1 新しい相続法の施行(2019年7月1日)
平成30年法律第72号が今年(2019年)7月1日から施行され(同法附則1条本文及びそれに基づく平成30年政令第316号),同日以後に被相続人が死亡して開始された相続(民法882条)については新しい相続法が適用されることになっています(平成30年法律第72号附則2条参照)。
ところで,平成30年法律第72号によって追加された諸規定中,筆者に特に興味深く思われた条項が二つあります。「遺産の分割の方法の指定として遺産に属する特定の財産を共同相続人の一人又は数人に承継させる旨の遺言(以下「特定財産承継遺言」という。)があったときは,遺言執行者は,当該共同相続人が第899条の2第1項に規定する対抗要件を備えるために必要な行為をすることができる。」という民法1014条2項及び同項において言及されている同法899条の2第1項(「相続による権利の承継は,遺産の分割によるものかどうかにかかわらず,次条及び第901条の規定により算定した相続分〔法定相続分〕を超える部分については,登記,登録その他の対抗要件を備えなければ,第三者に対抗することができない。」)の二つの条項です。
2 香川判決から特定財産承継遺言に関する規定の導入まで
実は,特定財産承継遺言に関する規定の民法への導入とは,東京大学出版会の民法教科書シリーズで有名な内田貴・元法務省参与の東京大学法学部教授時代の主張(「私見」)等の諸学説が圧伏せられた上での,いわゆる「相続させる」遺言に関する判例理論の実定法化でした。内田元参与の当該「私見」は,「私は,遺産分割方法の指定は,本来想定されていたように,現物分割か換価分割かなどの分割方法の指定に限り,処分行為は遺贈によって行なうのが筋だと思う。その点で,税法や登記手続上の考慮を民法の論理に優先させたように見える本件判決〔最高裁判所平成3年4月19日判決民集45巻4号477頁〕には反対である。」(内田貴『民法Ⅳ親族・相続』(東京大学出版会・2002年)484頁)というものでした。司法試験受験者その他の読者には印象的な記述であったであろうと思われます。(なお,判例はあったものの,「旧法〔平成30年法律第72号による改正前の民法〕においては,特定財産承継遺言については,規定上の根拠が必ずしも明確でな」いものと解されていたところです(堂薗幹一郎=野口宣大編著『一問一答 新しい相続法――平成30年民法等(相続法)改正,遺言書保管法の解説』(商事法務・2019年)142頁)。)
上記最判平成3年4月19日の「本件判決」は,当該判決を出した最高裁判所第二小法廷の香川保一裁判長の名を冠して「香川判決」と呼ばれるそうです(内田483頁)。香川判決は,次のように判示しています。
被相続人の遺産の承継関係に関する遺言については,遺言書において表明されている遺言者の意思を尊重して合理的にその趣旨を解釈すべきものであるところ,遺言者は,各相続人との関係にあっては,その者と各相続人との身分関係及び生活関係,各相続人の現在及び将来の生活状況及び資力その他の経済関係,特定の不動産その他の遺産についての特定の相続人のかかわりあいの関係等各般の事情を配慮して遺言をするのであるから,遺言書において特定の遺産を特定の相続人に「相続させる」趣旨の遺言者の意思が表明されている場合,当該相続人も当該遺産を他の共同相続人と共にではあるが当然相続する地位にあることにかんがみれば(1),遺言者の意思は,右の各般の事情を配慮して,当該遺産を当該相続人をして,他の共同相続人と共にではなくして,単独で相続させようとする趣旨のものと解するのが当然の合理的な意思解釈というべきであり,遺言書の記載から,その趣旨が遺贈であることが明らかであるか又は遺贈と解すべき特段の事情がない限り,遺贈と解すべきではない。そして,右の「相続させる」趣旨の遺言,すなわち,特定の遺産を特定の相続人に単独で相続により承継させようとする遺言は,前記の各般の事情を配慮しての被相続人の意思として当然あり得る合理的な遺産の分割の方法を定めるものであって,民法908条において被相続人が遺言で遺産の分割の方法を定めることができるとしているのも(2),遺産の分割の方法として,このような特定の遺産を特定の相続人に単独で相続により承継させることをも遺言で定めることを可能にするために外ならない。したがって,右の「相続させる」趣旨の遺言は,正に同条にいう遺産の分割の方法を定めた遺言であり,他の共同相続人も右の遺言に拘束され,これと異なる遺産分割の協議(3),さらには審判(4)もなし得ないのであるから,このような遺言にあっては,遺言者の意思に合致するものとして,遺産の一部である当該遺産を当該相続人に帰属させる遺産の一部の分割がなされたのと同様の遺産の承継関係を生ぜしめるものであり,当該遺言において相続による承継を当該相続人の受諾の意思表示にかからせたなどの特段の事情のない限り,何らの行為を要せずして,被相続人の死亡の時(遺言の効力の生じた時(5))に直ちに当該遺産が当該相続人に相続により承継されるものと解すべきである。そしてその場合,遺産分割の協議又は審判においては,当該遺産の承継を参酌して残余の遺産の分割がされることはいうまでもないとしても(6),当該遺産については,右の協議又は審判を経る余地はないものというべきである。もっとも,そのような場合においても,当該特定の相続人はなお相続の放棄の自由を有するのであるから(7),その者が所定の相続の放棄をしたときは(8),さかのぼって当該遺産がその者に相続されなかったことになるのはもちろんであり(9),また,場合によっては,他の相続人の遺留分減殺請求権の行使を妨げるものではない(10)。
註(1)民法898条「相続人が数人あるときは,相続財産は,その共有に属する。」
註(2)民法908条「被相続人は,遺言で,遺産の分割の方法を定め,若しくはこれを定めることを第三者に委託し,又は相続開始の時から5年を超えない期間を定めて,遺産の分割を禁ずることができる。」
註(3)民法907条1項「共同相続人は,次条〔908条〕の規定により被相続人が遺言で禁じた場合を除き,いつでも,その協議で,遺産の全部又は一部の分割をすることができる。」
註(4)民法907条2項「遺産の分割について,共同相続人間に協議が調わないとき,又は協議をすることができないときは,各共同相続人は,その全部又は一部の分割を家庭裁判所に請求することができる。ただし,遺産の一部を分割することにより他の共同相続人の利益を害するおそれがある場合におけるその一部の分割については,この限りでない。」
註(5)民法985条1項「遺言は,遺言者の死亡の時からその効力を生ずる。」
註(6)「分割にあたって,この家作は何某相続人へ割り当てよ,という意味であるから,分割方法の指定には違いない。/もしその家作の価額が,何某相続人の法定相続分を上廻っているに拘わらず,何某はそれだけをもって満足せよという意味であるならば,それは分割方法の指定であるとともに,相続分の指定でもある。もしまた,法定相続分に達しない不足分は,別に遺産中から,補充的の分割をうけよ,という意味であるならば,法定相続分の変更は少しもないのであるから,単なる分割方法の指定と見るべきであろう。/これを要するに,家作の価額が法定相続分を超える場合は,原則として法定相続分の変更であり,それは相続分の指定を含む分割方法の指定ということになる。ただもし,法定相続分を超過する価額だけ,他の共同相続人に補償すべきことを命じているような特別な意思がうかがわれる場合のみ,それは単なる分割方法の指定となるであろう。」(中川善之助『相続法』(有斐閣・1964年)172-173頁)
註(7)民法915条1項「相続人は,自己のために相続の開始があったことを知った時から3箇月以内に,相続について,単純若しくは限定の承認又は放棄をしなければならない。ただし,この期間は,利害関係人又は検察官の請求によって,家庭裁判所において伸長することができる。」
註(8)民法938条「相続の放棄をしようとする者は,その旨を家庭裁判所に申述しなければならない。」
註(9)民法939条「相続の放棄をした者は,その相続に関しては,初めから相続人とならなかったものとみなす。」
註(10)民法1046条1項「遺留分権利者及びその承継人は,受遺者(特定財産承継遺言により財産を承継し又は相続分の指定を受けた相続人を含む。以下この章において同じ。)又は受贈者に対し,遺留分侵害額に相当する金銭の支払を請求することができる。」
3 香川判決批判
(1)内田元参与の「私見」
内田元参与の前記「私見」においては,香川判決に対し,①民法908条の「遺産分割の方法」の限定性(「現物分割か換価分割か」というようなものに限定されるべきである。)に反するのではないかとの問題性,②税法上の考慮を民法の論理に優先させることの問題性及び③登記手続上の考慮についても同じく民法の論理に優先させることの問題性が指摘されていました。
このうち,②の税法上の考慮とは,登録免許税額が,「遺贈は贈与扱いになって課税標準額の1000分の25であるが,相続扱いだと1000分の6となり,4分の1以下で済むのである。」ということでしたが(内田482頁),この不均衡は,平成15年法律第8号5条による登録免許税法(昭和42年法律第35号)17条新1項の規定(「所有権の相続(相続人に対する遺贈を含む。以下同じ。)」と定義(下線は筆者によるもの))によって2003年4月1日から解消されています。現在,登録免許税額は,相続によるものであっても,相続人に対する遺贈によるものであっても,いずれも不動産の価額の1000分の4となっています(登録免許税法別表第1一(二)イ(ちなみに,2003年4月1日から2006年3月31日までに登記を受ける場合は,平成15年法律第8号12条によって改正された租税特別措置法(昭和32年法律第26号)72条1項の規定により1000分の2となっていました。)。免税措置として,租税特別措置法の現84条の2の3)。(なお,「この税率は,2003(平成15)年には両方同一となり,その後また変更。2013年現在は4‰と20‰になっている(登税別表一,一(二)イ,ハ)」との記述(谷口知平=久貴忠彦編『新版注釈民法(27)相続(2)(補訂版)』(有斐閣・2013年)408頁)の解釈は難しいところです。)
③の登記手続については,相続による権利の移転の場合は登記権利者が単独で申請できるのに対して(不動産登記法(平成16年法律第123号)63条2項),遺贈の場合は遺言執行者(民法1012条2項)又は相続人と受遺者との共同申請によらねばならないものとされています(不動産登記法60条)。
(2)伊藤教授の「呪詛」
しかして内田元参与の「私見」①の「遺産分割の方法」の限定性ですが,これについては伊藤昌司教授が次のように詳しく述べています。
〔民法908条の「被相続人は,遺言で,遺産の分割の方法を定め」との規定が遺言による財産処分(同法964条)に当たるかについては〕筆者〔伊藤教授〕は次の理由で否定する。①民法の規定上,遺言による財産処分の代表が遺贈であるのは疑いない〔また,民法964条の「「財産の・・・処分」とは遺贈を意味するものと解されてきた」ところであって(伊藤昌司「「相続させる」遺言は遺贈と異なる財産処分であるか」法政研究57巻(1991年)4号170頁),かつ,平成16年法律第147号によって同条に付された見出しは「包括遺贈及び特定遺贈」です。〕。なぜなら,民法は,遺贈について多くの条文を用意し〔略〕,他の死因財産処分(死因贈与・遺言寄附行為)には遺贈の規定を準用しているが(554,旧41〔Ⅱ「遺言ヲ以テ寄附行為ヲ為ストキハ遺贈ニ関スル規定ヲ準用ス」〕(一般法人158Ⅱ〔「遺言で財産の拠出をするときは,その性質に反しない限り,民法の遺贈に関する規定を準用する。」〕)),本条〔908条〕の指定には準用しない。②被相続人による財産処分は(生前贈与,遺贈,そして死因贈与も寄附行為も)遺留分を侵害するおそれがあり,その場合には減殺請求できる(〔平成30年法律第72号による改正前の民法〕1031〔条は「遺留分権利者及びその承継人は,遺留分を保全するのに必要な限度で,遺贈及び前条に掲げる贈与の減殺を請求することができる。」と規定〕)。ところが,遺贈の規定が準用されない本条の指定は減殺請求の対象にも含まれていないばかりか,本条の指定による遺留分侵害の可能性さえも想定されていない。〔遺留分侵害の可能性に言及しない民法908条に対して,平成30年法律第72号による改正前の民法902条1項は「被相続人は,前2条の規定にかかわらず,遺言で,共同相続人の相続分を定め,又はこれを定めることを第三者に委託することができる。ただし,被相続人又は第三者は,遺留分に関する規定に違反することができない。」と,同じく964条は「遺言者は,包括又は特定の名義で,その財産の全部又は一部を処分することができる。ただし,遺留分に関する規定に違反することができない。」と規定しており,遺留分侵害の可能性を前提に各ただし書が置かれていました。〕③本条による遺産分割禁止の遺言がある場合のみは遺産分割協議ができないけれども(907Ⅰ・Ⅱ),本条の指定がなされても協議分割が,したがって裁判分割ができる。このことは,本条の指定がいずれの方式による遺産分割とも重なりうる内容のものであること,つまりは家事事件手続法195条〔「家庭裁判所は,遺産の分割の審判をする場合において,特別の事情があると認めるときは,遺産の分割の方法として,共同相続人の一人又は数人に他の共同相続人に対する債務を負担させて,現物の分割に代えることができる。」〕(旧家審規109〔「家庭裁判所は,特別の事由があると認めるときは,遺産の分割の方法として,共同相続人の一人又は数人に他の共同相続人に対し債務を負担させて,現物をもつてする分割に代えることができる。」〕)にいう「遺産の分割の方法」,すなわち補償(代償)分割,換価分割(家事194),現物分割といった手法を強く示唆している(少なくとも,旧家審規109の用語は,本条に合わせて立案されたに違いない)からである。(谷口=久貴406-407頁)
香川判決及び平成30年法律第72号による今次民法改正の支持者からすれば,①民法908条の遺産の分割の方法の指定に遺贈の規定を準用しないのは同条の指定と遺贈とは別だから当然であったし(「財産処分ではあるが遺贈とは全く異なる性質のものであるが故に準用規定がない」又は「財産処分であるかどうかは準用規定の有無とは無関係」(伊藤・法政172頁参照)),遺贈の規定の準用がどうしても必要だというのならば,現在の民法1047条1項括弧書きでは,特定財産承継遺言による財産の承継は遺贈に含まれるものとなっている,②遺留分侵害の問題については今次改正で対応済みである(民法1046条1項括弧書き,1047条1項括弧書き),また,民法起草者は旧1010条(現908条の前身)について「本条ハ単ニ分割ノ方法ニ付テ規定スルモノニシテ其結果遺留分ヲ侵スコトヲ得サルハ固ヨリ言フヲ竣タサル所ナリ」と述べて遺留分侵害の可能性をも想定していた(梅謙次郎『民法要義巻之五(第18版)』(私立法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1910年)135頁。また,これにつき,水野謙「「相続させる」旨の遺言に関する一視点―東京高裁昭和63年7月11日判決の検討を兼ねて」法時62巻7号(1990年6月号)83頁及び84頁・註(24)),及び③条文はともかくも特定財産承継遺言によって承継された遺産については遺産分割の協議又は審判を経る余地がないことは香川判決で判示済みであった,また,民法起草者も旧1010条(現908条の前身)について「蓋シ被相続人ハ甲ノ財産ヲ以テ必ス太郎ノ手ニ在ラシメ乙ノ財産ヲ以テ必ス次郎ノ手ニ欲スルコトアルヘ」きことをも前提として解説していた(梅134頁),といった反論があるところでしょうか。
とはいえ伊藤昌司教授は,香川判決は「その裁判長が法務省在勤時に推進した不合理な登記実務〔「「相続させる」(あるいは「遺産分割の方法を指定する」)文言の遺言書を添付して移転登記を申請する場合には,これが遺贈同様の財産処分であって保存行為ではないことが公言されていながら,相続登記一般の単独申請とは内容の異なる「単独申請」,つまり共同相続人の一部である当該遺言の受益者のみによる申請でも(他の共同相続人の同意を証する書面も印鑑も印鑑証明も必要なしに)単独名義登記が許される」,また,「遺産分割協議書の偽造よりも遺言書の偽造の方がより簡単で,可能性もより高いだけでなく,1023条以下の抵触により無効となった遺言書が登記に用いられることも大いにありうる」〕に判例の重みを加えるものとなった」と述べ(谷口=久貴412頁・410-411頁),更に「筆者には相続法解釈学の鬼子としか思えない香川判決」と呼ばわって(谷口=久貴414頁),辛辣です。否,辛辣というよりは,大村敦志教授によれば,「異例の情熱」に支えられた「呪詛」ということになります(大村敦志『フランス民法――日本における研究状況』(信山社・2010年)96-97頁)。大村教授があえて「呪詛」と言うのは,高々と罵倒の言を投げつけるばかりではなく(「この判例は,民法史に残るスキャンダルであり,将来必ず変更されるであろう。」(伊藤昌司『相続法』(有斐閣・2002年)123頁)),諦めようとしても諦めきれない恨みを込めた執念がそこにはあるからでしょう(「この判決は,遺贈の諸規定を粉々に砕いたのみでなく,相続人間の平等を死滅に追い込む流れを加速させた。なぜなら,この判決により,「相続させる」の文言による遺言受益者は,財産を簡単に独り占めすることができるようになったし,その後は,「相続させない」遺言によって法定相続人の権利を簡単に否定することもできると考える実務をも勇気づけたからである。後世の学者は,上記の日付〔平成3年4月19日〕に平等主義が死の床に運ばれたと記述するであろう。現在は,進み行く死を見守り,もはや諦念の祈りを呟くだけの日々が流れている」(伊藤・相続法22頁・註(3))。)。(なお,「スキャンダラス」な香川判決の判例が変更される可能性を消滅させた今次民法改正に係る平成30年法律第72号制定の基礎となった法制審議会の「民法(相続関係)等の改正に関する要綱」(2018年2月16日)の案を作成した同審議会の民法(相続関係)部会の部会長は,大村教授でした(堂薗=野口5-6頁)。)
また,「スイス民法608条3項は,遺産に属する特定財産を一相続人に指定することは,被相続人の反対意思がうかがえない限り,単なる分割方法の指定であって,遺贈ではない,といっている」ことから(中川177頁註(1)),民法902条の相続分の指定が特定財産を指示する形で行われたときは,これは「遺産に属する特定の財産を,特定の相続人に帰属せしめようという意思表示であるから,私はこれを遺贈と見ることは,原則的に,不当であると思う。/しかし分割方法の指定であるという性質は含まれている。分割にあたって,この家作は何某相続人へ割当てよ,という意味であるから,分割方法の指定には違いない。」(中川172頁)とする「日本の家族法学の父ともいえる中川善之助教授」(内田4頁)の解釈に対して,伊藤昌司教授は,「しかしながら,スイス法のこの規定は,筆者が調べた限りでは,当該処分の目的財産は名宛人の相続分に充当するのが原則であることを定めたものであり,各相続人が承継する財産の価額間の比率自体を増減させないこと,名宛人が遺留分権利者であれば,自由分にではなく遺留分に充当すべきことを意味している」のであって「遺贈とは別個に「分割方法の指定」という財産処分を認める規定ではない。」と批判しています(谷口=久貴415頁)。伊藤教授にとっては,中川相続法学は「「曖昧な基本概念」と「立法論的提言」に満ちた」ものにすぎず,「否定」されるべきものです(大村123頁。伊藤・相続法ⅱ参照)。「過去の学説は,ローマ法的・ドイツ法的な相続観・遺贈観をわが民法の条文解釈に力ずくでネジ込もうとしたり,そのような先入主からスイス民法規定を,条文の表面的理解のみで我田引水して,わが相続法規の論理構造をかき乱してきたのである。」ということになります(谷口=久貴415頁(伊藤))。
(3)スイス民法608条
問題のスイス民法608条は,フランス語文では次のとおりとなります。
Art. 608 |
B. Règles
de partage |
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I.
Dispositions du défunt |
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1 Le disposant peut, par
testament ou pacte successoral, prescrire à ses héritiers certaines règles
pour le partage et la formation des lots. |
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2 Ces règles sont
obligatoires pour les héritiers, sous réserve de rétablir, le cas échéant,
l’égalité des lots à laquelle le disposant n’aurait pas eu l’intention de
porter atteinte. |
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3 L’attribution d’un objet
de la succession à l’un des héritiers n’est pas réputée legs, mais simple
règle de partage, si la disposition ne révèle pas une intention contraire de
son auteur. |
ドイツ語文では次のとおり。
Art. 608 |
B. Ordnung der Teilung |
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I. Verfügung des Erblassers |
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1 Der Erblasser ist befugt, durch Verfügung
von Todes wegen seinen Erben Vorschriften über die Teilung und Bildung der
Teile zu machen. |
2 Unter Vorbehalt der Ausgleichung bei einer
Ungleichheit der Teile, die der Erblasser nicht beabsichtigt hat, sind diese
Vorschriften für die Erben verbindlich. |
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3 Ist nicht ein anderer Wille des Erblassers
aus der Verfügung ersichtlich, so gilt die Zuweisung einer Erbschaftssache an
einen Erben als eine blosse Teilungsvorschrift und nicht als Vermächtnis. |
拙訳をつけると次のようになりましょうか。
第608条
B. 分割の規則
Ⅰ 被相続人の処分
1 処分者は,遺言又は相続に係る合意(「死因処分」と総称する。)により,その相続人に対し,相続による取得分の分割及び組織に係る一定の規則を定めることができる。
2 当該規則は,相続人を拘束する。ただし,必要となった場合においては,処分者がそれを侵害する意図を有していなかった相続による取得分の平等の回復ができるものとする。
3 相続財産のうちのある物の一の相続人への割り当ては,当該処分がそれを行った者の反対の意図を明らかにしていない場合においては,遺贈ではなく,単なる分割の規則とみなされる。
伊藤教授の前記指摘は,第2項の清算規定に関係するものでしょうか。第3項については,遺贈ではない点については仕方がないので,そうではあっても「「分割方法の指定」という財産処分を認める規定ではない」と論じられることになったものでしょう。
なお,筆者は,スイス民法608条3項のsimple règle de partageないしはeine blosse Teilungsvorschriftを「単なる分割方法の指定」ではなく「単なる分割の規則」と訳したところです(attributionないしはZuweisungとの訳し分け)。しかし,こう訳してしまうと,当該「規則」に従った共同相続人間での遺産の分割が更に必要となるようにも思われます。香川判決の調査官解説では「遺産分割方法というと,相続人間で行う遺産分割協議の基準が連想されるかもしれない。しかし,遺産を主体にみた上で,被相続人がする遺産分割の指定(特定の遺産が一部の場合は一部分割の指定)と捉えれば,当該遺産については相続人が更に加えて遺産分割する余地はないと素直に考えることができ,本判決〔香川判決〕の意図するところは明らかとなろう。」と述べられていますが(『最高裁判所判例解説民事篇(平成三年度)』(法曹会・1994年)226-227頁(塩月秀平)),スイス民法608条の「規則(règle, Vorschrift)」は,遺産を直接対象とするものではなく,正に相続人を名宛人にしているものです(à ses héritiers, seinen Erben)。同条1項により「遺産の分配を受けた相続人は,他の相続人に対して,被相続人の指定どおりに分配すべきことを請求することができるが,遺言分配それ自身には物権的効力はない。相続人が分配をうけた遺産について単独名義の相続登記を行うなど自己の単独所有とするには,相続人間の協議もしくは裁判所の判決が必要だとされる」ものだそうです(島津一郎「分割方法指定遺言の性質と効力―いわゆる「相続させる遺言」について―」判時1374号(1991年4月11日号)7頁)。したがって,相続人を名宛人とする「遺産分割方法の指定とすれば,〔共同相続人間の〕分割の協議または調停においてそのように決められるはず」べきものであり,それにとどまる,したがって,直接の効果を認める香川判決は「新しい(民法にない)型の遺言による処分を認めたものと見るのが素直な見方のように思われる」ともなおいえそうです(星野英一『家族法』(放送大学教育振興会・1994年)165頁参照)。
(4)多田判決
となると,香川判決の前に「長らくリーディング・ケースとして機能していた」(内田483頁)とされる多田判決(東京高等裁判所昭和45年3月30日判決高裁判例集23巻2号135頁(裁判長・多田貞治,裁判官・上野正秋,裁判官・岡垣学))が,改めて想起されて来るところです(なお,多田判決は上告棄却により確定していますが,上告審判決は積極的な理由を示しておらず,上告棄却に至る判断過程は明らかでないとされています(塩月220頁)。)。
多田判決は,「相続させる」遺言の性質を,特段の事情がない限り遺産分割方法の指定ないしは相続分の指定を伴う遺産分割方法の指定としつつ,遺産分割手続はなお必要であるとして,判示していわく。
よつて案ずるに,被相続人が自己の所有に属する特定の財産を特定の共同相続人に取得させる旨の指示を遺言でした場合に,これを相続分の指定,遺産分割方法の指定もしくは遺贈のいずれとみるべきかは,被相続人の意思解釈の問題にほかならないが,被相続人において右の財産を相続財産の範囲から除外し,右特定の相続人が相続を承認すると否とにかかわりなく(たとえばその相続人が相続を放棄したとしても),その相続人に取得させようとするなど特別な事情がある場合は格別,一般には遺産分割に際し特定の相続人に特定の財産を取得させるべきことを指示する遺産分割方法の指定であり,もしその特定の財産が特定の相続人の法定相続分の割合を超える場合には相続分の指定を伴なう遺産分割方法を定めたものであると解するのが相当である。〔略〕
Fの遺言の趣旨が右のとおりであるとすれば,同人の遺産を相続した共同相続人の間で遺産分割の協議または調停をするに際しては,右遺産の趣旨をできるだけ尊重すべく,遺産分割が審判によつて行われるときは右遺言の趣旨に従わねばならぬのはもとよりであり,その結果第一審原告が本件第二建物の所有権を取得する旨の遺産分割が成立した場合には,同人は相続開始の時にさかのぼり右所有権取得を付与されることになる。しかしながら,それがいかなる方法によつてなされるにせよ,右遺産分割が成立するにいたるまでは,第一審原告は単にFの相続財産たる本件建物につき同人の死亡当時の配偶者として民法の定めるところによつて3分の1の共有持分(法定相続分)を有するにとどまり,ただ将来財産分割によつて右建物の所有権を取得しうる地位を有するけれども,未だ遺産分割のされていない今日にあつては右建物につき確定的な所有権を有するものではない。してみると,Fの遺言によつて直ちに本件第二建物の確定的な所有権を取得したことを前提とする第一審原告の第一審被告Aら5名に対する請求は,その余の点につき判断するまでもなく,すべてその理由なしとしなければならない。
(5)フランス民法の尊属分割中の遺言分割をめぐる議論
ただし,民法旧1010条(現908条の前身)はフランス民法の「生前行為による贈与分割の規定を除外した遺言分割の規定に由来」し,「フランス民法の尊属分割(父母等の尊属が財産の分割をする制度)中の遺言分割のメリットは,一般に協議分割や裁判上の分割に伴う不都合を回避し,遺産の合理的な分配を可能にすること」にあるところ,また,「フランス民法の尊属分配中の遺言分配の制度は,遺産共有の状態を経ないで遺産分割の効果を生じさせるもの」であるとの説明もあるようです(塩月223頁の紹介する水野・前掲法時論文及び島津・前掲論文。なお,当時北海道大学大学院の学生であった水野謙学習院大学教授の当該法時論文は,「香川判決が遺産分割効果説を採用した理論的背景に,同判決が言い渡される直前に提示された水野謙の研究があることは,周知のことがらと言ってよいであろう。」と紹介されています(吉田克己「「相続させる」旨の遺言・再考」野村豊弘=床谷文雄編著『遺言自由の原則と遺言の解釈』(商事法務・2008年)47頁)。「通説化していない新説を最高裁が採用した珍しい事例と評されている」ものです(水野謙「「相続させる」遺言の効力」法教254号(2001年11月号)21頁)。)。
しかし,これに対して伊藤昌司教授は,「潮見〔佳男〕の著書が908条の沿革をフランスの尊属分割に結びつけた学説〔水野・前掲法時及び法教両論文〕を厳しく批判したように,吉田〔克己〕もこの主張には根拠がなく,また,香川判決の意図とフランスの尊属分割の制度趣旨が全く矛盾することなどを克明に批判している」と学界における批判の存在を紹介しています(谷口=久貴418頁)。
上記の塩月調査官及び伊藤教授による紹介においては,肝腎の御本尊の「尊属分割中の遺言分割」ないしは「尊属分配中の遺言分配」の条文が具体的に記されていないのですが,現在のフランス民法1075条,1075条の1及び1079条は次のとおり。
Art. 1075 Toute
personne peut faire, entre ses héritiers présomptifs, la distribution et le partage de ses biens et de ses droits.
(全ての人は,彼の推定相続人の間における彼の財産及び彼の権利の分配及び分割をすることができる。)
Cet acte
peut se faire sous forme de donation-partage ou de testament-partage. Il est soumis
aux formalités, conditions et règles prescrites
pour les donations entre vifs dans le premier cas et pour des testaments dans
le second.
(当該行為は,贈与分割又は遺言分割の形式で行われることができる。前者は生者間贈与について定められた方式,条件及び規則に,後者は遺言についてのそれらに従う。)
Art. 1075-1 Toute
personne peut également faire la distribution et le partage
de ses biens et de ses droits entre des descendants de degrés différents, qu’ils soient ou non ses héritiers présomptifs.
(全ての人は,同様に,彼の推定相続人であるか否かにかかわらず,異なる親等の卑属間における彼の財産及び彼の権利の分配及び分割をすることができる。)
Art. 1079 Le
testament-partage produit les effets d’un partage. Ses béneficiaires ne peuvent renoncer à se prévaloir du testament pour réclamer un nouveau partage
de la succession.
(遺言分割は,分割の効果を生ずる。その受益者らは,遺産の新たな分割を求めるために当該遺言の援用を放棄することはできない。)
これが,1804年のナポレオンの民法典では次のようになっていました。当時,「父,母又は他の尊属らによってされる彼らの卑属間における分割について」の節は第1075条から第1080条までありましたが,現在の第1079条に該当する規定はありませんでした。(なお,我が民法旧第5編制定当時(1898年)のフランス民法の当該規定はナポレオンの民法典のものでしたが,水野・法時82頁及び84頁・註(18)並びに島津6頁が「フランス民法」の当該規定として紹介するものは,その後改正された(「重要なのは1971年7月3日の法律による改正」です(吉田48頁)。)各論文執筆当時のフランス民法でした。)
Art. 1075 Les père et mère et autres ascendans pourront faire, entre
leurs enfans et descendans, la distribution et le partage de leurs biens.
(父母及び他の尊属らは,彼らの子ら及び卑属らの間における彼らの財産の分配及び分割をすることができる。)
Art. 1076 Ces partages pourront être faits par actes entre-vifs ou testamentaires, avec les formalités, conditions et règles prescrites pour les donations entre-vifs et
testamens.
(当該分割は,生者間贈与及び遺言について定められた方式,条件及び規則により,生者間の又は遺言の行為によって行われることができる。)
Les
partages faits par actes entre-vifs ne pourront avoir pour objet que les biens
présens.
(生者間の行為による分割は,現存する財産以外のものを目的とすることができない。)
Art. 1077 Si tous
les biens que l’ascendant laissera au jour de son décès n’ont pas
été compris dan le partage, ceux de ces biens qui n’y auront pas été compris,
seront partagés conformément à la loi.
(尊属が彼の死の日に遺す財産の全てが分割に含まれていない場合においては,当該財産のうちそこに含まれないものは,法律に従って分割される。)
Art. 1078 Si le
partage n’est pas fait entre tous les enfans qui existeront à l’époque du décès et les descendans de ceux prédécédés, le partage
sera nul pour le tout. Il en pourra être provoqué un nouveau dans la form
légale, soit par les enfans ou descendans qui n’y auront reçu aucune part, soit
même par ceux entre qui le partage aurait été fait.
(死亡時に現存する子ら及びそれより以前に死亡した子らの卑属らの全員の間で分割がされない場合においては,当該分割は,全員について無効となる。何らの分割も受けない子ら若しくは卑属らは,又はそれらの間において当該分割がされるものとされていた者らも,法の定めるところによる新らたな分割を求めることができる。)
Art. 1079 Le
partage fait par l’ascendant pourra être attaqué pour cause de lésion de plus du quart; il pourra l’être aussi dans le cas où il résulterait du partage et des disposiotions faites par préciput, que l’un des copartagés aurait un avantage plus
grand que la loi ne le permet.
(尊属のした分割は,4分の1を超える侵害を理由として攻撃され得る。分割及び先取的処分の結果,共に分割を受けた者らのうちの一人が法律の認めるものよりも大きな優位を有することとなるときも同様である。)
Art. 1080 L’enfant
qui, pour une des causes exprimées en l’article précédent, attaquera le partage fait par l’ascendant, devra
faire l’avance des frais de l’estimation; et il les supportera en définitif, ainsi que les dépens de la contestation,
si la réclamation n’est pas fondée.
(前条に定める理由の一に基づき尊属のした分割を攻撃する子は,評価の経費の前払をしなければならない。同人は,請求に理由がないものとされたときは,訴訟費用とともに,当該前払に係る経費を確定的に負担する。)
ナポレオンの民法典の第1078条を見ると,遺言分割と遺贈との違いが分かるような気がします。遺言分割は全員を対象としてその間で遺産を分け合わせるもの(みんな仲良くするように遺産を分配及び分割するのが尊属たるものの腕の見せどころということになったのでしょう。)とされていますが,遺贈は特定の者だけを対象として(他の者は取りあえず無視して)財産を与えるものということで切り分けができそうです(吉田48-49頁参照)。「我が子何某に〇を遺贈する」と書かずに「我が子何某に〇を相続させる」と書いただけで,何某の他の兄弟姉妹に言及しないのであれば,遺言分割ということにはならなかったものでしょう。
遺言分割の効果は,「遺言者の死亡の日から,共同相続人間において,〔卑属が〕自分達で分割を行った場合と同様の効果を生じさせる。なお,分割の主たる効果は,共有を終了させることである。」ということだそうです(室木絢子「フランスの遺言分割制度:「相続させる」旨の遺言への示唆を求めて」北大法学研究科ジュニア・リサーチ・ジャーナル13号(2007年)77頁)。
民法旧1010条(現908条)の起草に際しては,ナポレオンの民法典の第1075条から第1078条までが参照条文として挙げられていた等の事実はあるそうです(室木83-84頁。また,島津6頁(ただし「旧法1011条」に関するものとする。))。
遺産分割効果説(水野説)の根拠基盤は,「わが国の立法者が,遺言分割は遺産分割の効果を有するというフランス民法の少なくとも結論部分を参考にしたことはおそらく事実である」ということであるそうです(水野・法教21頁)。しかしながら,「参考」にしたその結果を改めてどう解すべきかが正に問題として残されていたのであり,かつ,そもそも出発点自体が「おそらく」なので,何だか腰が引けた印象です。
吉田克己教授は,水野説を次のように批判します。「水野説は,フランスの遺言分割の効果論にだけ着目し,その前提となる〔ナポレオンの民法典1078条等の〕要件論を無視したのである。水野説は,民法908条がフランス遺言分割の系譜を引くことを根拠として遺産分割効果説を説いた。しかし,フランス民法典原始規定の下では,特定財産を一定の相続人を除外した少数の特定相続人に承継させる旨の遺言分割は認められない。したがって,少なくともこの部分に関する水野説は,立論の基礎を欠くと言わなければならない。」と(吉田49-50頁)。したがって,「水野説は,立法者意思を参照しながら,遺産分割効果説を,とくに限定なしに,とりわけ特定財産を少数の特定相続人に「相続させる」旨の遺言にも妥当するものとして主張した。この点に,水野説の問題があったものと考える。」ということになります(吉田51-52頁)。ただし,伊藤教授のように「この主張には根拠がなく,また,香川判決の意図とフランスの尊属分割の制度趣旨が全く矛盾する」とまでの無慈悲な宣告は行ってはいません。首の皮は一枚残っているようです。
潮見佳男教授の著書(同『相続法(第5版)』(弘文堂・2014年))には,「最高裁判例が理論的によりどころとするフランス法の理解(当時,一部の民法学者により説かれていたもの)にはフランス法の理論に対する決定的な誤解があり,最高裁の命題を正当化する論拠とならない」とあります(199-200頁)。
なお,ローマ法における類似の制度については,遺産の共有に関して,「尊属が相続財産の分配をなすことも古典時代より行われ,別に特則はなかつたが,ユ〔スティニアヌス〕帝は書面の作成を要求している。この尊属の分配(divisio parentum)はただ遺産分割訴訟に於ける審判人の裁定に対する参考資料となるに過ぎない」と説明されています(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)360頁)。
4 相続による権利の承継に係る対抗要件主義導入の理由
民法899条の2の新設の理由は,「旧法の下では,特定財産承継遺言(相続させる旨の遺言のうち遺産分割方法の指定がされたもの)や相続分の指定がされた場合のように,遺言による権利変動のうち相続を原因とするものについて,判例は,登記等の対抗要件を備えなくても,その権利の取得を第三者に対抗することができると判示していた(特定財産承継遺言につき最二判平成14年6月10日家月55巻1号77頁。相続分の指定につき最二判平成5年7月19日家月46巻5号23頁)」ことによる「遺言の有無及び内容を知る手段を有していない相続債権者や被相続人の債務者に不測の損害をあたえるおそれ」の除去等とされています(堂薗=野口160-161頁)。従来の「判例の考え方によると,遺言によって利益を受ける相続人が登記等の対抗要件を備えようとするインセンティブが働かない結果,その分だけ実体的な権利と公示の不一致が生ずる場面が増えることになり,取引の安全が害され,ひいては不動産登記制度等の対抗要件制度に対する信頼を害するおそれがある」ため(堂薗=野口160頁),そのおそれの除去も目的に含まれているようです。
5 不動産登記に関する不一致問題
(1)実体的な権利と公示との不一致及び公信の原則の不採用
不動産に係る実体的な権利と登記による公示との不一致は,困った問題です。
なお,我が国においては,不動産登記について,「物権の存在を推測させる表象(登記・登録・占有等)を信頼した者は,たといその表象が実質的の権利を伴なわない空虚なものであった場合にも,なおその信頼を保護されねばならない,という原則」たる公信の原則(我妻榮著=有泉亨補訂『新訂物権法(民法講義Ⅱ)』(岩波書店・1983年)43頁)は認められていません。「不動産物権の表象たる登記に公信力がないことについては,とくに規定があるわけではない。しかし,真実権利をもたない者から権利を譲り受けることができるというのは,法律理論として全く異例のことだから,公信力を認める規定がない以上,公信力はないと解さなければならない。」とされています(我妻=有泉213頁)。
(2)地番と住居表示との不一致及び「ブルーマップ」
しかし,不動産登記に関する不一致問題といえば,土地に係る地番表示と住居表示との不整合の問題もあります。
地番は,一筆の土地ごとに付されます(不動産登記法2条17号・35条,34条1項2号)。
これに対して住居表示は,住居表示に関する法律(昭和37年法律第119号)2条によれば,建物その他の工作物につけられる住居表示のための番号たる住居番号が最小単位となっています。ただし,住居番号といっても実際には,「街区方式による住居表示の実施基準」(昭和38年自治省告示第117号(住居表示に関する法律12条参照))の5によれば,市町村(又はこれを区分した一定区域)の中心に近い街区の角を起点として原則として右廻りに街区の境界線をあらかじめ市町村で定める一定の間隔(概ね10ないしは15メートル)に区切って当該間隔に順次つけられた基礎番号のうち,当該建物等の主要な出入口又は道路への通路が街区境界線(道路)に接している所のものが,当該建物等の住居番号としてつけられます。(なお,住居表示の方法には街区方式(住居表示に関する法律2条1号)及び道路方式(同条2号)があるところ,「街区」とは,「町又は字の区域を道路,鉄道若しくは軌道の線路その他の恒久的な施設又は河川,水路等によつて区画した場合におけるその区画された地域」をいいます(同条1号)。)
地番と住居表示との不一致に関しては,福島地方法務局のウェブ・ページにおいて,次のように記載されています(「Q 住宅地図から土地の所有者を調べるには?」に対する回答)。
住宅地図については,住んでいる人の氏名(土地・建物の所有者とは限らない)と住所が表示されています。
住所については,住居表示の実施地区(都市部などで,〇〇番〇〇号)と非実施地区(都市部以外で,〇〇番地)とがあります。
住居表示の番号(住所)は,土地の地番と違うことから,そのままでは,法務局で登記簿の閲覧等を請求して,土地の所有者を調べることはできません。そこで,建物に住んでいる人や所有者等から地番を確認するか,隣接の地番が分かれば,それを基に法務局備付けの公図から目的の地番を探すことになります。
住居表示の未実施地区では,住所と地番が同じである場合が多いので,住宅地図に表示されている住所(地番)で,法務局へ登記簿の閲覧等を請求することができますが,同一でない場合もありますので,その場合は,隣接の地番が分かれば,それを基に法務局備付けの公図で目的の地番を探すことになります。
なお,住宅地図に地番の記載した「ブルーマップ」(社団法人民事法情報センター発行)を備え付けた法務局もありますので,それを利用していただくこともできますが,都市部のみ発行のため,利用できない場合があります。
住宅地図に地番が青字で併せ記載された「ブルーマップ」は,不動産登記に関係する仕事をする者にとっては非常に便利なものです。
6 「ブルーマップ」発行体たりし民事法情報センターの悪夢
前記「ブルーマップ」の発行体たる「社団法人民事法情報センター」は社会に大きな貢献をしている社団法人である,ということになります。
「このブルーマップにつきましては,住居表示と重ね合わせることによって大変便利になるのではないかという,もともとそういう考え方を提供したのはこの〔民事法〕情報センターと聞きました。」とは2010年4月16日の衆議院法務委員会における千葉景子法務大臣の答弁です(第174回国会衆議院法務委員会議録第7号7頁)。民事法情報センターは,2008年度には「ブルーマップ」を1億1480万円分売り上げ,費用・租税公課額2700万円を差し引いて9千万円近い利益を上げていたとされています(第174回国会衆議院法務委員会議録第7号7頁(竹田光明委員))。
しかしながら,実は現在「ブルーマップ」を発行しているのは民事法情報センターではなく,株式会社ゼンリンです。それでは社団法人民事法情報センターはその間どうしたのかといえば,次のようなことになってしまったそうです(毎日新聞2010年4月27日朝刊14版22面)。
法相ら要請,解散へ
理事長に無利子融資の法人
法務省所管の社団法人「民事法情報センター」(東京都新宿区)が理事長に無利子・無担保で1500万円を貸し付けていた問題で同センターは26日,解散する方針を決めた。千葉景子法相ら政務三役が法務省を通じて働きかけた結果で,約4億円の内部留保は国庫に寄付する見通し。今後,会員の4分の3以上の賛成を取り付け,6月までに総会を開いて正式に解散する。
この問題は「事業仕分け第2弾」の準備として民主党の新人議員が公益法人を対象に行った調査で判明。民主党政権の一連の見直しの中で問題となった公益法人が解散するのは初めてと見られる。
同センターは09年3月,理事長を務める元最高裁判事のK氏に1500万円を貸し付けた。借用書は作成したが,返済期限は設けず「長期貸付金」として処理した。また,センターが借りているビル内にK氏が共同経営する法律事務所が06年6月から入居していたことも判明。年間約340万円の家賃を受け取っているが,入居時に敷金や保証金は受け取っていなかった。
K氏は86~91年に最高裁判事を務め,同年にセンター理事に就任し,05年から理事長。センターは86年に設立され,登記所に備え付けの地図帳「ブルーマップ」や月刊誌を発行している。【田中成之】
この「民主党の新人議員」とは誰かといえば,竹田光明衆議院議員及び山尾志桜里衆議院議員でした(第174回国会衆議院法務委員会議録第7号5頁・7頁(竹田委員))。
なお,2010年4月16日の衆議院法務委員会における千葉法務大臣の答弁によると,理事長への1500万円の貸付金は,同月15日に返還されています(第174回国会衆議院法務委員会議録第7号6頁。利息等の支払はなし。)。
本件は,2010年4月13日の読売新聞朝刊(14版39面)の記事(「1500万円無利子・無担保貸し/元最高裁判事の理事長に/法務省所管法人」)から火が付いたようで,同日直ちに千葉法務大臣から民事法情報センターへの臨時検査の指示があり,同月14日に臨時検査が早速行われています(第174回国会衆議院法務委員会議録第7号5頁(千葉法務大臣))。
上記読売新聞の記事によれば,「センターによると,昨年〔2009年〕3月,K氏に1500万円を無担保で貸し付けた際,借用書を作成したものの,利息や返済期限は明記していなかった。貸し付けにあたって,理事長と常務理事各1人,さらに無報酬の非常勤理事10人で構成する理事会で事前に審議したこともなく,同年6月に「理事長に貸し付けた」と報告されただけだった。センターの2008年度決算報告書には「長期貸付金」として記載されている。/センターでは同じ昨年3月,理事長の報酬を月50万円から100万円に,常務理事の報酬も50万円から70万円にする報酬の改定も実施したが,これも6月の理事会まで報告していなかった。/1500万円をどんな目的で貸し付けたのかについて,センターのI常務理事は「当時,使用目的ははっきりとは聞いていなかった」としている。」ということでした。
更に読売新聞の当該記事は,当時88歳のK理事長の肉声をも伝えていて(「理事長「懸賞論文の費用に」」),興味深いところです。
K氏は今月,数回にわたって読売新聞の取材に応じ,「1500万円は懸賞論文の費用に使ったもので,私的なことに使ったわけではない」と語り,報酬についても「職員の給与を上げた時に一緒に増額しただけ」と話した。
――懸賞論文とは何か
「『K登記研究奨励基金』という名前で毎年,全国の法務局職員を対象に懸賞論文を実施していた。その費用に使った。賞金は1位が30万円。昨年度の応募は10件ほどだった」
――私的に使っていなくても問題ではないか
「センターは,お金を相当持っている。それを有効に使わないといけない」
――センターからなぜ資金を借りたのか
「懸賞論文の事業はいずれセンターに引き継ぐつもりだった。事務手続き上,貸し付けという形を取ったが,寄付と同じ。利息を払わなくても問題はない」
――では,返済しないのか
「6月までに,全額をきちんと返済する」
さて,2010年4月16日の衆議院法務委員会において竹田光明委員は,民事法情報センターについて「交通違反の取り締まりをしていたらいきなり殺人犯が出てきた,そのような気分でございます。」と冒頭厳しい発言を行った上で(第174回国会衆議院法務委員会議録第7号5頁),「理事長は,民事法情報センターのお金も自分のお金も日ごろから一緒になっているんじゃないか,そういうふうな印象を強く持ちました。」(同6頁)と述べつつ,「法人がこれだけの大金を貸し出すに当たって理事会の決議は必要ではないということは問題だと思いますが,大臣,いかがでしょうか。」と問うたところですが(同頁),これに対して千葉大臣は「確かにこれは定款の定めで行うものでございますので,法的には法令違反というようなことにはならないかと思います」と答弁しています(同頁)。
これについては,2008年12月1日から施行された一般社団法人及び一般財団法人に関する法律(平成18年法律第48号。以下「一般社団・財団法人法」といいます。)84条1項2号及92条1項並びに一般社団法人及び一般財団法人に関する法律及び公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律(平成18年法律第50号。以下「一般社団・財団法人法等整備等法」といいます。)40条1項及び49条括弧書きからすると,確かに2009年3月にされた民事法情報センターから同センター理事長への金銭貸付けには同センターの理事会の事前承認がなければならないように一見思われるところです。しかしながら,他方,一般社団・財団法人法等整備等法80条3項は「旧社団法人の定款における理事会又は会計監査人を置く旨の定めは,それぞれ一般社団・財団法人法に規定する理事会又は会計監査人を置く旨の定めとしての効力を有しない。」と規定していますので,どうも社団法人民事法情報センターの「理事会」は一般社団・財団法人法60条2項の理事会ではなかったということのようです。そうであれば,民事法情報センターには一般社団・財団法人法等整備等法49条の適用があって民法旧57条(「法人と理事との利益が相反する事項については,理事は,代理権を有しない。この場合においては,裁判所は,利害関係人又は検察官の請求により,特別代理人を選任しなければならない。」)の例によることとなったところ,民法旧57条の解釈としては,「数人の理事があり,その一部の者と法人との利益相反する場合には,他の理事が代表して妨げない」(我妻榮『新訂民法総則(民法講義Ⅰ)』(岩波書店・1965年)171頁),すなわち常務理事が法人を代表して理事長に貸付けを行えば大丈夫ということであったようです(ただし,四宮和夫『民法総則(第四版)』(弘文堂・1986年)107頁註(4)(c)は「理事たちの親密さを考えると,禁止されると解すべきだろう」と反対)。
また,読売新聞の前記記事には「法務省民事局商事課の話」として「貸付金の目的が法人の設立目的と合致しているかどうかが問題」であるとのコメントが出ていましたが,この点も「クロ」とはならなかったものでしょう(一般社団・財団法人法76条2項は「理事が二人以上ある場合には,一般社団法人の業務は,定款に別段の定めがある場合を除き,理事の過半数をもって決定する。」と規定しています(下線は筆者によるもの)。)。
なお,民事法情報センターと同センター理事長との間の金銭消費貸借は商人間の金銭消費貸借ではないので,そうなると無利息が原則でした(商法513条1項及び平成29年法律第44号による改正後の民法589条1項)。
「理事会の決議もなく,理事長と常務理事のお手盛りで役員の報酬が引き上げられる,こういうことはやはり問題じゃないかと私は思いますが,大臣,いかがでしょうか。」との竹田委員の質疑に対しても,千葉法務大臣は「これもまた,確かに法違反ということではないとは思います」と答弁しています(第174回国会衆議院法務委員会議録第7号6頁)。確かに,一般社団・財団法人法89条は「理事の報酬等(報酬,賞与その他の職務執行の対価として一般社団法人等から受ける財産上の利益をいう。以下同じ。)は,定款にその額を定めていないときは,社員総会の決議によって定める。」と規定しているものの,社団法人民事法情報センターがそうであった特例民法法人には,同条の規定は適用されていませんでした(一般社団・財団法人法等整備等法50条1項)。
竹田委員は,「社団法人である民事法情報センターの敷地を,これは民間から借りていると思うんですが,その一部を又貸ししているというのは,これはどういうものなのか。本当に,あきれ,あきれ,あきれた事態だと思っております。」との感想を述べていますが(第174回国会衆議院法務委員会議録第7号7頁),賃貸人との関係については,賃借物の転貸についてその承諾(民法612条1項)を得たものであれば問題はないところです。賃借地上の自社ビルの一部を第三者に賃貸するのであれば,そもそも賃借地の転貸にはなりません。
「実務においては,建物等を賃貸借するに当たって敷金が授受される事例が多く見られる」そうです(筒井健夫=村松秀樹編著『一問一答 民法(債権関係)改正』(商事法務・2018年)327頁)。しかし,だからといって必ず敷金を授受しなければならないことにはならないでしょう。
「千葉景子法相ら政務三役が法務省を通じて働きかけた結果」の社員総会の決議による解散(一般社団・財団法人法148条3号,一般社団・財団法人法等整備等法85条・民法旧69条)となったのは,社団法人民事法情報センターがその目的以外の事業をし,又は設立の許可を受けた条件若しくは監督上の命令に違反し,その他公益を害すべき行為をしたもの(一般社団・財団法人法等整備等法98条1項)とは認められず,法務省としては一般社団・財団法人法等整備等法98条2項の解散命令(なお,同法63条・一般社団・財団法人法148条7号)を発するに至ることができないので,「この民事法情報センターが,まさに理事長の公私混同,そして法人の私物化の疑いが極めて濃いということは,私自身大変大きな問題だと思っておりますし,また,そもそも,公益法人の趣旨からいって,本当に存在価値があるんだろうかという気持ちを抱いてお」るところ(第174回国会衆議院法務委員会議録第7号8頁(加藤公一法務副大臣)),「これまで表面に出てこなかったうみを出し切り,民主党中心の政権にかわって本当によかったと国民の皆様に思っていただけるように,目に見える形でぜひ成果を上げ」るべく(同頁(竹田委員)),当時の鳩山由紀夫内閣下の民主党政権として同センターの社員の忖度を求めることとなったものでしょう。
「特例民法法人の清算については,なお従前の例による。」ということで(一般社団・財団法人法等整備等法65条1項),社団法人民事法情報センターの清算後残余財産は,定款で指定した者(民法旧72条1項)がなく,また,社員総会の決議を経,かつ,主務官庁(一般社団・財団法人法等整備等法95条参照)の許可を得てする理事の処分(民法旧72条2項)もなければ,最終的に国庫に帰属することとなっていました(同条3項。また,一般社団・財団法人法239条3項参照)。これは「国庫の一般収入」となるものとされていました(我妻192頁)。しかし,「国庫に寄付」ということになれば,民法旧72条2項の理事の処分となったものでしょうか。
1948年1月30日の閣議決定である「官公庁に対する寄附金等の抑制について」の第3項は「自発的行為による寄附の場合においても,割当の方法によるものではなく,且つ主務大臣が弊害を生ずる恐れがないと認めたものの外その受納はこれを禁止すること。」として,国に対する寄附の受納の可否は主務大臣が決定するものとし,同第4項は「前項によつて主務大臣が寄付の受納を認めた場合」においては「醵金にあつては,これを歳入に繰入,醵金の主旨を考慮の上予算的措置を講ずるものとすること。」とありました。ただし,当該閣議決定の第2項は,「官庁自身による場合はもとより,後援団体を通じてなす場合においても寄附金の募集は厳にこれを禁止すること。」と定めていました。したがって,「解散せい,残余財産は寄附せい。」との埋蔵金発掘的「働きかけ」はなかったものでしょう。
2010年5月9日の読売新聞朝刊(14版28面)に次のような記事が出ています。
民事法情報センター法人解散を正式決定
法務省所管の社団法人「民事法情報センター」(東京都新宿区)が,理事長で元最高裁判事のK氏(89)に1500万円を貸し付けていた問題に絡み,同センターの社員総会が8日開かれ,法人を解散することが正式に決まった。センターが抱える約4億円もの内部留保は,民法の規定で国庫に寄付される見通し。〔以下略〕
4月26日の幹部による解散の方針決定から12日での社員総会開催。関係者は,大型連休を楽しむいとまもないおおわらわだったことでしょう。なお,「民法の規定で国庫に寄付」ということは,清算後残余財産に係る定款の規定も,理事の処分も,社団法人民事法情報センターについては無かったということでしょう。