1 山口県出身の3人の元内閣総理大臣並びに国葬及び国葬儀
山口県出身の元内閣総理大臣が2022年7月8日に駅前で銃撃によって殺害されたとの報に接し(満67歳歿・享年六十九),同日夜,悪友らと某駅前地下の酒場で飲んだ筆者は,1909年10月26日に駅頭で銃撃によって殺害された山口県出身の元内閣総理大臣の死(満68歳歿・享年六十九)についてこれまた山口県出身の元内閣総理大臣(当時満71歳)が述べたという次の言葉を想起しつつ,「政治家としてはよい死に方だったんじゃないの。国葬になるだろうしさ。」と発言したところです🍶(最近の国葬関連のブログ記事は,当該思い付き発言の後始末でもあります。)
征露戦局〔1904-1905年の日露戦争〕の結果,彼我の情偽が,明白と為り,露国は我が日本を重視し,日本も亦彼を知るに至り,両国親善の度が漸く濃厚を加へ来つた。〔山縣有朋・伊藤博文〕両公の苦心経営は,此に至り徒労に似て徒労にあらず,伊藤が此機に乗じ,日露提携を策して,東邦禍根の発源地なる支那問題を解決せんとしたるは,寔に其機を得たのであつた。然るに,伊藤が不幸にも兇豎の狙撃する所と為りて其志を果さなかつたことは,〔山縣〕公に取りて何等の恨事ぞや。
伊藤客死の報が,〔山縣〕公の許に達したとき,公は椿山荘にありて,之を聞き,痛嘆するもの之を久うしたが,忽ち左右を顧みて,「伊藤は最後まで好運の人物であつた。予は武弁として,其の最後が如何にも欽羨に勝へない」とて,左の什を詠んだ。
伊藤公爵をいたみて
かたりあひて尽しゝ人は先たちぬ
今より後の世をいかにせむ
(徳富猪一郎編述『公爵山縣有朋伝 下巻』(山縣有朋公記念事業会・1933年)742-743頁。下線は筆者によるもの)
伊藤博文の国葬は,1909年11月4日に日比谷公園で行われています(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065458056.html)。
山縣有朋は,今からちょうど100年前の年である1922年の2月1日に小田原・古稀菴の畳の上で薨去し,その国葬は同月9日にこれも日比谷公園で行われましたが(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079865191.html),大阪朝日新聞の同月10日付けの記事によると「4間に18間の幄舎2棟は1万の参列者を入れる為に設けられたものだといふが実際の数は2棟で1千にも満たず雨に濡れた浄白な腰掛はガラ空きであつた」ということでした🎾ただし,帝室博物館総長兼図書頭森林太郎は出席です。鷗外の日記『委蛇録』1922年2月9日条にいわく「九日。木。晴。会山県公有朋葬於日比谷公園。久保田米斎来示松崎復書幅。」と(『鷗外選集第21巻 日記』(岩波書店・1980年)341頁)。当日は晴であって,国葬会場を濡らした雨は前日のものだったようです。「八日。水。雨。参館。」とあります(同頁)。(ついでにいえば,前掲徳富編述1030頁には「〔1922年〕2月3日,第45期帝国議会は,満場一致を以て,〔山縣〕公の薨去に関する国葬費予算を可決した。」とありますが,これは,同日の衆議院本会議における南・森下両代議士による山縣国葬反対の大気焔(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079865197.html:(9)エ(イ))及びその結果たる「議長(奥繁三郎君) 南鼎三君,森下龜太郎君ヲ除クノ外一致賛成デゴザイマス」(第45回帝国議会衆議院議事速記録第10号150頁)との同議院における満場一致議決未達の失態をしゃあしゃあと無視する読者誤導の曲筆であって,蘇峰徳富猪一郎が我が国を代表するジャーナリストであったのであれば,我が国のジャーナリズムの水準は,歴史的には,常に誇らしく高いものでは必ずしもないわけです。)
2022年9月27日のこちらは日本武道館で行われる国葬儀も,移り気な我が人民の間における人気は,現在なかなか芳しくはないようです。当該国葬儀を1箇月後に控えた同年8月27日に西日本新聞ウェブサイトに掲載された「「絶対やって良かったとなる」安倍氏国葬の世論二分・・・弔問外交に託す政権」と題された記事には,次のようにあります。高い意識の諸外国の指導者から示されることとなる正しい認識が頼りであるようです。
〔国葬儀実施に対する〕批判の矛先をそらしたい政府,与党は各国の要人が集う「弔問外交」の舞台となる意義を前面に出し,内容も「弔問客を受け入れる最低限の様式で派手にしない」(政府高官)。費用は2020年に行われた中曽根康弘元首相の内閣・自民党合同葬の約1億9千万円を引き合いに「参列者が大幅に増えることや警備強化を考えれば簡素で妥当だ」(自民党幹部)と訴える。
国葬まで1カ月。反発がさらに強まるのか,弔いムードの高まりで容認論が広がるのか-。首相周辺は安倍氏が力を注いだ外交実績に期待を込めてこう望みを託す。「海外の評価を見て世論は絶対に国葬をやって良かったとなるはずだ」
(大坪拓也,岩谷瞬)
今となっては,「Japan’s state funeralであるぞ」ということでどしどし英語を駆使して海外広報に努めるべしということになっているのでしょう。しかし,国葬儀と国葬とは必ずしも同じものではないところ(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079865200.html),国葬儀の英語訳は,state funeralでよいものかどうか。
2 国葬儀はstate funeralか
実は,今次国葬儀の英語での正式名称を,筆者は内閣総理大臣官邸及び外務省の各ウェブサイトでいまだに見付けられずにいます。国葬儀をa funeral in the form of a state funeral,“state funeral”ないしはstate funeralと表現し,ないしは訳する記者会見の英語訳記事はあるのですが(2022年7月14日の岸田文雄内閣総理大臣記者会見,同月20日の小野日子外務報道官記者会見及び同月22日の林芳正外務大臣記者会見),いずれにも暫定訳(provisional translation)である旨の注意書きが厳めしく付いています。
岸田内閣総理大臣の発言の英語訳には“we will hold a funeral for former Prime Minister Abe this autumn in the form of a state funeral.”とあります。端的に“in the form of state funeral”(国葬の形式で)と述べるものではありません(確かに元の日本語は,「国葬儀の形式で」です。)。“in the form of a state funeral”と,不定冠詞であるaが一つ入って奥歯に物が挟まっています。「国葬儀の形式で」ということは,「いわゆる一つの国葬的な形式で」というようなこころであるわけでしょうか。
小野外務報道官の記者会見では,「国葬儀」との括弧付きの日本語が,the “state funeral”と,引用符付きの英語に訳されています。国葬ではない国葬儀は飽くまでも引用符付きの“state funeral”であって,引用符抜きの端的なstate funeralではないものと,翻訳業者も外務省の担当者も理解しているということでしょう。
故安倍晋三国葬儀準備事務局(the Special Secretariat for the State Funeral for former Prime Minister Abe Shinzo)の外務省内設置に係る林外務大臣発言に至って,括弧無しの国葬儀と引用符無しのstate funeralとが等号で結ばれることとなっています。
3 State Funerals in the UK
国葬儀とstate funeralとを同一視することに躊躇があったのは,英語といえば本家の英国英語に厳密に準拠しなければならないという,英語専門家にありがちな囚われた英国本位の観念のゆえだったものでしょうか。
確かに,我が国でいう国葬儀をstate funeralと訳することは,英国においては許されないことであるようです。(御本家の英国が現在,ボリス・ジョンソン内閣後の政権交代に係る流動期にあって,極東の一国における英語の用法にまでは気が回らないであろうことは,我が国政府にとって結構なことでした。)
上記の点に関しては,英国庶民院図書館(House of Commons Library)の議会及び憲法センター(Parliament and Constitution Centre)の調査員(なのでしょう)であるポール・バウワーズ(Paul Bowers)氏による「国葬及び公喪儀(State and ceremonial funerals)」という調査ペーパー(2013年7月31日付けSN/PC/06600)をインターネットで読むことができます。そこでは,state funeral(国葬)の定義が,R・アリソン=S・リッデル編の『王室百科事典』(1991年)の引用という形で,「一般には国家元首に限定されるが,在位の君主の勅命及び費用を負担する議会の議決により,偉勲ある者についても行われ得る」(generally limited to Sovereigns, but may, by order of the reigning monarch and by a vote of Parliament providing the fund, be extended to exceptionally distinguished persons)ものと示されているのでした。すなわち,state funeralたるには,君主の勅命と議会の財政議決とが要素となります。
筆者の脳内対談。
“Oh, you are going to hold a state funeral for the late Prime Minister Abe Shinzo. What was the Imperial Comment by His Majesty Emperor Naruhito, when He sanctioned it? How were the pomps and sincerities of the parliamentary speeches supporting the provision of state fund therefor?”
“The Emperor and the Diet? Neither of them had any say in making the decision. It has been exclusively the Kishida Cabinet’s business as a matter of the administration of state.”
“Is it really so? If so, it is my personal understanding that it would not be properly called a state funeral, at least here in Britain.”
“What? Surely, our Imperial Ordinance concerning State Funerals of 1926 is no longer effective, but no statute law is necessary for the Japanese state to hold ceremonies, since it has nothing to do with rights and duties of people, our opposition parties’ persistent prejudices notwithstanding. Our prudent Prime Minister Kishida, having well considered and studied the matter in consultation with experts of the Cabinet Legislation Bureau, gave a brave go to this issue and will hold for the late prime minister…”
“I do not say that a state cannot hold legally any ceremonies without explicit legislative authorization given in the form of statute law. Simply, the English word -- state funeral -- is associated with such concepts as the monarchical will and the parliamentary consent thereto.”
在位の君主たる今上天皇の特旨によるわけでもなく,2022年8月3日から同月5日までの第209回国会においてそのための費用に係る議案が政府から提出・可決されたわけでもないので,同年9月27日の我が国葬儀は,確かに英国式のstate funeralであるとは言いにくいところです。国葬儀を直訳してstate-funerary ceremonyとでも称すべきでしょうか。しかしこれでは,羊頭狗肉の誹りを免れるにしても,不格好ですね。とはいえ,kokusōgiのままでは意味不明でしょう。
更にいえば,英国のstate funeralでは,遺骸が納められた柩が水兵らによって牽かれた砲車によってウェストミンスター・ホールに運ばれて暫く正装安置された上で,ウェストミンスター教会堂又はセント・ポール大聖堂で宗教儀式が行われるそうなのですが,いわば主役である遺骸が既に焼かれてお骨になってしまっているというのでは,state funeralとしての絵にならないということもあることでしょう。
「国家元首以外の者のために国葬がされるときに係る決定手続は,稀に,かつ,長い歴史的な間を置いて起ることであることもあって,余りはっきりしない。公表された公式の手続というものは無いが,過去においては,国家元首,首相及び議会が関与していた。」とは英国における国葬実行決定手続に関するバウワーズ氏の評です。不文憲法の国だけあって,成文法に基づかない国葬はあり得ないというような窮屈な議論はされていません。
1965年1月24日に死亡し,同月30日にstate funeralが執り行なわれたチャーチルの場合はどうであったかというと,まず,同月25日,庶民院に対してハロルド・ウィルソン首相がエリザベス2世女王の自署のある勅語を提出し,議長がそれを朗読します。
私は,ガーター騎士たるサー・ウィンストン・チャーチル閣下の死去によって私たちが被った喪失に対して最もふさわしい方法による対応がされるべきこと並びに戦争においても平和においても五十年以上にわたってたゆまず彼の国に尽くし,かつ,私たちにとって最大の危険の時において,私たち全てを力づけ,支えてくれた精力的指導者であった偉大な人物に係る喪失の悲しみ及びその記憶に対する敬重を表明する機会を持つべきことが,私の国民全ての望みであることを認識しています。私の忠実な庶民院議員らの支持並びに私たちの感謝の負債の弁済及び国民的悲しみの表明を適切に行うためにふさわしい手配(provision)をするに当たっての彼ら鷹揚(liberality)に信頼し得ることを確信しつつ,私は,サー・ウィンストンの遺骸がウェストミンスター・ホールに正装安置され,かつ,その後に喪儀がセント・ポール大聖堂で行われるよう指示しました。
ウィルソン首相は,女王陛下の最も優渥なる勅語(Her Majesty’s Most Gracious Message)を議題にすべき旨動議し,かつ,次の議案を提出します。
ガーター騎士たるサー・ウィンストン・チャーチル閣下の遺骸がウェストミスター・ホールに正装安置されるべき旨及びセント・ポール大聖堂で喪儀が行なわれるべき旨を指示されたことについて女王陛下に謹んで感謝するため,並びに当議院及び女王陛下の忠実なる臣民全てが保持する当該偉人の記憶に係る愛着及び称賛を表明するためのこれらの手段に対する,我々の真摯な助力及び協賛を女王陛下に確証しつつ,女王陛下に対して恭しい奉答がなされるべし。
これに「この動議を可決することにより,当議院,及び当議院において代表されているところに基づき国民は,偉大な政治家,偉大な議会人にしてかつこの国の偉大なる指導者に対する集合的かつ敬虔な敬意を表明することになるのであります」以下の同首相の演説が続き,更にダグラス・ホーム(Douglas-Home),グリモンド(Grimond)及びタートン(Turton)各議員の各賛成演説があって(これらの演説は,精彩に富み,なかなか読み応えがあります。),1965年1月25日中に当該議案は全会一致で可決されています。
4 チャーチルの国葬及び吉田茂の国葬儀における山口県出身の元内閣総理大臣及び現職内閣総理大臣
チャーチルの国葬に日本国政府を代表して参列した特使は,これも山口県出身の元内閣総理大臣でした(当時満68歳)。当該元内閣総理大臣は,1965年1月28日の早朝,ロンドンのヒースロー空港で,待ち構えていた朝日新聞の現地特派員に遭遇してしまっています。
「お疲れのところ恐縮です」と挨拶したうえで「今回のチャーチル国葬は,参列者の顔ぶれからいって第2次大戦の戦友葬という性格をもっています」。つづけてアイゼンハワー,ドゴール,〔ソ連の〕コーネフら3将軍について手短に説明した。「ところで岸さんは1941年12月8日,東條英機内閣の商工大臣として,米英に対する宣戦の詔書に副署なさっています。そのようなお立場から,チャーチル国葬参列にあたって,どんな感想をお持ちでしょうか」。岸〔信介〕氏は「それはですよ,それはですよ,それはですよ」と3回,繰り返した。
絶句した元総理大臣を,それ以上,問い詰めては礼を失する。そう考えて「敗戦後20年,いまや日本は平和国家として生まれ変わった,ということでしょうか」と問うと,「そうです,その通りです」と。
(有馬純達「チャーチル国葬」日本記者クラブ・ウェブサイト(2007年4月))
「弔問外交」といっても,余りお気楽なものではないようです。対独苦戦中のチャーチルは我が海軍による真珠湾攻撃の報を聞いて,これで米国が参戦してくれるぞ助かったと喜んだそうですが,だからといって日本国の特使がチャーチルの国葬において英国民の前で,図々しく恩着せがましい顔をするわけにはいかなかったことでしょう。プリンス・オヴ・ウェイルズ及びレパルスを沈めてしまったし,シンガポールも奪ってしまっていたのでした。何やら肩身の狭い「弔問外交」であったことでしょう。
1967年10月31日の吉田茂の国葬儀において,葬儀委員長たる現職内閣総理大臣佐藤榮作(山口県出身,当時満66歳)は,その追悼の辞においていわく,「吉田先生,あなたは国家と国民がいちばん苦しんでいるときに登場され,国民の苦悩をよく受けとめ,自由を守り平和に徹する戦後日本の進むべき方向を定め,もっとも困難な時機における指導者としての責務を立派に果たされました。あなたはまさしく歴史が生んだ偉大なる政治家であります。」と。すなわち,「平和に徹する戦後日本」が,その当初指導者の国葬儀をもって,ここで歴史的に大肯定されたということでしょう(「わが国は戦後22年にして,国力は充実し,国際的地位も飛躍的に向上しつつあります」)。「いまや日本は平和国家として生まれ変わった」ところの戦後レジームが,断乎明徴せられています。(しかし,「自由に徹し平和を守る」のではないのですね。)