the question, which is of concern to the community of nations, not to Japan and the Soviet Union alone. This formulation would enable the United States to reserve all its rights, whatever they may be, and to refuse to recognize Soviet sovereignty even if Japan should ultimately purport to do so.”(日本の反応に鑑みると,〔略〕当該地域に係る主権を放棄した以上,日本は,日本及びソヴィエト連邦のみの課題ではなく国際社会の課題であるところの〔当該地域の主権に係る〕当該問題を決する権利を有していないと簡潔に述べることが賢明であるものと思われる。この方法によって,米国は,いかなるものであってもその全ての権利を留保することができ,また,たとえ日本が最終的にそのようにしようとしても,ソヴィエトの主権を承認することを拒否することができる。)と。

さて,国後島及び択捉島に係る主権の所在が「国際社会の課題」であるのならば,皆で国際的に話し合えばよいかといえば,そうもいきません。195697日の会見においてダレス長官が谷大使に口頭で述べたところ(Oral Points)によれば「米国政府は,関係諸国による国際会議が領土問題を決することの助けになるものかどうか真剣に検討したが,現段階においては,そのような会議は当該問題に係る望ましい解決(a desired solution)を促進しないであろうという結論に達した。」とのことでした。ロバートソン・メモには,具体的な問題点として,そのような国際会議に仮にソ連が参加したとしても当該会議を「台湾,朝鮮,そして恐らく琉球の地位問題を含む全般的極東問題会議にしようとする」だろうし,「ソヴィエト連邦は,中共が招待されるべきことに恐らく固執するであろう。」との懸念が記載されています。(現在ではまた,国際的な紛争の一つの焦点たる海域である南シナ海の問題も,サン・フランシスコ平和条約2条(f)との関係で,提起されてしまう可能性がないでしょうか。(「南シナ海における大日本帝国」参照http://donttreadonme.blog.jp/archives/1043946377.html))

「日本は・・・当該問題を決する権利を有していない」との前提である結果,ロバートソン・メモに添付されていたダレス9月覚書の原案では「サン・フランシスコ平和条約によれば(by virtue of the San Francisco Peace Treaty),日本は同条約において放棄した地域に係る主権に関する決定権(the right to determine the sovereignty over the territories renounced by it)を有さず,かつ,それは,日本と連合国のいずれか一国との間の合意によって解決されるべき事項ではない,というのが米国の熟慮の末の意見である。米国は,当該性格のいかなる行為についても承諾すべく拘束されることはないであろうし,かつ,その全ての権利を留保しなければならないであろう。」との記載がありました。しかしこれでは,歯舞群島及び色丹島の返還(明渡)問題は別として,日ソ二国間交渉で国後島及び択捉島の主権の問題を決めることはできず,当該二島については交渉それ自体が無意味である(しかも米国の目からは越権行為)ということになります。

そこで,ダレス9月覚書では原案に変更を加え,上記の点については,「日本は,同条約で放棄した領土に対する主権を他に引き渡す権利を持っていないのである。」ということで,対ソ関係の「千島列島並びに日本国が190595日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島」ないしは少なくとも国後島及び択捉島については,日本がその「放棄」した領土権を回復することは妨げられない,という反対解釈がされるように書き直されたものなのでしょう。カイロ宣言では「日本国ハ又暴力及貪欲ニ依リ日本国ガ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルベシ」とありますが,いったん「駆逐」された後の復帰は可能と解するものか,それともそもそも千島列島等は「暴力及貪欲ニ依リ日本国ガ略取シタル」地域ではないので「駆逐」される必要性は最初から無かったと解するものか。

ちなみに,1956827日付け(ただし,「?」が付されています。)の米国国務省北東アジア室の在東京米国大使館宛て週報には,「法務顧問室はハイド(Hyde)の「国際法」を掘り返して,日本は,その放棄した主権が他の国に移転されるまでは,the Kuriles及び樺太にresidential sovereignty(我々が考えるには,琉球におけるresidual sovereigntyとは違うものではあるが,恐らくその発想の源(inspiration)であろう。)を有している,との長官の見解を支持するであろう理論を見つけ出した。」との記述があったところです(同省Office of Historianウェブ・サイト)。

(なお,「日本は,〔サン・フランシスコ〕平和条約で放棄した領土に対する主権を他に引き渡す権利を持っていない」にもかかわらずそのような僭越なことをした場合(例えば,本来日本が領土権を「放棄」しただけの島について,更に完全な主権をソ連に認めた場合)には同条約26条後段が働き,「これと同一の利益は,この条約の当事国にも及ぼされなければならない」ことになるとされていました(その場合,琉球に係る完全な主権を米国にも認めて,せっかくの琉球に係る潜在主権を日本は失うべし。だから譲歩せずに頑張れ。)。この機序の説明がいわゆる「ダレスの恫喝」になったわけです。)

 

エ 「国際的解決手段(international solvents)」とは

国後島及び択捉島の領土権の回復は妨げられないとして,それではそのための,ダレス9月覚書にいう「〔サン・フランシスコ平和〕条約とは別個の国際的解決手段に付せられるべき」ところの「国際的解決手段(international solvents)」とは――国際会議の招集は先にみたように論外であるとして――両島については何なのだ,という問題が残っています。
 この点に関しては,ダレス
9月覚書を手交された際に谷大使が正に当該国際的解決手段に関してした質問に対する同長官の発言を,米国国務省の記録は次のように伝えています。いわく,“He would say that the processes that he had in mind […] are the whole series of processes that are under way at present. The negotiation between Japan and the Soviet Union are a part, as are our own efforts to assist together with any pressures which we may possibly be able to bring about from other government. […]”(私の念頭にあるプロセスとは,〔略〕現在進行中の一連のプロセス全てであるというべきだろう。日本とソヴィエト連邦との間の交渉は〔その〕一部であるし,他の政府から我々が恐らく引き出すことのできるであろう圧力と共に〔日本を〕支援する我々自身の努力もそうである。〔略〕)と。いずれにせよ,日ソ二国間限りで決まる問題ではない,というのが米国の認識であったようです。一回の国際会議によってきっぱり綺麗に決まればよいのでしょうが,サン・フランシスコ講和会議がそれをできなかったように,やはりそうはいかないのでしょう。ただし,国後島及び択捉島に係る領土権の日本帰属は正当なものであると判断した以上,米国としては,日ソ間での当該趣旨での合意後に他国からの苦情紛糾があっても,結果よければ全てよしということで当該日ソ間合意を認容することとしてその辺のことは見切った,ということでありましょうか。

 

第6 日ソ共同宣言と「占有権原の抗弁」等

 19561019日にモスクワで署名され,同年1212日に発効した日ソ共同宣言の第9項は「日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は,両国間に正常な外交関係が回復された後,平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。/ソヴィエト社会主義共和国連邦は,日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して,歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡すことに同意する。ただし,これらの諸島は,日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。」と規定しています(日本側全権委員:内閣総理大臣鳩山一郎,農林大臣河野一郎及び衆議院議員松本俊一)。ここでの「平和条約の締結に関する交渉」は,同年929日付け松本俊一全権委員書簡及び同書簡に対する同日付けグロムイコ・ソ連第一外務次官書簡を根拠として,「領土問題をも含む」ものと,我が国では理解されています。(ただし,共同宣言案にあった「領土問題を含む」との文言が同年1018日にフルシチョフ・ソ連共産党第一書記の要求により落ちたという経緯があり,かつ,同第一書記は同月16日には「歯舞・色丹を書いてもよいが,その場合は平和条約交渉で領土問題を扱うことはない,歯舞・色丹で領土問題は解決する旨主張」したとされています(塚本孝「北方領土問題の経緯【第4版】」調査と情報(国立国会図書館)第697号(2011年)5-6頁)。)

 一読すると「なんだ,歯舞群島と色丹島とは返してもらえるんだね,よかったね。」ということになるのですが,よく読むと,日ソ(日露間)間の平和条約締結後まではソ連(ロシア)は歯舞群島及び色丹島の占拠を継続してよい旨日本側が認めてしまったようにも読めます。1945年のヤルタ協定,同年のポツダム宣言及び1951年のサン・フランシスコ平和条約のいずれによっても日本の歯舞群島及び色丹島に係る領土権の喪失はもたらされていないということで,X(日本)に対するY(ソ連)からの所有権喪失の抗弁が認められないとしても,1956年の日ソ共同宣言に至ってその第9項に基づくYの占有権原の抗弁は成り立って,XYに対する明渡請求は失敗してしまうかもしれません。また,当該占有権原はいつまで続くかといえば,XY間の平和条約締結のいかんはYの意思次第なので,いわばYは欲する限り日ソ共同宣言9項に基づき歯舞群島及び色丹島の占有を継続できるということになりそうです。何だか変ですね。しかしこの辺については,参議院外務委員会において19561129日,下田武三政府委員(外務省条約局長)が説明しています。いわく,「従来は,これらの島々に対するソ連の占領は戦時占領でございましたことは仰せの通りでございまするが,しかし共同宣言が発効いたしますと,第1項の規定によりまして戦争状態は終了するわけでございますから,その後におきましては,もはや戦時占領でなくなるわけでございます。しからば戦争状態終了後,歯舞,色丹をソ連が引き続き占拠しておることが不法であるかと申しますと,これはこの第9項で,平和条約終了後に引き渡すと,現実の引き渡しが行われるということを日本が認めておるのでありまするから,一定の期限後に日本に返還されることを条件として,それまで事実上ソ連がそこを支配することを日本はまあ認めたわけでございまするから,ソ連の引き続き占拠することが不法なりとは,これまた言えない筋合いであると思います。/それから国後,択捉等につきましては,これも日本はすぐ取り返すという主張をやめまして,継続審議で解決するという建前をとっております。従いまして,これにつきましても事実上ソ連が解決がつくまで押えてあるということを,日本は不問に付するという意味合いを持っておるのでありまするから,これもあながち不法占拠だということは言えません。要するに日本はあくまでも日本の領土だという建前を堅持しておりまして,実際上しばらくソ連による占拠を黙認するというのが現在の状態かと思います。」と(第25回国会参議院外務委員会会議録第66-7頁)。確かに,「北方領土の日」の前記閣議了解の「理由書」でも,「不当な占拠」とは言っていても,「不法な占拠」とは言っていませんでした。

 また,「日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して」という文言だけでも恩着せがましくて違和感があるのですが(日本の領土権が無視されています。),更に「引き渡す」との用語はいかがなものでしょうか。サン・フランシスコ平和条約6条では,占領軍の日本国からの「撤退」という表現をしています。「引き渡す」ということは領土権の移転である,ということであれば,歯舞群島及び色丹島に係るソ連の「領土権」を認める旨の日本の「権利自白」が1956年の日ソ共同宣言によってされてしまったことになるのかどうか。同年1125日の衆議院日ソ共同宣言等特別委員会において,同様の懸念を大橋武夫委員が表明しています(第25回国会衆議院日ソ共同宣言等特別委員会議録第74頁)。同委員の当該突っ込みに対しては,松本俊一全権委員及び下田武三政府委員が,日本文では「引き渡す」と表現されたロシア文のпередать(ペレダーチ)とは「単なる物理的な占有の移転」を意味するものなのですと答弁して頑張っています(同議事録5頁)。しかし,筆者の手元の『博友社ロシア語辞典』(1975年)でпередатьを引いてみると,「財産に対する権利を譲渡する」や「全権を譲り渡す」といった文章における「譲渡する」「譲り渡す」を意味する動詞でもあるようです。

 なお,軍事占領下の統治の法的性格について美濃部達吉は,「或る地域が既に平定して完全にわが軍の勢力の下に置かれた後には,その地域に於いては敵国の統治権を排除し,軍隊の実力を以てその統治を行ふことになるのであつて,その占領中は一時〔わが国〕の統治権がその地域に行はれる。併し此の場合の〔わが国〕の統治は一時の経過的現象であつて,法律上の権利として統治権が成立するのではなく,実力に依る統治に外ならぬ。それが結局に於いて,〔わが国〕の権利として承認せらるゝや又は原状に回復せらるゝやは,講和条約に待たねばならぬのである。」と説明しています(美濃部・精義96頁)。

 第198回国会における安倍晋三内閣総理大臣の施政方針演説(2019128日)においては,「ロシアとは,〔略〕領土問題を解決して,平和条約を締結する。〔略〕この課題について,〔略〕必ずや終止符を打つ,との強い意志を,プーチン大統領と共有しました。〔略〕1956年宣言を基礎として,交渉を加速してまいります。」と述べられています(下線は筆者によるもの)。

 

第7 燕雲十六州問題に係る澶淵の盟の前例

 しかし,形はどうであれ「領土問題を解決」することは,もちろんよいことなのでしょう。

漢族固有の地である長城内の燕雲十六州を異民族国家であるモンゴル系の遼(契丹)から取り戻すことを諦め,遼による領有の現状を認めた北宋の真宗が遼の聖宗と結んだ1004年の澶淵の盟(「宋からは以後毎年,銀10万両,絹20万匹を歳幣(毎年贈る金品)として贈り,互いに国境を侵犯しないことを誓約」したもの(宮崎市定『中国史(下)』(岩波文庫・2015年)16頁))も,“The peace signed by Song with the Liao (Khitan) in 1004 was the first in a series of acts of national disgrace.1004年に宋が遼(契丹)と締結した平和条約は,一連の国恥の最初のものであった。)と言われはしますが(Jian Bozan, Shao Xunzheng and Hu Hua, A Concise History of China (Beijing: Foreign Language Press, 1986), p.60),悪くはなかったとされているところです。

いわく,「この条約は宋側にとって非常な屈辱とされるのは,歳幣を贈る義務を負わされた上に,異民族王朝の君主を皇帝と称して,これと対等の立場で国交を行わねばならなかったからである。しかしながら宋側にとって有利な点があったことを見逃してはならない。従来中国は,万里の長城によって北方遊牧民の南下を遮断して自衛してきた,〔略〕もし相互不可侵条約を結ぼうとしても,その相手が見つからない。砂漠の政権は絶えず移動するからである。しかるに今度,遼王朝という安定政権の成立により,宋は恰好な交渉相手に直面することになった。歳幣は経済的の負担でもあり,不名誉な義務には相違ないが,しかし平和の代償と思えば,特に高価に過ぎるものではなかった。経済的先進の大国である中国が,発達途上国の遼に対して,経済援助の無償援助を行って悪い理由はなかった。/遼に対する歳幣は,宋政府の財政から見ても,大して痛痒を感ずるほどのものではなかった。それどころではない。国初以来の経済成長はなお持続し,これに伴って国庫収入も増加し続けた。」と(宮崎16-17頁)。

ただし,真宗は,遼軍が燕雲十六州から更に南下して黄河に到達し澶州(澶淵)に迫ったという苦難の遼宋戦争状態終結の必要のために澶淵の盟を提議したものです(宮崎16頁参照)。

 真宗(趙恒)は,何もないのに,「遼とは,国民同士,互いの信頼と友情を深め,燕雲十六州問題を解決して,盟約を締結する。後晋の石敬瑭〔936年〕以来七十年近く残されてきた,この課題について,次の世代に先送りすることなく,必ずや終止符を打つ,との強い意志を,耶律隆緒皇帝〔聖宗〕と共有しました。首脳間の深い信頼関係の上に,交渉を加速してまいります。」と見栄を切って,勇躍首脳外交のために開封を発したわけではありません。  

遼宋間の平和は澶淵の盟以後百十年以上続きますが,1115年には遼の東方で完顔阿骨打に率いられた女真人が金を建国,北宋(風流天子こと徽宗の時代)は新興の金を利用して「固有の領土」燕雲十六州を遼から奪回することを謀ります。

1125年,金宋同盟によって首尾よく遼は駆逐されます。しかし今度は,北宋の背信をとがめ,余勢を駆って南進して来た金(皇帝は阿骨打の弟・太宗晟)の軍隊によって北宋は首都開封を囲まれること2度,終に欽宗皇帝及びその父の徽宗上皇は人質となって金の内地に連行され(1127年。我が正平一統の際に退位せしめられた崇光天皇並びにその父の光厳太上天皇及び叔父の光明太上天皇が吉野方から被った取扱いに似ていますね。),北宋は滅亡するに至ります。嗚呼。かくも「固有の領土」の恢復は難しく,危険なものであったのでした。

宮崎市定教授は嘆じていわく。「このように宋金の交渉は宋側にとって惨憺たる結末に終った。これはむしろ宋側にその責任の大半があり,外交策の拙劣が自ら禍を招いたのであった。すなわち打つ手,打つ手がことごとく裏目に出て,次から次へと最悪の事態が展開して行ったのである。これは宋の政治家の本質を暴露したものであって,宋の国内で通用してきた最も効果的な政略は,対外的には最も愚劣な猿知恵に外ならなかったことを物語る。〔略〕もし宋の方から対応を誤らなければ,災害は途中で喰いとめる余地があったはずであると思われる。そしてこのような最悪の事態に陥ったことについては,盲目的な強硬論を唱えた愛国者の方にも責任がある。すべて国が滅亡に陥る時には,最も不適当な人間が国政の衝に当るように出来ているものなのだ。」と(宮崎83-84頁)。



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1 離婚請求の本訴と離婚請求の反訴との関係について

 

(1)離婚請求訴訟に対する離婚請求の反訴

 裁判上の離婚について,我妻榮はその1961年の著書において「両当事者がともに離婚を希望しながら,ただ相手方の主張する離婚原因に承服しないために訴訟となり,被告からの反訴となって争われることも稀ではない。」と述べ(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)169頁),更に「反訴に関していえば,夫が婚姻を継続し難い重大な事由を理由として離婚の訴を提起し,妻はこれに応訴しながら,さらに,夫の不貞の行為を理由として反訴を提起し,本訴では原告敗訴,反訴では反訴原告勝訴となっている事例がすこぶる多い。慰藉料を請求しうるのは,離婚の訴でその原因として主張する事実によって生じた損害に限る(人訴7条2項)のだから,現行法の適用としては,そうする他はないのであろう。」と述べています(我妻186頁註(1))。(人事訴訟法(平成15年法律第109号)附則2条によって2004年4月1日から廃止された旧人事訴訟手続法(明治31年法律第13号)7条2項は,「他ノ訴ハ之ヲ前項ノ訴〔離婚の訴え等〕ニ併合シ又ハ其反訴トシテ提起スルコトヲ得ス但訴ノ原因タル事実ニ因リテ生シタル損害賠償ノ請求〔略〕ハ此限ニ在ラス」と規定していました。)

 その四十余年後においても,「夫が〔民法〕770条〔1項〕5号の破綻〔「その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。」〕を理由に離婚請求し,他方,妻は1号の不貞行為を理由に離婚の反訴を提起した。これに対して,裁判所は,夫の請求は有責配偶者からの請求であり,判例〔最高裁判所大法廷昭和62年9月2日判決・民集41巻6号1423頁〕の挙げる要件〔「①「相当の長期間」の別居,②未成熟子の不存在,③相手方配偶者が過酷な状態に置かれる等,著しく社会正義に反する特段の事情の不存在」〕も満たさないとして棄却し,他方で,妻の反訴を認容するということがある。/妻からすれば,要するに離婚できるのだから,夫からの離婚請求にあっさり応じても同じことのように思えるが,どちらの請求が認められるかで慰謝料額に影響するから,反訴を起こす意味はある。」と説かれています(内田貴『民法Ⅳ親族・相続』(東京大学出版会・2002年)121122頁)。

 上記の各著書において挙げられた例を見る限りにおいては不貞行為をしたと問題にされるのはいつも夫の方ばかりであるように印象されます。しかしながら,無論,「妻が婚姻を継続し難い重大な事由(前記昭和62年最大判によれば「夫婦が婚姻の目的である共同生活を達成しえなくなり,その回復の見込みがなくなった場合」)を理由として離婚の訴を提起し,夫はこれに応訴しながら,さらに,妻の不貞の行為を理由として離婚の反訴を提起した。」という事件も存在します。現に筆者もそのようなこじれた事件で,原告・妻の訴訟代理人側の仕事をしたことがあります。

 

(2)有責配偶者からの本訴に対する離婚の反訴及びそれらの処理の実務

 

ア 有責配偶者からの本訴に対する離婚の反訴

 ところで,「裁判所は,夫〔原告〕の請求は有責配偶者からの請求であり,判例の挙げる要件も満たさないとして棄却し,他方で,妻〔被告〕の反訴を認容するということがある。」というカウンター・アタック成功的な前記記述に関しては,更に詳しく裁判例を見てみる必要があるようです。

 まず,当該記述のある教科書の紹介する最判昭和39年9月17日・民集18巻7号1461頁の事案は,「妻は,夫の態度はとうてい我慢できないから「離婚を継続し難い重大な事由」にあたると主張し(「悪意の遺棄」も主張),夫は妻の態度こそ「婚姻を継続し難い重大な事由」にあたるとして離婚を請求した。裁判では,妻からの請求は棄却され夫からの請求が認容されて,結局離婚が成立した。」というものですが(内田110頁),被告(反訴原告)勝訴の事例であるものの,夫ではなく妻が敗訴したものです。当該事案においては最高裁判所では専ら妻の主張する夫による「悪意の遺棄」の成否が問題となっています(「前記認定の下においては,上告人〔妻〕が被上告人〔夫〕との婚姻関係の破綻について主たる責を負うべきであり〔妻が夫の意思に反して自分の兄らを夫婦の家庭に同居させて兄とばかり親密にして夫をないがしろにし,かつ,兄らのためにひそかに夫の財産から多額の支出をしたりしたので,夫が妻に対して同居を拒むようになったという事案〕,被上告人よりの扶助を受けざるに至つたのも,上告人自らが招いたものと認むべき以上,上告人はもはや被上告人に対して扶助請求権を主張し得ざるに至つたものというべく,従つて,被上告人が上告人を扶助しないことは,悪意の遺棄に該当しないものと為すべきである。」と判示)。
 しかし,有責配偶者からの離婚請求であっても,有責性を攻撃する被告(反訴原告)からのカウンター・アタックによって一方的に打ち倒されるばかりではありません。

 その後,下級審裁判例等の分析に基づき,「「有責配偶者からの離婚請求は認められない」というルール」の適用に係る「絞り」として,「第一に,相手方に離婚意思があるときは,有責配偶者からの離婚請求でも否定されることはない(〔略〕最判昭2911・5,〔略〕最判291214は,一般論としてその旨を述べる)。相手方が離婚の反訴を提起しているような場合が,その典型的な例である(東京高判昭52・2・28判時85270,横浜地判昭6110・6判タ626198など)。」と断乎として説くものがあります(阿部徹『新版注釈民法(22)親族(2)』(有斐閣・2008年)395頁)。
 これに関しては,また,「下級審の裁判例においては,〔略〕相手方配偶者が反訴を提起する等離婚意思のある場合(長野地判昭和
35年4月2日・判例時報22639頁,名古屋地半田支判昭和45年8月26日・下民集21巻7・8号1252頁,横浜地川崎支判昭和46年6月7日・判例時報67877頁,福岡地判昭和51年1月22日・判例タイムズ347278頁,東京高判昭和52年2月28日・判例時報85270頁,仙台地判昭和54年9月26日・判例タイムズ401149頁,東京高判昭和58年9月8日・判例時報1095106頁,浦和地判昭和59年9月19日・判例時報1140117頁),〔略〕有責配偶者からの離婚請求を認めるものがある。」と報告されるに至っています(門口正人[29]事件解説『最高裁判所判例解説民事篇昭和62年度』(法曹会・1990年)551頁。下線は筆者によるもの)。

 なお,最判昭和2911月5日・民集8巻112023頁の「一般論」は「民法770条1項5号にかゝげる事由が,配偶者の一方のみの行為によつて惹起されたものと認めるのが相当である場合には,その者は相手方配偶者の意思に反して同号により離婚を求めることはできない」というものであり,最判昭和291214日・民集8巻122143頁のそれは「民法第770条1項5号は相手方の有責行為を必要とするものではないけれども,何人も自己の背徳行為により勝手に夫婦生活破綻の原因をつくりながらそれのみを理由として相手方がなお夫婦関係の継続を望むに拘わらず右法条により離婚を強制するが如きことは吾人の道徳観念の到底許さない処であつて,かかる請求を許容することは法の認めない処と解せざるを得ない。」というものでした(下線は筆者によるもの)。

 

イ 処理の実務

 前記アの多数の下級審裁判例については,裁判所ウェッブ・サイトの「裁判例情報」のウェッブ・ページからは見ることができなかったので端折ってしまいつつ,捷径をとって実務家裁判官のまとめるところを参照すれば,1995年当時には次のような実務の状況であったところです。

 

  離婚訴訟において,〔略〕反訴が提起されている場合に,①本訴,反訴の離婚原因の有無をすべて検討し判断するものと,②双方に離婚意思があるならば,「それ以上に立ち入った審理をするのは無意味である。それは訴訟経済的な観点からもいえるが,離婚するか否かはできるだけ当事者の合意でという離婚制度全体の枠のなかで考えると,被告の離婚意思が明らかになった段階で裁判所としてはそれ以上の審理・判断をさしひかえるのがむしろ望ましい」とする学説(阿部〔徹〕・総判研民法(50)「離婚原因」69頁)に従い,離婚原因の詳細について審理・判断することなく,婚姻を継続し難い重大な事由があるとして,双方の離婚請求を認容するものがある(長野地判昭和35・3・9下民集11巻3号496頁,横浜地川崎支判昭和46・6・7判時67877頁,横浜地判昭和6110・6判時1238116頁,東京地判昭和611222判時124986頁など)。従来,裁判例は①の例が多く,その場合に,有責配偶者からの請求を認めるか否かについて判断が分かれていたが,近時の傾向としては,有責であるか否かを問わず双方の離婚請求を認めるのが有力となっている。本訴,反訴において婚姻を継続し難い重大な事由があると主張している場合は右のように解されるが,問題となるのは,原告が本訴で不貞だけを主張している場合はどうかである。不貞と婚姻を継続し難い重大な事由との訴訟物は同一でないとすれば,少なくとも原告の請求を認容するためには不貞の事実を認定することが必要になってこよう。このような場合には,釈明権を行使して,原告に不貞のほかに,婚姻を継続し難い重大な事由をも離婚原因として主張させ,夫婦関係の内容に立ち入って判断するまでもなく,本訴,反訴の離婚請求をともに認容することができるとするのが,近時の実務の一般的な取扱いであるといえよう。(村重慶一「離婚原因の主張方法」『家族法判例百選[第五版]』(有斐閣・1995年)35頁。下線は筆者によるもの)

 

「異なる離婚原因を掲げて反訴が提起された場合も,双方に5号を主張させ,双方を認容するという扱いがなされることも多いとのことである。離婚の成否と離婚後の処理を切り離して,離婚訴訟を早く解決することをねらった実務の知恵であろう。」ということになります(内田122123頁)。無論,民法770条1項5号の婚姻を継続し難い重大な事由があるとして離婚を請求する本訴原告に対して,同号による当該請求は有責配偶者からのものであって信義則違反であるから認められないとの抗弁を維持しつつ当該被告が反訴原告として同項1号による相手方配偶者の不貞行為を事由とする離婚を請求し,かつ,頑として当該不貞行為事由の離婚請求一本槍に固執するのであれば,審理の結果当該不貞行為の存在が認定され,本訴原告の請求は不貞行為によって婚姻関係の破綻をもたらした有責配偶者からの請求であって,かつ,判例の挙げる①「相当の長期間」の別居,②未成熟子の不存在及び③相手方配偶者が過酷な状態に置かれる等の著しく社会正義に反する特段の事情の不存在の3要件も満たさないものであるとして棄却され(ただし,実務上は「有責配偶者からの請求を認めるか否かについて判断が分かれていた」ことは前出のとおりです。),他方で,本訴被告の反訴は認容されるということもあり得るところではあります。

 筆者が本訴原告側において関与した事件では,民法770条1項5号に基づく本訴離婚請求に対して,しばらくは,有責配偶者による離婚請求であるから離婚は認められないなどと主張して抵抗していた被告がとうとう離婚を決意して提起した反訴においては,当初は同項1号の不貞行為及び2号の悪意の遺棄のみが主張されていましたが,結局同項5号の婚姻を継続し難い重大な事由があるとの事由も追加され,裁判所は,4年4箇月に及ぶ別居,その間夫婦として交流が行われたことはないこと及び当該夫婦はいずれも婚姻関係は破綻した旨を主張して離婚を請求していることという諸事実を認定した上で,本訴及び反訴の離婚請求をいずれも認めました(なお,人事訴訟においては,裁判所において当事者が自白した事実は証明することを要しないとする民事訴訟法179条等の適用はありません(人事訴訟法19条1項)。)。難件でしたが,筆者らの側は負けなかったわけです。

 

2 最大判昭和62年9月2日判決及び当該判決における一般論の位置付けに関して

ところで,筆者が関与した前記事案においては,原告が有責配偶者と認められた場合には更にどのような主張をするのかとの裁判所からのお題に対して筆者が起案して提出しておいた力作準備書面は結局出番がなかったところです。当該準備書面の起案に当たっては,別居期間が5年にも満たず,かつ,未成熟の子が2名あるという状況であったので,最高裁判所大法廷昭和62年9月2日判決に係る有責配偶者の離婚要求を認めるための前記いわゆる3要件の存在が大きな障害となっていました。そこで,筆者は,当該判例において具体的な当該3要件が提示されるに当たっての前段であった一般論部分に遡り,学説的論述を懸命に展開(こういうことをするのは,実務家としてはちょっと恥ずかしい)したところです。ちなみに,当該判例の調査官解説においても,当該一般論部分については,「右判示部分は,もとより判例部分ではないが,今後,有責配偶者からの離婚請求において,相手方から抗弁として信義則違背の主張がされることがありうるであろうから,傍論部分とはいえ,重要な意義を有することは否定できない」と指摘されていました(門口582頁)。

 

最高裁判所昭和62年9月2日大法廷判決(民集41巻6号1423頁)は,「有責配偶者からされた離婚請求であつても,夫婦の別居が両当事者の年齢及び同居期間との対比において相当の長期間に及び,その間に未成熟の子が存在しない場合には,相手方配偶者が離婚により精神的・社会的・経済的に極めて苛酷な状態におかれる等離婚請求を認容することが著しく社会正義に反するといえるような特段の事情の認められない限り,当該請求は,有責配偶者からの請求であるとの一事をもつて許されないとすることはできない」と判示する。ところで,当該判示に係る定式のそもそもの前提として,同裁判所は,民法770条1項5号の事由による離婚請求が有責配偶者からされた場合において当該請求が信義誠実の原則に照らして許されるものであるかどうかを判断するに当たっては,有責配偶者の責任の態様・程度を考慮するほか,①相手方配偶者の婚姻継続についての意思及び請求者に対する感情,②離婚を認めた場合における相手方配偶者の精神的・社会的・経済的状態,③夫婦間の子,殊に未成熟の子の監護・教育・福祉の状況,並びに④別居後に形成された生活関係を斟酌するとともに,⑤時の経過がこれらの諸事情に与える影響も考慮されなければならないと当該判決において述べているところである。すなわち,前記の定式は,有責配偶者の離婚請求であっても信義誠実の原則に照らして許されるかどうかについての上記の考慮・斟酌の結果当該請求が認められる場合の一つを示したものである。したがって,例えば未成熟の子が存在して当該定式を必ずしも満たさない場合であっても,有責配偶者からの離婚請求が認められ得るところである(最高裁判所平成6年2月8日判決・集民171417頁)。

 仮に〔本件の〕原告が有責配偶者であっても,前記昭和62年の最高裁判所大法廷判決が挙げる前記の各事情について考慮・斟酌すれば,その離婚請求は認容されるべきものであることは明らかである。〔本件における〕原告と被告との間の婚姻関係破綻に至る両者の責任の態様・程度については既に訴状で述べているところであるので,以下においては,前記の①ないし⑤の各事情について述べる。

 

 云々。

 調査官解説は,「夫婦が長期間にわたり別居をしている場合にも,信義則を適用するに当たって斟酌すべきであるとされた事情をなお考慮すべきであろうか。」との問いを発した上で(門口582頁。なお,ここにいう「信義則を適用するに当たって斟酌すべきであるとされた事情」とは,当該判例の一般論部分に挙示された上記諸事情のことでしょう。),「いずれにせよ,長期別居の場合になお考慮すべきは,相手方配偶者が離婚により被る苛酷な状況からの救済と未成熟子に対する監護養育の確保に限られることになる。これによって,当事者は,婚姻破綻の責任等の諸事情に係る主張立証から解放されてプライバシーも保護されることになる。」と結論付けています(門口583頁。下線は筆者によるもの)。これは,本来は一般論において挙示された諸事情を全て考慮して信義則違背の主張の当否を判断しなければならないのだが,①長期間の別居の場合には,②未成熟子に対する監護養育の確保及び③相手方配偶者が苛酷な状態に置かれることからの救済についてだけ考えればよいのだよ,ということでしょうか(「時の経過がこれらの諸事情に与える影響」とは,時の経過=長期間別居によってこの考慮事項限定効果がもたらされることになるということを意味する趣旨のように思われます。すなわち,調査官解説は「更に,本件が長期間〔本訴提起まで35年に及ぶ〕にわたる別居の事案であることにかんがみ,時の経過がこれらの諸事情に与える影響も考慮されなければならないと判示したものであろう。」と述べているところです(門口582頁)。)。ということであれば,「長期別居」に当たらない場合でも,そこで直ちに諦める必要はなく,一般論に立ち返って必要な諸事情を全てクリアすることに努めていけばよいということになるはずです。「ここにいう別居期間は,有責配偶者からの請求の否定法理を排斥する要件として,前記のような有責性を含む諸事情から解放するに足りるものでなければならず」とされているところ(門口584頁),「長期別居」によって直ちに「前記のような有責性を含む諸事情から解放」されなくとも,なお当該「諸事情」の個々について別途クリアしていくことは可能であるはずだからです。(民法770条1項5号の規定については,「同号所定の事由〔略〕につき責任のある一方の当事者からの離婚請求を許容すべきでないという趣旨までを読みとることはできない」と当該判例自体において判示されています。)また,未成熟子の不存在要件については,つとに「これは,本件事案を前提に,未成熟子のいない多くの場合を想定して子の利益に関する特別の配慮を要しないことを示したものであって,未成熟子が存在する場合に原則的破綻主義を放棄したものではないことはいうまでもない。したがって,未成熟子が存在する場合については,おそらく,離婚によって子の家庭的・教育的・精神的・経済的状況が根本的に悪くなり,その結果,子の福祉が害されることになるような特段の事情のあるときには,離婚をすることは許されないということになるのであろう。」とその趣旨が明らかにされていました(門口585頁)。

 

なお,東京高等裁判所(平成26年(ネ)第489号)平成26年6月12日判決(判時223747頁)は,「〔民法770条1項〕5号所定の事由による離婚請求が,その事由につき専ら責任のある一方の当事者(有責配偶者)からなされた場合において,その請求が信義誠実の原則に照らして許容されるか否かを判断するに当たっては,有責配偶者の責任の態様・程度はもとより,相手方配偶者の婚姻継続についての意思及び請求者に対する感情,離婚を認めた場合における相手方配偶者の精神的・社会的・経済的状態及び夫婦間の子,特に未成熟子の監護・教育・福祉の状況,別居後に形成された生活関係等が斟酌されるべきである(最高裁昭和61年(オ)第260号同62年9月2日大法廷判決(民集41巻6号1423頁)」と判示した上で,これまで有責配偶者からの離婚請求が否定されてきた実質的な理由の一つは「一家の収入を支えている夫が,妻以外の女性と不倫や不貞の関係に及んで別居状態となり,そのような身勝手な夫からの離婚請求をそのまま認めてしまうことは,残された妻子が安定的な収入を断たれて経済的に不安定な状態に追い込まれてしまい,著しく社会正義に反する結果となるため,そのような事態を回避するという目的があったものと解される」としつつ,婚姻後別居までの期間約7年,別居期間約2年の夫婦間の事案において,6歳の長男及び4歳の長女の二人の子らを連れて別居している36ないし37歳の有責配偶者である妻からする41ないし42歳の夫に対する離婚請求を,夫婦としての信義則に反するものではないというべきであるとして認容している。また,札幌家庭裁判所(平成26年(家ホ)第20号)平成27年5月21日判決は,婚姻後別居までの期間が約17年,別居期間約1年半の夫婦間の事案において,38ないし39歳の有責配偶者である夫からする,16ないし17歳の長男及び14ないし15歳の長女の二人の子らを監護する39ないし40歳の妻に対する離婚請求を,信義則上許されないものということはできないとして認容している。

  おって,最高裁判所平成161118日判決(集民215657頁)は,同居期間約6年7箇月,別居期間約2年4箇月の夫婦間において,有責配偶者である33歳の夫からされた,両者間の7歳の子を監護している33歳の妻に対する離婚請求について,別居期間は相当の長期間に及んでいないとしているが,夫の離婚請求に対して妻が離婚を拒んでいた事案であったとともに,被告である妻は子宮内膜症に罹患していて,離婚により精神的・経済的に苛酷な状況に置かれることが想定されることが明らかであると認められていた事案であって,本件とは事案を異にするものである。ちなみに,当該事案においても,原審判決である広島高等裁判所(平成15年(ネ)第307号)平成151112日判決は,離婚を認めていたものである。

 

東京高等裁判所平成26年6月12日判決については,最高裁判所に上告がされたと伝わっているけれどもさてその後はどうなっているのであろうかとは皆気にしていたところですが,東京3弁護士会の法律相談センターのウェッブ・サイトに掲載されたコラム記事(2016年6月1日)によれば,上告受理申立てがされたもののそのまま確定したそうです。

 

3 離婚の動向等に関して

 

(1)離婚の動向に関して

ところで,個別の離婚事案の法律問題を離れて,離婚事件の趨勢は今後どうなるのかを考えてみると,事件数は増加というよりはむしろ減少するのではないかと思われます。

まず,そもそもの婚姻が減少し,生涯未婚率(50歳時の未婚割合)が増加しています。すなわち,国立社会保障・人口問題研究所の人口統計資料集(2017改訂版)によれば,我が国の2015年の生涯未婚率は,男性が23.37パーセント,女性が14.06パーセントとなっています。同年から50年前の1965年(昭和40年)に生まれた当該世代は,その二十代においてはバブル経済の恩恵を受けて明るく楽しく青春を謳歌したはずであるものの,初老の50歳になった時には,男性の約4人に1人,女性の約7人に1人は結婚できずに終わっていたのでした。その10年前の2005年においては,男性の生涯未婚率が15.96パーセント,女性の生涯未婚率が7.25パーセントだったところです。Japan as No.1時代の1990年においては,男性・女性のそれぞれについて,5.57パーセント及び4.33パーセントでした。

 同じ人口統計資料集によれば,1883年以来の我が国で離婚の総数が1番多かった年は2002年であって,289836件ありましたが,2015年には226215件になっています。ピークから約22パーセント減ということになります。判決による離婚が1番多かった年は2005年で3245件ありましたが,2015年には2383件になっています。こちらはピークから約26.6パーセント減です。離婚率は,1940年以前は総人口について,1947年以降は日本人人口1000について算出されていますが,2015年は1.81‰(パーミル)です。1947年以降で離婚率が最高であった年はこれも2002年で2.30‰でしたが,平成の世になって離婚が増えて嘆かわしいなどと速断してはならず,明治の聖代の1883年には3.38‰と,当該統計資料上の最高値を示しています。

 西洋でも離婚は最近減少傾向であるようです。「もしそれ〔婚姻〕が続くものであるようにしようとするのならば,統計的には,イングランド及びウェールズにおいて結婚する最悪の時代は1990年代半ばであった。1996年に結ばれた者たちのうち,11パーセントが結婚から5年目までに別れており,及び25パーセントが10年目までにそうなった。10年後に結婚したカップルはそれよりよくやっている。2006年に結婚したもののうちでは,8パーセントが5年目までに別れており,及び20パーセントが10年目までにそうなった。より最近の世代は,より堅確(steadfast)であるようである。」と報告されており,更に,「同様のことが他の国でも生じている。」と述べられています(“For Richer” of “Special Report: Marriage”, The Economist, November 25, 2017)。

 

(2)古く新しい関係に関して

ア 2種の同性婚の婚姻数及び3種の婚姻の離婚率

 新たな離婚市場の開拓(この言い方は変ですが)を模索する弁護士は,新たな婚姻の形にも注目すべきでしょうか。既に同性間の婚姻の法制化がされた国があり,これらの動きの影響を受けて,我が国はどうなるのかとの議論もあるところですが,婚姻あるところやはり離婚ありです。

 

  女性は,挙式により積極的である(Women have been keenest to go down the aisle. (筆者註:これはキリスト教会での挙式のイメージですね。))。英国,スウェーデン及びオランダにおいては,女性間の婚姻数が男性間のそれを上回っている。女性間の結合はまた,より破綻しやすい。同性婚を2001年に法制化したオランダにおいては,2005年に結ばれた両性婚中82.1パーセントは2016年において依然存続していたところである一方,女性間の婚姻については69.6パーセントのみであった。男性同性愛者が,コミットメントについてのチャンピオンである。彼らの婚姻中84.5パーセントが存続していた。(“Adam and Steve” of “Special Report: Marriage”, The Economist, November 25, 2017

 

女にとっても男にとっても,男のパートナーとの関係の方が長続きするということでしょうか。何だか変な一般化ではありますが。しかし,そもそも婚姻は,「父がその子らを養育しなければならないという自然の義務が,当該義務を負うべき者を定める婚姻制度を成立せしめた。(L’obligation naturelle qu’a le père de nourrir ses enfants, a fait établir le mariage, qui declare celui qui doit remplir cette obligation.)」ということに由来するものであって(De l’Esprit des lois,ⅩⅩⅢ, 2),男を義務付け大人たらしめて子に父を与えるためのものですから,婚姻というものに当たっては実は男の方が深刻真剣になるのでしょう。他方,女子会は,これまたいろいろ大変そうですね。

イ ネロ

なお,同性婚は,決して新しいものではありません。紀元1世紀の古代ローマでの話。

 

彼〔ネロ〕は少年スポルスの生殖腺を切りとり,さらに彼の性まで女に変えようと試み,嫁入り資金を与え花嫁のベールをかぶせ,結婚式をあげ,賑やかなお伴の行列と一緒に,自分の家に来させ,妻として迎えた。(国原吉之助訳・スエトニウス「ネロ28」『ローマ皇帝伝(下)』(岩波文庫・1986年)163頁)

ネロとスポルスとの婚姻を見て,確かに同性婚も悪くはないな,との評価がありました。

 “exstatque cuiusdam non inscitus iocus bene agi potuisse cum rebus humanis, si Domitius pater talem habuisset uxorem. ” 

「親父のドミティウスも,こんな妻を持てばよかったのに。そうすれば人類にとってうまく行っただろうに。」という,何者かによるまずくはない冗句が存在する。

 最後に解放奴隷ドリュポルスによって仕上げがなされた。この者に,ちょうどスポルスがネロに嫁いだように,今度はネロが嫁ぎ(「ネロ
29」国原・スエトニウス164頁)


ウ 神聖部隊
 ところで,男同士の愛こそ,なかなか恐ろしい。古代ギリシアは紀元前4世紀にスパルタに代わって覇権を握ったテーバイでの話。

 

  さて『神聖部隊』〔Sacred Band〕といふものは〔略〕或る人はこの部隊が愛慕するものと愛慕されるもの(当時の風習であつた少年愛を指す)から成つてゐたのだと云ふ。さうしてパンメネース(前4世紀テーバイの将軍)が戯れに云つた言葉を引用している。〔略〕愛慕者を被愛慕者の側に置かなければいけない〔that he should have joined lovers and their beloved〕。〔略〕愛慕を籠めた友情によつて纏まつた部隊は,愛慕者は被愛慕者に対して,被愛慕者は愛慕者に対して恥を感ずるから,危険の場合にお互のために踏み留まるので,崩れもせず敗れもしないからである。相手が居合はせなくても目の前に居合はせる他の人々に対してよりも恥を感ずるとすれば,これは一向不思議な事ではない。それはあの,倒れてゐるところへ敵が来て刺さうとしたのに対して胸に刀を突き通してくれと頼み『自分を愛慕する友が自分の屍体の背中に傷が附いてゐるのを見て羞しい思ひをすると困るから』と云つた話からもわかる。〔略〕さて,プラトーンも(『ファイドロス』255b『饗宴』179a)愛慕者を神の霊感を受けた友人と名づけてゐる〔Plato calls a lover a divine friend〕ところから見ても,前に云つた部隊が『神聖』と呼ばれたのも当然である。この部隊はカイローネイア(ボイオーティアー西境北部の町,前338年アテーナイとテーバイとの聯合軍がマケドニアのフィリッポス〔アレクサンドロス大王の父〕に敗れた場所)の戦まで敗れたことがなかつたと云はれてゐる。その戦の後に屍体を検分してゐたフィリッポスが,丁度その300人が皆武器を取つてサリーナ(マケドニア兵の長い槍)に抵抗した挙句,互に混ざつて倒れてゐる場所で立止まり,その部隊が愛慕者と被愛慕者から成ると聞いて感服し涙を流して云つたさうである。『この人々が恥づべき事をしたりされたりしたと考へる奴ら〔any man who suspects that these men either did or suffered anything that was base〕はみじめな死に方をするぞ。』(「ペロピダース18」河野与一訳『プルターク英雄伝(四)』(岩波文庫・1953年)118120頁。英語訳はDrydenによるもの)

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

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1 紀元前49年1月10日,11日又は12

紀元前49年「1月10日の夜,カエサル,ルビコン川を越え内乱始まる。」と,スエトニウス=国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(上)』(岩波文庫・1986年)330頁のローマ史年表にあります。また,プルタルコス=河野与一訳『プルターク英雄伝(八)』(岩波文庫・1955年)197頁(「ポンペーイウス」60)の割注も,ルビコン川渡河を「前49年1月10日」のこととしています。村川堅太郎教授は「1月7日,元老院はシーザー〔カエサル〕の召還をきめ,戒厳令を発布してポンペイウスに指揮をゆだねた。3日後にこの情報を得たシーザーは,しばらく熟慮したのち,古代にも諺となっていた「骰子は投げられた」の句を吐いて,自分の任地の属州とイタリアとの境をなすルビコン川を渡り,10日の夜のうちにアドリア海岸の要衝アリミㇴムを占領した。」と記しています(村川編『世界の歴史2 ギリシアとローマ』(中央公論社・1961年)311‐312頁)。一見簡単です。しかしながら,実際にはいつのことだったのか,よく考えると難しいところがあります。

(1)季節 :秋

まず季節は,冬ではなく,秋でしょう。紀元前45年のユリウス暦開始に当たって,「この太陽暦が新しい年の1月1日から将来にかけて,季節の正しい推移と,いっそうぴったり符合するように,前の年の11月と12月の間に,2ヶ月をはさむ。/このように調整されたその年は,それまでの慣例上,この年のために設けられていた1ヶ月の閏月も加えて,ついに1年が15ヶ月となった」という季節調整が必要だったのですから(スエトニウス「カエサル」40・スエトニウス=国原前掲書48頁)。

(2)一日が始まる時(暦日の区切り):正子 

次に,ローマ暦では一日は何時から始まったのか。これは意外なことに,根拠と共に明言してくれる日本語文献が少ないようです。真夜中の正子(午前零時)から始まるのが当然だからと思われているからでしょうか。手元にある「ローマ人の一日の時間配分」の表(塩野七生『ローマ人への20の質問』(文春新書・2000年)145頁)も,特段の説明なく正子から一日が始まることになっています。

しかしながら,せっかくインターネットによって世界中から情報を入手できる時代ですので,何らかの文献的根拠ではっきりさせたいところです。そこで英語のウェッブ・サイトをいろいろ調べてみると,紀元2世紀の人であるアウルス・ゲッリウスの『アッティカ夜話』のBook3の2に説明がありました。以下,J.C. RolfeLoeb Classical Library版(1927, Revised 1947)の英訳からの重訳です。

 

どの日が,夜の第三時,第四時及び他の時間に生まれた者の誕生日とみなされ,かつ,そう唱えられるべきかは,よく問われる問題である。すなわち,その夜の前の日なのか,後の日なのか。マルクス・ワッロ〔カエサルの同時代人〕は,彼の書いた『古代史』の「日について」においていわく,「一正子から次の正子までの24時間中に生まれた者らは,同一の日に生まれたものとみなされるものである。」これらの言葉から,日没後ではあるが正子前に生まれた者の誕生日は,そののちに当該夜が始まったところの日であるものとするように,彼は日を分けて数えていたことが分かる。しかしながら他方,夜の最後の六時間中〔「ローマの一時間は日出から日没までを12等分したものなので,夏季と冬季とでは,また昼と夜とでも,長さが違っていた。」(スエトニウス=国原前掲書338頁)〕に生まれた者は,その夜の後に明けた日に生まれたものとみなされるのである。

しかしながら,ワッロはまた同じ書において,アテネ人たちは違った数え方であり,一日没から次の日没までの間の全ての時間を単一の日とみなしている,と書いていた。バビロニア人はまた異なった数え方をしていたとも書いていた,すなわち,彼らは一つの日の出から次の日の出の始まりまでの間の全ての時間を一日の名で呼んでいたからである。しかしウンブリアの地では,多くの人々が正午から次の正午までが同一の日だと言っていたとも,書いていた。・・・

しかしながら,ワッロが述べたように,ローマの人民は毎日を正子から次の正子までで数えていたことは,豊富な証拠によって示されている。・・・

 

 そうであれば,問題は,カエサルがルビコン川を渡ったのは,1月9日の夜が更けて正子を過ぎた同月10日の未明であったのか,それとも1月11日になろうとする同月10日の晩(正子前)であったのか,ということになります。

(3)スエトニウスとプルタルコス 

 

  ・・・カエサルはキサルピナ・ガリアにやってきて巡回裁判を終えると,ラウェンナに踏みとどまる,自分のため拒否権を行使するはずの護民官に対し,もし元老院が何か重大な決定を行なったら武力で復讐してやろうと覚悟して。

  ・・・

  さてカエサルは,護民官の拒否権が無効とされ,彼ら自身首都から脱出した〔「1月7日,門閥派がカエサルの軍隊の解体を決議し,ポンペイユスに独裁官の権限を与える。」とされています(スエトニウス=国原前掲書330頁の年表)。この1月7日の日付は,カエサルの『内乱記』のBook 1, Chapter 5に,a.d. VII Id. Ian.と言及されています。〕という知らせを受けとると,直ちに数箇大隊をこっそりと先発させる。しかし疑惑の念を一切与えぬように表面をいつわり,公けの見世物に出席し,建てる手筈をととのえていた剣闘士養成所の設計図を検討し,いつものように盛大な宴会にも姿を見せた。

  日が暮れると近くの製粉所から驢馬を借り,車につけると,最も人目にたたない道を,わずかの護衛者らとともに出発した。

  松明が消えて正道からそれ,長い間迷い,夜明けにやっと道案内を見つけて,非常に狭い道を徒歩で通り抜けた。

  先発の大隊に追いついたのは,ルビコン川である。この川は彼の治めている属州の境界線であった。しばらく立ち停り,「われながらなんと大それたことをやることか」と反省し,近くに居合わせた者を振り返り,こう言った。

  「今からでも引き返せるのだ。しかしいったん,この小さな橋を渡ってしまうと,すべてが武力で決められることになろう」

  こう遅疑逡巡していたとき,じつに奇蹟的な現象が起った。体格がずばぬけて大きく容貌のきわだって美しい男が,忽然として近くに現われ,坐ったまま葦笛を吹いている。これを聞こうと大勢の牧人ばかりでなく,兵士らも部署から離れて駆け寄った。兵士の中に喇叭吹きもいた。その一人から喇叭をとりあげると,その大男は川の方へ飛び出し,胸一杯息を吸い,喇叭を吹き始めた。そしてそのまま川の向う岸へ渡った。

  このときカエサルは言った。

  「さあ進もう。神々の示現と卑劣な政敵が呼んでいる方へ。賽は投げられた(Iacta alea est)」と。

  こうして軍隊を渡した・・・(スエトニウス「カエサル」30‐33・スエトニウス=国原前掲書384041頁)

 

 これは,夜間渡河ではなく,早朝渡河ですね。 
 しかし,プルタルコスによれば,夜明け前の夜間渡河ということになっています。

 

・・・そこで将軍や隊長に,他の武器は措いて剣だけを持ち,できる限り殺戮と混乱を避けてガリアの大きな町アリーミヌム〔現在のリミニ〕を占領するやうに命じ,ホルテーンシウスに軍勢を託した。

さうして自分は昼間は公然と格闘士の練習に顔を出して見物しながら過ごし,日の暮れる少し前に体の療治をしてから宴会場に入り,食事に招いた人々と暫く会談し,既に暗くなつてから立上つたが・・・自分は1台の貸馬車に乗つて最初は別の道を走らせたが,やがてアリーミヌムの方へ向けさせ,アルプスの内側のガリアとイタリアの他の部分との境界を流れてゐるルービコーと呼ばれる河に達すると,思案に耽り始め大事に臨んで冒険の甚しさに眩暈を覚えて速力を控へた。遂に馬を停めて長い間黙つたまま心の中にあれかこれかと決意を廻らして時を過ごした際には計画が幾変転を重ね,アシニウス ポㇽリオーも含めて居合はせた友人たちにも長い間難局について諮り,この河を渡ることが,すべての人々にとつてどれ程大きな不幸の源となるか,又後世の人人にどれ程多くの論議を残すかを考慮した。しかし結局,未来に対する思案を棄てた人のやうに,その後誰でも見当のつかない偶然と冒険に飛込むものが弘く口にする諺となつた,あの『賽は投げることにしよう。』といふ言葉を勢よく吐いて,河を渡る場所に急ぎ,それから後は駈足で進ませ,夜が明ける前にアリーミヌムに突入してこれを占領した。・・・(「カエサル」32・河野与一訳『プルターク英雄伝(九)』(岩波文庫・1956年)140‐141頁)

 

 渡河の時点において「1月10日」であるということであれば,スエトニウスによれば,1月9日の夕暮れに出発して翌同月10日の早朝にルビコン川を渡ったようでもあります。しかしながら,プルタルコスによれば,1月10日の夕暮れに出発してその夜のうち(正子前)にルビコン川を渡ったように読めます。

(4)距離と移動速度 

 さて,ラヴェンナ・リミニ間の距離は約50キロメートル, ローマ・ラヴェンナ間の距離は350キロメートル超。これらの距離と時間との関係をどう見るかについてギボンの『ローマ帝国衰亡史』を参照すると,同書のVol. I, Chap.Iにはローマの「軍団兵らは,特に荷物とも思わなかった彼らの兵器のほか,炊事用具,築城用具及び幾日分にも及ぶ糧食類を背負っていた。彼らは,恵まれた近代の兵士では耐えられないであろうこの重量下において,歩武を揃えて約6時間で約20マイル移動するよう訓練されていた。(Besides their arms, which the legionaries scarcely considered as an encumbrance, they were laden with their kitchen furniture, the instruments of fortification, and provision of many days. Under this weight, which would oppress the delicacy of a modern soldier, they were trained by a regular step to advance, in about six hours, near twenty miles.)」と,同Chap. IIには,皇帝らの設けた駅逓制度(institution of posts)を利用すれば「ローマ街道伝いに一日で100マイル移動することは容易であった。(it was easy to travel an hundred miles in a day along the Roman roads.)」とあります。古代のローマの1マイルは1480メートルで(スエトニウス=国原前掲書401頁),英国の1マイルは1609メートル。1日で100ローマ・マイルの移動は神速ということのようで,「〔カエサルは〕長距離の征旅は,軽装で雇った車にのり,信じ難い速さで1日ごとに100マイルも踏破した。・・・その結果,カエサルが彼の到着を知らせるはずの伝令よりも早く着くようなことも再三あった。」とあります(スエトニウス「カエサル」57・スエトニウス=国原前掲書65頁)。

 「他の武器は措いて剣だけを持」ったとしても,50キロメートルは兵士らにとってはやはり2日行程であるべきものとすれば,50キロメートル先を1月10日の払暁に襲撃するためにはできれば同月8日に出発すべきということになります。しかし,350キロメートル超離れたところからの1月7日発の連絡の到着にはやはり2日以上はかかって,早くとも同月9日着ということにはならないでしょうか。(弓削達『ローマはなぜ滅んだか』(講談社現代新書・1989年)50頁には,「馬を使った早飛脚の最高の例としては,4世紀の初めの皇帝マクシミヌスが殺害されたことを知らせる早飛脚が,1日約225キロメートル行ったという例がある。120ないし150キロメートルの早飛脚の速度は少しも無理ではなかったと思われる。」とあります。)

(5)1月11日未明ないしは早朝か 

 結局,通常「1月10日の夜」といわれれば,同日の日没から翌11日の夜明けまでのことでしょうから(現在の我々がそうなので古代ローマ人もそうであったと一応考えることにします。),カエサルのラウェンナ出発は,紀元前49年1月10日の夕方ということでよいのではないでしょうか。

しかし,プルタルコス流に夜中に橋をぞろぞろどやどや渡ったというのでは夜盗のようで恰好が悪いので,早朝,神の示現にも祝福されつつ太陽と共に爽やかにかつ勇ましくルビコン川を渡って世界制覇が始まった,というスエトニウス流のお話が作られたのでしょう。(小林標『ラテン語文選』(大学書林・200163頁には「11日にユーリウス・カエサルが軍隊を伴なったままルビコー川を越えてローマ側へ入っている。」とあります。

(なお,11日朝ルビコン川渡河ということでも時間的にはぎりぎりのようですから,11日出発,12日朝に渡河のスケジュールの方が現実的であると判断されるのももっともではあります。キケロー=中務哲郎訳『老年について』(岩波文庫・2004年)のキケロー「年譜」(兼利琢也作成)の13頁では「49年 1月12日,カエサル,ルビコーン川を越え,内乱始まる。」とされています。)

2 2017年1月10日

(1)勝訴
 ところで,筆者にとっての2017年1月10日は,幸先よく勝訴判決を頂くことから始まりました。損害賠償請求事件の被告代理人を務めたものです。「・・・原告の前記(1)主張を認めるに足りる証拠はない。/・・・よって,その余の争点について判断するまでもなく,原告の請求は理由がないから,これを棄却することとし,訴訟費用の負担につき,民事訴訟法61条を適用して,主文のとおり判決する。」というのが当該地方裁判所判決の結論部分で,主文は,「1 原告の請求を棄却する。/2 訴訟費用は原告の負担とする。」というものでした。

 敗訴した原告側としては,証拠が無くとも慰謝料等の損害賠償請求自体はできるものの,裁判になった場合には証拠がないと請求が認められない,という当該分野の専門弁護士の説く一般論そのままの結果に終わったわけです。

(2)「問状」の効力いかん 

損害賠償金の支払を得るべくせっかく弁護士に頼んでお金を払って内容証明郵便や訴状を書いてもらったのに何だ,何の効果もなかったではないか,というのが敗訴原告の憤懣の内容となるでしょうか。

しかしながら,「就訴状被下問状者定例也」(訴状につきて問状を下さるるは定例なり)であるからといって(すなわち,訴状が裁判所に提出されて訴えが提起されると(民事訴訟法133条),裁判長の訴状審査(同法137条)を経て訴状が被告に送達され(同法138条1項),これに対して被告は,口頭弁論を準備する書面として(同法161条),答弁書(民事訴訟規則80条)を裁判所に提出し(同規則79条),かつ,原告に直送することになるところ(同規則83条),実務では,裁判所は,「問状を下す」のではなくて呼出状(当事者の呼出しについて民事訴訟法139条,呼出状の送達に関して同法94条)と一体となった「第1回口頭弁論期日呼出状及び答弁書催告状」といった書面を訴状の副本(民事訴訟規則58条1項)と共に被告に送達します。),それを承けた原告が被告に対して「以問状致狼藉事」(問状をもって狼藉を致すこと)をすること(例えば,「「第1回口頭弁論期日呼出状及び答弁書催告状」と題した問状を裁判所がお前にお下しになっただろう。これは,裁判官様がこちらの訴えが正しいと既にお認めになった証拠である。したがって,往生際悪く裁判所で無慈悲に拷問されるより前にさっさと素直にゲロして答弁書に「私が悪うございました。全て原告の言うとおりです。」と書け。」と迫る詐欺ないしは強迫的な狼藉を致すようなことなど)ができるかといえばそれは「姦濫之企」であって,「難遁罪科」(罪科遁れ難し)であることは,貞永元年(1232年)七月の御成敗式目によっても明らかなことです(第51条。なお,当時は問状は原告が自ら被告に交付していたそうです(山本七平『日本的革命の哲学』(祥伝社・2008年)424頁参照)。)。
 訴状提出による訴訟提起等の直接的効果に関して過大な期待を煽ってはいけませんし,また,「裁判所から書面が送達されて来た。」といってもいたずらに過剰に反応する必要もありません。まずは事実及び証拠です。信用のできる弁護士に相談すべきです。

3 ポンペーイウスの大弁護士 

 話はまた古代ローマに戻って,「賽を投げろ」と賭博的にルビコン川を渡河した(これは「名()○○号に乗()する」のような重複表現なのですが,御容赦ください。)カエサルの攻勢に対しっし対応,ポンペーイウスにはよい参謀はついていなかったものでしょうか。これについては,少なくとも弁護士の選択については,それまでの赫々たる名声だけで「弁護士」ありがたがって安易に帷幄に参じさせてはならないもの
 マルクス・トウㇽリウス・キケロー大弁護士は,カエサルルビコン渡河直後「戦争に対して名誉のある立派な理由を持ってゐた」ポンペーイウスと「情勢をうまく利用して自分自身ばかりでなく仲間のものの安全を図つていた」カエサルとの間で右顧左眄していましたが(プルタルコス「キケロー」
37・プルタルコス=河野与一訳『プルターク英雄伝(十)』(岩波文庫・1956年)209頁),紀元前49年4月のカエサルのイスパニア向け発足後に至って同年6月にギリシヤに向け「ポンペーイウスのところへ渡つた」ものの,そこにおいて「ポンペーイウスがキケローを一向重く用ゐないことが,キケローの意見を変へさせ」,キケロー大弁護士は「後悔してゐることを否定せず,ポンペーイウスの戦備をけなし,その計画を密かに不満とし,味方の人々を嘲弄して絶えず警句を慎しまず,自分はいつも笑はず渋面を作つて陣営の中を歩き廻りながら,笑ひたくもない他の人々を笑はせてゐた」そうです(プルタルコス「キケロー」38・河野訳上掲書210頁)。大先生自らお気に入りの下手なおやじギャグは,味方をまず腐らせるということでしょうか。
 紀元前
48年8月のファルサーロスの「敗北の後に,ノンニウスが,ポンペーイウスの陣営には鷲が7羽(軍旗が7本)残つてゐるからしつかり希望を持たなければならないと云ふと,キケローは『我々が小鴉と戦争をしてゐるのなら君の勧告も結構なのだが。』と云」い,「又,ラビエーヌスが或る託宣を引合に出して,ポンペーイウスが勝つ筈になつてゐると云ふと,キケローは『全くだ。その戦術を使つて今度我々は陣営を失つてしまつた。』と云つた」そうです(プルタルコス「キケロー」38・河野訳前掲書211212頁)。何でしょうねぇ, この当事者意識の欠如は。しかもこの口の達者な大先生は,肝腎の天下分け目の「ファルサーロスの戦には病気のためキケローは加はらなかつた」ものであったのみならず,カエサルに敗れて「ポンペーイウスも逃亡したので,デュㇽラキオンに多数の軍隊と有力な艦隊を持つてゐた〔小〕カトーは,法律に従つてコーンスルの身分で上官に当るキケローに軍の統率を依頼した」ところ,「キケローは支配を辞退したばかりでなく全然軍事に加はることを避けたため,ポンペーイウスの息子や友人たちがキケローを裏切者と呼んで剣を抜いたので,〔小〕カトーがそれを止めてキケローを陣営から脱出させなかつたならば,もう少しで殺されるところであつた」との頼りない有様であったとのことでした(プルタルコス「キケロー」39・河野訳前掲書212頁)。

 

 という難しい大先生がかつていたとはいえ,それでも弁護士は使いようであります。まるっきり法的にも見通しなしの賭博として「賽を投げる」ことはやはり危険でしょう。大事を前にして,信頼できる弁護士を探しておくことは無価値ではないものと思います。

 

 弁護士 齊藤雅俊

 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

 大志わかば法律事務所

 電話:0368683194

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1 本人訴訟の状況

 


(1)本人訴訟

 我が国では,民事訴訟は当事者(原告又は被告)御本人でできます。必ず弁護士に訴訟代理人になることを依頼して,代わって訴訟活動をしてもらわなければならないわけではありません。(これに対して,ドイツでは我が国と異なり,同国の民事訴訟法781項は,「地方裁判所及び上級地方裁判所においては,当事者は弁護士(Rechtsanwalt)によって代理されなければならない。ある州において裁判所構成法施行法第8条に基づき最上級地方裁判所が設置されている場合,そこにおいては,当事者は,同じく弁護士によって代理されなければならない。連邦通常裁判所においては,当事者は,連邦通常裁判所において許可されている弁護士によって代理されなければならない。」と規定しています。)

 法律問題を抱えて,自分の権利を実現するため原告として相手方を訴える場合に,また,被告として民事訴訟を提起されてしまった場合に,弁護士(簡易裁判所での場合は,又は司法書士(司法書士法316号))に依頼せずに御本人が自分で訴訟活動をされる訴訟を,本人訴訟といいます。

 裁判所のウェッブ・サイトを見ると,いろいろな書式等,本人訴訟をされる方たちに役立つ情報が提供されています。

 


(2)2012年の本人訴訟状況

 それでは,実際のところ,本人訴訟は一体どれくらいあるものなのでしょうか。

 


ア 地方裁判所:原告の4分の3は弁護士を利用,双方本人訴訟は2割

 2012年中の状況を裁判所ウェッブ・サイトの司法統計で見ると,全地方裁判所の第一審通常訴訟既済事件数168230件のうち,当事者双方に弁護士が付いたのは6万3302件で,全体の37.6パーセントにすぎません。原告は弁護士を立てて訴訟を提起したが,被告は弁護士を依頼しなかったケースは6万5078件で38.7パーセントになります。この両者は原告が弁護士を立てたケースですから,すなわち,地方裁判所に訴えを提起する原告の方の4人に3人(76.3パーセント)は,弁護士を利用されているわけです。残りの23.6パーセント(3万9850件)は,弁護士に依頼せずに原告御本人が訴訟を提起されたケースになりますが,これに対して被告が弁護士を立てたのが7382件で全体の4.4パーセント,原告被告双方とも御本人であるケースは3万2468件で全体の19.3パーセントになります。

 


イ 簡易裁判所

 訴訟の目的の価額が140万円を超えない請求に係る第一審裁判所は簡易裁判所になります(裁判所法3311号。また,同法241項)。簡易裁判所では,「簡素な手続により迅速に紛争を解決するもの」(民事訴訟法270条)とされています。同じく2012年中の簡易裁判所における本人訴訟状況はどうなっていたのでしょうか。

訴訟の目的の価額が60万円以下の金銭の支払請求を目的とする訴えに係る少額訴訟(民事訴訟法3681項。原則として1回の審理で終了します(同法3701項)。)と,それ以外の通常訴訟に分けて統計が出ています。

 


(ア)通常訴訟:3分の2が双方本人訴訟

 まず,通常訴訟から。全簡易裁判所の第一審通常訴訟既済事件数424368件中,当事者双方に弁護士又は司法書士が付いたのは1万7027件で,何と4.0パーセントにすぎません。換言すると,簡易裁判所の通常訴訟では,25件中24件は,当事者のいずれかが御本人ということになります。原告にのみ弁護士又は司法書士が付いているケースが101024件(全体の23.8パーセント)ですから,簡易裁判所での通常訴訟での原告で,弁護士又は司法書士を利用された方は10人中3人にも達していないわけです(118051件,全体の27.8パーセント)。被告のみに弁護士又は司法書士が付いたケースは1万9622件(全体の4.6パーセント)。原被告双方とも御本人であるケースは286695件で,何と全体の3分の2を超えます(67.6パーセント。ただし,簡易裁判所では,裁判所の許可を得て弁護士又は司法書士でない者を訴訟代理人とすることができます(民事訴訟法541項)。)。

 


(イ)少額訴訟:弁護士利用は例外的

 少額訴訟既済事件数1万2754件中,原被告双方に弁護士又は司法書士が付いたのは47件で,実にわずか0.4パーセントです。原被告双方とも御本人ケースが1万1324件で88.8パーセントとなっています。原告のみに弁護士又は司法書士が付いたのが1009件(7.9パーセント),被告のみに弁護士又は司法書士が付いたケースが374件(2.9パーセント)となっています。少額訴訟では,弁護士又は司法書士の訴訟代理人を立てるのがむしろ例外となっています。

 


2 司法研修所編『本人訴訟に関する実証的研究』

 以上は,統計数字に表れた本人訴訟の量的状況についての御紹介です。

 更に本人訴訟の内容に踏み込んだ質的分析をも行ったものとしては,法曹会から2013年5月に出た司法研修所編『本人訴訟に関する実証的研究』(司法研究報告書第64輯第3号)があります。地方裁判所及び高等裁判所の裁判官の目から見た本人訴訟について興味深い調査結果を報告しているものです。以下,当該報告書の内容について若干御紹介したいと思います。

 


(1)分析対象

 


ア 地方裁判所での「実質的紛争のある事件」:2010年度は約2割

 なお,司法研修所の当該報告書で分析の対象となった地方裁判所第一審事件は,2010年度に既済となった事件のうち,実質的紛争のある事件です。すなわち,「実質的紛争がない」又は「明らかに原告又は被告の主張に理由がない」といった事案をふるい落とすため,口頭弁論期日(判決言渡期日を除く。)を3回以上経,又は1回でも弁論準備手続に付された事案のみが取り上げられています(さらには,過払金返還請求事件が主なものである「その他の金銭を目的とする訴え」も除外されています。)(報告書2頁)。

 2010年に既済となった民事第一審通常訴訟(全地方裁判所)において単独事件として審理された事件は227431件のうち,上記のふるいがけに残った「実質的紛争のある事件」は4万3549件だったそうです(報告書2頁)。

こうしてみると,地方裁判所に訴えが提起される訴訟のうち,裁判所から見て「実質的に紛争がある」と思われるのは約2割で,約8割という大部分の事件は,「実質的な紛争がない」若しくは「明らかに原告又は被告の主張に理由がない」といった,何もわざわざ訴訟沙汰にしなくとも・・・とあるいは思わせるものか,又は過払金返還請求事件といった特殊なもの(2010年当時は,裁判所によっては新規事件の4割ないしは5割程度は過払金返還請求事件だったそうです(報告書3頁)。)であったようです。

 また,『本人訴訟に関する実証的研究』のために,司法研修所は,2011年1月20日から同月31日までの間に終了した事件のうち上記のような実質的紛争のある事件について,全国の地方裁判所の民事単独訴訟事件を担当する裁判官の全員にアンケート調査(以下「裁判官アンケート」)を行っており,原告は本人訴訟であるが被告には弁護士が付いた事案(原告本人型)83件,原告は弁護士を立てたが被告は本人訴訟であった事案(被告本人型)169件及び原被告双方とも弁護士を立てず双方とも本人訴訟であった事案(双方本人型)33件の合計285件について回答が寄せられています(報告書23頁)。

 


イ 地裁「実質的紛争のある事件」中の本人訴訟比率:約4分の1

2010年における地方裁判所の上記「実質的に紛争がある」事件4万3549件のうち,原被告双方に弁護士の訴訟代理人が付いていたのは3万2448件とされています(74.5パーセント)。引き算をすると,「実質的に紛争がある」事件で当事者の少なくともどちらかに弁護士がついていない本人訴訟は,4分の1ほどということになります(原被告双方とも弁護士がついていない双方本人型は1559件で3.6パーセント,被告には弁護士がついて防戦しているが原告は本人のみである原告本人型が2455件で5.6パーセント,弁護士を立てた原告に訴えられた被告が弁護士を立てずに自ら応戦した被告本人型が7087件で16.3パーセント)(以上,報告書5頁)。しかし,これは地方裁判所の数字なので,簡易裁判所では,「実質的に紛争がある」事件についても,当然地方裁判所よりも本人訴訟の比率が高いことでしょう。

 


(2)原告と弁護士

当たり前の話ですが,民事訴訟は,原告が訴えを提起するところから始まります。(民事訴訟法133条1項は「訴えの提起は,訴状を裁判所に提出してしなければならない。」と規定しています。)

原告に弁護士がつく場合とつかない場合とが,まず分かれます。

 


ア 弁護士がつく場合

原告に弁護士がつく場合は,弁護士としては,その事件は原告のために何とかものになると考えているわけでしょう。弁護士職務基本規程29条3項は,「弁護士は,依頼者の期待する結果が得られる見込みがないにもかかわらず,その見込みがあるように装って事件を受任してはならない。」と規定しています。

 


イ 弁護士がつかない場合

これに対して,原告に弁護士がつかない場合の理由はいろいろです。

この中で,弁護士側からの難色については,実質的紛争事件に関する裁判官アンケートによれば,原告に弁護士がついていない事件116件(報告書3頁。83件+33件)中,30件(25.9パーセント)については「弁護士側で受任に難色を示すような事件であったから」原告に弁護士がつかなかったのではないかとされています(報告書11頁,資料編123頁)。「原告側本人の事案では,法的保護に値しない感情的な不満を損害賠償として請求するなどいわゆる負け筋の事件が多い」とも指摘されています(報告書12頁)。弁護士側で受任に難色を示すような事件でないと思われるのに原告が弁護士をつけなかったのは116件中43件(37.1パーセント)とされています(資料編123頁)。(別に「分からない」との回答が43件(37.1パーセント)ありました(資料編123頁)。)

なお,116件中原告が弁護士に相談していた件数(相談しただろうと推測するものを含む。)は,17件(14.7パーセント)とされています(報告書12頁,資料編99頁)。

 


(3)弁護士の有無と原告の勝訴率

弁護士をつけることによって,訴訟の勝敗率はどう変化するのでしょうか。原告の勝訴率を見てみましょう。

  

ア 原告に弁護士がついている場合

原告に弁護士がついている場合は,前記のとおり,当該弁護士において,原告のためにいい結果を出せるとの見通しを持っているのが通常でしょう。

 


(ア)被告に弁護士がついた場合(双方弁護士型):原告勝率67.3パーセント

地方裁判所の「実質的紛争のある事件」のうち,原被告両当事者に弁護士がついている場合をまず見てみましょう。訴訟技術の差は弁護士間では弁護士・非弁護士間ほどはないはずですから,本人訴訟において懸念されるほど,訴訟技術の巧拙が勝敗の差に現れたということはないはずです。

双方弁護士型事案における原告勝訴(全部又は一部認容)の比率は,1万2396件中の8337件で,67.3パーセントとなっています(報告書910頁,資料編35頁)。(なお,原被告双方に弁護士がついた事案3万2448件中1万7561件(54.1パーセント)においては,判決ではなく,和解で終結していることに注意してください(報告書9頁,資料編35頁)。)

  

(イ)被告に弁護士がつかない場合(被告本人型):原告勝率91.2パーセント

ところが,弁護士が原告の訴訟代理人として訴訟を追行しているのに対して被告が弁護士を訴訟代理人に付けない被告本人型の場合,原告の勝訴率は,3963件中の3616件,91.2パーセントに跳ね上がります(報告書910頁,資料編35頁)。被告に弁護士が付いているときよりも原告の勝率が23.9ポイント上がっています。この原告側勝訴率の増加の理由を,すべて被告側の弁護士の不在に帰してよいものか。無論,被告が負けを最初から見越していたからこそそもそも弁護士を依頼しなかったという場合もあるでしょうから,被告の勝率低下のすべてを弁護士の不在に帰するわけにはいきません。しかしながら,報告書の分析対象事案は「実質的紛争」がある場合であって,「被告の主張に理由がない」ことが一見極めて明白な場合は除かれているはずですから,やはり,被告の負け筋事件ばかりであったわけではないでしょう。少なくとも,「負け筋の本人には弁護士が選任されていない可能性も考えられるが,本人訴訟の本人と弁護士との力量の差が勝訴率(ないし敗訴の回避率)に影響を与えている可能性がある。」とはいい得るわけです(報告書9頁)。

裁判官アンケートの結果においては,被告のみ本人訴訟型の場合,被告に弁護士がついていれば訴訟の結論において被告に有利な影響があったと考えられる比率が,原告勝訴事案(全部又は一部認容)について27.1パーセントとなっています(報告書58頁)。91.2パーセントの原告勝訴ケースのうち27.1パーセントが被告有利になるとすると,勝率は66.5パーセント(=0.912×(10.271))となって,原被告双方に弁護士がついていた場合の原告の勝率(67.3パーセント)とほぼ同じになりますから,一応もっともらしいですね。ただし,被告のみ弁護士がつかない事案に係る裁判官アンケートにおける原告勝訴事案107件中,弁護士がついていれば被告「有利」となったであろうとされた29件のうち8件ほどは,和解によって被告敗訴が回避されたであろうケースのようですから(報告書59頁,資料編142頁),判決で有利になる比率は21(=298)/99(=1078)の21.2パーセントでしょうか。それでも原告勝率は71.9パーセント(=0.912×(10.212))になるでしょうから,依然としてもっともらしいですね。

 

イ 原告に弁護士がついていない場合

原告に弁護士がついていなくとも,その事件がすべて負け筋であるとは限りません。

 


(ア) 被告に弁護士がついた場合(原告本人型):原告勝率32.4パーセント

被告に弁護士がついても,本人訴訟の原告が勝訴する確率はなお,1421件中の460件,32.4パーセントあります(報告書910頁,資料編35頁)。弁護士側で受任に難色を示すような事件でないと思われるのに(したがって,少なくとも負け筋ではないのに(又は勝ち筋だからこそ))原告が弁護士をつけなかったのは116件中43件(37.1パーセント)あったという前記裁判官アンケートの数字にほぼ符合するように思われます。勝つべき事件は,弁護士の有無にかかわらず勝つであろう,ということでしょう。

なお,裁判官アンケートによれば,原告は本人訴訟・被告は弁護士付きの原告本人型類型について,原告勝訴事案のうち更にその23.8パーセントにおいて,原告に弁護士がついていればその勝ちがより大きくなっただろうと担当裁判官によって考えられているようです(報告書5859頁)。

 


(イ)被告に弁護士がつかない場合(双方本人型):原告勝率67.0パーセント

原告の本人訴訟に対し,被告も弁護士を頼まず本人訴訟で応じた双方本人型の場合の原告勝訴率は,統計データの調査では,864件中の579件,67.0パーセントとなっています(報告書910頁,資料編35頁)。被告に弁護士がついた場合よりも,原告の勝率が34.6ポイント増加しています。

ただし,裁判官アンケートでは,原被告双方本人型訴訟での原告勝訴率は,1211敗の52.2パーセントとなっています(報告書55頁,資料編94頁)

原告に弁護士がついていない事件116件中,30件(25.9パーセント)については「弁護士側で受任に難色を示すような事件であった」とする前記裁判官アンケートの結果からすると,さすがに原告の本人訴訟の場合における勝率が4分の3を超えることはないのでしょうから,非弁護士同士の戦いは,当該勝率と,被告に弁護士がついたときの原告本人訴訟の勝率32.4パーセントとの間の綱引きになるのでしょう。(なお,原告に弁護士が付いていない事件中,「弁護士難色事件」を原告のどうしても勝てない事件と仮定した上で,「弁護士難色事件」を除いた事件の原告勝訴率を,原被告双方弁護士事件における原告の勝訴率67.3パーセントにおけば,原被告双方本人訴訟(双方とも弁護士がついていない)事件での原告勝訴率は5割程度ということになりそうではあります(0.499=(10.259)×0.673)。これは,裁判官アンケートでの原告勝訴率52.2パーセントに符合しますね。)統計データ調査上の双方本人型本人訴訟での原告勝率67.0パーセントという結果は,原告の気迫勝ちということなのでしょうか。裁判官から見た本人訴訟の発生原因において,自分自身で訴訟を追行しようという意欲が強いからと観察される比率(原告本人訴訟中62.9パーセント,被告本人訴訟中40.6パーセント)及び訴訟追行能力に自信があって弁護士を必要としないと考えているからと観察される比率(原告本人訴訟中55.2パーセント,被告本人訴訟中27.7パーセント)が,いずれも原告について高くなっています(報告書11頁)。ただし,「裁判所からみて,本人の訴訟活動は,原告側と被告側とで大きな差はないか,むしろ原告側本人に問題がある割合が高いと映っている」そうです(報告書11頁)。

また,裁判所から見ると,訴訟経験があったからといって,残念ながら,本人訴訟における本人の訴訟活動の質は,向上しないもののようです(報告書2324頁)。

 


(4)本人訴訟の訴訟技術上の問題点

裁判官アンケートによると,仮に本人が弁護士を選任したとすれば訴訟の帰趨に有利な影響があった可能性があるとされた事案について,有利になる原因として挙げられているのは,①適切な主張(本人訴訟類型全体で68.6パーセント),②適切な立証(同66.7パーセント)及び被告のみ本人型事案での③和解の可能性(同15.7パーセント弱)となっています(報告書5859頁)。

 


ア 「適切な主張」

「適切な主張」が問題になるのは,訴訟においては,主張を法律的に適切に構成することが必要だからです(「法律的に」構成するのであって,日本語として意味が通るように主張するだけではまだ足りません(達意の日本語を書くことはそれだけでも難しいことですが。)。)。つまり,法的権利が発生したものと裁判で認めてもらうためには,「そう合意したから」「そう約束したから」との事実だけを主張するのではだめで(いわんや「一貫した思考の結果,そうであるべきものとわたくしがそう思うから」と学者大先生のようにその先の議論を言い張るだけではだめです。),「これこれの権利を発生させるこれこれの法律の仕組みがあって,その仕組みが発動するためのこれこれの要件があって,それらの要件に該当するこれこれの事実が存在するから,要件が充足されて法律の仕組みが発動して,私の主張するこれこれの権利が発生したのだ」と主張しなければならないのです(「法規説」)。「現在の民事裁判実務では,法規説が採用されている。民法が成文法として制定されている以上,法律行為について,「法律の規定なしに法律効果が生ずるという自然法原理のようなものは認めることができない」(我妻〔『民法講義Ⅰ』〕242頁)と解されるからである。契約の拘束力の思想的な根拠が合意にあり,契約の成立には合意が必要であるとしても,権利の発生根拠・契約の拘束力の根拠は法律にあると考えるべきである。」というわけです(村野渉ほか『要件事実論30講〔第2版〕』94頁)。「法規説では,・・・原告は,まず自己が求める権利(請求権)の法的性質を決定し,その権利の発生要件である要件事実を過不足なく主張立証しなければならない。したがって,法律実務家としては,民法等の法律の規定について理解を深めるとともに,契約の内容を緻密かつ合理的に分析するよう努めることが大切である。」という(村野ほか94頁),ちょっと難しいことになっています。

なお,この点に関しては,昨年(2013年)亡くなった法哲学者の碧海純一教授が,裁判官の役割の伝統的な19世紀大陸法学的なとらえ方に係る比喩として「裁判官スロット・マシン説」という説明をしています。「つまり,裁判官というものは,いわば穴の三つあるスロット・マシンであるべきで,上の穴から法律を,中の穴から事件を投げこんでやれば,自動的に下の穴から判決が出てくるようなものでなければならない」というものです(碧海純一『法と社会』(中公新書・522006年)159頁)。上の穴から入れる法律を選び間違えると,本来有利な判決をもらえる事件を中の穴から入れても,下の穴から期待した判決は出てきませんし,上の穴から入れる法律は正しくても,中の穴から入れる事件の入れ方を間違えると,期待した判決はやっぱり出てきません。また,上の穴から入れる法律と中の穴から入れる事件との関係で,下の穴から出てくる判決はあらかじめ決まっているわけですから,当該スロット・マシンの性能上出てこない判決を求めてスロット・マシンの前にすわり続けるのは,残念ながら無駄ということになります。ちょっと一人で操作するのは難しいスロット・マシンであるわけです。

「実務での経験からすると,原告側に弁護士が選任されている場合は,訴状に欠席判決ができる程度の記載がないことはそれほど多くな」いのに反して,裁判官アンケートによると,原告本人が弁護士に依頼せずに自ら作成した訴状の場合,約半数の48.3パーセントの訴状に欠席判決ができる程度の記載がなかった,とされています(報告書1314頁)。本人作成の訴状の2通に1通は,せっかく被告が何もしないでいてくれても,それだけでは勝てない訴状だというわけです。(なお,民事訴訟規則531項は,訴状には「請求を理由づける事実を具体的に記載」すべきものとしています。)

 


イ 「適切な立証」

「適切な立証」とは,訴訟における主張を裏付ける証拠を提出できたか,という証拠収集・提出(説得)能力の問題です。この方面でも経験が物を言いますし,また,本人のみでは見落としてしまうことも,第三者の目からすると気付くことができるということもあるわけです。自分が紛争の当事者になってしまうと,なかなか冷静にはなれませんし,またかえって気が重くなり,手がつけられないということもあるでしょう。

 


ウ 和解

「和解」については,裁判官アンケート分析の結果として,「本人が敗訴判決を受けている事件のうち,弁護士が選任されていても当然に和解を勧試しているとはいえない事案では,敗訴判決を受けた本人が弁護士を選任していれば本人に有利な影響があったとする割合は7.8%にすぎないのに対し,弁護士が選任されていれば当然に和解を勧試している事案では,敗訴判決を受けた本人が弁護士を選任していれば本人に有利な影響があったとする割合は28.7%に上っており,顕著な差を示している。これは,判決となれば本人が敗訴してしまうものの,和解に持ち込める可能性があるのに,本人が和解に消極的なためにそのまま判決に至ってしまったケースが相当数あることを示しているといえようか。」と述べられています(報告書64頁)。「裁判所は,訴訟がいかなる程度にあるかを問わず,和解を試み,又は受命裁判官若しくは受託裁判官に和解を試みさせることができる。」とされていますが(民事訴訟法89条),訴訟が和解で終局する比率は,「実質的紛争あり」事案に係る統計データでは,原被告とも弁護士が付いている場合には54.1パーセントであるのに対して,本人訴訟類型全体では35.4パーセントにとどまっています(報告書9頁,資料編35頁)。このギャップの説明としては,「本人訴訟における和解率が低い理由として,和解に不適切な事案が多いことのほか,和解が相当な事件においても,本人に和解や譲歩の意向がなく,また,本人の理解力やコミュニケーション能力に問題があることが挙げられる。そして,本人に和解や譲歩の意向がないことの原因として,弁護士が選任されていないために,本人が事件の見通しを的確にすることができないことが考えられる。そうすると,仮にこれらの和解が相当な事件で弁護士が選任されれば,弁護士が事件の見通しを示すなどして本人を説得し,また,本人の理解力等を補うことになるので,和解協議が開かれ,ひいては和解が成立するケースもでてくると思われる。」と述べられています(報告書64頁)。裁判官アンケートによると,和解協議をしなかったケースについてその理由として挙げられたもののうち,和解に不適切な事案であるとするものが本人訴訟全類型で和解協議をしなかったケースの45.7パーセント,原告に弁護士の付いていない原告本人型で特に65.4パーセントになっており,本人の理解力等に問題がありとするものが本人訴訟全類型で和解協議をしなかったケースの23.8パーセント,原被告とも本人訴訟である双方本人型では38.5パーセントになっていました(報告書63頁)。

弁護士は,判決に向けて徹底的に戦うことばかりではなく,裁判所からは,望ましい和解に向けた仲介者としての役割も期待されているということのようです。

 


3 まとめ

 以上,司法統計及び『本人訴訟に関する実証的研究』について若干御紹介申し上げました。本人訴訟の全体像についてのイメージを,筆者と共につかんでいただければ幸いです。ありがたいことに,弁護士が付くことにより,原告側・被告側双方において勝率が上昇していることが統計数字に表れていました。

 とはいえ,現実の事件の当事者にとって問題であるのは,現在当面する個別具体的な特定の事件であって,多くの事件から抽象された統計的平均値ではありません。そのような意味では,多くの事件の「全体像」を見るだけではなお不十分で,当面する個々の事件の性格を具体的に知ることが必要になります。

 紛争が生じた場合,その解決のために弁護士に依頼するか,飽くまで御本人で対応されるかは,無論,弁護士に頼むことによってかかる費用とそのことによって得られる利益とを天秤にかけた費用対効果で決まるということになるでしょう。しかし,その具体的紛争における弁護士選任に係る費用対効果を具体的に衡量するためには,やはり,当該紛争の具体的性格を知ることが必要です。そのためにもまず,弁護士に相談されることをお勧めします。

 また,病気と同じで,法的紛争も,その芽のうちに適切な対処をすることが,結局は将来における大きな損害ないしは不利益を未然に防ぐことになります。

 弁護士に法律相談をしたからといって,直ちにその弁護士に事件解決を依頼しなければならないことにはなりません。

 


 なお,本人訴訟をされれば,当然弁護士費用の支出は節約できます。しかし,現実のお金として支出されないので一見存在しないように思われがちですが,御本人の時間,労力等に係る機会費用・機会損失(別のことに従事することによって得べかりし利益の喪失)が発生します。

 ちなみに,最高裁判所事務総局が2013年7月12日に公表した「裁判の迅速化に係る検証に関する報告書(第5回)」(「概要」版でも83葉あります。)によると,2012年の地方裁判所における民事第一審訴訟事件の平均審理期間は7.8月,平均期日回数は4.2回だったそうです(過払金返還請求事件等を除くと,それぞれ8.9月及び4.9回)。

 


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(雨飾山)

 弁護士 齊藤雅俊
 大志わかば法律事務所
 151-0053 東京都渋谷区代々木一丁目57番2号ドルミ代々木1203
 電話:03-6868-3194 (まずは御遠慮なく,お気軽にお電話ください。)
 電子メール: saitoh@taishi-wakaba.jp (電子メールでのお問い合わせにも対応いたします。)

 

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 弁護士の弁の字は,難しい康熙字典の旧字体では「辯」。これは意符の言を真ん中に,音符の辡(べん)で挟んだ文字で,訴訟を分け治める,ひいて,ことわけを明らかにする意を表す文字だそうです(『角川新字源』)。

 名前に言の字が入っているくらいですから,辯護士にとって最重要なのは辯舌ということになるのでしょうか。

 しかしながら,なかなかそういうことにも,簡単にはならないようです。


 口頭弁論の必要性に係る民事訴訟法87条1項本文は「当事者は,訴訟について,裁判所において口頭弁論をしなければならない。」と規定しています。しかし,準備書面に係る民事訴訟法161条1項は,また,「口頭弁論は,書面で準備しなければならない。」と規定しています。そうなると,裁判所における口頭弁論期日における当事者の陳述の実際は,あらかじめ裁判所に提出され,かつ,相手方に直送されているところの「準備書面に記載のとおり陳述いたします。」ということになってくるわけです。

 まずは,弁護士にとっては,書面をしっかりと,かつ,「簡潔な文章で整然かつ明瞭に」書く(民事訴訟規則5条)腕が重要ということになります。


 しかし,これは現代日本に特有な話で,辯護士らはその華麗な辯舌でもって法廷で争うべきことが原則なのではないか,他の国ないしは時代においてはそのような原則が貫徹している例があるはずではないか,とも考えてしまうところです。そのような場合,つい念頭に浮かぶのは,古代ローマの弁護士(また,執政官。「祖国の父」との称号を得る。)にして第一の雄弁家とされるキケロー(前106年-前43年)です。


 キケローは,うぬぼれやで毒舌家(例えば,プルタルコスによれば,天分も学識もないくせに法律家を自称している男を証人に呼んだところ「何も知らない」と答えたので,キケローは「どうやら君は法律のことを訊かれたと思っているらしいね」と言ったとか。)。弁護士報酬は受けなかったものの(ローマの法律家は金銭を要求しなかったものとされています。),厚く感謝する依頼者から,返す必要のないお金を貸してもらったり,遺産相続人に指名されるなどしつつローマの政界で台頭します。(確かに,プルタルコスは,キケローは自己所有の地所からの収入で支出を賄えたので,弁護に立っても報酬や贈物を受け取らなかったと書いていますが,そこでは「借金」や遺産相続には言及されていません。なお,日本民法の委任契約においても,その旨の特約がなければ受任者は委任者に対して報酬を請求できないものとされています(民法6482項)。)

 しかし,キケローは,武器を取るのは苦手で,演説でも実は調子が出てくるまではあがり症。政争における殺人の罪で告発されたアンニウス・ミローを弁護するときには,ポンペーイウスが陣取って武器立ち並ぶ政治裁判法廷の物々しさにすっかり取り乱して震えが止まらず,声がつかえて散々の出来栄え。ミローは有罪,マルセイユに逃亡しました。

 ところが,当該弁論に失敗した後,キケローは『ミローのための演説』を今度は悠然と書き直し,公刊します。今に残る当該「名演説」をマルセイユで読んだミローは,「キケローよ,君がこのとおりしゃべっていたのなら,今ごろおれはここで魚を食ってはいなかったはずだぞ!」と吠えたとか。


 カエサル暗殺(前44315日)後,キケローはアントーニウスと敵対。一連の『フィリッピカ』演説(アテネのデーモステネースの同名の反マケドニア(当時の同国国王は,アレクサンドロス大王の父のフィリッポス2世)演説集にちなんで命名)でアントーニウスを攻撃します。しかし,カエサルの後継者であるオクターウィアーヌスがアントーニウス及びレピドゥスと組むに至り(第二回三頭政治),キケローの運命は暗転。アントーニウスの要求により,三頭政治家のボローニャ会議においてキケローは死すべきものと決定。前4312月7日,キケローは海辺の別荘地で,アントーニウスの手の者によって殺害されました。

 アントーニウスは,キケローの首と,自分を攻撃する『フィリッピカ』を書いたその右手とを切り取ってローマに持って来させ,呵呵大笑,フォルムにさらします。


 キケローの舌(首)を取っただけではアントーニウスの腹の虫は納まらず,書面を書く右手までさらしてやっと十分満足したということは,古代ローマの弁護士にとっても書面作成こそが重要な仕事であったということを推認させる事実でしょうか。前48年に死んでいたミローに言わせれば,残る右手で名文さえ書ければ,キケローの図々しいうぬぼれにとっては,舌が少々使えないくらい何でもないことを忘れるな,ということでしょうか。


 いずれにせよ,右手が使えないのは不便なことです。


 (なお,プルタルコスは,アントーニウスの伝記では右手と書きつつ,キケローの伝記では,その両手が切り取られたものとしています。この分かりにくさは,さすがプルタルコスというべきか。両手を切ったということならば,アントーニウスの手下が,キケローが左利きであった場合のことをも考えて周到に処置したということでしょうか。いずれにせよ,最近の弁護士はパーソナル・コンピュータのキーボードを両手で打って書面を作成していますから,現代のアントーニウスは,「しっかり両手を切り取れ」と命ずることになるのでしょう。)


 現在,キケローの名から派生したcicéroneないしはCiceroneという単語がフランス語やドイツ語に存在します。ただし,これらは弁護士とは関係なく,(雄弁な)観光ガイドという意味です。



(参考)河野与一訳『プルターク英雄伝』(岩波文庫)10:169頁・195頁・205頁・207頁・222頁・224225頁,1192; I.モンタネッリ・藤沢道郎訳『ローマの歴史』(中公文庫)256257頁・278279

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1 はじめに(民事訴訟のイメージをどうつかむか)


 「貸したお金が返ってこない。困った。」


 というときには,最終的には民事訴訟を通じてお金を取り戻すということになります。

 しかし,民事訴訟のイメージは,一般にはやや分かりにくいようです。(大学新入生向けの「法学入門」の講義を担当された民事訴訟法学の大家であった三ケ月章教授も,「民事訴訟法,略して民訴法のミンソとは,眠たくなる眠素の意味だよ」と韜晦されていたところです。)


 「石松が,あっしから5両借りたのに,そんな金を借りた覚えはねぇってシラを切りやがって返さないんでさぁ。石松は江戸で学問も少しはしたと言うから,真っ当な人間になったと思って証文も取らずに貸してやったのに(そういえば,あの時立会人になってくれた遊び人の金さん,あれから姿を消しちゃったけど,どこへ行ってしまったのだろう。),あっしは悔しくて,悔しくて。お奉行さま,何とかしてくだせぇ。」


 と言って訴え出ると,お奉行さまが横着者の石松をお白洲に呼び付けて,


 「石松,その方,ここにおる政五郎から5両を借りたまま返さないであろう。神妙に耳をそろえて早々に5両を返せ。さもないと,お仕置きが待っておるぞよ。」


 と原告のために恐喝してくれ,かつ,


 「とんでもございません,お奉行さま。政五郎はうそをついているのでございます。そもそも,わたくしが政五郎から5両借りたとの証拠が無いではございませんか。5両もの大金,証文もなしに貸すなんてことがあるわけがないではございませんか。」

 

 と横着者が飽くまでもシラを切り通そうとすると,


 「やいやいやいやい。てやんでぇ。この桜吹雪がすべてお見通しでぇ。」

 「あっ,お前はあの時の立会人の,遊び人の金さん・・・。」


 と,お奉行自ら証人にまでなってくれ,


 「石松,その方,家財は没収,打ち首,獄門。」


 と胸のすくような刑罰まで科してくれる・・・というのは時代劇でのお話です。

 

 民事訴訟は,刑事訴訟とは違って,被告に刑を科するためのものではありません。(民事訴訟では「被告」は飽くまで原告から訴えられた立場の被告にすぎず,犯罪行為をした者として検察官から公訴を提起された刑事訴訟での「被告」とは異なります。ここでの「人」の有る無しは,法律の世界ではよくある,一字違うと大違いの一例です。

 また,裁判官が自分で証人になることはできません。証人となると,「除斥」されて,当該事件について裁判官としての職務の執行ができなくなります(民事訴訟法2314号。刑事訴訟でも同じ(刑事訴訟法204号)。)。時代劇の例えでいうと,桜吹雪の北町奉行は証人になってしまったのでお裁きができないから,南町奉行がする,というような感じになりますでしょうか。遊び人の金さんが,評判の悪い南町奉行・鳥居耀蔵のお白洲に,証人としてのこのこ出頭するというのも妙ですね。

 裁判所が原告又は被告のどちらかをえこひいきするということもありません。裁判所は,原告及び被告を公正に取り扱います。(この点については,ただし,明治5年(1872年)810日の司法省第6号が「聴訟之儀ハ人民ノ権利ヲ伸シムル為メニ其曲直ヲ断スルノ設ニ候得者候らえば懇説篤諭シテ能ク其情ヲ尽サシムヘキノ所右事務ヲ断獄ト混同シ訴訟原被告人ヘ笞杖ヲ加ヘ候向モ候ふ向きも有之哉これあるやニ相聞ヘ甚無謂いはれなき次第ニ付自今右様之儀無之様これなきやう注意可致事致すべきこと」と注意していますから,そのころまでは,民事訴訟において原被告に対して裁判所が拷問をすることもあったようです。)


 ということで,時代劇のお白洲と現在の裁判所は違うのだ,ということは分かりますが,これではまだ,民事訴訟のイメージをどうつかむかという,出発点の問題提起から一歩も進んでいません。さて,どうしたものか。

 何事も初めが肝腎ということで,民事訴訟における訴えの提起のために原告から最初に裁判所に提出される「訴状」という書面に着目して,民事訴訟のイメージの説明を試みてみましょう。(民事訴訟法1331項は「訴えの提起は,訴状を裁判所に提出してしなければならない。」と規定しています。ただし,例外として同法271条などがあります。)



2 民事訴訟規則53条1項と訴状の記載事項


 最高裁判所の定めた民事訴訟規則(これは,国会の制定した法律である民事訴訟法とはまた別のもので,民事訴訟法を補充しているものです(同法3条)。「法律」ではありませんが,憲法77条に規定があり,関係者が従うべきことは同じです。)の第531項は,訴状の記載事項について次のように規定しています。



民事訴訟規則53条1項「訴状には,請求の趣旨及び請求の原因(請求を特定するのに必要な事実をいう。)を記載するほか,請求を理由づける事実を具体的に記載し,かつ,立証を要する事由ごとに,当該事実に関連する事実で重要なもの及び証拠を記載しなければならない。」


 わずか1項,これだけの分量の規定なのですが,見慣れない概念というか言葉が,既にぎゅうぎゅう詰まっていますね。最初の「訴状」は,訴えを提起するために原告が裁判所に提出する書面であるということを前に説明したからよいとして,①「請求」,②「請求の趣旨」,③「請求を特定するのに必要な事実」である「請求の原因」,④「請求を理由づける事実」,⑤「立証を要する事由」並びに⑥「当該事実に関連する事実」及び「証拠」について,それぞれいわく因縁があるところです。

 以下順を追って説明します。


(1)「請求」

 「請求」は日常用語なのですが,民事訴訟法令でいう「請求」は,「一定の権利又は法律関係の存否の主張」ということです(より広義には「それに基づく裁判所に対する特定の判決の要求」をも含みます。)。(ここでいう「一定の権利又は法律関係」を「訴訟物」といっています。)

 「権利」又は「法律関係」という堅いものに係る主張なので,法律的に根拠のある主張でなければなりません。

 お江戸で学問を少々聞きかじってうぬぼれた石松が,そんな生学問など歯牙にもかけない政五郎に腹を立て,政五郎に尊敬心を持たせようと,同人を被告として裁判所に訴えを提起しようと思って弁護士に相談しても,「はて,政五郎さんの内心の真心において,あなたに対する尊敬心を政五郎さんに持ってもらう・・・政五郎さんの真心に関するあなたの不満に基づくその欲求が,あなたの法的権利といえますかねぇ。難しいですねぇ。」とひたすら困惑されるでしょう。(あるいは,「まあ,石松さん,まずはお寿司でも食べて機嫌を直してくださいよ。けれど,私はおごりませんよ。」とでも当該弁護士は考えているのでしょうが。)

 この点,貸したお金を返せ,という場合は,原告の請求は,「消費貸借契約に基づく貸金返還請求権」という堂々たる権利の存在の主張であるということになります。

 消費貸借契約とはまたいかめしい名前ですが,民法がそういう名前を付けているところです。民法第3編第2章は「契約」の章ですが,その第5節が「消費貸借」の節で,同節冒頭の第587条が「消費貸借は,当事者の一方が種類,品質及び数量の同じ物をもって返還することを約して相手方から金銭その他の物を受け取ることによって,その効力を生ずる。」と規定しているところです。


(2)「請求の趣旨」

 「請求の趣旨」とは,「一定の権利又は法律関係の存否の主張」(請求)をしたことによる結論のことです。訴状においては,裁判所から出してもらいたい判決の主文と同じ文言で書かれます。裁判所は,訴状のこの記載で,原告がどういう裁判を求めているかが分かるわけです。

 例えば,50万円貸したからせめて元本の50万円は返してくれ,という場合,「消費貸借契約に基づく貸金返還請求権」という権利の存在を主張した結論としての「請求の趣旨」は,「被告は,原告に対し,50万円を支払え」との裁判を求める,と書かれることになります。

 なお,元本50万円の返還を求めて請求の趣旨に50万円と書いた以上,「政五郎は50万円と言っているけれども,石松の支払が遅れているんだから,政五郎のために年5パーセントの割合の遅延損害金も石松に払わせてやろう。」と,裁判所が気を利かせて50万円を超える金額の支払を命ずる判決を出してくれることはありません。民事訴訟法246条は,「裁判所は,当事者が申し立てていない事項について,判決をすることができない。」と規定しています。


(3)「請求を特定するのに必要な事実」である「請求の原因」

 「請求の原因」は,つづめて「請求原因」といったり,ここでの原因は「事実」であることから,その旨はっきりさせて「請求原因事実」といったりします。

 「請求を特定」しなければならないのは,確かに,そうです。例えば,原告が被告に対する消費貸借契約に基づく貸金返還請求権の存在を主張して「被告は,原告に対し,50万円を支払え」との裁判を求める場合,原告が被告に対して実は何度も50万円を貸していたときには,どの貸金50万円に係る貸金返還請求権の存在が主張されているのかが分からなければ困ります。このようなときには,消費貸借契約が締結された日付によってどの貸金返還請求権の存在が主張されているのかを特定することになりましょうか。(無論,請求の特定のためにどこまで「請求の原因」を具体的に書くかは,他との誤認混同の恐れの程度によって相対的に決まります。一日中に何度も貸付けがあったのならば,締結の「日」よりも細かい記載が必要になったりするでしょう。)


(4)「請求を理由づける事実」

 ここでの「請求を理由づける事実」の事実とは,「主要事実」のことです。

 しかし,「請求を理由づける事実」の事実とは「主要事実」であると,言葉を言い換えただけでは意味が無いですね。

 それでは主要事実とは何かといえば,「一定の法律効果(権利の発生,障害,消滅,阻止)を発生させる要件に該当する具体的事実」のことです。「要件事実」ともいいます。

 図式化すると,


 主要事実a   

 主要事実b

   

  主要事実x    

     

  法律効果(権利の発生など)


 ということになります。

 要するに,風が吹けば桶屋がもうかるではありませんが,要件(主要事実(要件事実))が充足されれば効果(法律効果)が出てくるというわけです。法律効果とそのための要件事実とを結び付けているのが法律の規定であって,法律学生はそこのところを勉強して,専門家になることを目指しているということになります。

 法律効果として,貸金返還請求権に基づく貸金返還請求が認められるためには,次のaからcまでの主要事実が必要です。

 

 主要事実a:金銭の返還及び弁済期の合意 

 主要事実b:金銭の交付

 主要事実c:弁済期の到来

      

 法律効果:貸金返還請求権に基づく貸金返還請求


 以上まででは,まだ抽象的な枠組みです。訴状には具体的な事実(そもそも事実は具体的なものですね。)を書いていかなければなりません。

 上記主要事実a及びbについては,例えば,次のように書きます。


「原告は,被告に対し,平成○年○月○日,弁済期を平成×年×月×日として,○万円を貸し付けた。」


 「貸し付けた」とは意外に平易な表現ですが,ここでは「貸し付けた」によって,金銭の返還合意及び金銭の交付が共に表現されています。


 政五郎が石松に貸した50万円を民事訴訟を通じて取り戻したいと思って弁護士に相談すると,弁護士としては,訴状を書くためには,いつ石松に50万円を渡したのか(主要事実b関係),いつになったら返すという約束だったのか(弁済期の合意。主要事実a関係)を当該事実の当事者たる政五郎に問いただすことになります。「えっ,先生,何でそんな細かいことを訊くんですか。」と言われるかもしれませんが,求める法律効果を得るために必要な主要事実に係る前記のような事情があるところです。具体的な事実を訴状に書かなければなりません。民事訴訟の場合,裁判所は,当事者の主張しない主要事実をしん酌してくれません。また,弁護士は「真実を尊重」するところであります(弁護士職務基本規程5条)。


(5)「立証を要する事由」

 「事由」というのもまた見慣れない言葉です。事由とは,「理由又は原因となる事実」のことです。抽象的な理由ではなく,その理由となる具体的な事実を指すというわけです。

 民事訴訟規則53条1項の文脈では,同項の「事由」は,「請求を理由づける事実」(前記の請求を理由づける主要事実(要件事実))のことになります。

 さて,「立証を要する事由」と書かれていますが,これは,反対方向から見ると,「立証を要さない主要事実(要件事実)」があるということを前提にしています。

 民事訴訟法179条は「裁判所において当事者が自白した事実及び顕著な事実は,証明することを要しない。」と規定しています。

 貸金返還請求に係る前記の主要事実のうち,弁済期の到来(主要事実c)は,暦を見れば分かる顕著な事実なので,証明(立証)することを要しないことになります。主要事実a及びbについては,そのような事実があった(「はい,わたくし石松は,政五郎さんから,平成○年○月○日,弁済期を平成×年×月×日として,50万円の貸付けを受けました。」)と被告が認めてくれれば(自白してくれれば),原告はそれらの立証を要しないことになります(これに対して,刑事訴訟では,被告人の自白だけでは,その被告人は有罪になりません(憲法38条3項,刑事訴訟法319条2項)。)。

 しかし,被告が金銭借受けの事実を否認した場合,原告は,それらの主要事実を立証しなければいけません。この立証が不十分で失敗すると,法律効果を発生させるために必要な要件が充足されていないというわけで,原告の請求は認められず,請求の趣旨に応じた「被告は,原告に対し,50万円を支払え」との判決がもらえないことになります。 


(6)「当該事実に関連する事実」及び「証拠」

 「証拠」には,証拠書類などの物的なもののほか,証人も含まれます。

 立証を要する主要事実(要件事実)を立証するために証拠が必要なのは,分かりやすいところです。「証拠を出せ,証拠を。」とお白洲で開き直るのは,時代劇で悪役がする定番の作法です。

 しかしながら,刑事訴訟の世界では組織力を持つ警察官等が強制力をも用いて証拠を捜査してくれるのですが,民事訴訟の場合はそうはいきません。

 民事訴訟における証拠調べは,裁判所が職権で行うものではなく,当事者のイニシャティヴに委ねられています。裁判所ではなく,当事者が証拠の収集・提出をしなければなりません。

 石松に貸した50万円を取り戻したいとの相談を政五郎から受けた弁護士は,まずは政五郎に証拠について尋ねることになります。


 「現金を渡したんでしたっけ。証拠になる契約書とか取ってありますか。」

 「うーん,ないんですよ。石松は,口ぶりはかしこぶって偉そうなんだけど,相変わらず,物を書くってことができなくてね。」

 「えっ,それはちょっと・・・。じゃあ,お金を貸す時にだれか一緒にいた人はいませんか。だれかいてくれていたのであれば,証人になってもらうよう頼みましょう。」

 「いやぁ,遊び人の金さんていう人がいて,立会人になってもらったんですがね。金さんあれからどこかへ行っちゃって,今どこにいるか分かんないんですよ。」

 「えっ。いや,その金さんて人の住所とか職場とか家族とか分かりませんかねぇ。」

 「いゃあ,金さんは遊び人だからねぇ。あっしとも,まぁ,行きつけの店での楽しい飲み友だちということで,余り身の上の細かい話は訊かなかったんですよ。そこんところは,先生,何とかなりませんかねぇ。」

 「えっ・・・。私は遊び人じゃないから,その方面には詳しくないですよ・・・。」


 次に,「当該事実に関連する事実」とは,立証を要する主要事実(要件事実)に関連する事実ということになります。しかし,関連する事実といわれるだけでは漠然としています。

 「関連する事実」には,①「間接事実」,②「補助事実」及び③その他の事情が含まれます。


ア 間接事実

 間接事実は,主要事実(要件事実)ではない事実で,その存否を推認させる事実です。

 主要事実の存否は,常に証拠(例えば契約書)によって直接証明され得るものとは限りません。その場合には間接事実を積み重ねて,正に間接的に主要事実の存否が推認されるようにしなければなりません。

 政五郎の主張する貸付日の直前に石松が別の知人に50万円の借金を申し込んで断られ,「こうなったら太っ腹の政五郎に頼るしかないか」と言っていた事実や,政五郎の主張する貸付日の直後にいつも貧乏な石松が「政五郎銀行さまさまだよ」と言いながら50万円の買い物をしたという事実などは,当該主張に係る貸付日に政五郎が石松に50万円を貸し付けたとの主要事実の存在を推認させる方向に働く間接事実といえるでしょう。

 民事訴訟規則53条1項の「関連する事実で重要なもの」としては,まず,重要な間接事実があるところです。

 

    主要事実――――認定――→法律効果

  証明  推認

   証拠   間接事実

    

 補助事実


イ 補助事実

 補助事実は,証拠の証明力(証拠の信用性など)に影響を与える事実です。

 例えば,遊び人の金さんの居場所が分かって証人になってもらう場合,金さんが「遊び人」をしているのは仮の姿で,実は金さんは,うそと不正とを認めることのできない立場である非常にお堅い仕事に就いている人であるという事実などは,当該証人の信用性を高める補助事実といえるでしょう。


ウ その他の事情

 主要事実又は間接事実若しくは補助事実に該当しない事情であっても,紛争の全体像を理解するために重要な役割を果たし,裁判所にとって有益であるものがあるところです。



3 まとめ


 また長い記事になってしまいました。

 反省しつつ,ここで要約をしてみると,次のようなことになるでしょうか。


 民事訴訟の場合,求める判決(「請求の趣旨」として訴状に書かれます。)というアウトプットを得るためには,そのための「一定の権利又は法律関係の存否の主張」(請求)をしなければならず,そこにおいて,一定の権利が存在することを理由づけるためには,まず,その権利が発生したとの法律効果を発生させる要件であるところの主要事実に係る主張をしなければならないこと。

 各種法律効果を発生させるために必要な主要事実は法律で決まっていること。(したがって,分かっている事実の範囲次第で,主張し得る法律効果も決まってくること。主張する権利の種類が変わることによって,そのために主張が必要になる主要事実も変わってくること。)

 相手方が自白してくれない主要事実は証拠等によって立証しなければならないこと。

 以上,民事訴訟においては,法律を介して出てくるアウトプットの前提であるインプットとして,事実の主張及び証拠の提出が必要であるが,このインプットが,実は裁判所ではなく,当事者が自分のイニシャティヴでするものとされていること(弁論主義)。捜査機関が犯人及び証拠を捜査し,検察官が公判で犯罪を証明する刑事訴訟とは異なること。


 やはり,分かりにくいですね。 

 いずれにせよ,依頼者の方々からの信頼に応えるために,まず弁護士が研鑽を積まなければなりません。(弁護士法2条は「弁護士は,常に,深い教養の保持と高い品性の陶やに努め,法令及び法律事務に精通しなければならない。」と規定しています。)

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