1 春日に筑波嶺を仰ぐ

 いよいよもう4月の新学年・新学期の季節です。

 今年(2025年)4月の新学年の準備が特に大変なのは,筑波大学でしょうか。

 ところで,筑波といえば関東の名峰・筑波山及びそこに棲息する蝦蟇🐸なのでしょうが,次の御製も有名であるところです。

 

                      陽成院

  筑波嶺の峰より落つる男女(みなの)川恋ぞ積りて淵となりぬる

 

 と陽成天皇の話が出てくると,同天皇とその次の光孝天皇との間の代替わりに係る事情に関連して,つい次のような光景を想起してしまうところが筆者の余計なところです。


野津幌川
 
こちらは,男女川ならぬ野津幌川。

野津幌川蛙
 川に恋を積もらせるのはよいとしても,ゴミをすててはなりません。


2 平成31430日末及び元慶八年二月四日の各代替わりに関して

 

(1)平成31年4月30

平成31年(2019年)430日の国民代表の辞。

 

謹んで申し上げます。

   天皇陛下におかれましては,皇室典範特例法の定めるところにより,本日をもちまして御退位されます。〔すなわち,全国民を代表する議員によって構成される衆議院及び参議院からなる国会が制定した(天皇は,公布するのみ)平成29616日法律第63号(いわゆる皇室典範特例法)2条が「天皇は,この法律の施行の日限り,退位し,皇嗣が,直ちに即位する。」と,同法附則11項が「この法律は,公布の日から起算して3年を超えない範囲内において政令で定める日から施行する。」とそれぞれ規定し,第4次安倍晋三内閣が制定した平成291213日政令第302号が本日平成31430日をもって同法の施行日としているから,同日の終了に伴い同法により現天皇は皇位を失うのだ。〕

   〔竹下登内閣制定の昭和6417日政令第1号に基づく元号である〕平成の三十年,『(うち)(たい)らかに(そと)()る』との思いの下,私たちは天皇陛下と共に歩みを進めてまいりました。この間,天皇陛下は,国の安寧(あんねい)と国民の幸せを願われ,一つ一つの御公務を,心を込めてお務めになり,日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たしてこられました。

   我が国は,平和と繁栄〔😲 「アベノミクス」がもたらしたものは,日本の経済,国家及び人民衰退の現実に対するその茹で蝦蟇蛙♨🐸的無痛化ばかりだったものでしょう。〕を享受する一方で,相次ぐ大きな自然災害など,幾多の困難にも直面しました。そのような時,天皇陛下は,皇后陛下と御一緒に,国民に寄り添い,被災者の身近で励まされ,国民に明日への勇気と希望を与えてくださいました。

   本日ここに御退位の日を迎え,これまでの年月(としつき)(かえり)み,いかなる時も国民と苦楽を共にされた天皇陛下の御心(みこころ)に思いを致し,深い敬愛と感謝の念を今一度新たにする次第であります。

   私たちは,これまでの天皇陛下の歩みを胸に刻みながら,平和で,希望に満ちあふれ,誇りある日本の輝かしい未来を創り上げていくため,更に最善の努力を尽くしてまいります。

   天皇皇后両陛下には,末永くお(すこ)やかであらせられますことを願ってやみません。

   ここに,天皇皇后両陛下に心からの感謝を申し上げ,皇室の一層の御繁栄をお祈り申し上げます。

 

同日の国民統合の象徴によるおことば。

 

今日(こんにち)をもち,天皇としての務めを終えることになりました。

ただ今,国民を代表して,安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に,深く謝意を表します。

即位から30年,これまでの天皇としての務めを,国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは,幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ,支えてくれた国民に,心から感謝します。

明日(あす)から始まる新しい令和の時代が,平和で実り多くあることを,皇后と共に心から願い,ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。

 

 ここで本稿の時代は,千百年以上遡ります。

 

(2)元慶八年二月四日

 

ア 正史

 元慶八年(西暦884年にほぼ相当)二月四日条(『日本三代実録』)。

 

  先是。 天皇手書。送呈太政大臣(〔藤原基経〕)曰。朕近身病数発。動多疲頓。社稷事重。神器叵〔「ハ」,できない〕守。所願速遜此位焉。宸筆再呈。旨在難忤〔「ゴ」,さからう〕。是日。 天皇出自綾綺(りょうき)殿,遷幸二条院。〔略〕扈従文武百官供奉如常。〔略〕会文武百官於院南門。 詔曰。〔略〕食国の政を永遠聞食へきを。御病時々発こと有て。万機滞こと久成ぬ。天神地祇之祭をも闕怠こと有なむかと。危み畏り念ほして。天皇位を譲遜給て。別宮に遷御坐ぬと宣ふ御命を。親王等大臣等聞給ふ。承給て。恐み畏も国典に(より)て。太上天皇之尊号を(たてまつ)る。又皇位は一日も(むな)しかる不可(へからす)。一品行式部卿親王は諸親王中に貫首にも御坐。又前代に太子無き時には。此の如き老徳を立奉之例在。加以御齢も長給ひ。御心も正直く慈厚く慎深御在て。四朝に佐け仕給て政道をも熟給り。百官人天下公民まてに謳歌帰す所咸異望無し。故是以 天皇璽綬を奉て。天日継位に定奉らくを。親王等王等臣等百官人天下公民衆聞給ふと宣ふ。中納言在原朝臣行平於庭誥之。〔略〕事畢。王公已下拝舞而退。於是以神璽宝鏡剣等。付於王公。即日。親王公卿歩行。奉天子神璽宝鏡剣等 今皇帝(〔光孝〕)於東二条宮。百官諸仗囲繞相従。〔後略〕

 

  〔前略〕親王公卿奉天子璽綬神鏡宝剣等。 天皇(〔光孝〕)再三辞譲。曽不肯受。二品行兵部卿本康親王起座跪奏言。〔略〕伏願 陛下在此楽推。幸聴於群臣矣。是夜。親王公卿侍宿於行在所。

 

「朕近身病数発。動多疲頓。社稷事重。神器叵守。」及び「御病時々発こと有て。万機滞こと久成ぬ。天神地祇之祭をも闕怠こと有なむかと。危み畏り念ほして。」の部分は,皇室典範特例法1条の「今後これらの御活動〔国事行為のほか,全国各地への御訪問,被災地のお見舞いをはじめとする象徴としての公的な御活動〕を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じておられること」の部分を,「御齢も長給ひ。御心も正直く慈厚く慎深御在て。四朝に佐け仕給て政道をも熟給り。」の部分は,同条の「皇太子殿下は,57歳となられ,これまで国事行為の臨時代行等の御公務に長期にわたり精勤されておられる」の部分を彷彿とさせます。

なお,元慶当時の「国典」では太上天皇であったものが,平成の皇室典範特例法31項では上皇となっています。

しかし,元慶八年二月四日の手続は,前天皇の遜位及び新天皇の即位受諾の各意思表示が要素となっている点で日本国憲法41項(「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」)違反でしょう。

 日本国憲法的には,次のような手続の方が正統なものでしょう。

 

イ 別伝

 

   かくてその日〔元慶八年二月四日〕になりければ,基経公の計らひとして上達部殿上人の中にてよき人々をえり残し,年老いて末短かかるべき人々を供奉として帝を御輿に召させ,陽成院といふ御殿へ行幸なさせ奉り,そこに御輿を下させて後基経公威儀を正して奏し申させ給ひけるは,君には万乗の御主として,御悩故とは申しながら妄りに罪なき者を殺させ給へば,万民歎きて世は尽きなんと危ぶみ候故,止む事を得ず御位を下ろし奉るなりと申さるゝを聞かせ給ひて,悲しき事かなとてをう〔をう〕とをめかせ給ふがいたはしけれど,基経公かく申し置きて退出し急ぎて百官を引連れ,御輿を備へて小松殿へ参り時康親王を迎へ奉りて,たちに儀式を調へ御位に即け奉らる。これを光孝天皇と申し奉れり。

  (尾崎雅嘉著,古川久校訂『百人一首一夕話(上)』(1833年)(岩波文庫・1972年)138頁)

 

  〔前略〕果ては桀紂に似たる御振舞もましませしにより,つひに基経公霍光にならひ,御位を廃し光孝天皇を立てらる。公は実に伊周の亜匹といふべし。

  (尾崎137頁・138頁)

 

桀紂とは何ぞやといえば,『角川新字源』(第123版・1978年)に,「夏の桀王と殷の紂王。暴君の代表者。」とあります。

霍光及び伊周とは何ぞやといえば,同じ漢和辞典に,「伊霍」の説明として「殷の伊尹と漢の霍光。伊尹は〔殷初代の〕湯王の孫の太甲の悪行を改めさせるために,一時,太甲を桐宮に押しこめ,霍光は〔前漢第9代皇帝の〕昌邑王賀の悪行がはなはだしいのでこれを廃して宣帝を立てた。転じて,君主をこらしめたり廃立したりして国家の安泰をはかる臣下。」とあり,「伊周」の説明として「殷の伊尹と,周の賢相の周公旦」とあります。伊尹は,上記押し込めをしたことのみならず,「殷の賢人。湯王を助けて夏の桀王を討ち,殷の開国の政治に大功があった。」という人物です。周公旦は「文王の子で〔周初代の〕武王の弟。武王の子の成王を助けて周の制度文物を定め,周王朝の基礎を築いた。孔子の理想とした聖人。周(陝西省岐山県)を治めたので周公という。」と紹介されています。

伊尹については,また,『孟子』の「巻第九 万章章句上」の6に「伊尹相湯以王於天下。湯崩。大丁未立,外丙四年,仲壬四年。太甲顚覆湯之典刑,伊尹放之於桐三年。太甲悔過自怨自艾,於桐処仁遷義三年,以聴伊尹之訓己也。復帰于亳。」とあります。(はく)から追放された太甲の桐における反省期間は3年だったのでしょう(更に同書「巻第十三尽心章句上」の31には,「公孫丑曰,『伊尹曰《予不狎于不順》,放太甲於桐。民大悦。太甲賢,又反之。賢者之為人臣也,其君不賢,則固可放与』。孟子曰,『有伊尹之志則可。無伊尹之志則簒也』。」とあります。)。『孫子』の「用間篇第十三」には,「昔殷之興也,伊摯在夏,周之興也,呂牙在殷。故明君賢将,能以上智為間者,必成大功。此兵之要,三軍之所恃而動也。」とありますから,伊尹(伊摯)は夏の桀王のところでスパイのようなこともしていたのでしょう。

 

  此天皇性悪にして人主の(うつわもの)にたらず見え給ければ,摂政〔太政大臣藤原基経〕なげきて廃立のことをさだめられにけり。昔漢の霍光,昭帝をたすけて摂政せしに,昭帝世をはやく給しかば,昌邑王を立て天子とす。昌邑不徳にして器にたらず。(すなはち)廃立をおこなひて宣帝を立奉りき。霍光が大功とこそしるし(つたへ)はべるめれ。此大臣まさしき外戚の臣にて政をもはらにせられしに,天下のため大義をおもひてさだめおこなはれける,いとめでたし。

 (北畠親房著,岩佐正校註『神皇正統記』(1339年)(岩波文庫・1975年)110頁)

 

 臣下の分際で,畏くも天皇を廃立するとは,藤原基経は霍光の後輩にして,北条義時の先輩ということになります。「乱臣賊子」たる義時と一緒にされるとなれば,基経には迷惑でしょう。しかしながら,北畠親房は義時に同情的であって,「頼朝高官にのぼり,守護の職を(たまはる),これみな〔後白河〕法皇の勅裁也。わたくしにぬすめりとはさだめがたし。後室〔北条政子〕その跡をはからい,義時久く彼が権をとりて,人望にそむかざりしかば,下にはいまだきず有といふべからず。一往のいはればかりにて追討せられんは,上の御とがとや申べき。」と承久の変について論じています(北畠153頁)。

 とはいえ,藤原基経自身は天皇廃立を行った者として歴史に名を残したくはなかったのでしょう。基経の息子である藤原時平らが撰んだ正史である『日本三代実録』においては,前記のとおり,病気の陽成天皇が自発的に退位し,群臣の推戴を承けて光孝天皇が践祚したということになっています。

 

                      光孝天皇

  君が為春の野に出でて若菜摘む我が衣手に雪は降りつゝ

 

 しかし,元慶八年の段階では,藤原基経の辣腕を論ずるときには,どうしても伊尹・霍光の故事が想起されてしまっていたようです。

 

3 元慶八年六月五日の詔

 

(1)関白の職の始まり

 元慶八年六月五日の光孝天皇の詔にいわく(『日本三代実録』)。

 

  〔前略〕太政大臣藤原〔基経〕朝臣。先御世々々より天下を済助け朝政を総摂奉仕れり。国家の為に大義を建て。社稷の為に忠謀を立てて。不意外に万機之政を朕か身に授任て。閑退之心を存す。〔略〕大臣功績既に高て。古之伊霍よりも。乃祖淡海公〔藤原不比等〕。叔父美濃公〔藤原良房〕よりも益さり。朕将に其賞を議せんとするに。大臣素謙(いふ)心を懐く。必固辞退て政事若壅せむかと也也美〔心悩む,思いわずらう〕思ほして。本官〔太政大臣〕の(まま)に其職(おこなはせ)むと思ほして。所司〔博士たち〕(かんが)()むるに。師範訓導〔天皇に対するもの〕のみには(あらず)ありけり。内外之政統べ()()くも有へかりけり。仮使に職とする所無く有る可くも。朕か耳目腹心に侍る所なれは。特に朕か憂を分とも思ほすを。今日()り官庁に坐て就て万政を(すべ)行ひ。入ては朕か躬を輔け。出ては百官を(すぶ)へし。応に奏すべき之事。応に下すべき之事。必す先す(はかり)(うけ)〔相談せよ〕。朕将に垂拱し()〔手をこまぬいて〕成を仰かむとすと宣ふ御命を衆聞給と宣ふ。

 

これについての解説にいわく。「〔光孝天皇は〕まずは〔基経の〕太政大臣という令制のポストに具体的な職掌を結びつけることを考えたようである。そのために元慶八年五月二十九日,菅原道真・大蔵善行らの文人官僚や法律の専門家たちに太政大臣の職掌について検討させた。しかしその結果,太政大臣は唐の三師三公に当たり,具体的な職掌を想定されていない,という結論に達してしまった(『三代実録』)。そこで仕方がないので天皇は,同年六月五日,〔上記の〕命令を下した。この命令文の中には「関白」という言葉は出ていない。しかし,光孝天皇の次に即位した宇多天皇が,即位直後の仁和三年(887)十一月二十一日に出した命令には「万機巨細にわたって,百官を指揮し,案件は皆太政大臣(基経)に『関白』し,そののちに奏し下すこと,すべて従来通りにせよ」(『政事要略』巻三十,阿衡事。(意訳))とある。ここでいう「すべて従来通りにせよ」(「一に旧事のごとくせよ」)は,先に触れた元慶八年六月の光孝天皇の命令を承けているので,仁和三年の方が「関白」(関与し,申し上げる)という語の初見ではあるが,実質的には,光孝天皇が元慶八年六月に基経に与えた権限を,後世の関白の職掌と同一とみなすことができる。」と(坂上康俊『日本の歴史第05巻 律令国家の転換と「日本」』(講談社・2001年)234-235頁)。

 

(2)「伊霍」の霍

あるいは関白の職掌及び職名については,「大臣功績既に高て。古之伊霍よりも〔略〕益さり」における「伊霍」の「霍」の字が効いているものとも思われます。

「〔光孝天皇の〕践祚のはじめ摂政を改て関白とす。これ我朝関白の始なり。漢の霍光摂政たりしが,宣帝の時(まつりこと)をかへして退けるを,「万機の(まつりこと)猶霍光に関白(アヅカリマウサ)しめよ。」とありし,その名を取りてさづけられにけり。」と説かれています(北畠111頁)。『漢書』の霍光伝には「光自後元秉持万機,及上即位,迺帰政。上謙譲不受,諸事皆先関白光,然後奏御天子。」とあります。「光」は霍光,「後元」は漢の武帝の最後の元号,ここの「上」は宣帝,(だい)はここでは「すなはち」と読むのでしょうから,「霍光は武帝末の後元期から万機を秉持(へいじ)しており,宣帝の即位に及んですなわち政務をかえそうとした。しかし宣帝は謙譲して受けず,諸事は皆まず霍光に関白し,しかる後に天子に奏御していた。」ということになります。

光孝天皇が自らを,昌邑王賀(陽成天皇)が廃された後に霍光によって立てられた前漢の宣帝になぞらえて考えることは自然ではあります。

 

(3)「伊霍」の伊

それでは更に,「伊霍」における「伊」の文字は何を意味するかを考えるに,「伊尹は湯王の孫の太甲の悪行を改めさせるために,一時,太甲を桐宮に押しこめ」ということであったところ,太甲ならぬ陽成天皇は廃位・押し込めの憂き目に遭ったものの,それは「一時」のこらしめで,将来文徳=清和系(すなわち,光孝天皇の兄である文徳天皇からその子清和天皇(清和の子が陽成)以下に続く皇統)への皇位奉還あり得べし,という趣旨を含意したものとも解し得ないでしょうか。元慶八年六月五日の「この勅の発布より2ヵ月も前に,〔光孝〕天皇は不本意ながら息子・皇女を臣籍に降すことを予告し,六月にそれらのもの29人に源朝臣の氏姓をあたえた〔この29人には後の宇多天皇・源定省(さだみ)も含まれます。〕。このおもいきった処置は,近い将来に,基経がその外孫にあたる親王を皇嗣にたてるばあいのことを考慮したためであろうと考えられている。」と説かれているところです(北山茂夫『日本の歴史4 平安京』(中公バックス・1983年)268頁)。当該「外孫」は基経の娘・佳珠子と清和天皇との間に生まれた(したがって文徳=清和系の)貞辰親王です(北山265頁参照。ただし,同頁では,貞辰親王の父は陽成天皇であるものとされています。)。しかし,こじつけが過ぎるでしょうか。実質を踏まえていない,とお叱りを受けそうです。

 

(4)基経の抗表に対する勅語

『日本三代実録』によれば,元慶八年六月五日の詔に対して基経は同年七月六日に拝辞の抗表を奉ります。病弱でその任に堪えないと言います(「天資尫弱。病累稍仍。」)。これに対する同月八日の勅語は,偉い人である基経にそんなにきつい仕事はさせないよと述べるものの如くです。

 

 如何責阿衡。以忍労力疾。役冢宰以侵暑冒寒乎。公其頤養精神。臥治職務。

 (いかんぞ阿衡を責むるに労を忍び疾を力むるをもってし,冢宰を役するに暑を侵し寒を冒すをもってせんや。公其れ精神を頤養し,臥して職務を治む。)

 

阿衡の語については,後に論じます。(ちょう)(さい)は,「周代の官名。天子を助けて百官を統べる。今の首相。」です(角川新字源)。

 

4 源定省による皇位継承

 

(1)仁和三年八月二十五日から同月二十六日まで

光孝天皇は仁和三年(西暦887年にほぼ相当)八月二十六日に崩御しますが,その前日にその息子・源定省が皇族に復帰して親王となり,光孝天皇が崩御する当日に皇太子に立てられています。

仁和三年八月二十五日の詔(『日本三代実録』)。

 

 朕之諸児,皆朝臣之姓を(たまは)る。(これ)誠に国用を節し,民労を(やすむ)之計也。今台𣂰(てい)〔鼎〕之昌言に驚く。仰て(てう)遠い祖先の廟〕祐之重業を思ふに,天潢(あに)一派無かる可く若華(あに)片枝無かる可けんや億兆之平安を図り盤石()漢典に尋ぬ。〔略〕第七息定省年廿一朕か躬に扶侍し未た曽て閤を出てす。寛仁孝悌朕の鍾憐する所前に昆〔兄〕弟之鴈行に混(せられ),遽に一戸を編む。今祖宗之駿命を伝へんと欲するに,何そ諸任に歯せん。苟も身の為にせざれば,誰か反汗を嫌はむ。其臣姓を削り,以て親王に列す。〔略〕

 

 我が皇子女の臣籍降下は専ら国費節約のためであったところ(だから皇位継承放棄のためとまで解しないでくれ),大臣ら(台𣂰〔鼎〕)が道理にかなったよいこと(昌言)を言った。古き昔からの我が皇室の歴史に鑑みるに,時には皇統の枝分かれもあるべしなのだ(仁明=文徳=清和=陽成系から仁明=光孝=宇多系へ)。だから億兆臣民の平安を図り,かつ,祖宗の駿命を伝えるために,漢土の例も参考にし,我が子源定省の臣籍を削って親王に列するのだ。汗の如き綸言を食言したとは言うなよ,云々。

 ここで注目すべきは,「扶侍朕躬。未曽出閤。」の部分でしょうか。

 これは,『大鏡』の伝える,陽成天皇の後継者を選定する際の次のエピソードに関連します。

 

  嵯峨天皇の皇子で,げんに左大臣の職にあった源融が,太政大臣にたいして「近き皇胤をたづぬれば,融らも(はべ)るは」といったところ,基経は,「皇胤なれど,姓(たまい)てただにてつかへて,位(皇位)に()きたる例やある」ときりかえして黙らせたということだ。

  (北山266頁)

 

源融の皇位継承が認められないのは「姓給て」しまったことのみでそうなのではなく,それに加えて「ただにてつかへて」しまったからなのでしょう。源定省は,「姓給て」いたものの,部屋住みであって,いまだ「ただにてつかへて」いなかったから,皇位継承が可能だったのではないでしょうか(これに対して定省の同母の兄である源是忠及び源是貞は,(とう)が立ってしまっていたということになるのでしょう。)。旧皇族も,国民として既に社会の俗塵にまみれてしまっていると,皇族に復帰しても皇位は継承できないということになるのでしょう。

 

(2)源融の幽霊

なお,「融は,源定省推挙のときも左大臣として廟議に列していたのだが,ことさらにはことを荒らだてなかったようである。」といわれてはいますが(北山273頁),宇多天皇に対しては依然含むところがあったようです。

 

 〔源融の〕河原院は融公薨ぜられし後,宇多法皇の御領となりたり。しかるに法皇或時京極御息所と同車にて河原院に渡らせ給ひ,風景を御覧ありけるに夜になりて月の明らかなりければ,御車の畳を取下ろさせて仮りに御座とし給ひ御息所と臥させ給ひしに,この院の(ぬり)(ごめ)の戸を開きて出で来る者の音しければ,法皇何者なるぞと咎めさせ給へば,融にて候御息所賜はらんといふ。法皇宣はく汝存生の時臣下たり,何ぞ不礼の言葉を出だせるや早く帰り去れと宣ふに,かの霊物たちまち法皇の御腰を抱きければ,大いに恐れ給ひて半死半生の体にておはします。今日前駆の(ともがら)は皆中門のほかに候したる故御声遠きに到らず,(うし)(わらは)のすこぶる近く(さぶら)ひて牛に物食はせ居たれば,件の童を召して人々をして御車差しよせしめ給ひて乗らせ給ふに,御息所の顔色青ざめ給ひて起き立ち給ふ事あたはざりしを,とかくに助け抱き乗せしめ還御の後,浄蔵大法師を召して加持せしめ給ひければ蘇生し給へりとぞ。このことは古事談に載せて,河海抄にも略して記されたり。

 (尾崎141頁)

 

 退位出家の後も美女と深夜デートとは,恐れながらも生臭と申し上げるべきかどうか。有り難い仏法の教えも,御息所を求めての幽霊の出現という乱れを予防・排除することはできなかったようです。

 

                    河原左大臣

  陸奥の忍ぶもぢ摺り誰故に乱れ初めにし我ならなくに


 なお,『扶桑略記』によって伝えられた寛平元年(西暦889年にほぼ相当)八月十日の宇多天皇日記を読むと,同天皇の早期退位の理由としては天皇であることのプレッシャーないしはストレスに苦しんでおられたことも考えられるということになりますとともに,源融としては女性と親密にデートをされている元気な宇多天皇ないしは法皇を見かけるとつい先達ぶって声をかけたくなる事情があったことが看取されます。すなわち当該日記文にいわく,「今乱国之主而莫不日致愚慮。毎念万機寝膳不安。爾来玉茎不発只如老人。依精神疲極当有此事也。左丞相〔源融〕答云,有露蜂〔蜂の巣の外側の薄い膜〕者。命〔藤原〕宗継調進。其後依彼詞服之。其験真可言也。」と(倉本一宏『平安時代の男の日記』(角川選書・2024122(また,123頁・125))。寛平元年に宇多天皇は,二十三歳であらせられました。


(3)元良親王と京極御息所との恋

 ところで京極御息所をめぐっては,陽成系皇族による宇多天皇に対する一種の復讐の一幕もあったというべきでしょうか。陽成天皇の皇子である元良親王の歌。

 

  侘びぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はんとぞ思ふ

 

   さて後撰集に侘びぬれば今はた同じといふ歌を入れて,京極の御息所に遣わされし由の事書あり。この御息所と申すは藤原褒子と申して,時平公の御(むすめ)にて,宇多天皇寵愛し給ひ女御にて雅明親王・載明親王などを生せ給へり。元良親王この女御に通じ給ひしに,その事現れて憂き目を見給ひし時の歌なり。

  (尾崎169頁)

 

 宇多天皇即位後,同天皇と藤原基経との間で有名な阿衡の紛議が発生します。

 

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