1 アメリカ独立宣言採択250周年
今年(2026年)7月4日に,アメリカ合衆国は,その独立宣言採択の250周年を祝います(なお,独立宣言案の審議模様については,「ジェファソン原案の「毀損」:大陸会議におけるアメリカ独立宣言案修正について」及び「看板は簡潔たるべきこと」も御参照ください。)。“The United States Semiquincentennial”ということで,五百年祭(quincentennial)の半分(semi)の半五百年(=二百五十年)祭ということですか。米国人らしからぬ,暗算をするのが面倒(500÷2=250)な呼称です。ちなみにラテン語で5はquinque,100はcentum,年はannusです。
しかし,要は50年を1単位としてのお祝いでしょう。
ということで,本稿は,今からちょうど200年前に祝われた最初の独立宣言採択50周年記念日(1826年7月4日=文政九年五月二十九日)当時の状況にちなんだ種々の余計な御紹介をしようとするものです。
2 1826年7月のワシントンD.C.
〔1826年〕7月4日,独立宣言の50周年記念日に,〔現職の第6代ジョン・クインジー・〕アダムズ大統領はホワイト・ハウスから連邦議会議事堂までの厳粛な行進を先導した。キャピトルでは,当時重篤な状態で床に伏していた〔独立宣言の起草者であり,かつ,第3代大統領であった〕トーマス・ジェファソンのための醵金を求める特別な訴えをも含む式辞をジェイムズ・バーバー(James Barbour)戦争長官が述べた。ジェファソンは,輝かしい生涯の哀しむべき結末において,実質的に破産しており,彼の娘をも〔筆者註:Martha (Patsy),すなわち,Thomas Mann Randolph Jr.夫人。ランドルフは,ヴァジニア州知事も務めましたが,債権者たちを満足させるために,1826年初めには,その資産を競売にかけることを余儀なくされるに至っていました(Willard Sterne Randall, Thomas Jefferson: a life (New York: HarperPerennial, 1994): p.589)。〕もう扶養できないようになっていたのである。2日後,ジェファソンは4日に死んだということをアダムズは知った。8日に,彼は弟のトーマス及び姪の一人から,〔第6代大統領の父であり,かつ,第2代大統領であった〕ジョン・アダムズも死の間際にあるとの手紙を受け取った。大統領と〔その息子の〕ジョンとは,翌日の夜明けに〔マサチューセッツ州の〕クインジーに向けて出立した。その午前遅く,ボルティモアから来た人物が,アダムズに対し,ジョン・アダムズが4日の晩,ジェファソンの僅か数時間後に死んだ,とのニュースを諸新聞が報じていると告げた。彼の言葉を聴こうとして身を屈めた孫娘に対して,「トーマス・ジェファソンはまだ生き・・・(Thomas Jefferson still surv――)」と老人はささやいた,と。
(James Traub, John Quincy Adams: militant spirit (NewYork: Basic Books, 2016): p.335)
奇しくも独立宣言採択の50周年記念の当日である1826年7月4日に,当該宣言の起草にかかわった第3代大統領と第2代大統領とが共に死去したという事実は,米国史における有名な挿話です。
3 独立宣言起草者ジェファソンの家計破綻及び死
(1)独立宣言案準備委員会
1776年6月11日に大陸会議が選任した独立宣言案準備のための委員会は,ヴァジニアのジェファソン及びマサチューセッツのジョン・アダムズのほか,ペンシルヴェニアのベンジャミン・フランクリン,コネティカットのロジャー・シャーマン(Roger Sherman)及びニュー・ヨークのロバート・リヴィングストン(Robert Livingston)の5名から構成されていました(cf. Randall: p.266 & John Ferling, John Adams: a life (New York: Oxford University Press, 2010): p.147)。
マディソン宛ての1823年の書簡において彼が引用した覚書によれば,ジェファソンは〔独立宣言案に係る〕彼の粗い草稿を書き上げた際「私は,委員会にそれを報告する前に,彼らによる修正を求めて,フランクリン博士及びアダムズ氏それぞれの校閲に供しました」とのことである。フランクリン及びアダムズは,自筆で草稿に行間挿入しつつ,ここで一語,かしこで一語というような小変更――「単に用語の上でのもの」とジェファソンは書いている――を加えた。委員会は,内容上の変更を加えずに,清書された宣言案を6月28日に大陸会議に提出した。
(Randall: p.276)
(2)ジェファソンの家計破綻
ジェファソンの破産については,簡単にいえば,「彼の習慣は贅沢に過ぎ(too rich),彼の土地は貧し過ぎた。彼の利益のためにヴァジニア州が認めた特別な富籤(special lottery)が彼の最後の頼りであったが,それは彼を救うために十分な金銭を生み出すことに失敗した。」(Richard Brookhiser, John Marshall: the man who made the Supreme Court (New York: Basic Books, 2018): p.211)ということでよいのでしょうか。大統領在職中の様子については,「彼〔ジェファソン〕は高価な政府を批判した。しかし,彼は,大統領職にあって,共和的国家元首であるとしてもそれに相応しいものと彼が考えるスタイルで生活するために,彼の個人資産を使い込んだ。その過程において,奴隷労働農園からの収入にますます頼りつつ――表向き彼は奴隷制に反対していたのだが――彼は負債の淵にますます深く沈み込んだ。」と述べられています(Randall: p.565)。大統領の年俸は2万5000ドルでしたが,ジェファソンは,大統領在職中(1801年から1809年まで)毎年平均して4千ドル借金を増やしていたそうです(Randall: p.555)。
(3)富籤企画及びその失敗
ヴァジニア州が認めた特別な富籤とは何ぞやといえば,「〔1826年の〕1月19日の夜,「至福の境域からの霊感のよう」なアイデアが彼〔ジェファソン〕を訪れた。夜明けに,彼は孫のジェフ(Jeff〔=Thomas Jefferson Randolph〕)を呼びにやった。そして,彼の負債を片付けるために彼の釘製作所及び約千エーカーの土地を売却する富籤を提案した。」(Randall: p.589)との夫子自身の霊妙な案出に係るものです。祖父の土地売却に向けたそれまでのジェフの努力は全て徒労に終わっていたものの,「興奮したジェファソンは,土地を賞品にした低価格の富籤券を大量に売ることができるはずだと請け合った。」ということでしたが,「しかし,およそ富籤は,州の議会によって承認されなければならないのであった」ところです(ibidem)。「官許ヲ得サル富籤(loteries)ハ訴権ナキ博戯及ヒ賭事ト同視ス」(旧民法財産取得編(明治23年法律第28号)162条1項)及び「財物ヲ醵集シ富籤ヲ以テ利益ヲ僥倖スルノ業ヲ興行シタル者ハ1月以上6月以下ノ重禁錮ニ処シ5円以上50円以下ノ罰金ヲ附加ス」(旧刑法(明治13年太政官布告第36号)262条)ですね。
富籤とはそもそも何かといえば,いわく,「富籤とは一定の発売者があらかじめ番号札を発売して購買者から金銭その他の財物を集め,その後抽籤その他の偶然的方法によって――当籤者だけが利益を得るというような形で――その購買者のあいだに不平等な利益を分配することである。偶然の事由によって財物の得喪がきまる点で賭博と同一であるが,賭博においては当事者の全員が財物得喪の危険を負担するのに反して,富籤においては購買者が危険を負担するだけで発売者はこれを負担しない点に,両者の区別がある。」と(団藤重光『刑法各論』(有斐閣・1961年)206頁)。
なお,富籤が「彼を救うために十分な金銭を生み出すことに失敗した」というのは,つづめていえば,「法案は,議決された形において,彼が全財産(everything)を売却することを求めていた。彼の製作所及び相当の土地のみではなく,〔ヴァジニア州にある自宅の〕モンティセロー,その家具,彼の全ての奴隷,彼の馬たち,全て,である。富籤券が印刷され発売される間,彼はその死までモンティセローに住むことができる,しかし,彼の一人娘であるマーサは彼の死後2年以内にそこから退去しなくてはならず,モンティセローは彼の家族の手から取り去られる。そのとおり,彼の死後モンティセローは売却され,半世紀の間家族の手から離れていた。」ということだったそうですが(Randall: p.590),これだけではなおよく分かりません。この間のことについては,追加説明が必要であるようです。
どういうことかといえば,まず,成立した法律は,「〔前略〕前記トーマス・ジェファソンは,彼の負債の支払のために,彼の不動産のいずれをも富籤により処分することが認められるべきであり,かつ,ここに認められる。ただし,そのようにして処分された財産から,ここに定められる方法によって確定される当該財産の正当な価額を超えた正味価額を彼が調達することはないものとする。〔後略〕」というものだったのでした(James A. Bear Jr., Jeffeson Lottery (https://www.monticello.org/encyclopedia/jefferson-lottery)の註7参照)。正当な価額(fair value)での不動産の処分を富籤券の購入者の射倖心に訴えて実現することまでは許すが,当該射倖心に更に付け込んでそれを超えた利得をすることは許さないということになります。富籤券の発売者に余計な利得が無い分罪が浅いので当該富籤はなお許可し得る,ということでしょう。
ジェファソンの死亡時の負債額は10万7000ドル($107,000 in debt)だったそうですが(Randall: p.589),彼のための富籤運営業者(Yates and McIntyre)が広告した目論見書によれば,富籤券は1枚10ドルで1万1477枚発売され,賞品は,モンティセローの不動産(評価額7万1000ドル),シャドウェル(Shadwell)の製作所(評価額3万ドル)及びアルベマール(Albemarle)の不動産(評価額1万1500ドル)の計11万2500ドル分だったのでした(Bear)。ジェファソンらはシャドウェルだけで6万ドルを調達しようと当初考えていたそうですが,モンティセローも手放さなければならないだろうと聞いた時,ジェファソンは蒼白になった(turned white)そうです(ibidem)。
しかし,当該富籤は直ちに実行されなかったのでした。第3代大統領の苦境を知って,フィリップ・ホーン(Philipp Hone)ニュー・ヨーク市長らの主唱によるジェファソンのための献金運動が全米的に起こったので,富籤企画はその間棚上げにされたのでした(Bear)。バーバー戦争長官の前記醵金の訴えは,この献金運動に関係するものでしょう。当該献金運動は,合計1万6500ドルほどを集めたそうです(Bear)。
1826年7月4日のジェファソンの死亡後,献金運動は尻すぼみになってしまい,また,改めて富籤企画を進めてもうまくいかない事態となりました。「ジェファソンを助けたいと思う者は大勢いたが,多くは彼の家族のために同じことをしようとはしなかった。」というわけです(Bear)。更に富籤については,「その賞品は,平均的富籤券購入者にとって特に魅力的というわけではなかった。つまるところ,それらは,当該富籤における評価価額では本来とても処分できない過大評価された土地のみであったからである。」ともいわれています(ibidem)。1828年2月20日付けのラファイエット侯爵宛ての書簡においてジェームズ・マディソンは,「あの富籤は,いろいろな原因があって,全く失敗しました。」と報じています(ibidem)。結局抽籤はされず,富籤券購入者には返金がされたのでした(Bearの引用するトーマス・ショーア(Shore)の1839年3月8日付けトーマス・ジェファソン・ランドルフ宛て書簡参照)。
土地,邸宅,家具及び奴隷人口の大変大きな部分を含めてモンティセローは,彼の死の翌年に競売された。しかして,残された彼の娘であるマーサは,彼女の家族を養うために慈善的寄附(charitable contributions)を受け取ることを余儀なくされた。
(Encyclopædia Britannica, Founding Fathers: the essential guide to the men who made America (New Jersey: John Wiley & Sons, 2007): p.136)
ジェファソン旧邸モンティセロー(Monticello, VA)
(4)ジェファソンの病及び死
老ジェファソンを苦しめていたものは,また,借金だけではありませんでした。1826年1月1日のジェファソンの知人宛て書簡によると,当時ジェファソンは「繰り返される下痢(彼は大腸癌を患っていたらしい。)並びに糖尿病及び尿管感染症」で弱っていたようです(Randall: p.588)。
ジェファソン最期の日々は次のようなものでした。
6月の終わりまでには,彼は自分が最早モンティセローを離れることができないことを知った。彼の独立宣言の50周年記念式典への出席を求めるワシントン, D. C.市民からの招待を彼は謝絶した。しかし,彼は『ナショナル・インテリジェンサー』紙のために公開書簡を執筆した。これは彼の書いた最後の書簡となるべきものであった。しかしてそこにおいて,彼はかの宣言の諸原則に対する彼の信仰を再確認したのである。「それが,世界にとって,それがそうなるものと私が信じたものとなるように」と彼は6月24日に書いた。
ある地には早く,他の地には遅く,しかし最終的には全地において,自己統治の祝福と安全とを獲得せよとの合図・・・人間の権利に対して,全ての目が開かれ,開きつつあります。科学の光の一般的普及によって,触知可能な真理が全ての視界に対して既に開かれております。すなわち,神の恩寵によって人類の大部分が鞍を背に付けて生まれたわけではなく,また,恵まれた少数者が,そこに正統な権利をもって乗駕すべく長靴及び拍車と共に生まれたものでもないという真理が。これらは,他の人々に対しては希望の基であります。我々自身のためには,この日が毎年巡り来て,これらの権利に係る我々の記憶及びそれらに対する減ずることのない献身が永久に新たにされるようにいたしましょう。
この書簡〔筆者註:Merrill D. Peterson編のThe Portable Thomas Jefferson (New York: Penguin Books, 1977): pp.584-585では,ロジャー・C・ウェイトマン(Roger C. Weightman)宛ての書簡として紹介されています(文言は少し違います。)。〕の執筆を了えた後,彼はダングリスン(Dunglison)医師を呼んだ。1週間後,1826年7月1日,トーマス・ジェファソン――83歳になっていた――は,意識不明に陥った。彼は,もう7月4日かどうか訊くために,何度か意識を取り戻した。彼が好むように高く枕を整えるために〔奴隷の〕バーウェル(Burwell)が来るまで,彼はバーウェルをじっと見つめた。
7月2日,彼は,彼が死ぬまでは開けてはならないものとして小さな宝石箱を娘のマーサに与えた〔筆者註:貧乏になっていたジェファソンがそこに宝石を入れていたわけはなく,マーサ宛てのジェファソンの詩が書かれた紙片が入っていました。〕。7月3日の朝,彼は茶を少し飲んだ。彼はその日はほとんど眠っており,そして7時頃に起きて,ダングリスン医師に「4日か?」と訊いた。同医師は,彼の眠りを助けるためのいつものロードナム(阿片と蜂蜜とを混ぜた物)を与えるために9時に彼を起した〔筆者註:このロードナムは,慢性的な尿管異常の痛み止めのためのものだったそうです(Ferling: p.444)。〕。彼はそれを断った。「いや,先生。もう何もいらない。」彼は輾転反側した。真夜中過ぎ,彼は起き上がり,右手及び肱を上げ,あたかも物を書くようにゆっくり横に動かしていた。それから,彼は再び枕に沈み込んだ。午前4時,彼は短い間目覚め,彼の家族と召使らとを部屋に呼ぶように求めた。7月4日の午前11時,彼は今一度ジェフを見つめ,ジェフが海綿に含ませた少量の水で彼の唇を湿すまで無言で唇を動かした。彼が再び動くことはなかった。1826年7月4日午後12時50分,彼の呼吸が止まり,ダングリスン医師が彼の死亡を告げた。
(Randall: pp.593-594)
4 独立宣言案準備委員ジョン・アダムズの老衰及び死並びに資産運用上の事故
(1)ジョン・アダムズの老衰及び死
長男のジョン・クインジー・アダムズ国務長官が連邦代議院(下院)における決戦投票(米国憲法修正12条参照)によって第6代米国大統領に選出されたのは1825年2月9日のことでしたが,「その件が最終的に代議院によって決定された際には彼は89歳であったが,ジョン〔・アダムズ〕は当該選挙を注意深くフォローしていた」そうです(Ferling: p.442)。とはいえ,「1823年の早い時期が過ぎた後,彼の衰弱の増進は急速であり,彼の生活の質は悪化した。間もなく彼の視力はほとんど失われ,聴力も辛うじてのものとなった。体が弱り,大層な困難と共にでなければ動けないようになった。震えがひどく,彼の姪に給餌してもらわなければならなかった。」ということに既になっていたそうです(ibidem)。「しかし,1824年頃までは彼の精神能力はしっかりしていた。その後,初めてのことであるが,「痴呆」が彼に対して這い上がって来ることを感ずると彼は述べるに至った」ところです(ibidem)。「〔大統領選挙の年である1824年の〕9月初めの数日をかけて〔ジョン・クインジー・〕アダムズはボストンまで旅行した。彼の父の齢は今や九十に達していた〔筆者註:ジョン・アダムズは1735年10月19日生まれなので,精確にはこの時88歳〕。「彼の眼は,書くことも読むこともできないほどかすんでいる。」ということをアダムズは見出した。しかし,精神的には,この非凡な老人は障碍されてはいなかった。「彼の記憶力はなおも強い状態にある,彼の判断力は健全である,そして会話に対する彼の関心は相当のものである。」ジョン・アダムズは手紙の口述を――特に孫たちを相手に――続けていた。二人は,それぞれがそれぞれ生まれた道路を挟むささやかな家屋を尋ねつつ近隣を乗馬した。彼らが現在生きているものよりもより純粋かつ高貴な18世紀の世界を両者に思い起こさせる場所立てであった」(Traub: pp.298-299)。
独立の五十年祭まで〔ジョン・〕アダムズが生き延びることは難しいことのように思われた。1825年を通じて,彼の状態は急速に悪化した。1815年から毎年彼を訪問していた会衆派のジョン・ピアス(Pierce)牧師は,1825年のクリスマスの少し前にアダムズと面会したが,彼が衰弱しており,かつ,初めてのことであるが,会話に関心がない様子であることを見出した。1826年の春には,彼は更に弱って行った。5月までの弱り方では同月末まで彼は生き延びられるものかどうか,彼の医師は疑った。彼は生きるには生き延びたけれども,夏の初めには,正常に嚥下できなくなるまで弱っていた。ウォーターハウス(Waterhouse)医師は,アダムズは睡眠中に窒息するのではないかと心配した。
(Ferling: p.444)
〔7月4日の〕4日前,彼は家族以外からの最後の訪問者と会っていた。クインジーの七月四日祝賀委員会の代表者であった。来たるべき祝典に対する祝辞を求められて,アダムズは簡潔をもって答えた。「独立よ永遠なれ!(Independence Forever!)」と。
寝たきりとなり,かつ,呼吸困難となっていたが,彼は生存の維持のために戦った。7月4日まで頑張ったのである。彼はその日が7月4日であることを知っていた。その早朝,彼の苦悶は終わりを迎え,彼は意識を失った。正午近く,ジェファソンの死亡時刻が近くなって,彼は意識を取り戻し,多大な努力と共に主張した。「トーマス・ジェファソンは生き残る(Thomas Jefferson survives)。」と。
これが彼の最後の言葉であった。その後すぐに彼は昏睡状態に陥った。そこからの身動きを,彼は,束の間,もう一度見せただけであった。
6時頃,一日の終わりの長く,涼しい影がピースフィールド〔アダムズ家の屋敷の名〕を包み始める時,ジョン・アダムズは死んだ。
(ibidem)
1826年7月4日の死の床にあって,ジェファソンが自分の死後も生き延びるかどうかをジョン・アダムズが気にしたのは,1800年の大統領選挙に続いて,長生き競争でもジェファソンに負けてしまうのは悔しいと思ったものか(1800年の大統領選挙では,連邦党の現職大統領のジョン・アダムズは,共和党(米国史の厄介なところですが,今の共和党ではなく,民主党の御先祖である政党です。)のジェファソン(現職副大統領)=アーロン・バー(Aaron Burr)組に敗れています。ジェファソンが第3代大統領になったのは,1801年に入ってからの連邦代議院におけるバーとの決選投票の結果です(第12修正の発効前の,米国憲法2条1節原3項の下での出来事です。)。)。
それともあるいは,自分は奇しくも独立宣言採択の50周年の日に神慮により遷化して,米国の独立に係る栄光に特権的に包まれながら今や長男が大統領として率いる米国人らの記憶の中に正しく“Atlas of Independence(独立のアトラス)”として永久に残ることができるが,起草者でございと人気者(“Apostle of Liberty”)だったかのジェファソンはうっかり長生きし過ぎてつまらない日に死んで自分と同様の栄光に与り損ねるのだろうな,との少々屈折したSchadenfreudeを味わったものか。
(2)ジョン・アダムズの資産運用上の事故及びJQAによる救済
なお,ジョン・アダムズも老後の資産管理において困難を経験しています。
1803年4月1日,ジョン・クインジーは,かれの両親の資産を受寄しているロンドンの銀行であるバード・サヴェジ・アンド・バード(Bird, Savage and Bird)が破綻したことを報ずるロンドンからの手紙を受領した。ジョン・アダムズは,革命期間中に約1万6000ドル相当の満期米国債券を愛国的に購入していた。しかしてジョン・クインジーは,当該資産をオランダから,より高い利率及びより大きな安心感を提供する当該英国会社に移転していたのだった。バード・サヴェジは,イングランドにおける米国財務省の取引銀行であった。
ジョン・クインジーの分別ある投資は裏目に出た。彼の父の口座に係る振出小切手は,支払要求と共に直ちに返却されて来た。〔後略〕
(Traub: p.118)
分散投資によるリスクの低減は必須ですよね。
ジェファソンの10万ドル超の負債に比べれば,1万6000ドルがパーになったといっても大したことではないようですが,アダムズ一家にとっては大ごとでした。そこで,責任を感じたジョン・クインジーは,両親所有の250エーカーの土地,4軒の納屋及び3軒の家屋を1万2813ドルで購入し,かつ,「彼の両親は彼らの生存中当該財産の全てを使用(have the use)できるものとし,彼らが死亡したときに彼に返還されるもの」としたのでした(ibidem)。
なお,「彼らの生存中当該財産の全てを使用できるものとし,彼らが死亡したときに彼に返還されるもの」としたということは,英米法にいうconventional life estateが設定されたということでしょうか。我が旧民法財産編(明治23年法律第28号)でいえば,その第44条の用益権(「用益権トハ所有権ノ他人ニ属スル物ニ付キ其用方ニ従ヒ其元質本体ヲ変スルコトナ無ク有期ニテ使用及ヒ収益ヲ為スノ権利ヲ謂フ」)又は第110条1項の使用権(「使用権ハ使用者及ヒ其家族ノ需要ノ程度ニ限ルノ用益権ナリ」)を設定したことに対応するのでしょうか。
5 最後に残った独立宣言署名者
ちなみに,アメリカ独立宣言に署名した者は56名でしたが(署名は1776年8月2日に始まり,最後にデラウェアのトーマス・マキーン(Thomas McKean)が署名した時には1776年は既に過ぎていました(Encyclopædia Britannica: p.64)。なお,ジョージ・ワシントンは独立宣言の署名者には含まれていないので,念のため),ジェファソンとジョン・アダムズとが1826年7月4日に死亡した後には,なおも生存している者はチャールズ・キャロル(Charles Carroll)ただ一人となりました。彼は1832年11月14日に95歳で死亡しています(https://www.archives.gov/founding-docs/signers-factsheet)。キャロルはメアリーランド人であって,独立宣言署名者中唯一のローマ・カトリック教徒でした。また,キャロルは鉄ちゃん的にも無視できない人物であって,米国の最初期の公共鉄道であるボルティモア=オハイオ鉄道(Baltimore and Ohio Railroad)による最初の鉄道建設(ボルティモアとエリコット(Ellicott’s Mills)との間)に係る礎石を1828年7月4日に据えたのはこのキャロルだったのでした(当該区間は1830年開業。当初は馬で牽引)。他方,同じ1828年7月4日には,ジェファソンの死後数時間の間キャロルと共に最後の2人の生存独立宣言署名者中の一人となっていたジョン・アダムズの息子のジョン・クインジー・アダムズ大統領が,こちらはチェサピーク=オハイオ運河(Chesapeake and Ohio Canal)起工式で,当時の彼の立場の人としては珍しい,上着を脱いでの奮闘的かつ庶民的な姿での鍬入れを行っています(Traub: p.371)。
しかしてその52年前の1776年7月・・・。
6 自由の鐘,レビ記及びJubilee並びに奴隷解放
(1)自由の鐘の響き
同日〔1776年7月4日〕大陸会議は独立宣言を採択した。4日後の7月8日,フィラデルフィア郡の保安官であるジョン・ニクソン(John Nixon)大佐は,邦議事堂(State House)――その後独立記念館(Independence Hall)と改称されている――の背後の庭において,歓呼する群衆に向かってそれを読み上げた。ジェファソンは――彼がそこに参列していたとしても――当該儀式において何ら目立った役割を演じてはいなかったし,大陸会議の議員を除いて誰も,彼が当該宣言を書いたということをそもそも知らなかった。〔後略〕
(Randall: p.279)
電気通信(テレビ,ラジオ,電話等)のなかった時代ですから,住民を招集するためには素朴な方法が執られていました。
有名な自由の鐘(Liberty Bell)は,1753年に鋳造されて以来ペンシルヴェニア植民地の首都フィラデルフィアの議事堂の塔にあって,「立法府の議員らを会議に,及びニュースの朗読を聞くべく共々街の住民を招集するために鳴らされるものはこの鐘であった。」ということでした(National Park Service, The Liberty Bell (June 9, 2025): https://www.nps.gov/inde/learn/historyculture/stories-libertybell.htm)。したがって,ニクソン大佐による独立宣言の朗読に住民を招集するためにも,自由の鐘は高々と鳴らされたものでしょう。もっとも,厳密には,「その鐘が,1776年7月4日又は8日に鳴らされたことに係る証拠は無い」そうですが(ibidem)。
(2)自由の鐘の銘文:レビ記25章10節とJubileeと
ところで,50年という区切りをJubileeとして祝うことは旧約聖書に由来するそうですが,自由の鐘の銘文である“Proclaim LIBERTY throughout all the Land unto all the Inhabitants thereof Lev. XXV X(あまねく全土に,及びその全ての住民に対してLibertyを宣布せよ レビ25:10)”自体が,正にそのJubileeに関係していたのでした。「1751年にペンシルヴェニア議会の議長であるアイザック・ノリス(Isaac Norris)が議事堂の鐘のためにこの銘文〔レビ記25章10節からの文言〕を選んだのは,恐らく,ペンシルヴェニアの人民に宗教的自由及び政治的自治を認めたウィリアム・ペンの1701年の特権憲章(Charter of Privileges)の50周年を祝うためであったろう。」と説かれています(National Park Service. 下線は筆者によるもの)。しかして旧約聖書レビ記25章10節がどう五十年祭に関係するかについては,同節の前後をも併せ読まねばなりません。
8 Numerabis quoque tibi septem hebdomadas annorum, id est septem
septies, quae simul faciunt annos quadraginta novem;
9 et clanges bucina mense septimo, decima die mensis expiationis die clangetis
tuba in universa terra vestra.
10 Sanctificabitisque annum quinquagesimum et vocabitis remissionem in terra
cunctis habitatoribus ejus: ipse est enim jobeleus. Revertemini unusquisque ad
possessionem suam, et unusquisque rediet ad familiam pristinam.
11 Jobeleus erit vobis quinquagesimus annus. Non seretis neque metetis sponte
in agro nascentia neque vineas non putatas vindemiabitis
12 ob sanctificationem jobelei; sed de agro statim ablatas comedetis fruges.
13 Hoc anno jobelei rediet unusquisque vestrum ad possessionem suam.
8 また(quoque),汝のために(tibi),七の年を(hebdomadas annorum)七つ(septem)数えよ(numerabis)。すなわち(id est),七の(septem)七倍であって(septies),これらは(quae)同時に(simul),49年(annos quadraginta novem)ということになる(faciunt)。
9 そして(et),7番目の月に(mense septimo),その月の(mensis)10番目の日に(decima die),角笛を(bucina)汝吹き鳴らせ(clanges)。贖罪の日に(expiationis die),汝らの全土で(in universa terra vestra),喇叭を(tuba)汝ら吹き鳴らせ(clangetis)。
10 50番目の年を(annum quinquagesimum),また汝ら聖とせよ(sanctificabitisque)。そして(et),国土において(in terra),その全住民に対して(cunctis habitatoribus ejus),remissioを(remissionem)汝ら宣布せよ(vocabitis)。というのは(enim),それは正に(ipse)jubilaeus(jobeleus)だからである(est)。その財産に(ad possessionem suam)汝らの各々は立ち戻る(revertemini unusquisque)。また(et),各々は(unusquisque)元の家族に(ad familiam pristinam)戻る(rediet = redibit)。
11 汝らのために(vobis), jubilaeus(jobeleus)は,50番目の年(quinquagesimus annus)である(erit)。汝ら蒔くなかれ(non seretis),畑に(in agro)自然に生えた植物(sponte nascentia)を汝ら刈り取るなかれ(neque metetis),剪定されざる葡萄樹から(vineas non putatas)汝ら摘み取るなかれ(neque vindemiabitis)。
12 Jubilaeusが聖なるものとされているがゆえである(ob sanctificationem jobelei)。しかし(sed),畑からの(de agro)その場で取った果実は(statim ablatas fruges)汝ら食すべし(comedetis)。
13 このjubilaeusの年には(hoc anno jobelei),汝らの各々は(unusquisque vestrum),その財産に(ad possessionem suam)戻る(rediet)。
英語のJubileeは,研究社の『リーダーズ英和辞典 第2版』(1999年)によれば古フランス語に由来します。しかしてフランス語のjubiléは,Le Nouveau Petit Robert (1993)によれば更にラテン語のjubilaeusに由来し,そもそもはヘブライ語のyobhelであって「祝祭を知らせる角笛」という意味だったのでした。
(3)Jubileeにおける奴隷解放及び所有物回復
「その財産に汝らの各々は立ち戻る。また,各々は元の家族に戻る。」ということですから,50年ごとのJubileeの年には,物(50年ももつものは動産ではなく主に不動産でしょうが)は元の持主に返還され,奴隷は解放されて自分の家族の許に戻ることができる,ということですか。
50年というと,民法(明治29年法律第89号)278条1項の「永小作権の存続期間は,20年以上50年以下とする。設定行為で50年より長い期間を定めたときであっても,その期間は,50年とする。」及びその前身規定の旧民法財産編155条1項及び2項の「永貸借トハ期間30个年ヲ超ユル不動産ノ賃貸借ヲ謂フ」及び「永貸借ハ50个年ヲ超ユルコトヲ得ス此期間ヲ超ユル貸借ハ之ヲ50个年ニ短縮ス」というような規定が想起されます。古代ユダヤ人の間では,相続を原因とするもの以外の不動産の所有権の移転ということはなく,期間制限のある制限物権等の設定が認められていただけであったということでしょうか。
ア 奴隷解放
(ア)ジェファソンの不能
その起草に係る独立宣言の大陸会議提出案において奴隷制を強く非難していたジェファソンですが(当該部分は,大陸会議によって採択された独立宣言の文章からは削られています。),それから50年がたったJubileeの年,自らがどういうわけかなおも保有していた奴隷を夫子はきちんと解放したのでしょうか・・・と問えば,答えは残念ながら,否でした(さきに見たように,「土地,邸宅,家具及び奴隷人口の大変大きな部分を含めてモンティセローは,彼の死の翌年に競売された」のでした。)。
遺言で彼の奴隷を解放することができたワシントンとは異なり,ジェファソンは,その死に際しての望みとして彼の奴隷に自由を与える能力を今や失っていた。鷹揚であり,かつ,彼の召使のうちの5名を自由にするという彼の死の床における願いを聞き届けてくれるように,ただ彼は債権者らに対して嘆願し得るだけであった。〔後略〕
(Randall: pp.590-591)
(イ)奴隷解放と詐害行為取消しと
なお,遺言による奴隷解放の法律構成は,奴隷に係る所有権の遺言による放棄ということに一応なりましょうか。以下は日本法的発想に従っての思考実験です。
ジェファソンがその奴隷を解放できなかったことに関しては,その阻害要因として,我が民法424条の詐害行為取消請求の規定が想起されるところです(なお,破産法(平成16年法律第75号)222条以下の相続財産の破産は――この手続では否認権の行使が可能です(同法234条等)――ここでは一応捨象します。米国では1841年まで個人の破産を認める法律がなかったそうだからです(Bearの注1)。)。借金まみれの人間が,その残された責任財産を勝手に逸出させるのでは債権者には甚だ迷惑です。民法424条1項は「債権者は,債務者が債権者を害することを知ってした行為の取消しを裁判所に請求することができる。ただし,その行為によって利益を受けた者(以下この款において「受益者」という。)がその行為の時において債権者を害することを知らなかったときは,この限りでない。」と規定しています。
しかし,遺贈(遺言による処分)が詐害行為取消しの対象になるかどうかについては,我が国では賛否両説があって「必ずしも安定した理解が示されているとはいえない状況にある」そうです(岩藤美智子「遺言による処分を対象とする詐害行為取消しについて」岡山大学法学会雑誌68巻3=4号(2019年3月)70頁及び同頁註3。また,同72頁並びに同頁註11及び12)。とはいえ,「相続債権者が,債権者詐害的な遺贈から保護されるべきであるという要請は,相続財産の清算がなされる場合に限られないものであり,より一般的に,相続債権者が主導できる方策として,遺贈を対象とする詐害行為取消しが認められる必要性はあるものと考える。」とされています(岩藤81-82頁)。
「所有権および占有権(203条)の放棄は,特定の人に対する意思表示を必要としない(承役地の所有権を地役権者に対して委棄する場合は例外である。287条〔略〕参照)。占有の放棄その他によって,放棄の意思が表示されればよい。ただし,不動産所有権の放棄は,登記官に申請して登記の抹消をしなければ第三者に対抗しえないといわねばならない(ド民928条は不動産所有権につき登記所に対する表示と登記の抹消とを要件とする)。」とされていますところ(我妻榮著=有泉亨補訂『新訂物権法(民法講義Ⅱ)』(岩波書店・1983年)248頁),遺言による奴隷解放は遺言者の死亡によって直ちに物権的に効力を生じますから(民法985条1項),奴隷について登記制度がないのならば,限定承認及び財産分離における民法931条並びに947条3項及び950条2項による「受遺者」に対する弁済(「特定遺贈の目的物が不動産である場合には所有権移転登記手続が,動産である場合には占有の移転が,ここでいう「弁済」にあたるものと解される」(岩藤73頁註15)。)の後回し及びそれによる相続債権者の満足の優先はそもそも問題にならないのでしょう(同法934条並びに947条3項及び950条2項の責任も生じないのでしょう。)。詐害行為取消権の行使が可能でないと,債権者としては,どうにも困ったことになりそうです。
いずれにせよ,相続人との関係でも,消極財産を減らさぬままに積極財産ばかりをどしどし逸失させるのであれば,迷惑な被相続人であったということで,末代まで恨まれることになってしまいます。
(ウ)奴隷側の都合
他方,奴隷の側でも,いきなり解放されても実は困るというような事情があったようです。
〔前略〕しかし,彼らが自活可能であり,かつ,自由でいることについて準備ができている情態でないうちに彼の奴隷らを解き放つことは無責任であり,全く残酷なことであると彼〔ジェファソン〕は考えていた。かつて彼はお気に入りの料理人であるジェームズ・ヘミングス(James Hemings)を自由にしたが,同人はその後職を転々とし,アルコール中毒になり,モンティセローに戻ることを許してくれと懇願し,そして最後には自殺したのであった。
(Randall: p.591)
イ 借金の帳消し?
Jubilaeusについては,研究社の『改訂版羅和辞典』(2009年)には「ヨベルの年⦅ユダヤ民族がカナンへ入ってから50年ごとの年;この年には奴隷の解放,借金の帳消しなどを神がMoysesに命じた⦆」との説明があります。しかし,借金の帳消しとは何ぞや。
確かにremissioには「送り返すこと」,「緩和,軽減」や「免除」という訳が当てられています。しかし,借金といっても,紀元前13世紀のモーセの時代のユダヤ人は既に金銭を使用していたものかどうか。「借金の帳消し」というよりは消費貸借に係る「種類,品質及び数量の同じ物をもって」する返還債務(民法587条)の消滅といった方がよりよいのでしょう。
(ア)債務免除構成が可能か
当該債務の消滅のために最も直截的な方法は,債務免除の単独行為(民法519条)でしょうか。しかし,「その財産に汝らの各々は立ち戻る」のであれば,むしろ貸主が貸した物の返還を受けるようではあって,これでは借りた者に対する返還債務の免除の意思表示らしくないですね。
(イ)代物弁済の擬制構成が可能か
それとも,処分した物の所有権がjubilaeusの年には原所有者に対して無償で回復されるということから,そのように所有権が直ちに無償回復されることを見越した上で土地等による代物弁済(民法482条)がされて消費貸借に基づく返還債務を消滅させる(そして当該土地等は代物弁済者に戻る。)という一種の擬制がその年に行われるのだ,ということでしょうか。
しかし,この擬制は,レビ記25章14節以下とうまく嚙み合いません。
14 Quando vendes quippiam civi tuo vel
emes ab eo, ne contristet unusquisque fratrem suum; sed juxta numerum annorum
post jobeleum emes ab eo,
15 et juxta supputationem annorum frugum vendet tibi.
16 Quanto plures anni remanserint post jobeleum, tanto crescet et pretium; et
quanto minus temporis numeraveris, tanto minoris et emptio constabit: tempus
enim frugum vendet tibi.
17 Nolite affligere contribules vestros, sed timeas Deum tuum, quia ego Dominus
Deus vester.
14 何物かを(quippiam)汝の同国人に(civi tuo)汝が売り(vendes),又は(vel)同人から(ab eo)汝が買う(emes)ときは(quando),各人は(unusquisque)彼の同胞を(fratrem suum)悲しませるべからず(ne contristet)。そうではなくて(sed),jubilaeus後の(post jobeleum)年数に(numerum annorum)従って(juxta),彼から(ab eo)汝は買うべし(emes)。
15 また(et),果実に係る(frugum)年数の計算に従って(juxta supputationem annorum),汝に(tibi)売られるべし(vendet)。
16 Jubilaeus後に(post jobeleum)残っている(remanserint)年数に応じて(quanto plures anni…tanto),代償も(et pretium)大きくなるべし(crescet)。時間が短く(minus temporis)数えられることに応じて(quanto … numeraveris, tanto),購入も(et emptio)安くなるべし(minoris … constabit)。というのは(enim),果実に係る期間が(tempus frugum)汝に売られるのであるから(vendet tibi)。
17 汝らの同族を(contribules vestros)不幸にするなかれ(nolite affligere)。そうではなくて(sed),汝の神を(Deum tuum)恐れよ(timeas)。我は(ego)汝らの主なる神(Dominus Deus vester)であるからである(quia)。
Jubilaeus直前に耕地でもって代物弁済をしようにも,jubilaeusまでに果実収取の機会がないのであれば,弁済力の評価は――そもそもその存在についてからして――厳しいはずです。
ウ LIBERTYの意味に関して
『リーダーズ英和辞典 第2版』では,Jubileeは「ヨベルの年⦅ユダヤ民族がCanaanに入った年から起算して50年ごとの年;奴隷を解放し,人手に渡った土地を返却し,土地を休耕すべきことを神がMosesに命じた; Lev 25:8-17⦆」と説明されていて,「借金の帳消し」はありません。こちらの方がレビ記の本文により精確ないしは保守的に即したものでしょう。
自由の鐘の銘文にある“Liberty”は,ラテン語の形容詞であるliberの意味のうち「自由な」及び「独立した」(奴隷の解放に関して)並びに「(土地が抵当・納税などの)義務のない」といったものに対応するということでしょうか。
しかし,独立宣言に係る最初のJubileeである1826年の段階においては,実は自由の鐘及びその銘文にあるLIBERTYの語の意義がそもそも問題とされるということはなかったようです(筆者としては,正にLibertyの使徒(Apostle of Liberty)たるジェファソンの奴隷解放及び借金解消に関連して,そこのところが気になったのですが)。「議事堂の鐘(現在は自由の鐘として知られているもの)にあるlibertyの銘は,〔アメリカ独立〕革命戦争中は注目されていませんでした。当該戦争の後に,アメリカにおける奴隷制度を終了させることを目指す奴隷解放運動家たちが,その鐘のメッセージによって霊感を吹き込まれたのです。」ということであって,「奴隷解放運動家の出版物である『奴隷制反対録(The Anti-Slavery Record)』が1835年に初めて自由の鐘(Liberty Bell)として当該鐘に言及しました。しかし,その名称はなおも後年まで広く採用されていませんでした。1847年のジョージ・リパード(George Lippard)の創作である『鐘を鳴らせ,祖父よ,鐘を鳴らせ(Ring, Grandfather, Ring)』を通じて,大衆文化において何百万という米国人がその鐘に親しむようになり,当該鐘は,新国家の誇りを象徴するものとなったのでした。」とのことでした(National Park Service)。


A Replica of the Liberty Bell in the Hibiya Park, Tokyo
〔2026年5月10日追記〕なお,自由の鐘の有名な罅割れが出来たのは,1835年7月6日に死去した米国最高裁判所第4代首席判事ジョン・マーシャル(任命した大統領はジョン・アダムズであって,就任宣誓がされたのは1801年2月4日でした。)のための弔鐘が打ち鳴らされた時である,という説が根強くありますが,それは間違いであるそうです( cf. Brookhiser: p.259)。ちなみに奴隷の自由との関係ではマーシャルは,その崇敬するジョージ・ワシントンよりも,親戚ながら相互に嫌悪していたジェファソンに近い処理を,その死に当たってしています。「〔遺言の中で〕マーシャルは,長いこと彼の召使をしていたロビン(Robin)に自由を与えることとし,かつ,リベリアに移住すれば100ドル,〔ヴァジニア〕州外に移転すれば50ドルを交付するが,現住地に留まる場合には何も与えないこととした。1835年までには七十歳を超えていたロビンは,マーシャルの娘の許に奴隷として留まることを選択した。この点においてはマーシャルは,〔遺言により彼の全奴隷を解放した〕ワシントンの導きに従わなかった。」とのことでした(Brookhiser: p.258)。
ところで,マーシャルとジェファソンとは親戚なのですが,マーシャルの伝記作家は「いとこ(cousin)」とのみ書いて(Brookhiser: pp.4, 74,etc.)精確な続柄についてはぼかされているところがあります。これはあるいは,両者を親戚として結び付けたヴァジニアの名族たるランドルフ一族(the Randolphs)について存する残酷な口碑のゆえでしょうか。いわく,「彼〔マーシャル〕の母方の祖母であるメアリー・ランドルフ(Mary Randolph)は,十代の時,ランドルフ家のアイルランド人の管理人と駆け落ちをして,同人との間に子をなしたといわれている。彼女の兄弟ら(brothers)は彼らを追い詰め,管理人と子とを殺し,メアリーを連れ戻した。彼女は神経衰弱に陥ったがやがて回復し,聖職者〔英国教会のJames Keith〕と結婚して,マーシャルの母となる娘をも含む新しい家族を儲けた。しかし,中年になって,彼女はかの管理人からの手紙を受け取った。そこには,自分はあの遠い昔の襲撃を生き延びたが,今となってはもう彼女を求めることはない,と記されていた。本当に彼女の昔の恋人からのものであったのか悪質ないたずらによるものであったのかはともかく,この手紙は彼女に,その後の生涯にわたって続く第2の神経衰弱をもたらした。マーシャルがこの陰惨な話に言及することは絶えてなかったが,彼は確かにそれを知っていた。老女は彼の十代の時まで生存していたのである。」と(Brookhiser: p.28)。ここでマーシャルの伝記を離れてWikipedia先生を参照するに,メアリーの父はタッカホウ(Tuckahoe)のトーマス・ランドルフ(Thomas Randolph)で,そのトーマスの父(メアリーの祖父),弟のうちの一人(メアリーの叔父)及び息子(メアリーの兄)は,それぞれ,ウィリアム・ランドルフ(William Randolph),アイシャム・ランドルフ(Isham Randolph)及び祖父と同名のウイリアム・ランドルフでした(メアリーの他の兄弟は記されていません。)。トーマスの子・アイシャムの甥・メアリーの兄であるウィリアムはジェファソンの父であるピーター・ジェファソン(Peter Jefferson)の親友で(Randall: p.5),アイシャムの娘(すなわちマーシャルの祖母メアリーの従姉)であるジェーン(Jane Randolph)がピーター・ジェファソンと結婚して後の第3代米国大統領の母となったのでした。マーシャルとジェファソンとの共通の先祖に,トーマス及びアイシャムの父であるウィリアム・ランドルフがいて,マーシャルはトーマスの曽孫(ウィリアムの玄孫),ジェファソンはアイシャムの孫(ウィリアムの曽孫),ということになります。マーシャルの母のメアリー(そのまた母のメアリーと同名ですからややこやしい。)とトーマス・ジェファソンとがまたいとこ(再従姉弟)の関係にあったわけです。ジェファソンとマーシャルとの関係は,4親等のいとこ(従兄弟)関係ではなく,7親等ですから,我が民法725条からすると非親族の他人の関係ですね。ジェファソンから見たマーシャルは再従姪,マーシャルから見たジェファソンは再従叔父ということになりましょうか。

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