1 星野英一青年の後ろめたさ
法律学は,「パンのための学問」であると貶称せられることが多いところです。
あ・法学部,と言われることもあります。六法の条文と判例とをひたすら暗記するばかりで能のない卑俗なお勉強であることよ,ということでもありましょうか。
この点は,後に我が民法学の第一人者となられた星野英一青年(当時)も気にされていたところのようで,1945年に駒場の第一高等学校から本郷の東京帝国大学法学部に進学するに当たっては,直ちに勇往邁進・大威張り,というわけではなかったようです。
そんなわけで,ちょっと大げさだけれども,真理の探究に直接参加できる哲学とか,学問でも経済学なんかのほうが,高尚のような感じがしていました。法学というのは,パンのための学問だと当時から何度も聞かされていますし,先生方の中にはそう言って,法学部へ行く者を冷やかす方がありました。木村健康先生が私どもがいた中寮の寮主任で,途中から弁論部の部長になられたので,よく話しにいきました。その時に,田中耕太郎の講義は眠いよ,といった話をされます。これは少し後なのですけれども,安倍〔能成〕先生の所へ行って,我妻〔榮〕先生のもとで勉強しようと思いますと言いましたら,ああ我妻君か,あれは頭がよくて元気がいいからね,と茶化すように言われたのです。そういう調子でした。一高の先生と東大の先生との間には,微妙な精神的なコンフリクトがあったようですけれども。
本当は哲学などがいいな,と思いましたが,哲学は今道〔友信〕君が行くし,あんな人がやるのだったら自分はとてもかなわないと思いました。まあ無難なところがよかろうかというあたりです。父が弁護士でしたが,私は,客商売には全然向いていませんから弁護士的な才能はないと思って,裁判官には失礼なことですけれども,裁判官になろうかと考えていました。そういうことで何となく入ったのです。当時,法学部に入るということに何となく後ろめたさがあったような気がします。〔後略〕
(星野英一『ときの流れを超えて』(有斐閣・2006年)33頁)
2 文豪フリードリッヒ・シラーのBrotgelehrte批判
この「法律学(Rechtswissenschaft)=パンのための学問(Brod[Brot]wissenschaft)」観念の淵源は,インターネットを処々検したりなどしたところ,イェーナ大学において世界史(Universalgeschichte)を講ずることとなったフリードリッヒ・シラーが1789年5月26日に同大学で行った就任演説「世界史とは何か,そして何のためにそれを学ぶのか?(Was heißt und zu welchem Ende studiert man Universalgeschichte?)」においてした,二つの典型的学生像の摘示及び相互比較に由来するもののようです。当該2類型中の第1は,すなわち,我らの同類たるパンのために学ぶ・学んだ者(der Brod[Brot]gelehrte)であり,第2は,高尚な,知を愛する頭脳(der philosophische Kopf)でありました。もちろん,シラー大先生の世界史講義は,後者に属する若者向けのものとして構想されていたものです。ただし,かつての法学徒にして医師でもあるシラーは,法律学を特に名指しして,パンのための学問にすぎないと露骨かつ直接的な攻撃・糾弾を行っていたわけではなく,パンのために学んだ者の一例として,医者及び聖職者と並んで法律家が言及されているという訳合いとなっています。
パンのために学ぶ者が自らに提示する学問の計画と,知を愛する頭脳が自らに提示するそれとは,それぞれ異なっております。前者――パンのために学ぶ者――においては,その精励がなされるところは,ある職(Amt)のための資格を得て,それに伴う利益(Vortheile [Vorteile])に与ることができるようになるための条件を専ら満足させるためのみなのであります。彼がその精神の諸力を発動させるのは,専ら,それによってその感覚に関係する状況を向上させ(seinen sinnlichen Zustand zu verbessern),かつ,卑小な名誉欲(eine kleinliche Ruhmsucht)を満足させるためなのであります。そのような者が学問生活の途に就くに当たって最重要事とすることは,彼がパンのための勉強(Brod[Brot]studien)と名付けるところの諸学問を,精神を専ら精神として満足させるところの他のものから,細心の注意をもって選り分けることであります。後者の諸学問――精神を専ら精神として満足させる諸学問――に費やすこととなった時間は,彼の将来の職業から奪われたものと彼は信ずるのであって,この盗難を決して自らに赦すことができないこととなるのであります。彼はその全精励をもって,彼の運命に係る将来の主人から課されるところの要求に順応せしめます。しかして,当該審級(Instanz)を恐れる必要のない資格を得れば,彼は全てを成し遂げたものと信ずるのであります。彼がその課程をやり遂げ,その望んだゴールにたどり着いたときには,彼はその導きの女神ら(Führerinnen)に暇を出してやることになります――というのも,なおこの上何のために彼女らを煩わすのでしょうか。今や彼にとっての最重大事は,記憶に貯め込まれた貴重な知識を誇示すること及び,また,それらの価値が低下することを防止することとなるのであります。彼が学んだパンのための学問(Brodwissenschaft)におけるあらゆる進歩発展は,彼を不安にさせます。それはそれが,新しい勉強課題を彼にもたらし,又は過去のものを無用のものとするからであります。全ての重要な革新は,彼を驚愕せしめます。というのは,彼があんなに苦労して自分のものとした古い学校的定式(die alte Schulform)をそれは破壊し,それまでの人生における全ての勉強の成果を失う危険を彼にもたらすからであります。パンのために学んだ者の群れよりも声高に,改革者たちに対して怒号を浴びせかけた者がいたでしょうか。正に彼らよりも強い力で,学問の国において必須の革命の前進を押しとどめる者がいるでしょうか。どの学問分野であっても,幸運な天才によって点火せられたあらゆる光は,彼らの不十分性を暴き出します。彼らは憤怒とともに,陰険に,絶望的に戦います。それは彼らが,彼らが守る教育制度(Schulsystem)に関して,同時に,彼らの全存在のために戦っているからであります。かかるがゆえに,パンのために学んだ者を上回って非宥和的な敵,妬み深い事務雇員,積極的な異端排斥者は存在しないのであります。彼の知識がそれ自体によって彼に報いるところが少ないほど,より大きな報償を彼は外部から要求することになります。肉体労働者の報酬及び精神労働の報酬について,彼は同一の基準しか持っていません。努力(die Mühe)です。かかるがゆえに,パンのために学んだ者から発せられたものよりも大きな,忘恩に対する苦情申立ての声を聞くことはないのであります。彼は,その記憶した専門知識において報われることを求めるものではありません。彼はその報酬を,他者からの承認において(von fremder Anerkennung),名誉の地位において(von Ehrenstellen)及び年金において(von Versorgung)期待するのであります。このことがうまく行かなかった場合においては,パンのために学んだ者より以上に不幸な者があるでしょうか。彼は無駄に生き,賭け,働いたのであります。真理が彼のために,黄金に(in Gold),新聞紙上の称賛に(in Zeitungslob),君侯からの寵遇に(in Fürstengunst)変じないとするのならば,彼は無駄に真理の追求をしたことになるのであります。
嘆かわしい人間であります。学芸という,全ての道具のうちで最も高貴なものを持っていて,最も粗悪な道具しかない日雇労務者がするものよりもより高尚な仕事を意図し,実行することのない者は。最も完全な自由の国にあって,奴隷根性(eine Sklavenseele)を持ち歩きまわる者は。――しかし,更にもっと嘆かわしいのは,有害な教説及び見本によって,その本来輝かしかるべき人生行路がこの悲しむべき邪道へと(auf diesen traurigen Abweg)誤導された才能ある青年,その将来の職業のためにということで,当該の虚弱な細心さをもって知識の収集作業を行うべく(mit dieser kümmerlichen Genauigkeit zu sammeln)祈伏されてしまった青年であります。ほどなくして,彼のする職業のための学問(Berufswissenschaft)は,中途半端なもの(ein Stückwerk)として,彼に厭嫌の情を催させます。当該学問によっては満足させられることのできない望みが,彼の中で目を覚まします。彼の才能が,彼に与えられた運命に対して反抗します。今や彼の行う全てが,彼にとっては断片(Bruchstück)でしかないもののように思われます。彼はその働きにおいて,何らの目的も見出すことができません。とはいえしかし,彼は無目的性(Zwecklosigkeit)に耐えることができないのであります。彼の職業活動の労苦(das Mühselige)及び取るに足らなさ(das Geringfügige)は,彼を地上に押し倒します。明るい洞察のみに,予感される達成のみに伴うものであるところの喜ばしい元気が,そこにおいて彼を支えることはないからであります。彼は自らが,事物の連関から分離せられ,引き剥がされたもののように感じます。彼の仕事を,世界の大きな全体に結びとめることをやめてしまったからであります。法律を学んだ者に対して(dem Rechtsgelehrten),その法律学は,より優れた文化の曙光がその諸弱点(ihre Blößen)を照らし出すやいなや――今や彼はその新たな建設者たるために,かつ,その明らかにされた欠缺を内部からの充実をもって改善するために努力すべきであるにもかかわらず――彼のやる気をそいでしまうものとなるのであります(entleidet)。医師(Arzt)は,彼の学問体系は信頼に足らぬということを深刻な失敗が彼に示すやいなや,内心において,その職業から疎外せられた状態となります。神学者(Theolog)は,彼の教説体系の無謬性に対するその信仰が揺らぐやいなや,彼の職業に対する敬意を失ってしまうのであります。
〔注:シラーの当該演説において更に続いた,知を愛する頭脳に関する,パンのために学んだ者との比較を伴う特徴描写は,当記事末尾の「附記」に掲載されています。〕
「技術的・専門的」知識を誇示する努力主義者たち(努力したのですから「真面目」な人たちです。)こそが,最も固陋姑息な人々でありました。彼らの記憶の中に貯め込まれた貴重な知識が彼らに提供する金銭稼得・地位獲得機能を安易にそのままの形で恒久的に維持しようとして,世界の大きな全体における事物の連関からの分離をあえて求めて「専門性」という名の壁を虚喝的に高く築いてその内側に退嬰的に籠城するのみならず,彼らは,新しい学問の進歩発展という憂慮すべき現実と共にやって来る犯罪的かつ危険な同業者に抗する非宥和的な敵,妬み深い事務雇員,積極的な異端排斥者として,御殿〇中的正義の憤怒に燃えて(「えっ,きみたち,大勢でもって長いこと今まで,こんな変な仕事をこんな変なやり方でしていたの!?」と放言して無邪気に目を丸くしてみせるというとぼけた悪魔的所業を公然行なわれては,決して赦すことはできません。),意地悪,サボタージュ,更には上司・権力者の寵を頼んだ御注進等の陰険な人事的策動ばかりに専ら励んで日を送るのでありました。かつて己れが「専門」とした学問は,彼らの都合からすればその当時のままそうあり続けるべきものであって,その革新,改革又は革命などというものは,彼らの正義――すなわち,彼らの全存在ないしは彼らのそれまでの人生の意義の顕彰及び現状保存の欲求――と実は決して両立しないものだったのでした。しかして自ら知的に変化生長することを止めた横着者の内面生活においては,既にその自慢の「専門」学問は外界とのつながりを失って枯れ萎び果てており,実践上の最初の困難が当該枯木にいわば当然の深刻な打撃を与えるとともに――高学歴の実務「専門家」としての処世上の必要に基づく外観の弥縫はともかくも――当該枯木は手の施しようもなく倒木と化して彼の真面目な関心及び取組の圏外に去って放置され,他方,若き日のお勉強修行の当初から相疎隔せられていた真の学問と彼との間には,依然として荒寥たる没愛知の隙間風が吹きすさんでいるばかりであることが改めて明らかとなるのでした。
とはいえ,世の中,シラー流のパンのための学問をしただけの専門家ばかりではないのでしょう。立派かつすごい専門家もおられるわけです。
ちょっと前の続きをさせてください。後になってから,一高の先生と東大の先生とを比べてみると,一高の先生というのは,もちろん人によって違いますが,全体として教養人という感じです。教養の香りがある。東大の法学部の先生は専門の学者という感じでした。いわゆる教養の香りの高い先生は,割合少ないと思いましたね。一高の先生と東大の先生の間に微妙な関係があった理由は分かるように思います。〔略〕東大の先生にも,教養人タイプの方はいらっしゃいますが,全体として東大の先生は狭い領域のすごい専門家という感じでした。私は,どちらもそれなりに好きですが。
(星野36-37頁)
3 大帝ユスティニアヌスの法学徒激励
しかし,黄金といい感覚に関係する状況の向上といい年金といい,他者からの承認といい卑小な名誉欲の満足といい新聞紙上の称賛といい,更に,君侯からの寵遇といい名誉の地位という場合,現実にこれらの利益🍞🍞🍞をもって若き学徒に対して積極的な勧奨・督励をしてきたという事実は,法律学についてはこれを否定することができません。
勅定の法律学教科書たる法学提要(533年)の序文(prooemium)において,当時コンスタンティノープルからローマ帝国再興の大業を遂行せられつつあった多忙のユスティニアヌス大帝は,畏くも,若き法学徒らに対して(cupidae legum juventuti)御自ら親しく呼びかけられ,激励せられていわく。
Summa itaque ope et alacri studio has leges nostras accipite et vosmet ipsos sic eruditos ostendite, ut spes vos pulcherrima foveat, toto legitimo opere perfecto, posse etiam nostram rem publicam in partibus ejus vobis credendis gubernare.
(したがって,全力で,かつ,速やかな学習をもって,これらの余が諸法律を身につけるべし。しかして,全ての法律学修が完了したときに,諸君に委ねられるその部分における余の帝国の統治の仕事をも担うことができるという最美の希望が,諸君のためにかなえられるのにふさわしいものとなるべく,それらに精通した者であるものと諸君自身を示すべし。)
無論,皇帝陛下の激励には制度的物的な裏付けがあるわけで,ローマ帝国の統治の一翼を担う若き法律家たちに与えられることとなる利益🍞🍞🍞は,生半可なものではなかったところです。エドワード・ギボンは,その『ローマ帝国衰亡史』の第17章(1781年)において,第4世紀のコンスタンティヌス帝時代におけるローマ帝国の法律家集団(the profession of the law)に関して,次のように報告しています。
全ての文官は,法律家集団の中から選ばれた。有名なユスティニアヌスの法学提要は,ローマ法学の学修にいそしむ彼の帝国内の若者たち宛てのものであった。しかして当該主君は,やがては国家統治の相当の部分を担当することができることによって報いられるということを保証して,彼らの勉強を特に親しく励ました。この実入りのよい学問(lucrative science)の初歩は,東西の全主要都市において教えられていた。しかし,最も有名な学校は,フェニキア海岸のベイルートのものであった。当該学校は,彼の出身地にとってしかく有利なものであった教育機関の恐らく創設者であったろうアレクサンデル・セウェルスの時代から3世紀間余繁栄していたところである。5年間続く通常の教育課程の後,学徒たちは富と名誉とを求めて(in search of fortune and honours)各地方に散らばった。既に法律,技芸及び悪徳の繁茂によって腐敗させられていた大帝国においては,彼らが無尽蔵の勤め口の供給に事欠くということはなかった。東部総督の官邸だけでも,150名の弁護士に雇用を提供することができ,そのうち64名は特有の特権をもって優遇されていた。しかして更に毎年2名が選ばれ,黄金60ポンドの報酬を得て,総督府金庫ための訴訟代理人業務を行った。最初の実地考査は,彼らを時々裁判官の補佐人として任命して,彼らの司法官的才能について行われた。そこからしばしば彼らは,かつてはその前で弁論を行った法廷の主宰者として引き上げられた。彼らは地方行政を引き受け,更に,能力,評判又は恩顧(favour)の助けによって,順を追って,国家の最高顕官たる地位(illustrious dignities)にまで昇った。弁護士業務において,これらの男たちは理性を論争のための道具と心得ていた。彼らは法律を,私的利害の命ずるところに従って解釈した。しかして当該悪習慣は,国家の公行政において示される彼らの性格にもなお付きまとい得ていたところである。自由職業の栄誉は,実際のところは,純粋な高潔さ及びそれにふさわしい知恵をもって最重要な地位を占めた古代及び近代の弁護士によって証し立てされているのである。しかしながら,ローマ法学の衰退期にあっては,法律家の通常の昇進には,姦策と汚辱と(mischief and disgrace)が伴った。かつては貴族の神聖な世襲業務として留保されていたこの高貴な技能は,熟練よりはむしろ狡猾(cunning)をもってして,さもしくかつ悪質な業務(a sordid and pernicious trade)を行うところの解放奴隷ら及び平民らの手に墜ちていた。彼らのうちのある者は,不和を醸成し,訴訟を励起し,及び彼ら自身又は彼らの兄弟のための利得の収穫を準備する目的で,もろもろの家庭に出入りする許しを得ていた。他のある者は,書斎に引きこもり,明白な真実を混乱させる煩瑣な理論及び最も正当化し難い主張をもっともらしく粉飾する議論を富裕な依頼者に提供して,法学教授の重々しさを保っていた。華やかで人気のある階級は弁護士によって構成されており,彼らは,その大袈裟かつ多弁な修辞の音声をもって広場を充たしていた。名声にも正義にも注意を払わないでいる彼らは,大体のところ,出費,遅延及び落胆の迷路に彼らの依頼者を導く,無知かつ貪欲な案内人として描写されていた。彼らはそこから,だらだらと続いた何年もの期間の後に依頼者の忍耐及び財産がほとんど尽き果てたときに,やっと解任されたのである。
(Gibbon, Edward, The History of the Decline and Fall of the Roman Empire I (Penguin Classics, 2005): pp.616-617)
法律学は,古代ローマ以来,パンのための学問であるとともに,治国平天下業のための学問でありました。
4 末弘厳太郎法学部長の「治国平天下」
前記古代ローマ以来の「法律学=治国平天下業のための学問=パンのための学問」の伝統が,後の法務大臣である三ケ月章教授による次の思い出の述懐(東京大学教養学部文科一類1年生に対する1981年度夏学期の「法学」講義におけるもの)につながるのでしょう。
〔前略〕東京大学において民法を講じた有名な法学者であり,戦争中に法学部長であった末弘厳太郎が「法学部で学ぶのは治国平天下の学である」と開口一番喝破したのを,私は新入生〔1942年東京帝国大学法学部に入学〕として講壇の下から聞いたことを,今でもはっきりと覚えているのである。
(三ケ月章『法学入門』(弘文堂・1982年)178頁)
「治国平天下の学」とは,折から太平洋において,アジアにおいて,鬼畜米英相手に連戦連勝中(1942年度の新学期開始の時期です。)の光輝ある我が大日本帝国にふさわしく,勇ましい。
しかし,その王国を治め,更に地上の全王国(omnia regna mundi)を平らかにする治国平天下は,その栄光(gloria)の反面においては,極めて危険な悪魔崇拝的陥穽👿(diabolum adorare)に満ちた業でもあります。
iterum adsumit eum diabolus in montem excelsum valde
et ostendit ei omnia regna mundi et gloriam eorum
et dixit illi
haec tibi omnia dabo si cadens adoraveris me
(Mt 4, 8-9)
また,人はパン🍞を食べて生きるのであって,治国平天下の学徒は,自他のパンの問題をそもそもおろそかにすることはできません。
et accedens temptator dixit ei
si vicarius Caesaris es dic ut lapides isti panes fiant
(cf. Mt 4, 3)
治国平天下のためには,不毛の岡に碌々と転がる,いかしいばかりの石をパン🍞に仕立て上げるまでの辣腕が必要です。芋🍠ではいけないのです。
〔前略〕私共が〔1943年に第一高等学校に〕入学した頃に,「高等学校修練要綱」というのが恐らく文部省から出ました。具体的には,四つの寮に先生を寮長にして住ませるということなどがありました。そのときに,それらを実行しているかについて視察団が来ました。その中に末弘〔厳太郎〕先生がおられました。先生は,積極的に軍部におもねるような言い方はしておられないようで,そこはさすがにきちんとしておられたのですけれども,そういうことはやっておられたのです。もちろん,そのくらいならということだと考えておられたのでしょうが,当時の純粋な生徒の目から見ると,時局におもねっているような感じを受けました。視察団に寮の昼食を出すので,寮の食堂に案内しました。〔略〕当時は食べ物もないし,先輩の所へ行っておコメを特に配給してもらうなどやっていました。ところで,その時,当時いちばんへぼなおかずを出したのです。サツマイモをしょうゆで煮たものでした。生徒も自由に入っているのですが,遠巻きにして視察団の人々を見ていました。そうしたら,真偽のほどはわかりませんが〔末弘厳太郎〕先生は手をつけなかったということがうわさになり,偉そうに視察といいながら我々の食べているものを食べられないではないかということで,みんな大喜びしたのです。〔後略〕
(星野22-23頁)
治国平天下を常に考えておられる偉い先生に対して,パンがなければお菓子を差し上げるというような優美な気づかいは,マリー=アントワネット🌹ならぬ蛮カラ旧制高等学校生徒らにはなかったようです。
ein Roggenmischbrot mit dem philosophischen Kopf