1 「日本人ファースト」か外国人歓迎か(2025年)
最近の流行語(buzz word)に「日本人ファースト」というものがあるそうです。
自国民優先ということであれば,筆者などは次のような昔のお話を想起してしまうところです。
21 Et egressus inde Jesus, secessit in partes Tyri et Sidonis.
そしてよしやはそこを出て,T-S地区に隠れました。
22 Et ecce mulier Chananaea a finibus illis egressa clamavit dicens: “Miserere
mei, Domine, fili David! Filia mea male a daemonio vexatur”.
すると,ほら,当該地方のC族の女が出て来て,「私を哀れんでちょうだい,旦那さま,よその王族の方!私の娘がひどく悪霊に苦しめられているの。」と言って叫びました。
23 Qui non respondit ei verbum.
Et accedentes discipuli ejus rogabant eum dicentes: “Dimitte eam, quia clamat post nos”.
彼は女に対して一言も発しませんでした。そして,彼の子分たちは近寄って来て「あの女を追い払ってくだせえ。おらたちの後をつけて喚きやがる。」と言って彼に頼みました。
24 Ipse autem respondens ait: “Non sum missus nisi ad oves, quae perierunt domus Israel”.
さて,彼自身は答えて「おらはおらの国の迷子になった羊たちのためにだけ遣わされた者ずら。」と言います。
25 At illa venit et adoravit eum dicens: “Domine, adjuva me!”.
それに対して,女は近付いて来て,「旦那様,私を助けて!」と言って彼を拝みました。
26 Qui respondens ait: “Non est bonum sumere panem filiorum et mittere catellis”.
彼は答えて「子供たちのパンを取って子犬たちにやるのはいいことではないずら。」と言います。
27 At illa dixit: “Etiam, Domine, nam et catelli edunt de micis, quae cadunt de mensa dominorum suorum”.
これに対して女は,「そうです,旦那様,でも子犬たちも飼い主たちの食卓から落ちた屑は食べるのです。」と言いました。
28 Tunc respondens Jesus ait illi: “O mulier, magna est fides tua! Fiat tibi, sicut vis”. Et sanata est filia illius ex illa hora.
そこで,よしやは答えて「ああ,おばさん,あんたはとてもよく信じているずら!あんたの望むようになるといいずら。」と女に言います。そして,この時から彼女の娘は健康になりました。
(Evangelium secundum Mattheum 15)
外国人を犬ころ(catellus)🐶呼ばわりして,お前らは俺たちのテーブルから床に落ちた残飯をあさっていろ,と言うのは排除を煽る差別的言動というべきものでしょう。外に向けた排外主義のみならず,内部的にも分断をもたらすカルトは,反社会的勢力というべき存在でしょう。
34 Nolite arbitrari quia venerim mittere pacem in terram; non veni pacem mittere sed gladium.
おらがこの世に平和🕊をもたらすために来たものと考えてはならないずら。平和ではなく剣⚔をもたらすために来たんだずら。
35 Veni enim separare
hominem adversus patrem suum
et filiam adversus matrem suam
et nurum adversus socrum suam:
つまりおらは分断をもたらすために来たずら。人をその親父に対して,娘をその母ちゃんに対して,嫁を姑に対して分断するずら。
36 et inimici hominis domestici ejus.
そして,その人の家族は敵同士となるずら。
(Evangelium secundum Mattheum 10)
しかしまあ,このような過激な言説が二千年間出回っていても――更に烈士が宗教団体に入れあげたその母から分断されていても――この世の終わりはまだ来ていないのですから,社会からの「排除」やら社会における「分断」やらの促進を連想させる言辞に対して,連想の初期段階からピリピリと神経質に憤慨する純粋な心根の働きは,あるいは正に御苦労様というべき取り越し苦労なのかもしれません。
と以上はいつものように,筆者流の冗長な前振りです。
本稿の目的は,米国大統領,中華民国政府主席及び英国総理大臣の名で出された日本史における重要文書たるポツダム宣言(1945年7月26日)の80周年記念日を経たところ,当該ポツダム会談の結果発表されたドイツ処分等のヨーロッパの戦後処理に関する米英ソのポツダム協定(同年8月2日発表: das Potsdamer Abkommen)に加えてヨーロッパ史的に重要なもう一つのポツダムがらみの文書たる1685年「10月29日」のポツダム勅令(Edikt von Potsdam oder/ou Édit de Potsdam)を訳出してみようということです〔(2025年8月10日追記)なお,1685年当時はポツダムの属していたブランデンブルクでは依然としてユリウス暦が使用されていたので,そこでの「10月29日」は,フランス等の採用していたグレゴリオ暦では11月8日に当たります。〕。ドイツ⇒ナチ⇒排外主義という連想があるいは一般的かもしれませんが,ポツダム勅令は,フランスからドイツ北西部及び東部(後のプロイセン王国)への移民大歓迎のフランス新教徒優遇政策を定めたものでした。
当該勅令はドイツ語のみならずフランス語でも出されていますところ〔(2025年8月10日追記)Das Reich der Deutschen: Wie wir eine Nation wurden (Spiegel, 2016)に収載されたSusanne Weingartenの「馬2頭,牝牛1頭及び50ターレル(Zwei Pferde, eine Kuh und 50 Taler)」記事によれば,1685年11月9日にドイツ語,オランダ語及びフランス語で公表されています。〕,主な対象読者はフランス人でしたから,フランス語版を底本としました。Wikisource版のもの(これは正確なものではないようです。)及びhugenottenmuseum.deにある画像です。
2 ポツダム勅令(1685年)
神の恩寵によりブランデンブルク辺境伯,神聖帝国の大侍従長及び選帝侯,プロイセン,マグデブルク,ユーリッヒ,クレーヴェ,ベルゲ,シュテッティン,ポンメルンにおける,カッスベ人及びヴェンド人の,更にシュレジアにおける並びにクロッセン及びイェーゲルンドルフにおける公爵,ニュルンベルク城伯,ハルバーシュタット,ミンデン及びカミンにおける侯爵,ホーエンツォレルンにおける並びにマルク及びラヴェンスベルクの伯爵並びにラヴェンシュタインにおける並びにラウエンブルク及びビュトウの地の主たる余,フリードリヒ・ヴィルヘルムは,
告知し,かつ,この書を見る各人に知らしめる。改革された宗教を信ずる者らに対してここ暫くの間フランスにおいて行われた迫害及び厳しい糾問は,多くの家族をして当該王国を脱出し,かつ,外国に定住することを求めることを余儀なくさせた。福音のため及び余が彼らと共に告白する信仰の純粋のために不幸にも苦しんだ者らに対して余が感ぜざるを得なかった,正義に基づく同情に駆られ,余は,余の手によって署名されたこの勅令によって,それらのフランス人に余の領域の全ての土地及び地方において安全かつ自由な避難所を与えると同時に,彼らを安からしめるため,かつ,神の摂理がそれをもってその教会のかくも大きな部分を撃つことをよしとした災厄に対する救済を講ずるために,どのような権利,免租及び特典を余が彼らに享受させようとしているかを彼らに表明したいと切に願っていたところである。
第1条 余の諸邦中に来住する決断をする全ての人々が該地に移動するためになるべく大きな便宜を得ることができるようにするため,ネーデルランド連邦共和国議会議員らの許に派遣されている余の特使たるディースト殿及びアムステルダム市における余の弁務官たるロムスヴィンケル殿に対して,余は,彼らの許に出頭する当該宗教を信ずる全ての者に対して,オランダからハンブルク市まで彼らの身体,財産及び家族を移動させるために彼らが必要とする船舶及び食糧を余の費用負担において提供すべし,との命令を与えた。次にハンブルク市においては,余の宮廷顧問官にして低地ザクセン圏弁理公使たるゲリケン殿が,彼らが彼らの居住地として選好するところの余の諸邦中の市及び地方に到達するために彼らが必要とする全ての便宜を供与するように取り計らうものである。
第2条 スダン,シャンパーニュ,ロレーヌ,ブルゴーニュ又は当該王国の南部諸地方方面からフランスを脱出した者であって,オランダを経由することが時宜を得ないと判断するものは,フランクフルト・アム・マインに行き,余の顧問官にして同市における代理官たるメリアン殿の許に出頭し,又はケルン市において余の代理官たるレリ殿に対して同様にすればよい。余は同人らに対しても,彼らをしてライン川を余のクレーヴェ公領まで下らしめるために必要な金銭,旅券及び船をもって彼らを援助するよう指示してある。クレーヴェにおいては,余の政府が,彼らをクレーヴェ邦及びマルク邦に定住せしめるよう手配するものである。また,彼らがより前方の余の諸邦中に移住したいと欲する場合においては,当該政府はそのために必要な指示及び便宜を彼らに与えるものである。
第3条 前記余の諸地方には,生活の必要のためのもののみならず,更に工業,商業及び海陸の交易のために必要な全ての種類の便宜が備わっているところ,余の諸地方中に定住しようと欲する者は,彼らの職業のために最も適当であると彼らが判断するところの地を,クレーヴェ,マルク,ラヴェンスベルク及びミンデンの諸邦,又はマグデブルク,ハルバーシュタット,ブランデンブルク,ポンメルン及びプロイセンの諸邦のいずれにおいても,彼らの定住のために選ぶことができる。しかして,クールマルク・ブランデンブルクにおいてはシュテンダル,ヴェルベ,ラテノウ,ブランデンブルク及びフランクフルトの諸市が,マグデブルク邦においてはマグデブルク,ハレ及びカルベの諸市が,同様にまたプロイセンにおいてはケーニヒスベルクが,安価に食べ,生き,かつ,生活を続ける上の便宜においても,仕事を始めるについての便宜においても,彼らにとって最も適切な場所であると余は信ずるゆえに,当該フランス人らのうちの幾たりかがそれらの地に到着したならば直ちに,彼らはそこで温かく受け入れられるべきこと及び彼らの定住のために必要な全てのものについて彼らに協力すべきことを命じたところである。しかし余は,彼らに完全な自由を与え,彼らにとって最もふさわしいと彼らが判断するところの余の諸邦中の市及び地方については,彼ら自身の好みかつ喜ぶところに従って判断せしめるものである。
第4条 到来に当たって彼らが自ら持参する財産,家財道具,商品及び食料品には,何らの手数料又は通行料の支払も課されず,名称又は性質のいかんを問わず,全ての負担及び課税が免除される。
〔(2025年8月10日追記)Weingartenによれば,オランダでフリードリヒ・ヴィルヘルムの当該機関と接触したユグノー難民は,そこからの旅程(Weiterreise)に係る保護状(Schutzbrief)を与えられ,当該保護状によって,関税・通行料を免ぜられ,かつ,旅中に金銭的援助を請求することが可能となったそうです。〕
第5条 当該宗教を信ずる上記の人々が定住するに至った市,町又は村において,廃屋,空屋又は占有者から棄てられた家屋があり,かつ,所有者においてそれらを良好な状態に修復することができないときは,余はそれらを新定住者らに割り当て,かつ,彼ら及び彼らの子孫のために全的所有権と共に与えしめる。余は,上記所有者らを当該家屋の価額に応じて満足させるように努めるとともに,抵当権,負債,分担金又は従前負担せしめられた他の税のいずれであろうとも,それらがなお負うことあるべき全ての負担を消除せしめる。余はまた,木材,石灰,石材,煉瓦及びその他の建材であって,上記の家屋における荒廃した,又は瑕疵のある部分について修繕を行うために彼らが必要とするものを彼らに与えしめんとするものである。それらの人々は自由であり,かつ,6年間全ての種類の課税,管理,兵士の宿営及び他の負担を免除される。彼らが当該免租の期間中に納付するものは消費税のみである。
第6条 そこに家屋を建てるのに適当な場所がある市又は他の地においては,当該宗教を信ずる者であって余の諸邦中に退避するものに,彼ら及び彼らの子孫のために当該場所を所有することが認められる。それに附属する全ての庭地,草地及び牧場についても同様である。彼らは,当該場所及びその附属地に税及び他の負担が課されていたとしても,その納付の義務を負わない。また,彼らが建てようとする家屋の建設をなるべく促進するため,余は彼らが必要とする全ての建材を彼らに与えしめるとともに,彼らに10年の免租期間を与える。当該期間中においては,彼らは前記の消費税以外,あらゆる負担を負うことはない。さらに,余の意図は彼らが余の諸地方中においてなそうとする定住を可能な限り容易にすることであるところから,余は,当該諸地方の行政当局及び余の他の官吏に対して,彼らが到来したときにそこに彼らを滞在せしめることができる貸出用家屋を各市において探すよう指示したところであり,また,上記の条件において彼らに割り当てられた場所において彼らが順次建設に従事するのであれば,彼ら及び彼らの家族のために4年間当該家屋の賃料を支払わしめることを約束するものである。
第7条 彼らが余の諸邦中のいずれかの市又は町に住居を定め次第,彼らは市民の権利を与えられ,かつ,彼らが加入するのがふさわしい職業団体に受け入れられるとともに,当該の市又は町において生まれ常時そこに住居を有していた者たちと同じ権利及び特権を享受する。彼らは,それに対して何らの支払も求められず,また,他国者の遺産没収権又はその他外国人に対して他の国若しくは邦において実行されているいずれの性質のものにも服することはない。むしろ彼らは,全てにおいて,かつ,あらゆる場面において,余の生来固有の臣民と同様にみなされ,かつ,取り扱われる。
第8条 毛織物,布地,帽子又は彼らの好む他の種類の商品に係る製造及び製作を起業しようとする全ての者は,彼らが望むことのできる全ての特権,特許及び免租を付与されるのみならず,金銭並びに彼らの企図を成功せしめるために必要と判断される他の設備及び物品をもって彼らが支援されるように余は更に取り計らうものである。
第9条 農民その他田園地帯に定住しようとする者に対しては,余は,鄙地において一定の広さの土地を耕作せしめるべく割り当てしめるとともに,余の諸邦中に来住した相当数のスイス人家族らに対して余が行ったものと同じ方法により,開墾の初めに彼らの生活を保持するために求められる全ての必要物をもって彼らを援助せしめる。
〔(2025年8月10日追記)Weingartenによれば,当時ウッカーマルク(ブランデンブルク北東部)には約二千九百の空の農場があったそうで(三十年戦争の後遺症です。),同地では,来住した農民の新生活のために,国から建築資材,種子,50ターレル,馬2頭及び牝牛1頭が支給されたほか,3世代にわたって小作料を免ぜられた永小作権(Erbpacht)の設定された土地が農耕及び牧畜のために与えられたそうです。〕
第10条 改革された宗教を信ずる当該フランス人らに生ずることある紛争の裁判に係る管轄及び方法については,多くの彼らの家族が定住した市においては,訴訟の正式手続によらずに示談で当該紛争を終了せしめる権限を有する者を彼らは彼らの中から選任し得ることを余は許可する。これらの紛争がドイツ人とフランス人との間に起った場合においては,現地の当局者と,そのためにフランス民団中において選任された者とが合同して裁判を行う。フランス人のみの間に起った紛争が上述の示談合意の方途によって解決され得なかったときも同様である。
第11条 余は各市に牧師1名を置くとともに,そこでフランス語によって,慣習に従い,かつ,現在まで彼らの間においてフランスで実行されていたものと同じ儀式をもって宗教実践をするのにふさわしい場所を割り当てしめる。
第12条 余の保護の下に入って余に仕えることを望んだフランス貴族は,現在,当地の貴族と同じ名誉,顕職及び特典を享受し,また,彼らのうち多くの者が余の宮廷の第一等の職位及び余の軍隊の指揮職に挙げられてもいるところ,フランス貴族であって将来余の諸邦中に定住しようと望むものに対しても,彼らがそれに値するところの職位,名誉及び顕職を与えることによって,余は同じ恩恵を継続しようと欲するものである。彼らが領地又は他の貴族的財産及び土地を購入したときには,当地の貴族が法上享受すべき全ての権利,自由及び特権と共に彼らはそれらを所有する。
第13条 上述の全ての特権及びその他の権利は,この勅令の日付より後に余の諸邦中に到来するフランス民団所属者にのみ与えられるものではない。改革された宗教のゆえにフランスから亡命した者であれば,それより前に来住したものについても同様である。ただし,ローマ・カトリック教を奉ずる者は,いかにしてもそれらを請求することはできない。
第14条 余は,各地方,公領及び領地に弁務官を置く。彼らに,改革された宗教を信ずるフランス人は,定住の初めのみならずその後においても,必要が生じたときに頼ることができる。また,全ての余の総督並びに余の地方及び邦の政府は,本書及び余が彼らに発することあるべき個別指示によって,当該宗教を信ずる上記の者らを保護の下に置き,彼らを上述の全ての特権において保持し,かつ,彼らが何らの損害も不正も被らないようにし,むしろ全ての種類の愛顧,援助及び支援がもたらされるようにするよう命ぜられるものである。
1685年10月29日ポツダムにおいて
署名:フリードリヒ・ヴィルヘルム
ポツダム勅令は,フランスにおける同年のルイ14世のフォンテーヌブローの勅令(1685年10月18日,同月22日公表。新教徒に権利を認めた祖父・アンリ4世のナントの勅令を撤回。)に対応する文書ということになります。
サン=シモンは,彼の秘密日記のページにおいて〔ルイ14世の追従者とは〕異なる意見を表明した。「ナントの勅令の撤回は,最低限の口実も何らの必要もなしに,王国人口の4分の1を失わしめ,その商業を荒廃させ,かつ,王国をその全部分において弱体化した。」と彼は書いた。迫害から逃れる者に対して国境を閉ざそうとする〔フランスの〕努力にもかかわらず,産業人,商業人び海運人階級の多くの者を含む何十万というユグノーが外国に逃亡したと推算されている。他方,ガールとロゼールとの間の後進地においてフランスに残ったユグノーは,悲惨かつ長期にわたったカミザールの叛乱に蜂起した。ソレルが書くには,「宗教の大義のためにルイ14世は,最大の勝利に終わった戦争によって獲得できたであろうものより多くの,又は最悪の敗戦後の平和の代償としてその敵が要求し得たものより多くのものを失った。」と。
(Alfred Cobban, A History of Modern France: 1. (Penguin Books, 1990. ©1963): p.15)
しかして二十万人のプロテスタント・フランス人――一般に技術的及び文化的に高い層の人々――がプロイセン又はオランダ領南アフリカに移住した。国家にとって重い損失であり,こちらはイギリス人によって迫害されたアイルランドのカトリック教徒の移民受入れによってうまく償いがつくというものではなかった。
(Jean-Claude Barreau, Toute l’Histoire de France. (Le Livre de Poche, 2011): p.131)
その頃ルイ14世はユグノー(フランスではプロテスタントをそう呼んでいる。)を強制的に改宗させようとしていた。フリードリヒ・ヴィルヘルムは時宜を捉えて,「ポツダム勅令」において信教の自由を認めた。その後約二万人のユグノーがブランデンブルク=プロイセンにやって来た。その中には大勢の有能な職人及び更に少数の企業家がおり,後者は新しい製造業を興した。全ての都市が新市民から利益を受けた。特にベルリンがそうであって,そこでは間もなく住民の3分の1がフランス人となった。商業を活発化させるために道路が建造された。また運河システムが設けられ,これによりベルリンは「港町」となることができた。
増大する富は強い軍隊の建設を可能にした。このことは,既に間もなく「大選帝侯」と呼ばれていたフリードリヒ・ヴィルヘルムにとって非常に重要なことであった。
(Manfred Mai, Deutsche Geschichte. (Gulliver, 2010): SS62-63)
〔(2025年8月10日追記)とはいえWeingartenによれば,最初の数十年間はユグノーとドイツ原住民との間にやはりいざこざはあったのであって,「憤激したベルリン人らは,「豆食いども(Bohnenfresser)」の門前に糞尿をぶちまけ,彼らの窓を割り,又は彼らの家に火を付けた。」ということもあったそうです。しかし,ドイツ人には,フランス人が蛙🐸や蝸牛🐌を食べることよりも,豆を食べることの方が奇異に思われたのですね。〕
しかし「勅」令といえば天子の命令であるので,皇帝はおろか王ですらなかったフリードリヒ・ヴィルヘルムの出した命令をポツダム「勅」令ととなえることは,精確にいえば誤訳でしょう。せいぜい「ポツダム公令」歟。
しかし,「外交上の用語としては,それ等の西洋語に於いての総ての差異〔Emperor, King, Grand Duke, etc.〕に拘らず,日本語に於いては,苟も一国の君主である限りは,等しく「皇帝」と称する慣例である」(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)79頁)そうですから皇帝並みに「勅令」でよいのでしょう。ドイツにおける三十年戦争後の1648年のウェストファリア条約によって「ドイツの領邦君主はその領土にたいし外交主権を含むほとんど完全な独立主権を認められた」ところです(『世界史小辞典』(山川出版社・1979年の2版19刷)72頁(松村赳))。
3 ポツダム緊急勅令(1945年)
他方,1945年9月20日付けで裁可され同日公布された我が昭和20年勅令第542号は昭和天皇が発した本物の勅令です(同日から施行(同令附則))。我妻榮編集代表の『旧法令集』(有斐閣・1968年)721頁には「ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件」とありますが,これはそのとおり件名で,昭和20年勅令第542号は題名のない勅令です。その本文は「政府ハ「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ聯合国最高司令官ノ為ス要求ニ係ル事項ヲ実施スル為特ニ必要アル場合ニ於テハ命令ヲ以テ所要ノ定ヲ為シ及必要ナル罰則ヲ設クルコトヲ得」という短いものですが,内容は由々しいとともに,これは単なる勅令ではありません。大日本帝国憲法8条1項の「法律ニ代ルヘキ勅令」たる緊急勅令です(したがって,「ポツダム緊急勅令」)。緊急勅令は,法律事項を定めるものでありました。この点『旧法令集』に昭和20年勅令第542号の上諭がないことは画竜点睛を欠く憾みがあります(公式令(明治40年勅令第6号)7条2項参照)。当該上諭は次のとおりでした。
朕茲ニ緊急ノ必要アリト認メ枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ帝国憲法第8条第1項ニ依リ「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ヲ裁可シ之ヲ公布セシム
当該上諭にいう枢密顧問の諮詢に係る枢密院会議は1945年9月19日に行われています。
昭和20年勅令第542号に対する帝国議会の承諾(大日本帝国憲法8条2項)は,第89回帝国議会において1945年12月18日にされています。当該承諾の結果「その緊急命令は将来に向つて法律としての確定の効力を生ずる。憲法義解には『曰更ニ公布ヲ待タスシテ勅令ハ将来ニ法律ノ効力ヲ継続スヘキナリ』と曰つて居る。」(美濃部217頁)ということになったわけです。
「日本人ファースト」どころか,当時の我々は,邪悪な勢力に与して無謀に第二次世界大戦を戦って徹底的に敗れた哀れな敗戦劣等国民でした。外国人を歓迎するしない以前に聯合国さまに占領されてしまっています。1945年9月27日の第1回会見において昭和天皇は,マッカーサーに対して「閣下ノ使命ハ東亜ノ復興即チ其ノ安定及繁栄ヲ齎シ以テ世界平和ニ寄与スルニ在ルコトト思ヒマスガ,此ノ重大ナル使命達成ノ御成功ヲ祈リマス」と述べていますが(宮内庁『昭和天皇実録 第九』(東京書籍・2016年)833頁),日本人のやらかした不始末(東アジア(「大東亜」)の戦乱並びにその不安定化及び窮乏)の処理のためには,米国人さまら外国人による御占領を仰がなければならなかったのでした。
なお,ポツダム緊急勅令に基づいて,本来法律で定めるべき事項を命令の形式で定めた一群の法規をポツダム命令といいます。
4 ポツダム命令たる出入国管理及び難民認定法
ちなみに,排外主義が云々されるときに言及されることの多い出入国管理及び難民認定法(昭和26年10月4日政令第319号)はポツダム命令の生き残りです(当初の題名は「出入国管理令」。昭和56年法律第86号1条により1982年1月1日から(同法附則1項)現在の題名に変わっています。)。
1951年に吉田茂内閣が政令として制定して昭和天皇が公布した当該ポツダム命令(同年11月1日から施行(同令附則1項))と1685年にフリードリヒ・ヴィルヘルムが発した本家ポツダム勅令との比較も興味深いことでしょう(なお,大日本帝国憲法下の勅令に対して日本国憲法下において対応する法形式は,政令です(昭和22年法律第72号2条1項及び昭和22年政令第14号参照)。)。







」でしょうか。










で行ったいわゆる大阪会議の結果に基づくものでした。