2024年01月

第1 一つの蝦夷地(総称)から北海道及び樺太への分離に関して

 

1 北海道には,北海道島は含まれるが樺太島は含まれない。

 前稿である「光格天皇の御代を顧みる新しい「国民の祝日」のために」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081364304.html)においては,つい北海道「命名」150年式典(201885日に札幌で挙行)に関しても論ずることになり,その際明治二年七月八日(1869815日)の職員令により設置された開拓使による開拓の対象には,当初は北海道のみならず樺太も含まれていたことに触れるところがありました。そうであれば,しかし,日本国五畿八道の八道の一たる北海道に,北海道島と同様に開拓がされるべきものであった樺太島の地が含まれなかったのはなぜであるのかが気になってしまうところです。

 

2 明治初年の開拓官庁の変遷

 ところで,2018年において北海道「開拓」(の数えでの)150年が記念されなかったことについては,王政復古後の明治天皇の政府において「諸地開拓を総判(総判諸地開拓)」すべき機関の設置は,実は1869年の開拓使が初めてのものではなかったからであって,折角天皇皇后両陛下の行幸啓を仰いでも,当該趣旨においては十日の菊ということになってしまうのではないかと懸念されたからでもありましょうか。

 

(1)外国事務総督及び外国事務掛から外国事務局を経て外国官まで

すなわち,既に慶応四年=明治元年一月十七日(1868210日)の三職(総裁,議定及び参与)の事務分課に係る規定において,議定中の外国事務総督が「外地交際条約貿易拓地育民ノ事ヲ督ス」るものとされて,「拓地育民」が取り上げられており(併せて,参与の分課中に外国事務掛が設けられました。),同年二月三日(1868225日)には外国事務総督と外国事務掛とが外国事務局にまとめられた上(「外国交際条約貿易拓地育民ノ事ヲ督ス」るものです。),同年閏四月二十一日(1868621日)の政体書の体制においては,外国官が「外国と交際し,貿易を監督し,疆土を開拓することを総判(総判外国交際監督貿易開拓疆土)」するものとされていたのでした(以上につき,山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)4-5頁,7-8頁,1114頁及び2026頁参照)。外国交際と直接関係する疆土(「疆」は,「さかい」・「領土の境界」の意味です(『角川新字源』(1978年))。)の開拓ということですから,当該開拓の事業は,対外問題(有体に言えば,ロシア問題)対策の一環として明治政府によって認識されていたものでしょう。

 

(2)北蝦夷地(樺太)重視からの出発

 ロシア問題対策のための疆土開拓ということであれば蝦夷地開拓ということになりますが,その場合,四方を海に囲まれた北海道(東西蝦夷地)よりも,ロシア勢力と直に接する樺太(北蝦夷地)こそがむしろ重視されていたのではないでしょうか。

 

ア 慶応四年=明治元年三月九日の明治天皇諮詢

 早くも慶応四年=明治元年三月九日(186841(駿府で徳川家家臣の山岡鉄太郎が,江戸攻撃に向けて東進中の官軍を率いる西郷隆盛と談判した日です。))に,明治「天皇太政官代ニ臨ミ三職ヲ召シテ高野保建少将清水谷公考建議ノ蝦夷開拓ノ可否ヲ諮詢ス群議其利ヲ陳ス〔略〕復古記」ということがありましたが(「群議其利ヲ陳ス」の部分は,太政官日誌では「一同大ヒニ開拓可然(しかるべき)()旨ヲ言上ス」ということだったそうです。),そこでの高野=清水谷の建議書(二月二十七日付け)には「蝦夷島周囲二千里中徳川家小吏()一鎮所而已(のみ)無事()時モ懸念御坐(さうらふ)(ところ)今般賊徒 御征討(おほせ) 仰出(いでられ)候ニ付テハ東山道徃来相絶シ徳川荘内等()者共(ものども)彼地(かのち)ニ安居仕事(つかまつること)難相(あひなり)(がたく)島内民夷ニ制度無之(これなく)人心如何(いかが)当惑(つかまつり)候儀ニ有之(これある)ヘクヤ不軌ノ輩御坐候ヘハ(ひそか)ニ賊徒ノ声援ヲナシ(まうす)(べく)難計(はかりがたし)魯戎元来蚕食()念盛ニ候ヘハ此虚ニ乗シ島中ニ横行シ(かね)テ垂涎イタシ候北地()(シュン)古丹(コタン)等ニ割拠シ如何様之(いかやうの)挙動可有之(これあるべく)難計(はかりがたく)候ヘハ一日モ早ク以御人撰(ごじんせんをもつて)鎮撫使等御差下シテ御多務中モ閑暇(なさ)為在(れあり)候勢ヲ示シ御外聞ニモ相成候(あひなりさうらふ)(やう)仕度(つかまつりたく)〔中略〕海氷(りう)()()時節相至(あひいたり)候ヘハ魯人軍艦毎年()春内(シュンナイ)罷出候間(まかりいでさうらふあひだ)当月中ニモ御差下(さしくだし)相成候様(あひなりさうらふやう)被遊度(あそばされたき)積リ〔後略〕」とありました(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070634100)。

()(シア)が元来その地について蚕食之念を有しており,かつ,横行が懸念されること並びに久春古丹(大泊,コルサコフ)及び久春内(樺太島西岸北緯48度付近の地)といった地名からすると,ここでいう「蝦夷島」については,北海道島というよりは「北地」たる樺太島が念頭に置かれていたものでしょう。当該建議については,公家の清水谷公考(きんなる)に対する阿波人・岡本監輔の入れ智恵があったそうですが(秋月俊幸「明治初年の樺太――日露雑居をめぐる諸問題――」スラブ研究40号(1993年)2頁),岡本は「尊皇攘夷時代には珍しい北方問題の先駆者の一人で,文久3年(1863)すすんで樺太詰めの箱館奉行支配在住となり,慶応元年(1865)には間宮林蔵によっても実現できなかった樺太北岸の周廻を計画し,足軽西村伝九郎とともにアイヌ8名の助力をえて,独木舟で北知床岬を廻り,非常な苦労ののち樺太北端のエリザヴェータ岬(ガオト)に達し,西岸経由でクシュンナイに帰着した」という「ロシアの樺太進出に悲憤慷慨して奥地経営の積極化を望んでいた」憂国の士だったそうですから(同頁),当然樺太第一になるべきものだったわけです。

 

イ 慶応四年=明治元年三月二十五日の岩倉策問等(2道設置論)及び箱館府(箱館裁判所)の設置

 慶応四年=明治元年三月二十五日(1868417日)には,議事所において,三職及び徴士列坐の下,「蝦夷地開拓ノ事」について,「箱館裁判所被取建(とりたてられ)候事」,「同所総督副総督参謀等人撰ノ事」及び「蝦夷名目被改(あらためられ)南北二道被立置(たておかれ)テハ何如(いかん)」との3箇条の策問が副総裁である岩倉具視議定からされています(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070634300)。蝦夷地の改称の話は既にこの時点で出て来ていますが,ここでの2道のうち南の道が後の北海道(東蝦夷地及び西蝦夷地)で,北の道は樺太(北蝦夷地)なのでしょう。これらの点については更に,同年四月十七日(186859日)の「蝦夷地開拓ノ規模ヲ仮定ス」と題された「覚」7箇条中の最初の2箇条において「箱館裁判所総督ヘ蝦夷開拓ノ御用ヲモ御委任有之(これあり)候事」及び「追テ蝦夷ノ名目被相改(あひあらためられ)南北二道ニ御立(なら)()早々測量家ヲ差遣(さしつかはし)山川ノ形勢ニ随ヒ新ニ国ヲ分チ名目ヲ御定有之(これあり)候事」と記されているとともに,第6条において「サウヤ辺カラフトヘ近ク相望(あひのぞみ)候場所ニテ一府ヲ被立置度(たておかれたく)候事」と述べられています(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070634500)。箱館裁判所の設置は同月十二日(186854日)に既に決定されており,同裁判所は,同年閏四月二十四日(1868614日)に箱館府と改称されています(秋月2頁)。

 

ウ 明治二年五月二十一日の蝦夷地開拓の勅問

 箱館府を一時排除して五稜郭に拠り,最後まで天朝に反抗していた元幕臣の榎本武揚らが開城・降伏してから3日後の明治二年五月二十一日(1869630日)には,皇道興隆,知藩事被任及び蝦夷地開拓の3件につき明治天皇から政府高官等に勅問が下されています。そのうち蝦夷地開拓の条は次のとおりでした。

 

  蝦夷地ノ儀ハ 皇国ノ北門直チニ山丹満州ニ接シ経界粗々(あらあら)定マルトイヘドモ北部ニ至ツテハ中外雑居イタシ候所(さうらふところ)是レマテ官吏ノ土人ヲ使役スル甚ハタ苛酷ヲ極ハメ外国人ハ頗フル愛恤(あいじゅつ)ヲ施コシ候ヨリ土人往々我カ邦人ヲ怨離シ彼レヲ尊信スルニ至ル一旦民苦ヲ救フヲ名トシ土人ヲ煽動スルモノ()レアルトキハ其ノ禍(たち)マチ函館松前ニ延及スルハ必然ニテ禍ヲ未然ニ防クハ方今ノ要務ニ候間(さうらふあひだ)函館平定ノ上ハ速カニ開拓教導等ノ方法ヲ施設シ人民繁殖ノ域トナサシメラルヘキ儀ニ付利害得失(おのおの)意見忌憚無ク申出ツヘク候事

  (アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070159100

 

ここでの「蝦夷地」は,東蝦夷地,西蝦夷地及び北蝦夷地のうち,北蝦夷地こと樺太のことでしょう。(なお,北蝦夷地ならざる東蝦夷地及び西蝦夷地の振り分けについていえば,明治二年八月十五日(1869920日)の太政官布告による北海道11箇国のうち,東部は胆振,日高,十勝,釧路,根室及び千島の6箇国,西部は後志,石狩,天塩及び北見の4箇国とされていました。11箇国目の渡島国は,東部・西部のいずれにも分類されていません。)山丹は黒龍江下流域のことですが,ユーラシア大陸の「山丹満州ニ接シ」ているのは,地図を見ればすぐ分かるとおり,北海道島ではなく,樺太島でしょう。「経界粗々定マルトイヘドモ北部ニ至ツテハ中外雑居イタシ候所」というのは,185527日に下田で調印された日魯通好条約2条後段の「「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是まて仕来の通たるへし」を承けた樺太島内の状況を述べるものでしょう。「是レマテ官吏ノ土人ヲ使役スル甚ハタ苛酷ヲ極ハメ外国人ハ頗フル愛恤ヲ施コシ候ヨリ土人往々我カ邦人ヲ怨離シ彼レヲ尊信スルニ至ル」については,文久元年(1861年)に,樺太においてトコンベ出奔事件というものがあったそうです。

 

   事件は,文久元年(1861)に北蝦夷地のウショロ場所〔樺太島西岸北緯49度付近〕で漁業に従事していたアイヌのトコンベが,番人の暴力に耐えかねてシリトッタンナイ〔樺太島西岸ウショロより北の地〕のロシア陣営に逃げ込んだことが発端であった。北蝦夷地詰の箱館奉行所官吏はロシア側の責任者であったジャチコーフにトコンベの引き渡しを要求したが,ジャチコーフはアイヌ使役の自由を主張して奉行所官吏の要求を拒否した。その後,トコンベは翌文久二年(1862)正月,ウショロに立ち戻ったところを奉行所役人に捕縛され久春内に移送された。しかし,同年三月にはジャチコーフが久春内に来航し,トコンベの引渡しを要求した。最終的にジャチコーフは暴力を伴いトコンベを「奪還」した。さらに,ウショロに在住したトコンベの家族やその周囲のアイヌ17人を連れ去るという事件に発展した。

  (檜皮瑞樹「19世紀樺太をめぐる「国境」の発見――久春内幕吏捕囚事件と小出秀実の検討から――」早稲田大学大学院文学研究科紀要:第4分冊日本史学・東洋史学・西洋史学・考古学・文化人類学・アジア地域文化学544号(20092月)18-19頁)

 

 ということで,明治二年五月二十一日(1869630日)の勅問は,樺太島重視の姿勢が窺われるものであったのですが,同年七月八日(1869815日)の職員令による開拓使設置を経た同年八月十五日(1869920日)の前記太政官布告においては,道が置かれたのは東西蝦夷地までにとどまり,樺太島は,新しい道たる北海道から外れてしまっています。(当該太政官布告により「蝦夷地自今(いまより)北海道ト被称(しょうされ)11ヶ国ニ分割」なので(下線は筆者によるもの),渡島,後志,石狩,天塩,北見,胆振,日高,十勝,釧路,根室及び千島の11箇国のみが北海道を構成するということになります。一番北の北見国には宗谷,利尻,礼文,枝幸,紋別,常呂,網走及び斜里の8郡が置かれていますが,宗谷郡,利尻郡又は礼文郡に樺太島が属したということはないでしょう。北海道庁版権所有『北海道志 上巻』(北海道同盟著訳館・1892年)5頁によれば,蝦夷地北海道改称の際「樺太ノ称ハ旧ニ仍ル」ということになったそうです。)蝦夷地開拓に係る上記勅問の段階からわずか3箇月足らずの期間中に,樺太の位置付けが低下したようでもあります。この間一体何があったのでしょうか。

 

3 函泊露兵占領事件及び樺太島仮規則(日露雑居制)確認並びにパークス英国公使の勧告 

 

(1)函泊露兵占領事件

 明治二年六月二十四日(186981日)に「露兵,樺太函泊を占領,兵営陣地を構築」(『近代日本史総合年表 第四版』(岩波書店・2001年))という事態が生じています。

「日本の本拠地クシュンコタンの丘一つ隔てた沢にあるハッコトマリ(凾泊)にデ・プレラドヴィチ中佐(この頃大隊長となる)の指揮する50人ほどのロシア兵が上陸し,陣営の構築を始めた。そこは場所請負人伊達林右衛門と栖原小右衛門が共同で経営するアニワ湾の一漁場で,海岸は水産乾場として使われ,多数の鰊釜が敷設されていた。ロシア側は丘の上に兵営を建てるので漁場の邪魔にはならぬと弁解したが,そこもアイヌの墓地となっており,アイヌたちはロシア人の立入りを止めさせるよう繰返し日本の役所に訴えている。しかし,デ・プレラドヴィチは,兵営の設置は本国からの命令によるものとして日本側の抗議を無視した。ロシア側は仮規則〔本稿の主題たる後出1867年の日露間の樺太島仮規則〕を盾にこの地に陣営を設けたのであるが,その意図はクシュンコタンに重圧をかけ,日本人の樺太からの退去を余儀なくする準備であった。やがてここにはトーフツから東シベリア第4正規大隊の本部が移され,多数の徒刑囚も到着して,その後の紛糾のもととなるのである。」(秋月3-4頁)ということです。

 

(2)樺太問題に係るパークス英国公使の寺島外務大輔に対する忠告

樺太担当(久春古丹駐在)の箱館府権判事(開拓使設置後は開拓判官)となっていた「岡本〔監輔〕が上京して開拓長官鍋島直正や岩倉具視,大久保利通らの政府要人たちにロシア軍の凾泊上陸を報告し,日本の出兵を訴えて間もない」(秋月4頁,2頁)同年八月一日(186996日)には,外務省で「寺島〔宗則〕外務大輔はパークス英国公使と会談し,英国側から北地におけるロシアの進出について厳しく忠告を受けた。日本政府は現地の情報に疎く,樺太の情勢だけでなくロシアの動向についてまったくと言ってよいほど捕捉していなかった。〔中略〕「小出大和〔守秀実〕魯都ニ参り雑居之約定取極メ調印致し候ニ付,此約定〔樺太島仮規則〕ハ動(ママ)〔す〕へからさる者に候。恐く唐太全島を失ふ而已(〔のみ〕)ならす蝦夷地に及ふへし」と,パークスの忠告は切迫した内容であった。」ということになっています(笠原英彦「樺太問題と対露外交」法学研究731号(2000年)102-103頁。『大日本外交文書』第2巻第2455-459頁,特に458頁)。更にパークスは,「唐太に於て無用に打捨あるを魯人ひろふて有用の地となす誰も是をこばむ能はさるを万国公法とす」と,日本がむざむざ樺太を喪失した場合における列強の支援は望み薄であるとの口吻でした(『大日本外交文書』第2巻第2458)。

 

(3)樺太島仮規則に係る明治政府官員の当初認識

 パークスが寺島外務大輔に樺太島仮規則の有効性について釘を刺したのは,我が国政府の樺太担当者が当該規則の効力を否認していたからでした。

例えば,樺太島における岡本監輔の明治二年五月二十六日(186975日)付けロシアのデ・プレラドヴィチ宛て書簡では,「貴方所謂(いはゆる)日本大君と(まうす)は国帝に無之(これなく)徳川将軍事にて二百年来国政委任に(あひ)成居候得共(なりをりさうらへども)将軍限りにて外国と国界等取極(さうろふ)(はず)無之処(これなきところ)(その)臣下たる小出大和守〔秀実〕輩一存を(もつて)雑居等相約候(あひやくしさうらふ)は僭越(いたり)申迄も無之(これなく)」して「不都合の次第」であるとし,「吾所有たる此〔樺太〕島を貴国吾国及ひ土人三属の地と御心得被成候(なられさうらふ)余り御鄙見にて貴国皇帝御趣意とは不存(ぞんぜず)ところ,仮規則締結については「貴国にても其権なき者と御約し被成候(なられさうらふ)は御不念事に可有之(これあるべく)と述べて日本側の「小出大和守輩」は無権代理人であったとし,かつ,勿論(もちろん)(この)島の儀未タ荒蕪空間の地所も有之(これある)(つき)土人漁民其外小前の者に至迄(いたるまで)差支無之(これなき)場所は開拓家作等(なら)(れさ)(うらひ)ても(よろ)(しく)御坐候に付此段此方詰合(つめあひ)()御届被成(なられ)差図被受(うけられ)(さうらふ)(やう)致度(いたしたく)候」として(以上『大日本外交文書』第2巻第1933-935頁),樺太島仮規則2条の「魯西亜人〔略〕全島往来勝手たるへし且いまた建物並園庭なき所歟総て産業の為に用ひさる場所へは移住建物等勝手たるへし」との規定にもかかわらず,「荒蕪空間の地所」についてもロシア人の勝手はならず日本国の官庁に届け出た上でその指示に従うべしと,樺太島南部における(同島周廻者である岡本の主観では,樺太全島における)我が国の排他的統治権を主張していました。

「雑居」を認める樺太島仮規則の効力を,小出秀実ら当該規則調印者の権限の欠缺を理由に否定した上で(民法(明治29年法律第89号)113条参照),それに先立つ日魯通好条約2条後段の「界を分たす是まて仕来の通たるへし」との規定は,樺太島における日露雑居を認めるものではなく,日露の各単独領土の範囲は「是まて仕来の通」であることを確認しつつ,その境界(岡本の主観では,間宮海峡がそれであるべきものでしょう。)の劃定がされなかったことを表明するにすぎないもの,と解するものでしょう(以下「境界不劃定説」といいます。)。

(ここで,「境界の劃定」とは何かといえば,その意義について美濃部達吉はいわく,「領土の変更とは領土たることが法律上確定せる土地の境界を変更することであり,境界の劃定とは何処に国の境界が有るかの不明瞭なる場合に実地に就いて之を確認し明瞭ならしむることである。一は権利を変更する行為であり,一は既存の権利を確認する行為である。即ち一は創設行為たり一は宣言行為たるの差がある。境界の確定は殊に陸地に於いて外国と境界を接する場合に必要であつて,ロシアより樺太南半分の割譲を受けた場合には,講和条約附属の追加約款第2に於いて両国より同数の境界劃定委員を任命して実地に就き正確なる境界を劃定すべきことを約し,此の約定に従つて翌年境界の劃定が行はれた。」と(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)88-89頁)。190595日に調印されたポーツマス条約に基づく日露間の境界劃定は北緯50度の線がどこにあるかを測定して決めることであったわけですが,1855年の下田条約(日魯通好条約)に基づく国境劃定を行う場合であれば,まず「是まて〔の〕仕来」が何であるかの確定から始まることになったわけのものでしょう。)

しかし,下田条約2条後段の文言は境界不劃定説によるものであり,かつ,一義的にそう解され得るものであったかどうか。後に考察します。

 

(4)明治政府要人との会見における樺太問題に係るパークスの慎重論

明治二年八月九日(1869914日)には,「パークスは東京運上所において,岩倉〔具視〕大納言・鍋島〔直正〕開拓長官・沢〔宣嘉〕外務卿・大久保〔利通〕参議・寺島〔宗則〕外務大輔・大隈〔重信〕大蔵大輔ら新政府の有力者たちと会見し,再び樺太問題を討議した。さきに寺島との会談で樺太への積極策〔日本側もクシュンコタン近辺に要害の地を占めること(「クシユンコタン辺に要害の地をしむれは唐太の北地処に人をうつすよりも切速なり」(『大日本外交文書』第2巻第2458頁))〕を勧めたパークスは,このたびは一変して「樺太はすでに大半がロシアに属しており,今から日本が着手するのは遅すぎる」ことを力説した。すでに彼は〔英国商船〕ジョリー号船長ウィルソンの〔ロシア軍の凾泊進出に係る〕詳報を検討の結果,ロシアがアニワ湾に2000人の兵力を集結して(これは過大である),日本人の追出しを意図していることを知ったのである。彼は日本側から近く高官とともに多数の移民を送る計画を聞いて,「それは火薬の傍らに火を近づけるのと同じ」といい,北海道の開拓に力をそそぐことを要望した。」という運びになっています(秋月5頁)。

「唯今に至り唐太を御開き被成(なられ)候は御遅延の事と存候」,「唐太を先に御開き被成(なられ)候は住居の屋根(ばか)りあつて礎無之(これなし)と申ものに有之(これあり)候」,「1867年小出大和守の約定は魯西亜と日本との人民雑居と申事に候へは当今同国人参り候ても追出し候権無之(これなき)事と存候」,「サカレン()御心配被成候内(なられさうらふうち)蝦夷は被奪(うばはれ)可申(まうすべく)候」というようなパークスの発言が記録されています(『大日本外交文書』第2巻第2465-478頁のうち,470頁,471頁,474頁及び477頁)。なお,同日段階では我が国政府は北海道島よりも樺太島の開拓を先行させるつもりであったようであり,「同所()は魯国人の来りしに付唐太を先に開らき候事にて蝦夷地ヲ差置候と申事には無之(これなく)候」及び「(まづ)差向唐太の方に尽力いたし候積に候」というような発言がありました(『大日本外交文書』第2巻第2472頁)。 

 蝦夷地改称に係る明治二年八月十五日の前記太政官布告が樺太島について触れなかったのは,樺太はもう駄目ではないかとパークスに冷や水を浴びせかけられてしまったばかりの我が国政府としては,きまりが悪かったからでしょうか。ただし,改称された北海道を11箇国に分割するところの当該太政官布告は,少なくともこれらの国が置かれた東西蝦夷地については,他の五畿七道諸国と同様のものとしてしっかり守ります,との決意表明ではあったのでしょう。なお,八月九日に我が国政府は,パークスからの「〔樺太島における事件に関し〕右様〔「御国内の事件を御存し無之(これなき)事」〕にては蝦夷地を被奪(うばはれ)(さうらふ)(とも)御存し有之(これある)間敷(まじく)」との皮肉に対して,「(これ)(より)開拓の功を成し国割にいたし郡も同しく分割いたし候積に候」と言い訳を述べていますところ(『大日本外交文書』第2巻第2476),そこでは,樺太島にも国及び郡を置くものとまでの明言はされてはいませんでした。

 

4 北海道と樺太との取扱いの区別へ

 

(1)三条右大臣の達し

 蝦夷地を北海道と改称した翌九月には(『法令全書 明治二年』では九月三日(1869107日)付け),三条実美右大臣から開拓使宛てに次のように達せられています(『開拓使日誌明治二年第四』)。

 

                              開拓使

  一北海道ハ

   皇国之北門最要衝之地ナリ今般開拓被仰付(おほせつけられ)候ニ付テハ(ふかく)

   聖旨ヲ奉体シ撫育之道ヲ尽シ教化ヲ広メ風俗ヲ(あつく)()キ事

  一内地人民漸次移住ニ付土人ト協和生業蕃殖(さうろふ)(やう)開化(こころ)ヲ尽ス可キ事

  一樺太ハ魯人雑居之地ニ付専ラ礼節ヲ主トシ条理ヲ尽シ軽率之(ふる)(まひ)曲ヲ我ニ取ルノ事アル可ラス自然(かれ)ヨリ暴慢非義ヲ加ル事アルトモ一人一己ノ挙動アル可カラス(かならず)全府決議之上是非曲直ヲ正シ渠ノ領事官ト談判可致(いたすべく)(その)(うへ)猶忍フ可カラサル儀ハ 廷議ヲ経全圀之力ヲ以テ(あひ)応スヘキ事ニ付平居小事ヲ忍ンテ大謀ヲ誤マラサル様心ヲ尽スヘキ事

  一殊方(しゆはう)〔『角川新字源』では,「異なった地域」・「異域」。もちろんここでは「外国」ではないですね。〕新造之国官員協和戮力ニ非サレハ遠大()業決シテ成功スヘカラサル事ニ付上下高卑ヲ論セス毎事己ヲ推シ誠ヲ(ひら)キ以テ従事決シテ面従腹非()儀アル可カラサル事

    九月        右大臣                                                                               

 

 最北の樺太ではなく,宗谷海峡を隔てたその南の北海道こそが「皇国之北門最要衝之地」であるものとされています。樺太については,ロシア人に気を遣って忍ぶべしと言われるばかりで,どうも面白くありません。東西蝦夷地のみに係る北海道命名の意義とは,東西蝦夷地と北蝦夷地との間のこの相違を際立たせることでもあったのでしょう。最終項に「新造之国」とありますが,当該新造之国11箇国の設置は北海道についてのみであったことは,既に述べたとおりです。

 北海道の命名を華やかに祝うに際しては,陰の主役たる失われた樺太(及び当該陰の主役に対するところの某敵役)をも思い出すべきなのでしょう。

 

(2)樺太放棄論者黒田開拓次官

 明治三年五月九日(187067日)兵部大丞黒田清隆が樺太専務の開拓次官に任ぜられますが,担務地たる樺太を視察した黒田はその年十月に政府に建議を行います。いわく,「夫レ樺太ハ魯人雑居ノ地ナルヲ以テ彼此親睦事変ヲ生セサラシメ(しかる)(のち)漸次手ヲ下シ功ヲ他日ニ収ムルヲ以テ要トス然レトモ今日雑居ノ形勢ヲ以テ(これ)ヲ観レハ僅ニ3年ヲ保チ得ヘシ」云々と(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A15070638700)。(ちなみに,鷗外森林太郎翻訳の『樺太脱獄記』(コロレンコ原作)において描かれた樺太島から大陸への脱獄劇を演じたロシアの囚人らが同島に到着した時期は,この年の夏のことでした。)また,同年十一月,黒田は「米国ニ官遊」しますが(樺太庁長官官房編纂『樺太施政沿革』(1912年)後篇上・従明治元年至同8年樺太行政施設年譜4頁),その際黒田は「上言シテ(いはく)力ヲ無用ノ地〔筆者註:樺太のことですね。〕ニ用テ他日ニ益ナキハ寧ロ之ヲ顧ミサルニ若カス故ニ之ヲ棄ルヲ上策ト為ス便利ヲ争ヒ紛擾ヲ致サンヨリ一着ヲ譲テ経界ヲ改定シ以テ雑居ヲヤムルヲ中策ト為ス雑居ノ約ヲ持シ百方之ヲ嘗試シ左支右吾遂ニ為ス可カラサルニ至ツテ之ヲ棄ルヲ下策ト為スト」ということがあったそうです(明治62月付け黒田清隆開拓次官上表(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:A03023618600))。要は,黒田の樺太放棄論(「上策」)は明治三年中から始まっていたようです。

このようなことになって,「これまで樺太の維持のため努力を重ねてきた岡本監輔は,このような黒田の方針に追従できず,明治3年末に辞表を提出し,許可も届かないうちに離島した〔略〕。その後の樺太行政は,ロシアの軍事力に対抗して開拓を推進するよりは,むしろ移民や出稼人たちの保護に重点が移されたのである。」ということになりました(秋月7頁)。岡本の樺太統治の夢及び努力は,「樺太の行政官として下僚80余名と移民男女200余名を率いて,慶応46月末クシュンコタン(楠渓)に着任」(秋月2頁)してからわずか2年半ほどで終わりを告げたわけです。

その後,187557日にペテルブルクで調印され同年822日に批准書が交換された日露間の千島樺太交換条約によって,全樺太がロシア帝国の単独領有に帰したことは周知のとおりです。


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1 文化,明治及び昭和の各元号に応当する「国民の祝日」を差別なく整備する必要性

 国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)2条には,次のような「国民の祝日」が定められています。

 

  昭和の日  429日  激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代を顧み,国の将来に思いをいたす。

 

  文化の日  113日  自由と平和を愛し,文化をすすめる。

 

これは,明治の日を実現するための議員連盟(会長・古屋圭司衆議院議員)によって現在準備が進められている超党派の議員立法によって,次のように改められるそうです(「文化の日と「明治の日」と」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081161133.html参照)。

 

昭和の日  429日  激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代を顧み,国の将来に思いをいたす。

 

  文化の日  113日  自由と平和を愛し,文化をすすめる。

 明治の日  113日  近代化を果した明治以降を顧み,未来を切り拓く。

 

 昭和の日及び明治の日は,いずれも各元号をその名に冠する時代――「激動・復興」の昭和時代は19261225日から198917日まで(なお,本稿でのアラビア数字による年月日はグレゴリオ暦によるものであって,赤化前の()蝦夷(シア)国が使用していたユリウス暦によるものではありません。),「近代化」の明治時代は1868125(明治改元に係る明治元年九月八日(18681023日)の行政官布告が基づく同日付けの詔書には「改慶応四年為明治元年」とありますので,明治の元号の適用は,慶応四年一月一日(1868125日)にまで遡及するのでしょう。)から1912729日まで――を顧みた上で,国の将来に思いをいたしたり未来を切り拓いたりしなければならない日であるものとされています。

 ところで,明治の日が同じ日となる文化の日の最初の2文字は「文化」ですが,実は,文化の元号もかつて我が国で使用されていたのでありました(1804322日から1818525日まで)。そうであると,元号にちなんだ一連の「国民の祝日」仲間ということで,文化の日の趣旨(object)も昭和の日及び明治の日のそれらと同様の構成(簡潔に特徴付けられた当該の時代を顧みた上で何かをする,という構成)のものに改めるべきものであると思われます。昭和及び明治は元号であるが,文化だけは元号ではない,と仲間外れにするのは,どうもそれでは差別であってなだらかではありません。

 そうであれば,まず,顧みるべき文化年間とはどのような時代であったのかを顧みなければなりません。

 

2 化政文化にちなむ新しい文化の日

 高等学校の日本史の勉強などから得られた印象では,文化年間及びそれに続く文政年間といえば,お江戸を中心に,天下太平を謳歌する庶民をその担い手とする化政文化というものが我が国では栄えていたのであるな,ということになります。蘭学もまた,徳川大公儀のもたらしたもうた天下太平の御恩沢の下,隆盛を迎えていたところでありました。文化十二年四月(181559日から同年67日まで)中に記された杉田玄白翁の述懐は次のごとし。

 

   かへすがへすも翁は殊に喜ぶ。この道開けなば千百年の後々の医家真術を得て,生民救済の洪益あるべしと,手足舞踏雀躍に堪へざるところなり。翁,幸ひに天寿を長うしてこの学の開けかゝりし初めより自ら知りて今の如くかく隆盛に至りしを見るは,これわが身に備はりし幸ひなりとのみいふべからず。伏して考ふるに,その実は(かたじけな)く太平の余化より出でしところなり。世に篤好厚志の人ありとも,いづくんぞ戦乱干戈(かんか)の間にしてこれを創建し,この盛挙に及ぶの(いとま)あらんや。恐れ多くも,ことし文化十二年乙亥は,(ふた)()の山の大御神,二百(ふたもも)とせの御神忌にあたらせ給ふ。この大御神の天下太平に一統し給ひし御恩沢数ならぬ翁が(ともがら)まで加はり被むり奉り,くまぐますみずみまで神徳の日の光照りそへ給ひしおん徳なりと,おそれみかしこみ仰ぎても猶あまりある御事なり。

   その卯月これを手録して玄沢大槻氏へ贈りぬ。翁次第に老い疲れぬれば,この後かゝる長事(ながごと)記すべしとも覚えず。未だ世に在るの絶筆なりと知りて書きつゞけしなり。あとさきなることはよきに訂正し,繕写しなば,わが孫子(まごこ)らにも見せよかし。

                       八十三(れい)(きゅう)(こう)翁,漫書す。

(杉田玄白著,緒方富雄校註『蘭学事始』(岩波文庫・1982年)69-70頁)

 

 ユーラシア大陸東方沖の我が神国は,薫風駘蕩として,実にめでたい。化政文化ならぬ元禄文化期の元禄二年四月一日(1689519日)に詠まれた句ではありますが,卯月の二荒山こと日光山には東照大権現の御神徳輝き,正に「あらたうと青葉若葉の日の光」(芭蕉)であるのであります。これに対して,当時,ユーラシア大陸の最西部では,ヨーロッパの近代の建設者の一員たるコルシカの食人鬼が,エルバ島から束の間フランスの帝位に復帰して,戦乱干戈の血腥き風を再び呼び寄せつつあったのでありました(ワーテルローの戦いは,文化十二年五月十一日(1815618日)に戦われました。)。

 ワーテルローにおける大殺戮(「時計の針はすでに9時を回っていた。ワーテルローの戦場には3万人のフランス軍と28千人のウェリントン軍の死骸が横たわっていた」(鹿島茂『ナポレオン フーシェ タレーラン 情念戦争1789-1815』(講談社学術文庫・2009年)541頁)。)等に現れる西洋人の粗暴残酷なエネルギーと比べると,しかし我が太平の民はいささかみみっちい。

 

  〔前略〕けれどもそういう明い晴やかな場所へ意気揚々と出しゃばるのは,自分なぞが先に立ってやらずとも,成功主義の物欲しい世の中には,そういう処へ出しゃばって歯の浮くような事をいいたがる連中が,あり余って困るほどある事を思返すと,先生はむしろ薄寒い妾宅の置炬燵にかじりついているのが,涙の出るほど嬉しく淋しく悲しく同時にまた何ともいえぬほど皮肉な得意を感ずるのであった。表の河岸(かし)(どおり)には日暮と共に吹起る空ッ風の音が聞え出すと,妾宅の障子はどれが動くとも知れず,ガタリガタリと妙に気力の抜けた陰気な音を響かす。その度々に寒さはぞくぞくと襟元へ浸み入る。勝手の方では,いつも居眠りしている下女が,またしても皿小鉢を(こわ)したらしい物音がする。炭団(たどん)はどうやらもう灰になってしまったらしい。先生はこういう時,つくづくこれが先祖代々日本人の送り過越(すご)してきた日本の家の冬の心持だと感ずるのである。宝井其角の家にもこれと同じような冬の日が幾度(いくたび)となく来たのであろう。喜多川歌麿の絵筆持つ指先もかかる寒さのために(こお)ったのであろう。馬琴北斎もこの置炬燵の火の消えかかった果敢(はか)なさを知っていたであろう。京伝一九春水種彦を始めとして,魯文黙阿弥に至るまで,少くとも日本文化の過去の誇りを残した人々は,皆おのれと同じようなこの日本の家の寒さを知っていたのだ。しかして彼らはこの寒さと薄暗さにも恨むことなく反抗することなく,手錠をはめられ板木(はんぎ)を取壊すお上の御成敗を甘受していたのだと思うと,時代の思想はいつになっても,昔に代らぬ今の世の中,先生は形ばかり西洋模倣の倶楽部やカフェーの煖炉のほとりに葉巻をくゆらし,新時代の人々と舶来の(ウイ)(スキー)を傾けつつ,恐れ多くも天下の御政事を云々したとて何になろう。われわれ日本の芸術家の先天的に定められた運命は,やはりこうした置炬燵の肱枕より(ほか)にはないというような心持になるのであった。

  (永井壮吉「妾宅」(1912)『荷風随筆集(下)』(岩波文庫・1986年)10-11頁)

 

    世に立つは苦しかりけり腰屏風

      まがりなりには折りかがめども

   われ京伝が描ける『狂歌五十人一首』の(うち)掲げられしこの一首を見しより,始めて狂歌捨てがたしと思へり。

  (「矢立のちび筆」(1914年)荷風下181頁) 

 

歌麿,馬琴,北斎,京伝及び一九は文化年間の人物です。ただし,「江戸のむかし,吉原の曲輪がその全盛の面影を留めたのは山東京伝の著作と浮世絵とであった」(永井壮吉「里の今昔」(1934)『荷風随筆集(上)』(岩波文庫・1986年)219頁)といわれる場合の京伝の著作は,文化年間前に遡るものでしょう。宝井其角は,芭蕉の弟子であって,元禄文化期の人。為永春水の活躍は文化年間より後のことで,『春色梅児誉美』が出たのは天保三年から同四年にかけてです。柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』は文政から天保にかけての人気作品ですが,同人の活動自体は文化年間から始まっています。仮名垣魯文・河竹黙阿弥となると,幕末から明治にかけての作家ということになります。

「恨むことなく反抗することなく,手錠をはめられ板木(はんぎ)を取壊すお上の御成敗を甘受」云々についていえば,京伝が,寛政の改革期に手鎖の刑を受けています(「寛政のむかし山東庵京伝洒落本をかきて手鎖はめられしは,版元蔦屋重三郎お触にかまはず利を得んとて京伝にすすめて筆を執らしめしがためなりといひ伝ふ。とかくに作者あまり版元と懇意になるは間違のもとなり」(「書かでもの記」(1918年)荷風下87頁)。)。歌麿も文化元年に受刑。更に春水及び種彦は,天保の改革期に,前者は手鎖の刑を受け,後者は譴責されています(種彦は幕臣でした。)。京伝は受刑後も長く生きましたが。春水・種彦は,処分後ほどなくして歿しています。

爛熟の化政文化を顧みた上で新たな文化の日の趣旨を考えた場合,次のようなものではどうでしょうか。

 

  文化の日  113日  天下太平の恩沢を庶民までもが刹那刹那に享楽することを得た近代化前の文化の時代を顧み,過去を愛惜する。

  明治の日  113日  近代化を果した明治以降を顧み,未来を切り拓く。

 

 しかし,「過去を愛惜する」では,置炬燵の肱枕的であり,かつ,退嬰的ですね。同時代のヨーロッパではナポレオンが元気一杯に暴れ回っていたというのに,我が文化年間にも何か勇ましい事業がなかったものかどうか。(なお,勇ましいといっても,ここでは,「柳亭種彦『田舎源氏』の稿を起せしは文政の末なり。然ればその齢既に五十に達せり。為永春水が『梅暦』を作りし時の齢を考ふるにまた相似たり。彼ら江戸の戯作者いくつになつても色つぽい事にかけては引けを取らず。浮世絵師について見るに歌麿『吉原青楼年中行事』2巻の板下絵を描きしは五十前後即ち晩年の折なり。我今彼らの芸術を品評せず唯その意気を嘉しその労を思ひその勇に感ず」るところの専ら色っぽい方面における不良老人の意気・労・勇(「一夕」(1916年)荷風下211頁)は,論外です。)


偏奇館跡の碑
偏奇館跡の碑(東京都港区(後方に泉ガーデンタワー))「不良老人」荷風は,
79歳まで生きました。


滝沢馬琴生誕地碑(江東区平野)
曲亭馬琴誕生の地碑(東京都江東区平野)

 

3 北の守りにもちなむ新しい文化の日

 文化年間(その間の天皇は光格天皇,征夷大将軍は徳川家斉,老中首座は松平(のぶ)(あきら))の出来事を北島正元『中公バックス 日本の歴史18 幕藩制の苦悶』(中央公論社・1984年)の年表(-)等から拾うと次のとおりです(斜字は,児玉幸多責任編集『中公バックス 日本の歴史 別巻5 年表・地図』(中央公論社・1984年)からの補充)。

 文化年間は,我が国防・国土開発史上,蝦夷地を幕府が直轄して,()蝦夷(シア)帝国当時の皇帝はアレクサンドル1世)の南下に対峙していた緊張の時代であったのでした。

 

  寛政十一年 一月,幕府,東蝦夷地を直轄とする。〔「浦河から知床にいたる地域および島嶼を,むこう7ヵ年試験的に」(北島195頁)。「幕府は東蝦夷地の仮直轄にともなって,同地方の場所請負制度を廃止し,これまでの運上屋を会所と改称して幕吏の監視下に直捌制(じきさばきせい)(直接交易)を実施した。幕府みずから米・味噌その他の商品を買い入れ,これを直捌地の各場所に輸送してアイヌまたは和人に供給し,またかれらから産物を買い入れて他に販売する事業をおこなった」(同197-198頁)。「この直捌制は,「御救(おすくい)交易」と幕府みずから称したように,交易の方法を正して幕府にたいするアイヌの信用をたかめ,かれらを北辺防衛のとりでにするのが主眼であった。その結果,これまでアイヌを苦しめていた場所請負人の誅求もいちおうなくなり,現地の風俗も改善されたが,それにともなう出費が多く,直捌の利潤は二の次とされたため,初年度は赤字となり,その後も年間1万数千両しか上がらないので,幕府勘定方から強い反対意見がだされるようになった〔筆者註:勘定方が強く反対したというのは,実は実質赤字だったということでしょうか。〕。またアイヌも幕府の急激な風俗改善策になかなかついてゆけず,たとえば月代さかやきを剃って日本髪に改めるようなことはやめて,なるべくアイヌの固有の風俗を残すようにしてほしいと嘆願するありさまであった」(同198頁)。〕

        七月,高田屋嘉兵衛,エトロフ航路の開拓に成功する。

        〔十月十二日(1799119日),ブリュメールのクーデタ。ナポレオン・ボナパルトがフランスの政権を奪取。〕

    十三年 二月五日,享和に改元。

        〔二月九日(1801323日),ロシア皇帝パーヴェル1世が暗殺され,アレクサンドル1世即位〕

        三月,伊能忠敬,全国の測量を開始する。

        六月,富山元十郎・深山宇平太,ウルップ島に渡り,「天長地久大日本属島」の標柱をたてる。

  享和二年  二月,幕府,蝦夷地奉行をおく(五月に箱館奉行と改称)。

        七月,東蝦夷地を永久上知とする〔北島199頁では,享和三年七月のこととされる。〕

        この年,十返舎一九『東海道中膝栗毛』を著わす。〔「十返舎一九の『膝栗毛』も篇を重ねて行くに従い,滑稽の趣向も人まちがいや,夜這いが多くなり,遂に土瓶の中に垂れ流した小便を出がらしの茶とまちがえて飲むような事になる」(「裸体談義」(1949年)荷風下253頁)。〕

  文化元年  二月十一日,享和四年から改元。

九月〔六日〕,ロシア使節レザノフ,長崎に来航,通商を要求。

  〔一茶が「春風の国にあやかれおろしや船」「門の松おろしや(えびす)魂消(たまげ)べし」などと詠んだのは,このときのことである。(北島200頁)〕

〔十一月一日(1804122日),ナポレオンの皇帝戴冠式。〕

        この年,喜多川歌麿,『太閤五妻洛東遊観図』を描いたため,入牢〔,手鎖〕50日に処せられる。〔「ときの将軍家斉の大奥生活を諷刺したと疑われ」たため(北島335頁)。〕

    二年  〔三月二十日,レザノフ,長崎から出帆。〕 

               六月,関東取締出役(八州廻り)を設置する。〔「四手代官(品川・板橋・大宮・藤沢)の手附・手代のなかから経験者8人(のち10人に増員)を選んでこれに任じ,関東の幕領・私領の別なく廻村させ,博徒や無宿者などの検察・逮捕にあたらせることにしたのである」(北島245頁)。〕

        〔十月十二日(1805122日),アウステルリッツの三帝会戦。アレクサンドル1世,ナポレオンに敗れる。〕

    三年  一月,幕府,沿海諸藩に防備をきびしくし,難破の異国船〔ロシア船〕には薪水を与えて,穏かに退去させるように命ずる(文化の撫恤令)

        九月,〔レザノフの指示に基づき,フヴォストフの〕ロシア船,カラフトのクシュンコタンを砲撃〔筆者註(2024614):「砲撃」は誇張でしょう。北海道編集『新北海道史第2巻通説1』(1970489頁〔及び『新北海道史第9巻史料』(198097頁〕には,「〔フヴォストフは〕九月〔十一日〕樺太のオフイトマリに上陸し,蝦夷〔の子供〕1人を捕え,真鍮版をその家に掛けて去り,翌日久春古丹におもむき,フ〔ヴ〕ォストフ自ら短艇隻,革船1隻〔の計三十名ほど〕を率いて上陸し,運上屋に押し入った。ときに松前藩勤番の官吏はすでに退去しておらず,越年番人だけが残っていたが,言語は通じず,酒食を出したところ,彼は酒盃,茶碗をなげうち,怒色を見せたので,番人,蝦夷らはおそれて逃げようとすると,小銃を放って威嚇し,ついに番人富五郎,源七郎ら4人を捕え,倉庫に入り,米,塩,酒,正油および,諸器材をかすめとり,運上屋,倉庫および弁天社を焼き,真鍮版1枚,書面2通,鳥銃1挺,衣服3枚〔及びオフイトマリで捕らえたアイヌの子供〕を残して〔同月十八日に〕去った。」とあります。〔翌年にかけて,文化露寇〕 

    四年  〔一月二日(180728日),アイラウでナポレオン,ロシア軍と死闘。〕

        〔二月五日(1807313日),シベリアのクラスノヤルスクでレザノフ客死。〕

三月〔二十二日〕,幕府,東西蝦夷地を直轄とし,箱館奉行を廃して松前奉行をおく。松前氏,陸奥梁川に移封。

        四月,〔レザノフの生前の指示に基づき,フヴォストフ及びダヴィドフの〕ロシア船,エトロフ島のナイホ〔二十四日〕,シャナ〔二十九日〕を砲撃〔筆者註(2024614):ナイホは,上陸した兵により放火はされたが砲撃はされていないようです。『新北海道史第2巻通説1490頁参照,掠奪する。〔筆者追記(2024614):「〔五月〕三日,〔ロシア船は〕帆をあげて北西に向かって去った。この時ロシア人1人は酩酊して紗那に残されたが,蝦夷に殺害された。」(『新北海道史第2巻通説1491)とあります。ロシア人のお酒好きも度が過ぎるようです。〕

        五月,ロシア船,礼文・利尻島で日本船を襲い,掠奪。筆者追記(2024614):礼文の件は同月二十九日のことですが,島でのことではなく,沖合でのことです。利尻島の件は,六月に入ってからのことになります。また,礼文島沖の件より先にロシア船は再び樺太に来寇しています(五月二十一日・オフイトマリ(番屋・倉庫を焼く。)及び久春古丹,同月二十二日・ルウタカ(番屋・倉庫を焼く。))。利尻島では,船舶のほか,番屋・倉庫・家屋もロシア兵によって焼かれており,彼らは六月五日には同島内において我が方の指揮官を捜したそうですが,礼文島沖の事件を聞いた幕吏森重左仲らは既に避難していたそうですから,よかったですね。(以上『新北海道史第2巻通説1493頁参照)〕

        〔五月九日(1807614日),フリートラントの戦いで,ナポレオン,ロシア軍を大破。同月二十日(625日),ニーメン川でナポレオンとアレクサンドル1世とが会見。〕

    五年  八月〔十五日〕,イギリス船,長崎に来航,〔同月十七日夜半〕長崎奉行松平康英,引責自殺する(フェートン号事件)。

    六年  一月,式亭三馬の浮世風呂前編刊行される。

二月,江戸の〔主要な問屋商人の連合体である〕十組(とくみ)仲間の出金で三橋(さんきょう)会所を設立する。〔茂十郎は「永代橋のほかに年数久しい仮橋である新大橋と大川橋を合わせた3橋の架替えと修復を,三橋会所で永久に引き受け,しかも渡銭も取らないと申し出たのである」(北島136頁)。〕

        七月,間宮林蔵,東韃靼(黒江地方)を探検,間宮海峡を発見する。

    七年  二月,白河・会津両藩に相房総海岸の砲台築造を命じる。

        〔「文化七年(1810)に刊行された『飛鳥川』は,「近年女髪結が多くなり,町方などでは自分で髪を結う女がいなくなった」とのべている」(北島274頁)。「『飛鳥川』(文化七年)にも「昔手習の町師匠も少く数へる程ならではなし。今は1町に23人づつも在り,子供への教へ方あるか,幼少にても見事に(かく)也」とある」(北島311頁)。〕

    八年  五月,天文方に蛮書和解用の局を設ける。

        六月〔十一日〕,ロシア軍艦長ゴロヴニンをクナシリ島で捕える。

        十二月,幕府,むこう5ヵ年間の倹約令を公布する。

    九年  〔この年(1812年),ナポレオンのロシア遠征〕

八月〔十四日〕,高田屋嘉兵衛,クナシリ島沖でロシア艦に捕われる。

        〔「文化九年に直捌制は廃止となり,東蝦夷地の各場所はすべてもとの請負制度に復帰した」(北島199頁)。〕

        この年,『寛政重修諸家譜』なる。

    十年  四月,江戸伊勢町に,三橋会所経営の米立会所設立。〔茂十郎は「江戸で最初の米穀取引所を開設し,幕府ののぞむ米価引上げをかねて一攫千金をねらった」(北島145頁)。〕

        〔九月二十三-二十五日(18131016-18日),ライプツィヒの「諸国民の戦い」でナポレオン敗れる。〕

        九月〔二十八日〕,高田屋嘉兵衛とゴロヴニンを交換する。

    十一年 〔二月十日(1814331日),アレクサンドル1世パリに入城。〕

〔二月十六日(181446日),ナポレオン,退位宣言。〕

〔「十一月,松前奉行服部備後守(さだ)(かつ)は,蝦夷地警備体制の変更について伺いをたて,第1案としてエトロフ,クナシリ,カラフトの警備は中止して,東はネモロ(根室),西はソウヤ(宗谷)を境とする〔略〕と申し出た。〔中略〕けっきょく幕府は第1案を採用した」(北島214頁)。〕

この年,滝沢馬琴『南総里見八犬伝』初輯刊行。

〔この年,『北斎漫画』初編刊行。〕

    十二年 この年,〔大坂積出しの〕阿波藍,〔藩の蔵屋敷収蔵物たる〕蔵物として〔幕府により〕公認,〔蜂須賀〕藩の専売制となる。

        四月,家康二百回忌法会を日光山に行なう。

        〔五月十一日(1815618日),ワーテルローの戦い。〕

        〔八月二十四日(1815926日),アレクサンドル1世,オーストリア皇帝及びプロイセン国王と神聖同盟を結ぶ。〕

        〔この頃江戸の寄席の数75軒(北島340頁)〕 

    十三年 九月〔七日〕,山東京伝没

    十四年 三月二十二日,光格天皇,仁孝天皇に譲位。

        〔九月,老中首座松平信明が病死(北島222頁)。〕

        〔文化年間のアイヌ人の人口は26350余人(北島185頁)〕

        〔「深川芸者に代表される女芸者は,すでに田沼時代に現れているが,化政期にはまったく遊芸と売春で身をたてる職業婦人と化し,文化年間には男芸者とあわせて,江戸市中に2万人以上もいたというからすさまじい」(北島271-272頁)。〕

    十五年 四月二十二日,文政に改元。

        四月,伊能忠敬没

  文政二年  〔六月,北町奉行所から「三橋会所および伊勢町米会所は廃止する,三橋修復・十組冥加金の上納・株札などの事務は町年寄がひきつぐことなどの申渡し」(北島148頁)。「また幕府から茂十郎への貸下金残額3800両は十組全体で返納するほか,永代橋・新大橋架替えの立替金,両町奉行の貸付金,塩問屋仲間の十組への貸付金などもそれぞれ十組で処理するように命じられた。/こうして十組仲間は,茂十郎の追放で多年の苦悩から解放されたものの,その食い荒らした会所経理の尻ぬぐいでまたまた大きな犠牲を払わされたのである」(同頁)。〕

四年  七月,伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』完成。

十二月,東西蝦夷地を松前氏に返し,松前奉行を廃する。〔「これは,ナポレオン戦争を契機としてロシアの極東戦略が後退し,北地警備の意義がうすれたこと,幕府の防衛体制と密接な関係のあった直捌制が,場所請負人の強烈な抵抗をうけて動揺し,また幕府財政にとっても蝦夷地直轄への依存度が低下したことなどが,あずかって力があった。さらに復領をめざして,松前藩が文政の幕閣を主宰した老中水野忠成(ただあきら)へさかんに贈賄したことも,ものをいったのだといわれる」(北島215頁)。〕


伊能忠敬像(富岡八幡宮)
伊能忠敬像(東京都江東区富岡八幡宮)

(寛政十二年閏四月十九日に忠敬が出発したのは,「蝦夷地」の「測量試み」のためでした。)

 

 北の守りの我が国にとっての緊要性に係る認識を,隣国に対する不信をあからさまに表明しない形での表現をもって取り入れつつ,新たな文化の日を考えてみる場合,次のような改正案は如何(いかん)

 

  昭和の日  429日  激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代を顧み,国の将来に思いをいたす。

  文化の日  923日  天下太平が守られ得て,かつ,その恵沢を広く国民が享受し得た文化の時代を顧みるとともに,北の国土の開発に思いをいたす。

  明治の日  113日  近代化を果した明治以降を顧み,未来を切り拓く。

 

 文化の日の日が923日となっているのは,文化期の天皇である光格天皇の誕生日が1771923日(明和八年八月十五日)だったからであります。やはり,元号シリーズの「国民の祝日」の日は,当該元号の時代に君臨せられていた天皇の誕生日に揃えた方がきれいでしょう。(文化の日と明治の日とではなく,新・文化の日と秋分の日とが重複する形になります。なお,光格天皇も明治天皇も祐宮という御称号を共有しておられますが,だからといって曽孫たる祐宮殿下の誕生日をもって曽祖父たる祐宮殿下が即位しておなりになられた光格天皇の御代の元号にちなむ「国民の祝日」の日とすることまではできないでしょう。)

 ところでここで,「北の国土の開発」ということを言挙げし,文化の日を北海道開拓の日でもあることにしてしまうのは,北海道人としての筆者の悪のりでしょうか。

 

4 北海道開拓の記念の要否

 

(1)北海道「開拓」の記念

 しかし,北海道の開拓を記念する日としては,文化ではなく明治の時代に由来する別の日がありました。

 

●開道百年を迎える

   私〔町村金五〕にとって終生忘れようにも忘れられない日時は昭和43年〔1968年〕92日午後2時である〔当時町村は68歳(1900816日生)。東京・旧制私立開成中学校出身。〕。開道百年記念祝典はこの時,札幌市を先頭に道内212市町村の青年諸君が郷土の旗を掲げて入場行進を合図に始められた。続いて6人の青年男女が七光星を鮮やかにデザインした道旗を持して入場する。

   国旗,道旗の掲揚が終わり,午後230分,〔昭和〕天皇,〔香淳〕皇后両陛下が会場の札幌円山陸上競技場のメーンスタンド最上部のローヤルボックスにお着きになられた。その寸前まで低くたれこめていた雨雲がまるで奇跡が起こったように消え失せ,青空がのぞいた。夜来の雨に洗われた木々の緑がなんと美しかったことか。

   総理大臣佐藤栄作氏,衆議院議長石井光次郎氏,駐日アメリカ大使ジョンソン氏ら賓客と北海道開拓功労章の栄誉に輝く先輩道民諸氏の居並ぶ中,開会を告げるファンファーレが高々と響き渡った。

   私は両陛下に心からの礼を捧げ,式辞を読み上げた。涙をためて聞き入る開拓功労者たち,未来へのひとみを輝かせた青少年たち,北海道百年の重みがひしひしと迫る一刻であった。佐藤総理の祝辞,青少年代表の誓いの言葉が終わって,天皇陛下のお言葉である。

 

     本日,北海道百年記念式典に臨み,親しく道民諸君と会することは,まことに喜びにたえません。

 北海道に,開拓の業がおこされて以来,ここに百年,進取の気風と不屈の精神をもつて,今日の繁栄を築き上げて来た人々の努力は,深く多とするところであります。

 北海道は,きびしい気候風土の下にありますが,美しい自然と多くの資源に恵まれ,将来,さらに大きな発展を期待することができると思います。

 今後とも,道民一同が,たくましい開拓者精神をうけつぎ,一致協力して,北海道の開発を推進し,国運の進展に寄与するよう,切に希望します。

 

蝦夷(えぞ)」が「北海道」と命名され,政府が開拓使を設置したのは明治二年(ママ)十五(ママ)日(旧暦(ママ))のことであった。ちょうど百年経た歴史的な年が昭和43年〔1968年〕である。この年を,私は,全道民が過去百年にわたる先人の労苦に感謝の誠を捧げ,さらに,来るべき新たな百年に向かって努力を誓う年にしなければならないと考えた。

私は昭和41年〔1966年〕3月に,北海道百年記念事業実施方針を立案し,道民代表からなる記念事業推進協議会に諮って,意義深い記念事業の数々を企画することにした。先に紹介した赤レンガ庁舎の復元保存も,実はこの記念事業の一つであった。百年記念にちなんで,標語を募集すると,予想外の応募があり,その中から「風雪百年 輝く未来」の一句が当選した。

私はこの記念すべき時点を単なるお祭り的行事に終わらせないため,熟考を重ねた。そうして,百年前の北海道の面影を今に伝える野幌原始林を永遠に保存することに決した。これに隣接する大地に「開拓記念館」を建設し,さらに「百年記念塔」を創建することにした。道旗,道章を制定することも忘れぬようにした。

開拓記念館は,我々の先祖が血の滲む苦闘を積み重ねた歴史を,次代の人々に引き継いでもらい,先人をしのぶよすがにしてもらうため,建物自体に壮重さを与えるように配慮したのである。

百年記念塔は,北海道の偉大な将来を切り開こうとする希望と意欲を天空の星につなげんものと,高さ100メートルの豪壮な鋼鉄の塔とし,発展する未来のシンボルとして建設したものである。

いずれの記念事業も,広く道民の間に先人の偉業をしのび,偉大な北海道の建設に前進せんとする機運が醸成されるように配慮したものであった。

開道百年という文字どおり100年に一度の歴史的な時点に,私は北海道の知事として,両陛下の御来道を仰ぎ,記念すべき諸行事を執り行う機会に恵まれたことは,まことに幸せであったと思う。

同時に私は,道民諸君が,風雪の百年から輝く未来の開拓者として,新しい歴史を切り開いてくれることを心から願ったのである。

(町村金五伝刊行会『町村金五伝』(北海タイムス社・1982年)261-266頁。なお,昭和天皇のお言葉は,宮内庁『昭和天皇実録 第十四』(東京書籍・2017年)535頁により修訂。)

 

(2)北海道開拓のその後及び現状

 

 196892日に昭和天皇は,(少なくともそれまでの)北海道民を「進取の気風」及び「不屈の精神」並びに「たくましい開拓者精神」を有するものとして称揚し,北海道は「今日の繁栄」を迎えているものと評価し,「将来,さらに大きな発展を期待することができる」との期待の下,以後も道民が「北海道の開発を推進」するよう希望せられました。

 しかし,それから55年余が経過した今日,北海道は目下繁栄しているものといえるでしょうか(町村知事は苫小牧東部開発に大きな期待を置いたようですが(町村金五伝刊行会276-280頁参照),当該開発は,少なくとも現在までのところ,壮大な空振りとなっています。)。沈滞萎靡の状況下に既に老化してしまった道民はなお,進取の気風,不屈の精神,たくましい開拓者精神などというものを保持し得ているのでしょうか。

ここで,不本意にも消極方向に判断を傾かしめるべき象徴的な事実を指摘すべきでしょうか。すなわち,「北海道の偉大な将来を切り開こうとする希望と意欲を天空の星につなげんものと,高さ100メートルの豪壮な鋼鉄の塔とし,発展する未来のシンボルとして建設」せられたはずの札幌市厚別区の北海道百年記念塔自体が,早々の老朽化により,1970年の竣工後百年ももたずに,2023年,あえなく解体撤去せられてしまっているところです。新千歳空港から札幌市内に向かう電車の右手車窓から石狩平野の広い空を背景に屹立する深い焦げ茶色のその姿がいつもよく見えた当該塔の不在の事実に車中不図気付いた筆者は,やや狼狽したものでした。発展する未来を支えるべき希望も意欲ももはや道民には無い(道庁には財力が無い)ということであれば,令和のフヴォストフ・ダヴィドフ(Хвостов и Давыдов)の徒輩は,その南下進出を樺太・択捉などの地までにあえてとどめるという遠慮など,今やせずともよいということにはならないでしょうか。


北海道百年記念塔撤去跡地
北海道百年記念塔撤去後跡地(
202312撮影)


北海道百年記念塔の絵
北海道百年記念塔は,周辺地域のシンボルなりき。


(3)北海道「命名」の記念

 北海道150年記念式典が,201885日,札幌市豊平区の北海道立総合体育センターで行われています。一見,前記の北海道百年記念式典の続編であったもののように思われます。しかしこれは,北海道「開拓」150年を記念するものではなく,北海道「命名」150年を記念するものでした。すなわち,当該式典の式辞において,北海道150年事業実行委員会会長である高橋はるみ北海道知事は「今年,平成30年,北海道は,その命名から150年という大きな節目を迎えています。本日,ここに、天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ,多くの皆様のご参加のもと,北海道150年記念式典を挙行できますことは,誠に喜びに堪えません。」云々と述べていたところです(下線は筆者によるもの。なお,北海道庁のウェブサイトからの「北海道150年事業記録誌」へのリンクが切れてしまっているので,当該式辞の文言については「北海道開拓倶楽部」のウェブページのものを参照しました。)。「蝦夷地自今(いまより)北海道ト被称(しょうせられ)11ヶ国ニ分割国名郡名等別紙之通〔別紙の「北海道11ヶ国」は,渡島国,後志国,石狩国,天塩国,北見国,胆振国,日高国,十勝国,釧路国,根室国及び千島国〕(おほせ) 仰出(いだされ)候事」との明治二年八月十五日(1869920日)の太政官布告をもってその由緒とするものであったわけでしょう。

ここで,あれれ町村金五元知事は「明治二年八月十五日」に開拓使が設置されて云々と言っていたようだが開拓使を設置する旨の同日付けの太政官布告等はないぞ,と不審を覚えてよくよく調べてみると,開拓使の設置は,実は蝦夷地の北海道への改称に先行しており,同年七月八日の職員令(政体書を改めて,二官六省を定める。)によってされたものだったのでした(開拓使長官は「掌総判諸地開拓。」)。しかして何たる偶然か,明治二年七月八日は1869815日に当たっており,確かに,開拓使の設置も蝦夷地の北海道への改称も,いずれも明治に(ねん)のはち(がつ)じゅうご(にち)のことではあるのでした。両者が同日に行われたとの誤解が生ずるのは已むを得ないところでありました(とはいえ,元北海道知事が誤解を招く記述をしてはいけませんね。)。

 しかし,昭和の北海道「開拓」記念が,平成には北海道「命名」記念に化けたということは興味深いことです。

確かに開拓使の設置と蝦夷地の北海道への改称とは同時に一体のものとして行われたわけではないので,両者を分離して後者のみを記念することは可能です。当初の開拓使は樺太地方も管轄していましたので(明治三年二月十三日の開拓長官宛て御沙汰の反対解釈),北海道への改称とその開拓とは直結するものではないわけです(なお,「からふと島」の名称は,185527日調印の日魯通好条約で使用されています。)。ここでまず一つ,なるほどなぁという感嘆が生じます。

更にもう一つなるほどと思わせるのは,歴史は繰り返すのだな,という感慨です。前記北海道150年記念式典での高橋知事の式辞の続きは「私たちの愛する北海道は,独自の歴史と文化を育んでこられたアイヌの方々,さらには,明治期以降,全国各地から移住され,幾多の困難にも耐え抜いてこられた方々のご努力により形づくられてきました。」というものですので,北海道の発展は道内外の人民の自発的活動によるものであったのであって,実は国主導の開拓などによるものではない,という認識が打ち出されているように解されます。北海道はもはや国家事業としての開拓又は開発の対象ではないのだということであれば,これは,文化年間の蝦夷地大公儀直轄体制から文政四年以降の松前藩復帰体制への変遷と同様の国策の変遷が,昭和と平成との間にもあったのだということになるわけです。

しかして上記変遷は,うがって見れば,寛政初期の幕閣における松平定信と本多忠籌との間の蝦夷地認識の相違及びそれらの間の力関係の変化を反映するものでもありましょう。(なお,寛政期は古いといえば古いのですが,18世紀末の政府当局者間の政見の違いがその後現在にも通用する意義を有し続けているということについては,米国ワシントン政権内でのジェファソン国務長官とハミルトン財務長官との路線対立の例があります。)

 

(4)松平定信の蝦夷地観及びその今日性

 

ア 本多忠籌の蝦夷地観との関係

 寛政初期の幕閣の首班であった松平定信は,蝦夷地は未開のままにされ置くべきであるという意見でした。

 

   定信の蝦夷地にたいする関心は田沼〔意次〕に劣らず,北方の精密な地図をつくらせたり,幕府所蔵の文書・記録などをよく研究していた。定信は,田沼とちがって蝦夷地非開拓論をとなえ,この厖大な土地を不毛にゆだねて,日露両国間の障壁にした方が日本の安全のためになると考えていた。だから同僚の本多忠籌(ただかず)が,蝦夷地を幕府の直轄に移してじゅうぶんな防備をすべきであると主張したのに反対し,これまでどおり松前藩の支配にしておく方針をとった。

(北島182-183頁)

 

  〔寛政元年(1789年)のクナシリ・メナシ〕騒動の鎮圧後には老中間で評議がなされている。その際,定信はロシアが武力による領土の拡大よりも交易を望んでいると見ていた。そこで,「異域」である蝦夷地を開発すれば,かえってロシアに狙われるので,日本の安全のためには,未開のままにして松前藩に統治を委任し続けるべきであると唱えている。

(高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館・2012年)125-126頁)

 

 『宇下人言』において,定信自ら次のように述べています。

 

  此蝦夷てふ国は,いといたうひろければ,世々の人米穀などう()てその国をひらくべしなどいふものことに多かりけれど,天のその地を開き給はざるこそ難有(ありがた)けれ。いま蝦夷に米穀などおしへ侍らば,極めて辺害をひらくべし。ことにおそるべき事なりと建義してその義は止にけり。忠籌朝臣初めはその国をひらく事をのみ任とし給ひしが,これも予がいひしによて止めて,今にてはその蝦夷の人の御恩沢にしたひ奉るやうにとの建議なり。これらものちにはいか様成る弊をや生じぬらんとおもふなり。

  (松平定信著,松平定光校訂『宇下人言・修行録』(岩波文庫・1942年)144-145頁)

 

北方防衛策については,当初は本多忠籌が担当であったのが,やがて定信自身が乗り出します。

 

  蝦夷地は山丹満洲ヲロシヤ之国々に接し,ことに大切之所成るに,いままでその御備なきこそふしんなれ。未年(天明七)御役を蒙りしよりして,このことに及びことに霜臺侯(本多弾正大弼忠籌・老中格)同意なりしが,そのなす所の趣法はたがひぬ。はじめは霜臺侯建義とりあつかひありしかば,予もゆづりてたゞその相談にのみあづかりぬ。すでに酉年(寛政元)蝦夷のクナジリ騒擾のときも,この機に乗じて御とりしまりあらんなどいひ合ひたれど,重き御方々を初め,これぞといふ御許しもなかりけり。ついに子年〔寛政四年(1792年)〕に至り霜臺侯これまで心をつくされ,見分なんどもやられたりけれど,その御備の処はこれぞと可被(けんぎ)(さるる)(べく)なし。予にゆづり給はんとまことに数度いひこされたれど,この御備は後々までものこることにあんなれ。幸ひ始め建義し給ひたれば,相談はいかやうともすべしとて,その度ごとにいひたれども,のちには是非ゆづるべしと之事,その理こまやかにいひこし給へるも,やむことを()ず,つ()にその事を引うけて,まづ三奉行と御儒者にその御備のある哉なし哉の義をとふ。そのこたへまてども出ず。よてわがおもふ所をかい付けて,子十一月比にかありけん,同列へ廻したるが,いづれもことにしかるべしとて,一条の異議もなし。御けしき伺,重き御かた〔かた〕へも申上しに,御かん被成(なられ)候など仰下されけり。これによつて,つ()にく()しき(く)記し伺ひたれば可せられぬ。さてその御備てふ建義は,手記にく()しければ略す。只その境をかたく守り,蝦夷の地は松前に依任せられ,日本之地は津がる・南部にてその御備を守り,渡海の場所へ奉行所(たてら)(るる)べしと之事なり。その奉行所可被(たてらるる)(べき)には南部・津がるの領地をも少しばかり村がへ之御さたに及び可然(しかるべく)候。左もあらば両家旧領引かへらるるなどなげくべし。なげかばその位官を少し引立られて,その家をばとり立あらば事すみなんとの建義なり。この外松前をも少し家格御取立之事などもあり,又は松前之備向勤惰見分御救交易なんど之事もあれど,く()しくは記さず。

 (松平174-176頁)

 「略す」とか「くわしくは記さず」と言われると困ってしまいますが,次のような建議であったようです。

 

  〔松平定信は〕「蝦夷地御取〆建議」を作成して寛政四年一二月一四日〔1793125日〕に同僚たちに回覧させている。そこには,①蝦夷地は非開発を原則とし,松前藩に委任して大筒を配備させるが,幕府役人は数年に1回巡視させるだけでなく“御救貿易”を行わせる,また②盛岡藩領と,弘前藩領の三馬屋の周辺などを,ともに3-4000石ずつ収公して北国郡代を置く,③この職には,船の検査や俵物の集荷を行わせ,ここと江戸湾周辺に設ける奉行所には,オランダの協力をえて西洋式の軍船を建造して配備する,などとある。

(高澤130頁)

 

 結局,日本国の本格的な防衛線は蝦夷地の手前の津軽海峡に置いて,蝦夷地自体は削り(しろ)的な緩衝地帯(火除地)にしておこうということのようです(いざとなったら蝦夷地から内地(日本之地)に引き揚げればよい,ということでしょう。)質素倹約の寛政の改革時代とはいえ,いささか退嬰的であるように思われます。しかし,平成・令和の長期衰退を経た現在においては確かに既によぼよぼたる我が国力では北方領土の返還要求などをする以前に北海道本体の保持すらも覚束ないようにも思われ(これは,かつて繁かったJR北海道の路線が次々廃止されているというよく目に見える事実に接して特に強く感じられます。根室までの花咲線も維持できない経済力でしかないのであれば,根室の更に先にある北方領土を,その返還を受けた後一体どうするのでしょうか。),かえって妙な現実味が感じられるところです。前記北海道150年記念式典での高橋知事の式辞においてされた北海道の現状の描写は「そして,北海道は今,個性豊かで魅力にあふれる北の大地として発展し,四季折々の美しい自然景観や安全・安心と高い評価をいただいている食など,様々な分野で国内外の関心を集めています。」というものであって,確かに北海道の主役は未だに人及び人が築き上げた産業ではなく,依然として「いといたうひろ」い「北の大地」(及び食については北の海も)であり続けており,また今後もそうであるべきものなのでしょう。当該式辞では更に,北海道の将来について,「アイヌの方々の自然に対する畏敬の念や共生の想いを大切に」することが強調されています。ここでの「アイヌの方々の自然に対する畏敬の念や共生の想い」は当然伝統的なものなのでしょうが,それはあるいは,幕府直轄期よりも前の寛政期にまで遡り,「天のその地を開き給はざる」蝦夷地の状態及びその維持を理想とするものであるのでしょうか。

 松平定信は寛政五年七月に将軍補佐役及び老中職を免ぜられて失脚します。現実の江戸幕府の蝦夷地政策はその後,樺太・千島を保持してそこにおいてロシアの南下を防がんとする文化年間の直轄体制(という今にして思えば前のめりの脇道であったと思われる方向)へと進んでいったことは前記年表において見たとおりです。

 

イ 北海道の「みんなの地層とみんなの自然」モニュメントとの関係

 ところで,北海道百年記念塔の跡地はどうなるのでしょうか。

 2024110日付けの報道によると(筆者は朝日新聞社ウェブページの松尾一郎記者の記事を参照しました。),同日開催された北海道議会環境生活委員会において道から,撤去された北海道百年記念塔に代わって設置される後継モニュメントのデザインが決定された旨の報告があったそうです。「みんなの地層とみんなの自然」と題された樹木を使った作品(幅8.66メートル,奥行き9.71メートル,高さ3.34メートル,樹木を含めた高さは10メートル以下)であって,有識者懇談会において「地層が太古からの北海道の歴史を感じさせ,権威的ではなく自然環境を楽しむ場づくりとなっている」などとの高い評価を受けたものであるそうです。地層を模した多層の四角い箱型の土台の上に木が何本か植えられるものとなるようです。

しかし太古からの自然といえば,当該モニュメントの後背地にある野幌原始林が,既に永遠に保存されることになっていたのであって,両者はその趣旨において重複します。あるいはまた,新モニュメントについては,それが五十年ないしは百年間存続することなどはそもそも想定されておらず,むしろ自然にひっそり野幌原始林に吸収され()えることが所期されているのかもしれません。

いずれにせよ,「天のその地を開き給はざる」状態の蝦夷地の自然の姿から,魅力的で美しい側面だけを切り取って構成した作品であるということでしょうか。飽くまでも自然がよいのであって,余計な人為・開発(国家的なそれは,「権威的」なものなのでしょう。)は加えるべからずということであれば,やはり松平定信的ですね。

 であれば,当該モニュメントの傍らに,楽翁公にちなんだささやかな歌碑が建て添えられてもよいように思われます。

 

  今更に何かうらみむうき事も楽しき事も見はてつる身は(たそがれの少将の辞世)

  蝦夷の地の風と雪とに住みかねて人去り鮭の戻る白河(筆者の腰折れ)

 

 北の大地の風にも雪にも寒さにも一向平気な,ウォッカに泥酔した赤ら顔の無頼漢らによって,襲撃・破壊されないことを祈るばかりです。


松平定信の墓(霊巌寺)
松平定信の墓(東京都江東区霊巌寺)

 

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