1 米国の外交的関心はどこに向いているのか
ドナルド・トランプ米国前大統領は,2024年の同国大統領選挙における共和党の候補者としての指名受諾演説を同年7月18日,ウィスコンシン州ミルウォーキー市で行いました。当該演説の全文がThe New York Timesのウェブサイトに掲載されていますので(同月19日付け),筆者はPCの検索機能を用いて,荒っぽいながらもそこから同氏(及び現在の米国)の外交的関心を探る試みをしてみました。単純に,どの国ないしは地域の名が最も頻繁に言及されるのかを知ろうとしたのです。
結果は,中華人民共和国が14回で一番でした。いわく,「中華人民共和国――我々〔トランプ政権〕は,〔経済分野において〕信じられないような諸々のレヴェルにおいて彼らを叩いていた。そして彼らはそのことを知っているのである。」,「〔トランプ政権時代に〕我々は,〔経済的に〕中華人民共和国を含めた全ての国をとんとん拍子に打ち負かしていた。」,「実際のところ,最高の貿易協定は恐らく私が中華人民共和国とした取引であって,彼らは我々の製品500億ドル相当を買うことになったのである。」,「20ないし25年前を振り返れば,我々の自動車産業の約68パーセントが,中華人民共和国及びメキシコに移されることによって盗まれたのである。」,「しかし,ヴィクトル・オルバン〔ハンガリー首相〕は言ったのである。「ロシアは彼〔トランプ〕を恐れている。中華人民共和国は彼を恐れている。全ての人が彼を恐れている。何も起こることはない。」と。」,「我々〔トランプ政権〕は〔アフガニスタンの〕バグラム基地を維持していた〔註:トランプ前大統領は,同基地は今や中華人民共和国の手に落ちたものと主張しています。〕。しかして現在,中華人民共和国は同様に台湾を取り巻きつつあるのである。また,ロシアの軍艦及び原子力潜水艦がキューバ沖60マイルで行動しているのである。」等々と。
続いてロシアが9回,イランが8回,メキシコが6回,ベネズエラが5回,ウクライナ,イスラエル,アフガニスタン,ISIS(イスラム国)及び北朝鮮が各4回(北朝鮮については,単なる“Korea”の1回を含みます。),キューバ及びアジアが各3回並びにエル・サルバドル,台湾,ハンガリー,中東及びヨーロッパが各2回というようなものでした。(ちなみに日本は,1回だけ言及されています。「我々はこれをもって未だかつて見られたことのない黄金時代を〔米国に〕到来せしめるのである。記憶すべし。中華人民共和国がそれをなそうと欲しているのである。日本がそれをなそうと欲しているのである。これらの国の全てがそれをなそうと欲しているのである。」との部分です。また,ミッドウェイの名が,ヨークタウン(アメリカ独立戦争)及びゲティスバーグ(アメリカ南北戦争)と共にアメリカの不滅の英雄ら(immortal heroes)が戦った場所として挙げられています。ミッドウェイ海戦の方がノルマンジー上陸大作戦よりも高く評価されているということでしょうか,興味深いことです。)
寥々たるのは西欧諸国で,ドイツの名が1回出て来たほかは(同国の百年前のインフレーションと米国現時のそれとを比較),英国も,フランスも,イタリアも,更にはNATO(北大西洋条約機構)も,全く話頭に上っていなかったのでした。(ただし,英国は,デラウエア川,フォージ谷及びヨークタウンの名とともにアメリカ独立戦争が語られた際,“a mighty empire(強大な帝国)”として間接的に言及されてはいます。なお,ヨークタウン戦においては,ルイ16世のフランス軍が北米十三邦側に立って戦っています。)
トランプ前大統領及びその支持者の抱く世界像は,専ら米国を中心とするものであって(“America first”),その裏庭に中南米があり,太平洋の向こうには強大な中華人民共和国及びその周辺諸国(北朝鮮,台湾,日本等)があり,その他ロシア,イラン等の紛争惹起諸国群があってこれらは迷惑である,というようなものでしょうか。西欧には余り関心がないようです。
2 ワシントン会議
(1)パリ講和会議かワシントン会議か
無論,西欧は,悲惨な第一次世界大戦(1914年-1918年)を自ら起して既に百年も前に没落していますから,トランプ前大統領の無関心も,不思議ではないといえば不思議ではないわけです。米国のウィルソン大統領の「理想主義」とともに華々しく喧伝されるパリ講和会議(1919年)も,要は没落した西欧の後始末(さすがに終活ではないでしょうが。)のための後ろ向きの会議であったのであって(したがって,米国元老院(上院)にしてみれば,ヴェルサイユ条約に基づくジュネーヴの国際聯盟など,同国にとっては確かに無用のものであったわけです。),それに比べれば,その裏番組のようにうっかり印象されてしまっている(少なくとも高等学校の世界史の教科書などでは,筆者にはそのように感じられました。)ワシントン会議(1921年-1922年)の方が,太平洋を挟んだ隆昌の米国と新興のアジア(当時のアジアの新興大国は,中華民国ではなくて,何と日本国でした。)との将来構想に係る前向きかつ歴史的な会議であったはずです。
共和党の大統領候補者であるウォーレン・ハーディングは,合衆国に係る直接の利害の問題に同国として集中するものである・より伝統的な外交政策を追求すると誓いつつ,1920年に当選した暁には平常への復帰(a return to normalcy)をもたらす旨米国人に約束した。大衆の多くからは,それは孤立主義への復帰を意味するものと解されていたが,ハーディング政権は,高度に工業化された経済の下,20世紀の米国は,農業国であったジェファソン及びジャクソンの時代向けのものであった外交政策を採ることはできないことを認識していた。
1920年代の新たな孤立主義の下においても,米国は,極東の諸問題に対処しなければならなかった。保守的な大統領も,門戸開放政策に熱心であることにおいては,進歩主義的な先任者たち――ルーズベルト及びウィルソン――に劣らなかった。したがって,ハーディング政権は,国際聯盟加入問題〔米国は不参加〕のようにたやすくアジアの問題を片付けてしまうことはできなかった。かえって,ハーディングとチャールズ・ヒューズ国務長官とは,主に太平洋地域の問題を取り扱うべき大会議の開催を主唱したのであった。1921年から1922年までのワシントン会議は,ハーディングの時代における,多からざる主要業績のうちの一つである。
(Ralph E. Shaffer, ed., Toward Pearl Harbor: The Diplomatic Exchange between Japan and the United States, 1899-1941; Markus Wiener Publishing, Princeton, NJ, 1991: p.15)
米国にとってはそのgreatnessがnormalcyであるのならば(トランプ前大統領は,前記演説において“Greatness is our birthright.”と言っています。),“Make America Great Again”は,ハーディング的標語でもあるわけです。ロシアとウクライナとの戦争は,2022年2月の前者の後者に対する侵攻開始以来,第一次世界大戦のように長々と続いていますが,米国としては,ヨーロッパの戦争はヨーロッパの問題としてそこから手を引いて,太平洋・東アジアにおける課題に集中したいというのが,百年後の今日も変わらぬ国家的本能なのでしょうか。
(2)ハーディング
なお,ハーディング大統領は「堂々たる美丈夫」であったものの,「これまで上院議員をつとめていたハーディングは,風貌こそ合衆国大統領たるにふさわしかったが,がんらいが政治家としては凡庸であり,大統領となりえたのも,共和党として利用できる人物であったからだという。」と言われるような余り冴えた人物ではなかったもののようで,ハーディング政権において「実権をにぎっていたのは国務長官ヒューズ,財務長官メロン,商務長官フーヴァーだったが,このメロンは彼自身も大財閥であり,政策としても共和党伝統の大企業保護政策にかえっ」ていたそうです(江口朴郎編『世界の歴史14 第一次大戦後の世界』(中公文庫・1975年(単行本1962年))311頁(山上正太郎))。凡庸であるだけならばともかく,ハーディング大統領の下では,「復員軍人局長官,司法長官,内務長官,海軍長官など政府の要職者たちが,公金着服,収賄をおかして」いたとは困ったことです(江口編313頁(山上))。また,美丈夫であるからには艶福家でもあったわけで,1923年8月2日に死亡したハーディングの死因については,「夫とその愛人ナン=ブリトンとの関係や,二人のあいだに子供があることをかぎつけて,嫉妬に狂っていた」大統領夫人による毒殺との説もあるところです(同頁)。
(3)五ヵ国条約と海軍軍縮と
ところで,ワシントン会議に対する印象が我が国において精彩を欠いているのは,主に,1922年2月6日調印の五ヵ国条約のゆえなのでしょう。その第4条において,主要艦(排水量1万トン超の艦又は口径8インチ超の砲を装備するもの)の排水総量を米国52万5000トン,英国52万5000トン,フランス17万5000トン,イタリア17万5000トン及び日本31万5000トンまでとした同条約(なお,航空母艦については,同条約7条において,米英各13万5000トン,仏伊各6万トン及び日本8万1000トンまでとされています。)に対する我が海軍贔屓の方々の反感があるからでしょう。
しかし,海軍の欲しがるものを無批判にそのまま買い与えるのは,国家財政的に危険なことです。
ことに,海軍の建艦費が問題であった。なにしろ,ちっぽけな排水量1千トンぐらいの駆逐艦でも,その製作費は東京の国会議事堂の建築費総額ぐらいかかる。
(江口編439頁(衛藤瀋吉))
したがって,実は,ワシントン会議当時の我が輿論は,帝国海軍に対して冷淡ともいうべきものだったのでした。
日本海軍はもちろん〔五・五・三ではなく〕10対7を強硬に主張した。しかし,当時の日本の新聞などの論調は,むしろ10対6をとっても軍縮の実現をはかれという方が多かった。いわゆる有識者も,東京帝大教授立作太郎が,原案をまず受諾してのち得策をはかれ,と主張し,京都帝大教授末広重雄が,アメリカの提案は誠意あるもので受諾するのが当然である,と説いたのをはじめ,多くはきわめて協調的であった。
『東京朝日』〔1921年〕12月2日付「今日の問題」欄から一節をひいてみよう。
「海軍当局,日本の主張に対する国民の声援乏しきをかこつ,夫は気の毒だ,国のために行ってくれることに誰が冷淡であるものか。唯,日頃国民に対する態度に遺憾の点はなかったか。ぢゃによってつねが大事ぢゃ。」
強硬論の日本海軍は,むしろ国内において孤立する情勢にあ〔った。〕
(江口編448-449頁(衛藤))
立作太郎は,皇太子裕仁親王の学問研鑽のための東宮職御用掛(国際公法及び外交史担当)に1921年9月30日に任命されていました(宮内庁『昭和天皇実録第三』(東京書籍・2015年)468頁・544頁)。
3 四ヵ国条約
(1)日英同盟の消滅
なお,ワシントン会議については,1921年12月13日に調印された日米英仏の四ヵ国条約によって日英同盟協約(1911年7月13日にロンドンで締結されたもの)が廃棄されたこと(四ヵ国条約4条)を問題視する向きもあるようです。当該問題視の理由は,米国による日英分断策を,むざむざとその希望どおりに成功させてしまって悔しい,ということなのでしょう。すなわち,「もし日本がアメリカと戦うとすれば,イギリスは当然に日英同盟によって日本側につかざるをえない。すなわち日・英合してアメリカにあたるのではないか,という疑惑はアメリカの側に存在した。たとえ戦争とはいかないまでも,軍縮を論議するばあいにおいて,アメリカとしては日英同盟が存在していれば,日・英両国の軍事力の和を念頭におかなければならないから,じゅうぶんに軍縮の実をあげられないということもあった。〔略〕このような理由から,アメリカは日英同盟の消滅を切望し」ていたところです(江口編442頁(衛藤))。
しかし,「日英同盟については,当面ロシアもドイツもくずれさった今日,日本政府にとってさほど必要なものではなくなった。その存続にあまり熱意をしめさず,したがってその廃棄によってこうむる損失はほとんどなかった。」ということでありました(江口編452頁(衛藤))。「太平洋方面ニ於ケル島嶼タル属地及島嶼タル領地ニ関スル四国条約並追加協定御批准ノ件」は,1922年6月24日の枢密院会議において,摂政宮裕仁親王臨席の下,「審査委員長の伊東巳代治より,本件が委員会において全会一致を以て議決されたことが報告され」た後,全会一致をもって可決されています(実録第三654-655頁)。
(2)伊東巳代治の小言
ということであれば,日英同盟協約から四ヵ国条約への差し替えは,異議無く円満に行なわれたものであるようにも印象されるのですが,かの「憲法の番人」伊東巳代治がそう優しいおぢいさんであったものかどうか。実は,伊東委員長の審査報告には,やはり小言が含まれていました。『枢密院会議筆記』にいわく。
〔前略〕茲ニ於テ帝国ニ於テハ前来ノ経過ト刻下ノ情勢トニ顧ミ如上ノ旨意ヲ酌ミ本条約及追加協定ヲ御批准アラセラルルノ外ナシト思料ス但小官等ハ此ノ議ヲ定ムルニ方リ特ニ一言シテ当局ノ注意ヲ喚起セムト欲スルモノ2件アリ
(一)曩ニ外務大臣カ本院ニ於テ本条約締結ノ交渉経過ニ付報告セラレタル所ニ依レハ始メ英国全権委員ハ帝国全権委員ニ日英米三国協約ノ一私案ヲ呈示シタルカ英国案ニ於テハ締約国ノ領土権カ別国ニ依リ脅威セラルルトキハ締約国中ノ2国ハ純然タル防禦的性質ヲ有スル軍事同盟ヲ締結シテ両国ヲ防護スル自由ヲ有スル旨ノ一条ヲ掲ケ現行日英協約ハ茲ニ之ヲ終了セシムルモ他日或ハ必要ニ応シテ之ヲ復活セシムルコトアルヘキ素地ヲ存シタリ然ルニ帝国全権委員ハ英国案ヲ以テシテハ到底米国ノ同意ヲ得難カルヘキコトヲ顧慮シ別ニ右軍事同盟ニ関スル条項ヲ挿入セサル一私案ヲ立テテ之ヲ英国全権委員ニ交付シ之ヲ底案トシテ日英米三国間ニ商議ヲ進ムルコトト為レリト言フ右交渉ノ経過ノ迹ニ就キ考フルニ当初ノ英国案ニ対スル米国ノ意嚮如何ハ姑ク別論トシ英国委員ヲシテ此ノ英国案ヲ先ツ米国委員ニ呈示セシメ其ノ案ヲ一応三国商議ノ基礎ト為スヘキコト寧ロ帝国委員ノ執ルヘキ当然ノ措置ナリト信ス帝国委員ノ所為此ニ出テス早ク自己ノ私案ヲ示シテ英国案ヲ拒ミタルノ嫌アルハ本官等ノ甚タ遺憾トスル所ナリ
(二)日英協約ノ終了ハ今日ノ場合已ムヲ得サルモノニシテ又本条約ノ成立ト密接ノ連繋アリトスルモ此ノ事タルヤ日英両国ニ専属スルモノナルカ故ニ独リ両国ノ間ニ之ヲ処理スヘク別国ヲシテ之ニ関与セシムヘキ限ニ在ラサルコト言ヲ俟タサルナリ然ルニ今回日英米仏ノ4国間ニ成立シタル本条約ニ於テ日英協約ヲ終了セシムルコトヲ規定シタルハ啻ニ法理ニ照シテ失当ノ譏ヲ免レサルノミナラス之ヲ本協約締結国ノ体面ニ考ヘ其ノ前来ノ沿革ニ顧ミ決シテ妥正ノ処置ナリト謂フヘカラス是レ本官等ノ切ニ遺憾ノ念ヲ禁スルコト能ハサル所ナリ加之本条約ニ日英協約ノ終了ヲ明記シタルノ結果本条約ノ存続スル限リ日英両国ハ旧時ノ協約ヲ復活スルコトヲ得サルノ拘束ヲ受クルモノト解セラルルノ疑ナシトセス是レ帝国将来ノ大策ニ至重ノ関係アルコト論ヲ須ヒス想ヒテ此ニ到レハ本官等遺憾ノ意実ニ一層切実ナラサルコト能ハサルナリ
我が全権委員は,折角の英国案にもかかわらず,小賢しく米国に対する先走り忖度をした挙句,四ヵ国条約において,集団的自衛権(現在の国際連合憲章51条第1文に「この憲章のいかなる規定も,国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には,安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間,個別的又は集団的自衛の固有の権利(the inherent right of individual or collective self-defence)を害するものではない。」とあります。)に基づく日英両国の軍事同盟締結権までをも漫然放棄する結果をもたらしてしまったものではないか,という趣旨の非難であるものと解せられます。
(3)幣原喜重郎と四ヵ国条約と(外務省による説明)
伊東巳代治に毒気を吹きかけられた当該全権委員はだれであったかといえば,幣原喜重郎でした。我が外務省ウェブサイト中「特別展示「幣原外交の時代」展示資料解説」の「ワシントン会議全権時代(1921年9月~1922年2月)」ウェブページに次のようにあります。
会議開催当時,駐米大使であった幣原喜重郎は,全権としてこの「ワシントン体制」の構築に深く関与しました。とりわけ幣原が心血を注いで取り組んだのが、太平洋問題(四国条約)と中国問題でした。
〔略〕
そもそも,この条約が検討された発端は,日英間で懸案となっていた日英同盟更新問題を処理するためでした。イギリスは当初,日英同盟の内容を実質的には変更せずに,アメリカを加えた「日英米三国協商」を提唱しましたが,これに対して幣原は,イギリス提案から軍事色を取り払い,何か問題が起きた際には関係国間で互いに協議するという試案を英米両国に提示しました。この「幣原試案」をもとに日本・イギリス・アメリカ・フランスの4カ国で協議が進められ,1921年12月13日に4カ国代表が本条約に調印,日英同盟はこれに吸収される形で解消されました。四国条約について,当時の新聞は,「太平洋の平和維持の基礎となるべきもの」であり,「悲観されつゝあった我が国の孤立に陥る事を救はれ,又しても危険視された日米関係の不安を除き去り茲に四国協同して世界の平和と人類の幸福の為に尽くす事となったのは、啻(ただ)に我が国の喜びのみではない」と,大きな歓迎を示しています。
筆者は伊東巳代治のように嫌味な人柄ではないのですが,上記解説文は,1922年当時に外務省が枢密顧問閣下らにしたであろう説明と齟齬していることを指摘せざるを得ません。
「イギリスは当初,日英同盟の内容を実質的には変更せずに,アメリカを加えた「日英米三国協商」を提唱し」たとは何事でしょう。英国案は,「英国案ニ於テハ締約国ノ領土権カ別国ニ依リ脅威セラルルトキハ締約国中ノ2国ハ純然タル防禦的性質ヲ有スル軍事同盟ヲ締結シテ両国ヲ防護スル自由ヲ有スル旨ノ一条ヲ掲ケ現行日英協約ハ茲ニ之ヲ終了セシムルモ他日或ハ必要ニ応シテ之ヲ復活セシムルコトアルヘキ素地ヲ存シタリ」ということにとどまるものだったはずです。そもそも当時の米国は孤立主義国であって(これについては,伊東報告においても,「米国ニ於テハ上院カ本年〔1922年〕3月米国ハ本〔四ヵ国〕条約ノ前文及各条ノ規定ノ下ニ於テハ武力ニ関スル約定ナク同盟ナク又防禦ニ参加スヘキ義務ナキモノト了解スル旨ノ留保ヲ附シテ本条約ノ批准ニ同意シ」たということです。),米国が受け入れる可能性がはなから無い日英同盟の拡大版たる軍事的「日英米三国協商」案などという提案を英国全権委員はしていません。前記外務省ウェブページ解説は,伊東巳代治の小言に対する弁解どころか,四ヵ国条約の原案作成者たる栄誉を英国全権委員から奪うこととなる幣原賛美の手前味噌的記述ということになるようです。
また,交渉経緯についても,フランス代表が加わったのは最後の段階であったようです。伊東報告によれば,「果シテ英国全権委員ヨリ華盛頓ニ於テ本件ノ交渉ヲ発議シ来リ帝国全権委員之ニ応諾シテ客年〔1921年〕11月22日以来新条約ノ締結ニ付日英米三国全権委員ノ間ニ折衝ヲ重ネ12月7日三国間ニ略意見ノ一致ヲ見タル後仏国全権委員ヲ加ヘテ更ニ商議ヲ進メ同月9日四国間ノ協定成立シ終ニ同月13日日米仏並英本国及五英領殖民地〔カナダ,オーストラリア,ニュー・ジーランド,南アフリカ及びインド〕代表者ニ於テ本条約ノ調印ヲ了スルニ至」ったものです。
(4)「精神ニ於テハ日英同盟ニ代ハルノ意味」及び「各締約国ト円満ナル協調」
1922年6月24日の枢密院会議においては,伊東報告に続いて,加藤友三郎内閣総理大臣兼海軍大臣が,「本条約は日英同盟協約とは内容に相違があっても精神上はこれに代わるものであり,政府は各締約国と円満なる協調を保ち,意思を疎通し,もって大局上の平和の維持に貢献することを望むとして,委員長の報告どおり速やかに可決されることを請う旨」を述べ,「議論の結果,〔枢密院〕会議においては原案が全会一致を以て可決され」たとのことです(実録第三654-655頁)。加藤友三郎は,自らもワシントン会議における我が国全権委員であって四ヵ国条約にも調印をした立場ですから,伊東の小言に対して,外務大臣ではないものの一言弁明的発言をする必要があったものでしょう(外務大臣内田康哉も出席はしていました。)。なお,『枢密院会議筆記』によれば,加藤の発言は正確には「只今委員長ヨリ御報告アリタル本条約ハ内容ニ於テハ相違アルモ精神ニ於テハ日英同盟ニ代ハルノ意味ヲ以テ之ヲ締結シタルナリ而シテ本条約ヲ通読スレハ其ノ条文ノ意味ヨリモ条約全体ノ精神カ本条約ノ骨子ナルコト明瞭ナリト信ス政府ハ各締約国ト円満ナル協調ヲ保チ其ノ意思ヲ疎通シ以テ大局上ノ平和ヲ維持スルニ貢献セムコトヲ望ム右ノ趣旨ナルカ故ニ委員長御報告ノ通リ速ニ可決セラレムコトヲ請フ」というものであり,当該発言後「議論」がされることはなく,直ちに「議長(清浦〔奎吾〕) 別ニ御発議ナキニ由リ直ニ採決スヘシ本案賛成ノ各位ノ起立ヲ請フ/(全会一致可決)」ということになっています。
1922年6月24日の枢密院会議終了後,同日中に摂政宮裕仁親王においては「外務大臣内田康哉参殿につき謁を賜う。」ということがありました(実録第三655頁)。あるいはそこでは,伊東の小言に関する追加的弁解が内田からせられたものでもありましょうか。
(5)四ヵ国条約調印に至る交渉経緯
内田外務大臣に代わって筆者が,四ヵ国条約調印に至る交渉経緯を外務省の『日本外交文書 ワシントン会議 上(大正期第三十六冊ノ一)』(1977年)に基づき説明すると,次のようになります。
ア バルフォア私案(1921年11月22日)
まず,日英同盟問題に関する日英全権委員の初会談は,英国全権委員のバルフォア元首相が「一日モ早ク会談シタキ内意ヲ通シ来タリタルニ付」,1921年11月22日に日本全権委員の加藤友三郎海軍大臣及び埴原正直外務次官が「「バ」氏ヲ其ノ宿舎ニ訪ヒ」,行われています。
その際バルフォアは大要「露独ノ崩潰ニ依リ日英同盟成立ヲ促シタル本来ノ理由ハ差当リ消滅シタルモ両国ノ為ニ多大ノ利益ヲ供シタル貴重ノ歴史ヲ有スル該同盟ハ猥ニ之ヲ棄ツ可ラス且今日一時消滅シタル理由ハ将来再ビ発生スルナキヲ保セサルニ於テ特ニ然リ」と日英同盟は存続されるべきであるとの方向の認識を示唆しつつも「然レトモ今日ノ新ナル事態ニ照ラシテ之ヲ考慮スルハ又極メテ必要ノ事ナル可」きことからとて,その考慮の結果の私案を我が方全権委員に対して示し,かつ,その趣旨について「右ハ日,英,米三国協商ヲ主眼トスルモノニシテ米国カ積極的義務ヲ負フ同盟ヲ締結セサル可キハ明ナルニ付米国ノ同意シ得ヘキ形式ヲ採用スルト共ニ将来必要発生ノ場合ハ日,英両国ニ関スル限日英同盟ヲ復活シ得ヘキ自由ヲ留保シ置クノ」ものであると説明しています。また,実は我が方全権委員に対するより先に同案は米国政府に内示されており,バルフォアが述べるには「又既ニ内密米国国務長官〔ヒューズ〕ニモ示シ同官ヨリ「又米国全権ニモ内示シタルモ之ニ対シ何等ノ意見ヲ述ヘス云々」」とのことだったそうです。(外務省・上547-548頁)
バルフォア私案は次のとおりでした。
With object of maintaining general peace in regions of eastern Asia and of protecting existing territorial rights of the High Contracting Parties in islands of the Pacific Ocean and territories bordering thereon, it is agreed
(1) That each of High Contracting Parties shall respect such rights themselves and shall consult fully and frankly with each of them as to best means of protecting them whenever in opinion of any of them they are imperilled by action of another power.
(2) If in future territorial rights (referred to in Article 1) of any of the High Contracting Parties are threatened by any of other power or combination of powers, any two of the High Contracting Parties shall be at liberty to protect themselves by entering into military alliance provided (a) this alliance is purely defensive in character and (b) that it is communicated to other High Contracting Parties.
(3) This arrangement shall supersede any Treaty of earlier date dealing with defence of territorial rights in regions to which this arrangement refers.
(外務省・上548-549頁)
日英同盟を継続すれば米国において誤解が生じ,無用となったからとて破棄すれば日本において誤解を生ずるというディレンマに陥った英国が採るべき方策は「この古く有効期間が過ぎ,かつ,不要となった合意をいわば無効とし,融合させ,破壊し,そして,広大な太平洋地域における全ての関係諸国を包含すべき何か新しく,何か有効なものをもって置き換えること」であったものです(外務省・上603-607頁掲載の1921年12月10日にされたワシントン会議総会におけるバルフォア演説参照)。
イ 幣原私案(1921年11月26日)
バルフォア私案を承けた幣原私案が英米全権委員に示されたのは1921年11月26日であるものと一応解されます。『日本外交文書 ワシントン会議 上(大正期第三十六冊ノ一)』においては,「十月二十七日ワシントン発」とされる公電の内容として「幣原大使一個ノ試案トシテ十一月二十一日佐分利参事官ヲシテ「バルフォア」氏ヲ訪ヒ次イデ「ヒューズ」氏ヲ訪ヒ夫々手交方取計ラハシメタリ」とあるところ,同公電の後の部分では「「ヒ」氏は〔略〕明日ハ幸ヒ日曜日ナルヲ以テ篤ト〔略〕研究スベキ旨ヲ答ヘタ」そうですから(552-553頁),土曜日たる1921年11月26日がその日でしょう。
幣原私案は「大局ノ帰趨並ニ四囲ノ状況ニ照シ我方ニ於テモ日英同盟ニ換フルニ三国協商ヲ以テスルニ異議ナキ旨ヲ遅滞ナク英国側ニ知ラシメ置クコト緊要ナリト認メタルヲ以テ不取敢〔とりあえず〕」作成したものであるそうです(外務省・上552頁)。方向として異議はないものの,東京の外務本省から何らの訓令もなしでは,手ぶらで,バルフォア案を丸呑みするよと端的に回答しには行けずにいるところ,時期切迫の折柄,ワシントン会議出席の日本全権委員団としては賛成であって・それが証拠に東京からの訓令を待ちつつ真面目にこのように内容の研究もしているよ,ということをまずは示す手土産としての私案作成だったのでしょうか。「「バルフォア」氏ニ手交セシムルニ当リ本案文ハ幣原大使ガ「バ」氏ノ案ヲ参照シタル上作製シタルモノニテ成ルベク米国側ノ承諾ヲ容易ナラシムル様文句ニ注意シタル事右ハ特ニ政府ノ訓令ニ依リ起案シタルモノニ非ズ然レ共今日迄受ケ居ル訓令ニ反スルモノニモ非ザル事及他ノ全権ニ於テモ之ヲ試案トシテ「バルフォア」及「ヒューズ」両氏ニ示スニ異存ナキコト政府ノ適確ナル意見ハ案文ヲ政府ニ電報シテ回訓ニ接シタル上ニ非ザレバ明カナラザル事ヲ述ベシメタリ」という留保の多い・言い訳的説明とともに手交がされています(外務省・上552頁)。
しかし,確かに伊東の指摘するように,日英同盟の存続いかんは本来専ら日英間の問題であって,バルフォアとしても「該同盟問題カ直接ノ形ニ於テ華府会議ニ持チ出サル可キ筈ナシト思考スル」(ただし,「間接ノ関係ニ於テハ論議ヲ免レサル可シ」)と11月22日には加藤・埴原両全権委員に話していたところです(外務省・上547頁)。にもかかわらず,その辺の間に安心することもなく,いきなり米国本位に「成ルベク米国側ノ承諾ヲ容易ナラシムル様文句ニ注意」して起案したとは,確かに前のめりの印象ではありました。(なお,1921年12月11日にワシントンの我が全権委員から内田外務大臣宛てに発せられ,同月14日に到達した公電では,幣原私案が四ヵ国条約成立に向けて果たした役割について,「「バルフォア」当地着後間モ無ク三国協商ニ関スル同氏ノ私案ヲ「ヒューズ」ニ提出シ米国政府ノ内意ヲ探リタルガ右私案ノ明文中ニハ軍事同盟ヲ復活スルコトアルベキ場合ヲ予想シアリ「ヒューズ」ハ斯ノ如キ条項ガ米国輿論ノ誤解ヲ招クヘキヲ恐レ且他ノ一方ニ於テ日本側ノ意嚮モ全然不明ナリシ為暫ク本問題ヲ考量中ナリシ折柄当方ヨリ幣原試案トシテ内示セル三国協商案ハ「ヒューズ」を始め「ロッヂ」及び「ルート」ヲシテ意ヲ決セシムルノ動機ヲ与ヘ急ニ本件ノ交渉ヲ進捗スルコトトナリタルモノト察セラル以上ノ消息ハ「ヒューズ」ノ12月7日提出セル協商案ガ我方ノ試案ヲ骨子トセルニ依リテモ推測スルニ難カラズ」と述べられています(外務省・上590頁)。)
幣原案は,次のとおりでした。
(1) If, in the future, the territorial rights or vital interests of any of the High Contracting Parties in the regions of the Pacific Ocean and of the Far East should be threatened either by the aggressive action of any third power or powers, or by a turn of events which may occur in those regions, the High Contracting Parties shall communicate with one another fully and frankly, in order to arrive at an understanding as to the most efficient measures to be taken, jointly or separately, to meet the exigencies of the particular situation.
(2) If in the matters affecting regions aforesaid, there should develop between any two of the High Contracting Parties controversies which are likely to affect the relations of harmonious accord now happily subsisting between them, it shall be open to such Contracting Parties, in mutual agreement with each other, to invite the other Contracting Party to a joint conference, to which the whole subject matters will be referred for consideration and adjustment.
(3) The present agreement shall supersede the Agreement of Alliance hitherto in force between Japan and Great Britain.
(外務省・上553-554頁)
第1条に“an understanding as to the most efficient measures to be taken, jointly or separately”とあるところ,「共同で又は各個に執られるべき最も効率的な措置に係る了解」には日英2国による共同軍事行動に係るものが含まれるのだ,ということでしょうか。しかし,“to meet the exigencies of the particular situation”ということで,「当該個別事態の必要に応ずるため」の措置に係る了解ということですから,軍事同盟というほどの永続性は有さないものという含意があるのでしょう。なお,四ヵ国条約に関する1921年12月14日の内田外務大臣の記者会見談話は,四ヵ国条約に係る平和主義的な解釈を示すものであって,「第三国ノ侵略的脅威ヲ被リタル場合之ニ応スル手段措置ニ就キ其都度意見ノ交換ヲ行ヒ以テ平和的手段ニヨリ解決セントスルモノナリ」,「第三国ノ侵略的行為ニ依リ脅威セラルル場合ニハ共同又ハ各別ニ其ノ執ルヘキ最有効ナル措置ニ関シテ了解ヲ遂ケン為隔意ナク交渉スルモノニシテ協約国カ共同シテ軍事行動ニ出ツルカ如キハ協約ノ解釈上当然ニ予想サルル所ニ非ラサルナリ強イテ軍事行動ヲ執ルカ如キ場合ヲ想像スレハ協商国カ隔意ナキ協議ノ上共同軍事行動ヲ執ルヲ最善トスルニ一致セル場合ナリトス」と述べられています(外務省・上592頁)。
また,幣原案の第3条では,バルフォア案の第3条ではそれとしてなお明示されていなかった日英同盟協約が,日英米三国協商によって取って代わられるものとしてはっきり示されています。
ウ バルフォア修正案(1921年11月26日)
幣原案を示されたバルフォアは,その場でそれに修正を加えますが(外務省・上552-553頁),その結果は次のとおりです。
(1) If, in
the future, In regard to the territorial rights or vital
interests of any of the High Contracting Parties in the regions of
the Pacific Ocean and of the Far East, it is agreed that should
be if these are threatened either by the aggressive action of
any third power or powers, or by a turn of events which may occur in
those regions, the High Contracting Parties shall communicate with one
another fully and frankly, in order to arrive at an understanding as to the
most efficient measures to be taken, jointly or separately, to meet the
exigencies of the particular situation.
(2) If in the
matters affecting regions aforesaid, The High Contracting Parties
further engage to respect these rights as between themselves and if there
should develop between any two of the High Contracting Parties them
controversies on any matter in the aforementioned regions which are
is likely to affect the relations of harmonious accord now happily
subsisting between them, it shall be open to such Contracting Parties, in
mutual agreement with each other, they agree to invite the other
Contracting Party to a joint conference, to which the whole subject matters
will be referred for consideration and adjustment.
(3) The present agreement shall supersede the Agreement of Alliance hitherto in force between Japan and Great Britain.
(外務省・上554-555頁)
エ フランスの参加を求める米国の希望(1921年11月28日)
日英米三国協商にフランスを加えることは,1921年11月28日のバルフォアとヒューズとの英米会談において米国のヒューズ国務長官から持ち出されたものです。英国のハンケー事務総長の説明によれば「国務長官ハ米国内ニ於テ今尚ホ強キ反英及排日思想ノ存在スル事実ハ之ヲ無視スルヲ得サルヲ以テ日英両国ノミヲ相手トシテ協定ヲ為ストキハ之ニ対シ有力ナル反対ヲ誘致スル危険決シテ尠シトセス故ニ之ヲ緩和スル為仏国ヲモ加フルコト得策ナルヘク尤モ他ノ一面ニ於テ多数ノ国ヲ交ヘテ協定ノ効力ヲ薄弱ナラシムルヲ欲セストノ日本側ノ意見モ十分之ヲ諒トスルカ故ニ仏国以外ノ国ハ之ヲ除外スルコト然ルヘク之カ為ニハ協定ノ目的及範囲ヲ単ニ太平洋ノミン限リ支那ニ関シテハ関係諸国間ニ別ニ一ノ協定ヲ挙クルコトトスヘク」云々ということだったそうです(外務省・上565頁)。米国内の「反英及排日思想」緩和のためのおフランスであり,それ以外の他国謝絶のための太平洋限定だったのでした。