1 はじめに
毎年8月は,先の大戦に関する回顧物が旬となる季節です。
今年(2023年)の8月はもう終わりますが(しかし猛暑はなお続くのでしょう。),筆者も夏休みの最後になって宿題に追われる小学生のごとく,つい,86年前の夏の出来事に関する疑問の一つの解明理解の試みに手を出し,少々の自由研究的抜き書きを作成してしまったところです。
2 盧溝橋から上海への「飛び火」
1937年7月7日発生の盧溝橋事件が拡大して「北支事変」となり,更に上海に「飛び火」して「支那事変」,すなわち大日本帝国と中華民国との全面衝突となったという機序については,筆者はかねてから「飛び火」という責任所在不明の表現に違和感を覚えていました。
これについては,名著の誉れ高い阿川弘之(1999年の文化勲章受章者https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/234460/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/99_1101/1101_3.html)の『米内光政』(新潮文庫・1982年(新潮社・1978年))の次のような記述を読むと,何だか我が帝国陸軍の関係者が怪しいようでもあります。
第九章六
日華事変の発端が悪名高い「陸軍の馬鹿」の仕組んだ陰謀だったか,相手方の挑発に乗せられた結果であったかは,こんにち尚はっきりしないらしいが,とにかくこの戦火を拡げたら厄介なことになるというのが,米内と山本〔五十六〕の共通した認識であった。当時の米内海相の手記には,
「昭和12年〔1937年〕7月7日,蘆溝橋事件突発す。9日,閣議において〔杉山元〕陸軍大臣より種々意見を開陳して出兵を提議す。海軍大臣はこれに反対し,成るべく事件を拡大せず,速かに局地的にこれが解決を図るべきを主張す。(中略)
五相〔首陸海外蔵〕会議においては諸般の情勢を考慮し,出兵に同意を表せざりしも,陸軍大臣は五千五百の平津軍と,平津〔北平(現在の北京)及び天津〕地方における残居留民を見殺しにするに忍びずとて,強つて出兵を懇請したるにより,渋々ながら之に同意せり。(中略)
陸軍大臣は出兵の声明のみにて問題は直ちに解決すべしと思考したるが如きも,海軍大臣は諸般の情勢を観察し,陸軍の出兵は全面的対支作戦の動機となるべきを懸念し,再三和平解決の促進を要望せり」
とある。
(212頁)
同章七(212-214頁)は,主に,杉山元陸軍大将の昭和天皇に対する1937年7月と1941年秋との2度の「3カ月」奏上(実際には,北支事変も対米英蘭戦も3カ月では片付かず)エピソードの紹介
八
この時上海では,米内より2期下の長谷川清中将が支那方面海軍部隊の最高指揮官として,第三艦隊の旗艦出雲に将旗を上げていた。北支事変といっていたのが,8月に入ると上海に飛び火し,海軍も否応なしに戦いの一角に加ることになって,8月14日〔15日〕,世界を驚かせた海軍航空部隊(九六陸攻機)の〔南京等に対する〕渡洋爆撃が行われる。昭和12年の10月以降,第三艦隊は新設の第四艦隊と合して「支那方面艦隊」となり,長谷川長官の呼称も支那方面艦隊司令長官と変る。
(214-215頁)
ここで,「飛び火」という表現が出て来ます。また,海軍も「否応なしに」戦いの「一角」に加わることになった,ということですから,我が帝国海軍は,大陸での戦闘行為に対して消極的であったにもかかわらず,いやいや巻き込まれていったように印象されます。
3 南京渡洋爆撃に対する驚き等
(1)米国大統領
ところで,第二次上海事変劈頭からの日本海軍による中華民国の首都・南京に対する渡洋爆撃は,日本人が無邪気に思うように単に「世界を驚かせた」のみならず,同じ1937年の4月26日にドイツ空軍により行われた内戦中のスペインのゲルニカ爆撃と共に,世界の憤りを日独両国民に対して喚起するものとなってしまっていたものと思われます。同年10月5日にシカゴでされたフランクリン・ルーズヴェルト米国大統領の「隔離演説」の次のくだりは,当該憤りを示すものでしょう。我が海軍は,勇ましぶって,かえって余計かつ有害なことをしてしまったのではないでしょうか。
Without a declaration of war and without warning or justification of any kind, civilians, including women and children, are being ruthlessly murdered with bombs from the air. In times of so-called peace, ships are being attacked and sunk by submarines without cause or notice. Nations are fomenting and taking sides in civil warfare in nations that have never done them any harm. Nations claiming freedom for themselves deny it to others.
(宣戦の布告及び何らの警告又は正当化もなしに,女性と子供とを含む文民が,空からの爆弾によって無慈悲に殺害されています。いわゆる平時において,船舶が,理由も通告もないまま,潜水艦によって攻撃され,沈められています。彼らに何らの害も一切与えたことのない国民の内戦において,煽動し,かつ,一方の側に加担する国民がいます。彼ら自身の自由を主張する国民が,それを他の国民に対して否認しているのです。)
(2)大日本帝国政府
また,南京渡洋爆撃は,「世界を驚かせた」ばかりではありませんでした。
近衛文麿内閣には寝耳に水の出来事であったようです。
上海に戦火がとび,前述の8月15日の政府声明〔支那軍の暴戻を膺懲する声明〕がおこなわれた当日である。海軍は,いわゆる渡洋爆撃を始め,南京,南昌を爆撃,それからまもなく漢口をも爆撃して,華中方面の戦局はにわかに拡大され,同時に〔租界のある上海に駐屯していた我が海軍の〕上海陸戦隊救援のため,陸軍部隊派遣の必要に迫られるにいたった。これとともに,華北方面においても,同じく拡大の兆候が顕著なるものあるを認むるにいたったのであるが,内閣としては,こうなってはなはだ困るのは,戦略面において,まったく知らされないことであった。現に海軍の渡洋爆撃なども,わたし〔風見内閣書記官長〕はもちろん,近衛氏とても,その日,閣議があったにかかわらず,新聞によってはじめて知ったのであった。
(風見章『近衛内閣』(中公文庫・1982年(日本出版協同株式会社・1956年))48頁)
これが,大日本帝国憲法11条(「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」)に基づく統帥権の独立の帰結であったというわけです。
なお,南京渡洋爆撃に関する現地の新聞記事はどうであったかといえば,「前日午後の空襲を報じた『中央日報』1937年8月16日,第三面には「二時三十五分在城南郊外,投弾六枚(中略)三時十五分,敵機盤飛七里街,廿一号住戸祖義良被敵機槍掃射受傷」とある。また,同日『申報』の第二面には,「見明故宮飛行場落有両弾,光華門外亦落下炸弾五枚,両処均無大損失」と出てくる」そうです(大坪5-6頁註13)。
(3)大日本帝国海軍大元帥
昭和天皇にも,事前に詳しい作戦計画は知らされていなかったように筆者には思われます。
〔1937年8月〕16日 月曜日 〔略〕
午後2時,御学問所において軍令部総長〔伏見宮〕博恭王に謁を賜い,この日朝までの中支方面の戦況につき奏上を受けられる。その際,昨日海軍航空部隊が台湾から大暴風雨を冒して南京及び南昌飛行場への渡洋爆撃を敢行したことを御嘉賞になるも,各国大使館がある南京への爆撃には注意すべき旨を仰せられる。また,上海その他の犠牲者につき,誠に気の毒ながら已むを得ない旨の御言葉を述べられる。〔後略〕
(宮内庁『昭和天皇実録 第七』(東京書籍・2016年)395頁)
海軍から「敵の首都南京を爆撃します」とあらかじめ知らされていれば,各国大使館があるから注意せよ云々の老婆心的発言が後付け的にあることはないはずです。また,皇族の長老である伏見宮博恭王には,天皇とても,言葉を選ばざるを得ず,一応「御嘉賞」が最初にあったものでしょう。(なお,南京爆撃隊は台湾からではなく長崎県の大村基地から発進したのですが,実録の上記記載においてはその旨触れられていません。結局,南昌飛行場を爆撃した台湾発進部隊のみが真に御嘉賞に与ったということになるのでしょうか。)
海軍からの奏上については,1937年10月5日(前記「隔離演説」の日ですね。)の対伏見宮軍令部総長賜謁の際に漏らされた綸言を反対解釈すると,どうも隠し事が多いようだと昭和天皇は思っていたようでもあります。すなわち,「去る9月22日,〔広東省の〕碣石湾沖において第一潜水戦隊の潜水艦が支那ジャンク10隻を撃沈した事件に関する真相,及びその対外措置につき奏上を受けられる。事件につき,将来を戒められるとともに,その真相を公表すれば日本が正直であるとの印象を与えて良いのではないかとのお考えを示される。これに対し,現地からの報告遅延のため,今に至って真相公表はかえって不利である旨の説明を受けられる。また,海軍が事実をありのままに言上し,かつその処置まで言上したことに対する御満足の意を表され,全てをありのままに言上するよう仰せになる。」ということでした(実録七426-427頁)。普段から「ありのまま」の言上がされていたのであれば,特に「御満足の意を表され」ることはなかったはずです。
なお,皇族の軍令部総長及び参謀総長には,大元帥たる昭和天皇も気詰まりを感じていたようです。
〔1940年9月〕19日 木曜日 午前,侍従武官長蓮沼蕃に謁を賜う。その後,内大臣木戸幸一をお召しになり,45分にわたり謁を賜い,参謀総長〔閑院宮〕載仁親王及び軍令部総長博恭王の更迭につき聖慮を示される。これより先,天皇は,いよいよ重大な決意をなす時となったことを以て,この際両総長宮を更迭し,元帥府を確立するとともに,臣下の中から両総長を命じることとしたいとの思召しを侍従武官長蓮沼蕃に対して御下命になり,内大臣とも協議すべき旨を御沙汰になる。よって,武官長は内大臣と協議の上,陸海軍両大臣に協議したところ,陸軍大臣〔東條英機〕は直ちに同意するも,海軍大臣〔及川古志郎〕は絶対に困るとし,この日に至り軍令部総長宮の離職に反対する旨を確答する。海軍側の意向につき武官長より相談を受けた内大臣は,この日の拝謁の際,聖慮に対し次善の策として,参謀総長宮に勇退を願い,海軍との権衡上さらに新たな皇族の就任を願うほかはないとの考えを言上,なお武官長とも協議すべき旨を奉答する。しかるにその後,陸軍側より,海軍の意向如何にかかわらず,この際参謀総長は臣下を以て充てたい希望が示されたため,その旨を武官長より言上することとなり,正午前,武官長は天皇に謁する。
(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(東京書籍・2016年)178頁)
大御心を素直に忖度する東條は,忠臣ですな。むしろ,海軍の方が我がままで,困ったものです。
閑院宮参謀総長の後任には,杉山元陸軍大将が1940年10月3日に親補されています。伏見宮軍令部総長の後任である永野修身海軍大将の親補は,1941年4月9日のことでした。
4 盧溝橋事件発生後第二次上海事変発生まで
さて以下では,1937年7月7日の盧溝橋事件発生後第二次上海事変発生までの諸事実を昭和天皇と海軍との交渉状況に関するものを中心に『昭和天皇実録 第七』等から拾ってみましょう。なかなか長くなりました。
〔1937年7月〕11日 日曜日 〔略〕
〔葉山御用邸で午後〕5時41分,お召しにより参邸の内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜い,この日午後の臨時閣議において,事態不拡大・現地解決の条件の下に北支への派兵を決定した旨の奏上を受けられる。6時19分,陸軍大臣杉山元に謁を賜い,北支派兵について奏上を受けられる。7時28分,軍令部総長博恭王に謁を賜い,海軍の作戦事項として海軍特設聯合航空隊等を編制〔註〕することにつき上奏を受けられる。〔略〕
なお,この日午後5時30分,政府は今次北支において発生の事件を「北支事変」とする旨を発表,ついで6時25分,北支派兵に関して帝国の方針を声明する。〔後略〕
(実録七370頁)
註: 少なくとも陸軍用語では,「編制」は「軍令ニ規定セラレタル国軍ノ永続性ヲ有スル組織ヲ言イ」,「編成」は「某目的ノ為メ所定ノ編制ヲ取ラシムルコト,又ハ臨時ニ定ムル所ニ依リ部隊ヲ編合組成スルヲ言」います(『統帥綱領・統帥参考』(偕行社・1962年)597頁(兵語の解))。
しかし,近衛内閣は,「事態不拡大・現地解決」を旨とするはずであるにもかかわらず,なぜ「北支事変」という大袈裟な命名を早期にしてしまったのでしょうか。折角立派な名前がついてしまうと,その名が表す期待に合わせるべく体も自ずから成長していくものではないでしょうか。「事態」ないし「事件」は事変に変じ,「現地」は北支全体に拡がってしまうのではないかという懸念は感じられなかったのでしょうか。「「渋々ながら」同意した北支派兵のはずなのに,近衛内閣が自発的に展開したパフォーマンスは,国民の戦争熱を煽る華々しい宣伝攻勢と見られてもしかたのないものであった」わけで(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会・1996年)265頁),政府広報は重要であるとしても,軽薄なパフォーマンス好きの方々には困ったものです。
さて,軍令部総長による前記上奏があった1937年7月11日,早くも第三艦隊司令長官の長谷川中将は,台湾の高雄から上海の呉淞への「回航の途中に得た諸情報から「情勢真に逆賭を許さざるものあり」と判断して,〔当該〕11日未明に海軍中央部へ航空隊と陸戦隊の派遣準備を要請し,さらに指揮下部隊の各指揮官へ「極秘裡に在留邦人引揚に対する研究を行い胸算を立ておくべし」と指示してい」ます(秦252頁)。同日夕から翌日にかけて海軍中央部は「陸軍の動員に匹敵する大規模な準備措置」を「次々と発動し」ており,その「主要なものをあげると,(1)青島,上海に増派する特別陸戦隊4隊の特設と輸送艦艇の指定,(2)渡洋爆撃用の中型陸上攻撃機(38機)と艦載機(80機)による第一,第二連合航空隊の特設と一部の台北,周水子への展開を予定して物資を艦艇により輸送,(3)第五戦隊などを北支へ,第八戦隊などを中南支へ増派,(4)陸軍増派部隊の海上護衛,(5)北支作戦に関する陸海軍作戦協定,陸海軍航空協定の締結,など」ということだったそうです(秦253頁)。なお,1937年7月11日の陸海軍協定の内容は北支に係るものに限定されておらず「已むを得ざる場合に於ては青島上海付近に於て居留民を保護」すると規定」されており,「陸軍としては「中南支」への派兵は考えていなかったが,海軍の強い要請で承認し,その兵力も「3個師団というのを陸軍は最小限として2個師団で妥協」」がされています(秦254頁)。
ところで,7月11日の前記上奏において伏見宮博恭王は,「今回の北支出兵のごときはいかに考えましても大義名分相立ちませぬ・・・古来名分のない用兵の終りをまっとうした例ははなはだ乏しいのでありまして,今回の北支出兵の前途につきましては私には全然見通しがつきませず深く憂慮にたえませぬ」(福留繁『海軍の反省』225ページ)と」述べたそうです(秦254頁)。中華民国との全面戦争に対する「不安」の現れでもありましょうが(秦254頁参照),名分がなく(なお,確かに同日20時に現地停戦協定が調印されますが(秦261頁・266頁),しかし伏見宮総長の上奏の際には当該調印の報は未着であったはずです。),かつ,不安ならば,そもそもの派兵に断乎反対をすればよかったように思われ,何だか評論家風な発言のようでもあります。どういうことでしょか。また,北支への陸軍の出兵には名分がなくとも,海軍がそれに備える中南支での戦闘については名分があるということだったのでしょうか。「海軍の不拡大論は,その責任地域である華中,華南への拡大を予期するという奇妙な構造」になっていたそうであって(秦251頁),すなわち,結局のところ,日本陸軍がどういう対応をしたとしても,中華民国と我が国との全面戦争は宿命的に起こるものと信じられていたのでしょう。
「石原〔莞爾参謀本部〕第一部長は,のちに「上海事変は海軍が陸軍を引き摺って行ったもの」(石原応答録)と痛烈に批判するが,蒋緯国が強調するように,平津作戦における第二十九軍〔盧溝橋事件における我が支那駐屯軍(これは,義和団事件後の北清事変最終議定書(1901年)に基づいて駐屯していたものです。)の相手方〕の急速崩壊を見た蒋介石は華北決戦を断念し,「日本軍を上海に増兵させ,日本軍の作戦方向を変更させる」(蒋緯国『抗日戦争八年』57ページ)戦略を採用した。いわば日本は仕掛けられたワナにはまりこんだ形」となったわけです(秦321頁)。しかし,そうなってしまったのは海軍が上海等を手放せなかったからであって,「「山東及長江流域は対支経済発展の三大枢軸」と見なす海軍にとって,上海防衛は「帝国不動の国策」(〔軍令部第一部甲部員である〕横井〔忠雄〕大佐が起案した〔1937年〕8月6日付の「閣議請議案」『昭和社会経済史料集成』第3巻604ページ)だったから,〔上海防衛の〕応戦にためらいはなかった」ところでした(秦321頁)。
平津地区から上海への「飛び火」は,「華北の日本軍が南下して心臓部の武漢地区で中国を東西に分断されるのを防ぐため,華北では一部で遅滞作戦をやりつつ後退,主力を上海に集中し増兵してくると予想された日本軍に攻勢をかけ,主戦場を華北から華東へ誘致する戦略をとろうとしていた」(秦345頁)蒋介石の意図に沿ったものだったわけです。(なお,この点に関して,ナチス・ドイツから蒋介石のもとに派遣されていた軍事顧問のファルケンハウゼン将軍は,1937年7月21日にドイツ国防相ブロムベルクに送った報告書において,「蒋介石は戦争を決意した。これは局地戦ではなく,全面戦争である。ソ連の介入を懸念する日本は,全軍を中国に投入できないから,中国の勝利は困難ではない。中国軍の歩兵は優秀で,空軍はほぼ同勢,士気も高く,日本の勝利は疑わしい(Hsi-Huey Liang, [The Sino-German Connection (Amsterdam, 1978),] pp.126-27)。」と述べていたそうです(秦372頁)。)
1937年「7月12日に軍令部は第三艦隊に加え,第二艦隊の参加による船団護衛,海上封鎖,陸戦隊の増強,母艦および基地航空部隊による航空撃滅戦,陸軍の上海投入などを骨子とする「対支作戦計画内案」を作成,一部の艦隊,航空隊の進出待機を逐次発令」しています(秦318頁)。これは「対中国全面戦争を想定したもの」でした(秦318頁参照)。確かに,当該「対支作戦計画内案」は,「「上海及青島は之を確保し作戦基地たらしむ」とか,「支那海軍に対しては一応厳正中立の態度及現在地不動を警告し違背せば猶予なくこれを攻撃す」とか「作戦行動開始は空襲部隊の概ね一斉なる急進を以てす」のような表現が目につく」ものであったとされています(秦254頁)。「硬軟両論が足をひっぱりあっていた陸軍とちがって,一枚岩の海軍は全面戦争への突入を見越して,いち早く整然たるプログラムを組めた」わけです(秦254頁)。「基地航空部隊による航空撃滅戦」,「作戦行動開始は空襲部隊の概ね一斉なる急進を以てす」などといわれると,「世界を驚かせた」南京渡洋爆撃は,実は我が海軍にとっては最初から当然想定されていたことであったようです。
この1937年7月12日の「「対支作戦計画内案」に対し,長谷川第三艦隊司令長官から〔同月〕16日付けで中央へ送った意見具申電があ」ったそうで,「彼はそのなかで,日支関係の現状を打破するには現支那中央政権の屈服以外にないとして,「支那第二十九軍の膺懲なる第1目的を削除し,支那膺懲なる第2目的を作戦の単一目的」(『現代史資料』9,186ページ)とする全面的作戦を開始すべしと説き,上海,南京攻略をめざす陸軍5個師団の投入と,全航空部隊による先制攻撃を要望していた」そうです(秦319頁)。「支那中央政権の屈服」,「南京攻略」,そして「全航空部隊による先制攻撃」ということでありますから,これは南京渡洋爆撃の積極的容認論でしょう。「この「暴論」が却下されたのは当然だが,その後も第三艦隊はくり返し危機の切迫を説き,兵力の増援を要請していた」そうです(秦319-320頁)。
なお「膺懲」とは,「征伐してこらす」という意味であって,『詩経』に「戎狄是膺,荊舒是懲」という用例があるそうです(『角川新字源 第123版』(1978年))。荊及び舒の両国は,どちらも周王朝初期の南方の異民族の国です(同)。西方の戎,北方の狄及び南方の荊舒であれば東方が欠けていますから,東方の倭は膺懲の対象とはならず,かえって漢土の側が我が貔貅によって膺懲されるべきもののようです。参謀本部第三課が1937年7月16日にまとめた「情勢判断」にも「支那軍を膺懲」という用例があるそうで(秦296頁),当時は常用されていた熟語だったのでしょう。
〔1937年7月〕28日 水曜日 〔略〕
午後1時30分,御学問所において海軍大臣米内光政に謁を賜い,北支事変の情勢とそれに伴う中支・南支における海軍の配備状況につき奏上を受けられる。〔略〕
午後2時,御学問所において軍令部総長博恭王に謁を賜い,北支事変に対処するための海軍兵力増加,及び聯合艦隊司令長官永野修身等への命令等につき上奏を受けられる。本日午後10時,軍令部総長より聯合艦隊司令長官に対し,左の大海令第1号が発電される。
一,帝国ハ北支那に派兵シ平津地方ニ於ケル支那軍ヲ膺懲シ同地方主要各地ノ安定ヲ確保スルニ決ス
二,聯合艦隊司令長官ハ第二艦隊ヲシテ派遣陸軍ト協力シ北支那方面ニ於ケル帝国臣民ノ保護並ニ権益ノ擁護ニ任ゼシムルト共ニ第三艦隊ニ協力スベシ
三,聯合艦隊司令長官ハ第二艦隊ヲシテ派遣陸軍ノ輸送ヲ護衛セシムベシ
四,細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ指示セシム
〔後略〕
(実録七381-382頁)
大海令第1号の前提として,その前日27日には,内地3個師団に華北派遣命令が出るとともに,政府は北支事変に関し自衛行動を執ると声明しています。
〔1937年8月〕6日 金曜日 〔略〕
午後4時45分,御学問所において軍令部総長博恭王に謁を賜い,支那沿岸及び揚子江流域の警戒並びに用兵上の諸手配に関する奏上を受けられ,聯合艦隊司令長官永野修身への命令等につき上奏を受けられる。その際,上海において船津辰一郎在華日本紡績同業会総務理事が行う予定の和平交渉につき,日本側の和平条件に支那が同意しない場合にはむしろ公表し,日本の公明正大な和平条件が支那により拒否されたことを明らかにすれば,各国の輿論が日本に同情するとのお考えを示される。また,できる限り交渉を行い,妥結しなければ已むを得ず戦うほかなく,ソ聯邦の存在を考慮する必要上から用い得る兵力に限りがあっても可能な限り戦うほかはない旨を述べられる。〔後略〕
(実録七388頁)
この6日には,「軍令部が上海への陸軍派遣を閣議に要請するよう海軍省へ申し入れ」ていますが,米内海相は当該出兵論を抑えていました(秦322頁註(2))。無論,閣議の場で頭を下げねばならないのは,軍令部ではなく,海軍省の海軍大臣です。
翌「7日に日本の陸海外三相会議が決定し,船津辰一郎を通じて国府に打診しようとした船津工作の条件(冀察・冀東〔の各地方政権〕を解消し,河北省北半を非武装地帯に,満州国の黙認,日支防共協定の締結,抗排日の停止など)は」,「廬山声明の4条件とはほど遠く,三相会議の時点で,すでに国府は上海を戦場とする対日決戦にふみ切っていたと思われる。」とされています(秦345-346頁)。
蒋介石の廬山声明の4条件とは,「(1)中国の主権と領土の完整を侵害しない解決,(2)冀察行政組織の不合法改変を許さない,(3)宋哲元〔第二十九軍の軍長〕など中央政府が派遣した地方官吏の更迭を許さない,(4)第二十九軍の現駐地はいかなる拘束も受けない」というものでした(秦343頁。廬山声明は1937年7月17日に演説され,公表は同月19日20時(新聞発表は同月20日付け)にされたもの(秦340頁))。
〔1937年8月〕9日 月曜日 〔略〕
午後3時,御学問所において海軍大臣米内光政に謁を賜い,最近における山東省及び中支・南支方面の状況,並びにこれに対する海軍の処置につき奏上を受けられる。〔略〕
夜,侍従武官平田昇より揚子江方面の居留民引き揚げにつき上聞を受けられる。〔後略〕
(実録七389頁)
「揚子江沿岸の在留邦人は続々引揚げをはじめ」ていたところ,「それが完了したのは8月上旬であった。〔近衛〕内閣としては,事端が同方面におこるのをおそれていたので,さいわい,事なく引揚げがおわったことを知り,胸をなでおろしていた。」とされています(風見41頁)。
またこの8月9日には大山中尉殺害事件(後記昭和天皇実録同月13日条参照)が起きていますが,依然として米内海相は,当該事件「も「一つの事故」に過ぎぬとして,軍令部の出兵論を抑え」ていたそうです(秦322頁註(2))。
同月11日,「1932年の第一次上海事変で戦った〔中華民国国民政府〕中央軍の精鋭第八十七師と第八十八師は」,「上海郊外の包囲攻撃線へ展開を終り,海軍も揚子江の江陰水域を封鎖」します(秦346頁)。また同日我が国では,伏見宮軍令部総長が米内海軍大臣を呼んで,それまでの同大臣の上海への陸軍派兵不要論を改めるよう説得を試みています(秦322頁註(2))。
〔1937年8月〕12日 木曜日 〔略〕
午後10時45分,海軍上奏書類「長谷川第三艦隊司令長官ニ命令ノ件」ほか1件を御裁可になる。「長谷川第三艦隊司令長官ニ命令ノ件」は,現任務のほかに上海を確保し,同方面における帝国臣民を保護すべきことにあり。天皇は御裁可に当たり,当直侍従武官に対し,状況的に既に已むを得ないと思われる旨の御言葉,また,かくなりては外交による収拾は難しいとの御言葉を述べられる。本件命令は午後11時40分,軍令部総長より大海令を以て発出される。ついで同55分,軍令部総長より第三艦隊司令長官に対し,左の指示が発電される。
一,第三艦隊司令長官ハ敵攻撃シ来タラハ上海居留民保護ニ必要ナル地域ヲ確保スルト共ニ機ヲ失セス航空兵力ヲ撃破スヘシ
二,兵力ノ進出ニ関スル制限ヲ解除ス
〔後略〕
(実録七391頁)
昭和天皇実録の記者は「長谷川第三艦隊司令長官ニ命令ノ件」の内容を,専ら「現任務のほかに上海を確保し,同方面における帝国臣民を保護すべきこと」とまとめています。伏見宮軍令部総長の上記指示は,当該任務の達成方法について更に敷衍をしたものなのでしょう。しかし,「機ヲ失セス航空兵力ヲ撃破スヘ」く,そのためには「兵力ノ進出ニ関スル制限ヲ解除ス」るということですから,敵の首都・南京の飛行場に対する爆撃も可能であることになります。長谷川第三艦隊司令長官に当該意図がかねてからあることは,前月16日の同司令長官意見具申電によって,軍令部は十分了解していたはずです。
同じ12日のことでしょうが(秦347頁註(4)),「京滬警備総司令の張治中将軍は〔翌〕13日未明を期し日本軍へ先制攻撃をかけたい,と南京に要請した」そうです(秦346頁)。
「12日になると,一触即発の危機発生をみるにいたったというので,その夜,海軍側から,これに対する方針の決定につき,至急,相談したいとの申し出が」政府に対してあり,「さっそく,近衛氏の永田町私邸に,首相と海陸外三相の会談が開かれ,わたし〔風見内閣書記官長〕も参加して相談した。その結果,上海における海軍側自衛権発動を内定した。」ということになりました(風見41-42頁)。「上海における海軍側自衛権発動」という表現は分かりづらいのですが,要は,「海軍は12日夜の四相会議に内地から陸軍2個師団の派遣を要請し,翌日の閣議で承認された」ものということのようです(秦318-319頁)。「杉山陸相の要求を容れて内地から2個師団を上海に派遣することとした」(岡義武『近衛文麿』(岩波新書・1972年)67頁)というのは「米内海相」を「杉山陸相」とする誤りということになります。この間のことについて何も書かなかった米内贔屓の阿川弘之は,他の著作物から上手に借景したということになるのでしょう。
〔1937年8月〕13日 金曜日 午前9時15分,御学問所において軍令部総長博恭王に謁を賜い,上海情勢並びに用兵上の諸手配につき奏上を受けられる。〔略〕
午後8時,御学問所において海軍大臣米内光政に謁を賜い,上海方面への陸軍の派兵の必要とその経緯につき奏上を受けられる。去る9日の支那保安隊による上海海軍特別陸戦隊第一中隊長大山勇夫ほか1名の射殺事件以来,同地の情勢が悪化,作夕,第三艦隊司令長官長谷川清は緊急電報を以て陸軍の出兵促進を要請する。これを受け,この日午前緊急閣議が開かれ,居留民の保護のため陸軍部隊を上海方面へ派遣することが決定される。午後5時,戦闘配置に就いた上海海軍特別陸戦隊は,支那便衣隊と交戦状態に入る。〔後略〕
(実録七391-392頁)
〔1937年8月〕14日 土曜日 〔略〕
午前10時43分,御学問所において内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜う。総理より,昨日来の支那軍の攻勢による上海戦局の悪化に伴い,この日の緊急臨時閣議において陸軍3個師団の動員と現地派遣を決定したこと等につき奏上を受けられる。引き続き,陸軍大臣杉山元に謁を賜う。
午後1時25分,御学問所において参謀総長載仁親王に謁を賜い,第三・第十一・第十四各師団ほかへの動員下令,第三・第十一両師団を基幹とする上海派遣軍の編成とその任務等につき上奏を受けられる。〔略〕5時5分,御学問所において再び陸軍大臣に謁を賜い,上海派遣軍司令官の親補に関する人事内奏を受けられる。〔略〕
午後4時21分,侍従武官遠藤喜一より,上海方面における海軍の戦況と用兵上の諸手配に関する上聞を受けられる。なおこの日,聯合艦隊司令長官永野修身・第三艦隊司令長官長谷川清に対し,上海へ派遣の陸軍と協力して各々作戦を遂行することを命じる旨の海軍上奏書類を御裁可になる。〔後略〕
(実録七392-393頁)
この1937年8月14日には,午前の緊急臨時閣議のほかに深夜にも緊急臨時閣議が開かれています。いわく,「14日の夕刻,わたし〔風間内閣書記官長〕は近衛氏を永田町の私邸にたずねて,同〔上海〕方面の情勢に関するニュースを伝えるとともに,善後処置について協議した。その結果,とりあえず海軍をして至急に救護物資と病院船とを,同地に送らしむることにした。それにしても,事態刻々に重大化の傾向にあるので,この夜,いちおう緊急臨時閣議を開いて,海相から情勢の報告をきき,かつ,善後処置についても話し合っておくのがよかろうというので,そうすることにした。ただし,戦局がかくまで拡大したことについての政府の意思表示は,なお形勢の推移をみた上のこととして,この夜の閣議では,ただ救護物資および病院船を送ることだけにしておこうと,話を決めたのである。わたしは,すぐに米内海相をたずねて,首相との話し合いを告げたところ,海相もただちに賛成したので,午後10時に緊急臨時閣議を開くよう手配したのであった。」と(風見42頁)。
1937年8月14日に開催された閣議において米内海軍大臣は次のように大興奮したとされているのですが,海相の当該激高について同日深夜の緊急臨時閣議に係る風見手記には触れるところがありませんので(風見42-47頁参照),当該大激高は午前の閣議におけるものなのでしょう。
外相〔広田弘毅〕や蔵相〔賀屋興宣〕ばかりでなく,杉山陸相までが不拡大方針の維持を述べたのにいらだったのか,米内は「今や事態不拡大主義は消滅した」「日支問題は中支に移った」「今となっては海軍は必要なだけやる」「南京くらいまで攻略し模様を見ては」(高田〔万亀子「日華事変初期における米内光政と海軍」『政治経済史学』251号〕173ページ)と放言した。米内としては「今さら何を言うか」と激したのかもしれないが,この豹変ぶりは天皇をも心配させたらしく,翌日の上奏にさいし,「従来の海軍の態度,やり方に対しては充分信頼して居た。なお此上共感情に走らず克く大局に着眼し誤のないようにしてもらいたい」(島田日記)と海相を戒めている。
(秦321頁)
〔1937年8月〕15日 日曜日 午前10時,鳳凰ノ間において親補式を行われ,陸軍大将松井岩根を上海派遣軍司令官に補される。〔略〕なおこの日,上海派遣軍司令官松井岩根に対して海軍と協力して上海付近の敵を掃滅し,上海並びにその北方地区の要線を占領して在留邦人の保護を命ずる件の陸軍上奏書類を御裁可になる。〔略〕
午前10時20分より1時間余にわたり,御学問所において内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜い,昨夜の緊急臨時閣議において決定した,上海における新事態に適応するための政府方針につき奏上を受けられる。なお今暁,帝国政府は支那軍の暴戻を断乎膺懲すべき旨の声明を発表する。〔略〕
午後,内大臣湯浅倉平をお召しになり,1時間余にわたり謁を賜う。〔略〕
午後5時過ぎ,御学問所において海軍大臣米内光政に謁を賜い,上海及び各地の情況,並びにこれに対する海軍の処置につき奏上を受けられる。終わって海軍大臣に対し,海軍の従来の態度,対応に対して充分信頼していたこと,及びこれ以後も感情に走らず,大局に着眼して誤りのないよう希望する旨の御言葉あり。〔後略〕
(実録七394-395頁)
「昨夜の緊急臨時閣議において決定した,上海における新事態に適応するための政府方針」とは,「帝国政府は支那軍の暴戻を断乎膺懲すべき旨の声明」がそれに基づくところの「方針」でしょうか。当該声明は,前日深夜の緊急臨時閣議が「予定のごとく〔略〕進行して,近衛氏が散会をいいわたそうとしたところ,突然杉山陸相が,ちょっと待ってもらいたい,この際ひとつ,政府声明書を出したほうがいいだろうといって,その案文の謄写刷りをカバンからとりだした」ものです(風見42-43頁)。当該閣議の予定の議事は,風見内閣書記官長によれば「海相から情勢の報告をきき,かつ,善後処置についても話し合っておくのがよかろうというので,そうすることにした。ただし,戦局がかくまで拡大したことについての政府の意思表示は,なお形勢の推移をみた上のこととして,この夜の閣議では,ただ救護物資および病院船を送ることだけにしておこうと」いうことだったはずであるところ,「予定のごとく」の進行なので,午前中暴れた米内海相は大人しく情勢報告などを事務的にしたのでしょう。なお,陸軍大臣から案文が提出されても,政府の声明は政府の声明であって,軍の声明とは異なるものであるということになります。
当該深夜の閣議が散会した後,「杉山陸相は,中島〔知久平〕,永井〔柳太郎〕両氏がのべた意見〔「中島鉄相から,いっそのこと,中国国民軍を徹底的にたたきつけてしまうという方針をとるのがいいのではないかという意見の開陳があって,永井逓相が,それがいいといった意味のあいづちをう」ったという「意見」〕をとりあげ,わたしに,そっと,「あんな考えを持っているばかもあるから驚く,困ったものだ」と,ささやいたものである。これによっても,わたしは,杉山氏が,そのときには不拡大現地解決方針を守ろうとしていたのだと,信ずるのである。」と風見内閣書記官長は回想しています(風見46-47頁)。
しかし,「中国国民軍を徹底的にたたきつけてしまう」ことと「不拡大現地解決方針」との間にはなお中間的な方針があったところです。「妥協論」と対立する陸軍内での「強硬論」は,「わが国がこの際断乎として強硬な態度で臨めば中国側はおそれて妥協あるいは降伏を申し出るであろうという論であり,従って,それは事変を拡大して中国との本格的全面戦争に入るべきことを主張したものではなかった」のでした(岡65頁)。
風見自身は,「帝国政府は支那軍の暴戻を断乎膺懲すべき旨の声明」は「表面,日本政府は,不拡大方針を投げすてて,徹底的に軍事行動を展開するかもしれぬぞとの意向を,ほのめかしているもの」であって(風見45頁),不拡大現地解決方針を端的に表明するものではないことを認めています。米内海相は,午前の閣議で激高して近衛内閣閣僚間における事態不拡大主義を自ら消滅せしめていたのであって,杉山陸相の新たな強硬論に対してもはや異議を唱えず,また唱え得なかったものでしょう。むしろ内心では,海軍幹部の一員として積極的に,本格的全面戦争を期していたのではないでしょうか。「右の声明を発表したいという陸相の発言に,外相海相はじめ閣僚一同,たれも異議をとなえなかったので,近衛氏はそれを承認したのである」とのことです(風見46-47頁)。
(なお,杉山陸相流「強硬論」の表明たる「帝国政府は支那軍の暴戻を断乎膺懲すべき旨の声明」においては,さわりの部分の「帝国としては,もはや隠忍その限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し」に続いて「もって南京政府の反省をうながす」とあり,更には「もとより毫末も領土的意図を有するものにあらず」,「無辜の一般大衆に対しては,何等敵意を有するものにあらず」云々ともあります(風見44-45頁)。すなわち,大日本帝国による膺懲の直接の対象は,南京政府に非ず,支那軍自体にも非ず,無辜の一般大衆ではもちろん非ず,飽くまでも支那軍の「暴戻」であるのだというわけです。しかし,我が国の人口に膾炙したという「暴支膺懲」という四文字熟語的スローガンは――そもそも人口に膾炙したのですからその点においては広報的にはよくできたものなのでしょうが――「暴支」と一般化することによって,軍も政府も人民も,およそ漢土の国家・社会を構成する者の本質は皆もって暴戻(『角川新字源』によれば「乱暴で道理に反する」ことです。)であるのだと決めつけることになってしまわなかったでしょうか。暴戻だから膺懲するのは当然であるし,むしろ進んで膺懲すべきである,ということになれば,確かに全面戦争は不可避でしょう。)
南京といえば・・・しかし,最近は南京豆とはいわなくなりました。