1 『愛の流刑地』
筆者の郷土・北海道の生んだ偉大な文豪にして愛の街・銀座の征服者たる渡辺淳一(1933年生-2014年歿)の名作に『愛の流刑地』があります(単行本上下2006年・文庫本上下2007年,いずれも幻冬舎)。2004年11月から2006年1月まで日本経済新聞朝刊に連載されていた恋愛等小説です。
現在の衰廃長寿大国日本の朝の通勤電車内においては,背中を丸めてスマート・フォンの小さな画面をのぞき込みつつ,せわしなく指を動かしてゲームをしたり電子メールを打ったり漫画を読んだり,ちまちまとしたことをしているマスク姿の人々ばかりを見るようになりましたが,かつての興隆経済大国日本の朝の通勤電車内においては,企業戦士らは満員の乗客に身を揉まれつよじりつ,その朝入手の日本経済新聞を器用かつコンパクトに折り畳んで眼前僅かに存在する空間中に巧緻に保持し,むさぼるようにその最終面に目を通しつつ,「私の履歴書」の自慢話には,よしこの金満ラッキーじいさんができたのならばこの優秀なオレ様も!と脂肪に覆われたぽっちゃりお腹の上の小さな胸をわくわくと高鳴らせ,渡辺作品の男女話には,よしこの艶福ダンディ大先生に続いてこの二枚目のボクちゃんも❤とマスクに覆われざる露わな鼻の下をでれでれと長く伸ばし,今日もこれから打ち続く勤務先組織内における生存のための気配り心配りの辛労(仕事が大変,とはあえていいません。)に雄々しく立ち向かうべく,新たな元気をもらっていたものでした。妖艶な美女の露わな肢体の写真が大胆に掲載された賑やかなスポーツ新聞の紙面を,女性乗客の厳しい視線もかまわずその鼻先に無邪気に露呈する豪の者もいましたが,さすがにそれは下品というもの(現在であれば,セクハラということで直ちに社会的に抹殺されるものでしょう。),渡辺作品(及び小松久子閨秀画伯描くところの挿絵)までにとどめておくところが紳士の嗜みというものでありました。
ところで「名作」とは申し上げましたが,実は『愛の流刑地』の後半は殺人被告事件の被告人となった村尾菊治をめぐる刑事訴訟関係のお話になっており,「刑事訴訟法のお勉強はもういいよ」と,筆者は途中で読むのをやめてしまっていたところです。小説家としては,ストーカー行為によって自らが警察に逮捕された経験もあり(と確か「私の履歴書」に書かれていたようです。),刑事法関係の知識を誇示したかったのでしょうが,せっかくリラックスして小説を読もうとして今更昔の法律勉強の復習をさせられそうになる筆者としては,辛いところでした。(無論現在においては,お金持ちの文豪から刑事弁護の依頼があれば,二つ返事で駆けつけて,一心不乱にその刑事法関係蘊蓄話を承り,まずいところは「うーん,それは検察官が・・・」,「裁判官も保守的ですからねえ・・・」とやんわり舵取りをさせていただくことになります,とは筆者の願望的空想です。なお,読者の皆さまにおかれましては,まさかの際には筆者への刑事弁護依頼をよろしく御考慮ください(大志わかば法律事務所。電話:03-6868-3194,電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp)。)
しかしながら最近,旧刑法(明治13年太政官第36号布告)を調べていて,同法下においては我が国においても流刑というものがあったことを再確認し(同法7条4号・5号,20条及び21条),つい『愛の流刑地』を思い出してしまったところです(なお,現行刑法(明治40年法律第45号)下においては,流刑はありません(同法9条)。)。しかして,当該想起と共に,次のような疑問が湧いてしまったところです。
旧刑法下において,「流刑地」ってどこであったのであろうか。
2 「島地」(une île du Japon déterminée par le Gouvernement)
旧刑法においては,無期流刑及び有期流刑(12年以上15年以下)が重罪(同法においては,罪は,重罪,軽罪及び違警罪の3級に分かれていました(同法1条)。)の主刑のうちの二つとして掲げられており(同法7条4号・5号,20条2項),かつ,「流刑ハ無期有期ヲ分タス島地ノ獄ニ幽閉シ定役ニ服セス」とありました(同法20条1項)。この「島地」というのが「流刑地」ということになります。なんだか江戸幕府の遠島刑のようだから八丈島等であろうかとも一見思われます。しかし,旧刑法はフランス刑法を第一の基礎としたものであり,その叩き台となった草案はフランス人御傭外国人ボワソナアドによって起草されたものですから(大久保泰甫『日本近代法の父 ボワソナアド』(岩波新書・1998年)113-115頁),「島地」がそれに対応するところのフランス語の原語をまず見てみるべきでしょう。
1877年8月に大木喬任司法卿から元老院に提出された旧刑法の司法省案のフランス語版中旧刑法20条1項に相当する部分は,次のとおりでした(Projet de Code Pénal pour l’Empire du Japon présenté au Sénat par le Ministre de la Justice le 8e mois de la 10e année de Meiji (Août 1877); Tokio, Imprimerie Kokubunsha, 1879: p.7)。
25. Les condamnés à la déportation, soit perpétuelle, soit temporaire, sont transportés, dans une île du Japon déterminée par le Gouvernement.
Ils y sont détunus dans une prison spéciale, sans travail obligatoire.
(第25条 無期又は有期の流刑に処せられた者は,政府によって定められた国内の一島(une île du Japon déterminée par le Gouvernement)に移送される。
(流刑受刑者は,特別の刑事施設に拘置され,所定の作業に服さない。)
文字どおりには島流しですが,ある一島を政府が監獄島(「島地」)として指定することが想定されていたようです。その趣旨は,1886年に印刷されたボワソナアドによる改訂刑法草案及びその解説によれば,「流刑囚を人口の集中地から遠ざけること及び何らかの混乱に乗じて流刑囚が自ら,又はその徒党の助けによって脱出することがないようにすることであった。」とのことであり,「同時に,〔ボワソナアドの改訂刑法草案〕第27条〔旧刑法21条,旧刑法附則(明治14年太政官第67号布告)13条等に相当〕に基づき一定の期間の後に与えられ得る恩典を別として,家族との引き離しがより強調されることとなるものである。」とのことでもありました(Gve Boissonade, Projet Révisé de Code Pénal pour l’Empire du Japon accompagné d’un commentaire; Tokio, 1886: p.143)。
なお,旧刑法21条は「無期流刑ノ囚5年ヲ経過スレハ行政ノ処分ヲ以テ幽閉ヲ免シ島地ニ於テ地ヲ限リ居住セシムルヿヲ得/有期流刑ノ囚3年ヲ経過スル者亦同シ」と,旧刑法附則13条は「徒刑ノ囚仮出獄ヲ許サレタル者又ハ流刑ノ囚幽閉ヲ免セラレタル者家属ヲ招キ同居スルヲ請フ時ハ之ヲ許スヿヲ得但其路費ハ自ラ之ヲ弁ス可シ」と規定していました。
政府による流刑の島地の選択については,「立法の問題というよりは行政の問題であるので,法律と同じ固定性を有するものではない。したがって,経験によって有用性が示されれば変更がされ得る。」とのことで(Boissonade: p.143),また,流刑同様重罪(crime)の主刑である無期及び有期(12年以上15年以下)の徒刑(旧刑法7条2号・3号,17条2項)が執行される「島地」(同法17条1項は「徒刑ハ無期有期ヲ分タス島地ニ発遣シ定役ニ服ス」と規定していました。)と同一である必要も,法的にはありませんでした。しかし,「単一の監視並びに単一の海軍及び陸軍の備えをもって兼ねようとする経済上の理由に基づきその旨決定され得るところであるが,徒刑囚が〔流刑囚と〕同一の島地に置かれるという場合」もあり得るものとされ,その場合には「刑の執行の場所について,実際上分離(une séparation de fait)がされる。法が流刑囚は特別の刑事施設において拘置される〔幽囚される〕ものと規定しているのはこのためである。」とのことでした(Boissonade: p.144)。徒刑囚は定役に服しますが,流刑囚は定役に服しません。
他方,徒刑囚のための島地の選択については,ボワソナアドいわく。「脱獄の機会をより少なくするために,男子徒刑囚は,島地に置かれる〔女子徒刑囚は島地に発遣されず内地の懲役場に拘置されました(旧刑法18条)。〕。島地の決定は後に行われる。経験が必要とするならば,当該決定は変更され得る。それは行政上の問題であって,もはや刑事立法の問題ではない。」と(Boissonade: p.141)。当該部分に係るボワソナアドの註は,更にいわく。
(h) 治罪法草案628条について既に触れる機会があったところであるが(926頁b),日本は列島であるので,最も大きく,最も中央にあり,かつ,政府の所在地である本州(l’île de Nippon)をもって一種の大陸(continent)とみなす慣習がある。
刑罰の一般規則(le Règlement général des peines)は,北海道(la grande île de Yéso)を徒刑の執行地と定めた。
(Boissonade: p.141)
この「刑罰の一般規則」が何なのかはボワソナアドの文章からは直接分かりませんが,これは,1882年1月1日からの旧刑法の施行(明治14年太政官第36号布告)に向けて1881年9月19日に発せられた監獄則(明治14年太政官第81号達)でしょうか。
3 監獄則等と監獄と
(1)1881年の監獄則に関して
1881年の監獄則1条は,次のとおり。
第1条 監獄ヲ別テ左ノ6種ト為ス
一 留置場 裁判所及ヒ警察署ニ属スルモノニシテ未決者ヲ一時留置スルノ所トス但時宜ニ由リ拘留ノ刑ニ処セラレタル者ヲ拘留スルコトヲ得
二 監倉 未決者ヲ拘禁スルノ所トス
三 懲治場 徴治人ヲ徴治スルノ所トス
四 拘留場 拘留ノ刑ニ処セラレタル者ヲ拘留スルノ所トス
五 懲役場 懲役ノ刑及ヒ禁錮ノ刑ニ処セラレタル者ヲ拘禁スル所トス
六 集治監 徒刑流刑及ヒ禁獄ノ刑ニ処セラレタル者ヲ集治スルノ所トス
北海道ニ在ル本監ハ徒刑流刑ニ処セラレタル者ヲ集治ス
特に北海道に言及されています。ただし,「北海道ニ在ル本監ハ徒刑流刑ニ処セラレタル者ヲ集治ス」の部分については,第1条2項なのか第1条6号後段なのかが細かいながら問題です。これについては,第1条2項ならば1字上がっていなければならないこと(「文語体・片仮名書きの法令では,行を変えるだけで項の区切りを付けていた」ところです(前田正道編『ワークブック法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)160頁)。)及び「本監」といわれていて「監獄」ではないことからすると,第1条6号の一部たる同号後段なのでしょう。
禁獄囚は,「内地ノ獄ニ入レ定役ニ服セス」(旧刑法23条1項。下線は筆者によるもの)ということなので,そもそも,徒刑流刑に処せられた者を集治する北海道(すなわち北海道は徒刑流刑に共通の島地であるということになるようです。)で入獄することは――内地・島地の別を重んじて――ないものとされていたのでしょうか。旧刑法23条1項の「内地ノ」はフランス語文では “située dans l’intérieur du Japon”であるようであり(Projet (Août 1877): p.8; Boissonade: p.80),これに関してボワソナアドは,禁獄囚は「島地(une île)に押送されることはない。」と述べていたところです(Boissonade: p.149)。なお,重罪の主刑たる禁獄には重禁獄と軽禁獄とがありましたが(旧刑法7条8号・9号),「重禁獄ハ9年以上11年以下軽禁獄ハ6年以上8年以下」でした(同法23条2項)。無期流刑が二等又は有期流刑が一等を免ぜられると重禁獄,有期流刑が二等を免ぜられると軽禁獄になります(旧刑法68条)。定役に服するとなると,禁獄ではなく,懲役になります(旧刑法22条1項)。
しかし,監獄則1条6号本文によれば,集治監が北海道外にあれば,道外ながらも当該集治監に徒刑囚を入獄させ,流刑囚を幽閉することもできるわけであり,すっきりしないところが残っています(集治監が本州にあれば,徒刑流刑の執行地が島地たることを求める旧刑法との関係で疑問ですが,ボワソナアドももはや行政の問題だと言ってはいたところです。)。
ということで,旧刑法の施行当時どのような集治監があったのかを知るべく法務省の『犯罪白書 昭和43年版』第3編第2章2「刑務所」を見てみると,1879年4月に「徒刑,流刑,終身懲役などの罪囚を収容するため,内務省直轄の集治監が東京府葛飾郡小菅村および宮城県宮城郡小泉村におかれ」,「さらに,内務省は,〔1881〕年8月,開拓使管下(北海道)石狩国樺戸郡に既決監を設け,樺戸集治監としたほか,〔1882〕年6月,石狩国空知郡市来知村に空知集治監,翌〔1883〕年3月,福岡県三池郡下里村に三池集治監,〔1885〕年9月,釧路国川上郡熊牛村に釧路集治監を設置した。また,〔1884〕年7月,兵庫県下兵庫に仮留監を設置して,内務省の直轄とし,東京,宮城,三池の3集治監に仮留監を付設し,北海道集治監に発遣する囚徒を一時拘禁せしめた。〔1891〕年6月,北見国網走郡に釧路集治監網走分監を設置し,同年7月北海道集治監の組織を変更し,本監を樺戸に,分監を空知,釧路,網走に設置した。」ということでした。旧刑法施行開始の1882年1月1日の段階では,流刑囚が幽囚され得る監獄は,小菅集治監,宮城集治監及び樺戸集治監の3監であったようです。本州島にある東京府小菅村及び宮城県小泉村を「島地」とはなかなかいいにくいところですが,おフランス流の旧刑法との間のねじれではあったものでしょう。
ところで,さきに出て来た「内地」の語について更にいえば,重罪の主刑たる懲役(旧刑法7条6号・7号)については――島地で執行されるものとされる徒刑との関係なのでしょうが――「懲役ハ内地ノ懲役場ニ入レ定役ニ服ス」とあります(同法22条1項。下線は筆者によるもの)。また「内地」が出てきたぞということで,この懲役の「内地」は禁獄の「内地」と同じかと思ってフランス語の案文を見てみると,懲役の「内地」は“l’intérieur du pays”であって(Projet (Août 1877): p.8; Boissonade: p.80),禁獄の「内地」とは違った用語となっています。ボワソナアドの説明によれば,懲役の執行場所は「遠く離れた特別の島(une île, éloignée et spéciale)ではもはやなく,くにの中に置かれた刑事施設(une prison de l’intérieur du pays)においてである。一般的には,有罪判決が言い渡された地方(contrée)のものにおいてである。」となっています(Boissonade: p.148)。要は,「内地」というよりは「地元」ないしは「当地」と訳した方がよかったものでしょうか。確かに,こう解さないと,北海道内で判決を言い渡された懲役囚をその都度わざわざ道外に押送しなければならないことになります。
(2)1889年の監獄則及び明治16年太政官第4号達に関して
1881年の監獄則を全部改正した,1889年7月12日裁可・同月13日布告の監獄則(明治22年勅令第93号)の第1条は次のようになっていました(なお,当該勅令には施行日の規定がありませんから,公文式(明治19年勅令第1号)10条から12条までの規定によったものでしょう。)。ちなみに,監獄則が法律ではなく勅令の法形式を採っているのは,監獄に収監中の者の監獄関係は特別権力関係だとする理論(塩野宏『行政法Ⅰ』(有斐閣・1991年)30頁参照)に基づくものでしょうか。
第1条 監獄ヲ別テ左ノ6種ト為ス
一 集治監 徒刑流刑及旧法懲役終身ニ処セラレタル者ヲ拘禁スル所トス
二 仮留監 徒刑流刑ニ処セラレタル者ヲ集治監ニ発遣スル迄拘禁スル所トス
三 地方監獄 拘留禁錮禁獄懲役ニ処セラレタル者及婦女ニシテ徒刑ニ処セラレタル者ヲ拘禁スル所トス
四 拘置監 刑事被告人ヲ拘禁スル所トス
五 留置場 刑事被告人ヲ一時留置スル所トス但警察署内ノ留置場ニ於テハ罰金ヲ禁錮ニ換フル者及拘留ニ処セラレタル者ヲ拘禁スルコトヲ得
六 懲治場 不論罪ニ係ル幼者及瘖啞者ヲ懲治スル所トス
1881年の監獄則1条6号後段のような,北海道に係る難しい規定は削られています。
なお,「旧法懲役終身ニ処セラレタル者」というのは旧刑法の施行前の裁判に係るものでしょう。旧刑法の懲役は重懲役と軽懲役とですが(同法7条6号・7号),「重懲役ハ9年以上11年以下軽懲役ハ6年以上8年以下ト為ス」とされており(同法22条2項),すなわち旧刑法には,無期といえば無期徒刑及び無期流刑があるだけで(同法7条2号・4号),無期懲役という刑はなかったのでした。
ちなみに,旧刑法の禁錮は,罰金と並んで軽罪(délit)の主刑であって(同法8条),無期はなくて,刑期は11日以上5年以下(同法24条2項),軽禁錮であれば定役に服しませんでしたが,重禁錮は定役に服しました(同条1項)。無期があり,かつ,全て定役に服さない現行刑法の禁錮(同法13条)とは,「禁錮」との名称は同一ですが,異なります。
罰金を禁錮に換えることについては旧刑法27条に規定があります。
拘留は,科料と並んで違警罪(contravention)の主刑の一つであり,「拘留所ニ留置シ定役ニ服セス其刑期ハ1日以上10日以下」のものでした(旧刑法9条,28条)。
不論罪に係る幼者及び瘖啞者の懲治については旧刑法79条,80条及び82条に規定があります。
懲役囚のみならず禁獄囚も地方監獄で拘禁することになったのは,旧刑法23条1項の「内地」の解釈が,同法22条1項の「内地」のそれ(“l’intérieur du pays ou de la contrée où la condamnation a été prononcée”. 筆者流には「地元」ないしは「当地」)に揃えられたものでしょうか。
ところで,高倉健等ゆかりの網走分監が設置された1891年の段階では,流刑囚が幽閉され得る監獄は小菅,宮城,三池,樺戸,空知,釧路及び網走の7監であったか,といえばそうとも言い切れないようです。
旧刑法施行から1年少しが経過した1883年1月25日付けで,次の明治16年太政官第4号達が発せられています。
沖縄県人民ニ限リ徒刑流刑ニ処セラレタルモノハ同県下八重山島ニ発配スルヲ得ヘシ此旨相達候事
但囚人取扱方ハ旧慣ニ因リ沖縄県令之ヲ管理スヘシ
流刑囚が沖縄県民であった場合は,その幽囚地は,三池,小菅,宮城又は遠い北海道ではなく,八重山諸島であり得たわけです(実際には石垣島でしょうか。)。明治16年太政官第4号達は,「旧刑法施行ノ為メ公布シタル法令」の一として刑法施行法(明治41年法律第29号)附則2項によって現行刑法施行の日である1908年10月1日から廃止(刑法施行法附則1項,刑法上諭,明治41年勅令第163号)されるまで効力を有したものとされています。ただし,1903年3月19日に裁可され,同月20日に公布された監獄官制(明治36年勅令第35号)を見ると沖縄県の監獄は島尻郡小禄間切に沖縄監獄があるだけで,同官制2条に基づく分監も沖縄県にはなかったようです(明治36年3月23日司法省告示第18号)。すなわち,1903年当時(なお,監獄官制は同年4月1日から施行(同官制附則1項))には,八重山諸島には,警察署内の留置場はともかくそれ以外の監獄はなかったようなのですが,どうしていたものでしょうか。
(3)1903年の監獄官制に関して
1903年の監獄官制においては,前記『犯罪白書 昭和43年版』によれば,「集治監および府県監獄署は単に監獄と改称され,小菅監獄等57監獄の名称および位置が定められた」ところです。しかし,こうなると,57監獄中の某監獄が監獄則1条における監獄6分類中のどれに当たるのかが監獄官制上の名称だけでは不明となります。したがって,監獄官制12条2項は「各監獄ノ種類ハ司法大臣之ヲ指定ス」と規定し,同項に基づき明治36年3月23日司法省告示第17号が出されています。
しかし,この明治36年司法省告示第17号が難しい。
まず,57監獄中,留置場として指定されたものは一つもありません。これは,留置場は全て警察署内に設けられていたものであって,かつ,警察署内の留置場は司法大臣の管理外であるということでしょう。すなわち,内務省所管の留置場と司法大臣の管理に属する監獄官制上の監獄(同官制1条は「監獄ハ司法大臣ノ管理ニ属ス」と規定しています。)とを共に「監獄」とする監獄則上の監獄概念と,監獄官制上の監獄概念は異なるということでしょう(前者の方が留置場を含むだけ広い。)。朕の勅令で同じ「監獄」の語を使っておいてこれは何だ,とて明治天皇に逆鱗の気味はなかったものかどうか。
次に,集治監として指定されているものは,樺戸,網走及び十勝(北海道河西郡下帯広村)の3監獄だけです(いずれも地方監獄及び拘置監を兼ねます。なお,空知及び釧路の施設は消滅していますが,北海道内には他に函館監獄及び札幌監獄が存在しており,いずれも地方監獄,拘置監及び懲治場として指定されています。函館監獄には更に根室分監が設けられています。)。小菅,宮城及び三池はどうしたのだといえば,いずれも仮留監及び地方監獄としてのみ指定されています(なお,仮留監については,当該3監獄以外の監獄で指定されたものはありません。)。これは,従来からの運用の実際において,小菅,宮城及び三池は「集治監」との看板を掲げつつも,既に徒刑囚流刑囚の終着地ではなく,通過地にすぎないものとなっていたということでしょう。
結局,旧刑法下の流刑地は,(八重山諸島問題を別とすれば)やはり原作者・渡辺淳一の出身地たる北海道であったということになるようです。
4 「愛の徒刑地」から「女=政治の罪の流刑地」へ
(1)政治犯→流刑地
さて,3(3)の最後において,筆者が「流刑地」とのみ言ってあえて「愛の流刑地」と言わなかったことには理由があります。
旧刑法における流刑は,政治犯に科せられるものとされていたからです(同法68条2号・3号と67条2号・3号とを対照)。
1886年の自らの改訂刑法草案を説明しつつボワソナアドいわく。
無期流刑は,政治犯に対する死刑を廃する本草案において,政治犯に対する最も重い刑である。
これについては,本草案は,相当の注目に値する点でフランス法と異なっている。
フランスにおいては,政治事件について死刑が廃止された際に,それは「要塞監獄(enceinte fortifiée)」への流刑をもって代えられた。これは,脱走に対する厳重な警戒をするものであると同時に,自由の剥奪をより苦しいものとするものであった。より軽い政治犯罪については,島地におけるもの(dans une île)ではあるが,監視と両立するものたる相当程度の自由が認められる,「単純」と形容される流刑が維持された。
日本においても確かに2種類の流刑が存在する。しかし,それらは期間において相違するのみであって,その処遇内容(régime)においては相違しない。一方は無期であり,他方は有期(16年以上20年以下)である。両者のイメージは,無期及び有期の徒刑の緩和版というものである。両流刑において,流刑囚は島地において受刑することに加えて,特別の刑事施設に拘置(幽閉)される。しかしながら,後者〔幽閉〕の苦しみは必ずしも刑期中続くものではない。〔略〕〔ボワソナアド改訂刑法草案〕第27条は,その緩和をもたらす規定である。
(Boissonade: pp.142-143)
旧刑法の制定に向けて「政治犯については,ボワソナアドは,フランス第二共和制以来の考え方を踏襲して,死刑の廃止を実定法化しようと努力した。そして,〔1877年11月28日に〕司法省が太政官に上申した「日本刑法草案」の段階では,内乱罪の首魁にも,死刑は廃止され,無期流刑が科されることになっていた。」ところです(大久保119頁)。しかしながら,司法省案は太政官の刑法草案審査局における審査の段階で,「明けて〔1878〕年1月,審査局では,内閣に重要問題の予決を求め,ここで,皇室に対する罪を置くこと,国事犯(政治犯)を死刑に処すること,など4点が決定された(伊藤博文-井上毅ラインによる)。皇室に対する罪は,新律綱領では不吉であるという理由で除かれたが,今回の刑法では加えられ,また国事犯に対する死刑は,ボワソナアドの廃止論が審査局でくつがえされたのである。」ということでした(大久保115頁)。
なお,フランス法による政治犯の流刑地は,いずれも南太平洋のマルキーズ諸島やヌーヴェル・カレドニーにあったそうです。
国事ニ関スル罪に係る我が旧刑法第2編第2章を見ると,次のような規定があります。
第121条 政府ヲ顚覆シ又ハ邦土ヲ僭窃シ其他朝憲ヲ紊乱スルヿヲ目的ト為シ内乱ヲ起シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
二 群衆ノ指揮ヲ為シ其他枢要ノ職務ヲ為シタル者ハ無期流刑ニ処シ其情軽キ者ハ有期流刑ニ処ス
第131条 本国及ヒ同盟国ノ軍情機密ヲ敵国ニ漏泄シ若クハ兵隊屯集ノ要地又道路ノ険夷ヲ敵国ニ通知シタル者ハ無期流刑ニ処ス
敵国ノ間諜ヲ誘導シテ本国管内ニ入ラシメ若クハ之ヲ蔵匿シタル者亦同シ
第132条 陸海軍ヨリ委任ヲ受ケ物品ヲ供給シ及ヒ工作ヲ為ス者交戦ノ際敵国ニ通謀シ又ハ其賄遺ヲ収受シテ命令ニ違背シ軍備ノ欠乏ヲ致シタル時ハ有期流刑ニ処ス
第133条 外国ニ対シ私ニ戦端ヲ開キタル者ハ有期流刑ニ処ス其予備ニ止ル者ハ一等又ハ二等ヲ免ス
(2)故殺犯→徒刑地
これに対して,性交中の快感増進のためについ相手方を絞殺する行為は,「予メ謀リテ人ヲ殺シタル者」ではないから死刑にはならないとしても(旧刑法292条参照),「故意ヲ以テ人ヲ殺シタル者ハ故殺ノ罪ト為シ無期徒刑ニ処ス」との規定の適用があるものでしょう(同法294条)。徒刑であって,流刑ではありません。また,無期徒刑ですから懲役8年などというやわなものではありません。期間が無期であるのみならず,旧刑法の条文では単なる「定役」なのですが,フランス語案文によると,徒刑男囚(les hommes condamnés aux travaux forcés)の服する定役は,最も苦しい作業(les ouvrages les plus pénibles)なのです(Projet (Août 1877): p.6; Boissonade: p.78)。“travaux forcés”に服さしめられるのですから,徒刑は,フランス語の文字どおりには強制労働の刑です。その作業は,鬼哭啾々白骨累々,北辺の地の鬱蒼たる原生林における「囚人道路」開鑿作業のようなものでしょうか。五十代後半の文弱の物書きだからとて容赦はされず,徒刑囚たるもの60歳になるまでは壮丁同様の重い苦役に日々服して(旧刑法19条反対解釈),過去の性愛の悦びを思い出しては自らを慰めるその妄念も妄執も全て埃と汗とにまみれた疲労によって奪われ果てなければなりません。雪女が出て来ても,反応する元気はもうピクとも残っていないでしょう。仮出獄も,無期徒刑の場合は15年間待たねばなりませんし(旧刑法53条2項),かつ,仮出獄後も当該島地に留まらなければなりません(同法54条)。
定役には服さずに北海道で過ごし,5年もたったら集治監の幽閉から解放してもらって家族を呼び寄せて暮らそうかという政治犯についてならば「(家族)愛の流刑地」ともいい得たのでしょう。しかし,故殺の刑は無期徒刑である以上「流刑地」とはいかがなものでしょうか。性愛に溺れて犯した故殺の結果発遣される「愛の徒刑地」,しかして重い苦役の毎日に,みだらな性愛の思い出も終には無情に解け去ってしまう最果ての徒刑地,略して「愛トケ」では駄目であったのでしょうか。
(3)女(les femmes)=政治(la politique)
さはさりながら,我が母法国・おフランスの悪魔的外交官の悪魔的外交術をもってすれば,女は政治だから女がらみの犯罪は政治犯罪だ,だから徒刑ではなくて流刑に処せられるべきだ,と言い張り得るかもしれません。
その後,タレイランについてティエールは,ガンベッタに対して次のように語った。
――ド・タレイラン氏のもとに僕は足しげく通ったものさ。彼は僕に対して大いに好意を示してくれていた,けれども,やり切れなかったな。僕はいつも話題を,ヨーロッパ,時事問題,要は政治に持って行きたかったんだけれども,彼ときたら専ら女の話ばかりするのだからね。僕はいらいらしていた。で,ある日彼に言ったのさ。
――大公,あなたはいつも女性のお話をなさいますが,私としては,むしろ政治のお話ができれば嬉しいのですが,ってね。
で,やっこさんが僕に向かって言うにはこうだ――しかし,女・・・しかしこれは政治ですぞ,だってさ。(--- Mais les femmes, me répondit-il, mais c’est la politique.)
(Jacques Dyssord, Les belles amies de Monsieur de Talleyrand; Nouvelles Édition Latines, Paris, 2001: p.273)
ウィーン等の華麗な宮廷ではかようなespritに富んだ外交術が功を奏したのでしょうが,しかし,日本の質朴な法廷においてこのような“de la merde dans un bas de soie”(ナポレオンによるタレイランの人物評🧦💩)的弁論術を弄せんとすると,真面目な裁判官に,ふざけないでください!と厳しく叱責されそうです。