2021年05月

1 神州の清潔に対する脅威

 牧歌的運動会のグダグダもまた楽し(「A Spirit of St. Louishttp://donttreadonme.blog.jp/archives/1078569029.html)などと思ってしまう筆者は,やはり不謹慎・不真面目な人間なのでしょうか。安政五年,その年六月からのコレラ大流行を予見し給うてのことか(しかし,当該流行による江戸での死者は結局3万余人にすぎなかったそうですから(『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)12頁),今般の新型コロナウイルス感染症が撒き散らしつつある空前絶後の兇悪に比べれば,大したことはありませんよね。),日米修好通商条約締結につきついに勅許を下し給うことのなかった孝明天皇の(かしこ)き御潔癖の如く(しかし,叡意を(なみ)する井伊直弼政権によって,1858729日,同条約及び貿易章程が調印されてしまっています。),多数の外国人らの渡来から我が神州の清潔を守るべく,日本のジャーナリズムの良心たる朝日新聞社の2021526日付け社説を始めとして,今年(2021年)夏の東京オリンピック開催を決然中止すべしとの声が現在澎湃として全国から沸き起こっています。(上記朝日新聞社社説によれば,「無観客にしたとしても,ボランティアを含めると十数万規模の人間が集まり,活動し,終わればそれぞれの国や地元に戻る。世界からウイルスが入りこみ,また各地に散っていく可能性は拭えない。/IOCや組織委員会は「検査と隔離」で対応するといい,この方式で多くの国際大会が開かれてきた実績を強調する。しかし五輪は規模がまるで違う。/選手や競技役員らの行動は,おおむねコントロールできるかもしれない。だが,それ以外の人たちについては自制に頼らざるを得ない部分が多い。」したがって「「賭け」は許されない」ということです。しかし,日本人特有の生真面目さをもってするマスク着用と手の消毒と外飲み禁止とによって新型コロナウイルスに対する我々の守りは既に鉄壁であったはずなのに,なぜ,数は多いといっても選手村等に隔離されて現地一般住民たる我々とはさほど接触は無いであろう外国人らの渡来を今更恐れなければならないのでしょうか。当局者が頑張れば,彼らを「おおむねコントロール」できるのでしょう。マスク着用も手の消毒も外飲み禁止も,実は単なる気休めで,何の効果もなかったのだよ,ということでしょうか。そういうことではないでしょうし,我が従順な日本の民草の「自制」には,安心して頼ることができるはずです(「自制」の軛を打ち破る叛逆の野性が超高齢化段階に達した我が民族にもまだあることが発見されれば,それはそれで結構なことです。それとも実は,現在の日本は,良識ある朝日新聞関係者を除く全国民(特に若者)が暴徒と化しており,全く「自制」せずにヒャッハーと新型コロナウイルスを放出撒布しつつある無法の巷状態にある,というのが正しい認識なのでしょうか。)。それに,大学での対面授業を禁じつつ学徒を大量動員し,ボランティアとしてオリンピックに献身奉仕させるということももう流行らないでしょう。であれば,選手村で兇悪な新型コロナウイルスに感染した選手らが帰国する先の諸外国にかかる迷惑が心配なのでしょうか。しかし,その心配は当該外国がすればよいことであって,心配ならば自国民のオリンピック参加をあらかじめ禁じ,又は対応可能な規模に参加者数を制限した上で帰国時に厳格な隔離・検査を行なえばよいだけのことのように思われます。とはいえ,そういう自存自衛のための配慮のできる国ないしは人は少ないのでしょう。やはり我々日本国民は,八紘一宇の精神をもって世界人類の幸福を考えなければなりません。)

 これに対して,しかし日本側が勝手にオリンピック開催を中止したら国際オリンピック委員会(IOC)に対して巨額の損害賠償金を支払わなければならないんじゃない,と懸念する声もあります。生麦事件等で多額の賠償金を支払わされたりなどした我が近代史上の対西洋列強トラウマは,なお根深いものがあるのでしょうか。懸念の声が上がるのはもっともです。しかし,懸念する良識の誇示ばかりで,具体的な事実関係は今一つはっきりしません。

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生麦事件碑(神奈川県横浜市鶴見区)

 

2 スイス民法・債務法

 この点,筆者は,良識的苦悩の思弁以前に具体的取材活動を元気に敢行する東京スポーツを極めて高く評価するところです。東スポWeb2021519日に掲載された「「東京五輪中止なら多額の賠償金」は本当? 判断基準スイス法の専門家は意外な見解」記事に,次のようにあったところです。

 

実は,開催都市契約の87条には「本契約はスイス法に準拠する」と明記されており,IOCのお膝元でもあるスイスの法律に答えが隠されているのだ。そこでスイス法に詳しい奧野総合法律事務所・外国法共同事業スイス連邦法弁護士のミハエル・ムロチェク氏を直撃した。

まず,同氏はスイス(ママ)法第971項「義務を全く履行しなかった債務者は,自分に過失がないことを証明できない限り,損害を賠償しなければならない」を示した。原則としては支払い義務を負うようだ。その一方で同氏は第1191項「債務者に帰責事由(落ち度)がない状況により履行が不可能になった場合,履行義務が消滅したとみなされる」を掲げる。つまり不可抗力の場合は支払いが免除されるのだ。

 

 つまり,専ら日本側によって東京オリンピック開催の中止がされた場合におけるIOC損害賠償請求は,開催都市契約を発生原因とする日本側の債務の不履行に対する損害賠償請求としてされるものであるわけです。我が民法(明治29年法律第89号)4151項には「債務者がその債務の本旨に従った履行をしないとき又は債務の履行が不能であるときは,債権者は,これによって生じた損害の賠償を請求することができる。ただし,その債務の不履行が契約その他の債務の発生原因及び取引上の社会通念に照らして債務者の責めに帰することができない事由によるものであるときは,この限りでない。」とあるところです。スイス債務法(Code des Obligations; Obligationenrecht971項のフランス語文は「Lorsque le créancier ne peut obtenir l’exécution de l’obligation ou ne peut l’obtenir qu’imparfaitement, le débiteur est tenu de réparer le dommage en résultant, à moins qu’il ne prouve qu’aucune faute ne lui est imputable.」,ドイツ語文は「Kann die Erfüllung der Verbindlichkeit überhaupt nicht oder nicht gehörig bewirkt werden, so hat der Schuldner für den daraus entstehenden Schaden Ersatz zu leisten, sofern er nicht beweist, dass ihm keinerlei Verschulden zur Last falle.」です。拙訳は,フランス語文については「債権者が債務の履行を受けることができないとき又は不完全にしか受けることができないときは,債務者は,その責めに帰すべき過失(faute)がないことを証明しない限り,これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」,ドイツ語文については「義務の履行がおよそされ得ないとき又は適切に(gehörig)され得ないときは,債務者は,帰責事由(Verschulden)がないことを証明しない限り,これによって生じた損害を賠償しなければならない。」です。

 スイス法といっても我が民法と似たようなものであるなぁ,という感想を持たれませんでしょうか。スイス民法及び同債務法について,我妻榮は次のように紹介しています。

 

  〔略〕欧洲大陸では,第18世紀末から第19世紀の初めにかけて,国家の中央権力の強大と自然法論の隆盛とによって,民法典編纂の気運が大いに勃興し,大民法典があいついで編纂された,そして,その産物のうち,1804年のフランスの「ナポレオン法典」(以後フ民何条として引用する)は,今日なお効力を有し,その後第19世紀の末尾1896年に編纂されたドイツ民法典(以後ド民何条として引用する)及び第20世紀初頭1907年のスイス民法典(以後ス民何条として引用する)(債権法については1911年のスイス債務法(以後ス債何条として引用する))とともに,今日における代表的な大民法典である。

   これらの民法典の法思想史上における地位を一言すれば,フランス民法典は,第18世紀の個人主義的法思想の結晶であるが,ドイツ民法典は,第19世紀の総決算として,個人主義思想の爛熟を示すものということができるであろう。そして,日本民法もまたこれらとその思想と同じくし,むしろ後者に近い。これに対し,第20世紀初頭のスイス民法典は,フランス,日本,ドイツの3民法典に比すれば,個人主義思想のうちに社会本位の思想の萌芽が現れてくることを示すものである。本書においては,必要に応じてこれらの法典を引用する。

  (我妻榮『新訂 民法総則(民法講義Ⅰ)』(岩波書店・1972年)7-8頁)

 

要は,スイス民法・債務法は,フランス民法及びドイツ民法と共に,日本民法の仲間なのです。フランス語及びドイツ語併用という点では,スイス民法学は,フランス法及びドイツ法学の影響を共に受けた我が国の民法学とあるいはよく似た情況にあるともいい得ましょうか。いずれにせよ,我妻榮の引用を通じて,その影響は何らかの形で日本の法律家に既に及んでいるはずです。外国法だ大変だ,と無暗矢鱈と緊張する必要はないでしょう。

 

3 スイス債務法1191項と我が債務転形論と

スイス債務法1191項の法文はフランス語文で「L’obligation s’éteint lorsque l’exécution en devient impossible par suite de circonstances non imputables au débiteur.」,ドイツ語文で「Soweit durch Umstände, die der Schuldner nicht zu verantworten hat, seine Leistung unmöglich geworden ist, gilt die Forderung als erloschen.」です。拙訳は,フランス語文について「債務は,債務者の責めに帰することのできない事情によってその履行が不能になったときは,消滅する。」,ドイツ語文について「債務者が責めを負わなくてよい事情によってその債務の履行が不可能になったときは,当該債権は消滅したものとする。」です。平成29年法律第44号によって挿入された我が民法412条の21項には「債務の履行が契約その他の債務の発生原因及び取引上の社会通念に照らして不能であるときは,債権者は,その債務の履行を請求することができない。」とあります。従来は,「履行不能(〇〇〇〇)ノ如キ当然言フヲ俟タサル〔債権の〕消滅原因アリ新民法〔明治29年法律第89号〕ニ於テハ之ニ付テ別段ノ規定ヲ設クルノ必要ナシト認メタリ但此事ヲ前(ママ)シタル第415条,第534条乃至第536条等ノ規定アルヲ以テ自ラ明カナル所ナリ」とされていたところです(梅謙次郎『民法要義巻之三 債権編(第33版)』(法政大学=有斐閣書房・1912年)231頁)。

ところで,日本民法412条の21項には,債務者の責めに帰すべき事由によって履行不能となった場合も含まれます。これに対してスイス債務法1191項においては,債務者の責めに帰すべき事情によって履行不能となったときは,なお債務が存続するものとされています。この点,両者間にはアルプスの峻峰の如く越えがたい相違があるようにも見えます。しかしながら,我が民法415条に関して,従来,「債務不履行による損害賠償請求権は,本来の債権の拡張(遅延賠償の場合)または内容の変更(塡補賠償の場合)であって,本来の債務と同一性を有する。」と解されていたところです(我妻榮『新訂 債権総論(民法講義Ⅳ)』(岩波書店・1972年)101頁)。この考え方(債務転形論)は,スイス債務法1191項と親和的です(同項は,債務者の責めに帰すべき事情によって債務の履行が不能になった場合には当該債務は損害賠償債務に転形されて存続するという意味である,というのが我妻榮的な読み方なのでしょう。)。ただし,この点については,平成29年法律第44号による改正によって,(非スイス的に,ということになるのでしょうか,)債務転形論は否定されたとされています(内田貴『民法Ⅲ(第4版)債権総論・担保物権』(東京大学出版会・2020年)146頁。「塡補賠償請求権が,本来の債務の履行を請求する権利と併存し,選択的に行使できる救済手段であることが明らか」になっているところです(民法41522号及び3号後段参照)。)。

 

4 開催都市契約87条:準拠法選択・仲裁合意

IOC並びに東京都,公益財団法人日本オリンピック委員会(JOC)及び公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会(東京オリンピック組織委員会)の4者を当事者とする(日本国は当事者ではありません。)東京オリンピックの開催都市契約87条は,次のように規定しています(東京都オリンピック・パラリンピック準備局のウェブページに掲載されている日本語訳)。

 

  本契約はスイス法に準拠する。その有効性,解釈または実施に関するいかなる争議も,スイスまたは開催国における通常の裁判所を排除して,仲裁によって最終的に判断され,スポーツ仲裁裁判所のスポーツ仲裁規則に従いスポーツ仲裁裁判所によって決定される。仲裁はスイスのヴォー州ローザンヌで行われる。スポーツ仲裁裁判所が何らかの理由でその権限を否定する場合,争議はスイスのローザンヌにある通常裁判所で最終的に判断されるものとする。〔以下略〕

 

 開催都市契約の当事者間における当該契約に関する紛争は,スポーツ仲裁規則に従って,スイスのローザンヌを仲裁地とする仲裁廷によって解決されるわけです。東京都,JOC又は東京オリンピック組織委員会に対する損害賠償請求権をIOCに認める仲裁判断が出た場合,それに基づく民事執行をIOCが我が国内でしようとするときには,仲裁法(平成15年法律第138号)46条の執行決定を(大方の場合)東京地方裁判所(同条4項,同法513号)から得なければなりません(同法451項,民事執行法(昭和54年法律第4号)226号の2)。スイス法に基づく仲裁判断であれば,我が国の公の秩序又は善良の風俗に反するもの(仲裁法4529号)として我が国の地方裁判所によって却下されること(同法468項)は,まあないのでしょう。なお,IOCは,我が国では外国法人として認許されませんが(民法351項。澤木敬郎=道垣内正人『国際私法入門(第8版)』(有斐閣・2018年)164頁),執行決定の申立て及び民事執行の申立ては可能です(仲裁法10条・民事執行法20条,民事訴訟法(平成8年法律第109号)29条)。

 

5 スイス債務法における損害賠償の範囲及び損害額の認定

 債務不履行による損害賠償の範囲については,我が民法はその第416条において規定しており,これは英国の判例法を継受したものです(「「直接損害」の謎に迫る」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1068320185.html)。これに対して,大陸法の正嫡ならむスイス債務法の規定はどうかといえば,その第99条に次のようにあります。

 フランス語文。

 

En général, le débiteur répond de toute faute.

Cette responsabilité est plus ou moins étendue selon la nature particulière de l’affaire; elle s’apprécie notamment avec moins de rigueur lorsque l’affaire n’est pas destinée à procurer un avantage au débiteur.

Les règles relatives à la responsabilité dérivant d’actes illicites s’appliquent par analogie aux effets de la faute contractuelle.

  (一般的に,債務者は,全ての過失(faute)について責任を負う。

  (当該責任の範囲は,事件の特性に応じて伸縮する。特に,債務者が特典を得るためのものに係るものでない事件の場合においては,それは,厳格性を減じて評定される。

  (不法行為から生ずる責任に関する規定が,契約に係る過失の効果について準用される。)

 

 ドイツ語文。

 

   Der Schuldner haftet im Allgemeinen für jedes Verschulden.

Das Mass der Haftung richtet sich nach der besonderen Natur des Geschäftes und wird insbesondere milder beurteilt, wenn das Geschäft für den Schuldner keinerlei Vorteil bezweckt.

Im übrigen finden die Bestimmungen über das Mass der Haftung bei unerlaubten Handlungen auf das vertragswidrige Verhalten entsprechende Anwendung.

  (債務者は,一般的に,全ての帰責事由(Verschulden)について責任を負う。

  (責任の量(Mass)は,行為の特性に従って評定され,かつ,行為が債務者にとっての利益(Vorteil)を目的とするものでないときは,特に,よりゆるやかに判断される。

  (その他不法行為における責任の量に関する規定が,契約違反行為について準用される。)

 

「不法行為から生ずる責任に関する規定」ないし「不法行為における責任の量に関する規定」とは,スイス債務法42条及び43条がそうでしょうか。

スイス債務法421項及び2項は,次のとおり(同条3項は省略)。

フランス語文。

 

La preuve du dommage incombe au demandeur.

Lorsque le montant exact du dommage ne peut être établi, le juge le détermine équitablement en considération du cours ordinaire des choses et des mesures prises par la partie lésée.

  (損害の立証責任は,原告に属する。

  (損害の正確な総額が立証できないときは,裁判官が,事物の通常の成り行き及び被害者によってとられた処置を考慮して,衡平をもって(équitablement)当該額を定める。)

 

 ドイツ語文。

 

   Wer Schadenersatz beansprucht, hat den Schaden zu beweisen.

Der nicht ziffernmässig nachweisbare Schaden ist nach Ermessen des Richters mit Rücksicht auf den gewöhnlichen Lauf der Dinge und auf die vom Geschädigten getroffenen Massnahmen abzuschätzen.

  (損害賠償を請求する者は,損害を証明しなければならない。

  (数額を明らかにできない損害は,事物の通常の成り行き及び被害者によってとられた処置を考慮し,裁判官の裁量(Ermessen)によって評定される。)

 

 スイス債務法431項は,次のとおり(同条2項及び3項は省略)。

 フランス語文。

 

   Le juge détermine le mode ainsi que l’étendue de la réparation, d’après les circonstances et la gravité de la faute.

  (損害賠償の方法及び範囲(l’étendue)は,過失(faute)に係る事情及び重さに応じて,裁判官が定める。)

 

 ドイツ語文。

 

   Art und Grösse des Ersatzes für den eingetretenen Schaden bestimmt der Richter, der hiebei sowohl die Umstände als die Grösse des Verschuldens zu würdigen hat.

  (生じた損害に係る賠償の方法及び大きさ(Grösse)は,裁判官が定める。この場合において,当該裁判官は,帰責事由(Verschulden)に係る事情及び大きさを衡量しなければならない。)

 

スイス債務法422項は,我が民事訴訟法248条(「損害が生じたことが認められる場合において,損害の性質上その額を立証することが極めて困難であるときは,裁判所は,口頭弁論の全趣旨及び証拠調べの結果に基づき,相当な損害額を認定することができる。」)を想起せしめます。前者は,後者の適用において参考となるというべきでしょうか。

スイス債務法431項は,損害賠償の範囲ないしは大きさ(l’étendue de la réparation Grösse des Ersatzes)について,我が国でいうところの相当因果関係に係る相当性の内実を示唆するものでしょうか。過失ないしは帰責事由の事情及び重さ(les circonstances et la gravité de la faute; sowohl die Umstände als die Grösse des Verschuldens)を考慮すべき要件としていますから,いわゆる義務射程=保護範囲説に親和的であるようです。

東京オリンピック開催を自ら中止してしまった場合,東京都,JOC又は東京オリンピック組織委員会としては,まず,「その責めに帰すべき過失がないことを証明」すべく頑張るわけですが(スイス債務法971項。なお,仲裁地たるローザンヌはフランス語圏内ですので,以下スイス債務法の紹介はフランス語文に拠ります。),当該立証がうまくいかなかったときは,損害賠償額の減額を狙って,「いやいや,オリンピックはそもそも非営利目的の催しのはずですし,我々も金儲けのためにやっていたわけではありません。」と主張するものか(同法992項参照),あるいは「良識あり,かつ,年齢を重ねて命(自己のものを含む。)をいとおしむようになった,知的容姿のwoke的端麗を好む日本国民の間に絶大な影響力を有する天下の大朝日新聞に「やめろ!」と言われてしまった,という深刻な事情を酌んでくださいよぉ。」と泣きを入れるものか(同条3項によって準用される同法431項参照)。

 

後編に続く(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078653594.html

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(上)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078601732.html(申命記第22章5節,禮記及び違式詿違条例)

(中)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078601795.html(セーヌ県警視総監命令等)


6 東京地方裁判所令和元年12月12日判決

 東京違式詿違条例62条及び他の違式詿違条例における応当規定が旧刑法の施行に伴い1881年限りをもって消滅(警察犯処罰令32号は度外視しましょう。)していたところの我が国ですが,出生した時に割り当てられた性別(男性)と自認している性別(女性)とが一致しない状態の者であって,専門医から性同一性障害の診断を受けているもの(性別適合手術を受けておらず,戸籍上の性別はなお男性)を原告として,原告が女装して勤務しているその職場(国の官庁)における処遇に関して国が訴えられた国家賠償請求事件に係る興味深い判決が令和元年(2019年)1212日に東京地方裁判所(江原健志裁判官(裁判長),清藤健一裁判官及び人見和幸裁判官)から出ています(判タ1479121頁)。異性装について論ずる本稿にとって関係が深そうな論点について見てみると,同裁判所は,次のような判示をしています。

 

  (1)イ 〔前略〕性別は,社会生活や人間関係における個人の属性の一つとして取り扱われており,個人の人格的な生存と密接かつ不可分のものということができるのであって,個人がその真に自認する性別に即した社会生活を送ることができるということは,重要な法的利益として,国家賠償法上も保護されるものというべきである。このことは,性同一性障害者特例法が,心理的な性別と法的な性別の不一致によって性同一性障害者が被る社会的な不利益の解消を目的の一つとして制定されたことなどからも見て取ることができる。〔後略〕

 

  (11)ア 〔略〕b原告の直属の上司(班長でしょうか。)であって,20143月末で定年退職予定〕が平成25年〔2013年〕117日面談において,原告に対して当該発言〔「なかなか手術を受けないんだったら,もう男に戻ってはどうか」〕とおおむね同じ内容の発言をしていたことを認めることができる。

     イ そこで,検討するに,このようなbの発言は,その言葉の客観的な内容に照らして,原告の性自認を正面から否定するものであるといわざるを得ない。

       〔略〕bは,「なかなか手術を受けないんだったら,服装を男のものに戻したらどうか」という発言をしたものであって,当該発言は,原告の性自認を否定する趣旨でされたものではない旨を主張している。しかしながら,性別によって異なる様式の衣服を着用するという社会的文化が長年にわたり続いている我が国の実情に照らしても,この性別に即した衣服を着用するということ自体が,性自認に即した社会生活を送る上で基本的な事柄であり,性自認と密接不可分なものであることは明らかであり,bの発言がたとえ原告の衣服に関するものであったとしても,客観的に原告の性自認を否定する内容のものであったというべきであって,上記(1)イのとおり,個人がその自認する性別に即した社会生活を送ることができることの法的利益としての重要性に鑑みれば,bの当該発言は,原告との関係で法的に許容される限度を超えたものというべきである(なお,被告は,bがそのような発言に至った事情として,丙〔原告の勤務部署〕において原告が性別適合手術を受けていないことを疑問視する声が上がっていたことや,当時の原告の勤務態度が芳しいものではなかったことなどを主張しているが,これらの事情を客観的に裏付ける的確な証拠はないし,仮にそのような事情があったとしても,上記の法的な評価を左右するに足りるものではないというべきである。)。

     ウ したがって,bによる上記の発言は,原告に対する業務上の指導等を行うに当たって尽くすべき注意義務を怠ったものとして,国家賠償法上,違法の評価を免れない。

 

 「なかなか手術を受けないんだったら,服装を男のものに戻したらどうか」との問題発言の問題性は,金銭換算すれば10万ないしは20万円でしょうか。「原告は,上記のとおり経産省が本件トイレに係る処遇を継続したことによって,個人がその自認する性別に即した社会生活を送ることができるという重要な法的利益等を違法に制約されるとともに,上記のbの発言によって性自認を否定されたものと受け止めざるを得ず,これらによって多大な精神的苦痛を被ったものと認めることができる。この制約された原告の法的利益等の重要性,本件トイレに係る処遇が継続された期間が長いことその他本件に現れた一切の事情を考慮すると,これらに対する慰謝料の額としては,合計120万円と認めるのが相当である。」と判示されているところ(本件判決第3の4(1)),120万円のうちその大部分は「本件トイレに係る処遇問題」に対応するのでしょうが,その対応部分が,切りのよい100万円を下回ることはないのでしょう。そうなるとbの発言に対応する部分は20万円以下ということになります。なお,不法行為による損害についての慰謝料額は,「事実審の口頭弁論終結時までに生じた諸般の事情を斟酌して裁判所が裁量によって算定」します(最判平9527民集5152024頁。名誉毀損による損害についての慰謝料額に関する判示)。


経済産業省別館
 

(1)「性別」の決定要素,「性別」に即した社会生活を送ることができることの法律上保護される利益性及び当該生活における「性別」に即した衣服を着用することの基本性

 本件東京地方裁判所判決は,「性別」について,それに即した社会生活を送ることができることが重要な法的利益として国家賠償法(昭和22年法律第125号)上(したがって,民法の不法行為法上も)保護されるものであるとした上で,それを決定するものは,生物学的性別ではなく本人の性自認であるとする判断を示しています。(そこでの「個人がその真に自認する性別」とは,当該個人が,自己がそうであるものと「心理的」に「持続的な確信を持ち」,かつ,それに「身体的及び社会的」に「適合させようとする意思を有する」ものなのでしょう(性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(平成15年法律第111号。以下「性別取扱特例法」と略します。)2条参照)。)「進歩的」なものとして歓迎される判断でしょう。しかし,そこから先の論理展開は,あるいは極めて保守的であるものと解し得るようにも思われます。

すなわち,本件東京地方裁判所判決における論理は,男女の性という二つの範疇(カテゴリー)を堅持した上で(本件原告は,飽くまでも自己の女性性貫徹の尊重を求め,「性別」に係る範疇の多様化,あるいは当該範疇の解消には直接関心を示してはいなかったようです。裁判所も,「性別は,社会生活や人間関係における個人の属性の一つとして取り扱われており,個人の人格的な生存と密接かつ不可分のもの」と言う以上は,従来取扱いの性別に係る個人の「性別」をおよそなみする社会制度は全ていけないものとするのでしょう。),性自認によって自己に割り当てた男女いずれかの「性別」に即した社会生活を送ることができるという法律上保護される利益(本件原告は,飽くまでも女性としての社会生活を送りたいと主張していたのであって,他の女性職員らとはまた区別された「性的少数者」としての社会生活を送ることは希望していなかったものでしょう。また,男女の社会生活はそれぞれ異なった種類のものであるということになるのでしょう。)を定立するとともに,その「性別」に即した社会生活の基本的な内容として「性別に即した衣服を着用するということ」を直接持ち込むものと解されます。「性別に即した衣服を着用するということ」が「性自認と密接不可分なものであることは明らか」であるとまで判示されていますから,男女いずれかを自己の「性別」とする「性自認に即した社会生活を送ることができる」法律上保護される利益をあえて主張しようとする者は,まず,当該性自認に即し,伝統的な「性別によって異なる様式の衣服を着用する」ことによる(あか)し立てから始めなければならないということのようでもあります。

「性別」の重要性が再確認されるとともに,「性別」とそれに即した服装との結び付きは,むしろ強化され,より緊密化されたようにも思われます。(また,ここでの「性別」は男女の二つ限りであり,必ずどちらか一方でなければならないのでしょう。)生物学的性別と性自認による「性別」と,ということで出発点は異なるとしても,結論としては申命記第22章第5節の教えはやはり依然として守られるべきものだ,ということになるのではないでしょうか。生物学的性別のいかんを問わず,性自認上その「性別」が女性である者に対して,服装を男のものにしたらどうかなどと(のたま)う者に対しては,神の怒りならぬ,慰謝料支払を命ずる東京地方裁判所判決の鉄槌が下されます(“Non induetur mulier veste virili.” “Abominabilis apud Deum est.”)。

 

(2)「個人の人格的な生存」と関係の薄い服装の場合

 性自認が男性である男性の女装及び性自認が女性である女性の男装並びに男装でも女装でもない服装をすることに係る各利益は,本件東京地方裁判所判決における「重要な法的利益として,国家賠償法上も保護されるもの」には,なお含まれないわけでしょう。法律上保護される利益性をそう簡単に安売りするわけにはいかないものでしょう。上記各利益は「個人の人格的な生存と密接かつ不可分」な利益とまでは認められないものでしょう。なお,「ジェンダー・フリー」なるものは,2006131日付け都道府県・政令指定都市男女共同参画担当課(室)宛て内閣府男女共同参画局「「ジェンダー・フリー」について」事務連絡において,当該用語の使用は不適切である旨宣告されています。

 しかし,「個人の人格的な生存」とは具体的には何でしょうか。言葉の輝きがまぶし過ぎて,よく考えにくいところがあります。民法については,伝統的には次のように説明されるということになるのでしょう。しかし,本件判決における用語法と整合するものかどうか。

 

   近世法が,すべての個人に権利能力を認め,これを人格者(Person)とすることは,個人について,他人の支配に属さない自主独立の地位を保障しようとする理想に基づく。それなら,近世法は,この自主独立の人格者をして,いかなる手段によってその生存を維持させようとしているのであろうか。一言にしていえば,私有(●●)財産権(●●●)の絶対を認め,契約(●●)自由(●●)()原則(●●)によってこれを活用させようとしているのである。

  (我妻榮『新訂民法総則(民法講義Ⅰ)』(岩波書店・1972年)46頁)

 

 とはいえ,「性別は,社会生活や人間関係における個人の属性の一つとして取り扱われているため,個人の人格的存在と密接不可分のものということができ」という文言は,最高裁判所第二小法廷平成31123日決定(集民2611頁)に係る鬼丸かおる裁判官及び三浦守裁判官の補足意見に出て来るものではあります。ただし,これは,性別取扱特例法31項の審判を受けられることが性同一性障害者にとって「切実ともいうべき重要な法的利益」である所以(ゆえん)を説明するという,当該審判制度の趣旨及びその設計の在り方をその利用者との関係で考えるという限定された場面で用いられた文言です。(「枕詞(まくらことば)的」文言と言うと,言い過ぎでしょうか。しかし,当該切実性・重要性は,実は論証不要の事実として既にそこにあったのではないでしょうか。)また,性別取扱特例法が性同一性障害者の「社会的な不利益の解消を目的」の一つとしているといっても,その解消方法は,同法自身,性別の取扱いの変更の審判経由の限定的なものとしています。これに対して,本件判決が「個人の人格的な生存と密接かつ不可分のもの」性から導出した「個人がその自認する性別に即した社会生活を送ることができることの法的利益」は,不法行為法を通じて,広く社会と直接かかわり,社会を拘束することになります(本件判決自身がそのことを示しています。)。このような重大な結果が,具体的な内容を有しない単なる修辞(レトリック)から生み出されるということはないはずです。

「性別」が「個人の人格的な生存と密接かつ不可分」であるのは「社会生活や人間関係における個人の属性の一つとして取り扱われ」ているからであるものとされています。しかし,「社会生活や人間関係における個人の属性」とされるものは男女の別だけではないはずです。しかして,当該他の「個人の属性」全てについても,個人がその真に自認する各属性に即した社会生活を送ることができることは法律上保護される利益である,とまで本件判決は大胆かつ積極的に含意するものではないのでしょう。「性別」のみがここで特に切り出された理由が,具体的な形でもう一つ欲しかったところです。

 

(3)19世紀パリとの比較

 本件原告の場合,いわゆるカミング・アウトをする前から既に国家公務員として就職していましたから,「通常男性がするものとされている職業に従事する女性」に対するセーヌ県警視庁の男装許可証交付の要否といった問題場面とは一応無関係であったわけです。女装しなければ国家公務員の職を失い,又は減給されるということも,我が国ではないはずです。なお,19世紀フランスにおける男尊女卑についていえば,パリにおける印刷工の日給は,同一労働であっても,男が4フラン,女が2.5フランであったので,女工として勤めていた工場を辞めて,男装して「男子工」として再就職をするに至った人がいたそうです(Bard: 5)。

他方,当事者の生物学上の男女の違いはありますが(本件原告は男性),異性装を必要とする「健康上の理由(cause de santé)」が認められる場合に係る問題としては,19世紀の悩めるParisien(ne)sと関連するところがあるでしょう。

 

(4)禮記等的懸念との関係

 「経産省においても,女性ホルモンの投与によって原告が遅くとも平成22年〔2010年〕3月頃までには女性に対して性的な危害を加える可能性が客観的にも低い状態に至っていたことを把握していたものということができる(その後,原告は,平成29年〔2017年〕7月頃までには男性としての性機能を喪失したと考えられる旨の医師の診断を受けたものである。)。」ということでしたから(本件判決第3の3(1)エ),性的交渉の発生防止に特に注意を払う前記の禮記的ないしは米国諸都市の条例的(更に前記申命記第22章第5節の立法趣旨の①的)懸念は無用であったようです。

 

(5)性自認否定の不法行為における注意義務違反

 「bによる上記の〔原告の性自認否定の〕発言は,原告に対する業務上の指導等を行うに当たって尽くすべき注意義務を怠った」ものとされていますが,この場合,業務上の指導等を行うに当たっての注意義務を尽くしたとされるためには,損害賠償請求訴訟による反撃をされてしまって役所内・社内でまずい立場にならないように,よく注意して,相手方の性自認を否定するものと客観的に解され得ると予見される発言はとにかく避けろ,ということになるのでしょうか。被侵害利益の種類と侵害行為の態様との相関関係において考察せよといわれても(我妻榮『事務管理・不当利得・不法行為(復刻版)』(日本評論社・1988年)125頁参照),相手方の性自認という極めて重い法的利益を侵害すると,その行為の態様のいかんを問わずに一発アウトとなるようです。

東京地方裁判所は,性自認否定の不法行為に係る違法性成立に必要な侵害態様について説くところが多くありません。原告は「平成2111月頃の時点において二,三年以内に性別適合手術を受けることを想定している旨を述べていた」そうですから(本件判決第3の3(12)イ),それから3年余経過しても性別適合手術を依然受けていない原告に対して,「原告が性別適合手術を受けていないことを疑問視する声が上が」ることは――原告の女性としての性自認(ここでは主に,女性としての性別に「身体的」に「適合させようとする意思」の部分)の有効性ないしは強度について,変化があり得ると考える立場を採れば――あるいは無理からぬことであり(性自認が変化したのではないかとの疑問に基づく「疑問視」),当該「疑問」の存在を行為の違法性判断に当たって考慮してもよかったようにも思われますが,同裁判所は「仮にそのような事情があったとしても,上記の法的な評価を左右するに足りるものではないというべきである。」と一蹴しています。

 ところで,慰謝料は,「不愉快ノ感情」といった形での「財産以外の損害」(民法710条)を「金銭ニ見積リ以テ之ヲ賠償」するものですが(梅謙次郎『民法要義巻之三 債権編(第33版)』(法政大学=有斐閣書房・1912年)885頁),その前提として,民法709条ならば「権利又は法律上保護される利益の侵害」,国家賠償法1条ならば「違法」行為が必要となるところです。本件判決は,「客観的に原告の性自認を否定する内容」の発言があれば直ちに国家賠償法1条の違法性があるとするもののようです。そうであれば,「個人がその真に自認する性別に即した社会生活を送ることができる」という法律上保護される利益は,当該利益の主体に対して,その性自認を客観的に否定する内容の発言が到達したときには,それだけで直ちに侵害されてしまうものとなります。なかなか脆弱です。あとは当該主体に損害としての「不愉快ノ感情」が起こるかどうかですが,自分の意見・考え・自意識を否定するような発言を聞かされ,あるいは読まされることは,通常,不愉快の感情を催させるものでしょう(民法4161項参照)。随分窮屈です。沈黙は金,ということになるのでしょう。

敬して遠ざけるか。しかし,separate-but-equal状態では,今度は,そもそもの「社会生活を送ること」がお膳立てされていないという苦情がありそうです。

なかなか難しいなぁと嘆息して倒れることとも,堪忍してよと逃げることも,およそ許されません。「性同一性障害者の性別に関する苦痛は,性自認の多様性を包容すべき社会の側の問題でもある」(前記最決平31123鬼丸=三浦補足意見)とともに,その正面からの否定は一切許されない重大な法益たる性自認は,生物学上の性別をそのまま自己の「性別」と自認している普通の人々にもそれぞれあるはずなのでした。

 

(6)性別取扱特例法3条1項の要件の不要と同法4条1項の効果の要否と

 さて,本件判決によれば,個人がその真に自認する「性別」に即した社会生活を送ることができるという法律上保護される利益を享受するには,(当該「性別」と生物学的性別とが一致しない者については)性別取扱特例法2条の性同一性障害者であればよく(原告は性同一性障害者であるとの専門医の診断を得ています。また,同判決は,「個人がその真に自認する性別に即した社会生活を送ることができるということは,重要な法的利益として,国家賠償法上も保護されるものというべきである」との判断の理由付けに性別取扱特例法を援用しています。),同法31項の要件(家庭裁判所の性別の取扱いの変更の審判。その前提条件としては,特に,生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること(同項4号)及びその身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること(同項5号))の充足は不要であるということになるようです。

ただし,性別取扱特例法31項の要件を充足しなければ,「民法(明治29年法律第89号)その他の法令の規定の適用については,法律に別段の定めがある場合を除き,その性別につき他の性別に変わったものとみなす。」との規定(性別取扱特例法41項)の適用を受けることはできません。しかし,当該規定の適用前の段階で既に社会生活上の保護は受けられるわけです。

生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること,その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること等の要件を満たして家庭裁判所の審判を受けた者もそうでない者も,自認する「性別」に即して社会生活を送ることができる点では同様ということになり,周囲の人々も,その性自認を否定しないように細心の気配りをしなければならない点ではいずれに対しても同様ということになります。しかも,社会生活において,男女間で「法令の規定の適用」の結果が異なることは実はそう多くはないようです。トイレの使用についてすら,法令の規定自体がはっきりしていません。本件判決は,「トイレを設置し,管理する者に対して当該トイレを使用する者をしてその身体的性別〔生物学的な性別〕又は戸籍上の性別と同じ性別のトイレを使用させることを義務付けたり,トイレを使用する者がその身体的性別又は戸籍上の性別と異なる性別のトイレを使用することを直接的に規制する法令等の規定は,見当たらない。」との認識を示しています(本件判決第3の3(1)ア)。

 

(7)性自認と「真の」性自認と

しかしながら,その性自認(以下,性別取扱特例法2条の性同一性障害者のそれに限らないこととします。)に係る「性別」が同じものである人たちも,内部においては一枚岩ではないようです。当該「性別」が生物学的性別と一致する人たちと一致しない人たちとの間の問題はここでは措くとしても,後者の内部でも,性別取扱特例法314及び5号の要件に係る評価をめぐり対立があるようです。

 

 〔略〕「身体」が重視される一方で,「装い」は軽視される傾向にあります。だから,現代の性同一性障害者の基本的な考え方のように,性別を変えるということは,イコール身体を変えること,性器の外形を変えることになってしまうのです。〔略〕

  今の日本の社会では,私のように「身体」よりも「装い」を重視し,性別を移行するのに,身体をいじらない人は少数派です。だから,性同一性障害の人からは,よく「変態」,「変態」と言われます。「三橋なんて,どんなに女を装っても,身体は変えていないのだから,裸になれば男じゃないか,それで女のふりして暮らしているのは変態だ。」ということです。〔後略〕

 (三橋順子「トランスジェンダー(性別越境)観の変容:近世から現代へ」女性学連続講演会(大阪府立大学)第5回講演(201014131頁)

 

 無論,自己を「身体的に〔略〕他の性別に適合させようとする意思」がなければ,そもそも性同一性障害者ではありません(性別取扱特例法2条)。本件東京地方裁判所判決は「個人がその真に自認する性別に即した社会生活を送ることができるという」法律上保護される利益を認めましたが,ここでいう「真に自認」の「真に」は,「身体的」にもその「性別」に適合させようとする意思の存在までを意味するもののように思われるところです。

 ここで用語を細分してみましょう。「性同一性障害者」は性別取扱特例法2条のそれとして(したがって,専門医2名以上のその旨の診断を受けています。),専門医2名以上の診断を受けていること以外の同条の要件のみを充足している者を「未診断性同一性障害者」と,未診断性同一性障害者の要件から「自己を身体的に他の性別に適合させようとする意思」の要件を除いた要件のみを充足する者を「異性自認者」と(なお,「自己を社会的に他の性別に適合させようとする意思」が無い者については,取りあえず,他者とのかかわりにおいて問題が提起されることはなさそうです。),性同一性障害者のうち性別適合手術を受ける意思のない者を「手術不希望性同一性障害者」ということにしましょう(ちなみに,本件原告が性別適合手術を受けていないのは「皮膚アレルギーが原因」であって(本件判決第3の3(12)イ),性別適合手術を受ける意思がないわけではないようです。)。

 本件東京地方裁判所の事案は性同一性障害者に係るものでしたが,その射程内には,論理上,未診断性同一性障害者も含まれそうです。異性自認者が含まれるのかどうかは,分かりません。

 手術不希望性同一性障害者と異性自認者とは別個に存在し得る理窟です。これには,前記最決平成31123日がかかわります。

 性別取扱特例法31項の審判を受けるための要件として同項4号の規定が設けられていることは憲法13条ないしは同141項に違反するのではないかという論点がかねてあり,最決平成31123日は,同号たる「本件規定は,現時点では,憲法13条,141項に違反するものとはいえない。」と判示しています(つまり,遠くない将来,違憲・不要とされる可能性がある。)。その際「性同一性障害者によっては,上記〔生殖腺除去〕手術まで望まないのに当該〔性別の取扱いの変更の〕審判を受けるためにやむなく上記手術を受けることもあり得る」との問題意識が前提とされています。すなわち,手術不希望性同一性障害者も性同一性障害者なのです。しかし,異性自認者ではないようです。性同一性障害者の定義に係る「自己を身体的に他の性別に適合させようとする意思」にも幅があり,必ずしも生殖腺除去手術を受ける意思までを必要とするものではない,と最高裁判所は考えているようです。(身体的に適合させようとする意思があるのならば,その意思に従った効果(医術的に可能な最大限の適合=性別適合手術による適合)を発生させるという決意が当然伴われており,かつ,当該決意は事故なき限り必ず貫徹される,という単純なことではないようです。)。手術不希望性同一性障害者と異性自認者にとどまるものとの切り分けは,実はなかなか微妙ではないかとも思われますが,専門的技術的知見を有する専門医にとっては問題とはならないものなのでしょう。あるいは,異性自認者という概念設定の方に無理があるということになるのかもしれません。

 また,本件東京地方裁判所判決は,個人の真の性自認という,意思の要素を専ら強調していますが,社会生活の実際の現場においては,当該意思の有無をどう判断するかは難しい問題でしょう。事実上は,提示可能な診断書とともに専門医2名以上からその旨の診断を得て性同一性障害者にならなければ「性自認に即した社会生活を送ることができる」という東京地方裁判所折角の法律上保護される利益の保護は画餅に帰するということになるのでしょうか。しかし,本件判決の意思主義的論理は,専門医の診断という制度的要件を不要のものとするはずです。

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(上)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078601732.html(申命記第22章第5節,禮記及び違式詿違条例)


なお,東京違式詿違条例62条ただし書にいう「女ノ着袴」の「袴」を,和服の(はかま)のことと解さずに,厳格に漢文にいう「()」として読むと(「袴」は「絝」の別体),「ももひき。ズボン。」のことになります(『角川新字源』777頁)(註)。ヨーロッパでは,女性がズボンをはくということが,女性による男装というスキャンダラスな行為を象徴するものであったはずですが(以下に出て来るフランス共和国元老院のウペール議員の用いた表現参照),我が国では,もんぺをはいていても大和撫子であることに変わりはありません。

 

  Als Lola Lola zerstörte sie 1930 im FilmDer Blaue Engel die Welt der Scheinmoral, wurde zur Ikone einer freien Sexualtät; ihr bewusstes Tragen von Hosen bei öffentlichen Auftritten beförderte ein emanzipiertes Frauenbild.

     (Edgar Wolfrum und Stefan Westermann, Die 101 Wichtigsten Personen der Deutschen Geschichte. (C.H.Beck, München, 2015) S.87)

  (1930年,映画『青い天使』の「ローラ・ローラ」として,彼女〔マレーネ・ディートリッヒ〕は見せかけの道徳(モラル)の世界を破壊し,自由な性の偶像(イコン)となった。公の場における彼女の意識的ズボン着用は,一つの解放された女性像をもたらした。)

 

4 共和国9年(ブリュ)(メール)26日セーヌ県警視総監命令第22号等

ボワソナアドの頑張りの背景には,それを支えるべきフランス法の規定があったように思われるところ,探してみると,今世紀に入ってから,フランス共和国の一元老院委員と同国政府との間で,次のようなやり取りがあったところです。

 

 アラン・ウペール君(コート・ドオル,UMP〔人民運動聯合〕)の書面による質問第00692号 

 (2012712日付け元老院公報1534頁掲載)

 アラン・ウペールは,政府の代表である女性の権利大臣の注意を,依然効力を有しているところの女性のズボン(パンタロン)着用を禁ずる18001117(ママ)日法の規定に向けて喚起する。具体的には,当該法――共和国9(ブリュ)(メール)26日法――は,「男装しようとする全ての女子は,その許可証を得るため,警視庁に出頭しなければならない。」と規定している。当該禁止は,ズボン(パンタロン)を女性が着用することを「当該女子が自転車のハンドル又は馬の手綱を把持する場合」に認める1892年及び1909年の2件の通達によって部分的に廃止されている。当該規定はもはや今日適用されないとしても,その象徴的重要性は,我々の現代的感性と衝突し得るものである。よって,同人は,同大臣に対し,当該規定を廃止する意思ありやと質問する。

 

 女性の権利省の回答

 (2013131日付け元老院公報339頁掲載)

 お尋ねの1800117日法は,「女子の異性装に関する命令」と題する共和国9(ブリュ)(メール)26日(1800117日)付けデュボワ警視総監の第22号命令である。ちなみに,当該命令は,先ず何より,彼女たちが男性のように装うことを妨げることによって,ある種の職務又は職業に女性が就くことを制限しようとするものであった。当該命令は,憲法及びフランスがヨーロッパと結んだ約束――なかんずく1946年憲法の前文,憲法第1条及び欧州人権条約――に銘記されている女性と男性との間における平等の原則と抵触している。当該抵触の結果,117日命令の明文によらざる廃止が生じたものであり,したがって,それは,全ての法的効力を剥奪されており,かつ,そのようなものとしてパリ警視庁に保存されている一片の古文書にすぎないものとなっている。

 

 共和国9(ブリュ)(メール)26日(1800117日)付けデュボワ警視総監の第22号命令は,次のとおり(Christine Bard, “Le DB 58 aux Archives de la Préfecture de Police”. Clio. Femmes, Genre, Histoire. octobre 1999)

 

  警視総監は,

  多くの女子が異性装をしている旨の報告を受け,かつ,健康上の理由cause de santé以外の理由では彼女らのうちいずれもその性の服装を廃することはできないものと確信し,

  異性装の女子は,必要に応じて提示できる特別の許可証を携帯できるようにならなければ,警察官による取り違え(méprises)をも含む数限りのない不都合(déagréments)にさらされることを考慮し,

  当該許可証は統一されたものであるべきこと及び本日まで異なった許可証が種々の当局から交付されていることを考慮し,

  最後に,本命令の発布後,成規の手続を履まずに男装する全ての女子は,その異性装を悪用する不法の意図(l’intention coupable d’abuser de son travestissement)を有するものと疑う理由を与えるものであることを考慮し,

  次のとおり定める。

  1 本日までにセーヌ県の副知事又は市長並びにサン・クルー,セーヴル及びムードンの各コミューンの市長によって交付された全ての異性装許可証(警視庁において交付されたものをも含む。)は,無効であり,そうあり続ける。

  2 男装しようとする全ての女子は,その許可証を得るため,警視庁に出頭しなければならない。

  3 当該許可証は,その署名の真正が正式に証明された保健吏(officier de santé)による証明書,並びにそれに加えて,申請者の氏名,職業及び住居を記した市長又は警察署長の証明書に基づかなければ与えられない。

  4 前各項の規定に従わずに異性装をするものと認められる全ての女子は,逮捕され,警視庁に引致される。

  5 この命令は,印刷され,セーヌ県全域並びにサン・クルー,セーヴル及びムードンの各コミューン内において掲示され,当該官吏による執行を確保するため,第15及び第17師団長,パリ要塞司令長官,セーヌ県及びセーヌ=オワーズ県の憲兵司令官,市長,警察署長並びに治安担当吏に送付される。

  警視総監デュボワ

 

「異性装を悪用する不法の意図」,すなわち男性と偽ることによる身元擬装を警戒する上記1800117日命令の発布の背景として,第一統領に対する同年1010日の共和主義者による暗殺の陰謀,同年1224日のサン・ニケーズ街における爆殺未遂事件といった出来事に象徴される,発足後1年のナポレオン・ボナパルトの統領政府(le Consulat)が治安強化を必要としていた世情があったと指摘されています(Bard: 11)。

1800117日命令に違反した罪に係る刑については,同命令自身は明らかにしていませんが,違警罪ということで科料又は5日未満の拘留ということになったはずとされ,例えば1830年にはつつましい研磨工であるペケ嬢に対して3フランの科料が科せられています(Bard: 18)。

しかし,一見して分かるように,女性の男装のみが問題とされていて,男性の女装については問題とされていません。「男性にとって,異性装は,女性的柔弱化と区別されたものとしては,疑いなく19世紀の初頭においてはなお考えることが難しかった。女性は,異性装によって,社会が彼女たちに拒否した自由を獲得する,しかし,男性は?」ということでしょうか(Bard: 14)。女性に対する警戒優先ということでは,前記申命記第22章第5節の立法趣旨⑥的です。ただし,1833531日の警視総監命令は,舞踏会,ダンス場,演奏会,宴会及び公の祝祭の主催者(entrepreneurs)が異性装をした者(男女を問わない。)の入場を認めることを禁止し,当該禁止は謝肉祭(カルナヴァル)の期間においてのみ警視庁の許可をもって解除されるものとしていました(Bard: 14)。1886年のボワソナアド刑法草案4864号にいう「公許ノ祭礼」の原風景は,フランスのカーニヴァルだったわけです。

なお,フランスの1810年刑法典の第259条は「自らに属しない服装,制服又は徽章(un costume, un uniforme ou une décoration)を公然僭用した者又は帝国の位階を詐称した者は,6月から2年までの禁錮に処せられる。」と規定していましたが,19世紀半ばのジャック=フランソワ・ルノダン(男性)はその女装について同条前段違反で何度も起訴されたにもかかわらず,常に放免されていましたし(同条は,我が軽犯罪法(昭和23年法律第39号)115号,警察犯処罰令220号(「官職,位記,勲爵,学位ヲ詐リ又ハ法令ノ定ムル服飾,徽章ヲ僭用シ若ハ之ニ類似ノモノヲ使用シタル者」を30日未満の拘留又は20円未満の科料に処する。)及び旧刑法231条(「官職位階ヲ詐称シ又ハ官ノ服飾徽章若クハ内外国ノ勲章ヲ僭用シタル者ハ15日以上2月以下ノ軽禁錮ニ処シ2円以上20円以下ノ罰金ヲ附加ス」)に類するものです。),1846年に行商人のクロード・ジルベール(男性)はその女装による公然猥褻のかど(l’inculpation d’outrage à la pudeur publique)で起訴されていますが,やはり無罪放免でした(Bard: 14)。

1800117日命令に基づく許可証を得ることができた女性は,「通常男性がするものとされている職業に従事する女性又は「髭の生えた女性のように,余りにも男性的なその外見のため,公道において好奇心の対象として曝される」女性」であったそうです(Bard: 6)。前者に係る理由が2013年の女性の権利省回答にいう「当該命令は,先ず何より,彼女たちが男性のように装うことを妨げることによって,ある種の職務又は職業に女性が就くことを制限しようとするものであった」という後付け的(デュボワは命令の趣旨として明示していません。)性格付けに対応し,後者はデュボワのいう「健康上の理由」を有する者に含まれるのでしょうか。女性の権利省の回答は,女性の男装を禁ずることは就職の場面において男女の平等原則を損ねるものであるとして,当該禁止規定の無効を導出するものですが,これは,申命記第22章第5節以来の異性装禁止の性格付けとして,同節に係る前記立法趣旨の⑤ないしは⑥を採ったような形になっています。

なお,かつての東京府知事の権限は他府県の知事のそれとは異なり,警察事務はそこには属しておらず(換言すると,現在とは異なり,府県知事は警察事務も所掌していました。),東京府における当該事務は警視庁が所掌していましたが,この「警視庁ノ制度ハ初メ仏国ノセイヌ県警察知事ノ制ニ倣ヒテ設置セラレタルモノ」です(美濃部達吉『行政法撮要 上巻(第4版)』(有斐閣・1933年)299頁)。デュボワは,ボナパルト政権下において創設された当該官職における初代在任者です(Bard: 11)。

 

5 米国における市条例

 米国では,1848年から1900年までの間に34の市が異性装を犯罪化する条例を制定し,1914年の第一次世界大戦勃発時までには更に11市が加わっています。Arresting Dress: Cross-Dressing, Law, and Fascination in Nineteenth-Century San Francisco”Duke University Press, 2014の著者であるサン・フランシスコ州立大学のC.シアーズ(Clare Sears)准教授によれば,これらの条例は,典型的には,売春取締りを主要な目的に,町の健全なイメージを醸成して中間層(ミドル・クラス・)家族(ファミリーズ)の移入を図ろうとする発展しつつあるフロンティア・タウンにおいて制定されたものだそうです。「当時は,異性装が行われる場合は多くは売春がらみでした。女性がある形で男装するということは,彼女はより冒険的であり,性的関係を結び得るより大きな可能性があるということを他の人々に伝えることでした。」,「実際は服装が問題なのではなかったのです。これらの条例は,淫らさを取り締まって,より性的に健全な町を作ろうと試みて制定されたのです。そして服装は,そこに達するための手段にすぎなかったのです。」とのことです。大きな拡がりをみせた風俗浄化運動(anti-indecency campaign)の一部として1863年にはかのサン・フランシスコ市においても「彼又は彼女の性に即するものではない服装」をして公然現れることを犯罪とする条例が制定され,19747月まで効力を保っていました。(以上,SF State News ウェブサイト: Beth Tagawa, “When cross-dressing was criminal: Book documents history of longtime San Francisco law”参照)

 なお,シアーズ准教授の前掲書の一書評(by John Carranza at notevenpast.org)によると,19世紀のサン・フランシスコでは,清国からの移民が,異性装をして上陸して来るのでけしからぬということで取り締まられていたそうです。男女不通衣裳の禁を破ったのであれば,米国法及びその執行の適正性いかんを云々する以前に,自民族の伝統的な礼の教えに背いていたことになるのでしょう。


(下)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078601799.html(東京地方裁判所令和元年12月12日判決)



註:絝と和服の(はかま)とのここでの使い分けは,絝であれば馬乗袴型のもののみがそう呼称される一方,行灯袴型のものも(はかま)には含まれるとの理解に基づいています。現在の女子学生が卒業式の際よく着用するものは,行灯袴ですので,ズボンとスカートとの対比ではスカートに該当することになります。女性がスカートを着用するのでは,そもそもabominabilisにはならないでしょう。

 いずれにせよ,女ノ着袴は男粧であるから(「縛裳爲袴」については,「女性の長いスカート風の衣裳」である裳を「縛って袴にしたとは,男装をしたこと」とあります(『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』(小学館・1994年)63頁・註14)。),それを許すためにはただし書で外す必要があった,ということになります。しかし,俳優・歌妓・舞妓ならぬ堅気の女性にまで着袴による男粧を許すのですから,東京違式詿違条例62条は,宗教的徹底性を持った異性装の禁止であったとはいえないでしょう。

 また,(まち)高袴(だかばかま)(というものがあります。(まち)」は,袴の内股のところのことです。すなわち襠高袴は,絝ということになります。これについては,明治四年八月十八日(1871102日)に太政官から「平民(まち)高袴(だかばかま)(さき)羽織(はおり)着用可為(なすべきは)勝手事(かってたること)」とのお触れが出ています。これは換言すると,それまで襠高袴及び割羽織は士族(男ですね。)専用だったわけです。絝の男性性に係る一例証となるでしょうか。


追記:本稿掲載後,
1800117日のセーヌ県警視総監命令に関して,新實五穂「警察令にみる異性装の表徴」DRESSTUDY64号(2013年秋)24-31頁に接しました。 

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1 申命記:第22章第5節

 ユダヤ教等の聖典に次のような規定があります。紀元前13世紀のモーセが書いたものか,紀元前7世紀・ヨシヤ改革王治下のユダ王国において書かれたものか。

 

  Non induetur mulier veste virili,

      nec vir utetur veste feminea;

      abominabilis enim apud Deum est qui facit haec.

      (Dt 22,5)

  (女は男の衣裳を着せらるることなく,

  (男は女の衣裳を用ゐることなし。

  (何となれば,これらのことを行ふ者は,主において忌まはしきものなればなり。)

  (申命記第22章第5

 

筆者が「衣裳」と訳した後は,ラテン語ではいずれもvestis”(女性名詞。“veste”奪格形)ですが,TheTorah.comウェブサイトに掲載されているヒラリー・リプカ(Hilary Lipka)博士の論文“The Prohibition of Cross-Dressing / What does Deuteronomy 22:5 prohibit and why?”https://www.thetorah.com/article/the-prohibition-of-cross-dressingによれば,ヘブライ語ではそれぞれ別の語が用いられており,前者はkeli” (item),後者はsimlah” (garment)であるそうです。また,ラテン語では“uti”“utetur”は三人称単数未来形。目的語は奪格形をとる。)とされた元のヘブライ語動詞の意味は“to wear, put on”であり,“non induetur“induetur”induereの受動態三人称単数未来形)に対応するヘブライ語部分の意味は“there shall not be upon”であるそうです。女性に対して禁止されている行為の範囲(virile “garment”の着用禁止に限られない。)の方が,男性に対するそれよりも広い。

King James’s Versionでは,“The woman shall not wear that which pertaineth unto a man, neither shall a man put on a woman’s garment: for all that do so are abomination unto the LORD thy God.”と訳されています。

申命記第22章第5節の立法趣旨としては,①淫行(illicit sexual activity)をする目的で男(女)性が女(男)装して専ら女(男)性のグループに立ち交じることの禁止,②異性装は偶像崇拝教の儀式として行われるものであるからという理由による禁止(筆者の手許のHerder社のEinheitsübersetzung版には「衣裳交換は,カナンの固有信仰において一の役割を演じていた。」との註が付されてあります。),③分かれてあるべきものとして神が作ったものを混ぜ合わせることの禁止,④更に壮大に,神による一連の分離の業によって創造された世界がそれを支える各分界が不明瞭にされることによって混沌に陥ることを防止するための禁止,並びに⑤男女の区別及び性別による役割分担のシステムを保持するための禁止といったものが唱えられていることを紹介した上で,リプカ博士は,⑥女性に対する禁止の方が幅広いことから,同節前段の「女性に対する,男性性に結び付いたあらゆる物――恐らく,衣服,伝統的武器並びに男性の仕事及び活動に結び付いている道具が含まれる――を着用又は佩用することの禁止は,男性の(優越的な)社会的地位を守ろうとする努力の一環だったのではないか。男性性に係る附随物を女たちから遠ざけておくことは,女たちがその「適正な」社会的位地にとどまることを確保する一方法である。」とし,後段については,「この法の制作者らは,「女っぽい」と見られる衣裳を着用することを男たちに禁ずることによって,彼らが,その外見を通じて彼ら自身の男性性(masculinity)の土台を掘り崩すこと(undermining)を防止しようと試みているのである。」と述べています。男性性を保護するため(Protecting Manhood”)ということですから,女性からの(潜在的)脅威の前に,男性らは兢々として防備を巡らしていたということになるようです。

女神の男装及び武装を是認する我がおおらかな神話の世界に比べると,せせこましい。

 

 天照大神〔中略〕(すなはち)(みかみを)(みづらと),縛(みもを)爲袴,〔略〕又(そびらに)千箭(ちのり)()(ゆきと)五百箭(いほのり)()(ゆき)(ひぢに)稜威(いつ)()高鞆(たかともを),振起(ゆはずを)急握劍柄(たかみを),蹈堅庭(かたにはを)而陷(むかももを),若沫雪(あわゆきの)蹴散(くゑはららかし),奮稜威(いつ)()雄誥(をたけびを),發稜威(いつ)()噴讓(ころひを)〔後略〕

 (日本書紀巻第一神代上〔第六段〕正文)

 

2 禮記:郊特牲第十一及び内則第十二

 ユーラシア大陸の東部に目を転ずると,禮記の郊特牲第十一には次のようにあります。

 

  男女有別。然後父子親。父子親然後義生。義生然後禮作。禮作然後萬物安。無別無義。禽獸之道也。

  男女別有りて,然る後に父子親しむ。父子親しみて,然る後に義生ず。義生じて,然る後に礼(おこ)る。礼(おこ)りて,然る後に万物安し。別無く義無きは,禽獣之道也。

 

 「男女有別」の意味は,正統的には,「男女は礼をもって交わるべきで,みだりになれ親しんではいけない。また,男と女とでは,守るべき礼式に区別があること」と解すべきもののようです(『角川新字源』(第123版・1978年)669頁)。しかし,原典においては続けて「然後父子親」とあるので,民法(明治29年法律第89号)などに親しんで,法律上の父子親子関係成立の難しさを知ってしまった法律家としては,ここでの「男女有別」を,「妻が婚姻中に懐胎した子は,夫の子と推定する。」との嫡出推定規定(民法7721項)が働く前提となる状態を示すものとひねって解したくなるところです。

我が民法7721項の嫡出推定規定の正当化根拠は「妻ハ稀ニ有夫姦ヲ犯スコトナキニ非スト雖モ是レ幸ニシテ例外中ノ例外ナル」ことだとされています(梅謙次郎『民法要義巻之四 親族編(第22版)』(法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1912年)240頁)。ということであれば,「男女有別」は妻による有夫姦を防止するための策ということになります。制度的にはどのように発現するかといえば,物理的隔離でしょうか。禮記の内則第十二にいわく。

 

  禮始於謹夫婦。爲宮室。辨外内。男子居外。女子居内。深宮固門。寺守之。男不入。女不出。

  礼は夫婦を謹むに始まる。宮室を(つく)りて,外内を辨じ,男子は外に居り,女子は内に居り,宮を深くし門を固くし,閽寺(こんじ)宮刑に処せられ門番をする者〕之を守り,男は入らず,女は出でず。

 

 またいわく。

 

  男不言内。女不言外。非祭非喪。不相授器。其相授則女受以。其無。則皆坐。奠之而后取之。外内不共井。不共。不通寝席。不通乞假。男女不通衣裳。内言不出。外言不入。

  男は内を言はず,女は外を言はず。祭に非ず喪に非ざれば,器を相授けず。其の相授くるには則ち女は受くるに()〔竹製の方形のかご〕を以てす。其の篚無きときは,則ち皆坐して,之を()きて而して后に之を取る。外内井を共にせず。(ひょく)浴〔湢は浴室〕を共にせず。寝席を通ぜず。乞仮を通ぜず。男女衣裳を通ぜず。内言出でず,外言入らず。

 

「不通寝席。不通乞假。男女不通衣裳。」の部分は,「寝るための筵を共用せず,物を貸し借りせず,衣裳を共用しない。」ということであるとされています(任夢渓「『礼記』における女性観――儒教的女子教育の起点――」文化交渉・東アジア文化研究科院生論集(関西大学)4103頁)。「不通」が,衣裳を共用しない,という意味であれば,男性が自己専用の女性用衣裳を着用し,女性が自己専用の男性用衣裳を着用することのみであれば,男女の出会いの機会を芟除(さんじょ)せんとするここでの禁止には直接抵触しないもの()(無論,男性が女装して女性の間に立ち交じり,女性が男装して男性の間に立ち交じるということは当然禁止でしょう。)。

なお,余談ながら,男女有別であるから,男女の性別に係る性を表わす英単語は,人に生まれながら備わっている心を表わす趣旨のもの(「性」を分解すると,「生」及び「心(忄)」となります。)ではなく,sexであるのでしょう。sexはラテン語のsexus(第四変化の男性名詞)に由来し,“sexus”は,「切る,切り分ける」という意味の動詞である“secare”(一人称単数直説法現在形は“seco”)に由来するものです。したがって,合体というよりは,別居している様子(「男子居外。女子居内。」)がむしろふさわしい単語です。

 

3 東京違式詿違条例62条等

 我が国では,「ざんぎり頭の唄」(ザンギリ頭をたたいて見れば,文明開化の音がする)がはやった風俗変動期の1873年(明治6年)に至って,その年8月に出された法令に次のようなものがあります。

 

  ○第131号(812日)〔司法省〕

  今般違式罪目左之(とおり)追加(そうろう)此旨(このむね)及布達(ふたつにおよび)候事(そうろうこと)

  第62条 男ニシテ女粧シ女ニシテ男粧シ或ハ奇(かい)ノ粉飾ヲ為シテ醜体ヲ露ス者

   但シ俳優歌舞(ママ)等ハ勿論女ノ着袴スル類此限ニ非ス

  ○第138号(827日)〔司法省〕

  当省第131号ヲ以テ相達候(あいたっしそうろう)違式罪目追加第62条文中粉飾ハ扮飾ノ誤ニ(そうろう)為心得(こころえのため)此旨(このむね)及布達(ふたつにおよび)候事(そうろうこと)

 

18738月といえば,その17日の閣議で西郷隆盛の朝鮮国派遣が決定されるという征韓論の盛んな時期でした。司法卿・江藤新平は,まだ下野していません。

 

  翌日,〔江藤新平は〕妾の小禄を屋敷によびよせた。小禄は婦人のくせに羽織をきてやってきた。

  〔江藤新平正夫人〕千代は,彼女の居間で小禄を引見したとき上座からひたい越しに小禄を見て,なによりもそのことにおどろいた。

 (女が,羽織を)

  ということであり,羽織とは男の用いるものだと千代は信じこんでいたが,東京はどうなっているのであろう。やがてのちに千代は例外があることを知った。江戸ではよほど以前から深川芸者が羽織を着ていたという。それをまねて他の場所の芸者や素人のあいだでもそれを着ることがあるという。しかし,このときは知らなかった。

 (司馬遼太郎『歳月』(講談社・1969年)129-130頁)

 

なお,明治6年司法省第131号布達で第62条が追加された先は,明治五年「十一月八日〔1872128日〕東京府布達ヲ以テ来ル十三日〔同月13日〕ヨリ施行」された明治五年十一月の司法省の違式詿違(かいい)条例です(施行地は東京府限りということになります。)前月の明治6年(1873年)719日太政官布告第256の違式詿違条例ではありません。当該明治6年太政官布告の違式詿違条例は布告文で「各地方違式詿違条例」であるものとされており,かつ,その第62条には詿違罪目の一として既に「酔ニ乗シ又ハ戯ニ車馬往来ノ妨碍ヲナス者」が掲げられていました。

ところで,東京の違式詿違条例の第62条は,規定の場所からは一見すると詿違罪目への追加であるかのようですが(同条例の原始規定においては,第29条から最後の第54条までは詿違罪目でした。),その追加の布達文を見ると,違式罪目となっています。「違式」と「詿違」とは何が違うかといえば,前者の方が後者よりも刑が重いのでした。すなわち,違式の刑は75銭より少なからず150銭より多からざる贖金の追徴(同条例1条)であったのに対して,詿違の刑の贖金の追徴額は655毛より少なからず125釐より多からざるものとされていました(同条例2条。ただし,1876613日の太政官東京警視庁宛達によって,5銭より少なからず70銭より多からざるに改められました。)。贖金は,18781021日の明治11年太政官布告第33号によって科料に改められています。無〔資〕力の者に対する「実決」は,違式の場合は10より少なからず20より多からざる笞刑であったのに対し,詿違の場合は1日より少なからず2日より多からざる拘留でした(同条例3条。ただし,1876914日の明治9年太政官布告第117号によって,違式については8日より少なからず15日より多からざる懲役に,詿違については半日より少なからず7日より多からざる拘留(ただし,適宜懲役に換えられることあり。)に改められました。その後明治11年太政官布告第33号によって,違式は5日より少なからず10日より多からざる拘留に,詿違は半日より少なからず4日より多からざる拘留に更に改められています。)。1876613日の前記達で加えられた第6条は弾力条項で「違式ノ罪ヲ犯スト雖モ情状軽キ者ハ減等シテ詿違ノ贖金〔科料〕ヲ追徴シ詿違ノ罪(ママ)ヲ犯スト雖モ重キハ加等シテ違式ノ贖金〔科料〕ヲ追徴スヘシ其犯ス所極メテ軽キハ()タ呵責シテ放免スル(こと)アルヘシ」と規定していました。

違式詿違条例の執行については,明治五年十月九日司法省伺同月十九日(18721119日)正院定に係る太政官の警保寮職制の第1条において,少警視・権少警視について「各大区ニ派出シ区中警保ノ事ヲ督シ警部巡査ヲ監視シ違式以下ノ罪ヲ処断ス其決シ難キモノハ決ヲ大警視ニ取ル」と,大警視・権大警視について「各府県ニ派出シ管下警保ノ事ヲ監督シ少警視及警部巡査ヲ総摂シ違式以下ノ罪決シ難キヲ処断ス」と定められていました(下線はいずれも筆者によるもの)。187541日から施行された行政警察規則(明治8年太政官達第29号)の第2章「警部勤務ノ事」の第7条には「違警犯人ハ其犯状ヲ按シ違警条目ニヨリ処断シテ後長官ニ具申シ其疑按アルモノハ長官ノ指揮ヲ受ケテ処分スヘシ」と規定されていました。裁判所を煩わすまでもない,ということでした。後の有名な違警罪即決例(明治18年太政官布告第31号)の(さきがけ)です。

東京の違式詿違条例62号の罪に該当する罪は明治6年太政官布告第256号にはなかったのですが,当該太政官布告の布告文には「但地方ノ便宜ニ依リ斟酌増減ノ(かど)ハ警保寮ヘ可伺(うかがいい)(づべく)(かつ)条例掲示ノ儀モ同寮ノ指揮ヲ可受(うくべき)(こと)」とされていたので,各地で追加が可能でした。例えば,大分県では1876年の警第35号違式詿違云々達により187711日から女装・男装行為が詿違の罪に加えられています(春田国男「違式詿違条例の研究―—文明開化と庶民生活の相克――」別府大学短期大学部紀要13号(1994年)46-47頁)。京都府では,1876102日の明治9年京都府布達第385号違式詿違条例52条において,東京の違式詿違条例62条の罪に相当する罪(ただし,「歌舞妓」ではなく「舞妓」)が違式の罪として定められていました(西村兼文『京都府違式詿違条例図解』(西村兼文・1876年))。187861日から施行の明治11417日栃木県乙第104号布達の栃木県違式詿違条例の第11条は,違式罪目の一として,「奇怪ノ扮装ヲ為シテ徘徊スル者」を掲げていました(平野長富編『栃木県違式詿違条例図解』(集英堂・1878年))。

東京の違式詿違条例(明治五年十一月・司法省)も各地方の違式詿違条例(明治6年太政官布告第256号)も,旧刑法(明治13年太政官布告第36号)の施行(188211日から(明治14年太政官布告第36号))によって消滅しました。旧刑法には東京の違式詿違条例62条の罪に相当する罪を罰する旨の規定は設けられていませんでした。

しかしながら,18778月に大木喬任司法卿から元老院に提出された旧刑法の法案においてはなお,異性装の罪が違警罪の一つとして全国的に処罰されるべきものとされていました。

 

 478. Seront punis de 5 sens à 50 sens d’amende:

  ………

  16° Les hommes ou femmes qui, hors des théâtres, se seront montrés en public avec des vêtements d’un autre sexe que le leur;

(第478条 左ノ諸件ヲ犯シタル者ハ5銭以上50銭以下ノ科料ニ処ス

  〔略〕

(十六 演劇外ニ於テ異性ノ者ノ衣裳ヲ着シテ公然現レタル男又ハ女)

  (Projet de Code Pénal pour l’Empire du Japon présenté au Sénat par le Ministre de la Justice, le 8e mois de la 10e année de Meiji. (Kokubunsha, Tokio, 1879) pp.158-159

 

 これは,ボワソナアドのフランス語でしょう(大久保泰甫『日本近代法の父 ボワソナアド』(岩波新書・1998年)114-115頁)。

 ボワソナアドは,旧刑法施行の4年余の後に印刷されたProjet Révisé de Code Pénal pour l’Empire du Japon accompagné d’un Commentaire” (Tokio, 1886)(「大日本帝国刑法典の註釈付き再訂草案」)において,なおも異性装の罪を設けるべきものとしています。しかも18778月案におけるものよりも刑が重くなっています。

 

  486. Seront punis de 1 à 3 jours d’arrêt et 50 sens à 1 yen 50 sens d’amende, ou de l’une de ces deux peines seulement:

    ………

    4° Les hommes ou femmes qui, hors des théâtres ou des fêtes autorisées, se seront montrés en public avec des vêtements d’un autre sexe que le leur;

  (第486条 左ノ諸件ヲ犯シタル者ハ1日以上3日以下ノ拘留及ヒ50銭以上150銭以下ノ科料又ハ両刑中一方ノミニ処ス

    〔略〕

(四 演劇又ハ公許ノ祭礼外ニ於テ異性ノ者ノ衣裳ヲ着シテ公然現レタル男又ハ女)

  Boissonade, pp.1269-1270

 

品位及び良俗に反する(contre la Décence et les Convenances Publiques)違警罪に分類されています(Boissonade, p.1269)。

司法省レヴェルではともかくも,その上部での,「男ニシテ女粧シ女ニシテ男粧シ或ハ奇(かい)ノ扮飾ヲ為シテ醜体ヲ露ス者(但シ俳優歌舞妓等ハ勿論女ノ着袴スル類此限ニ非ス)」ぐらいの行為は,やっぱりいちいち罰しなくてもよいよ,との我が国政府のさばけた判断に対して,フランス人ボワソナアドは随分生真面目に頑張っていたわけです。

異性装規制は,そもそも,我が国の伝統に根ざしていなかったということでしょうか。西洋人辺りから言われてつい導入しただけのものだったのでしょうか。

確かに,東京違式詿違条例62の構成要件をよく見ると,「(A)(α)男ニシテ女粧シ,(β)女ニシテ男粧シ,或ハ〔又は〕(γ)奇恠ノ扮飾ヲ為シテ,〔その結果〕(B)醜体ヲ露ス者」ですから,Aのみでは不足で,AかつB(醜体)でなければならず,更にAのうちα及びβは,あるいはγの例示にすぎないもののようにも思われます。(「醜体」は,警察犯処罰令(明治41年内務省令第16号)32号の「醜態」に係る大判大2123刑録191369号によれば「公衆ヲシテ不快ノ念ヲ抱カシムヘキ風俗即チ醜体」(伊藤榮樹(勝丸充啓改訂)『軽犯罪法 新装第2版』(立花書房・2013年)161頁(注2)における引用による。)ということになるようです。なお,東京違式詿違条例中の「醜体」仲間には,いずれも違式罪目として「裸体又ハ袒裼(たんせき)〔かたぬぎ・はだぬぎ〕シ或ハ股脚ヲ露ハシ醜体ヲナス者」(第22条)及び「男女相撲並蛇遣ヒ其他醜体ヲ見世物ニ出ス者」(第25条)がありましたが(註1),これらも旧刑法の違警罪からははずれています。ただしその後,警察犯処罰令32号で「公衆ノ目ニ触ルヘキ場所ニ於テ袒裼,裸(てい)〔裎も「はだか」〕シ又ハ臀部,股部ヲ露ハシ其ノ他醜態ヲ為シタル者」の形での復活があったわけです(すなわち,「醜態」であれば,「袒裼,裸裎シ又ハ臀部,股部ヲ露ハ」すもの以外の行為でも該当する建前である構成要件です。)。)要は見苦しさ(醜体)の有無の問題であって(脱衣の場合は東京違式詿違条例22条,着衣の場合は同条例62条),申命記22章第5節的な深刻な背景はなかったようでもあります(井上清『日本の歴史20 明治維新』(中央公論社・1966年)213頁においては,違式詿違条例の罪目は「およそ考えつくかぎりの,当時の役人の感覚で無作法あるいは見苦しい,他人の迷惑となる事項の禁止条項」であると評されています。)。これに対して,旧刑法18778月フランス語案47816号及びボワソナアド案4864号では,Bの要件抜きに,かつ,異性装と関係の無いγは排除して,α又はβのみの充足で直ちに犯罪成立ということになっていますから,異性装の端的な禁止規定としては,こちらの方が純化されています。(註2)(註3


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1 令和3年5月の思索:新型コロナウイルス感染症問題猖獗,ナポレオン歿後200周年及び東京オリンピック問題

 令和の御代(みよ)になってからの日本の4月は,光輝く新学年・新学期を迎えての若さ(みなぎ)放埓(ほうらつ)の季節というよりは,新型コロナウイルス感染症なる空前の業病(ごうびょう)(はら)うべく連年発せらるるところの「緊急事態宣言」を各自粛然として拳々(けんけん)服膺(ふくよう)し,「世界」に遅れぬ高い意識に導かれつつ,人と地球とに優しい深い思いやりの心をもって,「新しい生活様式」を真摯(しんし)かつ厳格に斎行するという気高い精神性に満ちた季節となりました。当該「様式」には,マスクを着用し,かつ,同時に食事もするというが(ごと)き高難度の(いん)(じゅ)的儀礼までもが含まれます。アルコール性飲料の提供は厳禁ですから,もちろんしらふです。同月末から5月初めにかけての連休の時期においても,忠良なる我が日本国民は,門扉を(ちぬ)る必要はありませんがマスクを着用して“STAY HOME”をしつつ,業病の(すぎ)()しを待こととなりました

 

  Transibit enim Dominus percutiens homines qui coronavira non metuunt;

    cumque viderit integumentum medicum in ore,

    transcendet eum et non sinet percussorem ingredi domum ejus et laedere.

(cf. Ex. 12, 23)

 

 とはいえ,自宅にこもってばかりいると辛気臭くなります。今(2021年)からちょうど200年前の182155日に南大西洋の孤島セント・ヘレナで死亡したナポレオン・ボナパルト幽囚の憂苦は,かくの如きものたりしか。つれづれのまま,セント・ヘレナ島には現在新型コロナウイルス感染症は伝播していないのかなとか,ラテン語の“virus”(単数主格)は当該語形(単数属格は“viri”)にもかかわらず男性名詞ではなく中性名詞であって,かつ,古代にはその複数形がなかったところ,兇悪の変異株が多々発生していて複数として表現したいときにはその複数主格・対格の形は“viri”となるのかそれとも“vira”となるのかというような細かいことで悩んだりします(後者のようです。)。セント・ヘレナ島についていえば,同島政府の2021414日付け“Coronavirus (COVID-19) IEG Update”というものを見るに“Management of the first positive cases of COVID-19”(「最初の新型コロナウイルス感染症陽性事例への対処」)という見出しの記事があるので,いよいよ同島にも新型コロナウイルスが上陸したのかと,ざわざわ思いつつ読んでみれば,その結語は,「セント・ヘレナのコミュニティに対するリスクは回避されました。セント・ヘレナは新型コロナウイルス感染症非汚染地のままです。」(“The risk to St Helena’s community was avoided and St Helena remains COVID-19 free.”)という平穏なものでした。ナポレオンは随分文句を言ったようですが,現在のセント・ヘレナは,何とも素晴らしい健康地であるようです。

今年の夏の東京オリンピックはどうなるのだろうかとも心配になります。海外からの観客は謝絶ということですから地元の日本人観客も締め出されての無観客開催は最悪の場合仕方がないとしても,来日できない海外の有名アスリートさまたちが大勢になって,日本人選手だらけの競技ばかりとなってしまってはカッコ悪いなぁ,盛り上がらないなぁ,などとの弱気の意見も出て来そうです。

 

  「わたしは,主に,スポーツイベントをテレビ局に買わせる仕事をやっていたんですが,それで,言いようのないコンプレックスが知らない内に溜まってしまったんです,最初は,アメリカン・フットボールにしてもテニスにしても陸上にしても,金で横つらを引っ叩いて,わが崇高なる日本民族の前で芸をさせてるんだからこんな愉快なことはないと自分に言い聞かせていたんですが,そのうち何だか自分達が昔のバカ殿になったような気がして・・・向こうのスポーツ選手はどうしようもなくきれいなんですよ,うまく言えないんですが,おわかりいただけますか?」(村上龍『愛と幻想のファシズム 下』(講談社・1987年)318頁)

 

 わが崇高なる日本民族の前で芸をすべき,どうしようもなくきれいな向こうのスポーツ選手がいなければ,横つらを引っ叩くつもりのオリンピック大予算も,裏を返せば後進世代に丸投げされる単なる大借金であったものかとの不穏な正体が我々の意識の中に浮かぶばかりとなりましょう。海外から御光臨の有名アスリートさまたちの欠けた,祝祭感無き地味な諸競技であっては,それらを見て,御機嫌のバカ殿となって「あいーん」とはしゃぐこともまた難しい。

これらの冴えない見通しを前にしてもやもやと鬱屈する感情の捌け口は,後期高齢者の方々等の尊い命を守らんとする気高い姿勢の道徳的高みから発せられる「コロナなのに不謹慎だっ!」との魂の叫びとなります。その場合においては,既に多々味噌がついていて迷走感グダグダ感のあるオリンピック東京大会の開催の中止ないしは延期の提案を凛然として申し立てるという角度を選択するのが,高い意識の様式美となるのでしょうか。我が()えある皇紀2600年の年に開催が予定されていた1940年オリンピック東京大会は,大陸における漢口作戦準備中の1938715日に,早々返上が決定されています。当時は(かしこ)くも,昭和天皇(おん)自ら真摯な自粛に努めておられところでした

 

1938712日〕 去月22日に〔池田成彬〕大蔵大臣より経済事情等に関する奏上を御聴取の後,ガソリンを始め種々の節約につき注意を払われ,御自身の御食事についても省略のことに及ばれる。これにつき,この日,侍従長百武三郎は,国家安危を軫念(しんねん)され率先して範を示されることは(おそ)れ多き限りであるものの,常時余りに局部的事項につき御軫念になることは玉体に影響し,重大な御政務に対する精力の集中が不十分となる(おそれ)もあり,また聖旨の影響は(やや)もすれば極端に走ることから,あるいは萎縮退嬰に陥り(かえっ)て成績が挙がらないこともあり,この重大な時局においては,各有司を信頼され,泰然とあらせられることが大切と考える旨を言上する。天皇は,侍従長の言上を御傾聴の上,御聴許になる。(宮内庁『昭和天皇実録 第七』(東京書籍・2016年)598頁)

 

大陸における「暴戻ぼうれい」を「ようちょう」する戦いに伴う困難は,(かしこ)き辺りも「泰然」とすることが許される程度のものだったようです。これに対して,現在我々が直面している大陸発の新型コロナウイルスに対する撲滅の戦いにおいては,「極端に走る」人民の「萎縮退嬰」ごときを小賢しく恐れて気を緩めることはおよそ許されません。

 

2 1904年のセント・ルイス・オリンピック

しかし,筆者は,今次オリンピック東京大会がそれに対照されるべき近代オリンピック夏季大会の前例は,中止された1916年(ベルリン),1940年(東京→ヘルシンキ)及び1944年(ロンドン)の各幻のオリンピックではなく,1904年に71日から1124日まで(国際オリンピック委員会系のhttps://olympics.com/による。日本オリンピック委員会の「オリンピックの歴史(2)」ウェブページでは「1123日」までとされています。A&E Television Networks社のhistory.comに掲載された記事(“8 Unusual Facts About the 1904 St. Louis Olympics”, August 29, 2014 (updated: August 30, 2018))においてEvan Andrews記者は,「後にされた見直し(a review)においては,1904年大会は公式には(officially71日から1123日まで続き,かつ,94のイベントからなるものであったと結論されることとなった。」と述べています。)の5箇月間近くをかけてだらだら,かつ,ばらばらと開催された第3回のセント・ルイス・オリンピックである,とここに強く主張したいところであります。(ただし,セント・ルイス大会の独自性(“Memorable? Absolutely.”「記憶に残る?全くそのとおり。」)を強調するAP通信社のDave Skretta記者は,「米国で開催された最初の夏季オリンピック大会は,それより前にヨーロッパであったものとはまるで違った相貌を呈していた。/あるいは,他の場所でこれからまた行われるものにも。」と述べてはいます(“St. Louis Olympics was really World’s Fair with some sports”, July 25, 2020)。)


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Pierre de Coubertin: “Je n’ai pas visité la cité de St. Louis en 1904.”

 

(1)参加国・地域の多寡心配無用

まず,参加国・地域数(「チーム」数)が少なくなっても気にすることはありません。

olympics.comによれば,夏季オリンピック大会の参加「チーム」数が200を超えたのは2004年のアテネ大会(第2次)からにすぎず(同大会で2012008年の北京及び2012年のロンドン(第3次)各大会はいずれも2042016年のリオ・デ・ジャネイロ大会で207),100を超えたのは1968年のメキシコ大会からで(同大会で1121972年のミュンヘン大会では1211984年のロサンゼルス大会(第2次)で1401988年のソウル大会で1591992年のバルセロナ大会で1691996年のアトランタ大会で1972000年のシドニー大会は199。なお,1976年のモントリオール大会及び1980年のモスクワ大会は,それぞれ92及び80であって,いずれも100に達していません。),そもそも最初の1896年アテネ大会は,14「チーム」(Juergen Wagner氏のhttps://olympic-museum.de/によれば,当該14「チーム」は,オーストラリア,オーストリア,ブルガリア,チリ,デンマーク,フランス,ドイツ,グレート・ブリテン及びアイルランド,ギリシア,ハンガリー,イタリア,スウェーデン,スイス並びに米国とされています。)及び選手総数241名で,簡素に始まったのでした。

しかして,史上最少参加「チーム」数を誇るのが,我らがセント・ルイス大会であって,その数はわずか12olympics.comによる。ただし,日本オリンピック委員会によれば「13カ国」。なお,上記Wagner氏は,オーストラリア,オーストリア,カナダ,キューバ,フランス,ドイツ,グレート・ブリテン,ギリシア,ハンガリー,イタリア,ノルウェー,ニューファウンドランド,南アフリカ,スイス及び米国の15か国から参加があったとしています。しかし,オーストラリア・オリンピック委員会(olympics.com.au)は,英国及びフランスからの参加はなかったものとしています。)。12であれば,1776年の夏にフィラデルフィアにおいて独立宣言にその代表が署名した北米の邦の数よりも少ない。

なお,セント・ルイス大会に何か国から参加があったのかの数字が1213又は15とグダグダになっているのは,「〔1908年に〕ロンドンで開催された第4回大会から,オリンピックへの参加が各国のオリンピック委員会を通して行われるようになりました。それまでは個人やチームで申し込めば参加できたのです。」ということであって(日本オリンピック委員会),換言すれば,それまでは「参加国数」などという概念は存在していなかったということゆえなのでしょう。脚力自慢・腕力自慢が勝手に集まって開かれる,飛び入り歓迎の運動会の如し。グダグダながらも,牧歌的でよいですね。牧歌的運動会といえばセント・ルイス・オリンピックでは綱引き競技も行われ,米国(ミルウォーキー,ニュー・ヨーク及びセント・ルイス2),ギリシア及び南アフリカから計6組が参加,ギリシア及び南アフリカは早々に脱落して,優勝は91日の決勝戦でニュー・ヨーク・アスレチック・クラブを破ったミルウォーキー・アスレチック・クラブ,2位及び3位は,ニュー・ヨーク組が順位決定戦に出てこなかったため,地元セント・ルイスの2組となっています(Andrews)。高校の物理によれば,綱引きは,要は摩擦力の増す体重の重い方が勝ちということでしたが,当時から米国には肥満者が多かったのでしょうか。


NY v. Milwaukee

New York Athletic Club v. Milwaukee Athletic Club   (Missouri History Museum)(過度の肥満者はいないようです。)


 ちなみに,olympics.comによれば,セント・ルイス大会及びアテネ大会(第1次)に次いで参加「チーム」数が少なかったのは,1908年ロンドン大会(第1次)の22,これもまだグダグダ時代の1900年パリ大会(第1次)の24及び大日本体育協会を通じた参加(東京帝国大学の三島弥彦及び東京高等師範学校の金栗四三)が我が国から初めてあった1912年ストックホルム大会の28ということになります。

 セント・ルイス大会における参加選手総数はolympics.comによれば651名ですが,前記Andrews記者は,当該数字を630名とした上で,そのうち523名が米国からの参加者であり(83パーセント),かつ,半数以上の競技が地元選手のみによって行われていたものと述べています(ただし,いまだ米国への帰化が認められていないヨーロッパからの移民も横着に米国選手として取り扱われていたようで,2012年に至ってもなおレスリングの優勝者2名について,ノルウェーは,同国の国民であるものと認められるべきだと国際オリンピック委員会に申し立てているそうです。)。カナダからの参加者は43名とされています(olympic.ca)。

 セント・ルイス大会への北米外からの参加が低調だった原因については,「ヨーロッパから離れたアメリカでの開催のため,〔1900年の〕パリ大会よりも出場選手数が減っています。」とされています(日本オリンピック委員会)。確かに,ミシガン湖に面した当初の開催予定地であるイリノイ州シカゴならばともかくも,更に内陸に位置するミズーリ州セント・ルイスは交通至って不便であったわけですが,これに加えて,当時戦われていた日露戦争の影響もあったことが挙げられています(Skretta)。やはり日本が悪いのです。


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Kanô Jigorô: “MCMXII anno domini Holmiae fui.”

 

(2)メダル寡占遠慮無用

オリンピックの金銀銅メダルの授与はセント・ルイス大会から始まりますが(olympics.com),遠慮も会釈も無い米国人は,金メダル97個中の76個と,その78パーセント強を図々しく確保しています(olympics.com“Medal Table”から筆者が数字を手ずから拾って電卓計算したもの)。ただし,ここの数字も実はグダグダで,Skretta記者はセント・ルイス大会の96個の金メダル中78個を米国勢が得たものとし,オーストラリア・オリンピック委員会は77個を米国が得たものとしています。また,同委員会によると,同大会におけるオリンピック競技と一般的に認められている91イベント中49は米国人のみが参加したものであったとされています。

この図々しい米国人が参加しなかったのが1980年のモスクワ大会です。当該大会において最も多く金メダルを確得したのは開催国であるソヴィエト社会主義共和国聯邦でありましたが,米国人らがいなかったにもかかわらず,その数及び比率は,全204個中の80個,39.2パーセントでありました。人類の理想社会を築くべきものたりし社会主義の力をもってしても,オリンピックでの全勝は難しい。

 今年の夏に東京でオリンピックが開催されるのであれば,我が日本選手団は,1904年の米国選手団の如く無慈悲無作法にメダルの荒稼ぎをすることになるものかどうか。当該荒稼ぎの結果,国際的非難ないしは揶揄を受けることになってしまわないかどうか。しかしこれは杞憂でしょう。20222月に開催される北京冬季オリンピック大会の成功必達を期する中華人民共和国オリンピック委員会としては,先陣の血祭りたるその前年の夏季大会には精鋭すぐって我が帝都に大選手団を派遣してくるでしょうから(確か,同国においては,新型コロナウイルス感染症は既に制圧済みとのことでした。),新型コロナウイルス感染症蔓延で腰砕けになった他の諸国からの有力選手の参加がたとえなくとも,我らの日本人選手らが,全体の8割,4割の金メダルをごっそり確保してウハウハということは,残念ながらあり得ないことでしょう。

 

(3)1年延期の気兼ね無用:ルイジアナ購入百周年博覧会に係る1年のずれ

 でも2021年の東京オリンピックは1年延期されてしまった結果であるけれども,1904年のセント・ルイス・オリンピックはそういう目に遭っていないからね,そこは違うよね,という意見もあるかもしれません。しかし,実はここにおいても両者間には共通性があるのです。

セント・ルイス・オリンピック自体は延期されてはいないとしても,当該大会がそれに併催されていたセント・ルイス万国博覧会(ルイジアナ購入百周年博覧会:Louisiana Purchase Exposition)は当初1903年開催の予定が,1年延期されていたのでした(u-s-history.comは,博覧会の規模が大き過ぎて延期を余儀なくされたものと説明しています。190228日付小村外相宛高平公使公信第19号においては「聞ク所ニ拠レバ本件博覧会ノ招待状発送方余リ遅カリシヲ以テ欧州諸国中露墺ノ如キハ出品準備ノ余日ナキヲ理由トシテ賛同ヲ謝絶シ他ノ諸国ヨリハ未タ確答無之」という状況が報告されています(加藤絵里子「セントルイス万国博覧会における日米関係~世紀転換期の日本の外交的意図に着目して~」お茶の水史学61号(20183月)11頁)。)。米国のトーマス・ジェファソン政権を買主としてフランス共和国のナポレオン・ボナパルト政権がルイジアナ(現在のルイジアナ州を含むが更にその北西方向に広がるミシシッピ川からロッキー山脈までに及ぶ広大な領域)を売却したのは1803年のことだったのです。

なお,セント・ルイスの博覧会とオリンピックとではどちらが親亀でどちらが子亀かといえば,博覧会が親亀です。既に準備が進んでいた博覧会と併せてオリンピックをも開催するために,セント・ルイス側は国際オリンピック委員会に圧力をかけて,シカゴからオリンピックの開催権を奪ったのでした。

 

(4)そもそものルイジアナ購入について

 

   1803411日,モンロー〔米国特使。後の第5代大統領〕がパリに到着する前に,フランス外相タレイランはリビングストン〔駐仏米国公使。独立宣言起草委員の一人〕を呼び出し,米国はルイジアナの購入に興味があるかと訊いた。同日,それより前にナポレオンは,彼の大蔵大臣であり,かつ,ジェファソンのフィラデルフィアにおける旧友であるバルベ=マルボワ〔フィラデルフィア駐在書記官のバルベ=マルボワの問いに答える形でジェファソンの『ヴァジニア覚え書』は書かれています。〕に対して,当該大領域(テリトリー)を売却する意思がある旨告げていた。は,サント・ドミンゴ〔ハイチ〕再征服計画を放棄しよう。英国との戦争再開が近いが,予は,ルイジアナは北方カナダからの英国の侵入に対して脆弱であるものと見ている,と。その余のことについては,バルべ=マルボワはわきまえていたナポレオンには金が必要なのだ。430日までにモンロー及びリビングストンは,1500万ドルでルイジアナを米国に譲渡する合意に頭文字署名した。フランス側〔バルべ=マルボワが交渉担当〕は2日後に署名した。(Willard Sterne Randall, Thomas Jefferson: a life. (HarperCollins, New York, NY,1994) pp.566-567

 

ナポレオンのいうサント・ドミンゴ(フランス語風には「サン・ドマング」)の再征服とは,名目的にはなおフランスの版図内にある同島におけるトゥッサン・ルーヴェルチュール率いる黒人自立政権を打倒する計画でした。当時の同島は,貴重な砂糖利権の中心でありました。ナポレオンの義弟であるルクレール将軍を長とした2万の軍勢が同島に派遣されていました。「ルクレール(ポリーヌの夫)を司令官にしてサン=ドマングに出兵する/うまくいけばルクレールも出世させ/俺も国家も潤う」と,第一統領閣下は皮算用をしたものか(長谷川哲也『ナポレオン―覇道進撃―第3巻』(少年画報社・2012年)182頁)。

 

1799年,ナポレオン・ボナパルトがフランスで政権を奪取し,フランス帝国の名で知られる瞠目の冒険を開始した。本質的にそれはヨーロッパの事件であったが,ナポレオンの野心には彼のエネルギー同様限界が無かったので,彼はその計画にアメリカをも加えるべく時間を割いた。彼の基本的考えは,スペインにルイジアナの返還を強いることによって〔ルイジアナは,ルイ14世にちなむその名が示すとおり元はフランス領でしたので「返還」ということになります。フレンチ=インディアン戦争(1754-1763年)の結果ルイ15世のフランスは北米から撤退することとし,ミシシッピ川以西のルイジアナは同盟国スペインに帰属することとなったものです。なお,ミシシッピ川以東のルイジアナは英国に帰した後,アメリカ独立戦争を終結させた1783年のパリ条約で米国領となっていました。〕,フランスを再び新世界の強国とすることであった。1800年,適切な恫喝的外交(bullying)が効を奏して,スペインはナポレオンの欲した合意に署名した。〔とはいえ,当時のスペイン国王カルロス4世の一族についての「すごい/こいつら全員馬鹿だ」との評価は,文字どおりの漫画的誇張なのでしょう(長谷川哲也『ナポレオン―覇道進撃―第9巻』(少年画報社・2015年)118頁)。〕ただし,実際の移譲は,ナポレオンが総督及び駐屯軍をニュー・オーリンズに置くことができるときまで延期されていた。〔当該実際の移譲は,18031130日のこととなりました(明石紀雄「ジェファソンと「ルイジアナ購入」」同志社アメリカ研究10号(19743月)15頁註(22))。〕

〔略〕メキシコ湾におけるフランスの作戦行動のためにはサン・ドマング島の基地の使用が必要であったが,同島の政治情勢に鑑みるに,それが可能であることをだれも確信することはできなかった。〔略〕

〔略〕

ルクレールは1802年の早期にサン・ドマング島に到着し,夏までに同島の状況をよくコントロールの下に置いた。トゥッサンは逮捕され,フランスに檻送され,翌年同地で死んだ。サン・ドマングの大部分はフランス軍によって占領された。〔略〕

〔略〕

〔略〕次いで彼〔ナポレオン〕はサン・ドマングからの報告を受け,考えを変えた。その年のうちに彼が同島に送った35千の兵員のうち,ルクレール将軍〔1802112日歿〕を含む3分の2が黄熱病のために斃死していた〔ナポレオンがルクレールの死を知ったのは,18031月初めとされています(明石7頁)。〕。フランスによる同地の支配を維持するためには同じような数の兵員をまた派遣しなければならないが,彼らがよりうまくやり,又はより長く生きるとの保証は無かった。更に悪いことには,フランスにとっての機会の扉が閉ざされつつあることが明らかであった。英国は,ナポレオンによるヨーロッパ秩序に再び挑戦する準備をしており,フランスの海運にとって,遠からず海が安全なものとはならなくなる成り行きであった。この情勢下にあって,彼がサン・ドマングを保持し得るということは難しかった。ルイジアナについてはいわずもがなである

Colin McEvedy, The Penguin Atlas of North American History to 1870. (Penguin Books, 1988) p.68)。

 

仏英間のアミアンの和約(1802327日締結)による平和は,18035月までしか続きませんでした。

ボナパルト第一統領がもはや執着しなくなったサン・ドマングにおいては,「世の人の熟く知れる如く,1803年に将官デツサリンが三万の黒人を率ゐてポオル,トオ,プレンスを襲ひしをり,島に住みたる白人といふ白人は悉く興りてこれに抗せんとしき。宜なり,今此島にて仏人の手に残りたるは此一握の土のみにて,これをしも失はん日には白人は夷滅を免かれがたかるべければ。」というような状況となりました(ハインリッヒ・フォン・クライスト『悪因縁』(森鷗外訳『鷗外選集第16巻 翻訳小説一』(岩波書店・1980年)105頁)。「夷滅」とは,一族を皆殺しにすることです。)。その際,「家は大路のほとりに在りて,白人雑種などの余所に奔らむとするが立寄りて,食を乞ひ,宿を求めなどするを,おのれが帰りこむまでは欺きて停めおかせ,帰りて直ちに殺すを常と」していた(クライスト105頁)「おそろしき老黒奴」コンゴ・ホアンゴ(ゴールド・コースト出身のアフリカ人であって,サン・ドマングで「黒人の一揆起りしをり」,それまでに「自由なる身」としてくれ「隠居料あまた取らせ,猶飽かでや,遺言して若干の産を与へむ」とまで言ってくれていた「主人が頭を撃ちぬきて,主人の妻が三たりの子を伴ひて難を避けたりし家に火をかけ,ポオル,トオ,プレンスに住める遺族の手に落つべき開墾地を思ふまゝにあらし,この領内に立たる家をなごりなく打毀ち,相識りたる黒人をつどへて武器をとらせ,これを率ゐて近郷に横行し,黒人方の軍を援けき。」という所業の者)の不在宅に,同人の「妾のやう」なる「あひの子バベガン」(同104頁)に正に欺かれて停めおかれていたPort-au-Princeへ向かう途上のスイス人・グスタアフ・フオン・デル・リイドは,バベガンとフランス商人との間に生まれた娘である15歳のトオニイ・ベルトランに対し,首尾よく共に一夜を過ごした仲(同118頁)となったにもかかわらず,種々悶着のあった後,「歯ぎしりしてトオニイに向ひ,火蓋を切て放しつ。/弾丸はトオニイが胸のたゞ中を打貫きたり。/〔略〕手に持ちし短銃を少女が体に投げつけ,よろめきながら足を挙げてしたゝかに蹴り,一声この淫婦と叫」ぶ(同133-134頁)という無残無慈悲な行為をなし,更には「短銃もてわれと我脳を撃ちぬいたり。再度の変に驚慌てたる人々,いまは少女が屍を打棄てゝ,グスタアフを救はむとしたれど,憫むべし,頭蓋は微塵に砕けて,短銃の火口を我口にあてしことなれば,血にまみれたる骨の片々は,かなた,こなたの壁に飛びかゝりて,そがまゝにつき居たり。」(同136頁)というグダグダ情態を惹起しています。無論,サン・ドマングの白人残存勢力は,ほどなく英雄デサリーヌに打ち破られます。フオン・デル・リイドの親戚「一族英吉利ぶねに便乗して,ふる里なる瑞西にかへり,残り僅かばかりの金にてリギのあたりに地を買ひて住みぬ。」ということにはなりました(クライスト137頁)。デサリーヌは,大西洋の彼方でナポレオンがフランス皇帝となった1804年(5月18日即位ですが,ダヴィッドの絵で有名な戴冠式は同年122日のこととなりました。),こちらはハイチ皇帝となっています(108日戴冠)。

ハイチ北方の米国は,なお1803年の秋です。

 

   彼〔ジェファソン〕が第8議会を18031017日に召集した際,彼はルイジアナ購入を求めたが,憲法問題には言及しなかった。同日上院に提出された当該条約は,わずか3日後に批准された。〔18031020日の上院における表決結果は賛成24名,反対7名であり,批准書の交換は同月21日であったそうです(明石3頁)。〕

   1220日にニュー・オーリンズにおける儀式をもってフランスが米国に対して正式にルイジアナを移譲した際ジェファソンは,議会演説において,「自由の帝国(the empire of liberty)」の領土並びに「我々の子孫に対するその豊富な供給物及び自由の恵沢のための広大な領域」の倍増を祝った。これらの自由については,奴隷制が繁栄することができる領土を倍僧する自由を有する白人に対してのみ及ぶものであることには疑いはなかった。1804年にコネティカットの一上院議員が,奴隷制を禁ずるようにルイジアナ領土(テリトリー)の組織を行う修正案を提出した。18031021日から1804320日まで,米国議会はルイジアナ領土の統治に必要な規定及び規則を審議していました(明石3頁)。〕ジェファソン及び〔民主〕共和党員は当該提案を支持せず,代わりに,外国からの奴隷の輸入を禁ずるというはるかに生ぬるい施策を採用した。(Randall, p.567

 

(5)下品な偏見と高い意識と

 1904年のセント・ルイス・オリンピックはまた,あからさまに人種差別的とされる2日間の「人類学の日(Anthropology Days)」の見世物によって悪名が高いところです。博覧会の「人間動物園(human zoo)」展示に参加していたアイヌ,パタゴニア人,ピグミー,イゴロト族(フィリピン),スー族等が,お金をあげるからと言われて,走り幅跳び,弓術及び槍投げのほか,棒登り,泥投げ勝負等をさせられています。参加者は碌に競技指導を受けておらず,出来栄えは惨めなものだったようで,当該見世物の主催者であるジェイムズ・サリヴァンは「未開人たちは,運動競技能力の観点からすると,過大評価されていたものである」と得々として語ったものと伝えられています。(Andrews

下品だったようですね。

翻って2021年の今次オリンピック東京大会に向けては,差別問題は,差別的意識の抱懐が少しでも疑われた段階で既に当該被疑者が直ちに社会的に抹殺されてしまうという,高い意識に基づいた極めて厳格な取扱いを受けつつあります。あらわれとしては一方は偏見の不当な放置,他方は厳格な是正,と逆方向になっていますが,差別問題が問題になるという点で,やはり両大会は,宿命として密な関係を有しているものといえましょう。

なお,日本は,セント・ルイス・オリンピックには参加していなくとも,博覧会には「1900年のパリ万博に次ぐ80万円の経費を計上して参加」していました(宮武公夫「人類学とオリンピック―アイヌと1904年セントルイス・オリンピック大会―」北大文学研究科紀要108号(200212月)3頁)。しかして,「人類学の日」の開催日は812日及び同月13日で(宮武5頁),18種類の競技が行われたところ(宮武7頁),日本から来ていた,クトロゲ,ゴロ,オオサワ及びサンゲアの4名のアイヌ男性が(宮武6頁),16ポンド投げ,幅跳び,野球投げ,槍投げ及びアーチェリーの5種目に参加していました(宮武8頁)。そこで,彼らこそ「最初にオリンピックに参加した「日本人」と考えるのが妥当ではないだろうか」と主張されています(宮武17頁)。「20世紀初頭のオリンピックは,帝国主義と植民地主義を支えた人種理論に彩られていたとはいえ,多くの人々を一つの世界規模でのスペクタクルの中に包摂するだけの,規模の大きさと異種混合を許すだけの普遍主義的な受容性を持っていた」ところです(宮武19頁)。

ゴロこと辺泥(ぺて)五郎生涯については家族による興味深い講演記録あります近森アイヌ文化祖父・辺五郎足跡たどってhttps://www.ff-ainu.or.jp/about/files/sem2007.pdf)。


(6)東京=セント・ルイス=武漢

 なお,最後に付け加えれば,セント・ルイス市は,同市でオリンピックが開催された年から100年後の2004年の927日以来,中華人民共和国湖北省武漢市と国際友好交流城市関係にあります。後者は,現在流行の新型コロナウイルス感染症とは浅からぬ因縁のあるかの都市です(世界的なlockdownの流行は,「武漢封城」に触発されたchinoiserieでしょう。1938年の我が漢口作戦の漢口は,現在の武漢市の一部です。)。ただし,国際友好交流城市関係は友好城市(姉妹都市)関係とは違うもののようです。しかし,セント・ルイス側は,余り頓着せずに,両市はsister citiesであるものと観念しているようです。Budweiser Beerの工場が,武漢にもあるそうです。Sisters in Budsuitですね。

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