1 新元号特需,我が国の元号制度の歴史論及び令和の元号の典拠論
新元号特需というのでしょうか,最近は当ブログ2018年12月13日掲載の「元号と追号との関係等について」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1073399256.html)へのアクセス数が多くなっているところです。しかしこの元号人気,いつまで続くものでしょうか。
我が国の元号制度の歴史論及び令和の元号の典拠論もひとしきりにぎやかでしたが,一応既に十分なのでしょう。日本書紀巻第二十五に「乙卯〔六月十九日〕,天皇・々祖母尊・皇太子於大槻樹之下召集群臣,盟曰。告天神地祇曰,天覆地載。帝道唯一。而末代澆薄,君臣失序。皇天仮手於我,誅殄暴虐。今共瀝心血。而自今以後,君無二政,臣無弐朝。若弐此盟,天災地妖,鬼誅人伐。皎如日月也。/改天豊財重日足姫天皇四年,為大化元年。」とあります。元号を令和に改める政令(平成31年政令第143号)を元号法(昭和54年法律第43号)第1項の規定に基づき2019年4月1日に制定した内閣の内閣官房長官による同日の記者会見で「新元号の典拠について申し上げます。「令和」は万葉集の梅の花の歌,三十二首の序文にある,「初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫す」から引用したものであります。」との説明があったところです。
とはいえ,令和の典拠論においては,漢籍に詳しい方々から,万葉集の当該序文のそのまた典拠として,後漢の張衡の帰田賦における「於是仲春令月 時和気清 原隰鬱茂 百草滋栄」の部分がそうであるものとして更に指摘がされてもいます(下線は筆者によるもの)。なお,張衡は政府高官であったそうで,「都邑に遊びて以て永く久く,明略を以て時を佐くる無し。川に臨んで以て魚を羨み,河清を俟つに未だ期あらず。蔡子の慷慨に感じ,唐生に従ひて以て疑ひを決す。諒に天道の微昧なる,漁夫を追ひて以て同嬉す。埃塵を超えて以て遐逝し,世事と長辞す。」やら,「苟も域外に縦心せば,安ぞ栄辱の所如を知らむ。」などといったところからは,それらしいぼやきのようなものが読み取られ得るように思われます。
2 漢における元号制度創始の事情論
しかしながら,西暦紀元前2世紀の終盤における漢の七代目皇帝孝武帝(武帝)劉徹による元号制度の創始に関しての込み入った事情についてまでの,漢学者ないしは東洋史学者からの一般向けの解説は,筆者の管見の限り,令和改元の前後においてはなかったようです。筆者としては宮崎市定『中国史』に先ず拠り,更に令和改元後,インターネット上の京都大学学術リポジトリ「紅」で東洋史研究第1巻第5号(1936年)掲載の藤田至善「史記漢書の一考察―漢代年号制定の時期に就いて―」論文(420-433頁)に逢着し得て,前記「元号と追号との関係等について」記事を補訂することができたばかりでした。
当該藤田論文によれば,西暦紀元前2世紀の半ば過ぎにおける即位の翌年の初元以来元を改めることを重ねて既に五元(初元を含む。)に及んでいた漢の武帝が,それぞれの元から始まる年について建元,元光,元朔及び元狩の各年号を最初の四元について事後的に追命したのは五元の第三年であり(420-421頁,426頁),当の五元についてはその第四年になってから元鼎という年号が付されたものであって(したがって,人がその現在においてその年の年号を語ることができるようになった最初の年は元鼎四年であったことになります。),改元と年号の付与とが初めて一致した(すなわち現在のもののような元号の始まり)のは元鼎の次の元封の元号からであった(432頁註⑥),ということでした。
3 元狩元年元号制度創始説
しかしながら,元号の創始時期については,藤田論文では排斥(426頁)されているものの,漢書の著者である班固が提唱し,宋代の司馬光(資治通鑑巻十九)及び朱熹(資治通鑑綱目巻之四)という大碩学が支持している(同422頁)元狩元年説というものがあります。元狩元年に当該元狩の元号が定められるとともに,それより前の建元,元光及び元朔の年号が追命されたとするものです(藤田420頁)。漢書武帝紀に「元狩元年冬十月,行幸雍,祠五畤,獲白麟,作白麟之歌。」(元狩元年冬十月,雍に行幸し,五畤に祠る。白麟を獲,白麟之歌を作る。)とある獲麟事件に因んで,三元から四元に改元がされ,かつ,当該四元の年に初めて年号(元狩)が付されたのだ,という説です(藤田421頁)。ちなみに,雍州とは,『角川新字源』によると,陝西省北部・甘粛省北西部地方です(なお,以下筆者が漢語漢文解読に当たって当該辞書を使用する場合,いちいち註記はしません。)。畤は,祭場です。麟は,あるいは「大きなめすのしか。一説に大きなおすのしか。」とされ,あるいは「「麒麟」のこと」とされています。
さて,なにゆえ本稿においてここで元狩元年元号制度創始説が出て来るのか。実は,あえてこの元狩元年元号制度創始説を採用することによって,万葉集か帰田賦か,国風か漢風か等をめぐる令和の元号に係る華麗かつ高雅な典拠論争に,ささやかかつ遅れ馳せながらも班固の漢書をかついでのこじつけ論的参入・にぎやかしが可能になるのではないか,というのが今回の記事の執筆動機なのであります。
なお,『世界史小辞典』(山川出版社・1979年(2版19刷))の「東洋年代表」(付録78頁)を見ると,武帝の建元元年は西暦紀元前140年11月20日から始まり,元狩元年は同122年11月2日から,元鼎3年は同114年11月17日から,元鼎4年は同113年11月6日から,元封元年は同110年11月3日から始まっていることになっています。立春の頃から年が始まるようになったのは,太初暦の採用からのようです(太初元年は西暦紀元前104年11月25日から始まったものとされているのに対して,太初二年は同103年2月11日から始まったものとされています。)。それまでは,十月が歳首であったようです。史記巻二十八封禅書第六には,秦の始皇帝について「秦始皇既幷天下而帝。或曰,〔略〕今秦周変,水徳之時,昔秦文公出猟獲黒龍,此其水徳之瑞。於是秦更命河曰徳水。以冬十月為年首,色上黒,度以六為名,音上大呂,事統上法。」(秦の始皇既に天下を幷せて帝たり。或曰く,〔略〕今秦周を変ふ,水徳之時なり,昔秦の文公出でて猟して黒龍を獲たり,此れ其の水徳之瑞なり。是に於いて秦更に河を命けて徳水と曰ふ。冬十月を以て年首と為し,色は黒を上び,度は六を以て名と為し,音は大呂を上び,事統は法を上ぶ。)と,漢の高祖について「高祖初起,禱豊枌楡社。徇沛,為沛公,則祠蚩尤,釁鼓旗。遂以十月至灞上,与諸侯平咸陽立為漢王。因以十月為年首。而色上赤。」(高祖初め起るとき,豊の枌楡の社に禱る。沛を徇へて,沛公と為り,則ち蚩尤を祠りて,鼓旗に釁る。遂に十月を以て灞上に至り,諸侯と咸陽を平らげ立ちて漢王と為る。因りて十月を以て年首と為す。色は赤を上ぶ。)と,そして漢の武帝について「夏,漢改暦,以正月為歳首。而色上黄,官名更印章以五字。為太初元年。」(夏,漢暦を改めて,正月を以て歳首と為す。而して色は黄を上び,官名は印章を更むるに五字を以てす。太初元年と為す。)とあります。ただし,太初改暦の日程については,『世界史小辞典』の「東洋年代表」では太初元年は西暦の11月から始まって次の2月には終わってしまっている形になっているので,何だか分かりづらいところです。
暦法は,難しい(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1916178.html)。
4 終軍の対策と「元狩」改元及び「令和」抽出
班固が元狩元年元号制度創始説を提唱するに至ったのは,前記の元狩元年十月の獲麟事件に当たって武帝に上られた終軍という名の若者による対策に接したからであると考証されています(藤田422-423頁)。「対策」とは,「漢代の官吏採用法の一つ。策にこたえる意で,策(木の札)に書いて出題された試験問題に対して見解を書いて答える。また,その答案。」と説明されています。終軍の当該対策については,「その文章の典雅にして,義理の整斉なる点優に漢代文苑の英華であつて,有名なる対策の一つである。」との文学的評価がされているところです(藤田422頁)。当該対策の次の一節が,問題になります。
今郊祀未見於神祇,而獲獣以饋,此天之所以示饗而上通之符合也,宜因昭時令日改定告元(師古曰,昭明也,令善也,)
(今,郊祀に未だ神祇を見ずして獣を獲て以て饋とす。此れ天之饗して上通するを示す所以之符合也。宜しく昭時令日に因りて,改定し元を告ぐべし。(師古曰く,昭は明也,令は善也,と。))
班固は「この文中にある「宜因昭時令日改定告元」の語に非常なる重点を置き,武帝は終軍のこの対策に従つて白麟奇木を得た瑞祥を記念するため,この年を以て元狩元年と云ふ年号を制定したものゝ如くに考へたのである。故に班固は漢書終軍伝にこの対策を全部収録して,その最後に,/対奏,上甚異之,由是改元為元狩〔対へ奏す。上,甚だ之を異とす。是に由りて改元し元狩と為す。〕/との結論を下し,この対策を史料とすることに依つて得た自己の解釈を明記してゐるのである。」と藤田論文は述べています(422-423頁)。
しかして,令和の元号の典拠に係る前記内閣官房長官説明に接した後において当該部分を読むと,
「宜しく昭時令日に因りて,改定し元を告ぐべし。」ということであれば「令月」が「令日」になっているだけであるのだから,「気淑く風和ぎ」に相当する語句が終軍の対策中において文脈上「令日」につながる箇所にうまい具合にあれば,漢の武帝による史上最初の元号は,我が安倍晋三内閣的発想に従えば,実は元狩ではなく令和であったかもしれないのだ,と言い得るのではないか,
とつい考えてしまったわけです。
ということで,漢書巻六十四下の終軍伝に収録されている当該対策を調べてみると・・・ありました。「和」の含まれた語句がありました。
陛下盛日月之光,垂聖思於勒成,専神明之敬,奉燔瘞於郊宮。献享之精交神,積和之気塞明(師古曰,塞荅也,明者明霊亦謂神也)。而異獣来獲宜矣。
(陛下は日月之光を盛んにし,聖思を勒成に垂れ,神明之敬を専らにし,燔瘞を郊宮に奉る。献享〔ごちそうをしてもてなす〕之精は神と交り,積和之気は明に塞ふ。(師古曰く,塞は荅〔答〕也,明は明霊亦は神を謂ふ也,と。)而して,異獣の来たりて獲るは宜なり。)
すなわち,天子の篤い敬神の念及びまごころを込めた祭祀の実践による積和之気は明に塞えて,したがって白い麒麟も天子様こんにちはと出て来る冬十月の昭時令日となり,それに因んでめでたく改元し,年号を定めるのであるのならば,当然その元号は「令和」が宜しいのではないですか,と終軍の名対策に便乗し,かつ,未来の偉い人の発想に忖度しつつ武帝に上奏する辣腕の有司があってもよかったように思われるところです。
5 残念な終軍
とはいえ以上は,完全な無駄話です。
終軍の手になるとされる当該対策は,元狩二年以降の未来の出来事(霍去病の驃騎将軍任命,昆邪の来降)を元狩元年段階においての作文であるはずなのに大預言書的に書き込んでしまっているものであって後世の偽作っぽく(藤田423-424頁参照),また,改元といっただけでは当時は年号を付することとは必ずしも結び付かず,むしろ武帝は年号のないまま問題意識なく改元を重ねていたところであって,「宜しく・・・改定し元を告ぐべし。」と奏上するだけでは,「年号」なる革新的アイデアを奏上したことにはならない(同424-426頁参照),したがって終軍の当該対策に基づく元狩元年元号創始説は採用するを得ない,とされているところです(同426頁)。
終軍及びその名による対策は,残念でした。すなわちここからは,元号制定に中心となって関与したということで安易に人気を博そうとしても人の目は実はなかなか厳しい,という教訓を引き出すべきものでしょうか。
残念な終軍は,その後外交外事関係に注力します。当時の南越国(今の広東省・広西壮族自治区の辺り)における漢化体制を確立すべく,勇躍同国に使いします。しかしながら,漢と南越国との関係は一筋縄ではいかず(実は,終軍は,南越王相手には縄一筋もあれば十分であるとの壮語をしたようではありますが),同国内における根強い反対勢力の反撃を受けて,若い身空で異郷に思わぬ横死をすることとなりました。
さて,この終軍の蹉跌からは,元号関係で思わぬ人気を得て気をよくして更に隣国との外交(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1073895005.html)及び多文化共生ないしは受入れ(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1072912488.html)においても一層大きな歴史的成果を挙げようなどと自らを恃んで張り切ると,そこには陥穽が待っていますよ,という教訓をも引き出すべきでしょうか。
しかし,何でも教訓に結び付けようとするのはうがちが過ぎるというもので,また,うがちの精神は,実は息苦しい忖度の精神とかえって親和的なのかもしれません。
Si mihi pergit quae vult dicere,
ea quae non vult audiet.
(Terentius,
Andria)
(うがった意訳)
うがったことばかり勝手に言い募りやがってうざい野郎め,
そのうち反転攻勢で,「忖度が足りないんだ,不謹慎だ,いーけないんだ」って言い込めてやるぞ。
(漢書巻六十四下の終軍伝における関係部分に係る筆者我流の読み下し文は,次のとおりです。)
6 漢書巻六十四下・終軍伝(抄)
終軍。字は子雲。済南の人也。
少して学を好む。辯博く能く文を属るを以て,郡中に聞ゆ。年十八,選て博士の弟子と為り,府に至り,遣を受く。(師古曰く,博士の弟子は太常〔太常は,宗廟の儀礼をつかさどる官〕に属す〔なお、太常博士は,天子の車の先導をしたり王公以下のおくり名を決めたりする宮中の式典係〕,遣を受くる者は郡に由りて京師に遣詣せらる,と。)太守〔郡の長官〕,其の異才有るを聞き,軍を召見し,甚だ之を奇として,与に交を結ぶ。軍,太守に揖し,而して去る。
長安に至り,上書して事を言ふ。武帝,其の文を異とし,軍に拝けて謁者〔宮中で来客の取次ぎをつかさどる役〕と為し,事に中るを給す〔「給事中」は,加官といって他の官の者が兼任し,天子の諮問に答える官〕。
上の雍に幸して五畤に祠るに従ふ。白麟を獲る。一角にして五蹄なり。(師古曰く,毎一足に五蹄有る也,と。)時に又奇木を得る。其の枝は旁出して,輒ち復木上に合す。上,此の二物を異とし,博く群臣に謀る。(師古曰く,其の徴応を訪ぬる也,と。)
一角獣(東京都新宿区明治神宮外苑聖徳記念絵画館前)(ただし,これは五蹄ではないようです。)
軍,対へて上に曰く。
臣聞くに,詩は君徳を頌し,楽は后功〔后は,天子〕に舞す。経は異なれども指すは同じく,盛徳之隆たる所を明にする也。
南越は葭葦に竄屏し,鳥魚と群す。(師古曰く,葭は蘆也,成長して則ち葦と曰ふ,葭の音は加,と。)正朔其の俗に及ばず。有司境に臨み,而して東甌〔今の浙江省温州市の辺り〕内附し,閩王〔閩は今の福建省〕辜に伏す。南越,頼に救はる。北胡は畜に随ひ,薦居す。(蘇林曰く,薦は草也,と。師古曰く,蘇説は非也,と。薦は読みて荐と曰ふ。荐は屢也。言ふならく,畜牧に随ひ屢易へ,故に居に安住せざる也,左伝に戎狄は荐居する者也,と。)禽獣の行ひ,虎狼の心,上古未だ摂を能くせず。大将軍鉞を秉り,単于幕に犇る。票騎旌を抗げ,昆邪衽を右にす。(師古曰く,抗は挙也,衽を右にするとは中国の化に従ふ也,昆の音は下門反,と。)是,沢は南に洽く,而して威は北に暢る也。
若し,罰は近くに阿らず,挙を遠くに遺さず,官を設け,賢を竢ち,賞を県け,功を待たば,能者は進んで以て禄を保し,罷者は退いて力を労す。(師古曰く,罷は職任に堪へざる者を謂ふ也,力を労すとは農畝に帰する也,と。)宇内に刑をなす。(師古曰く,刑は法也,と。言ふならく,宇内に法を成す也,と。一に曰く,刑は見也,と。)衆美を履みて足らず,聖明を懐きて専らにせず。三宮之文質を建て,厥職之宜しき所を章にす。(服虔曰く,三宮は明堂〔政教を行う所〕・辟雍〔太学〕・霊台〔天文台〕也,と。鄭氏曰く,三宮に於いて政教に班するは,文に質有る者也,と。)封禅之君,聞く無し。(張晏曰く,前世の封禅之君,斯くの若きの美を聞かざる也,と。)
夫れ天命初めて定まり,万事草創,六合〔天地(上下)と東西南北〕風を同じくし,九州〔冀・兗・青・徐・揚・荊・予・梁・雍の9州〕貫を共にして臻に及ぶ,必ず明聖を待ち,祖業を潤色し,無窮に伝ふ。故に周は成王に至り,然る後に制を定め,而して休徴〔めでたいしるし〕之応を見る。
陛下は日月之光を盛んにし,聖思を勒成に垂れ,神明之敬を専らにし,燔瘞を郊宮に奉る。(師古曰く,燔は天を祭る也,瘞は地を祭る也,天を祭るには則ち之を焼き,地を祭るには則ち之を薶む,郊宮は泰畤及び后土也,と。)献享之精は神と交り,積和之気は明に塞ふ。(師古曰く,塞は荅〔答〕也,明は明霊亦は神を謂ふ也,と。)而して,異獣の来たりて獲るは宜なり。昔,武王の中流にて未だ済ざるに,白魚王舟に入り,俯して取りて以て燎す。群公咸曰く,休哉,と。今,郊祀に未だ神祇を見ずして獣を獲て以て饋とす。(師古曰く,以て饋とすとは,祭俎に充つるを謂ふ也,と。)此れ天之饗して上通するを示す所以之符合也。宜しく昭時令日に因りて,改定し元を告ぐべし。(師古曰く,昭は明也,令は善也,と。張晏曰く,年を改元して以て神祇に告ぐる也,と。)苴〔草をたばねたしきもの〕は白茅の江淮に於けるを以てし,嘉号を営丘に発さば,以て応に緝熙〔徳が光り輝くこと〕すべし。(服虔曰く,苴は席を作る也,と。張晏曰く,江淮職は三脊茅を貢して藉を為す也,と。孟康曰く,嘉号は封禅也,泰山は斉の分野に在り,故に営丘と曰ふ也,或いは曰く,泰山に登封し以て姓号を明らかにする也,と。師古曰く,苴の音は祖,又の音は子予反,苞苴〔みやげもの〕之苴には非ざる也,と。)事を著す者に紀有らしむべし。(師古曰く,史官を謂ふ也,紀は記也,と。)
蓋し六兒鳥〔兒の偏に鳥の旁の字〕の退き飛ぶは逆也。(張晏曰く,六兒鳥の退き飛ぶは諸侯畔逆を象り,宋の襄公は伯道に退く也,と。)白魚の舟に登るは順也。(張晏曰く,周は木徳也,舟は木也,殷は水徳にして,魚は水物,魚の躍りて舟に登るは諸侯の周に順ひ紂を以て武王に畀ふを象る也,と。臣瓚曰く,時論者は未だ周を以て木と為し,殷を以て水と為さざる也,謂ふならく,武王の殷を伐たむとして魚の王舟に入るを,征して必ず獲るに象り,故に順と曰ふ也,と。師古曰く,瓚の説が是也,と。)夫れ明闇之徴,上に飛鳥乱れ,下に淵魚動く。(師古曰く,乱は変也,と。)各類を以て推すに,今野獣の角を幷すに本の同じきは明らか也。(師古曰く,幷は合也,獣は皆両角なるに,今此れは独一,故に幷と云ふ也,と。)衆支は内附して外無きを示す也。此の若き之応,殆ど将に編髪を解き,左衽を削り,冠帯を襲ね,衣裳を要し,而して化を蒙る者有らむとす。(師古曰く,衣裳を要するとは中国之衣裳を著するの謂ひ也,編は読みて辮と曰ふ,要の音は一遥反,と。)斯ち拱きて之を竢つ耳。対へ奏す。
上,甚だ之を異とす。是に由りて改元し元狩と為す。後数月,越地及び匈奴の名王の衆を率ゐて来降する者有り。時に皆,軍の言を以て中ると為す。
〔中略〕
南越と漢とは和親たり。廼ち軍を遣はし南越に使して其の王を説き,入朝せしめ,内諸侯に比べむと欲す。軍,自ら請願して長纓を受く。必ず南越王を羈ぎて之を闕下〔宮門の下。また朝廷,天子をいう。〕に致す,と。(師古曰く,言は馬羈の如き也,と。)軍,遂に往きて越王を説き,越王聴許す。国を挙げて内属せむことを請ふ。天子,大いに説び,南越大臣の印綬を賜ふ。壱に漢の法を用ゐ,以て新たに其の俗を改め,使者を留め之を塡撫〔民心をしずめおさめる〕せしむ。(師古曰く,塡の音は竹刃反,と。)越相の呂嘉,内属を欲せず。兵を発し,其の王及び漢の使者を攻殺す。皆死す。語,南越伝に在り。軍の死時の年,二十余。故に世,之を終童と謂ふ。
弁護士 齊藤雅俊
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