前口上
1889年2月11日に発布された大日本帝国憲法1条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定しています。一見分かりやすそうな規定であります。しかし,「万系一系ノ天皇」が具体的に何を意味するのかをいざ考えてみると,難しい。
一「系」といっても,厳格に1本の直系の糸に連なる血族のみを示すものではなく,幅のある同一血族集団を指すものとされています。(第1の2(1)及び(2))
また,ロエスレルの影響を承けてなのでしょうが,『皇室典範義解』によれば,皇位は常に単一でなければならないということも「一系」によって含意されているそうです。(第1の2(3))
枢密院会議で,井上毅は「万世一系」と「祖宗ノ皇統」とは重複する概念であるとの趣旨の発言をしています。この片言隻句をあえて拡大すれば,「男系ノ男子」性が欠けても「万世一系」性が充足されるということもありそうだということになります。また,伊藤博文も,(これは別方向から井上と同趣旨の発言をしていることになるのでしょうが)「大日本皇位ハ万世一系ナル皇統ノ男子之ヲ継承スヘシ」との規定文言である場合には「万世一系ナル皇統」のみの限定句であるので女系継承を排除できない旨説明しています。(第2の1及び2)
しかして「万世一系」は,元は「万世一姓」ないしは「一姓伝継」であって,易姓革命の絶えない漢土の歴史及び文明に対する我が国の歴史及び国体の優越性を誇示するための表現であったようです。その際,優越性を測るための尺度としての「姓」は――尺度としての共通性の必要から――漢民族の伝統とする父系によるものとされたのでしょう。(第3)
女系継承排除の理由付けも,結局は易姓の忌避であったようです。(第4の4)
ところで,皇位継承に関する皇室自律主義にもかかわらず,大日本帝国憲法2条は「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」と規定しています。ここでの「男」の字は,翌月11日における憲法発布を控えた1889年1月29日の段階に至って,枢密院再審会議で急遽挿入されたものです。当該挿入の結果,女系又は女子の天皇を将来認めるか否かについては――憲法改正のための帝国議会の議決が必要になりますから――実は「将来に臣民の干渉を容れ」ることになります。皇室の立場からすると本来不要な修正であり,かつ,一見逆説的な修正です。これについてはどう解釈すべきかについての筆者得意の僻見によるこじつけは,嘉仁親王(大正天皇)の御病弱を前提に,最近生まれた皇女(具体的には昌子内親王)を自分の次の皇位に即けさせたいとの叡旨が将来あった場合における当該女帝践祚を実現させるべき手続は,むしろあえて臣民の協賛を帝国議会で確保して男尊女卑論者・伝統墨守論者らを黙らせ置く憲法改正の道筋を採った方がよろしい,との現実政治的判断がされた上での修正ではないか,というものです。(第5)
嘉仁親王御病弱という前提からさらに妄想を膨らませて,同親王及びその御子孫が仮にいらっしゃらなかった場合という仮設例における,明治天皇崩御後の「万世一系ノ天皇」規定の帰結するところを考えると,実は14年5箇月弱の大正時代はむしろ安定し,かつ,武張らずに文雅な時代であったという再評価に逢着します。伏見宮系旧皇族の子孫が将来皇位を継承するということはどういうことなのだということを論ずる向きが最近あるようでありますところ,時代を百十余年前に遡っての思考実験も無益ではないでしょう。(第6)
第1 「万世一系」の語
1 その出現
「万世一系」の語の初出時期を探るに,慶応三年(1867年)十月付けの岩倉具視の「王政復古議」に「抑皇家ハ連綿トシテ万世一系礼楽征伐朝廷ヨリ出テ候而純正淳朴ノ御美政万国ニ冠絶タリ然ルニ中葉以降覇府大柄ヲ掌握シ」云々との表現があります(大塚武松編『岩倉具視関係文書 第一』(日本史籍協会・1927年)301頁)。また,明治二年一月二十三日(1869年3月5日)発表の版籍奉還の上表文には「天祖肇テ国ヲ開キ基ヲ建玉ヒシヨリ,皇統一系万世無窮普天率土其有ニ非サルハナク其臣ニ非サルハナシ」との表現があり(島善高「「万世一系の天皇」について」明治聖徳記念学会紀要51巻6号(1992年5月)57頁),その2日後の同月二十五日(1869年3月7日)に岩倉具視が提出した意見書の中において「万世一系ノ天子」という表現が用いられていたそうです(島66頁附記)。
しかして「明治四年頃から公式文書において「万世一系」なる成語が使用されるようになる」そうです(島57頁)。すなわち,岩倉右大臣,木戸孝允参議,大久保利通大蔵卿,伊藤博文工部大輔らの米欧諸国派遣に係る明治四年十一月四日(1871年12月15日)付けの国書に「万世一系ナル皇祚」という表現があり,英国向けには “the Imperial throne occupied by a dynasty unchanged from time immemorial”と,米国向けには “the saved throne on which Our Ancestors reigned from time immemorial”と訳されていたそうです(島57-59頁)。
「これ以降,外交文書には「万世一系」の語が頻繁に使用されるようにな」り(「万世一系ノ帝祚」という形で),1876年10月の元老院日本国憲按1条では「日本帝国ハ万世一系ノ皇統ヲ以テ之ヲ治ム」と皇統の修飾句として用いられ,「爾来,「万世一系」は皇統を修飾する慣用句とな」ったわけです(島59頁)。
2 「万世一系」の語義
(1)血筋
美濃部達吉は「〔大日本帝国憲法1条の宣言する日本の政体の根本原則は〕第1には,日本が世襲的の君主政体の国であること,及び第2には,その君主としての地位に在ますのは万世一系の天皇であることの2である。而してその「万世一系」といふ語の中には,啻に過去に於いて開闢以来常に同一系統の君主を奉戴して居たことの歴史的事実を言ひ表して居るのみならず,同時に将来永遠に亙りて,日本が同じ皇統を君主として奉戴する君主政体の国であることが,動かすべからざるものであることを示して居る。〔略〕独り此の第1条に定められた原則のみは万古不変の原則たるべきことが,此の「万世一系」の語に依つて言明せられて居るのである。」と(同『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)66-67頁。下線は筆者によるもの),あるいは「万世一系ノ語ハ唯我ガ憲法ニ於テノミ之ヲ見ルヲ得ベク,一面ニ於テ我ガ太古以来ノ歴史ニ於テ祖宗ノ皇統連綿トシテ絶エザリシコトヲ示スト共ニ,一面ニ於テハ将来永遠ニ亙リテ皇統ノ天壌ト共ニ窮ナカランコトヲ宣言セルモノナリ。」と(同『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)115頁)述べています。
ここでの「系統」は「家すじ。血すじ。」,「皇統」は「代々続く天子の血すじ。」でしょう(『角川新字源』(123版・1978年))。「血筋」を「血統の続いた親族。血縁。」と解すれば(『新明解国語辞典 第五版』(三省堂・1997年)),一つの同じ(「一」)・血族集団(「系」)の成員が過去・現在・未来において代々皇位を占めている様が「万世一系」でしょうか。血族集団であれば,幅を有し,傍系も含まれるわけでしょう(1889年2月11日の皇室典範(以下「明治皇室典範」といいます。)自体がその第5条から第8条までで傍系継承を予定していたところです。)。岩倉使節団に係る国書の英国向け英語訳の “a dynasty unchanged from time immemorial” は,王朝(dynasty)の語を用いており,系に係る集団性をそのようにして表すものといえます。
(2)1本の糸ではない
これに対して,「系」は「糸が物にひっかかって下がっているさま」に係る字(『角川新字源』)だからとて,「一系」をもって1本の糸と解し,「神々の系統につながる子孫が1本の糸のようにずっと続いているということに,なによりものポイントが置かれた」ものとして(奥平康弘『「萬世一系」の研究(上)――「皇室典範なるもの」への視座――』(岩波現代文庫・2017年)6頁(単行本2005年)),「一系」が1本の直系の血族のみを指すものと解してはならないのでしょう。
「開闢以来常に同一系統の君主を奉戴して居たこと」が我が国の「歴史的事実」であっても,「開闢以来常に単一の直系で途切れなく継承された君主を奉戴して居た」わけではありません。近くは江戸時代後期において,中御門天皇の皇統が,その曽孫の後桃園天皇をもって断絶していたところです(閑院宮家出身の光格天皇(中御門天皇の大甥)が皇位を継承)。岩倉使節団に係る国書の米国向け英語訳では「朕の先祖(Our Ancestors)が開闢以来占めてきた皇位」ということになりますが,しかしこれは,後者的解釈の方向に親和的な翻訳でしょうか(さりとて,後桃園天皇は明治天皇の先祖ではないでしょう。)。
(3)大日本帝国憲法1条の英語訳文に関して
ア 英語訳文
ところで,伊東巳代治による大日本帝国憲法1条の英語訳も悩ましい。伊東訳に係る同条は “The Empire of Japan shall be reigned over and governed by a line of Emperors unbroken for ages eternal.” です。しかして,ここでの “a line unbroken for ages eternal” は何によってつながれているかといえば,大日本帝国憲法2条は「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」(伊東訳では “The Imperial Throne shall be succeeded to by Imperial male descendants, according to the provisions of the Imperial House Law.”)ですから,皇男子孫による父子継承でしょう。一見するに,過去においても例外なく(unbroken)男系の直系継承であったということになりそうです。
イ 『皇室典範義解』の明治皇室典範1条解説
しかしこの点,「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と規定する明治皇室典範1条(ちなみに,伊東巳代治による英語訳は, “The Imperial Throne of Japan shall be succeeded to by male descendants in the male line of Imperial Ancestors.”)に係る『皇室典範義解』の解説には次のようにあります。
祖宗の皇統とは一系の正統を承くる皇胤を謂ふ。而して和気清麻呂の所謂皇緒なる者と其の解義を同くする者なり。皇統にして皇位を継ぐは必〔ず〕一系に限る。而して二三に分割すべからず。天智天皇の言に曰〔く〕「天無双日国無二王」と。故に,後深草天皇以来数世の間,両統互に代り,終に南北2朝あるを致しゝは,皇家の変運にして,祖宗典憲の存する所に非ざるなり。
なお,「祖宗」とは,「①君主の始祖と,中興の祖。②初代から先代までの代々の君主。」の意味です(『角川新字源』)。
また,「和気清麻呂の所謂皇緒」は,清麻呂の有名な還奏が「我国家開闢以来,君臣分定矣,以臣為君未之有也,天之日嗣,必立皇緒」と言っているところの「皇緒」でしょう。そこでは,臣を以て君と為すことの不可性が強調されています。そうであれば,「正統を承くる皇胤」とは,祖宗の子孫(後胤)であって,かつ,臣籍に下っていないもの,ということになるのでしょうか。
しかして,「一系に限る。而して二三に分割すべからず。」ということですから,どうも専ら,1本(a lines)を超えた数の皇統(lines)が共時的に対立することがあってはならないということのようです。ただし,通時的に単一の直系による継承がされ続けなければならないということまでは要求されないのでしょう。同一皇統に属するものであれば,傍系継承も認められるところです。そうであれば,伊東訳に係る大日本帝国憲法1条の “unbroken” は,君主政体が中断されることがなかったということ(「万世・・・天皇之ヲ統治ス」)に係るのでしょう。
換言すれば,一つの同じ血族集団(一系)の成員が過去・現在・未来において代々皇位(南北朝時代のように共時的に複数であっても可)を占めていることまでをもって「万世一系」の定義として十分であるものとはしない,ということなのでしょう。皇位の単一性までをも要求するわけです。通常の「万世一系」理解よりは一歩踏み込むことになるのでしょう。この一歩の踏み込みについては,「井上毅は〔略〕,皇統が二三に分裂することを防ぐために説明文に加筆をしたが,そのために「一系」の意味がやや曖昧にな」ったと評されています(島64頁)。もっと大らかでよいではないか,ということでしょうか。「南北朝も同じ皇家内部での分裂であって〔略〕「2系」とまでいう必要はないと思われる」(島64頁),すなわち南北朝の分裂も「万世一系」内におさまる出来事である,と解するのが普通なのでしょう。
ウ ロエスレルの「日本帝國憲法草案」
上記の皇位に係る単一性の要請については,1887年4月30日に成立した御雇外国人ロエスレルの「日本帝國憲法草案」1条の影響がありそうです。同条は,次のとおり(小嶋和司「ロエスレル「日本帝國憲法草案」について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)10-11頁)。
Das Kaisertum Japan ist eine auf ewig untheilbare Erbmonarchie.
Die Krone ist erblich in den Kaiserlichen Hause nach den Bestimmungen der Kaiserlichen Haus-gesetze.
日本帝国ハ万世分割スヘカラサル世襲君主国トス
帝位ハ帝室家憲ノ規定ニ従ヒ帝室ニ於テ之ヲ世襲ス
「一系」の「一」は,君主政体のUnteilbarkeit(不可分性)ということになっています。
なお,ロエスレルの上記条文案が大日本帝国憲法草案起案に影響を与えたことについては,1888年6月18日午前の枢密院会議において伊藤博文議長の次の発言があります。大日本帝国憲法草案の第1条においては「永ク子孫ニ伝フル元質タル者ハ従来ノ国彊タリトノコトハ示サレス」であるが「其理由如何」,との佐野常民枢密顧問官の質疑に対する応答です(『枢密院会議筆記』)。
去ル明治9年〔1876年〕9月7日元老院ニ憲法草案ノ諮詢アリテ〔1880年12月28日の〕其上答文ヲ見ルニ第1章第1条万世一系ノ皇統ハ日本国ニ君臨ストアリ〔伊藤博文編『秘書類纂 憲法資料下巻』(秘書類纂刊行会・1935年)385頁参照〕又世上ニ流布シタル「ロイスレル」草案の第1条ニモ万世分割スヘカラサル世襲君主国トアリテ其必要ヲ認メサルナリ
それまでの草案起草過程において既に検討の上憲法の第1条には当該規定は不要と判断されていたのだ,ということでしょう(筆者註:ただし,1880年12月28日の元老院の国憲案においては,「帝国」と題された第2篇に「第1条 帝国ノ土地彊域内ニ在ル者ヲ日本国トス」及び「第2条 帝国府県郡区町村ノ彊界ヲ変易スルハ法律ノ定ム所トス」との2箇条が設けられていたのでした(伊藤・憲法資料下巻387-388頁参照)。)。しかして伊藤議長がわざわざ言及していますから,ロエスレル草案は,憲法草案の起草・検討過程において重要な参考資料として位置付けられていたのだというわけです。
ちなみに,ロエスレル草案が「世上ニ流布シタル」経緯は,1887年8月に大日本帝国憲法の「草案と称するものが洩れ,それが実はロエスレル草案であった」ということであって,「最初は,条約改正についての勝安芳,谷干城,ボアソナード,板垣退助の意見書とともに民権運動家によって秘密出版され」,「次いで10月グナイスト(Rudolf Gneist)憲法講義の秘密出版物『西哲夢物語』に付載され,また,谷,板垣,林有造,ボアソナード,松尾清二郎の条約改正意見とともに秘密出版されたこともある」ものだそうです(小嶋・ロエスレル4-5頁)。ただし「民権運動家たちはこれが参考案にすぎないことを最後まで気付かなかった」そうです(同5頁)。
第2 明治皇室典範1条の枢密院審議
1 1888年5月25日:「万世一系」か「祖宗の皇統」か等
1888年5月25日午後の枢密院会議における明治皇室典範案の第二読会においては,第1条の草案(その後明治天皇によって裁定されたものと同文,すなわち「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」)に関して,次のような修正意見等があった旨記録されています(『枢密院会議筆記』)。
大木喬任枢密顧問官 「万世一系ナル大日本皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と改めるべし。「宝祚ノ万世一系ニシテ天壌ト無窮ナルコトノ意」を明治皇室典範1条にも掲げたいのである。
土方久元枢密顧問官 「万世一系ノ皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と改めるべし。「大日本ト云フハ外国ニ対スルノ字ナリ歴朝相承ケ綿々一系未タ曽テ宇内ニ比類ヲ見サル我国ニ取リテハ」,大日本よりも万世一系の方がよい。
三条実美内大臣 「大日本国皇位ハ天祖ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と改めるべし。(筆者註:三条は,この「天祖」をもって天照大神を指示しようとしたのでしょうか。しかし「天祖」概念もなかなか難物で,筧克彦によれば,「天祖」は,天照大神より前の,高皇産霊神,又は別天神及び神代七代神神,若しくは造化三神ということになってしまいます(筧克彦『大日本帝国憲法の根本義』(岩波書店・1936年)35-36頁,また,256頁及び270頁)。)
山田顕義司法大臣 「本条ノ立言ハ専ラ既往ノミニ渉リ未来ニ及ホスノ意ヲ加ヘタシ」。(筆者註:同日の枢密院会議の初めの第一読会の段階で井上毅が「皇室典範ハ尋常ノ法律ト異ニシテ既往ニ亘リ且未来ヲ規定スルモノ」と説明していました。)
大木喬任枢密顧問官 「万世一系ノ皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承スヘシ」と改めるべし。土方説に賛成し,前の自説を撤回する。明治皇室典範1条に未来に及ぼすの文意を加えるならば,「継承スヘシ」となる。
井上毅枢密院書記官長 「万世一系ト云ヘハ祖宗ノ皇統ト重複ス」。
副島種臣枢密顧問官 「万世一系ナル皇位ハ今後男系ノ男子ノミ之ヲ継承ス」と改めるべし。皇位については「従来ハ男女共ニ之ヲ継承シタリ」なのである。
東久世通禧枢密顧問官 「日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治シ男系ノ男子之ヲ継承ス」と改めるべし。(筆者註:東久世案の前段は,大日本帝国憲法1条と重複してしまいます。)
2 1888年5月28日:「万世一系」に係る大木=土方修正案の否決と男系要件と
明治皇室典範案の第1条に係る第二読会の続きは1888年5月28日午後に開催され,次のような経過をたどっています(『枢密院会議筆記』)。
「万世一系ノ数字ハ我国体ノ最モ尊キ所以ヲ表彰スルモノナレハ必スコレヲ加ヘサルヘカラス〔略〕祖宗ノ皇統ト云フノミニテハ未タ我国体ノ如何ヲ表彰スルニ充分ナラス」と述べた上で,大木喬任枢密顧問官は土方久元枢密顧問官と共に明治皇室典範案1条に係る次の修正案を提議します。
大日本皇位ハ万世一系ナル皇統ノ男子之ヲ継承スヘシ
ここで伊藤博文議長が修正案に「男系」の文字がないことについて「故ラ」であるかどうかについて確認しますが,大木枢密顧問官は「然リ」と回答します。そこで伊藤議長は警告的確認として「修正案ニハ故ラニ男系ノ字ヲ削除セリ果シテ此ノ如クナルトキハ則将来ニ於テ我皇位ノ継承法ニ女系ヲモ取ルヘキニ至リ上代祖先ノ常憲ニ背クコトヲ免レス」と述べた上で大木=土方修正案について採決します。賛成者は8名のみで,当該修正案は廃滅に終わりました。なお,修正案に賛成した8名には,大木及び土方の外,議場で賛意を表明していた副島種臣,福岡孝弟,元田永孚及び勝安芳の4枢密顧問官が含まれていたものでしょう。
ただし,大木=土方案に賛成した8名が全て女系の天皇(ただし,男子に限る。)の容認論者であったわけではなかったようです。「万世一系」の文字を加えるのはよいが確かに「男系」の文字を削ったのはまずかった,だから「以テ本条ヲシテ完全ナラシムヘキ修正ヲ加ユル為ニ之ヲ修正委員ニ附セラレンコトヲ建議ス」との佐野枢密顧問官の発言を承けて,未練がましく,副島枢密顧問官は「皇統ノ男子ト云ヘハ男系ノ男子タルコトニシテ説明ニ於テモ亦判然タリ」と,大木枢密顧問官は「〔副島枢密顧問官〕ノ発言シタル如ク皇統ノ男子ト云ヘハ男系ノ男子タルコトニ相違ナシ況ンヤ第1条ハ大体ヲ論スルノ条ニシテ其男系ノ男子タルコトハ後条ノ所載ニ於テ判然タルニ於テヲヤ」と発言しています。
大木=土方修正案の否決にもかかわらず「万世一系」の文字を加えるための修正をなおも求める佐野枢密顧問官並びに同枢密顧問官の当該建議に賛同する大木及び土方両枢密顧問官の執拗に辟易したものか,伊藤議長は原案について採決をします。採決の結果,伊藤議長以外の出席者27名中16名の賛成をもって原案が採択され,明治皇室典範案1条に係る第二読会は終了します。(1888年6月15日午前開議の第三読会では議論はありませんでした。)
3 小括
以上明治皇室典範1条の文言及び同条に係る議論に鑑みるに,「万世一系」とは「祖宗ノ皇統」と重複する概念であるそうです。ただし,「祖宗」の皇統であって,三条実美の提案した「天祖ノ皇統」ではありません。三条案には賛同者が全くなかったのですが,これは,天皇は神の子孫であると主張するものと解釈されることとなるであろう文言はやはり行き過ぎだ,ということだったのでしょうか。神武天皇であるならば,かたじけなくも人でありたもうた存在であります。
土方枢密顧問官は「大日本ト云フハ外国ニ対スルノ字ナリ」と,当該部分は外国との比較に係るものであるとの認識を示した上で「歴朝相承ケ綿々一系未タ曽テ宇内ニ比類ヲ見サル我国」としては大日本よりも万世一系の方がよいものとしています。「宇内ニ比類ヲ見サル」ものとして我が国が自慢できることは「万世一系」なのだ,ということなのでしょう。しかしてその自慢の相手方は,地理的にユーラシア大陸東方沖に位置する我が国の歴史からすると同大陸東部の大国ということになり,具体的には,易姓革命が相継ぎ諸王朝の興亡めまぐるしかりし漢土の帝国(当時は清国)及びその歴史なのでしょう。
副島枢密顧問官は,皇位について,「従来ハ男女共ニ之ヲ継承シタリ」と述べて,過去においては女帝のみならず女系天皇も存在していたとの認識であるような口吻です。すなわち,同枢密顧問官によって「今後男系ノ男子ノミ之ヲ継承ス」とされる場合においては,男系かつ男子であることを要するものとされて皇位継承要件が二重(男系と男子と)に制限されること(「ノミ」)が,「今後」たるところの新規性なのでしょう(「男系ニヨリ今後男子ノミ之ヲ継承ス」ではありません。)。しかし,井上書記官長によれば「皇室典範ハ尋常ノ法律ト異ニシテ既往ニ亘リ〔略〕規定スルモノ」なので(また,伊藤議長も「上代祖先ノ常憲」を重視しています。),女系の天皇及び女子の天皇を排除する明治皇室典範1条の規定は明治の御代に始まる新規の定めであるものだとする副島説は都合が悪い。
以下,漢土の歴史と比較した場合の優越性を示すものとしての「万世一系」については第3で,「上代祖先ノ常憲」としての女系継承排除原則については第4で検討します。
第3 北宋太宗の羨望した「一姓伝継」から,「万世一姓」を経て「万世一系」へ: Nostrum Regnum superius Sinis est.
1 奝然と太宗と
第2の1において見たように,土方枢密顧問官が「歴朝相承ケ綿々一系未タ曽テ宇内ニ比類ヲ見サル我国」と自信をもって自慢できたのは,なぜか。それは,「一姓伝継」の天皇を戴く我が日本の国体を,漢土の偉大なる皇帝陛下が何と現に大変羨んでくださった,という歴史的事実があったからです。
時は10世紀の末(我が国では円融天皇の御代),渡宋した東大寺僧奝然が北宋の太宗こと趙炅(匡義)
皇帝に召見せられた際のことです。趙炅皇帝は976年に兄の初代太祖・趙匡胤皇帝を継ぎ,呉越及び北漢を平定して978年に五代十国の争乱を終わらせた大人物です。我が国の国体の話を奝然から聞いた同皇帝の深い感慨は,『宋史日本伝』の伝えるところ次のとおり。
上,其の国王〔天皇〕は一姓継を伝へ,臣下も皆官を世々にするを聞き,因て嘆息して宰相に謂て曰く,此れ島夷のみ,乃ち世祚遐久にして,其の臣も亦継襲して絶えず,此れ蓋し古の道なり,中国は唐李の乱より〔宇〕県分裂し,梁周の五代,歴を享くること尤も促く,大臣の世冑,能く嗣続すること鮮なし,朕,徳は往聖に慙ずと雖も,常に夙夜寅しみ畏れ,治本を講求し,敢て暇逸せず,無窮の業を建て,可久の範を垂れ,亦以て子孫の計を為し,大臣の後をして世々禄位を襲はしむるは,此れ朕の心なりと,
(島55頁)
奝然は趙炅皇帝に対して日本国の「国王は王を以て姓と為し」と説明してしまっていましたから(島55頁),実は天皇に姓は無いのではありますが,皇帝陛下におかれては「一姓伝継」(一姓継を伝へ)ということにされてしまったのでしょう。ちなみに『宋史』は,元代の14世紀半ばに至って完成しています(皮肉なことに当時,「一姓伝継」の我が皇室は,南北2朝に分裂していましたね。)。
2 「万世一姓」から「万世一系」へ
その後,弘化四年(ほぼ1847年)に水戸藩の藤田東湖が『講道館記述義』を脱稿したところ,「藤田東湖翁か講道館述義を記さるゝ時万世一姓ノ天皇とかゝれたるを,門人の石河幹次〔二〕郎と申す人か日本天皇に姓あること何の書に有之候やと太く詰問したるを,東湖翁,飼犬に手を喫はれたりとて大に閉口せられしと申す事,今に学者間の談柄となり候」云々(島52-53頁:1887年頃の小中村(池辺)義象の井上毅宛て書簡)という挿話があります。当該挿話に鑑みると,天皇に係る「万世一系」との表現には,実は「万世一姓」が先行していたのでしょう。漢土の歴史及び文明と比較して,我が国の歴史及び国体の優越性を我が漢学的知識人が宇内に誇示しようとする場合,無意識の裡に相手方の土俵で相撲を取ることになり,姓を中心とする相手方の思考の型にとらわれて,「万世一姓」性を主張するという形にならざるを得なかったものでしょう。「「国王一姓伝継」なる表現は,わが皇統の連綿性を説明する場合,特に易姓革命の国たる中国の人に説明する場合には,極めて説得的」だったところです(島56頁)。
「我が先人達は,皇統の連綿を「姓」の観点から捉え,これを「一姓」と表現した。けれども,やはり「一姓」は不当な表現であるから,〔文政九年(ほぼ1826年)に版行された岩垣東園(松苗)の〕『国史略』は「皇統一系,万世不革」と表現し直したのであろう。この「一系」は「一姓」に代わる表現であるから,恐らく「同一の家系」「同一の血筋」というような意味合いで使用されているのであろう。」ということになっています(島56頁)。
3 姓(=系)の漢式把握
しかして,「万世一系」が殊更な政治的理想として唱えられるときは,やはり漢土の歴史及び文明に対する対抗心がその根底にあるということが我が国のナショナリズムにおける心理ないしは生理でしょう。そうであればこそ,「一系」概念は,「同一の家系」「同一の血筋」という漠としたものよりも,漢学的により精確な「一姓」概念(すなわち男系によるもの)と同じものとされなければならないのでしょう(相手側に合わせる・律儀な整合性の追求ということになりますが)。
皇位継承における女系継承の排除(男系性の確定)の理由付けは次に詳しく見ていくこととなりますが,確かに漢民族における姓は,男系で承継されるのでした。
ただし,漢民族の伝統も徐々にながら変化しようとしているようではあります。「〔中華人民共和国の〕1980年婚姻法では,子は父の姓に従うことができるし,また母の姓に従うこともできると規定した(22条)。この時に採用されたいわゆる一人っ子政策(2015年末で終了)の影響もあり,母の姓を選ぶ子も徐々に現れてきたといわれる。2001年改正では,子は父または母の姓に従うものとされ,子の姓を定めるにあたっての父母の平等性が強化されている。もっとも,現在でもほとんどの子は父の姓を称するといわれる。」とのことです(二宮周平編『新注釈民法(17)親族(1)』(有斐閣・2017年)715頁(床谷文雄))。
第4 女系継承排除の理由付け
1 『皇室典範義解』:男系継承継続の実績
明治皇室典範1条の女系継承排除原則は,「既往」の歴史に根拠を有するものとされています。その点を示すものが,明治皇室典範1条に係る『皇室典範義解』の次の説明です。
皇統は男系に限り女系の所出に及ばざるは皇家の成法なり。上代独〔り〕女系を取らざるのみならず,神武天皇より崇峻天皇に至るまで32世,曽て女帝を立つるの例あらず。故に神功皇后は国に当ること69年終に摂位を以て終へたまへり。飯豊青尊政を摂し清寧天皇の後を承けしも,亦未だ皇位に即きたまはず。清寧天皇崩じて皇子なし。亦近親の皇族男なし。而して皇妹春日大娘あり。然るに皇妹位に即かずして群臣従祖履中天皇の孫顕宗天皇を推奉す。是れ以て上代既に不文の常典ありて易ふべからざるの家法を成したることを見るべし。其の後,推古天皇以来皇后皇女即位の例なきに非ざるも,当時の事情を推原するに,一時国に当り幼帝の歳長ずるを待ちて位を伝へたまはむとするの権宜に外ならず。之を要するに,祖宗の常憲に非ず。而して終に後世の模範と為すべからざるなり。本条皇位の継承を以て男系の男子に限り,而して又第21条に於て皇后皇女の摂政を掲ぐる者は,蓋〔し〕皆先王の遺意を紹述する者にして,苟も新例を創むるに非ざるなり。
「皇家の成法」とされる女系継承排除の理由は,過去においてその例がなかったからだ,ということでしょう。
しかしそれは,男系の所出がめでたくも・たまたま今まで絶えることがなかったからでしょう。仮に,元老院の国憲案の「帝室継承」と題された第2章の第3条の規定(「上ノ定ムル所ニ依リ而シテ猶未ダ帝位ヲ継承スル者ヲ得ザルトキハ皇族親疎ノ序ニ由リ入テ大位ヲ嗣グ若シ止ムコトヲ得ザルトキハ女統入テ嗣グコトヲ得」(伊藤・憲法資料下巻386頁参照))が「皇家の成法」であったとしても,男系による皇位継承が断絶することは歴史上の事実においては結局なかったのですから,「若シ」以下の同条後段の発動は無くて,無用の規定であったわいとの空振り認定がされていただけのはずです。しかして,過去において無用であったことのみをもって直ちに当該非常時対応規定を排除すべしとの当為までを導き出す必然性はないものでしょう――特に将来が過去とは大いに異なるものであることが予想されるときには。
しかしなお,二千六百年余の実績は,通常の場面については当為と目さるべきものなのでしょう。1885ないしは1886年頃に井上毅が伊藤博文宮内大臣に提出した文書たる「謹具意見」(小林宏「井上毅の女帝廃止論――皇室典範第1条の成立に関して――」『明治国家形成と井上毅』(木鐸社・1992年)358頁・367頁参照)において引用された沼間守一の揚言にいわく。
論者ハ言ハン,女帝ヲ立テザルガ為ニ皇統絶ユルトキハ如何ント,予ハ直チニ之ニ答ントス,既往二千五百年間,此事ナシ,爾後モ亦是レナカル可キノミト
(井上毅「謹具意見」・伊藤博文編『秘書類纂 帝室制度資料・上巻』(秘書類纂刊行会・1936年)266頁)
その間において,皇位継承が云々されるための前提である皇族たるの資格の問題について,「日本における「帝室ノ眷属」の形成原理は,父母の同等婚を要求しないかわり,たんに片親の皇統性で足りるとはせず,厳格に父系の皇族性を要求した。」(小嶋和司「「女帝」論議」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』(木鐸社・1988年)60頁)ということであったのでしょう。しかし,皇位継承に係る「止ムコトヲ得ザルトキ」における例外処理の可能性までをも排除する厳格な規範と解すべきものかどうか。また――関連する問題として――当該例外処理が行われる場合にあっては,そのためにする手当ては,日本国憲法次元の問題なのか,なおも昭和22年法律第3号たる皇室典範(以下「皇室典範法律」といいます。)の次元に留まり得るものか。
なお,『皇室典範義解』の前記説明中,「神武天皇より崇峻天皇に至るまで32世,曽て女帝を立つるの例あらず。」以下の部分は,女系継承排除の理由付けというよりも,男系女子の即位を認めないこととするに当たって,過去存在した女帝の例外性を論証しようとするものでしょう。
ちなみに,神功皇后(息長宿禰王の娘,開化天皇4世の孫)は,『神皇正統記』では人皇第15代に数えられています。そもそも神功皇后を皇代に列することの正式な否定は,1924年3月7日設置の臨時御歴代史実考査委員会(総裁・伊東巳代治)の答申によるものであって(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)547-549頁),当該答申等に基づく皇統譜令(大正15年皇室令第6号)が公布されたのは1926年10月21日だったのでした。
2 春日大娘の位置付け及び前例としての顕宗・仁賢兄弟
(1)雄略天皇から春日大娘(仁賢天皇皇后)を経て武烈天皇へ
雄略天皇の皇女(清寧天皇の妹)にして仁徳天皇の曽孫たる春日大娘は自ら即位しなかったとしても,顕宗・仁賢と続いた播磨から来た兄弟天皇(なお,即位の順番は顕宗天皇が先ですが,仁賢が兄であって,顕宗は弟です。)のうち仁賢天皇の皇后となって,武烈天皇を生んでいます。
(2)顕宗・仁賢兄弟の皇籍喪失疑惑と養子皇族男子制度と
ところで,顕宗・仁賢兄弟の父(履中天皇の息子)である市辺押磐皇子はいとこの雄略天皇に同天皇の即位の前月に殺されていますところ,そうであれば,顕宗・仁賢兄弟は,雄略朝期には皇族とはされていなかったのではないか(市辺押磐皇子系の皇位継承をそもそも排除するために雄略は市辺押磐皇子を殺したもうたものでしょう。),お尋ね者として,人民並みないしは人民以下扱いであったのではないかとは,かつて筆者が考えたところです(「法学漫歩3:ベルギー国憲法の王朝交代条項から人臣摂政を経て「由緒物法人」まで」の2(1)ア)。しかもこの兄弟は,播磨で,牛飼い馬飼いとして縮見屯倉首にこき使われるまで身をやつしています(ただし,日下部連吾田彦が家来としてついていたそうです。)。嵯峨天皇の息子の源融は左大臣という貴い位であったにもかかわらず「皇胤なれど,姓給はりて,ただ人にて仕へて」しまったからということで天皇の位に即き損ねてしまったという有名な事例(「令和の皇室典範改正論議から仁和の阿衡の紛議まで(改正法案骨子の発表を承けて)」の第2の4(2))に鑑みますと,正に地下で牛馬を相手に庶民の暮らしを送っていた顕宗・仁賢兄弟の即位は異例です。
今般成立して2026年7月24日に公布された皇室典範等の一部を改正する法律(令和8年法律第66号)の第1条により皇室典範法律の新第6章において定められることとなった養子皇族男子制度(2026年10月24日から施行(令和8年法律第66号附則1条))の方が,顕宗・仁賢の前例よりもまだなだらかであるようです。養子皇族男子自身が皇位に即くことはなく(改正後の皇室典範法律38条4項),皇位継承資格が生ずるのはその息子の代からであるところです。
顕宗・仁賢兄弟については,履中天皇の男系子孫であるがゆえに当然即位できたというよりは,群臣の推奉(『日本書紀』顕宗天皇元年正月条参照)及び雄略皇女である春日大娘との婚姻(仁賢天皇)が,彼らの「皇位継承」については効いているように思われます。
(3)春日大娘中心の見方
春日大娘が中心で,仁賢がそこに婿入りし(すなわち,清寧の「皇太子」になったのは仁賢でした。なお,又従兄弟の皇嗣では,現在は皇太子にならないはずです(皇室典範法律8条及び明治皇室典範15条参照)。),先帝清寧の死後,内気な皇太子・仁賢に代わって,まずその姉の飯豊青尊が臨朝秉政し,次に活発なその弟・顕宗が先に皇位を摂したと考えることも可能でしょうか(播磨において伊与来目部小楯の前で歌って踊って,市辺押磐皇子の子であるという身分を明かしたのも,丹波小子と名を改めていた積極的な顕宗でした。)。女系で雄略皇統を嗣ぐ武烈天皇の即位まで,雄略の皇女である春日大娘の義姉並びに義弟及び夫が当該皇女に代わって政を摂し,及び皇位を摂したと解するわけです。
(4)感想
以上のように考えると,顕宗・仁賢兄弟の事例は,養子皇族男子制度支持者及び女系天皇論者のいずれもが前例として援用できそうです。
3 皇胤を乱すことを防止するための女帝に対する未婚強制規範はそれとしてあったのか
なお,1887年2月上旬ないしはその若干後に成立したものと推定されている井上毅の皇室典範「説明草案」(小林381頁・380頁参照)には,明治皇室典範1条に相当する条項の説明として,「皇緒ハ男系ニ限リ女系ノ所出ニ及ハザルハ皇家ノ成法ナリ,」に続いて「故ニ推古以来,時世ノ変ニ当リ,権宜位ヲ摂スルノ皇女ナキニ非ス,其皇夫ヲ納レ皇胤ヲ乱ルカ如キハ断シテコレアルヲ容サズ,歴世ノ史策明カナルコト日月ノ如ク誣フベカラザルナリ」とありました(小林382頁における引用)。元正,孝謙=称徳,明正及び後桜町の4女帝の例ですね。
しかし,孝謙=称徳天皇について言えば,道鏡は妻帯禁止の仏僧でしたからねぇ。
また,「皇夫ヲ納レ皇胤ヲ乱ルカ如キハ断シテコレアルヲ容サズ」といっても,皇女からなった女帝に皇配がなかったということは,そのことを端的に禁ずる「皇家ノ成法」がそれとしてあったがゆえでしょうか。むしろ直接的には,君臣分義論と男尊女卑観念との合同作用によって,女帝は結果的に皇配を得られなかったということであったようでもあります。「皇胤ヲ乱ルカ如キ」ことが無かったことは事実ですが,それは結果であって,それを明示的な直接の目的とした未婚強制規範があったとまでは簡単にはいえないのでしょう。更にそもそも未婚強制までするのは行き過ぎであって,所生子に皇位継承権を与えないだけで十分だったはずでしょう(例えば,1914年6月28日のサライェヴォ事件で暗殺されたオーストリア=ハンガリー帝国皇嗣フランツ=フェルディナンドの妻ゾフィーはボヘミアの伯爵令嬢にすぎなかったので,当該夫妻間に所生の子には同帝国の帝位継承権が認められていませんでした(江口朴郎編『世界の歴史14 第一次大戦後の世界』(中公文庫・1975年(単行本1962年))11-12頁(江口)参照。また,「第一次世界大戦の勃発百周年に当たって法律家の目でサライェヴォ(サラエボ)事件を見る」)。結局,「皇夫ヲ納レ皇胤ヲ乱ルカ如キハ断シテコレアルヲ容サズ」云々の部分は,後の『皇室典範義解』では削られています。
井上毅の「謹具意見」において引用された島田三郎(後に衆議院議長)の議論をここで見てみましょう。いわく。
〔前略〕然ラバ則チ我ガ皇国内ノ人ニ〔女帝の〕皇婿ヲ求メンカ,是レモ亦甚ダ不可ナルモノアリ。夫レ皇帝ノ大位ヲ尊崇シ奉リ,人臣ノ得テ近ヅク可ラザルモノトスルハ,君主国ノ第一主義ナリ。天ニ二日ナク,国ニ二主ナキハ是レ亦君制国ノ第一主義ナリ。故ニ上御一人ヲ除キテハ日本国人悉ク臣民ナリ。臣民ニシテ至尊ニ配侍スルコトアラバ,其尊厳ヲ損ゼザル無キヲ得ンヤ。或ハ云ハン,理ニ因テ推スニ男女固ト尊卑ノ別ナシ,皇妃ハ人臣ニシテ至尊ニ配ス,皇婿人臣ヨリ出ヅル固ヨリ不可ナルコトナシト,予ハ此説ニ同意スル能ハザルナリ。何ゾヤ,政治ハ時勢人情ヲ以テ之ガ基本トセザル可ラズ,我国ノ現状男ヲ以テ尊シトナシ,之ヲ女子ノ上ニ位セリ。今皇婿ヲ以テ憲法上女帝ヲ第一尊位ニ置クモ,通国ノ人情ハ制度ヲ以テ之ヲ一朝ニ変ズル能ハザルモノナルガ故ニ,女帝ノ上ニ一ノ尊位ヲ占ムルノ人アルガ如キ想ヲ為スハ,日本国人ノ得テ免カルヽ能ハザル所ナルベシ。豈皇帝ノ尊厳ヲ損スルコトナキヲ得ンヤ。且ツ夫レ皇婿暗々裏ニ女帝ヲ動カシテ間接ニ政事ニ干渉スルノ弊ナキヲ保ツコト能ハズ。若シ此レアランカ,唯ダ女帝ノ威徳ヲ損スルノミナラズ,併セテ国家ノ福利ヲ破ブルニ至ラントス。〔後略〕
(井上・謹具意見263-264頁)
「時勢人情」が変わりさえすれば,女帝に皇配があっても「女帝ノ上ニ一ノ尊位ヲ占ムルノ人アルガ如キ想ヲ為ス」ことはなくなり,したがって,女帝が「皇夫ヲ納レ」ることも認容され得るようになるようでもあります(その子の皇位継承権の話は別として)。
4 易姓の忌避
井上毅は女系継承云々以前に女帝に反対でしたが,その理由は,端的にいって,女帝の次代における易姓の忌避(「最モ恐シキコト」)です。「謹具意見」にいわく。
〔略〕カシコクモ我国ノ女帝ニ皇夫ヲ迎ヘ,其ノ皇夫ハ一タビ臣籍ニ入リ,譬ヘバ源ノ某ト称フル人ナランニ〔略〕,其皇夫ト女帝トノ間ニ皇子アラバ即チ正統ノ皇太子トシテ御位ヲ継ギ玉フベシ。〔略〕然ルニ此ノ皇太子ハ女系ノ血統コソオハシマセ,氏ハ全ク源姓ニシテ源家ノ御方ナルコト即チ我ガ国ノ慣習ニ於テモ又欧羅巴ノ風俗ニテモ同一ナルコトナリ。但シ欧羅巴ナラバ源姓ト称ヘナガラ源姓ノ人モ女系ノ縁ニテ皇位ヲ嗣グコト当然ナリト明ラムルナリ,欧羅巴ノ女系ノ説ヲ採用シテ我ガ典憲トセントナラバ,序ニテ姓ヲ易フルコトヲモ採用アルベキカ,最モ恐シキコトニ思ハルヽナリ(女系ノ内親王ヨリ出デタル皇孫ナラバ更ニ是レヨリ甚シ)。
(井上・謹具意見267頁)
易姓がなぜ「最モ恐シキコト」であるかというと,それは「万世一系」を破壊するからでした。
前記1880年の元老院の国憲案における第2章の第3条の規定(「上ノ定ムル所ニ依リ而シテ猶未ダ帝位ヲ継承スル者ヲ得ザルトキハ皇族親疎ノ序ニ由リ入テ大位ヲ嗣グ若シ止ムコトヲ得ザルトキハ女統入テ嗣グコトヲ得」)に対して,河田景与議官の意見はいわく。
末条ニ所謂女統ナル者,皇女他人ニ配シテ挙グル所ノ子若クハ孫ナルトキハ,則現然異姓ナリ。譬ヘバ仁孝天皇ノ皇女故将軍家茂ニ降嫁スルガ如キ若シ其所在アレバ即徳川氏ニシテ王氏ニアラズ王族ニアラザルナリ 果タシテ然ラバ大ニ第1章第1条〔「万世一系ノ皇統ハ日本国ニ君臨ス」〕ニ抵触ス。如何トナレバ異姓ノ子ニシテ帝位継承スルコトヲ得バ之ヲ万世一系ノ皇統ト云可ラズ。故ニ其入嗣ノ文,男統全ク尽キ千万止ムヲ得ザルノ際ニ備フル者ト雖ドモ,恐ル後来言フ可ラザルノ弊害ヲ生ゼン。因テ朱書〔「上ノ定ムル所ニ依リ而シテ猶未ダ帝位ヲ継承スル者ヲ得ザルトキハ,皇族親疎ノ序ニ由リ入テ大位ヲ嗣グコトヲ得」〕ノ如ク修正アランコトヲ希望。
(伊藤・憲法資料下巻403-404頁)
また,1882年12月1日付けで宮島誠一郎が筆記した伊地知正治宮内省一等出仕の講演には,次のようにありました。
女帝 男院女院
皇国帝系ハ男統一系ナル故ニ万世無窮 皇統連綿セリ。若シ女統ヲ立ツ,皇統直チニ他系ニ移ル,此ニ是ヲ皇統ヲ滅絶スルト云フ。
(伊藤・憲法資料下巻499頁)
「欧羅巴ナラバ源姓ト称ヘナガラ源姓ノ人モ女系ノ縁ニテ皇位ヲ嗣グコト当然ナリト明ラムルナリ」という諦めが日本人には無いわけです。それは,「万世一系(姓)」が漢土に対する我が国の独自性・優越性を象徴するものであるのならば(第3参照),皇室(王室)に易姓があると漢土と同じ(低)水準になってしまうので,それが「最モ恐シキコト」なのであるからなのでしょう。井上毅の女系継承排除論に関しては,結局のところ,「わが国では王室即ち皇室が「姓」を変えることを忌むから女系継承を認めないということになる」ものと評されています(島61頁)。嗚呼,皇位の女系継承を認めるべきか否かの問題は,純粋な国内問題ではなく,我が国の対外的(特に対東アジア的)自尊意識にも実は関係する問題なのでもありましょうか。
そういえば,「友愛」の「東アジア共同体」構想を提唱した某政権は,その後「悪夢」呼ばわりされることになってお気の毒でした。
第5 最終段階における大日本帝国憲法2条の「皇子孫」の「皇男子孫」への修正に関して
1 1889年1月29日の枢密院再審会議
ところで「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」と大日本帝国憲法2条は規定していますが,そもそもの枢密院に提出された案の文言は「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇子孫之ヲ継承ス」だったのでした。提出案どおり一旦は枢密院の議決を得たのですが,「皇子孫」が「皇男子孫」に1889年1月29日午後の枢密院の再審会議で改められています。
『枢密院会議筆記』によれば,伊藤議長からは「皇位継承ノ事ハ皇室典範ニ譲レリト雖モ少クモ皇位継承者ハ御男子ナリトノコト丈ケハ憲法ニ示スヘシトノ説アリ依テ此ノ如ク改メタリ」との説明がありました。それに対して佐野枢密顧問官は更に「皇男子孫ノ上ニ「男系ノ」ノ3字ヲ加ヘンコトヲ希望ス」と発言しましたが,「是レハ皇室典範ニ譲リテ可ナリ」と伊藤議長に斥けられています。野村靖枢密顧問官は「「皇位ノ継承ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依ル」ト修正セントス」と,提案に係る「男」の字挿入修正に反対しましたが,伊藤議長は「〔野村枢密顧問官の〕動議ハ賛成ナキニ依リ成立セス依テ案ノ通リ可決ス」と剛腕でした。
2 女帝論に対する臣民の干渉の許容
『憲法義解』の大日本帝国憲法2条解説には「継承の順序に至ては,新に勅定する所の皇室典範に於て之を詳明にし,以て皇室の家法とし,更に憲法の条章に之を掲ぐることを用ゐざるは,将来に臣民の干渉を容れざることを示すなり。」とありますので,これを反対解釈すると,同条の「皇子孫」を「皇男子孫」に改めたということは,例えば将来天皇が女帝を認めることとする場合には皇室典範のみならず憲法の改正をも要することになるところ,そこにおける臣民の干渉を許すものとすることになります。
すなわち,天皇が皇族会議及び枢密顧問の諮詢を経て皇室典範を改正して(明治皇室典範62条参照)女帝を認めることとしても,更に大日本帝国憲法2条の改正を要し(同74条2項参照),勅命をもって当該改正の議案を帝国議会の議に付した上で(同73条1項),各議院の出席議員3分の2以上の特別多数決による議決を得なければなりません(同条2項)。己が一人娘に皇位を継がせんと天皇が思ったとしても,一議院の3分の1超の数の議員が団結すれば,叡旨を覆すことができるのでした。なぜ帝国議会=臣民に,女帝実現に対するこのような拒否権を与えたのか,明治典憲体制の天皇大権主義・皇室自律主義からすると不思議ではあります。
(なお余計なことながら,女帝を認め,更に彼女に皇配あるを認めるのならば,「皇族女子ノ摂政ニ任スルハ其ノ配偶アラサル者ニ限ル」との明治皇室典範23条も改正されるべきものとされたことでしょう。ちなみに,『皇室典範義解』によれば,同条の規定の理由付けは「上代既に嫁するの皇族女子摂政に任ずるの例あることなし。蓋〔し〕其の夫に従ふの義と並行すべからざればなり。」というものでした。)
3 忖度
(1)女子能力不十分論による女帝排除を国法に規定すべき必要があったのか
この点,井上毅の1887年1月21日付けロエスレル宛て意見徴取書において「井上は欧州各国の王位相続法は私権上の財産相続法から進化して公権上の相続法となったものとするドイツの学説を引用して,英国等に現今みられる女性の王位相続は,その私権相続の性質に起因するものとし,且つ皇位継承が国法上の相続に属するとすれば,君主は文武の両大権を統攬して,これを施行するものであるから,十分なる能力のあることを要し,従って「女性,幷ニ重患ノ不能力者」は,国法上の相続権から除外されるべきであるとした」こと(小林370頁。原文は「皇室典範幷皇族令ニ付ロエスレル氏答議」伊藤・帝室制度資料上巻290頁)に注目すべきでしょうか(また,小嶋・女帝56頁参照)。国法によって国法上の相続権から除外しようとするのならば,国法たる憲法に規定があるべきなのでしょう。
しかし,ロエスレルの「抑モ皇女ハ政務ヲ執ルノ能力ヲ有セザルモノニ非ラズ。露国,墺国,西国,英国ノ如キ君主国ニ於テ,女主ノ政務ニシテ好結果ヲ得シコト往々之アリ。支那ニ於テモ現在皇太后ハ未丁年ノ皇帝ニ代テ政務ヲ執ル,故ニ女主ノ政務ヲ以テ不能ナリト断言スルヲ得ズ。」との意見もあり(皇室典範幷皇族令ニ付ロエスレル氏答議292頁。また,小嶋・女帝56-57頁),明治皇室典範21条は女性皇族の摂政就任を認めることとなったので,女子能力不十分論による女帝排除は最早通用しません。女子も許容される摂政との関係で,一貫しないことになるからです。
(2)1889年1月27日の高輪会議
大日本帝国憲法2条案の「皇子孫」を「皇男子孫」にする修正は,1889年1月27日に伊藤博文の高輪別邸において開催された伊藤,井上毅,伊東巳代治及び金子堅太郎による会議において決まったものであり,当該会議の直前に伊藤によって作られた試案と思われるものには「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ男統ノ皇男子孫之ヲ継承ス」とあったところです(稲田正次『明治憲法成立史 下巻』(有斐閣・1962年)827頁・830-831頁)。前記1で見たように,佐野枢密顧問官の「男系ノ」を加えよとの修正意見が枢密院会議において撥ねつけられたのは,既にその前々日の高輪会議での検討において結論が出ていたからでしょう。すなわち,『憲法義解』の第2条解説には「皇男子孫とは祖宗の皇統に於ける男系の男子を謂ふ。」と説明されているところです。わざわざ「男統ノ」又は「男系ノ」の文字までを加える必要は無いと整理されたものでしょう(そうだとすると,「男系ノ」については「皇室典範ニ譲リテ可ナリ」と言った枢密院会議での伊藤博文の説明は――大日本帝国憲法2条の「皇男子孫」に既に男系性が含まれているものとされているのですから――やや不正確であったようです。)。
しかし,最終段階になって伊藤が,大日本帝国憲法2条の「皇子孫」を「男統ノ皇男子孫」に改める必要を認識したのは何故でしょうか。高輪会議に向かって,「枢密院の再審会議において議決された憲法草案について,伊藤議長は上奏の手続をとらず,英文に翻訳した条文を示して御雇法律顧問のロェスレルあたりの意見を徴し(金子堅太郎・憲法制定と欧米人の評論177頁),更に草案全体に亘つて最後的検討を行つて欽定の憲法に不用意の缺点を残すことなきを期した」とのことですので(稲田827頁),ロエスレルの影響が一応考えられます。しかし,第1の2(3)ウで見たように,その「日本帝國憲法草案」1条においてロエスレルは,男系性及び男帝性を皇位継承のための要件として憲法(Verfassung)に規定することを必要とはしていなかったのでした(Kaiserliche Haus-gesetzeで規定する。)。したがって,皇位継承要件としての「皇男子孫」性を憲法に規定すべきだと主張した者がロエスレルであったとは考えにくい。
(3)「雨降って地固まる」論
ところで,1889年1月29日段階での明治天皇の御子は,前年8月31日に9歳になった嘉仁親王(後の大正天皇)と同じ前年9月30日生まれの昌子内親王(後の竹田宮恒久王妃)との男女各お一人でした。しかして嘉仁親王は病弱でしたので,有栖川宮家や伏見宮家の皇族(明治皇室典範7条及び8条参照)にではなく自らの子である昌子内親王に皇位を継承させたいとの叡旨を明治天皇が懐かれる日がいつか来るのではないかという可能性を,伊藤らは全く考慮の外に置くわけにはいかなかったようにも思われます。(ロエスレルも,1887年1月22日付けの答議において,「予ノ一個ノ意見ニ拠レバ,男系ハ常ニ女系ニ先ツベシト雖モ,男系全ク絶ユル時ハ女系モ亦王位ヲ継承スルヲ得ベク,而シテ女系ノ子孫ニ於テハ再ビ男系ヲ先ンズベキナリ。此法ニ依レバ王位系ヲ絶ツノ患ヒヲ免ルヽコトヲ得ベク,従テ王国ノ統緒永遠安全ナルノ効果アリ。」と述べて女系継承の可能性に言及しており(皇室典範幷皇族令ニ付ロエスレル氏答議292-293頁),男系男子絶対主義者ではなかったところです。)
昌子内親王登極の実現に係る手段について考えた場合――皇室典範のみの宮中における改正(大日本帝国憲法74条1項参照)という,そのままでは臣民の遅れた意識との乖離という問題を積み残しそうな姑息策に拠ることなく――「男ヲ尊ビ女ヲ卑ムノ慣習,人民ノ脳髄ヲ支配スル我国ニ至テハ,女帝ヲ立テ皇婿ヲ置クノ不可ナルハ多弁ヲ費スヲ要セザルベシ。」(井上・謹具意見265頁に引用された沼間守一の発言),ないしは「女帝ノ上ニ一ノ尊位ヲ占ムルノ人アルガ如キ想ヲ為スハ,日本国人ノ得テ免カルヽ能ハザル所ナルベシ。豈皇帝ノ尊厳ヲ損スルコトナキヲ得ンヤ。」(島田三郎)という情況であったとしても,臣民の協賛を帝国議会において敢然と現に調達して,「時勢人情」を女帝及びその皇配の受容の方向に折伏する正攻法を採るべきだとの判断が――一見逆説的ですが――「雨降って地固まる」ということで,あるいはされたのかもしれません。
女帝・女系問題を帝国議会で堂々議論して頑愚な反女帝・反女系論者を論破し,もって臣民の意識革命をもたらすことを可能とするために,あえて一見反女帝・反女系的な文言を条文に加える,すなわち皇位継承に係る男系男子原則の変更には憲法改正という形での「国民の総意」の表明を要するもの(換言すると,可能とするもの)とする・・・しかし,どうも穿ち過ぎでしょうか。
なお,昌子内親王が現に恒久王に嫁していることから分かるように,当時の皇室は,皇族同士の婚姻(したがって子において易姓は生じない。)が可能である皇族数を擁していたところです(小嶋・女帝61頁参照)。皇族男子との婚姻が可能であれば,女系問題の方は当面気にしなくともよかったわけでしょう。
第6 嘉仁親王なかりせば
昌子内親王による皇位継承の可能性などという不埒な想像をついしてしまった以上,騎虎の勢いをもって仮設例の検討に進みましょう。1912年7月30日(本当は同月29日)の明治天皇崩御の際,嘉仁親王(大正天皇)及びそのお子らがおられなかった場合,以後の大日本国皇位はどのように継承されたかについての思考実験です。
なお,明治皇室典範58条は「皇位継承ノ順序ハ総テ実系ニ依ル現在皇養子皇猶子又ハ他ノ継嗣タルノ故ヲ以テ之ヲ混スルコトナシ」と規定していました。また,同典範42条は「皇族ハ養子ヲ為スコトヲ得ス」と規定しています。
1 嘉仁親王及びその子たち
ちなみに,嘉仁親王は,明治天皇崩御時における同天皇の唯一の皇子であったので,「皇位ハ皇長子ニ伝フ」と規定する明治皇室典範2条によって皇位継承順序における第1位でしたが,生母は柳原愛子であって昭憲皇太后ではありませんでしたから皇庶子であり,精確には「皇子孫ノ皇位ヲ継承スルハ嫡出ヲ先ニス皇庶子孫ノ皇位ヲ継承スルハ皇嫡子孫皆在ラサルトキニ限ル」と規定する同典範4条の後段を経由しての継承順序第1位でした。そこで,裕仁親王(昭和天皇),雍仁親王(秩父宮)及び宣仁親王(高松宮)は皆,皇太子嘉仁親王と節子皇太子妃との間の嫡出子でありましたが(なお,崇仁親王(三笠宮)は,明治ではなく,大正に入ってから大正天皇の皇子として生まれています。),明治皇室典範4条に係る『皇室典範義解』の解説によれば,「問〔ふ〕。皇庶子の子嫡出なるときは之を嫡皇孫とすることを得べきか。答〔ふ〕。皇庶子の子孫は即ち庶流なり。故に,皇庶子の嫡出の子は其の庶出の兄弟に先だつべきも,皇嫡子孫に先だつことを得ず。」ということで,庶流扱いになっていたのでした。
しかし,明治天皇には皇嫡子孫は無かったのでしたから,「皇長子在ラサルトキハ皇長孫ニ伝フ皇長子及其ノ子孫皆在ラサルトキハ皇次子及其ノ子孫ニ伝フ以下皆之ニ例ス」(明治皇室典範3条)ということで,明治天皇の次代に係る皇位継承の順序は,嘉仁親王の次はその長男の裕仁親王(第2位),その次は次男の雍仁親王(第3位),更にその次は三男の宣仁親王(第4位)だったのでした。
2 「有栖川宮王朝」
(1)有栖川宮威仁親王の「践祚」
明治天皇崩御時の皇位継承順序第5位であった皇族は,有栖川宮威仁親王でした。すなわち,嘉仁親王及びそのお子らがおられなかった場合の明治天皇の皇位継承順序第1位の「皇嗣」は,威仁親王だったのでした。
明治皇室典範5条は「皇子孫皆在ラサルトキハ皇兄弟及其ノ子孫ニ伝フ」と規定していましたが,明治天皇に兄弟及びその子孫は残っていなかったのでした。同典範6条は「皇兄弟及其ノ子孫皆在ラサルトキハ皇伯叔父及其ノ子孫ニ伝フ」と規定していましたが,明治天皇に伯叔父(孝明天皇の兄弟)及びその子孫はこれまた残っていなかったのでした。そうなると同典範7条の出番で,「皇伯叔父及其ノ子孫皆在ラサルトキハ其ノ以上ニ於テ最近親ノ皇族ニ伝フ」ということになり,その結果,明治天皇の6代前の東山天皇(明治天皇の高祖父の祖父)の弟の職仁親王(有栖川宮)及びその子孫が,15代前の後花園天皇の弟の貞常親王(伏見宮)及びその子孫に優先して明治天皇の皇位を継承することになるのでした。
しかして,威仁親王は職仁親王の玄孫ですから,男系で数えて明治天皇とは12親等離れていたわけです。6親等内の血族が親族とされているのですから(民法(明治29年法律第89号)725条1号),12親等はいかにも遠い。
威仁親王が明治天皇の次の天皇となった場合,そのことを,12親等は遠いじゃないか他人じゃないかなどと不埒なことを考えるかもしれない臣民にどう納得させることとなったものでしょうか。
(2)明治天皇の猶子
一つは,明治皇室典範42条及び58条からすると権道ですが,1878年8月26日に威仁親王は明治天皇の猶子になっていたことを主張すべきでしょうか。すなわち,明治11年(1878年)8月26日の宮内省無号布達に,
二品熾仁親王弟
稠 宮
右今般
聖上御養子熾仁親王ノ継嗣ト被定名ヲ威仁ト賜候事
威仁王 有栖川宮
右本日親王 宣下三品ニ被叙候事
右布達候事
とあったところです。
なお,威仁親王は海軍軍人でしたが,実戦での活躍は伝えられていないようです。ロシア皇太子ニコライの接伴担当としては,1891年5月11日発生の大津事件処理で苦労があったそうです。総じて同親王は,臣民の眼の前に華やかに映ずる役回りを演ずる機会には余り恵まれなかったものでしょうか。
(3)兄・熾仁親王の七光り
しかし,威仁親王は兄の熾仁親王の継嗣として有栖川宮家を継いだのですから,兄の七光りを援用できたわけでしょう。
熾仁親王は,鳥羽伏見の戦い(1868年1月27-28日)の2週間後の1868年2月10日(慶応四年一月十七日)に発布された新政府の三職七科体制で「万機ヲ総裁シ一切ノ事務ヲ決ス」るトップの総裁に任ぜられています。その後も1880年2月28日には太政官政府の左大臣となる等,王政復古以来明治政府の要職を務めていたところです。更に軍事面でも,1868年3月2日(慶応四年二月九日)には東征大総督となって東海・東山・北陸3道の兵を指揮しているほか(すなわち熾仁親王が,「宮さん宮さんお馬の前にヒラヒラするのは何じゃいな」と歌われた宮様ですね。),1877年2月19日には西郷隆盛退治の征討総督,日清戦争の際には参謀総長でした(ただし,戦役中の1895年1月15日に薨去)。したがって,戊辰戦争,西南戦争及び日清戦争の各戦勝に伴うカリスマも備わるわけでした。
ということで1912年7月30日に威仁親王が「践祚」したとした場合,新天皇は明治天皇の猶子であるとともに,維新以来明治天皇を支え身を挺して共に新国家を造り上げ,征清の大業の半ばで無念にも斃れられた有栖川宮熾仁親王殿下の継嗣であられたのだぞ,というような形での臣民への説明がなされたことでしょう。
(4)摂政設置問題
しかし威仁親王の「践祚」後直ちに,次の皇位継承者がだれになるのかが実は問題となったところです。すなわち,威仁親王には当時男子孫がおられず,更に御本人も結核で,明治の末には既に兵庫県舞子で御静養中の身だったのでした。
「天皇久キニ亘ルノ故障ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルトキハ皇族会議及枢密顧問ノ議ヲ経テ摂政ヲ置ク」(明治皇室典範19条2項)ということですから,「践祚」後直ちに摂政設置ということになります。摂政就任順序はまず成年に達した皇太子又は皇太孫が1番なのですが(明治皇室典範20条),威仁親王には上記のとおり男子孫がありませんでしたから,当時の親王及王のうちから(同典範21条1号),皇位継承順序が最上位の者が摂政に任ずることになるのでした(同典範22条)。
(5)「摂政宮」伏見宮貞愛親王
ここで貞常親王の子孫たる伏見宮系皇族の登場です。令和8年法律第66号による皇室典範法律の今次改正で設けられる養子皇族男子制度の対象ということで,最近脚光を浴びるあの伏見宮系です。
貞常親王から12代下った・幕末から明治にかけて生きた邦家親王の子の代になって伏見宮系は大いに枝分かれして極めて多数の宮家となっていました。しかし単刀直入,明治皇室典範8条は「皇兄弟以上ハ同等内ニ於テ嫡ヲ先ニシ庶ヲ後ニシ長ヲ先ニシ幼ヲ後ニス」と規定し,かつ,同典範4条に係る『皇室典範義解』解説が「皇庶子の嫡出の子は其の兄弟に先だつべき」ものとしていましたから,これら多数の宮家の皇族のうち,邦家親王(同親王自身は庶子です。)の嫡子たる男子が優先されるべきものであり,ここでまず検討すべき対象となります。そうすると同親王妃である鷹司景子所生の二人の男子が問題となります。しかして兄の貞教親王は,文久二年(1862年)中に死亡し,かつ,その子は皆夭折していた一方,弟の貞愛親王が明治天皇崩御時に存命であったのでした。貞愛親王が,威仁親王に次ぐ皇位継承順位(第6位)を有していたわけです。
威仁親王が「践祚」すれば,直ちに皇族会議及び枢密顧問の議を経て貞愛親王が「摂政」に就任しなければならなかったことでしょう。1921年11月25日の皇太子裕仁親王の摂政就任に向けては,同年6月23日から牧野伸顕宮内大臣の命による調査が始まって(宮内庁『昭和天皇実録 第三』(東京書籍・2015年)519頁)準備に5箇月ほどがかかっていますが,さて明治典憲体制成立後初めてとなる天皇の代替わりに加えての摂政設置作業となると,公家出身の西園寺公望が内閣総理大臣として控えていたとはいえ,渡辺千秋宮内大臣は十分処理し切れたものかどうか(大正の元号選定のイニシャティヴが,元諏訪高島藩士の渡辺にではなく西園寺にあったことを筆者は想起しています(「元号と追号との関係等について」)。)。(なお,明治天皇の生前に「皇嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シ前数条ニ依リ継承ノ順序ヲ換フルコトヲ得」との明治皇室典範9条の規定に基づき貞愛親王の継承順位の繰り上げがされていないものと想定しています。明治天皇としても,折角舞子で静養している威仁親王に対して「お前は不治ノ重患だ」宣告をするような諮詢はなし難かったことでしょう。)
3 「伏見宮王朝」
(1)貞愛「天皇」
ア 「有栖川宮王朝」から「伏見宮王朝」へ
威仁親王は,1913年7月10日に薨去しています。すなわち,同親王が「践祚」していても,その「在位」期間が1年に満たないうちに,「摂政宮」貞愛親王の「践祚」という運びになったわけです。威仁親王は,後花園天皇の13代の子孫であり,貞愛親王は同天皇の弟である貞常親王の13代の子孫です。威仁親王と貞愛親王とは男系で28親等離れていたわけです。
伏見宮家の貞愛親王が有栖川宮家の威仁「天皇」の皇位を継承するというのは,本家の明治天皇崩御後早々の,分家からまた改めて別の分家への継承で,どうもせわしなく感じられるところです(なお,貞愛親王妃の利子女王は威仁親王の姉でありましたから,義弟から義兄への継承ということにもなります。)。そうであるとやはり,貞愛親王による「皇位継承」もまた,明治大帝との深い縁ゆえにされたものと説明したいところです(ちなみに,明治天皇と貞愛親王とは男系で30親等離れています。)。
イ 貞愛親王の経歴:日清戦争並びに日露戦争及び訪米
(ア)陸軍軍人
「貞愛親王は安政五年四月二十八日〔1858年6月9日〕,邦家親王第14男子として誕生,明治四年〔1871年〕親王宣下を受け,翌年伏見宮を継承した。陸軍軍人として累進し,明治37年〔1904年〕陸軍大将に任じられ〔略〕た。〔1903年2月18日の小松宮〕彰仁親王薨去後,皇族中筆頭の長老として重きをなし〔略〕た。」ということですから(昭和天皇実録三790-791頁),陸軍軍人としての活躍に注目すべきでしょうか。若くして西南戦争(1877年)に従軍し,日清戦争(1894-1895年)では第2師団の歩兵第4旅団長として威海衛や台湾で戦っています(台湾接収に際しては我が軍によって「無差別の殺人と村落焼夷作戦が行われたこと」もあるなどと伝えられていますが,他方混成第4旅団長であった貞愛親王は,「懲戒の目的を以て朴子脚街以南急水渓以北に於ける地方の匪賊を剿討」する対匪賊作戦等の指揮をされておられます(大谷正『日清戦争』(中公新書・2014年)230-231頁参照)。)。日露戦争(1904-1905年)では第1師団長として南山の戦いを戦うも,その後旅順攻撃には従事せずに米国のあのセント・ルイス万国博覧会を訪問しています(あの,ということについては「A Spirit of St. Louis (コロナウイルス,ナポレオン及びオリンピックの三題噺)」を御参照ください。)。
(イ)アメリカ
セント・ルイス万国博覧会訪問は,当初は有栖川宮威仁親王夫妻が行う予定が,1904年「9月有栖川宮威仁親王の健康に新たな問題が発生し,訪米に差し障りが少なくないと判断され,訪米する皇族が伏見宮貞愛親王に変わった。」とのことでした(楠元町子「万国博覧会と皇室外交――伏見宮貞愛親王と1904年セントルイス万博――」愛知淑徳大学論集――文学部・文学研究科編――35号(2010年3月)35頁。また,31頁)。貞愛親王は1904年10月23日横浜出航,同年11月9日サン・フランシスコ入港,鉄道で大陸を横断して同月14日首都ワシントン着,翌15日にセオドア・ルーズヴェルト大統領との会見等との運びとなったところ,同大統領は貞愛親王に「極秘であると前置きし」,「今回日露ノ戦争ニ関シ国民一般ハ勿論余ノ同情ハ挙ケテ日本ニアリト」語ったそうです(楠元35-36頁)。ちなみに,貞愛親王とセオドア・ルーズヴェルトとは同じ年(1858年)の生まれです。同月17日には初代米国大統領ジョージ・ワシントン夫妻の墓に献花(楠元37頁)。セント・ルイス万国博覧会訪問は,同月19日から24日まで(楠元37-38頁)。同月21日の歓迎晩餐会でフランシス万国博覧会総裁は,その挨拶において「「〔略〕日本の一小国が四千万の人口を有し,十倍の人口,五十六倍の面積を有する一国と戦を交わるに至るや,人皆日本の成功を疑へり。而して今や此一小国は着々其功を奉しつつある」と述べ,日本帝国軍隊の勇敢さを称賛し,既に戦場において殊功を樹てられた陸軍大将伏見宮貞愛親王殿下を諸君に紹介するのは光栄であると結んだ」とのことです(楠元38頁)。「十倍の人口」は清国,「五十六倍の面積」はロシアのことでしょう。その後貞愛親王はフィラデルフィア及びペンシルヴァニア大学,ボストン及びハーヴァード大学,ニュー・ヨーク及びエール大学並びにシカゴを訪問,特にニュー・ヨークでは,「ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794-1858)の孫ペリー・ぺルモント夫妻の招待によりその邸宅に臨み晩餐の饗を受けた」そうです(楠元39頁)。北米大陸を去ったのは,1904年12月28日のこととなりました(楠元41頁)。
ウ 貞愛「天皇」の日本現代史
貞愛「天皇」の下においてされる日本現代史の説明は,清国の丁汝昌は武人として立派に戦ったが,威海衛での彼の従容たる服毒自殺こそが東亜の覇権が同国から我が日本国に移ったことの象徴だったのである,接収当初は若干のむずがりがあったがその後皇恩に深く浴して文明化した台湾こそが大日本帝国の宝石ともいうべき植民地である,緒戦の南山の戦いにおける勝利こそが日露戦争のその後を決めたのである,大統領を魅惑するなどして我が国と格別のゆかりのある米国の友誼を確保し置いたことこそが,ポーツマス会議においてあのロシアを相手に我が国が有利な講和条約を締結し得た最大要因であったのである,日清・日露の両戦役の栄光を通じて明治大帝の成し遂げられた軍事・外交上の偉大な達成に対し,不可欠かつ巨大な貢献をされた御方こそ今上帝だったのである,というようなものになったことでしょう。
エ 「皇嗣」に係る皇位継承順序変換問題
ところで貞愛親王が「践祚」した場合,当該「新天皇」もまた,速やかに処理しなければならない後継者問題を抱えていました。
1913年の段階で貞愛親王には博恭王(兄)及び邦芳王(弟)という息子がいたのですが,邦芳王が嫡子であるのに対して博恭王は庶子でしたから,邦芳王が貞愛「天皇」の「皇太子」になるはずでした(明治皇室典範4条)。しかし,邦芳王についてはゆゆしい問題がありました。すなわち,1904年1月16日の明治37年宮内省告示第6号にいわく,「邦芳王殿下不治ノ疾病ノ故ヲ以テ貞愛親王殿下ノ情願ヲ允シ博恭王殿下ヲ伏見宮ノ継嗣ト定メラル」と。
嫡子が「不治ノ疾病」に侵されてしまった伏見宮家としての後継問題は,これで片が付きました。しかし,貞愛親王が皇位に即いたならば,問題が蒸し返されることになったはずです。
明治37年の告示第6号にいう允シのみをもって「皇嗣」(邦芳「親王」)に係る皇位継承順序変換手続(明治皇室典範9条)が終ったことにはならないのでしょう。やはり改めて皇族会議及び枢密顧問に諮詢した上での順序変換を,貞愛「天皇」はしなければならなかったのではないでしょうか。明治皇室典範9条について『皇室典範義解』の同条解説は,「皇嗣は先王憲典の存する所に循ひ,大統を継ぎ,神器を伝ふるの位に居る。而して人主の任意に左右することを得る所に非ず。〔略〕若本条の定むる所に依らずして継嗣を易へ置くは典範の認めざる所たり。」と述べていました。
1921年11月25日に大正天皇に摂政を置くためには,1920年3月30日,同年7月24日,1921年4月19日及び同年10月4日に御病状の公表があらかじめ宮内省からされていたところです(昭和天皇実録三519頁)。「不治ノ疾病」と折角ぼやかしていた邦芳王の障碍(1933年6月1日の邦芳王薨去についても,宮内庁『昭和天皇実録 第六』(東京書籍・2016年)302頁には「この日午後零時25分,病気療養中の邦芳王が伏見宮中野別邸において薨去する。」とだけあって病名は明らかにされていません。)が臣民らの好奇の目にさらされるということは,皇室の尊厳を重んずる立場からは苦しいところです。更にいえば,「明治天皇崩御→威仁親王「践祚」・直ちに「摂政」設置→威仁「天皇」崩御→「摂政宮」貞愛親王「践祚」・直ちに「皇嗣」の皇位継承順序変換」を1912年7月30日から1913年7月までの約1年の短期間にバタバタやるのでは,いかにも慌ただしいですし,「不治の疾病」とは何とも禍々しいではないか明治大帝崩御後の皇室は呪われたように後継者に恵まれず危機の連続ではないか,という雰囲気が生ずるのは面白くないところです。
しかし,邦芳「親王」を「皇太子」のままにしておいても結局「践祚」後には直ちに摂政が必要であることは必至であったのですから,早晩皇嗣に係る皇位継承順序変換がされたものと考えましょう。邦芳王には子が無かったそうですから,「新皇太子」は庶出の異母兄である博恭「親王」ということになったわけでしょう。そうであればその後,「在位」10年足らずでの貞愛「天皇」の崩御(1923年2月3日。ただし,公式発表は同月4日に死去ということになっています(昭和天皇実録三790頁)。)を承けて,次は「皇太子」博恭「親王」が「践祚」したということになるのでしょう。
(2)博恭「天皇」
伏見宮博恭王は1946年8月16日に薨去しています。しかして同王の略歴にいわく,「博恭王は貞愛親王第1王子として明治8年〔1875年〕に誕生,幼名は愛賢,後に華頂宮を継承して博恭と改名する。明治30年〔1897年〕,徳川慶喜第9女經子と結婚し,その後伏見宮に復帰する。日露戦争には海軍少佐として出征し,黄海海戦において負傷する。以後英国駐在員やシャム国皇帝戴冠式の御名代等を務め,また海軍大学校長・艦隊司令長官等を歴任し,大正11年〔1922年〕には海軍大将に陞任する。昭和7年〔1932年〕には元帥府に列せられ,天皇より元帥の称号を親授される。同年海軍軍令部長,翌8年〔1933年〕軍令部総長に補され,この間特別大演習や聯合艦隊・大本営海軍部への行幸に際して,扈従及び奏上等を奉仕し,15年〔1940年〕には功一級金鵄勲章を授けられる。16年〔1941年〕軍令部総長を辞す。この年6月頃より容態が悪化し,天皇・皇后・皇太后より種々御見舞の品を賜わるも,この日薨去す。享年七十二。」と(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)175-176頁)。
博恭王が1913年頃に「皇太子」になっていれば,その後は専ら海軍軍人として活躍するというわけにはいかなかったでしょうから,海軍大学校長以下の経歴はなかったことでしょう。しかし,先の大戦における軍令部総長としての責任問題云々を後からチクチク言われずにかえって結構だったかもしれません(「86年前の夏の出来事に関して」及び「国葬関係噺続き」の7参照)。
(3)「伏見宮王朝」の「物語」
しかし,以上見てきたところによれば,貞愛・博恭両「天皇」の「伏見宮王朝」にとっては,神武東征ならぬ征露の戦いこそが王朝の「物語」として重視せられることになったようであります。父は南山に戦い,太平洋を渡って華府に米国大統領を華麗に誑かし(金子堅太郎の「貢献」など実は大したことはないのだ。),子は楠木正成ならぬ東郷平八郎と共に黄海に戦って名誉の負傷をする。「伏見宮王朝」版の日露大戦争ドラマにおいては,南山・黄海の段階で戦争の大勢は決し,日本海海戦などは長期の航海でヨロヨロになっていた残敵の掃討戦,ロシア人から旅順要塞を取ったことよりも米国人の心を摑んだことこそが帝国の勝利確保の決め手であった・・・というようなお話になるものでしょうか。『問はず語り』はなお公表されていなかったからそもそも出番はなく(『問はず語り』は,1950年3月15日に宮内庁書陵部編桂宮本叢書の一冊として初めて公刊されました。),古い『太平記』の中世武者風の「物語」も今更不要であったことでしょう(「『太平記』から『問はず語り』へ:後伏見天皇系皇統の「物語」と皇位継承権放棄に関する崇光院の御告文と」参照)。
軍事的栄光の「物語」は,分かりやすいところです。
筆者は,令和8年法律第66号による皇室典範法律の今次改正で設けられる養子皇族男子制度に関して,かつて次のような感想をのべたことがあります。本稿の最後は,その感想の再確認ということになりました。
しかし,「〔養子皇族が〕皇族となられたことについての国民の理解と共感が徐々に形成されていく」ための手段としては,「現在の皇室の方々と共に」その一員として「国民の安寧な生活のため様々な公的活動を行うこと」が最も重要なのでしょう。ちなみにこれが皇族身位令(明治42年皇室令第2号)の時代ならば,皇族男子は同令17条2項(「親王王ハ満18年ニ達シタル後特別ノ事由アル場合ヲ除クノ外陸軍又ハ海軍ノ武官ニ任ス」)に基づいて大元帥陛下及び国家のために軍隊で体を張って頑張っております,ということで臣民における「理解と共感」が醸成されていたのでしょう。しかして改めて当該規定を今日見てみると,後光厳天皇=後花園天皇系に伝わる皇位に対して,崇光天皇=貞常親王系の伏見宮系皇族も継承権を持つことを臣民に納得させるには有益な制度であったように思われます。
(「令和の皇室典範改正論議から仁和の阿衡の紛議まで(改正法案骨子の発表を承けて)」の第2の3(1)ウ)
以上翻って思うに,大正天皇は病弱であられたなどと云々されておりますが,1926年12月25日まで続いた大正の御代は必ずしも特に短かったものではないわけです。また,大正時代は,健康な4皇子に恵まれた武張らぬ君主の下に,文弱の臣民らも,皇統の弥栄に安心しつつ文化を享受し,かつ,個人の充実発展の道に進むことができた良き時代だったのでした。



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