1 ミュンヒハウゼン男爵の冒険と札幌高等裁判所令和6314日判決と

 

Gleichwohl sprang ich auch zum zweiten Male noch zu kurz, und fiel nicht weit vom anderen Ufer bis an den Hals in den Morast. Hier hätte ich unfehlbar umkommen müssen, wenn nicht die Stärke meines eigenen Armes mich an meinem eigenen Haarzopfe, samt dem Pferde, welches ich fest zwischen meine Knie schloß, wieder herausgezogen hätte.

(Gottfried August Bürger, Wunderbare Reisen zu Wasser und Lande, Feldzüge und lustige Abenteuer des Freiherrn von Münchhausen. 1786)

それでも2度目も跳躍距離がなおも足らんで,向こう岸の手前でわしは落っこちてしもうて,首まで泥沼に浸かってしもうた。その場所でわしは間違いなくくたばっておったじゃろうな。自分で自分の辮髪を摑んで,わしが膝の間にしっかと挟み込んだ馬もろとも,わしがわしをわしの腕力をもって引き揚げ出しておらなんだらな。

(ゴットフリート・アウグスト・ビュルガー『ミュンヒハウゼン男爵の水陸における驚くべき旅行,遠征及び愉快な冒険』(1786年))

 

 ミュンヒハウゼン男爵のように自分で自分を吊り上げ出して困難な状況を切り抜けてみせるという曲芸師的英雄的法律論もあるものです。我が憲法論の場合,男爵の辮髪に対応し得るものは,個人の尊重(日本国憲法13条。正確には「すべて国民は,個人として尊重される。」)ないしは個人の尊厳(同242項)並びに平等及び差別禁止(同141項)の各概念でしょうか。

 筆者はこれらの条項について,既にいくつかブログ記事を書いたことがあります

 

日本国憲法13条の「個人として尊重される」ことに関して

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1075180916.html

「人格を尊重」することに関して〔憲法24条は12)で論じられています。〕

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081694748.html

「法の下の平等」(日本国憲法14条1項)の由来に関する覚書(前編)

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1041144048.html

「法の下の平等」(日本国憲法14条1項)の由来に関する覚書(後編)

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1041144259.html

大日本国帝国憲法19条とベルギー国憲法(1831年)6条〔日本国憲法14条の前史ということになります。〕

    https://donttreadonme.blog.jp/archives/1038090379.html

 

 これらの概念の働き振りがどのようなものかを,同性婚を認めていない現在の民法(明治29年法律第89号)及び戸籍法(昭和22年法律第224号)の婚姻に関する諸規定は憲法24条及び141項に違反していると判示した(ただし,国家賠償法(昭和22年法律第125号)11項に基づく損害賠償までは認められないものとされています。),最近の札幌高等裁判所(齋藤清文裁判長裁判官,吉川昌寛裁判官及び伊藤康博裁判官)の令和6年(2024年)314日判決(令和3年(ネ)第194号損害賠償請求控訴事件)について以下見てみましょう。

 ここで当該高裁判決の画期性について一言しておけば,立法によって民法及び戸籍法が同性婚を認めるように改正されたことに対する事後的判断としてならば,国権の最高機関(憲法41条)たる国会がそうお決めになったのだから当該改正は違憲ではない,との判決を裁判所が出すのはまだ易しいのでしょうが,「婚姻は,両性の合意のみに基いて成立し,夫婦が同等の権利を有することを基本として,相互の協力により,維持されなければならない。/配偶者の選択,財産権,相続,住居の選定,離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては,法律は,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して,制定されなければならない。」と規定して(下線は筆者によるもの),専ら異性婚に係るものである(と従来一般に考えられてきた)ところの憲法24条の定めが存在している手前,同性婚を予定せず,かつ,認めていない現在の民法及び戸籍法の諸規定をもって同条に反して違憲であるものと現段階で断ずることは,本来難しいことだったはずなのでした。この憲法24条を正面突破した上で,現状の民法及び戸籍法の婚姻に関する諸規定は同性婚を認めていないことによってかえって同条違反となるのだ,と議論をひっくり返してみせたのですから,そこにはein wunderbares Abenteuer(驚くべき冒険)の物語があったはずであるところです。


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札幌高等裁判所の新旧庁舎


2 札幌高裁判決の憲法13条論

 まずは札幌高等裁判所の憲法13条論です。同条前段の「すべて国民は,個人として尊重される。“All of the people shall be respected as individuals.”」における個人を,筆者はアメリカ独立宣言風に,かつ,マッカーサー三原則中の第3原則1項に基づくGHQ草案12条(日本国憲法13条に対応)の第1文(The feudal system of Japan shall cease.(日本国の封建制度は廃止される。))を勘案して,身分によって構成された封建制を脱し,臣民ならざる国民として,新たなres publicaを設立するための社会契約の当事者となる革命的かつ能動的な個人と解したいのですが,やはり通説的には,国家ないしは社会にその幸福の追求のための「尊重」をしてもらう権利を有する,生まれたままの受動的な個人(社会契約に基づき設けられた法律上の制度の利用が問題になっていますから,社会前的個人ではなく,社会契約発効後の社会内的個人ですね。)ということになるようです。

 (なお,社会契約は,現在の民法学上は,厳密には社会「契約」ではなく社会「合同行為」なのでしょうが(合同行為は,「方向を同じくする2個以上の意思表示が合致して成立するもの。各当事者にとって同一の意義を有する(社団法人設立行為〔略〕が適例)」ものです(我妻榮『新訂民法総則(民法講義)』(岩波書店・1972年)244頁)。),本稿では従来の用法を踏襲します。)

 

(1)個人の尊重において保護される性的指向

 

性的指向とは,人が情緒的,感情的,性的な意味で,人に対して魅力を感じることであ〔る。〕〔中略〕性的指向が障害や疾患の一つであるという考えは受け入れられなくなった〔。〕

〔前略〕恋愛や性愛は個人の尊重における重要な一要素であり,これに係る性的指向は,生来備わる人としてのアイデンティティであるのだから,個人の尊重に係わる法令上の保護は,異性愛者が受けているのであれば,同性愛者も同様に享受されるべきである。したがって,性的指向は,重要な法的利益であるといえる。〔後略〕

 以上のとおり,性的指向は本来備わる性向であり,社会的には異性愛者と同性愛者それぞれの取扱いを変える本質的な理由がないうえ,同時に,その個人からみれば,人が個人として尊重される基礎であり,その個人の人格の象徴であって,人格権の一内容を構成し得るものというべきである。

(札幌高等裁判所令和6314日判決(令和3年(ネ)第194号損害賠償請求控訴事件)第322)ア。下線は筆者によるもの)

 

 個人の尊重は,典型的には社会契約締結の場である,飽くまでも公的な場における当該行為の当事者たる「個人として尊重」の話ではなく,私生活における各個人の恋愛や性愛をも公的かつ同様に保護せよというような方向におけるお話となるようです。

とはいえ,恋愛や性愛に係る各方向・各濃度の性癖が全て「個人の尊重」において尊重されるわけではないはずでしょう。異性愛者だからといって,その様々な性的指向の全てが法令上の保護を享受しているわけではないところであって,犯罪とされる性的指向の発現もあるわけです(児童ポルノを所持した者を1年以下の拘禁刑又は100万円以下の罰金に処する児童買春,児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律(平成11年法律第52号)71項等が想起されます。)。また,異性婚であればそれは自由かといえば,重婚,近親者間の婚姻,直系姻族間の婚姻及び養親子等の間の婚姻は禁止されており(民法732条及び734条から736条まで),婚姻適齢も元々の男満17歳・女満15歳(同法旧765条)から現在は男女とも満18歳となっていて(同法731条),男女の若者のいわゆる婚姻の自由は明治の昔よりも制限されています。

 なお,児ポ法及び重婚といえば,筆者はどうしても次のような自分のブログ記事を紹介したくなるのでした。

 

児童ポルノ単純所持罪導入に際しての国会審議模様のまとめ(上): 条文

   https://donttreadonme.blog.jp/archives/1007652309.html

  児童ポルノ単純所持罪導入に際しての国会審議模様のまとめ(下): 国会審議

   https://donttreadonme.blog.jp/archives/1007652893.html

三号児童ポルノの比較法

   https://donttreadonme.blog.jp/archives/1008822635.htm

  1999年児ポ法制定時の国会審議模様等

   https://donttreadonme.blog.jp/archives/1009309858.html

  令和4年法律第102号による改正後の民法773条における「第732条」出現の「異次元」性に関して

   https://donttreadonme.blog.jp/archives/1080634730.html

鷗外の『雁』における某巡査の「重婚」に関して

   https://donttreadonme.blog.jp/archives/1080722748.html

 

(2)民法及び戸籍法の婚姻関係現行規定の憲法13条非違反性

 しかしそもそも,憲法13条は間口が広漠過ぎて,それのみを用いて民法及び戸籍法の婚姻関係現行諸規定を違憲呼ばわりすることは難しいようです。

 

 〔前略〕憲法13条のみならず,憲法24条,さらには各種の法令,社会の状況等を踏まえて検討することが相当であり,このような観点からすると,憲法13条が人格権として性的指向及び同性間の婚姻の自由を保障しているものということは直ちにできず,本件規定〔民法及び戸籍法の婚姻に関する諸規定〕が憲法13条に違反すると認めることはできない。

(札幌高等裁判所令和6314日判決の第322)ウ)

 

(3)尊重される個人の尊厳とは何か

 ところで,個人の尊重ないしは個人の尊厳として守られるべきものは,次に見るようにアイデンティティの喪失「感」,人としての存在を否定されたとの「思い」,自分の存在の意義を失うという喪失「感」といったものが云々されていますから,感情的なものなのでしょう。こころが大切です。

 

 もっとも,性的指向及び同性間の婚姻の自由は,人格権の一内容を構成し得る重要な法的利益ということができる。性的指向は,〔略〕人が個人として尊重される基礎であり,その個人の人格の一要素でもあることから,社会の制度上取扱いに不利益があれば,そのことによりいわゆるアイデンティティの喪失感を抱き,人としての存在を否定されたとの思いに至ってしまうことは容易に理解できることである。

 控訴人らは,人として,同じく人である同性パートナーを愛し,家族としての営みを望んでいるにもかかわらず,パートナーが異性でなく,同性であるという理由から,当事者以外の家族の間で,職場において,社会生活において,自身の存在の意義を失うという喪失感に苛まれているのであって〔略〕,個人の尊重に対する意識の高まった現在において,性的指向による区別を理由に,このような扱いを受けるいわれはなく,これは憲法が保護する個人の尊厳にかかわる問題であるということができる。〔後略〕

(札幌高等裁判所令和6314日判決の第323)。下線は筆者によるもの)

 

 しかし,個人の尊厳が毀損されれば「アイデンティティの喪失感を抱き,人としての存在を否定されたとの思いに至」るのだという命題が真であるとしても,逆は必ずしも真ならずなのですから,それが毀損されると「アイデンティティの喪失感を抱き,人としての存在を否定されたとの思いに至」るものは全て憲法が保護する個人の尊厳であり,又は「人格権の一内容を構成し得る重要な法的利益」なのである,とまでは必ずしもいえないでしょう。

 2015626日の米国連邦最高裁判所のObergefell et al. v. Hodges, Director, Ohio Department of Health, et al.事件(以下「オーバーゲフェル事件」といいます。)判決(評決は54裁判官9名中首席判事を含む4名が反対)の反対意見において,ロバーツ首席判事は,「確かに,〔同性婚の承認を求める〕請願者及び同様の人々に関する心に迫る個人的体験談が,同性カップルは婚姻をすることを許されるべきかについて多くの米国人が意見を変えた主要な理由であろう。しかしながら,憲法問題としては,請願者の望みの真摯性(the sincerity of petitioners’ wish)いかんが問題となるものではない。」と冷静に述べています(B1)。

 

3 米国連邦最高裁判所オーバーゲフェル事件判決

 ここで,他国のことながら我が国の裁判所にも重要な先例として受け止められている可能性のある米国連邦最高裁判所のオーバーゲフェル事件判決について脱線的検討をしましょう。

 オーバーゲフェル事件判決は,米国憲法修正141節の適正手続(due process)条項及び平等保護(equal protection)条項に基づき,米国の各州に対して同性婚の許可証の発給及び他州で有効に成立した同性婚の承認を義務付けたものです。

 ところでうがって,かつ,横着に考えると,当時既に,16の州及びワシントンDCが同性婚を制度化していたので(マサチューセッツ州が嚆矢で(2003年の判決),2006年のハワイ(立法),2008年のコネティカット(判決),2009年のアイオワ(判決)並びにニュー・ハンプシャー及びヴァモント(それぞれ立法),2010年のワシントンDC(立法),2011年のニュー・ヨーク(立法),2012年のメアリランド及びワシントン州(いずれも立法),2013年のニュー・メキシコ及びニュー・ジャージー(それぞれ判決)並びにミネソタ及びロード・アイランド(それぞれ立法)並びに2014年のデラウェア(立法)と続きます。なお,イリノイ及びメインもそれぞれ立法していますが,時期はオーバーゲフェル事件判決法廷意見に付された別表Bには記されていません。),オーバーゲフェル事件判決は,同性婚の取扱いについて米国内で不統一(同一のカップルが,ある州では婚姻関係にあると認められ,他の州では他人の関係とされる)があり,それに伴い全米的に混乱が生じているという「現状をこのままにすることは,不安定性及び不確実性を維持し,増進するということになろう」という判断から,同性婚の一律制度化の線で問題解決を図ったということでもあるかもしれません(法廷意見(ケネディ判事執筆)参照)。

 上記の憶測はともかく,オーバーゲフェル事件判決法廷意見の法律構成は,婚姻する権利(right to marry)を米国憲法修正14条(婚姻法は州権事項なので,連邦の介入は同条を通ずることとなります。)1節の“nor shall any State deprive any person of life, liberty, or property, without due process of law”(いかなる州も法の適正な手続なしに何人からも生命,自由又は財産を奪うことはできない)との規定におけるliberty(自由)に含ましめ,更に同規定に続く“nor deny to any person within its jurisdiction the equal protection of the laws”(〔いかなる州も〕その管轄内における何人に対しても法律の平等な保護を拒んではならない)との規定も援用する,というものでした。修正141節によって保護される基本的(ファンダメンタル・)自由(リバティズ)には,権利の章典に掲げられているものの大部分のほか,「個人の尊厳(individual dignity)及び自律(autonomy)にとって中心的な人格的(パーソナル・)選択(チョイスイズ)――人格(パーソナ)()なアイデンティティ及び信念(ビリーフス)を定義付ける親密圏のものに係る選択をも含む――のうちのあるもの」も含まれるものとされています(法廷意見)。婚姻の権利はパートナー選択の権利であるところ(あれ,パートナー選択の自由それ自体には,法律により認められる婚姻に伴うものとされる諸権利諸利益等は含まれないように思われますが・・・まあ,先に進みましょう。),パートナーの選択は個人の尊厳及び自律にとって中心的な人格的選択であり,その選択の自由は修正141節の適正手続条項によって保護される自由に含まれる,というわけでしょう。

 米国連邦最高裁判所は,1986年のBowers v. Hardwick判決においては同性愛行為を犯罪とすることの合憲性をなお支持しており,当該行為の犯罪としての取扱いは違憲であるとの判断を下したのはやっと2003年のLawrence v. Texas判決においてでした。婚姻(異性間のものですが)の権利を憲法によって守った米国連邦最高裁判所の判決としては,異人種間婚姻の禁止を無効とした1967年のLoving v. Virginia判決,養育費支払を怠る父親の婚姻を禁ずることは婚姻の権利に対する制約であるとした1978年のZablocki v. Redhail判決,受刑者の婚姻する権利を制限する規律は婚姻をする権利を侵害するものであるとした1987年のTurner v. Safly判決が挙げられています。婚姻の権利に係る自由(リバティ)を法廷において守るということは,米国ではなじみのある活動形態であるところ,また,かつては犯罪者扱いであった同性愛者に係る解放の動きは,その抑圧からの新鮮な反撥力をなおも失ってはいなかったものと思われます。

「当裁判所がLawrence判決で判示したように,同性カップルは,親密な関係性を享受することについて,異性カップルと同じ権利を有している。Lawrence判決は,同性間の親密を犯罪とする法律を無効とした。〔略〕しかし,Lawrence判決は,個人が刑事責任なしに親密な関係を取り結ぶことを可能とするところの自由の一面を確認したものである一方,自由は,そこで停止するということにはならない。法の保護の外にある者(outlaw)から社会から爪弾きされた者(outcast)への変化は,一歩前進であろう。しかしそれは,自由の約束するものの全てを達成するものではない。」(法廷意見)という部分の含意は,マイナスからゼロにされただけではもはや満足できない,ということでしょう。「問題とされている諸法律が同性カップルの自由を制約しているということは今や明らかであり,また,それらは平等の中心的要請を減殺していることも承認されなければならない。ここにおいて,応答者ら〔州側〕によって施行されている婚姻法は,本質的に不平等なのである。同性カップルは異性カップルに与えられている全ての利益を拒まれ,かつ,基本的権利の行使から閉め出されている。特に,彼らの関係の否定に係る長い歴史に鑑みるに,同性カップルに対する婚姻する権利のこの否認は,重大かつ継続的な害を及ぼすものである。男女の同性愛者にこの無能力を強いることは,彼らを軽んじ,かつ,劣位のものとすることになるのである。しかして,平等保護条項は,適正手続条項同様,婚姻をすることに係る基本的権利に対するこの正当化されぬ侵害を禁ずるのである。」というくだりは(法廷意見。下線は筆者によるもの),過去の差別によって加えられた侵害の回復のためには,更に積極的な措置が必要なのだ,ということが言いたいのでしょう。「Bowers判決は最終的にLawrence判決によって否認されたが,その間,多くの男女が傷つけられたのであり,Bowers判決が覆された後もこれらの侵害がもたらした本質的作用は疑いもなく長く残存したのである。尊厳に係る傷(dignitary wounds)は,ペン捌き一つで常に癒され得るものではない。/同性カップルに不利益な判決はこれと同様の作用を及ぼすであろう――そして,Bowers判決同様,修正14条の下では正当化されないであろう。」とは(法廷意見Ⅳ),オーバーゲフェル事件判決が,米国連邦最高裁判所が同性愛行為を21世紀に入るまで犯罪としてしまっていたことに対する償いでもあることを示すものでしょうか。

なお,法廷意見は,米国憲法において婚姻が基本的なものであることについての理由が同等の説得力をもって同性カップルにも妥当することは,以下の四つの原理及び伝統によって示されると述べています()。次のとおりです。①婚姻に係る人格的(パーソナル)選択は個人の自律(individual autonomy)の概念に内在的なものであること,②婚姻する権利は,二人の合同を,誓約した各個人に対するその重要性において,他の何ものにもまして支えるものであること(「婚姻する権利は,かくして,「相互のコミットメントによって彼ら自身を定義付けようと望む」カップルを尊厳あるものとする(dignifies)」),③婚姻は子供及び家族を保護し,そのようにして,子育て,生殖及び教育に係る関連の権利を意味あるものとすること(「婚姻がもたらす承認,安定性及び予測可能性がなければ,彼らの子供は,彼らの家族は何だか劣等なものなのだという心の傷を負うのである。」),並びに④婚姻は社会秩序の礎石であること(「同性カップルは,異性カップルであれば彼らの生活において耐え難いと感ずるであるような不安定状態に置かれている。州自身がそれに付与する重要性によって婚姻が一層貴重なものとされているところ,当該地位からの排除は,男女の同性愛者は重要な点において等しい存在ではないと教宣する効果を有するものである。国民社会の中心的制度から男女の同性愛者を州が締め出すことは,彼らを卑しめるものである。同性カップルも,婚姻の超越的目的に憧れ,それに係る最高の意義における達成を求め得るものである。」「同性カップルを婚姻の権利から排除する法律は,我々の基本章典によって禁じられている心の傷及び侮辱を与えるものである。」)。

同性カップルによる子育てあり得べしということであれば,我が国において次に問題となるのは,民法817条の3にいう「配偶者」及び「夫婦」の解釈でしょうか。

 

4 札幌高裁判決の憲法24条論

 

(1)憲法24条の新解釈

 

ア ミュンヒハウゼン的論証

 札幌高等裁判所の憲法24条解釈は,同条2項の超・性的「個人の尊厳」概念をミュンヒハウゼン的辮髪として,そこを摑んで,憲法13条の類似文言の助力をも併せた腕力をもって憲法24条全体を一段高い「個人の尊重」の高みに引き上げしめ,同条1項の婚姻当事者(ミュンヒハウゼンの馬)を,「両性」及び「夫婦」概念の泥濘から脱出せしめます。すなわち,

 

〔前略〕法令の解釈をする場合には,文言や表現のみでなく,その目的とするところを踏まえて解釈することは一般に行われており,これは,〔略〕憲法の解釈においても変わるところはないと考えられる。さらに,仮に立法当時に想定されていなかったとしても,社会の状況の変化に伴い,やはり立法の目的とするところに合わせて,改めて社会生活に適する解釈をすることも行われている。したがって,憲法24条についても,その文言のみに捉われる理由はなく,個人の尊重がより明確に認識されるようになったとの背景のもとで解釈することが相当である。

その上で,性的指向及び同性間の婚姻の自由は,現在に至っては,憲法13条によっても,人格権の一内容を構成する可能性があり,十分に尊重されるべき重要な法的利益であると解されることは上記のとおりである。憲法241項は,婚姻をするかどうか,いつ誰と婚姻をするかについては,当事者の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨を明らかにしたものと解され,このような婚姻をすることについての自由は,同項の規定に照らし,十分尊重に値するものと解することができる(再婚禁止期間制度訴訟大法廷判決参照)。そして,憲法242項は,婚姻及び家族に関する事項についての立法に当たっては,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚すべきと定めている。そうすると,性的指向及び同性間の婚姻の自由は,個人の尊重及びこれに係る重要な法的利益なのであるから,憲法241項は,人と人との間の自由な結びつきとしての婚姻をも定める趣旨を含み,両性つまり異性間の婚姻のみならず,同性間の婚姻についても,異性間の場合と同じ程度に保障していると考えることが相当である。

  (札幌高等裁判所令和6314日判決の第332)ウ。下線は筆者によるもの)

 

 と,ここで筆者はまた,上記判示部分で引用されている再婚禁止期間制度訴訟大法廷判決についてブログ記事をかつて書いたことを思い出しました。

 

  待婚期間問題について:平成271216日最高裁判所大法廷判決から皇帝たち(アウグストゥス,ナポレオン)の再婚まで

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1048584997.html

 

イ 「個人として尊重」と「個人の尊厳」との互換性問題

 札幌高等裁判所の憲法24条解釈については,社会契約の場におけるものたるべき憲法13条の「個人として尊重」と専ら夫婦の間におけるものたるべき(ウ参照)同242項の「個人の尊厳」とを互換的な概念として用いてよいのか,ということが,筆者にとってはそもそも問題です。とはいえこの点は,本稿では問題点の指摘にとどめます。

 ちなみに――なお,筆者はここで「ポエム的憲法論」という表現を使ってみますが――オーバーゲフェル事件判決に対するその反対意見において,保守派の重鎮たるかのスカリア判事は,ポエム的憲法論に対する羞恥及び嫌悪を表明しています。いわく,「もし,たとえ〔米国連邦最高裁判所の意見を決する〕5票目のために支払わねばならない対価であるとしても,次のように始まる法廷意見――すなわち,「憲法は,その管下にある全ての者に対して自由を約束する。当該自由は,人格(パーソンズ)が,法の許す範囲内において,そのアイデンティティを定義し,かつ,表現することを可能とするいくつかの特定権利を含むものである。」と始まるもの〔筆者註:これは,ケネディ判事の執筆に係るオーバーゲフェル事件判決の書き出し部分〕――に私が加わったとしたならば,私は〔顔を隠すために〕袋に首を突っ込んだことであろう。合衆国の最高裁判所は,〔第4代首席判事にして違憲立法審査制度の父〕ジョン・マーシャル1801年から1835年まで在任〕及び〔ハーヴァード・ロー・スクールの存立基盤の確立者にして9領域におけるアメリカ法の註釈書(コンメンタリーズ)の著者〕ジョゼフ・ストウリ1811年から1845年まで在任〕の規律ある法的推論〔筆者註:なお,マーシャルの知性は,ゆっくりかつ重厚(マッシヴ),ストウリのそれは,休むことなく,断奏(スタッカ)(ート)で,絶え間のないものだったそうです(Richard Brookhiser, John Marshall: the man who made the Supreme Court; Basic Books, New York, 2018: p.142)。〕から,フォーチュン・クッキー中の神秘の託宣(アフォリズムス)へと堕落してしまった。」と(同判事反対意見の註22)。

 「恋するフォーチュン・クッキー」は,同性間ならぬ異性間の恋愛に関する歌でした。

 

ウ 「個人の尊厳」か「両性の各々の尊厳」か

 

(ア)GHQ草案及びその私訳

「恋するフォーチュン・クッキー」が云々との平成歌謡に関する閑話は休題するとして,憲法24条に関して問題であることは――筆者は「「人格を尊重」することに関して」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081694748.html)の12)を書いていて不図思い付いてそこに書いておいたのですが――同条2項の,すなわちGHQの草案23条の“…from the standpoint of individual dignity and the essential equality of the sexes”の部分における“of the sexes”“individual dignity”にもかかるようであり,当該部分は,2項構成としての「個人の尊厳」と「両性の本質的平等」に「立脚して」ではなく,一団構成として「両性の各々の尊厳と本質的平等」に「立脚して」とでも訳すべきものであったようにも思われるということです。このような「両性の各々の尊厳」は,もはや超・性的な概念ではなく,同性婚には親和的ではないでしょう。札幌高等裁判所のミュンヒハウゼン的論証術にとっては迷惑でしょう。ちなみにローマ法においては,夫婦は「相互に尊敬すべく,少くともユ〔スティニアヌス〕帝時代には窃盗訴権〔略〕悪意の訴権〔略〕の如き罰金訴権〔略〕不名誉訴権〔略〕の提起は禁止せられ,一方が他方の財産を盗むも窃盗訴権の適用なく,離婚を当て込んで盗んだ場合には,物追求訴権〔略〕たる物移動訴権(actio rerum amotarum)を離婚後提起し得るのみ。」ということだったそうですが(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)295頁),これは,こじつけていえば,婚姻関係にある両性の各々に尊厳があるがゆえに相互に尊敬がされるということでしょう。

 

  〔大カトーは〕妻や子供を撲る男は最も神聖な事物に手を下すものだと云つてゐた。又,偉い元老院議員になるよりもいい夫となる方が賞讃に値すると云つてゐた。〔略〕カトーは,子供が生まれてからは,国事に関しない限りどんなに必要な用事があつても,妻が嬰児の体を洗つたり襁褓を当てる時には必ず傍にゐてやつた。

  (河野与一訳『プルターク英雄伝(五)』(岩波文庫・1954年)74-75頁)

 

(イ)アイルランド

 上記の筆者流の読み方を正当化すべく,「個人の尊厳」ならば本来は“dignity of the individual”と書く方がふさわしかったはずなのである,と考えていたところ,インターネットで検索してみると,現にアイルランド憲法英語版の前文にはso that the dignity and freedom of the individual may be assured”(下線は筆者によるもの)という表現があります。「個人の尊厳及び自由が確実なものとされるように」と訳されるものでしょう。

 

(ウ)モンタナ

また,“individual dignity”は,やはり“equality”と緊密に結び付いて一団のものとなり得るようです(後者の「平等」の方が主となり,前者の「個々の尊厳」がそれを理由付けるものでしょう。)。1972年の米国のモンタナ州憲法24節はSection 4. Individual dignity. The dignity of the human being is inviolable. No person shall be denied the equal protection of the laws. Neither the state nor any person, firm, corporation, or institution shall discriminate against any person in the exercise of his civil or political rights on account of race, color, sex, culture, social origin or condition, or political or religious ideas.”となっていて,“Individual Dignity”の見出しの下,本文は「人間の尊厳は不可侵である。何人も法律の平等な保護を否認されない。州又はあらゆる人,企業,法人若しくは団体は,何人をも,彼の公民的又政治的権利の行使において,人種,肌の色,性別,文化,社会的出自若しくは地位又は政治的若しくは宗教的意見を理由として差別してはならない。」と規定しています。不可侵の尊厳は人間であることに由来するものであるが,それが同節においては具体的に,法律の平等な保護を否認されない各個人のものとして,及び人種,肌の色,性別,文化,社会的出自若しくは地位又は政治的若しくは宗教的意見の相違にもかかわらず,公民的又政治的権利の行使において差別されることのない各個人のものとして特定的に観念される,ということでしょうか。見出しは“Individual Dignity”,すなわち裸の「個々の尊厳」で(individualの原義はこれ以上分割できないということですから,「個の尊厳」とは,それだけでは限定できません。),外延がどこまで広がるかはっきりせず落ち着かないのですが,同節本文において特定がされているわけでしょう。なお,モンタナ大学のウェブ・ページには,1972112日開催の公聴会に関して同節に係る次のような由来が紹介されています。

 

Delegate Richard Champoux, proponent of Delegate Proposal 61, the proposal from which Section 4 was largely drawn, was motivated by the story of his own mother, the discrimination in employment and indignities she faced, and her belief that “men and women should be treated equally and with dignity.”

  第4節が大きくそこから由来した代議員提案第61の提案者であるリチャード・シャンプー代議員は,彼女が嘗めさせられた就職差別及び屈辱に係る彼自身の母親の経験談並びに「男性も女性も平等に,かつ,尊厳あるものとして取り扱われるべきである」という彼女の信念よって動機付けられたものである。

 

 各自に尊厳があるから,全員が平等に取り扱われるわけです。

 

(エ)オーバーゲフェル事件判決から

 オーバーゲフェル事件判決の法廷意見にも「()(ヴァ)無能力(チャ)()の原理の漸進的崩壊にもかかわらず,〔略〕20世紀の半ばを通じて,婚姻における性別に基づく不愉快な区別が,普通のこととして存在していた。App. to Brief for Appellant in Reed v. Reed, O.T. 1971, No. 70-4, pp. 69-99を参照(1971年当時存在した諸法律であって,婚姻において女を男と同等ではないものとして取り扱っているものについての広範な論及)。これらの区別は,男と女との平等の尊厳the equal dignity of men and women)を否認していたのである。例えば,ある州法は,1971年に次のように規定していた。いわく,「夫は家族の頭であり,妻は彼に従属する。彼女自身の保護又は利益のために法律が彼女を別個のものとして承認する範囲外においては,彼女の私法的存在は彼に統合される。」と(Ga Code Ann, §53-501 (1935))。新たな自覚に対応して,当裁判所は,婚姻における性別に基づく不平等を強いる諸法律を無効とするために,平等保護原則に訴えた。」という表現があります(Ⅲ. 下線は筆者によるもの)。

 

エ 異性婚規定を同性婚に類推適用する理由付け

 札幌高等裁判所は,憲法242項の「個人の尊厳」をミュンヒハウゼンの辮髪として摑んで同条の泥沼を脱し,同条1項の「婚姻をすることについての自由」に類推適用の形をもって騎乗し(札幌高等裁判所は,類推適用ではなく目的的解釈の結果であるとするのでしょうが,一応,類推適用だと言わせてください。),前進します。異性婚に係る規定をもって同性婚に類推適用させるわけですが,当該類推適用を理由付ける異性婚と同性婚との類似性は「人と人との間の自由な結びつきとしての婚姻」だからだということです。ここでの「婚姻」と呼ばれる結び付きは,性的指向ゆえのもの,すなわち性欲の充足に向けられたものであって,床のみならず更に食卓をも共にする関係(星野英一『家族法』(放送大学教育振興会・1994年)55頁参照)なのでしょう。当事者間の合意に基づく自由な性的結び付きである限りにおいては,その性的指向がどのようなものであるかは第三者がとやかくいうべきものではないのでしょう。

なるほど確かに,人と人との間の自由な結びつきとしての性交等(「性交等」は刑法(明治40年法律第45号)1771項において定義されています。)は13歳以上の者の間では我が刑法上許されるのでしょう(同条3項)。しかし,どういうわけか16歳になるまでは,5年以上年上のおじさま・おばさまとの性交等の自由は認められていません(刑法1173項の括弧書きは分かりづらいですが,こういう意味でしょう。)。人事訴訟法(平成15年法律第109号)131項を見ると,未成年者であっても行為能力制度の制約なく,意思能力さえあれば婚姻関係訴訟(同法21号)に係る訴訟行為ができるのですが(未成年者である18歳未満の者の婚姻はあり得ない(民法4条,731条及び740条)わけではなく,その取消しに関する規定が用意されており(同法744条及び745条),取り消されるまでは有効な婚姻です(同法7481項)。),刑法では,意思能力(これは,ドイツ民法1041号的には満7歳で備わるものでしょう。)さえあれば性交等をしてもよいということにはなっていません。性交等を行うか否かについては,婚姻についてよりも高度な判断力を要するのでしょうか。

 

オ 保障の同程度性は必然か

 札幌高等裁判所は,最後に,「異性間の婚姻のみならず,同性間の婚姻についても,異性間の場合と同じ程度に保障している」とさらりと述べていますが,ここでの保障の同程度性については明示的な論証はされていません。異性婚も同性婚も個人の尊厳にかかわるところ,個人の尊厳は絶対だから絶対者間相互では比較ができず「同じ程度に保障」することに帰着するのだ,という理由付けを忖度せよ,ということでしょうか。しかし,憲法24条は同性婚を異性婚と「同じ程度に保障している」のだとあらかじめ決めてしまうことによって,同性婚を異性婚と同じ程度に保障していない民法及び戸籍法の婚姻関係現行諸規定は同条に違反するという結論が先取りされてしまうという関係になりますので,論証の追加が欲しいところです。いわんや異性婚内部でも,禁止されているもの(民法731条,732条及び734条から736条まで参照)とそうでないものという序列があるのですから,異性婚と新参の同性婚との間での序列付けを絶対的に排除するためには何がしかの理由付けが必要でしょう。

 また,人と人との間の自由な性的結びつきを保障するものは一つのものとしてある法的婚姻しかない,と選択肢をあらかじめ絞ってしまうのもいかがなものか。事実上の婚姻として放任することによって保障する,ということも可能であるようにも思われます。個人の自由ということであれば,その方がよさそうでもあります。事実上の婚姻は,両者の合意がなければ成立せず,そこでは両者が同等の権利を有し,両者の協力によってしか維持されないもののはずです(憲法241項参照)。また,事実上の婚姻についても,無法状態というわけではなく,パートナーの選択に制約はなく,財産関係は各自別々,相続はないが遺贈は可能,住居の選定は各自別々,関係解消は単意で可能,ということであるはずです(憲法242項参照)。既に異性婚についてすら,「近代において〔略〕,ついには愛なき結婚の否定(離婚の自由の強調)からさらに進んで,愛さえあれば法律上の「婚姻」という形態をとる必要はないのではないか,との疑問が生じ(「愛の制度化は愛の死である」との言も見られる),愛ある同棲を推奨し(同棲のない場合もある),「婚姻」否定論まで現れてきた。」(星野47頁)ということであったはずです。オーバーゲフェル事件判決におけるロバーツ首席判事の反対意見には「同性カップルは,彼らがそうしたいように同居し,親密な行為に及び,及び家族を養うことについて自由であり続けている。本件において問題とされている法律によって「孤独のうちに生きるべく宿命付けられている」者はいないのである――誰もいないのである。」とあります(B2)。更に同首席判事はいわく,「実のところ,本日の判決は,彼らがそう望むから同性カップルは婚姻を許されるべきであり,かつ,「彼らに当該権利を拒むことは,彼らの選択を(そし)り,かつ,彼らの人格性を(おとし)めることになる」という多数意見の独自の確信に基づくものでしかないのである。〔略〕道徳哲学の問題としていかなる力を当該信念が有していようとも,当該信念は,〔パン工場労働者の労働時間を制限するニュー・ヨーク州法を無効とした米国連邦最高裁判所の1905年〕ロックナー(Lochner)事件判決〔同判決の先例性は,その後否定されています。〕において採用された裸の政策選好以上の基礎を憲法の下に有してはいないのである」と(B3)。

 

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