今回の記事は,前回の記事である「北海道と樺太との分離並びに日魯通好条約2条後段及び樺太島仮規則について(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081414643.html)」の手短な追記となります。
1855年の日魯通好条約又は1867年の樺太島仮規則から1875年の千島樺太交換条約まで樺太島は日露間の,1858年の璦琿条約から1860年の北京条約まで現在の沿海州は清露間の「共有」領土であったわけですが,19世紀にはもう一つ有名な,二国間「共同領有」地がありました。現在の米国のオレゴン州,ワシントン州及びアイダホ州並びにカナダのブリティッシュ・コロンビア州を合わせた地域にほぼ相当する北米大陸北西岸のオレゴン地方です(Oregon Country)。同地方は,1818年10月20日にロンドンで調印された米英間の条約(発効は1819年1月30日)から1846年6月15日にワシントン,D.C.で調印された両国間の条約(同年7月17日にロンドンで批准書交換)まで,米英の「共同領有」地であったのでした。山川出版社の『世界史小辞典』(第2版第19刷(1979年))の「オレゴン協定 Oregon Agreement」の項において,これら二つの同名で呼ばれる条約のうち1846年条約ではない方が,「オレゴン地方の共同領有を決めた1818年の英米間の条約」として紹介されているところです(有賀貞執筆。下線は筆者によるもの)。
しかし,オレゴン地方は,「二国(時として数国のことも有り得る)の合同の意思に依つて統治せら」れ,「その統治権は二国の共同の権利たるもの」であり,かつ,「何れの一国にも属しない」区域であるとともに,「之を支配する所の権力は,何れの一国の意思とも異つた二国の合同の意思に成る」ものであって「如何なる機関を以て之を支配するかは専ら両国の協定に依つて定まる」ものとされる美濃部達吉流の「共同領土」の定義(同『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)99頁)に当てはまるものではなかったようです。
すなわち,未決のオレゴン地方におけるそれを除いて米国とカナダとの間の国境を北緯49度にすること(第2条)等を定めた1818年の米英条約の第3条は次のとおりでした。
ARTICLE III. It is agreed, that any Country that may be claimed by either Party on the North West Coast of America, Westward of the Stony Mountains, shall, together with it's Harbours, Bays, and Creeks, and the Navigation of all Rivers within the same, be free and open, for the term of ten Years from the date of the Signature of the present Convention, to the Vessels, Citizens, and Subjects of the Two Powers: it being well understood, that this Agreement is not to be construed to the Prejudice of any Claim, which either of the Two High Contracting Parties may have to any part of the said Country, nor shall it be taken to affect the Claims of any other Power or State to any part of the said Country; the only Object of The High Contracting Parties, in that respect, being to prevent disputes and differences amongst Themselves.
(ストーニー山脈から西側のアメリカ北西岸の地方であって,いずれかの締約国によって領有が主張されることのあるものは,その港,湾及び入江並びに当該地方内の全ての河川の航行を含めて,本協定の調印の日から10年間,両国の船舶,市民及び臣民に対して自由かつ開かれたもの(free and open)たることが合意される。ただし,この合意については,当該地方のどの部分についても,それについて条約締結両国のうちの一が有することのある領有権の主張の当否について予断を与えるものとして解釈されるべきものではなく,かつ,当該地方のどの部分についても,他のいずれかの列強又は国家による領有権の主張について影響を与えるべきものではない旨十分の理解がされているものである。当該事項に係る条約締結両国の唯一の目的は,両国間における論争及び紛争を防止することである。)
オレゴン地方が米英両国の市民及び臣民に対して「自由かつ開かれた」ものであることの確認にとどまっているものと解すべきでしょう。米英両国の「合同の意思」による統治に関する条項ではないものでしょう。両国の「合同の意思」の形成方法,当該「合同の意思」による支配の「機関」の組織などについては規定されていません。
なお,両国の市民及び臣民に対して「自由かつ開かれた」ものといわれると,樺太島仮規則2条の「両国の所領たる上は魯西亜人日本人とも全島往来勝手たるへし且いまだ建物並園庭なき所歟総て産業の為に用ひさる場所へは移住建物等勝手たるへし」との規定が想起されるところです(同仮規則添付の英訳では,“In consequence of common possession, the Russians and Japanese are at liberty to circulate upon the whole island, to make settlement and erect buildings in all localities not yet occupied by buildings, industrial establishments or gardens.”)。ただし,1818年条約3条において米英両国は,オレゴン地方は「両国の所領」であるもの(“common possession”の下にあるもの)とまでは言っていません。オレゴン地方(全体,あるいはその部分)に関する米英両国の領有主張は,飽くまでもそれぞれの単独領有の主張です。また,他の第三国による領有権主張の可能性も排除されない文言となっています。すなわち,1818年段階では,オレゴン地方北方になおロシア領アラスカがあったところです。北緯54度40分以南の北米西岸における権益をロシアが放棄したのは,1824年から1825年にかけての米英それぞれとの条約によってでした(Colin McEvedy, The Penguin Atlas of North American History to 1870; Penguin Books, 1988: p.106. 米露条約は1824年,英露条約は1825年)。また,北米大陸におけるスペインの領有権主張を北緯42度以南にとどめるアダムズ=オニス協定(別名,Transcontinental Treaty)の調印がされたのは,1818年の米英条約が発効した後の1819年2月22日のことでした(筆者の「いわゆるアダムズ方式に関して(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078277830.html)」8(4)参照)。
1818年条約調印当時のオレゴン地方の状勢は,米国ニュー・ヨーク本社のアメリカ毛皮会社(America Fur Company)がコロンビア川の河口部のアストリア(Astoria)に1811年に拠点を設けたものの見事に失敗(signally failed to make a go)していたのに対し,ライバルである英領モントリオール本社の北西毛皮会社(North West Fur Company)は現在のブリティシュ・コロンビア州のフレイザー川から現在のワシントン=オレゴン州境のコロンビア川にかけて一連の拠点を設けて多くの利益を挙げ,1821年にはハドソン湾会社に加わるに至る運びであったということで,英国が優位であったところです(see McEvedy p.70)。
しかしその後,
1841年,男女子供合計69名の一隊が西海岸に向けてミズーリを出発し,半数がオレゴンに,半数がキャリフォーニアに向かった。翌年には百名以上がオレゴンへの道をたどり,その翌年にその数は九百名となった。こうして幌馬車縦隊の時代が始まった。1843年の部隊は,コネストーガ式の幌馬車百二十台を擁し,五千頭の牛を連れていた。当該移住者たちは,1844年の春までに,〔現在のオレゴン州の〕ウィラメット渓谷において彼らの土地所有権の主張を行った(the settlers were staking out their claims in the Willamette valley)。1846年までには,オレゴンには四千名のアメリカ人がいて,当該地方におけるカナダ人人口を5対1以上の差で上回った。
(McEvedy p.74)
ということで,状勢は,米国人移民の増加によって米国優位に逆転します。土地を求めて,オレゴン街道をはるばる西にたどり,たくましい米国人開拓農民たちが「自由かつ開かれた」オレゴン地方に続々流入して来ていたわけです。なお,米国内における開拓自営農民による無償での土地確保といえばホームステッド法(Homestead Act)が有名ですが,同法の成立は,奴隷農園主らの支配する南部諸州が同国から離反して後,南北戦争中の1862年のことでした。
ウィラメット川ならぬ札幌の豊平川を跨ぐ幌平橋上のポートランド広場(ポートランドは,オレゴン州最大の都市)
ポートラント広場からの眺望(上:南方・豊平川上流側,下:北方・同下流側)
ところで,日露「両国の所領たる」樺太島においては,カナダ人ならぬロシア人を数で圧倒すべく,開拓の意気に燃える我が愛国的日本臣民は明治の初年,津軽及び宗谷の両海峡をはるばる北に越えて続々同島に大挙移住していたのかといえば,事情は次のようなものであったそうです。
明治初年以来,新政府は日本人の存在をロシア側に示すために手厚い扶助を与えて樺太に移民を送ったが,〔略〕ロシア兵や脱走囚人の暴行から彼らを保護することさえ困難になりつつあった。しかも,衣食,器具,種子その他を与えて開拓を奨励したにも拘らず,移住民たちの開墾の成果は挙らず,4,5年経っても自立し自活できた者はごく僅かであった。さらに移住の当初から身体虚弱を理由に離島する者が続出し,一時帰省のまま帰島しない者もあり,〔略〕新たに移住するものも稀で戸口も年々減少し,明治6年〔1873年〕末には官吏や漁場の季節労働者を除く住民は,出稼ぎを含めても全島で五百数十名にすぎなかった。
(秋月俊幸「明治初年の樺太――日露雑居をめぐる諸問題――」スラヴ研究40号(1993年)15頁)
そもそも,「慶応4年〔1868年〕6月末クシュンコタン(楠渓)に着任」した明治天皇の新政府による樺太行政の最初の管理者たる岡本監輔がその際率いていた「移民男女200余人」からしてが,「彼が箱館において当座の生活の援助を約束して募集した一般人で,多くは生業の目当てのない貧民の群」にすぎず(秋月2頁),また,翌「1869年〔明治二年〕5月末に日本政府の依頼を受けて移民たちを樺太に輸送した英国船のウィル船長は,「彼らはみすぼらしく,移民というよりは流刑者にみえた」と記している。」ということでしたから(秋月16頁註7),なにをかいわんや。輝かしいオレゴン・トレイル伝説とは雲泥の差です。