カテゴリ: 憲法

1 日本国内閣総理大臣の中南米的指導者化傾向

 

   岸田文雄首相は〔20246月〕21日に〔内閣総理大臣〕官邸で記者会見を開き,物価高対策として,〔同年〕5月使用分を最後に終了した電気・ガス料金の負担軽減策を「8月からの3カ月間行う」と述べ,補助を再開する方針を明らかにした。ガソリンや灯油など燃料価格の抑制策は年内に限り継続する。今年秋に経済対策の策定を目指すとした上で,年金世帯や低所得者を対象に給付金を支給することを検討する考えも示した。

   内閣支持率が低迷する中,物価高に直面する家計負担の軽減策を追加し,政権浮揚につなげる思惑もありそうだ。ただ国の財政負担はさらに膨らむ恐れがあり,政策の一貫性を欠く迷走ぶりも浮かぶ。〔後略〕

  (2024621228分共同通信配信記事・東京新聞ウェブサイトから。下線は筆者によるもの)

 

 「日本も中南米(ラテン・アメリカ)化しつつあるなぁ」とは筆者の感慨です。

口に苦い良薬の・真の構造的問題に対する厳しい取組からは目をそむけ,一見分かりやすく,かつ,人気につながりそうな甘く安易な目先のばら撒き施策に走って国家財政を破綻させ,やがて民心は腐敗し,国内は混乱し,若者は米国に向け脱出し,せっかくの国家的・国民的な潜在力が無慙にも無駄になってしまう,との道筋を思わず知らず描いてしまうのは,筆者の偏見でしょう。――無論,現在の日本国は既に高度に老化していますから,混乱といっても,若い男性の群れが暴れ回るといったギラギラと暑苦しいものではなく,黄昏の中,もはや福祉の手が回らなくなっていかんともしがたくなった無残な姿の認知症老人がおぼつかない足取りでふらふらと大量に,かつ,あまねく徘徊するといった形で顕在化されるのでしょうし,また,「せっかくの潜在力」というほどの精神的・肉体的(ポテンシャル)ももう我が衰廃民族には残されてはいないのでしょうが・・・。(なお,多くの日本人には米国の食事🍔は舌に合わないようで,“America, or bust”的な米国移住に向けた憧れは,我が国においては依然として大きくはないように観察されます。)

というような思いを触発させる,日本国の内閣総理大臣の中南米的指導者化傾向という事態に直面するとき,不図,四半世紀前の内閣総理大臣官邸において生じた,次のような印象深い親和力(ケミス)()作用(リー)が想起されるのでした。

 

2 小渕総理とチャベス大統領と

 

(1)小渕総理の羨望

 

   大統領の球は5倍速い/ベネズエラ大統領と小渕首相が野球談議

   小渕〔恵三〕首相は〔199910月〕13日,首相官邸で,ベネズエラのチャベス大統領と会談し,経済協力などについて意見交換した〔https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1079833/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/99_1001/1001_13b.html〕。引き続いて行われた首相主催の昼食会には,ベネズエラ出身で日本のプロ野球で活躍中のペタジーニ選手(ヤクルト)も出席し,両首脳は野球談議に花を咲かせた。

   45歳のチャベス大統領は大の野球好きで,少年時代の夢は「米大リーグで投げること」。2月には大リーグのホームランバッター,サミー・ソーサ選手に真剣勝負を挑んだという。歓迎のあいさつで首相が「私も5月に訪米した際,(始球式で)ソーサ選手に投げ込んだが〔https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1079833/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/99_0501/0501.html〕,大統領の球は私の5倍は速いと思う」とエールを送ると,大統領は「そんなに速くはない」と苦笑い。〔後略〕

  (読売新聞19991014144面)

 

和気藹々です

バリナス州の貧しい教師の家に6人兄弟の一人として生まれたチャベス大統領は,「地方の無名の子として生まれたが,一般ベネズエラ人から感情移入され得る無比の能力を有し,かつ,巧妙な策をも多々弄するところの,天性の演技者(パフォーマー)交感(コミュニ)能力者(ケイター)として頭角を現した。(Born in provincial obscurity, he proved to be a natural performer and communicator, with an unmatched ability to empathise with ordinary Venezuelans, combined with plenty of cunning.)」ということですから(“Hugo Chávez’s rotten legacy”, The Economist, March 9th, 2013),小渕総理もその魅力に抗うことができなかったものでしょう。メキシコの左翼作家であるカルロス・フエンテスは,チャベス大統領を「熱帯のムッソリーニ」と呼んでいたそうです(“Venezuela after Chávez / Now for the reckoning”, The Economist, March 9th, 2013)。また,コロンビアのノーベル賞作家であるガブリエル・ガルシア・マルケスは,ベネズエラ大統領に当選後のチャベス次期大統領について,「他と同様の専制者として歴史書に残ることになるのであろう幻想家」であるキューバのフィデル・カストロとの対比において,「運命の気まぐれにより,その国を救う機会を与えられた者」との印象を記していました(Michael Shifter, “In Search of Hugo Chávez”, Foreign Affairs, May/June 2006: p.45)。

 

   小渕首相の一日 〔199910月〕13 「小渕恵三も20年ぐらい若ければなあ」

   〔前略〕

   156分,チャベス大統領との会談の感想を聞かれ,「若い大統領のはつらつとした意欲を感じました。小渕恵三も二十年ぐらい若ければなあ・・・。あちらは45歳ですからね」

   〔後略〕

  (読売新聞19991014144面)

 

   首相日々

   〔前略〕

   (記者団の「会談を終えた感想は」に「若い大統領ですから,新ベネズエラをつくろうという熱心さを感じました。はつらつとした意欲を感じました。小渕恵三も20年ぐらい若ければなあ・・・。あちらは45歳ですからね。」)

   〔後略〕

  (毎日新聞19991014142面)

 

小渕総理の一日19991013日・内閣総理大臣官邸ホームページ)

https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1079833/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/1999_10_calender/10_13.html

 

(2)小渕総理の年齢及び死

1937625日生まれの小渕総理は,19991013日には,623箇月と19という年齢でした(明治35年法律第50号(年齢計算に関する法律)の第1項によって出生の日から起算し,同法2項により,暦に従って年及び月を数えた上(民法(明治29年法律第89号)143条),日数については最終日を含めて計算しています。以下同様です。なお,余計なことながら,明治35年法律第50号の第3項によって廃止された明治6年太政官布告第36号は「自今年齢ヲ計算候儀幾年幾月ト可相数(あひかぞふべき)事/但旧暦中ノ儀ハ1干支ヲ以テ1年トシ其生年ノ月数ハ本年ノ月数ト通算シ12ヶ月ヲ以テ1年ト可致(いたすべき)事」と規定していたものです。新旧の暦(明治6年(1873年)11日から新暦採用)の間の通算方法に苦心している様子が窺われます。)。頽齢をかこつにはまだ早かったようにも思われますが,その翌年の20004月に脳梗塞で倒れ同月2日に入院し,同年514日に6210箇月と20で死去しています。199910月には,既に何らかの体調不良を覚えていたのでしょう。また,小渕総理は1999年(平成11年)1112日に挙行された天皇陛下御在位十年記念式典の式典委員長を務めており(https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1079833/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/99_1101/1101_12.html),当該式典の一部参列者間においては「実は小渕(ぶっ)総理()も,絶対,在職十年超えを狙っているよな」という口さがないささやきがありましたが,小渕内閣の存続期間は結局,1998730日から200045日までの18箇月と6日ということで終わりました(初日不算入とし(民法140条),後継の第1次森内閣が成立した日を含めて計算。小渕内閣の総辞職は200044日)

なお,1957729日生まれの岸田総理は,2024621日には既に6610箇月と24日でありました。

 

(3)チャベス大統領の年齢及び死

ところで,その若さを小渕総理に羨ましがられたベネズエラのウゴ・チャベス大統領ですが1954728日生まれなので,19991013日には452箇月と16日。同年22日に446箇月と6日で大統領に就任していました。),在職十年は悠々突破したものの(「チャベス氏は,圧倒的であるものから余裕があるものまでの差をつけて四つの選挙に勝利し,6回行われた国民(レファレ)投票(ンダムズ)のうちわずか1回失敗しただけだった。」とのことです(“Hugo Chávez’s rotten legacy”, The Economist)。ただし,20024月の首都騒乱の際には,一時大統領職を辞しています。),しかし面会時の小渕総理の年齢まで生きることはできませんでした。癌を患い2011年に公表)201335日,ベネズエラ・ボリバル共和国大統領在任のまま,587箇月と6日で死亡しています。

 

  チャベス氏の死は,何百万ものベネズエラ人によって悼まれた。彼らにとって彼は,天恵により増大した石油収入をばら撒いてくれる(handing out)とともに,「帝国」(またも米国)及び「寡頭勢力」(すなわち富裕層)に対して挑戦的な言辞を浴びせかける,一種のロビン・フッドであったのである。

 (“Venezuela after Chávez”, The Economist

 

3 ベネズエラの経済政策(ボリバル革命)と我が経済政策(失われた三十年)と

 2000年から2012年までのベネズエラの石油輸出による総収入は,2000年以降は産出量が減少していたにもかかわらず,実質額においてその前13年間のそれの2倍半以上になっていたそうです(“Venezuela after Chávez”, The Economist)。これに対して我が国は石油産出国ではないので,ばら撒こうと思えば国債を発行することになりますが,財務省資料によれば,2000年度末の普通国債残高が3675547億円であったのに対し,2012年度末のそれは7050072億円と2倍近くになっています。2024年度末には1105兆円になる見込みであるそうです。橋本内閣期の1997年度の国債発行額は498900億円(借換債の314320億円を除くいわゆる新規国債は184580億円)でしたが,小渕内閣期の1999年度には775979億円(借換債の400844億円を除くいわゆる新規国債は375136億円)になっています。既に小渕総理は当時,世界一の借金王となってしまった,とぼやいていたところです。したがって,自身の政策の安易な前例化は受け付け得なかったものでしょう。ちなみに,2024年度の国債発行予定額は1819956億円(そのうちいわゆる新規国債は354490億円)であるそうです。嗚呼,失われた三十年。

 岸田総理は経済対策及び給付金支給を現在計画しているわけですが,これらは,早稲田大学の先輩である小渕総理的な施策というべきものでしょう(https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1079833/www.kantei.go.jp/jp/obutisouri/obuchiyear/obuchi_oneyear_02.html)。19981116日に小渕内閣は「過去最大」の経済対策を決定し,更に1999129日には,全国で対象者約三千五百万人,一人当たり2万円の地域振興券の交付が始まっています(https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1079833/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/99_0216/02202.html)。(なお,公明党と自由民主党との連立は,小渕政権下の199910月以来のことです。)

 ばら撒きのほかにチャベス大統領がしたベネズエラ人民喜ばせ策は,盟邦のキューバ政府肝煎りの「ミッションズ(missions)」であって,「実質的に無料の石油との引換えに,キューバは,何千人もの医師及びスポーツ指導者(トレイナーズ)をベネズエラに派遣した。とのことです(“Venezuela after Chávez”, The Economist)。無論,我ら病弱な日本の老国民も,医療及び福祉並びにスポーツ(観戦)は大好きです。来月(20247月)にはパリでオリンピックが開催されますところ,毎度のことながら,がんばれニッポン!

 しかしながら,「広報(プロパ)宣伝(ガンダ)の背後において,ボリバル革命は,腐敗し,不手際に運営された事業であった」ところです。「経済は,石油と輸入品にますます依存するようになった。農場の国有化は農業生産を減少させた。物価及び外国為替の管理は執拗なインフレーション及び生活必需品の不足を防止することができなかった。インフラストラクチャーは崩壊し,もう何年も,国の大部分において,頻繁な停電を忍ばねばならないことになっている。病院は腐敗し,「ミッションズ」すら,その多くが停頓した。犯罪は増加し,カラカスは世界で最も暴力的な首都の一つである。治安部隊の一部よる関与の下,ベネズエラは薬物取引の一経路となっているとのことでした“Venezuela after Chávez”, The Economist)。大統領官邸のチャベス大統領専用エレベータも水漏れがするようになっていたそうです(“Goodbye, Presidente”, The Economist, March 9th, 2013)。当局の無能・脆弱,製造業の空洞化,国家の保護下にある農業の不振,物価高及び通貨安,電力供給等に係る不安,医療不信並びに薬物事犯その他の犯罪の増加・・・と並べてみると,身につまされますね。ただし,「チャベス氏のなした至高の政治的達成は,多くの普通のベネズエラ人はばら撒きをもってチャベス氏を評価し,諸々の不手際について彼を非難することはしなかったということである。彼らは彼を彼らの一員,彼らの側に立つ者とみなしていた。彼の支持者ら,なかんずく女性たちは,言ったものである。「この人は,貧しい人々を助けるために神から遣わされたのです。」と。」ということでありました(ibidem)。我が国においても,政府からの給付金等を期待し歓迎する人々の層が厚みを増しているように感じられます。また,岸田総理も,女性におもてになるのでしょう。

ところで,主権者たる国民についてですが,「14年間,ベネズエラ人らは,彼らの問題はだれか別の者――米国又は「寡頭勢力」――によって生ぜしめられたものであると告げられ続けてきた。生活の向上は,能力(メリット)ではなく,政治的忠誠のいかんによった。主に広報(プロパ)宣伝(ガンダ)を教え込むものであるところの「大学」に何百万人もの者を大規模在籍させことは,実らないことがほぼ確実な期待のみを高めた。」とは(“Venezuela after Chávez”, The Economist),微妙な意地の悪さが感じられる口吻です。とはいえ無論,普通の人々が悪い(自己責任を負う)ということは全くあり得ない一方,能力を鼻にかけた鼻持ちならないThe Economistの読者的なエリートは粉砕されるべく,大学の無償化は異論の余地なく素晴らしいことであります。

 

4 蛇足🐍👣

 以上,いずれも在職中に病に倒れた小渕総理とチャベス大統領とに関して雑文を草したところですが,ここでかねてから筆者にとって気になっていた点に関して蛇足を付しておきましょう。

 

(1)受任者による事務処理の不能と委任契約の存否と

 小渕内閣の総辞職は,内閣総理大臣が脳梗塞で倒れて再起不能となったことをもって日本国憲法70条の「内閣総理大臣が欠けたとき」(英語文では,“when there is a vacancy in the post of Prime Minister”)に該当するものとする,という解釈の下に行われたわけですが,民法上の委任との比較でいえば,受任者が意思能力を喪失したときには直ちに当該受任者が「欠けたとき」となって委任契約が終了することにはならないもののように一応解されます。民法653条は,委任の終了事由として「委任者又は受任者の死亡」(第1号),「委任者又は受任者が破産手続開始の決定を受けたこと」(第2号)及び「受任者が後見開始の審判を受けたこと」(第3号)を挙げておりますところ,同条3号によれば,受任者が「精神上の障害により事理を弁識する能力を欠」いただけでは委任は終了せず,更に家庭裁判所による後見開始の審判が必要であることになるようではあるところです(同法7条参照。なお「精神上の障害により」とはくどい表現であるようですが,これは,刑事禁治産(旧民法人事編(明治23年法律第98号)236条及び237条,旧刑法(明治13年太政官布告第36号)旧103号並びに旧35条及び旧36条並びに民法施行法(明治31年法律第11号)14条から16条まで参照)との関係によるものであって,刑事禁治産ではないこと明らかにするための表現でしょう(梅謙次郎『訂正増補民法要義巻之一 総則編』(法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1911年(第33版))23-24頁参照)。)。このことは,「精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く常況にある者」も,意思能力を回復することが時々あり得るからでしょう。

しかして,「委任は,契約に共通な終了原因,例えば,〔略〕委任事務の履行不能〔略〕などによつて終了する」とされています(我妻榮『債権各論中巻二(民法講義Ⅴ₃)』(岩波書店・1962年)688頁。また,星野英一『民法概論Ⅳ(契約)』(良書普及会・1994年)290頁)。これについては,意識を不可逆的に全く失っていれば,法律行為の外観のある行為すら行うことができず,正に完全に委任事務の履行不能となるものと解してよいのでしょう。報酬支払特約(民法648条)のある双務契約たる委任契約における危険負担について考えてみても,平成29年法律第44号による改正前の民法5361項(「〔略〕当事者双方の責めに帰することができない事由によって債務を履行することができなくなったときは,債務者は,反対給付を受ける権利を有しない。」)においては,当事者双方の責めに帰することのできない事由によって受任者の事務処理が不能になった場合は反対給付たる報酬を受ける権利を当該受任者は失い,すなわち委任者も債務を免れ,当該委任契約は債権発生原因として結局無意味なものであることに帰することになりますから,委任契約終了ということでよいのでしょう。

しかしながら,平成29年法律第44号による改正以後の民法5361項は「当事者双方の責めに帰することができない事由によって債務を履行することができなくなったときは,債務者は,反対給付の履行を拒むことができる。」と規定して,事務処理をすることが不能になった受任者であっても名目的にはなお報酬請求権を有し,委任者はその支払を拒むことができるだけ,ということになるようです。すなわち,委任契約はなお生きており,その終了のためには解除が必要となるわけです。ところが,契約の解除は相手方に対する意思表示でされるものであるところ(民法5401項),意思能力のない相手方に対する意思表示は当該相手方に対して対抗できないものとされています(同法98条の2本文)。(なお,「対抗することができない」とは,無効の主張は当該相手方にのみ許されるという趣旨です(梅250頁)。)そうであるとすれば,やはり家庭裁判所の手を煩わして,意思能力を失った受任者のために成年後見人を付さねばならないことになるようです(民法98条の21号及び859条)。何だか面倒なことになっています。

ちなみに,現行の民法5361項に関して「債権者は,債務者に帰責事由がない場合には,危険負担制度に基づき当然に反対給付債権の履行を拒むことができる上,契約の解除をすることにより,反対給付債務を確定的に消滅させることもできることになる。」と説かれていますが(筒井健夫=村松秀樹編著『一問一答 民法(債権関係)改正』(商事法務・2018年)228頁),解除に遡及効のない委任契約の場合(民法652条及び620条),既発生の報酬支払債務は,履行拒絶権と共に気持ち悪く残ってしまうことになるのでしょう。消滅時効の適用も,受任者はそもそも当該債権を行使できないのですから無理であるように思われます(民法1661項及び破産免責決定の効力を受ける債権に係る最判平成11119日民集5381403頁参照)。

 

(2)米国憲法修正254節など

 小渕総理の不可逆的執務不能は,小渕内閣の他の閣僚の一致した見解によって認定され,「内閣総理大臣が欠けた」として国会法(昭和22年法律第79号)64条に基づき同内閣から両議院に通知されたということになるのでしょう。

これに対して,米国憲法の修正254節(ウッドロー・ウィルソン大統領が191910月に脳内出血のため執務不能に陥ったところ,その後17箇月間同大統領夫人が大統領職を代行していたという不祥事例に対応するものです(飛田茂雄『アメリカ合衆国憲法を英文で読む』(中公新書・1998年)237頁参照)。)1項は,米国大統領の執務不能は,副大統領と,行政部諸長官又は議会が法律で設けることある機関の構成員の過半数との意見の一致によって決定され,その旨書面で元老院(上院)臨時議長(註:同院の議長職は,副大統領が務めます。)及び代議院(下院)議長に通知された上で副大統領が大統領心得(Acting President)として執務を開始するということになっています(副大統領が大統領になるのは大統領が解任され,又は死亡し,若しくは辞職した場合であって(同条1節),意識不明であっても大統領が生きている限りは,飽くまでも大統領心得です。)。日本国政府の閣議は全会一致が原則である分,米国政府における大統領の執務不能認定よりも手続が厳重であることになるのでしょう。

米国憲法修正2542項は,副大統領と行政部諸長官又は議会が法律で設けることある機関の構成員の過半数とによる上記執務不能の通知に対抗して大統領が執務不能の不存在を元老院臨時議長及び代議院議長に書面で通知した場合についてのもので,副大統領と行政部諸長官又は議会が法律で設けることある機関の構成員の過半数とがなおも大統領に係る執務不能の認定を維持するときには,最終的に議会が裁定することになる旨の規定です(21日以内に両議院がいずれも3分の2以上の多数で大統領の執務不能を認定すれば副大統領による大統領職の代行は継続,それ以外の場合は大統領による執務が再開)。日本国においては,内閣総理大臣以外の閣僚の全員一致による判断を一応受け容れた上で,内閣総理大臣はなおも執務可能であると国会(衆議院)が自ら判断すれば,再び同人を内閣総理大臣に指名すればよいということになるのでしょう(日本国憲法67条)。

 余計なことながら,高齢のバイデン大統領は,お元気でしょうか。

 

(3)内閣総理大臣の辞職と任命者(天皇)との関係

 内閣総理大臣は天皇によって任命されるところ(日本国憲法61項),内閣総理大臣が辞職するときには,その辞表が天皇に奉呈されるべきものかどうか。

大日本帝国憲法下では,国務大臣を免ずることも天皇の大権事項でありました。すなわち,大日本帝国憲法10条は「天皇ハ〔略〕文武官ヲ任免ス〔後略〕」と規定していたところ,「国務大臣の任免は,憲法上,天皇の大権事項に属する。従つて内閣総理大臣の罷免――内閣の退陣は,一に聖旨に存する。例へば内閣総理大臣が,闕下に伏して骸骨を乞ひ奉るが如き場合に於ても,其の之を聴許し給ふと否とは,全く天皇の御自由である。また仮令内閣総理大臣の側に於て,進んで骸骨を乞ひ奉るが如きことなしとするも,天皇に於て之を免じ給ふことも亦全く御自由である。即ち〔略〕,内閣存続の基礎は,専ら至尊の信任に存するのである。」ということでありました(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)326頁)。このことに関する公務員法理論的な説明は次のとおりでしょう。いわく,「公務員関係の特色としては,辞職の意思表示ではなく,辞職願いを任命権者が承認することによって,始めて関係が消滅することがある。この点は,法律のレベルでは必ずしも明確ではないが,人事院規則はこのことを前提として,書面による辞職の申出があったときは,特に支障のない限り,これを承認するものとするとしている(人規8-1273条〔現在は第51条に「任命権者は,職員から書面をもって辞職の申出があったときは,特に支障のない限り,これを承認するものとする。」と規定。〕。地方公務員法には特段の規定がない)。この点は行政法関係において,行政行為によって成立した関係の消滅も行政行為(行政法一般理論における行政行為の撤回)によるという一般的了解の公務員関係への適用とも考えられるが,公務の突発的停廃を防止するのがその趣旨であろう。」と(塩野宏『行政法』(有斐閣・1995年)208頁)。

以上の公法的規整に対して,私法における民法651条による受任者による委任契約の解除は,同法5401項に基づき委任者に対する意思表示によりされ,同法971項によって委任者に到達した時に効力を生ずることになります。なお,民法655条は,解除の場合には適用がありません(我妻699頁。ドイツ民法674条は„Erlischt der Auftrag in anderer Weise als durch Widerruf, so gilt er zugunsten des Beauftragten gleichwohl als fortbestehend, bis der Beauftragte vom dem Erlӧschen Kenntnis erlangt oder das Erlӧschen kennen muss.“と規定しています(イタリック体は筆者によるもの)。)。解除の時期の不都合(事務処理の「突然の停廃」)によって生じた問題は,金銭賠償をもって清算されることになります(民法65121号)。

 ところで,日本国憲法下での内閣総辞職の手続については,実は当初は,内閣総理大臣から天皇に対する辞表の奉呈がface-to-faceでされていました。

 

  〔19475月〕20日 火曜日 第1回国会特別会召集日につき,午前10時より表拝謁の間において内閣総理大臣吉田茂の拝謁を受けられ,日本国憲法第70条中の「衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは,内閣は,総辞職をしなければならない」の規定に基づき,辞表の奉呈を受けられる。〔以下略〕

  (宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)330頁)

 

  〔19482月〕10日 火曜日 正午前より表拝謁の間において内閣総理大臣片山哲の拝謁を受けられ,奏上並びに内閣総理大臣の辞表の奉呈を受けられる。〔後略〕

  (宮内庁615頁)

 

これが,19483月の芦田均内閣成立の際,以後改められるということになりました。

 

  〔19483月〕10日 水曜日 午後,表拝謁の間において,法務総裁鈴木義男の拝謁を受けられ,片山内閣の総辞職及び芦田内閣の成立について法律面からの説明をお聞きになる。これより先,鈴木は「内閣総辞職の際の手続並慣行について」と題する意見書を閣議に提出し,去る2日閣議了解となる。同意見書によれば,日本国憲法上の天皇の地位に鑑み,辞意を表明した首相の参内・拝謁等は行うべきではなく,今後天皇に対する儀礼上の慣行として,新首相の親任式及び閣僚の認証官任命式の式前或いは式後に,適宜御挨拶を申し上げることが適当とされた。〔略〕

  午後,表拝謁の間において,内閣総理大臣片山哲より内閣の総辞職及び新内閣の成立についての内奏をお聞きになり,ついで午後230分,同所に出御され,内閣総理大臣芦田均の親任式を行われる。〔略〕

  表拝謁の間において,内閣総理大臣芦田均より新内閣の認証官任命についての内奏をお聞きになる。なお,内奏の後,芦田より共産党への対策や宮内府に対する連合国最高司令部の意見についてお聞きになる。ついで午後3時より同所において,国務大臣西尾末広以下15名の認証官任命式に臨まれる。〔中略〕なお,内閣総理大臣から官記を受領した各任官者に対し,この度よりそれぞれお言葉を賜うこととされる。〔略〕

  (宮内庁623-624頁)

 

 上記鈴木法務総裁の「内閣総辞職の際の手続並慣行について」意見書の由来は,「昭和23年〔1948年〕31日,「内閣総辞職の際辞意表明の相手方退任の手続等に関し実際上ならびに法律上疑義あるやにつき」ということで,法務総裁から内閣総理大臣あて次に述べるような意見(抄)が提出されたことがある。そして,その後における内閣の総辞職はこの意見を参考に行われるようになり,現在では,このような内閣総辞職の慣行は確立されているといえよう。」ということであるそうです(内閣制度百年史編纂委員会編集『内閣制度百年史 上巻』(大蔵省印刷局・1985年)132-133頁)。

 鈴木意見書の内容(抄)は,次のとおり。

 

  一 実際上の手続

(一)内閣が総辞職を決定したときは(閣議決定後)その旨文書をもつて衆参両院議長に通告すること。

  (二)内閣総理大臣および各国務大臣の文書による辞表の提出はこれをなす必要のないものと解する。

  (三)従つて新憲法上の天皇の地位にかんがみ誤解を生ずる虞あるをもつて辞意を表明した首相の参内拝謁等はその際は行わざるを適当と信ずる。

  (四)今後の政治上の慣行としては以下の如く取運ぶべきであろう。(1)総辞職の決定(2)国会への通告 (3)国会における後継内閣総理大臣の指名 (4)組閣完了 (5)組閣完了を国会および辞意を表明したる内閣総理大臣に通告 (6)閣議開催,新総理任命の助言と承認決定 (7)宮中の都合を打合せ旧新両首相ならびに新国務大臣参内,任命式ならびに認証式執行 (8)右式を終れば辞令等を用いずして前首相ならびに旧閣僚は当然退任となる(註,留任する大臣も一旦退任し新内閣の閣員として新に任命認証を受けるのである) (9)新内閣の成立を正式に国会へ通告。

(五)天皇に対する儀礼上の慣行としては右任命式に参内の節式前または式後において御挨拶申上ぐることとするのが適当であろう。退任した国務大臣はその後個別的に参内記帳等適当に御挨拶申上ぐること。(ただしこれは勿論各前大臣の任意である)

  二 法的根拠

    憲法の解釈として内閣総辞職の際退任する内閣総理大臣および各国務大臣に対し免官の式等を行わずまた特に辞令等を用うる必要のない理由はおおむね次の如くである。

     内閣の総辞職は,内閣から国会に対し総辞職する旨を通告してなされる内閣自体の一方的行為であり,その結果として内閣総理大臣および各大臣は当然に退任するのであつて,内閣総理大臣に対する免官の辞令その他各大臣の単独の退任の場合の如く各国務大臣より内閣総理大臣に対する辞表の提出,各大臣に対する免官の辞令,天皇の認証等特段の手続を必要としない。

    (内閣制度百年史編纂委員会133-134頁)

 

一(一)は,国会法64条の「内閣は,内閣総理大臣が〔略〕辞表を提出したときは,直ちにその旨を両議院に通知しなくてはならない。」との規定に対応するものでしょう。同条の「辞表の提出」は,本来は内閣総理大臣から天皇への「辞表の提出」を意味するものと解されていたのでしょうが(吉田茂(第1次)及び片山哲の前例),ここで読替えがされたわけです。なお,「内閣の存立が内閣総理大臣の在任意思にかかるものであるのは自明のことであって,内閣総理大臣が自ら辞意を表明したとき(国会法64条)が右〔日本国憲法70条〕の「欠けたとき」に含まれるかどうかは,あえて論ずるまでもない。」(内閣制度百年史編纂委員会132頁)ということですが,「内閣の総辞職は,内閣から国会に対し総辞職する旨を通告してなされる内閣自体の一方的行為」(二)であるところ,厳密にいえば,内閣総理大臣の辞職の意思表示が両議院に到達した時に日本国憲法70条の「内閣総理大臣が欠けたとき」になるのでしょう。国家法人説的には,内閣総理大臣を任命する行為をする国家機関は天皇であるものの,内閣総理大臣の辞職の意思表示を受領する機関は専ら国会であることにしたということになるのでしょう。

一(二)における「内閣総理大臣の文書による辞表の提出」の要否が天皇との関係で問題となったわけですが(内閣総理大臣以外の国務大臣に係る辞表の提出先は内閣総理大臣となります(日本国憲法68条)。),国会法64条の通知で辞職の意思表示は実行済みなので屋上屋を架する必要なし,ということになったわけでしょう。

一(四)に関しては,内閣総理大臣の指名に係る衆議院議長から内閣を経由しての天皇への奏上(国会法652項)が,(3)と(7)との間にあるはずです。

一(四)(8)に関して一言すれば,内閣総理大臣の辞職は,その単独行為であるものの,次の内閣総理大臣の任命時に効力が生ずる不確定期限付きの法律行為であるということになるのでしょう。委任の終了後の処分に係る民法654条の場合についても,「立法の趣旨は,その間委任を継続させようとするものと見るのが妥当」であるものとされています(我妻698頁。ドイツ民法673条の„der Auftrag gilt insoweit als fortbestehend“(この場合において,委任は,継続しているものとみなされる。)との規定をもって,「ド民〔略〕673条」は「委任は継続すると規定する」と同所で紹介されています。)。

内閣総理大臣が突然辞職しても「公務の突発的停廃」は起らないものでしょうか。起る可能性があるとしても,その防止を担保するのに天皇の聴許権をもってすることは筋違いだということでしょう。既に美濃部達吉が,自らの進退に関する国務大臣の責任の重さを強調していました。いわく,「従来の実例に於いては,国務大臣が往々進退伺を陛下に奉呈することが行はれて居るけれども,是も国務大臣の地位とは相容れないものと言はねばならぬ。国務大臣は自己の進退に付いては,自己の責任を以て,自ら処決すべきもので,自分の進退に付き自ら処決せずして聖断を待つが如きは,自己の責任を回避し,責を至尊に帰するものである。」と(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)513-514頁)。

なお,内閣総理大臣と並んで天皇により任命される最高裁判所長官(日本国憲法62項)の辞職の意思表示は,やはりこれも天皇に対してすべきものではなく,指名権者である内閣に対してすべきものとされるのでしょう。

ところで,次の事実はどう考えるべきでしょうか。

 

 〔194810月〕6日 水曜日 〔略〕

 表拝謁の間において,内閣総理大臣芦田均・文部大臣森戸辰男・厚生大臣竹田儀一・商工大臣水谷長三郎・労働大臣加藤勘十・逓信大臣富吉栄二・国務大臣野溝勝地方財政委員会委員長・農林大臣永江一夫・国務大臣船田亨二行政管理庁長官兼賠償庁長官をお招きになり,茶菓を賜う。〔略〕

 表御座所において,内閣総理大臣芦田均の拝謁をお受けになる。その際,芦田は,内閣総辞職の決意を言上する。翌7日,芦田内閣は総辞職する。〔後略〕

 (宮内庁709頁)

 

 昭和天皇は偉大な立憲君主であり,政治的人間でありました。昭和天皇崩御時の内閣官房長官であった小渕総理(「平成おじさん」)も,尊敬する人物として昭和天皇を挙げていました。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 ミュンヒハウゼン男爵の冒険と札幌高等裁判所令和6314日判決と

 

Gleichwohl sprang ich auch zum zweiten Male noch zu kurz, und fiel nicht weit vom anderen Ufer bis an den Hals in den Morast. Hier hätte ich unfehlbar umkommen müssen, wenn nicht die Stärke meines eigenen Armes mich an meinem eigenen Haarzopfe, samt dem Pferde, welches ich fest zwischen meine Knie schloß, wieder herausgezogen hätte.

(Gottfried August Bürger, Wunderbare Reisen zu Wasser und Lande, Feldzüge und lustige Abenteuer des Freiherrn von Münchhausen. 1786)

それでも2度目も跳躍距離がなおも足らんで,向こう岸の手前でわしは落っこちてしもうて,首まで泥沼に浸かってしもうた。その場所でわしは間違いなくくたばっておったじゃろうな。自分で自分の辮髪を摑んで,わしが膝の間にしっかと挟み込んだ馬もろとも,わしがわしをわしの腕力をもって引き揚げ出しておらなんだらな。

(ゴットフリート・アウグスト・ビュルガー『ミュンヒハウゼン男爵の水陸における驚くべき旅行,遠征及び愉快な冒険』(1786年))

 

 ミュンヒハウゼン男爵のように自分で自分を吊り上げ出して困難な状況を切り抜けてみせるという曲芸師的英雄的法律論もあるものです。我が憲法論の場合,男爵の辮髪に対応し得るものは,個人の尊重(日本国憲法13条。正確には「すべて国民は,個人として尊重される。」)ないしは個人の尊厳(同242項)並びに平等及び差別禁止(同141項)の各概念でしょうか。

 筆者はこれらの条項について,既にいくつかブログ記事を書いたことがあります

 

日本国憲法13条の「個人として尊重される」ことに関して

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1075180916.html

「人格を尊重」することに関して〔憲法24条は12)で論じられています。〕

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081694748.html

「法の下の平等」(日本国憲法14条1項)の由来に関する覚書(前編)

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1041144048.html

「法の下の平等」(日本国憲法14条1項)の由来に関する覚書(後編)

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1041144259.html

大日本国帝国憲法19条とベルギー国憲法(1831年)6条〔日本国憲法14条の前史ということになります。〕

    https://donttreadonme.blog.jp/archives/1038090379.html

 

 これらの概念の働き振りがどのようなものかを,同性婚を認めていない現在の民法(明治29年法律第89号)及び戸籍法(昭和22年法律第224号)の婚姻に関する諸規定は憲法24条及び141項に違反していると判示した(ただし,国家賠償法(昭和22年法律第125号)11項に基づく損害賠償までは認められないものとされています。),最近の札幌高等裁判所(齋藤清文裁判長裁判官,吉川昌寛裁判官及び伊藤康博裁判官)の令和6年(2024年)314日判決(令和3年(ネ)第194号損害賠償請求控訴事件)について以下見てみましょう。

 ここで当該高裁判決の画期性について一言しておけば,立法によって民法及び戸籍法が同性婚を認めるように改正されたことに対する事後的判断としてならば,国権の最高機関(憲法41条)たる国会がそうお決めになったのだから当該改正は違憲ではない,との判決を裁判所が出すのはまだ易しいのでしょうが,「婚姻は,両性の合意のみに基いて成立し,夫婦が同等の権利を有することを基本として,相互の協力により,維持されなければならない。/配偶者の選択,財産権,相続,住居の選定,離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては,法律は,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して,制定されなければならない。」と規定して(下線は筆者によるもの),専ら異性婚に係るものである(と従来一般に考えられてきた)ところの憲法24条の定めが存在している手前,同性婚を予定せず,かつ,認めていない現在の民法及び戸籍法の諸規定をもって同条に反して違憲であるものと現段階で断ずることは,本来難しいことだったはずなのでした。この憲法24条を正面突破した上で,現状の民法及び戸籍法の婚姻に関する諸規定は同性婚を認めていないことによってかえって同条違反となるのだ,と議論をひっくり返してみせたのですから,そこにはein wunderbares Abenteuer(驚くべき冒険)の物語があったはずであるところです。


DSCF0763
DSCF2215

札幌高等裁判所の新旧庁舎


2 札幌高裁判決の憲法13条論

 まずは札幌高等裁判所の憲法13条論です。同条前段の「すべて国民は,個人として尊重される。“All of the people shall be respected as individuals.”」における個人を,筆者はアメリカ独立宣言風に,かつ,マッカーサー三原則中の第3原則1項に基づくGHQ草案12条(日本国憲法13条に対応)の第1文(The feudal system of Japan shall cease.(日本国の封建制度は廃止される。))を勘案して,身分によって構成された封建制を脱し,臣民ならざる国民として,新たなres publicaを設立するための社会契約の当事者となる革命的かつ能動的な個人と解したいのですが,やはり通説的には,国家ないしは社会にその幸福の追求のための「尊重」をしてもらう権利を有する,生まれたままの受動的な個人(社会契約に基づき設けられた法律上の制度の利用が問題になっていますから,社会前的個人ではなく,社会契約発効後の社会内的個人ですね。)ということになるようです。

 (なお,社会契約は,現在の民法学上は,厳密には社会「契約」ではなく社会「合同行為」なのでしょうが(合同行為は,「方向を同じくする2個以上の意思表示が合致して成立するもの。各当事者にとって同一の意義を有する(社団法人設立行為〔略〕が適例)」ものです(我妻榮『新訂民法総則(民法講義)』(岩波書店・1972年)244頁)。),本稿では従来の用法を踏襲します。)

 

(1)個人の尊重において保護される性的指向

 

性的指向とは,人が情緒的,感情的,性的な意味で,人に対して魅力を感じることであ〔る。〕〔中略〕性的指向が障害や疾患の一つであるという考えは受け入れられなくなった〔。〕

〔前略〕恋愛や性愛は個人の尊重における重要な一要素であり,これに係る性的指向は,生来備わる人としてのアイデンティティであるのだから,個人の尊重に係わる法令上の保護は,異性愛者が受けているのであれば,同性愛者も同様に享受されるべきである。したがって,性的指向は,重要な法的利益であるといえる。〔後略〕

 以上のとおり,性的指向は本来備わる性向であり,社会的には異性愛者と同性愛者それぞれの取扱いを変える本質的な理由がないうえ,同時に,その個人からみれば,人が個人として尊重される基礎であり,その個人の人格の象徴であって,人格権の一内容を構成し得るものというべきである。

(札幌高等裁判所令和6314日判決(令和3年(ネ)第194号損害賠償請求控訴事件)第322)ア。下線は筆者によるもの)

 

 個人の尊重は,典型的には社会契約締結の場である,飽くまでも公的な場における当該行為の当事者たる「個人として尊重」の話ではなく,私生活における各個人の恋愛や性愛をも公的かつ同様に保護せよというような方向におけるお話となるようです。

とはいえ,恋愛や性愛に係る各方向・各濃度の性癖が全て「個人の尊重」において尊重されるわけではないはずでしょう。異性愛者だからといって,その様々な性的指向の全てが法令上の保護を享受しているわけではないところであって,犯罪とされる性的指向の発現もあるわけです(児童ポルノを所持した者を1年以下の拘禁刑又は100万円以下の罰金に処する児童買春,児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律(平成11年法律第52号)71項等が想起されます。)。また,異性婚であればそれは自由かといえば,重婚,近親者間の婚姻,直系姻族間の婚姻及び養親子等の間の婚姻は禁止されており(民法732条及び734条から736条まで),婚姻適齢も元々の男満17歳・女満15歳(同法旧765条)から現在は男女とも満18歳となっていて(同法731条),男女の若者のいわゆる婚姻の自由は明治の昔よりも制限されています。

 なお,児ポ法及び重婚といえば,筆者はどうしても次のような自分のブログ記事を紹介したくなるのでした。

 

児童ポルノ単純所持罪導入に際しての国会審議模様のまとめ(上): 条文

   https://donttreadonme.blog.jp/archives/1007652309.html

  児童ポルノ単純所持罪導入に際しての国会審議模様のまとめ(下): 国会審議

   https://donttreadonme.blog.jp/archives/1007652893.html

三号児童ポルノの比較法

   https://donttreadonme.blog.jp/archives/1008822635.htm

  1999年児ポ法制定時の国会審議模様等

   https://donttreadonme.blog.jp/archives/1009309858.html

  令和4年法律第102号による改正後の民法773条における「第732条」出現の「異次元」性に関して

   https://donttreadonme.blog.jp/archives/1080634730.html

鷗外の『雁』における某巡査の「重婚」に関して

   https://donttreadonme.blog.jp/archives/1080722748.html

 

(2)民法及び戸籍法の婚姻関係現行規定の憲法13条非違反性

 しかしそもそも,憲法13条は間口が広漠過ぎて,それのみを用いて民法及び戸籍法の婚姻関係現行諸規定を違憲呼ばわりすることは難しいようです。

 

 〔前略〕憲法13条のみならず,憲法24条,さらには各種の法令,社会の状況等を踏まえて検討することが相当であり,このような観点からすると,憲法13条が人格権として性的指向及び同性間の婚姻の自由を保障しているものということは直ちにできず,本件規定〔民法及び戸籍法の婚姻に関する諸規定〕が憲法13条に違反すると認めることはできない。

(札幌高等裁判所令和6314日判決の第322)ウ)

 

(3)尊重される個人の尊厳とは何か

 ところで,個人の尊重ないしは個人の尊厳として守られるべきものは,次に見るようにアイデンティティの喪失「感」,人としての存在を否定されたとの「思い」,自分の存在の意義を失うという喪失「感」といったものが云々されていますから,感情的なものなのでしょう。こころが大切です。

 

 もっとも,性的指向及び同性間の婚姻の自由は,人格権の一内容を構成し得る重要な法的利益ということができる。性的指向は,〔略〕人が個人として尊重される基礎であり,その個人の人格の一要素でもあることから,社会の制度上取扱いに不利益があれば,そのことによりいわゆるアイデンティティの喪失感を抱き,人としての存在を否定されたとの思いに至ってしまうことは容易に理解できることである。

 控訴人らは,人として,同じく人である同性パートナーを愛し,家族としての営みを望んでいるにもかかわらず,パートナーが異性でなく,同性であるという理由から,当事者以外の家族の間で,職場において,社会生活において,自身の存在の意義を失うという喪失感に苛まれているのであって〔略〕,個人の尊重に対する意識の高まった現在において,性的指向による区別を理由に,このような扱いを受けるいわれはなく,これは憲法が保護する個人の尊厳にかかわる問題であるということができる。〔後略〕

(札幌高等裁判所令和6314日判決の第323)。下線は筆者によるもの)

 

 しかし,個人の尊厳が毀損されれば「アイデンティティの喪失感を抱き,人としての存在を否定されたとの思いに至」るのだという命題が真であるとしても,逆は必ずしも真ならずなのですから,それが毀損されると「アイデンティティの喪失感を抱き,人としての存在を否定されたとの思いに至」るものは全て憲法が保護する個人の尊厳であり,又は「人格権の一内容を構成し得る重要な法的利益」なのである,とまでは必ずしもいえないでしょう。

 2015626日の米国連邦最高裁判所のObergefell et al. v. Hodges, Director, Ohio Department of Health, et al.事件(以下「オーバーゲフェル事件」といいます。)判決(評決は54裁判官9名中首席判事を含む4名が反対)の反対意見において,ロバーツ首席判事は,「確かに,〔同性婚の承認を求める〕請願者及び同様の人々に関する心に迫る個人的体験談が,同性カップルは婚姻をすることを許されるべきかについて多くの米国人が意見を変えた主要な理由であろう。しかしながら,憲法問題としては,請願者の望みの真摯性(the sincerity of petitioners’ wish)いかんが問題となるものではない。」と冷静に述べています(B1)。

 

3 米国連邦最高裁判所オーバーゲフェル事件判決

 ここで,他国のことながら我が国の裁判所にも重要な先例として受け止められている可能性のある米国連邦最高裁判所のオーバーゲフェル事件判決について脱線的検討をしましょう。

 オーバーゲフェル事件判決は,米国憲法修正141節の適正手続(due process)条項及び平等保護(equal protection)条項に基づき,米国の各州に対して同性婚の許可証の発給及び他州で有効に成立した同性婚の承認を義務付けたものです。

 ところでうがって,かつ,横着に考えると,当時既に,16の州及びワシントンDCが同性婚を制度化していたので(マサチューセッツ州が嚆矢で(2003年の判決),2006年のハワイ(立法),2008年のコネティカット(判決),2009年のアイオワ(判決)並びにニュー・ハンプシャー及びヴァモント(それぞれ立法),2010年のワシントンDC(立法),2011年のニュー・ヨーク(立法),2012年のメアリランド及びワシントン州(いずれも立法),2013年のニュー・メキシコ及びニュー・ジャージー(それぞれ判決)並びにミネソタ及びロード・アイランド(それぞれ立法)並びに2014年のデラウェア(立法)と続きます。なお,イリノイ及びメインもそれぞれ立法していますが,時期はオーバーゲフェル事件判決法廷意見に付された別表Bには記されていません。),オーバーゲフェル事件判決は,同性婚の取扱いについて米国内で不統一(同一のカップルが,ある州では婚姻関係にあると認められ,他の州では他人の関係とされる)があり,それに伴い全米的に混乱が生じているという「現状をこのままにすることは,不安定性及び不確実性を維持し,増進するということになろう」という判断から,同性婚の一律制度化の線で問題解決を図ったということでもあるかもしれません(法廷意見(ケネディ判事執筆)参照)。

 上記の憶測はともかく,オーバーゲフェル事件判決法廷意見の法律構成は,婚姻する権利(right to marry)を米国憲法修正14条(婚姻法は州権事項なので,連邦の介入は同条を通ずることとなります。)1節の“nor shall any State deprive any person of life, liberty, or property, without due process of law”(いかなる州も法の適正な手続なしに何人からも生命,自由又は財産を奪うことはできない)との規定におけるliberty(自由)に含ましめ,更に同規定に続く“nor deny to any person within its jurisdiction the equal protection of the laws”(〔いかなる州も〕その管轄内における何人に対しても法律の平等な保護を拒んではならない)との規定も援用する,というものでした。修正141節によって保護される基本的(ファンダメンタル・)自由(リバティズ)には,権利の章典に掲げられているものの大部分のほか,「個人の尊厳(individual dignity)及び自律(autonomy)にとって中心的な人格的(パーソナル・)選択(チョイスイズ)――人格(パーソナ)()なアイデンティティ及び信念(ビリーフス)を定義付ける親密圏のものに係る選択をも含む――のうちのあるもの」も含まれるものとされています(法廷意見)。婚姻の権利はパートナー選択の権利であるところ(あれ,パートナー選択の自由それ自体には,法律により認められる婚姻に伴うものとされる諸権利諸利益等は含まれないように思われますが・・・まあ,先に進みましょう。),パートナーの選択は個人の尊厳及び自律にとって中心的な人格的選択であり,その選択の自由は修正141節の適正手続条項によって保護される自由に含まれる,というわけでしょう。

 米国連邦最高裁判所は,1986年のBowers v. Hardwick判決においては同性愛行為を犯罪とすることの合憲性をなお支持しており,当該行為の犯罪としての取扱いは違憲であるとの判断を下したのはやっと2003年のLawrence v. Texas判決においてでした。婚姻(異性間のものですが)の権利を憲法によって守った米国連邦最高裁判所の判決としては,異人種間婚姻の禁止を無効とした1967年のLoving v. Virginia判決,養育費支払を怠る父親の婚姻を禁ずることは婚姻の権利に対する制約であるとした1978年のZablocki v. Redhail判決,受刑者の婚姻する権利を制限する規律は婚姻をする権利を侵害するものであるとした1987年のTurner v. Safly判決が挙げられています。婚姻の権利に係る自由(リバティ)を法廷において守るということは,米国ではなじみのある活動形態であるところ,また,かつては犯罪者扱いであった同性愛者に係る解放の動きは,その抑圧からの新鮮な反撥力をなおも失ってはいなかったものと思われます。

「当裁判所がLawrence判決で判示したように,同性カップルは,親密な関係性を享受することについて,異性カップルと同じ権利を有している。Lawrence判決は,同性間の親密を犯罪とする法律を無効とした。〔略〕しかし,Lawrence判決は,個人が刑事責任なしに親密な関係を取り結ぶことを可能とするところの自由の一面を確認したものである一方,自由は,そこで停止するということにはならない。法の保護の外にある者(outlaw)から社会から爪弾きされた者(outcast)への変化は,一歩前進であろう。しかしそれは,自由の約束するものの全てを達成するものではない。」(法廷意見)という部分の含意は,マイナスからゼロにされただけではもはや満足できない,ということでしょう。「問題とされている諸法律が同性カップルの自由を制約しているということは今や明らかであり,また,それらは平等の中心的要請を減殺していることも承認されなければならない。ここにおいて,応答者ら〔州側〕によって施行されている婚姻法は,本質的に不平等なのである。同性カップルは異性カップルに与えられている全ての利益を拒まれ,かつ,基本的権利の行使から閉め出されている。特に,彼らの関係の否定に係る長い歴史に鑑みるに,同性カップルに対する婚姻する権利のこの否認は,重大かつ継続的な害を及ぼすものである。男女の同性愛者にこの無能力を強いることは,彼らを軽んじ,かつ,劣位のものとすることになるのである。しかして,平等保護条項は,適正手続条項同様,婚姻をすることに係る基本的権利に対するこの正当化されぬ侵害を禁ずるのである。」というくだりは(法廷意見。下線は筆者によるもの),過去の差別によって加えられた侵害の回復のためには,更に積極的な措置が必要なのだ,ということが言いたいのでしょう。「Bowers判決は最終的にLawrence判決によって否認されたが,その間,多くの男女が傷つけられたのであり,Bowers判決が覆された後もこれらの侵害がもたらした本質的作用は疑いもなく長く残存したのである。尊厳に係る傷(dignitary wounds)は,ペン捌き一つで常に癒され得るものではない。/同性カップルに不利益な判決はこれと同様の作用を及ぼすであろう――そして,Bowers判決同様,修正14条の下では正当化されないであろう。」とは(法廷意見Ⅳ),オーバーゲフェル事件判決が,米国連邦最高裁判所が同性愛行為を21世紀に入るまで犯罪としてしまっていたことに対する償いでもあることを示すものでしょうか。

なお,法廷意見は,米国憲法において婚姻が基本的なものであることについての理由が同等の説得力をもって同性カップルにも妥当することは,以下の四つの原理及び伝統によって示されると述べています()。次のとおりです。①婚姻に係る人格的(パーソナル)選択は個人の自律(individual autonomy)の概念に内在的なものであること,②婚姻する権利は,二人の合同を,誓約した各個人に対するその重要性において,他の何ものにもまして支えるものであること(「婚姻する権利は,かくして,「相互のコミットメントによって彼ら自身を定義付けようと望む」カップルを尊厳あるものとする(dignifies)」),③婚姻は子供及び家族を保護し,そのようにして,子育て,生殖及び教育に係る関連の権利を意味あるものとすること(「婚姻がもたらす承認,安定性及び予測可能性がなければ,彼らの子供は,彼らの家族は何だか劣等なものなのだという心の傷を負うのである。」),並びに④婚姻は社会秩序の礎石であること(「同性カップルは,異性カップルであれば彼らの生活において耐え難いと感ずるであるような不安定状態に置かれている。州自身がそれに付与する重要性によって婚姻が一層貴重なものとされているところ,当該地位からの排除は,男女の同性愛者は重要な点において等しい存在ではないと教宣する効果を有するものである。国民社会の中心的制度から男女の同性愛者を州が締め出すことは,彼らを卑しめるものである。同性カップルも,婚姻の超越的目的に憧れ,それに係る最高の意義における達成を求め得るものである。」「同性カップルを婚姻の権利から排除する法律は,我々の基本章典によって禁じられている心の傷及び侮辱を与えるものである。」)。

同性カップルによる子育てあり得べしということであれば,我が国において次に問題となるのは,民法817条の3にいう「配偶者」及び「夫婦」の解釈でしょうか。

 

4 札幌高裁判決の憲法24条論

 

(1)憲法24条の新解釈

 

ア ミュンヒハウゼン的論証

 札幌高等裁判所の憲法24条解釈は,同条2項の超・性的「個人の尊厳」概念をミュンヒハウゼン的辮髪として,そこを摑んで,憲法13条の類似文言の助力をも併せた腕力をもって憲法24条全体を一段高い「個人の尊重」の高みに引き上げしめ,同条1項の婚姻当事者(ミュンヒハウゼンの馬)を,「両性」及び「夫婦」概念の泥濘から脱出せしめます。すなわち,

 

〔前略〕法令の解釈をする場合には,文言や表現のみでなく,その目的とするところを踏まえて解釈することは一般に行われており,これは,〔略〕憲法の解釈においても変わるところはないと考えられる。さらに,仮に立法当時に想定されていなかったとしても,社会の状況の変化に伴い,やはり立法の目的とするところに合わせて,改めて社会生活に適する解釈をすることも行われている。したがって,憲法24条についても,その文言のみに捉われる理由はなく,個人の尊重がより明確に認識されるようになったとの背景のもとで解釈することが相当である。

その上で,性的指向及び同性間の婚姻の自由は,現在に至っては,憲法13条によっても,人格権の一内容を構成する可能性があり,十分に尊重されるべき重要な法的利益であると解されることは上記のとおりである。憲法241項は,婚姻をするかどうか,いつ誰と婚姻をするかについては,当事者の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨を明らかにしたものと解され,このような婚姻をすることについての自由は,同項の規定に照らし,十分尊重に値するものと解することができる(再婚禁止期間制度訴訟大法廷判決参照)。そして,憲法242項は,婚姻及び家族に関する事項についての立法に当たっては,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚すべきと定めている。そうすると,性的指向及び同性間の婚姻の自由は,個人の尊重及びこれに係る重要な法的利益なのであるから,憲法241項は,人と人との間の自由な結びつきとしての婚姻をも定める趣旨を含み,両性つまり異性間の婚姻のみならず,同性間の婚姻についても,異性間の場合と同じ程度に保障していると考えることが相当である。

  (札幌高等裁判所令和6314日判決の第332)ウ。下線は筆者によるもの)

 

 と,ここで筆者はまた,上記判示部分で引用されている再婚禁止期間制度訴訟大法廷判決についてブログ記事をかつて書いたことを思い出しました。

 

  待婚期間問題について:平成271216日最高裁判所大法廷判決から皇帝たち(アウグストゥス,ナポレオン)の再婚まで

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1048584997.html

 

イ 「個人として尊重」と「個人の尊厳」との互換性問題

 札幌高等裁判所の憲法24条解釈については,社会契約の場におけるものたるべき憲法13条の「個人として尊重」と専ら夫婦の間におけるものたるべき(ウ参照)同242項の「個人の尊厳」とを互換的な概念として用いてよいのか,ということが,筆者にとってはそもそも問題です。とはいえこの点は,本稿では問題点の指摘にとどめます。

 ちなみに――なお,筆者はここで「ポエム的憲法論」という表現を使ってみますが――オーバーゲフェル事件判決に対するその反対意見において,保守派の重鎮たるかのスカリア判事は,ポエム的憲法論に対する羞恥及び嫌悪を表明しています。いわく,「もし,たとえ〔米国連邦最高裁判所の意見を決する〕5票目のために支払わねばならない対価であるとしても,次のように始まる法廷意見――すなわち,「憲法は,その管下にある全ての者に対して自由を約束する。当該自由は,人格(パーソンズ)が,法の許す範囲内において,そのアイデンティティを定義し,かつ,表現することを可能とするいくつかの特定権利を含むものである。」と始まるもの〔筆者註:これは,ケネディ判事の執筆に係るオーバーゲフェル事件判決の書き出し部分〕――に私が加わったとしたならば,私は〔顔を隠すために〕袋に首を突っ込んだことであろう。合衆国の最高裁判所は,〔第4代首席判事にして違憲立法審査制度の父〕ジョン・マーシャル1801年から1835年まで在任〕及び〔ハーヴァード・ロー・スクールの存立基盤の確立者にして9領域におけるアメリカ法の註釈書(コンメンタリーズ)の著者〕ジョゼフ・ストウリ1811年から1845年まで在任〕の規律ある法的推論〔筆者註:なお,マーシャルの知性は,ゆっくりかつ重厚(マッシヴ),ストウリのそれは,休むことなく,断奏(スタッカ)(ート)で,絶え間のないものだったそうです(Richard Brookhiser, John Marshall: the man who made the Supreme Court; Basic Books, New York, 2018: p.142)。〕から,フォーチュン・クッキー中の神秘の託宣(アフォリズムス)へと堕落してしまった。」と(同判事反対意見の註22)。

 「恋するフォーチュン・クッキー」は,同性間ならぬ異性間の恋愛に関する歌でした。

 

ウ 「個人の尊厳」か「両性の各々の尊厳」か

 

(ア)GHQ草案及びその私訳

「恋するフォーチュン・クッキー」が云々との平成歌謡に関する閑話は休題するとして,憲法24条に関して問題であることは――筆者は「「人格を尊重」することに関して」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081694748.html)の12)を書いていて不図思い付いてそこに書いておいたのですが――同条2項の,すなわちGHQの草案23条の“…from the standpoint of individual dignity and the essential equality of the sexes”の部分における“of the sexes”“individual dignity”にもかかるようであり,当該部分は,2項構成としての「個人の尊厳」と「両性の本質的平等」に「立脚して」ではなく,一団構成として「両性の各々の尊厳と本質的平等」に「立脚して」とでも訳すべきものであったようにも思われるということです。このような「両性の各々の尊厳」は,もはや超・性的な概念ではなく,同性婚には親和的ではないでしょう。札幌高等裁判所のミュンヒハウゼン的論証術にとっては迷惑でしょう。ちなみにローマ法においては,夫婦は「相互に尊敬すべく,少くともユ〔スティニアヌス〕帝時代には窃盗訴権〔略〕悪意の訴権〔略〕の如き罰金訴権〔略〕不名誉訴権〔略〕の提起は禁止せられ,一方が他方の財産を盗むも窃盗訴権の適用なく,離婚を当て込んで盗んだ場合には,物追求訴権〔略〕たる物移動訴権(actio rerum amotarum)を離婚後提起し得るのみ。」ということだったそうですが(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)295頁),これは,こじつけていえば,婚姻関係にある両性の各々に尊厳があるがゆえに相互に尊敬がされるということでしょう。

 

  〔大カトーは〕妻や子供を撲る男は最も神聖な事物に手を下すものだと云つてゐた。又,偉い元老院議員になるよりもいい夫となる方が賞讃に値すると云つてゐた。〔略〕カトーは,子供が生まれてからは,国事に関しない限りどんなに必要な用事があつても,妻が嬰児の体を洗つたり襁褓を当てる時には必ず傍にゐてやつた。

  (河野与一訳『プルターク英雄伝(五)』(岩波文庫・1954年)74-75頁)

 

(イ)アイルランド

 上記の筆者流の読み方を正当化すべく,「個人の尊厳」ならば本来は“dignity of the individual”と書く方がふさわしかったはずなのである,と考えていたところ,インターネットで検索してみると,現にアイルランド憲法英語版の前文にはso that the dignity and freedom of the individual may be assured”(下線は筆者によるもの)という表現があります。「個人の尊厳及び自由が確実なものとされるように」と訳されるものでしょう。

 

(ウ)モンタナ

また,“individual dignity”は,やはり“equality”と緊密に結び付いて一団のものとなり得るようです(後者の「平等」の方が主となり,前者の「個々の尊厳」がそれを理由付けるものでしょう。)。1972年の米国のモンタナ州憲法24節はSection 4. Individual dignity. The dignity of the human being is inviolable. No person shall be denied the equal protection of the laws. Neither the state nor any person, firm, corporation, or institution shall discriminate against any person in the exercise of his civil or political rights on account of race, color, sex, culture, social origin or condition, or political or religious ideas.”となっていて,“Individual Dignity”の見出しの下,本文は「人間の尊厳は不可侵である。何人も法律の平等な保護を否認されない。州又はあらゆる人,企業,法人若しくは団体は,何人をも,彼の公民的又政治的権利の行使において,人種,肌の色,性別,文化,社会的出自若しくは地位又は政治的若しくは宗教的意見を理由として差別してはならない。」と規定しています。不可侵の尊厳は人間であることに由来するものであるが,それが同節においては具体的に,法律の平等な保護を否認されない各個人のものとして,及び人種,肌の色,性別,文化,社会的出自若しくは地位又は政治的若しくは宗教的意見の相違にもかかわらず,公民的又政治的権利の行使において差別されることのない各個人のものとして特定的に観念される,ということでしょうか。見出しは“Individual Dignity”,すなわち裸の「個々の尊厳」で(individualの原義はこれ以上分割できないということですから,「個の尊厳」とは,それだけでは限定できません。),外延がどこまで広がるかはっきりせず落ち着かないのですが,同節本文において特定がされているわけでしょう。なお,モンタナ大学のウェブ・ページには,1972112日開催の公聴会に関して同節に係る次のような由来が紹介されています。

 

Delegate Richard Champoux, proponent of Delegate Proposal 61, the proposal from which Section 4 was largely drawn, was motivated by the story of his own mother, the discrimination in employment and indignities she faced, and her belief that “men and women should be treated equally and with dignity.”

  第4節が大きくそこから由来した代議員提案第61の提案者であるリチャード・シャンプー代議員は,彼女が嘗めさせられた就職差別及び屈辱に係る彼自身の母親の経験談並びに「男性も女性も平等に,かつ,尊厳あるものとして取り扱われるべきである」という彼女の信念よって動機付けられたものである。

 

 各自に尊厳があるから,全員が平等に取り扱われるわけです。

 

(エ)オーバーゲフェル事件判決から

 オーバーゲフェル事件判決の法廷意見にも「()(ヴァ)無能力(チャ)()の原理の漸進的崩壊にもかかわらず,〔略〕20世紀の半ばを通じて,婚姻における性別に基づく不愉快な区別が,普通のこととして存在していた。App. to Brief for Appellant in Reed v. Reed, O.T. 1971, No. 70-4, pp. 69-99を参照(1971年当時存在した諸法律であって,婚姻において女を男と同等ではないものとして取り扱っているものについての広範な論及)。これらの区別は,男と女との平等の尊厳the equal dignity of men and women)を否認していたのである。例えば,ある州法は,1971年に次のように規定していた。いわく,「夫は家族の頭であり,妻は彼に従属する。彼女自身の保護又は利益のために法律が彼女を別個のものとして承認する範囲外においては,彼女の私法的存在は彼に統合される。」と(Ga Code Ann, §53-501 (1935))。新たな自覚に対応して,当裁判所は,婚姻における性別に基づく不平等を強いる諸法律を無効とするために,平等保護原則に訴えた。」という表現があります(Ⅲ. 下線は筆者によるもの)。

 

エ 異性婚規定を同性婚に類推適用する理由付け

 札幌高等裁判所は,憲法242項の「個人の尊厳」をミュンヒハウゼンの辮髪として摑んで同条の泥沼を脱し,同条1項の「婚姻をすることについての自由」に類推適用の形をもって騎乗し(札幌高等裁判所は,類推適用ではなく目的的解釈の結果であるとするのでしょうが,一応,類推適用だと言わせてください。),前進します。異性婚に係る規定をもって同性婚に類推適用させるわけですが,当該類推適用を理由付ける異性婚と同性婚との類似性は「人と人との間の自由な結びつきとしての婚姻」だからだということです。ここでの「婚姻」と呼ばれる結び付きは,性的指向ゆえのもの,すなわち性欲の充足に向けられたものであって,床のみならず更に食卓をも共にする関係(星野英一『家族法』(放送大学教育振興会・1994年)55頁参照)なのでしょう。当事者間の合意に基づく自由な性的結び付きである限りにおいては,その性的指向がどのようなものであるかは第三者がとやかくいうべきものではないのでしょう。

なるほど確かに,人と人との間の自由な結びつきとしての性交等(「性交等」は刑法(明治40年法律第45号)1771項において定義されています。)は13歳以上の者の間では我が刑法上許されるのでしょう(同条3項)。しかし,どういうわけか16歳になるまでは,5年以上年上のおじさま・おばさまとの性交等の自由は認められていません(刑法1173項の括弧書きは分かりづらいですが,こういう意味でしょう。)。人事訴訟法(平成15年法律第109号)131項を見ると,未成年者であっても行為能力制度の制約なく,意思能力さえあれば婚姻関係訴訟(同法21号)に係る訴訟行為ができるのですが(未成年者である18歳未満の者の婚姻はあり得ない(民法4条,731条及び740条)わけではなく,その取消しに関する規定が用意されており(同法744条及び745条),取り消されるまでは有効な婚姻です(同法7481項)。),刑法では,意思能力(これは,ドイツ民法1041号的には満7歳で備わるものでしょう。)さえあれば性交等をしてもよいということにはなっていません。性交等を行うか否かについては,婚姻についてよりも高度な判断力を要するのでしょうか。

 

オ 保障の同程度性は必然か

 札幌高等裁判所は,最後に,「異性間の婚姻のみならず,同性間の婚姻についても,異性間の場合と同じ程度に保障している」とさらりと述べていますが,ここでの保障の同程度性については明示的な論証はされていません。異性婚も同性婚も個人の尊厳にかかわるところ,個人の尊厳は絶対だから絶対者間相互では比較ができず「同じ程度に保障」することに帰着するのだ,という理由付けを忖度せよ,ということでしょうか。しかし,憲法24条は同性婚を異性婚と「同じ程度に保障している」のだとあらかじめ決めてしまうことによって,同性婚を異性婚と同じ程度に保障していない民法及び戸籍法の婚姻関係現行諸規定は同条に違反するという結論が先取りされてしまうという関係になりますので,論証の追加が欲しいところです。いわんや異性婚内部でも,禁止されているもの(民法731条,732条及び734条から736条まで参照)とそうでないものという序列があるのですから,異性婚と新参の同性婚との間での序列付けを絶対的に排除するためには何がしかの理由付けが必要でしょう。

 また,人と人との間の自由な性的結びつきを保障するものは一つのものとしてある法的婚姻しかない,と選択肢をあらかじめ絞ってしまうのもいかがなものか。事実上の婚姻として放任することによって保障する,ということも可能であるようにも思われます。個人の自由ということであれば,その方がよさそうでもあります。事実上の婚姻は,両者の合意がなければ成立せず,そこでは両者が同等の権利を有し,両者の協力によってしか維持されないもののはずです(憲法241項参照)。また,事実上の婚姻についても,無法状態というわけではなく,パートナーの選択に制約はなく,財産関係は各自別々,相続はないが遺贈は可能,住居の選定は各自別々,関係解消は単意で可能,ということであるはずです(憲法242項参照)。既に異性婚についてすら,「近代において〔略〕,ついには愛なき結婚の否定(離婚の自由の強調)からさらに進んで,愛さえあれば法律上の「婚姻」という形態をとる必要はないのではないか,との疑問が生じ(「愛の制度化は愛の死である」との言も見られる),愛ある同棲を推奨し(同棲のない場合もある),「婚姻」否定論まで現れてきた。」(星野47頁)ということであったはずです。オーバーゲフェル事件判決におけるロバーツ首席判事の反対意見には「同性カップルは,彼らがそうしたいように同居し,親密な行為に及び,及び家族を養うことについて自由であり続けている。本件において問題とされている法律によって「孤独のうちに生きるべく宿命付けられている」者はいないのである――誰もいないのである。」とあります(B2)。更に同首席判事はいわく,「実のところ,本日の判決は,彼らがそう望むから同性カップルは婚姻を許されるべきであり,かつ,「彼らに当該権利を拒むことは,彼らの選択を(そし)り,かつ,彼らの人格性を(おとし)めることになる」という多数意見の独自の確信に基づくものでしかないのである。〔略〕道徳哲学の問題としていかなる力を当該信念が有していようとも,当該信念は,〔パン工場労働者の労働時間を制限するニュー・ヨーク州法を無効とした米国連邦最高裁判所の1905年〕ロックナー(Lochner)事件判決〔同判決の先例性は,その後否定されています。〕において採用された裸の政策選好以上の基礎を憲法の下に有してはいないのである」と(B3)。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 第213回国会の民法等の一部を改正する法律案及び民法821条:「人格を尊重」

 

(1)第213回国会の民法等の一部を改正する法律案における「人格を尊重」

 2024126日に召集された第213回国会において,現在,内閣から提出された民法等の一部を改正する法律案が審議されています。同法案が法律として成立した場合,2026年の春には(同法案における附則1条本文には「この法律は,公布の日から起算して2年を超えない範囲内において政令で定める日から施行する。」とあります。),民法(明治29年法律第89号)に次の条項が加えられることとなるそうです(下線は筆者によるもの)。

 

  (親の責務等)

  第817条の12 父母は,子の心身の健全な発達を図るため,その子の人格を尊重するとともに,その子の年齢及び発達の程度に配慮してその子を養育しなければならず,かつ,その子が自己と同程度の生活を維持することができるよう扶養しなければならない。

  2 父母は,婚姻関係の有無にかかわらず,子に関する権利の行使又は義務の履行に関し,その子の利益のため,互いに人格を尊重し協力しなければならない。

 

 「人格を尊重」という荘厳な文言が,まぶしい。目がつぶれそうです。「尊重」と「尊厳」ということで漢字は1字違いますが,「〔憲法〕13条は,「個人の尊重」(前段)と「幸福追求権」(後段)との二つの部分からなる。前段は,後段の「立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする」と一体化して,個人は国政のあらゆる場において最大限尊重されなければならないという要請を帰結せしめる。これは,一人ひとりの人間が「人格」の担い手として最大限尊重されなければならないという趣旨であって,これを「人格の尊厳」ないし「個人の尊厳」原理と呼ぶことにする。」(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)444頁),「「人格の尊厳」原理は,まず,およそ公的判断が個人の人格を適正に配慮するものであることを要請し,第2に,そのような適正な公的判断を確保するための適正な手続を確立することを要求する。したがって,例えば,一人ひとりの事情を不用意に概括化・抽象化して不利益を及ぼすことは許されない。行政の実体・手続の適正性の問題については諸説があるが,基本的にはまさしく本条によって要請されるところであると解される。」(同444-445頁)というような,憲法学における高邁な議論が想起されるところです。

 しかし,憲法学上の難しい議論はさておき,我ら凡庸な人民の卑俗な日常生活の場において,他者の「人格を尊重」し,自己の「人格を尊重」せしめるとは具体的にどのような発現形態をとるのでしょうか。これらについての探究が本稿の課題です。

 

(2)脱線その1:「個人の尊厳」論

 

ア 民法2条の「個人の尊厳」

 なお,民法2条には「人格の尊重」ならぬ「個人の尊厳」の語が出て来ます。憲法学的には「〔憲法13条の〕「個人の尊厳」原理は,直接には国政に関するものであるが,民法1条ノ2〔現第2条〕を通じて解釈準則として私法秩序をも支配すべきものとされ」ていますが(佐藤幸治445頁),民法学的には,同条に規定するところの同法の「個人の尊厳を旨とした解釈」の標準は「主として親族・相続両編の解釈について意義を有する」ものとされ,「というのは,親族編と相続編〔筆者註:昭和22年法律第74(なお,同法は一般に「日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律」と呼ばれますが,これは正式な題名ではなく,件名です。)で手当てがされ,昭和22年法律第222号によって改正されるまでのもの〕は,家族制度を骨子として構成され,家を尊重して個人の尊厳を無視し,家父長の権利を強大にして家族の意思を拘束し〔略〕ていたからである。」と説明されています(我妻榮『新訂民法総則(民法講義)』(岩波書店・1965年)29-30頁)。

「個人の尊厳」概念は,明治的な家制度及び家父長制度の各遺制に対処すべきものであるということになります。

昭和22年法律第74号の第1条は「この法律は,日本国憲法の施行に伴い,民法について,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚する応急的措置を講ずることを目的とする。」と規定していますところ,憲法242(「配偶者の選択,財産権,相続,住居の選定,離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては,法律は,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して,制定されなければならない。」)の射程は,すなわち昭和22年法律第74号が措置を講じた範囲であるのだというのが我が国の公式解釈であったことになります。同法及び昭和22年法律第222号によって家制度と家父長制度とが既に退治せられたので,現在,新しい家族の形を尊重しつつ働くべき法概念は壊し屋たりし「個人の尊厳」ではなく,それとは異なる,例えば「人格の尊重」のような新たに穏健なものたるべし,ということになったわけでしょう。というのは,「個人の尊厳」概念については,「家族の問題について「個人の尊厳」をつきつめていくと,憲法24条は,家長個人主義のうえに成立していた近代家族にとって,――ワイマール憲法の家族保護条項とは正反対に――家族解体の論理をも含意したものとして意味づけられるだろう」(樋口陽一『国法学 人権原論』(有斐閣・2004年)56頁)ということでもありますので,当該概念の濫用はうっかりすると「家族解体」につながりかねず剣呑であるからです。

なお,1919811日のドイツ国憲法たる「ワイマール憲法の家族保護条項」はその第1191項であって,「婚姻は,家族生活及び国民の維持発展の基礎として,憲法の特別の保護を受ける。それは,両性の同権に基礎を置く。(Die Ehe steht als Grundlage des Familienlebens und der Erhaltung und Vermehrung der Nation unter dem besonderen Schutz der Verfassung. Sie beruht auf der Gleichberechtigung der beiden Geschlechter.)」と規定するものです。

 

イ GHQ草案23条の“individual dignity and the essential equality of the sexes”と憲法24条の「個人の尊厳と両性の本質的平等」との間

 ちなみに,日本国憲法24条がそれに基づいた案文であるGHQ草案23条は,“The family is the basis of human society and its traditions for good or evil permeate the nation. Marriage shall rest upon the indisputable legal and social equality of both sexes, founded upon mutual consent instead of parental coercion, and maintained through cooperation instead of male domination. Laws contrary to these principles shall be abolished, and replaced by others viewing choice of spouse, property rights, inheritance, choice of domicile, divorce and other matters pertaining to marriage and the family from the standpoint of individual dignity and the essential equality of the sexes.”と規定していました。日本国憲法242項は,GHQ草案23条における“from the standpoint of individual dignity and the essential equality of the sexes”の部分を「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して」の意味であるものと解して制定されたわけですGHQ草案23条の我が外務省による訳文は「家族ハ人類社会ノ基底ニシテ其ノ伝統ハ善カレ悪シカレ国民ニ滲透ス婚姻ハ男女両性ノ法律上及社会上ノ争フ可カラサル平等ノ上ニ存シ両親ノ強要ノ代リニ相互同意ノ上ニ基礎ツケラレ且男性支配ノ代リニ協力ニ依リ維持セラルヘシ此等ノ原則ニ反スル諸法律ハ廃止セラレ配偶ノ選択,財産権,相続,住所ノ選定,離婚並ニ婚姻及家族ニ関スル其ノ他ノ事項ヲ個人ノ威厳及両性ノ本質的平等〔筆者註:この「的平等」の3文字は,和文タイプでは打ち漏れています。〕ニ立脚スル他ノ法律ヲ以テ之ニ代フヘシ」というものでした。)

しかし,“dignity of the individual”ならぬ“individual dignity”を,例えば「個々の尊厳」ではなく,「個人の尊厳(又は威厳)」と訳したことには何だかひっかかりが感じられます。そこで当該英文を改めて睨んでみると,あるいは,“individual dignity of the sexes”(両性各々の尊厳)及びそのように両性各々が尊厳あるものであることに基づく“the essential equality of the sexes”(両性の本質的平等)のstandpointから,と読むべきものだったのかもしれない,と思われてきました。男性性(夫)及び女性性(妻)はそれぞれ特有の尊厳を有するとともに,いずれも尊厳あるものであることにおいて,両性(夫婦)は本質的に平等である,という意味でしょうか。通常単数形で用いられるとされるstandpointがやはり単数形で用いられていますから,“individual dignity and the essential equality of the sexes”をひとかたまりのものとして捉える読み方を採るべきでもありましょう。Female sexのみならずmale sexにもdignityがあるのだと言われれば,男性は,救われます。

なるほど。そういえば確かに,GHQ草案23条においてそれらに反する法律は廃止せられるべしとされたところの婚姻に関する当該諸原則は,①家族は人間社会の基盤であること,及び婚姻は,②親の強要にではなく,(男女)相互の合意に基づき,かつ,③男性の支配によってではなく(夫婦の)協力によって維持されて,④両性の争うべからざる法的及び社会的平等の上に位置付けられたものたるべし,というものであって(なお,ここで男女の社会的平等までぬけぬけと憲法で保障しようとするのは,当時のソヴィエト社会主義共和国連邦憲法122条の影響でしょうか。GHQ草案23条の原案起草者であるベアテ・シロタ女史は起草準備作業の際に「ワイマール憲法とソビエト憲法は私を夢中にさせた」と回想しています(篠原光児「憲法24条の成立過程について」白鷗法学第8号(1997年)74頁)。),①はSollen(在るべきもの)ではなくSein(現に在るもの)について語っていますから,どうも②以下の男女平等が中心であったようです。④こそが主要原則でしょう。②及び③は,原則というには細かいですし,④に対する副次的なものでしょう(特に②については,昭和22年法律第222号による改正前の民法(以下「明治民法」といいます。)でも,男女の合意なしに親の意思のみで婚姻をさせることはできない建前でしたから(明治民法7781号は現行民法7421号と同旨),法律上の問題というよりは,社会事実上の問題でしょう。③に関しては,明治民法790条の「夫婦ハ互ニ扶養ヲ為ス義務ヲ負フ」及び789条の「妻ハ夫ト同居スル義務ヲ負フ/夫ハ妻ヲシテ同居ヲ為サシムルコトヲ要ス」が,現行民法752条では「夫婦は同居し,互いに協力し扶助しなければならない。」になっています。これで,「夫の権威中心から夫婦の協力に推移したことを明らかに看取しうるであろう。」ということであります(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)81頁)。なお,法定財産制に係る明治民法798条は「夫ハ婚姻ヨリ生スル一切ノ費用ヲ負担ス但シ妻カ戸主タルトキハ妻之ヲ負担ス/前項ノ規定ハ第790条及ヒ第8章〔扶養ノ義務〕ノ規定ノ適用ヲ妨ケス」というものでしたが,同条1項本文の規定は,男はつらいよ,というよりも,実は男性支配を法定する女性虐待規定であったということなのでしょう(婚姻費用を平等負担するものとする夫婦財産契約は可能であったはずですが(明治民法793条以下)。)。ちなみに現行民法には「協力」の語は2箇所でしか出現せず,憲法241項由来の第752条のそれのほかは離婚の際の財産分与に係る第7683項にあるのですが,同項における「協力」も,実はGHQの担当者から言い出した米国側由来のものであるそうです(我妻榮編『戦後における民法改正の経過』(日本評論社・1956年)140頁(小沢文雄(当時は司法省民法調査室主任)発言))。)。すなわち,家族法制全般について広く問題点が指摘されているというよりは,専ら男女間の婚姻の場面に焦点が当てられていたところです。

そもそもGHQ草案の起草段階におけるベアテ・シロタ女史の原案は,最終的にGHQ草案23条となった条項(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川ソフィア文庫・2014年)220-221頁参照)に続いて,母性保護条項,非嫡出子差別解消条項,養子に係る制限条項,長子権廃止条項,児童の教育,医療及び労働に関する各条項,労働権条項並びに社会保障条項が並ぶ長いものであって(鈴木279-281頁参照),最終的にGHQ草案23条となった条項も,実はそう広い射程のものとして意図されていなかったように思われます。

また,シロタ女史は「私は,どうしても女性の権利と子供の保護を憲法に詳しく書いておかなければならないと思って,とても細かく書きました。」と回想していますところ(鈴木276頁),保護されるべき者の細かい権利に専心する彼女にとっては,強い男性のそれをも包含する「個人の尊厳」というような普遍的な概念(なお,強い男性は,「個人の尊厳」の個人に包含されるというよりも,むしろ彼らによってこそ「個人の尊厳」が象徴されていたものでしょう。「近代西欧家族の「個人」が実は家長個人主義というべきものだった」こと(樋口56頁)に留意すべきです。)の称揚には興味がなかったのではないでしょうか。

また,「婚姻を「民族の維持・増殖の基礎」として憲法の保護対象とするワイマール憲法1191項と比べればもとより,〔1949年の〕ボン基本法6条が婚姻と家族に対する国家の保護に言及するにとどまっているのと比べても,「個人の尊厳」を家庭秩序内にまで及ぼそうとする点で,日本国憲法24条はきわ立っている」わけですが(樋口145頁),そのような「きわ立」ちまで,当時のGHQは意図していたものかどうか。現実には,明治民法の占領下における改正に関して,GHQは「正面きって家の制度を廃止しろといったようなことは全然ありませんでした」ということであって(我妻編13頁(奥野健一(当時は司法省民事局長)発言)),その報告書(Political Reorientation of Japan (1948))でも「家の制度の全面的廃止の問題は,憲法を履行するという憲法実施の要請以上の問題であるから,スキャップ〔聯合国最高司令官〕としてはこれを命令しなかった,スキャップとしては両性の平等とか個人の自由の原則は別として,家族法といったようなもののごときは,これを近代化し民主化するということはむしろ日本人自身の問題と考えたのであって,東洋の国に西洋的な家族関係の思想を標準として押しつけるというようなことは賢明とは考えなかったから命令しなかった,従って〔日本側の〕臨時法制調査会が家の制度の全廃を多数をもって決議〔19461024日の民法改正要綱決定〕したということを聞いたときは,スキャップとしては非常に驚いて,進歩的態度の表明としてその議決を歓迎した,というふうに報告して」いたところです(我妻編14頁(奥野による紹介))。家の制度と両立し難いものとしての「個人の尊厳」概念が,それとしてGHQ草案23条において提示されていたものとは考えにくいところです。

シロタ女史は,ワイマル憲法1191項を叩き台にして(篠原79頁(14)。同女史の原案には,GHQ草案23条においては削られている「したがって,婚姻及び家族は法によって保護される。(Hence marriage and the family are protected by law)」という文言が,「家族ハ人類社会ノ基底ニシテ其ノ伝統ハ善カレ悪シカレ国民ニ滲透ス」の部分の次にありました。これを再挿入すると,「婚姻は,家族生活及び国民の維持発展の基礎として,憲法の特別の保護を受ける」云々とするワイマル憲法1191項の組立てとの類似がより明らかになります。),同項を修正敷衍し,日本社会の当時の現実における男尊女卑的夫婦関係の問題点を指摘挿入し,かつ,当該問題点を是正すべき新立法を命ずることとして,結果として見られるような饒舌な条文をものしたものと思われます。

 

(3)民法821条の「人格を尊重」

 以上をもって長い憲法論をおえて,法令における「人格を尊重」のこれまでの用例に当たらんとするに,実は現行民法には既に「人格を尊重」云々の文言が存在していました。次のとおりです(下線は筆者によるもの)。

 

   (子の人格の尊重等)

  第821条 親権を行う者は,前条の規定による監護及び教育をするに当たっては,子の人格を尊重するとともに,その年齢及び発達の程度に配慮しなければならず,かつ,体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動をしてはならない。

 

令和4年法律第102号によって設けられ,20221216日から施行されている規定です(同法附則1条ただし書)。

 

(4)脱線その2:民法821条の位置論(「削除」を削る。)

ところで,ここでまた脱線して民法821条の位置について一言感想を述べれば,同条は「親権者の監護教育権(第820条)の行使一般についての行為規範を規定」する「総則的規律」であり,かつ,「監護教育権の各論的な規律の前の位置に」置かれるべきものであるそうですから(佐藤隆幸編著『一問一答 令和4年民法等改正――親子法制の見直し』(商事法務・2024年)130頁),「監護教育権の根拠規定」(同頁)である同法820(「親権を行う者は,子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し,義務を負う。」)の第2項として同条にまとめて規定される形でもよかったように思われます。しかし,あえてそれまでの第821(「子は,親権を行う者が指定した場所に,その居所を定めなければならない。」)を新822条に押しのけた上での新条追加の形が採られているところです。

そこでその理由をうがって考えれば,それまであった第822(「親権を行う者は,第820条の規定による監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる。」)の規定を令和4年法律第102号は敢然排除したところですが,そのために当該の条を削除しただけでは「第822条 削除」という形で痕跡が残り(これが,当該の条が全く蒸発し,したがってその後の全条が各々繰り上げられてその跡を埋める形となる「削る」との相違です(前田正道編『ワークブック 法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)468頁)。),将来,「おや,この条は「削除」か。削除されたここにはどういう規定があったのだろう。ああ,親権者の懲戒権に関する規定か。なるほど,日本が哀れな衰退途下国となってしまった平成=令和の国民元号の御代(筆者註:「国民元号」に関しては,「元号と追号との関係等について」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1073399256.html)の43)を御参照ください。)を迎える前の昔の立法者は丁寧だったんだね。親が自信をもって子のしつけを行うためにはやっぱり親権者の懲戒権の規定が必要なんだよね。そういうことであれば,いやいやいったんせっかく削ったことについては正当な理由があるのであって云々の難しい話はもういいから,一度は堂々あった懲戒権規定を新装復活させたらいいんじゃない。」という不必要に好奇心の強い者による旧規定の再発見及びそれを契機としての懲戒権規定の要否論争の蒸し返しを避けるためでしょう。民法典において「第822条 削除」との不審な表象が残らないように,そこを埋めるべく,新しい1条が必要であったわけでしょう。(なお,ここでいう懲戒権規定の要否論争については,「懲戒権に関する規定を削除してしまうと,親権の行使として許容される範囲内で行う適切なしつけまでできなくなるのではないかといった」心配は,「誤った受け止め方」であるということで(佐藤隆幸編著131頁),御当局筋では不要論が断乎採用され,けりがつけられています。)

回顧のよすがも残らないようにするdamnatio memoriaeを喰らうとは,民法旧822条の懲戒権規定は随分忌み嫌われていたものです。(筆者は民法旧822条に対して同情的であるようにあるいは思われるかもしれませんが,同情はともかくも,同条に関するblog記事(「民法旧822条の懲戒権及び懲戒場に関して」:

(前編)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080442857.html(モーセ,ソロモン,アウグストゥス,モンテスキュー,ナポレオン,カンバセレス及びミラボー)及び

(後編)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080442886.html(日本民法(附:ラヴァル政権及びド=ゴール政権によるフランス民法改正))

をかつて書いた者としては,思い入れは深いところです。)

 

2 新民法817条の12総論

 

(1)第1項前段

 さて,まず「子の人格を尊重」することに関して,民法821条と新民法(第213回国会の審議に付された頭書法律案が法律として成立して施行された後の民法を以下「新民法」といいます。)の第817条の121項前段とを比較すると,前者は「監護及び教育」をするに当たっての規律であり,後者は「養育」をすることについての規律です。規律の場面が異なっています。後者の場面については,20231128日に開催された法制審議会家族法制部会第34回会議に提出された家族法制部会資料34-2において「この資料では,父母の子への関わり合いのうち経済的・金銭的な側面から子の成長を支えるものを「扶養」と記載しており,これに加えて精神的・非金銭的な関与を含む広い概念として「養育」という用語を使っている。」と説明されている一方(4頁(注3)),「子の監護及び教育は,親権者の権利義務であり(〔民〕法第820条),〔中略〕この資料のゴシック体の記載のような規律〔新民法817条の12に対応〕を設けたとしても,親権者でない父母が監護及び教育をする権利義務を得ることとなるわけではな」いものとされています(4-5頁(注1))。

ところが,当該部会の部会長である大村敦志教授の著書の一節には,「「養育」という言葉の意味は明らかである。その「子の養育及び財産の管理の費用」(828条)という表現から,この言葉は,「監護・教育」を総称するものとして用いられていることがわかる」とあったところです(大村敦志『民法読解 親族編』(有斐閣・2015年)246頁)。したがって,夫子御自身の当該所論の扱いが問題になる可能性があったところ(世の中には,筆者のように面倒臭い人間がいるのです。)20231219日に開催された同部会第35回会議に提出された同部会資料35-2において,「なお,「養育」という用語は,民法第828条ただし書にも規定されているが,同条は親権者による子の養育等の費用の計算に関する規律である一方で,要綱案(案)第1の1で提示している規律〔新民法817条の12に対応〕における「養育」は,父母(親権者に限られない。)によるものであり,また,費用の支出を伴うものに限定するものではない点で,民法第828条ただし書の想定する「養育」と必ずしも一致しないと考えられる。」と,如才なく整理し去られています。そもそも民法上の父母の子へのかかわり合いのうちの「精神的・非金銭的な関与」の例としては,家族法制部会資料34-2は,監護及び教育ならざる「親子交流や親権喪失等の申立てなど」を挙げていました(2頁)。

ちなみに,フランス民法373条の215項は,「親権を行使する者ではない親は,子の監護及び教育を見守る権利及び義務を保持する。同人は,子の生活に関する重要な選択について了知していなければならない。同人は,第371条の2〔親の扶養義務に関する規定〕に基づき同人が負う義務を尊重しなくてはならない。(Le parent qui n'a pas l'exercice de l'autorité parentale conserve le droit et le devoir de surveiller l'entretien et l'éducation de l'enfant. Il doit être informé des choix importants relatifs à la vie de ce dernier. Il doit respecter l'obligation qui lui incombe en vertu de l'article 371-2.」と規定しており,親権を行使する者でない親であっても子の監護教育について全くの無権利ではないものとされています。これに対して,同項第1文流に我が新民法817条の12は解釈されるものではない,というのが立案御当局の御理解なのでしょうが,同条の文言のみからはやや分かりづらいところです。

 

(2)第2

 新民法の第8181項は,親権全般について,「親権は,成年に達しない子について,その子の利益のために行使しなければならない。」と規定します。これに対して,必ずしも親権者ならざる父母による新民法817条の121項の養育についても,当該父母はそれに係る「権利の行使又は義務の履行に関し」ては,「その子の利益のため」に「協力」すべきものとされています(同条2項)。父母の「協力」に関しては,新民法824条の21項本文(「親権は,父母が共同して行う。」)も,父母双方が親権者である場合について,親権共同行使の原則を定めています。これら新民法8181項及び同法824条の21項本文の規律(親権者による親権の行使に関するもの)と同法817条の122項の規律(父母による子に関する権利の行使及び義務の履行に関するもの)との関係は,親権者に限られぬ父母一般に係る後者の規律が総則的な位置に立つというものでしょうか。新民法817条の122項の「権利」及び「義務」は,文言上,同条1項の「養育」に係るものに必ずしも限定されてはいませんし,法制審議会家族法制部会資料34-2によれば,新民法817条の122項の「協力義務」に違反した場合には「親権者の指定・変更の審判や,親権喪失・親権停止の審判等において,その違反の内容が当該父母の一方にとって不利益に考慮されることになるとの解釈があり得る」とのことで(7頁(注1)),同項は親権行使の場面にも適用があることが前提とされています。

 しかし,新民法817条の122項については,「子の利益のため」はよいのでしょうが,「部会のこれまでの議論の中では,離婚後の父母の中には,子の養育に無関心・非協力的な親がいるとの指摘があった」ことから(法制審議会家族法制部会資料34-26頁),軽々(かるがる)と直ちに,婚姻関係にない「他人」の男女にまで両者間の「協力」を義務付けるのはいかがなものでしょうか。養育妨害禁止というような消極的なものにとどまらぬ積極的な協力の義務であるならば,それはやはり当事者の合意にその根拠付けを見出すべきもののように思われますが,両者間におけるそのような「合意」の契機のない子の父母というものも存在するのではないでしょうか。我が国の御当局には,いわゆる経済官庁による儚き「オール・ジャパン(日の丸)」プロジェクトの濫造に見られるように,「協力」のもたらすであろう神秘なsynergy効果を――「協力」が美しくも可能であることの絶対性と共に――安易かつ篤く信仰せられてしまう御傾向があるようではあります。「船頭多くして船山に登る」というような俗なことわざよりも,やはり「以和(わをもつて)(たふと)(しとなす)」と宣う聖徳太子の御訓えの方が重いのでしょうか。いずれにせよ,法的義務として成立するのならば,期待値の水準如何(いかん)はともかくも,そのときはそのようなものとしての取扱いがされなければなりません。(しかし,前記のとおり,これまでの民法において「協力」の語は,GHQ由来のものが2箇所(752条及び7683項)にしかなかったところであって,民法用語として熟したものであるかどうか。民法752条の「協力」の由来するところは,憲法のGHQ草案23条に鑑みると男性支配(male domination)の排除要請という消極的なものです。しかして「夫婦の協力義務は,義務の内容においても,分量においても,限定することはできない」漠としたものです(我妻・親族法84頁)。同法7683項の「協力」のそれは,財産分与の際に妻の取り分が2分の1になるべきことの確保にこだわるGHQ担当官が「協力によってえた財産の半分」などと口走ったことによるものです(我妻編140頁(小沢発言))。(この場面においては,「協力」に係る動機付けは,財産分与に当たっての有利性という形で,専ら経済的に劣位の配偶者に与えられることになります。)ちなみに,「婚姻中の財産の取得又は維持についての各当事者の寄与の程度は,その程度が異なることが明らかでないときは,相等しいものとする。」と規定する新民法7683項は,こうしてみると当該GHQ担当官の主張に近付いたもののように観察されます。)

なお,民法820条の「子の利益のために」との文言は,新民法8181項における当該文言と一見重複することになりそうですが,削られないようです。子の監護及び教育の場面においてこそ親権の濫用(「体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動」)が一番問題になるから重複をいとわなかったのだ,という説明になるのでしょう。ちなみに,民法821条の「「子の人格を尊重するとともに,その年齢及び発達の程度に配慮しなければならな」いとの規律」は,「監護及び教育が「子の利益のために」行われるべきとの〔同法820条の〕規律をより明確に表現する観点から」設けられた,当該規律を監護及び教育における「行為規範として更に具体化するもの」であるそうです(佐藤隆幸編著139頁)。

 

(3)第1項後段

ところで,新民法817条の121項後段の規定の意義は,「法律上の親である限り,たとえ親権がなくても,親として子に対する扶養義務を負う」こと及び当該扶養義務の負担については「「子に対し親権を有する者,又は生活を共同にする者が,扶養義務につき当然他方より先順位にあるものではなく,両者は,その資力に応じて扶養料を負担すべきものである」(大阪高決昭和37131日家月14-5-150。離婚後の非親権者についての判示)という立場が通説であり,裁判例の傾向でもある(非嫡出子の父について同旨,仙台高決昭和37615日家月14-11-103)」ということ(内田貴『民法 親族・相続』(東京大学出版会・2002年)296頁)並びに親の子に対する扶養義務は,「相手方に自己と同一程度の生活を保障する義務(生活保持義務とよばれる)」であるということ(同23頁)を明文化したものということになります。

「親の未成年子に対する扶養義務に関しても877条によるという見解はあるものの,親であることによる,あるいは,親権の効力による,という見解が説かれてい」たところ(大村464-465頁),つとに,「夫婦間の扶養義務のほかに,親の未成年子に対する扶養義務を明文化すべきであろう。これらの義務については,権利者・義務者の同居・別居にかかわらず義務は存続することも明示した方がよい。」と唱えられていたところです(同472-473頁)。

新民法817条の121項後段においては,扶養を受けるべき子は未成年子に限定されていませんが,この非限定性は,フランス民法371条の22(「子の養育料を負担する親の義務は,親権が剥奪され,若しくは停止されたこと又は子が成年であることによっては当然消滅しない。(Cette obligation ne cesse de plein droit ni lorsque l'autorité parentale ou son exercice est retiré, ni lorsque l'enfant est majeur.)」)の後段においても同様です。ただし,新民法817条の121項の扶養義務については,同項においては「父母が子との関係で生活保持義務を負うのが「子の心身の健全な発達を図るため」であるとしている」ことに注目すべきでしょう(家族法制部会資料34-26頁(注)参照)。

 

3 民法821条における「子の人格を尊重する」こと。

ここで具体的に,既存の規定である民法821条における「子の人格を尊重する」ことの趣旨の検討をしてみましょう。

 

(1)御当局の解説について

民法821条の趣旨を手っ取り早く知るために御当局の改正法立案御担当者の解説本を参照すると,次のようにあります。「親権者に「子の人格を尊重するとともに,その年齢及び発達の程度に配慮しなければなら」ないとの義務を課すこととしていますが,その趣旨は何ですか。」との問いに対して回答がされ,いわく。

 

   親権者による虐待の要因としては,親が自らの価値観を不当に子に押し付けることや,子の年齢や発達の程度に見合わない過剰な要求をすることがあるとの指摘がされています。

   改正法では,このような指摘を踏まえ,親子関係において,独立した人格としての子の位置付けを明確にするとともに,子の特性に応じた親権者による監護及び教育の実現を図る観点から,親権者の監護教育権の行使における行為規範として,子の人格を尊重する義務並びに子の年齢及び発達の程度に配慮する義務を規定することとしたものです。

  (佐藤隆幸編著138頁。下線は筆者によるもの)

 

わざわざ押し付けようとする「価値観」ですから,高尚なものなのでしょう。「過剰な要求」も,よかれと思われる方向に向けての要求なのでしょう。このような過剰な要求の問題に対処するために「年齢及び発達の程度に配慮」することが求められ,その余の価値観の押し付け等の問題に対処するために「子の人格を尊重する」ことが求められるのでしょう。

しかしながら残念なことにあんたの子供の「特性」すなわち生来の資質・志向・能力は,そのような高尚な価値観に見事に適合し,かつ,よかれと思っての諸々の要求に着々応えることができるという高度な水準に達した立派なものではないんだよ,むしろ出来の良くない方なのだよ,早熟の天才であるわけなど全然ないんだよ,諦めるべきところは早々に諦めた方が変な「虐待」騒動に巻き込まれずに済んで家族みんなの幸福のためになるんだよ,子とはいっても所詮は他人(「独立の人格」)なのだよ,諦めるんだよ,と勧告するのが,民法821条の趣旨なのでしょうか。そうであれば,「人格の尊重」なるEuphemismusの内実は,高尚な価値観を受け付けない当該人の具合の悪さをそれとして認識・受容した上で,同人に期待するところをその人物(personne)の程度・性向に合わせて変更せよ,という消極的なResignationの勧めなのでしょう。高い価値に向かって引き上げよ,押し上げよ,相共に前進せよ,という積極的なものではないのでしょう。

「人格を尊重」せよと言われると,つい当該人格の帰属者の「価値観」に迎合してかいがいしく当該人物に(かしず)かねばならないように思ってしまいます。しかし,それは忖度の先走り過ぎであって,敬してあえて遠ざかる対応もあってよいはずです。内面における「人格の尊重」と外面的かつ積極的な「人格を尊重している旨の表示行為」とは同一ではありません。むしろ,尊重するに値する人格は手のかからないものであって,巧言令色(すう)恭なる表示行為を恥とするものでしょう(論語公冶長)「人格の尊重」は,積極的な給付を行うことを必ずしも義務付けるものではないのでしょう。

 

(2)家族法制部会長・大村教授の所説に関して

民法821条における「人格を尊重」の意義については,また,令和4年法律第102号として結実することとなった要綱案202221日「民法(親子法制)等の改正に関する要綱案」。そのまま採択された要綱は,佐藤隆幸編著147頁以下に掲載)を取りまとめた法制審議会の民法(親子法制)部会の部会長であった大村敦志教授の次の文章も参照されるべきでしょう。

 

〔略〕暴力によらない教育 懲戒権についても,基本的には削除してよい。ただし,〔民法旧822条の〕削除によってしつけができなくなるという誤解を避けるために,親権を行う者には,子に対してしつけ(discipline)を行うことができる,という趣旨の規定を置いた方がよいかもしれない。もっとも,懲戒(correction)の場合と異なり,しつけには「暴力 violence」の行使は含まれず子を「尊重 respect」して行われなければならない旨を注記することも必要だろう。

(大村256頁)

 

 フランス派である大村教授の用いるrespectの語は,「レスペ」と発音するフランス語でしょう。同教授の著書には,「フランスでは,最近の民法改正によって,夫婦の義務に「尊重(respect)」が追加されたが,これは,相互の尊重を害する行為として暴力行為を位置づけるためではないかと思われる。」との一節があります(大村117-118頁。ただし同258頁は,フランス民法212条に加えられた夫婦の義務を「尊敬 respect」であるものとし,訳語が異なっています。また,同条は“Les époux se doivent mutuellement respect, fidélité, secours, assistance. (夫婦は相互に尊重,貞操,扶助及び協力の義務を負う(大村258頁参照)。)ですので,尊重されるのは相手方配偶者そのものであって,その人格ではありません。)。

当該単語“respect”の意味をLe Nouveau Petit Robert (1993)で検してみると,①古義は「考慮すること(Fait de prendre en considération)」,②現代では「同人について認められる価値のゆえに当該某に対する嘆賞の思い(une considération admirative)を抱かしめ,かつ,同人に対して節度及び自制をもって(avec réserve et retenue)振る舞うようにさせる感情(sentiment)」,③複数形では「敬意の印」,④「よいと判断されたもの(une chose jugée bonne)に対する,侵害せず,違背しないようにとの気遣いを伴う(avec le souci de ne pas y porter atteinte, de ne pas l’enfreindre)配慮(considération)」,⑤やや古い表現である“respect humain”は「他者の判断に対する恐れ(crainte)であって,一定の態度を避けるに至らしめるもの」及び⑥熟語として“tenir qqn en respect”は,「武器を用いて誰それを近づけない」ということである,というような説明がありました。⑥において顕著ですが,respectは,相手と距離を置くこと(le tenir à distance)を伴うものであって,節度及び自制(②)並びに侵害及び違背の避止(④)という消極的な配慮によって特徴付けられる態度であるわけです。かしこんで,みだりに関与しないということでしょう。べたべたと積極的に世話を焼くことが求められているわけではありません。②の語義に関するバルザックからの引用には「尊重(le respect)は,父母もその子らも同様に保護する障壁(une barrière)である。」とありました。分け隔てる障壁であって,(ぬる)かな一体化を促進するものではありません。(ところで,余計なことながら,⑤のrespect humainは,我が新型コロナウイルス対策流行時代の日本語では「思いやり」ですね。)

 しかし,衒学的にフランス語辞典を振り回さずとも,「尊重(respect)」するとは,単に,相手方に暴力を振るわず,かつ,その「個人の尊厳」たる「名誉」を害しない,ということを意味するにすぎないのだ,ということでもよいのでしょうか。大村教授の著書においては,前記のとおり,フランス民法で夫婦の義務にrespectが追加されたのは「これは,相互の尊重を害する行為として暴力行為を位置づけるためではないかと思われる。日本法においても,同様の規定を置くことは考えられないではない。」と記載されているとともに(大村118頁。また,258頁),「今日においては,侮辱こそが重要な離婚原因であるのではないか」,婚姻において「再び「名誉」が重要になりつつある。もっとも,ここでの「名誉」とは,「個人の尊厳」にほかならない。「尊重」という言葉はこのことを表すのである。」との見解が表明されています(同118頁)。

ただし,専ら暴力及び侮辱の禁止ということであれば民法821条後段の「体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動をしてはならない」で読めてしまうので,同条前段にいう「人格を尊重」は,それより広義なものと解さなくては,後段との単なる重複規定となって面白くないことになります。そこで,「価値観の不当な押し付け等」の禁止が含まれるものとされたのでしょう。他方,新民法817条の12は,父母は「体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動をしてはならない」旨まで明定することをしていませんが,これは,当該規律は「その子の人格を尊重する」というところに当然含まれているから,ということなのでしょう。

 

(3)フランス民法371条の1

 その後,フランス民法において,子の人格の尊重(respect)規定が設けられています。

 

   Article 371-1

L'autorité parentale est un ensemble de droits et de devoirs ayant pour finalité l'intérêt de l'enfant.

Elle appartient aux parents jusqu'à la majorité ou l'émancipation de l'enfant pour le protéger dans sa sécurité, sa santé, sa vie privée et sa moralité, pour assurer son éducation et permettre son développement, dans le respect dû à sa personne.

L'autorité parentale s'exerce sans violences physiques ou psychologiques.

Les parents associent l'enfant aux décisions qui le concernent, selon son âge et son degré de maturité.

 

  第371条の1 親権は,子の利益を志向する権利及び義務の総体である。

    親権は,その安全,健康,私生活及び徳性において子を保護するため,並びに,その人格に対して正当に払われるべき尊重をもって(dans le respect dû à sa personne)その教育を確保し,及びその発展を可能とするため,子の成年又は親権解放まで,父母に(aux parents)帰属する。

    親権は,肉体的又は精神的な暴力を伴わずに行使される。

    父母は,その年齢及び発達に応じて,子にかかわる決定にその子を参与させる。

 

フランス民法371条の1では,親権の行使における肉体的又は精神的な暴力の禁止の規律(同条3項。佐藤隆幸編著128頁では「親権は身体的暴力又は精神的暴力を用いずに行使される。」と訳されています。)とは直接結び付けられない場所において,子の「人格に対する正当に払われるべき尊重」が語られています(同条2項)。

「その人格に対する正当に払われるべき尊重をもって」の部分は「その安全,健康,私生活及び徳性において子を保護する」の部分にまでかかるものかどうかは難しいところですが,pour… pour…の区切りを大きいものと解してみました。確かに,安全やら健康にかかわる場面においては,最近の新型コロナウイルス感染対策の「徹底」的実施情況に鑑みても,いちいち各人の「人格に対する正当に払われるべき尊重」など気にしてはいられないでしょう。

しかしながら,子の「教育を確保し,及びその発展を可能とする」という場面(なお,ここでの教育及び発展は,単に肉体的なものではなく,そこにおいて尊重せられるべきものたる「人格」に係る「人格」的なものなのでしょう。)ならざる徳性(moralité)の保護の場面においては,その子の「人格に対する正当に払われるべき尊重」などというものに頓着する必要はないということになると,難しいことになるようです。教育及び発展に関する配慮と徳性の保護との切り分けが大きな重要性を帯びることになってしまうからです。特に家庭における宗教実践は,子の教育及び発展に係る配慮の側面とその徳性の保護の側面との両面を有するものでしょう。前者においては子の人格を尊重するが,後者においては子の異議は一切許さない,というような使い分けがうまく行くものかどうか。また,神聖な宗教の価値観の押し付けが「不当」なものであることは,切り分け云々以前に,そもそもあり得ないとの主張も当然あるでしょう。

なお,フランス民法371条の12項は子の「人格に対する正当に払われるべき()尊重」といって,単純に「人格に対する尊重」といっていませんが,父母としてふさわしからざる,子の人格に対する迎合的尊重まではする必要はない,という趣旨でしょうか。

 

(4)解釈論

 以上フランス民法をも参考にして民法821条における「子の人格を尊重」の意味するところを解せば,親権を行う者による子に対する暴力及び侮辱を禁止する(これは,子の虐待防止の緊要性に鑑み,同条後段において再び,単純な暴力及び侮辱の禁止よりもやや包括的な形で文字化されていることになります。)ほか,子の教育及びその人格的発展に係る監護においては,親権者はその理想を,子の特性(資質・志向・能力の限界又は偏向)の前に諦念と共に譲って(ただし,フランス民法371条の12項の“dû”の文言を重視すれば,無節操に子に迎合するということではないことになります。),自らの価値観の承継などということに執着すべからず,と義務付けるものということになるでしょうか。

 

4 新民法817条の12における「人格を尊重」すること。

 

(1)第1項

 新民法817条の121項の「子の人格を尊重」については,民法821条におけるもののように理解すれば大体のところはよいのでしょう。

ただし,新民法817条の121項の「子の人格を尊重」に関しては,法制審議会家族法制部会において,子の意見等を尊重・考慮(これは,2024130日に開催された同部会第37回会議に提出された同部会資料37-22頁によれば,「子の「意見」・「意思」・「意向」・「心情」等の「考慮」又は「尊重」」ということのようです。)する旨の規定を別に明示すべきではないかということが問題となり,最終的な整理は,同部会第37回会議における法務省民事局参事官である北村治樹幹事の発言(同会議議事録2頁)によれば,同項の「子の人格を尊重する」ことは,「子の意見等が適切な形で尊重されるべきとの考え方を含むもの」であるとされたとのことです。しかして結局このようにして子の意見等の尊重に係る規定を特に設けなかったことの意味は,同部会の資料34-2における記載(「子の人格の尊重等を掲げることに加えて,子の意見等を尊重・考慮すべきことを父母の義務として掲げるべきかどうかを検討するに当たっては,子の意見等を明示的に規定することの法的意味やそれが父母の行動に与える影響等を踏まえつつ,どのような表現により規律することが相当かも含め,慎重に検討する必要があるように思われる。この部会のこれまでの議論においても,例えば,具体的な事情の下では子が示した意見等に反しても子の監護のために必要な行為をすることが子の利益となることもあり得るとの指摘や,子の意見等を尊重すべきことを過度に重視しすぎると,父母が負うべき責任を子の判断に転嫁する結果となりかねないとの指摘,父母の意見対立が先鋭化している状況下において子に意見表明を強いることは子に過度の精神的負担を与えることとなりかねないとの指摘などが示されていた。」(5-6頁))等に鑑みると,子の意見等の尊重といっても,そこには自ずと限界があるということを含意するものでしょう(フランス民法371条の12項の“dû”参照)。確かに,子の意見表明権といってもその際親が「自己の都合のいいようにこどもに意見を言わせるというような行為は不適切な行為であって,それこそ子の人格の尊重にもとる行為」(202419日に開催された法制審議会家族法制部会第36回会議における池田清貴委員発言(同会議議事録14頁))となるものでしょう。子の人格の独立性もあらばこそ,親が子の人格を否認して,自己の人格に従属させることになるからです。

 

(2)第2項

他方,新民法817条の122項は,子の父母は「子に関する権利の行使又は義務の履行に関し,その子の利益のため,互いに人格を尊重し協力しなければならない」ということですから,そこでは父母間における相互的な「人格の尊重」が求められています。

これについては,親による「子の人格の尊重」の場面とは異なりますから――新民法817条の122項における父母は,夫婦すなわち婚姻関係にあるものに限定されていないものの――フランス民法212条の規定する夫婦相互の義務に関する前記大村教授流の解釈を採用することが可能であるようです(ただし,夫婦ではないので,「貞操,扶助及び協力(なおこの「協力」は "assistance"ですので,新民法817条の122項の「協力」とは異なる「助力」「補佐」といったものでしょう。)」の義務は相互に負いません。)。そうであれば,「互いに人格を尊重し」と文言は抽象的ながらも,その意味するところは両者間における暴力・侮辱の禁止にとどまることになりましょう(法制審議会家族法制部会資料34-2によれば「部会のこれまでの議論においては,離婚後の父母双方が子の養育に関して責任を果たしていくためには,父母が互いの人格を尊重できる関係にある必要があることや,父母が平穏にコミュニケーションをとることができるような関係を維持することが重要であることなどの意見が示された」ことを踏まえて「父母がその婚姻関係の有無にかかわらず互いの人格を尊重すべきである」との規定が生まれたそうですが(6頁),「互いの人格を尊重できる関係」といわれただけではなお具体的にどのようなものかが分かりにくいところ,「平穏なコミュニケーション」の確保が主眼ということになりましょうか。)。「協力」することの前提条件としてはこれで満足すべきなのでしょう。価値観の相違等は,協力の過程の中で解きほぐされて何とかされていくべきものでしょう。新民法817条の122項の「互いに人格を尊重し・・・なければならない」との「人格尊重義務」の違反には,「親権者の指定・変更の審判や,親権喪失・親権停止の審判等において,その違反の内容が当該父母の一方にとって不利益に考慮されることになるとの解釈があり得る」とのことですので(法制審議会家族法制部会資料34-27頁(注1)),当該義務の外延は明確に限定されてあるべきものでしょう。ちなみに,離婚後等の父母共同親権状態を父母のうちいずれか一方の単独親権に変更する場合の審判において適用される新民法81972号は,「父母の一方が他の一方から身体に対する暴力その他の心身に有害な影響を及ぼす言動(次項において「暴力等」という。)を受けるおそれ」等の事情を考慮するものとしています。父母が協力してする子の養育においても,両者間における当該暴力等が協力の阻害要因として特に懸念されるということでしょう。

その余の種々の注文を取り除いた狭い解釈(専ら暴力・侮辱を禁ずるものとの解釈)を採用した方が,それについて「互いに人格を尊重」すべきものとされた(暴力・侮辱禁止以外の)多様な事項に係る諸々の事情が理由ないしは口実(例えば,「全面的に私の人格を尊重しないような奴と子育てについて協力するいわれはない」云々)とされて「その子の利益のため」の「協力」及びそれに向けた努力が放棄されてしまうという(子にとって残念であろう)場面が,より少なくなるものと思われます。

法制審議会家族法制部会第36回会議において示された原田直子委員の理解によれば,新民法317条の122項の「互いに人格を尊重し」なければならないとの規律に違反して「親権の変更とか,そういう問題に通じる」行為は,「父母間の対立をあおる行為」であって,①「DVや虐待」,②「濫訴的な申立て」,③「父母の同意なしに勝手にこどもの写真とかをネットに上げ」ること及び④「元配偶者の批判をするとかいう行為」が含まれるとされています(同会議議事録5頁)。しかし,同項での「人格を尊重し」の射程の限界付けを重んじようとする立場からすると,①はともかく,②は非協力・反協力の問題であり,③は子の利益に反するとともに非協力であるから問題なのでしょうし(なお,ちなみにフランス民法372条の11項は「父母は,第9条に規定する私生活の権利を尊重して,彼らの未成年子の肖像権を共同して保護する。(Les parents protègent en commun le droit à l'image de leur enfant mineur, dans le respect du droit à la vie privée mentionné à l'article 9.)」と規定しています。),④も,相手方に対する侮辱に相当することとなる場合に当然問題となるほかは,子に対してされる場合において,子の利益に反するときに問題となり,かつ,間接的に反協力行為となるものであると考えるべきではないでしょうか。

なお,別居親(les parents séparés)による親権行使に関するフランス民法373条の22項は「父母の各々は,子との個人的な関係を維持し,かつ,その子と他方の親とのつながりを尊重しなければならない。(Chacun des père et mère doit maintenir des relations personnelles avec l'enfant et respecter les liens de celui-ci avec l'autre parent.)」と規定しています。ここで父母の各々が尊重すべきもの(doit respecter)として規定されているのは,「子と他方の親とのつながり」です(ちなみに,当該つながり(liens)に対する「尊重」の意味するところは,要は,積極的作為義務ではなく,他方の親と子とのつながりを阻止し,又は稀薄化し,若しくは消滅せしめるような意地悪をするな,という消極的なものでしょう。)。これに対して,我が新民法817条の122項において,父母によって尊重されるべきものは専ら互いの人格です。しかし,相手方によって尊重されるべき父又は母の各「人格」にその子とのつながりまでが当然含まれるものかどうか。やはりそこまでは,ちょっと読み取りにくいように思われます(なお,20231128日開催の法制審議会家族法制部会に提出された同部会資料34-2には「部会資料32-1の第23の注2では,「監護者による身上監護の内容がその自由な判断に委ねられるわけではなく,これを子の利益のために行わなければならないこととの関係で,一定の限界があると考えられる。例えば,監護者による身上監護権の行使の結果として,(監護者でない)親権者による親権行使等を事実上困難にさせる事態を招き,それが子の利益に反する場合がある」との指摘を注記しているが,このような監護者による監護の限界を父母間の人格尊重義務と結びつけて整理することもできると考えられる。」とありますが,当該監護の限界は,やはり直接的には「子の利益に反する」ことによるとともに,親権者に対してはそもそもその権利を侵害してはならないことによるのではないでしょうか。)

父母の各々と子とのつながりに対する他方の「尊重」については,我が国ではむしろ,「親子の交流等」に係る新民法817条の131項の規定(「第766条〔協議離婚〕(第749条〔婚姻の取消し〕,第771条〔裁判上の離婚〕及び第788条〔父による認知〕において準用する場合を含む。)の場合のほか,子と別居する父又は母その他の親族と当該子との交流について必要な事項は,父母の協議で定める。この場合においては,子の利益を最も優先して考慮しなければならない。」)における「〔父母の協議〕の場合においては,子の利益を最も優先して考慮しなければならない」の部分が対応するということなのでしょう。しかし,「子の利益を最も優先して考慮」した結果,他方の親とのつながりを阻止し,又は稀薄化し,若しくは消滅せしめるべきであるとの結論に達した父母の一方の当該結論を,同項の規定自体によって否定することは難しいのではないでしょうか。

「面会交流はかえって父母の間の関係を複雑にする,という危惧も強く,その権利性を認めるのに慎重な見解」があったところ(大村98頁),2023718日に開催された法制審議会家族法制部会第29回会議に提出された同部会資料29に記載されているところは「(抽象的な)親子交流の法的性質についていかなる見解を採るにせよ,本文記載のとおり,父母の協議又は審判によって具体的に親子交流の定めがされた場合には,父母間に具体的な権利義務が発生するものと考えられる。この部会における議論の中では,父母は,離婚後も,子の養育に関して双方の人格を尊重しなければならないとする考え方も示されていたところ,仮にこの考え方を採用する場合には,父母の協議又は審判によって親子交流の定めがされ,これが具体的な権利となったときには,父母は,その実施に当たって相互に協力するとともに,互いの人格を尊重しなければならないとする考え方があり得る。他方で,仮に親子交流をすることが親の権利であると考える意見に立ったとしても,この「権利」は,子の利益のために行使すべきものである上,父母の協議又は審判によって親子交流の定めがされるまでは,その権利の内容が具体的に定まらないため,子と別居する親が,親であること(又は親権者であること)のみをもって,同居親に対し,自己の希望する方法や頻度での親子交流の実施を一方的に請求し,その強制をすることができるわけではないと考えられる。」というものでありました(35頁(注1))。結局,家族法制部会資料34-2においては,「親子交流については,父母の協議又は家庭裁判所の手続によって定めることが想定されているため(〔民〕法第766条),この資料のゴシック体の記載のような規律〔新民法817条の12に対応〕を設けたとしても,〔中略〕父母の協議等を経ることなく別居親が親子交流の実施を一方的に求めることができるようになるわけではないと考えられる。」とされています(4-5頁(注1))。

ちなみに,フランス民法373条の212項は,「訪問及び宿泊受入れの権利の行使は,重大な事由によらなければ,他方の親に対して拒絶され得ない。(L'exercice du droit de visite et d'hébergement ne peut être refusé à l'autre parent que pour des motifs graves.)」と規定しています。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 はじめに

 113日の文化の日の由来については,194875日に制定され,同月20日に公布されると共に同日から施行された国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)の制定時における参議院の担当委員会たる文化委員会の委員長たりし山本勇造(作家としては,山本有三)の手記があります。筆者が参照し得たものは,高橋健二編『人生論読本 第九巻 山本有三』(角川書店・1961年)に収載されたもので,「文化の日」と題されています(同書189-194)。

 本稿は,当該文章に関して筆者が行ったいささかの考証を記すものです。

 

2 1948年4月14日の両議院文化委員会合同打合会(憲法記念日:衆=5月3日,参=11月3日)まで

 

  〔前略〕当時われわれのおった参議院の文化委員会では,〔略〕われわれのやるべきことは,国民の祝日を選ぶことであって,皇室の祝日を選ぶのではな〔かった〕。われわれが最も力を入れたのは,113日であった。この日は新憲法公布の日だから「憲法記念日」としたかったのである。

   しかし〔総司令部(GHQの〕CIE(民間情報教育局)は,それを許さなかった。「憲法記念日」なら,53日でいいではないかというのである。そのうちに,衆議院は53日を承諾してしまったので,交渉は一層やりにくくなった。

  (山本「文化の日」190頁)

 

皇室の祝日を選ぶのではなかったところ,参議院文化委員会においては,当時の昭和2年勅令第25号(休日に関する件)にあった「大正天皇祭〔同天皇の崩御日である1225日〕,春秋二季の皇霊祭,明治節〔113日〕等は皇室中心の祝祭日であるから,今度の新憲法の精神と照らし合わせて,存置しないことに決定」されています(参議院議長・松平恒雄宛ての同年73日付けの同議院文化委員長・山本勇造の「調査報告書/祝祭日の改正に関する件」(第2回国会参議院会議録第60号附録141-150頁)の144頁)。また,「「元始祭」〔13日〕,「新年宴会」〔15日〕,「神嘗祭」〔1017日〕,「新嘗祭」〔1123日〕はいずれも天皇がみずから行われる祭典であつて,皇室中心のものであり,一般の国民には縁遠いものである」から,参議院文化「委員会としては,これらは,いずれも国民の祝祭日として適当のものとは考えられないので,採用しないことに意見が一致した」とされています(同報告書145頁)。43日の神武天皇祭は,そもそも,日本書紀の「七十有六年春三月甲午朔甲辰,天皇崩〔于〕橿原宮,時年一百二十七歳」との記述が,根拠として「むろん信を置くわけにいかない」とされて落とされていました(同報告書144頁。ここでの「根拠」は,当該事実(神武天皇の崩御)発生の日付の根拠のことでしょう。)。ただし,「春秋二季の皇霊祭はそれ〔ぞれ〕春分,秋分の日にあたつているし,時候もよい時であるから,もとの姿の「春分の日」「秋分の日」としてこの二つの日は生かしたいというのが,多数の委員の意見であつた」そうです(同報告書144頁)。

ところで,19484月の14日及び15日にそれぞれ開催された衆議院文化委員会と参議院文化委員会との合同打合会及び合同小委員会(山本報告書142頁参照)に提出された両委員会の仮案においては,既に衆議院側のものが,53日を「憲法記念日」の祝祭日たるべきものとしていました(山本報告書150頁)。これは,憲法記念日の日付について,衆議院文化委員会は当時既にGHQの御指導に服していたということでしょうか。これに対して,参議院側の仮案はなお,同日をもって「こどもの日」又は「母の日こどもの日」の祝祭日たるべきものとし,「憲法記念日」は113日たるべきものとしています(同頁)。

55日でなくて同月3日が「こどもの日」とは,今となっては奇異に感じられますが,これについては参議院文化委員会なりのもっともな理由付けがあったところです。「こどもの日を選ぶにあたつて,特に注意すべきことは,季節の問題である。風習からいえば,こどもの日にあたるものは33日の「ひな祭り」と55日の「たんごの節句」であるが,男の子の日,女の子の日というように別々にすることは,祝祭日の数をふやすことになるし,また男女の差別をつけることも好ましくないので,まずこれを一本にちじめることにした。そこで一本にまとめるとすると,季節の上からいえば55日のほうがよいが,これは男の子の日であるから,女の子のことも考慮して,新しく折衷案を作つた。すなわち,月はたんごの節句からとり,日はひな祭りからとつて,53日としたのである。しかも,この日は憲法実施の日であるから,この日をこどもの日とすることによつて,次ぎの時代の人々に新憲法の精神を普及させたいという意図も含めたのである。」ということでした(山本報告書146頁)。男女の中間の44日ということは考えられていなかったようです。確かに,4月の上旬では,北海道などはあたかもどろどろの雪解けの時期で,季節としては依然よろしくないところです。(ちなみに,衆議院文化委員会の仮案では,41日に「子供の日」が祝祭日ならぬ休日として設けられることとなっていました(山本報告書149頁参照)。)なお,「母の日こどもの日」というのは,「婦人の日」を採択しない代償としての命名です(山本報告書147頁)。当該趣旨は,現在の国民の祝日に関する法律2条におけるこどもの日の趣旨説明文に「こどもの人格を重んじ,こどもの幸福をはかるとともに,母に感謝する。」として残っているわけでしょう(下線は筆者によるもの)。しかし,「次ぎの時代を背負う「こどもの日」を設けるなら,そのこどもを育てあげるのは,大部分婦人の力であるから,当然「婦人の日」も設けるべきである。」というような当時の参議院文化委員会における議論(山本報告書147頁)は,意識の向上した令和の人民の御代においては,およそ通用するものではないでしょう。育児は母のワンオペでされるべきものと決めつけることは男女共同参画社会においては許されず,更に婦人イコール母となるものと考えるのは生き方の多様性を否定する遅れた思考であるとともに若い女性を「産む機械」と捉える発想につながり,そもそも婦人の「婦」の字は箒を持つ女性ということであって,男は散らかし母なり妻がそのあと片付けをして掃除をするという性差による役割分担に係る偏見を助長する差別文字です。

 

3 11月3日にGHQが反対した理由:「ホウジュ」課長の打ち明けばなし

 衆議院文化委員会は憲法記念日を53日とするのでよいのだとしていましたが,参議院文化委員長は113日説を持して譲りません。

 

しかし,わたくしはあきらめなかった。〔略〕この法案の担当課長であったCIEのバンス氏は,いつも「ノー」といっていたけれども,全く理解していないわけではなかった。思い余った彼は,最後に企画のホウジュ課長を紹介した。ところが同課長もやはり「ノー」であった。それでも引きさがらずに,なお,こちらの意見を述べたが,結局113日という日が,どうしてもいけないのだというのである。

   なぜかと追求すると,困った顔をしながら,あなただから話すのだが,これは委員会には報告しないでくれといってこう語ったのである。

   「あなたがたは,総司令部が干渉しすぎると思っているでしょうが,総司令部もまた干渉を受けているのです。なにしろ連合軍なのですからね。ソ連やオーストラリアをはじめ各国から非難や注文が絶えず殺到しているのです。そう。――ここに,『フォーリン・アフェアーズ』があります。ご覧なさい。前イギリス代表であったオーストラリアのマクマホンボール氏は,こんなにながながとマッカーサー元帥を非難しています。このなかにも,113日のことが出ていますよ。憲法公布は111日にやるはずであったにもかかわらず,3日に変更した。理由は,半年後の実施の日が,メーデーとかち合って,混乱をおこすおそれがあるというのだが,日本の実際の腹は,明治節を温存し,ふたたび復古的な日本に立ち返ろうとしているのだ。元帥は甘い。日本にだまされているのだ。――どうです。そう書いているでしょう。こういう意見は,これだけではありません。こういう次第ですから,この日は憲法記念日として許可するわけにはいかないのです。あなたの意見はもっともですが,こちらにも,つらい事情があるのです。」

   こう腹を割った話をされては,それでもとはいえなかった。〔略〕その日は退出した。〔後略〕

  (山本「文化の日」190-192頁)

 

日本国民が113日をもって国民の祝日とすることはまかりならぬと立ちはだかった共産主義・社会主義,白濠主義等を奉ずる諸外国勢力中の巨頭は,オーストラリアの外交官であったW. Macmahon Ball氏(19464月から19478月まで聯合国の対日理事会における英国代表兼在日オーストラリア公使)であって,日本国憲法が公布された194611月から国民の祝日に関する法律が制定された19487月までに発行されたForeign Affairs誌のどれかに,日本国における新憲法公布日にかこつけた113日=明治節保存の「陰謀」を糾弾する主張を含む論文を掲載したということのようです。しかして,参議院文化委員会は,その祝祭日の選定基準10項目中の第4において「国際関係を慎重に考慮すること」としていたところでもありました(山本報告書142頁)。「この度祝祭日を定めるというので,世界では,日本がどんな日を選ぶかということに非常に注目を払つております。日本は日本の日本でない,世界の中の日本であります。殊に今日は連合軍の占領下にあるのであります。我々は十分に国際間のことを考慮し」なければならなかったわけです(194874日の参議院本会議における山本勇造文化委員長報告(第2回国会参議院会議録第59号(2954頁))。

 

4 マクマホン・ボールの『日本――敵か味方か?』

なるほど,憲法記念日が113日ではなく53日になったことについては,113日を誹謗する厄介な論文がForeign Affairsに掲載されていたという事情があったのか。

 ということで,余計なことながら筆者は図書館に出かけて,Foreign Affairs誌(年4回発行)の実物の194610月号,19471月号,同年4月号,同年7月号,同年10月号,19481月号,同年4月号及び同年7月号の各目次を検してみたのですが・・・何と,Macmahon Ball御大の論文はそれらの中には見当たりませんでした。山本有三に限らず,年寄りの回顧談には,記憶の曖昧やら混乱やらがあるものなので眉に唾をつけて用心しなくてはならないということなのでしょう。(なお,Foreign Affairs19487月号には高木八尺教授の“Defeat and Democracy in Japan”(「日本の敗北及び民主主義」)と題された論文が掲載されています。しかし,そこにおいて,“Japan needs Protestant Christianity, with emphasis on the teaching of Christ, not on institutionalism. […] Japan’s spiritual revolution will remain incomplete until Christianity is integrated in the Japanese code of morality.”p.651. 「日本には,制度主義にではなくキリストの教えに重点を置いたところのプロテスタントのキリスト教が必要なのです。〔略〕キリスト教が日本人の道徳律に統合されるまでは,日本の精神革命は未完のままなのであります。」)とまで書いて敬虔なキリスト教徒たる米国の読者にリップ・サービスしてしまっているのはいかがなものでしょうか。とはいえ,1948414日の衆議院文化委員会の仮案では1225日を「クリスマス」として休日とするものとしていましたが(山本報告書150頁参照),これは「世論調査では相当の希望者があつた」からでしょう(同報告書147頁)。) 

 しかしながら,マクマホン・ボールは,1948年後半にメルボルンで,Japan—Enemy or Ally?(『日本――敵か味方か?』)と題された本を出しています(ただし,同年12月付けの同氏の序文によればメルボルンでの出版は同月の数箇月前(a few months ago)のことですから,我が国における国民の祝日に関する法律の制定後のことでしょう。なお,増補改訂版が1949年にニュー・ヨークで,the International Secretariat, Institute of Pacific Relations, and the Australian Institute of International Affairsの合同名義で(under the joint auspices of),The John Day Companyから出版されています。筆者が利用することができたのは,このニュー・ヨーク版です。)。しかして,「ホウジュ」課長が山本有三に紹介したというマクマホン・ボールの文章に近いものと考えられる記述が,出版時期の問題は別として,Japan—Enemy or Ally? には確かにあるのでした。(なお,同書の出版名義として上記のとおりオーストラリアのインターナショナル・アフェアーズ協会(Australian Institute of International Affairs)という名称が出て来ますところ,山本有三はこれを,「フォーリン・アフェアーズ」ともっともらしく記憶したものでしょうか。)

 

   I think it was significant that the day the Japanese Government chose for inaugurating the Constitution, which was to strip the Emperor of all political power and separate religion from the state, was Meiji Day, and that the Emperor’s first act that day was to report on this strange event to his ancestors at the three main shrines in the Palace precincts. Later a great rally of citizens was organized on the Imperial Plaza. After the crowd had listened below the Palace to speeches by political leaders explaining the significance of the new Constitution, the national anthem was sung. Suddenly the imperial carriage was seen crossing the bridge over the moat. The Emperor was arriving. The crowd shouted itself hoarse in a fever of devotion. Allied newspapermen present told me they had never heard such banzais since the death charges of the war. When, after two minutes, the Emperor withdrew, the crowd surged after him, treading many underfoot in their excitement. Priests beat their drums to ward off evil spirits. For hours afterwards the crowd filed over the dais for the honor of treading where the Emperor had trod.

     (Macmahn Ball, pp.53-54)

 

   私は,天皇から全ての政治上の権限を剥奪し,かつ,宗教を国家から分離せしめるべきものである憲法を公布するために日本国政府が選んだ日が明治節(Meiji Day)であったこと及びその日における天皇の最初の行為が宮中三殿においてこの奇妙な出来事を皇祖皇宗に親告することであったことを注目すべきものと考える。その後宮城前広場に市民大会が組織された。新憲法の意義を説明する政治指導者らの演説を宮城の下で群衆が聞いた後,国歌が歌われた。突然,濠の上の橋を渡る天皇の馬車が見えた。天皇が現れるのである。群衆は,献身の熱情と共に声をからして絶叫した。その場にいた聯合国の新聞記者らは,戦争中の玉砕突撃以来,そのようなバンザイを聞いたことは全くなかったと私に語った。2分後に天皇が戻る際,群衆は彼に向って殺到し,多くの者が踏みつけられた。僧侶らが悪霊を祓うために太鼓を叩いた。その後何時間も,天皇が立った場所に立つという栄誉のために,群衆は列をなして式壇の上を歩いたのだった。

 

       It is my strong impression, despite all efforts at democratization, that the Emperor is still the political sovereign and still the Son of Heaven in the hearts and minds of the overwhelming majority of the Japanese people. I think it probable that his real political power is even stronger than before the war. He is all the Japanese people have to hold on to. […] He is the divine ruler, who preserves their national unity and who will restore that leadership among nations that has been temporarily lost through the blundering of their generals and the overwhelming material resources of the United States.

     (Macmahon Ball, p.55)

 

   民主化のための全ての努力にもかかわらず,日本人民の圧倒的多数の心中胸中において,天皇はなお政治的主権者であり,かつ,なお天子さまである,というのが私の抱く強烈な印象である。彼の実質的な政治権力は戦前よりもむしろ強くなったといい得るものであると私は考える。彼は,そこに縋るべきものとして日本人民が有するものの全てなのである。〔略〕彼は神たる支配者であり,彼らの国民的統一を維持しており,かつ,彼らの将軍らの失策及び合衆国の圧倒的物量によって一時的に失われた諸国民間における指導的地位を回復せしめるのである。

 

       The Emperor system was to be the facade behind which they [the Satsma and Choshu clans] ruled Japan. We need to be wary today lest those conservative groups that are so anxious to protect the Emperor system are not merely hoping to exploit the Emperor’s new human and democratic attributes in the same way that the Satsumo(sic) and Choshu clans tried to exploit the Emperor Meiji’s divine attributes. A feudal system could hardly have a more acceptable front than a human and democratic Emperor.

     (Macmahon Ball pp.55-56)

 

  天皇制は,その背後において彼ら〔薩長閥〕が日本を支配した前面建築物たるべきものなのであった。今日我々は,天皇制を守ることにしかく熱心な守旧派諸グループは,明治天皇の神的属性を薩長閥が利用しようとしたのと同じようにして現天皇の人間的かつ民主的な新属性を利用すべく望んでいるだけではないのではないか,ということを憂慮しなければならない。封建制度にとって,人間的かつ民主的な天皇以上に結構な隠れ蓑はそうないものであろう。

 

マクマホン・ボールの記述に関連する1946113日の昭和天皇の動静については,宮内庁において次のような記録があります。

  

  明治節祭につき,午前,賢所・皇霊殿・神殿への御代拝を侍従徳川義寛に仰せつけられる。なお聯合国最高司令部は日本政府の請求により,去る1026日付を以て,この日の日章旗掲揚は差し支えない旨を通知する〔筆者註:日本国憲法案が枢密院によって可決されたのは同月29日,昭和天皇によって裁可されたのは同月30日〕。また,明治神宮例祭につき,勅使として掌典酒井忠康を同神宮に差し遣わされる。同例祭へは,御服喪中の年を除き,戦後も引き続き毎年勅使を御差遣になる。〔略〕

  日本国憲法公布につき,午前9時,賢所皇霊殿神殿に親告の儀を行われ,御拝礼になり御告文を奏される。ついで朝融王・盛厚王・故成久王妃房子内親王・恒德王・春仁王が拝礼し,内閣総理大臣吉田茂・枢密院議長清水澄以下29名が拝礼する。

  (宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)223-224頁)

 

  東京都議会主催日本国憲法公布記念祝賀都民大会に御臨場のため,午後220分,皇后と共に御文庫を発御され,馬車にて宮城前広場に行幸される。崇仁天皇・同妃百合子・春仁王・同妃直子が参列する。天皇が玉座に着かれた後,内閣総理大臣吉田茂の発声による万歳三唱を皇后と共に受けられ,同所をお発ちになる。御帰途,鉄橋宮城正門鉄橋,通称二重橋上において馬車を停められ,奉拝者の歓呼にお応えになる。同50分,還御される。

  (実録第十227-228頁)

 

 マクマホン・ボールの日本に対する警戒心は徹底しています。

 

  I can see no reason why Japan will be less likely in the 1950’s than in the 1930’s to want to use war as an instrument of national policy. Imperialism and militarism may well be the inevitable expression of the sort of economic and social system that still stands in Japan.

     (Macmahon Ball, p.187)

 

  1950年代の日本が1930年代に比べて,国家政策の手段として戦争に訴えようとする傾向をより少なく持つようになるという理由を私は見出すことができない。帝国主義及び軍国主義は,日本においてなお存在する種類の経済社会システムにとって,不可避の発現形態であろう。

 

       […] I believe it is rash and dangerous to assume that Japan cannot in the foreseeable future again become a danger to her neighbors.

       (Macmahon Ball, p.188)

 

  〔略〕私は,想定され得る限りの未来において日本が近隣諸国に対する脅威に再びなることはあり得ないと想定することは,早計であり,かつ,危険であると信ずる。

 

       It seems probable, nevertheless, that strong controls will be necessary for at least a generation, or, say, twenty-five years. It is hard to believe that the re-education of the Japanese and the consolidation of new leadership could be achieved in a shorter period.

     (Macmahon Ball, p.191) 

 

  しかしながら,少なくとも一世代,又は,例えば25年間,強力な監督が必要となるであろうと思われる。日本人の再教育及び新指導者層の確立がそれより短い期間中に達成され得るものとは信じ難いのである。

 

    I was often told in Tokyo, not only by Japanese, but by Americans and others, that Australians seemed more bitter and revengeful toward the Japanese people than any other of the Allied peoples. I once had the disagreeable distinction of being described in part of the United States press as the “leader of the revenge school” in Japan.

     (Macmahon Ball, pp.5-6)

 

  東京において私はよく,日本人からのみならずアメリカ人その他の人々からも,オーストラリア人は他の聯合国人民のいずれよりも日本人民に対してより意地悪であり,かつ,より強い復讐心を抱いているように見える,と言われた。私は一度,合衆国のプレスの一部から日本における「復讐派の首領」として記述されるという有り難くない栄誉を頂戴した。

 

先の大戦中における日本からの侵略に対する恐怖は,人口の小さなオーストラリアにとっては甚大なものがあったのでしょう。現実には,帝国海軍は194257-8日の珊瑚海海戦に勝てず,帝国陸軍はニュー・ギニア島のオーエン・スタンレー山脈で消耗し果ててしまったのですが。

ちなみに,珊瑚海海戦を戦った我が第四艦隊の司令長官は,阿川弘之の小説『井上成美』において立派な軍人として描かれる井上成美です。ただし,194258日の昭和天皇の御様子は次のとおりであって,なかなか厳しい。

 

夕刻,御学問所において軍令部総長永野修身に謁を賜い,珊瑚海海戦の戦果につき奏上を受けられる。戦果に満足の意を示され,残敵の全滅に向けての措置につき御下問になる。軍令部総長より第四艦隊司令長官は追撃を中止し,艦隊に北上を命じた旨の奉答あり。天皇は,かかる場合は敵を全滅させるべき旨を仰せになる。軍令部総長の退出後,侍従武官長蓮沼蕃をお召しになり,今回の戦果は美事なるも,万一統帥が稚拙であれば勅語を下賜できぬ旨を仰せられ,勅語下賜の可否を御下問になる。

(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(東京書籍・2016年)709頁)

 

 閑話休題。

しかし,改めて,マクマホン・ボールは剣呑な人でした。Japan—Enemy or Ally? の結語にいわく。

 

    In a word, if we want Japan as our ally, the way to succeed is not by subsidizing reactionary governments, or resuming trade relations with a disguised Zaibatsu, but by giving firm friendship and effective help to the Japanese people. At present the Japanese masses lack political consciousness and experienced leaders; they are still sunk in the past. But when they are without food or clothing or shelter, they want radical change. Those who help them achieve this change will be their friends; those who resist the change will be their enemies.

     (Macmahon Ball, p.194)

 

  一言でいえば,我々が味方としての日本を欲するのならば,成功への道は,反動政権を援助したり,装いを改めた財閥との貿易を再開したりすることにではなく,日本人民に対して強固な友情と効果的な手助けとを与えることにあるのである。現在,日本の大衆は,政治的自覚と,経験を積んだ指導者とを欠いている。彼らはなお過去の中に沈んでいるのである。しかし,彼らが食糧,あるいは衣料,あるいは住居を欠くときには,彼らは急進的変革を欲するのである。彼らが当該変革を達成することを手助けする者が彼らの友人となるのである。当該変革に抵抗する者は,彼らの敵となるのである。

 

日本人民の衣食住をあえて欠乏せしめて,混乱の中から急進的変革(radical change)を日本にもたらしめよ,ということでしょうか。対外敗戦を通じての国内の革命を構想したというレーニン的思考の臭いがします。(なお,マクマホン・ボールとボリシェヴィキとの関係については,「マクマホン・ボールについては,〔GHQ民政局次長の〕ケーディスが報告をしているのですが,それによると,ソ連のデレビヤンコなどが何かをしようとする時,必ずマクマホン・ボールのところに来ていたようです」との福永文夫独協大学教授による報告があります(福永文夫「講演会 占領と戦後日本-GHQ文書と外務省文書から-」外交史料館報第30号(20173月)52頁)。)

 

5 バンス宗教課長に関して

 前記CIEのバンス氏は,同局の宗教課長で,1948528日に開催された参議院文化委員会の祝日に関する懇談会に臨場し(山本報告書144頁。また,同142頁),紀元節はまかりならん,と(のたも)うています。その反対理由は,1,紀元節は,日本民族成立の特殊性,優越性を,国民に教えこむために,明治初年にはじめて設けられたものである。」,「2,世論調査において紀元節を支持する者が多かつたのは,75年間にわたる,この誤つた教育の結果である。」及び「3,紀元節を存置することは,過去の日本政府が紀元節によつて意図したものを残すことを意味する。」ということでした(山本報告書144頁)。しかし,神武東征記においては,現在の奈良県の吉野には何と尾のある人((おびと)()及び国樔部(くにすら)始祖)が,葛城には「身短而手足長,与侏儒相類」という外見の土蜘蛛がいたとあり,その他一般人民も「民心朴素。巣棲穴住,習俗惟常。」という有様であったとされています。征服王の配下たりし猛々しき一部九州人を除いて,我ら日本人の大部分の御先祖たる征服民族どもは,特殊ではあっても,特段の優越性を有するものではなかったようであります。

 なお,バンス氏は,先の大戦前に旧制松山高等学校で英語の教師をしています。四国松山の英語教師といえば夏目漱石的『坊っちゃん』なのですが,旧制中学ではなく旧制高校なので,蒲団にバッタないしはイナゴを入れられるというようないたずらを,後の日本占領軍の高官にして神道指令の起草者たるオハイオ州出身の青年が被ることはなかったのでしょう。

 バンス氏は,100歳まで生きて,2008723日にメアリランド州で亡くなっています。

 

6 参議院文化委員長による5月3日の憲法記念日の容認

 話は元に戻って,山本参議院文化委員長とGHQの「ホウジュ」課長との談判の続きです。

 

  〔前略〕もう一度ホウジュ課長と交渉した。

   「あなたの(ママ)あけ話をうかがった以上,憲法記念日は53日にします。〔略〕」

  (山本「文化の日」192頁)

 

 これは,「衆議院がわが前からこの日を憲法記念日にしており,現に今年〔1948年〕も,その日にその記念の祝いをおこない,また司令部の意向もそこにあつたので,まことにやむを得なかつたのである。」ということでしょう(山本報告書148頁)。

 確かに,194853日には「国会・内閣・最高裁判所共催の日本国憲法施行一周年記念式典へ御臨席のため,〔昭和天皇は〕午前1040分御出門になり,参議院議場に行幸される。御到着後,便殿において衆議院議長松岡駒吉・参議院議長松平恒雄・内閣総理大臣芦田均・最高裁判所長官三淵忠彦の拝謁を受けられ,参列の崇仁親王・同妃と御対面になる。ついで式場に臨まれ,御着席の上,松岡衆議院議長・松平参議院議長・芦田内閣総理大臣・三淵最高裁判所長官の式辞をお聞きになる。終わって,1130分還幸される。」という運びになっています(実録第十642-643頁)。参議院も,53日をもって日本国憲法に係る目出度い日であるものと公式に認めていたことになります。これに対して,1947113日には,天皇臨御の日本国憲法公布一周年記念式典は行われていなかったのでした(実録第十533-534頁参照)。確かに,施行後6箇月で早くも公布一周年式典を行うのでは慌ただし過ぎるでしょうし,やはり,新憲法が実際に施行されて以後の変化及びそれらに対応する多忙の印象の方が強烈だったことでしょう。

 ちなみに,日本国憲法公布の1946113日には,前記の東京都議会主催日本国憲法公布記念祝賀都民大会の前に,帝国議会貴族院で日本国憲法公布記念式典が開催され,昭和天皇から「〔前略〕朕は,国民と共に,全力をあげ,相携へて,この憲法を正しく運用し,節度と責任とを重んじ,自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。」との勅語が下されていますが(実録第十226-227頁。同日付けの英文官報によれば,当該部分の英語訳は"It is my wish to join with my people in directing all our endeavours toward due enforcement of this Constitution and the building of a nation of culture tempered by the sense of moderation and responsibility and dedicated to freedom and peace."です。),憲法が施行された194753日には政府主催・天皇臨御の記念式典は行われていません(同書320-323頁参照)。むしろ,我が現行憲法施行の初日は前途多難を思わせる悪天候であって,「憲法普及会主催による日本国憲法施行記念式典に〔昭和天皇は〕御臨席の予定なるも,風雨のためお取り止めとなっていた」という状況でした(実録第十321頁)。晴の特異日である113日に比べて,53日は間が悪い。194753日の東京における降雨量に係る気象庁のデータを検すると,その日は夜来雨で,6時から7時までの間の降雨量は4.1ミリメートル,10時から11時までは1.5ミリメートル,11時から12時までは0.3ミリメートルでありました。しかしながら,11時近くなると雨も小降りになったようです。そこで,

 

  〔昭和天皇は〕特に思召しにより予定を変更され,午前1055分御出門,〔日本国憲法施行記念〕式典の終了した宮城前広場に行幸になる。憲法普及会会長芦田均の先導により壇上にお立ちになり,参会者より万歳三唱をお受けになる。11時還幸される。(実録第十321頁)

 

ということになりました。サプライズ行幸ですね。

 

7 「ホウジュ」課長による11月3日の祝日の容認

 他方,113日の憲法記念日を諦めた山本委員長と「ホウジュ」課長との会談は,それでもなお続いています。山本委員長が演説をぶったことになっています。

 

   「われわれが113日を固執しているのは,これが新憲法の発布の日だからである。マクマホンボール氏の意見は難くせに過ぎない。この記念すべき日を祝日から除いてしまったら,今後,新憲法はどうなるか。われわれは新しい憲法によって,新しい日本を作りあげてゆきたいのである。この日が消えてしまったら,国民は新憲法に熱意を失うと思うが,あなたはどう考えますか。われわれは,なんか,ほかの名まえにしてでも,この日だけは残したいのです。」

   ホウジュ氏はしばらく考えていたが,「では,なんという名まえにするのか。」と聞き返してきた。しかし,わたくしたちは,そこまで考えていなかった。113日はいけないといわれていたので,なんとか,この日を生かしたいというだけが,精いっぱいであった。いろいろ話し合った結果,つごうによっては,考えてみてもよいというところまで,ホウジュ課長も折れてきた。しかし,復古的なにおいのするものであっては,絶対に許可しないとクギをさされたのである。

  (山本「文化の日」192-193頁)

 

 これが,113日が国民の祝日となった瞬間なのである,ということのようです。

 

8 Osborne Hauge, one of the young GHQ drafters of the Constitution of Japan

しかし実は,山本委員長のしつこい頑張りは,「ホウジュ」課長にとっては渡りに舟だったかもしれません。「ホウジュ」課長にも,113日には格段の思い入れがあったはずだったからです。

国立国会図書館のデジタルコレクションにあるGHQ/SCAP Records, Government Section文書中Box No.2204, Folder No.(2)“House of Representatives – 2nd National Diet”という文書の3齣目の18を見ると,624日付けの“Bill concerning the National Feast Days” (国民の祝日に関する法律案)がいずれも630日にCIE及びGSGovernment Section:民政局)によって承認(App’d)され,O.K.となった旨が記されています(イタリック体は,原文手書き)。CIEの担当者は,Bunceと読めますから,バンス宗教課長ということになります。しかしてGSの担当者はHaugeです。これは,ホウジュとも読めるのでしょうが(hの音が発音できるフランス人の読み方),「〔サウス・ダコタとの州境に近いミネソタ州マディソン生まれで〕ミネソタ州ノースフィールドのセイント・オーラフ大学を卒業後,1935年から37年まで,中西部〔ノース・ダコタ州〕で週刊新聞〔3紙〕の編集長をつとめた。1937年からは〔(又は)1940年にルター派牧師の娘と結婚し〕ニューヨークに本部を置く全米ルーテル派教会会議で広報・渉外を担当し,1942年からワシントンDCでノルウェー大使館のスタッフをつとめている。/終戦に近い1944年に海軍の召集を受け,プリンストン大学の軍政学校とスタンフォードの民事要員訓練所を経て,日本占領のスタッフに選ばれた」という経歴を有する「1914年生まれのノルウェー系アメリカ人」である「オズボーン・ハウギ海軍中尉」ではないですか(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川ソフィア文庫・2014年(単行本版:創元社・1995年))53-54頁。〔 〕内は,2004821日付けのワシントン・ポスト紙のハウギ氏の死亡記事によって筆者が補ったもの)。

ハウギ中尉は,GHQの民政局員として,我が現行憲法に係る19462月のGHQ草案作成の際の立法権に関する小委員会のメンバーであり,かつ,「民間情報教育局(CIE)の手助け」もしていたのでした(鈴木50頁以下・54頁)。「1946113日,日本国憲法は公布される。民政局の25人は,その日,〔貴族院〕本会議場の傍聴席の片隅に座っていた。」ということでありましたから(鈴木362頁。同363頁に写真),113日は,彼らにとって思い出深い日となったはずなのでした。日本国憲法は,ハウギ課長にとって,おらが憲法であったはずなのでした。「日本が他の国に先んじて,〈理想〉のゴールに達したという感じがしています。まさに,新しい国の新しい憲法といえますね。」とは,後年のハウギ翁の言葉です(鈴木363頁)。

日本怖い,天皇怖いとやかましい小国オーストラリアの怖がり外交官の神経質な難癖に過剰な忖度をして,せっかくの〈理想〉のゴール到達がなされた日を国民の祝日として日本人民に祝わしめ,感謝せしめ,記念せしめることを自粛してしまう思いやりなど馬鹿馬鹿しいではないかと,〈理想〉の使徒たる米国人であるハウギ課長は腹を括ったのでしょう。しかし,「憲法記念日」の名は53日に既に取られてしまっているのでその名は使えないところ,113日の祝日の名称は,やはり濠ソ等の手前,天皇臭(「復古的なにおい」)の無いものでなければならない,ということになったのでしょう。
 (なお,日本国憲法の公布の日付についてのそもそもの米国政府の判断は,
やはり明治天皇との関係で113日が選ばれたのであろうが,だからといってそこから重大な意味が派生するというものではないだろう,という見切りでした。すなわち,対日理事会における中華民国代表の朱世明が同理事会議長の米国代表ジョージ・アチソン宛ての19461025日付け書簡において「日本の大陸における隣国に対する二つの侵略戦争によって特記される明治時代は,主に彼らの帝国の拡大について達成された成功のゆえに日本人民に記憶されている」のであるから明治節の日に日本国の新憲法が公布されるのは幸先がよろしくないとの懸念を示していたところ(「二つの侵略戦争」と述べて,日清戦争のみならず日露戦争にも言及していますから,ロシア人の代弁をもしているということになるのでしょう。),同月31日付けのアチソン回答はいわく,「新しい日本国の憲法の公布日として113日が選ばれることに係る19461025日付け貴簡に関して申し述べますところ,当該日付が日本国政府によって選択されたのは,最初の日本国の憲法が主に明治天皇の計らいによるものであったからである(because the Emperor Meiji was mainly responsible for the first Japanese Constitution),というのが当職の理解であります。/当該日付の選択から,何か重大な意味が派生するもの( has any far-reaching significance)とは当職には思われません。ということでありますから,したがって,当職の意見では,現地政府の行政事務と見られるところの事項に干渉するための手段を執ることは望ましくないものと思われます。」と(国立国会図書館電子展示会「日本国憲法の誕生」資料と解説4-16)。いわゆるマッカーサー三原則と共にGHQ民政局内で大日本帝国憲法全部改正案を作成する9日間の作業が発起されることになったのは194623日のことでしたが,だからちょうど9箇月後の113に公布するのが切りがよくてよいのだ,また,1+1=2なのであるから実は11323日に通ずるのだ,素晴らしい符合ではないか,日本人民及びその国家は明治天皇に縋って己れの過去に執着しようとしつつも無意識のうちに運命の力で戦勝米国に迎合してしまう定めなのだ,とまでは米国側もさすがに言えなかったわけでしょう。

 

9 聖徳太子(十七条憲法)の退場及び昭和天皇の勅語の隠蔽

ところで,113日の名称を「文化の日」とすることについては,山本有三が頭をひねった,ということになっています。

 

  そこで,わたくしと岩村〔忍〕君とは,その名称について頭をひねったのであるが,今まで,憲法記念日としてしか考えてこなかったので,なんとしても名案が浮かばなかった。その時,「文化の日」という暗示を与えてくれたのは,現最高裁判所判事,入江俊郎(いりえとしお)氏であった〔筆者註:入江俊郎は日本国憲法制定時の法制局長官〕。新憲法は,戦争放棄というような,世界に類例のない条文を持った憲法である。こんな文化的な憲法はない。これなら,復古思想といわれることはないであろう。そこで,この案を持って,先方に行ったところ,よく考えてみようということであった。数日後,呼びだしがあったので,行ってみると,「あなたがたの熱意を買って,許可することにしましょう。」といってくれた。これでやっと113日は残ったのである。こういういきさつであるから,その名称がぴったりしないのは,やむを得ないのである。

 (山本「文化の日」193-194頁)

 

 しかしこれはどうも,余り正確ではないように思われます。

 実は1948414日の両議院文化委員会合同打合会において衆議院側から提出された仮案において既に,113日は「文化祭」なる祝祭日として提案されていたのでした(山本報告書150頁参照)。何やら学校生徒の学園祭みたいな名称ですが,出所は当然,「自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。」との1946113日の勅語でしょう。

 参議院文化委員長が113日と「文化国家」とを積極的に結び付けようとの思いに至らなかったのは,実は同委員会には聖徳太子好きな人々がいて,日本国憲法ならぬ十七条憲法発布の日である43日(旧暦)又は56日(新暦)をもって「文化日本の日」なる祝祭日にしようという動きがあったからでした(山本報告書149-150頁参照)。「「文化日本の日」――この名まえは本委員会としては確定的のものではなかつたが,この日を設けようということになつたのは,文化国家としての日本の再出発に当たつて,わが国最初の成文法である聖徳太子の十七条憲法の制定の日を採りたいという有力な意見が出たからである。〔略〕その第1条の「以和為貴」は,平和思想を鼓吹されたものであり,最後の第17条は「夫事不可独断。必与衆宜論。」とあつて,一種の民主主義思想を説かれたものとも解せられる。千三百数十年の昔,今日の新憲法の精神とあい通ずるところのものを制定されたということは,いわば文化国家の礎をきずかれたものであつて,われら国民のひとしく仰ぎ,ひとしく誇りとすべきところでなければならない。」というわけです(山本報告書145頁)。

 しかし,「聖徳太子に関する日は〔1948年〕614日の合同打合会において,衆議院がわから,国民の祝祭日としてはまだ熟さない感があるという反対があつたので,参議院がわはこれに対して大いに論戦したが,衆議院がわが応じないので,ついに落ちることになつた。」ということです(山本報告書148頁)。参議院文化委員長が113日を「文化祭」ならぬ「文化の日」とすべく最終的に決心したのはその時でしょう。1948617日の参議院文化委員会最終草案の第2条において,「文化の日 113日 自由と平和を愛し,文化をすゝめる。」という形になっています(山本報告書150頁)。

 衆議院文化委員会仮案に既に「113日 文化祭」があったので,入江判事からの「暗示」は,「文化の日」という名称自体についてのものではないでしょう。それでは何についての「暗示」であったのかといえば,筆者思うに,文化の日の意義付けは,それを明治節はもちろん1946113日の昭和天皇の勅語にも求めるべきではないところ(「復古的なにおいのするものであっては,絶対に許可しない」),日本国憲法の内容論をもって直接説明することが可能であり,また,そうすべきである,との天皇抜きでする説明の方法論についてのものではなかったでしょうか。

 文化の日の意義付けは,最終的には次のようになっています。

 

   113日は「文化の日」と決定した。この日は明治天皇のお生れになつた日であり,明治節の祝われた日であるが,それは同時に,新憲法の公布された日であり,その新憲法において,世界のいかなる国も,いまだかつて言つたことのない「戦争放棄」という重大な宣言をした日である。これは日本国民にとつて忘れがたい日であると共に,国際的にも,文化的意義を持つ大事な日である。したがつて,この日を「文化の日」としたのは平和をはかり,文化をすゝめるという意味からである。「平和の日」という名まえも考えられたが,それは別に,講和条約締結の日を予定しているので避けたのである。また,この日は一年を通じて最もよい季節にあたつており,従来も体育大会その他の行事が催されているので,これからもこの新しい祝祭日を中心として,その前後に,例えば芸術祭,科学祭,体育祭などを行うと同時に,文化上の功労者に栄典を授けるというような行事を催すことも望ましいという意見であつた。

  (山本報告書148頁)

 

  11月の3日を文化の日といたしましたのは,これは明治天皇がお生れになつた日であり,明治節の祝われた日でございますが,立法の精神から申しますと,この日御承知のように,新憲法の公布された日でございます。そうしてこの新憲法において,世界の如何なる国も,未だ曽て言われなかつたところの戦争放棄という重大な宣言をいたしております。これは日本国民にとつて忘れ難い日でありますと共に,国際的にも文化的意義を持つ重大な日でございます。そこで平和を図り,文化を進める意味で,この日を文化の日と名ずけたのでございます。平和の日といたしましてもよいのでありますが,それは別に講和条約締結の日を予定しておるのでございますので,それを避けたのでございます。

  (194874日の参議院本会議における山本勇造文化委員長報告(第2回国会参議院会議録第59号(2954頁))

 

 「「文化の日」という日ぐらい,わからない日はない,と,ことしもまたわる口をいわれている。非難をする人から見れば,この日は,昔の明治節である。明治節の日をなんで「文化の日」なぞとするのだ,わけがわからないというのだろう。」という「一応もっともな非難」(山本「文化の日」189-190頁)に対して山本有三は立法経緯論で答えて,「こういういきさつであるから,その名称がぴったりしないのは,やむを得ないのである。」と言って,何やら当該分かりづらさを「名称」に係る入江判事の「暗示」のせいにしているように見えます。しかし筆者には,当該分かりづらさの存在ないしぴったり感の欠如は,文化の日を説明するに当たって,そもそもの1946113日の昭和天皇の勅語を無視することにしてしまった隠蔽的方法論に由来するように思われます。現在の各種六法においては,大日本帝国憲法については,上諭及び題名以下の条文のみならず明治天皇の告文及び憲法発布勅語までを掲載していますが,日本国憲法については,上諭は掲載されても昭和天皇の告文及び勅語は掲載されていないことも問題なのかもしれません。1946113日には,占領下といえども,大日本帝国憲法はなお名目的には効力を有していたので,同日の天皇の勅語は無視できなかったはずです(当該勅語も同日付けの官報に掲載されています。なお,同日の昭和天皇の告文は,『昭和天皇実録』にも記載されていません(実録第十223-229頁参照)。)。
 (おって,国民の祝日に関する法律2条における文化の日の趣旨説明の文は「自由と平和を愛し,文化をすすめる。」であって,日本国憲法公布記念式典における勅語の「自由と平和とを愛する文化国家を建設する」の部分との呼応関係を(筆者は)感ずることができるのですが,オーストラリア人らが読んだであろう同法の英語訳文を英文官報で見てみると,文化の日は"Culture Day"であり,その目的( object )は"To love liberty and peace and to promote culture."となっています。これは一見するに,"love and peace"cultureの日ですね。天皇と共に文化国家を建設するというような大仰な意図をそこに看取すべきものではない,ということになるようです。


山本有三旧宅跡(馬込文士村)1
山本勇造参議院文化委員長宅跡地(東京都大田区山王)


山本有三旧宅跡(馬込文士村)2

10 その後

 「文化国家」建設の国是は,その後忘れられてしまい,「経済大国」実現のそれに取って代わられたようです。しかして昭和末期の“Japan as Number One”時代を経て198917日の昭和天皇崩御後の平成の時代に入ってからは,我が国経済は停滞し,2010年にはGDP世界第2位の地位を中華人民共和国に明け渡してしまい,更に衰退途下国化がいよいよはっきりしてきた令和の御代の今年(2023年)にはドイツにも抜き返されて世界第4位に落ちるそうです。平成時代には「生活大国」,「やさしい国」,「美しい国」等の理想が我が国の在るべき姿として唱えられましたが,そのような国の人民には,猛々しいeconomic animal的なanimal spiritは最早不要でしょう。貧すれば鈍する。日本のソフトパワーを強化し,日本の優れた文化を世界に宣布せんとのCool Japan”戦略も,お寒いものであったとして尻すぼみになりそうです(2013年に設立された株式会社海外需要開拓支援機構(クールジャパン機構)については,同社のウェブサイトを見るに,政府から1156億円,民間から107億円が出資されていますが(202210月現在),2023331日現在の累積赤字(利益剰余金のマイナス)が35584196千円にのぼっています(同日付けの同社貸借対照表)。)。

 1887年生まれの山本有三は,1974111日に86歳をもって亡くなりました。当時はなおマクマホン・ボール的敵意が東南アジア諸国に健在であったものか,山本が死亡した月に田中角榮内閣総理大臣が当該地域を訪問中でしたが,同月9日にはバンコクで学生反日デモ,同月15日にはジャカルタで反日暴動が起きていました。

 マクマホン・ボールは,その後の円高,低金利を経ての我がバブル景気の時代をもたらすこととなったプラザ合意(1985922日)の翌年である19861226日に85歳で亡くなっています。1980年に我が国は,ワーキング・ホリデー制度を初めてオーストラリアとの間で開始していましたが,「帝国主義・軍国主義国家」の若者が大勢オーストラリア国内をうろうろする様を,晩年のマクマホン・ボールは苦々しい目で見ていたものかどうか。

 山本よりも27歳年下のオズボーン・ハウギは,ワシントンD.C.において,1951年からは予算局で,1961年から1974年まで外交官として勤務し,アジアの美術品の収集家として知られていました。ヴァジニア州フォールス・チャーチ在住。2004721日に90歳で肺炎により亡くなっています。(前記ワシントン・ポスト紙の死亡記事参照。なお,当該記事によれば,オズボーンには,同時期に日本に駐在し,かつ,同様にアジアの美術品の収集家であるヴィクター(Victor)という名の兄弟がいたそうです。このヴィクターは何者かといえば,GHQの民政局ならぬ民間通信局(Civil Communications Section)に勤務していたV. L. Haugeでしょう。V. L.ハウギは,逓信省の鳥居博を呼び出して19481230日にCCSの次長室で行われた「放送法に関する会議」の出席者として記録せられています(放送法制立法過程研究会編『資料・占領下の放送立法』(東京大学出版会・1980年)221)。確かに,「ハウギ」又は「ハウギー」という名は,筆者が電波法・放送法の立法過程を調べていると,ちょくちょく出て来ていたのでした(『資料・占領下の放送立法』218頁・552頁等)。このヴィクターが,1978年にInternational Exhibitions Foundationから出版されたFolk Traditions in Japanese Artの著者なのでしょう。同書はヴィクター及びタカコ・ハウギの共著ということになっていますから,ヴィクターは日本駐在中に将来の配偶者と出会ったものでもあったのでしょうか。日本文化の愛好家たりしハウギ兄弟にとって,日本国に「文化の日」の祝日があることは,当然そうあるべきものだったわけです。)

 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

草田男句碑
  降る雪や明治は遠くなりにけり   中村草田男(
1931年)

                  ――明治の終焉は,1912730日のことでした。

 

1 文化の日と「明治の日」との併記に向けた動き

 今月(202311月)1日付けの共同通信社のニュースに「文化の日に「明治」併記を 超党派議連が法案提出へ」と題されたものがあります(同社ウェブページ)。「超党派の「明治の日を実現するための議員連盟」は〔202311月〕1日,国会内で民間団体と合同集会を開き,明治天皇の誕生日に当たる113日の「文化の日」に「明治の日」と併記を求める祝日法改正案を提出する方針を確認した。来年〔2024年〕の通常国会で成立を目指すとしている。」とのことです。当該議員連盟の会長は自由民主党の古屋圭司衆議院議員であって,上記合同集会には同党のみならず,公明党,立憲民主党,日本維新の会及び国民民主党からも参加があったそうですから,国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)の当該改正は成立しそうではあります。

 「「国民の祝日」を次のように定める」ところの国民の祝日に関する法律2条における文化の日に関する部分は,現在次のようになっています。

 

  文化の日 113日 自由と平和を愛し,文化をすすめる。

 

 前記ニュースによれば,当該合同集会で古屋会長は「「明治は,日本が近代国(ママ)に生まれ変わった重要な足跡だ」と訴え」たそうですから,文化の日と「明治の日」とが併記された後の国民の祝日に関する法律2条の当該部分は次のようになるのでしょうか。

 

  文化の日 113日 自由と平和を愛し,文化をすすめる。

明治の日 右同日 日本が近代国家に生まれ変わった重要な足跡である明治の時代を顧み,国の将来に思いをいたす。

 

 しかし,「右同日」との表記や,あるいは重ねて「113日」と書くのは何だか恰好が悪いですね。国民の祝日に関する法律の第2条全体を表方式に変えるべきことになるかもしれません。

 (2023114日追記:なお,本記事掲載後,毎日新聞ウェブサイトにおいて,20231131943分付けの関係記事(「113日に二つの祝日⁉ 「明治の日」併記,折衷案で動く政界」)に接しました。当該記事によって,明治の日を実現するための議員連盟が準備したという法案(新旧対照表方式)の画像を見ることができましたが,同議員連盟は国民の祝日に関する法律2条に表方式を導入するという新機軸を切り拓くまでの蛮気に満ちた団体ではないようで,現在の同条における文化の日の項の次に「明治の日 113日 近代化を果した明治以降を顧み,未来を切り拓く。」という1項を挿入する形が採用されていました(「113」重複方式)。しかし,形式の話は別として,当該趣旨説明の文言はどうでしょうか。文学部史学科日本近代史専攻の学生を募集するための宣伝文句のようでもあり,折からの学園祭の季節,当該専攻の学生らが自らの若々しい研究成果を展示する際の惹句にこそふさわしいようでもあります。また,窮境にある日本の社会・経済・国家が未来を切り拓くためには専ら近代化の一層の推進によるべしということであれば,我が国の文化・伝統・歴史であっても非近代=非西洋的なものは切り捨てるべしというように反対解釈できるようです。ありのままの過去は捨てて,近代化イデオロギーの立場からの歴史の再編成を行おうということになるのでしょうか。あるいは,非西洋的なものを切り捨てるのではなく,専ら非科学技術的なものを切り捨てるのだ,ということかもしれません。そうであれば,西洋化ではなく,むしろ,人為に更に信頼して,進んだ科学的〇〇主義に基づいた理想的近代社会を実現する実験に新たに挑戦するのだということになりそうです。復古主義ではないですね。)

 なお,民間団体たる明治の日推進協議会(田久保忠衛会長)は,文化の日に差し替えて「「近代化の端緒となった明治時代を顧み,未来を切り拓く契機とする」祝日「明治の日」を制定することのほうが有意義ではないか」と考えているとのことです(同協議会ウェブページ)。

 

   しかし,我が国の「近代化の端緒」というならば,185378日(嘉永六年六月三日)のペリー浦賀来航の方が,その前年1852113日の京都中山邸における孝明天皇の皇子誕生よりも重要でしょう。

また,当該協議会は,1946113日(日曜日)に貴族院議場で行われた日本国憲法公布記念式典において昭和天皇から下された「朕は,国民と共に,全力をあげ,相携へて,この憲法を正しく運用し,節度と責任とを重んじ,自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。」との勅語(宮内庁『昭和天皇実録第十』(東京書籍・2017年)226-227頁参照。下線は筆者によるもの)に示された叡旨をどう評価しているのでしょうか。

   2013410日の衆議院予算委員会で田沼隆志委員は,文化の日の趣旨とされる「自由と平和を愛し,文化をすすめる」について,「まず,この意味がわからない。「文化をすすめる。」これはどういう意味なんでしょうか。日本語としてまずよくわからないので官房長官にお尋ねします。ぜひわかりやすく教えてください。」と発言していますが(第183回国会衆議院予算委員会議録第2232頁),同委員は,1946113日の昭和天皇の勅語を読んではいなかったものでしょう。これに対して「ぜひわかりやすく教えてください」と頼まれた菅義偉国務大臣(内閣官房長官)は,議員立法された法律の文言の難しい解釈を,当該立案者ならざる政府に対して訊かれても困るという姿勢でした。「これは議員立法で成立したわけであります。さまざまな政党がお祝いをしようという中で,それぞれ理念の異なる政党の中でこの法律〔国民の祝日に関する法律〕をつくったわけでありますから,今委員が指摘をされたように,何となくどうにでもとれるような形で,多分,当時,この祝日をつくるについて議員立法で取りまとめられた結果,こういう表現になったのではないかなというふうに思います。」ということですが(同頁),前提となるべきものとしての昭和天皇の勅語があったことを知っていた上で,それは「何となくどうにでもとれるような形」の文章なのだと答弁したのであれば・・・何をかいわんや。

 

 とはいえ,文化の日と「明治の日」とは併記となるそうです。そうであれば,「平和を愛」する文化の日と同じ日において明治の時代を顧みる際には,戊辰戦争における官軍による賊軍制圧及び西南戦争その他の士族反乱の鎮定並びに日清日露両戦争における勝利といった物騒なことどもを想起・礼賛してはならないのでしょう。

 

2 192733日の詔書渙発及び昭和2年勅令第25号の裁可

 

(1)明治節を定める詔書及び休日に関する勅令

 ちなみに,「明治の日」と似ている明治節を定めた昭和天皇の勅旨を宣誥する詔書(192733日付けの官報号外)は,次のとおりでした。

 

  朕カ皇祖考明治天皇盛徳大業(つと)ニ曠古ノ隆運ヲ(ひら)カセタマヘリ(ここ)113日ヲ明治節ト定メ臣民ト共ニ永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ明治ノ昭代ヲ追憶スル所アラムトス

    御 名   御 璽

      昭和233

                    内閣総理大臣 若槻礼次郎

 

現在の令和民主政下においては,我ら人民が明治「天皇ノ遺徳ヲ仰」ぐ必要はないのでしょう。

なお,上記詔書には宮内大臣の副署がありませんから,明治節を定めることは,皇室の大事ではなく大権の施行に関するものであり,かつ,内閣総理大臣の副署のみで他の国務各大臣の副署がありませんから,大権の施行に関するものの中での最重要事ではなかったわけです(公式令(明治40年勅令第6号)12項参照)。

しかして,「臣民ト共ニ永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ明治ノ昭代ヲ追憶スル」ための具体的な大権の施行はどのようなものであったかといえば,休日に関する勅令が改正されて,113日が国の官吏の休日とされたのでした(192733日裁可,同月4日公布の昭和2年勅令第25号。題名のない勅令です。)。

 

なお,昭和2年勅令第25号は大正元年勅令第19号を全部改正したものです。この昭和2年勅令第25号は,国民の祝日に関する法律附則2項によって1948720日から廃止ということになっていますが,これは,日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する昭和22年法律第721条による19471231日限りで失効したものであるところの法律事項を定める勅令に対する重複する廃止規定ではないものであるとすると,それまでの政令事項を規律する命令を法律で上書きしたということなのでしょう(各「国民の祝日」について (参考情報)祝日法制定の経緯 - 内閣府 (cao.go.jp))。)。

 

昭和2年勅令第25号の副署者は若槻内閣総理大臣のみですが,当該事項に係る主任の国務大臣(公式令72項参照)は内閣総理大臣だったというわけでしょう(「官吏ノ進退身分ニ関スル事項」を内閣官房の所掌事務とする内閣所属部局及職員官制(大正13年勅令第307号)214号参照)。ちなみに,別途,宮内職員の休日に関する昭和2年宮内省令第4号が,勅裁を経て192734日に一木喜徳郎宮内大臣によって定められ,同日公布されています。昭和2年勅令第25号の案は192731日に閣議決定されていますから,同月2日午後の「内閣総理大臣若槻礼次郎・一木宮内大臣にそれぞれ謁を賜う。」という昭和天皇の賜謁は(宮内庁『昭和天皇実録第四』(東京書籍・2015年)657頁),昭和2年勅令第25号及び同年宮内省令第4号並びに同月3日の詔書に関するものだったのでしょう。

 

(2)帝国議会における動き

なお,当時開会中の第52回帝国議会においては,明治節制定に向けた動きが活発でした。

貴族院においては,1927125日に公爵二条厚基,子爵前田利定,男爵阪谷芳郎,和田彦次郎,倉知鉄吉,松本烝治,中川小十郎及び菅原通敬各議員提出の「明治節制定ニ関スル建議案」(「明治節制定ニ関スル建議/明治天皇ノ御偉業ヲ永久ニ記念シ奉ル為毎年113日ヲ祝日トシテ制定セラレムコトヲ望ム/右建議ス」)が全会一致で可決され(第52回帝国議会貴族院議事速記録第787-88頁。各議院がその意見を政府に建議できることについては,大日本帝国憲法40条に規定があります。),同年222日には東京市日本橋区蠣殻町平民田中巴之助外17名呈出の請願書(大日本帝国憲法50条)について「右ノ請願ハ明治節ヲ制定シ明治大帝ノ聖徳偉業ヲ憶念欽仰スルハ民意ヲ粛清向上セシメ世態民風ヲ統一正導スル所以ナルニ依リ速ニ之カ実現ヲ図ラレタシトノ旨趣ニシテ貴族院ハ願意ノ大体ハ採択スヘキモノト議決致候因リテ議院法第65条ニ依リ別冊及送付候(そうふにおよびさうらふ)」との政府宛て意見書が異議なく採択されています(52回帝国議会貴族院議事速記録第14272頁)。

衆議院においては,同年125日に大津淳一郎,小川平吉,三上忠造,元田肇,松田源治,鳩山一郎,山本条太郎等の18議員提出の「明治節制定ニ関スル建議案」(「明治節制定ニ関スル建議/明治天皇ノ盛徳大業ヲ永久ニ記念シ奉ル為113日ヲ以テ明治節トシ之ヲ大祭祝日ニ加ヘラレムコトヲ望ム/右決議ス」)がこれも全会一致で可決されています(第52回帝国議会衆議院議事速記録第785頁)。元田議員述べるところの建議案提出理由においては「〔前略〕明治天皇〔の〕御盛徳御偉業〔略〕中ニ付キマシテ王政復古ノ大業ヲ樹テラレ,開国進取ノ国是ヲ定メ給ヒ,立憲為政ノ洪範ヲ垂レサセラレ,国民道徳ノ確立ノ勅教ヲ屢下シ給ヒマシタコト,殊ニ帝国ノ天職ハ平和ヲ保持シ,文明ノ至治ヲ指導扶植スルニ在ルコトヲ世界ニ知ラシメ給ヒシコトハ,其最モ大ナル所デアリマス(拍手)御承知ノ如ク明治天皇ノ崩御遊バサレマシタ730日ヲ以テ是迄祝祭日トナッテ居リマシタガ,本年以後ハ此祝祭日ガ廃止シタコトニ相成リマシタニ付キマシテハ,明治天皇御降誕ノ当日タル113日ヲ以テ大祭祝日ト致シマシテ,大帝ノ御盛徳御偉業ヲ永遠ニ欽仰シ奉リタイト存ズルノデアリマス〔後略〕」とありました(同頁)。また,衆議院にも「明治節制定ノ件」に係る請願書が提出されており,同年24日には同議院の請願委員会(議院法(明治22年法律第2号)63条)において,採択すべきものと異議なく認められています(第52回帝国議会衆議院請願委員会議録(速記)第32頁)。ただし,当該請願書についての政府に対する衆議院の意見書送付(議院法65条)までは不要とされていました(同頁)。

 

(3)追憶されるべき明治ノ昭代

専ら明治「天皇ノ遺徳ヲ仰」ぐのみならず,広く「明治ノ昭代ヲ追憶スル」こととする旨の追加は,昭和天皇の政府においてなされたものであると解されます。明治ノ昭代の主な出来事は,元田肇の述べたところに従えば,慶応三年十二月九日(186813日)の王政復古の大号令から慶応四年(明治元年)四月十一日(186853日)の江戸開城を経て明治二年五月十八日(1869627日)の蝦夷共和国の降伏まで(王政復古ノ大業),慶応四年(明治元年)三月十四日(186846日)の五箇条の御誓文(開国進取ノ国是),③1889211日の大日本帝国憲法(立憲為政ノ洪範),④18901030日の教育勅語及び19081013日の戊申詔書(国民道徳確立ノ勅教),⑤1900814日の在北京列国公使館解放をもたらした八箇国連合のごとき国際協調(平和ノ保持)並びに⑥それぞれ1895529日及び1910829日以降の台湾及び朝鮮の統治(文明ノ至治ヲ指導扶植)ということでしょう。

以上6項目のうち,の官軍か賊軍か噺を今更持ち出すのは古過ぎるでしょう。徳川宗家第16代当主の徳川家達公爵は貴族院議長となり,蝦夷島総裁たりし榎本武揚は逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣となり,新撰組を預かった京都守護職・松平容保の孫娘は昭和初期の皇嗣殿下たりし秩父宮雍仁親王妃となりました。④式にお上から有り難い道徳の教えを授からないと何時までも自治自律ができない人委(ひとまかせの)人のままでは,情けない。また,衰退途下の我々よりも今や豊かになった人々に対して⑥の話をするのは論外でしょう。

 

3 明治節制定に伴う官吏の休日数の不変化

 

(1)昭和2年勅令第25号及び大正元年勅令第19号(大正2年勅令第259号による改正後のもの)(11箇日)と明治6年太政官布告第344号(10箇日)と

ところで,明治節を祝って明治大帝の遺徳を仰ぎ奉ることには忠良なる臣民としては反対できないとしても(とはいえ,明治節に参内して参賀簿に署名できるのは,昭和2年皇室令第14号により改正された皇室儀制令(大正15年皇室令第7号)の附式によると「文武高官有爵者優遇者」のみであり,かつ,「判任官同待遇者ハ各其ノ所属庁ニ参賀ス」ということであって,専ら「宮中席次を有する者始め一定の資格者が参内もしくは各官庁において記帳していた」資格者限定制であったものです(実録第十534頁)。),だからといって,臣民の税金で食っている分際である国の官吏の休日が図々しく一日増えるのはけしからぬ,というような反発が生ずることにはならなかったのでしょうか。

実は,明治節が加わっても,それによって大正時代よりも1日多くお役人が休むことができるということにはなっていませんでした。

大正元年勅令第19号(大正2年勅令第259号による改正後のもの)における休日数と昭和2年勅令第25号のそれとは,いずれも11箇日で変わっていないのです。

昭和2年勅令第25号による休日は次のとおり。

 

 元始祭    13

 新年宴会   15

 紀元節    211

 神武天皇祭  43

 天長節    429

 神嘗祭    1017

 明治節    113

 新嘗祭    1123

 大正天皇祭  1225

 春季皇霊祭  春分日

秋季皇霊祭  秋分日

 

このうち,今上帝の誕生日である天長節は,大正元年勅令第19号では大正天皇の誕生日である831日であり(ただし,同勅令が公布されたのは191294日であるので,大正に入っても,同年831日はいまだ休日ではありませんでした。),先帝の命日に係る祭日(昭和2年勅令第25号では大正天皇崩御日の1225日)は,大正元年勅令第19号では明治天皇崩御日の730日となっていました。他の元始祭,新年宴会,紀元節,神武天皇祭,神嘗祭,新嘗祭,春季皇霊祭及び秋季皇霊祭については,変化はありません。以上の10箇の休日は,1878年の明治11年太政官第23号達によって春季皇霊祭及び秋季皇霊祭が明治6年太政官布告第344号(当該1873年の太政官布告は,大正元年勅令第19号附則2項で廃止されています。)の8箇の休日に追加されて以来変わっていなかったものです(ただし,神嘗祭の日は1879年の明治12年太政官布告第27号によって改められるまでは917日でした。なお,明治6年太政官布告第344号における天長節はもちろん113日で,先帝際は,孝明天皇の命日である130日でした。)。大正元年勅令第19号には,何かもう一つ休日の隠し玉があったようです。

当該隠し玉は,1913716日に裁可され,同月18日に公布された大正2年勅令第259号にありました。隠し玉というよりは,某製菓会社の伝説的宣伝文句に倣えば「一粒で2度おいしい」🍫ということになるようです。

大正2年勅令第259号によって,1031日に「天長節祝日」が休日として追加されていたのでした。すなわち,大正時代の日本帝国臣民は,大正天皇の御生誕を,そのお誕生日である831日のみならず,1031日にもお祝い申し上げていたのでした。

113日に明治節の休日を,昭和時代になって設けることは,大正時代中の1031日の天長節祝日からの差替えであるという形に結果としてはなったわけです。明治大帝に対する崇敬の念は満たされつつ,官吏に対する「税金泥坊」という罵詈雑言も避けることができるという至極結構な次第となるべき下拵えをした大正天皇もまた偉大な君主だったのではないでしょうか。(しかしあるいは,昭和になって休日が1日減ると,休みたがりで不遜不埒な不逞官吏らの仲間内において昭和天皇の評判が悪くなってしまうのではないかという懸念も,25歳の若き新帝を輔翼弼成すべき重責を担う若槻礼次郎内閣にはあったかもしれません。)

 

(2)大正2年勅令第259号による天長節祝日追加の次第

ところで,大正2年勅令第259号による天長節祝日の追加の次第はどのようなものだったでしょうか。

これについては,アジア歴史資料センターのウェブサイトで一件書類を見ることができ(A13100056400),また,当時の第1次山本権兵衛内閣の内務大臣であった原敬の日記(『原敬日記(第5巻)』(乾元社・1951年))に記述があります。

まず,大正天皇は病弱でしたので,大暑の831日の東京で,天長節関係の諸行事の負担に耐えられるかどうかが,明治・大正代替わりの際の第2次西園寺内閣時代から懸念されていました。

 

  〇〔1913年〕416

  閣議〔略〕。天長節の事に関し831日は大暑中にて御儀式を挙ぐる事困難に付西園寺内閣時代にも之を如何すべきやとの相談ありしが,余〔原敬〕は国民中希望者も多き様になるに付御宴会は113日と制定相成りては如何と云ひたり,宮内省の草案にては11月にあらず1031日となせり。〔後略〕

 (原226頁)

 

 しかし,113日案は,半ば冗談でなければ,明治天皇とは別人格の大正天皇に対して不敬ではありましょう。

 その後,1913421日付けの渡辺千秋宮内大臣から山本権兵衛内閣総理大臣宛て官房調査秘第6号をもって,次の照会が宮内省から政府に対してされます。

 

  天長節ノ儀ハ831日ニシテ時(あたか)モ大暑ノ季節ニ有之候(これありそさうらふ)ニ付自今賢所皇霊殿神殿ニ於ケル天長節祭ノミハ皇室祭祀令規定ノ通当日之ヲ行ハセラレ其ノ他拝賀参賀賀表捧呈及宴会等宮中ニ於ケル一切ノ儀式ハ総テ1031日ニ於テ行ハセラレ候様(さうらふやう)奏請致度(いたしたき)(ところ)一応御意見承知致度(いたしたく)此段及照会候(しょうかいにおよびさうらふ)

 

天長節祭は小祭ですので(皇室祭祀令(明治41年皇室令第1号)21条),大祭と異なり天皇が親ら祭典を行う必要はなかったのですが(同令81項参照),「小祭ハ天皇皇族及官僚ヲ率ヰテ親ラ拝礼シ掌典長祭典ヲ行フ」ということになっていました(同令201項)。ただし,「天皇喪ニ在リ其ノ他事故アルトキハ前項ノ拝礼ハ皇族又ハ侍従ヲシテ之ヲ行ハシム」ということで(同条2項),天皇に事故があるときは,代拝措置が可能でした。

 

  〇〔19134月〕23

  閣議,天長節の件に付即ち宮内省案831日は御祭典のみに止め1031日を御宴会日となすの件に付内議し,結局今一応宮内省と打合せをなす事に決せり。〔後略〕

 (原229-230頁)

 

1913年宮内省官房秘第6号に対する同年630日付け山本内閣総理大臣から渡辺宮内大臣宛て回答は,次のとおりでした。

 

 421日付官房調査秘第6号照会天長節ノ儀ニ関スル件ハ大体異存無之候(これなくさうらふ)唯宮中ニ於ケル一切ノ儀式ヲ行ハセラルル期日ヲ1031日トスルニ於テハ明治節設定ニ関スル帝国議会ノ建議モ有之(これあり)或ハ113日ヲ休日ト定メラルルカ如キ場合ヲ予想スレハ余リニ休日接近ノ嫌有之(きらひこれあり)(つき)既ニ831日以外ノ日ヲ選定(あひ)(なる)以上ハ或ハ101(くらゐ)カ適当ノ期日カト被存候(ぞんぜられさうらふ)

   追テ当日ハ一般ノ休日トスル必要可有之(これあるべし)存候(ぞんじさうらふ)ニ付本件ハ休日ニ関スル勅令改正案ト同時ニ奏請相成様致度(あひなるやういたしたし) 

 

「ハッピー・マンデー」云々と,休日の接近はおろか,進んで休日の長期間接続をもってよしとし,補償金が貰えるならば「思いやり」の「自粛」継続は当然とする衰退途下の人委(ひとまかせの)人の国たる現代日本とは異なり,休日の接近を嫌う良識が,大正の聖代にはなおあったのでした。

明治節設定の動きは,明治天皇崩御後早くからあり,第30回帝国議会の衆議院では,1913326日,松田源治議員外13名提出の次の「明治節設定ニ関スル建議案」が全会一致で可決されています(第30回帝国議会衆議院議事速記録第16309頁)。

 

    明治節設定ニ関スル建議

 政府ハ国民ヲシテ 明治天皇ノ御偉業ヲ頌シ永久其ノ御洪恩ヲ記念セシムル為113日ヲ以テ大祭祝日ト定メムコトヲ望ム

 右建議ス

 

専ら明治天皇に対する「国民ノ忠愛ノ至情」(石橋為之助,松田源治)から出た建議でありました。しかし,明治天皇御一人をとことん忠愛するのならば,前年1912913日の乃木希典大将のように殉死しなければならなくなるようにも思われるのですが,松田代議士,石橋代議士等は,そこまで思い詰めてはいなかったのでしょう。

大正元年勅令第19号を改正する勅令案に係る191373日付け閣議請議書が残されています。しかし,『原敬日記』では,地方官会議があるので原内務大臣は同月2日の閣議を欠席したとしており,かつ,同月3日の記載は地方官会議関係のことばかりで,同日に閣議があったことは記されていません(原259-260頁)。

いずれにせよ同月初めの勅令案では,天長節祝日の日は101日であったようです。すなわち,191374日付けの渡辺宮内大臣から山本内閣総理大臣宛て官房調査秘第9号には「天長節ニ関スル件ニ付630日付ヲ以テ御回答ニ接シ候処御注意ノ次第モ有之候ニ付更ニ101日ヲ以テ天長節式日ト被定候様(さだめられさうらふやう)奏請可致候(いたすべくさうらふ)条右ニ御承知相成度(あひなりたく)此段申進候(まうしすすめさうらふ)也」と記載されているからです。「奏請」とは,大正天皇の内諾を得るということでしょう。

しかし,現実の大正2年勅令第259号における天長節祝日は,421日の照会案どおりの1031日となっていたのでした。この間の事情については,次の記載がされた紙が,一件書類中に綴られています。

 

 本件ハ更ニ総理大臣宮内大臣協議ノ上更ニ1031日ト決定セラレ大正元年勅令第19号中改正勅令案上奏ノ手続ヲ為セリ

 

 これは,天長節祝日を101日とする旨の宮内大臣からの奏請を大正天皇が敢然却下した結果,宮内大臣・内閣総理大臣が大慌てとなった一幕があったものか,と一瞬ぎょっとする成り行きです。

 しかしながら『原敬日記』によれば,実は閣議において,やはり天長節祝日は10月の1日よりも31日の方がよいのではないかとの賢明な内務大臣の提言があって再考がなされることになり,最終的にはしかるべく同大臣案に落ち着いたということでありました。

 

   〇〔19137月〕11

   有栖川御邸に弔問せり。

   閣議,天長節は831日にて大暑中なれば,御祝宴は101日に定められ此日を天長節の祝宴日となさん事を山本首相閣議に提出せり,之に対し奥田〔義人〕文相は天長節は大祭日となしあるを,天長節と天長節祝日と分別するは如何あらんと云ひたるも,閣議天長節は831日なるも天長節祝日は別に之を定むる事に決せり,但山本の提案なる101日は何等根拠なき日なれば,月を後に送るも日は改めざる一般の国風をも斟酌し,1031日となすを適当なりとの余〔原敬〕の主張に閣僚一同賛成せり,山本は既に内奏を経たりとて101日に決せんとするも,余は此事は御一代の定制となる重大事件なれば再び奏聞するも可ならんと主張し,遂に山本は宮内省と更に相談すべき旨山之内〔一次〕書記官長に命じたり,宮内省にては1031日と提出せしものを内閣側にて101日に主張せしものゝ由。

  〔略〕

  (原263-264頁)

 

 なお,奥田文部大臣は釈然としなかったようですが,君主の誕生祝賀が年2回行われることは外国にも例があります。英国の現国王チャールズ3世の誕生日は1114日ですが,同国王の誕生祝賀は,同日のほか,気候のよい6月にも行われています(2023年は617日)。

 我が国における1913831日の天長節は次のような次第となりました。

 

  31日 日曜日 午後,〔大正天皇の〕行幸御礼並びに天長節御祝のため,〔皇太子裕仁親王は〕東宮大夫波多野敬直を御使として日光に遣わされる。なお天長節は大暑の季節に当たるため,去る7月18日勅令〔第259号〕並びに宮内省告示〔第15号〕をもって,1031日を天長節祝日と定め,831日には天長節祭のみを行い,1031日の天長節祝日に宮中における拝賀・宴会を行う旨が仰せ出される。

  (宮内庁『昭和天皇実録第一』(東京書籍・2015年)681頁)

 

大正天皇は,その天長節の日を涼しい日光の御用邸で過ごすことを好んでおられたようです。

 

 19131031日の初の天長節祝日については次のとおり。

 

  31日 金曜日 天長節祝日につき,午前,〔皇太子裕仁親王は〕東宮仮御所の御座所において東宮職高等官一同の拝賀をお受けになる。午後零時30分御出門,御参内になり,雍仁親王・宣仁親王とお揃いにて天皇・皇后に祝詞を言上になる。また鮮鯛を天皇に御献上になり,天皇からは五種交魚等を賜わる。

  (実録第一696-697頁)

 

   〇31日 天皇節祝日に付参内御宴に陪し,晩に外相の晩餐会に臨み夜会には缺席せり,今上陛下始めての天長節にて市中非常に賑へり。

   〔略〕

   (原334頁)

 

4 五箇条の御誓文から文化国家建設へ

 この記事も何とかまとまりを付けねばなりません。

 で,正直なところを申し上げると,113日は,昭和天皇から「節度と責任とを重んじ,自由と平和とを愛する文化国家を建設す」べしとの新国是(すなわち現在の我が国の国是)が日本国憲法と共に下された日として,既に専ら昭和天皇の日となってしまっているのではないかと筆者には思われます。

 であれば,「明治の日」については,別途そのあるべきところを求めるに,明治時代の我が国の国是(開国進取ノ国是)たる五箇条の御誓文が宣明せられた46日が,その日としてよいのではないかと思われるところです(なお,立憲為政ノ洪範たる大日本帝国憲法が発布された211日は,趣旨はともかく,既に「国民の祝日」とされています。)。113日の文化の日を譲らない代償として,429日の昭和の日を,同月6日の「明治の日」に振り替えればよいのではないでしょうか。4月末から5月初めまでの連休期間は,今や衰退途下国たる分際の我が国としては長過ぎるようなので,429日の日の休日からの脱落は,問題視すべきことではないでしょう。

 昭和の日が五箇条の御誓文の日に差し替えられることが昭和天皇の逆鱗に触れるかといえば,そういうことはないでしょう。五箇条の御誓文の精神から出発して文化国家の建設に進むことこそが,惨憺たる失敗・敗戦の後,日本国憲法と共に昭和天皇が目指した昭和の日本だったはずです。

 1946年元日のかの詔書にいわく。

 

  茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク,

一,広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ

一,上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ

一,官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス

一,旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

一,智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

  叡旨公明正大,又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ,旧来ノ陋習ヲ去リ,民意ヲ暢達シ,官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ,教養豊カニ文化ヲ築キ,以テ民生ノ向上ヲ図リ,新日本ヲ建設スベシ。

 

 旧来の陋習を去った暢達たる心と共に,向上した民生下において生きるということは,自由であるということでしょう。負ける戦争や効果の乏しい対策の徹底から去ること遠い,慎重賢明狡猾な平和主義は当然でしょう。しかして自由及び平和の下で高められた精神は,教養豊かに文化を築くところにこそその満足を見出すのでしょう。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


(上):秩父宮雍仁親王火葬の前例等

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080110294.html

(中):墓埋法143項の規定は「皇族の場合を考慮していない」ことに関して

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080110311.html


(「3 昭和28年衛環第2号の検討」の続き)


(2)「2」について:陵墓に係る墓埋法41項の特別法としての皇室典範27

 火葬許可証は,火葬それ自体のみならず,その後焼骨の埋蔵をするためにもなお必要です。すなわち,墓埋法141項はいわく,「墓地の管理者は,第8条の規定による埋葬許可証,改葬許可証又は火葬許可証を受理した後でなければ,埋葬又は焼骨の埋蔵をさせてはならない。」と(なお,この火葬許可証には,火葬場の管理者による火葬を行った日時の記入並びに署名及び押印があります(墓埋法162項,墓埋法施行規則8条)。)。昭和28112日衛環第2号の記の2は,火葬許可証無き焼骨の埋蔵の段階において,その可否に係る問題に関するものでしょう。

 

ア 皇室典範27条及び陵墓

昭和28112日衛環第2号の記の2において環境衛生課長は,皇室典範27条に言及します。同条は「天皇,皇后,太皇太后及び皇太后を葬る所を陵,その他の皇族を葬る所を墓とし,陵及び墓に関する事項は,これを陵籍及び墓籍に登録する。」と規定するものです。皇室典範附則3項は「現在の陵及び墓は,これを第27条の陵及び墓とする。」と規定しているところ,皇室陵墓令(大正15年皇室令第12号)1条の規定は「天皇太皇太后皇太后皇后ノ墳塋ヲ陵トス」と,同令2条の規定は「皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃内親王王王妃女王ノ墳ヲ墓トス」とするものです。

「葬」は,「〔艸を上下に二つ重ねた字〕バウ→サウ(〔略〕くさむら)の中に死(しかばね)を納めたさまにより,死体を「ほうむる」意を表わす」そうです(『角川新字源』(第123版・1978年))。であれば,「葬る所」は埋葬ないしは埋蔵をする所ではあっても,死体を焼く所ではないようです。

「墳」は「土と,音符賁フン(もりあがる意→肥ヒ)とから成り,土を高くもり上げた墓の意を表わす」そうです(『角川新字源』)。「塋」は「音符〔かんむりの部分〕ケイエイ,めぐらす意縈エイ」からなり,「はか。つか。墓地。」の外「いとなむ。」の意味があるそうです(同)。

不動産である陵墓は,行政財産たる皇室用財産として国有財産となっています(国有財産法(昭和23年法律第73号)213号参照)。武蔵陵墓地もこの陵墓たる皇室用財産でしょう。内閣総理大臣の管理に服し(国有財産法5条,42項),それは宮内庁の所掌事務となります(宮内庁法(昭和22年法律第70号)214号は「皇室用財産を管理すること」を,同条12号は「陵墓に関すること」を同庁の所掌事務とします。)。

 

イ 墓埋法41項並びに墓地及び墳墓

また,墓埋法41項は「埋葬又は焼骨の埋蔵は,墓地以外の区域に,これを行つてはならない。」と規定しています。同条の規定に違反した者については墓埋法211号に罰則規定があります(同法14条の規定に違反した者と同じ号。なお,更に「行為の態様によっては刑法第190条の死体遺棄罪に問われることがある。」とされ,大審院大正1434日判決が参考として挙げられています(生活衛生法規研究会19頁)。当該判決はいわく,「死体の埋葬とは,死者の遺骸を一定の墳墓に収容し,其の死後安静する場所として後人をして之を追憶紀念することを得せしむるを以て目的とするものなれば,必ずしも葬祭の儀式を営むの要なきも,道義上首肯すべからざる事情の下に単に死体を土中に埋蔵放置したるが如きは,未以て埋葬と云うべからざるを以て死体を遺棄したるものと云はざるを得ず。」と。)。

「官許ノ墓地外ニ於テ私ニ埋葬シタル者」を3日以上10日以下の拘留又は1円以上195銭の科料に処するものと規定する旧刑法4251318778月段階のフランス語文では,軽罪として,“Quiconque aura, sans une permission spéciale de l’autorité compétente, procédé à une inhumation dans un lieu autre que l’un de ceux consacrés aux sépultures, sera puni d’une amende de 10 à 50 yens. / Sont exceptés les cas d’inhumations urgentes où le transport des morts aux sépultures publiques serait difficile ou dangeruex; mais à la charge d’une déclaration immédiate à l’autorité locale.(「当局の特別の許可を受けずに,墓地として指定された場所以外の場所で埋葬を行う者は,10円から50円までの罰金に処せられる。/死者を公的墓地に運搬することが困難又は危険であるときにおける緊急埋葬については,この限りでない。ただし,直ちに届け出ることを要する。」)と規定されていました。)に関してその趣旨を尋ねれば,ボワソナアドが,その同号改正提案(18778月段階案と同じ条文に成規の手続によらぬ墳墓の発掘又は変更の罪に係る構成要件の1項を第3項として加えたもの(Boissonade, pp.775-776))について説明するところがあります。いわく,「公的墓地の場所は,行政によって,できるだけ公衆衛生を確保すべき条件において選択されねばならない。住宅地から余りにも近過ぎる所は避けられねばならず,水源地たる高地を選んではならず,また,各埋葬は,死体からの滲出物を避けるために十分な深さをもってされねばならない。更に,死者への崇敬を確保するためにされる当局の見回りの効率のためには,相当多数のものがまとまった形で埋葬がされるということが便宜である。/各々がその所有地において,又は公的墓地として定められた場所以外の場所で,その親族を埋葬する自由を有するとしたならば,上記の用心は無駄なものにならざるを得ないということが了解されるところである。/また,後になってから遺骸が発見されたときに,それについて確実なことを知る手段のないまま,重罪が犯されたのではないかと懸念しなければならないという不都合も生じることであろう。」と(Boissonade, pp.794-795)。

「墓地」とは,「墳墓を設けるために,墓地として都道府県知事(市又は特別区にあつては,市長又は区長。以下同じ。)の許可を受けた区域」をいい(墓埋法25項),「墳墓」とは,「死体を埋葬し,又は焼骨を埋蔵する施設」をいいます(同条4項)。墓地に係る都道府県知事の許可については,墓埋法10条に規定があります(同条1項は墓地の「経営」といいますが,個人墓地を設けるにも墓埋法10条の許可が必要であるとされています(昭和271025日付け衛発第1025号厚生省衛生局長から京都府知事宛て回答「個人墓地の疑義について」(生活衛生法規研究会119-120頁))。)

陵墓地について,墓埋法10条の許可がされているということはないでしょう。

 

ウ 環境衛生課長の判断

昭和28112日衛環第2号における環境衛生課長の判断は,皇室典範27条の陵墓は墓埋法上の墓地に係る墳墓ではないが,同条によって,陵墓において天皇・皇族を埋葬し,又はその焼骨を埋蔵することは,墓埋法の特別法たる皇室典範によって合法なものとされていることとなる,その際陵墓の管理者による埋葬許可証又は火葬許可証の受理など当然不要である,というものでしょう。

 

(3)「3」について:過度の一般命題化

ところで,昭和28112日衛環第2号の記の3における「墓地,埋葬等に関する法律は皇族には適用されない」との言明は,筆者には――環境衛生課長の筆の滑りによるものなのでしょうか――過度の一般命題化であるように思われます。

その第71項において「皇族ノ身位其ノ他ノ権義ニ関スル規程ハ此ノ典範ニ定メタルモノノ外別ニ之ヲ定ム」と規定していた明治40年の皇室典範増補は,皇室典範本体等及び皇室令と共に日本国憲法下においては廃止されたものとなっているところです。天皇・皇族にも日本国憲法下の法令が一般的に適用されるというところから出発しなければなりません。天皇・皇族に対する法令の適用除外は,例外的かつ具体的であるべきです。例えば,皇族だからとて,薨去後24時間たたぬうちに埋葬又は火葬されてしまっては,実は仮死状態にすぎなかったときには困るでしょうし(墓埋法3条,211号参照),死体の埋葬又は焼骨の埋蔵を陵墓でも墓地でもない場所でしたり,火葬場以外の施設で火葬をしてはいけないのでしょうし(同法4条参照。同条2項の法文は「火葬は,火葬場以外の施設でこれを行つてはならない。」です。),墓地,納骨堂又は火葬場の経営を,墓埋法10条の都道府県知事(なお,同法25項括弧書きにより,市長及び特別区の区長も含まれます。)の許可なしに勝手にしてはならないでしょう。

環境衛生課長としては,これ以上皇室とかかわるのは畏れ多過ぎるので,政府高官として有するその所管法令解釈権限をもって明治典憲体制風の墓埋法適用除外の特権を天皇及び皇族方に献上申し上げ,顔を覆い,目を伏せ,以後御勘弁してもらうつもりだったということかもしれません。

 

 Abscondit…faciem suam non enim audebat aspicere contra deum (Ex 3,6)

 

しかしながら,墓埋法を制定した,国の唯一の立法機関である国会との関係はどうなるのでしょうか。良識ある議員諸賢の心が頑なになるということはないと考えてよいのでしょうか。

 

 Induravitque Dominus cor Pharaonis regis Aegypti (Ex 14,8)

 

4 墓埋法と「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」との関係

さて,以上見てきた墓埋法の諸規定と,前記20131114日付け宮内庁「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」の21)(イ)「御火葬施設の確保」において示された同庁の目論見とはうまく整合するものかどうか。

 

(1)墓埋法の適用:八王子市長の大権限

「墓地,埋葬等に関する法律は皇族には適用されない」(昭和28112日衛環第2号の記の3)ということであれば,墓埋法の検討ははなから不要であるようです。しかし,天皇・皇族について墓埋法の一般的適用除外があるものとは筆者としては考えにくいということは,前記33)のとおりです。またそもそも,「御火葬施設」が内廷費で維持される皇室の私的施設ではなく,宮内庁に属する国の施設であれば――宮内庁長官以下の宮内庁職員になれば皇族になるというわけではないでしょうから――墓埋法皇族不適用論のみではなお不十分でしょう。国のする埋葬及び火葬にも墓埋法の適用があるのであって,それゆえに自衛隊法115条の4は,墓埋法の例外的適用除外規定として,「墓地,埋葬等に関する法律(昭和23年法律第48号)第4条及び第5条第1項の規定は,第76条第1項(第1号に係る部分に限る。)の規定により出動を命ぜられた自衛隊の行動に係る地域において死亡した当該自衛隊の隊員及び抑留対象者〔略〕の死体の埋葬及び火葬であつて当該自衛隊の部隊等が行うものについては,適用しない。」と規定しているところです。(なお,自衛隊法7611号ならぬ同項2号の事態に際しての自衛隊の出動は国外派遣になるところ,そもそも墓埋法は日本国外では適用されないものでしょう。)

「御火葬施設」を設けるにも墓埋法101項の許可が必要である場合,それが八王子市長房町の武蔵陵墓地内に設けられるのならば,許可権者は八王子市長となります(前記のとおり,墓埋法25項括弧書きによって,同法の「都道府県知事」は,市又は特別区にあっては,市長又は区長です。)。

 

ア 火葬場の経営主体等の問題

そこで,八王子市墓地等の経営の許可等に関する条例(平成19年八王子市条例第29号)を見てみると,その第31項には次のようにあります。

 

  (墓地等の経営主体等)

3条 墓地等〔筆者註:火葬場を含みます(同条例1条)。〕を経営しようとする者は,次の各号のいずれかに該当する者でなければならない。ただし,特別の理由がある場合であって,市長が,公衆衛生その他公共の福祉の見地から支障がないと認めたときは,この限りでない。

1) 地方公共団体

2) 宗教法人法(昭和26年法律第126号)第4条第2項に規定する宗教法人で,同法に基づき登記された事務所を市内に有し,かつ,永続的に墓地等を経営しようとするもの(以下「宗教法人」という。)

3) 墓地等の経営を行うことを目的とする,公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律(平成18年法律第49号)第2条第3号の公益法人で,一般社団法人及び一般財団法人に関する法律(平成18年法律第48号)に基づき登記された事務所を市内に有し,かつ,永続的に墓地等を経営しようとするもの(以下「公益法人」という。)

 

 皇室も宮内庁も,地方公共団体でも宗教法人でも公益法人でもないところです。

 火葬場の経営者が地方公共団体,宗教法人,公益法人等でなければならない理由は,その永続性(上記条例312号及び3号各後段参照)と非営利性の確保のためであるそうです。すなわち,昭和4345日付けの厚生省環境衛生課長から各都道府県,各指定都市衛生主管部局長宛て通知「墓地,納骨堂又は火葬場の経営の許可の取扱いについて」において同課長はいわく,「従来,墓地,納骨堂又は火葬場の経営主体については,昭和2193日付け発警第85号内務省警保局長,厚生省衛生局長連名通知及び昭和23913日付け厚生省発衛第9号厚生次官通知により,原則として市町村等の地方公共団体でなければならず,これにより難い事情がある場合であっても宗教法人,公益法人等に限ることとされてきたところである。これは墓地等の経営については,その永続性と非営利性が確保されなければならないという趣旨によるものであり,この見解は現時点においてもなんら変更されているものではない。従って,墓地等の経営の許可にあたっては,今後とも上記通知の趣旨に十分御留意のうえ,処理されたい。」と(生活衛生法規研究会143-144頁)。

 「御火葬施設」の設置は「特別の理由がある場合であって」かつ「公衆衛生その他公共の福祉の見地から支障がない」のだと主張して,よって上意のとおり直ちに許可をすべしと八王子市長を説得しようにも,「その都度設け」られる火葬場は永続性を欠くからそんなものを許可したら厚生労働省に叱られる,と抵抗される可能性があります。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


(上):秩父宮雍仁親王火葬の前例等

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1080110294.html



3 昭和28年衛環第2号の検討

 

(1)「1」について:墓埋法と戸籍法との結合及び天皇・皇族についてのその欠如等

 

ア 墓埋法に基づく火葬の許可と戸籍法に基づく死亡の届出等との結合

現在の墓埋法52(「前項〔「埋葬,火葬又は改葬を行おうとする者は,厚生労働省令で定めるところにより,市町村長(特別区の区長を含む。以下同じ。)の許可を受けなければならない。」〕の許可は,埋葬及び火葬に係るものにあつては死亡若しくは死産の届出を受理し,死亡の報告若しくは死産の通知を受け,又は船舶の船長から死亡若しくは死産に関する航海日誌の謄本の送付を受けた市町村長が,改葬に係るものにあつては死体又は焼骨の現に存する地の市町村長が行なうものとする。」)にいう「死亡の届出」とは何かといえば,「戸籍法第25条,第88条又は第93条において準用する第56条の規定に基づく届出をいう。すなわち,死亡者本人の本籍地,届出人の所在地,死亡地(それが明らかでないときは最初の発見地,汽車等の交通機関の中での死亡の場合は死体を降ろした地,航海日誌を備えない船舶の中での死亡の場合は最初の入港地)の市町村長に対して届出をすることができる。」ということだそうです(生活衛生法規研究会22頁)。航海日誌の謄本の送付については,戸籍法93条の準用する同法55条に規定があるところです。

これに対して,雍仁親王薨去当時の墓埋法82項の死亡の届出に係る当時の戸籍法88条は「死亡の届出は,外国又は命令で定める地域で死亡があつた場合を除いては,死亡地でこれをしなければならない。但し,死亡地が明らかでないときは,死体が最初に発見された地で,汽車その他の交通機関の中で死亡があつたときは,死体をその交通機関から降ろした地で,航海日誌を備えない船舶の中で死亡があつたときは,その船舶が最初に入港した地で,これをしなければならない。」と規定していました(下線は筆者によるもの)。これを現在の戸籍法88条の「できる」規定と比較すると,現在の規定では同法25条による「事件本人の本籍地又は届出人の所在地」での死亡届出が原則となってしまい,死亡地ないしは死体の到着地の市町村長が死亡の届出を受けるものでは必ずしもなくなっています。墓埋法5条の趣旨は,「埋葬,火葬又は改葬を市町村長の許可に係らしめ,埋葬等が,国民の宗教的感情に適合し,かつ公衆衛生その他公共の福祉の見地から,支障なく行われるように,自由な埋葬等を禁ずるものである。」と説かれていますが(生活衛生法規研究会20頁。同法1(「この法律は,墓地,納骨堂又は火葬場の管理及び埋葬等が,国民の宗教的感情に適合し,且つ公衆衛生その他公共の福祉の見地から,支障なく行われることを目的とする。」)参照),死亡地でも死体の到着地でもない地の市町村長は,公衆衛生云々といわれてもピンとこないのではないでしょうか。

いずれにせよ,戸籍法に基づく死亡の届出と墓埋法に基づく火葬の許可及び火葬許可証の交付とが結合されているわけです。

なお,墓埋法現52項にいう「死亡の報告」は「戸籍法第89条,第90条又は第92条の規定に基づく報告をいう」そうで(生活衛生法規研究会22頁),これも戸籍法の適用が前提となります。

 

ちなみに,墓埋法52項にいう「死産の届出」,「死産の通知」及び「死産に関する航海日誌の謄本の送付」は,「死産の届出に関する規程(昭和21年厚生省令第42号(昭和27年法律第120号「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く厚生省関係諸命令の措置に関する法律」第3条の規定により,法律としての効力を有する。))の規定〔同令4条及び9条〕に基づく」ものです(生活衛生法規研究会22頁)。

しかし,昭和21年厚生省令第42号の第3条は「すべての死産は,この規程の定めるところにより,届出なければならない。」と規定し,同令第2条は「この規程で,死産とは妊娠第4月以後における死児の出産をいひ,死児とは出産後において心臓膊動,随意筋の運動及び呼吸のいづれをも認めないものをいふ。」と規定しているところ,皇族の死産に同令の適用はあるのでしょうか。同令7条は,父親を第1次的の届出義務者としていますから,畏れ多くも皇后陛下の御死産の場合には天皇陛下が千代田区長に対して届出をせねばならないのか,ということにもなりかねません。聯合国軍最高司令官の要求に係る事項を実施するため昭和20年勅令第542号に基づき1946930日に昭和21年厚生省令第42号を発した河合良成厚生大臣は,そこまでの共和国的な光景をも想定していたのでしょうか。

1946年当時はなお有効だった明治40年(1907年)211日の皇室典範増補8条は「法律命令中皇族ニ適用スヘキモノトシタル規定ハ此ノ典範又ハ之ニ基ツキ発スル規則ニ別段ノ条規ナキトキニ限リ之ヲ適用ス」と規定していましたところ,同条の解釈適用が問題になるところです。これについては,天皇の裁可に係る勅令ならばともかく,一国務大臣の発する省令は,そもそも法形式として「皇族ニ適用スヘキモノ」としてふさわしくないものと通常解されるところでしょうし,かつ,昭和21年厚生省令第42号には「皇族ニ適用スヘキ」旨の明文規定も無いところです。すなわち,昭和21年厚生省令第42号は天皇・皇族に適用がないものとして制定され,そのことは,その施行日(194753日)の前日を限り明治40年の皇室典範増補が廃止された日本国憲法の下でも変わっていない,と解釈すべきものなのでしょう。

 

イ 皇室典範26条による天皇・皇族に対する戸籍法の適用除外

皇室典範(昭和22年法律第3号)26条は「天皇及び皇族の身分に関する事項は,これを皇統譜に登録する。」と規定していて,確かに,天皇・皇族には戸籍はなく,戸籍法の適用はないわけです。

ちなみに,外国人も戸籍がありませんが,こちらについては,「外国人にも戸籍法の適用があり出生,死亡などの報告的届出義務を課せられ」ているところです(谷口知平『戸籍法』(有斐閣・1957年)54頁。戸籍法252項参照)。厚生省衛生局長は,外務省欧米局長宛ての昭和32415日付け衛発第292号回答において,戸籍法の適用との関係には言及してはいませんが,「埋葬許可は,死亡者の国籍の如何をとわず,本法〔墓埋法〕施行地で死亡した場合,死亡地の市町村長(特別区の区長を含む。以下同じ。)がこれを与えることとなっている。」と述べています(生活衛生法規研究会133-134頁。ただし,現在の戸籍法における外国人の死亡の届出は,死亡地でできることには変わりはありませんが(同法881項),届出人の所在地でするのが本則になっています(同法252項)。)。

 戸籍法の適用を受けぬ皇族たる雍仁親王の薨去の際には,同居の親族たる勢津子妃も藤沢市長に死亡届出をする義務(同法871号(当時は第2項なし))を有さず,仮に届出をしても「届出義務者でない者よりの届出は受理されるべきでない」ので(谷口55頁)結局受理されず,秩父宮家としては藤沢市長の火葬許可証を入手することができなかった,ということであったようです。

 なお,戸籍法上の死亡届出義務者に係る同法87条は,現在次のとおりです。

 

  87 次の者は,その順序に従つて,死亡の届出をしなければならない。ただし,順序にかかわらず届出をすることができる。

第一 同居の親族

第二 その他の同居者

第三 家主,地主又は家屋若しくは土地の管理人

 死亡の届出は,同居の親族以外の親族,後見人,保佐人,補助人,任意後見人及び任意後見受任者も,これをすることができる。

 

ウ それでも皇族の火葬は可能であるとの結論に関して

しかし,火葬許可証がない以上皇族の火葬を火葬場の管理者は行ってはならないものとは環境衛生課長は杓子定規に解していません。「第14条第3項の規定は皇族の場合を考慮していないもの」として,なお火葬の可能性を認めています。

 

(ア)墓埋法13

墓埋法13条が「墓地,納骨堂又は火葬場の管理者は,埋葬,埋蔵,収蔵又は火葬の求めを受けたときは,正当の理由がなければこれを拒んではならない。」と規定しているということが,火葬許容の方向に秤を傾けたということがあるでしょう。同条は,「埋火葬等の施行が円滑に行われ,死者に対する遺族等関係者の感情を損なうことを防止するとともに,公衆衛生その他公共の福祉に反する事態を招くことのないよう」にするためのものとされています(生活衛生法規研究会64頁。なお,同条については,後出(41)イ)の津地方裁判所昭和38621日判決に先立つものとしての内閣法制局意見(昭和35215日法制局一発第1号厚生省公衆衛生局長宛内閣法制局第1部長回答)があります(生活衛生法規研究会138-140頁)。)。当局は「遺族等関係者の感情」を重視するものと明言しているのであれば,確かに,心をこめて求めよさらば与えられん,です。

 

Petite et dabitur vobis, quaerite et invenietis, pulsate et aperietur vobis. (Mt 7,7)

 

(イ)墓埋法51項及び墓埋法施行規則14号並びに感染症予防等法30

更にこの点に関して墓埋法14条の趣旨を見てみると,「本条は,第5条及び第8条に定める埋火葬等の許可制度の実効を期するため,墓地等の管理者に対して正当な手続を経ない埋火葬等に応ずることを禁じた規定である。」とあります(生活衛生法規研究会65頁)。そうであると,市町村長による火葬の許可がそもそも何のためにあるのかを考えることも必要であるようです。

墓埋法51項の厚生労働省令である墓地,埋葬等に関する法律施行規則(昭和23年厚生省令第24号。以下「墓埋法施行規則」と略称します。)1条の第4号に,墓埋法51項の規定により埋葬又は火葬の許可を受けようとする者が市町村長に提出しなければならない申請書の記載事項として,「死因(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(平成10年法律第114号)第6条第2項から第4項まで及び第7項に規定する感染症,同条第8項に規定する感染症のうち同法第7条に規定する政令により当該感染症について同法第30条の規定が準用されるもの並びに同法第6条第9項に規定する感染症,その他の別)」とあるのが気になるところです。

感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(以下「感染症予防等法」と略称します。)62項から4項までに規定する感染症は,それぞれ「一類感染症」,「二類感染症」及び「三類感染症」です。同条7項に規定する感染症は「新型インフルエンザ等感染症」であって,これには,現代の恐怖の大王である新型コロナウイルス感染症が含まれます(同項3号)。同項8項に規定する感染症は「指定感染症」です。同条9項に規定する感染症は「新感染症」であって,これは,「人から人に伝染すると認められる疾病であって,既に知られている感染性の疾病とその病状又は治療の結果が明らかに異なるもので,当該疾病にかかった場合の病状の程度が重篤であり,かつ,当該疾病のまん延により国民の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれがあると認められるものをいう」ものです。

感染症予防等法30条は,次のとおりです。なお,新感染症についても,政令により一類感染症とみなされて同条が適用されることがあり得,また,都道府県知事が一類感染症とみなして同条に規定する措置の全部又は一部を実施することが可能です(感染症予防等法531項・501項)。

 

(死体の移動制限等)

30 都道府県知事は,一類感染症,二類感染症,三類感染症又は新型インフルエンザ等感染症の発生を予防し,又はそのまん延を防止するため必要があると認めるときは,当該感染症の病原体に汚染され,又は汚染された疑いがある死体の移動を制限し,又は禁止することができる。

2 一類感染症,二類感染症,三類感染症又は新型インフルエンザ等感染症の病原体に汚染され,又は汚染された疑いがある死体は,火葬しなければならない。ただし,十分な消毒を行い,都道府県知事の許可を受けたときは,埋葬することができる。

3 一類感染症,二類感染症,三類感染症又は新型インフルエンザ等感染症の病原体に汚染され,又は汚染された疑いがある死体は,24時間以内に火葬し,又は埋葬することができる。

 

 感染症予防等法302項を見ると,火葬はlast resortとして,結局常に許可されるべきもののようです。また,死体の移動を制限又は禁止しつつも,公衆衛生のためには放置するわけにはいかないということであれば,やはりその地で火葬されるのでしょう。

 それならば,火葬をするのになぜわざわざ墓埋法51項による市町村長の許可手続が必要なのかといえば,むしろ埋葬の許可を求める者に対して,火葬の許可を受けて当該死体を火葬するように窓口指導を行う機会を得るためのもののようでもあります。「埋葬又は火葬の許可申請は,戸籍法に基づく死亡届の提出と同時に行われる場合が多く,かつ,届出事項と重複するものがあることから,同一文書による取扱いの便法が認容されている〔昭和4152日付け環整第5032号環境衛生局長から愛知県知事宛て回答「墓地,埋葬等に関する法律施行規則第1条の申請について」〕。」とされていて(生活衛生法規研究会25頁)重みが無く,また,厚生事務次官から各都道府県知事宛て通知である昭和23913日付け厚生省発衛第9号「墓地,埋葬等に関する法律の施行に関する件」の3に「埋葬,火葬(ママ)及び改葬の許可は,原則として死亡届を出した市町村長の許可を受けることとし,統計上の統一を図った。」とあるので(生活衛生法規研究会105頁),何だか統計を取る目的ばかりのように思われて力が入らなかったのですが,確かに,感染症予防等法302項に鑑みるに明らかなとおり「公衆衛生」の見地(墓埋法1条参照)からして望ましく,かつ,時には専らそれによるべきものとされる葬法であるところの火葬への誘導機能は期待されてあるわけでしょう。

 感染症予防等法302項の「規定に違反したとき」は,「当該違反行為をした者は,100万円以下の罰金に処」せられます(同法776号)。

 

   しかし,感染症予防等法302項本文,776号の罪の構成要件は分かりにくいところです。同法302項ただし書に鑑みるに,当該死体の無許可埋葬が実行行為になるのでしょうか。そうであると,埋葬も火葬もせずに放棄した場合は,刑法190条の死体遺棄罪(3年以下の懲役)でなお問擬されるのでしょう(前田雅英『刑法各論講義 第4版』(東京大学出版会・2007年)499頁参照)。死体遺棄罪に関しては,「不作為による死体遺棄罪が成立するのは,埋葬義務のある者に限られよう」と述べられています(前田499頁)。(なお,軽犯罪法(昭和23年法律第39号)118号は「自己の占有する場所内に,〔略〕死体若しくは死胎のあることを知りながら,速やかにこれを公務員に申し出なかつた者」を拘留又は科料に処するものと規定していますが,当該死体及び死胎については,「公務員をして処置させるまでもなく,その存在する場所の占有者自ら処置すべきものを含まないものと解する。また,〔略〕処置すべき者が判明しており,これらの者による処置が当然予想されるものについても同様である。したがって,〔略〕自宅療養中又は病院入院中の者が死亡した場合に,これを公務員に申し出ない行為などは,本号に当らない。」と説かれています(伊藤榮樹原著=勝丸充啓改訂『軽犯罪法 新装第2版』(立花書房・2013年)155頁)。同号の前身規定としては,旧刑法(明治13年太政官布告第36号)4258号が「自己ノ所有地内ニ死屍アル(こと)ヲ知テ官署ニ申告セス又ハ他所ニ移シタル者」18778月段階でのフランス語文では,“Ceux qui n’auront pas signalé à l’autorité locale la découverte par eux faite, dans leur propriété, d’un cadavre ou d’un corps humain inanimé ou l’auront transporté au dehors”3日以上10日以下の拘留又は1円以上195銭以下の科料に処するものとしていました。当該規定前段の趣旨は,ボワソナアドによれば,「死亡したと思われる者に,適時の救護をもたらし得ないということがないようにする」ということでした(Gve Boissonade, Projet Révisé de Code Pénal pour l’Empire du Japon accompagné d’un Commentaire; Tokio, 1886. p.1258)。)

当該「埋葬義務のある者」は誰かといえば,「専ら埋葬・祭祀・供養をなす権能と義務とを内容とする特殊のものと考えねばなら」ず,「その意味では放棄も許されない」ところの「屍体」の所有権(我妻榮『新訂民法総則(民法講義)』(岩波書店・1965年)203頁)が帰属する者でしょう。しかして死体の所有権は誰に帰属するかといえば,「判例は,相続によって相続人に帰属するという(大判大正107251408頁(家族の遺骨をその相続人が戸主の意に反して埋葬したので戸主から引渡請求をしたが認められない))。しかし,慣習法によって喪主たるべき人(〔民法(明治29年法律第89号)〕897条参照)に属すると解するのが正当と思う」ということになっています(我妻203頁)。「死体は,埋葬や供養をなす限りで権利の対象として認められる(東京高判昭62108家月40345頁,遺骨は祭祀主(ママ)者に属する。)」というわけです(山野目章夫編『新注釈民法(1)総則(1)』(有斐閣・2018年)790頁(小野秀誠))。東京高等裁判所昭和40719日判決・高集185506頁は刑法190条の死体遺棄罪の成立に関して「〔当該死体は〕被告人の妻子であるので,被告人は慣習上これらの死体の葬祭をなすべき義務のあることは明らか」と判示しています(下線は筆者によるもの)。以上をまとめる判例としては,「宗教家である被相続人と長年同居していた信者夫婦が遺骨を守っていたところ,相続人(養子)が祭祀主宰者として菩提寺に埋葬するため,遺骨の引渡しを求めた事案で,最高裁は,遺骨は慣習に従って祭祀を主宰すべき者とみられる相続人に帰属するとした原審を正当とした(最判平元・718家月4110128)。」というものがあります(谷口知平=久貴忠彦『新版注釈民法(27)相続(2)(補訂版)』(有斐閣・2013年)89頁(小脇一海=二宮周平))。死体ないしは焼骨の共同所有は法律関係を複雑なものにするでしょうから(遠藤浩等編『民法(9)相続(第3版)』(有斐閣・1987年)71頁(遠藤)参照),相続人帰属説よりはこちらの方がよいのでしょう。

ただし,死体の処分については別の配慮も必要であるとされています。「これまで学説は,遺体・遺骨を一括して,所有権の客体性,帰属原因,帰属者を議論してきたが〔略〕,両者には違いがある〔略〕。遺体の場合,特別な保存方法を用いない限り,腐敗が急激に進行することから,衛生上速やかに火葬など一定の処分をする必要があり,葬送を行う近親者に処分を委ねることが妥当である。」というわけです(谷口=久貴編88頁(小脇=二宮))。これは,葬送を行う者(近親者に限られず,戸籍法87条に基づき死亡届出をした者を含めて解してもよいように思われます。)のする死体の処分は事務管理(民法697条以下)として適法化されるということでしょうか。ちなみに,生活保護法(昭和25年法律第144号)182項は,「被保護者が死亡した場合において,その者の葬祭を行う扶養義務者がないとき」(同項1号)又は「死者に対しその葬祭を行う扶養義務者がない場合において,その遺留した金品で,葬祭を行うに必要な費用を満たすことのできないとき」(同項2号)において,「その葬祭を行う者があるときは,その者に対して,前項各号〔①検案,②死体の運搬,③火葬又は埋葬及び④納骨その他葬祭に必要なもの〕の葬祭扶助を行うことができる。」と規定しています

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 宮内庁の「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」(2013年)

 宮内庁が20131114日付けで発表した「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」には,上皇及び上皇后(これらの称号については天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)31項及び41項を参照)の火葬について次のようにあります(「.検討内容」の「2.今後の御喪儀のあり方について」)。

 

  (1)御火葬の導入

(ア)御火葬導入の考え方

皇室の歴史における御葬法の変遷に鑑み,慎重に検討を行ったところ,

①皇室において御土葬,御火葬のどちらも行われてきた歴史があること,

      我が国の葬法のほとんどが,既に火葬になっていること,

      ③御葬法について,天皇の御意思を尊重する伝統があること,

      ④御火葬の導入によっても,その御身位にふさわしい御喪儀とすることが可能であること,

     から,御葬法として御火葬がふさわしいものと考えるに至った。

   (イ)御火葬施設の確保

御火葬の施設については,天皇皇后両陛下の御身位を重く受け止め,御専用の施設を設置する。

御専用の御火葬施設はその都度設け,御火葬後は,その資材・御火葬炉等を保存管理し,適切な利用を図るものとする。

御火葬施設は武蔵陵墓地内に設置することとし,その具体的な場所については,周辺環境に十分配慮し定める。

 

 上記(ア)②にあるように,我々日本国の人民には,火葬はなじみのあるものとなっています。しかしながら,なじみはあるというものの,いざ不幸があって火葬となると,火葬場には火葬許可証なるものを持っていかなくてはならないというようないろいろの手続があり,墓地,埋葬等に関する法律(昭和23年法律第48号。以下「墓埋法」と略称します。)という大法律との関係が厄介だったのでした。これに対して宮内庁は,上記「御火葬の導入」という検討結果を出すまで「この1年余,全庁挙げて検討に取り組み,また,議論が浅薄なものとならないよう,祭儀,歴史等について専門的な知見を有する方々のお考えをうかがい,取りまとめを行った」そうですから(「.はじめに」)――当該「専門的な知見を有する方々」には例示を見る限り法律家は含まれてはいないようであるものの――60年経過後の当該検討においては,1953年(昭和28年)1月におけるフライングのような遺漏はなかったものでしょう。(なお,2016年度,宮内庁は一般社団法人火葬研と武蔵陵墓地附属施設整備工事に伴う設計業務(御火葬施設の設計)の委託契約(金額9882000円)を締結しています。「一般的にはない火葬施設を設計するもの」であるそうです(宮内庁の情報公開資料)。)


DSCF1296(昭和天皇武蔵野陵)
昭和天皇武蔵野陵(東京都八王子市長房町武蔵陵墓地)


 

2 秩父宮雍仁親王の火葬(1953年)

 と,前段において,筆者は,「19531月におけるフライング」などと勿体ぶった表現を用いました。何があったのかというと,要は,同月には次のような出来事があったところです。

 

(1)表:宮中の動き

 

  4日 日曜日 胸部疾患等のため神奈川県藤沢市鵠沼の秩父宮別邸にて静養中の〔昭和天皇の弟宮である秩父宮〕(やす)(ひと)親王が,この日午前220分薨去する。〔昭和〕天皇は818分より御文庫において宮内庁長官田島道治の拝謁を受けられた後,直ちに御弔問のため同35分自動車にて皇后と共に御出門,955分秩父宮別邸に御到着になる。故雍仁親王妃勢津子の案内により雍仁親王とお別れの対面をされ,1046分秩父宮別邸を御発,午後零時5分還幸になる。これに先立つ午前10時,宮内庁より雍仁親王がこの日午前4()30()分薨去した旨が発表される。〔略〕

   〔略〕

  夕刻,御文庫において宮内庁長官田島道治の拝謁を受けられ,故雍仁親王の喪儀につき説明をお聞きになる。これに先立ち,宮内庁長官田島道治は宮内庁次長宇佐美毅・同秘書課長高尾亮一と共に,故雍仁親王妃勢津子と同件につき相談し,午後には宣仁親王・同妃と協議した。夜,宇佐美次長より喪儀は秩父宮家の喪儀として行い,喪儀委員長等は秩父宮家が委嘱すること,喪儀の日取り,喪主等については翌日午前再び秩父宮別邸で相談すること,皇太子〔現在の上皇〕の渡英〔同年62日のエリザベス2世女王戴冠式参列のためのもの〕に支障はないことなどが発表される。また翌日夕刻には,宇佐美次長より,喪儀は12日に行い,遺骸は故雍仁親王の遺志により火葬されること等が発表される。

  (宮内庁『昭和天皇実録 第十一』(東京書籍・2017年)479-482頁)

 

  12日 月曜日 この日,故雍仁親王斂葬の儀が執り行われる。〔略〕午前10時より豊島岡墓地において葬場の儀が行われる。〔略〕儀終了後,雍仁親王の遺骸は落合火葬場に運ばれ,遺言に従って火葬に付された後,墓所の儀が行われ,豊島岡墓地に愛用の品々と共に埋葬される。なお墓所には比翼塚形式の墓が営まれる。明治以降における皇族の火葬,及び比翼塚形式の墓の造営は初めてとなる。またこの度の喪儀では,従来の皇族の喪儀と異なり,参列者に制限が設けられず,葬場の儀に続いて一般の拝礼が行われた。さらに霊柩の移動に際して,多数のスポーツ関係者が奉仕した。なお,去る5日には,同じく遺言により雍仁親王の遺骸が神奈川県藤沢市鵠沼の秩父宮別邸において,元東京大学教授岡治道の執刀,財団法人結核予防会結核研究所長隈部英雄の助手,及び故雍仁親王の療養に尽力した主治医の遠藤繁清・寺尾殿治・坂口康蔵・児玉周一・折笠晴秀の立会いにより,解剖に付された。〔略〕

  (実録第十一486-487頁)

 

実は,雍仁親王の火葬に関する195314日から同月5日にかけての協議には,重要な政府高官が一人招かれていなかったようです。厚生省公衆衛生局環境衛生部環境衛生課長です。

 

(2)裏:東京都公衆衛生部長及び厚生省環境衛生課長の働き

 

ア 東京都公衆衛生部長の指示伺い及び墓埋法の関連条項(143項,211号等)

195315日夕刻の宮内庁次長の発表を聞いて数日がたち(書面の日付は同月10日),自分の管内で雍仁親王の火葬が行われるものと気付いた東京都公衆衛生部長が――困惑してのことでしょう――厚生省の環境衛生課長にお伺いを立ててきます。

 

 (問)墓地埋葬等に関する法律第14条第3〔「火葬場の管理者は,第8条の規定による火葬許可証又は改葬許可証を受理した後でなければ,火葬を行つてはならない。」〕に火葬場の管理者は第8条による「火葬許可証又は改葬許可証を受理した後でなければ火葬を行ってはならない」と規定されて居るが,皇族の方の転帰に際し,火葬に付さる場合は如何に取り扱うべきか,証明書は如何なる所から発行せられたものに基くべきか,少なくとも依頼により火葬すべきか,御指示を仰ぎたい。

  (生活衛生法規研究会監修『新版 逐条解説 墓地、埋葬等に関する法律(第2版)』(第一法規・2012年)120頁)

 

 当時,墓埋法81項は「市町村長が,前3条〔第5条から第7条まで〕の規定により,埋葬,改葬又は火葬の許可を与えるときは,埋葬許可証,改葬許可証又は火葬許可証を交付しなければならない。」と,同条2項は「市町村長は,死亡若しくは死産の届出を受理し,又は船舶の船長から,死亡若しくは死産に関する航海日誌の謄本の送付を受けた後でなければ,埋葬許可証又は火葬許可証を交付してはならない。」と規定し,同法51項は「埋葬又は火葬を行わうとする者は,死亡地又は死産地,死亡地又は死産地の判明しないときは,死体の発見地の市町村長(特別区の区長を含む。以下同じ。)の許可を受けなければならない。」と規定していました。墓埋法14条の「規定に違反した者」は「1000円以下の罰金又は拘留若しくは科料」に処せられました(同法211号。同法22条に両罰規定。当時の罰金等臨時措置法(昭和23年法律第251号)2条及び41項により,「1000円以下」の罰金額は1000円以上2000円以下となり,科料額は5円以上1000円未満。ついでながら,現在の墓埋法14条の刑は,2万円以下1万円以上の罰金(罰金等臨時措置法21項)又は拘留(刑法(明治40年法律第45号)16条により1日以上30日未満とされ,刑事施設に拘置)若しくは科料(同法17条により1000円以上1万円未満)です。)。

なお,墓埋法上,「埋葬」とは「死体(妊娠4箇月以上の死胎を含む。以下同じ。)を土中に葬ること」をいい(同法21項),「いわゆる「土葬」がこれに当たる」ものとされます(生活衛生法規研究会13頁)。「火葬」は,「死体を葬るために,これを焼くこと」です(墓埋法22項)。なお,死体は墳墓に「埋葬」されますが,焼骨は「埋蔵」されます(墓埋法24項参照)。「焼骨」とは何かについては,「死体を火葬した結果生ずるいわゆる遺骨であるが,遺族等が風俗・習慣によって正当に処分した残余のものは,刑法においても遺骨とはされない。」と説明されています(生活衛生法規研究会14頁)。

 秩父宮家から雍仁親王の遺体を火葬できるかと打診を受けた落合火葬場が,それでは火葬許可証を当日御持参くださいと言ったところ,えっそれにはどうしたらいいのと宮家側から反問されての問題発覚だったのでしょうか。実は以下に見るように,ここには法の欠缺があったのでした。人民流に単純に,雍仁親王の死亡地の藤沢市役所に戸籍法(昭和22年法律第224号)上の死亡届出をして(下記31)ア参照),藤沢市長から火葬許可証の交付を受ける,というわけにはいかなかったのでした。

いかに皇室尊崇の熱い心があろうとも,うっかり墓埋法143項,211号違反の犯罪者となって警察署や検察庁に呼び出された挙句(ここで「呼び出された」にとどまるのは,墓埋法21条の刑に係る罪については,住居及び氏名が明らかであり,かつ,逃亡のおそれがなければ,現行犯であっても逮捕はされず(刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)217条),定まった住居があり,かつ,検察官,検察事務官又は司法警察職員による取調べのための出頭の求めに応じている限りは,逮捕状による逮捕もされないからです(同法1991項)。なお,立法当初の罰金等臨時措置法71項参照),簡易裁判所の厄介になって(裁判所法(昭和22年法律第59号)3312号)2000円の罰金を取られたり,1日以上30日未満の期間でもって刑事施設に拘置されるのは,火葬場の管理者としては御免を蒙りたいところだったのでしょう。(なお,火葬場の「管理者」は,「自然人であり,〔略〕火葬場の運営及び管理についての事務取扱責任者」であって(生活衛生法規研究会63頁),火葬場の経営者(「ほとんどは法人」であるとされています(同頁)。)によって置かれ,その本籍,住所及び氏名は当該火葬場所在地の市町村長に届出がされます(墓埋法12条)。)

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 大喪の礼経費の国庫負担

 1947年(昭和22年)53日から施行されている「皇室典範」という題名の昭和22年法律第3号の第24条は「皇位の継承があつたときは,即位の礼を行う。」と,同法25条は「天皇が崩じたときは,大喪の礼を行う。」と規定しています。この両条の規定の趣旨は即位の礼及び大喪の礼は国の事務として国費をもって行われるということだよね,と筆者は理解しています。皇室典範たる明治22年(1889年)の皇室典範等の下において,美濃部達吉が次のように説いていたところを承けた理解です。

 

  皇室ニ関スル儀礼ノ中或ハ国ノ大典トシテ国家ニ依リテ行ハルルモノアリ,①即位ノ礼,②大嘗祭,③大喪儀其ノ他ノ国葬ハ是ナリ。即位ノ礼及大嘗祭ハ皇室ノ最モ重要ナル儀礼ニシテ其ノ式ハ皇室令(〔明治〕42年皇室令1登極令)ノ定ムル所ナレドモ,同時ニ国家ノ大典ニ属スルガ故ニ,国ノ事務トシテ国費を以テ挙行セラル。其ノ事務ヲ掌理セシムル為ニ設置セラルル大礼使ハ皇室ノ機関ニ非ズシテ国家ノ機関ナリ〔大礼使は内閣総理大臣の管理に属し,その官制は皇室令ではなく勅令で定められました(大正2年勅令第303号(これは,1914411日に昭憲皇太后の崩御があったところ,同日付けの大正3年勅令第53号によりいったん廃止)・大正4年勅令第51号,昭和2年勅令第382号)。〕国葬モ亦国ノ事務ニ属ス,国葬令(大正15勅令324)ニ依レバ大喪儀,皇太子皇太子妃,皇太孫皇太孫妃,摂政ノ喪儀ハ国葬トシ〔同令1条・2条〕,其ノ他国家ニ偉勲アル者ニ付テモ特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアリ〔同令31項〕。国葬ヲ賜フ特旨ハ勅書ヲ以テシ,内閣総理大臣之ヲ公告ス〔同条2項〕。此等ノ外皇室ノ儀礼ハ総テ皇室ノ事務トシテ行ハル。

  (美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)217-218頁。丸数字及び下線は筆者によるもの)

 

 即位の礼及び大嘗祭については,明治22年の皇室典範11条に「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」と規定されていたところです。大嘗祭については,『皇室典範義解』の説明に「大嘗の祭は神武天皇元年以来歴代相因て大典とはせられたり。(けだし)天皇位に即き天祖及天神地祇を請饗(せいきやう)せらるゝの礼にして,一世に一たび行はるゝ者なり(天武天皇以来年毎に行ふを新嘗とし,一世に一たび行ふを大嘗とす)。」とあります。ただし,「第1代神武天皇が,倭の国の八十(やそ)(たけ)()を討つさい,タカミムスビノカミを祀って新嘗祭とみられる祭りを行った記事が,「日本書紀・神武紀」にある」ものの(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)12-13頁),『日本書紀』の神武天皇元年条に大嘗祭挙行の記事はありません。

 法律たる「皇室典範」24条及び25条の規定をお金の問題に関するものとする理解は,筆者一人のものではありません。

 1946927日開催の臨時法制調査会第一部会に係るその議事要録には,次のような問答が記録されています。

 

  鈴木 即位の大礼,大(ママ)費は法律で予算を組むのか。

  高尾 しかり。

 

 ここでの「鈴木」は臨時法制調査会委員の衆議院議員・鈴木義男,「高尾」は同幹事の宮内省出仕・高尾亮一でしょう。

 

2 大喪の礼(非宗教的)≠大喪儀

 19461026日付けの臨時法制調査会の答申書に,皇室典範改正(ママ)法案要綱の一つの項として,

 

  即位の礼及び大喪儀に関し,規定を設けること。

 

とあります。

 上記臨時法制調査会の要綱に関し,明治22年の皇室典範11条並びに出来上がりの「皇室典範」法24条及び25条との比較においてここで注目すべきことは二つあります。既に大嘗祭が落ちていること及び「大喪」であっていまだに「大喪の礼」ではないことです。(なお,京都市民にとっては即位の礼の同市における挙行がなくなったことこそが最重大問題であるかもしれませんが,「〔明治〕13年〔1880年〕車駕京都に駐まる。〔明治天皇は〕旧都の荒廃を嘆惜したまひ,後の大礼を行ふ者は宜く此の地に於てすべしとの旨あり。」との立法事実(『皇室典範義解』)は,連合国軍の空襲で荒廃した他の諸都市を尻目に,戦災の無かった京都市にはもはや妥当しなかったものでしょう。)

 大嘗祭が落ちたのは,やはり,日本国憲法のいわゆる政教分離原則のゆえでしょう。19461217日の第91回帝国議会貴族院皇室典範案特別委員会において,元逓信省通信局外信課長の渡部信委員が「皇室典範」法案中になぜ大嘗祭の規定を設けなかったのかと質疑をしたところ,金森徳次郎国務大臣は,「此の憲法の下に,及び之に附随して出来て来まする所の諸般の制度は,宗教と云ふことを離れて設けられて行く,斯う云ふ原理を推論し得るものと思つて居ります」,「宗教的なる規定は,之を設けることは憲法の趣旨と背馳するもののやうに思はるゝのであります」ということを前提とした上で,「即位の礼と大嘗祭は,程度の差はありまするが,固より或思想を以て今迄一貫されて居つたものであらうと考へて居ります,けれども今後の合理的なる政治の面に於きましては,信仰に関係のない部面だけを採入れると云ふことにして大礼の規定を皇室典範に織込みまして,信仰的なる部面のことは国の制度の外に置くと云ふ考になつて居ります,従つてそれ〔大嘗祭〕は制度自身の上から見ますると,矢張り外に出てしまふことになりまして,恐らくは皇室の御儀式として,皇室内部の御儀式として続行せられて行くことであらうと想像を致して居ります」と答弁しています(同委員会議事速記録第26頁。また,同議会衆議院議事速記録第664頁及び69頁の同国務大臣答弁参照)。

 他方,「大喪儀」が「大喪の礼」になぜ変わったのかということについては,「皇室典範」法案に全員起立で賛成がされた19461125日の枢密院本会議における,当該法案に関する潮恵之輔審査委員長報告の次の部分に注目すべきでしょう。

 

  その他,新たに,即位の礼に対応して,天皇が崩じたときは,大喪の礼を行うことを定め,また,従前皇室陵墓令中に規定された事項を本案に移して陵墓に関する規定を置く。(第25条及び第27条)

 

専ら即位の礼に対応して大喪の礼を行うということですから,大喪の礼には大嘗祭に対応する宗教的な儀礼は含まれないということでしょう。大喪儀ならぬ大喪の礼を行うものとする規定となったのは,「大喪儀」との文言のままではそこには宗教的儀礼が含まれてしまう,ということにだれかが気付いた上での文言修正であったのではないでしょうか。

 

3 即位の礼に対応するものは大喪の礼か退位の礼か

と,ここまで調べが進んだところで,不図,安倍晋三内閣が2017519日に法案を提出し,全国民を代表する議員をもって組織される衆議院及び参議院によって構成される国会が当該法案に係る両議院の可決をもって同年69日に制定した法律であって,同月16日に当時の天皇たる現在の上皇がそれを公布することとなった天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)を,関連する法律として見てみると,その第33項に次のような規定があって,いささか筆者を悩ませるのでした。

 

 上皇の身分に関する事項の登録,喪儀及び陵墓については,天皇の例による。

 

ここでの悩みの種は,「上皇の喪儀については,天皇の例による。」の部分です。

(「例による」の意味については,「ある事項について,他の法令の下における制度又は手続を包括的に当てはめて適用することを表現する語として用いる。その意味では「準用する」〔略〕と余り変わらないともいえるが,「準用する」の場合はそこに示された法令の規定だけが準用の対象となるのに対し,「例による」の場合は,ある一定の手続なり事項なりが当該法律及びこれに基づく政令,省令等を含めて包括的に,その場合に当てはめられる点において異なる。」と説明されています(前田正道編『ワークブック法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)653頁)。)

「喪礼」ではなく「喪儀」なのですが,ひとまず単純に考えれば,「皇室典範」法25条の規定が「上皇が崩じたときは,大喪の礼を行う。」というふうに読み替えて適用されるのかな,と思われるところです。

しかしここで枢密院における説明を想起すると,「皇室典範」法25条の大喪の礼は,即位の礼に対応するものなのでした。天皇は崩御するまで在位する建前なので(明治22年の皇室典範10条・「皇室典範」法4条参照),退位の礼ならぬ大喪の礼がその在位せられた御代の締め括りとして即位の礼に対応するのだな,また,明治22年の皇室典範には無い天皇御大喪の際の儀礼に係る規定を昭和22年の「皇室典範」法に導入するためには前者の11条にある即位の礼との対応を指摘することによる新たな意義付けを行うことが必要だったのだな,と筆者は「対応して」の意味を解していたのですが・・・そういえば,上皇については,天皇の退位等に関する皇室典範特例法附則9(「この法律に定めるもののほか,この法律の施行に関し必要な事項は,政令で定める。」)に基づき当時の安倍内閣が制定した天皇の退位等に関する皇室典範特例法施行令(平成3039日政令第44号)1条の規定(「天皇の退位等に関する皇室典範特例法(以下「法」という。)第2条の規定による天皇の退位に際しては,退位の礼を行う。」)による退位の礼が,その天皇としての在位の最終日である平成31年(2019年)430日に既に挙行済みだったのでした。平成2年(1990年)1112日の即位の礼に対応するものは,一見するに,この退位の礼でしょう。

 

4 2019430日の退位の礼:象徴≦代表

平成30年(2018年)43日の安倍内閣の閣議決定「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う国の儀式等の挙行に係る基本方針について」の第4によれば,天皇の退位等に関する皇室典範特例法施行令1条にいう退位の礼とは,2019430日に宮中において行われた退位礼正殿の儀のことでした。すなわち,退位礼正殿の儀は,国事行為である国の儀式であって(退位礼正殿の儀以外の退位関連の儀式は,国の儀式ではなかった(皇室の儀式であった)ということでしょう。),その事務は宮内庁が行ったのでした(なお,平成31419日の閣議決定「退位礼正殿の儀を国の儀式として行うことについて」参照)。

ところで,退位礼正殿の儀の趣旨は,上記平成3043日の閣議決定によれば「天皇陛下が御退位前に最後に国民の代表に会われる儀式」とあるので(下線は筆者によるもの),筆者は,今更ながらぎょっとしたものでした。すなわち,日本国及び日本国民統合の象徴と日本国民の代表との顔合わせとは,Doppelgänger現象を連想させるところではありますが,それだけではありません。その地位が「日本国民の総意に基く」ものでしかない象徴の前に当の「主権の存する日本国民」の代表がぬっと現れるのは,象徴にその憲法的非力を感じさせるべきいささか威迫的ともいい得る絵柄ではないでしょうか。しかし,日本国憲法1(「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く。」)及び専ら国会の制定法によって天皇の廃立を定めるものである天皇の退位等に関する皇室典範特例法2(「天皇は,この法律の施行の日限り,退位し,皇嗣が,直ちに即位する。」)の法意をあえて視覚化するとなると,こうなるのでしょう。

「国民代表の辞」を述べたのは安倍晋三内閣総理大臣であり,それに対する天皇の「おことば」でも「国民を代表して,安倍内閣総理大臣の述べられた言葉」とありますから,退位礼正殿の儀においては,Citoyen安倍晋三が,主権の存する国民を一人で代表して,天皇の前に立ったわけです(2019419日に宮内庁長官が決定した「退位礼正殿の儀の細目について」には,「次に内閣総理大臣が御前に参進し,国民代表の辞を述べる。/次に天皇のおことばがある。」とあります。)。「大」がついても内閣総理大であることにとどまるのならば,文字の上だけでも下として天皇の前に謙遜なのですが(日本国憲法61項では,天皇が内閣総理大臣を任命します。),ここでの力点は,国民の代表であることにあるのでしょう。

あるいは特段深い考え無しに,無邪気に「国民代表」の語が用いられたのかもしれません。しかし,憲法的場面においては,日本国の主権は国民に存し(日本国憲法前文1項第1文・1条),国民の代表者は国政の権力を行使する者です(同前文1項第2文)。その前では天皇ないしは太上天皇も隠岐や佐渡まで吹っ飛んだ歴史的事実をも背景に有する我が乱臣賊子たる国民(北一輝の表現です。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1066681538.html)の代表は,無力であるものでは全くなく,その正反対であって,そう無垢・無害な存在ではあり得ません。2019430日の安倍晋三国民代表の天皇に対する辞においても,「天皇陛下におかれましては,皇室典範特例法の定めるところにより,本日をもちまして御退位されます。」と,天皇の退位等に関する皇室典範特例法2条の趣旨の読み聞かせ(中川八洋筑波大学名誉教授ならば,もっと激しい表現であるところです。)がされています。退位の礼は,はなはだ重い儀式であったと評価すべきでしょう。(ちなみに隠岐・佐渡といえば,かのルイ16世に派遣せられたラ・ペルーズは,日本海を北上するその探検航海において,これらの島々を望見したことでしょうか。)

なお,一夜明けて令和元年(2019年)51日の今上天皇の即位後朝見の儀も「御即位後初めて国民の代表に会われる儀式」であって(前記平成3043日の閣議決定の第521)。下線は筆者によるもの),「次に天皇のおことばがある。/次に内閣総理大臣が御前に参進し,国民代表の辞を述べる。」という式次第でした(201951日の宮内庁長官決定「即位後朝見の儀の細目について」)。天皇が自らその「おことば」の冒頭において「日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより,ここに皇位を継承しました。」と宣言していますので,安倍晋三国民代表の天皇に対する辞においては「天皇陛下におかれましては,本日,皇位を継承されました。国民を挙げて心からお(よろこ)び申し上げます。」と,天皇の退位等に関する皇室典範特例法2条の法意に係るくどい念押し無しに,当該継承の事実の確認のみがされています。主権の存する国民は,「お慶び」です。これを平成元年(1989年)19日の即位後朝見の儀の前例と比較すると,当時の竹下登内閣総理大臣が述べたのは「国民代表の辞」というような高ぶったものではなく,「内閣総理大臣の奉答」というものでありました。20221010日追記:なお,令和元年51日の即位後朝見の儀における国民代表の辞の締め括りは「ここに,令和の御代(みよ)の平安と,皇室の弥栄(いやさか)をお祈り申し上げます。」であるのですが,「令和の御代」の意味するところは実は深長ではないかと気が付きました。令和の元号は,その前月,安倍国民代表の内閣自身が定めたものであって(平成31年政令第143号),その決定過程から排除されていた天皇にその「在位ノ称号」(美濃部185頁)として押し付けるのは厚かまし過ぎるでしょう。そうであれば,(安倍国民代表に率いられた)日本国民の令和の御代が銃撃事件などなく平安であることが祈念されるとともに,併せて皇室の弥栄もお祈り申し上げられた,ということになるのでしょう。ちなみに,平成元年19日の内閣総理大臣の奉答には,「平成の御代」という言葉はありませんし,天皇のおことばを承けて天皇に対して「国民一同,日本国憲法の下,天皇陛下を国民統合の象徴と仰ぎ,世界に開かれ,活力に満ち,文化豊かな日本を建設し,世界の平和と人類福祉の増進のため,更に最善の努力を尽くすことをお誓い申し上げます。」という形で締め括られています(下線は筆者によるもの)。これに対して令和元年51日の国民代表の辞における上記締め括り文の前の文は「私たちは,天皇陛下を国及び国民統合の象徴と仰ぎ,激動する国際情勢の中で,平和で,希望に満ちあふれ,誇りある日本の輝かしい未来,人々が美しく心を寄せ合う中で,文化が生まれ育つ時代を,創り上げていく決意であります。」というもので(下線は筆者によるもの),主権者国民らしい一方的宣言の形になっています。更に余計な感想を付け加えると,30年間の平成の衰退を経て,令和の初めの日本国民は,「世界に開かれ」た国民であることを諦めつつ「激動する国際情勢」に背を向けた一国的平和を望み,animal spirit的ないしは物的な「活力に満ち」ることはもうないものの,希望,誇り,美しい心の寄せ合いといった情緒的慰めをなおも求める文弱的存在となっていたということだったのだな,と改めて気付いたことでもありました。令和年間の新型コロナウイルスをめぐる動きは,当該傾向を更に促進するものでしょう。)

以上脱線が過ぎました。天皇の退位等に関する皇室典範特例法33項に戻りましょう。

 

5 退位の礼を前提とした皇室典範特例法33項の解釈論

19901112日の即位の礼に対応するものとしては既に退位の礼が2019430日に行われているのだから,上皇が崩じたときに大喪の礼を行うにはもはや及ばないのだ,とすることは可能でしょうか。

 

昭和天皇の大喪の礼は,国の儀式として,平成元年224日,新宿御苑において行われ,また,同日の(同所における)葬場殿の儀と(武蔵陵墓地内における)陵所の儀を中心として,昭和天皇の大喪儀が皇室の行事として行われました。陵名は,武蔵野陵(むさしののみささぎ)と定められました。

  (宮内庁「昭和天皇・香淳皇后」ウェブページ)

 

 昭和天皇崩御の際の前例を反対解釈すると,国の儀式たる大喪の礼が行われなくとも,なおも皇室の行事たる大喪儀は行われるわけです。大喪の礼がなければ喪儀全体が行なわれなくなるというものではありません。

 ということで,それでは全ては皇室にお任せして上皇の大喪の礼のことは放念しよう,それでいいよね(退位の礼と大喪の礼とを重ねて行うことは国費の無駄遣いである,などと細かく責め立てられても面倒だし,「〔1989〕年224日に,昭和天皇の「大喪の礼」が国事行為として挙行されたが,その際,皇室の宗教的行事としての「葬場殿の儀」と,場所的にも時間的にも区別が不分明な仕方で,国事行為としての大喪の礼が行われたことの憲法適合性が,〔政教分離の観点から〕問題とされた。」(樋口陽一『憲法』(青林書院・1998年)112頁)といわれているし,我が国からは天皇及び皇后しかその女王の国葬に参列ができなかったかの英国では1936年に自らの意思で退位したエドワード8世について1972528日のそれは「崩御」ではなくて「薨去」であって,国葬はされず(同年「65日にウィンザー城内セント・ジョージ教会にて〔略〕葬儀」),「若き日に会ひしはすでにいそとせまへけふなつかしくも君とかたりぬ」(1971104日パリ西郊ブローニュの森における御製)ということで1921年の訪英時以来仲良しだった昭和天皇もその葬儀には柩前に花環を供えただけだったから(宮内庁『昭和天皇実録 第十五』(東京書籍・2017年)561頁・353頁),まあ「弔問外交」にもならないだろうし,そもそも「国葬」にはもう懲りた。),ということになるかといえば,上皇の大喪の礼を行わないとなれば「上皇の喪儀については,天皇の例による。」という天皇の退位等に関する皇室典範特例法33項の規定はみっともない空振り規定となってしまうではないか,そんな解釈が許されてよいのか,という問題が残ります。

 皇室の行事としてのみ上皇の喪儀は行われるがそれは1989年に不文法として確立されたものである昭和天皇の大喪儀の例によるべしという規範が,日本国家の法律として,皇家を対象として定立されたのだ,との解釈を採れば辻褄は合うでしょうか。しかし,皇家の内事たる事項(皇室喪儀令は大正15年皇室令第11号であって,摂政が裁可したものの,法律でも勅令でもありませんでした。明治典憲体制下,皇室令は,大日本帝国憲法ならぬ皇室典範系列の法規範でした(公式令(明治40年勅令第6号)51項参照)。)についてあえて国家が前例踏襲を強いる規制は,皇室自治の大権の干犯でなければ天皇・皇族に対する人権侵害となるようにも思われます。とはいえ,天皇・皇族は日本国民の権利及び義務(日本国憲法3章)を有しない非国民であるからいいのだ,と強弁することもあるいは可能かもしれません。

 しかしながら,実は現在,上皇は,火葬を望む等,自らの喪儀等の在り方を昭和天皇のそれとは別のものとしようとしているそうです(20131114日付け宮内庁の「今後の御陵及び御喪儀のあり方についての天皇皇后両陛下のお気持ち」及び「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」)。そうであれば,天皇の退位等に関する皇室典範特例法33項について妙な解釈を採用してあえて妙な波風を立てるべきではないでしょう。やはり,退位の礼は実施済みではあるものの,国の儀式として上皇の大喪の礼をも行うものとすることが,無難な選択ではないでしょうか。(当該大喪の礼も,平成元年内閣告示第4号「昭和天皇の大喪の礼の細目に関する件」の例によれば,天皇及び皇后が葬場殿前に進んだ上での一同黙祷,内閣総理大臣の拝礼・弔辞,衆議院議長の拝礼・弔詞,参議院議長の拝礼・弔詞及び最高裁判所長官の拝礼・弔辞並びに外国代表者の各拝礼及び参列者の一斉拝礼並びにその前後における葬場及び陵所への各葬列といったことどもで構成されることになるのでしょう。)

 横死した安倍晋三国民代表についても,国の儀式としての国葬儀が,岸田文雄内閣によって敢然挙行されたところです(2022927日)。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 はじめに

 前回(2022830日)の記事(「国葬儀とState Funeralとの異同に関して」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079923416.html)掲載後,202298日には英国のエリザベス2世女王の崩御があって同月19日には同国のState Funeralが現実に挙行され,更に同月27日の我が国葬儀においては弔辞中に山縣有朋による伊藤博文を悼む和歌(什)を引用するものがあって反響を呼び,筆者としては自らの予感能力的なもの(当該記事3及び1参照)の有無についていささか思うところがありました。しかしながら,筆者の記事が全く読まれていないことは結構なことで,ああ伊藤と山縣とに関するそのエピソードならば,電通の入れ知恵ならぬ元内閣総理大臣官房の広報関係者である齊藤弁護士のブログ記事からの転用でしょう,などとのテレビ・コンメンテーターによる軽薄な発言も無かったところでした。

 ということで,国葬関係噺が続きます。

 

2 国葬令の効力の有無に関する再論

 

(1)位階令との比較からする失効説に対する疑問

 さて,件名を国葬令とする大正15年勅令第324号については,「日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定で,法律を以て規定すべき事項を規定するものは,昭和221231日まで,法律と同一の効力を有するものとする。」とする昭和22年法律第72号の第1条によって,1947年(昭和22年)1231日限り効力を失っているものと我が国政府は解釈しています。筆者も,当該見解を承けた記事を書いたところです(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079865197.html)。

 しかしながら,天皇の栄典授与大権(大日本帝国憲法15条(「天皇ハ爵位勲章及其ノ他ノ栄典ヲ授与ス」),日本国憲法77号「栄典を授与すること。」)に関する勅令仲間の位階令(大正15年勅令第325号)が現在政令としてなお効力を有していること(昭和22年政令第141項は,「日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定は,昭和22年法律第72号第1条に規定するものを除くの外,政令と同一の効力を有するものとする。」と規定しています。)との関係で,国葬令失効説にはなお釈然としないところが筆者には残ったのでした。

 

(2)受田衆議院議員対内閣法制局

 国葬令の効力の存否に係る問題の解明は,受田新吉衆議院議員が執念を燃やしていたところであり,同議員の質疑に基づき,当該問題に係る内閣法制局の解釈が国会答弁の形でいくつか残されています。

 

ア 吉國次長答弁:現行法令輯覧問題

 

  〇吉國(一〔郎〕)政府委員〔内閣法制次長〕 現行法令輯覧は,総理府の総務課で編さんはいたしておりますけれども,その内容につきましてまでしさいに私ども〔内閣法制局〕のほうで指導をいたしておるわけではございませんが,従来の解釈といたしましては,国葬令は昭和221231日限りその効力を失っておるというのが,ほぼ通説であろうと存じております。

  〇受田委員 通説であるならば,この廃止した法律,命令を法令輯覧の中に入れておるということは,どういう理由か,次会までに御答弁願いたい。

  〇吉國(一)政府委員 これは総理府の編さんでございますので,私が直接申し上げるわけにまいりませんが,何しろ具体的に廃止法律を出しまして,左に掲げる法律を廃止するというようなことで処理をいたしたものにつきましては議論がございませんが,その効力として解釈上失っているとかいうようなものにつきましては,議論のあるところでございます。そのような意味で,総理府におきましても国葬令がまだ効力を有するやいなやということにつきまして,確たる議論が立たないままにこれを掲げたもの,このような命令は,特に旧憲法施行前の太政官布告であるとかあるいは行政官布告等によりまして,旧憲法施行後に法律なり勅令なりの効力を持ちましたようなものにつきましては,現在でも疑義のあるようなものが若干ございます。そのようなものにつきましては,現行法令輯覧なり現行日本法規あるいはその他の法規集におきましても,その疑義の存するまま掲げてある例もございますので,国葬令も同様な例でございますというように考えております。

  196549日衆議院内閣委員会(第48回国会衆議院内閣委員会議録第304頁))

 

1965年当時,内閣総理大臣官房総務課編纂の現行法令輯覧に,国葬令はなお収載されていたのでした。

 

イ 林長官答弁:国葬令失効説の提示

 内閣法制局の奉ずる「通説」の由来するところは,1962226日の衆議院予算委員会第一分科会における林修三法制局長官の次の答弁でしょう。

 

  〇林(修)政府委員 御承知のように,これ〔国葬令〕は勅令で出ておりまして,結局,当時旧憲法下における独立命令であったと思うわけであります。従いまして,形式的に申しますと,ただいまにおいては効力は,まあちょっとないと言わざるを得ないと私は思います。しかし,これは御承知のように,実際新憲法後において問題がございましたのは,実は貞明皇后の御喪儀のときでございまして,このときには当時の政府当局は,国葬令に準じた,国葬令を実質的に踏襲したような考え方で御喪儀を営んだことになっておる,かように考えます。

  〇受田分科員 国葬令には天皇の大喪儀,それから「皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃及摂政タル親王内親王」等の喪儀は国葬とする。もう一つ,国家に偉勲のある者の死亡したときには特旨により国葬を賜う,こうあるわけです。しかし,これは現実に法律か何かで廃止してはいないのでしょう。

  〇林(修)政府委員 御承知のように,旧憲法と新憲法とでは,いわゆる行政機関と申しますか,による命令のきめ方が根本的に違うわけでございます。旧憲法時代は,御承知のように憲法第8条〔法律に代わる緊急勅令の規定〕あるいは第9条で,いわゆる天皇の独立命令という規定があったわけでございます。従って,今の大権事項,しかも一面においていわれる大権事項というものが憲法にいろいろ規定がございまして,この大権事項につきましては帝国議会は関与できないという解釈が法的解釈であります。従いまして,いわゆる大権事項,特に天皇の今の御喪儀というようなことについては,大権事項として,帝国議会の議決する法律によってはきめられないと考えられております。従って,勅令をもってきまっておったわけであります。新憲法は御承知のように,国会を唯一の立法機関とする規定を置きまして,行政機関による命令というものは,憲法第73条をごらんになるとわかりますが,あそこでは政令のことを直接言っておりますが,要するに法律を執行する命令あるいは法律の委任に基づく命令,この点にだけいわゆる行政機関の立法というものを認めておるわけであります。従いまして,新憲法下におきましては,旧憲法下の大権事項に属するような勅令で,結局において大部分が法律事項になった,かように考えられるわけであります。従いまして,新旧憲法の移り変わりにおきまして,御承知のように,昭和22年法律第72号という法律がございまして,旧憲法下のいわゆる独立命令で新憲法下においては法律をもって定めることを要する事項は,法律に移す。過渡的には,〔昭和〕22年の1231日までは独立命令も効力を持つ,かような法律をあの当時立法したわけでございます。その法律の規定によりまして,ただいまお話しの国葬令は,形式的には22年の末日限りで失効になっている。かように考えざるを得ないと思います。

  (第40回国会衆議院予算委員会第一分科会議録第740頁)

 

 林長官の上記答弁には明治皇室典範下の皇室令関係の説明が足りないようにも筆者には思われます。すなわち,大喪及び大喪儀については,国務に関する法規たる勅令によってではなく,いずれも皇室令である皇室服喪令(明治42年皇室令第12号)及び皇室喪儀令(大正15年皇室令第11号)によって規定されていました。皇室令は,「皇室典範ニ基ツク諸規則,宮内官制其ノ他皇室ノ事務ニ関シ勅定ヲ経タル規程ニシテ発表ヲ要スルモノ」(公式令(明治40年勅令第6号)51項)です。皇室の喪儀は,第一次的には,皇室の家長としての天皇に属する大権(皇室の大権)に係る事項であるのです。皇室の大権は,大日本帝国憲法上の天皇の大権ではありません。明治皇室典範系列の大権です。大日本帝国憲法に基づく勅令である――あるいは勅令でしかない――国葬令では,皇族の喪儀に関しては,大喪儀等を国葬として,それらの費用の国庫負担及び事務の政府取扱いが定められただけでした(同令1条及び2条)。

以上のことどもはともかくとして,林長官の前記答弁において問題なのは――国葬令が大日本帝国憲法9条の独立命令たる勅令であったのはそのとおりであるとして――日本国憲法の下では法律をもって定めることを要する規定は国葬令のどの部分であるのかが具体的に明示されていないことです。法律事項がなければ前記昭和22年政令第141項の規定によって国葬令はなお政令として効力を有しているということになってしまいますので,国葬令の効力に止めを刺すためには,そこまでの摘示をしなければならないところです。

 

ウ 高辻次長答弁:国葬令失効説の理由付け

 

(ア)国葬令3条1項及び5条の規定を理由とする一連の法令としての同令失効説

 林長官が提示した国葬令失効説については,1963329日の衆議院内閣委員会における高辻正巳内閣法制次長による次の答弁が追完をなすものなのでしょう。

 

  〇高辻政府委員 ただいま御指摘の勅令第324号,いわゆる国葬令〔筆者註:「国葬令」は,当該勅令の題名ではなく件名です。〕でございますが,御承知の通りに,国葬令自身を廃止した法令というものはございません。ございませんが,実はもうすでに御承知だと思いますが,昭和22年法律第72号という法律がございまして,〔略〕その立法によりまして,法律事項を規定しておるものは現在効力はない。22年の12月末日まではありましたけれども,その後はないということに相なっております。そこで,この国葬令が事実的に廃止されておりませんので,どうかという問題はございますが,この国葬令をながめて見ますと,「勅裁ヲ経テ之ヲ定ム」とか「特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアルヘシ」とかいうような規定があります関係からいたしまして,ただいま瓜生〔順良宮内庁〕次長が御指摘になりましたように,現在は効力がないというのが相当であろうと思います。

  (第43回国会衆議院内閣委員会議録第1413頁。下線は筆者によるもの)

 

  〇高辻政府委員 仰せの通りに,全く現在の皇室典範における25条の「大喪の礼を行う。」大喪の礼の方式をいかにするかという問題は,法律事項ではないと思います。また実際上,国葬令の形式的ないろいろなやり方というものに準じて〔筆者註:ここは正確には「皇室喪儀令及び皇室服喪令の形式的ないろいろなやり方というものに準じて」でしょう。〕やって一向にかまわないことだと思います。ただ,今申し上げましたのは,国葬令の中で,「特旨ニ依リ国葬ヲ賜フ」とかあるいは「勅裁ヲ経テ之ヲ定ム」とかいうような点がありますために,これだけを取り出して,それが効力がないといえばそれまででございますけれども,やはり一連の規定としての意味を持つものでございますので,そういう意味で,これは現在一つの法律としての効力はないだろうというわけでございまして,〔受田委員の〕仰せの中心である大喪の礼をどうするかというのは,事実としてきめればいいと思います。

  (同14頁。下線は筆者によるもの)

 

内閣法制局によれば,国葬令中第31項の「国家ニ偉勲アル者薨去又ハ死亡シタルトキハ〔天皇の〕特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアルヘシ」との規定及び第5条の「皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ノ式ハ内閣総理大臣〔が天皇の〕勅裁ヲ経テ之ヲ定ム」との規定が法律事項を定めるものであって,これらは19471231日限り失効し(昭和22年法律第721条),それに伴い「一連の規定としての意味を持つ」国葬令全体が失効した,ということになるようです。

 

(イ)位階令の解釈との整合性問題

前記の高辻次長説明については,まず,天皇が直接出て来るからいけないというのは,法律事項か否かの問題というよりも合憲か否かの憲法レヴェルの問題ではないか,そうであるのならば19471231日限りではなく,むしろ同年52日限りで失効したものと解すべきではないかという疑問が生じます。しかし,それ以前に,高辻次長の説明は,位階令に関する林法制局長官の次の解釈(1962226日衆議院予算委員会第一分科会)とそもそもどのように符合せしめられるべきものなのでしょうか。

 

 〇受田分科員 そうしますと,位階勲等,位階令その他の分はどうなっているのですか。

 〇林(修)政府委員 これは私どものただいままでの考え方で申しますと,大体旧憲法前のやつは,御承知のように太政官布告その他で出ております。旧憲法時代においては,文化勲章令等は勅令で出ております。これの新憲法下における効力いかんという問題が御指摘のようにあるわけでございます。これにつきましては,新憲法におきましていわゆる栄典の授与というものは,実は天皇の国事行為になっております。従いまして,新憲法下においても,天皇はもちろん栄典授与の権限を持っておられるわけであります。ただし,それを独立しておやりになるわけではもちろんなくて,すべて内閣の助言と承認に基づいてやることになっております。従いまして,新憲法下において,天皇が,栄典,たとえば勲章あるいは位階そういうものを授与される場合には,実は個別的に内閣の助言と承認ということももちろん可能だと思います。しかし,たとえば内閣が助言と承認をやるについて,内閣がその助言と承認