カテゴリ: 憲法

1 はじめに

 前回の記事「Zur ersten Feierstunde des Osterfestes (春のお祝いに際して)」(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1082693799.html)を書いていて,恩赦制度に対する関心が筆者に喚起されました。刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)4751(「死刑の執行は,法務大臣の命令による。」)の死刑執行命令の職務を前にしての法務大臣閣下の御苦悩との関連においてです。同項の前身規定を尋ねて旧治罪法(明治13年太政官布告第37号)460(「死刑ノ言渡確定シタル時ハ検察官ヨリ速ニ訴訟書類ヲ司法卿ニ差出スヘシ/司法卿ヨリ死刑ヲ執行ス可キノ命令アリタル時ハ3日内ニ其執行ヲ為スヘシ」)を経てボワソナアドの原案622条,623条及び625条(Boissonade, Projet de Code de Procédure Criminelle (1882): pp.916-917)にたどり着いた筆者は,旧治罪法460条は,天皇に対する司法卿の「特赦」上奏権(「司法卿ハ刑ノ言渡確定シタル後何時ニテモ特赦ノ申立ヲ為ス(〔コト〕)ヲ得」(同法4781項)及び「特赦ノ申立アリタル時ハ司法卿ヨリ其書類ニ意見書ヲ添ヘ上奏スヘシ」(同法4773項))を背景にした死刑囚に対する全件「特赦」検討主義を前提とするものであるとの認識に至ったのでした。

 ということで,刑事訴訟法4751項との関係という切り口から恩赦制度について論じてみようと思ったのですが,なかなか直ちにそれに取りかかるわけにはいきません。

 まずは「特赦」をめぐる語義穿鑿です。

 なお,ここで特赦の語を括弧の中に入れているのは,194753日施行の現行恩赦法(昭和22年法律第20号)5条が採用する特赦(これには括弧を付さないことにします。)の概念(「特赦は,有罪の言渡の効力を失わせる。」)とそれより前の「特赦」(これには括弧を付けます。)の概念との間には相違があり,かつ,後者については更に旧刑法(明治13年太政官布告第36号)及び旧治罪法施行後の時代(旧刑法及び旧治罪法の施行日は188211日)の用法と1889211日発布の大日本帝国憲法の第16条を経た1908101日施行の明治41年勅令第215号以後の用法とではその意味範囲が異なるからです。

 

2 旧治罪法及び旧々刑事訴訟法並びに旧刑法:明治41年勅令第215号による減刑の分離まで

 

(1)「特赦」:grâcecommutation de peine

そもそも,旧治罪法及び旧々刑事訴訟法(明治23年法律第96号)における「特赦」の語義が厄介なのでした。ボワソナアドの治罪法原案においては,旧治罪法における「特赦」について,grâcecommutation de peineとの二つの概念が提示されているのです。すなわち,旧治罪法第6編第3章の章名は「特赦」ですが(旧々刑事訴訟法第8編第3章も同じ),ボワソナアドの原案では“De la Grâce et de la Commutation de Peine”(「Grâce及びCommutation de Peineについて」)との章名になっています(Boissonade, PCPC p.941)。また,死刑案件に係る天皇への上奏の要否についての司法卿の検討に関するボワソナアド原案623条には上奏内容として“la grâce ou une commutation de peine”(「grâce又はcommutation de peine」)とあり,旧治罪法477条及び478条には「特赦ノ申立」とのみありますが,その前身であるボワソナアド原案645条には“recours en grâce ou en commutation de peine”(「grâce又はcommutation de peineの申立て」)とあり(Boissonade, PCPC: p.941),旧治罪法480条には「特赦状」とのみありますが,ボワソナアド原案650条には“lettres de grâce et de commutation”grâce状及びcommutation状」)とあります(Boissonade, PCPC: p.942)。

当該2概念(grâce及びcommutation)の異同についてボワソナアドは,旧治罪法に係るボワソナアド原案の解説書において,「commutationは部分的なgrâceであるとよく言われる。刑の言渡しを受けた者により軽い刑を科するとともに(en plaçant le condamné sous une peine moindre)刑の免除を行う(elle fait remise d’une peine)という意味においてである。この定式は,大きな不都合なしに用いることができるものである。」と述べています(Boissonade, PCPC: p.943)。Commutationにおいては,重い刑から軽い刑への差替えがされるということでしょう。確かにフランス語辞書を見ると,commutation“substitution, remplacement”であるということですから,入替え,取替え,差替えといった意味でよろしいのでしょう。刑の減軽(恩赦法72項前段)ということでしょう。

 

(2)旧刑法64

旧刑法64条は「大赦ニ因テ免罪ヲ得タル者ハ直チニ復権ヲ得特赦ニ因テ免罪ヲ得タル者ハ赦状中記載スルニ非サレハ復権ヲ得ス/赦ニ因リテ復権ヲ得タル者ハ自ラ監視ヲ免シタル者トス」と規定しています。ボワソナアドの原案のフランス語(Boissonade, Projet Révisé de Code Pénal (1886): pp.96-97)と比較すると,旧刑法64条の「大赦」,「特赦」及び「復権」は,それぞれ“amnistie”“grâce”及び“réhabilitation”です。

旧刑法の復権は,同法における附加刑であった監視(同法104号及び37条から41条まで)を免れさせるのみならず(同法642項),同じく附加刑であった剥奪公権(同法101号及び32条)によって剥奪された公権(同法31条)を回復させるものでした(同法631項)。

なお,旧刑法641項の「特赦」には,「部分的なgrâcegrâce partielle)」としてのcommutationが含まれていたものでしょう。同項に関して,「ところで,全部的なgrâceの事例は稀であろう。多くは単純なcommutation又は刑の執行の減軽(abaissement de la peine)がされ,かつ,ほとんど常に(presque toujours)それは死刑の言渡しに係るものであろう。」とボワソナアドは考えていたところです(Boissonade, PRCP: p.228)。おって,「刑の執行の減軽」(恩赦法72項後段参照)との訳語がここで出て来た理由は,「減軽」される刑(peine)に定冠詞(la)が付いているので,simple(単純な)commutationのように刑の差替えがされるのではなく,言い渡された定冠詞付きの刑が維持されつつその執行が減軽(abaissement)されるもののように解されるからです。

 

(3)ボワソナアドによるgrâcecommutation de peineとの各定義について

 

ア ボワソナアドによる定義

1886年に至って(旧刑法及び旧治罪法の施行日は前記のとおり188211日でした。),ボワソナアドは,旧刑法64条に定義のなかったgrâceについて「専ら主刑の執行を免除するもの(elle fait seulement remise de l’exécution de la peine principale)」との定義を,またそもそも同条に現れていなかったcommutationについて,「commutationは,確定した刑を減軽し,かつ,新しい刑は裁判で言い渡されたものとみなされる。」という定義を提示しています(Boissonade, PRCP: p.97)。

さて,悩ましい。

 

イ Grâce=刑の執行の免除

刑の執行を免除するものであるのならば,grâceは,現行恩赦法8条の刑の執行の免除に該当することになります(同法4条及び5条の特赦ではありません。)。

 

ウ Commutationと刑の減軽(及び刑の執行の減軽)と

Commutationは専ら刑を減軽するものであって,刑の執行を減軽するものではないであれば,「刑を減軽し,又は刑の執行を減軽する」(恩赦法72項)ものである恩赦法上の(特定の者に対する)減刑よりも狭い範囲のものということになります。

なお,commutationについて「部分的なgrâcegrâce partielle)」との観念を機械的に適用すれば,言い渡された刑を維持した上での,刑の執行の免除にまで至らない刑の執行の量的減軽こそが本来の“commutation”であることになります。しかし,刑の執行の減軽については,前記のとおり,ボワソナアドはabaissement de la peineの語を用いるものでしょう。

ちなみに,死刑については,死刑の執行の減軽というわけにはいかないでしょうから(死なない程度に絞首(旧刑法12条)するというのでは,死刑ならざる新たな身体刑の創出ということになります。),死刑を無期徒刑(同法72号及び17条)に差し替えて刑を減軽する(commutation)ということにならざるを得ないわけでしょう。なお,刑の減軽と刑の執行の減軽との効果の相違の例としてボワソナアドは,無期徒刑が有期徒刑に刑の減軽があれば,仮出獄(旧刑法53条)の後の監視の期間は有期徒刑の満期までであるのに対して,無期徒刑の刑の執行が有期に減軽されるだけであれば,監視期間は無期になってしまう(同法55条参照)との趣旨を述べています(Boissonade, PRCP: p.230)。

 

(4)総称としての「特赦」及びその終焉

旧刑法並びに旧治罪法及び旧々刑事訴訟法にいう「特赦」は,刑の執行の免除と刑の減軽との総称(なお,ボワソナアドは刑の執行の減軽も排除してはいなかったものでしょう。)であって,専ら「有罪の言渡の効力を失わせる」ものである現在の恩赦法(5条)の特赦とは異なることになります。

旧刑法時代は「特赦」概念に減刑までが含まれていたわけですが,同法が廃止されて現行刑法(明治40年法律第45号)に代わった日である1908101日に施行された旧特赦及び減刑に関する勅令(明治41年勅令第215号)に至って,「特赦」と減刑とが別のものとして書き分けられたところです。

なお,「特赦」に係る法律の規定が勅令に移されたのは,大日本帝国憲法16条に定められた恩赦大権に係る規律を帝国議会の協賛を要する法律(同5条及び37条)によってすることは大権の行使に議会の干与を許容することとなって好ましくないとされたからでしょう。

 

3 大日本帝国憲法16条及び旧恩赦令

 

(1)大日本帝国憲法16

1889年発布の大日本帝国憲法16条は「天皇ハ大赦特赦減刑及復権ヲ命ス」と規定していますから,この時点で既に「特赦」と減刑とは書き分けられるべきものと認識されていたわけです。『憲法義解』の第16条解説においては,「大赦は特別の場合に於て殊例の恩典を施行する者にして,一の種類の犯罪に対し之を赦すなり。特赦は一個犯人に対し其の刑を赦すなり。減刑は既に宣告せられたるの刑を減ずるなり。復権は既に剥奪せられたるの公権を復するなり。」とあります。

伊東巳代治による大日本帝国憲法16条の英語訳は“The Emperor orders amnesty, pardon, commutation of punishments and rehabilitation.”です。伊東は,「大赦特赦減刑及復権」に係る『憲法義解』の上記解説部分を“ ‘Amnesty’ is to be granted, in a special case, as an exceptional favor, and is intended for the pardoning of a certain class of offences. ‘Pardon’ is granted to an individual offender to release him from the penalty he has incurred. ‘Commutation’ is the lessening of the severity of the penalties already pronounced in the sentence. ‘Rehabilitation’ is the restoration of public rights that have been forfeited.”と訳しています。

 

(2)旧恩赦令を踏まえての解説

 大日本帝国憲法16条の「特赦」においては,刑は赦されても罪は赦されないわけですから,これは,刑の執行の免除の意味でしょう。ボワソナアドも,grâcepardonであると言った上で,amnistieを受けた者が新たに罪を犯しても再犯にならぬが(旧刑法97条は「大赦ニ因テ免罪ヲ得タル者ハ再ヒ罪ヲ犯スト雖モ再犯ヲ以テ論スル(〔コト〕)ヲ得ス」と規定していました。)grâceを受けた者はそうではないと述べています(Boissonade, PRCP: p.225)。Amnistieの語は忘却を意味するギリシア語に由来し,それは「犯罪行為及びその刑を消し去り,そのどちらについても何ら法的痕跡を残さないもの」だそうです(ibid.)。これに対して,「grâceは主刑を免ずるのみ」なのでした(Boissonade, PRCP: p.229)。

 1912年の旧恩赦令(大正元年勅令第23号)5条は「特赦ハ刑ノ執行ヲ免除ス但シ特別ノ事情アルトキハ将来ニ向テ刑ノ言渡ノ効力ヲ失ハシムルコトヲ得」と規定しています。同条の「特赦」は,やはり刑の執行の免除であることが本則です。同条ただし書の部分は,ボワソナアドによる上記のgrâce本質論からすると,異質なamnistie的効果を付加せしめたということになるのでしょう。「刑ノ言渡ノ効力ヲ失ハシムル」ときは,5年を待たずに再犯に当たらなくなるほか(刑法56条),7年待たずに刑の執行猶予を受け得る(同法原252号・1号)ということになるわけです。また,刑の執行の免除の場合には「刑の言渡の結果として生じた権利能力の喪失は尚そのまゝであ」るのですが(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)313-314頁。また,旧刑法641項後段参照),刑の言渡しの効力までが失われるのであれば,刑の言渡しの結果として失われた権利能力はそれにより回復します。

 大日本帝国憲法16条の減刑は,「刑を減ずるなり」ということでは刑の減軽であるようですが,伊東の英語訳では「既に言い渡された刑の苛酷を緩和すること」ということですので刑の執行の減軽であるようであります。伊東は,commutationは「部分的なgrâcegrâce partielle)」であるとの説明に引っ張られ過ぎて,英語のcommutationにも「交換」の意味があることを失念したのでしょうか。

 旧恩赦令72項は「特定ノ者ニ対スル減刑ハ刑ノ執行ヲ減軽ス但シ特別ノ事情アルトキハ刑ヲ変更スルコトヲ得」と規定していますが,これは伊東の英語文的に,刑の執行の減軽本則論を採ったものでしょう。通常は,abaissement de la peineたる刑の執行の減軽がされるものであって,本来のcommutationである刑の減軽は「特別ノ事情アルトキ」に行われる例外,ということにされています。ちなみに,「刑の減軽とは刑期の短縮,罰金額の減少又は刑名の変更を包含する」ものとされています(美濃部314頁)。

 なお,旧恩赦令101項は「復権ハ将来ニ向テ資格ヲ回復ス」と規定して,回復されるものは「公権」ではなく「資格」であるものとしています。

 ちなみに,旧々刑事訴訟法にあった復権手続に関する規定(同法324条から330条まで)は刑法施行法(明治41年法律第29号)52条により1908101日から削除されていて,旧恩赦令が1912926日から施行されるまでは復権手続規定については空白期間となっていました。現行刑法の付加刑は没収のみであって(7条),旧刑法にあった附加刑としての剥奪公権及び監視(同法101号及び4号)は廃されたからでしょう。しかし,刑法以外の法令に,刑の言渡しによる資格の喪失又は停止に関する規定(旧恩赦令9条参照)が多々あることが再発見されたものでしょう。

と,旧刑法及び旧治罪法の各原案のフランス語並びに大日本帝国憲法16条及びその『憲法義解』解説の英語訳を穿鑿し来った上で,ここで更に日本国憲法の英語文までを検分してしまうのが筆者の余計なところです。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


      Glockenklang und Chorgesang

 

    CHOR DER ENGEL.

       Christ ist erstanden!

       Freude dem Sterblichen,

       Den die verderblichen,

       Schleichenden, erblichen

       Mängel umwanden. 

 

  FAUST.

     Welch tiefes Summen, welch ein heller Ton,

     Zieht mit Gewalt das Glas von meinem Munde?

     Verkündiget ihr dumpfen Glocken schon

     Des Osterfestes erste Feierstunde?

     Ihr Chöre singt ihr schon den tröstlichen Gesang?

     Der einst, um Grabes Nacht, von Engelslippen klang,

     Gewißheit einem neuen Bunde.

 

 多くの人々にとって神聖かつ意義深いであろう春の一週末👼🥚🐇を迎え,またも季節物の記事を書いてしまいました。(2021年には「De Falsis Prophetis(旧刑法及び警察犯処罰令における若干の条項に関して)」(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1078468873.html)という記事を書きましたが,今見ると非常に読みづらいですね。本稿もその二の舞になりそうです。)


麻布南部坂教会
 麻布南部坂教会(東京都港区)


1 違法勾引

 

  Et adhuc eo [Jesu] loquente venit Judas Scarioth unus ex duodecim

     et cum illo turba cum gladiis et lignis

     a summis sacerdotibus et a scribis et a senioribus

     …..

 et cum venisset statim accedens ad eum [Jesum] ait rabbi

     et osculatus est eum

     at illi manus injecerunt in eum et tenuerunt eum

     (Mc 14,43; 14,45-46)

 

 これは違法勾引です(逮捕ではなく勾引であると判断した理由は,裁判所の(a summis sacerdotibus et a scribis et a senioribus(祭司長ら,律法学者ら及び長老らの))手の者ら(turba)たる「彼らは(illi)彼に(in eum)手をかけ(manus injecerunt),かつ,彼を確保した(et tenuerunt eum)」ということだからです。身柄被拘束者が裁判所に引致されるべき勾引(刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)731項参照)であって,検察官,検察事務官又は司法警察職員による逮捕(同法1991項参照)ではないでしょう(検察事務官又は司法巡査が逮捕したときの被疑者の引致先は検察官又は司法警察員です(同法202条)。)。剣及び棒を持っていた(cum gladiis et lignis)というのですから直接強制性は歴然としており,召喚(刑事訴訟法57条)ではないですね(「召喚は強制処分ではあるけれども直接強制力を使うことはできず,不出頭の制裁もな」いものです(田宮裕『刑事訴訟法(新版)』(有斐閣・1996年)254頁)。)。ちなみに,旧治罪法(明治13年太政官布告第37号)の下では告訴・告発を直接受けた予審判事(同法931項・97条)の発した勾引状による勾引があり得たこと(同法932項・115条)を御紹介申し上げ置きます(荻村慎一郎「比較法・外国法で学べることの活かし方――スペイン法における「起訴」を題材として――」,岩村正彦=大村敦志=齋藤哲志編『現代フランス法の論点』(東京大学出版会・2021年)380頁参照)。)。ここでは,然るべき令状が被告人に示されていません(刑事訴訟法731項前段には「勾引状を執行するには,これを被告人に示した上,できる限り速やかに且つ直接,指定された裁判所その他の場所に引致しなければならない。」とあります。)。日本国憲法33条は「何人も,現行犯として逮捕される場合を除いては,権限を有する司法官憲が発し,且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ,逮捕されない。」と規定しており,「ここに「逮捕」とは,刑事訴訟法による被疑者の逮捕のみならず,勾引・勾留をも含むと解される」ものです(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)592頁)。令状を所持しないためこれを示すことができない場合において急速を要するときは,被告人に対して公訴事実の要旨及び令状が発せられている旨を告げて,その執行をすることができますが(刑事訴訟法733項),「到着したので(cum venisset),直ちに被告人に近付いて(statim accedens ad eum)「先生」と呼びかけ(ait rabbi),そして同人に接吻した(et osculatus est eum)」ということをもって当該告知があったものとするわけにはいかないでしょう。

 なお,「なおも彼(被告人)が話していたところ(adhuc eo loquente)」において12人中の一人がやって来て(venit … unus ex duodecim)の身柄確保ですが,当該話の内容が犯罪を構成することを理由とした現行犯逮捕(刑事訴訟法212条以下)というわけではないでしょう。

 

2 土着法における瀆神の罪

 引致された先の裁判所における手続はグダグダになりかけたようですが(公訴事実自体がはっきりしていなかったのでしょう。),被告人が自爆的供述をして,裁判所の面子は確保されました。

 

  ille autem tacebat et nihil respondit

     rursum summus sacerdos interrogabat eum et dicit ei

     tu es Christus Filius Benedicti

     Jesus autem dixit illi

     ego sum

     et videbitis Filium hominis a dextris sedentem Virtutis

     et venientem cum nubibus caeli

     Summus autem sacerdos scindens vestimenta sua ait

     Quid adhuc desideramus testes

     audivistis blasphemiam quid vobis videtur

     qui omnes condemnaverunt eum esse reum mortis

     (Mc 14,61-64)

 

 「しかし彼(被告人)は沈黙しており,何も答えなかったので,/裁判長(summus sacerdos)は彼に改めて質問を行い,彼に言うには」ということで被告人に対して君はこれこれの者かねと誘導的に訊いたところ,被告人は当該誘導に応えて,そうなのだ(ego sum),俺は油を塗られた者で,かつ,祝福されたる高き存在の息子なのだ,「で,お前さん方は人の子たるおらが至徳の存在の右側に座しておって,/そして天の雲と一緒にやって来るのを見るんだずら。」と,今度は彼(裁判長)に供述したので(autem dixit illi),そこで裁判長は「自らの法服を引き裂き言うには,/これ以上証人の不足を嘆く理由があろうか,/諸君は瀆神の言を聞いたのである,諸君はどうすべきと思われるのか(quid vobis videtur)。/そこで全会一致で,被告人は死刑に処せられるべき者であるとの有罪判決が下された。」というわけです。法廷でいきなり裁判官が自分で自分の法服を引き裂くのは,その「品位を辱める行状」(裁判所法(昭和22年法律第59号)49条)にならないのかどうかちと心配ですが,この場合は問題がなかったのでしょう。

 瀆神罪を犯した者は死刑に処せられる旨律法に規定されています。

  

     et qui blasphemaverit nomen Domini morte moriatur

     lapidibus opprimet eum omnis multitudo

     sive ille civis seu peregrinus fuerit

     qui blasphemaverit nomen Domini morte moriatur

     (Lv 24,16)

 

  しかして,主の名を冒瀆した者は死刑に処せられるべし。

  全ての民が彼を石打ちにする。

     国民であっても外国人であっても,

  主の名を冒瀆した者は死刑に処せられるべし。

 

 当該の神(主=Dominus)を信じない外国人(peregrinus)に対しても瀆神罪が成立するものとされています。なお,この点我が刑法(明治40年法律第45号)のかつての不敬罪(同法旧74条及び旧76条(天皇,太皇太后,皇太后,皇后,皇太子若しくは皇太孫又は神宮若しくは皇陵に対するものについては3月以上5年以下の懲役(旧74条),皇族に対するものについては2月以上4年以下の懲役(旧76条)))は更に一歩念入りに規定されていて,日本国内及び日本国外の日本船舶内で不敬行為を行った外国人に対して成立する(同法1条)のみならず(ここまでならば,上記律法並びに礼拝所不敬及び説教等妨害に係る刑法188条と同じ。),日本国外において不敬行為を行った全ての者についても成立したのでした(昭和22年法律第124号による削除前の刑法21号)。

 ちなみに,公判廷において重罪(死刑が主刑である罪は重罪です(旧刑法(明治13年太政官布告第36号)71号)。)が発生したときの取扱いについて旧治罪法275条は「公廷ニ於テ重罪ヲ犯シタル者アル時ハ裁判長被告人及ヒ証人ヲ訊問シ調書ヲ作リ裁判所ニ於テ検察官ノ意見ヲ聴キ通常ノ規則ニ従ヒ裁判スル為メ予審判事ニ送付スルノ言渡ヲ為ス可シ」と規定していました。

 

3 刑の執行権の所在問題及び適用される法の問題

 しかし,前記石打刑の執行は当時の当該地においては停止されていたようです。

 

     dixit ergo eis Pilatus

     accipite eum vos et secundum legem vestram judicate eum

     dixerunt ergo ei Judaei

     nobis non licet interficere quemquam

  (Io 18,31)

 

  そこで(ergo)総督が彼らに(eis)言ったには(dixit),「君らが彼を引き取って,君らの法律に従って彼を裁きなさい。」と。そこで(ergo),彼に対して(ei)彼ら土着民が言ったには(dixerunt),「いかなる者についても我々は死刑を行う(interficere=殺す)ことを許されておりません。」と。

 

二つの解釈が可能であるようです。専ら死刑執行の権限が土着民政府から総督府に移されていたという趣旨か,②土着刑法に基づいては死刑を科することができず,被告人を死刑に処し得る法は当該地に施行されている総督の本国法に限られるという趣旨か。

 

4 死刑の執行命令制度の機能

 

(1)旧治罪法460条と恩赦大権と

前記①については,裁判所による死刑の裁判と行政機関によるその執行との関係ということでは,刑事訴訟法475条(「死刑の執行は,法務大臣の命令による。/前項の命令は,判決確定の日から6箇月以内にこれをしなければならない。但し,上訴権回復若しくは再審の請求,非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間は,これをその期間に算入しない。」)が不図想起されるところです。同条は,そもそもは旧治罪法460条(「死刑ノ言渡確定シタル時ハ検察官ヨリ速ニ訴訟書類ヲ司法卿ニ差出ス可シ/司法卿ヨリ死刑ヲ執行ス可キノ命令アリタル時ハ3日内ニ其執行ヲ為ス可シ」)に由来します。

ボワソナアドのProjet de Code de Procédure Criminelle (1882)を見ると,旧治罪法460条に対応するボワソナアド案は次のとおりです(pp. 916-917)。(なお,これらボワソナアド622条及び623条にはフランス治罪法(1808年法)の対応条文が掲げられていません。これに対して旧治罪法461条(「死刑ヲ除クノ外刑ノ言渡確定シタル時ハ直チニ之ヲ執行スヘシ」)の原案であったボワソナアド案624条については(ただし,そこでは刑の執行時期は「直チニ」ではなく「3日以内」になっています。,フランス治罪法375(同条では刑の執行期限は24時間以内です。)が対応条文として掲げられています(Boissonade, p.917)。)

 

   Art. 622.  En cas de condamnation à mort, s’il n’y a pas eu de pourvoi en cassation, soit du condamné, soit du ministère public, et qu’il y ait, ou non, recours en grâce, le commissaire du Gouvernement près le tribunal qui a statué transmettra, sans délai, au Ministre de la justice les pièces de la procédure. 

 第622条 死刑判決の場合において,被告人からも検察局からも破毀上告がされないときは,恩赦申立ての有無を問わず,当該裁判をした裁判所に対応する検察官は,遅滞なく,訴訟書類を司法卿に送付するものとする。

 

   623.  S’il n’y a pas eu recours en grâce et que le Ministre de la justice ne croye pas devoir proposer à l’Empereur la grâce ou une commutation de peine, comme il est prévu au Chapitre IIIe, ci-après, il renverra les pièces, dans les dix jours, audit commissaire du Gouvernement, avec l’ordre d’exécution, laquelle aura lieu dans les trois jours. 

  623条 恩赦申立てがなく,かつ,後の第3章に規定されるところにより天皇に特赦又は減刑の上奏をしなければならないものではないと司法卿が信ずるときは,同卿は,執行の命令と共に当該検察官に対して10日以内に書類を返付するものとする。当該執行は3日以内に行われるものとする。

 

 ボワソナアド案622条及び623条に関する解説は次のとおり(Boissonade, pp.923-924)。

 

ここにおいて死刑の有罪判決は,被告人の利益のためにする,共同の権利に対する一つの例外を提示するが,それはその絶対的不可修復性によるものである。破毀上告の棄却後にも,行使されなかった上告の期限の経過後にも,すぐに刑の執行がされるものではない。

裁判をした裁判所に対応する検察局は全ての訴訟書類を司法卿に送付しなければならず,同卿は,それを取り調べて,第3章において取り扱われている特赦又は減刑を天皇に上奏する余地があるかどうかを判断する。同卿が特赦も減刑も上奏しないときは,刑法(〔旧刑法13条〕)に則った執行の命令と共に,10日以内に当該書類を返付する。当該命令の到達から3日以内に執行がされなければならない。

司法卿による当該特別命令の必要性の正当化は容易である。もし執行が,特別な命令の到達までは延期されるものではなく,反対に,猶予命令のない限りは当該官吏にとって義務的なものであったならば,(不幸なことにこの事象の発生は1箇国にとどまらないが)猶予命令が発送されたものの到達せず,しかして取り返しのつかない不幸が実現せしめられたということが起り得るのである。


 死刑判決に対する破毀上告が棄却され,又は大審院が自ら死刑判決をしたときも同様の手続(ボワソナアド案622条及び623の手続)が採られるものとされていました(ボワソナアド案625条(Boissonade, p.917

 執行権者による恩赦の許否の判断過程が,裁判所の死刑判決と当該裁判の執行との間に介在するわけです。なお,当該判断の量的重大度をボワソナアドがどのように見ていたかといえば,ボワソナアドがその1115日に来日した1873大久保泰甫『日本近代法の父 ボワソナアド』(岩波新書・1977年(第3刷・199850当時のフランスでは,「1873を境に,死刑判決にたいする恩赦の数が,実際の執行の数を上回るようになった」ところであって(福田真希「フランスにおける恩赦の法制史的研究(八・完)」法政論集2442012120),すなわち,死刑判決を受けた者の少なくとも半数近くは減刑(さすがに特赦にまではいかないでしょうが)の恩典に浴するものとボワソナアドは考えていたのではないでしょうか。ちなみに,フランス七月王制の「1830年の憲章第58条は,1814年の憲章と同じように,国王による恩赦と減刑を認めた」ところ「国王ルイ=フィリップ(在位1830年~1848)は積極的に恩赦を与え,1830927日の通達からは,死刑判決の場合には,たとえ嘆願がなかったとしても,恩赦の可能性が検討されることとな」り(福田真希「フランスにおける恩赦の法制史的研究(七)」法政論集2432012122),第二帝制及び第三共和制の下においても同様に「死刑の場合には,嘆願がなかったとしても,恩赦の可能性が検討された」ところです(同124)。

 我が国では恩赦については,大日本帝国憲法16条(「天皇ハ大赦特赦減刑及復権ヲ命ス」)の恩赦大権がかかわっていました。旧治罪法4773項は「特赦ノ申立アリタル時ハ司法卿ヨリ其書類ニ意見書ヲ添ヘ上奏ス可シ」と,同法4781項は「司法卿ハ刑ノ言渡確定シタル後何時ニテモ特赦ノ申立ヲ為ス(〔こと〕)ヲ得」と,旧恩赦令(大正元年勅令第23号)12条は「特赦又ハ特定ノ者ニ対スル減刑若ハ復権ハ司法大臣之ヲ上奏ス」と規定していました。

 なお,旧恩赦令131項はまた「刑ノ言渡ヲ為シタル裁判所ノ検事又ハ受刑者ノ在監スル監獄ノ長ハ司法大臣ニ特赦又ハ減刑ノ申立ヲ為スコトヲ得」と規定していたところ,いわゆる朴烈事件に係る大逆罪(刑法旧73)による大審院(旧裁判所構成法(明治23年法律第650条第2により大逆罪についての第一審にして終審の裁判所)の朴烈及び金子文子に対する死刑判決(1926325)については,直ちに「検事総長〔旧裁判所構成法561項により大審院の検事局に置かれていました。〕ヨリ恩赦ノ上申ガアリマスルヤ,内閣ニ於キマシテハ10日ニ亙リマシテ仔細ノ情状ヲ調査致シマシテ,而シテ後ニ総理大臣ハ〔摂政に対して減刑の〕奏請ヲセラレタ」(1927118日の衆議院本会議における江木翼司法大臣の答弁(第52回帝国議会衆議院議事速記録第430))という運びとなり(すなわち,192645日に摂政宮裕仁親王は「午前,内閣総理大臣若槻礼次郎参殿につき謁を賜い,言上を受けられ」ています(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015439頁)。),192645,朴・金子に対する無期懲役への減刑がされています。また,恩赦をするについては,有罪判決を受けた者について「決シテ改悛ノ情ガ必ズシモ必要デナイ」旨が明らかにされています(江木司法大臣(第52回帝国議会衆議院議事速記録第430)。朴・金子に係る減刑問題は内閣で取り扱われ,内閣総理大臣から上奏がされていますが,これは,事件が大きくて司法大臣限りでは処理できなかったからでしょう。

 

(2)日本国憲法下における恩赦法等との関係

しかしながら,日本国憲法737号は「大赦,特赦,減刑,刑の執行の免除及び復権を決定すること」を内閣の事務としており,更に恩赦法(昭和22年法律第20号)12条は「特赦,特定の者に対する減刑,刑の執行の免除及び特定の者に対する復権は,中央更生保護審査会の申出があつた者に対してこれを行うものとする。」と規定しています(「中央更生保護審査会の申出があった者についてのみ行なうものとされている」わけです(佐藤213頁。下線は筆者によるもの)。)。しかして恩赦法15条に基づき同法の施行に関し必要な事項を定める恩赦法施行規則(昭和22年司法省令第78号)1条を見ると,恩赦法12条の規定に拠る中央更生保護審査会の申出は刑事施設若しくは保護観察所の長又は検察官の上申があった者に対してこれを行うものとする,ということにされていて,法務大臣閣下の直接の出番はないようです(なお,本人から特赦,減刑若しくは刑の執行の免除又は復権の出願があったときは,刑事施設の長,保護観察所の長又は検察官は,意見を付して「中央更生保護審査会にその上申をしなければならない」と規定されています(同規則1条の22項,32項)。)。恩赦に係る司法卿ないしは司法大臣の上奏権に基づくボワソナアド的ないしは旧治罪法460条的な理由付けは,現在の刑事訴訟法4751項には妥当しづらいようです。(ただし,刑事訴訟法の施行(194911日から)の後6箇月間(同630日まで)は,恩赦法12条は「特赦,特定の者に対する減刑,刑の執行の免除及び特定の者に対する復権は,検察官又は受刑者の在監する監獄の長の申出があつた者に対してこれを行うものとする。」と規定されていました(下線は筆者によるもの。犯罪者予防更生法施行法(昭和24年法律第1436によって申出をする機関が「中央更生保護委員会」に改められ(同委員会は,国家行政組織法(昭和23年法律第12032項の委員会でした(旧犯罪者予防更生法(昭和24年法律第14231)。),195281日からは更に「中央更生保護審査会」に改められています(法務府設置法等の一部を改正する法律(昭和27年法律第2685)。)。)

現在は「まず執行指揮検察官の所属する検察庁から,検事長ないし検事正の名義で,死刑執行に関する上申書が法務大臣に提出される。法務省では,裁判の確定記録など関係資料を取り寄せ,再審,非常上告,あるいは刑の執行の停止の事由がないかどうか,また,恩赦を認める余地がないかどうかを綿密に審査した上で,執行起案書を作成する。刑事局,矯正局,保護局のすべてが関与して,誤りなきを期するための努力が払われ,最後に大臣の命令が発せられるのである。」ということですが(松尾浩也『刑事訴訟法(下)新版』(弘文堂・1993年)310頁),恩赦について中央更生保護審査会に上申するのは前記のとおり法務大臣ではなく刑事施設若しくは保護観察所の長又は検察官ですし,再審の請求ができる者は検察官並びに有罪の言渡しを受けた者,有罪の言渡しを受けた者の法定代理人及び保佐人並びに有罪の言渡しを受けた者が死亡し,又は心神喪失の状態に在る場合の配偶者,直系の親族及び兄弟姉妹に限られており(刑事訴訟法439条),非常上告ができる者は専ら検事総長であり(同法454条),死刑の執行停止を命ずる者は法務大臣ですが,当該停止事由である心神喪失及び女子の懐胎(同法479条)の有無の判断は医師の診断に頼ればよいようです(なお,当該死刑の執行停止制度は,刑法施行法(明治41年法律第29号)48条によって旧々刑事訴訟法(明治23年法律第96号)318条ノ3として追加されています。懐胎した女子のそれは,旧刑法15条(分娩後100日経過まで執行停止)に既にあったものです。)。法務大臣閣下が御自らくよくよされる必要は余りないのではないでしょうか。

 

5 死刑判決執行前の特赦か

 本件における総督閣下も,特赦の可否を考えたようです。

 

  Per diem autem sollemnem consueverat praeses dimittere populo unum vinctum quem voluissent

  Habebat autem tunc vinctum insignem qui dicebatur (Jesus) Barabbas

     congregatis ergo illis dixit Pilatus

 quem vultis dimittam vobis

 (Jesum) Barabban an Jesum qui dicitur Christus

       (Mt 27,15-17)

 

 括弧内の語は,これを記さない写本も多いそうです。

 「ところで(autem)長官は(praeses),祭日には(per diem sollemnem),人民に対して(populo)彼らの欲する囚人を一人(unum vinctum quem voluissent)特赦してやる習慣であった(consueverat dimittere)」ということです。当該総督は自ら特赦することができる点で,天皇への特赦上奏権までしかなかった大日本帝国の朝鮮総督・台湾総督(旧恩赦令12条・19条)よりも権限が大きかったようですが,中央更生保護審査会ならぬ群衆に(congregatis illis)だれを特赦すべきか(「JBJCか,諸君のためにどちらを特赦するのを諸君は希望するのかな(quem vultis dimittam vobis J.B. an J. … C.)」)と諮る必要があった点では権限が制限されていたというべきでしょう。(なお,barabbasの意味は,インターネットを処々検するに,何のことはない,「親父(abba)の息子(bar)」ということであるそうです。)

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 春日に筑波嶺を仰ぐ

 いよいよもう4月の新学年・新学期の季節です。

 今年(2025年)4月の新学年の準備が特に大変なのは,筑波大学でしょうか。

 ところで,筑波といえば関東の名峰・筑波山及びそこに棲息する蝦蟇🐸なのでしょうが,次の御製も有名であるところです。

 

                      陽成院

  筑波嶺の峰より落つる男女(みなの)川恋ぞ積りて淵となりぬる

 

 と陽成天皇の話が出てくると,同天皇とその次の光孝天皇との間の代替わりに係る事情に関連して,つい次のような光景を想起してしまうところが筆者の余計なところです。


野津幌川
 
こちらは,男女川ならぬ野津幌川。

野津幌川蛙
 川に恋を積もらせるのはよいとしても,ゴミをすててはなりません。


2 平成31430日末及び元慶八年二月四日の各代替わりに関して

 

(1)平成31年4月30

平成31年(2019年)430日の国民代表の辞。

 

謹んで申し上げます。

   天皇陛下におかれましては,皇室典範特例法の定めるところにより,本日をもちまして御退位されます。〔すなわち,全国民を代表する議員によって構成される衆議院及び参議院からなる国会が制定した(天皇は,公布するのみ)平成29616日法律第63号(いわゆる皇室典範特例法)2条が「天皇は,この法律の施行の日限り,退位し,皇嗣が,直ちに即位する。」と,同法附則11項が「この法律は,公布の日から起算して3年を超えない範囲内において政令で定める日から施行する。」とそれぞれ規定し,第4次安倍晋三内閣が制定した平成291213日政令第302号が本日平成31430日をもって同法の施行日としているから,同日の終了に伴い同法により現天皇は皇位を失うのだ。〕

   〔竹下登内閣制定の昭和6417日政令第1号に基づく元号である〕平成の三十年,『(うち)(たい)らかに(そと)()る』との思いの下,私たちは天皇陛下と共に歩みを進めてまいりました。この間,天皇陛下は,国の安寧(あんねい)と国民の幸せを願われ,一つ一つの御公務を,心を込めてお務めになり,日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たしてこられました。

   我が国は,平和と繁栄〔😲 「アベノミクス」がもたらしたものは,日本の経済,国家及び人民衰退の現実に対するその茹で蝦蟇蛙♨🐸的無痛化ばかりだったものでしょう。〕を享受する一方で,相次ぐ大きな自然災害など,幾多の困難にも直面しました。そのような時,天皇陛下は,皇后陛下と御一緒に,国民に寄り添い,被災者の身近で励まされ,国民に明日への勇気と希望を与えてくださいました。

   本日ここに御退位の日を迎え,これまでの年月(としつき)(かえり)み,いかなる時も国民と苦楽を共にされた天皇陛下の御心(みこころ)に思いを致し,深い敬愛と感謝の念を今一度新たにする次第であります。

   私たちは,これまでの天皇陛下の歩みを胸に刻みながら,平和で,希望に満ちあふれ,誇りある日本の輝かしい未来を創り上げていくため,更に最善の努力を尽くしてまいります。

   天皇皇后両陛下には,末永くお(すこ)やかであらせられますことを願ってやみません。

   ここに,天皇皇后両陛下に心からの感謝を申し上げ,皇室の一層の御繁栄をお祈り申し上げます。

 

同日の国民統合の象徴によるおことば。

 

今日(こんにち)をもち,天皇としての務めを終えることになりました。

ただ今,国民を代表して,安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に,深く謝意を表します。

即位から30年,これまでの天皇としての務めを,国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは,幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ,支えてくれた国民に,心から感謝します。

明日(あす)から始まる新しい令和の時代が,平和で実り多くあることを,皇后と共に心から願い,ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。

 

 ここで本稿の時代は,千百年以上遡ります。

 

(2)元慶八年二月四日

 

ア 正史

 元慶八年(西暦884年にほぼ相当)二月四日条(『日本三代実録』)。

 

  先是。 天皇手書。送呈太政大臣(〔藤原基経〕)曰。朕近身病数発。動多疲頓。社稷事重。神器叵〔「ハ」,できない〕守。所願速遜此位焉。宸筆再呈。旨在難忤〔「ゴ」,さからう〕。是日。 天皇出自綾綺(りょうき)殿,遷幸二条院。〔略〕扈従文武百官供奉如常。〔略〕会文武百官於院南門。 詔曰。〔略〕食国の政を永遠聞食へきを。御病時々発こと有て。万機滞こと久成ぬ。天神地祇之祭をも闕怠こと有なむかと。危み畏り念ほして。天皇位を譲遜給て。別宮に遷御坐ぬと宣ふ御命を。親王等大臣等聞給ふ。承給て。恐み畏も国典に(より)て。太上天皇之尊号を(たてまつ)る。又皇位は一日も(むな)しかる不可(へからす)。一品行式部卿親王は諸親王中に貫首にも御坐。又前代に太子無き時には。此の如き老徳を立奉之例在。加以御齢も長給ひ。御心も正直く慈厚く慎深御在て。四朝に佐け仕給て政道をも熟給り。百官人天下公民まてに謳歌帰す所咸異望無し。故是以 天皇璽綬を奉て。天日継位に定奉らくを。親王等王等臣等百官人天下公民衆聞給ふと宣ふ。中納言在原朝臣行平於庭誥之。〔略〕事畢。王公已下拝舞而退。於是以神璽宝鏡剣等。付於王公。即日。親王公卿歩行。奉天子神璽宝鏡剣等 今皇帝(〔光孝〕)於東二条宮。百官諸仗囲繞相従。〔後略〕

 

  〔前略〕親王公卿奉天子璽綬神鏡宝剣等。 天皇(〔光孝〕)再三辞譲。曽不肯受。二品行兵部卿本康親王起座跪奏言。〔略〕伏願 陛下在此楽推。幸聴於群臣矣。是夜。親王公卿侍宿於行在所。

 

「朕近身病数発。動多疲頓。社稷事重。神器叵守。」及び「御病時々発こと有て。万機滞こと久成ぬ。天神地祇之祭をも闕怠こと有なむかと。危み畏り念ほして。」の部分は,皇室典範特例法1条の「今後これらの御活動〔国事行為のほか,全国各地への御訪問,被災地のお見舞いをはじめとする象徴としての公的な御活動〕を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じておられること」の部分を,「御齢も長給ひ。御心も正直く慈厚く慎深御在て。四朝に佐け仕給て政道をも熟給り。」の部分は,同条の「皇太子殿下は,57歳となられ,これまで国事行為の臨時代行等の御公務に長期にわたり精勤されておられる」の部分を彷彿とさせます。

なお,元慶当時の「国典」では太上天皇であったものが,平成の皇室典範特例法31項では上皇となっています。

しかし,元慶八年二月四日の手続は,前天皇の遜位及び新天皇の即位受諾の各意思表示が要素となっている点で日本国憲法41項(「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」)違反でしょう。

 日本国憲法的には,次のような手続の方が正統なものでしょう。

 

イ 別伝

 

   かくてその日〔元慶八年二月四日〕になりければ,基経公の計らひとして上達部殿上人の中にてよき人々をえり残し,年老いて末短かかるべき人々を供奉として帝を御輿に召させ,陽成院といふ御殿へ行幸なさせ奉り,そこに御輿を下させて後基経公威儀を正して奏し申させ給ひけるは,君には万乗の御主として,御悩故とは申しながら妄りに罪なき者を殺させ給へば,万民歎きて世は尽きなんと危ぶみ候故,止む事を得ず御位を下ろし奉るなりと申さるゝを聞かせ給ひて,悲しき事かなとてをう〔をう〕とをめかせ給ふがいたはしけれど,基経公かく申し置きて退出し急ぎて百官を引連れ,御輿を備へて小松殿へ参り時康親王を迎へ奉りて,たちに儀式を調へ御位に即け奉らる。これを光孝天皇と申し奉れり。

  (尾崎雅嘉著,古川久校訂『百人一首一夕話(上)』(1833年)(岩波文庫・1972年)138頁)

 

  〔前略〕果ては桀紂に似たる御振舞もましませしにより,つひに基経公霍光にならひ,御位を廃し光孝天皇を立てらる。公は実に伊周の亜匹といふべし。

  (尾崎137頁・138頁)

 

桀紂とは何ぞやといえば,『角川新字源』(第123版・1978年)に,「夏の桀王と殷の紂王。暴君の代表者。」とあります。

霍光及び伊周とは何ぞやといえば,同じ漢和辞典に,「伊霍」の説明として「殷の伊尹と漢の霍光。伊尹は〔殷初代の〕湯王の孫の太甲の悪行を改めさせるために,一時,太甲を桐宮に押しこめ,霍光は〔前漢第9代皇帝の〕昌邑王賀の悪行がはなはだしいのでこれを廃して宣帝を立てた。転じて,君主をこらしめたり廃立したりして国家の安泰をはかる臣下。」とあり,「伊周」の説明として「殷の伊尹と,周の賢相の周公旦」とあります。伊尹は,上記押し込めをしたことのみならず,「殷の賢人。湯王を助けて夏の桀王を討ち,殷の開国の政治に大功があった。」という人物です。周公旦は「文王の子で〔周初代の〕武王の弟。武王の子の成王を助けて周の制度文物を定め,周王朝の基礎を築いた。孔子の理想とした聖人。周(陝西省岐山県)を治めたので周公という。」と紹介されています。

伊尹については,また,『孟子』の「巻第九 万章章句上」の6に「伊尹相湯以王於天下。湯崩。大丁未立,外丙四年,仲壬四年。太甲顚覆湯之典刑,伊尹放之於桐三年。太甲悔過自怨自艾,於桐処仁遷義三年,以聴伊尹之訓己也。復帰于亳。」とあります。(はく)から追放された太甲の桐における反省期間は3年だったのでしょう(更に同書「巻第十三尽心章句上」の31には,「公孫丑曰,『伊尹曰《予不狎于不順》,放太甲於桐。民大悦。太甲賢,又反之。賢者之為人臣也,其君不賢,則固可放与』。孟子曰,『有伊尹之志則可。無伊尹之志則簒也』。」とあります。)。『孫子』の「用間篇第十三」には,「昔殷之興也,伊摯在夏,周之興也,呂牙在殷。故明君賢将,能以上智為間者,必成大功。此兵之要,三軍之所恃而動也。」とありますから,伊尹(伊摯)は夏の桀王のところでスパイのようなこともしていたのでしょう。

 

  此天皇性悪にして人主の(うつわもの)にたらず見え給ければ,摂政〔太政大臣藤原基経〕なげきて廃立のことをさだめられにけり。昔漢の霍光,昭帝をたすけて摂政せしに,昭帝世をはやく給しかば,昌邑王を立て天子とす。昌邑不徳にして器にたらず。(すなはち)廃立をおこなひて宣帝を立奉りき。霍光が大功とこそしるし(つたへ)はべるめれ。此大臣まさしき外戚の臣にて政をもはらにせられしに,天下のため大義をおもひてさだめおこなはれける,いとめでたし。

 (北畠親房著,岩佐正校註『神皇正統記』(1339年)(岩波文庫・1975年)110頁)

 

 臣下の分際で,畏くも天皇を廃立するとは,藤原基経は霍光の後輩にして,北条義時の先輩ということになります。「乱臣賊子」たる義時と一緒にされるとなれば,基経には迷惑でしょう。しかしながら,北畠親房は義時に同情的であって,「頼朝高官にのぼり,守護の職を(たまはる),これみな〔後白河〕法皇の勅裁也。わたくしにぬすめりとはさだめがたし。後室〔北条政子〕その跡をはからい,義時久く彼が権をとりて,人望にそむかざりしかば,下にはいまだきず有といふべからず。一往のいはればかりにて追討せられんは,上の御とがとや申べき。」と承久の変について論じています(北畠153頁)。

 とはいえ,藤原基経自身は天皇廃立を行った者として歴史に名を残したくはなかったのでしょう。基経の息子である藤原時平らが撰んだ正史である『日本三代実録』においては,前記のとおり,病気の陽成天皇が自発的に退位し,群臣の推戴を承けて光孝天皇が践祚したということになっています。

 

                      光孝天皇

  君が為春の野に出でて若菜摘む我が衣手に雪は降りつゝ

 

 しかし,元慶八年の段階では,藤原基経の辣腕を論ずるときには,どうしても伊尹・霍光の故事が想起されてしまっていたようです。

 

3 元慶八年六月五日の詔

 

(1)関白の職の始まり

 元慶八年六月五日の光孝天皇の詔にいわく(『日本三代実録』)。

 

  〔前略〕太政大臣藤原〔基経〕朝臣。先御世々々より天下を済助け朝政を総摂奉仕れり。国家の為に大義を建て。社稷の為に忠謀を立てて。不意外に万機之政を朕か身に授任て。閑退之心を存す。〔略〕大臣功績既に高て。古之伊霍よりも。乃祖淡海公〔藤原不比等〕。叔父美濃公〔藤原良房〕よりも益さり。朕将に其賞を議せんとするに。大臣素謙(いふ)心を懐く。必固辞退て政事若壅せむかと也也美〔心悩む,思いわずらう〕思ほして。本官〔太政大臣〕の(まま)に其職(おこなはせ)むと思ほして。所司〔博士たち〕(かんが)()むるに。師範訓導〔天皇に対するもの〕のみには(あらず)ありけり。内外之政統べ()()くも有へかりけり。仮使に職とする所無く有る可くも。朕か耳目腹心に侍る所なれは。特に朕か憂を分とも思ほすを。今日()り官庁に坐て就て万政を(すべ)行ひ。入ては朕か躬を輔け。出ては百官を(すぶ)へし。応に奏すべき之事。応に下すべき之事。必す先す(はかり)(うけ)〔相談せよ〕。朕将に垂拱し()〔手をこまぬいて〕成を仰かむとすと宣ふ御命を衆聞給と宣ふ。

 

これについての解説にいわく。「〔光孝天皇は〕まずは〔基経の〕太政大臣という令制のポストに具体的な職掌を結びつけることを考えたようである。そのために元慶八年五月二十九日,菅原道真・大蔵善行らの文人官僚や法律の専門家たちに太政大臣の職掌について検討させた。しかしその結果,太政大臣は唐の三師三公に当たり,具体的な職掌を想定されていない,という結論に達してしまった(『三代実録』)。そこで仕方がないので天皇は,同年六月五日,〔上記の〕命令を下した。この命令文の中には「関白」という言葉は出ていない。しかし,光孝天皇の次に即位した宇多天皇が,即位直後の仁和三年(887)十一月二十一日に出した命令には「万機巨細にわたって,百官を指揮し,案件は皆太政大臣(基経)に『関白』し,そののちに奏し下すこと,すべて従来通りにせよ」(『政事要略』巻三十,阿衡事。(意訳))とある。ここでいう「すべて従来通りにせよ」(「一に旧事のごとくせよ」)は,先に触れた元慶八年六月の光孝天皇の命令を承けているので,仁和三年の方が「関白」(関与し,申し上げる)という語の初見ではあるが,実質的には,光孝天皇が元慶八年六月に基経に与えた権限を,後世の関白の職掌と同一とみなすことができる。」と(坂上康俊『日本の歴史第05巻 律令国家の転換と「日本」』(講談社・2001年)234-235頁)。

 

(2)「伊霍」の霍

あるいは関白の職掌及び職名については,「大臣功績既に高て。古之伊霍よりも〔略〕益さり」における「伊霍」の「霍」の字が効いているものとも思われます。

「〔光孝天皇の〕践祚のはじめ摂政を改て関白とす。これ我朝関白の始なり。漢の霍光摂政たりしが,宣帝の時(まつりこと)をかへして退けるを,「万機の(まつりこと)猶霍光に関白(アヅカリマウサ)しめよ。」とありし,その名を取りてさづけられにけり。」と説かれています(北畠111頁)。『漢書』の霍光伝には「光自後元秉持万機,及上即位,迺帰政。上謙譲不受,諸事皆先関白光,然後奏御天子。」とあります。「光」は霍光,「後元」は漢の武帝の最後の元号,ここの「上」は宣帝,(だい)はここでは「すなはち」と読むのでしょうから,「霍光は武帝末の後元期から万機を秉持(へいじ)しており,宣帝の即位に及んですなわち政務をかえそうとした。しかし宣帝は謙譲して受けず,諸事は皆まず霍光に関白し,しかる後に天子に奏御していた。」ということになります。

光孝天皇が自らを,昌邑王賀(陽成天皇)が廃された後に霍光によって立てられた前漢の宣帝になぞらえて考えることは自然ではあります。

 

(3)「伊霍」の伊

それでは更に,「伊霍」における「伊」の文字は何を意味するかを考えるに,「伊尹は湯王の孫の太甲の悪行を改めさせるために,一時,太甲を桐宮に押しこめ」ということであったところ,太甲ならぬ陽成天皇は廃位・押し込めの憂き目に遭ったものの,それは「一時」のこらしめで,将来文徳=清和系(すなわち,光孝天皇の兄である文徳天皇からその子清和天皇(清和の子が陽成)以下に続く皇統)への皇位奉還あり得べし,という趣旨を含意したものとも解し得ないでしょうか。元慶八年六月五日の「この勅の発布より2ヵ月も前に,〔光孝〕天皇は不本意ながら息子・皇女を臣籍に降すことを予告し,六月にそれらのもの29人に源朝臣の氏姓をあたえた〔この29人には後の宇多天皇・源定省(さだみ)も含まれます。〕。このおもいきった処置は,近い将来に,基経がその外孫にあたる親王を皇嗣にたてるばあいのことを考慮したためであろうと考えられている。」と説かれているところです(北山茂夫『日本の歴史4 平安京』(中公バックス・1983年)268頁)。当該「外孫」は基経の娘・佳珠子と清和天皇との間に生まれた(したがって文徳=清和系の)貞辰親王です(北山265頁参照。ただし,同頁では,貞辰親王の父は陽成天皇であるものとされています。)。しかし,こじつけが過ぎるでしょうか。実質を踏まえていない,とお叱りを受けそうです。

 

(4)基経の抗表に対する勅語

『日本三代実録』によれば,元慶八年六月五日の詔に対して基経は同年七月六日に拝辞の抗表を奉ります。病弱でその任に堪えないと言います(「天資尫弱。病累稍仍。」)。これに対する同月八日の勅語は,偉い人である基経にそんなにきつい仕事はさせないよと述べるものの如くです。

 

 如何責阿衡。以忍労力疾。役冢宰以侵暑冒寒乎。公其頤養精神。臥治職務。

 (いかんぞ阿衡を責むるに労を忍び疾を力むるをもってし,冢宰を役するに暑を侵し寒を冒すをもってせんや。公其れ精神を頤養し,臥して職務を治む。)

 

阿衡の語については,後に論じます。(ちょう)(さい)は,「周代の官名。天子を助けて百官を統べる。今の首相。」です(角川新字源)。

 

4 源定省による皇位継承

 

(1)仁和三年八月二十五日から同月二十六日まで

光孝天皇は仁和三年(西暦887年にほぼ相当)八月二十六日に崩御しますが,その前日にその息子・源定省が皇族に復帰して親王となり,光孝天皇が崩御する当日に皇太子に立てられています。

仁和三年八月二十五日の詔(『日本三代実録』)。

 

 朕之諸児,皆朝臣之姓を(たまは)る。(これ)誠に国用を節し,民労を(やすむ)之計也。今台𣂰(てい)〔鼎〕之昌言に驚く。仰て(てう)遠い祖先の廟〕祐之重業を思ふに,天潢(あに)一派無かる可く若華(あに)片枝無かる可けんや億兆之平安を図り盤石()漢典に尋ぬ。〔略〕第七息定省年廿一朕か躬に扶侍し未た曽て閤を出てす。寛仁孝悌朕の鍾憐する所前に昆〔兄〕弟之鴈行に混(せられ),遽に一戸を編む。今祖宗之駿命を伝へんと欲するに,何そ諸任に歯せん。苟も身の為にせざれば,誰か反汗を嫌はむ。其臣姓を削り,以て親王に列す。〔略〕

 

 我が皇子女の臣籍降下は専ら国費節約のためであったところ(だから皇位継承放棄のためとまで解しないでくれ),大臣ら(台𣂰〔鼎〕)が道理にかなったよいこと(昌言)を言った。古き昔からの我が皇室の歴史に鑑みるに,時には皇統の枝分かれもあるべしなのだ(仁明=文徳=清和=陽成系から仁明=光孝=宇多系へ)。だから億兆臣民の平安を図り,かつ,祖宗の駿命を伝えるために,漢土の例も参考にし,我が子源定省の臣籍を削って親王に列するのだ。汗の如き綸言を食言したとは言うなよ,云々。

 ここで注目すべきは,「扶侍朕躬。未曽出閤。」の部分でしょうか。

 これは,『大鏡』の伝える,陽成天皇の後継者を選定する際の次のエピソードに関連します。

 

  嵯峨天皇の皇子で,げんに左大臣の職にあった源融が,太政大臣にたいして「近き皇胤をたづぬれば,融らも(はべ)るは」といったところ,基経は,「皇胤なれど,姓(たまい)てただにてつかへて,位(皇位)に()きたる例やある」ときりかえして黙らせたということだ。

  (北山266頁)

 

源融の皇位継承が認められないのは「姓給て」しまったことのみでそうなのではなく,それに加えて「ただにてつかへて」しまったからなのでしょう。源定省は,「姓給て」いたものの,部屋住みであって,いまだ「ただにてつかへて」いなかったから,皇位継承が可能だったのではないでしょうか(これに対して定省の同母の兄である源是忠及び源是貞は,(とう)が立ってしまっていたということになるのでしょう。)。旧皇族も,国民として既に社会の俗塵にまみれてしまっていると,皇族に復帰しても皇位は継承できないということになるのでしょう。

 

(2)源融の幽霊

なお,「融は,源定省推挙のときも左大臣として廟議に列していたのだが,ことさらにはことを荒らだてなかったようである。」といわれてはいますが(北山273頁),宇多天皇に対しては依然含むところがあったようです。

 

 〔源融の〕河原院は融公薨ぜられし後,宇多法皇の御領となりたり。しかるに法皇或時京極御息所と同車にて河原院に渡らせ給ひ,風景を御覧ありけるに夜になりて月の明らかなりければ,御車の畳を取下ろさせて仮りに御座とし給ひ御息所と臥させ給ひしに,この院の(ぬり)(ごめ)の戸を開きて出で来る者の音しければ,法皇何者なるぞと咎めさせ給へば,融にて候御息所賜はらんといふ。法皇宣はく汝存生の時臣下たり,何ぞ不礼の言葉を出だせるや早く帰り去れと宣ふに,かの霊物たちまち法皇の御腰を抱きければ,大いに恐れ給ひて半死半生の体にておはします。今日前駆の(ともがら)は皆中門のほかに候したる故御声遠きに到らず,(うし)(わらは)のすこぶる近く(さぶら)ひて牛に物食はせ居たれば,件の童を召して人々をして御車差しよせしめ給ひて乗らせ給ふに,御息所の顔色青ざめ給ひて起き立ち給ふ事あたはざりしを,とかくに助け抱き乗せしめ還御の後,浄蔵大法師を召して加持せしめ給ひければ蘇生し給へりとぞ。このことは古事談に載せて,河海抄にも略して記されたり。

 (尾崎141頁)

 

 退位出家の後も美女と深夜デートとは,恐れながらも生臭と申し上げるべきかどうか。有り難い仏法の教えも,御息所を求めての幽霊の出現という乱れを予防・排除することはできなかったようです。

 

                    河原左大臣

  陸奥の忍ぶもぢ摺り誰故に乱れ初めにし我ならなくに


 なお,『扶桑略記』によって伝えられた寛平元年(西暦889年にほぼ相当)八月十日の宇多天皇日記を読むと,同天皇の早期退位の理由としては天皇であることのプレッシャーないしはストレスに苦しんでおられたことも考えられるということになりますとともに,源融としては女性と親密にデートをされている元気な宇多天皇ないしは法皇を見かけるとつい先達ぶって声をかけたくなる事情があったことが看取されます。すなわち当該日記文にいわく,「今乱国之主而莫不日致愚慮。毎念万機寝膳不安。爾来玉茎不発只如老人。依精神疲極当有此事也。左丞相〔源融〕答云,有露蜂〔蜂の巣の外側の薄い膜〕者。命〔藤原〕宗継調進。其後依彼詞服之。其験真可言也。」と(倉本一宏『平安時代の男の日記』(角川選書・2024122(また,123頁・125))。寛平元年に宇多天皇は,二十三歳であらせられました。


(3)元良親王と京極御息所との恋

 ところで京極御息所をめぐっては,陽成系皇族による宇多天皇に対する一種の復讐の一幕もあったというべきでしょうか。陽成天皇の皇子である元良親王の歌。

 

  侘びぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はんとぞ思ふ

 

   さて後撰集に侘びぬれば今はた同じといふ歌を入れて,京極の御息所に遣わされし由の事書あり。この御息所と申すは藤原褒子と申して,時平公の御(むすめ)にて,宇多天皇寵愛し給ひ女御にて雅明親王・載明親王などを生せ給へり。元良親王この女御に通じ給ひしに,その事現れて憂き目を見給ひし時の歌なり。

  (尾崎169頁)

 

 宇多天皇即位後,同天皇と藤原基経との間で有名な阿衡の紛議が発生します。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

第1 序説

 

1 旧年回顧

 健康的に七草粥を喫すべき7日の日までの松の内🎍も新年を祝う飲酒快調🍶🍷のうちに過ぎ(なお,松の内は,元々は115日までだったそうです。),今更新年(2025🐍)の御挨拶,旧年(2024🐉)の回顧という時期ではないのですが,旧年中における筆者にとっての衝撃的な出来事の一つを挙げれば,大学時代の同級生の一人が難病を患って既に4年以上前に死去していたということをその妹さんによる追悼ブログ記事に逢着して知ったことでした。同年齢の知人らが死亡しつつあるという事実は,身につまされます。次は我が身かと思えば,ますますこの世に生き汚く執着するようになるのか,それともかえって脱力してしまって無気力になるのか,どちらの態度を採るべきか・・・。

 というようなことはともかく,当該故人についての思い出の一つとしては,彼は高校生時代に現代社会の担当の先生に勧められて,日本国憲法の全文を暗記していたということがありました。なるほど法学――特に憲法学――を真剣に学ぶほどの青年は,それくらいのことはあらかじめしておくことが当然です。

 

2 憲法条文(第10条から第31条まで)と記憶力と

 翻って筆者の憲法条文に関する記憶力はどうかといえば,昨年(2024年)中に掲載した本ブログの記事の一つにおいて,日本国憲法第3章の国民の権利及び義務規定に係るGHQ当局による4分類論(①総則,②自由,③社会的及び経済的権利(又は特定の権利及び機会)並びに④司法上の権利)などというものを発見したようでもあるらしく書いてしまっていたところ(「日本国憲法15条とGHQ草案14条及びアメリカ独立宣言と」の3https://donttreadonme.blog.jp/archives/1082157919.html)),不図,この正月の朝寝の蒲団の中で,当該GHQ的分類論に沿って日本国憲法第3章の条項の排列をおさらいし,己れの憲法知識の健在を確認しようではないかと思い立ち実際に行った結果は,次のようなお粗末なものとなっていたところです。

 

   えーっと,去年は第15条について書いたけれど,GHQのいう「総則」の枠組みはアメリカ独立宣言のそれのパクリだから,天賦人権論的議論(第11条。第97条との関係が問題だったなぁ(「日本国憲法第97条をめぐって:ロウスト中佐の頑張りからホイットニー局長の筆先へ」(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1031859302.html))。)から始まって(なお,国籍決定法律主義の冒頭第10条は,日本側が後から入れたんだよね。),次に日本人どもに対する有り難いお説教(第12条)があった上で,社会契約の成立が前提される(第13条。これについては,「日本国憲法13条の「個人として尊重される」ことに関して」という記事を昔書いたね(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1075180916.html)。)

次の第14条は,マッカーサーが我が国における封建制の廃止を特に気にしていたから,大日本帝国憲法にはなかった平等条項(大日本帝国憲法におけるそれとしての平等条項の不在については,トニセン本を参考に「大日本帝国憲法19条とベルギー国憲法(1831年)6条」(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1038090379.html)というのを書いた。)が付加されたんだったね(第14条についてもグダグダ長いものを書いたなぁ。「「法の下の平等」(日本国憲法141項)の由来に関する覚書」の前編(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1041144048.html)と後編(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1041144259.html)とだな。)

15条はアメリカ独立宣言流抵抗権規定に代わる代替条項で,第16条にある請願の話は,これもアメリカ独立宣言に出て来るのであった。第17条の国家賠償制度は日本側が自ら入れたものであった。

 

自由に関する諸条項は第24条の前までだったけど,偉大なリンカンの修正第13条にあやかった奴隷的拘束禁止の第18条が先頭に来て,これは身体の自由の話。次は精神的自由の話になって,まずは思想・良心の自由条項(第19条)。で,それから政教分離の第20条が来て(米国憲法修正第1条のようにいきなり政教分離が来ずに,思想・良心の話が先行するのは,GHQの担当者としては,――国家に優るとも劣らない宗教の権威を前提するという意味での,あるいは思想・良心に先行するものとしての宗教という意味での――宗教色を薄めたかったのかしら。),その次が集会結社言論出版等の自由に関する第21条だけれども(同条には筆者お得意の「通信の秘密」も含まれるのだ。「抜き刷り差し上げます:東海法科大学院論集3号の「憲法21条の「通信の秘密」について」」(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1007481107.html)を参照されたし。),同条での自由は,むしろ本来は,宗教権力からの自由だろうね。(ちなみに,コロナ騒動において顕著だった,穢れ(新型コロナウィルス)を避ける強烈な清潔志向(自粛及びマスク着用)及び禊(ワクチン接種及び手指消毒)の徹底は,一種の宗教心の現われでもあったのかしらん。)で,次は,有名な居住移転職業選択の自由だ(第22条)。学問の自由・・・これは第23条で最後か。宗教権力からのガリレオ的学問の自由ということであれば,第22条より前の方がよろしいようではあるが,GHQの担当者としては,学者業も所詮職業の一種にすぎないと考えていたのだったかしら(註:GHQ草案の第22条には“Academic freedom and choice of occupation are guaranteed.”(学問の自由及び職業の選択は保障される。)と規定されていました。)。自由の部分の掉尾を飾るものとして,複合的な性格を有するものと考えたのかしら。まあ,第23条については難しい本も書かれているようだから,そちらに譲ろう。

 

司法上の権利については,アメリカ人としてはdue processが一番大事で,それが先頭の第31条に来た,と考えればよいのかな。うーんその後ろにいろいろ沢山条文があったけど,刑事訴訟法がらみの話だから,大学の憲法の講義では何だか飛ばされていたなぁ。今朝はやめておこう。

 

24条から第30条までの「特定の権利及び機会」に行ってみよう。

婚姻に関する第24条は,去年関係記事を二つ書いた,と。まずは,「「人格を尊重」することに関して」(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1081694748.html)だった。最近は民法の改正が多くて困るんだよね。それから,「札幌高等裁判所令和6314日判決に関して」(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1081775588.html)も書いた。これは,同性婚を全米で一律権利化した判例である,本来もっと知られていて然るべき2015年のObergefell判決の紹介でもあるんだよね。当該判決はフォーチュン・クッキーの中の御御籤(おみくじ)的だとかのスカリア判事によって言われていたけど,今年の元旦の御御籤は,まあ悪くはなかったな(昔,2年連続同じ神社で凶を引いたことがある。)。

25条は有名な生存権規定であると。

財産権は第29条か。割と後ろの方なんだよな。自由の部にないということは,財産をもって個人の自由を確保するために必須のものであるとするとの位置付けをしていないんだよな。武士は食わねど高楊枝かね。

28条には労働法関係の規定があって,確か労働法関係規定は2箇条ほどあったから・・・第27条及び第28条がそれである,と。

で,納税義務の規定があったけど,これはやはり慎ましく,出しゃばらずに最後の第30条辺りだったかな。

であると第26条が残るんだけど,何に関する条項だったかな。あれっ,出て来ないぞ。あれっ。第26条・・・何だったっけ!?

 ということで,恐慌を来した筆者は,我が哀れな脳の老化疑惑に抗うべく記憶喚起のための努力を色々としてみたのでしたが,残念ながらどうしても思い出せませんでした(困ったものです。)。

 

3 憲法26条との再会

到頭諦めて,生ぬるく懐かしい冬の蒲団からままよとぬけ出し,1月の峻烈な朝の寒気の中で六法を確認したところ(刑事訴訟規則(昭和23年最高裁判所規則第32号)199条の11参照),日本国憲法26条は次のとおりでした。

 

    第26条 すべて国民は,法律の定めるところにより,その能力に応じて,ひとしく教育を受ける権利を有する。

      すべて国民は,法律の定めるところにより,その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は,これを無償とする。

 

Article 26.  All people shall have the right to receive an equal education corresponding to their ability, as provided by law.

All people shall be obliged to have all boys and girls under their protection receive ordinary education as provided for by law. Such compulsory education shall be free.

 

ああ,「教育を受ける権利」条項だったか,すまんすまん。有名な条項だったよね。旭川学テ事件判決(最高裁判所昭和51521日大法廷判決・刑集305615頁)などというものを勉強したんだったよなぁ。「国家の教育権」説対「国民の教育権」説が云々で,当該対立を踏まえた折衷説が云々だったね。

しかしま,何で忘れちゃったんだっけ。何で影が薄くなっちゃったんだっけ。そもそも第26条には,どういういわれがあるんだったっけ・・・。

 

 と,以上が例によって例のごとくの筆者流の冗長な前書きですが,年初早々我が脳の再賦活化を図るべく日本国憲法26条の由来を少々調べてみた結果が本稿です(なお,当該調べものにおいては,個々の場合についてそれとして明示していませんが,国立国会図書館ウェブサイトの「電子展示会」中にある「日本国憲法の誕生」掲載の諸資料を利用させていただきました。)。

 

4 脱線:憲法の中に見る人生の諸段階

 ちなみに,第26条由来論に入る前に日本国憲法24条から30条までの条項排列を改めて見てみると,日本人の生活に対するお国の関与の場面が,人生の諸段階を追って規定されているようにも思われます。

 

  第24条 誕生に先立つ両親間の夫婦円満💑

  第25条 誕生・即ち生存権取得👶

  第26条 まずはお勉強🏫📚✒

  第27条 やがて働く。🔨⚙🌾💻💦

  第28条 働くに当たっては,時には労働条件につき雇用主と争う。🥊👊

  第29条 形成された財産及びその確保🏠💎

  第30条 しかし最後はお国に税金で取られてしまう。👿👹

 

 第30条は「落ち」としてよく出来ています。ただし,当該規定はGHQ草案(1946213日に日本国政府に手交)にも日本国政府の第90回帝国議会提出案にもなく,衆議院において追加されたものです。

 しかしあえてこのように眺めてみると,第24条の想定する婚姻はやはり本来,そこから子供が生まれ出るべきものなのでしょうか。

 なお,我が憲法29条の位置については,ブリュメールのクーデタ後の憲法案提出に際して出された17991215日のフランス共和国執政官宣言には“La Constitution est fondée sur les vrais principes du Gouvernement représentatif, sur les droits sacrés de la propriété, de l'égalité, de la liberté.”(この憲法は,代表政体の真の諸原則並びに財産,平等及び自由に係る神聖な諸権利に基礎を置くものである。)とあって,財産に対して自由に先立つ地位を与えていたことと比べると――前記感慨の繰り返しになるようですが――隔世の感があります。

 

第2 日本国憲法26条誕生に向けた各方面の動き(194636日まで)

 

1 1946213日交付のGHQ草案24条(日本国憲法262項)

 さて,日本国憲法26条に対応するGHQ草案の条項は,次のとおりです(下線は筆者によるもの)。

 

  Article XXIV. In all spheres of life, laws shall be designed for the promotion and extension of social welfare, and of freedom, justice and democracy.

Free, universal and compulsory education shall be established.

The exploitation of children shall be prohibited.

The public health shall be promoted.

Social security shall be provided.

Standards for working conditions, wages and hours shall be fixed.

 

これを我が外務省が訳したものは次のとおりです。(下線は筆者によるもの。なお,第2項の「自由」は,本来「無償」と訳すべきものだったでしょう。第5項の「社会的安寧」は,「社会保障」とあるべきものでした。)

 

24条 有ラユル生活範囲ニ於テ法律ハ社会的福祉,自由,正義及民主主義ノ向上発展ノ為ニ立案セラルヘシ

自由,普遍的且強制的ナル教育ヲ設立スヘシ

児童ノ私利的酷使ハ之ヲ禁止スヘシ

公共衛生ヲ改善スヘシ

社会的安寧ヲ計ルヘシ

労働条件,賃銀及勤務時間ノ規準ヲ定ムヘシ

 

 第1項(「自由,正義及民主主義」の部分は除く。),第4項及び第5項が日本国憲法25条になり,第3項及び第6項はGHQ草案25条(“All men have the right to work.”(全ての人は働く権利を有する。))とまとめられて日本国憲法27条になり,第2項が日本国憲法26条になっています。ただし,GHQ草案242項に対応するのは,日本国憲法262項のみです。

それでは,日本国憲法261項はどこから由来したものか。

 

2 194632日の日本国政府案(日本国憲法261項)

GHQ草案の交付を承けて日本国政府は大日本帝国憲法全部改正案の作成作業を行いましたが,1946228日の佐藤達夫法制局第一部長の「初稿」において既に次のような規定が見られます(下線は筆者によるもの)。

 

 (第3章の)第15条 国民ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ能力ニ応ジ均シク教育ヲ受クル権利ヲ有ス。

  国民ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ保護スル児童ヲシテ(初等)普通教育ヲ受ケシムルノ義務ヲ負フ。(特ニ法律ノ定ムル場合ヲ除クノ外初等普通教育ハ無償トス)

 

 194632日の日本国政府案(ただし閣議を経ていないもの。同月4GHQに提出され,昭和天皇にも奉呈されました。(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)61頁))では次のようになっています。

 

  第23条 凡テノ国民ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ能力ニ応ジ均シク教育ヲ受クルノ権利ヲ有ス。

凡テノ国民ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ保護スル児童ヲシテ普通教育ヲ受ケシムルノ義務ヲ負フ。其ノ教育ハ無償トス。

  第24条 凡テノ国民ハ法律ノ定ムル所ニ依リ勤労ノ権利ヲ有ス。賃金,就業時間其ノ他勤労条件ニ関スル事項ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム。

 

  第29条 凡テノ国民ハ種類ノ如何ヲ問ハズ其ノ意ニ反シテ役務ニ服セシメラルルコトナク,且刑罰ノ場合ヲ除クノ外苦役ヲ強制セラルルコトナシ。

児童ノ虐使ハ之ヲ禁止ス。

 

  第38条 凡テ国民生活ニ関スル法令ハ自由ノ保障,正義ノ昂揚並ニ公共ノ福祉及民主主義ノ向上発展ヲ旨トシテ之ヲ定ムルコトヲ要ス。

 

3 194636日発表の「憲法改正草案要綱」及びそれに至る徹宵交渉

 

(1)「憲法改正草案要綱」

194634日から同月5日までの日本側とGHQとの徹宵交渉を経て,日本国政府から同月6日に発表された「憲法改正草案要綱」が成立します。当該要綱中GHQ草案24条関係部分は次のとおりでした。

 

 第23 法律ハ有ラユル生活分野ニ於テ社会ノ福祉及安寧,公衆衛生,自由,正義並ニ民主主義ノ向上発展ノ為ニ立案セラルベキコト

24 国民ハ凡テ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ能力ニ応ジ均シク教育ヲ受クルノ権利ヲ有スルコト

国民ハ凡テ其ノ保護ニ係ル児童ヲシテ初等教育ヲ受ケシムルノ義務ヲ負フモノトシ其ノ教育ハ無償タルコト

25 国民ハ凡テ勤労ノ権利ヲ有スルコト

賃金,就業時間其ノ他ノ勤労条件ニ関スル基準ハ法律ヲ以テ之ヲ定ムルコト

児童ノ不当使用ハ之ヲ禁止スベキコト

 

 当該部分の英語文は,次のとおりです。

 

    Article XXIII. In all spheres of life, laws shall be designed for the promotion and extension of social welfare and security, and of public health, freedom, justice and democracy.

Article XXIV. Every person shall have the right to receive an equal education corresponding to his ability, as provided by law.

Every person shall be obligated to insure that all of the children under his protection receive elementary education. Such education shall be free.

Article XXV. All persons have the right to work. Standards for working conditions, wages and hours shall be fixed by law. The exploitation of children shall be prohibited.

 

(2)194634日から同月5日までの徹宵交渉

 前記部分に係る194634日から同月5日までの徹宵交渉の状況は,佐藤法制局第一部長の手記である「三月四,五両日司令部ニ於ケル顚末」によれば次のようなものでした。

 

  〔GHQ草案〕第24条 〔GHQからの〕交付案ハ雑然タルヲ以テ何トカシタキ旨殊ニ衛生,安寧云々ハ当然ノコト故削除シタシト(ママ)曲ニ申出タルニ先方モ同感ラシク,親身ニ整理方法ヲ考ヘテ呉レ,衛生,安寧云々ハ第1段(要綱第23)ノ処ニ入レルコトデ我慢セヨト云フ(今日考ヘレバ ソシアル,ウエルフエアニ当然含マル故削除シテモ可ナリシモノナルベシ)

  教育ハ〔日本国政府からの〕提出案通リ別条(要綱第24)トスルコトニ交渉ス,義務教育ハ国民学校ニ限ル要アルコトヲ述ベタルニ,何年制ナリヤト云フ故,今ハ6年制ナルモ近〔ク〕8年制ニナル旨説明納得ス。

  尚教育ニ付テハ提出案第1項第2項共「法律ノ定ムル所ニ依リ」ヲ入レルコトハ憲法保障ノ意味ナシ,削ルベシト云フ,1〔項丈〕ハ生カシ,2項ハ削レト云フ故夫レニ応ズ。児童虐使ハ労働条件ト共ニ次条労働権ノ方ニ移スコトトス,之ハ簡単ニ同意。尤モ勤労ノ権利モ「法律ノ定ムル所ニ依リ」ハ不可,之ヲ入レテハ何ニ〔モナ〕ラヌト云フ。

 

(3)国民学校について

 我が国における義務教育に関する佐藤部長の説明の中で国民学校が出てきています。

国民学校令(昭和1631日勅令第148号)によれば,「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」るものであり(同令1条),初等科と高等科とが置かれて(同令2条本文),初等科の修業年限は6年,高等科のそれは2年(同令3条),「保護者(児童ニ対シ親権ヲ行フ者,親権ヲ行フ者ナキトキハ後見人又ハ後見人ノ職務ヲ行フ者ヲ謂フ以下同ジ)ハ児童ノ満6歳ニ達シタル日ノ翌日以後ニ於ケル最初ノ学年ノ始ヨリ満14歳ニ達シタル日ノ属スル学年ノ終迄之ヲ国民学校ニ就学セシムル義務ヲ負フ」ものとされていました(同令8条)。国民学校令46条ただし書が「昭和641日以前ニ出生シタル児童ヲ就学セシムベキ期間ニ付テハ第8条ノ規定ニ拘ラズ仍従前ノ例ニ依ル」と規定していたものの,既に義務教育8年制になっていたようではあります。しかし,佐藤部長がなお「今ハ6年制」と言っていたのは,1944216日公布の国民学校令等戦時特例(昭和19年勅令第80号)2条による「特例」のゆえです。また,国民学校においては,原則として授業料は徴収されないものとされていました(国民学校令36条。例外として,「特別ノ事情アルトキハ」尋常科・高等科についても地方長官の許可を得て授業料の徴収ができるものとされていました(同条2項)。)。

 

4 GHQ市民の権利委員会によるGHQ草案24条起草状況

ところで,GHQ草案24条が「雑然」としていたのは,原案作成者である例のベアテ・シロタ嬢が沢山書き過ぎたからでもあります(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川ソフィア文庫・2014年(創元社・1995年)224-225頁,279-281頁及び288-290頁参照))。

 

(1)194628日段階:第1稿

194628日のGHQ民政局運営委員会との会合に提出された同局の市民の権利委員会の第1稿における学校関係条項は次のとおり。

 

 21. Every child shall be given equal opportunity for individual development, regardless of the conditions of its birth. To that end free, universal and compulsory education shall be provided through public elementary schools, lasting eight years. Secondary and higher education shall be provided free for all qualified student who desires it. School supplies shall be free. State aid may be given to deserving students who need it.

  (全ての子供には,その生まれに係る条件にかかわらず,個人としての発展のための平等な機会が与えられる。この目的のために,8年間の無償,普通及び義務的な教育が公立の初等学校を通じて授けられる。中等及び高等教育は,資格を認められ,かつ,それを望む全ての学生に対して無償で授けられる。学校用品は無償である。国の援助が,ふさわしい学生であってそれを必要とするものに対して与えられ得る。)

  22. Private educational institutions may operate insofar as their standards for curricula, equipment, and the scientific training of their teachers do not fall below those of the public institutions as determined by the State.

  (私立の教育機関は,その履修課程,設備及び教師の科学的訓練に係る水準が国によって定められる公立機関に対するそれらを下回らない限りにおいて,運営することができる。)

23. All schools, public or private, shall consistently stress the principles of democracy, freedom, equality, and justice, and social obligation; they shall emphasize the paramount importance of peaceful progress, and always insist upon the observance of truth and scientific knowledge and research in the content of their teaching.

 (公私を問わず全ての学校は,民衆政,自由,平等及び正義並びに社会的責務の諸原則を一貫して強調しなければならない。また,平和的進歩の至高の重要性を努めて説き,並びに真理及び科学的知識に遵い,かつ,その教授内容の研究がされることを常に求めなければならない。)

24. The children of the nation, whether in public or private schools, shall be granted free medical, dental and optical aid. They shall be given proper rest and recreation, and physical exercise suitable to their development.

 (国民の子供には,公立学校又は私立学校のいずれにあっても,無償の医科的,歯科的及び視覚補助的援助が与えられる。また,適切な休養及びリクリエーション並びにその発達に適した身体的修練が与えられる。)

25. There shall be no full-time employment of children and young people of school age for wage-earning purposes, and they shall be protected from exploitation in any form. The standards set by the International Labor Office and the United Nations Organization shall be observed as minimum requirements in Japan.

 (賃金稼得を目的とするものである学齢期の子供及び少年に係る常勤雇用は認められず,かつ,彼らはいかなる形態の搾取からも保護される。国際労働機関及び国際聯合が定めた基準は,日本国における最低限の要請として守られなければならない。)

 

 「エラマン・ノート」によれば,運営委員会の講評は,「一生懸命よく書いたとは思うけど(mer[i]torious though they might be),これらの規定は制定法によって規律されるべき事項(the concern of statutory regulation)であって,憲法事項ではないなあ。」でした。それでも市民の権利委員会側は,社会立法関係の詳細な規定を憲法に設けることの必要性を執拗に主張して譲らなかったため,最後はホイットニー民政局長の裁定を仰ぐことになり,「社会立法に係る詳細規定は削って,社会保障(social security)が提供されるべしとの一般的言明(general statement)を設けるようにせよ」との勧告がされています。

 

(2)194629日段階:報告書

 194629日における市民の権利委員会の報告書の段階では,学校関係規定は次の条項中にまとめられていましたが,当該条項に更に運営委員会の斧鉞が加えられて,GHQ草案24条となっています。

 

  Article     In all spheres of life laws shall be designed only for the promotion and extension of social welfare, and of freedom, justice and democracy. All laws, agreements, contracts or relationships, public or private, which restrict or tend to destroy the welfare of the people shall be replaced by others which promote it. To this end the Diet shall enact legislation which shall:

(全ての生活部面において,法律は,社会福祉並びに自由,正義及び民衆政の増進及び発展のみを目的としなければならない。人民の福祉を制限し,又は破壊する傾向のある全ての法律,合意,契約又は関係は,分野の公私を問わず,それを増進する他のものによって置き換えられなければならない。この目的のために,国会は次のようなことに係る立法を行う。)
Protect and aid expectant and nursing mothers, promote infant and child welfare, and establish just rights for illegitimate and adopted children, and for the underprivileged;

(妊娠中及び育児中の母親を保護し,かつ,援助すること,乳幼児及び子供の福祉を増進すること,並びに嫡出ではない子及び養子のため並びに恵まれない者のために正義にかなった権利を確立すること。)
Establish and maintain free, universal and compulsory education, based on ascertained truth;

(確立した真理に基づく無償,普通及び義務的な教育を確立し,かつ,維持すること。)

Prohibit the exploitation of children;

(子供の搾取を禁止すること。)
Promote the public health;

(公衆の健康を増進すること。)
Provide social insurance for all the people;

(社会保険を全ての人民に提供すること。)
Set proper standards for working conditions, wages and hours and establish the right of workers to organize and to bargain collectively, and to strike in all except essential occupations; and

(労働条件,賃金及び労働時間に係る適切な基準を定めること並びに団結し,及び団体交渉をし,並びに不可欠的職務以外のすべての職務において同盟罷業を行うことに係る労働者の権利を確立すること。)
Protect intellectual labor and the rights of authors, artists, scientists, and inventors whether native or foreign.

   (知的労働並びに内外国人を問わぬ著作者,芸術家,科学者及び発明家の諸権利を保護すること。)

 

以上に鑑みるに,日本国憲法261項の「教育を受ける権利」規定は,GHQに由来するものではなく,194634日から5日にかけての徹宵交渉の際日本側がかねて用意のものを提案してそれがGHQによって認められたものであったのでした。

そうであれば,GHQではなく,日本側の大日本帝国憲法改正案作成作業の状況についてこれから見てみなければなりません。

 

5 憲法問題調査委員会における作業

 

(1)毎日新聞スクープ記事(194621日)

実は,194621日の毎日新聞にスクープ記事として掲載された日本国政府の憲法問題調査委員会(委員長:松本烝治国務大臣)の大日本帝国憲法改正に係る一試案に既に,次のような条項があったのでした。

 

 第30条の2 日本臣民は法律の定むる所に従ひ教育を受くるの権利及義務を有す

 

 翌2日付けのホイットニー局長のマッカーサー宛てメモにおいては,同条は次のように訳されています。

 

  Every Japanese subject shall have a right and duty to receive education under the provisions of the law.

 

ただし,194627日に昭和天皇が松本烝治大臣から奏上を受け,同月8日にGHQに提出されたものである「憲法改正要綱」は「松本の「憲法改正私案」を憲法問題調査委員会委員の東京帝国大学教授宮沢俊義が要綱化し,さらに松本自身が加筆した私案で,小範囲の改正を内容とし」たものであって(実録十32頁),そこには教育を受ける権利に関する項目は含まれていませんでした。

 

(2)左翼対策:第14回調査会(1946123日)での松本烝治発言

そもそもの憲法問題調査委員会における議論はどのようなものであったかといえば,その第14回調査会(1946123日,内閣総理大臣官舎放送室で開催)の議事録に次のような注目すべき記述があります(下線は筆者によるもの)。

 

 劈頭松本〔烝治〕大臣出席アリ

前囘ノ小委員会〔註:総会ではない調査会のこと〕ニ於テ〔今後設置が想定されている憲法改正〕審議会ニ提案スベキ改正要綱ヲ作製シテミルコトヲ申合セ,宮沢〔俊義〕委員モソノ案ヲ提出サレタガ,松本大臣モ試ミニ之ヲ作ツテミラレタ由ニテ,ソレハ新聞ニ発表スル時ノコト等ヲ考ヘテ出来ルダケ平易ナ表現ヲ試ミテミタトノコト。シカシ乍ラ,コノ要綱ヲ審議会デ固執スルツモリデハナイ。審議会ニ代表セラレルイハバ左翼〔註:具体的には高野岩三郎でしょう。同月16日の第12回調査会において松本大臣は,審議会委員候補として高野の名を挙げ,「憲法研究会ノメンバーデモアルカラ一層出テモラヒタイ」と述べています。〕カラノ攻撃ニ対シテハ,甲案〔註:これは同月4日に宮沢委員が作成した甲乙両案のうち,より大幅な改正を志向する甲案に基づく案のことです。ほぼその内容が,同年21日に毎日新聞にスクープされています。〕ノ中カラ若干ノモノヲ採用スル用意ガアル,例ヘバ勤労教育等ニ関スル条文等。之ニ反シイハバ右翼カラノ攻撃ニ対シテハ何ヲ譲歩スルカノ問題ガアル。カウ云フ点ハ政策的ニ考慮スルコトガ必要デ,要スルニ弾力的ニ考ヘタイト思ツテヰル


以下甲案ニツイテ雑談的ニ意見ヲ交換シタ

〔略〕
四,入江〔俊郎法制局次長〕第30条ノ2 「教育ヲ受クルノ権利及業務」トアルガ文教政策ハ重大故法律事項トスルコトハ当然デアルガ,就学資格等ノ規定ハ勅令デヤルノガ適当デアル。従ツテ「教育ニ関スル重要事項」ハ法律ノ定ムル所ニヨルト云フ趣旨デアル。サウ考ヘレバムシロ〔大日本帝国憲法〕19条的ニ「日本国民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク教育ヲ受クルノ権利及〔義〕務ヲ有ス」ト云フ表現ノ方ガイイノデハナイカ,ナホ「教育ヲ受クルノ〔義〕務」モ厳密ニ考ヘレバ保護者ガ教育ヲ受ケシムルノ義務ノコトナノデアルカラ,コノ表現モ考ヘル必要ガアル。〔略〕総会デモ考ヘルコトニシヨウ。

 

 なお,大日本帝国憲法19条(「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得」)の伊東巳代治による英語訳は,“Japanese subjects may, according to qualifications determined in laws or ordinances, be appointed to civil or military or any other public offices equally.”です。

 ちなみに,大日本帝国憲法19条にいう「資格」は『憲法義解』によれば「年齢・納税及試験能力」ですが,要は試験能力(=「能力」)であってそれは受けた教育によって示されるものであるものとここで解すれば,同条と日本国憲法261項との接合関係及び両者の表現の同型式性の意味するところについてよく納得され得るところです。ただし,そのようなものとして理解される教育制度は,国家・社会のための「自然の貴族」を発掘・育成するためのジェファソン流の仕組み(「福沢諭吉とジョージ・ワシントンの「子孫」等」の51)のジェファソン書簡を参照(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1023525125.html))ということになって,少々以上「成り上がりエリート」臭が過ぎるようです。(「成り上がり」ということについては,大日本帝国憲法19条にいう「均ク」の意味は,これも『憲法義解』によれば,「門閥に拘らず」ということであるとされています(後出第333)のヴァイマル憲法1461項も参照)。)

 

(3)最終段階での議論:第7回総会(194622日)

 194622日の憲法問題調査委員会第7回総会(同委員会の最後の会合)には従来の甲案の第30条ノ2は「日本国民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ教育ヲ受クルノ権利及義務ヲ有ス」として提出されています(同年14日の宮沢甲案の「日本臣民」が「日本国民」に改められています。)。当該総会では,次のような議論がありました。

 

尚此処デ〔従来の甲案に基づく憲法改正案〕ノ問題ニ触レ,若シ〔同改正〕案ノ様ニ改正スル結果非常ニ「デモクラチツク」ニナルトイフ感ヲ懐カセルナラバ,特ニ第2章国民権利義務ニ付テハ〔同改正〕案ノ様ニ改正スル方ガ望マシイトイフ意見ガ多ク出タ。

然シ乍ラ〔同改正〕案ニ「勤労ノ権利」ヲ有スルトイフ点ニ付テハ,ソノ意味ハ如何ナルコトデアルノカ,国家ガ国民ニ勤労スルポストヲ与ヘルトイフ義務ヲ負フコトデアルト説明セラレタノデアルガ,嘗テ,ソ聯ノスターリンハ勤労ノ権利ヲ人民ニ満足セシムルハ唯ソヴィエートニ於テノミ可能デアリ他ノ如何ナルブルジヨア国家モ之ヲ為シ能ハザル所デアツテ,若シブルジヨア国家ニ於テ斯ルスローガンヲ掲ゲテモ,ソレハ唯口頭禅ニ過ギズ物ワラヒノ種トナルニ止マル旨ヲ述ベタコトガアル。ワイマール憲法ニ於テモ其故カアラヌカ,「勤労ノ権利」トイフコトハ云ツテヰナイ。「勤労ノ義務」ハ謳ツテヰルノデアルガ,ソノ他ハ国家ハ可及的ニ労働ノ機会ヲ与ヘヨト云フニ止マルノデアル。

「教育ノ権利」トイフコトニ付テモ成績ガ悪クテ常ニ入学試験ニ落第シテヰル輩ガ之ヲ楯ニ文句ヲ云フカモ知レナイ。〔註:「其ノ能力ニ応ジ均シク」が入る前の文言に対する感想です。〕

以上二ツノ点ヲ除イテ〔同改正〕案ノ様ニ修正スルノモ一案デアル。

2章全体ニ付テ「臣民」トイフ文字ヲ「国民」ト改メタ方ガ良イトイフ意見ガ多数アツタ。然シ英国ノ様ナ民主主義的ナ国家デモ「ブリチツシユ・サブジエクト」トイフテ「臣民」ニ相当スル言葉ヲ用ヰテヰルノデアルカラ必シモ国民ト改メナクテモ良イノデハナイカトイフ意見モアツタ。

 

 昭和天皇に奏上後194628日にGHQに提出された前記「憲法改正要綱」には「勤労ノ権利」も「教育ノ権利」も改正事項として含まれていません。同月2日の憲法問題調査委員会第7回総会においては,そもそも「教育ノ権利」に関する条項の文言について「総会デモ考ヘルコトニシヨウ」どころではなかったわけで,同年123日の第14回調査会で入江法制局次長から提起された文言修正の課題は,同年213日にGHQ草案の交付があった後に対応されることとなったのでした。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

第1 戒厳宣告 v. 「戒厳令発出」

 

1 戒厳宣告:大日本帝国憲法14条及び旧戒厳令

 かつて「戒厳令(明治15年太政官布告第36号)の周囲を巡る」と題した記事を当ブログに掲載(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1035523162.html)した筆者としては,戒厳は,戒厳法(註1の定める要件に従って,憲法により「宣告」されるものであり(註2,かつ,「解止」されるもの(註3と思っていました(註4。戒厳法又は法律としての効力を有する戒厳令があって既に施行されている場合には,「普通の行政行為を以て」戒厳の宣告を行えばよいのであって(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)285頁),更に戦時又は事変(旧戒厳令1条)若しくは土寇(同令5条)の都度,一般命令たる「戒厳令を発出」したり「戒厳令を()」いたりすることは無用のことであり,巷間横行しているそれらの表現は誤用であると思っていました。

 

(註1)大日本帝国憲法142項によって「戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」るものとされていたところ(下線は筆者によるもの),明治1585日太政官布告第36号たる旧戒厳令は,同憲法761項(「法律規則命令又ハ何等ノ名称ヲ用ヰタルニ拘ラス此ノ憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ総テ遵由ノ効力ヲ有ス」)により,同憲法下において「法律として効力を有」していました(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)285頁及び739頁)。

   旧戒厳令は,昭和22517日政令第52号(件名は,昭和20年勅令第542号ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基づき陸軍刑法を廃止する等の政令)1条によって,遡及的に,194753日から廃止されています(昭和22年勅令第526条)。昭和20年勅令第542号は大日本帝国憲法81項の緊急勅令(「法律ニ代ハルヘキ勅令」)であって,したがって,当該勅令(「政府ハ「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ聯合国最高司令官ノ為ス要求ニ係ル事項ヲ実施スル為特ニ必要アル場合ニ於テハ命令ヲ以テ所要ノ定ヲ為シ及必要ナル罰則ヲ設クルコトヲ得」)に基づく政令であれば,それによって法律を廃止することも可能だったのでした。

(註2)大日本帝国憲法141項(「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」(下線は筆者によるもの))及び旧枢密院官制(明治21年勅令第22号)67号(「帝国憲法第14条ノ戒厳ノ宣告」(下線は筆者によるもの)について諮詢を受けて会議を開き意見を上奏することを枢密院の職掌とするもの)並びに旧戒厳令4条及び5条(いずれも司令官(同令6条)による戒厳の「宣告」に係るもの))参照。

なお,旧戒厳令3条は,司令官の宣告による臨時戒厳(同令4条及び5条)ならざる戒厳は「布告」されるもの(布告は「布告式にもとづいて勅旨を奉じて太政大臣」が行い(大江志乃夫『戒厳令』(岩波新書・1978年)60頁),旧戒厳令の布告自体も「奉勅旨布告候事」という形でされています。)と規定していましたが,この「布告」は大日本帝国憲法141項の「宣告」によっていわば上書きされました(大江・同頁)。日清戦争に際して明治天皇の発布した明治27106日(裁可は同月5日)勅令第174号(件名は,戒厳宣告の件)の第1項の文言は「広島県下広島市全部及宇品ヲ臨戦地境ト定メ本令発布ノ日ヨリ戒厳ヲ施行スルコトヲ宣告ス」というものでした(下線は筆者によるもの)。日露戦争に際しての明治37214日(裁可も同日)勅令第36号ないし第39号(それぞれ長崎要塞地帯及びその隣接区域(第36号),佐世保要塞地帯及びその隣接区域(第37号),対馬島及びその沿海(第38号)並びに函館要塞地帯及びその隣接区域(第39号)を臨戦地境とするもの),明治38414日(裁可は同月13日)勅令第133号(澎湖島馬公要港境域内及びその沿海を臨戦地境とするもの)及び明治38513日(裁可は同月12日)勅令第160号(台湾全島及びその沿海を臨戦地境とするもの)も同様の件名及び書式でした(ただし「戒厳ヲ施行スルコト」が「戒厳ヲ行フコト」に改められています。)。

   これらの戒厳の宣告は,直接大日本「帝国憲法第14条ニ依」ったものとされていて,旧戒厳令によるものとはされていなかったことについては,上記各勅令の上諭を参照してください。

   なお,臨戦地境とは「戦時若クハ事変ニ際シ警戒ス可キ地方ヲ区画シテ臨戦ノ区域ト為ス」ものであって(旧戒厳令2条第1号),旧戒厳令におけるもう一つの戒厳の種類に係る合囲地境(同条第2号(「合囲地境ハ敵ノ合囲若クハ攻撃其他ノ事変ニ際シ警戒ス可キ地方ヲ区画シテ合囲ノ区域ト為ス者ナリ」))とは戒厳の効力において差がありました。合囲地境の方が強い効力を有するのであって,当該地境においては,地方行政事務及び司法事務の軍事に関係ある事件のみならず(臨戦地境に係る旧戒厳令9条),地方行政事務及び司法事務は(同令10条)その地の司令官の管掌するところとなり(なお,ここでの司法事務とは「裁判権を含まず,司法警察,刑の執行,不動産登記その他民事非訟事件に関する事務」をいいます(美濃部286頁)。),一部の裁判管轄は民事刑事とも軍法会議に移るものとされ(同令11条),更に「合囲地境内ニ裁判所ナク又其管轄裁判所ト通路断絶セシ時」は全ての裁判管轄が軍法会議に移りました(同令12条。なお,合囲地境内での軍法会議の裁判に対する上訴は認められていませんでした(同令13条)。)。戒厳下における司令官による人民の権利の制限(補償は認められず。)についても,①集会又は新聞,雑誌,広告等の時勢に妨害ありと認めるものの停止,②軍需用品の調査及び輸出禁止,③危険物の検査及び押収,④通信の検閲(「郵信電報ヲ開緘」),出入りの船舶及びその物品の検査並びに陸海通路の停止並びに⑤やむを得ざる場合における動産不動産の破壊燬焼のみならず,合囲地境においては,⑥家屋,建造物及び船舶への随時の立入検察並びに⑦寄宿者を退去させることが可能となるのでした(旧戒厳令14条)。

(註3)旧戒厳令15条は「戒厳ハ平定ノ後ト雖𪜈(〔ども〕)解止ノ布告若クハ宣告ヲ受クルノ日迄ハ其効力ヲ有スル者トス」と規定していました(下線は筆者によるもの)。ただし,同条には「布告若クハ宣告」とありましたが,日清戦争の際の戒厳の解止に係る明治28619日(裁可は同月18日)勅令第76号(件名は,戒厳解止の件)は「広島県下広島市全部及宇品ノ戒厳ハ明治28620日限リ解止ス」と規定していて,「布告」の語も「宣告」の語も用いていません。日露戦争の際の戒厳の解止に係る2件の勅令であっていずれも件名を戒厳解止の件とする明治3877日(裁可は同月6日)勅令第193号(台湾全島及び澎湖島馬公要港境域内並びにそれらの沿海に係る戒厳の分)及び明治381016日(裁可は同日)勅令第219号(長崎要塞地帯及びその隣接区域,佐世保要塞地帯及びその隣接区域,対馬島及びその沿海並びに函館要塞地帯及びその隣接区域に係る戒厳の分)も,単に「解止ス」と表現しています。

   なお,上記3勅令の上諭を見ると,いずれも枢密顧問の諮詢を経たものとされています。すなわち,旧枢密院官制67号の「帝国憲法第14条ノ戒厳ノ宣告」には,戒厳の解止も含まれるものと解されていたのでしょう。

(註4)なお,そもそも戒厳とは,戦時又は事変に際して「兵備ヲ以テ全国若クハ一地方ヲ警戒スル」こととされていました(旧戒厳令1条)。「兵備ヲ以テ」とは,「兵力を以て」の意味であり(日高巳雄『軍事法規』(日本評論社・1938年)663頁註4),「警戒スル」とは「兵力を以てする対内的防衛を謂ふ」ものとされています(同663頁註5及び10頁註8)。すなわちここでの「警戒」は,「兵力を以てする対外的防衛」である「守備」(日高10頁註7)とは異なるようです。

伊藤博文の『憲法義解』は,戒厳について,「戒厳は外敵内変の時機に鑑み,常法を停止し,司法及行政の一部を挙げて之を軍事処分に委ぬる者なり。」と説明しています(第14条解説)。更に戒厳の目的とするところについては,美濃部達吉は「専ら,軍事上の必要の為にするもの」(美濃部282頁)ないしは「専ら軍事行動の必要の為にするもので,戦争又は内乱に際し,軍隊を以て戦闘行為を為す場合にのみ行はれ得べきもの」(同285頁)と解しています。

旧陸軍大学校の「統帥参考」(19327月)においては「戒厳の宣告せられたる場合に於ては,国家統治作用の一部は軍権の権力に移され,行政及司法権の全部又は一部は軍権の掌る所と為る。軍事占領地の統治亦然り。而して戒厳の宣告其物に就ては政府責任を負はざるべからざれども,其後軍権の行使する行政に関しては議会に対し責任を負ふ者なく,軍事占領地の統治亦然り。」と述べられています(『統帥綱領・統帥参考』(偕行社・1962年)28頁。原文は,片仮名書きで句読点なし。)。戒厳が宣告された地は,我が国内であっても,我が軍によって軍事占領されたことになってしまうのだ,ということでしょうか。なお,「議会に対して責任を負ふ者なく」とは,「兵権に付いて天皇を輔弼し,又は天皇の下に兵権の一部を委任せられて居る者は,国務大臣の監督の下に属せずして天皇に直隷するものとせられて居」るところ(美濃部255頁),「議会の参与し得べき政務の範囲は,国務大臣の職務に属する国家事務の範囲と同一であ」る(同424頁)にすぎない,という理論によるものでしょう。

ところで,外国の領土の軍事占領に係る美濃部達吉の説明はいわく。「或る地域が既に平定して完全にわが軍の勢力の下に置かれた後には,その地域に於いては敵国の統治権を排除し,軍隊の実力を以てその統治を行ふことになるのであつて,その占領中は一時日本の統治権がその地域に行はれる。併し此の場合の日本の統治は一時の経過的現象であつて,法律上の権利として統治権が成立するのではなく,実力に依る統治に外ならぬ。それが結局に於いて,日本の権利として承認せらるゝや又は原状に回復せらるゝやは,講和条約に待たねばならないのである。」と(美濃部96頁)。ここでは「実力に依る統治」という文句が目を惹きます。しかし,よく読むと,法によらざる無法の「実力に依る統治」ということではなく,そこでの統治権行使の根拠となるものが端的に専ら実力であるということのようです。統治自体は,占領地の現行法令を尊重して行われなければなりません。明治天皇が1911116日に批准した陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(明治45113日条約第4号)の附属書たる陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則(いわゆるハーグ陸戦法規)43条には「国ノ権力カ事実上占領者ノ手ニ移リタル上ハ占領者ハ絶対的ノ支障ナキ限占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ尽スヘシ」との規定があります。

 

 「戒厳令を発出」ないしは「戒厳令を布く」誤用説に対しては,日清戦争及び日露戦争の際の戒厳の宣告は「戒厳宣告の件」を件名とする勅令の発布によってされているので(なお,件名とは何かについては,これも昔のものですが,「題名のないはなし」記事(https://donttreadonme.blog.jp/archives/2986694.html)を御参照ください。),「「戒厳宣告の勅令の発布」をつづめ,かつ,微修正して「戒厳令の発出」と言い得るのだ」とあるいは強弁する人もいるかもしれません。しかし,戒厳の宣告を勅令の発布をもって行う形式は,旧公式令(明治4021日勅令第6号)の施行(190721日から(同令附則1項))と共に終焉を迎えています。

旧公式令11項は「〔略〕大権ノ施行ニ関スル勅旨ヲ宣誥スルハ別段ノ形式ニ依ルモノヲ除クノ外詔書ヲ以テス」と規定しており,このように「勅令と詔書とを判然区別するに至つてから後は,凡て法律に基いて勅旨を以て行はるる行政行為は,詔書の形式を以てするの例となつたから,戒厳の宣告も将来は恐くは詔書の形式に依ることと信ぜられる」こととなっていたのでした(美濃部283-284頁)。詔書とは「国の機関としての天皇の意思表示に係る公文書で一般に公示されるもの」です(吉国一郎等編『法令用語辞典〈第八次改訂版〉』(学陽書房・2001年)400頁)。

(ただし,旧公式令の施行後には,大日本帝国憲法14条による戒厳の宣告は行われませんでした。先の大戦末期の聯合国軍が迫る時期にも戒厳宣告がなかったとは,不思議なことではありました。なお,関東大震災(1923年)及び二・二六事件(1936年)の際の「戒厳」は,同憲法81項の緊急勅令に基づき,旧戒厳令9条及び14条が適用されることとなったものです。)

 

2 202412月3日の大韓民国における「戒厳令の発出」

 と,以上は(註が特に)長い前置きだったのですが,今月(202412月)3日から4日にかけて大韓民国の大統領が惹起した同国憲法77条の戒厳に係る戒厳宣告・解止騒動に関しての感慨が,筆者による本稿執筆の動機となっており,当該騒動の理解・解釈のための補助線としてまず我が国の旧戒厳制度に関する復習がされたものであったのでした。

しかして筆者の当該動機は具体的にはどのように生じたかといえば,一番大きなところは,大韓民国における上記騒動の直後,次のような記事(同月4日の石破茂内閣総理大臣の記者会見)が我が内閣総理大臣官邸ホームページに掲載されているのを筆者は見てしまったことであるのでした。唖然とし,「軍事オタク」っぽくないなと思いました。

 

韓国における戒厳令発出についての会見

 

他国の内政について,あれこれ申し上げる立場にはございません。しかしながら,昨晩の戒厳令発出以来,私どもとして,特段の,かつ重大な関心を持って,注視をいたしておるところであります。在留邦人の安全につきましては,領事メールを直ちに発出する等々において,できる限りの対応をとっております。在留邦人の安全については,引き続き,その安全に万全を期してまいる所存でございます。〔以下略〕

  (https://www.kantei.go.jp/jp/103/statement/2024/1204kaiken.html

 

 下線は筆者によるものです。「戒厳令発出」ではなく,大韓民国憲法77条の文言及び我が法制の伝統に則って日本語で言えば「戒厳宣告」(又は同国憲法の用語の基底にある漢字にこだわれば「戒厳宣布」)とあるべきところでしょう。

大韓民国憲法77条の日本語訳は次のとおりです(一般的に流通しているものとして,Wikisourceから転載)。

 

77条 大統領は,戦時・事変又はこれに準ずる国家非常事態において,兵力を以つて軍事上の必要に応じ,又は公共の安寧秩序を維持する必要があるときは,法律の定めるところに依り,戒厳を宣布することができる。

 2 戒厳は,非常戒厳及び警備戒厳とする。

3 非常戒厳が宣布されたときは,法律が定めるところに依り令状制度,言論・出版・集会・結社の自由,政府又は裁判所の権限に関して,特別の措置を取ることができる。

4 戒厳を宣布したときは,大統領は,遅滞なく国会に通告しなければならない。

5 国会が在籍議員過半数の賛成に依り戒厳の解除を要求したときは,大統領は,これを解除しなければならない。

 

大韓民国憲法77条の用語の基底にある漢字に忠実に訳すれば,確かに,戒厳は宣告されるものではなく・(皇道又は大教ならねど)「宣布」されるものであり,解止されるものではなく・(契約ならねど)「解除」されるもののようです。この点については,念のためには「https://ko.wikisource.org/wiki/%EB%8C%80%ED%95%9C%EB%AF%BC%EA%B5%AD%ED%97%8C%EB%B2%95_(%ED%95%9C%EC%9E%90%ED%98%BC%EC%9A%A9)」を御確認ください。

しかしながら,大韓民国は漢字離れをして,現在はハングル中心の国語政策をとっているそうですから,同国の国語から日本語訳をするときにはハングルで書かれた当該国語からの翻訳として,日本語としての自然さを重視して文を綴ることは許されるものと思われます。すなわち,同国の国語のいわば頭越しに,当該国語の単語の基底にある漢字を直接訳語として採用する必要はないのではないでしょうか。

更にいえば,大韓民国憲法77条の規定には,我が大日本帝国憲法14条及び旧戒厳令が大きな影響を与えているようにも思われるのです(旧戒厳令は,大正2年勅令第283号により,1913925日から朝鮮においても施行されています。)。

 

3 大日本帝国のそれとの比較における大韓民国の戒厳法制検討

 

(1)大日本帝国憲法14条との比較

大韓民国憲法771項の「大統領は〔略〕戒厳を宣布することができる。」の部分は大日本帝国憲法141項を,大韓民国憲法771項の「戦時・事変〔略〕において,兵力を以つて軍事上の必要に応じ〔略〕るときは,法律の定めるところに依り,戒厳を宣布することができる。」の部分は大日本帝国憲法142項前段及び旧戒厳令1条を,大韓民国憲法773項は大日本帝国憲法142項後段をそれぞれ承けたものでしょう。

 

(2)行政戒厳の戒厳への取り込み

ただし,大韓民国憲法771項の「大統領は,戦時・事変又はこれに準ずる国家非常事態において,兵力を以つて〔略〕公共の安寧秩序を維持する必要があるときは,法律の定めるところに依り,戒厳を宣布することができる。」の部分は,大日本帝国憲法81項の緊急勅令によって行われていたいわゆる行政戒厳を戒厳に取り込んだもののようです。

行政戒厳について,美濃部達吉はいわく,「是は兵力を以て或る地域を警備することに於いて戒厳の宣告と頗る類似して居るものであるが,真の戒厳は,専ら軍事行動の必要の為にするもので〔略〕あるに反して,行政戒厳は或る地方の秩序が乱れて警察力を以ては秩序を維持することが出来なくなつた為に,兵力を以てその地域の治安を回復し之を維持せんとするものであることに於いて性質を異にして居る。一は軍事の必要の為すものであり,一は治安の必要の為にするものである。」と(美濃部284-285頁)。すなわち,大韓民国憲法上の戒厳概念は,大日本帝国憲法上のそれよりも行政戒厳が含まれる分だけ広いことになります。

なお,軍事の必要のための戒厳が「真の戒厳」であるというのは,「戒厳という言葉は漢語であり,その語義は,「厳,およそ彊敵のまさに至らんとして備を設く戒厳といい,敵退きやや備を弛む解厳という」(正字通)の意」であるから(大江志乃夫『戒厳令』(岩波新書・1978年)i頁)なのでしょう。戒厳は本来,外からの彊(強)敵の襲来に備えるものです。ただし,「戒厳という漢語を誰が法律用語に転用したのかはわからない」そうです(大江5頁)。

 

(3)戒厳宣告権者及び宣告手続

我が旧戒厳令4条及び5条は軍の司令官が臨時戒厳を宣告することができる場合について規定していましたが,大韓民国における戒厳宣告は大統領のみができるものとされているそうです(方勝柱「大韓民国憲法上の国家緊急権制度」ノモス30号(20126月)39頁。なお,大韓民国戒厳法の条文の日本語訳をインターネット上で見つけることができなかったので,同法の内容については,方博士の当該論文における記述を手掛かりにした推定に基づき以下論じます。)。

大韓民国では,大統領による戒厳の宣告及び解止については国務会議の審議を経なければならないものとされていますが(同国憲法895号),これは我が旧枢密院官制67号の規定に対応するものでしょうか。大韓民国の国務会議は「大統領・国務総理及び15人以上30人以下の国務委員で構成」され(同国憲法882項),「行政各省の長は,国務委員の中から国務総理の提請に依り大統領が任命する」ものとされています(同憲法94条)。(なお,我が枢密院においては「各大臣ハ其職権上ヨリ枢密院ニ於テ顧問官タルノ地位ヲ有シ議席ニ列シ表決ノ権ヲ有ス」るものとされていました(旧枢密院官制11条前段)。)

 

(4)非常戒厳及び警備戒厳と合囲地境及び臨戦地境と

大韓民国憲法772項の非常戒厳と警備戒厳とについては,同国戒厳法2条において,「非常戒厳は大統領が戦時・事変又はこれに準ずる国家非常事態において敵と交戦状態にあり,又は社会秩序が極度に攪乱され,行政および司法機能の遂行が著しく困難な場合に軍事上の必要に応じ,又は公共の安寧秩序を維持するために宣布する」と(同条2項),「警備戒厳は大統領が戦時・事変又はこれに準ずる国家非常事態において社会秩序が攪乱され,一般の行政機関だけでは治安を確保できない場合に公共の安寧秩序を維持するために宣布する」と(同条3項)と規定しているそうです(方34頁)。

非常戒厳には美濃部達吉が言うところの真の戒厳(又は「軍事戒厳」(方38頁))及び行政戒厳が含まれ,警備戒厳は非常戒厳よりも緊急度の低い(「一般の行政機関だけでは治安を確保」できないが「行政及び司法機能の遂行が著しく困難」なところまでは至っていない。)行政戒厳であるということになるようです(ただし,方博士は,大韓民国憲法771項が「軍事上の必要に応じ」という目的を挙げていることから,警備戒厳レヴェルの軍事戒厳も認めるべきだという意見のようです(方37-38頁)。)。

なお,非常戒厳と警備戒厳との2種類の戒厳は「義勇戒厳令における臨戦地境と合囲地境(義勇戒厳令第2条)に対応したものである」そうです(方38頁)。臨戦地境及び合囲地境といえば,我が旧戒厳令そのものです。

 

(5)国家非常事態

戦時・事変に「準ずる国家非常事態」とは「戦時又は事変に該当しない場合であって,武装又は非武装の集団や群衆による社会秩序攪乱状態と,自然災難による社会秩序攪乱状態」をいうそうです(方37頁)。

「戦時又は事変に該当しない場合」ですから,当該「国家非常事態」は行政戒厳を行うための要件ということになります。「兵力を以て」対応するのにふさわしいものとして,集団若しくは群衆又は自然災害による社会秩序攪乱状態が挙げられているのでしょう(ただし,方博士は,非武装の集団及び群衆による,並びに自然災害による社会秩序攪乱状態において兵力を動員するのは行き過ぎだとしています(方37頁)。)。

 

(6)人民の権利の制限

 大韓民国憲法773項を承けた同国「戒厳法第9条によると,非常戒厳地域内で戒厳司令官は軍事上必要なときには逮捕・拘禁・押収・捜索・居住・移転・言論・出版・集会・結社又は団体行動に対して特別措置を行うことができる」そうです(方41頁。下線は筆者によるもの)。我が旧戒厳令14条によっては,逮捕・拘禁をし,並びに結社及び団体行動に対する制限まではできなかったはずであるところです(なお,大韓民国戒厳法においても(同法13条),国会議員の不逮捕特権は,現行犯の場合を除き,非常戒厳によっても制限できないそうです(方41頁)。)。

また,大韓民国「戒厳法第9条第2項は非常戒厳地域内で戒厳司令官は法律が定めるところにより,動員又徴発することができ,必要な場合には軍需に供する物品の調査・登録と搬出禁止を命ずることができるとしている」そうで,そこでは「国民財産に対する破壊又は焼燬措置」も含まれるもののようですが(方42頁),それらは戒厳法以外の法律によってされるものでしょうか(なお,我が国においては,旧戒厳令と並んで旧徴発令(明治15年太政官布告第43号)がありました。)。我が旧戒厳令14条第2号は司令官に対し「軍需ニ供ス可キ民有ノ諸物品ヲ調査シ又ハ時機ニ依リ其輸出ヲ禁止スル(〔こと〕)」を,同条第5号は「戦状ニ依リ止ムヲ得サル場合ニ於テハ人民ノ動産不動産ヲ破壊燬焼スルヿ」を認めていました。

 

(7)司令官による行政事務及び司法事務の管掌

 「非常戒厳が宣布されれば,戒厳司令官は戒厳地域のすべての行政事務と司法事務を管掌する(戒厳法第7条第1項)」とは(方42頁),合囲地境に係る我が旧戒厳令10条の規定に対応します。また,「警備戒厳が宣布されれば,戒厳司令官は戒厳地域の軍事に関する行政事務と司法事務とを管掌する(〔戒厳法7〕条第2項)」とは(方42頁),臨戦地境に係る我が旧戒厳法9条の規定に対応するものです(ただし,同条について美濃部達吉は「軍事ニ関係アル事件ニ限リ」は司法事務のみを修飾するものと解しています(美濃部286頁)。)。

「戒厳地域の行政機関(情報および保安業務を管掌する機関を含む)および司法機関は遅滞なく,戒厳司令官の指揮・監督を受けなければならない(戒厳法第8条第1項)」との規定(方42頁)は,我が旧戒厳令9条及び10条の各後段に対応します(ただし,両条においては,「遅滞なく」ではなく「速カニ」司令官に「指揮ヲ請フ可シ」と規定されています。)。

 

(8)軍法会議の裁判管轄

 大韓民国では「非常戒厳地域で第14条(戒厳司令官の措置に対する不応又は違反罪など),又は次の各号のいずれかに該当する罪を犯した人に対する裁判は軍事法院が行う。但し,戒厳司令官は必要な場合には当該管轄法院に裁判を行わせることができる。1.内乱の罪,2.外患の罪,3.国交に関する罪,4.公安を害する罪,5.爆発物に関する罪,6.公務妨害に関する罪,7.防火の罪,8.通貨に関する罪,9.殺人の罪,10.強盗の罪,11.「国家保安法」に定められた罪,12.「銃砲・刀剣・火薬類など取締法」に定められた罪,13.軍事上の必要により制定された法令に定められた罪がそれである(法第10条第1項)。そして非常戒厳地域に法院がない場合,又は当該管轄法院との交通が遮断された場合にはすべての刑事事件に対する裁判は軍事法院が行うようになっている(同条第2項)。」と説かれる(方43-44頁)ところの同国戒厳法10条の第1項及び第2項の規律は,それぞれ,合囲地境に係る我が旧戒厳令11条(ただし,そこで掲げられている罪は大韓民国戒厳法101項のものとは完全に一致はしません。)及び12条に対応するものです。

なお,旧戒厳令11条では軍事に係る民事事件,同令12条では全ての民事事件をも軍法会議の管轄に属せしめています。

 

(9)戒厳解止の効果

 大韓民国戒厳法では「戒厳が解除されると,そのときからすべての行政事務と司法事務は平常状態に復帰する(法第12条第1項)」そうですが,この規律は「戒厳解止ノ日ヨリ地方行政事務司法事務及ヒ裁判権ハ統テ其常例ニ復ス」という我が旧戒厳令16条の文言を彷彿とさせます。

 

4 元検察総長閣下取調べ

 以上の検討を前提として,大韓民国の戒厳の要件及び効力に鑑み,今次の尹錫悦同国大統領による非常戒厳の宣告が適法であったかどうかを見てみましょう。

 

(1)非常戒厳宣告の要件の面から

 まず,非常戒厳宣告の要件が満たされていたかどうかなのですが,今月3日の戒厳宣告に当たって,尹大統領は次のような緊急談話を出したそうです(読売新聞オンライン2024124029分掲載記事(ソウル=小池和樹特派員)。

 

私は大統領として,血を吐くような心境で国民の皆さんに訴える。

   これまで国会は,我が政府発足以来,22件の政府官僚の弾劾(だんがい)訴追を発議し,今年6月の国会発足後も10回目の弾劾を推進中だ。世界のどの国にも前例がないだけでなく,韓国建国以来,全く前例がない状況だ。

   国家予算の処理も,国家の本質機能と麻薬犯罪の取り締まり,民生治安維持のためのすべての主要予算を全額削減し,国家の本質機能を損ない,韓国を麻薬天国に,民生治安をパニック状態にした。

   このような暴挙は国家財政をもてあそぶことだ。予算さえも政争の手段として利用する「共に民主党」の立法独裁は予算の弾劾さえもちゅうちょしなかった。

   国政はまひし,国民のため息は増えている。これは韓国の憲政秩序を踏みにじり,憲法と法律によって建てられた正当な国家機関を妨害するもので,内乱を画策する明らかな反国家的行為だ。

   国会は犯罪者集団の巣窟となり,立法独裁を通じて国家の司法行政システムをまひさせ,自由民主主義体制の転覆をたくらんでいる。

   私は北朝鮮の共産主義勢力の脅威から韓国を守り,国民の自由と幸福を略奪している悪徳な従北反国家勢力を一挙に粛清し,自由憲法秩序を守るために非常戒厳を宣言する。

   私はこれまで悪事を働いた亡国の元凶である反国家勢力を必ず殲滅(せんめつ)する。これは,体制転覆を狙う反国家勢力の蠢動(しゅんどう)から国民の自由と安全,そして国家の持続可能性を保証し,未来世代に正しい国を引き継ぐための必然的な措置だ。

   可能な限り早い時間内に反国家勢力を粛清し,国家を正常化させる。戒厳令の宣布により善良な国民に多少の不便があるが,不便を最小化することに力を注ぐ。

   このような措置は,韓国の永続性のためにやむを得ないもので,韓国が国際社会で責任と貢献を果たすという対外政策基調には何の変化もない。

   私は身命をささげて韓国を守る。私を信じてください。

 

 大韓民国戒厳法22項の非常戒厳宣告の要件中,「敵と交戦状態」にあることはないでしょう。そうだとすると,「国家非常事態において社会秩序が極度に攪乱され,行政および司法機能の遂行が著しく困難な場合に公共の安寧秩序を維持する」必要があるかどうかが問題になるのでしょう。ソウルの一角における政治上の混乱はともかくも,大韓民国の「社会秩序が極度に攪乱され」ていたものかどうか,行政のみならず「および司法機能の遂行」も「著しく困難」になっていたものかどうか。そもそも国会における野党の抵抗は,「兵力を以つて」対処するにふさわしいものたる「国家非常事態」に該当するものかどうか。要件未達と考える方が自然ではないでしょうか。

 

(2)非常戒厳の効力の面から

 更には,非常戒厳の効力としても,大韓民国戒厳法9条によれば「軍事上必要なとき」にのみ「逮捕・拘禁・押収・捜索・居住・移転・言論・出版・集会・結社又は団体行動に対して特別措置を行うことができる」ようですが(方41頁),そうであれば,国家非常事態における公共の安寧秩序を維持するための行政戒厳の場合にはそれらの措置を執ることはできないのでしょう。大統領は国会議員の逮捕を考えていたという報道もあるようですが,議員の不逮捕特権を確認する大韓民国戒厳法13条からすると,戒厳の効力を越えた違法行為ということになるようです。そもそも,「非常戒厳が宣布されれば,戒厳司令官は戒厳地域のすべての行政事務と司法事務を管掌する(戒厳法第7条第1項)」というだけであって,管掌対象には立法事務は含まれておらず,非常戒厳下であれば国会の閉鎖が合法的にできると考えるなど烏滸の沙汰であったということにもなるようです(なお,戒厳宣告によって臨戦地境とされた広島市において,18941018日から同月21日まで,第7回帝国議会が堂々開かれています。これはむしろ帝国議会が広島に召集されるからこそ戒厳が宣告されたもののようで,「狙いは,〔略〕戒厳を宣告し,臨戦地境という疑似戦地を作りだし,この疑似戦地に第7議会を召集することによって,議会に戦時議会であるということの認識を叩きこみ,〔日清〕戦前以来の対議会政策の最終的実現をはかるにあったと考えてよい。〔略〕この策はみごとに的中した。第7議会においては,もはや〔政党対藩閥政府の〕「横断」的対抗も〔対外硬六派対政府・自由党の〕「縦断」的対抗もなく,ただ議会をあげての戦争の追認と戦争政策への積極的支持があったのみであった。」と説かれています(大江91頁)。これに対して日露開戦時の戒厳宣告の主目的は,間諜に対する警戒(軍事情報の漏洩防止)及び海面防備でした(大江92頁及び94頁)。)。

 

(3)感慨

 元検察総長たる大統領閣下ともあろう方が,一体何を考えておられたものか。閣下が企図せられていたものは,本当に,フランス,ドイツ及び大日本帝国の流れを汲む戒厳の宣告(declaration of a state of siege)であったものか。(ちなみに,大日本帝国憲法14条の伊東巳代治による英語訳は,第1項が“The Emperor declares a state of siege.”,第2項は“The conditions and effects of a state of siege shall be determined by law.”です。)

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

  秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ

 

 筆者はかつて日本国憲法研究の一環として,日本国の国号の由来について調べものをしたことがあります(「第22回サッカー・ワールド・カップ大会開催の年,倭国2682年又は日本国1353年の建国記念の日にちなんで」(2022211日)https://donttreadonme.blog.jp/archives/1079413301.html)。しかしてその際そこで日本国の国号が採用された時期を天智朝期の670年とした上で,更に斉明天皇崩御後の中大兄皇子(天智天皇)称制期には何か易姓革命的情況があったのではないかとまでの余計なことを書いてしまったことから,当該称制期間は実際のところどのような時代であったのかがそれ以来ずっと気になっていたところです。

 阪神甲子園球場(阪急阪神甲子園球場ではないのですね。)竣工100周年の令和6年(2024年)の秋もたけなわ🌾,晩酌をすればわが衣手はこぼれた酒🍶にぬれつつ,かねてからの当該課題について様々な思いをめぐらしていたところ,ようやく,この程度にとどまる思い付きであればお目こぼしの寛大に与り得て,歴史専門家及び尊皇家の方々の罵倒を被らずに済む内容であろうと思われるところの下記雑文の偶成を得たところです。要は,一種の辛酉(661年)革命・甲子(664年)革令論に逢着したのでした。

 

  天皇より日本の敗戦に関し,かつて白村江の戦い〔663年〕での敗戦を機に改革が行われ,日本文化発展の転機となった例を挙げ,今後の日本の進むべき道について述べられる。

  (宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)173頁(1946814日条))

                                                                                                    

1 臨時御歴代史実考査委員会による「称制」維持答申(1926年)

宮内庁の『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)中19261020日条に次の記事があります。

 

  〔前略〕これより先,帝室制度審議会において皇統譜令案の再査を行うに当たり,御歴代数その他重要の史実につき,いまだ疑似に渉るものがあり,その解決を待たなければ同案の施行を全うすることができないとして,帝室制度審議会総裁伊東巳代治は,同会総会に諮った上で,史実を明確にするための調査機関特設の議を宮内大臣牧野伸顕に具申した。その建議が採用されて大正13年〔1924年〕37日臨時御歴代史実考査委員会が設置され,翌8日,同会総裁に伊東巳代治が,委員として倉富勇三郎・平沼騏一郎・岡野敬次郎・三上参次・関屋貞三郎・二上兵治・入江貫一・三浦周行・黒板勝美・杉栄三郎・辻善之助・坪井九馬三・和田英松が任じられた。同年421日,宮内大臣牧野伸顕より左の3項が同会に諮問された。

一,神功皇后ヲ皇代ニ列スベキヤ否〔結論は,否〕

    一,長慶天皇ヲ皇代ニ列スベキヤ否〔結論は,肯〕

    一,宣仁門院〔四条天皇(数え十二歳で悪戯中に転んで崩御)の女御〕中和門院〔後陽成天皇の女御・豊臣秀吉の養女〕及明子女王〔後光明天皇と霊元天皇との間の中継ぎの天皇である後西天皇の女御〕ハ其ノ取扱ヲ皇后ト同一ニスベキヤ否〔結論は,否〕

  その他,右の諮問ニ附帯シ,左の8項目にわたり参考として意見が求められた。   

2項略〕

   一,天智天皇持統天皇ノ称制年間ハ御在位中ト見ルベキヤ否

  〔2項略〕

一,天皇御追号中ノ院字ハ之ヲ省クベキヤ否〔肯。院字が省かれて,淳和天皇(西院帝)に倣った後西院帝が後西天皇になってしまっています。〕

    〔2項略〕

    (547-549頁)

 

 現在,宮内庁ウェブページ「天皇系図」を見ると,第37代の斉明天皇の在位期間は「655-61」であるのに対して第38代の天智天皇のそれは「668-71」,第40代の天武天皇の在位期間は「673-86」であるのに対して第41代の持統天皇のそれは「690-7」とされていますから,「天智天皇持統天皇ノ称制年間ハ御在位中ト見ルベキヤ否」については「否」ということになったわけです。

 

2 斉明天皇崩御(661年)後の「天智称制」の理由

天智在位ではなく,天智称制という形が斉明天皇崩御後の当時採られた理由が問題となります。

 

(1)同母兄妹婚禁忌説

当該理由については,第36代の孝徳天皇がその妻である・別居中の間人皇后に送った「金木(かなき)(鉗)つけわが飼ふ駒は引き()せずわが飼ふ駒を人見つらむか」との歌に隠された意味を「だれよりも愛していたお前を他人が奪ってしまったのではないか。お前はわたくしを捨てて他の男のもとに走ったのではないか」と解釈した国文学者の吉永(よしなが)(みのる)関西大学教授孝徳天皇から間人皇后を奪ったその男を同皇后の同父(舒明天皇(第34代))同母(皇極(第35代)=重祚して斉明天皇)の兄である中大兄皇子(後の天智天皇)であるものと判断した上で,中大兄皇子が皇位につくことができずに称制を続けたのはこの許されざる同母兄妹間の内縁関係のせいであったと論じ,直木孝次郎大阪市立大学助教授(当時)の賛同を得ています(直木孝次郎『日本の歴史2 古代国家の成立』(中央公論社・1965年)223-225頁参照)。

 

 〔前略〕同母の兄妹の結婚が古代でもタブーであったことは事実だ。(いん)(ぎょう)天皇の皇太子(かる)皇子が,同母妹の軽大郎女(かるのおおいらつめ)と結婚したために皇太子の地位をうしない,皇位につくことができなかった話は,たんなる伝説かもしれないが記紀に伝えられている。中大兄も間人皇后との結婚を表むきにはできなかった。かれがこののちも長く皇太子のままでいるのはそのためではないか,というのが吉永氏の解釈である。天皇になれば皇后をきめなければならないが,それができないのである。

  その証拠に,中大兄が正式に即位するのは間人皇后がなくなってからではないか,と吉永氏は論ずる。なるほど,間人皇后が死ぬのは665年(天智称制四),天智天皇の正式即位は668年(天智称制七)である〔後記(2説参照〕。いわれてみると,なぜ中大兄は〔645年の乙巳の変から〕23年もの長いあいだ皇太子のままでいたか,という古代史の疑問もとけるのである。

 (直木225頁)

 

 ただし,「同母の兄妹の結婚が古代でもタブーであったことは事実だ。」という点については論者もそう重くは捉えてはいないようです。反論を承けて発展した吉永説においては「さらに一歩つっこんで,日本の古代で同母兄妹が結婚することについてのタブーがあったかどうかも疑問だ,というのです。その証拠として,大祓(おおはらえ)とか,神話のなかに罪が列挙してありますが,そのなかに動物とのいわゆる畜姦だとか,上通下通婚(おやこたわけ)つまり母子相姦とかについてのタブーは書かれているけれども,同母兄妹のタブーは書かれてないんですね。」ということになったそうです(直木・付録(1965211日に大阪グランドホテルで行われた直木孝次郎・司馬遼太郎対談)2頁(直木発言))。「モラルのうえでは問題にならなくて,法律的には問題になるのですか。つまり,ふたりは結婚できないのですか。」との確認的質問(直木・付録2頁(司馬))に対しては,「正式には結婚できないのでしょうね。そして上流貴族のあいだでは中国的な道徳というものが,ぼつぼつ入りかかっているでしょうから,モラルのうえでも好ましくないことだ,というような意識は貴族間にはもう出ていたんじゃないでしょうか。」との回答がされています(直木・付録3頁(直木))。

 あたしというものがありながら,他の女が図々しくあんたの法律上の正妻の地位につくことは許せない,という妹の嫉妬に苦しめられたということでしょうか。束縛の強烈に,愛が醒めることはなかったのでしょうか。なるほど,中大兄皇子は辛抱強い人だったのでしょう。

 

   称制はほかの天皇のばあいにもあるが,中大兄は6年間も称制をつづけるので問題になる。そのおもな理由は,天皇になれば政治をしにくいという点〔後記(2〕にあるのではなく,同母妹の間人皇后との関係にあったことはさきに述べた。そのほかに,〔663年の〕朝鮮〔白村江〕での敗戦のあと始末のため,あるいは敗戦責任のために即位がおくれたということも考えられる。しかし,敗戦後の危険な時期に天皇の位をあけたままにしておくのは,いろいろの意味で宮廷の動揺を深めることになる。北九州にいるのでは即位の手続きをすますことができないかもしれないが,大和へ帰れば,いくら敗戦後の処置に忙しいといっても,即位の式をあげることは不可能ではあるまい。それをしなかったのは,やはりほかに決定的な理由があったからだと思う。

  (直木280頁)

 

文学の鑑賞から男女関係の機微に関する推理の翼を奔放に拡げた上での古代史新解釈の提示であって,古代史研究ってのは自由で楽しそうだな,とつい素人が悪乗りをしたくなる方法論です(だから筆者のような門外漢もこのような思い付きの駄文を草してしまうわけです。)。しかし,現在の学界の常識的評価としては,「この〔吉永〕説は歌謡の字句のみが根拠で,その証明が難しい。」ということになるようです(森公章『天智天皇』(吉川弘文館・2016年)191頁)。

 

(2)七つの説:間人「仲天皇」説等

そこで,天智称制が長く続いた理由として学界ではどのようなものが考えられているかといえば,七つほど説があるようです。

まず,既出の「①白村江戦の敗戦後の防衛体制構築を進めるには,天皇として即位するより,皇太子として自由な立場で強力に政治を行うためとする説」及び「②天智四(665)二月の間人皇女死去,六年二月の斉明と間人の小市岡上(おちのおかのうえの)(みささぎ)への合葬を経て,七年正月に即位するので,間人の存在が障害になっていたと見る説」の両説があります(森188頁参照)。更には,「即位時にもそのような過去を払拭できたとは思われない〔筆者註:換言すれば,そのような過去があっても即位できた〕ので,疑問とせざるを得ない」とされている「③乙巳の変や古人大兄皇子殺害など,中大兄の血塗られた足跡が一因であるとする説(遠山美都男『天智天皇』)」(森189頁参照),伊東巳代治ら臨時御歴代史実考査委員会の仕事を否定する「④二段階即位説,つまり中大兄の称制を否定し,中大兄は斉明崩御時に「(あめの)天下(したしろしめす)(おお)(きみ)として即位し,国内外の諸問題を克服する強力な政治体制の構築・王権強化の課題を果した上で,天智七年(668)正月に「治天下天皇(すめらみこと)」として即位したとする見解〔略〕(河内春人「天智「称制」考」)」(森189-190頁参照),「後継者決定のためにも早く即位した方が有利である」のに何だかおかしい説だねとされる「⑤中大兄は子大友皇子を後継者に考えており(遠山美都男『壬申の乱』),その成長を待っていた(大友は『懐風藻』によると,天武元年〈672〉死去時に二十五歳とある。大化四年〈648〉誕生で,斉明七年には十四歳,天智七年には二十歳)とする説」(森191頁参照)及び⑥「中大兄が長らく即位しなかった理由の一つとして,周囲に皇后たるに相応しい女性王族がいなかったことを考慮してみてはいかがであろうか。〔略〕中大兄の称制の一因としては,この〔天智天皇の皇后となる〕倭姫王の年齢,唯一の皇后候補者の成長を待つという事案が浮上し,斉明七年時点にはまだ婚姻関係はなかったと考えてみたい」との説(森210-211頁)があります(ただし,倭姫王が父の古人大兄皇子死亡の年(大化元年(645年))生まれだとしても斉明七年(661年)には満16歳になりますので,満15年以上であれば皇后に立てられ得るものとする後世の皇室親族令(明治43年皇室令第3号)7条の規定からすると問題はなかったところです。また,中大兄皇子は大化元年に「皇太子」になっているはずなのに,それから16年間,将来の皇后に相応しい皇族女子を娶ることなくぼんやり打ち過ごしていたというのも何だか変ですね。)。

しかして,森公章東洋大学教授は,上記6説中②説に再注目して,いわく。´「間人は正式に即位しなかったとしても,天皇位を代行するような役割を果たし,その記憶が〔間人皇女に係る〕「仲天皇」の呼称に反映されているという理解はどうであろうか(坂本太郎「古代金石文二題」)。斉明崩御時に三十六歳の中大兄が即位しなかったのは,四十歳即位適齢説にはまだ少し若かったこと,そして何よりも斉明女帝-中大兄による権力安定の構造を維持し,白村江戦後の諸課題に取り組むには,間人の存在が必要であったことによるのではないか。」(森196頁),「白村江戦後の諸課題への対応と,中大兄即位までの確実な基盤作り(年齢問題も含めて)の時間を得るために,前皇后である間人を表に立てて,斉明→間人-中大兄の権力構造維持が求められ,「仲天皇」としての間人の存在が不可欠であったと考えてみたい。」と(森197頁)。

間人「天皇」とまではされずに,論者によって間人「仲天皇」にとどめられているのは,「記紀編纂に近接する間人皇女が即位したか否かは,人びとの記憶や事実認識も明白であったと思われるので,なぜ『日本書紀』はそれに触れないのかという大きな問題が残る」からなのでしょう(森195頁)。しかし,これについては,白村江での大敗で終った我が対唐戦争中の天皇は,戦勝国の目から見ると「反乱の首魁」ないしは「第一の戦犯」ということになってしまうし,国内的にも不逞の臣民からは「戦争(敗戦)責任」を追及されるので,当の大唐帝国さまの言語で記される『日本書紀』においては,いなかったことにしよう(ただし,後に天智天皇即位の運びとなったので,その間存在していた統治権の名目は,辛酉年まで前倒しに「天智称制」であったことにして埋めることにしよう),ということにした,というふうに考えることはできないものでしょうか。承久三年(1221年)の太政天皇御謀反の際にも,皇位は空位であったということになっていました(仲恭天皇の在位を認めない場合)。

 

 〔前略〕天武天皇やその周辺においても,「敗軍の将,兵を語らず」であって,この〔対唐〕戦争については多くを語りたくなかったのであろう。あるいは,『日本書紀』が中国の唐王朝をひじょうに強く意識して書かれたことを思えば,この戦争に関して,負け戦を勝ち戦だったというように,あからさまな虚偽を記すわけにもいかず,さりとて戦争自体がなかったことにするわけにもいかなかったのではないかと思われる。

 (遠山美都男『天智と持統』(講談社現代新書・2010年)54-55頁)

 

 ということで,『日本書紀』における省筆を想定して間人天皇即位説を端的に採るとしても,なぜ中大兄が即位できなかったのかというそもそもの問題は残ります。

前記森説では中大兄の年齢問題が云々されていますが,別の箇所では「斉明天皇崩御の際,王族のなかで皇位継承可能な候補者は,中大兄,間人皇女,大海人皇子しかいなかった。いずれも舒明と皇極・斉明の所生子である。〔略〕同世代中の最年長者は中大兄であり,四十歳即位適齢説によっても,充分に即位可能な年齢に近づいており,中大兄即位には障害がなかったと思われる。」と説かれています(森187頁)。実は年齢については問題がなかったようでもあります(ただし,間人皇女の更に弟ということであれば,大海人皇子については年齢問題を認めることも可能であるようです。)。そうであれば,むしろ「中大兄即位までの確実な基盤作り」の必要こそが「仲天皇」が置かれた理由であったということになるのでしょうか。「確実な基盤」をこれから作らなければならないというのならば,「斉明女帝-中大兄による権力安定の構造」なるものは中大兄皇子にとってそもそも存在していなかったのではないでしょうか。

 

3 間人天皇推戴の理由:磐瀬宮派と朝倉宮派と

あるいは,辛酉の年(661年)七月二十四日の斉明天皇崩御時には,筑紫の地に移っていた我が政府内において不協和音があったのかもしれません。

『日本書紀』によればこの年三月二十五日に斉明天皇は娜大津に着いて磐瀬仮宮(福岡市南区三宅に比定されています(『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』(小学館・1998年)242頁註7)。)に入り,五月九日には朝倉(あさくらの)(たちばなの)広庭宮(ひろにわのみや)に遷居しているのですが(同地で崩御),「是の時に,朝倉社(あさくらのやしろ)の木を()(はら)ひて,此の宮を作りし故に,神忿(いか)りて殿(おほとの)(こぼ)つ。(また)宮中(みやのうち)に鬼火を見る。是に由りて,大舎人(おほとねり)(もろもろ)近侍(ちかくはべるひと),病みて死ぬる者(おほし)し」ということになり,更に八月一日に「皇太子(ひつぎのみこ),天皇の(みも)奉徙(うつしまつ)りて,(かへ)りて磐瀬宮に至る。是の(ゆふへ)に,朝倉山の上に,鬼有りて大笠を()て,(みも)(よそほひ)を臨み視る。(ひとびと),皆(あや)()ぶ。」とあって👹,いかにも不穏です。更に興味深い点は,朝倉宮の位置です。福岡県朝倉郡杷木町(現朝倉市)志波のあたりにあったようなのですが,これは簡単に「南方の」(直木264頁)といって済ませるべき場所ではなく,「磐瀬行宮から40キロメートル以上も離れた所」なのです(『古典文学全集4242頁註13)。新羅=唐聯合軍征伐の大本営の場所としては,玄界灘に臨む現在の福岡市内の磐瀬宮が正にふさわしいところ,朝倉宮にあっては内陸に過ぎ,そこで斉明天皇と共にいる人々は遠征作戦の策定・実施から外れていたか,外されていたものと考えるべきもののようです。朝倉宮への遷居は「外敵の襲来を恐れたためか」とも言われていますが(『古典文学全集4242頁註13),こちらから攻めるより先に攻められる心配をするということは,これは,いざ現地に着いたら腰が引けてしまったということでしょう。百済の遺民その他の遠征積極派内においては,弱腰の消極派に対する不信・不満の感情が存在していたことでしょう。

しかして中大兄皇子は,磐瀬宮にではなく,朝倉宮にいたのでした。『日本書紀』には,皇太子が大行天皇の柩を移して磐瀬宮に還ったという前記の記載のほかに,「是の月〔斉明天皇崩御の月〕に,〔略〕皇太子(ひつぎのみこ)長津宮(ながつのみや)〔磐瀬宮〕に(うつ)(おは)しまして,(やくやく)水表(をちかた)軍政(いくさのまつりごと)(きこ)しめす。」との記載があります。「皇太子は長津宮に移り住まれて,しだいに海外の軍政に着手された」(『古典文学全集4250頁。下線は筆者によるもの)ということですから,中大兄皇子は斉明政権の首班として至上の国策たる百済復興救援作戦のため(つと)三月磐瀬宮到着時から直ちに大車輪の陣頭指揮を執っていた,ということではないようです。(なお,『角川新字源』によれば,「稍」には,「しだいに」のみならず「すこし」又は「すこしずつ」という意味があるそうです。)

結果として朝鮮半島に出兵して我が国はひどい目に遭ったということは,当時の政権内では遠征積極派が多かったということでしょうから,当該多数派の支持が得られないということで消極派の中大兄皇子は即位できず,(さりとて消極派もそれなりの勢力があったでしょうから)無難な選択として前々帝の皇后たりし間人皇女が推戴された,という説明は可能でしょうか。この説明を採用すると,「天智天皇が「海外の軍政」(原文は「水表の軍政」)をどのように統括したのか,換言すると,いわゆる百済救援においてどのような戦争指導を行ったかについて,どうしたわけか,『日本書紀』はまったく触れるところがない」(遠山53頁)との疑問に対しては,実際には政権の中枢から外されていて「統括」とか「指導」をしていなかったからだよ,と回答することができるようになります。(例外として,中大兄皇子が百済の王子の豊璋に織冠を授け,多臣蒋敷(おほのおみこもしき)の妹を娶らせ,五千の兵をもって朝鮮に護送させたとの『日本書紀』天智即位前紀九月条の記事が挙げられていますが(遠山53-54頁),「このように,天智天皇が外国の王に冠位をあたえるとは,その王を天皇の臣下とすることを意味した」ものであるところ(遠山54頁),これは,後の天智朝下における百済遺民の我が国受入れの意義付けに資するものとして記載されたのだと解し置くのは便宜主義に過ぎるでしょうか。)

 

4 白村江敗戦(663年)後の間人天皇=大海人大皇弟体制と中大兄皇子の立場と

 

(1)間人天皇=大海人大皇弟体制

間人皇女即位説を採ると,白村江の敗戦の翌年(664年・甲子年)の「春二月の己卯の朔にして丁亥〔九日〕に,天皇(すめらみこと)大皇(ひつぎの)(みこ)(みことのり)して,冠位の階名を増し換ふること,(また)氏上(うちのかみ)民部(かきべ)家部(やかべ)()の事を(のたま)」とある『日本書紀』の記述については,「中大兄皇子が即位するのは天智称制七年〔668年〕正月ゆえ,〔甲子年(664年)の〕ここに「天皇」とあるのは不審」(『古典文学全集4262頁註9)ということにはならず,間人女帝が――先の大戦の敗戦直後に皇族の東久邇宮稔彦王の内閣が成立せしめられたように――大皇弟である大海人皇子を政権の前面に立てて国内の引き締めを図った,と理解することになるのでしょう。しかし,大海人皇子が大皇(ひつぎの)(みこ)であるということになると,中大兄皇子の皇位継承権はどこに行ってしまったのか,ということが問題になります。いろいろあったけれども結局白村江でボロ負けしてしまってあのことは終わったのですから,過去のいきがかりは捨てて,今は挙国一致で頑張りましょう,お兄さん頼りにしていますよろしくね,ということにはならなかったのでしょうか。

 

(2)中大兄皇子の立場

 

ア 出自の問題

ここで不図,前記22)の③説が想起されるところです。「「③乙巳の変や古人大兄皇子殺害など,中大兄の血塗られた足跡💀が一因」となって天智天皇の即位は遅れた,とする説ですが,即位の遅れとの結び付きの有無についてはここではともかくも,確かに,現天皇(皇極天皇)及び前天皇(舒明天皇)との間の長男たるやんごとなき王子様にしては,乙巳の変等における中大兄皇子は働き者に過ぎるなあ,という感想を抱いた者は筆者一人のみでしょうか。

高貴の王子が〇〇〇の鉄砲玉のように自らの手を血で汚すことはあり得ないのではないかという発想からなのでしょう,「近年中村修也氏は,天智天皇は入鹿暗殺の現場にいなかった(入鹿暗殺に手を下してはいない)とする新説を提唱している(『偽りの大化改新』講談社現代新書,2006年)。」とのことです(遠山25頁)。中村説によると「即位のチャンスが十分にあった天智天皇にしてみれば,入鹿暗殺という危ない橋を渡る必要などまったくなく,黙っていてもいずれ即位の順番が回ってきたというのである」ということであって(遠山25頁),更に「中村氏はいう,「大王位に就こうと思っている王子は自分の手を血で穢してはならないのです。/なぜなら,血の穢れの問題があるからです」」と(遠山27頁),ということだそうです。

しかし上記中村説を引っ繰り返して,敢えて自分の手を血で汚すことをもためらわない皇族は,皇位継承から遠い位置にある者なのであるという新命題を設定してみるとどうでしょうか。しかして引っ繰り返しついでに更に別の引っ繰り返しを行って,一部の論者が提唱している天智=天武異父兄弟論(ここでは,天智は舒明・皇極夫婦の子とするが,天武については「母宝皇女〔皇極天皇〕が田村皇子〔舒明天皇〕と結婚する前に高向(たかむこ)(おう)との間に儲けた(あや)皇子(斉明即位前記)に比定する説(大和岩雄『日本書紀成立考』)」(森2頁)を念頭に置いています。)の天智と天武とを入れ替えて,天智は実は舒明天皇の子ではなかったとしたらどうでしょうか。天智の身分が実は低かったことにすると,それはそれで結構辻褄が合う説明ができそうです〔田村皇子(舒明天皇)と宝皇女(皇極=斉明天皇)との「婚姻時期・契機としては,推古三十年(622)の厩戸皇子死去により,〔田村皇子の〕世代の王族に王位継承者としての光があたった時点がふさわし」いとされているところ(森12頁),『本朝皇胤紹運録』によると「天智は推古二十二年(614)降誕」,「大海人皇子(天武天皇)は推古三十一年(623)誕生」になっているそうです(森2頁参照)。〕。(ちなみに,『善光寺縁起』には皇極天皇が地獄に堕ちかけて,本田善佐(善光の子)の口添えで善光寺如来に救われたという話があるそうですが,それよりは罰当たりの程度が低い仮説として御海容ください。)

なお,『日本書紀』斉明天皇七年(661年)十月条には,大行天皇の柩を筑紫から難波に移送するに当たっての「(ここ)皇太子(ひつぎのみこ)一所(あるところ)()てて,天皇を哀慕(しの)ひたてまつりたまひ,(すなは)ち口号して(のたま)はく,

 

  君が目の(こほ)しきからに()てて居てかくや恋ひむも君が目を()

 

とのたまふ。」という記事がありますから,ここまで母子愛のメロドラマを書いた上で実は中大兄皇子は皇極=斉明天皇の子ではありませんでした,ということはないのでしょう。

 

イ 孝徳朝及び斉明朝における位地の問題

母方の(かる)の叔父貴(孝徳天皇)の話に乗って,蘇我入鹿に真っ先に斬りつけ,更に舒明天皇の子である古人大兄皇子を討滅し,働き者として孝徳政権内ではそれなりの位地を得たものの(「それなり」というのは,「大化の改新」を進める「孝徳天皇の部民制全廃に関する諮問に対して,中大兄は必ずしも賛成しておらず,この段階では急進的な改革に反対する「抵抗勢力」であったと位置づけられ」(森274頁),「少なくとも『日本書紀』は,「大化改新」が天智天皇によって主導されたとは描いていない」(遠山37頁)からです。),その叔父貴とも仲たがいして母((たから)の姐さん)の許に帰順て,母,妹(間人皇后弟(大海人皇子らと共に孝徳朝の難波京を敢然退去したものの(白雉四年(653年)),中大兄皇子はその後パッとしない存在であった,ということでよいのではないでしょうか。(なお,皇極=斉明天皇を「宝の姐さん」と称し奉るのは不敬のようですが,明日香の南淵(稲渕)なる飛鳥川のほとりで自ら雨乞いをしたら「即雷大雨。遂雨五日,(あまねく)潤天下。」ということになって,人民こぞって「称万歳曰,至徳天皇」と唱和するに至ったということでありますから(『日本書紀』皇極天皇元年(642年)八月条),呪術的(パワー)満ちた迫力のある女性であったと筆者は考えたいのです。)

『日本書紀』巻第二十六の斉明朝の記事中,偉大なる斉明女帝の崩御の前に「皇太子(ひつぎのみこ)」が出て来るのは,筆者がざっと流し読みをしたところ,2箇所だけでした。謀反の企みがあると蘇我赤兄によって天皇に通報され,天皇の滞在地である紀温泉に護送された有間皇子(孝徳天皇の息子)に対して「於是皇太子親問有間皇子曰,何故謀反。」と尋問したという検察官(procureur de la reine)的仕事をした話(斉明天皇四年(658年)十一月条)と初めて水時計(漏剋)を作った(「又皇太子初造漏剋,使民知時」)という技官的仕事をした話(斉明天皇六年(660年)五月条)とです。なお,この漏剋は十年余お蔵入りであったようで,実際に「民に時を知らし」めたのは,天智天皇になってからのことのようです(『日本書紀』天智天皇十年(671年)四月二十五日条「夏四月丁卯朔辛卯,置漏剋於新台,始打候時。動鍾鼓,始用漏剋。此漏剋者天皇為皇太子時,始親所製造也」)。「現天皇である斉明ではなく,まだ「皇太子」にすぎない天智天皇が「漏剋」を造ったとされたことは,『日本書紀』が天智天皇をすでに天皇同然の存在とみなしていた証しといえよう。」ともいわれていますが(遠山50頁),これは8世紀になってからの『日本書紀』による事後的評価付けの話で,斉明朝期における同時代的評価の話ではないでしょう。

なお,有間皇子事件については,「〔自ら謀反の話を持ちかけておいて,有間皇子がその気になったところで同皇子の身柄を確保して天皇に通報した〕赤兄の謀略は中大兄の指令にもとづくものであろう」といわれてきていました(直木242頁)。しかして,そう解されているがゆえでしょうが,絞殺された有間皇子に連座して塩屋連鯯魚(このしろ)及び舎人新田(にひた)(べの)(むらじ)(こめ)麻呂(まろ)は斬刑,(もりの)(きみ)大石(おほいは)及び坂合部連(さかひべのむらじ)(くすり)はそれぞれ上毛野国及び尾張国に流刑となっていますところ,「守君大石は,〔略〕百済救援の出兵で将軍に起用され,天智四(665)には遣唐使にもなっており,坂合部連薬も壬申の乱で近江方の将として登場するので,彼らはむしろ中大兄とつながる人びとで,蘇我赤兄と同様,有間皇子を謀反に導くために送り込まれたのではないかと考えられる。」と説かれるに至っています(森153頁)。しかし,赤兄は単純にお咎めなし(むしろ褒められたのでしょう。)なのですから,同様に「送り込まれた」諜者であったのなら,守及び坂合部もお咎めなしであった方が自然でしょう。孝徳朝初期の自らの重用されていた時代に懇意になっていた軽の叔父貴派・国際派の守君大石らが有間皇子事件にかかわっていたことを知って驚いた中大兄皇子が,担当「検察官」として,つながりのある人々について苦心の軽め論告求刑を行った,という想像は許されないものでしょうか。(なお,ここで守君大石を孝徳天皇派の国際派であるものと想像したのは,息子の有間皇子とのつながりは父帝とのゆかりによるものであったと考えたとともに,遣唐使になる以上は国際派であるものといわざるを得ないからです。)また,あらかじめ赤兄と共謀していたのなら,懇意の守や坂合部が巻き込まれないように中大兄皇子としては赤兄に注意をしておいて然るべきではないでしょうか。すなわち,筆者としては,中大兄皇子が有間皇子事件の首謀者である,との断言論からはいささかの距離を置かせていただきたいところです(また,現在では,「この〔有間皇子〕事件に関して,『日本書紀』の記述から天智天皇の謀略を読み取ることはできない。」とも説かれています(遠山49頁)。)。

 

5 大唐帝国の干渉下の政権交代(664年)

 

(1)唐使到来から間人天皇の崩御まで

ところでそれでは,甲子年(664年)二月には存在していた間人天皇=大海人大皇弟体制から中大兄皇子執政への政権交代はいつどのように行われたのかということについては,戦勝の大唐帝国からの干渉の介在を,筆者は考えてみたいところです。『日本書紀』天智称制三年(664年)条から四年(665年)条にかけて次のようにあります。

 

  夏五月の戊申の朔にして甲子〔十七日〕に,百済鎮将劉仁願,朝散大夫郭務悰等を(まだ)して,表函(ふみはこ)献物(みつき)とを(たてまつ)

  〔略〕

冬十月の乙亥の朔〔一日〕に,郭務悰等を(たて)(つかは)(みことのり)()りたまふ。是の日に,中臣(うちの)(おみ),沙門智祥を遣して,物を郭務悰に賜ふ。

戊寅〔四日〕に,郭務悰等に(あへ)賜ふ。

〔略〕

十二月の甲戌の朔にして乙酉〔十二日〕に郭務悰等,罷り帰りぬ。

是の月に,(あふ)(みの)国の(まを)さく,〔坂田郡の小竹田(しのだの)(ふびと)()猪槽(ゐかふふね)の水中に突然稲が生え,()はそれを収穫して次第に富を成しました。栗太(くるもと)郡の(いは)(きの)(すぐ)()(おほ)の新婦の寝床に二晩連続して稲が生えるとともに当該新婦が庭に出ると()()が二つ天から落ちて来て,同女がそれを拾って(おほ)に与えたところ,殷はそれ以来富を得るに至りました。〕

  ()の歳に,対馬島・壱岐島・筑紫国等に(さきもり)(とぶひ)とを置く。又,筑紫に大堤(おほつつみ)()き水を貯へ,(なづ)けて水城と()ふ。

  四年の春二月の癸酉の朔にして丁酉〔二十五日〕に,間人大后(おほきさき)(かむさ)りましぬ。

  〔略〕

  三月の癸卯の朔〔一日〕に,間人大后の(みため)に,三百三十人を(いへで)せしむ。

 

 「郭務悰等を(まだ)して,表函(ふみはこ)献物(みつき)とを(たてまつ)。」と枉げて表現されていますが,これは戦勝大国から戦敗の我が国に対して恩恤の下賜品と共に「ポツダム宣言」が突き付けられたということでしょう。(なお,『善隣国宝記』の「海外国記」には,この時日本側は「郭務悰のもたらした牒書を中国皇帝のものではなく,「在百済国大唐行軍摠管」(劉仁願)の私信として受け取りを拒否し,郭務悰たちも私使として追い返そうとしたことが記されている」そうですが,「「海外国記」は天平5年(733)に撰録されたと伝える書物であるため,天平期の対外観で記されていると評するべきである。劉仁願は対日外交を任されており,彼の命令は唐皇帝の命令でもある。まして敗戦国の日本が,戦勝国の前戦将軍の牒書を拒否できる立場にあったとは考えられない。」と,論者に一蹴されています(中村修也「天智朝――敗戦処理政府の実態――」教育学部紀要(文教大学教育学部)第47集(2013年)62頁)。)

 

 日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セサレサルヘカラス(ポツダム宣言6項)

 一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルヘシ(同10項)

 平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ(同12項)

 

間人天皇=大海人大皇弟政権はここに存続不能となります(昭和天皇の皇位保持を認めた米国人の優しさは,大陸(ユー)()半島(シア)的標準からすると例外だったものと解します。)。退位せしめられた間人大后は戦争責任を背負わされ,憂悶のうちに翌年二月に崩御し,「三月には間人のために330人の得度を行ったといい,これは〔後の〕天武不予時の100人よりも多い」(森197頁)――あるいは,当該得度は「前例を見ない大がかりな処置」であった(直木291頁)――ということになりましたが,この大量得度は「間人の死がそれだけ敬意を払われるべきものであったことをうかがわせる」もの(森197頁)であるのみならず,戦争責任を一人で負ってもらったことに対する負い目の感情が生き残った者たちにはあったからだ,と考えることはできないものでしょうか。(なお,『日本書紀』を検すると,朱鳥元年(686年)五月二十四日の天武天皇発病後同年九月九日の崩御までには何度か得度の措置が行われており(七月二十八日に70人,八月一日に80人及び同月二日に100人),これら得度者の合計は100人ではなく250人になるようです。)

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

第1 選挙の秋における日本国憲法15条再見

 今年(2024年)の秋は我が国では衆議院議員総選挙,米国でも大統領選挙ということで,選挙が気になるところです。

 

1 条文

 選挙(及び公務員)に関する日本国憲法の条項としては,その第15条があります。

 

  第15条 公務員を選定し,及びこれを罷免することは,国民固有の権利である。

    すべて公務員は,全体の奉仕者であつて,一部の奉仕者ではない。

    公務員の選挙については,成年者による普通選挙を保障する。

    すべて選挙における投票の秘密は,これを侵してはならない。選挙人は,その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

 

  Article 15.   The people have the inalienable right to choose their public officials and to dismiss them.

         All public officials are servants of the whole community and not of any group thereof.

         Universal adult suffrage is guaranteed with regard to the election of public officials.

         In all elections, secrecy of the ballot shall not be violated. A voter shall not be answerable, publicly or privately, for the choice he has made.

 

2 基本書の説明

この憲法15条に関して筆者の書架にあるいわゆる基本書を検すると,次のように説明されています。

まず憲法151項は,「ひろく公務員についての国民の選定罷免権を理念として承認している(15条)」ものです(樋口陽一『憲法』(青林書院・1998年)156頁)。(なお,ここでは「公務員」であって「官吏」(憲法734号参照)ではないのは,公務員ではあっても官吏ではなく,選挙されるもの(国会議員等)があるからでしょう。大日本帝国憲法下では「総ての官吏は天皇の使用人として,天皇の下に奉公の義務を負ふ者」でした(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)248頁)。)つまり,「憲法151項は,最広義の公務員,すなわち,国および公共団体の公務に従事することを職務とする者につき,その地位の正統性根拠が国民のみにあること,その意味で,その最終的な任免権が国民に由来することをのべ」る「原理的な前提」です(樋口164頁)。同項については更に,「憲法上の権利の分類のひとつとして「参政権」と呼ばれるものがあり,国民主権のもとでは,それは,総体としての国民が主権を持つということを,国民を構成する各人の権利の側面で言いあらわす,という意味を持つ。憲法15条の言い廻しは,国民主権(●●)と参政権=権利(●●)との間のそのような関係をのべたものとして,受けとることができる。と述べられています(樋口163-164頁)。ただし,権利といっても,直接「各人」に与えられる天賦の権利ではなく,「国民を構成する各人」の権利ではあります。

憲法151項の規定は「国民主権主義のもとにおける公務員が,国民(●●)()公務員(●●●)であることを観念的に表現したものであり」,同条2項の規定は「公務員が,国民全体に奉仕すべき国民(●●)()ため(●●)()公務員(●●●)でなければならないことを示したものである。」ということになります(田中二郎『新版行政法 中巻 全訂第2版』(弘文堂・1976年)226-227頁)。

また,憲法15条は,「選挙について,憲法は,いくつかの明示的な憲法上の要請(15条,431項,44条但書)を示した」もの(樋口158頁)のうちの一部ということになるようです。憲法431項は「両議院は,全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」と規定していますが,「全国民を代表する」の部分は152項の,「選挙された」の部分は同条1項の具体化ということになり,両議院の議員及びその選挙人の資格について「人種,信条,性別,社会的身分,門地,教育,財産又は収入によつて差別してはならない」と規定する44条ただし書は153項の具体化ということになるのでしょう。憲法47条は「選挙区,投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は,法律でこれを定める」と規定していますが,「投票の方法」として秘密投票の方法を採用すべきことは154項で憲法的に先取りされています。この秘密投票の方法は,「有権者の自由な意思に基づく投票を確保する趣旨から」採用されたものとされています(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)112頁)。「自由な意思」の尊重ということですから,なかなか高尚そうです。

上記のようなことどもを覚えておけば,試験対策としては十分なのでしょう。

 

3 私的違和感

しかし,筆者は,かねてからどうも憲法15条に違和感がありました。

憲法15条における第1項及び第2項の公務員に係る一般論と第3項及び第4項の選挙制度に係る具体論との結び付きの具合がどうも滑らかではありません。全国に数多くいる公務員のうち,選挙で選ばれるものはむしろ例外でしょう。

また,通説的な基本的人権分類論の説くところは「消極的権利(国家の不作為を要求することを内実とする自由権),積極的権利(国家に対して積極的作為を要求する,従来の受益権と社会権)および能動的権利(国家意思形成に参加することを内実とする参政権)を〔基本的人権の〕基本的類型として把握し,これらの権利の根底にあって統合せしめると同時に,それ独自の存在理由と内実をもつ包括的基本権という類型を設け,これに従って〔包括的基本権,消極的権利,積極的権利,能動的権利の順序で〕論ずることにする。」ということですので(佐藤410頁),基本書では最後に来る「能動的権利」に係る条項が早くも第15条で登場するのは――基本書主義的受験勉強者には――位置的に先走り過ぎるように思われました。

無論,日本国憲法がそれに基づいたGHQ草案の起草者たちには条文の排列についての彼らなりの理論があったのでしょうが,それが分からないもどかしさがありました。

大日本帝国憲法の「臣民権利義務」の章においては,冒頭の「日本臣民タルノ要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」(18条)に続いて臣民の公務就任権に関する第19条(「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得」)がありますので,それに倣ったようにも思われますが(ただし,大日本帝国憲法19条を一種の平等条項(日本国憲法14条参照)として捉える見方もあります。これについては,当blogの「大日本国帝国憲法19条とベルギー国憲法(1831年)6条」記事(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1038090379.html)を御参照ください。),他の権利の日本国憲法第3章における排列は大日本帝国憲法第2章のそれに対応していませんので,大日本帝国憲法準拠説は採り得ないでしょう。GHQ民政局の起草者らが参照したであろう1919年のヴァイマル憲法第2編の「ドイツ人の基本権および基本的義務」の編は第1章「個人」,第2章「共同生活〔Das Gemeinschaftsleben〕」,第3章「宗教および宗教団体」,第4章「教育および学校」及び第5章「経済生活」の5章によって構成されており,選挙(第125条)及び公務員(第128条から第130条まで)に関する規定は第2章にありました(高木八尺=末延三次=宮沢俊義編『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)201-217頁(山田晟))。また,1936年のソヴィエト社会主義共和国聯邦憲法では,第10章が「市民の基本的権利および義務」の章ですが,選挙制度は第11章「選挙制度」として,別立てで規定されていました(宮沢俊義編『世界憲法集 第二版』(岩波文庫・1976年)305-311頁(藤田勇))。

と悩むより先にGHQ草案及びその成立過程について調べればよいではないかということで若干の調べものをした結果が本稿です。

 

第2 GHQ草案14条と日本国憲法15条と

 

1 GHQ草案14条の条文

まず,1946213日に大日本帝国政府に手交されたGHQ草案における「人民の権利及び義務(Rights and Duties of the People)」の章にある同草案14条を見てみましょう。

 

      Article XIV. The people are the ultimate arbiters of their government and of the Imperial Throne. They have the inalienable right to choose their public officials and to dismiss them.
     All public officials are servants of the whole community and not of any special groups.
     In all elections, secrecy of the ballot shall be kept inviolate, nor shall any voter be answerable, publicly or privately, for the choice he has made.

 

我が外務省による訳文は次のとおりです。

 

14条 人民ハ其ノ政府及皇位ノ終局的決定者ナリ彼等ハ其ノ公務員ヲ選定及罷免スル不可譲ノ権利ヲ有ス
一切ノ公務員ハ全社会ノ奴僕ニシテ如何ナル団体ノ奴僕ニモアラス
有ラユル選挙ニ於テ投票ノ秘密ハ不可侵ニ保タルヘシ選挙人ハ其ノ選択ニ関シ公的ニモ私的ニモ責ヲ問ハルルコト無カルヘシ

 

 日本国憲法153項に相当する規定が欠けています。同項は実は,第90回帝国議会における帝国憲法改正案審議の過程において,貴族院によって当該場所に挿入されたものでした(1946103日特別委員会修正議決・同日付け安倍能成委員長報告書作成,同月6日同院可決)。ただし,同条における当該規定の要否は,実はGHQ民政局においても一旦検討がされ,結局あえて採用されなかったもののようではありました。すなわち,国立国会図書館ウェブサイトの「日本国憲法の誕生」電子展示会における「資料と解説」3-14GHQ原案)にある市民の権利委員会(Civil Rights Committee)の作成に係る原案の紙(Drafts of the Revised Constitution)を見ると,当該当初原案になかった普通選挙保障の規定を正に当該場所に挿入すべきか否かの問題が運営委員会(Steering Committee)との協議の場で浮上していたようで,“universal suffrage”云々の書き込みがされていますが,結局抹消されているところです(第103齣,第124齣及び第127齣参照)。〔ただし,201611月の衆議院憲法審査会事務局資料・衆憲資90号「「日本国憲法の制定過程」に関する資料」7・48によれば,日本国憲法153項の貴族院における挿入はGHQの要求によるものであったそうですから,一旦は思い切ったGHQ民政局のスタッフも,結局未練から逃れることはできなかったわけでしょうか。あるいは未練というよりも,1項の「公務員を選定」からいきなり「選挙における投票の秘密」につなぐのでは関連性が分かりづらいとの気付きがあって,その間に,両者をつなぐべき「公務員の選挙」というものに関する項を設けることとしたものでしょうか。無論,米国憲法修正15条(人種,体色又は過去の強制労務服役状況を理由とした選挙権の否定及び制限の禁止)及び修正19条(性別を理由とした選挙権の否定及び制限の禁止)の前例も念頭にあったものでしょうが。

 

2 GHQ草案141項とアメリカ独立宣言と

 「人民は,彼らの政府及び皇位についての究極の裁定者である。(The people are the ultimate arbiters of their government and of the Imperial Throne.)」との,現在の日本国憲法151項からは削られている冒頭規定を見ると,筆者には「ああこれはアメリカ独立宣言ではないか。」と思われたところです。

すなわち,日本国憲法13条に対応する “We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal; that they are endowed by their Creator with certain inalienable rights; that among these, are life, liberty, and the pursuit of happiness.”(我々はこれらの真実を自明のものと信ずる。すなわち,全ての人は平等に創造されていること,彼らは彼らの創造主によって一定の不可譲的権利を賦与されていること,これらには生命,自由及び幸福追求が含まれていることである。)に直ちに続く部分にGHQ草案141項の冒頭規定は対応するように思われるのです。アメリカ独立宣言の当該部分は次のとおりです。

 

  That, to secure these rights, governments are instituted among men, deriving their just powers from the consent of the governed; that, whenever any form of government becomes destructive of these ends, it is the right of the people to alter or to abolish it, and to institute a new government, laying its foundation on such principles, and organizing its powers in such form, as to them shall seem most likely to effect their safety and happiness.

  これらの権利を確保するために,その正当な権力は被治者の同意に由来するところの諸政府が人々の間に設立されたこと,いかなる政体についても,これらの目的にとって破壊的なものとなったときには,それを変更又は廃止して,彼らの安全及び幸福の実現のために最もふさわしいと思われる原則の上及び形式の下に,それぞれ基礎付けられ,及び権力構成のされた新しい政府を設立することは,人民の権利であること。

 

ジョージ3世時代の英国国制下のアメリカ独立革命においては実力行使がされてしまったところですが,せっかくの新政体を樹立する日本国憲法下の我が国においては,当該政体自体にはあえて手を触れずに,それを構成する人的要素の人民の意思に基づく入替えによって同様の目的を達成しようではないか,ということがGHQ草案14条の趣旨だったのではないでしょうか。Bullet(弾丸)では剣呑だからballot(投票)にしようということでしょう。市民の権利委員会の当初原案では,GHQ草案141項では“choose”(選定する)となっているところが, “elect”(選挙する)となっていたところです。当該当初原案は次のとおりです。

 

      7.  The people are the ultimate arbiters of their government. They have the inalienable right to elect their public officials, and to dismiss them by due process of impeachment or recall.
     All public officials are servants of the whole community and not of any special groups. In all elections, secrecy of the ballot shall be kept inviolate, nor shall any voter be answerable, publicly or privately, for the choice he has made.

 

 194628日の運営委員会と市民の権利委員会との協議の場において,運営委員会のケーディス大佐から,「憲法上の規定は国会議員の選挙についてのみ設けられているのに,これでは全ての公務員が選挙されなければならないことになってしまう」との発言があって, “elect” “choose”に改められたのでした(「日本国憲法の誕生」資料と解説3-14エラマン・ノート第18齣)。

 GHQ草案起草の最終段階である1946212日の運営委員会において,“the ultimate arbiters of their government”に続いて “and of the Imperial Throne”が加えられていますが,これは「皇位の人民に対する従属(subordination)を再び再強調(again reemphasize)するため」です(エラマン・ノート第31齣)。

 ただし,「人民は,彼らの政府及び皇位についての究極の裁定者である。」との規定は,194634日から同月5日にかけてのGHQと日本政府との折衝において,日本側の発意により削られています。「何故削レルヤ」とのGHQ側からの問いに対して「之ハ第1条ニ明ナリト答ヘタルニ了承セリ」ということですから(「日本国憲法の誕生」資料と解説3-21「三月四,五両日司令部ニ於ケル顚末」第7齣),あっさりしています。規定の重複を避けるという日本的法制執務の美学(「分類をするときに〔略〕日本の場合には1号,2号,3号を絶対重複しないように書きます」,「例えば1号に米と書いたら2号には麦と書き,3号には馬鈴薯と書き,4号は甘藷と書くとすると,そこへ,その他前各号に掲げるもののほか政令に定めるものというような書き方は,もちろんしますけれども」)を,「そういうとき〔分類をするとき〕に米と書いたあとで食糧なんて平気で書く」ラフな米国人(放送法制立法過程研究会『資料・占領下の放送立法』(東京大学出版会・1980年)446頁(吉國一郎発言))も理解してくれるようになっていたのでしょう。

 

3 GHQ市民の権利委員会の基本的人権分類論及びGHQ草案14条=日本国憲法15条の規定場所に関して

ところで,GHQ草案第3章における基本的人権に関して,市民の権利委員会はやはり分類論を有していました。運営委員会によって最終的に不採用とされる前は,同章は四つの節に分かれており,第1節は「総則(General)」,第2節は「自由(Freedoms)」,第3節は「社会的及び経済的権利(Social and Economic Rights)」,そして第4節は「司法上の権利(Juridical Rights. 具体的には刑事手続上の権利です。)」でした(「日本国憲法の誕生」資料と解説3-14 “Original drafts of committee reports”13齣から第28齣まで参照)。日本国憲法第3章の条文に即していえば,第18条の前までが総則条項で,第18(「何人も,いかなる奴隷的拘束も受けない。又,犯罪に因る処罰の場合を除いては,その意に反する苦役に服させられない。」)から第23(「学問の自由は,これを保障する。」)までが自由に関する条項,第24条から第31条の前までが社会的及び経済的権利に関する条項(なお,憲法24条は結婚の自由を規定したものであるという主張にとっては,同条は自由に関する規定ではないとされるのは,いささかすっきりしない分類学ということになりましょうか。),第31(「何人も,法律の定める手続によらなければ,その生命若しくは自由を奪はれ,又はその他の刑罰を科せられない。」)以降が司法上の権利に関する条項ということになります。ちなみに第3節の節名は,「社会的及び経済的権利」に落ち着くまでは「特定の権利及び機会(Specific Rights and Opportunities)」であり,第4節は,当初は総称を有する節としては構想されていませんでした(「日本国憲法の誕生」資料と解説3-14 “Drafts of the Revised Constitution”101齣から第167齣まで参照)。「特定の権利及び機会」は,自由とは異なり,積極的立法を必要とするというわけでしょう。

 市民の権利委員会が総則であるものとした諸条項中,我が憲法学の通説的見解が包括的基本権とするものは専らGHQ草案12条=日本国憲法13条の生命・自由及び幸福追求権並びにGHQ草案13条=日本国憲法14条の法の下の平等ということになるようなのですが(佐藤443頁以下),それら以外の条項をも統合して一つの総則とする理由付けとなるものとしては,筆者としてはやはりアメリカ独立宣言を推したいところです。請願権条項は,大日本帝国憲法(30条)では信教の自由(28条)並びに言論著作印行集会及び結社の自由の条項(29条)に続き,米国憲法でもその修正第1条において政教の分離及び信教の自由並びに言論出版及び集会の自由と併せて規定されているところですが,日本国憲法では第20条及び第21条の次にではなく,両条より前の第16条において突出して規定されています。この逸脱については,ヴァイマル憲法では選挙に関する第125条に続いて第126条で請願権について規定されていたからドイツ人のまねをしたのだと言うよりもむしろ,米国人ならばその正統的正当化事由としては,独立宣言に拠るべきでしょう。

 アメリカ独立宣言においては,政体の変更廃止及び政府の設立に関する人民の権利に係る前記の宣言に続き,十三殖民地人民による抵抗及び革命を正当化するため,ジョージ3世の行った秕政の数々の羅列があって,それが終って,いわく。

 

       In every stage of these oppressions, we have petitioned for redress, in the most humble terms; our repeated petitions have been answered only by repeated injury. A prince, whose character is thus marked by every act which may define a tyrant, is unfit to be the ruler of a free people.

   これらの圧政の各段階において,我々は最も恭しい礼譲をもって,匡救を求めて請願を行った。累次の我々の請願は,侵害の反復をもって答えられたのみであった。かようにしてその性格が,暴君を定義するにふさわしくあるべき各行為をもって特徴付けられるところの君主は,自由な人民の支配者たるにふさわしくない者である。

 

抵抗及び革命の前段階として,請願があるべきであるところ,日本国憲法は人民の抵抗権・革命権をそれとして規定せず(GHQに対する不埒な抵抗権など,とても認められません。),第15条の政府の人的要素を入れ替える権利と第16条の請願権とをもって,日本国の人民には既に十分であることを所期しているのでしょう〔ただし,16条の請願権は,人民(people)の権利ではなく,各人(every person)の権利です。〕。ちなみに,1946212日のGHQ民政局の運営委員会において,市民の権利委員会の原案にはなかった日本国憲法16条の「公務員の罷免」(removal of public officials)の部分が追加されたようです(「日本国憲法の誕生」資料と解説3-14 “Original drafts of committee reports”14参照)。当の請願相手を否認する請願も許されるということでしょうか。

なお,1946212日のGHQ民政局の運営委員会において,GHQ草案第3章の章名がそれまでの「市民の権利(Civil Rights)」から「人民の権利及び義務(Rights and Duties of the People)」に改められています(エラマン・ノート第31齣)。エラマン・ノートには記されていませんが,その理由は――大日本帝国憲法における「臣民権利義務(Rights and Duties of Subjects)」という用語にやはり倣うことにしたのかもしれませんが194624日のホイットニー局長主宰の民政局会議では「憲法を起草するに当たっては,構造,標題等については(for structure, headings, etc.)既存の日本憲法に従うものとする(will follow)。」とされていました(「日本国憲法の誕生」資料と解説3-14 “Summary Report on Meeting of the Government Section, 4 February 1946”3齣)。ただし,GHQ草案第3章には,兵役の義務(大日本帝国憲法20条参照)及び納税の義務(同21条参照)の規定はありませんでした。)しかし,CitizensPeopleかの問題はなおも残ります――同章では,国家(civitas)成立後の市民ら(cives)の権利のみならず,アメリカ独立宣言的な,国制の根本の確立にかかわる主権者たる人民(populus)の権利及び義務についても規定されていることに気付かれたからであるようにも思われます。(なお実は,GHQ草案の第3章の本文においては,“duty”又は“duties”の語は用いられていません。ただし,アメリカ独立宣言においては,人類(mankind)についてですが,「しかし,長い一連の権力濫用と簒奪とが,変わらず同一の目的を目指し,彼らを絶対的圧制の下に陥れんとする意図を明らかにするとき,そのような政府を転覆し,かつ,彼らの将来の安全のための新たな防御策を講ずることは,すなわち彼らの権利であり,彼らの義務(duty)なのである。」と述べられています。)

 

4 GHQ草案142項及び3項=日本国憲法152項及び4項に関して

 さて,GHQの市民の権利委員会の原意によれば日本国憲法151項は政体変更のための革命ないしは内戦に代えるに選挙をもってしようとする趣旨の規定ならば,同項と同条2項及び4項との関係はどうなるのでしょうか(同条3項は,前記のとおり後から貴族院で入った規定ですので,ここでは触れません。)。

 

(1)GHQ草案142項=日本国憲法152項(「全体の奉仕者」)と米国における「1800年の革命」と 

 日本国憲法152項は,選挙の勝利者に対して自制を促すための規定でしょうか。敗れた反対派を処刑したり(フランス革命式),外国(カナダ🍁)に去らしめる(アメリカ独立革命式)ようなことはせず,勝利後は,反対派をも含む共同体全体の奉仕者として振る舞ってくれよということでしょうか。

 確かに,米国聯邦政府における選挙による初の政権交代(180134日,聯邦党(フェデラリスツ)2代目大統領ジョン・アダムズから共和党(リパブリカンズ)(注意:今の共和党ではなく,むしろ民主党の前身)のトーマス・ジェファソン新大統領へのもの(なお,初代のジョージ・ワシントンから2代目アダムズへの大統領交代(1797年)は,聯邦党内における,同党の大統領からその副大統領への大統領職の引継ぎでした。))は,大統領選挙が行われた年の名を採って「1800年の革命」といわれたのでした(ただし,1800年に行われたのは大統領選挙人の選挙及び大統領選挙人による投票までであって(この段階でアダムズ敗退),第3代大統領を最終的に決める聯邦代議院(下院)における選挙(ジェファソン対アーロン・バー(実は,このバーは共和党の副大統領候補者だったのですが,修正第12条発効前の米国憲法においては大統領に係るものと副大統領に係るものとを区別せずに大統領選挙人は2名に投票することになっていたという欠陥(バグ)があったので,両者の得票が同数になってのこのようなことが起ったのでした。))が決着したのは1801217日のことでした。)

 1800年の米国大統領選挙における各候補者に対する中傷はひどいものだったようです。

ジェファソンについてある聯邦党員が言うには「〔ジェファソン〕は卑しい心根の,下劣な奴で,白黒(ムラ)混血(ットー)の父親に(はら)まされた混血のインディアン女の息子で・・・粗挽きの南部の玉蜀黍(とうもろこし)できた玉蜀黍(ホウ・ケ)パン(イク),ベーコン,皮剥き(ホミ)玉蜀黍(ニィー)そしてたまに(ブル)(フロッグ)のフリカッセばかり食べて育ったとのことで🌽🐸,コネチカット・クーラント新聞は,ジェファソンが当選したときには「殺人,強盗,強姦,不倫及び近親相姦が全て大っぴらに教えられ,実践されるだろう」と警告し,コネチカットの小さな町のある聯邦派の女性はジェファソンが当選したときには家庭(ファミリー)()聖書(バイブル)📕が取り上げられて廃棄されてしまうのではないかと心配して,唯一知っているジェファソン派(デモクラット)の人物に当該聖書を隠し持ってもらうことにした(ジェファソン派の家であれば捜索されないだろうと考えて)とのことです(Willard Sterne Randall, Thomas Jefferson: a life; HarperPerennial, New York, 1994: p.543)。他方,アダムズに対する中傷は,むしろ同じ聯邦党内の抗争においてあのアレグザンダー・ハミルトン(10ドル札)が担当しており,したがって「反対派ら〔聯邦党員〕が彼ら自らの大統領を中傷するため極めて十分の働きをしているということをあからさまに確信しつつ,彼ら〔共和党員〕はアダムズについては多くを語らなかった。」ということでした(John Ferling, John Adams: a life; Oxford University Press, New York, 2010: p.399)。

ジェファソンの伝記作家はいわく。

 

   少なくとも一人の候補者について,彼が国家の最高官職にふさわしくないように見せるために,あてこすり,噂及び嘲弄によってその評判を傷つけようとする試みがされなかった大統領選挙は,1800年以降存在しない。しかし,1800年の選挙戦ほどこれらの戦術が容赦なく粗暴なかたちで結合されたものはなかったのであり,ジェファソンを驚愕させ,その後何年もの間,国家は深く分断された。最初のものとなった相手方打倒指向で,かつ,長期化した選挙戦において,米国人は,彼らは小冊子又は書籍よりも新聞を好むこと,更に,彼らは醜聞記事が満載された新聞を好むことを明らかにした。それは最初の近代的選挙戦であり,一歴史家の言うところによれば,「当該選挙における候補者の徳性及び廉潔に対する攻撃は,それらの獰猛さ又は真実からの乖離において,いずれについてもその後凌駕されることはなかった。当該選挙戦において彼の評判は打撃を蒙り,それは当該打撃から依然として回復していない。」というものであった。〔後略〕

  (Randall: p.541

 

 ジェファソンが180134日に行った第3代米国大統領就任演説には,次のようなくだりがあります。

 

  今や本件〔大統領選挙〕が,憲法の定めるところに従って表明された国民の声によって決着せられた以上,全ての人々が,当然のことながら,法の意思の下に自ずと処を得,かつ,共同の善に向けた共同の努力において団結するのであります。また,全ての人々が,この神聖な原則,すなわち,多数派の意思が全ての場合において通るべきではあるが,当該意思は,正当であるためには道理(リー)()則った(ナブ)もの()でなければならないということ,少数派は,平等な法がその保護の義務を負い,かつ,それを蹂躙することは抑圧であるところの彼らの平等な権利を有しているということを心得ていくものであります。さあ,市民諸君,一つの心と一つの思いとをもって団結しようではありませんか。それなしには自由のみならず人生自体も味気ないものとなってしまうかの調和と親愛とを社会交際に復活せしめようではありませんか。

 

  我々は皆共和(リパブ)党員(リカンズ)であります――我々は皆聯邦(フェデ)党員(ラリスツ)であります。

 

  人民による選挙の権利を細心な熱意をもって大切にすること――それは,平和的解決方法が備わっていない場所においては革命の剣(the sword of the revolution)をもって切除されていた権力の濫用に対する穏和かつ安全(mild and safe)な匡正の制度なのであります。

 

 選挙による平和的政権交代はほとんど前代未聞のことでした。サミュエル・ハリソン・スミス(ナショナル・インテリジェンサー新聞の編集者)の妻が,ジェファソンの第3代大統領就任式典につめかけた群衆の中にいましたが,興奮気味(thrilled)の彼女は当該政権交代について,その書簡の中で次のように述べています。

 

  政権交代は,全ての政府及び全ての時代において最も一般的に,混乱,悪行及び流血の時期となっていましたが,この私たちの幸福な国では,何らの種類の騒動又は無秩序もなしに行われるのです。

  (Randall: p.548

 

 ところで,ヴァイマル憲法1301項も「公務員は,全体の奉仕者であって,一党派の奉仕者ではない。(Die Beamten sind Diener der Gesamtheit, nicht einer Partei.)」と規定していました。GHQ草案142項の文言は,あるいはここから採られたのかもしれません。しかしながら,ヴァイマル憲法上の公務員は終身雇用並びに恩給等及び既得権が保障された特権的存在であって(同憲法1291項(「公務員の任用は,法律で別に定める場合を除き,終身である。恩給及び遺族扶助は,法律により規定される。公務員の既得権は,不可侵である。公務員の財産権上の請求については,出訴が可能である。(Die Anstellung der Beamten erfolgt auf Lebenszeit, soweit nicht durch Gesetz etwas anderes bestimmt ist. Ruhegehalt und Hinterbliebenenversorgung werden gesetzlich geregelt. Die wohlerworbenen Rechte der Beamten sind unverletzlich. Für die vermögensrechtlichen Ansprüche der Beamten steht der Rechtsweg offen.)参照),同憲法1301項の規定は,当該身分保障特権があるがゆえの戒めの規定であるように思われます〔また,現在のドイツ聯邦共和国基本法335項もなお,「公務に係る法は,職業官吏制度に係る伝来の諸原則の尊重の下に規制され,かつ,拡充されなければならない。(Das Recht des öffentlichen Dienstes ist unter Berücksichitigung der hergebrachten Grundsätze des Berufsbeamtentums zu regeln und fortzuentwickeln.)」と規定しています。。人民がその罷免権を留保している建前〔したがって,spoils systemにも親和的でしょう。であるGHQ草案14条(日本国憲法15条)の公務員とは,異なる事情の下にあるようです。

しかし我が国の「公務員」観は,GHQ草案的というよりは,ヴァイマル憲法的なのでしょう。

 

(2)GHQ草案143項=日本国憲法154項:秘密投票制

 

ア 秘密投票制度に関する評価

 日本国憲法154項が規定する秘密投票制度に関しては,次のような議論があります。

 

(ア)ゲルマン戦士

 

    「かつてゲルマン民族において,重要事項の決定には武装権者の集会を開き,指導者の提案への賛成者は,楯を叩いて呼応した。こうすることによって,彼はその賛成した戦闘に命がけで参加することを,公衆の前で表明したのである。彼の意思表明は,彼の生命という裏づけをもつものであった。

     これに比べて,秘密投票制は,人前で表明できない,非公的・私的な意思に基づくものである。その投票には,責任の裏づけが欠けている。俺はその提案に賛成だ,しかし自分でそれを実践する用意はない。誰かがやってくれるだろう,私は御免だが,というわけである。

     秘密投票制に基づく近代民主制は,臆病者・卑怯者たちの私的意思を量的に積み重ねただけの無責任の体制である。」

   こういう議論はナチ時代に広く行なわれたし,かつて学生自治会や労働組合の集会などで,投票派に反対する挙手派によっても,しばしば唱えられた。〔後略〕

  (長尾龍一『憲法問題入門』(ちくま新書・1997年)134頁)

 

(イ)モンテスキュー

公開選挙を是とする論者の理由とするところは,ゲルマン戦士的男らしさの称揚ばかりではありません。愚かかつ浮薄な民衆に対する不信ということもあるようです。かのモンテスキュー師は,いわく。

 

   人民がその政治的意思表示(suffrages)をするときは,疑いなく,それは公開のものでなければならない(アテネでは,挙手で行われた。)。しかしてこれは,民衆政における基本法制の一つとみなされなければならない。下層民(petit peuple)は有力者ら(principaux)によって啓蒙されなければならないし,一定の人物らの重みによって控制されなければならない。かくして,共和制ローマにおいては,政治的意思表示が秘密にされるようになって,全てが破壊されたのである。自らを滅ぼしつつある下層民(populace)を啓蒙することは,最早不可能だったのである。しかしながら,貴族政下において貴族団が,又は民衆政下において元老院が政治的意思表示をする場合においては,そこでは専ら党派的術策(brigues)の防止が問題であるところ,政治的意思表示の方法が秘密に過ぎるということはないのである。

   党派的術策は元老院において危険である。それは貴族団において危険である。しかし,情動(passion)によって動かされる性質である人民のもとにあっては,それはそうではないのである。人民が政治に参与できない諸国家においては,政事についてそうであったであろうように,人民は役者に熱を上げるのである。共和政体における不幸は,党派的術策が絶えたときである。しかしてそれは,金銭給付によって人民が腐敗させられた場合に生ずるのである。人民は無関心になる。人民は金銭に愛着する。しかし政事には最早興味がない。政府及びその打ち出す政策について不安を抱くことなく,人民は,給付物を大人しく待つのである。

  (Montesquieu, De l’Esprit des Lois: Livre II, Chapitre II

 

  〔前略〕人民の動きは常に過剰であるか,又は過少であるかである。あるときは,人民は十万の腕をもって全てを覆す。またあるときは,十万の足をもってしても,人民は虫のようにしか進まないのである。

  (ibidem

 

 多数の「弱き」民衆についてこそ秘密投票がふさわしく,それに対して貴族やら元老院議員やらの「エリート」は,自らの政治上の決定・政見を堂々積極的に公開すべし,という「常識」(ちなみに,我が国では,1900年に改正された衆議院議員選挙法(明治33年法律第73号)以来衆議院議員の選挙について秘密投票制が行われ,他の選挙にもそれが及んでいましたが,例外として,貴族院の伯爵議員,子爵議員及び男爵議員をそれぞれ同爵において互選する方法は,選挙人が自らの爵氏名を記載しての投票でした(貴族院伯子男爵議員選挙規則(明治22年勅令第78号)102項)。)に反する意見が述べられています。人民はせっかくその「自由な意思に基づく投票を確保」(佐藤前掲)してやっても,その蒙昧な「自由な意思」では役者に熱を上げる仕方と同じような仕方でしか政事を考えることができず,結局情動次第の投票結果となるのであるから甲斐がないし危険である,そうであるのであれば有力者が代わりに考えてやって,しかして有力者間で人民の支持をめぐって正々堂々公然たる党派的術策の争いをする方がむしろよくはないか,他方,「エリート」は少数であるから各自において党派的術策の攻撃の集中を受けやすく,かえって秘密投票制度で守ってやらねばせっかくの独立的思考力を国家のための政治決定に生かすことができない・・・というようなpolitically incorrectなことをモンテスキュー師は考えていたのでしょうか。

なるほど確かに,「〔ライヒ議会の〕代議員は,20歳より上の男女による普通,平等,直接及び秘密の選挙において,比例代表式選挙の原則に基づき選出される(Die Abgeordneten werden in allgemeiner, gleicher, unmittelbarer und geheimer Wahl von den über zwanzig Jahre alten Männern und Frauen nach den Grundsätzen der Verhältniswahl gewählt.)」ものとされ(ヴァイマル憲法221項前段。下線は筆者によるもの),かつ,「選挙の自由及び選挙の秘密は保障される。その詳細は,選挙法が定める。(Wahlfreiheit und Wahlgeheimnis sind gewährleistet. Das Nähere bestimmen die Wahlgesetze.)」とされていた(同憲法125条。下線は筆者によるもの)1930年代のドイツにおいて,国民社会主義ドイツ労働者党が躍進したのでした。なお,ここであるいは余計な付言をすれば,モンテスキュー師は,人民が人を選ぶのではなく「政策」=政党なるものを選ぶ比例代表式選挙(Verhältniswahl)についても眉を顰めたかもしれません。

 

  人民は,その権威の一部を委ねるべき人々の選択においては称賛され得るものである。その判断に当たって人民は,知らずには済まぬことども及び感覚に応ずる事実のみに拠ればよいのである。ある人物がしばしば戦争に赴き,これこれの成功をした,ということを人民はよく知っている。したがって人民は,将軍を選出する高い能力を有しているのである。ある裁判官が勤勉であること,彼の法廷からは多くの人々が彼に満足して退出してくること,彼が腐敗しているとは認められていないことを人民は知っている。そうであれば,人民が法務官を選出するには十分である。人民が,ある市民の贅沢又は富に感心させられた。これで,人民が造営官を選出し得るということには十分である。全てこれらのことどもは,宮殿の中にいる君主よりもよりよく,公共の広場において(dans la place publique)人民が自ずと了知する事実である。しかし,政事を処理すること(conduire une affaire),場所,機会,時期を知ること,それを利用することを人民はできるであろうか。否。人民にはできないのである。

 (De l’Esprit des Lois: Livre II, Chapitre II

 

いずれにせよ,現在の某自由で民主的な国家におけるように,何かあればすぐに安易に政府から金銭給付をむしろ公明正大に受け取ることに主権者国民が慣れっこになっていると,確かに政府及びその政策(ばらまき政策を除く。)に係る党派的術策というような難しいことよりも先に,選挙において誰又はどこに投票すれば当面において一番沢山給付物を更にもらえるのかな,というようなことにしか国民の関心は無いようになり,国家・民族の更生及び再建のために肝腎な,主体的かつ真面目な主権意思の発動がされるという見込みもなくなるのでしょう。

 

イ オーストラリアにおける秘密投票制度の採用及びその事情

秘密投票制度は,1856年にオーストラリア🐨で始まったもので,『ブリタニカ』のホームページ(https://www.britannica.com/topic/Australian-ballot)によれば,「当該制度は,選挙人の保護(protection of voters)を求める公衆及び議会の増大する要求に応ずるため,ヨーロッパ及び米国に拡がった。」ということです。しかしてここでいわれる選挙人の保護とは,何からの保護だったのでしょうか。

オーストラリア国立博物館(National Museum of Australia)のウェブページ(https://digital-classroom.nma.gov.au/defining-moments/secret-ballot-introduced及びhttps://www.nma.gov.au/defining-moments/resources/secret-ballot-introduced)によると,秘密投票制度導入前の公開制の選挙は極めて暴力的で,人々は誰を選んだかをめぐって互いに襲撃し合っていたそうです。現在の秘密投票制下の選挙観察の楽しみ(関係者の悲喜こもごも)は,実は夜の開票速報の段階からなのですが,公開選挙制下では,選挙当日の朝から,各選挙人が人々の眼前で誰を選ぶかの意思表示をする都度,観衆の血は沸いて興奮が刻々と高まり,やがては肉が躍って荒れ狂うということになっていたわけです。「アルコール,賄賂,強制及び暴力は,〔選挙〕過程に内在的なものであった。そして,当時の選挙はしばしば,多くの負傷者を伴う暴動をもって終わったのである。〔略〕アイルランドのジャーナリストであるウィリアム・ケリーが初期のヴィクトリア州における選挙について言ったように,それらは,「熱狂の中のパントマイムそのもの」であった。」その熱狂の中「例えば,1843年には,シドニー及びメルボルンにおいて,選挙に係る意思表示をしている際2名の男性が撃たれました。」ということでした。しかして,「185512月,ヴィクトリア州立法評議会に秘密投票の法制化に係る法案が提出されました。当該法制化は,秘密に投票することを認め,他の人々によって影響され,又は強迫されないようにするものでした。これによって,選挙における暴力が減少することが期待されました(It was hoped this would reduce violence during elections.)。」とオーストラリア国立博物館は書いています。この書き振りを見る限りにおいては,秘密投票制導入時のそもそもの又は直接の目的においては,「有権者の自由な意思に基づく投票を確保する趣旨」(佐藤前掲)ということよりは,社会的に,選挙の平和を維持することが主眼であったように思われます。

しかし,いずれにせよ,革命ないしは内戦(bullet)に代えるに平和な選挙(ballot)をもってしようということが日本国憲法151項の本来の趣旨であると解するのであれば,「穏和かつ安全」な選挙を確保するためのものとして同条4項の秘密投票制を理解することも,あながち間違いとはいえないでしょう

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 日本国内閣総理大臣の中南米的指導者化傾向

 

   岸田文雄首相は〔20246月〕21日に〔内閣総理大臣〕官邸で記者会見を開き,物価高対策として,〔同年〕5月使用分を最後に終了した電気・ガス料金の負担軽減策を「8月からの3カ月間行う」と述べ,補助を再開する方針を明らかにした。ガソリンや灯油など燃料価格の抑制策は年内に限り継続する。今年秋に経済対策の策定を目指すとした上で,年金世帯や低所得者を対象に給付金を支給することを検討する考えも示した。

   内閣支持率が低迷する中,物価高に直面する家計負担の軽減策を追加し,政権浮揚につなげる思惑もありそうだ。ただ国の財政負担はさらに膨らむ恐れがあり,政策の一貫性を欠く迷走ぶりも浮かぶ。〔後略〕

  (2024621228分共同通信配信記事・東京新聞ウェブサイトから。下線は筆者によるもの)

 

 「日本も中南米(ラテン・アメリカ)化しつつあるなぁ」とは筆者の感慨です。

口に苦い良薬の・真の構造的問題に対する厳しい取組からは目をそむけ,一見分かりやすく,かつ,人気につながりそうな甘く安易な目先のばら撒き施策に走って国家財政を破綻させ,やがて民心は腐敗し,国内は混乱し,若者は米国に向け脱出し,せっかくの国家的・国民的な潜在力が無慙にも無駄になってしまう,との道筋を思わず知らず描いてしまうのは,筆者の偏見でしょう(偏見であって欲しいものです。)。――無論,現在の日本国は既に高度に老化していますから,混乱といっても,若い男性の群れが暴れ回るといったギラギラと暑苦しいものではなく,黄昏の中,もはや福祉の手が回らなくなっていかんともしがたくなった無残な姿の認知症老人がおぼつかない足取りでふらふらと大量に,かつ,あまねく徘徊するといった形で顕在化されるのでしょう。また,「せっかくの潜在力」というほどの精神的・肉体的(ポテンシャル)ももう我が衰廃民族には残されてはいないのでしょうが・・・。(なお,多くの日本人には米国の食事🍔は舌に合わないようで,“America, or bust”的な米国移住に向けた憧れは,我が国においては依然として大きくはないように観察されます。)

というような思いを触発させる,日本国の内閣総理大臣の中南米的指導者化傾向という事態に直面するとき,不図,四半世紀前の我が内閣総理大臣官邸において生じた,次のような印象深い親和力(ケミス)()作用(リー)が想起されるのでした。

 

2 小渕総理とチャベス大統領と

 

(1)小渕総理の羨望

 

   大統領の球は5倍速い/ベネズエラ大統領と小渕首相が野球談議

   小渕〔恵三〕首相は〔199910月〕13日,首相官邸で,ベネズエラのチャベス大統領と会談し,経済協力などについて意見交換した〔https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1079833/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/99_1001/1001_13b.html〕。引き続いて行われた首相主催の昼食会には,ベネズエラ出身で日本のプロ野球で活躍中のペタジーニ選手(ヤクルト)も出席し,両首脳は野球談議に花を咲かせた。

   45歳のチャベス大統領は大の野球好きで,少年時代の夢は「米大リーグで投げること」。2月には大リーグのホームランバッター,サミー・ソーサ選手に真剣勝負を挑んだという。歓迎のあいさつで首相が「私も5月に訪米した際,(始球式で)ソーサ選手に投げ込んだが〔https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1079833/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/99_0501/0501.html〕,大統領の球は私の5倍は速いと思う」とエールを送ると,大統領は「そんなに速くはない」と苦笑い。〔後略〕

  (読売新聞19991014144面)

 

和気藹々です

バリナス州の貧しい教師の家に6人兄弟の一人として生まれたチャベス大統領は,「地方の無名の子として生まれたが,一般ベネズエラ人から感情移入され得る無比の能力を有し,かつ,巧妙な策をも多々弄するところの,天性の演技者(パフォーマー)交感(コミュニ)能力者(ケイター)として頭角を現した。(Born in provincial obscurity, he proved to be a natural performer and communicator, with an unmatched ability to empathise with ordinary Venezuelans, combined with plenty of cunning.)」ということですから(“Hugo Chávez’s rotten legacy”, The Economist, March 9th, 2013),小渕総理もその魅力に抗うことができなかったものでしょう。メキシコの左翼作家であるカルロス・フエンテスは,チャベス大統領を「熱帯のムッソリーニ」と呼んでいたそうです(“Venezuela after Chávez / Now for the reckoning”, The Economist, March 9th, 2013)。また,コロンビアのノーベル賞作家であるガブリエル・ガルシア・マルケスは,ベネズエラ大統領に当選後のチャベス次期大統領について,「他と同様の専制者として歴史書に残ることになるのであろう幻想家」であるキューバのフィデル・カストロとの対比において,「運命の気まぐれにより,その国を救う機会を与えられた者」との印象を記していました(Michael Shifter, “In Search of Hugo Chávez”, Foreign Affairs, May/June 2006: p.45)。

 

   小渕首相の一日 〔199910月〕13 「小渕恵三も20年ぐらい若ければなあ」

   〔前略〕

   156分,チャベス大統領との会談の感想を聞かれ,「若い大統領のはつらつとした意欲を感じました。小渕恵三も二十年ぐらい若ければなあ・・・。あちらは45歳ですからね」

   〔後略〕

  (読売新聞19991014144面)

 

   首相日々

   〔前略〕

   (記者団の「会談を終えた感想は」に「若い大統領ですから,新ベネズエラをつくろうという熱心さを感じました。はつらつとした意欲を感じました。小渕恵三も20年ぐらい若ければなあ・・・。あちらは45歳ですからね。」)

   〔後略〕

  (毎日新聞19991014142面)

 

小渕総理の一日19991013日・内閣総理大臣官邸ホームページ)

https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1079833/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/1999_10_calender/10_13.html

 

(2)小渕総理の年齢及び死

1937625日生まれの小渕総理は,19991013日には,623箇月と19という年齢でした(明治35年法律第50号(年齢計算に関する法律)の第1項によって出生の日から起算し,同法2項により,暦に従って年及び月を数えた上(民法(明治29年法律第89号)143条),日数については最終日を含めて計算しています。以下同様です。なお,余計なことながら,明治35年法律第50号の第3項によって廃止された明治6年太政官布告第36号は「自今年齢ヲ計算候儀幾年幾月ト可相数(あひかぞふべき)事/但旧暦中ノ儀ハ1干支ヲ以テ1年トシ其生年ノ月数ハ本年ノ月数ト通算シ12ヶ月ヲ以テ1年ト可致(いたすべき)事」と規定していたものです。新旧の暦(明治6年(1873年)11日から新暦採用)の間の通算方法に苦心している様子が窺われます。)。頽齢をかこつにはまだ早かったようにも思われますが,その翌年の20004月に脳梗塞で倒れ同月2日に入院し,同年514日に6210箇月と20で死去しています。199910月には,既に何らかの体調不良を覚えていたのでしょう。また,小渕総理は1999年(平成11年)1112日に挙行された天皇陛下御在位十年記念式典の式典委員長を務めており(https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1079833/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/99_1101/1101_12.html),当該式典の一部参列者間においては「実は小渕(ぶっ)総理()も,絶対,在職十年超えを狙っているよな」という口さがないささやきがありましたが,小渕内閣の存続期間は結局,1998730日から200045日までの18箇月と6日ということで終わりました(初日不算入とし(民法140条),後継の第1次森内閣が成立した日を含めて計算。小渕内閣の総辞職は200044日)

なお,1957729日生まれの岸田総理は,2024621日には既に6610箇月と24日でありました。

 

(3)チャベス大統領の年齢及び死

ところで,その若さを小渕総理に羨ましがられたベネズエラのウゴ・チャベス大統領ですが1954728日生まれなので,19991013日には452箇月と16日。同年22日に446箇月と6日で大統領に就任していました。),在職十年は悠々突破したものの(「チャベス氏は,圧倒的であるものから余裕があるものまでの差をつけて四つの選挙に勝利し,6回行われた国民(レファレ)投票(ンダムズ)のうちわずか1回失敗しただけだった。」とのことです(“Hugo Chávez’s rotten legacy”, The Economist)。ただし,20024月の首都騒乱の際には,一時大統領職を辞しています。),しかし面会時の小渕総理の年齢まで生きることはできませんでした。癌を患い2011年に公表)201335日,ベネズエラ・ボリバル共和国大統領在任のまま,587箇月と6日で死亡しています。

 

  チャベス氏の死は,何百万ものベネズエラ人によって悼まれた。彼らにとって彼は,天恵により増大した石油収入をばら撒いてくれる(handing out)とともに,「帝国」(またも米国)及び「寡頭勢力」(すなわち富裕層)に対して挑戦的な言辞を浴びせかける,一種のロビン・フッドであったのである。

 (“Venezuela after Chávez”, The Economist

 

3 ベネズエラの経済政策(ボリバル革命)と我が経済政策(失われた三十年)と

 2000年から2012年までのベネズエラの石油輸出による総収入は,2000年以降は産出量が減少していたにもかかわらず,実質額においてその前13年間のそれの2倍半以上になっていたそうです(“Venezuela after Chávez”, The Economist)。これに対して我が国は石油産出国ではないので,ばら撒こうと思えば国債を発行することになりますが,財務省資料によれば,2000年度末の普通国債残高が3675547億円であったのに対し,2012年度末のそれは7050072億円と2倍近くになっています。2024年度末には1105兆円になる見込みであるそうです。橋本内閣期の1997年度の国債発行額は498900億円(借換債の314320億円を除くいわゆる新規国債は184580億円)でしたが,小渕内閣期の1999年度には775979億円(借換債の400844億円を除くいわゆる新規国債は375136億円)になっています。既に小渕総理は当時,世界一の借金王となってしまった,とぼやいていたところです。したがって,自身の政策の安易な前例化は受け付け得なかったものでしょう。ちなみに,2024年度の国債発行予定額は1819956億円(そのうちいわゆる新規国債は354490億円)であるそうです。嗚呼,失われた三十年。

 岸田総理は経済対策及び給付金支給を現在計画しているわけですが,これらは,早稲田大学の先輩である小渕総理的な施策というべきものでしょう(https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1079833/www.kantei.go.jp/jp/obutisouri/obuchiyear/obuchi_oneyear_02.html)。19981116日に小渕内閣は「過去最大」の経済対策を決定し,更に1999129日には,全国で対象者約三千五百万人,一人当たり2万円の地域振興券の交付が始まっています(https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1079833/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/99_0216/02202.html)。(なお,公明党と自由民主党との連立は,小渕政権下の199910月以来のことです。)

 ばら撒きのほかにチャベス大統領がしたベネズエラ人民喜ばせ策は,盟邦のキューバ政府肝煎りの「ミッションズ(missions)」であって,「実質的に無料の石油との引換えに,キューバは,何千人もの医師及びスポーツ指導者(トレイナーズ)をベネズエラに派遣した。とのことです(“Venezuela after Chávez”, The Economist)。無論,我ら病弱な日本の老国民も,医療及び福祉並びにスポーツ(観戦)は大好きです。来月(20247月)にはパリでオリンピックが開催されますところ,毎度のことながら,がんばれニッポン!

 しかしながら,「広報(プロパ)宣伝(ガンダ)の背後において,ボリバル革命は,腐敗し,不手際に運営された事業であった」ところです。「経済は,石油と輸入品にますます依存するようになった。農場の国有化は農業生産を減少させた。物価及び外国為替の管理は執拗なインフレーション及び生活必需品の不足を防止することができなかった。インフラストラクチャーは崩壊し,もう何年も,国の大部分において,頻繁な停電を忍ばねばならないことになっている。病院は腐敗し,「ミッションズ」すら,その多くが停頓した。犯罪は増加し,カラカスは世界で最も暴力的な首都の一つである。治安部隊の一部よる関与の下,ベネズエラは薬物取引の一経路となっているとのことでした“Venezuela after Chávez”, The Economist)。大統領官邸のチャベス大統領専用エレベータも水漏れがするようになっていたそうです(“Goodbye, Presidente”, The Economist, March 9th, 2013)。当局の無能・脆弱,製造業の空洞化,国家の保護下にある農業の不振,物価高及び通貨安,電力供給等に係る不安,医療不信並びに薬物事犯その他の犯罪の増加・・・と並べてみると,身につまされますね。ただし,「チャベス氏のなした至高の政治的達成は,多くの普通のベネズエラ人はばら撒きをもってチャベス氏を評価し,諸々の不手際について彼を非難することはしなかったということである。彼らは彼を彼らの一員,彼らの側に立つ者とみなしていた。彼の支持者ら,なかんずく女性たちは,言ったものである。「この人は,貧しい人々を助けるために神から遣わされたのです。」と。」ということでありました(ibidem)。我が国においても,政府からの給付金等を期待し歓迎する人々の層が厚みを増しているように感じられます。また,岸田総理も,女性におもてになるのでしょう。

ところで,主権者たる国民についてですが,「14年間,ベネズエラ人らは,彼らの問題はだれか別の者――米国又は「寡頭勢力」――によって生ぜしめられたものであると告げられ続けてきた。生活の向上は,能力(メリット)ではなく,政治的忠誠のいかんによった。主に広報(プロパ)宣伝(ガンダ)を教え込むものであるところの「大学」に何百万人もの者を大規模在籍させことは,実らないことがほぼ確実な期待のみを高めた。」とは(“Venezuela after Chávez”, The Economist),微妙な意地の悪さが感じられる口吻です。とはいえ無論,普通の人々が悪い(自己責任を負う)ということは全くあり得ない一方,能力を鼻にかけた鼻持ちならないThe Economistの読者的なエリートは粉砕されるべく,大学の無償化は異論の余地なく素晴らしいことであります。

 

4 蛇足🐍👣

 以上,いずれも在職中に病に倒れた小渕総理とチャベス大統領とに関して雑文を草したところですが,ここでかねてから筆者にとって気になっていた点に関して蛇足を付しておきましょう。

 

(1)受任者による事務処理の不能と委任契約の存否と

 小渕内閣の総辞職は,内閣総理大臣が脳梗塞で倒れて再起不能となったことをもって日本国憲法70条の「内閣総理大臣が欠けたとき」(英語文では,“when there is a vacancy in the post of Prime Minister”)に該当するものとする,という解釈の下に行われたわけですが,民法上の委任との比較でいえば,受任者が意思能力を喪失したときには直ちに当該受任者が「欠けたとき」となって委任契約が終了することにはならないもののように一応解されます。民法653条は,委任の終了事由として「委任者又は受任者の死亡」(第1号),「委任者又は受任者が破産手続開始の決定を受けたこと」(第2号)及び「受任者が後見開始の審判を受けたこと」(第3号)を挙げておりますところ,同条3号によれば,受任者が「精神上の障害により事理を弁識する能力を欠」いただけでは委任は終了せず,更に家庭裁判所による後見開始の審判が必要であることになるようではあるところです(同法7条参照。なお「精神上の障害により」とはくどい表現であるようですが,これは,刑事禁治産(旧民法人事編(明治23年法律第98号)236条及び237条,旧刑法(明治13年太政官布告第36号)旧103号並びに旧35条及び旧36条並びに民法施行法(明治31年法律第11号)14条から16条まで参照)との関係によるものであって,刑事禁治産ではないこと明らかにするための表現でしょう(梅謙次郎『訂正増補民法要義巻之一 総則編』(法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1911年(第33版))23-24頁参照)。)。このことは,「精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く常況にある者」も,意思能力を回復することが時々あり得るからでしょう。

しかして,「委任は,契約に共通な終了原因,例えば,〔略〕委任事務の履行不能〔略〕などによつて終了する」とされています(我妻榮『債権各論中巻二(民法講義Ⅴ₃)』(岩波書店・1962年)688頁。また,星野英一『民法概論Ⅳ(契約)』(良書普及会・1994年)290頁)。これについては,意識を不可逆的に全く失っていれば,法律行為の外観のある行為すら行うことができず,正に完全に委任事務の履行不能となるものと解してよいのでしょう。報酬支払特約(民法648条)のある双務契約たる委任契約における危険負担について考えてみても,平成29年法律第44号による改正前の民法5361項(「〔略〕当事者双方の責めに帰することができない事由によって債務を履行することができなくなったときは,債務者は,反対給付を受ける権利を有しない。」)においては,当事者双方の責めに帰することのできない事由によって受任者の事務処理が不能になった場合は反対給付たる報酬を受ける権利を当該受任者は失い,すなわち委任者も債務を免れ,当該委任契約は債権発生原因として結局無意味なものであることに帰することになりますから,委任契約終了ということでよいのでしょう。

しかしながら,平成29年法律第44号による改正以後の民法5361項は「当事者双方の責めに帰することができない事由によって債務を履行することができなくなったときは,債務者は,反対給付の履行を拒むことができる。」と規定して,事務処理をすることが不能になった受任者であっても名目的にはなお報酬請求権を有し,委任者はその支払を拒むことができるだけ,ということになるようです。すなわち,委任契約はなお生きており,その終了のためには解除が必要となるわけです。ところが,契約の解除は相手方に対する意思表示でされるものであるところ(民法5401項),意思能力のない相手方に対する意思表示は当該相手方に対して対抗できないものとされています(同法98条の2本文)。(なお,「対抗することができない」とは,無効の主張は当該相手方にのみ許されるという趣旨です(梅250頁)。)そうであるとすれば,やはり家庭裁判所の手を煩わして,意思能力を失った受任者のために成年後見人を付さねばならないことになるようです(民法98条の21号及び859条)。何だか面倒なことになっています。

ちなみに,現行の民法5361項に関して「債権者は,債務者に帰責事由がない場合には,危険負担制度に基づき当然に反対給付債権の履行を拒むことができる上,契約の解除をすることにより,反対給付債務を確定的に消滅させることもできることになる。」と説かれていますが(筒井健夫=村松秀樹編著『一問一答 民法(債権関係)改正』(商事法務・2018年)228頁),解除に遡及効のない委任契約の場合(民法652条及び620条),既発生の報酬支払債務は,履行拒絶権と共に気持ち悪く残ってしまうことになるのでしょう。消滅時効の適用も,受任者はそもそも当該債権を行使できないのですから無理であるように思われます(民法1661項及び破産免責決定の効力を受ける債権に係る最判平成11119日民集5381403頁参照)。

 

(2)米国憲法修正254節など

 小渕総理の不可逆的執務不能は,小渕内閣の他の閣僚の一致した見解によって認定され,「内閣総理大臣が欠けた」として国会法(昭和22年法律第79号)64条に基づき同内閣から両議院に通知されたということになるのでしょう。

これに対して,米国憲法の修正254節(ウッドロー・ウィルソン大統領が191910月に脳内出血のため執務不能に陥ったところ,その後17箇月間同大統領夫人が大統領職を代行していたという不祥事例に対応するものです(飛田茂雄『アメリカ合衆国憲法を英文で読む』(中公新書・1998年)237頁参照)。)1項は,米国大統領の執務不能は,副大統領と,行政部諸長官又は議会が法律で設けることある機関の構成員の過半数との意見の一致によって決定され,その旨書面で元老院(上院)臨時議長(註:同院の議長職は,副大統領が務めます。)及び代議院(下院)議長に通知された上で副大統領が大統領心得(Acting President)として執務を開始するということになっています(副大統領が大統領になるのは大統領が解任され,又は死亡し,若しくは辞職した場合であって(同条1節),意識不明であっても大統領が生きている限りは,飽くまでも大統領心得です。)。日本国政府の閣議は全会一致が原則である分,米国政府における大統領の執務不能認定よりも手続が厳重であることになるのでしょう。

米国憲法修正2542項は,副大統領と行政部諸長官又は議会が法律で設けることある機関の構成員の過半数とによる上記執務不能の通知に対抗して大統領が執務不能の不存在を元老院臨時議長及び代議院議長に書面で通知した場合についてのもので,副大統領と行政部諸長官又は議会が法律で設けることある機関の構成員の過半数とがなおも大統領に係る執務不能の認定を維持するときには,最終的に議会が裁定することになる旨の規定です(21日以内に両議院がいずれも3分の2以上の多数で大統領の執務不能を認定すれば副大統領による大統領職の代行は継続,それ以外の場合は大統領による執務が再開)。日本国においては,内閣総理大臣以外の閣僚の全員一致による判断を一応受け容れた上で,内閣総理大臣はなおも執務可能であると国会(衆議院)が自ら判断すれば,再び同人を内閣総理大臣に指名すればよいということになるのでしょう(日本国憲法67条)。

 余計なことながら,高齢のバイデン大統領は,お元気でしょうか。

 

(3)内閣総理大臣の辞職と任命者(天皇)との関係

 内閣総理大臣は天皇によって任命されるところ(日本国憲法61項),内閣総理大臣が辞職するときには,その辞表が天皇に奉呈されるべきものかどうか。

大日本帝国憲法下では,国務大臣を免ずることも天皇の大権事項でありました。すなわち,大日本帝国憲法10条は「天皇ハ〔略〕文武官ヲ任免ス〔後略〕」と規定していたところ,「国務大臣の任免は,憲法上,天皇の大権事項に属する。従つて内閣総理大臣の罷免――内閣の退陣は,一に聖旨に存する。例へば内閣総理大臣が,闕下に伏して骸骨を乞ひ奉るが如き場合に於ても,其の之を聴許し給ふと否とは,全く天皇の御自由である。また仮令内閣総理大臣の側に於て,進んで骸骨を乞ひ奉るが如きことなしとするも,天皇に於て之を免じ給ふことも亦全く御自由である。即ち〔略〕,内閣存続の基礎は,専ら至尊の信任に存するのである。」ということでありました(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)326頁)。このことに関する公務員法理論的な説明は次のとおりでしょう。いわく,「公務員関係の特色としては,辞職の意思表示ではなく,辞職願いを任命権者が承認することによって,始めて関係が消滅することがある。この点は,法律のレベルでは必ずしも明確ではないが,人事院規則はこのことを前提として,書面による辞職の申出があったときは,特に支障のない限り,これを承認するものとするとしている(人規8-1273条〔現在は第51条に「任命権者は,職員から書面をもって辞職の申出があったときは,特に支障のない限り,これを承認するものとする。」と規定。〕。地方公務員法には特段の規定がない)。この点は行政法関係において,行政行為によって成立した関係の消滅も行政行為(行政法一般理論における行政行為の撤回)によるという一般的了解の公務員関係への適用とも考えられるが,公務の突発的停廃を防止するのがその趣旨であろう。」と(塩野宏『行政法』(有斐閣・1995年)208頁)。

以上の公法的規整に対して,私法における民法651条による受任者による委任契約の解除は,同法5401項に基づき委任者に対する意思表示によりされ,同法971項によって委任者に到達した時に効力を生ずることになります。なお,民法655条は,解除の場合には適用がありません(我妻699頁。ドイツ民法674条は„Erlischt der Auftrag in anderer Weise als durch Widerruf, so gilt er zugunsten des Beauftragten gleichwohl als fortbestehend, bis der Beauftragte vom dem Erlӧschen Kenntnis erlangt oder das Erlӧschen kennen muss.“と規定しています(イタリック体は筆者によるもの)。)。解除の時期の不都合(事務処理の「突然の停廃」)によって生じた問題は,金銭賠償をもって清算されることになります(民法65121号)。

 ところで,日本国憲法下での内閣総辞職の手続については,実は当初は,内閣総理大臣から天皇に対する辞表の奉呈がface-to-faceでされていました。

 

  〔19475月〕20日 火曜日 第1回国会特別会召集日につき,午前10時より表拝謁の間において内閣総理大臣吉田茂の拝謁を受けられ,日本国憲法第70条中の「衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは,内閣は,総辞職をしなければならない」の規定に基づき,辞表の奉呈を受けられる。〔以下略〕

  (宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)330頁)

 

  〔19482月〕10日 火曜日 正午前より表拝謁の間において内閣総理大臣片山哲の拝謁を受けられ,奏上並びに内閣総理大臣の辞表の奉呈を受けられる。〔後略〕

  (宮内庁615頁)

 

これが,19483月の芦田均内閣成立の際,以後改められるということになりました。

 

  〔19483月〕10日 水曜日 午後,表拝謁の間において,法務総裁鈴木義男の拝謁を受けられ,片山内閣の総辞職及び芦田内閣の成立について法律面からの説明をお聞きになる。これより先,鈴木は「内閣総辞職の際の手続並慣行について」と題する意見書を閣議に提出し,去る2日閣議了解となる。同意見書によれば,日本国憲法上の天皇の地位に鑑み,辞意を表明した首相の参内・拝謁等は行うべきではなく,今後天皇に対する儀礼上の慣行として,新首相の親任式及び閣僚の認証官任命式の式前或いは式後に,適宜御挨拶を申し上げることが適当とされた。〔略〕

  午後,表拝謁の間において,内閣総理大臣片山哲より内閣の総辞職及び新内閣の成立についての内奏をお聞きになり,ついで午後230分,同所に出御され,内閣総理大臣芦田均の親任式を行われる。〔略〕

  表拝謁の間において,内閣総理大臣芦田均より新内閣の認証官任命についての内奏をお聞きになる。なお,内奏の後,芦田より共産党への対策や宮内府に対する連合国最高司令部の意見についてお聞きになる。ついで午後3時より同所において,国務大臣西尾末広以下15名の認証官任命式に臨まれる。〔中略〕なお,内閣総理大臣から官記を受領した各任官者に対し,この度よりそれぞれお言葉を賜うこととされる。〔略〕

  (宮内庁623-624頁)

 

 上記鈴木法務総裁の「内閣総辞職の際の手続並慣行について」意見書の由来は,「昭和23年〔1948年〕31日,「内閣総辞職の際辞意表明の相手方退任の手続等に関し実際上ならびに法律上疑義あるやにつき」ということで,法務総裁から内閣総理大臣あて次に述べるような意見(抄)が提出されたことがある。そして,その後における内閣の総辞職はこの意見を参考に行われるようになり,現在では,このような内閣総辞職の慣行は確立されているといえよう。」ということであるそうです(内閣制度百年史編纂委員会編集『内閣制度百年史 上巻』(大蔵省印刷局・1985年)132-133頁)。

 鈴木意見書の内容(抄)は,次のとおり。

 

  一 実際上の手続

(一)内閣が総辞職を決定したときは(閣議決定後)その旨文書をもつて衆参両院議長に通告すること。

  (二)内閣総理大臣および各国務大臣の文書による辞表の提出はこれをなす必要のないものと解する。

  (三)従つて新憲法上の天皇の地位にかんがみ誤解を生ずる虞あるをもつて辞意を表明した首相の参内拝謁等はその際は行わざるを適当と信ずる。

  (四)今後の政治上の慣行としては以下の如く取運ぶべきであろう。(1)総辞職の決定(2)国会への通告 (3)国会における後継内閣総理大臣の指名 (4)組閣完了 (5)組閣完了を国会および辞意を表明したる内閣総理大臣に通告 (6)閣議開催,新総理任命の助言と承認決定 (7)宮中の都合を打合せ旧新両首相ならびに新国務大臣参内,任命式ならびに認証式執行 (8)右式を終れば辞令等を用いずして前首相ならびに旧閣僚は当然退任となる(註,留任する大臣も一旦退任し新内閣の閣員として新に任命認証を受けるのである) (9)新内閣の成立を正式に国会へ通告。

(五)天皇に対する儀礼上の慣行としては右任命式に参内の節式前または式後において御挨拶申上ぐることとするのが適当であろう。退任した国務大臣はその後個別的に参内記帳等適当に御挨拶申上ぐること。(ただしこれは勿論各前大臣の任意である)

  二 法的根拠

    憲法の解釈として内閣総辞職の際退任する内閣総理大臣および各国務大臣に対し免官の式等を行わずまた特に辞令等を用うる必要のない理由はおおむね次の如くである。

     内閣の総辞職は,内閣から国会に対し総辞職する旨を通告してなされる内閣自体の一方的行為であり,その結果として内閣総理大臣および各大臣は当然に退任するのであつて,内閣総理大臣に対する免官の辞令その他各大臣の単独の退任の場合の如く各国務大臣より内閣総理大臣に対する辞表の提出,各大臣に対する免官の辞令,天皇の認証等特段の手続を必要としない。

    (内閣制度百年史編纂委員会133-134頁)

 

一(一)は,国会法64条の「内閣は,内閣総理大臣が〔略〕辞表を提出したときは,直ちにその旨を両議院に通知しなくてはならない。」との規定に対応するものでしょう。同条の「辞表の提出」は,本来は内閣総理大臣から天皇への「辞表の提出」を意味するものと解されていたのでしょうが(吉田茂(第1次)及び片山哲の前例),ここで読替えがされたわけです。なお,「内閣の存立が内閣総理大臣の在任意思にかかるものであるのは自明のことであって,内閣総理大臣が自ら辞意を表明したとき(国会法64条)が右〔日本国憲法70条〕の「欠けたとき」に含まれるかどうかは,あえて論ずるまでもない。」(内閣制度百年史編纂委員会132頁)ということですが,「内閣の総辞職は,内閣から国会に対し総辞職する旨を通告してなされる内閣自体の一方的行為」(二)であるところ,厳密にいえば,内閣総理大臣の辞職の意思表示が両議院に到達した時に日本国憲法70条の「内閣総理大臣が欠けたとき」になるのでしょう。国家法人説的には,内閣総理大臣を任命する行為をする国家機関は天皇であるものの,内閣総理大臣の辞職の意思表示を受領する機関は専ら国会であることにしたということになるのでしょう。

一(二)における「内閣総理大臣の文書による辞表の提出」の要否が天皇との関係で問題となったわけですが(内閣総理大臣以外の国務大臣に係る辞表の提出先は内閣総理大臣となります(日本国憲法68条)。),国会法64条の通知で辞職の意思表示は実行済みなので屋上屋を架する必要なし,ということになったわけでしょう。

一(四)に関しては,内閣総理大臣の指名に係る衆議院議長から内閣を経由しての天皇への奏上(国会法652項)が,(3)と(7)との間にあるはずです。

一(四)(8)に関して一言すれば,内閣総理大臣の辞職は,その単独行為であるものの,次の内閣総理大臣の任命時に効力が生ずる不確定期限付きの法律行為であるということになるのでしょう。委任の終了後の処分に係る民法654条の場合についても,「立法の趣旨は,その間委任を継続させようとするものと見るのが妥当」であるものとされています(我妻698頁。ドイツ民法673条の„der Auftrag gilt insoweit als fortbestehend“(この場合において,委任は,継続しているものとみなされる。)との規定をもって,「ド民〔略〕673条」は「委任は継続すると規定する」と同所で紹介されています。)。

内閣総理大臣が突然辞職しても「公務の突発的停廃」は起らないものでしょうか。起る可能性があるとしても,その防止を担保するのに天皇の聴許権をもってすることは筋違いだということでしょう。既に美濃部達吉が,自らの進退に関する国務大臣の責任の重さを強調していました。いわく,「従来の実例に於いては,国務大臣が往々進退伺を陛下に奉呈することが行はれて居るけれども,是も国務大臣の地位とは相容れないものと言はねばならぬ。国務大臣は自己の進退に付いては,自己の責任を以て,自ら処決すべきもので,自分の進退に付き自ら処決せずして聖断を待つが如きは,自己の責任を回避し,責を至尊に帰するものである。」と(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)513-514頁)。

なお,内閣総理大臣と並んで天皇により任命される最高裁判所長官(日本国憲法62項)の辞職の意思表示は,やはりこれも天皇に対してすべきものではなく,指名権者である内閣に対してすべきものとされるのでしょう。

ところで,次の事実はどう考えるべきでしょうか。

 

 〔194810月〕6日 水曜日 〔略〕

 表拝謁の間において,内閣総理大臣芦田均・文部大臣森戸辰男・厚生大臣竹田儀一・商工大臣水谷長三郎・労働大臣加藤勘十・逓信大臣富吉栄二・国務大臣野溝勝地方財政委員会委員長・農林大臣永江一夫・国務大臣船田亨二行政管理庁長官兼賠償庁長官をお招きになり,茶菓を賜う。〔略〕

 表御座所において,内閣総理大臣芦田均の拝謁をお受けになる。その際,芦田は,内閣総辞職の決意を言上する。翌7日,芦田内閣は総辞職する。〔後略〕

 (宮内庁709頁)

 

 昭和天皇は偉大な立憲君主であり,政治的人間でありました。昭和天皇崩御時の内閣官房長官であった小渕総理(「平成おじさん」)も,尊敬する人物として昭和天皇を挙げていました。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 ミュンヒハウゼン男爵の冒険と札幌高等裁判所令和6314日判決と

 

Gleichwohl sprang ich auch zum zweiten Male noch zu kurz, und fiel nicht weit vom anderen Ufer bis an den Hals in den Morast. Hier hätte ich unfehlbar umkommen müssen, wenn nicht die Stärke meines eigenen Armes mich an meinem eigenen Haarzopfe, samt dem Pferde, welches ich fest zwischen meine Knie schloß, wieder herausgezogen hätte.

(Gottfried August Bürger, Wunderbare Reisen zu Wasser und Lande, Feldzüge und lustige Abenteuer des Freiherrn von Münchhausen. 1786)

それでも2度目も跳躍距離がなおも足らんで,向こう岸の手前でわしは落っこちてしもうて,首まで泥沼に浸かってしもうた。その場所でわしは間違いなくくたばっておったじゃろうな。自分で自分の辮髪を摑んで,わしが膝の間にしっかと挟み込んだ馬もろとも,わしがわしをわしの腕力をもって引き揚げ出しておらなんだらな。

(ゴットフリート・アウグスト・ビュルガー『ミュンヒハウゼン男爵の水陸における驚くべき旅行,遠征及び愉快な冒険』(1786年))

 

 ミュンヒハウゼン男爵のように自分で自分を吊り上げ出して困難な状況を切り抜けてみせるという曲芸師的英雄的法律論もあるものです。我が憲法論の場合,男爵の辮髪に対応し得るものは,個人の尊重(日本国憲法13条。正確には「すべて国民は,個人として尊重される。」)ないしは個人の尊厳(同242項)並びに平等及び差別禁止(同141項)の各概念でしょうか。

 筆者はこれらの条項について,既にいくつかブログ記事を書いたことがあります

 

日本国憲法13条の「個人として尊重される」ことに関して

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1075180916.html

「人格を尊重」することに関して〔憲法24条は12)で論じられています。〕

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081694748.html

「法の下の平等」(日本国憲法14条1項)の由来に関する覚書(前編)

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1041144048.html

「法の下の平等」(日本国憲法14条1項)の由来に関する覚書(後編)

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1041144259.html

大日本国帝国憲法19条とベルギー国憲法(1831年)6条〔日本国憲法14条の前史ということになります。〕

    https://donttreadonme.blog.jp/archives/1038090379.html

 

 これらの概念の働き振りがどのようなものかを,同性婚を認めていない現在の民法(明治29年法律第89号)及び戸籍法(昭和22年法律第224号)の婚姻に関する諸規定は憲法24条及び141項に違反していると判示した(ただし,国家賠償法(昭和22年法律第125号)11項に基づく損害賠償までは認められないものとされています。),最近の札幌高等裁判所(齋藤清文裁判長裁判官,吉川昌寛裁判官及び伊藤康博裁判官)の令和6年(2024年)314日判決(令和3年(ネ)第194号損害賠償請求控訴事件)について以下見てみましょう。

 ここで当該高裁判決の画期性について一言しておけば,立法によって民法及び戸籍法が同性婚を認めるように改正されたことに対する事後的判断としてならば,国権の最高機関(憲法41条)たる国会がそうお決めになったのだから当該改正は違憲ではない,との判決を裁判所が出すのはまだ易しいのでしょうが,「婚姻は,両性の合意のみに基いて成立し,夫婦が同等の権利を有することを基本として,相互の協力により,維持されなければならない。/配偶者の選択,財産権,相続,住居の選定,離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては,法律は,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して,制定されなければならない。」と規定して(下線は筆者によるもの),専ら異性婚に係るものである(と従来一般に考えられてきた)ところの憲法24条の定めが存在している手前,同性婚を予定せず,かつ,認めていない現在の民法及び戸籍法の諸規定をもって同条に反して違憲であるものと現段階で断ずることは,本来難しいことだったはずなのでした。この憲法24条を正面突破した上で,現状の民法及び戸籍法の婚姻に関する諸規定は同性婚を認めていないことによってかえって同条違反となるのだ,と議論をひっくり返してみせたのですから,そこにはein wunderbares Abenteuer(驚くべき冒険)の物語があったはずであるところです。


DSCF0763
DSCF2215

札幌高等裁判所の新旧庁舎


2 札幌高裁判決の憲法13条論

 まずは札幌高等裁判所の憲法13条論です。同条前段の「すべて国民は,個人として尊重される。“All of the people shall be respected as individuals.”」における個人を,筆者はアメリカ独立宣言風に,かつ,マッカーサー三原則中の第3原則1項に基づくGHQ草案12条(日本国憲法13条に対応)の第1文(The feudal system of Japan shall cease.(日本国の封建制度は廃止される。))を勘案して,身分によって構成された封建制を脱し,臣民ならざる国民として,新たなres publicaを設立するための社会契約の当事者となる革命的かつ能動的な個人と解したいのですが,やはり通説的には,国家ないしは社会にその幸福の追求のための「尊重」をしてもらう権利を有する,生まれたままの受動的な個人(社会契約に基づき設けられた法律上の制度の利用が問題になっていますから,社会前的個人ではなく,社会契約発効後の社会内的個人ですね。)ということになるようです。

 (なお,社会契約は,現在の民法学上は,厳密には社会「契約」ではなく社会「合同行為」なのでしょうが(合同行為は,「方向を同じくする2個以上の意思表示が合致して成立するもの。各当事者にとって同一の意義を有する(社団法人設立行為〔略〕が適例)」ものです(我妻榮『新訂民法総則(民法講義)』(岩波書店・1972年)244頁)。),本稿では従来の用法を踏襲します。)

 

(1)個人の尊重において保護される性的指向

 

性的指向とは,人が情緒的,感情的,性的な意味で,人に対して魅力を感じることであ〔る。〕〔中略〕性的指向が障害や疾患の一つであるという考えは受け入れられなくなった〔。〕

〔前略〕恋愛や性愛は個人の尊重における重要な一要素であり,これに係る性的指向は,生来備わる人としてのアイデンティティであるのだから,個人の尊重に係わる法令上の保護は,異性愛者が受けているのであれば,同性愛者も同様に享受されるべきである。したがって,性的指向は,重要な法的利益であるといえる。〔後略〕

 以上のとおり,性的指向は本来備わる性向であり,社会的には異性愛者と同性愛者それぞれの取扱いを変える本質的な理由がないうえ,同時に,その個人からみれば,人が個人として尊重される基礎であり,その個人の人格の象徴であって,人格権の一内容を構成し得るものというべきである。

(札幌高等裁判所令和6314日判決(令和3年(ネ)第194号損害賠償請求控訴事件)第322)ア。下線は筆者によるもの)

 

 個人の尊重は,典型的には社会契約締結の場である・飽くまでも公的な場における当該行為の当事者たる「個人として尊重」の話ではなく,私生活における各個人の恋愛や性愛をも公的かつ同様に保護せよというような方向におけるお話となるようです。

とはいえ,恋愛や性愛に係る各方向・各濃度の性癖が全て「個人の尊重」において尊重されるわけではないはずでしょう。異性愛者だからといって,その様々な性的指向の全てが法令上の保護を享受しているわけではないところであって,犯罪とされる性的指向の発現もあるわけです(児童ポルノを所持した者を1年以下の拘禁刑又は100万円以下の罰金に処する児童買春,児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律(平成11年法律第52号)71項等が想起されます。)。また,異性婚であればそれは自由かといえば,重婚,近親者間の婚姻,直系姻族間の婚姻及び養親子等の間の婚姻は禁止されており(民法732条及び734条から736条まで),婚姻適齢も元々の男満17歳・女満15歳(同法旧765条)から現在は男女とも満18歳となっていて(同法731条),男女の若者のいわゆる婚姻の自由は明治の昔よりも制限されています。

 なお,児ポ法及び重婚といえば,筆者はどうしても次のような自分のブログ記事を紹介したくなるのでした。

 

児童ポルノ単純所持罪導入に際しての国会審議模様のまとめ(上): 条文

   https://donttreadonme.blog.jp/archives/1007652309.html

  児童ポルノ単純所持罪導入に際しての国会審議模様のまとめ(下): 国会審議

   https://donttreadonme.blog.jp/archives/1007652893.html

三号児童ポルノの比較法

   https://donttreadonme.blog.jp/archives/1008822635.htm

  1999年児ポ法制定時の国会審議模様等

   https://donttreadonme.blog.jp/archives/1009309858.html

  令和4年法律第102号による改正後の民法773条における「第732条」出現の「異次元」性に関して

   https://donttreadonme.blog.jp/archives/1080634730.html

鷗外の『雁』における某巡査の「重婚」に関して

   https://donttreadonme.blog.jp/archives/1080722748.html

 

(2)民法及び戸籍法の婚姻関係現行規定の憲法13条非違反性

 しかしそもそも,憲法13条は間口が広漠過ぎて,それのみを用いて民法及び戸籍法の婚姻関係現行諸規定を違憲呼ばわりすることは難しいようです。

 

 〔前略〕憲法13条のみならず,憲法24条,さらには各種の法令,社会の状況等を踏まえて検討することが相当であり,このような観点からすると,憲法13条が人格権として性的指向及び同性間の婚姻の自由を保障しているものということは直ちにできず,本件規定〔民法及び戸籍法の婚姻に関する諸規定〕が憲法13条に違反すると認めることはできない。

(札幌高等裁判所令和6314日判決の第322)ウ)

 

(3)尊重される個人の尊厳とは何か

 ところで,個人の尊重ないしは個人の尊厳として守られるべきものは,次に見るようにアイデンティティの喪失「感」,人としての存在を否定されたとの「思い」,自分の存在の意義を失うという喪失「感」といったものが云々されていますから,感情的なものなのでしょう。こころが大切です。

 

 もっとも,性的指向及び同性間の婚姻の自由は,人格権の一内容を構成し得る重要な法的利益ということができる。性的指向は,〔略〕人が個人として尊重される基礎であり,その個人の人格の一要素でもあることから,社会の制度上取扱いに不利益があれば,そのことによりいわゆるアイデンティティの喪失感を抱き,人としての存在を否定されたとの思いに至ってしまうことは容易に理解できることである。

 控訴人らは,人として,同じく人である同性パートナーを愛し,家族としての営みを望んでいるにもかかわらず,パートナーが異性でなく,同性であるという理由から,当事者以外の家族の間で,職場において,社会生活において,自身の存在の意義を失うという喪失感に苛まれているのであって〔略〕,個人の尊重に対する意識の高まった現在において,性的指向による区別を理由に,このような扱いを受けるいわれはなく,これは憲法が保護する個人の尊厳にかかわる問題であるということができる。〔後略〕

(札幌高等裁判所令和6314日判決の第323)。下線は筆者によるもの)

 

 しかし,個人の尊厳が毀損されれば「アイデンティティの喪失感を抱き,人としての存在を否定されたとの思いに至」るのだという命題が真であるとしても,逆は必ずしも真ならずなのですから,それが毀損されると「アイデンティティの喪失感を抱き,人としての存在を否定されたとの思いに至」るものは全て憲法が保護する個人の尊厳であり,又は「人格権の一内容を構成し得る重要な法的利益」なのである,とまでは必ずしもいえないでしょう。

 2015626日の米国連邦最高裁判所のObergefell et al. v. Hodges, Director, Ohio Department of Health, et al.事件(以下「オーバーゲフェル事件」といいます。)判決(評決は54裁判官9名中首席判事を含む4名が反対)の反対意見において,ロバーツ首席判事は,「確かに,〔同性婚の承認を求める〕請願者及び同様の人々に関する心に迫る個人的体験談が,同性カップルは婚姻をすることを許されるべきかについて多くの米国人が意見を変えた主要な理由であろう。しかしながら,憲法問題としては,請願者の望みの真摯性(the sincerity of petitioners’ wish)いかんが問題となるものではない。」と冷静に述べています(B1)。

 

3 米国連邦最高裁判所オーバーゲフェル事件判決

 ここで,他国のことながら我が国の裁判所にも重要な先例として受け止められている可能性のある米国連邦最高裁判所のオーバーゲフェル事件判決について脱線的検討をしましょう。

 オーバーゲフェル事件判決は,米国憲法修正141節の適正手続(due process)条項及び平等保護(equal protection)条項に基づき,米国の各州に対して同性婚の許可証の発給及び他州で有効に成立した同性婚の承認を義務付けたものです。

 ところでうがって,かつ,横着に考えると,当時既に,16の州及びワシントンDCが同性婚を制度化していたので(マサチューセッツ州が嚆矢で(2003年の判決),2006年のハワイ(立法),2008年のコネティカット(判決),2009年のアイオワ(判決)並びにニュー・ハンプシャー及びヴァモント(それぞれ立法),2010年のワシントンDC(立法),2011年のニュー・ヨーク(立法),2012年のメアリランド及びワシントン州(いずれも立法),2013年のニュー・メキシコ及びニュー・ジャージー(それぞれ判決)並びにミネソタ及びロード・アイランド(それぞれ立法)並びに2014年のデラウェア(立法)と続きます。なお,イリノイ及びメインもそれぞれ立法していますが,時期はオーバーゲフェル事件判決法廷意見に付された別表Bには記されていません。),オーバーゲフェル事件判決は,同性婚の取扱いについて米国内で不統一(同一のカップルが,ある州では婚姻関係にあると認められ,他の州では他人の関係とされる)があり,それに伴い全米的に混乱が生じているという「現状をこのままにすることは,不安定性及び不確実性を維持し,増進するということになろう」という判断から,同性婚の一律制度化の線で問題解決を図ったということでもあるかもしれません(法廷意見(ケネディ判事執筆)参照)。

 上記の憶測はともかく,オーバーゲフェル事件判決法廷意見の法律構成は,婚姻する権利(right to marry)を米国憲法修正14条(婚姻法は州権事項なので,連邦の介入は同条を通ずることとなります。)1節の“nor shall any State deprive any person of life, liberty, or property, without due process of law”(いかなる州も法の適正な手続なしに何人からも生命,自由又は財産を奪うことはできない)との規定におけるliberty(自由)に含ましめ,更に同規定に続く“nor deny to any person within its jurisdiction the equal protection of the laws”(〔いかなる州も〕その管轄内における何人に対しても法律の平等な保護を拒んではならない)との規定も援用する,というものでした。修正141節によって保護される基本的(ファンダメンタル・)自由(リバティズ)には,権利の章典に掲げられているものの大部分のほか,「個人の尊厳(individual dignity)及び自律(autonomy)にとって中心的な人格的(パーソナル・)選択(チョイスイズ)――人格(パーソナ)()なアイデンティティ及び信念(ビリーフス)を定義付ける親密圏のものに係る選択をも含む――のうちのあるもの」も含まれるものとされています(法廷意見)。婚姻の権利はパートナー選択の権利であるところ(あれ,パートナー選択の自由それ自体には,法律により認められる婚姻に伴うものとされる諸権利諸利益等は含まれないように思われますが・・・まあ,先に進みましょう。),パートナーの選択は個人の尊厳及び自律にとって中心的な人格的選択であり,その選択の自由は修正141節の適正手続条項によって保護される自由に含まれる,というわけでしょう。

 米国連邦最高裁判所は,1986年のBowers v. Hardwick判決においては同性愛行為を犯罪とすることの合憲性をなお支持しており,当該行為の犯罪としての取扱いは違憲であるとの判断を下したのはやっと2003年のLawrence v. Texas判決においてでした。婚姻(異性間のものですが)の権利を憲法によって守った米国連邦最高裁判所の判決としては,異人種間婚姻の禁止を無効とした1967年のLoving v. Virginia判決,養育費支払を怠る父親の婚姻を禁ずることは婚姻の権利に対する制約であるとした1978年のZablocki v. Redhail判決,受刑者の婚姻する権利を制限する規律は婚姻をする権利を侵害するものであるとした1987年のTurner v. Safly判決が挙げられています。婚姻の権利に係る自由(リバティ)を法廷において守るということは,米国ではなじみのある活動形態であるところ,また,かつては犯罪者扱いであった同性愛者に係る解放の動きは,その抑圧からの新鮮な反撥力をなおも失ってはいなかったものと思われます。

「当裁判所がLawrence判決で判示したように,同性カップルは,親密な関係性を享受することについて,異性カップルと同じ権利を有している。Lawrence判決は,同性間の親密を犯罪とする法律を無効とした。〔略〕しかし,Lawrence判決は,個人が刑事責任なしに親密な関係を取り結ぶことを可能とするところの自由の一面を確認したものである一方,自由は,そこで停止するということにはならない。法の保護の外にある者(outlaw)から社会から爪弾きされた者(outcast)への変化は,一歩前進であろう。しかしそれは,自由の約束するものの全てを達成するものではない。」(法廷意見)という部分の含意は,マイナスからゼロにされただけではもはや満足できない,ということでしょう。「問題とされている諸法律が同性カップルの自由を制約しているということは今や明らかであり,また,それらは平等の中心的要請を減殺していることも承認されなければならない。ここにおいて,応答者ら〔州側〕によって施行されている婚姻法は,本質的に不平等なのである。同性カップルは異性カップルに与えられている全ての利益を拒まれ,かつ,基本的権利の行使から閉め出されている。特に,彼らの関係の否定に係る長い歴史に鑑みるに,同性カップルに対する婚姻する権利のこの否認は,重大かつ継続的な害を及ぼすものである。男女の同性愛者にこの無能力を強いることは,彼らを軽んじ,かつ,劣位のものとすることになるのである。しかして,平等保護条項は,適正手続条項同様,婚姻をすることに係る基本的権利に対するこの正当化されぬ侵害を禁ずるのである。」というくだりは(法廷意見。下線は筆者によるもの),過去の差別によって加えられた侵害の回復のためには,更に積極的な措置が必要なのだ,ということが言いたいのでしょう。「Bowers判決は最終的にLawrence判決によって否認されたが,その間,多くの男女が傷つけられたのであり,Bowers判決が覆された後もこれらの侵害がもたらした本質的作用は疑いもなく長く残存したのである。尊厳に係る傷(dignitary wounds)は,ペン捌き一つで常に癒され得るものではない。/同性カップルに不利益な判決はこれと同様の作用を及ぼすであろう――そして,Bowers判決同様,修正14条の下では正当化されないであろう。」とは(法廷意見Ⅳ),オーバーゲフェル事件判決が,米国連邦最高裁判所が同性愛行為を21世紀に入るまで犯罪としてしまっていたことに対する償いでもあることを示すものでしょうか。

なお,法廷意見は,米国憲法において婚姻が基本的なものであることについての理由が同等の説得力をもって同性カップルにも妥当することは,以下の四つの原理及び伝統によって示されると述べています()。次のとおりです。①婚姻に係る人格的(パーソナル)選択は個人の自律(individual autonomy)の概念に内在的なものであること,②婚姻する権利は,二人の合同を,誓約した各個人に対するその重要性において,他の何ものにもまして支えるものであること(「婚姻する権利は,かくして,「相互のコミットメントによって彼ら自身を定義付けようと望む」カップルを尊厳あるものとする(dignifies)」),③婚姻は子供及び家族を保護し,そのようにして,子育て,生殖及び教育に係る関連の権利を意味あるものとすること(「婚姻がもたらす承認,安定性及び予測可能性がなければ,彼らの子供は,彼らの家族は何だか劣等なものなのだという心の傷を負うのである。」),並びに④婚姻は社会秩序の礎石であること(「同性カップルは,異性カップルであれば彼らの生活において耐え難いと感ずるであるような不安定状態に置かれている。州自身がそれに付与する重要性によって婚姻が一層貴重なものとされているところ,当該地位からの排除は,男女の同性愛者は重要な点において等しい存在ではないと教宣する効果を有するものである。国民社会の中心的制度から男女の同性愛者を州が締め出すことは,彼らを卑しめるものである。同性カップルも,婚姻の超越的目的に憧れ,それに係る最高の意義における達成を求め得るものである。」「同性カップルを婚姻の権利から排除する法律は,我々の基本章典によって禁じられている心の傷及び侮辱を与えるものである。」)。

同性カップルによる子育てあり得べしということであれば,我が国において次に問題となるのは,民法817条の3にいう「配偶者」及び「夫婦」の解釈でしょうか。

 

4 札幌高裁判決の憲法24条論

 

(1)憲法24条の新解釈

 

ア ミュンヒハウゼン的論証

 札幌高等裁判所の憲法24条解釈は,同条2項の超・性的「個人の尊厳」概念をミュンヒハウゼン的辮髪として,そこを摑んで,憲法13条の類似文言の助力をも併せた腕力をもって憲法24条全体を一段高い「個人の尊重」の高みに引き上げしめ,同条1項の婚姻当事者(ミュンヒハウゼンの馬)を,「両性」及び「夫婦」概念の泥濘から脱出せしめます。すなわち,

 

〔前略〕法令の解釈をする場合には,文言や表現のみでなく,その目的とするところを踏まえて解釈することは一般に行われており,これは,〔略〕憲法の解釈においても変わるところはないと考えられる。さらに,仮に立法当時に想定されていなかったとしても,社会の状況の変化に伴い,やはり立法の目的とするところに合わせて,改めて社会生活に適する解釈をすることも行われている。したがって,憲法24条についても,その文言のみに捉われる理由はなく,個人の尊重がより明確に認識されるようになったとの背景のもとで解釈することが相当である。

その上で,性的指向及び同性間の婚姻の自由は,現在に至っては,憲法13条によっても,人格権の一内容を構成する可能性があり,十分に尊重されるべき重要な法的利益であると解されることは上記のとおりである。憲法241項は,婚姻をするかどうか,いつ誰と婚姻をするかについては,当事者の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨を明らかにしたものと解され,このような婚姻をすることについての自由は,同項の規定に照らし,十分尊重に値するものと解することができる(再婚禁止期間制度訴訟大法廷判決参照)。そして,憲法242項は,婚姻及び家族に関する事項についての立法に当たっては,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚すべきと定めている。そうすると,性的指向及び同性間の婚姻の自由は,個人の尊重及びこれに係る重要な法的利益なのであるから,憲法241項は,人と人との間の自由な結びつきとしての婚姻をも定める趣旨を含み,両性つまり異性間の婚姻のみならず,同性間の婚姻についても,異性間の場合と同じ程度に保障していると考えることが相当である。

  (札幌高等裁判所令和6314日判決の第332)ウ。下線は筆者によるもの)

 

 と,ここで筆者はまた,上記判示部分で引用されている再婚禁止期間制度訴訟大法廷判決についてブログ記事をかつて書いたことを思い出しました。

 

  待婚期間問題について:平成271216日最高裁判所大法廷判決から皇帝たち(アウグストゥス,ナポレオン)の再婚まで

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1048584997.html

 

イ 「個人として尊重」と「個人の尊厳」との互換性問題等

 札幌高等裁判所の憲法24条解釈については,社会契約の場におけるものたるべき憲法13条の「個人として尊重」と専ら夫婦の間におけるものたるべき(ウ参照)同242項の「個人の尊厳」とを互換的な概念として用いてよいのか,ということが,筆者にとってはそもそも問題です。とはいえこの点は,本稿では問題点の指摘にとどめます。

 ちなみに――なお,筆者はここで「ポエム的憲法論」という表現を使ってみますが――オーバーゲフェル事件判決に対するその反対意見において,保守派の重鎮たるかのスカリア判事は,ポエム的憲法論に対する羞恥及び嫌悪を表明しています。いわく,「もし,たとえ〔米国連邦最高裁判所の意見を決する〕5票目のために支払わねばならない対価であるとしても,次のように始まる法廷意見――すなわち,「憲法は,その管下にある全ての者に対して自由を約束する。当該自由は,人格(パーソンズ)が,法の許す範囲内において,そのアイデンティティを定義し,かつ,表現することを可能とするいくつかの特定権利を含むものである。」と始まるもの〔筆者註:これは,ケネディ判事の執筆に係るオーバーゲフェル事件判決の書き出し部分〕――に私が加わったとしたならば,私は〔顔を隠すために〕袋に首を突っ込んだことであろう。合衆国の最高裁判所は,〔第4代首席判事にして違憲立法審査制度の父〕ジョン・マーシャル1801年から1835年まで在任〕及び〔ハーヴァード・ロー・スクールの存立基盤の確立者にして9領域におけるアメリカ法の註釈書(コンメンタリーズ)の著者〕ジョゼフ・ストウリ1811年から1845年まで在任〕の規律ある法的推論〔筆者註:なお,マーシャルの知性は,ゆっくりかつ重厚(マッシヴ),ストウリのそれは,休むことなく,断奏(スタッカ)(ート)で,絶え間のないものだったそうです(Richard Brookhiser, John Marshall: the man who made the Supreme Court; Basic Books, New York, 2018: p.142)。〕から,フォーチュン・クッキー中の神秘の託宣(アフォリズムス)へと堕落してしまった。」と(同判事反対意見の註22)。

 「恋するフォーチュン・クッキー」は,同性間ならぬ異性間の恋愛に関する歌でした。

 

ウ 「個人の尊厳」か「両性の各々の尊厳」か

 

(ア)GHQ草案及びその私訳

「恋するフォーチュン・クッキー」が云々との平成歌謡に関する閑話は休題するとして,憲法24条に関して問題であることは――筆者は「「人格を尊重」することに関して」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081694748.html)の12)を書いていて不図思い付いてそこに書いておいたのですが――同条2項の,すなわちGHQの草案23条の“…from the standpoint of individual dignity and the essential equality of the sexes”の部分における“of the sexes”“individual dignity”にもかかるようであり,当該部分は,2項構成としての「個人の尊厳」と「両性の本質的平等」とに「立脚して」ではなく,一団構成として「両性の各々の尊厳と本質的平等と」に「立脚して」とでも訳すべきものであったようにも思われるということです。このような「両性の各々の尊厳」は,もはや超・性的な概念ではなく,同性婚には親和的ではないでしょう。札幌高等裁判所のミュンヒハウゼン的論証術にとっては迷惑でしょう。ちなみにローマ法においては,夫婦は「相互に尊敬すべく,少くともユ〔スティニアヌス〕帝時代には窃盗訴権〔略〕悪意の訴権〔略〕の如き罰金訴権〔略〕不名誉訴権〔略〕の提起は禁止せられ,一方が他方の財産を盗むも窃盗訴権の適用なく,離婚を当て込んで盗んだ場合には,物追求訴権〔略〕たる物移動訴権(actio rerum amotarum)を離婚後提起し得るのみ。」ということだったそうですが(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)295頁),これは,こじつけていえば,婚姻関係にある両性の各々に尊厳があるがゆえに相互に尊敬がされるということでしょう。

 

  〔大カトーは〕妻や子供を撲る男は最も神聖な事物に手を下すものだと云つてゐた。又,偉い元老院議員になるよりもいい夫となる方が賞讃に値すると云つてゐた。〔略〕カトーは,子供が生まれてからは,国事に関しない限りどんなに必要な用事があつても,妻が嬰児の体を洗つたり襁褓を当てる時には必ず傍にゐてやつた。

  (河野与一訳『プルターク英雄伝(五)』(岩波文庫・1954年)74-75頁)

 

(イ)アイルランド

 上記の筆者流の読み方を正当化すべく,「個人の尊厳」ならば本来は“dignity of the individual”と書く方がふさわしかったはずなのである,と考えていたところ,インターネットで検索してみると,現にアイルランド憲法英語版の前文にはso that the dignity and freedom of the individual may be assured”(下線は筆者によるもの)という表現があります。「個人の尊厳及び自由が確実なものとされるように」と訳されるものでしょう。

 

(ウ)モンタナ

また,“individual dignity”は,やはり“equality”と緊密に結び付いて一団のものとなり得るようです(後者の「平等」の方が主となり,前者の「個々の尊厳」がそれを理由付けるものでしょう。)。1972年の米国のモンタナ州憲法24節はSection 4. Individual dignity. The dignity of the human being is inviolable. No person shall be denied the equal protection of the laws. Neither the state nor any person, firm, corporation, or institution shall discriminate against any person in the exercise of his civil or political rights on account of race, color, sex, culture, social origin or condition, or political or religious ideas.”となっていて,“Individual Dignity”の見出しの下,本文は「人間の尊厳は不可侵である。何人も法律の平等な保護を否認されない。州又はあらゆる人,企業,法人若しくは団体は,何人をも,彼の公民的又政治的権利の行使において,人種,肌の色,性別,文化,社会的出自若しくは地位又は政治的若しくは宗教的意見を理由として差別してはならない。」と規定しています。不可侵の尊厳は人間であることに由来するものであるが,それが同節においては具体的に,法律の平等な保護を否認されない各個人のものとして,及び人種,肌の色,性別,文化,社会的出自若しくは地位又は政治的若しくは宗教的意見の相違にもかかわらず,公民的又政治的権利の行使において差別されることのない各個人のものとして特定的に観念される,ということでしょうか。見出しは“Individual Dignity”,すなわち裸の「個々の尊厳」で(individualの原義はこれ以上分割できないということですから,「個の尊厳」とは,それだけでは限定できません。),外延がどこまで広がるかはっきりせず落ち着かないのですが,同節本文において特定がされているわけでしょう。なお,モンタナ大学のウェブ・ページには,1972112日開催の公聴会に関して同節に係る次のような由来が紹介されています。

 

Delegate Richard Champoux, proponent of Delegate Proposal 61, the proposal from which Section 4 was largely drawn, was motivated by the story of his own mother, the discrimination in employment and indignities she faced, and her belief that “men and women should be treated equally and with dignity.”

  第4節が大きくそこから由来した代議員提案第61の提案者であるリチャード・シャンプー代議員は,彼女が嘗めさせられた就職差別及び屈辱に係る彼自身の母親の経験談並びに「男性も女性も平等に,かつ,尊厳あるものとして取り扱われるべきである」という彼女の信念よって動機付けられたものである。

 

 各自に尊厳があるから,全員が平等に取り扱われるわけです。

 

(エ)オーバーゲフェル事件判決から

 オーバーゲフェル事件判決の法廷意見にも「()(ヴァ)無能力(チャ)()の原理の漸進的崩壊にもかかわらず,〔略〕20世紀の半ばを通じて,婚姻における性別に基づく不愉快な区別が,普通のこととして存在していた。App. to Brief for Appellant in Reed v. Reed, O.T. 1971, No. 70-4, pp. 69-99を参照(1971年当時存在した諸法律であって,婚姻において女を男と同等ではないものとして取り扱っているものについての広範な論及)。これらの区別は,男と女との平等の尊厳the equal dignity of men and women)を否認していたのである。例えば,ある州法は,1971年に次のように規定していた。いわく,「夫は家族の頭であり,妻は彼に従属する。彼女自身の保護又は利益のために法律が彼女を別個のものとして承認する範囲外においては,彼女の私法的存在は彼に統合される。」と(Ga Code Ann, §53-501 (1935))。新たな自覚に対応して,当裁判所は,婚姻における性別に基づく不平等を強いる諸法律を無効とするために,平等保護原則に訴えた。」という表現があります(Ⅲ. 下線は筆者によるもの)。

 

エ 異性婚規定を同性婚に類推適用する理由付け

 札幌高等裁判所は,憲法242項の「個人の尊厳」をミュンヒハウゼンの辮髪として摑んで同条の泥沼を脱し,同条1項の「婚姻をすることについての自由」に類推適用の形をもって騎乗し(札幌高等裁判所は,類推適用ではなく目的的解釈の結果であるとするのでしょうが,一応,類推適用だと言わせてください。),前進します。異性婚に係る規定をもって同性婚に類推適用させるわけですが,当該類推適用を理由付ける異性婚と同性婚との類似性は「人と人との間の自由な結びつきとしての婚姻」だからだということです。ここでの「婚姻」と呼ばれる結び付きは,性的指向ゆえのもの,すなわち性欲の充足に向けられたものであって,床のみならず更に食卓をも共にする関係(星野英一『家族法』(放送大学教育振興会・1994年)55頁参照)なのでしょう。当事者間の合意に基づく自由な性的結び付きである限りにおいては,その性的指向がどのようなものであるかは第三者がとやかくいうべきものではないのでしょう。

なるほど確かに,人と人との間の自由な結びつきとしての性交等(「性交等」は刑法(明治40年法律第45号)1771項において定義されています。)は13歳以上の者の間では我が刑法上許されるのでしょう(同条3項)。しかし,どういうわけか16歳になるまでは,5年以上年上のおじさま・おばさまとの性交等の自由は認められていません(刑法1173項の括弧書きは分かりづらいですが,こういう意味でしょう。)。人事訴訟法(平成15年法律第109号)131項を見ると,未成年者であっても行為能力制度の制約なく,意思能力さえあれば婚姻関係訴訟(同法21号)に係る訴訟行為ができるのですが(未成年者である18歳未満の者の婚姻はあり得ない(民法4条,731条及び740条)わけではなく,その取消しに関する規定が用意されており(同法744条及び745条),取り消されるまでは有効な婚姻です(同法7481項)。),刑法では,意思能力(これは,ドイツ民法1041号的には満7歳で備わるものでしょう。)さえあれば性交等をしてもよいということにはなっていません。性交等を行うか否かについては,婚姻についてよりも高度な判断力を要するのでしょうか。

 

オ 保障の同程度性は必然か

 札幌高等裁判所は,最後に,「異性間の婚姻のみならず,同性間の婚姻についても,異性間の場合と同じ程度に保障している」とさらりと述べていますが,ここでの保障の同程度性については明示的な論証はされていません。異性婚も同性婚も個人の尊厳にかかわるところ,個人の尊厳は絶対だから絶対者間相互では比較ができず「同じ程度に保障」することに帰着するのだ,という理由付けを忖度せよ,ということでしょうか。しかし,憲法24条は同性婚を異性婚と「同じ程度に保障している」のだとあらかじめ決めてしまうことによって,同性婚を異性婚と同じ程度に保障していない民法及び戸籍法の婚姻関係現行諸規定は同条に違反するという結論が先取りされてしまうという関係になりますので,論証の追加が欲しいところです。いわんや異性婚内部でも,禁止されているもの(民法731条,732条及び734条から736条まで参照)とそうでないものという序列があるのですから,異性婚と新参の同性婚との間での序列付けを絶対的に排除するためには何がしかの理由付けが必要でしょう。

 また,人と人との間の自由な性的結びつきを保障するものは一つのものとしてある法的婚姻しかない,と選択肢をあらかじめ絞ってしまうのもいかがなものか。事実上の婚姻として放任することによって保障する,ということも可能であるようにも思われます。個人の自由ということであれば,その方がよさそうでもあります。事実上の婚姻は,両者の合意がなければ成立せず,そこでは両者が同等の権利を有し,両者の協力によってしか維持されないもののはずです(憲法241項参照)。また,事実上の婚姻についても,無法状態というわけではなく,パートナーの選択に制約はなく,財産関係は各自別々,相続はないが遺贈は可能,住居の選定は各自別々,関係解消は単意で可能,ということであるはずです(憲法242項参照)。既に異性婚についてすら,「近代において〔略〕,ついには愛なき結婚の否定(離婚の自由の強調)からさらに進んで,愛さえあれば法律上の「婚姻」という形態をとる必要はないのではないか,との疑問が生じ(「愛の制度化は愛の死である」との言も見られる),愛ある同棲を推奨し(同棲のない場合もある),「婚姻」否定論まで現れてきた。」(星野47頁)ということであったはずです。オーバーゲフェル事件判決におけるロバーツ首席判事の反対意見には「同性カップルは,彼らがそうしたいように同居し,親密な行為に及び,及び家族を養うことについて自由であり続けている。本件において問題とされている法律によって「孤独のうちに生きるべく宿命付けられている」者はいないのである――誰もいないのである。」とあります(B2)。更に同首席判事はいわく,「実のところ,本日の判決は,彼らがそう望むから同性カップルは婚姻を許されるべきであり,かつ,「彼らに当該権利を拒むことは,彼らの選択を(そし)り,かつ,彼らの人格性を(おとし)めることになる」という多数意見の独自の確信に基づくものでしかないのである。〔略〕道徳哲学の問題としていかなる力を当該信念が有していようとも,当該信念は,〔パン工場労働者の労働時間を制限するニュー・ヨーク州法を無効とした米国連邦最高裁判所の1905年〕ロックナー(Lochner)事件判決〔同判決の先例性は,その後否定されています。〕において採用された裸の政策選好以上の基礎を憲法の下に有してはいないのである」と(B3)。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 第213回国会の民法等の一部を改正する法律案及び民法821条:「人格を尊重」

 

(1)第213回国会の民法等の一部を改正する法律案における「人格を尊重」

 2024126日に召集された第213回国会において,現在,内閣から提出された民法等の一部を改正する法律案が審議されています。同法案が法律として成立した場合,2026年の春には(同法案における附則1条本文には「この法律は,公布の日から起算して2年を超えない範囲内において政令で定める日から施行する。」とあります。),民法(明治29年法律第89号)に次の条項が加えられることとなるそうです(下線は筆者によるもの)。

 

  (親の責務等)

  第817条の12 父母は,子の心身の健全な発達を図るため,その子の人格を尊重するとともに,その子の年齢及び発達の程度に配慮してその子を養育しなければならず,かつ,その子が自己と同程度の生活を維持することができるよう扶養しなければならない。

  2 父母は,婚姻関係の有無にかかわらず,子に関する権利の行使又は義務の履行に関し,その子の利益のため,互いに人格を尊重し協力しなければならない。

 

 「人格を尊重」という荘厳な文言が,まぶしい。目がつぶれそうです。「尊重」と「尊厳」ということで漢字は1字違いますが,「〔憲法〕13条は,「個人の尊重」(前段)と「幸福追求権」(後段)との二つの部分からなる。前段は,後段の「立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする」と一体化して,個人は国政のあらゆる場において最大限尊重されなければならないという要請を帰結せしめる。これは,一人ひとりの人間が「人格」の担い手として最大限尊重されなければならないという趣旨であって,これを「人格の尊厳」ないし「個人の尊厳」原理と呼ぶことにする。」(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)444頁),「「人格の尊厳」原理は,まず,およそ公的判断が個人の人格を適正に配慮するものであることを要請し,第2に,そのような適正な公的判断を確保するための適正な手続を確立することを要求する。したがって,例えば,一人ひとりの事情を不用意に概括化・抽象化して不利益を及ぼすことは許されない。行政の実体・手続の適正性の問題については諸説があるが,基本的にはまさしく本条によって要請されるところであると解される。」(同444-445頁)というような,憲法学における高邁な議論が想起されるところです。

 しかし,憲法学上の難しい議論はさておき,我ら凡庸な人民の卑俗な日常生活の場において,他者の「人格を尊重」し,自己の「人格を尊重」せしめるとは具体的にどのような発現形態をとるのでしょうか。これらについての探究が本稿の課題です。

 

(2)脱線その1:「個人の尊厳」論

 

ア 民法2条の「個人の尊厳」

 なお,民法2条には「人格の尊重」ならぬ「個人の尊厳」の語が出て来ます。憲法学的には「〔憲法13条の〕「個人の尊厳」原理は,直接には国政に関するものであるが,民法1条ノ2〔現第2条〕を通じて解釈準則として私法秩序をも支配すべきものとされ」ていますが(佐藤幸治445頁),民法学的には,同条に規定するところの同法の「個人の尊厳を旨とした解釈」の標準は「主として親族・相続両編の解釈について意義を有する」ものとされ,「というのは,親族編と相続編〔筆者註:昭和22年法律第74(なお,同法は一般に「日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律」と呼ばれますが,これは正式な題名ではなく,件名です。)で手当てがされ,昭和22年法律第222号によって改正されるまでのもの〕は,家族制度を骨子として構成され,家を尊重して個人の尊厳を無視し,家父長の権利を強大にして家族の意思を拘束し〔略〕ていたからである。」と説明されています(我妻榮『新訂民法総則(民法講義)』(岩波書店・1965年)29-30頁)。

「個人の尊厳」概念は,明治的な家制度及び家父長制度の各遺制に対処すべきものであるということになります。

昭和22年法律第74号の第1条は「この法律は,日本国憲法の施行に伴い,民法について,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚する応急的措置を講ずることを目的とする。」と規定していますところ,憲法242(「配偶者の選択,財産権,相続,住居の選定,離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては,法律は,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して,制定されなければならない。」)の射程は,すなわち昭和22年法律第74号が措置を講じた範囲であるのだというのが我が国の公式解釈であったことになります。同法及び昭和22年法律第222号によって家制度と家父長制度とが既に退治せられたので,現在,新しい家族の形を尊重しつつ働くべき法概念は壊し屋たりし「個人の尊厳」ではなく,それとは異なる,例えば「人格の尊重」のような新たに穏健なものたるべし,ということになったわけでしょう。というのは,「個人の尊厳」概念については,「家族の問題について「個人の尊厳」をつきつめていくと,憲法24条は,家長個人主義のうえに成立していた近代家族にとって,――ワイマール憲法の家族保護条項とは正反対に――家族解体の論理をも含意したものとして意味づけられるだろう」(樋口陽一『国法学 人権原論』(有斐閣・2004年)56頁)ということでもありますので,当該概念の濫用はうっかりすると「家族解体」につながりかねず剣呑であるからです。

なお,1919811日のドイツ国憲法たる「ワイマール憲法の家族保護条項」はその第1191項であって,「婚姻は,家族生活及び国民の維持発展の基礎として,憲法の特別の保護を受ける。それは,両性の同権に基礎を置く。(Die Ehe steht als Grundlage des Familienlebens und der Erhaltung und Vermehrung der Nation unter dem besonderen Schutz der Verfassung. Sie beruht auf der Gleichberechtigung der beiden Geschlechter.)」と規定するものです。

 

イ GHQ草案23条の“individual dignity and the essential equality of the sexes”と憲法24条の「個人の尊厳と両性の本質的平等」との間

 ちなみに,日本国憲法24条がそれに基づいた案文であるGHQ草案23条は,“The family is the basis of human society and its traditions for good or evil permeate the nation. Marriage shall rest upon the indisputable legal and social equality of both sexes, founded upon mutual consent instead of parental coercion, and maintained through cooperation instead of male domination. Laws contrary to these principles shall be abolished, and replaced by others viewing choice of spouse, property rights, inheritance, choice of domicile, divorce and other matters pertaining to marriage and the family from the standpoint of individual dignity and the essential equality of the sexes.”と規定していました。日本国憲法242項は,GHQ草案23条における“from the standpoint of individual dignity and the essential equality of the sexes”の部分を「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して」の意味であるものと解して制定されたわけですGHQ草案23条の我が外務省による訳文は「家族ハ人類社会ノ基底ニシテ其ノ伝統ハ善カレ悪シカレ国民ニ滲透ス婚姻ハ男女両性ノ法律上及社会上ノ争フ可カラサル平等ノ上ニ存シ両親ノ強要ノ代リニ相互同意ノ上ニ基礎ツケラレ且男性支配ノ代リニ協力ニ依リ維持セラルヘシ此等ノ原則ニ反スル諸法律ハ廃止セラレ配偶ノ選択,財産権,相続,住所ノ選定,離婚並ニ婚姻及家族ニ関スル其ノ他ノ事項ヲ個人ノ威厳及両性ノ本質的平等〔筆者註:この「的平等」の3文字は,和文タイプでは打ち漏れています。〕ニ立脚スル他ノ法律ヲ以テ之ニ代フヘシ」というものでした。)

しかし,“dignity of the individual”ならぬ“individual dignity”を,例えば「個々の尊厳」ではなく,「個人の尊厳(又は威厳)」と訳したことには何だかひっかかりが感じられます。そこで当該英文を改めて睨んでみると,あるいは,“individual dignity of the sexes”(両性各々の尊厳)及びそのように両性各々が尊厳あるものであることに基づく“the essential equality of the sexes”(両性の本質的平等)のstandpointから,と読むべきものだったのかもしれない,と思われてきました。男性性(夫)及び女性性(妻)はそれぞれ特有の尊厳を有するとともに,いずれも尊厳あるものであることにおいて,両性(夫婦)は本質的に平等である,という意味でしょうか。通常単数形で用いられるとされるstandpointがやはり単数形で用いられていますから,“individual dignity and the essential equality of the sexes”をひとかたまりのものとして捉える読み方を採るべきでもありましょう。Female sexのみならずmale sexにもdignityがあるのだと言われれば,男性は,救われます。

なるほど。そういえば確かに,GHQ草案23条においてそれらに反する法律は廃止せられるべしとされたところの婚姻に関する当該諸原則は,①家族は人間社会の基盤であること,及び婚姻は,②親の強要にではなく,(男女)相互の合意に基づき,かつ,③男性の支配によってではなく(夫婦の)協力によって維持されて,④両性の争うべからざる法的及び社会的平等の上に位置付けられたものたるべし,というものであって(なお,ここで男女の社会的平等までぬけぬけと憲法で保障しようとするのは,当時のソヴィエト社会主義共和国連邦憲法122条の影響でしょうか。GHQ草案23条の原案起草者であるベアテ・シロタ女史は起草準備作業の際に「ワイマール憲法とソビエト憲法は私を夢中にさせた」と回想しています(篠原光児「憲法24条の成立過程について」白鷗法学第8号(1997年)74頁)。),①はSollen(在るべきもの)ではなくSein(現に在るもの)について語っていますから,どうも②以下の男女平等が中心であったようです。④こそが主要原則でしょう。②及び③は,原則というには細かいですし,④に対する副次的なものでしょう(特に②については,昭和22年法律第222号による改正前の民法(以下「明治民法」といいます。)でも,男女の合意なしに親の意思のみで婚姻をさせることはできない建前でしたから(明治民法7781号は現行民法7421号と同旨),法律上の問題というよりは,社会事実上の問題でしょう。③に関しては,明治民法790条の「夫婦ハ互ニ扶養ヲ為ス義務ヲ負フ」及び789条の「妻ハ夫ト同居スル義務ヲ負フ/夫ハ妻ヲシテ同居ヲ為サシムルコトヲ要ス」が,現行民法752条では「夫婦は同居し,互いに協力し扶助しなければならない。」になっています。これで,「夫の権威中心から夫婦の協力に推移したことを明らかに看取しうるであろう。」ということであります(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)81頁)。なお,法定財産制に係る明治民法798条は「夫ハ婚姻ヨリ生スル一切ノ費用ヲ負担ス但シ妻カ戸主タルトキハ妻之ヲ負担ス/前項ノ規定ハ第790条及ヒ第8章〔扶養ノ義務〕ノ規定ノ適用ヲ妨ケス」というものでしたが,同条1項本文の規定は,男はつらいよ,というよりも,実は男性支配を法定する女性虐待規定であったということなのでしょう(婚姻費用を平等負担するものとする夫婦財産契約は可能であったはずですが(明治民法793条以下)。)。ちなみに現行民法には「協力」の語は2箇所でしか出現せず,憲法241項由来の第752条のそれのほかは離婚の際の財産分与に係る第7683項にあるのですが,同項における「協力」も,実はGHQの担当者から言い出した米国側由来のものであるそうです(我妻榮編『戦後における民法改正の経過』(日本評論社・1956年)140頁(小沢文雄(当時は司法省民法調査室主任)発言))。)。すなわち,家族法制全般について広く問題点が指摘されているというよりは,専ら男女間の婚姻の場面に焦点が当てられていたところです。

そもそもGHQ草案の起草段階におけるベアテ・シロタ女史の原案は,最終的にGHQ草案23条となった条項(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川ソフィア文庫・2014年)220-221頁参照)に続いて,母性保護条項,非嫡出子差別解消条項,養子に係る制限条項,長子権廃止条項,児童の教育,医療及び労働に関する各条項,労働権条項並びに社会保障条項が並ぶ長いものであって(鈴木279-281頁参照),最終的にGHQ草案23条となった条項も,実はそう広い射程のものとして意図されていなかったように思われます。

また,シロタ女史は「私は,どうしても女性の権利と子供の保護を憲法に詳しく書いておかなければならないと思って,とても細かく書きました。」と回想していますところ(鈴木276頁),保護されるべき者の細かい権利に専心する彼女にとっては,強い男性のそれをも包含する「個人の尊厳」というような普遍的な概念(なお,強い男性は,「個人の尊厳」の個人に包含されるというよりも,むしろ彼らによってこそ「個人の尊厳」が象徴されていたものでしょう。「近代西欧家族の「個人」が実は家長個人主義というべきものだった」こと(樋口56頁)に留意すべきです。)の称揚には興味がなかったのではないでしょうか。

また,「婚姻を「民族の維持・増殖の基礎」として憲法の保護対象とするワイマール憲法1191項と比べればもとより,〔1949年の〕ボン基本法6条が婚姻と家族に対する国家の保護に言及するにとどまっているのと比べても,「個人の尊厳」を家庭秩序内にまで及ぼそうとする点で,日本国憲法24条はきわ立っている」わけですが(樋口145頁),そのような「きわ立」ちまで,当時のGHQは意図していたものかどうか。現実には,明治民法の占領下における改正に関して,GHQは「正面きって家の制度を廃止しろといったようなことは全然ありませんでした」ということであって(我妻編13頁(奥野健一(当時は司法省民事局長)発言)),その報告書(Political Reorientation of Japan (1948))でも「家の制度の全面的廃止の問題は,憲法を履行するという憲法実施の要請以上の問題であるから,スキャップ〔聯合国最高司令官〕としてはこれを命令しなかった,スキャップとしては両性の平等とか個人の自由の原則は別として,家族法といったようなもののごときは,これを近代化し民主化するということはむしろ日本人自身の問題と考えたのであって,東洋の国に西洋的な家族関係の思想を標準として押しつけるというようなことは賢明とは考えなかったから命令しなかった,従って〔日本側の〕臨時法制調査会が家の制度の全廃を多数をもって決議〔19461024日の民法改正要綱決定〕したということを聞いたときは,スキャップとしては非常に驚いて,進歩的態度の表明としてその議決を歓迎した,というふうに報告して」いたところです(我妻編14頁(奥野による紹介))。家の制度と両立し難いものとしての「個人の尊厳」概念が,それとしてGHQ草案23条において提示されていたものとは考えにくいところです。

シロタ女史は,ワイマル憲法1191項を叩き台にして(篠原79頁(14)。同女史の原案には,GHQ草案23条においては削られている「したがって,婚姻及び家族は法によって保護される。(Hence marriage and the family are protected by law)」という文言が,「家族ハ人類社会ノ基底ニシテ其ノ伝統ハ善カレ悪シカレ国民ニ滲透ス」の部分の次にありました。これを再挿入すると,「婚姻は,家族生活及び国民の維持発展の基礎として,憲法の特別の保護を受ける」云々とするワイマル憲法1191項の組立てとの類似がより明らかになります。),同項を修正敷衍し,日本社会の当時の現実における男尊女卑的夫婦関係の問題点を指摘挿入し,かつ,当該問題点を是正すべき新立法を命ずることとして,結果として見られるような饒舌な条文をものしたものと思われます。

 

(3)民法821条の「人格を尊重」

 以上をもって長い憲法論をおえて,法令における「人格を尊重」のこれまでの用例に当たらんとするに,実は現行民法には既に「人格を尊重」云々の文言が存在していました。次のとおりです(下線は筆者によるもの)。

 

   (子の人格の尊重等)

  第821条 親権を行う者は,前条の規定による監護及び教育をするに当たっては,子の人格を尊重するとともに,その年齢及び発達の程度に配慮しなければならず,かつ,体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動をしてはならない。

 

令和4年法律第102号によって設けられ,20221216日から施行されている規定です(同法附則1条ただし書)。

 

(4)脱線その2:民法821条の位置論(「削除」を削る。)

ところで,ここでまた脱線して民法821条の位置について一言感想を述べれば,同条は「親権者の監護教育権(第820条)の行使一般についての行為規範を規定」する「総則的規律」であり,かつ,「監護教育権の各論的な規律の前の位置に」置かれるべきものであるそうですから(佐藤隆幸編著『一問一答 令和4年民法等改正――親子法制の見直し』(商事法務・2024年)130頁),「監護教育権の根拠規定」(同頁)である同法820(「親権を行う者は,子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し,義務を負う。」)の第2項として同条にまとめて規定される形でもよかったように思われます。しかし,あえてそれまでの第821(「子は,親権を行う者が指定した場所に,その居所を定めなければならない。」)を新822条に押しのけた上での新条追加の形が採られているところです。

そこでその理由をうがって考えれば,それまであった第822(「親権を行う者は,第820条の規定による監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる。」)の規定を令和4年法律第102号は敢然排除したところですが,そのために当該の条を削除しただけでは「第822条 削除」という形で痕跡が残り(これが,当該の条が全く蒸発し,したがってその後の全条が各々繰り上げられてその跡を埋める形となる「削る」との相違です(前田正道編『ワークブック 法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)468頁)。),将来,「おや,この条は「削除」か。削除されたここにはどういう規定があったのだろう。ああ,親権者の懲戒権に関する規定か。なるほど,日本が哀れな衰退途下国となってしまった平成=令和の国民元号の御代(筆者註:「国民元号」に関しては,「元号と追号との関係等について」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1073399256.html)の43)を御参照ください。)を迎える前の昔の立法者は丁寧だったんだね。親が自信をもって子のしつけを行うためにはやっぱり親権者の懲戒権の規定が必要なんだよね。そういうことであれば,いやいやいったんせっかく削ったことについては正当な理由があるのであって云々の難しい話はもういいから,一度は堂々あった懲戒権規定を新装復活させたらいいんじゃない。」という不必要に好奇心の強い者による旧規定の再発見及びそれを契機としての懲戒権規定の要否論争の蒸し返しを避けるためでしょう。民法典において「第822条 削除」との不審な表象が残らないように,そこを埋めるべく,新しい1条が必要であったわけでしょう。(なお,ここでいう懲戒権規定の要否論争については,「懲戒権に関する規定を削除してしまうと,親権の行使として許容される範囲内で行う適切なしつけまでできなくなるのではないかといった」心配は,「誤った受け止め方」であるということで(佐藤隆幸編著131頁),御当局筋では不要論が断乎採用され,けりがつけられています。)

回顧のよすがも残らないようにするdamnatio memoriaeを喰らうとは,民法旧822条の懲戒権規定は随分忌み嫌われていたものです。(筆者は民法旧822条に対して同情的であるようにあるいは思われるかもしれませんが,同情はともかくも,同条に関するblog記事(「民法旧822条の懲戒権及び懲戒場に関して」:

(前編)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080442857.html(モーセ,ソロモン,アウグストゥス,モンテスキュー,ナポレオン,カンバセレス及びミラボー)及び

(後編)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080442886.html(日本民法(附:ラヴァル政権及びド=ゴール政権によるフランス民法改正))

をかつて書いた者としては,思い入れは深いところです。)

 

2 新民法817条の12総論

 

(1)第1項前段

 さて,まず「子の人格を尊重」することに関して,民法821条と新民法(第213回国会の審議に付された頭書法律案が法律として成立して施行された後の民法を以下「新民法」といいます。)の第817条の121項前段とを比較すると,前者は「監護及び教育」をするに当たっての規律であり,後者は「養育」をすることについての規律です。規律の場面が異なっています。後者の場面については,20231128日に開催された法制審議会家族法制部会第34回会議に提出された家族法制部会資料34-2において「この資料では,父母の子への関わり合いのうち経済的・金銭的な側面から子の成長を支えるものを「扶養」と記載しており,これに加えて精神的・非金銭的な関与を含む広い概念として「養育」という用語を使っている。」と説明されている一方(4頁(注3)),「子の監護及び教育は,親権者の権利義務であり(〔民〕法第820条),〔中略〕この資料のゴシック体の記載のような規律〔新民法817条の12に対応〕を設けたとしても,親権者でない父母が監護及び教育をする権利義務を得ることとなるわけではな」いものとされています(4-5頁(注1))。

ところが,当該部会の部会長である大村敦志教授の著書の一節には,「「養育」という言葉の意味は明らかである。その「子の養育及び財産の管理の費用」(828条)という表現から,この言葉は,「監護・教育」を総称するものとして用いられていることがわかる」とあったところです(大村敦志『民法読解 親族編』(有斐閣・2015年)246頁)。したがって,夫子御自身の当該所論の扱いが問題になる可能性があったところ(世の中には,筆者のように面倒臭い人間がいるのです。)20231219日に開催された同部会第35回会議に提出された同部会資料35-2において,「なお,「養育」という用語は,民法第828条ただし書にも規定されているが,同条は親権者による子の養育等の費用の計算に関する規律である一方で,要綱案(案)第1の1で提示している規律〔新民法817条の12に対応〕における「養育」は,父母(親権者に限られない。)によるものであり,また,費用の支出を伴うものに限定するものではない点で,民法第828条ただし書の想定する「養育」と必ずしも一致しないと考えられる。」と,如才なく整理し去られています。そもそも民法上の父母の子へのかかわり合いのうちの「精神的・非金銭的な関与」の例としては,家族法制部会資料34-2は,監護及び教育ならざる「親子交流や親権喪失等の申立てなど」を挙げていました(2頁)。

ちなみに,フランス民法373条の215項は,「親権を行使する者ではない親は,子の監護及び教育を見守る権利及び義務を保持する。同人は,子の生活に関する重要な選択について了知していなければならない。同人は,第371条の2〔親の扶養義務に関する規定〕に基づき同人が負う義務を尊重しなくてはならない。(Le parent qui n'a pas l'exercice de l'autorité parentale conserve le droit et le devoir de surveiller l'entretien et l'éducation de l'enfant. Il doit être informé des choix importants relatifs à la vie de ce dernier. Il doit respecter l'obligation qui lui incombe en vertu de l'article 371-2.」と規定しており,親権を行使する者でない親であっても子の監護教育について全くの無権利ではないものとされています。これに対して,同項第1文流に我が新民法817条の12は解釈されるものではない,というのが立案御当局の御理解なのでしょうが,同条の文言のみからはやや分かりづらいところです。

 

(2)第2

 新民法の第8181項は,親権全般について,「親権は,成年に達しない子について,その子の利益のために行使しなければならない。」と規定します。これに対して,必ずしも親権者ならざる父母による新民法817条の121項の養育についても,当該父母はそれに係る「権利の行使又は義務の履行に関し」ては,「その子の利益のため」に「協力」すべきものとされています(同条2項)。父母の「協力」に関しては,新民法824条の21項本文(「親権は,父母が共同して行う。」)も,父母双方が親権者である場合について,親権共同行使の原則を定めています。これら新民法8181項及び同法824条の21項本文の規律(親権者による親権の行使に関するもの)と同法817条の122項の規律(父母による子に関する権利の行使及び義務の履行に関するもの)との関係は,親権者に限られぬ父母一般に係る後者の規律が総則的な位置に立つというものでしょうか。新民法817条の122項の「権利」及び「義務」は,文言上,同条1項の「養育」に係るものに必ずしも限定されてはいませんし,法制審議会家族法制部会資料34-2によれば,新民法817条の122項の「協力義務」に違反した場合には「親権者の指定・変更の審判や,親権喪失・親権停止の審判等において,その違反の内容が当該父母の一方にとって不利益に考慮されることになるとの解釈があり得る」とのことで(7頁(注1)),同項は親権行使の場面にも適用があることが前提とされています。

 しかし,新民法817条の122項については,「子の利益のため」はよいのでしょうが,「部会のこれまでの議論の中では,離婚後の父母の中には,子の養育に無関心・非協力的な親がいるとの指摘があった」ことから(法制審議会家族法制部会資料34-26頁),軽々(かるがる)と直ちに,婚姻関係にない「他人」の男女にまで両者間の「協力」を義務付けるのはいかがなものでしょうか。養育妨害禁止というような消極的なものにとどまらぬ積極的な協力の義務であるならば,それはやはり当事者の合意にその根拠付けを見出すべきもののように思われますが,両者間におけるそのような「合意」の契機のない子の父母というものも存在するのではないでしょうか。我が国の御当局には,いわゆる経済官庁による儚き「オール・ジャパン(日の丸)」プロジェクトの濫造に見られるように,「協力」のもたらすであろう神秘なsynergy効果を――「協力」が美しくも可能であることの絶対性と共に――安易かつ篤く信仰せられてしまう御傾向があるようではあります。「船頭多くして船山に登る」というような俗なことわざよりも,やはり「以和(わをもつて)(たふと)(しとなす)」と宣う聖徳太子の御訓えの方が重いのでしょうか。いずれにせよ,法的義務として成立するのならば,期待値の水準如何(いかん)はともかくも,そのときはそのようなものとしての取扱いがされなければなりません。(しかし,前記のとおり,これまでの民法において「協力」の語は,GHQ由来のものが2箇所(752条及び7683項)にしかなかったところであって,民法用語として熟したものであるかどうか。民法752条の「協力」の由来するところは,憲法のGHQ草案23条に鑑みると男性支配(male domination)の排除要請という消極的なものです。しかして「夫婦の協力義務は,義務の内容においても,分量においても,限定することはできない」漠としたものです(我妻・親族法84頁)。同法7683項の「協力」のそれは,財産分与の際に妻の取り分が2分の1になるべきことの確保にこだわるGHQ担当官が「協力によってえた財産の半分」などと口走ったことによるものです(我妻編140頁(小沢発言))。(この場面においては,「協力」に係る動機付けは,財産分与に当たっての有利性という形で,専ら経済的に劣位の配偶者に与えられることになります。)ちなみに,「婚姻中の財産の取得又は維持についての各当事者の寄与の程度は,その程度が異なることが明らかでないときは,相等しいものとする。」と規定する新民法7683項は,こうしてみると当該GHQ担当官の主張に近付いたもののように観察されます。)

なお,民法820条の「子の利益のために」との文言は,新民法8181項における当該文言と一見重複することになりそうですが,削られないようです。子の監護及び教育の場面においてこそ親権の濫用(「体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動」)が一番問題になるから重複をいとわなかったのだ,という説明になるのでしょう。ちなみに,民法821条の「「子の人格を尊重するとともに,その年齢及び発達の程度に配慮しなければならな」いとの規律」は,「監護及び教育が「子の利益のために」行われるべきとの〔同法820条の〕規律をより明確に表現する観点から」設けられた,当該規律を監護及び教育における「行為規範として更に具体化するもの」であるそうです(佐藤隆幸編著139頁)。

 

(3)第1項後段

ところで,新民法817条の121項後段の規定の意義は,「法律上の親である限り,たとえ親権がなくても,親として子に対する扶養義務を負う」こと及び当該扶養義務の負担については「「子に対し親権を有する者,又は生活を共同にする者が,扶養義務につき当然他方より先順位にあるものではなく,両者は,その資力に応じて扶養料を負担すべきものである」(大阪高決昭和37131日家月14-5-150。離婚後の非親権者についての判示)という立場が通説であり,裁判例の傾向でもある(非嫡出子の父について同旨,仙台高決昭和37615日家月14-11-103)」ということ(内田貴『民法 親族・相続』(東京大学出版会・2002年)296頁)並びに親の子に対する扶養義務は,「相手方に自己と同一程度の生活を保障する義務(生活保持義務とよばれる)」であるということ(同23頁)を明文化したものということになります。

「親の未成年子に対する扶養義務に関しても877条によるという見解はあるものの,親であることによる,あるいは,親権の効力による,という見解が説かれてい」たところ(大村464-465頁),つとに,「夫婦間の扶養義務のほかに,親の未成年子に対する扶養義務を明文化すべきであろう。これらの義務については,権利者・義務者の同居・別居にかかわらず義務は存続することも明示した方がよい。」と唱えられていたところです(同472-473頁)。

新民法817条の121項後段においては,扶養を受けるべき子は未成年子に限定されていませんが,この非限定性は,フランス民法371条の22(「子の養育料を負担する親の義務は,親権が剥奪され,若しくは停止されたこと又は子が成年であることによっては当然消滅しない。(Cette obligation ne cesse de plein droit ni lorsque l'autorité parentale ou son exercice est retiré, ni lorsque l'enfant est majeur.)」)の後段においても同様です。ただし,新民法817条の121項の扶養義務については,同項においては「父母が子との関係で生活保持義務を負うのが「子の心身の健全な発達を図るため」であるとしている」ことに注目すべきでしょう(家族法制部会資料34-26頁(注)参照)。

 

3 民法821条における「子の人格を尊重する」こと。

ここで具体的に,既存の規定である民法821条における「子の人格を尊重する」ことの趣旨の検討をしてみましょう。

 

(1)御当局の解説について

民法821条の趣旨を手っ取り早く知るために御当局の改正法立案御担当者の解説本を参照すると,次のようにあります。「親権者に「子の人格を尊重するとともに,その年齢及び発達の程度に配慮しなければなら」ないとの義務を課すこととしていますが,その趣旨は何ですか。」との問いに対して回答がされ,いわく。

 

   親権者による虐待の要因としては,親が自らの価値観を不当に子に押し付けることや,子の年齢や発達の程度に見合わない過剰な要求をすることがあるとの指摘がされています。

   改正法では,このような指摘を踏まえ,親子関係において,独立した人格としての子の位置付けを明確にするとともに,子の特性に応じた親権者による監護及び教育の実現を図る観点から,親権者の監護教育権の行使における行為規範として,子の人格を尊重する義務並びに子の年齢及び発達の程度に配慮する義務を規定することとしたものです。

  (佐藤隆幸編著138頁。下線は筆者によるもの)

 

わざわざ押し付けようとする「価値観」ですから,高尚なものなのでしょう。「過剰な要求」も,よかれと思われる方向に向けての要求なのでしょう。このような過剰な要求の問題に対処するために「年齢及び発達の程度に配慮」することが求められ,その余の価値観の押し付け等の問題に対処するために「子の人格を尊重する」ことが求められるのでしょう。

しかしながら残念なことにあんたの子供の「特性」すなわち生来の資質・志向・能力は,そのような高尚な価値観に見事に適合し,かつ,よかれと思っての諸々の要求に着々応えることができるという高度な水準に達した立派なものではないんだよ,むしろ出来の良くない方なのだよ,早熟の天才であるわけなど全然ないんだよ,諦めるべきところは早々に諦めた方が変な「虐待」騒動に巻き込まれずに済んで家族みんなの幸福のためになるんだよ,子とはいっても所詮は他人(「独立の人格」)なのだよ,諦めるんだよ,と勧告するのが,民法821条の趣旨なのでしょうか。そうであれば,「人格の尊重」なるEuphemismusの内実は,高尚な価値観を受け付けない当該人の具合の悪さをそれとして認識・受容した上で,同人に期待するところをその人物(personne)の程度・性向に合わせて変更せよ,という消極的なResignationの勧めなのでしょう。高い価値に向かって引き上げよ,押し上げよ,相共に前進せよ,という積極的なものではないのでしょう。

「人格を尊重」せよと言われると,つい当該人格の帰属者の「価値観」に迎合してかいがいしく当該人物に(かしず)かねばならないように思ってしまいます。しかし,それは忖度の先走り過ぎであって,敬してあえて遠ざかる対応もあってよいはずです。内面における「人格の尊重」と外面的かつ積極的な「人格を尊重している旨の表示行為」とは同一ではありません。むしろ,尊重するに値する人格は手のかからないものであって,巧言令色(すう)恭なる表示行為を恥とするものでしょう(論語公冶長)「人格の尊重」は,積極的な給付を行うことを必ずしも義務付けるものではないのでしょう。

 

(2)家族法制部会長・大村教授の所説に関して

民法821条における「人格を尊重」の意義については,また,令和4年法律第102号として結実することとなった要綱案202221日「民法(親子法制)等の改正に関する要綱案」。そのまま採択された要綱は,佐藤隆幸編著147頁以下に掲載)を取りまとめた法制審議会の民法(親子法制)部会の部会長であった大村敦志教授の次の文章も参照されるべきでしょう。

 

〔略〕暴力によらない教育 懲戒権についても,基本的には削除してよい。ただし,〔民法旧822条の〕削除によってしつけができなくなるという誤解を避けるために,親権を行う者には,子に対してしつけ(discipline)を行うことができる,という趣旨の規定を置いた方がよいかもしれない。もっとも,懲戒(correction)の場合と異なり,しつけには「暴力 violence」の行使は含まれず子を「尊重 respect」して行われなければならない旨を注記することも必要だろう。

(大村256頁)

 

 フランス派である大村教授の用いるrespectの語は,「レスペ」と発音するフランス語でしょう。同教授の著書には,「フランスでは,最近の民法改正によって,夫婦の義務に「尊重(respect)」が追加されたが,これは,相互の尊重を害する行為として暴力行為を位置づけるためではないかと思われる。」との一節があります(大村117-118頁。ただし同258頁は,フランス民法212条に加えられた夫婦の義務を「尊敬 respect」であるものとし,訳語が異なっています。また,同条は“Les époux se doivent mutuellement respect, fidélité, secours, assistance. (夫婦は相互に尊重,貞操,扶助及び協力の義務を負う(大村258頁参照)。)ですので,尊重されるのは相手方配偶者そのものであって,その人格ではありません。)。

当該単語“respect”の意味をLe Nouveau Petit Robert (1993)で検してみると,①古義は「考慮すること(Fait de prendre en considération)」,②現代では「同人について認められる価値のゆえに当該某に対する嘆賞の思い(une considération admirative)を抱かしめ,かつ,同人に対して節度及び自制をもって(avec réserve et retenue)振る舞うようにさせる感情(sentiment)」,③複数形では「敬意の印」,④「よいと判断されたもの(une chose jugée bonne)に対する,侵害せず,違背しないようにとの気遣いを伴う(avec le souci de ne pas y porter atteinte, de ne pas l’enfreindre)配慮(considération)」,⑤やや古い表現である“respect humain”は「他者の判断に対する恐れ(crainte)であって,一定の態度を避けるに至らしめるもの」及び⑥熟語として“tenir qqn en respect”は,「武器を用いて誰それを近づけない」ということである,というような説明がありました。⑥において顕著ですが,respectは,相手と距離を置くこと(le tenir à distance)を伴うものであって,節度及び自制(②)並びに侵害及び違背の避止(④)という消極的な配慮によって特徴付けられる態度であるわけです。かしこんで,みだりに関与しないということでしょう。べたべたと積極的に世話を焼くことが求められているわけではありません。②の語義に関するバルザックからの引用には「尊重(le respect)は,父母もその子らも同様に保護する障壁(une barrière)である。」とありました。分け隔てる障壁であって,(ぬる)かな一体化を促進するものではありません。(ところで,余計なことながら,⑤のrespect humainは,我が新型コロナウイルス対策流行時代の日本語では「思いやり」ですね。)

 しかし,衒学的にフランス語辞典を振り回さずとも,「尊重(respect)」するとは,単に,相手方に暴力を振るわず,かつ,その「個人の尊厳」たる「名誉」を害しない,ということを意味するにすぎないのだ,ということでもよいのでしょうか。大村教授の著書においては,前記のとおり,フランス民法で夫婦の義務にrespectが追加されたのは「これは,相互の尊重を害する行為として暴力行為を位置づけるためではないかと思われる。日本法においても,同様の規定を置くことは考えられないではない。」と記載されているとともに(大村118頁。また,258頁),「今日においては,侮辱こそが重要な離婚原因であるのではないか」,婚姻において「再び「名誉」が重要になりつつある。もっとも,ここでの「名誉」とは,「個人の尊厳」にほかならない。「尊重」という言葉はこのことを表すのである。」との見解が表明されています(同118頁)。

ただし,専ら暴力及び侮辱の禁止ということであれば民法821条後段の「体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動をしてはならない」で読めてしまうので,同条前段にいう「人格を尊重」は,それより広義なものと解さなくては,後段との単なる重複規定となって面白くないことになります。そこで,「価値観の不当な押し付け等」の禁止が含まれるものとされたのでしょう。他方,新民法817条の12は,父母は「体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動をしてはならない」旨まで明定することをしていませんが,これは,当該規律は「その子の人格を尊重する」というところに当然含まれているから,ということなのでしょう。

 

(3)フランス民法371条の1

 その後,フランス民法において,子の人格の尊重(respect)規定が設けられています。

 

   Article 371-1

L'autorité parentale est un ensemble de droits et de devoirs ayant pour finalité l'intérêt de l'enfant.

Elle appartient aux parents jusqu'à la majorité ou l'émancipation de l'enfant pour le protéger dans sa sécurité, sa santé, sa vie privée et sa moralité, pour assurer son éducation et permettre son développement, dans le respect dû à sa personne.

L'autorité parentale s'exerce sans violences physiques ou psychologiques.

Les parents associent l'enfant aux décisions qui le concernent, selon son âge et son degré de maturité.

 

  第371条の1 親権は,子の利益を志向する権利及び義務の総体である。

    親権は,その安全,健康,私生活及び徳性において子を保護するため,並びに,その人格に対して正当に払われるべき尊重をもって(dans le respect dû à sa personne)その教育を確保し,及びその発展を可能とするため,子の成年又は親権解放まで,父母に(aux parents)帰属する。

    親権は,肉体的又は精神的な暴力を伴わずに行使される。

    父母は,その年齢及び発達に応じて,子にかかわる決定にその子を参与させる。

 

フランス民法371条の1では,親権の行使における肉体的又は精神的な暴力の禁止の規律(同条3項。佐藤隆幸編著128頁では「親権は身体的暴力又は精神的暴力を用いずに行使される。」と訳されています。)とは直接結び付けられない場所において,子の「人格に対する正当に払われるべき尊重」が語られています(同条2項)。

「その人格に対する正当に払われるべき尊重をもって」の部分は「その安全,健康,私生活及び徳性において子を保護する」の部分にまでかかるものかどうかは難しいところですが,pour… pour…の区切りを大きいものと解してみました。確かに,安全やら健康にかかわる場面においては,最近の新型コロナウイルス感染対策の「徹底」的実施情況に鑑みても,いちいち各人の「人格に対する正当に払われるべき尊重」など気にしてはいられないでしょう。

しかしながら,子の「教育を確保し,及びその発展を可能とする」という場面(なお,ここでの教育及び発展は,単に肉体的なものではなく,そこにおいて尊重せられるべきものたる「人格」に係る「人格」的なものなのでしょう。)ならざる徳性(moralité)の保護の場面においては,その子の「人格に対する正当に払われるべき尊重」などというものに頓着する必要はないということになると,難しいことになるようです。教育及び発展に関する配慮と徳性の保護との切り分けが大きな重要性を帯びることになってしまうからです。特に家庭における宗教実践は,子の教育及び発展に係る配慮の側面とその徳性の保護の側面との両面を有するものでしょう。前者においては子の人格を尊重するが,後者においては子の異議は一切許さない,というような使い分けがうまく行くものかどうか。また,神聖な宗教の価値観の押し付けが「不当」なものであることは,切り分け云々以前に,そもそもあり得ないとの主張も当然あるでしょう。

なお,フランス民法371条の12項は子の「人格に対する正当に払われるべき()尊重」といって,単純に「人格に対する尊重」といっていませんが,父母としてふさわしからざる,子の人格に対する迎合的尊重まではする必要はない,という趣旨でしょうか。

 

(4)解釈論

 以上フランス民法をも参考にして民法821条における「子の人格を尊重」の意味するところを解せば,親権を行う者による子に対する暴力及び侮辱を禁止する(これは,子の虐待防止の緊要性に鑑み,同条後段において再び,単純な暴力及び侮辱の禁止よりもやや包括的な形で文字化されていることになります。)ほか,子の教育及びその人格的発展に係る監護においては,親権者はその理想を,子の特性(資質・志向・能力の限界又は偏向)の前に諦念と共に譲って(ただし,フランス民法371条の12項の“dû”の文言を重視すれば,無節操に子に迎合するということではないことになります。),自らの価値観の承継などということに執着すべからず,と義務付けるものということになるでしょうか。

 

4 新民法817条の12における「人格を尊重」すること。

 

(1)第1項

 新民法817条の121項の「子の人格を尊重」については,民法821条におけるもののように理解すれば大体のところはよいのでしょう。

ただし,新民法817条の121項の「子の人格を尊重」に関しては,法制審議会家族法制部会において,子の意見等を尊重・考慮(これは,2024130日に開催された同部会第37回会議に提出された同部会資料37-22頁によれば,「子の「意見」・「意思」・「意向」・「心情」等の「考慮」又は「尊重」」ということのようです。)する旨の規定を別に明示すべきではないかということが問題となり,最終的な整理は,同部会第37回会議における法務省民事局参事官である北村治樹幹事の発言(同会議議事録2頁)によれば,同項の「子の人格を尊重する」ことは,「子の意見等が適切な形で尊重されるべきとの考え方を含むもの」であるとされたとのことです。しかして結局このようにして子の意見等の尊重に係る規定を特に設けなかったことの意味は,同部会の資料34-2における記載(「子の人格の尊重等を掲げることに加えて,子の意見等を尊重・考慮すべきことを父母の義務として掲げるべきかどうかを検討するに当たっては,子の意見等を明示的に規定することの法的意味やそれが父母の行動に与える影響等を踏まえつつ,どのような表現により規律することが相当かも含め,慎重に検討する必要があるように思われる。この部会のこれまでの議論においても,例えば,具体的な事情の下では子が示した意見等に反しても子の監護のために必要な行為をすることが子の利益となることもあり得るとの指摘や,子の意見等を尊重すべきことを過度に重視しすぎると,父母が負うべき責任を子の判断に転嫁する結果となりかねないとの指摘,父母の意見対立が先鋭化している状況下において子に意見表明を強いることは子に過度の精神的負担を与えることとなりかねないとの指摘などが示されていた。」(5-6頁))等に鑑みると,子の意見等の尊重といっても,そこには自ずと限界があるということを含意するものでしょう(フランス民法371条の12項の“dû”参照)。確かに,子の意見表明権といってもその際親が「自己の都合のいいようにこどもに意見を言わせるというような行為は不適切な行為であって,それこそ子の人格の尊重にもとる行為」(202419日に開催された法制審議会家族法制部会第36回会議における池田清貴委員発言(同会議議事録14頁))となるものでしょう。子の人格の独立性もあらばこそ,親が子の人格を否認して,自己の人格に従属させることになるからです。

 

(2)第2項

他方,新民法817条の122項は,子の父母は「子に関する権利の行使又は義務の履行に関し,その子の利益のため,互いに人格を尊重し協力しなければならない」ということですから,そこでは父母間における相互的な「人格の尊重」が求められています。

これについては,親による「子の人格の尊重」の場面とは異なりますから――新民法817条の122項における父母は,夫婦すなわち婚姻関係にあるものに限定されていないものの――フランス民法212条の規定する夫婦相互の義務に関する前記大村教授流の解釈を採用することが可能であるようです(ただし,夫婦ではないので,「貞操,扶助及び協力(なおこの「協力」は "assistance"ですので,新民法817条の122項の「協力」とは異なる「助力」「補佐」といったものでしょう。)」の義務は相互に負いません。)。そうであれば,「互いに人格を尊重し」と文言は抽象的ながらも,その意味するところは両者間における暴力・侮辱の禁止にとどまることになりましょう(法制審議会家族法制部会資料34-2によれば「部会のこれまでの議論においては,離婚後の父母双方が子の養育に関して責任を果たしていくためには,父母が互いの人格を尊重できる関係にある必要があることや,父母が平穏にコミュニケーションをとることができるような関係を維持することが重要であることなどの意見が示された」ことを踏まえて「父母がその婚姻関係の有無にかかわらず互いの人格を尊重すべきである」との規定が生まれたそうですが(6頁),「互いの人格を尊重できる関係」といわれただけではなお具体的にどのようなものかが分かりにくいところ,「平穏なコミュニケーション」の確保が主眼ということになりましょうか。)。「協力」することの前提条件としてはこれで満足すべきなのでしょう。価値観の相違等は,協力の過程の中で解きほぐされて何とかされていくべきものでしょう。新民法817条の122項の「互いに人格を尊重し・・・なければならない」との「人格尊重義務」の違反には,「親権者の指定・変更の審判や,親権喪失・親権停止の審判等において,その違反の内容が当該父母の一方にとって不利益に考慮されることになるとの解釈があり得る」とのことですので(法制審議会家族法制部会資料34-27頁(注1)),当該義務の外延は明確に限定されてあるべきものでしょう。ちなみに,離婚後等の父母共同親権状態を父母のうちいずれか一方の単独親権に変更する場合の審判において適用される新民法81972号は,「父母の一方が他の一方から身体に対する暴力その他の心身に有害な影響を及ぼす言動(次項において「暴力等」という。)を受けるおそれ」等の事情を考慮するものとしています。父母が協力してする子の養育においても,両者間における当該暴力等が協力の阻害要因として特に懸念されるということでしょう。

その余の種々の注文を取り除いた狭い解釈(専ら暴力・侮辱を禁ずるものとの解釈)を採用した方が,それについて「互いに人格を尊重」すべきものとされた(暴力・侮辱禁止以外の)多様な事項に係る諸々の事情が理由ないしは口実(例えば,「全面的に私の人格を尊重しないような奴と子育てについて協力するいわれはない」云々)とされて「その子の利益のため」の「協力」及びそれに向けた努力が放棄されてしまうという(子にとって残念であろう)場面が,より少なくなるものと思われます。

法制審議会家族法制部会第36回会議において示された原田直子委員の理解によれば,新民法317条の122項の「互いに人格を尊重し」なければならないとの規律に違反して「親権の変更とか,そういう問題に通じる」行為は,「父母間の対立をあおる行為」であって,①「DVや虐待」,②「濫訴的な申立て」,③「父母の同意なしに勝手にこどもの写真とかをネットに上げ」ること及び④「元配偶者の批判をするとかいう行為」が含まれるとされています(同会議議事録5頁)。しかし,同項での「人格を尊重し」の射程の限界付けを重んじようとする立場からすると,①はともかく,②は非協力・反協力の問題であり,③は子の利益に反するとともに非協力であるから問題なのでしょうし(なお,ちなみにフランス民法372条の11項は「父母は,第9条に規定する私生活の権利を尊重して,彼らの未成年子の肖像権を共同して保護する。(Les parents protègent en commun le droit à l'image de leur enfant mineur, dans le respect du droit à la vie privée mentionné à l'article 9.)」と規定しています。),④も,相手方に対する侮辱に相当することとなる場合に当然問題となるほかは,子に対してされる場合において,子の利益に反するときに問題となり,かつ,間接的に反協力行為となるものであると考えるべきではないでしょうか。

なお,別居親(les parents séparés)による親権行使に関するフランス民法373条の22項は「父母の各々は,子との個人的な関係を維持し,かつ,その子と他方の親とのつながりを尊重しなければならない。(Chacun des père et mère doit maintenir des relations personnelles avec l'enfant et respecter les liens de celui-ci avec l'autre parent.)」と規定しています。ここで父母の各々が尊重すべきもの(doit respecter)として規定されているのは,「子と他方の親とのつながり」です(ちなみに,当該つながり(liens)に対する「尊重」の意味するところは,要は,積極的作為義務ではなく,他方の親と子とのつながりを阻止し,又は稀薄化し,若しくは消滅せしめるような意地悪をするな,という消極的なものでしょう。)。これに対して,我が新民法817条の122項において,父母によって尊重されるべきものは専ら互いの人格です。しかし,相手方によって尊重されるべき父又は母の各「人格」にその子とのつながりまでが当然含まれるものかどうか。やはりそこまでは,ちょっと読み取りにくいように思われます(なお,20231128日開催の法制審議会家族法制部会に提出された同部会資料34-2には「部会資料32-1の第23の注2では,「監護者による身上監護の内容がその自由な判断に委ねられるわけではなく,これを子の利益のために行わなければならないこととの関係で,一定の限界があると考えられる。例えば,監護者による身上監護権の行使の結果として,(監護者でない)親権者による親権行使等を事実上困難にさせる事態を招き,それが子の利益に反する場合がある」との指摘を注記しているが,このような監護者による監護の限界を父母間の人格尊重義務と結びつけて整理することもできると考えられる。」とありますが,当該監護の限界は,やはり直接的には「子の利益に反する」ことによるとともに,親権者に対してはそもそもその権利を侵害してはならないことによるのではないでしょうか。)

父母の各々と子とのつながりに対する他方の「尊重」については,我が国ではむしろ,「親子の交流等」に係る新民法817条の131項の規定(「第766条〔協議離婚〕(第749条〔婚姻の取消し〕,第771条〔裁判上の離婚〕及び第788条〔父による認知〕において準用する場合を含む。)の場合のほか,子と別居する父又は母その他の親族と当該子との交流について必要な事項は,父母の協議で定める。この場合においては,子の利益を最も優先して考慮しなければならない。」)における「〔父母の協議〕の場合においては,子の利益を最も優先して考慮しなければならない」の部分が対応するということなのでしょう。しかし,「子の利益を最も優先して考慮」した結果,他方の親とのつながりを阻止し,又は稀薄化し,若しくは消滅せしめるべきであるとの結論に達した父母の一方の当該結論を,同項の規定自体によって否定することは難しいのではないでしょうか。

「面会交流はかえって父母の間の関係を複雑にする,という危惧も強く,その権利性を認めるのに慎重な見解」があったところ(大村98頁),2023718日に開催された法制審議会家族法制部会第29回会議に提出された同部会資料29に記載されているところは「(抽象的な)親子交流の法的性質についていかなる見解を採るにせよ,本文記載のとおり,父母の協議又は審判によって具体的に親子交流の定めがされた場合には,父母間に具体的な権利義務が発生するものと考えられる。この部会における議論の中では,父母は,離婚後も,子の養育に関して双方の人格を尊重しなければならないとする考え方も示されていたところ,仮にこの考え方を採用する場合には,父母の協議又は審判によって親子交流の定めがされ,これが具体的な権利となったときには,父母は,その実施に当たって相互に協力するとともに,互いの人格を尊重しなければならないとする考え方があり得る。他方で,仮に親子交流をすることが親の権利であると考える意見に立ったとしても,この「権利」は,子の利益のために行使すべきものである上,父母の協議又は審判によって親子交流の定めがされるまでは,その権利の内容が具体的に定まらないため,子と別居する親が,親であること(又は親権者であること)のみをもって,同居親に対し,自己の希望する方法や頻度での親子交流の実施を一方的に請求し,その強制をすることができるわけではないと考えられる。」というものでありました(35頁(注1))。結局,家族法制部会資料34-2においては,「親子交流については,父母の協議又は家庭裁判所の手続によって定めることが想定されているため(〔民〕法第766条),この資料のゴシック体の記載のような規律〔新民法817条の12に対応〕を設けたとしても,〔中略〕父母の協議等を経ることなく別居親が親子交流の実施を一方的に求めることができるようになるわけではないと考えられる。」とされています(4-5頁(注1))。

ちなみに,フランス民法373条の212項は,「訪問及び宿泊受入れの権利の行使は,重大な事由によらなければ,他方の親に対して拒絶され得ない。(L'exercice du droit de visite et d'hébergement ne peut être refusé à l'autre parent que pour des motifs graves.)」と規定しています。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 はじめに

 113日の文化の日の由来については,194875日に制定され,同月20日に公布されると共に同日から施行された国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)の制定時における参議院の担当委員会たる文化委員会の委員長たりし山本勇造(作家としては,山本有三)の手記があります。筆者が参照し得たものは,高橋健二編『人生論読本 第九巻 山本有三』(角川書店・1961年)に収載されたもので,「文化の日」と題されています(同書189-194)。

 本稿は,当該文章に関して筆者が行ったいささかの考証を記すものです。

 

2 1948年4月14日の両議院文化委員会合同打合会(憲法記念日:衆=5月3日,参=11月3日)まで

 

  〔前略〕当時われわれのおった参議院の文化委員会では,〔略〕われわれのやるべきことは,国民の祝日を選ぶことであって,皇室の祝日を選ぶのではな〔かった〕。われわれが最も力を入れたのは,113日であった。この日は新憲法公布の日だから「憲法記念日」としたかったのである。

   しかし〔総司令部(GHQの〕CIE(民間情報教育局)は,それを許さなかった。「憲法記念日」なら,53日でいいではないかというのである。そのうちに,衆議院は53日を承諾してしまったので,交渉は一層やりにくくなった。

  (山本「文化の日」190頁)

 

皇室の祝日を選ぶのではなかったところ,参議院文化委員会においては,当時の昭和2年勅令第25号(休日に関する件)にあった「大正天皇祭〔同天皇の崩御日である1225日〕,春秋二季の皇霊祭,明治節〔113日〕等は皇室中心の祝祭日であるから,今度の新憲法の精神と照らし合わせて,存置しないことに決定」されています(参議院議長・松平恒雄宛ての同年73日付けの同議院文化委員長・山本勇造の「調査報告書/祝祭日の改正に関する件」(第2回国会参議院会議録第60号附録141-150頁)の144頁)。また,「「元始祭」〔13日〕,「新年宴会」〔15日〕,「神嘗祭」〔1017日〕,「新嘗祭」〔1123日〕はいずれも天皇がみずから行われる祭典であつて,皇室中心のものであり,一般の国民には縁遠いものである」から,参議院文化「委員会としては,これらは,いずれも国民の祝祭日として適当のものとは考えられないので,採用しないことに意見が一致した」とされています(同報告書145頁)。43日の神武天皇祭は,そもそも,日本書紀の「七十有六年春三月甲午朔甲辰,天皇崩〔于〕橿原宮,時年一百二十七歳」との記述が,根拠として「むろん信を置くわけにいかない」とされて落とされていました(同報告書144頁。ここでの「根拠」は,当該事実(神武天皇の崩御)発生の日付の根拠のことでしょう。)。ただし,「春秋二季の皇霊祭はそれ〔ぞれ〕春分,秋分の日にあたつているし,時候もよい時であるから,もとの姿の「春分の日」「秋分の日」としてこの二つの日は生かしたいというのが,多数の委員の意見であつた」そうです(同報告書144頁)。

ところで,19484月の14日及び15日にそれぞれ開催された衆議院文化委員会と参議院文化委員会との合同打合会及び合同小委員会(山本報告書142頁参照)に提出された両委員会の仮案においては,既に衆議院側のものが,53日を「憲法記念日」の祝祭日たるべきものとしていました(山本報告書150頁)。これは,憲法記念日の日付について,衆議院文化委員会は当時既にGHQの御指導に服していたということでしょうか。これに対して,参議院側の仮案はなお,同日をもって「こどもの日」又は「母の日こどもの日」の祝祭日たるべきものとし,「憲法記念日」は113日たるべきものとしています(同頁)。

55日でなくて同月3日が「こどもの日」とは,今となっては奇異に感じられますが,これについては参議院文化委員会なりのもっともな理由付けがあったところです。「こどもの日を選ぶにあたつて,特に注意すべきことは,季節の問題である。風習からいえば,こどもの日にあたるものは33日の「ひな祭り」と55日の「たんごの節句」であるが,男の子の日,女の子の日というように別々にすることは,祝祭日の数をふやすことになるし,また男女の差別をつけることも好ましくないので,まずこれを一本にちじめることにした。そこで一本にまとめるとすると,季節の上からいえば55日のほうがよいが,これは男の子の日であるから,女の子のことも考慮して,新しく折衷案を作つた。すなわち,月はたんごの節句からとり,日はひな祭りからとつて,53日としたのである。しかも,この日は憲法実施の日であるから,この日をこどもの日とすることによつて,次ぎの時代の人々に新憲法の精神を普及させたいという意図も含めたのである。」ということでした(山本報告書146頁)。男女の中間の44日ということは考えられていなかったようです。確かに,4月の上旬では,北海道などはあたかもどろどろの雪解けの時期で,季節としては依然よろしくないところです。(ちなみに,衆議院文化委員会の仮案では,41日に「子供の日」が祝祭日ならぬ休日として設けられることとなっていました(山本報告書149頁参照)。)なお,「母の日こどもの日」というのは,「婦人の日」を採択しない代償としての命名です(山本報告書147頁)。当該趣旨は,現在の国民の祝日に関する法律2条におけるこどもの日の趣旨説明文に「こどもの人格を重んじ,こどもの幸福をはかるとともに,母に感謝する。」として残っているわけでしょう(下線は筆者によるもの)。しかし,「次ぎの時代を背負う「こどもの日」を設けるなら,そのこどもを育てあげるのは,大部分婦人の力であるから,当然「婦人の日」も設けるべきである。」というような当時の参議院文化委員会における議論(山本報告書147頁)は,意識の向上した令和の人民の御代においては,およそ通用するものではないでしょう。育児は母のワンオペでされるべきものと決めつけることは男女共同参画社会においては許されず,更に婦人イコール母となるものと考えるのは生き方の多様性を否定する遅れた思考であるとともに若い女性を「産む機械」と捉える発想につながり,そもそも婦人の「婦」の字は箒を持つ女性ということであって,男は散らかし母なり妻がそのあと片付けをして掃除をするという性差による役割分担に係る偏見を助長する差別文字です。

 

3 11月3日にGHQが反対した理由:「ホウジュ」課長の打ち明けばなし

 衆議院文化委員会は憲法記念日を53日とするのでよいのだとしていましたが,参議院文化委員長は113日説を持して譲りません。

 

しかし,わたくしはあきらめなかった。〔略〕この法案の担当課長であったCIEのバンス氏は,いつも「ノー」といっていたけれども,全く理解していないわけではなかった。思い余った彼は,最後に企画のホウジュ課長を紹介した。ところが同課長もやはり「ノー」であった。それでも引きさがらずに,なお,こちらの意見を述べたが,結局113日という日が,どうしてもいけないのだというのである。

   なぜかと追求すると,困った顔をしながら,あなただから話すのだが,これは委員会には報告しないでくれといってこう語ったのである。

   「あなたがたは,総司令部が干渉しすぎると思っているでしょうが,総司令部もまた干渉を受けているのです。なにしろ連合軍なのですからね。ソ連やオーストラリアをはじめ各国から非難や注文が絶えず殺到しているのです。そう。――ここに,『フォーリン・アフェアーズ』があります。ご覧なさい。前イギリス代表であったオーストラリアのマクマホンボール氏は,こんなにながながとマッカーサー元帥を非難しています。このなかにも,113日のことが出ていますよ。憲法公布は111日にやるはずであったにもかかわらず,3日に変更した。理由は,半年後の実施の日が,メーデーとかち合って,混乱をおこすおそれがあるというのだが,日本の実際の腹は,明治節を温存し,ふたたび復古的な日本に立ち返ろうとしているのだ。元帥は甘い。日本にだまされているのだ。――どうです。そう書いているでしょう。こういう意見は,これだけではありません。こういう次第ですから,この日は憲法記念日として許可するわけにはいかないのです。あなたの意見はもっともですが,こちらにも,つらい事情があるのです。」

   こう腹を割った話をされては,それでもとはいえなかった。〔略〕その日は退出した。〔後略〕

  (山本「文化の日」190-192頁)

 

日本国民が113日をもって国民の祝日とすることはまかりならぬと立ちはだかった共産主義・社会主義,白濠主義等を奉ずる諸外国勢力中の巨頭は,オーストラリアの外交官であったW. Macmahon Ball氏(19464月から19478月まで聯合国の対日理事会における英国代表兼在日オーストラリア公使)であって,日本国憲法が公布された194611月から国民の祝日に関する法律が制定された19487月までに発行されたForeign Affairs誌のどれかに,日本国における新憲法公布日にかこつけた113日=明治節保存の「陰謀」を糾弾する主張を含む論文を掲載したということのようです。しかして,参議院文化委員会は,その祝祭日の選定基準10項目中の第4において「国際関係を慎重に考慮すること」としていたところでもありました(山本報告書142頁)。「この度祝祭日を定めるというので,世界では,日本がどんな日を選ぶかということに非常に注目を払つております。日本は日本の日本でない,世界の中の日本であります。殊に今日は連合軍の占領下にあるのであります。我々は十分に国際間のことを考慮し」なければならなかったわけです(194874日の参議院本会議における山本勇造文化委員長報告(第2回国会参議院会議録第59号(2954頁))。

 

4 マクマホン・ボールの『日本――敵か味方か?』

なるほど,憲法記念日が113日ではなく53日になったことについては,113日を誹謗する厄介な論文がForeign Affairsに掲載されていたという事情があったのか。

 ということで,余計なことながら筆者は図書館に出かけて,Foreign Affairs誌(年4回発行)の実物の194610月号,19471月号,同年4月号,同年7月号,同年10月号,19481月号,同年4月号及び同年7月号の各目次を検してみたのですが・・・何と,Macmahon Ball御大の論文はそれらの中には見当たりませんでした。山本有三に限らず,年寄りの回顧談には,記憶の曖昧やら混乱やらがあるものなので眉に唾をつけて用心しなくてはならないということなのでしょう。(なお,Foreign Affairs19487月号には高木八尺教授の“Defeat and Democracy in Japan”(「日本の敗北及び民主主義」)と題された論文が掲載されています。しかし,そこにおいて,“Japan needs Protestant Christianity, with emphasis on the teaching of Christ, not on institutionalism. […] Japan’s spiritual revolution will remain incomplete until Christianity is integrated in the Japanese code of morality.”p.651. 「日本には,制度主義にではなくキリストの教えに重点を置いたところのプロテスタントのキリスト教が必要なのです。〔略〕キリスト教が日本人の道徳律に統合されるまでは,日本の精神革命は未完のままなのであります。」)とまで書いて敬虔なキリスト教徒たる米国の読者にリップ・サービスしてしまっているのはいかがなものでしょうか。とはいえ,1948414日の衆議院文化委員会の仮案では1225日を「クリスマス」として休日とするものとしていましたが(山本報告書150頁参照),これは「世論調査では相当の希望者があつた」からでしょう(同報告書147頁)。) 

 しかしながら,マクマホン・ボールは,1948年後半にメルボルンで,Japan—Enemy or Ally?(『日本――敵か味方か?』)と題された本を出しています(ただし,同年12月付けの同氏の序文によればメルボルンでの出版は同月の数箇月前(a few months ago)のことですから,我が国における国民の祝日に関する法律の制定後のことでしょう。なお,増補改訂版が1949年にニュー・ヨークで,the International Secretariat, Institute of Pacific Relations, and the Australian Institute of International Affairsの合同名義で(under the joint auspices of),The John Day Companyから出版されています。筆者が利用することができたのは,このニュー・ヨーク版です。)。しかして,「ホウジュ」課長が山本有三に紹介したというマクマホン・ボールの文章に近いものと考えられる記述が,出版時期の問題は別として,Japan—Enemy or Ally? には確かにあるのでした。(なお,同書の出版名義として上記のとおりオーストラリアのインターナショナル・アフェアーズ協会(Australian Institute of International Affairs)という名称が出て来ますところ,山本有三はこれを,「フォーリン・アフェアーズ」ともっともらしく記憶したものでしょうか。)

 

   I think it was significant that the day the Japanese Government chose for inaugurating the Constitution, which was to strip the Emperor of all political power and separate religion from the state, was Meiji Day, and that the Emperor’s first act that day was to report on this strange event to his ancestors at the three main shrines in the Palace precincts. Later a great rally of citizens was organized on the Imperial Plaza. After the crowd had listened below the Palace to speeches by political leaders explaining the significance of the new Constitution, the national anthem was sung. Suddenly the imperial carriage was seen crossing the bridge over the moat. The Emperor was arriving. The crowd shouted itself hoarse in a fever of devotion. Allied newspapermen present told me they had never heard such banzais since the death charges of the war. When, after two minutes, the Emperor withdrew, the crowd surged after him, treading many underfoot in their excitement. Priests beat their drums to ward off evil spirits. For hours afterwards the crowd filed over the dais for the honor of treading where the Emperor had trod.

     (Macmahn Ball, pp.53-54)

 

   私は,天皇から全ての政治上の権限を剥奪し,かつ,宗教を国家から分離せしめるべきものである憲法を公布するために日本国政府が選んだ日が明治節(Meiji Day)であったこと及びその日における天皇の最初の行為が宮中三殿においてこの奇妙な出来事を皇祖皇宗に親告することであったことを注目すべきものと考える。その後宮城前広場に市民大会が組織された。新憲法の意義を説明する政治指導者らの演説を宮城の下で群衆が聞いた後,国歌が歌われた。突然,濠の上の橋を渡る天皇の馬車が見えた。天皇が現れるのである。群衆は,献身の熱情と共に声をからして絶叫した。その場にいた聯合国の新聞記者らは,戦争中の玉砕突撃以来,そのようなバンザイを聞いたことは全くなかったと私に語った。2分後に天皇が戻る際,群衆は彼に向って殺到し,多くの者が踏みつけられた。僧侶らが悪霊を祓うために太鼓を叩いた。その後何時間も,天皇が立った場所に立つという栄誉のために,群衆は列をなして式壇の上を歩いたのだった。

 

       It is my strong impression, despite all efforts at democratization, that the Emperor is still the political sovereign and still the Son of Heaven in the hearts and minds of the overwhelming majority of the Japanese people. I think it probable that his real political power is even stronger than before the war. He is all the Japanese people have to hold on to. […] He is the divine ruler, who preserves their national unity and who will restore that leadership among nations that has been temporarily lost through the blundering of their generals and the overwhelming material resources of the United States.

     (Macmahon Ball, p.55)

 

   民主化のための全ての努力にもかかわらず,日本人民の圧倒的多数の心中胸中において,天皇はなお政治的主権者であり,かつ,なお天子さまである,というのが私の抱く強烈な印象である。彼の実質的な政治権力は戦前よりもむしろ強くなったといい得るものであると私は考える。彼は,そこに縋るべきものとして日本人民が有するものの全てなのである。〔略〕彼は神たる支配者であり,彼らの国民的統一を維持しており,かつ,彼らの将軍らの失策及び合衆国の圧倒的物量によって一時的に失われた諸国民間における指導的地位を回復せしめるのである。

 

       The Emperor system was to be the facade behind which they [the Satsma and Choshu clans] ruled Japan. We need to be wary today lest those conservative groups that are so anxious to protect the Emperor system are not merely hoping to exploit the Emperor’s new human and democratic attributes in the same way that the Satsumo(sic) and Choshu clans tried to exploit the Emperor Meiji’s divine attributes. A feudal system could hardly have a more acceptable front than a human and democratic Emperor.

     (Macmahon Ball pp.55-56)

 

  天皇制は,その背後において彼ら〔薩長閥〕が日本を支配した前面建築物たるべきものなのであった。今日我々は,天皇制を守ることにしかく熱心な守旧派諸グループは,明治天皇の神的属性を薩長閥が利用しようとしたのと同じようにして現天皇の人間的かつ民主的な新属性を利用すべく望んでいるだけではないのではないか,ということを憂慮しなければならない。封建制度にとって,人間的かつ民主的な天皇以上に結構な隠れ蓑はそうないものであろう。

 

マクマホン・ボールの記述に関連する1946113日の昭和天皇の動静については,宮内庁において次のような記録があります。

  

  明治節祭につき,午前,賢所・皇霊殿・神殿への御代拝を侍従徳川義寛に仰せつけられる。なお聯合国最高司令部は日本政府の請求により,去る1026日付を以て,この日の日章旗掲揚は差し支えない旨を通知する〔筆者註:日本国憲法案が枢密院によって可決されたのは同月29日,昭和天皇によって裁可されたのは同月30日〕。また,明治神宮例祭につき,勅使として掌典酒井忠康を同神宮に差し遣わされる。同例祭へは,御服喪中の年を除き,戦後も引き続き毎年勅使を御差遣になる。〔略〕

  日本国憲法公布につき,午前9時,賢所皇霊殿神殿に親告の儀を行われ,御拝礼になり御告文を奏される。ついで朝融王・盛厚王・故成久王妃房子内親王・恒德王・春仁王が拝礼し,内閣総理大臣吉田茂・枢密院議長清水澄以下29名が拝礼する。

  (宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)223-224頁)

 

  東京都議会主催日本国憲法公布記念祝賀都民大会に御臨場のため,午後220分,皇后と共に御文庫を発御され,馬車にて宮城前広場に行幸される。崇仁天皇・同妃百合子・春仁王・同妃直子が参列する。天皇が玉座に着かれた後,内閣総理大臣吉田茂の発声による万歳三唱を皇后と共に受けられ,同所をお発ちになる。御帰途,鉄橋宮城正門鉄橋,通称二重橋上において馬車を停められ,奉拝者の歓呼にお応えになる。同50分,還御される。

  (実録第十227-228頁)

 

 マクマホン・ボールの日本に対する警戒心は徹底しています。

 

  I can see no reason why Japan will be less likely in the 1950’s than in the 1930’s to want to use war as an instrument of national policy. Imperialism and militarism may well be the inevitable expression of the sort of economic and social system that still stands in Japan.

     (Macmahon Ball, p.187)

 

  1950年代の日本が1930年代に比べて,国家政策の手段として戦争に訴えようとする傾向をより少なく持つようになるという理由を私は見出すことができない。帝国主義及び軍国主義は,日本においてなお存在する種類の経済社会システムにとって,不可避の発現形態であろう。

 

       […] I believe it is rash and dangerous to assume that Japan cannot in the foreseeable future again become a danger to her neighbors.

       (Macmahon Ball, p.188)

 

  〔略〕私は,想定され得る限りの未来において日本が近隣諸国に対する脅威に再びなることはあり得ないと想定することは,早計であり,かつ,危険であると信ずる。

 

       It seems probable, nevertheless, that strong controls will be necessary for at least a generation, or, say, twenty-five years. It is hard to believe that the re-education of the Japanese and the consolidation of new leadership could be achieved in a shorter period.

     (Macmahon Ball, p.191) 

 

  しかしながら,少なくとも一世代,又は,例えば25年間,強力な監督が必要となるであろうと思われる。日本人の再教育及び新指導者層の確立がそれより短い期間中に達成され得るものとは信じ難いのである。

 

    I was often told in Tokyo, not only by Japanese, but by Americans and others, that Australians seemed more bitter and revengeful toward the Japanese people than any other of the Allied peoples. I once had the disagreeable distinction of being described in part of the United States press as the “leader of the revenge school” in Japan.

     (Macmahon Ball, pp.5-6)

 

  東京において私はよく,日本人からのみならずアメリカ人その他の人々からも,オーストラリア人は他の聯合国人民のいずれよりも日本人民に対してより意地悪であり,かつ,より強い復讐心を抱いているように見える,と言われた。私は一度,合衆国のプレスの一部から日本における「復讐派の首領」として記述されるという有り難くない栄誉を頂戴した。

 

先の大戦中における日本からの侵略に対する恐怖は,人口の小さなオーストラリアにとっては甚大なものがあったのでしょう。現実には,帝国海軍は194257-8日の珊瑚海海戦に勝てず,帝国陸軍はニュー・ギニア島のオーエン・スタンレー山脈で消耗し果ててしまったのですが。

ちなみに,珊瑚海海戦を戦った我が第四艦隊の司令長官は,阿川弘之の小説『井上成美』において立派な軍人として描かれる井上成美です。ただし,194258日の昭和天皇の御様子は次のとおりであって,なかなか厳しい。

 

夕刻,御学問所において軍令部総長永野修身に謁を賜い,珊瑚海海戦の戦果につき奏上を受けられる。戦果に満足の意を示され,残敵の全滅に向けての措置につき御下問になる。軍令部総長より第四艦隊司令長官は追撃を中止し,艦隊に北上を命じた旨の奉答あり。天皇は,かかる場合は敵を全滅させるべき旨を仰せになる。軍令部総長の退出後,侍従武官長蓮沼蕃をお召しになり,今回の戦果は美事なるも,万一統帥が稚拙であれば勅語を下賜できぬ旨を仰せられ,勅語下賜の可否を御下問になる。

(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(東京書籍・2016年)709頁)

 

 閑話休題。

しかし,改めて,マクマホン・ボールは剣呑な人でした。Japan—Enemy or Ally? の結語にいわく。

 

    In a word, if we want Japan as our ally, the way to succeed is not by subsidizing reactionary governments, or resuming trade relations with a disguised Zaibatsu, but by giving firm friendship and effective help to the Japanese people. At present the Japanese masses lack political consciousness and experienced leaders; they are still sunk in the past. But when they are without food or clothing or shelter, they want radical change. Those who help them achieve this change will be their friends; those who resist the change will be their enemies.

     (Macmahon Ball, p.194)

 

  一言でいえば,我々が味方としての日本を欲するのならば,成功への道は,反動政権を援助したり,装いを改めた財閥との貿易を再開したりすることにではなく,日本人民に対して強固な友情と効果的な手助けとを与えることにあるのである。現在,日本の大衆は,政治的自覚と,経験を積んだ指導者とを欠いている。彼らはなお過去の中に沈んでいるのである。しかし,彼らが食糧,あるいは衣料,あるいは住居を欠くときには,彼らは急進的変革を欲するのである。彼らが当該変革を達成することを手助けする者が彼らの友人となるのである。当該変革に抵抗する者は,彼らの敵となるのである。

 

日本人民の衣食住をあえて欠乏せしめて,混乱の中から急進的変革(radical change)を日本にもたらしめよ,ということでしょうか。対外敗戦を通じての国内の革命を構想したというレーニン的思考の臭いがします。(なお,マクマホン・ボールとボリシェヴィキとの関係については,「マクマホン・ボールについては,〔GHQ民政局次長の〕ケーディスが報告をしているのですが,それによると,ソ連のデレビヤンコなどが何かをしようとする時,必ずマクマホン・ボールのところに来ていたようです」との福永文夫独協大学教授による報告があります(福永文夫「講演会 占領と戦後日本-GHQ文書と外務省文書から-」外交史料館報第30号(20173月)52頁)。)

 

5 バンス宗教課長に関して

 前記CIEのバンス氏は,同局の宗教課長で,1948528日に開催された参議院文化委員会の祝日に関する懇談会に臨場し(山本報告書144頁。また,同142頁),紀元節はまかりならん,と(のたも)うています。その反対理由は,1,紀元節は,日本民族成立の特殊性,優越性を,国民に教えこむために,明治初年にはじめて設けられたものである。」,「2,世論調査において紀元節を支持する者が多かつたのは,75年間にわたる,この誤つた教育の結果である。」及び「3,紀元節を存置することは,過去の日本政府が紀元節によつて意図したものを残すことを意味する。」ということでした(山本報告書144頁)。しかし,神武東征記においては,現在の奈良県の吉野には何と尾のある人((おびと)()及び国樔部(くにすら)始祖)が,葛城には「身短而手足長,与侏儒相類」という外見の土蜘蛛がいたとあり,その他一般人民も「民心朴素。巣棲穴住,習俗惟常。」という有様であったとされています。征服王の配下たりし猛々しき一部九州人を除いて,我ら日本人の大部分の御先祖たる征服民族どもは,特殊ではあっても,特段の優越性を有するものではなかったようであります。

 なお,バンス氏は,先の大戦前に旧制松山高等学校で英語の教師をしています。四国松山の英語教師といえば夏目漱石的『坊っちゃん』なのですが,旧制中学ではなく旧制高校なので,蒲団にバッタないしはイナゴを入れられるというようないたずらを,後の日本占領軍の高官にして神道指令の起草者たるオハイオ州出身の青年が被ることはなかったのでしょう。

 バンス氏は,100歳まで生きて,2008723日にメアリランド州で亡くなっています。

 

6 参議院文化委員長による5月3日の憲法記念日の容認

 話は元に戻って,山本参議院文化委員長とGHQの「ホウジュ」課長との談判の続きです。

 

  〔前略〕もう一度ホウジュ課長と交渉した。

   「あなたの(ママ)あけ話をうかがった以上,憲法記念日は53日にします。〔略〕」

  (山本「文化の日」192頁)

 

 これは,「衆議院がわが前からこの日を憲法記念日にしており,現に今年〔1948年〕も,その日にその記念の祝いをおこない,また司令部の意向もそこにあつたので,まことにやむを得なかつたのである。」ということでしょう(山本報告書148頁)。

 確かに,194853日には「国会・内閣・最高裁判所共催の日本国憲法施行一周年記念式典へ御臨席のため,〔昭和天皇は〕午前1040分御出門になり,参議院議場に行幸される。御到着後,便殿において衆議院議長松岡駒吉・参議院議長松平恒雄・内閣総理大臣芦田均・最高裁判所長官三淵忠彦の拝謁を受けられ,参列の崇仁親王・同妃と御対面になる。ついで式場に臨まれ,御着席の上,松岡衆議院議長・松平参議院議長・芦田内閣総理大臣・三淵最高裁判所長官の式辞をお聞きになる。終わって,1130分還幸される。」という運びになっています(実録第十642-643頁)。参議院も,53日をもって日本国憲法に係る目出度い日であるものと公式に認めていたことになります。これに対して,1947113日には,天皇臨御の日本国憲法公布一周年記念式典は行われていなかったのでした(実録第十533-534頁参照)。確かに,施行後6箇月で早くも公布一周年式典を行うのでは慌ただし過ぎるでしょうし,やはり,新憲法が実際に施行されて以後の変化及びそれらに対応する多忙の印象の方が強烈だったことでしょう。

 ちなみに,日本国憲法公布の1946113日には,前記の東京都議会主催日本国憲法公布記念祝賀都民大会の前に,帝国議会貴族院で日本国憲法公布記念式典が開催され,昭和天皇から「〔前略〕朕は,国民と共に,全力をあげ,相携へて,この憲法を正しく運用し,節度と責任とを重んじ,自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。」との勅語が下されていますが(実録第十226-227頁。同日付けの英文官報によれば,当該部分の英語訳は"It is my wish to join with my people in directing all our endeavours toward due enforcement of this Constitution and the building of a nation of culture tempered by the sense of moderation and responsibility and dedicated to freedom and peace."です。),憲法が施行された194753日には政府主催・天皇臨御の記念式典は行われていません(同書320-323頁参照)。むしろ,我が現行憲法施行の初日は前途多難を思わせる悪天候であって,「憲法普及会主催による日本国憲法施行記念式典に〔昭和天皇は〕御臨席の予定なるも,風雨のためお取り止めとなっていた」という状況でした(実録第十321頁)。晴の特異日である113日に比べて,53日は間が悪い。194753日の東京における降雨量に係る気象庁のデータを検すると,その日は夜来雨で,6時から7時までの間の降雨量は4.1ミリメートル,10時から11時までは1.5ミリメートル,11時から12時までは0.3ミリメートルでありました。しかしながら,11時近くなると雨も小降りになったようです。そこで,

 

  〔昭和天皇は〕特に思召しにより予定を変更され,午前1055分御出門,〔日本国憲法施行記念〕式典の終了した宮城前広場に行幸になる。憲法普及会会長芦田均の先導により壇上にお立ちになり,参会者より万歳三唱をお受けになる。11時還幸される。(実録第十321頁)

 

ということになりました。サプライズ行幸ですね。

 

7 「ホウジュ」課長による11月3日の祝日の容認

 他方,113日の憲法記念日を諦めた山本委員長と「ホウジュ」課長との会談は,それでもなお続いています。山本委員長が演説をぶったことになっています。

 

   「われわれが113日を固執しているのは,これが新憲法の発布の日だからである。マクマホンボール氏の意見は難くせに過ぎない。この記念すべき日を祝日から除いてしまったら,今後,新憲法はどうなるか。われわれは新しい憲法によって,新しい日本を作りあげてゆきたいのである。この日が消えてしまったら,国民は新憲法に熱意を失うと思うが,あなたはどう考えますか。われわれは,なんか,ほかの名まえにしてでも,この日だけは残したいのです。」

   ホウジュ氏はしばらく考えていたが,「では,なんという名まえにするのか。」と聞き返してきた。しかし,わたくしたちは,そこまで考えていなかった。113日はいけないといわれていたので,なんとか,この日を生かしたいというだけが,精いっぱいであった。いろいろ話し合った結果,つごうによっては,考えてみてもよいというところまで,ホウジュ課長も折れてきた。しかし,復古的なにおいのするものであっては,絶対に許可しないとクギをさされたのである。

  (山本「文化の日」192-193頁)

 

 これが,113日が国民の祝日となった瞬間なのである,ということのようです。

 

8 Osborne Hauge, one of the young GHQ drafters of the Constitution of Japan

しかし実は,山本委員長のしつこい頑張りは,「ホウジュ」課長にとっては渡りに舟だったかもしれません。「ホウジュ」課長にも,113日には格段の思い入れがあったはずだったからです。

国立国会図書館のデジタルコレクションにあるGHQ/SCAP Records, Government Section文書中Box No.2204, Folder No.(2)“House of Representatives – 2nd National Diet”という文書の3齣目の18を見ると,624日付けの“Bill concerning the National Feast Days” (国民の祝日に関する法律案)がいずれも630日にCIE及びGSGovernment Section:民政局)によって承認(App’d)され,O.K.となった旨が記されています(イタリック体は,原文手書き)。CIEの担当者は,Bunceと読めますから,バンス宗教課長ということになります。しかしてGSの担当者はHaugeです。これは,ホウジュとも読めるのでしょうが(hの音が発音できるフランス人の読み方),「〔サウス・ダコタとの州境に近いミネソタ州マディソン生まれで〕ミネソタ州ノースフィールドのセイント・オーラフ大学を卒業後,1935年から37年まで,中西部〔ノース・ダコタ州〕で週刊新聞〔3紙〕の編集長をつとめた。1937年からは〔(又は)1940年にルター派牧師の娘と結婚し〕ニューヨークに本部を置く全米ルーテル派教会会議で広報・渉外を担当し,1942年からワシントンDCでノルウェー大使館のスタッフをつとめている。/終戦に近い1944年に海軍の召集を受け,プリンストン大学の軍政学校とスタンフォードの民事要員訓練所を経て,日本占領のスタッフに選ばれた」という経歴を有する「1914年生まれのノルウェー系アメリカ人」である「オズボーン・ハウギ海軍中尉」ではないですか(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川ソフィア文庫・2014年(単行本版:創元社・1995年))53-54頁。〔 〕内は,2004821日付けのワシントン・ポスト紙のハウギ氏の死亡記事によって筆者が補ったもの)。

ハウギ中尉は,GHQの民政局員として,我が現行憲法に係る19462月のGHQ草案作成の際の立法権に関する小委員会のメンバーであり,かつ,「民間情報教育局(CIE)の手助け」もしていたのでした(鈴木50頁以下・54頁)。「1946113日,日本国憲法は公布される。民政局の25人は,その日,〔貴族院〕本会議場の傍聴席の片隅に座っていた。」ということでありましたから(鈴木362頁。同363頁に写真),113日は,彼らにとって思い出深い日となったはずなのでした。日本国憲法は,ハウギ課長にとって,おらが憲法であったはずなのでした。「日本が他の国に先んじて,〈理想〉のゴールに達したという感じがしています。まさに,新しい国の新しい憲法といえますね。」とは,後年のハウギ翁の言葉です(鈴木363頁)。

日本怖い,天皇怖いとやかましい小国オーストラリアの怖がり外交官の神経質な難癖に過剰な忖度をして,せっかくの〈理想〉のゴール到達がなされた日を国民の祝日として日本人民に祝わしめ,感謝せしめ,記念せしめることを自粛してしまう思いやりなど馬鹿馬鹿しいではないかと,〈理想〉の使徒たる米国人であるハウギ課長は腹を括ったのでしょう。しかし,「憲法記念日」の名は53日に既に取られてしまっているのでその名は使えないところ,113日の祝日の名称は,やはり濠ソ等の手前,天皇臭(「復古的なにおい」)の無いものでなければならない,ということになったのでしょう。
 (なお,日本国憲法の公布の日付についてのそもそもの米国政府の判断は,
やはり明治天皇との関係で113日が選ばれたのであろうが,だからといってそこから重大な意味が派生するというものではないだろう,という見切りでした。すなわち,対日理事会における中華民国代表の朱世明が同理事会議長の米国代表ジョージ・アチソン宛ての19461025日付け書簡において「日本の大陸における隣国に対する二つの侵略戦争によって特記される明治時代は,主に彼らの帝国の拡大について達成された成功のゆえに日本人民に記憶されている」のであるから明治節の日に日本国の新憲法が公布されるのは幸先がよろしくないとの懸念を示していたところ(「二つの侵略戦争」と述べて,日清戦争のみならず日露戦争にも言及していますから,ロシア人の代弁をもしているということになるのでしょう。),同月31日付けのアチソン回答はいわく,「新しい日本国の憲法の公布日として113日が選ばれることに係る19461025日付け貴簡に関して申し述べますところ,当該日付が日本国政府によって選択されたのは,最初の日本国の憲法が主に明治天皇の計らいによるものであったからである(because the Emperor Meiji was mainly responsible for the first Japanese Constitution),というのが当職の理解であります。/当該日付の選択から,何か重大な意味が派生するもの( has any far-reaching significance)とは当職には思われません。ということでありますから,したがって,当職の意見では,現地政府の行政事務と見られるところの事項に干渉するための手段を執ることは望ましくないものと思われます。」と(国立国会図書館電子展示会「日本国憲法の誕生」資料と解説4-16)。いわゆるマッカーサー三原則と共にGHQ民政局内で大日本帝国憲法全部改正案を作成する9日間の作業が発起されることになったのは194623日のことでしたが,だからちょうど9箇月後の113に公布するのが切りがよくてよいのだ,また,1+1=2なのであるから実は11323日に通ずるのだ,素晴らしい符合ではないか,日本人民及びその国家は明治天皇に縋って己れの過去に執着しようとしつつも無意識のうちに運命の力で戦勝米国に迎合してしまう定めなのだ,とまでは米国側もさすがに言えなかったわけでしょう。

 

9 聖徳太子(十七条憲法)の退場及び昭和天皇の勅語の隠蔽

ところで,113日の名称を「文化の日」とすることについては,山本有三が頭をひねった,ということになっています。

 

  そこで,わたくしと岩村〔忍〕君とは,その名称について頭をひねったのであるが,今まで,憲法記念日としてしか考えてこなかったので,なんとしても名案が浮かばなかった。その時,「文化の日」という暗示を与えてくれたのは,現最高裁判所判事,入江俊郎(いりえとしお)氏であった〔筆者註:入江俊郎は日本国憲法制定時の法制局長官〕。新憲法は,戦争放棄というような,世界に類例のない条文を持った憲法である。こんな文化的な憲法はない。これなら,復古思想といわれることはないであろう。そこで,この案を持って,先方に行ったところ,よく考えてみようということであった。数日後,呼びだしがあったので,行ってみると,「あなたがたの熱意を買って,許可することにしましょう。」といってくれた。これでやっと113日は残ったのである。こういういきさつであるから,その名称がぴったりしないのは,やむを得ないのである。

 (山本「文化の日」193-194頁)

 

 しかしこれはどうも,余り正確ではないように思われます。

 実は1948414日の両議院文化委員会合同打合会において衆議院側から提出された仮案において既に,113日は「文化祭」なる祝祭日として提案されていたのでした(山本報告書150頁参照)。何やら学校生徒の学園祭みたいな名称ですが,出所は当然,「自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。」との1946113日の勅語でしょう。

 参議院文化委員長が113日と「文化国家」とを積極的に結び付けようとの思いに至らなかったのは,実は同委員会には聖徳太子好きな人々がいて,日本国憲法ならぬ十七条憲法発布の日である43日(旧暦)又は56日(新暦)をもって「文化日本の日」なる祝祭日にしようという動きがあったからでした(山本報告書149-150頁参照)。「「文化日本の日」――この名まえは本委員会としては確定的のものではなかつたが,この日を設けようということになつたのは,文化国家としての日本の再出発に当たつて,わが国最初の成文法である聖徳太子の十七条憲法の制定の日を採りたいという有力な意見が出たからである。〔略〕その第1条の「以和為貴」は,平和思想を鼓吹されたものであり,最後の第17条は「夫事不可独断。必与衆宜論。」とあつて,一種の民主主義思想を説かれたものとも解せられる。千三百数十年の昔,今日の新憲法の精神とあい通ずるところのものを制定されたということは,いわば文化国家の礎をきずかれたものであつて,われら国民のひとしく仰ぎ,ひとしく誇りとすべきところでなければならない。」というわけです(山本報告書145頁)。

 しかし,「聖徳太子に関する日は〔1948年〕614日の合同打合会において,衆議院がわから,国民の祝祭日としてはまだ熟さない感があるという反対があつたので,参議院がわはこれに対して大いに論戦したが,衆議院がわが応じないので,ついに落ちることになつた。」ということです(山本報告書148頁)。参議院文化委員長が113日を「文化祭」ならぬ「文化の日」とすべく最終的に決心したのはその時でしょう。1948617日の参議院文化委員会最終草案の第2条において,「文化の日 113日 自由と平和を愛し,文化をすゝめる。」という形になっています(山本報告書150頁)。

 衆議院文化委員会仮案に既に「113日 文化祭」があったので,入江判事からの「暗示」は,「文化の日」という名称自体についてのものではないでしょう。それでは何についての「暗示」であったのかといえば,筆者思うに,文化の日の意義付けは,それを明治節はもちろん1946113日の昭和天皇の勅語にも求めるべきではないところ(「復古的なにおいのするものであっては,絶対に許可しない」),日本国憲法の内容論をもって直接説明することが可能であり,また,そうすべきである,との天皇抜きでする説明の方法論についてのものではなかったでしょうか。

 文化の日の意義付けは,最終的には次のようになっています。

 

   113日は「文化の日」と決定した。この日は明治天皇のお生れになつた日であり,明治節の祝われた日であるが,それは同時に,新憲法の公布された日であり,その新憲法において,世界のいかなる国も,いまだかつて言つたことのない「戦争放棄」という重大な宣言をした日である。これは日本国民にとつて忘れがたい日であると共に,国際的にも,文化的意義を持つ大事な日である。したがつて,この日を「文化の日」としたのは平和をはかり,文化をすゝめるという意味からである。「平和の日」という名まえも考えられたが,それは別に,講和条約締結の日を予定しているので避けたのである。また,この日は一年を通じて最もよい季節にあたつており,従来も体育大会その他の行事が催されているので,これからもこの新しい祝祭日を中心として,その前後に,例えば芸術祭,科学祭,体育祭などを行うと同時に,文化上の功労者に栄典を授けるというような行事を催すことも望ましいという意見であつた。

  (山本報告書148頁)

 

  11月の3日を文化の日といたしましたのは,これは明治天皇がお生れになつた日であり,明治節の祝われた日でございますが,立法の精神から申しますと,この日御承知のように,新憲法の公布された日でございます。そうしてこの新憲法において,世界の如何なる国も,未だ曽て言われなかつたところの戦争放棄という重大な宣言をいたしております。これは日本国民にとつて忘れ難い日でありますと共に,国際的にも文化的意義を持つ重大な日でございます。そこで平和を図り,文化を進める意味で,この日を文化の日と名ずけたのでございます。平和の日といたしましてもよいのでありますが,それは別に講和条約締結の日を予定しておるのでございますので,それを避けたのでございます。

  (194874日の参議院本会議における山本勇造文化委員長報告(第2回国会参議院会議録第59号(2954頁))

 

 「「文化の日」という日ぐらい,わからない日はない,と,ことしもまたわる口をいわれている。非難をする人から見れば,この日は,昔の明治節である。明治節の日をなんで「文化の日」なぞとするのだ,わけがわからないというのだろう。」という「一応もっともな非難」(山本「文化の日」189-190頁)に対して山本有三は立法経緯論で答えて,「こういういきさつであるから,その名称がぴったりしないのは,やむを得ないのである。」と言って,何やら当該分かりづらさを「名称」に係る入江判事の「暗示」のせいにしているように見えます。しかし筆者には,当該分かりづらさの存在ないしぴったり感の欠如は,文化の日を説明するに当たって,そもそもの1946113日の昭和天皇の勅語を無視することにしてしまった隠蔽的方法論に由来するように思われます。現在の各種六法においては,大日本帝国憲法については,上諭及び題名以下の条文のみならず明治天皇の告文及び憲法発布勅語までを掲載していますが,日本国憲法については,上諭は掲載されても昭和天皇の告文及び勅語は掲載されていないことも問題なのかもしれません。1946113日には,占領下といえども,大日本帝国憲法はなお名目的には効力を有していたので,同日の天皇の勅語は無視できなかったはずです(当該勅語も同日付けの官報に掲載されています。なお,同日の昭和天皇の告文は,『昭和天皇実録』にも記載されていません(実録第十223-229頁参照)。)。
 (おって,国民の祝日に関する法律2条における文化の日の趣旨説明の文は「自由と平和を愛し,文化をすすめる。」であって,日本国憲法公布記念式典における勅語の「自由と平和とを愛する文化国家を建設する」の部分との呼応関係を(筆者は)感ずることができるのですが,オーストラリア人らが読んだであろう同法の英語訳文を英文官報で見てみると,文化の日は"Culture Day"であり,その目的( object )は"To love liberty and peace and to promote culture."となっています。これは一見するに,"love and peace"cultureの日ですね。天皇と共に文化国家を建設するというような大仰な意図をそこに看取すべきものではない,ということになるようです。


山本有三旧宅跡(馬込文士村)1
山本勇造参議院文化委員長宅跡地(東京都大田区山王)


山本有三旧宅跡(馬込文士村)2

10 その後

 「文化国家」建設の国是は,その後忘れられてしまい,「経済大国」実現のそれに取って代わられたようです。しかして昭和末期の“Japan as Number One”時代を経て198917日の昭和天皇崩御後の平成の時代に入ってからは,我が国経済は停滞し,2010年にはGDP世界第2位の地位を中華人民共和国に明け渡してしまい,更に衰退途下国化がいよいよはっきりしてきた令和の御代の今年(2023年)にはドイツにも抜き返されて世界第4位に落ちるそうです。平成時代には「生活大国」,「やさしい国」,「美しい国」等の理想が我が国の在るべき姿として唱えられましたが,そのような国の人民には,猛々しいeconomic animal的なanimal spiritは最早不要でしょう。貧すれば鈍する。日本のソフトパワーを強化し,日本の優れた文化を世界に宣布せんとのCool Japan”戦略も,お寒いものであったとして尻すぼみになりそうです(2013年に設立された株式会社海外需要開拓支援機構(クールジャパン機構)については,同社のウェブサイトを見るに,政府から1156億円,民間から107億円が出資されていますが(202210月現在),2023331日現在の累積赤字(利益剰余金のマイナス)が35584196千円にのぼっています(同日付けの同社貸借対照表)。)。

 1887年生まれの山本有三は,1974111日に86歳をもって亡くなりました。当時はなおマクマホン・ボール的敵意が東南アジア諸国に健在であったものか,山本が死亡した月に田中角榮内閣総理大臣が当該地域を訪問中でしたが,同月9日にはバンコクで学生反日デモ,同月15日にはジャカルタで反日暴動が起きていました。

 マクマホン・ボールは,その後の円高,低金利を経ての我がバブル景気の時代をもたらすこととなったプラザ合意(1985922日)の翌年である19861226日に85歳で亡くなっています。1980年に我が国は,ワーキング・ホリデー制度を初めてオーストラリアとの間で開始していましたが,「帝国主義・軍国主義国家」の若者が大勢オーストラリア国内をうろうろする様を,晩年のマクマホン・ボールは苦々しい目で見ていたものかどうか。

 山本よりも27歳年下のオズボーン・ハウギは,ワシントンD.C.において,1951年からは予算局で,1961年から1974年まで外交官として勤務し,アジアの美術品の収集家として知られていました。ヴァジニア州フォールス・チャーチ在住。2004721日に90歳で肺炎により亡くなっています。(前記ワシントン・ポスト紙の死亡記事参照。なお,当該記事によれば,オズボーンには,同時期に日本に駐在し,かつ,同様にアジアの美術品の収集家であるヴィクター(Victor)という名の兄弟がいたそうです。このヴィクターは何者かといえば,GHQの民政局ならぬ民間通信局(Civil Communications Section)に勤務していたV. L. Haugeでしょう。V. L.ハウギは,逓信省の鳥居博を呼び出して19481230日にCCSの次長室で行われた「放送法に関する会議」の出席者として記録せられています(放送法制立法過程研究会編『資料・占領下の放送立法』(東京大学出版会・1980年)221)。確かに,「ハウギ」又は「ハウギー」という名は,筆者が電波法・放送法の立法過程を調べていると,ちょくちょく出て来ていたのでした(『資料・占領下の放送立法』218頁・552頁等)。このヴィクターが,1978年にInternational Exhibitions Foundationから出版されたFolk Traditions in Japanese Artの著者なのでしょう。同書はヴィクター及びタカコ・ハウギの共著ということになっていますから,ヴィクターは日本駐在中に将来の配偶者と出会ったものでもあったのでしょうか。日本文化の愛好家たりしハウギ兄弟にとって,日本国に「文化の日」の祝日があることは,当然そうあるべきものだったわけです。)

 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

草田男句碑
  降る雪や明治は遠くなりにけり   中村草田男(
1931年)

                  ――明治の終焉は,1912730日のことでした。

 

1 文化の日と「明治の日」との併記に向けた動き

 今月(202311月)1日付けの共同通信社のニュースに「文化の日に「明治」併記を 超党派議連が法案提出へ」と題されたものがあります(同社ウェブページ)。「超党派の「明治の日を実現するための議員連盟」は〔202311月〕1日,国会内で民間団体と合同集会を開き,明治天皇の誕生日に当たる113日の「文化の日」に「明治の日」と併記を求める祝日法改正案を提出する方針を確認した。来年〔2024年〕の通常国会で成立を目指すとしている。」とのことです。当該議員連盟の会長は自由民主党の古屋圭司衆議院議員であって,上記合同集会には同党のみならず,公明党,立憲民主党,日本維新の会及び国民民主党からも参加があったそうですから,国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)の当該改正は成立しそうではあります。

 「「国民の祝日」を次のように定める」ところの国民の祝日に関する法律2条における文化の日に関する部分は,現在次のようになっています。

 

  文化の日 113日 自由と平和を愛し,文化をすすめる。

 

 前記ニュースによれば,当該合同集会で古屋会長は「「明治は,日本が近代国(ママ)に生まれ変わった重要な足跡だ」と訴え」たそうですから,文化の日と「明治の日」とが併記された後の国民の祝日に関する法律2条の当該部分は次のようになるのでしょうか。

 

  文化の日 113日 自由と平和を愛し,文化をすすめる。

明治の日 右同日 日本が近代国家に生まれ変わった重要な足跡である明治の時代を顧み,国の将来に思いをいたす。

 

 しかし,「右同日」との表記や,あるいは重ねて「113日」と書くのは何だか恰好が悪いですね。国民の祝日に関する法律の第2条全体を表方式に変えるべきことになるかもしれません。

 (2023114日追記:なお,本記事掲載後,毎日新聞ウェブサイトにおいて,20231131943分付けの関係記事(「113日に二つの祝日⁉ 「明治の日」併記,折衷案で動く政界」)に接しました。当該記事によって,明治の日を実現するための議員連盟が準備したという法案(新旧対照表方式)の画像を見ることができましたが,同議員連盟は国民の祝日に関する法律2条に表方式を導入するという新機軸を切り拓くまでの蛮気に満ちた団体ではないようで,現在の同条における文化の日の項の次に「明治の日 113日 近代化を果した明治以降を顧み,未来を切り拓く。」という1項を挿入する形が採用されていました(「113」重複方式)。しかし,形式の話は別として,当該趣旨説明の文言はどうでしょうか。文学部史学科日本近代史専攻の学生を募集するための宣伝文句のようでもあり,折からの学園祭の季節,当該専攻の学生らが自らの若々しい研究成果を展示する際の惹句にこそふさわしいようでもあります。また,窮境にある日本の社会・経済・国家が未来を切り拓くためには専ら近代化の一層の推進によるべしということであれば,我が国の文化・伝統・歴史であっても非近代=非西洋的なものは切り捨てるべしというように反対解釈できるようです。ありのままの過去は捨てて,近代化イデオロギーの立場からの歴史の再編成を行おうということになるのでしょうか。あるいは,非西洋的なものを切り捨てるのではなく,専ら非科学技術的なものを切り捨てるのだ,ということかもしれません。そうであれば,西洋化ではなく,むしろ,人為に更に信頼して,進んだ科学的〇〇主義に基づいた理想的近代社会を実現する実験に新たに挑戦するのだということになりそうです。復古主義ではないですね。)

 なお,民間団体たる明治の日推進協議会(田久保忠衛会長)は,文化の日に差し替えて「「近代化の端緒となった明治時代を顧み,未来を切り拓く契機とする」祝日「明治の日」を制定することのほうが有意義ではないか」と考えているとのことです(同協議会ウェブページ)。

 

   しかし,我が国の「近代化の端緒」というならば,185378日(嘉永六年六月三日)のペリー浦賀来航の方が,その前年1852113日の京都中山邸における孝明天皇の皇子誕生よりも重要でしょう。

また,当該協議会は,1946113日(日曜日)に貴族院議場で行われた日本国憲法公布記念式典において昭和天皇から下された「朕は,国民と共に,全力をあげ,相携へて,この憲法を正しく運用し,節度と責任とを重んじ,自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。」との勅語(宮内庁『昭和天皇実録第十』(東京書籍・2017年)226-227頁参照。下線は筆者によるもの)に示された叡旨をどう評価しているのでしょうか。

   2013410日の衆議院予算委員会で田沼隆志委員は,文化の日の趣旨とされる「自由と平和を愛し,文化をすすめる」について,「まず,この意味がわからない。「文化をすすめる。」これはどういう意味なんでしょうか。日本語としてまずよくわからないので官房長官にお尋ねします。ぜひわかりやすく教えてください。」と発言していますが(第183回国会衆議院予算委員会議録第2232頁),同委員は,1946113日の昭和天皇の勅語を読んではいなかったものでしょう。これに対して「ぜひわかりやすく教えてください」と頼まれた菅義偉国務大臣(内閣官房長官)は,議員立法された法律の文言の難しい解釈を,当該立案者ならざる政府に対して訊かれても困るという姿勢でした。「これは議員立法で成立したわけであります。さまざまな政党がお祝いをしようという中で,それぞれ理念の異なる政党の中でこの法律〔国民の祝日に関する法律〕をつくったわけでありますから,今委員が指摘をされたように,何となくどうにでもとれるような形で,多分,当時,この祝日をつくるについて議員立法で取りまとめられた結果,こういう表現になったのではないかなというふうに思います。」ということですが(同頁),前提となるべきものとしての昭和天皇の勅語があったことを知っていた上で,それは「何となくどうにでもとれるような形」の文章なのだと答弁したのであれば・・・何をかいわんや。

 

 とはいえ,文化の日と「明治の日」とは併記となるそうです。そうであれば,「平和を愛」する文化の日と同じ日において明治の時代を顧みる際には,戊辰戦争における官軍による賊軍制圧及び西南戦争その他の士族反乱の鎮定並びに日清日露両戦争における勝利といった物騒なことどもを想起・礼賛してはならないのでしょう。

 

2 192733日の詔書渙発及び昭和2年勅令第25号の裁可

 

(1)明治節を定める詔書及び休日に関する勅令

 ちなみに,「明治の日」と似ている明治節を定めた昭和天皇の勅旨を宣誥する詔書(192733日付けの官報号外)は,次のとおりでした。

 

  朕カ皇祖考明治天皇盛徳大業(つと)ニ曠古ノ隆運ヲ(ひら)カセタマヘリ(ここ)113日ヲ明治節ト定メ臣民ト共ニ永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ明治ノ昭代ヲ追憶スル所アラムトス

    御 名   御 璽

      昭和233

                    内閣総理大臣 若槻礼次郎

 

現在の令和民主政下においては,我ら人民が明治「天皇ノ遺徳ヲ仰」ぐ必要はないのでしょう。

なお,上記詔書には宮内大臣の副署がありませんから,明治節を定めることは,皇室の大事ではなく大権の施行に関するものであり,かつ,内閣総理大臣の副署のみで他の国務各大臣の副署がありませんから,大権の施行に関するものの中での最重要事ではなかったわけです(公式令(明治40年勅令第6号)12項参照)。

しかして,「臣民ト共ニ永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ明治ノ昭代ヲ追憶スル」ための具体的な大権の施行はどのようなものであったかといえば,休日に関する勅令が改正されて,113日が国の官吏の休日とされたのでした(192733日裁可,同月4日公布の昭和2年勅令第25号。題名のない勅令です。)。

 

なお,昭和2年勅令第25号は大正元年勅令第19号を全部改正したものです。この昭和2年勅令第25号は,国民の祝日に関する法律附則2項によって1948720日から廃止ということになっていますが,これは,日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する昭和22年法律第721条による19471231日限りで失効したものであるところの法律事項を定める勅令に対する重複する廃止規定ではないものであるとすると,それまでの政令事項を規律する命令を法律で上書きしたということなのでしょう(各「国民の祝日」について (参考情報)祝日法制定の経緯 - 内閣府 (cao.go.jp))。)。

 

昭和2年勅令第25号の副署者は若槻内閣総理大臣のみですが,当該事項に係る主任の国務大臣(公式令72項参照)は内閣総理大臣だったというわけでしょう(「官吏ノ進退身分ニ関スル事項」を内閣官房の所掌事務とする内閣所属部局及職員官制(大正13年勅令第307号)214号参照)。ちなみに,別途,宮内職員の休日に関する昭和2年宮内省令第4号が,勅裁を経て192734日に一木喜徳郎宮内大臣によって定められ,同日公布されています。昭和2年勅令第25号の案は192731日に閣議決定されていますから,同月2日午後の「内閣総理大臣若槻礼次郎・一木宮内大臣にそれぞれ謁を賜う。」という昭和天皇の賜謁は(宮内庁『昭和天皇実録第四』(東京書籍・2015年)657頁),昭和2年勅令第25号及び同年宮内省令第4号並びに同月3日の詔書に関するものだったのでしょう。

 

(2)帝国議会における動き

なお,当時開会中の第52回帝国議会においては,明治節制定に向けた動きが活発でした。

貴族院においては,1927125日に公爵二条厚基,子爵前田利定,男爵阪谷芳郎,和田彦次郎,倉知鉄吉,松本烝治,中川小十郎及び菅原通敬各議員提出の「明治節制定ニ関スル建議案」(「明治節制定ニ関スル建議/明治天皇ノ御偉業ヲ永久ニ記念シ奉ル為毎年113日ヲ祝日トシテ制定セラレムコトヲ望ム/右建議ス」)が全会一致で可決され(第52回帝国議会貴族院議事速記録第787-88頁。各議院がその意見を政府に建議できることについては,大日本帝国憲法40条に規定があります。),同年222日には東京市日本橋区蠣殻町平民田中巴之助外17名呈出の請願書(大日本帝国憲法50条)について「右ノ請願ハ明治節ヲ制定シ明治大帝ノ聖徳偉業ヲ憶念欽仰スルハ民意ヲ粛清向上セシメ世態民風ヲ統一正導スル所以ナルニ依リ速ニ之カ実現ヲ図ラレタシトノ旨趣ニシテ貴族院ハ願意ノ大体ハ採択スヘキモノト議決致候因リテ議院法第65条ニ依リ別冊及送付候(そうふにおよびさうらふ)」との政府宛て意見書が異議なく採択されています(52回帝国議会貴族院議事速記録第14272頁)。

衆議院においては,同年125日に大津淳一郎,小川平吉,三上忠造,元田肇,松田源治,鳩山一郎,山本条太郎等の18議員提出の「明治節制定ニ関スル建議案」(「明治節制定ニ関スル建議/明治天皇ノ盛徳大業ヲ永久ニ記念シ奉ル為113日ヲ以テ明治節トシ之ヲ大祭祝日ニ加ヘラレムコトヲ望ム/右決議ス」)がこれも全会一致で可決されています(第52回帝国議会衆議院議事速記録第785頁)。元田議員述べるところの建議案提出理由においては「〔前略〕明治天皇〔の〕御盛徳御偉業〔略〕中ニ付キマシテ王政復古ノ大業ヲ樹テラレ,開国進取ノ国是ヲ定メ給ヒ,立憲為政ノ洪範ヲ垂レサセラレ,国民道徳ノ確立ノ勅教ヲ屢下シ給ヒマシタコト,殊ニ帝国ノ天職ハ平和ヲ保持シ,文明ノ至治ヲ指導扶植スルニ在ルコトヲ世界ニ知ラシメ給ヒシコトハ,其最モ大ナル所デアリマス(拍手)御承知ノ如ク明治天皇ノ崩御遊バサレマシタ730日ヲ以テ是迄祝祭日トナッテ居リマシタガ,本年以後ハ此祝祭日ガ廃止シタコトニ相成リマシタニ付キマシテハ,明治天皇御降誕ノ当日タル113日ヲ以テ大祭祝日ト致シマシテ,大帝ノ御盛徳御偉業ヲ永遠ニ欽仰シ奉リタイト存ズルノデアリマス〔後略〕」とありました(同頁)。また,衆議院にも「明治節制定ノ件」に係る請願書が提出されており,同年24日には同議院の請願委員会(議院法(明治22年法律第2号)63条)において,採択すべきものと異議なく認められています(第52回帝国議会衆議院請願委員会議録(速記)第32頁)。ただし,当該請願書についての政府に対する衆議院の意見書送付(議院法65条)までは不要とされていました(同頁)。

 

(3)追憶されるべき明治ノ昭代

専ら明治「天皇ノ遺徳ヲ仰」ぐのみならず,広く「明治ノ昭代ヲ追憶スル」こととする旨の追加は,昭和天皇の政府においてなされたものであると解されます。明治ノ昭代の主な出来事は,元田肇の述べたところに従えば,慶応三年十二月九日(186813日)の王政復古の大号令から慶応四年(明治元年)四月十一日(186853日)の江戸開城を経て明治二年五月十八日(1869627日)の蝦夷共和国の降伏まで(王政復古ノ大業),慶応四年(明治元年)三月十四日(186846日)の五箇条の御誓文(開国進取ノ国是),③1889211日の大日本帝国憲法(立憲為政ノ洪範),④18901030日の教育勅語及び19081013日の戊申詔書(国民道徳確立ノ勅教),⑤1900814日の在北京列国公使館解放をもたらした八箇国連合のごとき国際協調(平和ノ保持)並びに⑥それぞれ1895529日及び1910829日以降の台湾及び朝鮮の統治(文明ノ至治ヲ指導扶植)ということでしょう。

以上6項目のうち,の官軍か賊軍か噺を今更持ち出すのは古過ぎるでしょう。徳川宗家第16代当主の徳川家達公爵は貴族院議長となり,蝦夷島総裁たりし榎本武揚は逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣となり,新撰組を預かった京都守護職・松平容保の孫娘は昭和初期の皇嗣殿下たりし秩父宮雍仁親王妃となりました。④式にお上から有り難い道徳の教えを授からないと何時までも自治自律ができない人委(ひとまかせの)人のままでは,情けない。また,衰退途下の我々よりも今や豊かになった人々に対して⑥の話をするのは論外でしょう。

 

3 明治節制定に伴う官吏の休日数の不変化

 

(1)昭和2年勅令第25号及び大正元年勅令第19号(大正2年勅令第259号による改正後のもの)(11箇日)と明治6年太政官布告第344号(10箇日)と

ところで,明治節を祝って明治大帝の遺徳を仰ぎ奉ることには忠良なる臣民としては反対できないとしても(とはいえ,明治節に参内して参賀簿に署名できるのは,昭和2年皇室令第14号により改正された皇室儀制令(大正15年皇室令第7号)の附式によると「文武高官有爵者優遇者」のみであり,かつ,「判任官同待遇者ハ各其ノ所属庁ニ参賀ス」ということであって,専ら「宮中席次を有する者始め一定の資格者が参内もしくは各官庁において記帳していた」資格者限定制であったものです(実録第十534頁)。),だからといって,臣民の税金で食っている分際である国の官吏の休日が図々しく一日増えるのはけしからぬ,というような反発が生ずることにはならなかったのでしょうか。

実は,明治節が加わっても,それによって大正時代よりも1日多くお役人が休むことができるということにはなっていませんでした。

大正元年勅令第19号(大正2年勅令第259号による改正後のもの)における休日数と昭和2年勅令第25号のそれとは,いずれも11箇日で変わっていないのです。

昭和2年勅令第25号による休日は次のとおり。

 

 元始祭    13

 新年宴会   15

 紀元節    211

 神武天皇祭  43

 天長節    429

 神嘗祭    1017

 明治節    113

 新嘗祭    1123

 大正天皇祭  1225

 春季皇霊祭  春分日

秋季皇霊祭  秋分日

 

このうち,今上帝の誕生日である天長節は,大正元年勅令第19号では大正天皇の誕生日である831日であり(ただし,同勅令が公布されたのは191294日であるので,大正に入っても,同年831日はいまだ休日ではありませんでした。),先帝の命日に係る祭日(昭和2年勅令第25号では大正天皇崩御日の1225日)は,大正元年勅令第19号では明治天皇崩御日の730日となっていました。他の元始祭,新年宴会,紀元節,神武天皇祭,神嘗祭,新嘗祭,春季皇霊祭及び秋季皇霊祭については,変化はありません。以上の10箇の休日は,1878年の明治11年太政官第23号達によって春季皇霊祭及び秋季皇霊祭が明治6年太政官布告第344号(当該1873年の太政官布告は,大正元年勅令第19号附則2項で廃止されています。)の8箇の休日に追加されて以来変わっていなかったものです(ただし,神嘗祭の日は1879年の明治12年太政官布告第27号によって改められるまでは917日でした。なお,明治6年太政官布告第344号における天長節はもちろん113日で,先帝際は,孝明天皇の命日である130日でした。)。大正元年勅令第19号には,何かもう一つ休日の隠し玉があったようです。

当該隠し玉は,1913716日に裁可され,同月18日に公布された大正2年勅令第259号にありました。隠し玉というよりは,某製菓会社の伝説的宣伝文句に倣えば「一粒で2度おいしい」🍫ということになるようです。

大正2年勅令第259号によって,1031日に「天長節祝日」が休日として追加されていたのでした。すなわち,大正時代の日本帝国臣民は,大正天皇の御生誕を,そのお誕生日である831日のみならず,1031日にもお祝い申し上げていたのでした。

113日に明治節の休日を,昭和時代になって設けることは,大正時代中の1031日の天長節祝日からの差替えであるという形に結果としてはなったわけです。明治大帝に対する崇敬の念は満たされつつ,官吏に対する「税金泥坊」という罵詈雑言も避けることができるという至極結構な次第となるべき下拵えをした大正天皇もまた偉大な君主だったのではないでしょうか。(しかしあるいは,昭和になって休日が1日減ると,休みたがりで不遜不埒な不逞官吏らの仲間内において昭和天皇の評判が悪くなってしまうのではないかという懸念も,25歳の若き新帝を輔翼弼成すべき重責を担う若槻礼次郎内閣にはあったかもしれません。)

 

(2)大正2年勅令第259号による天長節祝日追加の次第

ところで,大正2年勅令第259号による天長節祝日の追加の次第はどのようなものだったでしょうか。

これについては,アジア歴史資料センターのウェブサイトで一件書類を見ることができ(A13100056400),また,当時の第1次山本権兵衛内閣の内務大臣であった原敬の日記(『原敬日記(第5巻)』(乾元社・1951年))に記述があります。

まず,大正天皇は病弱でしたので,大暑の831日の東京で,天長節関係の諸行事の負担に耐えられるかどうかが,明治・大正代替わりの際の第2次西園寺内閣時代から懸念されていました。

 

  〇〔1913年〕416

  閣議〔略〕。天長節の事に関し831日は大暑中にて御儀式を挙ぐる事困難に付西園寺内閣時代にも之を如何すべきやとの相談ありしが,余〔原敬〕は国民中希望者も多き様になるに付御宴会は113日と制定相成りては如何と云ひたり,宮内省の草案にては11月にあらず1031日となせり。〔後略〕

 (原226頁)

 

 しかし,113日案は,半ば冗談でなければ,明治天皇とは別人格の大正天皇に対して不敬ではありましょう。

 その後,1913421日付けの渡辺千秋宮内大臣から山本権兵衛内閣総理大臣宛て官房調査秘第6号をもって,次の照会が宮内省から政府に対してされます。

 

  天長節ノ儀ハ831日ニシテ時(あたか)モ大暑ノ季節ニ有之候(これありそさうらふ)ニ付自今賢所皇霊殿神殿ニ於ケル天長節祭ノミハ皇室祭祀令規定ノ通当日之ヲ行ハセラレ其ノ他拝賀参賀賀表捧呈及宴会等宮中ニ於ケル一切ノ儀式ハ総テ1031日ニ於テ行ハセラレ候様(さうらふやう)奏請致度(いたしたき)(ところ)一応御意見承知致度(いたしたく)此段及照会候(しょうかいにおよびさうらふ)

 

天長節祭は小祭ですので(皇室祭祀令(明治41年皇室令第1号)21条),大祭と異なり天皇が親ら祭典を行う必要はなかったのですが(同令81項参照),「小祭ハ天皇皇族及官僚ヲ率ヰテ親ラ拝礼シ掌典長祭典ヲ行フ」ということになっていました(同令201項)。ただし,「天皇喪ニ在リ其ノ他事故アルトキハ前項ノ拝礼ハ皇族又ハ侍従ヲシテ之ヲ行ハシム」ということで(同条2項),天皇に事故があるときは,代拝措置が可能でした。

 

  〇〔19134月〕23

  閣議,天長節の件に付即ち宮内省案831日は御祭典のみに止め1031日を御宴会日となすの件に付内議し,結局今一応宮内省と打合せをなす事に決せり。〔後略〕

 (原229-230頁)

 

1913年宮内省官房秘第6号に対する同年630日付け山本内閣総理大臣から渡辺宮内大臣宛て回答は,次のとおりでした。

 

 421日付官房調査秘第6号照会天長節ノ儀ニ関スル件ハ大体異存無之候(これなくさうらふ)唯宮中ニ於ケル一切ノ儀式ヲ行ハセラルル期日ヲ1031日トスルニ於テハ明治節設定ニ関スル帝国議会ノ建議モ有之(これあり)或ハ113日ヲ休日ト定メラルルカ如キ場合ヲ予想スレハ余リニ休日接近ノ嫌有之(きらひこれあり)(つき)既ニ831日以外ノ日ヲ選定(あひ)(なる)以上ハ或ハ101(くらゐ)カ適当ノ期日カト被存候(ぞんぜられさうらふ)

   追テ当日ハ一般ノ休日トスル必要可有之(これあるべし)存候(ぞんじさうらふ)ニ付本件ハ休日ニ関スル勅令改正案ト同時ニ奏請相成様致度(あひなるやういたしたし) 

 

「ハッピー・マンデー」云々と,休日の接近はおろか,進んで休日の長期間接続をもってよしとし,補償金が貰えるならば「思いやり」の「自粛」継続は当然とする衰退途下の人委(ひとまかせの)人の国たる現代日本とは異なり,休日の接近を嫌う良識が,大正の聖代にはなおあったのでした。

明治節設定の動きは,明治天皇崩御後早くからあり,第30回帝国議会の衆議院では,1913326日,松田源治議員外13名提出の次の「明治節設定ニ関スル建議案」が全会一致で可決されています(第30回帝国議会衆議院議事速記録第16309頁)。

 

    明治節設定ニ関スル建議

 政府ハ国民ヲシテ 明治天皇ノ御偉業ヲ頌シ永久其ノ御洪恩ヲ記念セシムル為113日ヲ以テ大祭祝日ト定メムコトヲ望ム

 右建議ス

 

専ら明治天皇に対する「国民ノ忠愛ノ至情」(石橋為之助,松田源治)から出た建議でありました。しかし,明治天皇御一人をとことん忠愛するのならば,前年1912913日の乃木希典大将のように殉死しなければならなくなるようにも思われるのですが,松田代議士,石橋代議士等は,そこまで思い詰めてはいなかったのでしょう。

大正元年勅令第19号を改正する勅令案に係る191373日付け閣議請議書が残されています。しかし,『原敬日記』では,地方官会議があるので原内務大臣は同月2日の閣議を欠席したとしており,かつ,同月3日の記載は地方官会議関係のことばかりで,同日に閣議があったことは記されていません(原259-260頁)。

いずれにせよ同月初めの勅令案では,天長節祝日の日は101日であったようです。すなわち,191374日付けの渡辺宮内大臣から山本内閣総理大臣宛て官房調査秘第9号には「天長節ニ関スル件ニ付630日付ヲ以テ御回答ニ接シ候処御注意ノ次第モ有之候ニ付更ニ101日ヲ以テ天長節式日ト被定候様(さだめられさうらふやう)奏請可致候(いたすべくさうらふ)条右ニ御承知相成度(あひなりたく)此段申進候(まうしすすめさうらふ)也」と記載されているからです。「奏請」とは,大正天皇の内諾を得るということでしょう。

しかし,現実の大正2年勅令第259号における天長節祝日は,421日の照会案どおりの1031日となっていたのでした。この間の事情については,次の記載がされた紙が,一件書類中に綴られています。

 

 本件ハ更ニ総理大臣宮内大臣協議ノ上更ニ1031日ト決定セラレ大正元年勅令第19号中改正勅令案上奏ノ手続ヲ為セリ

 

 これは,天長節祝日を101日とする旨の宮内大臣からの奏請を大正天皇が敢然却下した結果,宮内大臣・内閣総理大臣が大慌てとなった一幕があったものか,と一瞬ぎょっとする成り行きです。

 しかしながら『原敬日記』によれば,実は閣議において,やはり天長節祝日は10月の1日よりも31日の方がよいのではないかとの賢明な内務大臣の提言があって再考がなされることになり,最終的にはしかるべく同大臣案に落ち着いたということでありました。

 

   〇〔19137月〕11

   有栖川御邸に弔問せり。

   閣議,天長節は831日にて大暑中なれば,御祝宴は101日に定められ此日を天長節の祝宴日となさん事を山本首相閣議に提出せり,之に対し奥田〔義人〕文相は天長節は大祭日となしあるを,天長節と天長節祝日と分別するは如何あらんと云ひたるも,閣議天長節は831日なるも天長節祝日は別に之を定むる事に決せり,但山本の提案なる101日は何等根拠なき日なれば,月を後に送るも日は改めざる一般の国風をも斟酌し,1031日となすを適当なりとの余〔原敬〕の主張に閣僚一同賛成せり,山本は既に内奏を経たりとて101日に決せんとするも,余は此事は御一代の定制となる重大事件なれば再び奏聞するも可ならんと主張し,遂に山本は宮内省と更に相談すべき旨山之内〔一次〕書記官長に命じたり,宮内省にては1031日と提出せしものを内閣側にて101日に主張せしものゝ由。

  〔略〕

  (原263-264頁)

 

 なお,奥田文部大臣は釈然としなかったようですが,君主の誕生祝賀が年2回行われることは外国にも例があります。英国の現国王チャールズ3世の誕生日は1114日ですが,同国王の誕生祝賀は,同日のほか,気候のよい6月にも行われています(2023年は617日)。

 我が国における1913831日の天長節は次のような次第となりました。

 

  31日 日曜日 午後,〔大正天皇の〕行幸御礼並びに天長節御祝のため,〔皇太子裕仁親王は〕東宮大夫波多野敬直を御使として日光に遣わされる。なお天長節は大暑の季節に当たるため,去る7月18日勅令〔第259号〕並びに宮内省告示〔第15号〕をもって,1031日を天長節祝日と定め,831日には天長節祭のみを行い,1031日の天長節祝日に宮中における拝賀・宴会を行う旨が仰せ出される。

  (宮内庁『昭和天皇実録第一』(東京書籍・2015年)681頁)

 

大正天皇は,その天長節の日を涼しい日光の御用邸で過ごすことを好んでおられたようです。

 

 19131031日の初の天長節祝日については次のとおり。

 

  31日 金曜日 天長節祝日につき,午前,〔皇太子裕仁親王は〕東宮仮御所の御座所において東宮職高等官一同の拝賀をお受けになる。午後零時30分御出門,御参内になり,雍仁親王・宣仁親王とお揃いにて天皇・皇后に祝詞を言上になる。また鮮鯛を天皇に御献上になり,天皇からは五種交魚等を賜わる。

  (実録第一696-697頁)

 

   〇31日 天皇節祝日に付参内御宴に陪し,晩に外相の晩餐会に臨み夜会には缺席せり,今上陛下始めての天長節にて市中非常に賑へり。

   〔略〕

   (原334頁)

 

4 五箇条の御誓文から文化国家建設へ

 この記事も何とかまとまりを付けねばなりません。

 で,正直なところを申し上げると,113日は,昭和天皇から「節度と責任とを重んじ,自由と平和とを愛する文化国家を建設す」べしとの新国是(すなわち現在の我が国の国是)が日本国憲法と共に下された日として,既に専ら昭和天皇の日となってしまっているのではないかと筆者には思われます。

 であれば,「明治の日」については,別途そのあるべきところを求めるに,明治時代の我が国の国是(開国進取ノ国是)たる五箇条の御誓文が宣明せられた46日が,その日としてよいのではないかと思われるところです(なお,立憲為政ノ洪範たる大日本帝国憲法が発布された211日は,趣旨はともかく,既に「国民の祝日」とされています。)。113日の文化の日を譲らない代償として,429日の昭和の日を,同月6日の「明治の日」に振り替えればよいのではないでしょうか。4月末から5月初めまでの連休期間は,今や衰退途下国たる分際の我が国としては長過ぎるようなので,429日の日の休日からの脱落は,問題視すべきことではないでしょう。

 昭和の日が五箇条の御誓文の日に差し替えられることが昭和天皇の逆鱗に触れるかといえば,そういうことはないでしょう。五箇条の御誓文の精神から出発して文化国家の建設に進むことこそが,惨憺たる失敗・敗戦の後,日本国憲法と共に昭和天皇が目指した昭和の日本だったはずです。

 1946年元日のかの詔書にいわく。

 

  茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク,

一,広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ

一,上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ

一,官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス

一,旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

一,智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

  叡旨公明正大,又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ,旧来ノ陋習ヲ去リ,民意ヲ暢達シ,官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ,教養豊カニ文化ヲ築キ,以テ民生ノ向上ヲ図リ,新日本ヲ建設スベシ。

 

 旧来の陋習を去った暢達たる心と共に,向上した民生下において生きるということは,自由であるということでしょう。負ける戦争や効果の乏しい対策の徹底から去ること遠い,慎重賢明狡猾な平和主義は当然でしょう。しかして自由及び平和の下で高められた精神は,教養豊かに文化を築くところにこそその満足を見出すのでしょう。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


(上):秩父宮雍仁親王火葬の前例等

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080110294.html

(中):墓埋法143項の規定は「皇族の場合を考慮していない」ことに関して

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080110311.html


(「3 昭和28年衛環第2号の検討」の続き)


(2)「2」について:陵墓に係る墓埋法41項の特別法としての皇室典範27

 火葬許可証は,火葬それ自体のみならず,その後焼骨の埋蔵をするためにもなお必要です。すなわち,墓埋法141項はいわく,「墓地の管理者は,第8条の規定による埋葬許可証,改葬許可証又は火葬許可証を受理した後でなければ,埋葬又は焼骨の埋蔵をさせてはならない。」と(なお,この火葬許可証には,火葬場の管理者による火葬を行った日時の記入並びに署名及び押印があります(墓埋法162項,墓埋法施行規則8条)。)。昭和28112日衛環第2号の記の2は,火葬許可証無き焼骨の埋蔵の段階において,その可否に係る問題に関するものでしょう。

 

ア 皇室典範27条及び陵墓

昭和28112日衛環第2号の記の2において環境衛生課長は,皇室典範27条に言及します。同条は「天皇,皇后,太皇太后及び皇太后を葬る所を陵,その他の皇族を葬る所を墓とし,陵及び墓に関する事項は,これを陵籍及び墓籍に登録する。」と規定するものです。皇室典範附則3項は「現在の陵及び墓は,これを第27条の陵及び墓とする。」と規定しているところ,皇室陵墓令(大正15年皇室令第12号)1条の規定は「天皇太皇太后皇太后皇后ノ墳塋ヲ陵トス」と,同令2条の規定は「皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃内親王王王妃女王ノ墳ヲ墓トス」とするものです。

「葬」は,「〔艸を上下に二つ重ねた字〕バウ→サウ(〔略〕くさむら)の中に死(しかばね)を納めたさまにより,死体を「ほうむる」意を表わす」そうです(『角川新字源』(第123版・1978年))。であれば,「葬る所」は埋葬ないしは埋蔵をする所ではあっても,死体を焼く所ではないようです。

「墳」は「土と,音符賁フン(もりあがる意→肥ヒ)とから成り,土を高くもり上げた墓の意を表わす」そうです(『角川新字源』)。「塋」は「音符〔かんむりの部分〕ケイエイ,めぐらす意縈エイ」からなり,「はか。つか。墓地。」の外「いとなむ。」の意味があるそうです(同)。

不動産である陵墓は,行政財産たる皇室用財産として国有財産となっています(国有財産法(昭和23年法律第73号)213号参照)。武蔵陵墓地もこの陵墓たる皇室用財産でしょう。内閣総理大臣の管理に服し(国有財産法5条,42項),それは宮内庁の所掌事務となります(宮内庁法(昭和22年法律第70号)214号は「皇室用財産を管理すること」を,同条12号は「陵墓に関すること」を同庁の所掌事務とします。)。

 

イ 墓埋法41項並びに墓地及び墳墓

また,墓埋法41項は「埋葬又は焼骨の埋蔵は,墓地以外の区域に,これを行つてはならない。」と規定しています。同条の規定に違反した者については墓埋法211号に罰則規定があります(同法14条の規定に違反した者と同じ号。なお,更に「行為の態様によっては刑法第190条の死体遺棄罪に問われることがある。」とされ,大審院大正1434日判決が参考として挙げられています(生活衛生法規研究会19頁)。当該判決はいわく,「死体の埋葬とは,死者の遺骸を一定の墳墓に収容し,其の死後安静する場所として後人をして之を追憶紀念することを得せしむるを以て目的とするものなれば,必ずしも葬祭の儀式を営むの要なきも,道義上首肯すべからざる事情の下に単に死体を土中に埋蔵放置したるが如きは,未以て埋葬と云うべからざるを以て死体を遺棄したるものと云はざるを得ず。」と。)。

「官許ノ墓地外ニ於テ私ニ埋葬シタル者」を3日以上10日以下の拘留又は1円以上195銭の科料に処するものと規定する旧刑法4251318778月段階のフランス語文では,軽罪として,“Quiconque aura, sans une permission spéciale de l’autorité compétente, procédé à une inhumation dans un lieu autre que l’un de ceux consacrés aux sépultures, sera puni d’une amende de 10 à 50 yens. / Sont exceptés les cas d’inhumations urgentes où le transport des morts aux sépultures publiques serait difficile ou dangeruex; mais à la charge d’une déclaration immédiate à l’autorité locale.(「当局の特別の許可を受けずに,墓地として指定された場所以外の場所で埋葬を行う者は,10円から50円までの罰金に処せられる。/死者を公的墓地に運搬することが困難又は危険であるときにおける緊急埋葬については,この限りでない。ただし,直ちに届け出ることを要する。」)と規定されていました。)に関してその趣旨を尋ねれば,ボワソナアドが,その同号改正提案(18778月段階案と同じ条文に成規の手続によらぬ墳墓の発掘又は変更の罪に係る構成要件の1項を第3項として加えたもの(Boissonade, pp.775-776))について説明するところがあります。いわく,「公的墓地の場所は,行政によって,できるだけ公衆衛生を確保すべき条件において選択されねばならない。住宅地から余りにも近過ぎる所は避けられねばならず,水源地たる高地を選んではならず,また,各埋葬は,死体からの滲出物を避けるために十分な深さをもってされねばならない。更に,死者への崇敬を確保するためにされる当局の見回りの効率のためには,相当多数のものがまとまった形で埋葬がされるということが便宜である。/各々がその所有地において,又は公的墓地として定められた場所以外の場所で,その親族を埋葬する自由を有するとしたならば,上記の用心は無駄なものにならざるを得ないということが了解されるところである。/また,後になってから遺骸が発見されたときに,それについて確実なことを知る手段のないまま,重罪が犯されたのではないかと懸念しなければならないという不都合も生じることであろう。」と(Boissonade, pp.794-795)。

「墓地」とは,「墳墓を設けるために,墓地として都道府県知事(市又は特別区にあつては,市長又は区長。以下同じ。)の許可を受けた区域」をいい(墓埋法25項),「墳墓」とは,「死体を埋葬し,又は焼骨を埋蔵する施設」をいいます(同条4項)。墓地に係る都道府県知事の許可については,墓埋法10条に規定があります(同条1項は墓地の「経営」といいますが,個人墓地を設けるにも墓埋法10条の許可が必要であるとされています(昭和271025日付け衛発第1025号厚生省衛生局長から京都府知事宛て回答「個人墓地の疑義について」(生活衛生法規研究会119-120頁))。)

陵墓地について,墓埋法10条の許可がされているということはないでしょう。

 

ウ 環境衛生課長の判断

昭和28112日衛環第2号における環境衛生課長の判断は,皇室典範27条の陵墓は墓埋法上の墓地に係る墳墓ではないが,同条によって,陵墓において天皇・皇族を埋葬し,又はその焼骨を埋蔵することは,墓埋法の特別法たる皇室典範によって合法なものとされていることとなる,その際陵墓の管理者による埋葬許可証又は火葬許可証の受理など当然不要である,というものでしょう。

 

(3)「3」について:過度の一般命題化

ところで,昭和28112日衛環第2号の記の3における「墓地,埋葬等に関する法律は皇族には適用されない」との言明は,筆者には――環境衛生課長の筆の滑りによるものなのでしょうか――過度の一般命題化であるように思われます。

その第71項において「皇族ノ身位其ノ他ノ権義ニ関スル規程ハ此ノ典範ニ定メタルモノノ外別ニ之ヲ定ム」と規定していた明治40年の皇室典範増補は,皇室典範本体等及び皇室令と共に日本国憲法下においては廃止されたものとなっているところです。天皇・皇族にも日本国憲法下の法令が一般的に適用されるというところから出発しなければなりません。天皇・皇族に対する法令の適用除外は,例外的かつ具体的であるべきです。例えば,皇族だからとて,薨去後24時間たたぬうちに埋葬又は火葬されてしまっては,実は仮死状態にすぎなかったときには困るでしょうし(墓埋法3条,211号参照),死体の埋葬又は焼骨の埋蔵を陵墓でも墓地でもない場所でしたり,火葬場以外の施設で火葬をしてはいけないのでしょうし(同法4条参照。同条2項の法文は「火葬は,火葬場以外の施設でこれを行つてはならない。」です。),墓地,納骨堂又は火葬場の経営を,墓埋法10条の都道府県知事(なお,同法25項括弧書きにより,市長及び特別区の区長も含まれます。)の許可なしに勝手にしてはならないでしょう。

環境衛生課長としては,これ以上皇室とかかわるのは畏れ多過ぎるので,政府高官として有するその所管法令解釈権限をもって明治典憲体制風の墓埋法適用除外の特権を天皇及び皇族方に献上申し上げ,顔を覆い,目を伏せ,以後御勘弁してもらうつもりだったということかもしれません。

 

 Abscondit…faciem suam non enim audebat aspicere contra deum (Ex 3,6)

 

しかしながら,墓埋法を制定した,国の唯一の立法機関である国会との関係はどうなるのでしょうか。良識ある議員諸賢の心が頑なになるということはないと考えてよいのでしょうか。

 

 Induravitque Dominus cor Pharaonis regis Aegypti (Ex 14,8)

 

4 墓埋法と「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」との関係

さて,以上見てきた墓埋法の諸規定と,前記20131114日付け宮内庁「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」の21)(イ)「御火葬施設の確保」において示された同庁の目論見とはうまく整合するものかどうか。

 

(1)墓埋法の適用:八王子市長の大権限

「墓地,埋葬等に関する法律は皇族には適用されない」(昭和28112日衛環第2号の記の3)ということであれば,墓埋法の検討ははなから不要であるようです。しかし,天皇・皇族について墓埋法の一般的適用除外があるものとは筆者としては考えにくいということは,前記33)のとおりです。またそもそも,「御火葬施設」が内廷費で維持される皇室の私的施設ではなく,宮内庁に属する国の施設であれば――宮内庁長官以下の宮内庁職員になれば皇族になるというわけではないでしょうから――墓埋法皇族不適用論のみではなお不十分でしょう。国のする埋葬及び火葬にも墓埋法の適用があるのであって,それゆえに自衛隊法115条の4は,墓埋法の例外的適用除外規定として,「墓地,埋葬等に関する法律(昭和23年法律第48号)第4条及び第5条第1項の規定は,第76条第1項(第1号に係る部分に限る。)の規定により出動を命ぜられた自衛隊の行動に係る地域において死亡した当該自衛隊の隊員及び抑留対象者〔略〕の死体の埋葬及び火葬であつて当該自衛隊の部隊等が行うものについては,適用しない。」と規定しているところです。(なお,自衛隊法7611号ならぬ同項2号の事態に際しての自衛隊の出動は国外派遣になるところ,そもそも墓埋法は日本国外では適用されないものでしょう。)

「御火葬施設」を設けるにも墓埋法101項の許可が必要である場合,それが八王子市長房町の武蔵陵墓地内に設けられるのならば,許可権者は八王子市長となります(前記のとおり,墓埋法25項括弧書きによって,同法の「都道府県知事」は,市又は特別区にあっては,市長又は区長です。)。

 

ア 火葬場の経営主体等の問題

そこで,八王子市墓地等の経営の許可等に関する条例(平成19年八王子市条例第29号)を見てみると,その第31項には次のようにあります。

 

  (墓地等の経営主体等)

3条 墓地等〔筆者註:火葬場を含みます(同条例1条)。〕を経営しようとする者は,次の各号のいずれかに該当する者でなければならない。ただし,特別の理由がある場合であって,市長が,公衆衛生その他公共の福祉の見地から支障がないと認めたときは,この限りでない。

1) 地方公共団体

2) 宗教法人法(昭和26年法律第126号)第4条第2項に規定する宗教法人で,同法に基づき登記された事務所を市内に有し,かつ,永続的に墓地等を経営しようとするもの(以下「宗教法人」という。)

3) 墓地等の経営を行うことを目的とする,公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律(平成18年法律第49号)第2条第3号の公益法人で,一般社団法人及び一般財団法人に関する法律(平成18年法律第48号)に基づき登記された事務所を市内に有し,かつ,永続的に墓地等を経営しようとするもの(以下「公益法人」という。)

 

 皇室も宮内庁も,地方公共団体でも宗教法人でも公益法人でもないところです。

 火葬場の経営者が地方公共団体,宗教法人,公益法人等でなければならない理由は,その永続性(上記条例312号及び3号各後段参照)と非営利性の確保のためであるそうです。すなわち,昭和4345日付けの厚生省環境衛生課長から各都道府県,各指定都市衛生主管部局長宛て通知「墓地,納骨堂又は火葬場の経営の許可の取扱いについて」において同課長はいわく,「従来,墓地,納骨堂又は火葬場の経営主体については,昭和2193日付け発警第85号内務省警保局長,厚生省衛生局長連名通知及び昭和23913日付け厚生省発衛第9号厚生次官通知により,原則として市町村等の地方公共団体でなければならず,これにより難い事情がある場合であっても宗教法人,公益法人等に限ることとされてきたところである。これは墓地等の経営については,その永続性と非営利性が確保されなければならないという趣旨によるものであり,この見解は現時点においてもなんら変更されているものではない。従って,墓地等の経営の許可にあたっては,今後とも上記通知の趣旨に十分御留意のうえ,処理されたい。」と(生活衛生法規研究会143-144頁)。

 「御火葬施設」の設置は「特別の理由がある場合であって」かつ「公衆衛生その他公共の福祉の見地から支障がない」のだと主張して,よって上意のとおり直ちに許可をすべしと八王子市長を説得しようにも,「その都度設け」られる火葬場は永続性を欠くからそんなものを許可したら厚生労働省に叱られる,と抵抗される可能性があります。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


(上):秩父宮雍仁親王火葬の前例等

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080110294.html



3 昭和28年衛環第2号の検討

 

(1)「1」について:墓埋法と戸籍法との結合及び天皇・皇族についてのその欠如等

 

ア 墓埋法に基づく火葬の許可と戸籍法に基づく死亡の届出等との結合

現在の墓埋法52(「前項〔「埋葬,火葬又は改葬を行おうとする者は,厚生労働省令で定めるところにより,市町村長(特別区の区長を含む。以下同じ。)の許可を受けなければならない。」〕の許可は,埋葬及び火葬に係るものにあつては死亡若しくは死産の届出を受理し,死亡の報告若しくは死産の通知を受け,又は船舶の船長から死亡若しくは死産に関する航海日誌の謄本の送付を受けた市町村長が,改葬に係るものにあつては死体又は焼骨の現に存する地の市町村長が行なうものとする。」)にいう「死亡の届出」とは何かといえば,「戸籍法第25条,第88条又は第93条において準用する第56条の規定に基づく届出をいう。すなわち,死亡者本人の本籍地,届出人の所在地,死亡地(それが明らかでないときは最初の発見地,汽車等の交通機関の中での死亡の場合は死体を降ろした地,航海日誌を備えない船舶の中での死亡の場合は最初の入港地)の市町村長に対して届出をすることができる。」ということだそうです(生活衛生法規研究会22頁)。航海日誌の謄本の送付については,戸籍法93条の準用する同法55条に規定があるところです。

これに対して,雍仁親王薨去当時の墓埋法82項の死亡の届出に係る当時の戸籍法88条は「死亡の届出は,外国又は命令で定める地域で死亡があつた場合を除いては,死亡地でこれをしなければならない。但し,死亡地が明らかでないときは,死体が最初に発見された地で,汽車その他の交通機関の中で死亡があつたときは,死体をその交通機関から降ろした地で,航海日誌を備えない船舶の中で死亡があつたときは,その船舶が最初に入港した地で,これをしなければならない。」と規定していました(下線は筆者によるもの)。これを現在の戸籍法88条の「できる」規定と比較すると,現在の規定では同法25条による「事件本人の本籍地又は届出人の所在地」での死亡届出が原則となってしまい,死亡地ないしは死体の到着地の市町村長が死亡の届出を受けるものでは必ずしもなくなっています。墓埋法5条の趣旨は,「埋葬,火葬又は改葬を市町村長の許可に係らしめ,埋葬等が,国民の宗教的感情に適合し,かつ公衆衛生その他公共の福祉の見地から,支障なく行われるように,自由な埋葬等を禁ずるものである。」と説かれていますが(生活衛生法規研究会20頁。同法1(「この法律は,墓地,納骨堂又は火葬場の管理及び埋葬等が,国民の宗教的感情に適合し,且つ公衆衛生その他公共の福祉の見地から,支障なく行われることを目的とする。」)参照),死亡地でも死体の到着地でもない地の市町村長は,公衆衛生云々といわれてもピンとこないのではないでしょうか。

いずれにせよ,戸籍法に基づく死亡の届出と墓埋法に基づく火葬の許可及び火葬許可証の交付とが結合されているわけです。

なお,墓埋法現52項にいう「死亡の報告」は「戸籍法第89条,第90条又は第92条の規定に基づく報告をいう」そうで(生活衛生法規研究会22頁),これも戸籍法の適用が前提となります。

 

ちなみに,墓埋法52項にいう「死産の届出」,「死産の通知」及び「死産に関する航海日誌の謄本の送付」は,「死産の届出に関する規程(昭和21年厚生省令第42号(昭和27年法律第120号「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く厚生省関係諸命令の措置に関する法律」第3条の規定により,法律としての効力を有する。))の規定〔同令4条及び9条〕に基づく」ものです(生活衛生法規研究会22頁)。

しかし,昭和21年厚生省令第42号の第3条は「すべての死産は,この規程の定めるところにより,届出なければならない。」と規定し,同令第2条は「この規程で,死産とは妊娠第4月以後における死児の出産をいひ,死児とは出産後において心臓膊動,随意筋の運動及び呼吸のいづれをも認めないものをいふ。」と規定しているところ,皇族の死産に同令の適用はあるのでしょうか。同令7条は,父親を第1次的の届出義務者としていますから,畏れ多くも皇后陛下の御死産の場合には天皇陛下が千代田区長に対して届出をせねばならないのか,ということにもなりかねません。聯合国軍最高司令官の要求に係る事項を実施するため昭和20年勅令第542号に基づき1946930日に昭和21年厚生省令第42号を発した河合良成厚生大臣は,そこまでの共和国的な光景をも想定していたのでしょうか。

1946年当時はなお有効だった明治40年(1907年)211日の皇室典範増補8条は「法律命令中皇族ニ適用スヘキモノトシタル規定ハ此ノ典範又ハ之ニ基ツキ発スル規則ニ別段ノ条規ナキトキニ限リ之ヲ適用ス」と規定していましたところ,同条の解釈適用が問題になるところです。これについては,天皇の裁可に係る勅令ならばともかく,一国務大臣の発する省令は,そもそも法形式として「皇族ニ適用スヘキモノ」としてふさわしくないものと通常解されるところでしょうし,かつ,昭和21年厚生省令第42号には「皇族ニ適用スヘキ」旨の明文規定も無いところです。すなわち,昭和21年厚生省令第42号は天皇・皇族に適用がないものとして制定され,そのことは,その施行日(194753日)の前日を限り明治40年の皇室典範増補が廃止された日本国憲法の下でも変わっていない,と解釈すべきものなのでしょう。

 

イ 皇室典範26条による天皇・皇族に対する戸籍法の適用除外

皇室典範(昭和22年法律第3号)26条は「天皇及び皇族の身分に関する事項は,これを皇統譜に登録する。」と規定していて,確かに,天皇・皇族には戸籍はなく,戸籍法の適用はないわけです。

ちなみに,外国人も戸籍がありませんが,こちらについては,「外国人にも戸籍法の適用があり出生,死亡などの報告的届出義務を課せられ」ているところです(谷口知平『戸籍法』(有斐閣・1957年)54頁。戸籍法252項参照)。厚生省衛生局長は,外務省欧米局長宛ての昭和32415日付け衛発第292号回答において,戸籍法の適用との関係には言及してはいませんが,「埋葬許可は,死亡者の国籍の如何をとわず,本法〔墓埋法〕施行地で死亡した場合,死亡地の市町村長(特別区の区長を含む。以下同じ。)がこれを与えることとなっている。」と述べています(生活衛生法規研究会133-134頁。ただし,現在の戸籍法における外国人の死亡の届出は,死亡地でできることには変わりはありませんが(同法881項),届出人の所在地でするのが本則になっています(同法252項)。)。

 戸籍法の適用を受けぬ皇族たる雍仁親王の薨去の際には,同居の親族たる勢津子妃も藤沢市長に死亡届出をする義務(同法871号(当時は第2項なし))を有さず,仮に届出をしても「届出義務者でない者よりの届出は受理されるべきでない」ので(谷口55頁)結局受理されず,秩父宮家としては藤沢市長の火葬許可証を入手することができなかった,ということであったようです。

 なお,戸籍法上の死亡届出義務者に係る同法87条は,現在次のとおりです。

 

  87 次の者は,その順序に従つて,死亡の届出をしなければならない。ただし,順序にかかわらず届出をすることができる。

第一 同居の親族

第二 その他の同居者

第三 家主,地主又は家屋若しくは土地の管理人

 死亡の届出は,同居の親族以外の親族,後見人,保佐人,補助人,任意後見人及び任意後見受任者も,これをすることができる。

 

ウ それでも皇族の火葬は可能であるとの結論に関して

しかし,火葬許可証がない以上皇族の火葬を火葬場の管理者は行ってはならないものとは環境衛生課長は杓子定規に解していません。「第14条第3項の規定は皇族の場合を考慮していないもの」として,なお火葬の可能性を認めています。

 

(ア)墓埋法13

墓埋法13条が「墓地,納骨堂又は火葬場の管理者は,埋葬,埋蔵,収蔵又は火葬の求めを受けたときは,正当の理由がなければこれを拒んではならない。」と規定しているということが,火葬許容の方向に秤を傾けたということがあるでしょう。同条は,「埋火葬等の施行が円滑に行われ,死者に対する遺族等関係者の感情を損なうことを防止するとともに,公衆衛生その他公共の福祉に反する事態を招くことのないよう」にするためのものとされています(生活衛生法規研究会64頁。なお,同条については,後出(41)イ)の津地方裁判所昭和38621日判決に先立つものとしての内閣法制局意見(昭和35215日法制局一発第1号厚生省公衆衛生局長宛内閣法制局第1部長回答)があります(生活衛生法規研究会138-140頁)。)。当局は「遺族等関係者の感情」を重視するものと明言しているのであれば,確かに,心をこめて求めよさらば与えられん,です。

 

Petite et dabitur vobis, quaerite et invenietis, pulsate et aperietur vobis. (Mt 7,7)

 

(イ)墓埋法51項及び墓埋法施行規則14号並びに感染症予防等法30

更にこの点に関して墓埋法14条の趣旨を見てみると,「本条は,第5条及び第8条に定める埋火葬等の許可制度の実効を期するため,墓地等の管理者に対して正当な手続を経ない埋火葬等に応ずることを禁じた規定である。」とあります(生活衛生法規研究会65頁)。そうであると,市町村長による火葬の許可がそもそも何のためにあるのかを考えることも必要であるようです。

墓埋法51項の厚生労働省令である墓地,埋葬等に関する法律施行規則(昭和23年厚生省令第24号。以下「墓埋法施行規則」と略称します。)1条の第4号に,墓埋法51項の規定により埋葬又は火葬の許可を受けようとする者が市町村長に提出しなければならない申請書の記載事項として,「死因(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(平成10年法律第114号)第6条第2項から第4項まで及び第7項に規定する感染症,同条第8項に規定する感染症のうち同法第7条に規定する政令により当該感染症について同法第30条の規定が準用されるもの並びに同法第6条第9項に規定する感染症,その他の別)」とあるのが気になるところです。

感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(以下「感染症予防等法」と略称します。)62項から4項までに規定する感染症は,それぞれ「一類感染症」,「二類感染症」及び「三類感染症」です。同条7項に規定する感染症は「新型インフルエンザ等感染症」であって,これには,現代の恐怖の大王である新型コロナウイルス感染症が含まれます(同項3号)。同項8項に規定する感染症は「指定感染症」です。同条9項に規定する感染症は「新感染症」であって,これは,「人から人に伝染すると認められる疾病であって,既に知られている感染性の疾病とその病状又は治療の結果が明らかに異なるもので,当該疾病にかかった場合の病状の程度が重篤であり,かつ,当該疾病のまん延により国民の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれがあると認められるものをいう」ものです。

感染症予防等法30条は,次のとおりです。なお,新感染症についても,政令により一類感染症とみなされて同条が適用されることがあり得,また,都道府県知事が一類感染症とみなして同条に規定する措置の全部又は一部を実施することが可能です(感染症予防等法531項・501項)。

 

(死体の移動制限等)

30 都道府県知事は,一類感染症,二類感染症,三類感染症又は新型インフルエンザ等感染症の発生を予防し,又はそのまん延を防止するため必要があると認めるときは,当該感染症の病原体に汚染され,又は汚染された疑いがある死体の移動を制限し,又は禁止することができる。

2 一類感染症,二類感染症,三類感染症又は新型インフルエンザ等感染症の病原体に汚染され,又は汚染された疑いがある死体は,火葬しなければならない。ただし,十分な消毒を行い,都道府県知事の許可を受けたときは,埋葬することができる。

3 一類感染症,二類感染症,三類感染症又は新型インフルエンザ等感染症の病原体に汚染され,又は汚染された疑いがある死体は,24時間以内に火葬し,又は埋葬することができる。

 

 感染症予防等法302項を見ると,火葬はlast resortとして,結局常に許可されるべきもののようです。また,死体の移動を制限又は禁止しつつも,公衆衛生のためには放置するわけにはいかないということであれば,やはりその地で火葬されるのでしょう。

 それならば,火葬をするのになぜわざわざ墓埋法51項による市町村長の許可手続が必要なのかといえば,むしろ埋葬の許可を求める者に対して,火葬の許可を受けて当該死体を火葬するように窓口指導を行う機会を得るためのもののようでもあります。「埋葬又は火葬の許可申請は,戸籍法に基づく死亡届の提出と同時に行われる場合が多く,かつ,届出事項と重複するものがあることから,同一文書による取扱いの便法が認容されている〔昭和4152日付け環整第5032号環境衛生局長から愛知県知事宛て回答「墓地,埋葬等に関する法律施行規則第1条の申請について」〕。」とされていて(生活衛生法規研究会25頁)重みが無く,また,厚生事務次官から各都道府県知事宛て通知である昭和23913日付け厚生省発衛第9号「墓地,埋葬等に関する法律の施行に関する件」の3に「埋葬,火葬(ママ)及び改葬の許可は,原則として死亡届を出した市町村長の許可を受けることとし,統計上の統一を図った。」とあるので(生活衛生法規研究会105頁),何だか統計を取る目的ばかりのように思われて力が入らなかったのですが,確かに,感染症予防等法302項に鑑みるに明らかなとおり「公衆衛生」の見地(墓埋法1条参照)からして望ましく,かつ,時には専らそれによるべきものとされる葬法であるところの火葬への誘導機能は期待されてあるわけでしょう。

 感染症予防等法302項の「規定に違反したとき」は,「当該違反行為をした者は,100万円以下の罰金に処」せられます(同法776号)。

 

   しかし,感染症予防等法302項本文,776号の罪の構成要件は分かりにくいところです。同法302項ただし書に鑑みるに,当該死体の無許可埋葬が実行行為になるのでしょうか。そうであると,埋葬も火葬もせずに放棄した場合は,刑法190条の死体遺棄罪(3年以下の懲役)でなお問擬されるのでしょう(前田雅英『刑法各論講義 第4版』(東京大学出版会・2007年)499頁参照)。死体遺棄罪に関しては,「不作為による死体遺棄罪が成立するのは,埋葬義務のある者に限られよう」と述べられています(前田499頁)。(なお,軽犯罪法(昭和23年法律第39号)118号は「自己の占有する場所内に,〔略〕死体若しくは死胎のあることを知りながら,速やかにこれを公務員に申し出なかつた者」を拘留又は科料に処するものと規定していますが,当該死体及び死胎については,「公務員をして処置させるまでもなく,その存在する場所の占有者自ら処置すべきものを含まないものと解する。また,〔略〕処置すべき者が判明しており,これらの者による処置が当然予想されるものについても同様である。したがって,〔略〕自宅療養中又は病院入院中の者が死亡した場合に,これを公務員に申し出ない行為などは,本号に当らない。」と説かれています(伊藤榮樹原著=勝丸充啓改訂『軽犯罪法 新装第2版』(立花書房・2013年)155頁)。同号の前身規定としては,旧刑法(明治13年太政官布告第36号)4258号が「自己ノ所有地内ニ死屍アル(こと)ヲ知テ官署ニ申告セス又ハ他所ニ移シタル者」18778月段階でのフランス語文では,“Ceux qui n’auront pas signalé à l’autorité locale la découverte par eux faite, dans leur propriété, d’un cadavre ou d’un corps humain inanimé ou l’auront transporté au dehors”3日以上10日以下の拘留又は1円以上195銭以下の科料に処するものとしていました。当該規定前段の趣旨は,ボワソナアドによれば,「死亡したと思われる者に,適時の救護をもたらし得ないということがないようにする」ということでした(Gve Boissonade, Projet Révisé de Code Pénal pour l’Empire du Japon accompagné d’un Commentaire; Tokio, 1886. p.1258)。)

当該「埋葬義務のある者」は誰かといえば,「専ら埋葬・祭祀・供養をなす権能と義務とを内容とする特殊のものと考えねばなら」ず,「その意味では放棄も許されない」ところの「屍体」の所有権(我妻榮『新訂民法総則(民法講義)』(岩波書店・1965年)203頁)が帰属する者でしょう。しかして死体の所有権は誰に帰属するかといえば,「判例は,相続によって相続人に帰属するという(大判大正107251408頁(家族の遺骨をその相続人が戸主の意に反して埋葬したので戸主から引渡請求をしたが認められない))。しかし,慣習法によって喪主たるべき人(〔民法(明治29年法律第89号)〕897条参照)に属すると解するのが正当と思う」ということになっています(我妻203頁)。「死体は,埋葬や供養をなす限りで権利の対象として認められる(東京高判昭62108家月40345頁,遺骨は祭祀主(ママ)者に属する。)」というわけです(山野目章夫編『新注釈民法(1)総則(1)』(有斐閣・2018年)790頁(小野秀誠))。東京高等裁判所昭和40719日判決・高集185506頁は刑法190条の死体遺棄罪の成立に関して「〔当該死体は〕被告人の妻子であるので,被告人は慣習上これらの死体の葬祭をなすべき義務のあることは明らか」と判示しています(下線は筆者によるもの)。以上をまとめる判例としては,「宗教家である被相続人と長年同居していた信者夫婦が遺骨を守っていたところ,相続人(養子)が祭祀主宰者として菩提寺に埋葬するため,遺骨の引渡しを求めた事案で,最高裁は,遺骨は慣習に従って祭祀を主宰すべき者とみられる相続人に帰属するとした原審を正当とした(最判平元・718家月4110128)。」というものがあります(谷口知平=久貴忠彦『新版注釈民法(27)相続(2)(補訂版)』(有斐閣・2013年)89頁(小脇一海=二宮周平))。死体ないしは焼骨の共同所有は法律関係を複雑なものにするでしょうから(遠藤浩等編『民法(9)相続(第3版)』(有斐閣・1987年)71頁(遠藤)参照),相続人帰属説よりはこちらの方がよいのでしょう。

ただし,死体の処分については別の配慮も必要であるとされています。「これまで学説は,遺体・遺骨を一括して,所有権の客体性,帰属原因,帰属者を議論してきたが〔略〕,両者には違いがある〔略〕。遺体の場合,特別な保存方法を用いない限り,腐敗が急激に進行することから,衛生上速やかに火葬など一定の処分をする必要があり,葬送を行う近親者に処分を委ねることが妥当である。」というわけです(谷口=久貴編88頁(小脇=二宮))。これは,葬送を行う者(近親者に限られず,戸籍法87条に基づき死亡届出をした者を含めて解してもよいように思われます。)のする死体の処分は事務管理(民法697条以下)として適法化されるということでしょうか。ちなみに,生活保護法(昭和25年法律第144号)182項は,「被保護者が死亡した場合において,その者の葬祭を行う扶養義務者がないとき」(同項1号)又は「死者に対しその葬祭を行う扶養義務者がない場合において,その遺留した金品で,葬祭を行うに必要な費用を満たすことのできないとき」(同項2号)において,「その葬祭を行う者があるときは,その者に対して,前項各号〔①検案,②死体の運搬,③火葬又は埋葬及び④納骨その他葬祭に必要なもの〕の葬祭扶助を行うことができる。」と規定しています

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 宮内庁の「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」(2013年)

 宮内庁が20131114日付けで発表した「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」には,上皇及び上皇后(これらの称号については天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)31項及び41項を参照)の火葬について次のようにあります(「.検討内容」の「2.今後の御喪儀のあり方について」)。

 

  (1)御火葬の導入

(ア)御火葬導入の考え方

皇室の歴史における御葬法の変遷に鑑み,慎重に検討を行ったところ,

①皇室において御土葬,御火葬のどちらも行われてきた歴史があること,

      我が国の葬法のほとんどが,既に火葬になっていること,

      ③御葬法について,天皇の御意思を尊重する伝統があること,

      ④御火葬の導入によっても,その御身位にふさわしい御喪儀とすることが可能であること,

     から,御葬法として御火葬がふさわしいものと考えるに至った。

   (イ)御火葬施設の確保

御火葬の施設については,天皇皇后両陛下の御身位を重く受け止め,御専用の施設を設置する。

御専用の御火葬施設はその都度設け,御火葬後は,その資材・御火葬炉等を保存管理し,適切な利用を図るものとする。

御火葬施設は武蔵陵墓地内に設置することとし,その具体的な場所については,周辺環境に十分配慮し定める。

 

 上記(ア)②にあるように,我々日本国の人民には,火葬はなじみのあるものとなっています。しかしながら,なじみはあるというものの,いざ不幸があって火葬となると,火葬場には火葬許可証なるものを持っていかなくてはならないというようないろいろの手続があり,墓地,埋葬等に関する法律(昭和23年法律第48号。以下「墓埋法」と略称します。)という大法律との関係が厄介だったのでした。これに対して宮内庁は,上記「御火葬の導入」という検討結果を出すまで「この1年余,全庁挙げて検討に取り組み,また,議論が浅薄なものとならないよう,祭儀,歴史等について専門的な知見を有する方々のお考えをうかがい,取りまとめを行った」そうですから(「.はじめに」)――当該「専門的な知見を有する方々」には例示を見る限り法律家は含まれてはいないようであるものの――60年経過後の当該検討においては,1953年(昭和28年)1月におけるフライングのような遺漏はなかったものでしょう。(なお,2016年度,宮内庁は一般社団法人火葬研と武蔵陵墓地附属施設整備工事に伴う設計業務(御火葬施設の設計)の委託契約(金額9882000円)を締結しています。「一般的にはない火葬施設を設計するもの」であるそうです(宮内庁の情報公開資料)。)


DSCF1296(昭和天皇武蔵野陵)
昭和天皇武蔵野陵(東京都八王子市長房町武蔵陵墓地)


 

2 秩父宮雍仁親王の火葬(1953年)

 と,前段において,筆者は,「19531月におけるフライング」などと勿体ぶった表現を用いました。何があったのかというと,要は,同月には次のような出来事があったところです。

 

(1)表:宮中の動き

 

  4日 日曜日 胸部疾患等のため神奈川県藤沢市鵠沼の秩父宮別邸にて静養中の〔昭和天皇の弟宮である秩父宮〕(やす)(ひと)親王が,この日午前220分薨去する。〔昭和〕天皇は818分より御文庫において宮内庁長官田島道治の拝謁を受けられた後,直ちに御弔問のため同35分自動車にて皇后と共に御出門,955分秩父宮別邸に御到着になる。故雍仁親王妃勢津子の案内により雍仁親王とお別れの対面をされ,1046分秩父宮別邸を御発,午後零時5分還幸になる。これに先立つ午前10時,宮内庁より雍仁親王がこの日午前4()30()分薨去した旨が発表される。〔略〕

   〔略〕

  夕刻,御文庫において宮内庁長官田島道治の拝謁を受けられ,故雍仁親王の喪儀につき説明をお聞きになる。これに先立ち,宮内庁長官田島道治は宮内庁次長宇佐美毅・同秘書課長高尾亮一と共に,故雍仁親王妃勢津子と同件につき相談し,午後には宣仁親王・同妃と協議した。夜,宇佐美次長より喪儀は秩父宮家の喪儀として行い,喪儀委員長等は秩父宮家が委嘱すること,喪儀の日取り,喪主等については翌日午前再び秩父宮別邸で相談すること,皇太子〔現在の上皇〕の渡英〔同年62日のエリザベス2世女王戴冠式参列のためのもの〕に支障はないことなどが発表される。また翌日夕刻には,宇佐美次長より,喪儀は12日に行い,遺骸は故雍仁親王の遺志により火葬されること等が発表される。

  (宮内庁『昭和天皇実録 第十一』(東京書籍・2017年)479-482頁)

 

  12日 月曜日 この日,故雍仁親王斂葬の儀が執り行われる。〔略〕午前10時より豊島岡墓地において葬場の儀が行われる。〔略〕儀終了後,雍仁親王の遺骸は落合火葬場に運ばれ,遺言に従って火葬に付された後,墓所の儀が行われ,豊島岡墓地に愛用の品々と共に埋葬される。なお墓所には比翼塚形式の墓が営まれる。明治以降における皇族の火葬,及び比翼塚形式の墓の造営は初めてとなる。またこの度の喪儀では,従来の皇族の喪儀と異なり,参列者に制限が設けられず,葬場の儀に続いて一般の拝礼が行われた。さらに霊柩の移動に際して,多数のスポーツ関係者が奉仕した。なお,去る5日には,同じく遺言により雍仁親王の遺骸が神奈川県藤沢市鵠沼の秩父宮別邸において,元東京大学教授岡治道の執刀,財団法人結核予防会結核研究所長隈部英雄の助手,及び故雍仁親王の療養に尽力した主治医の遠藤繁清・寺尾殿治・坂口康蔵・児玉周一・折笠晴秀の立会いにより,解剖に付された。〔略〕

  (実録第十一486-487頁)

 

実は,雍仁親王の火葬に関する195314日から同月5日にかけての協議には,重要な政府高官が一人招かれていなかったようです。厚生省公衆衛生局環境衛生部環境衛生課長です。

 

(2)裏:東京都公衆衛生部長及び厚生省環境衛生課長の働き

 

ア 東京都公衆衛生部長の指示伺い及び墓埋法の関連条項(143項,211号等)

195315日夕刻の宮内庁次長の発表を聞いて数日がたち(書面の日付は同月10日),自分の管内で雍仁親王の火葬が行われるものと気付いた東京都公衆衛生部長が――困惑してのことでしょう――厚生省の環境衛生課長にお伺いを立ててきます。

 

 (問)墓地埋葬等に関する法律第14条第3〔「火葬場の管理者は,第8条の規定による火葬許可証又は改葬許可証を受理した後でなければ,火葬を行つてはならない。」〕に火葬場の管理者は第8条による「火葬許可証又は改葬許可証を受理した後でなければ火葬を行ってはならない」と規定されて居るが,皇族の方の転帰に際し,火葬に付さる場合は如何に取り扱うべきか,証明書は如何なる所から発行せられたものに基くべきか,少なくとも依頼により火葬すべきか,御指示を仰ぎたい。

  (生活衛生法規研究会監修『新版 逐条解説 墓地、埋葬等に関する法律(第2版)』(第一法規・2012年)120頁)

 

 当時,墓埋法81項は「市町村長が,前3条〔第5条から第7条まで〕の規定により,埋葬,改葬又は火葬の許可を与えるときは,埋葬許可証,改葬許可証又は火葬許可証を交付しなければならない。」と,同条2項は「市町村長は,死亡若しくは死産の届出を受理し,又は船舶の船長から,死亡若しくは死産に関する航海日誌の謄本の送付を受けた後でなければ,埋葬許可証又は火葬許可証を交付してはならない。」と規定し,同法51項は「埋葬又は火葬を行わうとする者は,死亡地又は死産地,死亡地又は死産地の判明しないときは,死体の発見地の市町村長(特別区の区長を含む。以下同じ。)の許可を受けなければならない。」と規定していました。墓埋法14条の「規定に違反した者」は「1000円以下の罰金又は拘留若しくは科料」に処せられました(同法211号。同法22条に両罰規定。当時の罰金等臨時措置法(昭和23年法律第251号)2条及び41項により,「1000円以下」の罰金額は1000円以上2000円以下となり,科料額は5円以上1000円未満。ついでながら,現在の墓埋法14条の刑は,2万円以下1万円以上の罰金(罰金等臨時措置法21項)又は拘留(刑法(明治40年法律第45号)16条により1日以上30日未満とされ,刑事施設に拘置)若しくは科料(同法17条により1000円以上1万円未満)です。)。

なお,墓埋法上,「埋葬」とは「死体(妊娠4箇月以上の死胎を含む。以下同じ。)を土中に葬ること」をいい(同法21項),「いわゆる「土葬」がこれに当たる」ものとされます(生活衛生法規研究会13頁)。「火葬」は,「死体を葬るために,これを焼くこと」です(墓埋法22項)。なお,死体は墳墓に「埋葬」されますが,焼骨は「埋蔵」されます(墓埋法24項参照)。「焼骨」とは何かについては,「死体を火葬した結果生ずるいわゆる遺骨であるが,遺族等が風俗・習慣によって正当に処分した残余のものは,刑法においても遺骨とはされない。」と説明されています(生活衛生法規研究会14頁)。

 秩父宮家から雍仁親王の遺体を火葬できるかと打診を受けた落合火葬場が,それでは火葬許可証を当日御持参くださいと言ったところ,えっそれにはどうしたらいいのと宮家側から反問されての問題発覚だったのでしょうか。実は以下に見るように,ここには法の欠缺があったのでした。人民流に単純に,雍仁親王の死亡地の藤沢市役所に戸籍法(昭和22年法律第224号)上の死亡届出をして(下記31)ア参照),藤沢市長から火葬許可証の交付を受ける,というわけにはいかなかったのでした。

いかに皇室尊崇の熱い心があろうとも,うっかり墓埋法143項,211号違反の犯罪者となって警察署や検察庁に呼び出された挙句(ここで「呼び出された」にとどまるのは,墓埋法21条の刑に係る罪については,住居及び氏名が明らかであり,かつ,逃亡のおそれがなければ,現行犯であっても逮捕はされず(刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)217条),定まった住居があり,かつ,検察官,検察事務官又は司法警察職員による取調べのための出頭の求めに応じている限りは,逮捕状による逮捕もされないからです(同法1991項)。なお,立法当初の罰金等臨時措置法71項参照),簡易裁判所の厄介になって(裁判所法(昭和22年法律第59号)3312号)2000円の罰金を取られたり,1日以上30日未満の期間でもって刑事施設に拘置されるのは,火葬場の管理者としては御免を蒙りたいところだったのでしょう。(なお,火葬場の「管理者」は,「自然人であり,〔略〕火葬場の運営及び管理についての事務取扱責任者」であって(生活衛生法規研究会63頁),火葬場の経営者(「ほとんどは法人」であるとされています(同頁)。)によって置かれ,その本籍,住所及び氏名は当該火葬場所在地の市町村長に届出がされます(墓埋法12条)。)

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 大喪の礼経費の国庫負担

 1947年(昭和22年)53日から施行されている「皇室典範」という題名の昭和22年法律第3号の第24条は「皇位の継承があつたときは,即位の礼を行う。」と,同法25条は「天皇が崩じたときは,大喪の礼を行う。」と規定しています。この両条の規定の趣旨は即位の礼及び大喪の礼は国の事務として国費をもって行われるということだよね,と筆者は理解しています。皇室典範たる明治22年(1889年)の皇室典範等の下において,美濃部達吉が次のように説いていたところを承けた理解です。

 

  皇室ニ関スル儀礼ノ中或ハ国ノ大典トシテ国家ニ依リテ行ハルルモノアリ,①即位ノ礼,②大嘗祭,③大喪儀其ノ他ノ国葬ハ是ナリ。即位ノ礼及大嘗祭ハ皇室ノ最モ重要ナル儀礼ニシテ其ノ式ハ皇室令(〔明治〕42年皇室令1登極令)ノ定ムル所ナレドモ,同時ニ国家ノ大典ニ属スルガ故ニ,国ノ事務トシテ国費を以テ挙行セラル。其ノ事務ヲ掌理セシムル為ニ設置セラルル大礼使ハ皇室ノ機関ニ非ズシテ国家ノ機関ナリ〔大礼使は内閣総理大臣の管理に属し,その官制は皇室令ではなく勅令で定められました(大正2年勅令第303号(これは,1914411日に昭憲皇太后の崩御があったところ,同日付けの大正3年勅令第53号によりいったん廃止)・大正4年勅令第51号,昭和2年勅令第382号)。〕国葬モ亦国ノ事務ニ属ス,国葬令(大正15勅令324)ニ依レバ大喪儀,皇太子皇太子妃,皇太孫皇太孫妃,摂政ノ喪儀ハ国葬トシ〔同令1条・2条〕,其ノ他国家ニ偉勲アル者ニ付テモ特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアリ〔同令31項〕。国葬ヲ賜フ特旨ハ勅書ヲ以テシ,内閣総理大臣之ヲ公告ス〔同条2項〕。此等ノ外皇室ノ儀礼ハ総テ皇室ノ事務トシテ行ハル。

  (美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)217-218頁。丸数字及び下線は筆者によるもの)

 

 即位の礼及び大嘗祭については,明治22年の皇室典範11条に「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」と規定されていたところです。大嘗祭については,『皇室典範義解』の説明に「大嘗の祭は神武天皇元年以来歴代相因て大典とはせられたり。(けだし)天皇位に即き天祖及天神地祇を請饗(せいきやう)せらるゝの礼にして,一世に一たび行はるゝ者なり(天武天皇以来年毎に行ふを新嘗とし,一世に一たび行ふを大嘗とす)。」とあります。ただし,「第1代神武天皇が,倭の国の八十(やそ)(たけ)()を討つさい,タカミムスビノカミを祀って新嘗祭とみられる祭りを行った記事が,「日本書紀・神武紀」にある」ものの(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)12-13頁),『日本書紀』の神武天皇元年条に大嘗祭挙行の記事はありません。

 法律たる「皇室典範」24条及び25条の規定をお金の問題に関するものとする理解は,筆者一人のものではありません。

 1946927日開催の臨時法制調査会第一部会に係るその議事要録には,次のような問答が記録されています。

 

  鈴木 即位の大礼,大(ママ)費は法律で予算を組むのか。

  高尾 しかり。

 

 ここでの「鈴木」は臨時法制調査会委員の衆議院議員・鈴木義男,「高尾」は同幹事の宮内省出仕・高尾亮一でしょう。

 

2 大喪の礼(非宗教的)≠大喪儀

 19461026日付けの臨時法制調査会の答申書に,皇室典範改正(ママ)法案要綱の一つの項として,

 

  即位の礼及び大喪儀に関し,規定を設けること。

 

とあります。

 上記臨時法制調査会の要綱に関し,明治22年の皇室典範11条並びに出来上がりの「皇室典範」法24条及び25条との比較においてここで注目すべきことは二つあります。既に大嘗祭が落ちていること及び「大喪」であっていまだに「大喪の礼」ではないことです。(なお,京都市民にとっては即位の礼の同市における挙行がなくなったことこそが最重大問題であるかもしれませんが,「〔明治〕13年〔1880年〕車駕京都に駐まる。〔明治天皇は〕旧都の荒廃を嘆惜したまひ,後の大礼を行ふ者は宜く此の地に於てすべしとの旨あり。」との立法事実(『皇室典範義解』)は,連合国軍の空襲で荒廃した他の諸都市を尻目に,戦災の無かった京都市にはもはや妥当しなかったものでしょう。)

 大嘗祭が落ちたのは,やはり,日本国憲法のいわゆる政教分離原則のゆえでしょう。19461217日の第91回帝国議会貴族院皇室典範案特別委員会において,元逓信省通信局外信課長の渡部信委員が「皇室典範」法案中になぜ大嘗祭の規定を設けなかったのかと質疑をしたところ,金森徳次郎国務大臣は,「此の憲法の下に,及び之に附随して出来て来まする所の諸般の制度は,宗教と云ふことを離れて設けられて行く,斯う云ふ原理を推論し得るものと思つて居ります」,「宗教的なる規定は,之を設けることは憲法の趣旨と背馳するもののやうに思はるゝのであります」ということを前提とした上で,「即位の礼と大嘗祭は,程度の差はありまするが,固より或思想を以て今迄一貫されて居つたものであらうと考へて居ります,けれども今後の合理的なる政治の面に於きましては,信仰に関係のない部面だけを採入れると云ふことにして大礼の規定を皇室典範に織込みまして,信仰的なる部面のことは国の制度の外に置くと云ふ考になつて居ります,従つてそれ〔大嘗祭〕は制度自身の上から見ますると,矢張り外に出てしまふことになりまして,恐らくは皇室の御儀式として,皇室内部の御儀式として続行せられて行くことであらうと想像を致して居ります」と答弁しています(同委員会議事速記録第26頁。また,同議会衆議院議事速記録第664頁及び69頁の同国務大臣答弁参照)。

 他方,「大喪儀」が「大喪の礼」になぜ変わったのかということについては,「皇室典範」法案に全員起立で賛成がされた19461125日の枢密院本会議における,当該法案に関する潮恵之輔審査委員長報告の次の部分に注目すべきでしょう。

 

  その他,新たに,即位の礼に対応して,天皇が崩じたときは,大喪の礼を行うことを定め,また,従前皇室陵墓令中に規定された事項を本案に移して陵墓に関する規定を置く。(第25条及び第27条)

 

専ら即位の礼に対応して大喪の礼を行うということですから,大喪の礼には大嘗祭に対応する宗教的な儀礼は含まれないということでしょう。大喪儀ならぬ大喪の礼を行うものとする規定となったのは,「大喪儀」との文言のままではそこには宗教的儀礼が含まれてしまう,ということにだれかが気付いた上での文言修正であったのではないでしょうか。

 

3 即位の礼に対応するものは大喪の礼か退位の礼か

と,ここまで調べが進んだところで,不図,安倍晋三内閣が2017519日に法案を提出し,全国民を代表する議員をもって組織される衆議院及び参議院によって構成される国会が当該法案に係る両議院の可決をもって同年69日に制定した法律であって,同月16日に当時の天皇たる現在の上皇がそれを公布することとなった天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)を,関連する法律として見てみると,その第33項に次のような規定があって,いささか筆者を悩ませるのでした。

 

 上皇の身分に関する事項の登録,喪儀及び陵墓については,天皇の例による。

 

ここでの悩みの種は,「上皇の喪儀については,天皇の例による。」の部分です。

(「例による」の意味については,「ある事項について,他の法令の下における制度又は手続を包括的に当てはめて適用することを表現する語として用いる。その意味では「準用する」〔略〕と余り変わらないともいえるが,「準用する」の場合はそこに示された法令の規定だけが準用の対象となるのに対し,「例による」の場合は,ある一定の手続なり事項なりが当該法律及びこれに基づく政令,省令等を含めて包括的に,その場合に当てはめられる点において異なる。」と説明されています(前田正道編『ワークブック法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)653頁)。)

「喪礼」ではなく「喪儀」なのですが,ひとまず単純に考えれば,「皇室典範」法25条の規定が「上皇が崩じたときは,大喪の礼を行う。」というふうに読み替えて適用されるのかな,と思われるところです。

しかしここで枢密院における説明を想起すると,「皇室典範」法25条の大喪の礼は,即位の礼に対応するものなのでした。天皇は崩御するまで在位する建前なので(明治22年の皇室典範10条・「皇室典範」法4条参照),退位の礼ならぬ大喪の礼がその在位せられた御代の締め括りとして即位の礼に対応するのだな,また,明治22年の皇室典範には無い天皇御大喪の際の儀礼に係る規定を昭和22年の「皇室典範」法に導入するためには前者の11条にある即位の礼との対応を指摘することによる新たな意義付けを行うことが必要だったのだな,と筆者は「対応して」の意味を解していたのですが・・・そういえば,上皇については,天皇の退位等に関する皇室典範特例法附則9(「この法律に定めるもののほか,この法律の施行に関し必要な事項は,政令で定める。」)に基づき当時の安倍内閣が制定した天皇の退位等に関する皇室典範特例法施行令(平成3039日政令第44号)1条の規定(「天皇の退位等に関する皇室典範特例法(以下「法」という。)第2条の規定による天皇の退位に際しては,退位の礼を行う。」)による退位の礼が,その天皇としての在位の最終日である平成31年(2019年)430日に既に挙行済みだったのでした。平成2年(1990年)1112日の即位の礼に対応するものは,一見するに,この退位の礼でしょう。

 

4 2019430日の退位の礼:象徴≦代表

平成30年(2018年)43日の安倍内閣の閣議決定「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う国の儀式等の挙行に係る基本方針について」の第4によれば,天皇の退位等に関する皇室典範特例法施行令1条にいう退位の礼とは,2019430日に宮中において行われた退位礼正殿の儀のことでした。すなわち,退位礼正殿の儀は,国事行為である国の儀式であって(退位礼正殿の儀以外の退位関連の儀式は,国の儀式ではなかった(皇室の儀式であった)ということでしょう。),その事務は宮内庁が行ったのでした(なお,平成31419日の閣議決定「退位礼正殿の儀を国の儀式として行うことについて」参照)。

ところで,退位礼正殿の儀の趣旨は,上記平成3043日の閣議決定によれば「天皇陛下が御退位前に最後に国民の代表に会われる儀式」とあるので(下線は筆者によるもの),筆者は,今更ながらぎょっとしたものでした。すなわち,日本国及び日本国民統合の象徴と日本国民の代表との顔合わせとは,Doppelgänger現象を連想させるところではありますが,それだけではありません。その地位が「日本国民の総意に基く」ものでしかない象徴の前に当の「主権の存する日本国民」の代表がぬっと現れるのは,象徴にその憲法的非力を感じさせるべきいささか威迫的ともいい得る絵柄ではないでしょうか。しかし,日本国憲法1(「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く。」)及び専ら国会の制定法によって天皇の廃立を定めるものである天皇の退位等に関する皇室典範特例法2(「天皇は,この法律の施行の日限り,退位し,皇嗣が,直ちに即位する。」)の法意をあえて視覚化するとなると,こうなるのでしょう。

「国民代表の辞」を述べたのは安倍晋三内閣総理大臣であり,それに対する天皇の「おことば」でも「国民を代表して,安倍内閣総理大臣の述べられた言葉」とありますから,退位礼正殿の儀においては,Citoyen安倍晋三が,主権の存する国民を一人で代表して,天皇の前に立ったわけです(2019419日に宮内庁長官が決定した「退位礼正殿の儀の細目について」には,「次に内閣総理大臣が御前に参進し,国民代表の辞を述べる。/次に天皇のおことばがある。」とあります。)。「大」がついても内閣総理大であることにとどまるのならば,文字の上だけでも下として天皇の前に謙遜なのですが(日本国憲法61項では,天皇が内閣総理大臣を任命します。),ここでの力点は,国民の代表であることにあるのでしょう。

あるいは特段深い考え無しに,無邪気に「国民代表」の語が用いられたのかもしれません。しかし,憲法的場面においては,日本国の主権は国民に存し(日本国憲法前文1項第1文・1条),国民の代表者は国政の権力を行使する者です(同前文1項第2文)。その前では天皇ないしは太上天皇も隠岐や佐渡まで吹っ飛んだ歴史的事実をも背景に有する我が乱臣賊子たる国民(北一輝の表現です。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1066681538.html)の代表は,無力であるものでは全くなく,その正反対であって,そう無垢・無害な存在ではあり得ません。2019430日の安倍晋三国民代表の天皇に対する辞においても,「天皇陛下におかれましては,皇室典範特例法の定めるところにより,本日をもちまして御退位されます。」と,天皇の退位等に関する皇室典範特例法2条の趣旨の読み聞かせ(中川八洋筑波大学名誉教授ならば,もっと激しい表現であるところです。)がされています。退位の礼は,はなはだ重い儀式であったと評価すべきでしょう。(ちなみに隠岐・佐渡といえば,かのルイ16世に派遣せられたラ・ペルーズは,日本海を北上するその探検航海において,これらの島々を望見したことでしょうか。)

なお,一夜明けて令和元年(2019年)51日の今上天皇の即位後朝見の儀も「御即位後初めて国民の代表に会われる儀式」であって(前記平成3043日の閣議決定の第521)。下線は筆者によるもの),「次に天皇のおことばがある。/次に内閣総理大臣が御前に参進し,国民代表の辞を述べる。」という式次第でした(201951日の宮内庁長官決定「即位後朝見の儀の細目について」)。天皇が自らその「おことば」の冒頭において「日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより,ここに皇位を継承しました。」と宣言していますので,安倍晋三国民代表の天皇に対する辞においては「天皇陛下におかれましては,本日,皇位を継承されました。国民を挙げて心からお(よろこ)び申し上げます。」と,天皇の退位等に関する皇室典範特例法2条の法意に係るくどい念押し無しに,当該継承の事実の確認のみがされています。主権の存する国民は,「お慶び」です。これを平成元年(1989年)19日の即位後朝見の儀の前例と比較すると,当時の竹下登内閣総理大臣が述べたのは「国民代表の辞」というような高ぶったものではなく,「内閣総理大臣の奉答」というものでありました。20221010日追記:なお,令和元年51日の即位後朝見の儀における国民代表の辞の締め括りは「ここに,令和の御代(みよ)の平安と,皇室の弥栄(いやさか)をお祈り申し上げます。」であるのですが,「令和の御代」の意味するところは実は深長ではないかと気が付きました。令和の元号は,その前月,安倍国民代表の内閣自身が定めたものであって(平成31年政令第143号),その決定過程から排除されていた天皇にその「在位ノ称号」(美濃部185頁)として押し付けるのは厚かまし過ぎるでしょう。そうであれば,(安倍国民代表に率いられた)日本国民の令和の御代が銃撃事件などなく平安であることが祈念されるとともに,併せて皇室の弥栄もお祈り申し上げられた,ということになるのでしょう。ちなみに,平成元年19日の内閣総理大臣の奉答には,「平成の御代」という言葉はありませんし,天皇のおことばを承けて天皇に対して「国民一同,日本国憲法の下,天皇陛下を国民統合の象徴と仰ぎ,世界に開かれ,活力に満ち,文化豊かな日本を建設し,世界の平和と人類福祉の増進のため,更に最善の努力を尽くすことをお誓い申し上げます。」という形で締め括られています(下線は筆者によるもの)。これに対して令和元年51日の国民代表の辞における上記締め括り文の前の文は「私たちは,天皇陛下を国及び国民統合の象徴と仰ぎ,激動する国際情勢の中で,平和で,希望に満ちあふれ,誇りある日本の輝かしい未来,人々が美しく心を寄せ合う中で,文化が生まれ育つ時代を,創り上げていく決意であります。」というもので(下線は筆者によるもの),主権者国民らしい一方的宣言の形になっています。更に余計な感想を付け加えると,30年間の平成の衰退を経て,令和の初めの日本国民は,「世界に開かれ」た国民であることを諦めつつ「激動する国際情勢」に背を向けた一国的平和を望み,animal spirit的ないしは物的な「活力に満ち」ることはもうないものの,希望,誇り,美しい心の寄せ合いといった情緒的慰めをなおも求める文弱的存在となっていたということだったのだな,と改めて気付いたことでもありました。令和年間の新型コロナウイルスをめぐる動きは,当該傾向を更に促進するものでしょう。)

以上脱線が過ぎました。天皇の退位等に関する皇室典範特例法33項に戻りましょう。

 

5 退位の礼を前提とした皇室典範特例法33項の解釈論

19901112日の即位の礼に対応するものとしては既に退位の礼が2019430日に行われているのだから,上皇が崩じたときに大喪の礼を行うにはもはや及ばないのだ,とすることは可能でしょうか。

 

昭和天皇の大喪の礼は,国の儀式として,平成元年224日,新宿御苑において行われ,また,同日の(同所における)葬場殿の儀と(武蔵陵墓地内における)陵所の儀を中心として,昭和天皇の大喪儀が皇室の行事として行われました。陵名は,武蔵野陵(むさしののみささぎ)と定められました。

  (宮内庁「昭和天皇・香淳皇后」ウェブページ)

 

 昭和天皇崩御の際の前例を反対解釈すると,国の儀式たる大喪の礼が行われなくとも,なおも皇室の行事たる大喪儀は行われるわけです。大喪の礼がなければ喪儀全体が行なわれなくなるというものではありません。

 ということで,それでは全ては皇室にお任せして上皇の大喪の礼のことは放念しよう,それでいいよね(退位の礼と大喪の礼とを重ねて行うことは国費の無駄遣いである,などと細かく責め立てられても面倒だし,「〔1989〕年224日に,昭和天皇の「大喪の礼」が国事行為として挙行されたが,その際,皇室の宗教的行事としての「葬場殿の儀」と,場所的にも時間的にも区別が不分明な仕方で,国事行為としての大喪の礼が行われたことの憲法適合性が,〔政教分離の観点から〕問題とされた。」(樋口陽一『憲法』(青林書院・1998年)112頁)といわれているし,我が国からは天皇及び皇后しかその女王の国葬に参列ができなかったかの英国では1936年に自らの意思で退位したエドワード8世について1972528日のそれは「崩御」ではなくて「薨去」であって,国葬はされず(同年「65日にウィンザー城内セント・ジョージ教会にて〔略〕葬儀」),「若き日に会ひしはすでにいそとせまへけふなつかしくも君とかたりぬ」(1971104日パリ西郊ブローニュの森における御製)ということで1921年の訪英時以来仲良しだった昭和天皇もその葬儀には柩前に花環を供えただけだったから(宮内庁『昭和天皇実録 第十五』(東京書籍・2017年)561頁・353頁),まあ「弔問外交」にもならないだろうし,そもそも「国葬」にはもう懲りた。),ということになるかといえば,上皇の大喪の礼を行わないとなれば「上皇の喪儀については,天皇の例による。」という天皇の退位等に関する皇室典範特例法33項の規定はみっともない空振り規定となってしまうではないか,そんな解釈が許されてよいのか,という問題が残ります。

 皇室の行事としてのみ上皇の喪儀は行われるがそれは1989年に不文法として確立されたものである昭和天皇の大喪儀の例によるべしという規範が,日本国家の法律として,皇家を対象として定立されたのだ,との解釈を採れば辻褄は合うでしょうか。しかし,皇家の内事たる事項(皇室喪儀令は大正15年皇室令第11号であって,摂政が裁可したものの,法律でも勅令でもありませんでした。明治典憲体制下,皇室令は,大日本帝国憲法ならぬ皇室典範系列の法規範でした(公式令(明治40年勅令第6号)51項参照)。)についてあえて国家が前例踏襲を強いる規制は,皇室自治の大権の干犯でなければ天皇・皇族に対する人権侵害となるようにも思われます。とはいえ,天皇・皇族は日本国民の権利及び義務(日本国憲法3章)を有しない非国民であるからいいのだ,と強弁することもあるいは可能かもしれません。

 しかしながら,実は現在,上皇は,火葬を望む等,自らの喪儀等の在り方を昭和天皇のそれとは別のものとしようとしているそうです(20131114日付け宮内庁の「今後の御陵及び御喪儀のあり方についての天皇皇后両陛下のお気持ち」及び「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」)。そうであれば,天皇の退位等に関する皇室典範特例法33項について妙な解釈を採用してあえて妙な波風を立てるべきではないでしょう。やはり,退位の礼は実施済みではあるものの,国の儀式として上皇の大喪の礼をも行うものとすることが,無難な選択ではないでしょうか。(当該大喪の礼も,平成元年内閣告示第4号「昭和天皇の大喪の礼の細目に関する件」の例によれば,天皇及び皇后が葬場殿前に進んだ上での一同黙祷,内閣総理大臣の拝礼・弔辞,衆議院議長の拝礼・弔詞,参議院議長の拝礼・弔詞及び最高裁判所長官の拝礼・弔辞並びに外国代表者の各拝礼及び参列者の一斉拝礼並びにその前後における葬場及び陵所への各葬列といったことどもで構成されることになるのでしょう。)

 横死した安倍晋三国民代表についても,国の儀式としての国葬儀が,岸田文雄内閣によって敢然挙行されたところです(2022927日)。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 はじめに

 前回(2022830日)の記事(「国葬儀とState Funeralとの異同に関して」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079923416.html)掲載後,202298日には英国のエリザベス2世女王の崩御があって同月19日には同国のState Funeralが現実に挙行され,更に同月27日の我が国葬儀においては弔辞中に山縣有朋による伊藤博文を悼む和歌(什)を引用するものがあって反響を呼び,筆者としては自らの予感能力的なもの(当該記事3及び1参照)の有無についていささか思うところがありました。しかしながら,筆者の記事が全く読まれていないことは結構なことで,ああ伊藤と山縣とに関するそのエピソードならば,電通の入れ知恵ならぬ元内閣総理大臣官房の広報関係者である齊藤弁護士のブログ記事からの転用でしょう,などとのテレビ・コンメンテーターによる軽薄な発言も無かったところでした。

 ということで,国葬関係噺が続きます。

 

2 国葬令の効力の有無に関する再論

 

(1)位階令との比較からする失効説に対する疑問

 さて,件名を国葬令とする大正15年勅令第324号については,「日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定で,法律を以て規定すべき事項を規定するものは,昭和221231日まで,法律と同一の効力を有するものとする。」とする昭和22年法律第72号の第1条によって,1947年(昭和22年)1231日限り効力を失っているものと我が国政府は解釈しています。筆者も,当該見解を承けた記事を書いたところです(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079865197.html)。

 しかしながら,天皇の栄典授与大権(大日本帝国憲法15条(「天皇ハ爵位勲章及其ノ他ノ栄典ヲ授与ス」),日本国憲法77号「栄典を授与すること。」)に関する勅令仲間の位階令(大正15年勅令第325号)が現在政令としてなお効力を有していること(昭和22年政令第141項は,「日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定は,昭和22年法律第72号第1条に規定するものを除くの外,政令と同一の効力を有するものとする。」と規定しています。)との関係で,国葬令失効説にはなお釈然としないところが筆者には残ったのでした。

 

(2)受田衆議院議員対内閣法制局

 国葬令の効力の存否に係る問題の解明は,受田新吉衆議院議員が執念を燃やしていたところであり,同議員の質疑に基づき,当該問題に係る内閣法制局の解釈が国会答弁の形でいくつか残されています。

 

ア 吉國次長答弁:現行法令輯覧問題

 

  〇吉國(一〔郎〕)政府委員〔内閣法制次長〕 現行法令輯覧は,総理府の総務課で編さんはいたしておりますけれども,その内容につきましてまでしさいに私ども〔内閣法制局〕のほうで指導をいたしておるわけではございませんが,従来の解釈といたしましては,国葬令は昭和221231日限りその効力を失っておるというのが,ほぼ通説であろうと存じております。

  〇受田委員 通説であるならば,この廃止した法律,命令を法令輯覧の中に入れておるということは,どういう理由か,次会までに御答弁願いたい。

  〇吉國(一)政府委員 これは総理府の編さんでございますので,私が直接申し上げるわけにまいりませんが,何しろ具体的に廃止法律を出しまして,左に掲げる法律を廃止するというようなことで処理をいたしたものにつきましては議論がございませんが,その効力として解釈上失っているとかいうようなものにつきましては,議論のあるところでございます。そのような意味で,総理府におきましても国葬令がまだ効力を有するやいなやということにつきまして,確たる議論が立たないままにこれを掲げたもの,このような命令は,特に旧憲法施行前の太政官布告であるとかあるいは行政官布告等によりまして,旧憲法施行後に法律なり勅令なりの効力を持ちましたようなものにつきましては,現在でも疑義のあるようなものが若干ございます。そのようなものにつきましては,現行法令輯覧なり現行日本法規あるいはその他の法規集におきましても,その疑義の存するまま掲げてある例もございますので,国葬令も同様な例でございますというように考えております。

  196549日衆議院内閣委員会(第48回国会衆議院内閣委員会議録第304頁))

 

1965年当時,内閣総理大臣官房総務課編纂の現行法令輯覧に,国葬令はなお収載されていたのでした。

 

イ 林長官答弁:国葬令失効説の提示

 内閣法制局の奉ずる「通説」の由来するところは,1962226日の衆議院予算委員会第一分科会における林修三法制局長官の次の答弁でしょう。

 

  〇林(修)政府委員 御承知のように,これ〔国葬令〕は勅令で出ておりまして,結局,当時旧憲法下における独立命令であったと思うわけであります。従いまして,形式的に申しますと,ただいまにおいては効力は,まあちょっとないと言わざるを得ないと私は思います。しかし,これは御承知のように,実際新憲法後において問題がございましたのは,実は貞明皇后の御喪儀のときでございまして,このときには当時の政府当局は,国葬令に準じた,国葬令を実質的に踏襲したような考え方で御喪儀を営んだことになっておる,かように考えます。

  〇受田分科員 国葬令には天皇の大喪儀,それから「皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃及摂政タル親王内親王」等の喪儀は国葬とする。もう一つ,国家に偉勲のある者の死亡したときには特旨により国葬を賜う,こうあるわけです。しかし,これは現実に法律か何かで廃止してはいないのでしょう。

  〇林(修)政府委員 御承知のように,旧憲法と新憲法とでは,いわゆる行政機関と申しますか,による命令のきめ方が根本的に違うわけでございます。旧憲法時代は,御承知のように憲法第8条〔法律に代わる緊急勅令の規定〕あるいは第9条で,いわゆる天皇の独立命令という規定があったわけでございます。従って,今の大権事項,しかも一面においていわれる大権事項というものが憲法にいろいろ規定がございまして,この大権事項につきましては帝国議会は関与できないという解釈が法的解釈であります。従いまして,いわゆる大権事項,特に天皇の今の御喪儀というようなことについては,大権事項として,帝国議会の議決する法律によってはきめられないと考えられております。従って,勅令をもってきまっておったわけであります。新憲法は御承知のように,国会を唯一の立法機関とする規定を置きまして,行政機関による命令というものは,憲法第73条をごらんになるとわかりますが,あそこでは政令のことを直接言っておりますが,要するに法律を執行する命令あるいは法律の委任に基づく命令,この点にだけいわゆる行政機関の立法というものを認めておるわけであります。従いまして,新憲法下におきましては,旧憲法下の大権事項に属するような勅令で,結局において大部分が法律事項になった,かように考えられるわけであります。従いまして,新旧憲法の移り変わりにおきまして,御承知のように,昭和22年法律第72号という法律がございまして,旧憲法下のいわゆる独立命令で新憲法下においては法律をもって定めることを要する事項は,法律に移す。過渡的には,〔昭和〕22年の1231日までは独立命令も効力を持つ,かような法律をあの当時立法したわけでございます。その法律の規定によりまして,ただいまお話しの国葬令は,形式的には22年の末日限りで失効になっている。かように考えざるを得ないと思います。

  (第40回国会衆議院予算委員会第一分科会議録第740頁)

 

 林長官の上記答弁には明治皇室典範下の皇室令関係の説明が足りないようにも筆者には思われます。すなわち,大喪及び大喪儀については,国務に関する法規たる勅令によってではなく,いずれも皇室令である皇室服喪令(明治42年皇室令第12号)及び皇室喪儀令(大正15年皇室令第11号)によって規定されていました。皇室令は,「皇室典範ニ基ツク諸規則,宮内官制其ノ他皇室ノ事務ニ関シ勅定ヲ経タル規程ニシテ発表ヲ要スルモノ」(公式令(明治40年勅令第6号)51項)です。皇室の喪儀は,第一次的には,皇室の家長としての天皇に属する大権(皇室の大権)に係る事項であるのです。皇室の大権は,大日本帝国憲法上の天皇の大権ではありません。明治皇室典範系列の大権です。大日本帝国憲法に基づく勅令である――あるいは勅令でしかない――国葬令では,皇族の喪儀に関しては,大喪儀等を国葬として,それらの費用の国庫負担及び事務の政府取扱いが定められただけでした(同令1条及び2条)。

以上のことどもはともかくとして,林長官の前記答弁において問題なのは――国葬令が大日本帝国憲法9条の独立命令たる勅令であったのはそのとおりであるとして――日本国憲法の下では法律をもって定めることを要する規定は国葬令のどの部分であるのかが具体的に明示されていないことです。法律事項がなければ前記昭和22年政令第141項の規定によって国葬令はなお政令として効力を有しているということになってしまいますので,国葬令の効力に止めを刺すためには,そこまでの摘示をしなければならないところです。

 

ウ 高辻次長答弁:国葬令失効説の理由付け

 

(ア)国葬令3条1項及び5条の規定を理由とする一連の法令としての同令失効説

 林長官が提示した国葬令失効説については,1963329日の衆議院内閣委員会における高辻正巳内閣法制次長による次の答弁が追完をなすものなのでしょう。

 

  〇高辻政府委員 ただいま御指摘の勅令第324号,いわゆる国葬令〔筆者註:「国葬令」は,当該勅令の題名ではなく件名です。〕でございますが,御承知の通りに,国葬令自身を廃止した法令というものはございません。ございませんが,実はもうすでに御承知だと思いますが,昭和22年法律第72号という法律がございまして,〔略〕その立法によりまして,法律事項を規定しておるものは現在効力はない。22年の12月末日まではありましたけれども,その後はないということに相なっております。そこで,この国葬令が事実的に廃止されておりませんので,どうかという問題はございますが,この国葬令をながめて見ますと,「勅裁ヲ経テ之ヲ定ム」とか「特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアルヘシ」とかいうような規定があります関係からいたしまして,ただいま瓜生〔順良宮内庁〕次長が御指摘になりましたように,現在は効力がないというのが相当であろうと思います。

  (第43回国会衆議院内閣委員会議録第1413頁。下線は筆者によるもの)

 

  〇高辻政府委員 仰せの通りに,全く現在の皇室典範における25条の「大喪の礼を行う。」大喪の礼の方式をいかにするかという問題は,法律事項ではないと思います。また実際上,国葬令の形式的ないろいろなやり方というものに準じて〔筆者註:ここは正確には「皇室喪儀令及び皇室服喪令の形式的ないろいろなやり方というものに準じて」でしょう。〕やって一向にかまわないことだと思います。ただ,今申し上げましたのは,国葬令の中で,「特旨ニ依リ国葬ヲ賜フ」とかあるいは「勅裁ヲ経テ之ヲ定ム」とかいうような点がありますために,これだけを取り出して,それが効力がないといえばそれまででございますけれども,やはり一連の規定としての意味を持つものでございますので,そういう意味で,これは現在一つの法律としての効力はないだろうというわけでございまして,〔受田委員の〕仰せの中心である大喪の礼をどうするかというのは,事実としてきめればいいと思います。

  (同14頁。下線は筆者によるもの)

 

内閣法制局によれば,国葬令中第31項の「国家ニ偉勲アル者薨去又ハ死亡シタルトキハ〔天皇の〕特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアルヘシ」との規定及び第5条の「皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ノ式ハ内閣総理大臣〔が天皇の〕勅裁ヲ経テ之ヲ定ム」との規定が法律事項を定めるものであって,これらは19471231日限り失効し(昭和22年法律第721条),それに伴い「一連の規定としての意味を持つ」国葬令全体が失効した,ということになるようです。

 

(イ)位階令の解釈との整合性問題

前記の高辻次長説明については,まず,天皇が直接出て来るからいけないというのは,法律事項か否かの問題というよりも合憲か否かの憲法レヴェルの問題ではないか,そうであるのならば19471231日限りではなく,むしろ同年52日限りで失効したものと解すべきではないかという疑問が生じます。しかし,それ以前に,高辻次長の説明は,位階令に関する林法制局長官の次の解釈(1962226日衆議院予算委員会第一分科会)とそもそもどのように符合せしめられるべきものなのでしょうか。

 

 〇受田分科員 そうしますと,位階勲等,位階令その他の分はどうなっているのですか。

 〇林(修)政府委員 これは私どものただいままでの考え方で申しますと,大体旧憲法前のやつは,御承知のように太政官布告その他で出ております。旧憲法時代においては,文化勲章令等は勅令で出ております。これの新憲法下における効力いかんという問題が御指摘のようにあるわけでございます。これにつきましては,新憲法におきましていわゆる栄典の授与というものは,実は天皇の国事行為になっております。従いまして,新憲法下においても,天皇はもちろん栄典授与の権限を持っておられるわけであります。ただし,それを独立しておやりになるわけではもちろんなくて,すべて内閣の助言と承認に基づいてやることになっております。従いまして,新憲法下において,天皇が,栄典,たとえば勲章あるいは位階そういうものを授与される場合には,実は個別的に内閣の助言と承認ということももちろん可能だと思います。しかし,たとえば内閣が助言と承認をやるについて,内閣がその助言と承認をやる基準を,たとえば内閣の定める命令,政令でございます,の形できめることは,新憲法下においても要するに法律的にいえば可能である,かように考えるわけでございます。従いまして,そういう意味におきましては,旧憲法前のいわゆる勲章に関する太政官布告あるいは旧憲法時代に出ました文化勲章令等の勅令,これも先ほど申しましたいわゆる独立命令は効力を失なう。法律をもって規定すべき事項は効力を失ないますけれども,今言ったような勲章とか位階等の授与についての内閣の助言と承認の基準をきめたと考えられます今のもろもろの勅令あるいは太政官布告は,新憲法下においても政令の効力を持って続いているのではないか,かように考えておる次第でございます。従いまして,形式的にはこれは残っておるとわれわれは考えております。その結果から申しまして,これは御承知だと思いますが,昭和30年に褒章条例の一部を改正して二つの例の褒章〔筆者註:黄綬褒章及び紫綬褒章〕を加えたことがございます。これは政令改正の形でやっております〔筆者註:昭和30年政令第7号による改正〕。褒章条例は御承知と思いますが,たしか太政官布告だと思いますが〔筆者註:明治14年太政官布告第63号〕,これは現在においてもなお効力を持っておる,かような考え方で対処しておるわけでございます。

 (第40回国会衆議院予算委員会第一分科会議録第740頁。下線は筆者によるもの)

 

 「昭和30年政令7号による褒章条例改正を,政府は,憲法41条にいう「立法」についてせまい「法規」概念を採る解釈を前提としたうえで,憲法77号(栄典の授与)を実施するための政令として説明した〔略〕。しかし,一般的規範の定立という意味での立法が法律によらなければならない〔略〕,という見地からすると,憲法736号にいう「憲法及び法律」は一体のものとして読まなければならず,内閣は,直接には法律を実施するためにしか政令を制定できない,と考えられなければならない。」ということで(樋口陽一『憲法』(青林書院・1998年)325頁),学説からは評判の悪い解釈です。しかし,そのことは措きましょう。

 天皇が特旨により国葬を賜うこと(国葬令31項)が天皇の行う国事行為たる「栄典を授与すること」(日本国憲法77号)に該当するのであれば,当該国事行為に係る内閣の助言と承認(同条柱書き)の基準を定めるものとして,位階令,文化勲章令(昭和12年勅令第9号),褒章条例同様,国葬令はなお政令の効力をもって存続するものとしてよさそうです。

 現在政令の効力をもって存続している位階令3条は,「前条ニ掲クル者〔「国家ニ勲功アリ又ハ表彰スヘキ効績アル者」(同令21号)並びに「在官者及在職者」(同条3号。なお同条2号は削除)〕死亡シタル場合ニ於テハ特旨ヲ以テ其ノ死亡ノ日ニ遡リ位ヲ追贈スルコトアルヘシ」と規定しており,これは国葬令31項と同じ構造の条文です。

 国葬令5条も,「皇族ニ非サル者〔皇族の喪儀の式を定める皇室喪儀令は,昭和22年皇室令第12号により194752日限りをもって廃止されています。〕国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ノ式ハ当該事務を所掌する内閣府〔内閣府設置法(平成11年法律第89号)4333号(同号は,国の儀式に関する事務に関することを内閣府の所掌事務としています。なお,栄典の授与に関することも同項28号により内閣府の所掌事務です。〕の主任の大臣である内閣総理大臣〔同法62項〕が内閣の助言と承認による天皇の勅裁ヲ経テ之ヲ定ム」と読み替えればよさそうです。要は内閣府が企画立案して閣議決定をし,天皇に裁可せしめればよいのでしょう。

 

3 日本国憲法下における栄典の授与に係る天皇の国事行為に関して

 天皇の裁可といえば大日本帝国憲法めいていますが,日本国憲法下でも天皇は次のように執務しています。

 

  〔19637月〕12日 金曜日 生存者叙勲は,昭和21年〔1946年〕53日及び昭和28年〔1953年〕918日の閣議決定により,緊急を要するものを除いて停止されていたが,この日,生存者に対する叙勲の開始,及び「勲章,記章,褒章等の授与及び伝達式例」が閣議決定され,午後,これについての上奏書類を御裁可になる。なお,生存者叙勲は栄典制度に対する国民の期待その他の事情が考慮され,この度再開されることとなったが,生存者叙位は再開されなかった。

  (宮内庁『昭和天皇実録 第十三』(東京書籍・2017年)523頁。下線は筆者によるもの)

 

 すなわち,生存者叙勲を開始するという叡旨が示され,及びその伝達式例に係る勅裁がせられています。

 なお,194653日の閣議決定(というよりは当時はなお大日本帝国憲法下であったので,むしろ天皇の決定ということになりますが)は,次のようなものでした。

 

  この日,「官吏任用叙級令施行に伴ふ官吏に対する叙位及び叙勲並びに貴族院及び衆議院の議長,副議長,議員又は市町村長及び市町村助役に対する叙勲の取扱に関する件」が閣議決定され,午後8時,これについての上奏書類を御裁可になる。これにより官吏に対する現行の叙位・叙勲制度,貴族院及び衆議院の議長・副議長・議員又は市町村長及び市町村助役に対する現行の叙勲制度は,新憲法が制定され新たな栄典制度が確定するまでの間,一時停止される。またこれに伴い,叙位及び叙勲せられなかった者に対しては,新制度実現時に新制度を遡及適用するなどの方法により不利益を蒙らないように考慮することとされる。ただし,331日までに文武官叙位進階内則により初叙又は特旨叙位位階追陞を含むの資格の発生した者並びに叙勲内則により初叙進級の資格の発生した者に対しては,特に従前の例に依り叙位及び叙勲を取り扱うこと,在官在職中死没した官吏に対する叙位・叙勲については,民間功労者に対する死亡時の特旨叙位,又は叙勲・勲章加授の例に準じて取り扱うこととされる。

  この度叙位及び叙勲の取り扱いが決められたのは,これまで官吏に対する叙位・叙勲の取り扱いについては,文武官叙位進階内則又は叙勲内則に従い,官等あるいは在職年数により叙位・叙勲が行われていたところ,今般,官吏任用叙級令の施行に伴い官等が廃止されたことから,制度を改正する必要が生じたものの,現下の状勢に鑑み,新憲法が制定され新たな栄典制度が確定するまでの間,官吏への叙位・叙勲の取り扱いを一時停止する要があることによる。また貴族院及び衆議院の議長・副議長・議員又は市町村長及び市町村助役に対する叙勲についても,これまで叙勲内則中官吏の定例叙勲に関する規定を準用してきたところ,今般,官吏と同様に取り扱う必要が生じたことによる。

  (宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)108-109頁)

 

 ここでいう官吏に対する叙位・叙勲制度に係る「新たな栄典制度」の確定はどのような法形式をもってされることが予定されていたのでしょうか。1946417日発表の憲法改正草案の第694号では「法律の定める規準に従ひ,官吏に関する事務を掌理すること」は内閣の行う事務とされていましたところ(日本国憲法734号参照),叙位・叙勲制度を官吏本位のものと考えれば,それは法律によって定められなければならないものとも考えられ得たところでしょう。これに対して大日本帝国憲法下では,官吏に関する事務の基準を法律で定める必要はありませんでした(大日本帝国憲法10条)。

 1953918日の閣議決定は,次のようなものでした。

 

  生存者に対する叙勲について,原則としてその取扱を停止し,栄典制度を再検討した後に実施するという昭和21年以来の方針から,最近の状況に鑑み,緊急を要するものについては,現行の勲章を授与することとする旨が,この日閣議決定され,裁可される。

 (宮内庁『昭和天皇実録 第十一』(東京書籍・2017年)588頁)

 

 位階令23号に基づく在官者及び在職者に対する生存者叙位はなお再開されていませんが,憲法15条に関する昭和天皇の次の理解からすると,今後も再開はないのでしょう。

 

  〔幣原喜重郎内閣総理大臣による憲法改正草案の奏上に際し〕公務員の任免に関する第14現行第15について御懸念を示され,改正の要ある旨を仰せになる。〔略〕天皇は,〔略〕第14条に関し,特に宮内官吏の任免について御懸念を示される。翌日〔1946416日〕午前,侍従次長木下道雄をお召しになり,宮内官吏の任免については,天皇の認証を必要としたき旨の御希望を述べられる。なお政府は,17日,この草案前文を発表する。

  (実録第十94頁)

 

 1946417日発表の憲法改正案14条は,次のとおりでした。第2項と第3項との間に1項挿入されて,現在の日本国憲法15条となるものです。

 

14条 公務員を選定し,及びこれを罷免することは,国民固有の権利である。
すべて公務員は,全体の奉仕者であつて,一部の奉仕者ではない。
すべて選挙における投票の秘密は,これを侵してはならない。選挙人は,その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

 

 すなわち,新たな憲法に基づく公務員は国民の奉仕者であって,もはや朕(天皇)が官吏にあらずということが昭和天皇に痛感されたものでしょう。タンプル塔内において,自ら親しく任じた忠義の臣ならざる,愛国者エベール率いる共和国の公務員らに取り巻かれていたルイ16世とその家族の姿が脳裡に浮かんでもいたものか。

 

  彼〔エベール〕はいかがわしい前歴の持主で,劇場の金を着服したかどで公けに告発され,職もなければためらうこともなく,狩り立られたけものが川に飛びこむように革命の流れに飛びこんで,うまくその流れに乗った。それは彼が,サンジュストの言うように「時代の気分と危険に応じて爬虫類のように器用に色を変える」ことによるのである。革命が血によごれればよごれるほど,彼の書く,というよりは汚物をぬったくる「ペール・デュシェーヌ」紙――最も低劣な革命の赤新聞――にとる彼の筆はいよいよ赤くなった。おそろしく低級な口調で――カミーユ・デムーランに言わせれば,「まるでセーヌがパリの下水の出口ででもあるかのように」――彼は下層階級,最下層階級の最も下劣な本能に媚び,〔略〕こうやって賤民に人気を博したおかげで,たっぷり金もうけをした上に市の委員会に地位を得,ますます大きな権力を握った。不幸にもマリー・アントワネットの運命はこの男の手にゆだねられたのである。

  (ツワイク,関楠生訳『マリー・アントワネット』(河出書房・1967年)355-356

 

 位階は,「推古天皇始めて冠位十二階を定め,諸臣に頒ち賜」うたことに起因します(『憲法義解』第15条解説)。国民の選定罷免に係る公務員であって天皇の臣ならざる者に天皇から叙位があるということは,十七条憲法時代に発する位階の本義に反しますし,日本国憲法151項・2項からしてもおかしいことでしょう。公務員たるもの,生きている間は専ら全体国民の奉仕者たるべし,死して後初めて,希望する者は天皇の直臣たることを許さるることあるべし(人民を背景に立つエベールの徒からは口汚く罵倒されるでしょうが),ということになるわけでしょう。

 しかし,国葬の場合,国葬を賜わる者は,定義上既に死んでいます。生存者叙位のような問題はないわけです。

国葬令の効力の有無問題に戻りましょう。

 


続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 はじめに

 前日(2022810日)掲載のブログ記事「国葬及び国葬令並びに国葬儀に関して」において,国葬対象者の死亡が国会開会中であったとき,その国葬費の手当ては予備費からの支出でよいのか,国会の予算議定権を尊重して補正予算の提出・議決の方途を執らなければならないかの問題に逢着したところです((中)の9エ)。

 

(上)大日本帝国憲法下の国葬令:

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079865191.html

(中)日本国憲法下の国葬令:

    http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079865197.html

(下)吉田茂の国葬儀の前例及びまとめ:

    http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079865200.html

 

 本稿ではつい,前稿では敬遠していた, 畏き辺りの大喪の礼等に係る前例を見てみましょう。

 

2 昭和天皇の大喪の礼

 198917日に崩御した昭和天皇に係る同年224日に行われた大喪の礼の経費は,当時は第114回通常国会の会期(19881230日から1989528日まで)中でありましたが,予備費から支出されています。帝国議会の協賛を経た昭和22年法律第3号たる皇室典範の第25条に「天皇が崩じたときは,大喪の礼を行う。」とあるので,昭和29416日閣議決定「予備費の使用について」以来の閣議決定における予備費支出可能4項目中の「令又は国庫債務負担行為により支出義務が発生した経費」ということで,補正予算の提出・議決の方途を採ることなく,予備費からの支出がされたものと考えられます。

当該予備費支出は,1991年の第122回国会に至って国会の承諾を得ていますが,その際問題となったのは昭和天皇武蔵野陵の鳥居の建設費が予備費から出たのはけしからぬ(日本社会党(第122回国会衆議院決算委員会議録第219頁(時崎雄司委員)及び同国会参議院決算委員会会議録第230頁(村田誠醇委員))),「絶対主義的天皇制を権威づけることを目的として制定された旧皇室諸(ママ)にのっとって行われた葬場殿の儀などを含む大喪の礼」等に関係する予備費支出は容認できない,また,陵は天皇家の私的なものであって,公的行事に使用する宮廷費(皇室経済法(昭和22年法律第4号)3条・5条)から支出されるのはおかしく,憲法の政教分離原則にも反する(日本共産党(第122回国会衆議院決算委員会議録第220頁(寺前嚴委員)及び同国会参議院決算委員会会議録第230頁(諌山博委員)))というようなものでした(なお,陵墓についても,法律たる皇室典範の第27条において規定されています。)。補正予算の提出・議決によらなかったこと自体は問題視されていません。


DSCF1296(昭和天皇武蔵野陵)
昭和天皇武蔵野陵の鳥居(東京都八王子市)


3 節子皇太后(貞明皇后)の「大喪儀」

 昭和天皇の母・節子皇太后(貞明皇后)の崩御(1951517日)も第10回通常国会の会期(19501210日から195165日まで)中でしたが,その喪儀の経費は予備費から支出されました。当該予備費支出は,1952年,第13回通常国会で承諾されています。

1952415日の衆議院決算委員会において,井之口政雄委員から「〔昭和〕26年度の分を見てみますと,皇室費として大分出ておるようであります。多摩東陵の分とか,皇族に必要な経費というようなものが,たくさんでておるようでありますが,こうした費用は,一般予算の中からまかなえるものではないでしょうか。冠婚葬祭について,官吏にしたところで,別にだれしも政府から特別の支給は受けておりません。こういう皇室費は,皇太后の葬儀に必要な経費その他陵の造営等についての経費が出ておりますが,こうした修理費とかいうものも,予備費からいつも出すような仕組みになっておるのですか。」との質疑がありました(第13回国会衆議院決算委員会議録第103頁)。これに対する東條猛猪政府委員(主計局次長)の答弁は,「宮廷費にいたしましても,天皇が国の象徴としてのお立場におきましての必要経費でありますが,それらの経費につきましても,きわめて金額は切り詰めたものになつております。従いまして,この予備費の内容でごらんをいただきますように,当初予算の編成にあたつて予想いたしておりません皇太后陛下の崩御せられたという場合におきましては,この大喪儀に必要な経費でありますとか,あるいは多摩東陵を造営いたしますような経費は,とうてい当初予算ではまかなえないわけでありまして,29百万円と3千何万円の予備金支出をいたしておるわけであります。」というものでしたが,Wikipediaでは「革命家」と紹介されている井之口委員から更に厳しい追及がされるということはありませんでした(同会議録第103-4頁)。

前記昭和29416日閣議決定の前の時代ではありました。(なお,昭和27年(1952年)45日の閣議決定では,例外的に国会開会中も予備費の使用ができる場合は,大蔵大臣の指定する経費の外,①事業量の増加などに伴う経常の経費,②法令又は国庫債務負担行為により支出義務が発生した経費及び③その他比較的軽微と認められる経費だったそうです(大西祥世「憲法87条と国会の予備費承諾議決」立命館法学20154号(362号)15-16頁)。)


DSCF1295 (2)

貞明皇后多摩東陵(東京都八王子市)

 

4 大正天皇の大喪儀

 以上,その妻及び長男の喪儀及び大喪の礼に係る経費の国庫負担については,予備費の支出といういわば捷径が採られたのですが,大正天皇自身の大喪儀に係る経費については,若槻禮次郎内閣総理大臣及び片岡直溫大蔵大臣の下,帝国議会に予算追加案を堂々提出してその協賛を得る(大日本帝国憲法641項)との正攻法が執られています。

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

3 吉田茂の国葬儀の前例

19671020日に死亡した吉田茂に対して,同月31日に国葬儀が行われています。当該国葬儀の経費ためには,同月30日の閣議で,一般会計予備費から18096千円の支出が決定されました(前田80頁註(37)。なお,当時は国会閉会中(第56回臨時国会と第57回臨時国会との間)でした。)。

 

(1)国葬との異同について

吉田の国葬儀は,身分上の国葬対象者以外の者に係る前記①から⑤までの国葬の構成要素のうち,死亡した「国家ニ偉勲アル者」のために(①)国の事務として国庫の負担で行われる喪儀が行なわれるもの()の2要素を充足するものではあったわけです(吉田の業績の「偉勲」性には議論があり得るでしょうが。)。国民に対しても弔意表明の呼びかけが広範にされたようです(⑤)。このような呼びかけがされれば,法的義務ではないものの周囲の皆が政府御推奨のマスクを着用しているのに自分だけがしていないと不謹慎な非国民のようできまりが悪いのと同様,我が善良な日本人民は弔意表明的自粛をついしてしまうものなのでしょう(ただし,前田74頁は「政府の「お願い」に対しては,国民は冷淡な対応をとった。」と評しています。)。(なお,吉田茂の国葬儀当日における吉田一色のテレビ及びラジオ並びに新聞の報道振りについては,196832日の衆議院予算委員会において,佐藤榮作内閣総理大臣は「政府は何もタッチしておりません。」と答弁していますが(第58回国会衆議院予算委員会議録第1110頁),実際には「吉田国葬においては,総理府広報室長を中心に各報道機関との折衝が行われ,報道機関との間で,取材配置や方法などに関する取材協定が結ばれる。さらに国葬儀委員会〔委員長は佐藤内閣総理大臣〕でも,ラジオ・テレビなどに協力を求めることを決定した。これを受けて各局は国葬を実況中継するとともに,その前後にも「ふさわしくない」ドラマや歌謡ショー,CM等の自粛・差替えを行っている。」ということであったようです(前田73頁)。)

しかし,廃朝を含む天皇の主体的役割という要素()がなければ,吉田茂の国葬儀を国葬たる喪儀と同視してよいものかどうか。

 

(2)昭和天皇の動静

 吉田茂の死亡からその国葬儀までの間の昭和天皇と佐藤榮作内閣総理大臣との交渉状況は次のとおり。

 

10月〕23日 月曜日 〔前略〕午後455分御泊所の埼玉県知事公館にお戻りになる〔筆者註:昭和天皇は同月22日から26日まで埼玉県行幸中〕。その後,拝謁・奏上室において内閣総理大臣佐藤栄作の拝謁を受けられ,佐藤首相より故吉田茂の従一位叙位・菊花賞頸飾の授与が決定したこと,及び先の東南アジア・オセアニア訪問についてお聞きになる。なお佐藤首相は去る8日からインドネシア国・オーストラリア国・ニュージーランド国・フィリピン国・ベトナム共和国を歴訪し,21日に帰国した。

(宮内庁『昭和天皇実録 第十四』(東京書籍・2017年)412-413頁)

 

 実はこの23日に開かれた臨時閣議で,吉田の叙位叙勲のみならず,国葬儀の挙行が決定されていたのでした(前田64-65頁)。〔なお,佐藤の『佐藤榮作日記 第三巻』(朝日新聞社・1998)の同日条には,「大宮。知事公邸の天皇陛下に内奏。吉田先生の叙位叙勲決定,その他東南アジア訪問等内奏して退出,帰宅。」とあります(160)。(2025324日追記)〕

 

  〔10月〕27日 金曜日 夕刻,〔皇居〕拝謁の間において,内閣総理大臣佐藤栄作より文化勲章・秋の叙勲等についての内奏をお聞きになる。

  (実録十四420頁)

 

両者の間で吉田茂の国葬儀の話が出たとの明らかな記録はありません。〔佐藤榮作日記の同日条における記載は「宮中に参内して文化勲章,秋の叙勲等の内奏。内奏終って諸般の御下問に奉答。/尚〔宮内庁長官〕宇佐美[毅]君とも,国葬の儀打合せする。」というものです(佐藤163)。2025324日追記〕当該国葬儀挙行に,天皇の意思の関与を認めることは難しいでしょう。

なお,昭和天皇には,吉田茂の死について次の御製があります。

 

 君のいさをけふも思ふかなこの秋はさびしくなりぬ大磯の里

 外国(とつくに)の人とむつみし君はなし思へばかなしこのをりふしに

 (実録十四408頁)

 

( 「いさを」というだけでは,偉勲ということには必ずしもならないでしょう。あるいは,佐藤内閣総理大臣から報告があった叙位の話に係る位階令の勲又は功だったかもしれません。

外国の人とむつむことのできる日本人は,昭和時代には珍しかったのでした。被占領下においてもそうだったのでしょう。

しかし最近は,気難しい米国大統領相手に接待ゴルフをしてニンジャ的にバンカーに転落してみせたり(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1071112369.html),「〔略〕,君と僕は同じ未来を見ている。」「ゴールまで,〔略〕,二人の力で,駆けて,駆け,駆け抜けようではありませんか。」と,筆者などからすると気恥ずかしい言葉で(いわゆるBL風というのでしょうか。),したたか,かつ,強面のロシア連邦大統領に呼びかけたりした(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1073895005.html)優しい心根の内閣総理大臣もいたそうです。

 吉田茂の国葬儀の当日の昭和天皇の動静は次のとおり。

 

 〔10月〕31日 火曜日 午前,拝謁の間において,前皇宮警察本部警務部長山下禎造の拝謁を皇后と共にお受けになる。

 表三の間において,松栄会会員田島道治前宮内庁長官以下24名の拝謁を皇后と共に受けられる。

 午後,元内閣総理大臣吉田茂の国葬儀につき,天皇より勅使として侍従入江相政を,皇后より皇后宮使として侍従徳川義寛を葬場の日本武道館に差し遣わし,それぞれ拝礼させられる。またこの葬儀に際し,天皇・皇后より故吉田茂国葬儀委員長に生花を賜う。なお,国葬儀の模様は吹上御所において皇后と共にテレビにて御覧になる。また,米国大統領リンドン・ベインズ・ジョンソンの代理として国葬儀参列のため来日した元連合国最高司令官マシュー・バンカー・リッジウェイより,滞日中に受けた御厚誼への御礼と吉田への弔意が駐日米国大使を通じて伝えられる。これに対し,謝意を伝えるよう侍従長に仰せ付けられ,この日式武官より駐日米国大使へこの旨が伝達される。また,吉田の国葬儀のために来日したフィリピン国特派大使グレゴリオ・アバド並びにユーロヒオ・バラオ,ニカラグア国特派大使カルロス・マヌエル・ペレス・アロンソ駐日特命全権大使の信任状を受けられ,1130日これを御覧になる。

 (実録十四422-423頁)

 

 24年前の山本五十六国葬の日よりもくつろいでいる感じの記述です。

 

  〔19436月〕5日 土曜日 この日,故元帥海軍大将山本五十六国葬につき,廃朝を仰せ出される。侍従徳大寺実厚を勅使として日比谷公園内葬斎場に差し遣わし,玉串を供えられる。終日御文庫において過ごされ,生物学御研究所・内庭にもお出ましなし。ただし,側近の土曜定例御相伴はお許しになる。

  (実録九114頁)

 

なお,天皇の御使が葬式に来てくれるのは,国葬の喪儀又は国葬儀の場合に限られません。1948417日死去の鈴木貫太郎の葬儀に係る例は次のごとし。

 

 〔同月〕23日,葬儀執行につき,天皇・皇后より御使として侍従徳川義寛を葬儀場文京区護国寺に差し遣わし,焼香させられる。天皇・皇后・皇太后より祭粢料及び供物・花を賜い,天皇・皇后より菓子を賜う。また天皇・皇后より喪中御尋として夫人タカ元侍女に果物缶詰を賜う

 (実録十637頁)。

 

 御使であって勅使ではないのは,GHQ占領下という時節柄でしょうか。二・二六事件で殺害された両元内閣総理大臣高橋是清及び齋藤實の各葬儀には勅使が差遣されています(宮内庁『昭和天皇実録 第七』(東京書籍・2016年)57-58頁)。

 以上,吉田茂の国葬儀について天皇が主体的役割を果たしたという形はなかったものと認めるべきでしょう。その点で,当該国葬儀は国葬たる喪儀ではありません。

 

(3)国会における議論と予備費支出の承諾

 さて,吉田茂の国葬儀挙行を承けての国会における議論は次のとおり。

 

ア 受田衆議院議員vs.八木総理府総務副長官及び田中龍夫大臣:公式制度整備推進論

 1968312日の衆議院予算委員会第一分科会において民社党の受田新吉分科員が「吉田さんのその功績に対する報い方として,私,国葬というやり方にあえて反対するわけではございません。」と述べつつ「しかしこういうものを政府がかってにやるような制度というものに,私は疑義がある。きちっとした法律をつくり,そうして公式的ないろいろな〔略〕,こういう公式的なものをすみやかに制度化して,そこで国民が納得するように,国民の名における法律で,これがきちっとされるのが私は好ましいのであって,政府の行政措置で,こういう大事な組織上の,行政上の基本問題をいいかげんに処理されて,そして得々としておられることは許されないと思います。」と質したのに対して,八木徹雄政府委員(総理府総務副長官)は「〔略〕閣議決定という措置でやったと思うのでありますけれども,受田先生御指摘のとおり,いま御指摘のあった,かくかくの問題につきましては,ただ便宜的に措置するということは適当でないと思いますので,それが明文化できるように,上司に対して十分にひとつおぼしめしのほどを伝えて,善処してまいりたいと思います。」と,上司に下駄を預ける答弁をしています(第58回国会衆議院予算委員会第一分科会議録第128頁)。

 公式制度の整備に熱心な受田衆議院議員は,今度は同年43日の衆議院内閣委員会で,八木副長官の上司の田中龍夫総理府総務長官(国務大臣)に決意を迫りますが,同長官は真面目に頑張りますということでかわしています。いわく,「それからまた,いまこういうふうな問題が特に法律の規定によらないで慣習法的国葬なら国葬というものが一つできた,こういうふうなことからさらに積み上げていっておのずから出る結論,これは特に英米法的な慣習法を重んずる考え方もありましょう。しかしながら,何ぶんにも御皇室を中心とした典範の問題やらその他の問題の中には,ほんとうに御指摘になるような不備な点が多々あると存じますので,いまここでいついつまでにこうするのだということはお約束はできませんけれども,この問題につきましては,私は真剣にまじめにひとつ今日ただいまからでもいろいろと調査し検討してみたい,かように考えております。」と(第58回国会衆議院内閣委員会議録第818頁)。慣習法云々という発言が出たのは,生硬かつ優等生的な成文法主義者に対する閉口の気持ちゆえでしょうか。

 

イ 山崎参議院議員vs.田中大臣:「戦後におきます国民感情等」

 196849日の参議院内閣委員会では,田中長官は現在国葬法の制定は考えていない旨はっきり述べるに至っています。すなわち,日本社会党の山崎昇委員からの「少なくとも国民全体をあげて喪に服する場合,そういう場合には,それらしい根拠を設けておく必要があるんじゃないか。ただ,そのつどそのつど国費だけ出せばいいというものではないのではないか。そういう意味で,もう少し政府としてはこういう点について整備する必要があるんじゃないか。」との問いかけに対して同長官は,「お説のごとくに,当然,国葬法といったようなものも制定を行なうべきでございましょうけれども,まだ戦後におきます国民感情等が,最近の諸情勢のもとにおきましては,かような国葬法を制定するまでに立ち至っておらないというような考え方もございます。いずれはさようなことに相なるだろうと思いますが,今日の段階におきましては政府は考えておりません。」と答弁しています(第58回国会参議院内閣委員会会議録第1011頁)。

 この「戦後におきます国民感情等」なのですが,令和の御代の今となってはよく分からないところがあります。天皇が特旨により賜う国葬は,民主主義を奉ずる大衆政国家である我が日本国にはふさわしくないということでしょうか。それとも,国葬というと軍人臭くて嫌だということだったのでしょうか。

昭和に入ってからの国葬について見ると,行われたのは大正天皇の大喪儀並びに東郷平八郎,西園寺公望,山本五十六及び載仁親王の各喪儀であって,大正天皇を別とすれば西園寺公望以外は皆軍人です。このうち特に山本の喪儀の国葬化は,山本の事績が本当に国家に対する偉勲に相当するものであったのかがなお不明である戦争中にあって(真珠湾攻撃は,無邪気な日本臣民を喜ばせたものの,かえって米国民の偉大なエネルギーを覚醒させてしまった逆効果だったかもしれません。ネルソンならば,対ナポレオン戦争が続いているといっても,トラファルガー沖で仏西連合艦隊を圧倒しおえていましたが,山本の場合,勢いを増す敵軍の前に頽勢を挽回できることのないままあえなく討ち取られています。)――海軍当局が山本戦死の公表を長い間躊躇していたことにも鑑みると――問題隠蔽的な軍国的宣伝効果を専ら狙ってされたものではないかともあるいは考え得るかもしれません。すなわち,山本の戦死が昭和天皇に伝えられたのはその翌日の1943419日,山本の国葬に係る内奏があったのは更に1箇月後の同年518日で,その際「〔同日〕午後35分,御学問所において内閣総理大臣兼陸軍大臣東条英機に謁を賜い,来たる21日に海軍大将山本五十六戦死を公表する件の奏上,山本を大勲位功一級に叙す件並びに山本の国葬を6月に実施する件の内奏,及び大本営政府連絡会議・閣議関係の奏上を受けられる。」ということでしたから(実録九73頁・97頁),山本の戦死という不吉な事実を民草にあえて発表するためには,国葬等で山本をあらかじめ金ぴかにしておく必要があったわけでしょう。

 

ウ 省葬・庁葬及び華山衆議院議員の見解

 省葬・庁葬というものがあって,役所の公金で葬式を出すということがあります。

196856日の衆議院決算委員会において日本社会党の華山親義委員はその金の出元はどこかと船後正道政府委員(大蔵省主計局次長)に問うて,「各省の省葬,庁葬につきましては,その費用はおおむね庁費から支出いたしております。」との答弁を得た上で,「吉田茂氏の場合,社会党は吉田茂氏の国葬について,別にそのこと自体について,政府はおやりになるならやっても別に何とも言わないような態度をとってきた。それにつきましても,どうしてこれは内閣の庁費でやらないで予備費なんか出すのです。国と省と同じじゃないですか。」「それを庁費の中でおやりになったというならば,私はあまりどうとも思いませんけれども,予備費から出すというふうなことはどうかと思うのです。国葬ということについての準則が何もないのでしょう。」云々と自説を展開しています。これは,国葬儀の実施自体ではなく,予備費支出を必要とするほどの多額の出費をしたことがけしからぬとの批判なのでしょう。

なお,庁費については,「予算科目としての庁費は,目の一区分の名称であり,狭義には,事務遂行上必要な物の取得,維持又は役務の調達等の目的に充てる経費として区分された目の名称であるとされている。」との説明があります(会計検査院「国土交通省の地方整備局等における庁費等の予算執行に関する会計検査の結果についての報告書(要旨)」(20099月)1-2頁)。

 

エ 田中大臣の行政措置優先論

 196859日の衆議院決算委員会において田中総理府総務長官は改めて「今後これに対する何らかの根拠法的なものはつくらないかという御趣旨でありますが,これは行政措置といたしまして,従来ありましたような国民全体が喪に服するといったようなものはむしろつくるべきではないので,国民全体が納得するような姿において,ほんとうに国家に対して偉勲を立てた方々に対する国民全体の盛り上がるその気持ちをくみまして,そのときに行政措置として国葬儀を行なうということが私は適当ではないかと存じます。/なお,御意見といたしまして,基準を定めるべきであるという御意見は承っておきます。」と答弁しています(第58回国会衆議院決算委員会議録第151頁)。天皇の特旨ではなく,国民全体の盛り上がる気持ちが決めるのだ,また,義務を課し権利を制限する法律事項は不要なのだ,という整理のようです。

ただし,所管の大臣の消極論に対して,水田三喜男大蔵大臣は積極論でした。いわく,「国葬儀につきましては,御承知のように法令の根拠はございません。だから,いまその基準をつくったらいいかどうかということについて長官からお答えがございましたが,私はやはり何らかの基準というものをつくっておく必要があると考えています。幸いに,法令の根拠はございませんが,貞明皇后の例がございますし,今回の吉田元総理の例もございますので,もう前例が幾つかここに重なっておりますから,基準をつくるということでしたら簡単に素晴らしいものが私はつくれるというふうに考えています。そうすれば,この予備費の支出もこれは問題がなくなることになりますので,私はやはり将来としてはそういうことは望ましいというふうに考えています。」と(同会議録2頁)。しかしこれは,財政当局的な規律・形式重視論というものでしょうか。文字で書かれた,いわば死んだ固定的基準は,あるいは年功序列的な,上がりを目指す出世双六の道案内のようなものに堕してしまって,その時々に生動する「国民全体の盛り上がるその気持ち」とうまく符合しないのではないでしょうか。

 

オ 日本社会党華山衆議院議員による吉田茂国葬儀違法論及び国会によるその不採択

 同じ196859日,吉田茂の国葬儀の費用を含む昭和42年度一般会計予備費使用総調書(その1)の承諾に係る衆議院決算委員会における採決がありました。その際それまで「吉田茂氏の国葬について,別にそのこと自体について,政府はおやりになるならやっても別に何とも言わないような態度をとってきた」日本社会党は反対に転じています。

日本社会党を代表して華山委員は,その討論においていわく,「ただいま討論に付せられました予備費使用等の承諾を求むる件に関して,日本社会党を代表し,次の諸事項については承諾し得ないことを申し述べます。〔中略〕第3に,吉田茂元総理の国葬儀の経費の支出についてであります。新憲法制定とともに多くの法令がそのまま継続された中において,旧憲法下の国葬に関する勅令は廃止されたのであります。そして皇室典範第25条に「天皇が崩じたときは,大喪の礼を行う。」とあって,これが国葬に関する唯一の規定であります。これを総合するに,新憲法下においては,天皇崩御の場合以外は国葬は行なわれないものと解すべきであって,吉田元総理が皇太后のなくなられたときに際し,国葬を行なわなかったのは,この理由に基づくものと私は承っております。吉田元総理の功績の評価は別個の問題として,法のたてまえとして,本件の支出には反対せざるを得ません。〔後略〕」と(第58回国会衆議院決算委員会議録第157頁)。

しかしこれは,皇室典範25条からする強引な反対解釈論なのですが,貞明皇后の大喪儀経費に係る国庫負担を当該大喪儀は国葬ではないからということで是認するのであれば,吉田茂の喪儀に係る国庫負担もこれは国葬であって国葬ではないからという理由で是認しなければならなくなります。弱い。華山委員独自の当該法律論は,国会の採用するところとはなりませんでした。

衆議院決算委員会は賛成多数で昭和42年度一般会計予備費使用総調書(その1)に承諾を与えるべきものとしています(第58回国会衆議院決算委員会議録第159頁)。510日の衆議院本会議においても賛成多数で承諾が与えられました(第58回国会衆議院会議録第321050頁)。

 参議院では,決算委員会で1968515日,本会議では同月17日,過半数の賛成を得て昭和42年度一般会計予備費使用総調書(その1)に承諾が与えられています。決算委員会では,討論も行われていません(第58回国会参議院決算委員会会議録第1816頁)。

 以上吉田茂の国葬儀の前例は,予備費支出の事後承諾という形で,国権の最高機関たる国会によって是認されたということになります。(なお,「吉田の国葬の際に,これを先例としないという社会党の申し入れ」があったそうですが(前田67-68頁),厳密にいえば,一政党の一方的申入れにすぎないものでしょう。)

 

4 まとめ:国葬と国葬儀との異同

 話は国葬ないしは国葬たる喪儀と国葬儀との異同に戻ります(ただし,身分上の国葬対象者に係るものはここでの議論から除きます。)。

 

(1)共通点:国庫による経費負担及び対象者の属性

両者の共通点は,いずれも国庫が経費を負担する国費葬であること及び対象者が「国家ニ偉勲アル者」(国葬たる喪儀)ないしはそのような者として評価されている者(国葬儀)であることです。

なお,「そのような者として評価されている者」と曖昧な表現になっているのは,2022714日の岸田文雄内閣総理大臣の記者会見における次の言明をどう解釈してよいのか悩ましいからです。

 

〔略〕元総理におかれては,憲政史上最長の88か月にわたり,卓越したリーダーシップと実行力をもって,厳しい内外情勢に直面する我が国のために内閣総理大臣の重責を担ったこと,②東日本大震災からの復興,③日本経済の再生,日米関係を基軸とした外交の展開等の大きな実績を様々な分野で残されたことなど,その御功績は誠にすばらしいものであります。
 外国首脳を含む国際社会から極めて高い評価を受けており,また,⑥民主主義の根幹たる選挙が行われている中,突然の蛮行により逝去されたものであり,⑦国の内外から幅広い哀悼,追悼の意が寄せられています。
 こうした点を勘案し,この秋に国葬儀の形式で〔略〕元総理の葬儀を行うことといたします。国葬儀を執り行うことで,〔略〕元総理を追悼するとともに,我が国は,暴力に屈せず民主主義を断固として守り抜くという決意を示してまいります。あわせて,活力にあふれた日本を受け継ぎ,未来を切り拓いていくという気持ちを世界に示していきたいと考えています。

  (丸数字は筆者が加えたもの

 

 「国家ニ偉勲」があった,との端的な総括はされていません。

 しかし,①については,在職期間の長さそれ自体は偉勲とはならないでしょう。単に長く地位にしがみついてさえいれば偉いということになるのか,ということにもなりかねません。偉勲があったからこそ,その結果として長期在職になったのだということかもしれませんが,そうであればそのような偉勲の数々を個々具体的に挙示すべきでしょう。地位を長く保持する手段は――どこの組織でもあることですが――正攻法以外にもいろいろあるのです。また,「卓越したリーダーシップと実行力」は個人の資質の話で,その資質をもって国家のために何をしたのかが問題です。

 次に②及び③ですが,東日本大震災のショックを承けて止められた原子力発電所が動かぬまま盛夏・厳冬期等の大規模停電が懸念され,また,日本は今や衰退途下国(衰退は,上るのではなく下るのでしょう。)になってしまったとの認識が広まっている現在の状況下にあっては,違和感のある認識です。それとも偉勲あるリーダーの下で衰退途下国になってしまったのは,専ら愚昧なる人民の咎なのでしょうか。

外交関係に関する④及び⑤です。まず,④の「日米関係を基軸とした外交の展開」は,米国のリードにうまく乗ることができたということでしょうか。しかし,米国とうまくやりさえすれば日本国に対する偉勲になるというのも余り気宇壮大ではありませんし,むしろ専ら米国についてその偉大さ真面目さ寛大さが改めて認識されることとなるところです。⑤は,外国本位の評価であって,外国人が喜ぶことと日本国の利益となることとは必ずしも一致しません。しかしながら,「活力にあふれた」先進大国として「極めて高い評価」をもって世界から遇される花やかな日々は,衰廃老人国にはもう数えられてしまっているのでしょうから,去り行くよき時代に係る国際的な醍醐の花見――当該花見は豊臣秀吉の生前葬だったのでしょうか――的行事としてはあるいは適当かもしれません。

実は⑥及び⑦が重かったのかもしれません。しかし,⑥にいう人に殺害されることは,お気の毒ではありますが,国家に対するあるいは損失であるとはしても,偉勲にはならないでしょう。⑦についても,死後の他者からの哀悼・追悼が,遡って生前の本人の偉勲を創出するものではないでしょう。とはいえ,戦死した山本五十六国葬の前例があるところです。なお,選挙応援活動中に殺害されたことは,政治家としての殉職なのでしょうが,当該被応援候補者のための活動中の死であって,これを直接国家のために活動していて命を落としたものと同視することはできないでしょう。また,そもそも選挙というものは,必ずしもお行儀のよいものではなく,そこでは人がまま死ぬるものであったようです。南鼎三衆議院議員が山縣有朋批判に当たって言及していた1892年の第2回総選挙では,政府の選挙干渉下,各地で騒擾が起り,全国で25名の死者が出たそうです(無論,現在の新型コロナウイルス感染症に由来する被害に比べれば,大したことはないのでしょうが。)。

以上,「のような」という表現が採られたゆえんです。

 

(2)相違点:天皇の役割

国葬と国葬儀との相違点は,前者は天皇が賜うものであるのに対して,後者は内閣が決定し挙行するものであって,かつ,天皇が主体的な役割を果たす形のものではないことです。ただし,国葬儀と称することによって,後者は前者たる喪儀と同一・同格ではないか,という誤った印象が与えられ得るところです。(むしろそのような印象こそが国葬儀の重み有り難みを構成するものとして,意図的に「国葬儀」という名称が採用されたのではないか,と考えるのはうがち過ぎでしょう。いずれにせよ,天皇の栄典授与大権の干犯であるとか,不敬である云々の話にはならないのでしょう。なお,昭和以前の元号と平成以後の元号との性質の相違(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1073399256.html),あるいは内閣の助言と承認に基づく天皇による叙勲と内閣総理大臣による国民栄誉賞授与との違いが,不図想起されるところです。)

 

(3)「国民喪ヲ服ス」:法的位置付けの相違及び結果の(恐らく)実質的類似

「国民喪ヲ服ス」ることについては,法的位置付けは国葬たる喪儀の場合と国葬儀の場合とで異なるのですが,自粛好きな我が国民性に鑑みるに,実質的な違いは余りなさそうです。むしろ積極的に,国葬儀なのになぜ休日にしてくれないんだとか,喪を服して休業するから国は補償金を出してくれ,あるいは喪服・喪章を購入するから国は補助金を出してくれと不平を鳴らす向きが多々あるかもしれません。Kishidanocrapeの配付は間に合うのでしょうか。

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

(9)国葬令の効力の有無再考:昭和22年法律第721条との関係

 

ア 失効したとの取扱い

昭和22年法律第721条(「日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定で,法律を以て規定すべき事項を規定するものは,昭和221231日まで,法律と同一の効力を有するものとする。」)によって19471231日限り国葬令の法律事項規定は失効したとされています(廃止の手続は採られていません。なお,昭和22年政令第141項は「日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定は,昭和22年法律第72号第1条に規定するものを除くの外,政令と同一の効力を有するものとする。」と規定しています。)。しかし,細かく見てみるとどうでしょうか。

 

イ 逐条検討

 

(ア)第1条及び第2条:皇室典範25条との関係

身分上の国葬対象者に係る国葬令1条及び2条はそれらの喪儀が国葬であること(国庫による経費負担)を義務付けるものですが,これは昭和22年法律第3号たる皇室典範(194753日施行)の第25条(「天皇が崩じたときは,大喪の礼を行う。」)の反対解釈として,大行天皇の大喪儀以外の喪儀に係る国庫負担を国に対して法的に義務付ける効力を早くも194752日限り失ったということになるのでしょう。

しかし,大行天皇の大喪儀以外の喪儀をあえて国の儀式として行うことまでが禁止されているわけではなく,1951517日午後410分崩御の節子皇太后の喪儀の場合,同日「午後654分,宮内庁より皇太后崩御が発表される。それに引き続き内閣官房長官岡崎勝男・法務総裁大橋武夫・田島〔道治宮内庁〕長官が皇太后の大喪儀の挙行につき協議する。その後,天皇は侍従長三谷隆信を介し,故皇太后の御葬儀に関する政府の意向をお聞きになる。翌18日未明からは,大橋法務総裁・法務府法制意見長官佐藤達夫・田島長官等により大喪儀に関する法制問題が協議され,その結果,皇太后の大喪儀を国葬に準じて国の儀式として行うこととなる。」ということになりました(実録十一219頁)。ただし,理由付けは,国葬令31項的に,貞明皇后は国家に偉勲があったから経費を国庫負担にするのだ,という不敬なものではなかったでしょう。

 

(イ)第3条:「内閣の助言と承認により」の読み込みの可否

国葬令3条は,194753日からは「内閣の助言と承認により」(日本国憲法7条)が当然の前提として読み込まれているものとすれば,あるいは天皇の国事行為として国葬を賜うということで生き残ることができないものかどうか(同条7号参照。臣下の国葬には勅使差遣のみであって天皇のお出ましはないので,同条10号の「儀式を行ふこと」に当たるとするのは難しいようです。なお,後出の位階令(大正15年勅令第325号)3条・4条参照)。

 

(ウ)第4条:天皇の不自由と国民の自由な自粛と

4条中天皇の廃朝部分は,内閣の助言と承認ならぬ内閣制定の政令の効力として(昭和22年政令第141項参照),天皇の政務を拘束することは可能なのでしょう。

同条中国民が喪を服する部分は,義務を課し権利を制限する法律事項(内閣法(昭和22年法律第5号)11条参照)としては失効しているのでしょう(大日本帝国憲法下では法律によらずに義務を課し権利を制限できたことについては,同憲法9条参照。ただし,当時もそのように強い効力が国葬令4条後段にあったものと解されていたかははっきりしないところで,前記昭和9年内閣告示第3号発出に到るまでの事務当局内の議論においては,結局採用されなかったものの,喪を服することについては「国民ノ常識ニ委シテ全然之ヲ放任」すべしという意見もあったところです。)。しかし,思いやりの国における一種の自粛要請規定――三密回避ならぬ遏密をして,マスクならぬ喪章を付けましょうとの呼びかけ――としては,存在を否定し去ることはできないでしょう。

 

(エ)第5条:天皇の国政不関与

国葬令5条中「勅裁ヲ経テ」の部分は,内閣総理大臣を天皇が指導監督することになりますから,法律事項云々以前に現行憲法違反ということになりましょう(日本国憲法3条・41項後段参照)。

 

(オ)小括

このように破れ穴だらけのぼろぼろの姿では法令全体がもう立つことができないのだとして,国葬令は失効したものと判断されたのでしょう。

 

ウ 侵害留保の原則との関係

なお,国の事務として国庫の負担で喪儀を行うこと自体については,私人の自由・財産を侵害する行為ではありませんから,行政活動に対する法律の留保に係る侵害留保の原則に鑑みれば,そもそも法律をもってする根拠付けは不要であり,法律事項を規定する命令の規定の効力の失効に係る昭和22年法律第721条の触れるところではないはずです。予算の裏付けが得られれば――喪儀ですので,いわゆる政教分離に係る日本国憲法20条に抵触しない範囲内でという別の制約がありますが――行うことは可能である,ということになります。

 

エ 国会による財政統制との関係


(ア)内閣による予備費支出及びそれに対する国会による事後承諾


しかしながら,この予算の裏付けなるものが問題です。国葬たる喪儀は不時に行なわれるものでしょうし,かつ,経費は多額に上るでしょうから,通常は予備費からの支出がされることを前提とするものでしょうが(なお,国会開会中であっても,予算の追加のための補正予算の作成・提出は,実は財政法(昭和22年法律第34号)上必ずしも自由ではなく,「法律上又は契約上国の義務に属する経費の不足を補うほか,予算作成後に生じた事由に基づき特に緊要となつた経費の支出(当該年度において国庫内の移換えにとどまるものを含む。)又は債務の負担を行なうため必要な予算の追加を行なう場合」に限定されています(同法291号。ただし現行財政法の同条は,「各省の予算要求を抑えようとする大蔵当局の希望で設置されたという」ことです(小嶋和司「財政法をめぐる最近の問題」『小嶋和司憲法論集三 憲法解釈の諸問題』(木鐸社・1989年)203頁註(3))。)。旧会計法(大正10年法律第42号)72項においては,追加予算の提出ができる場合を「必要避クヘカラサル経費及法律又ハ契約ニ基ク経費ニ不足ヲ生シタル場合」としていたものです。国会開会中において国葬費を予備費から支出しようとするときは,それは「〔国会の〕予算議定権無視か」という問題があるところ(小嶋和司「財政制度はどう運営されたか」小嶋170頁参照),その「実際的解決」(同頁)たる昭和29416日閣議決定「予備費の使用について」以来の閣議決定における予備費支出可能4項目のうちの(4)「その他比較的軽微と認められる経費」としてするのでは不謹慎でしょう。また,(1)の「事業量の増加等に伴う経常の経費」としてではないでしょう。政令に基づき内閣が天皇に対する助言と承認として挙行を決めた国葬の経費が(2)の「法令又は国庫債務負担行為により支出義務が発生した経費」に含まれるかどうかは正に議論になってしまうところです。恐らく(3)の「災害に起因して必要を生じた諸経費その他予備費の使用によらなければ時間的に対処し難いと認められる緊急な経費」の後段によることになるのでしょうが,対象者死亡から喪儀までの期間が長い場合には,これもだめでしょう。第75回通常国会会期(19741227日から197574日まで)中の197563日に死亡した佐藤榮作の国民葬(同月16日)のための国費支出(総費用約4200万円中の2004万円)の予備費からの支出の閣議決定は,同月13日にされています(前田69頁)。),予備費の支出は事後に国会の承諾を得なければならないところ(日本国憲法872項,財政法36条),予備費からの支出を前提とする国葬について内閣の政令という形で規定し置くことは,国会の承諾権との関係で危なっかしく(「政令に基づきしました。」と言っても「国会の関与なしに出来たそんな政令知らんよ。」と国会に言われ,承諾に向け有利ということにはならず,更に「どうせ事後的に国会は承諾せざるを得ないと思って,国会をなめた政令を内閣は振り回すのか。」との誤解をも招くかもしれません。),いかがなものかということになりそうです。国の財政処理権限をその議決に基づかせる国会(日本国憲法83条)が自ら制定する法律ならばよいのですが,政令ならばむしろ無い方がよいようで(補正予算について見ると,法律上国の義務に属する経費の不足を補うためならば素直に補正予算を提出できますが,「政令上国の義務に属する経費」であれば,当該政令云々は問題とならず,専ら「予算作成後に生じた事由に基づき特に緊要となつた経費」であるかどうかが問題となるところです(財政法291号参照)。),その方がその内閣自身の権威及びその内閣限りの責任でその喪儀のために予備費を支出した(日本国憲法871項)ということが明らかであって,かえってさわやかでしょう。(ただし,総理府の公式制度連絡調査会議において内閣法制局の吉國一郎第一部長は,196518日,「単に,国葬をやってやるというのなら,政令でやることができるであろう。」との解釈を披露していたそうです(前田63頁)。)

大日本帝国憲法時代においても,前記の江木・山川問答に見るように,議会の予算協賛権との関係で同様の問題があったわけなのですが(予備費支出の承諾につき,同642項,旧会計法10条),国葬令は法律ではなく勅令という形式となっています。内閣が制定する政令及び内閣の閣議決定と天皇が勅定する勅令及び天皇の特旨との間には,やはり質的な重みの違いがあるというべきでしょうか。


(イ)大日本帝国憲法下の追加予算方式:附・山縣の霊及び松方の霊の受難

 なお,国葬令施行前の個別勅令勅定方式時代の前例は,帝国議会開会中に死亡した者に国葬を賜うに当たっては,さきに山縣,貞愛親王及び松方の各国葬について見たように,国葬費に係る追加予算を政府から議会に提出して,その協賛を得た上で勅令を裁可公布するというものでした。議会対策を回避して予備費支出がされてしまうということはありませんでした。(前記佐藤榮作の国民葬の経費に係る予備費からの支出の前例とこれとを比較すると,日本国憲法下の国会の財政統制権は,大日本帝国憲法下の帝国議会のそれよりもかえって弱くなっているように印象されます。それとも,国葬ではなく国民葬だから,「比較的軽微と認められる経費」なのでしょうか。)すなわち,議会開会中に死亡するへまな偉勲者は,まずその国葬費予算に対する帝国議会の協賛が得られなければ,天皇ないしは摂政の特旨による国葬の恩恵に与れないのでした。

山縣,貞愛親王及び松方の各国葬費に係る追加予算の帝国議会における具体的審議状況を見ると,さすがに皇族である貞愛親王の国葬費に係る追加予算に反対する者はいませんでしたが,山縣の霊及び松方の霊は,国葬をもって成仏させてもらう前にしばし居心地の悪い思いをしたようです。

山縣のための追加予算には,南鼎三衆議院議員及び森下龜太郎衆議院議員が反対しています(第45回帝国議会衆議院議事速記録第10148-149頁・150頁)。

 

南衆議院議員:「彼ノ〔明治〕23年〔1890年〕初テ帝国議会ガ開カレマスルトキニ,〔山縣〕公ハ其首班ニ立ッタノデアリマス,第一ニ此時ニ於キマシテ,我国立憲政治ヲ試験的ニ此議会ヲ以テ解散ヲ行ヒマシタ,ソレハ単ニ僅少ナル予算ノ削除ヲ理由トシタノデアリマス〔筆者註:第1回帝国議会において衆議院は解散されていません。〕,ソレカラ其次ニハ又議員ヲ個個別々ニ脅迫シ,或ハ贈賄等ヲ試ミテ僅ニ其妥協ヲ遂ケ,彼ノ〔明治〕25年〔1892年〕,総選挙ノ如キハ,品川〔彌二郎内務大臣〕或ハ白根〔専一内務次官〕ノ如キ者ヲ陣頭ニ立タシメマシテ,極端ナル選挙干渉ヲ行ヒ,全国ニ流血ノ惨ヲ見ルガ如キ不祥事ヲ惹起セシメタコトデアリマス〔筆者註:この総選挙は第1次松方正義内閣の下で行われたもの〕」「此〔選挙〕干渉ノ範ヲ作リ之ヲ示シ,此歴史ヲ作ッタ者ハ即チ山縣公デアルノデアリマス(「馬鹿ナ事ヲ言フナ」ト呼フ者アリ)」「即チ山縣公ハ此民衆政治,政党ノ発達ヲ阻害視スルコトハ,世既ニ定評ガアリマス,軍閥ノ総本山ダトカ,或ハ官僚ノ張本人デアルトカ,身其内閣ニ何等関係ナキニ拘ラズ,大御所ト云フ所ノ一種ノ俗称ヲ以テ国民ノ上下ガ彼ヲ迎ヘテ居ル,憲法ノ章条ニ何等ノ規定ナキ彼ノ元老職ヲ振廻ハシマシテ,政変毎ニ之ニ深ク喰入ッテ,此民意圧迫ニ非常ニ努メタ人デアリマス」「一体山縣公ハ常ニ自己ノ周囲ヲ取巻ク所ノ人ノ言ヲ聴イテ,之ヲ信条トシテ,一般国論民意ト云フモノヲ度外シテ,常ニ耳ヲ蔽ウタ人デアリマス」「近クハ昨年〔1921年〕彼ノ宮中某重大事件ノ如キハ如何デアリマスカ」「山縣公ハ天下ノ事ハ思ウテ成ラザルハナシ,成シテ遂ゲザルハナシト云フ,其総テノ国政ノ上ニ於テ威張ル所ノ・・・」「此度国費ヲ以テ其最後ヲ飾ルト云フコトニ出デラレントスル政府ノ心情ハ,私ニハ解セラレナイノデアル,即チ山縣公ヲシテ国葬ノ礼儀ヲ以テ最後ヲ飾ラシメルト云フコトハ,政府ヲ中心トシタル官僚軍閥ノ輩ノ之ヲ行フベキコトデアッテ,国民全体トハ殆ド没交渉デアル(「ノウ〔ノウ〕」)又国意民論ヲ圧迫シタル覚エノアル山縣公ハ,国葬ニシテ貰フコトヲ決シテ(いさぎよ)シトセラレナカッタデアラウト私ハ考ヘル」「国民ヨリ支出シテ貰ッテ其葬式ヲ国デ営ムト云フコトハ,蓋シ其意思デナカラウト本員ハ考ヘルノデアリマス,寧ロ政府ハ肝煎ヲシテ之ヲ官僚葬或ハ軍閥葬位ニスレバ,最モ山縣公ノ最後ヲ飾ルニ適当デアラウト考ヘルノデアリマス」「大隈〔重信〕侯ガ野ニ下リマシテ,サウシテ山縣公ハ死スル今迄,三寸ノ息ノ根ガ止マル迄,未練タラシク其官職ニ握リ附イテ居ッタト云フ為ニ,之ヲ国葬ニスル,是レ即チ我ガ政府ノ官尊民卑ノ弊風ヲ益増長セシムル所ノ原動力デアラウト考ヘルノデアリマス」「斯〔本案の精神〕ノ如キコトハ益〻民衆ヲ圧迫シ,官尊民卑,官権万能,民意圧迫ノ弊風ヲ増長スルモノデアラウト私ハ考ヘマス,此我国ノ政党ヲ畸形児的ニナラシメタノモ彼ノ山縣公デアル,此変態性タル現在ノ此議会モ亦彼レ山縣公ガ遺シタモノデアル」。

森下衆議院議員:「国民中ニハ,〔山縣〕公ヲ以テ憲法政治ノ破壊者デアルトマデノ極論ヲシナイニ致シマシテモ,憲法政治ノ進歩発達ヲ阻害シタル政治的罪悪ノ中枢,憲政ノ賊ダト考ヘル国民モ無イ訳デナイノデアリマス,(「ヒヤ〔ヒヤ〕」)国葬ハ是等国民ニモ礼拝ヲ強ユルモノデアリマス,是等国民ニモ香典ヲ強ユルモノデアリマス,信仰ナキ者ニ礼拝ヲ強ヒ,菩提心無キ者ニ奉加帳ヲ廻スト云フコトハ一種ノ強奪ニ外ナラヌト云フ解釈ヲ下シ得ザルニアラズ」。

 

松方のための追加予算には,猪野毛利榮衆議院議員が反対し(「松方公ニ対シテ今日国葬ノ礼ヲ以テセズトモ今マデ致セル所ノ礼デ十分デアルト考ヘル」「朝ニ在ッタ者ノミヲ国葬ノ礼ヲ以テシ,野ニ於テ国家ノ為ニ働イタ所ノ者ニ向ッテハ更ニ国葬ノ礼ヲシナイト云フコトハ,ドウ云フモノデアルカト云フコトヲ本員ハ疑フノデアリマス」「一方ハ特権階級ノ代表デアルガ故ニ国家ハ此最高ノ待遇ヲシ,一方ハ民衆ノ輿望ヲ荷ウテ野ニ立ッタガ故ニ,斯ノ如キ功労者ニ向ッテハ顧ミヌト云フコトニナッタナラバ,果シテ多数民人(ママ)ノ今日ノ感情ハ如何デアラウカト云フコトヲ慮ルノデアリマス」),田淵豊吉衆議院議員はねちねちと質疑をして(当日学校・官庁は休むのか(加藤高明内閣総理大臣の答弁は,休まない。),当日議会が審議を休んでよいのか(加藤内閣総理大臣の答弁は,「諸君ノ意ニ於テ決セラレタラ宣カラウ」。),国葬費に係る追加予算の議会提出すらないうちに松方家に国葬内定を内達したというがそれでよいのか(加藤内閣総理大臣の答弁は,「帝国議会ノ協賛ヲ経ナケレバ,政府ノ独断デ費用ノ支払ノ出来ヌコトハ固ヨリ言フマデモナイコトデアル」。),4万円という金額は妥当か)粕谷義三議長に打ち切られています(第49回帝国議会衆議院議事速記録第679-81頁)。

(ちなみに,最近第209回国会が202283日にせっかく召集されましたが,政府から補正予算の提出のないまま,同月5日をもって閉会となっています。)

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 はじめに:一文字多いのは大違い

 「一言多い人」は困った人で,また,一文字多いことによって言葉の意味が大いに変ずることがあります。例えば,「被告」と書けば穏便な民事事件であるところ,「被告人」と書けば剣呑な刑事事件となるが如し。

 「国葬」と「国葬儀」との関係も同様でしょう。両者は似てはいるのですが,異なるものと解されます。(正確には「国葬儀」に対応するのは「国葬たる喪儀」なのですが,「国葬たる喪儀」を含めて「国葬」といわれているようです。しかして,「国葬」たらざる「国葬儀」はあるものかどうか。)

 

2 国葬令

 まず,「国葬」の語義を確かめるべく,19261021日付けの官報で公布された大正15年勅令第324号を見てみましょう。

 

(1)条文

 

  朕枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ国葬令ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 

   御名 御璽

    摂政名

 

    大正151021

     内閣総理大臣  若槻禮次郎

     陸軍大臣  宇垣 一成

     海軍大臣  財部  

     外務大臣男爵幣原喜重郎

     文部大臣  岡田 良平

     内務大臣  濱口 雄幸

     逓信大臣  安達 謙藏

     司法大臣  江木  翼

     大蔵大臣  片岡 直溫

     鉄道大臣子爵井上匡四郎

     農林大臣  町田 忠治

     商工大臣  藤澤幾之輔

 

  勅令第324

第1条 大喪儀ハ国葬トス

  第2条 皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃及摂政タル親王内親王王女王ノ喪儀ハ国葬トス但シ皇太子皇太孫7歳未満ノ殤ナルトキハ此ノ限ニ在ラス

  第3条 国家ニ偉勲アル者薨去又ハ死亡シタルトキハ特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアルヘシ

   前項ノ特旨ハ勅書ヲ以テシ内閣総理大臣之ヲ公告ス

  第4条 皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ヲ行フ当日廃朝シ国民喪ヲ服ス

  第5条 皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ノ式ハ内閣総理大臣勅裁ヲ経テ之ヲ定ム

 

(なお,官報に掲載された文言には誤植がありましたので,御署名原本により改めました。1条の「国喪」を「国葬」に,②第3条の第1項と第2項との間に改行がなかったところを改行,③第3条の「勅書ヲ以テ内閣総理大臣」を「勅書ヲ以テシ内閣総理大臣」に)

 

 大正15年勅令第324号には施行時期に関する規定がありません。しかしながらこれは,公式令(明治40年勅令第6号)によって手当てがされています。すなわち,同令11条(「公布ノ日ヨリ起算シ満20日ヲ経テ之ヲ施行」)により,19261110日からの施行ということになります。

 

(2)枢密院会議

 

ア 摂政宮裕仁親王臨場

国葬令の上諭には枢密顧問の諮詢を経た旨が記されています(公式令73項参照)。当該枢密院会議は,19261013日に開催されたものです。同日午前の摂政宮裕仁親王の動静は次のとおり。

 

 13日 水曜日 午前10時御出門,宮城に御出務になる。神宮神嘗祭に勅使として参向の掌典長谷信道,今般欧米より帰朝の判事草野豹一郎ほか1名に謁を賜う。1030分より,枢密院会議に御臨場になる。皇室喪儀令案・国葬令ほか1件が〔筆者註:当該「ほか1件」は,開港港則中改正ノ件〕審議され,いずれも全会一致を以て可決される。正午御発,御帰還になる。(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)542頁)

 

イ 審議模様

 当該枢密院会議における国葬令案審議の様子は,枢密院会議筆記によれば次のとおりです(アジア歴史資料センター(JACAR: Ref. A03033690300)。

 

(ア)伊東巳代治

 まず,枢密院の審査委員長であった伊東巳代治が審査結果の大略を報告します。

 

   国葬ハ国家ノ凶礼〔死者を取りあつかう礼。喪礼。(『角川新字源』(1978年(123版)))〕ニシテ素ヨリ重要ノ儀典ナルカ故ニ国法ヲ以テ其ノ条規ヲ昭著スルハ当然ノ措置ナリ則チ本案ハ〔天皇の勅定する〕勅令ノ形式ヲ以テ国葬ノ要義ヲ定メ以テ皇室喪儀令〔筆者註:こちらは大正15年皇室令第11号です。皇室令とは,「皇室典範ニ基ツク諸規則,宮内官制其ノ他皇室ノ事務ニ関シ〔天皇の〕勅定ヲ経タル規程ニシテ発表ヲ要スルモノ」です(公式令51項)。〕ニ承応セムトスルモノニシテ先ツ天皇及三后〔太皇太后,皇太后及び皇后〕ノ大喪儀〔皇室喪儀令4条・5条・8条参照〕並皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃及摂政タル親王内親王王女王ノ喪儀ハ国葬トスルコトヲ定メ其ノ他ノ皇族又ハ皇族ニ非サル者ニシテ国家ニ偉勲アルモノ薨去(こうきよ)〔皇族・三位以上の人が死亡すること。(『岩波国語辞典第四版』(1986年))〕又ハ死亡シタルトキハ〔天皇の〕特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアルヘク此ノ特旨ハ勅書ヲ以テシ内閣総理大臣之ヲ公告スヘキモノトシ皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ヲ行フ当日廃(ママ)シ国民喪ヲ服スヘク其ノ喪儀ノ式ハ内閣総理大臣〔天皇の〕勅裁ヲ経テ之ヲ定ムヘキモノトス

以上述ヘタル所カ両案〔皇室喪儀令案(これの説明部分は本記事では省略されています。)及び国葬令〕ノ大要ナリ之ヲ要スルニ皇室ノ喪儀及国葬ハ倶ニ国家ノ式典ニシテ儀礼ヲ修メテ(せん)(ばう)〔あおぎしたう。(『角川新字源』)〕(そな)ヘサルヘカラサルモノナリ本案皇室喪儀令及国葬令ノ2令ハ則チ之カ要義ヲ昭著スルモノニシテ(まこと)允当(ゐんたう)〔正しく道理にかなう。(『角川新字源』)〕ノ制法ナリト謂ハサルヘカラス今ヤ帝室ノ令制(やうや)ク整頓シテ典章正ニ燦然タルニ(あた)リ更ニ之ニ加フルニ皇室喪儀令ヲ以テシテ皇室喪儀ノ項目ヲ明徴ニスルハ(けだ)シ前来規程ノ足ラサルヲ補ヒテ皇室制度ノ完備ヲ図ラムトスルモノニ外ナラス又国葬令ヲ以テ皇室喪儀令ト相()チテ国家凶礼ノ大綱ヲ昭明ナラシムルハ蓋シ国法ノ完璧ヲ期スルノ所以(ゆゑん)タルヘキコト言ヲ俟タサルナリ更ニ本案2令ノ条文ヲ通看スルニ孰レモ事ノ宜シキニ適シテ特ニ非議スヘキ点ヲ認メス(より)テ審査委員会ニ於テハ本案ノ2件ハ倶ニ此ノ儘之ヲ可決セラレ然ルヘキ旨全会一致ヲ以テ議決シタリ

 

(イ)江木枢密顧問官vs.山川法制局長官

江木千之枢密顧問官が,お金に細かい質問をします。

 

 35番(江木) 国葬令ニ付当局ニ一応質問シタキ事アリ国葬令第3条ニ依リ国家ニ偉勲アル者薨去又ハ死亡シタルトキ特旨ニ依リ国葬ヲ賜フ場合ニハ先ツ以テ其ノ勅書ヲ発セラルルヤ又ハ国葬ニ関スル費用ニ付帝国議会ノ協賛〔筆者註:大日本帝国憲法641項参照〕ヲ経タル後該勅書ヲ発セラルルコトト為ルヤ

 

 山川端夫法制局長官はさらりとかわそうとしますが,江木枢密顧問官は,しつこい。

 

  委員(山川) 国葬令ニ於テハ国葬ノ行ハルル場合ノ大綱ヲ示セルニ止リ愈其ノ実行セラルル場合ニ於テハ予算等ノ関係ヲ生スヘシ其ノ際ニハ一般ノ例ニ従ヒ夫々必要ナル手続ヲ尽シタル上ニテ実行セラルヘキナリ

  35番(江木) 国葬ヲ行フ場合ニハ先ツ以テ帝国議会ニ其ノ予算ヲ提出シ協賛ヲ経タル上ニテ勅書ヲ発セラルルヤ其ノ辺ノ御答弁明瞭ナラス

  委員(山川) 既定予算ニ項目ナキ事項ニ付テハ別ニ予算ヲ立テテ議会ノ協賛ヲ経サルヘカラス然レトモ緊急ノ場合ニハ予備費支出等ノ途アリ其ノ孰レカノ方法ニ依リ先ツ支出ノ途ヲ講セサルヘカラス

  35番(江木) 然ラハ帝国議会開会ノ場合ニ於テハ先ツ以テ国葬費ノ予算ヲ提出シ其ノ協賛ヲ経タル後勅書ヲ発セラルルモノト了解シテ可ナルカ

  委員(山川) 然リ

 

(3)国葬令3条による国葬の例

いやはや議会対策は大変そうだねと思われますが,その後国葬令3条に基づいて国葬を賜わった者の薨去が,帝国議会開会中に生じてしまうということはありませんでした。

193465日に国葬たる喪儀があった東郷平八郎は同年530日に薨去したもので,当時,帝国議会は閉会中でした(第65回通常議会と第66回臨時議会との間)。1940125日に国葬たる喪儀があった西園寺公望についても同年1124日の薨去と当該喪儀との間に帝国議会は開かれていません(第75回通常議会と第76回通常議会との間)。1943418日の山本五十六戦死と同年65日の国葬たる喪儀との間も閉会中でした。(第81回通常議会と第82回臨時議会との間)。ただし,閑院宮載仁親王薨去の1945520日とその国葬たる喪儀の同年618日との間には,同月9日に開会し,同月12日に閉会した第87回臨時議会がありましたが,載仁親王が午前410分に薨去したその日の午後430分には早くも「情報局より,親王薨去につき,特に国葬を賜う旨を仰せ出されたことが発表される。」という運びになっており,かつ,当初は同年528日に斂葬の儀までを終える予定でした(宮内庁『昭和天皇実録 第九』(東京書籍・2016年)671頁)。宮城までも焼失した525日夜から26日未明までの東京空襲で,日程が狂ってしまったものです(実録九682頁)。第87回帝国議会召集の詔書に係る上奏及び裁可は,62日のことでした(実録九687頁)。

 

(4)国費葬

ついお金の話になってしまうのは,天皇及び三后並びに直系皇嗣同妃及び摂政並びにその他の皇族にして国家に偉勲あるものの大喪儀ないしは喪儀を皇室限りの事務とはせずに,国葬として国家の事務とするのは,そもそも皇室費ではなく国費をもってその費用を負担することとするのがその眼目であったからでしょう。

美濃部達吉いわく,「皇室ニ関スル儀礼ノ中或ハ国ノ大典トシテ国家ニ依リテ行ハルルモノアリ,即位ノ礼,大嘗祭,大喪儀其ノ他ノ国葬ハ是ナリ。即位ノ礼及大嘗祭ハ皇室ノ最モ重要ナル儀礼ニシテ其ノ式ハ皇室令(〔明治〕42年皇室令1登極令)ノ定ムル所ナレドモ,同時ニ国家ノ大典ニ属スルガ故ニ,国ノ事務トシテ国費ヲ以テ挙行セラル。〔略〕国葬モ亦国ノ事務ニ属ス〔略〕。此等ノ外皇室ノ儀礼ハ総テ皇室ノ事務トシテ行ハル。」と(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)217-218頁。下線は筆者によるもの)。

1926913日付けで一木喜徳郎宮内大臣から若槻内閣総理大臣宛てに出された照会書別冊の国葬令案の説明(JACAR: A14100022300)にも「恭テ按スルニ天皇及三后ノ喪儀ハ国家ノ凶礼ニシテ四海(あつ)(みつ)〔音曲停止。鳴りものをやめて静かにする。(『角川新字源』)〕挙テ喪ヲ服シ悼ヲ表スル所則チ国資ヲ以テ其ノ葬時ノ用ニ供スルハ亦我国体ニ於テ当然ノコトニ属ス皇嗣皇嗣妃及摂政ノ喪儀ハ身位ト重任トニ視テ宜ク国葬トスヘキナリ又近例国家ニ偉勲アル者ノ死亡ニ当リ之ニ国葬ヲ賜フコトアルハ蓋其ノ偉蹟ヲ追想シ之ヲ表章スルニ国家ノ凶礼ヲ以テスルノ特典タルニ外ナラス既ニ皇室服喪令ノ制定アリ今又皇室喪儀令ノ制定セラルルニ当リテハ国葬ノ定義ヲ明ニシ兼テ其ノ条規ヲ昭著スル所ナカルヘカラス是レ本令ノ制定ヲ必要トスル所以ナリ」とあります(下線は筆者によるもの)。

 

(5)国葬令(勅令)と皇室喪儀令及び皇室服喪令(皇室令)と

 国葬令と皇室喪儀令及び皇室服喪令(明治42年皇室令第12号)とには密接な関係があるわけです。実は,法令番号と第1条との間に「国葬令」との題名が記載されていないので,厳密には,「国葬令」は,大正15年勅令第324号の題名ではなく上諭の字句から採った件名にすぎず,その理由をどう理解すべきか悩んでいたのですが,単なる立法ミスによる欠落でなければ,皇室喪儀令及び皇室服喪令の附属法令として,ことごとしく題名を付けることは遠慮した,ということでしょうか。

 皇室喪儀令及び皇室服喪令は皇室令ですが,国葬令は勅令です。これは,経費の国庫負担を定める法形式として皇室令はふさわしくないからでしょう。共に天皇が総覧する皇室の大権と国家統治の大権との相違点の一つとして,美濃部達吉いわく,「其ノ経費ノ負担ヲ異ニス。国ノ事務ニ要スル経費ハ国庫ノ負担ニ属スルニ反シテ,皇室ノ事務ニ要スル経費ハ皇室費ノ負担ニ属ス。皇室ノ財産及皇室ノ会計ハ国ノ財産及国ノ会計トハ全ク分離セラレ,国庫ハ唯毎年定額ノ皇室経費ヲ支出スル義務ヲ負フコトニ於テ之ト関係アルニ止マリ,其ノ以外ニ於テハ皇室ノ財産及皇室ノ会計ノ管理ハ一ニ皇室ノ自治ニ属シ,国ノ機関ハ之ニ関与スルコトナク,而シテ皇室事務ニ要スル一切ノ経費ハ皇室費ヲ以テ支弁セラル。」と(美濃部215頁)。国葬令の副署者には,ちゃんと大蔵大臣が含まれています。

 なお,1909年の皇室服喪令162項には「親王親王妃内親王王王妃女王国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ヲ行フ当日臣民喪ヲ服ス」と規定されており(下線は筆者によるもの),国葬の存在を既に前提としていました。ちなみに,皇室令をもって臣民を規律し得ることは,「或ハ〔皇室令が〕単ニ皇室ニ関スルニ止マラズ同時ニ国家及国民ニ関スルモノナルコトアリ,此ノ場合ニ於テハ皇室令ハ皇室ノ制定法タルト共ニ又国法タル効力ヲ有ス。」というように認められており(美濃部104頁),それが可能である理由は大日本帝国憲法に求められていて,「憲法ノ趣意トスル所ハ皇室制度ニ関スル立法権ハ国法タル性質ヲ有スルモノニ付テモ之ヲ皇室自ラ定ムル所ニ任ジ議会ハ之ニ関与セズト謂フニ在」るからであるとされていました(美濃部102頁)。

 

(6)国葬の定義を明らかにする必要性

 なお,一木宮相照会書にいう「国葬ノ定義ヲ明ニシ」に関しては,帝室制度調査局総裁である伊藤博文の明治天皇に対する1906613日付け上奏(JACAR: A10110733300)において「而シテ近例国家ニ偉勲アル者死亡ノ場合ニ当リ之ニ国葬ヲ賜フコトアルハ蓋其ノ偉蹟ヲ追想シ之ヲ表章スルニ国家ノ凶礼ヲ以テスルノ特典タルニ外ナラス然ルニ其ノ本旨(やや)モスレハ明瞭ヲ()(あたか)モ国葬即チ賜葬ノ別名タルカ如ク従テ其ノ制モ亦定準ナキノ観アリ殊ニ皇室喪儀令及皇室服喪令ノ制定セラルルニ当リテハ国葬ノ定義ヲ明ニシ兼テ其ノ条規ヲ昭著スルモノナクハ両令ノ運用ヲ円滑ニシ憲章ノ完備ヲ期スルコト能ハス是レ本令ノ制定ヲ必要トスル所以ナリ」とありました(下線は筆者によるもの)。1906年の当時,天皇が国葬を賜う(あるいは天皇に葬式をおねだりする)基準が弛緩していると感じられていたわけです。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

前編:ニッポン若しくはニホン若しくはジッポン又はやまと


(4)崇神朝

 (やまと)については,欠史八代(第二代綏靖天皇から第九代開化天皇まで後の御肇(はつくに)(しらす)天皇(すめらみこと)(『日本書紀』崇神天皇十二年九月条)たる第十代崇神天皇の御代に係る『日本書紀』六年条には,「是より先に,天照大神・(やまとの)大国(おおくに)(たま)二神(ふたはしらのかみ)を並びに天皇(すめらみこと)の大殿の内に祭る。然るに其の神の(みいきほひ)(おそ)り,共に住みたまふこと安からず。(かれ),天照大神を以ちて豊鍬入(とよすきいり)(ひめの)(みこと)()け,(やまと)笠縫邑(かさぬひのむら)に祭り,()りて()堅城(かたき)神籬(ひもろき)を立つ。〔略〕亦日本(やまとの)大国(おおくに)(たまの)(かみ)を以ちて淳名城入(ぬなきのいり)(ひめの)(みこと)に託け祭らしむ。然るに淳名城入姫,髪落ち体痩せて祭ること能はず。」とあります。崇神朝は,まずはやまと(笠縫邑)の天照大神と(やまとの)大国魂神との神威に支えられたものであったようです。やまとは,天照大神にもゆかりのある地名なのでした。

笠縫邑については,「奈良県磯城(しき)郡田原本町秦庄(はたのしょう)。異説に桜井市(かさ)の笠山荒神境内,また同市三輪の檜原神社境内があり,現今「元伊勢」と呼ばれている。」ということだそうです(『新編日本古典文学全集2270頁註7)。(その後天照大神は,第十一代垂仁天皇の時代に皇女の(やまと)(ひめの)(みこと)に託せられ,()()(ささ)(はた)(奈良県宇陀郡榛原(はいばら)町)から近江及び美濃を経て,伊勢に遷座しています(『日本書紀』垂仁天皇二十五年三月条)。)

崇神天皇の皇居はどこにあったかというと,『日本書紀』には「三年の秋九月に,都を磯城に遷したまふ。是を瑞籬(みずがきの)(みや)と謂ふ。」とあります。瑞籬宮の遺称地は「延喜式内社志貴御県坐神社の西(桜井市金屋)」であるそうです(『新編日本古典文学全集2268頁註12)。

 倭大国魂は「倭の国土鎮護の神」であるそうですから(『新編日本古典文学全集2270頁註3),天神地祇中の地祇の方ですね(『日本書紀』垂仁天皇二十五年三月条によれば,太初の時に,天照大神は(あまの)(はら)を,代々の天皇は専ら葦原(あしはらの)中国(なかつくに)八十(やそ)(みたまの)(かみ)(天神地祇)を()らすのに対し,(やまとの)大神(おほかみ)(倭大国魂)は「我は親ら大地官(おほつちつかさ)()らさむ。」とのたもうていたそうです。)。『日本書紀』神代上第8段一書第6には「一書(あるふみ)に曰く,大国主神,亦は大物主神と(まを)し,亦は国作(くにつくりの)大己(おほあな)(むちの)(みこと)(まを)し,亦は葦原醜男(あしはらのしこを)(まを)し,亦は八千戈(やちほこの)(かみ)と曰し,亦は大国玉神と曰し,亦は(うつし)(くに)(たまの)(かみ)と曰す。」とあります。

 「共住不安」のゆえ,そこで崇神天皇が淳名城入姫命に託したところの倭大国魂神はどこに行ったのかといえば,同天皇六年条の記述ではなお情報不足です。ただし,「姫の祭祀不能によって日本大国魂神はそのまま宮中に祭られていたものか,あるいは宮中を出たものか(式内社の大和坐大国魂神社は山辺郡に所在し,現在天理市新泉町(旧山辺郡新泉村)に鎮座する。しかし『和名抄』によれば城下郡に大和郷(天理市海知町付近)があり,初めここで祭られ,後に現在地に移ったか)〔以下略〕」という可能性が表明されています(『新編日本古典文学全集2270頁註11)。

 天照大神及び倭大国魂神に加えて,崇神天皇は,同天皇七年,「国の治まらざるは,是吾が(みこころ)なり。若し〔略〕吾を祭らしめたまはば,(たちどころ)に平ぎなむ。亦海外(わたのほか)の国有りて,自づからに帰伏(まゐしたが)ひなむ」と天皇の夢中において要求して来た三輪の大神である大物主神をも祭っておりその結果,(ここ)疫病(えやみ)始めて()み,国内(くぬち)(やくやく)(しづま)り,五穀(いつつのたなつもの)既に(みの)りて,百姓(おほみたから)(にぎは)ひぬ。」(『日本書紀』同年十一月条)ということになっています。外交的にも,崇神天皇六十五年七月に,任那の朝貢がありました。

 この崇神朝の重要性については,「5世紀末から6世紀にかけて帝紀・旧辞の編纂が進む際に,二人のイリビコ〔崇神天皇及びその子の垂仁天皇〕をめぐる系譜や説話が整備・付加され,推古朝〔593-628年〕に至って天皇家の歴史の編纂が試みられた際,天皇家の歴史を荘重に飾る必要から,イリビコの王家と〔第十五代〕応神・仁徳に始まる王家をつなぐ」こととなったようであり,「崇神が初代の国王と認められた時期があったと思われるが,それは6世紀中葉に帝紀がまとめられた時,もしくは推古朝のこの時ではなるまいか。」と説かれています(『新編日本古典文学全集2』解説(直木孝次郎)529頁)。(なお,6世紀中葉は,越前から来た継体天皇の息子の第二十九代欽明天皇の時代です。)そうであれば,我が皇室は,我が国には易姓革命は無い建前を採った上で,初代とされる祭司王(『日本書紀』の崇神天皇即位前紀に,同天皇について「崇重神祇,恒有経綸天業之心焉」とあります。)を守護した天神地祇にゆかりのある地の名をもって,やまとの王朝名とした,ということになると考えてもよいのでしょう。(当該命名に係る決定がされた時期は,最終的には,大宝律令完成時の持統=文武朝期ないしは『日本書紀』完成時の元明=元正朝期ということになるでしょうか。)

 

(5)継体天皇及び応神天皇と各皇后との関係について

 しかし,崇神天皇=垂仁天皇のやまとの王家と応神天皇(九州出身)=仁徳天皇の王家とをつなぐ必要があったほか,継体天皇(越前出身)以来の現王家とその前の応神=仁徳王家とをつなぐ必要もあったところです。

 より新しい継体天皇の場合から見てみると,同天皇は,第二十一代雄略天皇(仁徳天皇の孫)の娘である春日大娘皇女と播磨出身の第二十四代仁賢天皇(仁徳天皇の曽孫)との間の娘である手白香皇女を,樟葉宮における即位の翌月に皇后としています。入婿の形というべきでしょうか。仁賢天皇の父は市辺押磐皇子,市辺押磐皇子の父は第十七代履中天皇,履中天皇の父は仁徳天皇・母は磐之媛命皇后,仁徳天皇の父が応神天皇・母は(なかつ)(ひめの)(みこと)皇后です。仁賢天皇の都した石上広高宮の場所については,「「石上」は奈良県天理市石ノ上付近の地。「広高」は,広く高い意から「宮」の美称。その所在地について,『帝王編年記』は大和国山辺郡石上左大臣家の北辺の田原」(天理市田部付近か)という。『大和志』は「山辺郡嘉幡村」(天理市嘉幡)とする。」とあります(『新編日本古典文学全集3257頁註4)。市辺押磐皇子については,仁賢天皇の弟である第二十三代顕宗天皇が播磨における牛飼時代に踊って歌って,「石上(いそのかみ) (ふる)(かむ)(すぎ),〔略〕本伐(もとき)り 末(おしはら)ひ,〔略〕市辺宮(いちのへのみや)に 天下(あめのした)(をさ)めたまひし,天万国万押(あめよろづくによろづおし)(はの)(みこと)の 御裔(みあなすゑ)(やつこ)らま 是なり。」と述べています(『日本書紀』顕宗天皇即位前紀)。ここでの「市辺宮」の場所は,「通説は,『延喜式』神名の「大和国山辺郡石上市神社」により,奈良県天理市布留付近とする」そうです(『新編日本古典文学全集3234-235頁註12)。履中天皇は,仁徳天皇の崩御後,弟の住吉仲皇子の叛乱があって,仁徳朝の都があった難波から石上振神宮(石上神宮)に亡命し(『日本書紀』履中天皇即位前紀),翌年磐余稚(いわれのわか)桜宮(さくらのみや)で即位しています(『日本書紀』同天皇元年二月条)。石上は山辺郡にあるそうですから,大和国の一部である前に,それ自体やまとなのでしょう。

 履中天皇の即位地である磐余についていえば,この地は,継体天皇が,『日本書紀』によればその二十年(一書では七年)にその磐余(いはれの)玉穂(たまほ)奠都している所です

 応神天皇は,仲姫命のほか,その姉及び妹をも妃にしています(『日本書紀』同天皇三年三月条)。この三姉妹の父は品陀(ほむだの)()(わか)王,品陀真若王の父は五百木之入(いほきのいり)日子(びこ)命です(『新編日本古典文学全集2469-470頁註3344頁註10)。五百木之入日命は,第十二代景行天皇(垂仁天皇の息子)と八坂入媛(やさかのいりびめ)との間の子で,第十三代成務天皇の同母弟です(『日本書紀』景行天皇四年二月条)。景行天皇の他の皇子は地方に封ぜられ,日本武尊,成務天皇及び五百木之入日命のみが残されたとされるところ(『日本書紀』景行天皇四年二月条),日本武尊は帰らざる征討の旅に出,成務天皇は「近つ淡海の志賀の高穴(たかあな)(ほの)宮に坐し」たということですから(『古事記』),五百木之入日命が景行天皇の(まき)(むく)日代宮(ひしろのみや)(『日本書紀』同天皇四年十一月条)があった地及びその周辺の留守番をしていたのでしょうか(なお,景行天皇五十八年二月条に,同月,同天皇は志賀の高穴穂宮に遷ったとあります。)。纏向は垂仁天皇も都した所で(『日本書紀』同天皇二年十月条),場所は奈良県旧磯城郡纏向村(現桜井市北部)です(『新編日本古典文学全集2300頁註7)。

 『日本書紀』神功皇后摂政三年正月条に「三年の春正月の丙戌の朔にして戊子〔三日〕に,誉田(ほむた)(わけの)皇子(みこ)を立てて皇太子(ひつぎのみこ)としたまふ。因りて磐余に都つくりたまふ。是を若桜宮と謂ふ。」とあり,同皇后は(わか)桜宮(さくらのみや)で崩御していますから(同皇后摂政六十九年四月条),応神天皇は,その二十二年三月に難波の大隅宮に遷るまでは磐余若桜宮にいたようです。

 遠い土地から今の奈良県の地(なお,「日本でも奈良県など今日では決して豊沃な農業県とは言えないが,古代には日本を動かす原動力となるほどの生産を挙げていた。それは土地が高くて水捌けがよかったからである。」ということですから(宮崎市定『中国史(上)』(岩波文庫・2015)151),当時は我が国の中心地です。)にやって来て,奈良盆地東南の山沿いの(石上ないしは纏向辺りの)お姫様のところに婿入りし,夫婦のお屋敷は磐余にある,といえば,継体天皇は,その五世の先祖の応神天皇とよく似ているようでもあります。したがって,

 

   おそらく継体天皇は大和の諸豪族に推戴されたのではなく,自分の実力をもって大和に存在した対立勢力をうちたおし,約二十年の闘争ののちにようやく天皇となったものと思われる。そうして磐余の玉穂を都としたのである。

   かれは,大和の中心をなす聖地に都をおくことによって,王者としての決意を示したのではなかろうか。すなわち,これをもって前王朝の系譜をうけつぐとともに,新しい王朝を開創することを内外に明らかにしたと解釈してよいであろう。このころ,初代の天皇をイワレヒコノミコトとする皇統譜ができあがっていたとすれば,継体天皇は自分が第二のイワレヒコとなることを期していたのである。

  (直木10-11頁)

 

という場合,「第二のイワレヒコ」よりも「第二のホムタワケ」といった方がよかったのかもしれません。神武天皇の名は(かむ)日本磐余彦(やまといわれひこ)なのですが,「磐余彦というのはなぜであろうか。神武東征説話に磐余の地にかんする話があるのならそうした名がついてもよいが,なにも出てこない。」と実は不審がられています(直木9頁)。むしろ,継体天皇の事績が神武天皇に逆投影されて,磐余彦という命名となったのでしょうか。磐余と関係付けるための「磐余にある香久山の霊力で大和を平定したのだからカムヤマトイワレヒコである。」という理屈(直木9頁)のためには,天の香久山の社の土を採り,天の平瓮(ひらか)厳瓮(いつべ)とを作って神を祭るならば東征はうまくいくという夢のお告げが神武天皇にあって,そのとおりにしたら(『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年九月条)確かにうまくいったというお話は――天香久山は磐余に含まれるのだということについての補充弁論も必要ですが(直木9-10頁参照)――継体王朝の立場からは,よくできているものと評価すべきものなのでしょう。

 なお,纏向と石上との関係については,纏向の垂仁天皇の息子の五十瓊敷(いにしきの)(みこと)(景行天皇の同母兄)が剣千(ふり)を作って石上神宮に(わさ)め,更に同神宮の神宝を管掌することになったとあります(『日本書紀』垂仁天皇三十九年条)。その後石上神宮の神宝管理は,五十瓊敷命から同母妹の大中(おほなかつ)(ひめの)命を経て,物部連らに委嘱されています(『日本書紀』垂仁天皇八十七年二月条)。垂仁においては,両地はその同一勢力圏内にあったものと推認してよいものでしょうか。(ちなみに,「推認」の語は,「間接証拠から間接事実を認定し,さらに間接事実から要証事実である主要事実を推認する」というように用いられます(司法研修所編『事例で考える民事事実認定』(法曹会・2014年)13頁。下線は筆者によるもの)。この場合,要証事実は直接認定されてはいません。間接事実という別の事実から推認することになります。これに対して,「直接証拠から,直接,要証事実である主要事実を認定する場合」は,「認定」でよいのです(同頁)。)

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 「ニッポンコク」か「ニホンコク」か

我が国号は,「ニッポンコク」なのか,「ニホンコク」なのか,どちらが正しいのか,とはよく訊かれる質問です。筆者が昔,日本語を学ぶヨーロッパの外交官にした説明法は,日本語の発音が段々と唇を使わないようになって,昔は本来「ニッポンコク」だったのが今はむしろ唇を閉じずに発音できる「ニホンコク」が優勢になっているのだ,というものでした。我が音読みでは「ホン」である「本」は,現代漢土の普通話では“bĕn”と読むそうであるところ,我が国への漢字伝来の昔もその頭音はb又はpの音であったものと前提した上での,唇音退化(labial weakening)現象による説明ということになります。(なお,日本語のハ行子音がpからfに変わったのが奈良朝より前であったとしても(三宅武郎「国号「日本」の読み方について」文部省『国語問題問答第六集』(19583月)81-82頁参照),それに伴い日本人が,人間の音声としては発生的に早く,原始的・小児的な音であるpの発音(三宅92頁)をすることが出来なくなったわけではありません。また,当時の唐(武周)に披露する前提での新国号ですから,先方の発音に近い読み方が本来的なものであるものとして当初は意識されていたものと考えるべきではないでしょうか。)“Coffee”も,現代の日本語では緩く「コーヒー」と発音してしまうのだ(これに対して朝鮮語では「コピー」になるらしいね),というわけです。したがって,「緩みはいけない」派ないしは尚武派は「ニッポンコク」が正しいと主張するのでしょうし(「これまでの〔国号呼称〕統一運動は〔略〕すべてニッポン論者によるものであった。そしてそれは,いつでもすぐに決めよといったようなものであった」(三宅92頁)),自然体で「楽に行こう」派ないしは歴史の流れ派(「一般に支配層は既成のおとなであったから,どちらかといえば「ニホン」説に同情がある」(三宅92頁))は「ニホンコク」でもいいじゃないかと反駁するのでしょう。

しかしこの辺,曖昧なままでは,気になる人は気になるようです。2009619日に岩國哲人衆議院議員が,内閣宛てに質問(質問第570号)を提出しています(国会法(昭和22年法律第79号)74条及び75条)。そこにおいては,①「昭和45年〔1970年〕7月,佐藤栄作内閣は,「日本」の読み方について,「『にほん』でも間違いではないが,政府は『にっぽん』を使う」と,「にっぽん」で統一する旨の閣議決定を行ったが」,「右の閣議決定は現在でも維持されているか。」及び②「今後,「日本」の読み方を統一する意向はあるか。」と問われていました(他の質問は省略)。これに対する麻生太郎内閣の答弁書(2009630日付け内閣衆質171570号)には,①「「日本」の読み方については,御指摘のような閣議決定は行っていない。」及び②「「にっぽん」又は「にほん」という読み方については,いずれも広く通用しており,どちらか一方に統一する必要はないと考えている。」とあったところです。

変化し揺れる日本語の発音において,「にっぽん」も「にほん」も同一の対象を指し示すものとして許容範囲内なのでしょう。個々人が話す際の唇の使い方にまで国家が一々干渉していては切りがないでしょう。しかし,新型コロナウイルス感染症対策で,個々人の口周りにつき,不織布マスクの完全着用までが丁寧に推奨されたことに鑑みると,将来,「ニッポンコク」及び「ニホンコク」のうち,呼気が強く唾の飛びやすい方の発音は自粛するように御指導がされるようになるかもしれません。

 

2 「ジッポンコク」ではどうか

「ニッポンコク」及び「ニホンコク」はいずれも正しいとして,それでは「ジッポンコク」は許容されないでしょうか。かのZipanguや,英語のJapanの発音には,「ニッポンコク」及び「ニホンコク」よりも近いようです。(しかし,「グローバル・スタンダードに近いのはこっちなのだ」というような物言いは,「新自由主義的である」ということで,昨今は自粛すべきものでしょうか。)

17世紀の初めにイエズス会士が出版した『日葡辞書』という辞書があります。レオン・パジェ(Léon Pagés)によるそのフランス語訳版が,1868年に出ています(Paris, Firmin Didot Frères, Fils et Cie)。当該和仏辞書は,我が国立国会図書館のデジタル・コレクションで見ることができます。

 その457頁には,「Jippon, ジツポン(Fino Moto, ヒノモト). L’Orient, c.-à-d. le Japon.」とあります。“L’Orient, c.-à-d. le Japon.”ですから,「東方,すなわち日本国」ということになりますMementote Uraquariae. http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079413301.html

 607頁には,「Nifon, ニホン. Japon.」とあります。

 611頁には,「Nippon, ニツポン(Fino Moto, ヒノモト). Japon.」とあります。

 要は,17世紀の初め,すなわち江戸時代の初めには,「日本」の読み方として,「ジッポン」,「ニホン」及び「ニッポン」の三つがあったことになります。「ジツ」は漢音で,「ニチ」は,それよりも古い呉音です(漢音及び呉音について:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1611050.html

 我が大宝二年(周の長安二年。すなわち702年)に唐土の女帝陛下から「『日本国』,(ハオ)。」と我が新国号嘉納せられた際の周(唐)政府側の読みは,当時の唐土の音たる漢音によるジッポンのような音であったはずです(あるいは「ジッボン」のような音だったかもしれませんが,いずれにせよ「ジホン」はなさそうです。)当該唐土の音を,我が遣唐使は有り難く承って帰東したものと思われます。

 徳川三百年の太平のうちに,「ジッポン」の読みが失われてしまったのは,これも「鎖国」の一影響ということになるのでしょうか。日本人には,どうも漢音よりも呉音の方がしっくりするようです(東京は,我が国では呉音の「トウキョウ」であって,漢音の「トウケイ」ではありません。)。訓読みならぬ音読みながらも,「ニッポン」ないしは「ニホン」と読めば,我が国号の唐土離れ(あるいは,胡族=北朝の流れを汲む唐帝国の漢音から,滅ぼされた江南の南朝風の呉音への退行)が達成されたということになるのでしょう。

 

3 日本=「やまと」との訓読みについて

 

(1)『日本書紀』

 ジッポン,ニッポン又はニホンという音読みのほかに,「日本」には,訓読みがあります。

 

  日本,(ここには)云耶麻騰(やまとといふ)(しも)(これに)(ならへ)。(『日本書紀』720年)神代上第4段正文)

 

 我が国号は二本立てで,対外的には音読みの「日本」であり,対内的には「やまと」だったのでした。

 

(2)大宝律令と「日本天皇」

 内国法制的には大宝律令の公式令詔書式において,「隣国及び蕃国に対して詔するの辞」として,

 

  御宇日本天皇詔旨

 

と標示するものとされ,いずれも「並びに大事を宣するの辞」としては,

 

  御宇天皇詔旨

  御大八洲天皇詔旨

 

が用いられていたそうです(神野志隆光『「日本」 国号の由来と歴史』(講談社学術文庫・2016年)21-24頁。また,229-230頁)。ここでは,「日本」は,天皇が御する客体を示す文言ではなく,御する主体たる天皇自身を修飾する文言となっています。

 

   こうして「御宇」と「御大八洲」とを並べて見れば,「御宇」は天下を治める意であり,「御大八洲」は「大八洲」という国土を治めることをいうが,「御宇」と「御大八洲」とが等価なのであって,「日本」が「大八洲」と同じ次元で並ぶような国の呼び方でないことはあきらかであろう。

「日本天皇」というかたちで意味をもつ「日本」だということである。

(神野志30頁)

 

 「御宇=天下を治める」と大きく出るのならば,世界支配者たる天皇は世界に一人であるはずなので,「日本」という限定的修飾語は不要であるように思われます。しかし,蕃国(新羅のことです(神野志22頁参照)。)に詔するときには(なお,「隣国」たる唐(神野志22頁参照)に対しては,実は「日本国王」としてへりくだっていましたから(「勅日本国王()明楽(メラ)()御徳(ゴト)(勅書案:張九齢――玄宗の時代)」という例があります(三宅71頁(注8)。下線は筆者によるもの)。),当該「御宇日本天皇」なるものが「詔する」という書式は,長安の天子宛てには用いられなかったものでしょう。),大唐皇帝との区別を示すために必要だったものでしょう。唐国公たりし李淵の一族の王朝名である「唐」と同次元で並ぶ「日本」なのでした。

 漢土では革命が起こるので,王朝ごとに国号を改める必要があるわけでした。その際皇帝一族の姓をもって国号とはせずに,王業発祥ゆかりの地の名をもってすることが慣例でした。「((もろこし)にも,)周の国より出でたりしかば,天下を周といふ。漢の地よりをこりたれば,海内を漢と名づけしがごとし。」というわけです(北畠親房『神皇正統記』(1339年)天)。王姓の姫ではなく地名の周であり,高祖劉邦の劉ではなく漢でした。我が皇室にはそもそも姓が無いので,「やまと」は王業発祥ゆかりの地の名なのでしょう。したがって,

 

   吉田孝『日本の誕生』(岩波新書 1997年)が言うように,「日本」は王朝の名であったと,見るべきであろう。(神野志30頁)

 

という場合の「日本」は,「やまと」と読んだ上での,地名による王朝名と解すべきでしょう。

 王朝名であるとした場合,少なくとも対内的には,日本(やまと)の範囲が広すぎると,日本天皇と御大八洲天皇との区別が曖昧になってはしまわないでしょうか。北畠親房は,我が国の国号について「又は耶麻土(やまと)といふ。是は大八(おほや)(しま)中国(なかつくに)の名なり。〔略〕大日本(おほやまと)(とよ)秋津(あきづ)(しま)となづく。今は四十八ヶ国にわかてり。中州(なかつくに)たりし上に,神武天皇東征より代々(よよ)の皇都也。よりて其名をとりて,(ほか)の七州をもすべて耶麻土(やまと)といふなるべし。」と述べて(『神皇正統記』天),本州島の名が我が国全体の名となったのだという説を唱えています。要は一番大きな島の名前を国号としたということであるところ,かえってそれでは広過ぎて,王業の発祥の地を示して王族を他の地の諸族から区別せしめるものとしては焦点がぼけてしまっているように,筆者には思われます。

 

(3)やまとの地名に関して

やまとは本来,大和国(今の奈良県)の更に一部の小地名であったそうです。

 

  ヤマトは奈良県天理市・山辺郡辺りの一地名であったが,奈良県全体の大和国の称のとなり,さらに日本国の称となる。(小島憲之=直木孝次郎=西宮一民=蔵中進=毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』(小学館・1994年)30頁註8

 

  つぎねふ (やま)(しろ)(がは)を 宮(のぼ)り 我が(のぼ)れば (あを)()よし ()()を過ぎ 小楯(をだて) 大和(やまと)を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城(かづらき)高宮(たかみや) 我家(わぎへ)のあたり

  (『日本書紀』仁徳天皇三十年九月条)

 

 第十六代の仁徳天皇の皇后である磐之媛命の上記の歌にいう「大和」については,「奈良県全体の大和ではなく,『延喜式』神名の「大和坐(おほやまとにいます)大国魂神社」のある奈良県天理市新泉(にいずみ)の地をさす。『倭名抄』に「城下郡大和郷」。」と解説されています(小島憲之=直木孝次郎=西宮一民=蔵中進=毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』(小学館・1996年)47頁註22)。なお,『古事記』(712年)に「葛城の曽都毘(そつび)()(むすめ)石之(いはの)日売(ひめ)命」とありますところ,葛城高宮に磐之媛命の実家があったわけです。

 日本の読みは「やまと」であって,天孫瓊瓊杵尊が天下った「たかちほ」でも,初代神武天皇が東征後奠都した「かしはら」でも,第二十六代継体天皇が群臣によって翼賛推戴された「くすは」でも,「日本の文化と政治の母体となった大和の国の,そのふるさとが飛鳥(あすか)なのだ。」(直木孝次郎『日本の歴史2 古代国家の成立』(中央公論社・1965年)2頁)とされる「あすか」でもありません。

 「たかちほ」に天下っても,瓊瓊杵尊が落ち着いた先は,()()の長屋の笠狭(かささ)の碕(鹿児島県は薩摩半島の川辺郡西端にある野間岬)ということでしたから(『日本書紀』神代下第9段正文),美人はいたとしても,鄙び過ぎているようです。

「くすは」は,語源が悪いです。武埴安彦の賊軍兵士が敗戦時恐怖の余りその「(はかま)より(くそお)ちし処を(くそ)(ばかま)と曰ふ。今し樟葉と謂ふは(よこなま)れるなり。」ということでした(『日本書紀』崇神天皇十年九月条)。

あすかについては,「大和の朝廷ははじめから飛鳥に定着していたのではない。飛鳥に都をおいた最初の天皇は,『古事記』や『日本書紀』で第十九代とされる允恭天皇である。〔略〕もっとも,都の所在は『古事記』に「遠つ飛鳥の宮」と記すだけで,はなはだ漠然としている。」ということでした(直木4頁)。允恭天皇は,「(をとこざかり)(いた)りて(あつき)病ありて,容止便(たより)あらず。」(『日本書紀』同天皇即位前紀)ということで,かつ,即位に当たっても愚図愚図していて,どうもパッとしません。なお,飛鳥の範囲は,「およそ飛鳥川の上流の平地と丘陵のまじわる地方をさし,いまの(いかずち)豊浦(とゆら)の集落のあたりから南方が本来の飛鳥で,その北方の耳成・香久・畝傍の大和三山につつまれた平地,すなわちのちの藤原の都の地をもふくめるのがふつうである。」とされています(直木4頁)。


続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 南米のサッカー名門国からキック・オフ

 今年(2022年)もまたサッカー・ワールド・カップ大会が開催されます。もう22回目で開催地はカタールになります。頑張れニッポン!

(早いもので,我が国で「感動」のサッカー・ワールド・カップ大会が開催されてから,既に20年です。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1071112369.html)。

 このサッカー・ワールド・カップの最初の大会(1930年)の開催地となり,同国人のチームが当該第1回大会及び1950年の第4回大会で優勝した栄光に包まれた国はどこかといえば,南米大陸のウルグアイ東方共和国(República Oriental del Uruguay)です。今年の大会においては,我が邦人のチームもその栄光にあやかりたいものです。

 しかし,あやかるといっても,日本国とウルグアイ東方共和国との間に共通性・類似性って余りないのではないか,そもそも両国は,地球🌏上において表裏正反対の位置にあるんだぜ,とは大方の御意見でしょう。これに対して,いや,両国は実は同じなのだ,と力技で強弁しようとするのが本稿の目的です。

 

2 ウルグアイ東方共和国の国号の謎

 さて,ウルグアイ東方共和国(República Oriental del Uruguay. 英語ではOriental Republic of Uruguay)という国号の謎から本稿は始まります。なぜ「東方」という形容詞が入っているのか,不思議ですよね。

 この東方は何に対する東方なのかというと,どうも独立前の同国の場所にあったBanda Orientalという州名に由来するそうです。ウルグアイ東方共和国の西部国境線はウルグアイ川という同名の川で,スペイン領時代のBanda Orientalという州名は,そのまま(ウルグアイ川の)東方地という意味であったようです。現在「ウルグアイ」は国の名たる固有名詞でもありますが,独立後最初の1830年憲法1条にあるEstado Oriental del Uruguayとの国号は,国(estado: 英語の“state”)であってウルグアイ川の東方にあるものというように,普通名詞であるEstado(国)に地理的限定修飾句(Oriental del Uruguay)が付いた普通名詞的国号として印象されていたもののようにも思われます。当該憲法の前文は,神への言及に続いて,“Nosotros, los Representantes nombrados por los Pueblos situados a la parte Oriental del Río Uruguay…”(筆者のあやしい翻訳では,“We, the Representatives named for the Peoples situated in the Oriental part of the River Uruguay…”又は「我らウルグアイ川(Río)の東部(parte Oriental)所在の諸人民のために任命された代表者らは・・・」)と始まっているからです。

 ウルグアイ川の西は,アルゼンチン共和国です。スペイン領ラ・プラタ川副王領時代は,ウルグアイ川の東も西も同一の副王領内にあったところです。スペインからの独立後,後のウルグアイ東方共和国の地は一時ブラジル治下にありましたが,戦争を経て,ブラジルとアルゼンチンとの間の1828年のモンテビデオ条約によってウルグアイ(川)東方国の独立という運びになっています。すなわち,ウルグアイ東方共和国における「東方」の語は,アルゼンチン共和国から見ての「東方」という意味になりますところ,上記の歴史に鑑みると,同国とのつながりを示唆するようでもあり,断絶を強調するようでもあります。

 

3 普通名詞的国号

 ところで,普通名詞的国号といわれると,固有名詞抜きの国号というものがあるのか,ということが問題になります。実は,それは,あります。例えば,今は亡きソヴィエト社会主義共和国連邦が普通名詞国号の国です(19911226年に消滅宣言。こちらももう崩壊後30年たってしまっているのですね。)。「ソヴィエト」と日本語訳されている部分は,ロシア語🐻では形容詞Советских(複数生格形(ドイツ語文法ならば複数2格というところです。))であって,その元の名詞であるсоветは,会議,協議会,評議会,理事会等の意味の普通名詞です。会議式の社会主義共和国の連邦☭ということですが,何だかもっさりしています。更に社会主義☭仲間では,現在その首都の北京で冬季オリンピック競技大会⛷⛸🏂🥌が開催(202224日から同月20日まで)されている中華人民共和国🐼も,「中華」を固有名詞(China)又はそれに基づく形容詞(Chinese)と解さなければ(ただし,同国政府はどうもそう解するようです(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1077950740.html)。なお,「中華」をあえて非固有名詞的に英語訳すると,“center of civilization”又は“most civilized”でしょう。),同様の普通名詞型普遍国家です(「会議式」は,「中華」よりも謙遜ですね。)。

おフランスの国号も,フランス式なることを意味する形容詞によって固有名詞風の傾きが加えられていますが,普遍国家を志向するものでしょう。La République françaiseであって,la République de Franceではありません。後者であれば,フランスという国があってそれが共和政体であるということでしょう。しかし,前者は,共和国があって,それがフランス式であるということでしょう(la République à la française)。アウグストゥスのprincipatus以来力を失った古代ローマ時代における共和政・共和国の正統の衣鉢を継ぐのは我々であって,そもそもres publica(共和国,国家,国事,政務,公事)は,à la romaineよりも,à la françaiseに組織し,運営するのが正しいのだ,ということでしょう(他の共和国を称する国々との区別のための必要もあるのでしょうが。)。フランスの大統領は,Président de Franceではなく,Président de la Républiqueと呼ばれます。(更にla République françaiseの普遍志向を示す例としては,その1793年憲法4条の外国人参政権条項があります。)Die Bundesrepublik Deutschlandは,ドイツという国があって,それは連邦共和政体を採っているということでしょう。これに対して,1990103日に消滅したdie Deutsche Demokratische Republikは,ドイツ風の民主主義共和国ということですね。ドイツという国であるよりも,人類の普遍的理想の実現に向かって進む民主主義共和国(社会主義国☭)であることの方が重要だったのでしょう。

 さて,いよいよ我が国の国号です。

 

4 近代における我が国の新旧国号:日本国及び大日本帝国

 

(1)日本国

 我が国の憲法は「日本国憲法」ですから,我が国の国号は,日本国なのでしょう。日本「国」が国号であって,単なる日本は国号ではないことになります。実は日本語における「日本」は形容詞なのでしょう。しかして,我が国の憲法の英語名はConstitution of Japan”です。そうであれば英語のJapan”は,国である旨の観念をそこに含み込んでいる名詞であるようです。「日本」に対応する英語の単語は,形容詞たるJapanese”でしょうか。

 

(2)大日本帝国

 

ア 明治天皇による勅定及び昭和天皇による変更

 現行憲法に先行する我が国の憲法の題名は「大日本帝国憲法」でした。したがって,19461029日の日本国憲法裁可によって(2023116日訂正:昭和天皇による日本国憲法裁可の日を194610「29日」とする例は,衆議院憲法審査会事務局「衆憲資第90号「日本国憲法の制定過程」に関する資料」(2016118にもありますが,宮内庁『昭和天皇実録第十』(東京書籍・201721919461029日条をよく読むと,その日にされたのは枢密院における「帝国議会において修正を加へた帝国憲法改正案」の全会一致可決までであって,天皇の裁可・署名がされたのは,翌同月30日(水)143分のことでした。),昭和天皇は,祖父・明治大帝が勅定し,1889211日に発布せられた大日本帝国という我が国号を,日本国に改めてしまったことになります。

 「大」が失われては気宇がちぢこまっていけない,例えば我が隣国はその国号に堂々「大」を冠し,しかしてその国民は,今や我々いじけた日本国民よりも豊かになっているではないか(購買力平価で一人当たり国内総生産を比較した場合),などと慷慨😡するのは,大日本帝国憲法案の起草者の一人である井上毅に言わせれば,少々方向違いかもしれません。

 

イ 「大」日本帝国

 実は大日本帝国憲法1条の文言(「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」)は,枢密院に諮詢された案の段階では,「大」抜きの「日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」との表現を採っていたのでした。

 これについては,1888618日午後の枢密院会議において,それまでに一通り審議が終った明治皇室典範1条の文言(「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」)との横並び論から,寺島宗則が問題視します。

 

  31番(寺島) 皇室典範ニハ大日本(○○○)トア(ママ)ヲ此憲法ニハ只日本(○○)トノミアリ故ニ此憲法ニモ()ノ字ヲ置キ憲法ト皇室典範トノ文体ヲ一様ナラシメン(こと)ヲ望ム

 

 当該要求に,森有礼,大木喬任及び土方久元が賛同します。

 これに対する井上毅の反論及びその後の展開は次のとおり。

 

  番外(井上) 皇室典範ニハ大日本ト書ケ𪜈(ども)憲法ハ内外ノ関係モアレハ大ノ字ヲ書クコト不可ナルカ如シ若シ憲法ト皇室典範ト一様ノ文字ヲ要スルモノナレハ寧ロ叡旨ヲ受テ典範ニアル()ノ字ヲ刪リ憲法ト一様ニセンコトヲ望ム英国ニ於テ大英国(グレイト,ブリタン)ト云フ所以ハ仏国ニアル「ブリタン」ト区別スルノ意ナリ又大清,大朝鮮ト云フモノハ大ノ字ヲ国名ノ上ニ冠シテ自ラ尊大ニスルノ嫌ヒアリ寧ロ大ノ字ヲ刪リ単ニ日本ト称スルコト穏当ナラン

 

  14番(森) 大ノ字ヲ置クハ自ラ誇大ニスルノ嫌アルヤ否ニ係ハラス典範ト憲法ト国号ヲ異ニスルハ目立ツモノナレハ之ヲ刪ルコト至当ナラン

 

  17番(吉田〔清成〕) 典範ニハ已ニ大日本トアリ又此憲法ノ目録ニモ亦大日本トアリ故ニ原案者ハ勿論同一ニスルノ意ナラン

 

  議長〔伊藤博文〕 此事ハ別ニ各員ノ表決ヲ取ラスシテ()ノ字ヲ加ヘテ可ナラン故ニ書記官ニ命シ()ノ字ヲ加ヘ本案ニ

 

大日本帝国の「大」の字は,議事の紛糾を恐れた伊藤枢密院議長がその場において職権で加えることにしてしまったもののようで,領土・人口・GDPをこれから大きくしようというような深謀遠慮があって付けられたものではないようです。

 

ウ 大日本「国」皇位 vs. 大日本「帝国」

ところが奇妙なことがあります。当時の関係者は憲法も皇室典範も「大」日本でそろったことに満足してしまい,明治皇室典範1条では「大日本国皇位」と「国」であるのに対し,大日本帝国憲法1条では「大日本帝国」と「帝国」であるという,残された相違については問題にしていないのです。

この点については,佐々木惣一が疑問視しており,後に『明治憲法成立史』(有斐閣・1960-1962年)を出版することになる稲田正次東京教育大学教授に問い合わせたりしたようですが,結論は「旧皇室典範と大日本帝国憲法とが我国を指示するのに,別異の語を用ゐてゐるの理由は,依然として明かでない」ということになっています(佐々木惣一「わが国号の考究」『憲法学論文選一』(有斐閣・1956年)47頁)。佐々木は,明治皇室典範1条で「大日本帝国皇位といふとせば,帝と皇との両語の位置に基き,其の語感調はざるものがあるとして,大日本国皇位としたのではないか」と推測しつつ,「稲田教授も私と同様の意見の如くである。」と述べています(佐々木49頁。稲田教授の佐々木への書簡には「削除の理由は御説の通り帝と皇と2字あるは聊か重複の感もあり語調宜しからざるが為と推察被致候(いたされそうろう)或は起草者としては大日本国は大日本帝国の略称位に軽く考へ典範憲法間別に国号の不一致無之(これなき)ものと単純に思ひ居たるものと被存候(ぞんぜられそうろう)」とあったそうです。)。しかし,語感の問題で片付けてしまってよいものでしょうか。

 ということで,起草者らの意図を何とか探るべく,伊東巳代治による大日本帝国憲法及び明治皇室典範の英語訳に当ってみると,大日本帝国はthe Empire of Japanであり,大日本国皇位はthe Imperial Throne of Japanであることが分かります。確かに,「大日本帝国皇位」=“the Imperial Throne of the Empire of Japan”では長過ぎますし,語調というよりも語義の点で,「“The Imperial Throne of Japan”といっておけば,Imperial ThroneのあるJapanEmpireであることは,当然分かるじゃないか」ということになります。発生的にも,具体的な人(king)ないしはその地位(royal throne)が先であって,かつ,主であり,その働きに応じて制度(king-dom)は後からついて来るものでしょう。The King of Englandがいて,それからthe Kingdom of Englandがあるのであり,the King of the Kingdom of Englandでは何やら語義が内部で循環した称号になってしまいます。なお,大日本帝国憲法1条によって当時の我が国の正式名称が定められたことに関し,そこでの帝国=Empireの意味については,「外交上の用語としては,それ等の西洋語に於いての総ての差異〔Emperor, King, Grand Duke, etc.〕に拘らず,日本語に於いては,苟も一国の君主である限りは,等しく「皇帝」と称する慣例である。若し此の外交上の用語の慣例に従へば,帝国とは単に君主国といふと同意語であつて毫も大国の意を包含しないものである。わが国の公の名称を大日本帝国といふのも,亦その意に解すべきもので,敢て大国であることを誇称する意味を含むものではなく,唯天皇の統治の下に属する国であること,言ひ換ふればその君主国であることを示すだけの意味を有つものと解するのが正当であらう。」と説明されています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)79頁)。

The Empire of Japan(大日本帝国)は,日本国(Japan)という国であって君主政体をとっているものを意味することになります。なおここでは,大日本=形容詞,帝国=名詞であるとして,ヨーロッパ語で“the Japanese Empire”となるのだと解してはならないことに注意しなければなりません。“The Japanese Empire”ということになれば,普遍的なものたるthe Empire(原型は古代ローマ帝国)に日本風(à la japonaise)との形容詞が付いただけのものとなり,その版図は必ずしもポツダム宣言第8項流に本州,北海道,九州及び四国並びに附属の諸小島に限局される必要のないものとなるのだと解し得ることになり,なかなか剣呑です。

The Imperial Throne of Japanは素直に,日本国の皇位ということになります。

「大日本帝国皇位(the Imperial Throne of the Empire of Japan)」が不可とされた理由は,またうがって考えれば,断頭台の露と消えたルイ16世と,痛風等に悩みながらも王位にあって天寿を全うしたその弟であるルイ18世との運命の違いに求められ得るかもしれません。フランスの王(Roi de France)の称号を保持していたルイ16世は,1791年憲法により,フランス人の王(Roi des Français)とされています。しかしてその後の経緯は周知のとおりです(1791年憲法は「王の身体は不可侵かつ神聖である。」とも規定していましたが(大日本帝国憲法3条参照),フランス人の憲法規範意識は当てにはなりませんでした。)。他方,ルイ18世は,王政復古後,伝統的なフランスの王(Roi de France)として統治しました。統治の当の客体に支えられる王権は危うく,統治の正統性は抽象的な国体に求められるべしということにはならないでしょうか。しかして,大日本帝国憲法1条にいう帝国は,突き詰めれば,天皇にとっての統治の客体たる領土内の臣民でした。『憲法義解』の第1条解説は天皇の大日本帝国統治につきいわく,「統治は大位に居り,大権を統べて国土及臣民を治むるなり。」と。更に美濃部達吉はいわく,「天皇が帝国を統治したまふと言へば,日本の一切の領土が天皇の統治の下に属することを意味し,更に正確に言へば,その土地の上に在る一切の人民が天皇の統治したまふところたることを意味する。統治とは領有と異なり,土地を所有することを意味するのではなく,土地を活動の舞台としてその土地に住む人々を統括し支配することの意である。」と(美濃部76頁)。“The Imperial Throne of the Japanese country and subjects”では,地方人民主権政体の国の元首のごとし,となります。

 

エ 「日本帝国」使用の勅許

しかし,以上の屁理屈を吹き飛ばすような表現が,明治天皇によって明治皇室典範に付された上諭にあります。いわく,「天祐ヲ享有シタル我カ日本帝国ノ宝祚ハ万世一系歴代継承シテ以テ朕カ身ニ至ル」云々。何と「日本帝国ノ宝祚」です。宝祚とは,天子の位の意味です。

この上諭の起草に井上毅が関与していたのならば,「大」日本帝国ではなく日本帝国であることは,「大」不要論者である井上による,寺島,大木,土方,吉田及び伊藤に対する当てつけかもしれません。しかし,当てつけ以前に,同一の明治天皇が作成する文書間での表現の不統一はいかがなものでしょうか。うっかりすると,とんでもない不敬事件になりそうです(とはいえ,伊藤博文名義の『憲法義解』の第1条解説文は,「我が日本帝国は一系の皇統と相依て終始し」云々といい,「大日本帝国」の語を使用していません。伊藤は「大」を付さぬことを認容していたのでしょう。)。しかしとにかく,いろいろ考えるに,この辺についての調和的解釈は,国家の法たる大日本帝国憲法と皇室の家法たる明治皇室典範とはその性質及び適用対象が全く異なるのだ,という理論(井上毅の理論ですが,後に公式令(明治40年勅令第6号)の制定によって破られます。)によるべきもののようでもあります。つまり,臣民並びに外国及び外国人に対するところの(したがって外向きかつ正式のものである)我が国の国号は憲法の定める大日本帝国である一方,身内の皇族を対象とする皇室の家法たる明治皇室典範及びその上諭においては,国家の法によるその縛りに盲従するには及ばないというわけです。「大」日本帝国といわなかったのは,臣民らとは違って,皇室内ではやたらと誇大表現は使わない,ということになるのでしょう。

明治皇室典範1条の「大日本国皇位」にいう「大日本」は,瓊瓊杵尊が降臨し,ないしは神武天皇がそこにおいて即位すべき対象であった(したがって帝国ではまだない)「蛍火(ほたるびなす)(ひかる)神及蠅声(さばへなす)(あしき)神」を「(さはに)有」し,また「草木」が「(みな)(よく)言語(ものいふこと)」ある葦原(あしはらの)中国(なかつくに)(『日本書紀』巻第二神代下)をもその対象に含み得る,皇室が原始的に有する我が国の統治権の根源に遡っての表現でしょうか。他方,上諭における「日本帝国ノ宝祚」は,神武天皇以来の「万世一系歴代継承」してきた歴史的な皇位を指すもので,その間の我が国は確かに帝国であったわけです。

なお,明治皇室典範上諭の前記部分の伊東による英語訳文は,“The Imperial Throne of Japan, enjoying the Grace of Heaven and everlasting from ages eternal in an unbroken line of succession, has been transmitted to Us through successive reigns.”です。英語では,大日本国皇位も日本帝国ノ宝祚も,同じ“the Imperial Throne of Japan”なのでした。

 

オ 下関条約における用法

1895年の下関条約においては,明治天皇は「大日本国皇帝」,光緒帝は「大清国皇帝」と表現され,本文では「日本国」及び「清国」の語が用いられ,記名調印者の肩書表記は「大日本帝国全権辨理大臣」及び「大清帝国欽差全権大臣」となっていました。皇帝(天皇)の帝国であって,大臣は当該帝国に属するものの,帝国の皇帝(天皇)ではないわけです。

 大と帝国との間の,日本ないしは日本国の語源探究が残っています。

 

5 「日本」の由来

 

(1)「日本」国の国号採用の時期

 まず,日本国の国号が採用された時期が問題となります。

 

ア 天智朝(670年)説

ひとまずは,天智天皇によって670年(唐の咸亨元年)に採用されたものと考えるべきでしょうか。

 

ところでこの〔668年に大津で即位式を挙げた天智天皇の制定に係る〕『近江令』で,「日本」という国号がはじめて採用されたものらしい。唐は663年に百済の平定を完了したあと,668年,ちょうど天智天皇の即位の年に,こんどは平壌城を攻め落とし,高句麗国を滅ぼしたのだったが,唐の記録によると,翌々670年の陰暦三月,倭国王が使を遣わしてきて,高句麗の平定を賀した,という。だからこの遣唐使が国を出た時には,国号はまだ倭国だったのである。

ところが朝鮮半島の新羅国の記録では,この同じ670年の年末,陰暦十二月に「倭国が号を日本と更めた。自ら言うところでは,日の出る所に近いので,もって名としたという」と伝えられている。これはその書きぶりから見て,この時に日本国の使者が到着して通告したことのようだから,この遣新羅使が国を出た時には,国号はすでに日本国に変わっていたことになる。だから日本という新しい国号が採用されたのは670年か,早くても669年の後半でなければならない。

  (岡田英弘『倭国』(中公新書・1977年)151-152頁)

 

 咸亨元年の倭の使いに関しては『新唐書』巻二百二十列伝第百四十五東夷に「日本,古倭奴也。〔中略〕咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,悪倭名,更号日本。使者自言,国近日所出,以為名。或云日本乃小国,為倭所并,故冒其号。使者不以情,故疑焉。又妄誇其国都方数千里,南,西尽海,東,北限大山,其外即毛人云。〔後略〕」とあるところです。当該咸亨元年の遣唐使の発遣の時期については,『日本書紀』巻二十七天智天皇八年条(翌天智天皇九年が唐の咸亨元年です。なお,天智天皇の即位年は天智天皇七年です。)に「是年,遣小錦中(せうきむちう)河内(かふちの)(あたひ)(くぢら)等,使於大唐。」とあります。

670年(早くとも669年後半)説は,〔(いにしえ)の倭が〕高〔句〕麗を平らげたことを賀する遣いを咸亨元年(670年)に遣わしたが,〔倭は〕その「後」に(やや)夏音を習って倭の名を(にく)み,更めて日本と号した,ということから,唐の高句麗平定を咸亨元年に唐で賀した遣唐使の発遣時には我が国の国号は依然として倭国であっただろうとするものでしょう。これに関して1339年成立の『神皇正統記』において北畠親房は,「唐書「高宗咸亨年中に倭国の使始てあらためて日本と号す。其国東にあり。日の出所に近きをいふ。」と載せたり。此事我国の古記にはたしかならず。」と書いています(岩佐正校注『神皇正統記』(岩波文庫・1975年)18頁)。北畠は,『新唐書』にある「後」の字を省いて読んだものでしょうか。

『新唐書』は,北宋の欧陽脩・宋祁らが勅命を受けて11世紀に作ったものです。

唐の咸亨元年に係る新羅の記録は,『三国史記』巻六新羅本紀第六文武王上の同王十年条に「十二月,〔中略〕倭国更号日本,自言近日所出以為名。」とあります。我が国の記録には,同年「秋九月辛未朔〔一日〕,遣阿曇連頰垂(あづみのむらじつらたり)於新羅。とあります(『日本書紀』巻二十七天智天皇九年条)。

『三国史記』は,高麗の金富軾らによって12世紀に作られたものです。

 

イ 孝徳朝説

しかし,日本国の国号は,もっと早く孝徳天皇の時代に採用されたものだとする説があります。

 

  「日本」という国号の成立は,推古朝より少しのちになるようだ。大化改新(645年)のころ,たぶん大化の年号とともに制定されたのではなかろうか。『隋書』には「日本」という語はみえず,『旧唐書』日本伝には,貞観二十二年(648・大化四)に日本から使いがきたことを記したあとに,

  「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるをもって,故に日本をもって名と為す」

 とある。つまり,隋への国書にみえる「日出処天子」の「日出処」をいいかえたものである。『新唐書』日本伝には,「後稍〻夏音を習い,倭の名を悪み,更めて日本と号す」とある。〔略〕

  それにしても,日本とはなかなか壮大な国名である。中国にまけまいとする新興国のもえあがるような気魄が,この国号にもあらわれている。

 (直木孝次郎『日本の歴史2 古代国家の成立』(中央公論者・1965年)112-113頁)

 

しかし,この説における『旧唐書』の読み方は少々不思議です。『旧唐書』巻百九十九上列伝第百四十九上東夷においては,倭国の伝と日本国の伝とが別に立てられているのです。倭国伝は「倭国者,古倭奴国也。」から始まって,その最後の部分が「貞観五年,遣使献方物。太宗矜其道遠,敕所司無令貢,又遣新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才,与王子争礼,不宣朝命而還。至二十二年,又附新羅奉表,以通起居。」です。貞観二十二年(大化四年)に新羅に附して表を奉り,もって起居を通じたのは,倭国であって,日本国ではないようです。なお,貞観二十二年には,前年(大化三年)に我が国の孝徳朝を訪問していた新羅の金春秋(後の同国太宗武烈王)が,唐に使いしています。

『旧唐書』では倭国伝の直後が日本国伝ですが,日本国伝の冒頭部分は次のとおりです。

 

日本国者,倭国之別種也。以其国在日辺,故以日本為名。或曰:倭国自悪其名不雅,改為日本。或云:日本旧小国,併倭国之地。其人入朝者,多自矜大,不以実対,故中国疑焉。又云:其国界東西南北各数千里,西界,南界咸至大海,東界,北界有大山為限,山外即毛人之国。

 

 飽くまでも日本国は倭国とは別種であるものとされています。

 『旧唐書』は,五代の後晉の劉昫が,勅命を奉じて10世紀に著したものです。

 

ウ 702年の対唐(周)披露

なお,日本国の国号が採用された時期に関しては,8世紀初めの周(唐もこの時国号を変えていました。)の長安二年(我が大宝二年。702年)に武則天に謁見した我が遣唐使が「日本国」から派遣されたものであることについては,争いはないようです(『旧唐書』東夷伝には長安三年とありますが,長安二年でよいようです(神野志隆光『「日本」 国号の由来と歴史』(講談社学術文庫・2016年)14頁)。)。『三国史記』による670年説をどう補強するかが問題になるのでしょう(同書は評判が余りよくないようです。いわく,「『三国史記』文武王咸亨元年に,倭国を改めて日本国と号したという記事は,『新唐書』によったものである。〔略〕『三国史記』は信ずるに足りず,そもそも,中世文献である『三国史記』を根拠とすることはできない。」と(神野志235-236頁)。)。

これに関しては,『旧唐書』も『新唐書』も共に,倭国が倭の名を嫌った結果その号を更めた,という話のほかに,「或いは云ふ」ということで,倭国と小国である日本国との並立から併合へという動き,すなわち争いがあった話を伝えていることが注目されます。しかも,その間のことについては,唐への我が国からの使者はどうもいい加減な受け答えをしていたようです(『旧唐書』では「実を以て対へず,故に中国は疑ふ。」,『新唐書』では「使者情を以てせず,故に疑ふ。」)。外国に積極的に話したくない我が国のこの頃の内紛といえば,咸亨三年(672年)の壬申の乱でしょうか。天智天皇の正統を継ぐ大津朝廷側が日本国という国号を採用していたとすれば,『新唐書』の「日本は(すなは)ち小国,倭の幷せる所と為る,故に其の号を冒す。」という記述が,壬申の乱及びそれ以後の経過をうまく表しているように思われます。天智天皇は日本国という新しい国号を採用したが,新国号派は少数にとどまり,その死後,守旧派(倭)を率いた大海人皇子に大津朝廷(日本国)は滅ぼされた,しかし結局,新国号の理念が天武=持統=文武朝において最終的には貫徹するに至った(冒其号),ということでしょうか。明治から大正にかけてもっとも強力であったとされる壬申の乱原因論である「天智天皇の急進主義にたいする大海人皇子の反動的内乱とするみかた」(直木334頁)には,確かに分かりやすいところがあります。

以上,日本国という国号の採用時期に関する議論はこれくらいにして,一応670年に天智天皇が採用したとの説を採り,国号変更の原因及び「日本国」採択の理由について考えましょう。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

(上)「違法の後法」ならぬ「違法の現法」問題:

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079288866.html

(中)平成28年法律第49号附則5条と「民意」:

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079288885.html

 

(3)「全国民を代表する国会議員」の解釈論

平成28年法律第49号附則5条(改めて法文を確認すると,「この法律の施行後においても,全国民を代表する国会議員を選出するための望ましい選挙制度の在り方については,民意の集約と反映を基本としその間の適正なバランスに配慮しつつ,公正かつ効果的な代表という目的が実現されるよう,不断の見直しが行われるものとする。」です。)には「全国民を代表する国会議員を選出するための望ましい選挙制度」とあるところ,まず「全国民を代表する国会議員」の意味に関する憲法431項(「両議院は,全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」)の解釈問題が一応あります。全国民を代表するのは()議員なのでしょうか,議員ら全員で全国民を代表するのでしょうか。日本語は,単数か複数かがはっきりしないので難しいのです。(「おれは主権者国民だぞ」と役所の窓口において一人で頑張る難しい方々もいます。しかし,一人で日本国における主権を保持するとなると,明治天皇,大正天皇及び進駐軍上陸前の昭和天皇並みの至高の権力者ということになります。)

 

ア 通説・判例

「〔憲法〕431項が①両議院が「選挙された議員」で構成されること,しかもとくに②その議員は「全国民(の)代表」であること,を明記していることには特別の意味がある。すなわち,国会は,それを構成する議員がとくに選挙によって選ばれるということによって,民意を忠実に反映すべき機関であるとともに,同時に,その議員が単にその選挙区や特定の団体などの利益ではなく,国民全体の「福利」の実現を目指すべき存在にして,かつ法上その存在にふさわしい行動をとる自由を保障されるということによって,統一的な国家意思を形成決定できる機関であるということである(狭義の代表観念)。」ということですから(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)136頁),各議員が全国民を代表するということでしょう。判例も同様です。あるいは,「日本国憲法431項が「全国民を代表する選挙された議員」とのべるとき,そこでの定式化は,議員が地域や職能など部分の代表であることを禁止すると同時に,全国民の意思をできるだけ反映すべしという積極的要請を含む。」ともいわれています(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)152-153頁)。しかしながら,国会は「民意を忠実に反映すべ」しといわれれば«peuple»主権的である一方,議員は国民を代表して「国民全体の「福利」の実現を目指す」といわれれば«nation»主権的ではあります。要は我が選良諸賢は(ぬえ)的存在であるということでしょうか。

ちなみに,各議員が全国民を代表するのならば,全国1区制度がいいじゃないか,とも考えられます。広過ぎて大変だと言われるかもしれませんが,米国のアラスカ州及びモンタナ州選出の連邦下院議員は,2年ごとの改選(米国憲法121項)の都度日本よりも広い当該各州内を駆け回っているのです(両州から選出される連邦下院議員はそれぞれ1名のみ)。しかし全国1区論は,極論でしょう。

 

イ 憲法431項の英語文から

 

(ア)英語文

ところで,ここで憲法431項の英語文を見ると,実は難しい。

“Both Houses shall consist of elected members, representative of all the people.”とあります。“elected members”は,“representative of all the people”ではあるが, “representatives of all the people”ではないのです。後者の複数形名詞であれば,各議員が全国民の代表であると素直に解釈できます。しかし,現実の正文は単数形ですので,議員ら全体で全国民を代表する(各議員についてはその限りでない。)という解釈が可能になりそうです。立法経緯に基づく解釈を試みてみましょうか。しかしそのためには同項の発案者を知らねばなりません。GHQ民政局か,それとも日本側か。少し調べてみると,どうもやはりこれも,GHQの権威下に定められた条項であるようです。

 

(イ)GHQ民政局

1946213日に日本国政府に交付されたGHQ草案においては一院制が採用されており,その第41条は“The Diet shall consist of one House of elected representatives with a membership of not less than 300 nor more than 500.”(国会は,300人以上500人以上の選挙された代議員によって組織される一つの議院によって構成される。)というものでしたが,両院制を採るに至った現在の日本国憲法の第431項もまたGHQの発案によるものなのでした。

日本国憲法431項に対応する条項については,194634日から同月5日までのGHQ民政局と日本政府との徹宵協議の場において「両議院共通ノ条文トスベシ,各院別々ノ規定ハ不可ト云フ。「国民ニ依リ選挙セラレ国民全体ヲ代表スル議員ヲ以テ組織ス」ト為スベシトス。(然ルニ決定案ニハ「国民ニ依リ」ニ当ルベキ英文ナシ理由不明)定数ハ法律ヲ以テ定ムルコトト為ル」との指示が日本側に対してあったそうです(佐藤達夫(法制局第一部長)「三月四,五両日司令部ニ於ケル顚末」)。GHQ側は既にあらかじめ準備を整えていたようで,「先方ニテ対案ヲ予メ準備セルモノノ如ク逐一,松本案ニ付修正申入アリ」ということでした(佐藤達夫・同)。194636日付けのGHQ資料(同日発表の日本国政府による憲法改正案草案要綱の英語版)を見ると,日本国憲法431項に対応する条項の英語文は,既に現在のものと同じです。佐藤達夫部長に対してされた修正申入れの英語も,当該英語文に対応するものだったのでしょう。

 

(ウ)アメリカ的な立場:議員=選挙区の代表者

 各議員が全国民を代表することを明示するrepresentativesの語が用いられなかったことは,あるいはアメリカ独立革命の精神からすると当然のことであったように思われます。イギリス領時代の北米植民地における議会の議員の性格について,田中英夫教授はいわく。

 

   ここで注目すべきことは,議員は何よりもまずその選挙区の代表者であるというアメリカ的な立場が,すでにこの時期に確立されていることである。議員に選ばれる者は,その選挙区に住所を有していなければならないとされた〔筆者註:米国憲法122項及び第33項は,選挙された時点で選出州の住民でない者は連邦議会の議員たり得ないと規定しています。〕。また,その選挙区の住民が具体的問題について議員は議会においてこう行動しなければならないという決議をしたときは,それに従うのが議員としての道であるという考え方が,支配的であった。イギリスでも,中世にはこのような考え方が存在したことがあるが,この時期においては,国会議員は(地方の利益を離れて)国全体の利益を代表し国全体のために討議すべきであるという観念が確立されていたのである。代議制観における本国と植民地の間の差異は,独立に際しての両者の間の憲法上の主張の対立の背景の一つとなるのである。

  (田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)190-191頁。下線は筆者によるもの)

 

「代表なければ課税なし」とのアメリカ独立革命の有名なスローガンを掲げるためには,北米植民地人は,イギリス本国的なvirtual representation(観念的代表制)の考え方を採るわけにはいかなかったわけです(田中200-201頁参照)。

(なお,GHQ「全国民を代表する」との文言を入れさせたことについては,「我帝国議会は主権者であり,又は固有の参政権を有つて居る所の人民を代表するものでないことは申すまでもない,〔略〕我国に於て国会を以て人民全体であるといふ法律上の擬制を立てたと見るべき根拠は全く無いのである,又政治上の精神と致しても人民を代表するといふことは出来ぬのである」(上杉慎吉『訂正増補帝国憲法述義(第九版)』(有斐閣書房・1916年)329頁),「帝国議会は一個の官府である,独立固有の存在を有つて居るものでなくして,天皇の意思を本として其存在を有して居るものであります」(同331-332頁)というような学説に対して念を入れた警戒をしたということもあるかもしれません。)

 以上のようなことであれば,各議員はその選挙区を代表するものの,議員ら全体(国会)においては全国民を代表するのだ,という憲法431項解釈の定式化も実は可能ではあったかもしれません。(ルソーの『社会契約論』第2編第3章には,「〔私的利害しか考慮しない全員(みんな)の意思(la volonté de tous)は,〕各個の意思の総和にすぎない。しかし,これらの意思から,相殺する(プラス)(マイナス)とを取り除けば,差の総和として,一般意思(la volonté générale)が残るのである。」とあります。また,検察審査会がその「域内の人々全体を真実に代表する」ものである(the body is truly representative of the people as a whole)ことを確保するために,検察審査員候補者の予定者に係る選挙人名簿からの抽籤による選定制(検察審査会法101項)が採用されたと説明する前記GHQ担当者による記者会見も想起されるところです。

 

(エ)ベルギー的定式の可能性:全国民と選挙区との二重代表

あるいは,「アメリカ的な立場」の例に加えて,ベルギー国憲法42条のLes membres des deux Chambres représentent la Nation, et non uniquement ceux qui les ont élus.”(両議院の議員は全国民(la Nation)を代表し,彼らを選出した者のみを代表するものではない。)との規定の後段の反対解釈を援用し,日本国憲法431項の解釈として,同項は各国会議員に係る全国民の代表たる性格を規定するものの,他方,彼(女)がその選挙区を同時に代表することを否定してはいないのだ,と主張することは可能ということにはならないでしょうか。

すなわち,ベルギー国のトニセンは,その同国憲法逐条解説書の第32条(「両議院ノ議員ハ国民ヲ代表スル者ニシテ之ヲ選挙シタル州又ハ州ノ一部ノミヲ代表スルニ非ス」(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)448-449頁記載の訳)。現行42条に対応)解説においていわく。「議員は国家の受託者であり,彼らが当選した選挙区のそれではない」し,同条は「命令的委任(mandat impératif)と両立するものではない」,しかしながら,「疑いなく,議員は,彼がより直接代表する(représente plus directement)選挙区の期待や必要を等閑に付してはならない。しかしながら,地域の利害が国の一般的利害に反する全ての場合においては,祖国が,州,更にいわずもがなであるが郡(arrondissement)及び市町村(commune)に優先しなければならないということを彼は決して忘却してはならない。」と(J.-J. Thonissen, La Constitution belge annotée, offrant, sous chaque article, l’état de la doctrine, de la jurisprudence et de la législation (Bruylant-Christophe, Bruxelles; 1879) p.135)。これは,政治の実際に照らして,現実的な解釈論ではないでしょうか。(「単にその選挙区や特定の団体などの利益ではなく」云々と説く,日本国憲法に関する前記の学説も,「憲法は,議員が選挙区単位で選任され,各議員が各選挙区の選挙人の意向を忠実にくみとるべきことを期待しつつ,同時に,そのことを前提にして,自由な討論・表決を通じて国会が統一的な国家意思を形成することを期待しているもの」と解釈しています(佐藤幸治141頁。下線は筆者によるもの)。)

ただし,美濃部達吉は,ベルギー国憲法旧32条を「両議院の議員が共に全国民を代表する者であることは,多くの国の憲法に明言せられて居る」うちの一つとして紹介しつつ,その著書の本文においては大日本帝国憲法の解釈として「衆議院の議員は各選挙区に於いて選挙せられるにしても,法律上はその選挙区を代表する者ではなく,等しく全国民を代表する者である。」と,衆議院議員がその選挙区を代表することをばっさりと否定しています(美濃部448-449頁。下線は筆者によるもの)。

 

(4)「民意の集約と反映」及び「その間の適正なバランス」

 平成28年法律第49号附則5条においては更に「民意の集約と反映を基本としその間の適正なバランスに配慮」すべきことが規定されています。どう読むべきなのでしょうか。

 まず,この「配慮」は,「選挙制度」にかかるものでしょう。「民意の集約と反映」とを行うべく国会内における議論・折衝をどのように行うかの話ではありません。(また,「不断の見直し」にかかるものでもないでしょう。)当選した国会議員が登院して来た時において既に一定の「民意の集約と反映」とがなされてあることになります。

しかし,各議員の全国民代表性をとことん追求する議論をして,いったん選ばれた各議員は等しく純粋に全国民の代表であるものであるとすれば,選挙制度がどのようなものであったのかは問題にならないことになってしまうように思われます(なお,「1票の格差」問題は,専ら純粋に個々の有権者の1票の重みに係る平等問題として考えれば,ゲリマンダリングによる是正でもよいのでしょうし(あるいは,ふるさと納税式のふるさと投票というのはどうでしょうか。),地域ごとの民意がどう国政において反映されるかの問題にはならないわけです。)。しかし,やはり議員はその選挙区における実在の民意を代表するものであるからこそ,選挙制度が問題となるのでしょう。

判例は,議席の多数を確保する政権政党への民意の「集約」を考えているようです。いわく,「小選挙区制は,全国的にみて国民の高い支持を集めた政党等に所属する者が得票率以上の割合で議席を獲得する可能性があって,民意を集約し政権の安定につながる特質を有する反面,このような支持を集めることができれば,野党や少数派政党等であっても多数の議席を獲得することができる可能性があ」る,と(最大判平成111110日民集5381704頁)。ここでは各議員ではなく政党が単位となっており,政権政党が「得票率以上の割合で議席を獲得」することが「民意の集約」であるということになっています。野党の観点からすれば,「民意の集約」だと上品に言ってはいるが要は少数民意の切捨てだ,ということになるかもしれません。

政党という書かれざる要素を算入して解釈すれば,平成28年法律第49号附則5条においては,「集約」(これは各議員に対するものではなく,政党に対するもの)は政権の安定(それと同時に,政権交代の可能性)という価値(小選挙区制)であり,「反映」は得票率に応じた議席数を各政党が確保することの価値(比例代表制)を意味するということになるのでしょう。

 なお,「憲法は,政党について規定するところがないが,その存在を当然に予定しているものであり,政党は,議会制民主主義を支える不可欠の要素であって,国民の政治意思を形成する最も有力な媒体であるから,国会が,衆議院議員の選挙制度の仕組みを決定するに当たり,政党の右のような重要な国政上の役割にかんがみて,選挙制度を政策本位,政党本位のものとすることは,その裁量の範囲に属することが明らかであるといわなければならない。」というのが判例です(前掲最大判平成111110日)。しかし,これに対しては,「政党の存在を憲法上「当然に予定」されたものという説明は,近代憲法=議会制の発展史からして,自明のものとはいえない。もともと憲法が「無視」さらには「敵視」さえしてきた政党が,そのはたらきの重要性ゆえに憲法上「予定」され,さらには,明記されるようになる例もあらわれるようになったことを,「当然」のこととしてでなく,緊張関係の経過の認識でとらえる必要がある。そうすれば,政党を法が処遇すること自体,結社しない自由を含む結社の自由を侵す可能性をもたらすことにならないか,という問題が意識されることになろう。」という批判的見解があります(樋口・憲法Ⅰ・191-192頁)。憲法13条の「すべて国民は,個人として尊重される。」との規定によれば国家創設の社会契約の当事者は個人であったはずなのに,当該国家の国政運営に関与する段階になると,「すべて国民は,政党員ないしは政党支持者として尊重される(respiciuntur)。」ということになるのかいな,という感慨が生ずるところです。「「代表」の禁止的規範意味は,「地域」や「職能」や「身分」を基礎単位とする社会編成原理を否定し,諸個人(●●)の自由な結合として国民(●●)を想定する近代個人主義の世界観を反映するもの」です(樋口・憲法Ⅰ・154頁)。

 

(5)「公正かつ効果的な代表という目的」

「公正かつ効果的な代表」という文言も,判例に基づくものでしょう。「代表民主制の下における選挙制度は,選挙された代表者を通じて,国民の利害や意見が公正かつ効果的に国政の運営に反映されることを目標とし,他方,政治における安定の要素をも考慮しながら,それぞれの国において,その国の実情に即して具体的に決定されるべきものであり,そこに論理的に要請される一定不変の形態が存在するわけではない。我が憲法もまた,右の理由から,国会の両議院の議員の選挙について,およそ議員は全国民を代表するものでなければならないという制約の下で,議員の定数,選挙区,投票の方法その他選挙に関する事項は法律で定めるべきものとし(43条,47条),両議院の議員の各選挙制度の仕組みの具体的決定を原則として国会の広い裁量にゆだねているのである。」とともに「国会は,その裁量により,衆議院議員及び参議院議員それぞれについて公正かつ効果的な代表を選出するという目標を実現するために適切な選挙制度の仕組みを決定することができる」というわけです(前掲最大判平成111110日等)。選挙後の国政運営の在り方も当該理念の射程に含まれるのでしょう。平成28年法律第49号附則5条の「公正かつ効果的な代表」とは,「国民の利害や意見が公正かつ効果的に国政の運営に反映」されている代表民主政の状態を意味するようです。「公正かつ効果的な代表を選出」するための,各候補者の資質を測定・判断する仕組みが整っている状態を指すものではないのでしょう。「国民の利害や意見」は,「民意」とほぼ同視してよいのでしょう。

「公正かつ効果的」とは何か。「公正」は,『岩波国語辞典 第四版』(1986年)によれば「かたよりがなく正当なこと」又は「はっきりしていて正しいこと」です。「効果」は,同じ辞書によれば「よい結果。望ましい結果。ききめ。」です。民意の国政への反映が効果的であるということは,国政が民意に忠実に従って運営されることの確保であり,民意の国政への反映が公正であるということは,国政が民意に従うに当たっては偏りなく総花的たるべしということである,と解すべきでしょうか。ただし,なおいろいろな解釈の余地がありそうです。

ところで,「およそ議員は全国民を代表するものでなければならない」ということは,判例のいうように「制約」でしょうか。筆者には,むしろ「制約」を緩和してしまうもののように思われます。すなわち,名誉革命後の混合政体下イギリスにおける選挙制度及びその考え方は次のようなものだったといわれています。

 

    (iii)議員数は人口に比例すべきだという考えは,とられなかった。

    (iv)選出された議員は,選挙民の意思には拘束されないものとされた。

   この(iii)と(iv)は,virtual representation(観念的代表制)の理論で説明される。すなわち,議員は,どこの選挙区から選ばれていようと,常に全国民の代表なのである;従って,選挙民の意思には拘束されない;ある地区が人口に相応する数の議員を送っていないということがあっても,その地区は,その議員によってのみ代表されるのでなく,庶民院の全議員によって代表されているのであるから,不都合はない,とされた。

  (田中141頁)

 

4 再び細野議長発言に関して

 細田議長は,小選挙区選出の各衆議院議員に係るその選挙区の人口数を彼此比較した場合の多寡・較差を問題とはせず(これはいわゆるアダムズ方式で是正されます。),むしろその先の,そもそも都会地から選出された議員の比率が増えることが問題なのだ,と考えておられます。

確かに,「人口の都市集中化の現象等の社会情勢の変化を選挙区割りや議員定数の配分にどのように反映させるかという点も,国会が政策的観点から考慮することができる要素の一つである」ところです(前掲最大判平成111110日等)。しかし,だから当該反映の速度は今回は緩和されるべきなのだという主張に対しては,それは前から分かっていた上で決めた話なのだし(前掲小池日本共産党書記局長発言参照。第190回国会の衆議院本会議で,不断の見直しに当たっては「特に人口が急激に減少している地域の民意を適切に反映させることに留意す」べしとする民進党提出法案(同法案附則42項)は否決されています(2016428日)。日本共産党は当該法案に反対しているので一貫しているのですが,旧民進党系の方々はどうするのでしょうか。),これからの制度としても,2020年の国勢調査結果による今次改正に続く公職選挙法別表110年ごと改正に係る10年という期間は十分長いではないか(「十年一昔」),という反論が可能なようであります。これに対する再反論は,高齢化社会における正統な多数派である老人にとって,頭も体も錆びついてからの変化は過酷であり,「十年一日」のancien régime(現在の日本においては,昭和的なるもの,でしょうか。)の維持こそが望ましいのだ,平成28年法律第49号の制定当時(2016年)の我々はまだ元気だったので分からなかったが,最近になって寄る年波でつくづくそう実感するのだ,ということになりましょうか。なるほどもっともではあります。(Mais, “ils n’ont rien appris, ni rien oublié.”

あるいは,都会地選出議員の比率が高まると,「民意の集約」に係る利点たる「政権の安定」効果及び「政権の交代を促す特質」が弱まる,ということでしょうか。しかし,ここでの「政権の安定」は,議会における与党現有議席数が十二分に多いことによる専ら当該議員らの任期中における政権の安定であって,「政権の交代を促す特質」と矛盾してはならないものでしょう。むしろ,選挙ごとに与野党間における大幅な議席の入れ替わりを伴う政権交代が可能であることが期待されていたはずです。そうであれば,仮に都会の方が人心の変化が速くてかつ大きいのであれば,都会地選出議員の比率が高まることは,むしろ当該効能に親和的であるように思われます。

マディソン的に細田議長の前記危惧を正当化するならば,都会地出身の議員の比率が増加すると多数党派による弊害・抑圧が起こりやすい,ということでしょうか(しかしこれは,多数派の意思たる民意は実は必ずしも無謬ではない,「代表」の(ふるい)による是正が必要である,という認識を含意することになりそうです。確かに,「おかしな思い込み若しくはいかがわしい利得に衝き動かされ,又は利害関係者による巧妙なまやかしに誤導されて,人民が,彼ら自身後になって思いきり悔やみかつ非難することになる政策を求める常ならざる事態が,政事においては起こるものである」(Madison, op. cit. No. 63)ところではあります。)。都会地からより多くの議員が選出される場合,都会地は狭い地域なので,彼らはその近接性によって利害をより強く共同にし,かつ,その間の連絡協働も容易であり,党派をなした上で国全体に害を及ぼす危険が地方選出の議員らの場合に係るそれよりも大きい,というような説明が試みられるのでしょうか。地方人一人の方が都会人一人よりも人として価値があるのだ,とか,浮華の巷における積極的堕落のゆえ,あるいは消極的遊惰のゆえ,都会人の民意の内容は地方人の民意のそれよりも劣っているのだ,などとはなかなか言えないでしょう。(マディソンは,都会人たる古代アテネ市民の資質に対して偏見を持っていたようですが。)

 地方は弱いから弱者を救済してくれ,でしょうか。しかし,弱者救済という崇高な政策に対してならば,当該地方からの選出議員ならずとも,全国民を代表する高潔な議員ならば皆々賛成してくれるのではないでしょうか。それとも弱者救済は,実は国民全体の利益にはならないのでしょうか。

 無論,国会は,平成28年法律第49号附則5条に規定する見直しをするに当たって,専ら同条の枠組みに拘束されるものではありません(なお,同条自体が「集約と反映」との「適正なバランス」をいっていますから,小選挙区の方における何らかの無理の辻褄を比例代表区の方で合わせるということも,あるいはあるかもしれません。)。2016427日の衆議院政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会の附帯決議においては,「本改正案附則第5条に規定する選挙制度の見直しに際しては,1票の較差の是正,定数等の在り方の検討という課題への対応のみにとどまらず,国会の果たすべき役割といった立法府の在り方についても議論を深め,全国民を代表する国会議員を選出するためのより望ましい制度の検討を行うものとする。」とされています(第190回国会衆議院政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会議録第921頁)。「立法府の在り方」ですから,極めて間口が広い。また,理論的一貫性も重視し過ぎてはならないのでしょう。18世紀のイギリス混合政体論からすると「民主制がいかにたてまえとして優れ,理論として一貫しているとしても,それは結局は暴民政治に走り,やがてはその反動として専制をもたらすことは,人類の歴史の明示するところ」なのでした(田中142頁。下線は筆者によるもの)。

細田議長発言による問題提起はどのような波動を起しつつ,我が国の空気中に伝播していくのでしょうか。いずれにせよ,主権が国民に存する我が日本国においては,全てはその時々の民意という風次第です。しかして,1828年には,風を呼ぶ男・ジャクソンに,いわゆるアダムズ方式のアダムズは敗れたのでした。

 

 〔前略〕民主政の時代が来たのである(Democracy was in)。エリートの時代は終わった。新しい力が解き放たれつつあり,新しい方途がとられつつあった。「彼は,風と共にやって来る。(When he comes, he will bring a breeze with him.)」と〔ダニエル・〕ウェブスターはジャクソンについて語った。「どちらの方角にそれが吹くのか,私には,分からない。」分からないのは,彼一人だけではなかった。

 (Jon Meacham, American Lion: Andrew Jackson in the White House (Random House, New York; 2008) p.51

 

Hütet euch gegen den Wind zu speien!

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

3 平成28年法律第49号附則5条の解釈論

しかし,平成28年法律第49号附則5条の解釈論は,憲法論的な観点等からして,面白い。

 

(1)法令用語としての「民意」の用例

まず「民意」という語が法令で用いられていること自体が珍しい。

 

ア 他の6法律・7箇条

e-Gov法令検索ウェブサイトで「民意」の語を検索してみると,実は,当該語は現在7法律中の全部で8箇条において出現しているだけです。しかして,平成28年法律第49号附則5条以外の6法律・7箇条は次のとおり(下線は筆者によるもの)。

 

 検察審査会法(昭和23年法律第147号)11項及び39条の25

  「公訴権の実行に関し民意を反映させてその適正を図るため,政令で定める地方裁判所及び地方裁判所支部の所在地に検察審査会を置く。ただし,各地方裁判所の管轄区域内に少なくともその一を置かなければならない。」(11項)

  「審査補助員は、その職務を行うに当たつては,検察審査会が公訴権の実行に関し民意を反映させてその適正を図るため置かれたものであることを踏まえ,その自主的な判断を妨げるような言動をしてはならない。」(39条の25項。11項の規定の繰り返しですね。)

 社会福祉法(昭和26年法律第45号)1144

  「第30条第1項の所轄庁は,共同募金会の設立の認可に当たつては,第32条に規定する事項のほか、次に掲げる事項をも審査しなければならない。

   〔第1号から第3号まで略〕

  四 役員,評議員又は配分委員会の委員が,当該共同募金の区域内における民意を公正に代表するものであること。」

 中央省庁等改革基本法(平成10年法律第103号)502

  「政府は,政策形成に民意を反映し,並びにその過程の公正性及び透明性を確保するため,重要な政策の立案に当たり,その趣旨,内容その他必要な事項を公表し,専門家,利害関係人その他広く国民の意見を求め,これを考慮してその決定を行う仕組みの活用及び整備を図るものとする。」

 文化芸術基本法(平成13年法律第148号)34

  「国は,文化芸術に関する政策形成に民意を反映し,その過程の公正性及び透明性を確保するため,芸術家等,学識経験者その他広く国民の意見を求め,これを十分考慮した上で政策形成を行う仕組みの活用等を図るものとする。」

 環境教育等による環境保全の取組の促進に関する法律(平成15年法律第130号)21条の21

  「国及び地方公共団体は,環境保全活動,環境保全の意欲の増進及び環境教育並びに協働取組に関する政策形成に民意を反映させるため,政策形成に関する情報を積極的に公表するとともに,国民,民間団体等その他の多様な主体の意見を求め,これを十分考慮した上で政策形成を行う仕組みの整備及び活用を図るよう努めるものとする。」

 生物多様性基本法(平成20年法律第58号)212

  「国は,生物の多様性の保全及び持続可能な利用に関する政策形成に民意を反映し,その過程の公正性及び透明性を確保するため,事業者,民間の団体,生物の多様性の保全及び持続可能な利用に関し専門的な知識を有する者等の多様な主体の意見を求め,これを十分考慮した上で政策形成を行う仕組みの活用等を図るものとする。」

 

イ 中央省庁等改革基本法502項等

 文化芸術基本法,環境教育等による環境保全の取組の促進に関する法律及び生物多様性基本法の各条項が中央省庁等改革基本法502項の影響を受けていることは歴然としています。「政策形成に民意を反映」ということですが,主に「専門家」及び「利害関係人」から意見を求めるということですから,ここでの「民意」は,実際的には民間の専門家(専門知に基づく専門家の意見は,一般人「民」の「意」見とは違うはずですが,朝臣・草莽間身分峻別論を前提とした上で,野の遺賢の意見としての官意ならぬ民意なのでしょう。)及び統治の客体(政策の受け手)のそれということになるのでしょう。

なお,中央省庁等改革基本法案が審議された第142回国会の衆議院行政改革に関する特別委員会(1998422日)において達増拓也委員が「役所が内閣提出法案の準備ということで国民の意見を吸収,民意を吸収して法律をつくっていくというのは,国会とのバランス上,非常に問題があるのではないかと思うわけであります。」と大きく問題提起をしていますが,「現状のような審議会への依存というものは,行政の法令立案機能を肥大化させて国会とのバランスを崩すものではないでしょうか,この点について伺いたいと思います。」と審議会論に議論は収縮され,当該質疑に対して橋本龍太郎内閣総理大臣も審議会の在り方に係る答弁をしています(第142回国会衆議院行政改革に関する特別委員会議録第539頁)。審議会については,「行政庁のいわば隠れ蓑になっていたりしているという批判の存在」が指摘されていました(塩野宏『行政法Ⅰ』(有斐閣・1991年)226頁)。「〔審議会〕の設置の理由は,概ね,行政の民主化,専門知識の導入,処分の公正さの確保,利害の調整にある(金子正史「審議会行政論」現代行政法大系7〔・〕118頁参照)」ものとされていたところ(塩野226頁),中央省庁等改革基本法502項の「民意を反映」は,審議会による「行政の民主化」機能を意味したものなのでしょう。いわゆるパブリック・コメントの制度に係る行政手続法(平成5年法律第88号)第6章は,2005年の平成17年法律第73号によって追加されたものであり,200641日からの施行です。

 

ウ 社会福祉法1144

 社会福祉法の「民意」は「共同募金の区域内」(都道府県単位(同法112条))のそれですから,あえて国家・国民レベルのものとして大きく出るものではなく,また,当該「民意」を代表する主体は共同募金会たる社会福祉法人にすぎません(同法1132項)。社会福祉法人をもって,統治主体であるとはいえないでしょう。同法1143号(「当該共同募金の配分を受ける者が役員,評議員又は配分委員会の委員に含まれないこと。」)と併せ考えると,寄附金配分の偏頗性の防止ないしはその疑いの回避のための「民意を公正に代表」云々なのでしょうか。

 

エ 検察審査会法1

 1948年の検察審査会法は連合国軍占領下における立法です。検察審査会の審査は英米法における「大陪審の穏やかな若しくは未発達な形態として性格づけることができる」ものとされていますので(アルフレッド・オプラー著・内藤頼博監訳(納谷廣美=高地茂世訳)『日本占領と法制改革――GHQ担当者の回顧』(日本評論社・1990年)87頁),同法における「民意」については,大陪審の制度を知っているGHQの担当者の見解が参考になるように思われます。

そこで,GHQ法務局及び民間情報教育局による検察審査会(The Inquest of Prosecution)に係る共同記者会見(1949127日。検察審査会制度に係る推奨的啓蒙が日本の新聞記者相手に図られたものです。)におけるステートメント(GHQ/SCAP Records (RG331) Box no. 2580)を見てみると,次のような説明があります。いわく,“the Committee, like the Grand Jury in England and America, expresses local public opinion, and can without formal application, examine cases well-known to the community which have not been prosecuted for various reasons.”(審査会は,イングランド及び米国の大陪審と同様に,地域の世論(local public opinion)を表明するとともに,正式な申立てがなくとも,いろいろな理由で訴追されなかったが地元(コミュニティ)ではよく知られた事件を調査することができます。), “Membership in the Committee is determined on such basis to insure that this body is truly representative of the people as a whole. The Local Election Administration Commission select 400 candidates by lot from among the voters registered as eligible to vote for members of the House of Representatives.”(検察審査員は,審査会が域内()()人々(プル)全体を真実に代表するようにするための基準に従って選ばれます。地域選挙管理委員会が,衆議院議員の選挙権を有する登録有権者の中から400名の候補者をくじで選定します。),“the entire scope of the procurators’ operations is examined by the community, and their views can be made in an effective manner. It will be hard to ignore such a strong expression of public opinion, and such power in the Inquest Committee should act as an effective popular control over the activities of the procurators.”(検察官の業務の全範囲がコミュニティによって吟味され,その見解(views)が効果的な形で形成されることができます。世論のそのように強力な表明に抵抗することは難しいことであって,検察審査会のそのような力は,検察官の活動に対する効果的な民衆的コントロールとして働くべきものであります。)とのことです。地元共同体における現存の世論(public opinion)が,すなわち検察審査会法にいう「民意」であって,検察審査会におけるその忠実な反映が意図されている,ということになるのでしょう。国家レヴェルでの「民意」ではありません。

 

(2)平成28年法律第49号附則5条の「民意」

 

ア 国家統治に関する主体的意思

 以上の「民意」に対して,平成28年法律第49号附則5条の「民意」については,その集約及び反映がされる場が国権(state power)の最高機関(憲法41条)たる国会であるという認識が前提となっているものと解されます。そうであれば,国政(government)の権力(power)の行使(憲法前文的言い回しです。)は「民意」に従うべきものである,ということが平成28年法律第49号附則5条において示された国会の憲法解釈であり,我が現行法であるということになるのでしょう。ここでの「民意」は,国家統治に関する主体的意思ということになります。これまでの用例にない,最高最強の由々しい意思です。また,当該「民意」は,国会外において既にそこに実在しているものとして観念されているのでしょう。

 

イ «peuple»主権と«nation»主権と

 つとに学界においては,日本国憲法の「「国民主権」は,男女普通選挙制を採用するとともに憲法改正について国民の直接投票を予定しているほか,最高裁判所裁判官の国民審査や地方自治特別法での住民投票など,部分的に国民の直接決定を機構化し,公務員の選定罷免権を原理上国民に留保している条文上の制度から見ただけでも,実在する国家構成員の総体の意思による国政決定の原理,すなわち«peuple»主権を意味するものであることが,認定できるであろう。」との認識がありました(樋口陽一『比較憲法(全訂第三版)』(青林書院・1992年)426-427頁。下線は筆者によるもの)。平成28年法律第49号附則5条は,当該認識を実定法化したものと考えてよいのでしょう。

 日本国憲法の「国民主権」が«peuple»主権であることが確認されなければならなかったのは,«nation»主権というものがまた別にあるからです。

 

  «nation»は,不可分で永続的な集合体として考えられた国民であり,«peuple»は,具体的な「市民」=国家構成員の集合体としてとらえられた国民であった。したがって,«nation»は性質上,非実体的・抽象的な存在であって自分自身の意思をもつことができず,「授権」によって「代表者」とされた者を通してしか,自分の意思をもつこと自体できないこととなる。それに対し,«peuple»は,少なくとも建前として自分の意思をもつことができ,国民自身による決定が,少なくとも建前として承認され,代表機構に対する国民意思によるコントロールという建前が,承認される。こうして,一般的に«nation»主権は,国民自身による決定の可能性を建前からして排除し,代表機構の意思決定の独立性を要求する「純粋代表制」を生み出すのに対し,«peuple»主権は,国民自身による決定の制度をみとめ,あるいは少なくとも代表機構が国民意思を反映すべきことを要求する「半代表制」(エスマン)に対応する(樋口・比較憲法425頁。下線は筆者によるもの)

 

ウ «nation»主権か人民主権下のマディソン主義か

 ところで,「「授権」によって「代表者」とされた者を通してしか,自分の意思をもつこと自体できない」といわれると,ふと想起してしまうのが,日本国憲法前文の「日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動しacting through our duly elected representatives),〔略〕この憲法を確定する。」及び「〔国政〕の権力は国民の代表者がこれを行使しexercised by the representatives of the people)」の部分です(下線は筆者によるもの)。これらは«nation»主権的な言明ではないでしょうか。

 とはいえ,日本国憲法前文の原案作成者であるハッシー中佐は米国人ですから,«peuple»主権対«nation»主権の二分法的枠組みによるフランス的議論の影響よりも,むしろ米国建国の父の一員にして同国4代目大統領たるジェームズ・マディソンの,人民主権の前提下における(合衆国憲法を制定確立(ordain and establish)したのは,We the people of the United States(我ら合衆国の人民)です。)democracyrepublicとを対比させて後者に軍配を上げる思考の影響を考えた方がよいのでしょう。

 

  〔前略〕他方,ある党派(faction)に多数者(a majority)が属する場合においては,民衆政体(the form of popular government)は,当該党派が彼ら自らを支配する思い込み又は利害(its ruling passion or interest)のために,公益及び他の市民の権利(the public good and the rights of other citizens)を二つながら犠牲に供することを可能ならしめる。したがって,そのような党派の危険から公益と私権とを守ること並びにそれと同時に民衆政の精神及び制度を維持することが,我々の研究がそれに向けられる大目的なのである。更に付言させてもらえば,それこそが,この政体を,かくも長い間その下で苦しんでいた汚名から救い出し,かつ,人類によるその評価及び採用に向けて薦めることができるようにそれ一つでなすところの,大いに望まれていた解決(great desideratum)なのである。

   どのような方法によってこの目的は達成できるであろうか?二つのうちの一つだけであることは明らかである。多数者中において同一の思い込み又は利害が同時に存在することが防止されなければならないか,そのような思い込み又は利害を共有しつつも,その数及び地域的事情によって,多数者が,抑圧策を共謀し,かつ,実行に移すことができないようにされなければならないか,である。〔略〕

   この観点からすると,純粋な民主政(pure democracy)――私はこの語によって,少数の市民からなる社会であって,彼らが自身で集会し,かつ,国政を処理するものを意味している――は,党派の弊害に対する治癒策を受け容れることができないのである。共通の思い込み又は利害が,ほぼ常に,全体中の多数者によって感じられている。意思連絡及び協働が,政体それ自体から結果として生ずる。そして,弱小派又は目障りな個人(obnoxious individual)を犠牲に供すべき誘引を掣肘(チェック)するものは何も存在していないのである。ゆえに,そのような民主政は,常に動揺及び紛争の演ぜられる場であり続けたのであり,身体の安全(personal security)又は財産権(rights of property)と常に不適合であったのであり,一般にその寿命は短く,かつ,その終焉も暴力的であったのである。この種の政体を贔屓する理論派の政治家は,人類を政治的権利において完全に平等にすれば,彼らは同時にその財産(possessions),意見及び思い込みにおいても完全に平等かつ同一化されるものとの誤った推論をしていたのである。

   共和制(republic)――私はこの語によって,代表制(scheme of representation)が採られている政体を意味している――が,異なった展望を開き,かつ,我々の求めている治癒策を約束する。それが純粋民主政と異なる諸点を検討しよう。そうすれば我々は,治癒策の性質及びそれが連合(Union)から得るところの効用の双方を理解することができる。

   民主制と共和制との間における二つの大きな相違点は,次のとおりである。第1,後者〔共和制〕における,他の市民から選ばれた少数の市民への政治の委任(delegation of the government)。第2,後者〔共和制〕がその上に拡張され得る,より大きい市民人口及びより大きい国の領域。

   第1の相違点の効果は,まず,その知恵が彼らの国の真の利害を最もよく見分け,かつ,その愛国心及び正義への愛は一時的又は一部的考慮のために国益を犠牲にすることの最も少ないであろうところの選ばれた市民団という媒体を通ることによって,公共の視点が洗練され,かつ,拡大されることである。そのような規整下においては,人民の代表者らによって表明される公共の声(public voice)は,当該目的のために招集された人民彼ら自身によって表明されるときよりも,公益により適合しているということがよく生じ得るところである。他方,当該効果は反転され得る。党派的気質,地域的偏見又は悪しき企みの男たちが,陰謀,腐敗又は他の手段によって,まず選挙を制し,次に人民の利害を裏切るということが起こり得るのである。そこから帰結される問題は,公共の福祉に係るふさわしい守護者を選ぶために最も適切なのは小さな共和国か,広い共和国か,ということである。しかして,二つの明白な考慮によって,後者〔広い共和国〕が優れているものとの決定がはっきりとなされるところである。

   〔略〕大共和国においては小共和国におけるよりも適格者の比率が低いということのない限り,前者〔大共和国〕の方がより大きな選択可能性を提示するのであり,したがって,適切な選択の可能性がより大きいのである。

   次に,各代表者は,大共和国においての方が小共和国においてよりもより多い人数の市民によって選ばれるところ,選挙がそれによって余りにもたびたび決せられてしまうところの邪悪な術策を弄して成功することが,不適格な候補にとってより難しくなるのである。さらには,より自由である人民の投票は,最も魅力的な長所及び最も拡がりを持ちかつ確立した性格を有する者に集中するとの傾向を強めるであろう。

    〔略〕

   他の相違点は,共和政体における方が民主政体におけるよりもその範囲内により多く包含され得る市民人口及び領土の広がりである。しかして,主にこの事情こそが,党派的結合に係る危惧を,前者〔共和政体〕において後者〔民主政体〕におけるよりもより小さくするのである。社会が小さければ小さいほど,当該社会を構成する各別の党派及び利害は恐らく少なくなるであろう。各別の党派及び利害が少なければ少ないほど,当該党派が多数者となる機会がより多くあるであろう。多数者を構成する個人の数が少なければ少ないほど,また,彼らの所在する場が小さければ小さいほど,彼らはより容易に彼らの抑圧計画を協議し実行するであろう。領域を拡大すれば,より大きな多様性を持つ党派及び利害を招き入れることになる。全体中の多数者が他の市民の権利を侵害すべき共通の動機を持つ可能性はより低くなるのである。また,そのような共通の動機が存在する場合であっても,それを感ずる者の全体が彼ら自身の勢力を発見し,かつ,相互に協力一致して行動することはより難しいであろう。ここで述べておくが,他の障碍があるほかに,不正又は不名誉な目的のためであるとの自覚がある場合,その同意を要する者の数の増加に比例して,相互連絡は,相互不信によって常に掣肘を被るのである。

   したがって,党派の影響をコントロールすることにおいて共和政が民主政に対して有する利点は,同様に大共和国によって小共和国に対する関係でも享受されている――すなわち,連合(ユニオン)によって構成諸州との関係で享受される――ということが明らかとなるものである。〔後略〕

  (The Federalist Papers No. 10

 

  〔前略〕我々は共和政体(a republic)を,その全権力が直接又は間接に人民の偉大な集合体(the great body of the people)から由来し,かつ,限られた期間その欲する限りにおいて又はその行動が善良である限りにおいて官職を保有する者によって運営される(is administered)政体であるものと定義できるであろうし,少なくともその名をそれに与えることができよう。〔略〕そのような政体にとっては,その運営者が直接又は間接に人民によって任命され,かつ,上記の任期のいずれかの間在任するものであるということで十分である。さもなければ,連合各邦の政体及び他のよく組織されかつ運営されてきた,又はされることができる全ての民衆政体(popular government)は,共和的性格を有するものではないものとされる降格の憂き目を見ることになってしまう。〔後略〕

  (op. cit. No. 39. 下線部は原文イタリック体

 

〔前略〕我々の政治的計算を算術的原理の上に基礎付けることほど誤ったことはない。一定の権力を委ねるには,60ないしは70名の人々に対してする方が,6又は7人に対するよりも適当であろう。しかしながら,だからといって600ないしは700人になれば比例的によりよい受託機関となるわけではない。更に我々が想定を6000ないしは7000人にまで進めると,それまでの全推論は顚倒されざるを得ない。実際のところは,全ての場合において,自由な協議及び議論の利益を確保し,並びに不適切な目的のための結合を防ぐためには最低限一定数の参加者が必要であるものと観察はされるものの,他方,多数群衆(a multitude)の混乱及び放縦を防ぐためには,人数は一定の最大値以下に抑えられなければならないのである。どのような資質の人々によって構成されていようとも,全ての非常に多人数の集会においては,情動(passion)が理性からその王尺を奪い損ねるということは全くない。全アテネ市民がソクラテスであったとしても,全てのアテネの集会はなお暴民の群れ(a mob)であったことであろう。

  (op. cit. No. 55

 

   これらの事実――更に多くのものを付け加えることができようが――から,代表の原理(principle of representation)は古代人に知られていなかったわけではなく,また,彼らの政治体制(political constitutions)において全く無視されていたわけではないことが明らかである。それらとアメリカの諸政体との真の相違は,後者〔アメリカの諸政体〕においてはそこへの参与から,その集団としての資格において(in their collective capacity)人民を完全に排除しているということにあるのであって,前者〔古代人の諸政治体制〕の運営から人民の代表者らが完全に排除されていたというようなことにはないのである〔古代の共和政においても代表制が採用されていなかったわけではない。〕。しかしながら,このように修正された上での当該相違は,合衆国のために最も有利な優越性を残すものであることが認められなければならない。〔後略〕

  (op. cit. No. 63. 下線部は原文イタリック体)

 

マディソンは,後にジョージ・ワシントン初代大統領の時代,トーマス・ジェファソンの子分になってワシントン政権(及び初代財務長官アレグザンダー・ハミルトン(The Federalist Papersをマディソンと一緒に書いています。))に対する反対党を結成するに至り,当該政党が現在の米国の民主党(Democratic Party)につながっているのですが,マディソンを幹部に戴く当該政党がDemocratic Partyなどと自ら名乗ることは当然なく,当初の名乗りは――現在からすると紛らわしいことに――Republicansでした。当該政党が,いわゆるアダムズ方式の第6代ジョン・クインジー・アダムズとOK男たる第7代アンドリュー・ジャクソン(その肖像画をトランプ大統領が執務室に飾っていました。)とが争った1824年及び1828年の大統領選挙を経て分裂し,1828年における後者の勝利及び18293月の大統領就任の後に,後者の下で単にDemocratsとなります。

日本国憲法前文においては,憲法については国民(というより人民(people))が代表者を通じて(through)行動してそれを確定(firmly establish)しているのに対して,その他の国政の権力に係るその行使は,国民の代表者がする(国民の代表者によって(by)される)ものとされています。ここでthroughbyとの使い分けにこだわれば,憲法制定はさすがに人民の意思に基づかねばならぬのでthroughであるが(それでもthroughですから代表者を通じた間接的な基礎付けです。),その他の国政の権力の行使はいちいち人民の意思に基づかなくてよいよ,知恵並びに愛国心及び正義への愛において卓越する代表者限りでその責任で(byで)やってくれた方が公益により適合するだろうからね,人民の意思(民意)それ自体は直接民主政アテネの民会決議のようなもので,暴民の群れのおめき声にすぎないからね,とまでハッシー中佐のマディソン的思考は進んでいたものかどうか気になるところです。リンカンのゲティスバーグ演説の有名な部分(government of the people, by the people, for the people)を我が憲法前文にそのまま借用すれば「その権力は国民が(又は,国民がその代表者を通じて)これを行使し」という表現となっていたはずですのでなおさらです。憲法改正ですと(さすがに人民の意思に基づく必要があるということでしょうか)国民投票があるのですが(憲法961項),発議者たる代表者・国会(全国民を代表する選挙された議員で組織された両議院により構成されています(同431項・42条))を通じて我ら日本国の人民は行動すべく,「黙々として野外で政務官に導かれるままに投票するローマの民会」的な場面(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)5頁)が展開されることが想定されているのでしょう。我が国における当該政務官は,国会に設けられる国民投票広報協議会ということになるのでしょうか(国会法(昭和22年法律第79号)102条の11及び102条の12並びに日本国憲法の改正手続に関する法律(平成19年法律第51号)11条から19条まで)。「劇場に座して討論の坩堝の中に熱狂するギリシャの民会」(原田5頁)は危険です。

 平成28年法律第49号附則5条に戻りましょう。

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 20211220日の細田博之衆議院議長発言

 202112201623分付けの時事ドットコムニュースは,「細田衆院議長が「1010減」批判」との見出しで,次のように報じています。

 

   細田博之衆院議長は〔202112月〕20日,自民党衆院議員の会合に出席し,15都県で衆院選の小選挙区定数を「1010減」とする「1票の格差」是正策について,「数式によって地方(の分)を減らし,都会を増やすだけが能ではない」と批判した。法律に基づいて決まった方向について衆院議長が表立って異論を唱えるのは異例だ。

 

この細田議長発言を機縁として,筆者は,清宮四郎的な「違法の後法」問題ならぬ「違法の現法」問題に関しての検討を余計なことながらすることとなってその結果本件はそうはならぬのかと安心をし,さらにはその際,同議長らがかつて法案を提出した平成28年法律第49号の附則5条(これは憲法論喚起的な条項です。)に逢着したことから,続いて「民意」,代表,憲法431項等々の問題が誘起せられて,それらに関してのだらだらとした駄文を書き連ねることとなりました。日本国憲法はGHQ(連合国軍総司令部)の御指導による産物ですから憲法431項及び前文を通じて話柄は米国建国の父の政治論(Madison in The Federalist Papers)にも向かうことになり,さらに筆者の憲法漫談ではおなじみのベルギー国憲法も少し登場します。昔話も,新型コロナウイルス対策問題猖獗下の今日の我が国民主権国家における混迷・苦難の情況を観察・評価するに当たって,何らかの参考を提供してくれるものでしょう。

しかし前置きは,これくらいにしておきましょう。

 

2 「違法の後法」ならぬ「違法の現法」問題

さて,前記細田議長発言の記事を電車車中スマートフォンで一読して筆者が咄嗟に思ったのは,「これは,前法に「違反」した立法の作為に係るかの「違法の後法」問題ならぬ――立法の不作為に係る「違法の()法」問題を衆議院議長御自ら惹起せしめんとしているのではないか。」ということでした。

当該思案は,当blogに前回掲載した「明治35年法律第38号(「違法の後法」の前々法)に関して」記事((前編)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079233644.html;(後編)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079233646.html)に関係します。

清宮四郎の有名な「違法の後法」論文(1934年)が想起されてしまったのでした。

 

(1)清宮論文(前半):「違法の後法」の存在

清宮四郎の「違法の後法」論文(樋口陽一編・清宮四郎『憲法と国家の理論』(講談社学術文庫・2021年)293-322頁収載)は,「現行法〔大正14年法律第47号たる衆議院議員選挙法〕の前身たる大正8年の選挙法(大正8年法律第60号)〔正確には,同法によって改正された明治33年法律第73号たる衆議院議員選挙法〕の別表〔選挙区及び各選挙区において選挙すべき議員の数を定めるもの〕の後に〔略〕10年間不更正の旨の規定〔「本表ハ十年間ハ之ヲ更正セス」〕が存したにも拘わらず,それから10年経過しない大正14年に法律を以て普通選挙制を採用すると同時に別表全部を改正し」たことを「「違法の後法」という題下に,あらためて問題にし」たものです(同293-294頁)。清宮は,「10年くらいの不更正は法の可変性とも矛盾せず,〔略〕法の内容としては可能である」として(樋口編305頁)当該10年間不更正規定の法規範性を肯定した上で(同294-295頁)――ただし,「法律自らが法律自身の創設変更についての定めをなす」ことは法律の制定に係る憲法の授権の範囲を越えて無効となるのではないか,との「まず解決される必要がある」問題の解決については,清宮は「留保」したままです(同295-296頁)――「前の10年不更正を宣明する法律が有効に成立するとすれば,それは法律でありながら法律の変更規定を包有するもので,普通の法律と同じ段階にあり得ず,これより上位段階の規範と見做されねばなら」ず「いわば憲法補充的性質の法律」となるとし(同306頁),「選挙法の例において後の法律が前の法律に違反する法律,違法の後法なのは疑ない」ものと断じています(同307頁)。

 

(2)平成28年法律第49号によって改正された衆議院議員選挙区画定審議会設置法32項等

細田議長の発言が「違法の後法」ならぬ「違法の現法」問題を惹起するのではないかと筆者が懸念した理由は,平成28年法律第49号(「衆議院議員選挙区画定審議会設置法及び公職選挙法の一部を改正する法律」)によって改正された衆議院議員選挙区画定審議会設置法(平成6年法律第3号)の規定にあります。

すなわち,衆議院議員選挙区画定審議会設置法2条により「衆議院小選挙区選出議員の選挙区の改定に関し,調査審議し,必要があると認めるときは,その改定案を作成して内閣総理大臣に勧告するもの」とされる衆議院議員選挙区画定審議会(内閣府に置かれています(同法1条)。)は,当該勧告を「国勢調査(統計法第5条第2項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査に限る。〔直近のものは2020年に行われました。〕)の結果による人口が最初に官報で公示された日〔2020年の国勢調査については2021625日付け官報掲載の令和3年総務省告示第207号で公示〕から1年以内に行うもの」であるところ(衆議院議員選挙区画定審議会設置法41項〔したがって,2020年の国勢調査に係るものは,2022年の625日までに勧告されることになります。〕),当該勧告に係る改定案(同法31項)の作成に当たっては,各都道府県の区域内の衆議院小選挙区選出議員の選挙区の数をいわゆるアダムズ方式によって決めるものとされているところです(同条2項)。(いわゆるアダムズ方式の説明は大仕事なのですが,当該方式については,その発案者であるジョン・クインジー(クインーではありません。)・アダムズ米国連邦下院議員(発案当時はもう第6代米国大統領ではありませんでした。)の紹介と共に,「いわゆるアダムズ方式に関して」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078277830.html)を御参照ください。)しかして,平成28年法律第49号の法案提出理由はいわく。

 

衆議院小選挙区選出議員の選挙区間における人口較差に係る累次の最高裁判所大法廷判決及び平成28114日に行われた衆議院選挙制度に関する調査会の答申を踏まえ,衆議院議員の定数を10人削減するとともに,衆議院小選挙区選出議員の選挙区間における人口較差の是正措置について,各都道府県の区域内の選挙区の数を平成32年〔2020年〕以降10年ごとに行われる国勢調査の結果に基づきいわゆるアダムズ方式により配分することとし,あわせて平成27年の国勢調査の結果に基づく特例措置を講ずる等の必要がある。これが,この法律案を提出する理由である。

 

 つまり,一見したところ,2020年に行われた国勢調査の結果に基づきいわゆるアダムズ方式に忠実に各都道府県の区域内の選挙区(衆議院小選挙区選出議員の選挙区)の数を配分すること(具体的には,当該配分を実現すべく公職選挙法(昭和25年法律第100号)の別表第1(同法131項参照)を遅滞なく改正すること)は,第190回国会において成立した平成28年法律第49号によって,国会の法的義務となったように思われるのです。その結果,立法の不作為があれば,それは違問題云々以前に,違なもの(それに伴い,改正されざる現行法も違なもの)となるようであります。しかも,いわゆる議員立法である平成28年法律第49号の法案提出者は,細田博之,逢沢一郎,岩屋毅,北側一雄及び中野洋昌の衆議院議員5名でした。夫子御自らが筆頭提出者となっていたのです。

 ゆえに,日本共産党の小池晃書記局長は細野議長に対して口汚くならざるを得ません。

 細田発言があった当日である202112202018分に配信された朝日新聞Digitalの記事は,「共産・小池氏「天につばする発言」 細田議長の「1010減」批判」と題していわく。

 

共産・小池晃書記局長(発言録) 〔略〕天につばする発言だと言わざるを得ない。2016年〔平成28年〕に国勢調査の結果に基づき,自動的に定数を変えていくという形での法改正をした。その時の各党協議会の座長が細田氏だ。

 

 「天つば」はやめろ,ですね。確かにきたない。(なお,当該報道をした朝日新聞に対して,「國賊朝日新聞」と公然罵詈非難することは侮辱罪(刑法(明治40年法律第45号)231条)に当たる可能性があるので御注意ください(小野清一郎の説くところです。「侮辱罪(刑法231条)に関して(上)」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079121894.html)参照)。)

自らのつばきを浴びつつする,違法の法律に係るそれにもかかわらざる法的有効性の論証作業は面倒そうです。

 

(3)清宮論文(後半):「違法の後法」の法的有効性

ここで「違法の後法」論文に戻れば,「違法の後法〔大正14年法律第47号たる衆議院議員選挙法〕が現在有効の法として存在しているのである。」(樋口編307頁)という事実がありますから,当該事態を法的に説明しなければならなくなって,清宮四郎は大いに苦労しています。(宮沢俊義及び美濃部達吉のように10年間不更正規定の法規範性(法的効力ないしは立法者を拘束する力)を最初にあっさり否定しておけば(樋口編294頁),しなくても済んだ仕事のようではありますが。)

清宮は「革命の結果出来た憲法も憲法としての法的効力に変わりはなく」(樋口編309頁),「法がその実定法としての存立要件を充たす場合には,必ずしも適法の法のみならず,違法の法も実定法として存立し得る。」と説くことになります(同310頁)。それではその存立要件は何かといえば,①被定立性(これは自然法又は理法との相違)及び②通用性であるとされます(樋口編310頁)。更に法の通用性について,「一言にしていえば,法が実現の可能性をもつことである。法が遵守さるべき規範として行なわれ,生きていることである。法が実効性(Wirksamkeit)又は法的実力(Rechtsmacht)と拘束性(Verbindlichkeit)とをもつことである。」と(樋口編311頁),いろいろな言い換えがされます。実定法の通用性が実効性と言い換えられた上で,「実効性は法の存続の要件であると同時にその成立の要件である。ここにおいてわれわれは事実と法との密接不離の関係を見る。〔略〕法と事実との闘いにおいては,法は少なくとも一応は事実に屈服せねばならない。」と(樋口編313頁),事実の力の話となり,更に「事実は法の創成・存続の基礎である。「事実の規範力」は「法源」である。」ということになって(同314頁),事実の規範力なる理論が出てきます。しかして「事実の規範力」を認めるべき淵源は,「事実の規範力を認むべし」という原理(「根本規範」),「事実によって「底礎」され,事実に基づいて創設される法を法として認むべしとの根本原理」であるそうです(樋口編315頁)。「実定法通用の論理的基礎がここにおいて与えられた。」との宣言が高らかになされ(樋口編315頁),「かくして問題の違法の後法が実定法として存在する基礎づけは一まず終った。」とされます(同316頁)。で,当該根本規範ないしは根本原理は何かといえば,それは人類の団体生活に伴う公理です。「これは実は,われわれが団体生活を営み,法が「団体規則」であることから当然認めねばならない原理である。われわれは好むと好まぬとに拘わらず,これを認めねばならず,これを倫理的或いは政治的立場から評価するのは自由であるが,取除くことは不可能のものである。これこそ実定法の存在及び変更の究極の基礎原理」であるということでありました(樋口編316頁)。(ただし,当該論文の最後は,「問題の解決に曙光を得ようと努力したが,残された謎はなお頗る多い。」ということで(樋口編322頁),まだなかなかすっきりしません。)

前法の変更に係る当該前法における規定に違反した後法ないしは現法は違法である(かっこよいドイツ語だとRechtsbruchということでしょうか(樋口編317頁参照)。)ということになると,当該違法の法の法的有効性を説明することが大仕事になるのでした。違法の法も法であるという矛盾的事態の説明は難しい。辛抱強い人でなければ当該説明は聴いてもらえず,最後まで聴いてもすっきり理解してくれる人は更に少ないことでしょう。しかし,細田議長ともあろう人物が,「事実の規範力」,「根本規範」,「実定法の存在及び変更の究極の基礎原理」等々の晦渋な概念が深々と繁茂する苦難の藪山にうっかり自ら足を踏み入れるようなことをするのでしょうか。

 

(4)問題解決:公職選挙法別表1改正の法的義務の不存在

小池日本共産党書記局長は,「国勢調査の結果に基づき,自動的に定数を変えていく」ものとあっさり述べています。それが現行法の仕組みであるということでしょう。しかし,実はこの辺からが怪しい。当該「自動」性が法律上どのように規定されているのかを知るべく衆議院議員選挙区画定審議会設置法を眺めてみると,そこにはその旨の明文規定が存在していないのです。同法5条が「内閣総理大臣は,審議会から第2条の規定による勧告を受けたときは,これを国会に報告するものとする。」と規定しているのみです(ただし,岸田文雄内閣総理大臣は,20211221日の記者会見において「政府としては,その勧告に基づく区割り改定法案を粛々と国会に提出するというのが現行法に基づく対応であると認識をしております。」と,内閣総理大臣からの報告にとどまらず内閣からの法案提出までをする旨の認識を示しています。)。当該報告を受けた国会がどのような対応をとるべきかについては,衆議院議員選挙区画定審議会設置法は沈黙しています。公職選挙法においても,衆議院(比例代表選出)議員の選挙区及び各選挙区において選挙すべき議員の数について定める別表2(同法132項)については,西暦末尾0の年の国勢調査の結果によっていわゆるアダムズ方式により「更正することを例とする」と規定していますが(同条7項),小選挙区選出の衆議院議員の選挙区に係る別表1についてはそのような規定はありません(同条参照)。

なお,「例とする」との規定が折角あっても,その効力は実は弱い。法的義務付けはされていないのです。すなわち,「「例とする」又は「常例とする」とは,通常の場合,当該規定の定めるところにより,一定事項をすべきであるが,絶対にこれに違背することを許さないという趣旨ではなく,仮に違背しても法律上の義務違反にはならないという,ごく緩い訓示的規定を意味する」ものなのです(吉国一郎等編『法令用語辞典〈第八次改訂版〉』(学陽書房・2001年)758頁)。

衆議院議員選挙区画定審議会設置法5条の内閣総理大臣報告がされても,国会としてはただ聞き措いて公職選挙法別表1を改正しないという対応も可能であり,そこに違法性はなく,法律上の義務違反ではもちろんないということになります。当該内閣総理大臣報告の採否及び採用の場合のその範囲は,その時点での政治情勢次第ということなのでしょう。

しかのみならず,上記「その時になってから」的な政治的対応を正当化すべく,平成28年法律第49号の法案提出者らはあらかじめ周到な準備をしています。同法附則5条の規定がそれです。

 

(不断の見直し)

5条 この法律の施行後においても,全国民を代表する国会議員を選出するための望ましい選挙制度の在り方については,民意の集約と反映を基本としその間の適正なバランスに配慮しつつ,公正かつ効果的な代表という目的が実現されるよう,不断の見直しが行われるものとする。

 

 同条の精神によれば,不断の見直しの結果,いわゆるアダムズ方式による結論をそのまま採用することはやめることにした,という事態は当然あり得ることとなるのでしょう。ただし,「公正かつ効果的な代表という目的が実現される」ためのものである「全国民を代表する国会議員を選出するための望ましい選挙制度」としては,いわゆるアダムズ方式の丸呑みではないこちらの改正案(現状維持案を含む。)の方が優れているからだ,という理由付けは,少なくとも政治的には必要となるのでしょう。


(中)平成28年法律第49号附則5条と「民意」:

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079288885.html

(下)平成28年法律第49号附則5条と憲法431項その他:

   http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079288902.html

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

(承前:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079233644.html

 

ウ 貴族院における復活

衆議院で削られた10箇年間不更正条項は,190238日の貴族院の選挙法改正法案特別委員会において,小澤武雄委員の提案により,復活すべきことが可決され(第16回帝国議会貴族院選挙法改正法案特別委員会議事速記録第311-12頁),同月9日の同院本会議で,衆議院送付案についてその旨の修正可決がされています(第16回帝国議会貴族院議事速記録第25463頁)。しかしてその際貴族院は,望月衆議院議員が懸念したような「愚」なる解釈に拠ったものかどうか。

190239日の貴族院本会議における選挙法改正法案特別委員会の廣澤金次郎特別委員長による報告中,10箇年間不更正条項の復活に関する部分は次のとおりです。

 

此復活ノ理由ニ附イテ申上ゲマスレバ詰リ斯ノ如キ大切ナル法案デアルシ,且ツ又衆議院議員選挙法ノ如キハ外国ノ例ニ比シテモ成ルベク一タビ制定シタ以上ハ之ヲ改正シナイト云フノガ精神デアルガ故ニ,政府原案ノ如ク此処10年間ハ之ヲ改正シナイト云フ制限ヲ附ケルノガ必要デアルニ依ッテ,此末項ヲ復活シタ次第デアリマス,此10年ト云フ数ニ於キマシテハ是ハ一ハ各国ノ例ガ重ニ10年或ハ10年以上ニナッテ居リマスシ,且ツ又政府ハ人口調査ヲ5年置キニスルト云フコトデアッテ即チ2回目ノ人口調査以後デナケレバ此別表ヲ改正シナイ,其中ヲ採リマシテ茲ニ10年ト云フ制限ヲ設ケタ次第デアリマス

(第16回帝国議会貴族院議事速記録第25457頁。下線は筆者によるもの)

 

 この10箇年間不更正条項=精神規定論については,法制局長官たる奥田政府委員によって当該本会議において敷衍されるところがありました。

 

  政府ニ於キマシテハ矢張原案ノ通ニナシテ置イテ,サウシテ万一ニモ屢〻改正ヲスルト云フヤウナ意見ノ出マシタトキノ防ギニモシ,且ツ又斯ノ如キ法律案ハ屢〻改正ヲスベキモノデナイト云フコトノ精神ヲ法律ノ上ニ明ニ示シテ置キタイト云フ,斯ウ云フ積デアリマス

  (第16回帝国議会貴族院議事速記録第25459頁。下線は筆者によるもの)

 

エ 衆議院における回付案に対する同意

10箇年間不更正条項が復活した貴族院190239日可決の回付案は,同日中に衆議院本会議において同意の議決がされ,結果として政府提出案と同内容での帝国議会の協賛がされたことになりました。当該同意の議決の状況は,次のとおり。

 

  〇尾崎行雄君(52番) ソレハ少シク衆議院ノ意見トハ違フ所ガアリマスケレドモ,其大要ニ於テハ,貴族院ノ修正通ニシタ所ガ,大体ニ於テ強テ差支ガナイコトヽ信ジマスガ故ニ,枉ゲテ是ニ同意シテ,此案ヲ成立セシメルコトヲ希望致スタメニ,此動議ヲ提出致シマス

     (「賛成々々」ノ声起ル)

  〇議長(片岡健吉君) 貴族院ノ修正ニ同意スルコトニ,御異議ハアリマセヌカ

     (「異議ナシ異議ナシ」ト呼フ者アリ)

  〇議長(片岡健吉君) 御異議ガナケレバ同意スルコトニ致シマス

  (第16回帝国議会衆議院議事速記録第29628頁)

 

駆け足で議決がされてしまったことについては,190239日が第16回帝国議会の会期の最終日であったとともに,衆議院議員らとしては,同年夏の任期満了に向けて,総選挙がもう間近に迫って気がせいていたという事情もあるものでしょう。

尾崎議員が「大体ニ於テ強テ差支ガナイコトヽ信ジ」た内容は,10箇年間不更正条項によって「屢〻改正ヲスルト云ウヤウナ」意見は事実上通りにくくはなるが,精神規定にとどまるものであって,立法権の自己制限としての法的効力は当該条項にはないのである,ということであったものでしょう。また,さきに見たように,それが政府及び貴族院の解釈でもあったはずです。

 

3 小括

 

(1)「違法の後法」論文再訪

「いわゆる法律の自主合法性の原理により,かかる規定と雖も君主と議会との有権解釈一致して成立した国家最高の意志たる法律として制定され,国法上これを審査し得る機関なく,たとえ一応は違憲と見られても,実際上,適法なものとして取扱うの外はない」と清宮とともに論じようにも(樋口編296頁),それ以前に,明治35年法律第38号に関して政府と議会両院との有権解釈が一致していたところは,10箇年間不更正条項は精神規定であって法的効力はない,とするものでした。したがって,後法を違法化するまでの力はなかったようです。

「かくしてわが選挙法の問題から計らずも国家作用論に関する諸種の難問に逢着し,一面ウイン学派の純粋法学における法の動学・法創設理論と,他面,主としてゲ・イェリネックの事実の規範力とを省みつつ,問題の解決に曙光を得ようと努力したが,残された謎はなお頗る多い。一般の示教を仰いで更に想を練り,一段の高処に到る一階梯にというのが筆者せめてもの念願である。」と清宮はその「違法の後法」論文を結んでいますが(樋口編322頁),当該階梯の上り口の最初に据えてある我が衆議院議員選挙法(明治35年法律第38号による一部改正から,大正8年法律第60号による改正を経て,大正14年法律第47号による全部改正まで)は,足場としてはなかなか無安心なものであったように思われます。大正14年法律第47号が違法の後法として実在してくれているのでなければ(少なくともその可能性がなければ),議論はいささか迫力を欠くようです。しかしこれは,「条文の解釈にのみ逃避するの怠慢に陥った」ところの「易きに」つくの俗徒特有の感慨であって,「実定法秩序の全体に通ずる理論的研究,ことに,国家的法秩序の論理的構造の究明」という「法学者にとって極めて重要な課題」に取り組むための端緒としてはなお十分なものだったのでしょう(清宮四郎「ブルクハルトの組織法・行態法論」(樋口編353頁)参照)

 

(2)10年間不更正条項の消滅

衆議院議員選挙法(大正14年法律第47号)別表の10年間不更正条項は,19451217日裁可,同日公布の昭和20年法律第42号による同表の全部改訂において削られています(政府提出案の段階から)。大日本帝国憲法の改正が日程に上っている時期にあって,帝国憲法附属の法律につき「10年間ハ之ヲ更正セス」というのはちょっとした浮世離れであるものと感じられたがゆえでしょう。なお,1925年の改正からは,10年はとうに過ぎていたところです。

 

4 思い付き及び蛇足

 

(1)立法技術的に見た10年間不更正条項

ところで,不図思うに,10年間不更正条項の効力については,我が国の法制執務が立法技術的にいわゆる溶け込み方式を採用していることに由来する問題が,実はあったのではないでしょうか。すなわち,明治35年法律第38号の10箇年間不更正条項及び大正8年法律第60号の10年間不更正条項はいずれも明治33年法律第73号に溶け込んでしまっていたところ,そうであれば当該10年間の起算時点は,明治33年法律第73号の裁可日の1900328日か,公布日の同月29日か,又はその施行がされた第7回総選挙の開始日(当該総選挙を行うことを命ずる詔勅の日付は1902421日,その官報掲載日は同月22日,投票日は同年810日)であるべきことになっていたのではないでしょうか(立法機関自身の自己拘束規定であるとすれば,裁可日が起算日になりそうです。)。であればすなわち,1919年制定の大正8年法律第60号の10年間不更正条項は,効力期限が既に過ぎてしまった条項の事後的修文にすぎなかったということになってはしまわないでしょうか。しかしこれは,余りにもふざけた話だということになりそうです(1919年当時の原敬内閣の法制局長官は横田千之助)。

公職選挙法(昭和25年法律第100号)137項前段の「別表第2は,国勢調査(統計法(平成19年法律第53号)第5条第2項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査に限る。以下この項において同じ。)の結果によって,更正することを例とする。」との規定のように繰り返し適用される規定であるのならばよかったのでしょうか。そうだとすると,10年間不更正条項をもって(繰り返し繰り返し)「10年後には更正すべきものであることの趣意を言明して居る」ものでもあるとする解釈(美濃部102頁)は,条項の文言自体からは一見読み取りづらいところですが,あるいはこの点を慮ってのものかもしれません。

 

(2)中央省庁等改革基本法3316

 最後に蛇足です。

前世紀末の中央省庁等改革基本法(平成10年法律第103号)の第331項柱書きは「政府は,次に掲げる方針に従い,総務省に置かれる郵政事業庁の所掌に係る事務を一体的に遂行する国営の新たな公社(以下「郵政公社」という。)を設立するために必要な措置を講ずるものとする。」と規定し,同項6号は「前各号に掲げる措置により民営化等の見直しは行わないものとすること。」と規定しています。同法制定の1998年当時,この中央省庁等改革基本法3316号があるから郵政三事業が民営化されることは永久になくなったのだ,しかも郵政公社職員はあっぱれお役人なのだ,我々の勝利だ,橋本龍太郎(内閣総理大臣)を担いだ通商産業省の陰謀になんか負けないのだ,我々の政治力はすごいのだと威張る郵政省関係者が大勢いたものかどうか。しかし,そういう安易な自得及び安心に対しては,当該規定は,郵政三事業を民営化等する立法を禁止することにより,将来的に「違法の後法」問題という難しい問題をいたずらに惹起してしまうだけのものではないか,その場合やはり結局のところ後法は前法を破るとの結果になるのではないかとの心配がされました。とはいえ,そういう不正確な心配をするのは閣法(内閣提出法律案)中心主義に毒されていたからであって,中央省庁等改革基本法331項の名宛人は行政府であって立法府ではなく,同項6号の問題は,立法機関における内面的拘束力による自らの義務付け・法律の自己制限の問題には該当しないものでした。法律をもって憲法上の内閣の法案提出権を制限することの可否いかんの問題でありました。

中央省庁等改革基本法3316号の法的効力に関する政府の解釈は,2002521日の衆議院本会議において,当時の小泉純一郎内閣総理大臣から次のように表明されています。

 

  中央省庁等改革基本法についてのお尋ねでございます。

  基本法は,郵政三事業について,国営の新たな公社を設立するために必要な措置を講ずる際の方針の一つとして,「民営化等の見直しは行わない」旨を定めておりますが,これは,公社化までのことを規定したものであります。

  したがって,民営化問題も含め,公社化後のあり方を検討すること自体は,法制局にも確認しておりますが,法律上,何ら問題はありません。

  そこで,今回の公社化関連法案には削除は盛り込まないこととしたものでありますが,郵政事業のあり方については,この条項にとらわれることなく,自由に議論を進めてまいりたいと考えております。

 (第154回国会衆議院会議録第367頁。「総理が重ねて主張してきた,中央省庁等改革基本法第33条第1項第6号の「民営化等の見直しは行わないものとする」という条項が削除されておりませんが,断念したという理解でよろしいのでしょうか。」との荒井聰議員の質疑(同6頁)に対する答弁)

 

 「政府の法案提出権が憲法上認められていることを前提とした上で,法律によって政府の憲法上の権限を制限できるかどうかが問題となる。この場合,憲法上は,議員立法が原則であり,それを補充するものとして閣法があるとすれば,法律でそれを制限することも憲法の禁ずるものではなく,完全な立法裁量に委ねられることになる。しかし,そのような原則を日本国憲法から読み取ることはできないので,立法による政府の法案提出権の制限は認められないと言う結論が導き出されるのが自然である。〔略〕郵政事業の経営形態論議が,政府の憲法上の提案権を制約するに足る合理性を有するものであるとは言い難い。」(塩野宏「基本法について」日本学士院紀要第63巻第1号(2008年)13-14頁)とぴしゃりと言い放って,中央省庁等改革基本法3316号には法的効力がそもそもなかったのだと宣言すると角が立ったのでしょうから,皆さんのお信じになられたとおり同号には政府の法案提出権を制限するという法的効力が本当にあったんですけれどもね,条文をよく読んでもらうとお分かりになると思いますが,それは日本郵政公社の設立までの話だったんですよ,法案を提出した政府はうそはついていませんからね,法的効力の全くない条文を法的効力があるもののように偽って皆さんに中央省庁等改革に賛成していただくなどという詐欺師のようなことを日本国政府がするわけないじゃないですか,という趣旨の小泉内閣総理大臣の答弁は,内閣の憲法上の法案提出権を法律によって一時的にでも制限することを認容するものと解され得るものではあって憲法論上の議論の余地はなおあるものでしょうが,よくできた答弁だと思います。

 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 「違法の後法」の前々法:明治35年法律第38

 清宮四郎が1934年に執筆・発表した論文「違法の後法」(樋口陽一編・解説,清宮四郎『憲法と国家の理論』(講談社学術文庫・2021年)293-322頁)において,後法たる1925年の衆議院議員選挙法(大正14年法律第47号)を「違法」たらしめるものとされた大正8年法律第60号による改正後の衆議院議員選挙法(明治33年法律第73号)の別表(選挙区及び選挙区において選出すべき議員の数を定めるもの(同法12項))末項の「本表ハ10年間ハ之ヲ更正セス」との規定の濫觴は,明治33年法律第73号の当該別表を最初に一部改正した明治35年法律第38190244日裁可,同月5日公布,同月25日施行(同法には施行期日に関する規定なし。法例(明治31年法律第10号)1条参照))にありました。すなわち,明治35年法律第38号は,その末尾において「別表ノ終リニ左ノ1項ヲ加フ/本表ハ選挙区ノ人口ニ増減ヲ生スルモ少クトモ10箇年間ハ之ヲ更正セス」と規定していたものです(政府提出案段階からあったもの)。当該規定は,清宮の紹介する美濃部達吉の説明によると「唯単純な人口の増減だけでは10年間は之を動かさないといふ方針を言明して居るだけで,それも立法の方針の予定に止まり絶対に立法者を拘束する力を有するものではない」ということになるものとされていました(樋口編294頁。美濃部達吉『選挙法概説』(春秋社(春秋文庫)・1929年)103頁)

学説はともかくとして,明治35年法律第38号の当該規定に係る立法者意思がいかなるものであるかを知るために1902年の枢密院及び第16回帝国議会における法案審議の跡を尋ねると,下記のような経緯があったところです。大正8年法律第60号による10年間不更正条項(同法においては明治35年法律第38号によるそれまでの文言が改められています。)が,別表の大更正(註)を伴うその6年後1925年の衆議院議員選挙法の全部改正を阻害しなかったことについては,清宮の報告によると,「当時から現在まで学者の間にも実際家の間にも,これに対して疑問を挿む者は殆ど無かった模様」であったそうであり(樋口編293頁),また,宮中においても192541日「午前1150分,貴族院議員の任期満了及び普通選挙法案等の重要案件議了につき,〔摂政裕仁親王は,〕正殿において〔加藤高明内閣総理大臣らの〕国務大臣・貴族院議員・衆議院議員・政府委員・内閣書記官・内閣総理大臣秘書官・貴族院事務局高等官・衆議院事務局高等官計約七百名に列立拝謁を仰せ付けられ,酒饌を下賜される。」ということで(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)227-228頁。下線は筆者によるもの),よかったよかったということになっていましたが,その23年前1902年の明治35年法律第38号による10箇年間不更正条項の導入に当たっては,実際家の間において喧々囂々たる議論があったところです。

 

 (註)大正8年法律第60号による小選挙区制から,中選挙区単記投票制への変更がされ,明治33年法律第73号以来の市部と郡部との独立制が撤廃されています(美濃部97-98頁参照)。なお,最初の衆議院議員選挙法(明治22年法律第3号)以来の人口13万人につき議員1人を出す大体の主義は踏襲されています(美濃部101頁参照)。

 

なお,清宮の引用する(樋口編294頁・296頁註1宮澤俊義の『選挙法要理』(一元社・1930年)84頁註4には「明治33年法まではかうした〔不更正期間を定める〕制限はなかつたが,第16議会(明治3435年)に政府は法別表改正案を提出し,別表の内容を改正すると同時に「本表ハ選挙(●●)()()人口(●●)()増減(●●)ヲ生(●●)ズルモ(●●●)少クトモ10年間ハ之ヲ更正セス」との規定をこれに加へようとした。衆議院はこの規定を削除したが,貴族院これを復活し,衆議院亦これに同意してここにこの規定が成立した(明治35年法律第38号)。而して大正8年法に至つて現行法の如く文句を改めたのである。併し乍ら,これらの規定はただ立法上の方針を宣明したにすぎぬのであつて,何らの法的効力を有つものではない。現に実際においても,大正8年法別表のこの規定にも拘らず,大正14年法は10年立たぬ中に別表の全部を改正した。」とありますが,そこでは第16回帝国議会における審議模様及び立法者意思についてまでの立ち入った紹介はないので,本稿はそこを補充するものということになります。清宮は,上記「ただ立法上の方針を宣明したにすぎぬのであつて,何らの法的効力を有つものではない」の部分は,宮澤の学説にすぎないものと解しているようです(樋口編294頁)

 

2 明治35年法律第38号をめぐる実際家の議論

 

(1)枢密院における予兆

 明治35年法律第38号の法案(政府提出)に係る1902222日の枢密院会議においては,わずかに九鬼隆一枢密顧問官から次のような発言がありましたが,議場においてそれに応ずる声はなく(所管の内務省からは,内海忠勝大臣及び山縣伊三郎総務長官が出席していましたが,沈黙していました。),政府原案がそのまま可定されています。

 

総委員会ニ於テ(ママ)ニ質問シタルニ郡部ノ方ニテモ多少人口ノ増減アル趣ナルカ只市ノ方ノミ明確ノ調査出来タル〔ヲ〕以テ議員ノ配当ヲ為ス由ニ聞及ヘリ然ル〔ニ〕郡部ニモ人口ノ増シタル所ト減シタル所トアリトスレハ其増減ハ人民ノ権利ニ至大ノ関係アリ只郡部ノ調査ハ(〔いまだ〕)充分ニ明確ナラサルヲ理由トシテ単ニ市ノ議員ノミヲ増スハ不権衡極レリ又法案ノ体裁トシテモ宜シキヲ得ス殊ニ今日此改正ヲナスノ後ハ10箇年間据置クモノトスレハ明亮ノ調査行届キタル所ノミ増員シ然ラサル所ハ増員セストノ結果トナリ夫レニテ10年間ハ其儘ニ施行スルトハ甚理由ナキコトナリ而カモ今日是非此案ヲ急キテ発表セサル可ラサルノ理由アリトハ信セラレサルヲ以テ充分ニ全国ノ人口ヲ調査シタル上ニテ適当ノモノヲ発表セラルノ方宜シカルヘシ就テハ唯今ハ此案ヲ廃案トシテ更ニ精査ノ上提案セラレンコトヲ乞フ

  (アジア歴史資料センター資料。下線は筆者によるもの)

 

九鬼枢密顧問官の発言の趣旨は,忖度するに,政府はその中途半端な人口調査で衆議院議員選挙法の別表を今回改正することとしつつも,「選挙区ノ人口ニ増減ヲ生」じたならばそれには応ぜねばならぬのだとの同じ論理でその後も五月雨式にだらだら改正を続けなければならなくなることは面倒だから,あえてここで別表の更正を打切り,封印する旨を明らかにするために「本表ハ選挙区ノ人口ニ増減ヲ生スルモ少クトモ10箇年間ハ之ヲ更正セス」との一文を追加することにしたのではないか,しかしこれは,横着ではないか,姑息ではないか,ということでしょうか。同日の枢密院会議において内閣員から当該法案の説明があえてされなかったのも,堂々反駁しようにも,その間の事情ないしは論理にすっきりしないものがあったからでしょうか。

 

(2)帝国議会における紆余曲折

 

ア 衆議院における追及

 

(ア)政府委員の趣意説明

1902225日の衆議院本会議における山縣伊三郎政府委員による法案趣意説明は簡単なものであり,かつ,10箇年間不更正条項には言及されていません。

 

  此改正ヲ致シマスル趣意ハ,改正選挙法〔明治33年法律第73号〕制定ノ当時,市ニシテ未ダ人口3万ニ充タザルモノデアッテ,今日ハ其以上ニ達シタルヲ以テ,之ヲ各1選挙区トシテ各議員ヲ1人配当セントスル次第デゴザリマス,其中福岡県ノ小倉,群馬県ノ高崎,是ガ其後市制ヲ施行シタモノデゴザリマス,独リ横浜ニ至リマシテハ,少シク理由ヲ異ニ致シマスガ,是ハ昨年4月附近ノ各数町村ヲ合併致シマシテ,ソレガタメニ非常ニ大キクナリマシタ,ソレデ是ハ行政処分ノ結果,異同ヲ生ジタモノデアリマスカラ,此改正ノ中ニ加ヘタ訳デアリマス,何卒御協賛ヲ希望致シマス

 (第16回帝国議会衆議院議事速記録第19404頁)

 

 要は,市部選出の衆議院議員数を12増加させたいという法案でした。高崎市,四日市市,若松市,青森市,秋田市,鳥取市,尾道市,丸亀市,久留米市,門司市及び小倉市の11市を独立の選挙区として議員各1名を追加するとともに,町村合併で拡大した横浜市について,同市から選出される議員の数を1から2に増加させようというものでした。この12議席は純増であって,他に選出議員数の削減は提案されていませんでした。

 

(イ)質疑及び答弁

 しかしながら,滋賀県の弁護士である望月長夫議員が先陣を切り,代議士らは10箇年間不更正条項の問題性を追及し,山縣政府委員はたじたじとなっています。

 

  〇望月長夫君(242番) 此案ノ一番終リニ――「別表ノ終ニ左ノ1項ヲ加フ」「本表ハ選挙区ノ人口ニ増減ヲ生ズルモ少クトモ10箇年間ハ(ママ)ヲ更正セス」斯ウ云フ規定ガ如何ナル制裁ヲ加ヘルカ,何ヲ拘束スルカ,立法権ヲ持ッタ者ガ立法ヲスルノニ,ソレヲ此法律ニ斯ウ制限ヲ致シテ置イテモ,翌日矢張之ヲ改正スル,此別表ノ10年以内ニハ直サヌト云フヤツヲ改正スルト云フ案ガ,明日デモ〔,〕斯ウ云フコトヲ書イテ置クト,是ハ如何ナルコトヲ拘束スルカ,此文章ニ何ノ制裁ガアルカト云フコトヲ,政府委員ニ尋ネマス

  〇政府委員(山縣伊三郎君) 御答ヲ致シマス,御説ノ通,又法律ヲ以テ之ヲ改正スルト云フコトニナレハ,別段効能モナイヤウニ見エマスガ,併シ人口ノ異同アル度毎ニ之ヲ変更スルト云フコトニナル,始終ヤッテ居ラナケレバナラヌト云フ結果ヲ生ジマス,ソレデ先ヅ之ヲ変更セヌト云フ精神ヲ,茲ニ現シタノデゴザイマス

  (第16回帝国議会衆議院議事速記録第19404頁。下線は筆者によるもの)

 

  〇安藤龜太郎君(22番) 〔略〕併シ此本案ニ依リマスルト「本表ハ選挙区ノ人口ニ増減ヲ生スルモ少クトモ10箇年間ハ(ママ)ヲ更正セス」トアル,何ヲ以テ10年間ハ人口ノ増減ヲスルトモ,是ヲ更正セヌト云フ御意見ヲ立テラレタンデアルカ,其辺ガ本員ハ甚ダ怪ム所デアル,市ニ於テモ郡ニ於テモ,此人文ノ発達スルニ従ッテ,又実業ノ奨励発達スルニ従ッテ,必ズ人口ノ増減ガアラウト思フ,然ルニ10箇年ハ之ヲ更正セズト云フ標準ハ,何ニ依ッテ立テラレタカ,此点ヲ本員ハ甚ダ怪ムノデアリマスルカラ,明ニ御答弁ヲ請ヒマス

  〇政府委員(山縣伊三郎君) 唯今ノ御尋ハ先刻確カ望月君カラノ御尋ト同一ノヤウニ思ヒマスルデ,別ニ御答スルニ及ブマイカト存ジマス

     (安藤龜太郎君「何デス,10箇年ト云フ標準ハ」ト呼フ)

  〇田邊爲三郎君(267番) チョット質問致シマス,政府ハ度々当議会ニ出テモ説明シタコトガゴザイマス,憲法附属ノ法律ト云フモノハ,容易ニ改正スベキモノニアラズト云フコトハ,数回明言サレテアル,然ルニ此明治33年ノ73号ノ法律ト云フモノハ,改正以来未ダ実施期ニモ達セザルモノデアル,然ルニモ拘ラズ,早ヤ此本表ニ就イテ改正ヲセネバナラヌト云ウテ,此案ヲ出シタノハ,平素政府ガ主張スル所ノ趣旨トハ,大ニ齟齬シテ居ル,此事ニ附イテハ政府ハ何等ノ理由ヲ以テ,斯様ナル変更ヲ試ルノデアルカ,本案ノ中ノ最末項ニハ,最前ヨリ度々質問ノアル通リ「本表ハ選挙区ノ人口ニ増減ヲ生スルモ少クトモ10箇年間ハ之ヲ更正セス」ト云フ,是ガ即チ政府本来ノ主張デアル,是ガ即チ政府ガ従来唱ヘ来ッタ所ノ本旨デアル,果シテ然ラバ何ガ故ニ斯ウ云フ風ニ改正スル必要ヲ生ジタデアルカ,此点ニ附イテ明瞭ナル答弁アランコトヲ望ミマス

  〇政府委員(山縣伊三郎君) 固ヨリ容易ニ之ヲ改正スルコトハ致サヌ積デアリマスル,併シ本表ハ未ダ実施ニナッテ居リマセヌカラ,其実施前ニ当ッテ必要ヲ認ムルモノハ之ヲ改正シテ差支ナカラウト思ヒマス

  〇山内吉郎兵衞君(137番) 抑〻代議士ヲ選出スルニハ,人口ヲ以テ計算スルト云フコトガ,73号ノ基礎ニナッテ居ル,本案ニ於テハ10年間之ヲ更正セヌト云コトニナレハ,本文ト抵触スル嫌ヒハナイカ,本文ハドウスル積デアルカト云フコトヲ,質問致シマス

   〔略〕

  〇政府委員(山縣伊三郎君) 唯今ノ第一ノ御尋ニ御答シマスガ,必ズ人口ヲ標準トシタト云フ訳テハアリマセヌガ,先ヅ市ハ3万以上,郡ハ13万ト云フコトニナッテ居リマス,ソレデ別段抵触スル所ハナイト思ヒマス,ソレカラ少クトモ10年ト云フハ,是ハ或ハ是非改正セネバナラヌト云フ必要ガアレバ,之ヲ改正スルコトモアリマセウガ,先ヅ少クトモ10年ハ改正セヌ,斯ウ云フ趣意デアリマス

  (第16回帝国議会衆議院議事速記録第19405頁。下線は筆者によるもの)

 

(ウ)10箇年間不更正条項の法的効力の有無について

清宮の学説を採用して,「立法方針の宣明にすぎぬにしても,立法機関によって宣明されたかかる方針は,いやしくもそれが法律として成立すると仮定すれば,かかるものとして少なくともいわゆる内面的拘束力を有し,立法機関の行態を義務づけ,拘束する法規範として,法上有意義なものと見做されねばならない。立法機関自らが右の宣明によって10年間不更正の法的義務を負い,もし,美濃部博士の説明の如く,右の法律の主旨とするところが「単純な人口の増減だけでは10年間は之を動かさないといふ方針」の「言明」にあるとすれば,立法機関は10年以内には少なくとも人口の増減を理由としては別表の更正を行なわない義務を負うものと解さねばなるまい。」(樋口編295頁)という趣旨の強気の答弁をしていたならば,代議士らの攻撃はますます激しく,山縣政府委員は帝国議会の議場で立ち往生していたことでしょう。

 

(エ)10箇年間の標準について

また,なぜ10箇年間なのかその標準はどこに求めたのかとの安藤議員の質疑に山縣政府委員は正面から答えられなかったところですが,清宮式の「憲法との問題は別として,10年くらいの不更正は法の可変性とも矛盾せず,立法政策上の問題はとに角,法の内容としては可能である」(樋口編305頁)との答弁では,待ってください憲法問題から逃げるのですか,それにそもそもの政府の立法政策はだからなんなんですか,と法案反対派の安藤龜太郎議員(第16回帝国議会衆議院議事速記録第21461頁参照)の闘志をかき立て(すっぽん)のように噛みつかれる破目に陥っていたかもしれません(なお,安藤議員は神奈川県選出,第5回総選挙(1898315日投票)初当選。第8回総選挙(190331日投票)及び第9回総選挙(190431日投票)においては当選者中に名がないところ,「後零落して坐骨神経痛を病み〔明治〕38年〔1905年〕21日縊死を遂ぐ年47」とあります(大植四郎編『国民過去帳明治之巻』(尚古房・1935年)862頁)。)

ちなみに,190235日の貴族院の明治33年法律第73号衆議院議員選挙法中改正法律案外1件特別委員会(以下「選挙法改正法案特別委員会」と略称します。)においては,さすがに山縣政府委員会は準備ができていたようで,「少クトモ10年ハ之ヲ変更セザルコトニスルト云フ理由ハ,御承知ノ通リ戸口調ガ5年毎ニ之ヲナスコトニナッテ居リマス,ソレデソレヲ5年ニシテハ余リ短過ギルカラ,マア5年ヲソレニ加ヘルト云フコトヨリシテ10年ト云フコトガ出タノデアリマス,ソレカラ欧米ノ例ニ依リマシテモ,タシカ米国ガ10年グラヰニナッテ居ッタト思ヒマス」との答弁がされています(第16回帝国議会貴族院明治33年法律第73号衆議院議員選挙法中改正法律案外1件特別委員会議事速記録(以下「第16回帝国議会貴族院選挙法改正法案特別委員会議事速記録」と略称します。)第14頁)

 

(オ)前提としての明治33年法律第73

なお,山縣政府委員のいう「先ヅ市ハ3万以上,郡ハ13万ト云フコトニナッテ居リマス」の意味は,「人口13万人につき議員1人を出すことを大体の主義とすることは,最初の選挙法から以来の伝統」であるところ(美濃部101頁),明治33年法律第73号は――「郡部選出の議員はどうしても地主の代表に傾き易いから,それと相対して適当に商工業者の利益を代表せしむるには,市部選出の議員を多くする必要があるといふのが,その理由とするところ」だったのですが(同93頁)――「市部と郡部とを独立せしめ,人口3万以上の市は総て独立の一選挙区とした」のでした(同91頁)。しかし,「その結果として,郡部及び東京市や大阪市のやうな大都会地では,人口13万人につき1人の割合で議員を選出するに拘らず,小き市では人口3万人で既に1選挙区を為し随つて1人の議員を選出するものとせられ,随つて市部と郡部とが不釣合であるのみならず,同じく市部の内でも,大都市と小市とは議員を選出する上に甚だ権衡を失ひ,小市が比較的に最も多くの議員を出すといふ不公平な結果を生じ」ていました(美濃部93-94頁)。

1902227日の衆議院本会議において鈴木儀左衞門議員は「商工業者ガ何ガ故ニ他ノ業者ヨリモ,其権利ヲ多ク与ヘネバナラヌノデアルカ,同ジ帝国ノ臣民デアッテ斯様ナルコトハ決シテアルマジキコトデアル」とこの不公平性に再び触れていますが(第16回帝国議会衆議院議事速記録第21459頁),「郡部或ハ市ト其関係ガ違フ,比例ガ違フカラ,不公平デアルト云フ鈴木君ノ御議論ハ,最早〔明治〕33年〔1900年〕ニ於テ聞クベキデ,今日ニ於テ聞ク必要ハナイコトデアラウト信ジマス」との反撃を武市庫太議員から受けています(同459-460頁)190239日の貴族院本会議においては谷干城議員が「凡ソ人民ノ権利ニ於テ工商即チ市ニ住ッテ居ル者ハ郷ニ住ッテ居ル者ヨリ数等ノ権利ノアルト云フ道理ハナイ,総テ国家ノタメニ議スル代議士ヲ選ブニ附イテハ四千万人平等ニ其選ブ権ヲ持タナケレバナラヌト云フノガ私ノ最初ヨリノ論デアル,ソレデ此市ヲ独立サセルト云フヤウナ事柄ハ最モ不公平ナコトヽ云フ論カラシテ絶対ニ反対ヲシマシタ〔中略〕況ヤ此僅ニ数年前ニ之ヲ改革シテ又今日又之〔市部選出議員〕ヲ増スト云フ」云々と獅子吼したのに対し(第16回帝国議会貴族院議事速記録第25458頁),問題の蒸し返しを予防すべく奥田義人政府委員(法制局長官)は「既ニ市ヲ独立ノ選挙区ト為スト云フコトガ原則ニ於テ極ッテ居リマスルノデ,此原則ガ壊レマセヌ以上ハ今谷子爵ノ御述ニナリマシタルガ如キ御論ハ如何ナモノデアラウカト政府〔第1次桂太郎内閣〕ニ於テハ信ジマスル」とたしなめ(同頁),尾崎三良議員も「此人民ノ思想ガ十分ニ公平ニ代表セラルヽノ方法ヲ執ルノガ此代議政体ノ最肝要ナル所ト考ヘル,〔略〕選挙法ノ定メ方ガ甚ダ片ッ方ニ偏シテ居ルト云フコトヲ認メテ,政府モ本院モ衆議院モ認メテ,一昨年デシタカ今日ノ現行法ニ改メラレタノデアル,其主義タルヤ最早一定シテ動カスベカラザルモノアッテ,谷子爵ガドレ位御論ジニナッタ所ガ,ソレハ動カサレヌノデアル」と政府委員を応援しています(同460頁)

 

イ 衆議院による削除

16回帝国議会衆議院における審議状況に戻ると,山縣政府委員の学術的ならざる苦心の政治的答弁にもかかわらず,政府案の10箇年間不更正条項は,1902227日,望月長夫議員の提案により,同院本会議(第二読会)でいったん削られています(第16回帝国議会衆議院議事速記録第21461頁)

望月議員は,10箇年間不更正条項を削るべき理由を次のように述べていました。

 

  本員ハ此一番仕舞ニ書イテアル「別表ノ終リニ左ノ1項ヲ加フ本表ハ選挙区ノ人口ニ増減ヲ生スルモ少クトモ10箇年間ハ之ヲ更正セス」ト云フ,此2行ノ条文ヲ削除致ス意見ヲ提出致シマス(「賛成」ト呼フ者アリ)是ハ多クハ述ベマセズトモ,斯ノ如キ規定ガ何等ノ法律上ニ効力ヲ持タナイト云フコトハ,皆様モ御承知ノ通デアル,今日ノ立法権ニ於テ,決シテ明日ノ立法権ヲ拘束スルコトハ出来ナイカラ,斯ノ如キ規定ヲシテ置イテモ,明日直チニ之ヲ廃止スルト云フコトハ,何デモナイ話,或ハ斯ノ如ク書イテ置カネバ,上院ノ通過ガ覚束ナイト云フヤウナコトヲ,苦ニ御病ミナサル御方ガアッテ,之ヲ存シテ置ク必要ガアルト云フ御考ガ,ナキニシモアラズト云フヤウニ,私ハ見受ケマスケレドモ,是ハ如何ニモ上院議員諸君ヲ,愚ニシタ話,斯ノ如キ箇条ガアルカラ,衆議院ハドウシテモ再ビ此別表ノ変更ヲ試ミル権能ガナイト云フコトハ,上院諸公ノ賢明ナル,左様ナ馬鹿気タコトヲ考ヘテ居ル筈ハナイ,斯ノ如キ子供瞞シノ条文ヲ此処ニ置イテ,上院ヲ胡麻化スト云フノハ,実ニ馬鹿気切ッタ話デアリマス,斯ノ如キ箇条ヲ存スルコトハ,衆議院ノ面目ニ関スルト信ジマスガ故ニ,是ダケヲ削除致シタイ

 (第16回帝国議会衆議院議事速記録第21461頁。下線は筆者によるもの)

 

 要するに,望月議員の理解としては10箇年間不更正条項には法的効力は一切ないものであり,当該理解に対して衆議院もその議決をもって同意したということでしょう。清宮の分類学によれば,「一般の国家機関の自己制限の場合と同じくこれらの法律の特別規定は,憲法の一般に定める法律制定規定に違反し憲法の授権の範囲を越えるものとして無効と看做す」見解(樋口編296頁)が採られていたということでしょう。

衆議院による当該修正議決に対する政府の認識は,190235日の貴族院選挙法改正法案特別委員会における山縣政府委員の答弁によると「此末項ヲ衆議院ニ於テ削リマシタ訳ハ,法律ヲ改正スレバ,是等ハ効力ノ無イモノデアル,其効力ノ無イモノニ対シテ,之ヲ爰デ掲ゲテ置ク必要ハナイデハナイカト云フヤウナ理由デ削ラレタノデアリマス,併シ政府ニ於テハ或ハ其改正ニナレバ効力ノ無イト云フコトハアラウガ,兎ニ角10年間ハ是デ変更セザルノ精神デアルト云フコトヲ答ヘテ置キマシタ」ということであり(第16回帝国議会貴族院選挙法改正法案特別委員会議事速記録第14頁)同月9日の貴族院本会議における奥田政府委員の答弁によれば「何年間変更セヌトモ何トモ加ヘテナクシテ〔明治22年法律第3号の衆議院議員選挙法は〕既ニ10年間モ変更セラレズニ今日マデ来テ居ルノデアリマス,法律ヲ改正サヘスリヤ何時デモ出来得ルコトデアッテ,殊ニ斯ウ云フコトヲ挿ンデ置カヌカラト云ウテモ,事実ニ於テ決シテサウ屢〻改正ヲスルト云フコトノナイノハ,従来ノ・・・即チ現行ノ選挙法ニ於テ既ニ其証拠ヲ示シテ居ッテ,書イテ置イタカラト云ウテモ又改正ヲスリヤ出来得ルコトヂヤナイカ,サウスリヤ殊更斯ウ云フノヲ入レテ置クト云フ必要ハナイト云フ,斯ウ云フヤウナ精神ヲ以テ削除セラレタヤウニ認メマス」ということでした(第16回帝国議会貴族院議事速記録第25459頁)。なお,1900329日に公布された明治33年法律第73号の衆議院議員選挙法は「次ノ総選挙ヨリ之ヲ施行ス」ということになっていたので(同法111条本文),1898810日投票の第6回総選挙と衆議院議員の任期満了による1902810日投票の第7回総選挙との間の19023月の段階での現行法は,依然として明治22年法律第3号の衆議院議員選挙法なのでした。

望月議員の提案理由の後半部分をどう理解すべきか。

実は,衆議院議員らが自分らの議席数を増加すべく運動するのにいちいち付き合わされることに貴族院議員らは閉口している,というような事情があって,あと10年はもう御迷惑をおかけしませんから今回限りは御協力くださいと言ってなだめなければならないのだよというようなことになっていたようではあります。すなわち,190239日の貴族院本会議において尾崎三良議員は「本院〔貴族院〕ニ於キマシテハ兎角此衆議院議員ノ殖エルコトヲ望マヌヤウナ風ガアル」との観察を述べており(第16回帝国議会貴族院議事速記録第25460頁),現に当該本会議において,衆議院議員数を12増やす明治35年法律第38号の法案から10箇年間不更正条項を衆議院が削ったことに関して,谷干城議員は「之ヲ以テモ明ナコトデ,ハヤ来年ナリ来々年ナリ人為デ又市ヲ作ル,其目的デ之ヲ削ッタモノデアル,斯ノ如キ有様デハ実ニ此前途ノコトガ案ジラレル」と(同458頁),曾我祐準議員は「衆議院デ削ッタ意思ヲ推測シテ見ルト矢張3万ノ市ガ出来タナレバ今年モ3市,来年モ5市ト云フヤウニ加ヘルコトヲ得ルト云ウヤウニ考ヘマス」と(同459頁),衆議院議員らの底意について非好意的な発言がされていました。

なお,望月衆議院議員は,10箇年間不更正条項を除いた,議員数増加部分の法案自体には,なるほど賛成であったようです(第16回帝国議会衆議院議事速記録第21460頁参照)

望月議員としては,また,法的には無効の条項を法的効力のある条項であるものと誤解する解釈で貴族院が可決してしまうと,正解たる無効説を採る衆議院としては後々厄介であるので,「愚」の貴族院が「子供瞞シ」に遭って「胡麻化」されるという「馬鹿気」た事態が生ずる可能性の芽はあらかじめ摘んでおくにしかず,ということであったようでもあります。

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 「最悪の事態を想定」しての外国人の入国停止措置をめぐる正しい民意と言論と

 12月に入り,寒くなりました。

 いつまでも秋が続いている気分でうっかりすると,つい風邪をひきやすい季節です。

 しかし,現在は非常時です。従来型の風邪ならばともかくも(とはいえ風邪もなお万病のもとです。),新型コロナウイルス感染症を,たなびく霧(Nebelstreif)のごとき単なる風邪と同一視して軽視するなどという横着な邪見に陥ることは,決して許されることではありません。

 コロナウイルスは,恐ろしい。岸田文雄第101代内閣総理大臣も,2021126日の衆参各議院の本会議における所信表明演説で警鐘を乱打しておられます。

 

大事なのは,最悪の事態を想定することです。

オミクロン株のリスクに対応するため,外国人の入国について,全世界を対象に停止することを決断いたしました。

まだ,状況が十分に分からないのに慎重すぎるのではないか,との御批判は,私が全て負う覚悟です。国民からの負託は,こうした覚悟で,仕事を進めていくために頂いたと理解し,全力で取り組みます。

  (第207回国会における岸田文雄内閣総理大臣の所信表明演説(2021126日)(以下略称として「岸田202112」を用います。))

 

このくだり,「まだ,状況が十分に分からないのに慎重すぎるのではないか,との御批判は,私が全て負う覚悟です。」と一応謙遜しておられます。しかしながら,同日99分付けの「読売新聞オンライン」の記事(「オミクロン株の水際対策「評価」89%,スピード感に肯定的受け止め読売世論調査」)には「読売新聞社は〔202112月〕35日に全国世論調査を実施し,新型コロナウイルスの変異株「オミクロン株」への政府の水際対策を「評価する」との回答が89%に上った。「評価しない」は8%。岸田内閣の支持率は62%で前回(〔2021年〕1112日調査)から6ポイント上昇,不支持率は22%(前回29%)に低下した。/政府は海外でのオミクロン株の感染拡大を受け,11月末に全世界からの外国人の新規入国を停止した。日本着の国際線の予約停止要請を3日間で撤回する混乱はあったものの,スピード感を持って対策を打ち出していることが肯定的に受け止められたようだ。」とあります。御本人としては,内心「してやったり」というところだったのでしょう。

我が神聖清浄なる大八洲国に立ち入りを禁じられた外国の方々から苦情が申し立てられるとしても,「「国民の理解や,後押しのある外交・安全保障ほど強いものはない」。48か月外務大臣を務めた経験から,強くそう感じています。」と(岸田201212),善良かつ主権の存する日本国民の圧倒的民意に支えられ,岸田総理は自信満々です。

国内においても, 8パーセントの不謹慎な開国容(コロナ)派が仮に言挙げをしても,その人心惑乱の暴言は89パーセントの真摯な鎖国攘(コロナ)派によって直ちに発火炎上せしめられて撤回削除に追い込まれ,反省自粛の上,彼らの口は清き心を示す白いマスク(weiße Masken)をもって覆われることとなるのでしょう。80年前,対米英蘭戦開始直後制定の昭和16年法律第97号(19411218日裁可,同月19日公布,同月21日施行(同法附則1項・昭和16年勅令第1077号))の第17条は「時局ニ関シ造言飛語ヲ為シタル者ハ2年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ2000円以下ノ罰金ニ処ス」と,第18条は「時局ニ関シ人心ヲ惑乱スベキ事項ヲ流布シタル者ハ1年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ1000円以下ノ罰金ニ処ス」と規定していましたが,令和の御代の上品かつ自主的な我が国民においては,昭和の昔のお下劣な民草とは異なり,時局にふさわしからぬ言論の規制のために司法御当局の手を煩わすまでの必要はありません。

なお,外国人の新規入国停止の根拠となっているのは,出入国管理及び難民認定法(昭和26年政令第319号)5114号の「前各号に掲げる者を除くほか,法務大臣において日本国の利益又は公安を害する行為を行うおそれがあると認めるに足りる相当の理由がある者」たる外国人は本邦に上陸することができないものとする条項です。同法511号(及び手続について同法92項)では足らずに同法5114号が発動されるのですから,コロナウイルスは,単なる公衆衛生上の問題となるばかりではなく,大きく我が国の国益及び公安までをも脅かす非常に兇悪な存在なのです。正に昭和16年法律第97も,「戦時ニ際シテ」我が国の「安寧秩序ヲ保持スルコトヲ目的トス」るものだったのでした(同法1条)。ちなみに,日本国憲法に拠って出入国管理及び難民認定法5114号の運用を掣肘しようにも,「憲法上,外国人は,わが国に入国する自由を保障されているものでない」ところです(最大判昭和53104日民集3271223頁)。

 

2 「時局ニ関シ人心ヲ惑乱スベキ事項ヲ流布」することの一般的禁止又は回避

ところで,昭和16年法律第9718条の趣旨は,19411216日の東條英機内務大臣(内閣総理大臣が陸軍大臣及び内務大臣を兼任)の議会答弁によれば,それまで不可罰であった「真正ナル事実及ビ意見,信仰,臆説等ノ流布」をも処罰し得るようにするものです(第78回帝国議会衆議院言論,出版,集会,結社等臨時取締法案委員会議録(速記)第12頁。また,第78回帝国議会貴族院言論,出版,集会,結社等臨時取締法案特別委員会議事速記録第12頁)。これについては,一松定吉委員が心配して,「事実ニ即シタコトヲ言ツテモ,ソレガ所謂人心ヲ惑乱スル,米ガナクテハ戦ハ出来ヌヂヤナカラウカト云フノデ人心ヲ惑乱スル,或ハ油ガナケレバ戦サガ出来ヌヂヤナイカト云フコトデ人心ニ動揺ヲ来スト云フヤウナ場合モ,ヤハリ第18条〔略〕ニ当嵌マルト云フコトニナリマスト,一寸シタコトデモ,事実ヲ我々ハ口ニ出シテ言ヘナイト云フヤウナコトニナリハシナイカ」ということで,例示を求める質疑をしていますが,東條内務大臣は「茲ニ一ツノ例ヲ以テ御示シスルコトハ不可能デアラウト思ヒマス」と言って例示をすることを拒んでいます(第78回帝国議会衆議院言論,出版,集会,結社等臨時取締法案委員会議録(速記)第19頁)。そんなの罰しませんよ大丈夫ですよ,とさわやかに言ってもらえてはいません。

翻って,命にかかわるコロナ克服の厳しい戦いが戦われている現在においては,隠しごとありげな見苦しさ及び眼鏡が曇る,息苦しい等々の鬱陶しさを補ってなお余りある感染予防に係る十分な効果が本当にマスク着用にあるのだろうか,「ワクチンについては,医療従事者の方から,3回目の接種を始めました。2回目の接種から8か月以降の方々に順次,接種することを原則としておりましたが,感染防止に万全を期す観点から,既存ワクチンのオミクロン株への効果等を一定程度見極めた上で,優先度に応じ,追加承認されるモデルナを活用して,8か月を待たずに,できる限り前倒しします。」と言われても(岸田202112)ワクチン(Vakzine)の接種(einspritzen)の副反応はひょっとして人によっては結構危険なんじゃないだろうか,というような意見,憶説等を流布することは,仮に造言飛語をなすことには当たらないとしても,少なくとも人心を惑乱すべきものと忖度されるべき悪魔的ないしは魔王的所業なのでしょう。いささか悩ましい。

疑心暗鬼の惑乱に陥らないためには,枯れ葉にさやぐ(in dürren Blättern säuselt)風の音(der Wind)ならぬ新型コロナウイルス感染症対策専門家等からの権威ある御発言及び総務大臣の御監督を受けているテレビ局等による高齢者の魂にも奥深く響く力強くかつ分かりやすい報道を専ら信ずべきでしょう。新型コロナウイルス感染症対策の専門家であると自他共に認めておられるお医者様方(Doktoren)は,藪でないことはもちろん,幽霊のような古柳(alte Weiden)でもありません。

 

3 令和3年度補正予算

岸田総理の御決意は,力強い。

 

   新型コロナについて,細心かつ慎重に対応するとの立場を堅持します。感染状況が落ち着いていますが,コロナ予備費を含めて13兆円規模の財政資金を投入し,感染拡大に備えることとしました。

    

   同時に,一日も早く,日本経済を回復軌道に持っていかなければなりません。新型コロナにより,厳しい状況にある人々,事業者に対して,17兆円規模となる手厚い支援を行います。

    

   危機に対する必要な財政支出は躊躇なく行い,万全を期します。経済あっての財政であり,順番を間違えてはなりません。

 

通常に近い経済社会活動を取り戻すには,もう少し時間がかかります。

それまでの間は,断固たる決意で,新型コロナでお困りの方の生活を支え,事業の継続と雇用を守り抜きます。

かねてより申し上げているとおり,経済的にお困りの世帯,厳しい経済状況にある学生,子育て世帯に対し,給付金による支援を行います。特に生活に困窮されている方には,生活困窮者自立支援金の拡充など,様々なメニューを用意します。総額7兆円規模を投入します。

事業者向けには,2.8兆円規模の給付金により,事業復活に向けた取組を強力に後押しします。

  (以上岸田202112

 

 大盤振る舞いです。

しかもこれは,今次第207回国会で議決予定の令和3年度(2021年度)の補正予算(財政法(昭和22年法律第34号)291号(「法律上又は契約上国の義務に属する経費の不足を補うほか,予算作成後に生じた事由に基づき特に緊要となつた経費の支出(当該年度において国庫内の移換えにとどまるものを含む。)又は債務の負担を行なうため必要な予算の追加を行なう場合」)参照。なお,「現行財政法第29条は,各省の予算要求を抑えようとする大蔵当局の希望で設置されたという。国会修正権への制限論と彼此勘考するとき,筆者には,あまりにも大蔵当局中心的な便宜主義的態度のようにおもえる。」という指摘は面白いですね(小嶋和司「財政法をめぐる最近の問題」『小嶋和司憲法論集三 憲法解釈の諸問題』(木鐸社・1989年)203頁註(3))。「大蔵当局中心的な便宜主義」が昭和の昔には通用していたのです。)における支出であるところ,コロナウイルス感染が続く限り,何だかおかわりがありそうです。「具体的な行動によって,国民の皆さんの安心を取り戻し,何としても,国民の命と健康を守り抜く決意です。」というのですから(岸田202112),もう後には引けません。心配性の(hypochondrisch)人々の心配が絶えることはあり得ません。

ところで,生活向けに7兆円規模,事業向けに2.8兆円といいますから,給付金の規模は合計9.8兆円となるようです。貰う側からすると,有り難い話です。ただし,ばらまきによる人気確保策には,落とし穴がありそうです。

 

 ことに下にては仁政といへば金穀をほどこしたまふものとのみおもへば,いかなる事被仰出(おほせだされ)候ともあきたるべしとも思はず。ことに上京之度々花やかなる振舞なしなば,此のちきたるものも,またおとらじと思ふやうになりもて行て,つゐには下へへつらふといふことにも近かるべし

 (松平定信『宇下人言』(岩波文庫・1942年)79頁)

 

この給付金というものは,要は所得移転です。したがって,無から有が生まれない限りは,左のポケットに9.8兆円入れるためには右のポケットから9.8兆円を取り出さなければなりません。現在ここでの右のポケットは,一見,公債を発行して補正予算の財源を確保する財務省のようですが(なお,財政法41項(「国の歳出は,公債又は借入金以外の歳入を以て,その財源としなければならない。但し,公共事業費,出資金及び貸付金の財源については,国会の議決を経た金額の範囲内で,公債を発行し又は借入金をなすことができる。」)にかかわらず,令和3年法律第13号(202141日から施行(同法附則1条))による改正後の財政運営に必要な財源の確保を図るための公債の発行の特例に関する法律(平成24年法律第101号)31項(「政府は,財政法(昭和22年法律第34号)第4条第1項ただし書の規定により発行する公債のほか,令和3年度から令和7年度までの間の各年度の一般会計の歳出の財源に充てるため,当該各年度の予算をもって国会の議決を経た金額の範囲内で,公債を発行することができる。」)を参照。今次補正予算においては同項の特例公債が192310億円分発行されるそうです(令和3年度一般会計補正予算予算総則補正62項)。),究極的には実は納税者ということになるのでしょう。しかし,合わせて9.8兆円也と抽象的な数字をいわれただけでは,この納税者の負担の程度が実感しにくい。

202110月の我が国の就業者数は6659万人であるそうですから(同年1130日総務省統計局公表・労働力調査(基本集計)),9.8兆円といえば就業者1人当たり147千円余ということになりますか。しかし,就業者でも給付金を貰う側の人がいるのでしょうし,累進課税ということもありますから,いや私は結構高収入だよという人については147千余円では済まないことになるのでしょう。

 国税庁の統計によれば,令和2年度(2020年度)の所得税の収納済額が22412661百万円,消費税及び地方消費税のそれは27051210百万円です(国税全体では70467163百円(地方消費税分5605843百万円を含む。))。9.8兆円を1年で調達するためには(ちなみに,個人の借金については,「住居費を引いた手取り収入の3分の1」を弁済原資の目安として,完済までの分割返済回数が36回(月)(すなわち3年)までならば任意整理が可能であるが,それを超えると破産相当であるといわれています(『クレジット・サラ金処理の手引(5訂版補訂)』(東京弁護士会=第一東京弁護士会=第二東京弁護士会・2014年)40-41頁)。),現在の所得税額を43.7パーセント強増加するか,消費税及び地方消費税の税率が現在10パーセントであるとして(軽減税率があるので面倒なのですが),それを約13.6パーセントに引き上げねばならないことになります。(なお,法人税から取ればよいのだ云々という考えもあるかもしれません。しかし,ここでは,税は究極的には個人(法人税については当該法人の社員(株主)たる個人)が負担することになるものと考えています(現行税制の基礎をなしているシャウプ勧告の考え方と同じです(金子宏『租税法 第十七版』(弘文堂・2012年)265-266頁参照)。)。)

 これでは,臆病(feige)なくらい「細心かつ慎重」であるどころか行政(Verwaltung)による大胆に過ぎる濫費(Verschwendung)であって,経済あっての財政といっても,その財政が経済(Wirtschaft)を破壊してしまっては元も子もないではないか,将来の莫大な負担を考えると,安心を取り戻すどころかかえって投げやりないしは暗い心持ちとなって納税者たる国民の元気が萎えてしまうではないか,と言い募ることもあるいは可能でしょう。しかしそれでは,非国民的に人心を惑乱させてしまうことになってしまいそうでもあります。

そもそも財政の健全化は,難しい。

令和3年法律第13号によって財政運営に必要な財源の確保を図るための公債の発行の特例に関する法律4条が「政府は,前条〔第3条〕第1項の規定により公債を発行する場合においては,平成32年度〔2020年度〕までの国及び地方公共団体のプライマリーバランスの黒字化に向けて経済・財政一体改革を総合的かつ計画的に推進し,中長期的に持続可能な財政構造を確立することを旨として,各年度において同項の規定により発行する公債の発行額の抑制に努めるものとする。」から「政府は,前条第1項の規定により公債を発行する場合においては,同項に定める期間が経過するまでの間,財政の健全化に向けて経済・財政一体改革を総合的かつ計画的に推進し,中長期的に持続可能な財政構造を確立することを旨として,各年度において同項の規定により発行する公債の発行額の抑制に努めるものとする。」に改められ(下線は筆者によるもの),同法2条にあった「国及び地方公共団体のプライマリーバランスの黒字化」に係る定義規定も削られています。これは,20213月末までに国及び地方公共団体のプライマリーバランスの黒字化を達成するという具体的数値目標(平成28年法律第23号(201641日から施行(同法附則1条))による改正によって法文上設定)の達成に安倍晋三=菅義偉政権が失敗したので,令和3年度(2021年度)を迎えるに当たって漠とした未来における「財政の健全化」という抽象的な目的に差し替えたというものとして結局理解されるものでしょう。しかし,政府としては,法律には書いてはいなくとも,今度は2025年度までにプライマリーバランスの黒字化を目指すものとしています。とはいえ,何度電話しても「今そちらに向かっています」との答えばかりが返ってくる蕎麦屋の出前的ではあります。どうしたものでしょう。

個人の多重債務者については,

 

 〔略〕計画性に欠ける,約束を守れない,ときには弁護士に対しても平気で嘘を言うなどの問題のある依頼者が決して少なくないことも間違いはありません。

  しかし,このような問題のある依頼者でも,弁護士による指導監督のよろしきを得れば,多くは経済的更生が可能になります。

 

といわれてはいます(『クレジット・サラ金処理の手引(5訂版補訂)』2頁)。これは,個人債務者の「経済的更生」のためには,「免責許可の決定が確定したときは,破産者は,破産手続による配当を除き,破産債権について,その債務を免れる」ものたらしめる免責(破産法(平成16年法律第75号)2531項本文)という荒技があるからでしょう。しかし,国の場合はどうでしょうか。個子ちゃんが活躍する個人向け国債のにぎやかな広告宣伝を見るたびに,考えさせられてしまいます。

 

4 行動制限の強化と国民の理解との関係等

 

(1)強化された司令塔機能の下の行動制限の強化

 ところで,国民の元気の有無云々以前に,コロナウイルスの元気次第で経済活動の停止がされることがあり得ることも否定されてはいません。

 

   〔略〕来年の6月までに,感染症危機などの健康危機に迅速・的確に対応するため,司令塔機能の強化を含めた,抜本的体制強化策を取りまとめます。

    

   〔略〕感染が再拡大した場合には,国民の理解を丁寧に求めつつ,行動制限の強化を含め,機動的に対応します。

  (以上岸田201212

 

 せっかく抜本的に強化された司令塔機能の下で行動制限が強化されるというのですから,行動制限強化のため(罰則を設け,又は義務を課し,若しくは国民の権利を制限するため)の新規立法がされるのでしょうか。熱烈なファンがなお多そうでもある強力な封城・ロックダウン(der Lockdown)がいよいよ法制度として我が国にも導入されるのでしょうか。しかし,「国民の理解」を前提に「機動的」に対応するというのですから,大袈裟な法的強制ではない従来からの臨機的な自粛要請の手法をより効果的に行うということに落ち着くようでもあります。

そうであると,そこでの「丁寧に求め」は,おいみんなが迷惑するぞ,みんながいやな思いをするぞ云々といった利他道徳的説得がよりもっともらしく,かつ,より執拗に行われてその必達が期されるということになりそうです(しかし,そこでいわれる「みんな」とはそもそも何者なのでしょうか。当該話者が,利己的にそこに含まれていることは確実ですが。)。その場合,理解不能者又は理解した上でむしろ理解したがゆえに賛同しない者の存在は,およそあり得べくもない無能漢又は不道徳漢として,想定されざることとなるのでしょう。すなわち,「若者も,高齢者も,障害のある方も,男性も,女性も,全ての人が生きがいを感じられる,多様性が尊重される社会を目指します。」とは言われるものの(岸田201212),それは,多様な対象を,彼らに共通の「理解」を通じて同一の「正しい」態様・方法をもって振る舞わせることによって(この場合は,白いマスク花盛りの新しい生活様式(die neue Lebensweise)に従わせることによって,ということになるのでしょう。)「尊重」するものであって,それは可能であるし,さらにはそうすればみんな一緒,みんな同じということになって重ね重ねいいことじゃないかね,ということになるのかもしれません。

 

(2)「御理解」と鉄道運輸規程2条と

 ところで,「理解を丁寧に求め」られついでにいえば,筆者が鉄道の電車に乗っていていつもうんざりするのは「皆様の御理解・御協力をお願い申し上げます。」と繰り返される車掌による車内放送中の「御理解」の部分です。鉄道営業法(明治33年法律第65号)2条で「本法其ノ他特別ノ法令ニ規定スルモノノ外鉄道運送ニ関スル特別ノ事項ハ鉄道運輸規程ノ定ムル所ニ依ル/鉄道運輸規程ハ国土交通省令ヲ以テ之ヲ定ム」と根拠付けられている鉄道運輸規程(昭和17年鉄道省令第3号)2条に「旅客,貨主及公衆ハ鉄道係員ノ職務上ノ指図ニ従フベシ」とあるので,車掌のする正当な「職務上ノ指図」に「御協力」して従うことは旅客の当然の法的義務である,したがって,いちいち車掌が「御理解」までを要求するのは無用のことであり,かつ,こちらも「御理解」するためには脳を働かせなければならないので疲れる余計な面倒である(脳は大量にエネルギーを消費します。),また,理解はしても賛同できないという結論に至ってしまった場合においてそれでも鉄道営業法令上の義務として従わねばならないときは,理解しなければ感ずることのなかった,あらずもがなの不快な思いをしなければならないことになってしまう,というわけです。

「御理解」まで馬鹿丁寧に求めるのは,その車掌の当該要請が正当な職務上ノ指図でないからでしょうか。しかし,そうであれば,そんな余計な事項について,うるさいばかりの車内放送はするな,ということになります。

「御理解」までをも下手(したて)になって求めずとも,そもそも「御協力」を求めたにもかかわらず「車内ニ於ケル秩序ヲ紊ルノ所為アリタル」けしからぬ旅客については,鉄道係員において無慈悲に「車外又ハ鉄道地外ニ退去セシ」め,かつ,「既ニ支払ヒタル運賃ハ之ヲ還付セス」ということでよいのでしょう(鉄道営業法4214号・2項)。

なお,話してもらえば分かる風にもっともらしく「お前の言うことは理解できないから従わない」と言う人が間々いますが,実はそういう人は「従わない」という結論を既に決定してしまっている場合が多く,そうですかやはりまず御理解していただくことが必要なのですねとこちらがナイーヴに合点してしまって改めて理解を求めて一生懸命理屈をるる説明しても,先方ははなから「理解」しようなどとはしてはくれず,残念かつ悲しい思いをすることになるようです。(理屈の理解以前に,こちらが下手に出たことそれ自体に満足して「御協力」に転じてくれればよいのですが。)

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 日本国「第100代」内閣総理大臣登場

 2021921日付けの「日本国憲法第7条及び国会法第1条によって,令和3104日に,国会の臨時会を東京に召集する。」との詔書が同日の官報特別号外第78号をもって公布され(公式令(明治40年勅令第6号)1条・12条参照),2021104日に第205回国会が召集され,現在の菅義偉内閣は総辞職,当該国会の議決によって自由民主党総裁・岸田文雄衆議院議員が新内閣総理大臣に指名され(日本国憲法67条),直ちに同議員が

天皇陛下によって第100代内閣総理大臣に任命される運びであるそうです(日本国憲法61項)。(なお,余計なことながら,国会法(昭和22年法律第79号)5条は「議員は,召集詔書に指定された期日に,各議院に集会しなければならない。」と規定し,かつ,国会議事堂が東京都千代田区に所在していることは明らかであるにもかかわらず召集詔書において召集地が東京である旨念が押されてあるのは,1894年の日清戦争の際に岸田衆議院議員の選出選挙区である広島市に帝国議会が召集された前例(同年10月)があるからでしょう。)

 ところで,

 

岸田文雄第100代内閣総理大臣!?

ヒャク!?

カッコいい!!

 

 ということに直ちになるのでしょうか。

 

2 百王説

 かつて,百王説というものがありました。畏れ多いことながら,我が

天皇家も百代限りではないか,との心配です。

承久年間に成立した慈円の『愚管抄』にいわく。

 

 ムカシヨリウツリマカル道理モアハレニオボエテ,神ノ御代ハシラズ,人代トナリテ神武天皇ノ以後百王トキコユル。スデニノコリスクナク八十四代ニモナリニケル(第三冒頭部)

 

 ここで第84代に数えられる天皇は,順徳天皇です。当時は弘文天皇の在位はいまだ認められていなかったものの,神功皇后が天皇と認められていたので,現在の数え方による代数と,結果として一致しています。順徳天皇は,今年(2021年)からちょうど800年前の承久三年,同年の変乱の結果(承久の変に関しては:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1064426577.html),怒涛逆巻く日本海中の佐渡島にお遷りになっておられます(乱臣賊子的にあからさまに言えば,流刑です。(乱臣賊子に関しては:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1066681538.html。旧刑法(明治13年太政官第36号布告)における流刑及び徒刑に関しては:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079020156.html)。

 ふと気になり,第84代内閣総理大臣はだれであったかと確認すると,内閣総理大臣在職中の20004月に倒れて不帰の客となった小渕恵三内閣総理大臣でした。これも不運というべきでしょう。(同内閣総理大臣の最後の1箇月間の動きについては:https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4410784/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/2000_03_calender/03_timetable.html

 こうなると,第100代の天皇がだれであったかも気になります。仲恭天皇の在位を認めれば,第96代が後醍醐天皇,更に持明院統正統論を採れば,第97代が光厳天皇,第98代が後醍醐天皇重祚,第99代が光明天皇,そして第100代が崇光天皇,第101代が後光厳天皇(又は後村上天皇)となります。なるほど。すなわち,第100代崇光天皇は,足利尊氏・直義兄弟の兄弟喧嘩のとばっちりで観応二年(1351年)に退位せしめられ三種の神器も奪われ,更に翌正平七年(1352年)には吉野方の狼藉によって賀名生に連行されてしまうという大変な辛苦を嘗められた不幸な天皇であらせられたのでした。しかして,持明院統の王朝はここにいったん断絶(光厳太上天皇及び光明太上天皇も賀名生に連行せられてしまっています。),そこで観応三年(1352年)に新たに,二条良基及び足利尊氏を両頭とする我ら臣民による推戴をその正統性の根拠とする後光厳天皇による新王朝が発足したのでした。(以上につき:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1003236277.html

 

3 いわゆる第三次近衞内閣による問題残置(対米開戦問題のみにあらず)

 ということで,第100代はゆゆしい。やった第100代だ!と無邪気に興奮する前に,歴代内閣総理大臣の代数を念のためもう一度数え直してみるべきではないでしょうか――といえば直ちに,かつて「加藤高明内閣といわゆる第三次近衛内閣」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1062787421.html)をものした筆者としては,近衞文麿が内閣総理大臣に任命されたのは実は3回ではなくて2回にすぎないから(いわゆる第三次近衞内閣の発足時には,提出されてあった近衞文麿内閣総理大臣の辞表は結局受理されずに昭和天皇から下げ渡されています。1941718日に近衞が昭和天皇からもらった辞令は,兼司法大臣に任ぜられるものだけでした(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(東京書籍・2016年)433-434頁)。),第39代内閣総理大臣はいわゆる第三次近衞内閣の近衞文麿ではなくて東條英機であり,以下1代ずつ繰り上がって,99代目といわれていた菅義偉内閣総理大臣は,本当は98代目だったのだ,100代目!といって騒ぐには,今次衆議院議員総選挙後の内閣総辞職(日本国憲法70条)を承けた新内閣総理大臣の指名・任命を待たねばならないのだ,とへそ曲がりなことを言いたくなります。

 しかし,世間に抗うのも骨が折れます。しっかり不織布のマスクを着けて,沈黙すべきでしょうか。(なお,不織布マスクの着用については,2021831日付け下級裁判所宛て最高裁判所事務総局「デルタ株等による感染拡大状況を踏まえた感染防止対策」の第31「マスク着用の徹底」において,ウレタンマスクや布マスク(アベノマスク!)ではなく「不織布マスクの着用を基本とすることが相当である。」とされています。)

 

4 「第3代」内閣総理大臣・三條實美の復権

 とはいえ,結果としては沈黙するとしても,それなりの筋は通しておくべきでしょう。

3度目の近衞を神功皇后のように歴代から落とすならば,弘文天皇又は仲恭天皇のように事後的に歴代に加えるべき内閣総理大臣を捜し出せばよいではないか――というのが筆者の思案です。

ということですぐ頭に浮かんだのは,三條實美です。

18891024日,第2代内閣総理大臣黑田淸隆以下大隈重信外務大臣を除く各国務大臣が辞表を提出(大隈は同月18日閣議からの帰途に玄洋社員来島恆喜に爆弾を投げつけられて負傷療養中),同月25日,三條實美内大臣に内閣総理大臣の兼任が命ぜられ,内閣総理大臣以外の国務大臣からの辞表は却下されます。(『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)による。御厨貴『日本の近代3 明治国家の完成 18901905』(中央公論新社・2001年)によれば事情は実はより複雑であったようで,「〔188910月〕22日,総理大臣黒田清隆以下,療養中の大隈を除く全員の大臣が総辞職の意向を明らかにする。〔略〕しかし黒田は,後継に山県を推薦した後,自分一人の辞表を出して辞任する。/〔略〕非常な混乱状態となった。全員辞任のつもりが,独断専行のかたちでまず総理が先に辞めてしまった。総理が辞めたと聞いて,他の大臣も困りはて,ついには日付をずらして,全員辞表を出したのである。」とのことです(158-159頁)。)

18891025日から起算して61日目の同年1224日,内大臣兼内閣総理大臣公爵三條實美は内閣総理大臣の兼官を免ぜられ,同日内務大臣兼議定官臨時砲台建築部長陸軍中将兼監軍従二位勲一等伯爵山縣有朋が内閣総理大臣兼内務大臣に任ぜられます。従来この山縣が,第3代内閣総理大臣であるものとされています。

三條實美は,なぜ第3代内閣総理大臣として扱われてこなかったのでしょうか。

内閣総理大臣は代わっても,他の国務大臣は黑田内閣のままだったからでしょうか。しかし,黑田内閣自体,1888430日の発足時は内閣総理大臣以外の国務大臣は第1次伊藤博文内閣のものがそのまま留任しています(伊藤は枢密院議長として内閣に班列となり,農商務大臣であった黑田が内閣総理大臣に異動した後は,留任した榎本武揚逓信大臣が同年725日まで農商務大臣を臨時兼任)。

在任期間が短かったからでしょうか。しかし,1945年のポツダム宣言受諾後の東久邇宮稔彦王の内閣総理大臣在任期間は54日でもっと短い。

国立国会図書館の「近代日本人の肖像」ウェッブページを見ると,三條の説明書きには「〔明治〕22年黒田内閣総辞職後,一時臨時首相を兼任した。」とありますから,三條の内閣総理大臣は臨時兼任だったのでしょうか。確かに,内閣総理大臣の臨時兼任は,第2次伊藤内閣の伊藤博文内閣総理大臣が1896831日に辞任後同年918日に第2次松方正義内閣が発足するまでの間黑田が命ぜられて以来,内閣総理大臣が辞任し又は死亡した場合においてその例は多いのですが,これらの内閣総理大臣臨時兼任者は,歴代の内閣総理大臣には加えられていません。しかし,三條の内閣総理大臣兼任は,正に兼任であって,臨時兼任ではありません。「これは臨時兼任ではなく,かたちとしては恒常的な兼任」であったものです(御厨159頁)。また,その当時,兼任と臨時兼任との区別がなかったということはありません。前記の榎本逓信大臣による農商務大臣臨時兼任は,三條内大臣による内閣総理大臣兼任より前のことでした(大臣の臨時兼任の制度は,内閣総理大臣伊藤博文による1887916日から188821日までの外務大臣臨時兼任から始まっています。)。(ただし,大臣の長期洋行中は,臨時兼任ではなく,兼任とされたようです(ヨーロッパ視察中の山縣内務大臣のために1888123日から1889103日まで松方正義大蔵大臣が内務大臣を兼任したような場合)。)

「三条に期待されたのは,三条が総理大臣としての手腕をふるうことではなく,次の首相が山県であることを暗黙の前提として,それに向けて下(なら)しをするということに尽きた。」(御厨159頁),「制度上の整備を,山県はすべて三条内閣に委ねた。これはみごとなばかりと評してよい。三条は政治的野心をもたぬ無私かつ無能の人であるがゆえに,条約改正〔交渉の延期の決定(18891210日の閣議)。大審院判事に外国人を任用するなどという大日本帝国憲法違反の大隈式条約改正の否定〕と内閣官制〔明治22年勅令第135号,18891224日裁可・公布,副署者の筆頭は「内閣総理大臣 公爵三條實美」。18851222日の内閣職権では内閣総理大臣の権限が強すぎ,実際に「黒田のときは,黒田・大隈が一体になって,条約改正という外交案件を進めたため,ほかの大臣がいくら反対しても,覆すことができない状況」という困った事態となっていたため,内閣官制では内閣総理大臣の権限を弱めています。)〕という国会開設を前に処理せねばならぬ難問を全部そこで片づけてしまうことができた。したがって課題達成とともに三条は退き,いわば失点ゼロのかたちで山県は満を持して登場することになる。」(御厨167頁・166頁)ということで,無私・無能の三條は政治的に影が薄く,その前後のあくの強い黑田,黒幕の山縣の間で目立たぬまま,居心地悪く懸命に内閣総理大臣を兼任していたことも人々から早々に忘れ去られてしまったものでしょうか。しかし,これは政治史的評価の問題であって,三條を歴代内閣総理大臣に加えるべきかどうかは,制度的に考えるべきことでしょう。それに,大日本帝国憲法下の内閣の制度を定めた当の内閣官制に「内閣総理大臣」として副署している三條が歴代内閣総理大臣から排除されているということは,皮肉でなければ失礼でしょう。また,山縣内閣の下均しをした三條内大臣の内閣総理大臣兼任期を,従来黑田内閣の存続期間内に含めてしまっていますが,これもどうでしょうか。黑田・山縣両内閣と少なくとも等距離の取扱いがされてもよいのではないでしょうか。そもそも黑田は条約改正について三條政権の採った方針(伊東巳代治が起草したものを農商務大臣井上馨が提出したというかたちになっている「将来外交之政略」(御厨161-162頁))には不満であって,「そこで黒田は怒って,〔188912月〕15日の夜,酔いに乗じて井上馨をその館に訪れた。ちょうど井上は留守であったが,黒田は大酔のまま乱入し,「井上はおるか,井上は国賊なり,殺しに来た」と乱暴な大声を発し,座敷に上がりこんで狼藉を働き,暴れ回った。」(御厨165頁)という醜態を演じており,三條政権をもって同一の黑田内閣がそのまま延長されたものとする従来の取扱いは,三條には迷惑であるし,黑田も不本意とするところでしょう。

内閣総理大臣は副職禁止であって,他の大臣を兼務するような者は歴代内閣総理大臣には加えてはやらぬのだ,というわけにもいきません。初代内閣総理大臣の伊藤博文自身が最初から宮内大臣を兼任しています(1887917日,すなわち前記の外務大臣臨時兼任を始めた翌日,「免兼宮内大臣」ということになっています。)。三條の次の山縣も内閣総理大臣兼内務大臣です。単なる兼業は,歴代内閣総理大臣に加えられる上では問題とはならないようです。

 どうも問題は,兼任する大臣の官職のうち,どちらが本官でどちらが兼官かということになるようです。三條の場合は,例外的に,内大臣が本官で,内閣総理大臣が兼官となっています。内閣官房(内閣所属部局及職員官制(大正13年勅令第307号)により19241220日から設けられたようです(同官制1条・2条,附則1項)。)ないしは内閣総理大臣官房で歴代内閣総理大臣の表を作る際に,あっ三條公爵は内大臣が本官で宮中の人だから,我々内閣職員ないしは総理府職員の大ボスたる正式な内閣総理大臣ではないよね,という整理が暗黙のうちにされてしまったものでしょうか。18851222日の明治18年太政官第68号達によれば,内大臣は宮中に置かれ,「御璽国璽ヲ尚蔵ス」及び「常侍輔弼シ及宮中顧問官ノ議事ヲ総提ス」という職務を行うものとされていました。

しかし,兼官大臣=非大臣の発想であると,例えば先の対米英戦の前半期には陸軍大臣は不在であったのか,ということになります。

 

 〔19411018日〕午後3時,鳳凰ノ間において親任式を行われ,陸軍大臣兼対満事務局総裁陸軍中将東条英機を内閣総理大臣兼内務大臣陸軍大臣に任じられる。

 (宮内庁512頁)

 

 これは,内閣総理大臣を本官とし,内務大臣及び陸軍大臣を兼官とするということでしょう。


DSCF0045

 いざ,国賊・井上馨を成敗せん(札幌市中央区大通公園)

 

5 内閣を総理する初代大臣としての三條實美

 更に余談。

内閣総理大臣を,六文字熟語ではなく,内閣を総理する大臣というように普通名詞的に解すると,初代内閣総理大臣は伊藤博文ではなく,実は三條實美であった,ということになるかもしれません。

我が国における内閣制度の発足は,18851222日の明治18年太政官第69号達で,

 

 今般太政大臣左右大臣参議各省卿ノ職制ヲ廃シ更ニ内閣総理大臣及宮内外務内務大蔵陸軍海軍司法文部農商務逓信ノ諸大臣ヲ置ク

 内閣総理大臣及外務内務大蔵陸軍海軍司法文部農商務逓信ノ諸大臣ヲ以テ内閣ヲ組織ス

 

 と定められたことに始まると一般にされています。

 しかし,「内閣」の語は,それより前から官制上使用されています。

 

   明治6年〔1873年〕52日,太政官無号達を以て太政官職制の改正が行はれた。其の改正の第1点は,太政官――正院の権限を大いに拡張したこと,従つて各省の権限を縮(ママ)したことである。

   改正の第2点は,正院機構の改正である。従来の太政官職制〔明治四年七月二十九日(1871913日)発布〕に於ては,「太政大臣,左右大臣,参議ノ三職ハ天皇ヲ輔翼スルノ重官」〔明治四年八月十日(1871924日)の太政官第400号達で改定された「官制等級」中の文言。「・・・ニシテ諸省長官ノ上タリ故ニ等ヲ設ケス」と続きました。〕であつたが,今回の改正に於て,太政大臣及び左右大臣のみ天皇輔弼の責に任じ,参議は内閣――此の時始めて内閣なる文字を使用した――の議官として諸機務議判の事を掌ることゝなつたのである。即ち従来天皇輔弼の責任の所在と,国務国策の決定の手続とが不明瞭であつたのが,これで修訂されたわけである。併しながらなほ政治の実力者たる参議に特任して組織せしめられる内閣の権限と,それによる天皇輔弼の大臣の責任とは一致せしめられなかつた。此の点は,後に明治18年の内閣制度の成立を俟つて,始めて実現せられたところである。

   改正の第3点は,右院に関するものである。〔以下略〕

  (山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)38頁。下線は筆者によるもの)

 

確かに,『憲法義解』の大日本帝国憲法55条解説を見ると,明治「18年〔1885年〕の詔命に至り,大いに内閣の組織を改め」とありますから(下線は筆者によるもの),太政官制時代から内閣が存在していたことが前提となっています。

1871年の最初の太政官職制において参議は「太政ニ参与シ官事ヲ議判シ大臣納言〔この「納言」は前記明治四年太政官第400号達では「左右大臣」となっています。〕ヲ補佐シ庶政ヲ賛成スルヲ掌ル」とされていたところが,1873年の太政官職制では「内閣ノ議官ニシテ諸機務議判ノ事ヲ掌ル」と,なるほど権限が縮小されています。

187352日の太政官職制にいう「内閣」とは何かといえば,同日付けの正院事務章程に「内閣ハ 天皇陛下参議ニ特任シテ諸立法ノ事及行政事務ノ当否ヲ議判セシメ凡百施政ノ機軸タル所タリ」とあります。また,「正院」とは何かといえば当該事務章程に「正院ハ 天皇陛下臨御シテ万機ヲ総判シ太政大臣左右大臣之ヲ輔弼シ参議之ヲ議判シテ庶政ヲ奨督スル所ナリ」とあります。

太政官に正院があるのならばそれ以外の院(左院及び右院)があるわけですが,これらの3院については,1871年の太政官職制についてですが「太政官を分つて正院・左院及び右院の三とした〔略〕。此の中正院は従来の太政官に相当するもので,太政大臣納言及び参議等を以て構成せられ,庶政の中枢的最高機関である。左院は後の元老院に相当するもので,専ら立法の事を審議し,議長の外一等議員二等議員三等議員を以て構成せられる。右院は各省の長官次官を以て組織せられ,行政実際の利害を審議する所であつて,謂はゞ各省の連絡機関とも見るべきものである。尚太政官の下に各省を置き卿一人を以て長官とすることは,概ね従前と変わりはない。」と説明されています(山崎31頁)。

太政官正院の内閣を総理する大臣がいれば,それが内閣総理大臣ということになるわけです(参議は,大臣ではありません。)。1873年の太政官職制において太政大臣の職掌は「天皇陛下ヲ輔弼シ万機ヲ統理スル事ヲ掌ル/諸上書ヲ奏聞シテ制可ノ裁印ヲ鈐ス」とされている一方(下線は筆者によるもの),左右大臣のそれは「職掌太政大臣ニ亜ク太政大臣缺席ノ時ハ其事務ヲ代理スルヲ得ル」ということなので,太政大臣・三條實美が,内閣を総理する大臣だったものでしょう。

三條は,「明治6年政変では政府内の対立をまとめきれずに病に倒れるなど,指導力のある政治家とは見なされていなかった。」(御厨159頁)と酷評されていますが,これは,征韓論をめぐって相争う参議らを取りまとめ,内閣を総理する職責が太政大臣にあったからこそでしょう。

なお,日本国憲法の英文では内閣総理大臣は“Prime Minister”となっています。英国に倣ったものでしょう。ただし,英国では「従来Cabinetの議長をしていた国王が出席しなくなったので,Cabinetに議長を作る必要が生じた,この議長はPrime Minister――文字通りには「第一大臣」――とよばれることが多かった。」ところ(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)142-143頁),「Prime Ministerという名は,アン女王の時にゴドロフィン(Earl of Godolophin)(1702-10年)に用いられたのが最初である。他面,ニューカースル(Duke of Newcastle; Thomas Pelham-Holles)(首相1754-56年,57-62年)やピット(William Pitt; Earl of Chatham)(首相1766-68年)は,Prime Ministerとはよばれていない。」(田中143頁註24)ということなので,Prime Ministerは,本来は普通名詞なのでしょう。すなわち,太政大臣を天皇の第一大臣という趣旨で“Prime Minister”と訳してもよいではないか,とも思われるのです。

ここで『憲法義解』の大日本帝国憲法55条解説の伊東巳代治による英訳を確認しておきましょう。そこでは,内閣はCabinetとされ,太政官はCouncil of State,参議はCouncillors of Stateです。Councilであれば,そもそも太政官自体が会議体の如し。太政大臣は,Chancellor of the Empireとなっています。ドイツ語だとReichskanzlerですか。ビスマルクみたいですね。左大臣がMinister of the Left,右大臣がMinister of the Rightなので,挙国一致のためにあえて左右(サヨウヨ)両翼陣営から大臣を採ってバランスを取ろうとしていたのか,などと余計なことを考えてしまいます。内閣総理大臣はMinister President of Stateであって,これは国務大臣(Minister of State)中の首席(president)ということでしょう(国務大臣ではない大臣は,内大臣及び宮内大臣です。なお,太政官制下の各省長官の卿もMinister of Stateと訳されています。)。内閣総理大臣がMinister President of Stateであるのを奇貨として,Chancellor of the EmpireMinister President of Stateとを総称してPrime Ministerと言ったってよいではないか,ということになるでしょうか。しかし,我が国の歴代内閣総理大臣についての議論をするに当たって,英語を介するのはねじくれていますね。


DSCF1540 (2)

I am neither Minister President of State nor Chancellor of the Empire, but the first Lord Keeper of the Privy Seal. (東京都文京区護国寺)

 

附論:「内閣」語源僻考

太政官があって正院があって,正院の中に天皇の特任を受けて参議が議判を行う内閣があったわけでした。そうであればすなわち内閣は,正院の更に内部にあるから()閣だったのでしょうか。

『角川新字源』(第123版・1978年)的には,「内閣」とは「①妻女のいるへや。(同)内閤ないこう②明代にできた行政の最高機関。明の成祖は翰林院の優秀な学者を宮中の文淵閣に入れて重要政治をつかさどらせ,これがやがて政府の最高機関となった。」とあります。しかし,1873年段階での我が太政官正院の内閣は「政府の最高機関」とまではいえないでしょう。天皇の輔弼は,専ら太政大臣の職務です。

なお,明の場合「天子の側近たる宰相の職が必要になるのであるが,既に太祖〔洪武帝〕の命によって丞相を廃した後であるから,祖法に背いてまで公然と宰相を任命するわけに行かない。そこで天子の私設の秘書という形で,内閣という制度を造った。」ということで(宮崎市定『中国史(下)』(岩波文庫・2015年)190-191頁),「内閣大学士が実際の宰相の任となった」ものの(宮崎191頁),「私設」だから「内」閣ということになったようにも思われます。しかし,我が太政官正院の内閣は,私設のものではありません。とはいえ,明の嘉靖帝の時代(16世紀半ば)になると「大学士が制度上独自の地位を認められ」るようになったそうで(宮崎192頁),私設秘書的なるものとしてのその出自も忘れられるようになったものでしょう。

(ちなみに,19世紀当時の清の内閣は,18世紀初めの雍正帝による軍機処設置の結果「軍機処が出来ると,急を要する重要な文書は次第にここを経過するようになり,内閣で扱うものは会計報告など月並みな文書ばかりとなり,それに伴って内閣大学士は閑散な名誉職と化し,実権が軍機大臣の手に移った」(宮崎249頁)との状況がなおも続いていたものでしょうか。)

「内閣大学士の職務のうち,最も重要なのは票擬,または擬旨の役目である。旨とは天子の決定のことであり,大学士は天子に代わって,百官が奉る上奏を下見し,天子が下すべき旨について案を立てるので,これを擬旨という、この擬旨は小紙片,票に記入して,これを上奏文の最後に貼っておくから,これを票擬と称する」ということで(宮崎192頁),漢土の内閣は学者たる大学士が皇帝の秘書的な仕事をする仕組みでしたが,志士上がりの政治家たる参議らが諸機務の議判をする場である我が太政官正院の内閣は,むしろ英語のCabinetの翻訳語として意識されていたものでもありましょうか。研究社の『新英和中辞典』(4版・1977)によれば,英語のcabinet”は,貴重品などを収めまたは陳列する飾りだんす(たな),キャビネットの意味があるほか,古くは小室,私室(=closet),国王などの私室の会議(室)を意味していたところ,これは,漢字の「閣」と符合するようです。すなわち,『角川新字源』によれば,「閣」は,①かんぬき,②物をしまっておく所,③たな,④おく(措),とどめる,やめる,⑤物をのせる,⑥たかどの(楼),⑦ものみ,四方を観望する高い台,⑧かけはし,⑨ごてん「殿閣」,⑩→閣閣(①端正なさま,まっすぐなさま,②かえるの鳴く声のさま),とあります。(単なる「閣」よりも「内閣」とした方がよりcabinet的ですね。「金閣」では派手すぎます。)しかして,英国においては,「Cabinetは,17世紀に,国王が事項ごとにその助言者の枢密顧問官を集めて相談をした会合の中で最も重要であった外交担当者の集まりであるCabinet Councilから発生したものであり,18世紀初頭になると,秘密保持と能率の見地から,重要事項についてはより少数のメンバーが集まった。これがCabinetとよばれた。(Cabinet Councilは,18世紀中葉まで存続する。)」とのことで(田中142頁),Cabinetは秘書の仕事場というよりも,相談の場であるとの趣旨が前面に出ます。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 成年年齢引下げ

平成30年法律第59号によって,202241日から(同法附則1条)民法(明治29年法律第89号)4条が「年齢20歳をもって,成年とする。」から「年齢18歳をもって,成年とする。」に改まります。いかにも「やってる感」ある法改正でした。しかしながら,大学生が1年生及び2年生をも含めて堂々とお酒を飲んで仲間と楽しくコンパできるようになってキャンパス・ライフが昭和化するというわけではありません(平成30年法律第59号附則7条参照)。

ちなみに昭和とは,我が国が「激動の日々を経て,復興を遂げた」栄光の時代です(国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)2条)。「復興」とはどの時代との対比でいうのかといえば,皇室は正嫡の四皇子(皇太子裕仁親王,雍仁親王,宣仁親王及び崇仁親王)が揃っておられて盤石,国家はパリ講和会議における戦勝五大国のメンバーにして国際聯盟の四常任理事国(日本,英国,仏国及び伊国)の一,人民は当時のスペイン風邪(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1077312171.html)など令和の新型コロナウイルス感染症が深刻な情況をもたらしているほど気には病まずに四大政策(教育の改善,交通通信機関の整備,国防の充実及び産業の奨励)を掲げる原敬内閣の下に活気をもってデモクラシーに邁進していた若々しかりし大正の御代との対比においてでしょう。

 

2 改正後民法4条と皇室典範22条と

ところで,皇室典範(昭和22年法律第3号)22条は「天皇,皇太子及び皇太孫の成年は,18年とする。」と現在規定しているところ,平成30年法律第59号による民法4条の改正に伴って同条と重複した規定となるので「削除」となる,とはならないことになっています。天皇及び皇族に民法の適用があり,したがって皇室典範22条が単に民法4条の特則であるのならば,本則が特則に揃った以上不要となった特則は引っ込むべきなのですが,引っ込まずにそのまま居残るとはこれいかに。

201828日付けの産経ニュース・ウェブサイトの記事によれば「法務省は〔同月〕8日,成年年齢を20歳から18歳に引き下げる民法改正案の概要を与党に示した。成年年齢引き下げに併せて皇室典範の成年年齢条文の削除も検討されているが,自民党の法務部会など合同会議では,この点について議員から「皇室典範を議論に入れるのは不敬なのでは」などとの発言があり紛糾した。」ということですから,法務省の法案作成担当者は確かに「皇室典範22条=民法4条の特則」説を採っていたものの,それを条文の改正で示すことは「不敬」であるということで皇室典範22条の削除は諦めたということのようです。

画像

Nolite majestatem laedere!


3 平成30年法律第59号施行後の皇室典範22条

で,そのように諦めた上での皇室典範22条存置の理由付けはどうだったのでしょうか。平成30年法律第59号の法案審議がされた第196回国会では明らかにされなかったようです(国立国会図書館の国会会議録検索システムで筆者が「皇室典範」の検索語で検索をかけてもヒットしませんでした。)。言いっぱなしで,とどめを刺すべき後の始末が尻抜けということでは,「不敬!」と怒号せられた自由民主党の国会議員諸賢も法制的な詰めが甘い。当該理由付けを,なお考えねばならないことになります。

 

(1)意図的「立法ミス」説

理由付けとして考えられるものの一つは,天皇及び皇族に民法の適用があることを前提とした上で,法制執務の美学を犠牲にして意図的に「立法ミス」を犯したことによる規定の重複であるとするものです。

しかし,「通常国会に法案を提出する期限だった〔20213月〕9日。坂井学官房副長官は衆院議院運営委員会理事会で4件の法案をめぐる問題を説明したうえで,陳謝した。/デジタル改革関連法案の誤字や表記ミス▽地域的包括的経済連携(RCEP)協定承認案の日本語訳の欠落や重複▽保険料誤徴収などの発覚による貿易保険法改正案提出見送り▽与党内の調整が進まず,土地規制強化法案の提出期限が間に合わなかったこと――の4件だ。/高木毅議運委員長(自民)は「国会に対して,少し緊張感を持って対応して頂かないと困る」と苦言を呈した。小川淳也・野党筆頭理事(立憲)は「前代未聞の緩みだ」と指摘した。」ということですから(202139日付け朝日新聞Digitalウェブサイト),「意図的に緊張感を解き,気を緩めて法制上の不体裁をあえてやっちゃいました。」というテヘペロ的言い訳が通るかどうか。「霞が関官僚たる上級国民のくせになんだ!業者から国家公務員倫理法違反の74203円の高額接待ばっかり受けていい気になってるんじゃないよ。」と再び怒号の渦が逆巻くとすれば,恐ろしいことです。

 

(2)独自「成年」説の挫折

それでは,皇室典範22条の「成年」は,人の行為能力に係る民法4条の成年とは異なる皇室典範独自の「成年」なのだ,それは,それ未満であれば摂政を置くべきこととなる天皇の年齢(同法161項),摂政に就任可能な皇族の年齢(同法171項・19条)並びに皇族会議議員及び同予備議員に係る互選権を有し,かつ,就任可能な皇族の年齢(皇室典範283項・302項)のみに係る「成年」なのだ,という主張は可能か。

しかしこれは,皇太子又は皇太孫以外の皇族に係る「成年」の年齢については皇室典範中には規定がないのですがどこから持って来るのですか,との質問で倒れます。皇太子又は皇太孫以外の皇族の「成年」は,他の法律仲間を見渡して,やはり民法4条から持って来た成年であると答えざるを得ないでしょう(園部逸夫博士も「皇太子及び皇太孫以外の成年は,民法により満20年と定められることになる。」と説いています(同『皇室法概論―皇室制度の法理と運用―(復刻版)』(第一法規・2016年)253頁)。)。そうであれば皇室典範22条の「成年」も,民法4条の成年を前提とした上での年齢の数字に係るその特則と解すべきものとなるようです。したがって,平成30年法律第59号の施行後は,やはり皇室典範22条は民法4条と重複する盲腸規定(この表現も「不敬」でしょうか?)となりそうです。

 このままでは,故意に法制的不体裁を作出した「意図的「立法ミス」説」を採らざるを得ないようです。美しくないですね。

 

(3)国の儀式たる成年式根拠説

 しかし諦めるわけにはいきません。どう考えるべきか。そうだ,残される皇室典範22条に,天皇並びに皇太子及び皇太孫に係る行為能力規定であるとの意味を超えた何らかの独自の意味を持たせればよいではないか。

 ということで思い付いたのが,天皇並びに皇太子及び皇太孫の成年式を国事行為たる国の儀式として行うための根拠規定説です。確かに,その第13条で「天皇及皇太子皇太孫ハ満18年ヲ以テ成年トス」と,第14条で「前条ノ外ノ皇族ハ満20年ヲ以テ成年トス」と規定していた明治皇室典範の下,皇室成年式令(明治42年皇室令第4号)は,天皇(同令1条)並びに皇太子,皇太孫,親王及び王(同令9条)について成年式を行うべきことを定めていました。日本国憲法及び現行皇室典範下において満18歳となって成年に達した天皇又は皇太子(今上天皇が皇太子となったのは,28歳の時です。)若しくは皇太孫は,19511223日が満18歳の誕生日であった皇太子明仁親王(現在の上皇)のみですが,サン・フランシスコ講和条約発効(1952428日)後の19521110日に,立太子の礼(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1077209171.html)と併せて,皇太子成年式加冠の儀及び皇太子成年式・立太子の礼朝見の儀が国事行為たる国の儀式として行われています(更に同月12日から14日まで皇太子成年式・立太子の礼宮中饗宴の儀を開催)(園部262頁・263頁)。(なお,19511223日当日に祝賀行事が行われなかったのは,昭和天皇が依然御母・貞明皇后の崩御(同年517日)後の服喪中(期間は1年)であったためだそうです(宮内庁『昭和天皇実録 第十一』(東京書籍・2017年)323頁)。)他方,日本国憲法及び現行皇室典範下における他の親王及び王の成年式6件(王については例がありませんが。)については,国事行為たる儀式とはされなかったようです(園部263-264頁)。

ちなみに,人民の子女に係る「成人の日」(国民の祝日に関する法律2条)が初めて「国民の祝日」として祝われたのは,1949115日のことでした。

(なお,明治典憲体制下では,皇室の儀礼中,国の大典となるものは即位の礼,大嘗祭及び大喪儀その他の国葬のみだったようです(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)217頁。現行皇室典範24条・25条参照)。)

 

4 17歳天皇に対する18歳摂政に係る不権衡問題等

 

(1)17歳天皇に対する18歳摂政に係る不権衡問題

 やれやれ,こじつけがましいけど,霞が関法制官僚の無謬性はこうして守られたわい,と思ったものでしたが,一難去ってまた一難,今度は実質面でまた別の問題が見つかりました。皇太子又は皇太孫以外の皇族の摂政就任可能年齢を,民法4条改正の効果に流されるまま漫然と20歳から18歳に引き下げてよいのか,との問題です。

 明治皇室典範14条が皇太子又は皇太孫以外の皇族の成年を満20年としたのには,実は由々しく重いおもんぱかりがあったのでした。すなわち,当該成案が得られるまでには次のような議論があったところです。いわく,「〔明治皇室典範の〕柳原案ニ摂政ノ成年ハ天皇及皇族ノ例ト同シク18歳トシタリ然ルニ今茲ニ17歳ノ天子アルノ場合ニ当リ最近ノ皇族摂政ノ順位ニ当レル人ハ僅カニ18歳ヲ踰エ現在天皇ト1歳ノ差アラント仮定セハ仍ホ其人ハ家憲ニ依リ摂政トナルヘシ此レ事情ニ適セサルニ似タリ故ニ仏国葡国ノ例ニ依リ摂政ノ為ノ成年ヲ25歳ト定ムルカ又ハ伊国ニ依リ21歳ト定ムヘキカ如シ」と(園部258頁註(4)が引用する小林宏=島善高編著『日本立法資料全集・16 明治皇室典範(明治22年)(上)』(信山社・1996年)391頁「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々(井上毅,1887年2月)」)。またいわく,「17歳ノ帝ニ18歳ノ摂政不権衡ノ説ハ正理ユ(ママ)摂政ハ本邦一般ノ丁年ニ依リ満20歳以上トセハ可ナラン」と(園部258頁註(4)が引用する小林=島399頁「疑題件々ニ付柳原伯意見(柳原前光,1887年)」)。この結果,現行皇室典範についても,「皇太子及び皇太孫以外の皇族であっても国事行為を18年で行うことは〔内閣の助言と承認によるものである〕国事行為の性質上可能であると考えられるが,天皇との関係では,例えば,天皇が17歳の場合に18歳の皇族が摂政となることは適当ではないことにより,皇太子及び皇太孫以外の皇族の成年を20歳としているものと考える。」と説かれています(園部255頁)。

 さて,我々人民のおませな子女の成年が年齢20歳から年齢18歳へと早熟化することをもって(おませといっても,女子の婚姻適齢は平成30年法律第59号によって16歳以上から18歳以上に引き上げられ,むしろ晩稲(おくて)になるのですが),従来の天皇と摂政との年齢関する不権衡論17歳の天皇に対して18歳の摂政が置かれるのはおかしい,との議論。なお,皇太子又は皇太孫が,父又は祖父である天皇が17歳のときに18歳で摂政となることはありません。)までが当然のこととして無効化されてしまうものでしょうか。少々関連性が薄いように思われます。天皇の尊厳を懸命に護持せんとする誠忠の士による真摯な公論を更に経る必要が,なおあるのではないかと心配されるところです。「不敬!」と哀れなお役人を怒鳴りつけるだけで済ますのでは,折角の尊皇の真心があるにもかかわらず,なお丁寧な目配りが足りず点睛を欠くということになるのではないでしょうか。「保守」とは,不作為,偸安,知的怠惰を意味するものでは決してありません。

 

(2)皇室典範及び国事行為の臨時代行に関する法律の改正案

 しかし,筆者も言いっぱなしではいけません。

 次のような改正はいかがでしょうか。すなわち,現行皇室典範161項を「天皇が年齢18に達しないときは,摂政を置く。」と,同法171項柱書きを「摂政は,皇族であって年齢20年(皇太子又は皇太孫の場合にあっては,年齢18年。第19条及び第28条第3項(第30条第2項において準用する場合を含む。)において同じ。)に達したものが,左の順序により,これに就任する。」と(同項については,書かれざる第7号として,皇女たらざる親王妃及び王妃も摂政となり得るように解され得るかもしれませんが,あえてそのままにしました(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1077588867.html)。),同法第19条を「摂政となる順位にあたる者が,年齢20に達しないため,又は前条の故障があるために,他の皇族が,摂政となつたときは,先順位にあたつていた皇族が,年齢20に達し,又は故障がなくなつたときでも,皇太子又は皇太孫に対する場合を除いては,摂政の任を譲ることがない。」と,同法283項を「議員となる皇族及び最高裁判官の長たる裁判官以外の裁判官は,各々年齢20に達した皇族又は最高裁判所の長たる裁判官以外の裁判官の互選による。」と,国事行為の臨時代行に関する法律(昭和39年法律第83号)22項を「前項の場合において,同項の皇族が年齢20年(皇太子又は皇太孫の場合にあつては,年齢18年。以下本項及び次条において同じ。)に達しないとき,又はその皇族に精神若しくは身体の疾患若しくは事故があるときは,天皇は,内閣の助言と承認により,皇室典範第17条に定める順序に従つて,年齢20に達し,かつ,故障がない他の皇族に同項の委任をするものとする。」と,同法3条を「天皇は,その故障がなくなつたとき,前条の規定による委任を受けた皇族に故障が生じたとき,又は同条の規定による委任をした場合において,先順位にあたる皇族が年齢20に達し,若しくはその皇族に故障がなくなつたときは,内閣の助言と承認により,同条の規定による委任を解除する。」と改めるわけです。

 

5 昭和22年法律第3号に対する畏怖の由来論

 とはいえ,前記のような改正に対しても,少なくとも昭和22年法律第3号(題名は「皇室典範」)のそれについては「皇室典範を〔国会の〕議論に入れるのは不敬なのでは」という懸念がやはりなおあるかもしれません。(例えば,土屋正忠衆議院議員の20161021日付けウェブページには「そもそも皇室典範は「憲法第1章・天皇」の条項から直接導き出されている特別法で,一般法の延長ではない。」との認識が示されています。)

 

(1)明治40年皇室典範増補7条及び8条

「皇室典範」という題名の法規に係る前記「不敬なのでは」的畏怖の由来するところは,そもそもは1907年(明治40年)211日公布の皇室典範増補(1889年の明治皇室典範62条参照)の次の2箇条ではないでしょうか。

 

  第7条 皇族ノ身位其ノ他ノ権義ニ関スル規程ハ此ノ典範ニ定メタルモノノ外別ニ之ヲ定ム

皇族ト人民トニ渉ル事項ニシテ各々適用スヘキ法規ヲ異ニスルトキハ前項ノ規程ニ依ル

 

  第8条 法律命令中皇族ニ適用スヘキモノトシタル規定ハ此ノ典範又ハ之ニ基ツキ発スル規則ニ別段ノ条規ナキトキニ限リ之ヲ適用ス

 

 美濃部達吉は説明していわく。

 

  (イ)皇室に関する事項は原則として皇室の自ら定むる所に依る。皇室に関する事項とは天皇及皇族の御一身に属する権利義務に関する定を謂ふ。皇室の自ら定むる所の法規は即ち皇室典範及皇室令にして,天皇及皇族の権利義務は総て此等の皇室法に依り之を定むることを原則とするなり。明治40年の典範増補(71項)は此の趣意を言明して〔いる〕。『別ニ之ヲ定ム』とは別の皇室法即ち皇室令を以て之を定むるの意なり。其の皇族と曰へるは天皇に付ては言を待たずと為せるなり。

  (ロ)皇室に関する事項については皇室の定むる所の法が同時に国法として国家及国民を拘束する力を有す。即ち国家の統治権が事の皇室に関する限度に於て皇室に委任せらるるなり。〔略〕〔大日本帝国〕憲法(2条,171項)は皇位の継承及摂政の設置に付ては明文を以て之を皇室の自ら定むる所に任ずることを明にせり。其の他の事項に付ては明白には之を規定せずと雖も,憲法(741項)が『皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セズ』と曰へるは,総て皇室法は議会の議を経るを要せざるの意にして,而して議会の議を経るを要せずとは本来議会の議を経るを要する性質の事項なることを示す。本来議会の議を経るを要する事項は即ち性質上国の立法権に属するものならざるべからず。換言すれば此の憲法の規定は皇室に関する事項に付ては国の立法権を皇室に委任し,皇室の定むる所の法が国法たる効力を有することを示せるなり。典範増補(72項)は此の趣意を言明〔する〕。即ち皇族と人民との法律関係に付ても皇室法を以て之を定むることを得べく,人民は之に遵由することを要するの趣意なり。〔略〕是れ敢て典範増補に依り始めて定まれるものに非ず,憲法に於て既に定まれるものにして,典範増補は唯之を明白ならしめたるのみ。

  (ハ)一般の法律命令は原則として皇室に対し其の効力を及ぼすことなし。法律命令が皇室に適用せらるるは唯皇室が自ら其の適用を忍容する場合に限る。之を皇室の治外法権と謂ふことを得。典範増補(8条)は此の趣意を言明して〔いる〕。即ち皇室法を以て一般国法の皇室に対する適用を排除することを得べく,皇室に関する事項に付ては皇室法の規定が法律勅令に勝る効力を有す,一般国法は皇室法に反対の規定なき範囲に於てのみ皇室に其の効力を及ぼすことを得るに止まるなり。是も典範増補に依り始めて定まりたるものに非ず,憲法には此の点に付き別段の明文なしと雖も,是れ皇室自治の原則より生ずる当然の結果に外ならず。何となれば皇室の事は皇室自ら之を定むと謂ふは,其の反面に於て皇室の事は皇室の意に反しては国の立法に依り之を定むることなしと謂ふの意を含むものなればなり。

   以上の原則に基き,総て皇室に関する事項は単に皇室一家の内事に関するものは勿論,事同時に国家及人民に関渉あるものと雖も,尚皇室に於て自ら之を定め自ら之を処理するの権能を有す。之を皇室自治の大権と謂ひ,又は単に皇室大権と謂ふ。(美濃部210-213頁。原文の片仮名書きを平仮名書きに改めました。)

 

 明治典憲体制下においては,「総て皇室に関する事項」について皇室法が一般国法に優先するものとされています。両法とも制定権は天皇にあったわけですが(ただし,皇室法の制定には帝国議会は関与不可(大日本帝国憲法741項参照)である一方,一般国法たる法律の制定には帝国議会の協賛を要しました(同537条)。),前者に係る天皇は「皇室の家長たる天皇」,後者に係る天皇は「国の元首たる天皇」でした。何やら同君連合めいていますね。先の大戦において大日本帝国は連合国に敗れたのですが,当該敗戦に伴い,大日本帝国と大日本国皇室との関係にも大きな変動が生じたのでした。

 

(2)日本国憲法下における天皇及び皇族の国法上の地位

 日本国憲法下においては,「皇室に関する事項」であっても「国家及人民に関渉あるもの」は専ら一般国法の管轄となり,皇室法はそこから排除されるに至ったものと解されます(明治40年皇室典範増補72項の規定が一般国法絶対優位にひっくり返った,ということになります。)。また,皇室自ら「皇族ノ身位其ノ他ノ権義ニ関スル規程」を定めること(明治40年皇室典範増補71項参照)についても,天皇及び皇族の「国法上ノ地位」を定めるものはもはや皇室典範(これは憲法でも法律でもない正に皇室典範です。)以下の皇室法ではなく「普通ノ法律命令」それ自体ということになるのでしょうから(伊藤博文編『秘書類纂 雑纂 其壱』(秘書類纂刊行会・1936年)33頁の「皇室典範増補上議文案」第7条解説の記述参照),それは一般国法の許容する範囲内でしか認められないわけでしょう(なお,一般国法において皇室に関する事項について規定することが可能であることは,そもそも明治40年皇室典範増補8条自身がその前提としていました。)。皇室典範(1889年の皇室典範及び1907年の皇室典範増補のほか,1918年の皇室典範増補がありました。)及びそれ以下の皇室法が,194751日裁可同日公布の皇室典範及び同日裁可同月2日公布の昭和22年皇室令第12号によって同日限り全て「廃止」されということは,この意味でしょう。明治40年皇室典範増補の「廃止」は,明治天皇によるその裁定前の「従来此ノ点〔皇族の国法上ノ地位〕ニ関スル解釈区々ニ出テ法制亦帰一セザル」状態(伊藤編33頁)への単なる消極的な復帰をもたらすものではなく,より積極的に,天皇及び皇族の「国法上ノ地位」は,皇室典範(皇室法)及び帝国憲法(一般国法)の並立下にあって前者の下に位置付けられていた時のものとはもはや同じではなく,一般国法の下に位置付けられることになったことを明らかにするものでしょう。

昭和22年法律第3号(現行「皇室典範」)は,皇室に関する事項であって国家及び人民に関渉あるもの(国家に関渉ある事項中の皇位継承及び摂政に関するものは,国家の憲法事項ということになります(日本国憲法2条及び5条)。)等について,日本国憲法の施行前に国家の立法権が発動され置かれたものでしょう。皇室自治権が発動され得る範囲も,昭和22年法律第3号及び関係法令から読み取ることになるのでしょう。例えば,昭和22年法律第326条は「天皇及び皇族の身分に関する事項は,これを皇統譜に登録する。」と規定して天皇及び皇族に対する戸籍法(昭和22年法律第224号)の適用を排除していますので(園部613-614頁の引用する1979417日の衆議院内閣委員会における真田秀夫内閣法制局長官答弁参照),民法の規定事項中戸籍を前提にしたものについては,皇室自治権で補充されるものということになるのでしょう。

 皇室一家の内事についてなお残る皇室自治権については,次のような記述があります。

 

   なお,天皇と皇族との関係について,国としては,皇族を皇位継承資格者とし(〔現行皇室典範〕第2条),皇族の範囲につき天皇を中心とした規定(同第6条)を定める外,天皇が国の機関として行う国事行為についての制度化(摂政,国事行為の臨時代行)及び皇室経済〔筆者註:日本国憲法8条及び88条に基づき国家化されています。〕についての制度化(天皇と内廷皇族との関係)をしているものの,他には法制度上は存在しない。これは,天皇と皇族との関係の在り方は,国の機関としての地位にかかわる事項以外は皇室内の規範であるとして,国が積極的に関与することとしていないことによるものであると考える。仮に皇室内部の規範につき皇室からの要請があれば,皇室に関する事務として国がその制定を手伝うことはあるとしても,その制定権限は国にではなく,皇室にあり,そこで定められる規範は国法としての位置付けは有しないことになる。(園部479頁)

 

(3)昭和天皇の「御会釈」

 しかしなお,国会単独立法が可能な法律(日本国憲法41条・59条)ではあるとはいえ,現行皇室典範に対する畏怖はなかなか振り払い得ないものか。現行皇室典範の制定者であった昭和天皇(大日本帝国憲法5条)と当該大権行使の協賛機関であった帝国議会(同37条)の衆議院議員らとの間に同法の「不磨ノ大典」性に関して何らかの黙契があったものでもありましょうか(なお,当時はまだ参議院はありません。)。19461213日金曜日,衆議院皇室典範案委員に対して昭和天皇が「御会釈」をしています。

 

  午後,内廷庁舎御車寄前において衆議院皇室典範案委員会委員一行に御会釈を賜う。同委員会は,1126日衆議院に提出された皇室典範案の審議のため,去る125日院内に設置され,衆議院議員〔筆者註:前同議院議長〕樋貝詮三を委員長として,7日以降,実質審議を開始し,14日に賛成多数により原案どおり可決する。さらに同委員会においては,1210日に衆議院に提出された皇室経済法案についても審議を行い,19日全会一致を以て可決する。(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)249頁)

 

 龍顔厳粛にして,重い叡旨があった(と委員らは感じて圧倒された)のかもしれません。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 衆議院議員選挙区画定審議会設置法3条2項及び公職選挙法13条7項

「いわゆるアダムズ方式」というものがあります。

当該方式は,①各都道府県における衆議院小選挙区選出議員の選挙区の数(「小選挙区」なので,各選挙区において選挙すべき議員の数は1人になります(公職選挙法(昭和25年法律第100号)131項後段)。)及び②衆議院比例代表選出議員の各選挙区(北海道,東北,北関東,南関東,東京都,北陸信越,東海,近畿,中国,四国又は九州(同法132項・別表第2))において選挙すべき議員の数の割当てに係る方式です。

衆議院議員選挙区画定審議会設置法及び公職選挙法の一部を改正する法律(平成28年法律第49号)の第1条によって改正された①衆議院議員選挙区画定審議会設置法(平成6年法律第3号)32に「次条第1項の規定〔同法41項は「第2条の規定〔当該規定は「〔衆議院議員選挙区画定〕審議会は,衆議院小選挙区選出議員の選挙区の改定に関し,調査審議し,必要があると認めるときは,その改定案を作成して内閣総理大臣に勧告するものとする。」と定めるもの〕による勧告は,国勢調査(統計法第5条第2項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査に限る。)の結果による人口が最初に官報で公示された日から1年以内に行うものとする。」と規定〕による勧告に係る前項〔衆議院議員選挙区画定審議会設置法31項は「前条〔同法2条〕の規定による改定案の作成は,各選挙区の人口(最近の国勢調査(統計法〔略〕第5条第2項の規定により行われる国勢調査に限る。)の結果による日本国民の人口をいう。以下この条において同じ。)の均衡を図り,各選挙区の人口のうち,その最も多いものを最も少ないもので除して得た数が2以上とならないようにすることとし,行政区画,地勢,交通等の事情を総合的に考慮して合理的に行わなければならない。」と規定〕の改定案の作成に当たっては,各都道府県の区域内の衆議院小選挙区選出議員の選挙区の数は,各都道府県の人口を小選挙区基準除数(その除数で各都道府県の人口を除して得た数(1未満の端数が生じたときは,これを1に切り上げるものとする。)の合計数が公職選挙法(昭和25年法律第100号)第4条第1項に規定する衆議院小選挙区選出議員の定数289人〕に相当する数と合致することとなる除数をいう。)で除して得た数(1未満の端数が生じたときは,これを1に切り上げるものとする。)とする。」(下線は筆者によるもの)と,

同じく平成28年法律第49号のこちらは第2条によって改正された②公職選挙法137項に「別表第2〔衆議院(比例代表選出)議員の選挙区及び各選挙区において選挙すべき議員の数を定めるもの(同条2項)〕は,国勢調査(統計法(平成19年法律第53号)第5条第2項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査に限る。以下この項において同じ。)の結果によつて,更正することを例とする。この場合において,各選挙区の議員数は,各選挙区の人口(最近の国勢調査の結果による日本国民の人口をいう。以下この項において同じ。)を比例代表基準除数(その除数で各選挙区の人口を除して得た数(1未満の端数が生じたときは,これを1に切り上げるものとする。)の合計数が第4条第1項に規定する衆議院比例代表選出議員の定数176人〕に相当する数と合致することとなる除数をいう。)で除して得た数(1未満の端数が生じたときは,これを1に切り上げるものとする。)とする。」(下線は筆者によるもの)と規定されています。

卒然と思い付く筆者の発想であれば,まずそれぞれ小選挙区選出議員定数(289)及び比例代表選出議員定数(176)で日本国民の全国人口を除して小選挙区及び比例代表の各基準除数(議員一人当たりの日本国民の人口に係るあるべき数)を求めて,かつ,それを確定させた上で,当該各基準除数でそれぞれ各都道府県及び比例代表選出議員の各選挙区に係る日本国民の人口を除して,その結果得られた各都道府県及び比例代表選出議員の各選挙区に係る商(都道府県に係るもの47個,比例代表選出議員の選挙区に係るもの11個)を見て,さて端数が出てしまったがこの処理をどうしようか,と考えるところでしょう(この発想に係る方法は,quota methodというそうです(Shannon Guerrero and Charles M. Biles, “The History of the Congressional Apportionment Problem through a Mathematical Lens” (2017), pp.3, 4 (http://digitalcommons.humboldt.edu/apportionment/27))。)。これに対して,衆議院議員選挙区画定審議会設置法32項及び公職選挙法137のいわゆるアダムズ方式は,端数は切上げで処理するとあらかじめ決め置いた上で,議員の各総定数に見合うように基準除数を変動させる操作を行う,というところが,犬(基準除数)が尾を振るのか尾が犬(基準除数)を振るのか的ひねりがあって面白い。いわゆるアダムズ方式の処理の仕方は,後記の修正除数方式(modified divisor method (MDM))の一種ということになります(Guerrero & Biles, pp.8-9)。

平成28年法律第49号は2016527日に公布されているところ,同法における衆議院議員選挙区画定審議会設置法の改正規定(平成28年法律第491条)は同日から施行され(同法附則1条本文),公職選挙法の改正規定(平成28年法律第492条)は,2017716日から施行されています(2017616日に公布・施行された衆議院議員選挙区画定審議会設置法及び公職選挙法の一部を改正する法律の一部を改正する法律(平成29年法律第58号)による改正後の平成28年法律第49号附則1条ただし書)。

 

2 統計法5条2項本文の国勢調査=2020年国勢調査及びその結果公表日程

いわゆるアダムズ方式による公職選挙法別表1(衆議院(小選挙区選出)議員の選挙区を定めるもの(同法131項))の改定(衆議院議員選挙区画定審議会設置法41)及び公職選挙法別表2の更正(同法137項)を発動せしめる「統計法(平成19年法律第53号)第5条第2項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査」とは何かが問題となります。

これは,統計法52項を見ただけでは分かりません(同項は「総務大臣は,前項に規定する全数調査(以下「国勢調査」という。)を10年ごとに行い,国勢統計を作成しなければならない。ただし,当該国勢調査を行った年から5年目に当たる年には簡易な方法による国勢調査を行い,国勢統計を作成するものとする。」と規定)。5年ごとに行われる国勢調査(2020年にもありました。)のうち,統計法52項本文の国勢調査に当たるものは西暦末尾0の年のものか5の年のものかは,同項には書かれていないところです。ではどこを見ればよいのかといえば,統計法の附則4条であって,同条は,「新法第5条第2項本文の規定による最初の国勢調査は,平成22年に行うものとする。」と規定しています。すなわち,統計法52項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査の第1回は2010年に行われ,2020年の国勢調査はその第2回ということになります。

2020年の国勢調査の結果が出ると,いわゆるアダムズ方式による公職選挙法別表第1の改定及び同法別表第2の更正に係る各規定が初作動ということになり,同法の改正関係作業(あるいは,改正をせずに済むかもしれませんが)をしなければならなくなるわけです。

小選挙区の区割りに係る公職選挙法別表1の地理的改定案の勧告は,国勢調査の結果による人口が最初に官報で公示された日から1年以内に行うものとされています(衆議院議員選挙区画定審議会設置法41)。

他方,選挙すべき議員数に係る公職選挙法別表2の算術的更正については,そのスケジュール感を示す規定がありません。これは,同表の更正については,国勢調査の結果がいったん出てしまうと直ちに計算がされて比例代表選出議員の各選挙区の新定数が一義的に明らかになってしまうので,直ちにとまではいわないものの,それだけの改正にすぎないのだから(とはいえ,減員となる選挙区選出の代議士らは心穏やかではないでしょうが。)国会は速やかに公職選挙法を改正せよ,ということなのでしょう。平成28年法律第49号によって削られる前の公職選挙法別表第2の「この表は,国勢調査(統計法(平成19年法律第53号)第5条第2項本文の規定により10年ごとに行われる国勢調査に限る。)の結果によつて,更正することを例とする。」という十分抽象的な規定であれば,そもそもの更正の要否,更正するとした場合の方法等についての議論が更に十分過ぎるほどできたのでしょうが,もはやそのような思弁及び議論にふけって日子を費やすわけにはいきません。

2020年の国勢調査の結果に基づく改定に係る衆議院議員選挙区画定審議会設置法41項の1年の期間はいつから始まるかといえば,同項にいう人口は,日本国民の人口に限られず(同法31項括弧書き対照),かつ,「人口が最初に官報で公示された日」が起算日とされていますので,20216月公表の「人口速報集計」について「人口は公表日に官報に公示」するとの公示措置がされた日からとなるようです(「令和2年国勢調査の集計体系及び結果の公表・提供等一覧」を総務省統計局のウェブページで見ると,20216月に,「男女別人口及び世帯数の早期提供」のための「人口速報集計(要計表による人口集計)」が表章地域を「全国,都道府県,市区町村」として公表され,「人口は公表日に官報に公示」されるそうです。同「一覧」によれば,官報公示がされるのは,当該人口速報集計の人口のほか,202111月公表の「人口等基本集計」の人口及び世帯数(確定・人口世帯数)(こちらの公示日は公表日ではなく,「公表後」)のみです(なお,同「一覧」における国勢調査の結果の公表に係る「インターネットを利用する方法等」の「等」には官報公示は含まれないのでしょう。)。)。

ところで,公職選挙法の別表第1及び第2の改定及び更正は,単なる人口ではなく,日本国民の人口に基づいてされることになっています。人口から日本国民ではない者の人口を減じて初めて得られる日本国民の人口は,「人口,世帯,住居に関する結果及び外国人,高齢者世帯,母子・父子世帯,親子の同居等に関する結果」(下線は筆者によるもの)までが集計された「全国,都道府県,市区町村」を表章地域とする人口等基本集計が202111月に公表されるまでは明らかにならないように思われます。事実,2020226日付けの総務省統計局国勢調査課の「令和2年国勢調査の概要」を見ると,「人口速報集計(速報値)は,調査員が調査活動中に作成する調査世帯一覧を基に作成した要計表を用いて集計⇒外国人人口は把握できない」とあります(10頁)。

しかしながら,上記「概要」には更に,「人口速報集計(2()()),人口基本等集計(9()())の各段階で,選挙区別の「日本国民の人口」を算出する特別集計を実施」とあります(10頁)。(なお,ここで2021年の「2月」及び「9月」というのは,2020226日段階における予定であって,その後の新型コロナウイルス感染症騒動がもたらした遅延によって,現在はそれぞれ20216月及び同年11月に後ろ倒しになっているものでしょう。)この特別集計は,衆議院議員選挙区画定審議会設置法32項及び公職選挙法137項の付託に,国勢調査制度が正に応えようとするものでしょう。20216月の人口速報集計においては,わざわざ「外国人人口は,平成27年国勢調査結果に,住民基本台帳による5年間の増減等を勘案して推計」するそうです(国勢調査課10頁)。ただし,公職選挙法別表第1を見ると,市区町村レヴェルにとどまらずより細かい単位で衆議院(小選挙区選出)議員の選挙区は画定されているところ,これに必要となるのであろう「町丁・字等,基本単位区,地域メッシュ」を表章地域とする小地域集計は,「該当する基本集計等の公表後に集計し,地理データ等を活用して秘匿処理を施した上で,速やかに公表」とされています。公職選挙法別表第1の改定に必要なデータが全部そろうためには時間がかかるものでしょう。

人口速報集計段階における特別集計は,公職選挙法別表第1の改定については,あらかじめ速報値をもって一応の改定案作成作業を進めさせて人口基本等集計公表後の確定を迅速ならしめることが目的であるものと考えるべきものでしょうか。

人口速報集計段階における特別集計と公職選挙法別表第2の更正との関係については,あるいはあえて問題となし得るかもしれません。公職選挙法137項は,当該更正は「国勢調査の結果」によるべきものとのみ規定しています。これに対して,2012年の衆議院小選挙区選出議員の選挙区間における人口較差を緊急に是正するための公職選挙法及び衆議院議員選挙区画定審議会設置法の一部を改正する法律(平成24年法律第95号)附則321号には「人口(官報で公示された平成22年の国勢調査の結果による確定した人口をいう。以下この項において同じ。)」という表現があります(下線は筆者によるもの)。公職選挙法137項の解釈は,平成24年法律第95号附則321号を反対解釈してされるべきものか(確定値によらなくともよいことになります。となると,速報値が出た時及び確定値が出た時の両度にわたって更正をすることになるのでしょうか。),それともあるいは,2012年の立法においては「確定した」を明示したが,「結果」によるべき場合のその結果の数値は確定していなければならないのは当然であるから公職選挙法137項にはくどく「確定した」云々とはあえて書かなかったのだ,というものであるべきか。後者の解釈の方が常識的でしょう。

20171022日を期日とする総選挙において当選した衆議院議員らの任期は20211021日までです(日本国憲法45条,公職選挙法256条)。当該任期中においては――2020年の国勢調査に係る人口基本等集計の公表は202111月ですので――いわゆるアダムズ方式による公職選挙法別表第1の改定及び同法別表第2の更正はないということになるようです。しかし,20216月公表の人口速報集計に伴う特別集計の結果次第では,議員数の増減が確実に生ずることが同年11月の人口基本等集計の公表を待たずに歴然たる都道府県ないしは選挙区が明らかになってしまって,そのまま総選挙が行われると,居心地の悪い当選者,未練たらたらの落選者が出て来る可能性もあるものでしょう。

 

3 JQA及び米国憲法1条2節3項

 いわゆるアダムズ方式のアダムズとはだれかといえば,米国のアダムズ大統領だ,といわれます。しかし,1789年就任のジョージ・ワシントン(1797年まで在任)から2021年就任のジョー・バイデンまでの45人の米国大統領(バイデンは46代目ですが,19世紀後期のグローヴァ―・クリーヴランドが一人で22代目(1885-1889年在任)と24代目(1893-1897年在任)とを兼ねています。)中,アダムズは二人います。しかも,ファースト・ネームはどちらもジョン。父親の2代目ジョン・アダムズ(1797-1801年在任)及び息子の6代目ジョン・クインジー・アダムズ(1825-1829年在任)です。しかしていわゆるアダムズ方式の淵源たる方式の考案者は父子のうちどちらかといえば,息子の6代目の方です(以下当該息子を「JQA」と表記します。JQAといえば35代目のジョン・F・ケネディ(1961-1963年在任)のJFKみたいですが,実はちなみにJFKはその著書『勇気ある人々(Profiles in Courage)』の中でJQAを取り上げて称揚しています。)。なお,アダムズ方式はJQAの大統領時代に考案されたものではなく,1828年の大統領選挙でアンドリュー・ジャクソン(1829-1837年在任)に敗れた後,マサチューセッツ州の地元選出の連邦下院(代議院)議員になってから(1830年の選挙で初当選。その後再選を重ねます。)考案されたものです。1832年のことだとされています(William Lucas and David Housman, “Apportionment: Reflections on the Politics of Mathematics”, Engineering: Cornell Quarterly, Vol. 16 (1981), No.1, p.19)。(なお,JQAを破ったアンドリュー・ジャクソン第7代大統領はどういう人かといえば,「OK」の人であるのみならず(「ジョージ3世と3代のアメリカ合衆国大統領」参照(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1013251045.html)),その肖像画がドナルド・トランプ第45代大統領の執務室に飾ってあった人,といえばイメージがつかめるでしょうか。トランプ政権の終幕は大統領支持派大衆による連邦議会議事堂占拠で味噌が付きましたが,ジャクソン政権の開幕は,合衆国大統領官邸におけるレセプションに蝟集した大統領支持派大衆による大混乱(「「人民の威厳なるもの(Majesty of the People)は消滅して,突進し,喧嘩をし,跳ね回る少年,黒人,女,子供からなる群衆,すなわち暴徒(a rabble, a mob)」にとって代わられた」(Jon Meacham, American lion: Andrew Jackson in the White House (New York: Random House, 2009), p.61)。)によって彩られています。)

 アダムズ方式が考案された前提としては,米国憲法123項の次の規定があります。

 

  Representatives and direct Taxes shall be apportioned among the several States which may be included within this Union, according to their respective Numbers, which shall be determined by adding to the whole Number of free Persons, including those bound to Service for a Term of Years, and excluding Indians not taxed, three fifths of all other Persons. The actual Enumeration shall be made within three Years after the first Meeting of the Congress of the United States, and within every subsequent Term of ten Years, in such Manner as they shall by Law direct. The Number of Representatives shall not exceed one for every thirty Thousand, but each State shall have at Least one Representative; and until such enumeration shall be made, the State of New Hampshire shall be entitled to chuse three, Massachusetts eight, Rhode-Island and Providence Plantations one, Connecticut five, New-York six, New Jersey four, Pennsylvania eight, Delaware one, Maryland six, Virginia ten, North Carolina five, South Carolina five, and Georgia three.

  (下院(代議院)議員及び直接税は,この連邦を構成すべき諸州間において,それぞれの基準数に従って割り当てられる。当該基準数は,課税されないインディアンを除き,年季役務に拘束される者を含む自由人の全数に,それ以外の全ての者の5分の3を加えることによって決定されるものとする。法律によって定められるところにより,実際の人口調査は,合衆国議会の第1回会議の後3年以内に行われるものとし,その後は10年の期間内ごとに行われるものとする。下院議員の数は,3万当たり1人を超えないものとする。ただし,各州は少なくとも1人の下院議員を有するものとする。しかして,当該人口調査が行われるまでは,ニュー・ハンプシャー州は3人,マサチューセッツ州は8人,ロウドアイランド州は1人,コネティカット州は5人,ニューヨーク州は6人,ニュー・ジャージ州は4人,ペンシルヴェイニア州は8人,デラウェア州は1人,メアリランド州は6人,ヴァジニア州は10人,ノース・キャロライナ州は5人,サウス・キャロライナ州は5人及びジョージア州は3人を選出することができるものとする。)

 

4 米国第1回国勢調査,1792年の下院議員数割当法,最初の大統領拒否権発動及びハミルトン対ジェファソン

 米国の第1回の国勢調査(Census)は,1790年,トーマス・ジェファソン国務長官の下で実施され,その結果は,17911028日に連邦議会に提出されました(Guerrero & Biles, p.4)。

15州(建国13州にヴァモント州及びケンタッキー州が加わっています。)の合計基準人口概数3,615,920(「基準人口概数」といって端的に「人口」といわないのは,この数字は奴隷1人を5分の3人として数えた数を含む数字であろうからです。「3/5人間」なる存在は,筆者としてはどうも実感しにくい。そもそも議員について「3/5議員」というような面妖な存在が許されないからこそ議員数割当てにおける端数処理で苦労しているのです。)を30,000で除したところ(合衆国憲法123項により得ることが可能な最大限の下院議員総数を目指したようです。),得られた商が120.531なので下院議員の定員を120人とし(ちなみに,当時の下院定数は67人でした(合衆国憲法123項の65人にヴァモント州分の2人を加えたもの。ケンタッキー州の連邦加入は179261日のことになります。)。),これに各州の基準人口概数を全国合計基準人口概数で除した商(各州の基準人口概数の全国基準人口概数に対する比率)を掛けて得られた積が各州の割当数(quota)になりますが,これには端数が出るのでそれを全部切り捨てた上で合計すると111となって,120の定数を満たすにはまだ9人分余裕がある,そこで,端数部分の値の大きな順に9州に各1議席をプラスして得られた議員数割当ての法案が連邦議会で成立し(この割当方式は,quota methodの一種であり,ハミルトン方式と呼ばれます。アレグザンダー・ハミルトンは,ワシントン政権の財務長官にして,かつ,与党・連邦党(Federalists)の首領でした。),1792326日にワシントン大統領に対しその承認を求めて提出されます(Guerrero & Biles, p.5)。しかし,同年4月,ワシントンは,それまでその行使に消極的であった議会立法に対する大統領拒否権を合衆国史上初めて発動(Ron Chernow, Washington: a life (New York: The Penguin Press, 2010), p.685),その理由は,ワシントンの合衆国憲法解釈によれば当該法案は違憲だからであって,すなわち,当該法案で8議席を得ることとなったコネティカット州の基準人口概数は236,841にすぎないところ,8議席では同州における下院議員1人当たりの基準人口概数は29,605となって「下院議員の数は,3万当たり1人を超えないものとする。」との合衆国憲法123項の規定に違反する(ワシントンは,当該規定は,合衆国全体についてのみならず,各州についてもそれぞれ守られなければならいと解していました。)というものでした(Guerrero & Biles, p.5)。ハミルトンの不倶戴天の敵であるジェファソンからの,拒否権を発動すべしとの進言もあったそうです(Lucas & Hausman, p.18)。

大統領の拒否権発動を承けて議会は,各州の基準人口概数を基準除数33,0003万の1割増しですね。)で除した商の端数を切り捨てた数を各州の下院議員数とする法案(そうして得られた各州の下院議員数の合計が結果的に下院議員の総数となり,この時は105でした。)を新たに可決し,今度はワシントンも承認,当該端数切捨て割当方式(ジェファソン方式といわれます。)が1830年の国勢調査に基づく割当てまで続く方式となります(Guerrero & Biles, pp.5, 8)。ただし,ジェファソン方式は,ワシントンのお目こぼしにはあずかれたものの,小州に比べて大州にとって有利であり(切り捨てられた端数の重みは,割当下院議員数が少ない州の方が重く感ずるところです。),かつ,各州の前記quota(各州の基準人口概数の全国総基準人口概数に対する比率を下院の総議席数に掛けたもの)からその端数を切り上げ,又は切り捨てて得られる数(これは,quota値直近の2個の整数になります。)から外れた数の議席割当てが当該州について生ずる事態(例えば,quota19.531の州に19又は20ではなく,一つ飛んだ21議席が割り当てられるような事態。クォータ原則違反(quota rule violation)といわれます。)の可能性があるところです(Guerrero & Biles, pp.5, 8)。また,1792年法でも,全体の105議席中,ヴァジニア州(基準人口概数630,560)に19議席,デラウェア州(基準人口概数55,540)に1議席が与えられたものの,両州のquotaを計算すると((630,560 or 55,540 / 3,615,920)×105それぞれ18.3101.613とであって,端数部分のより大きいデラウェアが切捨てを被り,端数部分のより小さいヴァジニアが切上げの恩恵に浴するという不体裁を抱えていました(Guerrero & Biles, pp.4, 5)。


5 1832年の下院議員数割当て:アダムズ方式,ディーン方式及びウェブスター方式並びにジェファソン方式継続下でのポークの辣腕

 1830年の国勢調査を承けた州別下院議員数割当法案に係る議論に際して,上院(元老院)の割当委員会(apportionment committee)の委員長であるダニエル・ウェブスター(マサチューセッツ州選出)は,JQAからアダムズ方式(端数切上げ方式)を提案する書簡を受領します(Guerrero & Biles, p.6)。ただし,この原始アダムズ方式は,下院の総議席数の枠をまず前提とはしないものであって,我が国の衆議院議員選挙区画定審議会設置法32項及び公職選挙法137項のそれと全く同一のものではなかったようです。前記ジェファソン方式のように基準除数(divisor. 1792年法における33,000)を先に決めて各州の基準人口概数を除した上でその商の端数を処理してその州の議員割当数を決める方法(しかして,下院の総議員定数は,各州の議員割当数を足し合わせて決まる。)はbasic divisor methodBDM)といわれますが(Guerrero & Biles, p.4),その一種とされています(Guerrero & Biles, p.6)。ジェファソン方式では端数切捨てですが,アダムズ方式は端数切上げです。端数を切り上げるこころは,JQAとしては,「合衆国の人口が西部に向かって拡大することに伴い,下院の議席がマサチューセッツ及びニュー・イングランドから失われて行くことを懸念していた」からとされます(Lucas & Housman, p.19)。

 「アダムズ方式は全然真剣に検討されなかった。それは,ジェファソン方式と同様の欠陥を抱えていた。特に,それはクォータ原則違反を起し得たし,かつ,偏りを示し得た。アダムズ方式の偏りは,常に大州に対して小州を優遇するものであった」(Guerrero & Biles, p.6)。「彼〔JQA〕の提案は,しかしながら,議会に採用されることはつゆなかった」(Lucas & Housman, p.19)。

 米国ではアダムズ方式は全く相手にされなかったとは,JQA前大統領閣下もお気の毒です。

 近年のJQAの伝記においても,下院議員数割当てに係るアダムズ方式の提案に関しては,次のように間接的に触れられているだけです。

                                                                                         

   〔連邦議会閉会後〕アダムズは1832年の夏を,『デルモット』JQAがその前年に執筆した,イングランドに征服された12世紀のアイルランドをめぐる叙事詩。Dermot MacMorroghは当時のアイルランド貴族の名〕の出版の手配をし,時々思い出したように彼の父〔ジョン・アダムズは182674日に死去〕の伝記の執筆を行って1767年まで進め,遺言書を書き直し,マウント・ウォラストン〔マサチューセッツ州クインジー所在のアダムズ家の地所〕に木を植えて過ごした。彼は,ハリソン・グレイ・オーティス〔かつては若きJQAの友人であったが,ジェファソン政権(1801-1809年)の対英強硬政策に対する姿勢(JQAは賛成,JQAの地元は反対)をめぐって政敵になっていたボストンの有力者〕の訪問を受けた。オーティスは,議席割当てに関する連邦議会における激しい議論において,ニュー・イングランドの利益を守ってくれたことについてアダムズに礼を述べた。長かった諍いは終わりを迎えた。アダムズはもはや,ハートフォード会議181412月にニュー・イングランドの親英派がハートフォードで開催した会議。合衆国からの離脱を決議するまでには至らなかった。〕に係る,本一冊ほどの分量のある攻撃文書を公にしようなどという気は起こさない。(James Traub, John Quincy Adams: militant spirit (New York: Basic Books, 2016), p.402. 下線は筆者によるもの)

 

1965年の米国連邦議会下院の文書(89th Congress, 1st Session; House Document No.250)はもう少し詳しく,1832年のJQAの日記“vol. III pp.471-472”とありますが,これは活字印刷された公刊本でしょうか。JQA日記の自筆原本はマサチューセッツ歴史協会のウェブサイトで公開されているのですが(http://www.masshist.org/jqadiaries/php.),筆者にはJQAの手書きの文字は難物で,何月何日の記事であったものかつまびらかにできません。)から,次の記述を引用しています。

 

  私は全く眠れない一夜を過ごした。法案の不正(iniquity)及びかくも偏頗(partial)かつ不正義(unjust)な代表の割当てをもたらしたそのいかがわしい方法論(disreputable means)が私を憤らせ,私は目を閉じることができなかった。私は一晩中,この重大な衝撃をマサチューセッツ及びニュー・イングランドが被ることがないようにする手立て(device)がもしや何かないものかと思いを巡らしていた。(History of the House of Representatives, p.21

 
 JQAからアダムズ方式の提案を受けた同じ頃,ウェブスター委員長は,ヴァモント大学のジェームズ・ディーン教授からもディーン方式(端数の切上げ又は切捨ては,どちらを採用した方が当該州の1議員当たりの基準人口概数が基準除数(1792年法の場合は33,000)に近くなるか(差が小さくなるか)によって決めるBDM)の提案を受け,更には自らもウェブスター方式(端数が0.5を超えれば切上げ,超えなければ切下げとするBDM。どちらを採用した方が当該州の基本人口概数1当たりの議員数が基準除数の想定する基本人口概数1当たり議員数(基準除数の逆数)に近くなるか(差が小さくなるか)によって端数を切り上げるか切り捨てるかを決めるBDMともいえます。)を考案します(Guerrero & Biles, pp.6-7)。切上げ・切捨てを判断するための閾値は,ウェブスター方式ではquota原値の前後の整数に係る算術平均値,ディーン方式では調和平均値である,ということになります(Guerrero & Biles, pp.6-7)。しかしながら,これらジェファソン方式に代わる方式について上院のウェブスター委員会でのアイデア提示はあったものの,連邦議会は結局従来からなじんだジェファソン方式を継続することにしますGuerrero & Biles, p.7。ただし,米国国勢調査局のウェブページによると,JQAは,ウェブスター方式(アダムズ方式ではない!)の採用を求めて頑張っていたそうです(https://www.census.gov/history/www/reference/apportionment/apportionment_legislation_1790_-_1830.html)。)。

 いやはや,やはりまだまだジェファソンですか,と嘆息されたものかどうか。切捨て派ジェファソンの回顧録を1831年に読んだ切上げ派JQAの感想は次のようなものでした。

 

  ジェファソンは,と彼は思った,自分に甘過ぎて,理屈では分かっている奴隷制の悪についてもそうだが,彼自身の幸福のためにならない真実を受け容れることができなかった。彼が有していた「記憶力は,彼の意思のためには実に迎合的なもの(so pandering)であったので,他者を欺くに当たっては,彼は自らを欺くことから始めていたようである。」彼は神も死後の世界も恐れなかった。「偉大な目的と強力な資質とに恵まれた精神におけるこのような情況がもたらすものといえば,不誠実と二枚舌と(insincerity and duplicity)であって,これらは彼の生涯に付きまとう罪であった。」ジェファソンは,一言でいえば,偉大な才能はあるが志操薄弱な(with great talents but weak principles)人間の典型であった。(Traub, p.391

 

 ルイ16世治下ベルサイユのばら時代の1784年のパリで出会った頃には,41歳のジェファソン公使は,17歳の青年JQAの崇拝を享受していたのでしたが・・・。

1832年の下院議員数割当ての際辣腕を振るったのが下院の割当委員会の委員長であり,かつ,数学に強かったジェイムズ・K・ポークであって(ポークは,当時のジャクソン大統領の地元であるテネシー州からの選出。後に第11代大統領(1845-1849年在任)となって米墨戦争を遂行),ジェファソン方式を前提に,基準除数が47,700というあえて丸まっていない数になるよう政略を働かせ,ジョージア,ケンタッキー及びニュー・ヨークというジャクソン大統領にとって政治的に重要とされる州(ただし,ケンタッキーは1832年選挙における対立大統領候補となるヘンリー・クレイ(JQA政権の国務長官)の地元であって,実際にもクレイが獲得しています。)に余分の議席を確保することに成功しています(Guerrero & Biles, p.7)。1832年秋の大統領選挙は,結果としてはジャクソンが大統領選挙人219人を獲得して,同49人のクレイに対して圧勝しますが(一般投票得票率は,ジャクソンが55パーセント弱,クレイは約37パーセント),その直前までは接戦が予想されており,在米の一英国外交官も,選挙は下院での決戦投票に持ち込まれ結果としてジャクソンが敗れるものとの予想をしていたところです(Meacham, p.220)。

なおちなみに,ジェファソン方式下において,1790年国勢調査を承けた下院議席割当てに際しての基準除数は33,000で,結果としての下院総議席数は前記のとおり105でありましたが,1800年の国勢調査を承けた割当てでは基準除数33,000で下院総議席数は1411810年の国勢調査を承けた割当てでは基準除数35,000で下院総議席数は1811820年の国勢調査を承けた割当てでは基準除数40,000で下院総議席数は2141830年の国勢調査を承けた割当てでは基準除数は47,700で下院総議席数は240となっています(Guerrero & Biles, p.5)。ポークは,総議席数が丸くなることをもって,基準除数47,700という中途半端な数を正当化したものでしょうか。

 

6 ウェブスター方式並びにハミルトン方式及びその欠点

 1840年の国勢調査を承けた1842年の割当ての議論においては,十年前のポークの深謀に倣おうということで,実に多くの基準除数の提案がされました。最終的には,後の第15代大統領(1857-1861年在任。リンカンの前任)となるジェイムズ・ブキャナン上院議員が提案した70,680が採用された上,端数処理は新たにウェブスター方式によってなされ,下院総議席数は233となることとなりました(Guerrero & Biles, pp.7-8)。

 1850年にはサミュエル・ヴィントン下院議員(ホィッグ党,オハイオ州)の提案に係る法律(1850年ヴィントン法)が成立し,下院の総議席数をまず決めた上でのハミルトン方式での議席割当てが再導入されます(Guerrero & Biles, p.8)。

しかし,ハミルトン方式は,「アラバマ・パラドクス」(総議席数が増えたのに,割当議席数が減る州が生ずる。),人口増加パラドクス(人口がより早く増加する州が人口増のより遅い州に対して議席を失う。),新加入州パラドクス(新しい州が合衆国に加入し,その分の下院議席の追加割当てを受けた場合において,新たな下院総議席数に基づいて再計算してみると,他の州の割当議席数が変動すること。)のような困難な問題を発生させる欠点を有しており,連邦議会において弥縫策が多々講じられるに至っています(Guerrero & Biles, p.8)。1900年の国勢調査を承けた割当ては,当初はハミルトン方式(総議席数384を前提とする。)で始められたものの,最終的にはウェブスター方式で処理されることになりました(結果として総議席数は386)(ibid.)。

「アラバマ・パラドクス」は,総議席数の増加に伴い各州のquotaの数値も比例的に増加するところ,もとのquotaの数値が小さいとその際端数の増加幅の絶対値も小さくなってしまい,その結果増加幅の絶対値が大きい大quotaの州との間で端数の大小に逆転が生ずることが原因であるようです(大和毅彦「議員定数配分方式について――定数削減,人口変動と整合性の観点から――」オペレーションズ・リサーチ20031月号25頁参照)。人口増加パラドクスが起こる場合については,全国の人口増加速度(増加率)>大州の人口増加速度(増加率)&小州の人口増加速度(増加率)である場合,下院の総議席数が一定であるときには大小両州とも全国との関係でquotaが減少しなければなりませんが,大州の方がquota減少の絶対値が大きくなるので(同じ1割減でも10からのそれと1からのそれとでは絶対値が異なります。),小州の人口増加速度が大州のそれよりも遅い場合であっても,quotaの端数の価の逆転が起こり得るということのようです(大和25-26頁参照)。


7 修正除数方式:ウェブスター方式及びハンティントン=ヒル方式

 1910年に米国連邦議会は,ハミルトン方式から,修正除数方式(MDM)にはっきりと移行します(Guerrero & Biles, p.8)。

MDMにおいては,①総議席数の決定,②基準除数の決定,③各州の人口(南北戦争を経て,合衆国にはもう奴隷はいません。)を基準除数で除してその商(quota)を得る,④③の商の端数処理をして(その処理方式として,ジェファソン方式,アダムズ方式,ディーン方式,ウェブスター方式等),各州の割当議員数候補値を得る,⑤④の各州割当議員数候補値を合計して,合計値が①の総議席数に合致すれば終了,合致しなければ②に戻る,との5段階処理ループが設定されます(Guerrero & Biles, p.9)。すなわち例えば我が公職選挙法137項は,上記①の総議席数を176,④の端数処理方式を切上げ(アダムズ方式)としたMDMですね。

1910年の米国国勢調査に基づく下院議員数割当てに係る①の数は433,④の方式はウェブスター方式であって,1920年の国勢選挙に基づいた下院議員数割当ては禁酒法時代の議会の紛糾で実施できず,1930年の国勢調査に基づく下院議員数割当ての①は435,④はウェブスター方式でした(Guerrero & Biles, p.9)。

 1940年の国勢調査に基づく下院議員数割当てからは,①の数を435,④の方式をハンティントン=ヒル方式(切上げ・切捨てを判断する閾値をquota原値の前後に係る自然数の幾何平均値とする方式。下院議員1人当たりの州人口と基準除数との比率がより1に近くなる方の自然数を割当議員数として採用することになります。)とするMDMが用いられています(Guerrero & Biles, p.9)。国勢調査局(Bureau of the Census)職員のジョーゼフ・A・ヒルが1911年に当該方式を考案し,ハーヴァード大学の数学及び機械工学の教授であるエドワード・V・ハンティントンが1920年から当該方式の採用を提唱していたものです(Lucas & Housman, p.20)。民主党支配下の連邦議会において1942年にハンティントン=ヒル方式が法制化されましたが,早分かりのその採用理由は,ウェブスター方式の端数処理であると共和党優位のミシガン州に1議席が行くが,ハンティントン=ヒル方式であれば,代わって民主党優位のアーカンソー州に1議席が来るからであった(したがって,ハンティントン=ヒル方式に共和党は反対,民主党は賛成(ただし,ミシガン州選出の民主党議員はさすがに反対)),ということだったそうです(Lucas & Housman, p.21)。理論的には,ハンティントン=ヒル方式はquota methodではないところから,「アラバマ・パラドクス」及び「人口パラドクス」を避けることができるが,クォータ原則違反が発生する可能性があり,また,やや小州にとって有利な割当結果をもたらすものであるそうです(ibid.)。

 

ここで算術平均のウェブスター方式,幾何平均のハンティントン=ヒル方式及び調和平均のディーン方式間の具体的違いを見てみましょう。例えば某州についてその人口を基準除数で除して得られた商たるquotaの値が12との間(1<q<2)であれば,当該quota値とその前後1及び2という二つの自然数の平均値(算術平均値,幾何平均値又は調和平均値)との比較をして,quota値が当該平均値より上ならば2議席,下ならば1議席が割り当てられることとなるわけですが,12との算術平均値は1.5=(1+2)/2),幾何平均値は1.41421356…=(1x2)),調和平均値は1.333…=2/(1/1+1/2))となります。したがって,某州のquota1.4であれば,ウェブスター方式では1議席(q<1.5),ハンティントン=ヒル方式でも1議席(q<1.41421356…),ディーン方式なら2議席(q>1.333…)ということになります。切上げ方式のアダムズ方式ならば,細かい計算なしに2議席です。他方,切捨て方式のジェファソン方式ならばquota1.999…でも1議席,ハミルトン方式ならば端数(0.4)の大きさを他州と比べることになります。(なお,23との平均値は,算術平均ならば2.5=(2+3)/2),幾何平均ならば約2.44949(=(2x3)),調和平均なら2.4=2/(1/2+1/3))となります。)


8 ハミルトンからJQAへ,そして日本へ 


(1)1人別枠方式+ハミルトン方式からいわゆるアダムズ方式へ

 1994年の制定時から20121126日公布の平成24年法律第953条によって同日から削られるまでの衆議院議員選挙区画定審議会設置法3条旧2項は,「前項の改定案の作成に当たっては,各都道府県の区域内の衆議院小選挙区選出議員の選挙区の数は,1に,公職選挙法(昭和25年法律第100号)第4条第1項に規定する衆議院小選挙区選出議員の定数に相当する数から都道府県の数を控除した数を人口に比例して各都道府県に配当した数を加えた数とする。」と規定していました。衆議院小選挙区選出議員の定数に相当する数(小選挙区の総数)から,まず各都道府県に1区ずつを配当し(これは,最高裁判所大法廷平成23323日判決・民集652755頁では「1人別枠方式」といわれています。),当該配当後に残った小選挙区数を,今度は「人口に比例して」各都道府県に配当するものでした。しかしてここでの「人口に比例して」部分に係る各都道府県への小選挙区数の配当方式は,法律レヴェルでは規定されていませんでしたが,実はハミルトン方式で行われていました(大和24-25頁及び総務省統計局のなるほど統計学園高等部ウェブサイトの「選挙区割りの見直し」ウェブページ参照)。

 最大判平成23323日が,2009830日施行の衆議院議員総選挙(これは,民主党等による鳩山由紀夫内閣の成立に至ることとなった総選挙でしたね。)に関して,その施行当時には「本件区劃基準〔衆議院議員選挙区画定審議会設置法3条が定めている基準〕のうち1人別枠方式に係る部分は,憲法の投票価値の平等の要求に反するに至っており」と述べて1人別枠方式は憲法の要求に反しているとの判断をしたことにより,平成24年法律第95号によって「1人別枠方式+ハミルトン方式」の衆議院議員選挙区画定審議会設置法3条旧2項が削られ,その後の検討を経た上での平成28年法律49号によっていわゆるアダムズ方式を採用した衆議院議員選挙区画定審議会設置法3条新2項及び公職選挙法137項が設けられるのに至ったのでした。1人別枠方式については,最大判平成23323日の紹介するところでは,「法案提出者である政府側から,各都道府県への定数の配分については,投票価値の平等の確保の必要性がある一方で,過疎地域に対する配慮,具体的には人口の少ない地方における定数の急激な減少への配慮等の視点も重要であることから,人口の少ない県に居住する国民の意思をも十分に国政に反映させるために,定数配分上配慮して,各都道府県にまず1人を配分した後に,残余の定数を人口比で配分することとした旨の説明がされている。」とのことでしたところ,人口の少ない県に特に配慮するものである1人別枠方式は,確かに小州を優遇するアダムズ方式に親和的です。ハミルトン方式に代えるに宿敵ジェファソンの名を冠したジェファソン方式ではハミルトンが可哀想だ,というような,ブロードウェイ・ミュージカルのファン的おもんぱかりがあったわけではありません。大州優遇のジェファソン方式では,ハミルトン云々以前に,1人別枠方式を失うことによって小さな県が被った傷口に更に塩を擦り込むことになるばかりだったということでしょう。

 採用に至った理由はともかくも,ハミルトンを排してJQAを採ったことになる我が国会の判断は,JQAの父たる泉下のジョン・アダムズを喜ばせたことでしょう。ハミルトンは敵の多い人物でしたが,2代目合衆国大統領にも激しく憎まれていました。

 

  彼JQAの父は,アダムズ大統領と決裂して,1800年の選挙〔再選を目指す現職大統領のジョン・アダムズが副大統領のジェファソンに敗れた大統領選挙〕においてはアダムズに代えて副大統領候補のトーマス(ママ)・ピンクニー1800年の選挙についてならばチャールズ・コーツワース・ピンクニーの誤りでしょうか。トーマスがジョン・アダムズと共に候補になったのは,1796年の大統領選挙です。〕を推そうと党員を唆した連邦党員アレグザンダー・ハミルトンに対する預言者的怒りで一杯であった。1802年頃には〕老アダムズは彼の自伝を執筆中であり,そこにおいて彼は,彼に逆らった全ての者を暴き出す計画であった。(Traub, p.115

 

(2)「日米同盟」の同床異夢?

とはいえ,「日米同盟」もあらばこそ,議員数割当方式の呼称は,我が国では必ずしも米国式に統一されていません。ハミルトン方式はヘア式最大剰余法と呼ばれ(前記なるほど統計学園高等部ウェブサイトの「選挙区割りの見直し」ウェブページ参照),ジェファソン方式がドント方式,ウェブスター方式はサンラグ方式と呼ばれています(20141120日に衆議院議長公邸で開催された衆議院選挙制度に関する調査会(第4回)の議事概要を見ると,事務局から「除数方式による定数配分方式のうち,各都道府県の人口を任意に設定した除数(例えば人口何万人というような形で設定)で割り,小数点部分を切り捨てるものがドント方式,四捨五入するものがサンラグ方式,切り上げるものがアダムズ方式であるとの説明の後,アダムズ方式については,最初に配分される定数1は,それ以降の定数と同一の計算から決まるものであり,全ての団体について人口を除数で割った商に小数点以下の端数が立つ場合は,繰り上げてプラス1の形で定数が配分されることになり,計算過程に1人別枠という考え方は一切入っておらず,ディーン方式,ヒル方式についても同様である」との説明がされています。)。

我々日本人は,義務教育段階から英語と格闘させられて,米国のことをお勉強させられたような気分になってよく知っているつもりでいても,所詮内在的理解まで達することは到底できないものか。

(3)日米関係事始におけるフィルモア政権国務長官

アメリカ独立宣言の起草者たるジェファソン,10ドル札のハミルトンを知らないのでは,確かにちょっと「同盟国の知識人」(づら)できなくて恥ずかしいというのは分かるけど,ウェブスターまでは勘弁してよ,との苦情があるかもしれません。とはいえ,ダニエル・ウェブスターは,日本開国のためにペリー艦隊を派遣したフィルモア政権(1850-1853年)の国務長官だったのですぞ(ただし,ペリーが出航する18521124日の1箇月前の同年1024日に死亡)。

ちなみに,1852116日にウェブスターの後任国務長官となり,ミラード・フィルモア大統領から日本帝国皇帝に宛てられた親書(同月13日付け)の起草に当たったエドワード・エヴァレットは,JQAのハーヴァード大学ボイルストン修辞学教授時代(1806-1809年)の学生の一人でした(Traub, p.144)。当該親書は嘉永六年六月九日(1853714日),久里浜において幕府応接掛戸田氏栄に手交されます。当時の和訳には味わいがあってよろしいのですが(https://www.ndl.go.jp/modern/img_t/001/001-002tx.html),つい試みてしまったフィルモア親書に係る屋上屋の拙訳は次のとおりです。

 

   偉大にして善良なる友へ。私は,この公書簡を,合衆国海軍最高位の士官であり,かつ,皇帝陛下の版図を現在訪問中である艦隊の司令官であるマシュー・C・ペリー代将を通じてお届けします。

   私は,ペリー代将に対して,私は陛下御自身及びその政府に対して最も温かい感情を抱懐しており,かつ,合衆国と日本国とが友好関係のうちに共存するとともに相互に通商関係を有すべきことを皇帝陛下に御提案すること以外の目的をもって同人を日本国に派遣するものではないことを皇帝陛下に明らかにするように指示しております。

   合衆国の憲法及び法律は,他国の宗教的又は政治的な問題に係る全ての干渉を禁じています。特に,ペリー代将に対して私は,皇帝陛下の版図の静穏を害する可能性のあるあらゆる行為を行わないように命じております。

   アメリカ合衆国は大洋から大洋までの広がりを有し,我々のオレゴン準州及びキャリフォーニア州は,皇帝陛下の版図に正対して位置しております。我々の蒸気船は,キャリフォーニアから日本国まで18日間で達することができます。

   我々の大いなるキャリフォーニア州は,銀,水銀,宝石及び多くの他の価値ある物産に加えて毎年約6千万ドル相当の金を産出しています。日本国もまた,豊かかつ肥沃な国であり,多くの非常に価値ある物産を産出しています。皇帝陛下の臣民は多くの技芸に長じています。日本国及び合衆国双方の利益のために,我々両国が相互に貿易を行うことを私は望んでおります。

   皇帝陛下の政府の古き法が清人及びオランダ人とのもの以外の外国貿易を許していないことは,我々の承知しているところです。しかしながら,世界の情勢は変化し,かつ,新らたな諸政府が樹立されますところ,時宜に応じて新たな法を定めることが賢明であるものと思われます。皇帝陛下の政府の古き法が初めて定められましたのは,昔のことでありました。

   ほぼ同じ頃,ときに新世界と呼ばれるアメリカが初めて発見され,ヨーロッパ人が入植しました。長いこと人口は少なく,かつ,彼らは貧しくありました。現在に至りまして,彼らの数は非常に多くなり,彼らの商業は大いに拡大し,そして彼らは,もし皇帝陛下によって古き法が改められて両国間の自由な貿易が許されるようになれば双方にとって極めて有益なこととなろうと考えております。

   外国貿易を禁ずる古き法を一挙に廃しても全く安全である,と皇帝陛下が御得心されないのであれば,試験的に5ないしは10年の間それらの法を停止することもあり得ましょう。期待したような利益がないことが明らかになれば,古き法を復活させることができます。合衆国は,しばしば外国との条約に数年の期限を付し,更新の有無をその都度判断しています。

   皇帝陛下にもう一つの事項を申達するよう,私はペリー代将に指示しています。毎年多くの我々の船舶がキャリフォーニアから清国まで航海し,また,多数の我々の人民が日本国近海で捕鯨漁に従事しています。荒天時において,我々の船舶が皇帝陛下の海岸に打ち上げられることが時折生じております。このような全ての場合において,我々が艦船を派遣して彼らを引き取ることができる時まで,我々の不幸な人民が親切に取り扱われ,かつ,彼らの財産が保護されんことを我々は求めるとともに,期待するものであります。我々は,本件について,極めて真剣な関心を有しております。

   更にペリー代将は,日本帝国には石炭及び糧食が極めて豊富であるものと我々は認識していることを皇帝陛下に伝達するよう,私から指示されています。広大な大洋を渡るに当たって,我々の蒸気船は大量の石炭を焚焼させますが,それらをはるばるアメリカから持参することは便利なことではありません。我々の蒸気船及び他の艦船が日本国に寄港し,石炭,糧食及び水の供与を受けることが許されることを我々は望んでいます。支払は,金銭又は皇帝陛下の臣民の好む他の物をもってされるでしょう。また,当該目的のために我々の艦船が寄港することのできる一の便宜な港を,帝国の南部において,皇帝陛下が指定されることを我々は求めるものです。我々のこれを要望するところ,切であります。

   友好,通商,石炭及び糧食の供給並びに海難に遭った我々の人民の保護。これらが,皇帝陛下の誉れ高き江戸市を強力な艦隊と共に訪問すべく私がペリー代将を派遣した目的の全てです。

   いささかの贈り物を皇帝陛下が嘉納されるよう,我々はペリー代将に指示を与えています。それら自身は高価なものではありません。しかしながら,合衆国において製造された物品の見本となるものがありますでしょうし,また,それらは,我々の真摯かつ敬意に満ちた友情の証たるべきものであります。

   全能者の大いにして神聖な加護が皇帝陛下にありますように!

   上記の証として,18521113日,我が政府の所在地であるアメリカのワシントン市において,予は合衆国国璽をここに鈐せしめ,かつ,署名せり。

 

   (国璽印影)

   善良なる友

  ミラード・フィルモア

 

  大統領の命により

   国務長官エドワード・エヴァレット


DSCF0774
A monument at Natsu-shima (Natsu Island), which was once nicknamed WEBSTER Island by the then-Yedo-Bay-intruding Perry squadron (The "island" is now connected by later land reclamation to the Yokosuka mainland, Kanagawa.)

DSCF1057
Commodore Matthew C. Perry (in Hakodate, Japan) 


(4)米国のオレゴン及びキャリフォーニア領有並びにモンロー政権国務長官による大陸横断条約という布石

 「アメリカ合衆国は大洋から大洋までの広がりを有し,我々のオレゴン準州及びキャリフォーニア州は,皇帝陛下の版図に正対して位置しております。(The United States of America reach from ocean to ocean, and our Territory of Oregon and State of California lie directly opposite to the dominions of your imperial majesty.)」ということはすなわち,米国による日本の開国は,米国領土拡大の太平洋到達に続くところの必然的な成り行きであったということでしょう。

 米国によるオレゴン地方(Oregon Country)併合は1846年,キャリフォーニア(通常「カリフォルニア」と表記されますが,これは,英語を片仮名にしたというよりは独自の日本語でしょう。英語の発音に近づけた表記である田中英夫『英米法総論』(東京大学出版会・1980年)の表記を採用してみました。)のメキシコからの獲得は1848年のことでした。

それらの前史として1819222日に米国国務長官とスペイン駐米公使ドン・ルイス・デ・オニスとが署名した米西「大陸横断(Transcontinental)」条約が,北米のスペイン領土と米国との間の国境線を太平洋までの北緯42度線(現在のキャリフォーニア州とオレゴン州との州境)と定めています(ただし,当初米国側は,北緯41度の国境線を要求していました(Traub, p.228)。)。1818年夏のオニス公使との交渉において米国国務長官はその要求するところを地図上の「ミズーリ川の北に線を引き,「そこから太平洋まで真っすぐに」延ばして」示しましたが,「これが,アメリカの主権を大洋から大洋まで拡張することをアメリカの外交官が提議した最初の場面であるとみられる」ところです(Traub, p.224)。北緯42度線の北がオレゴン地方ですが,同地は,米英戦争中に米国勢力が撤退し,英国勢力が進出した後,モンロー大統領(1817-1825年在任)の指示を受けた同政権の国務長官が軍艦オンタリオを派遣してそこに米国国旗を再び掲げしめて巻き返し(Traub, p.225),18181020日にロンドンで署名された米英協定によって米英の共同管理地ということになっていました。

 モンロー政権の国務長官は,もちろんJQAです。

大陸横断条約に関し,「私の人生において,恐らく最も重要な日」たる同条約署名の日の日記にJQAは記していわく,「南海〔the South Sea=太平洋〕に至る確定した国境線の承認は,我々の歴史における偉大な時代(a great Epoch in our History)を画するものである。交渉中,本件に係る最初の提案をした者は,私であった。」と(Traub, p.231)。英国との関係でオレゴン地方がどうなるかは予断を許さないものの(つまり,北からの英国領土が南のスペイン領土に直に接することになって,米国の太平洋への出口がふさがれてしまう可能性はなおあったものの),当該「(ライン)」は,米国の「将来の目的に係る宣明」でありましたTraub, p.228)。JQAの昂揚の理由は,彼による当該布石がもたらすであろう太平洋における米国(及び日本を含む太平洋諸国)の「偉大な時代」に係る予感にあったわけです。

 1846年の米英オレゴン協定(同年615日署名)によって米国がオレゴンを単独領有することになりましたが,当該協定の成立に向けて,モンロー政権の国務長官たりしJQA下院議員は,もちろん強硬な賛成派でした。フィルモア親書中,オレゴン準州への言及部分は,JQAとしては我が意を得たりとするところだったものでしょう。オレゴンの次に,対岸の日本が来るのは自然です(エヴァレットくん,そのとおり!)

 他方,キャリフォーニアの獲得(1846年から始まった米墨戦争の終結に係る184822日署名(ただしその後修正あり。)のグアダルーペ・イダルゴ条約によるもの)については,JQAはそもそもの米墨戦争自体に大反対でした。新領土に対する米国南部からの奴隷制の拡張を恐れたからです(せっかく自分がオニスを締め上げて締結したのに,米国の太平洋岸領土画定に係る大陸横断条約の意義が,メキシコとの新たな講和条約で上塗りされて消されてしまうのが残念だ,というようなけちな料簡ではなかったものでしょう。)。したがって,フィルモア親書中,キャリフォーニア州関係部分は,JQAとしては不本意と感ずるものだったでしょう(なお,キャリフォーニア自体は,ヘンリー・クレイによる「1850年の妥協」の結果,自由州として合衆国に加入しています。)。米墨戦争はJQAに祟っています。

 

   〔18482月〕21日,アダムズは連邦議会に正午頃到着した。彼の前には,恐らくヴァッテマールの図書館提案〔フランス人ヴァッテマールは,図書館間における本の交換制度を提案していました。〕に係るものであろう書類の束があった。目下の議事は,対墨戦争の英雄に対して連邦議会の感謝を表明するとともに8名の功績顕著な将軍のために金貨を鋳造する権限を〔ポーク〕大統領に付与することを内容とする決議に係るものであった。アダムズは,当該戦争に係るあらゆる形態の是認行為に対して反対し続けていた。点呼投票が行われ,アダムズは――一報告者が後に記したところによると――「断乎とした様子で,かつ,常よりも大きな声」で「反対(ノウ)」と叫んだ115分,〔ウィンスロップ〕下院議長は議案を第3回の最終採決にかける準備をしていた。『ボストン解放者・共和主義者』新聞のヘンリー・B・スタントンが15ないし20フィート離れたところにすわって見ていると,アダムズは明らかに興奮して紅潮し,不明瞭な声でいくつかの発言をした。続いて老人80歳〕は,死人のように蒼白になった。「彼の右手は神経質に机の上を動いた。」とスタントンは記している。「それは何物かをつかもうとするかのようだった。」下院議長に向かって発言しようとするかのようにアダムズの唇は動いた。しかし声は出なかった。「次に机上の彼の手の動きはより痙攣的となり,彼はそれを,机の角をつかむために伸ばしているように見えた。」

   人々が立ち上がり動き回っているさなかにあって,老人の苦悶に気が付いていたのは当該記者だけであった。と,身体を真っ直ぐに支えようとしてなお机をつかみつつ,アダムズは左側に倒れ始めた。「アダムズさんが死んでしまう!」との叫び声が上がった。幾人かの議員が,彼を支えようとして駆け寄った。(Traub, pp.525-526

 

  〔前略〕数十年の長い間アダムズのライヴァルであり,かつ,同僚であったヘンリー・クレイが下院議長室にやって来た。彼は無言のままアダムズの傍らに立ち,彼の手を取り,そして泣いた。元大統領は今や昏睡状態にあった。彼はなお,その日及びその翌日一杯を生きた。(Traub, p.526

 

三日目の184822319時過ぎ,米国連邦議会の下院議長室で,JQAは息を引き取りました。

 



このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 ベルギー国憲法の王朝関係条項

 

   ベルギーは1830年の革命の結果生まれたヨーロッパの小国であるが,その憲法には,いろいろの点で,われわれの興味をそそるものがある。1831年に制定され,成典憲法としては古いものであるが,今日〔1976年〕まで145年の長命を保っている。19世紀前半につくられたものとしては,かなり進歩的な内容をもち,しかも,法典として割合によくまとまっていたので,外国の憲法でこれにならったものも少なくない。1848年のドイツのフランクフルト憲法,1849年のオーストリア憲法,1850年のプロイセン憲法などは,そのいちじるしい例であり,わが明治13年〔1880年〕の元老院の憲法および〔1889年の〕明治憲法も影響をうけている。

   この憲法には,規模は小さいが,立憲君主制のもとに,自由主義的議会民主制のひとつの見本が示されている。そうして,形式的には,君主制をとりながら,その基礎原理は民主主義と自由主義であり,そのうえに君主制をみとめているところにこの憲法の本領がある。すべての権力は国民に由来し(第〔33〕条),国王は,憲法の制定者ではなく,憲法の所産であって,政治の実権をもたない装飾的な存在にすぎず,日本国憲法における天皇の国事行為の場合と同じように,憲法および憲法にもとづく特別の法律の明文によって与えられた権能のみをもつ。

  (清宮四郎;宮沢俊義編『世界憲法集 第二版』(岩波文庫・1976年)66頁)

 ベルギー国を訪問した皇太子裕仁親王に対し,1921610日,アルベール1世国王は,その歓迎の辞の中で特に次のように同国憲法に言及しています(宮内庁『昭和天皇実録 第三』(東京書籍・2015年)293頁)。

 

  殿下は我が国において其の国民が憲法の下に,克く自らの運命を支配し,且つ狭小な地域において欧洲強国の間に伍しつゝ其の国民的個性を保持し,自由を愛好し,以て社会に於ける知識,道徳の向上並に物質上の繁栄に資する諸種の事業を起し,且つこれを確立せんとして努力し居るを看取せられるでありませう。


  ちなみに,1830年にベルギー国憲法草案の起草を中心となって担ったのは25歳のジャン=バティスト・ノトン(Jean-Baptiste Nothomb)と29歳のポール・ドゥヴォー(Paul Devaux)との二人であって,最初の原案(なお,立憲君主制になるか共和制になるかは当時未定)は両名によって同年1012日から同月16日までの間に作成されたそうです(Dimitri Vanoverbeke, The Development of Belgian Constitutional Practice: the Head of State Between Law and Custom, 憲法論叢第8号(20023月)32頁)。少数の若者による短期間の制作という事実は,某国の憲法草案の19462月における起草作業を彷彿とさせます。

 ベルギー国憲法には,次のような条項があります(拙訳は,清宮86-87頁・90頁を参照しました。)。

 

Art. 85


Les pouvoirs constitutionnels du Roi sont héréditaires dans la descendance directe, naturelle et légitime de S.M. Léopold, Georges, Chrétien, Frédéric de Saxe-Cobourg, par ordre de primogéniture.

Sera déchu de ses droits à la couronne, le descendant visé à l'alinéa 1er, qui se serait marié sans le consentement du Roi ou de ceux qui, à son défaut, exercent ses pouvoirs dans les cas prévus par la Constitution.

Toutefois il pourra être relevé de cette déchéance par le Roi ou par ceux qui, à son défaut, exercent ses pouvoirs dans les cas prévus par la Constitution, et ce moyennant l'assentiment des deux Chambres.

 

85条 国王の憲法上の権能は,レオポルド・ジョルジュ・クレティアン・フレデリック・ド・サクス・コブール陛下の直系,実系かつ嫡系の子孫が,長子継承の順序により,これを世襲する。

  第1項に規定する子孫であって,国王又は憲法によって定められた場合に国王に代わって国王の権能を行う者の同意なしに婚姻したものは,王位につく権利を失う。

  ただし,当該子孫は,国王又は憲法によって定められた場合に国王に代わって国王の権能を行う者によって,かつ,両議院の同意を得て,王位につく権利の回復を受けることができる。

 

Art. 86

A défaut de descendance de S.M. Léopold, Georges, Chrétien, Frédéric de Saxe-Cobourg, le Roi pourra nommer son successeur, avec l'assentiment des Chambres, émis de la manière prescrite par l'article 87.

S'il n'y a pas eu de nomination faite d'après le mode ci-dessus, le trône sera vacant.

 

  第86条 レオポルド・ジョルジュ・クレティアン・フレデリック・ド・サクス・コブール陛下の子孫がないときは,国王は,第87条に規定する方法で表明された議院の同意を得て,その継承者を指名することができる。

    前項に掲げた方法による指名が行われない場合は,王位は空位となる。

 

Art. 87

Le Roi ne peut être en même temps chef d'un autre État, sans l'assentiment des deux Chambres.

Aucune des deux Chambres ne peut délibérer sur cet objet, si deux tiers au moins des membres qui la composent ne sont présents, et la résolution n'est adoptée qu'autant qu'elle réunit au moins les deux tiers des suffrages.

 

  第87条 国王は,両議院の同意がなければ,同時に他国の元首となることができない。

    両議院のいずれも,その総議員の3分の2以上が出席しなければ,前項の同意に関する議事を行うことができない。また,3分の2以上の多数によらなければ,可決の議決をすることができない。

 

Art. 95

En cas de vacance du trône, les Chambres, délibérant en commun, pourvoient provisoirement à la régence, jusqu'à la réunion des Chambres intégralement renouvelées; cette réunion a lieu au plus tard dans les deux mois. Les Chambres nouvelles, délibérant en commun, pourvoient définitivement à la vacance.

 

  第95条 王位が空位の場合は,全部改選された両議院が会同するまで,両議院の合同会で,暫定的に摂政職について措置する。新議院の会同は,2箇月以内にこれを行う。新議院の合同会は,確定的に空位を補充する。

 

 ベルギー国憲法851項は,当初は,「・・・男系に従って,長子継承の順序により,・・・女子及び女系の子孫は,永久に継承の権利を有しない。」(de mâle en mâle, par ordre de primogéniture, et à l’exclusion perpétuelle des femmes et de leur descendance)とされていたところです。その後ベルギー国にあっては,「永久に(perpétuel)」の文言もものかは,憲法の改正があったわけです(1991年)。なお,ベルギー国の先王アルベール2世には非嫡出子がありますが,嫡系(légitime)ではないので,当該非嫡出子たる女性は王位継承とは無縁です(我が最大決平成2594日(民集6761320頁)などからするといかがなものでしょうか。)。

 

2 日本国憲法における「「王朝」形成原理」

 

(1)明治典憲体制における「原理」の「維持」が求められているとの説

 かつて小嶋和司教授は,「〔日本国〕憲法2条は「王朝」形成原理を無言の前提として内包しているとなすか,それとも「国会の議決した皇室典範」はそれをも否認しうるとなすかは憲法論上の問題とすべきものである。」とされ(「「女帝」論議」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』(木鐸社・1988年)65頁),かつ,憲法に内包される当該「無言の前提」たり得る「「王朝」形成原理」に関しては,いわゆる「マッカーサー・ノート」における“dynastic”との用語から,大日本帝国憲法改正時にマッカーサー連合国軍総司令官は,「現王朝(dynasty)を前提として,王朝に属する者が王朝にふさわしいルールで継承すべきことを要求」するとともに当該王朝の「王朝形成原理の維持を要求」していたのではないかと示唆されていました(同64頁。下線は筆者によるもの)。すなわち,「憲法論的に男帝制を指示するとも考えうる史実」があったところです(小嶋・女帝63頁)。

確かに,大日本帝国憲法の改正に係る1946213日のGHQ草案の第2条(Article II. Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.)及び第4条(Article IV. When a regency is instituted in conformity with the provisions of such Imperial House Law as the Diet may enact, the duties of the Emperor shall be performed by the Regent in the name of the Emperor; and the limitations on the functions of the Emperor contained herein shall apply with equal force to the Regent.)においては“such Imperial House Law as the Diet may enact”なる法規の存在が現れていましたが,これは,当時の皇室典範(明治皇室典範(1889年)並びに明治40年皇室典範増補(1907年)及び大正7年皇室典範増補(1918年))の改正憲法下での存続を前提に,皇位継承及び摂政設置に関して,天皇と競合し,かつ,優越する立法権(ただし,憲法の枠内であることは当然。)を国会に与えるとの趣旨ではなかったかとは,両条に係る「国会ノ制定スル皇室典範」との外務省による翻訳以来の定訳に対して,不遜にも異見を提示する筆者の思い付きでありました(「日本国憲法2条に関する覚書」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065867686.html)。

 

(2)明治典憲体制における三大則

明治皇室典範における皇位継承の大原則は,その第1条(「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」)に係る『皇室典範義解』の解説によれば,「祖宗以来皇祚継承の大義炳焉(へいえん)として日星の如く,万世に亙りて易ふべからざる者,(けだし)左の三大則とす。/第一 皇祚を践むは皇胤に限る。/第二 皇祚を践むは男系に限る。/第三 皇祚は一系にして分裂すべからず。」であったそうです。この三大則は,「世襲」の意味内容たる,又は昭和22年法律第3号がなおも皇室典範たる以上その当然の前提とするところの「「王朝」形成原理」として,日本国憲法2条に内包されているものでしょうか。

(ちなみに,男系ノ女子による皇位継承までならば,前記「皇祚継承の大義」には抵触しないようですので,「皇祚継承の大義」をも圧伏し得る人民の主権意思(the sovereign will of the People)の発動たる憲法改正までは要さず,法律の形での皇室典範改正によって可能なのでしょう。)

 

ア 皇胤主義

「皇胤」とはだれのことかというと,『皇室典範義解』には「祖宗の皇統とは一系の正統を承くる皇胤を謂ふ。而して和気清麻呂の所謂皇緒なる者と其の解義を同くする者なり。」とあって,宇佐八幡宮からの和気清麻呂の還奏(「我国家開闢以来,君臣分定矣,以臣為君未之有也,天之日嗣,必立皇緒」)を見よ,ということになっています。道鏡が皇位に就くことを排斥する理窟は,単に道鏡は臣下だからということ(「以臣為君未之有也」)だったというわけなのですね。「我国家開闢以来,君臣分定矣,以臣為君未之有也」なので,明治40年皇室典範増補6条において「皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス」とされたものなのでしょう(また,昭和22年法律第315条)。「皇統トハ唯皇族タル身分ヲ有スル者ノミヲ意味シ,既ニ臣籍ニ入リタル者ヲ含マズ。一タビ皇族ノ身分ヲ脱シテ臣籍ニ降ルトキハ,皇位継承ノ資格ハ消滅シテ又之ヲ復スルヲ得ザルコトハ,当然ノ原則トシテ認メラルル所ナリ」というわけです(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)178頁)。

しかし,「吾是去来(いざ)穂別(ほわけの)天皇(すめらみこと)〔履中天皇〕之孫〔同天皇の皇子である市辺(いちのべの)忍歯別(おしはわけ)王の子〕なのだけれども播磨国において困事於人(ひとにたしなみつかへて)(うし)牧牛(うまを)(かふ)境遇にまで(新編日本古典文学全集3『日本書紀②』(小学館・1996年)230-231頁)いったん下った後に(雄略天皇は市辺忍歯別王を自ら射殺し給うていますから,同王の子らは雄略朝期には皇族扱いなどつゆされなかったものでしょうが,同天皇も崩御して既に暫くたった時期に)宴会で踊りと歌とを披露して山部連(やまべのむらじが)先祖(とほつおや)()(よの)来目部(くめべの)小楯(おだて)身分を顕わし再上昇して皇位を継承し給うた顕宗・仁賢の兄弟天皇の古例があり,藤原高子(白玉か何ぞと人の問ひしとき露とこたへて消えなましものを)系は勘弁してくれということで光孝天皇(君がため春の野に出でて若菜が衣手に雪はりつつ)の子である源定省が皇族に復帰して皇位を継承した宇多天皇前例ありますから,皇祚を践むは皇胤に限る。」とは明治天皇の決意ではあっても,例外を一切許さぬ「炳焉として日星の如く,万世に亙りて易ふべからざる」ものとまでいえるかどうか。

 

イ 一系主義

「皇祚は一系にして分裂すべからず。」については,『皇室典範義解』自ら「後深草天皇以来数世の間,両統互に代り,終に南北二朝あるを致しゝは,皇家の変運にして,祖宗典憲の存する所に非ざるなり。」と嘆きつつも大覚寺統の諸天皇の在位を否認することはしていませんから,できちゃったものは仕方ないが,以後気を付けよう,という位置付けでしょうか。ただし,美濃部達吉によれば,一系主義は世襲主義からの説明が可能です。いわく,「純粋の世襲主義に於いては,必ず単一の系統に於いて之を世襲するものでなければならぬことは,当然である。若し皇統が2系以上に分たれ,その各系の出が対等の権利を以て皇位の継承を主張し得ることが認めらるゝならば,それは世襲主義の思想とは相容れないものである。」と(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)105頁)。

しかし,古代スパルタ人に言わせれば,二系の王家があって王が二人いたってええじゃないか,ということになるのでしょう。

 

ウ 男系主義

最後に,「皇祚を践むは男系に限る。」については,これは『皇室典範義解』も安心してか,「先王の遺意を紹述する者にして,苟も新例を創むるに非ざるなり。」と記しています。「日本における「帝室ノ眷族」の形成原理は,父母の同等婚を要求しないかわり,たんに片親の皇統性で足りるとはせず,厳格に父系の皇族性を要求した。明治憲法第1条のいう「万世一系ノ天皇」が男系に着目しての一系制で,「皇統ハ男系ニ限リ女系ノ所出ニ及ハサルハ皇家ノ成法」(『典範義解』)である」こと(小嶋・女帝60-61頁)に留意せよということになります。「〔昭和22年法律第3号たる〕皇室典範を改正して女の天皇を認めることは,もとより可能である。」(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)132頁。下線は筆者によるもの)といわれる場合において,ここでの「女性」に「女」までをも読者において読み込み得るものかどうかは,難しいところです。

女系の皇統を認めるということは,従来の皇室=皇族の範囲・枠組みを抜本的に変更することになるようですから,憲法改正の革命的手続によるのが無難でしょうか。というのは,皇室典範は本来皇室の家法であり,かつ,日本国憲法も「皇室典範」の文字によって当該性格を承認していると考えるならば(しかしこれは,「戦後日本社会の支配層は,明治期に確立した皇室関係法の特殊性を何とかして残し,天皇の「萬世一系」性を日本人たちに納得させる一助たることを期待して,憲法第2条の異例な言葉遣いにこだわった。この作戦は,かなり成功した気味がある。この言葉遣いが持つ特殊な煙幕効果のゆえに,相当の知識人・文化人でさえも,「皇室典範」というものは,憲法規範の一部と誤解したり,そうでないとしても何か特別な法であって,その修正には特別な手続が必要であると勘違いしている向きがある。そういう誤謬をおかす点において,「ふつうの日本人」は――自ら気づかないままに――天皇制の明治的伝統を引き継いでいるというわけである。」というだけのことかもしれませんが(奥平康弘『「萬世一系」の研究(上)』(岩波現代文庫・2017年)17頁)。),昭和天皇の裁可に係る昭和22年法律第3号について国会が法律で改正を加えるに当たっては(「宮内府」が「宮内庁」になった昭和24年法律第134号による改正のようなものを除き),少なくとも事実上,皇室(又はその家長たる天皇)の同意が必要不可欠であるのだと考えることも可能であるようなのですが19466月の法制局「憲法改正草案に関する想定問答(増補第1輯)」では,法律としての皇室典範の取扱いについて,「国会の側から皇室について謂はば差出がましい発案は行はないと云ふ様な慣習法が成立することもあらうか,と考へる。」との希望や,「国会その他の意思をも反映させるための方法」として「特殊の諮詢機関の議を経べきこと」もあり得べきか,というようなアイデアが示されています。同月8日,帝国議会の議に付される帝国憲法改正案が可決された枢密院会議において,昭和天皇の弟宮である崇仁親王から「皇室典範改正への皇族の参与につき再考を願」う旨の発言があり,かつ,同親王は棄権し退席していたところです(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)136頁)。,その場合,天皇は「国政に関する権能を有しない。」という例の日本国憲法41項後段との関係が大問題になり得るからです(「日本国憲法41項及び元法制局長官松本烝治ニ関スル話」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065184807.html)。

 

3 王朝交代に係る憲法規定について

 

(1)ベルギー国憲法における存在と日本国憲法における不存在と

「皇統の全く絶ゆることは,わが憲法の予想しないところで,皇統連綿天壌と共に窮なかるべきことを前提として居る」ので(美濃部・精義106頁),「王統の絶えた場合を予想して,之に応ずべき処置を定めて居る」ベルギー国憲法の規定は,我が神州の憲法にとっては,正に単なる「備考」に止まるべきものです(同頁)。

しかし,ついベルギー国憲法86条を眺めると,「はて,これは我が憲法では「神武天皇の子孫がないときは」と書くべきところかな。それとも「明治天皇の子孫がないときは」かな。」などと余計なことを考えてしまいます。これについては,少なくとも「明治天皇の子孫がないときは」とはならないようです。明治典憲体制下においては,後花園天皇の弟宮の貞常親王系である伏見宮系の皇族も皇位継承の可能性があるものとされていました。したがって,「崇光天皇の子孫がないときは」とすべきでしょうか。しかし,それでは,我々臣民がその意思をもって折角推戴し奉った後光厳天皇(崇光天皇の弟)から始まった皇統(ただし,一休さんは継承できず。)は何だったのだということになりますから(「「日本国民の総意に基づく」ことなどについて」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1003236277.html),「光厳天皇の子孫がないときは」でしょうか。しかしまたそれでは,吉野方贔屓の方々の御不満もあることでしょう。結局,持明院統・大覚寺統どちらも仲良く「後嵯峨天皇の子孫がないときは」でしょうか。仁治三年正月四日(1242年)の四条天皇の崩御後「承久の乱の再発を恐れる〔北条〕泰時は,その際討幕派であった順徳院の皇子の即位を喜ばず,〔非戦派であった〕土御門の皇子を推し,鶴ヶ岡八幡宮の神意によると称して,その旨を京都に伝えた。泰時は順徳院の皇子の即位が実現するようなことがあれば,退位させよという決意を,使者の安達義景に伝えたという。さて,土御門院の皇子は,幕府の推戴をうけ,仁治三年正月二十日元服して邦仁と名乗り,冷泉(れいぜい)万里(までの)小路(こうじ)殿(どの)(せん)()した。後嵯峨(ごさが)天皇である。」ということですから上横手雅敬『北条泰時』(吉川弘文館・1958年)197頁),鶴ヶ岡八幡宮の神意並びに承久三年における我ら人民の達成及びその保持の必要性に鑑みるに,「後嵯峨天皇の子孫がないときは」でよいのでしょう。後鳥羽院=順徳院系の皇位継承は,避けられるべきものでした。

 

  奥山のおどろが下も踏み分けて道ある世ぞと人に知らせん

 

 なお,19471013日の皇室会議の議による同月14日の伏見宮系11宮家の皇籍離脱に係る昭和天皇の叡旨はいかんといえば(これら両日には,実は昭和天皇は長野県及び山梨県を行幸中でした(実録第十486-499頁)。),19461227日公布の明治40年皇室典範増補の改正(同皇室典範増補1条が「王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムルコトアルヘシ」から「内親王王女王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ臣籍ニ入ラシムルコトアルヘシ」に改められました。)について19461229日に伊勢の皇大神宮において勅使掌典室町公藤が奏した祭文には「今し国情の推移に伴ひ内親王王女王にして臣籍に入るへき途を広むるはむへくも有らぬ事となもおもほしきこしめし今回皇室典範増補の規定に改正を加へ其か事を制定さだめ給ひぬ」とあったところからみると(同書262頁。また,神武天皇山陵,明治天皇山陵及び大正天皇山陵にもそれぞれ奉告されています。),当該皇籍離脱は飽くまでも「国情の推移に伴」う「已むへくも有らぬ事」であって,皇考大正天皇の子孫以外の皇族を皇統から除かむとすなどという後醍醐天皇的に積極的ないしは苛烈なものではなかったようです(昭和22年法律第3号の第11条の手続においては天皇の意思表示は不要である建前ですので,昭和天皇もやや気楽に甲信の秋を楽しめたものでしょう。)。(これに対して,19471013日の皇室会議の議長たりし内閣総理大臣片山哲は,我が国史的には,華府ならぬ鎌倉の指令に従った承久三年夏の京都における北条泰時・時房的立場に置かれたものというべきなお当該皇室会議皇族議員出席二方高松親王秩父親王親王妃た(議案全会一致可決)。秩父高松絶家っていす。親王194672日の皇族討論会において「皇族の特権剥奪に対する批評の如き言辞は慎むよう」兄の昭和天皇から「仰せ」を受けており,その場で「御討論」(兄弟げんかということでしょう。)になっていましたが(実録第十155頁),19471013日には沈黙を守っておられたものでしょう。


DSCF2138

神奈川県藤沢市・秩父宮記念体育館近傍


DSCF2147

東京都世田谷区船橋(なお高からずとも,やはり,松です。)



(2)1810年スウェーデン王位継承法の前例

 王位継承問題に係るベルギー国憲法86条的解決の前例としては,スウェーデン王国の議会が議決し国王カール13世が裁可した同王国の1810926日王位継承法を考えるべきでしょうか。同法に基づき,同王国においては,1818年,ホルシュタイン=ゴットルプ王朝からベルナドッテ王朝への王朝交代がなされています。

ベルナドッテ朝の初代国王カール14世ヨハンは,元はフランスの一将軍であったジャン=バティスト・ベルナドットです。毎年12月,寒いストックホルムまでわざわざ出かけてベルナドッテ朝の王様からノーベル賞を貰って皆感謝感激するのですが,当該王朝には,その歴史にも由来にも,万世一系の神聖は全くありません。1763年に南仏ベアルンのポーで生まれたジャン=バティストは,同市で法律事務見習いをした後1780年に一兵卒として軍隊に入り,革命を経て累進,マルセイユの商人の娘であるデジレ・クラリーと1798年に結婚します(その翌年のクーデタでフランス共和国の政権を奪取したボナパルト第一執政は,彼女の元婚約者)。ベルナドット元帥は,1810年にスウェーデンの王太子。翌々1812年のロシア遠征の段階における元上司・フランス皇帝と元部下・スウェーデン王太子との関係は,次のように描かれています(長谷川哲也『ナポレオン~覇道進撃~第14巻』(少年画報社・2018年)134-136頁)。

 

  ベルティエ元帥  悪いニュースが〔中略〕スウェーデン王太子のベルナドットがロシアと密約を結んでおります

  ナポレオン1世 (あのくそ野郎/さっそく俺の敵に回ったか/イエナ・アウエルシュタット戦の時に銃殺しておくべきだった)

 

 余りお上品な人たちではないようです。

 ルイ16世らを血祭りに上げたフランス大革命を経て成り上がったベルナドットは,1810821日にスウェーデン議会によって王太子に選ばれていますが,その約2箇月前の段階においては,Ancien Régimeの粋・『ベルサイユのばら』のあの人物が,スウェーデンの王位をその近くから窺覦する者の一人として考えられていたようです。

 

  彼の敵は,この厚顔な封建貴族がフランスに復讐するためにみずからスウェーデン王となって国民を戦争に引きずりこもうとしている,と,ひそかに言いふらした。そして18106月にスウェーデンの王位継承者が急死すると,フェルセン名誉元帥がみずから王冠をつかまんがために毒を盛って片づけたのだという,とんでもない,危険なうわさが,わけのわからぬうちにストックホルムじゅうにひろがった。この瞬間から,革命のときのマリー・アントワネットとまったく同じように,フェルセンは人民の怒りに生命をおびやかされることとなった。このため,いろんな計画のたてられていることを知っていた好意的な友人たちは,埋葬の日に強情なフェルセンに警告して,葬式には出ないで用心深く家にいた方がいいとすすめた。しかしこの日は620日,フェルセンの神秘的な運命の日である〔1791620日にルイ16世一家のヴァレンヌ逃亡事件発生〕。〔略〕儀装馬車が(やかた)を出るか出ないかに,たけり狂う(ママ)民の一団が軍隊の警戒線を突破し,こぶしを固めて,白髪の老人を馬車から引きずり出し,防ぐすべもない彼をステッキや石で打ち倒した。620日の幻像はここに実現されたのである。マリー・アントワネットを断頭台に連れて行ったのと同じ,狂暴でどうもうな分子に踏みにじられて,「美しいフェルセン」,最後の王妃の最後の騎士の死体は,血を流し,見るも無残なすがたとなってストックホルムの市役所の前に横たわっていた。(ツワイク,関楠生訳『マリー・アントワネット』(河出書房・1967年)440-441頁)

 ベルナドッテ王朝は,気さくで人懐っこいというべきでしょうか。万世一系の我が皇室が苦難の中にあった19461128日,「これより先,スウェーデン国皇帝グスタフ5世より,皇孫ヴェステルボッテン公グスタフ・アドルフの皇子イェムトランド公カール・グスタフ誕生去る430を報じる510日付の親書が寄せられ,この日答翰を発せられる。これは終戦後初めて外国元首から送られた親書にて,聯合国最高司令部を経由して送付された。また答翰についても,最高司令部の検閲があるため,開封のまま外務省に送付される。なお,この答翰は平仮名混じり口語体とされ,初めて「当用漢字表」及び「現代かなづかい」が用いられた。」(実録第十244頁)ということがありました。1946430日生まれのイェムトランド公は,現在のカール16世グスタフ国王です。1945429日の天長節に際しても「スウェーデン国・満洲国・アフガニスタン国・タイ国の各皇帝,並びに中華民国国民政府主席代理より祝電が寄せられ,それぞれ答電を発せられる。なお,ドイツ国総統からの祝電はこの日の時点において到着なく,電信連絡も途絶状態にあり。」ということで(宮内庁『昭和天皇実録 第九』(東京書籍・2016年)656頁),グスタフ5世は義理堅いところを見せていました。昭和天皇がお下品に「あのくそ野郎/さっそく俺の敵に回ったか」とジャン=バティスト・ベルナドットの子孫について独白することは全くあり得なかったわけです。 

4 同君国関係

 ベルギー国憲法871項も面白いですね。

 大日本帝国憲法下でも「天皇が同時に或る外国の君主として,2箇国又は数箇国に君臨したまふことも,憲法上敢て不可能ではない。同君国関係には偶然の同君関係(Personal Union)と法律上の同君関係(Real Union)との2種が有る。前の場合には,日本とその外国との間には何等の法律上の関係も無く,唯2国が同一君主を戴いて居るといふだけに止まるもので,仮令それが起り得るとしても,日本の憲法には何の関係も無い。後の場合は,2国(時としては数国のことも有り得る)間の条約に依り永久に2国とも同一の君主を戴くことを約するものであり,此の如き条約を結ぶことは固より憲法(第13条)上の天皇の大権に依るものであるが,併しその条約に基き天皇が外国の君主として行はせたまふところは,外国の憲法に依るのであつて,日本の憲法には関しない,それは外国の統治権であつて,全く日本の統治権ではない。法律上の同君関係の場合には,単に同君であるばかりではなく,之に伴うて一定の範囲に於いて政務を共同にすることを約するのが通常で,此の場合にはその共同の政務に関しては両国の合同の意思に依つて之を処理することを要し,随つてその共同の機関を設くることが必要であるが,此の共同の機関を如何に組織するかも,亦日本の憲法に依つて定まるものではなく,専ら両国間の協定に依つて定まるものであり,その共同政務の処理に関しても日本の憲法は適用せられない。日本の憲法は日本の単独の統治権に関する規定で,此の場合は憲法以外に,共同的の統治権が成立するのである。」ということでした(美濃部・精義98-99頁)。

しかし,19108月の条約は,大日本帝国と大韓帝国とは後嵯峨天皇の子孫たる同一の君主(条約発効時には睦仁天皇兼皇帝)を戴くことを約す,というものではありませんでした。(すなわち,大韓帝国の国璽・皇帝御璽等(大韓国璽,皇帝之宝,勅命之宝2種,制誥之宝,大元帥宝,内閣之印及び内閣総理大臣章)は,無慈悲に破壊・亡失されることはなく大日本帝国の宮内省に保管されていましたが(実録第十170頁参照),使用される機会はなかったところです。これらは,GHQを通じて返還されたものの,大韓国璽等は朝鮮戦争の際亡失したそうです。

 閑話休題。

 

5 王朝選択の重要性

 ベルギー国憲法95条に関して,例のトニセン本(「大日本帝国憲法19条とベルギー国憲法(1831年)6条」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1038090379.html)に次のような一節があります。

 

   この場合,事は新王朝の開基に(de fonder une dynastie nouvelle)かかわるので,受任者の選任という形で,少なくとも間接的に選挙民団(le corps électoral)の意思が問われるべきこと(soit consulté)が至当(juste)である。国家の命運(les destinées du pays)は,君臨する一族(la famille régnante)の徳及び智(des vertus et des lunières)に大きくかかっているのである。(Thonissen, J.J., Constitution Belge annotée, offrant, sous chaque article, l’état de la doctrine, de la jurisprudence et de la législation; Hasselt, 1844. p.227)

 

「国家の命運は,君臨する一族(famille)の徳及び智に大きくかかっている」のです。「日本では,君主政というと「上御一人の支配」のごとく考え,目を君主にのみ注いでしまう」が,世襲君主制が前提とする基礎的事項は,君主は「支配王朝(dynasty)の所属者,すなわち「王族」であること」であって,「君主制政体を,君主の支配政体であるよりも王朝の支配政体と考えるが故に,これが「第一主義」とされ」,「「王族」とされるための条件の確定が,憲法上「之ニ次グ」重要性をもつ」(小嶋・女帝58-59頁)という西洋流の思考の片鱗がここにあります。

 

6 人臣摂政の憲法問題

 

(1)QUI REGIT IN INTERREGNO

なお,ベルギー国憲法95条の暫定的な摂政職は,レオポルド・ジョルジュ・クレティアン・フレデリック・ド・サクス・コブールを初代の王とする王朝の子孫が絶えてしまったときに設けられるものですから,王族ではなく(王族が残っていれば即位すべきです。),我が藤原良房から二条斉敬までの先例同様,人臣が就くものでしょう。

なるほど。我が国でも政権の粗相で皇位の安定的継承が確保できず,古事記の清寧天皇伝(清寧天皇は雄略天皇の子)の伝える「此〔清寧〕天皇,無皇后,亦無御子。〔略〕故,天皇崩後,無可(あめのした)(しらし)天下之王也(めすべきみこなかりき)。」というような状況になった場合は,当時採られた()(こに)(ひつ)日継所知之(ぎしらしめすみこを)(とふに)市辺忍歯別(いろも)忍海(おしぬみの)郎女,(またの)(なは)飯豊(いひとよの)王,坐葛城忍海之高木角刺宮也(かつらぎのおしぬみのたかきのつのさしのみやにいましましき)。」飯豊(いひとよ)(あをの)(みこと)(倉野憲司校注『古事記』(岩波文庫・1963年)195頁・300頁)の例のように女性皇族の摂政で暫時凌いで(ただし,昭和22年法律第31713号から6号までは,摂政就任可能女性皇族を皇后,皇太后,太皇太后,内親王及び女王に限っています。)顕宗=仁賢=武烈的新王朝の出現を待つべし,女性皇族も不在となれば人臣摂政でいくべし,ということでよいのでしょうか。

摂政については,明治皇室典範19条(昭和22年法律第316条に対応)の解説において『皇室典範義解』は「本条は摂政を認めて摂位を認めず。以て大統を厳慎にするなり。」と述べていますが,空位時に摂位を行うRegentは認めないといい得るのは,万世一系の建前により「皇統の全く絶ゆることは,わが憲法の予想しないところで」あるとともに,明治皇室典範10条が「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定して「皇位の一日も曠闕すべからざるを示し」ているからでしょう(『皇室典範義解』。また,昭和22年法律第34条)。現実に空位が生じてしまえば,必要に応じて,摂位的摂政も認められざるを得ないはずです。なお,「摂位トハ皇位曠シキガ故ニ一時仮ニ皇位ヲ充タシ正常ナル皇祚定マルヲ待ツヲ謂」います(美濃部・撮要237頁)。

先の大戦における我が同盟国たりしハンガリー王国においても,人臣摂政による摂位がされていました。

 

 〔19401121〕 日独伊三国条約にハンガリー国加盟日本時間1120日午後730につき,同国摂政ホルティ・ミクローシュと祝電を交換になる。(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(東京書籍・2016年)242頁)

 

(2)日本国憲法5条

ところで,最終手段としての人臣摂政を可能にするためには,摂政就任資格者を皇族に限定している昭和22年法律第3号の第17条を改正しなければなりません。

 

ア 日本国憲法5条の「皇室典範」の法的性質

そこで,念のため,日本国憲法5条を見てみると,同条も難しい。「皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは,摂政は,天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には,前条第1項の規定を準用する。」とあって,「国会の議決した」なしに「皇室典範」が裸で出て来ます。この「皇室典範」は,皇室の家法として,国会の関与なしに天皇によって裁定され得るものなのでしょうか。そうであると,明治典憲体制的でなかなか由々しい。しかし,ここでの一般的説明は,日本国憲法2条で「国会の議決した皇室典範」とあるので皇室典範は今や法律であり,したがって同5条の皇室典範も法律なのだ,というものでしょう。

いやいや皇室典範も複数あり得て「国会の議決しない皇室典範」も存在し得るのではないですか,という反論が許されないのは,皇位継承及び摂政設置に関する条項を含めて,皇室典範は「皇室典範」という題名の単一の法典として制定されていなければならないのだ(したがって法的性質も同一),皇室典範事項をばらばら分けて複数の法典にしてはならないのだ,という暗黙かつ強固な前提があるからでしょう(これに対して,Kaiserliche Hausgesetzeが複数であり得ることについては,小嶋和司「ロエスレル「日本帝國憲法草案」について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)58頁参照)。そうであると,皇室典範は単一の法典でなければならない,という当該要請は憲法的なものとなります。天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)においてわざわざ昭和22年法律第3号の附則に「この法律の特例として天皇の退位について定める天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)は,この法律と一体を成すものである。」との呪文的第4項が加えられたのは,日本国憲法5条の「皇室典範」の法律性を確保するためでもあったものでしょう。なお,日本国憲法5条がGHQの米国人らをクリアしたのは,同条の英文は“When, in accordance with the Imperial House Law, a Regency is established…”であるので,ここの定冠詞付きの“the Imperial House Law”は第2条の“the Imperial House Law passed by the Diet”を承けたものでございます,との説明が可能だったからでしょうか。

 

イ 皇室典範事項について規定するものたる法律が定め得る内容の範囲

さて,人臣摂政の可能性なのですが,普通の法律ではなく,皇室典範事項について規定するものたる法律によって摂政の設置について定める以上は,皇室典範事項という枠をなお尊重して,摂政は皇室の家法の適用されるべき者(皇族)でなければならないという憲法的要請までをも日本国憲法5条の「皇室典範」との文言に見出すべきものかどうか。19211125日の「朕久キニ亙ルノ疾患ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルヲ以テ皇族会議及枢密顧問ノ議ヲ経テ皇太子裕仁親王摂政ニ任ス茲ニ之ヲ宣布ス」との詔書の副署者は,牧野伸顕宮内大臣及び高橋是清内閣総理大臣でしたが(宮内庁『昭和天皇実録 第三』(東京書籍・2015年)525頁),これは摂政の設置は「大権ノ施行ニ関スル」ものではなく,「皇室ノ大事」であったことを示しています(公式令(明治40年勅令第6号)12項参照)。確かに,明治皇室典範35条は「皇族ハ天皇之ヲ監督ス」と規定していたところ,同36条は「摂政在任ノ時ハ前条ノ事ヲ摂行ス」と規定し,同条について『皇室典範義解』は「(つつしみ)て按ずるに,摂政は大政を摂行するのみならず,兼て又皇室家父たるの事を摂行す。故に,皇族各人は摂政に対し家人従順の義務を有すべし。と解説していました。明治皇室典範19条に関しても『皇室典範義解』は「摂政は天皇の天職を摂行し,一切の大政及皇室の内事皆天皇に代り之を総攬す。而して至尊の名位に居らざるなり。」と述べています(下線は筆者によるもの)。

しかし,天皇が不在であり,かつ,皇族も不在となって摂政も不在となれば,天皇又は摂政が行うものと日本国憲法の定める国事に関する行為を行う者がいなくなり,国家として不便でしょう。そうであれば,摂政に関する皇室典範事項について国会の立法権があえて及ぶ以上,「皇嗣発見」までの期間における人臣による摂政事務管理に関する規定を憲法改正によらず法律の制定の形で行いおくことも許されるもの()そもそも明治皇室典範21条に関して『皇室典範義解』は,「而して本条皇后・皇女に摂政の権を付与するは,(けだし)上古以来の慣例に遵ひ,且摂政其の人を得るの道を広くし,人臣に下及するの漸を(ふさ)がむとなり。」と述べており,皇族摂政たり得る者がいなくなれば,やむを得ず摂政職が「人臣に下及」することもあり得るものと考えられていたものでしょう((ぜん)は,ここでは「いとぐち」の意味でしょう(『角川新字源』1978年))。)。「已ヲ得ザル事実上ノ必要ハ明文ノ定ムルモノナシトスルモ尚必然ニ国法ノ認容スル所ト認メザルベカラズ」です(美濃部・撮要245頁参照)。人臣主導の機関たる皇室会議の設置も既に昭和天皇の裁可せられたところです(皇室会議については,1946920日に昭和天皇が皇族及び王公族に語ったところによると「国政の問題」であるところです(実録第十186頁)。皇室会議は,皇家の機関ではなく,六波羅探題的な国家の機関であるということなのですね。)


(3)日本国憲法4条2項

 摂政の話をしてしまうと,つい国事行為臨時代行についても調べてみたくなります。

監国という言葉があります。「天子が征伐などで都をはなれるとき,皇太子が代理で国政を統べること」です(『角川新字源』)。『皇室典範義解』は,明治皇室典範19条解説において,「(もし)天皇一時の疾病違和又は国彊の外に(いま)すの故を以て,皇太子皇太孫に命じ代理監国せしむるが如きは,大宝令「以令(りやうをもつて)(ちよくに)(かへよ)」の制に依り,別に摂政を置かず(欧洲各国亦此の例を(おなじ)くす)。」と述べています。「監国ハ摂政ト異ナリ勅命ニ依リ其ノ任ニ就クモノニシテ,摂政ガ法定代表ノ機関ナルニ反シテ監国ハ授権ニ基ク代表機関ナリ。」,「監国ハ大権ヲ代表スル機関ナルヲ以テ摂政ニ準ジテ皇太子皇太孫ヲシテ之ニ当ラシムルヲ正則トシ,皇太子皇太孫ナキトキ又ハ未成年ナルトキハ皇位継承ノ順序ニ従ヒ他ノ皇族ヲシテ其ノ任ニ就カシムルヲ当然ト為スベシ。」,「憲法及皇室典範ニ別段ノ規定ナシト雖モ,是レ摂政ヲ置クベキ場合ニ非ズシテ而モ天皇大政ヲ親ラスル能ハザル故障アル場合ナルヲ以テ,一時大権ヲ代行スベキ機関ヲ置クコトハ缺クベカラザル事実上ノ必要ナリ。其ノ憲法ノ禁止スル所ニ非ザルコトハ明瞭であると美濃部達吉は説いています(美濃部・撮要245-246頁)。(なお,これに対して上杉慎吉は,「憲法の規定以外に自由に所謂る監国を置きて大権の行使を委任することを得ざるもの」との監国不可論を主張していました(上杉慎吉『訂正増補帝国憲法述義』(有斐閣書房・1916年)269頁)。)

 現在では,国事行為の臨時代行に関する法律(昭和39年法律第83号)による国事行為臨時代行が,監国に相当することになるようです(同法2条参照)。

 しかしながら,天皇を代表し「摂政ニ準」ずる機関ならば1964428日の参議院内閣委員会において高辻正巳政府委員(内閣法制次長)も「摂政の場合と実は行為の性格は同じようになります」と答弁しています(46回国会参議院内閣委員会会議録第284頁)。),天皇の国事に関する行為の委任による臨時代行についても皇室典範で定められるべきであって(日本国憲法5条前段),単なる法律で定められること(同42項)はおかしい,ということになりそうです(上記委員会における「これは単独の国事行為の臨時代行に関する法律ということでなく,〔憲法〕第5条の皇室典範の改正ということでもいいのじゃないのですか。」との山本伊三郎委員の問題意識です(同頁)。)

 この点,実は,GHQ草案33項において“The Emperor may delegate his functions in such manner as may be provided by law.”と規定されており,1946620日の帝国議会提出案においては「天皇は,法律の定めるところにより,その権能を委任することができる。」との文言であった日本国憲法42項は,当時の政府の考えによれば,監国に直接かつ積極的に関係する規定とは必ずしも考えられてはいなかったようなのでした。

 19464月の法制局の「憲法改正草案に関する想定問答(第2輯)」においては,「権能委任は,一般的に又は個別的に何れも差支へなきや」との問いに対し,「大体左様であります。然し一般的といひましても例へば第7条第2号なり第3号なりを全部委任してしまふが如きは予想して居りません。/而して天皇の例へば外国旅行中一般的に権能委任者を置き得るか否か,例へば監国の如き制度を設け得ることが出来るか否かは,必ずしも否定出来ないのでありますが,かかる場合には寧ろ摂政制度を活用すべきものではないかと考へて居ります。」との回答が準備されていました(抹消線は原資料鉛筆書き)。監国制度に対応するものと前向きかつ素直に受け取られていません。同年5月の法制局の「憲法改正草案逐条説明(第1輯)」には「本条第2項には更にこの権能が法律の定める所により内閣その他の機関に委任されることを定めて居るのであります。/従来と雖も例へば三級事務官の任免等のやうに大権事項に関して一部委任が認められて居りましたが,それは憲法を俟たずして行はれて居たものでありますが,本条はその根拠を憲法上明かに規定したのであります。/この委任の範囲は明かにはされて居らず従つて全部委任も亦認められるかの様でありますが,天皇の象徴たる御地位に不可分に伴ふ権能まで一括委任することは許されぬ所と解すべきであります。」と記されています。同年6月の法制局「憲法改正案に関する想定問答(増補第2輯)」では「元来第4条第2項の規定は,かりにこれがないとしても,委任はできるはずである。しかるにこの規定を置いたのは,事が重大であるからであるが,同時に天皇の大権の特殊性〔略〕に鑑み,その委任につき法律で定める必要があることを明らかにするためであると考へられる。差当り〔略〕委任の限度は法律で明定されることとならう。」との記述が見られます。行政庁間の委任のイメージです。法律が必要であって,勅旨ないしは政令その他の命令に基づく委任は認められない,ということでしょう。「国事行為の中の比較的軽度であり,しかも相当頻度が高いというようなものにつきまして〔特定の事項を限って〕,天皇が一定の機関に対して権能を授与してその行為を行わせる」場合です(第46回国会参議院内閣委員会会議録第284頁(高辻政府委員))

 その後,1964年に国事行為の臨時代行に関する法律が単独の法律として制定されることとされて,昭和22年法律第3号の改正という形にならなかったことについては,「皇室典範に規定しても間違いとは言えないと思」われつつも,「憲法の4条の2項で委任することができる」ことには国事行為の臨時代行に関する法律が考えている監国的なことも正に含まれるので,「第4条第2項の「法律の定めるところにより,」というふうに出ておりますので,やはりこれは単独の法律で第4条第2項の「法律(ママ)定めるところにより,」の法律として立案するのが適当であろうというふうに考えた」のだとの説明が政府からされるに至っています(第46回国会参議院内閣委員会会議録第284頁(高辻政府委員))。はしなくも憲法42項によって,監国関係事項は皇室典範事項から外れて国会立法専管事項に移管されたものと解されるのだあっさりと単独の法律として立法した方が皇室典範の改正の在り方という問題との関係で余計な議論をせずに済んでよいのだ,ということになったということでしょうか。

 なお,日本国憲法42項の法律を活用して,当該法律をもって制度的に,天皇の行う国事行為の範囲を絞ることができるかといえば,そうはならないようです。つとに19466月の法制局「憲法改正案に関する想定問答(増補第2輯)」において,「法定委任はみとめられない。これは,天皇が親ら委任することができるといふ趣旨に規定してある文理上からも明白である。又,天皇の大権と無関係に成立する法律で,憲法上天皇に帰属させた大権事項を,第三者の手に実際上任せてしまふことは,憲法の精神からも承服しかねる。」との解釈が準備されていました。

 

7 三種の神器その他の由緒物の管理に関する問題

 

(1)皇位継承なき天皇崩御の場合における由緒物の行方

ところで,天皇又は摂政が行うものと日本国憲法が定める国事に関する行為をどうするかの問題より先に,天皇の私有財産としての「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」(三種の神器を含む。)に関する相続問題が起こりそうです。

皇室経済法(昭和22年法律第4号)7条は,「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。」と規定しています。これは民法の分割相続原則に対する例外を定める規定のようなのですが,天皇崩御の際皇位継承がされない場合においては,民法の原則にやはり戻って,皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,大行天皇の配偶者(同法890条)と女系卑属(同法887条)又は直系尊属(同法88911号)若しくは姉妹(同項2号)若しくは姉妹の子たる甥姪(同条2項)との間で共同相続されて,各物件は共同相続人間の共有物となるのでしょう(同法898条・899条)。しかして,当該相続において皇嗣ではない方々によって相続せられた「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」は,相続税法(昭和25年法律第73号)1211号の「皇位とともに皇嗣が受けた物」には該当しないことになるので,相続税の課税価格に算入されます。

 

(2)三種の神器と民法897条と

 三種の神器は,民法8971項の祭具に該当するのでしょう。「祭具とは,祖先の祭祀,礼拝の用に供されるもの(位牌,仏壇,霊位,十字架やそれらの従物など)」(谷口知平=久貴忠彦編『新版注釈民法(27)相続(2)(補訂版)』(有斐閣・2013年)82頁(小脇一梅・二宮周平)),あるいは「位牌・仏壇その他祖先を祭る用に供するもの。〔旧〕民事訴訟法第570条第10の「神体,仏像其他礼拝ノ用ニ供スル物」よりも――祖先を祭るためのものに限定されるから――狭いと解されている。」とされています(我妻榮=立石芳枝『親族法・相続法』(日本評論新社・1952年)411頁(我妻))。祭具は動産であるものと想定されているようです。

宮中三殿については,これらは不動産でしょうし,系譜にも墳墓にも該当しないでしょうから,民法897条の適用はなさそうです。系譜は「歴代の家長を中心に祖先以来の系統(家系)を表示するもの」であり(谷口=久貴82頁(小脇=二宮)),墳墓は「遺体や遺骨を葬っている設備(墓石・墓碑などの墓標,土葬のときの埋棺など)」であって「その設置されている相当範囲の土地(墓地)は,墳墓そのものではないが,それに準じて同様に取り扱うべきものであろう」とされています(同頁)。

相続税法1212号は,墓所,霊廟及び祭具並びにこれらに準ずるものは,相続税の課税価格に算入されないものとしています。

天皇崩御の際皇位継承がされないとき(皇室経済法7条が働かないとき)には,祭具たる三種の神器の所有権は誰に移転するのでしょうか。

まず,祖先の祭祀を主宰すべき者に係る大行天皇による指定があれば,それによります(民法8971項ただし書)。民法上,指定の方法及び被指定者の資格については,「被相続人が指定するその方法は,生前行為でも遺言でもよく,また,それらは口頭,書面,明示,黙示のいかんを問わず〔略〕,いかなる仕方によるも指定の意思が外部から推認されるものであればよい。被指定者の資格についても別段の制限はない(通説)。」とのことです(谷口=久貴84頁(小脇=二宮))。そもそも祭祀財産の承継者は,「必ずしも被相続人の親族関係者殊に相続人にかぎらず,かつまた,同氏者たるを要しない」ところです(同頁)。

しかし,三種の神器の承継者の指定は,正に祖先の祭祀を主宰すべき天皇の祭祀大権を承継すべき者の指定でしょう(なお,祭祀大権については「大日本帝国憲法下における祭祀大権の摂政による代行に関して」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060801001.htmlを参照)。「国政に関する権能を有しない」はずの天皇が(日本国憲法41項後段),そのような際どい指定行為をしてよいのか,との懸念が生じないものでしょうか。上皇から今上天皇への「贈与」(天皇の退位等に関する皇室典範特例法附則7条参照)がせられたときと同様に済ますわけにはいきません(なお,「三種ノ神器と天皇の退位等に関する皇室典範特例法案要綱とに関して」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065923275.html参照)。しかし,飽くまでも単なる財産の授受関係と見れば,皇室内限りであれば(皇位の継承がないときですから,被指定者たり得る皇族として残っている方々は,皇后,太皇太后,皇太后,親王妃,内親王,王妃若しくは女王又は上皇若しくは上皇后ということになります。),日本国憲法8条の国会の議決という形で臣民が容喙すべきものではないようではあります。

被相続人による指定に次ぐ祭祀財産承継者決定の方法に係る民法8971項本文の「慣習」は,「祭祀財産承継の問題の起こっているその地方の慣習あるいは被相続人の出身地の慣習またはその職業に特有の慣習などである」そうです(谷口=久貴85頁(小脇=二宮))。しかし,三種の神器の承継に係る慣習(すなわちこれは祭祀大権を伴うところの皇位の継承に係る慣習ということになります。)が確立していれば,皇位の継承もそれに従って安定的にされるはずですが,皇位の安定的継承の方法が議論の対象になっているということは,そもそもそのような確立した慣習がないということでしょう。

祖先の祭祀を主宰すべき者に係る被相続人による指定もなく,慣習も明らかではないときは,系譜,祭具及び墳墓の所有権の承継者は家庭裁判所が定めます(民法8972項)。この家庭裁判所による承継者指定の基準については,「「承継候補者と被相続人との間の身分関係や事実上の生活関係,承継候補者と祭具等との間の場所的関係,祭具等の取得の目的や管理等の経緯,承継候補者の祭祀主宰の意思や能力,その他一切の事情(例えば利害関係人全員の生活状況及び意見等)を総合して判断すべきであるが,祖先の祭祀は,今日もはや義務ではなく,死者に対する慕情,愛情,感謝の気持ちといった心情により行われるものであるから,被相続人と緊密な生活関係・親和関係にあって,被相続人に対し上記のような心情を最も強く持ち,他方,被相続人からみれば,同人が生存していたのであれば,おそらく指定したであろう者をその承継者と定めるのが相当である」とする(東京高決平18419判タ1239289〔略〕)」のが判例であるそうです(谷口=久貴87頁(小脇・二宮))。しづなる庶民感覚をもってされてしまう裁判ということになりましょうか。

民法897条で解決がつかない場合には,「特別の規定が用意されていないので,普通の相続財産と同様に,相続人もいなければ,最後は国庫に帰属すると解すべきであろう」とされています(谷口=久貴84頁(小脇・二宮))。

 

(3)「由緒物法人」案

皇位の継承はされず,大行天皇は祖先の祭祀を主宰すべき者の指定をしておらず(遺言もなく),慣習も明らかではなく,東京家庭裁判所(家事事件手続法(平成23年法律第52号)1901項・民法883条)に対する承継者指定の審判の申立てがされるような関係者の不穏な動きもないときは,結局三種の神器も法定相続されるようです。そうなると,後になって「皇嗣発見」があったとき,新天皇は果たして無事かつ円滑に三種の神器その他の皇位とともに伝わるべき由緒ある物を大行天皇の相続人(並びに更にそれらの方々の相続人及び由緒物の即時取得主張者等々)から回復できるものかどうか。

あるいは用心のため,皇室経済法に次のような規定を加えおくべきでしょうか。

 

  第7条の2 天皇が崩じた時に皇嗣が明らかでないときは,前条の物(以下「由緒物」という。)は,法人とする。

  第7条の3 前条の場合には,家庭裁判所は,検察官の請求によって,由緒物の管理人を選任しなければならない。

  第7条の4 民法(明治29年法律第89号)第955条の規定は,第7条の2の法人について準用する。

  2 民法第27条から第29条まで,第952条第2項及び第956条第2項の規定は,前条の由緒物の管理人について準用する。この場合において,同法第27条第1項及び第29条第2項中「不在者の財産の中から」とあるのは「国庫から」と読み替えるものとする。

 

万世一系ですから,皇嗣が不存在であるとき(「皇嗣のあることが明らかでない」場合に含まれます。)という事態は観念上許されないのでしょう。

飽くまでも私物の管理の問題ですので,内閣総理大臣,宮内庁長官その他の行政官庁を煩わすべきものでもないのでしょう。特に,由緒物には宗教的な物が含まれているところが剣呑です。

管理人の選任の公告(民法9522項)の趣旨が「一つには,相続財産上に利害関係を有する者に対し,この「管理人ニ対シテ必要ナル行為ヲ為スノ便」を与えるためで,もう一つは,相続人捜索の第1回の公告を意味しており,「若シ相続権ヲ有スル者アラバ,此公告ヲ見テ速ニ其権利ヲ主張スルノ便」を与えるため(梅〔謙次郎『民法要義巻之五(相続編)』(有斐閣・1900年)〕246-247)」ならば(谷口=久貴694頁(金山正信=高橋朋子)),この場合,当該公告規定の準用は,本来は不要でしょう。皇嗣にあらざるにもかかわらず由緒物について利害関係を有する旨主張する者(大行天皇の債権者又は大行天皇から由緒物の賜与若しくは遺贈を受けた者であると主張するもの,ということになりましょうか。)にわざわざ便宜を与える必要はないでしょうし,「皇嗣発見」のために,現代の忠臣小楯は既に活発な活動議論を行っているであろうからです。とはいえ,人民の相続に関する手続においては公告がされることが,畏き辺りでは公告されない,というのも変ではあります。

皇嗣が明らかになったときには法人は存立しなかったものとし,しかもなお管理人の権限内の行為は効力を失わないものとする「技巧」を用いるのは,「あまり優れた立法技術といえない」わけです(我妻=立石534頁(我妻))。しかし,由緒物に係る所有権の相続による移転という建前を維持すれば,折角の相続税法1211号の規定を生かすことができるでしょう。

由緒物の管理の費用は,由緒物を消尽散逸させてはならないということで国庫から出すことになるのでしょうが(由緒物の拝観料を取ってそれで支弁しろなどというのも不謹慎だとお叱りを受けるのでしょう。),本来ならば内廷費から出ていたものなのでしょうから,その分皇室経済法施行法(昭和22年法律第113号)7条などに必要な修正が施されるものでしょう。

    


弁護士ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 新型コロナ・ウイルス問題猖獗中の立皇嗣の礼

 来月の2020419日には,それぞれ国事行為たる国の儀式である立皇嗣宣明の儀及び朝見の儀を中心に,立皇嗣の礼が宮中において行われる予定であるそうです。しかし,新型コロナ・ウィルス問題の渦中にあって,立皇嗣宣明の儀の参列者が制限されてその参列見込み数が約320人から約40人に大幅縮小になるほか(同年318日に内閣総理大臣官邸大会議室で開催された第10回天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典委員会において配付された資料1-1),当該儀式の挙行の翌々日(同年421日)にこれも国の儀式として開催することが予定されていた宮中饗宴の儀が取りやめになり,波瀾含みです。

 

2 立皇嗣の礼における宣明の主体

 立皇嗣の礼は,なかなか難しい。

 立皇嗣の礼に関する理解の現状については,2020321日付けの産経新聞「産経抄」における次のような記述(同新聞社のウェブ・ページ)が,瞠目に値するもののように思われます。

 

   政府は皇位継承順位1位の秋篠宮さまが,自らの立皇嗣(りつこうし)を国の内外に宣明される「立皇嗣の礼」の招待者を減らし,賓客と食事をともにする「宮中饗宴(きょうえん)の儀」は中止することを決めた。肺炎を引き起こす新型コロナウィルスが世界で猖獗(しょうけつ)を極める中では,やむを得ないこととはいえ残念である。

 

筆者が目を剥いたのは,「皇位継承順位1位の秋篠宮さまが,自らの立皇嗣(りつこうし)を国の内外に宣明される「立皇嗣の礼」」との部分です。

産経抄子は,執筆参考資料としては,ウィキペディア先生などというものを専ら愛用しているものでしょうか。ウィキペディアの「立皇嗣の礼」解説には,「立皇嗣の礼(りっこうしのれい),または立皇嗣礼(りっこうしれい)は,日本の皇嗣である秋篠宮文仁親王が,自らの立皇嗣を国の内外に宣明する一連の国事行為で,皇室儀礼。」と書かれてあるところです。

しかし,1991223日に挙行された今上天皇の立太子の礼に係る立太子宣明の儀においては,父である上皇(当時の天皇)から「本日ここに,立太子宣明の儀を行い,皇室典範の定めるところにより徳仁親王が皇太子であることを,広く内外に宣明します。」との「おことば」があったところです(宮内庁ウェブ・ページ)。「平成の御代替わりに伴い行われた式典は,現行憲法下において十分な検討が行われた上で挙行されたものであるから,今回の各式典についても,基本的な考え方や内容は踏襲されるべきものであること。」とされているところ(201843日閣議決定「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う国の儀式等の挙行に係る基本方針について」第12),「文仁親王殿下が皇嗣となられたことを広く国民に明らかにする儀式として,立皇嗣の礼を行う」もの(同閣議決定第571))として行われる今次立皇嗣の礼においても,「宣明します。」との宣明の主体は,むしろ天皇であるように思われます。

現行憲法下時代より前の時代とはなりますが,大日本帝国憲法時代の明治皇室典範16条は「皇后皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と規定していました。「詔書」ですので,当該文書の作成名義は,飽くまでも天皇によるものということになります。

 

3 裕仁親王(昭和天皇)の立太子の礼

1916113日に行われた昭和天皇の立太子の礼について,宮内庁の『昭和天皇実録 第二』(東京書籍・2015年)は,次のように伝えています。

 

 3日 金曜日 皇室典範及び立儲令の規定に基づき,立太子の礼が行われる。立太子の礼は皇太子の身位を内外に宣示するための儀式である。裕仁親王はすでに大正元年〔1912年〕,御父天皇の践祚と同時に皇太子の身位となられていたが,昨4年〔1915年〕に即位の礼が挙行されたことを踏まえ,勅旨により本日立太子の礼を行うこととされた。(241頁)

 

当時の立太子の礼は,1909年の立儲令(明治42年皇室令第3号)4条により,同令の「附式ノ定ムル所ニ依リ賢所大前ニ於テ之ヲ行フ」ものとされていました。

伊藤博文の『皇室典範義解』の第16条解説には,「(けだし)皇太子・皇太孫は祖宗の正統を承け,皇位を継嗣せむとす。故に,皇嗣の位置は立坊の儀に由り始めて定まるに非ず。而して立坊の儀は此に由て以て臣民の(せん)(ぼう)()かしむる者なり。」とありました。「立坊」とは,『角川新字源(第123版)』によれば「皇太子を定めること。坊は春坊,皇太子の御殿。」ということです。つまり『皇室典範義解』にいう「立坊の儀」とは,立儲令にいう「立太子ノ礼」又は「立太孫ノ礼」(同令9条)のことということになります。「瞻望」とは,「はるかにあおぎ見る。」又は「あおぎしたう。」との意味です(『角川新字源』)。「饜」は,ここでは「食いあきる。」又は「いやになる。」の意味ではなくて,「あきたりる。満足する。」の意味でしょう(同)。また,明治皇室典範15条は「儲嗣タル皇子ヲ皇太子トス皇太子在ラサルトキハ儲嗣タル皇孫ヲ皇太孫トス」と規定していました。「儲嗣(ちょし)」とは,「世継ぎのきみ。皇太子。との意味です(『角川新字源』)。現行皇室典範(昭和22年法律第3号)8条は「皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは,皇嗣たる皇孫を皇太孫という。」と規定しています。

立太子の礼を行うことを勅旨(「天子のおおせ。」(『角川新字源』))によって決めることについては,立儲令1条に「皇太子ヲ立ツルノ礼ハ勅旨ニ由リ之ヲ行フ」とありました。閣議決定によるものではありません。

さて,1916113日の賢所(かしこどころ)大前の儀の次第は次のとおり(実録第二241-242頁)。

 

 9時,天皇が賢所内陣の御座に出御御都合により皇后は出御なし,御拝礼,御告文を奏された後外陣の御座に移御される。925分,皇太子は賢所に御参進,掌典次長東園基愛が前行,御裾を東宮侍従亀井玆常が奉持し,御後には東宮侍従土屋正直及び東宮侍従長入江為守が候する。賢所に御一拝の後,外陣に参入され内陣に向かい御拝礼,天皇に御一拝の後,外陣の御座にお着きになる。天皇より左の勅語を賜わり,壺切御剣を拝受される。

   壺切ノ剣ハ歴朝皇太子ニ伝ヘ以テ朕カ躬ニ(およ)ヘリ今之ヲ汝ニ伝フ汝其レ之ヲ体セヨ 

 この時,陸軍の礼砲が執行される。皇太子は壺切御剣を土屋侍従に捧持せしめ,内陣及び天皇に御一拝の後,簀子(すのこ)に候される。935分,天皇入御。続いて皇太子が御退下,綾綺殿(りょうきでん)にお入りになる。この後,皇族以下諸員の拝礼が行われる。

 

「裕仁親王が,自らの立太子を国の内外に宣明」する,というような場面は無かったようです。

今次立皇嗣の礼においては,皇嗣に壺切御剣親授の行事は,立皇嗣宣明の儀とは分離された上で,皇室の行事として行われます。

しかしながら,皇后御欠席とは,何事があったのでしょうか。貞明皇后は,立太子の礼と同日の参内朝見の儀(立儲令7条に「立太子ノ礼訖リタルトキハ皇太子皇太子妃ト共ニ天皇皇后太皇太后皇太后ニ朝見ス」と規定されていました。)等にはお出ましになっていますから,お病気ということではなかったようです。

なお,今次立皇嗣の礼に係る朝見の儀においては,上皇及び上皇后に対する朝見は予定されていないようです(第10回天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典委員会の資料2)。

明治皇室典範16条本体に係る大正天皇の詔書については,次のとおり(実録第二242頁)。

 

 賢所大前の儀における礼砲執行と同時に,左の詔書が宣布される。

   朕祖宗ノ遺範ニ遵ヒ裕仁親王ノ為ニ立太子ノ礼ヲ行ヒ茲ニ之ヲ宣布ス

 

立儲令5条に「立太子ノ詔書ハ其ノ礼ヲ行フ当日之ヲ公布ス」とあったところです。

なお,今次立皇嗣の礼においては,立皇嗣宣明の儀の2日後(前記のとおり2020421日)に当初予定されていた宮中饗宴の儀が新型コロナ・ウィルス問題のゆえに取りやめになっていますが,191611月の立太子の礼に係る宮中饗宴の儀(立儲令8条に「立太子ノ礼訖リタルトキハ宮中ニ於テ饗宴ヲ賜フ」と規定されていました。)も「コレラ流行のため」その開催が同月3日から3週間以上経過した同月27日及び同月28日に延引されています(実録第二252頁)。延引にとどまらず取りやめまでをも強いた21世紀の新型コロナ・ウィルスは,20世紀のコレラ菌よりも凶悪であるようです。ちなみに,立太子の礼に係る宮中饗宴の儀の主催者は飽くまでも天皇であって,19161127日及び同月28日の上記宮中饗宴に「皇太子御臨席のことはなし。」であったそうです(実録第二252頁)。

 

4 明治皇室典範の予定しなかった「立皇嗣の礼」

ところで,以上,今次立皇嗣の礼について,明治皇室典範及び立儲令を参照しつつ解説めいたものを述べてきたところですが,実は,現行憲法下,天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)の成立・施行までをも見た今日,明治皇室典範及び立儲令の参照は,不適当であったようにも思われるところです。

「平成の御代替わりに伴い行われた式典は,現行憲法下において十分な検討が行われた上で挙行されたものであるから,今回の各式典についても,基本的な考え方や内容は踏襲」するのだとして,立太子の礼の前例を踏襲するものとして立皇嗣の礼を行うこととした安倍晋三内閣の決定は,保守的というよりはむしろ明治典憲体制における制度設計を超えた,明治皇室典範の裁定者である明治天皇並びに起案者である伊藤博文,井上毅及び柳原前光の予定していなかった革新的新例であったことになるようであるからです。

問題は,明治皇室典範15条の解説に係る『皇室典範義解』の次の記載にあります。

 

 今既に皇位継承の法を定め,明文の掲ぐる所と為すときは,立太子・立太孫の外,支系より入りて大統を承くるの皇嗣は立坊の儀文に依ることを(もち)ゐず。而して皇太子・皇太孫の名称は皇子皇孫に限るべきなり。

 

 天皇から皇太子又は皇太孫への皇位の直系継承とはならない場合,すなわち,今上天皇と秋篠宮文仁親王との間の皇位継承関係(「皇兄弟以上ノ継承」)のようなときには,以下に見るように,皇嗣は「践祚ノ日迄何等ノ宣下モナク」――立坊の儀文(これは立太子又は立太孫の場合に限る。)を須いず――「打過ギ玉フ」ことになるのだ,ということのようです。

 1887125日提出の柳原前光の「皇室法典初稿」を承けて,伊藤博文の「指揮」を仰ぐために作成された井上毅の「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々」(小島和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)178-179頁・172頁参照)に次のようにあるところです(伊藤博文編,金子堅太郎=栗野慎一郎=尾佐竹猛=平塚篤校訂『帝室制度資料 上巻』(秘書類纂刊行会・1936年)247-248頁)。

 

一,皇太子ノ事。

    皇太子ノ事ハ上代ノ日嗣御子ヨリ伝来シタル典故ナレバ之ヲ保存セラルハ当然ノ事ナルベシ。但シ左ノ疑題アリ。

甲,往古以来太子ノ名義ハ御父子ニ拘ラズシテ一ノ宣下ノ性質ヲ為シタリ。故ニ御兄弟ノ間ニハ立太弟ト宣命アルノ外,皇姪ヲ立坊アルモ亦太子ト呼ビ(成務天皇日本武尊ノ第2子ナル足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)立テヽ皇太子ト為ス,即チ仲哀天皇ナリ)従姪孫ノ天皇ヨリ族叔祖ヲ立坊アルモ亦太子ト呼ベリ(孝謙天皇ノ淳仁天皇ニ於ケル)。今皇位継承ノ順序ヲ定メラレ,皇子孫ナキトキハ皇兄弟(ママ)皇伯叔ニ伝フトセラレンニ,此時立太子ノ冊命アルベキ乎

    乙,若シ立太子ハ皇子,皇孫,皇姪ノ卑属親ニ限リ,其他ノ同等親以上ニハ行ハルベキニ非ラズトセバ,皇兄弟以上ノ継承ノ時ニハ践祚ノ日迄何等ノ宣下モナクシテ打過ギ玉フベキ乎。

      前ノ議ニ従ヘバ立太子ハ養子ノ性質ノ如クナリテ名義穏ナラズ,後ノ議ニ依レバ実際ノ事情ニハ稍ヤ穏当ヲ缺クニ似タリ。

      又履中天皇,反正天皇(皇弟)ヲ以テ儲君トシ玉ヒシ例ニ依リ,儲君ノ名義ヲ法律上ニ定メラレ宣下公布アルベシトノ議モアルベシ。此レモ当時ハ「ヒツギノミコ」ト称フル名号ハアリシナルベケレドモ,儲君ノ字ハ史家ノ当テ用ヒタルニテ,綽号ニ類シ,今日法律上正当ノ名称トハナシ難キニ似タリ。

此ノ事如何御決定アルベキカ(叙品ヲ存セラレ一品親王宣下ヲ以テ換用アルモ亦一ノ便宜法ナルニ似タルカ)。

        乙ニ従フ,一品親王ノ説不取

 

 朱記部分は,1888年まで下り得る「かなり後になっての書き込み」です(小嶋・典範179頁)。「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々」の冒頭には同じく朱記で「疑題中ノ重件ハ既ニ総理大臣ノ指揮ヲ得,更ニ柳原伯ノ意見ヲ酌ミ立案セリ。此ノ巻ハ存シテ以テ後日ノ考ニ備フ」とありました(『帝室制度資料 上巻』229頁)。

 前記部分で「(てつ)」は,「めい」ではなく,「兄弟の生んだ男子を称する」「おい」のことになります(『角川新字源』)。「従姪孫」は,いとこの孫(淳仁天皇から見た孝謙天皇)です。「伯叔」は「兄と弟」又は「父の兄と父の弟。伯父叔父。」という意味です(『角川新字源』)。「綽号(しゃくごう)」は,「あだな。」(同)。『日本書紀』の履中天皇二年春正月丙午朔己酉(四日)条に「立(みづ)()別皇子(わけのみこ)為儲君」とあります。小学館の新編日本古典文学全集版では「儲君」の振り仮名は「ひつぎのみこ」となっており,註して「「儲君」の初出。皇太子。」と記しています。

 井上毅は,卑属以外の皇嗣(卑属ではないので,世代的に,皇太()又は皇太()となるのはおかしい。)に「儲君」の名義を与えるべきかと一応検討の上,同案を捨てています。「皇太()については,「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫(●●)之ヲ継承ス」る原則(大日本帝国憲法2条)の下,皇兄弟は「皇子孫皆在ラサルトキ」に初めて皇位継承者となるのであって(明治皇室典範5条),兄弟間継承は例外的位置付けだったのですから,当該例外を正統化するような名義であって採り得ないとされたもののように筆者には思われます。(なお,『皇室典範義解』15条解説においては,「其の皇子に非ずして入て皇嗣となるも,史臣亦皇太子を以て称ふ〔略〕。但し,或は立太子を宣行するあり,或は宣行せざるありて,其の実一定の成例あらず。皇弟を立つるに至ては或は儲君と称へ(反正天皇の履中天皇に於ける),或は太子と称へ(後三条天皇の後冷泉天皇に於ける),或は太弟と称ふ(嵯峨・淳和・村上・円融・後朱雀・順徳・亀山)。亦未だ画一ならず。」と史上の先例を整理した上で,前記の「立太子・立太孫の外,支系より入て大統を承くるの皇嗣は立坊の儀文に依ることを須ゐず。而して皇太子・皇太孫の名称は皇子皇孫に限るべきなり。」との結論が述べられています。)また,宣下すべき名義として,「皇嗣」はそもそも思案の対象外だったようです。旧民法に「推定家督相続人」の語がありましたが,「皇嗣」はその皇室版にすぎないという理解だったものでしょうか。

 

5 明治皇室典範16条の立案経過

 

(1)高輪会議における皇太子・皇太孫冊立関係規定の削除

 「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々」については乙案が採用されることになり,それが後の明治皇室典範16条の規定につながるわけですが,1887320日のかの高輪会議(「明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)ニ関して」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.html,「続・明治皇室典範10に関して:高輪会議再見,英国の国王退位特別法,ベルギーの国王退位の実例,ドイツの学説等」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060127005.html)においては,実は,立坊(立太子又は立太孫)の儀は行わないものとする決定がされたもののようです。すなわち,当該会議の結果,当該会議における検討の叩き台であった柳原前光の「皇室典範再稿」にあった「第26条 天皇践祚ノ日嫡出ノ皇子アル時ハ直チニ之ヲ皇太子ニ冊立ス」及び「第27条 第24条〔太皇太妃,皇太妃及び皇后〕第25条〔皇太子及び皇太孫〕ノ諸号ハ冊立ノ日詔書ヲ以テ之ヲ冊立ス」の両条が削られているからです(小嶋・典範192頁)。恐らくは伊藤博文において,「皇太子・皇太孫は祖宗の正統を承け,皇位を継嗣せむとす。故に,皇嗣の位置は立坊の儀に由り始めて定まるに非ず」なので,そもそも立坊の儀は必要ないのだとの結論にその場においては至ったもの,ということでしょうか(伊東巳代治の「皇室典範・皇族令草案談話要録」には「嫡出ノ皇子ハ冊立ヲ待タスシテ皇太子為リ故ニ此2条〔26条及び27条〕ハ削除ス」とあります(小林宏=島善高編著『明治皇室典範(上) 日本立法資料全集16』(信山社出版・1996年)456頁)。)。(これに対して,柳原は削られた原案の作成者でありましたし,井上毅も,前記「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々」の記載からすると,立太子の宣下はあるべきものと考えていたはずです。)

「立太子の詔は始めて光仁天皇紀に見ゆ。」ということだけれども(『皇室典範義解』16条解説),そもそもの光仁期の先例自体余り縁起がよくなかったのだからそんなにこだわらなくともよいではないか,ということもあったものかどうか。すなわち,「天皇の即位とほぼ同時に皇太子が定められ,原則としてその皇太子が即位するのが通例となってくるのは,じつは(こう)(にん)770781年)以後のことであり」(大隅清陽「君臣秩序と儀礼」大津透=大隅清陽=関和彦=熊田亮介=丸山裕美子=上島享=米谷匡史『古代天皇制を考える』(講談社・2001年)68頁),「(こう)(にん)天皇即位白壁一人であった井上(いのうえ)内親王(ないしんのう)聖武天皇(あがた)犬養(いぬかい)(うじ)皇后(おさ)()親王皇太子と」,「772年(宝亀三),藤原(ふじわらの)百川(ももかわ)策謀皇后・皇太子罪(冤罪(えんざい)可能性れ」(大隅69頁),後に不審死しているところです(他戸親王に代わって皇太子に立ったのが,光仁天皇の後任の桓武天皇でした。)。

  

(2)皇太子・皇太孫冊立関係規定の復活から明治皇室典範16条まで

 高輪会議後,柳原は,18874月に「皇室典範草案」を作成し(小嶋・典範202頁),同月25日に伊藤博文に,同月27日に井上毅に差し出しています(小林=島83頁(島))。そこでは「天皇践祚ノ日嫡出ノ皇子アル時ハ直チニ皇太子ト称ス 刪除」とされつつ(小嶋・典範203頁),小嶋和司教授によれば当該草案では前月の高輪会議における「皇室典範再稿」26条(「二六条」)に係る削除決定が無視されていたとされています(小嶋・典範204頁)。「皇室典範再稿」26条に係るものである皇太子冊立関係規定が再出現したものかのようですが,ここで小嶋教授の記した「二六条」は,「二七条」の誤記であったものと解した方が分かりやすいようです。(すなわち,上記柳原「皇室典範草案」においては,「第3章 貴号敬称」に,第16条として「天皇ノ祖母ヲ太皇太后母ヲ皇太后妻ヲ皇后ト号ス」との規定,第17条として「儲嗣タル皇子孫ヲ皇太子皇太孫ト号ス」との規定が設けられ(小林=島459頁),これらを受けて第18として「前両条ノ諸号ハ冊立ノ日詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と規定されていたところです(小林=島460)。なお,井上毅の梧陰文庫に所蔵(小林=島83頁(島))の同草案18条には井上の手になるものと解される(小林=島219)朱書附箋が付されており,そこには「18条修正 皇后及皇太子皇太孫ヲ冊立スルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス此ノ1条ノ目的ハ冊立ニ在テ尊号ニ在ラザルヘシ故ニ17条ヲ併セ第4章ニ加ヘ4章ヲ以テ成年立后立太子及嫁娶トスヘシ4章の章名を「成年嫁娶」から「成年立后立太子」にせよの意〕」と記されていました(小林=島460)。嫡出ノ皇子ハ冊立ヲ待タスシテ皇太子為リ故ニ此2条〔26条及び27条〕ハ削除ス」と高輪会議ではいったん決めたものの,嫡出ノ皇子の当然皇太子性との関係で冊立に重複性が生ずるのは「皇室典範再稿」の第26の場合であって,庶出の皇子にも関係する同27条の冊立規定までをも削る必要は実はなかったのではないですか,とでも伊藤には説明されたものでしょうか。

 その後の井上毅の77ヶ条草案には「第19条 皇后及皇太子皇太孫ヲ冊立スルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」という条項があり,柳原の「皇室典範再稿」27条に対応する規定の復活が見られます(小嶋・典範213頁。前掲の柳原「皇室典範草案」18条に係る朱書附箋参照)。77ヶ条草案の第19条は,1888320日の井上毅の修正意見の結果(小嶋・典範210-211頁),「第17条 皇后及皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と改まり,その理由は井上によって「冊立トハ詔書ヲ以テ立ツルノ意ナリ故ニ1文中重意ヲ覚フ」とされています(小嶋・典範213頁)。1888525日から枢密院で審議された明治皇室典範案においては「第17条 皇后又ハ皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」となっています(小嶋・典範228頁)。

 上記枢密院提出案に対して,柳原前光は1888524日に「欽定皇室典範」といわれる意見を伊藤博文に送付しています(小嶋・典範236頁)。枢密院提出案17条に対する「欽定皇室典範」における柳原の修正は,章名を「第3章 成年立后立太子」から「第3章 成年冊立」とした上で(理由は「立后,立太子ト題シ,太孫ノコトナシ,故ニ冊立ト改ム。」),「冊立ノ字,題号ニ応ズ」という理由で「第17条 皇后又ハ皇太子,皇太孫ヲ冊立スルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」とするものでした(『帝室制度資料 上巻』143-144頁)。前記井上毅の77ヶ条草案19条とほぼ同じ文面となっています。

 更に1889110日,柳原から伊藤博文に対し,明治皇室典範案に係る帝室制度取調局の修正意見書が送付されます(小嶋・典範247頁)。そこには,第3章の章名を「第3章 成年立后立太子孫」とし,第17条については「第17条 皇后皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ宣布ス」とすべきものとする意見が含まれていました(『帝室制度資料 上巻』5-6頁)。

 最終的な明治皇室典範16条は,前記のとおり,「皇后皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」との条文になっています。

 6 みたび,柳原前光の「深謀」

 筆者としては,高輪会議で一度消えた立坊の儀について定める条文の復活(明治皇室典範16条)も,柳原前光の深謀であったものと考えたいところです。(「伊藤博文の変わり身と柳原前光の「深謀」」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065458056.html

 

(1)「帝室典則」に関する宮中顧問官らの立坊論

 明治皇室典範に係る有名な前記高輪会議が開催された1887年の前年のことですが,1886年の610日の宮内省第3稿「帝室典則」案の第1は,「皇位ハ皇太子ニ伝フヘシ」と規定していました(小嶋和司「帝室典則について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』138頁)。当該「帝室典則」610日案に係る宮中顧問官による評議を経た修正を記録した井上毅所蔵(梧陰文庫)本には,上記第1について,次のような朱書註記(記載者を示す史料はなし。)があったところです(小嶋・典則159-160頁,161)。(なお,当該第1については,宮中顧問官の評議の結果,「第1」が「第1条」になりましたが,文言自体には変更はありませんでした(小嶋・典則150頁)。)

 

  皇太子ハ冊立ヲ以テ之ヲ定ム嫡長男子ノ立坊ハ其丁年ト未丁年トヲ問ハズ叡旨ヲ以テ宣下

  庶出長皇子ノ立坊ハ皇后宮御受胎有ルマシキ御年齢ニ至ラセラレタル上宣下

  庶出皇子立坊ノ後若シ皇后宮受胎降誕在ラセラルトモ其為メ既ニ冊立ノ太子ヲ換フルヘカラス

 

当該朱書註記は「610日案への青色罫紙貼付意見に答えるもので,おそらく顧問官評議において右のように諒解され,それが記載されたのであろう。」というのが,小嶋和司教授の推測です(小嶋・典則161頁)。

「帝室典則」610日案の第1への「青色罫紙貼付意見」(何人の意見であるか不明(小嶋・典則147頁))とは,「立太子式有無如何/其式無之(これなく)シテ太子ト定ムル第6条ノ場合差支アルカ如シ」というものでした(小嶋・典則150頁)。

「帝室典則」610日案の第6は「凡皇子孫ノ皇位ヲ継承スルハ嫡出ヲ先ニス皇庶子孫ノ位ヲ嗣クハ皇嫡子孫在ラサルトキニ限ルヘシ/皇兄弟皇伯叔父以上ハ同等皇親内ニ於テ嫡ヲ先ニシ庶ヲ後ニス」というもので(小嶋・典則140頁),これに対する「青色罫紙貼付意見」は「庶出ヲ以テ太子トセル際後ニ嫡出アラハ前ニ太子ヲ称セシヲ廃スルカ如何」というものでした(小嶋・典則152頁)。

「帝室典則」610日案の第6には,宮中顧問官の評議の後,第63項として「嫡出庶出皆長ヲ先ニシ幼ヲ後ニス」が加えられていますところ(小嶋・典則152頁(また,第1項の「ヘシ」も削られています。)),専ら,皇后に皇子が生まれていない状態(「皇嫡子孫在ラサル」「6条ノ場合」)が続く場合,皇位継承順位第1位の皇族(前記朱書においては,側室から生まれた庶出の最年長皇子)はいつまでも皇太子にならないまま践祚を迎えることになってしまうのではないか,という具体的問題意識が宮中顧問官の間にあったということになるようです。

せっかく天皇に皇子があるのに,庶出であるばかりに,いつ皇后が皇子を生むか分からないからということで皇太子不在という状態を続けてよいのか,やはりどこかで区切りを付けて当該庶出の皇子を皇太子に冊立すべし,ということのようです。しかし,いったん庶出の皇子を皇太子に冊立した後に皇后が嫡出の皇子を生んでしまうと大変なので(さすがに,いったん皇太子となった皇子について廃太子の手続を執るというのはスキャンダラスに過ぎるでしょう。),「庶出長皇子ノ立坊ハ皇后宮御受胎有ルマシキ御年齢ニ至ラセラレタル上宣下」というように皇后に受胎能力がなくなったことを十分見極めてから皇太子冊立をしましょうね,ということになったようです。とはいえ,当の皇后にとっては,失礼な話ですね。明治の宮中顧問官閣下ら(川村純義・福岡孝弟・佐々木高行・寺島宗則・副島種臣・佐野常民・山尾庸三・土方久元・元田永孚・西村茂樹(小嶋・典則146))も,令和の御代においては,ただのセクハラおじいちゃん集団歟。

 

(2)柳原の「帝室典則修正案」における立坊関係規定の採用

その後(ただし,1886107日より前)柳原前光が作成した「帝室典則修正案」においては(小嶋・典則166-167頁),その第9条に「皇太子皇太孫ト号スルハ詔命ニ依ル」という規定が置かれました(小嶋・典則164頁)。同条の規定は,直前の「帝室典則」案には無かったものです。小嶋教授は,「「典則」での採択を覆すもの」と評しています(小嶋・典則166頁)。すなわち,「帝室典則」に先立つ1885(小嶋・典則64「皇室制規」の第10には「立太子ノ式ヲ行フトキハ此制規ニヨルヘシ」との規定があったのですが,当該規定は「帝室典則」では削られていたところです(小嶋・典則125頁・140頁・153)。とはいえ,「帝室典則」案に対する宮中顧問官の評議を経た修正結果においては,2条ただし書として「但皇次子皇三子ト雖モ立坊ノ後ハ直ニ其子孫ニ伝フ」との規定が設けられてありました(小嶋・典則151頁。下線は筆者によるもの)。

「帝室典則修正案」に,前記の「皇室法典初稿」(1887125日)が続きます。

 

(3)嘉仁親王(大正天皇)の立太子

庶出ではあるが唯一人夭折を免れた皇子である嘉仁親王(後の大正天皇)について,明治皇室典範裁定後の1889113日,立太子の礼が行われました。明治天皇の正妻である昭憲皇太后は,その日満40歳でした。(なお,嘉仁親王は,その8歳の誕生日である1887831日に,既に昭憲皇太后の実子として登録されていたところではあります(奥平康弘『「萬世一系」の研究(下)』(岩波現代文庫・2017年)16頁等参照)。ちなみに,1886年の「帝室典則」610日案第7には「庶出ノ皇子皇女ハ降誕ノ後直チニ皇后ノ養子トナス」とあったところ(飽くまでも養子です。),同年中の顧問官評議を経て当該規定は削られており,その間副島種臣から「庶出ト雖嫡后ヲ以テ亦母ト称ス」との修正案が提出されていたところです(小嶋・典則140頁・153)。

ところで,嘉仁親王の生母である愛子の兄こそ,柳原前光おじさんでありました。

 

7 現行皇室典範における立坊関係規定の不在と立太子の礼の継続

庶出の天皇が践祚する可能性を排除した現行皇室典範においては,明治皇室典範16条に相当する立太子・立太孫関係規定は削られています。

しかしながら,庶出の天皇(皇族)の排除と立坊関係規定の不在との間に何らかの関係があるかどうかは,194612月の第91回帝国議会における金森徳次郎国務大臣の答弁からは分からないところです。同大臣は,立太子の礼に関しては,立太子の儀式を今後も行うかどうかは「今の所何らまだ確定した結論に到達しておりません。」(第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会議録(速記)第422頁),「決まっておりません。」(同会議録23頁),「本当の皇室御一家に関しまするものは,是は法律は全然与り知らぬ,皇室御内部の規定として御規定になる,斯う云ふことになつて居りますが,さうでない,色々儀式等に関しまする若干の問題は,今まだ具体的に迄掘下げては居りませぬけれども,例へば立太子の式とかなんとか云ふ方面を考へる必要が起りますれば,それは多分政令等を以て規定されることと考へて居ります」(第91回帝国議会貴族院皇室典範案特別委員会議事速記録第27頁)というような答弁のみを残しています。立太子・立太孫ないしは立皇嗣の礼に係る立儲令のような政令等の法令は,いまだ存在していないところです。
 194612月段階では行われるかどうか未定でしたが,立太子の礼を行うことは継続されることになりました。

1952年(昭和271110日,〔現上皇〕皇太子継宮(つぐのみや)明仁(1933-)の立太子礼が,旧立儲令に従って挙行され,報道機関は,皇室は日本再興のシンボル,と書き立てた。内閣総理大臣吉田茂は,立太子礼の寿()(ごと)で「臣茂」と名乗り,その時代錯誤ぶりで,世人を驚かせた。」とのことです(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)207-208頁)。「旧立儲令に従って」とのことですが,立儲令附式には賢所大前の儀において内閣総理大臣が「御前に参進し,寿詞を述べる」ということは規定されておらず,臣下の分際で立太子の礼にしゃしゃり出てよいものかどうか,吉田茂は恐懼したものでしょう。

 

(追記)

なお,19521110日の立太子の礼宣制の儀に係る式次第は,次のとおりでした(宮内庁『昭和天皇実録 第十一』(東京書籍・2017年)445-446頁)。当該式次第は,「旧立儲令に従って」はいません。

 

 午前11時より表北の間において,立太子の礼宣制の儀を行われる。黄丹袍を着して参入の皇太子〔現上皇〕に続き,〔香淳〕皇后と共に〔昭和天皇は〕同所に出御される。ついで宮内庁長官田島道治が宣制の座に進み,次の宣制を行う。

  昭和271110日立太子ノ礼ヲ挙ケ明仁親王ノ皇嗣タルコトヲ周ク中外ニ宣ス 

次に皇太子より敬礼をお受けになる。ついで内閣総理大臣〔吉田茂〕より寿詞をお受けになり,入御される。

 

 ところで,1916113日の詔書の前例及び1989223日のおことばの後例に鑑みても,「皇太子」を立てることに係る立太子の礼における宣制中の「皇嗣タルコトヲ」の部分は,田島長官が余計,かつ,儀式の本来の趣旨からすると不正確なことを言った,ということにならないでしょうか。皇太子であれば,皇嗣たることは自明です。19521110日の宣制の考え方は,立太子の礼とは,某親王が皇嗣であること(皇太子であること,ではない。)をあまねく中外に宣するための儀式である,ということでしょうか。

 令和の御代における立皇嗣の礼催行の正統性は,この辺において見出されるべきものかもしれません。そうであれば,吉田茂内閣の「時代錯誤」とは,明治典憲体制への退行というよりも,令和・天皇の退位等に関する皇室典範特例法体制を先取りしたその先行性にあったということになるのでしょう。

 しかし,この先見の功は,吉田茂一人に帰して済まし得るものかどうか。19521114日には,昭和天皇から「皇太子成年式及び立太子の礼に当たり,皇太子のお言葉及び宣制の起草に尽力した元宮内府御用掛加藤虎之亮東洋大学名誉教授に金一封を賜う。」ということがあったそうです(実録第十一453頁。下線は筆者によるもの)。

 19331223日の明仁親王誕生までの昭和天皇の皇嗣は弟宮の雍仁親王(1902625日生。秩父宮)であったところですが,雍仁親王は1940年以降胸部疾患により神奈川県葉山町,静岡県御殿場町及び神奈川県藤沢市鵠沼の別邸での長期療養生活を余儀なくされ,皇太子明仁親王が「皇嗣タルコトヲ周ク中外ニ宣ス」る宣制がせられた儀式に病身をおして参列した195211月の翌月である同年「12月より容態が悪化し」,195314日午前220分に薨去せられています(実録第十一447, 479-481頁)。


DSCF0910
旧秩父宮ヒュッテ(札幌市南区空沼岳万計沼畔)



弁護士ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 「すべて国民は,個人として尊重される。」

 「すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。」と規定する日本国憲法13条は,憲法条文中もっとも有名なもののうち一つでしょう。英語文では“All of the people shall be respected as individuals. Their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extent that it does not interfere with the public welfare, be the supreme consideration in legislation and in other governmental affairs.”です。

 「戦後,日本国憲法を手にした日本社会にとって,日本国憲法の何がいちばん肝心なのか。それをあえて条文の形で言うと,憲法第13条の「すべて国民は,個人として尊重される」という,この短い一句に尽きています。」といわれています(樋口陽一『個人と国家』(集英社新書・2000年)204頁)。

 しかしながら,「すべて国民は,個人として尊重される。」との規定における「個人として尊重される」とはどういう意味でしょうか。

 

2 「かけがえのない個人として尊重される」

 

(1)五つの法律

我が国国権の最高機関たる国会(憲法41条)の解釈するところを知るべく,現行法律における「個人として尊重」の用例を法令検索をかけて調べてみると,5例ありました。①障害者基本法(昭和45年法律第84号)1条,②障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律(平成17年法律第123号)1条の2,③自殺対策基本法(平成18年法律第85号)21項,④部落差別の解消の推進に関する法律(平成28年法律第109号)2条及び⑤ユニバーサル社会の実現に向けた諸施策の総合的かつ一体的な推進に関する法律(平成30年法律第100号)1条です。

このうち,障害者基本法1条に「全ての国民が,障害の有無にかかわらず,等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念にのつとり,全ての国民が,障害の有無によつて分け隔てられることなく,相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会を実現するため」の部分が加えられたのは同法の平成23年法律第90号による改正によってであり,障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律に1条の2が挿入されたのは同法が,地域社会における共生の実現に向けて新たな障害保健福祉施策を講ずるための関係法律の整備に関する法律(平成24年法律第51号)によって改正されたことによってであり,自殺対策基本法21項が追加されたのは同法の平成28年法律第11号による改正によってでありました。

すなわち,現行法律中に存在する「個人として尊重される」概念のうち初めて登場したものは障害者基本法1条のそれであり,同条に当該概念が導入されたのは,日本国憲法公布後65年となろうとする2011年の民主党菅直人政権下のことでありました。

 

(2)「かけがえのない」性の追加修正

 平成23年法律第90号に係る政府提出の当初法案では,障害者基本法1条に挿入されるべき語句は「全ての国民が,障害の有無にかかわらず,等しく基本的人権を享有する個人として尊重されるものであるとの理念にのつとり,全ての国民が,障害の有無によつて分け隔てられることなく,相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会を実現するため」とのものでした。この政府提出案に対して,2011615日の衆議院内閣委員会において西村智奈美委員外2名から民主党・無所属クラブ,自由民主党・無所属の会及び公明党の共同提案による修正案が提出され(第177回国会衆議院内閣委員会議録第143頁・22頁),その結果「等しく基本的人権を享有する個人として尊重される」の部分が「等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重される」に改まっています(同会議録18頁)。

この,個人に係る「かけがえのない」性の追加修正は広く与野党の賛成を得てのものですから,政府案に最初から「かけがえのない」があってもよかったもののようにも思われます。しかしながらそのようにはならなかったのは,これは,「かけがえのない個人」との文言は法制上問題があって剣呑だ云々というような余計なことを言い立てる内閣法制局筋によって阻止されていたものでしょう。

 「個人として尊重される」との文言が「かけがえのない個人として尊重される」へと敷衍された結果,どのような法的効果が生ずるのかについては,提出者代表である高木美智代委員が次のように答弁しています(第177回国会衆議院内閣委員会議録第1416頁)。

 

この表現を「かけがえのない個人」と修正することにしましたのは,社会の中において,各個人が,障害の有無にかかわらず,それぞれ本質的価値を有することを一層明確にするためでございます。これによりまして,障害者基本法の理念が国民にとってわかりやすい言葉で示されることになると考えております。

この基本法で示された理念は,関係法令の運用や整備の指導理念となることは御承知のとおりでございます。したがいまして,今後の障害者施策におきましては,国民一人一人がかけがえのない存在であるということを基本とした運用等が要請されることとなります。

この結果,障害者基本法が目指している共生社会,すなわち,すべての国民が相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現が促進されることになることを期待いたしております。

 

 各個人の「本質的価値」とは,それぞれが「かけがえのない存在」であるということになるようです。全ての国民が「かけがえのない個人として尊重される」べきであるということは,前記①から⑤までの5法の全てが当該文言を採用して,前提としているところです(なお,自殺対策基本法21項は,「全ての国民」よりも広く,「全ての人」となっています。)。だとすると,憲法13条前段も今や,「すべて国民は,かけがえのない個人として尊重される。」という意味であるものとして読まれるべきもののようです。「「個人として尊重される」ト云フコトハ,結局是ダケノ意味デアリマシテ,国民ト云フ言葉ガ集団的ナ意味ニモ使ハレテ居リマスシ,各個ノ人間トシテモ国民ト云フ文字ハ使ハレテ居リマス,此処ノ所ハ集団的デハナイ国民ト云フモノハ,国家ヲ構成シテ居ル単位トシテノ人間トシテ大イニ尊重サレルト云フ原則ヲ此処デ声明シタ訳デアリマス,サウ特別ニ深イ意味デハナイ,此ノ原則ノ発展トシテ,是カラ出テ来ル具体的ナ規定ガ生レテ来ル,斯ウ云フ風ニ考ヘマス」(1946916日貴族院帝国憲法改正案特別委員会における金森徳次郎国務大臣の答弁(第90回帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員会議事速記録第149頁))というような素っ気ないものでは,もはやありません。全て国民は,「国家ヲ構成シテ居ル単位トシテノ人間」であるにとどまらず,「かけがえのないもの」として尊重されなければなりません。

 

(3)「共生」社会から,支え合う「ユニバーサル社会」へ

 「全ての国民が・・・等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念」が目指すところは「共生」社会であり,当該「共生」社会においては「全ての国民が,・・・分け隔てられることなく,相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する」ものであるようです(障害者基本法1条,障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律1条の2各参照)。

 具体的な生活の場(障害者基本法3条並びに障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律1条及び1条の2は身近なものたる「地域社会」における「共生」を問題としています。)において「相互に人格と個性を尊重し合いながら共生」しなければならない責務を負う者は私人たる各日本人でしょうから(障害者基本法8条,障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律3条各参照),憲法13条前段の射程は私人間関係にも及ぶもののようであり,単なる「国政の上」での「最大の尊重」を問題とする同条後段のそれよりもはるかに広いものなのでした。

 しかしてこの「共生社会」の内実は,2018年のユニバーサル社会の実現に向けた諸施策の総合的かつ一体的な推進に関する法律において,同法21号が規定する「ユニバーサル社会」として,より具体的に規定されるに至っています。

  

  一 ユニバーサル社会 障害の有無,年齢等にかかわらず,国民一人一人が,社会の対等な構成員として,その尊厳が重んぜられるとともに,社会のあらゆる分野における活動に参画する機会の確保を通じてその能力を十分に発揮し,もって国民一人一人が相互に人格と個性を尊重しつつ支え合いながら共生する社会をいう。

 

 なお,「ユニバーサル社会」に係る同号の定義については,議案を提出した衆議院国土交通委員会の盛山正仁委員長代理から更に,「一般的に,ユニバーサル社会というのは,障害の有無,年齢,性別,国籍,文化などの多様な違いにかかわらず,一人一人が社会の対等な構成員として尊重され,共生する社会を意味」するものであるとの説明がありました(第197回国会参議院国土交通委員会会議録第54頁)。

 しかして,「相互に人格と個性を尊重し合いながら共生」するということは,ユニバーサル社会の実現に向けた諸施策の総合的かつ一体的な推進に関する法律21号の定義によれば,現実に,具体的な一人一人が相互に「支え合」うということになるのでした。

 その結果,国民は,「職域,学校,地域,家庭その他の社会のあらゆる分野において,ユニバーサル社会の実現に寄与するように努めなければならない」ものとされています(ユニバーサル社会の実現に向けた諸施策の総合的かつ一体的な推進に関する法律5条)。これは,「その他の法令で,国民の努力という規定につきましては様々な法律において既に定められているところ」であって「国民の言わば心構えを定めるようなもの」であり,「この規定を根拠にして国民の皆様に義務を押し付けようというものではございません」が,「全ての国民が配慮すべきであるというふうに考えるものですからこのような規定を設けたもの」だそうです(盛山衆議院国土交通委員長代理・第197回国会参議院国土交通委員会会議録第54頁)。憲法13条前段解釈の現段階は,「是ハ矢張リ国家ガ国民ニ対スル心構ヘト云フ風ニ思ッテ居リマスガ」(佐々木惣一委員)との問いかけに対して「其ノ通リデアリマス」(金森国務大臣)と簡単に答えて済むもの(1946916日貴族院帝国憲法改正案特別委員会(第90回帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員会議事速記録第149頁))ではなくなっているもののようです。国家のみの問題ではありません。

 ユニバーサルは元々英語のuniverseの形容詞形のuniversalなのでしょうが,当該universeの語源は「L ūnus (one)L vertere (to turn)の過去分詞versusから成るL ūniversus (turned into one; combined into one; whole; entire)」ということですから(梅田修『英語の語源辞典』(大修館書店・1990年)212頁),「ユニバーサル社会」とは,一なる全体社会ということでしょうか,全一社会というべきでしょうか。全国民は,「個人として尊重」されつつ最後は全一社会実現への寄与を求められることになる,ということのようです。

 

(4)「支え」られる「かけがえのない個人」

 「かけがえのない個人として尊重される」ものであるところの国民の一人を「支え」る場合,どこまでの「支え」が必要になるのでしょうか。

「かけがえ」とは「掛(け)替え」であって,「必要な時のために備えておく同じ種類のもの。予備のもの。かわり。」ということですから(『岩波国語辞典第4版』(1986年)),かけがえのない物は亡失してしまっては大変であり,かけがえのない人は死亡させてしまってはいけないことになるのでしょう。自殺対策基本法21項は「自殺対策は,生きることの包括的な支援として,全ての人がかけがえのない個人として尊重されるとともに,生きる力を基礎として生きがいや希望を持って暮らすことができるよう,その妨げとなる諸要因の解消に資するための支援とそれを支えかつ促進するための環境の整備充実が幅広くかつ適切に図られることを旨として,実施されなければならない。」と規定していますから,「かけがえのない個人として尊重される」者は,正に「生きることの包括的な支援」までをも受けることが保障されるのでした。

 この高邁な理念の前に,人が「生きること」に対する昔風のつまらぬ悪意などいかほどのことがありましょう。

 

quia pulvis es et in pulverem reverteris (Gn 3, 19)

  Viel zu viele leben und viel zu lange hängen sie an ihren Ästen. Möchte ein Sturm kommen, der all diess Faule und Wurmfressne vom Baume schüttelt! (Vom freien Tode)

   Quid est autem tam secundum naturam quam senibus emori? (De Senectute

高齢者の医療・福祉政策に係る政府の失態等に対して「お前たちは,老人に死ねというのか。」とお年寄りの方々が激怒されている旨の報道に度々接しますが,お怒りは全く当然のことです。「かけがえのない個人として尊重される」我々個々人は,その代わりがないにもかかわらず死亡してしまわないように,「生きることの包括的な支援」までをも受けるべき権利を有しているのです。「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」などという言葉は,弱い者をたすけるべき立場にある者にあるまじき最低の暴言である,謝罪せよ,ということに,188214日から137年半後の今日ではなるようです。

 以上,各日本人は,日本国憲法13条前段に基づき「個人として尊重される」結果,自己が生きるに当たって他者からの支えを期待する権利を有し,当該支えを得る際にも自己のあるがままの人格及び個性は差別を受けることなく,むしろ傷つけられないように優しく配慮され,かつ,尊重され,更にその前提として,全一(ユニバーサル)社会においてそのような人々に囲まれて「共生」していることを当然のこととして期待することが許されている存在である,ということになるようです。

 

  et sumat etiam de ligno vitae

       et comedat et vivat in aeternum (Gn 3, 22)


3 束にならず,寂しい個人主義者たち

 ところで,個人に係る個人主義といえば夏目漱石や永井荷風が有名ですが,漱石・荷風流の「個人主義」は,上記のような「共生」的日本国憲法13条前段解釈とはどのような関係に立つことになるのでしょうか。

 

   〔前略〕夏目漱石の『私の個人主義』という学習院で行った講演1914(大正3)年が,有名です。個人というのは寂しさに耐えるんだ。その辺の雑木の薪なんていうのも束になっていれば気持ちが楽だ。しかし,個人というのは自分自身で自分の去就を決め,自分で腹を決めるということだ。だから,本来寂しいことなんだという,ズバリ個人の尊重ということの重みを語っています。〔略〕

   他方で文字どおり個人であることに徹したのが荷風散人(永井荷風)だったのです。その点について彼から引用しようと思えば枚挙にいとまがないのですけれども,あえて一つ。――「わたくしは元来その習癖よりして党を結び群をなし,その威を借りて事をなすことを欲しない。・・・わたくしは芸林に遊ぶものの往々社を結び党を立てて,己に与するを掲げ与せざるを抑えようとするものを見て,これを怯となし,陋となすのである」(『濹東綺譚』)。文字どおり彼は名実ともに「個」であることの純粋さを貫いたのです。(樋口・個人と国家205頁)

 

 ここに現れる漱石も荷風も,心温まる,かつ,素晴らしい「共生社会」の住人ではなさそうです。束になれず,群れから離れ,党を立てず,結社に属し得ず,寂しい。分離の感覚。

 しかし,分離(separate)してあることこそが,individualなのだということになるのでしょう。筆者の手許のOxford Advanced Lerner’s Dictionary of Current English, 6th edition (2000)には,名詞individualの語義として冒頭 “a person considered separately rather than as part of a group”と,形容詞individualの語義として冒頭“considered separately rather than as part of a group”と記載されてあります。個人(individual)は本来,束(fascis),群れ,党,結社その他のグループの一員として存在するものとしては観念されていないのです。

個人主義は,ぬるい生き方ではないようです。

 

 scio opera tua

    quia neque frigidus es neque calidus

    utinam frigidus esses aut calidus

    sed quia tepidus es et nec frigidus nec calidus

    incipiam te evomere ex ore meo (Apc. 3, 15-16)

 

4 GHQ草案12条の起草

 さて,個人主義は本来非日本的なものであり(「個人の欠如というのは長い間,いわば,日本の知識人を悩ませてきたオブセッション(強迫観念)だったのです。」(樋口・個人と国家206頁)),西洋由来のもののようですが,西洋人の一種たるGHQの米国人らは,日本国憲法13条の原案を起草するに当たって一体そこにどのような意味を込めていたのでしょうか。

 1946213日に我が松本烝治国務大臣らに手交されたGHQ草案の第3章(Chapter III  Rights and Duties of the People)中の第12条には次のようにありました。

 

  Article XII. The feudal system of Japan shall cease. All Japanese by virtue of their humanity shall be respected as individuals. Their right to life, liberty and the pursuit of happiness within the limits of the general welfare shall be the supreme consideration of all law and of all governmental action.

 

これが外務省罫紙に和文タイプ打ちされた我が国政府の翻訳では次のようになっています(1946225日)。

 

 第12条 日本国ノ封建制度ハ終止スヘシ一切ノ日本人ハ其ノ人類タルコトニ依リ個人トシテ尊敬セラルヘシ一般ノ福祉ノ限度内ニ於テ生命,自由及幸福探求ニ対スルソノ権利ハ一切ノ法律及一切ノ政治的行為ノ至上考慮タルヘシ

 

 GHQ民政局内国民の権利委員会(Committee on Civil Rights)が194628日に同局内運営委員会(Steering Committee)に提出した原案は,次のとおり(Civil Rightsの章の第1節総則(General)(この総則は,現行憲法の11条から17条までに当たります。)中の第5条)。同日の両委員会の会合で運営委員会側から意見があり,これに“within the general welfare”という限定句が挿入されることになりました(エラマン・ノート)。

 

  5. All Japanese by virtue of their humanity shall be respected as individuals. Their right to life, liberty and the pursuit of happiness shall be the supreme consideration of all law, and all governmental action.

 

そこで第2稿では次のようになり,更に最終的に“The feudal system of Japan shall cease.”が加えられて国民の権利委員会最終報告版となっています。

 

 All Japanese by virtue of their humanity shall be respected as individuals. Their right to life, liberty and the pursuit of happiness within the limits of the general welfare shall be the supreme consideration of all law, and all governmental action.

 

 “The feudal system of Japan shall cease.”は後付けとはなりましたが,重要な規定です。194623日の日本国憲法改正案起草に関するマッカーサー三原則(マッカーサー・ノート)第3項の冒頭に“The feudal system of Japan will cease.”とあったからです。

 マッカーサー三原則の第3項には続けて“No rights of peerage except those of the Imperial family will extend beyond the lives of those now existent.”(「貴族の権利は,皇族を除き,現在生存する者一代以上には及ばない。」(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川文庫・2014年)22頁))及び“No patent of nobility will from this time forth embody within itself any National or Civic power of government.”(「華族の地位は,今後どのような国民的または市民的な政治権力も伴うものではない。」(鈴木22頁))とありましたから,“The feudal system of Japan will cease.”(「日本国ノ封建制度ハ終止スヘシ」)は平等条項(日本国憲法14条)の冒頭に来てもよかったように思われるのですが,あえて「一切ノ日本人ハ其ノ人類タルコトニ依リ個人トシテ尊敬セラルヘシ一般ノ福祉ノ限度内ニ於テ生命,自由及幸福探求ニ対スルソノ権利ハ一切ノ法律及一切ノ政治的行為ノ至上考慮タルヘシ」の前に置かれています。


5 アメリカ独立宣言,ヴァジニア権利章典及びトーマス・ジェファソン

 

(1)アメリカ独立宣言

 GHQ草案12条の原起草者はロウスト中佐であったのか,又はワイルズ博士であったのか。しかしいずれにせよ,トーマス・ジェファソンらの手になる北米十三植民地独立宣言(177674日)の影響は歴然としています。

 

  〔日本国憲法13条の〕規定は,〔略〕独立宣言にその思想的淵源をもつことは,文言自体からして明瞭であり,さらにはロックの「生命,自由および財産」と何らかの関連を有するであろうことも推察される。(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)443頁)

 

 独立宣言は,いわく。

 

   We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal; that they are endowed by their Creator with certain inalienable rights; that among these, are life, liberty, and the pursuit of happiness. That, to secure these rights, governments are instituted among men, deriving their just powers from the consent of the governed; that, whenever any form of government becomes destructive of these ends, it is the right of the people to alter or to abolish it, and to institute a new government, laying its foundation on such principles, and organizing its powers in such form, as to them shall seem most likely to effect their safety and happiness.(我々は,以下の諸真理を自明のことと認識する。すなわち,全ての人々(メン)は平等なものとして創造されていること,彼らは彼らの創造主によって一定の不可譲の権利を付与されていること, これらのうちには,生命,自由及び幸福の追求があること。これらの権利を保全するために,統治体(ガヴァメンツ)が,その正当な権力を被治者の同意から得つつ,人々(メン)の間に設立されていること,いかなる政体であっても,これらの目的にとって破壊的なものとなるときにはいつでもそれを廃止し,又は変更し,並びにその基礎がその上に据えられるところ及びその権力がそれに従って組織されるところ彼らの安全及び幸福を実現する見込みの最も高いものとして彼らに映ずる諸原則及び政体であるところの新しい統治体(ガヴァメント)を設立することは,人民(ピープル)の権利であること。

 

 GHQ民政局の運営委員会によって挿入せしめられた語句に対応する「公共の福祉に反しない限り」を除いて,同局の国民の権利委員会による原案流に日本国憲法13条後段を読むと「生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。」となりますが,それらの権利について「立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする」ことが必要なのは,そうしないと,アメリカ独立宣言的世界観によれば,人民によって政体(form of government)の変更又は廃止(to alter or to abolish)がされてしまう革命が起きてしまうからなのでした。

 

(2)トーマス・ジェファソンとジョン・ロック

 なお,ジェファソンは,ロックの崇拝者でした。

 

  しかし,ロックは,ジェファソンのウィリアム・アンド・メアリー大学在学並びにスモール博士,フォーキエ知事及びジョージ・ウィスとの食卓討論の時代から,ジェファソンのお気に入りであった。彼は,〔パリから〕1789年〔215日〕にジョン・トランブルに対して書くには,ロックを「全くの例外なしに,かつて生きた者の中での最大の三偉人」のうちの一人であるものとみなすようになっていた。(他の二人は,アイザック・ニュートン及びフランシス・ベーコンであった。)ジェファソンは,スモール博士によって,〔1772年の〕十年も前から啓蒙の三英雄全員について手ほどきを受けていた。1771年〔83日〕に,ジェファソンは,スキップウィッズの蔵書として推薦する政治関係本のショート・リストに,「ロックの政治本」,すなわち明らかにその『統治二論』を含めていた。彼がこの精選本リストに前書きして言うには「政治と交易とについては,私は君に,最善の本を少数のみ提示したものである。」ということであったが,これは,この頃までにこれらの本の全てに彼自身精通しているものと彼が思っていたことを明瞭に示している。(Randall, Willard Sterne. Thomas Jefferson: a life. New York: HarperPerennial, 1994. p.164

 

(3)ヴァジニア権利章典1条からの変更

 ところで,独立宣言で確認された「生命,自由及び幸福追求」の諸権利は,その前月の1776612日にジェファソンの出身地であるヴァジニア邦でジョージ・メイソンの主導で採択された権利章典の第1条では「財産(property)の取得及び保持並びに幸福及び安全の追求及び獲得に係る手段を伴う,生命及び自由の享受」の諸権利ということになっていました。ジェファソンは,財産の取得及び保持,幸福の獲得並びに安全の追求及び獲得に係る手段までをも人間の不可譲の権利に伴うものとして主張することは欲張りに過ぎる,と判断した上で,生命,自由及び幸福の追求に絞ったのでしょうか。ただし,生命及び自由に並んで,幸福の追求自体も人々の不可譲の権利であるものとされた形になっています。(なお,独立宣言においては,人民の安全及び幸福を実現することが統治体(ガヴァメント)の目的に含まれることは認められています。換言すると,手段としての政府なしには人民の安全及び幸福の実現は難しいということでしょうか。なお,人民(ピープル)人々(メン)との語の使い分けにも注意すべきなのでしょう。ちなみに,ロックの『統治二論』第二論文第95節では,人々が共同体コミュニティー設立目的彼ら固有プロパテものィーズ確実享受当該共同体安全保障相互快適安全平穏生活comfortable, safe, and peaceable living)であるものとされていました。

 

  SECTION 1.   That all men are by nature equally free and independent, and have certain inherent rights, of which, when they enter into a state of society, they cannot, by any compact, deprive or divest their posterity; namely, the enjoyment of life and liberty, with the means of acquiring and possessing property, and pursuing and obtaining happiness and safety.(全ての人々は本来均しく自由かつ独立であり,かつ,彼らが社会状態に入るときにおいていかなる協定によっても彼らの子孫から剥奪し,又は奪い去るこのとできない一定の生得の権利,すなわち,財産の取得及び保持並びに幸福及び安全の追求及び獲得に係る手段を伴う,生命及び自由の享受の権利を有していること。)

 

ジョージ・メイソン主導のヴァジニア邦の政体案は,ジェファソンには不満をもたらすものだったようです。

 

 このヴァジニアの文書は,一世紀半にわたってヴァジニアを支配してきた荘園(プラン)(ター)寡頭(・オリ)体制(ガーキー)の手中に権力を保持せしめるとともに,現状を維持る,深く保守的な代物であった。メイソンの宣言は投票資格のための財産所有要件を保存しており人口の1パーセントの10分の1未満の手中に権力を留め続けていた。

  自身で彼の反対意見及び修正案を提出できないため,古い郷紳(ジェントリー)支配体制が永続化されてしまうばかりということになるのではないかと深く憂慮するジェファソンは,フィラデルフィアとしては珍しい涼しい期間を,ヴァジニアの国憲に係る彼自身の案を次々と起草するために利用した。ジェファソンのものは,主に,〔略〕はるかに広い投票権を認める点において異なっていた。〔中略〕メイソンのものは,権力を有する少数の富裕な大土地所有エリートの支配の継続にとって有利なものであって,当該事実は1776年のこの夏においてジェファソンを警戒させた。彼は生涯,「建国者(ファウンディング)(・グレ)大家系(ート・ファミリーズ)」に対して米国人が夢中になることに苦言を呈し続けた。(Randall pp.268-269

 

大きな財産を保持する幸福かつ安全な保守的荘園(プラン)(ター)寡頭(・オリ)体制(ガーキー)に対する敵対者としては,財産の取得及び保持,幸福の獲得並びに安全の追求及び獲得に係る手段までをも人間の不可譲の権利伴うものとして言及して現状の変革を難しくするわけにはいかなかった,ということになるのでしょうか。なお,ジェファソンについて,「ジョン・ロックの「財産(プロパティ)」に代わる彼の「幸福の追求」の語の選択は,イングランド中産階級の財産権に係るホイッグ主義からの鋭い断絶を示している。」と評されています(Randall p.275)。

1776年夏のフィラデルフィアにおける大陸会議出席期間中,33歳のジェファソンが独立宣言の原案を起草する様子は,次のようなものだったそうです。

 

  それ〔アメリカ独立宣言案〕は,委員会会合及び拡大する内戦の最新状況を憂慮する論議の日々のかたわら,この激動の1776年夏,朝早くそして夜遅く,ジェファソンがものした多量の文書のうちの一つにすぎなかった。613日から28日までの2週間,涼しい朝,蒸し暑い夕べ,ジェファソンは彼の風通しのよい部屋にいくらかの平和及び静寂を求め,彼の周りに書類を拡げ,彼の新しい持ち運び机の上でせっせと仕事をした。〔略〕ジェファソンはいかなる書物にも当たる必要はなかったにしろ,彼は少なくとも一つの文書を所持していた。ヴァジニアのための彼の心を込めた憲法の最終草案である。そこから彼は,国王に対する苦情の長いリストを書き写すことになる。ジェファソンには何か独自なものを創出することは求められていなかった。その正反対であった。しかし彼は,古代ギリシア時代からつい先般のトム・ペインの熱のこもった修辞まで,百もの著述家から,彼の選ぶ言葉を摘み出す自由を有していた。(Randall pp.272-273

 

6 アメリカ独立宣言,ヴァジニア権利章典及び日本国憲法13

 

(1)「平等なものとして創造されている」又は「本来均しく自由かつ独立」と「個人として尊重される」と

日本国憲法13条前段の「すべて国民は,個人として尊重される。」の部分は,GHQ草案12条では“All Japanese by virtue of their humanity shall be respected as individuals.”となっています。しかし,何ゆえに“All Japanese are created equal. ”(アメリカ独立宣言流)とか“All Japanese are by nature equally free and independent.”(ヴァジニア権利章典流)という表現ではなかったのでしょうか。

「全ての日本人は,平等なものとして創造されている。」又は「全ての日本人は,本来均しく自由かつ独立である。」という前提からでは,それら日本人の有する生命,自由及び幸福追求に対する権利について国は「立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする」こととがうまく結び付かないからでしょうか。確かに,「平等」には悪平等もあるので,平等に「最大の尊重」をするのではなく平等に「踏みにじる」こともあり得るのでしょう(これに対して,日本人内限りでの「平等」であるからこそ,むしろそのようなことはないのだ,とはいい得るものでしょうか。)。(なお,ジョン・ロック的な平等(equality)は,およそ全ての事柄における平等といったものではなく,「各人が,他者の意思又は権威に服することなく,彼の自然の自由に対して有するところの平等な権利」でした(『統治二論』第二論文第54節)。)また,「自由かつ独立」ならば(なお,ここでは"equally""equally as Japanese"を含意しないものと解します。),そもそもそんな人たちは国家以前の存在で,直ちに「国政の上で,最大の尊重」をされる必要もないのでしょう。さらには,占領下の敗戦国民に対して,実は君たちは本来自由かつ独立なのだよ,と当の占領軍当局からわざわざ言ってやるのも余計なことだと思われたのかもしれません。「全ての人々は平等なものとして創造されている」又は「全ての人々は本来均しく自由かつ独立」と米国の原典からそのまま引き写すのも同様,戦争で負けた日本人が,それにもかかわらず米国その他の戦勝国の人々とも「全ての人々」仲間で平等ということになってしまって具合が悪かったのでしょう。(反抗的といえば反抗的な文言であるわけですが,1776年のヴァジニアの指導者たちは正にそのような人たちだったのでした。)

 

(2)日本国憲法13条前段と後段との間の社会契約

日本国憲法13条後段における国の義務の発生に係る直接の論理的前提は,日本国という統治体の設立に係る社会契約なのでしょう。ヴァジニア権利章典では“when they enter into a state of society…by…compactとあり,アメリカ独立宣言では“to secure these rights, governments are instituted among men, deriving their just powers from the consent of the governed”といっているところです。(なお,ヴァジニア権利章典2条には“That all power is vested in, and consequently derived from, the people; that magistrates are their trustees and servants, and at all times amenable to them.”(全ての権力は,人民に帰属し,したがって人民に由来すること。官職保有者は彼らの受託者かつ使用人であり,及び常に彼らに従属するものであること。)と,同章典3条終段には“that, when any government shall be found inadequate or contrary to these purposes, a majority of the community hath an indubitable, inalienable, and indefeasible right to reform, alter, or abolish it, in such manner as shall be judged most conductive to the public weal.”(いかなる統治体であっても,これらの目的について不十分又は反するものとみなされるようになった場合には,共同体の多数は,公共の福祉にとって最も親和的であると判断される方法に従って,それを改善し,変更し,又は廃止する不可疑,不可譲かつ不壊の権利を有する。)とあります。) 

そうであれば,日本国憲法13条前段と同条後段との間には,社会契約があることになるようです。日本国は国民国家なのでしょうが,「「国民国家」は,諸個人のあいだの社会契約によってとりむすばれるという論理の擬制のうえに成り立つ人為の産物であり,そのようなものとして,身分制や宗教団体の拘束から個人を解放することによって,人一般としての個人を主体とする「人」権と表裏一体をなすものだった。」とされているところです(樋口陽一『国法学』(有斐閣・2004年)25頁。また同104頁)。ただし,社会契約説は,「契約説ハ国民ガ国家ノ権力ニ服従スルノ根拠ヲ国民自身ノ意思ニ帰セシメントスルモノナルコトニ於テ,近世ノ民主主義ノ根柢ヲ為セルモノナリト雖モ,歴史的ノ事実トシテ此ノ如キ契約ノ存在ヲ認ムベカラザルハ勿論,論理上ノ仮定説トシテモ,此ノ如キ契約ガ何故ニ永久ニ子孫ヲ拘束スルカヲ説明スル能ハザルノ弱点ヲ有ス」と(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)11頁),また,「之は種々の点に誤もあるけれども,其根本に於て人性を見誤つたものと申さなければならぬ,国家を成すのは之を成さずとも宜いのであるが,利害得失を比較して,強て之を造り成したるものではなくして,人間の本質上自然に国家を成すに至るものであるから,人の意思を以て国家存立の基礎とする社会契約説は其根本に於て誤であると言はなければならぬ」(上杉慎吉『訂正増補帝国憲法述義』(有斐閣・1916年)34-35頁)と批判されていたところではあります。

しかしながら,18世紀後半の北米十三植民地の知識人の間では,社会契約説こそが常識だったのでした。母国政府との関係におけるマサチューセッツでの険悪な情勢等を承けて大量に政治小冊子が書かれた1774年のヴァジニアでは,次のごとし。

 

 教育を構成するものは何かということに人々がなお合意することができた時代に教育を受けた人間であるジェファソンは,政治小冊子の全論文執筆者中の典型であった。彼ら全てが――更に全読者についても前提されていたのだが――政治哲学者であるハリントン,ヒューム,ロック,ハリファックス,モンテスキュー,シドニー及びボリングブロークの,並びにグロチウス,フランシス・ハッチソン,プーフェンドルフ及びヴァッテルのような道徳哲学者の著作に精通していた。それに加えて,全員がトゥキディデス及びタキトゥスからクラレンドン伯爵に至るまでの歴史家の見解を諳んずることができた。全員が抑制と均衡のシステム並びにイングランドの憲法を構成する法律及び伝統に詳しかった。「これらは皆,我々の耳に余りにも何度も繰り返し叩き込まれたので,政治についての全くの素人でもそれから長いこと暗記してしまっていたはずだ。」と〔ロバート・カーター・〕ニコラスはぼやいた。全ての学識ある自由()保有(リー)不動産(ホール)保有者(ダー)は,国制上の「イングランド人の権利」を構成するものは何か,「自然法」とは何か――それが「自然」によって定立されて以来何が正しいとされ何が誤っているとされてきたか――及び彼らの「自然権」,すなわち,自然状態から人は契約によって社会に入ったのであり,したがって人は,彼自身又は彼の子孫のいずれによっても失われ,又は処分することのできない権利を保有しているとの彼らの確信, とは何か,並びに以上の結果として,正にその財産(プロパティー)に課税する権力を有するあらゆる政府においては財産(プロパティー)が代表されなければならないことを理解しているものと想定されていた。人民(ピープル)」とは何者かということは必ずしも常に明瞭ではなかったが,主権は人民(ピープル)属すると彼らは信ずるに至っていた。このような同一のイデオロギー基盤を政治小冊子論文執筆者らと自由保有不動産保有者らとは有していたものの,自由に関するこの夏の論争において,確認された論文執筆者中において唯一ジェファソンのみが,いかなる人も他の人を拘束する権利を有しないと主張して奴隷制問題を取り上げた。Randall p.201

 

ということであれば,日本国憲法13条前段の「個人」は,社会契約と何らかの関係があるのだろうということになります。

 

(3)社会契約の当事者としての個人(individuals

すなわち,個人(individuals)こそが,社会契約の当事者なのでした。正にジョン・ロックの『統治二論』の第二論文の第96節にいわく。

 

 For when any number of men have, by the consent of every individual, made a community, they have thereby made that community one body, with a power to act as one body, which is only by the will and determination of the majority… (というのは,任意の数の人々が,各個人の同意によって(by the consent of every individual共同体(コミュニティ)を作ったときには,彼らは,そのことによって当該共同体(コミュニティ)を,多数の意思及び決定によってのみであるが,一体として活動する力を有する一体のものとしたところなのである。)

 

(4)「尊重される」の意味

 さて,それでは,“All of the people shall be respected as individuals.”(「すべて国民は,個人として尊重される。」)における“shall be respected”(「尊重される」)の意味は何でしょうか。ここでの「個人」は日本国定立の社会契約の当事者の地位にある個人であるとして,彼らの「生命,自由及び幸福追求」に対する権利の保全(to secure)が不十分であるときには暴れて革命を起こす人民(ピープル)の構成員としての尊重でしょうか。それとも,社会契約を締結して国家(コミュニティー)の構成員となったとはいえ,彼らの生得不可譲の権利である「生命,自由及び幸福追求」の権利にはなお国家は手を触れるべからず,という意味での尊重(ただし,さすがに公共の福祉に反するようになれば介入して規制するのでしょう。)でしょうか。

「国政の上で,最大の尊重を必要」とするときの「尊重」はconsiderationですが,「consider(考える)は,L com- (intensive)L sīdus〔星,天体〕からなるL cōnsīderāre (to observe attentively; to contemplate; to examine mentally)が語源である。古典ラテン語においては占星術用語としての用法はないが,原義はto observe the starsであったと考えられている。」(梅田109頁)といわれれば,「生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政において遠くに輝く導きの星か,はた妖星か。

 日本国憲法13条の二つの「尊重」はそれぞれrespect及びconsiderationですが,後者の語源は上記のとおり,前者の語源もラテン語のrespicereですからどちらも「見ること」から派生した言葉です。見るということは距離・分離を含意し,手を差し伸ばして触れ合ったり支え合ったり,助け合ったりすることには直接結び付かないようです。

19464月付け法制局の「憲法改正草案に関する想定問答(第3輯)」においては,日本国憲法13条(政府提出案では第12条)前段の「個人として」に関する「個人としてとの意味如何」との想定問に対して,「個々一人一人の人間としてと言ふ意味であり,個人の人格尊重を規定したもので,全体の利益の為に,部分を不当に無視することなきの原則を明にしたものである」との回答が準備されていましたが,確かに,全体のために不当に無視しません,視ていますよとの消極的な性格のものとしての「個人の人格尊重」の位置付けでした。

19465月付け法制局の「憲法改正草案逐条説明(第1輯の2)」ではやや敷衍されて,次のように説明されています。

 

 本条前段は国民が各個人として尊重せらるべきものなることを定めて居ります。即ち従来稍〻もすれば全体を尊重する結果,誤まつて個人を無視し,全体の利益のために部分の利益を犠牲にする傾向に陥ることがあり,特に我国に於てこの弊が大きかつたと言ふことができるのでありますが,前段は国民の個人々々が何れも完全なる人格を有するものとして尊重されねばならぬとし,不当なる外力によつて国民の個性が抑圧せられることを防止しようとする趣旨であります。蓋し民主政治は自主独立なる個人の国政に対する積極的参与を精神とするものであるからであります。而して個人の人格を尊重すると言ふことは,要するに前2条に定めた所の基本的人権の尊重を,立法その他万般の国政の施行の際の基調とせねばならぬと言ふに帰着するのでありまして,本条後段はこの趣旨であります。

 

なお,日本国憲法13条後段の「最大の尊重」との表現については,「大イニ考慮ヲ払ツテ」という意味ではないかとの質疑(佐々木惣一委員)に対して,「サウ云フ意味デアラウト存ジテ居リマス,唯考慮スルト云フヤウナコトニナルト,専門家ガ御使ヒニナル言葉トシテハ,ソレデ十分デアリマセウケレドモ,一般的ニ国民ニ見セル法ト致シマシテ,左様ナ専門家的ナ渋イ描写デハ響キマセヌ,ソコデ政府ハ,サウ云フコトハ最モ尊重シテヤラナケレバナラヌ,斯ウ云フ気持ヲ現シタノデアリマス」との国務大臣答弁があったところです(1946916日の貴族院帝国憲法改正案特別委員会における金森国務大臣答弁(第90回帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員会議事速記録第149-10頁))。「渋イ」ものではいけないとなると,口当たりよく,甘やかで優しくなるのでしょうか。

 

7 GHQ草案12条釈義

 

(1)「日本国ノ封建制度ハ終止スヘシ」

 GHQ草案12条に戻ってアメリカ独立宣言及びヴァジニア権利章典との読み合わせをすれば,冒頭の「日本国ノ封建制度ハ終止スヘシ」は,最高上司のものしたマッカーサー三原則の第3項に敬意を表しつつ,当該一文によって大日本帝国憲法から日本国憲法への社会契約の変更が必要となった事由を示したものなのでしょう。アメリカ独立宣言であれば,北米十三植民地が独立を余儀なくされた理由としての英国ジョージ3世王の悪口が延々と続くところですが,まさか大日本帝国憲法下における昭和天皇の失政をあげつらうわけにもいかず,さらりと「日本国ノ封建制度ハ終止スヘシ」と書かれたものでしょう。明治の聖代における1869725日の版籍奉還,1871829日の廃藩置県の詔書などは高く評価されなかったようです。

 

(2)天皇の臣民(subjects)から社会契約の当事者たる個人(individuals)へ

 次の「一切ノ日本人ハ其ノ人類タルコトニ依リ個人トシテ尊(ママ)セラルヘシ」の部分は,「全ての日本人(又は人々)は,平等なものとして創造されている。」又は「全ての日本人(又は人々)は,本来(均しく)自由かつ独立である。」とも書かないこととしつつ,日本人を,続く後段の不可譲権(生命,自由及び幸福追求に対する権利)を有する自由,平等かつ独立である社会契約の当事者として位置付けようとしたものでしょうか。ロックの個人(individual)も,『統治二論』の第二論文第95節に“Men being, as has been said, by nature all free, equal, and independent, no one can be put out of this estate, and subjected to the political power of another without his own consent.”(今まで述べられてきたように,人々は本来全て自由,平等かつ独立であるので,だれも彼自身の同意なしにこの状態の外に置かれ,及び他者の政治権力に服せしめられることはない。)と紹介されています。
 ここで,“
not subjected to the political power of another”ということは重要です。それまでの日本人は,他者たる天皇の政治権力に,同意などという畏れ多いこともなしにひたすら服する臣民(subjects)でしたが,individualsとなることによって,明文では書かれずとも,アメリカ独立革命期における自由,平等かつ独立の愛国者(ペイトリオッツ)並みの存在たり得るもの位置付けられ得ることができたのでした。ただし,愛国者ペイトリオッツ英国国王ジョージ3世陛下に叛逆した乱臣賊子らでありましたから,「初より本質上日本人の活動は此御一人〔天祖及天祖の系統の御子孫〕の意思を基礎として存在するものであつた,各人は己を没却して絶対的に此御一人の意思に憑依するに由つて自己を完成し永遠ならしむることを得たのであります〔中略〕此御一人の意思は其以外に人性の活動を支配すべき意思あることなき各人が絶対的に憑依し奉る唯一の意思であります」(上杉229頁)ということにその道徳的存在性の基礎を置き,歴代天皇から恵撫慈養されてきた忠良な日本臣民としては,乱臣賊子ら並みになったといわれると,若干の没落ないしは堕落感があったものでしょうか。

 なお,「其ノ人類タルコトニ依リ」と書かれると,日本人はそれまでは人類として認められていなかったのか失礼な,という感じを受けるのですがどうでしょうか。あるいはこれは,最初はby natureと書いたところ,それでは「一切の日本人はその日本人たることにより個人として尊重せらるべし」ということになってかえって日本人ではない者は個人として尊重されなくなってしまうことになるので,くどくはなるものの,by virtue of their humanityと書くことになった(くどくそう書いたのは,個人として尊重されることには憲法までを要しない,という趣旨でしょう。「(法によって権利が認められるのではなく)権利はそれ自身で存在し,憲法・法律は権利の保護のためにあるという自然法的立場」をとる「既得権(vested right)の理論」が,正にロックを通じて米国に導入されていたところです(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)248頁)。),ということでしょうか。

 

(3)「生命,自由及幸福探求ニ対スルソノ権利ハ一切ノ法律及一切ノ政治的行為ノ至上考慮タルヘシ」

 「生命,自由及幸福探求ニ対スルソノ権利ハ一切ノ法律及一切ノ政治的行為ノ至上考慮タルヘシ」の部分は,国家設立の社会契約の目的の再確認ではありますし,日本国憲法においては,その第15条から第17条までの伏線となるところでしょう。日本国憲法14条の位置が問題になりますが,アメリカ独立宣言でもヴァジニア権利章典でも人々の平等ということが政府の位置付け論に対して先行しているところ,1946年の日本国においては,平等だと宣言するだけでは足りない積極的に片付けるべき封建遺制がなおあるものと認められたので,第14条が第13条に直ちに続いて,第15条以下の前に設けられたということでしょうか。

 なお,「幸福追求」について,法制局の「憲法改正草案逐条説明(第1輯の2)」は,「新しい表現でありますが,この語を用ひた気持ちとしましては,権利にも現状を維持するための権利と,一歩幸福の方に進めるための権利との区別があり,この後者の種類のものを表現したのであります。語感として享楽主義の誤解を招くとの非難があり得るかとも存じますが,従来の如く犠牲の面のみを強調することから生ずる暗さを払拭して,社会生活,国家生活の上に明るさを齎すと云ふ方針を表現し得たと考へて居ります。」と説明しています。「享楽主義の誤解を招くとの非難」に係る心配とは,専ら天皇に「其ノ康福ヲ増進」(ただし,「康福」は,伊東巳代治訳ではwelfare)することを願ってもらう(大日本帝国憲法上諭)受け身の姿勢には慣れてはいても,自分で自分の幸福を主体的かつ能動的に追求するとなると,生来享楽を求める己れの本性が下品に暴露されてしまいそうでかえって怖い,ということもあったのでしょうか。
 ちなみに,ジェファソン自身は,18191031日付けウィリアム・ショート宛て書簡において,自分も「古代ギリシア及びローマが我々に遺した道徳哲学における合理的なもの全て」がその教説にあるところのエピクロスの信奉者であると述べつつ,エピクロスの教説では幸福(happiness)が人生(life)の目的であり,その幸福の基礎は徳(virtue)であり,徳は①賢慮(Prudence),②節度(Temperance),③剛毅(Fortitude)及び④正義(Justice)から構成される,とまとめています(まとめ自体は書簡執筆時から二十年ほど前のものだと述べられています。)。享楽主義ではありません。

   

 8 「個人の尊厳」

 ところで,日本国憲法13条前段(「すべて国民は,個人として尊重される。」)は,「「個人の尊厳」を定めた規定であると一般に説明され」ているそうで(樋口陽一=石川健治=蟻川恒正=宍戸常寿=木村草太『憲法を学問する』(有斐閣・2019年)151頁(蟻川恒正)),さらには当該「「個人の尊厳」については尊厳こそが重要だ」ともされています(樋口等153頁(蟻川))。「〔日本国〕憲法13条は,「個人の尊重」(前段)と「幸福追求権」(後段)との二つの部分からなる。前段は,後段の「立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする」と一体化して,個人は国政のあらゆる場において最大限尊重されなければならないという要請を帰結せしめる。これは,一人ひとりの人間が「人格」の担い手として最大限尊重されなければならないという趣旨であって,これを「人格の尊厳」ないし「個人の尊厳」原理と呼ぶことにする。」とも説かれていたところです(佐藤444頁)。

この「尊厳」という概念については,「本気で使うなら,高い身分と不可分のものであるという,ヨーロッパの伝統社会でずっと引き継がれてきた理解を簡単に捨ててはいけない」ということで,「近代社会というのは身分が撤廃された社会というわけではない,そう見えるかもしれないけどもそうではない,では何なのか,みなが高い身分になった社会なのだと考える」べきなのだとの主張があります(樋口等155頁・156頁(蟻川))。当該論者によれば,「重い義務を引き受け,それを履行する人が高い身分の人であるという感覚」から,「尊厳というものは,義務を前提としてでなければ成り立たない。高い身分の人というのは,それだけ普通の人より重い義務を負う存在でなければならない」ということになるそうです(樋口等158頁・159頁(蟻川))。「自分は社会の基本的な構成員だという自覚を与えることが,その人を尊厳ある存在として認めることになるし,そういう社会を作っていくという社会自身のミッションでもある」ということだそうです(樋口等200頁(蟻川))。

民法2条の「個人の尊厳」については,「個人の尊厳とは,すべての個人は,個人として尊重され(憲13条参照),人格の主体として独自の存在を認められるべきもので,他人の意思によって支配されまたは他の目的の手段とされてはならない,ということである。」と説かれています(我妻榮『新訂民法総則(民法講義Ⅰ)』(岩波書店・1965年)29頁)。「他の目的の手段とされてはならない」となると,カント的ですね。教養主義的とも申せましょう。

 

 Handle so, daß du die Menschheit sowohl in deiner Person, als in der Person eines jeden andern jederzeit zugleich als Zweck, niemals bloß als Mittel brauchest. (Grundlegung zur Metaphysik der Sitten)

 

ところで「人格」ですが,これは「近世法が,すべての個人に権利能力を認め,これを人格者(Person)とする」ということですから(我妻46頁),権利能力の主体という意味でしょうか。仮にそうだとすると「人格の尊厳」とは,権利能力の「尊厳」ということになりそうです。何だかこれでは味気ない。であるとすれば,「ここにおいて,現代法は,個人を抽象的な「人格」とみることから一歩を進め,これを具体的な「人間」(Mensch)とみて,これに「人間らしい生存能力(menschenwürdige Existenzfähigkeit)を保障しようと努めるようになった(ワイマール憲法151条)。わが新憲法第25条もこの思想を表明するものである。」(我妻47頁)とはむべなるかな,ということになります。2012427日決定の自由民主党の日本国憲法改正草案では第13条は「全て国民は,人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公益及び公の秩序に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大限に尊重されなければならない。」と改正されることになっていて,「個人」が「人」になっています。


9 GHQ草案12条の「個人」の肖像

最後に,GHQ草案12条の想定していたindividualsとはどのような人々だったのでしょうか。

ロックの説くところでは,自然法の違反者を処罰する自然法執行の任に当たり,また,自らに対する損害賠償を求める自力救済をも行う者でした(『統治二論』第二論文第2章)。なかなか能動的です。自らのproperty(もの)である労働(labour)によって彼に固有のもの(プロパティ)を取得する者であり『統治二論』第二論文27節・第32節),理性の法に服し(同第57節),それに足る精神的能力を有していなくてはならず(同第60節),配偶者,子供及び召使からなる家庭を有する者ともなり(同第77節), 彼に固有のもの(プロパティ),すなわち彼の生命,自由及び財産(estate)を他の人々による侵害又はその試みに抗して保持する権力(a power)を生来(by nature)有する者でありました(同第87節)。

米国的文脈では,独立宣言の最後でアメリカ独立革命の大義のために“we mutually pledge to each other our lives, our fortunes, and our sacred honor.”(我々は,相互に,我々の生命,我々の運命(財産)及び我々の神聖な名誉をかけることを誓う。)と誓った「壮麗に古代ローマ的な」(Randall p.273愛国者(ペイトリオッツ)でしょうか。それとも後の大統領フーヴァーが19281022日に説いた,分権的自治,秩序ある自由,平等な機会及び個人の自由の諸原則(the principles of decentralized self-government, ordered liberty, equal opportunity, and freedom to the individual)を奉ずるrugged individualism(徹底的個人主義)の信奉者でしょうか。「アメリカは,英国の公共の負担によってではなく,諸個人(individuals)の負担によって征服され,並びにその定住地が建設され,及び確立されたものである。彼ら自らの血が彼らの定住地の土地を確保するために流され,彼ら自らの財産が当該定住地を持続可能とするために費やされた。彼ら自身で彼らは戦った,彼ら自身で彼らは征服した,そして彼ら自身のみのために彼らは保持の権利を有するのである。」とは17747月にジェファソンが執筆した「ブリティッシュ・アメリカの権利の概観」の一説です。

フーヴァーは,その米国式徹底的個人主義の対極にあるものとして欧州の家父(パター)長主義(ナリズム)及び国家(ステート)社会(・ソーシ)主義(ャリズム)を挙げていました。

全ての国民を「かけがえのない個人として尊重」する国家及び社会においては,徹底的個人主義を奉ずる個人は稀であり,むしろフーヴァーのいう欧州的な哲学を奉ずる者が大多数なのでしょう。

  



弁護士ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 元号と追号との関係

 近々元号法(昭和54年法律第43号)2項の事由に基づき平成の元号が改まるということで,元号に関する議論がにぎやかです。

 ところで,150年前の明治元年九月八日(18681023日)の改元の詔には「其改慶応四年,為明治元年,自今以後,革易旧制,一世一元,以為永式。主者施行。」とありますところ,「一世一元」であるゆえに(元号法2項も「元号は,皇位の継承があつた場合に限り改める。」と規定しており,「実質は一世一元でございます。」とされています(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第421頁)。),元号はすなわち天皇の追号となるべきもの,と考えたくなるところです。

 

(1)元号≠追号

 しかしながら,元号と追号とは制度的には無関係であるという見解が,1979年の元号法案の国会審議時において政府から何度も表明されています。例えば,次のとおり。

 

   次に,元号名と天皇の贈り名のことについてお尋ねがあったわけでございます。

   御承知のように,明治,大正という元号がそれぞれ天皇の贈り名とされましたのは事実でございますが,贈り名と元号との関係につきましては,従前も,制度上元号が必ず贈り名になると定められていたわけではございません。この法案のもとにおいても直接に結びつきはないものと考えております。戦前におきましては,登極令におきまして元号の問題が取り上げられており,あるいは追号の問題は皇室喪儀令に分かれて取り上げられておった。戦前でもそうでございます。そういうことでございますので,戦前におきましても,いま申し上げましたように,追号と元号とは制度的に関係がないものと承知をいたしておるところでございます。(三原朝雄国務大臣(総理府総務長官)・第87回国会衆議院会議録第155頁)

 

   いまお答え申し上げている元号法案による元号と追号とは全然関係がないと承知いたしております。(大平正芳内閣総理大臣・第87回国会参議院内閣委員会会議録第1422頁)

 

 また,細かい規定はないとしても,新天皇が大行天皇の追号を勅定するということは明らかにされています。例えば,次のとおり。

 

   追号につきましては,現在は法令がないというような状況になっていると存じます。したがいまして,過去の法令,法規等を参考にいたしまして定められてくるというようなことになると思うわけでございますが,過去の例は御案内のとおり,新帝が勅定をされた,こういうことでございまして,その旨が宮内大臣と内閣総理大臣が連署して告示された,こういうことでございます。

   こういったような過去の例というのを十分考えながら,今後いろいろと研究を続けていかなければならない事項と思っておるわけでございます。ただいま,どういうかっこうでどうなるということを申し上げるのは差し控えさせていただきたいと存じます。(山本悟政府委員(宮内庁次長)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第519頁)

 

   お答えを申し上げますが,元号と追号とはこれは全く性格が違うわけなんですね。追号は,これは皇室の行事で,新天皇が亡くなられた天皇に贈り名としてお名前をおつけになるということでございますし,元号というのは陛下が御在世中に国民なり役所なりがその年をあらわす紀年法として用いる呼び名でございまして,この二つは全然違うわけなのです。御質問の将来陛下が崩御になったときにどういう追号をお持ちになるかということは,それは現在の段階ではこれは私何とも申し上げられません。これは新天皇がお決めになることでございまして,まあ現在ではもう想像の域を出ないと,こういうお答えしかできないわけでございます。(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会参議院内閣委員会会議録第711頁)

 

   これは先ほどもお答え申し上げたつもりでございますけれども,元号と追号とは全然これは別問題でございまして,追号の方は天皇が先帝に対して贈られるものでございます。政府のかかわるところではございません。(大平内閣総理大臣・第87回国会参議院内閣委員会会議録第1427頁)

 

 「一世一元の制で重要なのは,後に元号が天皇の諡号(高徳の人に没後おくる名)になることです。中国でも一世一元の元号は,皇帝の諡号になっています。日本では明治以降,元号=諡号となります。」といわれていますが(所功「平成の「次の元号」に使われる漢字」文藝春秋20187月号188頁),少なくとも我が国では,在位中の元号=追号となるのは,新帝がそのように先帝の追号を治定した例が1912年,1926年及び1989年と続いたからにすぎないものであって制度的なものではない,ということになります。在位中の元号をもって1912年に大行天皇が明治天皇と追号されたことについては,当時,「和漢其の例を見ず」,「史上曽て見ざる新例」と評されました(井田敦彦「改元をめぐる制度と歴史」レファレンス811号(20188月)96頁(宮内庁編『明治天皇紀 第十二』(吉川弘文館・1975833頁及び読売新聞1912828日「御追号明治天皇 史上曽て見ざる新例」を引用))。
 元号を皇帝の追号にすることは漢土に例を見ずといわれても,明の初代洪武帝朱元璋以下の明・清の歴代皇帝は一体どういうことになるのだという疑問が湧くのですが,『明史』の本紀第一の太祖一の冒頭部分を見ると「太祖開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高皇帝,諱元璋,字国瑞,姓朱氏。」とあるところです。在位中の元号を洪武とした皇帝朱元璋の廟号は太祖で,諡号は開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高皇帝であるということのようです。要は明の太祖以降の漢土皇帝に係る在位中の元号に基づく洪武帝等の呼び方は,廟号又は諡号ではないことはもちろん,そもそも正式のものではなかったのでした。いわく,「〔明の〕太祖は在位31年,歳71で,皇太孫〔建文帝〕の将来の運命を案じながら,孤独のうちに病死する(1398年)。その年号は終始洪武と称して改元することがなく,以後中国においては一世一元の習慣が確立する。そこで天子を呼ぶにも,従来の諡号,廟号に代えて,年号をもって称するようになった。天子の諡号は古代には極めて簡単な美称を12字ですませたが,後世それが次第に長くなり,明の太祖は21字を重ねるに至ったので,臣下としてはこれを省略して呼んでは失礼にならぬとも限らない。廟号は常に1字であるが,各王朝とも廟号に用いる字はおおむね定まっていて,太祖,太宗,仁宗といった名が頻出するので,前朝と紛らわしくなる。そこで年号によって,たとえば洪武帝のように呼べば,これは正式の名称ではないが,一目瞭然で間違えたり,混同したりするおそれがなくてすみ,甚だ便利なのである。」と(宮崎市定『中国史(下)』(岩波文庫・2015年)175-176頁。下線は筆者によるもの)。これに対して,我が国においては,明治天皇より前に一世一元であった過去の天皇について,例えば平城天皇は,現在一般には元号により大同天皇と呼ばれてはいません。そうしたからとて特に「甚だ便利」というわけでもなく,かつ,本来の追号・諡号がむやみに長くなることもなかったからでしょう。

なお,明治天皇より前に一代の間に改元が1度だけであった天皇としては,元明,桓武,平城,嵯峨,淳和,清和,陽成,光孝,宇多,冷泉,花山,三条,後三条,後白河,六条,御嵯峨,後伏見,後亀山,後小松,称光,後桜町及び後桃園の22天皇が挙げられていました(清水汪政府委員(内閣官房内閣審議室長兼内閣総理大臣官房審議室長)・第87回国会参議院内閣委員会会議録第122頁)。これら各天皇と元号との関係について見ていくと,元明天皇の改元に係る新元号は和銅,桓武天皇のそれは延暦,平城天皇については上記のとおり大同,嵯峨天皇については弘仁,淳和天皇については天長,清和天皇については貞観,陽成天皇については元慶,光孝天皇については仁和,宇多天皇については寛平,冷泉天皇については安和,花山天皇については寛和,三条天皇については長和,後三条天皇については延久,後白河天皇については保元,六条天皇については仁安,後嵯峨天皇については寛元,後伏見天皇については正安,後亀山天皇については元中,称光天皇については正長(ただし,同天皇践祚から17年目の崩御の年に至ってやっと改元),後桜町天皇については明和,後桃園天皇については安永となります。ただし,後小松天皇は一代の間に明徳から応永へ1度しか改元しなかったというのは南朝正統論の行き過ぎで,実は同天皇は在位中に,永徳から至徳へ,至徳から嘉慶へ,嘉慶から康応へ,康応から明徳へ及び明徳から応永へと,5回改元を行っています。また,光厳天皇は元徳から正慶への改元しかしていませんし,崇光天皇も貞和から観応への改元しか行っていません。ちなみに,皇位の継承があったことに基づき行われる代始改元の時期については,「踰年改元,つまり皇位の継承をなさいました年の翌年のある時期,あるいは翌年以降のある時期,そういう意味におきまして,その年を越してからの改元ということでございますが,そのような例は過去の元号の歴史の中ではむしろ非常に多かったということは御案内のとおり」であり,「奈良時代におきましては特にすぐ改元したということがあったわけでございますが,平安時代の初期と申しますか,第51代の平城天皇のときにその年のうちに改元をしたということがございましたが,それが大体最後でございまして,それから後は年を越してからの改元ということが例でございました。」とされています(清水汪政府委員・第87回国会参議院内閣委員会会議録第77頁)。この大同改元については,『日本後紀』の記者によって,「改元大同。非礼也。国君即位,踰年而後改元者,縁臣子之心不忍一年而有二君也。今未踰年而改元,分先帝之残年,成当身之嘉号。失慎終无改之義,違孝子之心也。稽之旧典,可謂失也。」と,踰年改元でなかったことが正に厳しく批判されていたところです(巻第十四大同元年五月辛巳〔十八日〕条)。

 

(2)皇室喪儀令及び追号奉告の儀

 さて,追号について定めていた皇室喪儀令とは,枢密顧問の諮詢(枢密院官制(明治21年勅令第22号)61号参照)を経た旨が記された上諭が附され(公式令(明治40年勅令第6号)53項),一木喜徳郎宮内大臣並びに若槻禮次郎内閣総理大臣並びに主任の国務大臣たる宇垣一成陸軍大臣,財部彪海軍大臣及び濱口雄幸内務大臣が副署し(同条2項),摂政宮裕仁親王が裁可し(同条1項,明治皇室典範36条)19261021日に官報によって公布された(公式令12条)大正15年皇室令第11号です。同令は194752日限り廃止されていますが,「2日,皇室令をもって皇室令及び附属法令をこの日限りにて廃止することが公布される。なお53日,従前の規程が廃止となったもののうち,新しい規程が出来ていないものは,従前の例に準じて事務を処理する旨の〔宮内府長官官房〕文書課長名による依命通牒が出される。」という取り運びとなっています(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)316頁)。

皇室喪儀令の第1条から第3条までは次のとおりでした。

 

第1条 天皇崩御シタルトキハ宮内大臣内閣総理大臣ノ連署ヲ以テ直ニ之ヲ公告ス

 太皇太后皇太后皇后崩御シタルトキハ宮内大臣直ニ之ヲ公告ス

第2条 天皇太皇太后皇太后皇后崩御シタルトキハ追号ヲ勅定ス

第3条 大行天皇ノ追号ハ宮内大臣内閣総理大臣ノ連署ヲ以テ之ヲ公告ス

 太皇太后皇太后皇后ノ追号ハ宮内大臣之ヲ公告ス

 

 皇室喪儀令11条に基づく同令附式第1編第1の天皇大喪儀に「追号奉告ノ儀」が規定されており,そこにおいて「天皇御拝礼御誄ヲ奏シ追号ヲ奉告ス」とあります。

 皇室喪儀令施行の月(公式令11条により19261110日から施行)の翌月25日に崩御した大正天皇のための1927120日の追号奉告ノ儀においては,秩父宮雍仁親王が兄である新帝・昭和天皇の名代となり(昭和天皇は同年元日の晩から風邪(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)620頁)),次の御誄を奏して追号を奉告しています(同626-627頁)。

 

  裕仁敬ミテ

  皇考在天ノ神霊ニ白ス

  皇考位ニ在シマスコト十有五年

  明治ノ顕朝ヲ承ケサセラレ迺チ其ノ明ヲ継カセタマヒ

  大正ノ昭代ヲ啓カセラルル夙ニ其ノ正ヲ養ハセタマヘリ茲ニ

  遺制ニ遵ヒ追号ヲ奉ケ

  大正天皇ト称シタテマツル

 

DSCF1300(大正天皇多摩陵)
大正天皇多摩陵(東京都八王子市)

 
198917日に崩御した昭和天皇のための同月31日の追号奉告の儀における今上天皇の御誄は,次のとおりです(宮内庁ウェブ・サイト)。

 

明仁謹んで

御父大行天皇の御霊に申し上げます。

大行天皇には,御即位にあたり,国民の安寧と世界の平和を祈念されて昭和と改元され,爾来,皇位におわしますこと六十有余年,ひたすらその実現に御心をお尽くしになりました。

ここに,追号して昭和天皇と申し上げます。

 

DSCF1296(昭和天皇武蔵野陵)
昭和天皇武蔵野陵(東京都八王子市)

 同じ
1989131日平成元年内閣告示第3号によって大行天皇の追号が昭和天皇となった旨公告されましたが,「宮内大臣内閣総理大臣ノ連署ヲ以テ」の公告ではなかったのは,宮内大臣が廃されてしまっている以上そうなるべきものだったのでしょう。(なお,平成元年内閣告示第3号には「大行天皇の追号は,平成元年113日,次のとおり定められた。」とのくだりがありますが,これは,皇統譜(皇室典範(昭和22年法律第3号)26条)における天皇に係る登録事項には「追号及追号勅定ノ年月日」があるところ(皇統譜令(大正15年皇室令第6号)1213号。昭和22年政令第1号たる皇統譜令の第1条は「この政令に定めるものの外,皇統譜に関しては,当分の間,なお従前の例による。」と規定),追号のみならずその勅定日も「公告ニ依リ」登録(皇統譜令施行規則(大正15年宮内省令第7号)附録参照)するからでしょう。)

 ところで,「大行天皇には,御即位にあたり,国民の安寧と世界の平和を祈念されて昭和と改元され」という表現を見ると,やはり昭和天皇の追号が昭和天皇となったのは在位中の元号が昭和(「百姓昭明,協和万邦」)だったからだ,したがって第87回国会で大平内閣総理大臣以下政府当局者が何やかやと言っていたが元号法施行後も結局元号が天皇の追号となるべきものなのだ,と早分かりしたくなるのですが,それでよいのでしょうか。単に在位中の元号が昭和だったからではなく,19261225日の「御即位にあたり」「昭和と改元」したのは大行天皇自身であったからこそその追号が昭和天皇と治定されたように筆者には思われるのですが,どうでしょうか。

 (ついでながら,天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)33項は「上皇の身分に関する事項の登録,喪儀及び陵墓については,天皇の例による。」と規定しています。なお,「天皇の例による」としても,大正15年皇室令第6号たる皇統譜令12条においては退位の年月日(時)は天皇に係る登録事項とはなっておらず,昭和22年政令第1号たる皇統譜令にも特段の定めはないようであるところ,この辺はどうなるものでしょうか。

 

2 元号を定める権限の所在

 

(1)明治皇室典範・登極令と元号法との相違

 明治皇室典範12条は「践祚ノ後元号ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ従フ」と,登極令(明治42年皇室令第1号)2条は「天皇践祚ノ後ハ直ニ元号ヲ改ム/元号ハ枢密顧問ニ諮詢シタル後之ヲ勅定ス」と,同令3条は「元号ハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と規定していました。「勅」定ですから天皇が定めるのですし,「詔」書だからこそ天皇名義の文書なのです。

これに対して現在の元号法1項は「元号は,政令で定める。」と規定しており,すなわち元号を改める権限(「新しい元号の名前」及び「いつ改元が効力を持つか」という2点を規定する政令(清水汪政府委員(内閣官房内閣審議室長兼内閣総理大臣官房審議室長)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第440頁)を制定する権限)は,天皇ではなく,政令を制定する機関である内閣が有しているところです(日本国憲法736号)。天皇ではなく内閣が決めるのであれば元号とはいえないのではないか,という見解を我が政府は採っておらず,「元号だから天皇が決める,それが伝統であって,そうでなければ元号という制度になじまないとか,そういう気持ちは毛頭ありません。」,「決して天皇が決めなければ元号とは言わないなんというような気持ちは毛頭ございません。」という国会答弁がされています(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会参議院内閣委員会会議録第123頁)。

(なお,先帝崩御日と新元号建定日とを一致させるのは明治皇室典範レヴェルでの要請ではなく,登極令21項(「直ニ」)の要請であるということになります(現に,慶応四年を改めて明治元年としましたが,孝明天皇が崩御したのは慶応四年元日より1年以上前の慶応二年十二月二十五日のことでした。)。1909127日に開かれた枢密院会議の筆記には,登極令案は「従来ノ慣例ヲ取捨折衷シテ作ラレタルモノ」だとの細川潤次郎枢密顧問官の発言が記されていますが,代始改元を践祚後直ちに行うのが「従来ノ慣例」だったのかどうかについては前記『日本後紀』の記述等に鑑みても議論がありそうです(所功「昭和の践祚式と改元」別冊歴史読本1320号(198811月)186頁に引用された「登極令制定関係者である多田好問の『登極令義解』草稿」(井田98頁・注(48))によれば「古例に於ける・・・如く事実を稽延することを得ず」ということだったそうですから(井田98頁),この場合の「古例」ないしは「従来ノ慣例」は,むしろ意識的に「捨」てられたもののようです。)。現在の元号法においては,「事情の許す限り速やかに改元を行う」のが「法の趣旨」だとされていますが(三原朝雄国務大臣(総理府総務長官)・第87回国会衆議院会議録第155頁),これは登極令21項的運用を念頭に置いていたということでしょう。ただし,元号法2項の「皇位の継承があつた場合」との表現については「「場合」という表現をとっておりますのは,そこにある程度の時間的なゆとりというものを政府にゆだねていただきたいという考え方からそのような表現をとっているということ」になっています(清水汪政府委員・第87回国会参議院内閣委員会会議録第1229頁)。)

 

(2)明治皇室典範・登極令下の大権ノ施行たる元号建定における内閣の関与

 とはいえ,天皇が元号を勅定するものとされていた明治皇室典範時代も,元号建定に当たっては,内閣が中心となっていました。

すなわち,大正天皇崩御の「日午前330分,内閣総理大臣若槻礼次郎以下の閣僚は〔葉山〕御用邸附属邸より本邸に戻り,直ちに緊急閣議を開き,登極令に基づき元号建定の件を上程し,元号建定の詔書案,大喪使官制,東宮武官官制廃止の件その他を閣議決定し,直ちに元号建定の詔書案の枢密院への御諮詢を奏請する。枢密院は御諮詢を受け,午前645分より副議長平沼騏一郎を委員長とし,内閣総理大臣以下関係諸員出席のもと,元号建定の審査委員会を開く。元号案は全会一致を以て可決され,詔書案の文言に関しては,討議を重ねた上,原案に修正を加えることにて可決される。それより枢密院は修正案を作成し,内閣総理大臣の同意を得て午前915分本会議を開催,元号案並びに詔書修正案を全会一致を以て可決し,〔倉富勇三郎〕枢密院議長は直ちに奉答する。ついで奉答書が内閣に下付され,直ちに内閣は再度の閣議を開き,元号建定の詔書案につき,枢密院の奉答のとおり公布することを閣議決定する。天皇は945分より10時過ぎまで,内閣総理大臣若槻礼次郎に謁を賜い,元号建定の件につき上奏を受けられる。よって御裁可になり,1020分,詔書に御署名になる。ついで再び若槻に謁を賜う。詔書は直ちに官報号外を以て公布され,ここに元号を「昭和(せうわ)」と改められる。」ということでした(『昭和天皇実録 第四』602頁)。なお,内閣の活動のみならず,枢密顧問に諮詢する手続がありますが(登極令22項),これは「元号ハ昔時ニ於テモ廷臣ヲシテ勘文ヲ作ラシメ問難論議ヲ経テ之ヲ定メ難陳ト号セリ今本〔登極〕令ニ於テモ枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ之ヲ定ムルコトトシタルハ事重大ナルノミナラス古ノ難陳ノ意ヲモ加ヘテ此ノ如ク規定シタルナリ」ということでした(1909127日に開かれた枢密院会議の筆記にある奥田義人宮中顧問官の説明)。

 昭和改元の詔書の文言は「朕皇祖皇宗ノ威霊ニ頼リ大統ヲ承ケ万機ヲ総フ茲ニ定制ニ遵ヒ元号ヲ建テ大正151225日以後ヲ改メテ昭和元年ト為ス」というものでしたが(『昭和天皇実録 第四』603頁),当該詔書に副署した者は内閣総理大臣及び国務各大臣であって,そこには宮内大臣は含まれていませんでした。これは,明治皇室典範の第12条に規定があるにもかかわらず,元号建定は「皇室ノ大事」に関するものではなく,「大権ノ施行」に関するものであることを意味します。すなわち,公式令12項は「詔書ニハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ其ノ皇室ノ大事ニ関スルモノニハ宮内大臣年月日ヲ記入シ内閣総理大臣ト倶ニ之ニ副署ス其ノ大権ノ施行ニ関スルモノニハ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ国務各大臣ト倶ニ之ニ副署ス」と規定していたところです。元号を建定することは「万機ヲ総フ」る大権の施行の一環であるということでしょう。(ただし,宮内省図書寮編修官吉田増蔵が若槻内閣の委嘱を受けて起草した元号建定の詔書案(『昭和天皇実録 第四』605頁)の文言は「朕皇祖皇宗ノ威霊ニ頼リ茲ニ大統ヲ承ケ一世一元ノ永制ニ遵ヒ以テ大号ヲ定ム廼チ大正15年ヲ改メテ昭和元年トシ1225日ヲ以テ改元ノ期ト為ス」というもので,「万機ヲ総フ」がありませんでした。ちなみに,1912730日の大正改元に係る詔書の文言は「朕菲徳ヲ以テ大統ヲ承ケ祖宗ノ霊ニ誥ケテ万機ノ政ヲ行フ茲ニ/先帝ノ定制ニ遵ヒ明治45730日以後ヲ改メテ大正元年ト為ス主者施行セヨ」というものでした。「先帝ノ定制ニ遵ヒ」の部分は,前記『日本後紀』の記者に対する,年を踰えることを待つことなく改元するのは先帝陛下の定制(登極令21項)によるものであって自分勝手な親不孝ではありませんからね,との言い訳のようにも読み得る気がします。なお,こうして見ると,吉田案では「万機ヲ総フ」のみならず,「主者施行セヨ」も落ちています。)

日本国憲法下においても,「そういうような経過から申し上げましても元号に関することは国務として,現在で言えば総理府本府〔当時〕におきまして取り扱われるべきものでございまして,宮内庁の所掌事務ということにはならないと存じます」とされています(山本悟政府委員(宮内庁次長)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第420頁)。日本国憲法公布後の1946118日に𠮷田茂内閣総理大臣が昭和天皇に上奏した元号法案(GHQとの関係もあり,結局帝国議会には提出せず。)も現在の元号法とよく似た内容で,本則は「皇位の継承があつたときは,あらたに元号を定め,一世の間,これを改めない。/元号は,政令で,これを定める。」,附則は「この法律は,日本国憲法施行の日から,これを施行する。/現在の元号は,この法律による元号とする。」というものでした。

美濃部達吉の説明によれば,「元号ヲ建ツルハ事直接ニ国民ノ生活ニ関シ,性質上純然タル国務ニ属スルコトハ勿論ニシテ,固ヨリ単純ナル皇室ノ内事ニ非ズ。故ニ之ヲ憲法ニ規定セズシテ,皇室典範ニ規定シタルハ恐クハ適当ノ場所ニ非ズ。其ノ皇室典範ニ規定セラレタルニ拘ラズ,大正又ハ昭和ノ元号ヲ定メタル詔書ガ宮内大臣ノ副署ニ依ラズ,各国務大臣ノ副署ヲ以テ公布セラレタルハ蓋シ至当ノ形式ナリ。」ということになります(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)185頁)。(なお,先例となった大正改元の際の内閣総理大臣は公家の西園寺公望であって,宮内大臣の渡辺千秋は元は諏訪高島藩士でしかありませんでしたから,西園寺が明治天皇崩御を承けての元号建定事務を主管したことはいかにも自然であったということかもしれません。)「事直接ニ国民ノ生活ニ関シ」とは,「とにかく旧憲法下における元号は,国の元首であり,かつ統治権の総覧者である天皇がお決めになったものであって,はっきり使用についての規定はございませんけれども,恐らくその趣旨は,朕が定めた元号だから国民よ使えよという御趣旨がその裏にはあったのだろうと思うのですよね。」ということでしょう(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第58頁)。(ちなみに,詔書と同様天皇が親署して御璽を鈐する勅令については,「他の国務上の詔勅と区別せらるゝ所以は,勅令は国民に向つて法規を定めることを主たる目的とすることに在る」とされていましたが(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)235頁),勅令の副署者については「内閣総理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ国務各大臣若ハ主任ノ国務大臣ト倶ニ之ニ副署ス」るものとされていました(公式令72項)。宮内大臣の副署はなかったわけです。)元号の建定は国務事項である以上,「この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない」ものとされる(日本国憲法41項)194753日以降の天皇については,「天皇に元号の決定権を与えるような法律をつくることは憲法違反でございます。」ということになります(真田秀夫政府委員・第87回国会参議院内閣委員会会議録第123頁)。「世の様の移り換りて斯なれるは人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから且は我国体に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき」とは,天皇が「政治の大権」を失った時代に係る明治天皇の慨嘆です(188214日の軍人勅諭)。

 1889211日の「皇室典範第12条に建元大権の事を定めて居るのは,事純然たる国務に関するもので,皇室に関係の有るものではなく,宜しく憲法中に規定せらるべきものである。」(美濃部・精義113頁)という記述に出て来る「建元大権」とは,漢の武帝以来の「王が時間をも支配するとして,支配下の人民に使用させた年を数える数詞」である「元号をさだめ,あるいは改める権限」(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)121頁)という意味の東洋の皇帝的な建元大権のことだったのでしょうか。(なお,明治皇室典範12条は,践祚後の改元を義務付けると共にそれ以外の場合の改元を禁じており,むしろ天皇の権限を制約する規定のようにも思われます。)


3 大日本帝国憲法制定前期における元号等についての意見:井上毅及び伊知地正治

 しかし,元号に関する規定を憲法に設けるべきだとの方向性は,明治維新の功臣である岩倉具視右大臣の考え方においてはあったものと考えられ得るところです。岩倉右大臣は「奉儀局或ハ儀制局開設建議」を18783月に太政官に提出しますが,当該奉儀局又は儀制局が開設されたならばそこにおいて帝室の制規天職に関し調査起草されるべき「議目」として掲げられたもののうち,「憲法」の部には次のようなものがありました(小嶋和司「帝室典則について―明治皇室典範制定初期史の研究―」同『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)73-74頁)。

 

  改元 一代数改 一代一元 不用元号称紀元何年

  諡号 史記諡法 漢籍抄出美字 地名院 国風諡号

 

 上記「奉儀局或ハ儀制局開設建議」に対して井上毅が「奉儀局取調不可挙行意見」を岩倉右大臣に提出し,同右大臣の当該建議は実現されずに終わりますが,井上の当該「意見」においては「国体ト云即位宣誓式ト云 皇上神聖不可侵ト云国政責任ト云ガ如キハ其標目簡単ナルガ為ニ一覧ノ間ニ深キ感触ヲナサゞルモ其義ヲ推窮シテ其末来ノ結果ヲ想像スルニ至テハ真ニ至大ノ議題ニシテ果シテ其深ク慎重ヲ加フベクシテ躁急挙行スベカラザルヲ信ズ」とされていた一方,「改元」等に関しては「奉儀局議目中国号改元ノ類大半ハ儀文名称ノ類ニシテ政体上ニ甚シク関係アラザル者トス」とあったところです(小嶋73-74頁)。

「改元ノ類」は「儀文名称ノ類ニシテ政体上ニ甚シク関係アラザル者」にすぎないというのですから,建元大権もあらばこそ。したがって,井上毅が起草作業の重要な一翼を担った大日本帝国憲法においては元号に関する条項が設けられなかったことはむべなるかな,とは筆者の感想です。

なお,前記「議目」について宮内省一等出仕の伊知地正治(1873年に左院副議長として「帝室王章」を取り調べ,1874年以後国憲編纂担当議官(小嶋65頁))の口述を宮島誠一郎が筆記したもの(1882121日)があり,そこには次のような意見が記されていました(伊藤博文編・金子堅太郎=栗野慎一郎=伊藤博精=尾佐竹猛=平塚篤校訂『秘書類纂 憲法資料 下巻』(秘書類纂刊行会・1935年)497頁)。

 

 改元 神武紀元何千何百年モ民間通用ニハ少シク難渋ナリ。漢土モ明代ヨリ一代一元ノ制ヲ定メ今日清朝之ニ沿襲ス其制頗ル傚フベシ。御維新後一代一元ノ姿ナレバ此レニテ当然ナルベシ。御一代数度ノ改元ハ已ニ無用ナルベシ。

 諡号 近世ハ白河家ニ御委任ノ様ニ覚ユ,御維新後ハ内閣ニテ御選定当然ナリ。

 

 明治政府は「1873年(明治6)年の改暦にともない,公式に干支を廃し,新たにさだめた皇紀と元号を用いて年を数えることとした」のでしたが(村上123頁),「神武紀元何千何百年モ民間通用ニハ少シク難渋ナリ。」ということであったのであれば,ハイカラな「耶蘇紀元何千何百年」も当時の我が国の民間においてはそもそもその通用は論外だったということでしょう。なお,神武紀元(皇紀)については明治五年十一月十五日(18721215日)の太政官布告第342号が根拠とされており,当該布告は「今般太陽暦頒行 神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被為告候為メ来ル廿五日 御祭典被執行候事〔後略〕」というものでした。ただし,当該布告については,「神武天皇の御即位のときが建国の日であるぞということをここで宣明されたというふうに考えられるわけでございますが,そうなりますと,したがいましてこれは年の数え方というのを決めたのではございませんで,建国の日から何年かということを数えるときには神武天皇の御即位のときが始まりなんだということを書いてあるわけでございます。したがいまして,元号のように年の数え方を書いたというものではございません。そして,これが一体現在どのような意味,内容を持っているのか,これは一体国民に対して強制力を持っていたのか持っていなかったのか,さらに,現在の科学的知見でもって神武天皇の御即位というのは一体いつであったのかというようなことを確定いたしませんと,どうもこの太政官布告の現在における効力というのは確定はできない。ところが,私どももいろいろ調べてはみたのでございますが,何分古いものでございまして,文献等もございませんし,さらにその神武天皇の御即位の時期がいつかというようなことは歴史的事実に属しまして私どものまだ何とも確定できる状況ではございませんので,現段階におきましてはなかなかこれの法的効力というものにつきまして断定ができるような状況に立ち至っていないということを御了解いただきたいと存じます。」と解されています(味村治政府委員(内閣法制局第二部長)・第87回国会参議院内閣委員会会議録第1415頁)。

「御一代数度ノ改元ハ已ニ無用ナルベシ。」とわざわざ言わざるを得なかったということは,江戸時代最長の元号は享保及び寛永の各21年であったので,明治も10年を過ぎるともうそろそろ改元で縁起直しをしたい,数字が大きくなると面倒臭い,というような昔ながらの欲求がやはり感じられていたということでしょうか。(なお,「未開人」は3までしか数えられない一方「むかしのタイ国の法廷でもやはり証人に10までの数を数えさせてみて,数えられなかったら,一人前の証人としての資格をみとめなかった」そうです(遠山啓『数学入門(上)』(岩波新書・1959年)1頁)。)

太政官の内閣で諡号を選ぶ云々ということは,1882年当時は宮中府中の区別がいまだにされていなかったからでしょう(近代的内閣制度の創設は18851222日)。

 

4 元号の示すもの

 

(1)天皇在位ノ称号

 元号が「儀文名称ノ類」であるのならば,それは明治皇室典範下において具体的には何を示すのかといえば,美濃部達吉によれば「天皇在位ノ称号」です。いわく,「即チ元号ハ明治元年ノ定制ニ依リ其ノ法律上ノ性質ヲ変ジタルモノニシテ,旧制ニ於テハ元号ハ単純ナル年ノ名称ナリシニ反シテ,現時ノ制ニ於テハ天皇在位ノ称号トシテ其ノ終始ハ全ク在位ト相一致ス,天皇崩御ノ瞬間ハ即チ旧元号ノ終リテ同時ニ新元号ノ始マル瞬間ナリ。元号ヲ改ムル詔書ノ公布セラルルニハ多少ノ時間ヲ要スルハ勿論ナレドモ,其ノ公布ガ如何ニ後レタリトスルモ,常ニ先帝崩御ノ瞬間ニ迄遡リテ其ノ効力ヲ生ズベキモノナリ。」と(美濃部・撮要184-185頁)。

 「年を帝王の治世何年で数える例は,古代ローマ帝国にも,イギリス等の君主制国家にもみられる」ところ(村上122頁),我が国においては実名敬避俗があるから天皇の御名の代わりにその践祚時に建定する「天皇在位ノ称号」を使用するのだ,といえば,他国の例と比較を絶する奇天烈なものではないということにはなるのでしょう。(英国の例を見ると,「制定法は,1962年までは,正式には,国王の治世第何年の議会で制定された法律第何号という形で呼ばれていた。」とされています(田中英夫『英米法総論下』(東京大学出版会・1980年)675頁)。また,「イギリスでは,即位の日から丸1年を治世第1年,次の1年を第2年とし,暦年で数えるのではない」とされています(同頁)。)漢土においても,武帝より前の「従来の紀年法は君主が先代を継承すると,その翌年を元年として数え始めた。」そうです(宮崎市定『中国史(上)』(岩波文庫・2015年)214頁)。

 

(2)漢の武帝

漢の武帝による年号制度の創始も,実は前記の「年を帝王の治世何年で数える」制度の延長線上にあったところです。いわく。「戦国時代は七国がそれぞれの君主の即位年数を用いたのはもちろんであるが,漢代に入っても封建君主はその領内で,その君の即位年で年を記したのである。中央では〔漢3代目の〕文帝の時,在位がやや長くなったので,17年目にまた元年として数え直した。これを()元年として区別するのは後世の加筆である。次の景帝〔武帝の先代〕8年目が(ちゅう)元年,更に7年目が後元年と,2回の改元を行った。こういう方法は記録を整理する時に紛らわしくて甚だ不便である。特に皇帝には死んでから諡号を贈られるまでは名がなく,後世でこそ景帝の中二年と言えるが,その当時においては,ただ皇帝二年とだけしか言えない。更に地方の封建君主の即位年があるからいよいよ混雑しやすい。武帝の世になっては,6年を一区切りとし,7年目になると元年に戻したが,改元が何回か繰返されると,前後の区別がつかなくなった。そこで5回目の改元の際に,その元年に元封(げんぽう)元年という年号を制定して数え始めた。更に前へ戻って,最初から建元,元光,元朔,元狩,元鼎と,6年ずつひとまとめにして年号を追命した。これは当時においては大へん進んだ便利な制度で,中央で定めた年号は国内至る所に通用し,またこれによって何年たった後でも,すぐあの年だということが分る。更に国内のみならず,中国の主権を認める異民族の国にも年号を用いさせれば,それだけ年代を共通にする範囲が広くなるわけである。中国にはキリスト教紀元のようにある起点を定めて元年とし,永久に数えて行く考えは遂に発生しなかった。」と(宮崎214-215頁)。

なお,漢の元封元年(西暦紀元前110年ほぼ対応します。)は武帝が今の山東省の泰山において封禅を行った年であって,その「大礼の記念として,天下の民に爵一級を賜わり,女子と百戸には牛酒を賜わった。人民の全部が大礼記念章もしくは酒肴料をいただいたのである。/年号が元封(・・)と改元されたのも,またその記念のひとつである。」とされています(吉川幸次郎『漢の武帝』(岩波新書・1963年)164頁)。

 (「現時点の年を表すものとしては,西暦前113年に「元鼎」と号したのが最初とされる」ともされています(井田95頁・注(22))。なお,藤田至善「史記漢書の一考察―漢代年号制定の時期に就いて―」(東洋史研究15号(1936年)420-433頁)によれば,漢の武帝の五元の三年(西暦紀元前114年にほぼ対応します。)に有司から,元は宜しく天瑞を以て命ずべし,一二を以て数へるは宜しからず,一元を建と曰ひ,二元は長星を以て光と曰ひ,ママ一角獣史記封禅というがあって,(年号制定である。」というったそう420-421頁,426頁)。五元の年号である元鼎は,五元の四年(西暦紀元前113年にほぼ対応します。)に宝鼎が得られたことから追称されたものであって,改元と年号の制定とが初めて同時に行われたのは元封元年のことであった(漢書武帝紀・元封元年の条に「詔曰,其以十月為元封元年」,郊祀志上に「下詔改元為元封」とあるそうです。)とされています(藤田432頁註⑥)。

 

(3)国民元号

ところで,現在の元号法に基づく元号は「天皇在位ノ称号」とはいえないのでしょう。

元号と皇位の継承とは直ちに連動するのかという質疑に対して政府は「直接的には皇室典範4条が働く場合にいまの改元が行われるわけでございますが,ただ,おっしゃいましたように,直接皇位の継承と,観念上といいますか考え方として元号とすぐ結びつけたというものではむしろなくて,元号制度について国民が持っているイメージ,それはやはり日本国憲法のもとにおける象徴たる天皇の御在位中に関連せしめて元号を定めていくんだという事実たる慣習を踏まえまして,このような条文の仕方にしたわけでございます。」と答弁しています(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第514頁)。国民の持っているイメージに従っただけであって政府自身の考え方は無い,そもそも,「元号は,国民の日常生活におきまして,長年使用されて広く国民の間に定着しており,かつ,大多数の国民がその存続を望んでおるもの」であるところ「また,現在46都道府県,千を超える市町村が法制化の決議を行い,その速やかな法制化を望んでおります」から「政府としては,こういう事実を尊重いたしまして,元号制度を明確で安定したものとするため,元号法案を提出」した(大平正芳内閣総理大臣・第87回国会衆議院会議録第154頁)だけなのだ,「深いイデオロギー的なものではな」いのだ(大平内閣総理大臣・同会議録9頁)ということでしょう。

また,ここで皇位継承と元号との結び付きを仲介するものとされる「元号制度について国民が持っているイメージ」は更に,精確には,改元の時期についてかかるものなのでしょう。「その元号をどういう場合に改める,つまり改元をするかという点につきましては,これは申し上げるまでもなく,旧憲法の時代に戻るというのではなくて,現在,日本の国民の多くの方々が持っていらっしゃる元号についてのイメージ,それは天皇の御在位中に一世一代の元号を用いるのだというイメージがあるわけなんで,それを忠実に制度化するというのが本意でございまして,無論,天皇の性格が旧憲法と現在の憲法との間において非常な違いがあるということは百も承知でございまして,それと混同するようなつもりは毛頭ございません。」という答弁もあります(真田秀夫政府委員・第87回国会衆議院内閣委員会議録第511-12頁)。

改元という区切りを重視した結果,「年号法」とはならず元号法となったのでしょう。「本来的には,年号といい元号といい,年の表示の仕方,つまり紀年方式の一つでございますが,年号の方は単純にその年を表示するという感覚が主になっているというふうに考えるわけなんで,その年号を幾つか区切りをつけて,古くは大化,白雉,朱鳥というふうに区切りをつけまして,それから新しくは明治,大正,昭和というふうにある区切りをつけていく。その区切りをつけたその期間の始まりが,その区切りの名前の第1年であるというふうな扱いになる。そういう区切りの初年度であるという点に重点を置いて名前をつければ,まあ元号という言葉になじむような感じがいたします。本来的には,先ほど申しましたように,元号といい年号といい,そんなに違うものではないと思いますけれども,あえて区別をつければ,ただいま申し上げましたような,その区切りに重点を置いて呼び名をつけた場合に,元号という言葉の方がぴったりくるという感じがいたします。」ということでした(真田政府委員・第87回国会衆議院内閣委員会議録第511頁)。

「神武紀元何千何百年モ民間通用ニハ少シク難渋」であるのに対して元号はちょくちょく改元があるからこそよいのであるが,「屢〻年号を改め」過ぎて「徒に史乗の煩きを為すに至」った(伊藤博文『皇室典範義解』第12条解説),そこで1868年に改元事由を整理して「是迄吉凶之象兆に随ひ屢〻改号有之候へ共,自今御一代一号に被定候」(明治元年九月八日の行政官布告)としたところ,百十余年後の1979年には,元号について「国民が持っているイメージ」においては天皇の践祚時にされる改元以外の改元のイメージが失われてしまうに至っていた(「代始め改元以外の改元の方法というのが,過去百年間では整理されて,ないわけでございます。そうなりますと,元号が変わるということについて国民が考えるとすれば,恐らくそれは代始め改元で変わるというイメージが一般的に残っているのだろうというふうに言えるのじゃなかろうかと思います。」(清水汪政府委員(内閣官房内閣審議室長兼内閣総理大臣官房審議室長)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第846頁)),すなわち,同年制定の元号法2項における「元号は,皇位の継承があつた場合に限り改める。」という規定はそういう主権者「国民が持っているイメージ」を承けた結果である,ということになるのでしょうか。元号法においては「たまたま改元を,昔よくありましたような祥瑞改元とか言ったのだそうですが,それだとか,あるいは国家について重大な事件があった場合とか,そういうようなことではやらないで,憲法第1条に書いてある象徴たる天皇の地位の承継があった場合に限ってやる,そういう改元のきっかけをそこへ求めただけ」だということですが(真田政府委員・第87回国会衆議院内閣委員会議録第716頁),これをもって,践祚時改元制は積極的選択の結果ではなく吉凶之象兆等を理由とする改元を整理した消極的選択の結果にすぎないことになるのである,というように理解するのは善解でしょうか誤解でしょうか。しかし確かに,改元事由は限定されるべきであって,明和(めいわ)九年は迷惑(めいわく)だから物価安が永く続くように安永元年に改元しよう,というような洒落で内閣が次々と元号を改め始めのならばそれこそ迷惑です。

元号法制定は「国民のためよき元号を策定することが主たる目的」であるところ,同法に基づく元号は,「国民に十分開かれた国民元号」としての性格を有するものということになります(三原朝雄国務大臣(総理府総務長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第744頁)。すなわち,「今度の法律〔元号法〕によって委任を受けた内閣が政令を出して,そして年号を定めるということでございまして,天皇のお名前を使って年の表示をするという考えではございません。」というわけです(真田政府委員・第87回国会参議院内閣委員会会議録第711頁)。

総理府からの19791023日の閣議報告である「元号選定手続について」においては,元号の候補名の整理に当たっての留意事項の筆頭に「国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つものであること。」を掲げています(22)ア。下線は筆者によるもの)。余りにも高邁な元号であると,我々人民としては理想負けしてしまうわけです。これに対して,昭和の元号名の勘進者である前記宮内省図書寮吉田増蔵編修官(192279日に死去した図書頭鷗外森林太郎の元部下(ちなみに,鷗外最晩年の日記『委蛇録』の1922620日の項には「二十日。火。〔在家〕第六日。呼吉田増蔵託事。」とあり,同月30日から同年75日までの最後の6日分については,吉田が鷗外のために代筆をしています。))に一木宮内大臣が与えた5項目の元号の条件中第2項は「元号ハ,国家一大理想ヲ表徴スルニ足ルモノナルベキコト。」としていました(『昭和天皇実録 第四』603頁。下線は筆者によるもの)。


DSCF0580

吉田編修官の元上司である帝室博物館総長兼図書頭森林太郎墓(東京都三鷹市禅林寺)

森図書頭のなした仕事として,正に元号及び追号に係る『元号考』及び『帝諡考』が残されています。(ただし,大正改元の際に西園寺内閣総理大臣と渡辺宮内大臣との間でなされた事務分配の前例によれば建元は「大権ノ施行ニ関スル」ものとされていたのですから,内閣総理大臣の下の内閣(これは,国務大臣によって組織される現憲法にいう内閣とは異なります。)ではなく宮内大臣の下の宮内省(図書頭)が元号を云々したのは,厳密には越権(ないしはあえて建元を「皇室ノ大事」と捉え直そうとするもの)だったのかもしれません。)

DSCF0578

禅林寺山門
 

5 大宝律令と大宝建元及び三田の詐偽

 ところで,現在我が国に元号があるのはなぜかという問いに対して,元号法という法律がある以上はいずれにせよ皇位継承の都度内閣は改元して新しい元号を定めなければならないのだと官僚的に答えることは,不真面目な答えであるということでお叱りを受けてしまうことなのでしょうか。(ただし,政府は法律たる元号法の効果として「憲法73条第1号によりまして,内閣は法律を誠実に執行しなければならないということで,今度の法律案が成立した場合の元号法の本則第1項によって,政府は〔同法本則2項の〕改元の事由が出た場合には改元をしなさいという効果が出てくるわけなんです。」と答弁されてはいます(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第732頁)。)

しかるに,その後中断なく継続して元号が現在まで使用されるようになった最初の元号である大宝については,正に,新しい令(大宝令)に年号を使えと書いてあるからその指令を役人らに守らせるために年号を定めるのだ,ということで建元されたもののようにも思われるところです。さらには,当該大宝建元の事由たる祥瑞も,実は小役人の手になるいんちきであったというところが味わい深い。

 

   8世紀の最初の年〔701年〕の晩春三月(本書ではすべて陰暦)二十一日,藤原宮の大極殿をかこむ朝堂院では,即位や新年の拝賀におとらない盛大な式典が挙行された。

   式は,黄金献上の儀から始まる。それまで日本にはないと思われていた金山が,さきごろ対馬で発見されたとの内報をえた大納言大伴御行(みゆき)は,技術者を派遣,鋭意精錬させていたのだが,ようやく間にあって,この盛大な式典の劈頭をかざることになったのである。しかし御行自身はこの日をまたず,さる正月に56歳で病没した。〔文武〕天皇は深く悼んで,即日右大臣に昇任させた。

   式は荘重な宣命の朗読にうつる。大極殿前の広場に参列する百官にもよくとおる声である。

   「対馬に産した黄金は,神々が新しい律令〔大宝律令〕の完成を祝いたもうた瑞祥(めでたいしるし)である。よって年号を大宝と定め,新令によって官名・位号を改正する・・・」

年号は,大化改新に始まったが,大化・白雉以後は天武朝の末年に朱鳥としただけで,ひさしく公的には使われていなかった。しかし今度の令は,つねに年号を用いることを命じていた。(青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』(中央公論社・1965年)25-26頁。下線は筆者によるもの。儀制令第26条(公文条)に「凡公文応記年者,皆用年号。」とあったそうです(窪美昌保『大宝令新解 第3冊』(橘井堂蔵・1916年)553頁)。

 

   だが,この式典の劈頭をかざった黄金は,日本で産したものではなかった。対馬に金山などはなかったのである。『続日本紀』の大宝元年(701年)八月条には,金を精錬した技術者三田五(みたのいつ)(),対馬で金山を発見したという島民や嶋司(国司にあたる役人),そして紹介者である故右大臣にたいする行賞の記事があるが,続紀の編纂者は記事の注に「年代暦」という書物を引用して,後年,五瀬の詐偽だったことが発覚した,故右大臣はあざむかれたのである,とのべている。(青木2729頁)

 

   三田氏は任那王の後裔と称しながら,代々金工を業としていたために,大化改新にさいしても朝廷から解放されず,賤民ではないけれども良民のなかでいちばん低い雑戸という身分に指定され,差別待遇されていたのである。「年代暦」が詐偽と記したのは,五瀬が対馬の金山からではなく,どこからか,おそらくは朝鮮から手に入れた金を,島民と共謀して対馬産といったためであろう。

   五瀬は行賞によって雑戸から解放された。のみならず,正六位上という貴族に近い位や,絹・布・鍬など,あまたの賞品をもらった。自分で手に入れた金を献納しても,当座は引きあったわけである。ただ発覚したあとどうなったかは,なにも知られていない。

   かれが金を発見しなければ,大宝という年号もできなかったろうし,高官たちが新令施行の式典をはなやかにかざることもむずかしかったであろう。かれが何者かに命ぜられた役割は,もうすんだのであり,歴史は使い捨てた小道具の最期を語ろうとはしない。(青木29-30頁)

 

 大宝ではなく実は「韓宝」であったのか,などと言えばまたお叱りを受けるのでしょうか。

しかし,青木和夫山梨大学助教授(当時)が,三田五瀬のしてしまった「忖度」ゆえの過ちについて,歴史学的というよりはあるいは文学的な,極めて同情的な口吻を漏らしているところが,刑事弁護も時に行う筆者には印象深いところです。

 

  五瀬としても,詐偽を働いてはいけないということぐらいはじゅうぶん知っていたであろう。ただ,正直に精錬できない旨を朝廷に復命したばあいに自分を待っている将来と,金を精錬した功によって雑戸という身分から抜けだせるかも知れないという誘惑とをくらべたとき,誘惑の強さには,ついに勝てなかったのであろうか。(青木30頁)

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002 東京都渋谷区渋谷三丁目516 渋谷三丁目スクエアビル2

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp





弁護士ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

画像
 Imperial Palace, Tokyo

According to an article of The Economist (“Banyan/ The shrinking monarchy”, May 27, 2017), “the cabinet of Shinzo Abe, the prime minister, approved a bill last week
[May 19, 2017] to allow for the emperor’s abdication” and “the Diet is likely to pass an abdication law next month [June 2017]”.

Under the new law His Imperial Majesty Emperor Akihito is thought to abdicate in late 2018 with dignity (though He “is said to have been offended when conservative scholars last year [in 2016] said he should just stick to praying and carrying out Shinto rituals” in the pre-drafting hearings for the “abdication” law), unlike the hapless infantile Emperor Chûkyô, who was deposed ignominiously by rampant savage samurai subjects nearly eight hundred years ago. (On the other hand, though the recalcitrant barons had gone so far as to force King John to sign the Magna Carta in 1215, the English subjects were lenient enough to let him remain king. In the 13th century, at least, the Japanese may have been more republican than the English. Later, in 1688/89 even the Convention Parliament of England dared not depose King James II, but found instead the Throne already vacated.(...whereas the said late King James the Second haveing Abdicated the Government and the Throne thereby Vacant...))

Unlike in Japan, where “Mr. Abe, an arch-conservative himself on matters of the imperial family”, is now the Prime Minister, in this age of republicanism monarchies elsewhere may be being threatened by silent revolutions proceeding slowly with such innocent-looking legislations as shown below.  

 

Special Act to the Royal House Law for the King’s Retirement, etc.

 

Article 1

Considering that having performed sincerely as the Symbol of the State and of the unity of the people such official activities as visits to various parts of the country and consolation of those affected by disasters as well as the acts provided for in the Constitution in matters of state for the very long period of nearly thirty years since His Ascension to the Royal Throne on the first day of His Reign and attained more than eighty years of high age, His Majesty King is now deeply concerned that it should become difficult for Him to continue to perform such activities by Himself as King;

Considering on the other hand that the Good People of this country are adoring deeply His Majesty King, who has sincerely performed such activities mentioned above into such high age, understanding such feelings of His Majesty King as mentioned above, and sympathizing with such feelings;

And considering that the His Highness Crown Prince, the Royal Heir, has attained nearly sixty years of age and has been performing diligently such official activities as the acts provided for in the Constitution in matters of state as Delegate of His Majesty King for long time by now;

We [, the representatives of the Good People of this country in the National Convention assembled,] do now ordain and establish this Act [without the Sanction by His Majesty King Himself] to provide for the realization of His Majesty King’s retirement from the Throne and of the Enthronement of the Royal Heir, as an exception of the existing provisions of the Royal House Law, and for supplementary arrangements, including those concerning His Majesty King’s status after the retirement.

 

Article 2

When the first day of the enforcement of this Act has passed, the King shall be made [by this Act] to have retired from the Throne [with no particular Royal Will to have been expressed] and the Royal Heir shall be made to have ascended to the Throne immediately.

 

……………….

 

Supplementary Article 1

This Act shall come into force within three years from the day of its promulgation, with the date of enforcement to be determined by a Cabinet Order [, the enactment of which does not require any Sanction by His Majesty King]. (…)

When the Cabinet Order of the precedent paragraph is to be enacted, the Prime Minister must consult beforehand opinions of the Royal House Council [, of which His Majesty King is not a member].

 

……………….

 

Is the above-provided king’s retirement a case of abdication or deposition (dethronement)?

Though said to be concerned with his very old age and accompanying fragility, the king does not seem to have expressed explicitly his will to abdicate. His ministers and the representatives of the people, on their part, do not seem to consider the will of the king essential. Isn’t an abdication to be based on the clearly-expressed will of the monarch to do so? When the will of the people makes the royal throne vacant through the form of democratic legislation, with the very will of the monarch playing no formal role, shouldn't it be called a dethronement?

If it is a case of abdication, the above law can be called monarchist. (Being a human being himself, a monarch should be allowed to abdicate when circumstances require.) If deposition (dethronement), it is rashly and rudely republican.

A rudimentary non-native user of English, however, I cannot decide by myself by which term the above-shown royal retirement act should be titled: an “abdication” law or a “deposition” law.


Le Roi est déposé,

Vive le Roi!

Vive la République! 


 

Masatoshi Saitoh, attorney at law

Taishi-Wakaba Law Office

2nd floor, Shibuya 3-chome Square Building,

5-16, Shibuya 3-chome, Shibuya-ku, Tokyo. 150-0002

e-mail: saitoh@taishi-wakaba.jp


2頭の一角獣
  Duo unicornui bene dicunt novae publicae REI VAlde! (Meijijingu-gaien, Tokyo) 


弁護士ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 三種ノ神器と後鳥羽天皇及び後醍醐天皇

 安徳天皇を奉じ三種ノ神器を具しての平家都落ちを承けて前年急遽践祚した第82代後鳥羽天皇の即位の大礼を,後白河法皇が翌七月に行おうとしていることに関する元暦元年(寿永三年)(1184年)六月廿八日の九条兼実日記(『玉葉』)の批判的記述。

 

 ・・・何況(なんぞいわんや)不帯剣璽(けんじをおびざる)即位之例出来者(いできたらば),後代乱逆之(もとい),只可在(このことに)此事(あるべし)・・・

 

 壇ノ浦の合戦において安徳天皇が崩御し,平家は滅亡,三種ノ神器のうち鏡及び璽は回収されたものの剣は失われてしまったのは,その翌年のことでした。
 承久三年の乱逆は,元暦元年から37年後のことです。九条家は,兼実の孫の道家の代となっていました。 

 また,頼山陽『日本外史』巻之五新田氏前記楠氏にいわく。

 

 〔建武三年(1336年),後醍醐〕帝の(けつ)(かえ)るや,〔足利〕尊氏(すで)に新帝〔光厳天皇〕の弟を擁立す。これを北朝光明帝となす。帝に神器を伝へんことを請ふ。〔後醍醐〕帝(ゆる)さず。尊氏,〔後醍醐〕帝を花山院に(とら)へ,従行の者僧(ゆう)(かく)らを殺し,その余を(こう)(しゅう)す。・・・〔三条〕(かげ)(しげ)(ひそか)に計を進め,(のが)れて大和に(みゆき)せしむ。〔後醍醐〕帝,夜,婦人の()を服し,(かい)(しょう)より出づ。(たす)けて馬に(のぼ)せ,景繁,神器を(にな)つて従ふ。・・・ここにおいて,行宮(あんぐう)を吉野に(),四方に号令す。(頼成一=頼惟勤訳『日本外史(上)』(岩波文庫・1976年)313314頁)

 

 同じく巻之七足利氏正記足利氏上にいわく。

 

 〔後醍醐〕帝,〔新田〕義貞をして,太子を奉じ越前に赴かしめ,(しこう)して()を命じて闕に還る。〔足利〕直義,兵に将としてこれを迎へ,(すなわ)ち新主〔光明天皇〕のために剣璽を請ふ。〔後醍醐〕帝,偽器(ぎき)を伝ふ。(頼成一=頼惟勤訳『日本外史(中)』(岩波文庫・1977年)26頁)

 

 しかし,偽器まで使って(あざむ)き給うのは,さすがにどうしたものでしょうか。

 

2 天皇の退位等に関する皇室典範特例法案要綱

昨日(2017年5月10日),京都新聞のウェッブ・サイトに「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案要綱」というものが掲載されていました。当該要綱(以下「本件要綱」といいます。)の第二「天皇の退位及び皇嗣の即位」には「天皇は,この法律の施行の日限り,退位し,皇嗣が,直ちに即位するものとすること。」とあり,第六「附則」の一「施行期日」には「1 この法律は,公布の日から起算して3年を超えない範囲内において政令で定める日から施行するものとすること。」とあります。すなわち,全国民を代表する議員によって組織された我が国会が,3年間の期間限定ながら,内閣(政令の制定者)に対し,在位中の天皇を皇位から去らしめ(「天皇は,この法律の施行の日限り,退位し」というのは,法律施行日の夜24時に天皇は退位の意思表示をするものとし,かつ,当該意思表示は直ちに効力を生ずるものとするという意味ではなくて,シンデレラが変身したごとく同時刻をもって天皇は自動的に皇位を失って上皇となるという意味でしょう。),皇嗣をもって天皇とする権限を授権するような形になっています。

 

3 「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承と三種ノ神器

「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承の際三種ノ神器はどうなるのかが気になるところです。

手がかりとなる規定は,本件要綱の第六の七「贈与税の非課税等」にあります。いわく,

 

第二により皇位の継承があった場合において皇室経済法第7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物については,贈与税を課さないものとすること。

 

 皇室経済法(昭和22年法律第4号)7条は,次のとおり。

 

 第7条 皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。

 

(1)皇室経済法7条をめぐる解釈論:相続法の特則か「金森徳次郎の深謀」か

 本件要綱の第六の七には「皇室経済法第7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物」とあります。ところで,これは,皇位継承があったときに,皇室経済法7条によって直接,三種ノ神器その他の「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」の所有権は,特段の法律行為を要さずに前天皇から新天皇に移転するということでしょうか。見出しには「贈与税の非課税等」とありますが,ここでの「等」は,皇室経済法7条のこの効力を指し示すものなのでしょうか。

 皇室経済法7条については,筆者はかつて(2014年5月)「「日本国民の総意に基づく」ことなどについて」と題するブログ記事で触れたことがあります。ここに再掲すると,次のごとし。

 

皇室経済法7条は「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。」と規定しています。同条の趣旨について,19461216日,第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会において,金森徳次郎国務大臣は次のように説明しています。天皇にも「民」法の適用があることが前提とされています。

 

次ぎに第7条におきまして,日本国の象徴である天皇の地位に特に深い由緒ある物につきましては,一般相続財産に関する原則によらずして,これらのものが常に皇位とともに,皇嗣がこれを受けらるべきものなる旨を規定いたしております,このことはだいたいこの皇室経済法で考えておりまするのは,民法等に規定せられることを念頭にはおかないのでありまするけれども,しかし特に天皇の御地位に由緒深いものの一番顕著なものは,三種の神器などが,物的な面から申しましてここの所にはいるかとも存じますが,さようなものを一般の相続法等の規定によつて処理いたしますることは,甚はだ目的に副わない結果を生じまするので,かようなものは特別なるものとして相続法より除外して,皇位のある所にこれが帰属するということを定めたわけであります。

 

  天皇に民法の適用があるのならば相続税法の適用もあるわけで,19461217日,第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会におけるその点に関する小島徹三委員の質疑に対し,金森徳次郎国務大臣は次のように答弁しています。

 

・・・だいたい〔皇室経済法〕第7条で考えております中におきましては,はつきり念頭に置いておりますのは,三種の神器でありますけれども,三種の神器を物の方面から見た場合でありますけれども,そのほかにもここに入り得る問題があるのではないか,かように考えております,所がその中におきまして,極く日本の古典的な美術の代表的なものというようなものがあります時に,一々それが相続税の客体になりますと,さような財産を保全することもできないというふうな関係になりまして,制度の関係はよほど考えなければなりませんので,これもまことに卑怯なようでありますけれども,今後租税制度を考えます時に,はっきりそこをきめたい,かように考えております

 

  相続税法12条1項1号に,皇室経済法7条の皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,相続税の非課税財産として掲げられています。

  三種の神器は,国有財産ではありません。19461221日,第91回帝国議会貴族院皇室経済法案特別委員会における大谷正男委員の質疑に対する金森徳次郎国務大臣の答弁は,次のとおり。

 

此の皇位に非常に由緒のあると云ふもの・・・今の三種の神器でありましても,皇位と云ふ公の御地位に伴ふものでありますが故に,本当から云へば国の財産として移るべきものと考ふることが,少くとも相当の理由があると思つて居ります,処がさう云ふ風に致しますると,どうしても神器などは,信仰と云ふものと結び付いて居りまする為に,国の方にそれは物的関係に於ては移つてしまふ,それに籠つて居る精神の関係に於ては皇室の方に置くと云ふことが,如何にも不自然な考が起りまして,取扱上の上にも面白くない点があると云ふのでありまするが故に,宗教に関しまするものは国の方には移さない方が宜いであらう,と致しますると,皇室の私有財産の方に置くより外に仕様がない,こんな考へ方で三種の神器の方は考へて居ります・・・

 

  http://donttreadonme.blog.jp/archives/1003236277.html

 

 要するに筆者の理解では,皇室経済法7条は民法の相続法の特則であって,崩御によらない皇位継承の場合(相続が伴わない場合)には適用がないはずのものでした。生前退位の場合にも適用があるとすれば(確かに適用があるように読み得る文言とはなっています。),これは,皇位継承の原因は崩御のみには限られないのだという理解が,皇室典範(昭和22年法律第3号)及び皇室経済法の起草者には実はあったということになりそうです(両法の昭和天皇による裁可はいずれも同じ1947年1月15日にされています。)。「金森徳次郎の深謀」というべきか。

 しかし,皇室経済法7条が生前退位をも想定していたということになると,現行皇室典範4条の規定(「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」)は崩御以外の皇位継承原因を排除しているのだという公定解釈の存立基盤があやしくなります。そうなると,本件要綱の第一にある「皇室典範(昭和22年法律第3号)第4条の規定の特例として」との文言は,削るべきことになってしまうのではないでしょうか。

 

(2)贈与税課税の原因となる贈与と所得税の課税対象となる一時所得

 更に困ったことには,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承に伴い直ちに皇室経済法7条によって「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」の所有権が前天皇から新天皇に移転するのであれば,これは新旧天皇間の贈与契約に基づく財産の授受ではなく,そもそも贈与税の課税対象とはならないのではないでしょうか。

相続税法(昭和25年法律第73号)1条の4第1項は,贈与税の納税義務者を「贈与により財産を取得した個人」としていますが,ここでいう「贈与」とは民法549条の贈与契約のことでしょう(金子宏『租税法(第17版)』(弘文堂・2012年)543頁参照)。相続税法5条以下には贈与により取得したものとみなす場合が規定されていますが,それらは,保険契約に基づく保険金,返還金等(同法5条),定期金給付契約に基づく定期金,返還金等(同法6条),著しく低い価額の対価での財産譲渡(同法7条),債務の免除,引受け及び第三者のためにする債務の弁済(同法8条),信託受益権(同法第1章第3節),並びにその他対価を支払わないで,又は著しく低い価額の対価で利益を受けること(同法9条)であるところ,皇室経済法7条による「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」の所有権の移転がみなし贈与であるためには, 相続税法9条の規定するところに該当するか否かが問題になるようです。しかしながら,相続税法9条の適用がある事例として挙げられているのは,同族会社等における跛行増資,同族会社に対する資産の低額譲渡及び妻が夫から無償で土地を借り受けて事業の用に供している場合(金子546頁)といったものですから,どうでしょうか。同条の「当該利益を受けさせた者」という文言からは,当該利益を受けさせた者の効果意思に基づき利益を受ける場合に限られると解すべきではないでしょうか。

むしろ新天皇(若しくは宮内庁内廷会計主管又は麹町税務署長若しくは麻布税務署長)としては,一時所得(所得税法(昭和40年法律第33号)34条1項)があったものとして所得税が課されるのではないか,ということを心配すべきではないでしょうか。一時所得とは「利子所得,配当所得,不動産所得,事業所得,給与所得,退職所得,山林所得及び譲渡所得以外の所得のうち,営利を目的とする継続的行為から生じた所得以外の一時の所得で労務その他の役務又は資産の譲渡の対価としての性質を有しないもの」をいいます。(ちなみに,所得税法上の各種所得中最後に定義される雑所得は,「利子所得,配当所得,不動産所得,事業所得,給与所得,退職所得,山林所得,譲渡所得及び一時所得のいずれにも該当しない所得」です(同法35条1項)。)個人からの贈与により取得する所得には所得税は課税されませんが(所得税法9条1項16号),そうではない所得については,所得税の課税いかんを考えるべきです。(なお,民法958条の3第1項の特別縁故者に対する相続財産の分与については,1964年の相続税法改正後は遺贈による取得とみなされることとなって相続税が課されることになっていますが(相続税法4条),1962年の制度発足当初は,「相続財産法人からの贈与とされるところから」ということで所得税法による課税対象となっていたとのことです(久貴忠彦=犬伏由子『新版注釈民法(27)相続(2)(補訂版)』(有斐閣・2013年)958条の3解説・767頁。また,阿川清道「民法の一部を改正する法律について」曹時14巻4号66頁)。ただし,「贈与」とした上で「法人からの贈与」だからという理由付けで贈与税非課税(相続税法21条の3第1項1号)とせずとも,所得税の課される一時所得であることの説明は可能であったように思われます。1964年3月26日の参議院大蔵委員会において泉美之松政府委員(大蔵省主税局長)は「従来は一時所得といたしておりました」と答弁していますが(第46回国会参議院大蔵委員会会議録第20号10頁),そこでは「法人からの贈与」だからとの言及まではされていません。そして,神戸地方裁判所昭和58年11月14日判決・行集34巻11号1947頁は「財産分与は,従前は,相続財産法人に属していた財産を同法人から役務又は資産の譲渡の対価としてではなく取得するものであるから,所得税法に規定する一時所得に該当するものとして,所得税が課税されていた。」と判示していて,「贈与」の語を用いていません。)

しかし,今井敬座長以下「高い識見を有する人々の参集」を求めて開催された天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(2016年9月23日内閣総理大臣決裁)の最終報告(2017年4月21日)のⅣ2には「天皇の退位に伴い,三種の神器(鏡・剣・璽)や宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)などの皇位と共に伝わるべき由緒ある物(由緒物)は,新たな天皇に受け継がれることとなるが,これら由緒物の承継は,現行の相続税法によれば,贈与税の対象となる「贈与」とみなされる。」と明言されてしまっています。贈与税課税規定非適用説は,今井敬座長らの高い識見に盾突く不敬の解釈ということになってしまいます。

 

(3)本件要綱の第六の七の解釈論:贈与契約介在説

そうであれば,三種ノ神器等の受け継ぎが相続税法上の贈与税の課税原因たる「贈与」に該当することになるように,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承に際しての三種ノ神器等の承継の法律構成を,本件要綱の第六の七の枠内で考えなければなりません。

 

第二により皇位の継承があった場合において皇室経済法第7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物については,贈与税を課さないものとすること。

 

とあるのは,

 

第二により皇位の継承があった場合において皇室経済法第7条の規定の趣旨に基づく前天皇との贈与契約により皇位とともに皇嗣が受けた物については,贈与税を課さないものとすること。

 

との意味であるものと理解すべきでしょうか。(「贈与税の対象となる「贈与」と見なされる。」との文言からは贈与それ自体ではないはずなのですが,みなし贈与に係る相続税法9条該当説は難しいと思われることは前記のとおりです。)

皇室経済法7条により直接三種ノ神器等の所有権が移転するとしても,その原因たる「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承は実のところ現天皇の「譲位意思」に基づくものなのだから広く解して贈与に含まれるのだ,と頑張ろうにも,そもそも「83歳と御高齢になられ,今後これらの御活動〔国事行為その他公的な御活動〕を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じ」ていること(本件要綱の第一)のみから一義的に退位の意思,更に三種ノ神器の贈与の意思までを読み取ってしまうのは,いささか忖度に飛躍があるように思われるところです。

新旧天皇間の贈与については日本国憲法8条の規定(「皇室に財産を譲り渡し,又は皇室が,財産を譲り受け,若しくは賜与することは,国会の議決に基かなければならない。」)の適用いかんが一応問題となりますが,同条は皇室内での贈与には適用がないものと解することとすればよいのでしょう。

贈与税の非課税措置の発効は「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日の午前零時からです(本件要綱の第六の一)。課税問題を避けるためには,新旧天皇間の贈与契約の効力発生(書面によらない贈与の場合はその履行の終了(金子543頁))はそれ以後でなければならないということになります(国税通則法(昭和37年法律第66号)15条2項5号は贈与による財産の取得の時に贈与税の納税義務が成立すると規定)。しかし,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日当日の24時間中においてはなおも皇位継承は生じないところ(本件要綱の第二参照),その日のうちに三種ノ神器の所有権が次期天皇に移ってしまうのはフライングでまずい。そうであれば,あらかじめ天皇と皇嗣との間で,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日の翌日午前零時をもって三種ノ神器その他の皇位とともに伝わるべき由緒ある物の所有権が前天皇から新天皇に移転する旨の贈与契約を締結しておくべきことになるのでしょう(午前零時きっかりに意思表示を合致させて贈与契約を締結するのはなかなか面倒でしょう。)。

ちなみに,上の行うことには下これに倣う。相続税については,皇室経済法7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物の価額は相続税の課税価格に算入しないものとされていること(相続税法12条1項1号)にあたかも対応するように,人民らの墓所,霊廟及び祭具並びにこれらに準ずるものの価額も相続税の課税価格に算入しないこととされています(同項2号)。そうであれば,贈与税について,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承に際して皇嗣が贈与を受けた皇位とともに伝わるべき由緒ある物については贈与税を課さないものとするのであれば,人民向けにも同様の非課税措置(高齢による祭祀困難を理由とした祭祀主宰者からの墓所,霊廟及び祭具並びにこれらに準ずるものの贈与について非課税措置を講ずるといったようなもの)が考えられるべきなのかもしれません。

 

(4)三種ノ神器贈与の意思表示の時期

とここまで考えて,一つ難問が残っていることに気が付きました。

天皇から皇嗣に対する三種ノ神器の贈与は,正に皇室において新天皇に正統性を付与する行為(更に人によっては三種ノ神器の授受こそが「譲位」の本体であると思うかもしれません。)であって,三種ノ神器も国法的には天皇の私物にすぎないといえども,当該贈与の意思表示を華々しく天皇がすることは日本国憲法4条1項後段の厳しく禁ずるところとされている「国政に関する権能」の行使に該当してしまうのではないか,という問題です。皇位継承が既成事実となった後に,もはや天皇ではなくなった上皇からひそやかに贈与の意思表示があるということが憲法上望ましい,ということにもなるのではないでしょうか。(三種ノ神器の取扱いいかんによっては信教の自由に関する問題も生じ得るようなので,その点からも三種ノ神器を受けることが即位の要件であるという強い印象が生ずることを避けるべきだとする配慮もあり得るかもしれません。「天皇に対してはもろに政教分離の原則が及ぶ,と考えざるを得ない。なぜか。憲法第20条第3項は「国及びその機関は,宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定しているからである。実際のところ,神道儀式を日常的に公然とおこなう天皇が,神道以外のありとあらゆる宗教・宗派を信奉する国民たちの「統合の象徴」であるというのは,おかしな話である。天皇は「象徴」であるためには,宗教的に中立的であらねばならない。」と説く論者もあるところです(奥平康弘『「萬世一系」の研究(下)』(岩波現代文庫・2017年(単行本2005年))264頁)。)

しかしそうなると,新天皇は「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日の翌日午前零時に即位した時点においては三種ノ神器の所有権を有しておらず,当該即位は,九条兼実の慨嘆した不帯剣璽(けんじをおびざる)即位之例となるということもり得るようです。ただし,後醍醐前天皇が光明天皇にしたような三種ノ神器を受けさせないいやがらせは,現在では考えられぬことでしょう。(後醍醐前天皇としては,光明天皇の贈与税御負担のことを忖度したのだと主張し給うのかもしれませんが。)

なお,三種ノ神器は,国法上は不融通物ではありませんが(世伝御料と定められた物件は分割譲与できないものとする明治皇室典範45条も1947年5月2日限り廃止されています。),天皇といえども任意に売却等できぬことは(ただし,日本国憲法8条との関係では,相当の対価による売買等通常の私的経済行為を行う限りにおいてはその度ごとの国会の議決を要しません(皇室経済法2条)。なお,相当の対価性確保のためには,オークション等を利用するのがよろしいでしょうか。),皇室の家法が堅く定めているところでしょう。

面倒な話をしてしまいました。しかし,源義経のように三種ノ神器をうっかり長州の海の底に取り落としてしまうようなわけにはなかなかいきません。

ところで,長州といえば,尊皇,そして明治維新。現在,政府においては,明治元年(1868年)から150年の来年(2018年)に向け「明治150年」関連施策をすることとしているそうです。明治期の立憲政治の確立等に貢献した先人の業績等を次世代に(のこ)す取組もされるそうですが,ここでの「先人」に大日本帝国憲法の制定者である明治大帝は含まれるものか否か。
 大日本帝国憲法3条は,規定していわく。

 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

DSCF0671
仲恭天皇九条陵(京都市伏見区)(2017年11月撮影)
(後鳥羽天皇の孫である仲恭天皇は,武装関東人らが京都に乱入した承久三年(1221年)の乱逆の結果,在位の認められぬ廃帝扱いとされてしまいました。)
 
(ところで,その仲恭天皇陵の手前の敷地に,長州出身の昭和の内閣総理大臣2名が記念植樹をしています。)
DSCF0672
「明治維新百年記念植樹 佐藤榮作」(佐藤は,東京オリンピック後の1964年11月9日から沖縄の本土復帰後の1972年7月6日まで内閣総理大臣在職)
DSCF0673
「明治維新百年記念植樹 岸信介」(岸は,1957年2月25日から現行日米安全保障条約発効後の1960年7月19日まで内閣総理大臣在職)
DSCF0674
(1868年1月27日(慶応四年一月三日)から翌日にかけての鳥羽伏見の戦いにおける防長殉難者之墓が実は仲恭天皇陵の手前にあるところ,1867年11月9日(慶応三年十月十四日)の大政奉還上表提出(有名な徳川慶喜の二条城の場面はその前日)から100年たったことを記念して,1967年(昭和42年)11月に信介・榮作の兄弟は東福寺(京都市東山区)の退耕庵に共に宿して秋の京都を楽しみ,かつ,長州・防州(山口県)の尊皇の先達の霊を慰めた,ということなのでしょう。当時現職の内閣総理大臣であった榮作は,この月12日から20日まで訪米し(米国大統領はジョンソン),15日ワシントンD.C.で発表された日米共同声明においては,沖縄返還の時期を明示せず,小笠原は1年以内に返還ということになりました。帰国後11月21日の記者会見において佐藤内閣総理大臣は,国民の防衛努力を強調しています。)

DSCF0670
東福寺の紅葉
(東福寺を造営した人物は,仲恭天皇の叔父にして,かつ,摂政だった九条道家。しかし,ふと思えば,承久の変の際箱根迎撃論を抑えて先制的京都侵攻を主張し,鎌倉方の勝利並びに仲恭天皇の廃位及び後鳥羽・順徳・土御門3上皇の配流に貢献してしまった大江広元は,長州藩主毛利氏の御先祖でした。その藩主の御先祖のいわば被害者である仲恭天皇の陵の前で,長州人らが自らの尊皇を誇り,明治維新百年を祝うことになったとは・・・。) 


弁護士ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 現行皇室典範の性質問題

 現行皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号。昭和24年法律第134号1条により一部改正(第28条2項及び第30条6項中「宮内府」を「宮内庁」に改める。))に関して,日本国憲法2条は「皇位は,世襲のものであつて,国会の議決した皇室典範の定めるところにより,これを継承する。」と規定しています。英語文では,“The Imperial Throne shall be dynastic and succeeded to in accordance with the Imperial House Law passed by the Diet.”となっています。

 「皇位ノ継承ハ世襲ニシテ国会ノ制定スル皇室典範ニ依ルヘシ」と外務省によって訳され,1946年2月25日の閣議に仮訳として配布された同月13日のGHQ草案2条の当該日本語訳文言(佐藤達夫著=佐藤功補訂『日本国憲法成立史 第三巻』(有斐閣・1994年)18頁,33, 68 頁)と,日本国憲法2条の文言とはほぼ同じです。ただし,GHQ草案2条の原文は“Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.” であって(国立国会図書館ウェッブ・サイト電子展示会の「日本国憲法の誕生」における「資料と解説」の「3‐15 GHQ草案 1946年2月13日」参照),“such Imperial House Law as the Diet may enact.”の部分などが日本国憲法2条の英語文と異なります。

 今回は,日本国憲法2条にいう「国会の議決した皇室典範(the Imperial House Law passed by the Diet)」の法的性質をめぐる問題について,GHQ民政局における動きなどを見ながら,若干考えてみたいと思います。時間的には,帝国議会に提出された1946年6月20日の帝国憲法改正案作成の頃までの出来事が取り上げられます。

 

2 用語について

 議論に入る前に,用語法を整理しておきましょう。

 単に皇室典範という場合は,法形式の一たる皇室典範をいうことにします。大日本帝国憲法が発布された1889年2月11日の明治天皇の告文には「茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス」とあり,そこでは皇室典範は,憲法と並び立つ独立の法形式と解されていたわけです。

 今回の主題である日本国憲法2条にいう「皇室典範」は,そもそもその法的性質が論じられているわけですから,そこから括弧を外すわけにはいきません。

 「皇室典範」という題名の昭和22年法律第3号は,「現行皇室典範」ということにします。

1889年2月11日の「皇室典範」という題名の皇室典範(公布はされず。)は,以下「明治皇室典範」ということにします。

明治皇室典範並びに1907年2月11日公布(公式令(明治40年勅令第6号)4条1項)の「皇室典範増補」という題名の皇室典範及び19181128日公布の「皇室典範増補」という題名の皇室典範を総称して,以下「旧皇室典範」ということにします。

 

3 GHQ草案2条成立までの経緯

1946年2月13日のGHQ草案2条の成立までの経緯を見て行きましょう。

 

(1)大日本帝国憲法2条及びその英語訳文

まずは,1889年2月11日に発布された大日本帝国憲法2条の条文から。

 

第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス

 

大日本帝国憲法2条の英語訳(伊東巳代治によるもの)は,次のとおりです(Commentaries on the Constitution of the Empire of Japan(中央大学・1906年(第2版))。同書は『憲法義解』の英語訳本です。)。

 

ARTICLE II

The Imperial Throne shall be succeeded to by Imperial male descendants, according to the provisions of the Imperial House Law.

 

ここでのImperial House Lawは,それだけではImperial-House Law(皇室に関する国法たる法律)なのか Imperial House-Law(皇室の家法)なのか解釈が分かれそうですが,これについては後者である旨明らかにされています。

 

…This law [the Imperial House Law, lately determined by His Imperial Majesty] will be regarded as the family law of the Imperial House.

(新たに勅定する所の皇室典範に於て之を詳明にし,)以て皇室の家法〔family law〕とし・・・

 

なお,ここで,“the Imperial House Law”と単数形となっていることについては,1887年4月30日に成立したロエスレルの「日本帝国憲法草案」に関して,「第16条第2項〔„Die Kaiserlichen Hausgesetze bedürfen nicht der Zustimmung des Reichstags; jedoch können durch sie die Bestimmungen der Verfassung nicht abgeändert werden.“〕の「帝室家憲」はDie Kaiserlichesic Hausgesetzeと複数形で述べられている。それは単一の成文法ではなく,たとえば皇位継承にかんする帝室の家法,摂政設置にかんする家法等々,複数のものがありうることを意味するが,〔伊藤博文編『秘書類纂』中の〕邦訳文は単数形,複数形を区別せず,右のように〔「帝室家憲ハ国会ノ承諾ヲ受クルヲ要セス但此レニ依テ憲法ノ規定ヲ変更スルコトヲ得ス」と〕訳した。後に皇室典範が単一の成文法とされたことに,この邦訳もまた一の役割を果たしたと言える。」との小嶋和司教授の評(小嶋和司「ロエスレル「日本帝國憲法草案」について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)4頁,1213頁,58頁)が想起されます。単数複数を区別しない日本語訳から明治皇室典範は単一の成文法とされ,それが英語訳にも跳ね返って来た,ということになるようです。この点,日本国憲法2条の「皇室典範」に関して,当該「皇室典範」は単一の成文の法律であることまでを憲法は要求しているのだという解釈が広く存在していることは周知の事実です。しかし,前記GHQ草案2条のsuch Imperial House Lawは,「皇室典範」であって「皇位継承に関する」もの,という意味でしょうから,GHQは「皇室典範」は単一の成文法でなければならないとまでは要求していなかったと考えてよいようです。

大日本帝国憲法劈頭の第1条(「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」)の伊東巳代治による英語訳は,次のとおりです。

 

 ARTICLE I

 The Empire of Japan shall be reigned over and governed by a line of Emperors unbroken for ages eternal.

 

「統治ス」といってもreignの部分とgovernの部分とがあるわけです。『憲法義解』(筆者は1940年の宮沢俊義校註の岩波文庫版を使用しています。)における当該部分の説明は,「統治は大位に居り,大権を統べて国土及臣民を治むるなり。」となっています。伊東巳代治の英語訳では,By “reigned over and governed” it is meant that the Emperor on His Throne combines in Himself the sovereignty of the State and the government of the country and of His subjects.”と敷衍されています。天皇は皇位にあって国家の主権並びに国土及び臣民に係る政治ないしは国政(government)をその一身にcombineするもの,とされているので,天皇が政治ないしは国政を直接行うということではないようです。

以上の大日本帝国憲法及び『憲法義解』の英語訳文は,1946年2月に日本国憲法の草案作りに携わったプール少尉らGHQ民政局の真面目かつ熱心な知日派の米国人たち(「「知日派の米国人」考」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1000220558.html参照)は当然読んでいたところです(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川文庫・2014年(単行本1995年))128頁参照)。(なお,「日本国憲法4条1項及び元法制局長官松本烝治ニ関スル話」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065184807.htmlも御参照ください。)

 

(2)プール少尉らの天皇,条約及び授権委員会案

 

ア 案文

プール海軍少尉及びネルソン陸軍中尉を構成員とするGHQ民政局の天皇,条約及び授権委員会(Emperor, Treaties and Enabling Committee)が同局の運営委員会(ケーディス陸軍大佐,ハッシー海軍中佐及びラウエル陸軍中佐並びにエラマン女史)に1946年2月6日に提出したものと考えられる(“1st draft”と手書きの書き込みがあります。)皇位の継承に関する憲法条項案は,次のようになっていました(「日本国憲法の誕生」の「3‐14 GHQ原案」参照)。

 

     Article II. The Japanese Nation shall be reigned over by a line of Emperors, whose succession is dynastic. The Imperial Throne shall be the symbol of the State and of the Unity of the People, and the Emperor shall be the symbolic personification thereof, deriving his position from the sovereign will of the People, and from no other source.

Article III. The Imperial Throne shall be succeeded to in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.

 

第2条にdynastic云々が出て来るのは,同月2日ないしは3日に決定された「マッカーサー・ノート」の第1項の第2文に“His [Emperor’s] succession is dynastic.”とあったからと解されます(鈴木24頁,35頁)。米国人は横着ではなく,真面目なので,上司をしっかり立てます。

“The Japanese Nation shall be reigned over by a line of Emperors ”“The Imperial Throne shall be succeeded to”の表現など,伊東巳代治のCommentaries on the Constitution of the Empire of Japanの影響が歴然としています。

「日本(The Japanese Nation)ハ,dynasticニ皇位ヲ継承スル一系の天皇(a line of Emperors)之ニ君臨ス(reign over)。」ということのようですから,プール少尉らは,dynasticであるということは「万世一系」と親和的であるものと理解したということでしょうか。

 

明治の俳人・内藤(めい)(せつ)の「元日や一系の天子不二の山」は,絶世の名吟として知る人ぞ知る,であるらしい。〔中略〕この句は,三つの象徴を並べて日本人の感性の特色を浮び上がらせ,そしてそのことにおいて,みごとに成功している,と理解できる。(奥平康弘『「萬世一系」の研究(上)』(岩波現代文庫・2017年(単行本2005年))2頁)

 

代々日本に縁の深い一族の一員として関東大震災前の横浜に生まれた「知日派の米国人」たるリチャード・プール少尉(本職は外交官)の面目躍如というべきでしょうか。Dynasticのみにとどまることなく,日本人の琴線に触れる「一系ノ天皇(天子)」との表現を加えてくれました。(同少尉の人柄については,GHQ民政局における同僚であったベアテ・シロタ・ゴードン女史による「プールさんも,日本人の天皇に対する気持ちを知っていただけでなく,もともと保守的な人でした。ですから始めのころの草稿などは,明治時代の人も喜ぶくらい保守的でしたね」との証言があります(鈴木127頁)。)ただし,「万世」(unbroken for ages eternal)一系となるかどうか,将来のことには留保がされて,単なる「一系」となったわけです(この辺は,大日本帝国憲法の制定に向けて,「ロェスラーは,滅びるかも知れない天皇制に,未来永劫続くかの如き「万世一系」という表現を用いることに反対し,未来に言及しない「開闢以来一系」という用語を提案したが,これは問題にされなかった。」という挿話(長尾龍一「明治憲法と日本国憲法」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)10頁)を想起させるところがあります。)。

 

なお,「万世一系」ということの意味は,「〈天皇の統治は(あま)(てらす)大神(おおみかみ)をはじめとする皇祖皇宗の神勅に由来するものであって,その神勅は子々孫々が皇位に就き,日本国(葦原之(あしはらの)瑞穂(みずほ)(のくに)を王として治むべしと命じているとして,神々のお告げにもとづき,神々につながる子々孫々がこの国を支配することを正当化した。このばあい,神々の系統につながる子孫が一本の糸のようにずっと続いているということに,なによりものポイントが置かれた。(奥平56頁)というようなことでよろしいでしょう。

 

ただし,エラマン・ノートによると,1946年2月6日の会議において運営委員会はreignの語の使用に反対しており,そのゆえでしょうが“The Japanese Nation shall be reigned over by a line of Emperors, whose succession is dynastic.”の文は削られ,マッカーサー元帥由来の大事なdynasticの語はその後次の条に移ることになります。当該会議においてラウエル中佐は「日本語では“reign” “govern”の意味をも含意する。」と指摘していますから,「reign=統治」と翻訳されることを警戒したのでしょう。プール少尉らとしては,「マッカーサー・ノート」の第1項第1文の“Emperor is at the head of the state.”をそのまま生かして,“A line of Emperors, whose succession is dynastic, shall be at the head of the Japanese State.”とでもすればよかったものか。

 

イ 訳文及びその前提

 

(ア)訳文

天皇,条約及び授権委員会の第1案の前記両条項の拙訳は,次のとおり。

 

第2条 日本ハ,皇室ニアリテ皇位ヲ世襲スル(dynastic)一系ノ天皇之ニ君臨ス。皇位ハ国家及ビ人民統合ノ象徴デアリ,天皇ハ其ノ象徴的人格化(symbolic personification)デアル。天皇ノ地位ハ,人民ノ主権意思(sovereign will)ニ基ヅキ,他ノ源泉(source)ヲ有サズ。

第3条 皇位ノ継承ハ,国会ノ制定スルコトアル皇室典範ニ代ルベキ法律(Imperial House Law)ニ従フモノトス。

 

訳をつける以上は,当然その前提となる解釈があります。

 

()Dynastic”:王朝

まず,通常単に「世襲」と訳されるdynasticですが,「皇室ニアリテ皇位ヲ世襲スル」というぎこちない訳としました。Dynasticに係る小嶋和司教授の次の指摘に得心してのことです。確かに,単なる“hereditary”ではありません。

 

  〔前略〕いわゆる「マカーサー・ノート」は次の内容をもっている。

  「The Emperorは,国の元首の地位にある。His successiondynasticである。」

  皇位就任者を男性名詞・男性代名詞で指示するほか,その継承をdynasticであるべきものとしていることが注目される。それは,立憲君主制を王朝支配的にとらえ,現王朝(dynasty)を前提として,王朝に属する者が王朝にふさわしいルールで継承すべきことを要求するものだからである。これは,王朝形成原理の維持を要求するとは解せても,その変更を要求するとは解しえない。(小嶋和司「「女帝」論議」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』(木鐸社・1988年)64頁。下線は筆者によるもの)

 

  しかし,王朝(dynasty)交替の歴史をもたず,現王朝所属者の継承を当然とする日本の政府当局者は,右のdynasticを,たんに「世襲」と訳して,現行憲法第2条にいたらしめた。皇室典範も現王朝を無言の前提として,その第1章を「皇位継承」とし,「王朝」観念がその後の憲法論に登場することもなかった。(小嶋「女帝」65頁)

 

  〔前略〕比較法的および歴史的に十分な知識を思考座標として「世襲」制の要求をみるとき,それは単に世々襲位することではなく,継承資格者の範囲には外縁があるとしなければならない。単なる財産相続や芸能家元身分の「世襲」にも,資格要件の外縁は存するのである。ここに思いいたるとき,憲法第2条は「王朝」形成原理を無言の前提として内包しているとなすか,それとも「国会の議決した皇室典範」はそれをも否認しうるとなすかは憲法論上の問題とすべきものである。(小嶋「女帝」65頁。下線は筆者によるもの)

 

上記小嶋教授の議論は,男女不平等撤廃条約との関係における1983年当時の国会における議論に触発されて,「憲法思考の結論如何によっては,立法論として賢明ともおもえぬ女帝制しか許さぬものとなることを指摘して問題提起」されたものですので(小嶋「女帝」65頁),「女帝」とその(皇族ではない)皇配との間の子らに係る皇位継承権に関する「王朝形成原理」等が主に問題として取り上げられています。しかしながら,皇位を「王朝にふさわしいルールで継承すべきこと」をも日本国憲法2条の「世襲」の語は要求しているのではないか,という指摘は深い意味を有するものと考えられるところです。皇位継承のルールは当然継承原因をも含むものでありますが,当該継承原因は,「支配王朝」たるdynasty(小嶋「女帝」58頁参照)の家長にふさわしい尊厳あるものたるべきでしょう。「憲法が世襲的天皇制を規定するのは,伝統的なものの価値を尊重して」であるとすれば(小嶋「女帝」62頁参照),皇位継承原因についても伝統が尊重されるべきでしょう。国民の側の自意識(敬愛,理解・共感)による決定は,伝統の尊重というよりはむしろ,国民主権の日本国憲法によって天皇制に係る「正統性の切断」があったものとする論(小嶋「女帝」6163頁参照)に棹さすものでしょう。「日本国は,長い歴史と固有の文化を持ち,国民統合の象徴である天皇を戴く国家」でありますところ(自由民主党「日本国憲法改正草案」(2012年4月27日)前文),当該言明を素直に順序どおり読み下すと,皇位継承原因を含む天皇に関する制度はせっかくの「長い歴史と固有の文化」を尊重し,かつ,そこに根差したものであるということが憲法上の要請となるのではないでしょうか。

なお,辞書的には,英語のdynastyについては“series of rulers all belonging to the same family: the Tudor dynastyとあり(Oxford Advanced Learner’s Dictionary of Current English, 4th edition, 1989),フランス語のdynastieについては“succession des souverains d’une même famille. Le chef, le fondateur d’une dynastie. La dynastie mérovingienne, capétienne.”とあります(Le Nouveau Petit Robert, 1993)。家(皇室,family, famille)こそが鍵概念となるようです。

ここでの家は単なる自然的な存在ではなく,同時に法的な存在でしょう。それではそこでの法はどのようなものか。上杉慎吉の述べるところによれば,ヨーロッパの中世にあっては「一家の私事を定るの法」であったそうです(上杉慎吉『訂正増補帝国憲法述義 第九版』(有斐閣書房・1916年)259頁)。「一家の私事を定るの法」であるのならば,本来的には王室の自ら定める家法であったのでしょう。
 ちなみに,ドイツ人ロエスレルの前記「日本帝国憲法草案」
12項は,„Die Krone ist erblich in dem Kaiserlichen Hause nach den Bestimmungen der Kaiserlichen Haus-gesetze.“(「帝位ハ帝室家憲ノ規定ニ従ヒ帝室ニ於テ之ヲ世襲ス」)と規定していました(小嶋「ロエスレル」1011)。

ところで,家といえば民法旧規定ですが,民法旧規定には,隠居制度というものがありました。隠居においては,隠居する本人の意思表示が要素でした(民法旧757条は「隠居ハ隠居者及ヒ其家督相続人ヨリ之ヲ戸籍吏ニ届出ヅルニ因リテ其効力ヲ生ス」と規定)。民法旧754条2項には「法定隠居」の規定がありましたが,これは「戸主カ隠居ヲ為サスシテ婚姻ニ因リ他家ニ入ラント欲スル場合ニ於テ戸籍吏カ其届出ヲ受理シタルトキ」に生ずるものであって,やはり本人の何らかの意思表示(この場合は他家に入る婚姻をする意思表示)に基づくものでした。

ちなみに,隠居も天皇の譲位のように,浮屠氏の流弊より来由するところがあるようで,「もっとも,隠居は日本に固有の制度というわけでもなく,中国から継受され,かつ,仏教の影響を受けているとされる。「『功成り名を遂げて身を退く』を潔しとする支那流の考へ」と「老後には『後生願ひ』を専一とする仏教的宗教心」とが隠居の風習を生み出したという」と,穂積重遠の著書から引用しつつ大村敦志教授が紹介しています(大村敦志『民法読解 親族編』(有斐閣・2015年)362頁)。

民法旧規定においては廃位のごとき戸主の強制隠居というものはあったのか否かといえば,答えは否でした。1925年の臨時法制審議会決議「民法親族編中改正ノ要綱」の第10にあった「廃戸主」の制度(「一 戸主ニ戸主権ヲ行ハシムベカラザル事由アルトキハ家事審判所ハ戸主権ノ喪失ヲ宣告スルコトヲ得ルモノトスルコト但事情ニ依リ之ニ相当ノ財産ヲ与フルコトヲ得ルモノトスルコト」)は採用されずに終わりました。臣民においては,本人の意思表示に基づかぬ隠居というものはないものとされていたわけです。

 

(ウ)「君臨ス」

 天皇,条約及び授権委員会の第1案の第2条には,reigned overとのみあって,governedは含まれていません。したがって,大日本帝国憲法1条の英語訳との対比でも,「統治ス」とまではいえないところです。大日本帝国憲法1条では“Rex regnat et gubernat.”であったのを“Rex regnat, sed non gubernat.”に改めるわけですから,「国王は,君臨すれども統治せず。」ということで,「君臨ス」の語を用いました。ちなみに,『憲法義解』の大日本帝国憲法1条の説明では,「所謂『しらす』とは即ち統治の義に外ならず。」とされています。「統治」は,大日本帝国憲法制定作業当時の新語であったようです(島善高「井上毅のシラス論註解」『明治国家形成と井上毅』(木鐸社・1992年)291292頁参照)。(なお,“Le roi règne, mais il ne gouverne pas.”とは,ティエール(L.A. Thière, 1797-1877)によって初めて述べられたとされています(小嶋和司「「政治」と「統治」」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』395頁)。)

 

(エ)「天皇ノ地位ハ,人民ノ主権意思ニ基ヅキ」

 1946年2月13日のGHQ草案1条は“The Emperor shall be the symbol of the State and of the Unity of the People, deriving his position from the sovereign will of the People, and from no other source.”であって,その外務省訳は「皇帝ハ国家ノ象徴ニシテ又人民ノ統一ノ象徴タルヘシ彼ハ其ノ地位ヲ人民ノ主権意思ヨリ承ケ之ヲ他ノ如何ナル源泉ヨリモ承ケス」となっていました。

ところで,最終的には現行日本国憲法1条は「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く。」(The Emperor shall be the symbol of the State and of the unity of the people, deriving his position from the will of the people with whom resides sovereign power.)となっており,その結果,同条のみから発して直ちに, 国民の意思(ないしは総意)すなわちthe will of the peopleの発現たる国会制定法をもって天皇を廃立することも可能とするかのごとき解釈が一部で採られるに至っているようでもあります。しかしながら,GHQの考えでは天皇の地位を人民の主権意思(the sovereign will of the people)に基づかせていたところ,当該主権意思の発動は,憲法改正という法形式でされるものと想定されていたはずです。日本国憲法1条のみから発して直ちに, 日本の人民(より正確には国会議員の多数)が単なる法律をもって天皇を廃立することを可能にするに至るという解釈には,泉下のマッカーサーも瞠目することでしょう。「押し付け憲法」といわれますが,GHQはそこまで押し込んではいなかったつもりのはずです。

 

(オ)「国会ノ制定スルコトアル」:皇室自律主義と国会の立法権の範囲との関係

ところで,プール少尉らが Imperial House Lawを単なる法律,すなわちImperial-House Lawだと思っていた,ということはないでしょう。そう思っていたのなら,lawが日本国憲法下の国会によってenactされることは当り前のことですから,“as the Diet may enactという文言は出てこないはずです。やはりプール少尉らは大日本帝国憲法の伊東巳代治による英語訳を読んでおり,皇室典範と同じ語であるということを意識しつつ,“ Imperial House Law”の語を用いたと解すべきでしょう。奥平康弘教授は,「〔GHQの案に現れる“ Imperial House Law”を「皇室典範」と〕翻訳しなければならない理由はまったく無かったはずである。この文脈における“ Imperial House Law”なることばは,特定(﹅﹅)具体的(﹅﹅﹅)()なにものかをコノート(内容的に指示)しているのではなくて,「皇室法」あるいは「皇室に関する法律などを意味する一般名辞以外のなにものでもない。」,「文章作成者からみれば,どのみちここでは,当該法律の規律対象は,“ Imperial House”であるに決まっているのだから,ただ“law”とするよりも,特定内容をこめた形で“ Imperial House Law”とすることを良しとみただけのことだと思われる。」と熱弁をふるっておられますが(奥平57頁,98頁),どうでしょうか。

若きプール少尉は,日本国憲法案に内大臣及び宮内大臣という宮務大臣の規定まで書き込もうとして運営委員会の大人組から叱られていますが,内大臣及び宮内大臣は,皇室典範の世界における主要登場人物であったものです(1946年2月6日の当該会議については「「知日派の米国人」考」参照)。すなわち,皇室典範の改正及び皇室令の上諭にまず副署するのは宮内大臣であり(公式令4条2項,5条2項),宮内大臣を任ずるの官記に副署し,及び免ずるの辞令書を奉ずるのは内大臣であり(同令14条2項,15条2項),皇族会議に枢密院議長,司法大臣及び大審院長と共に参列するのは内大臣及び宮内大臣でした(明治皇室典範55条。なお,同条によれば,現行皇室典範の皇室会議とは異なり,内閣総理大臣及び議院の議長副議長は皇族会議に参列せず。)。また,宮内省官制及び内大臣府官制は,いずれも皇室令(公式令5条1項参照)とされています(それぞれ明治40年皇室令第3号及び明治40年皇室令第4号)。皇室典範と同じ語である“ Imperial House Law”の語をそれとして意識して使用したことこそが,内大臣及び宮内大臣の任命に係る規定の憲法における必要性にプール少尉が思い至った理由の一つだったとも考え得るのではないでしょうか。

そうであれば天皇,条約及び授権委員会の第1案の第3条における“ Imperial House Law”は単に「皇室典範」と訳されるべきものであったのであって,拙訳において「皇室典範ニ代ルベキ法律」とくどくど訳されているのはおかしい,と御批判を受けることになるかもしれません。しかしながら,「皇室典範」の語のみでは法形式としての皇室典範との紛れが生ずるようで,いかにも落ち着かなかったところです。

とはいえ,GHQの係官らは“ Imperial House Law”の語を皇室典範と同じ語だと知っていて使用していたはずであるとの推測に筆者がこだわるのは,“ Imperial House Law”が「皇室典範」とも「皇室法」とも訳し得ることから,あるいは無意識のうちに一種のjeu de mots(言葉のあそび)がここに仕掛けられていたのだろうと思うからです。その仕掛けを解いて,天皇,条約及び授権委員会の第1案の第3条を敷衍して訳すると次のとおりとなります。

 

第3条 皇位ノ継承ハ,皇室典範(Imperial House Law)ノ定ムル所ニ依ル(according to)。但シ,国会ガ皇室典範ニ代ルベキ法律(Imperial House Law)ヲ制定シタルトキハ,当該法律ニ従フモノトス(in accordance with)。

 

問題は,“such Imperial House Law as the Diet may enact”における助動詞mayにありました。Shallではなくmayでありますので,これでは国会(日本国憲法下の国会であって,天皇の立法権に対する協賛機関である帝国議会(Imperial Diet)とは考えられてはいなかったでしょう。)が,Imperial House Lawを制定するようでもあり,しないようでもあり,それではImperial House Lawを国会が制定しないうちに崩御があったならばその際拠るべき皇位継承の準則が無くて困るではないか,というのが筆者の当初覚えた困惑でした。(英語文では“as may be provided by law”(ここでもmay)となっている日本国憲法4条2項の「法律」たる国事行為の臨時代行に関する法律(昭和39年法律第83号)が制定されたのは,日本国憲法の施行から17年たってからのことでした。)

前記のとおり,1946年2月13日のGHQ草案2条(Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact. )が外務省によって「皇位ノ継承ハ世襲ニシテ国会ノ制定スル皇室典範ニ依ルヘシ」と訳されているように,一般の日本語訳ではこのmayは無視されています。無視して済むのならそれでよいのでしょうが,それでは,一般の空気を読むとの大事に名を借りた,怠惰ということにはならないでしょうか。

従来の上記のような日本語訳では,元のGHQ草案の英文が“Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with the Imperial House Law enacted by the Diet.となるようで,快刀乱麻を断ち過ぎた訳ではないかとはかつて筆者が悩んだところです。「皇位ノ継承ハ世襲テアリ且ツ国会ノ制定スルコトアル皇室法ニ従フモノトス」という訳を考えてみたところでした(「続・明治皇室典範10条に関して:高輪会議再見,英国の国王退位特別法,ベルギーの国王退位の実例,ドイツの学説等」参照)。とはいえ,こう訳しただけではなお,「皇室法」制定前に崩御があったときに係る問題は残ってしまうところでした。

当該困惑を筆者なりに解消できたのは,1946年2月22日の松本烝治憲法担当国務大臣とホイットニーGHQ民政局長らとの会談に係る次の議事録(エラマン女史作成)に接したことによります(「日本国憲法の誕生」の「3‐19 松本・ホイットニー会談 1946年2月22日」参照。日本語訳は拙訳)。

 

Matsumoto:  Is it essential that the Imperial House Law be enacted by the Diet? Under the present Japanese Constitution the Imperial House Law is made up by members of the Imperial Household. The Imperial Household has autonomy.

(松本: 「皇室典範」は国会によって制定されるべきだということは必須なのでしょうか。現在の日本の憲法の下では,皇室典範は,皇室の成員によって作成されます。皇室は,自律権を有しているのです。)

 

General Whitney:  Unless the Imperial House Law is made subject to approval by the representatives of the people, we pay only lip service to the supremacy of the people.

(ホイットニー将軍: 「皇室典範」が人民の代表者たちの承認に服するようにならなければ,我々は人民の至高性に対してリップサービスをしただけということになります。)

 

Col. Kades:  We have placed the Emperor under the law, as in England.

(ケーディス大佐: 我々は,イングランドにおけると同じように,天皇を法の下に置いたのです。)

 

Col. Rowell:  At present the Imperial House Law is above the Constitution.

(ラウエル中佐: 現状では,皇室典範は憲法の上にありますね。)

 

General Whitney:  Unless the Imperial House Law is enacted by the Diet the purpose of Constitution is vitiated. This is an essential article.

(ホイットニー将軍: 「皇室典範」が国会によって制定されるのでなければ,憲法の目的は弱められたものとなります。これは,必須の条項です。)

 

Matsumoto:  Is this, control of the Imperial House Law by the Diet, a basic principle?

(松本: 国会による「皇室典範」のコントロールは,基本的原則なのですか。)

 

General Whitney:  Yes.

(ホイットニー将軍: そうです。)

 

「「皇室典範」」と括弧付きで訳した語は,括弧なしの「皇室典範」(皇室典範)と訳すべきか,「皇室典範ニ代ルベキ法律」(法律)と訳すべきか決めかねた部分です。(なお,奥平康弘教授は「1946年2月22日における松本烝治らとホイットニーら民(ママ)局員とのあいだの意見交換にあっては,「皇室典範」という語によって意味する中身に彼此双方のあいだで大きな違いがあることが,ついに顕在化しないまま終始したように思う。」と述べておられますが(奥平101102頁。また,5758頁,99頁),上記ラウエル中佐の発言などからは,民政局側は“Imperial House Law”が皇室典範と解されることも,皇室典範の法的性質も理解していたように思われます。この点,同教授は,「私の解明は憲法・皇室典範改正の監視役を務めたマッカーサー司令部(GHQ)の担当係官のうごきなどについて,詰めが甘いといったような弱みがある」とは自認されていたところです(奥平1617頁)。)

それはともかく,筆者にとって助け舟になったのは,ケーディス大佐の「イングランドにおけると同じように」発言でした。なるほど,王室制度に関して英米法系の法律家連中の考えていることを知るには,イギリス(イングランド及びウェイルズ)法史に当たるべし。

 

〔イギリスの〕国会主権の原理は,〔略〕長い期間をかけて徐々に成立したものである。従って,その端緒は,16世紀に見出される。とくに,1530年代の宗教改革は,それまで国会の権限外だと考えられていた大問題が,国会の立法という形で解決された例として注目される。〔中略〕その後も,国会の立法権が事項的に無制限であるという考え方は,一般の考えではなかった。とくに王位継承権の問題など王室に関する事項は,国会のタッチすべき事項でないと考えられていたのである。〔1689年の〕Bill of Rights, 1701年の〕Act of Settlementによって初めて,国会の立法権が事項的に無制限であるということが,確立されるのである。(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)137138頁。下線は筆者によるもの)

 

皇位継承等に関する事項は元来自律権を有する皇室の立法権下のみにあり,皇室典範によって規定されていたものであるが,オレンジ公ウィリアムが168811月オランダから上陸したイギリスにおける名誉革命に匹敵する日本における1945年の「八月革命」の下,米国から上陸せられたマッカーサー元帥の親身の御指導による日本国憲法の制定によって,臣民の代表機関たる国会の立法権も当該旧来の皇室典範事項に及び得るようになるのだ,という意味が“as the Diet may enact”には込められていたのだと解釈すれば,筆者としては一応納得できたところです。

無論,国会の立法権が及ぶからとて直ちに法律を制定しなくてはならないわけではなく,その間は従来の皇室の家法の適用が認められるということだったのではないでしょうか。GHQとしては,皇位継承に関する事項については皇室の自律権及び国会の立法権の競合を認めつつ,その際国会の立法権を優位に置いたということだったのではないでしょうか。(しかし,あるいはこれは,王朝の家法の効力に関して,dynastic概念の射程を拡張し過ぎた解釈ということになるのかもしれません。)

なお,明治皇室典範案に係る枢密院会議のために用意された「皇室典範義解草案 第一」には明治皇室典範62条(「将来此ノ典範ノ条項ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要アルニ当テハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シテ之ヲ勅定スヘシ」)に対応する説明の「附記」として,次のようにありました。

 

欧洲ノ或国ニ於テ(英国)王位ノ世襲ハ議会ノ制限ニ従属スルモノトシ,議会ニ於テ屢々其ノ法ヲ変革シ,終ニ国王ト議会トノ主権〔“King in Parliament”のことでしょう(田中140頁参照)。〕ヲ以テ王位継承法ヲ制定スルコト能ハズトノ説ヲ主張スル者ハ之ヲ逆罪ト為シタリ(女王「ア(ママ)ン」ノ時),此ノ主義ニ依ルトキハ王位ノ空缺ハ議会以テ之ヲ補填スベク,王位ノ争議ハ議会以テ之ヲ判決スベク(1688年ノ革命),而シテ議会ハ独リ王位世襲ヲ与奪スルノ権アリト謂フニ至ル(「チヤルス」第2世ノ末下院ノ決議〔1679年に下院がカトリック教徒である後のジェイムズ2世を王位継承から排除する法案(Exclusion Bill)を通過させたのに対してジェイムズの兄であるチャールズ2世が下院を解散し,翌年も同様の法案が提出されたが上院で否決されたというExclusion Crisisのことでしょう(田中134135頁)。〕),抑モ大義一タビ謬マルトキハ冠履倒置ノ禍,何ノ至ラザル所ゾ,故ニ我ガ皇室典範ノ憲法ニ於ケル其ノ変更訂正ノ方法ヲ同ジクセザルハ,我ガ国体ノ重キ之ヲ皇宗ニ承ク,而シテ民議ノ得テ左右スル所ニ非ザレバナリ。(伊藤博文編・金子堅太郎=栗野慎一郎=尾佐竹猛=平塚篤校訂『帝室制度資料 上巻』(秘書類纂刊行会・1936年)132133頁)

 

 「王位ノ世襲ハ議会ノ制限ニ従属スルモノトシ」なので,イギリス議会といえども,いわば王位の世襲を外から制限することはあっても,王位世襲の内側に立ち入った介入はしないということでしょうか。

名誉革命でジェイムズ2世に勝利した議会側も,あえて同王を積極的に廃位することはなく,グレゴリオ暦1689年2月7日(なお,当時のイギリスの暦では同日は1688January28日とされていました。)に国民協議会(Convention Parliament)が王位の空位を宣言したところです。すなわち,権利章典において,「前国王ジェイムズ2世は,政務を放棄し,そのため王位は空位となった」と述べられているところであって(田中英夫訳『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)81頁),これは黙示の意思表示による退位という構成なのでしょう。高齢となったので,国王としての活動を今後自ら続けることが困難となることを深く案じているくらいでは,まだ退位の(黙示の)意思表示があるとはいえないのでしょう。

(カ)「従フモノトス」:「定ムル所ニ依ル」との相違

 日本国憲法2条では「定めるところにより」と「訳」されている英語文の“in accordance with”は,「従フモノトス」としました。「定めるところにより」は,恐らく大日本国帝国憲法2条の「定ムル所ニ依リ」との表現をそのまま引き継いだものでしょう。しかしながら,大日本憲法2条の当該部分の伊東巳代治による英語訳は“according to”となっていて,“in accordance with”ではありません。プール少尉らが“according to”をそのまま襲用せずに“in accordance with”に差し替えたのには,何らか意図するところ,すなわち意味の変更があったはずです。それは何か。この点の英語文の読み方として参考となるのは,ポツダム宣言第12条の「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルル」の部分(there has been established in accordance with the freely expressed will of the Japanese people a peacefully inclined and responsible government)と1945年8月11日付け聯合国回答における当該部分に対応する部分(「日本国ノ最終的ノ政治形態ハ「ポツダム」宣言ニ遵ヒ日本国国民ノ自由ニ表明スル意思ニ依リ決定セラルベキモノトス」(The ultimate form of government of Japan shall in accordance with the Potsdam Declaration be established by the freely expressed will of the Japanese people))との相違に関する長尾龍一教授の次の指摘です。

 

 『宣言』においては,政府の樹立は,日本国民の意思に「一致する形で」(in accordance with)行なわれればよいが,『回答』においては政治形態の決定は,日本国民の意思によって(by)決定される。(長尾龍一『憲法問題入門』(ちくま新書・1997年)53頁)

 

すなわち,プール少尉らは,皇位ノ継承ハ国会ノ制定スルコトアル皇室典範ニ代ルベキ法律(Imperial House Law)ニ「一致する形で」行われるべきだとまでしか言っていなかったようなのです。皇位ノ継承のいわば原動力は,皇室典範ニ代ルベキ法律とは別のところにあるとされていたように思われます。それは何か。後嵯峨天皇の意思のようなそのときどきの天皇の意思では正に「南北朝の乱亦此に源因せり」ということになってしまいそうです。やはりそれは,祖宗の遺意を明徴にした銘典たる皇室の家法(Imperial House Law)なのだ,ということがプール少尉らの理解だったのではないでしょうか。 

 

ウ 委員会最終報告案及びGHQ草案2条

天皇,条約及び授権委員会の最終報告では,当該条項は次のようになっています(「日本国憲法の誕生」の「3‐14 GHQ原案」参照)。この段階で,前記1946年2月13日のGHQ草案2条と同じ文言となっています。

 

Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.

 

皇位ノ継承ハ,皇室ニ於テ世襲ニ依リ行ハルルモノトシ,国会ノ制定スルコトアル皇室典範ニ代ルベキ法律ニ従フモノトス(拙訳)

 

4 大日本帝国政府3月2日案

GHQ草案を承けた大日本帝国政府側の1946年3月2日案では,次のように規定されていました(佐藤94頁,104頁)。

 

 第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ世襲シテ之ヲ継承ス。

 第3条 天皇ノ国事ニ関スル一切ノ行為ハ内閣ノ輔弼ニ依ルコトヲ要ス。内閣ハ之ニ付其ノ責ニ任ズ。

 第7条 天皇ハ内閣ノ輔弼ニ依リ国民ノ為ニ左ノ国務ヲ行フ。

  一 憲法改正,法律,閣令及条約ノ公布

  〔第2号以下略〕

 第106条 皇室典範ノ改正ハ天皇第3条ノ規定ニ従ヒ議案ヲ国会ニ提出シ法律案ト同一ノ規定ニ依リ其ノ議決ヲ経ベシ。

  前項ノ議決ヲ経タル皇室典範ノ改正ハ天皇第7条ノ規定ニ従ヒ之ヲ公布ス。

 

5 1946年3月4日から5日にかけてのGHQとの交渉

 

(1)概要

前記1946年3月2日案をめぐる佐藤達夫法制局第一部長とGHQ民政局との間における同月4日から5日までにかけての徹夜での交渉を経て日本国憲法案から「皇室典範の議案に係る天皇の発議権は消え,憲法2条は少なくとも英文については現在の形になってい」るようであること及び当該徹夜交渉に係る同部長の「三月四,五両日司令部ニ於ケル顛末」と題した当時の手記における同条関係部分については,当ブログの「続・明治皇室典範10条に関して:高輪会議再見,英国の国王退位特別法,ベルギーの国王退位の実例,ドイツの学説等」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060127005.html)において御紹介したところです。

後年更にまとめられた当該交渉の状況は,次のとおりです(佐藤111頁)。

 

  第2条では,先方〔GHQ民政局〕は皇室典範について,それが国会によって制定されるものであることが出ていない・と相当強硬にねじ込んで来た。これに対して,Imperial House Lawとあれば,それは法律であり国会の議決によることは当然であるし,そのことは日本案第106条でも明らかになっている。ただ,皇室の家法という意味で,その発議は天皇によってなされることにしたい・と述べたが,第1章はマ草案が絶対である・といって全然受け付けず,「国会ノ議決ヲ経タル」passed by the Diet――ただし,マ草案はas the Diet may enactとなっていた――を加えることとした。

 

 交渉のすぐ後にまとめられた手記には「「経タル」ガ将来提案権ノ問題ニ関聯シテ万一何等カノ手懸ニナリ得ベキカトノ考慮モアリテ」との括弧書きがありましたが,上記の状況報告からは脱落しています。その後日本国憲法2条の「皇室典範」は法律であるものと法制局で整理され,したがって天皇の発議権は全く断念されたということで,後年の取りまとめ文からは余計な感慨だとして落とされたものでしょうか。

 皇室典範改正の発議権留保の可否は,1946年3月5日1743分から1910分まで行われた御文庫における内閣総理大臣幣原喜重郎及び憲法担当国務大臣松本烝治に対する賜謁及び両大臣からの憲法改正草案要綱に係る奏上聴取の際に,昭和天皇から御下問があったところですが,時既に遅く,同夜の閣議において「司法大臣岩田宙造〔元第一東京弁護士会会長〕より,このような大変革の際に,天皇の思召しによる提案が出ること自体が問題になるとの意見が出され,修正は断念」されました(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)6163頁)。

 

(2)忖度

 さて,日本側3月2日案に対して「皇室典範について,それが国会によって制定されるものであることが出ていない・と相当強硬にねじ込んで来」,「第1章はマ草案が絶対である・といって全然受け付けず」という姿勢であったGHQ民政局が,GHQ草案2条の“as the Diet may enact”“passed by the Diet”に変更することに応じたのはなぜでしょうか。

 佐藤達夫部長の「「経タル」ガ将来提案権ノ問題ニ関聯シテ万一何等カノ手懸ニナリ得ベキカトノ考慮モアリテ」との願いがGHQ側によって受け容れられたわけではありません。法律たる現行皇室典範の改正法案が天皇から提出されるなどということは現在だれも考えておらず,そもそもそれ以前に,日本国憲法4条1項後段を理由として天皇の政治的発言ないし行為は極めて厳格に規制を受けるに至っています。

 佐藤部長のあだな望みが,GHQ側によって逆手に取られてしまったものか。

 実は,“passed by the Diet”版の文言によれば,新しい日本国憲法の施行と同時に,新しく既に準備されてある「国会の議決を経た「皇室典範」」が効力を発していなければいけないように読まれ得るところです。筆者の解釈によれば,GHQ草案2条の“as the Diet may enact”版では,新憲法施行後も国会はいつまでもImperial House Lawを制定せず,一部不適当となった箇所を除いて,旧皇室典範が依然効力を有しているということもあり得たところです。

 なるほど,国会がせっかく与えられた立法権を行使せずいつまでもImperial House Lawを制定しないという困った事態を免れ得るという実によい前倒し策の提案が,何と日本側から出てきたわいと,ひとしきり考えた末にGHQの係官たちは莞爾としたのかもしれません。しかしながら,法律の制定を表わすenactが,単なる議決をしたとの意となるpassedになることについてはどう考えるか。いやそれは,新しい憲法の施行の前に準備のために制定される法律(日本国憲法100条2項参照)については,制定権者はなお飽くまでも天皇であって帝国議会は協賛機関にすぎないのだから(大日本帝国憲法5条等),確かにenacted by the Dietでは不正確であってpassed by the Dietでなければおかしい,ということで得心されたのではないでしょうか。帝国議会の協賛を経た法律として「皇室典範」がいったん成立すれば,その後の改正法律は当然国会が制定すること(the Diet enacts)になる,これでいいんじゃないの,ということになったのではないでしょうか。

 ただし,法律ではないものの帝国議会の議を経た皇室典範なるもの(大日本帝国憲法74条1項参照。また,奥平43頁)が出て来ると面倒なことになるので,飽くまでも新しい「皇室典範」は帝国議会の議を経た法律として制定されるよう,その点は厳しくコントロールすることとしたものでしょう。(しかし,美濃部達吉は,大日本帝国憲法74条1項(「皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス」)について,「本条に『議会ノ議ヲ経ルヲ要セス』とあるのは,単にその議を経ることが必要でないことを示すに止まらず,全然議会の権限外に在ることを示すものである。」と説いていました(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)731頁)。)

 

6 憲法改正草案要綱(1946年3月6日)から憲法改正草案(同年4月17日)まで

 1946年3月6日17時に内閣から発表された「憲法改正草案要綱」では「第2 皇位ハ国会ノ議決ヲ経タル皇室典範ノ定ムル所ニ依リ世襲シテ之ヲ継承スルコト」となっていましたが(佐藤200頁,189頁),同年4月17日に発表された同月13日の「憲法改正草案」(佐藤347頁,336頁)の段階からは現在の日本国憲法2条の文言(「皇位は,世襲のものであつて,国会の議決した皇室典範の定めるところにより,これを継承する。」)となっており(口語体になっています。),その後変化はありません。なお,法制局においては,日本国憲法案の「口語化の作業については,渡辺参事官を通じて山本有三氏に,口語体の案を作ってもらい,これをタイプで複写して立案の参考にし」,その山本案では第2条は「皇位は国会の決定した皇室法(﹅﹅﹅)に従つて世襲してこれをうけつぐ。」となっていたそうですが(佐藤275頁),結局「皇室典範」の文言が維持されています。

 

7 枢密院審査委員会での議論(1946年4月から5月まで)

 日本国憲法案2条の「皇室典範」の法的性質の問題は,1946年4月22日から宮城内枢密院事務局で開催された枢密院審査委員会で早速取り上げられています。政府側の答弁の要点は「皇室典範は,法律である。はじめは法律と異るものにしようとしたが,目的を達し得なかった。「皇室法」としなかったのは,従来の用例を適当と認めたによる。その内容は,現在の典範そのままではなく,一般国務に関係ある皇室事項を規定し,皇室の家憲のようなものは皇室かぎりで定められることとなろう。」ということでした(佐藤392頁)。具体的には以下のとおりです(同委員会の審査記録は,「日本国憲法の誕生」の「4‐1 枢密院委員会記録1946年4月~5月」によります。)。

 

(1)河原枢密顧問官による質疑

 1946年4月24日の審査における河原春作枢密顧問官と松本烝治憲法担当国務大臣とのやり取り。

 

 河原 皇室典範は法律なりや。

 松本 法律なり。特別の形式とするやうに交渉したが,意を達しなかつた。

 

 なお,ここでの「交渉」について,余白に鉛筆書きで,次のように筆者には読める書き込みがあります。

 

 これは,やはり国会の議決にかけるが,形式上法律(国民の権利ギムに関する国法)とは別の皇室典範とする意味と主張したが,先方はてんで受けつけなかつた(石)

 

 同年5月3日,河原枢密顧問官は,なおも皇室典範の法的性質について入江俊郎法制局長官に質します。

 

 河原顧問官 国会の議決云々といふことで皇室典範は法律だといはれたが憲法と国法と典範と3系統のやうに考へられる。皇室法といへば勿論さうだが〔以下略〕

 入江法制局長官 皇室典範といふのが習熟したからかいた。法といふ語を抜いたから議決がいらぬやうに見えるから議決したとかいた。又これをかゝぬと議決がいらぬ従前のもののやうに考へられる。他の系統のもののやうに考へるがといはれるが,公布の処や,最高法規の処にもかいてないからそんなことにはならぬ。

 

(2)美濃部枢密顧問官による追及

 1946年5月3日,美濃部達吉枢密顧問官からも厳しい追及があります。

 

 美濃部顧問官 皇室典範は法律の一種なりといふことに対しては疑あり。法律第 号として公布せらるるか。然らば皇室典範の特質に反す。皇室典範は一部国法なるも同時に皇室内部の法にすぎぬものあり。此の後者に天皇は発案(ママ)も御裁可権もないことは(ママ)かしい。普通の法律とは違つたものである。天皇が議会の議を経ておきめになることにせぬと困る。

 入江法制局長官 内容は現在の皇室典範がそのまゝと考へぬ〔筆者は「ぬ」と読みましたが,国立国会図書館のテキスト版は「る」と読んでいます。〕。将来は国務に関する事項のみとし度い。内部のことは皇室自らおきめになるとよいと考へた。

 美濃部顧問官 然らば皇室典範といふ名称はやめぬといかぬ。この名称は皇室の家法といふべきものなり。憲法と合併してその一部にするか普通の法律とすべし。〔以下略〕

 

ここでの美濃部枢密顧問官の議論は,次の2点にまとめられるでしょうか。

第1。「皇室典範」という題名は,本来,皇室内部のことを皇室自ら決める皇室の家法という意味を有するものである。皇室内部のことを皇室自ら決める皇室の家法は,国務に関するものである法律とは異なる。したがって,当該家法は,議会の議を経るにしても,飽くまでも天皇が発議権と裁定権とを有すべきものである。

第2。他方,旧皇室典範中「国務に関する事項」を規定するものは,「憲法と合併してその一部にするか普通の法律とすべ」きであり,かつ,当該法律に「皇室典範」という題名を付すべきものではない。(美濃部は,かねてから,皇位継承に係る大日本帝国憲法2条について「皇位継承に関する法則は,決して皇室一家の内事ではなく,最も重要なる国家の憲法の一部を為すものである。」,「言ひ換ふれば憲法は本来その自ら規定すべき事項を皇室の権能に委任して居るのであって,就中本条は皇位継承に関する皇室の自律権を認めたものである。」と(美濃部110頁,111頁),摂政に係る同17条について「摂政を置くことは固より単純な皇室御一家の内事ではなく,国家の大事であることは勿論であるから,本来の性質から言へば王室の家法を以て規定し得べき事柄ではな」い(美濃部317頁)と説いていました。しかしながら,1946年5月の枢密院における議論においては,「皇室典範」に係る美濃部の「憲法と合併」論は発展を見せずに終わりました。さすがに,大日本帝国憲法の全部改正として日本国憲法を制定した後に,続いて日本国憲法と合して日本国の憲法たるべき「皇室典範」を大日本帝国憲法の改正手続で制定するのでは,皆さんお疲れが過ぎるということでもあったのでしょう。)

 

8 法制局における整理(1946年4月から6月まで)

その間法制局において,日本国憲法2条にいう「皇室典範」に関する解釈が以下のように整理され,まとめられています(「日本国憲法の誕生」の「4‐4 「憲法改正草案に関する想定問答・同逐条説明」1946年4月~6月」参照)。

 

(1)「皇室典範」=法律(1946年4月)

1946年4月の段階で,日本国憲法2条にいう「皇室典範」は少なくとも形式的には法律であるものと整理する旨法制局において判断がされたようです。

すなわち,同月の「憲法改正草案逐条説明(第1輯)」では,第2条につき,皇位の「継承は国会の議決する皇室典範の定むる所に依ることと致しました。」とのみ書いてあって当該「皇室典範」の法的性質については踏み込んでいなかったのですが,同じ月の「憲法改正案に関する想定問答(第2輯)」には「皇室典範は法律なりや」との想定問に対して「形式的には法律でありますが,皇位継承,摂政其の他皇室の国務に関係する事項を規定内容とするものを皇室典範として立法する心算であります。」と答えるべき旨記されています。端的に法律であると断言することとはせずに,「形式的には法律でありますが」という表現を採用しているところに,なおためらいがあったことが窺われます。

なお,同じ想定問答集の「皇室典範の内容たる事項は如何」との想定問に対しては,「皇位継承,摂政その他皇室関係にして国務に関係する事項のみであります。/従前の宮務法中単なる皇室の内部に係る事項は今後公の法制上からは之を省くを至当と考へます。」と答えるものとされていました。

 

(2)国会の議決の意義付け及び「皇室典範」との指称の理由(1946年5月)

 1946年5月の「憲法改正草案逐条説明(第1輯)」において,法制局は,日本国憲法2条の「皇室典範」に係る国会の議決の意義付け及び当該指称の理由を記すに至っています。いわく。

 

 〔前略〕従来も皇位継承,摂政その他皇室に関する事項は皇室典範の定むる所として居りましたが,この皇室典範は憲法とは独立に制定せられその改正にも帝国議会の議決を必要としなかつたのであります。即ち皇室典範は,皇位継承,摂政等皇室の国務に関する事項を内容とするにも拘らず,皇室の家内法であるかの様に考へられて居たのでありますが,この考へ方は,君民一体の我国体より見て決して適当なものではないのであります。本条がこの欠点を改め,皇室典範を国会の議決により定めることとしましたのは,即ち第1条の精神に即応し,皇室を真に国民生活の中心的地位に置き,皇室と国民との直結を図らんとする趣旨であります。

 国会の議決によるのでありますから皇室典範も固より法律でありまして,皇室法とでも称して差支へないのでありますが,従来の名称を尊重して同じ名称を存置したのであります。

 

(3)法律たる「皇室典範」の発案権に係る制限ないしは工夫の模索(1946年6月)

 前記(2)においては前向きな説明をしたものの,法制局としては「皇室典範」=他の法律と全く同様の法律とまでは割り切りきれなかったようです。皇室に関する事項について国会議員の諸先生方が「差出がましい」ことをする心配もありますし,やはり政府又は国会以外の 利害関係の直接なあたりからの「その他の意思」が「皇室典範」に反映されるようにする工夫が必要であることが気付かれるに至ったのでしょう。したがって,1946年6月の「憲法改正草案に関する想定問答(増補第1輯)」には,次のような興味深い記述が見られます。

 

 問 皇室典範の制定手続は一般法律と同様か。

 答 抑々従来憲法と典範が二本建になつて居たことは天皇と国家とを合一せしめ,天衣無縫の法秩序をつくる上には望ましいことではなかつたと考へられるので,それを憲法の下にある法律たらしめたのであるからその制定手続も一般の法律と同様である。

   た国会の側から皇室について謂はば差出がましい発案は行はないと云ふ様な慣習法が成立することもあらうか,と考へる。

   又政府のみの発案に任せることなく何等かの形で,国会その他の意思をも反映させるための方法として,皇室典範の中でその改正に際して特殊の諮詢機関の議を経べきことを定めるのも一法と考へて居る。

 

9 帝国議会提出案(1946年6月20日)

以上のように日本国憲法案2条の「国会の議決した皇室典範の定めるところにより」という文言については紛糾が現に生じていたにもかかわらず,政府は,「法律の定めるところにより」と改めずにあえてそのままの案を第90回帝国議会に提出しています(「日本国憲法の誕生」の「4‐3 「帝国憲法改正案」(帝国議会に提出)1946年6月20日」参照)。

 政府としては,やはり,「国会の議決した皇室典範」は単なる法律とは何らかの点で異なるのだ,との含みないしは解釈上の余地を残しておきたかったのでしょうか。本稿のようなものが草されてしまうゆえんです。 


 
弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp
弁護士ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 高輪会議(1887年3月20日)と内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文の「高裁」

1887年3月20日に内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文,賞勲局総裁柳原前光,宮内省図書頭井上毅及び伊藤の秘書官伊東巳代治が高輪の伊藤博文別邸において行った「高輪会議」は,柳原の同月14日付け伊藤宛て書簡によれば,当時柳原が起案していた「皇室典範再稿」等について「井上毅・前光等貴館へ参会,大小(るち)縷陳(んにおよび)(こう)高裁(さいをえ)(そうら)()()公私ノ幸也(さいわいなり)不堪仰望(ぎょうぼうにたえず)(そうろう)」という趣旨で行われたものです(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立(木鐸社・1988年)187頁(振り仮名,読点及び中黒は筆者によるもの))。皇室典範の成案作成に向け,松下村塾生徒利助たりし維新の元勲・内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文の「高裁」を得ようとするものですから,はなはだ重い。この高輪会議については,筆者も当ブログで何度か御紹介したところです。

 

「明治皇室典範10条に関して」

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.html

「続・明治皇室典範10条に関して」

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060127005.html

 

 同会議において,柳原「皇室典範再稿」の「第1章 皇位継承」中「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」と規定する第12条が伊藤及び柳原の首唱で削られ(小嶋「明治皇室典範」190頁),それに伴い同「第2章 尊号践祚」中第17条の「天皇崩シ又ハ譲位ノ日皇嗣践祚シテ即チ尊号ヲ襲ヒ祖宗以来ノ神器ヲ承ク」との規定が伊藤の首唱によって「第10条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と修正されました(小嶋「明治皇室典範」191頁)(章名も伊藤の首唱で「第2章 践祚即位」に変更(小嶋「明治皇室典範」190頁))。その結果,天皇の生前退位は,明治天皇の裁定に係る1889年2月11日の皇室典範(第10条が「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定)及び昭和天皇の裁可(1947年1月15日)に係る昭和22年1月16日法律第3号の皇室典範(第4条が「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」と規定)を通じて一貫して認められないもの(無効である,ということでしょう。)とされているものと広く解されていることは周知のとおりです(ただし,岩井克己「宮中取材余話・皇室の風103」選択43巻3号(2017年3月1日号)88頁を参照)。

 伊藤博文の「高裁」の重みは()くの如し,というべきか。

 実務上,伊藤博文名義の『皇室典範義解』の記述(「本条〔明治皇室典範10条〕に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はる者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」(下線は筆者によるもの)。なお,筆者は岩波文庫版の宮沢俊義校註『憲法義解』(1940年)を用いています。)は,皇室典範の本文それ自体に勝るとも劣らぬ解釈上の権威を有するものなり,というべきでしょうか。

 しかしながら,伊藤の「高裁」ないしは『皇室典範義解』における託宣にも,動揺し,遂に後には撤回変更に至らざるを得なくなった例があるところです。長州出身の大宰相だからとて,なかなか信用し切るわけにはいきません。

 永世皇族制(皇族は子々孫々永世皇族であるものとする制度)の採否をめぐる問題がそれです。

 

2 高輪会議における臣籍降下制度の採用と伊藤の変心・食言

 1887年3月20日の高輪会議の冒頭,柳原前光は,伊藤博文の見解を質し,「皇玄孫以上ヲ親王ト称シ以下ヲ諸王ニ列シ皇系疎遠ナルモノハ逓次臣籍ニ降シ世襲皇族ノ制ヲ廃スル事。附山階宮久邇宮庶子ヲ臣籍ニ列セラルル事」との確認を得ています(小嶋「明治皇室典範」188頁)。すなわち,臣籍降下制度を伴うことのない永世皇族制を採らないとの言質を内閣総理大臣兼宮内大臣から取ったわけです。柳原の「皇室典範再稿」の第105条には「皇位継承権アル者10員以上ニ充ル時ハ皇玄孫以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍ニ列スルコトアルヘシ」とあり,高輪会議を経て「第64条 皇位継承権アル皇族ノ増加スルニ随ヒ皇玄孫以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍ニ列スヘシ」となっています(小嶋「明治皇室典範」199頁)。「臣籍ニ列スルコトアルヘシ」から「臣籍ニ列スヘシ」へと,天皇から遠縁の皇族にとっては厳しい表現になっています。(なお,明治天皇の権典侍柳原愛子の兄である柳原前光は,後の大正天皇である嘉仁親王(1887年3月当時満7歳)の実の伯父に当たります。)

高輪会議を承けて同年4月25日に伊藤博文に,同月27日に井上毅にそれぞれ提出された柳原の「皇室典範草案」では「第71条 皇位継承権アル者増加スルニ従ヒ皇位ヲ距ルコト5世以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍ニ列スヘシ」となっており,それを井上は同年8月より前の段階で「第 条 皇族ノ増加スルニ従ヒ5世以下ノ疎属ハ逓次臣籍ニ列スヘシ」と修正しています(小嶋「明治皇室典範」202頁・206頁・208頁。ここで修正された皇室典範案は「井上の七七ヶ条草案」と呼称されています。)。

 しかし高輪会議におけるこの伊藤の「高裁」は動揺し,食言となります。すなわち,井上毅の前記七七ヶ条草案に対し,伊藤は変心したのか,「皇族ヲ臣籍ニ列スル2条削ルベシ」と指示するに至っているところです(小嶋「明治皇室典範」209頁・220頁)。

 

3 永世皇族制論者井上毅の1888年3月20日「修正意見」

とはいえこれは,井上毅にとっては喜ぶべき食言だったでしょう。18821218日に岩倉具視が総裁心得となった宮内省の内規取調局(駐露公使であった柳原前光とも連絡)による1883年の皇族令案には「親王ヨリ5世ニ至リ姓ヲ賜ヒ華族ニ列シ家産ヲ賜ヒ帝室ノ支給ヲ止ム/但シ養子トナルモ(なお)其ノ世数ヲ変スルコトナシという規定があったのでしたが,同年7月付けの「参謀山県有朋」名義の文書を代筆して,井上は・・・果シテ然ラハ四親王家ノ如キモ終ニ之ヲ廃セントスル() 按スルニ伏見宮ハ崇光ノ皇子栄仁親王ヲ祖トシ其ノ後八条宮今ノ桂宮高松宮今ノ有栖川宮閑院宮ヲ立テラレ(おのおの)猶子親王ヲ以テ世襲ノサマトナリ来レルハ・・・朝議継嗣ヲ広メ皇基ヲ固ウスルノ深慮ヨリ創設セラレシ者ナラン ・・・五百年ノ久シキニ因襲シ来ルトキハ今日ニ在リテ容易ニ廃絶ス()キニ非ス ・・・将来皇胤縄々ノ盛ナルニ拘ラス旧ニ依テ此ノ四家ヲ存シ四家(もし)継嗣ナキトキハ(すなわち)他ノ皇親ヲ以テ之ヲ継カシメ永ク小宗支流トナサンコト遠大ノ計ナルヘキ() 又5世ニ至リ華族ニ列スルノ議ハ周ノ礼ニ五世而親尽トイヒ大宝令ニ自親王(しんのうより)五世(おうのな)(をえた)王名(りといえども)不在皇親之限(こうしんのかぎりにあらず)トイヘルニ拠レルカ 然ルニ右ニ親尽トイフモ族尽トイハス 不在皇親之限(こうしんのかぎりにあらず)トイフモ不在皇族之限(こうぞくのかぎりにあらず)トイハス 故ニ5世以下ハ挙ケテ皇族ニ非ストナスコト(また)古典ニ(そむ)クニ似タリ ・・・」と批判していたところでした(小嶋和司「帝室典則について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』119頁‐124頁。振り仮名は筆者によるもの)。

1888年3月20日の井上の「修正意見」においては,井上の七七ヶ条草案から「第70条 皇族増加スルニ従ヒ5世以下疎属ヨリ逓次臣籍ニ列スヘシ」及び「第71条 皇族臣籍ニ列スル時ハ姓ヲ賜ヒ爵ヲ授ク」の2箇条はざっくり削られています(小嶋「明治皇室典範」210頁・220頁)。

 

4 枢密院審議における議長・伊藤の動揺

ところが,枢密院における皇室典範案の審議が始まり,1888年6月4日午後,皇室典範案第33条(「皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ生レナカラ男ハ親王女ハ内親王ト称フ5世以下ハ生レナカラ王女王ト称フ」)に関し,三条実美内大臣が口火を切って臣籍降下制度の必要を説き(「或ハ但シ書キヲ以テスルモ可ナリ桓武天皇以来ノ成例ヲ存シ姓ヲ賜フテ臣下ニ列スルノ余地ヲ存シ置タシ」),枢密顧問官ら(土方久元宮内大臣兼枢密顧問官,山田顕義司法大臣,榎本武揚逓信大臣兼農商務大臣,佐野常民枢密顧問官及び吉井友実枢密顧問官並びに次の伊藤議長発言後には寺島宗則枢密院副議長及び大木喬任枢密顧問官)からも例外なき永世皇族制採用に対する疑問ないしは臣籍降下制度に賛成する意見が次々と提示されると,伊藤博文枢密院議長は動揺します(これらの枢密院の議事の筆記は,アジア歴史資料センターのウェッブ・サイトで見ることができます。)。

 

議長 各位ノ修正説モ種々起リタレトモ,本条ニハ決シテ人臣ニ下スヲ得スト云フ(こと)ナシ。説明モ人臣ニ下スヲ禁スルノ意ニアラス。抑モ典範ハ未タ人臣ニ下ラサル皇族以上ノ為メニ設クルモノニシテ,既ニ人臣ニ降リタル者ハ典範ノ支配スル所ニアラス。又外国ノ例ヲ引テ皇族ノ人臣ニ列スルノ可否ヲ論セラルレトモ,外国ニ於テハ皇族ノ臣ニ列スルニ姓ヲ賜フト云フカ如キ厳格ナルモノアラス。故ニ比類シテ論スヘキニアラス。要スルニ此問題ハ典範中ノ難件ニシテ,最初原案取調ノ際ニハ5世以下人臣ニ下スノ条ヲ設ケ漸次疎遠ノ皇族ヨリ人臣ニ下スヿヲ載セタリシカ,種々穏カナラサル所アリテ遂ニ削除シタリシナリ。(振り仮名及び句読点は筆者によるもの)

 

 要は,伊藤博文が言いたかったのは,皇室典範案の文言だけ見ると例外なき永世皇族制度であって皇族の臣籍降下はないように見えるがそうではないのだよ,現に我々も原案においては臣籍降下制度の明文化を考えていたけれども「種々穏カナラサル所アリテ遂ニ削除シタ」だけなのだよ,オレが悪いんじゃないよ,ということのようです。

 しかし,このような説明が通るのであれば,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定する明治皇室典範10条についても,「本条ニハ決シテ譲位スルヲ得スト云フヿナシ説明〔「上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり」〕モ譲位ヲ禁スルノ意ニアラス・・・要スルニ此問題ハ典範中ノ難件ニシテ最初原案取調ノ際ニハ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得ノ規定ヲ設ケ譲位ノヿヲ載セタリシカ種々穏カナラサル所アルト思ヒテツイ削除シタリシナリ」といい得てしまうことになりそうです。
 なお,皇室典範枢密院諮詢案
33条について伊藤博文が言及する「説明」は,『皇室典範義解』の基となった枢密院の審議資料として配布されたコンニャク版(小嶋「明治皇室典範」258頁)の「皇室典範義解草案 第一」のことでしょう(伊藤博文編,金子堅太郎・栗野愼一郎・尾佐竹猛・平塚篤校訂『帝室制度資料 上巻〔秘書類纂第19巻〕』(秘書類纂刊行会・1936年)81頁以下。なお,『秘書類纂』も国立国会図書館のウェッブ・サイトで見ることができます。)。「皇室典範義解草案 第一」における枢密院諮詢案第32条(「皇族ト称フルハ太皇太后皇太后皇后皇子孫皇女孫及皇子孫ノ妃ヲ謂フ」)の説明には,「凡ソ皇族ノ男子ハ皆皇位継承ノ権利ヲ有スルモノナリ。・・・蓋シ5世ノ内外ハ親等ヲ分ツ所以ニシテ,其ノ宗族ヲ絶ツニ非ザルナリ。故ニ中世以来,(かたじけなく)累封邑(ふうゆうをかさね)空費府庫(むなしくふこをついやす)ヲ以テ(嵯峨天皇詔)姓ヲ賜ヒ臣籍ニ列スルノ例ハ本条ノ取ラザル所ナリ。・・・(之ヲ外国ニ参照スルニ,凡ソ王位継承ノ権アル者ハ総テ王族ト称ス,而シテ君主ノ子孫兄弟伯叔姪ノミヲ称ヘテ専ラ王族ト謂ヘル場合アルハ,其ノ等親及ビ特別ノ敬礼ニ就テ謂ヘルナリ,・・・若シ(それ)姓ヲ改メテ臣ト為ルノ事ハ各国ノ見ザル所ナリ)とあります(伊藤編『帝室制度資料 上巻』109110頁。振り仮名は筆者によるもの)。「中世以来・・・ノ例ハ本条ノ取ラザル所ナリ」は,「中古以来・・・の慣例を改むる者なり」と酷似した理由付けです。

 1888年6月4日に続く同月6日午前の枢密院の審議において,永世皇族制の推奨者である井上毅枢密院書記官長の見解は,伊藤議長を厳しく叱咤するごとし。

 

 ・・・議長ト其意見ヲ異ニセサルヲ得ス。本条〔枢密院諮詢案第33条〕正文ノ構成ヲ正当ニ読下セハ,天皇ノ御子孫ハ万世王女王ナリ。(句読点は筆者によるもの)

 

「・・・5世以下ハ生レナカラ王女王ト称フ」なのですから,「本条正文ノ構成ヲ正当ニ読下セハ天皇ノ御子孫ハ万世王女王ナリ」であることは当然のことです。問題は,「本条ニハ決シテ人臣ニ下スヲ得スト云フヿナシ」と言う伊藤「議長ト其意見ヲ異ニセサルヲ得ス」の部分ですが,これは,「生レナカラ王女王」として皇室典範の条文上有する特権を皇室典範における明文の根拠なしに当人の意思を無視して一方的に剥奪して「人臣ニ下ス」ことができないことはもちろんだ,ということでしょう。天皇ないしは天皇及び皇嗣自らの意思に基づくものである生前退位ないしは譲位とは,問題の場面が異なるようです。

臣籍降下制度の規定を設けるかどうかに係る前記の問題は,1888年6月6日午前,ついに採決となり,当該規定を設けることに賛成する者は10名,原案そのままに賛成する者14名で,1889年2月11日の皇室典範においては皇族の臣籍降下の制度は設けられないこととなりました(なお,小嶋「明治皇室典範」244頁)。

さて,賛成者・反対者の色分けはどうだったのでしょうか。伊藤議長及び寺島副議長以外の皇族,国務大臣及び枢密顧問官の出席者は合計24名でした。これらのうち,臣籍降下制度条項に賛成する発言をしていた者は,三条,土方,山田,榎本,佐野,吉井及び大木の7名,臣籍降下制度条項を不要とする発言をしていた者は松方正義大蔵大臣,副島種臣枢密顧問官及び河野敏鎌枢密顧問官の3名。残り14票は,熾仁親王,彰仁親王,能久親王,威仁親王,黒田清隆内閣総理大臣,山県有朋内務大臣,大隈重信外務大臣,大山巌陸軍大臣,森有礼文部大臣,福岡孝弟枢密顧問官,佐々木高行枢密顧問官,東久世通禧枢密顧問官,元田永孚枢密顧問官及び吉田清成枢密顧問官。これら14票はどう分かれたものでしょうか。柳原,三条等に見られるように一般に永世皇族制に冷淡なような公家の出身者の東久世枢密顧問官は臣籍降下制度条項に賛成したでしょうか。永世皇族制度を説く井上毅に名義を貸したことのある山県有朋は不要論でしょう。審議中沈黙を守っていた宮様ブロックの4名は,一致して臣籍降下条項不要の側に立ったことでしょう。

5 明治皇室典範30条及び31条と井上毅及び柳原前光

 

(1)井上毅

最終的に,1889年2月11日の皇室典範の第30条及び第31条は,次のとおりとなりました。

 

30条 皇族ト称フルハ太皇太后皇太后皇后皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃内親王王王妃女王ヲ謂フ

31条 皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ内親王トシ5世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス

 

皇室典範に別に特則が設けられなければ,当該皇族の同意なき一方的臣籍降下はないわけですが,「本条ニハ決シテ人臣ニ下スヲ得スト云フヿナシ」との伊藤博文発言が飛び出すような状況では,永世皇族制論者としての井上毅は不安であったでしょう。また,後に皇室典範の改正又は増補がされてしまうかもしれません。条文の外に「説明」においても強固な防備をしておく必要が感じられたもののようです。明治皇室典範10条に係る「・・・中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」との説明だけでは天皇の終身在位論の理由付けとしては弱いものとつとに考えていたであろう井上は(注),「皇室典範義解草案 第一」にあった「・・・故ニ中世以来,辱累封邑空費府庫ヲ以テ(嵯峨天皇詔)姓ヲ賜ヒ臣籍ニ列スルノ例ハ本条ノ取ラザル所ナリ。」だけでは同様に不十分であると当然思ったことでしょう(1888年6月4日午後の枢密院会議において松方大蔵大臣は,「断言」する強い表現だと受け取ってくれていたのですが。)。

(注)ついでながら,明治皇室典範10条の説明は,「皇室典範義解草案 第一」では「・・・中古権臣ノ強迫ニ因リ,両統互譲十年ヲ限トスルニ至ル。而シテ南北朝ノ乱亦此ニ源因セリ。故ニ後醍醐天皇ハ遺勅シテ在世ノ中譲位ナク,又剃髪ナカラシム(細々要記)。本条ニ践祚ヲ以テ先帝崩御ノ後ニ行ハルルモノト定メタルハ,上代ノ恒典ニ因リ中古以来譲位ノ慣例ヲ改ムルモノナリ。」となっていました(伊藤編『帝室制度資料 上巻』93頁。下線は筆者によるもの)。非妥協的かつ戦闘的な御性格であらせられた『太平記』の大主人公・後醍醐天皇の遺勅であるから終身在位なのだ,持明院統には互譲などせず皇位は譲らないのだ,ということではかえって剣呑であるようです(現皇室は持明院統の裔)。そもそも後醍醐天皇(大覚寺統傍系)は,文保の和談を承けて,在位10年の花園天皇(持明院統)から譲位を受けることができたところです。『皇室典範義解』においては書き改められて,後醍醐天皇云々が消えているのはあるいは当然の措置でしょう。

 したがって,『皇室典範義解』においては,「凡そ皇族の男子は皆皇位継承の権利を有する者なり。故に,中古以来
空費府庫(むなしくふこをついやす)を以て姓を賜ひ臣籍に列するの例は本条の取らざる所なり。」との説明(第30条解説)に加えて,1888年6月4日午後の枢密院会議で井上が弁じた永世皇族制弁護論の要旨が第31条解説に次のように付加されています。「皇室典範義解草案 第一」の枢密院諮詢案33条解説にはなかったものです。

 

 大宝令5世以下は皇親の限に在らず。而して正親司(おおきみのつかさ)司る所は4世以上に限る。然るに,継体天皇の皇位を継承したまへるは実に応神天皇5世の孫を以てす。此れ(すなわ)ち中古の制は(かならず)しも先王の遺範に非ざりしなり。本条に5世以下王・女王たることを定むるは,宗室の子孫は5世の後に至るも,亦皇族たることを失はざらしめ,以て親々の義を広むるなり・・・。

 
 井上は,前記枢密院会議において,「不幸ニシテ皇統ノ微継体天皇ノ時ノ如キことアラハ5世6世ハ申スまでモナシ百世ノ御裔孫ニ至ル迠モ皇族ニテハサンヿヲ希望セサルベカラス」「姓ヲ賜フテ臣籍ニ列スルノヿハ大宝令ニモ之ヲ載セス畢竟中古以後王室式微ノ時代一時ノ便宜ニ従テ御処分アリシ事ナルカ如シ」「皇葉ノ御繁栄マシマサハ是レ誠ニ喜フベキ事ニシテ継体天皇宇多天皇ノ御場合ノ如キハ大ニ不祥ノ事ト云ハサルヘカラス然ラハ仮令多少ノ支障ハアラントモ成ルベク皇族ノ区域ヲ拡張スルヿ誠ニ皇室将来ノ御利益ト云フヘシ」等と熱弁をふるっていたところです。

DSCF0812
DSCF0817
 
桓武天皇及び継体天皇ゆかりの交野天神社(大阪府枚方市)

(2)柳原前光

 臣籍降下制度設置論者である柳原前光は,当該制度を皇室典範に設けないという食言的決定に対して,1888年5月頃伊藤博文宛てに次のように書き送っていました(「皇室典範箋評」。小嶋「明治皇室典範」238頁。振り仮名は筆者によるもの)。

 

 拙者ハ祖宗ノ例ヲ保守シ疎属ヨリ逓次臣籍ニ列スルノ持説ナリ 但シ本案永世皇族ヲ設クルニ決セラレタル上ハ波瀾ヲ避ケ謹テ緘黙傍観ス (より)テ安意ヲ乞フ 但シ遅ク(さんじゅう)年以内ヲ出テス実際大ニ(くるし)ミ必ス此事件ヨリ典範修正アラン 若シ不幸ニシテ其事ニ()閣下(こいねがわ)クハ僕ノ先見者タルヲ保証セラレンコトヲ願フ(のみ) 恐(しょう)々々

 

柳原は,枢密顧問官になるには年齢が足りず,枢密院における皇室典範案の審議に参加することができませんでした。

 

6 1907年の皇室典範増補と臣籍降下制度の(再)導入

 

(1)1907年皇室典範増補

しかしてその後,1889年の明治皇室典範の裁定から18年しかたたぬ1907年2月11日,皇族の臣籍降下制度を定める皇室典範増補が明治天皇により裁定され,同日公布(公式令(明治40年勅令第6号)4条1項)されました。

 

第1条 王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムルコトアルヘシ

 第2条 王ハ勅許ニ依リ華族ノ家督相続人トナリ又ハ家督相続ノ目的ヲ以テ華族ノ養子トナルコトヲ得

 第4条 特権ヲ剥奪セラレタル皇族ハ勅旨ニ由リ臣籍ニ降スコトアルヘシ

  〔第2項略〕

 第5条 第1条第2条第4条ノ場合ニ於テハ皇族会議及枢密顧問ノ諮詢ヲ経ヘシ

 第6条 皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス

 

(2)草葉の陰

 

ア 山田顕義

 1888年6月6日午前の枢密院会議で,「種々穏カナラサル所」からの影響のゆえか何のゆえか臣籍降下制度不要論を強硬に吠えた河野敏鎌(この人物は,司馬遼太郎の『歳月』において,「いい親分がみつかると,河野はどんなことでもする」と書かれてしまっていて損をしています。筆者は『歳月』に関して本ブログに記事(「司馬遼太郎の『歳月』の謎の読み方」)を書いたことがあります。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1842010.html)の発言に関して,「・・・本条原案ノ(まま)ニ存シ置クハ典範上ノ体面ハ美ナルカ(ごと)シト(いえど)モ,18番〔河野敏鎌〕自身ニモ既ニ陳述シタル如ク,本条将来ノ変換ハ勢ヒ免レ難キ所トス。賜姓列臣ヲ明条ニ掲クルハ忍ヒサル所ナリト雖モ,皇室万世ノ為メニ模範ヲ(のこ)サントスル今日ニ於テ,姑息ニ流レ徒ラニ体面(よそおう)ハ本官ノ取ラサル所ナリ。其変換ニシテ予期スヘカラサラシメハ止マン。(いやしく)モ予期スヘクンハ,他日典範ヲ変換シテ賜姓列臣ノ例ヲ開カサルヘカラサルノ時期ニ際会シ,何ノ必要アリテ祖宗千年ノ習慣ヲ此ノ中間ニ特ニ変更シタルカヲ(わら)フヘシ・・・次ニ18番ハ,御先代ノ経験ヲ鑑ミ帝室将来ノ利益ヲ(おもんぱかっ)テ之ヲ今日ニ改ムルハ忠精ヲ(つく)所以(ゆえん)ナリト論シタリ。然レトモ,他日必ス御先代ノ例ニ復スヘキヲ期シナカラ差シタル必要ナクシテ(みだ)リニ之ヲ改ムルハ,遂ニ後世ノ(わらい)ヲ免レス。各位幸ヒニ18番ノ説ニ迷ハス,23番〔佐野常民〕6番〔三条実美〕ノ修正ニ賛成アリタシ」(振り仮名及び句読点は筆者によるもの)と,臣籍降下制度を結局は導入する破目になって嗤われ者になるなとの警告を発していたこちらは長州の武家出身の山田顕義は,18921111に急死していました。山田がボアソナアドの協力を得てその編纂に心血を注いだ(旧)民商法の施行延期法(明治25年法律第8号(民法及商法施行延期法律))が明治天皇によって裁可されたのは山田急死の月の22日(副署した内閣総理大臣は伊藤博文,司法大臣は山県有朋),公布されたのは同月24日でした。


DSCF0598
 
山田顕義胸像(東京都千代田区三崎町の日本大学法学部前)

イ 柳原前光

臣籍降下制度導入に係る「先見者タルヲ保証セラレ」ることを見ることなく,柳原前光は,日清戦争の対清宣戦布告の翌月,1894年9月2日に早逝しました。

DSCF0497
右から4行目に「俊德院殿頴譽巍寂大居士 明治二十七年九月二日薨光愛卿二男/正二位勲一等伯爵柳原前光行年四十五歳」と彫られてあります(祐天寺(東京都目黒区中目黒)の柳原家墓所。なお,右後方に見えるのは,大正天皇の生母である柳原愛子の墓です。)。
 

ウ 井上毅

 永世皇族制の防衛者たるべかりし井上毅は,1895年3月17日,宿痾の結核で不帰の客となりました。伊藤博文が陸奥宗光と共に下関・春帆楼で李鴻章と第1回日清講和会談を行う3日前のことでした。

 

 「国家多事の日に際して,蒲団の上に死す。斯る不埒者には,黒葬礼こそ相当なれ」(長尾龍一「陰沈たる鬼才の謀臣 井上毅」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)3738頁参照)

 DSCF0377
井上毅の墓(東京都台東区瑞輪寺)

(3)生き残る男・伊藤博文

ところで,1907年の皇室典範増補裁定の仕掛け人はだれだったでしょうか。ほかでもない,高輪会議での決定を翻して井上毅の七七ヶ条草案に対し「皇族ヲ臣籍ニ列スル2条削ルベシ」と食言的な指示をするに至った夫子御自身――伊藤博文その人でした。

19041012日に帝室制度調査局総裁として伊藤博文が明治天皇に対して行った上奏にいわく。

 

  臣博文帝室制度調査ノ

大命ヲ(つつし)ミ伏シテ(おもんみ)ルニ,皇室典範ハ

陛下立憲ヲ経始(けいし)〔開始〕シタマヘル制作ノ一ニシテ,帝国憲法ト並ニ不刊(ふかん)〔摩滅しない〕ニ垂ル,(しこう)シテ国家ノ景運蒸々(じょうじょう)向上するさまトシテ()(へん)〔大いに変ずる〕シ,皇室ノ基礎益々鞏固ニシテ文経武緯国光(あまね)寰宇(かんう)〔天子の治める土地全体〕ニ顕揚スルコト,今ハ(はるか)(ちゅう)(せき)ノ比ニアラズ。・・・是ニ於テ()皇室ノ宝典モ(また)(いささ)カ其ノ未ダ備ハラザルモノヲ増補シテ以テ(こう)(こん)〔後の子孫〕ニ昭示スルノ必要ヲ生ズ。即チ皇族支胤ノ繁盛ト皇室費款ノ増益トニ視テ,其ノ疎通ヲ図ルガ如キ・・・ハ特ニ其ノ(ゆう)ナルモノニシテ,実ニ日新ノ時宜ニ鑑ミ乾健ノ宏綱ヲ進張スル所以(ゆえん)ノ道ナルコトヲ信ズ。(ここ)ニ別冊皇室典範増補条項ニ付キ慎重審議ヲ()ヘ,其ノ事由ヲ前条ノ下ニ注明セシメ謹デ上奏シ(うやうやし)

 聖裁ヲ仰グ。(伊藤博文編,金子堅太郎・栗野愼一郎・尾佐竹猛・平塚篤校訂『雑纂 其壱〔秘書類纂第24巻〕』(秘書類纂刊行会・1936年)2526頁。振り仮名は筆者によるもの

 

 「何が今更「是ニ於テ乎皇室ノ宝典モ亦聊カ其ノ未ダ備ハラザルモノヲ増補シテ以テ後昆ニ昭示スルノ必要ヲ生ズ」だ,最初から臣籍降下制度がのちのち必要になるって分かっていたくせに。自分の失敗を棚に上げて。」と,1888年6月4日午後及び同月6日午前の枢密院会議のいずれにも臨御していた明治天皇は,内心苦笑いしていたことでしょう。

 とはいえ,山田,柳原,井上らは既に亡し。「何ノ必要アリテ祖宗千年ノ習慣ヲ此ノ中間ニ特ニ変更シタ」んだったっけねと嗤われもせず,それみたことか「僕ノ先見者タルヲ保証セ」よと嫌味を言われもせず,「其意見ヲ異ニセサルヲ得ス」と叱られもせず,政治家たるもの,長生きするのが勝ちです。

 

7 皇室典範の「増補」について

 しかしながら,「改正」といわず,「亦聊カ其ノ未ダ備ハラザルモノヲ増補」という方が法典に手を入れやすいですね。「改正」ですと,被改正条項が将来のことをよく考えていなかったから状況の変化に対応しきれずに駄目になったので改めて正されねばならないのか,あるいは最初から駄目だったので改めて正されねばならないのか,ということでそもそもの立法者の面子の問題になってしまいます。その点を避けることのできる「増補」概念は,皇室典範自身の規定するものです。

 

 第62条 将来此ノ典範ノ条項ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要アルニ当テハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シテ之ヲ勅定スヘシ

 

状況が変化してしまったので足らざるところが生じたところ,当該変化に素直に応じた増補である,という方が,説明がしやすい。「増補」概念がそもそも組み込まれている点において,皇室典範は動的かつ柔軟ないわば開かれた規範体系である,ともいい得るかもしれません。伊藤博文は,自身の失敗指示の回復策である1907年皇室典範増補の実現に向けて,当該「増補」概念をうまく活用したということであるようにも思われます。(ただし,公式令4条1項における整理では,「増補」は「改正」に含まれるものとされているようです。)

 しかしてこの「増補」概念の導入者はだれでしょうか。

 柳原前光です。

1887年3月20日の高輪会議後の同年4月25日に伊藤博文に,同月27日に井上毅にそれぞれ提出された柳原の前記「皇室典範草案」において,「此典範ヲ改正増補セント欲スル時ハ皇族会議及ヒ内閣,宮中顧問官ニ諮詢シ之ヲ決定ス」との条項が新加されていたところです(小嶋「明治皇室典範」202203頁。下線は筆者によるもの)。井上毅はその七七ヶ条草案に至る過程において,当該条項については,「此ノ典範ハ改正増補スヘカラザル者ナリ 改正増補ハ不得已(やむをえざる)ノ必要ニ限ルヘキナリ 故ニ左ノ如ク修正スヘシ/将来此ノ典範ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要ヲ見ルニ当テハ皇族会議及内閣宮中顧問官ニ諮詢シ之ヲ決定スヘシ」とています(小嶋「明治皇室典範」207頁。振り仮名は筆者によるもの)。確かに「欲スル」だけで改正増補がされ得るのはおかしい。しかしながら,「増補」概念は維持されています。

上記高輪会議の結果としては「天皇譲位の制度の否認されたことがもっとも注目される」ところですが(小嶋「明治皇室典範」200頁),その直後における皇室典範に係る「増補」概念の導入に当たって柳原及び井上の念頭に共通にあったのは,生前退位ないしは譲位に関する規定の「増補」だったのかもしれません。(臣籍降下制度についてまず「増補」がされることになるとは,高輪会議の終了時点では予想されていなかったでしょう。)

 

・・・是ニ於テ乎皇室ニ関スル法典モ亦聊カ其ノ未タ備ハラサルモノヲ増補シテ以テ後昆ニ昭示スルノ必要ヲ生ス即チ 聖上及ヒ皇族ノ御長寿ト国事行為及ヒ象徴トシテノオ務メノ御増益トニ視テ皇位ノ疎通ヲ図ルカ如キハ特ニ其ノ尤ナルモノニシテ実ニ日新ノ時宜ニ鑑ミ乾健ノ宏綱ヲ進張スル所以ノ道ナルコトヲ信ス・・・

 

 無論,臣下による天皇の廃位に関する規定の増補ということは全く考えられていなかったはずです。
 また,そのような国賊的なことを,長州出身の元尊皇の志士・俊輔伊藤博文が許したわけがありません。文久二年十二月二十一日(1863年2月9日),和学講談所の塙忠宝は,「天皇廃立の先例を調べているとの風聞によって」,伊藤博文(当時21歳)らによって暗殺されています(伊藤博文伝(春畝公追頌会編)に基づく『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)の記載。塙は翌二十二日死亡)。
森鷗外の『澀江抽斎』(1916年)のその七十六には,「此年〔文久二年〕十二月二十一日の夜,塙次郎が三番町で刺客せきかくおとた。岡本さうである。次郎温古た。保己一四谷寺町祖父である。当時流言次郎安藤対馬のぶゆき廃立先例取り調わうくわである。遺骸大逆天罰があた。次郎文化十一年四十九歳わかであた。」とあす。

 
DSCF0864

 大勲位伊藤博文公墓所(東京都品川区西大井)

 DSCF0866
DSCF0863
 
19091026日午前狙撃を受け清国ハルビン駅の〕車室内に横臥した〔伊藤〕博文は,小山医師及び出迎への露国医師の応急手当てを受けながら,

大分(だいぶ)弾丸(たま)やうだ。何奴(どいつ)だ」た。

「朝鮮人ださうです。」

 中村〔是公〕満鉄総裁が説明すると,

「馬鹿」と言つたがその時,彼の顔色が急変して,脂汗が流れ出した。(久米正雄『伊藤博文伝』(改造社・1931年)384頁)

 

 同日午前10時死亡。享年69歳。190911月4日日比谷公園で国葬。

 

 葬儀が済む頃は雨になつた。濡れそぼつた柩は,数個中隊の騎兵に護られ,少数の親戚知友に送られて,大森なる恩賜館附近,(たに)(だれ)(うづ)められた。(久米390頁)


弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp


弁護士ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 序

 筆者は,かつて「「法の下の平等」(日本国憲法14条1項)の由来に関する覚書」などという大仰な題名を掲げたブログ記事(2015年9月26日)を書きましたが,当該記事の中にあって筆者の主観において主役を務めていたのは,「1946年2月28日の松本大臣の決断によって,19世紀トニセン流の狭い射程しかない法律の前の平等概念を超えた,広い射程の「法(律)の下の平等」概念が我が国において生まれたと評価し得るように思われます。」との評価を呈上することとなった憲法担当国務大臣松本烝治でした。松本烝治こそが,日本国憲法14条1項の前段と後段との連結者であって,その結果,同項の「法の下の平等」概念はその後松本自身も予期しなかったであろう大きな発展を遂げることになった,というのが筆者の観察でした。

 松本大臣の筆先からは,思いもかけぬ日本国憲法上の論点がひょこりと飛び出して来るようです。

 今回筆者が逢着したのは,天皇に係る日本国憲法4条1項後段の「国政に関する権能」概念でした。

 

天子さま――という表現を,松本国務相は使う。

  〔中略〕

  「父にしてみれば,ほかの明治人と同じように,ひたすら天子さまでしょ。終戦にしても,天皇制を護持するために終戦にしたんで,日本人民のためにだけ終戦にしたのじゃないという考え方ですよ」

  と,松本正夫がいい〔後略〕

   (児島襄『史録 日本国憲法』(文春文庫・1986年(単行本1972年))88頁,90頁)

 

 ということで,松本烝治は天皇及び皇室のためを思って仕事をしていたようなのですが,天皇の意思表示と「天皇は,国政に関する権能を有しない。」とする日本国憲法4条1項後段との関係を検討しているうちに,筆者は,忠臣小楠公・楠木正行の四條畷における奮闘がかえって不敬の臣・高師直の増長を招いてしまったようなことがあったなぁというような感慨を覚えるに至ったのでした。(奇しくもいずれも,四条がらみの戦いでした。)

 

「「法の下の平等」(日本国憲法14条1項)の由来に関する覚書」

(松本烝治は後編に登場します。)

前編http://donttreadonme.blog.jp/archives/1041144048.html

後編http://donttreadonme.blog.jp/archives/1041144259.html


DSCF0809
 
小楠公・楠木正行像(大阪府大東市飯盛山山頂)

  返らじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞ留むる


DSCF0798
 
小楠公・楠木正行墓(大阪府四條畷市)

馬には放れ,身は疲れたり。今はこれまでとや思ひけん,楠帯刀正行,舎弟次郎正時,和田新発意〔正行・正時のいとこ〕,三人立ちながら差し違へ,同じ枕に臥したりけり。吉野の御廟にて過去帳に入りたりし兵,これまでなほ63人討ち残されてありけるが,「今はこれまでぞ。いざや面々,同道申さん」とて,同時に腹掻き切つて,同じ枕に臥しにけり。(兵藤裕己校注『太平記(四)』(岩波文庫・2015年)232頁)

 ・・・ただこの楠ばかりこそ,都近き殺所(せつしょ)両度藤井寺合戦・住吉合戦大敵(なび)吉野村上ぬ。京都(よりかか)恐懼和田片時(へんし)1348年)一月五日〕,聖運すでにかたぶきぬ。・・・(同234頁)


2 関係条文

 日本国憲法4条1項は「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」と規定しています。三省堂の『模範六法』にある英文では“The Emperor shall perform only such acts in matters of state as are provided for in this Constitution and he shall not have powers related to government.”となっています。

 下らない話ですが,日本語文では,天皇は「この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ」という表現になっているので,天皇は当該国事行為をする以外は食事睡眠等を含めて何もしてはならないのかという余計な心配をしたくなるのですが,英語文では,国事(matters of state)についてはこの憲法の定める行為しかしないのだよと読み得るので一安心です。政府見解的には「国事行為は,天皇の国家機関としての地位に基づく行為」であるそうですから(園部逸夫『皇室法概論』(第一法規・2002年)124頁),換言すると,日本国憲法4条1項前段は,天皇が国家機関としての地位に基づき行う行為は「この憲法の定める国事に関する行為のみ」だということのようです。(ちなみに,「宮廷費で賄うこととされている」天皇の「公的行為」は,「天皇の自然人としての行為であるが,象徴としての地位に基づく行為」です(園部131頁,126頁)。)

日本国の日本国憲法の解釈に英語が出てくるのはわずらわしくありますが,1946年の日本国憲法制定当時の法制局長官である入江俊郎は,日本国憲法の英語文について「アメリカとの折衝では,英文で意見を合致した。憲法解釈上有力な参考になる。」と同年の枢密院審査委員会で述べていたところです(佐藤達夫(佐藤功補訂)『日本国憲法成立史 第三巻』(有斐閣・1994年)387頁)。

 

3 GHQ草案

 話を1946年2月13日,東京・麻布の外務大臣官邸において松本烝治憲法担当国務大臣,吉田茂外務大臣らにGHQ民政局のホイットニー准将,ケーディス陸軍大佐,ハッシー海軍中佐及びラウエル陸軍中佐から手交されたいわゆるGHQ草案から始めましょう。

同日のGHQ草案では,日本国憲法4条に対応する第3条の規定は次のとおりとなっていました(国立国会図書館ウェッブ・サイトの電子展示会「日本国憲法の誕生」の「資料と解説」における「315 GHQ草案 1946年2月13日」参照)。

 

Article III.     The advice and consent of the Cabinet shall be required for all acts of the Emperor in matters of State, and the Cabinet shall be responsible therefor.

The Emperor shall perform only such state functions as are provided for in this Constitution. He shall have no governmental powers, nor shall he assume nor be granted such powers.

The Emperor may delegate his functions in such manner as may be provided by law.

      

日本国憲法4条1項に対応する部分は,「天皇は,この憲法の定める国の職務(state functions)のみを行う。天皇は,政治の大権(governmental powers)を有さず,かつ,そのような大権を取得し,又は与えられることはない。」となっています。「天皇は,この憲法の定める国の職務のみを行う。」の部分は,「天皇は,国の職務を行うが,この憲法の定めるものに限られる。」と敷衍して意訳しないと,天皇の食事睡眠等がまた心配になります。この点については,それとも,その前の項では天皇の行う国事に関する行為(acts of Emperor in matters of State)が問題になっていますから,「国事に関する行為(acts in matters of State)であって天皇が行うものは,この憲法の定める国の職務(state functions)のみである」という意味(こころ)なのでしょうか。(State functionsは,国家機関としての地位に基づき行う行為だということになるのでしょう。)

 後に日本国憲法4条1項となるこのGHQ草案3条2項は,大日本帝国憲法4条(「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ従ヒ之ヲ行フ」)の清算規定でしょう。

大日本帝国憲法4条の伊東巳代治による英語訳文は次のとおり(Commentaries on the Constitution of the Empire of Japan(中央大学・1906年(第2版))。同書は『憲法義解』の英訳本です。)。

 

ARTICLE IV

 The Emperor is the head of the Empire, combining in Himself the rights of sovereignty, and exercises them, according to the provisions of the present Constitutions(sic).

 

ちなみに,米国人らは真面目で熱心であるので,当然伊東巳代治による英語訳『憲法義解』を研究していました。

1946年7月15日にGHQを訪問した佐藤達夫法制局次長は,次のようなケーディス大佐の姿を描写しています(佐藤達夫(佐藤功補訂)『日本国憲法成立史 第四巻』(有斐閣・1994年)681頁。下線は筆者によるもの)。

 

 第1条についての政府の説明は,かつて松本博士がその試案における天皇の地位について自分に説明した考え方と同じだ・といって,英訳〈憲法義解〉をもち出し次のように述べた。〔後略〕

 

この点については,既に同年3月4日の段階で,「先方〔GHQ民政局〕は伊東巳代治の明治憲法の英訳を持っており」と観察されていたところです(佐藤達・三112頁)。
 GHQ草案3条は外務省によって次のように訳されました(佐藤達・三
34頁)。

 

国事ニ関スル(in matters of State)皇帝ノ一切ノ行為ニハ内閣ノ輔弼及協賛ヲ要ス而シテ内閣ハ之カ責任ヲ負フヘシ

皇帝ハ此ノ憲法ノ規定スル国家ノ機能(state functions)ヲノミ行フヘシ彼ハ政治上ノ権限(governmental powers)ヲ有セス又此ヲ把握シ又ハ賦与セラルルコト無カルヘシ

皇帝ハ其ノ権能ヲ法律ノ定ムル所ニ従ヒ委任スルコトヲ得

 

Governmental powersとは,国家機関としての権力的な権限のことだと思われます(日本国憲法の英語文をざっと見ると,powerは,主,国政の権力,全権委任状の全,国,行政,最高裁判所の規則を定める権限,憲法に適合するかしないかを決定する権限,国の財政を処理する権限といった語の対応語となっています。)。「政治上ノ権限」は外務省の訳語ですが,いずれにせよ「国政権」,「政府に係る権限」などとそれらしく重く訳されるべきでした。「政治」はなお,筆者の感覚では,卑俗ないしは非公的なものとなり得ますが,「政治の大権」は,12世紀以来武士どもの棟梁が天皇から奪い取ったものを指称する軍人勅諭(1882年1月4日)における明治天皇の用語です。

日本国憲法88条に基づき皇室財産が国有化されて皇室が財産を失ったように,同4条1項についても,同項で天皇も「この憲法の定める国事に関する行為」をする仕事を残して政治の大権を失っており,今や後堀河院以降の時代と同様であって政治の大権は天皇から臣下の手に落ちているところ(軍人勅諭的表現),願わくは当該臣下が北条泰時のような者ならんことを,といい得ることになっていれば,依然同項後段に関する解釈問題がなお今日的なものとなっているという事態とはなっていなかったものでしょうか。天皇ないしは皇族の少々の発言等では天皇の政治の大権という巨大なものは回復したことに到底ならずしたがって天皇が政治の大権を有する違憲状態となったとの問題も発生せず,天皇及び皇族の振る舞い方の問題は日本国憲法4条1項後段の憲法論とは別の次元で(例えば皇室の家法における行為規範の問題として)論じられるようになっていたのではないでしょうか。しかしながら, 日本国憲法4条1項の規定については,「国家機関としての天皇は,憲法に定める国事に関する行為のみを行い,国政に関与する権能を全く持たない旨を定めるものである」のみならず,「一般に天皇の行為により事実上においても国政の動向に影響を及ぼすようなことがあってはならないという趣旨を含むものと解されている」ところです(園部128‐129頁)。

 

4 日本側3月2日案と松本モデル案

 

(1)3月2日案

GHQ草案を承けた日本側1946年3月2日案の第4条は次のようになりました(佐藤達・三94頁)。

 

第4条 天皇ハ此ノ憲法ノ定ムル国務ニ限リ之ヲ行フ。政治ニ関スル権能ハ之ヲ有スルコトナシ。

 天皇ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ権能ノ一部ヲ委任シテ行使セシムルコトヲ得。

 

(2)松本モデル案

 

ア 文言

3月2日案の第4条は,松本国務大臣が1946年2月26日に佐藤達夫法制局第一部長に渡したモデル案どおりなのです。GHQ草案の「一応大ナル(いが)ヲ取リ一部皮ヲ剥クべしとの意図をもって作成された松本大臣のモデル案の調子を見るため,その第1条から第4条までを次に記載します(佐藤達・三72頁,6970頁)。

 

第1条 天皇ハ民意ニ基キ国ノ象徴及国民統合ノ標章タル地位ヲ保有ス

第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ世襲シテ之ヲ継承ス

第3条 天皇ノ国事ニ関スル一切ノ行為ハ内閣ノ輔弼ニ依ルコトヲ要ス内閣ハ之ニ付其ノ責ニ任ス

第4条 天皇ハ此ノ憲法ノ定ムル国務ニ限リ之ヲ行フ政治ニ関スル権能ハ之ヲ有スルコトナシ

 天皇ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ権能ノ一部ヲ委任シテ行使セシムルコトヲ得

 

イ ちょっと小説

 冒頭の「天皇ハ民意ニ基キ」で松本大臣はがっくり元気がなくなり,続く「国ノ象徴及国民統合ノ標章タル地位」で頭が痛くなり,皇室典範については議会の関与に係る規定を後ろの条項に回して少し気が楽になり,内閣の輔弼(advice)は当然あるべきことと認めても生意気な同意(consent)は毅然として認めず,内閣が天皇の行為について責任を負うとあからさまに書くと天皇が被保護者みたいであるから「之ニ付其ノ責ニ任ス」とうまく表現し,国務を行うのは当然でも「ニ限リ」はちょっと嫌だなぁと眉をしかめたところで,「天皇ハ此ノ憲法ノ定ムル国務ニ限リ之ヲ行ヒ政治ノ大権ヲ有スルコトナシ」とはとても書けなかったものでしょう。

 「・・・ニ限リ之ヲ行フ政治ニ関スル権能ハ之ヲ有スルコトナシ」と書いた松本大臣の心理はどういうものであったか。

 「政治上ノ権限」というのがgovernmental powersに対応する外務省の訳語だったのですが,どうしてこれをそのまま採らずに「政治ニ関スル権能」を採用したのか。

 

ウ 「権能」

まず,「権能」ですが,これは,「権限」よりは「融通性の広い」,その意味ではやや輪郭がぼやけ,かつ,微温的な語として採用されたのではないでしょうか。日本国憲法の英語文でpowerが「権能」と対応するものとされているのは第4条1項だけです。「権能」とは,「法律上認められている能力をいう。あるいは権限,職権と同じように,あるいは権利に近い意味で用いられる。「権限」,「権利」というような用語よりは融通性の広い,いずれかといえば,能力の範囲ないし限界よりは,その内容ないし作用に重きを置いた用語であるといえよう。」と定義されており,かつ,用例として正に日本国憲法4条が挙げられています(吉国一郎等編『法令用語辞典〈第八次改訂版〉』(学陽書房・2001年)橘武夫執筆)。

 

エ 「政治」

「政治」という語の維持は,政治家の方々には悪いのですが,dirty imageがあることはかえって結構であって,否定の対象語として適当であると思われたのかもしれません。ちなみに,1946年7月11日付けのGHQ民政局長宛てビッソン,ピーク及びコールグローヴ連名覚書「憲法草案の日本文と英文の相違」では「日本人は天皇が政治的(ポリテイクス)な意味で政治(ガバメント)に積極的にたずさわったり,政府の行政そのものに直接介入することを望んだことはこれまで一度もなかった。したがって,日本人は憲法にこのような禁止条項がはいることにはなんら反対していない。」と観察していました(佐藤達・四700702頁)。「統治」であれば,大日本帝国憲法告文(「皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範」)及び上諭(「国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所」)並びに1条(「天皇之ヲ統治ス」)及び3条(「国ノ統治権ヲ総攬」)の真向否定になるのであって論外であり(伊東巳代治の訳するところでは統治権は“the rights of sovereigntyであって,統治=主権ということになっていました。),「政府に係る権限」も天皇ノ政府を失うとの文言であって寂しい。

 

オ 「ニ関スル」

しかし,「政治上ノ権能ハ之ヲ有サス」と,失う権能の対象を比較的くっきりはっきり書くと,たといそれがdirty imageを伴うものであっても,やはり喪失感が辛く厳しい。そこで「上ノ」に代えて「ニ関スル」が出て来ての更に朧化した表現となったのではないでしょうか。

「政治ニ関スル権能」ということになると,しかし,外延が弛緩します。「政治」は必ずしも国家の機関の公的活動をのみ意味しませんし,「に関する」は「に係る」よりも更に広い対象を含み得るからです。「に係る」に関して,「に係る」は「「・・・に関する」又は「・・・に関係する」に近い意味であるが,これらより直接的なつながりがある場合に用いられる。」とされているところです(吉国等編『法令用語』澄田智執筆)。換言すると,「に係る」が「・・・より直接的」であるということは,「に関する」は「に係る」より間接的であるわけです。

「国政に関する(related to government)」の「に関する」のせいで日本国憲法4条1項の解釈について後日紛糾が生ずるのですが,その紛糾の種は松本大臣がまいたものだったのでした。

 

5 佐藤・GHQ折衝及び3月6日要綱から4月13日草案まで

 

(1)佐藤・GHQ折衝および3月6日要綱

1946年3月4日から同月5日にかけての佐藤達夫部長とGHQ民政局との折衝においては,日本側3月2日案の第4条については「その中で,天皇の権能の委任について,マ草案では単に「其ノ権能ヲ法律ノ定ムル所ニ従ヒ委任スルコトヲ得」となっていたのに対し日本案で「其ノ権能ノ一部ヲ委任・・・」としていたことが問題となり,その「一部」を削ることとした」だけでした(佐藤達・三112113頁)。その結果の第4条の第1項の英語文は,次のとおりです(佐藤達・三178頁)。

 

The Emperor shall perform only such functions as are provided for in this constitution. Nor shall he have powers related to government.

 

英語文においても,GHQ草案にあったgovernmental powersが,松本大臣の手を経た結果,将来紛糾をもたらすこととなる,より幅広いものと日本側が解釈するpowers related to governmentになってしまっていたわけです。

1946年3月6日内閣発表の憲法改正草案要綱の第4は,次のとおりです(佐藤達・三189頁)。

 

第4 天皇ハ此ノ憲法ノ定ムル国務ヲ除クノ外政治ニ関スル権能ヲ有スルコトナキコト

 天皇ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ権能ヲ委任スルコトヲ得ルコト

 

このうち第1項は,3月2日案(及びそこから変更の無かった3月5日案(佐藤達・三164頁))とは異なった表現となっています。「これは,この憲法に列挙される天皇の権能も,一応は「政治ニ()スル(﹅﹅)権能(﹅﹅)」と見られるから,「除クノ外」でつなぐ方が論理的だ・という考えによるものであったと思う。」ということですが(佐藤達・三178頁),松本大臣の毒がまわってきたわけです。「邪推するならば,政府は天皇の権能にかんして,民政局にたいする関係においてはその政治的権能を否定しながら,日本国民にたいする関係においてはそれを復活させたと考えることもできるし,また,すくなくとも民政局発案のものをただしく把握していなかったことだけは疑ない。」(小嶋和司「天皇の権能について」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』(木鐸社・1988年)92頁)というのはやはり「邪推」で,「政治的権能」よりも「政治ニ関スル権能」の方が意味する範囲がはるかに広かっただけであり(天皇の「政治的権能」プラス・アルファが否定されたことになります。「此ノ憲法ノ定ムル国務」はプラス・アルファの部分に含まれてしまうのでしょう。),また,文句を言われようにも,“governmental powers”から“powers related to government”への用語の変更をGHQが十分重く受け止めていなかっただけだということのようです。

 

(3)4月13日草案まで

とはいえ,1946年4月2日に法制局とGHQ民政局との打合せがあったのですが,前記の点は,「第4条の「国務ヲ除クノ外」は,要綱作成のときに入れたのであったけれども,この打ち合せの段階で,それは英文にもないし,また「国務」が形式的な仕事をあらわしている点からいって,「除クノ外」でつなぐことは反って適切ではなかろうという意見が出たが,これは成文化のときの考慮に残した。」というように再び問題となり(佐藤達・三289頁),同月13日の日本国草案作成段階では,「英文との関係もあっていろいろと迷った」結果,日本側限りで「国務ヲ除クノ外」を「国務のみを行(ママ),」としています(佐藤達・三326頁)。1946年4月13日の憲法改正草案4条は,次のとおり(佐藤達・三336頁)。

 

第4条 天皇は,この憲法の定める国務のみを行ひ,政治に関する権能を有しない。

  天皇は,法律の定めるところにより,その権能を委任することができる。

 

6 枢密院審査委員会

とはいえ,憲法改正草案4条1項後段から「その他の」を完全に切り捨てる割り切りは難しかったようで,1946年4月22日の第1回の枢密院審査委員会における幣原喜重郎内閣総理大臣の説明要旨では「改正案においては,天皇は一定の国務のみを行ひ,その他においては,政治に関する権能を有せられないこととしてゐるのである。」と述べています(佐藤達・三381382頁。下線は筆者によるもの)。(ここでの「一定の国務」の範囲については,1946年4月の法制局「憲法改正案逐条説明(第1輯)」では「天皇が具体的に統治権の実施に当たらるる範囲」と観念されていました(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「44 「憲法改正草案に関する想定問答・同逐条説明」1946年4月~6月」参照。下線は筆者のもの)。)同年5月3日の委員会においては林頼三郎枢密顧問官も「第4条の国務と政治とは別なやうによめる。国務即政治なり。要綱のときの「除くの外政治に関する・・・」の方がよくわかつた。」と発言し,これに対して入江法制局長官が「その国務だけで,それ以外は政治に関する権能を有せずといふ意なるもこの国務のみを行ふといふこととそれ以外は行はぬといふ2点をかきたかつたのである。」と答弁すると,更に「そういふ意味ならそれ以外といふ字を入れたらどうか。」と二の矢を放っています(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「41 枢密院委員会記録 1946年4月~5月」)。

しかしながら,枢密院審査委員会においては草案4条1項の文言は修正されませんでした。とはいえ1946年5月の法制局「憲法改正草案逐条説明(第1輯)」は,なお第4条1項について「天皇が行はせられる国務の範囲は第6条及び第7条に規定されて居りますが,本条はそこに定められた国務のみを行はせられることを明らかにし,その他の政治に関する権能を有せられないことを定めたのであります。」と述べています(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「44 「憲法改正草案に関する想定問答・同逐条説明」1946年4月~6月」参照。下線は筆者によるもの)。「その他の」の挿入等何らかの手当ての必要性は決して消えてはいませんでした。

問題解決は先延ばしにされ,その後の修正作業は,帝国議会の審議期間中において概略後記のような経緯で行われていきます。

7 第90回帝国議会会期中の修正及びその意味

 

(1)芦田小委員会修正

 第90回帝国議会衆議院の憲法小委員会(芦田均小委員長)において1946年8月2日までに修正を経た日本国憲法案4条は,次のとおりでした(佐藤達・四783頁参照)。下線部が小委員会による修正後の文言で,括弧内が被修正部分です。

 

 第4条 天皇は,この憲法の定める国務のみを行ひ,その他の国政(政治)に関する権能を有しない。

 

   天皇は,法律の定めるところにより,前項の国務に関する(その)権能を委任することができる。

 

 上記第1項の英語文は,次のとおりでした(佐藤達・四802頁)。

 

    The Emperor shall perform only such state functions as are provided for in this Constitution. Never shall he have powers related to government.

 

第4条1項の「政治に関する権能を有しない」を「その他の国政に関する権能を有しない」と改めることは,同年7月25日に芦田小委員長から提案されていました(佐藤達・四715頁)。

 

(2)7月29日の入江・ケーディス会談

 

ア GHQ側の認識:本来的形式説

前記のように第4条1項の「政治に関する権能を有しない。」を「その他の国政に関する権能・・・」と改めようとしている点については,1946年7月29日,入江俊郎法制局長官がGHQ民政局のケーディス大佐を訪問した際GHQ側が,「何故に「その他の」を加えるのか,それでは,国務(state function)と国政(government)とが同一レベルのものとなり,天皇が儀礼的国務のみを行うという意味がぼやけてしまう。せっかく,前文及び第1条で主権在民を明文化しても,第4条において,あたかも天皇がそれを行使するかのように規定したのでは何にもならない。」とおかんむりだったそうです(佐藤達・四757頁)。

第4条1項前段の天皇の「国務」は儀礼的な行為にすぎないものであるというのがGHQの認識であり,儀礼的な行為にすぎないから国政(government)とは同一レベルにはない,すなわちそもそも国政に含まれるものではない,ということのようです。「4条は,天皇に単なる「行為」権のみを認め,「国政に関する権能」を認めていないのであって,6条,7条の「国事に関する行為」は本来的に形式的・儀礼的行為にとどまるものと解す」る「本来的形式説」が採用されているわけです(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)253254頁)。

 

イ 日本側の認識:国政に関する権能による国事行為の権能の包含

日本側のその場における反論は,「それに対して,「国政」のほうが意味がひろく,「国務」も国政のなかに含まれる。したがって「その他の国政・・・」としないと,第1項前段の「天皇は,この憲法の定める国務のみを行ひ」と矛盾する」というものだったそうですが(佐藤達・四757頁),なお言葉足らずだったでしょう。より精確には,「「その他の」を加える理由として,「国政に関する」とあるために,事務的,儀礼的の仕事でも,およそ「国政」に関連するものは含まれることとなる。したがって「その他の」を入れることが論理上正確であり,且つ,天皇の権能として許されない事がらが一層明確となる」ということが日本の法制局の思考だったようです(佐藤達・四758頁)。「国政に関する」の「に関する」こそが問題であって,この文言があるばかりに,国政自体に係る権能のみならず国政に関連するだけの仕事に係る権能をも含むこととなって,「国政に関する権能」の行使となる仕事のレベルは上下分厚く,「国務」のレベルの仕事もそこに含まれてしまうことになっているのだ,ということだったようです。しかし,こう理屈を明らかにすればするほど「その他の」の文言が必要不可欠ということになり,結局「その他の」がない場合には矛盾が生じ,「そのような理解は4条の文言からいって無理」(佐藤幸253頁)ということになるようです。

なお,第4条1項のgovernmentが「政治」から「国政」に改まることについては,1946年7月15日に佐藤達夫法制局次長がケーディス大佐に対して,努力する旨約束していたところでした(佐藤達・四682頁,683頁)。これは,同月11日付けの前記ビッソンらの民政局長宛て覚書で,「政治」の語にはgovernmentのほかpoliticsの意味がある旨指摘されていたところ(佐藤達・四702頁),それを承けてケーディス大佐から一義的にgovernmentと理解されるような語を用いるように要求されたからでしょうか。

 

(3)8月6日の入江・ケーディス会談

 

ア 日本側妥協による日本国憲法4条1項の日本語文言の成立

1946年7月29日には対立解消に至らなかったものの,しかしながら,同年8月6日,入江長官はケーディス大佐を訪問し,「天皇の章について,「国務」等の語を「国事に関する行為」に改め,〔芦田小委員会の修正した第4条1項の〕「その他の国政」の「その他」〔ママ〕を削ることにしたい,もしこれに同意ならば,政府として議会側に働きかける用意がある・と述べ」るに至りました(佐藤達・四801頁)。「ケーディス大佐は,ゴルドン中尉を呼び入れて用語の適否を確かめた上,これに賛成し,「国事に関する行為」は,英文がまちまちの表現をしているにくらべて改善であると述べた」そうです(佐藤達・四801頁。なお,「国務」の語については,英語に戻すとstate affairsとなり「functionよりもいっそう積極的で強い語感を含む言葉」となっているとの指摘が同年7月11日付けのビッソンらの民政局長宛て覚書でされていました(佐藤達・四702頁)。)。第4条1項の文言は,「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ, 国政に関する権能を有しない。」という現在の日本国憲法4条1項の文言となることになったわけです。(なお,ジョゼフ・ゴードン陸軍中尉は,GHQ草案作成時26歳でGHQの翻訳委員会のスタッフであり,また,後に日本国憲法24条関係で有名となるベアテ・シロタ嬢と結婚します。「エール大学の民事要員訓練所でみっちり学んだというゴードン氏の日本語は,読み書きは立派なものだが,会話はまったく駄目。妻のベアテさんは,会話は日本人と変わりないが,読み書きは苦手。ベアテさんに来た日本語の手紙を,ご主人が読んで英語で聞かせてあげるというから,なんとも不思議な夫婦だ。」と紹介されています。(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川文庫・2014年(単行本1995年))6970頁))

 

イ 4条1項前段と同項後段との関係に係るGHQの認識:逆接

第4条1項の前段と後段とは英文では二つの文になっていたところ,前記合意成立の際,「ケーディス大佐〔は〕,この二つの語句は,althoughbutで結ばれる関係にある,日本文がandで結ばれているような感じになっているのはおもしろくない・と述べた」そうです(佐藤達・四802頁)。すなわち,日本国憲法4条1項後段は,前段で国事行為(前記のとおり,これは儀礼的なものなので国政とは別レベルである,というのがGHQの認識でした。)を行う旨規定しているのでそれらの行為を通じて天皇が国政の権能を有するもののように誤解される恐れがあるから,天皇の国事行為の性格についてのそのような誤解を打ち消すために(「althoughbutで結ばれる関係」ということはこういう意味でしょう。)書かれた文言である,ということのようです。

 

ウ 4条1項前段と同項後段との関係に係る日本側の認識:順接

ただし,「これに対しては,日本側からalthough又はbutというのはonlyを見落としているもので,むしろ,論理上thereforeと解すべきである。また,もし日本文で二つの文章に分けるとすれば,短い文章で「天皇」の主語をくり返すことになり翻訳臭がでてきわめておかしなものとなる・と反対した結果,先方はその提案を撤回した。」との落着となりました(佐藤達・四802頁)。

第4条1項前段の「のみ(only)」の語に天皇に対する制限ないしは禁止規範の存在が見出されたところ,therefore,当該制限ないしは禁止規範の内容たる「天皇の権能として許されない事がら」が明文化されることとなったのが同項後段である,というのが日本の法制局の理解なのでしょう。(これに対して,あるいはGHQの理解は,第4条1項前段の「のみ(only)」による天皇に対する制限ないしは禁止は同項前段自体の内部で閉じている,すなわち,同項前段の意味は「天皇は,国事に関する行為を行う。ただし,この憲法の定めるものに限る。」というものである,同項後段は具体的な制限ないしは禁止規範ではなくて天皇に政治の大権が無いことを改めて確認する為念規定である(「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ふ。この国事に関する行為を行ふ権限は,政治の大権のために認められたものと解釈してはならない。」),ということででもあったのでしょうか。)GHQの理解では日本国憲法4条1項後段は同項前段に向かっているものであるのに対して,日本の法制局の理解では同項後段は天皇に向かっている,と比喩的に表現できるでしょうか。

日本側は第4条1項をどのように解釈することにしたのでしょうか。「国政に関する権能(powers related to government)」を「国政の権能(governmental powers)」と解釈することにしたのでしょうか。しかし,当座のところは,むしろ原案復帰にすぎないということで,「その他の国政に関する権能を有しない。」の「その他の」を元のとおり解釈で補うことにした,ということの方があり得ることではないでしょうか。帝国議会で政府は,「此処の意味は,天皇は政治に関する権能を有せられない,併しながら其の政治に関する権能の中でも,此の憲法にはつきり書いてある部分は行はせらるゝことが出来る,斯う云ふ意味であります」との答弁を行っていたところです(小嶋「天皇の権能について」9192頁参照)。

 

エ Governmentの訳語:「国政」か「統治」か

なお,日本国憲法4条1項後段の「国政に関する権能」(powers related to government)の語について当該会談において「ゴルドン中尉は,「国政に関する権能を有しない」の「国政」を「統治」と改めることを提案したが,日本側はこれに反対し,またケーディス大佐も「統治」とすると,天皇はrulingに関する権能はもたないが,もっと軽易なadministrativeな権能はもち得るように解せられる恐れがあるから「国事」に対するものとして「国政」とした方がいい・と述べ,「国政」とすることに落ち着いた」そうです(佐藤達・四802頁)。

大日本帝国憲法の完全否定になる「統治」の語の採用を日本側が拒んだことは分かります。大日本帝国憲法の告文及び上諭並びに1条及び3条は,天皇は大日本帝国の統治の大権を有してきたものであり,また今後も有するものであることを規定していましたし,伊東巳代治の英語訳(統治=sovereignty)からしても, 「統治」の語は主権論争を惹起せざるを得なかったからです。

天皇に対する制約規範として,「統治に関する権能を有しない」と「国政に関する権能を有しない」とを比較すると,権能を有しないものとされるものの範囲は後者(「国政」)の方が前者(「統治」)より広いのです(というのが筆者及びケーディス大佐の理解です。)。だからこそ,ケーディス大佐は軽易なadministrative権能まで天皇に与えまいとして日本側の「国政」説に与したのでした。

 

オ 英語文の修正

1946年8月24日の段階で,日本国憲法案4条1項の英語文は,“The Emperor shall perform only such acts in matters of state as are provided for in this Constitution. Never shall he have powers related to government.”という形になっていたもののようです(佐藤達・四876頁)。

8 「結果的形式説」の妥当性

 

(1)当初の政府説明の維持不能性:「その他の」の不在

 日本国憲法4条1項における,天皇が「国政に関する権能を有しない」こと(同項後段)とその同じ天皇が「この憲法の定める国事に関する行為」を行うこと(同項前段)との関係に係る「此処の意味は,天皇は政治に関する権能を有せられない,併しながら其の政治に関する権能の中でも,此の憲法にはつきり書いてある部分は行はせらるゝことが出来る,斯う云ふ意味であります」との第90回帝国議会における政府説明は,確かに,同項後段は「その他の国政に関する権能を有しない」と規定していておらず,かつ,そのことは再三公然と指摘されていたことでもあるので,いつまでも維持され得るものではありませんでした。

 

(2)本来的形式説の難点:松本烝治元法制局長官の「ニ関スル」の呪縛

 しかし,日本国憲法4条1項前段の国事行為を行うことに係る天皇の権能は同項後段の国政に関する権能には含まれない,との解釈(天皇の国事行為に係る本来的形式説の前提となる解釈)は,我が日本国の法制局参事官の頑として受け付けないところでした。

 

ア 「国事に関する行為」を行う権能と「国政に関する権能」と

日本国憲法4条1項の前段と後段との関係を後段冒頭に「その他の」の無いまま整合的に説明するための努力に関してでしょうが,「多くの論者は「国事に関する行為」と「国政に関する権能」とを単純に相排斥する対立的概念であるとして,その区分基準を「国事」と「国政」との相違にもとめ,ここで敗退する。」との指摘があります(小嶋和司「再び天皇の権能について」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』113頁)。当該指摘に係る状況について精密に見てみると,国事行為を行う権能は国政に関する権能に含まれるのだ,と言う主張の壁の前に当該論者らは敗退したということでしょう。

 

イ 「国政に関する権能」概念の縮小解釈の可能性いかん

 

(ア)「国政の動向を決定するような権能」:小嶋和司教授

そこで,本来的形式説の首唱者(小嶋和司教授)は,本丸の「国政に関する権能」概念を操作することにします。当該概念を縮小せしめることとして,「国政に関する権能」は「国政の動向決定(●●)する(●●)ような(権能」であるものと主張します(小嶋「再び」113頁。「国政運営に影響を及ぼすような権能」との理解から改説)。そこには「「国事に関する行為」を行う権能」は含まれないのだ,と主張するわけです。しかし,「国政の権能」,せめて「国政に係る権能」との文言であったのならばともかくも,「に関する」がそこまでの縮小を認めるものかどうか。内閣法制局は,無理だと考えているのでしょう。

 

(イ)「国政に関して実質的な影響を与えるような行為をする権能」:内閣法制局

「国政」に関して,元法制局参事官の佐藤功教授は,「国政」とは「国の政治を意味する。」としつつ,「憲法4条は,天皇が憲法の定める国事に関する行為のみを行い国政に関する権能を有しない旨を定めている。この場合に「国政に関する権能」とあるのは,国家意思を決定する国政に関して実質的な影響を与えるような行為をする権能という意味である。」と,なおも「国政に関する権能」を広く定義しています(吉国等編『法令用語辞典』。下線は筆者によるもの)。松本烝治元法制局長官の筆にした「ニ関スル」は,実に重いものなのです。

日本国憲法4条1項の前段と後段との関係の解釈については,憲法学界の大勢は本来的形式説を採るようなのですが,内閣法制局筋の実務家から見るとどういうものなのでしょうか。

 

ウ またも小説

「ここは,「関する」ですか,若しくは「係る」ですか,又は「の」なのですか。」

と夜半, 霞が関の中央合同庁舎第4号館の内閣法制局の大部屋において内閣法制局参事官に「詰め」られたとき,

「いやぁ,そこは作文ですから,よくご存じの参事官が文学的フィーリングで決めてくださいよ。」

などと学識不足のゆえか疲労に由来する横着のゆえかうっかり言おうものなら,法令案の審査がストップして大騒ぎになります。

「なんですかそれは。それが審査を受ける者の態度ですか。」

担当官庁の法案作成担当チームの頑冥無学迷走ぶりに憤然として大机の前で御機嫌斜めの内閣法制局参事官殿のところに本省局長閣下がちょこちょことやって来て,御免お願い機嫌を直して審査を再開してちょうだいよこちらは死ぬ気で頑張るからさと懇願している様子を実見した者の言うには,「ふぅーん,人間の頭の使い方には2種類あるんだな。」と思ったとの由。

「考える」と「下げる」。

無論,後者の方が前者よりもはるかに高い価値があるものです。


考える
「考える」(東京都台東区上野公園国立西洋美術館前庭)
 

(3)結果的形式説

 本来的形式説が,「に関する」に伴う「国政に関する権能」概念の広さゆえ採用が難しいところから,別の解決策が求められざるを得ません。

日本国憲法4条1項前段の国事行為には「すべて内閣の助言と承認が要求され,この助言と承認権には実質的決定権が含まれるから,結果的には「国事に関する行為」は形式的・儀礼的になる,というように説く見解」たる「結果的形式説」(佐藤幸254頁参照)が,アポリアからの最後の脱出路となるわけです。

ただし,「行為」が「形式的・儀礼的になる」と落着するのだと述べるだけで説明を打ち切るのは,なお議論が行為レベルにとどまっていて不親切です。「形式的・儀礼的」な行為を行う権能であっても「国政に関する権能」ではないわけではなかったのですから。より正確には,日本国憲法4条1項前段の国事行為を行う権能「のうち『国政に関する』部分は『内閣の助言と承認』の中にあって,天皇にはないのであって,その形式的宣布の部分だけが天皇の権能として現れてくるのである」というように(小嶋「天皇の権能について」96頁の引用する佐藤功教授の論説参照),権能のレベルで問題を処理しておく必要があります。

結果的形式説であれば,日本国憲法4条1項前段の国事行為を行う天皇の権能については,当該国事行為に係る内閣の助言と承認を経ることによって,そのうち国政に関する部分はいわば内閣に吸収されて失われ,そもそも国政に関しない部分しか残らないものとなっている,ということになります。したがって,同項後段の天皇は「国政に関する権能を有しない」規定との抵触は存在せず,同項後段冒頭に「その他の」を置く必要も無い,ということになります。

 

9 その他

本稿では,日本国憲法4条1項をめぐる紛糾や論争を追ってきたのですが,時代はまた,第90回帝国議会において日本国憲法案が審議中の時期に戻ります。

 

(1)日本国憲法4条1項後段不要論

1946年7月23日に行われた金森徳次郎憲法担当国務大臣とGHQのケーディス大佐との会談において,当該規定の生みの親の一人であったはずのケーディス大佐は,日本国憲法案4条1項後段はそもそも実は不要だったという意味の重大発言をしていたという事実があります。

 

〔日本側から天皇の章の〕第4条第1項の後段「政治に関する権能を有しない」を削るという修正意見があることを述べたところ,先方は,はじめからこの字句がなかったとすれば,その方がいいと考えるが,すでにあるものを削るとなると,それによって天皇が政治に関する権能を有することになるというような誤解を与えるおそれがあるから,その削除には賛成できない・と述べた。(佐藤達・四693頁)

 

思い返せば,初めからこの字句がなければその方がよかったのだ,というわけです。

これは,GHQにとっては,天皇の権能の制限は他の条項で既に十分であって,日本国憲法4条1項後段は実はいわば添え物のような宣言的規定だったのだ,ということでしょうか。同項後段の今日の日本における現実の働きぶりを見ると,隔世の感がします。

 

(2)日本国憲法4条1項の当初案起草者:リチャード・A・プール少尉

そうなると,GHQ民政局内で当該まずい添え物規定をそもそも最初に起草したのはだれなのだとの犯人捜しが始まります。

下手人は,割れています。

本職は米国国務省の外交官であったところのリチャード・A・プール海軍少尉です(当時26歳)。

日本国憲法4条1項の規定の濫觴としては,GHQ草案の作成過程の初期において,1946年2月6日の民政局運営委員会(ケーディス大佐,ハッシー中佐及びラウエル中佐並びにエラマン女史)との会合に,プール少尉及びネルソン陸軍中尉の天皇,条約及び授権員会から次のような案文が提出されていました(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「314 GHQ原案」参照。下線はいずれも筆者によるもの)。

 

Article IV.  All official Acts and utterances of the Emperor shall be subject to the advice and consent of the Cabinet. The Emperor shall have such duties as are provided for by this Constitution, but shall have no governmental powers, nor shall he assume or be granted such powers. The Emperor may delegate his duties in such manner as may be provided by Law.

When a regency is instituted in conformity with the provisions of such Imperial Home Law as the Diet may enact, the duties of the Emperor shall be performed by the Regent in the name of the Emperor; and the limitations on the functions of the Emperor contained herein shall apply with equal force to the Regent.

 

 日本国憲法4条1項に対応する部分は,「天皇は,この憲法の定める義務を有するが(but),政治の大権(governmental powers)を有さず,かつ,そのような大権を取得し,又は与えられることはない。」となっています。天皇はこの憲法の定める仕事をする,しかしながら(but)政治の大権は有さないのである,というのですから,同年8月6日のケーディス大佐の前記発言に至るまで,当該条文の構造に係るGHQの論理(逆接とするもの)は一貫していたわけです。

 これが,GHQ草案の前の天皇,条約及び授権委員会の最終報告書では次のようになります。

 

 Article     The advice and consent of the Cabinet shall be required for all acts of the Emperor in matters of State, and the Cabinet shall be responsible therefor. The Emperor shall perform such state functions as are provided for in this Constitution. He shall have no governmental powers, nor shall he assume or be granted such powers. The Emperor may delegate his functions in such manner as may be provided by law.

       When a regency is instituted in conformity with the provisions of such Imperial House Law as the Diet may enact, the duties of the Emperor shall be performed by the Regent in the name of the Emperor; and the limitations on the functions of the Emperor contained herein shall apply with equal force to the Regent.

 

「天皇は,この憲法の定める国の職務(state functions)を行う。天皇は,政治の大権を有さず,かつ,そのような大権を取得し,又は与えられることはない。」ということで,「義務(duties)」の代わりに「国の職務」という言葉が出てきます。また,butでつながれた一つの文であったものが,二つの文に分割されています。

日本国憲法4条1項前段の「のみ(only)」の文言はなお欠落していましたが,当該文言は1946年2月13日のGHQ草案には存在します。すなわち,天皇,条約及び授権委員会からの最終報告の後,同月12日の最終の運営委員会あたりでこの「のみ(only)」は挿入されたものでしょう。ホイットニー准将か,ケーディス大佐か,ハッシー中佐か,ラウエル中佐か。だれの手によるものかは筆者には不明です。

 

(3)最後の小説

Governmental powersとの語は,プール少尉らの最初の案から使用されていたものです。

プール少尉の高祖父であるエリシャ・ライス大佐は幕末における箱館の初代米国領事ですから,当然プール少尉は,自分の高祖父が箱館にいた時代の日本は「政治の大権」を江戸幕府が把持していて軍人勅諭のいうところの「浅間しき次第」ではあったが,天皇はやはりなお天皇であった,ということは知っていたことでしょう。

高祖父以来代々日本に住んで仕事をしていた一族の家系に生まれ,少年時代を横浜で過ごした1919年生まれのプール少尉が最初の案を起草した天皇のgovernmental powers放棄規定を受け取るに至った1877年生まれの松本烝治憲法担当国務大臣が,自らのモデル案を作成の際,「なにぃ,「天皇ハ政治ノ大権ヲ有セス又此ヲ把握シ又ハ賦与セラルルコト無カルヘシ」だとぉ。GHQはワシントン幕府の東京所司代のつもりかぁ。増長しおって。後水尾天皇の御宸念がしのばれることだわい。」と憤然口汚くののしりつつも,あっさり尊皇的闘争をあきらめて,「政治ニ関スル権能」ではなくあえておおらかに「政治ノ大権」の語を採用していたならばどうだったでしょうか。

 

芦原やしげらば繁れ荻薄とても道ある世にすまばこそ

 

天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,政治の大権を有しない。

 

日本国憲法4条1項の前段と後段との関係をめぐる議論は本来的形式説で片が付き,同項後段は政体の転換を闡明するための宣言的規定と解されて天皇の日常を規制するinstructionとまでは受け取られなかった,ということになったかどうか。

「天皇は,国政に関する権能を有さない」という規範の存在は,天皇を寡黙にさせるものなのでしょう。しかしながら,更に当該規範を積極的に振り回す横着な実力者が登場して寡黙が沈黙にまで至ると・・・木を以て作るか,金を以て鋳るかした像を連想するような者も出て来る可能性があり・・・本稿冒頭での高師直想起につながるわけです。

 

 「「木を以て作るか,金を以て鋳るかして,生きたる院,国王をば,いづくへも皆流し捨てばや」発言とそれからの随想」(20161030日)

  http://donttreadonme.blog.jp/archives/1062095479.html

  さらばやがて,この(つい)(たち)焼き払吉野越後(もろ)(やす)六千余騎貞和正月和泉石川富田林市東部河原武蔵師直三万十四平田奈良県葛城一帯吉野る。(『太平記(四)』234235頁)

  ・・・

  さる程に,武蔵守師直,三万余騎を率して,吉野山に押し寄せ,三度(みたび)(ママ)揚げ音も後村上焼き払皇居宿所鳥居(かね)鳥居金剛力士二階北野天神示現七十二三十八行化(ぎょうげ)神楽宝蔵(へつい)殿(どの)三尊(さんぞん)万人(かうべ)(かたぶ)金剛蔵王一時(いつし)灰燼立ちる。あ有様。(237238頁)

 

10 跋

ところで,実は,1994年6月12日,米国コロンビア特別区ワシントン市で,米国訪問中の今上天皇と「知日派の米国人」プール少尉とが会話する機会があったという事実があります。

しかし,日本国憲法4条1項後段規定の現在唯一の名宛人被規律者である今上天皇と当該規定の立案責任者であった元日本占領軍士官との間で,本稿で以上論じたようなことどもを十分語り尽くすだけの時間があったものかどうか・・・。

松本烝治は,「実は,私は今の憲法に何と書いてあるか見たことがないのです。それほど私は憲法が嫌いになったのです・・・」(児島380頁)と日本国憲法に背を向け,195410月8日に死去していました。

 

「「知日派の米国人」考」(2014年3月4日)

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1000220558.html



 弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

郵便:1500002  東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16  渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

DSCF0841
楠公父子別れの地たる桜井駅址(大阪府三島郡島本町JR島本駅前)にある記念碑:上部に「七生報国」の文字があります。両楠公は,しぶとい。

DSCF0805
小楠公・楠木正行を祭る四條畷神社(大阪府四条畷市)  


 


弁護士ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 承久三年の宇治川渡河戦

 当ブログにおける今年(2017年)最初の前々回の記事(「カエサルのルビコン川渡河の日付について」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1063677215.html)においては,共和政から帝政に向け古代ローマの歴史を大きく変えた紀元前49年のカエサルによるルビコン川の渡河について書きました。

 となれば渡河つながりで,我が国の歴史を大きく変えたものとして一番重要な渡河は何であっただろうかと考えれば,公家の世から武家の世に向かう歴史の流れの節目となった承久の変における,承久三年(1221年)六月十四日に敢行された北条泰時率いる鎌倉方の軍勢による宇治川渡河こそがそれでありましょうか。


DSCF0656 
 
宇治橋から宇治川上流方向を望む(京都府宇治市)


  明けて十四日の宇治川合戦も必ずしも幕軍に有利ではなかった。〔その前日,「足利義氏・三浦義村は,泰時に連絡せず宇治に進出した。そのため京方の猛反撃をうけて死者続出,平等院(京都府宇治市)にたてこもり,栗子山(宇治市西南部)の泰時に援軍を求めた」ところです。〕ここ〔宇治〕は近江から山城への要衝で京方の抵抗もきびしかった。泰時はこの日,元服の際〔建久五年(1194年)〕に〔源〕頼朝から与えられた剣を帯びていた。泰時の命により芝田兼義,春日貞幸,佐々木信綱等が敵前渡河を試みた。・・・

  京方の激しい抵抗と,宇治の急流〔前夜は豪雨〕に,幕軍の犠牲はおびただしかった。泰時は「味方の敗色濃く,今や大将の死すべき時。河を渡り軍陣に命を棄てよ」と〔数え年〕十九歳になる子の時氏〔経時及び時頼の父〕に命じた。三浦泰村らも渡河を試みた。泰時は黙然として,不利な戦局を見詰める目も血走っていた。京方には勝ち誇る気色があった。「あたら侍共を失い,わが身一人残り止っても益なし。運尽きた今は死あるのみ」と意を決した泰時は,自ら乗馬して渡河しようとした。これを留めたのは〔春日〕貞幸であった。・・・そして宇治川先陣の殊勲は佐々木信綱に輝いた。〔なお,佐々木信綱が先か芝田兼義が先だったかは,勲功調査において問題となったところです。〕

  抗戦をしりぞけ幕軍は遂に宇治川渡河に成功した。その夜泰時は,深草河原(京都市伏見区)に陣取った。・・・(上横手雅敬『北条泰時』(吉川弘文館・1958年)3739頁)

DSCF0657
201711月撮影)暑苦しい関東武者の勲功争いは,一時お上の預りです。なお,「『平家物語』に有名な佐々木高綱(信綱の叔父)と梶原景季の先陣争いは,〔承久三年の佐々木・芝田間の〕この事件を素材として作り上げたものだという説」(上横手48頁)を筆者は採用しましょう。
 

承久の変の戦後処理は,「在位わずか七十余日〔承久三年四月二十日「即位」(児玉幸多編『日本の歴史 別巻5 年表・地図』(中央公論社・1967年)469頁)〕の天皇は廃位され(当時は九条廃帝,または半帝とよばれ,明治時代になって初めて仲恭天皇とおくり名された)〔承久三年七月九日「譲位」,同日後堀河天皇「践祚」(児玉編108頁)〕,後鳥羽上皇の兄(ぎょう)(じょ)法親王の子が新たに天皇の位をついだ〔同年十二月一日即位(児玉編469頁)〕。後堀河天皇である。・・・」ということになりました(石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』(中央公論社・1965年)380頁)。

仲恭天皇は,臣下によって廃位されたというわけです。

DSCF0659
 
京方が陣取った宇治川右岸にあるモニュメント。さすがに京方は(みやび)す。

ここで用語法について一言しておくと,君主がその意思表示に基づきその位を去ることを退位(Abdankung)といい,君主に当該意思表示が無いにもかかわらずその位から去らしめられることを廃位(Absetzung)ということにしましょう。『岩波国語辞典 第四版』(1986年)においては,「退位」は「帝王が位を退くこと。」と,「廃位」は「君主をその位から去らせること。」と定義されています。

DSCF0508
常楽寺(鎌倉市大船)にある北条泰時の墓 
(北条泰時は仁治三年(1242年)「六月十五日亥刻(午後10時)に永眠した。享年六十歳。死因は過労の上に,赤痢を併発したためという。」(上横手199頁)宇治川渡河戦の勝利の翌日入京してから奇しくも21年目の当日でした。)
 

DSCF0505
常楽寺山門


 
2 皇統における仲恭天皇の位置等


(1)明治三年に諡号が追贈された三天皇:弘文,淳仁及び仲恭 

明治三年七月二十三日(1870年8月19日)に弘文天皇,淳仁天皇及び仲恭天皇の諡号が追贈されています。しかし,現実に皇位についてはいたものの怖い太上天皇(孝謙=稱德女帝)によって廃位されたということが明らかな奈良時代の淳仁天皇はともかくも,7世紀天智天皇の崩御後の皇位争いにおいて大海人皇子(天武天皇)に敗れた弘文天皇(太政大臣大友皇子)及び鎌倉時代の仲恭天皇については,皇位についていたこと自体がはっきりしていなかったのではないでしょうか。

(2)牧野伸顕宮内大臣の懸念及び考査対象からの除外:弘文天皇及び仲恭天皇 

大正時代,皇統譜令案の施行を全うするために必要な史実を明確にするために1924年3月7日に設置された臨時御歴代史実考査委員会に対して,同年4月21日に牧野伸顕宮内大臣から諮問事項が示されたところですが,その際牧野宮内大臣から同委員会の伊東巳代治総裁に対して,「弘文・仲恭両天皇に関しては,すでに御歴代に数え,皇霊殿に奉祀されているため,今更問題にすべからざることなどの指示があった」そうです(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)547549頁)。これは,反対解釈すると,「今更問題にす」ると,弘文・仲恭両天皇についてはやはり皇位についていなかったという結論となることが十分あり得るということが宮中自身の認識であったということでしょう。

DSCF0655
 弘文天皇陵(滋賀県大津市)

(3)『神皇正統記』における仲恭天皇:日嗣にくはへたてまつられざる廃帝 

仲恭天皇の皇統における位置付けについて,現在はともかく,承久の変から百二十年ほど後の当時における公家知識人の認識はいかん。

 

 廃帝。諱は(かね)(なり),順徳の太子。御母東一条院,藤原立子(のりつこ),故摂政太政大臣良経(のむすめ)也。

 承久三年春の比より〔順徳〕上皇おぼしめしたつことありければ,にはかに譲国したまふ。順徳御身をかろめて合戦の事をも(ひとつ)御心にせさせ給はん御はかりことにや,新主に譲位ありしかど,即位登壇までもなくて軍やぶれしかば(ははかたの)(をぢ)摂政道家の大臣の九条の(てい)へのがれさせ給。三種(さんしゅの)神器をば閑院の内裏にすて((お))かれにき。譲位の後七十七ヶ日のあひだ,しばらく神器を伝給しかども,日嗣にはくはへたてまつらず(イ﹅)(とよ)の天皇の(ためし)になぞらへ申べきにこそ。元服などもなくて十七歳にてかくれまします。北畠親房(岩佐正校注『神皇正統記』(岩波文庫・1975年)152頁。下線は筆者)

 

北畠親房はその『神皇正統記』において,「第八十四代,(じゅん)(とくの)院。」,「第八十五代,()堀河(ほりかわの)院。」と記していて北畠149頁,154頁),その間仲恭天皇はスキップされています(なお,何の位の第何代かといえば,神武天皇が「(にん)(わう)第一代」とされていますから(北畠45頁),順徳天皇は人皇第84代,御堀河天皇は人皇第85代ということになります。人皇の前は(あま)(てらす)(おほ)(みかみ)以下地神(ちじん)五代です北畠29頁,44頁)。ちなみに,前記伊東巳代治の臨時御歴代史実考査委員会には牧野宮内大臣から附帯事項として「皇統譜中太古ノ神系ハ之ヲ神武天皇ノ前ニ特書スベキヤ否」について参考意見が求められたところ(『昭和天皇実録 第四』548頁),同委員会の意見は積極だったようで,旧皇統譜令(大正15年皇室令第6号)39条は「神代ノ大統ハ勅裁ヲ経テ大統譜ノ首部ニ登録スヘシ」と規定しています。)。

DSCF0671
 仲恭天皇陵(京都市伏見区)

(4)『神皇正統記』における淳仁天皇:人皇第四十七代たる淡路廃帝 

淳仁天皇についてはさすがに,北畠親房によっても「第四十七代,淡路廃(あはぢのはい)(たい)一品(いつぽん)舎人(とねりの)親王の子,天武の御孫也。・・・(つちのえ)(いぬの)年即位。/天下を治給こと六年。事ありて淡路国にうつされ給き。三十三歳おましましき。と記されて北畠8990頁),人皇第47代にしっかりカウントされています。

DSCF0678
 淳仁天皇を祭る白峯神宮(京都市上京区)

(5)飯豊天皇:日嗣にはかぞへたてまつられざる「女帝」 

仲恭天皇というよりは九条廃帝ないしは半帝がその「例になぞらへ申すべき」ものとされた飯豊の天皇とはだれかといえば,清寧天皇と顯宗(けんぞう)天皇(在位期間は宮内庁ウェッブ・サイトの「天皇系図」によればそれぞれ西暦480年から484年まで及び同485年から487年まで)の間「しばらく位に居給」うた「天皇」であるそうです。すなわち,清寧天皇の後は本来顯宗の「御(このかみ)仁賢(まづ)位に(つき)(たまふ)べかりしを,〔仁賢・顯宗の兄弟は〕相共に(ゆづり)ましまししかば,同母の御姉飯豊(いひとよ)の尊しばらく位に居給き。されどやがて顯宗定りましまししによりて,飯豊天皇をば日嗣にはかぞへたてまつらぬなり。」ということです(北畠69頁)。伊藤博文の『皇室典範義解』における明治皇室典範1条(「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」)の解説には「飯豊(いひとよ)(あをの)(みこと)政を摂し清寧天皇の後を承けしも,亦未だ皇位に即きたまはず。」とあります(同じく『皇室典範義解』における明治皇室典範19条解説では,「飯豊青尊の摂政に居たまへるは此れ〔「君祚を仮摂」〕に近し。」とあり,「人臣を以て大政を摂行」する「摂政」とは異なるものとされています。)。推古天皇以来女帝の例もあったのですから,現在の女帝可不可論の問題は別にして,仲恭天皇を歴代天皇に数えることにしたのならば飯豊天皇飯豊青尊代に列せしめることにしてもよかったように思われますが,どうでしょうか。とはいえ,吉野の長慶天皇を1926年に皇代に列した際には「宮内大臣一木喜徳郎は,御歴代大統中に御一代を加えることは皇室の大事にして,詔書を以て宣誥せらるべきもの」とし,同年1021日に摂政宮裕仁親王により詔書が出されていますが(『昭和天皇実録 第四』549550頁),「皇室ノ大事ヲ宣誥」するための詔書(公式令(明治40年勅令第6号)1条1項)という形式は現在もそのようなものとしてあるものかどうか。

(6)順徳天皇・後堀河天皇間における「空位」の意味等 

ところで,『神皇正統記』の記載から窺われる,承久三年四月二十日に順徳天皇が退位し同年七月九日に後堀河天皇が践祚するまでは実は皇位は空位であったことにしよう,という整理ないし事件処理は,敢えて絶妙であったというべきでしょう。関東の東夷どもが人民の分際であるにもかかわらず畏れ多くも現在の天皇を廃位申し上げてしまったのだなどというスキャンダラスな事態(美濃部達吉は,大日本帝国憲法3条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」との規定に関して,「日本ではその固有の歴史的成果として古来既に久しく認められて居た」原則であり,当該原則によれば「既に践祚あつた後に於いては,如何なる事由の起ることが有つても・・・皇位を廃することは法律上絶対に不可能」,「天皇の廃位は絶対に不可能」と強調しています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)115頁,118頁,120頁)。)は,実は我が光輝ある国史においてはなかったのだ,北条義時・泰時父子は,天皇OBの後鳥羽上皇・順徳上皇父子の勢力と争ったものではあるが,現役の天皇に対して刃向かったものではないのだ,空位期間だったのだ,すなわち明治大帝が大日本帝国憲法発布の勅語において畏くも確認しておられるように,日本国民の祖先は全て飽くまでも一貫して,天皇たる「祖宗ノ忠良ナル臣民」であったのである,ということになり得るからです。だからこそ北畠親房も安心して承久三年の宇治川渡河戦の勝利者にして京都への乱入者である北条泰時をほめ,「大方泰時心ただしく(まつりこと)すなほにして,人をはぐくみ物におごらず,公家の御ことをおもくし,本所のわづらひをとどめしかば,風の前にちりなくして,天の下すなはちしづまりき。かくて年代をかさねしこと,ひとへに泰時が力とぞ申伝ぬる。」と記すことができたのでしょう(北畠156頁)。

承久の変の際仲恭天皇はなお満3歳に満たない幼児であらせられました。物心もついておられたものかどうか。飯豊青皇女は自ら政を摂したとのことですが,仲恭天皇の場合はそれもなかったわけです。また,意思能力も有しておられなかったわけで,退位の意思表示は無理だったわけでしょう。摂政が天皇を代理して,退位の意思表示をするわけにもいかなかったでしょう。しかも当時は人臣摂政の時代。ちなみに, 仲恭天皇の摂政であった九条道家は, 次代鎌倉将軍予定者たる三寅(頼経)の実父でもありました。

なお,源平合戦期に後白河法皇が後鳥羽天皇を立てた際安德天皇は同法皇によって廃位されたのかどうかが問題になり得,前記臨時御歴代史実考査委員会には牧野宮内大臣から附帯事項として「安德天皇ノ御在位年数後鳥羽院天皇登極ノ時期ハ如何ニ定ムベキカ」についても参考意見が求められていたところ(『昭和天皇実録 第四』548頁),「記載は原則として皇統譜に基づく」ものとされる宮内庁ウェッブ・サイトの「天皇系図」によれば,第81代の安德天皇は壇ノ浦の戦いの西暦1185年まで在位していたものとされている一方,第82代の後鳥羽天皇は平家都落ちの同1183年から在位していたものとされています。治天の君たる後白河法皇といえども,二人目の天皇を立てることはできても現天皇を一方的に廃位することはできなかった,ということでしょうか(なお, 時代は近いもののまた別の話ですが,当時3歳児であらせられた第79代六条天皇から第80代高倉天皇(安徳天皇の父, その中宮は平清盛の娘である徳子)への「譲位」の有効性については,そもそも問題にされていないようです。)。承久の変後,高倉天皇の皇子である行助法親王が後高倉院として院政を始めましたが,その後高倉院にとっては,後白河法皇は余り手本にしたくはない祖父だったかもしれません(平家都落ち後の新天皇選びの際後高倉院は後白河法皇に気に入られずに践祚できなかったとも伝えられています(代わりに弟の後鳥羽天皇が践祚)。すなわち,現役の天皇がなお在位しているのに,治天の君があえて新天皇を践祚させるというあくの強いなしざまの際の一種の被害者であった者としては,自ら同様のことはしたくはなかったことでしょう。)。他方,孝謙太上天皇による淳仁天皇の廃位はどう考えるべきかということについては,「太上天皇とは・・・律令の規定では,天皇と同じ待遇と政治的権限を有していた」ところであり,かつ,「8世紀においては,まだ権力を天皇一人のみに集中させることはできず,太上天皇や皇后・皇太后など,2~3名の皇族による権力の分掌体制が残っていたのである。」ということ(大隅清陽「君臣秩序と儀礼」大津透=大隅清陽=関和彦=熊田亮介=丸山裕美子=上島享=米谷匡史『日本の歴史08 古代天皇制を考える』(講談社・2001年)65頁,66頁)並びに,つとに淳仁天皇在位中の「天平宝字六年(762)六月孝謙上皇は,「政事は,常の(まつり)へ。国家大事賞罰(もと)(われ)天皇さい賞罰国家大事宣言ていと(丸山裕美子天皇祭祀変容大津218頁)などを参考にすべきでしょうか。

 

3 我が国史における皇位に係る空位の存否

しかし,我が国の皇位に空位期間があってよいものでしょうか。『皇室典範義解』の明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)の解説は「本条は皇位の一日も曠闕すべからざるを示」すと記しています。

しかしこれは,明治皇室典範以降のことであって,万古不易の定則ではなかったところです。

美濃部達吉も「皇位の継承には何等の時間の経過なく,先帝位を去りたまふ瞬間は即ち新帝の践祚したまふ瞬間であり,皇位は寸毫の間隙も無く連続する。此の原則も亦純粋の意義に於いての世襲主義から生ずる当然の結果である。」と唱えつつも,「日本の歴史に於いても,例へば清寧天皇崩ずるの後皇嗣定まらざること3年に及び,その間飯豊青皇女が政を摂せられたやうな例も有る。」という事実は認めざるを得なかったところです(美濃部103頁)。

そもそも前記臨時御歴代史実考査委員会には宮内大臣から附帯事項として「天智天皇持統天皇ノ称制年間ハ御在位中ト見ルベキヤ否」及び「我国古代ニ於ケル皇位継承ノ際ノ空位ハ之ヲ如何ニ取扱フベキカ」についても参考意見が求められていましたが(『昭和天皇実録 第四』548頁),宮内庁ウェッブ・サイトの前記「天皇系図」によれば,結局皇位継承に当たって空位期間が生じることはあり得べきことであったものとされています。第37代の齊明天皇の在位は西暦661年までであるのに対して第38代の天智天皇の在位は同668年から始まったことになっており,かつ,第40代の天武天皇の在位は同686年で終わったものとされる一方第41代持統天皇の在位は同690年から始まったものとされています。他方,古代最初の皇位継承があった神武天皇と綏靖天皇との間で早速空位期間(西暦紀元前585年と同581年との間)が生じています。また,第14代の仲哀天皇の在位期間は西暦200年までとされているのに対して第15應神天皇の在位期間は同270年から始まったことになっていて,その間の空位期間は極めて長い。『神皇正統記』では,仲哀天皇と應神天皇との間のこの長い期間において「第十五代」として神功皇后が人皇の位にあったこととされています(北畠57頁)。承久の変後にも,1242年,第87代四条天皇と第88代後嵯峨天皇との間には「空位期間12日」(上横手197頁)がありました(皇子のないまま突如崩御した四条天皇(後高倉院の孫)の後は承久の変に関与していなかった土御門天皇の皇子である後嵯峨天皇(後高倉院の大甥)が践祚すべき旨は,鎌倉の鶴ケ岡八幡宮の神意として鎌倉から京都に伝えられ,その際,北条「泰時は順徳院の皇子の即位が実現するようなことがあれば,退位させよという決意を,使者の安達義景に伝えた」そうであるところ(上横手197頁),ここでうっかり「皇位は一日も曠闕すべからず」などとしてお公家さんらが間の悪い順徳上皇(なお佐渡で存命)の皇子を勝手に践祚させていたならば承久三年の二の舞。空位に効用があったわけです。)。そもそも,第121代孝明天皇の在位期間が西暦1866年までとされ,第122代明治天皇の在位期間が同1867年から始まったものとされているのは,実に明治時代の直前まで皇位継承に当たって空位期間が生ずることが容認されていたということでしょうか(なお,孝明天皇の崩御日は慶応二年(十一月二十五日まで1866年)十二月二十五日ではありますが,グレゴリオ暦では1867年1月30日になります。)。

1887年3月20日の伊藤博文邸における高輪会議に提出された柳原前光の「皇室典範再稿」第39条柱書きには「空位又ハ左ノ事項ニ関シ天皇政ヲ親ラスル能ハサル間ハ摂政一員ヲ置クコト神功皇后以来ノ例ニ依ル」とあったところ,同会議の決定によって「空位」が削られていますから(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」同『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)193頁),「皇位の一日も曠闕すべからざる」原則も,同会議において初めて決定されたものでしょう(伊東巳代治も当該会議に出席していました。)。(なお,柳原前光は神功皇后を摂政の原型としていましたが,「本朝には應神うまれ給て襁褓にましまししかば,神功皇后天位にゐ給。しかれども摂政と申伝たり。これは今の儀にはことなり。」(北畠107頁。下線は筆者)という認識の存在を前提とすれば,天皇が皇位にあることを前提とした摂政を説明するのに適当な先例であったとはいえないでしょう。「神功皇后ヲ皇代ニ列スベキヤ否」は前記臨時御歴代史実考査委員会に対し1924年4月21日に諮問された事項の第一であり,その答申は皇代に列せざるを可とすだったのですが(『昭和天皇実録 第四』548‐549頁),換言すれば,神功皇后の皇統中の位置付けは,大正時代の末まではっきりしていなかったということです。)

 

4 「国政に関する権能を有しない」ことと天皇の退位の意思

日本国憲法4条1項は「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」と規定していることから,国事行為の臨時代行に関する法律(昭和39年法律第83号)に基づく天皇によるその国事に関する行為の委任における天皇の意思の位置付けが問題になり得ます(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)139頁参照)。当該委任及びその解除について,天皇の意思が実質的に働く余地が認められるのか認められないのか。天皇の国事行為の委任及びその解除には内閣の助言と承認が必要とされているところ(国事行為の臨時代行に関する法律2条,3条),国事に関する行為の委任もまた国政に関することであるとして天皇の意思が実質的に働く余地が認められないということでしょうか,そうであるのならば,その延長で,天皇の意思に基づく退位(国事行為の臨時代行の委任よりも極めて重大な行為です。)は認められないことになるのでしょうか(2017年1月1日に毎日新聞ウェッブ・サイトに掲載された野口武則記者の記事によると「政府は,〔今上〕天皇陛下に限り退位を認める特別立法に関し,退位の要件として「天皇の意思」は書き込まない方針を固めた。・・・内閣法制局は天皇の意思を退位の要件とすることは「憲法改正事項になる」との見解を示しているという。・・・法制局は,天皇の意思による退位を法律で明記すると・・・天皇が政治に影響を及ぼす可能性が残るとする。」ということですが,この「政府方針」は,同様の消極解釈に基づくものでしょう。)。それともやはり,退位となると次元の異なる場面であるということで,ベルギー国憲法の解釈(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060127005.html)に倣って,究極的には天皇個人の決断に基づく退位が認められるものかどうか。

天皇の退位の意思表示を要件とせずに天皇をその位から去らしめることは,これはもはや退位ではなく廃位であるといい得るように思われます(無論,言葉の問題に過ぎないということであれば,そうなのでしょう。)。国会においてみんなで決めた法律である退位特例法によるのだからよいのだ,廃位特例法などと変な言い方で言うのはやめろ,和を尊べ,と言われても,天皇には国会議員の選挙権はありませんから,そこでの「みんな」に含まれておられるものと直ちに解し得るものかどうか。また,英国とは異なり,現行憲法下,天皇には名目的にも立法に係る裁可権はありませんから,1936年のエドワード8世のように,自分の意思に基づく裁可によって自らを王位から去らしめる法律を制定したという形にもなりません。(なお,園部逸夫『皇室法概論』(第一法規・2002年)462頁は,「天皇の自由意思によらない廃立であっても,象徴性・世襲制に反しない場合もあり得ないとは言えず,直ちに違憲とは考えない。」と述べています。美濃部のような廃位ダメ絶対論は,飽くまでも,天皇の神聖不可侵を規定する大日本帝国憲法3条があってのものである,ということになるのでしょう(「諸国の立憲主義憲法は「国王の身体は〔原文は傍点〕不可侵」とするにとどまる。この体制において廃位の考えられるこというまでもないが,明治憲法第3条は意図してこれを避けたのである。」との指摘があります(小嶋和司「再び天皇の権能について」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』(木鐸社・1988年)118頁)。)。「廃立」とは,『岩波国語辞典 第四版』によれば,「臣下が勝手に今の君主をやめさせて別人を君主にすること」です。)

 

5 北条義時の最期

仲恭天皇を廃位したものではない建前とはなった模様である北条義時でしたが,承久の変の後3年で急死しています。「吾妻鏡では脚気の上に霍乱をわずらって死んだとあるが,保暦間記四には「元仁元年〔1224年〕六月十五日義時思ひの外めしつかひける若侍に突き殺されける」と述べて,承久の乱における身の業因の然らしめるところで「とりわきかかるむくい」と覚えて恐ろしい限りだと評している。」とのことです(北畠233頁(岩佐正の補注))。ただし,「六月十五日」は承久の変における鎌倉方の入京日なので,日付には作為があるのかもしれません。一般には義時の死亡日は六月十三日と伝えられています(上横手58頁)。義時の死因には上記の近侍による殺害説のほか,妻による毒殺説もありますが,「・・・上皇を配流したり,道徳的には道ならぬ事の限りをつくしたこのあくの強い人物の死については・・・噂こそが真実だったのかもしれない。」とされています(上横手60頁)。

 山の端に隠れし人は見えもせで入りにし月はめぐり来にけり 泰時

DSCF0510
北条義時の墳墓堂たる法華堂の跡地(鎌倉市。源頼朝の墓の東)

DSCF0518
義時法華堂とは別にインターネット情報の伝える「義時やぐら」(義時法華堂跡から更に東。向かって右側の穴がそれであるようです。)

DSCF0517

DSCF0511
DSCF0512
(承久三年の勝報を受けて「今ハ義時,思フ事ナシ。義時ハ,果報ハ,王ノ果報ニハ猶勝リマイラセタリケレ」(上横手41頁における『承久記』からの引用)とまでの揚言をあえてした北条義時も空しくなりました。)   

 

6 ロマノフ王朝の最期

しかしながらそもそも,今年(2017年)から百年前のロシア革命のことを思えば,王家に生まれた者にとっては,退位の自由や践祚拒否の自由があったとしても,詮無いことかもしれません。革命騒擾の中,グレゴリオ暦1917年3月15日にロシア帝国の皇帝ニコライ2世は退位宣言に署名して帝位を弟のミハイル大公に譲り,同大公は翌同月16日に帝位を拒否してロマノフ王朝は終焉を迎えましたが,このように降りかかる火の粉を払い,火中の栗を避けてはみたものの,ニコライもミハイルも,結局,ボルシェヴィキによる虐殺の赤い魔の手からは逃れることはできなかったところです。1918年7月17日にニコライとその家族はエカテリンブルクで皆殺しにされ,ミハイルもその前に殺されています。

 
DSCF0669

1891年5月11日に発生した大津事件の現場(滋賀県大津市)

大津では助かったニコライも,エカテリンブルクでは助かりませんでした。ボルシェヴィキは,津田三蔵よりも上手(うわて)


弁護士 齊藤雅俊

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16渋谷三丁目スクエアビル2階

大志わかば法律事務所

電話:0368683194

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp


弁護士ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 内閣総理大臣官邸ホームページの「内閣総理大臣一覧」の表を見ると,昭和15年(1940年)7月22日に昭和天皇によって2度目に内閣総理大臣に任じられ,翌年昭和16年(1941年)1016日に内閣総辞職して政権を投げ出すこととなった近衛文麿を首班とする内閣は,その間昭和16年(1941年)7月18日を境にして,それ以前が第2次近衛内閣,それ以後同年1018日の東条英機内閣の成立までが第3次近衛内閣であるものとされています。これに対して,大正13年(1924年)6月11日に摂政宮裕仁親王によって内閣総理大臣に任じられた加藤高明は,その死亡の日である大正15年(1926年)1月28日まで一貫して一つの加藤高明内閣の内閣総理大臣であり続けていたものとされています。

http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html

 この取扱いについては,我が国の近代史に詳しい向きから疑問を呈せられることがあります。

 

ものの本には,大正14年(1925年)8月2日以後を第2次加藤高明内閣とし,それ以前を第1次加藤高明内閣としているものがあるが,内閣総理大臣官邸ホームページはそのように取り扱っていないのはなぜか。

 

 内閣総理大臣官邸ホームページにおける「内閣総理大臣一覧」の表の記載を所与のものとしていた者にとっては意表を衝かれる質問です。「内閣総理大臣官房の人事課がそう言ったのだ。」だけでは回答にはならないでしょう。

そこで,そもそも1925年8月2日に加藤高明内閣に何が起こったのかから調べなければなりません。

 宮内庁の『昭和天皇実録 第四』(2015年・東京書籍)の1925年7月30日の項を見ると,当時の摂政宮裕仁親王は,「午後4時,内閣総理大臣加藤高明参殿につき謁を賜い,税制整理案をめぐり,政友会の2閣僚の反対により閣内不一致に陥った状況につき,奏上を受けられる。・・・政局紛糾につき,明日の日光行啓はお取り止めとなる。」とあって(295頁),翌31日については次のとおり(同頁)。

 

 31 金曜日 午前1110分,内閣総理大臣加藤高明に謁を賜い,国務大臣全員の辞表の捧呈を受けられる。同25分,内大臣牧野伸顕をお召しになり,爾後の措置につき御下問になり,牧野は公爵西園寺公望の意見を徴すべき旨を奉答する。・・・東宮侍従長入江為守をお召しになり,御殿場の西園寺の許へ赴くことを命じられる。入江は正午出発,西園寺と面会するも,西園寺は,時局に鑑み,熟慮の間しばらく奉答を猶予せられたき旨を回答する。午後9時45分,入江は摂政に復命する。

 

 これは,加藤高明内閣総辞職ということでしょう。

 しかして,それに続く1925年8月1日には「午後5時10分,内閣総理大臣加藤高明をお召しになり,加藤に内閣の再組織を命じられる。加藤は,熟慮の上奉答する旨を言上し,退下する」ということになり(『昭和天皇実録 第四』297頁),同月2日の日曜日に「〔午前10時〕35分内閣総理大臣加藤高明参殿につき,内謁見所において謁を賜い,大命拝受の言上並びに閣員名簿の捧呈を受けられる。」(同頁)という運びになっています。

「大正13年〔1924年〕6月清浦内閣の後を襲つた加藤高明内閣(大正13年6月より同14年〔1925年〕8月まで)は・・・所謂(いわゆる)「護憲三派」(憲政会,政友会,国民党)の聯立内閣であつたところ,「大正14年8月,護憲三派の聯立が破れて,加藤高明が再び組閣の命を受けた」ということになるわけですから(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)281頁),確かに,政治的に加藤高明内閣の性格は変化し,第1次加藤高明内閣から第2次加藤高明内閣への交替があったといってもよいようではあります。

 どうしたものでしょうか。加藤高明内閣総理大臣の内閣に係る1925年8月2日の取扱い(同年7月31日に国務大臣全員の辞表の捧呈があったものの,内閣の交替がなかったものとする。)と近衛文麿内閣総理大臣の内閣に係る1941年7月18日の取扱い(以下に見るように同月16日に全閣僚の辞表捧呈があったところ,内閣総理大臣は変わらずとも内閣の交替があったものとする。)との違いはどう説明されるものか。

安直にWikipediaでもって「加藤高明」及び「加藤高明内閣」について調べると,ネット上の賢者らは,1941年7月18日の第2次近衛内閣から第3次近衛内閣への交替の際においては「この時には辞表の差し戻しがなく」,又「辞表差し戻しが行われておらず,再度の首相拝命扱いとなっている」ものとしています。すなわち,1925年7月31日に捧呈された加藤高明内閣総理大臣の辞表は摂政宮裕仁親王から差し戻されたのに対して,1941年7月16日に捧呈された近衛文麿内閣総理大臣の辞表は昭和天皇から差し戻されることなくそのまま受理された,この点に両者の違いがあるのだ,ということのようです。

なるほど。

加藤高明内閣総理大臣の前例に係る『昭和天皇実録 第四』1925年8月2日の記載は,次のとおり。

 

・・・〔午前10時〕40分,内謁見所において加藤総理に謁を賜い,総理の辞表をお下げ戻しの上,閣僚人事の内奏を受けられる。1140分,狩ノ間において加藤総理侍立のもと親任式を行われ,内閣書記官長江木翼を司法大臣に,大蔵政務次官早速整爾を農林大臣に,内務政務次官片岡直温を商工大臣に任じられ,ついで留任閣僚の辞表を下げ渡される。(297298頁。下線は筆者)

 

辞表の提出だけでは内閣総理大臣辞職の効力は生じていなかったということでしょう。

「国務大臣の任免は,憲法上 天皇の大権事項に属する。従つて内閣総理大臣の罷免――内閣の退陣は,一に聖旨に存する。例へば内閣総理大臣が,闕下に伏して骸骨を乞ひ奉るが如き場合に於ても,其の之を聴許し給ふと否とは,全く天皇の御自由である。」とされていました(山崎326頁)。1925年7月31日に加藤高明内閣総理大臣は摂政宮裕仁親王に辞表を捧呈して骸骨を乞うたものの,聴許せられなかったということになるわけです。(なお,「骸骨を乞う」とは,三省堂『新明解国語辞典 第五版』によれば,「在任中,主君に捧げた身の残骸をもらい受ける意で,高官が辞職を願い出ること」とあります。)

それでは1941年7月18日の場合はどうであったのでしょうか。

まず,同15日,昭和天皇は「午後4時15分,内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜う。首相は,大本営政府連絡懇談会における日米諒解案の交渉継続の決定経緯を説明の上,昨14日夜,外相〔松岡洋右〕が自分の意向に反し,独断にて国務長官のオーラル・ステートメントに対する拒否回答のみを駐米大使に電訓したこと,さらに米国には未提示の日本側修正対案をドイツ側に内報する挙に出たことを問題視し,本日の閣議が終了した後,首内陸海四相協議の結果,外相更迭又は内閣総辞職との結論に至りし旨を奏上する。天皇は,外相のみ更迭の可否を御下問になり,首相より慎重熟慮の上善処する旨の奉答を受けられる。」という状況だったところ(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(2016年・東京書籍)429頁),同月16日の項には次のようにあります(同431頁・432頁)。

 

・・・午後4時15分,再び内大臣〔木戸幸一〕に謁を賜い,内閣が午後5時30分より臨時閣議を開き,総辞職を決定する旨の情報をお聞きになる。

・・・

午後9時頃,内閣総理大臣近衛文麿参邸〔葉山御用邸〕につき,謁を賜い,全閣僚の辞表捧呈を受けられる。首相に対し,何分の沙汰あるまで国務を執るよう仰せになる。・・・

 

同月17日には事態は次のように推移します(『昭和天皇実録 第八』432頁)。

 

午後3時30分,内大臣木戸幸一をお召しになる。内大臣より,本日午後1時,枢密院議長〔原嘉道〕及び首相経験者男爵若槻礼次郎・海軍大将岡田啓介・従二位広田弘毅・陸軍大将林銑十郎・同阿部信行・海軍大将米内光政が西溜ノ間に参集し,全員一致を以て公爵近衛文麿を後継首班に推薦した旨の言上を受けられる。・・・5時15分,参内の公爵近衛文麿内閣総理大臣に謁を賜い,内閣組織を命じられる。

 

そしていよいよ1941年7月18日。

 

午後4時23分,内大臣木戸幸一をお召しになり,組閣の状況を御聴取になる。7時13分,御学問所において公爵近衛文麿内閣総理大臣に謁を賜い,閣員名簿の捧呈を受けられる。御下問の後,閣員名簿を御聴許になる。ついで内大臣をお召しになり,閣員名簿の閲覧を許され,同30分,閣僚人事に関する内閣上奏書類を御裁可になる。8時50分,近衛をお召しになり,留任となる首相及び陸軍大臣東条英機・海軍大臣及川古志郎・文部大臣橋田邦彦・逓信大臣村田省蔵・農林大臣井野碩哉・国務大臣兼企画院総裁鈴木貞一の辞表を下げ渡される。9時,鳳凰ノ間において親任式を行われ,商工大臣豊田貞次郎海軍大将を外務大臣兼拓務大臣に,従三位勲二等田辺治通を内務大臣に,国務大臣小倉正恒を大蔵大臣に,海軍中将左近司政三を商工大臣に,逓信大臣村田省蔵を兼鉄道大臣に,陸軍軍医中将小泉親彦を厚生大臣に,内務大臣平沼騏一郎を国務大臣に,司法大臣柳川平助陸軍中将を国務大臣にそれぞれ任じられる。また,内閣総理大臣近衛文麿を兼司法大臣に任じられる。(『昭和天皇実録 第八』433434頁。下線は筆者)

 

「辞表差し戻しが行われておらず,再度の首相拝命扱いとなっている」ではなく,内閣総理大臣辞任の辞表は,骸骨は返さないよ留任だよと近衛文麿に下げ渡され,また,近衛は兼司法大臣に任じられてはいるものの改めて内閣総理大臣に任じられているものではありません。せっかくのWikipediaにおける理由付けではありましたが,なかなか成り立たないものであるようです。加藤高明内閣に係る1925年8月2日の前例どおり,1941年7月18日には第2次近衛内閣は一部閣僚の更迭はあったもののそのまま継続したものと取り扱うべきもののようではあります。山崎丹照法制局参事官は,その『内閣制度の研究』(1942年)の「附録」の「歴代内閣一覧表」において,加藤高明内閣は1925年8月2日の前後を通じて一つの内閣とする一方(附録16頁),1941年7月18日以前の内閣を「第二次近衛内閣」としつつ(附録26頁)同日以後の内閣を「所謂第三次近衛内閣」としていますが(附録27頁),ここに「所謂(いわゆる)」とあることに大いに注目すべきでしょう。

法制局参事官的な厳格な法制思考においては,「所謂第三次近衛内閣」は,実は法的には「第2次近衛内閣改造内閣」であるということであるようです。

それでは,なぜ「第三次近衛内閣」という呼称が生まれたのでしょうか。

1941年7月162315分の段階で,次のように勇ましい「政府発表」をしてしまったからでしょうか(山崎356頁)。

 

現内閣は昨夏大命を拝して以来閣内一致内外諸般の施策に最善の努力を致し来つたのであるが,変転極まりなき世界の情勢に善処してますます国策の遂行を活溌ならしめん為めには,先づ国内態勢の急速なる整備強化を必要とし,従つて内閣の構成も亦一大刷新を加ふるの要あることを痛感し,こゝに内閣総辞職を決行することゝなり,近衛内閣総理大臣は本日の臨時閣議に於て閣僚の辞表を取り纏め午後9時葉山御用邸に伺候して,之を御前に捧呈した。陛下より何分の沙汰あるまで国務を見よとの優諚を賜はつたので,近衛内閣総理大臣は恐懼して御前を退下し,待機中の各閣僚に報告した。(昭和16年7月17日 朝日新聞所載)

 

 閣内問題児である外務大臣一人を辞めさせることに手を焼いて,閣僚総出で「一緒に辞めよう」と偽装心中まがいの大げさな内閣総辞職をしたものの,お騒がせしましたが実は閣内痴話げんかの末の単なる内閣改造でしたではいかにも恰好が悪いので,これは「国内態勢の急速なる整備強化を必要とし,従つて内閣の構成も亦一大刷新を加ふるの要あることを痛感し,こゝに内閣総辞職を決行」した結果の新内閣なのだ,最早古い第2次近衛内閣ではないのだ,ヴァージョン・アップされ,「一大刷新」された「第三次近衛内閣」なのだ,と内閣自ら言い張ったのだということでしょうか。

 これに対して加藤高明としては,政友会の連中が何と言って騒ごうともやはり摂政宮殿下の信任は我にありなのだ,「護憲三派内閣」云々よりも先に飽くまで加藤高明内閣であって,それは一貫していたのだ,と自己規定した方が,元気が出たものではないのでしょうか。


DSCF1776
DSCF1778

 荻外荘公園(東京都杉並区,202110月撮影)

 

弁護士ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

DSCF1139

師直冢(兵庫県伊丹市池尻一丁目)

1 象徴的役割にふさわしい待遇を求める憲法的規範とそれに対する横着者の発言

 

 憲法は,「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く」(1条)と規定する。「象徴」とは,無形の抽象的な何ものかを,ある物象を通じて感得せしめるとされる場合に,その物象を前者との関係においていうものである。鳩が「平和」の,ペンが「文」の象徴とされるがごときがその例である。したがって,この「象徴」は元来社会心理的なものであって,それ自体としては法と関係を有しうる性質のものではない。にもかかわらず,「象徴」関係が法的に規定されることがあるのは,基本的には,右の社会心理の醸成・維持を願望してのことである。・・・

  日本国憲法が天皇をもって「日本国」「日本国民統合」の「象徴」とするのも,基本的には右のような意味において理解される(ここに「日本国の象徴」と「日本国民統合の象徴」とある点については諸説があるが,前者は一定の空間において時間的永続性をもって存在する抽象的な国家それ自体に関係し,後者はかかる国家を成り立たしめる多数の日本国民の統合という実体面に関係していわれているものと解される)。・・・ただ,ここで「象徴」とされるものは,国旗などと違って人格であるため,その地位にあるものに対して象徴的役割にふさわしい行動をとることの要請を随伴するものとみなければならず,また,そのような役割にふさわしい待遇がなされなければならないという規範的意味が存することも否定できないであろう。・・・(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)238239頁。なお,下線は筆者によるもの)

 

憲法的規範として,①象徴たる天皇の側においては「象徴的役割にふさわしい行動」をとるよう自制せられることが要請されており,②他方,国民の側においては「そのような役割」すなわち象徴的役割に「ふさわしい待遇」を 天皇に対してなすことが当然求められているということでしょう。(「国民としてもまた政府としても,象徴たるにふさわしい処遇といいますか,お取り扱いをするということは,その〔憲法の〕第1条から当然読み取れるということでございます。」との政府答弁があります(真田秀夫政府委員(内閣法制局長官)・第87回国会衆議院内閣委員会議録第8号19頁)。)しかしながら,あさましいことには,象徴的役割にふさわしい待遇をなし申し上げるのを面倒臭がる横着者もいるもののようです。

 

「都に,王と云ふ人のましまして,若干(そこばく)の所領をふさげ〔多くの所領を占有し〕内裏(だいり),院の御所と云ふ所のありて,馬より()るるむつかしさよ〔うっとうしさよ〕。もし王なくて(かな)ふまじき道理あらば,木を以て作るか,(かね)を以て()るかして,生きたる院,国王をば,いづくへも皆流し捨てばや」(兵藤裕己校注『太平記(四)』(岩波文庫・2015年)280頁・第二十七巻7(なお,この岩波文庫版は西源院本を底本とする。))

 

2 皇室費,皇室用財産等

 「若干(そこばく)の所領をふさげ,内裏(だいり),院の御所と云ふ所のありて」についての不平は,毎年度の国の予算に皇室の費用が計上され憲法88条後段。皇室経済法(昭和22年法律第4号)3条は「予算に計上する皇室の費用は,これを内廷費,宮廷費及び皇族費とする。」と規定),その額が約62億円となること(宮内庁のウェッブ・サイトによると,皇室費の平成29年度歳出概算要求額は合計6238百万円です。内訳は,内廷費が3億24百万円,宮廷費が5684百万円,皇族費が2億30百万円です。そのほか平成28年度末の予算定員が1009人である宮内庁の宮内庁費が11157百万円要求されていますが,これは大部分人件費です。),国有財産中に「国において皇室の用に供し,又は供するものと決定したもの」である行政財産たる皇室用財産(国有財産法(昭和23年法律第73号)3条2項3号)が存在することなどについてのものでしょうか。

 

(1)内廷費

 皇室経済法4条1項は「内廷費は,天皇並びに皇后,太皇太后,皇太后,皇太子,皇太子妃,皇太孫,皇太孫妃及び内廷にあるその他の皇族の日常の費用その他内廷諸費に充てるものとし,別に法律で定める定額を毎年支出するものとする。」と規定し,当該定額について皇室経済法施行法(昭和22年法律第113号)7条は,「法第4条第1項の定額は,3億2400万円とする。」と規定しています(平成8年法律第8号による改正後)。「内廷費として支出されたものは,御手元金となるものとし,宮内庁の経理に属する公金としない」ものとされています(皇室経済法4条2項)。また,内廷費及び皇族費として受ける給付には所得税が課されない旨丁寧に規定されています(所得税法(昭和40年法律第33号)9条1項12号)。
 ちなみに,宮中祭祀は「純然たる皇室御一家の祭祀であつて,皇室の家長たる御地位に於いて天皇の行はせらるる所であり,国家とは何等の直接の関係の無いもの」となっているところ(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)555頁),天皇の祭祀に関与する「内廷職員とよばれる25名の掌典,内掌典は,天皇の私的使用人にすぎない」のですから(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)214頁),その報酬は内廷費から出るわけです。なお,今上天皇即位の際の大嘗祭(1990年)の費用は内廷費からではなく後に説明する公金たる宮廷費から出ていますが,大嘗祭は「皇室の宗教上の儀式」ということですから理由付けは難しく,「その際,皇位世襲制を採用する憲法のもとで皇位継承にあたっておこなわれる大嘗祭には,公的性格がある,と説明された(即位の礼準備委員会答申に基づく政府見解)。ここでは,政教分離違反の問題が生じないというための大嘗祭の私事性と,それへの公金支出を説明するための「公的性格」とを,皇位世襲制を援用することによって同時に説明しようと試みられている。」と指摘されています(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)124頁)。
 内廷費の定額は1947年当初は800万円でしたが,その内訳については,「御内帑金,これは御服装とかお身の回りの経費でございますが,その御内帑金が約50%,皇子の御養育費が約5%,供御供膳の費用,これはお食事とか御会食の経費でございますが,その供御供膳の経費が約10%,公でない御旅行の費用が約17%,お祭りの費用,用度の費用が残りというような説明がなされていた」とされています(第136回国会衆議院内閣委員会議録第3号3頁(角田素文政府委員(皇室経済主管)))。 

 

(2)皇族費

 内廷費の対象となる皇族以外の皇族に係る皇族費は,皇室経済法6条1項の定額が皇室経済法施行法8条において3050万円となっていますので(平成8年法律第8号による改正後),独立の生計を営む親王については年額3050万円(皇室経済法6条3項1号),その親王妃については年額1525万円(同項2号本文),独立の生計を営まない未成年の親王又は内親王には年額305万円(同項4号本文),独立の生計を営まない成年の親王又は内親王には年額915万円(同号ただし書),王,王妃及び女王に対してはそれぞれ親王,親王妃及び内親王に準じて算出した額の10分の7に相当する額の金額(同項5号)ということになります(なお,親王,内親王,王及び女王について皇室典範(昭和22年法律第3号)6条は,「嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫は,男を親王,女を内親王とし,3世以下の嫡男系嫡出の子孫は,男を王,女を女王とする。」と規定)。部屋住みの成年の王又は女王には,年額640万5千円という計算です。皇族費も,御手元金となり,宮内庁の経理に属する公金とはされません(皇室経済法6条8項)。
 1996年当時の国会答弁によると,各宮家には平均5人程度の宮家職員が雇用されており,給与は国家公務員の給与に準じた取扱いがされ,一般企業の従業員と同様に社会保険・労働保険に加入して事業主負担分については皇族費から支弁がされています(第136回国会衆議院内閣委員会議録第3号5頁(森幸男政府委員(宮内庁次長)))。
 なお,内廷費及び皇族費の定額改定は,1968年12月に開催された皇室経済に関する懇談会(皇室経済会議の構成員に総理府総務長官を加えた懇談会)において,物価の上昇(物件費対応)及び公務員給与の改善(人件費対応)に基づいて算出される増加見込額が定額の1割を超える場合に実施するという基本方針(「原則として,物価のすう勢,職員給与の改善その他の理由に基づいて算出される増加見込額が,定額の1割をこえる場合に,実施すること」)が了承されています(第136回国会衆議院内閣委員会議録第3号4頁・同国会参議院内閣委員会会議録第3号2頁(
角田政府委員))。 

 

(3)宮廷費及び会計検査院の検査

 宮廷費は,「内廷諸費以外の宮廷諸費に充てるものとし,宮内庁で,これを経理」します(皇室経済法5条)。宮廷費は宮内庁の経理に属する公金であるので,会計検査院の検査を受けることになるわけです。会計検査院法(昭和22年法律第73号)12条3項に基づく会計検査院事務総局事務分掌及び分課規則(昭和22年会計検査院規則第3号)の別表によると,宮内庁の検査に関する事務は会計検査院事務総局第一局財務検査第二課が分掌しているところです。平成21年度決算検査報告において,宮廷費について,「花園院宸記コロタイプ複製製造契約において,関係者との間の費用の負担割合を誤ったなどのため,予定価格が過大となり契約額が割高となっていたもの」8百万円分が指摘されています。

 これは,花園天皇に関する狼藉というべきか。しかし,才なく,徳なく,勢いがなくなれば,万世一系といえどもあるいは絶ゆることもあらんかと元徳二年(1330年)二月の『誡太子書』において甥の量仁親王(光厳天皇)に訓戒していた花園天皇としては,宮廷費に一つ不始末があるぞと臣下が騒いでもさして動揺せらるることはなかったものではないでしょうか。「余聞,天生蒸民樹之君司牧所以利人物也,下民之暗愚導之以仁義,凡俗之無知馭之以政術,苟無其才則不可処其位,人臣之一官失之猶謂之乱天事,鬼瞰無遁,何況君子之大宝乎」。また更に「而諂諛之愚人以為吾朝皇胤一統不同彼外国以徳遷鼎依勢逐鹿・・・纔受先代之余風,無大悪之失国,則守文之良主於是可足・・・士女之無知聞此語皆以為然」,「愚人不達時変,以昔年之泰平計今日之衰乱,謬哉・・・」云々。唐土の皇帝らとは異なっているので何もせずとも代々終身大位に当たってさえおれば我が国の万世一系は安泰だと奏上するのは諂諛(てんゆ)之愚人で,そうか安泰なのかと思わされるのは士女之無知だ,必要な才がないのであればその位におるべからず,時変・衰乱の今日にあっていつまでも昔のやり方でよいというのは愚人のあやまであるというようなこととされているのでしょう。

なお,大日本帝国憲法下では,「皇室経費に付いては,国家は唯定額を支出する義務が有るだけで,その支出した金額が如何に費消せらるゝかは,全然皇室内部の事に属し,政府も議会も会計検査院も之に関与する権能は無い。皇室の会計は凡て皇室の機関に依つて処理せられるのである。」ということにされていました(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)686頁)。明治皇室典範48条は「皇室経費ノ予算決算検査及其ノ他ノ規則ハ皇室会計法ノ定ムル所ニ依ル」と規定していましたが,この「皇室会計法」は「法」といっても帝国議会の協賛を経た法律ではありませんでした。1912年には,皇室令たる皇室会計令(明治45年皇室令第2号)が制定されています。皇室令は,1907年の公式令(明治40年勅令第6号)によって設けられた法形式で,「皇室典範ニ基ツク諸規則,宮内官制其ノ他皇室ノ事務ニ関シ勅定ヲ経タル規程ニシテ発表ヲ要スルモノ」です(同令5条1項)。

 

(4)ちょっとした比較

 天皇制維持のための毎年の皇室の費用約62億円及び宮内庁費約112億円は高いか安いか。ちなみに,「議会制民主政治における政党の機能の重要性にかんがみ・・・政党の政治活動の健全な発達の促進及びその公明と公正の確保を図り,もって民主政治の健全な発展に寄与することを目的」として(政党助成法(平成6年法律第5号)1条),国民一人当たり250円という計算で毎年交付される政党交付金の総額(同法7条1項)は,2016年につき31892884千円で,そのうち自由民主党分が1722079万円,民進党分が974388万円,公明党分が297209万8千円となっています(2016年4月1日総務省報道資料「平成28年分政党交付金の交付決定」)。

 

(5)国有財産及び旧御料

 GHQの意図に基づき「憲法施行当時の天皇の財産(御料)および皇族の財産を,憲法施行とともにすべて国有財産に編入するという意味」で日本国憲法88条前段は「すべて皇室財産は,国に属する。」と規定していますので(佐藤260頁),現在の「所領をふさげ」等の主体は,「王と云ふ人」ではなく,国ということになります(行政財産を管理するのは,当該行政財産を所管する各省各庁の長(衆議院議長,参議院議長,内閣総理大臣,各省大臣,最高裁判所長官及び会計検査院長)です(国有財産法5条,4条2項)。)。(なお,「皇室の御料」の沿革は,「明治維新の後は唯皇室敷地,伊勢神宮及び各山陵に属する土地及び皇族賜邸があつたのみで,その他には一般官有地の外に特別なる御料地は全く存しなかつたのであつたが,〔大日本帝国〕憲法の制定に先ち,将来憲政の施行せらるに当つては皇室の独立の財源を作る必要あることを認め,一般官有地の内から,御料地として宮内省の管轄に移されたものが頗る多く,皇室典範の制定せらるに及んでは,新に世伝御料の制をも設けられた〔明治皇室典範45条は「土地物件ノ世伝御料ト定メタルモノハ分割譲与スルコトヲ得ス」と規定〕。」というもので,「此等の御料から生ずる収入は,皇室に属する収入の重なる部分を為すもので,国庫より支出する皇室経費は其の以外に皇室の別途の収入となるもの」であったそうです(美濃部・精義685頁)。)「院の御所」は,太上天皇の住まいですから,天皇の生前退位を排除する皇室典範4条(「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」)の現在の解釈を前提とすると,問題にはなりません。

 (ちなみに,世伝御料は「皇室ノ世襲財産」で(皇室の家長が天皇),「世伝御料タル土地物件ハ法律上ノ不融通物タルモノニシテ,売買贈与等法律行為ノ目的物タルコトヲ得ズ,又公用徴収若クハ強制執行ノ目的物トナルコトナシ」とされていますが(美濃部・撮要229230頁),これにはなかなかの慮り(おもんぱかり)があったようです。すなわち,『皇室典範義解』は「(つつしみ)て按ずるに,世伝御料は皇室に係属す。天皇は之を後嗣に伝へ,皇統の遺物とし,随意に分割し又は譲与せらることを得ず。故に,〔父の〕後嵯峨天皇,〔その兄息子であって持明院統の祖である〕後深草天皇をして〔弟息子であって大覚寺統の祖である〕亀山天皇に位を伝へしめ,遺命を以て長講堂領二百八十所を後深草天皇の子孫に譲与ありたるが如きは,一時の変例にして将来に依るべきの典憲に非ざるなり。」と述べていますが(宮沢俊義校註『憲法義解』(岩波文庫・1940年)166頁),これは,南北朝期における皇統間の争いは,皇位のみならず御料の継承をもめぐるものとの側面もあったという認識を示唆するものでしょう。また,長講堂領については正に,「若干そこばくの所領をふさげ」ということになります。ただし,現在においては,御料は前記のとおり国有財産に編入されてしまっていて皇室の所有権から離れていますから,そういう点では南北朝期的事態の発生原因の一つは消えているというべきでしょうか。)

 

3 太上天皇襲撃の罪と罰

 「馬より()るるむつかしさ」といっても,さすがに「からからと笑うて,「なに院と云ふか。犬ならば射て置け」と云ふままに,三十余騎ありける郎等(ろうどう)ども,院の御車を真中(まんなか)()()め,索涯(なわぎわ)(まわ)して追物(おうもの)()にこそ射たりけれ。御牛飼(おんうしかい)(ながえ)を廻して御車を(つかまつ)らんとすれば,胸懸(むながい)を切られて(くびき)も折れたり。供奉(ぐぶ)雲客(うんかく),身を以て御車に()たる矢を防かんとするに,皆馬より射落とされて()()ず。(あまっさ)へ,これにもなほ飽き足らず,御車の下簾(したすだれ)かなぐり落とし,三十輻(みそのや)少々踏み折つて,(おの)が宿所へぞ帰りける。」(『太平記(四)』60頁・第二十三巻8)ということが許されないことはもちろんです。しかし,この場合,院(太上天皇)の身体に対する行為に係る刑罰はどうなるか。

 

(1)暴力行為等処罰に関する法律及び刑法

傷害の結果が生じていれば,「銃砲又ハ刀剣類」を用いたものとして暴力行為等処罰に関する法律(大正15年法律第60号)1条ノ2第1項に基づき1年以上15年以下の懲役に処し得るものとなるかといえば,「銃砲」にも「刀剣類」にも弓矢は含まれないようなので(銃砲刀剣類所持等取締法(昭和33年法律第6号)2条),やはり刑法(明治40年法律第45号)204条の傷害罪ということで15年以下の懲役又は50万円以下の罰金ということになるようです。ただし,常習としてしたものならば1年以上15年以下の懲役です(暴力行為等処罰に関する法律1条ノ3)。

なお,暴力行為等処罰に関する法律1条ノ3にいう常習性については「反復して犯罪行為を行なう習癖をいい(常習賭博についての,大審院昭和2・6・29集6・238参照),それは行為の特性ではなく,行為者の属性であると解せられており,かような性癖・習癖を有する者を常習者または常習犯人とよぶ」と説明されています(安西搵『特別刑法〔7〕』(警察時報社・1988年)54頁)。(ついでながら更に述べれば,常習性は,必要的保釈に係る刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)89条3号においても同様に解すべきでしょう。この場合,業として行うことは,習癖の発現として行うこと(安西55頁参照)には当たらないでしょう。筆者は,「業として」長期3年以上の懲役又は禁錮に当たる罪を犯した被告人について,保釈許可決定を得たことがあります。)

傷害の結果が生ぜず暴行にとどまれば(刑法208条参照),「団体若ハ多衆ノ威力ヲ示シ・・・又ハ兇器ヲ示シ若ハ数人共同シテ」行っていますから,暴力行為等処罰に関する法律1条により3年以下の懲役又は30万円以下の罰金ということになります。暴行を常習として行ったのならば3月以上5年以下の懲役です(暴力行為等処罰に関する法律1条ノ3)。

院に傷害が生じたかどうかが明らかではないこと,また,「猛将として知られ,青野原合戦で活躍」した「元来(もとより)酔狂(すいきょう)の者」であって「この(ころ)特に世を世ともせざ」るものであっても(『太平記(四)』59頁),それだけで直ちに暴力行為を累行する習癖が同人にあるものと断定してよいものかどうか躊躇されることといった点に鑑みて保守的に判断すると,刑罰は3年以下の懲役又は30万円以下の罰金ということになりましょうが,少々軽いようにも思われます(しかし,平安時代の花山院襲撃事件の下手人である藤原伊周・隆家兄弟は「むつかし」いこともなく大宰府及び出雲国にそれぞれ左遷で済んでいますから,むしろ重過ぎるというべきか。)。

 

(2)皇室ニ対スル罪

この点,昭和22年法律第124号によって19471115日から削除される前の刑法73条又は75条によれば,太上天皇襲撃事件の犯人は院に「危害ヲ加ヘタル者」としてすっぱりと死刑とされたことでしょう。皇室ニ対スル罪に係る両条における「危害(・・)とは生命・身体に対する侵害又は其の危険を謂ふ。」とされています(小野清一郎『刑法講義各論』(有斐閣・1928年)7頁)。現実にも康永元年(1342年)の光厳院襲撃犯である土岐頼遠は,「六条河原にて首を刎ね」られています(『太平記(四)』62頁)。ただし,太上天皇は「天皇,太皇太后,皇太后,皇后,皇太子又ハ皇太孫」に含まれるものとして刑法旧73条を適用するか,その他の皇族として同法旧75条を適用するかの問題が残っています。

 

4 象徴の必要性

ところで,前記横着者は,「王なくて(かな)ふまじき道理あらば」と認容的な言葉も発していますから,我が国体においては「日本国及び日本国民統合の象徴」(2012年4月27日決定の自由民主党日本国憲法改正草案1条の文言)の存在が不可欠であるということを完全に否認するものではないのでしょう。「日本国は,長い歴史と固有の文化を持ち,国民統合の象徴である天皇を戴く国家」なのであります(自由民主党日本国憲法改正草案前文)。

 

5 国王遺棄及び「金を以て鋳」た象徴の例

 「木を以て作るか,(かね)を以て()るかして,生きたる院,国王をば,いづくへも皆流し捨てばや」という発言は,王を移棄するぞということなのでしょうが,神聖王家の王を遺棄去って代わりに木造又は金で鋳造した御神体(象徴)を奉戴するという方法も含まれるのでしょう。後者については次のような前例がありますが,余り快適な結果にはならなかったようです。

 

 かくてイスラエル(みな)〔レハベアム。同王は,ソロモンの子,すなわちダビデの孫〕(おのれ)(きか)ざるを見たり(ここ)において(たみ)王に答へて(いひ)けるは我儕(われら)ダビデの(うち)(なに)(ぶん)あらんやヱサイ〔ダビデの父〕の子の(うち)に産業なしイスラエルよ(なんぢ)()天幕(てんまく)に帰れダビデよ(いま)(なんぢ)の家を視よと(しか)してイスラエルは(その)天幕に去りゆけり

 然れどもユダの諸邑(まちまち)(すめ)るイスラエルの子孫(ひとびと)の上にはレハベアム(その)王となれり

 レハベアム王徴募頭(ちやうぼがしら)なるアドラムを遣はしけるにイスラエル(みな)石にて彼を(うち)(しな)しめたればレハベアム王急ぎて(その)車に登りエルサレムに逃れたり

 (かく)イスラエル,ダビデの家に背きて今日にいたる 

(列王紀略上第121619

 

古代イスラエルでも王は臣民から推戴されるものだったようです。紀元前10世紀のソロモン王の死後その息子レハベアムを国王に推戴するためシケムで集会があった際,臣民の側からソロモン王時代の重い負担を軽減してくれとの請願があったところ,舐められてはならぬと思ったものか,偉大な親父の貫目に負けじとレハベアムは,お前らの負担をむしろもっと重くしてやると答えてしまったのでした。そこで,ソロモンの王国は,ダビデ王朝に反発して離反した北の十部族のイスラエル王国と,引き続きダビデ王朝の下に留まった南のユダ王国(ユダはダビデの出身部族)との二つに分裂したというわけです。イスラエル王国の初代国王としては,王位を窺う者として,ソロモン王の生前エジプトに逃れていたヤラベアムが推戴されました(列王紀略上第1220)。ところが,

 

(ここ)にヤラベアム(その)心に(いひ)けるは国は今ダビデの家に帰らん

(もし)此民(このたみ)エルサレムにあるヱホバの家に礼物(そなへもの)(ささ)げんとて上らば(この)(たみ)の心ユダの王なる(その)(しゅ)レハベアムに帰りて我を殺しユダの王レハベアムに帰らんと

(ここ)に於て王計議(はかり)(ふたつ)の金の(こうし)を造り人々に(いひ)けるは(なんぢ)らのエルサレムに上ること既に(たれ)りイスラエルよ(なんぢ)をエジトの地より導き上りし汝の神を視よと

(しか)して(かれ)(ひとつ)をベテルに()(ひとつ)をダンに(おけ)

此事(このこと)罪となれりそ(たみ)ダンに(まで)(ゆき)(その)(ひとつ)の前に(まうで)たればなり

(列王紀略上第122630

 

「時代の隔たりや権力の規模とかかわりなく,およそ王権は,宗教的基盤を離れては存在しえない」ところです(村上4頁)。新たに独立したイスラエル王国の初代王ヤラベアムとしては,ダビデの神聖王家が擁する宗教的権威に対抗するために,「(かね)を以て()」った(こうし)2体必要とたのでした。

けれども,「(かね)を以て()」った(こうし)では,「生前退位」云々といった面倒はないものの生きて務めを果たしてくれるものではなく,やはり霊験が不足するのか,ヤラベアムの王朝は2代目で断絶してしまいました。

 

ユダの王アサの第二年にヤラベアムの子ナダブ,イスラエルの王と()り二年イスラエルを治めたり

彼ヱホバの目のまへに悪を(なし)(その)父の道に歩行(あゆ)(その)イスラエルに犯させたる罪を行へり

(ここ)にイツサカルの家のアヒヤの子バアシヤ彼に敵して党を結びペリシテ人に属するギベトンにて彼を(うて)()はナダブとイスラエル(みな)ギベトンを囲み()たればなり

ユダの王アサの第三年にバアシヤ彼を殺し彼に代りて王となれり

バアシヤ王となれる時ヤラベアムの全家を撃ち気息(いき)ある者は一人もヤラベアムに残さずして尽く之を(ほろぼ)せり

(列王紀略上第152529

 

ヤラベアム王朝を滅ぼしたバアシヤの王朝も,2代目が暗殺され,全家が滅ぼされて断絶します(列王紀略上第161012)。イスラエル王国ではその後最後まで頻繁に王朝交代が生ずることになりました(同王国は前721年頃にアッシリアに滅ぼされ, その構成部族は離散して「失われた十支族」となる。)。これに対してダビデ神聖王家のユダ王国は,同一王朝の下に前587年頃まで存続しました(バビロン捕囚となったものの, 後に帰還。)。神聖王家を戴く方が,「(かね)を以て()」った(こうし)を戴くよりも安定するのだと言うのは即断でしょうか。

DSCF1334
 こちらは,銅を以て鋳った牛(東京都文京区湯島神社)

6 妙吉侍者対高師直・師泰兄弟及び不敬罪

さて,本稿における前記横着者は,一般に高武蔵(こうのむさし)(のかみ)師直(もろなお)であるとされています。しかしながら発言主体を明示せずに書かれた『太平記』の当該部分の文からは,その兄弟である越後守(もろ)(やす)の発言であるという読み方も排除できないようです。「天皇・・・ニ対シ不敬ノ行為アリタル者」として3月以上5年以下の懲役に処せられるべき不敬罪(刑法旧74条1項)を犯したということになるようですが,このことは,高師直にとっての濡れ衣である可能性はないでしょうか。

そもそも,高師直・師泰兄弟に帰せられる当該発言は,(みょう)(きつ)侍者(じしゃ)とい,高僧・夢窓疎石の同門であることがわずかな取り柄といえども道行(どうぎょう)ともに足らずして,われ程の(がく)()の者なしと思」っている慢心の仏僧(『太平記(四)』170頁・第二十六巻2)が,足利直義に告げ口をしたものです。妙吉の人となり及び学問は,兄弟弟子の夢窓疎石の成功を「見て,羨ましきことに思ひければ,仁和寺に()一房(いちぼう)とて外法(げほう)成就の人のありけるに,(だぎ)尼天(にてん)の法を習ひて,三七日(さんしちにち)行ひけるに,頓法(とんぽう)立ちどころに成就して,心に願ふ事(いささ)かも(かな)はずと云ふ事なし。」なったというものですが(『太平記(四)』267268頁・第二十七巻5),有名人(夢窓疎石)の出るような大学に入ったものの,学者としての見栄えばかりを求める人柄で(「羨ましきことに思ひ」),そのくせ腰を入れ年月をかけて学問を成就する根気及び能力がないものか,優秀な学者・実務家が集まって伝統的仏法に係る主要経典の解釈に携わる正統的な解釈学等の学問分野からは脱落して「外法」に踏み入り,速習可能で(「三七日」すなわち21日学ぶだけ),かつ,すぐ目先の願望確保に役立つであろう浮華な流行的分野(「頓法」は,「速やかに願望を成就する修法」)に飛びついて専攻し,咜祇(だぎ)尼天(にてん)が云々と一見難解・結局意味不明禅語的言辞をもって衆人をくらまし自己を大きく見せようとばかりする,一種さもしい似非学者といったような人物だったのでしょう。夢窓疎石が妙吉を,自分に代わる禅の教師として「語録なんどをかひがひしく沙汰し,祖師〔達磨大師〕の心印をも(じき)に承当し候はんずる事,恐らくは恥づべき人〔うわまわる人〕も候は」ずと足利直義に推薦し,「直義朝臣,一度(ひとたび)この僧を見奉りしより,信心肝に銘じ,渇仰類なかりけ」りということになったのですが『太平記(四)』268頁),夢窓疎石には,同一門下の兄弟弟子らが身を立てることができるように世話を焼いてついつい法螺まで吹いてしまうという俗なところがあり(頼まれれば前記土岐頼遠の助命嘆願運動もしています(『太平記(四)』62頁)。),他方,足利直義が後に観応の擾乱の渦中においてよい死に方をしなかったのは,そもそも同人には人を見る目がなかったからだということになるのでしょうか。(また,妙吉坊主なんぞの告げ口を真に受けたということは,「権貴幷びに女性禅律僧の口入を止めらるべき事」との建武式目8条違反でもあったわけです。)

しかし,高師直・師泰兄弟のような実務の実力者からすると,似非学者の中身の無さはお見通しであり,それを夢窓疎石に対する配慮か何か知らぬが妙にありがたがっている足利直義の様子は片腹痛く,妙吉は,軽蔑・無視・嘲弄の対象にしかならなかったところです。

 

 かやうに〔妙吉侍者に対する〕万人崇敬(そうきょう)類ひなかりけれども,師直,師泰兄弟は,何条〔どうして〕その僧の智恵才学,さぞあるらんと(あざむ)いて〔たいしたことあるまいと侮って〕,一度(ひとたび)も更に相看せず。(あまっさ)へ門前を乗り打ちにして,路次(ろし)に行き合ふ時も,大衣(だいえ)を沓の鼻に蹴さする(てい)にぞ振る舞ひける。(『太平記(四)』269頁)

 

しかし,似非学者たりとはいえ(あるいは似非学者であるからこそ),妙吉のプライドは極めて高い。

 

・・・(きつ)侍者,これを見て,安からぬ事に思ひければ,物語りの端,事の(つい)でに,ただ執事兄弟の振る舞ひ(穏)便ならぬ物かなと,云沙汰せられ・・・

 吉侍者も,元来(もとより)(にく)しと思ふ高家の者どもの振る舞ひなれば,事に触れて,かれらが所行の(あり)(さま),国を乱し(まつりごと)を破る最長たりと,〔足利直義に〕讒し申さるる事多かりけり。・・・

(『太平記(四)』269270頁)

 

すなわち,前記「皆流し捨てばや」発言の出どころは似非学者の讒言であって,かつ,伝聞に基づくものであったのでした(師直・師泰兄弟とは「一度(ひとたび)も更に相看せず」ですから,妙吉が直接聞いたものではないでしょう。)。軽々に高師直を不敬罪で断罪するわけにはいかないようです。

正面から自己の智恵才学を高々と示して高兄弟を納得改心させ,その尊敬を獲得しようとはせず,妙吉侍者のわずかばかりの「智恵才学」は,権力者に媚び,告げ口によって高兄弟の失脚を狙おうとする御殿○中的かつ陰湿なものでありました。福沢諭吉ならば,妙吉とその取り巻きに対して,次のようにでも説諭したものでしょうか。いわく,「廊下その他塾舎の内外往来頻繁の場所にては,たとい教師先進者に行き合うとも,ていねいに辞儀するは無用の沙汰なり。」とおれは言っていたではないか,「教師その他に対していらざることに敬礼なんかんというような田舎らしいことは,塾の習慣において許さない。」(『福翁自伝』(慶応義塾創立百年記念・1958年)197頁),「独立自尊の人たるを期するには,男女共に,成人の後にも,自ら学問を勉め,知識を開発し,徳性を修養するの心掛を怠る可らず。」であって,「怨みを構へ仇を報ずるは,野蛮の陋習にして卑劣の行為なり。恥辱を雪ぎ名誉を全うするには,須らく公明の手段を択むべし。」だよ(「修身要領」『福沢諭吉選集第3巻』(岩波書店・1980年)294頁),文明開化期に示された「識者の所見は,蓋し今の日本国中をして古の御殿の如くならしめず,今の人民をして古の御殿女中の如くならしめず,怨望に(かう)るに活動を以てし,嫉妬の念を絶て相競ふの勇気を励まし,禍福誉悉く皆自力を以て之を取り,満天下の人をして自業自得ならしめんとするの趣意」なのだろうけど(「学問のすゝめ 十三編」『福沢諭吉選集第3巻』144頁),おれもそう思うよ自分の学問で勝負せずに陰険な告げ口ばかりするのは見苦しいからやめろよ恥ずかしいよお前らからは腐臭がするよと。

(なお,本文とは関係がありませんがついでながら,刑法旧74条1項の不敬罪の成立については判例(大審院明治44年3月3日判決・刑録17輯4巻258頁)があるので紹介します。「不敬罪ハ不敬ノ意思表示ヲ為スコトニ因リテ完成シ他人ノ之ヲ知覚スルト否トハ問フ所ニ非ス左レハ被告カ至尊ニ対スル不敬ノ事項ヲ自己ノ日誌ニ記載シ以テ不敬ノ意思ヲ表示シタルコト判示ノ如クナル以上ハ其行為タルヤ直ニ刑法第74条第1項の罪を構成シ被告以外ノ者ニ於テ右不敬ノ意思表示ヲ知覚セサリシ事実アリトスルモ同罪ノ成立ニ何等ノ影響ヲ及ホササル」ものとされているものです。どういうわけか児童買春,児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律(平成11年法律第52号)7条1項の構成要件が想起されるところです。)

 
 しかし,似非学者はなかなかしぶとく生き残るものです。

 貞和(じょうわ)五年(1349年),足利直義と高師直・師泰兄弟との最初の対決が,直義の逃げ込んだ足利尊氏邸を取り囲んだ高兄弟の勝利に終わり,直義は政務から引退することになった翌朝,

 

 ・・・やがて人を遣はして,(きつ)侍者らん先立堂舎(こぼ)取り散浮雲(ふうん)富貴(ふっき)(たちま)り。

 (『太平記(四)』299頁・第二十七巻11

 

その後の妙吉侍者はもと住所すみかって太平記(314頁・第二十七巻13閑居して,残された数少ない献身的かつ熱意ある信奉者と有益な議論などをし,更に農事などに手を染めつつ,我は夢窓疎石の同門なるぞとの誇りとともに,つつがなく余生を過ごしたものでしょうか。

DSCF1337
DSCF1336
 お局様及びその墓(東京都文京区麟祥院)


弁護士ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 祭祀大権の摂政による代行に関する議論

 

  「天皇ハ我ガ有史以前ヨリ伝ハレル国家的宗教トシテノ古神道ニ於テ其ノ最高ノ祭主トシテノ地位ニ在マシ,親シク皇祖皇宗並歴代天皇及皇親ノ霊ヲ祀リ及天地神明ヲ祭ル,之ヲ祭祀大権ト謂フコトヲ得。祭祀大権ハ憲法ニモ皇室法ニモ何等ノ規定ナク,一ニ慣習法ニ其ノ根拠ヲ有スルモノナリ。祭祀大権ハ其ノ性質上輔弼ノ責ニ任ズルモノナキコトニ於テ其ノ特色ヲ有ス。」(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)188頁)

 

  「祭祀ハ一般国務及皇室ノ事務ノ外ニ之ト相並ビテ重要ナル天皇ノ大権ヲ為スモノナリ。」(美濃部205頁)

 

  「・・・歴史上の天皇は,何よりもまず,祭りをする人であり,この本質は,終始,天皇の宗教的権威の原基をなしてきた。敗戦後の日本国においても,天皇の最高祭司としての本質は不変であり,「祭祀大権」は,基本的には揺らいではいない。」(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)217頁)

 

 さて,この祭祀大権は,摂政が置かれたとき(現行憲法5条,大日本帝国憲法17条)にはどうなるか。摂政による祭祀大権の代行には制限はないのでしょうか。美濃部達吉は「摂政ガ天皇ヲ代表スルノ範囲ハ一切ノ大権ニ及ビ,国務上ノ大権ノ外皇室大権軍令大権及栄典大権モ亦等シク其ノ代行スル所ナリ。」と説いていますが(美濃部238頁),そこでは祭祀大権は,摂政によって代行されるものとして明示的に言及されていません。

摂政と祭祀大権との関係については,2016年7月21日付けの当ブログ記事「明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)に関して」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.htmlにおいて次のように記したところです。(なお,読みやすくするために段落分けしてあります。)

 

「皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは,摂政は,天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には前条第1項の規定〔「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」〕を準用する。」と規定する現行憲法5条を前提とすれば, 摂政は国事行為に係る代理機関にすぎず(また,「摂政は天皇ではないから,「象徴」としての役割を有しない。」とも説かれています(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)259頁)。)祭祀については困る,とあるいは更に反論できたのでしょうが, 大日本帝国憲法下では(その第17条2項は「摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ」と規定。『皇室典範義解』には「摂政は以て皇室避くべからざるの変局を救済し,一は皇統の常久を保持し,二は大政の便宜を疎通し,両つながら失墜の患を免るゝ所以なり。摂政は天皇の天職を摂行し,一切の大政及皇室の内事皆天皇に代り之を総攬す。而して至尊の名位に居らざるなり。」と説明されていました(岩波文庫147頁)。), 「祭祀ニ付テ」も「天皇ノ出御アルコト能ハザル場合ニ於テ摂政之ヲ代行スル」こととなっていました(美濃部239頁。ただし,「祭祀ニ付テ・・・皇室祭祀令ニハ天皇幼年ノ場合ニモ親ラ出御アルベキコトヲ定メ,以テ摂政ノ必ズシモ代行スル所ニ非ザルコト」が示されていたそうです(美濃部239頁)。確かに,皇室祭祀令(明治41年皇室令第1号)の附式には「天皇襁褓ニ在ルトキハ女官之ヲ奉抱ス」等の「注意」が記されています。)
 ちなみに,摂政令
(明治42年皇室令第2号)1条は「摂政就任スル時ハ附式ノ定ムル所ニ依リ賢所ニ祭典ヲ行ヒ且就任ノ旨ヲ皇霊殿神殿ニ奉告ス」と規定していました。これは,1909年1月27日の枢密院会議における奥田義人宮中顧問官の案文説明によれば,「其〔摂政〕ノ誠実ヲ表明スル為メ設ケタル規定」です。いずれにせよ,大日本帝国憲法下の摂政の制度は特殊なもので,同日の奥田宮中顧問官の説明においてはまた「然ルニ摂政ニツキテハ古来依ルヘキ例ナシ故ニ此ノ〔摂政令〕案ノミハ全ク新タニ出来タルモノト御承知ヲ乞フ」と述べられていました。
 なお,
19451215日のGHQのいわゆる神道指令後には天皇の「祭祀大権は全く失は」れ,宮中祭祀は「純然たる皇室御一家の祭祀」となって「皇室の家長たる御地位に於いて天皇の行はせらるる所」とされています(美濃部555頁)。皇室の家長の交代には,譲位が必要ということになるのでしょうか。

 

 以上の点に関して,園部逸夫博士は,現行憲法における摂政について,「摂政としての私的な行為」の存否いかんとの問題設定(「一つは,摂政にも摂政としての私的な行為があるとする考えである。・・・/他の一つは,摂政とは,国の機関としての地位のことであり,摂政としての私的な行為はそもそも存在しないとする考えである。・・・私的な行為については,摂政の地位にある皇族が皇族として私的に行うのであればともかく,摂政として私的に行うことは,摂政概念上あり得ないという立場である。」(園部逸夫『皇室法概論』(第一法規・2002年)149頁))の下に,宗教的色彩のある行為について,「こうした旧皇室令の登極令及び摂政令〔1条〕による儀式は,いずれも摂政の立場で行うことに意義があるとともに,宗教的色彩を有すると見られることは否定できない行為であり,これを両立させるためには,摂政に私的な立場があることを認めその上で摂政が私的立場で私的な行為として行うと解するか,摂政たる皇族に対して皇室として摂政たる皇族としての私的な地位・身分を付与し,それを便宜上摂政と称するものと解するか,が考えられるが後者はいかにも無理がある。/したがって,摂政が設置される事態が生じ,これらの儀式に当たる儀式を皇室の行事として行うような場合があれば,それは,摂政たる皇族が私的な立場で私的な行為として行うことになるが,それは事実上摂政である皇族が,天皇の御告文を奏し,また,自らの告文を奏することになるものと解される。」と論じています(園部151頁)。「摂政としての私的な行為」の存在を認めず(「摂政たる皇族」の「私的な行為」であるものとされていて,端的に「摂政としての私的な行為」が行われるものとはされていません。),かつ,「皇室として摂政たる皇族としての私的な地位・身分を付与」することも無理であるとしつつ,最後は「事実上」の解決に委ねるものとするということでしょうか。
 ところで,2016年7月21日付けの当ブログ記事における前記の記載はいわば学説の紹介にとどまるものであって,大日本帝国憲法下において,皇太子裕仁親王が大正天皇の摂政として天皇の事を摂行した際(
19211125日から19261225日まで)における具体的実例の紹介にまで及んでいないところに意に満たないところがありました。

 そこで今般,宮内庁の『昭和天皇実録 第三』(東京書籍・2015年)を入手し,皇太子裕仁親王の摂政就任当時の実例及び議論を調べてみたところをまとめたのが,このブログ記事です。

 それにしても,函入りで堂々たる装丁の本文989頁の書物が消費税額込みで2041円との値段は(古書店において1000円で売っているのも見かけました。),日本の20世紀についていささか内容と深みのあるかのごとき言説を行おうとする者に対して,『昭和天皇実録』の利用の回避という横着は許さないぞという価格設定ではあります。

DSCF0504
 昭和天皇記念館(東京都立川市) 

 

2 摂政宮裕仁親王による大正天皇の祭祀大権の代行

 

(1)光格天皇例祭(小祭)に当っての宮中における整理:「摂政は天皇に代わり祭祀を行うもの」とする。

 さて,『昭和天皇実録 第三』(以下「実録第三」)の19211212日の項によると,実は前月の皇太子裕仁親王の摂政就任後になってから初めて,摂政による祭祀大権の代行についての整理が行われたもののようです。

 

 この日光格天皇例祭につき,侍従徳川義恕が御代拝を奉仕する。これより先,本祭典は摂政御就任後初めての御親祭につき,宮内次官関屋貞三郎・宮内省参事官南部光臣・同渡部信・式部長官井上勝之助・式部次長西園寺八郎・掌典長九条道実・帝室会計審査局長官倉富勇三郎・内匠頭小原〔馬偏に全〕吉等関係高等官は数次にわたり協議を行い,摂政は天皇に代わり祭祀を行うものとし,摂政御拝礼実際は行啓中につき御代拝・皇后御拝礼の順とすること,摂政御拝礼なきときは,その御代拝が行われることなどを定める。(実録第三539頁)

 

光格天皇は大正天皇の4代前の天皇ですから(光格天皇,仁孝天皇,孝明天皇,明治天皇,大正天皇と続く。),その毎年の崩御日に相当する日には先帝以前3代の例祭の一として,天皇が皇族及び官僚を率いて(みずか)拝礼し掌長が祭典を行う祭が行われたものです(皇室祭祀令(明治41年皇室令第1号)21条,20条1項)。小祭に係る皇室祭祀令20条2項には「天皇喪ニ在リ其ノ他事故アルトキハ前項ノ拝礼ハ皇族又ハ侍従ヲシテ之ヲ行ハシム」とありますから,大正天皇に事故アルトキとして大正天皇の侍従が代拝をしたということでもよさそうなのですが(天皇が「親ラ拝礼」することが原則になっているので,天皇の親拝又は代拝は必須ということになります。),徳川侍従は行啓中の摂政宮裕仁親王の代拝を,皇后御拝礼に先立ってしたということになるようです。19211212日当日の摂政宮裕仁親王の行啓日程は,翌日の伊勢神宮での摂政就任奉告のため,朝静岡御用邸発,午後伊勢山田の神宮司庁着というものでした(実録第三538539頁)。

先帝以前3代の例祭は皇霊殿で行われ(皇室祭祀令25条1項),皇室祭祀令附式第2編皇霊殿ノ儀によると,天皇,皇后,皇太子,皇太子妃及び諸員の順で御拝礼及び拝礼があるべきもののようです。

しかしながら,「摂政は天皇に代わり祭祀を行う」という前記の結論に達するまでは,宮内省関係高等官中にも異論が多く侃々諤々(かんかんがくがく)であったようです。

 

ただし,摂政の権限は祭祀に及ばずとの解釈があり,あるいは摂政は明文ある場合の外は摂政として祭祀を行うべきではなく,また,摂政の班位は皇太子よりも下となるため,摂政として皇太子が祭祀に参列する場合は,皇后の次に拝礼すべきであり,摂政としての拝礼のほか皇太子としても拝礼を要するなどの異論もあり,『宮内省省報』には,御代拝の場合は単に御代拝の事実とその奉仕者のみを記し,その主体は摂政であるとも天皇であるとも明示せず。(実録第三539頁)

 

なかなかすっきりしていません。

なお,摂政の班位(席次)については,「皇族ノ班位ニ関シ,皇太子,皇太孫,又ハ皇后,皇太后,太皇太后ノ摂政タル場合ニ於テハ普通ノ例ニ依ルト雖モ,他ノ皇族ノ摂政タル場合ニ於テハ三后及皇太子又ハ皇太孫及其ノ妃ヲ除クノ外他ノ皇族ノ上ニ列セシム(皇族身位令5条)」るものだったそうです(美濃部240241頁)。皇族身位令(明治43年皇室令第2号)1条によれば,皇族の班位の順序は①皇后,②太皇太后,③皇太后,④皇太子,⑤皇太子妃,⑥皇太孫,⑦皇太孫妃,⑧親王親王妃内親王王王妃女王となっていました。皇族身位令5条の条文は「摂政タル親王内親王王女王ノ班位ハ皇太孫妃ニ次キ故皇太孫ノ妃アルトキハ之ニ次ク」というものでした。親王,内親王,王及び女王については,明治皇室典範31条は「皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ内親王トシ5世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス」と規定していました(なお,同典範57条は「現在ノ皇族5世以下親王ノ号ヲ宣賜シタル者ハ旧ニ依ル」と規定)。

 

(2)摂政による代行の例外:四方拝(歳旦祭(小祭)に先立ち行われる祭儀)

また,「摂政は天皇に代わり祭祀を行う」としても,天皇に専属するものであって摂政が代行すべきではないものとされた祭儀があります。元旦の四方拝です。『昭和天皇実録 第三』の1922年1月1日の項には次のようにあります。

 

摂政御就任後初めて新年を迎えられる。四方拝は執り行われず,歳旦祭の儀には,侍従原恒太郎が摂政御代拝を奉仕する。四方拝については従来,天皇に事故あるときは行わないとする説と,摂政が代わりに行うとする説との両説が存在し,一旦は実施と決定したが,その後,皇室祭祀令第23条第2項中「但シ天皇喪ニ在リ其ノ他事故アルトキハ四方拝ノ式ヲ行ハス」の規定に基づき,これを行わないこととなる。晴御膳もまた四方拝と同じく,天皇に専属する儀であり,摂政において摂行せらるべきものではないとされ,行われず。

(実録第三555頁)  

 

「四方拝は,元日早朝に天皇が諸神,諸陵を遥拝し,年災を祓い,五穀の豊饒,宝祚の長久,国家国民の安寧を祈る重儀」で,「古制では,陽気の発する正寅の刻(午前4時)に,(ぞく)(しょう)(北斗七星の一つ)を唱えて,天地四方を拝することから四方拝とよばれ,古代以来,天皇をはじめ,ひろく一般でも行われた年頭の儀式でした(村上96頁)。「天皇は,潔斎後,午前5時に綾綺(りょうき)殿に出御して,黄櫨(こうろ)(ぜん)(ほう)に着がえ,手水の儀ののち,侍従が脂燭(しそく)先導するなかを,午前5時30分,仮殿に出御する。天皇は,拝座で,皇大神宮,豊受大神宮を遥拝し,つぎに四方の天神地祇,神武天皇と先帝の各山陵,氷川,石清水,賀茂,熱田,鹿島,香取の各神社を順次拝礼するという。」とのことですから(村上9697頁),寒い冬の早朝から大変です。四方拝については,皇室祭祀令23条2項本文に「歳旦祭ノ当日ニハ之ニ先タチ四方拝ノ式ヲ行」うとあります。歳旦祭は1月1日に行われる小祭です(皇室祭祀令21条)。

晴御膳については,平田久の『宮中儀式略』(民友社・1904年)に次のような解説があります(28頁)。

 

(はれ)御膳(のおもの)は新年の御儀式中,1月1日2日3日の三ヶ日に,鳳凰之間に出御あらせられて此供進を聞食すなり。明治四年の比より行はせらるゝと云ふ。

謹案するに晴御膳は維新前の御儀式に,正月一日二日三日清凉殿の朝餉(あさかれひ)(御間の名)に出御あらせられて聞食す朝餉の御膳に当れり。此名称は維新前の節会に供進する御膳の中に,(はれ)御膳(のおもの)(わき)御膳(のおもの)などあるより出でたるものならんか。

 

(3)他の大祭・小祭

 

ア 賢所御神楽(小祭)

これより先19211215日には,賢所御神楽(みかぐら)の小祭(皇室祭祀令21条)がありましたが,同日摂政宮裕仁親王はなお行啓中(京都を発して静岡着)だったので,「侍従清水谷実英が御代拝を奉仕する。」ということになりました(実録第三542頁)。

 

イ 元明天皇千二百年式年祭(小祭)

1922年1月2日の元明天皇千二百年式年祭(皇室祭祀令21条の小祭。同令25条2項,10条1項)については,「侍従松浦靖が摂政御代拝を奉仕する。」ということでした(実録第三558頁)。皇太子裕仁親王がなお摂政に就任する前の1921年1月1日の歳旦祭(小祭)におけるような「皇太子御代拝を東宮侍従長入江為守が奉仕する。」(実録第三1頁)というものではありません。

 

ウ 元始祭(大祭)

1922年1月3日は,皇太子裕仁親王の摂政就任後最初の大祭である元始祭でした(皇室祭祀令9条)。

「大祭ニハ天皇皇族及官僚ヲ率ヰテ親ラ祭典ヲ行フ」ものとされ(皇室祭祀令8条1項),「天皇喪ニ在リ其ノ他事故アルトキハ前項ノ祭典ハ皇族又ハ掌典長ヲシテ之ヲ行ハシム」とされていました(同条2項)。小祭においては掌典長が祭典を行うところで天皇が親ら拝礼をするもの(皇室祭祀令20条1項)であるのに対して,大祭においては掌典長ではなく天皇が親ら祭典を行うものであるところに小祭と大祭との違いがあります。1922年1月3日,摂政宮裕仁親王は,

 

元始祭につき,午前9時30分,摂政の御資格にて御出門になる。綾綺殿にて御儀服にお召し替えの後,賢所へ御参進になる。このとき掌典長が前行し,侍従1名が御剣を奉じ,別の侍従1名が後ろに候す。内陣に御着座になり御拝礼,御告文を奏される。続いて皇霊殿・神殿にもそれぞれ御拝礼,御告文を奏される。

 

とあります(実録第三558頁)。「摂政の御資格にて」元始祭の祭典を行ったということでしょう。摂政就任前の1921年1月3日の元始祭では,皇太子裕仁親王は「元始祭につき賢所・皇霊殿・神殿に御拝礼」になっただけです(実録第三2頁)。

 なお,元始祭等の宮中祭祀については,2014年5月4日付けの当ブログの記事「国民の祝日に関する法律及び「山の日」などについて」において若干説明したところがありますので,御参照ください(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1002497213.html)。

 

エ 孝明天皇例祭(小祭)

 1922年1月30日は,小祭たる孝明天皇の例祭(皇室祭祀令21条)。摂政宮裕仁親王は,

 

 孝明天皇例祭につき,午前9時20分摂政の御資格にて御出門,皇霊殿に御拝礼になる。(実録第三575頁)

 

オ 紀元節祭(大祭)

 1922年2月11日は,大祭たる紀元節祭(皇室祭祀令9条)。

 

 午前9時35分,摂政特別鹵簿にて御出門,紀元節祭につき皇霊殿に参進し御拝礼,御告文を奏される。続いて御参内,豊明殿における紀元節宴会に御臨席になる。・・・午後零時45分終了,一旦還啓の後,紀元節御神楽の儀につき午後5時10分再び御出門,皇霊殿に御拝礼になる。(実録第三580頁)

 

鹵簿(ろぼ)とは,「行幸・行啓の行列。」とあります(『岩波国語辞典第四版』(1986年))。前年1921年の紀元節祭では,摂政就任前の皇太子裕仁親王は「紀元節祭の儀につき,皇霊殿において天皇御代拝に続き御拝礼」になっていました(実録第三13頁)。

 

カ 祈年祭(小祭)

 1922年2月17日は,小祭たる祈年祭(皇室祭祀令21条)。

 

 祈年祭につき,午前9時25分,摂政の御資格にて御出門,賢所・皇霊殿・神殿に御拝礼になる。(実録第三581582頁)

 

「古制の祭典である祈年祭は,イネの予祝祭に起源し,古代には,奉幣と神祇官での祭典が行われた。古来,宮中をはじめ各神社でも重要な祭典として行われており,伊勢神宮では,神嘗祭,新嘗祭と並ぶ大祭にさだめられた。皇室祭祀の祈年祭は,年穀の豊饒,産業の発展,皇室と国家の隆昌を祈る祭りとされ,2月17日を祭日としている」ものだそうです(村上97頁)。ただし,「実際に天皇による祈年祭の拝礼が行われたのは,1916年(大正5)2月17日が最初であるという。」とされています(村上98頁)。

 

キ 仁孝天皇例祭(小祭)

1922年2月21日は,小祭たる仁孝天皇例祭(皇室祭祀令21条)。

 

仁孝天皇例祭につき,午前9時25分摂政の御資格にて御出門,皇霊殿に御拝礼になる。終了後,還啓される。(実録第三583頁)

 

ク 春季皇霊祭・同神殿祭(大祭)

 1922年3月21日には,いずれも大祭である春季皇霊祭及び春季神殿祭がありました(皇室祭祀令9条)。

 

 春季皇霊祭・同神殿祭につき,午前9時30分,摂政の御資格にて御出門,皇霊殿・神殿にそれぞれ御拝礼,御告文を奏される。(実録第三595頁)

 

ケ 神武天皇祭(大祭)

 1922年4月3日,大祭たる神武天皇祭(皇室祭祀令9条)。

 

 神武天皇祭につき,午前9時35分,摂政の御資格にて御出門,皇霊殿に御拝礼,御告文を奏される。1035分御帰還になる。(実録第三601頁)

 

コ 昭憲皇太后例祭(小祭)

1922年4月11日は,明治天皇の皇后であった昭憲皇太后の例祭(皇室祭祀令21条の小祭)。

 

昭憲皇太后例祭につき,午前9時25分摂政の御資格にて御出門,皇霊殿に御拝礼になる。(実録第三607頁)

 

サ 明治天皇十年式年祭(大祭)

 1922年7月30日は,大祭たる明治天皇十年式年祭(皇室祭祀令10条2項,9条)の山陵の儀(同令18条)がありました。

 

 明治天皇十年式年祭山陵の儀につき,午前7時40分自動車にて大宮御所を御出門,8時10分桃山御陵所に御到着になる。参集所において皇后御名代の鳩彦王妃允子内親王及び恒憲王等と御対面の後,摂政の御資格にて御陵に御参進になり御拝礼,御告文を奏される。ついで非公式にて昭憲皇太后陵に御拝礼の上,大宮御所に還啓される。なお皇霊殿の儀,御神楽の儀には雍仁親王が摂政御名代として拝礼する。(実録第三691頁)

 

 皇室祭祀令18条には「神武天皇及先帝ノ式年祭ハ陵所及皇霊殿ニ於テ之ヲ行フ但シ皇霊殿ニ於ケル祭典ハ掌典長之ヲ行フ」とありました。摂政宮裕仁親王の1歳違いの弟である秩父宮(やす)(ひと)親王につてはこの年6月25日に成年式が行われ(満20年(明治皇室典範14条)),秩父宮の称号が与えられています(実録第三655656頁)。秩父宮雍仁親王は,明治天皇十年式年祭の前々日(同月28日)に陸軍士官学校を卒業したばかりでした(実録第三690頁)。前年1921年の明治天皇祭においては,欧洲訪問の帰途アデン湾を航行する御召艦香取艦上にあった摂政就任前の皇太子裕仁親王のために「東宮侍従本多正復が御代拝を奉仕」しています(実録第三430頁)。

 朝香宮鳩彦(やすひこ)王妃の允子(のぶこ)内親王は,大正天皇の異母妹。Art décoの朝香宮邸は,現在,東京都庭園美術館(東京都港区白金台)となっています。

 賀陽(かや)宮恒憲王は,掌典長の公爵九条道実の娘である敏子と前年1921年5月3日に結婚していますが(実録第三112頁),九条道実の妹・節子(さだこ)こそが,摂政宮裕仁親王の母たる大正天皇の皇后(貞明皇后)なのでした。

 

シ 天長節祭(小祭)

 1922年8月31日は,大正天皇の天長節祭の小祭でした(皇室祭祀令21条)。

 

 午前7時50分東宮仮御所御出門,上野駅8時10分発の列車にて日光田母沢御用邸に行啓される。正午御到着。天皇・皇后に御拝顔の後,天長節の内宴に御臨席になり天皇・皇后並びに昌子内親王と御会食,宮内大臣牧野伸顕以下側近高等官に御陪食を仰せ付けられる。なお,去る26日カムチャッカ沖において軍艦新高遭難につき,軍楽隊による奏楽は君が代1回に止められる。午後2時30分より御用邸内御馬場において,天皇・皇后・昌子内親王と御同列にて近衛兵による乗馬戦その他の催しを御覧になる。・・・

 天長節につき,侍従松浦靖が賢所・皇霊殿・神殿への摂政御代拝を奉仕する。(実録第三702703頁)

 

 大正天皇の天長節でありますが,祭祀としては,摂政宮皇太子裕仁親王について,皇太子のための代拝(摂政就任前の1921年の代拝者は東宮侍従牧野貞亮(実録第三445頁))ではなく摂政のための代拝がされています。

 昌子内親王は,大正天皇の異母妹で,竹田宮恒久王に嫁しました。

 

ス 秋季皇霊祭・同神殿祭(大祭)

 1922年9月24日,大祭である秋季皇霊祭・同神殿祭(皇室祭祀令9条)。

 

 秋季皇霊祭・同神殿祭につき,午前9時30分摂政の御資格にて御出門,皇霊殿・神殿に御拝礼になり,御告文を奏される。(実録第三711頁)

 

 前年1921年9月23日の秋季皇霊祭・同神殿祭においては,なお摂政に就任していない皇太子裕仁親王は「天皇御代拝に続き皇霊殿・神殿に御拝礼」になっていたところです(実録第三481頁)。

 

セ 神嘗祭(大祭)

 19221017日,大祭である神嘗祭(皇室祭祀令9条)。

 

 神嘗祭につき,午前9時30分摂政の御資格にて御出門,神嘉殿南庇に設けられた御座より神宮を御遥拝になり,ついで賢所に御拝礼,御告文を奏される。1045分還啓になる。(実録第三728頁)

 

前年1921年の神嘗祭では,摂政就任前の皇太子裕仁親王は「賢所に行啓され,天皇御代拝,皇后御拝礼についで御拝礼」になっていました(実録第三495頁)。

 

ソ 1922年の新嘗祭(大祭)

 さて,19221123日の新嘗祭。

「天皇の宗教的権威は,イネの祭りの新嘗祭(にいなめさい)に淵源している。新嘗祭は,古代から現在にいたるまで,つねに天皇の祭祀の中心であり,天皇の即位にさいしては,新嘗祭の大祭である大嘗祭(だいじょうさい)が,一代一度の祭典として挙行される。」といわれ(村上1頁),「新嘗祭は,皇室神道にとって最重要の祭典」です(村上14頁)。「本来の新嘗祭は,穀霊ないしムスビの神と王が一体化する儀礼であったのであろう。」とされ,「穀霊は,一般に生産する力,生殖する力をそなえた女性の霊格とされるから,新嘗祭の祭司をつとめることをもっとも重要な宗教的機能とする天皇は,終始,男帝を原則とし,女帝は例外的な存在にとどまったであろう。」ともいわれています(村上19頁)。

ところが,192211月,摂政宮裕仁親王は,香川県における特別大演習統裁のため同月12日東京を出発(実録第三742743頁),同月14日高松着(実録第三744頁)。軍事に係る当該特別大演習の日程は同月19日をもって終了したものの,同月20日からは「皇太子の御資格による南海道行啓」が続きました(実録第三750751頁)。同月22日に松山市内に入り,御泊所久松伯爵別邸に御到着(実録第三755頁)。そして,同月23日。

 

新嘗祭につき,午後9時15分御遥拝を行われる。また東宮侍従牧野貞亮を天皇・皇后への御使として宮城に差し遣わされる。この日は終日御泊所に御滞留になり,朝融王,元東宮職出仕久松定孝及び供奉員等を御相手に,ビリヤード・将棋等にて過ごされる。(実録第三756頁)

 

21歳の青年らしい,旅先での滞留日の過ごし方というべきでしょうか。しかしながら,「摂政は天皇に代わり祭祀を行う」にもかかわらず,「天皇の祭祀の中心」である「皇室神道にとって最重要の祭典」たる新嘗祭に対して御遥拝で済ますとは,いささか淡泊であるようでもあります。

久邇宮(あさ)(あきら)王は,摂政宮裕仁親王と同年の1901年生まれ,後の香淳皇后となる良子(ながこ)女王の兄。久松定孝は,摂政宮裕仁親王の学習院初等学科・東宮御学問所時代の学友。同年代の若者3人で遊んで,随分楽しかったことでしょう。
 なお,この日にはまた,23年後に昭和天皇の聖断の下内閣総理大臣としてポツダム宣言を受諾することとなる鈴木貫太郎呉鎮守府司令長官も久松伯爵別邸を訪れています(実録第三756頁)。 

 

3 1923年の新嘗祭まで

 

(1)麻疹

四国及び和歌山県の南海道行啓から,摂政宮裕仁親王は192212月4日に東京に還啓しました(実録第三772頁)。

摂政宮裕仁親王は,畏るべきいわゆるパワー・スポットたる香川の金刀比羅宮(19221118日),同じく香川の崇徳天皇白峯陵(同月20日),更に淡路島の淳仁天皇陵(同月30日)をきちんと訪れたのですが(実録第三748頁,751頁,767頁),『昭和天皇実録 第三』の帰京後19221212日の項はいわく(776頁)。

 

近来御鼻塞の症状があり,去る9日よりアスピリンを服用され,11日には吸入を行われるものの,次第に御風気様の症状が増し,この日午前7時30分の検温では御体温が39度に達したことから,御仮床に就かれる。正午には39度7分まで御体温が上昇する。

 

御違例です。同日の光格天皇例祭については「侍従加藤泰通に御代拝を仰せ付けられる。」ということになりました(実録第三776頁)。

13日には発疹が確認され,麻疹(はしか)と診断されました(実録第三776頁)。同日午後8時には体温が40度9分にまで上昇(実録第三776頁)。はしかといっても子供ばかりがかかるわけではありません(ただし,最近の我が国でははしかはほとんど見られなくなりました。)。御違例は長引きました。摂政宮裕仁親王の内々の御床払は1923年1月19日,正式の御床払は同月22日となりました(実録第三782頁,783頁)。その後も,同月25日から沼津で静養となり(実録第三787頁),東京の東宮仮御所への御帰還は実に同年3月20日となりました(実録第三802頁)。

 

(2)北白川宮成久王の自動車事故死事件

1923年4月1日には,パリ滞在中の北白川宮成久王がノルマンディー方面に向けて自動車を自ら運転中,パリから約134キロメートルの地点で先行車を追い抜いた際路側の並木のアカシアに自動車を衝突させてしまって薨去し,同乗の成久王妃房子内親王(大正天皇の異母妹)及び朝香宮鳩彦王も重傷を負うという事故が発生します(実録第三810頁)。摂政宮裕仁親王による同月3日の神武天皇祭の御拝礼は取り止め,九条道実掌典長が御代拝を奉仕ということになりました(実録第三810頁)。

 

(3)台湾行啓に際しての水兵殉職

1923年4月13日の金曜日,熊野灘において,御召艦金剛で台湾に向かう摂政宮裕仁親王の供奉艦比叡(なお,旗艦は霧島)から三等水兵松尾与作が海中に転落,救助することはできませんでした(実録第三817818頁)。

 

(4)潜水艦沈没事故

1923年8月21日には,神戸川崎造船所で竣工した第70潜水艦が淡路仮屋沖において試験航行中沈没し,海軍側・造船所側の乗員計八十余名が殉職しました(実録第三911頁)。

 

(5)現職内閣総理大臣加藤友三郎の死

1923年8月24日,現職の内閣総理大臣である海軍大将加藤友三郎が死亡し(ただし「危篤」ということにされた。),翌25日,同日死去と発表されました(実録第三911912頁)。

 

(6)関東大震災

そして1923年9月1日,関東大震災。皇族では,山階宮武彦王妃佐紀子女王,東久邇宮師正王及び閑院宮(こと)(ひと)親王の四女である寛子女王がいずれも建物倒壊のため薨去しました(実録第三918頁)。帝都大荒廃。(「其ノ震動極メテ峻烈ニシテ家屋ノ潰倒男女ノ惨死幾万ナルヲ知ラス剰ヘ火災四方ニ起リテ炎燄天ニ冲リ京浜其ノ他ノ市邑一夜ニシテ焦土ト化ス・・・流言飛語盛ニ伝ハリ人心洶々トシテ倍々其ノ惨害ヲ大ナラシム」「朕前古無比ノ天殃ニ際会シテ卹民ノ心愈々切ニ寝食為ニ安カラス」(同月12日の詔書(実録第三929頁,930頁))。なお,更に同年1110日には国民精神作興の詔書が発せられています(実録第三962964頁)。)

 

(7)御婚儀延期

1923年9月19日には,同年秋の予定だった摂政宮皇太子裕仁親王と久邇宮良子女王との御婚儀が翌年まで延期される旨が発表されました(実録第三937頁)。

 

(8)1923年の新嘗祭

しかして,19231123日の新嘗祭。

 

新嘗祭当日につき,御座所は朝より清められ,新しい卓子・椅子が設けられ,皇太子は只管お慎みになる。午後4時過ぎ御入浴・御斎戒,陸軍通常礼装に召し替えられ,5時30分赤坂離宮御出門,摂政通常鹵簿にて賢所に行啓される。綾綺殿にて斎服を召され,6時15分神嘉殿に御参進,夕の儀を執り行われる。式部長官井上勝之助前行,次に侍従松浦靖・同岡本愛祐が脂燭をり左右に前行,侍従原恒太郎が壺切御剣を奉じて御後に従い,続いて侍従長徳川達孝・侍従本多正復が候す。一旦隔殿の座に御着座になり,神饌行立の後本殿の座に御参進,神饌を御供進になり,終わって御拝礼,御告文を奏される。雍仁親王・載仁親王以下参列の皇族・王族及び諸員の拝礼,神饌退下の後,一旦御退出になる。午後11時より再び神嘉殿に御参進,暁の儀を執り行われ次第夕の儀に同じ,午前1時10分賢所御発,御帰還になる。(実録第三969970頁)

 

1年前に松山において仲間らとビリヤード・将棋三昧で過ごした楽しい一日とは打って変わって,「皇太子は只管(ひたすら)お慎みになる。」とわざわざ特記されています。21歳から22歳にかけての若き摂政宮裕仁親王にとって,その間多端多難な1年があったのでした。初の新嘗祭の祭典執行を終えた翌日の19231124日,疲れの出たゆえか,摂政宮裕仁親王は「軽微の御風気のため定例御参内はお取り止め」となりました(実録第三970頁)。

 

4 つけたり:「摂政」の読み方について

 ところで,摂政を「せつしょう」と読むのは,「政」について呉音読みになります。漢音読みでは「せつせい」のはずです。明治10年代以降は公文書の世界は基本的に漢音が支配することになっていたのですから(20131210日付けのプログ記事「大審院の読み方の謎:呉音・漢音,大阪・パリ」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1611050.html参照),井上毅らが大日本帝国憲法及び明治皇室典範の「義解」を「ぎかい」と読んでいたのならば,「摂政」はあるいは「せつせい」と読まれていたかもしれません。

しかしながら,「摂政」の読み方についても,皇太子裕仁親王が実際に摂政に就任した翌月の19211215日になってから後付け式に正式通告されています。

 

この日宮内省は,「摂政」を「セツシヤウ」と訓読すること・・・を内閣・枢密院等に通告する。(実録第三542頁)

 

 大日本帝国憲法及び明治皇室典範の下の摂政は「摂政ニツキテハ古来依ルヘキ例ナシ」ということだったそうですが,明治天皇幼時の摂政であった二条(なり)(ゆき)に至るまでの過去の日本史上における摂政を含めていずれも「せつしょう」と読むことになったわけです。

 なお,Regentの語源はラテン語のregereであって,regnareではないそうです。

 

 弁護士 齊藤雅俊
 

 大志わかば法律事務所

  各種法律問題に関するお問い合わせはお気軽に

   電子メールで:saitoh@taishi-wakaba.jp

   ファックスで:03-6868-4171

   郵便で:152-0002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16渋谷三丁目スクエアビル2階

   電話で:03-6868-3194


弁護士ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 「譲位の慣例を改むる者」の強行規定性の有無

 明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)に関する前回のブログ記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.html)においては,同条に関する伊藤博文の『皇室典範義解』の解説(「本条に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はるゝ者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」(宮沢俊義校註『憲法義解』岩波文庫(1940年)137頁))をもって,同条及び現在の皇室典範(昭和22年法律第3号)4条には「天皇の生前譲位を排除する趣旨」があるものとあっさり記しました。しかしながらよく考えるとその先の問題として,「譲位の慣例を改むる」ことによって,実際に天皇が「退位」した場合(「・・・花山寺におはしましつきて御髪おろさせたまひ・・・」)に退位によってもはや天皇ではなくなるという法律効果までも無効になるものかどうか,なお議論の余地があるようです。

(なお,「譲位」というと皇嗣に皇位を譲るという先帝の意思の存在及び更には当該先帝の意思と皇位を譲られる皇嗣の意思との合致が含意されるようでもありますが,「退位」ならば先帝の単独の行為であり,かつ,皇嗣に皇位を譲る効果意思を必ずしも含まないものとするとのニュアンスがより強いようです。美濃部達吉は「皇位ノ継承ハ法律行為ニ非ズシテ法律上当然ニ発生スル事実ナリ」と述べていますが(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)183頁),皇位継承は天皇の効果意思に基づくものではないということでしょう。)

譲位を慣例とはしないということのみであれば,「例外的」譲位は有効にあり得るようにも思われます。明治皇室典範の性格に関して『皇室典範義解』は「祖宗国を肇め,一系相承け,天壌と与に無窮に垂る。此れ(けだし)言説を仮らずして既に一定の模範あり。以て不易の規準たるに因るに非ざるはなし。今人文漸く進み,遵由の路(かならず)憲章に依る。而して皇室典範の成るは実に祖宗の遺意を明徴にして子孫の為に永遠の銘典を(のこ)す所以なり。」と説いていますが(岩波文庫127頁),従来多くの天皇が行った生前譲位を有効と認める以上は,生前譲位は「不易の規準」に反して本来的に無効であるということにはならないでしょう。そもそも明治皇室典範については「既に君主の任意に制作する所に非ず。」とされていますから(『皇室典範義解』岩波文庫127頁),従来有効であった生前譲位ないしは退位を明治天皇の「任意に制作する所」の強行規定をもって1889年2月11日以降無効化したとまでいい得るものでしょうか。『皇室典範義解』の説明文は,退位の有効性を前提としつつも,あえて生前に退位はしないという「上代の恒典」への運用の復帰を求めているものというようにも解することができそうです。そう考えて明治皇室典範10条を見ると,確かに同条の文言自体は,それだけで退位有効論を完全に排除するものとまではいえません。また,現在の皇室典範の法案が審議された1946年12月の第91回帝国議会においても,政府は天皇の「退位」はおよそ無効であるとまでは答弁していません。同議会における金森徳次郎国務大臣の答弁の言葉尻を見てみると,「・・・天皇に私なし,すべてが公事であるという所に重点をおきまして,御譲位の規定は,すなわち御退位の規定は,今般の典範においてこれを予期しなかった次第でございます。」(第91回帝国議会衆議院議事速記録第6号67頁),「・・・かような〔天皇の〕地位は,その基本の原則に照して処置せらるべきものでありまするが故に,一人々々の御都合によつてこれをやめて,たとえば御退位になるというような筋合いのものではなかろうと思うのであります」(同議会衆議院皇室典範案委員会議録(速記)第4回20頁),「退位の問題につきましては,相当理論的にも実際的にも考慮すべき点が残されておるように思うのでありまして・・・」(同26頁),「・・・或はお叱りを受けるか知りませんが,まずそういう場面〔「天皇が自発的に退位されたいという場合」,「天皇が希望される婚姻をどうしても皇室会議が承認できないというような場合」〕が起らないように,適当に事実が実質において調節せらるゝものであろうということを仮定をして,この皇室典範ができておるわけでありまして・・・」(同33頁),「・・・しかして国民はかような場合におきまして,御退位のあることを制度の上に書くことは希望していない,かように考えます」(同33頁),「事実としてそういう考え〔「象徴の地位におられることを欲しないという精神作用」〕が起るかどうかということにつきましては,歴史の示す所は,事実としてかような考えが起つておることを認め得るがごとくであります,しかし事実ではない,かくあるべきものとしての姿としてそれを認めるかどうかということになりますれば,私自身の見解から言えば,日本の皇位は万世一系の血統を流れるものである,しかもそれは一定の原理に従つて流れるものであるということを前提として,憲法はこれを掲げております,従つてそれを打切ることはできないものであると,かように考えております」(34頁),「・・・細かい理窟を抜きに致しまして,国民は矢張り御退位を予想するやうな規定を設けないことに賛成をせらるゝのではなからうか,斯う云ふ前提の下に皇室典範の起草を致しました・・・」(同議会貴族院議事速記録第6号88頁)等々,生前退位はあるべきものではないとしつつ,そこから先は,「予期しなかった」ということで,必ずしも詰めてはいなかったようです。 

 

2 1887年3月20日の高輪会議再見

 伊藤博文,井上毅,柳原前光らの1887年3月20日の高輪会議(憲法案に係る同年1015日のものとは異なります。)において柳原前光の「皇室典範再稿」12条(「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」)が削られるに至った過程について,前回のブログでは,伊藤博文の削るべしとの首唱に柳原が「迎合」したと書きました。しかしながら,柳原前光は,何の考えもなしに伊藤に対して単純に迎合したわけではなかったようです。

柳原は「但書ヲ削除スルナレハ寧ロ全文ヲ削ルヘシ」と言っています。肥後人井上毅の「人間だもの」論(「至尊ト(いえども)人類ナレハ其欲セサル時ハ何時ニテモ其位ヨリ去ルヲ得ベシ」)くらいでは生前退位を排除しようとする長州藩の足軽出身の権力者・内閣総理大臣伊藤博文の翻意は無理と見て取った京都の公家出身の柳原は,「但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」として退位を容認することとしていたただし書のみならず,「天皇ハ終身大位ニ当ル」として終身在位を制度化する本文も併せて削られることを確保することとして,生前退位容認論と終身在位制度化論との間での法文上でのいわば相討ちを図ったのではないでしょうか。

高輪会議後の1887年4月25日に伊藤に提出された柳原の「皇室典範草案」では,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」との高輪会議決定案10条が二つの条に分割され,当該「皇室典範草案」を検討して井上毅が作成した「七七ヶ条草案」においても「第10条 天皇崩スル時ハ皇嗣即チ践()ス」及び「第11条 皇嗣践()スル時ハ祖宗ノ神器ヲ承ク」とされ崩御による践祚についての規定と践祚の際(先帝の崩御によるものに限定はされていません。)の剣璽渡御についての規定との別立て維持されていました。結局両条は再統合されますが,生前退位容認論者であったの立法技術的操作には,それなりの含意があったというべきでしょう。
 なお,「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」と規定する大日本帝国憲法2条に関する『憲法義解』の解説は,「恭て按ずるに,皇位ノ継承ハ祖宗以来既に明訓あり。以て皇子孫に伝へ,万世易ふること無し。若夫継承の順序に至つては,新に勅定する所の皇室典範に於て之を詳明にし,以て皇室の家法とし,更に憲法の条章に之を掲ぐることを用ゐざるは,将来に臣民の干渉を容れざることを示すなり。」というものです(岩波文庫25頁。下線は筆者によるもの)。井上毅が書いたものとして,新たな明治皇室典範は専ら皇位「継承の順序」を「詳明」にすべきものであって,継承の原因等は依然「祖宗以来」の「明訓」のままでよいのだという趣旨まで深読みしてよいものかどうか。はてさて。 


DSCF0330
 東京都港区高輪四丁目の伊藤博文高輪邸宅地跡(1889年,岩崎久弥に売却)
 

3 『皇室典範義解』の拘束力の射程

 現在の皇室典範4条の文言(「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」)は,剣璽渡御に関係する明治皇室典範10条後段を削ったことによって,むしろ井上毅の「七七ヶ条草案」10条と対応するものになっています。(なお,法文からは削られたもののやはり必要な儀式ということでしょうが,今上天皇践祚に当たって「剣璽等承継の儀」が新天皇の国事行為として行われています。これは先帝が崩じたから伝統的な意味での践祚をするために行われたものか,皇嗣が既に「直ちに即位」したから行われたものか。)

明治皇室典範10条に係る『皇室典範義解』の解釈に過度に拘束されずに,現在の皇室典範4条は,単に「皇位ノ継承ハ法律行為ニ非ズシテ法律上当然ニ発生スル事実」であること(また,「皇位の一日も曠闕すべからざる」こと(『皇室典範義解』岩波文庫137頁)),皇位継承に新天皇の宣誓(例えば,1831年のベルギー国憲法80条2項は「国王は,両議院合同会の前で,厳粛に次の宣誓をするまでは,王位につくことができない。/「余は,ベルギー国民の憲法および法律を遵守し,国の独立および領土の保全を維持することを誓う。」」と規定していました(清宮四郎訳『世界憲法集 第二版』(岩波文庫・1976年)89頁)。)は不要であるということ,先帝崩御は皇位継承をもたらす一つの法律事実であること,を意味するものにすぎないと解することは可か不可か。

 大日本帝国憲法と『憲法義解』との関係について,小嶋和司教授は,「『憲法義解』は法源ではないが,政府の憲法解釈を拘束した」が,大日本帝国憲法の「わずか4人の起草関係者の間に存した・・・解釈の対立は,それが法の指示においてさえ完璧でなかったことを断定せしめる」ところ,「今日,明治憲法典の起草趣旨を簡単に知る方法として『憲法義解』の参照がおこなわれる」が「しかし,それが叙述しないか,叙述を不明確にしている場合に,起草者は問題を知らなかったとか看過したと断定してはならない。それ〔は〕学問的には怠惰な即断となる」と述べています(小嶋和司「明治二三年法律第八四号の制定をめぐって」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)441頁,440頁)。明治皇室典範ないしは現在の皇室典範と『皇室典範義解』との関係も,同様に考えるべきでしょう。そう簡単ではありません。ちなみに,『皇室典範義解』における明治皇室典範10条解説の結語である「本条に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はるゝ者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」は,高輪会議の前月である1887年2月段階における井上毅の「皇室典範」案13条の「説明」案に「本条ハ実ニ上代ノ恒典ニ因リ断シテ中古以来ノ慣例ヲ改ムル者ナリ」とあったものを(園部逸夫『皇室法概論』(第一法規・2002年)438頁参照)承けたものでしょう。しかしながら,当の井上自身は当該理由付けをもって例外を許さないほど強いものとは評価していなかったところです。その上記「皇室典範」案13条は生前譲位についても定めているのです。いわく,「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ノ重患アルトキハ皇位継承法ニ因リ其位ヲ譲ルコトヲ得」と(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』185‐186頁参照)。明治皇室典範10条に関する『皇室典範義解』の解説について奥平康弘教授は「譲位制度はよろしくなく,「上古ノ恒典」に戻るべきであるとする説明に『皇室典範義解』は,十分に成功していないというのが,私の印象である。」と述べていますが(同「明治皇室典範に関する一研究―「天皇の退位」をめぐって―」神奈川法学第36巻第2号(2003年)159頁),当該「印象」は,井上毅の立場からすると,むしろ正しい読み方に基づくものということになるのかもしれません。

DSCF0377
 東京都台東区谷中の瑞輪寺にある井上毅の墓

DSCF0375
 「病弱な井上は,その後〔1893年・第2次伊藤内閣〕文部大臣にもなったが,明治28年〔1895年〕に逝去し,はやく忘れられた。」(小嶋「明治二三年法律第八四号」442頁)

DSCF0373
 瑞輪寺山門の扁額は井上毅の揮毫したもの 

 
4 英国における特別法による国王退位

 しかしながら,事実として,国王による単独の法律行為としての退位は無効であるとする法制は可能ではあります。

英国がその例です。

エドワード8世は,19361210日に退位声明を発しましたが(いわゆる「王冠を賭けた恋」事件),当該退位が効力を発するためには議会及び国王による同月11日の立法を要しました。次に,19361211日の「国王陛下の退位宣言に効力を与え,及び関連する事項のための法律(An Act to give effect to His Majesty’s declaration of abdication; and for purposes connected therewith.)」を訳出します。

 

  国王陛下は,本年1210日の勅語(His Royal Message)において陛下御自身及びその御子孫のために王位を放棄する不退転の御決意(irrevocably determined)である旨声明あそばされ,並びに当該目的のために本法の別記に掲載された退位詔書(Instrument of Abdication)を作成され,並びにそれに対して効力が直ちに与えられるべき旨の御要望を表明されたところ,

  並びに,国王陛下の前記声明及び要望の海外領土に対する伝達を承け,カナダは1931年のウェストミンスター憲章第4節の規定に従い本法の立法を要求しかつそれを承認し,並びにオーストラリア,ニュー・ジーランド及び南アフリカはそれに同意したところ,

  よって,至尊なる国王陛下により,現議会に召集された聖俗の貴族及び庶民の助言及び承認によりかつそれらと共に,並びに現議会の権威により,次のように立法されるべし。

  1(1)本法が裁可されたときに,現国王陛下が19361210日に作成した本法の別記に掲載されている退位詔書は直ちに効力を発し,並びにそれに伴い国王陛下は国王ではなくなり(His Majesty shall cease to be King),及び王位継承(a demise of the Crown)が生じ,並びにしたがって次の王位継承順位にある王族の一員が王位並びにそれに附随する権利,特権及び栄誉を承継する。

  (2)国王陛下の退位後には,陛下,もし誕生があればそのお子及び当該お子の子孫は,王位の継承において又はそれに対して何らの権利,権原又は利益を有さず,並びに王位継承法(Act of Settlement)第1節はそれに応じて読み替えられるものとする。

  (3)御退位後には,1772年の王室婚姻法は,陛下にも,もし誕生があれば陛下の子又は当該子の子孫にも適用されない。

  2 本法は,1936年の国王陛下退位宣言法(His Majesty’s Declaration of Abdication Act, 1936)として引用されることができる。

 

  別記

  

  余,グレート・ブリテン,アイルランド及び英国海外領土の王,インド皇帝であるエドワード8世は,王位を余自身及び余の子孫のために放棄する余の不退転の決意並びにこの退位詔書に直ちに効力が与えられるべしとの余の要望をここに宣言する。

  上記の証として,下記署名に係る証人の立会いの下,19361210日,ここに余が名を記したるものなり。

                           国王・皇帝 エドワード

  アルバート

  ヘンリー

  ジョージ

  の立会いの下,フォート・ベルヴェデールで署名

 

なお,英国の1689年の権利章典は,「ウエストミンスタに召集された前記の僧俗の貴族および庶民は,次のように決議する。すなわち,オレンヂ公および女公であるウィリアムとメアリは,イングランド,フランス,アイルランド,およびそれに属する諸領地の国王および女王となり,かれらの在世中,およびその一方が死亡した後は他の一方の在世中,前記諸王国および諸領地の王冠および王位を保有するものとし,かつその旨宣言される。王権は,公および女公双方の在世中は,王権は〔ママ〕,公および女公の名において,前記オレンヂ公が単独かつ完全に行使するものとし,公および女公ののちは,前記の諸王国および諸領地の王冠および王位は,女公の自然血族たる直系卑属の相続人に伝えられ」,「王権および王政は,両陛下とも在世のうちは,両陛下の名において,国王陛下のみによって,完全無欠に行使さるべきこと。両陛下とも崩御されたのちは,前記王位および諸事項は,女王陛下の自然血族たる直系卑属に帰すべきこと。」と規定しています(田中英夫訳『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)83‐84頁,86‐87頁)。議会によって,「在世中」(during their lives)は王位にあるべきもの(to hold the crown and royal dignity)とされ,法律となっています。
 エドワード8世の退位問題には昭和天皇が深い関心を持っていました。宮内庁の『昭和天皇実録第七』(東京書籍・2016年)の1936年12月4日の項には「侍従長百武三郎に対し,新聞報道されている英国皇帝エドワード8世に関する件につき,外務省とよく連絡を取り報告するよう命じられる。後刻,侍従長より,本日英国駐箚特命全権大使よりもたらされた情報として,同皇帝が米国人ウォリス・シンプソンとの御結婚に固執のため内閣と衝突状態にある旨の言上を受けられる。翌日午後,侍従長より,英国首相スタンリー・ボールドウィンの憲法上の理由により御結婚に反対する旨の声明につき言上を受けられる。また8日にも侍従長より,外務省からの情報の言上を受けられる。なお,エドワード8世は皇位放棄を決意され11日に御退位,皇弟ヨーク公がジョージ6世として皇位に就かれる。」とあります(240‐241頁)。立憲君主とその内閣とが衝突すれば,君主が引っ込まざるを得ないということでしょうか。ボールドウィンは,同月10日の英国庶民院における演説において"We have, after all, as the guardians of democracy in this little island to see that we do our work to maintain the integrity of that democracy and of the monarchy, which, as I said at the beginning of my speech, is now the sole link of our whole Empire and the guardian of our freedom."と述べています。『昭和天皇実録第七』の同月11日の項においては「午前,侍従長百武三郎が入手した英国皇帝エドワード8世の御退位に関する英国駐箚特命全権大使の電報を御覧になり,侍従長に対し,同皇帝御退位に関して発する電報の内容につき,式部職と連絡し処理するよう命じられる。13日,英国大使より外務省を経て新皇帝即位の公報到達につき,新皇帝ジョージ6世に対し祝電を御発送になる。なお,前皇帝御退位については触れられず,新皇帝即位に対する祝意のみを伝えられる。15日,答電が寄せられる。」と記録されています(244‐245頁)。

 

5 ベルギー国における憲法に規定のない国王退位の実例

大日本帝国憲法がその手本の一つとしたベルギー国憲法においては,明治皇室典範(及び現行の皇室典範)同様に崩御による王位継承に関する条項しかないにもかかわらず,同国においては国王の生前退位が認められています。

リエージュ大学教授クリスチャン・ベーレント(Christian Behrendt)及び同大学准教授フレデリック・ブオン(Frédéric Bouhon)の『一般国法学入門・教科書(Introduction à la Théorie générale de l’État. Manuel)』(Larcier, 2009年)には次のようにあります(138頁)。こちらの国では,国王の退位を有効ならしめるための立法までは必要としないようです。

 

 ベルギー法においては,国王の公的生活に係る全ての行為は,大臣副署の義務に服する。純粋に私的な行為のみが当該憲法規律に服さないところである。公的生活においては,退位が,大臣副署なしに国王が実現できる唯一の行為である。ベルギーの歴史において,レオポルド3世が,退位した(1951年7月16日)唯一の〔2013年7月21日のアルベール2世の退位前の記述です。〕国王である(註)。ベルギー国憲法が国王に対して退位する権利を明示的に認めていないとしても,そこでは条文の沈黙の中においても存在する権能(faculté)が問題となっていると考えることについて意見は一致している。もはや彼の務めを果たそうという気を全く失っている人物,又は――レオポルド3世が退く前がそうであったように――叛乱の雰囲気を醸成し,及び本格的内乱のおそれが国家の上に漂うことを許すまでに全国の国民を分極化せしめる人物を頭に戴き続けることは,実際のところ明らかに,国家の利益にかなうものではない。

 

(註)彼の退位詔書(acte d’abdication)は1951年7月1617日の官報(Moniteur belge)に掲載された。レオポルド3世が実際に退位した唯一の国王であるとしても,退位の権利の存在は,王国の始めに遡るようである。1859年に国王レオポルド1世は,彼の心に特にかかる事案に関して国会議員らに圧力を加えるために,退位に訴える旨威嚇した。当該君主は,本当に退位する気は恐らくなかったであろう。しかしながら,当該権利を有していることを彼が確信していたことは明らかである(ジャン・スタンジャ(Jean Stengers)『1831年以来のベルギー国における国王の行動 権力及び影響力(L’action du Roi en Belgique depuis 1831. Pouvoir et influence)』(第3版,ブリュッセル,Racine, 2008年)195頁参照)。ベルギー国王は退位する権限(prérogative)を有するという考えは,彼の息子のレオポルド2世の治下において更に確認された。1892年,深刻な消沈の際,当該国王は真剣に退位を考えたが,その後よりよい決意(à de meilleures résolutions)に立ち戻った(ジャン・スタンジャ・前掲書125頁参照)

 

 ド・ミュレネル(De Muelenaere)記者が2013年7月3日付けでベルギー国のLe Soir紙のウェッブ・ページに掲載した記事(“Abdication, comment ça marche?”)によると,同国における国王の生前退位から次期国王の即位への流れは次のようなものだそうです(同月のアルベール2世の生前退位及びフィリップ現国王の即位に関する予想記事)。

 

  1 首相によって査証された(visée)アルベール2世の退位宣言(Une déclaration d’abdication

  2 退位の日(7月21日)

  3 両議院合同会の前におけるフィリップの宣誓

  4 直ちに宣誓が行われれば「空位期間」は生じない。そうでない場合であっても,国王の憲法上の権限を内閣(le conseil des ministres)が確保するから,摂政の必要はない。

 

議会は新国王の宣誓(即位の効力要件)に立ち会うだけで,前国王の退位に効力を与えるための行為をすることはないようです。首相の「査証」と訳しましたが,これは憲法上の副署(contreseing)ではないわけです。退位宣言の詔書は,官報に掲載されたものでしょう。ド・ミュレネル記者によれば,前記のベーレント教授は「国王は退位詔書を作成し,当該詔書は決定の公式性(caractère public de la décision)を確保するために続いて官報に掲載されなければならない。」と述べていました。

 

6 ドイツにおける国王退位に関する学説など

 ベルギー国憲法の話が出たとなると,大日本帝国憲法のもう一つのお手本であったプロイセン憲法の話をせざるを得ません。19世紀のドイツ国法において国王の退位はどのように考えられていたものか。

ズーザン・リヒター(Susan Richter)及びディルク・ディルバッハ(Dirk Dirbach)編の『王位放棄 中世から近代までの君主政における退位(Thronverzicht: die Abdankung in Monarchien vom Mittelalter bis in die Neuzeit)』(Böhlau, 2010年)中のカロラ・シュルツェ(Carola Schulze)による論文「王権神授説からドイツ立憲主義までの法秩序観念における退位(Die Abdankung in den rechtlichen Ordnungsvorstellung vom Gottesgnadentum bis zum deutschen Konstitutionalismus)」には次のようにあります(68頁)。

 

  絶対王政の下では王室法(Hausgesetz)によってのみ規制された王位継承及び摂政の問題を,立憲国家は王室立法権(Hausgesetzgebung)から引き離し,憲法典(Verfassungsrecht)の領域に移管した。もっとも,憲法典に記載された君主の神聖不可侵性(Heiligkeit und Unverletzlichkeit)のゆえに,退位――及びそれと共に廃位(Absetzung)――は,ドイツ連邦諸国の国法自体においては明定されなかった(wurde…nicht fixiert)。したがって,国家元首としての君主の地位(Stellung des Monarchen als Staatsoberhaupt)及びその王位継承に関する規律との関連において退位の制度(das Rechtsinstitut der Abdikation)を定めてあった初期立憲主義憲法は存在しない。唯一,184812月5日の押し付けプロイセン憲法が,第55条において,国王が統治不能(in der Unmöglichkeit zu regieren)であるときは, 特別法によってそれらについて手当てされていない限りにおいて,次の王位継承権者又は王室法によりそれに代わる者が,合同会で摂政及び後見について第54条〔国王未成年の場合の摂政及び後見に関する規定〕に準じて定めるために両議院を召集する旨規定していた。当該規定は,改訂された1850年のプロイセン憲法にはもう既になくなっていたが,君主の統治不能は退位及び王位継承者に対する王位の移行の意味においても理解されるべきだ(auch im Sinne einer Abdankung und des Übergangs der Krone auf den Nachfolger zu verstehen ist)との確たる解釈を許すものであった。

     要するに,次のようにいうことができる。初期立憲主義諸憲法が退位について沈黙していたとしても,国民意識,国の歴史,学説の伝統又は思考の必然からして規範的地位(normativer Rang)を与えられていた19世紀の一般ドイツ国法において,退位は,正規の王位継承に対して補充的な(subsidiär)例外的王位継承の形式として(als Form der außerordentlichen Thronfolge)認められ,かつ,そのようにしてドイツ立憲主義の秩序観念中に位置付けられていたのである。

 

「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」だから譲位の規定はいらないのだ,とは伊藤博文の発想の源でもありました(「余ハ将ニ天子ノ犯冒スヘカラサルト均シク天子ハ位ヲ避クヘカラスト云ハントス」と高輪会議で発言しています。)。
 プロイセン国王ヴィルヘルム1世は議会との対立の中で退位を考えましたし,その孫ヴィルヘルム2世は第1次世界大戦の最終段階におけるドイツ革命の渦中で,ドイツ皇帝としては退位するがプロイセン国王としては退位しないと頑張ります。これらは生前退位が有効であるとの理解を前提としています。

ところで,シュルツェの議論では君主の統治不能(die Unmöglichkeit des Monarchen zu regiern)には退位(Abdankung)も含まれるということのようですが,そうだとすると1848年のプロイセン憲法的には,国王が「退位する。」と宣言した場合には統治不能の当該国王は押し込められ,両議院合同会によって摂政及び後見人が任命され,かつ,当該状況は国王の生存中続くということにはならなかったでしょうか。ちょっと分かりづらい。あるいは,1850年のプロイセン憲法56条は「国王が未成年であるとき又はその他継続的に自ら統治することが妨げられている(dauernd verhindert ist, selbst zu regieren)ときに」摂政を置くとの規定になっていますので,継続的な故障程度ではいまだ統治不能ではないから摂政設置で対応するが,退位されてしまうと統治不能であるので摂政どころではなくなって直ちに新国王即位になる,というように理解すべきなのでしょうか。
 この点明治皇室典範
19条2項は「天皇久シキニ亘ルノ故障ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルトキハ皇族会議及枢密顧問ノ議ヲ経テ摂政ヲ置ク」となっていて,1850年のプロイセン憲法56条的です。これは1889年1月18日の枢密院再審会議(小嶋「明治皇室典範」249250頁)を経た段階では「天皇未タ成年ニ達セサルカ又ハ精神若ハ身体ノ不治ノ重患ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサル間ハ摂政一員ヲ置ク」であったものが(同228頁),正にドイツ人であるロエスレルの修正意見に基づき(同251頁),同月24日に「精神若ハ身体ノ不治ノ重患」が「久シキニ亙ルノ故障」に修正され,更にその後最終的な形に修正されて(同254頁),同年2月5日の枢密院会議を経たものです(同255頁)。ロエスレルの修正案は「天皇未タ成年ニ達セサルカ又ハ其ノ他ノ故障ニ由リ久シク大政ヲ親ラスルコト能ハスシテ臨時ニ応スル為ニ予シメ親ラ計画ヲ為サス若クハ為シ能ハサルトキハ次条ノ明文ニ循ヒ摂政ヲ置クヘシ」というものでした(小嶋「明治皇室典範」251頁)。「其ノ他ノ故障」との文言は「疾病ノ外ニ於テモ亦他ノ事由ノ生スルコトアラン例ヘハ・・・」ということで用いられることになったもので(小嶋「明治皇室典範」251頁),「久シク本国ニ在ラサルトキ,戦時ニ当テ俘虜トナリタルトキ,又高齢ニナリタルトキノ如キ是ナリ」とされています(小林宏・島善高編著『明治皇室典範〔明治22年〕(下) 日本立法資料全集17』(信山社・1997年)642頁)。
  またそもそも「不治ノ重患」の「不治ノ」は「啻ニ贅字タルノミナラズ甚シキ危険アル」ことがロエスレルによって述べられていました(小嶋「明治皇室典範」
251頁)。しかし,「不治ノ」は「甚シキ危険アル」言葉であるのに,皇位継承順位の変更に係る明治皇室典範9条では「皇嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シ前数条ニ依リ継承ノ順序ヲ換フルコトヲ得」となっていて「不治ノ」が維持されています(現在の皇室典範3条も同様)。ということは,「不治ノ」は天皇についてだけ「甚シキ危険アル」言葉なのでしょう。しかしながら,天皇が「不治ノ重患」であると発表してしまうと摂政どころではなく譲位が問題になってしまうという意味での「甚シキ危険」であったのかとまで考えるのは考え過ぎで,飽くまでロエスレルは摂政を置くべきか否かを検討する場面に留まりつつ「凡ソ疾病ノ治不治ハ,医家ニ在テモ亦一ノ争論点ニシテ,之カ為ニ紛議ノ種因ヲ他日ニ貽スノ恐レアレハナリ。而シテ摂政ヲ置クノ当否ニ関スルコトヲ以テ,此ノ如キ曖昧ノ間ニ附シ去ルハ大ニ不可ナリ。」と「甚シキ危険」について述べ,更に「・・・大政ヲ親ラスルコト能ハスト謂ハ丶,先ツ疾病ノ有無ヲ問ハス,果シテ大政ヲ親ラスルコト能ハサルカ否ヲ立証セサルヘカラス。現ニ君主重病ニ罹リテ尚ホ大政ヲ自ラ総攬シ得ルコトアリ。又総攬スルノ精神ヲ有スルコト屢々之レ有リ。例ヘハ「ポーランド」瓦敦堡〔ヴュルテンベルク〕ノ今王及び「メクレンボルグ」大公等ハ,既ニ不治ノ重患ニ罹ルト雖,尚大政ヲ親ラスルニアラスヤ。・・・」と述べています(小林・島641頁)。

ロエスレルの修正意見に基づく1889年1月24日の修正前の明治皇室典範19条案にいう「精神若ハ身体ノ不治ノ重患ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサル間」という摂政設置の前提状態たる不治ノ重患は,実は,1887年3月20日の高輪会議にかけられた柳原前光の前記「皇室典範再稿」では天皇の譲位を可能とする状態(「精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時」)でした。柳原の「皇室典範再稿」39条では,摂政を置く場合は,「天皇幼年ノ時」,「天皇本邦ニ在サル時」又は「天皇ノ精神又ハ身体ノ重患アル時」が挙げられていました(小嶋「明治皇室典範」193頁)。柳原前光の段階論では,「精神又ハ身体ノ重患アル時」はまだ摂政設置相当だけれども,「精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時」まで至ってしまうとむしろ譲位すべきだという判断だったのでしょう。現在の皇室典範16条2項は「天皇が,精神若しくは身体の重患・・・により,国事に関する行為をみずからすることができないときは,皇室会議の議により,摂政を置く。」と規定していますが,柳原の「皇室典範再稿」39条における摂政設置の場合の考え方におおよそ符合しています(ちなみに,ロエスエルは「精神又ハ身体ノ重患」の字は「不快ノ感ヲ喚起スル」と述べており(小林・島641頁),明治皇室典範19条2項には当該表現は用いられませんでしたが,現在の皇室典範においては復活したわけです。)。

なお,カロラ・シュルツェは,ドイツの学者らしく,法的意味における退位の成立に必要な構成要件のメルクマールを次のように分析的に述べています。

 

単独の公的行為(einseitige obrigkeitliche Maßnahme)であって,

君主によってされ(eines Monarchen),

君主の位の放棄,すなわち王位及びそれに附随する権利の放棄に向けられたものであり(die auf die Niederlegung der monarchischen Würde bzw. auf den Verzicht des Throns sowie der damit verbundenen Rechte gerichtet ist),

自由意思性及び自主性により,並びに(die sich durch Freiwilligkeit und Selbständigkeit sowie durch

補充性によって特徴付けられるものであり(Subsidiarität auszeichnet),

並びに不可撤回性を有するもの(und die unwiderrufbar ist.),

 

ということだそうです(シュルツェ69頁)。
 さて,シュルツェによれば「絶対王政の下では王室法(Hausgesetz)によってのみ規制された王位継承及び摂政の問題を,立憲国家は王室立法権(Hausgesetzgebung)から引き離し,憲法典(Verfassungsrecht)の領域に移管した」わけですが,このことについては,1850年のプロイセン憲法53条を素材に,美濃部達吉が次のように説明しています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)108109頁)。

 

  プロイセン旧憲法53条にも略本条〔大日本帝国憲法2条「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」〕と同様に,Die Krone ist, den Königlichen Hausgesetzen gemäss, erblich in dem Mannesstamme des Königlichen Hauses nach dem Rechte der Erstgeburt und der agnatischen Linealfolgeといふ規定が有る。その他のドイツ諸邦にも同様の規定の有るものが尠くない。文言に於いては極めて本条の規定と類似して居るけれども,趣意に於いては甚だ異なつて居つて,ドイツの学者は一般に,憲法の此の規定に依つて従来の王室家法が憲法の内容の一部を為すに至つたもので,随つて此の以後に於いては王室家法の変更は,憲法改正の法律に依つてのみ為すことを得べく,勿論議会の議決を必要とする・・・。即ちドイツ諸邦の憲法に於いては『王室家法ノ定ムル所ニ依リ』といふ明文が有つても,それは王室の自律権を認めたものではなく,却つて王室家法をして憲法の一部たらしめたもの・・・。

 

日本国憲法2条は「皇位は,世襲のものであつて,国会の議決した皇室典範の定めるところにより,これを継承する。」と規定しています(下線は筆者によるもの)。(同条の英文は,“The Imperial Throne shall be dynastic and succeeded to in accordance with the Imperial House Law passed by the Diet.”です。)ここでの「国会の議決した」は,その第74条1項で「皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス」と規定していた大日本帝国憲法との違いを示すものでしょう。現在の皇室典範の法形式は(皇室典範の「法律案」を審議した第91回帝国議会で問題にする議員がありましたが)法律ですが,少なくともその皇位継承(日本国憲法2条)及び摂政(同5条)に係る部分の改正は,19世紀ドイツ国法学的には,憲法改正と同等の重みのある行為であるということになります。「而して皇位継承に関する法則は,決して皇室御一家の内事ではなく,最も重要なる国家の憲法の一部を為すもの」なのです(美濃部『憲法精義』110頁)。

この点,1946年2月13日に我が国政府に提示されたGHQの憲法改正草案には“Article II. Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.”(外務省罫紙に記された閣議提出の訳文では「第2条 皇位ノ継承ハ世襲ニシテ国会ノ制定スル皇室典範ニ依ルヘシ」)及び“Article IV. When a regency is instituted in conformity with the provisions of such Imperial House Law as the Diet may enact, the duties of the Emperor shall be performed by the Regent in the name of the Emperor; and the limitations on the functions of the Emperor contained herein shall apply with equal force to the Regent.”(「第4条 国会ノ制定スル皇室典範ノ規定ニ従ヒ摂政ヲ置クトキハ皇帝ノ責務ハ摂政之ヲ皇帝ノ名ニ於テ行フヘシ而シテ此ノ憲法ニ定ムル所ノ皇帝ノ機能ニ対スル制限ハ摂政ニ対シ等シク適用セラルヘシ」)とあって,“such Imperial House Law”は国会の単独立法に係るものですから,やはり法律が想定されていたようで,皇室の家法たることを強く含意する「皇室典範」との訳は余り良い訳ではなかったようです。ところで,“in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact”であって,“in accordance with the Imperial House Law enacted by the Diet”ではありませんから,第2条の訳としては「皇位ノ継承ハ世襲テアリ且ツ国会ノ制定スルコトアル皇室法ニ従フモノトス」というものもあり得なかったでしょうか。このように解すると,たとい皇室典範という法形式が日本国憲法の施行に伴い消滅しても,国会が別異に立法しない限りは皇位の継承は従来の慣習に従う,ということにはならなかったものでしょうか。

しかし,我が国政府は皇位の継承に関する成文規範の存在及び皇室典範という法形式の存続にこだわったものか,憲法改正に係るその1946年3月2日案においては次のような条文が用意されています。

 

  第1章 天皇

第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ世襲シテ之ヲ継承ス。

第3条 天皇ノ国事ニ関スル一切ノ行為ハ内閣ノ輔弼ニ依ルコトヲ要ス。内閣ハ之ニ付其ノ責ニ任ズ。

  第9章 補則

106条 皇室典範ノ改正ハ天皇第3条ノ規定ニ従ヒ議案ヲ国会ニ提出シ法律案ト同一ノ規定ニ依リ其ノ議決ヲ経ベシ。

  前項ノ議決ヲ経タル皇室典範ノ改正ハ天皇第7条ノ規定ニ従ヒ之ヲ公布ス。

 

これに対して,佐藤達夫法制局第一部長の記す次のような1946年「三月四,五両日司令部ニ於ケル顛末」を経て,皇室典範の議案に係る天皇の発議権は消え,憲法2条は少なくとも英文については現在の形になっています。

 

第2条 皇室典範ガ国会ノ議決ヲ経ベキ条項ナシトテ相当強硬ナル発言アリ,補則ニ規定セリ,今回ハ全面的ニ補則ニ依リ改正セラルルコトデモアリ茲ニ特記スル要ナシ,又法律ト同一手続ニ依ルハ当然ナルモ,皇室ノ家法故発議ハ天皇ニ依リ為サルルコトトシタリト言フモ第1章ハ交付案ガ絶対ナリトテ全然応ゼズ,「国会ノ議決ヲ()タル(○○)passed by the Diet)(交付案ハ(as the Diet may enact))トシテ挿入スルコトトス(「経タル」ガ将来提案権ノ問題ニ関聯シテ万一何等カノ手懸ニナリ得ベキカトノ考慮モアリテ)。
 

ただし,佐藤部長の「考慮」にもかかわらず,現在の日本国憲法2条の当該部分の文言は「国会の議決した皇室典範」であって,「国会の議決を経た皇室典範」ではありません。現在の皇室典範は,昭和22年法律第3号です。
 (以上の日本国憲法の制定経緯については,国立国会図書館ウェッブ・サイトの「電子展示会」における「日本国憲法の誕生」を参照)
 


弁護士ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 現在の皇室典範4条と明治皇室典範10

 昭和天皇の裁可に係る現在の皇室典範(昭和22年法律第3号。日本国憲法100条2項参照)4条は,「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」と規定しています。この規定の意味するところを知るためには,その前身規定に遡ることが捷径です。

明治天皇の裁定に係る皇室典範(明治22年2月11日。公布されず(ただし,後の公式令(明治40年勅令第6号)4条1項参照)。)10条が,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と定めていたところです。(なお,明治皇室典範は,1947年5月1日昭和天皇裁定(同日付け官報)の皇室典範及皇室典範増補廃止の件によって同月2日限り廃止されたものであり,昭和22年法律第3号の皇室典範によって廃止されたものではありません。)

明治皇室典範10条について伊藤博文の『皇室典範義解』は,「・・・(つつしみ)て按ずるに,神武天皇より舒明天皇に至る迄34世,嘗て譲位の事あらず。譲位の例の皇極天皇に始まりしは,(けだし)女帝仮摂より来る者なり(継体天皇の安閑天皇に譲位したまひしは同日に崩御あり。未だ譲位の始となすべからず)。聖武天皇・光仁天皇に至て遂に定例を為せり。此を世変の一とす。其の後権臣の強迫に因り両統互立を例とするの事あるに至る。而して南北朝の乱亦此に源因せり。本条に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はる者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」と説いています(宮沢俊義校註『憲法義解』(岩波文庫・1940年)137頁による。)。明治皇室典範10条を引き継いだ現在の皇室典範4条は,天皇の生前譲位を排除する趣旨をも有しているわけです。

7世紀の舒明天皇まで生前譲位がなかったことについては,「大和王権における大王位は基本的に終身制であり,大王は生前に新大王に譲位をすることはできなかった。記紀などの記述では,まれに,大王が生前に後継者を指名することもあるが,指名を受けた者が即位しない場合も多く,後継者指名の効力は,実際にはほとんどなかったとみてよい。・・・王位継承の候補者は常に複数おり,5世紀には,候補者同士の熾烈な殺し合いも繰り広げられたが,即位に際しては,大和政権を構成する豪族たちの広範な支持も必要であったことはいうまでもなかった。そして,より発達した政治機構としての畿内政権が形成される6世紀には,群臣による大王の推挙は,王位継承を行ううえで,不可欠の手続きとして確立していったのである。/『日本書記』などの文献から復元される王位継承の手続きでは,まず群臣の議によって大兄などの王族から候補者が絞られ,群臣による即位の要請がなされる。候補者の辞退などで擁立が失敗すると,別の候補者への要請が行われ,候補者がそれを受けた段階で,即位儀礼が挙行された。」と説明されています(大隅清陽「君臣秩序と儀礼」『日本の歴史08 古代天皇制を考える』(大津透・大隅清陽・関和彦・熊田亮介・丸山裕美子・上島享・米谷匡史,講談社・2001年)40‐41頁)。「ある種の選挙王制といってもよい王位継承のシステム」(大隅43頁。また同49頁)ではあるが,現職の大王の意思による「解散総選挙」のようなものは認められなかったということでしょう。なお,現行の皇室典範4条において三種の神器について言及されていないことの意味(皇室経済法7条の趣旨も含む。)及び「南北朝の乱」の「源因」たる「権臣の強迫」については,2014年5月21日付けの本ブログ記事「「日本国民の総意に基づく」ことなどについて」(その6の部分)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1003236277.htmlを御参照ください。

 美濃部達吉は,「皇位ノ継承ハ天皇ノ崩御ノミニ因リテ生ズ。天皇在位中ノ譲位ハ皇室典範ノ全ク認メザル所ニシテ,典範(10条)ニ『天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク』ト曰ヘルハ即チ此ノ意ヲ示スモノナリ。中世以来皇位ノ禅譲ハ殆ド定例ヲ為シ,時トシテハ権臣ノ強迫ニ因リテ譲位ヲ余儀ナクセシムルモノアルニ至リ,(しばしば)禍乱ノ源ヲ為セリ。皇室典範ハ此ノ中世以来ノ慣習ヲ改メタルモノニシテ,其ノ『天皇崩スルトキハ』ト曰ヘルハ,崩スルトキニ限リト謂フノ意ナリ。」と述べていました(美濃部達吉『改訂 憲法撮要』(有斐閣・1946年)183頁)。『皇室典範義解』の説明を承けたものでしょう。

 現行の皇室典範4条の解釈も,いわく。「天皇の「崩御」だけが皇位継承の原因とされる(典範4条)。天皇生前の退位に関しては,皇室典範の審議の際に積極論も主張されたが,結局のところ採用されなかった。皇室典範の改正によって退位制度を設けることは可能であるが,一般的な立法論としていえば,生前退位の可能性を認めることは,皇位を政治的ないし党派的な対立にまきこむおそれがあることを,考慮しなければならない。」と(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)132頁)。

 「女帝仮摂」のゆえならざる生前譲位が始まったことについては,インドからの外来宗教たる仏教の影響があったとは,上杉慎吉の指摘するところです。いわく。「皇位継承の行はるのは天皇崩御の時のみであります,譲位受禅は典範の認めざる所であります,之は我古代の法制であつて神武天皇以下武烈天皇に至りまする迄御譲位と云ふことは無かつた,継体天皇の25年皇太子を立て天皇(ママ)とせられ,天皇即日崩御せられた事があります,其後持統天皇,元明天皇,元正天皇の御譲位の事があります,元来女帝の御即位は皇太子尚幼くまします場合に其成長を待たる意味に出たものでありますから女帝の御譲位の事は例とすることは出来ぬのであります,聖武天皇が位を孝謙天皇に譲られたのが真の譲位の初としなければならぬのであつて,それ以来譲位受禅が頻に行はるに至つたのであります,之は主として仏教の影響に出るものであります,併ながら我皇位継承の本義ではありませぬ,それ故に典範は譲位の事を言はずして天皇崩御の場合にのみ皇位継承あるものとしたのであります,欧羅巴諸国では君主の譲位と云ふことは之を認むるを常とし,明文が無くとも譲位を為し得ることは当然としてあります,我国と制度の根本の趣旨が異ることを見ることが出来ます,多数の国の憲法では一定の原因ある場合には君主が位を譲つたものと認むるものとしてあります,又或は一定の場合には君主を廃することを得るものと定めてある憲法もある」と(上杉慎吉『訂正増補 帝国憲法述義 第九版』(有斐閣書房・1916年)257259頁)。東大寺等の造営で有名な8世紀・奈良時代の聖武天皇は自らを「三宝の奴」として仏教に深く帰依したところですが,確かに 現人神としては,少なくとも神仏分離を前提とすると,いかがなものでしょうか。

 父・聖武天皇からの生前譲位(天平感宝元年(749年))により皇位を継承した孝謙天皇は,自らもいったん大炊王(天武天皇の子である舎人親王の子)に生前譲位したものの(天平宝字二年(758年)),その後大炊王を皇位から追い,重祚します(称徳天皇)。女帝によって淡路に流謫せられた廃帝は,逃亡を図るも急死。この淡路廃帝に淳仁天皇との諡号が贈られたのは,ようやく明治になってからのことでした。

 皇嗣時代の大炊王の御歌にいわく。

 

 天地(あめつち)を照らす日月の極みなくあるべきものを何をか思はむ(万葉集4486

 

 河内出身の僧・道鏡が天皇になることは,和気清麻呂の宇佐八幡宮からの還奏(「我が国開闢より以来(このかた)君臣定まりぬ。臣を以て君となすことは未だこれあらず。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし。」)によって阻止されましたが,その後結局,聖武天皇,孝謙天皇,淳仁天皇らが属したところの,「極みなくあるべきもの」であった天武天皇系の皇統は,断絶しました。称徳天皇崩御後の後任である光仁天皇(天智天皇の孫であり,かつ,嗜酒韜晦の人であった白壁王)の皇子であって,女系で天武天皇系に連なっていた(おさ)()親王(聖武天皇を父とする井上(いのえ)内親王の子)も失脚し,その後急死しています(「光仁の即位も,当初は他戸への中継ぎとしての性格を持っていたのだろう」とされますが(大隅69頁),光仁天皇から譲位を受けることになったのは(天応元年(781年)),百済系の高野新笠の子である桓武天皇でした。)。

DSCF0338
皇居お濠端の和気清麻呂像(2016年9月10日撮影)一見入牢風のこの姿は,皇位継承に関する還奏に係る称徳天皇の勅勘が復活したわけではなく,地下の東京メトロ竹橋駅の工事のためです。 

 

2 明治皇室典範10条の起草過程

 明治皇室典範10条の起草過程をざっと見てみましょう。

(1)高輪会議まで

 187610月の元老院第1次国憲草案第4篇第2章の第11条には「皇帝崩シ又ハ其位ヲ辞スルニ当リ会マ元老院ノ開会セサルトキハ預メ召集ノ命ナクトモ直チニ自ラ集会ス可シ」とありましたから(小嶋和司「帝室典則について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)6970頁),生前譲位制が考えられていたわけです。

1878年3月の岩倉具視の「奉儀局或ハ儀制局開設建議」の「憲法」に関する「議目」には「太上太皇 法皇 贈太上天皇」というものがありました(小嶋「帝室典則」74頁)。これに関して,188212月段階での宮内省一等出仕伊地知正治の口述には「太上天皇並法皇 仙洞ニ被為入候得バ太上天皇尊号贈上ハ勿論ナリ。法皇ノ事ハ院号サヘ御廃止ノ今日ナレバ釈氏ニ出ル法号等ハ皇室ニ於テ口ヲ閉ヂテ可ナリ。」という発言が見られます(小嶋「帝室典則」78頁)。「仙洞(せんとう)」とは,『岩波国語辞典 第四版』(1986年)によれば,「上皇の御所。転じて,上皇の尊称。▷仙人のすみかの意から。」とあります。

 (史上初の太上天皇となったのは,孫の軽皇子(文武天皇)に生前譲位した女帝・持統天皇(在位690697年)です。「696年に太政大臣高市皇子(天武の長男)が亡くなると,持統は宮中に皇族や重臣を召集し,次の皇位継承者について諮問するが,群臣の意見はまとまらず,会議は紛糾した。この時,故大友皇子〔天武天皇に壬申の年に敗れた弘文天皇〕の子である葛野王は,皇位は「子孫相承」するのがわが国古来の法であり,継承が兄弟におよぶのは内乱のもとであるとして,草壁〔持統と天武との間の子〕の異母兄弟である天武天皇の諸皇子の即位に反対し,持統を喜ばせたという(『懐風藻』葛野王伝)。葛野王の発言が,どの程度当時の共通認識であったかには疑問がある・・・」ということですので(大隅6061頁),当時はなお皇位継承者の決定には群臣の議が必要であったようですが,「結局持統は,翌697年二月に軽皇子の立太子を強行し,同八月には皇太子に譲位して文武天皇とし」ています(同61頁)。「8世紀の天皇権力は,皇位継承に群臣を介在させず,独自に直系の継承を行おうとし」ますが(大隅62頁),その努力の始めである7世紀末の文武天皇の即位には,天皇の生前譲位が伴っていたのでした。なお,「太上天皇とは,おそらく大宝律令の制定にともない,譲位した元天皇の称号として新しく設けられたもので,律令の規定では,天皇と同じ待遇と政治的権限を有して」いました(大隅65頁)。「太上天皇制の成立により,8世紀には,天皇が生前のうちに譲位し,自らは太上天皇となって天皇を後見する,という形の皇位継承が一般化する。これは,皇位継承の過程に群臣が介在する余地を結果的に排除したとも言え,天皇権力の群臣からの自立という点で,大きな意味をもっていた」わけです(大隅65頁)。ただし,太上天皇の在り方は嵯峨上皇の時に変化します。「この政変〔薬子の変〕への反省から学んだ 嵯峨天皇は,823年(弘仁十四)に弟の淳和天皇に譲位すると,自らは「後院」とよばれる離宮的な施設に隠居して政治的権限を放棄し,天皇に対しては臣下の礼をとるという新しい試みをする。これをうけた淳和天皇は,嵯峨に「太上天皇」を尊号として奉上し,以後この手続きが通例になるが,この結果,太上天皇がたんなる称号となり,またその授与の権限が現役の天皇に帰したことの意義は大きかった。」ということでした(大隅75頁)。)

しかしながら,1885年又はそれ以前に宮内省で作成された(小嶋「帝室典則」129130頁。なお,1884年3月21日から宮内卿は伊藤博文(同月17日から制度取調局長官であったところに兼任(同局は1885年12月廃止)))「皇室制規」の第9条は「天皇在世中ハ譲位セス登遐ノ時儲君直ニ天皇ト称スヘシ」と規定して生前譲位を認めないものとしたところです(同125頁。ただし,「譲位の制は「皇室制規」の第2稿まで存した」とありますから(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』175頁),この「皇室制規」は第3稿以後のものなのでしょう。)。「登遐(とうか)」とは崩御のこと。これに対する井上毅の「謹具意見」1885年以前のものです(小嶋「帝室典則」130頁,135頁)。)には,「天子違予ニシテ政務ニ堪ヘ玉ハザルノ不幸アラバ,時宜ニ由テハ摂政ヲ置クコトアルベシト雖(議院ニ問ハズ),亦,叡慮次第ニハ並ニ時宜次第ニハ穏ニ譲位アラセ玉フコト尤モ美事タルベシ 起草第9条ノ上項ハ削去アリテ然ルベキカ」との批判がありました(同134頁)。この井上毅の譲位容認論の理由付けについて奥平康弘教授は,「非常に要約」して,「摂政には議会をつうじて人民に宣告し,なんらかの納得を得ることが不可避であるのに,譲位は人民による公知なしに―その理由など明らかにせずに―宮中内かぎりで片付けられ得る,代替りという線でやってのけられる利点があるではないかとする論理」があるものとしています(奥平康弘「明治皇室典範に関する一研究―「天皇の退位」をめぐって―」神奈川法学第36巻第2号(2003年)165‐166頁)。「「天子ノ失徳ヲ宣布スルニ至ラズ人民ヲ激動セズシテ外ハ譲位ノ美名ニ依リ容易ニ国難ヲ排除スル事ヲ得」たという事例〔陽成天皇譲位の例〕がある」旨「謹具意見」では述べられていたとされています(奥平165頁)。

 筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞ積もりて淵となりける(陽成院)
 

1885年の宮内省の「帝室典則」第2稿(小嶋「帝室典則」129頁)では「皇室制規」9条の規定は維持されていましたが,1886年6月10日の「帝室典則」では,同条に該当する規定は削られています(同140頁)。生前譲位がないことは当然とされたゆえ削られたのか(小嶋「皇室典範」175頁参照),それとも反対解釈すべきか(生前譲位を明示的に否認する「帝室典則」第2稿に対して井上毅は「謹具意見」の立場から改めて異議申立てをしています(奥平170‐171頁・註(14))。)。なお,井上毅の梧陰文庫蔵の「帝室家憲 スタイン起草」(用紙として「内閣罫紙」が使用されているため内閣制度が設けられた188512月以降に作成されたものと考えられています(小嶋「帝室典則」108頁)。ただし,小嶋教授は1887年以後に依頼され作成されたのではないかとも考えていました(同118119頁)。)の第7条(伊東巳代治遺文書中にあった下訳と認定される史料による(小嶋「帝室典則」108109頁)。)の第1項は「皇帝譲位セラレントスルノ場合ニ於テハ各高殿下,殿下及高等僧官ヲ招集シテ之ニ其旨ヲ言明シ必ス一定ノ公式ニ依リ書面ヲ以テ之ヲ証明シ譲位セントスル皇帝ノ家事モ亦タ之ニ因テ定ムヘキモノトス」と,第2項末段は「摂政5箇年ノ久シキニ渉リ仍ホ皇帝ノ疾病快癒ノ望ナキトキハ立法院ノ承認ヲ経タル上高殿下一同ニテ皇位継承ノ事ヲ布告スヘシ」と規定していました(小嶋「帝室典則」114115頁)。

 1887年1月25日に「帝室制度取調局総裁」柳原前光(大正天皇の生母・愛子の兄,白蓮の父)が宮内省図書頭・井上毅に提出した「皇室法典初稿」(小嶋「皇室典範」172173頁。伊藤博文(1885年12月22日から1888年4月30日まで内閣総理大臣,1887年9月16日まで宮内大臣兼任)に起草を命じられたものです(同172頁)。なお,小嶋教授は「柳原が当時,帝室制度取調局総裁の地位にあった」と記していますが(同頁),宮内庁の「宮内庁関係年表(慶応3年以後)」ウェッブ・ページを見ると,1885年12月22日に制度取調局が廃止された後,1888年5月31日に「臨時帝室制度取調局を置く。」とありますので,実は1887年初頭当時に「帝室制度取調局」があったものかどうか。岩波書店の『近代日本総合年表 第四版』(2001年)の1887年3月20日の項には「帝室制度取調局総裁柳原前光」との記載があり,これは稲田正次教授の『明治憲法成立史』に基づくものとされています。稲田教授の『明治憲法成立史』については「そこですべてが明らかにされたわけではなく,不明の断点が何ヶ所か残され,重要な事実の脱漏もある」との評価を加えつつも(小嶋「皇室典範」171頁),この部分については,小嶋教授は稲田教授の記述を踏襲したものでしょうか。ちなみに,国立国会図書館の「柳原前光関係文書」ウェッブ・ページの「旧蔵者履歴」欄を検すると,1887年当時,柳原は確かに総裁ではあったものの,賞勲局総裁であったところです。)の第8条には「天皇ハ皇極帝以前ノ例ニ依リ終身其位ニ((ママ))ヲ正当トス但シ心性又ハ外形ノ虧缺(きけつ)ニ係リ快癒シ難ク而シテ嫡出ノ皇太子又ハ皇太孫成年ニ達スル時ハ位ヲ譲ルコトヲ得とありました(小嶋「皇室典範」175頁)。再び生前譲位制が認められています。ただし,例外としての位置付けです。

 1887年2月26日に井上毅が伊藤博文に提出した「皇室典範」(小嶋「皇室典範」179頁)の第13条にも天皇の生前退位の制度が定められていました(同183頁)。「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ノ重患アルトキハ皇位継承法ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」というものでした(小嶋「皇室典範」185186頁)。附属の「説明案」において井上毅は,「天皇重患ニ因リ大位ヲ遜ルゝハ亦一時ノ権宜ニシテ実ニ已ムヲ得サルニ出ルモノアリ」と断じた上で,「大位ヲ遜譲シテ国家ノ福ヲ失ハズ是レ亦変通ノ道ナリ」と述べています(奥平172頁)。

 1887年3月14日に柳原前光から伊藤博文に提出された「皇室典範再稿」(小嶋「皇室典範」184頁)の第12条には「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」とありました(同185186頁,190頁)。当該「皇室典範再稿」では更に,第15条において「譲位ノ後ハ太上天皇ト称スルコト文武天皇大宝令ノ制ニ依ル」と,第16条において「天皇崩後諡号ヲ奉ルコト文武天皇以来ノ制ニ依ル太上天皇ヘモ亦同シ」と,第17条において「天皇崩シ又ハ譲位ノ日皇嗣践祚シテ即チ尊号ヲ襲ヒ祖宗以来ノ神器ヲ承ク」と,第23条において「天皇及皇族ノ位次ヲ定メ左ニ開列ス/第一天皇 第二太上天皇 第三太皇太后〔以下略〕」と,第31条において「天皇太上天皇太皇太后皇太后皇后ヘノ敬称ハ陛下ト定ム」と,第37条において「皇室ノ徽章ハ歴代ノ例ニ依リ菊花ヲ用ヒ桐之ニ亜ク太上天皇ハ菊唐草ヲ用ユ」とも規定していました(小嶋「皇室典範」190193頁)。

 

(2)1887年3月20日高輪会議及びその後

 天皇の生前譲位制が排されたのは,1887年3月20日午前10時半から伊藤博文の高輪別邸において開催された伊藤博文,柳原前光,井上毅及び伊東巳代治による会議(小嶋「皇室典範」187頁)においてでした。すなわち,「典範・皇族令体制の骨子」が定められた当該会議(小嶋「皇室典範」200頁)において,前記柳原「皇室典範再稿」12条の生前譲位規定は,伊藤博文及び柳原前光の首唱により削られることになったのでした(同190頁)。原案作成者の柳原前光が削ることを首唱したというのも不思議ですが,伊藤博文の首唱に対して,なるほどもっともと積極的に賛成したところです。「皇室典範再稿」の第15条及び第16条を削ること並びに第17条を「第10条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と修正すること(この高輪会議決定案は既に明治皇室典範10条と同じですね。)の首唱者も伊藤博文となっています(小嶋「皇室典範」190191頁)。奥平康弘教授の引用する伊東巳代治の「皇室典範・皇族令草案談話要録」によれば,「皇室典範再稿」12条に係る議論においては,まず伊藤博文が「本案ハ其意ノ存スル所ヲ知ルニ困シム天皇ノ終身大位ニ当ルハ勿論ナリ又一タヒ践祚シ玉ヒタル以上ハ随意ニ其位ヲ遜レ玉フノ理ナシ抑継承ノ義務ハ法律ノ定ムル所ニ由ル精神又ハ身体ニ不治ノ重患アルモ尚ホ其君ヲ位ヨリ去ラシメズ摂政ヲ置テ百政ヲ摂行スルニアラスヤ昔時ノ譲位ノ例ナキニアラスト雖モ是レ浮屠氏ノ流弊ヨリ来由スルモノナリ余ハ将ニ天子ノ犯冒スヘカラサルト均シク天子ハ位ヲ避クヘカラスト云ハントス前上ノ理由ニ依リ寧ロ本条ハ削除スヘシ」と宣言し(なお,「浮屠」とは,仏のことです。),これに対して井上毅が抗弁して「『ブルンチェリー』氏ノ説ニ依レハ至尊ト雖人類ナレハ其欲セサル時ハ何時ニテモ其位ヨリ去ルヲ得ベシト云ヘリ」と言ったものの,柳原前光は伊藤内閣総理大臣に迎合して「但書ヲ削除スルナレハ寧ロ全文ヲ削ルヘシ其『ブルンチェリー』氏ノ説ハ一家ノ私語ナリ」と自らの原案を否定し,結論として伊藤博文が「然リ一家ノ学説タルニ相違ナシ本条不用ニ付削除スヘシ」と述べています(奥平177頁)。「至尊ト雖人類ナ(リ)」という議論は斥けられたのでした。
 (「皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは,摂政は,天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には前条第1項の規定〔「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」〕を準用する。」と規定する現行憲法5条を前提とすれば, 摂政は国事行為に係る代理機関にすぎず(また,「摂政は天皇ではないから,「象徴」としての役割を有しない。」とも説かれています(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)259頁)。)祭祀については困る,とあるいは更に反論できたのでしょうが, 大日本帝国憲法下では(その第17条2項は「摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ」と規定。『皇室典範義解』には「摂政は以て皇室避くべからざるの変局を救済し,一は皇統の常久を保持し,二は大政の便宜を疎通し,両つながら失墜の患を免るゝ所以なり。摂政は天皇の天職を摂行し,一切の大政及皇室の内事皆天皇に代り之を総攬す。而して至尊の名位に居らざるなり。」と説明されていました(岩波文庫147頁)。), 「祭祀ニ付テ」も「天皇ノ出御アルコト能ハザル場合ニ於テ摂政之ヲ代行スル」こととなっていました(美濃部239頁。ただし,「祭祀ニ付テ・・・皇室祭祀令ニハ天皇幼年ノ場合ニモ親ラ出御アルベキコトヲ定メ,以テ摂政ノ必ズシモ代行スル所ニ非ザルコト」が示されていたそうです(美濃部239頁)。確かに,皇室祭祀令(明治41年皇室令第1号)の附式には「天皇襁褓ニ在ルトキハ女官之ヲ奉抱ス」等の「注意」が記されています。)。ちなみに,摂政令(明治42年皇室令第2号)1条は「摂政就任スル時ハ附式ノ定ムル所ニ依リ賢所ニ祭典ヲ行ヒ且就任ノ旨ヲ皇霊殿神殿ニ奉告ス」と規定していました。これは,1909年1月27日の枢密院会議における奥田義人宮中顧問官の案文説明によれば,「其〔摂政〕ノ誠実ヲ表明スル為メ設ケタル規定」です。いずれにせよ,大日本帝国憲法下の摂政の制度は特殊なもので,同日の奥田宮中顧問官の説明においてはまた「然ルニ摂政ニツキテハ古来依ルヘキ例ナシ故ニ此ノ〔摂政令〕案ノミハ全ク新タニ出来タルモノト御承知ヲ乞フ」と述べられていました。なお,1945年12月15日のGHQのいわゆる神道指令後には天皇の「祭祀大権は全く失は」れ,宮中祭祀は「純然たる皇室御一家の祭祀」となって「皇室の家長たる御地位に於いて天皇の行はせらるる所」とされています(美濃部555頁)。皇室の家長の交代には,譲位が必要ということになるのでしょうか。)

 明治天皇裁定の皇室「典範は,無能不適格な天皇が位に即く危険を冒し,指名権も譲位も否定して,血統原理をもって一貫した。そのような場合の能力の補充者たるべき摂政についてさえ,天皇の未成年及び「久シキニ亘ルノ故障ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルトキ」という厳重な条件を附し,しかも就任順位を血統原理に従って厳重に法定し,能力原理の介在を一切斥けた。天皇主権の憲法を,天皇の能力に全く依存しない仕方で運用しようとする立法者の強い意思の表明であり,この皇室制度は一番の「利害関係者」である天皇の意思を殆んど徴さないままに創り出された。」と評されていますが(長尾龍一「井上毅と明治皇室典範」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)5152頁),当該「立法者」ないしは「天皇制の完全な制度化を実現した人物」は,「謹具意見」で生前譲位容認説を唱えていた井上毅ではなく,やはり,長州藩の足軽から「能力原理」で立身出世を遂げた伊藤博文だったのでした(同52頁参照)。皇位に係る血統原理の貫徹及び能力原理の排斥は,「下級武士と下級貴族によって形成された明治政府が,幕府や大名などの旧勢力に対する支配の正統性を取得するために,天皇に,実際には与えるつもりのない巨大な権力を帰した」(長尾龍一「天皇制論議の脈絡」『思想としての日本憲法史』207頁)過程における必要な手当てだったわけです。

 前記高輪会議の後1887年4月に,柳原前光は「皇室典範草案」と題するものを作成して伊藤博文(同月25日)及び井上毅(同月27日)に提出しています(小嶋「皇室典範」202頁)。そこでは,高輪会議決定案の前記第10条が2箇条に分割されてしまっており(小嶋「皇室典範」204頁),当該柳原案に手を入れた井上毅の「七七ヶ条草案」では,「第10条 天皇崩スル時ハ皇嗣即チ践()ス」及び「第11条 皇嗣践阼スル時ハ祖宗ノ神器ヲ承ク」となっています(同212頁)。ただし,1888年3月20日の井上毅修正意見においては,「第10条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践阼シ祖宗ノ神器ヲ承ク」に戻っています(小嶋「皇室典範」212頁)。確かに2箇条に分かれていると,先帝崩御に基づかない皇嗣の践祚もあるように解釈する余地がより多く出てきます。

 

(3)枢密院における審議

 皇室典範の枢密院御諮詢案は,1888年3月25日に伊藤博文出席の夏島の会議で決定しています(小嶋「皇室典範」222頁)。御諮詢案の第10条は「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」となっていて,枢密院において修正されることはありませんでした(小嶋「皇室典範」227頁)。なお,柳原前光は枢密顧問官になるには年齢が足らず(枢密院官制(明治21年勅令第22号)4条により40歳に達していることが必要),枢密院における審議には出席できませんでした(小嶋「皇室典範」236頁参照)。

 枢密院の審議において,明治皇室典範10条は,1888年5月25日に第一読会,同月28日に第二読会,同年6月15日に第三読会に付されています(小嶋「皇室典範」240241頁)。しかしながら,それらの読会において同条に関する議論は一切ありませんでした。アジア歴史資料センターのウェッブ・サイトにある枢密院の「皇室典範議事筆記」によれば,第一読会においては「〔伊藤博文〕議長 第10条ニ質問ナケレハ第11条ニ移ルヘシ」とのみあり(第17コマ),第二読会においては「議長 本条ニ付別ニ意見ナケレハ直ニ原案ノ表決ヲ取ルヘシ原案同意者ノ起立ヲ請フ」に対して「総員一致」となって「議長 総員一致ニ付原案ニ決シ本日ハ最早時刻モ後レタレハ是ニテ閉会スヘシ・・・」で終わっており(第65コマ),第三読会では井上毅書記官長による条文朗読のみでした(第294コマ)。
 しかし,同年6月18日の午前,枢密院が大日本帝国憲法の草案の審議に入るに当たって議長・伊藤博文が行った演説中における次の有名なくだりに,明治典憲体制において天皇の生前譲位が排除されることとなった理由が見いだされるように思われます。確かに,我が国未曽有の変革である憲法政治に乗り出したとき,宗教(ヨーロッパ諸国においてはキリスト教)に代わってどっしりと我が日本国家の機軸であることが求められる皇室の長たる天皇が,生前譲位(更には煩悩を逃れての仏門入り)等の非religious institution的な振る舞いをしてしまうということでは,いささか心もとなかったわけでしょう。それはともかく,いわく。「・・・抑欧洲ニ於テハ憲法政治ノ萠芽セルヿ千余年独リ人民ノ此制度ニ習熟セルノミナラス又タ宗教ナル者アリテ之カ機軸ヲ為シ深ク人心ニ浸潤シテ人心此ニ帰一セリ然ルニ我国ニ在テハ宗教ナル者其力微弱ニシテ一モ国家ノ機軸タルヘキモノナシ仏教ハ一タヒ隆盛ノ勢ヲ張リ上下ノ人心ヲ繋キタルモ今日ニ至テハ已ニ衰替ニ傾キタリ神道ハ祖宗ノ遺訓ニ基キ之ヲ祖述スト雖宗教トシテ人心ヲ帰向セシムルノ力ニ乏シ我国ニ在テ機軸トスヘキハ独リ皇室アルノミ是ヲ以テ此憲法草案ニ於テハ専ラ意ヲ此点ニ用ヰ君権ヲ尊重シテ成ルヘク之ヲ束縛セサランコトヲ勉メタリ・・・」と(アジア歴史資料センターのウェッブ・サイトにある「憲法草案枢密院会議筆記」第6コマ)。

 

3 皇位継承の根本義

 ところで,皇位継承の根本義とは何でしょうか。

 

  以上,皇位継承とは,位が主に非ずして(くらゐ)種子(たね)が主である。皇位(みくら)の中核とまします「皇天不二の御神霊」を当然継承し給ひ,此の人格者は即神格者として皇位にましますのである。「御人格(○○○)()()もの(○○)()()()にま(○○)します(○○○)()より(○○)自然(○○)()事実(○○)()変遷(○○)()応じ(○○)自然(○○)()()ながらに(○○○○)皇天二(○○○)()()御延長(○○○)たり(○○)()()」実を,発揮し給ふのである。位といふ有形・無形の座が外に在りて夫を占領し給ふ一種の作用を申すのではない。(筧克彦『大日本帝国憲法の根本義』(岩波書店・1936年)268269頁)

 

 「自然の事実の変遷に応じ」,「御神霊」の「当然継承」がされるのが皇位継承であって,皇嗣たる人格者による皇位の「占領」とは違うということになると,生前譲位は本来の皇位継承ではないということになりそうです。しかし,従来の生前譲位は無効ということになると,万世一系はどうなるのでしょうか。

 

 然しながら,是は第一段の根本につき申すこと故,第二段(○○○)第三段(○○○)()()ては(、、)()()いふ(、、)形式(、、)から(、、)()人格者(、、、)()制約(、、)する(、、)こと(、、)()()つて(、、)来る(、、)。史実としても,皇胤たり給ふ御方様の数多ましませし時には,皇胤ではあらせられても皇位を得給はざりし御方は,具体的には 皇祖の御本系を成就され給ふものといふことが出来ざりし次第であつた。皇胤中に於て御本系を明らかにするには神器(かむだから)の正当なる授受の事実によりて決すべき史実も在つたのである。(筧269頁)

 

「皇天不二の御神霊」の継承は,「神器の正当なる授受」によって生ずるものと考えてよいのでしょうか。

ところが,そうなると,現行の皇室典範4条から「祖宗ノ神器ヲ承ク」を削ってしまったのは早計だったものか。

 しかしながら,今上帝の即位に際しては「臨時閣議において,憲法7条10号,皇室典範4条,皇室経済法7条を根拠に,「剣璽等承継の儀」・・・が()天皇の国事行為と決定され」(昭和64年1月7日内閣告示第4号),1989年1月7日午前10時に行われています(平成元年1月11日宮内庁告示第1号)(佐藤247248頁)。憲法7条10号は「儀式を行ふこと」を天皇の国事行為としています。けれども,現行の皇室典範4条は,信仰にかかわるということから意図的に三種の神器に触れなかったのではないでしょうか。「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。」との皇室経済法7条の規定は,民法の相続に関する規定の例外規定にすぎなかったのではないでしょうか。「神器の正当なる授受」が皇位継承の要素であることは,憲法7条10号に包含された不文の憲法的規範であるということでしょうか。なお,「一定の準備期間を必要とする即位儀とは別に,天皇から皇太子への譲位が決定されると,すぐに剣璽などの宝器(レガリア)を皇太子=新天皇の居所に運んでしまい,それをもって一応の皇位継承が行われたとする「剣璽渡御」(践祚)の儀が成立」するのは「桓武朝以後」と考えられているそうですが(大隅71頁),そうだとすると,「剣璽等承継の儀」は本来的には生前譲位の場合における儀式として始まったということにもなるように思われます。
 ところで,明治天皇は,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚」するものと自ら明治皇室典範10条を裁定したのですが,早くも明治天皇から大正天皇への皇位の継承に当って齟齬が生じています。当時内務大臣であった原敬の記す明治最後の日・1912年7月29日の日記にいわく。
 「午後10時40分天皇陛下崩御あらせらる。実に維新後始めて遭遇したる事として種々に協議を要する事多かりしなり。/崩御は30日零時43分として発表することに宮中に於て御決定ありたり,践祚の御式挙行の時間なき為めならんかと拝察せり」(隅谷三喜男『日本の歴史22 大日本帝国の試煉』(中央公論社・1966年)456頁)
 明治天皇は,現実の崩御後なお2時間3分の間「在位」していることになっており,「死後譲位」がされたのでした。
 なるほど,明治皇室典範10条以来,皇位継承は,天皇自らの意思によってすることのできないことはもちろん,実は崩御によって直ちに生ずるものでもなく,決定的なのは儀式をつかさどる臣下らの都合なのでした。その後も明治天皇祭の祭祀が行われる日は,7月29日ではなく7月30日で一貫します。

柳原家墓
俊德院殿頴譽巍寂大居士正二位勲一等伯爵柳原前光(1894年9月2日死去・行年四十五歳)の眠る東京都目黒区中目黒の祐天寺にある柳原伯爵家の墓(隣には,大正天皇の生母である智孝院殿法譽妙愛日實大姉従一位勲一等柳原愛子の墓があります。)


弁護士 齊藤雅俊
大志わかば法律事務所
150‐0002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階
電話:03‐6868‐3194
電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp


弁護士ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

(前編からの続き)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1054087409.html

 

4 GHQ法務局とラジオ・コード的規定の採否

 

(1)第2回国会提出の放送法案とGHQのラジオ・コード

しかし,「日本側として何とかして復活実現させよう」と最終的には頑張ることになったにもかかわらず,第7回国会における内閣提出の放送法案においては現在の放送法4条1項(同法原始規定44条3項・53条)のような規定が当初は設けられていなかったのは,そもそもなぜだったのでしょうか。

実は,第2回国会に出した放送法案について194812月2日にGHQ法務局(LS)からされた罵倒が,逓信省(1949年6月1日から電気通信省電波庁)及びGHQ民間通信局のトラウマになっていたようです。

第2回国会に内閣が提出した放送法案には,次のような規定がありました(放送法制立法過程研究会164166頁,182183頁,189190頁参照)。

 

 (定義)

第2条 この法律においては,左の用語を各下記の意義に用いる。

  〔第1号から第8号まで略〕

 九 「一般放送局」とは,日本放送協会が施設した以外の放送局をいう。

  〔第10号及び第11号略〕

 十二 「放送番組」とは,公衆に直接提供する目的で行なわれる電気通信の内容をいう。

 

 (ニユース放送)

第4条 ニユース記事の放送については,左に掲げる原則に従わなければならない。

 一 厳格に真実を守ること。

 二 直接であると間接であるとにかかわらず,公安を害するものを含まないこと。

 三 事実に基き,且つ,完全に編集者の意見を含まないものであること。

 四 何等かの宣伝的意図に合うように着色されないこと。

 五 一部分を特に強調して何等かの宣伝的意図を強め,又は展開させないこと。

 六 一部の事実又は部分を省略することによつてゆがめられないこと。

 七 何等かの宣伝的意図を設け,又は展開するように,一の事項が不当に目立つような編集をしないこと。

2 時事評論,時事分析及び時事解説の放送についてもまた前項各号の原則に従わなければならない。〔参議院における修正案(194810月9日付け同議院通信委員会資料)では「時事分析及び時事解説の放送についても前号〔ママ〕の原則に従わなければならない。評論,演芸その他の放送であつて,その内容に明らかにニユース記事,時事分析及〔ママ〕時事解説を含むものも,また同様とする。」とされ(放送法制立法過程研究会200頁参照),全ての放送に適用があるものとされています。〕

3 〔放送法現行9条に相当する規定〕

 

 (放送番組の編集)

46条2項 〔日本放送〕協会は,放送番組の編集に当つては,左の各号の定めるところによらなければならない。

 一 公衆に対し,できるだけ完全に,世論の対象となつている事項を編集者の意見を加えないで放送すること。

 二 意見が対立している問題については,それぞれの意見を代表する者を通じて,あらゆる角度から論点を明らかにすること。

 三 成人教育及び学校教育の進展に寄与すること。

 四 音楽,文学及び娯楽等の分野において,常に最善の文化的な内容を保持すること。

 

 (政治的公平)

47条 協会の放送番組の編集は,政治的に公平でなければならない。

2 公選による公職の候補者に政見放送その他選挙運動に関する放送をさせたときは,その選挙における他の候補者に対しても申出により同一放送設備を使用し,同等な条件の時間において,同一時間数を与えなければならない。

 

 (免許の取消又は業務の停止)

68条1項 放送委員会は,免許人〔一般放送局(法案2条9号)の設置の免許を受けた者(法案58条1項)。なお,法案38条2項の規定では日本放送協会の設置する放送局に法案68条の準用はなし。〕が,左の各号の一に該当すると認めた場合には,当該免許を取り消し,又は1箇月以内の期間を定めて,業務の停止を命ずることができる。

 〔第1号略〕

 二 この法律又はこの法律に基く放送委員会規則に違反した場合

 〔第3号から第5号まで略〕

 

第2回国会の放送法案の第4条1項及び2項と同法案68条1項2号との関係は,現在の放送法4条1項と電波法76条1項との関係と極めてよく似ています。第2回国会の放送法案4条1項1号と放送法4条1項3号と, 及び第2回国会の放送法案4条1項2号と放送法4条1項1号とはいずれも対応関係がはっきりしています。放送法4条1項2号の「政治的に公平であること」が政治的「宣伝的意図」を排除すべきことを意味するのならば,同号は, 第2回国会の放送法案4条1項の4号,5号及び7号と対応することになります。

なお,1945年9月22日にGHQから我が国に下されたラジオ・コードと第2回国会の放送法案4条との承継関係は歴然としており,同法案4条1項各号及び第2項は,それぞれラジオ・コードの「一,報道番組」のAB及びFからJまでの各項並びにK項に対応し(なお,CからEまでの各項は聯合国批判及び進駐軍批判の禁止並びに聯合軍の動静の秘密保持に関するもの),参議院通信委員会の意図した第2回国会の放送法案4条2項の改正案も「劇,風刺物,脚色物,詩,寄席演劇,喜劇等ヲ含ム慰安番組ハ・・・報道放送ニ関スル第1項中ニ挙ゲラレタル諸要求ニ合致スベシ」とするラジオ・コードの「二,慰安番組」の規制に正に合致していました(放送法制立法過程研究会2324頁参照)。

 

(2)GHQ法務局の見解:ラジオ・コード的規定違憲論

このような第2回国会の放送法案に対するGHQ法務局の託宣(194812月2日)は,次のとおりでした(放送法制立法過程研究会207208頁,212213頁参照)。

 

・・・

二,第4条

 A この条文には,強く反対する。何故ならば,それは憲法第21条に規定せられている「表現の自由の保証〔ママ〕」と全く相容れないからである。現在書かれているまの第4条を適用するとすれば絶えずこの条文に違反しないで放送局を運用することは不可能であろう。反対の側から言えば,政府にその意志があれば,あらゆる種類の報道の真実〔realistic reporting〕あるいは,批評を抑えることに,この条文を利用することができるであろう。この条文は,戦前の警察国家〔former police state〕のもつていた思想統制機構〔thought control devices〕を再現し,放送を権力〔forces in power〕の宣伝機関〔propaganda vehicle〕としてしまう恐れがある。――これは,この立法の目的としているところは〔ママ〕,正反対である。放送が現在日本において,公の報道〔public information〕,教育機関として最も重要な手段〔most important means of communication〕であることを考えれば,上記の如き方向への発展(への可能性)の危険性は,如何に声を大にしても過ぎるということはない。

   例えば,第2項は,ニユース評論(News Comentary (sic))は,厳密に真実であり,編集者の意見を含まず,「着色」していないことを要求している。しかし「評論」とは,定義によれば「個人の意見」の発表であり,「報道上及び教育上の価値判断」の顕現である。条文にあるような制限の下に「評論」が不可能であること〔deprive … of their informative and educational values〕は,自明の理であろう。政治の面を離れても「制限」を実行することはむづかしい〔not workable〕。例えば,台風その他全国的天災等も第2項〔ママ〕第2号によつて報道するわけにはゆかなくなる。何故ならば,その報道は,公安を害する〔disturb public tranquility〕かもしれないからである。

 B この条文を,弁護するものは,それが1945年9月19SCAPIN33号〔ラジオ・コードの3日前に出されたプレス・コード「日本新聞規則ニ関スル覚書」〕に基いているというかもしれない。然し,SCAPINの内容と国内法とは,相違がなくてはならない。このSCAPIN33号は純然たる国内事件を規律しようとしたものではない。それは「占領に」関係あることのみを目的としている。このSCAPINは意見の制限や抑圧に用いられたことがないのみならず〔has this SCAPIN never been used for restriction or suppression of opinion〕,国内事件に関しては,それは1945年9月第660号及び1946年第99SCAPINによつて置きかえられている。

 C 言論の自由抑圧を一掃するため〔because of the sweeping prohibition of freedom of speechLSはこの第4条の全文削除を勧告する。何故なら放送の本来の目的は,「不偏不党」をも含めて第3章〔日本放送協会の章〕第46条,第47条で尽されているからである〔in as much as the reasonable objectives of broadcasting, including impartiality, are covered by the standards expressed in Chapter III, Articles 46 and 47〕。

  ・・・

 

 逓信省及びGHQ民間通信局の事務方としては,参りました,といったところだったのでしょう。「適切な意見と思はれるのでこれを取入れることとした」と伝えられています(荘=松田=村井37頁)。

  しかし,第2回国会の放送法案4条1項及び2項には, 「編集の詐術」等を防止するための真面目かつ立派でごもっともなことばかり書いてあるのですが,意外にもそれらを非難するGHQ法務局の前記意見をどう読むべきでしょうか。もしかしたら,「ごもっとも」なことばかり言う「真面目」かつ「立派」な人々こそが実は,言論の自由を扼殺して警察国家を招来する最も恐るべき危険な人々だということなのでしょうか。なかなか米国人の言うことは,我々善良かつ真面目な日本人にとっては難しいところです。

 また,LS意見のC項の意味するところは正確には何でしょうか。第2回国会の放送法案46条2項及び47条に書かれてある程度の番組準則であれば,日本放送協会のみならず一般的にも許されるということでしょうか。しかし,GHQ法務局は,番組準則については直接語らず,放送に係る妥当な目的(the reasonable objectives of broadcasting)が日本放送協会について定める上記法案の46条及び47条において準則(standards)の形で書かれてあるんだから,同法案4条までは不要であると言っているようです。日本における放送の目的が問題であり,それについては真面目な日本放送協会が果たすのであるから,他の「一般放送事業者」については気にしなくともよい,ということのように解釈され得ます。「一般放送事業者」の放送番組の編集に係る条項を設けなかったところからすると,第7回国会に放送法案を提出するに当たって,我が国政府はそのように理解していたように思われます。
 (なお,B項に出てくるプレス・コードについては,メリーランド大学プランゲ文書に保存されているものとしてインターネット上で紹介されている1945年9月21日版があり,それには前文が付いていて,当該前文によれば,プレス・コードは「日本に出版の自由を確立するため」発令されたものとされ,「出版を制限するもので無く,寧ろ日本の出版機関を教育し,出版の自由の責任と,重要性とを示さうとするものである(This PRESS CODE, rather than being one of restrictions of the press, is one which is designed to educate the press of the Japanese in the responsibilities and meaning of a free press.)。従って報道の真実性と宣伝の排除といふことに重点を置いてゐる(Emphasis is placed on the truth of news and the elimination of propaganda.)」ものであるとされていました。プランゲ文庫版の日本語訳は,日本の新聞記者諸賢の自尊心をおもんぱかった言葉づかいになっています。直訳調だと,「このプレス・コードは,取締り云々以前に,日本原住民連中の「報道機関」に,自由なプレスに伴う責任及びそもそも自由なプレスの何たるかを教育してやるために作成されたものなんだよ。うそニュースはいかんし,どこかの宣伝ばかりするようになってはいかんということを分からせてやろうってものなんだよ。」とも訳せそうな気がします。)
 

5 高塩修正のGHQ通過並びにGHQ説得の技術及びその副産物

 

(1)目糞鼻糞,袈裟の下の鎧等

 しかし,我が国においては,「一般放送事業者」だから「不真面目」でよい,ということにはなりません。やはり,せいぜい「おもしろまじめ」であって,飽くまでも真面目でなければ許されないのです。日本放送協会及び「一般放送事業者」を通じて適用されるべき番組準則は,やはり必要だったのです。

番組準則を導入する高塩修正に向けて,中村純一衆議院電気通信委員以下日本側は,どのようにGHQ民政局を説得したのか。

やはり,目糞鼻糞論というべきか(余り上品な比喩ではないですが。),GHQのラジオ・コードは御立派なものであったので今後とも当該御指導に引き続きあやかりたい,という方向からの口説きがあったようです。

 

塩野〔宏〕 放送法〔原始規定〕第44条第3項が〔1950年4月7日の〕衆議院修正で四原則をもって規律することとされたのですが,こういった文句もFCC〔米国の連邦通信委員会〕のレギュレーションを参考にしたのですか。

野村〔義男〕 これは,大体司令部〔GHQ〕から日本側に出たラジオ・コードあるいはプレス・コードをここへ入れたわけです。だから通ったので,日本側の発案で持って行ったらおそらく通らなかったでしょうね。・・・

  (1978年3月11日に東京・内幸町の飯野ビル(改築前)のレストラン・キャッスルでされた座談会から。放送法制立法過程研究会564頁)

 

自らが散々活用したラジオ・コードの例を出されてしまうとGHQもなかなか強い姿勢を続けられなかったようです(なお,前記GHQのGS文書に係るBox No.2205の26‐27コマ目にある1950年3月30日付け民政局宛て民間情報教育局(CIE)の照会回答文書では,「聯合国最高司令官のラジオ・コードの規定を採用することによって,修正案は,原案のいくつかの重要な点(several important details)を失うことになっている。協会は今や「公衆に関係がある事項について報道すること(inform listeners of all public issues)」を義務付けられないし,事実をまげてはならないとの制約が適用される範囲も「ニュース」のみに狭められている。これは,他の番組においては事実をまげてよいことを含意するものである。」と述べられています。)。それでも,袈裟衣の下の鎧たる電波法76条1項の修正案は,やはり見とがめられたのかもしれません(ただし,主役の民政局及び民間通信局はともかく民間情報教育局は,上記Box No.2205の33コマ目の1950年3月30日付け民政局宛て照会回答文書で「民間情報教育局は,このような性格の技術的立法には直接関係しないものであるが,〔電波法案に係る〕当該修正案に対する反対は無いところである。」と述べています。)。以下は想像になりますが,そこで日本側としてはGHQ法務局の以前の見解の手前もあり(そこでは,GHQのプレス・コードといえども占領目的に関するものはともかくも純粋の日本の内国事項に係る意見の制限又は抑圧にまでは用いられたことはないとの主張もされ