1 日本民法解釈学史における我妻榮とその『親族法』と
(1)日本民法解釈学史における我妻榮
星野英一教授(1926年7月8日生-2012年9月27日歿)が1971年5月当時の日本の民法解釈学界の状況を紹介した文章には,次のようにあります。
〔前略〕現在の民法学,広く法律学は,研究についても教育についても,変動期にあるといってよい。教育については,新しい方法が工夫され,試みられつつある。研究については,解釈学だけに限定しても,〔この星野英一『民法概論Ⅰ(序論・総則)』(良書普及会・1971年)の〕本文を「ダットサン」〔かつては一粒社から出ていた我妻榮=有泉亨『民法Ⅰ-Ⅲ』〕や我妻・民法講義と比較して読んで頂ければわかるであろうとおり,今日のわが民法解釈学者の仕事は,我妻博士の理論・体系を目標に,これにぶつかり,これを批判し,崩して,新しいものをうちたてることにある,といえる。我妻民法学は,「民法講義」の第1冊「物権法」(昭和7年〔1932年〕)以来,その出版の当初は,当時の学界の状況からみると,著しく斬新なものであったが,その優れた内容によってわが学界・実務界に大きな影響を与え,「通説」を形成してきた。一人の著作でこれを凌駕するどころか,これに匹敵するだけの体系書は未だに出ていない有様である(このことを,後進としてまことに腑甲斐なく思う)。しかし,とにかくこれの一つ一つの部分に挑戦してその部分において我妻理論の上に出ることが民法解釈学者の関心であり,個別的に優れた業績が続々と現われ,かつ現われつつある。この中で,我妻民法学は,かなりの部分が崩れ落ちながらも(もちろん,多くの部分はそのままに残っている),なおその基礎と骨組とががっちりと建っている建物にも比せられる,といえようか。
このようにして,民法学は,やや誇張した表現をすれば,カオスの状態にあるといってよい。〔後略〕
(星野・概論Ⅰ・はしがき11頁)
「我妻先生の一見見事な説明にあきたらないものをも感じていたので,『ダットサン』をわかりやすく〔自治大学校で,都道府県からの一般研修員相手に〕説明するようにしているうちに,批判したい所が多く出てきました,それで『民法概論』は,『ダットサン』を前提として,少し違ったところを書くようにし」た,ということだそうですが(星野英一「まことを求めて――回顧と近況――」(内田貴及び大村敦志を聞き手とする2002年8月の座談会)『ときの流れを超えて』(有斐閣・2006年)177頁),星野教授の『民法概論Ⅰ』が出た1971年当時,我妻榮博士はなお存命で旺盛に活躍中でした(1973年10月21日の急逝の際には『法学概論(法律学全集2)』(有斐閣・1974年)を執筆中)。いやあ我妻先生,先生の古い学問はもうかなりの部分が崩れ落ちて,先生が通説の体現者として君臨しておられた民法学の世界は今やカオスの「ヒャッハー」状態ですぜ,とまでもあからさまに言われてしまうと,少々以上ムッとはされなかったものでしょうか。
その後,1995年8月の段階における星野教授による我妻民法学評価は次のようなものでした。
我妻民法学の日本民法学史における位置付けは,①民法学に新しい方法を取り入れて,あるいはそれに従った論稿を書き,②あるいはその方法をそれ以前の学問の方法と総合・体系化した著作を書き,③しかも,その方法論全体を明示した論稿をも出していること,④その結果,それまでの民法学の流れに,自己の新しいものを加えた,いわば大きな貯水池を作り,その後の民法学の発展の源を供給したところにある。民法学,特に財産法学の流れは,我妻法学に集まり,そこからさらに分かれていった,ということができる。
(星野英一「我妻栄先生の人と業績――『近代法における債権の優越的地位』(中国訳版)序言」『法学者のこころ』(有斐閣・2002年)377-378頁)
〔前略〕『民法講義』を中心とする民法全般にわたる教科書については,末弘〔厳太郎〕博士の批判〔「学者がドイツ法学的な民法典の注釈や体系化ばかりに没頭して,法律と日本の社会の関係を顧みない態度」に対する批判〕に答え,「資本主義と私法」の研究をふまえた新鮮な執筆態度と,解釈論の結論がバランスのとれた,常識にかなったものであり,全体として説得力に富むものであったため,長い間,通説の地位を保ってきた。それだけに,後進の学者にとっては,「追い付き,追い越す」べき巨峰であり,戦後は,多くの部分について,〔我妻〕先生においてはなお十分でなかった新しい方法(例えば,日本民法の起草を中心とする沿革的・比較法的研究)を用いて,先生の解釈学説の批判に成功するものが多くなった。今日では,先生の解釈学説の多くの部分が通説とはいえなくなっている。〔後略〕
(星野「我妻栄先生の人と業績」こころ380頁)
我妻榮が民法学に取り入れた「新しい方法」というものが何であるかは上記引用部分の記述だけでははっきりしませんが,しかし「方法論全体を明示した論稿をも出している」ということであるところ,当該論稿は,1926年に出された「私法の方法論に関する一考察」論文(法学協会雑誌44巻6号・7号・10号)なのでありましょう(我妻榮『近代法における債権の優越的地位』(有斐閣・1953年)475-560頁に収載)。当該「私法の方法論に関する一考察」論文の章立ては「序言」,「第1章 裁判中心の考察方法」,「第2章 法律の実現すべき理想の問題」,「第3章 社会現象の法律を中心とする研究の問題」及び「第4章 法律的構成の技術の問題」となっており,その「結語」において,若き我妻助教授はいわく。
〔前略〕私は,その提唱する裁判中心の考察方法の途を進むに当つて当面した3箇の問題の関係を,次の如く要約せんとする。
法律学は,
「実現すべき理想の攻究」を伴はざる限り盲目であり,
「法律中心の実有的攻究」を伴はざる限り空虚であり,
「法律的構成」を伴はざる限り無力である。
(我妻・近代法における560頁)
カッコいいですね。
なお,我妻民法学のバランス性,常識性及び説得力に関しては,「私は一貫して我妻流のバランスの取れた考え方と,常識的な結論は,法律学者としての基本線にしたいと考えてきました。ただ,我妻先生の論法には説得力があるが,何かごまかしのようなところがあるとも思っていました。」との発言があります(星野「まことを求めて」ときの流れ205頁)。「ごまかしのようなところ」については具体的には,「抵当不動産から分離した物につき,どこまで抵当権の効力が及ぶかにつき,「登記により公示(かつては『公示の衣』)に包まれている限り効力が及ぶ」といった表現があります〔我妻榮『新訂担保物権法(民法講義Ⅲ)』(岩波書店・1968年)268頁参照〕。そういった所がほかにもあります。〔略〕ああいう言い方はどうかと思います。」というわけです(星野「まことを求めて」ときの流れ245頁)。
以上のことはともかくも,「一人で質量ともこれだけの教科書等(むしろ体系書。『民法講義』だけでも3,300頁。『親族法』430頁。なお,別に,不法行為の教科書,相続法の注釈書もあり,民法のどの部分についても〔我妻〕先生の解釈論がわかる)を書くことは,研究の細かく進んだ今日においては,もはや不可能であり,先生のこの業績も,日本民法学の不朽の古典として残っている。」ということであります(星野「我妻栄先生の人と業績」こころ380-381頁)。
(2)我妻榮の『親族法』
しかして前記の『親族法』たる『親族法(法律学全集23)』(有斐閣・1961年)こそが,「我妻が,家族法の分野で,財産法学のレベルの緻密な解釈論によって〔略〕中川〔善之助〕家族法学と違った独自の解釈学(体系書とコンメンタール)を打ち出し,この領域でも中川に匹敵する地位を有するに至ったのは,戦後である。」といわれる場合(星野英一『民法のもう一つの学び方(補訂版)』(有斐閣・2006年)162頁)における「戦後」の「体系書」であるわけです。
我妻『親族法』に付された法律学全集しおり第39号(1961年4月)における有斐閣編集室自賛の文章によれば,同書は,「大所高所より親族法の対象となる社会的実態の歴史的変遷,現実のすがたを直視して,制度の本質を考察されるとともに,問題点を細かく分析し,精緻な解釈論を展開されています。正に円熟した巨匠の手になる名作というべきでしょう。本書の出来上ったことを読者の皆様とともに喜びたいと思います。」ということでした(3頁)。
筆者は最近,その我妻『親族法(法律学全集23)』を読みあげました。そこで,折角の達成ですのでそれにちなんで同書に関して何か書こうかなと思っての,以上は例のごとくの冗長な前振りでありました。我が民法学における我妻民法の重要性をまず振り返った上でそこにおける『親族法』の位置付けを試みようとしたのですが,振りかぶり方が大き過ぎて,フォームが崩壊していますね。
なお,「戦後の若手学者の重要な仕事の1つは,我妻に欠けているものを追求することであった」そうで,具体的には,「我妻の抽象論には入っているが,沿革的研究として,日本民法のオリジンである,法典調査会――3人の起草者〔穂積陳重,富井政章及び梅謙次郎〕――旧民法――ボアソナード――フランス民法等へと遡ること,生きた法として,企業などの実務や進んで日本人の法意識・法観念の探求,法律における「理論構成」の意義と価値の再検討,我妻の関心が比較的少なかった,重要な制度の思想的背景の探求など,なお多くの重要問題が残されている」そうです(星野・学び方169-170頁)。しかし,我妻の側からは――先の大戦後の身分法研究の隆昌に関してですが――若手の研究に対して,「私には,二つの物足りなさが感じられる。一つは,研究の成果に関連・統一ができていないことであり,一つは,理論的な構成が弱いことである。」との感想を述べ,特に当該2点中の後者に関しては「多くの研究の中には,諸外国の立法の傾向を究明し,またはわが国における実情を明らかにするに止まり,それについての理論的構成に及ばないものも少なくない。その結果,あるいは一貫性のない人情論に堕し,あるいは近視眼的な当面の解決に満足することになり易い。」との苦言を呈しています(我妻・親族法・はしがき)。正に法律学は,「「法律的構成」を伴はざる限り無力である」のでした。
2 民法現行841条問題
(1)条文
我妻『親族法』を読んでいて考えさせられたところはいろいろありましたが,今回は民法(明治29年法律第89号)841条問題を取り上げましょう。同条は現在次のとおり。
(父母による未成年後見人の選任の請求)
第841条 父若しくは母が親権若しくは管理権を辞し,又は父若しくは母について親権喪失,親権停止若しくは管理権喪失の審判があったことによって未成年後見人を選任する必要が生じたときは,その父又は母は,遅滞なく未成年後見人の選任を家庭裁判所に請求しなければならない。
我妻『親族法』が出た1961年当時は次のとおりでした。当該旧842条は,昭和22年法律第222号によって設けられた当初の姿を留めていたものでした。
第842条 父若しくは母が親権若しくは管理権を辞し,後見人がその任務を辞し,又は父若しくは母が親権を失つたことによつて後見人を選任する必要が生じたときは,その父,母又は後見人は,遅滞なく後見人の選任を家事審判所に請求しなければならない。
(2)我妻『親族法』における批判:「法文の過誤」
我妻『親族法』356頁は,当時の民法842条についていわく(下線は筆者によるもの)。
(b)民法は,さらに,一定の場合に後見人選任の申請をなすべき義務者を定めて,後見人の欠けることを防ごうとしている(842条――この場合にも前段の申請権者〔被後見人の親族その他の利害関係人〕が申請しうることはいうまでもない)。すなわち,(ⅰ)親権または管理権を辞した父または母(これによって後見が開始する場合に限る),(ⅱ)その任務を辞した後見人。民法はこの他に,(ⅲ)親権を失った父または母(それによって後見人を選任する必要を生じたとき)を挙げる。これを文字通りに解すると,親権喪失の宣告を受けた場合となる(家裁の審判による親権者の変更は別として,辞任と喪失宣告以外に親権を失うことはない)。しかし,その場合に後見人選任の申請義務を課することは適当でない(後見人の解任の場合には後見人にその義務なし)。法文の過誤として無視する他はない(通説――立案の過程に作られた仮草案には〔「辞任と喪失宣告以外に親権を失うこと」が〕あった(我妻編「戦後における民法改正の経過」169頁参照)。〔以下略〕
片山哲内閣から法案が提出され(1947年7月23日),国権の最高機関たる国会(第1回国会)によって法律とされ(同年12月9日。ちなみに,日本国憲法59条2項が働いて,「協議上の離婚は,その届出前に家事審判所の確認〔当分の間は簡易裁判所の確認で可〕を経なければならない。」との旨の規定を加えようする参議院の修正案を衆議院が蹴って,さきに衆議院で可決した法律案が再可決(総員起立)されて法律となったもの。なお,家事審判所といわれると何だろうとびっくりするのですが,家庭裁判所の設置は,1949年1月1日のことです(昭和23年法律第260号)。),昭和天皇によって公布(1947年12月22日)された昭和22年法律第222号(題名はなく,「民法の一部を改正する法律」というのは件名)には決してあってはならなかったはず,であったところの「法文の過誤」であるのだというのが面白いですね。
「法文の過誤」といわれれば確かに,管理権喪失の審判に係る民法835条(昭和22年法律第222号による改正前は第897条)は当時からあったのに,同法旧842条には「管理権を失つた」場合についての規定もありませんね(なお,親権停止の制度(民法834条の2)は,平成23年法律第61号によって2012年4月1日から導入されたものです(同法附則1条及び平成23年政令第395号)。)。(ちなみに,昭和22年法律第222号における民法835条の文言は「親権を行う父又は母が,管理が失当であつたことによつてその子の財産を危うくしたときは,家事審判所は,子の親族又は検察官の請求によつて,その管理権の喪失を宣告することができる。」です。)
親権喪失の宣告を受けた父又は母に「後見人選任の申請義務を課することは適当でない」と説かれる理由は,解任された後見人との横並び論(形式論)のほかに,実質論としては,オレが(アタクシが)飽くまでも親権者なのだ(なのよ),と親権喪失を肯んぜずにその審判手続で頑固に頑張っていた父又は母を負かした上で,「じゃあんたは親権者失格だから,後見人選任の請求をしてよ。」と義務付けるというのは敗北の傷口に更に塩を擦り込むというか馬鹿にしているというかとにかく失礼ではありますし,親権を喪失させられた側は当然不貞腐れるであろうから実際に後見人の選任の請求をしてくることは通常期待できないということでしょう。中川善之助は「〔親権喪失の宣告は〕裁判所がやることで,自分の意思でないのだから,親権を剥奪された父または母に後見人選任申請義務を認めるのは無理でもあり,不要でもあるわけですよ。」と述べています(我妻榮編『戦後における民法改正の経過』(日本評論社・1956年)170頁)。
(3)「法文の過誤」発生の経緯
ア 「整理もれ」
夫子たる我妻榮自身が昭和22年法律第222号の法文立案の主要担当者であったところ(我妻は,臨時法制調査会(1946年7月2日に内閣に設置され,同月11日に第1回総会開催)の第三部会(当該部会は次の司法法制審議会の総会と同時に開催)の委員及び司法法制審議会(同月11日に司法省に設置)の委員であったところ,同審議会に置かれた第二小委員会委員として起草委員となったもの(同月13日)(我妻編・民法改正の経過5-6頁及び206-211頁参照)),当該「法文の過誤」発生の原因ないしは経緯を知るべく我妻編『戦後における民法改正の経過』169頁以下を見ると,事情は,親権者の氏とその監護に服する子の氏とが同じものに自動的に揃うようにしようという試みの挫折(「戦後の民法改正の過程において親子の共同生活という現実に即して氏を決定しようとする試みが成功しなかった」(我妻・親族法423頁))の過程における「整理もれ」ということだったそうです。
イ 民法改正案における規定:第3次案から第6次案まで
1946年10月18日付けの民法改正案第3次案から1947年3月1日付けの第6次案までは,昭和22年法律第222号による改正後の民法842条に対応する条項(第905条)の文言は「父若クハ母カ財産ノ管理ヲ辞シ,後見人カ其任務ヲ辞シ又ハ父若シクハ母カ親権ヲ失ヒタルニ因リ後見人ヲ選任スル必要ヲ生シタルトキハ其父,母又ハ後見人ハ遅滞ナク後見人ノ選任ヲ家事審判所(第3次案では「裁判所」)ニ請求スルコトヲ要ス」となっていました(我妻編・民法改正の経過301頁・311頁・335頁)。しかしてここで想定されていた「父若シクハ母カ親権ヲ失」う場合とは,次に掲げますところの第3次案における第878条3項(単独親権者の婚姻による改氏)及び4項(生存配偶者の復氏)の場合であったようです(同条3項に「親権ヲ失フ」という表現があります。なお,中川善之助によれば,「〔判事の〕長野〔潔〕君だったか,〔司法省の〕村上〔朝一〕君だったか,だれだったかが,喪失のときに失ったという言葉づかいをすることはないとかいっていた」そうです(我妻編・民法改正の経過170頁)。おって,第6次案までは,管理権の辞任の規定はあっても(昭和22年法律第222号による改正前の民法899条参照),親権全体の辞任の規定はありませんでした(我妻編・民法改正の経過310頁参照)。)。
第878条 父母カ離婚シタルトキハ親権ハ父之ヲ行フ但第788条第1項但書ノ場合ナルトキハ母之ヲ行フ
父又ハ母カ第812条ノ2第2項ノ規定ニ依リテ子ヲ引取リタルトキハ親権ハ前項ノ規定ニ拘ハラス其父又ハ母之ヲ行フ
父又ハ母カ婚姻ニ因リテ氏ヲ改メタルトキハ子ニ対スル親権ヲ失フ但第788条第2項ノ規定ニ依リ子ヲ引取リタルトキハ此限ニ在ラス
前項ノ規定ハ第789条第1項及ヒ第2項ノ場合ニ之ヲ準用ス
父カ認知シタル子ニ対スル親権ハ子カ第836条ノ2第3項ノ規定ニ依リ父ニ引取ラレタルトキニ限リ父之ヲ行フ
(我妻編・民法改正の経過334頁)
第788条 夫婦ハ共ニ夫ノ氏ヲ称ス但当事者カ婚姻ト同時ニ反対ノ意思ヲ表示シタルトキハ妻ノ氏ヲ称ス
前項ノ規定ニ依リ氏ヲ改メタル妻又ハ夫ニ未成年ノ子アルトキハ配偶者トノ協議ヲ以テ其子ヲ引取リテ自己ト同一ノ氏ヲ称セシムルコトヲ得
(我妻編・民法改正の経過330-331頁)
第789条 夫婦ノ一方カ死亡シタルトキハ生存配偶者ハ婚姻前ノ氏ニ復スルコトヲ得
前項ノ場合ニ於テ夫婦ニ未成年ノ子アルトキハ生存配偶者ハ裁判所ノ許可ヲ得テ其子ヲ引取リテ自己ト同一ノ氏ヲ称セシムルコトヲ得
〔第3項略〕
(我妻編・民法改正の経過331頁)
第812条ノ2 婚姻ニ因リテ氏ヲ改メタル妻又ハ夫ハ離婚ニ因リテ婚姻前ノ氏ニ復ス
前項ノ場合ニ於テハ妻又ハ夫ハ当事者ノ協議ヲ以テ其未成年ノ子ヲ引取リテ自己ト同一ノ氏ヲ称セシムルコトヲ得
前項ノ協議調ハサルトキハ裁判所ノ許可ヲ以テ之ニ代フルコトヲ得協議ヲ為スコト能ハサルトキ亦同シ
(我妻編・民法改正の経過331頁)
第836条ノ2 〔第1項略〕
嫡出ニ非サル子ハ母ノ氏ヲ称ス
父カ認知ヲ為シタルトキハ父ハ母トノ協議ヲ以テ未成年ノ子ヲ引取リ前項ノ規定ニ拘ハラス自己ノ氏ヲ称セシムルコトヲ得
(我妻編・民法改正の経過332頁)
すなわち,中川善之助の説明によれば,「うちに子供を持っていて,その父なり母なりが単独親権者だった場合,その人が結婚して別の氏にかわってしまったというようなときには,子供に親権者がなくなるわけです〔第3次案878条3項本文〕。子を引取ればいいが〔同項ただし書〕,引取らないと子の親権者がいなくなる。あるいは配偶者が死亡して実家の氏に復した場合――そのときに子供を引取って自分と同一の氏を称せしめれば親権者になるのだけれども,引取らないで親だけが復氏しておれば子供に親権者がいなくなって後見が開始することになるのですね〔同条4項〕。つまり,父もしくは母が自分の意思で親権を失う場合というのがあるから,この自分の意思で失った場合には自分でちゃんと跡始末をつけて後見人を申請しろという意味で,この規定〔第6次案までの第905条〕が入ったのですが,「引取リテ」をやめてしまったものですから,父もしくは母が親権を失ったこと〔筆者註:ここは「父もしくは母が親権を失ったこと」と括弧に入れて読んだ方が分かりやすいでしょう。〕によって後見人を選任する必要を生ずるということがなくなってしまったんです。従って,ここの842条のそこの部分は消すべきところだったのを消しおとしたのですね。」というわけです(我妻編・民法改正の経過169-170頁。また,162頁)。
なお,「「引取リテ」をやめてしまった」ということの意味するところが分かりづらいですが,第3次案の発想では「親権の所在を共同生活の実体〔筆者註:「引取リテ」の有無,ということですね。〕に合せよう,とにかく実際の生活に即するようにきめようということが頭にあって,それに一番即するようにするには,まず氏を共同生活の実体に合うように決めておいて,親権はその氏に合せることが一番おちつくところにおちつくというので,氏というものを共同生活の表象というか,共同生活の実体をつかむ手段として頼ってい」たところ(我妻編・民法改正の経過166頁における小澤文雄(法案作成時司法省在職)発言),出来上がりの昭和22年法律第222号では,親権の所在は共同生活の実体(「引取リテ」)とも(それに伴うものと当初は考えられていた)氏の同一性ともつながらなくてもよいものとされてしまった,ということです。GHQには「氏と親権とを結びつけることは,要するに家の代りに氏を頭に置いて,それに実質上の権利関係を結びつけることになる。いいかえれば,家の温存になるのじゃないかという頭が初めからあったらしいのです。」ということでした(我妻編・民法改正の経過166頁・小澤発言)。なお,「引取リテ」の字句の発案者については,「氏というものは共同生活の実体に伴うものだという考え」を「一層はっきりさせようという趣旨で,これはたしか中川〔善之助〕先生の発案で,「引取リテ」という字句が加わったと思います。」と村上朝一が回想しています(我妻編・民法改正の経過153頁)。
ウ 中川善之助及び我妻榮の認識
昭和22年法律第222号による改正後の民法842条に「父若しくは母が親権を失つた」との文言が残ってしまったことについて,我妻榮は「大失策でしたね。」と言い(我妻編・民法改正の経過162頁),中川善之助は「これは今度の再改正のときにはぜひ何とか始末する必要があります。前の改正のときのミスですからね。」と言っています(同書170頁)。
(4)「法文の過誤」の残存
ア 現状及び問題意識
しかしながら,現在の民法841条では,「父若しくは母が親権を失った」どころかむしろ「親権喪失」とのあからさまな表現が採られているのみならず,「管理権喪失」の場合にも義務が及ぼされるようになり,かつ,新たな制度である「親権停止」の場合にも適用があるように,実に律儀な書き振りとなっています。
中川善之助は,「父若しくは母が親権を失つた」との文言が昭和22年法律第222号において残ってしまった原因として,宣告によって親権を奪われる場合を指している「ふうにちょっと考えられたものだから,これが残ったんですね」(我妻編・民法改正の経過170頁。また,162頁)と述べていますが,後世の民法関係者は,中川=我妻が採らなかった「父若しくは母が親権を失つた」イコール「親権喪失」の宣告があった説を信ずるようになったのでしょうか。「ちゃんと国会に提出されて,印刷されて六法全書に載っかってしまうと,もうそれで一つできあがってしまうわけです。そうするとそれが当然のこととして,その後に出てくる法案はそれをモデルとして出てきます」との(放送法制立法過程研究会『資料・占領下の放送立法』(東京大学出版会・1980年)447頁の吉國一郎発言)既成立法の事実の重みがそこに働いていたものでもあるのでしょうか。
イ 改正の足跡をたどって
昭和22年法律第222号による改正後の民法842条に係るその後の改正の足跡をたどってみましょう。
(ア)昭和23年法律第260号
まず昭和23年法律第260号9条によって,民法842条中の「家事審判所」が「家庭裁判所」に改められました(1949年1月1日から)。
(イ)平成11年法律第149号
次に平成11年法律第149号によって,2000年4月1日から(同法附則1条),それまでの民法842条は,父母に関する新841条(「父若しくは母が親権若しくは管理権を辞し,又は親権を失つたことによつて未成年後見人を選任する必要が生じたときは,その父又は母は,遅滞なく未成年後見人の選任を家庭裁判所に請求しなければならない。」)と後見人に関する新845条(「後見人がその任務を辞したことによつて新たに後見人を選任する必要が生じたときは,その後見人は,遅滞なく新たな後見人の選任を家庭裁判所に請求しなければならない。」)とに分割せしめられます。
分割のみにとどまってそれ以上内容には手がつけられずにしまったのですが,昭和22年法律第222号による改正後の民法842条における「父若しくは母が親権を失つた」は「法文の過誤」なのだとする前記中川=我妻説は,平成11年法律第149号における改正の際にもなお忘れられてはいなかったようではあります(於保不二雄=中川淳編『新版注釈民法(25) 親族(5)(改訂版)』(有斐閣・2004年)301頁参照(犬伏由子))。しかし,「平成11年改正においても,今回は原則として未成年後見については改正の対象としないとの方針からか,削除の対象とはされなかった」ところです(同頁(犬伏))。
(ウ)平成16年法律第147号
平成11年法律第149号による改正後の民法841条には,民法の表記の現代用語化等に係る平成16年法律第147号によって,2005年4月1日から(同法附則1条及び平成17年政令第36号),「見出しとして「(父母による未成年後見人の選任の請求)」を付し,同条中「若しくは母」を「又は母」に,「失つた」を「失った」に,「よつて」を「よって」に改める。」との改正が施されています。
見出しが付されたのは,「見出しは,〔略〕利用上の便宜が極めて大きいので,構成の極めて簡単な法令で検索の手掛かりを特に必要としないものを除いては,最近では,例外なく見出しが付けられる」(前田正道編『ワークブック法制執務(全訂)』(ぎょうせい・1983年)155頁)からでしょう。
「又は」と「若しくは」との使い分けについては,「選択される語句に段階がある場合には,〔略〕段階が幾つあっても,一番大きな選択的連結に一回だけ「又は」を用い,その他の小さな選択には,繰り返して「若しくは」を用いる」ことになっています(前田編649頁)。平成11年法律第149号による改正後の民法841条においては,父と母との間の選択の大きさが,親権又は管理権の辞任と親権を失ったこととの間の選択の大きさよりも小さいものではない,との評価を前提とした法制執務の美学に基づく改正がされたものでしょう。
法令における拗音及び促音に用いる「や・ゆ・よ・つ」の表記については,大書きとする従来の慣例が昭和63年7月20日内閣法制局総発第125号によって改められ,小書きされることになっています(前田編539-540頁)。
(エ)平成23年法律第61号及び児童虐待防止の大義等
平成23年法律第61号3条によって,2012年4月1日から民法841条は現在の文言になっています(「父又は母が」を「父若しくは母が」に,「親権を失った」を「父若しくは母について親権喪失,親権停止若しくは管理権喪失の審判があった」に改めたもの)。この段階では前記中川=我妻「法文の過誤」説は忘れ去られてしまったようで――しかして更に,病膏肓というべきか――さきにも述べたように親権喪失のみならず,親権停止及び管理権喪失の場合にまで当該審判を受けた者に未成年後見人選任請求義務を課するという(中川=我妻からすると「あさって」の方角に)発展せしめられた条文となるに至っています。
これについては,しかし,平成23年法律第61号の法律案の提出理由が,同法の拠って立つところの児童本位の姿勢を明らかにしていたことに注目すべきでしょう。いわく,「児童虐待の防止等を図り,児童の権利利益を擁護する観点から,親権の停止制度を新設し,法人又は複数の未成年後見人を選任することができるようにすること等の措置を講ずるため,民法の改正を行い,これに伴い家事審判法及び戸籍法について所要の改正を行うとともに,里親委託中等の親権者等がいない児童の親権を児童相談所長が行うこととする等の措置を講ずるため,児童福祉法の改正を行う必要がある。これが,この法律案を提出する理由である。」と。中川=我妻説が忘れられたというよりも,児童虐待防止の大義の前においては,親権の喪失若しくは停止又は管理権の喪失の審判を喰らうような困った毒親のプライドやら我がままやらに忖度してやるような悠長な姿勢などとても見せられないのだ,という余裕のない時代状況に今やなっているということかもしれません。
また,親権喪失原因から「著しく不行跡であるとき」が同じ平成23年法律第61号による改正で消えたので,幼い今若・乙若・牛若の養育のために狒々ジジイたる平清盛に身を任せた常盤御前のような未亡人から親権を奪うのは可哀想ではないかというような同情(大審院昭和4年2月13日判決・法律新聞2954号5頁参照)ないしは「倫理的に非難される母必ずしも不適当な親とはいえないのみならず,他の者よりはましだ,という場合は少なくない。」というような考慮(我妻・親族法349頁)が現在においては不要となっており,親権喪失者に対する視線が厳しくなってもいるのでしょう。
最近の書物では,民法841条解説はすっきりとしたものとなっています。いわく,「840条による請求がなされなければ未成年後見人の選任がなされないとすると,後見が開始しているのに未成年後見人を欠くという状態が生じることになる。そこで,841条は,親権・管理権を喪失した父母に,未成年後見人の選任を家庭裁判所に請求する義務を課している。これらの場合の父母は,自ら後見人を指定をすることはできないとしても,家裁に選任を請求することはできるし,また,しなければならない(類似の義務は後見人にも課されている。845条)。」と(大村敦志『民法読解 親族編』(有斐閣・2015年)408頁)。
(しかし,児童虐待を憎み,かつ,子供を折角大切にしても我が国の出生数の減少は止まりませんね。来年(2026年)は丙午の年ですが,前回の丙午の年である1966年の我が国の出生数は,前年1965年の182万3697人から約25パーセント減の136万0974人でした(国立社会保障・人口問題研究所ウェブサイト)。2023年の出生数は72万7288人だったそうですが,ここから2割5分引きということになると,来年の我が国の出生数は54万人くらいになるのでしょうか。2006年の出生数が109万2674人ですから,その半数を割るということでしょうか。教育業界などは大変ですね。)
3 往事渺茫:「円熟した巨匠」我妻榮63歳の年
ところで,有斐閣編集室は前記のとおり,1961年4月10日に発行された『親族法』の著者・我妻榮を「円熟した巨匠」と称えています。そう言われると,法学の世界における「円熟した巨匠」というのは幾つくらいの歳の学者なのかなと,法学者ならぬ街の弁護士として馬齢を重ねつつある筆者ながら不図気になるところです。「円熟した巨匠」たるためには随分年齢がいかなければならないようではあります。すなわち,我妻榮はあるとき,「私は東京大学で,民法という専門の法律をやっておりますが,東京大学民法学者に関する限り,「七十才古来稀なり」なんです。大先輩は,初めうんと偉い仕事をする。しかし,私は出来ない。私は卒業後だんだんよくなるんで,長生きしなくちゃならん。4月1日で,70才なんです。来年の4月1日まで生きていて,天下に公約した仕事の3分の1しか果たせない。/天下に公約した三つの事というのは,/70才までは生きて仕事をする。私の専門としている『民法講義』を完成しよう。学生が大菩薩峠と称している『民法案内』13冊を書き終える。と言っております。」と語っていたところであります(『我妻榮先生講演集(第4版)』(山形県立米沢興譲館高等学校・1992年)48頁)。
我妻の誕生日は1897年4月1日なので,その『親族法』発刊時(1961年4月10日)には64歳になったばかりだったということになります。当該『親族法』の執筆時期は,「債権各論中巻二を中途で棚上げして不充分な準備のままで執筆にとりかかったのは,昨年の初めであった。」とされ(我妻榮「執筆を終りて」しおり第39号1頁),かつ,「校正を終った日」が「昭和36年3月」ということになっていますから(我妻・親族法・はしがき2頁),1960年初めから1961年3月までということになるわけです。我妻62歳最後の3箇月弱と63歳の丸1年間とをかけて執筆されたものです。
63歳という年齢ともなると,さすがにMaestroの心身にも変化があったのかなと思ってしおりを読むと,次のようにあります。
年老いて特に感ずることは,頭の転換が遅くなったことである。細切れの時間を利用することができない。少なくとも2,3日続けて一つの仕事に専念しないと,能率が少しも上がらない。そこで,委員会や研究会をできるだけ集中させて,連続した時間の余裕を作って稿を進める策戦を作った。参考資料を湯河原海岸の寓居に運んでおいて,数日間の余裕をつくって出掛けたのはその実行であった。しかし,なかなか予想通りにはいかない。結局,夏休と年末・年始の休に大部分の稿を書くことになった。
(我妻・執筆を終りて2頁)
頭の転換が遅くなった,能率が上がらない,などと老人めかしたことが書かれていますが,韜晦でしょう。1960年の夏休み前に我妻の仕事の能率が上がらなかったのは,旧制第一高等学校以来の友人である岸信介内閣総理大臣が当時実行した日米安全保障条約の改定(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1002782085.html)をめぐる世間の諸々の動きにかまけ過ぎたからではないでしょうか。
1960年1月19日にワシントンD.C.で調印されていた新日米安保条約の承認議案は同年5月20日未明(0時6分開議,0時19分散会)に衆議院で可決され,参議院での議決のないまま同年6月18日の経過をもって国会の承認が成立します(日本国憲法61条及び60条2項)。同月23日に批准書が交換されて新安保条約は発効,同日岸総理は退陣を表明し,同年7月19日に第1次池田勇人内閣が発足しています。その間我妻は「岸信介君に与える」との退陣勧告文を『朝日新聞』に掲載し(松野良寅編『我妻榮――人と時代――』(我妻榮先生生誕百年記念実行委員会・1997年)340頁の年譜では6月7日〔2026年1月7日追記:しかし『朝日新聞』縮刷版では,1960年6月5日の朝刊(12版)2面に掲載されています(Meis oculis vidi.)。当該手記は,同月4日(「安保改定阻止第1次実力行使」で大規模なストライキがされた日)に朝日新聞社に寄せられたものであるそうです。〕),6月12日には憲法問題研究会の民主政治を守る講演会に名を連ねています〔2026年1月7日追記:東京・平河町の都市センターホールで開催された当該「民主政治を守る講演会」で我妻は「民主政治家の責任」と題した講演を行っており,そのあらましは,朝日新聞社の記者によれば「人格そのものを民主的に改造したとは思われぬ戦争責任者が政治を動かしている。A級戦犯を中心とするそのような人たちに政権を託したのは国民であり暗然たらざるを得ない。国民の民主化ができない以上,彼等はでてくる。民主化の道はけわしいけれども,いまからでも遅くない。しかしいまや民主主義の殿堂には火がついており,ここで消さなければならぬが,5分間で時間切れになりそうだ。矛盾した二つの命題を考えて,今日からともに手をたずさえてできるだけの努力をしたい。」というものでした(『朝日新聞』1960年6月13日(12版)10面。聴衆数は約千五百であったそうです。)。〕。
安保騒動の幕切れがあって初めて〔2026年1月7日追記:上記の「民主政治家の責任」講演で決意表明がされていた,「矛盾した二つの命題を考えて」の「ともに手をたずさえ」た「できるだけの努力」を打ち切って初めて,ということになりましょうか。〕,「夏休みの終り頃に半分の原稿を渡し,年末からあとは,しゃにむに筆を進め」ること(我妻・執筆を終りて1頁)ができるようになったのでしょう。
1960年から1961年にかけての我妻榮63歳の年末年始には,「湯河原海岸の寓居は長男夫婦と孫でにぎやかになったので,韮山温泉の水宝閣に籠城」したそうです(我妻・執筆を終りて2頁)。当該旅館は「有斐閣関係の編集や執筆に多くの同僚が利用したので,宿の人々は「学者の仕事」に理解がある。おかげで能率が大分上がった。」ということでしたが(同頁),そこにおける我妻の仕事のスタイルは,「私は,夜は一切仕事はしない。その代り,朝は5時に起き,自分で火をおこし,茶をいれながら,仕事をはじめる。温泉旅館の客としては,おそらく例はあるまい。後に来る同僚諸君に語り伝えられることであろう。」ということでした(同3頁)。年末年始の寒い季節なので,なるべく長く蒲団に入っていればよいものを朝早く目が醒めてしまうのは,やはり63歳という年齢のゆえだったのでしょうか。
さて,2025年末の現在,我妻の「岸信介君に与える」勧告を含む65年前の大騒動の果てにようやく発効した岸信介総理改定の日米安全保障条約は,いわゆる「平和安全法制」(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1028551925.html)である2015年の平成27年法律第76号及び第77号等をもその周囲に積み重ね上げてすっかり我が国民に受け容れられてしまっているようです〔2026年1月7日追記:「岸信介君に与える」手記で我妻は「戦前,君は,ドイツと組んで,中国や英米を敵として大東亜戦争を断行することがわが国の発展のための最も正しい道だと確信しておられた。それは,とんでもない誤りだったのです。今度は,君の信念に従うことが正しい,とたれが保障してくれるでしょう。それとも,君は,巣鴨における反省の結果,今度の信念は絶対に間違いない,と自負しておられるのでしょうか。君はまた同じ誤りをくり返そうとしているように,私には思われて,りつ然とします。」と述べていましたが,米国は米国であってドイツではなかったのは結構なことでした。〕。また,昭和22年法律第222号による改正後の民法842条が当該改正に係る法案作成過程における「整理もれ」のゆえについうっかり規定してしまっていた「親権を失つた」父又は母に課される未成年後見人選任請求義務も,我妻『親族法』等の警告したその「法文の過誤」性にもかかわらず,2011年の平成23年法律第61号による改正を経た民法841条においてしっかりと定着しているようです。
往事渺茫。長い歳月が経過したのです。
1961年に新しい家庭を築く際にその法律面の教科書となさんとして,当時新刊の我妻『親族法』をあらかじめ書架に備えた新婚夫婦があったとして,彼らの長子誕生は1962年以降になったところでしょうが,1962年生まれだとすると当該長子は今年2025年に63歳。奇しくも『親族法』執筆当時の「円熟した巨匠」我妻榮の年齢となっていたのでした。
2023年10月21日の三寶寺(東京都練馬区)

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