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第1 ワシントン体制下における幣原外交

 

1 ワシントン体制の通説的評価

19211112日から192226日まで,ハーディング政権下の米国の首都ワシントンで開催された・我が国並びに米英仏伊白蘭葡及び中華民国の9箇国によるワシントン会議において構築された軍備制限問題並びに東アジア問題及び太平洋問題に関するワシントン体制(それぞれ五ヵ国条約,九ヵ国条約及び四ヵ国条約が対応)についての通説的評価は,次のようなものでしょう。

 

  さて,かくしてワシントン会議は無事終了,当時国際協調の成果の最もあがれるものとして,その成功はひろくうたわれたものである。〔略〕

   〔略〕

  〔略〕日本政府の意向はアメリカ政府の意図と本質的対立はなかった。それゆえワシントン会議の成果は,当時海軍関係者をのぞけば,おおかた国の内外から好感をもって迎えられたのである。

   〔略〕

  もしワシントン会議の招請に応じなかったらとか,もし会議の決裂をかけて〔海軍主力艦の排水総量につき米英日それぞれ553ではなく,〕10107の比率を固執したらとか,もし山東問題について〔我が国が第一次世界大戦中に得た同地におけるドイツの旧〕権益〔の中華民国に対する〕返還を拒否したらなど,いくつかの取りえたであろう可能性がかんがえられる。しかし,いずれをとってみても,いっそう日本を孤立せしめたであろう点ではかわりない。まったく質のちがった革命政権ででもないかぎり,当時の「大日本帝国」の政府としては,おそらくこの結末が一番穏当な方策であったのではあるまいか。

  ワシントン会議以後,1927(昭和2)年4月〔20日〕田中〔義一〕内閣の成立まで,日本政府が国際政局においてじゅうぶんの威信と信頼をかちえたのは,やはりワシントン会議の成果として評価すべきである。

  (江口朴郎編『世界の歴史14 第一次大戦後の世界』(中公文庫・1975年(単行本1962年))452-454頁(衛藤瀋吉))

 

 1924611日から1927420日までの間,加藤高明内閣及び第1次若槻禮次郎内閣の外務大臣は,幣原喜重郎でした(幣原は,ワシントン会議における我が国全権委員の一人でした。)。田中義一内閣の外務大臣は,田中内閣総理大臣が自ら兼任しています。田中の外務大臣兼任については,1927419日に「1130分,〔昭和天皇は〕田中に謁を賜い,内閣組織を命じられる。その際,支那問題,経済問題は目下最も憂慮すべき状況にある故,一昨日〔同日の枢密院会議における台湾銀行救済緊急勅令案(日本銀行ノ特別融通及之ニ因ル損失ノ補償ニ関スル財政上必要処分ノ件)の否決を承けて閣員全員の辞表を捧呈した〕若槻に対しても特に尽瘁するよう言って置いたが,この2問題については十分考慮せよとの御沙汰を賜う。」ということがあったので(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)686頁),田中義一は,それでは幣原に代わっておらが自ら支那問題に尽瘁しなければ,と考えたものでもあるのでしょうか。ちなみに大蔵大臣は,片岡直温(1927314日の衆議院予算員会で「現ニ今日正午頃ニ於テ渡邊銀行ガ到頭破綻ヲ致シマシタ」と発言した当の大臣(第52回帝国議会衆議院予算委員会議録(速記)第919頁))から,田中義一内閣では高橋是清に代わっています。

 

2 国民革命軍の北伐及び1927年の南京事件に対する幣原外交

 

(1)「支那問題」

 「支那問題」とは具体的には何かといえば,広東から発した国民革命軍の北伐及びそれに伴う諸外国との紛争です(北伐の結果,中華民国は,国号は変わらずとも国旗は異なる別の国となったというべきでしょう。)。

1次若槻内閣の末期の1927324日には,北伐の途次南京を占領した国民革命軍による南京事件(「〔19274月〕2日 土曜日 午後,外務大臣幣原喜重郎参殿につき,〔昭和天皇は〕約50分間にわたり謁を賜い,南京事件昨月24日,南京において南軍(国民革命軍)の一部や民間人により各国外交機関や居留民が襲撃を受け,在南京日本領事館もまた略奪,暴行を受けたに関する奏上をお聞きになる。」(実録第四675頁))が生じ,これに対して「長江上にあったイギリス,アメリカの軍艦は,南京市内に約2時間にわたって砲弾をぶちこんだ。日本の駆逐艦もいたが,へたに砲撃するとかえって国民革命軍を激昂せしめ,居留民が殺害されるおそれありとして共同動作を拒否した。」という事態となっていました(江口編481頁(衛藤))。

更に同年「43日,中国側の大衆デモが漢口日本租界内に入って暴行をはたらき,警備中の日本陸戦隊と小ぜり合いをやる事件がおこった」ところ,「この事件は日本国内にはねかえった。南京事件,つづいて漢口事件とことをおこしながら,なんら対策をたてえぬ無能軟弱の幣原を倒せの声は,いやがうえにもたかまってきた。大新聞は比較的おだやかであったが,野党政友会〔総裁は田中義一〕,軍,そして右翼からの非難ははげしかった。」ということでしたので(江口編487頁(衛藤)),昭和天皇が宸襟を悩ませ給うに至ったことは,当然の成り行きでしょう。(ちなみに,南京事件発生の324日から田中義一内閣成立の翌420日までの間,幣原外務大臣が昭和天皇に奏上を行ったのは42日の1回のみです(実録第四670-687頁参照)。)

 

(2)幣原「軟弱」外交

 ところで,192679日からの国民革命軍の北伐(同日,蒋介石が同軍総司令に就任)に対し「イギリスは陸軍3個旅団を上海防備の増援軍として派遣することに決定,日本とアメリカにむかってしきりに共同出兵をうながし」ていたものの,かつての日英同盟及び現在の四ヵ国条約(日米英仏の四国協商)の精神もあらばこそ,「ときの外相幣原喜重郎は,ほとんど毎日のように外務省をおとずれるイギリス大使ティレーの説得にも動かず,対華不干渉の原則を主張して出兵に応じなかった。」という状況であったとのことです(江口編482頁(衛藤))。しかしてそこに南京事件。かねてからの対北伐武力干渉論の「イギリスは,南京事件責任者の処罰と謝罪を期限つき最後通牒で要求すべし」と強硬でした(同頁)。

 ここにおいて,英米追随に単にとどまるものではない・幣原「軟弱」外交の真価が燦然と輝いた,というのが衛藤瀋吉教授の評価なのでしょう。

 

   幣原は,北京公使芳沢謙吉をはじめ,ロンドンやワシントンの駐在大使をはげまして英・米両国政府を説得させるとともに,自分も東京で両国の使臣に条理をつくして説いた〔期限付き最後通牒を突き付けて期限内に回答がなく,拒否された場合,①沿岸封鎖をしても中華民国側は苦痛を感じないで,むしろ困るのは外国人居留民ではないか,②中華民国側を屈服させるべき兵要地点に砲撃を加えるといっても,国民革命軍の支配下にそのような兵要地点は存在せず,むしろ奔命に疲れるだけであろう,③軍事占領といっても,多数の小さな兵要地点を広い範囲にわたって占領することは事実上不可能,④仮に国民政府を倒しても,共産派や不正規兵は依然として残り,かえって無政府状態のまま混乱が激しくなるであろう(江口編483-484頁(衛藤)及び192742日幣原外務大臣ティリー英国大使会談記録(外務省『日本外交文書 昭和期Ⅰ第一部第一巻(昭和二年)』(1989年)542-545頁)並びに当該会談及び同月5日の駐日米国大使との外務大臣会談に係る同月6日付け幣原大臣発・在中華民国芳沢公使宛て電報第168号(『日本外交文書 昭和期Ⅰ第一部第一巻』563-564頁)参照)。〕。なんとかして破局をもたらすような,そして蒋〔介石〕を没落させるような期限つきの最後通牒を出させまいとしたのである。と同時に,それと並行して在上海総領事矢野七太郎をして蒋介石の説得にあたらせた。

   とにかく,はやくあやまれ,列国の鋭鋒をさけるために,南京事件のあと始末について誠意をしめせ,そして共産党とはやく分離せよ。

   (江口編485頁(衛藤))

 

   〔1927年〕411日,ついに北京公使団は南京事件に関する共同通牒を,期限つきの最後通牒というかたちをとらず,もっとおだやかなかたちでまとめあげ,〔容共左派の〕武漢政府と〔国民政府の中枢において少数派(311日には国民革命軍総司令部廃止)となってしまっていた上海の〕蒋介石と双方にあてて送付した。日本側の説得が功を奏したのである。

   412日,蒋介石は上海ブルジョワジーのやとった武装した連中と相呼応し,あらかじめ外国租界当局の諒解を得て猛烈な反共クーデタをおこなった。共産系の指導者のほとんどが逮捕処分され,その他犠牲は数千と称せられる。この一挙によって,上海・南京地区の共産系組織は壊滅した。

   霞ヶ関の大臣室で矢田からこのしらせをうけとった幣原は,ほーっと安堵のため息をもらしたであろうか。

 〔略〕

 かくて,中国革命の主導権をにぎるときがきたとのコミンテルンの判断にもかかわらず,この四・一二クーデタを転機として,共産革命の潮はグーッとひきはじめる。

 420(ママ)日〔18日〕,蒋介石の手による反共南京国民政府の樹立,521日,武漢政府支配下の長沙での反共クーデタ,7月,武漢政府の共産党員放逐,9月,武漢政府と南京政府との合体というふうに。

 (江口編487-488頁(衛藤))

 

 しかし,「日本政府が国際政局においてじゅうぶんの威信と信頼をかちえた」期間は,ワシントン会議閉幕から第1次若槻内閣退陣までの52箇月余限りであったというのであれば,これは短かったというべきでしょう。

 

(3)1927年の南京事件の具体像

 なお,南京事件は具体的にはどのようなものであったかといえば,在南京日本領事館の襲撃については,海軍無線経由で1927326日に外務本省に到着した当該領事発・幣原外務大臣宛ての電報においては次のように報ぜられています。

 

  昨24日前7時頃ヨリ11時半ニ亙リ党軍第26軍所属支那兵約150名驢馬車等ノ運搬具ヲ用意シ来タリ入替リ立替リ制服制帽ニテ小銃ヲ携ヘ当館ニ乱入シテ直ニ武力掠奪ニ移リ一隊ハ事務所及館員官舎ヲ一隊ハ領事官邸ヲ襲ヒ本官以下館員家族上陸中ノ海軍士官水兵及避難中ノ男女在留邦人100余名ニ向ヒ間断ナク実弾ヲ発射シ或ハ「ベイヨネット」ヲ擬シ甚シキニ至リテハ足ノ病気ニテ臥床中ノ本官寝具寝巻キヲ剥取リタル後枕元ヨリ前後2回実弾狙撃ヲ為シ或ハ婦人連中ニ対シ幾回トナク忍フヘカラサル身体検査ヲ行ヒ之ニ附随シテ数百ノ無頼漢乗込ミ当館備品及館員ノ私有品及引揚在留民荷物等ヲ徹底的ニ掠奪シテ以テ余サス床板,便器,空瓶迄持去リタリ此騒動中ニ木村〔三衣警察〕署長右腕ニ貫通銃創ト左胸側ニ刺創ヲ根本〔博〕少佐ハ左胸部ニ刺創腰部ニ打撲傷ヲ受ケタル処兵士ノ暴力ハ停止スル処ナク自動車庫ヨリ「ガソリン」ヲ持チ出シ当館ニ放火シ一同ヲ焼殺サント放言スルニ至〔る〕〔中略〕本件急変ニ際シ在留官民一同終始沈着ナル態度ト周到ナル用意トヲ以テ御真影ト運命ヲ共ニスル決心ヲ為シ一糸乱サス行動シ得タルコトハ本官ノ特ニ満足スル所ナルト同時ニ有ラユル迫害ノ下ニ御真影及極秘書類入金庫ノ鍵ヲ苦心監督シテ絶対安全ヲ保チ得タルコトハ実ニ 天皇陛下ノ稜威ニ依ルモノニシテ一同ノ恐懼感泣ニ堪ヘサル所ナリ〔以下略〕

   (『日本外交文書 昭和期Ⅰ第一部第一巻』515-516頁)

 

 更に同年45日付けの同領事発・外務大臣宛ての公信第272号「南京事件真相ニ関シ報告ノ件」には,次のようにあります。

 

  〔前略〕少数ナル水兵ヲ以テ幾千ノ支那兵ニ武力対抗ヲ為スコトハ絶対不可能ノコトニ属シ結局如何ナル事件起ルモ無抵抗主義ヲ取ルノ外ナキヲ以テ寧ロ党軍及民衆ノ敵愾心ヲ挑発セサルカ為早キニ及ンテ土嚢及機関銃ハ撤去スル方有利ナリト考ヘ右撤去方荒木〔亀男〕大尉ニ要求シタルニ大尉モ同感ニテ言下ニ之ヲ撤去シ同時ニ正門門扉ヲ開キタリ然ルニ〔午前〕7時頃ニ至リ〔後略〕

   (『日本外交文書 昭和期Ⅰ第一部第一巻』558頁)

 

  〔前略〕荒木大尉外兵員10名ハ軍装ナル為暴兵ノ敵愾心ヲ挑発シ反ツテ在留民ニ迷惑ヲ及ホスヘキヲ恐レ官邸北側ノ「ボーイ」室ニ避難シ居リタルカ在留民一同ハ飽迄陸戦隊ノ無抵抗主義ヲ懇請シ且(ママ)(ママ)帽ノ儘在留民ト一緒ニ居ルコトハ一同ノ生命安全ノ為甚タ好マシカラサルヲ以テ気ノ毒乍ラ各兵階級章及帽子ノ如キ標識ヲ一時取リ去ラレ度旨本官ニ懇望シ来レルヲ以テ本官ハ已ニ絶対無抵抗主義ニ決シ加之(〔しかのみならず〕)在留民ノ生命カ風前ノ燈火ニモ比スヘキ時ニ当リ右ハ不得已(〔やむをえざ〕)ル要求ナリトナシ荒木大尉ニ協議シタル処大尉モ一同ノ要求ヲ諒トシ在留民安全ノ為ニ忍フヘカラサルヲ忍ヒテ其請ヲ容レタルハ本官及在留民一同ノ感謝ニ(ママ)堪ヘサル処〔後略〕

   ((『日本外交文書 昭和期Ⅰ第一部第一巻』559頁)

 

 軍人の名誉もあらばこそですが,我が国民性としては,命あっての物種なのでした。

 ただし,日本領事館にいた避難民の一人である須藤理助氏によれば,無抵抗主義は,在留民発のものではないそうです。いわく,「23日,土嚢を築いた防備を,24日朝になつて撤廃すべく領事から要求されたことは事実であらうが,それが在留民全体の要求として無抵抗主義を取るべく要求したものではない,事件の突発は瞬間であつて,事前に左様な協議の暇の在り得やう筈がない。少なくとも私共同室の38名は,左様な無抵抗主義を主張した覚えはない。又その混乱の最中に於て,私は荒木大尉をも水兵をも見受けなかつたのである。無抵抗主義によつて,生命が安全であつたことは,偶然の結果であつ〔た〕」と(中支被難者聯合会編『南京漢口事件真相――揚子江流域邦人遭難実記――』(岡田日栄堂・1927年)44頁)。

 とはいえ,武力をもって抵抗したならばどうなったか。7年前の1920312日に発生した後記の尼港事件の前例もあったところです。

 また,実際には,「終始沈着ナル態度」をもって「一糸乱サス行動」がされたわけでもありません。前記公信第272号にいわく。

 

  〔前略〕避難者ハ虎狼ニ襲ハレタル群羊ノ如ク四方八方ニ追ヒ廻サレ婦人ハ幾回トナク忍フヘカラサル身体検査ヲ受ケ叫喚悲鳴聞クニ忍ヒス〔後略〕

   (『日本外交文書 昭和期Ⅰ第一部第一巻』559頁)

 

 「身体検査」とは何ぞや,ということになるのですが,これについては,民間出版物に次のようにありました。

 

   更に婦女子に加へた暴虐に至つては,全く正視するに忍びなかつたと云ふ。髪を解かせ帯を解かせ,肌着を脱がせ足袋を脱がせ,最後には〇〇〇〇〇奪去り,言語に絶した〇〇〇加へんとした。最初腕時計を取られた或夫人は,次に来た暴兵に指輪を強要されたが急に脱げぬので,危くナイフで指を斬去られやうとした。或夫人は別室に連行かれ〇〇〇〇〇〇〇〇〇貴重品を隠してゐると云ふので無遠慮極まる検査を受けた。暴兵に手を捉られ頻りに助けを呼んだが,傍に居た人々にも顧みられなかつた某夫人は,やはり〇〇〇〇〇〇〇〇〇指のさきや銃剣で突かれた。〔中略〕裸形にされた母親は必死となつて暴徒と争ふ,子供は火のつく様に泣叫ぶ。暴兵に引ずり行かるゝ婦人が,髪振乱して助けを叫ぶも誰一人として手も出せない。其処には銃剣が睨んでゐるのだ。銃弾が血を喚んでゐるのだ。之が地獄でなくて何であらう。

   嗟乎,獰猛残忍其の者のやうな,しかも塵垢だらけの薄汚ない蛮兵の前に,一糸残らず奪去られて戦き慄えつゝある雪白の一塊を想へ。而かも其れは我同胞の婦女子なのだ。こうして筆を走らせてゐても,肉戦き血湧くを禁じ得ない。

   (中支被難者聯合会編14-15頁)

 

 最後に,当時の在南京大日本帝国領事殿に対する須藤理助氏の評価は,厳しい。

 

   殊に事件の突発に際して,最善の方法を講ぜず,その暴行を受くるに当つて,たとへ病中であつ(ママ),実見者の談によると,領事は暴行兵に対してはして△△△△の礼を取つた,それでも暴行兵が威嚇的に実弾2発を発射するや,命中してゐないにも拘らず,領事は△△△△するの態度を執つたさうである。その醜態は多く語るに忍びない。苟くも帝国を代表する在外官吏としては,今少しく立派なる態度を執つて貰ひたかつたと思ふのである。

   又更らに事件後の在留民の処置は,領事として最も重大なる責任ありと思ふのであるが,その処置は如何であつたか。領事館に避難することを得なかつた城内の日本人を探し求めて安全に避難せしむべきが至当であるにも拘らず,何等その挙措に出づることなく,領事は引揚に際し真先に自動車で軍艦に避難してしまつた。〔後略〕

   (中支被難者聯合会編46-47頁)

 

(4)南京事件の後始末

 南京事件解決のための我が国芳沢謙吉全権公使と中華民国国民政府王正廷外交部長との間の往復文及び損害賠償に関する了解事項は192952日付けで作成されています。王外交部長からの来翰に対する芳沢公使の往翰の内容は次のとおりでした。悪いのは,共産党だったのです。

 

  以書翰啓上致候陳者本日附貴翰ヲ以テ左ノ通御照会相成了承致候

   一昨年324日発生セル南京事件ニ関シ本部長ハ茲ニ特ニ貴公使ニ対シ国民政府ハ中日両国人民固有ノ友誼ヲ増進セント欲スルガ為ニ該事件ヲ速ニ解決スルノ準備ヲ有スルコトヲ声明致候

   茲ニ本部長ハ国民政府ノ名義ヲ以テ本事件ニ於テ日本国領事館,官吏及其ノ他ノ日本人ニ対シテ加ヘラレタル侮慢非礼並ニ其ノ財産上ノ損失及身体上ノ傷害ニ対シ極メテ誠懇ノ態度ヲ以テ貴国政府ニ向テ深ク遺憾ノ意ヲ表示致候該事件ハ調査ノ結果完全ニ共産党ガ国民政府南京建都以前ニ於テ煽動シテ発生セシメタルモノナルコトヲ実証シ得タリト雖モ国民政府ハ之ニ対シ責任ヲ負フベク候

国民政府ハ在支日本人ノ生命財産ニ対シテハ既ニ其ノ抱持セル政策ニ基キ数次軍民長官ニ対シ継続的ニシテ切実ナル保護方ヲ通令シ居レルガ現在共産党及其ノ中日人民ニ関スル友誼ヲ破壊スベキ悪勢力ハ既ニ消滅シタルニ依リ国民政府ハ今後外国人ノ保護ニ付テハ自ラ力ヲ尽シ易カルベク国民政府ハ特ニ責任ヲ負ヒテ日本人ノ生命財産及其ノ正当ナル事業ニ対シ再ビ同様ノ暴行及煽動ハ之ヲ発生セシメザルベキコトヲ併セテ声明致候

尚本部長ハ当時共産党ノ煽動ヲ受ケ此ノ不幸ナル事件ニ参加シタル当該軍隊ヲ既ニ解散シタルコト並ニ国民政府ガ既ニ切実ナル辨法ヲ施行シ事件ニ関係アル兵卒及其ノ他ノ関係者ヲ処罰シタルコトヲ茲ニ併セテ貴公使ニ通知致候

国民政府ハ国際公法ノ一般的原則ニ従ヒ日本国領事館,日本国官吏及其ノ他ノ日本人ノ受ケタル身体上ノ傷害及財産上ノ損失ニ対シ速ニ充分ナル賠償ニ応ズルノ準備有之此ノ為国民政府ハ中日調査委員会ヲ組織シ以テ日本人ノ支那人方面ヨリ受ケタル傷害及損失ヲ実証スルト共ニ毎件ニ付賠償スベキ数目ヲ査定センコトヲ提議致候

  依テ本使ハ前記貴翰ニ於テ表示セラレタル提議ニ対シ同意ヲ表シ且国民政府ニ於テ前記貴翰御来示ノ責任ヲ最短期間内ニ於テ完全ニ履行セラルルニ於テハ南京事件ニ依リ発生セル各種問題ハ根本的解決ヲ告グルモノト認定致候

  此段回答得貴意候 敬具

    昭和452

             日本帝国特命全権公使 芳沢謙吉

   国民政府外交部長 王正廷殿

(外務省『日本外交文書 昭和第Ⅰ期第一部第三巻(昭和四年)』(1993年)533-534頁)

 

 日本語では「遺憾ノ意」と訳されている部分は,原文では「歉意」となっています。

 また,「事件ニ関係アル兵卒及其ノ他ノ関係者ヲ処罰シタルコト」とあるので,将校はどうなのかという問題がありますが,これについては192951日の枢密院会議において田中義一内閣総理大臣兼外務大臣が「暴行ニ参加シタル軍隊ヲ指揮シタル将校ニ対シテハ逮捕命令ヲ発シタルモ未タ逮捕ニ至ラス」と回答しています(『枢密院会議筆記』)。とはいえ,「南京事件解決方ニ関スル件」は当該枢密院会議において全会一致をもって可決されています。同月14日には「午後230分,〔昭和天皇は〕表内謁見所に出御され,お召しにより参内の支那国駐箚特命全権公使芳沢謙吉に謁を賜い,最近の支那問題についての講話を御聴取になる。宮内大臣・次官・侍従長・侍従武官長その他が陪聴し,終わって賜茶あり。」という運びとなっています(宮内庁『昭和天皇実録 第五』(東京書籍・2016年)357頁)。

 

第2 ワシントン体制崩壊後の奥村広報

 

1 1941128日の「宣戦の布告に当り国民に愬ふ」

 ところで,第1次若槻内閣退陣から14年と8箇月弱,ワシントン会議閉会から1910箇月余の1941128日となると,既にワシントン体制は,「国策遂行ノ基礎タル事項ニ関スル情報蒐集,報道及啓発宣伝」(情報局官制(昭和15年勅令第846号)111号)を担当する我が国政府機関の高官閣下から最低の評価を受けるに至っています。対英米蘭戦が開始せられた同日(日本時間)の1930分から(19時の時報,君が代,宣戦の詔書の奉読,東條内閣総理大臣の謹話(同日昼の「大詔を拝し奉りて」を録音したものの再放送),愛国行進曲及びニュースに続くもの,情報局の奥村喜和男次長は,「宣戦の布告に当り国民に(うった)ふ」という自らの演説を,社団法人日本放送協会に放送せしめていますが,そこにおいて,いわく。

 

   米国の日本に対する暴戻なる態度は,決して今日に始つたものではないのであります。日露戦争以来,ハリマン協定以来,米国の日本の進路に対する執拗なる妨害は,殆ど例を挙げて数ふるの煩に堪へないのであります。〔後略〕

    〔略〕

   わけても,アジアにおいて彼の意図するところは,支那市場の完全なる独占であり,アジアの犠牲においてする帝国主義的膨張であります。思へば米国の東亜への侵略は,ジョン・ヘイの門戸開放要求以来,既に四十年の生々しき歴史を持つてゐるのであります。今日までアメリカが太平洋において着々と計画を進めて参りましたことは,一にはアジアの政治的支配に在り,二にはアジア資源の経済的独占に在つたのであります。過去二百年に亘る白人のアジア搾取は,米国のアジア侵略の計画において絶頂に達するのであります。

   日露戦争の講和条約の調印もまだ終らぬうちに起つたハリマン協定は,早くもアメリカの野望をあからさまに暴露したものでありました。これに引き続いて執拗に繰り返された満鉄共同経営の提議にいたしましても,満洲中立の要求にいたしましても,いづれも米国がアジアに挑んだ血を見ざる侵略の戦でありました。二十億の国帑と十万同胞の血を流して漸く確保したる満洲の権益を,そつくり横合ひから奪ひ取らうとしたのであります。さらに1910年の錦愛鉄道協定といひ,1914年の福建省におけるアメリカの軍港設置問題といひ,陝西省における石油掘鑿権の獲得といひ,更に又シベリア出兵の理由なき干渉といひ,どれ一つとして,米国の周到なるアジア侵略計画を示さぬは無いのであります。

   しかしながら,これらのことは未だよい方であります。日本国民の断じて忘れてならぬことはヴェルサイユ講和会議後に開かれたるワシントン会議におけるアメリカの仕打ちであります。この会議における暴戻なるアメリカの態度と仕打ちこそは,断じて日本人の忘れ得ざるところであります。

   米国は英国と共謀して,帝国海軍を五・五・三の劣勢比率に蹴落しました。己等はパナマとシンガポールに世界的に誇るに足る大規模の要塞の建造計画を樹立してをりながらも,日本に対しては却つて太平洋無防衛の美名のもとに,日本の皇土たる千島列島と小笠原群島においてさへ,日本自身の防備の制限を強制いたしたのであります。いはゆる九ヶ国条約によりまして,日本と支那との歴史的,地理的,政治的,経済的の緊密な関係を切断して,支那の独立及び領土保全の美名の下に,両国をして骨肉相抗し相争ふの不和の関係に追ひ込んだのであります。更に四ヶ国条約によりましては,太平洋現状維持に藉口して帝国の海洋発展を封じたのであります。かやうにして,帝国の手足を束縛し,帝国の武力を封じて,アジアと太平洋とを彼がほしいまなる支配のもとに置かんとしたのであります。このワシントン会議こそは,かの日清戦争後の三国干渉にも優るとも劣らざる屈辱であります。私は今,このことを語りながらも当時の米国の暴戻なる仕打ちに忿懣やる方なく,正に血の逆流するのを覚ゆるのであります。

   その後十年にして起つた満洲事変は,かやうな英米の利己的なアジア支配体制の強化に対する止むを得ざるに出でたる帝国の反撃であつたのであります。米英両国――特にアメリカの太平洋における日本圧迫と,その援助を恃む支那の暴戻とは,遂に帝国をして自衛の戦ひに出づるの止むなきに至らしめたのであります。国際聯盟の脱退も,ワシントン条約の廃棄も,帝国が自身の危急を認識し,自身の使命に眼覚めたからにほかならぬのであります。

   支那事変は,この満洲事変の意義をそのまゝ承け継いでゐるのであります。〔後略〕

   (奥村喜和男『尊皇攘夷の血戦』(旺文社・1943年)4-7頁)

 

戦争に負けるとは哀れなことで,「支那市場の完全なる独占」,「アジアの犠牲においてする帝国主義的膨張」,「アジアの政治的支配」,「アジア資源の経済的独占」等を意図し,計画していたのはむしろ大日本帝国であっただろうと現在では言われているところです(日本国国民に係る「世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤」を指摘するポツダム宣言(1945726日)第6項参照)。

 

2 情報局について

ところで,情報局とは何かといえば,19401127日枢密院可決(宮内庁『昭和天皇実録第八』(東京書籍・2016年)247頁参照),同年125日裁可(しかし,この日昭和天皇は「故従一位大勲位公爵西園寺公望の国葬当日につき,廃朝を仰せ出される。」ということでしたが(実録第八257頁),どうしたものでしょうか。),同月6日公布,同日施行の情報局官制の第1条が,次のように規定していました。

 

 第1条 情報局ハ内閣総理大臣ノ管理ニ属シ左ノ事項ニ関スル事務ヲ掌ル

  一 国策遂行ノ基礎タル事項ニ関スル情報蒐集,報道及啓発宣伝

  二 新聞紙其ノ他ノ出版物ニ関スル国家総動員法第20条ニ規定スル処分

  三 電話ニ依ル放送事項ニ関スル指導取締

  四 映画,蓄音機レコード,演劇及演芸ノ国策遂行ノ基礎タル事項ニ関スル啓発宣伝上必要ナル指導取締

  前項ノ事務ヲ行フニ付必要アルトキハ情報局ハ関係各庁ニ対シ情報蒐集,報道及啓発宣伝ニ関シ共助ヲ求ムルコトヲ得

 

ここで,国家総動員法(昭和13年法律第55号)20条は,次のとおり。

 

 第20条 政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ新聞紙其ノ他ノ出版物ノ掲載ニ付制限又ハ禁止ヲ為スコトヲ得

  政府ハ前項ノ制限又ハ禁止ニ違反シタル新聞紙其ノ他ノ出版物ニシテ国家総動員上支障アルモノノ発売及頒布ヲ禁止シ之ヲ差押フルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ併セテ其ノ原版ヲ差押フルコトヲ得

 

また,同条には,次のような罰則が付いていました。

 

 第39条 第20条第1項ノ規定ニ依ル制限又ハ禁止ニ違反シタルトキハ新聞紙ニ在リテハ発行人及編輯人,其ノ他ノ出版物ニ在リテハ発行者及著作者ヲ2年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ2000円以下ノ罰金ニ処ス

  新聞紙ニ在リテハ編輯人以外ニ於テ実際編輯ヲ担当シタル者及掲載ノ記事ニ署名シタル者亦前項ニ同ジ

 第40条 第20条第2項ノ規定ニ依ル差押処分ノ執行ヲ妨害シタル者ハ6月以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ500円以下ノ罰金ニ処ス

 第41条 前2条ノ罪ニハ刑法併合罪ノ規定ヲ適用セズ

 

しかして「国家総動員」とはそもそも何かといえば,国家総動員法1条が定義規定でした。

 

 第1条 本法ニ於テ国家総動員トハ戦時(戦争ニ準ズベキ事変ノ場合ヲ含ム以下之ニ同ジ)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ

 

情報局の次長は勅任官であり(情報局官制2条),「局務ヲ統理シ所部ノ職員ヲ指揮監督シ判任官ノ進退ヲ専行スル」ところの総裁(同官制6条。ちなみに,総裁は親任官です(同官制2条)。)を「佐ケ局務ヲ掌理ス」るものとされていました(同官制7条)。

1941128日の奥村喜和男による「宣戦の布告に当り国民に愬ふ」演説は,情報局官制113号に基づいて当該事項に係る放送の行われるべきことを社団法人日本放送協会に指導した上で,情報局による啓発宣伝の事務(同項1号)を同局の次長閣下が自ら行った,ということでしょう。

 

3 「国民に愬ふ」演説註釈

奥村情報局次長の前記「国民に愬ふ」演説における米国非難及びワシントン体制罵倒に係る事項のうち,今となっては分かりづらいものに註を付してみましょう。

 

(1)ハリマン協定問題

まず,1905年のハリマン協定問題(ただし,「協定」といっても本協定の成立には至っておらず,しかして当該本協定成立の阻止は,小村寿太郎外務大臣の「功績」とされています。)。

日本国内閣総理大臣桂太郎と米国の鉄道王ハリマンとの間の予備協定覚書(19051012日に双方関係者調印の予定でしたが,当該調印は延期されています。)の要領は,次のとおりでした(外務省編纂『小村外交史 下』(1953年)207-208頁・209頁)。

 

  一 南満洲鉄道及び附属財産の買収,改築,整備,延長,並に大連に於ける鉄道終端の改善及び完成のため資金を充実せしむる目的で,一の日米シンヂケートを組織すること。

  二 日米両当事者は南満洲鉄道及び附属財産に対し共同かつ均等の所有権を有すること。

  三 特別の協議により,該シンヂケートは鉄道附属地内の炭鉱採掘権を獲ること。その利益及び代表者は共同かつ均等たるべきこと。

  四 満洲に於ける諸般企業の発展に関しては,両当事者は原則として均等の利益を受くべき権利を有すること。

  五 南満洲鉄道及び附属財産は,両当事者の共同代表者の決定すべき実価を以て買収すること。

  六 該シンヂケートの組織は,その時期に現存する事情を斟酌してこれに適応すべき基礎の上に定むること。

  七 右は日本に於ける事情に適応せしむるを得策なりと認め,日本の管理の下にこれを組織すること。但し事情の許す限り随時これに変更を加え,結局代表権及び管理権の均等を期すること。

  八 該シンヂケートは日本法律により事業を行うことにハリマン氏同意せしに付,残るは氏の組合員の同意なるが,氏はその同意を得らるべきを信ずること。

  九 両当事者間の仲介者としては,日本外務省顧問デニソンに委嘱すること。

  一〇 日支間また日露間に開戦の場合には,南満洲鉄道は軍隊及び軍需品の輸送に関し常に日本政府の命令に従うべきこと。日本政府はこれに対し鉄道に報償を為すべく,かつ他の攻撃に対し常に鉄道防護の責に任ずること。

  一一 自今日本興業銀行総裁添田壽一を以て両当事者間の通信の仲介者と為すこと。

  一二 両当事者以外の者をシンヂケートに加入せしめんとする場合には,双方間の協議及び承諾を経るを要すること。

 

これが,「我国の側からいえば,満洲に於て数十万の血を流し,幾億の国帑を費し,ポーツマスの談判に於て百難を排して漸く獲た南満洲経営の大動脈を他の手中に委し,軍事及び経済上の利益を一朝にして抛棄する結果となるはいう迄もない。」ということ(『小村外交史 下』208-209頁)に直ちになるものかどうか。「抛棄」といえば零になるようですが,共有持分は半々ですし(第2項),利益は両者均等に分けられるのですし(第4項。また,第3項),代表権及び管理権も均等ですし(第7項。また,第3項),軍事上の利益としては戦時の日本政府命令権が確保されているのですから(第10項),「抛棄」は言い過ぎであるように思われます(無論これは,鉄道等経営の実務を自分たちだけでやりたいという前向きな経営者的観点というよりは,怠惰な株主的観点からする思考にすぎないものなのでしょうが。)。

また,「当時元老は総じて,特に井上〔馨〕は甚しく,満洲経営を以て日本の重荷とする悲観説を抱き,また米国を以て将来満洲における日露両国間の緩衝たらしめんとの苟安〔コウアン。一時の安楽をむさぼること。一時のがれ。〕論を有し,別して外資の輸入を大旱の雲霓視する際であつたので,いづれもハリマンの言に耳を傾け,主義に於て賛意を表し」たこと(『小村外交史 下』206-207頁)についても,令和の今からすると理由なきにしもあらずでしょう。というのは,現在の老廃日本国としては,北海道経営すらも重荷であるようであり,尖閣諸島の保持についても最終的には米国の庇蔭に頼らんとしているようであり,インバウンド外国人観光客の落としてくれるお金が旱天の慈雨であるのならば,外資の潤沢な輸入確保があればこれすなわち,天恵これに勝るものなしということになるはずだからです。更には,日本人だけで偉大な事業の経営をしようにも,平成以来の「ゆとり」ある「失われた三十年」を経て,人材もポンコツ化してしまっているようです。(ところで,2024814日に岸田文雄内閣総理大臣は骸骨を乞わんとするの意を表明されましたが(ただし,骸骨を乞うといっても,内閣総理大臣が辞職する際天皇に辞表を奉呈しないことについて,「中南米の方角から見る日本国内閣総理大臣論」記事の43)の部分を御参照ください(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1081878282.html)。),次の自由民主党総裁にはどなたがなられるのでしょうか。)


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1 米国の外交的関心はどこに向いているのか

ドナルド・トランプ米国前大統領は,2024年の同国大統領選挙における共和党の候補者としての指名受諾演説を同年718日,ウィスコンシン州ミルウォーキー市で行いました。当該演説の全文がThe New York Timesのウェブサイトに掲載されていますので(同月19日付け),筆者はPCの検索機能を用いて,荒っぽいながらもそこから同氏(及び現在の米国)の外交的関心を探る試みをしてみました。単純に,どの国ないしは地域の名が最も頻繁に言及されるのかを知ろうとしたのです。

結果は,中華()人民()共和()()14回で一番でした。いわく,「中華()人民()共和()()――我々〔トランプ政権〕は,〔経済分野において〕信じられないような諸々のレヴェルにおいて彼らを叩いていた。そして彼らはそのことを知っているのである。」,「〔トランプ政権時代に〕我々は,〔経済的に〕中華()人民()共和()()を含めた全ての国をとんとん拍子に打ち負かしていた。」,「実際のところ,最高の貿易協定は恐らく私が中華()人民()共和()()とした取引であって,彼らは我々の製品500億ドル相当を買うことになったのである。」,「20ないし25年前を振り返れば,我々の自動車産業の約68パーセントが,中華()人民()共和()()及びメキシコに移されることによって盗まれたのである。」,「しかし,ヴィクトル・オルバン〔ハンガリー首相〕は言ったのである。「ロシアは彼〔トランプ〕を恐れている。中華()人民()共和()()は彼を恐れている。全ての人が彼を恐れている。何も起こることはない。」と。」,「我々〔トランプ政権〕は〔アフガニスタンの〕バグラム基地を維持していた〔註:トランプ前大統領は,同基地は今や中華()人民()共和()()の手に落ちたものと主張しています。〕。しかして現在,中華()人民()共和()()は同様に台湾を取り巻きつつあるのである。また,ロシアの軍艦及び原子力潜水艦がキューバ沖60マイルで行動しているのである。」等々と。

続いてロシアが9回,イランが8回,メキシコが6回,ベネズエラが5回,ウクライナ,イスラエル,アフガニスタン,ISIS(イスラム国)及び北朝鮮が各4回(北朝鮮については,単なる“Korea”1回を含みます。),キューバ及びアジアが各3回並びにエル・サルバドル,台湾,ハンガリー,中東及びヨーロッパが各2回というようなものでした。(ちなみに日本は,1回だけ言及されています。「我々はこれをもって未だかつて見られたことのない黄金時代を〔米国に〕到来せしめるのである。記憶すべし。中華()人民()共和()()がそれをなそうと欲しているのである。日本がそれをなそうと欲しているのである。これらの国の全てがそれをなそうと欲しているのである。」との部分です。また,ミッドウェイの名が,ヨークタウン(アメリカ独立戦争)及びゲティスバーグ(アメリカ南北戦争)と共にアメリカの不滅の英雄ら(immortal heroes)が戦った場所として挙げられています。ミッドウェイ海戦の方がノルマンジー上陸大作戦よりも高く評価されているということでしょうか,興味深いことです。)

寥々たるのは西欧諸国で,ドイツの名が1回出て来たほかは(同国の百年前のインフレーションと米国現時のそれとを比較),英国も,フランスも,イタリアも,更にはNATO(北大西洋条約機構)も,全く話頭に上っていなかったのでした。(ただし,英国は,デラウエア川,フォージ谷及びヨークタウンの名とともにアメリカ独立戦争が語られた際,“a mighty empire(強大な帝国)として間接的に言及されてはいます。なお,ヨークタウン戦においては,ルイ16世のフランス軍が北米十三邦側に立って戦っています。)

トランプ前大統領及びその支持者の抱く世界像は,専ら米国を中心とするものであって(“America first),その裏庭に中南米があり,太平洋の向こうには強大な中華()人民()共和()()及びその周辺諸国(北朝鮮,台湾,日本等)があり,その他ロシア,イラン等の紛争惹起諸国群があってこれらは迷惑である,というようなものでしょうか。西欧には余り関心がないようです。

 

2 ワシントン会議

 

(1)パリ講和会議かワシントン会議か

無論,西欧は,悲惨な第一次世界大戦(1914-1918年)を自ら起して既に百年も前に没落していますから,トランプ前大統領の無関心も,不思議ではないといえば不思議ではないわけです。米国のウィルソン大統領の「理想主義」とともに華々しく喧伝されるパリ講和会議(1919年)も,要は没落した西欧の後始末(さすがに終活ではないでしょうが。)のための後ろ向きの会議であったのであって(したがって,米国元老院(上院)にしてみれば,ヴェルサイユ条約に基づくジュネーヴの国際聯盟など,同国にとっては確かに無用のものであったわけです。),それに比べれば,その裏番組のようにうっかり印象されてしまっている(少なくとも高等学校の世界史の教科書などでは,筆者にはそのように感じられました。)ワシントン会議(1921-1922年)の方が,太平洋を挟んだ隆昌の米国と新興のアジア(当時のアジアの新興大国は,中華(チャ)民国(イナ)ではなくて,何と日本国でした。)との将来構想に係る前向きかつ歴史的な会議であったはずです。

 

  共和党の大統領候補者であるウォーレン・ハーディングは,合衆国に係る直接の利害の問題に同国として集中するものである・より伝統的な外交政策を追求すると誓いつつ,1920年に当選した暁には平常への復帰(a return to normalcy)をもたらす旨米国人に約束した。大衆の多くからは,それは孤立主義への復帰を意味するものと解されていたが,ハーディング政権は,高度に工業化された経済の下,20世紀の米国は,農業国であったジェファソン及びジャクソンの時代向けのものであった外交政策を採ることはできないことを認識していた。

  1920年代の新たな孤立主義の下においても,米国は,極東の諸問題に対処しなければならなかった。保守的な大統領も,門戸(オー)開放(プン・)政策(ドア)に熱心であることにおいては,進歩主義的な先任者たち――ルーズベルト及びウィルソン―に劣らなかった。したがって,ハーディング政権は,国際聯盟加入問題〔米国は不参加〕のようにたやすくアジアの問題を片付けてしまうことはできなかった。かえって,ハーディングとチャールズ・ヒューズ国務長官とは,主に太平洋地域の問題を取り扱うべき大会議の開催を主唱したのであった。1921年から1922年までのワシントン会議は,ハーディングの時代における,多からざる主要業績のうちの一つである。

 (Ralph E. Shaffer, ed., Toward Pearl Harbor: The Diplomatic Exchange between Japan and the United States, 1899-1941; Markus Wiener Publishing, Princeton, NJ, 1991: p.15

 

米国にとってはそのgreatnessnormalcyであるのならば(トランプ前大統領は,前記演説において“Greatness is our birthright.”と言っています。),“Make America Great Again”は,ハーディング的標語でもあるわけです。ロシアとウクライナとの戦争は,20222月の前者の後者に対する侵攻開始以来,第一次世界大戦のように長々と続いていますが,米国としては,ヨーロッパの戦争はヨーロッパの問題としてそこから手を引いて,太平洋・東アジアにおける課題に集中したいというのが,百年後の今日も変わらぬ国家的本能なのでしょうか。

 

(2)ハーディング

なお,ハーディング大統領は「堂々たる美丈夫」であったものの,「これまで上院議員をつとめていたハーディングは,風貌こそ合衆国大統領たるにふさわしかったが,がんらいが政治家としては凡庸であり,大統領となりえたのも,共和党として利用できる人物であったからだという。」と言われるような余り冴えた人物ではなかったもののようで,ハーディング政権において「実権をにぎっていたのは国務長官ヒューズ,財務長官メロン,商務長官フーヴァーだったが,このメロンは彼自身も大財閥であり,政策としても共和党伝統の大企業保護政策にかえっ」ていたそうです(江口朴郎編『世界の歴史14 第一次大戦後の世界』(中公文庫・1975年(単行本1962年))311頁(山上正太郎))。凡庸であるだけならばともかく,ハーディング大統領の下では,「復員軍人局長官,司法長官,内務長官,海軍長官など政府の要職者たちが,公金着服,収賄をおかして」いたとは困ったことです(江口編313頁(山上))。また,美丈夫であるからには艶福家でもあったわけで,192382日に死亡したハーディングの死因については,「夫とその愛人ナン=ブリトンとの関係や,二人のあいだに子供があることをかぎつけて,嫉妬に狂っていた」大統領夫人による毒殺との説もあるところです(同頁)。

 

(3)五ヵ国条約と海軍軍縮と

ところで,ワシントン会議に対する印象が我が国において精彩を欠いているのは,主に,192226日調印の五ヵ国条約のゆえなのでしょう。その第4条において,主要艦(排水量1万トン超の艦又は口径8インチ超の砲を装備するもの)の排水総量を米国525000トン,英国525000トン,フランス175000トン,イタリア175000トン及び日本315000トンまでとした同条約(なお,航空母艦については,同条約7条において,米英各135000トン,仏伊各6万トン及び日本81000トンまでとされています。)に対する我が海軍贔屓の方々の反感があるからでしょう。

しかし,海軍の欲しがるものを無批判にそのまま買い与えるのは,国家財政的に危険なことです。

 

  ことに,海軍の建艦費が問題であった。なにしろ,ちっぽけな排水量1千トンぐらいの駆逐艦でも,その製作費は東京の国会議事堂の建築費総額ぐらいかかる。

 (江口編439頁(衛藤瀋吉))

 

したがって,実は,ワシントン会議当時の我が輿論は,帝国海軍に対して冷淡ともいうべきものだったのでした。

 

  日本海軍はもちろん〔五・五・三ではなく〕107を強硬に主張した。しかし,当時の日本の新聞などの論調は,むしろ106をとっても軍縮の実現をはかれという方が多かった。いわゆる有識者も,東京帝大教授(たち)作太郎が,原案をまず受諾してのち得策をはかれ,と主張し,京都帝大教授末広重雄が,アメリカの提案は誠意あるもので受諾するのが当然である,と説いたのをはじめ,多くはきわめて協調的であった。

  『東京朝日』〔1921年〕122日付「今日の問題」欄から一節をひいてみよう。

  「海軍当局,日本の主張に対する国民の声援乏しきをかこつ,(それ)は気の毒だ,国のために(おこな)ってくれることに誰が冷淡であるものか。唯,日頃国民に対する態度に遺憾の点はなかったか。ぢゃによってつねが大事ぢゃ。」

  強硬論の日本海軍は,むしろ国内において孤立する情勢にあ〔った。〕

  (江口編448-449頁(衛藤))

 

 立作太郎は,皇太子裕仁親王の学問研鑽のための東宮職御用掛(国際公法及び外交史担当)に1921930日に任命されていました(宮内庁『昭和天皇実録第三』(東京書籍・2015年)468頁・544頁)。

 

3 四ヵ国条約

 

(1)日英同盟の消滅

 なお,ワシントン会議については,19211213日に調印された日米英仏の四ヵ国条約によって日英同盟協約(1911713日にロンドンで締結されたもの)が廃棄されたこと(四ヵ国条約4条)を問題視する向きもあるようです。当該問題視の理由は,米国による日英分断策を,むざむざとその希望どおりに成功させてしまって悔しい,ということなのでしょう。すなわち,「もし日本がアメリカと戦うとすれば,イギリスは当然に日英同盟によって日本側につかざるをえない。すなわち日・英(がっ)してアメリカにあたるのではないか,という疑惑はアメリカの側に存在した。たとえ戦争とはいかないまでも,軍縮を論議するばあいにおいて,アメリカとしては日英同盟が存在していれば,日・英両国の軍事力の和を念頭におかなければならないから,じゅうぶんに軍縮の実をあげられないということもあった。〔略〕このような理由から,アメリカは日英同盟の消滅を切望し」ていたところです(江口編442頁(衛藤))。

しかし,「日英同盟については,当面ロシアもドイツもくずれさった今日,日本政府にとってさほど必要なものではなくなった。その存続にあまり熱意をしめさず,したがってその廃棄によってこうむる損失はほとんどなかった。」ということでありました(江口編452頁(衛藤))。「太平洋方面ニ於ケル島嶼タル属地及島嶼タル領地ニ関スル四国条約並追加協定御批准ノ件」は,1922624日の枢密院会議において,摂政宮裕仁親王臨席の下,「審査委員長の伊東巳代治より,本件が委員会において全会一致を以て議決されたことが報告され」た後,全会一致をもって可決されています(実録第三654-655頁)。

 

(2)伊東巳代治の小言

ということであれば,日英同盟協約から四ヵ国条約への差し替えは,異議無く円満に行なわれたものであるようにも印象されるのですが,かの「憲法の番人」伊東巳代治がそう優しいおぢいさんであったものかどうか。実は,伊東委員長の審査報告には,やはり小言が含まれていました。『枢密院会議筆記』にいわく。

 

 〔前略〕茲ニ於テ帝国ニ於テハ前来ノ経過ト刻下ノ情勢トニ顧ミ如上ノ旨意ヲ酌ミ本条約及追加協定ヲ御批准アラセラルルノ外ナシト思料ス但小官等ハ此ノ議ヲ定ムルニ方リ特ニ一言シテ当局ノ注意ヲ喚起セムト欲スルモノ2件アリ

(一)曩ニ外務大臣カ本院ニ於テ本条約締結ノ交渉経過ニ付報告セラレタル所ニ依レハ始メ英国全権委員ハ帝国全権委員ニ日英米三国協約ノ一私案ヲ呈示シタルカ英国案ニ於テハ締約国ノ領土権カ別国ニ依リ脅威セラルルトキハ締約国中ノ2国ハ純然タル防禦的性質ヲ有スル軍事同盟ヲ締結シテ両国ヲ防護スル自由ヲ有スル旨ノ一条ヲ掲ケ現行日英協約ハ茲ニ之ヲ終了セシムルモ他日或ハ必要ニ応シテ之ヲ復活セシムルコトアルヘキ素地ヲ存シタリ然ルニ帝国全権委員ハ英国案ヲ以テシテハ到底米国ノ同意ヲ得難カルヘキコトヲ顧慮シ別ニ右軍事同盟ニ関スル条項ヲ挿入セサル一私案ヲ立テテ之ヲ英国全権委員ニ交付シ之ヲ底案トシテ日英米三国間ニ商議ヲ進ムルコトト為レリト言フ右交渉ノ経過ノ迹ニ就キ考フルニ当初ノ英国案ニ対スル米国ノ意嚮如何ハ姑ク別論トシ英国委員ヲシテ此ノ英国案ヲ先ツ米国委員ニ呈示セシメ其ノ案ヲ一応三国商議ノ基礎ト為スヘキコト寧ロ帝国委員ノ執ルヘキ当然ノ措置ナリト信ス帝国委員ノ所為此ニ出テス早ク自己ノ私案ヲ示シテ英国案ヲ拒ミタルノ嫌アルハ本官等ノ甚タ遺憾トスル所ナリ

(二)日英協約ノ終了ハ今日ノ場合已ムヲ得サルモノニシテ又本条約ノ成立ト密接ノ連繋アリトスルモ此ノ事タルヤ日英両国ニ専属スルモノナルカ故ニ独リ両国ノ間ニ之ヲ処理スヘク別国ヲシテ之ニ関与セシムヘキ限ニ在ラサルコト言ヲ俟タサルナリ然ルニ今回日英米仏ノ4国間ニ成立シタル本条約ニ於テ日英協約ヲ終了セシムルコトヲ規定シタルハ啻ニ法理ニ照シテ失当ノ譏ヲ免レサルノミナラス之ヲ本協約締結国ノ体面ニ考ヘ其ノ前来ノ沿革ニ顧ミ決シテ妥正ノ処置ナリト謂フヘカラス是レ本官等ノ切ニ遺憾ノ念ヲ禁スルコト能ハサル所ナリ加之本条約ニ日英協約ノ終了ヲ明記シタルノ結果本条約ノ存続スル限リ日英両国ハ旧時ノ協約ヲ復活スルコトヲ得サルノ拘束ヲ受クルモノト解セラルルノ疑ナシトセス是レ帝国将来ノ大策ニ至重ノ関係アルコト論ヲ須ヒス想ヒテ此ニ到レハ本官等遺憾ノ意実ニ一層切実ナラサルコト能ハサルナリ

 

我が全権委員は,折角の英国案にもかかわらず,小賢しく米国に対する先走り忖度をした挙句,四ヵ国条約において,集団的自衛権(現在の国際連合憲章51条第1文に「この憲章のいかなる規定も,国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には,安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間,個別的又は集団的自衛の固有の権利(the inherent right of individual or collective self-defence)を害するものではない。」とあります。)に基づく日英両国の軍事同盟締結権までをも漫然放棄する結果をもたらしてしまったものではないか,という趣旨の非難であるものと解せられます。

 

(3)幣原喜重郎と四ヵ国条約と(外務省による説明)

伊東巳代治に毒気を吹きかけられた当該全権委員はだれであったかといえば,幣原喜重郎でした。我が外務省ウェブサイト中「特別展示「幣原外交の時代」展示資料解説」の「ワシントン会議全権時代(19219月~19222月)」ウェブページに次のようにあります。

 

会議開催当時,駐米大使であった幣原喜重郎は,全権としてこの「ワシントン体制」の構築に深く関与しました。とりわけ幣原が心血を注いで取り組んだのが、太平洋問題(四国条約)と中国問題でした。

〔略〕

 そもそも,この条約が検討された発端は,日英間で懸案となっていた日英同盟更新問題を処理するためでした。イギリスは当初,日英同盟の内容を実質的には変更せずに,アメリカを加えた「日英米三国協商」を提唱しましたが,これに対して幣原は,イギリス提案から軍事色を取り払い,何か問題が起きた際には関係国間で互いに協議するという試案を英米両国に提示しました。この「幣原試案」をもとに日本・イギリス・アメリカ・フランスの4カ国で協議が進められ,19211213日に4カ国代表が本条約に調印,日英同盟はこれに吸収される形で解消されました。四国条約について,当時の新聞は,「太平洋の平和維持の基礎となるべきもの」であり,「悲観されつゝあった我が国の孤立に陥る事を救はれ,又しても危険視された日米関係の不安を除き去り茲に四国協同して世界の平和と人類の幸福の為に尽くす事となったのは、啻(ただ)に我が国の喜びのみではない」と,大きな歓迎を示しています。

 

 筆者は伊東巳代治のように嫌味な人柄ではないのですが,上記解説文は,1922年当時に外務省が枢密顧問閣下らにしたであろう説明と齟齬していることを指摘せざるを得ません。

「イギリスは当初,日英同盟の内容を実質的には変更せずに,アメリカを加えた「日英米三国協商」を提唱し」たとは何事でしょう。英国案は,「英国案ニ於テハ締約国ノ領土権カ別国ニ依リ脅威セラルルトキハ締約国中ノ2国ハ純然タル防禦的性質ヲ有スル軍事同盟ヲ締結シテ両国ヲ防護スル自由ヲ有スル旨ノ一条ヲ掲ケ現行日英協約ハ茲ニ之ヲ終了セシムルモ他日或ハ必要ニ応シテ之ヲ復活セシムルコトアルヘキ素地ヲ存シタリ」ということにとどまるものだったはずです。そもそも当時の米国は孤立主義国であって(これについては,伊東報告においても,「米国ニ於テハ上院カ本年〔1922年〕3月米国ハ本〔四ヵ国〕条約ノ前文及各条ノ規定ノ下ニ於テハ武力ニ関スル約定ナク同盟ナク又防禦ニ参加スヘキ義務ナキモノト了解スル旨ノ留保ヲ附シテ本条約ノ批准ニ同意シ」たということです。),米国が受け入れる可能性がはなから無い日英同盟の拡大版たる軍事的「日英米三国協商」案などという提案を英国全権委員はしていません。前記外務省ウェブページ解説は,伊東巳代治の小言に対する弁解どころか,四ヵ国条約の原案作成者たる栄誉を英国全権委員から奪うこととなる幣原賛美の手前味噌的記述ということになるようです。

また,交渉経緯についても,フランス代表が加わったのは最後の段階であったようです。伊東報告によれば,「果シテ英国全権委員ヨリ華盛頓ニ於テ本件ノ交渉ヲ発議シ来リ帝国全権委員之ニ応諾シテ客年〔1921年〕1122日以来新条約ノ締結ニ付日英米三国全権委員ノ間ニ折衝ヲ重ネ127日三国間ニ略意見ノ一致ヲ見タル後仏国全権委員ヲ加ヘテ更ニ商議ヲ進メ同月9日四国間ノ協定成立シ終ニ同月13日日米仏並英本国及五英領殖民地〔カナダ,オーストラリア,ニュー・ジーランド,南アフリカ及びインド〕代表者ニ於テ本条約ノ調印ヲ了スルニ至」ったものです。

 

(4)「精神ニ於テハ日英同盟ニ代ハルノ意味」及び「各締約国ト円満ナル協調」

1922624日の枢密院会議においては,伊東報告に続いて,加藤友三郎内閣総理大臣兼海軍大臣が,「本条約は日英同盟協約とは内容に相違があっても精神上はこれに代わるものであり,政府は各締約国と円満なる協調を保ち,意思を疎通し,もって大局上の平和の維持に貢献することを望むとして,委員長の報告どおり速やかに可決されることを請う旨」を述べ,「議論の結果,〔枢密院〕会議においては原案が全会一致を以て可決され」たとのことです(実録第三654-655頁)。加藤友三郎は,自らもワシントン会議における我が国全権委員であって四ヵ国条約にも調印をした立場ですから,伊東の小言に対して,外務大臣ではないものの一言弁明的発言をする必要があったものでしょう(外務大臣内田康哉も出席はしていました。)。なお,『枢密院会議筆記』によれば,加藤の発言は正確には「只今委員長ヨリ御報告アリタル本条約ハ内容ニ於テハ相違アルモ精神ニ於テハ日英同盟ニ代ハルノ意味ヲ以テ之ヲ締結シタルナリ而シテ本条約ヲ通読スレハ其ノ条文ノ意味ヨリモ条約全体ノ精神カ本条約ノ骨子ナルコト明瞭ナリト信ス政府ハ各締約国ト円満ナル協調ヲ保チ其ノ意思ヲ疎通シ以テ大局上ノ平和ヲ維持スルニ貢献セムコトヲ望ム右ノ趣旨ナルカ故ニ委員長御報告ノ通リ速ニ可決セラレムコトヲ請フ」というものであり,当該発言後「議論」がされることはなく,直ちに「議長(清浦〔奎吾〕) 別ニ御発議ナキニ由リ直ニ採決スヘシ本案賛成ノ各位ノ起立ヲ請フ/(全会一致可決)」ということになっています。

1922624日の枢密院会議終了後,同日中に摂政宮裕仁親王においては「外務大臣内田康哉参殿につき謁を賜う。」ということがありました(実録第三655頁)。あるいはそこでは,伊東の小言に関する追加的弁解が内田からせられたものでもありましょうか。

 

(5)四ヵ国条約調印に至る交渉経緯

内田外務大臣に代わって筆者が,四ヵ国条約調印に至る交渉経緯を外務省の『日本外交文書 ワシントン会議 上(大正期第三十六冊ノ一)』(1977年)に基づき説明すると,次のようになります。

 

ア バルフォア私案(19211122日)

まず,日英同盟問題に関する日英全権委員の初会談は,英国全権委員のバルフォア元首相が「一日モ早ク会談シタキ内意ヲ通シ来タリタルニ付」,19211122日に日本全権委員の加藤友三郎海軍大臣及び埴原正直外務次官が「「バ」氏ヲ其ノ宿舎ニ訪ヒ」,行われています。

その際バルフォアは大要「露独ノ崩潰ニ依リ日英同盟成立ヲ促シタル本来ノ理由ハ差当リ消滅シタルモ両国ノ為ニ多大ノ利益ヲ供シタル貴重ノ歴史ヲ有スル該同盟ハ猥ニ之ヲ棄ツ可ラス且今日一時消滅シタル理由ハ将来再ビ発生スルナキヲ保セサルニ於テ特ニ然リ」と日英同盟は存続されるべきであるとの方向の認識を示唆しつつも「然レトモ今日ノ新ナル事態ニ照ラシテ之ヲ考慮スルハ又極メテ必要ノ事ナル可」きことからとて,その考慮の結果の私案を我が方全権委員に対して示し,かつ,その趣旨について「右ハ日,英,米三国協商ヲ主眼トスルモノニシテ米国カ積極的義務ヲ負フ同盟ヲ締結セサル可キハ明ナルニ付米国ノ同意シ得ヘキ形式ヲ採用スルト共ニ将来必要発生ノ場合ハ日,英両国ニ関スル限日英同盟ヲ復活シ得ヘキ自由ヲ留保シ置クノ」ものであると説明しています。また,実は我が方全権委員に対するより先に同案は米国政府に内示されており,バルフォアが述べるには「又既ニ内密米国国務長官〔ヒューズ〕ニモ示シ同官ヨリ「又米国全権ニモ内示シタルモ之ニ対シ何等ノ意見ヲ述ヘス云々」」とのことだったそうです。(外務省・上547-548頁)

バルフォア私案は次のとおりでした。

 

With object of maintaining general peace in regions of eastern Asia and of protecting existing territorial rights of the High Contracting Parties in islands of the Pacific Ocean and territories bordering thereon, it is agreed

(1) That each of High Contracting Parties shall respect such rights themselves and shall consult fully and frankly with each of them as to best means of protecting them whenever in opinion of any of them they are imperilled by action of another power.

(2) If in future territorial rights (referred to in Article 1) of any of the High Contracting Parties are threatened by any of other power or combination of powers, any two of the High Contracting Parties shall be at liberty to protect themselves by entering into military alliance provided (a) this alliance is purely defensive in character and (b) that it is communicated to other High Contracting Parties.

(3) This arrangement shall supersede any Treaty of earlier date dealing with defence of territorial rights in regions to which this arrangement refers.

  (外務省・上548-549頁)

 

日英同盟を継続すれば米国において誤解が生じ,無用となったからとて破棄すれば日本において誤解を生ずるというディレンマに陥った英国が採るべき方策は「この古く有効期間が過ぎ,かつ,不要となった合意をいわば無効とし,融合させ,破壊し,そして,広大な太平洋地域における全ての関係諸国を包含すべき何か新しく,何か有効なものをもって置き換えること」であったものです(外務省・上603-607頁掲載の19211210日にされたワシントン会議総会におけるバルフォア演説参照)。

 

イ 幣原私案(19211126日)

バルフォア私案を承けた幣原私案が英米全権委員に示されたのは19211126日であるものと一応解されます。『日本外交文書 ワシントン会議 上(大正期第三十六冊ノ一)』においては,「(ママ)月二十七日ワシントン発」とされる公電の内容として「幣原大使一個ノ試案トシテ十一月二十(ママ)日佐分利参事官ヲシテ「バルフォア」氏ヲ訪ヒ次イデ「ヒューズ」氏ヲ訪ヒ夫々手交方取計ラハシメタリ」とあるところ,同公電の後の部分では「「ヒ」氏は〔略〕明日ハ幸ヒ日曜日ナルヲ以テ篤ト〔略〕研究スベキ旨ヲ答ヘタ」そうですから(552-553頁),土曜日たる19211126日がその日でしょう。

幣原私案は「大局ノ帰趨並ニ四囲ノ状況ニ照シ我方ニ於テモ日英同盟ニ換フルニ三国協商ヲ以テスルニ異議ナキ旨ヲ遅滞ナク英国側ニ知ラシメ置クコト緊要ナリト認メタルヲ以テ不取敢〔とりあえず〕」作成したものであるそうです(外務省・上552頁)。方向として異議はないものの,東京の外務本省から何らの訓令もなしでは,手ぶらで,バルフォア案を丸呑みするよと端的に回答しには行けずにいるところ,時期切迫の折柄,ワシントン会議出席の日本全権委員団としては賛成であって・それが証拠に東京からの訓令を待ちつつ真面目にこのように内容の研究もしているよ,ということをまずは示す手土産としての私案作成だったのでしょうか。「「バルフォア」氏ニ手交セシムルニ当リ本案文ハ幣原大使ガ「バ」氏ノ案ヲ参照シタル上作製シタルモノニテ成ルベク米国側ノ承諾ヲ容易ナラシムル様文句ニ注意シタル事右ハ特ニ政府ノ訓令ニ依リ起案シタルモノニ非ズ然レ共今日迄受ケ居ル訓令ニ反スルモノニモ非ザル事及他ノ全権ニ於テモ之ヲ試案トシテ「バルフォア」及「ヒューズ」両氏ニ示スニ異存ナキコト政府ノ適確ナル意見ハ案文ヲ政府ニ電報シテ回訓ニ接シタル上ニ非ザレバ明カナラザル事ヲ述ベシメタリ」という留保の多い・言い訳的説明とともに手交がされています(外務省・上552頁)。

しかし,確かに伊東の指摘するように,日英同盟の存続いかんは本来専ら日英間の問題であって,バルフォアとしても「該同盟問題カ直接ノ形ニ於テ華府会議ニ持チ出サル可キ筈ナシト思考スル」(ただし,「間接ノ関係ニ於テハ論議ヲ免レサル可シ」)と1122日には加藤・埴原両全権委員に話していたところです(外務省・上547頁)。にもかかわらず,その辺の()に安心することもなく,いきなり米国本位に「成ルベク米国側ノ承諾ヲ容易ナラシムル様文句ニ注意」して起案したとは,確かに前のめりの印象ではありました。(なお,19211211日にワシントンの我が全権委員から内田外務大臣宛てに発せられ,同月14日に到達した公電では,幣原私案が四ヵ国条約成立に向けて果たした役割について,「「バルフォア」当地着後間モ無ク三国協商ニ関スル同氏ノ私案ヲ「ヒューズ」ニ提出シ米国政府ノ内意ヲ探リタルガ右私案ノ明文中ニハ軍事同盟ヲ復活スルコトアルベキ場合ヲ予想シアリ「ヒューズ」ハ斯ノ如キ条項ガ米国輿論ノ誤解ヲ招クヘキヲ恐レ且他ノ一方ニ於テ日本側ノ意嚮モ全然不明ナリシ為暫ク本問題ヲ考量中ナリシ折柄当方ヨリ幣原試案トシテ内示セル三国協商案ハ「ヒューズ」を始め「ロッヂ」及び「ルート」ヲシテ意ヲ決セシムルノ動機ヲ与ヘ急ニ本件ノ交渉ヲ進捗スルコトトナリタルモノト察セラル以上ノ消息ハ「ヒューズ」ノ127日提出セル協商案ガ我方ノ試案ヲ骨子トセルニ依リテモ推測スルニ難カラズ」と述べられています(外務省・上590頁)。)

 幣原案は,次のとおりでした。

 

(1) If, in the future, the territorial rights or vital interests of any of the High Contracting Parties in the regions of the Pacific Ocean and of the Far East should be threatened either by the aggressive action of any third power or powers, or by a turn of events which may occur in those regions, the High Contracting Parties shall communicate with one another fully and frankly, in order to arrive at an understanding as to the most efficient measures to be taken, jointly or separately, to meet the exigencies of the particular situation.

(2) If in the matters affecting regions aforesaid, there should develop between any two of the High Contracting Parties controversies which are likely to affect the relations of harmonious accord now happily subsisting between them, it shall be open to such Contracting Parties, in mutual agreement with each other, to invite the other Contracting Party to a joint conference, to which the whole subject matters will be referred for consideration and adjustment.

(3) The present agreement shall supersede the Agreement of Alliance hitherto in force between Japan and Great Britain.

  (外務省・上553-554頁)

 

1条に“an understanding as to the most efficient measures to be taken, jointly or separatelyとあるところ,「共同で又は各個に執られるべき最も効率的な措置に係る了解」には日英2国による共同軍事行動に係るものが含まれるのだ,ということでしょうか。しかし,“to meet the exigencies of the particular situation”ということで,「当該個別事態の必要に応ずるため」の措置に係る了解ということですから,軍事同盟というほどの永続性は有さないものという含意があるのでしょう。なお,四ヵ国条約に関する19211214日の内田外務大臣の記者会見談話は,四ヵ国条約に係る平和主義的な解釈を示すものであって,「第三国ノ侵略的脅威ヲ被リタル場合之ニ応スル手段措置ニ就キ其都度意見ノ交換ヲ行ヒ以テ平和的手段ニヨリ解決セントスルモノナリ」,「第三国ノ侵略的行為ニ依リ脅威セラルル場合ニハ共同又ハ各別ニ其ノ執ルヘキ最有効ナル措置ニ関シテ了解ヲ遂ケン為隔意ナク交渉スルモノニシテ協約国カ共同シテ軍事行動ニ出ツルカ如キハ協約ノ解釈上当然ニ予想サルル所ニ非ラサルナリ強イテ軍事行動ヲ執ルカ如キ場合ヲ想像スレハ協商国カ隔意ナキ協議ノ上共同軍事行動ヲ執ルヲ最善トスルニ一致セル場合ナリトス」と述べられています(外務省・上592頁)。

また,幣原案の第3条では,バルフォア案の第3条ではそれとしてなお明示されていなかった日英同盟協約が,日英米三国協商によって取って代わられるものとしてはっきり示されています。

 

ウ バルフォア修正案(19211126日)

幣原案を示されたバルフォアは,その場でそれに修正を加えますが(外務省・上552-553頁),その結果は次のとおりです。

 

(1) If, in the future, In regard to the territorial rights or vital interests of any of the High Contracting Parties in the regions of the Pacific Ocean and of the Far East, it is agreed that should be if these are threatened either by the aggressive action of any third power or powers, or by a turn of events which may occur in those regions, the High Contracting Parties shall communicate with one another fully and frankly, in order to arrive at an understanding as to the most efficient measures to be taken, jointly or separately, to meet the exigencies of the particular situation.

(2) If in the matters affecting regions aforesaid, The High Contracting Parties further engage to respect these rights as between themselves and if there should develop between any two of the High Contracting Parties them controversies on any matter in the aforementioned regions which are is likely to affect the relations of harmonious accord now happily subsisting between them, it shall be open to such Contracting Parties, in mutual agreement with each other, they agree to invite the other Contracting Party to a joint conference, to which the whole subject matters will be referred for consideration and adjustment.

(3) The present agreement shall supersede the Agreement of Alliance hitherto in force between Japan and Great Britain.

  (外務省・上554-555頁)

 

エ フランスの参加を求める米国の希望(19211128日)

日英米三国協商にフランスを加えることは,19211128日のバルフォアとヒューズとの英米会談において米国のヒューズ国務長官から持ち出されたものです。英国のハンケー事務総長の説明によれば「国務長官ハ米国内ニ於テ今尚ホ強キ反英及排日思想ノ存在スル事実ハ之ヲ無視スルヲ得サルヲ以テ日英両国ノミヲ相手トシテ協定ヲ為ストキハ之ニ対シ有力ナル反対ヲ誘致スル危険決シテ尠シトセス故ニ之ヲ緩和スル為仏国ヲモ加フルコト得策ナルヘク尤モ他ノ一面ニ於テ多数ノ国ヲ交ヘテ協定ノ効力ヲ薄弱ナラシムルヲ欲セストノ日本側ノ意見モ十分之ヲ諒トスルカ故ニ仏国以外ノ国ハ之ヲ除外スルコト然ルヘク之カ為ニハ協定ノ目的及範囲ヲ単ニ太平洋ノミン限リ支那ニ関シテハ関係諸国間ニ別ニ一ノ協定ヲ挙クルコトトスヘク」云々ということだったそうです(外務省・上565頁)。米国内の「反英及排日思想」緩和のためのおフランスであり,それ以外の他国謝絶のための太平洋限定だったのでした。


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第1 一つの蝦夷地(総称)から北海道及び樺太への分離に関して

 

1 北海道には,北海道島は含まれるが樺太島は含まれない。

 前稿である「光格天皇の御代を顧みる新しい「国民の祝日」のために」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081364304.html)においては,つい北海道「命名」150年式典(201885日に札幌で挙行)に関しても論ずることになり,その際明治二年七月八日(1869815日)の職員令により設置された開拓使による開拓の対象には,当初は北海道のみならず樺太も含まれていたことに触れるところがありました。そうであれば,しかし,日本国五畿八道の八道の一たる北海道に,北海道島と同様に開拓がされるべきものであった樺太島の地が含まれなかったのはなぜであるのかが気になってしまうところです。

 

2 明治初年の開拓官庁の変遷

 ところで,2018年において北海道「開拓」(の数えでの)150年が記念されなかったことについては,王政復古後の明治天皇の政府において「諸地開拓を総判(総判諸地開拓)」すべき機関の設置は,実は1869年の開拓使が初めてのものではなかったからであって,折角天皇皇后両陛下の行幸啓を仰いでも,当該趣旨においては十日の菊ということになってしまうのではないかと懸念されたからでもありましょうか。

 

(1)外国事務総督及び外国事務掛から外国事務局を経て外国官まで

すなわち,既に慶応四年=明治元年一月十七日(1868210日)の三職(総裁,議定及び参与)の事務分課に係る規定において,議定中の外国事務総督が「外地交際条約貿易拓地育民ノ事ヲ督ス」るものとされて,「拓地育民」が取り上げられており(併せて,参与の分課中に外国事務掛が設けられました。),同年二月三日(1868225日)には外国事務総督と外国事務掛とが外国事務局にまとめられた上(「外国交際条約貿易拓地育民ノ事ヲ督ス」るものです。),同年閏四月二十一日(1868621日)の政体書の体制においては,外国官が「外国と交際し,貿易を監督し,疆土を開拓することを総判(総判外国交際監督貿易開拓疆土)」するものとされていたのでした(以上につき,山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)4-5頁,7-8頁,1114頁及び2026頁参照)。外国交際と直接関係する疆土(「疆」は,「さかい」・「領土の境界」の意味です(『角川新字源』(1978年))。)の開拓ということですから,当該開拓の事業は,対外問題(有体に言えば,ロシア問題)対策の一環として明治政府によって認識されていたものでしょう。

 

(2)北蝦夷地(樺太)重視からの出発

 ロシア問題対策のための疆土開拓ということであれば蝦夷地開拓ということになりますが,その場合,四方を海に囲まれた北海道(東西蝦夷地)よりも,ロシア勢力と直に接する樺太(北蝦夷地)こそがむしろ重視されていたのではないでしょうか。

 

ア 慶応四年=明治元年三月九日の明治天皇諮詢

 早くも慶応四年=明治元年三月九日(186841(駿府で徳川家家臣の山岡鉄太郎が,江戸攻撃に向けて東進中の官軍を率いる西郷隆盛と談判した日です。))に,明治「天皇太政官代ニ臨ミ三職ヲ召シテ高野保建少将清水谷公考建議ノ蝦夷開拓ノ可否ヲ諮詢ス群議其利ヲ陳ス〔略〕復古記」ということがありましたが(「群議其利ヲ陳ス」の部分は,太政官日誌では「一同大ヒニ開拓可然(しかるべき)()旨ヲ言上ス」ということだったそうです。),そこでの高野=清水谷の建議書(二月二十七日付け)には「蝦夷島周囲二千里中徳川家小吏()一鎮所而已(のみ)無事()時モ懸念御坐(さうらふ)(ところ)今般賊徒 御征討(おほせ) 仰出(いでられ)候ニ付テハ東山道徃来相絶シ徳川荘内等()者共(ものども)彼地(かのち)ニ安居仕事(つかまつること)難相(あひなり)(がたく)島内民夷ニ制度無之(これなく)人心如何(いかが)当惑(つかまつり)候儀ニ有之(これある)ヘクヤ不軌ノ輩御坐候ヘハ(ひそか)ニ賊徒ノ声援ヲナシ(まうす)(べく)難計(はかりがたし)魯戎元来蚕食()念盛ニ候ヘハ此虚ニ乗シ島中ニ横行シ(かね)テ垂涎イタシ候北地()(シュン)古丹(コタン)等ニ割拠シ如何様之(いかやうの)挙動可有之(これあるべく)難計(はかりがたく)候ヘハ一日モ早ク以御人撰(ごじんせんをもつて)鎮撫使等御差下シテ御多務中モ閑暇(なさ)為在(れあり)候勢ヲ示シ御外聞ニモ相成候(あひなりさうらふ)(やう)仕度(つかまつりたく)〔中略〕海氷(りう)()()時節相至(あひいたり)候ヘハ魯人軍艦毎年()春内(シュンナイ)罷出候間(まかりいでさうらふあひだ)当月中ニモ御差下(さしくだし)相成候様(あひなりさうらふやう)被遊度(あそばされたき)積リ〔後略〕」とありました(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070634100)。

()(シア)が元来その地について蚕食之念を有しており,かつ,横行が懸念されること並びに久春古丹(大泊,コルサコフ)及び久春内(樺太島西岸北緯48度付近の地)といった地名からすると,ここでいう「蝦夷島」については,北海道島というよりは「北地」たる樺太島が念頭に置かれていたものでしょう。当該建議については,公家の清水谷公考(きんなる)に対する阿波人・岡本監輔の入れ智恵があったそうですが(秋月俊幸「明治初年の樺太――日露雑居をめぐる諸問題――」スラブ研究40号(1993年)2頁),岡本は「尊皇攘夷時代には珍しい北方問題の先駆者の一人で,文久3年(1863)すすんで樺太詰めの箱館奉行支配在住となり,慶応元年(1865)には間宮林蔵によっても実現できなかった樺太北岸の周廻を計画し,足軽西村伝九郎とともにアイヌ8名の助力をえて,独木舟で北知床岬を廻り,非常な苦労ののち樺太北端のエリザヴェータ岬(ガオト)に達し,西岸経由でクシュンナイに帰着した」という「ロシアの樺太進出に悲憤慷慨して奥地経営の積極化を望んでいた」憂国の士だったそうですから(同頁),当然樺太第一になるべきものだったわけです。

 

イ 慶応四年=明治元年三月二十五日の岩倉策問等(2道設置論)及び箱館府(箱館裁判所)の設置

 慶応四年=明治元年三月二十五日(1868417日)には,議事所において,三職及び徴士列坐の下,「蝦夷地開拓ノ事」について,「箱館裁判所被取建(とりたてられ)候事」,「同所総督副総督参謀等人撰ノ事」及び「蝦夷名目被改(あらためられ)南北二道被立置(たておかれ)テハ何如(いかん)」との3箇条の策問が副総裁である岩倉具視議定からされています(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070634300)。蝦夷地の改称の話は既にこの時点で出て来ていますが,ここでの2道のうち南の道が後の北海道(東蝦夷地及び西蝦夷地)で,北の道は樺太(北蝦夷地)なのでしょう。これらの点については更に,同年四月十七日(186859日)の「蝦夷地開拓ノ規模ヲ仮定ス」と題された「覚」7箇条中の最初の2箇条において「箱館裁判所総督ヘ蝦夷開拓ノ御用ヲモ御委任有之(これあり)候事」及び「追テ蝦夷ノ名目被相改(あひあらためられ)南北二道ニ御立(なら)()早々測量家ヲ差遣(さしつかはし)山川ノ形勢ニ随ヒ新ニ国ヲ分チ名目ヲ御定有之(これあり)候事」と記されているとともに,第6条において「サウヤ辺カラフトヘ近ク相望(あひのぞみ)候場所ニテ一府ヲ被立置度(たておかれたく)候事」と述べられています(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070634500)。箱館裁判所の設置は同月十二日(186854日)に既に決定されており,同裁判所は,同年閏四月二十四日(1868614日)に箱館府と改称されています(秋月2頁)。

 

ウ 明治二年五月二十一日の蝦夷地開拓の勅問

 箱館府を一時排除して五稜郭に拠り,最後まで天朝に反抗していた元幕臣の榎本武揚らが開城・降伏してから3日後の明治二年五月二十一日(1869630日)には,皇道興隆,知藩事被任及び蝦夷地開拓の3件につき明治天皇から政府高官等に勅問が下されています。そのうち蝦夷地開拓の条は次のとおりでした。

 

  蝦夷地ノ儀ハ 皇国ノ北門直チニ山丹満州ニ接シ経界粗々(あらあら)定マルトイヘドモ北部ニ至ツテハ中外雑居イタシ候所(さうらふところ)是レマテ官吏ノ土人ヲ使役スル甚ハタ苛酷ヲ極ハメ外国人ハ頗フル愛恤(あいじゅつ)ヲ施コシ候ヨリ土人往々我カ邦人ヲ怨離シ彼レヲ尊信スルニ至ル一旦民苦ヲ救フヲ名トシ土人ヲ煽動スルモノ()レアルトキハ其ノ禍(たち)マチ函館松前ニ延及スルハ必然ニテ禍ヲ未然ニ防クハ方今ノ要務ニ候間(さうらふあひだ)函館平定ノ上ハ速カニ開拓教導等ノ方法ヲ施設シ人民繁殖ノ域トナサシメラルヘキ儀ニ付利害得失(おのおの)意見忌憚無ク申出ツヘク候事

  (アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070159100

 

ここでの「蝦夷地」は,東蝦夷地,西蝦夷地及び北蝦夷地のうち,北蝦夷地こと樺太のことでしょう。(なお,北蝦夷地ならざる東蝦夷地及び西蝦夷地の振り分けについていえば,明治二年八月十五日(1869920日)の太政官布告による北海道11箇国のうち,東部は胆振,日高,十勝,釧路,根室及び千島の6箇国,西部は後志,石狩,天塩及び北見の4箇国とされていました。11箇国目の渡島国は,東部・西部のいずれにも分類されていません。)山丹は黒龍江下流域のことですが,ユーラシア大陸の「山丹満州ニ接シ」ているのは,地図を見ればすぐ分かるとおり,北海道島ではなく,樺太島でしょう。「経界粗々定マルトイヘドモ北部ニ至ツテハ中外雑居イタシ候所」というのは,185527日に下田で調印された日魯通好条約2条後段の「「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是まて仕来の通たるへし」を承けた樺太島内の状況を述べるものでしょう。「是レマテ官吏ノ土人ヲ使役スル甚ハタ苛酷ヲ極ハメ外国人ハ頗フル愛恤ヲ施コシ候ヨリ土人往々我カ邦人ヲ怨離シ彼レヲ尊信スルニ至ル」については,文久元年(1861年)に,樺太においてトコンベ出奔事件というものがあったそうです。

 

   事件は,文久元年(1861)に北蝦夷地のウショロ場所〔樺太島西岸北緯49度付近〕で漁業に従事していたアイヌのトコンベが,番人の暴力に耐えかねてシリトッタンナイ〔樺太島西岸ウショロより北の地〕のロシア陣営に逃げ込んだことが発端であった。北蝦夷地詰の箱館奉行所官吏はロシア側の責任者であったジャチコーフにトコンベの引き渡しを要求したが,ジャチコーフはアイヌ使役の自由を主張して奉行所官吏の要求を拒否した。その後,トコンベは翌文久二年(1862)正月,ウショロに立ち戻ったところを奉行所役人に捕縛され久春内に移送された。しかし,同年三月にはジャチコーフが久春内に来航し,トコンベの引渡しを要求した。最終的にジャチコーフは暴力を伴いトコンベを「奪還」した。さらに,ウショロに在住したトコンベの家族やその周囲のアイヌ17人を連れ去るという事件に発展した。

  (檜皮瑞樹「19世紀樺太をめぐる「国境」の発見――久春内幕吏捕囚事件と小出秀実の検討から――」早稲田大学大学院文学研究科紀要:第4分冊日本史学・東洋史学・西洋史学・考古学・文化人類学・アジア地域文化学544号(20092月)18-19頁)

 

 ということで,明治二年五月二十一日(1869630日)の勅問は,樺太島重視の姿勢が窺われるものであったのですが,同年七月八日(1869815日)の職員令による開拓使設置を経た同年八月十五日(1869920日)の前記太政官布告においては,道が置かれたのは東西蝦夷地までにとどまり,樺太島は,新しい道たる北海道から外れてしまっています。(当該太政官布告により「蝦夷地自今(いまより)北海道ト被称(しょうされ)11ヶ国ニ分割」なので(下線は筆者によるもの),渡島,後志,石狩,天塩,北見,胆振,日高,十勝,釧路,根室及び千島の11箇国のみが北海道を構成するということになります。一番北の北見国には宗谷,利尻,礼文,枝幸,紋別,常呂,網走及び斜里の8郡が置かれていますが,宗谷郡,利尻郡又は礼文郡に樺太島が属したということはないでしょう。北海道庁版権所有『北海道志 上巻』(北海道同盟著訳館・1892年)5頁によれば,蝦夷地北海道改称の際「樺太ノ称ハ旧ニ仍ル」ということになったそうです。)蝦夷地開拓に係る上記勅問の段階からわずか3箇月足らずの期間中に,樺太の位置付けが低下したようでもあります。この間一体何があったのでしょうか。

 

3 函泊露兵占領事件及び樺太島仮規則(日露雑居制)確認並びにパークス英国公使の勧告 

 

(1)函泊露兵占領事件

 明治二年六月二十四日(186981日)に「露兵,樺太函泊を占領,兵営陣地を構築」(『近代日本史総合年表 第四版』(岩波書店・2001年))という事態が生じています。

「日本の本拠地クシュンコタンの丘一つ隔てた沢にあるハッコトマリ(凾泊)にデ・プレラドヴィチ中佐(この頃大隊長となる)の指揮する50人ほどのロシア兵が上陸し,陣営の構築を始めた。そこは場所請負人伊達林右衛門と栖原小右衛門が共同で経営するアニワ湾の一漁場で,海岸は水産乾場として使われ,多数の鰊釜が敷設されていた。ロシア側は丘の上に兵営を建てるので漁場の邪魔にはならぬと弁解したが,そこもアイヌの墓地となっており,アイヌたちはロシア人の立入りを止めさせるよう繰返し日本の役所に訴えている。しかし,デ・プレラドヴィチは,兵営の設置は本国からの命令によるものとして日本側の抗議を無視した。ロシア側は仮規則〔本稿の主題たる後出1867年の日露間の樺太島仮規則〕を盾にこの地に陣営を設けたのであるが,その意図はクシュンコタンに重圧をかけ,日本人の樺太からの退去を余儀なくする準備であった。やがてここにはトーフツから東シベリア第4正規大隊の本部が移され,多数の徒刑囚も到着して,その後の紛糾のもととなるのである。」(秋月3-4頁)ということです。

 

(2)樺太問題に係るパークス英国公使の寺島外務大輔に対する忠告

樺太担当(久春古丹駐在)の箱館府権判事(開拓使設置後は開拓判官)となっていた「岡本〔監輔〕が上京して開拓長官鍋島直正や岩倉具視,大久保利通らの政府要人たちにロシア軍の凾泊上陸を報告し,日本の出兵を訴えて間もない」(秋月4頁,2頁)同年八月一日(186996日)には,外務省で「寺島〔宗則〕外務大輔はパークス英国公使と会談し,英国側から北地におけるロシアの進出について厳しく忠告を受けた。日本政府は現地の情報に疎く,樺太の情勢だけでなくロシアの動向についてまったくと言ってよいほど捕捉していなかった。〔中略〕「小出大和〔守秀実〕魯都ニ参り雑居之約定取極メ調印致し候ニ付,此約定〔樺太島仮規則〕ハ動(ママ)〔す〕へからさる者に候。恐く唐太全島を失ふ而已(〔のみ〕)ならす蝦夷地に及ふへし」と,パークスの忠告は切迫した内容であった。」ということになっています(笠原英彦「樺太問題と対露外交」法学研究731号(2000年)102-103頁。『大日本外交文書』第2巻第2455-459頁,特に458頁)。更にパークスは,「唐太に於て無用に打捨あるを魯人ひろふて有用の地となす誰も是をこばむ能はさるを万国公法とす」と,日本がむざむざ樺太を喪失した場合における列強の支援は望み薄であるとの口吻でした(『大日本外交文書』第2巻第2458)。

 

(3)樺太島仮規則に係る明治政府官員の当初認識

 パークスが寺島外務大輔に樺太島仮規則の有効性について釘を刺したのは,我が国政府の樺太担当者が当該規則の効力を否認していたからでした。

例えば,樺太島における岡本監輔の明治二年五月二十六日(186975日)付けロシアのデ・プレラドヴィチ宛て書簡では,「貴方所謂(いはゆる)日本大君と(まうす)は国帝に無之(これなく)徳川将軍事にて二百年来国政委任に(あひ)成居候得共(なりをりさうらへども)将軍限りにて外国と国界等取極(さうろふ)(はず)無之処(これなきところ)(その)臣下たる小出大和守〔秀実〕輩一存を(もつて)雑居等相約候(あひやくしさうらふ)は僭越(いたり)申迄も無之(これなく)」して「不都合の次第」であるとし,「吾所有たる此〔樺太〕島を貴国吾国及ひ土人三属の地と御心得被成候(なられさうらふ)余り御鄙見にて貴国皇帝御趣意とは不存(ぞんぜず)ところ,仮規則締結については「貴国にても其権なき者と御約し被成候(なられさうらふ)は御不念事に可有之(これあるべく)と述べて日本側の「小出大和守輩」は無権代理人であったとし,かつ,勿論(もちろん)(この)島の儀未タ荒蕪空間の地所も有之(これある)(つき)土人漁民其外小前の者に至迄(いたるまで)差支無之(これなき)場所は開拓家作等(なら)(れさ)(うらひ)ても(よろ)(しく)御坐候に付此段此方詰合(つめあひ)()御届被成(なられ)差図被受(うけられ)(さうらふ)(やう)致度(いたしたく)候」として(以上『大日本外交文書』第2巻第1933-935頁),樺太島仮規則2条の「魯西亜人〔略〕全島往来勝手たるへし且いまた建物並園庭なき所歟総て産業の為に用ひさる場所へは移住建物等勝手たるへし」との規定にもかかわらず,「荒蕪空間の地所」についてもロシア人の勝手はならず日本国の官庁に届け出た上でその指示に従うべしと,樺太島南部における(同島周廻者である岡本の主観では,樺太全島における)我が国の排他的統治権を主張していました。

「雑居」を認める樺太島仮規則の効力を,小出秀実ら当該規則調印者の権限の欠缺を理由に否定した上で(民法(明治29年法律第89号)113条参照),それに先立つ日魯通好条約2条後段の「界を分たす是まて仕来の通たるへし」との規定は,樺太島における日露雑居を認めるものではなく,日露の各単独領土の範囲は「是まて仕来の通」であることを確認しつつ,その境界(岡本の主観では,間宮海峡がそれであるべきものでしょう。)の劃定がされなかったことを表明するにすぎないもの,と解するものでしょう(以下「境界不劃定説」といいます。)。

(ここで,「境界の劃定」とは何かといえば,その意義について美濃部達吉はいわく,「領土の変更とは領土たることが法律上確定せる土地の境界を変更することであり,境界の劃定とは何処に国の境界が有るかの不明瞭なる場合に実地に就いて之を確認し明瞭ならしむることである。一は権利を変更する行為であり,一は既存の権利を確認する行為である。即ち一は創設行為たり一は宣言行為たるの差がある。境界の確定は殊に陸地に於いて外国と境界を接する場合に必要であつて,ロシアより樺太南半分の割譲を受けた場合には,講和条約附属の追加約款第2に於いて両国より同数の境界劃定委員を任命して実地に就き正確なる境界を劃定すべきことを約し,此の約定に従つて翌年境界の劃定が行はれた。」と(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)88-89頁)。190595日に調印されたポーツマス条約に基づく日露間の境界劃定は北緯50度の線がどこにあるかを測定して決めることであったわけですが,1855年の下田条約(日魯通好条約)に基づく国境劃定を行う場合であれば,まず「是まて〔の〕仕来」が何であるかの確定から始まることになったわけのものでしょう。)

しかし,下田条約2条後段の文言は境界不劃定説によるものであり,かつ,一義的にそう解され得るものであったかどうか。後に考察します。

 

(4)明治政府要人との会見における樺太問題に係るパークスの慎重論

明治二年八月九日(1869914日)には,「パークスは東京運上所において,岩倉〔具視〕大納言・鍋島〔直正〕開拓長官・沢〔宣嘉〕外務卿・大久保〔利通〕参議・寺島〔宗則〕外務大輔・大隈〔重信〕大蔵大輔ら新政府の有力者たちと会見し,再び樺太問題を討議した。さきに寺島との会談で樺太への積極策〔日本側もクシュンコタン近辺に要害の地を占めること(「クシユンコタン辺に要害の地をしむれは唐太の北地処に人をうつすよりも切速なり」(『大日本外交文書』第2巻第2458頁))〕を勧めたパークスは,このたびは一変して「樺太はすでに大半がロシアに属しており,今から日本が着手するのは遅すぎる」ことを力説した。すでに彼は〔英国商船〕ジョリー号船長ウィルソンの〔ロシア軍の凾泊進出に係る〕詳報を検討の結果,ロシアがアニワ湾に2000人の兵力を集結して(これは過大である),日本人の追出しを意図していることを知ったのである。彼は日本側から近く高官とともに多数の移民を送る計画を聞いて,「それは火薬の傍らに火を近づけるのと同じ」といい,北海道の開拓に力をそそぐことを要望した。」という運びになっています(秋月5頁)。

「唯今に至り唐太を御開き被成(なられ)候は御遅延の事と存候」,「唐太を先に御開き被成(なられ)候は住居の屋根(ばか)りあつて礎無之(これなし)と申ものに有之(これあり)候」,「1867年小出大和守の約定は魯西亜と日本との人民雑居と申事に候へは当今同国人参り候ても追出し候権無之(これなき)事と存候」,「サカレン()御心配被成候内(なられさうらふうち)蝦夷は被奪(うばはれ)可申(まうすべく)候」というようなパークスの発言が記録されています(『大日本外交文書』第2巻第2465-478頁のうち,470頁,471頁,474頁及び477頁)。なお,同日段階では我が国政府は北海道島よりも樺太島の開拓を先行させるつもりであったようであり,「同所()は魯国人の来りしに付唐太を先に開らき候事にて蝦夷地ヲ差置候と申事には無之(これなく)候」及び「(まづ)差向唐太の方に尽力いたし候積に候」というような発言がありました(『大日本外交文書』第2巻第2472頁)。 

 蝦夷地改称に係る明治二年八月十五日の前記太政官布告が樺太島について触れなかったのは,樺太はもう駄目ではないかとパークスに冷や水を浴びせかけられてしまったばかりの我が国政府としては,きまりが悪かったからでしょうか。ただし,改称された北海道を11箇国に分割するところの当該太政官布告は,少なくともこれらの国が置かれた東西蝦夷地については,他の五畿七道諸国と同様のものとしてしっかり守ります,との決意表明ではあったのでしょう。なお,八月九日に我が国政府は,パークスからの「〔樺太島における事件に関し〕右様〔「御国内の事件を御存し無之(これなき)事」〕にては蝦夷地を被奪(うばはれ)(さうらふ)(とも)御存し有之(これある)間敷(まじく)」との皮肉に対して,「(これ)(より)開拓の功を成し国割にいたし郡も同しく分割いたし候積に候」と言い訳を述べていますところ(『大日本外交文書』第2巻第2476),そこでは,樺太島にも国及び郡を置くものとまでの明言はされてはいませんでした。

 

4 北海道と樺太との取扱いの区別へ

 

(1)三条右大臣の達し

 蝦夷地を北海道と改称した翌九月には(『法令全書 明治二年』では九月三日(1869107日)付け),三条実美右大臣から開拓使宛てに次のように達せられています(『開拓使日誌明治二年第四』)。

 

                              開拓使

  一北海道ハ

   皇国之北門最要衝之地ナリ今般開拓被仰付(おほせつけられ)候ニ付テハ(ふかく)

   聖旨ヲ奉体シ撫育之道ヲ尽シ教化ヲ広メ風俗ヲ(あつく)()キ事

  一内地人民漸次移住ニ付土人ト協和生業蕃殖(さうろふ)(やう)開化(こころ)ヲ尽ス可キ事

  一樺太ハ魯人雑居之地ニ付専ラ礼節ヲ主トシ条理ヲ尽シ軽率之(ふる)(まひ)曲ヲ我ニ取ルノ事アル可ラス自然(かれ)ヨリ暴慢非義ヲ加ル事アルトモ一人一己ノ挙動アル可カラス(かならず)全府決議之上是非曲直ヲ正シ渠ノ領事官ト談判可致(いたすべく)(その)(うへ)猶忍フ可カラサル儀ハ 廷議ヲ経全圀之力ヲ以テ(あひ)応スヘキ事ニ付平居小事ヲ忍ンテ大謀ヲ誤マラサル様心ヲ尽スヘキ事

  一殊方(しゆはう)〔『角川新字源』では,「異なった地域」・「異域」。もちろんここでは「外国」ではないですね。〕新造之国官員協和戮力ニ非サレハ遠大()業決シテ成功スヘカラサル事ニ付上下高卑ヲ論セス毎事己ヲ推シ誠ヲ(ひら)キ以テ従事決シテ面従腹非()儀アル可カラサル事

    九月        右大臣                                                                               

 

 最北の樺太ではなく,宗谷海峡を隔てたその南の北海道こそが「皇国之北門最要衝之地」であるものとされています。樺太については,ロシア人に気を遣って忍ぶべしと言われるばかりで,どうも面白くありません。東西蝦夷地のみに係る北海道命名の意義とは,東西蝦夷地と北蝦夷地との間のこの相違を際立たせることでもあったのでしょう。最終項に「新造之国」とありますが,当該新造之国11箇国の設置は北海道についてのみであったことは,既に述べたとおりです。

 北海道の命名を華やかに祝うに際しては,陰の主役たる失われた樺太(及び当該陰の主役に対するところの某敵役)をも思い出すべきなのでしょう。

 

(2)樺太放棄論者黒田開拓次官

 明治三年五月九日(187067日)兵部大丞黒田清隆が樺太専務の開拓次官に任ぜられますが,担務地たる樺太を視察した黒田はその年十月に政府に建議を行います。いわく,「夫レ樺太ハ魯人雑居ノ地ナルヲ以テ彼此親睦事変ヲ生セサラシメ(しかる)(のち)漸次手ヲ下シ功ヲ他日ニ収ムルヲ以テ要トス然レトモ今日雑居ノ形勢ヲ以テ(これ)ヲ観レハ僅ニ3年ヲ保チ得ヘシ」云々と(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070638700)。(ちなみに,鷗外森林太郎翻訳の『樺太脱獄記』(コロレンコ原作)において描かれた樺太島から大陸への脱獄劇を演じたロシアの囚人らが同島に到着した時期は,この年の夏のことでした。)また,同年十一月,黒田は「米国ニ官遊」しますが(樺太庁長官官房編纂『樺太施政沿革』(1912年)後篇上・従明治元年至同8年樺太行政施設年譜4頁),その際黒田は「上言シテ(いはく)力ヲ無用ノ地〔筆者註:樺太のことですね。〕ニ用テ他日ニ益ナキハ寧ロ之ヲ顧ミサルニ若カス故ニ之ヲ棄ルヲ上策ト為ス便利ヲ争ヒ紛擾ヲ致サンヨリ一着ヲ譲テ経界ヲ改定シ以テ雑居ヲヤムルヲ中策ト為ス雑居ノ約ヲ持シ百方之ヲ嘗試シ左支右吾遂ニ為ス可カラサルニ至ツテ之ヲ棄ルヲ下策ト為スト」ということがあったそうです(明治62月付け黒田清隆開拓次官上表(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A03023618600))。要は,黒田の樺太放棄論(「上策」)は明治三年中から始まっていたようです。

このようなことになって,「これまで樺太の維持のため努力を重ねてきた岡本監輔は,このような黒田の方針に追従できず,明治3年末に辞表を提出し,許可も届かないうちに離島した〔略〕。その後の樺太行政は,ロシアの軍事力に対抗して開拓を推進するよりは,むしろ移民や出稼人たちの保護に重点が移されたのである。」ということになりました(秋月7頁)。岡本の樺太統治の夢及び努力は,「樺太の行政官として下僚80余名と移民男女200余名を率いて,慶応46月末クシュンコタン(楠渓)に着任」(秋月2頁)してからわずか2年半ほどで終わりを告げたわけです。

その後,187557日にペテルブルクで調印され同年822日に批准書が交換された日露間の千島樺太交換条約によって,全樺太がロシア帝国の単独領有に帰したことは周知のとおりです。


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草田男句碑
  降る雪や明治は遠くなりにけり   中村草田男(
1931年)

                  ――明治の終焉は,1912730日のことでした。

 

1 文化の日と「明治の日」との併記に向けた動き

 今月(202311月)1日付けの共同通信社のニュースに「文化の日に「明治」併記を 超党派議連が法案提出へ」と題されたものがあります(同社ウェブページ)。「超党派の「明治の日を実現するための議員連盟」は〔202311月〕1日,国会内で民間団体と合同集会を開き,明治天皇の誕生日に当たる113日の「文化の日」に「明治の日」と併記を求める祝日法改正案を提出する方針を確認した。来年〔2024年〕の通常国会で成立を目指すとしている。」とのことです。当該議員連盟の会長は自由民主党の古屋圭司衆議院議員であって,上記合同集会には同党のみならず,公明党,立憲民主党,日本維新の会及び国民民主党からも参加があったそうですから,国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)の当該改正は成立しそうではあります。

 「「国民の祝日」を次のように定める」ところの国民の祝日に関する法律2条における文化の日に関する部分は,現在次のようになっています。

 

  文化の日 113日 自由と平和を愛し,文化をすすめる。

 

 前記ニュースによれば,当該合同集会で古屋会長は「「明治は,日本が近代国(ママ)に生まれ変わった重要な足跡だ」と訴え」たそうですから,文化の日と「明治の日」とが併記された後の国民の祝日に関する法律2条の当該部分は次のようになるのでしょうか。

 

  文化の日 113日 自由と平和を愛し,文化をすすめる。

明治の日 右同日 日本が近代国家に生まれ変わった重要な足跡である明治の時代を顧み,国の将来に思いをいたす。

 

 しかし,「右同日」との表記や,あるいは重ねて「113日」と書くのは何だか恰好が悪いですね。国民の祝日に関する法律の第2条全体を表方式に変えるべきことになるかもしれません。

 (2023114日追記:なお,本記事掲載後,毎日新聞ウェブサイトにおいて,20231131943分付けの関係記事(「113日に二つの祝日⁉ 「明治の日」併記,折衷案で動く政界」)に接しました。当該記事によって,明治の日を実現するための議員連盟が準備したという法案(新旧対照表方式)の画像を見ることができましたが,同議員連盟は国民の祝日に関する法律2条に表方式を導入するという新機軸を切り拓くまでの蛮気に満ちた団体ではないようで,現在の同条における文化の日の項の次に「明治の日 113日 近代化を果した明治以降を顧み,未来を切り拓く。」という1項を挿入する形が採用されていました(「113」重複方式)。しかし,形式の話は別として,当該趣旨説明の文言はどうでしょうか。文学部史学科日本近代史専攻の学生を募集するための宣伝文句のようでもあり,折からの学園祭の季節,当該専攻の学生らが自らの若々しい研究成果を展示する際の惹句にこそふさわしいようでもあります。また,窮境にある日本の社会・経済・国家が未来を切り拓くためには専ら近代化の一層の推進によるべしということであれば,我が国の文化・伝統・歴史であっても非近代=非西洋的なものは切り捨てるべしというように反対解釈できるようです。ありのままの過去は捨てて,近代化イデオロギーの立場からの歴史の再編成を行おうということになるのでしょうか。あるいは,非西洋的なものを切り捨てるのではなく,専ら非科学技術的なものを切り捨てるのだ,ということかもしれません。そうであれば,西洋化ではなく,むしろ,人為に更に信頼して,進んだ科学的〇〇主義に基づいた理想的近代社会を実現する実験に新たに挑戦するのだということになりそうです。復古主義ではないですね。)

 なお,民間団体たる明治の日推進協議会(田久保忠衛会長)は,文化の日に差し替えて「「近代化の端緒となった明治時代を顧み,未来を切り拓く契機とする」祝日「明治の日」を制定することのほうが有意義ではないか」と考えているとのことです(同協議会ウェブページ)。

 

   しかし,我が国の「近代化の端緒」というならば,185378日(嘉永六年六月三日)のペリー浦賀来航の方が,その前年1852113日の京都中山邸における孝明天皇の皇子誕生よりも重要でしょう。

また,当該協議会は,1946113日(日曜日)に貴族院議場で行われた日本国憲法公布記念式典において昭和天皇から下された「朕は,国民と共に,全力をあげ,相携へて,この憲法を正しく運用し,節度と責任とを重んじ,自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。」との勅語(宮内庁『昭和天皇実録第十』(東京書籍・2017年)226-227頁参照。下線は筆者によるもの)に示された叡旨をどう評価しているのでしょうか。

   2013410日の衆議院予算委員会で田沼隆志委員は,文化の日の趣旨とされる「自由と平和を愛し,文化をすすめる」について,「まず,この意味がわからない。「文化をすすめる。」これはどういう意味なんでしょうか。日本語としてまずよくわからないので官房長官にお尋ねします。ぜひわかりやすく教えてください。」と発言していますが(第183回国会衆議院予算委員会議録第2232頁),同委員は,1946113日の昭和天皇の勅語を読んではいなかったものでしょう。これに対して「ぜひわかりやすく教えてください」と頼まれた菅義偉国務大臣(内閣官房長官)は,議員立法された法律の文言の難しい解釈を,当該立案者ならざる政府に対して訊かれても困るという姿勢でした。「これは議員立法で成立したわけであります。さまざまな政党がお祝いをしようという中で,それぞれ理念の異なる政党の中でこの法律〔国民の祝日に関する法律〕をつくったわけでありますから,今委員が指摘をされたように,何となくどうにでもとれるような形で,多分,当時,この祝日をつくるについて議員立法で取りまとめられた結果,こういう表現になったのではないかなというふうに思います。」ということですが(同頁),前提となるべきものとしての昭和天皇の勅語があったことを知っていた上で,それは「何となくどうにでもとれるような形」の文章なのだと答弁したのであれば・・・何をかいわんや。

 

 とはいえ,文化の日と「明治の日」とは併記となるそうです。そうであれば,「平和を愛」する文化の日と同じ日において明治の時代を顧みる際には,戊辰戦争における官軍による賊軍制圧及び西南戦争その他の士族反乱の鎮定並びに日清日露両戦争における勝利といった物騒なことどもを想起・礼賛してはならないのでしょう。

 

2 192733日の詔書渙発及び昭和2年勅令第25号の裁可

 

(1)明治節を定める詔書及び休日に関する勅令

 ちなみに,「明治の日」と似ている明治節を定めた昭和天皇の勅旨を宣誥する詔書(192733日付けの官報号外)は,次のとおりでした。

 

  朕カ皇祖考明治天皇盛徳大業(つと)ニ曠古ノ隆運ヲ(ひら)カセタマヘリ(ここ)113日ヲ明治節ト定メ臣民ト共ニ永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ明治ノ昭代ヲ追憶スル所アラムトス

    御 名   御 璽

      昭和233

                    内閣総理大臣 若槻礼次郎

 

現在の令和民主政下においては,我ら人民が明治「天皇ノ遺徳ヲ仰」ぐ必要はないのでしょう。

なお,上記詔書には宮内大臣の副署がありませんから,明治節を定めることは,皇室の大事ではなく大権の施行に関するものであり,かつ,内閣総理大臣の副署のみで他の国務各大臣の副署がありませんから,大権の施行に関するものの中での最重要事ではなかったわけです(公式令(明治40年勅令第6号)12項参照)。

しかして,「臣民ト共ニ永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ明治ノ昭代ヲ追憶スル」ための具体的な大権の施行はどのようなものであったかといえば,休日に関する勅令が改正されて,113日が国の官吏の休日とされたのでした(192733日裁可,同月4日公布の昭和2年勅令第25号。題名のない勅令です。)。

 

なお,昭和2年勅令第25号は大正元年勅令第19号を全部改正したものです。この昭和2年勅令第25号は,国民の祝日に関する法律附則2項によって1948720日から廃止ということになっていますが,これは,日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する昭和22年法律第721条による19471231日限りで失効したものであるところの法律事項を定める勅令に対する重複する廃止規定ではないものであるとすると,それまでの政令事項を規律する命令を法律で上書きしたということなのでしょう(各「国民の祝日」について (参考情報)祝日法制定の経緯 - 内閣府 (cao.go.jp))。)。

 

昭和2年勅令第25号の副署者は若槻内閣総理大臣のみですが,当該事項に係る主任の国務大臣(公式令72項参照)は内閣総理大臣だったというわけでしょう(「官吏ノ進退身分ニ関スル事項」を内閣官房の所掌事務とする内閣所属部局及職員官制(大正13年勅令第307号)214号参照)。ちなみに,別途,宮内職員の休日に関する昭和2年宮内省令第4号が,勅裁を経て192734日に一木喜徳郎宮内大臣によって定められ,同日公布されています。昭和2年勅令第25号の案は192731日に閣議決定されていますから,同月2日午後の「内閣総理大臣若槻礼次郎・一木宮内大臣にそれぞれ謁を賜う。」という昭和天皇の賜謁は(宮内庁『昭和天皇実録第四』(東京書籍・2015年)657頁),昭和2年勅令第25号及び同年宮内省令第4号並びに同月3日の詔書に関するものだったのでしょう。

 

(2)帝国議会における動き

なお,当時開会中の第52回帝国議会においては,明治節制定に向けた動きが活発でした。

貴族院においては,1927125日に公爵二条厚基,子爵前田利定,男爵阪谷芳郎,和田彦次郎,倉知鉄吉,松本烝治,中川小十郎及び菅原通敬各議員提出の「明治節制定ニ関スル建議案」(「明治節制定ニ関スル建議/明治天皇ノ御偉業ヲ永久ニ記念シ奉ル為毎年113日ヲ祝日トシテ制定セラレムコトヲ望ム/右建議ス」)が全会一致で可決され(第52回帝国議会貴族院議事速記録第787-88頁。各議院がその意見を政府に建議できることについては,大日本帝国憲法40条に規定があります。),同年222日には東京市日本橋区蠣殻町平民田中巴之助外17名呈出の請願書(大日本帝国憲法50条)について「右ノ請願ハ明治節ヲ制定シ明治大帝ノ聖徳偉業ヲ憶念欽仰スルハ民意ヲ粛清向上セシメ世態民風ヲ統一正導スル所以ナルニ依リ速ニ之カ実現ヲ図ラレタシトノ旨趣ニシテ貴族院ハ願意ノ大体ハ採択スヘキモノト議決致候因リテ議院法第65条ニ依リ別冊及送付候(そうふにおよびさうらふ)」との政府宛て意見書が異議なく採択されています(52回帝国議会貴族院議事速記録第14272頁)。

衆議院においては,同年125日に大津淳一郎,小川平吉,三上忠造,元田肇,松田源治,鳩山一郎,山本条太郎等の18議員提出の「明治節制定ニ関スル建議案」(「明治節制定ニ関スル建議/明治天皇ノ盛徳大業ヲ永久ニ記念シ奉ル為113日ヲ以テ明治節トシ之ヲ大祭祝日ニ加ヘラレムコトヲ望ム/右決議ス」)がこれも全会一致で可決されています(第52回帝国議会衆議院議事速記録第785頁)。元田議員述べるところの建議案提出理由においては「〔前略〕明治天皇〔の〕御盛徳御偉業〔略〕中ニ付キマシテ王政復古ノ大業ヲ樹テラレ,開国進取ノ国是ヲ定メ給ヒ,立憲為政ノ洪範ヲ垂レサセラレ,国民道徳ノ確立ノ勅教ヲ屢下シ給ヒマシタコト,殊ニ帝国ノ天職ハ平和ヲ保持シ,文明ノ至治ヲ指導扶植スルニ在ルコトヲ世界ニ知ラシメ給ヒシコトハ,其最モ大ナル所デアリマス(拍手)御承知ノ如ク明治天皇ノ崩御遊バサレマシタ730日ヲ以テ是迄祝祭日トナッテ居リマシタガ,本年以後ハ此祝祭日ガ廃止シタコトニ相成リマシタニ付キマシテハ,明治天皇御降誕ノ当日タル113日ヲ以テ大祭祝日ト致シマシテ,大帝ノ御盛徳御偉業ヲ永遠ニ欽仰シ奉リタイト存ズルノデアリマス〔後略〕」とありました(同頁)。また,衆議院にも「明治節制定ノ件」に係る請願書が提出されており,同年24日には同議院の請願委員会(議院法(明治22年法律第2号)63条)において,採択すべきものと異議なく認められています(第52回帝国議会衆議院請願委員会議録(速記)第32頁)。ただし,当該請願書についての政府に対する衆議院の意見書送付(議院法65条)までは不要とされていました(同頁)。

 

(3)追憶されるべき明治ノ昭代

専ら明治「天皇ノ遺徳ヲ仰」ぐのみならず,広く「明治ノ昭代ヲ追憶スル」こととする旨の追加は,昭和天皇の政府においてなされたものであると解されます。明治ノ昭代の主な出来事は,元田肇の述べたところに従えば,慶応三年十二月九日(186813日)の王政復古の大号令から慶応四年(明治元年)四月十一日(186853日)の江戸開城を経て明治二年五月十八日(1869627日)の蝦夷共和国の降伏まで(王政復古ノ大業),慶応四年(明治元年)三月十四日(186846日)の五箇条の御誓文(開国進取ノ国是),③1889211日の大日本帝国憲法(立憲為政ノ洪範),④18901030日の教育勅語及び19081013日の戊申詔書(国民道徳確立ノ勅教),⑤1900814日の在北京列国公使館解放をもたらした八箇国連合のごとき国際協調(平和ノ保持)並びに⑥それぞれ1895529日及び1910829日以降の台湾及び朝鮮の統治(文明ノ至治ヲ指導扶植)ということでしょう。

以上6項目のうち,の官軍か賊軍か噺を今更持ち出すのは古過ぎるでしょう。徳川宗家第16代当主の徳川家達公爵は貴族院議長となり,蝦夷島総裁たりし榎本武揚は逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣となり,新撰組を預かった京都守護職・松平容保の孫娘は昭和初期の皇嗣殿下たりし秩父宮雍仁親王妃となりました。④式にお上から有り難い道徳の教えを授からないと何時までも自治自律ができない人委(ひとまかせの)人のままでは,情けない。また,衰退途下の我々よりも今や豊かになった人々に対して⑥の話をするのは論外でしょう。

 

3 明治節制定に伴う官吏の休日数の不変化

 

(1)昭和2年勅令第25号及び大正元年勅令第19号(大正2年勅令第259号による改正後のもの)(11箇日)と明治6年太政官布告第344号(10箇日)と

ところで,明治節を祝って明治大帝の遺徳を仰ぎ奉ることには忠良なる臣民としては反対できないとしても(とはいえ,明治節に参内して参賀簿に署名できるのは,昭和2年皇室令第14号により改正された皇室儀制令(大正15年皇室令第7号)の附式によると「文武高官有爵者優遇者」のみであり,かつ,「判任官同待遇者ハ各其ノ所属庁ニ参賀ス」ということであって,専ら「宮中席次を有する者始め一定の資格者が参内もしくは各官庁において記帳していた」資格者限定制であったものです(実録第十534頁)。),だからといって,臣民の税金で食っている分際である国の官吏の休日が図々しく一日増えるのはけしからぬ,というような反発が生ずることにはならなかったのでしょうか。

実は,明治節が加わっても,それによって大正時代よりも1日多くお役人が休むことができるということにはなっていませんでした。

大正元年勅令第19号(大正2年勅令第259号による改正後のもの)における休日数と昭和2年勅令第25号のそれとは,いずれも11箇日で変わっていないのです。

昭和2年勅令第25号による休日は次のとおり。

 

 元始祭    13

 新年宴会   15

 紀元節    211

 神武天皇祭  43

 天長節    429

 神嘗祭    1017

 明治節    113

 新嘗祭    1123

 大正天皇祭  1225

 春季皇霊祭  春分日

秋季皇霊祭  秋分日

 

このうち,今上帝の誕生日である天長節は,大正元年勅令第19号では大正天皇の誕生日である831日であり(ただし,同勅令が公布されたのは191294日であるので,大正に入っても,同年831日はいまだ休日ではありませんでした。),先帝の命日に係る祭日(昭和2年勅令第25号では大正天皇崩御日の1225日)は,大正元年勅令第19号では明治天皇崩御日の730日となっていました。他の元始祭,新年宴会,紀元節,神武天皇祭,神嘗祭,新嘗祭,春季皇霊祭及び秋季皇霊祭については,変化はありません。以上の10箇の休日は,1878年の明治11年太政官第23号達によって春季皇霊祭及び秋季皇霊祭が明治6年太政官布告第344号(当該1873年の太政官布告は,大正元年勅令第19号附則2項で廃止されています。)の8箇の休日に追加されて以来変わっていなかったものです(ただし,神嘗祭の日は1879年の明治12年太政官布告第27号によって改められるまでは917日でした。なお,明治6年太政官布告第344号における天長節はもちろん113日で,先帝際は,孝明天皇の命日である130日でした。)。大正元年勅令第19号には,何かもう一つ休日の隠し玉があったようです。

当該隠し玉は,1913716日に裁可され,同月18日に公布された大正2年勅令第259号にありました。隠し玉というよりは,某製菓会社の伝説的宣伝文句に倣えば「一粒で2度おいしい」🍫ということになるようです。

大正2年勅令第259号によって,1031日に「天長節祝日」が休日として追加されていたのでした。すなわち,大正時代の日本帝国臣民は,大正天皇の御生誕を,そのお誕生日である831日のみならず,1031日にもお祝い申し上げていたのでした。

113日に明治節の休日を,昭和時代になって設けることは,大正時代中の1031日の天長節祝日からの差替えであるという形に結果としてはなったわけです。明治大帝に対する崇敬の念は満たされつつ,官吏に対する「税金泥坊」という罵詈雑言も避けることができるという至極結構な次第となるべき下拵えをした大正天皇もまた偉大な君主だったのではないでしょうか。(しかしあるいは,昭和になって休日が1日減ると,休みたがりで不遜不埒な不逞官吏らの仲間内において昭和天皇の評判が悪くなってしまうのではないかという懸念も,25歳の若き新帝を輔翼弼成すべき重責を担う若槻礼次郎内閣にはあったかもしれません。)

 

(2)大正2年勅令第259号による天長節祝日追加の次第

ところで,大正2年勅令第259号による天長節祝日の追加の次第はどのようなものだったでしょうか。

これについては,アジア歴史資料センターのウェブサイトで一件書類を見ることができ(A13100056400),また,当時の第1次山本権兵衛内閣の内務大臣であった原敬の日記(『原敬日記(第5巻)』(乾元社・1951年))に記述があります。

まず,大正天皇は病弱でしたので,大暑の831日の東京で,天長節関係の諸行事の負担に耐えられるかどうかが,明治・大正代替わりの際の第2次西園寺内閣時代から懸念されていました。

 

  〇〔1913年〕416

  閣議〔略〕。天長節の事に関し831日は大暑中にて御儀式を挙ぐる事困難に付西園寺内閣時代にも之を如何すべきやとの相談ありしが,余〔原敬〕は国民中希望者も多き様になるに付御宴会は113日と制定相成りては如何と云ひたり,宮内省の草案にては11月にあらず1031日となせり。〔後略〕

 (原226頁)

 

 しかし,113日案は,半ば冗談でなければ,明治天皇とは別人格の大正天皇に対して不敬ではありましょう。

 その後,1913421日付けの渡辺千秋宮内大臣から山本権兵衛内閣総理大臣宛て官房調査秘第6号をもって,次の照会が宮内省から政府に対してされます。

 

  天長節ノ儀ハ831日ニシテ時(あたか)モ大暑ノ季節ニ有之候(これありそさうらふ)ニ付自今賢所皇霊殿神殿ニ於ケル天長節祭ノミハ皇室祭祀令規定ノ通当日之ヲ行ハセラレ其ノ他拝賀参賀賀表捧呈及宴会等宮中ニ於ケル一切ノ儀式ハ総テ1031日ニ於テ行ハセラレ候様(さうらふやう)奏請致度(いたしたき)(ところ)一応御意見承知致度(いたしたく)此段及照会候(しょうかいにおよびさうらふ)

 

天長節祭は小祭ですので(皇室祭祀令(明治41年皇室令第1号)21条),大祭と異なり天皇が親ら祭典を行う必要はなかったのですが(同令81項参照),「小祭ハ天皇皇族及官僚ヲ率ヰテ親ラ拝礼シ掌典長祭典ヲ行フ」ということになっていました(同令201項)。ただし,「天皇喪ニ在リ其ノ他事故アルトキハ前項ノ拝礼ハ皇族又ハ侍従ヲシテ之ヲ行ハシム」ということで(同条2項),天皇に事故があるときは,代拝措置が可能でした。

 

  〇〔19134月〕23

  閣議,天長節の件に付即ち宮内省案831日は御祭典のみに止め1031日を御宴会日となすの件に付内議し,結局今一応宮内省と打合せをなす事に決せり。〔後略〕

 (原229-230頁)

 

1913年宮内省官房秘第6号に対する同年630日付け山本内閣総理大臣から渡辺宮内大臣宛て回答は,次のとおりでした。

 

 421日付官房調査秘第6号照会天長節ノ儀ニ関スル件ハ大体異存無之候(これなくさうらふ)唯宮中ニ於ケル一切ノ儀式ヲ行ハセラルル期日ヲ1031日トスルニ於テハ明治節設定ニ関スル帝国議会ノ建議モ有之(これあり)或ハ113日ヲ休日ト定メラルルカ如キ場合ヲ予想スレハ余リニ休日接近ノ嫌有之(きらひこれあり)(つき)既ニ831日以外ノ日ヲ選定(あひ)(なる)以上ハ或ハ101(くらゐ)カ適当ノ期日カト被存候(ぞんぜられさうらふ)

   追テ当日ハ一般ノ休日トスル必要可有之(これあるべし)存候(ぞんじさうらふ)ニ付本件ハ休日ニ関スル勅令改正案ト同時ニ奏請相成様致度(あひなるやういたしたし) 

 

「ハッピー・マンデー」云々と,休日の接近はおろか,進んで休日の長期間接続をもってよしとし,補償金が貰えるならば「思いやり」の「自粛」継続は当然とする衰退途下の人委(ひとまかせの)人の国たる現代日本とは異なり,休日の接近を嫌う良識が,大正の聖代にはなおあったのでした。

明治節設定の動きは,明治天皇崩御後早くからあり,第30回帝国議会の衆議院では,1913326日,松田源治議員外13名提出の次の「明治節設定ニ関スル建議案」が全会一致で可決されています(第30回帝国議会衆議院議事速記録第16309頁)。

 

    明治節設定ニ関スル建議

 政府ハ国民ヲシテ 明治天皇ノ御偉業ヲ頌シ永久其ノ御洪恩ヲ記念セシムル為113日ヲ以テ大祭祝日ト定メムコトヲ望ム

 右建議ス

 

専ら明治天皇に対する「国民ノ忠愛ノ至情」(石橋為之助,松田源治)から出た建議でありました。しかし,明治天皇御一人をとことん忠愛するのならば,前年1912913日の乃木希典大将のように殉死しなければならなくなるようにも思われるのですが,松田代議士,石橋代議士等は,そこまで思い詰めてはいなかったのでしょう。

大正元年勅令第19号を改正する勅令案に係る191373日付け閣議請議書が残されています。しかし,『原敬日記』では,地方官会議があるので原内務大臣は同月2日の閣議を欠席したとしており,かつ,同月3日の記載は地方官会議関係のことばかりで,同日に閣議があったことは記されていません(原259-260頁)。

いずれにせよ同月初めの勅令案では,天長節祝日の日は101日であったようです。すなわち,191374日付けの渡辺宮内大臣から山本内閣総理大臣宛て官房調査秘第9号には「天長節ニ関スル件ニ付630日付ヲ以テ御回答ニ接シ候処御注意ノ次第モ有之候ニ付更ニ101日ヲ以テ天長節式日ト被定候様(さだめられさうらふやう)奏請可致候(いたすべくさうらふ)条右ニ御承知相成度(あひなりたく)此段申進候(まうしすすめさうらふ)也」と記載されているからです。「奏請」とは,大正天皇の内諾を得るということでしょう。

しかし,現実の大正2年勅令第259号における天長節祝日は,421日の照会案どおりの1031日となっていたのでした。この間の事情については,次の記載がされた紙が,一件書類中に綴られています。

 

 本件ハ更ニ総理大臣宮内大臣協議ノ上更ニ1031日ト決定セラレ大正元年勅令第19号中改正勅令案上奏ノ手続ヲ為セリ

 

 これは,天長節祝日を101日とする旨の宮内大臣からの奏請を大正天皇が敢然却下した結果,宮内大臣・内閣総理大臣が大慌てとなった一幕があったものか,と一瞬ぎょっとする成り行きです。

 しかしながら『原敬日記』によれば,実は閣議において,やはり天長節祝日は10月の1日よりも31日の方がよいのではないかとの賢明な内務大臣の提言があって再考がなされることになり,最終的にはしかるべく同大臣案に落ち着いたということでありました。

 

   〇〔19137月〕11

   有栖川御邸に弔問せり。

   閣議,天長節は831日にて大暑中なれば,御祝宴は101日に定められ此日を天長節の祝宴日となさん事を山本首相閣議に提出せり,之に対し奥田〔義人〕文相は天長節は大祭日となしあるを,天長節と天長節祝日と分別するは如何あらんと云ひたるも,閣議天長節は831日なるも天長節祝日は別に之を定むる事に決せり,但山本の提案なる101日は何等根拠なき日なれば,月を後に送るも日は改めざる一般の国風をも斟酌し,1031日となすを適当なりとの余〔原敬〕の主張に閣僚一同賛成せり,山本は既に内奏を経たりとて101日に決せんとするも,余は此事は御一代の定制となる重大事件なれば再び奏聞するも可ならんと主張し,遂に山本は宮内省と更に相談すべき旨山之内〔一次〕書記官長に命じたり,宮内省にては1031日と提出せしものを内閣側にて101日に主張せしものゝ由。

  〔略〕

  (原263-264頁)

 

 なお,奥田文部大臣は釈然としなかったようですが,君主の誕生祝賀が年2回行われることは外国にも例があります。英国の現国王チャールズ3世の誕生日は1114日ですが,同国王の誕生祝賀は,同日のほか,気候のよい6月にも行われています(2023年は617日)。

 我が国における1913831日の天長節は次のような次第となりました。

 

  31日 日曜日 午後,〔大正天皇の〕行幸御礼並びに天長節御祝のため,〔皇太子裕仁親王は〕東宮大夫波多野敬直を御使として日光に遣わされる。なお天長節は大暑の季節に当たるため,去る7月18日勅令〔第259号〕並びに宮内省告示〔第15号〕をもって,1031日を天長節祝日と定め,831日には天長節祭のみを行い,1031日の天長節祝日に宮中における拝賀・宴会を行う旨が仰せ出される。

  (宮内庁『昭和天皇実録第一』(東京書籍・2015年)681頁)

 

大正天皇は,その天長節の日を涼しい日光の御用邸で過ごすことを好んでおられたようです。

 

 19131031日の初の天長節祝日については次のとおり。

 

  31日 金曜日 天長節祝日につき,午前,〔皇太子裕仁親王は〕東宮仮御所の御座所において東宮職高等官一同の拝賀をお受けになる。午後零時30分御出門,御参内になり,雍仁親王・宣仁親王とお揃いにて天皇・皇后に祝詞を言上になる。また鮮鯛を天皇に御献上になり,天皇からは五種交魚等を賜わる。

  (実録第一696-697頁)

 

   〇31日 天皇節祝日に付参内御宴に陪し,晩に外相の晩餐会に臨み夜会には缺席せり,今上陛下始めての天長節にて市中非常に賑へり。

   〔略〕

   (原334頁)

 

4 五箇条の御誓文から文化国家建設へ

 この記事も何とかまとまりを付けねばなりません。

 で,正直なところを申し上げると,113日は,昭和天皇から「節度と責任とを重んじ,自由と平和とを愛する文化国家を建設す」べしとの新国是(すなわち現在の我が国の国是)が日本国憲法と共に下された日として,既に専ら昭和天皇の日となってしまっているのではないかと筆者には思われます。

 であれば,「明治の日」については,別途そのあるべきところを求めるに,明治時代の我が国の国是(開国進取ノ国是)たる五箇条の御誓文が宣明せられた46日が,その日としてよいのではないかと思われるところです(なお,立憲為政ノ洪範たる大日本帝国憲法が発布された211日は,趣旨はともかく,既に「国民の祝日」とされています。)。113日の文化の日を譲らない代償として,429日の昭和の日を,同月6日の「明治の日」に振り替えればよいのではないでしょうか。4月末から5月初めまでの連休期間は,今や衰退途下国たる分際の我が国としては長過ぎるようなので,429日の日の休日からの脱落は,問題視すべきことではないでしょう。

 昭和の日が五箇条の御誓文の日に差し替えられることが昭和天皇の逆鱗に触れるかといえば,そういうことはないでしょう。五箇条の御誓文の精神から出発して文化国家の建設に進むことこそが,惨憺たる失敗・敗戦の後,日本国憲法と共に昭和天皇が目指した昭和の日本だったはずです。

 1946年元日のかの詔書にいわく。

 

  茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク,

一,広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ

一,上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ

一,官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス

一,旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

一,智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

  叡旨公明正大,又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ,旧来ノ陋習ヲ去リ,民意ヲ暢達シ,官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ,教養豊カニ文化ヲ築キ,以テ民生ノ向上ヲ図リ,新日本ヲ建設スベシ。

 

 旧来の陋習を去った暢達たる心と共に,向上した民生下において生きるということは,自由であるということでしょう。負ける戦争や効果の乏しい対策の徹底から去ること遠い,慎重賢明狡猾な平和主義は当然でしょう。しかして自由及び平和の下で高められた精神は,教養豊かに文化を築くところにこそその満足を見出すのでしょう。

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1 はじめに

 毎年8月は,先の大戦に関する回顧物が旬となる季節です。

 今年(2023年)の8月はもう終わりますが(しかし猛暑はなお続くのでしょう。),筆者も夏休みの最後になって宿題に追われる小学生のごとく,つい,86年前の夏の出来事に関する疑問の一つの解明理解の試みに手を出し,少々の自由研究的抜き書きを作成してしまったところです。

 

2 盧溝橋から上海への「飛び火」

 193777日発生の盧溝橋事件が拡大して「北支事変」となり,更に上海に「飛び火」して「支那事変」,すなわち大日本帝国と中華民国との全面衝突となったという機序については,筆者はかねてから「飛び火」という責任所在不明の表現に違和感を覚えていました。

 これについては,名著の誉れ高い阿川弘之(1999年の文化勲章受章者https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/234460/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/99_1101/1101_3.html)の『米内光政』(新潮文庫・1982年(新潮社・1978年))の次のような記述を読むと,何だか我が帝国陸軍の関係者が怪しいようでもあります。

 

  第九章六

    日華事変の発端が悪名高い「陸軍の馬鹿」の仕組んだ陰謀だったか,相手方の挑発に乗せられた結果であったかは,こんにち尚はっきりしないらしいが,とにかくこの戦火を拡げたら厄介なことになるというのが,米内と山本〔五十六〕の共通した認識であった。当時の米内海相の手記には,

    「昭和12年〔1937年〕77日,蘆溝橋事件突発す。9日,閣議において〔杉山元〕陸軍大臣より種々意見を開陳して出兵を提議す。海軍大臣はこれに反対し,成るべく事件を拡大せず,速かに局地的にこれが解決を図るべきを主張す。(中略)

    五相〔首陸海外蔵〕会議においては諸般の情勢を考慮し,出兵に同意を表せざりしも,陸軍大臣は五千五百の平津軍と,平津〔北()(現在の北京)及び天()地方における残居留民を見殺しにするに忍びずとて,()つて出兵を懇請したるにより,渋々ながら之に同意せり。(中略)

    陸軍大臣は出兵の声明のみにて問題は直ちに解決すべしと思考したるが如きも,海軍大臣は諸般の情勢を観察し,陸軍の出兵は全面的対支作戦の動機となるべきを懸念し,再三和平解決の促進を要望せり」

   とある。

   (212頁) 

 

  同章212-214頁)は,主に,杉山元陸軍大将の昭和天皇に対する19377月と1941年秋との2度の「3カ月」奏上(実際には,北支事変も対米英蘭戦も3カ月では片付かず)エピソードの紹介

 

  

この時上海では,米内より2期下の長谷川清中将が支那方面海軍部隊の最高指揮官として,第三艦隊の旗艦出雲に将旗を上げていた。北支事変といっていたのが,8月に入ると上海に飛び火し,海軍も否応なしに戦いの一角に加ることになって,814日〔15日〕,世界を驚かせた海軍航空部隊(九六陸攻機)の〔南京等に対する〕渡洋爆撃が行われる。昭和12年の10月以降,第三艦隊は新設の第四艦隊と合して「支那方面艦隊」となり,長谷川長官の呼称も支那方面艦隊司令長官と変る。

   (214-215頁)

 

ここで,「飛び火」という表現が出て来ます。また,海軍も「否応なしに」戦いの「一角」に加わることになった,ということですから,我が帝国海軍は,大陸での戦闘行為に対して消極的であったにもかかわらず,いやいや巻き込まれていったように印象されます。

 

3 南京渡洋爆撃に対する驚き等

 

(1)米国大統領

ところで,第二次上海事変劈頭からの日本海軍による中華民国の首都・南京に対する渡洋爆撃は,日本人が無邪気に思うように単に「世界を驚かせた」のみならず,同じ1937年の426日にドイツ空軍により行われた内戦中のスペインのゲルニカ爆撃と共に,世界の憤りを日独両国民に対して喚起するものとなってしまっていたものと思われます。同年105日にシカゴでされたフランクリン・ルーズヴェルト米国大統領の「隔離演説」の次のくだりは,当該憤りを示すものでしょう。我が海軍は,勇ましぶって,かえって余計かつ有害なことをしてしまったのではないでしょうか。

 

  Without a declaration of war and without warning or justification of any kind, civilians, including women and children, are being ruthlessly murdered with bombs from the air. In times of so-called peace, ships are being attacked and sunk by submarines without cause or notice. Nations are fomenting and taking sides in civil warfare in nations that have never done them any harm. Nations claiming freedom for themselves deny it to others.

 (宣戦の布告及び何らの警告又は正当化もなしに,女性と子供とを含む文民が,空からの爆弾によって無慈悲に殺害されています。いわゆる平時において,船舶が,理由も通告もないまま,潜水艦によって攻撃され,沈められています。彼らに何らの害も一切与えたことのない国民の内戦において,煽動し,かつ,一方の側に加担する国民がいます。彼ら自身の自由を主張する国民が,それを他の国民に対して否認しているのです。)

 

 当該演説の前月,渡洋爆撃が最初にあってから1箇月余りたった後の9月の19日以降における我が海軍による南京爆撃の「目的は,軍事施設に加え,政治中枢や交通の要衝・工場など広範囲に爆撃して,民国側の戦意喪失をねらう戦略爆撃に移行していた」ところです(大坪慶之「日本軍による南京空襲の空間復元とその変遷:『中央日報』『申報』の記事から」近代東アジア土地調査事業研究ニューズレター(大阪大学文学研究科片山剛研究室)820186)。その段階での報道状況はいかにというに,「〔南京で発行されていた国民党の機関紙である〕『中央日報』や〔上海の〕『申報』は,〔略〕政治中枢や鉄道・港の被害記事が多くなっている〔略〕。また,城内西北の外国大使館が点在する新住宅区や,「門東」と呼ばれる中華門から入ってすぐの所にある庶民の住宅街についても,道路名を記して民家(「民房」)が破壊されたことを強調している。特に学校や病院の被害は,名称を明記したり特集を組んだりするなど紙面が割かれている。」ということでした(大坪6-7)。

(2)大日本帝国政府

また,南京渡洋爆撃は,「世界を驚かせた」ばかりではありませんでした。

近衛文麿内閣には寝耳に水の出来事であったようです。

 

上海に戦火がとび,前述の815日の政府声明〔支那軍の暴戻を膺懲する声明〕がおこなわれた当日である。海軍は,いわゆる渡洋爆撃を始め,南京,南昌を爆撃,それからまもなく漢口をも爆撃して,華中方面の戦局はにわかに拡大され,同時に〔租界のある上海に駐屯していた我が海軍の〕上海陸戦隊救援のため,陸軍部隊派遣の必要に迫られるにいたった。これとともに,華北方面においても,同じく拡大の兆候が顕著なるものあるを認むるにいたったのであるが,内閣としては,こうなってはなはだ困るのは,戦略面において,まったく知らされないことであった。現に海軍の渡洋爆撃なども,わたし〔風見内閣書記官長〕はもちろん,近衛氏とても,その日,閣議があったにかかわらず,新聞によってはじめて知ったのであった。

  (風見章『近衛内閣』(中公文庫・1982年(日本出版協同株式会社・1956年))48頁)

 

これが,大日本帝国憲法11条(「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」)に基づく統帥権の独立の帰結であったというわけです。

なお,南京渡洋爆撃に関する現地の新聞記事はどうであったかといえば,「前日午後の空襲を報じた『中央日報』1937816日,第三面には「二時三十五分在城南郊外,投弾六枚(中略)三時十五分,敵機盤飛七里街,廿一号住戸祖義良被敵機槍掃射受傷」とある。また,同日『申報』の第二面には,「見明故宮飛行場落有両弾,光華門外亦落下炸弾五枚,両処均無大損失」と出てくる」そうです(大坪5-6頁註13)。

 

(3)大日本帝国海軍大元帥

 昭和天皇にも,事前に詳しい作戦計画は知らされていなかったように筆者には思われます。

 

  〔19378月〕16 月曜日 〔略〕

   午後2時,御学問所において軍令部総長〔伏見宮〕博恭王に謁を賜い,この日朝までの中支方面の戦況につき奏上を受けられる。その際,昨日海軍航空部隊が台湾から大暴風雨を冒して南京及び南昌飛行場への渡洋爆撃を敢行したことを御嘉賞になるも,各国大使館がある南京への爆撃には注意すべき旨を仰せられる。また,上海その他の犠牲者につき,誠に気の毒ながら已むを得ない旨の御言葉を述べられる。〔後略〕

   (宮内庁『昭和天皇実録 第七』(東京書籍・2016年)395頁)

 

海軍から「敵の首都南京を爆撃します」とあらかじめ知らされていれば,各国大使館があるから注意せよ云々の老婆心的発言が後付け的にあることはないはずです。また,皇族の長老である伏見宮博恭王には,天皇とても,言葉を選ばざるを得ず,一応「御嘉賞」が最初にあったものでしょう。(なお,南京爆撃隊は台湾からではなく長崎県の大村基地から発進したのですが,実録の上記記載においてはその旨触れられていません。結局,南昌飛行場を爆撃した台湾発進部隊のみが真に御嘉賞に与ったということになるのでしょうか。)

海軍からの奏上については,1937105日(前記「隔離演説」の日ですね。)の対伏見宮軍令部総長賜謁の際に漏らされた綸言を反対解釈すると,どうも隠し事が多いようだと昭和天皇は思っていたようでもあります。すなわち,「去る922日,〔広東省の〕碣石湾沖において第一潜水戦隊の潜水艦が支那ジャンク10隻を撃沈した事件に関する真相,及びその対外措置につき奏上を受けられる。事件につき,将来を戒められるとともに,その真相を公表すれば日本が正直であるとの印象を与えて良いのではないかとのお考えを示される。これに対し,現地からの報告遅延のため,今に至って真相公表はかえって不利である旨の説明を受けられる。また,海軍が事実をありのままに言上し,かつその処置まで言上したことに対する御満足の意を表され,全てをありのままに言上するよう仰せになる。」ということでした(実録七426-427)。普段から「ありのまま」の言上がされていたのであれば,特に「御満足の意を表され」ることはなかったはずです。

なお,皇族の軍令部総長及び参謀総長には,大元帥たる昭和天皇も気詰まりを感じていたようです。

 

 〔19409月〕19 木曜日 午前,侍従武官長蓮沼蕃に謁を賜う。その後,内大臣木戸幸一をお召しになり,45分にわたり謁を賜い,参謀総長〔閑院宮〕載仁親王及び軍令部総長博恭王の更迭につき聖慮を示される。これより先,天皇は,いよいよ重大な決意をなす時となったことを以て,この際両総長宮を更迭し,元帥府を確立するとともに,臣下の中から両総長を命じることとしたいとの思召しを侍従武官長蓮沼蕃に対して御下命になり,内大臣とも協議すべき旨を御沙汰になる。よって,武官長は内大臣と協議の上,陸海軍両大臣に協議したところ,陸軍大臣〔東條英機〕は直ちに同意するも,海軍大臣〔及川古志郎〕は絶対に困るとし,この日に至り軍令部総長宮の離職に反対する旨を確答する。海軍側の意向につき武官長より相談を受けた内大臣は,この日の拝謁の際,聖慮に対し次善の策として,参謀総長宮に勇退を願い,海軍との権衡上さらに新たな皇族の就任を願うほかはないとの考えを言上,なお武官長とも協議すべき旨を奉答する。しかるにその後,陸軍側より,海軍の意向如何にかかわらず,この際参謀総長は臣下を以て充てたい希望が示されたため,その旨を武官長より言上することとなり,正午前,武官長は天皇に謁する。

(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(東京書籍・2016年)178頁) 

 

大御心を素直に忖度する東條は,忠臣ですな。むしろ,海軍の方が我がままで,困ったものです。

閑院宮参謀総長の後任には,杉山元陸軍大将が1940103日に親補されています。伏見宮軍令部総長の後任である永野修身海軍大将の親補は,194149日のことでした。

 

4 盧溝橋事件発生後第二次上海事変発生まで

さて以下では,193777日の盧溝橋事件発生後第二次上海事変発生までの諸事実を昭和天皇と海軍との交渉状況に関するものを中心に『昭和天皇実録 第七』等から拾ってみましょう。なかなか長くなりました。

 

 〔19377月〕11 日曜日 〔略〕

  〔葉山御用邸で午後〕541分,お召しにより参邸の内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜い,この日午後の臨時閣議において,事態不拡大・現地解決の条件の下に北支への派兵を決定した旨の奏上を受けられる。619分,陸軍大臣杉山元に謁を賜い,北支派兵について奏上を受けられる。728分,軍令部総長博恭王に謁を賜い,海軍の作戦事項として海軍特設聯合航空隊等を編(ママ)〔註〕することにつき上奏を受けられる。〔略〕

  なお,この日午後530分,政府は今次北支において発生の事件を「北支事変」とする旨を発表,ついで625分,北支派兵に関して帝国の方針を声明する。〔後略〕

  (実録七370頁)

 

      註: 少なくとも陸軍用語では,「編制」は「軍令ニ規定セラレタル国軍ノ永続性ヲ有スル組織ヲ言イ」,「編成」は「某目的ノ為メ所定ノ編制ヲ取ラシムルコト,又ハ臨時ニ定ムル所ニ依リ部隊ヲ編合組成スルヲ言」います(『統帥綱領・統帥参考』(偕行社・1962年)597頁(兵語の解))。

 

しかし,近衛内閣は,「事態不拡大・現地解決」を旨とするはずであるにもかかわらず,なぜ「北支事変」という大袈裟な命名を早期にしてしまったのでしょうか。折角立派な名前がついてしまうと,その名が表す期待に合わせるべく体も自ずから成長していくものではないでしょうか。「事態」ないし「事件」は事変に変じ,「現地」は北支全体に拡がってしまうのではないかという懸念は感じられなかったのでしょうか。「「渋々ながら」同意した北支派兵のはずなのに,近衛内閣が自発的に展開したパフォーマンスは,国民の戦争熱を煽る華々しい宣伝攻勢と見られてもしかたのないものであった」わけで(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会・1996年)265頁),政府広報は重要であるとしても,軽薄なパフォーマンス好きの方々には困ったものです。

     さて,軍令部総長による前記上奏があった1937711日,早くも第三艦隊司令長官の長谷川中将は,台湾の高雄から上海の呉淞への「回航の途中に得た諸情報から「情勢真に逆賭を許さざるものあり」と判断して,〔当該〕11日未明に海軍中央部へ航空隊と陸戦隊の派遣準備を要請し,さらに指揮下部隊の各指揮官へ「極秘裡に在留邦人引揚に対する研究を行い胸算を立ておくべし」と指示してい」ます(秦252頁)。同日夕から翌日にかけて海軍中央部は「陸軍の動員に匹敵する大規模な準備措置」を「次々と発動し」ており,その「主要なものをあげると,(1)青島,上海に増派する特別陸戦隊4隊の特設と輸送艦艇の指定,(2)渡洋爆撃用の中型陸上攻撃機(38機)と艦載機(80機)による第一,第二連合航空隊の特設と一部の台北,周水子への展開を予定して物資を艦艇により輸送,(3)第五戦隊などを北支へ,第八戦隊などを中南支へ増派,(4)陸軍増派部隊の海上護衛,(5)北支作戦に関する陸海軍作戦協定,陸海軍航空協定の締結,など」ということだったそうです(秦253頁)。なお,1937711日の陸海軍協定の内容は北支に係るものに限定されておらず「已むを得ざる場合に於ては青島上海付近に於て居留民を保護」すると規定」されており,「陸軍としては「中南支」への派兵は考えていなかったが,海軍の強い要請で承認し,その兵力も「3個師団というのを陸軍は最小限として2個師団で妥協」」がされています(秦254頁)。

     ところで,711日の前記上奏において伏見宮博恭王は,「今回の北支出兵のごときはいかに考えましても大義名分相立ちませぬ・・・古来名分のない用兵の終りをまっとうした例ははなはだ乏しいのでありまして,今回の北支出兵の前途につきましては私には全然見通しがつきませず深く憂慮にたえませぬ」(福留繁『海軍の反省』225ページ)と」述べたそうです(秦254頁)。中華民国との全面戦争に対する「不安」の現れでもありましょうが(秦254頁参照),名分がなく(なお,確かに同日20時に現地停戦協定が調印されますが(秦261頁・266頁),しかし伏見宮総長の上奏の際には当該調印の報は未着であったはずです。),かつ,不安ならば,そもそもの派兵に断乎反対をすればよかったように思われ,何だか評論家風な発言のようでもあります。どういうことでしょか。また,北支への陸軍の出兵には名分がなくとも,海軍がそれに備える中南支での戦闘については名分があるということだったのでしょうか。「海軍の不拡大論は,その責任地域である華中,華南への拡大を予期するという奇妙な構造」になっていたそうであって(秦251頁),すなわち,結局のところ,日本陸軍がどういう対応をしたとしても,中華民国と我が国との全面戦争は宿命的に起こるものと信じられていたのでしょう。

        「石原〔莞爾参謀本部〕第一部長は,のちに「上海事変は海軍が陸軍を引き摺って行ったもの」(石原応答録)と痛烈に批判するが,蒋緯国が強調するように,平津作戦における第二十九軍〔盧溝橋事件における我が支那駐屯軍(これは,義和団事件後の北清事変最終議定書(1901)に基づいて駐屯していたものです。)の相手方〕の急速崩壊を見た蒋介石は華北決戦を断念し,「日本軍を上海に増兵させ,日本軍の作戦方向を変更させる」(蒋緯国『抗日戦争八年』57ページ)戦略を採用した。いわば日本は仕掛けられたワナにはまりこんだ形」となったわけです(秦321頁)。しかし,そうなってしまったのは海軍が上海等を手放せなかったからであって,「「山東及長江流域は対支経済発展の三大枢軸」と見なす海軍にとって,上海防衛は「帝国不動の国策」(〔軍令部第一部甲部員である〕横井〔忠雄〕大佐が起案した〔1937年〕86日付の「閣議請議案」『昭和社会経済史料集成』第3604ページ)だったから,〔上海防衛の〕応戦にためらいはなかった」ところでした(秦321頁)。

     平津地区から上海への「飛び火」は,「華北の日本軍が南下して心臓部の武漢地区で中国を東西に分断されるのを防ぐため,華北では一部で遅滞作戦をやりつつ後退,主力を上海に集中し増兵してくると予想された日本軍に攻勢をかけ,主戦場を華北から華東へ誘致する戦略をとろうとしていた」(345)蒋介石の意図に沿ったものだったわけです。(なお,この点に関して,ナチス・ドイツから蒋介石のもとに派遣されていた軍事顧問のファルケンハウゼン将軍は,1937721日にドイツ国防相ブロムベルクに送った報告書において,「蒋介石は戦争を決意した。これは局地戦ではなく,全面戦争である。ソ連の介入を懸念する日本は,全軍を中国に投入できないから,中国の勝利は困難ではない。中国軍の歩兵は優秀で,空軍はほぼ同勢,士気も高く,日本の勝利は疑わしい(Hsi-Huey Liang, [The Sino-German Connection (Amsterdam, 1978),] pp.126-27)。」と述べていたそうです(372)。)

1937年「712日に軍令部は第三艦隊に加え,第二艦隊の参加による船団護衛,海上封鎖,陸戦隊の増強,母艦および基地航空部隊による航空撃滅戦,陸軍の上海投入などを骨子とする「対支作戦計画内案」を作成,一部の艦隊,航空隊の進出待機を逐次発令」しています(秦318頁)。これは「対中国全面戦争を想定したもの」でした(秦318頁参照)。確かに,当該「対支作戦計画内案」は,「「上海及青島は之を確保し作戦基地たらしむ」とか,「支那海軍に対しては一応厳正中立の態度及現在地不動を警告し違背せば猶予なくこれを攻撃す」とか「作戦行動開始は空襲部隊の概ね一斉なる急進を以てす」のような表現が目につく」ものであったとされています(秦254頁)。「硬軟両論が足をひっぱりあっていた陸軍とちがって,一枚岩の海軍は全面戦争への突入を見越して,いち早く整然たるプログラムを組めた」わけです(秦254頁)。「基地航空部隊による航空撃滅戦」,「作戦行動開始は空襲部隊の概ね一斉なる急進を以てす」などといわれると,「世界を驚かせた」南京渡洋爆撃は,実は我が海軍にとっては最初から当然想定されていたことであったようです。

     この1937712日の「「対支作戦計画内案」に対し,長谷川第三艦隊司令長官から〔同月〕16日付けで中央へ送った意見具申電があ」ったそうで,「彼はそのなかで,日支関係の現状を打破するには現支那中央政権の屈服以外にないとして,「支那第二十九軍の膺懲なる第1目的を削除し,支那膺懲なる第2目的を作戦の単一目的」(『現代史資料』9186ページ)とする全面的作戦を開始すべしと説き,上海,南京攻略をめざす陸軍5個師団の投入と,全航空部隊による先制攻撃を要望していた」そうです(秦319頁)。「支那中央政権の屈服」,「南京攻略」,そして「全航空部隊による先制攻撃」ということでありますから,これは南京渡洋爆撃の積極的容認論でしょう。「この「暴論」が却下されたのは当然だが,その後も第三艦隊はくり返し危機の切迫を説き,兵力の増援を要請していた」そうです(秦319-320頁)。

     なお「膺懲」とは,「征伐してこらす」という意味であって,『詩経』に「戎狄是膺,荊舒是懲」という用例があるそうです(『角川新字源 第123版』(1978年))。荊及び舒の両国は,どちらも周王朝初期の南方の異民族の国です(同)。西方の戎,北方の狄及び南方の荊舒であれば東方が欠けていますから,東方の倭は膺懲の対象とはならず,かえって漢土の側が我が貔貅(ひきゅう)によって膺懲されるべきもののようです。参謀本部第三課が1937716日にまとめた「情勢判断」にも「支那軍を膺懲」という用例があるそうで(秦296頁),当時は常用されていた熟語だったのでしょう。

 

  〔19377月〕28 水曜日 〔略〕

   午後130分,御学問所において海軍大臣米内光政に謁を賜い,北支事変の情勢とそれに伴う中支・南支における海軍の配備状況につき奏上を受けられる。〔略〕

   午後2時,御学問所において軍令部総長博恭王に謁を賜い,北支事変に対処するための海軍兵力増加,及び聯合艦隊司令長官永野修身等への命令等につき上奏を受けられる。本日午後10時,軍令部総長より聯合艦隊司令長官に対し,左の大海令第1号が発電される。

一,帝国ハ北支那に派兵シ平津地方ニ於ケル支那軍ヲ膺懲シ同地方主要各地ノ安定ヲ確保スルニ決ス

     二,聯合艦隊司令長官ハ第二艦隊ヲシテ派遣陸軍ト協力シ北支那方面ニ於ケル帝国臣民ノ保護並ニ権益ノ擁護ニ任ゼシムルト共ニ第三艦隊ニ協力スベシ

     三,聯合艦隊司令長官ハ第二艦隊ヲシテ派遣陸軍ノ輸送ヲ護衛セシムベシ

     四,細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ指示セシム

   〔後略〕

  (実録七381-382頁)

 

      大海令第1号の前提として,その前日27日には,内地3個師団に華北派遣命令が出るとともに,政府は北支事変に関し自衛行動を執ると声明しています。

 

  〔19378月〕6日 金曜日 〔略〕

   午後445分,御学問所において軍令部総長博恭王に謁を賜い,支那沿岸及び揚子江流域の警戒並びに用兵上の諸手配に関する奏上を受けられ,聯合艦隊司令長官永野修身への命令等につき上奏を受けられる。その際,上海において船津辰一郎在華日本紡績同業会総務理事が行う予定の和平交渉につき,日本側の和平条件に支那が同意しない場合にはむしろ公表し,日本の公明正大な和平条件が支那により拒否されたことを明らかにすれば,各国の輿論が日本に同情するとのお考えを示される。また,できる限り交渉を行い,妥結しなければ已むを得ず戦うほかなく,ソ聯邦の存在を考慮する必要上から用い得る兵力に限りがあっても可能な限り戦うほかはない旨を述べられる。〔後略〕

   (実録七388頁)

 

      この6日には,「軍令部が上海への陸軍派遣を閣議に要請するよう海軍省へ申し入れ」ていますが,米内海相は当該出兵論を抑えていました(秦322頁註(2))。無論,閣議の場で頭を下げねばならないのは,軍令部ではなく,海軍省の海軍大臣です。

      翌「7日に日本の陸海外三相会議が決定し,船津辰一郎を通じて国府に打診しようとした船津工作の条件(冀察・冀東〔の各地方政権〕を解消し,河北省北半を非武装地帯に,満州国の黙認,日支防共協定の締結,抗排日の停止など)は」,「廬山声明の4条件とはほど遠く,三相会議の時点で,すでに国府は上海を戦場とする対日決戦にふみ切っていたと思われる。」とされています(秦345-346頁)。

  蒋介石の廬山声明の4条件とは,「(1)中国の主権と領土の完整を侵害しない解決,(2)冀察行政組織の不合法改変を許さない,(3)宋哲元〔第二十九軍の軍長〕など中央政府が派遣した地方官吏の更迭を許さない,(4)第二十九軍の現駐地はいかなる拘束も受けない」というものでした(秦343頁。廬山声明は1937717日に演説され,公表は同月1920時(新聞発表は同月20日付け)にされたもの(秦340頁))。

 

  〔19378月〕9日 月曜日 〔略〕

   午後3時,御学問所において海軍大臣米内光政に謁を賜い,最近における山東省及び中支・南支方面の状況,並びにこれに対する海軍の処置につき奏上を受けられる。〔略〕

   夜,侍従武官平田昇より揚子江方面の居留民引き揚げにつき上聞を受けられる。〔後略〕

   (実録七389頁)

 

      「揚子江沿岸の在留邦人は続々引揚げをはじめ」ていたところ,「それが完了したのは8月上旬であった。〔近衛〕内閣としては,事端が同方面におこるのをおそれていたので,さいわい,事なく引揚げがおわったことを知り,胸をなでおろしていた。」とされています(風見41頁)。

      またこの89日には大山中尉殺害事件(後記昭和天皇実録同月13日条参照)が起きていますが,依然として米内海相は,当該事件「も「一つの事故」に過ぎぬとして,軍令部の出兵論を抑え」ていたそうです(322頁註(2)。

      同月11日,「1932年の第一次上海事変で戦った〔中華民国国民政府〕中央軍の精鋭第八十七師と第八十八師は」,「上海郊外の包囲攻撃線へ展開を終り,海軍も揚子江の江陰水域を封鎖」します(秦346頁)。また同日我が国では,伏見宮軍令部総長が米内海軍大臣を呼んで,それまでの同大臣の上海への陸軍派兵不要論を改めるよう説得を試みています(秦322頁註(2))。

 

  〔19378月〕12 木曜日 〔略〕

   午後1045分,海軍上奏書類「長谷川第三艦隊司令長官ニ命令ノ件」ほか1件を御裁可になる。「長谷川第三艦隊司令長官ニ命令ノ件」は,現任務のほかに上海を確保し,同方面における帝国臣民を保護すべきことにあり。天皇は御裁可に当たり,当直侍従武官に対し,状況的に既に已むを得ないと思われる旨の御言葉,また,かくなりては外交による収拾は難しいとの御言葉を述べられる。本件命令は午後1140分,軍令部総長より大海令を以て発出される。ついで同55分,軍令部総長より第三艦隊司令長官に対し,左の指示が発電される。

     一,第三艦隊司令長官ハ敵攻撃シ来タラハ上海居留民保護ニ必要ナル地域ヲ確保スルト共ニ機ヲ失セス航空兵力ヲ撃破スヘシ

     二,兵力ノ進出ニ関スル制限ヲ解除ス

     〔後略〕

   (実録七391頁)

 

       昭和天皇実録の記者は「長谷川第三艦隊司令長官ニ命令ノ件」の内容を,専ら「現任務のほかに上海を確保し,同方面における帝国臣民を保護すべきこと」まとめています。伏見宮軍令部総長の上記指示は,当該任務の達成方法について更に敷衍をしたものなのでしょう。しかし,「機ヲ失セス航空兵力ヲ撃破スヘ」く,そのためには「兵力ノ進出ニ関スル制限ヲ解除ス」るということですから,敵の首都・南京の飛行場に対する爆撃も可能であることになります。長谷川第三艦隊司令長官に当該意図がかねてからあることは,前月16の同司令長官意見具申電によって,軍令部は十分了解していたはずです。

            同じ12日のことでしょうが(秦347頁註(4)),「京()警備総司令の張治中将軍は〔翌〕13日未明を期し日本軍へ先制攻撃をかけたい,と南京に要請した」そうです(秦346頁)。

       「12日になると,一触即発の危機発生をみるにいたったというので,その夜,海軍側から,これに対する方針の決定につき,至急,相談したいとの申し出が」政府に対してあり,「さっそく,近衛氏の永田町私邸に,首相と海陸外三相の会談が開かれ,わたし〔風見内閣書記官長〕も参加して相談した。その結果,上海における海軍側自衛権発動を内定した。」ということになりました(風見41-42頁)。「上海における海軍側自衛権発動」という表現は分かりづらいのですが,要は,「海軍は12日夜の四相会議に内地から陸軍2個師団の派遣を要請し,翌日の閣議で承認された」ものということのようです(秦318-319頁)。「杉山陸相の要求を容れて内地から2個師団を上海に派遣することとした」(岡義武『近衛文麿』(岩波新書・1972年)67頁)というのは「米内海相」を「杉山陸相」とする誤りということになります。この間のことについて何も書かなかった米内贔屓の阿川弘之は,他の著作物から上手に借景したということになるのでしょう。

 

  〔19378月〕13 金曜日 午前915分,御学問所において軍令部総長博恭王に謁を賜い,上海情勢並びに用兵上の諸手配につき奏上を受けられる。〔略〕

   午後8時,御学問所において海軍大臣米内光政に謁を賜い,上海方面への陸軍の派兵の必要とその経緯につき奏上を受けられる。去る9日の支那保安隊による上海海軍特別陸戦隊第一中隊長大山勇夫ほか1名の射殺事件以来,同地の情勢が悪化,作夕,第三艦隊司令長官長谷川清は緊急電報を以て陸軍の出兵促進を要請する。これを受け,この日午前緊急閣議が開かれ,居留民の保護のため陸軍部隊を上海方面へ派遣することが決定される。午後5時,戦闘配置に就いた上海海軍特別陸戦隊は,支那便衣隊と交戦状態に入る。〔後略〕

   (実録七391-392頁)

 

  〔19378月〕14 土曜日 〔略〕

   午前1043分,御学問所において内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜う。総理より,昨日来の支那軍の攻勢による上海戦局の悪化に伴い,この日の緊急臨時閣議において陸軍3個師団の動員と現地派遣を決定したこと等につき奏上を受けられる。引き続き,陸軍大臣杉山元に謁を賜う。

   午後125分,御学問所において参謀総長載仁親王に謁を賜い,第三・第十一・第十四各師団ほかへの動員下令,第三・第十一両師団を基幹とする上海派遣軍の編成とその任務等につき上奏を受けられる。〔略〕55分,御学問所において再び陸軍大臣に謁を賜い,上海派遣軍司令官の親補に関する人事内奏を受けられる。〔略〕

   午後421分,侍従武官遠藤喜一より,上海方面における海軍の戦況と用兵上の諸手配に関する上聞を受けられる。なおこの日,聯合艦隊司令長官永野修身・第三艦隊司令長官長谷川清に対し,上海へ派遣の陸軍と協力して各々作戦を遂行することを命じる旨の海軍上奏書類を御裁可になる。〔後略〕

   (実録七392-393頁)

 

      この1937814日には,午前の緊急臨時閣議のほかに深夜にも緊急臨時閣議が開かれています。いわく,「14日の夕刻,わたし〔風間内閣書記官長〕は近衛氏を永田町の私邸にたずねて,同〔上海〕方面の情勢に関するニュースを伝えるとともに,善後処置について協議した。その結果,とりあえず海軍をして至急に救護物資と病院船とを,同地に送らしむることにした。それにしても,事態刻々に重大化の傾向にあるので,この夜,いちおう緊急臨時閣議を開いて,海相から情勢の報告をきき,かつ,善後処置についても話し合っておくのがよかろうというので,そうすることにした。ただし,戦局がかくまで拡大したことについての政府の意思表示は,なお形勢の推移をみた上のこととして,この夜の閣議では,ただ救護物資および病院船を送ることだけにしておこうと,話を決めたのである。わたしは,すぐに米内海相をたずねて,首相との話し合いを告げたところ,海相もただちに賛成したので,午後10時に緊急臨時閣議を開くよう手配したのであった。」と(風見42頁)。

      1937814日に開催された閣議において米内海軍大臣は次のように大興奮したとされているのですが,海相の当該激高について同日深夜の緊急臨時閣議に係る風見手記には触れるところがありませんので(風見42-47頁参照),当該大激高は午前の閣議におけるものなのでしょう。

 

        外相〔広田弘毅〕や蔵相〔賀屋興宣〕ばかりでなく,杉山陸相までが不拡大方針の維持を述べたのにいらだったのか,米内は「今や事態不拡大主義は消滅した」「日支問題は中支に移った」「今となっては海軍は必要なだけやる」「南京くらいまで攻略し模様を見ては」(高田〔万亀子「日華事変初期における米内光政と海軍」『政治経済史学』251号〕173ページ)と放言した。米内としては「今さら何を言うか」と激したのかもしれないが,この豹変ぶりは天皇をも心配させたらしく,翌日の上奏にさいし,「従来の海軍の態度,やり方に対しては充分信頼して居た。なお此上共感情に走らず克く大局に着眼し誤のないようにしてもらいたい」(島田日記)と海相を戒めている。

       (秦321頁)

 

  〔19378月〕15 日曜日 午前10時,鳳凰ノ間において親補式を行われ,陸軍大将松井岩根を上海派遣軍司令官に補される。〔略〕なおこの日,上海派遣軍司令官松井岩根に対して海軍と協力して上海付近の敵を掃滅し,上海並びにその北方地区の要線を占領して在留邦人の保護を命ずる件の陸軍上奏書類を御裁可になる。〔略〕

   午前1020分より1時間余にわたり,御学問所において内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜い,昨夜の緊急臨時閣議において決定した,上海における新事態に適応するための政府方針につき奏上を受けられる。なお今暁,帝国政府は支那軍の暴戻を断乎膺懲すべき旨の声明を発表する。〔略〕

   午後,内大臣湯浅倉平をお召しになり,1時間余にわたり謁を賜う。〔略〕

   午後5時過ぎ,御学問所において海軍大臣米内光政に謁を賜い,上海及び各地の情況,並びにこれに対する海軍の処置につき奏上を受けられる。終わって海軍大臣に対し,海軍の従来の態度,対応に対して充分信頼していたこと,及びこれ以後も感情に走らず,大局に着眼して誤りのないよう希望する旨の御言葉あり。〔後略〕

   (実録七394-395頁)

 

      「昨夜の緊急臨時閣議において決定した,上海における新事態に適応するための政府方針」とは,「帝国政府は支那軍の暴戻を断乎膺懲すべき旨の声明」がそれに基づくところの「方針」でしょうか。当該声明は,前日深夜の緊急臨時閣議が「予定のごとく〔略〕進行して,近衛氏が散会をいいわたそうとしたところ,突然杉山陸相が,ちょっと待ってもらいたい,この際ひとつ,政府声明書を出したほうがいいだろうといって,その案文の謄写刷りをカバンからとりだした」ものです(風見42-43頁)。当該閣議の予定の議事は,風見内閣書記官長によれば「海相から情勢の報告をきき,かつ,善後処置についても話し合っておくのがよかろうというので,そうすることにした。ただし,戦局がかくまで拡大したことについての政府の意思表示は,なお形勢の推移をみた上のこととして,この夜の閣議では,ただ救護物資および病院船を送ることだけにしておこうと」いうことだったはずであるところ,「予定のごとく」の進行なので,午前中暴れた米内海相は大人しく情勢報告などを事務的にしたのでしょう。なお,陸軍大臣から案文が提出されても,政府の声明は政府の声明であって,軍の声明とは異なるものであるということになります。

      当該深夜の閣議が散会した後,「杉山陸相は,中島〔知久平〕,永井〔柳太郎〕両氏がのべた意見〔「中島鉄相から,いっそのこと,中国国民軍を徹底的にたたきつけてしまうという方針をとるのがいいのではないかという意見の開陳があって,永井逓相が,それがいいといった意味のあいづちをう」ったという「意見」〕をとりあげ,わたしに,そっと,「あんな考えを持っているばかもあるから驚く,困ったものだ」と,ささやいたものである。これによっても,わたしは,杉山氏が,そのときには不拡大現地解決方針を守ろうとしていたのだと,信ずるのである。」と風見内閣書記官長は回想しています(風見46-47頁)。

      しかし,「中国国民軍を徹底的にたたきつけてしまう」ことと「不拡大現地解決方針」との間にはなお中間的な方針があったところです。「妥協論」と対立する陸軍内での「強硬論」は,「わが国がこの際断乎として強硬な態度で臨めば中国側はおそれて妥協あるいは降伏を申し出るであろうという論であり,従って,それは事変を拡大して中国との本格的全面戦争に入るべきことを主張したものではなかった」のでした(岡65頁)。

      風見自身は,「帝国政府は支那軍の暴戻を断乎膺懲すべき旨の声明」は「表面,日本政府は,不拡大方針を投げすてて,徹底的に軍事行動を展開するかもしれぬぞとの意向を,ほのめかしているもの」であって(風見45頁),不拡大現地解決方針を端的に表明するものではないことを認めています。米内海相は,午前の閣議で激高して近衛内閣閣僚間における事態不拡大主義を自ら消滅せしめていたのであって,杉山陸相の新たな強硬論に対してもはや異議を唱えず,また唱え得なかったものでしょう。むしろ内心では,海軍幹部の一員として積極的に,本格的全面戦争を期していたのではないでしょうか。「右の声明を発表したいという陸相の発言に,外相海相はじめ閣僚一同,たれも異議をとなえなかったので,近衛氏はそれを承認したのである」とのことです(風見46-47頁)。

      (なお,杉山陸相流「強硬論」の表明たる「帝国政府は支那軍の暴戻を断乎膺懲すべき旨の声明」においては,さわりの部分の「帝国としては,もはや隠忍その限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し」に続いて「もって南京政府の反省をうながす」とあり,更には「もとより毫末も領土的意図を有するものにあらず」,「無辜の一般大衆に対しては,何等敵意を有するものにあらず」云々ともあります(風見44-45)。すなわち,大日本帝国による膺懲の直接の対象は,南京政府に非ず,支那軍自体にも非ず,無辜の一般大衆ではもちろん非ず,飽くまでも支那軍の「暴戻」であるのだというわけです。しかし,我が国の人口に膾炙したという「暴支膺懲」という四文字熟語的スローガンは――そもそも人口に膾炙したのですからその点においては広報的にはよくできたものなのでしょうが――「暴支」と一般化することによって,軍も政府も人民も,およそ漢土の国家・社会を構成する者の本質は皆もって暴戻(『角川新字源』によれば「乱暴で道理に反する」ことです。)であるのだと決めつけることになってしまわなかったでしょうか。暴戻だから膺懲するのは当然であるし,むしろ進んで膺懲すべきである,ということになれば,確かに全面戦争は不可避でしょう。)



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南京といえば・・・しかし,最近は南京豆とはいわなくなりました。

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1 はじめに:一文字多いのは大違い

 「一言多い人」は困った人で,また,一文字多いことによって言葉の意味が大いに変ずることがあります。例えば,「被告」と書けば穏便な民事事件であるところ,「被告人」と書けば剣呑な刑事事件となるが如し。

 「国葬」と「国葬儀」との関係も同様でしょう。両者は似てはいるのですが,異なるものと解されます。(正確には「国葬儀」に対応するのは「国葬たる喪儀」なのですが,「国葬たる喪儀」を含めて「国葬」といわれているようです。しかして,「国葬」たらざる「国葬儀」はあるものかどうか。)

 

2 国葬令

 まず,「国葬」の語義を確かめるべく,19261021日付けの官報で公布された大正15年勅令第324号を見てみましょう。

 

(1)条文

 

  朕枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ国葬令ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 

   御名 御璽

    摂政名

 

    大正151021

     内閣総理大臣  若槻禮次郎

     陸軍大臣  宇垣 一成

     海軍大臣  財部  

     外務大臣男爵幣原喜重郎

     文部大臣  岡田 良平

     内務大臣  濱口 雄幸

     逓信大臣  安達 謙藏

     司法大臣  江木  翼

     大蔵大臣  片岡 直溫

     鉄道大臣子爵井上匡四郎

     農林大臣  町田 忠治

     商工大臣  藤澤幾之輔

 

  勅令第324

第1条 大喪儀ハ国葬トス

  第2条 皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃及摂政タル親王内親王王女王ノ喪儀ハ国葬トス但シ皇太子皇太孫7歳未満ノ殤ナルトキハ此ノ限ニ在ラス

  第3条 国家ニ偉勲アル者薨去又ハ死亡シタルトキハ特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアルヘシ

   前項ノ特旨ハ勅書ヲ以テシ内閣総理大臣之ヲ公告ス

  第4条 皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ヲ行フ当日廃朝シ国民喪ヲ服ス

  第5条 皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ノ式ハ内閣総理大臣勅裁ヲ経テ之ヲ定ム

 

(なお,官報に掲載された文言には誤植がありましたので,御署名原本により改めました。1条の「国喪」を「国葬」に,②第3条の第1項と第2項との間に改行がなかったところを改行,③第3条の「勅書ヲ以テ内閣総理大臣」を「勅書ヲ以テシ内閣総理大臣」に)

 

 大正15年勅令第324号には施行時期に関する規定がありません。しかしながらこれは,公式令(明治40年勅令第6号)によって手当てがされています。すなわち,同令11条(「公布ノ日ヨリ起算シ満20日ヲ経テ之ヲ施行」)により,19261110日からの施行ということになります。

 

(2)枢密院会議

 

ア 摂政宮裕仁親王臨場

国葬令の上諭には枢密顧問の諮詢を経た旨が記されています(公式令73項参照)。当該枢密院会議は,19261013日に開催されたものです。同日午前の摂政宮裕仁親王の動静は次のとおり。

 

 13日 水曜日 午前10時御出門,宮城に御出務になる。神宮神嘗祭に勅使として参向の掌典長谷信道,今般欧米より帰朝の判事草野豹一郎ほか1名に謁を賜う。1030分より,枢密院会議に御臨場になる。皇室喪儀令案・国葬令ほか1件が〔筆者註:当該「ほか1件」は,開港港則中改正ノ件〕審議され,いずれも全会一致を以て可決される。正午御発,御帰還になる。(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)542頁)

 

イ 審議模様

 当該枢密院会議における国葬令案審議の様子は,枢密院会議筆記によれば次のとおりです(アジア歴史資料センター(JACAR: Ref. A03033690300)。

 

(ア)伊東巳代治

 まず,枢密院の審査委員長であった伊東巳代治が審査結果の大略を報告します。

 

   国葬ハ国家ノ凶礼〔死者を取りあつかう礼。喪礼。(『角川新字源』(1978年(123版)))〕ニシテ素ヨリ重要ノ儀典ナルカ故ニ国法ヲ以テ其ノ条規ヲ昭著スルハ当然ノ措置ナリ則チ本案ハ〔天皇の勅定する〕勅令ノ形式ヲ以テ国葬ノ要義ヲ定メ以テ皇室喪儀令〔筆者註:こちらは大正15年皇室令第11号です。皇室令とは,「皇室典範ニ基ツク諸規則,宮内官制其ノ他皇室ノ事務ニ関シ〔天皇の〕勅定ヲ経タル規程ニシテ発表ヲ要スルモノ」です(公式令51項)。〕ニ承応セムトスルモノニシテ先ツ天皇及三后〔太皇太后,皇太后及び皇后〕ノ大喪儀〔皇室喪儀令4条・5条・8条参照〕並皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃及摂政タル親王内親王王女王ノ喪儀ハ国葬トスルコトヲ定メ其ノ他ノ皇族又ハ皇族ニ非サル者ニシテ国家ニ偉勲アルモノ薨去(こうきよ)〔皇族・三位以上の人が死亡すること。(『岩波国語辞典第四版』(1986年))〕又ハ死亡シタルトキハ〔天皇の〕特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアルヘク此ノ特旨ハ勅書ヲ以テシ内閣総理大臣之ヲ公告スヘキモノトシ皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ヲ行フ当日廃(ママ)シ国民喪ヲ服スヘク其ノ喪儀ノ式ハ内閣総理大臣〔天皇の〕勅裁ヲ経テ之ヲ定ムヘキモノトス

以上述ヘタル所カ両案〔皇室喪儀令案(これの説明部分は本記事では省略されています。)及び国葬令〕ノ大要ナリ之ヲ要スルニ皇室ノ喪儀及国葬ハ倶ニ国家ノ式典ニシテ儀礼ヲ修メテ(せん)(ばう)〔あおぎしたう。(『角川新字源』)〕(そな)ヘサルヘカラサルモノナリ本案皇室喪儀令及国葬令ノ2令ハ則チ之カ要義ヲ昭著スルモノニシテ(まこと)允当(ゐんたう)〔正しく道理にかなう。(『角川新字源』)〕ノ制法ナリト謂ハサルヘカラス今ヤ帝室ノ令制(やうや)ク整頓シテ典章正ニ燦然タルニ(あた)リ更ニ之ニ加フルニ皇室喪儀令ヲ以テシテ皇室喪儀ノ項目ヲ明徴ニスルハ(けだ)シ前来規程ノ足ラサルヲ補ヒテ皇室制度ノ完備ヲ図ラムトスルモノニ外ナラス又国葬令ヲ以テ皇室喪儀令ト相()チテ国家凶礼ノ大綱ヲ昭明ナラシムルハ蓋シ国法ノ完璧ヲ期スルノ所以(ゆゑん)タルヘキコト言ヲ俟タサルナリ更ニ本案2令ノ条文ヲ通看スルニ孰レモ事ノ宜シキニ適シテ特ニ非議スヘキ点ヲ認メス(より)テ審査委員会ニ於テハ本案ノ2件ハ倶ニ此ノ儘之ヲ可決セラレ然ルヘキ旨全会一致ヲ以テ議決シタリ

 

(イ)江木枢密顧問官vs.山川法制局長官

江木千之枢密顧問官が,お金に細かい質問をします。

 

 35番(江木) 国葬令ニ付当局ニ一応質問シタキ事アリ国葬令第3条ニ依リ国家ニ偉勲アル者薨去又ハ死亡シタルトキ特旨ニ依リ国葬ヲ賜フ場合ニハ先ツ以テ其ノ勅書ヲ発セラルルヤ又ハ国葬ニ関スル費用ニ付帝国議会ノ協賛〔筆者註:大日本帝国憲法641項参照〕ヲ経タル後該勅書ヲ発セラルルコトト為ルヤ

 

 山川端夫法制局長官はさらりとかわそうとしますが,江木枢密顧問官は,しつこい。

 

  委員(山川) 国葬令ニ於テハ国葬ノ行ハルル場合ノ大綱ヲ示セルニ止リ愈其ノ実行セラルル場合ニ於テハ予算等ノ関係ヲ生スヘシ其ノ際ニハ一般ノ例ニ従ヒ夫々必要ナル手続ヲ尽シタル上ニテ実行セラルヘキナリ

  35番(江木) 国葬ヲ行フ場合ニハ先ツ以テ帝国議会ニ其ノ予算ヲ提出シ協賛ヲ経タル上ニテ勅書ヲ発セラルルヤ其ノ辺ノ御答弁明瞭ナラス

  委員(山川) 既定予算ニ項目ナキ事項ニ付テハ別ニ予算ヲ立テテ議会ノ協賛ヲ経サルヘカラス然レトモ緊急ノ場合ニハ予備費支出等ノ途アリ其ノ孰レカノ方法ニ依リ先ツ支出ノ途ヲ講セサルヘカラス

  35番(江木) 然ラハ帝国議会開会ノ場合ニ於テハ先ツ以テ国葬費ノ予算ヲ提出シ其ノ協賛ヲ経タル後勅書ヲ発セラルルモノト了解シテ可ナルカ

  委員(山川) 然リ

 

(3)国葬令3条による国葬の例

いやはや議会対策は大変そうだねと思われますが,その後国葬令3条に基づいて国葬を賜わった者の薨去が,帝国議会開会中に生じてしまうということはありませんでした。

193465日に国葬たる喪儀があった東郷平八郎は同年530日に薨去したもので,当時,帝国議会は閉会中でした(第65回通常議会と第66回臨時議会との間)。1940125日に国葬たる喪儀があった西園寺公望についても同年1124日の薨去と当該喪儀との間に帝国議会は開かれていません(第75回通常議会と第76回通常議会との間)。1943418日の山本五十六戦死と同年65日の国葬たる喪儀との間も閉会中でした。(第81回通常議会と第82回臨時議会との間)。ただし,閑院宮載仁親王薨去の1945520日とその国葬たる喪儀の同年618日との間には,同月9日に開会し,同月12日に閉会した第87回臨時議会がありましたが,載仁親王が午前410分に薨去したその日の午後430分には早くも「情報局より,親王薨去につき,特に国葬を賜う旨を仰せ出されたことが発表される。」という運びになっており,かつ,当初は同年528日に斂葬の儀までを終える予定でした(宮内庁『昭和天皇実録 第九』(東京書籍・2016年)671頁)。宮城までも焼失した525日夜から26日未明までの東京空襲で,日程が狂ってしまったものです(実録九682頁)。第87回帝国議会召集の詔書に係る上奏及び裁可は,62日のことでした(実録九687頁)。

 

(4)国費葬

ついお金の話になってしまうのは,天皇及び三后並びに直系皇嗣同妃及び摂政並びにその他の皇族にして国家に偉勲あるものの大喪儀ないしは喪儀を皇室限りの事務とはせずに,国葬として国家の事務とするのは,そもそも皇室費ではなく国費をもってその費用を負担することとするのがその眼目であったからでしょう。

美濃部達吉いわく,「皇室ニ関スル儀礼ノ中或ハ国ノ大典トシテ国家ニ依リテ行ハルルモノアリ,即位ノ礼,大嘗祭,大喪儀其ノ他ノ国葬ハ是ナリ。即位ノ礼及大嘗祭ハ皇室ノ最モ重要ナル儀礼ニシテ其ノ式ハ皇室令(〔明治〕42年皇室令1登極令)ノ定ムル所ナレドモ,同時ニ国家ノ大典ニ属スルガ故ニ,国ノ事務トシテ国費ヲ以テ挙行セラル。〔略〕国葬モ亦国ノ事務ニ属ス〔略〕。此等ノ外皇室ノ儀礼ハ総テ皇室ノ事務トシテ行ハル。」と(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)217-218頁。下線は筆者によるもの)。

1926913日付けで一木喜徳郎宮内大臣から若槻内閣総理大臣宛てに出された照会書別冊の国葬令案の説明(JACAR: A14100022300)にも「恭テ按スルニ天皇及三后ノ喪儀ハ国家ノ凶礼ニシテ四海(あつ)(みつ)〔音曲停止。鳴りものをやめて静かにする。(『角川新字源』)〕挙テ喪ヲ服シ悼ヲ表スル所則チ国資ヲ以テ其ノ葬時ノ用ニ供スルハ亦我国体ニ於テ当然ノコトニ属ス皇嗣皇嗣妃及摂政ノ喪儀ハ身位ト重任トニ視テ宜ク国葬トスヘキナリ又近例国家ニ偉勲アル者ノ死亡ニ当リ之ニ国葬ヲ賜フコトアルハ蓋其ノ偉蹟ヲ追想シ之ヲ表章スルニ国家ノ凶礼ヲ以テスルノ特典タルニ外ナラス既ニ皇室服喪令ノ制定アリ今又皇室喪儀令ノ制定セラルルニ当リテハ国葬ノ定義ヲ明ニシ兼テ其ノ条規ヲ昭著スル所ナカルヘカラス是レ本令ノ制定ヲ必要トスル所以ナリ」とあります(下線は筆者によるもの)。

 

(5)国葬令(勅令)と皇室喪儀令及び皇室服喪令(皇室令)と

 国葬令と皇室喪儀令及び皇室服喪令(明治42年皇室令第12号)とには密接な関係があるわけです。実は,法令番号と第1条との間に「国葬令」との題名が記載されていないので,厳密には,「国葬令」は,大正15年勅令第324号の題名ではなく上諭の字句から採った件名にすぎず,その理由をどう理解すべきか悩んでいたのですが,単なる立法ミスによる欠落でなければ,皇室喪儀令及び皇室服喪令の附属法令として,ことごとしく題名を付けることは遠慮した,ということでしょうか。

 皇室喪儀令及び皇室服喪令は皇室令ですが,国葬令は勅令です。これは,経費の国庫負担を定める法形式として皇室令はふさわしくないからでしょう。共に天皇が総覧する皇室の大権と国家統治の大権との相違点の一つとして,美濃部達吉いわく,「其ノ経費ノ負担ヲ異ニス。国ノ事務ニ要スル経費ハ国庫ノ負担ニ属スルニ反シテ,皇室ノ事務ニ要スル経費ハ皇室費ノ負担ニ属ス。皇室ノ財産及皇室ノ会計ハ国ノ財産及国ノ会計トハ全ク分離セラレ,国庫ハ唯毎年定額ノ皇室経費ヲ支出スル義務ヲ負フコトニ於テ之ト関係アルニ止マリ,其ノ以外ニ於テハ皇室ノ財産及皇室ノ会計ノ管理ハ一ニ皇室ノ自治ニ属シ,国ノ機関ハ之ニ関与スルコトナク,而シテ皇室事務ニ要スル一切ノ経費ハ皇室費ヲ以テ支弁セラル。」と(美濃部215頁)。国葬令の副署者には,ちゃんと大蔵大臣が含まれています。

 なお,1909年の皇室服喪令162項には「親王親王妃内親王王王妃女王国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ヲ行フ当日臣民喪ヲ服ス」と規定されており(下線は筆者によるもの),国葬の存在を既に前提としていました。ちなみに,皇室令をもって臣民を規律し得ることは,「或ハ〔皇室令が〕単ニ皇室ニ関スルニ止マラズ同時ニ国家及国民ニ関スルモノナルコトアリ,此ノ場合ニ於テハ皇室令ハ皇室ノ制定法タルト共ニ又国法タル効力ヲ有ス。」というように認められており(美濃部104頁),それが可能である理由は大日本帝国憲法に求められていて,「憲法ノ趣意トスル所ハ皇室制度ニ関スル立法権ハ国法タル性質ヲ有スルモノニ付テモ之ヲ皇室自ラ定ムル所ニ任ジ議会ハ之ニ関与セズト謂フニ在」るからであるとされていました(美濃部102頁)。

 

(6)国葬の定義を明らかにする必要性

 なお,一木宮相照会書にいう「国葬ノ定義ヲ明ニシ」に関しては,帝室制度調査局総裁である伊藤博文の明治天皇に対する1906613日付け上奏(JACAR: A10110733300)において「而シテ近例国家ニ偉勲アル者死亡ノ場合ニ当リ之ニ国葬ヲ賜フコトアルハ蓋其ノ偉蹟ヲ追想シ之ヲ表章スルニ国家ノ凶礼ヲ以テスルノ特典タルニ外ナラス然ルニ其ノ本旨(やや)モスレハ明瞭ヲ()(あたか)モ国葬即チ賜葬ノ別名タルカ如ク従テ其ノ制モ亦定準ナキノ観アリ殊ニ皇室喪儀令及皇室服喪令ノ制定セラルルニ当リテハ国葬ノ定義ヲ明ニシ兼テ其ノ条規ヲ昭著スルモノナクハ両令ノ運用ヲ円滑ニシ憲章ノ完備ヲ期スルコト能ハス是レ本令ノ制定ヲ必要トスル所以ナリ」とありました(下線は筆者によるもの)。1906年の当時,天皇が国葬を賜う(あるいは天皇に葬式をおねだりする)基準が弛緩していると感じられていたわけです。

 

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1 南米のサッカー名門国からキック・オフ

 今年(2022年)もまたサッカー・ワールド・カップ大会が開催されます。もう22回目で開催地はカタールになります。頑張れニッポン!

(早いもので,我が国で「感動」のサッカー・ワールド・カップ大会が開催されてから,既に20年です。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1071112369.html)。

 このサッカー・ワールド・カップの最初の大会(1930年)の開催地となり,同国人のチームが当該第1回大会及び1950年の第4回大会で優勝した栄光に包まれた国はどこかといえば,南米大陸のウルグアイ東方共和国(República Oriental del Uruguay)です。今年の大会においては,我が邦人のチームもその栄光にあやかりたいものです。

 しかし,あやかるといっても,日本国とウルグアイ東方共和国との間に共通性・類似性って余りないのではないか,そもそも両国は,地球🌏上において表裏正反対の位置にあるんだぜ,とは大方の御意見でしょう。これに対して,いや,両国は実は同じなのだ,と力技で強弁しようとするのが本稿の目的です。

 

2 ウルグアイ東方共和国の国号の謎

 さて,ウルグアイ東方共和国(República Oriental del Uruguay. 英語ではOriental Republic of Uruguay)という国号の謎から本稿は始まります。なぜ「東方」という形容詞が入っているのか,不思議ですよね。

 この東方は何に対する東方なのかというと,どうも独立前の同国の場所にあったBanda Orientalという州名に由来するそうです。ウルグアイ東方共和国の西部国境線はウルグアイ川という同名の川で,スペイン領時代のBanda Orientalという州名は,そのまま(ウルグアイ川の)東方地という意味であったようです。現在「ウルグアイ」は国の名たる固有名詞でもありますが,独立後最初の1830年憲法1条にあるEstado Oriental del Uruguayとの国号は,国(estado: 英語の“state”)であってウルグアイ川の東方にあるものというように,普通名詞であるEstado(国)に地理的限定修飾句(Oriental del Uruguay)が付いた普通名詞的国号として印象されていたもののようにも思われます。当該憲法の前文は,神への言及に続いて,“Nosotros, los Representantes nombrados por los Pueblos situados a la parte Oriental del Río Uruguay…”(筆者のあやしい翻訳では,“We, the Representatives named for the Peoples situated in the Oriental part of the River Uruguay…”又は「我らウルグアイ川(Río)の東部(parte Oriental)所在の諸人民のために任命された代表者らは・・・」)と始まっているからです。

 ウルグアイ川の西は,アルゼンチン共和国です。スペイン領ラ・プラタ川副王領時代は,ウルグアイ川の東も西も同一の副王領内にあったところです。スペインからの独立後,後のウルグアイ東方共和国の地は一時ブラジル治下にありましたが,戦争を経て,ブラジルとアルゼンチンとの間の1828年のモンテビデオ条約によってウルグアイ(川)東方国の独立という運びになっています。すなわち,ウルグアイ東方共和国における「東方」の語は,アルゼンチン共和国から見ての「東方」という意味になりますところ,上記の歴史に鑑みると,同国とのつながりを示唆するようでもあり,断絶を強調するようでもあります。

 

3 普通名詞的国号

 ところで,普通名詞的国号といわれると,固有名詞抜きの国号というものがあるのか,ということが問題になります。実は,それは,あります。例えば,今は亡きソヴィエト社会主義共和国連邦が普通名詞国号の国です(19911226年に消滅宣言。こちらももう崩壊後30年たってしまっているのですね。)。「ソヴィエト」と日本語訳されている部分は,ロシア語🐻では形容詞Советских(複数生格形(ドイツ語文法ならば複数2格というところです。))であって,その元の名詞であるсоветは,会議,協議会,評議会,理事会等の意味の普通名詞です。会議式の社会主義共和国の連邦☭ということですが,何だかもっさりしています。更に社会主義☭仲間では,現在その首都の北京で冬季オリンピック競技大会⛷⛸🏂🥌が開催(202224日から同月20日まで)されている中華人民共和国🐼も,「中華」を固有名詞(China)又はそれに基づく形容詞(Chinese)と解さなければ(ただし,同国政府はどうもそう解するようです(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1077950740.html)。なお,「中華」をあえて非固有名詞的に英語訳すると,“center of civilization”又は“most civilized”でしょう。),同様の普通名詞型普遍国家です(「会議式」は,「中華」よりも謙遜ですね。)。

おフランスの国号も,フランス式なることを意味する形容詞によって固有名詞風の傾きが加えられていますが,普遍国家を志向するものでしょう。La République françaiseであって,la République de Franceではありません。後者であれば,フランスという国があってそれが共和政体であるということでしょう。しかし,前者は,共和国があって,それがフランス式であるということでしょう(la République à la française)。アウグストゥスのprincipatus以来力を失った古代ローマ時代における共和政・共和国の正統の衣鉢を継ぐのは我々であって,そもそもres publica(共和国,国家,国事,政務,公事)は,à la romaineよりも,à la françaiseに組織し,運営するのが正しいのだ,ということでしょう(他の共和国を称する国々との区別のための必要もあるのでしょうが。)。フランスの大統領は,Président de Franceではなく,Président de la Républiqueと呼ばれます。(更にla République françaiseの普遍志向を示す例としては,その1793年憲法4条の外国人参政権条項があります。)Die Bundesrepublik Deutschlandは,ドイツという国があって,それは連邦共和政体を採っているということでしょう。これに対して,1990103日に消滅したdie Deutsche Demokratische Republikは,ドイツ風の民主主義共和国ということですね。ドイツという国であるよりも,人類の普遍的理想の実現に向かって進む民主主義共和国(社会主義国☭)であることの方が重要だったのでしょう。

 さて,いよいよ我が国の国号です。

 

4 近代における我が国の新旧国号:日本国及び大日本帝国

 

(1)日本国

 我が国の憲法は「日本国憲法」ですから,我が国の国号は,日本国なのでしょう。日本「国」が国号であって,単なる日本は国号ではないことになります。実は日本語における「日本」は形容詞なのでしょう。しかして,我が国の憲法の英語名はConstitution of Japan”です。そうであれば英語のJapan”は,国である旨の観念をそこに含み込んでいる名詞であるようです。「日本」に対応する英語の単語は,形容詞たるJapanese”でしょうか。

 

(2)大日本帝国

 

ア 明治天皇による勅定及び昭和天皇による変更

 現行憲法に先行する我が国の憲法の題名は「大日本帝国憲法」でした。したがって,19461029日の日本国憲法裁可によって(2023116日訂正:昭和天皇による日本国憲法裁可の日を194610「29日」とする例は,衆議院憲法審査会事務局「衆憲資第90号「日本国憲法の制定過程」に関する資料」(2016118にもありますが,宮内庁『昭和天皇実録第十』(東京書籍・201721919461029日条をよく読むと,その日にされたのは枢密院における「帝国議会において修正を加へた帝国憲法改正案」の全会一致可決までであって,天皇の裁可・署名がされたのは,翌同月30日(水)143分のことでした。),昭和天皇は,祖父・明治大帝が勅定し,1889211日に発布せられた大日本帝国という我が国号を,日本国に改めてしまったことになります。

 「大」が失われては気宇がちぢこまっていけない,例えば我が隣国はその国号に堂々「大」を冠し,しかしてその国民は,今や我々いじけた日本国民よりも豊かになっているではないか(購買力平価で一人当たり国内総生産を比較した場合),などと慷慨😡するのは,大日本帝国憲法案の起草者の一人である井上毅に言わせれば,少々方向違いかもしれません。

 

イ 「大」日本帝国

 実は大日本帝国憲法1条の文言(「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」)は,枢密院に諮詢された案の段階では,「大」抜きの「日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」との表現を採っていたのでした。

 これについては,1888618日午後の枢密院会議において,それまでに一通り審議が終った明治皇室典範1条の文言(「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」)との横並び論から,寺島宗則が問題視します。

 

  31番(寺島) 皇室典範ニハ大日本(○○○)トア(ママ)ヲ此憲法ニハ只日本(○○)トノミアリ故ニ此憲法ニモ()ノ字ヲ置キ憲法ト皇室典範トノ文体ヲ一様ナラシメン(こと)ヲ望ム

 

 当該要求に,森有礼,大木喬任及び土方久元が賛同します。

 これに対する井上毅の反論及びその後の展開は次のとおり。

 

  番外(井上) 皇室典範ニハ大日本ト書ケ𪜈(ども)憲法ハ内外ノ関係モアレハ大ノ字ヲ書クコト不可ナルカ如シ若シ憲法ト皇室典範ト一様ノ文字ヲ要スルモノナレハ寧ロ叡旨ヲ受テ典範ニアル()ノ字ヲ刪リ憲法ト一様ニセンコトヲ望ム英国ニ於テ大英国(グレイト,ブリタン)ト云フ所以ハ仏国ニアル「ブリタン」ト区別スルノ意ナリ又大清,大朝鮮ト云フモノハ大ノ字ヲ国名ノ上ニ冠シテ自ラ尊大ニスルノ嫌ヒアリ寧ロ大ノ字ヲ刪リ単ニ日本ト称スルコト穏当ナラン

 

  14番(森) 大ノ字ヲ置クハ自ラ誇大ニスルノ嫌アルヤ否ニ係ハラス典範ト憲法ト国号ヲ異ニスルハ目立ツモノナレハ之ヲ刪ルコト至当ナラン

 

  17番(吉田〔清成〕) 典範ニハ已ニ大日本トアリ又此憲法ノ目録ニモ亦大日本トアリ故ニ原案者ハ勿論同一ニスルノ意ナラン

 

  議長〔伊藤博文〕 此事ハ別ニ各員ノ表決ヲ取ラスシテ()ノ字ヲ加ヘテ可ナラン故ニ書記官ニ命シ()ノ字ヲ加ヘ本案ニ

 

大日本帝国の「大」の字は,議事の紛糾を恐れた伊藤枢密院議長がその場において職権で加えることにしてしまったもののようで,領土・人口・GDPをこれから大きくしようというような深謀遠慮があって付けられたものではないようです。

 

ウ 大日本「国」皇位 vs. 大日本「帝国」

ところが奇妙なことがあります。当時の関係者は憲法も皇室典範も「大」日本でそろったことに満足してしまい,明治皇室典範1条では「大日本国皇位」と「国」であるのに対し,大日本帝国憲法1条では「大日本帝国」と「帝国」であるという,残された相違については問題にしていないのです。

この点については,佐々木惣一が疑問視しており,後に『明治憲法成立史』(有斐閣・1960-1962年)を出版することになる稲田正次東京教育大学教授に問い合わせたりしたようですが,結論は「旧皇室典範と大日本帝国憲法とが我国を指示するのに,別異の語を用ゐてゐるの理由は,依然として明かでない」ということになっています(佐々木惣一「わが国号の考究」『憲法学論文選一』(有斐閣・1956年)47頁)。佐々木は,明治皇室典範1条で「大日本帝国皇位といふとせば,帝と皇との両語の位置に基き,其の語感調はざるものがあるとして,大日本国皇位としたのではないか」と推測しつつ,「稲田教授も私と同様の意見の如くである。」と述べています(佐々木49頁。稲田教授の佐々木への書簡には「削除の理由は御説の通り帝と皇と2字あるは聊か重複の感もあり語調宜しからざるが為と推察被致候(いたされそうろう)或は起草者としては大日本国は大日本帝国の略称位に軽く考へ典範憲法間別に国号の不一致無之(これなき)ものと単純に思ひ居たるものと被存候(ぞんぜられそうろう)」とあったそうです。)。しかし,語感の問題で片付けてしまってよいものでしょうか。

 ということで,起草者らの意図を何とか探るべく,伊東巳代治による大日本帝国憲法及び明治皇室典範の英語訳に当ってみると,大日本帝国はthe Empire of Japanであり,大日本国皇位はthe Imperial Throne of Japanであることが分かります。確かに,「大日本帝国皇位」=“the Imperial Throne of the Empire of Japan”では長過ぎますし,語調というよりも語義の点で,「“The Imperial Throne of Japan”といっておけば,Imperial ThroneのあるJapanEmpireであることは,当然分かるじゃないか」ということになります。発生的にも,具体的な人(king)ないしはその地位(royal throne)が先であって,かつ,主であり,その働きに応じて制度(king-dom)は後からついて来るものでしょう。The King of Englandがいて,それからthe Kingdom of Englandがあるのであり,the King of the Kingdom of Englandでは何やら語義が内部で循環した称号になってしまいます。なお,大日本帝国憲法1条によって当時の我が国の正式名称が定められたことに関し,そこでの帝国=Empireの意味については,「外交上の用語としては,それ等の西洋語に於いての総ての差異〔Emperor, King, Grand Duke, etc.〕に拘らず,日本語に於いては,苟も一国の君主である限りは,等しく「皇帝」と称する慣例である。若し此の外交上の用語の慣例に従へば,帝国とは単に君主国といふと同意語であつて毫も大国の意を包含しないものである。わが国の公の名称を大日本帝国といふのも,亦その意に解すべきもので,敢て大国であることを誇称する意味を含むものではなく,唯天皇の統治の下に属する国であること,言ひ換ふればその君主国であることを示すだけの意味を有つものと解するのが正当であらう。」と説明されています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)79頁)。

The Empire of Japan(大日本帝国)は,日本国(Japan)という国であって君主政体をとっているものを意味することになります。なおここでは,大日本=形容詞,帝国=名詞であるとして,ヨーロッパ語で“the Japanese Empire”となるのだと解してはならないことに注意しなければなりません。“The Japanese Empire”ということになれば,普遍的なものたるthe Empire(原型は古代ローマ帝国)に日本風(à la japonaise)との形容詞が付いただけのものとなり,その版図は必ずしもポツダム宣言第8項流に本州,北海道,九州及び四国並びに附属の諸小島に限局される必要のないものとなるのだと解し得ることになり,なかなか剣呑です。

The Imperial Throne of Japanは素直に,日本国の皇位ということになります。

「大日本帝国皇位(the Imperial Throne of the Empire of Japan)」が不可とされた理由は,またうがって考えれば,断頭台の露と消えたルイ16世と,痛風等に悩みながらも王位にあって天寿を全うしたその弟であるルイ18世との運命の違いに求められ得るかもしれません。フランスの王(Roi de France)の称号を保持していたルイ16世は,1791年憲法により,フランス人の王(Roi des Français)とされています。しかしてその後の経緯は周知のとおりです(1791年憲法は「王の身体は不可侵かつ神聖である。」とも規定していましたが(大日本帝国憲法3条参照),フランス人の憲法規範意識は当てにはなりませんでした。)。他方,ルイ18世は,王政復古後,伝統的なフランスの王(Roi de France)として統治しました。統治の当の客体に支えられる王権は危うく,統治の正統性は抽象的な国体に求められるべしということにはならないでしょうか。しかして,大日本帝国憲法1条にいう帝国は,突き詰めれば,天皇にとっての統治の客体たる領土内の臣民でした。『憲法義解』の第1条解説は天皇の大日本帝国統治につきいわく,「統治は大位に居り,大権を統べて国土及臣民を治むるなり。」と。更に美濃部達吉はいわく,「天皇が帝国を統治したまふと言へば,日本の一切の領土が天皇の統治の下に属することを意味し,更に正確に言へば,その土地の上に在る一切の人民が天皇の統治したまふところたることを意味する。統治とは領有と異なり,土地を所有することを意味するのではなく,土地を活動の舞台としてその土地に住む人々を統括し支配することの意である。」と(美濃部76頁)。“The Imperial Throne of the Japanese country and subjects”では,地方人民主権政体の国の元首のごとし,となります。

 

エ 「日本帝国」使用の勅許

しかし,以上の屁理屈を吹き飛ばすような表現が,明治天皇によって明治皇室典範に付された上諭にあります。いわく,「天祐ヲ享有シタル我カ日本帝国ノ宝祚ハ万世一系歴代継承シテ以テ朕カ身ニ至ル」云々。何と「日本帝国ノ宝祚」です。宝祚とは,天子の位の意味です。

この上諭の起草に井上毅が関与していたのならば,「大」日本帝国ではなく日本帝国であることは,「大」不要論者である井上による,寺島,大木,土方,吉田及び伊藤に対する当てつけかもしれません。しかし,当てつけ以前に,同一の明治天皇が作成する文書間での表現の不統一はいかがなものでしょうか。うっかりすると,とんでもない不敬事件になりそうです(とはいえ,伊藤博文名義の『憲法義解』の第1条解説文は,「我が日本帝国は一系の皇統と相依て終始し」云々といい,「大日本帝国」の語を使用していません。伊藤は「大」を付さぬことを認容していたのでしょう。)。しかしとにかく,いろいろ考えるに,この辺についての調和的解釈は,国家の法たる大日本帝国憲法と皇室の家法たる明治皇室典範とはその性質及び適用対象が全く異なるのだ,という理論(井上毅の理論ですが,後に公式令(明治40年勅令第6号)の制定によって破られます。)によるべきもののようでもあります。つまり,臣民並びに外国及び外国人に対するところの(したがって外向きかつ正式のものである)我が国の国号は憲法の定める大日本帝国である一方,身内の皇族を対象とする皇室の家法たる明治皇室典範及びその上諭においては,国家の法によるその縛りに盲従するには及ばないというわけです。「大」日本帝国といわなかったのは,臣民らとは違って,皇室内ではやたらと誇大表現は使わない,ということになるのでしょう。

明治皇室典範1条の「大日本国皇位」にいう「大日本」は,瓊瓊杵尊が降臨し,ないしは神武天皇がそこにおいて即位すべき対象であった(したがって帝国ではまだない)「蛍火(ほたるびなす)(ひかる)神及蠅声(さばへなす)(あしき)神」を「(さはに)有」し,また「草木」が「(みな)(よく)言語(ものいふこと)」ある葦原(あしはらの)中国(なかつくに)(『日本書紀』巻第二神代下)をもその対象に含み得る,皇室が原始的に有する我が国の統治権の根源に遡っての表現でしょうか。他方,上諭における「日本帝国ノ宝祚」は,神武天皇以来の「万世一系歴代継承」してきた歴史的な皇位を指すもので,その間の我が国は確かに帝国であったわけです。

なお,明治皇室典範上諭の前記部分の伊東による英語訳文は,“The Imperial Throne of Japan, enjoying the Grace of Heaven and everlasting from ages eternal in an unbroken line of succession, has been transmitted to Us through successive reigns.”です。英語では,大日本国皇位も日本帝国ノ宝祚も,同じ“the Imperial Throne of Japan”なのでした。

 

オ 下関条約における用法

1895年の下関条約においては,明治天皇は「大日本国皇帝」,光緒帝は「大清国皇帝」と表現され,本文では「日本国」及び「清国」の語が用いられ,記名調印者の肩書表記は「大日本帝国全権辨理大臣」及び「大清帝国欽差全権大臣」となっていました。皇帝(天皇)の帝国であって,大臣は当該帝国に属するものの,帝国の皇帝(天皇)ではないわけです。

 大と帝国との間の,日本ないしは日本国の語源探究が残っています。

 

5 「日本」の由来

 

(1)「日本」国の国号採用の時期

 まず,日本国の国号が採用された時期が問題となります。

 

ア 天智朝(670年)説

ひとまずは,天智天皇によって670年(唐の咸亨元年)に採用されたものと考えるべきでしょうか。

 

ところでこの〔668年に大津で即位式を挙げた天智天皇の制定に係る〕『近江令』で,「日本」という国号がはじめて採用されたものらしい。唐は663年に百済の平定を完了したあと,668年,ちょうど天智天皇の即位の年に,こんどは平壌城を攻め落とし,高句麗国を滅ぼしたのだったが,唐の記録によると,翌々670年の陰暦三月,倭国王が使を遣わしてきて,高句麗の平定を賀した,という。だからこの遣唐使が国を出た時には,国号はまだ倭国だったのである。

ところが朝鮮半島の新羅国の記録では,この同じ670年の年末,陰暦十二月に「倭国が号を日本と更めた。自ら言うところでは,日の出る所に近いので,もって名としたという」と伝えられている。これはその書きぶりから見て,この時に日本国の使者が到着して通告したことのようだから,この遣新羅使が国を出た時には,国号はすでに日本国に変わっていたことになる。だから日本という新しい国号が採用されたのは670年か,早くても669年の後半でなければならない。

  (岡田英弘『倭国』(中公新書・1977年)151-152頁)

 

 咸亨元年の倭の使いに関しては『新唐書』巻二百二十列伝第百四十五東夷に「日本,古倭奴也。〔中略〕咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,悪倭名,更号日本。使者自言,国近日所出,以為名。或云日本乃小国,為倭所并,故冒其号。使者不以情,故疑焉。又妄誇其国都方数千里,南,西尽海,東,北限大山,其外即毛人云。〔後略〕」とあるところです。当該咸亨元年の遣唐使の発遣の時期については,『日本書紀』巻二十七天智天皇八年条(翌天智天皇九年が唐の咸亨元年です。なお,天智天皇の即位年は天智天皇七年です。)に「是年,遣小錦中(せうきむちう)河内(かふちの)(あたひ)(くぢら)等,使於大唐。」とあります。

670年(早くとも669年後半)説は,〔(いにしえ)の倭が〕高〔句〕麗を平らげたことを賀する遣いを咸亨元年(670年)に遣わしたが,〔倭は〕その「後」に(やや)夏音を習って倭の名を(にく)み,更めて日本と号した,ということから,唐の高句麗平定を咸亨元年に唐で賀した遣唐使の発遣時には我が国の国号は依然として倭国であっただろうとするものでしょう。これに関して1339年成立の『神皇正統記』において北畠親房は,「唐書「高宗咸亨年中に倭国の使始てあらためて日本と号す。其国東にあり。日の出所に近きをいふ。」と載せたり。此事我国の古記にはたしかならず。」と書いています(岩佐正校注『神皇正統記』(岩波文庫・1975年)18頁)。北畠は,『新唐書』にある「後」の字を省いて読んだものでしょうか。

『新唐書』は,北宋の欧陽脩・宋祁らが勅命を受けて11世紀に作ったものです。

唐の咸亨元年に係る新羅の記録は,『三国史記』巻六新羅本紀第六文武王上の同王十年条に「十二月,〔中略〕倭国更号日本,自言近日所出以為名。」とあります。我が国の記録には,同年「秋九月辛未朔〔一日〕,遣阿曇連頰垂(あづみのむらじつらたり)於新羅。とあります(『日本書紀』巻二十七天智天皇九年条)。

『三国史記』は,高麗の金富軾らによって12世紀に作られたものです。

 

イ 孝徳朝説

しかし,日本国の国号は,もっと早く孝徳天皇の時代に採用されたものだとする説があります。

 

  「日本」という国号の成立は,推古朝より少しのちになるようだ。大化改新(645年)のころ,たぶん大化の年号とともに制定されたのではなかろうか。『隋書』には「日本」という語はみえず,『旧唐書』日本伝には,貞観二十二年(648・大化四)に日本から使いがきたことを記したあとに,

  「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるをもって,故に日本をもって名と為す」

 とある。つまり,隋への国書にみえる「日出処天子」の「日出処」をいいかえたものである。『新唐書』日本伝には,「後稍〻夏音を習い,倭の名を悪み,更めて日本と号す」とある。〔略〕

  それにしても,日本とはなかなか壮大な国名である。中国にまけまいとする新興国のもえあがるような気魄が,この国号にもあらわれている。

 (直木孝次郎『日本の歴史2 古代国家の成立』(中央公論者・1965年)112-113頁)

 

しかし,この説における『旧唐書』の読み方は少々不思議です。『旧唐書』巻百九十九上列伝第百四十九上東夷においては,倭国の伝と日本国の伝とが別に立てられているのです。倭国伝は「倭国者,古倭奴国也。」から始まって,その最後の部分が「貞観五年,遣使献方物。太宗矜其道遠,敕所司無令貢,又遣新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才,与王子争礼,不宣朝命而還。至二十二年,又附新羅奉表,以通起居。」です。貞観二十二年(大化四年)に新羅に附して表を奉り,もって起居を通じたのは,倭国であって,日本国ではないようです。なお,貞観二十二年には,前年(大化三年)に我が国の孝徳朝を訪問していた新羅の金春秋(後の同国太宗武烈王)が,唐に使いしています。

『旧唐書』では倭国伝の直後が日本国伝ですが,日本国伝の冒頭部分は次のとおりです。

 

日本国者,倭国之別種也。以其国在日辺,故以日本為名。或曰:倭国自悪其名不雅,改為日本。或云:日本旧小国,併倭国之地。其人入朝者,多自矜大,不以実対,故中国疑焉。又云:其国界東西南北各数千里,西界,南界咸至大海,東界,北界有大山為限,山外即毛人之国。

 

 飽くまでも日本国は倭国とは別種であるものとされています。

 『旧唐書』は,五代の後晉の劉昫が,勅命を奉じて10世紀に著したものです。

 

ウ 702年の対唐(周)披露

なお,日本国の国号が採用された時期に関しては,8世紀初めの周(唐もこの時国号を変えていました。)の長安二年(我が大宝二年。702年)に武則天に謁見した我が遣唐使が「日本国」から派遣されたものであることについては,争いはないようです(『旧唐書』東夷伝には長安三年とありますが,長安二年でよいようです(神野志隆光『「日本」 国号の由来と歴史』(講談社学術文庫・2016年)14頁)。)。『三国史記』による670年説をどう補強するかが問題になるのでしょう(同書は評判が余りよくないようです。いわく,「『三国史記』文武王咸亨元年に,倭国を改めて日本国と号したという記事は,『新唐書』によったものである。〔略〕『三国史記』は信ずるに足りず,そもそも,中世文献である『三国史記』を根拠とすることはできない。」と(神野志235-236頁)。)。

これに関しては,『旧唐書』も『新唐書』も共に,倭国が倭の名を嫌った結果その号を更めた,という話のほかに,「或いは云ふ」ということで,倭国と小国である日本国との並立から併合へという動き,すなわち争いがあった話を伝えていることが注目されます。しかも,その間のことについては,唐への我が国からの使者はどうもいい加減な受け答えをしていたようです(『旧唐書』では「実を以て対へず,故に中国は疑ふ。」,『新唐書』では「使者情を以てせず,故に疑ふ。」)。外国に積極的に話したくない我が国のこの頃の内紛といえば,咸亨三年(672年)の壬申の乱でしょうか。天智天皇の正統を継ぐ大津朝廷側が日本国という国号を採用していたとすれば,『新唐書』の「日本は(すなは)ち小国,倭の幷せる所と為る,故に其の号を冒す。」という記述が,壬申の乱及びそれ以後の経過をうまく表しているように思われます。天智天皇は日本国という新しい国号を採用したが,新国号派は少数にとどまり,その死後,守旧派(倭)を率いた大海人皇子に大津朝廷(日本国)は滅ぼされた,しかし結局,新国号の理念が天武=持統=文武朝において最終的には貫徹するに至った(冒其号),ということでしょうか。明治から大正にかけてもっとも強力であったとされる壬申の乱原因論である「天智天皇の急進主義にたいする大海人皇子の反動的内乱とするみかた」(直木334頁)には,確かに分かりやすいところがあります。

以上,日本国という国号の採用時期に関する議論はこれくらいにして,一応670年に天智天皇が採用したとの説を採り,国号変更の原因及び「日本国」採択の理由について考えましょう。

 

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1 日本国「第100代」内閣総理大臣登場

 2021921日付けの「日本国憲法第7条及び国会法第1条によって,令和3104日に,国会の臨時会を東京に召集する。」との詔書が同日の官報特別号外第78号をもって公布され(公式令(明治40年勅令第6号)1条・12条参照),2021104日に第205回国会が召集され,現在の菅義偉内閣は総辞職,当該国会の議決によって自由民主党総裁・岸田文雄衆議院議員が新内閣総理大臣に指名され(日本国憲法67条),直ちに同議員が

天皇陛下によって第100代内閣総理大臣に任命される運びであるそうです(日本国憲法61項)。(なお,余計なことながら,国会法(昭和22年法律第79号)5条は「議員は,召集詔書に指定された期日に,各議院に集会しなければならない。」と規定し,かつ,国会議事堂が東京都千代田区に所在していることは明らかであるにもかかわらず召集詔書において召集地が東京である旨念が押されてあるのは,1894年の日清戦争の際に岸田衆議院議員の選出選挙区である広島市に帝国議会が召集された前例(同年10月)があるからでしょう。)

 ところで,

 

岸田文雄第100代内閣総理大臣!?

ヒャク!?

カッコいい!!

 

 ということに直ちになるのでしょうか。

 

2 百王説

 かつて,百王説というものがありました。畏れ多いことながら,我が

天皇家も百代限りではないか,との心配です。

承久年間に成立した慈円の『愚管抄』にいわく。

 

 ムカシヨリウツリマカル道理モアハレニオボエテ,神ノ御代ハシラズ,人代トナリテ神武天皇ノ以後百王トキコユル。スデニノコリスクナク八十四代ニモナリニケル(第三冒頭部)

 

 ここで第84代に数えられる天皇は,順徳天皇です。当時は弘文天皇の在位はいまだ認められていなかったものの,神功皇后が天皇と認められていたので,現在の数え方による代数と,結果として一致しています。順徳天皇は,今年(2021年)からちょうど800年前の承久三年,同年の変乱の結果(承久の変に関しては:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1064426577.html),怒涛逆巻く日本海中の佐渡島にお遷りになっておられます(乱臣賊子的にあからさまに言えば,流刑です。(乱臣賊子に関しては:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1066681538.html。旧刑法(明治13年太政官第36号布告)における流刑及び徒刑に関しては:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079020156.html)。

 ふと気になり,第84代内閣総理大臣はだれであったかと確認すると,内閣総理大臣在職中の20004月に倒れて不帰の客となった小渕恵三内閣総理大臣でした。これも不運というべきでしょう。(同内閣総理大臣の最後の1箇月間の動きについては:https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4410784/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/2000_03_calender/03_timetable.html

 こうなると,第100代の天皇がだれであったかも気になります。仲恭天皇の在位を認めれば,第96代が後醍醐天皇,更に持明院統正統論を採れば,第97代が光厳天皇,第98代が後醍醐天皇重祚,第99代が光明天皇,そして第100代が崇光天皇,第101代が後光厳天皇(又は後村上天皇)となります。なるほど。すなわち,第100代崇光天皇は,足利尊氏・直義兄弟の兄弟喧嘩のとばっちりで観応二年(1351年)に退位せしめられ三種の神器も奪われ,更に翌正平七年(1352年)には吉野方の狼藉によって賀名生に連行されてしまうという大変な辛苦を嘗められた不幸な天皇であらせられたのでした。しかして,持明院統の王朝はここにいったん断絶(光厳太上天皇及び光明太上天皇も賀名生に連行せられてしまっています。),そこで観応三年(1352年)に新たに,二条良基及び足利尊氏を両頭とする我ら臣民による推戴をその正統性の根拠とする後光厳天皇による新王朝が発足したのでした。(以上につき:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1003236277.html

 

3 いわゆる第三次近衞内閣による問題残置(対米開戦問題のみにあらず)

 ということで,第100代はゆゆしい。やった第100代だ!と無邪気に興奮する前に,歴代内閣総理大臣の代数を念のためもう一度数え直してみるべきではないでしょうか――といえば直ちに,かつて「加藤高明内閣といわゆる第三次近衛内閣」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1062787421.html)をものした筆者としては,近衞文麿が内閣総理大臣に任命されたのは実は3回ではなくて2回にすぎないから(いわゆる第三次近衞内閣の発足時には,提出されてあった近衞文麿内閣総理大臣の辞表は結局受理されずに昭和天皇から下げ渡されています。1941718日に近衞が昭和天皇からもらった辞令は,兼司法大臣に任ぜられるものだけでした(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(東京書籍・2016年)433-434頁)。),第39代内閣総理大臣はいわゆる第三次近衞内閣の近衞文麿ではなくて東條英機であり,以下1代ずつ繰り上がって,99代目といわれていた菅義偉内閣総理大臣は,本当は98代目だったのだ,100代目!といって騒ぐには,今次衆議院議員総選挙後の内閣総辞職(日本国憲法70条)を承けた新内閣総理大臣の指名・任命を待たねばならないのだ,とへそ曲がりなことを言いたくなります。

 しかし,世間に抗うのも骨が折れます。しっかり不織布のマスクを着けて,沈黙すべきでしょうか。(なお,不織布マスクの着用については,2021831日付け下級裁判所宛て最高裁判所事務総局「デルタ株等による感染拡大状況を踏まえた感染防止対策」の第31「マスク着用の徹底」において,ウレタンマスクや布マスク(アベノマスク!)ではなく「不織布マスクの着用を基本とすることが相当である。」とされています。)

 

4 「第3代」内閣総理大臣・三條實美の復権

 とはいえ,結果としては沈黙するとしても,それなりの筋は通しておくべきでしょう。

3度目の近衞を神功皇后のように歴代から落とすならば,弘文天皇又は仲恭天皇のように事後的に歴代に加えるべき内閣総理大臣を捜し出せばよいではないか――というのが筆者の思案です。

ということですぐ頭に浮かんだのは,三條實美です。

18891024日,第2代内閣総理大臣黑田淸隆以下大隈重信外務大臣を除く各国務大臣が辞表を提出(大隈は同月18日閣議からの帰途に玄洋社員来島恆喜に爆弾を投げつけられて負傷療養中),同月25日,三條實美内大臣に内閣総理大臣の兼任が命ぜられ,内閣総理大臣以外の国務大臣からの辞表は却下されます。(『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)による。御厨貴『日本の近代3 明治国家の完成 18901905』(中央公論新社・2001年)によれば事情は実はより複雑であったようで,「〔188910月〕22日,総理大臣黒田清隆以下,療養中の大隈を除く全員の大臣が総辞職の意向を明らかにする。〔略〕しかし黒田は,後継に山県を推薦した後,自分一人の辞表を出して辞任する。/〔略〕非常な混乱状態となった。全員辞任のつもりが,独断専行のかたちでまず総理が先に辞めてしまった。総理が辞めたと聞いて,他の大臣も困りはて,ついには日付をずらして,全員辞表を出したのである。」とのことです(158-159頁)。)

18891025日から起算して61日目の同年1224日,内大臣兼内閣総理大臣公爵三條實美は内閣総理大臣の兼官を免ぜられ,同日内務大臣兼議定官臨時砲台建築部長陸軍中将兼監軍従二位勲一等伯爵山縣有朋が内閣総理大臣兼内務大臣に任ぜられます。従来この山縣が,第3代内閣総理大臣であるものとされています。

三條實美は,なぜ第3代内閣総理大臣として扱われてこなかったのでしょうか。

内閣総理大臣は代わっても,他の国務大臣は黑田内閣のままだったからでしょうか。しかし,黑田内閣自体,1888430日の発足時は内閣総理大臣以外の国務大臣は第1次伊藤博文内閣のものがそのまま留任しています(伊藤は枢密院議長として内閣に班列となり,農商務大臣であった黑田が内閣総理大臣に異動した後は,留任した榎本武揚逓信大臣が同年725日まで農商務大臣を臨時兼任)。

在任期間が短かったからでしょうか。しかし,1945年のポツダム宣言受諾後の東久邇宮稔彦王の内閣総理大臣在任期間は54日でもっと短い。

国立国会図書館の「近代日本人の肖像」ウェッブページを見ると,三條の説明書きには「〔明治〕22年黒田内閣総辞職後,一時臨時首相を兼任した。」とありますから,三條の内閣総理大臣は臨時兼任だったのでしょうか。確かに,内閣総理大臣の臨時兼任は,第2次伊藤内閣の伊藤博文内閣総理大臣が1896831日に辞任後同年918日に第2次松方正義内閣が発足するまでの間黑田が命ぜられて以来,内閣総理大臣が辞任し又は死亡した場合においてその例は多いのですが,これらの内閣総理大臣臨時兼任者は,歴代の内閣総理大臣には加えられていません。しかし,三條の内閣総理大臣兼任は,正に兼任であって,臨時兼任ではありません。「これは臨時兼任ではなく,かたちとしては恒常的な兼任」であったものです(御厨159頁)。また,その当時,兼任と臨時兼任との区別がなかったということはありません。前記の榎本逓信大臣による農商務大臣臨時兼任は,三條内大臣による内閣総理大臣兼任より前のことでした(大臣の臨時兼任の制度は,内閣総理大臣伊藤博文による1887916日から188821日までの外務大臣臨時兼任から始まっています。)。(ただし,大臣の長期洋行中は,臨時兼任ではなく,兼任とされたようです(ヨーロッパ視察中の山縣内務大臣のために1888123日から1889103日まで松方正義大蔵大臣が内務大臣を兼任したような場合)。)

「三条に期待されたのは,三条が総理大臣としての手腕をふるうことではなく,次の首相が山県であることを暗黙の前提として,それに向けて下(なら)しをするということに尽きた。」(御厨159頁),「制度上の整備を,山県はすべて三条内閣に委ねた。これはみごとなばかりと評してよい。三条は政治的野心をもたぬ無私かつ無能の人であるがゆえに,条約改正〔交渉の延期の決定(18891210日の閣議)。大審院判事に外国人を任用するなどという大日本帝国憲法違反の大隈式条約改正の否定〕と内閣官制〔明治22年勅令第135号,18891224日裁可・公布,副署者の筆頭は「内閣総理大臣 公爵三條實美」。18851222日の内閣職権では内閣総理大臣の権限が強すぎ,実際に「黒田のときは,黒田・大隈が一体になって,条約改正という外交案件を進めたため,ほかの大臣がいくら反対しても,覆すことができない状況」という困った事態となっていたため,内閣官制では内閣総理大臣の権限を弱めています。)〕という国会開設を前に処理せねばならぬ難問を全部そこで片づけてしまうことができた。したがって課題達成とともに三条は退き,いわば失点ゼロのかたちで山県は満を持して登場することになる。」(御厨167頁・166頁)ということで,無私・無能の三條は政治的に影が薄く,その前後のあくの強い黑田,黒幕の山縣の間で目立たぬまま,居心地悪く懸命に内閣総理大臣を兼任していたことも人々から早々に忘れ去られてしまったものでしょうか。しかし,これは政治史的評価の問題であって,三條を歴代内閣総理大臣に加えるべきかどうかは,制度的に考えるべきことでしょう。それに,大日本帝国憲法下の内閣の制度を定めた当の内閣官制に「内閣総理大臣」として副署している三條が歴代内閣総理大臣から排除されているということは,皮肉でなければ失礼でしょう。また,山縣内閣の下均しをした三條内大臣の内閣総理大臣兼任期を,従来黑田内閣の存続期間内に含めてしまっていますが,これもどうでしょうか。黑田・山縣両内閣と少なくとも等距離の取扱いがされてもよいのではないでしょうか。そもそも黑田は条約改正について三條政権の採った方針(伊東巳代治が起草したものを農商務大臣井上馨が提出したというかたちになっている「将来外交之政略」(御厨161-162頁))には不満であって,「そこで黒田は怒って,〔188912月〕15日の夜,酔いに乗じて井上馨をその館に訪れた。ちょうど井上は留守であったが,黒田は大酔のまま乱入し,「井上はおるか,井上は国賊なり,殺しに来た」と乱暴な大声を発し,座敷に上がりこんで狼藉を働き,暴れ回った。」(御厨165頁)という醜態を演じており,三條政権をもって同一の黑田内閣がそのまま延長されたものとする従来の取扱いは,三條には迷惑であるし,黑田も不本意とするところでしょう。

内閣総理大臣は副職禁止であって,他の大臣を兼務するような者は歴代内閣総理大臣には加えてはやらぬのだ,というわけにもいきません。初代内閣総理大臣の伊藤博文自身が最初から宮内大臣を兼任しています(1887917日,すなわち前記の外務大臣臨時兼任を始めた翌日,「免兼宮内大臣」ということになっています。)。三條の次の山縣も内閣総理大臣兼内務大臣です。単なる兼業は,歴代内閣総理大臣に加えられる上では問題とはならないようです。

 どうも問題は,兼任する大臣の官職のうち,どちらが本官でどちらが兼官かということになるようです。三條の場合は,例外的に,内大臣が本官で,内閣総理大臣が兼官となっています。内閣官房(内閣所属部局及職員官制(大正13年勅令第307号)により19241220日から設けられたようです(同官制1条・2条,附則1項)。)ないしは内閣総理大臣官房で歴代内閣総理大臣の表を作る際に,あっ三條公爵は内大臣が本官で宮中の人だから,我々内閣職員ないしは総理府職員の大ボスたる正式な内閣総理大臣ではないよね,という整理が暗黙のうちにされてしまったものでしょうか。18851222日の明治18年太政官第68号達によれば,内大臣は宮中に置かれ,「御璽国璽ヲ尚蔵ス」及び「常侍輔弼シ及宮中顧問官ノ議事ヲ総提ス」という職務を行うものとされていました。

しかし,兼官大臣=非大臣の発想であると,例えば先の対米英戦の前半期には陸軍大臣は不在であったのか,ということになります。

 

 〔19411018日〕午後3時,鳳凰ノ間において親任式を行われ,陸軍大臣兼対満事務局総裁陸軍中将東条英機を内閣総理大臣兼内務大臣陸軍大臣に任じられる。

 (宮内庁512頁)

 

 これは,内閣総理大臣を本官とし,内務大臣及び陸軍大臣を兼官とするということでしょう。


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 いざ,国賊・井上馨を成敗せん(札幌市中央区大通公園)

 

5 内閣を総理する初代大臣としての三條實美

 更に余談。

内閣総理大臣を,六文字熟語ではなく,内閣を総理する大臣というように普通名詞的に解すると,初代内閣総理大臣は伊藤博文ではなく,実は三條實美であった,ということになるかもしれません。

我が国における内閣制度の発足は,18851222日の明治18年太政官第69号達で,

 

 今般太政大臣左右大臣参議各省卿ノ職制ヲ廃シ更ニ内閣総理大臣及宮内外務内務大蔵陸軍海軍司法文部農商務逓信ノ諸大臣ヲ置ク

 内閣総理大臣及外務内務大蔵陸軍海軍司法文部農商務逓信ノ諸大臣ヲ以テ内閣ヲ組織ス

 

 と定められたことに始まると一般にされています。

 しかし,「内閣」の語は,それより前から官制上使用されています。

 

   明治6年〔1873年〕52日,太政官無号達を以て太政官職制の改正が行はれた。其の改正の第1点は,太政官――正院の権限を大いに拡張したこと,従つて各省の権限を縮(ママ)したことである。

   改正の第2点は,正院機構の改正である。従来の太政官職制〔明治四年七月二十九日(1871913日)発布〕に於ては,「太政大臣,左右大臣,参議ノ三職ハ天皇ヲ輔翼スルノ重官」〔明治四年八月十日(1871924日)の太政官第400号達で改定された「官制等級」中の文言。「・・・ニシテ諸省長官ノ上タリ故ニ等ヲ設ケス」と続きました。〕であつたが,今回の改正に於て,太政大臣及び左右大臣のみ天皇輔弼の責に任じ,参議は内閣――此の時始めて内閣なる文字を使用した――の議官として諸機務議判の事を掌ることゝなつたのである。即ち従来天皇輔弼の責任の所在と,国務国策の決定の手続とが不明瞭であつたのが,これで修訂されたわけである。併しながらなほ政治の実力者たる参議に特任して組織せしめられる内閣の権限と,それによる天皇輔弼の大臣の責任とは一致せしめられなかつた。此の点は,後に明治18年の内閣制度の成立を俟つて,始めて実現せられたところである。

   改正の第3点は,右院に関するものである。〔以下略〕

  (山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)38頁。下線は筆者によるもの)

 

確かに,『憲法義解』の大日本帝国憲法55条解説を見ると,明治「18年〔1885年〕の詔命に至り,大いに内閣の組織を改め」とありますから(下線は筆者によるもの),太政官制時代から内閣が存在していたことが前提となっています。

1871年の最初の太政官職制において参議は「太政ニ参与シ官事ヲ議判シ大臣納言〔この「納言」は前記明治四年太政官第400号達では「左右大臣」となっています。〕ヲ補佐シ庶政ヲ賛成スルヲ掌ル」とされていたところが,1873年の太政官職制では「内閣ノ議官ニシテ諸機務議判ノ事ヲ掌ル」と,なるほど権限が縮小されています。

187352日の太政官職制にいう「内閣」とは何かといえば,同日付けの正院事務章程に「内閣ハ 天皇陛下参議ニ特任シテ諸立法ノ事及行政事務ノ当否ヲ議判セシメ凡百施政ノ機軸タル所タリ」とあります。また,「正院」とは何かといえば当該事務章程に「正院ハ 天皇陛下臨御シテ万機ヲ総判シ太政大臣左右大臣之ヲ輔弼シ参議之ヲ議判シテ庶政ヲ奨督スル所ナリ」とあります。

太政官に正院があるのならばそれ以外の院(左院及び右院)があるわけですが,これらの3院については,1871年の太政官職制についてですが「太政官を分つて正院・左院及び右院の三とした〔略〕。此の中正院は従来の太政官に相当するもので,太政大臣納言及び参議等を以て構成せられ,庶政の中枢的最高機関である。左院は後の元老院に相当するもので,専ら立法の事を審議し,議長の外一等議員二等議員三等議員を以て構成せられる。右院は各省の長官次官を以て組織せられ,行政実際の利害を審議する所であつて,謂はゞ各省の連絡機関とも見るべきものである。尚太政官の下に各省を置き卿一人を以て長官とすることは,概ね従前と変わりはない。」と説明されています(山崎31頁)。

太政官正院の内閣を総理する大臣がいれば,それが内閣総理大臣ということになるわけです(参議は,大臣ではありません。)。1873年の太政官職制において太政大臣の職掌は「天皇陛下ヲ輔弼シ万機ヲ統理スル事ヲ掌ル/諸上書ヲ奏聞シテ制可ノ裁印ヲ鈐ス」とされている一方(下線は筆者によるもの),左右大臣のそれは「職掌太政大臣ニ亜ク太政大臣缺席ノ時ハ其事務ヲ代理スルヲ得ル」ということなので,太政大臣・三條實美が,内閣を総理する大臣だったものでしょう。

三條は,「明治6年政変では政府内の対立をまとめきれずに病に倒れるなど,指導力のある政治家とは見なされていなかった。」(御厨159頁)と酷評されていますが,これは,征韓論をめぐって相争う参議らを取りまとめ,内閣を総理する職責が太政大臣にあったからこそでしょう。

なお,日本国憲法の英文では内閣総理大臣は“Prime Minister”となっています。英国に倣ったものでしょう。ただし,英国では「従来Cabinetの議長をしていた国王が出席しなくなったので,Cabinetに議長を作る必要が生じた,この議長はPrime Minister――文字通りには「第一大臣」――とよばれることが多かった。」ところ(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)142-143頁),「Prime Ministerという名は,アン女王の時にゴドロフィン(Earl of Godolophin)(1702-10年)に用いられたのが最初である。他面,ニューカースル(Duke of Newcastle; Thomas Pelham-Holles)(首相1754-56年,57-62年)やピット(William Pitt; Earl of Chatham)(首相1766-68年)は,Prime Ministerとはよばれていない。」(田中143頁註24)ということなので,Prime Ministerは,本来は普通名詞なのでしょう。すなわち,太政大臣を天皇の第一大臣という趣旨で“Prime Minister”と訳してもよいではないか,とも思われるのです。

ここで『憲法義解』の大日本帝国憲法55条解説の伊東巳代治による英訳を確認しておきましょう。そこでは,内閣はCabinetとされ,太政官はCouncil of State,参議はCouncillors of Stateです。Councilであれば,そもそも太政官自体が会議体の如し。太政大臣は,Chancellor of the Empireとなっています。ドイツ語だとReichskanzlerですか。ビスマルクみたいですね。左大臣がMinister of the Left,右大臣がMinister of the Rightなので,挙国一致のためにあえて左右(サヨウヨ)両翼陣営から大臣を採ってバランスを取ろうとしていたのか,などと余計なことを考えてしまいます。内閣総理大臣はMinister President of Stateであって,これは国務大臣(Minister of State)中の首席(president)ということでしょう(国務大臣ではない大臣は,内大臣及び宮内大臣です。なお,太政官制下の各省長官の卿もMinister of Stateと訳されています。)。内閣総理大臣がMinister President of Stateであるのを奇貨として,Chancellor of the EmpireMinister President of Stateとを総称してPrime Ministerと言ったってよいではないか,ということになるでしょうか。しかし,我が国の歴代内閣総理大臣についての議論をするに当たって,英語を介するのはねじくれていますね。


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I am neither Minister President of State nor Chancellor of the Empire, but the first Lord Keeper of the Privy Seal. (東京都文京区護国寺)

 

附論:「内閣」語源僻考

太政官があって正院があって,正院の中に天皇の特任を受けて参議が議判を行う内閣があったわけでした。そうであればすなわち内閣は,正院の更に内部にあるから()閣だったのでしょうか。

『角川新字源』(第123版・1978年)的には,「内閣」とは「①妻女のいるへや。(同)内閤ないこう②明代にできた行政の最高機関。明の成祖は翰林院の優秀な学者を宮中の文淵閣に入れて重要政治をつかさどらせ,これがやがて政府の最高機関となった。」とあります。しかし,1873年段階での我が太政官正院の内閣は「政府の最高機関」とまではいえないでしょう。天皇の輔弼は,専ら太政大臣の職務です。

なお,明の場合「天子の側近たる宰相の職が必要になるのであるが,既に太祖〔洪武帝〕の命によって丞相を廃した後であるから,祖法に背いてまで公然と宰相を任命するわけに行かない。そこで天子の私設の秘書という形で,内閣という制度を造った。」ということで(宮崎市定『中国史(下)』(岩波文庫・2015年)190-191頁),「内閣大学士が実際の宰相の任となった」ものの(宮崎191頁),「私設」だから「内」閣ということになったようにも思われます。しかし,我が太政官正院の内閣は,私設のものではありません。とはいえ,明の嘉靖帝の時代(16世紀半ば)になると「大学士が制度上独自の地位を認められ」るようになったそうで(宮崎192頁),私設秘書的なるものとしてのその出自も忘れられるようになったものでしょう。

(ちなみに,19世紀当時の清の内閣は,18世紀初めの雍正帝による軍機処設置の結果「軍機処が出来ると,急を要する重要な文書は次第にここを経過するようになり,内閣で扱うものは会計報告など月並みな文書ばかりとなり,それに伴って内閣大学士は閑散な名誉職と化し,実権が軍機大臣の手に移った」(宮崎249頁)との状況がなおも続いていたものでしょうか。)

「内閣大学士の職務のうち,最も重要なのは票擬,または擬旨の役目である。旨とは天子の決定のことであり,大学士は天子に代わって,百官が奉る上奏を下見し,天子が下すべき旨について案を立てるので,これを擬旨という、この擬旨は小紙片,票に記入して,これを上奏文の最後に貼っておくから,これを票擬と称する」ということで(宮崎192頁),漢土の内閣は学者たる大学士が皇帝の秘書的な仕事をする仕組みでしたが,志士上がりの政治家たる参議らが諸機務の議判をする場である我が太政官正院の内閣は,むしろ英語のCabinetの翻訳語として意識されていたものでもありましょうか。研究社の『新英和中辞典』(4版・1977)によれば,英語のcabinet”は,貴重品などを収めまたは陳列する飾りだんす(たな),キャビネットの意味があるほか,古くは小室,私室(=closet),国王などの私室の会議(室)を意味していたところ,これは,漢字の「閣」と符合するようです。すなわち,『角川新字源』によれば,「閣」は,①かんぬき,②物をしまっておく所,③たな,④おく(措),とどめる,やめる,⑤物をのせる,⑥たかどの(楼),⑦ものみ,四方を観望する高い台,⑧かけはし,⑨ごてん「殿閣」,⑩→閣閣(①端正なさま,まっすぐなさま,②かえるの鳴く声のさま),とあります。(単なる「閣」よりも「内閣」とした方がよりcabinet的ですね。「金閣」では派手すぎます。)しかして,英国においては,「Cabinetは,17世紀に,国王が事項ごとにその助言者の枢密顧問官を集めて相談をした会合の中で最も重要であった外交担当者の集まりであるCabinet Councilから発生したものであり,18世紀初頭になると,秘密保持と能率の見地から,重要事項についてはより少数のメンバーが集まった。これがCabinetとよばれた。(Cabinet Councilは,18世紀中葉まで存続する。)」とのことで(田中142頁),Cabinetは秘書の仕事場というよりも,相談の場であるとの趣旨が前面に出ます。

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 令和の御代の現在から百年ほど前の大正時代,スペイン風邪というものがはやったそうです。

 

1 1918年春

 1918年(大正7年)の春から兆しがありました。「この年〔1918年〕は,普段なら流行が終息するはずの5月頃になってもインフルエンザ様の疾患があちこちで発生しました。例えば軍の営舎に居住する兵士や紡績工場の工員,相撲部屋の関取など,集団生活をしている人たちの間で流行が目立ちました。これらは季節性インフルエンザの流行が春過ぎまで長引いたものなのか,スペインインフルエンザ〔スペイン風邪〕の始まりだったのかは不明です。しかし米国からスペインインフルエンザ第1波(春の流行)が世界に拡散していた時期に一致しますので,この時ウイルスが日本に入ったとも考えられます。」とのことです(川名明彦「スペインインフルエンザ(後半)」内閣官房ウェブサイト・新型インフルエンザ等対策ウェブページ(20181225日掲載))。『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)は,東京朝日新聞を典拠に,1918年「春.― 世界的インフルエンザとなったスペイン風邪,わが国に伝わり,翌年にかけ大流行(死者15万人に及ぶ)」と記しています(234頁)。すなわち,「スペインフルの第一波は1918年の3月に米国とヨーロッパにて始まります」とされているところです(国立感染症研究所感染症情報センター「インフルエンザ・パンデミックに関するQ&A」(200612月))。なお,「スペインフル」の「フル」とは“flu”のことで,influenza(インフルエンザ)の略称です。

世界史年表的には,19183月には,3日にブレスト=リトウスク講和条約が調印されて東部戦線のソヴィエト=ロシアが第一次世界大戦から脱落,21日にドイツ軍が西部戦線で大攻勢を開始します。

 

1918321日,濃い霧が発生した。偶然にも,この日はドイツ軍のソンム川における攻勢予定日であった。ドイツ歩兵は,ほとんど察知されずに英軍の機関銃座を蹂躙した。すぐに,全戦線の崩壊が始まった。英兵は,士官の大部分を含めて,当該大戦中に徴募された兵士たちであった。彼らが訓練を受けたのは,塹壕を固守し,時折そこから攻撃をしかけることであった。彼らには開豁地での戦闘の経験はなかった。念入りに構築された塹壕システムから追い立てられ,彼らは狼狽した。彼らは何とかしのぎつつも,大幅に後退した。ヘイグの〔英〕予備軍は,はるか北方のかなたにあった。(Taylor, A.J.P., The First World War. Penguin Books, 1966. p.218

 

2 1918年初夏

ところで,相撲部屋には,十両以上の「関取」のみならず幕下以下の汗臭い(ふんどし)担ぎもいるわけですが,19185月段階における「インフルエンザ様の疾患」の流行の際(同月「8日付の新聞は「流行する相撲風邪――力士枕を並べて倒れる」という見出しで,「力士仲間にたちの悪い風邪がはやり始めた。太刀山部屋などは18人が枕を並べて寝ていた。友綱部屋では10人くらいがゴロゴロしている」と伝え」,「花形力士の欠場続出で番付も組み替えられた。」という状況であったそうです(「朝日新聞創刊130周年記念事業 明治・大正データベース」ウェブページ)。)角界においては特段の「自粛」はされなかったようです。同月27日月曜日午後の皇太子裕仁親王(当時17歳)について,「水交社において開催の明治三十七八年戦役海軍記念日第13回祝賀会に行啓される〔日露両海軍の日本海海戦は1905527日に発生〕。水交社総裁〔東伏見宮〕依仁親王に御対顔になり,水交社長加藤友三郎海軍大臣以下の親任官及び同待遇に賜謁の後,余興の大相撲を御覧になる。」と伝えられています(宮内庁『昭和天皇実録 第二』(東京書籍・2015年)376-377頁)。

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東伏見稲荷神社(東京都西東京市)


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 西武新宿線東伏見駅(東京都西東京市)

 当該相撲見物(海軍)のせいかそれともその前日の千葉の鉄道聯隊等行啓(陸軍)のせいかどちらかはっきりしないのですが,裕仁親王は同年
6月「7日 金曜日 前月26日の千葉行啓以来,御体調不良のこと多く,本日より当分の間,〔東宮御学問所における〕月曜日から金曜日の授業を1時間減じられる。この措置は,第1学期の間,継続される。」ということになっています(実録二378頁)。東宮御学問所における裕仁親王の授業の時間は,月曜日から金曜日までは本来第5時限まで,土曜日は第2時限までであって,第1時限は午前8時に開始され,第5時限(これは武課及び体操並びに馬術)は午後130分に終了ということでありました(実録二367頁)。ちなみに,東宮御学問所総裁は,海軍大将である東郷平八郎元帥でした。

なお,19185月には横綱になったばかりの栃木山守也は,同月27日に裕仁親王の前でその大技量を発揮したものと想像されますが,歿後,昭和天皇から勲四等瑞宝章を授けられています。

裕仁親王が海軍接待の大相撲を楽しんだ頃,我が友邦フランス共和国に危機が訪れます。

 

 〔1918年〕527日,ドイツ軍14箇師団は戦線を突破し,1日のうちに10マイル前進した。遠い昔の19148月以来,そのようなものとしては最大の前進であった。63日までにドイツ軍はマルヌ川に達し,パリまでわずか56マイルの距離にあった。またしても〔ドイツの〕ルーデンドルフは成功に幻惑された。彼は新兵力を投入したが,それらは〔フランスの〕フォッシュが最終的に予備軍を動かすにつれ,勢いを失い,停止した。彼らはフランス軍の戦線を破摧してはいなかったのであって,ドイツ兵は再び袋の中に向かって進軍してしまっていたのである。また,彼らは北方に控置されていたフォッシュの予備軍を大いに引き寄せてもいなかった。そうではあるものの,ドイツ軍の当該前進は,多大の警報を発せしめた。フランスの新聞に再び「マルヌ川」が現れると,1914年の恐怖の記憶がよみがえった。代議院における非難は高まった。〔フランス首相の〕クレマンソーは頑張り,自己の威信を危険にさらすことまでしてフォッシュをかばった。多くの下位の将軍たちは,相変わらずのやり方で罷免された。事態を更に悪化させることには,軍は疫病(エピデミック)に襲われていた。スペイン流行性(インフル)感冒(エンザ)として知られる20世紀最大の殺人者である。それは世界を席巻し,秋には銃後の市民を次々と斃した。インドだけでも,4年間の大戦の全戦場で死んだ者の総数よりも多くの数の者がそれによって死亡した。大戦はクライマックスに達し,人々は高熱にあえいだ。(Taylor. pp.228-229

 

3 1918年のスペイン風邪流行の始まり

 我が国における本格的なスペイン風邪の流行はいつからかといえば,公益社団法人全国労働衛生団体連合会のウェブサイトにある小池慎也編「全衛連創立50周年事業健康診断関係年表」(201910月)は,「欧州のインフルエンザ流行より34ヵ月遅れて,わが国では〔1918年〕8月下旬から9月上旬にかけて蔓延の兆しを示した。」とあり,防衛医科大学病院副院長の川名明彦教授は「本格的なスペインインフルエンザが日本を襲ったのは19189月末から10月初頭と言われています。」と述べています(川名前掲)。池田一夫=藤谷和正=灘岡陽子=神谷信行=広門雅子=柳川義勢「日本におけるスペインかぜの精密分析」(東京都健康安全研究センター年報56369-374頁(2005年))の引用する内務省衛生局の『流行性感冒』(1922年)によると,「本流行ノ端ヲ開キタルハ大正7年〔1918年〕8月下旬ニシテ9月上旬ニハ漸ク其ノ勢ヲ増シ,10月上旬病勢(とみ)ニ熾烈トナリ,数旬ヲ出テスシテ殆ト全国ニ蔓延シ11月最モ猖獗ヲ極メタリ,12月下旬ニ於テ稍々下火トナリシモ翌〔大正〕8年〔1919年〕初春酷寒ノ候ニ入リ再ヒ流行ヲ逞ウセリ」とあります。8月下旬発端説を採るべきでしょうか。

 

4 米騒動とスペイン風邪ウイルスと

ところで,1918723日には「富山県下新川郡魚津町の漁民妻女ら数十人,米価高騰防止のため米の県外への船積み中止を荷主に要求しようとして海岸に集合(米騒動の始まり)」という小事件があったところ(近代日本総合年表234頁),問題の同年8月には,3日の富山県中新川郡西水橋町での騒動を皮切りに,10日には名古屋・京都両市に騒動が波及,13日及び14日の両日には全国の大・中都市において米騒動が絶頂に達しています(同236頁)。Social distancingもあらばこそ,当該大衆行動は当然人々の密集ないしは密接を伴い,スペイン風邪ウイルスの伝播を促して同月下旬からの流行開始を準備してしまったものではないでしょうか。

内務省衛生局によれば,スペイン風邪が「最モ早ク発生ヲ見タルハ神奈川,静岡,福井,富山,茨城,福島ノ諸県」であって(池田ほか前掲),正に富山県がそこに含まれています。1918917日までに,37市・134町・139村で米騒動の大衆行動,検挙者数万,起訴7708人ということですが(近代日本総合年表236頁),混雑した留置所はもちろん密閉・密集・密接状態であって,三密理念型の絵にかいたような顕現です。

当該流行性感冒の伝播の状況については,最初の前記6県に続いて「之ト相前後シテ埼玉,山梨,奈良,島根,徳島,等ノ諸県ヲ襲ヒ,九州ニ於テハ9月下旬ヨリ10月上旬ニ渉リ熊本,大分,長崎,宮崎,福岡,佐賀ノ各地ヲ襲ヒ,10月中旬ニハ山口,広島,岡山,京都,和歌山,愛知ヲ侵シ,同時ニ東京,千葉,栃木,群馬等ノ関東方面ニ蔓延シ,爾余ノ諸県モ殆ント1旬ノ差ヲ見スシテ悉ク本病ノ侵襲ヲ蒙レリ,10月下旬北海道ニ入リ11月上旬ニハ遠ク沖縄地方ニ及ヒタリ」と内務省衛生局は記録しています(池田ほか前掲)。

 

5 寺内正毅「スペイン風邪対策本部長」による「スペイン風邪緊急事態宣言」及び臣民の「自粛」

軍隊を出動させたり,新聞記事を差し止めたりするばかりの当時の寺内正毅内閣の米騒動対応は,見当違いの大間違いでありました。それに対して,人智の進んだ2020年の第4次安倍晋三内閣時代における我々の目から見た正解はどのようなものであったかといえば,次のごとし。

衛生行政所管の水野錬太郎内務大臣がいち早くスペイン風邪の「まん延のおそれが高いと認め」た上で(新型インフルエンザ等対策特別措置法(平成24年法律第31号。以下「新型インフルエンザ法」といいます。)附則1条の22項参照),寺内内閣総理大臣にスペイン風邪の発生の状況,スペイン風邪にかかった場合の病状の程度その他の必要な情報の報告をします(新型インフルエンザ法14条参照)。

それを承けて寺内内閣は,後付け気味ながらも政府行動計画を閣議決定して(新型インフルエンザ法62項・4項参照),更に――スペイン風邪の病状は普通のインフルエンザ(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(平成10年法律第114号)661号)のそれよりも重いわけですから(新型インフルエンザ法151項参照)――大正天皇の勅裁を得て(大日本帝国憲法10条の官制大権)臨時に内閣にスペイン風邪対策本部を設置し(新型インフルエンザ法151項参照),同対策本部(その長たるスペイン風邪対策本部長は,寺内内閣総理大臣(新型インフルエンザ法161項参照))は政府行動計画に基づいてスペイン風邪に係る基本的対処方針を定めます(新型インフルエンザ法181項・2項参照)。

寺内内閣総理大臣兼スペイン風邪対策本部長はスペイン風邪対策本部の設置及びスペイン風邪に係る基本的対処方針を公示し(新型インフルエンザ法152項,183項参照),スペイン風邪の脅威という命にかかわる大問題を前にして米の値段がちいと高いぞ云々とたかが経済の問題にすぎないつまらないことで暴れまわっているんじゃないよ,経済よりも人命だぞ,と人民に警告を発しおきます。

しかしてスペイン風邪が国内で発生したことが確認され次第直ちに――スペイン風邪には「国民の生命及び健康に著しく重大な被害を与えるおそれ」があり,かつ,「その全国的かつ急速なまん延により国民生活及び国民経済に甚大な影響」を及ぼすおそれがあることは自明ですから――寺内正毅スペイン風邪対策本部長はスペイン風邪緊急事態宣言をおごそかに発し(新型インフルエンザ法321項参照),かつ,直ちに北海道庁長官,府県知事及び警視総監をして,住民に対しては「生活の維持に必要な場合を除きみだりに当該者の居宅又はこれに相当する場所から外出しないことその他の」スペイン風邪の「感染の防止に必要な協力を要請」(新型インフルエンザ法451項参照)せしめ,多数の者が利用する施設を管理する者又は当該施設を利用して催物を開催する者に対しては「当該施設の使用の制限若しくは停止又は催物の開催の制限若しくは停止その他」を指示(新型インフルエンザ法452項・3項参照)せしめます(新型インフルエンザ法201項・331項参照)。

事業者及び臣民は政府のスペイン風邪対策に「協力するよう努めなければならない」責務を有するのですから(新型インフルエンザ法41項参照),非国民ならざる忠良な臣民は当然真摯に自粛してみだりに「居宅又はこれに相当する場所から外出」することはなくなって街頭の米騒動は直ちに終息,「即ち当時欧洲大戦の影響に因り,物価の昂騰著しきものあり,特に生活必需品の大宗たる米価は奔騰に奔騰を重ねて正に其の極を知らざる状態であつた。かくして国民の多数は,著しく生活の脅威に曝さるゝに至り,遂に所謂米騒動なるものが随所に勃発し,暴行掠奪の限りが尽さるゝに至つた。かくして寺内内閣は,これが責任を負ふて遂に退陣の止むなきに至つたのである。」(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)357頁)ということにはならなかったことでありましょう。(現実には1918921日に寺内内閣総理大臣は辞表を提出,西園寺公望の大命拝辞を経て同月29日に原敬内閣が成立しました(近代日本総合年表236頁)。)

 

6 原敬内閣の初期の取組

原内閣は初の本格的政党内閣といわれていますが,ウイルス様からしてみれば官僚と政党人との区別はつかないのでしょうから,スペイン風邪の前には,政党主導の政府も無力であったようです。事実,原敬自身慎重で,「原は新聞記者の前田まえだ蓮山れんざんに,「あまり吾輩に期待すると失望するぜ。年をとると,いろいろと周囲の事情が複雑になってね。なかなか身動きが自由にならん」と語っていた」そうです(今井清一『日本の歴史23大正デモクラシー』(中央公論社・1966年)186頁)。

所管の床次竹二郎内務大臣は,就任後半月を経た19181016日の段階における原内閣閣僚による皇太子裕仁親王拝謁の際独り「所労」のため拝謁をしていませんが(実録二412頁),果たして何をしていて疲労していたのでしょうか。同月10日には友愛会東京鉄工組合創立総会が開催されていますが(近代日本総合年表236頁),内務省は,そのような多人数の集まる危険な企てに対して,「いのちを守るStay Home/ウチで過ごそう」と要請して当該総会の開催を阻止することはできなかったようです。また,床次内務大臣が総裁を兼務していた鉄道院は,同年116日から2等寝台2人床の大人2人による使用を禁止することとしていますが,その理由は「風紀維持」という艶めかしいものであって(近代日本総合年表236頁),命にかかわるスペイン風邪に対する三密禁止を徹底せんとの真剣な危機感が感じられないところです。
 原内閣総理大臣自身,「大正7年(1918年)1011日,原首相は東京商業会議所主催の内閣成立祝賀午餐会にのぞんで,教育の改善・交通通信機関の整備・国防の充実・物価の自然調節という積極政策をとることを明らかにした。この最後の項目を産業の奨励とさしかえたものが,いわゆる政友会の四大政策である。」ということで(今井221頁),三密午餐会に得々として出席しているのですから,そもそも示しがつかない。更に「四大政策」についていえば,教育の改善は「この増設案では,高等学校10校,高等商業7校,高等工業6校,高等農林4校,外国語学校・薬学専門学校各1校,計29校と,ほぼこれまでの学校数を倍増することにしたのをはじめ,総合大学の学部増設,専門学校の単科大学への昇格などがふくまれていた。またあらたに大学令が公布され,帝国大学のほかに官立・公立・私立の大学を認め,これまで専門学校として扱ってきた私立大学にも,名実ともに大学となる道を開いた。」(今井222頁)という青年らが集まってクラスターとなりかねない施設の増設をもって「改善」と称するものであって遠隔教育という最重要課題に対する取組が欠落しており,交通機関を整備してしまうとかえって人的接触が増大してスペイン風邪の流行を助長するのでまずく,国防を充実して鎖国に戻って海外からのウイルス侵入を防ぐのはよいとしても,本来は自粛してあるべき産業の奨励なんぞより先に,命を守るためのマスク及び現金の支給を全臣民に対して直ちに行うべきでありました。

Abenomask

The Abenomask of 2020: a humanely-advanced brave countermeasure of the 21st century against the stale coronavirus-"pandemic" of lurid public hallucinations in Japan
 

ということで,「インフルエンザは各地の学校や軍隊を中心に1カ月ほどのうちに全国に広がりました。〔1918年〕10月末になると,郵便・電話局員,工場・炭鉱労働者,鉄道会社従業員,医療従事者なども巻き込み,経済活動や公共サービス,医療に支障が出ます。新聞紙面には「悪性感冒猖獗(しょうけつ)」,「罹患者の5%が死亡」,山間部では「感冒のため一村全滅」といった報道が見られるようになります。この頃,死者の増加に伴う火葬場の混雑も記録されています。」という状況になります(川名前掲)。

我が国におけるスペイン風邪の「第1回目の流行による死亡者数は,191810月より顕著に増加をはじめ,同年11月には男子21,830名,女子22,503名,合計44,333名のピークを示した後,同年12月,19191月と2か月続けて減少したが,2月には男子5,257名,女子5,146名,合計10,403名と一時増加し,その後順調に減少した。」ということで(池田ほか前掲),これだけの数の国民をみすみす死なせてしまった(11月の44333人は,死亡者数であって,単なる感染者数ではありません。)原内閣はなぜ早々に崩壊しなかったのかと,今からすると不思議に思われます。(19191月に内務省衛生局は「流行性(はやり)感冒(かぜ)予防心得」なるものを公開して現在いうところの「咳エチケット」的なことを唱道していますが(川名前掲)手ぬるかったようで,翌月には,上記のとおり,スペイン風邪の死者数が再び増加してしまっているところです。

しかも,流行ピークの191811月には,(かしこ)き辺りにおいても恐るべき事態となっていたのでした。

 

7 191811

 

(1)裕仁親王の流行性感冒感染

 

 〔191811月〕3 日曜日 午前10時御出門,新宿御苑に行啓され,〔皇太子は〕供奉員・出仕をお相手にゴルフをされる。御体調不良のため,予定を早め午後115分御出門にて御帰還になる。流行性感冒と診断され,直ちに御仮床にお就きになり,以後15日の御床払まで安静に過ごされる。御学問所へは18日より御登校になる。なお,この御病気のため,9日に予定されていた近衛師団機動演習御覧のための茨城県土浦付近への行啓はお取り止めとなる。(実録二416頁)

 

 結果としては回復せられたのですから結構なことです。しかし,皇太子裕仁親王殿下がスペイン風邪という命にかかわる恐ろしい病に冒されたというのに,原内閣総理大臣も,床次内務大臣も,波多野敬直宮内大臣も,東郷東宮御学問所総裁も,だれも恐懼して腹を切らなかったのですね。(さすがに,御親であらせられる大正天皇及び貞明皇后からは同月6日には御病気御尋があり,同月11日には貞明皇后から更に御尋がありました(実録二417頁)。なお,原内閣総理大臣は,同年1025日(金曜日)夜の北里研究所社団法人化祝宴において夫子自らスペイン風邪に罹患してしまって翌同月26日(土曜日)晩には腰越の別荘で38.5度の熱を発したものの,同月29日(火曜日)の日記の記述においては「風邪は近来各地に伝播せし流行感冒(俗に西班牙風といふ)なりしが,2日斗りに下熱し,昨夜は全く平熱となりたれば今朝帰京せしなり。」と豪語していますから(曽我豪「スペイン風邪に感染した平民宰相・原敬。米騒動から見えたコロナ禍に通じる教訓」朝日新聞・論座ウェブサイト(2020411日)における引用による),みんな騒いでいるようだがスペイン風邪など実は大したことなどなかったのだよと不謹慎に高を括っていたのかもしれません。事実,問題の1918113日には芝公園広場における政党内閣成立の祝賀会に出席し,密集した人々と密接しつつ,「平民宰相」は御満悦の笑顔を見せておりました(今井221頁の写真)。

「天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ承継シ」た(大日本帝国憲法告文)大正天皇の下のいわゆる大正デモクラシーの時代は,「57歳となられ,これまで国事行為の臨時代行等の御公務に長期にわたり精勤されておられる」こと等に鑑みてその即位が全国民を代表する議員で組織された国会の立法により実現せしめられた(天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)1条・2条,日本国憲法431項・591項)今上天皇を戴く我らが令和の聖代に比べて,尊皇心に欠けるけしからぬ時代であったものか。それとも単に,たとい皇太子であっても人命尊重には限界があり,かつ,「当時は抗菌薬や抗インフルエンザウイルス薬は無く,安静,輸液,解熱剤など対症療法が主」であったので(川名前掲。なお,現在においても新型ウイルス感染症などについては,せっかく高い期待をもって検査をしてもらっても肝腎の陽性の人のための抗ウイルス薬はなく,安静にして対症療法を受けるしかないという何だぁがっかりの状況もあるでしょう。),所詮医学は天命の前には無力であり,医師も当てにはならぬとの無学野蛮な諦念があったものか。

 

(2)医学及び医師に対する信頼の新規性(脱線)

医学及び医師の威信が甚だしく向上したのは,実は20世紀もしばらくたってからのことなのでしょう。例えば18世紀末には依然,医師など呼ぶとかえって碌なことにならなかったようです。17991214日,ただの風邪だと思っていた病気を悪化させ,喉に炎症を発し呼吸困難となっていた67歳のジョージ・ワシントン最期の日・・・

 

   彼らが〔アレクサンドリア在のスコットランド系の医師でフレンチ=インディアン戦争以来ワシントンに献身的に仕えてきた〕クレイク医師を待つ間,マーサ〔夫人〕はポート・タバコ在の有名なガステイヴァス・リチャード・ブラウン医師を呼んだ。クレイク医師は最初に到着し,更に瀉血を行い,かつ,炎症を表に出すために,干した甲虫〔Spanish fly〕から作られた薬であるキャンサラディーズを喉に施して,既に行われていた中世の療法を継続した。彼はまた,ワシントンに,酢と湯とで満たされたティーポットから蒸気を吸引させた。酢を混ぜたサルビアの葉の煎薬でうがいをしようと頭をのけぞらせたとき,ワシントンは窒息しそうになった。クレイク医師は驚駭し,第3の医師,すなわちベンジャミン・ラッシュ医師の下で学んだアレクサンドリア在の若いフリー・メイソン会員であるエリシャ・カレン・ディックを呼んだ。彼は到着すると,クレイクと一緒に更に多くの血液を抜き出すことに加わった。それは「ゆっくりと流れ出,濃く,何らかの気絶の症状をもたらす様子はなかった。」と〔秘書の〕リアは記録している。彼らはまた,浣腸剤を使ってワシントンの腸を空にした。とうとうブラウン医師も加わって,彼らは既に消耗しているワシントンの肉体から更に2パイント〔1パイントは約0.47リットル〕の血を抜いた。ワシントンは合計5パイント,あるいは彼の肉体中の全血液量の約半分を失うことになったと見積もられている。ディック医師は,なお一般的ではなく,かつ,高度に実験的であった治療法――呼吸を楽にするために,ワシントンの気管に穴を穿(うが)ち開ける気管切開術――を提案したが,これはクレイク及びブラウンによって却下された。「あの手術がされなかったことを,私はずっと後悔し続けるでしょう。」と,当該3医師を,溺れて藁をもつかもうとする者に例えつつ,後にディックは述べている。しかし,既に衰弱していた彼の状態を前提とすると,ワシントンがそのような施術を受けて生き延び得たということはとてもありそうにないことである。(Chernow, Ron, Washington: a Life. Penguin Press, 2010. p.807

 

溺れて藁をもつかもうとするというような殊勝な話ではなく,上記3医師が医療の名のもとにやらかした行為は,むしろ猟奇的血抜きの悪魔的狂乱のようでもあります(更に浣腸までしている。)。

 

  人体にはおよそ4ℓから5ℓの血液があり・・・

  君の体格なら・・・

  おそらく・・・4.5ℓといったところか

  君は・・・

  その血液を賭ける・・・!

  〔略〕

  通常「死」は総血液量の1/3程が

  失われる頃から

  そろりそろりと忍び寄り

  1/2を失うのを待たず・・・

  まず・・・絶命する・・・!

  〔略〕

  もっともそれより早く死ぬこともあり得る

  急激に抜けば

  1/3・・・

  つまり1500ccでも充分死に至る

  仮に死なないとしても意識混濁は激しく・・・

  まず・・・麻雀など興じている状態ではあるまい(福本伸行『アカギ――闇に降り立った天才』第67話)

 

(3)少年の生と老人の死と

 17歳の裕仁親王は1918113日の流行性感冒の診断から十余日で回復し,免疫を獲得してしまいましたが,『昭和天皇実録』の1918113日条は,若き裕仁親王の流行性感冒感染経験の記述に続いて,84歳の老人の死を伝えます。

 

  臨時帝室編修局総裁伯爵土方久元大患につき,御尋として鶏卵を下賜される。土方は4日死去する。〔略〕土方は旧土佐藩出身にて武市半平太の土佐勤王党に参加し討幕運動にも加わる。維新後は,元老院議官,宮中顧問官,農商務大臣などを経て,明治20年より31年まで宮内大臣を務めた。その後は帝室制度取調局総裁心得などを経て,臨時帝室編修局総裁として明治天皇の御紀編修に尽力した。一方で,明宮御用係,明宮御教養主任,東宮輔導顧問なども務め,〔大正〕天皇の御教育・御輔導にも深く関わり,皇太子に対しても,皇孫・皇太子時代を通じ,しばしば御殿・御用邸に参殿・参邸し,御機嫌を奉伺するところがあった。(実録二416-417頁)

 

 武市半平太も同じ土佐の坂本龍馬も三十代で非命に斃れたことを思えば,土方は大臣にもなって八十代半ばまで生きたのですから,とても悔しいです土方伯爵のかけがえのない尊い命が迅速にロックダウンをしなかった床次内務大臣・原内閣総理大臣の無策のために84歳の若さで奪われたことは到底許せません,などと言い募るべきものかどうかは考えさせられるところがあります。なお,土方は死の8日前の19181027日には日本美術協会において同協会の会頭として裕仁親王に拝謁していますから(実録二414頁),確かに突然の死ではありました。(ちなみに,19181027日の鷗外森林太郎の日記『委蛇録』には,「27日。日。雨。皇儲駕至文部省展覧会,日本美術協会。予往陪観。」とあります(『鷗外選集第21巻 日記』(岩波書店・1980年)278頁)。また,1918113日には,森帝室博物館総長兼図書頭は正倉院曝涼監督のために東京から奈良に移動しています。同日は好天で,富士山が美しかったようです。いわく,「是日天新霽。自車中東望。不二山巓被雪。皓潔射目。雪之下界。作長短縷之状。如乱流蘇。」(鷗外279頁)。不要不急の出張ではなかったものでしょう。)

 

(4)第一次世界大戦の戦いの終了

 欧州では,裕仁親王が流行性感冒と診断された113日にはオーストリア=ハンガリー帝国が連合国と休戦協定を調印し,ドイツのキール軍港では水兵が叛乱を起していました。119日にはベルリンで宰相マックス公が社会民主党のエーベルトに政権を移譲し,ドイツ共和国の成立が宣言されます。同月10日,ドイツのヴィルヘルム2世はオランダへと蒙塵。同月11日午前5時にはドイツと連合国との間に休戦協定が調印され,当該協定は同日午前11時に発効しています。第一次世界大戦の戦いは終わりました。

 昭和天皇統治下の大日本帝国敗北の27年前のことでした。


8 3回のスペイン風邪流行

 我が国のスペイン風邪流行は,前記『近代日本総合年表 第四版』によれば1918年春から1919年にかけての1回限りであったように思われるところですが,実は3にわたったようです。第1回の流行は19188月から19197月まで(小池年表,川名前掲,池田ほか前掲),第2回の流行は19198月(池田ほか前掲),9月(川名前掲)又は10月下旬(小池年表)から19207月まで(小池年表,川名前掲,池田ほか前掲),第3回の流行は19208月から(小池年表,川名前掲,池田ほか前掲)19215月(小池年表)又は7月(川名前掲,池田ほか前掲)までと分類されています。

 

(1)第1回流行(1918-1919年):竹田宮恒久王の薨去

 第1回流行時の患者数は,21168398人(池田ほか前掲,川名前掲)又は21618388人(小池年表)とされ(こうしてみると,小池年表は数字を書き写し間違えたものかもしれません。),19181231日現在の日本の総人口56667328人に対する罹患率は37.3パーセントとなりました(池田ほか前掲。川名前掲は「日本国内の総人口5,719万人に対し」罹患率「約37」としています。)。第1回流行時の総死亡者数は257363人(小池年表,池田ほか前掲(内務省衛生局『流行性感冒』(1922年)に基づくもの)。川名前掲は「257千人」)又は103288人(池田ほか前掲(人口動態統計を用いて集計したもの))であって,前者の死亡者数に基づく患者の死亡率は1.22パーセントでした(小池年表,池田ほか前掲。川名前掲は「1.2」)。

 第1回流行時には,皇族に犠牲者が出ています。

 

  〔1919423日〕午後735分,〔竹田宮〕恒久王が薨去する。恒久王は本月12日より感冒に罹り,17日より肺炎を併発,20日には重態の報が伝えられる。よって皇太子よりは,その病気に際して御尋として鶏卵を贈られ,重態に際しては東宮侍従牧野貞亮を遣わし葡萄酒を御贈進になる。また,この日危篤との報に対し,急遽牧野侍従を竹田宮邸へ遣わされる。(実録二446頁)

 

 恒久王の父は,原敬内閣総理大臣の出身藩である南部藩等によって戊辰戦争の際結成された奥羽越列藩同盟の盟主たりし輪王寺宮こと北白川宮能久親王でした。日清戦争の下関講和条約後の台湾接収の際征台の近衛師団長を務めて同地で病歿した「能久親王は幕末期には公現法親王と称し,日光東照宮を管理する輪王寺宮として関東に下向した。幕府崩壊時には江戸を脱出して宮城白石にあって奥羽越列藩同盟の精神的盟主となり,天皇に即位したとも言われている人物である。仙台藩降伏後は謹慎処分となったが,還俗してドイツに留学,北白川家を継いで陸軍軍人とな」った宮様であるとのことです(大谷正『日清戦争』(中公新書・2014年)223頁)。しかし,明治大帝に抗する対立天皇として立ったとは,北白川宮家及び竹田宮家は,御謀叛のお家柄歟。

 恒久王薨去のため,当初1919429日に予定されていた皇太子裕仁親王の成年式(明治皇室典範13条により皇太子は満18年をもって成年)は延期となり(同月25日発表),同年51日に至って同月7日に挙行の旨が告示され(実録二448),同日無事挙行され(実録二453-457。「7日。水。天候如昨〔暄晴〕。皇儲加冠。予参列賢所。詣宮拝賀。」(鷗外293頁)とあります。),また翌同月8日には宮中饗宴の儀が行われました(実録二457-458。「木。晴。赴宮中饗宴。」(鷗外293頁)。)。恒久王の薨去に係る服喪に伴う延期はあっても(同年4月「30日。水。陰雨。会恒久王葬乎豊島岡。」(鷗外293頁)とあります。),スペイン風邪の流行については,三密回避など全くどこ吹く風という扱いです。

 

(2)第2回流行(1919年‐1920年):雍仁親王の罹患

 第2回流行時においては,患者数が2412097人(池田ほか前掲,川名前掲),死亡者数は127666人(池田ほか前掲(内務省衛生局『流行性感冒』に基づくもの)。川名前掲は「128千人」)又は111423人(池田ほか前掲(人口動態統計を用いて集計したもの))であって,前者の死亡者数に基づく患者の死亡率は5.29パーセント(池田ほか前掲。川名前掲は「5.3」)でした。

2回流行時における患者死亡率については,内務省衛生局の『流行性感冒』は「患者数ハ前流行ニ比シ約其ノ10分ノ1ニ過キサルモ其病性ハ遥ニ猛烈ニシテ患者ニ対スル死亡率非常ニ高ク〔1920年〕34月ノ如キハ10%以上ニ上リ全流行ヲ通シテ平均5.29%ニシテ前回ノ約4倍半ニ当レリ」と述べています(池田ほか前掲の引用)。「流行時期によりウイルスが変異することが往々にして観察される」ところ,「スペインかぜ流行の際にも原因ウイルスが変異し,その結果として死亡率が大幅に増加したものと考えることができる。」とされています(池田ほか前掲)。

「大正78年〔19181919年〕ニ亘ル前回〔第1回〕ノ流行ハ〔略〕春夏ノ交ニ至リ全ク終熄ヲ告ケタレトモ再ヒ〔大正〕8年〔1919年〕10月下旬,向寒ノ候ニ及ヒテ神奈川,三重,岐阜,佐賀,熊本,愛媛等ニ流行再燃ノ報アリ,次テ11月ニ至リ東京,京都,大阪ヲ始メトシ茨城,福島,群馬,長野,新潟,富山,石川,鳥取,静岡,愛知,奈良,和歌山,広島,山口,香川,福岡,大分,鹿児島,青森,北海道等ニ相前後シテ散発性流行ヲ見,爾余ノ諸県モ漸次流行ヲ来スニ至」っていたところ(池田ほか引用の内務省衛生局『流行性感冒』),死亡者数は,「191912月より増加を開始し,19201月に〔略〕ピークを示した後順調に減少」しています(池田ほか前掲)。「斯クテ各地ニ散発セル病毒ハ再ヒ漸次四囲ニ伝播シ,遂ニ一二県ヲ除キテハ何レモ患者ノ発生ヲ見サル処ナキニ至リ,翌春〔1920年〕1月に及ヒ猖獗ヲ極メ多数ノ患死者ヲ出シタリ,3月ヨリ漸次衰退シテ67月ニ至リ全ク終熄シタリ」というわけです(池田ほか引用の内務省衛生局『流行性感冒』)。

 第2回流行時には,後に19261225日から19331223日まで皇嗣殿下(ただし,立皇嗣の礼は行われず。)となられる淳宮雍仁親王(裕仁親王の1歳違いの弟宮)が,第1回流行時よりも「遥ニ猛烈」な病性となったスペイン風邪に感染したようです。

 

  雍仁親王は去る〔19201月〕16日以来,流行性感冒のため病臥につき,〔同月20日〕皇太子〔裕仁親王〕より御尋として5種果物1籠を贈進される。〔同月〕22日,東宮侍従本多正復を御使として遣わされ,鶏卵・盆栽を御贈進になり,222日には同甘露寺受長を御使として差し遣わされる。雍仁親王の違例は34日に至る。(実録第二543頁)

 

正に19201月は,スペイン風邪の第2回流行時の死亡者ピーク月です(男子19835人,女子19727人の合計39362人(池田ほか前掲))。やんごとなき皇族の方々にあらせられても,ロックダウンなどという大袈裟かつよそよそしいことはされておられなかったので(ただし,同月8日に予定されていた宮城前外苑における陸軍始観兵式は,「感冒流行の理由をもって〔大正〕天皇は臨御されざることとなり,観兵式は中止」ということになっています(実録二541頁)。その後,大正天皇は,同年49日以降「御座所における御政務以外は,一切の公式の御執務を止められ,専ら御摂養に努めらるること」となっています(実録二574頁)。),もったいなくも,我ら草莽の人民と休戚のリズムを共にせられていたということでしょうか。しかして,雍仁親王は1箇月半以上もダウンせざるを得なかったのですから,確かに重い流行性感冒です。

ところで,皇太子殿下から御尋で5種果物や鶏卵などを贈られてしまうと,兄弟愛云々ということももちろんあるのでしょうが,191964日の徳大寺実則(同日「元侍従長大勲位公爵徳大寺実則病気危篤の報に接し,〔裕仁親王は〕御尋として葡萄酒を下賜される。また,去る〔同月〕2日には病気御尋として5種果物1籠を下賜される。実則はこの日午後7時死去する。」(実録二469-470頁)),191811月の前記土方久元(鶏卵)及び19194月の同じく前記竹田宮恒久王(鶏卵及び葡萄酒)の各例などからすると,5種果物の次はとうとう鶏卵を下されたのだね僕もいよいよ最期かな,しかし兄貴はうまい具合に先に軽く感染して免疫ができてずるいよなあ,これまで18年近く生きてきたけど兄貴を一生立てるべき次男坊に生まれてはさして面白いこともなかったよ,三好愛吉傅育官長も去年の紀元節の日にインフルエンツア肺炎で逝っちゃたけど確かにインフルエンツアがこう彼方にも此方にも流行しては居る処が無いような気がするなぁ,などと雍仁親王におかせられてはひそかに御覚悟せられるところがひよっとしたらあったかもしれません。(しかし,鶏卵の例についていえば,1919213日(この月は,前記のとおり,スペイン風邪第1回流行時において流行の再燃があった月です。)には小田原滞在中の山県有朋に対し,「感冒症より肺炎を発し重患の趣につき,病気御尋として鶏卵」が皇太子裕仁親王から下賜されているにもかかわらず(実録二435。確かに同日の山県の容態は重篤であったようで,森林太郎図書頭も図書寮から小田原に駆けつけています。いわく,「13日。木。朝晴暮陰。参寮。問椿山公病乎古稀庵。船越光之丞,安広伴一郎及河村金五郎接客。清浦奎吾,井上勝之助,中村雄次郎,穂積陳重等在座。出門邂逅古市公威。」(鷗外289頁)。),この80歳の奇兵隊おじいさんはしぶとく回復し,同年69日には裕仁親王の前に現れています(実録二470頁)。また,差遣先の山梨県下で罹病して1920119日から山梨県立病院に入院した東宮武官浜田豊城にも,裕仁親王から「病気御尋として鶏卵」が下賜されていますが,浜田東宮武官は1週間で退院しています(実録二542頁)。果物1籃だけならば,雍仁親王は1919420日に不例の際御尋として裕仁親王から贈進を受けたことがあり,その後同月29日に床払いに至っています(実録二446頁)。とはいえ,192035日に死亡した内匠頭馬場三郎(元東宮主事)の病気に際しては裕仁親王から「御尋として果物を下賜」されていたところではあります(実録二549頁)。なお,医者も不養生で病気に罹っており,陸軍省医務局長軍医総監たりし森林太郎も1918124日には「水。晴。参館。還家病臥。」と寝込んでしまい,同月7日には「土。晴。在蓐。従4日至是日絶粒。是日飲氵重〔さんずいに重で一字〕。」,同月9日になって粥が食べられるようになり(「夕食粥」),「10日。火。晴。在蓐。食粥如前日。起坐。」,同月14日にようやく普通の食事ができるようになって(「土。陰。園猶有雪。食家常飯。」),同月16日にやっと「月。晴。病寖退。而未出門。」,職務復帰は同月20日のこととなりました(鷗外284-285頁)。時期からいって,これはスペイン風邪でしょう。長期病欠の帝室博物館総長兼図書頭には,皇室から鹿肉や見舞金が下賜されています。すなわち,「〔191812月〕18日。水。晴。在家。上賜鹿肉。所獲於天城山云。東宮賜金。/19日。木。陰。猶在家。両陛下賜金。」(鷗外285頁)。さすがにもうそろそろ出勤しないとまずい頃合いとはなったようです。

スペイン風邪の第2回流行時においては「感染者ノ多数ハ前流行ニ罹患ヲ免レタルモノニシテ病性比較的重症ナリキ,前回ニ罹患シ尚ホ今回再感シタル者ナキニアラサルモ此等ハ大体ニ軽症ナリシカ如シ」ということだったそうですから(池田ほか引用の内務省衛生局『流行性感冒』),接触8割削減を目指して第1回流行時に真面目に自粛して引きこもった真摯な人々よりも,ままよと己が免疫力及び自然治癒力の強さを信じて第1回流行時に早々に感染して免疫をつけてしまった横着な人々の方がいい思いをしたということでしょうか。ただし,スペイン風邪に係る感染遷延策が常に裏目に出たわけではないようで,「このなかでオーストラリアは特筆すべき例外事例でした。厳密な海港における検疫,すなわち国境を事実上閉鎖することによりスペインフルの国内侵入を約6ヶ月遅らせることに成功し,そしてこのころには,ウイルスはその病原性をいくらかでも失っており,そのおかげで,オーストラリアでは,期間は長かったものの,より軽度の流行ですんだとされています。」ともいわれています(感染症情報センター前掲)。

いずれにせよ「感染伝播をある程度遅らせることはできましたが,患者数を減らすことはできませんでした。」(感染症情報センター前掲)ということになるのでしょうか。「西太平洋の小さな島では〔オーストラリア〕同様の国境閉鎖を行って侵入を食い止めたところがありましたが,これらのほんの一握りの例外を除けば,世界中でこのスペインフルから逃れられた場所はなかったのです。」とされています(感染症情報センター前掲)。 

 

  Etiam si quis timiditate est et servitute naturae, coronas congressusque ut hominum fugiat atque oderit, tamen is pati non possit, ut non anquirat aliquem, apud quem emovat virus aegritudinis suae. 

 

(3)第3回流行(1920年‐1921年):杉浦重剛の仮病

3回流行時においては,患者数が224178人(小池年表,池田ほか前掲,川名前掲),死亡者数は3698人(小池年表,池田ほか前掲(内務省衛生局『流行性感冒』に基づくもの),川名前掲)又は11003人(池田ほか前掲(人口動態統計を用いて集計したもの))であって,前者の死亡者数に基づく患者の死亡率は1.65パーセント(小池年表,池田ほか前掲。川名前掲は「1.6%」)でした。

「わが国のスペインインフルエンザもその後国民の大部分が免疫を獲得するにつれて死亡率も低下し」,第3回の流行時には「総患者数からみてもすでに季節性インフルエンザに移行していると見たほうが良いかもしれません。」ということになったようです(川名前掲)。

ところで,スペイン風邪の第3回流行時である1920124日,東宮御学問所御用掛杉浦重剛は病気を理由に辞表を提出し,同月6日から翌年の東宮御学問所の終業まで,次代の天皇の君徳涵養にかかわる倫理の講義は行われないこととなってしまいました(実録二663664頁)。これについて,杉浦重剛もとうとうスペイン風邪に罹患してしまったが当時は遠隔授業を行い得る設備は東宮御学問所といえども存在せず嗚呼忠臣杉浦天台は涙を呑んで「いのちを守るStay Home」をしたのか健気なことである,と考えるのは早とちりであって,これは杉浦の仮病です。1921218日の東宮御学問所終業式に,辞めたはずの杉浦は出席整列しています(宮内庁『昭和天皇実録 第三』(東京書籍・2015年)1819頁)。

この間の事情について,『昭和天皇実録』の1921210日条はいわく。

 

 10日 木曜日 この日夕方,皇太子と良子(ながこ)女王との御婚約内定に変更なきことにつき,内務省,ついで宮内省より発表される。宮内省発表は左の如し。

   良子女王東宮妃御内定の事に関し世上種々の噂あるやに聞くも右御決定は何等変更せず

これより先,元老山県有朋らが,良子女王の子孫に色盲が遺伝する可能性があることをもって,女王の父〔久邇宮〕邦彦王に対し婚約辞退を求めた問題につき,当局は一切の新聞報道を禁止していた。しかし,昨年124日に辞表を提出した東宮御学問所御用掛杉浦重剛が,一部関係者に顛末を語って御婚約決行を求める運動を行ったことなどにより,この問題の存在が徐々に知られ,政界の一部,とりわけ右翼方面において,御婚約の取り消しに反対するとともに,宮内省や山県有朋を攻撃する運動が広まっていた。昨月下旬には久邇宮を情報源とし内情を暴露する「宮内省ノ横暴不逞」なる小冊子が各方面に配布されるなど各種怪文書が横行し,問題は議会においても取り上げられ,本月11日の紀元節には明治神宮において御婚約決行を祈願するという,右翼諸団体による大決起大会が計画された。こうした事態の中,山県ら元老は御婚約を辞退すべきとして譲らず,一方で具体的報道は一切禁止されたものの,新聞の報道ぶりから一般国民にも宮中方面に重大問題が進行中であることは明らかであり,宮内大臣中村雄次郎は何らかの決着を早期に図ることを迫られた。その結果,中村宮内大臣は自身の責任において事態を早期収拾することを決意し,この日良子女王の御婚約内定に変更なきことを発表するとともに,自身の辞職も表明する。(実録三1213頁)

 

いわゆる宮中某重大事件です。右翼の諸君明治神宮での集会はやめろよ「いのちを守るStay Home」なんだから「ウチで過ごそう」よ,と原内閣総理大臣も床次内務大臣も中村宮内大臣も言うことができず,元老(山県,松方正義及び西園寺公望)及び宮内省に反対する勢力の側も自粛せず,結局すなわちスペイン風邪は既に賞味期限切れだったようです。

 

9 スペイン風邪によって奪われた命について

以上,我が国における1918年から1921年までの合計では,スペイン風邪の患者数は23804673人,死者数は388727人(内務省衛生局『流行性感冒』)又は225714人(人口動態統計)ということになるようです(池田ほか前掲)。「歴史人口学的手法を用いた死亡45万人(速水,2006)という推計」もあるそうです(感染症情報センター前掲)。

死亡者の中で大きな比率を占めたのは0-2歳の乳幼児であったとされます(池田ほか前掲)。東京日日新聞の報ずるところでは,1918年には「1歳未満乳児の死亡率増大18.9%(336910人)。最高は大阪府・富山県の25.2%。東京府は18.8%」であったそうです(近代日本総合年表236頁)。生まれた赤ん坊のうち大体5人に1人は死んでしまったという計算です。

乳幼児以外について死亡者数の数を世代別に見ると,「男子では191719年においては2123歳の年齢域で大きなピークを示したが,192022年には3335歳の年齢域でピークを示し」,「女子ではいずれの期間においても2426歳の年齢域でピークを示して」いたそうです(池田ほか前掲)。海外では1918年の「(北半球の)晩秋からフランス,シエラレオネ,米国で同時に始まった〔スペイン風邪の〕第二波は〔同年春の第一波の〕10倍の致死率となり,しかも1535歳の健康な若年者層においてもっとも多くの死がみられ,死亡例の99%が65歳以下の若い年齢層に発生したという,過去にも,またそれ以降にも例のみられない現象が確認され」ていたところ(感染症情報センター前掲),我が国においても,「季節性インフルエンザでは,死亡例は65歳以上の高齢者が大部分で,あとは年少児に少し見られるのが一般的ですので,スペインインフルエンザでは青壮年層でも亡くなる人が多かったことは極めて特徴的です。」ということになっています(川名前掲)。この点については,National Geographicのウェブサイトの記事「スペインかぜ5000万人死亡の理由」(201452日)によれば,「答えは驚くほどシンプルだ。1889年以降に生まれた人々は,1918年に流行した種類のインフルエンザウイルスを子どもの頃に経験(曝露)していなかったため,免疫を獲得していなかったのだ。一方,それ以前に生まれた人々は,1918年に流行したインフルエンザと似た型のウイルスを経験しており,ある程度の免疫があった。」ということであったものとされています。(追記:これに関連して,The Economist2020425日号の記事(“A lesson from history”)は,1918年のスペイン風邪流行時においては28歳の年齢層の死亡率が特に高かったところ,これは,彼らが生まれた1890年に流行した別の種類のインフルエンザであるロシア風邪フルーの影響であるという説を紹介しています。すなわち,乳幼児期にあるウイルスにさらされると,後年別種のウイルスに感染したときに通常よりも重篤な症状を示す可能性があるというのです。乳児期にロシア風邪ウイルスに曝されて形成された免疫機構は,スペイン風邪ウイルスに対して,本来はロシア風邪ウイルスに対すべきものである誤った反応をしてしまったのだというわけです。)

 ところで,我が国においてはスペイン風邪流行期に「いのちを守るStay Home」が真摯に実行されていなかったように思われるのは,青壮年の命はくたびれて脆弱となった高齢者のそれとは違って対人接触の絶滅に向けた自粛までをもわざわざして守るべき命ではない,という認識が存在していたということででもあったものでしょうか。あるいは当時の青壮年は,死すべき存在たる人間として避けることのできない死の存在を知りつつも淡然ないしは毅然とそれを無視し得るほどの覇気と希望とデモクラティックな情熱とに満ちた人間好きな人々だったのでしょうか。考えさせられるところです。  



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1 新型コロナ・ウイルス問題猖獗中の立皇嗣の礼

 来月の2020419日には,それぞれ国事行為たる国の儀式である立皇嗣宣明の儀及び朝見の儀を中心に,立皇嗣の礼が宮中において行われる予定であるそうです。しかし,新型コロナ・ウィルス問題の渦中にあって,立皇嗣宣明の儀の参列者が制限されてその参列見込み数が約320人から約40人に大幅縮小になるほか(同年318日に内閣総理大臣官邸大会議室で開催された第10回天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典委員会において配付された資料1-1),当該儀式の挙行の翌々日(同年421日)にこれも国の儀式として開催することが予定されていた宮中饗宴の儀が取りやめになり,波瀾含みです。

 

2 立皇嗣の礼における宣明の主体

 立皇嗣の礼は,なかなか難しい。

 立皇嗣の礼に関する理解の現状については,2020321日付けの産経新聞「産経抄」における次のような記述(同新聞社のウェブ・ページ)が,瞠目に値するもののように思われます。

 

   政府は皇位継承順位1位の秋篠宮さまが,自らの立皇嗣(りつこうし)を国の内外に宣明される「立皇嗣の礼」の招待者を減らし,賓客と食事をともにする「宮中饗宴(きょうえん)の儀」は中止することを決めた。肺炎を引き起こす新型コロナウィルスが世界で猖獗(しょうけつ)を極める中では,やむを得ないこととはいえ残念である。

 

筆者が目を剥いたのは,「皇位継承順位1位の秋篠宮さまが,自らの立皇嗣(りつこうし)を国の内外に宣明される「立皇嗣の礼」」との部分です。

産経抄子は,執筆参考資料としては,ウィキペディア先生などというものを専ら愛用しているものでしょうか。ウィキペディアの「立皇嗣の礼」解説には,「立皇嗣の礼(りっこうしのれい),または立皇嗣礼(りっこうしれい)は,日本の皇嗣である秋篠宮文仁親王が,自らの立皇嗣を国の内外に宣明する一連の国事行為で,皇室儀礼。」と書かれてあるところです。

しかし,1991223日に挙行された今上天皇の立太子の礼に係る立太子宣明の儀においては,父である上皇(当時の天皇)から「本日ここに,立太子宣明の儀を行い,皇室典範の定めるところにより徳仁親王が皇太子であることを,広く内外に宣明します。」との「おことば」があったところです(宮内庁ウェブ・ページ)。「平成の御代替わりに伴い行われた式典は,現行憲法下において十分な検討が行われた上で挙行されたものであるから,今回の各式典についても,基本的な考え方や内容は踏襲されるべきものであること。」とされているところ(201843日閣議決定「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う国の儀式等の挙行に係る基本方針について」第12),「文仁親王殿下が皇嗣となられたことを広く国民に明らかにする儀式として,立皇嗣の礼を行う」もの(同閣議決定第571))として行われる今次立皇嗣の礼においても,「宣明します。」との宣明の主体は,むしろ天皇であるように思われます。

現行憲法下時代より前の時代とはなりますが,大日本帝国憲法時代の明治皇室典範16条は「皇后皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と規定していました。「詔書」ですので,当該文書の作成名義は,飽くまでも天皇によるものということになります。

 

3 裕仁親王(昭和天皇)の立太子の礼

1916113日に行われた昭和天皇の立太子の礼について,宮内庁の『昭和天皇実録 第二』(東京書籍・2015年)は,次のように伝えています。

 

 3日 金曜日 皇室典範及び立儲令の規定に基づき,立太子の礼が行われる。立太子の礼は皇太子の身位を内外に宣示するための儀式である。裕仁親王はすでに大正元年〔1912年〕,御父天皇の践祚と同時に皇太子の身位となられていたが,昨4年〔1915年〕に即位の礼が挙行されたことを踏まえ,勅旨により本日立太子の礼を行うこととされた。(241頁)

 

当時の立太子の礼は,1909年の立儲令(明治42年皇室令第3号)4条により,同令の「附式ノ定ムル所ニ依リ賢所大前ニ於テ之ヲ行フ」ものとされていました。

伊藤博文の『皇室典範義解』の第16条解説には,「(けだし)皇太子・皇太孫は祖宗の正統を承け,皇位を継嗣せむとす。故に,皇嗣の位置は立坊の儀に由り始めて定まるに非ず。而して立坊の儀は此に由て以て臣民の(せん)(ぼう)()かしむる者なり。」とありました。「立坊」とは,『角川新字源(第123版)』によれば「皇太子を定めること。坊は春坊,皇太子の御殿。」ということです。つまり『皇室典範義解』にいう「立坊の儀」とは,立儲令にいう「立太子ノ礼」又は「立太孫ノ礼」(同令9条)のことということになります。「瞻望」とは,「はるかにあおぎ見る。」又は「あおぎしたう。」との意味です(『角川新字源』)。「饜」は,ここでは「食いあきる。」又は「いやになる。」の意味ではなくて,「あきたりる。満足する。」の意味でしょう(同)。また,明治皇室典範15条は「儲嗣タル皇子ヲ皇太子トス皇太子在ラサルトキハ儲嗣タル皇孫ヲ皇太孫トス」と規定していました。「儲嗣(ちょし)」とは,「世継ぎのきみ。皇太子。との意味です(『角川新字源』)。現行皇室典範(昭和22年法律第3号)8条は「皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは,皇嗣たる皇孫を皇太孫という。」と規定しています。

立太子の礼を行うことを勅旨(「天子のおおせ。」(『角川新字源』))によって決めることについては,立儲令1条に「皇太子ヲ立ツルノ礼ハ勅旨ニ由リ之ヲ行フ」とありました。閣議決定によるものではありません。

さて,1916113日の賢所(かしこどころ)大前の儀の次第は次のとおり(実録第二241-242頁)。

 

 9時,天皇が賢所内陣の御座に出御御都合により皇后は出御なし,御拝礼,御告文を奏された後外陣の御座に移御される。925分,皇太子は賢所に御参進,掌典次長東園基愛が前行,御裾を東宮侍従亀井玆常が奉持し,御後には東宮侍従土屋正直及び東宮侍従長入江為守が候する。賢所に御一拝の後,外陣に参入され内陣に向かい御拝礼,天皇に御一拝の後,外陣の御座にお着きになる。天皇より左の勅語を賜わり,壺切御剣を拝受される。

   壺切ノ剣ハ歴朝皇太子ニ伝ヘ以テ朕カ躬ニ(およ)ヘリ今之ヲ汝ニ伝フ汝其レ之ヲ体セヨ 

 この時,陸軍の礼砲が執行される。皇太子は壺切御剣を土屋侍従に捧持せしめ,内陣及び天皇に御一拝の後,簀子(すのこ)に候される。935分,天皇入御。続いて皇太子が御退下,綾綺殿(りょうきでん)にお入りになる。この後,皇族以下諸員の拝礼が行われる。

 

「裕仁親王が,自らの立太子を国の内外に宣明」する,というような場面は無かったようです。

今次立皇嗣の礼においては,皇嗣に壺切御剣親授の行事は,立皇嗣宣明の儀とは分離された上で,皇室の行事として行われます。

しかしながら,皇后御欠席とは,何事があったのでしょうか。貞明皇后は,立太子の礼と同日の参内朝見の儀(立儲令7条に「立太子ノ礼訖リタルトキハ皇太子皇太子妃ト共ニ天皇皇后太皇太后皇太后ニ朝見ス」と規定されていました。)等にはお出ましになっていますから,お病気ということではなかったようです。

なお,今次立皇嗣の礼に係る朝見の儀においては,上皇及び上皇后に対する朝見は予定されていないようです(第10回天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典委員会の資料2)。

明治皇室典範16条本体に係る大正天皇の詔書については,次のとおり(実録第二242頁)。

 

 賢所大前の儀における礼砲執行と同時に,左の詔書が宣布される。

   朕祖宗ノ遺範ニ遵ヒ裕仁親王ノ為ニ立太子ノ礼ヲ行ヒ茲ニ之ヲ宣布ス

 

立儲令5条に「立太子ノ詔書ハ其ノ礼ヲ行フ当日之ヲ公布ス」とあったところです。

なお,今次立皇嗣の礼においては,立皇嗣宣明の儀の2日後(前記のとおり2020421日)に当初予定されていた宮中饗宴の儀が新型コロナ・ウィルス問題のゆえに取りやめになっていますが,191611月の立太子の礼に係る宮中饗宴の儀(立儲令8条に「立太子ノ礼訖リタルトキハ