1 文化,明治及び昭和の各元号に応当する「国民の祝日」を差別なく整備する必要性
国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)2条には,次のような「国民の祝日」が定められています。
昭和の日 4月29日 激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代を顧み,国の将来に思いをいたす。
文化の日 11月3日 自由と平和を愛し,文化をすすめる。
これは,明治の日を実現するための議員連盟(会長・古屋圭司衆議院議員)によって現在準備が進められている超党派の議員立法によって,次のように改められるそうです(「文化の日と「明治の日」と」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081161133.html参照)。
昭和の日 4月29日 激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代を顧み,国の将来に思いをいたす。
文化の日 11月3日 自由と平和を愛し,文化をすすめる。
明治の日 11月3日 近代化を果した明治以降を顧み,未来を切り拓く。
昭和の日及び明治の日は,いずれも各元号をその名に冠する時代――「激動・復興」の昭和時代は1926年12月25日から1989年1月7日まで(なお,本稿でのアラビア数字による年月日はグレゴリオ暦によるものであって,赤化前の赤蝦夷国が使用していたユリウス暦によるものではありません。),「近代化」の明治時代は1868年1月25日(明治改元に係る明治元年九月八日(1868年10月23日)の行政官布告が基づく同日付けの詔書には「改慶応四年為明治元年」とありますので,明治の元号の適用は,慶応四年一月一日(1868年1月25日)にまで遡及するのでしょう。)から1912年7月29日まで――を顧みた上で,国の将来に思いをいたしたり未来を切り拓いたりしなければならない日であるものとされています。
ところで,明治の日が同じ日となる文化の日の最初の2文字は「文化」ですが,実は,文化の元号もかつて我が国で使用されていたのでありました(1804年3月22日から1818年5月25日まで)。そうであると,元号にちなんだ一連の「国民の祝日」仲間ということで,文化の日の趣旨(object)も昭和の日及び明治の日のそれらと同様の構成(簡潔に特徴付けられた当該の時代を顧みた上で何かをする,という構成)のものに改めるべきものであると思われます。昭和及び明治は元号であるが,文化だけは元号ではない,と仲間外れにするのは,どうもそれでは差別であってなだらかではありません。
そうであれば,まず,顧みるべき文化年間とはどのような時代であったのかを顧みなければなりません。
2 化政文化にちなむ新しい文化の日
高等学校の日本史の勉強などから得られた印象では,文化年間及びそれに続く文政年間といえば,お江戸を中心に,天下太平を謳歌する庶民をその担い手とする化政文化というものが我が国では栄えていたのであるな,ということになります。蘭学もまた,徳川大公儀のもたらしたもうた天下太平の御恩沢の下,隆盛を迎えていたところでありました。文化十二年四月(1815年5月9日から同年6月7日まで)中に記された杉田玄白翁の述懐は次のごとし。
かへすがへすも翁は殊に喜ぶ。この道開けなば千百年の後々の医家真術を得て,生民救済の洪益あるべしと,手足舞踏雀躍に堪へざるところなり。翁,幸ひに天寿を長うしてこの学の開けかゝりし初めより自ら知りて今の如くかく隆盛に至りしを見るは,これわが身に備はりし幸ひなりとのみいふべからず。伏して考ふるに,その実は恭く太平の余化より出でしところなり。世に篤好厚志の人ありとも,いづくんぞ戦乱干戈の間にしてこれを創建し,この盛挙に及ぶの暇あらんや。恐れ多くも,ことし文化十二年乙亥は,二荒の山の大御神,二百とせの御神忌にあたらせ給ふ。この大御神の天下太平に一統し給ひし御恩沢数ならぬ翁が輩まで加はり被むり奉り,くまぐますみずみまで神徳の日の光照りそへ給ひしおん徳なりと,おそれみかしこみ仰ぎても猶あまりある御事なり。
その卯月これを手録して玄沢大槻氏へ贈りぬ。翁次第に老い疲れぬれば,この後かゝる長事記すべしとも覚えず。未だ世に在るの絶筆なりと知りて書きつゞけしなり。あとさきなることはよきに訂正し,繕写しなば,わが孫子らにも見せよかし。
八十三齢,九幸翁,漫書す。
(杉田玄白著,緒方富雄校註『蘭学事始』(岩波文庫・1982年)69-70頁)
ユーラシア大陸東方沖の我が神国は,薫風駘蕩として,実にめでたい。化政文化ならぬ元禄文化期の元禄二年四月一日(1689年5月19日)に詠まれた句ではありますが,卯月の二荒山こと日光山には東照大権現の御神徳輝き,正に「あらたうと青葉若葉の日の光」(芭蕉)であるのであります。これに対して,当時,ユーラシア大陸の最西部では,ヨーロッパの近代の建設者の一員たるコルシカの食人鬼が,エルバ島から束の間フランスの帝位に復帰して,戦乱干戈の血腥き風を再び呼び寄せつつあったのでありました(ワーテルローの戦いは,文化十二年五月十一日(1815年6月18日)に戦われました。)。
ワーテルローにおける大殺戮(「時計の針はすでに9時を回っていた。ワーテルローの戦場には3万人のフランス軍と2万8千人のウェリントン軍の死骸が横たわっていた」(鹿島茂『ナポレオン フーシェ タレーラン 情念戦争1789-1815』(講談社学術文庫・2009年)541頁)。)等に現れる西洋人の粗暴残酷なエネルギーと比べると,しかし我が太平の民はいささかみみっちい。
〔前略〕けれどもそういう明い晴やかな場所へ意気揚々と出しゃばるのは,自分なぞが先に立ってやらずとも,成功主義の物欲しい世の中には,そういう処へ出しゃばって歯の浮くような事をいいたがる連中が,あり余って困るほどある事を思返すと,先生はむしろ薄寒い妾宅の置炬燵にかじりついているのが,涙の出るほど嬉しく淋しく悲しく同時にまた何ともいえぬほど皮肉な得意を感ずるのであった。表の河岸通には日暮と共に吹起る空ッ風の音が聞え出すと,妾宅の障子はどれが動くとも知れず,ガタリガタリと妙に気力の抜けた陰気な音を響かす。その度々に寒さはぞくぞくと襟元へ浸み入る。勝手の方では,いつも居眠りしている下女が,またしても皿小鉢を破したらしい物音がする。炭団はどうやらもう灰になってしまったらしい。先生はこういう時,つくづくこれが先祖代々日本人の送り過越してきた日本の家の冬の心持だと感ずるのである。宝井其角の家にもこれと同じような冬の日が幾度となく来たのであろう。喜多川歌麿の絵筆持つ指先もかかる寒さのために凍ったのであろう。馬琴北斎もこの置炬燵の火の消えかかった果敢なさを知っていたであろう。京伝一九春水種彦を始めとして,魯文黙阿弥に至るまで,少くとも日本文化の過去の誇りを残した人々は,皆おのれと同じようなこの日本の家の寒さを知っていたのだ。しかして彼らはこの寒さと薄暗さにも恨むことなく反抗することなく,手錠をはめられ板木を取壊すお上の御成敗を甘受していたのだと思うと,時代の思想はいつになっても,昔に代らぬ今の世の中,先生は形ばかり西洋模倣の倶楽部やカフェーの煖炉のほとりに葉巻をくゆらし,新時代の人々と舶来の火酒を傾けつつ,恐れ多くも天下の御政事を云々したとて何になろう。われわれ日本の芸術家の先天的に定められた運命は,やはりこうした置炬燵の肱枕より外にはないというような心持になるのであった。
(永井壮吉「妾宅」(1912年)『荷風随筆集(下)』(岩波文庫・1986年)10-11頁)
世に立つは苦しかりけり腰屏風
まがりなりには折りかがめども
われ京伝が描ける『狂歌五十人一首』の中に掲げられしこの一首を見しより,始めて狂歌捨てがたしと思へり。
(「矢立のちび筆」(1914年)荷風下181頁)
歌麿,馬琴,北斎,京伝及び一九は文化年間の人物です。ただし,「江戸のむかし,吉原の曲輪がその全盛の面影を留めたのは山東京伝の著作と浮世絵とであった」(永井壮吉「里の今昔」(1934年)『荷風随筆集(上)』(岩波文庫・1986年)219頁)といわれる場合の京伝の著作は,文化年間前に遡るものでしょう。宝井其角は,芭蕉の弟子であって,元禄文化期の人。為永春水の活躍は文化年間より後のことで,『春色梅児誉美』が出たのは天保三年から同四年にかけてです。柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』は文政から天保にかけての人気作品ですが,同人の活動自体は文化年間から始まっています。仮名垣魯文・河竹黙阿弥となると,幕末から明治にかけての作家ということになります。
「恨むことなく反抗することなく,手錠をはめられ板木を取壊すお上の御成敗を甘受」云々についていえば,京伝が,寛政の改革期に手鎖の刑を受けています(「寛政のむかし山東庵京伝洒落本をかきて手鎖はめられしは,版元蔦屋重三郎お触にかまはず利を得んとて京伝にすすめて筆を執らしめしがためなりといひ伝ふ。とかくに作者あまり版元と懇意になるは間違のもとなり」(「書かでもの記」(1918年)荷風下87頁)。)。歌麿も文化元年に受刑。更に春水及び種彦は,天保の改革期に,前者は手鎖の刑を受け,後者は譴責されています(種彦は幕臣でした。)。京伝は受刑後も長く生きましたが。春水・種彦は,処分後ほどなくして歿しています。
爛熟の化政文化を顧みた上で新たな文化の日の趣旨を考えた場合,次のようなものではどうでしょうか。
文化の日 11月3日 天下太平の恩沢を庶民までもが刹那刹那に享楽することを得た近代化前の文化の時代を顧み,過去を愛惜する。
明治の日 11月3日 近代化を果した明治以降を顧み,未来を切り拓く。
しかし,「過去を愛惜する」では,置炬燵の肱枕的であり,かつ,退嬰的ですね。同時代のヨーロッパではナポレオンが元気一杯に暴れ回っていたというのに,我が文化年間にも何か勇ましい事業がなかったものかどうか。(なお,勇ましいといっても,ここでは,「柳亭種彦『田舎源氏』の稿を起せしは文政の末なり。然ればその齢既に五十に達せり。為永春水が『梅暦』を作りし時の齢を考ふるにまた相似たり。彼ら江戸の戯作者いくつになつても色つぽい事にかけては引けを取らず。浮世絵師について見るに歌麿『吉原青楼年中行事』2巻の板下絵を描きしは五十前後即ち晩年の折なり。我今彼らの芸術を品評せず唯その意気を嘉しその労を思ひその勇に感ず」るところの専ら色っぽい方面における不良老人の意気・労・勇(「一夕」(1916年)荷風下211頁)は,論外です。)
偏奇館跡の碑(東京都港区(後方に泉ガーデンタワー))「不良老人」荷風は,79歳まで生きました。
3 北の守りにもちなむ新しい文化の日
文化年間(その間の天皇は光格天皇,征夷大将軍は徳川家斉,老中首座は松平信明)の出来事を北島正元『中公バックス 日本の歴史18 幕藩制の苦悶』(中央公論社・1984年)の年表(Ⅱ-Ⅲ)等から拾うと次のとおりです(斜字は,児玉幸多責任編集『中公バックス 日本の歴史 別巻5 年表・地図』(中央公論社・1984年)からの補充)。
文化年間は,我が国防・国土開発史上,蝦夷地を幕府が直轄して,赤蝦夷帝国(当時の皇帝はアレクサンドル1世)の南下に対峙していた緊張の時代であったのでした。
寛政十一年 一月,幕府,東蝦夷地を直轄とする。〔「浦河から知床にいたる地域および島嶼を,むこう7ヵ年試験的に」(北島195頁)。「幕府は東蝦夷地の仮直轄にともなって,同地方の場所請負制度を廃止し,これまでの運上屋を会所と改称して幕吏の監視下に直捌制(直接交易)を実施した。幕府みずから米・味噌その他の商品を買い入れ,これを直捌地の各場所に輸送してアイヌまたは和人に供給し,またかれらから産物を買い入れて他に販売する事業をおこなった」(同197-198頁)。「この直捌制は,「御救交易」と幕府みずから称したように,交易の方法を正して幕府にたいするアイヌの信用をたかめ,かれらを北辺防衛のとりでにするのが主眼であった。その結果,これまでアイヌを苦しめていた場所請負人の誅求もいちおうなくなり,現地の風俗も改善されたが,それにともなう出費が多く,直捌の利潤は二の次とされたため,初年度は赤字となり,その後も年間1万数千両しか上がらないので,幕府勘定方から強い反対意見がだされるようになった〔筆者註:勘定方が強く反対したというのは,実は実質赤字だったということでしょうか。〕。またアイヌも幕府の急激な風俗改善策になかなかついてゆけず,たとえば月代を剃って日本髪に改めるようなことはやめて,なるべくアイヌの固有の風俗を残すようにしてほしいと嘆願するありさまであった」(同198頁)。〕
七月,高田屋嘉兵衛,エトロフ航路の開拓に成功する。
〔十月十二日(1799年11月9日),ブリュメールのクーデタ。ナポレオン・ボナパルトがフランスの政権を奪取。〕
十三年 二月五日,享和に改元。
〔二月九日(1801年3月23日),ロシア皇帝パーヴェル1世が暗殺され,アレクサンドル1世即位〕
三月,伊能忠敬,全国の測量を開始する。
六月,富山元十郎・深山宇平太,ウルップ島に渡り,「天長地久大日本属島」の標柱をたてる。
享和二年 二月,幕府,蝦夷地奉行をおく(五月に箱館奉行と改称)。
七月,東蝦夷地を永久上知とする。〔北島199頁では,享和三年七月のこととされる。〕
この年,十返舎一九『東海道中膝栗毛』を著わす。〔「十返舎一九の『膝栗毛』も篇を重ねて行くに従い,滑稽の趣向も人まちがいや,夜這いが多くなり,遂に土瓶の中に垂れ流した小便を出がらしの茶とまちがえて飲むような事になる」(「裸体談義」(1949年)荷風下253頁)。〕
文化元年 二月十一日,享和四年から改元。
九月〔六日〕,ロシア使節レザノフ,長崎に来航,通商を要求。
〔一茶が「春風の国にあやかれおろしや船」「門の松おろしや夷の魂消べし」などと詠んだのは,このときのことである。(北島200頁)〕
〔十一月一日(1804年12月2日),ナポレオンの皇帝戴冠式。〕
この年,喜多川歌麿,『太閤五妻洛東遊観図』を描いたため,入牢〔,手鎖〕50日に処せられる。〔「ときの将軍家斉の大奥生活を諷刺したと疑われ」たため(北島335頁)。〕
二年 〔三月二十日,レザノフ,長崎から出帆。〕
六月,関東取締出役(八州廻り)を設置する。〔「四手代官(品川・板橋・大宮・藤沢)の手附・手代のなかから経験者8人(のち10人に増員)を選んでこれに任じ,関東の幕領・私領の別なく廻村させ,博徒や無宿者などの検察・逮捕にあたらせることにしたのである」(北島245頁)。〕
〔十月十二日(1805年12月2日),アウステルリッツの三帝会戦。アレクサンドル1世,ナポレオンに敗れる。〕
三年 一月,幕府,沿海諸藩に防備をきびしくし,難破の異国船〔ロシア船〕には薪水を与えて,穏かに退去させるように命ずる(文化の撫恤令)
九月,〔レザノフの指示に基づき,フヴォストフの〕ロシア船,カラフトのクシュンコタンを砲撃〔筆者註(2024年6月14日):「砲撃」は誇張でしょう。北海道編集『新北海道史第2巻通説1』(1970年)489頁〔及び『新北海道史第9巻史料3』(1980年)97頁〕には,「〔フヴォストフは〕九月〔十一日〕樺太のオフイトマリに上陸し,蝦夷〔の子供〕1人を捕え,真鍮版をその家に掛けて去り,翌日久春古丹におもむき,フ〔ヴ〕ォストフ自ら短艇3隻,革船1隻〔の計三十名ほど〕を率いて上陸し,運上屋に押し入った。ときに松前藩勤番の官吏はすでに退去しておらず,越年番人だけが残っていたが,言語は通じず,酒食を出したところ,彼は酒盃,茶碗をなげうち,怒色を見せたので,番人,蝦夷らはおそれて逃げようとすると,小銃を放って威嚇し,ついに番人富五郎,源七郎ら4人を捕え,倉庫に入り,米,塩,酒,正油および,諸器材をかすめとり,運上屋,倉庫および弁天社を焼き,真鍮版1枚,書面2通,鳥銃1挺,衣服3枚〔及びオフイトマリで捕らえたアイヌの子供〕を残して〔同月十八日に〕去った。」とあります。〕。〔翌年にかけて,文化露寇〕
四年 〔一月二日(1807年2月8日),アイラウでナポレオン,ロシア軍と死闘。〕
〔二月五日(1807年3月13日),シベリアのクラスノヤルスクでレザノフ客死。〕
三月〔二十二日〕,幕府,東西蝦夷地を直轄とし,箱館奉行を廃して松前奉行をおく。松前氏,陸奥梁川に移封。
四月,〔レザノフの生前の指示に基づき,フヴォストフ及びダヴィドフの〕ロシア船,エトロフ島のナイホ〔二十四日〕,シャナ〔二十九日〕を砲撃〔筆者註(2024年6月14日):ナイホは,上陸した兵により放火はされたが砲撃はされていないようです。『新北海道史第2巻通説1』490頁参照〕,掠奪する。〔筆者追記(2024年6月14日):「〔五月〕三日,〔ロシア船は〕帆をあげて北西に向かって去った。この時ロシア人1人は酩酊して紗那に残されたが,蝦夷に殺害された。」(『新北海道史第2巻通説1』491頁)とあります。ロシア人のお酒好きも度が過ぎるようです。〕
五月,ロシア船,礼文・利尻島で日本船を襲い,掠奪。〔筆者追記(2024年6月14日):礼文の件は同月二十九日のことですが,島でのことではなく,沖合でのことです。利尻島の件は,六月に入ってからのことになります。また,礼文島沖の件より先にロシア船は再び樺太に来寇しています(五月二十一日・オフイトマリ(番屋・倉庫を焼く。)及び久春古丹,同月二十二日・ルウタカ(番屋・倉庫を焼く。))。利尻島では,船舶のほか,番屋・倉庫・家屋もロシア兵によって焼かれており,彼らは六月五日には同島内において我が方の指揮官を捜したそうですが,礼文島沖の事件を聞いた幕吏森重左仲らは既に避難していたそうですから,よかったですね。(以上『新北海道史第2巻通説1』493頁参照)〕
〔五月九日(1807年6月14日),フリートラントの戦いで,ナポレオン,ロシア軍を大破。同月二十日(6月25日),ニーメン川でナポレオンとアレクサンドル1世とが会見。〕
五年 八月〔十五日〕,イギリス船,長崎に来航,〔同月十七日夜半〕長崎奉行松平康英,引責自殺する(フェートン号事件)。
六年 一月,式亭三馬の浮世風呂前編刊行される。
二月,江戸の〔主要な問屋商人の連合体である〕十組仲間の出金で三橋会所を設立する。〔茂十郎は「永代橋のほかに年数久しい仮橋である新大橋と大川橋を合わせた3橋の架替えと修復を,三橋会所で永久に引き受け,しかも渡銭も取らないと申し出たのである」(北島136頁)。〕
七月,間宮林蔵,東韃靼(黒龍江地方)を探検,間宮海峡を発見する。
七年 二月,白河・会津両藩に相房総海岸の砲台築造を命じる。
〔「文化七年(1810)に刊行された『飛鳥川』は,「近年女髪結が多くなり,町方などでは自分で髪を結う女がいなくなった」とのべている」(北島274頁)。「『飛鳥川』(文化七年)にも「昔手習の町師匠も少く数へる程ならではなし。今は1町に2,3人づつも在り,子供への教へ方あるか,幼少にても見事に書也」とある」(北島311頁)。〕
八年 五月,天文方に蛮書和解用の局を設ける。
六月〔十一日〕,ロシア軍艦長ゴロヴニンをクナシリ島で捕える。
十二月,幕府,むこう5ヵ年間の倹約令を公布する。
九年 〔この年(1812年),ナポレオンのロシア遠征〕
八月〔十四日〕,高田屋嘉兵衛,クナシリ島沖でロシア艦に捕われる。
〔「文化九年に直捌制は廃止となり,東蝦夷地の各場所はすべてもとの請負制度に復帰した」(北島199頁)。〕
この年,『寛政重修諸家譜』なる。
十年 四月,江戸伊勢町に,三橋会所経営の米立会所設立。〔茂十郎は「江戸で最初の米穀取引所を開設し,幕府ののぞむ米価引上げをかねて一攫千金をねらった」(北島145頁)。〕
〔九月二十三-二十五日(1813年10月16-18日),ライプツィヒの「諸国民の戦い」でナポレオン敗れる。〕
九月〔二十八日〕,高田屋嘉兵衛とゴロヴニンを交換する。
十一年 〔二月十日(1814年3月31日),アレクサンドル1世パリに入城。〕
〔二月十六日(1814年4月6日),ナポレオン,退位宣言。〕
〔「十一月,松前奉行服部備後守貞勝は,蝦夷地警備体制の変更について伺いをたて,第1案としてエトロフ,クナシリ,カラフトの警備は中止して,東はネモロ(根室),西はソウヤ(宗谷)を境とする〔略〕と申し出た。〔中略〕けっきょく幕府は第1案を採用した」(北島214頁)。〕
この年,滝沢馬琴『南総里見八犬伝』初輯刊行。
〔この年,『北斎漫画』初編刊行。〕
十二年 この年,〔大坂積出しの〕阿波藍,〔藩の蔵屋敷収蔵物たる〕蔵物として〔幕府により〕公認,〔蜂須賀〕藩の専売制となる。
四月,家康二百回忌法会を日光山に行なう。
〔五月十一日(1815年6月18日),ワーテルローの戦い。〕
〔八月二十四日(1815年9月26日),アレクサンドル1世,オーストリア皇帝及びプロイセン国王と神聖同盟を結ぶ。〕
〔この頃江戸の寄席の数75軒(北島340頁)〕
十三年 九月〔七日〕,山東京伝没
十四年 三月二十二日,光格天皇,仁孝天皇に譲位。
〔九月,老中首座松平信明が病死(北島222頁)。〕
〔文化年間のアイヌ人の人口は2万6350余人(北島185頁)〕
〔「深川芸者に代表される女芸者は,すでに田沼時代に現れているが,化政期にはまったく遊芸と売春で身をたてる職業婦人と化し,文化年間には男芸者とあわせて,江戸市中に2万人以上もいたというからすさまじい」(北島271-272頁)。〕
十五年 四月二十二日,文政に改元。
四月,伊能忠敬没
文政二年 〔六月,北町奉行所から「三橋会所および伊勢町米会所は廃止する,三橋修復・十組冥加金の上納・株札などの事務は町年寄がひきつぐことなどの申渡し」(北島148頁)。「また幕府から茂十郎への貸下金残額3万800両は十組全体で返納するほか,永代橋・新大橋架替えの立替金,両町奉行の貸付金,塩問屋仲間の十組への貸付金などもそれぞれ十組で処理するように命じられた。/こうして十組仲間は,茂十郎の追放で多年の苦悩から解放されたものの,その食い荒らした会所経理の尻ぬぐいでまたまた大きな犠牲を払わされたのである」(同頁)。〕
四年 七月,伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』完成。
十二月,東西蝦夷地を松前氏に返し,松前奉行を廃する。〔「これは,ナポレオン戦争を契機としてロシアの極東戦略が後退し,北地警備の意義がうすれたこと,幕府の防衛体制と密接な関係のあった直捌制が,場所請負人の強烈な抵抗をうけて動揺し,また幕府財政にとっても蝦夷地直轄への依存度が低下したことなどが,あずかって力があった。さらに復領をめざして,松前藩が文政の幕閣を主宰した老中水野忠成へさかんに贈賄したことも,ものをいったのだといわれる」(北島215頁)。〕
(寛政十二年閏四月十九日に忠敬が出発したのは,「蝦夷地」の「測量試み」のためでした。)
北の守りの我が国にとっての緊要性に係る認識を,隣国に対する不信をあからさまに表明しない形での表現をもって取り入れつつ,新たな文化の日を考えてみる場合,次のような改正案は如何。
昭和の日 4月29日 激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代を顧み,国の将来に思いをいたす。
文化の日 9月23日 天下太平が守られ得て,かつ,その恵沢を広く国民が享受し得た文化の時代を顧みるとともに,北の国土の開発に思いをいたす。
明治の日 11月3日 近代化を果した明治以降を顧み,未来を切り拓く。
文化の日の日が9月23日となっているのは,文化期の天皇である光格天皇の誕生日が1771年9月23日(明和八年八月十五日)だったからであります。やはり,元号シリーズの「国民の祝日」の日は,当該元号の時代に君臨せられていた天皇の誕生日に揃えた方がきれいでしょう。(文化の日と明治の日とではなく,新・文化の日と秋分の日とが重複する形になります。なお,光格天皇も明治天皇も祐宮という御称号を共有しておられますが,だからといって曽孫たる祐宮殿下の誕生日をもって曽祖父たる祐宮殿下が即位しておなりになられた光格天皇の御代の元号にちなむ「国民の祝日」の日とすることまではできないでしょう。)
ところでここで,「北の国土の開発」ということを言挙げし,文化の日を北海道開拓の日でもあることにしてしまうのは,北海道人としての筆者の悪のりでしょうか。
4 北海道開拓の記念の要否
(1)北海道「開拓」の記念
しかし,北海道の開拓を記念する日としては,文化ではなく明治の時代に由来する別の日がありました。
●開道百年を迎える
私〔町村金五〕にとって終生忘れようにも忘れられない日時は昭和43年〔1968年〕9月2日午後2時である〔当時町村は68歳(1900年8月16日生)。東京・旧制私立開成中学校出身。〕。開道百年記念祝典はこの時,札幌市を先頭に道内212市町村の青年諸君が郷土の旗を掲げて入場行進を合図に始められた。続いて6人の青年男女が七光星を鮮やかにデザインした道旗を持して入場する。
国旗,道旗の掲揚が終わり,午後2時30分,〔昭和〕天皇,〔香淳〕皇后両陛下が会場の札幌円山陸上競技場のメーンスタンド最上部のローヤルボックスにお着きになられた。その寸前まで低くたれこめていた雨雲がまるで奇跡が起こったように消え失せ,青空がのぞいた。夜来の雨に洗われた木々の緑がなんと美しかったことか。
総理大臣佐藤栄作氏,衆議院議長石井光次郎氏,駐日アメリカ大使ジョンソン氏ら賓客と北海道開拓功労章の栄誉に輝く先輩道民諸氏の居並ぶ中,開会を告げるファンファーレが高々と響き渡った。
私は両陛下に心からの礼を捧げ,式辞を読み上げた。涙をためて聞き入る開拓功労者たち,未来へのひとみを輝かせた青少年たち,北海道百年の重みがひしひしと迫る一刻であった。佐藤総理の祝辞,青少年代表の誓いの言葉が終わって,天皇陛下のお言葉である。
本日,北海道百年記念式典に臨み,親しく道民諸君と会することは,まことに喜びにたえません。
北海道に,開拓の業がおこされて以来,ここに百年,進取の気風と不屈の精神をもつて,今日の繁栄を築き上げて来た人々の努力は,深く多とするところであります。
北海道は,きびしい気候風土の下にありますが,美しい自然と多くの資源に恵まれ,将来,さらに大きな発展を期待することができると思います。
今後とも,道民一同が,たくましい開拓者精神をうけつぎ,一致協力して,北海道の開発を推進し,国運の進展に寄与するよう,切に希望します。
「蝦夷」が「北海道」と命名され,政府が開拓使を設置したのは明治二年八月十五日(旧暦)のことであった。ちょうど百年経た歴史的な年が昭和43年〔1968年〕である。この年を,私は,全道民が過去百年にわたる先人の労苦に感謝の誠を捧げ,さらに,来るべき新たな百年に向かって努力を誓う年にしなければならないと考えた。
私は昭和41年〔1966年〕3月に,北海道百年記念事業実施方針を立案し,道民代表からなる記念事業推進協議会に諮って,意義深い記念事業の数々を企画することにした。先に紹介した赤レンガ庁舎の復元保存も,実はこの記念事業の一つであった。百年記念にちなんで,標語を募集すると,予想外の応募があり,その中から「風雪百年 輝く未来」の一句が当選した。
私はこの記念すべき時点を単なるお祭り的行事に終わらせないため,熟考を重ねた。そうして,百年前の北海道の面影を今に伝える野幌原始林を永遠に保存することに決した。これに隣接する大地に「開拓記念館」を建設し,さらに「百年記念塔」を創建することにした。道旗,道章を制定することも忘れぬようにした。
開拓記念館は,我々の先祖が血の滲む苦闘を積み重ねた歴史を,次代の人々に引き継いでもらい,先人をしのぶよすがにしてもらうため,建物自体に壮重さを与えるように配慮したのである。
百年記念塔は,北海道の偉大な将来を切り開こうとする希望と意欲を天空の星につなげんものと,高さ100メートルの豪壮な鋼鉄の塔とし,発展する未来のシンボルとして建設したものである。
いずれの記念事業も,広く道民の間に先人の偉業をしのび,偉大な北海道の建設に前進せんとする機運が醸成されるように配慮したものであった。
開道百年という文字どおり100年に一度の歴史的な時点に,私は北海道の知事として,両陛下の御来道を仰ぎ,記念すべき諸行事を執り行う機会に恵まれたことは,まことに幸せであったと思う。
同時に私は,道民諸君が,風雪の百年から輝く未来の開拓者として,新しい歴史を切り開いてくれることを心から願ったのである。
(町村金五伝刊行会『町村金五伝』(北海タイムス社・1982年)261-266頁。なお,昭和天皇のお言葉は,宮内庁『昭和天皇実録 第十四』(東京書籍・2017年)535頁により修訂。)
(2)北海道開拓のその後及び現状
1968年9月2日に昭和天皇は,(少なくともそれまでの)北海道民を「進取の気風」及び「不屈の精神」並びに「たくましい開拓者精神」を有するものとして称揚し,北海道は「今日の繁栄」を迎えているものと評価し,「将来,さらに大きな発展を期待することができる」との期待の下,以後も道民が「北海道の開発を推進」するよう希望せられました。
しかし,それから55年余が経過した今日,北海道は目下繁栄しているものといえるでしょうか(町村知事は苫小牧東部開発に大きな期待を置いたようですが(町村金五伝刊行会276-280頁参照),当該開発は,少なくとも現在までのところ,壮大な空振りとなっています。)。沈滞萎靡の状況下に既に老化してしまった道民はなお,進取の気風,不屈の精神,たくましい開拓者精神などというものを保持し得ているのでしょうか。
ここで,不本意にも消極方向に判断を傾かしめるべき象徴的な事実を指摘すべきでしょうか。すなわち,「北海道の偉大な将来を切り開こうとする希望と意欲を天空の星につなげんものと,高さ100メートルの豪壮な鋼鉄の塔とし,発展する未来のシンボルとして建設」せられたはずの札幌市厚別区の北海道百年記念塔自体が,早々の老朽化により,1970年の竣工後百年ももたずに,2023年,あえなく解体撤去せられてしまっているところです。新千歳空港から札幌市内に向かう電車の右手車窓から石狩平野の広い空を背景に屹立する深い焦げ茶色のその姿がいつもよく見えた当該塔の不在の事実に車中不図気付いた筆者は,やや狼狽したものでした。発展する未来を支えるべき希望も意欲ももはや道民には無い(道庁には財力が無い)ということであれば,令和のフヴォストフ・ダヴィドフ(Хвостов и Давыдов)の徒輩は,その南下進出を樺太・択捉などの地までにあえてとどめるという遠慮など,今やせずともよいということにはならないでしょうか。
(3)北海道「命名」の記念
北海道150年記念式典が,2018年8月5日,札幌市豊平区の北海道立総合体育センターで行われています。一見,前記の北海道百年記念式典の続編であったもののように思われます。しかしこれは,北海道「開拓」150年を記念するものではなく,北海道「命名」150年を記念するものでした。すなわち,当該式典の式辞において,北海道150年事業実行委員会会長である高橋はるみ北海道知事は「今年,平成30年,北海道は,その命名から150年という大きな節目を迎えています。本日,ここに、天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ,多くの皆様のご参加のもと,北海道150年記念式典を挙行できますことは,誠に喜びに堪えません。」云々と述べていたところです(下線は筆者によるもの。なお,北海道庁のウェブサイトからの「北海道150年事業記録誌」へのリンクが切れてしまっているので,当該式辞の文言については「北海道開拓倶楽部」のウェブページのものを参照しました。)。「蝦夷地自今北海道ト被称11ヶ国ニ分割国名郡名等別紙之通〔別紙の「北海道11ヶ国」は,渡島国,後志国,石狩国,天塩国,北見国,胆振国,日高国,十勝国,釧路国,根室国及び千島国〕被 仰出候事」との明治二年八月十五日(1869年9月20日)の太政官布告をもってその由緒とするものであったわけでしょう。
ここで,あれれ町村金五元知事は「明治二年八月十五日」に開拓使が設置されて云々と言っていたようだが開拓使を設置する旨の同日付けの太政官布告等はないぞ,と不審を覚えてよくよく調べてみると,開拓使の設置は,実は蝦夷地の北海道への改称に先行しており,同年七月八日の職員令(政体書を改めて,二官六省を定める。)によってされたものだったのでした(開拓使長官は「掌総判諸地開拓。」)。しかして何たる偶然か,明治二年七月八日は1869年8月15日に当たっており,確かに,開拓使の設置も蝦夷地の北海道への改称も,いずれも明治に年のはち月じゅうご日のことではあるのでした。両者が同日に行われたとの誤解が生ずるのは已むを得ないところでありました(とはいえ,元北海道知事が誤解を招く記述をしてはいけませんね。)。
しかし,昭和の北海道「開拓」記念が,平成には北海道「命名」記念に化けたということは興味深いことです。
確かに開拓使の設置と蝦夷地の北海道への改称とは同時に一体のものとして行われたわけではないので,両者を分離して後者のみを記念することは可能です。当初の開拓使は樺太地方も管轄していましたので(明治三年二月十三日の開拓長官宛て御沙汰の反対解釈),北海道への改称とその開拓とは直結するものではないわけです(なお,「からふと島」の名称は,1855年2月7日調印の日魯通好条約で使用されています。)。ここでまず一つ,なるほどなぁという感嘆が生じます。
更にもう一つなるほどと思わせるのは,歴史は繰り返すのだな,という感慨です。前記北海道150年記念式典での高橋知事の式辞の続きは「私たちの愛する北海道は,独自の歴史と文化を育んでこられたアイヌの方々,さらには,明治期以降,全国各地から移住され,幾多の困難にも耐え抜いてこられた方々のご努力により形づくられてきました。」というものですので,北海道の発展は道内外の人民の自発的活動によるものであったのであって,実は国主導の開拓などによるものではない,という認識が打ち出されているように解されます。北海道はもはや国家事業としての開拓又は開発の対象ではないのだということであれば,これは,文化年間の蝦夷地大公儀直轄体制から文政四年以降の松前藩復帰体制への変遷と同様の国策の変遷が,昭和と平成との間にもあったのだということになるわけです。
しかして上記変遷は,うがって見れば,寛政初期の幕閣における松平定信と本多忠籌との間の蝦夷地認識の相違及びそれらの間の力関係の変化を反映するものでもありましょう。(なお,寛政期は古いといえば古いのですが,18世紀末の政府当局者間の政見の違いがその後現在にも通用する意義を有し続けているということについては,米国ワシントン政権内でのジェファソン国務長官とハミルトン財務長官との路線対立の例があります。)
(4)松平定信の蝦夷地観及びその今日性
ア 本多忠籌の蝦夷地観との関係
寛政初期の幕閣の首班であった松平定信は,蝦夷地は未開のままにされ置くべきであるという意見でした。
定信の蝦夷地にたいする関心は田沼〔意次〕に劣らず,北方の精密な地図をつくらせたり,幕府所蔵の文書・記録などをよく研究していた。定信は,田沼とちがって蝦夷地非開拓論をとなえ,この厖大な土地を不毛にゆだねて,日露両国間の障壁にした方が日本の安全のためになると考えていた。だから同僚の本多忠籌が,蝦夷地を幕府の直轄に移してじゅうぶんな防備をすべきであると主張したのに反対し,これまでどおり松前藩の支配にしておく方針をとった。
(北島182-183頁)
〔寛政元年(1789年)のクナシリ・メナシ〕騒動の鎮圧後には老中間で評議がなされている。その際,定信はロシアが武力による領土の拡大よりも交易を望んでいると見ていた。そこで,「異域」である蝦夷地を開発すれば,かえってロシアに狙われるので,日本の安全のためには,未開のままにして松前藩に統治を委任し続けるべきであると唱えている。
(高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館・2012年)125-126頁)
『宇下人言』において,定信自ら次のように述べています。
此蝦夷てふ国は,いといたうひろければ,世々の人米穀などうへてその国をひらくべしなどいふものことに多かりけれど,天のその地を開き給はざるこそ難有けれ。いま蝦夷に米穀などおしへ侍らば,極めて辺害をひらくべし。ことにおそるべき事なりと建義してその義は止にけり。忠籌朝臣初めはその国をひらく事をのみ任とし給ひしが,これも予がいひしによて止めて,今にてはその蝦夷の人の御恩沢にしたひ奉るやうにとの建議なり。これらものちにはいか様成る弊をや生じぬらんとおもふなり。
(松平定信著,松平定光校訂『宇下人言・修行録』(岩波文庫・1942年)144-145頁)
北方防衛策については,当初は本多忠籌が担当であったのが,やがて定信自身が乗り出します。
蝦夷地は山丹満洲ヲロシヤ之国々に接し,ことに大切之所成るに,いままでその御備なきこそふしんなれ。未年(天明七)御役を蒙りしよりして,このことに及びことに霜臺侯(本多弾正大弼忠籌・老中格)同意なりしが,そのなす所の趣法はたがひぬ。はじめは霜臺侯建義とりあつかひありしかば,予もゆづりてたゞその相談にのみあづかりぬ。すでに酉年(寛政元)蝦夷のクナジリ騒擾のときも,この機に乗じて御とりしまりあらんなどいひ合ひたれど,重き御方々を初め,これぞといふ御許しもなかりけり。ついに子年〔寛政四年(1792年)〕に至り霜臺侯これまで心をつくされ,見分なんどもやられたりけれど,その御備の処はこれぞと可被建義なし。予にゆづり給はんとまことに数度いひこされたれど,この御備は後々までものこることにあんなれ。幸ひ始め建義し給ひたれば,相談はいかやうともすべしとて,その度ごとにいひたれども,のちには是非ゆづるべしと之事,その理こまやかにいひこし給へるも,やむことをゑず,つゐにその事を引うけて,まづ三奉行と御儒者にその御備のある哉なし哉の義をとふ。そのこたへまてども出ず。よてわがおもふ所をかい付けて,子十一月比にかありけん,同列へ廻したるが,いづれもことにしかるべしとて,一条の異議もなし。御けしき伺,重き御かた〔かた〕へも申上しに,御かん被成候など仰下されけり。これによつて,つゐにくわしき(く)記し伺ひたれば可せられぬ。さてその御備てふ建義は,手記にくわしければ略す。只その境をかたく守り,蝦夷の地は松前に依任せられ,日本之地は津がる・南部にてその御備を守り,渡海の場所へ奉行所被建べしと之事なり。その奉行所可被建には南部・津がるの領地をも少しばかり村がへ之御さたに及び可然候。左もあらば両家旧領引かへらるるなどなげくべし。なげかばその位官を少し引立られて,その家をばとり立あらば事すみなんとの建義なり。この外松前をも少し家格御取立之事などもあり,又は松前之備向勤惰見分御救交易なんど之事もあれど,くわしくは記さず。
(松平174-176頁)
「略す」とか「くわしくは記さず」と言われると困ってしまいますが,次のような建議であったようです。
〔松平定信は〕「蝦夷地御取〆建議」を作成して寛政四年一二月一四日〔1793年1月25日〕に同僚たちに回覧させている。そこには,①蝦夷地は非開発を原則とし,松前藩に委任して大筒を配備させるが,幕府役人は数年に1回巡視させるだけでなく“御救貿易”を行わせる,また②盛岡藩領と,弘前藩領の三馬屋の周辺などを,ともに3-4000石ずつ収公して北国郡代を置く,③この職には,船の検査や俵物の集荷を行わせ,ここと江戸湾周辺に設ける奉行所には,オランダの協力をえて西洋式の軍船を建造して配備する,などとある。
(高澤130頁)
結局,日本国の本格的な防衛線は蝦夷地の手前の津軽海峡に置いて,蝦夷地自体は削り代的な緩衝地帯(火除地)にしておこうということのようです(いざとなったら蝦夷地から内地(日本之地)に引き揚げればよい,ということでしょう。)。質素倹約の寛政の改革時代とはいえ,いささか退嬰的であるように思われます。しかし,平成・令和の長期衰退を経たる現在においては,確かに,既によぼよぼたる我が国力では北方領土の返還要求などをする以前に北海道本体の保持すらも覚束ないようにも思われ(これは,かつて繁かったJR北海道の路線が次々廃止されているというよく目に見える事実に接して特に強く感じられます。根室までの花咲線も維持できない経済力でしかないのであれば,根室の更に先にある北方領土を,その返還を受けた後一体どうするのでしょうか。),かえって妙な現実味が感じられるところです。前記北海道150年記念式典での高橋知事の式辞においてされた北海道の現状の描写は「そして,北海道は今,個性豊かで魅力にあふれる北の大地として発展し,四季折々の美しい自然景観や安全・安心と高い評価をいただいている食など,様々な分野で国内外の関心を集めています。」というものであって,確かに北海道の主役は未だに人及び人が築き上げた産業ではなく,依然として「いといたうひろ」い「北の大地」(及び食については北の海も)であり続けており,また今後もそうであるべきものなのでしょう。当該式辞では更に,北海道の将来について,「アイヌの方々の自然に対する畏敬の念や共生の想いを大切に」することが強調されています。ここでの「アイヌの方々の自然に対する畏敬の念や共生の想い」は当然伝統的なものなのでしょうが,それはあるいは,幕府直轄期よりも前の寛政期にまで遡り,「天のその地を開き給はざる」蝦夷地の状態及びその維持を理想とするものであるのでしょうか。
松平定信は寛政五年七月に将軍補佐役及び老中職を免ぜられて失脚します。現実の江戸幕府の蝦夷地政策はその後,樺太・千島を保持してそこにおいてロシアの南下を防がんとする文化年間の直轄体制(という今にして思えば前のめりの脇道であったと思われる方向)へと進んでいったことは前記年表において見たとおりです。
イ 北海道の「みんなの地層とみんなの自然」モニュメントとの関係
ところで,北海道百年記念塔の跡地はどうなるのでしょうか。
2024年1月10日付けの報道によると(筆者は朝日新聞社ウェブページの松尾一郎記者の記事を参照しました。),同日開催された北海道議会環境生活委員会において道から,撤去された北海道百年記念塔に代わって設置される後継モニュメントのデザインが決定された旨の報告があったそうです。「みんなの地層とみんなの自然」と題された樹木を使った作品(幅8.66メートル,奥行き9.71メートル,高さ3.34メートル,樹木を含めた高さは10メートル以下)であって,有識者懇談会において「地層が太古からの北海道の歴史を感じさせ,権威的ではなく自然環境を楽しむ場づくりとなっている」などとの高い評価を受けたものであるそうです。地層を模した多層の四角い箱型の土台の上に木が何本か植えられるものとなるようです。
しかし太古からの自然といえば,当該モニュメントの後背地にある野幌原始林が,既に永遠に保存されることになっていたのであって,両者はその趣旨において重複します。あるいはまた,新モニュメントについては,それが五十年ないしは百年間存続することなどはそもそも想定されておらず,むしろ自然にひっそり野幌原始林に吸収され了えることが所期されているのかもしれません。
いずれにせよ,「天のその地を開き給はざる」状態の蝦夷地の自然の姿から,魅力的で美しい側面だけを切り取って構成した作品であるということでしょうか。飽くまでも自然がよいのであって,余計な人為・開発(国家的なそれは,「権威的」なものなのでしょう。)は加えるべからずということであれば,やはり松平定信的ですね。
であれば,当該モニュメントの傍らに,楽翁公にちなんだささやかな歌碑が建て添えられてもよいように思われます。
今更に何かうらみむうき事も楽しき事も見はてつる身は(たそがれの少将の辞世)
蝦夷の地の風と雪とに住みかねて人去り鮭の戻る白河(筆者の腰折れ)
北の大地の風にも雪にも寒さにも一向平気な,ウォッカに泥酔した赤ら顔の無頼漢らによって,襲撃・破壊されないことを祈るばかりです。
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