2018年03月

前編(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1070538939.html)の続き

10
 小泉純一郎内閣総理大臣

 平成13年(2001年)5月7日の第151回国会における内閣発足後最初の小泉純一郎内閣総理大臣による所信表明演説では「安心」は4回登場しました。国家ないしは国民の目的(①)として「生きがいを持って,安心して暮らすことができる社会」が掲げられ,社会保障(②)に関して2回,並びに高齢者(③)及び障害者(④)(「バリアフリー」)並びに治安・防災(⑤)に関して1回。

 平成13年9月27日の第153回国会における所信表明演説では3回登場。国家ないしは国民の目的(①)たるべき「小泉構造改革五つの目標」の一つとして「人をいたわり,安全で安心に暮らせる社会」が掲げられました。社会保障(②)に関して1回。消費者(⑦)に関して1回(証券市場関係)。

 平成14年(2002年)2月4日の第154回国会における施政方針演説では3回登場。政治の目的(①)として「人をいたわり,安全で安心して暮らせる社会」が再び掲げられます。当該疾病に罹患した牛の肉を食べた人も発症するとされた牛海綿状脳症(BSE)の問題(⑨)を承けて「食の安全」が重視されるようになり,それに関して2回言及(「今後とも,食肉を始めとする「食の安全」と国民の安心を確保するため,最善を尽くします。」「消費者の求める安心・安全な農産物」)されています(⑦の消費者)。

 平成141018日の第155回国会における所信表明演説では1回でした。同月12日に発生したバリ島での爆弾テロ事件を承けての国際テロリズム対策に関してのものです(⑤)。

 平成15年(2003年)1月31日の第156回国会における施政方針演説では2回。「暮らしの構造改革を進め,国民が安心して将来を設計することのできる社会を構築してまいります。」の部分(①なのでしょう。)及びバリアフリー化(③④)に関してのものです。「暮らしの構造改革」などを政府に勝手にされると国民は不安になり迷惑しそうですが,あえて難しく考える必要はないでしょう。

 平成15年9月26日の第157回国会における所信表明演説では3回。「国民の安全と安心の確保は,政府の基本的な責務です。」と表明された上で(①),社会保障に関して言及され(②),更に「今の小学生が社会に出るころまでに,あらゆる分野で女性が指導的地位の3割を占めることを目指し,女性が安心して仕事ができ,個性と能力を発揮できる環境を整備します。」と述べられています(⑥のうち女性に係るもの)。しかしながら,女性ならぬ男性なれども既に皆「安心して仕事ができ,個性と能力を発揮でき」ていたわけではないでしょう。男性においてできなかったものが,女性においてはできるというのは,やはり女性の方が男性よりも「個性と能力」とにおいて優れているからでしょうか。苦労や不安なしに「安心して仕事」をしているうちにするすると「指導的地位」に就けるということは,素晴らしいことです。

 平成16年(2004年)1月19日の第159回国会における施政方針演説では3回。「国は,国民の安全と安心を確保しなければなりません。」と述べられた上で(①),「安心の確保」の見出しの下,社会保障(②)及び子育て(⑥)に関して各1回言及されています。

 平成161012日の第161回国会における所信表明演説では,見出しに「暮らしの安心と安全」はありましたが,演説本体で「安心」の語が発せられることはありませんでした。

 平成17年(2005年)1月21日の第162回国会における施政方針演説では5回と回復しました。「私は就任以来,「民間にできることは民間に」「地方にできることは地方に」との改革を進める一方,国民の安全と安心を確保することこそ国家の重要な役割と考え,その実現に向け努力してまいりました。」と改めて言明されるとともに(①),治安・防災関係(⑤)で3回(前年の新潟県中越地震等との関係では⑨でしょうか。),「国民の「安心」の確保」の見出しの下に子育て(⑥)の関係で1回言及されています。

 参議院において郵政改革法案が否決されたため平成17年8月8日に解散された衆議院の議員総選挙たるいわゆる「郵政選挙」における政権側の大勝を承けた同年9月26日の第163回国会における所信表明演説は,正に小泉節の真骨頂たるべきものでしたが,そこでは「安心」は2回しか登場していません。「郵政事業は,26万人の常勤の国家公務員を擁しています。国民の安全と安心をつかさどる全国の警察官が25万人,陸・海・空すべての自衛官は24万人,そして霞が関と全世界百数十か国の在外公館に勤務している外務省職員に至っては6千人にも及びません。今後も公務員が郵政事業を運営する必要があるのでしょうか。」という部分における「安心」は,安全を担当する夜警国家部門に係る定型的文飾にすぎず,要は,日本郵政公社の連中得々として安心(あんしん)してるんじゃねえよ,ということでしょうか。「国民の安全と安心」との見出しの下の「先日の台風などの災害〔略〕により被害に遭われた方々に対し,心からお見舞いを申し上げます。被災者が一日も早く安心した生活を送れるよう,国内の被災地の復旧と復興に万全を期すとともに,建築物の耐震化を促進するなど災害に強い国づくりを進めてまいります。」の部分は,防災関係(⑤)ですが,時事トピックでもあるのでしょう(⑨)。

 郵政民営化法が成立し,念願を果たした後の平成18年(2006年)1月20日の第164回国会における施政方針演説においては,小泉内閣総理大臣は「安心」に4回言及しています。「主要銀行の不良債権残高はこの3年半で20兆円減少し,金融システムの安定化が実現した今日,「貯蓄から投資へ」の流れを進め,国民が多様な金融商品やサービスを安心して利用できるよう,法制度を整備します。」の部分は郵政民営化以外の「経済の活性化」における政権の成果を誇るものでしょう(⑧)。残りの3回のうち,2回は「暮らしの安心の確保」の見出しの下に放課後児童クラブの整備に関して(⑥の子育て)及び「食の安全と安心」に関して(⑦の消費者。ただし,200512月の米国産牛肉の輸入再開を承けての言及という意味では⑨),1回は犯罪被害者及びその遺族に関して(⑤の治安)言及されています。

 小泉内閣総理大臣にとっては,「安心」はそれ自体としての意義を特に大きく強調すべきものではないもののようにとらえられていたように思われます。人気の高かった小泉内閣総理大臣が退任した後,小泉政権時代は「格差拡大」の時代であったと非難されるようになります。

 

11 安倍晋三内閣総理大臣(第1次内閣)

 その第1次内閣時代,安倍晋三内閣総理大臣は,3回の所信表明演説ないしは施政方針演説を行っています。

 平成18年(2006年)9月29日の第165回国会における所信表明演説では,安倍内閣総理大臣の「美しい国」の理念が披露されています。

 

私が目指すこの国のかたちは,活力とチャンスと優しさに満ちあふれ,自律の精神を大事にする,世界に開かれた,「美しい国,日本」であります。この「美しい国」の姿を,私は次のように考えます。 

 1つ目は,文化,伝統,自然,歴史を大切にする国であります。

 2つ目は,自由な社会を基本とし,規律を知る,凛とした国であります。 

 3つ目は,未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国であります。

 4つ目は,世界に信頼され,尊敬され,愛される,リーダーシップのある国であります。 

 

 「優しさに満ちあふれ」といわれれば,村山内閣総理大臣の「人にやさしい政治」の理念が想起されます。「心の豊かな美しい国家」は,既に森内閣総理大臣が提唱していたところです。

 「美しい国」の理念に係る文言には「安心」は含まれていませんでしたが,当該所信表明演説において,「安心」は2回登場します。「健全で安心できる社会の実現」との見出しの下,社会保障に関して(②)2回登場したものです。「本格的な人口減少社会の到来に備え,老後や暮らしに心配なく,国民一人ひとりが豊かな生活を送ることができる,安心の社会を構築しなければなりません。」と宣言されるとともに,公的年金制度に対して「若い世代も安心できる」ようにすべきことが述べられています。

 平成19年(2007年)1月26日の第166回国会における施政方針演説では,「安心」は4回登場しています。社会保障に関して(②)1回,「「健全で安心できる社会」の実現」の見出しの下に医療(②)及び子育て(⑥)に関して各1回,並びに治安・防災(⑤)に関して1回です。

 夏の参議院議員選挙での大敗を承けた平成19年9月10日の第168回国会における所信表明演説では,出現回数は5回です。最初の「自由民主党及び公明党の連立政権の下,「政策実行内閣」として一丸となり,地に足のついた政策を着実に進めてまいります。将来にわたり国民の皆様が安心して暮らせるよう,堂々と政策論を展開し,野党の皆様とも建設的な議論を深め,一つ一つ丁寧に答えを出していくことに最善を尽くします。」の部分は,参議院議員選挙敗北の総括結果の一環でしょうか(①)。「安心して暮らせる社会を実現する」との見出しの下に表明された「安心して暮らせる社会は,国づくりの土台です。国民の皆様が日々の暮らしの中で感じる不安に常に心を配り,迅速に対応します。」との政治理念(①)は,御用聞き的低姿勢ともいうべきでしょうか。その他子育て(⑥)に関し1回及び公的年金に関し(②)1回「安心」が言及されています。「安全・安心な食を生み出す日本の農林水産業が活力を持ち続けることは,我が国の将来にとって,極めて大切なことです。」の部分における「安心」は,消費者対応に係るものというよりは,農山漁村施策の根拠に係る枕詞的修飾語でしょう。

 

12 福田康夫内閣総理大臣と「国民の安全・安心を重視する政治への転換」

 第1次安倍内閣が1年で倒れた後は,福田康夫内閣が発足しました。福田内閣総理大臣にとって「安心」概念は,大きな意味を持っていたようです。国会演説におけるその出現頻度が,急上昇しています。

 平成19年(2007年)10月1日の第168回国会における最初の所信表明演説においては,そもそも「国民の安全・安心を重視する政治への転換」という見出しが登場していますが(これは,反対解釈すると,第1次安倍内閣以前は「国民の安全・安心」が重視されていなかったということでしょう。),「安心」が,何と12回も出現しています。「成熟した先進国となった我が国においては,生産第一という思考から,国民の安全・安心が重視されなければならないという時代になったと認識すべきです。」という見解に基づくものでしょう(①)。「私は,「自立と共生」を基本に,政策を実行してまいりたいと思います。老いも若きも,大企業も中小企業も,そして都市も地方も,自助努力を基本としながらも,お互いに尊重し合い,支え,助け合うことが必要であるとの考えの下,温もりのある政治を行ってまいります。その先に,若者が明日に希望を持ち,お年寄りが安心できる,「希望と安心」の国があるものと私は信じます。」ということですが(①及び③),これを,「老人が希望で若者を釣って安心する国」などと言い換えてみるのは誤読でしょう。残りの9回の内訳は,社会保障(②)に関して1回,防災(⑤)に関して1回,子育て(⑥)に関して1回,消費者(⑦)に関して4回(消費者保護に関して1回,耐震偽装問題に関して1回及び食卓・食品に関して2回)及び農山漁村施策に関して2回(「安全・安心な食」及び「高齢者や小規模な農家も安心」)となっています。

 平成20年(2008年)1月18日の第169回国会における施政方針演説においては,「安心」の登場は8回です。まずは,福田内閣の五つの基本方針のうちの一つとして登場します(①及び②)。

 

第1に,生活者・消費者が主役となる社会を実現する「国民本位の行財政への転換」

第2に,国民が安心して生活できる「社会保障制度の確立と安全の確保」

第3に,国民が豊かさを実感できる「活力ある経済社会の構築」

第4に,地球規模の課題の解決に積極的に取り組む「平和協力国家日本の実現」

第5に,地球温暖化対策と経済成長を同時に実現する「低炭素社会への転換」

以上5つの基本方針に基づき,私は,国政に取り組んでまいります。

 

 その他7回の内訳は,国の予算における重要政策課題の一つとしての「国民の安全・安心」として1回,社会保障・医療(②)に関して4回,「安全・安心の確保」との見出しの下治安(⑤)に関して1回,更に小規模・高齢農家に関して1回です。

 

13 麻生太郎内閣総理大臣と「安心と活力ある社会」

 平成20年(2008年)9月24日には麻生太郎内閣が発足します。同月29日の第170回国会における所信表明演説において麻生内閣総理大臣は「安心」の語を3回用いています。まずは,同年のいわゆるリーマン・ショック不況に対する経済対策に関して(⑧)2回です(「政府・与党には「安心実現のための緊急総合対策」があります。その名のとおり,物価高,景気後退の直撃を受けた人々や農林水産業・中小零細企業,雇用や医療に不安を感じる人々に,安心をもたらすとともに,改革を通じて経済成長を実現するものです。」)。更には「暮らしの安心」との見出しの下,「暮らしの安心」についても論じられています。「不満とは,行動のバネになる。不安とは,人をしてうつむかせ,立ちすくませる。実に忌むべきは,不安であります。」とは麻生内閣総理大臣の人間哲学でしょうが,続く「国民の暮らしから不安を取り除き,強く,明るい日本を,再び我が物としなくてはなりません。」とはその政治哲学でしょう(①)。暮らしの中における国民の不安の有無を尺度とした政治ということのようです。

 平成21年(2009年)1月28日の第171回国会における施政方針演説において,麻生内閣総理大臣は「安心」の語を10回用いるに至ります。平成19年(2007年)10月の福田内閣総理大臣の12回に次ぐものです。演説の初めの部分で「日本自身もまた,時代の変化を乗り越えなければなりません。目指すべきは,「安心と活力ある社会」です。 」という国の目的が提示されています(①)。当該「安心と活力」とのそれぞれの内容については,「世界に類を見ない高齢化を社会全体で支え合う,安心できる社会。世界的な課題を創意工夫と技術で克服する,活力ある社会です。」と説明されています(①及び③)。「創意工夫と技術」に係る能力のある人が社会の活力維持を担当して,「世界に類を見ない高齢化」の結果たる老人人口の「安心」を確保するということのようです。当該「安心と活力ある社会」との関係で「安心」は4回登場しています。残り6回中5回は社会保障(②)に関するもの,1回は「食料の安全・安心」にからめた農政関係での言及です。

 

14 鳩山及び菅両内閣総理大臣

 平成21年(2009年)9月には,今はその名すら失われた民主党の政権ができました。

 

(1)鳩山由紀夫

 平成21年(2009年)1026日の第173回国会における鳩山由紀夫の内閣総理大臣所信表明演説では「安心」が5回登場しました。いずれも社会保障(②)に関するものです。すなわち,「国民皆年金や国民皆保険の導入から約五十年が経った今,生活の安心,そして将来への安心が再び大きく揺らいでいます。これを早急に正さなければなりません。」,「公平・透明で,かつ,将来にわたって安心できる新たな年金制度の創設に向けて,着実に取り組んでまいります。」,「年金,医療,介護など社会保障制度への不信感からくる,将来への漠然とした不安を拭い去ると同時に,子ども手当の創設,ガソリン税の暫定税率の廃止,さらには高速道路の原則無料化など,家計を直接応援することによって,国民が安心して暮らせる「人間のための経済」への転換を図っていきます。」,及び「暮らしの安心を支える医療や介護〔略〕などの分野で,しっかりとした産業を育て,新しい雇用と需要を生み出してまいります。」と唱えるものです。国が「家計を直接応援する」といってもその財源はどうするんだとか,「医療や介護」の分野で「新しい雇用」と言うけれども随分疲弊している現場もあるやに聞くぞ,などと言うことは野暮だったのでしょう。

 平成22年(2010年)1月29日の第174回国会における施政方針演説では,「安心」は「誰もが安心して医療を受けられるよう」にする(②)ということで1度だけ出て来ます。しかし当該演説については,「安心」云々以前に,冒頭の,「いのちを,守りたい。/いのちを守りたいと,願うのです。/生まれくるいのち,そして,育ちゆくいのちを守りたい。」云々の絶唱に度肝を抜かれたものでした。ルソー的には“quand le prince lui (au citoyen) a dit: Il est expédient à l’État que tu meures, il doit mourir”のはずであり(Du contrat social, Chapitre V du Livre II),所詮国家にできることできたことは伝統的にはその程度であったものと思っていたので,余りにも大胆かつ臆面のないものと感じたことでした。

 

(2)菅直人

 平成22年(2010年)6月11日の第174回国会における菅直人の内閣総理大臣所信表明演説では「安心」の登場は5回。医療・介護等の社会保障(②)に関して4回,子育てに関して1回。

 同人による同年10月1日の第176回国会における所信表明演説では「安心」の登場は3回。「ものづくりでも,サービス産業でも,業種を問わず,新しい需要を引き出し,豊かで安心な暮らしを実現するイノベーションを起こすことが重要です。」とは,日本経済の将来について語ったというよりは,「豊かで安心な暮らしを実現」することが日本の国家目的だということでしょう(①)。社会保障(②)に関する「一般論として,多少の負担をしても安心できる社会を作っていくことを重視するのか,それとも,負担はできる限り少なくして,個人の自己責任に多くを任せるのか,大きく二つの道があります。私は,多少の負担をお願いしても安心できる社会を実現することが望ましいと考えています。」との価値判断については議論があり得るでしょう。ただし,「負担」といっても,それが結局自分に全て戻って来るのならばそもそもその多少がそれほど問題にされることはないでしょう(朝三暮四ということはありますが。)。

 平成23年(2011年)1月24日の第177回国会における施政方針演説における「安心」の登場は5回。社会保障(②)に関して4回及び「この国会では,来年度予算と関連法案を成立させ,早期のデフレ脱却により,国民の皆様に安心と活気を届けなければなりません。」の部分で1回でした。「安心と活気」といえば麻生内閣総理大臣の「安心と活力ある社会」が想起されるのですが,民主党による「政権交代」にかかわらず,結局同じようなところに落ち着くものであったということでしょうか。

 

15 野田佳彦内閣総理大臣と「明日の安心」及びエネルギー構成の「安心」

 民主党政権最後の野田佳彦内閣総理大臣による「安心」言及は尻上がりに増え,最後は「明日の安心」を提唱するに至ります。「明日の安心」は,野田内閣総理大臣の早稲田大学の先輩である小渕内閣総理大臣の最初の所信表明演説で用いられていた表現です。また,原子力ないしは放射線に対する「安心」が問題とされます。

 平成23年(2011年)9月13日の第178回国会における所信表明演説では「安心」は3回登場しました。消費者(⑦)に係る「食品の安全・安心」,農林漁業施策を論じるに当たっての枕詞としての食の「安全・安心」及びエネルギー構成に関するもの(「エネルギー安全保障の観点や,費用分析などを踏まえ,国民が安心できる中長期的なエネルギー構成の在り方を,幅広く国民各層の御意見を伺いながら,冷静に検討してまいります。」)です。

 平成231028日の第179回国会における所信表明演説では「安心」は4回。農林漁業施策に関する「農林漁業者」の「安心」以外は同年3月11日の東日本大震災及びそれに伴い発生した福島第1原子力発電所の事故に関連(⑨)するもので,「被災者のこれからの暮らしの安心」,放射線量に係る「周辺住民の方々」の「安心」及び「原子力への依存度を最大限減らし,国民が安心できるエネルギー構成を実現するためのエネルギー戦略の見直し」について言及されています。原子力への依存度を減らすと「国民が安心」するというのですから,素直に考えると,国民の完全な「安心」のためには,エネルギー構成において原子力への依存度を零にしなければならないことになります。

 平成24年(2012年)1月24日の第180回国会における施政方針演説では6回。東日本大震災(⑨)の被災者に係る「安心して暮らせる生活環境の再建」で1回,原子力発電問題で2回(エネルギー政策における「国民の安心・安全」(これは「安心」が「安全」に先行しています。)及び「国民が安心できる中長期的なエネルギー構成」),社会保障(②)について2回及び子育て(⑥)について1回でした。

 民主党政権最後のものとなった平成241029日の第181回国会における所信表明演説では,野田内閣総理大臣はdesperatelyに「安心」を9回繰り返すことになりました。「明日(あした)の安心」及び「明日(あす)への責任」をもって政権回生のキャッチ・フレーズとする試みがされたところです。

 

   「明日の安心」を生み出したい。私は,雇用を守り,格差を無くし,分厚い中間層に支えられた公正な社会を取り戻したいのです。原発に依存しない,安心できるエネルギー・環境政策を確立したいのです。

   「明日への責任」を果たしたい。私は,子や孫たち,そして,まだ見ぬ将来世代のために,今を生きる世代としての責任を果たしたいのです。

   「決断する政治」は,今を生きる私たちに「明日の安心」をもたらし,未来を生きる者たちに向けた「明日への責任」を果たすために存在しなければなりません。

 

 「明日の安心」は,演説の最終部において更に3回連呼されています。

 残り3回の「安心」は各論的なものとなりますが,経済問題(⑧)中特に雇用について2回(「日本経済の再生に道筋を付け,雇用と暮らしに安心感をもたらすことは,野田内閣が取り組むべき現下の最大の課題です。」及び「経済全体の再生やミスマッチの解消を通じて,雇用への安心感を育みます。」)及び社会保障(②)について1回(「年金や高齢者医療など,そのあるべき姿を見定め,社会保障の将来に揺るぎない安心感を示していこうではありませんか。」)言及されています。

 「安心感」の大売り出しです。

 

   For courage – not complacency – is our need today – leadership – not salesmanship.

  (J.F.K., op. cit.


16 安倍晋三内閣総理大臣(第2次内閣以降)

 第2次内閣以降の安倍晋三内閣総理大臣の施政方針演説ないしは所信表明演説においては,「安心」が特に強調されるということはなくなっています。

 政権復帰後平成25年(2013年)1月28日の第183回国会における所信表明演説では「安心」は2回登場しています。社会保障(②)に関し1回及び補正予算の3本の柱(「復興・防災対策」「成長による富の創出」「暮らしの安心・地域活性化」)のうちの一つとして1回言及されています。

 平成25年2月28日の第183回国会における施政方針演説では3回。社会保障(②)に関して1回言及されたほか,「世界一安全・安心な国」の見出しの下に,インフラストラクチュア改修(笹子トンネル事故関連⑨),防災・治安(⑤)及び悪徳商法に対し「消費者の安全・安心」を守ること(⑦)に取り組む「世界一安心な国」が目指される旨言明されています。

 夏の参議院議員選挙勝利を承けた平成251015日の第185回国会における所信表明演説では2回。高齢者(③)及び防災(⑤)に関して各1回です。

 平成26年(2014年)1月24日の第186回国会における施政方針演説では4回。年金(②),農業経営者,悪質商法等に対する消費者保護(⑦)及び自衛隊の防災活動(⑤)に関して各1回です。

 平成26年9月29日の第187回国会における所信表明演説では2回。3年半前の東日本大震災の被災者の暮らし及び被災地の子供のそれぞれに関するものでした。

 衆議院議員総選挙勝利を承けた第3次内閣発足後最初の平成27年(2015年)2月12日の第189回国会における施政方針演説では1回。「安心なまちづくり」の見出しの下,治安(⑤)に関して言及されています。

 平成28年(2016年)1月22日の第190回国会における施政方針演説では3回。TPPTrans-Pacific Partnership)協定がらみで(⑨)農業生産者に関して1回,「安全で安心な暮らしを守る」としてサイバー犯罪対策,消費者に対する悪徳商法対策等に関して(⑤及び⑦)1回及び社会保障(②)に関して1回です。

 夏の参議院議員選挙を経た平成28年9月26日の第192回国会では2回。その夏のリオデジャネイロ・オリンピックにあやかった(⑨)シリア難民のユスラ・マルディニ選手(難民選手団の女子バタフライ選手。ドイツ在住)の紹介に関して1回及び割賦販売法(昭和36年法律第159号)の改正に関する「クレジットカードのIC対応を義務化し, 外国人観光客の皆さんが安心して決済できる環境を整えます。」で更に1回でした。(なお,同国会において成立した平成28年法律第99号による割賦販売法の改正は今年2018年6月1日からです。決済端末のIC対応は改正後割賦販売法35条の1715に基づくものとなります。同条は「クレジットカード等購入あつせん関係販売業者又はクレジットカード等購入あつせん関係役務提供事業者は,経済産業省令で定める基準に従い,利用者によるクレジットカード番号等の不正な利用を防止するために必要な措置を講じなければならない。」と規定しており,当該経済産業省令である平成29年内閣府・経済産業省令第2号による改正後の割賦販売法施行規則(昭和36年通商産業省令第95号)133条の14第1号は「クレジットカード番号等の通知を受けたとき,当該通知がクレジットカード等購入あつせん業者から当該クレジットカード番号等の交付又は付与を受けた利用者によるものであるかの適切な確認その他の不正利用を防止するために必要かつ適切な措置を講ずること。」を基準として定めています。決済端末の「IC対応を義務化」したということは,法令の文言自体からは必ずしも明らかではありません。経済産業省も,「改正割賦販売法の施行後,決済端末のIC対応は加盟店の義務となる」としつつも,「加盟店に対する直接の改善命令や罰則は規定されていない」ことを認めています(平成29年内閣府・経済産業省令第2号案に係るパブリック・コメントに対する同省の考え方資料(20171122日))。同省の当該解釈に基づき,直接的には,クレジットカード番号等取扱契約締結事業者をして加盟店を指導させしめようとするもののようです(改正後割賦販売法施行規則133条の9参照)。)

 平成29年(2017年)1月20日の第193回国会における施政方針演説では,「安心」の発語はありませんでした。ただし,大見出しに「安全・安心の国創り」,小見出しに「生活の安心」というものがありました。

 野党の希望が潰えた衆議院議員総選挙を経て第4次内閣の発足後最初の平成291117日の第195回国会における所信表明演説では3回。子育て(⑥),社会保障(②)及び農業従事者に関して各1回「安心」に言及がされています。

 そうして冒頭の第196回国会における施政方針演説に至るわけです。

 

17 安心(あんじん)について

 ところで,「安心」は,元々は仏教用語の安心(あんじん)です。『岩波国語辞典第四版』によれば「仏に帰依して心に疑いをもたない意」ということになります。

 であれば,「お年寄りも若者も安心(あんじん)できる「全世代型」の社会保障制度」とは,老いも若きもお寺に対して十分お布施をすべきことを旨として給付を行う社会保障制度,ということになるのでしょうか。「子育て安心(あんじん)プラン」とは,幼いうちから御仏の教えに親しみ安心(あんじん)を得るようにしようという,幼児に対する仏道英才教育プランということでしょうか(頓智小僧一休さんのような子供が増えるのでしょうか。)。「お年寄りや障害のある方が安心(あんじん)して旅行できるよう」という場合の旅行とはお遍路のことで,「あらゆる交通手段のバリアフリー化」は四国から進められるのでしょうか。「危機管理に万全を期すとともに,サイバーセキュリティ対策,テロなど組織犯罪への対策など,世界一安全・安心(あんじん)な国創りを推し進めます。」といった場合,危機に対しては管理するのみならず危機を前にして安心(あんじん)を保つよう日頃から仏道修行を怠らず,仏の正しい教えの情報に係るサイバーセキュリティ特に注意し,テロリストらに対しても仏教による充実した教誨活動(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律(平成17年法律第50号)68条参照)を行って安心(あんじん)世界一の仏国を創ろうということになるのでしょうか。

 

    十戒の歌よみ侍りけるに 不殺生戒   寂然法師

  わたつ海の深きに沈むいさりせで保つかひある法を求めよ

    不偸盗戒

  浮草のひと葉なりとも磯隠れ思ひなかけそ沖つ白波

 

 澄むと濁るとでは大違いです。

 とはいえ,仏教については,聖徳太子は「篤く三宝を敬へ。三宝とは仏法僧(なり)。」とその憲法の第2条に記され,北条泰時らも「寺塔を修造し,仏事等を勤行す()き事」を御成敗式目の第2条に掲げています。更に『続日本紀』巻十七の天平勝宝元年(749年)夏四月甲午朔の条には,「〔聖武〕天皇東大寺ニ幸シ,廬舎那仏ノ像ノ前殿ニ御シテ,北面シテ像ニ対ス。〔中略〕勅シテ左大臣橘ノ宿祢諸兄ヲ遣シテ,仏ニ白サク。三宝ノ(ヤツコ)(ツカヘ)(マツレ)天皇(スメ)ラガ命廬舎那仏像ノ大前ニ(マヲ)シ賜ヘト(マヲサ)ク。〔中略〕陸奥国守従五位上百済(クダラノ)(コニキシ)敬福イ部内(クニノウチ)少田(ヲダ)郡ニ黄金(イデ)(タリト)(マヲシ)(タテマツレリ)。〔中略〕廬舎那仏ノ(メグミ)賜ヒ(サキ)ハフ賜物ニ(アリ)(オモ)(ウケ)賜リ(カシコマ)戴持(イタダキモチ)百官ノ(ヒト)(ビトヲ)(ヒキヰ)礼拝(ヲロガミ)仕奉(ツカヘマツル)事ヲ(カケマクモ)(カシコキ)三宝ノ大前ニ(カシコ)(カシコ)ムモ(マヲシ)賜ハクト(マヲス)」云々とあったところです(下線は筆者)。

 

    比叡山中堂建立の時          伝教大師

  阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわが立つ杣に冥加あらせたまへ
 DSCF0818

 滋賀県大津市から見る比叡山

我が国においては,20世紀の半ばまでは,「〔前略〕仏教各宗派は其の我が国に於ける歴史的伝統に基づき,他の一般の宗教とは異なり,従来常に国家から特別の保護を受け又国家の特別の監督に服して来た。其の保護の最も著しいのは各〔略〕宗派の管長は勅任官の待遇を与へらるること(明治17・8・11太政官達68号〔「神仏各宗派一般」宛てに「管長身分ノ儀ハ総テ勅任官取扱ノ例ニ依ル」と達〕)で,それは固より待遇上の特典なるに止まり,管長が国家の公の職員たるのでないことは勿論であるが,此の如き特別の待遇を賜はることのみに依つても,各〔略〕宗派が国家の特別の保護を受くる宗教であることが知られ得る。其の外寺院には国有財産の無償貸付が行はれて居り(国有財産法〔大正10年法律第43号〕24条),又寺院の資産状態を安全ならしむる為めに,其の債務の負担に付き特別の制限を定め(明治10太政官布告43号),其の境内地の使用しついても法律上の制限が有る(明治36内令12)。/要するに,神道及び仏教は他の一般の宗教とは異なり国家の公認教として行政上特別の保護及び統制を受けて居たものである。」ということであったところです(美濃部達吉『日本行政法下巻』(有斐閣・1940年)564565頁)。

大日本帝国憲法28条は「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と規定していましたが,仏教を信ずることなく“Non veni pacem mittere sed gladium."と公然宣言する者については,「やさしい国」である我が国の「安寧秩序ヲ妨」げるものとせざるを得なかったものでしょう。
 なお,現在,日本国憲法
20条1項後段は「いかなる宗教団体も,国から特権を受け,又は政治上の権力を行使してはならない。」と,同条3項は「国及びその機関は,宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定しています。

                    

    不酤酒戒               寂然法師

  花のもと露の情はほどもあらじ酔ひなすすめそ春の山風

DSCF0838
 寂然法師隠棲の地・
大原(京都市左京区)の春:菜の花と桜

DSCF0833
 
大原の春:観光客を招く桜

DSCF0831
 
大原の春:桜と椿


  Venit enim ... neque manducans neque bibens
    et dicunt daemonium habet.
    Venit Filius hominis manducans et bibens
    et dicunt
    ecce homo vorax et potator vini
    ... peccatorum amicus.

IMG_0029つるとんたん

DSCF0886
 Manducemus atque bibamus!

 Ego homo vorax et potator vini sum.

 Causidicus amicus peccantium est.



弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

150-0002 東京都渋谷区渋谷三丁目5-16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp                  


弁護士ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

Das frägt und frägt und wird nicht müde: wie erhält sich der Mensch, am besten, am längsten, am angenehmsten? Damit – sind sie die Herrn von Heute. Vom höheren Menschen

 

1 内閣総理大臣の国会演説と「安心」

 

(1)平成30年(2018年)1月22日の内閣総理大臣施政方針演説と「安心」

 今上天皇の御宇29年を経たる平成30年(2018年)1月22日,安倍晋三内閣総理大臣は第196回国会の両議院において施政方針演説を行いました。そこにおいては,「安心」という言葉が4回出て来ました。

 

   来年〔2019年〕10月に引き上げる予定の消費税財源を活用し,お年寄りも若者も安心できる「全世代型」の社会保障制度へと,大きく転換してまいります。・・・

 

   女性活躍の旗を高く掲げ,引き続き,待機児童の解消に全力で取り組みます。補正予算の活用に加え,経済界の拠出金負担を引き上げ,「子育て安心プラン」を前倒しします。待機児童対策の主体である市区町村への支援を都道府県が中心となって強化します。2020年度までに32万人分の受け皿整備を目指し,来年度10万人分以上を整備いたします。

 

そして,「地方創生」と題された部分のうちの,更に「安全と安心の確保」との見出しが付された部分。

 

  2年後の東京オリンピック・パラリンピックを目指し,受動喫煙防止対策を徹底します。お年寄りや障害のある方が安心して旅行できるよう,あらゆる交通手段のバリアフリー化を進めます。成人年齢を18歳に引き下げる中で,消費者契約法を改正し,若者などを狙った悪質商法の被害を防ぎます。

  危機管理に万全を期すとともに,サイバーセキュリティ対策,テロなど組織犯罪への対策など,世界一安全・安心な国創りを推し進めます。

  災害時に,国が主要な道路の復旧を代行する制度を創設し,より早く人命救助や生活必需品の輸送を行えるようにします。防災インフラの整備が迅速に進められるよう,所有者が不明な土地を自治体が利用するための手続を整備します。

  昨年〔2017年〕も,全国各地で自然災害が相次ぎました。防災,減災に取り組み,国土強靭化を進めるとともに,熊本地震や九州北部豪雨をはじめとする災害からの復旧・復興を引き続き,力強く支援してまいります。

 

(2)安心(あんしん)について

 安全についてならばなお客観的な指標が探し出せそうですが(とはいえ,100パーセントの安全は不可能でしょう。),安心(あんしん)(『岩波国語辞典 第四版』(1986年)によれば「気にかかる事がなく,またはなくなって,心が安らかなこと。」ないしは「物事が安全・完全で,人に不安を感じさせないこと。」)ということになると主観的な感覚ないしは感情の問題ですから,「やっぱり気にかかってしまう」性分の人とか「どうしても不安だ」と感じてしまう人が一定数以上いる限りにおいては「安心(あんしん)目標」は常に未達に終わらざるを得ないことになるよう筆者などには思われます

「法律行為の目的が,事実上〔略〕,実現することのできないものであれば,法律は,その実現に助力することができない。従って,その法律行為は無効である。このことを明言する立法例もあるが(ド民306条。ス債20条に契約について同旨を定める),当然のことである。」と説かれ(我妻榮『新訂民法総則』(岩波書店・1972年)260頁),平成29年法律第44号による改正後の民法412条の2第1項には「債務の履行が契約その他の債務の発生原因及び取引上の社会通念に照らして不能であるときは,債権者は,その債務の履行を請求することはできない。」とあり,更にちなみにドイツ民法306条3項は「契約は,その維持(das Festhalten an ihm)が前項の規定による変更〔契約を構成せず又は無効である条項に係る法令の規定による契約内容の補充〕を考慮に入れてもなお一方の当事者に期待すべからざる困難(eine unzumutbare Härte)をもたらすべきときは,無効である。」と規定しています。そこで,十二分の政策の実行にもかかわらずなお「心配性のおれを安心(あんしん)させろ」と言い募っていつまでも安心(あんしん)しない人々についてできないものはできないと無視してしまってよいのかといえば,苦戦の選挙活動中には選挙民の方々の前につい土下座までしてしまう政治家の方々にとっては,難しいことでしょう。

 

2 平成の初めにおける「安心」の空白

 現在においては,責任ある政治家が「国民の皆さまに安心(あんしん)を与えます」と頻繁かつ継続的公約することは当然のことですが,実はこれは,平成の時代入ってからの現象であるようです。

 

(1)竹下登内閣総理大臣

 平成になった時点で政権の座にあったのは竹下登内閣総理大臣でしたが,平成元年(1989年)2月10日の第114回国会における同内閣総理大臣の施政方針演説では「安心」という語は全く使われていません(政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所のデータベース「世界と日本」にあるデータに指定語検索をかけた結果。指定語検索機能は便利で面白いですね。以下羽田孜内閣総理大臣までについては同データベースを使用。)。

竹下内閣総理大臣は,昭和天皇の在位中には,①昭和62年(1987年)1127日に第111回国会で所信表明演説,②昭和63年(1988年)1月25日に第112回国会で施政方針演説及び③同年7月29日に第113回国会で所信表明演説を行っていますが,これら3回の国会演説中「安心」の語が発語されたのは2回目の昭和63年1月25日演説における2箇所だけでした。「広く国民に不安を与えるテロ・ゲリラ事件について,国民の皆様の御協力を得てその防圧に努めるなど法秩序の維持,犯罪の防圧,検挙に努めるとともに,事故や災害に強い国土づくりを進め,人を信じ,まじめに働いている者が報われる社会,国民が安心して生活することができるような社会づくりに努めてまいります。」及び「国民一人一人が健やかに生きがいをもって安心して暮らすことができるよう,健康づくり対策を推進するとともに,老人保健事業の充実,在宅保健福祉サービスの拡充や特別養護老人ホームなどの整備等を進めてまいります。また,がん対策,エイズ対策を初め難病の克服に万全の努力を傾注していくほか,精神保健対策,精神障害者の社会復帰の促進等心の健康づくりを進めてまいります。」の部分です。ここでいう「テロ・ゲリラ事件」は,北朝鮮による昭和621129日の大韓航空機爆破事件のことですね。厚生省エイズ調査検討委員会による我が国におけるエイズ初患者確認の発表は昭和60年(1985年)3月22日のことでしたが,同省エイズ対策専門家会議は昭和62年1月17日に初の女性患者を認定,同年末のエイズ患者数は約千人となっていました(『近代日本史総合年表 第四版』(岩波書店・2001年))。

 

(2)宇野宗佑内閣総理大臣及び海部俊樹内閣総理大臣

竹下内閣総理大臣の次の宇野宗佑内閣総理大臣が第114回国会において平成元年(1989年)6月5日に行った所信表明演説においても「安心」は全く登場しませんでした。

海部俊樹内閣総理大臣は,施政方針演説ないしは所信表明演説を5回行っていますが(①平成元年10月2日第116回国会所信表明演説,②平成2年(1990年)3月2日第118回国会施政方針演説,③同年1012日第119回国会所信表明演説,④平成3年(1991年)1月25日第120回国会施政方針演説及び⑤同年8月5日第121回国会所信表明演説),そのうち「安心」の語が唯一登場したのは最初の平成元年10月2日の所信表明演説においてでした。しかも,当該部分は「先般の抜本的な税制改革は,来るべき高齢化社会を展望し,すべての人々が社会共通の費用を公平に分かち合うとともに,税負担が給与所得に偏ることなどによる国民の重税感,不公平感をなくすことを目指したものであります。私は,この改革によってもたらされる安定的な税体系こそが,安心して暮らせる福祉社会をつくる基礎となるものと確信いたしております。消費税は,税負担の公平や我が国の将来展望から見て必要不可欠であり,これを廃止することは全く考えておりません。」というもので,安心(あんしん)を与えることを約束するというよりは,「消費税を払わないと老後が不安になりますよ。だから消費税を払いましょうね。」という趣旨の文脈での使用であったものでした消費税法(昭和63年法律第108号)は,19881224日に成立し,平成元年4月1日から適用されています(同法附則1条1項)。


DSCF1123

今上天皇による初めての任命(平成元年(1989年)63日)に係る内閣総理大臣・宇野宗佑(滋賀県守山市)
DSCF1121
DSCF1124

Non tres, sed quinque digiti.
DSCF1132


3 宮沢喜一内閣総理大臣と「生活大国」構想

宮沢喜一内閣総理大臣は,注目すべき国会演説を行っています。宮沢内閣総理大臣は4回の施政方針演説ないしは所信表明演説を行っていますが(①平成3年(1991年)11月8日第122回国会所信表明演説,②平成4年(1992年)1月24日第123回国会施政方針演説,③同年1030日第125回国会所信表明演説及び④平成5年(1993年)1月22日第126回国会施政方針演説),2回目となる平成4年1月24日の施政方針演説において「生活大国」構想を打ち出し,そこに「安心」が4回登場したのでした(ただし,他の3回の演説においては,平成5年1月22日の施政方針演説において後述のように1回登場する外は「安心」は現れていません。)。

「生活大国」の6本の柱のうちの第3の柱が,「高齢者や障害者が,就業機会の整備などを通じ社会参加が適切に保障され,生きがいを持って安心して暮らせる社会」ということになっていました。しかしながら,「安心」はなお専ら高齢者及び障害者向けのものであったようで,「我が国の人口は今後急速に高齢化に向かい,30年後には国民の四人に一人が高齢者という本格的な高齢化社会となることが予測されます。「少しのことにも,先達はあらまほしき事なり。」と申しますが,高齢者の豊富な人生経験や知識は,我々の社会にとって貴重な資産であります。私は,高齢者の方々がこれを社会で生かしつつ,生き生きと安心してその人生を送ることができるような社会をつくりたいと考えます。このため,雇用・就業環境の整備などにより社会参加を促進するとともに,揺るぎない年金制度を確立し,また,適時に適切な保健,医療,介護が安心して受けられるような社会の実現に向けて真剣に努力してまいります。特に,今後一層困難になると見込まれる看護職員,福祉施設職員,ホームヘルパーなどの確保は重要な課題であり,その勤務条件の改善,養成の強化などに総合的な対策を講じてまいります。」及び「本年は,「国連障害者の10年」の最終年に当たります。障害を持つ人々が家庭や地域で安心して暮らすことができるよう,完全参加と平等の理念に沿ってきめ細かな施策を講じてまいります。」との追加的説明がされています。

宮沢内閣総理大臣が理想としていた国及び社会は,「ゆたかさ」に加わるに「ゆとり」の「生活大国」であって,労働時間が短縮され(第2の柱),「創造性,国際性を重んじる教育が普及し,国民が芸術,スポーツに親しみ,豊かな個性や香り高い文化が花開く社会」(第6の柱)であったようです。実は既にバブル経済は終わり(1991年中に潮目が変わっていたようです。),日本経済はそのピークを過ぎていたのですが,バブル的「ゆたかさ」をなおも以後継続的に,しかも苛烈なanimal spirit無しに「ゆとり」をもって享受できるとの「大国」意識は,今にして思えばやはりバブル()けででもあったものか1992年1月の米国ブッシュ(父)大統領訪日に向けて,日米ビジネス・グローバル・パートナーシップ(略して「ビジグロ」)などという構想を喧伝する向きもありました。)。26年を経た今年(2018年)読み返すと,いろいろ考えさせられます。

「高齢者の豊富な人生経験や知識は,我々の社会にとって貴重な資産であります。私は,高齢者の方々がこれを社会で生かしつつ,生き生きと安心してその人生を送ることができるような社会」云々の部分など,後期高齢者(高齢者の医療の確保に関する法律(昭和57年法律第80号)50条1号参照)の窃盗常習犯(累犯常習窃盗ということになると,法定刑は3年以上の懲役に跳ね上がります(盗犯等の防止及び処分に関する法律(昭和5年法律第9号)3条)。)の弁護人をもしなくてはならない弁護士には,ちょっと悪い冗談のように印象されるかもしれません。豊富な窃盗経験や刑事制度に関する知識という「貴重な資産」を生かしつつ生き生きと,窃盗という形で社会参加し,安心(あんしん)して国選弁護を受けることがいつまでも続いてしまっては困ります。とはいえ安心(あんしん)についていえば,わざわざ刑務所に入らなくとも,生活保護等娑婆(しゃば)の社会保障はなお機能しているところです。かつては日雇労働者のたむろする荒くれたイメージだったドヤ街も,今は身寄りのない生活保護受給の貧困老人たちの徘徊する何とも哀愁漂う街となっています。そこは,「香り高い文化が花開く」日本というよりは,よそから訪れた者にはちょっと居心地悪く,かつ鼻がむずむずする感じです。

「生活大国」演説から1年後の平成5年1月22日の施政方針演説において宮沢内閣総理大臣は,さすがにバブル経済の崩壊を承け,「現在,我が国経済は極めて厳しい状況にあります。今,国民は景気の早期回復を心から待ち望んでおり,これは官民が力を合わせて全力で取り組んでいかなければならない緊急の課題であります。他方,国民の意識は,これまでの成長や効率優先主義から,ゆとりや安心,公平,公正を重んずるものへと変化しつつあることも見逃せません。一日も早く景気の回復を図るとともに,国民一人一人が心からゆとりと豊かさを実感できる経済社会の実現に着実に進んでいく必要がございます。」と述べています。ただし,これは国民意識についての秀才の評言であって,内閣総理大臣が安心を約束するというものではありませんね。なお,「ゆとり,安心,公平,公正」の優先は経済成長とは親和的ではないという認識が窺われるようにも思われます。事実においては,その後の日本経済が停滞を続けていることは周知のとおりです。

 

4 細川内閣総理大臣及び羽田内閣総理大臣

 

(1)細川護熙内閣総理大臣

 1955年(昭和30年)以来長く続いていた当時の自由民主党政権を倒して組閣した細川護熙内閣総理大臣は,3回の所信表明演説ないしは施政方針演説を行っています(①平成5年(1993年)8月23日第127回国会所信表明演説,②同年9月21日第128回国会所信表明演説及び③平成6年(1994年)3月4日第129回国会施政方針演説)。

最初の2回の演説には「安心」の語は登場しませんが,最後の平成6年3月4日の施政方針演説においては4箇所「安心」が出て来ます。

第1は「安全で安心な生活は日本が世界に誇るべき財産ともいうべきものであり,これを守っていくことは政府の重要な役割であります。暴力団犯罪の悪質・巧妙化、薬物・けん銃事犯の多発化に加え,犯罪が広域化,国際化するなど最近の治安情勢には極めて厳しいものがある一方,交通死亡事故も高水準で推移しております。私は,法秩序の維持や安全の確保に遺漏なきよう取り組んでまいる所存であります。」の部分。これは新規に何かをするというよりは現状の維持でしょうか。しかし,日本国内で生活する者はそのあるがままに置かれた状態で安心できているのが当然,ということにはなるようです。

第2は「次に,高齢期にも健康で安心できる社会を築くために,財源の確保に配慮しつつ,「高齢者保健福祉推進10か年戦略」,いわゆるゴールドプランを抜本的に見直し,ホームヘルパーなど介護サービスの充実を図ってまいります。また,医療保険制度や老人保健制度については,付添看護に伴う患者負担の解消や保険給付の範囲,内容の見直しなどを行い,医療サービスの質の向上や患者ニーズの多様化に適切に対応できるようにしてまいりたいと思います。」の部分。高齢者の「安心」は,平成4年1月24日の宮沢「生活大国」演説にも出ていました。

第3は「出生率の低下や女性の社会進出など,子供や家庭を取り巻く環境は近年大きく変化してきております。ことしはちょうど国際家族年でもありますが,これを契機として,保育対策の充実や児童環境基金の創設など安心して子供を生み育てる環境づくりに取り組んでまいります。さらに,仕事と家庭が両立できるように雇用保険における育児休業給付制度の創設や介護休業の法制化の検討を含めた介護休業制度の充実を図るとともに,パー卜タイム労働対策なども進めてまいりたいと思います。」の部分。子を生むことは女性しかできませんので,これは「案ずるより生むが(やす)しだよ」と,出産に不安を感ずる若い女性を励ますものだったのでしょうか。しかし,「保育対策の充実や児童環境基金の創設」は出産それ自体に係るものではないですね。子を生んでしまってもその先は気にしなくても大丈夫,ということでしょうか。父たる若い男性の甲斐性云々を専ら気にするのはアナクロニズムなのでしょう。

最後に第4は「農業に携わる人々の不安感を払拭し,安心して営農にいそしむことができるよう政府として万全を期していかなければならないと考えております。昨年〔1993年〕末に設置された緊急農業農村対策本部の陣頭に立って,農業再生のビジョンづくりと国内対策に全力で取り組んでまいる決意であります。」の部分。これは,「昨年〔1993年〕12月,7年以上にわたったウルグアイ・ラウンド交渉がついに妥結した」ことを承けての緊急措置でしょう。「米は関税化の特例措置が認められる一方,米以外の農産物については関税化するという内容の農業合意案を受け入れ」たものの,なお不安だとの声があるので,とにかく新協定を呑んでもらうための状況対処型政治的措置ということでしょう。

 

(2)羽田孜内閣総理大臣

 細川内閣総理大臣が辞任した後を襲った羽田孜内閣総理大臣は,第129回国会において平成6年(1994年)5月10日,結局唯一かつ最後となった所信表明演説を行います。そこでの「安心」の登場は2回です。「私は,今後,開かれた中での政策決定を旨とし,国民の皆様と積極的に意見を交わしながら我が国の進むべき方向を見定めてまいるつもりであります。そうした国民合意のもとで,より豊かで安心のできる社会をつくり,国際社会の中で信頼される国となるために,着実に改革を進めてまいる決意であります。」及び「私は,普通の言葉で政治を語り,国民の皆様とともに,だれもが安心して生活のできる国,そして世界に日本人であることを誇りに思える国づくりを目指してまいりたいと思います。」の部分です。「ゆたかさ」及び「安心」は,政策目標として掲げるのが既にお約束になっていたということでしょうか。

 

5 「人にやさしい政治」,「安心できる政治」の村山富市内閣総理大臣

 羽田内閣が短期間で倒れた後の,自由民主党,日本社会党及び新党さきがけの3党連立政権の首班たる村山富市内閣総理大臣は,「人にやさしい政治」,「安心できる政治」を標榜します。ここに至って,「安心」が政権の表看板になるようになったわけです。「安心」の連呼が始まります。

村山内閣総理大臣は,4回の施政方針演説ないしは所信表明演説を行っています(①平成6年(1994年)7月18日第130回国会所信表明演説,②同年9月30日第131回国会所信表明演説,③平成7年(1995年)1月20日第132回国会施政方針演説及び④同年9月29日第134回国会所信表明演説)。

 

(1)脱思想・脱イデオロギーの時代の「やさしさ」と「安心」

注目すべきは最初の平成6年(1994年)7月18日所信表明演説です(村山内閣総理大臣以後のデータは,内閣総理大臣官邸ホームページのもの。ただし,前記政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所のデータベース「世界と日本」のデータも参照)。当該国会演説においては,「安心」が7回出現します。まずは「安心」を登場させる前の背景説明から。

 

冷戦の終結によって,思想やイデオロギーの対立が世界を支配するといった時代は終わりを告げ,旧来の資本主義対社会主義の図式を離れた平和と安定のための新たな秩序が模索されています。このような世界情勢に対応して,我が国も戦後政治を特色づけた保革対立の時代から,党派を超えて現実に即した政策論争を行う時代へと大きく変わろうとしています。

この内閣は,こうした時代の変化を背景に,既存の枠組みを超えた新たな政治体制として誕生いたしました。今求められているのは,イデオロギー論争ではなく,情勢の変化に対応して,闊達な政策論議が展開され,国民の多様な意見が反映される政治,さらにその政策の実行が確保される政治であります。これまで別の道を歩んできた3党派〔自由民主党,日本社会党及び新党さきがけ〕が,長く続いたいわゆる55年体制に終止符を打ち,さらに,1年間の連立政権の経験を検証する中から,より国民の意思を反映し,より安定した政権を目指して,互いに自己変革を遂げる決意の下に結集したのがこの内閣であります。〔後略〕

 

 日本社会党の党首たる村山内閣総理大臣が自ら「社会主義」離れを宣言し,1991年(平成3年)末に消滅してしまったソ同盟を母国とする「イデオロギー」ではなく,日本の「国民の意思」を反映した政治体制を目指すのだというわけです。日本にインターナショナルな社会主義をもたらすべき日本・社会党から,日本社会に寄り添う日本社会・党になりました,ということでしょう。すなわち,社会党としての日本社会党の終焉は既にここにおいて明らかだった,ということになるわけでしょう。とはいえ,「旧来の資本主義対社会主義の図式を離れ」るということは,資本主義からも離れるのであってその全面受容まではしませんよということで,これは社会党党首としての最後の意地であったものか。

 それでは,「旧来の資本主義対社会主義の図式を離れた」ところの日本の「国民の意思を反映」した政治とはどういうものかといえば,次のとおり。ここに2度「安心」が出て来ます。

 

我々が目指すべき政治は,まず国家あり,産業ありという発想ではなく,額に汗して働く人々や地道に生活している人々が,いかに平和に,安心して,豊かな暮らしを送ることができるかを発想の中心に置く政治,すなわち,「人にやさしい政治」,「安心できる政治」であります。内にあっては,常に一庶民の目の高さで物事を見つめ直し,生活者の気持ちに軸足を置いた政策を心かけ,それをこの国の政治風土として根付かせていくことを第一に考えます。

   世界に向かっては,先の大戦の反省の下に行った平和国家への誓いを忘れることなく,我が国こそが世界平和の先導役を担うとの気概と情熱をもって,人々の人権が守られ,平和で安定した生活を送ることができるような国際社会の建設のために積極的な役割を果たしてまいりたいと思います。我々の進むべき方向は,強い国よりもやさしい国,であると考えます。

 

要は,日本国民が真に求めているものは「やさしさ」及び「安心」なのだ,ということです。なるほど。確かに平成の時代を振り返ってみると,我々は一貫していました。

しかし,脱国家,脱産業であって,飽くまでも額に汗し続ける地道な庶民たる個人をモデルとし,かつ,その目の高さを尺度とする社会ですか。(なお,ここで「個人」といったのは,当該村山演説においては,「家庭」は2箇所,「これまでの人や物の流れを変え,家庭の生活様式や企業活動を根底から変革する可能性のある,情報化の推進が重要であります。」及び「男女が政治にも,仕事にも,家庭にも,地域にも,ともに参加し,生き生きと充実した人生を送れるよう,最善を尽くしてまいります。」の場面にしか出て来ず,また,「家族」の語は全く用いられなかったからです。これに対して,その施政方針演説ないしは所信表明演説において初めて「安心」に言及したとき(昭和58年(1983年)1月24日第98回国会施政方針演説),中曽根康弘内閣総理大臣は,「社会的連帯の中で新しい生きがいと安心を見出させ」るものとし,併せて「政治の光を家庭に当てること」を付言しています。)
 また,村山内閣総理大臣は,世
界に向かって「先導役を担うとの気概と情熱をもって」「積極的な役割を果たしてまい」ると力んではいますが,余り広がりは感じられません。夫子御自身が,当該演説と同じ月の8日からのナポリにおける7箇国〔日米英仏独伊加〕首脳会談でぶっ倒れてしまっており,外国及び外国人が苦手であったようです。所詮日本は,「強い国」ではなく,「やさしい国」なのです。

 

  我が国は,世界第2位の経済大国でありながら,生活者の視点からは真の豊かさを実感できない状況にあります。加えて,人口構成上最も活力のある時代から最も困難な時代に急速に移行しつつあります。こうした情勢の中で,お年寄りや社会的に弱い立場にある人々を含め,国民一人一人がゆとりと豊かさを実感し,安心して過ごせる社会を建設することが,私のいう「人にやさしい政治」,「安心できる政治」の最大の眼目であります。同時に,そうした社会を支える我が国経済が力強さを失わないよう,中長期的に,我が国経済フロンティアの開拓に努めていくことも忘れてはなりません。このような経済社会の実現に向けての改革は,21世紀の本格的な高齢社会を迎えてからの対応では間に合いません。今こそ,行財政,税制,経済構造の変革など内なる改革を勇気をもって断行すべき時期であります。

 

 日本が「世界第2位の経済大国」だったことがあるとは,中華人民共和国からの観光客・買い物客が大勢闊歩している最近の日本の子供にはよく分からない既に遠い歴史上の事実かもしれません。

 しかし,「最も困難な時代に急速に移行」しつつあるのならば,何もしなければ「我が国経済が力強さを失わない」どころか当然活力を失い,「豊かさ」もそれと共に消え去っていくはずなのですが,それにもかかわらず,のんびり「ゆとり」を実感できるしぜひ実感しよう,ということはどういうことなのでしょうか。「我が国経済フロンティアの開拓」がされるから大丈夫だということでしょうか。しかし,だれがその「我が国経済フロンティアの開拓」をするのでしょうか。正に「額に汗して働く人々や地道に生活している人々」なのでしょうか。それとも,「中長期的に」ということなので,現在世代ではなく将来世代が何とかしてくれるよ,ということでしょうか。

 「ゆとり」と「勇気をもって断行」してやっと確保される「豊かさ」との二者択一を前にすると,やさしい選択として,つい前者が採られてしまうように思われます。

 

私は,国づくりの神髄は,常に視点の基本を「人」に置き,人々の心がやすらぎ,安心して暮らせる生活環境を作っていくことにあると信じます。そのため,安定した年金制度の確立,介護対策の充実などにより,安心して老いることのできる社会にしていくこと,子育てへの支援の充実により次代を担う子どもたちが健やかに育つ環境を整備していくこと,また,体が弱くなっても,障害を持っていても,できる限り自立した個人として参加していける社会を築くことなど,人々が安心できる暮らしの実現に全力を挙げる決意であります。さらに,人々が落ち着いて暮らしていける個性のある美しい景観や街並を築き,緑豊かな国土と地球を作り上げていくため,環境間題にも十分意を用いてまいります。

 

 安心(あんしん)して落ち着き,やすらいだ生活をしている人と,危機感を持った改革断行者や冒険的フロンティア開拓者とが同一人格内で共存することは難しいように思われるのですが,どうしたものなのでしょうか。「しかしながら,わたくしのいう新しい(ニュー)フロンティアは,お約束promises)の一揃いではありません。一連の挑戦(challenges)なのであります。それは,わたくしが〔略〕国民の皆さんに提供させていただこうと思っているものではなく,国民から要求しようと意図しているものの総体なのであります。〔略〕それが示すものは,より大きな安全(more security)ではなく,より多くの犠牲(more sacrifice)の見込みなのであります。〔略〕/このフロンティアから逃避すること,過ぎた日の安全な凡庸(safe mediocrity)を当てにすること並びに善意(good intentions)及び美しい修辞に慰撫されること(to be lulled)の方が簡単なのではありましょう――そして,その方がよいと思う方々は,支持政党のいかんにかかわらず,私に投票すべきではありません。」などと,格好をつけてジョン・F・ケネディ的修辞(Brian MacArthur, ed. The Penguin Book of Twentieth-Century Speeches, 1999, pp.295-296)を弄ぶ選挙候補者に対しては,そうですかそれでは投票しませんよという我が日本の選挙民による冷厳な対応が待っていることでしょう。


(2)その後の展開

 村山内閣総理大臣2回目の平成6年(1994年)9月30日演説においては「安心」は4回登場しています。総論部分に3回であって,いわく「政権を安定させ,国民から安心感をもって迎えられる政治を実現することは,山積する課題に対処するためにも,我が国への国際社会の高まる期待に応えるためにも急務と言わねばなりません。それには,「人にやさしい政治」,「安心できる政治」を目指すという私の政治理念を現実の政策に具体化し,この内閣の誕生で何が変わったか,何を変えようとしているのかを国民の前に明らかにしていく努力が求められます。〔中略〕この内閣がその真価を問われるのはこれからであります。改革を更に押し進め,世界から信頼され,国民が安心して暮らせる社会の実現へと結実させていけるかどうかは,今後の努力にかかっております。」各論部分に1回であって,いわく「我々は豊かさを手に入れるため懸命に走り続けてきた結果,ややもすれば,利潤追求と物質万能の考えに偏りがちな側面があったことは否定できません。私は,国民一人一人が,その人権を尊重され,家庭や地域に安心と温もりを感ずることのできる社会を作り上げていくことが「人にやさしい政治」の真骨頂ではないかと考えます。このため,迫りくる本格的少子・高齢社会に備え,年金,医療,福祉等の社会保障についてその再構築を図ります。」

しかし,利潤及び物質並びにその結果としての豊かさがあると,かえって「安心」できなくなるのだという発想が窺われるようなのですが,どうしたものなのでしょうか。

 3回目の平成7年(1995年)1月20日演説は,同月17日に発生した阪神・淡路大震災の直後に行われました。「安心」の登場は5回です。

 

平成7年,1995年は,戦後50年の節目の年であります。私は,あらためて,これまでの50年を振り返り,来るべき50年を展望して,世界の平和と繁栄に貢献し,国民に安心とゆとりを約束する国づくりに取り組む決意を新たにいたしております。この年を過去の50年から未来の50年へとつなぐ大きな転機の年としたい,年の初めに当たっての私の願いであります。

 

 豊後人村山富市個人の単なる新年の誓いではなく,日本の国家は国民に「安心」及び「ゆとり」を「約束」するのだという内閣総理大臣の宣言ということになります(「豊かさ」は抜けています。)。「約束」という言葉は重いですね。

 

 思い切った改革によって「自由で活力のある経済社会」,「次の世代に引き継いでいける知的資産」,「安心して暮らせるやさしい社会」を創造していくこと,また,世界に向かっては,「我が国にふさわしい国際貢献による世界平和」の創造に取り組んでいくこと,この四つの目標が私の「人にやさしい政治」の目指すところであります。

 

 「人にやさしい政治」と「安心できる政治」との関係は,前者が後者を包括するもののようです。

 

まず,老後の最も大きな不安要因である介護問題に対処し,安心して老後を迎えることができる社会を築くために,高齢者介護サービスの整備目標を大幅に引き上げるなど施策の基本的枠組みを強化した新ゴールドプランを推進するとともに,新しい公的介護システムの検討を進めてまいります。

 

国民生活の安全は,「安心できる政治」の実現の上で不可欠な要素であります。製造物責任法が本年7月に施行されますが,製品の安全性に関する消費者利益の増進を図る観点から,総合的な消費者被害防止・救済策の確立に努めてまいります。最近,一般市民を対象とした凶悪な発砲事件や薬物をめぐる事件が多発しております。良好な治安は,世界に誇るべき我が国の最も貴重な財産とも言うべきものであります。これを守るために,国民の皆様とともに,今後とも全力を尽くす所存であります。

 

 老人及び消費者並びに治安維持が「安心」の約束の対象として特に言及されています。

 

以上申し述べました,「自由で活力のある経済社会の創造」,「次の世代に引き継いでいける知的資産の創造」,「安心して暮らせるやさしい社会の創造」という政策目標の達成のためには,相互に連関した各種の課題を総合的にとらえ,計画的に解決していかなければなりません。このため,政府として,21世紀に向け,新たな経済社会の創造や国土づくりの指針となる,経済計画や全国総合開発計画を策定し,これらの「創造」のための施策を積極的に展開してまいります。

 

 「経済計画」や「全国総合開発計画」というものは,かつては随分重みのあるものだったわけです。「総合的計画経済体制の確立」があれば,「日本の経済は醇化せられ強化せられ」,「生産拡充を断行」することができ,「経済的にも必勝不敗の強力なる体制が確立」されるものとは我が国の革新官僚が説いたところです(奥村喜和男『尊皇攘夷の血戦』(旺文社・1943年)372373頁)。ソ同盟型社会主義計画経済に倣わんとしたもの()しかして社会主義計画経済建設の指導者であるスターリンは何でもお見通しのはずでした。

 

   スターリンが生活の現実を考慮しようとしなかったこと及び地方における現実の状況について無知であったとの事実は,彼の農業政策指導によって明らかにされ得るものであります。少しでも国の状況に関心のある者は全て,農業の置かれた困難な状況を見て取っていたのでありますが,しかしながら,スターリンは,そのことの認識をすらしなかったのであります。我々はそのことについてスターリンに意見したでありましょうか?もちろん,我々は彼に意見したのであります,しかし彼は我々の意見を支持しなかったのであります。なぜでありましょうか?スターリンはどこにも全く旅行しなかったからであります,都市及びコルホーズ(集団農場)の労働者と会わなかったからであります。彼は,地方における実際の状況を知らなかったのであります。彼は,田舎と農業とについては,映像フィルムによってのみ知っていたのであります。しかしてそれらの映像フィルムは,農業において実存しているところの状況を粉飾し,かつ,美化していたのであります。

   多くの映像フィルムがコルホーズ生活を,食卓が七面鳥及び鵞鳥の重みでたわんでいるもののように描いていたのであります。明らかに,スターリンは,それは実際にそうなのだと考えていたのであります。(1956年2月25日フリシチョフ演説。MacArthur, ed. pp.272-273

 

ところが,村山内閣総理大臣の最後の所信表明演説である平成7年9月29日の演説からは,「ゆとり」,「やさしさ」及び「やさしい」といった言葉が消滅しています。阪神・淡路大震災に加え,同年3月20日には尊師・麻原彰晃率いるオウム真理教団による首都東京の霞が関官庁街を狙った地下鉄サリン事件が発生していますから,さすがに村山内閣総理大臣にも理想を語る余裕がなくなってきたのでしょうか。しかし,「安心」はなお4回登場します。まずは「安全で安心できる社会の構築」との見出しが付された部分において3回です。

 

 震災や無差別テロ事件などにより,国民の安全への危惧が強まっておりますが,安全で安心できる社会を構築することは,国政の基本であり,本内閣が最も重視する課題の一つであります。〔中略〕私は,今回の震災の経験から得た貴重な教訓を風化させることなく,総合的な災害対策の一層の充実・強化に取り組むことが,尊い犠牲を無駄にしない唯一の道であると信じるものであります。

  無差別テロ事件や銃器を用いた凶悪犯罪の頻発は,私たちが目指す安全で安心できる社会への許しがたい挑戦であります。特に,オウム真理教信者らによる一連の事件においては,平穏な市民社会においてサリン等の大量殺戮兵器として使用しうる物質が使用されたことが内外に大きな衝撃を与えたことを踏まえ,関係国との国際協力を推進するとともに,再発防止のため政府が一体となった対策を講じてまいりました。〔後略〕

  また,国民が健康で安心して暮らすことのできる公正な社会を構築することを忘れてはなりません。高齢化や核家族化の進展により深刻化している高齢者介護や少子化の問題への対応を図るとともに,ハンディキャップを背負った人々が普通の生活ができるよう,今後とも,保健・福祉施策の一層の充実にも力を注いでいくほか,人権が守られ差別のない社会の建設を推進してまいります。

 

4回目は結論部で出て来ます。

 

戦後50年を経て,今私たちは,幾多の困難な課題を抱えるとはいえ,過去の苦難の 時代を振り返るに,それらの時代とは比較にならない,豊かさと安寧を享受いたしております。このような時代にあればこそ,私たちに求められていることは,先人が築き上げた貴重な資産の浪費ではなく,現在の平和と繁栄を土台として、次なる50年のこの国と世界のありように思いを巡らせ,21世紀に生きる我々の子供や孫が安心して豊かに暮らせる世界,この国に生まれてよかったと思える日本を創出することであろうと考えます。
 

平成30年(2018年)3月現在では,「次なる50年」のうち22年半は既に過ぎてしまいましたが,その間現在の青少年とその子供の世代のために日本において「創出」されたものは何であったのか。携帯電話及びインターネットの普及でしょうか。

 

6 橋本龍太郎内閣総理大臣

平成8年(1996年)早々村山内閣総理大臣が辞意を表明し,その後任となった自由民主党総裁の橋本龍太郎内閣総理大臣は,施政方針演説ないしは所信表明演説を5回行っています(①平成8年1月22日第136回国会施政方針演説,②同年1129日第139回国会所信表明演説,③平成9年(1997年)1月20日第140回国会施政方針演説,④同年9月29日第141回国会所信表明演説及び⑤平成10年(1998年)2月16日第142回国会施政方針演説)。様々な「改革」に取り組むこととなった橋本内閣総理大臣の当該5回の国会演説においては,「やさしさ」又は「やさしい」との語が1度も使用されていないことが,前任の村山内閣総理大臣との最も顕著な相違点ということになるでしょう。また,「安心」の語も,最初の平成8年1月22日演説では全く登場していません。改革は,「やさしい」ものではないとともに,当然変化を伴うものであって,変化はそもそも安心(あんしん)とは両立し難いということでしょうか。

ただし,「安心」の語は,2回目の国会演説以降は復活します。しかしながら,総論における堂々たる柱というよりは,各論における定型的表現の一部として用いられていると観察すべきでしょう。

2回目の平成8年1129日演説には2回登場していて,福祉・医療に関して「構造的赤字体質に陥っている医療保険の現状を直視し,21世紀にも安心して適切かつ効率的な医療サービスを人々が受けられるよう,医療提供体制と医療保険制度全般にわたる総合的な改革を段階的に実施することとし,医療保険改革法案を次期通常国会に提出する考えです。 」の部分及び地域開発,防災,治安等に関して「これらの課題とともに,豊かさを実感し,安心して暮らすことのできる国づくりも重要です。東京圏への一極集中や,阪神・淡路大震災の教訓などを踏まえ,複数の国土軸の形成を含む新しい全国総合開発計画の策定,災害対策の充実,危機管理体制の強化に努めるとともに,移転先候補地の選定という段階を迎えた首都機能移転に積極的に取り組みます。」の部分に現れます。防災及び治安と安心(あんしん)との関係は分かりやすいのですが,東京以外の地域の開発が安心(あんしん)どうつながるものか,それともつなげる必要はないのか。東京は不安だけれどもそれ以外の場所は安心(あんしん)であるということならば東京を安心(あんしん)にすればよいわけですので,地方であっても東京に置いて行かれず遅れないということについての安心(あんしん)が問題になっているのでしょうか。

3回目の平成9年1月20日の演説においては,「安全で安心できる国民生活」という見出しの部分が再登場したということが重要でしょうか。「安全と安心」はその後橋本内閣総理大臣の国会演説における構成部分となります。ただし,当該平成9年1月20日演説における「安心」への言及は2箇所のみです。医療制度に関する「大幅な赤字体質となっている医療保険制度をこのまま放置することは許されません。国民皆保険の仕組みを維持しながら,適切かつ効率的な医療サービスを安心して受けられるよう,今国会に提出する法案を出発点として,医療の提供体制と保険制度全般にわたる総合的な改革を行います。」との前回に引き続いての言及と,同月2日にロシア船籍のタンカーであるナホトカが島根県沖で沈没したことに伴う大量の重油流出事故というその当時のトピックに関する「日本海で発生したタンカー海難事故により流出した重油は,広い範囲の海岸に漂着しており,自然環境や漁業への影響が懸念されます。いち早く重油の回収に当たられた地域の皆様方やボランティアの方々に一日も早く安心して頂けるよう,政府としては,地方公共団体と緊密に連携を取りながら,また,民間のご協力を得ながら,関係省庁が一体となって被害の拡大防止に万全を期します。」との部分における言及とがあったところです。

4回目の平成9年9月29日の演説においては「安全で安心できる国民生活」という見出しの項目は立っていますが,演説の本文自体では「安心」は登場しません。

最後となった5回目の平成10年2月16日の演説には「かけがえのない環境,国土と伝統・文化,暮らしの安全と安心」という長くなった見出しの項目が登場しています。「安心」の語は,演説本文では3回登場しています。福祉・医療に関して2回(「社会保障に係る負担の増大が見込まれる中で,国民皆年金・皆保険制度を守り,安心して給付を受けられる制度を維持していくためには,少子高齢化や経済成長率の低下という環境の変化などに対応し,改革を進めなければなりません。」「医療については,いつでも安心して医療を受けられるよう,医療費の適正化と負担の公平の観点から,薬価,診療報酬の見直しをはじめ,抜本的な改革を段階的に行います。」)及び「かけがえのない環境,国土と伝統・文化,暮らしの安全と安心」という見出しに対応する「かけがえのない環境,国土,伝統・文化を大切に守り,暮らしの安全と安心を確保することは,国の果たすべき責務であり,なかでも,地球環境を守り,子孫に引き継ぐことは,最も重い責任の一つです。」の部分に1回です。「伝統・文化を大切に守」るというのは,若干「改革」疲れも出て来たゆえだったのでしょうか。

「人にやさしい政治」,「安心できる政治」を標榜した前任の村山内閣総理大臣に比べると,橋本内閣総理大臣の政見における「安心」の位置付けは高くはなかったようです。

7 「明日の安心」,「安心への架け橋」及び「安心への挑戦」の小渕恵三内閣総理大臣

平成9年(1997年)11月には三洋証券,北海道拓殖銀行,そして山一証券が次々と破綻し,橋本内閣総理大臣は,翌平成10年(1998年)7月12日の参議院議員選挙における自由民主党の惨敗を承けてその職を退きます。その後任に選ばれた小渕恵三内閣総理大臣は,自らの内閣を「経済再生内閣」であるものと位置付けます。更に小渕内閣総理大臣は,村山内閣総理大臣に続いて,「安心」を重視します。

小渕内閣総理大臣は,施政方針演説ないしは所信表明演説を5回行っています(①平成10年8月7日第143回国会所信表明演説,②同年1127日第144回国会所信表明演説,③平成11年(1999年)1月19日第145回国会施政方針演説,④同年1029日第146回国会所信表明演説及び⑤平成12年(2000年)1月28日第147回国会施政方針演説)。

 

(1)「明日の安心」

最初の平成10年(1998年)8月7日演説においては「安心」の語は3回しか登場しませんが,既にその政見の重要部分に据えられています。ただし,冒頭部分における「安心」の登場は次の部分で,いわば定型的です。(なお,政治に与えてもらわなければ夢も希望も無い国民というのは一体どういう国民なのだろうか,という感想は余計なことです。)

 

  今日,わが国は,急速な少子高齢化,情報化,国際化などが進展する中で,大きな変革期に直面しております。国民の間に,わが国経済・社会の将来に対する不安感が生まれています。政治は,国民の不安感を払拭し,国民に夢と希望を与え,そして国民から信頼されるものでなければなりません。私は,この難局を切り拓き豊かで安心できる社会を築き上げるため,政治主導の下,責任の所在を明確にしながらスピーディーに政策を実行してまいります。

 

 締めくくりの部分が注目すべきところです。

 

   〔前略〕日本の経済的な基礎条件は極めて強固です。他方,社会秩序は良好であり,国民の教育水準,勤労モラルは極めて高い水準にあります。日本は,社会的にも実に強固な基盤を有しております。国民の皆様には,日本という国に自信と誇りを持っていただきたいのです。

   こうした力強い基盤を持つわが国は,現在の厳しい状況を乗り切れば,再び力強く前進すると考えます。私は,この国に「今日の信頼」を確立することで,「明日の安心」を確実なものといたします。

   21世紀を目前に控え,私は,この国のあるべき姿として,経済的な繁栄にとどまらず国際社会の中で信頼されるような国,いわば「富国有徳」を目指すべきと考えます。来るべき新しい時代が,私たちや私たちの子孫にとって明るく希望に満ちた世の中であるために,「鬼手仏心」を信条として,国民の叡智を結集して次の時代を築く決意であります。私は,日本を信頼と安心のできる国にするため,先頭に立って死力を尽くします。

 

「信頼」及び「安心」を鍵概念として,不安になっていた国民を力づけようということであったようです。なおも日本は一等国であり日本国民は一流国民であるので,明日の日本には安心(あんしん)が間違いなく訪れるものと今日の日本において信頼していてよいのだ,という論理のようです。(明日の安心(あんしん)に今日既に信頼していてよいのなら,今日はゆとりをもって仕事を切り上げて明日安心(あんしん)が向こうからやって来るのを懐手で待っていよう・・・などとの怠け心を起こしてはなりませ

 金融対策関係立法を前国会で終え,景気回復のため過去最大規模(総額239000億円)の緊急経済対策が打ち出され,補正予算等を審議すべく召集された臨時会における小渕内閣総理大臣の2回目の平成101127日演説では,「安心」の登場は1回のみです。「景気回復策の第1の柱である「21世紀先導プロジェクト」は,先端電子立国の形成,未来都市の交通と生活,安全・安心,ゆとりの暮らしの創造,高度技術と流動性のある安定雇用社会の構築の4テーマにつき,未来を先取りするプロジェクトの実現に取り組み,日本全体を活性化させることを狙いとするものであります。特に,情報通信など多くの省庁に関連するプロジェクトにつきましては,私が直轄する,いわばバーチャル・エージェンシーとでも呼ぶべき体制を設け,省庁の枠にとらわれることなく力を結集して,その推進を図ってまいります。」という忙しくかつ賑やかな補正予算の内容に関する説明の中で触れられたものでした。「安全・安心,ゆとりの暮らし」をテーマに掲げられれば,大蔵省も財布の紐を緩めざるを得なかったということでしょうか。

 

(2)「安心への架け橋」

 3回目の平成11年(1999年)1月19日演説においては,「安心」が6回登場します。当該演説において小渕内閣総理大臣が目玉としてぶち上げた「21世紀への五つの架け橋」のうちの一つが「安心への架け橋」でした(「私は,21世紀に向けた国政運営を,次の「五つの架け橋」を基本にして考えてまいります。第1に「世界への架け橋」,第2に「繁栄への架け橋」,第3に「安心への架け橋」,第4に「安全への架け橋」,第5に「未来への架け橋」であります。」)。

小渕内閣総理大臣の基本認識においては,「もとより最も重要なのは,国民おひとりおひとりが豊かで幸せに安心して暮らせる社会を築くことであります。」ということでしたから,「安心への架け橋」は他の四つの架け橋よりも政治の究極目的により近いということになるのでしょう(「繁栄の架け橋」は経済的豊かさにつながるのでしょうが,「豊か」さとの関係はなお間接的ということになるのでしょう。「幸せ」は,「五つの架け橋」の総合的併せ技によって達成されるものなのでしょう。)。「「他人にやさしく,美しきものを美しいとごく自然に感じ取ることのできる」社会,隣人がやさしく触れ合うことのできる社会,そして何よりも住みやすい地域社会を建設することが必要だと考えるものであります。」との小渕内閣総理大臣の政見は,「人にやさしい政治」を目指した村山内閣総理大臣のそれを彷彿とさせるものがあります。

 ただし,具体的には,「安心への架け橋」は高齢者を対象にした老後の不安対策ということのようでした。「今日,日本国民の多くが,人類の古くからの願いである長寿を享受できるようになりました。その一方で,国民の中には老後の生活に対する不安も広がっております。21世紀の本格的な少子高齢社会に向けて,「安心への架け橋」を今から整備し,明るく活力あるわが国社会を築き上げていかなければなりません。 」と述べられています。

 「安全への架け橋」と表裏一体をなすものとして「安心」もまたあるわけで,「国民が安心して暮らせる安全な国土,社会の整備も,政府が引き続き取り組むべき重要な課題であり,阪神・淡路大震災や昨年の度重なる豪雨災害等の教訓を踏まえ,災害対策や危機管理の充実に最大限努力してまいります。また,国の発展は良好な治安に支えられるものであり,情報通信技術を悪用したハイテク犯罪や市民生活の安全を脅かす毒物犯罪,組織的な犯罪,更に深刻さを増す国境を越えた薬物犯罪に断固として対処してまいります。 」ということになります。

 「未来への架け橋」における「未来」には当然「安心」が用意されているものでした。「本格的な少子高齢社会の到来に備え,国民一人一人が将来に夢を持ち,生涯の生活に安心を実感できるような社会基盤を整備していくことが必要であります。このため,広く快適な住空間や高齢者にやさしい空間などの実現を目指し,かねてより私が提唱してきた「生活空間倍増戦略プラン」を今月末を目途に取りまとめ,向こう5年間を視野に入れた「明日への投資」を推進するとともに,バリアフリー化への取組などの「安心への投資」に重点的に取り組んでまいります。」と述べられています。すなわち,21世紀において日本の各個人が持つ将来の「夢」とは,老人が転んでけがなどすることは許されない「バリアフリー」な社会における「安心」かつ「やさしい」空間における老後を前提とするもののようです。“Quid est autem tam secundum naturam quam senibus emori?”Marcus Tullius Cicero, Cato Major, De Senectute 19.)などという不埒かつ乱暴なことを言ったり書いたりしておしまいということは許されません。そのような者の首と手とは,ぶった切られなければなりません(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1438013.html)。

 4回目の平成111029日演説においては,「安心」の語は2回しか出て来ません。しかしながら「安心」は,当該所信表明演説における3本柱の一つです(「「1000年代」という一つのミレニアムの締めくくりの時期に開かれる今国会を実り多いものとすべく,本日は,今国会でご審議願いたいと考えているテーマを中心に,特に当面する,経済,安全,安心の三つの課題に絞り、国民の皆様に内閣の基本方針をお示しいたします。」)。ここでの「安心」は老人対策でした。

 

少子高齢化が急速に進展する中で,将来にわたり国民が安心して暮らせる活力ある社会を築くためには,社会保障制度の構造改革を進め,安定的に運営できる制度を構築することが重要な課題であります。

とりわけ年金につきましては,将来世代の過重な負担を防ぐとともに確実な給付を約束するとの考え方に立ち,制度全般を見直すための法案を先の国会に提出いたしました。年金制度に対する国民の信頼を揺るぎないものとするため,その一日も早い成立に向け全力で取り組んでまいります。

また,介護保険につきましては,老後の最大の不安要因である高齢者の介護を社会全体で支えるべく,来年〔2000年〕4月からの実施に向けた準備に万全を期してまいります。なお,高齢者の負担軽減や財政支援など制度の円滑な実施のための対策につきましては,与党間の協議を踏まえ適切に対応してまいります。

 

「安心」と共に社会の「活力」の必要性が言及されていますが,これは「将来世代の過重な負担を防ぐ」ことによって社会の活力を維持しようということだったのでしょうか。しかし,「安心」と「活力」とが現前においてトレード・オフの関係にあるのならば,優先されるのはもちろん前者でしょう。

 

(3)「安心への挑戦」

 小渕内閣総理大臣の最後の施政方針演説となった平成12年(2000年)1月28日演説では,「安心」は6回登場しました。「「経済再生内閣」と銘打って内閣をお預かりしてから1年半が過ぎました。まだまだ安心できるような状況ではありませんが,時折ほのかな明るさが見えるところまでたどり着いたように思います。「立ち向かう楽観主義」で,この明るさを確かなものとするため,更なる努力を傾注してまいることをお誓いいたします。」との部分で登場した1回を除いて,他の5回は(今度は)「五つの挑戦」のうちの「安心への挑戦」に係るものです。

 

   昨年〔1999年1月19日〕の施政方針演説で掲げました「五つの架け橋」を更に進め,国民の決意と叡智を持って取り組むべき課題に,私は本年「五つの挑戦」と名づけました。「創造への挑戦」,「安心への挑戦」,「新生への挑戦」,「平和への挑戦」,「地球への挑戦」の五つであります。

 

   人々が生き生きと,しかも安心して暮らせる社会,そのような社会を築くことは政治にとって最も重要な責任であります。青少年も,働き盛りの世代も,そして老後を暮らす人々も,みな健康で豊かで安心して生活できる社会をつくるために,私は「安心への挑戦」に取り組みます。

   充実した人生を送るために必要な教育,雇用,育児,社会保障などを国民一人一人が自ら選択し,人生設計ができるようにしていかなければなりません。

   世界に例を見ない少子高齢化が進行する中で,国民の間には社会保障制度の将来に不安を感じる声も出ております。医療,年金,介護など,制度ごとに縦割りに検討するのではなく,実際に費用を負担し,サービスを受ける国民の視点から,税制を始め関連する諸制度まで含めた総合的な検討が求められております。

 

 なお,「安全」施策は「安心への挑戦」に含まれるものとされたようです。

 

   安心できる生活の基盤は,良好な治安によってもたらされます。治安を支える警察は国民と共になければなりません。一連の不祥事によって揺らいだ警察に対する国民の信頼を回復するため,公安委員会制度の充実強化を始め,必要な施策を推進いたします。また,時代の変化に対応し,国民にとって利便性の高い司法制度にするために必要な改革を行います。

   阪神・淡路大震災から5年が経ちました。多くの犠牲者の上に得られた教訓を決して忘れてはなりません。災害対策を始めとする危機管理に終わりはなく,更なる対策の充実・強化に努めてまいります。

 

ここでいう警察の不祥事とは,平成11年(1999年)秋に発覚した一連の神奈川県警の不祥事(女子大生恐喝,署内での集団暴行,元警部補の覚醒剤使用を組織ぐるみでもみ消し等(『近代日本史総合年表 第四版』650頁))に代表されるものでしょう(平成12年1月11日に関口祐弘警察庁長官が辞任しています。)。「国民にとって利便性の高い司法制度」にするために弁護士の数は増えましたが,さて現在(2018年)のその結果は如何(いかん)

 平成12年4月2日に小渕内閣総理大臣は脳梗塞で倒れ,同月5日森喜朗内閣が成立しました。


 
8 森喜朗内閣総理大臣

平成12年(2000年)4月5日に内閣を発足させた森喜朗内閣総理大臣(https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/234460/www.kantei.go.jp/jp/morisouri/mori_photo/2000/04/moritoku_01/index.html)は,施政方針演説ないしは所信表明演説を4回行っています(①平成12年4月7日第147回国会所信表明演説,②同年7月28日第149回国会所信表明演説,③同年9月21日第150回国会所信表明演説及び④平成13年(2001年)1月31日第151回国会施政方針演説)。

 

(1)平成12年4月7日演説

最初の平成12年4月7日演説においては小渕前内閣総理大臣の施政方針の継承が表明され,「安心」が4回登場しています。

 

「次なる時代」への改革を躊躇してはなりません。私は本内閣を「日本新生内閣」として,「安心して夢を持って暮らせる国家」,「心の豊かな美しい国家」,「世界から信頼される国家」,そのような国家の実現を目指してまいります。このため,前総理の施政方針を継承しながら施策の発展を図り,内政・外交の各分野にわたり,果断に政策に取り組んでまいります。

 

 「安心して夢を持って暮らせる国家」における「安心」の中核は,やはり「老後の安心」でした。

 

  わが国が目指すべき姿の第1は,「安心して夢を持って暮らせる国家」であります。

  〔中略〕

急速な少子高齢化の進展の中で生涯を安心して暮らせる社会を築くため,意欲と能力に応じて生涯働くことができる社会の実現を目指すとともに,老後の安心を確保すべく社会保障構造改革を推進してまいります。既に,世代間の負担の公平化を図るための年金制度改正法案が国会で成立し,またこの4月からは介護保険制度がスタートするなど,取り巻く環境の変化に対応した制度の整備を着実に進めているところであります。今後さらに,先に設置された「社会保障構造の在り方について考える有識者会議」における議論を踏まえ,私は,年金,医療,介護などの諸制度について横断的な観点から検討を加え,将来にわたり持続的・安定的で効率的な社会保障制度の構築に全力を挙げてまいります。

 

 なお,「心の豊かな美しい国家」が目標として掲げられつつも,この演説では「やさしさ」の語の登場はありませんでした。

 ちなみに,「IT革命を起爆剤とした経済発展を目指す」ことが,既に森内閣発足当初の当該演説において表明されています。

 

(2)平成12年7月28日演説

 森内閣総理大臣2回目の平成12年(2000年)7月28日演説において「安心」は3回登場しています。

「本年4月に内閣総理大臣に就任した際,私は国民の皆様に,「安心して夢を持って暮らせる国家」,「心の豊かな美しい国家」,「世界から信頼される国家」の実現を目指す「日本新生」に取り組んでいくことを申し上げました。次なる時代への改革のプログラムである「日本新生プラン」を政策の基本に据え,大胆かつ的確にその実現を図ってまいります。」として発表された「日本新生プラン」は,「経済の新生」,「社会保障の新生」,「教育の新生」,「政府の新生」(平成13年(2001年)1月6日から中央省庁等再編が行われることになっていました。)及び「外交の新生」(平成12年7月に九州・沖縄サミットが開催されたばかりでした。)の5本の柱からなっていましたが,そのうち「社会保障の新生」の項において,働く女性の託児及び各国民の生涯(要は老後でしょうか。)のそれぞれに係る「安心」に言及がされています。

 

少子化の急激な進行を踏まえ,働く女性が安心して子どもを預けられるよう,保育サービスの整備,充実を図るなど,社会全体で子育てへの支援に取り組んでまいります。また,女性も男性も喜びと責任を分かち合える男女共同参画社会の実現に向けて,引き続き努力してまいります。

   さらに,次世代の先端科学や医療技術の活用により,がん,心臓病の克服と,寝たきりや痴呆にならない健康な高齢期の実現を目指して,メディカル・フロンティア戦略を推進します。

   これらの施策をライフステージに応じて有効に機能するよう総合的に推進し,国民が生涯にわたって可能な限り身体的,精神的,経済的に自立し,安心して暮らせる社会の実現を目指してまいります。

 

(3)平成12年9月21日演説

 3回目の平成12年(2000年)9月21日演説では,「安心」は2回登場します。社会保障改革に関して1回及び経済対策に関して1回です。

 まずは社会保障改革に関して。

 

   人生八十年時代と言われて既に久しく,今日,我々は,世界一の長寿を享受できるようになり,これまで高齢者と言われてきた65歳の方々も,いまや十分現役世代であります。来るべき世紀を活力に満ちた高齢社会とするため,豊かな知識,経験を有する高齢者が意欲と能力に応じて多様な働き方ができるよう「70歳まで働くことを選べる社会」の実現に向けて努力してまいります。さらに,その後も,社会に参加し,安心して自立した生活を送ることができる「明るく活力ある高齢社会」を実現してまいります。

 

 次は経済対策に関して。

 

   近く取りまとめる経済対策の主眼は,我が国経済を,量的拡大指向から夢と安心と個性が沸き立つ世の中に変えることであります。この眼目は,IT革命の飛躍的推進,循環型社会の構築など環境問題への対応,少子高齢化対策及び便利で住みやすい街づくりなど都市基盤の整備の4分野にあります。

 

(4)平成13年1月31日演説

森内閣総理大臣最後の平成13年(2001年)1月31日演説においては,21世紀が「希望の世紀」,「人間の世紀」,「信頼の世紀」及び「地球の世紀」であるべき旨が表明されました。「安心」は6回登場しています。

まずは,「希望の世紀」の項で2回です。

 

今般の中央省庁再編において,有識者の参加を得て,内閣府に経済財政諮問会議を設置しました。景気を着実な自律的回復軌道に乗せるための経済財政運営とともに,財政を含む我が国の経済社会全体の構造改革に向けた諸課題について,具体的な政策を主導するとの決意を持って,実質的かつ包括的な検討を行うこととしております。会議では,マクロ経済モデル等も活用し,中長期的な経済社会全体の姿を展望しつつ議論を行い,国民が安心と希望を持てる処方箋を示してまいります。

 

誰もが安心して参加できる制度基盤と市場ルールを整備するため,電子商取引の特質に応じた新たなルールを定めるとともに,個人情報の取扱いに関する基本原則,取扱い事業者の義務等を定める個人情報の保護のための法律案を提出します。さらに,セキュリティ確保のための技術開発や安全性・信頼性確保策を推進し,ハイテク犯罪への対応を含め,情報セキュリティ対策を強力に推進してまいります。 

 

次に「人間の世紀」の項に3回出て来ます。

 

社会保障制度は,老齢期を迎え,また,疾病,失業などの人生の困難に直面したときに,社会全体で支え合う仕組みとして,国民の「安心」や社会経済の「安定」に欠かせないものとなっています。今世紀,我が国は世界でも類を見ない急速な少子高齢化に直面し,経済の伸びを大きく上回って社会保障の給付と負担が増大することが見込まれていますが、このような中にあって,持続可能な社会保障制度を再構築し,後代に継承していくことは,我々に課された重要な務めであると考えております。

 

   男女共同参画社会の実現は,我が国社会の在り方を決定する重要課題の一つであり,昨年〔2000年〕12月に決定された男女共同参画基本計画を着実に推進し,一層の努力を継続してまいります。また,新たに設置された男女共同参画会議において,「仕事と子育ての両立支援策」について早急に取りまとめ,子どもを産むという尊い役割を果たす女性が,社会で活躍できる可能性を広げ,女性にとっても男性にとっても,家庭と仕事が両立し,安心して子育てができる社会を築いてまいります。

 「人間の世紀」を支えるためには,便利で,暮らしに楽しさがある都市づくりを目指すことは,極めて重要であります。国境を越えた都市間競争の時代を迎えた今,世界に誇れる都市づくりを国家的課題として明確に位置付け,官民の力を結集して,生き生きとした都市生活や経済活動を支える都市基盤を整備してまいります。特に,大規模な工場跡地を活用した拠点づくりや,まちの中心となるターミナル駅などの交通結節点の総合的整備など,魅力的な都市拠点の創造に努めてまいります。また,高齢者が安心して生活できる居住環境を実現するため,高齢者の居住の安定確保に関する法律案を提出するとともに,生活空間,公共交通機関のバリアフリー化を推進してまいります。

 

最後に「地球の世紀」で1回出て来ます。

 

「地球の世紀」たる21世紀において,国民が真に豊かで安心できる暮らしを実現していく上で,その基盤となる恵み豊かな環境を守り,我々の子孫に引き継いでいくことは,我が国のみならず世界においても最も重要な課題の一つであります。地球温暖化問題については,2002年までの京都議定書発効を目指し,本年開催が予定されているCOP6再開会合に向け,最大限努力するとともに,国際交渉の進捗状況も踏まえつつ,国民の理解と協力を得て,温室効果ガスの6%削減目標を達成するための国内制度に総力で取り組んでまいります。さらに,大量生産・大量消費・大量廃棄という経済社会の在り方から脱却するため,循環型社会の構築に向け,関連する法律の施行を通じ,具体的な取組を進めてまいります。これらの課題を着実に解決し,21世紀において地球との共生を実現してまいります。

 

9 中間まとめ

 以上平成最初の12年間の内閣総理大臣国会演説(施政方針演説及び所信表明演説)における「安心」概念の使われ方を見て来て,今世紀(21世紀)の初頭に至りました。ここで,一応の中間まとめをしてみようと思います。平成13年(2001年)1月21日の森内閣総理大臣演説における6回の「安心」は,次のように分類され得るようです。

 

ア 国家ないしは国民の目的としての「安心」(「豊かで安心できる暮らし」)

イ 社会保障に対する「安心」

ウ 高齢者の「安心」

エ 子育てに係る「安心」

オ IT社会における「安心」

  カ 日本経済の将来に対する「安心」

 

 上記に加えてそれまでの内閣総理大臣演説に現れた「安心」概念をも勘案すると,「安心」は次の9項目において問題となると整理できます。

 

①国家ないしは国民の目的

②社会保障(医療を含む。)

③高齢者

④障害者

⑤治安・防災

⑥子育て・女性

IT社会・消費者

⑧日本経済の将来

  ⑨その他トピック的なもの(ウルグアイ・ラウンドと農業,重油流出事故)

 

 我が国(State & Nation)の目的は,国民の生活における「豊かさ」及び「安心」ということでしょう。しかし,「豊かさ」は経済の発展を前提とし,経済発展は当然変化を伴うところ,変化は必ずしも「安心」とは両立しません。どちらかを選ばなければなりませんが,現在の日本では,「安心」が変化に優先されるということでしょうか。皆齢を取りましたからね。

 上記9分類を用いて,小泉純一郎内閣総理大臣以降の各内閣総理大臣の施政方針演説ないしは所信表明演説を見て行きましょう。

 

後編に続く(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1070539114.html


 


  



弁護士ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

1 墓参り

 特別縁故者に対する相続財産分与審判の手続代理人の仕事(2018年2月25日の当ブログ記事「特別縁故者に対する相続財産分与制度等について」を御参照ください。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1070203577.html)をしていて,亡くなった被相続人の人となり,周囲の人々との交渉等を調べて書面にまとめつつ,筆者はふと,明治・大正の文豪・森鷗外の手になる史伝物を思い出したことでした。筆者は当該手続事件の被相続人の墓にも詣でて調査を行ったのですが,鷗外もその史伝の主人公について同様のことをしています。19151030日(松本清張『両像・森鷗外』(文藝春秋・1994年)147頁参照)におけるその次第は次のとおり。

 

   わたくしは谷中(やなか)感応寺(かんのうじ)に往つて,抽斎の墓を訪ねた。墓は容易(たやす)く見附けられた。南向の本堂の西側に,西に面して立つてゐる。「抽斎澀江君墓碣銘」と云ふ(てん)(がく)も墓誌銘も,皆小島成斎の書である。漁村の文は頗る長い。後に〔抽斎の息子である澀江〕保さんに聞けば,これでも碑が余り大きくなるのを恐れて,割愛して刪除(さんぢよ)したものださうである。〔略〕

   わたくしは自己の敬愛してゐる抽斎と,其尊卑二属とに,香華(かうげ)を手向けて置いて感応寺を出た。(森鷗外『澀江抽斎』(1916年)その八)

 

 当該墓参を,70年後,昭和の文豪・松本清張が自ら再現しています。

 

   本年(昭和60年〔1985年〕)6月2日の午後,私は谷中に行った。感応寺は谷中霊園の南端に相対した西側道路から横通りに入ったところにある。小さな山門に「光照山感応寺」の古い扁額がかかっている。日蓮宗。門を入った正面の本堂は四注造,前に破風造の廂が付いている。墓地は本堂の向かって左側にある。広くない墓地には石塔が密集し,仕切りの各筋の径も人一人がようやく通れるくらいである。私は抽齋墓を容易(たやす)見つけることができず,本堂前に人は居らぬかとさがしたが,そこには小学2,3年生くらいの子供が5,6人遊んでいるだけだった。右側の庫裡(くり)へ行った。私を見て犬がほえた。

   住職は居るか居ないかわからない。私を墓地へ導いたのは14,5くらいの少女だった。

   抽齋墓は本堂西から二筋目を北に入ってすぐだった。(あおぐろ)い墓石は高さ2メートル,横1.5メートル,上がゆるやかな山形をなしている。篆額に当る上部は広く仕切ってそのスペースに「抽齋澀江君墓碣銘」と2行に篆書体文字が彫られてある。したがってその下の墓誌銘は方1メートルの中に長い海保漁村の文が楷書の細字で窮屈そうに埋められている。

   抽齋の墓に詣る人の有無を少女に聞くと,ときたまに人が見えるという。私が墓の形や篆額の文字を書体どおりにノートに写し取っていると,このお墓の方はどういう人ですかと少女はきいた。むかしのえらいお医者さんで学者ですと私は答えた。少女は,そうですか,どうぞごゆっくりと頭をさげて去った。(松本148149頁)

DSCF0370

DSCF0371

DSCF0372

   〔前略〕〔永井〕荷風ですら〔中略〕谷中感応寺までは足を伸ばしていない。また鷗外研究家諸氏の文章にも抽齋墓を訪ねたとは見えないようである。「鷗外写真アルバム」といった刊行物にも,この墓の写真は載っていない。私が一応満足したのはこうした理由からである。(松本150頁)

 

2 鷗外の史伝

ところで,鷗外の史伝物に対する清張の評言は,なかなか厳しい。1909年の「「半日」は純自然派だが,早くも細君の抗議に遇っている。つづけて書いて発表した「ヰタ〔・セクスアリス〕」は陸軍次官石本新六の戒飭(かいちょく)を受け,雑誌は発禁処分を受けた。どうも自然派は難物である。(松本280頁),「諸事百般の現象はすべて仮象である,それが存在するかのように映っているだけだと「かのやうに」〔1912年〕で遁げようとしても,それも不可能になってきた。天皇制が存在する限り,狭い潜水艦の室内に居るように,ちょっと身動きしただけでも,こっちの角,あっちの角にぶっつかってしまう。」(松本281頁),「歴史小説に筆を取った。が,歴史小説が現代の寓意と取られている以上,これも窮屈を感じてくる。」(松本281頁)という諸々の「危険」を避けつつあった果ての,要は安全な場所での衒学趣味が鷗外の史伝だ,というのです。

 

   官吏の道を踏みはずさないためには,文壇の外に立つことが必要であった。文学を第二義的にする故である。しかし,常に群小の上に聳立(しょうりつ)していなければならない。類なきペダンティックの文学がそれである。

   それは,何の危険物もない考証学者の伝記にとりかかったとき,存分にペダンティックの自由が発揮された。ジェネアロジックの方向というのは,くりかえして云うように,澀江保の「抽齋歿後」によって発想を得たものだが,そうは云わないで,魏収の名を出して,ペダンティックに糊塗するところなどはいかにも鷗外らしいのである。(松本282頁)

 

ここで出て来る魏収は,『角川新字源』によると,「506572。北斉の人。(きょ)鹿(ろく)(河北省)の人。(あざな)は伯起。北魏から北斉に仕え,中書令兼著作郎となり,「魏書」を編集した。」とあります。魏収の「魏書」は南北朝の北魏439年華北統一,534年滅亡)の歴史を記したもので,邪馬台国の「魏志」とは異なります。魏収について鷗外は,次のように述べていました。

 

  わたくしは此叙法〔「一人の事蹟を叙して其死に至つて足れりとせず,其人の裔孫のいかになりゆくかを追蹤して現今に及ぶ」叙法〕が人に殊なつてゐると云つた。しかし此叙法と近似したるものは絶無では無い。昔()(しう)は魏書を修むるに当つて,多く列伝中人物の末裔を載せ,後に(てう)(よく)17271814。清代前期の史学者・詩人。〕の難ずる所となつた。しかし収は曲筆して同世の故旧に(わたくし)したのである。一種陋劣なる目的を有してゐたのである。わたくしの無利害の述作とは違ふ。〔後略〕(森鷗外『伊沢蘭軒』19161917年)その三百七十)

 

 特別縁故者に対する相続財産分与の審判の申立書などは,どうしても「無利害の述作」というわけにはいかないので,鷗外にいわせればやはり「一種陋劣なる目的を有」するものになってしまうのでしょうか。とはいえ自営業者たる弁護士は,自分で食っていかねばなりません。

 「説明を入れたくて仕方がないのは鷗外の性分である。考証物にその自由を見出したのは鷗外の幸福である。」とは清張の『両像・森鷗外』の結語です(松本283頁)。説明に夢中になってしまって脱線することを,五十代半ばの鷗外は楽しんでいたのでしょうか。『伊沢蘭軒』の書き方についてですが,清張は次のように説明します。

 

   伊澤徳の「蘭軒略傳」「歴世略傳」を骨子にして,それを編年的に順序立て,「勝手気儘に」考証随筆として書きすすめて行くことである。この方法だと,鷗外の広博強識を以てすればいくらでも思うままに書ける。話は話を生み,枝から枝へと岐れ,煩瑣な梢を茂らせる。人物は次々と出て来きて,その小伝や軼事(いつじ)(逸事・逸話)はくりひろげられる。(松本194195頁)

 

3 京水と鷗外

 

(1)京水を追跡する鷗外

 前記のような脱線のうち,鷗外が特に力を入れたのが,澀江抽斎の「痘科の師」である「池田氏,名は(いん)(あざな)()(ちよう),通称は(ずゐ)(えい)(けい)(すゐ)と号した」池田京水(『抽斎』その十四)と池田独美との関係調査です。

 

   独美の家は門人の一人が養子になつて()いで,世瑞仙と称した。これは上野(かうづけの)(くに)桐生の人村岡善左衛門(じやう)(しん)の二男である。名は(しん)(あざな)(じう)(かう),又(ちよく)(けい)霧渓(むけい)と号した。(せい)寿館(じゆくわん)〔痘科の〕講座をも此人が継承した。

   〔略〕

   独美の初代瑞仙は素源家(もとげんけ)の名閥だとは云ふが,周防の岩国から起つて幕臣になり,駿河台の池田氏の宗家となつた。それに業を継ぐべき子がなかつたので,門下の俊才が入つて後を襲つた。(にはか)に見れば,なんの怪しむべき所もない。

   しかしこゝに問題の人物がある。それは抽斎の痘科の師となるべき池田(けい)(すゐ)である。

   京水は独美の子であつたか,甥であつたか不明である。向島嶺松寺に立つてゐた墓に刻してあつた誌銘には子としてあつたらしい。然るに2世瑞仙(しん)の子(ちよく)(をん)の撰んだ過去帖には,独美の弟(げん)(しゆん)の子だとしてある。子にもせよ甥にもせよ,独美の血族たる京水は宗家を嗣ぐことが出来ないで,自立して町医になり,下谷(したや)徒士(かち)(まち)に門戸を張つた。当時江戸には駿河台の官医世瑞仙と,徒士町の町医京水とが両立してゐたのである。(『抽斎』その十五)

 

   わたくしは抽斎の師となるべき人物を数へて(けい)(すゐ)に及ぶに当つて,こゝに京水の身上に関する疑を記して,世の人の教を受けたい。(『抽斎』その十六)

 

 「調べてみても京水の身もとはよくわからない。そこで穿鑿欲が出てくる。人に知られざる人の,そのまた謎への挑みである。「抽齋」を開始したのが大正5年〔1916年〕1月である。その前年から京水を探していたと思われるふしがある」(松本77頁)ということになります。「鷗外の京水に対するモノマニアックなまでの執拗な追跡」(松本206頁)がなされます。

 

(2)向島弘福寺

 ところで,被相続人の特別縁故者であるかどうかの該当性判断に当たっては被相続人の「死後における実質的供養の程度」も考慮されますから(広島高等裁判所平成15年3月28日決定(家月55巻9号60頁)等),特別縁故者に対する相続財産分与審判の手続代理人の仕事には被相続人の菩提寺から故人の「供養」に関する事情を聴取することも含まれ,筆者は,当該手続事件の依頼者に慫慂されてお寺の住職訪問をしたのでした。鷗外もまた,池田京水の身もと調査に当たって,住職訪問をしています。池田氏の墓があったという向島の嶺松寺を探しての帰り道です。

 

   わたくしは幼い時向島小梅村に住んでゐた。初の家は今須崎町になり,後の家は今小梅町になつてゐる。〔略〕

   わたくしは再び向島へ往つた。そして新小梅町,小梅町,須崎町の間を徘徊して捜索したが,嶺松寺と云ふ寺は無い。わたくしは絶望して(くびす)(めぐら)したが,道の(ついで)なので,須崎町弘福寺にある先考〔亡父〕の墓に詣でた。さて住職奥田墨汁師を(とぶら)つて久濶を叙した。対談の間に,わたくしが嶺松寺と池田氏の墓との事を語ると,墨汁師は意外にも(ふた)つながらこれを知つてゐた。

   墨汁師は云つた。嶺松寺は常泉寺の近傍にあつた。其(しん)(ゐき)内に池田氏の墓が数基並んで立つてゐたことを記憶してゐる。墓には多く誌銘が刻してあつた。然るに近い頃に嶺松寺は廃寺になつたと云ふのである。〔略〕(『抽斎』その十六

 

 向島牛頭山弘福寺の奥田住職は,親切です。

 

   弘福寺の現住墨汁師は大正5年〔1916年〕に入つてからも,捜索の手を(とど)めずにゐた。そしてとうとう下目黒村海福寺所蔵の池田氏過去帖と云ふものを借り出して,わたくしに見せてくれた。〔略〕

   此書の記する所は,わたくしのために創聞に属するものが頗る多い。就中(なかんづく)異とすべきは,独美に玄俊と云ふ弟があつて,それが宇野氏を(めと)つて,二人の間に出来た子が京水だと云ふ一事である。此書に拠れば,独美は一旦(てつ)京水を養つて子として置きながら,それに家を()がせず,更に門人村岡晉を養って子とし,それに業を継がせたことになる。(『抽斎』その十九)

 

   〔前略〕わたくしは撰者不詳の〔京水の〕墓誌の残欠に,京水が(そし)つてあるのを見ては,忌憚なきの甚だしきだと感じ,晉が〔自分に対する〕養父の賞美の語を記して,一の抑損の句をも著けぬのを見ては,簡傲(かんがう)も亦甚だしいと感ずることを禁じ得ない。わたくしには初代瑞仙独美,世瑞仙晉,京水の3人の間に或るドラアムが蔵せられてゐるやうに思はれてならない。〔後略〕(『抽斎』その二十)

DSCF0521
DSCF0522
弘福寺(東京都墨田区向島)


(3)京水廃嫡一件

前記の「ドラアム」については,その後事情が判明します。「京水廃嫡一件」と鷗外によって名づけられるところの「池田の家の床下に埋蔵せられてゐた火薬」であって,ついには「爆発」(『蘭軒』その二百三十一(1917年))させられるに至ったものです。

 

ア 独美の養子・京水

廃嫡させられることとなった京水は,独美の弟・玄俊の子として天明六年(1786年)に京都に生まれ,生後間もなく伯父・独美の養子に迎えられたのでした。現在では「成年に達した者は,養子をすることができる」わけですが(民法792条),独美は元文元年(1736年)又は享保二十年(1735年)生まれですから(『蘭軒』その二百二十三),天明六年には当然既に成人に達しておりました(というか五十代ですね。)。なお,「幕藩時代の武士が養子を願い出るときは,17歳以上,通常は30歳以上の者に限って許される慣例であった。ただやむを得ない事情がある場合,たとえば奉公相勤め難い事情があるときは,30歳以下の者にも願い出を許した。しかし16歳以下の者には,絶対に養親資格を認めなかった」そうです(中川高男『新版注釈民法(24)親族(4)親子(2)養子§§79281711』(有斐閣・1994年)792条解説・153頁)。

 

 〔独美の弟・玄俊に天明〕六年〔1786年〕五月五日に三男が生まれた。名は貞之介であつた。是が後の京水である。貞之介の母〔宇野氏〕秀は此月二十六日に死んだ。恐くは産後の病であつただらう。〔略〕

  貞之介は(はゝ)を失つた直後に,伯父瑞仙〔独美〕の養子にせられて大坂に往つた。〔京水の〕自筆の巻物に「善郷〔独美〕養て兄弟二人を祐ると云意を用て〔貞之介を〕祐二と改む」と云つてある。「兄弟二人を祐る」とは,玄俊は家に女子が無いので,赤子(せきし)を兄に託して祐けられ,兄瑞仙は男子が無いので,貞之介の祐二を獲て(たす)けられたと云ふ意であらう。〔後略〕(『蘭軒』その二百二十七)

 

 「嬰幼児をその父母が他人の養子にやるという制度は,わが国では古くから行われた。そこには,親が子を自由に支配しうるとする思想があったであろうし,子の福祉を考えるよりは,収養する方の家の承継や,養子にやる親と貰う親との経済的な理由(実質的には子の売買)もあったであろう。濫用の弊も少なくはなかった。」と説かれてはいたところです(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)269頁)。現在では「養子となる者が15歳未満であるときは,その法定代理人が,これに代わって,縁組の承諾をすることができる。」(民法797条1項)と規定されるとともに,「未成年者を養子とするには,家庭裁判所の許可を得なければならない。ただし,自己又は配偶者の直系卑属を養子とする場合は,この限りでない。」とされています(同法798条)。民法798条本文の許可は,養子となるべき者の住所地を管轄する家庭裁判所の審判によってされます(家事事件手続法(平成23年法律第52号)39条,別表第一の61の項,161条)。

 

イ 独美の後妻・沢と「家庭の友」・佐々木文仲

 

   此推定にして誤らぬならば,瑞仙〔独美〕の3人目の妻沢は寛政七年〔1795年〕若しくは八年〔1796年〕に,養子祐二のゐる処へ迎へられたのである。沢は〔数え〕31歳若くは32歳で,祐二は10歳若くは11歳であつた。次で瑞仙が召されて江戸に来り,沢と祐二改杏春とを迎へ取つた。是が瑞仙62,沢33,杏春12の時である。(『蘭軒』その二百三十)

 

祐二が杏春と改められた由来については,「京水は「善郷〔独美〕(中略)〔幕府に〕実子の届に言上するに及て杏春と称す」と自記してゐる」そうです(『蘭軒』その二百二十九)。

ところで,「独美先生は還暦過ぎて,29歳も年下の若い奥さんをもらったのか,男のロマンだなぁ・・・」などと呑気なことを言ってはいけません。

 

  しかし其裏面には幾多の葛藤があつたものと看なくてはならない。わたくしは(のち)よりして前を顧み(くわ)よりして因を推し,錦橋瑞仙〔独美〕の妻沢(さいさは)を信任することが稍過ぎてゐたのではないかと疑ふ。其家に出入(いでいり)する佐々木文仲と云ふものをして,余りに深く内事に干渉するに至らしめたのではないかと疑ふ。佐々木は恐くは洋人の所謂「家庭の友」に類した地位を占むるに至つたのであらう。そして佐々木と沢との関係は,遂に養子杏春をしてこれが犠牲たらしめたのであらう。(『蘭軒』その二百三十一)

 

 「ここに云う洋人の所謂「家庭の友」とは,暗にその家の主人の黙認の(もと)にその妻と密通した男が公然と家庭に出入りすることの意味に当てているようである。とは清張の註釈です(松本76頁)。 

 

  夫と三十も年が違う沢は,自分よりずっと年下の若者を愛人にし,すでに衰老に達した瑞仙は,この後妻を寵愛しつつも佐々木との関係に眼をふさいでいたのである。(松本76頁)

 

古代ローマの2代目皇帝ティベリウスは60歳の男が50歳未満の女と結婚することを禁じ,いかなる場合でも60歳の男が罰を受けずに結婚することができないようにしたそうですが(De l’Esprit des lois XXIII, 21),このような不様な事態の発生を避けしめようとしたものでしょうか。なお,当該規定は4代目皇帝クラウディウスによって廃止されますが(スエトニウス『ローマ皇帝伝』(岩波文庫・1986年)「クラウディウス」第23章に,「元首ティベリウスが,60歳の人はもう子供が生めないかのように考えて,パピウス・ポッパエウス法に追加していた条規を〔クラウディウスは〕廃止した。」とあります(国原吉之助訳)。),クラウディウス自身が58歳の年(西暦紀元48年)になって結婚しており,25歳年下のその妻がネロの母のアグリッピナでした。しかし,クラウディウスは,その後7年目(54年)に毒殺されます。

 

 …per ipsam Agrippinam, quae boletum medicatum avidissimo ciborum talium obtulerat.

 

 クラウディウスはきのこ(boletus)が大好物で,一説によれば,毒をしみ込ませたきのこを食べさせられて死んだのでした。

 

ウ 京水辞嗣及び池田家のその後

 さて,独美先生が眼をふさぐのをよいことに,お沢さんと佐々木文仲とは散々悪乗りしたようです。京水少年は我慢がならない。

 

   京水自筆の巻物中参正池田家譜(よし)(なほ)〔京水〕の条には,「享和元年1801年〕病に依て嗣を辞するの後瑞英と改む」と書してある。嗣を辞したのと,杏春を瑞英と改めたのは,辛酉の出来事である。当時養父錦橋66,養母沢37,杏春の瑞英16であつた。(『蘭軒』その二百三十一)

 

当該辞嗣に関する事情について京水が書いたところを,鷗外は次のように紹介します。「種々謀計」というのは,お沢さんと文仲とがこもごも独美先生のところにやって来ては,京水についてあることないこと悪口を言い,告げ口してなどいたのでしょう。

 

   〔京水の家の〕生祠記は既に佚した。しかし京水は養父の幕府に呈した系図を写して,其後に数行の文を書した。わたくしは此書後に由つて生祠記の内容の一端を知ることを得た。京水の辞嗣は霧渓の受嗣と表裏をなしてゐて,其内情は(しも)の如くである。

   「右直郷(霧渓2世瑞仙晋)は初佐佐木文仲の弟子なり。文仲は於沢の方に愛せられて,遂に余を追て嗣とならむの志起り,種々謀計せしかど,余辞嗣の後にも養子の事(文仲自ら養子となる事)成らず,終に直郷に定まりたり。其間山脇道作の男玄智,瑞貞と云,堀本一甫の男某,田中俊庵の男,瑞亮と云,皆一旦は養子となれども,何れも於沢の方と文仲に追出されたり。善直(京水瑞英)誌。」(『蘭軒』その二百三十一)

 

京水辞嗣後,さすがに独美先生も,妻の愛人である佐々木文仲を自らの養子にさせられるところまでコケ(コキュ)にされることには耐えられなかったのでしょう。

しかしめげずに,お沢さんらは自分らに都合のよい弟子筋の2世瑞仙が養子になるまでは(2世瑞仙晉が正式に養嗣子となったのは,独美の死ぬる6箇月前の文化十三(1816年)年三月のことでした(『蘭軒』その二百三十二)。),不都合な養子3人を連続していびり出したのですか。恐ろしいですねぇ,お局様ですねぇ,後妻業ですねぇ。

 

4 後妻業

さて,後妻業。

 

(1)妻の相続権

現在は「被相続人の配偶者は,常に相続人となる」ものとされ(民法890条1項),「子及び配偶者が相続人であるときは,子の相続分及び配偶者の相続分は各2分の1」ということになります(同法900条1号)。しかしながら,江戸時代には「被相続人に子孫なくまた養子なくして死亡せるときは,その家名は()これを相続す。」ということでしたから(中田薫『徳川時代の文学に見えたる私法』(岩波文庫・1984年)202頁),反対解釈すれば,お沢さんとしては養子の京水がいては夫の独美の遺産に係る相続権が全く無かったわけです。(しかし,いずれにせよお沢さんが自ら幕府の官医の職を継ぐわけにはいかなかったでしょうから,都合のよい後任の養子は必要です。)なお,昭和22年法律第222号による改正前の民法では,「旧法の家督相続においては,初めから配偶者の法定相続権はなく,また遺産相続においても,直系卑属なき場合にのみ,配偶者の法定相続権は認められたに過ぎなかった」ところでした(中川善之助『相続法』(有斐閣・1964年)86頁)。「子は孝養を尽くすはずのものであり,その子が父の遺産を承継する以上,別に母が遺産の一部を相続する必要はさらにないと考えられていた」ものです(中川87頁)。しかし,お沢さんとしては,生意気な小僧と思われたのであろう京水少年の「孝養」は当てにならぬものと信ぜられ,聡明でフレンドリーな男性たる文仲との愛の方が頼りがいのあるものと思われたものなのでしょう。

 

(2)養子に対する離縁の訴え

 

ア 辣腕弁護士氏登場

ところで,現代において後妻業をやるような方にあっては,富裕かつ老耄の我が夫に養子などがあった場合,遺産の2分の1(民法900条1号)では我慢できない,自分が全財産を受けるという遺言書を夫に書かせても,養子の遺留分としてなお残る4分の1(同法1028条2号)が実に惜しい,そこで,辣腕弁護士氏(「弁護士は,他の弁護士・・・との関係において相互に名誉と信義を重んじる。」ものとされています(弁護士職務基本規程70条)。)を雇い,かつ,難しいことはもう面倒くさくなっている夫を外界から遮断してあげて,夫を励まし夫の名で,養子に対して離縁の訴えを提起せしめ(民法814条),又は家庭裁判所に廃除の請求をせしめ(同法892条。家事事件手続法39条,別表第一の86の項,188条),若しくは廃除の遺言をさせる(民法893条)という内助に及ぶということが,あり得ます。そうであるのならば,鷗外のいう「火薬」の晃々たる「爆発」的紛争は,昔も今も必ずしも珍しいものではないことになるようです。

 

イ 養父の住居権等

さて,離縁の訴えに先立つ離縁を求める家事調停(家事事件手続法257条)の申立書の写しの送付(同法256条)を受けた養子は驚きます。また,そこには「縁組を継続し難い重大な事由」(民法814条1項3号参照)云々として自分が「(そし)つてあるのを見ては,忌憚なきの甚だしきだと感じ」ざるを得ません。どうせこれはあの後妻の仕業であって養父の本意ではあるまいということで養父に会いに行くのですが,養父と同居している後妻(民法752条において「夫婦は同居」するものとされています。)によって,お前なんかともう会いたくないと言っているわよと言われて家に入ることを妨げられます。正当な理由がないのに人の住居に侵入すると3年以下の懲役又は10万円以下の罰金に処せられ(刑法130条前段),未遂も罰せられます(同法132条)。最高裁判所昭和58年4月8日判決・刑集37巻3号215頁は「刑法130条前段にいう「侵入シ」とは,他人の看守する建造物に管理権者の意思に反して立ち入ることをいう」と判示しています。

そこで知り合いの弁護士に相談して,先生,養父と会って話をしてくれないかと頼んでも,「弁護士職務基本規程52条に「弁護士は,相手方に法令上の資格を有する代理人が選任されたときは,正当な理由なく,その代理人の承諾を得ないで直接相手方と交渉してはならない。」とあるんで,相手方に弁護士が立てられている以上,それはおれにはできない。」と頼りないことを言われます。そこでやはり自分で何とか養父と直談判しようと気を取り直すのですが,これもまた,「おれを代理人にするのならそれはやめてくれ。」と当該弁護士に止められるでしょう。日本弁護士連合会弁護士倫理委員会編著の『解説弁護士職務基本規程 第3版』(日本弁護士連合会・2017年)には,弁護士職務基本規程52条に関して「依頼者が相手方本人と直接交渉をしようとしているのを知って,弁護士がこれを止めなかったからといって,直接本条に違反するものではないが,弁護士は,原則として,自らの依頼者に対してそのような直接交渉を慫慂すべきではない。むしろ,依頼者に対して,そのような直接交渉を思いとどまるよう,すすんで説得すべきであろう。」とあるところです(155頁)。養子とその弁護士との間の関係は早くもぎくしゃく。後妻さんが老耄の夫のために辣腕弁護士氏を雇った効用が早速現れます。智謀恐るべし。

 

ウ 養親子関係破綻の主張

辣腕弁護士氏は,裁判所にはなかなか現れぬ存在となっている原告たる養父の離縁意思の強固性及び養親子関係破綻の事実性を見てきたように(実際見てきたのでしょう。)執拗かつ熱心に言い募ります。それまで特段の問題はなかったところで養親子間の現実の交渉が後妻さんによって遮断されてしまっているのですから,両当事者間における現実の衝突ではなく,もはや専ら養父の一方的な感情なるものに関する議論とはなります。しかし,辣腕弁護士氏による一種忌憚なき(そし)りの言をいつまでも繰り返し読まされ聞かされ,更には「当事者間の感情的・経済的な争が極度に達した場合には――真実の親子なら,親権の喪失(834条・835条参照),相続の廃除(892条)などの手段によって処置すべきだが,人為的な親子関係において,しかも一方がその解消を望むときは――これ〔離縁〕を認めるのが至当であろう。」と民法学の権威から説かれてしまい(我妻306頁),また,「「縁組を継続し難い重大な事由があるとき」とは,養親子としての精神的経済的生活関係を維持もしくは回復することがきわめて困難なほどに縁組を破綻せしめる事由の存する場合の意味である。あるいはこれ以上縁組の継続を強制しても,正常な親子的社会関係の回復は期待できない場合といってもよい。「縁組を継続し難い重大な事由があるとき」〔略〕とは養親子関係の破綻のことであるというのは,すでに指摘したように,相手方の有責事由を必要としない」などと説明されると(深谷松男『新版注釈民法(24)親族(4)』814条解説・509510頁),養子側としては,自らに有責事由の無いことは明白ながら,とうとう最後は根負けということになるようです。

 

エ 金銭的解決

やはりお金の問題になるのでしょうか。「解釈論として,離縁の止むなきに至らしめた当事者は賠償責任を負うべきである(人訴は離縁の訴に附帯して訴えることを認める(人訴26条による7条の準用)〔人事訴訟法(平成15年法律第109条)17条〕)。」とされています(我妻309頁)。賠償の範囲は「縁組によって期待された合理的な親子関係が破綻したことによる精神的苦痛が主なものであろう」と解されつつ,「財産的損害についても,理論としては,肯定すべきである。」とのことです(我妻309頁)。しかしながら,「養子が養親の財産を相続する期待権を失ったことは計算されるべきではあるまい。」と説かれてしまうのは(我妻309頁),正に遺産相続目当ての後妻さんが実質的当事者としてその背後にいるようにも思われる離縁請求事件においては,いかがなものでしょうか。本来保護に値しないのだと辣腕弁護士氏が言い募っていた「財産を相続する期待権」がどういうわけか後妻さんについては反射的に堂々保護されることになって,何だか悔しいですね。

結局,判決で損害賠償をもらうよりも,和解で和解金を得る方がよさそうです。後妻さんとしても,その献身的かつ熱意ある愛護にもかかわらず訴訟が長引いている間に富裕かつ老耄の夫が死亡して,紛争相手の養子をも共同相続人とする相続が始まってしまっては面倒でしょう。

 

(3)再び池田家

とはいえ,池田京水のように四の五の言わずにすぱっと離縁してしまうような豪胆な人が当事者では,なかなかお金は動きません。

なお,京水の「廃嫡」は京水が満15歳の時のことのようですが,現行民法でも養子は満15歳になれば自ら養親と協議離縁をすることができます(同法811条1項・2項)。いずれにせよ,既に15歳にして己が俊才に恃むところがあり,事実逆境に打ち克って痘科医として名を成したのですから,池田京水は立派な大先生でした。

これに対して,佐々木文仲はどうなってしまったのでしょうか。池田宗家にいそいそとやって来てはお沢さんと小部屋に籠り,たまに小部屋を出れば,我は一流学者なりと自得しつつ2世瑞仙晉に対して師匠(づら)していつまでもかつての「弟子」にたかっていたのでは見苦しく,かつ,迷惑だったことでしょう。


DSCF0537
DSCF0538
向島の森家址(東京都墨田区)

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp

石見国津和野の出身とはいえ,鷗外には,隅田川にカモメ飛ぶ向島・小梅村の少年時代の思い出も大きなものだったのでしょう。

 
 

 


弁護士ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ