1 はじめに
11月3日の文化の日の由来については,1948年7月5日に制定され,同月20日に公布されると共に同日から施行された国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)の制定時における参議院の担当委員会たる文化委員会の委員長たりし山本勇造(作家としては,山本有三)の手記があります。筆者が参照し得たものは,高橋健二編『人生論読本 第九巻 山本有三』(角川書店・1961年)に収載されたもので,「文化の日」と題されています(同書189-194頁)。
本稿は,当該文章に関して筆者が行ったいささかの考証を記すものです。
2 1948年4月14日の両議院文化委員会合同打合会(憲法記念日:衆=5月3日,参=11月3日)まで
〔前略〕当時われわれのおった参議院の文化委員会では,〔略〕われわれのやるべきことは,国民の祝日を選ぶことであって,皇室の祝日を選ぶのではな〔かった〕。われわれが最も力を入れたのは,11月3日であった。この日は新憲法公布の日だから「憲法記念日」としたかったのである。
しかし〔総司令部(GHQ)の〕CIE(民間情報教育局)は,それを許さなかった。「憲法記念日」なら,5月3日でいいではないかというのである。そのうちに,衆議院は5月3日を承諾してしまったので,交渉は一層やりにくくなった。
(山本「文化の日」190頁)
皇室の祝日を選ぶのではなかったところ,参議院文化委員会においては,当時の昭和2年勅令第25号(休日に関する件)にあった「大正天皇祭〔同天皇の崩御日である12月25日〕,春秋二季の皇霊祭,明治節〔11月3日〕等は皇室中心の祝祭日であるから,今度の新憲法の精神と照らし合わせて,存置しないことに決定」されています(参議院議長・松平恒雄宛ての同年7月3日付けの同議院文化委員長・山本勇造の「調査報告書/祝祭日の改正に関する件」(第2回国会参議院会議録第60号附録141-150頁)の144頁)。また,「「元始祭」〔1月3日〕,「新年宴会」〔1月5日〕,「神嘗祭」〔10月17日〕,「新嘗祭」〔11月23日〕はいずれも天皇がみずから行われる祭典であつて,皇室中心のものであり,一般の国民には縁遠いものである」から,参議院文化「委員会としては,これらは,いずれも国民の祝祭日として適当のものとは考えられないので,採用しないことに意見が一致した」とされています(同報告書145頁)。4月3日の神武天皇祭は,そもそも,日本書紀の「七十有六年春三月甲午朔甲辰,天皇崩〔于〕橿原宮,時年一百二十七歳」との記述が,根拠として「むろん信を置くわけにいかない」とされて落とされていました(同報告書144頁。ここでの「根拠」は,当該事実(神武天皇の崩御)発生の日付の根拠のことでしょう。)。ただし,「春秋二季の皇霊祭はそれ〔ぞれ〕春分,秋分の日にあたつているし,時候もよい時であるから,もとの姿の「春分の日」「秋分の日」としてこの二つの日は生かしたいというのが,多数の委員の意見であつた」そうです(同報告書144頁)。
ところで,1948年4月の14日及び15日にそれぞれ開催された衆議院文化委員会と参議院文化委員会との合同打合会及び合同小委員会(山本報告書142頁参照)に提出された両委員会の仮案においては,既に衆議院側のものが,5月3日を「憲法記念日」の祝祭日たるべきものとしていました(山本報告書150頁)。これは,憲法記念日の日付について,衆議院文化委員会は当時既にGHQの御指導に服していたということでしょうか。これに対して,参議院側の仮案はなお,同日をもって「こどもの日」又は「母の日こどもの日」の祝祭日たるべきものとし,「憲法記念日」は11月3日たるべきものとしています(同頁)。
5月5日でなくて同月3日が「こどもの日」とは,今となっては奇異に感じられますが,これについては参議院文化委員会なりのもっともな理由付けがあったところです。「こどもの日を選ぶにあたつて,特に注意すべきことは,季節の問題である。風習からいえば,こどもの日にあたるものは3月3日の「ひな祭り」と5月5日の「たんごの節句」であるが,男の子の日,女の子の日というように別々にすることは,祝祭日の数をふやすことになるし,また男女の差別をつけることも好ましくないので,まずこれを一本にちじめることにした。そこで一本にまとめるとすると,季節の上からいえば5月5日のほうがよいが,これは男の子の日であるから,女の子のことも考慮して,新しく折衷案を作つた。すなわち,月はたんごの節句からとり,日はひな祭りからとつて,5月3日としたのである。しかも,この日は憲法実施の日であるから,この日をこどもの日とすることによつて,次ぎの時代の人々に新憲法の精神を普及させたいという意図も含めたのである。」ということでした(山本報告書146頁)。男女の中間の4月4日ということは考えられていなかったようです。確かに,4月の上旬では,北海道などはあたかもどろどろの雪解けの時期で,季節としては依然よろしくないところです。(ちなみに,衆議院文化委員会の仮案では,4月1日に「子供の日」が祝祭日ならぬ休日として設けられることとなっていました(山本報告書149頁参照)。)なお,「母の日こどもの日」というのは,「婦人の日」を採択しない代償としての命名です(山本報告書147頁)。当該趣旨は,現在の国民の祝日に関する法律2条におけるこどもの日の趣旨説明文に「こどもの人格を重んじ,こどもの幸福をはかるとともに,母に感謝する。」として残っているわけでしょう(下線は筆者によるもの)。しかし,「次ぎの時代を背負う「こどもの日」を設けるなら,そのこどもを育てあげるのは,大部分婦人の力であるから,当然「婦人の日」も設けるべきである。」というような当時の参議院文化委員会における議論(山本報告書147頁)は,意識の向上した令和の人民の御代においては,およそ通用するものではないでしょう。育児は母のワンオペでされるべきものと決めつけることは男女共同参画社会においては許されず,更に婦人イコール母となるものと考えるのは生き方の多様性を否定する遅れた思考であるとともに若い女性を「産む機械」と捉える発想につながり,そもそも婦人の「婦」の字は箒を持つ女性ということであって,男は散らかし母なり妻がそのあと片付けをして掃除をするという性差による役割分担に係る偏見を助長する差別文字です。
3 11月3日にGHQが反対した理由:「ホウジュ」課長の打ち明けばなし
衆議院文化委員会は憲法記念日を5月3日とするのでよいのだとしていましたが,参議院文化委員長は11月3日説を持して譲りません。
しかし,わたくしはあきらめなかった。〔略〕この法案の担当課長であったCIEのバンス氏は,いつも「ノー」といっていたけれども,全く理解していないわけではなかった。思い余った彼は,最後に企画のホウジュ課長を紹介した。ところが同課長もやはり「ノー」であった。それでも引きさがらずに,なお,こちらの意見を述べたが,結局11月3日という日が,どうしてもいけないのだというのである。
なぜかと追求すると,困った顔をしながら,あなただから話すのだが,これは委員会には報告しないでくれといってこう語ったのである。
「あなたがたは,総司令部が干渉しすぎると思っているでしょうが,総司令部もまた干渉を受けているのです。なにしろ連合軍なのですからね。ソ連やオーストラリアをはじめ各国から非難や注文が絶えず殺到しているのです。そう。――ここに,『フォーリン・アフェアーズ』があります。ご覧なさい。前イギリス代表であったオーストラリアのマクマホンボール氏は,こんなにながながとマッカーサー元帥を非難しています。このなかにも,11月3日のことが出ていますよ。憲法公布は11月1日にやるはずであったにもかかわらず,3日に変更した。理由は,半年後の実施の日が,メーデーとかち合って,混乱をおこすおそれがあるというのだが,日本の実際の腹は,明治節を温存し,ふたたび復古的な日本に立ち返ろうとしているのだ。元帥は甘い。日本にだまされているのだ。――どうです。そう書いているでしょう。こういう意見は,これだけではありません。こういう次第ですから,この日は憲法記念日として許可するわけにはいかないのです。あなたの意見はもっともですが,こちらにも,つらい事情があるのです。」
こう腹を割った話をされては,それでもとはいえなかった。〔略〕その日は退出した。〔後略〕
(山本「文化の日」190-192頁)
日本国民が11月3日をもって国民の祝日とすることはまかりならぬと立ちはだかった共産主義・社会主義,白濠主義等を奉ずる諸外国勢力中の巨頭は,オーストラリアの外交官であったW. Macmahon Ball氏(1946年4月から1947年8月まで聯合国の対日理事会における英国代表兼在日オーストラリア公使)であって,日本国憲法が公布された1946年11月から国民の祝日に関する法律が制定された1948年7月までに発行されたForeign Affairs誌のどれかに,日本国における新憲法公布日にかこつけた11月3日=明治節保存の「陰謀」を糾弾する主張を含む論文を掲載したということのようです。しかして,参議院文化委員会は,その祝祭日の選定基準10項目中の第4において「国際関係を慎重に考慮すること」としていたところでもありました(山本報告書142頁)。「この度祝祭日を定めるというので,世界では,日本がどんな日を選ぶかということに非常に注目を払つております。日本は日本の日本でない,世界の中の日本であります。殊に今日は連合軍の占領下にあるのであります。我々は十分に国際間のことを考慮し」なければならなかったわけです(1948年7月4日の参議院本会議における山本勇造文化委員長報告(第2回国会参議院会議録第59号(2)954頁))。
4 マクマホン・ボールの『日本――敵か味方か?』
なるほど,憲法記念日が11月3日ではなく5月3日になったことについては,11月3日を誹謗する厄介な論文がForeign Affairsに掲載されていたという事情があったのか。
ということで,余計なことながら筆者は図書館に出かけて,Foreign Affairs誌(年4回発行)の実物の1946年10月号,1947年1月号,同年4月号,同年7月号,同年10月号,1948年1月号,同年4月号及び同年7月号の各目次を検してみたのですが・・・何と,Macmahon Ball御大の論文はそれらの中には見当たりませんでした。山本有三に限らず,年寄りの回顧談には,記憶の曖昧やら混乱やらがあるものなので眉に唾をつけて用心しなくてはならないということなのでしょう。(なお,Foreign
Affairsの1948年7月号には高木八尺教授の“Defeat and Democracy in Japan”(「日本の敗北及び民主主義」)と題された論文が掲載されています。しかし,そこにおいて,“Japan needs Protestant Christianity, with
emphasis on the teaching of Christ, not on institutionalism. […] Japan’s
spiritual revolution will remain incomplete until Christianity is integrated in
the Japanese code of morality.”(p.651. 「日本には,制度主義にではなくキリストの教えに重点を置いたところのプロテスタントのキリスト教が必要なのです。〔略〕キリスト教が日本人の道徳律に統合されるまでは,日本の精神革命は未完のままなのであります。」)とまで書いて敬虔なキリスト教徒たる米国の読者にリップ・サービスしてしまっているのはいかがなものでしょうか。とはいえ,1948年4月14日の衆議院文化委員会の仮案では12月25日を「クリスマス」として休日とするものとしていましたが(山本報告書150頁参照),これは「世論調査では相当の希望者があつた」からでしょう(同報告書147頁)。)
しかしながら,マクマホン・ボールは,1948年後半にメルボルンで,Japan—Enemy or Ally?(『日本――敵か味方か?』)と題された本を出しています(ただし,同年12月付けの同氏の序文によればメルボルンでの出版は同月の数箇月前(a few
months ago)のことですから,我が国における国民の祝日に関する法律の制定後のことでしょう。なお,増補改訂版が1949年にニュー・ヨークで,the International Secretariat,
Institute of Pacific Relations, and the Australian Institute of International
Affairsの合同名義で(under the joint auspices of),The John Day Companyから出版されています。筆者が利用することができたのは,このニュー・ヨーク版です。)。しかして,「ホウジュ」課長が山本有三に紹介したというマクマホン・ボールの文章に近いものと考えられる記述が,出版時期の問題は別として,Japan—Enemy or Ally? には確かにあるのでした。(なお,同書の出版名義として上記のとおりオーストラリアのインターナショナル・アフェアーズ協会(Australian Institute of International Affairs)という名称が出て来ますところ,山本有三はこれを,「フォーリン・アフェアーズ」ともっともらしく記憶したものでしょうか。)
I think it was significant that the day the Japanese Government
chose for inaugurating the Constitution, which was to strip the Emperor of all
political power and separate religion from the state, was Meiji Day, and that
the Emperor’s first act that day was to report on this strange event to his
ancestors at the three main shrines in the Palace precincts. Later a great
rally of citizens was organized on the Imperial Plaza. After the crowd had
listened below the Palace to speeches by political leaders explaining the
significance of the new Constitution, the national anthem was sung. Suddenly
the imperial carriage was seen crossing the bridge over the moat. The Emperor
was arriving. The crowd shouted itself hoarse in a fever of devotion. Allied
newspapermen present told me they had never heard such banzais since the death
charges of the war. When, after two minutes, the Emperor withdrew, the crowd
surged after him, treading many underfoot in their excitement. Priests beat
their drums to ward off evil spirits. For hours afterwards the crowd filed over
the dais for the honor of treading where the Emperor had trod.
(Macmahn Ball, pp.53-54)
私は,天皇から全ての政治上の権限を剥奪し,かつ,宗教を国家から分離せしめるべきものである憲法を公布するために日本国政府が選んだ日が明治節(Meiji Day)であったこと及びその日における天皇の最初の行為が宮中三殿においてこの奇妙な出来事を皇祖皇宗に親告することであったことを注目すべきものと考える。その後宮城前広場に市民大会が組織された。新憲法の意義を説明する政治指導者らの演説を宮城の下で群衆が聞いた後,国歌が歌われた。突然,濠の上の橋を渡る天皇の馬車が見えた。天皇が現れるのである。群衆は,献身の熱情と共に声をからして絶叫した。その場にいた聯合国の新聞記者らは,戦争中の玉砕突撃以来,そのようなバンザイを聞いたことは全くなかったと私に語った。2分後に天皇が戻る際,群衆は彼に向って殺到し,多くの者が踏みつけられた。僧侶らが悪霊を祓うために太鼓を叩いた。その後何時間も,天皇が立った場所に立つという栄誉のために,群衆は列をなして式壇の上を歩いたのだった。
It is my strong
impression, despite all efforts at democratization, that the Emperor is still
the political sovereign and still the Son of Heaven in the hearts and minds of
the overwhelming majority of the Japanese people. I think it probable that his
real political power is even stronger than before the war. He is all the Japanese
people have to hold on to. […] He is the divine ruler, who preserves their
national unity and who will restore that leadership among nations that has been
temporarily lost through the blundering of their generals and the overwhelming
material resources of the United States.
(Macmahon Ball, p.55)
民主化のための全ての努力にもかかわらず,日本人民の圧倒的多数の心中胸中において,天皇はなお政治的主権者であり,かつ,なお天子さまである,というのが私の抱く強烈な印象である。彼の実質的な政治権力は戦前よりもむしろ強くなったといい得るものであると私は考える。彼は,そこに縋るべきものとして日本人民が有するものの全てなのである。〔略〕彼は神たる支配者であり,彼らの国民的統一を維持しており,かつ,彼らの将軍らの失策及び合衆国の圧倒的物量によって一時的に失われた諸国民間における指導的地位を回復せしめるのである。
The
Emperor system was to be the facade behind which they [the Satsma and Choshu
clans] ruled Japan. We need to be wary today lest those conservative groups
that are so anxious to protect the Emperor system are not merely hoping to
exploit the Emperor’s new human and democratic attributes in the same way that
the Satsumo and Choshu clans tried to
exploit the Emperor Meiji’s divine attributes. A feudal system could hardly
have a more acceptable front than a human and democratic Emperor.
(Macmahon Ball pp.55-56)
天皇制は,その背後において彼ら〔薩長閥〕が日本を支配した前面建築物たるべきものなのであった。今日我々は,天皇制を守ることにしかく熱心な守旧派諸グループは,明治天皇の神的属性を薩長閥が利用しようとしたのと同じようにして現天皇の人間的かつ民主的な新属性を利用すべく望んでいるだけではないのではないか,ということを憂慮しなければならない。封建制度にとって,人間的かつ民主的な天皇以上に結構な隠れ蓑はそうないものであろう。
マクマホン・ボールの記述に関連する1946年11月3日の昭和天皇の動静については,宮内庁において次のような記録があります。
明治節祭につき,午前,賢所・皇霊殿・神殿への御代拝を侍従徳川義寛に仰せつけられる。なお聯合国最高司令部は日本政府の請求により,去る10月26日付を以て,この日の日章旗掲揚は差し支えない旨を通知する〔筆者註:日本国憲法案が枢密院によって可決されたのは同月29日,昭和天皇によって裁可されたのは同月30日〕。また,明治神宮例祭につき,勅使として掌典酒井忠康を同神宮に差し遣わされる。同例祭へは,御服喪中の年を除き,戦後も引き続き毎年勅使を御差遣になる。〔略〕
日本国憲法公布につき,午前9時,賢所皇霊殿神殿に親告の儀を行われ,御拝礼になり御告文を奏される。ついで朝融王・盛厚王・故成久王妃房子内親王・恒德王・春仁王が拝礼し,内閣総理大臣吉田茂・枢密院議長清水澄以下29名が拝礼する。
(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)223-224頁)
東京都議会主催日本国憲法公布記念祝賀都民大会に御臨場のため,午後2時20分,皇后と共に御文庫を発御され,馬車にて宮城前広場に行幸される。崇仁天皇・同妃百合子・春仁王・同妃直子が参列する。天皇が玉座に着かれた後,内閣総理大臣吉田茂の発声による万歳三唱を皇后と共に受けられ,同所をお発ちになる。御帰途,鉄橋宮城正門鉄橋,通称二重橋上において馬車を停められ,奉拝者の歓呼にお応えになる。同50分,還御される。
(実録第十227-228頁)
マクマホン・ボールの日本に対する警戒心は徹底しています。
I can see no reason why Japan will be less likely in the 1950’s than
in the 1930’s to want to use war as an instrument of national policy.
Imperialism and militarism may well be the inevitable expression of the sort of
economic and social system that still stands in Japan.
(Macmahon Ball, p.187)
1950年代の日本が1930年代に比べて,国家政策の手段として戦争に訴えようとする傾向をより少なく持つようになるという理由を私は見出すことができない。帝国主義及び軍国主義は,日本においてなお存在する種類の経済社会システムにとって,不可避の発現形態であろう。
[…] I believe it is rash
and dangerous to assume that Japan cannot in the foreseeable future again
become a danger to her neighbors.
(Macmahon Ball, p.188)
〔略〕私は,想定され得る限りの未来において日本が近隣諸国に対する脅威に再びなることはあり得ないと想定することは,早計であり,かつ,危険であると信ずる。
It seems probable,
nevertheless, that strong controls will be necessary for at least a generation,
or, say, twenty-five years. It is hard to believe that the re-education of the
Japanese and the consolidation of new leadership could be achieved in a shorter
period.
(Macmahon Ball,
p.191)
しかしながら,少なくとも一世代,又は,例えば25年間,強力な監督が必要となるであろうと思われる。日本人の再教育及び新指導者層の確立がそれより短い期間中に達成され得るものとは信じ難いのである。
I was often told in
Tokyo, not only by Japanese, but by Americans and others, that Australians
seemed more bitter and revengeful toward the Japanese people than any other of
the Allied peoples. I once had the disagreeable distinction of being described
in part of the United States press as the “leader of the revenge school” in
Japan.
(Macmahon Ball, pp.5-6)
東京において私はよく,日本人からのみならずアメリカ人その他の人々からも,オーストラリア人は他の聯合国人民のいずれよりも日本人民に対してより意地悪であり,かつ,より強い復讐心を抱いているように見える,と言われた。私は一度,合衆国のプレスの一部から日本における「復讐派の首領」として記述されるという有り難くない栄誉を頂戴した。
先の大戦中における日本からの侵略に対する恐怖は,人口の小さなオーストラリアにとっては甚大なものがあったのでしょう。現実には,帝国海軍は1942年5月7-8日の珊瑚海海戦に勝てず,帝国陸軍はニュー・ギニア島のオーエン・スタンレー山脈で消耗し果ててしまったのですが。
ちなみに,珊瑚海海戦を戦った我が第四艦隊の司令長官は,阿川弘之の小説『井上成美』において立派な軍人として描かれる井上成美です。ただし,1942年5月8日の昭和天皇の御様子は次のとおりであって,なかなか厳しい。
夕刻,御学問所において軍令部総長永野修身に謁を賜い,珊瑚海海戦の戦果につき奏上を受けられる。戦果に満足の意を示され,残敵の全滅に向けての措置につき御下問になる。軍令部総長より第四艦隊司令長官は追撃を中止し,艦隊に北上を命じた旨の奉答あり。天皇は,かかる場合は敵を全滅させるべき旨を仰せになる。軍令部総長の退出後,侍従武官長蓮沼蕃をお召しになり,今回の戦果は美事なるも,万一統帥が稚拙であれば勅語を下賜できぬ旨を仰せられ,勅語下賜の可否を御下問になる。
(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(東京書籍・2016年)709頁)
閑話休題。
しかし,改めて,マクマホン・ボールは剣呑な人でした。Japan—Enemy or Ally? の結語にいわく。
In a word, if we
want Japan as our ally, the way to succeed is not by subsidizing reactionary
governments, or resuming trade relations with a disguised Zaibatsu, but by
giving firm friendship and effective help to the Japanese people. At present
the Japanese masses lack political consciousness and experienced leaders; they
are still sunk in the past. But when they are without food or clothing or
shelter, they want radical change. Those who help them achieve this change will
be their friends; those who resist the change will be their enemies.
(Macmahon Ball, p.194)
一言でいえば,我々が味方としての日本を欲するのならば,成功への道は,反動政権を援助したり,装いを改めた財閥との貿易を再開したりすることにではなく,日本人民に対して強固な友情と効果的な手助けとを与えることにあるのである。現在,日本の大衆は,政治的自覚と,経験を積んだ指導者とを欠いている。彼らはなお過去の中に沈んでいるのである。しかし,彼らが食糧,あるいは衣料,あるいは住居を欠くときには,彼らは急進的変革を欲するのである。彼らが当該変革を達成することを手助けする者が彼らの友人となるのである。当該変革に抵抗する者は,彼らの敵となるのである。
日本人民の衣食住をあえて欠乏せしめて,混乱の中から急進的変革(radical change)を日本にもたらしめよ,ということでしょうか。対外敗戦を通じての国内の革命を構想したというレーニン的思考の臭いがします。(なお,マクマホン・ボールとボリシェヴィキとの関係については,「マクマホン・ボールについては,〔GHQ民政局次長の〕ケーディスが報告をしているのですが,それによると,ソ連のデレビヤンコなどが何かをしようとする時,必ずマクマホン・ボールのところに来ていたようです」との福永文夫独協大学教授による報告があります(福永文夫「講演会 占領と戦後日本-GHQ文書と外務省文書から-」外交史料館報第30号(2017年3月)52頁)。)
5 バンス宗教課長に関して
前記CIEのバンス氏は,同局の宗教課長で,1948年5月28日に開催された参議院文化委員会の祝日に関する懇談会に臨場し(山本報告書144頁。また,同142頁),紀元節はまかりならん,と宣うています。その反対理由は,「1,紀元節は,日本民族成立の特殊性,優越性を,国民に教えこむために,明治初年にはじめて設けられたものである。」,「2,世論調査において紀元節を支持する者が多かつたのは,75年間にわたる,この誤つた教育の結果である。」及び「3,紀元節を存置することは,過去の日本政府が紀元節によつて意図したものを残すことを意味する。」ということでした(山本報告書144頁)。しかし,神武東征記においては,現在の奈良県の吉野には何と尾のある人(首臣及び国樔部の各始祖)が,葛城には「身短而手足長,与侏儒相類」という外見の「土蜘蛛」がいたとあり,その他一般人民も「民心朴素。巣棲穴住,習俗惟常。」という有様であったとされています。征服王の配下たりし猛々しき一部九州人を除いて,我ら日本人の大部分の御先祖たる被征服民族どもは,特殊ではあっても,特段の優越性を有するものではなかったようであります。
なお,バンス氏は,先の大戦前に旧制松山高等学校で英語の教師をしています。四国松山の英語教師といえば夏目漱石的『坊っちゃん』なのですが,旧制中学ではなく旧制高校なので,蒲団にバッタないしはイナゴを入れられるというようないたずらを,後の日本占領軍の高官にして神道指令の起草者たるオハイオ州出身の青年が被ることはなかったのでしょう。
バンス氏は,100歳まで生きて,2008年7月23日にメアリランド州で亡くなっています。
6 参議院文化委員長による5月3日の憲法記念日の容認
話は元に戻って,山本参議院文化委員長とGHQの「ホウジュ」課長との談判の続きです。
〔前略〕もう一度ホウジュ課長と交渉した。
「あなたの内あけ話をうかがった以上,憲法記念日は5月3日にします。〔略〕」
(山本「文化の日」192頁)
これは,「衆議院がわが前からこの日を憲法記念日にしており,現に今年〔1948年〕も,その日にその記念の祝いをおこない,また司令部の意向もそこにあつたので,まことにやむを得なかつたのである。」ということでしょう(山本報告書148頁)。
確かに,1948年5月3日には「国会・内閣・最高裁判所共催の日本国憲法施行一周年記念式典へ御臨席のため,〔昭和天皇は〕午前10時40分御出門になり,参議院議場に行幸される。御到着後,便殿において衆議院議長松岡駒吉・参議院議長松平恒雄・内閣総理大臣芦田均・最高裁判所長官三淵忠彦の拝謁を受けられ,参列の崇仁親王・同妃と御対面になる。ついで式場に臨まれ,御着席の上,松岡衆議院議長・松平参議院議長・芦田内閣総理大臣・三淵最高裁判所長官の式辞をお聞きになる。終わって,11時30分還幸される。」という運びになっています(実録第十642-643頁)。参議院も,5月3日をもって日本国憲法に係る目出度い日であるものと公式に認めていたことになります。これに対して,1947年11月3日には,天皇臨御の日本国憲法公布一周年記念式典は行われていなかったのでした(実録第十533-534頁参照)。確かに,施行後6箇月で早くも公布一周年式典を行うのでは慌ただし過ぎるでしょうし,やはり,新憲法が実際に施行されて以後の変化及びそれらに対応する多忙の印象の方が強烈だったことでしょう。
ちなみに,日本国憲法公布の1946年11月3日には,前記の東京都議会主催日本国憲法公布記念祝賀都民大会の前に,帝国議会貴族院で日本国憲法公布記念式典が開催され,昭和天皇から「〔前略〕朕は,国民と共に,全力をあげ,相携へて,この憲法を正しく運用し,節度と責任とを重んじ,自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。」との勅語が下されていますが(実録第十226-227頁。同日付けの英文官報によれば,当該部分の英語訳は"It is my wish to join with my people in directing all our endeavours toward due enforcement of this Constitution and the building of a nation of culture tempered by the sense of moderation and responsibility and dedicated to freedom and peace."です。),憲法が施行された1947年5月3日には政府主催・天皇臨御の記念式典は行われていません(同書320-323頁参照)。むしろ,我が現行憲法施行の初日は前途多難を思わせる悪天候であって,「憲法普及会主催による日本国憲法施行記念式典に〔昭和天皇は〕御臨席の予定なるも,風雨のためお取り止めとなっていた」という状況でした(実録第十321頁)。晴の特異日である11月3日に比べて,5月3日は間が悪い。1947年5月3日の東京における降雨量に係る気象庁のデータを検すると,その日は夜来雨で,6時から7時までの間の降雨量は4.1ミリメートル,10時から11時までは1.5ミリメートル,11時から12時までは0.3ミリメートルでありました。しかしながら,11時近くなると雨も小降りになったようです。そこで,
〔昭和天皇は〕特に思召しにより予定を変更され,午前10時55分御出門,〔日本国憲法施行記念〕式典の終了した宮城前広場に行幸になる。憲法普及会会長芦田均の先導により壇上にお立ちになり,参会者より万歳三唱をお受けになる。11時還幸される。(実録第十321頁)
ということになりました。サプライズ行幸ですね。
7 「ホウジュ」課長による11月3日の祝日の容認
他方,11月3日の憲法記念日を諦めた山本委員長と「ホウジュ」課長との会談は,それでもなお続いています。山本委員長が演説をぶったことになっています。
「われわれが11月3日を固執しているのは,これが新憲法の発布の日だからである。マクマホンボール氏の意見は難くせに過ぎない。この記念すべき日を祝日から除いてしまったら,今後,新憲法はどうなるか。われわれは新しい憲法によって,新しい日本を作りあげてゆきたいのである。この日が消えてしまったら,国民は新憲法に熱意を失うと思うが,あなたはどう考えますか。われわれは,なんか,ほかの名まえにしてでも,この日だけは残したいのです。」
ホウジュ氏はしばらく考えていたが,「では,なんという名まえにするのか。」と聞き返してきた。しかし,わたくしたちは,そこまで考えていなかった。11月3日はいけないといわれていたので,なんとか,この日を生かしたいというだけが,精いっぱいであった。いろいろ話し合った結果,つごうによっては,考えてみてもよいというところまで,ホウジュ課長も折れてきた。しかし,復古的なにおいのするものであっては,絶対に許可しないとクギをさされたのである。
(山本「文化の日」192-193頁)
これが,11月3日が国民の祝日となった瞬間なのである,ということのようです。
8 Osborne Hauge, one of
the young GHQ drafters of the Constitution of Japan
しかし実は,山本委員長のしつこい頑張りは,「ホウジュ」課長にとっては渡りに舟だったかもしれません。「ホウジュ」課長にも,11月3日には格段の思い入れがあったはずだったからです。
国立国会図書館のデジタルコレクションにあるGHQ/SCAP Records, Government Section文書中Box No.2204, Folder No.(2)の“House of
Representatives – 2nd National Diet”という文書の3齣目の18を見ると,6月24日付けの“Bill concerning the National Feast
Days” (国民の祝日に関する法律案)がいずれも6月30日にCIE及びGS(Government Section:民政局)によって承認(App’d)され,O.K.となった旨が記されています(イタリック体は,原文手書き)。CIEの担当者は,Bunceと読めますから,バンス宗教課長ということになります。しかしてGSの担当者はHaugeです。これは,ホウジュとも読めるのでしょうが(hの音が発音できるフランス人の読み方),「〔サウス・ダコタとの州境に近いミネソタ州マディソン生まれで〕ミネソタ州ノースフィールドのセイント・オーラフ大学を卒業後,1935年から37年まで,中西部〔ノース・ダコタ州〕で週刊新聞〔3紙〕の編集長をつとめた。1937年からは〔(又は)1940年にルター派牧師の娘と結婚し〕ニューヨークに本部を置く全米ルーテル派教会会議で広報・渉外を担当し,1942年からワシントンDCでノルウェー大使館のスタッフをつとめている。/終戦に近い1944年に海軍の召集を受け,プリンストン大学の軍政学校とスタンフォードの民事要員訓練所を経て,日本占領のスタッフに選ばれた」という経歴を有する「1914年生まれのノルウェー系アメリカ人」である「オズボーン・ハウギ海軍中尉」ではないですか(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川ソフィア文庫・2014年(単行本版:創元社・1995年))53-54頁。〔 〕内は,2004年8月21日付けのワシントン・ポスト紙のハウギ氏の死亡記事によって筆者が補ったもの)。
ハウギ中尉は,GHQの民政局員として,我が現行憲法に係る1946年2月のGHQ草案作成の際の立法権に関する小委員会のメンバーであり,かつ,「民間情報教育局(CIE)の手助け」もしていたのでした(鈴木50頁以下・54頁)。「1946年11月3日,日本国憲法は公布される。民政局の25人は,その日,〔貴族院〕本会議場の傍聴席の片隅に座っていた。」ということでありましたから(鈴木362頁。同363頁に写真),11月3日は,彼らにとって思い出深い日となったはずなのでした。日本国憲法は,ハウギ課長にとって,おらが憲法であったはずなのでした。「日本が他の国に先んじて,〈理想〉のゴールに達したという感じがしています。まさに,新しい国の新しい憲法といえますね。」とは,後年のハウギ翁の言葉です(鈴木363頁)。
日本怖い,天皇怖いとやかましい小国オーストラリアの怖がり外交官の神経質な難癖に過剰な忖度をして,せっかくの〈理想〉のゴール到達がなされた日を国民の祝日として日本人民に祝わしめ,感謝せしめ,記念せしめることを自粛してしまう思いやりなど馬鹿馬鹿しいではないかと,〈理想〉の使徒たる米国人であるハウギ課長は腹を括ったのでしょう。しかし,「憲法記念日」の名は5月3日に既に取られてしまっているのでその名は使えないところ,11月3日の祝日の名称は,やはり濠ソ等の手前,天皇臭(「復古的なにおい」)の無いものでなければならない,ということになったのでしょう。
(なお,日本国憲法の公布の日付についてのそもそもの米国政府の判断は,やはり明治天皇との関係で11月3日が選ばれたのであろうが,だからといってそこから重大な意味が派生するというものではないだろう,という見切りでした。すなわち,対日理事会における中華民国代表の朱世明が同理事会議長の米国代表ジョージ・アチソン宛ての1946年10月25日付け書簡において「日本の大陸における隣国に対する二つの侵略戦争によって特記される明治時代は,主に彼らの帝国の拡大について達成された成功のゆえに日本人民に記憶されている」のであるから明治節の日に日本国の新憲法が公布されるのは幸先がよろしくないとの懸念を示していたところ(「二つの侵略戦争」と述べて,日清戦争のみならず日露戦争にも言及していますから,ロシア人の代弁をもしているということになるのでしょう。),同月31日付けのアチソン回答はいわく,「新しい日本国の憲法の公布日として11月3日が選ばれることに係る1946年10月25日付け貴簡に関して申し述べますところ,当該日付が日本国政府によって選択されたのは,最初の日本国の憲法が主に明治天皇の計らいによるものであったからである(because the Emperor Meiji was mainly responsible for the first Japanese Constitution),というのが当職の理解であります。/当該日付の選択から,何か重大な意味が派生するもの( has any far-reaching significance)とは当職には思われません。ということでありますから,したがって,当職の意見では,現地政府の行政事務と見られるところの事項に干渉するための手段を執ることは望ましくないものと思われます。」と(国立国会図書館電子展示会「日本国憲法の誕生」資料と解説4-16)。いわゆるマッカーサー三原則と共にGHQ民政局内で大日本帝国憲法全部改正案を作成する9日間の作業が発起されることになったのは1946年2月3日のことでしたが,だからちょうど9箇月後の11月3日に公布するのが切りがよくてよいのだ,また,1+1=2なのであるから実は11月3日は2月3日に通ずるのだ,素晴らしい符合ではないか,日本人民及びその国家は明治天皇に縋って己れの過去に執着しようとしつつも無意識のうちに運命の力で戦勝米国に迎合してしまう定めなのだ,とまでは米国側もさすがに言えなかったわけでしょう。)
9 聖徳太子(十七条憲法)の退場及び昭和天皇の勅語の隠蔽
ところで,11月3日の名称を「文化の日」とすることについては,山本有三が頭をひねった,ということになっています。
そこで,わたくしと岩村〔忍〕君とは,その名称について頭をひねったのであるが,今まで,憲法記念日としてしか考えてこなかったので,なんとしても名案が浮かばなかった。その時,「文化の日」という暗示を与えてくれたのは,現最高裁判所判事,入江俊郎氏であった〔筆者註:入江俊郎は日本国憲法制定時の法制局長官〕。新憲法は,戦争放棄というような,世界に類例のない条文を持った憲法である。こんな文化的な憲法はない。これなら,復古思想といわれることはないであろう。そこで,この案を持って,先方に行ったところ,よく考えてみようということであった。数日後,呼びだしがあったので,行ってみると,「あなたがたの熱意を買って,許可することにしましょう。」といってくれた。これでやっと11月3日は残ったのである。こういういきさつであるから,その名称がぴったりしないのは,やむを得ないのである。
(山本「文化の日」193-194頁)
しかしこれはどうも,余り正確ではないように思われます。
実は1948年4月14日の両議院文化委員会合同打合会において衆議院側から提出された仮案において既に,11月3日は「文化祭」なる祝祭日として提案されていたのでした(山本報告書150頁参照)。何やら学校生徒の学園祭みたいな名称ですが,出所は当然,「自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。」との1946年11月3日の勅語でしょう。
参議院文化委員長が11月3日と「文化国家」とを積極的に結び付けようとの思いに至らなかったのは,実は同委員会には聖徳太子好きな人々がいて,日本国憲法ならぬ十七条憲法発布の日である4月3日(旧暦)又は5月6日(新暦)をもって「文化日本の日」なる祝祭日にしようという動きがあったからでした(山本報告書149-150頁参照)。「「文化日本の日」――この名まえは本委員会としては確定的のものではなかつたが,この日を設けようということになつたのは,文化国家としての日本の再出発に当たつて,わが国最初の成文法である聖徳太子の十七条憲法の制定の日を採りたいという有力な意見が出たからである。〔略〕その第1条の「以和為貴」は,平和思想を鼓吹されたものであり,最後の第17条は「夫事不可独断。必与衆宜論。」とあつて,一種の民主主義思想を説かれたものとも解せられる。千三百数十年の昔,今日の新憲法の精神とあい通ずるところのものを制定されたということは,いわば文化国家の礎をきずかれたものであつて,われら国民のひとしく仰ぎ,ひとしく誇りとすべきところでなければならない。」というわけです(山本報告書145頁)。
しかし,「聖徳太子に関する日は〔1948年〕6月14日の合同打合会において,衆議院がわから,国民の祝祭日としてはまだ熟さない感があるという反対があつたので,参議院がわはこれに対して大いに論戦したが,衆議院がわが応じないので,ついに落ちることになつた。」ということです(山本報告書148頁)。参議院文化委員長が11月3日を「文化祭」ならぬ「文化の日」とすべく最終的に決心したのはその時でしょう。1948年6月17日の参議院文化委員会最終草案の第2条において,「文化の日 11月3日 自由と平和を愛し,文化をすゝめる。」という形になっています(山本報告書150頁)。
衆議院文化委員会仮案に既に「11月3日 文化祭」があったので,入江判事からの「暗示」は,「文化の日」という名称自体についてのものではないでしょう。それでは何についての「暗示」であったのかといえば,筆者思うに,文化の日の意義付けは,それを明治節はもちろん1946年11月3日の昭和天皇の勅語にも求めるべきではないところ(「復古的なにおいのするものであっては,絶対に許可しない」),日本国憲法の内容論をもって直接説明することが可能であり,また,そうすべきである,との天皇抜きでする説明の方法論についてのものではなかったでしょうか。
文化の日の意義付けは,最終的には次のようになっています。
11月3日は「文化の日」と決定した。この日は明治天皇のお生れになつた日であり,明治節の祝われた日であるが,それは同時に,新憲法の公布された日であり,その新憲法において,世界のいかなる国も,いまだかつて言つたことのない「戦争放棄」という重大な宣言をした日である。これは日本国民にとつて忘れがたい日であると共に,国際的にも,文化的意義を持つ大事な日である。したがつて,この日を「文化の日」としたのは平和をはかり,文化をすゝめるという意味からである。「平和の日」という名まえも考えられたが,それは別に,講和条約締結の日を予定しているので避けたのである。また,この日は一年を通じて最もよい季節にあたつており,従来も体育大会その他の行事が催されているので,これからもこの新しい祝祭日を中心として,その前後に,例えば芸術祭,科学祭,体育祭などを行うと同時に,文化上の功労者に栄典を授けるというような行事を催すことも望ましいという意見であつた。
(山本報告書148頁)
又11月の3日を文化の日といたしましたのは,これは明治天皇がお生れになつた日であり,明治節の祝われた日でございますが,立法の精神から申しますと,この日御承知のように,新憲法の公布された日でございます。そうしてこの新憲法において,世界の如何なる国も,未だ曽て言われなかつたところの戦争放棄という重大な宣言をいたしております。これは日本国民にとつて忘れ難い日でありますと共に,国際的にも文化的意義を持つ重大な日でございます。そこで平和を図り,文化を進める意味で,この日を文化の日と名ずけたのでございます。平和の日といたしましてもよいのでありますが,それは別に講和条約締結の日を予定しておるのでございますので,それを避けたのでございます。
(1948年7月4日の参議院本会議における山本勇造文化委員長報告(第2回国会参議院会議録第59号(2)954頁))
「「文化の日」という日ぐらい,わからない日はない,と,ことしもまたわる口をいわれている。非難をする人から見れば,この日は,昔の明治節である。明治節の日をなんで「文化の日」なぞとするのだ,わけがわからないというのだろう。」という「一応もっともな非難」(山本「文化の日」189-190頁)に対して山本有三は立法経緯論で答えて,「こういういきさつであるから,その名称がぴったりしないのは,やむを得ないのである。」と言って,何やら当該分かりづらさを「名称」に係る入江判事の「暗示」のせいにしているように見えます。しかし筆者には,当該分かりづらさの存在ないしぴったり感の欠如は,文化の日を説明するに当たって,そもそもの1946年11月3日の昭和天皇の勅語を無視することにしてしまった隠蔽的方法論に由来するように思われます。現在の各種六法においては,大日本帝国憲法については,上諭及び題名以下の条文のみならず明治天皇の告文及び憲法発布勅語までを掲載していますが,日本国憲法については,上諭は掲載されても昭和天皇の告文及び勅語は掲載されていないことも問題なのかもしれません。1946年11月3日には,占領下といえども,大日本帝国憲法はなお名目的には効力を有していたので,同日の天皇の勅語は無視できなかったはずです(当該勅語も同日付けの官報に掲載されています。なお,同日の昭和天皇の告文は,『昭和天皇実録』にも記載されていません(実録第十223-229頁参照)。)。
(おって,国民の祝日に関する法律2条における文化の日の趣旨説明の文は「自由と平和を愛し,文化をすすめる。」であって,日本国憲法公布記念式典における勅語の「自由と平和とを愛する文化国家を建設する」の部分との呼応関係を(筆者は)感ずることができるのですが,オーストラリア人らが読んだであろう同法の英語訳文を英文官報で見てみると,文化の日は"Culture Day"であり,その目的( object )は"To love liberty and peace and to promote culture."となっています。これは一見するに,"love and peace"的cultureの日ですね。天皇と共に文化国家を建設するというような大仰な意図をそこに看取すべきものではない,ということになるようです。)
10 その後
「文化国家」建設の国是は,その後忘れられてしまい,「経済大国」実現のそれに取って代わられたようです。しかして昭和末期の“Japan as Number One”時代を経て1989年1月7日の昭和天皇崩御後の平成の時代に入ってからは,我が国経済は停滞し,2010年にはGDP世界第2位の地位を中華人民共和国に明け渡してしまい,更に衰退途下国化がいよいよはっきりしてきた令和の御代の今年(2023年)にはドイツにも抜き返されて世界第4位に落ちるそうです。平成時代には「生活大国」,「やさしい国」,「美しい国」等の理想が我が国の在るべき姿として唱えられましたが,そのような国の人民には,猛々しいeconomic animal的なanimal
spiritは最早不要でしょう。貧すれば鈍する。日本のソフトパワーを強化し,日本の優れた文化を世界に宣布せんとの“Cool Japan”戦略も,お寒いものであったとして尻すぼみになりそうです(2013年に設立された株式会社海外需要開拓支援機構(クールジャパン機構)については,同社のウェブサイトを見るに,政府から1156億円,民間から107億円が出資されていますが(2022年10月現在),2023年3月31日現在の累積赤字(利益剰余金のマイナス)が355億8419万6千円にのぼっています(同日付けの同社貸借対照表)。)。
1887年生まれの山本有三は,1974年1月11日に86歳をもって亡くなりました。当時はなおマクマホン・ボール的敵意が東南アジア諸国に健在であったものか,山本が死亡した月に田中角榮内閣総理大臣が当該地域を訪問中でしたが,同月9日にはバンコクで学生反日デモ,同月15日にはジャカルタで反日暴動が起きていました。
マクマホン・ボールは,その後の円高,低金利を経ての我がバブル景気の時代をもたらすこととなったプラザ合意(1985年9月22日)の翌年である1986年12月26日に85歳で亡くなっています。1980年に我が国は,ワーキング・ホリデー制度を初めてオーストラリアとの間で開始していましたが,「帝国主義・軍国主義国家」の若者が大勢オーストラリア国内をうろうろする様を,晩年のマクマホン・ボールは苦々しい目で見ていたものかどうか。
山本よりも27歳年下のオズボーン・ハウギは,ワシントンD.C.において,1951年からは予算局で,1961年から1974年まで外交官として勤務し,アジアの美術品の収集家として知られていました。ヴァジニア州フォールス・チャーチ在住。2004年7月21日に90歳で肺炎により亡くなっています。(前記ワシントン・ポスト紙の死亡記事参照。なお,当該記事によれば,オズボーンには,同時期に日本に駐在し,かつ,同様にアジアの美術品の収集家であるヴィクター(Victor)という名の兄弟がいたそうです。このヴィクターは何者かといえば,GHQの民政局ならぬ民間通信局(Civil Communications Section)に勤務していた