前編:ニッポン若しくはニホン若しくはジッポン又はやまと
(4)崇神朝
倭については,欠史八代(第二代綏靖天皇から第九代開化天皇まで)の後の御肇国天皇(『日本書紀』崇神天皇十二年九月条)たる第十代崇神天皇の御代に係る『日本書紀』六年条には,「是より先に,天照大神・倭大国魂二神を並びに天皇の大殿の内に祭る。然るに其の神の勢を畏り,共に住みたまふこと安からず。故,天照大神を以ちて豊鍬入姫命に託け,倭の笠縫邑に祭り,仍りて磯堅城の神籬を立つ。〔略〕亦日本大国魂神を以ちて淳名城入姫命に託け祭らしむ。然るに淳名城入姫,髪落ち体痩せて祭ること能はず。」とあります。崇神朝は,まずはやまと(笠縫邑)の天照大神と倭大国魂神との神威に支えられたものであったようです。やまとは,天照大神にもゆかりのある地名なのでした。
笠縫邑については,「奈良県磯城郡田原本町秦庄。異説に桜井市笠の笠山荒神境内,また同市三輪の檜原神社境内があり,現今「元伊勢」と呼ばれている。」ということだそうです(『新編日本古典文学全集2』270頁註7)。(その後天照大神は,第十一代垂仁天皇の時代に皇女の倭姫命に託せられ,菟田の筱幡(奈良県宇陀郡榛原町)から近江及び美濃を経て,伊勢に遷座しています(『日本書紀』垂仁天皇二十五年三月条)。)
崇神天皇の皇居はどこにあったかというと,『日本書紀』には「三年の秋九月に,都を磯城に遷したまふ。是を瑞籬宮と謂ふ。」とあります。瑞籬宮の遺称地は「延喜式内社志貴御県坐神社の西(桜井市金屋)」であるそうです(『新編日本古典文学全集2』268頁註12)。
倭大国魂は「倭の国土鎮護の神」であるそうですから(『新編日本古典文学全集2』270頁註3),天神地祇中の地祇の方ですね(『日本書紀』垂仁天皇二十五年三月条によれば,太初の時に,天照大神は天原を,代々の天皇は専ら葦原中国の八十魂神(天神地祇)を治らすのに対し,倭大神(倭大国魂)は「我は親ら大地官を治らさむ。」とのたもうていたそうです。)。『日本書紀』神代上第8段一書第6には「一書に曰く,大国主神,亦は大物主神と名し,亦は国作大己貴命と号し,亦は葦原醜男と曰し,亦は八千戈神と曰し,亦は大国玉神と曰し,亦は顕国玉神と曰す。」とあります。
「共住不安」のゆえ,そこで崇神天皇が淳名城入姫命に託したところの倭大国魂神はどこに行ったのかといえば,同天皇六年条の記述ではなお情報不足です。ただし,「姫の祭祀不能によって日本大国魂神はそのまま宮中に祭られていたものか,あるいは宮中を出たものか(式内社の大和坐大国魂神社は山辺郡に所在し,現在天理市新泉町(旧山辺郡新泉村)に鎮座する。しかし『和名抄』によれば城下郡に大和郷(天理市海知町付近)があり,初めここで祭られ,後に現在地に移ったか)〔以下略〕」という可能性が表明されています(『新編日本古典文学全集2』270頁註11)。
天照大神及び倭大国魂神に加えて,崇神天皇は,同天皇七年,「国の治まらざるは,是吾が意なり。若し〔略〕吾を祭らしめたまはば,立に平ぎなむ。亦海外の国有りて,自づからに帰伏ひなむ」と天皇の夢中において要求して来た三輪の大神である大物主神をも祭っており,その結果,「是に疫病始めて息み,国内漸に謐り,五穀既に成りて,百姓饒ひぬ。」(『日本書紀』同年十一月条)ということになっています。外交的にも,崇神天皇六十五年七月に,任那の朝貢がありました。
この崇神朝の重要性については,「5世紀末から6世紀にかけて帝紀・旧辞の編纂が進む際に,二人のイリビコ〔崇神天皇及びその子の垂仁天皇〕をめぐる系譜や説話が整備・付加され,推古朝〔593-628年〕に至って天皇家の歴史の編纂が試みられた際,天皇家の歴史を荘重に飾る必要から,イリビコの王家と〔第十五代〕応神・仁徳に始まる王家をつなぐ」こととなったようであり,「崇神が初代の国王と認められた時期があったと思われるが,それは6世紀中葉に帝紀がまとめられた時,もしくは推古朝のこの時ではなるまいか。」と説かれています(『新編日本古典文学全集2』解説(直木孝次郎)529頁)。(なお,6世紀中葉は,越前から来た継体天皇の息子の第二十九代欽明天皇の時代です。)そうであれば,我が皇室は,我が国には易姓革命は無い建前を採った上で,初代とされる祭司王(『日本書紀』の崇神天皇即位前紀に,同天皇について「崇重神祇,恒有経綸天業之心焉」とあります。)を守護した天神地祇にゆかりのある地の名をもって,やまとの王朝名とした,ということになると考えてもよいのでしょう。(当該命名に係る決定がされた時期は,最終的には,大宝律令完成時の持統=文武朝期ないしは『日本書紀』完成時の元明=元正朝期ということになるでしょうか。)
(5)継体天皇及び応神天皇と各皇后との関係について
しかし,崇神天皇=垂仁天皇のやまとの王家と応神天皇(九州出身)=仁徳天皇の王家とをつなぐ必要があったほか,継体天皇(越前出身)以来の現王家とその前の応神=仁徳王家とをつなぐ必要もあったところです。
より新しい継体天皇の場合から見てみると,同天皇は,第二十一代雄略天皇(仁徳天皇の孫)の娘である春日大娘皇女と播磨出身の第二十四代仁賢天皇(仁徳天皇の曽孫)との間の娘である手白香皇女を,樟葉宮における即位の翌月に皇后としています。入婿の形というべきでしょうか。仁賢天皇の父は市辺押磐皇子,市辺押磐皇子の父は第十七代履中天皇,履中天皇の父は仁徳天皇・母は磐之媛命皇后,仁徳天皇の父が応神天皇・母は仲姫命皇后です。仁賢天皇の都した石上広高宮の場所については,「「石上」は奈良県天理市石ノ上付近の地。「広高」は,広く高い意から「宮」の美称。その所在地について,『帝王編年記』は大和国山辺郡石上左大臣家の北辺の田原」(天理市田部付近か)という。『大和志』は「山辺郡嘉幡村」(天理市嘉幡)とする。」とあります(『新編日本古典文学全集3』257頁註4)。市辺押磐皇子については,仁賢天皇の弟である第二十三代顕宗天皇が播磨における牛飼時代に踊って歌って,「石上 振の神椙,〔略〕本伐り 末截ひ,〔略〕市辺宮に 天下治めたまひし,天万国万押磐尊の 御裔僕らま 是なり。」と述べています(『日本書紀』顕宗天皇即位前紀)。ここでの「市辺宮」の場所は,「通説は,『延喜式』神名の「大和国山辺郡石上市神社」により,奈良県天理市布留付近とする」そうです(『新編日本古典文学全集3』234-235頁註12)。履中天皇は,仁徳天皇の崩御後,弟の住吉仲皇子の叛乱があって,仁徳朝の都があった難波から石上振神宮(石上神宮)に亡命し(『日本書紀』履中天皇即位前紀),翌年磐余稚桜宮で即位しています(『日本書紀』同天皇元年二月条)。石上は山辺郡にあるそうですから,大和国の一部である前に,それ自体やまとなのでしょう。
履中天皇の即位地である磐余についていえば,この地は,継体天皇が,『日本書紀』によればその二十年(一書では七年)にその磐余玉穂に奠都している所です。
応神天皇は,仲姫命のほか,その姉及び妹をも妃にしています(『日本書紀』同天皇三年三月条)。この三姉妹の父は品陀真若王,品陀真若王の父は五百木之入日子命です(『新編日本古典文学全集2』469-470頁註3,344頁註10)。五百木之入日命は,第十二代景行天皇(垂仁天皇の息子)と八坂入媛との間の子で,第十三代成務天皇の同母弟です(『日本書紀』景行天皇四年二月条)。景行天皇の他の皇子は地方に封ぜられ,日本武尊,成務天皇及び五百木之入日命のみが残されたとされるところ(『日本書紀』景行天皇四年二月条),日本武尊は帰らざる征討の旅に出,成務天皇は「近つ淡海の志賀の高穴穂宮に坐し」たということですから(『古事記』),五百木之入日命が景行天皇の纏向日代宮(『日本書紀』同天皇四年十一月条)があった地及びその周辺の留守番をしていたのでしょうか(なお,景行天皇五十八年二月条に,同月,同天皇は志賀の高穴穂宮に遷ったとあります。)。纏向は垂仁天皇も都した所で(『日本書紀』同天皇二年十月条),場所は奈良県旧磯城郡纏向村(現桜井市北部)です(『新編日本古典文学全集2』300頁註7)。
『日本書紀』神功皇后摂政三年正月条に「三年の春正月の丙戌の朔にして戊子〔三日〕に,誉田別皇子を立てて皇太子としたまふ。因りて磐余に都つくりたまふ。是を若桜宮と謂ふ。」とあり,同皇后は稚桜宮で崩御していますから(同皇后摂政六十九年四月条),応神天皇は,その二十二年三月に難波の大隅宮に遷るまでは磐余若桜宮にいたようです。
遠い土地から今の奈良県の地(なお,「日本でも奈良県など今日では決して豊沃な農業県とは言えないが,古代には日本を動かす原動力となるほどの生産を挙げていた。それは土地が高くて水捌けがよかったからである。」ということですから(宮崎市定『中国史(上)』(岩波文庫・2015年)151頁),当時は我が国の中心地です。)にやって来て,奈良盆地東南の山沿いの(石上ないしは纏向辺りの)お姫様のところに婿入りし,夫婦のお屋敷は磐余にある,といえば,継体天皇は,その五世の先祖の応神天皇とよく似ているようでもあります。したがって,
おそらく継体天皇は大和の諸豪族に推戴されたのではなく,自分の実力をもって大和に存在した対立勢力をうちたおし,約二十年の闘争ののちにようやく天皇となったものと思われる。そうして磐余の玉穂を都としたのである。
かれは,大和の中心をなす聖地に都をおくことによって,王者としての決意を示したのではなかろうか。すなわち,これをもって前王朝の系譜をうけつぐとともに,新しい王朝を開創することを内外に明らかにしたと解釈してよいであろう。このころ,初代の天皇をイワレヒコノミコトとする皇統譜ができあがっていたとすれば,継体天皇は自分が第二のイワレヒコとなることを期していたのである。
(直木10-11頁)
という場合,「第二のイワレヒコ」よりも「第二のホムタワケ」といった方がよかったのかもしれません。神武天皇の名は神日本磐余彦なのですが,「磐余彦というのはなぜであろうか。神武東征説話に磐余の地にかんする話があるのならそうした名がついてもよいが,なにも出てこない。」と実は不審がられています(直木9頁)。むしろ,継体天皇の事績が神武天皇に逆投影されて,磐余彦という命名となったのでしょうか。磐余と関係付けるための「磐余にある香久山の霊力で大和を平定したのだからカムヤマトイワレヒコである。」という理屈(直木9頁)のためには,天の香久山の社の土を採り,天の平瓮と厳瓮とを作って神を祭るのならば東征はうまくいくという夢のお告げが神武天皇にあって,そのとおりにしたら(『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年九月条)確かにうまくいったというお話は――天香久山は磐余に含まれるのだということについての補充弁論も必要ですが(直木9-10頁参照)――継体王朝の立場からは,よくできているものと評価すべきものなのでしょう。
なお,纏向と石上との関係については,纏向の垂仁天皇の息子の五十瓊敷命(景行天皇の同母兄)が剣千口を作って石上神宮に蔵め,更に同神宮の神宝を管掌することになったとあります(『日本書紀』垂仁天皇三十九年条)。その後石上神宮の神宝管理は,五十瓊敷命から同母妹の大中姫命を経て,物部連らに委嘱されています(『日本書紀』垂仁天皇八十七年二月条)。垂仁朝においては,両地はその同一勢力圏内にあったものと推認してよいものでしょうか。(ちなみに,「推認」の語は,「間接証拠から間接事実を認定し,さらに間接事実から要証事実である主要事実を推認する」というように用いられます(司法研修所編『事例で考える民事事実認定』(法曹会・2014年)13頁。下線は筆者によるもの)。この場合,要証事実は直接認定されてはいません。間接事実という別の事実から推認することになります。これに対して,「直接証拠から,直接,要証事実である主要事実を認定する場合」は,「認定」でよいのです(同頁)。)
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