2022年04月

前編:ニッポン若しくはニホン若しくはジッポン又はやまと


(4)崇神朝

 (やまと)については,欠史八代(第二代綏靖天皇から第九代開化天皇まで後の御肇(はつくに)(しらす)天皇(すめらみこと)(『日本書紀』崇神天皇十二年九月条)たる第十代崇神天皇の御代に係る『日本書紀』六年条には,「是より先に,天照大神・(やまとの)大国(おおくに)(たま)二神(ふたはしらのかみ)を並びに天皇(すめらみこと)の大殿の内に祭る。然るに其の神の(みいきほひ)(おそ)り,共に住みたまふこと安からず。(かれ),天照大神を以ちて豊鍬入(とよすきいり)(ひめの)(みこと)()け,(やまと)笠縫邑(かさぬひのむら)に祭り,()りて()堅城(かたき)神籬(ひもろき)を立つ。〔略〕亦日本(やまとの)大国(おおくに)(たまの)(かみ)を以ちて淳名城入(ぬなきのいり)(ひめの)(みこと)に託け祭らしむ。然るに淳名城入姫,髪落ち体痩せて祭ること能はず。」とあります。崇神朝は,まずはやまと(笠縫邑)の天照大神と(やまとの)大国魂神との神威に支えられたものであったようです。やまとは,天照大神にもゆかりのある地名なのでした。

笠縫邑については,「奈良県磯城(しき)郡田原本町秦庄(はたのしょう)。異説に桜井市(かさ)の笠山荒神境内,また同市三輪の檜原神社境内があり,現今「元伊勢」と呼ばれている。」ということだそうです(『新編日本古典文学全集2270頁註7)。(その後天照大神は,第十一代垂仁天皇の時代に皇女の(やまと)(ひめの)(みこと)に託せられ,()()(ささ)(はた)(奈良県宇陀郡榛原(はいばら)町)から近江及び美濃を経て,伊勢に遷座しています(『日本書紀』垂仁天皇二十五年三月条)。)

崇神天皇の皇居はどこにあったかというと,『日本書紀』には「三年の秋九月に,都を磯城に遷したまふ。是を瑞籬(みずがきの)(みや)と謂ふ。」とあります。瑞籬宮の遺称地は「延喜式内社志貴御県坐神社の西(桜井市金屋)」であるそうです(『新編日本古典文学全集2268頁註12)。

 倭大国魂は「倭の国土鎮護の神」であるそうですから(『新編日本古典文学全集2270頁註3),天神地祇中の地祇の方ですね(『日本書紀』垂仁天皇二十五年三月条によれば,太初の時に,天照大神は(あまの)(はら)を,代々の天皇は専ら葦原(あしはらの)中国(なかつくに)八十(やそ)(みたまの)(かみ)(天神地祇)を()らすのに対し,(やまとの)大神(おほかみ)(倭大国魂)は「我は親ら大地官(おほつちつかさ)()らさむ。」とのたもうていたそうです。)。『日本書紀』神代上第8段一書第6には「一書(あるふみ)に曰く,大国主神,亦は大物主神と(まを)し,亦は国作(くにつくりの)大己(おほあな)(むちの)(みこと)(まを)し,亦は葦原醜男(あしはらのしこを)(まを)し,亦は八千戈(やちほこの)(かみ)と曰し,亦は大国玉神と曰し,亦は(うつし)(くに)(たまの)(かみ)と曰す。」とあります。

 「共住不安」のゆえ,そこで崇神天皇が淳名城入姫命に託したところの倭大国魂神はどこに行ったのかといえば,同天皇六年条の記述ではなお情報不足です。ただし,「姫の祭祀不能によって日本大国魂神はそのまま宮中に祭られていたものか,あるいは宮中を出たものか(式内社の大和坐大国魂神社は山辺郡に所在し,現在天理市新泉町(旧山辺郡新泉村)に鎮座する。しかし『和名抄』によれば城下郡に大和郷(天理市海知町付近)があり,初めここで祭られ,後に現在地に移ったか)〔以下略〕」という可能性が表明されています(『新編日本古典文学全集2270頁註11)。

 天照大神及び倭大国魂神に加えて,崇神天皇は,同天皇七年,「国の治まらざるは,是吾が(みこころ)なり。若し〔略〕吾を祭らしめたまはば,(たちどころ)に平ぎなむ。亦海外(わたのほか)の国有りて,自づからに帰伏(まゐしたが)ひなむ」と天皇の夢中において要求して来た三輪の大神である大物主神をも祭っておりその結果,(ここ)疫病(えやみ)始めて()み,国内(くぬち)(やくやく)(しづま)り,五穀(いつつのたなつもの)既に(みの)りて,百姓(おほみたから)(にぎは)ひぬ。」(『日本書紀』同年十一月条)ということになっています。外交的にも,崇神天皇六十五年七月に,任那の朝貢がありました。

 この崇神朝の重要性については,「5世紀末から6世紀にかけて帝紀・旧辞の編纂が進む際に,二人のイリビコ〔崇神天皇及びその子の垂仁天皇〕をめぐる系譜や説話が整備・付加され,推古朝〔593-628年〕に至って天皇家の歴史の編纂が試みられた際,天皇家の歴史を荘重に飾る必要から,イリビコの王家と〔第十五代〕応神・仁徳に始まる王家をつなぐ」こととなったようであり,「崇神が初代の国王と認められた時期があったと思われるが,それは6世紀中葉に帝紀がまとめられた時,もしくは推古朝のこの時ではなるまいか。」と説かれています(『新編日本古典文学全集2』解説(直木孝次郎)529頁)。(なお,6世紀中葉は,越前から来た継体天皇の息子の第二十九代欽明天皇の時代です。)そうであれば,我が皇室は,我が国には易姓革命は無い建前を採った上で,初代とされる祭司王(『日本書紀』の崇神天皇即位前紀に,同天皇について「崇重神祇,恒有経綸天業之心焉」とあります。)を守護した天神地祇にゆかりのある地の名をもって,やまとの王朝名とした,ということになると考えてもよいのでしょう。(当該命名に係る決定がされた時期は,最終的には,大宝律令完成時の持統=文武朝期ないしは『日本書紀』完成時の元明=元正朝期ということになるでしょうか。)

 

(5)継体天皇及び応神天皇と各皇后との関係について

 しかし,崇神天皇=垂仁天皇のやまとの王家と応神天皇(九州出身)=仁徳天皇の王家とをつなぐ必要があったほか,継体天皇(越前出身)以来の現王家とその前の応神=仁徳王家とをつなぐ必要もあったところです。

 より新しい継体天皇の場合から見てみると,同天皇は,第二十一代雄略天皇(仁徳天皇の孫)の娘である春日大娘皇女と播磨出身の第二十四代仁賢天皇(仁徳天皇の曽孫)との間の娘である手白香皇女を,樟葉宮における即位の翌月に皇后としています。入婿の形というべきでしょうか。仁賢天皇の父は市辺押磐皇子,市辺押磐皇子の父は第十七代履中天皇,履中天皇の父は仁徳天皇・母は磐之媛命皇后,仁徳天皇の父が応神天皇・母は(なかつ)(ひめの)(みこと)皇后です。仁賢天皇の都した石上広高宮の場所については,「「石上」は奈良県天理市石ノ上付近の地。「広高」は,広く高い意から「宮」の美称。その所在地について,『帝王編年記』は大和国山辺郡石上左大臣家の北辺の田原」(天理市田部付近か)という。『大和志』は「山辺郡嘉幡村」(天理市嘉幡)とする。」とあります(『新編日本古典文学全集3257頁註4)。市辺押磐皇子については,仁賢天皇の弟である第二十三代顕宗天皇が播磨における牛飼時代に踊って歌って,「石上(いそのかみ) (ふる)(かむ)(すぎ),〔略〕本伐(もとき)り 末(おしはら)ひ,〔略〕市辺宮(いちのへのみや)に 天下(あめのした)(をさ)めたまひし,天万国万押(あめよろづくによろづおし)(はの)(みこと)の 御裔(みあなすゑ)(やつこ)らま 是なり。」と述べています(『日本書紀』顕宗天皇即位前紀)。ここでの「市辺宮」の場所は,「通説は,『延喜式』神名の「大和国山辺郡石上市神社」により,奈良県天理市布留付近とする」そうです(『新編日本古典文学全集3234-235頁註12)。履中天皇は,仁徳天皇の崩御後,弟の住吉仲皇子の叛乱があって,仁徳朝の都があった難波から石上振神宮(石上神宮)に亡命し(『日本書紀』履中天皇即位前紀),翌年磐余稚(いわれのわか)桜宮(さくらのみや)で即位しています(『日本書紀』同天皇元年二月条)。石上は山辺郡にあるそうですから,大和国の一部である前に,それ自体やまとなのでしょう。

 履中天皇の即位地である磐余についていえば,この地は,継体天皇が,『日本書紀』によればその二十年(一書では七年)にその磐余(いはれの)玉穂(たまほ)奠都している所です

 応神天皇は,仲姫命のほか,その姉及び妹をも妃にしています(『日本書紀』同天皇三年三月条)。この三姉妹の父は品陀(ほむだの)()(わか)王,品陀真若王の父は五百木之入(いほきのいり)日子(びこ)命です(『新編日本古典文学全集2469-470頁註3344頁註10)。五百木之入日命は,第十二代景行天皇(垂仁天皇の息子)と八坂入媛(やさかのいりびめ)との間の子で,第十三代成務天皇の同母弟です(『日本書紀』景行天皇四年二月条)。景行天皇の他の皇子は地方に封ぜられ,日本武尊,成務天皇及び五百木之入日命のみが残されたとされるところ(『日本書紀』景行天皇四年二月条),日本武尊は帰らざる征討の旅に出,成務天皇は「近つ淡海の志賀の高穴(たかあな)(ほの)宮に坐し」たということですから(『古事記』),五百木之入日命が景行天皇の(まき)(むく)日代宮(ひしろのみや)(『日本書紀』同天皇四年十一月条)があった地及びその周辺の留守番をしていたのでしょうか(なお,景行天皇五十八年二月条に,同月,同天皇は志賀の高穴穂宮に遷ったとあります。)。纏向は垂仁天皇も都した所で(『日本書紀』同天皇二年十月条),場所は奈良県旧磯城郡纏向村(現桜井市北部)です(『新編日本古典文学全集2300頁註7)。

 『日本書紀』神功皇后摂政三年正月条に「三年の春正月の丙戌の朔にして戊子〔三日〕に,誉田(ほむた)(わけの)皇子(みこ)を立てて皇太子(ひつぎのみこ)としたまふ。因りて磐余に都つくりたまふ。是を若桜宮と謂ふ。」とあり,同皇后は(わか)桜宮(さくらのみや)で崩御していますから(同皇后摂政六十九年四月条),応神天皇は,その二十二年三月に難波の大隅宮に遷るまでは磐余若桜宮にいたようです。

 遠い土地から今の奈良県の地(なお,「日本でも奈良県など今日では決して豊沃な農業県とは言えないが,古代には日本を動かす原動力となるほどの生産を挙げていた。それは土地が高くて水捌けがよかったからである。」ということですから(宮崎市定『中国史(上)』(岩波文庫・2015)151),当時は我が国の中心地です。)にやって来て,奈良盆地東南の山沿いの(石上ないしは纏向辺りの)お姫様のところに婿入りし,夫婦のお屋敷は磐余にある,といえば,継体天皇は,その五世の先祖の応神天皇とよく似ているようでもあります。したがって,

 

   おそらく継体天皇は大和の諸豪族に推戴されたのではなく,自分の実力をもって大和に存在した対立勢力をうちたおし,約二十年の闘争ののちにようやく天皇となったものと思われる。そうして磐余の玉穂を都としたのである。

   かれは,大和の中心をなす聖地に都をおくことによって,王者としての決意を示したのではなかろうか。すなわち,これをもって前王朝の系譜をうけつぐとともに,新しい王朝を開創することを内外に明らかにしたと解釈してよいであろう。このころ,初代の天皇をイワレヒコノミコトとする皇統譜ができあがっていたとすれば,継体天皇は自分が第二のイワレヒコとなることを期していたのである。

  (直木10-11頁)

 

という場合,「第二のイワレヒコ」よりも「第二のホムタワケ」といった方がよかったのかもしれません。神武天皇の名は(かむ)日本磐余彦(やまといわれひこ)なのですが,「磐余彦というのはなぜであろうか。神武東征説話に磐余の地にかんする話があるのならそうした名がついてもよいが,なにも出てこない。」と実は不審がられています(直木9頁)。むしろ,継体天皇の事績が神武天皇に逆投影されて,磐余彦という命名となったのでしょうか。磐余と関係付けるための「磐余にある香久山の霊力で大和を平定したのだからカムヤマトイワレヒコである。」という理屈(直木9頁)のためには,天の香久山の社の土を採り,天の平瓮(ひらか)厳瓮(いつべ)とを作って神を祭るならば東征はうまくいくという夢のお告げが神武天皇にあって,そのとおりにしたら(『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年九月条)確かにうまくいったというお話は――天香久山は磐余に含まれるのだということについての補充弁論も必要ですが(直木9-10頁参照)――継体王朝の立場からは,よくできているものと評価すべきものなのでしょう。

 なお,纏向と石上との関係については,纏向の垂仁天皇の息子の五十瓊敷(いにしきの)(みこと)(景行天皇の同母兄)が剣千(ふり)を作って石上神宮に(わさ)め,更に同神宮の神宝を管掌することになったとあります(『日本書紀』垂仁天皇三十九年条)。その後石上神宮の神宝管理は,五十瓊敷命から同母妹の大中(おほなかつ)(ひめの)命を経て,物部連らに委嘱されています(『日本書紀』垂仁天皇八十七年二月条)。垂仁においては,両地はその同一勢力圏内にあったものと推認してよいものでしょうか。(ちなみに,「推認」の語は,「間接証拠から間接事実を認定し,さらに間接事実から要証事実である主要事実を推認する」というように用いられます(司法研修所編『事例で考える民事事実認定』(法曹会・2014年)13頁。下線は筆者によるもの)。この場合,要証事実は直接認定されてはいません。間接事実という別の事実から推認することになります。これに対して,「直接証拠から,直接,要証事実である主要事実を認定する場合」は,「認定」でよいのです(同頁)。)

 

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1 「ニッポンコク」か「ニホンコク」か

我が国号は,「ニッポンコク」なのか,「ニホンコク」なのか,どちらが正しいのか,とはよく訊かれる質問です。筆者が昔,日本語を学ぶヨーロッパの外交官にした説明法は,日本語の発音が段々と唇を使わないようになって,昔は本来「ニッポンコク」だったのが今はむしろ唇を閉じずに発音できる「ニホンコク」が優勢になっているのだ,というものでした。我が音読みでは「ホン」である「本」は,現代漢土の普通話では“bĕn”と読むそうであるところ,我が国への漢字伝来の昔もその頭音はb又はpの音であったものと前提した上での,唇音退化(labial weakening)現象による説明ということになります。(なお,日本語のハ行子音がpからfに変わったのが奈良朝より前であったとしても(三宅武郎「国号「日本」の読み方について」文部省『国語問題問答第六集』(19583月)81-82頁参照),それに伴い日本人が,人間の音声としては発生的に早く,原始的・小児的な音であるpの発音(三宅92頁)をすることが出来なくなったわけではありません。また,当時の唐(武周)に披露する前提での新国号ですから,先方の発音に近い読み方が本来的なものであるものとして当初は意識されていたものと考えるべきではないでしょうか。)“Coffee”も,現代の日本語では緩く「コーヒー」と発音してしまうのだ(これに対して朝鮮語では「コピー」になるらしいね),というわけです。したがって,「緩みはいけない」派ないしは尚武派は「ニッポンコク」が正しいと主張するのでしょうし(「これまでの〔国号呼称〕統一運動は〔略〕すべてニッポン論者によるものであった。そしてそれは,いつでもすぐに決めよといったようなものであった」(三宅92頁)),自然体で「楽に行こう」派ないしは歴史の流れ派(「一般に支配層は既成のおとなであったから,どちらかといえば「ニホン」説に同情がある」(三宅92頁))は「ニホンコク」でもいいじゃないかと反駁するのでしょう。

しかしこの辺,曖昧なままでは,気になる人は気になるようです。2009619日に岩國哲人衆議院議員が,内閣宛てに質問(質問第570号)を提出しています(国会法(昭和22年法律第79号)74条及び75条)。そこにおいては,①「昭和45年〔1970年〕7月,佐藤栄作内閣は,「日本」の読み方について,「『にほん』でも間違いではないが,政府は『にっぽん』を使う」と,「にっぽん」で統一する旨の閣議決定を行ったが」,「右の閣議決定は現在でも維持されているか。」及び②「今後,「日本」の読み方を統一する意向はあるか。」と問われていました(他の質問は省略)。これに対する麻生太郎内閣の答弁書(2009630日付け内閣衆質171570号)には,①「「日本」の読み方については,御指摘のような閣議決定は行っていない。」及び②「「にっぽん」又は「にほん」という読み方については,いずれも広く通用しており,どちらか一方に統一する必要はないと考えている。」とあったところです。

変化し揺れる日本語の発音において,「にっぽん」も「にほん」も同一の対象を指し示すものとして許容範囲内なのでしょう。個々人が話す際の唇の使い方にまで国家が一々干渉していては切りがないでしょう。しかし,新型コロナウイルス感染症対策で,個々人の口周りにつき,不織布マスクの完全着用までが丁寧に推奨されたことに鑑みると,将来,「ニッポンコク」及び「ニホンコク」のうち,呼気が強く唾の飛びやすい方の発音は自粛するように御指導がされるようになるかもしれません。

 

2 「ジッポンコク」ではどうか

「ニッポンコク」及び「ニホンコク」はいずれも正しいとして,それでは「ジッポンコク」は許容されないでしょうか。かのZipanguや,英語のJapanの発音には,「ニッポンコク」及び「ニホンコク」よりも近いようです。(しかし,「グローバル・スタンダードに近いのはこっちなのだ」というような物言いは,「新自由主義的である」ということで,昨今は自粛すべきものでしょうか。)

17世紀の初めにイエズス会士が出版した『日葡辞書』という辞書があります。レオン・パジェ(Léon Pagés)によるそのフランス語訳版が,1868年に出ています(Paris, Firmin Didot Frères, Fils et Cie)。当該和仏辞書は,我が国立国会図書館のデジタル・コレクションで見ることができます。

 その457頁には,「Jippon, ジツポン(Fino Moto, ヒノモト). L’Orient, c.-à-d. le Japon.」とあります。“L’Orient, c.-à-d. le Japon.”ですから,「東方,すなわち日本国」ということになりますMementote Uraquariae. http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079413301.html

 607頁には,「Nifon, ニホン. Japon.」とあります。

 611頁には,「Nippon, ニツポン(Fino Moto, ヒノモト). Japon.」とあります。

 要は,17世紀の初め,すなわち江戸時代の初めには,「日本」の読み方として,「ジッポン」,「ニホン」及び「ニッポン」の三つがあったことになります。「ジツ」は漢音で,「ニチ」は,それよりも古い呉音です(漢音及び呉音について:http://donttreadonme.blog.jp/archives/1611050.html

 我が大宝二年(周の長安二年。すなわち702年)に唐土の女帝陛下から「『日本国』,(ハオ)。」と我が新国号嘉納せられた際の周(唐)政府側の読みは,当時の唐土の音たる漢音によるジッポンのような音であったはずです(あるいは「ジッボン」のような音だったかもしれませんが,いずれにせよ「ジホン」はなさそうです。)当該唐土の音を,我が遣唐使は有り難く承って帰東したものと思われます。

 徳川三百年の太平のうちに,「ジッポン」の読みが失われてしまったのは,これも「鎖国」の一影響ということになるのでしょうか。日本人には,どうも漢音よりも呉音の方がしっくりするようです(東京は,我が国では呉音の「トウキョウ」であって,漢音の「トウケイ」ではありません。)。訓読みならぬ音読みながらも,「ニッポン」ないしは「ニホン」と読めば,我が国号の唐土離れ(あるいは,胡族=北朝の流れを汲む唐帝国の漢音から,滅ぼされた江南の南朝風の呉音への退行)が達成されたということになるのでしょう。

 

3 日本=「やまと」との訓読みについて

 

(1)『日本書紀』

 ジッポン,ニッポン又はニホンという音読みのほかに,「日本」には,訓読みがあります。

 

  日本,(ここには)云耶麻騰(やまとといふ)(しも)(これに)(ならへ)。(『日本書紀』720年)神代上第4段正文)

 

 我が国号は二本立てで,対外的には音読みの「日本」であり,対内的には「やまと」だったのでした。

 

(2)大宝律令と「日本天皇」

 内国法制的には大宝律令の公式令詔書式において,「隣国及び蕃国に対して詔するの辞」として,

 

  御宇日本天皇詔旨

 

と標示するものとされ,いずれも「並びに大事を宣するの辞」としては,

 

  御宇天皇詔旨

  御大八洲天皇詔旨

 

が用いられていたそうです(神野志隆光『「日本」 国号の由来と歴史』(講談社学術文庫・2016年)21-24頁。また,229-230頁)。ここでは,「日本」は,天皇が御する客体を示す文言ではなく,御する主体たる天皇自身を修飾する文言となっています。

 

   こうして「御宇」と「御大八洲」とを並べて見れば,「御宇」は天下を治める意であり,「御大八洲」は「大八洲」という国土を治めることをいうが,「御宇」と「御大八洲」とが等価なのであって,「日本」が「大八洲」と同じ次元で並ぶような国の呼び方でないことはあきらかであろう。

「日本天皇」というかたちで意味をもつ「日本」だということである。

(神野志30頁)

 

 「御宇=天下を治める」と大きく出るのならば,世界支配者たる天皇は世界に一人であるはずなので,「日本」という限定的修飾語は不要であるように思われます。しかし,蕃国(新羅のことです(神野志22頁参照)。)に詔するときには(なお,「隣国」たる唐(神野志22頁参照)に対しては,実は「日本国王」としてへりくだっていましたから(「勅日本国王()明楽(メラ)()御徳(ゴト)(勅書案:張九齢――玄宗の時代)」という例があります(三宅71頁(注8)。下線は筆者によるもの)。),当該「御宇日本天皇」なるものが「詔する」という書式は,長安の天子宛てには用いられなかったものでしょう。),大唐皇帝との区別を示すために必要だったものでしょう。唐国公たりし李淵の一族の王朝名である「唐」と同次元で並ぶ「日本」なのでした。

 漢土では革命が起こるので,王朝ごとに国号を改める必要があるわけでした。その際皇帝一族の姓をもって国号とはせずに,王業発祥ゆかりの地の名をもってすることが慣例でした。「((もろこし)にも,)周の国より出でたりしかば,天下を周といふ。漢の地よりをこりたれば,海内を漢と名づけしがごとし。」というわけです(北畠親房『神皇正統記』(1339年)天)。王姓の姫ではなく地名の周であり,高祖劉邦の劉ではなく漢でした。我が皇室にはそもそも姓が無いので,「やまと」は王業発祥ゆかりの地の名なのでしょう。したがって,

 

   吉田孝『日本の誕生』(岩波新書 1997年)が言うように,「日本」は王朝の名であったと,見るべきであろう。(神野志30頁)

 

という場合の「日本」は,「やまと」と読んだ上での,地名による王朝名と解すべきでしょう。

 王朝名であるとした場合,少なくとも対内的には,日本(やまと)の範囲が広すぎると,日本天皇と御大八洲天皇との区別が曖昧になってはしまわないでしょうか。北畠親房は,我が国の国号について「又は耶麻土(やまと)といふ。是は大八(おほや)(しま)中国(なかつくに)の名なり。〔略〕大日本(おほやまと)(とよ)秋津(あきづ)(しま)となづく。今は四十八ヶ国にわかてり。中州(なかつくに)たりし上に,神武天皇東征より代々(よよ)の皇都也。よりて其名をとりて,(ほか)の七州をもすべて耶麻土(やまと)といふなるべし。」と述べて(『神皇正統記』天),本州島の名が我が国全体の名となったのだという説を唱えています。要は一番大きな島の名前を国号としたということであるところ,かえってそれでは広過ぎて,王業の発祥の地を示して王族を他の地の諸族から区別せしめるものとしては焦点がぼけてしまっているように,筆者には思われます。

 

(3)やまとの地名に関して

やまとは本来,大和国(今の奈良県)の更に一部の小地名であったそうです。

 

  ヤマトは奈良県天理市・山辺郡辺りの一地名であったが,奈良県全体の大和国の称のとなり,さらに日本国の称となる。(小島憲之=直木孝次郎=西宮一民=蔵中進=毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』(小学館・1994年)30頁註8

 

  つぎねふ (やま)(しろ)(がは)を 宮(のぼ)り 我が(のぼ)れば (あを)()よし ()()を過ぎ 小楯(をだて) 大和(やまと)を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城(かづらき)高宮(たかみや) 我家(わぎへ)のあたり

  (『日本書紀』仁徳天皇三十年九月条)

 

 第十六代の仁徳天皇の皇后である磐之媛命の上記の歌にいう「大和」については,「奈良県全体の大和ではなく,『延喜式』神名の「大和坐(おほやまとにいます)大国魂神社」のある奈良県天理市新泉(にいずみ)の地をさす。『倭名抄』に「城下郡大和郷」。」と解説されています(小島憲之=直木孝次郎=西宮一民=蔵中進=毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』(小学館・1996年)47頁註22)。なお,『古事記』(712年)に「葛城の曽都毘(そつび)()(むすめ)石之(いはの)日売(ひめ)命」とありますところ,葛城高宮に磐之媛命の実家があったわけです。

 日本の読みは「やまと」であって,天孫瓊瓊杵尊が天下った「たかちほ」でも,初代神武天皇が東征後奠都した「かしはら」でも,第二十六代継体天皇が群臣によって翼賛推戴された「くすは」でも,「日本の文化と政治の母体となった大和の国の,そのふるさとが飛鳥(あすか)なのだ。」(直木孝次郎『日本の歴史2 古代国家の成立』(中央公論社・1965年)2頁)とされる「あすか」でもありません。

 「たかちほ」に天下っても,瓊瓊杵尊が落ち着いた先は,()()の長屋の笠狭(かささ)の碕(鹿児島県は薩摩半島の川辺郡西端にある野間岬)ということでしたから(『日本書紀』神代下第9段正文),美人はいたとしても,鄙び過ぎているようです。

「くすは」は,語源が悪いです。武埴安彦の賊軍兵士が敗戦時恐怖の余りその「(はかま)より(くそお)ちし処を(くそ)(ばかま)と曰ふ。今し樟葉と謂ふは(よこなま)れるなり。」ということでした(『日本書紀』崇神天皇十年九月条)。

あすかについては,「大和の朝廷ははじめから飛鳥に定着していたのではない。飛鳥に都をおいた最初の天皇は,『古事記』や『日本書紀』で第十九代とされる允恭天皇である。〔略〕もっとも,都の所在は『古事記』に「遠つ飛鳥の宮」と記すだけで,はなはだ漠然としている。」ということでした(直木4頁)。允恭天皇は,「(をとこざかり)(いた)りて(あつき)病ありて,容止便(たより)あらず。」(『日本書紀』同天皇即位前紀)ということで,かつ,即位に当たっても愚図愚図していて,どうもパッとしません。なお,飛鳥の範囲は,「およそ飛鳥川の上流の平地と丘陵のまじわる地方をさし,いまの(いかずち)豊浦(とゆら)の集落のあたりから南方が本来の飛鳥で,その北方の耳成・香久・畝傍の大和三山につつまれた平地,すなわちのちの藤原の都の地をもふくめるのがふつうである。」とされています(直木4頁)。


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