1 自由民主党=日本維新の会連立政権の副首都構想

 

(1)「連立政権合意書」及び内閣総理大臣所信表明演説

 20251020日付けの「自由民主党・日本維新の会 連立政権合意書」に,次のようにあります。

 

  11. 統治機構改革

    首都の危機管理機能のバックアップ体制を構築し,首都機能分散及び多極分散型経済圏を形成する観点から,令和7年〔2025年〕臨時国会中に,両党による協議体を設置し,首都及び副首都の責務及び機能を整理した上で,早急に検討を行い,令和8年〔2026年〕通常国会で法案を成立させる。

 

 成立させるものは「法案」にとどまるものではなくて,法律なのでしょう。

いわゆる副首都構想ですね。「バックアップ」といえば重複が含意されているようですが,「機能分散」といえば,単に分解した上で重ならぬように散らし置くのでしょう。分散であって分割ではないのであれば,副首都は2箇所以上あることになるのでしょうか。多極分散型「経済圏」といわれていますが,これは,首都機能は政治的なものにはとどまらず,経済発展をももたらすものであると考えられているのでしょう(首都に集められた国庫の金銭が,政治家ないしはお役人を通じて優先的に同地に大量に漏れ落ちることが期待されているのでしょうか。)。しかし,米国などを見ると,連邦の首都ワシントンDC.はひとまず措くとしても,州都は必ずしもその州の経済の中心にはなっていません(ニュー・ヨーク市,フィラデルフィア市,デトロイト市,シカゴ市,ヒューストン市,ロサンゼルス市,サン・フランシスコ市,シアトル市などはいずれも州都ではありません。)。

自由民主党と日本維新の会との「連立政権」成立後,第219回国会において20251024日に行われた高市早苗内閣総理大臣の所信表明演説では次のようになりました。

 

 首都の危機管理機能のバックアップ体制を構築し,首都機能分散及び多極分散型経済圏を形成する観点から,首都及び副首都の責務と機能に関する検討を急ぎます。

 

(2)日本維新の会の「副首都法案」骨子案並びに大都市法及びいわゆる大阪都構想

 

ア 「副首都法案」骨子案

 高市内閣総理大臣が急ぐと述べた「首都及び副首都の責務と機能に関する検討」の結果はどうなるかについてですが,これについては既に2025930日に日本維新の会が「副首都法案」の骨子案をまとめているところです。当該骨子案はどのようなものかといえば,同日2247分に毎日新聞ウェブサイトに掲載された鈴木拓也及び岡崎英遠両記者による「維新,副首都法案の骨子案まとめる 26年の通常国会で提出の意向」記事によると,副首都の機能は「東京圏と並ぶ経済の中心として経済成長をけん引し,災害時に首都中枢機能を代替」することだそうで,副首都になると「事業の高度化や生産性向上などのための規制緩和国からの税源移譲国税の減免独自の税率設定」といった特例措置が受けられ,副首都の指定は道府県からの申請に基づき内閣総理大臣が行い,その指定のための要件は「大都市法に基づく特別区が設置されている経済活動が活発に行われている東京圏と同じ災害で被害を受ける恐れが少ない」であるそうです。

 

イ 大都市法及びいわゆる大阪都構想

前記の「大都市法」とは,大都市地域における特別区の設置に関する法律(平成24年法律第80号)のことです。同法は「道府県の区域内において関係市町村を廃止し,特別区を設けるための手続」等について定めるもので(同法1条),「特別区を包括する道府県は,地方自治法その他の法令の規定の適用については,法律又はこれに基づく政令に特別の定めがあるものを除くほか,都とみなす」ものとされています(同法10条)。いわゆる大阪都構想における「都」とは何かといえば,大阪市を廃止して特別区を設置し,大阪府が大都市法10条によって「都とみな」されることだったのでした。しかして当該構想に基づく大都市法7条による大阪市(同法にいう関係市町村)における選挙人の投票が2015年及び2020年に行われていますが,いずれも有効投票の過半数の賛成を得ることができず,現在のところいわゆる大阪都構想は実現していません(同法81項参照)。

日本維新の会の今次副首都構想は,副首都となることによる利点を大阪市民に提示しつつ「大都市法に基づく特別区が設置されている」ことをその要件とすることによって,いわゆる大阪都構想の最終的実現を,「三度目の正直」として副首都化と併せて目指すものでもありましょうか。

 

2 天武天皇政権の複都構想

 

(1)天武天皇十二年十二月十七日の詔

 ところで副首都といえば,我が国においては,『日本書紀』天武天皇十二年(西暦683年にほぼ相当)十二月十七日(西暦ではもう684年でしょう)条にある天武天皇の次の詔が想起されるところです。

 

  詔曰,凡都城・宮室非一処。必造両参。故先欲都難波。是以百寮者各往之請家地。

 

およそ都城・宮室は一処ではなく必ず二つ三つ造るものだ,といきなり宣言されていて,「首都の危機管理機能のバックアップ体制を構築し,首都機能分散及び多極分散型経済圏を形成する観点」は丁寧に云々されていません。とはいえ,既に孝徳天皇が大化元年(西暦645年にほぼ相当)十二月九日(西暦ではもう646年でしょう)から白雉五年(西暦654年にほぼ相当)十月まで難波長柄豊碕(なにはのながらのとよさき)に都していたところから(ただし,難波長柄豊碕宮(なにはのながらのとよさきのみや)に同天皇が遷居したのは白雉二年(西暦651年にほぼ相当)十二月末(同月末は,西暦では652年になっています)であって,また,同宮の完成は白雉三年九月のことでした。),副首都の場所については,故にまず難波に都するものとしよう,ということになったのでしょう。大阪を副首都とすることについての先例です。そうであるから百寮の役人は各々該地へ行って宅地を請い受けよ,という点は,首都機能とはすなわちそこに住む中央官庁の役人らであるということの現れでしょう。

 

(2)飛鳥及び難波以外の地における都の構想

「先づ難波」には続きがあって,『日本書紀』の天武天皇十三年(西暦684年にほぼ対応)二月二十八日条には次のようにあります。

 

 遣浄広肆広瀬王・小錦中大伴連安麻呂及判官・録事・陰陽師・工匠等於畿内,令視占応都之地。是日,遣三野王・小錦下采女臣筑羅等於信濃,令看地形。将都是地歟。

 

浄広肆の広瀬(のおほきみ)及び小錦中(せうきむちう)の大伴(のむらじ)安麻呂並びに判官,録事(ふびと),陰陽師,工匠等を畿内に派遣してまさに都すべきの地を視占()させた,というのですから,畿内に,飛鳥及び難波に次ぐ三つ目の都を造る構想があったのでしょう(なお,藤原京に持統天皇が遷居したのは,10年後の持統八年(西暦694年にほぼ相当)の十二月六日(西暦では695年になっています)でした。)。しかして,同日(天武天皇十三年二月二十八日),三野(みの)王,小錦下の采女(うねめ)(のおみ)筑羅(ちくら)等を信濃に派遣して,地形を()しめた,その地に都しようとしたのであろうか,ということですから,あるいは歴史の成行き次第では,畿外の信州にも副都が置かれることになったかもしれません。

信州の副都については「信濃に遷都の地を求めたのは国際関係の緊迫のためか。唐と戦って朝鮮より撃退した新羅の勢力を警戒したからではないか。」と註されています(小島憲之=直木孝次郎=西宮一民=蔵中進=毛利正守校註・訳『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』(小学館・1998年)433頁註21(西宮執筆=小島補訂))。しかし,天武天皇の信州に対する思い入れは,単に温泉付きの別荘(行宮)を造りたいということだったかもしれません。『日本書紀』の天武天皇十四年(西暦685年にほぼ相当)十月十日条に「遣軽部朝臣(たる)()・高田首新家(にひのみ)荒田尾(あらたを)連麻呂於信濃,令造行宮。蓋擬幸束間(つかま)温泉歟。」とあるところです。最後のところで,けだし天皇はそこに幸せむと(おも)ったのではないか,と推測された束間温泉については,「『和名抄』に「信濃筑摩郡,豆加万つかま」。筑摩郡は長野県松本市・塩尻市・東摩郡などの地で,浅間温泉・入山辺温泉などがある。そのどれかであろう。」と註されています(新編日本古典文学全集4451頁註29(西宮=小島))。ただし,天武天皇はその前月不豫となっており,翌年九月には崩御していますから,副都云々以前に純粋に湯治がしたかったのかもしれません。

 

3 旧東京都制等に関して

 

(1)昭和天皇の帝都からの御移動計画に関して

信州といえば,そういえば,先の大戦中に同地で松代大本営の建設工事がされていたのでした。

これに関してでしょうが,1944725日に小磯国昭内閣総理大臣から昭和天皇に対して「帝都からの御移動に関して言上」があったところ(宮内庁『昭和天皇実録 第九』(東京書籍・2016年)401頁),翌26日昭和天皇から木戸幸一内大臣に対して「自身が帝都を離れる時は臣民,殊に都民に不安の念を起こし,敗戦感を懐かしめる恐れがあるため,統帥部において統帥の必要上これを考慮するとしても,できる限り最後まで帝都に留まりたく,時期尚早な実行は決して好まないところであること,なお戦争の推移によっては,あるいは一部に大陸への移動等を考える者もあらんも,あくまで皇大神宮の鎮座するこの神州にあって死守しなければならない旨のお考えを示される。」ということがありました(同402頁)。

なお,ここでの昭和天皇の発言中にある「都民」との語は,前年以来の新語でしょうか。旧東京都制(昭和18年法律第89号)が施行されて東京都が置かれて東京府及び東京市が廃止されたのは(同制180条),194371日からのことでした(同制179条及び昭和18年勅令第503号)。同日「本日より東京都制及び東京都官制が施行される。午前950分,鳳凰ノ間において親任式を行われ,陸軍司政長官大達茂雄を東京都長官に任じられる。」という運びになっています(実録第九132頁)。

 

(2)旧東京都制に関して

 

ア 三つの立法趣旨

東京府及び東京市を廃止して東京都を設ける旧東京都制の立法趣旨は,194333日の貴族院東京都制案特別委員会における湯澤三千男内務大臣の説明によれば3点に帰着します。すなわち「其ノ一ツハ,帝都タル東京ニ真ニ其ノ国家的性格ニ適応致シマシタ確乎タル体制ヲ確立スルコト」,「其ノ2ハ,帝都ニ於ケル所ノ従来ノ府市並存ノ弊ヲ是正解消致シ,帝都一般行政ノ一元的ニシテ強力ナル遂行ヲ期スルコト」,「其ノ3ハ,帝都行政ノ運営ニ付キマシテ根本的刷新ト高度ノ能率化トヲ図ルコト」です(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第21頁)。

なお,旧東京都制の戦時立法性が云為されることがあります。しかし,これについては,「併シナガラ此ノ案ハ申ス迄モナク臨時的ノ戦時立法デハナイノデゴザイマシテ,帝都ノ性格ト帝都行政ノ過去ノ実績トニ深イ考慮ヲ払ッタモノデゴザイマスルカラ,戦後ニ於キマシテモ帝都行政ハ本案ノヤウナ体制ヲ以テ運営シテ行クコトガ必要デアルト考ヘテ居ルト云フノガ政府ノ答弁デゴザイマス」ということになっています(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第23頁(山崎巌政府委員(内務次官)))。

 

イ 府市並存の弊の是正解消

趣旨3点中,まず第2点の府市並存の弊の是正解消は,従来のいわゆる大阪都構想が目的としていたものと同様です。現在の大都市法による関係市町村の廃止及び特別区の設置の手続は,正にこのために用意されているものでしょう。

なお,旧東京都制下の区については,「所謂区ノ自治権ヲ拡張致シ,都ヲ35ノ独立市ニ分割スルト云フコトハ,独リ都民生活ノ実情ニ即セザルノミナラズ,都行政ノ統一ヲ破壊シ,更ニ都民ノ負担ヲ区々ナラシメテ,決シテ適当ナル結果ヲ得ルモノデナイト信」ぜられたことから,「所謂区ノ自治権ニ付キマシテハ概ネ従来ノ制度ニ則」ることとなっていました(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第22頁(湯澤内務大臣))。

 

ウ 帝都の国家的性格に適応した体制の確立

趣旨の第1点については,東京都の「機構ガ全国他地方ノ機構ニ比シテ更ニ一段ト国家的色彩ヲ濃厚ニ致シ,国家トノ間ニ緊密ナル聯繋ヲ保持スベキコトハ当然ノコト」であることから「府知事ト市長トノ職務権限ヲ合セ」る「都ノ首長ハ官吏タルヲ至当トスル」ものとされています(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第22頁(湯澤内務大臣))。

市長の選任については,市会による選挙又は(昭和18年法律第80号による改正後の旧市制(明治44年法律第68号)733項においては)市会の推薦した者に係る勅裁を経ての内務大臣の任命によるものとされていましたが,従来の東京市長の職務権限をも兼ねる新しい東京都長官は,親任官たる官吏として(旧東京都官制(昭和18年勅令第504号)1条),前記大達茂雄の任命がそうであったとおり天皇から任命されることとなりました。また,東京都の区の区長も,書記官たる国の奏任官吏をもって充てられることにされていました(旧東京都官制361項及び1条)。東京都の幹部職員は,公吏ではなく「全部官吏トスルノガ適当デアラウ」と内務省は考えていたところです(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第26頁(山崎政府委員))。

となると現在でも,複都制に係る当該道府県の首都性ないしは副首都性が必要以上に強調されると,国の干与を正当化する「国家的色彩」ないしは「国家トノ間ニ緊密ナル聯繋ヲ保持ス」る必要性が併せて想起され(東京都と国との関係の現状を見ると杞憂かもしれませんが),本来国に対して自治ないしは独立を主張すべき地方公共団体としては痛しかゆしということになるかもしれません。

 

エ 行政運営の根本的刷新及び高度の能率化

以上の第1点と第2点とに係る合わせ技をもって,「又斯様ニ致シマシテ理事機関ノ地位ヲ確立強化スルコトニ依リ,従来東京市政ニ付キマシテ,世上ノ批評ヲ招キタルガ如キ弊風ハ茲ニ一掃セラレ,帝都行政ノ真ノ刷新ト能率化トガ確保セラルコトヲ固ク信スルノデゴザイマス」として,第3の趣旨が達成されるものとされています(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第22頁(湯澤内務大臣))。

「従来東京市政ニ付キマシテ」ですから,弊風及び非能率の問題は東京府ではなく東京市にあり,というのが内務省の認識だったわけです。これについては曽我祐邦子爵委員が,東京市会議員経験者として同市会の弊風を指摘し,「自治ト云フモノニ日本人ハ落第シテ居ル」,「自治ト云フコトニ付テ日本人ガ明カニ落第シタト云フコトヲ知ッタ」,「過去ニ於ケル東京市会ノ如キモノガ存在シテ居ルコトハ,実ニ日本人ノ恥ダ」と切言しています(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第29頁)。しかして「吏僚組織ノ整備ハ,都行政ノ能率化ヲ図ル上ニ於キマシテナカ〔ナカ〕重要ナコトデア」り,「都長官ト云フ官吏ニ依ラザレバ〔東京市における状況の〕抜本塞源的な行政ノ所謂浄化ト申シマスカ,純化ト申シマスルカ,ソレノ企図ガ出来ナイ,又根本的ナ刷新,高度ノ能率化ガ出来ナイ」というのが内務省の考えでした(第81回帝国議会貴族院東京都制案特別委員会議事速記録第22頁及び11頁(湯澤内務大臣))。弊風自ずと吹きすさぶ人民自治は不純・非能率であって,天皇の優秀な官吏による民本主義的統治をもって代えることが望ましいということでしょう。

『はだしのゲン』における有名人たるかの鮫島伝次郎氏も先の大戦後,東京市ならぬ広島市(日清戦争中の帝国議会召集地にして大本営所在地たりしかつての首都ないしは副都)の市会議員に立候補したわけですが,地方議会議員になりたがるような人の典型が彼なのでしょうか。しかし,現代の進んだ意識の下にある日本国における地方議会の状況は,曽我子爵及び湯澤大臣が嘆いたかつての東京市会とは全く異なったものなのでしょう。

 

4 難波副都のその後

さて話は元に戻って,天武朝の副都であった難波です。残念なことに,そこにおける肝腎の宮殿は,前記天武天皇十二年十二月十七日の詔の2年ほど後にまる焼けになってしまいました。朱鳥元年(西暦686年にほぼ相当)一月十四日に「酉時〔18時頃〕,難波大蔵省失火,宮室悉焚。」ということになっています。そして同年九月九日,複都構想を唱道した天武天皇は崩御します。

その後神亀三年(西暦726年にほぼ相当)十月の庚午の日に聖武天皇が難波で「以式部卿従三位藤原朝臣宇合。為知造難波宮事。」という人事を行っています(『続日本紀』)。難波宮がまた造営されたわけですが(聖武天皇は,天平十六年(西暦744年にほぼ相当)に難波に都しています。),この難波宮の建物は,後に桓武天皇によって長岡京が造営される際に解体して運ばれて新京のために利用されています(長岡遷都は延暦三年(西暦784年にほぼ相当))。「天平宝字六年(762年)四月,安芸国で建造した遣唐使船を難波に廻送しようとしたところ,難波の河口が浅瀬のために座礁するということがあったように,長年にわたる堆積作用で,難波津とそれに付随する難波宮の機能は当時すでに衰えていた。淀川水系に立地する長岡遷都に際して,大和川の河口に位置する難波宮はこうして解体することが決定され,その歴史に幕を閉じることになった。」ということでした(瀧波貞子『桓武天皇――決断する君主』(岩波新書・2023年)88-89頁)。

 

5 長安と洛陽と:複都制の前例

 

(1)唐の複都制

 さて,複都制に係る天武天皇十二年十二月十七日の詔の「一処に非ず」の部分には註が施されていて,「唐で首都長安の他に洛陽を陪都として,複都制がとられていたが,その種をいう。」とされています(新編日本古典文学全集4432頁註5(西宮=小島))。どうも天武天皇は,当時のグローバル・スタンダードたる唐土の例に倣ったということのようです。しかし,長安と洛陽との関係は普遍性を持ったものだったかどうか。

 

   関中〔の長安〕に都した王朝が国都に於ける食糧の缺乏に苦しんだのはひとり唐ばかりではない。西漢〔前漢〕では関東地方(今河南,山東省等)から毎歳数十万石,或時は数百万石を長安に補給したことがあり(漢書巻24食貨志下),隋では関東,汾晉(今山西省)の粟を京師に送つてその不足を補つている。〔隋の〕文帝開皇十四年には,関中大旱の為めに帝自ら食糧の豊富な洛陽に行幸して一時の窮乏を免れたといふ様なこともあつた(隋書巻24食貨志)。しかしながら国都の食糧問題に悩まされること唐朝の如く甚しきは未だ史乗にその比を見ざる所である。関中に糧食が乏しくなると,天子は百官軍隊を従へ,遥々835唐里の路を食糧の得易い東都洛陽に赴いてこゝに駐蹕(ちゅうひつ),関中に物資が充実するのを待つて還幸するといふ様な大げさなことも屢々繰返さなければならなかつた。又長安に入り来る受験者の食糧消費を恐れて貢挙の試験場を長安,洛陽の両都に分置してその緩和を計つたことも稀れなことではなく,関輔〔輔は都を中心とした土地〕飢饉の故を以てその年の吏部の選,礼部の貢挙を停止せしめたことさへあるのである。これは唐の国威が伸張するにつれて中央財政が膨張し,関中の租米を以てしては到底之を支弁することができず,さりとて関内に於て買上げをしてその不足を補はうとしても,当時関中の産穀は秦漢時代に比して著しく減少の状態にあったので,消費者階級の集住してゐる国都長安の需要を満してその上に臨時の買上に応ずるといふ様な余裕はなかつたからである。

   (外山軍治「唐代の漕運」史林第22巻第2号(1937年)264-265頁)

 

 上記によれば,天子にとって本来の仕事場は長安であっても,食糧不足というよんどころない事情からして,洛陽を第二の都としなければならなかったということのようです。

 

(2)漢土における洛陽の中心性

 ところで実はむしろ洛陽の方が,本来,漢土の中心だったのでした。

 

   〔前略〕この王朝〔夏〕の都が河南省の洛陽盆地にあったということは,すべての古い伝承が一致している。これはなぜかというと,ここが華中から華北へ黄河を渡る,ほとんど唯一の渡し場だったからである。

   黄河は海抜1000メートルのモンゴル高原から南へ,急流をなして流れ落ちてきて,水にとけやすい黄土層に深い谷を刻み込み,東岸の山西省と西岸の陝西省の高原を分けてから,秦嶺山脈にぶつかって東に向きを変え,洛陽盆地の北で谷間から平原に出て,急に流れがゆるやかになる。ここまでの両岸は黄土層の断崖絶壁が,ところによっては170メートルもの高さで垂直にそそり立って,渡るのはほとんど不可能に近い。だから洛陽のあたりで,はじめて渡れるようになるのだが,ここから少し下流になると,まったく平坦な平原が海まで続いているものだから,流速が極端に落ちて排水が悪くなり,黄河の水が内陸から運び出す黄土がどんどん河底に堆積して浅くなるので,増水期ごとに河北省,山東省の平原は一面の泥の海となり,やっと減水すると,河道の位置がすっかり変わってしまう。少なくとも人間が治水工事をやるようになるまではそうだったので,山東半島の泰山山塊と,山西高原の東縁の太行山脈の麓とを除いたら,黄河デルタは人間の住むところではなかった。そういうわけで,華中の長江流域から水路伝いに北上する交通路は,一度みんな洛陽盆地に集まってから,黄河を渡って華北に入ったのである。

  (岡田英弘『倭国』(中公新書・1977年)13-14頁)

 

(3)北魏の洛陽から西魏・北周・隋・唐の長安へ

隋唐両帝国は北魏以来の北朝の流れを汲みますが,鮮卑族の漢化を進めた北魏の孝文帝が5世紀末に平城(山西省の大同)から遷都した先は,実は正に洛陽だったのでした(更に孝文帝は,鮮卑風の拓跋氏から漢風の元氏に自ら改姓をしています。)。

しかして北魏はその後,爾朱氏と皇帝家の元氏との争いを経て西の実力者・宇文泰(北魏においてその北辺を守るため配置されていた六鎮のうちの一つである武川鎮の出身)と東の実力者・高歓との間に分裂して,西魏は長安を,東魏は河北の鄴を都とします。更に6世紀の半ばに前者は宇文氏の北周,後者は高氏の北斉に取って代わられ,そのうち西の北周を承継したのが隋だったのでした(隋の初代皇帝・楊堅は北周皇帝の外戚)。天下騒乱の中で隋の煬帝が殺害された際,「時に〔隋室と〕同じ武川鎮軍閥に属する李淵,李世民の父子が,北辺の前進基地,晋陽で兵を挙げ,都長安に入り,煬帝の孫,恭帝を立てて天子とした。李淵父子にとって,これまで歴代の都であった長安に拠り,従来の組織を活用して天下の情報を入手し得たのが何よりの強みであった。」ということになっています(宮崎市定『中国史(上)』(岩波文庫・2015年(1977年))320頁)。

唐の首都が洛陽ではなく長安であったことについては,北魏の東西分裂以来の経緯があったのでした。

 

(4)前漢の劉邦による洛陽ならぬ長安の選択について

なお,前漢の高祖・劉邦は,当初は洛陽を首都とするつもりでしたが,関中に都すべしとの劉敬(元は婁氏でしたが,後に劉邦から劉の賜姓を受けています。)の進言及び当該進言に対する名軍師・張良の賛同を承けて翻意し,関中の長安を首都としています。

さて,劉敬が言うには,周公旦の時代に周は成周洛邑(洛陽)を営んで天下の中心とし(「乃営成周洛邑,以此為天下之中也」),すなわちそこは諸侯が四方から(みつぎ)(もの)を納めに来るにも旅程が均しく偏らない場所だったんだけれども(「諸侯四方納貢職,道里均矣」),洛陽の地勢は,有徳の君主にとっては王たりやすい一方無徳の君主にとっては亡びやすい所で(「有徳則易以王,無徳則易以亡。」),周の衰亡期には(「及周之衰也」),その土地の要害が弱い(「形勢弱」)ために,周は天下の諸侯が入朝をしなくなるままそれらを制することができなくなったのですが(「天下莫朝,周不能制也」),翻って現在は,人民の肝脳が地に(まみ)父子の骨が野に(さら)される(「使天下之民肝脳塗地,父子暴骨中野」)といった悲惨な漢楚の争乱が終ってまだ間がなく,天下はそこから依然立ち直っていないので(「哭泣之声未絶,傷痍者未起」),周が洛陽を営んだ成王及び康王の時代と同じような(さか)んなことをしようにも,状況は(ひと)しくはないと思います(「而欲比隆於成康之時,臣窃以為不侔也。」),ところで,陛下が関中に入ってそこに都すれば,(こう)山・函谷関より東の地で叛乱が起こっても,秦の故地である関中は全くして(たも)つことができます(「陛下入関而都之,山東雖乱,秦之故地可全而有也。」),これこそ天下の(のどくび)(つか)んでその背を()つというものです(「此亦搤天下之亢而拊其背也。」),ということでした(『史記』劉敬叔孫通列伝第39)。天下はなお不穏なので,便利だけれど要害の悪い洛陽ではなく,なお不測の事態に備えて戦略上有利な関中に都する方がよいというわけです。

張良も,洛陽の要害なるものはなお,四面に敵を受けて,武を用いるの国ではないとし(「四面受敵,此非用武之国也。」),南北及び西の三面を(へだ)てて守り,独り一面をもって東に諸侯を制する(「阻三面而守,独以一面東制諸侯。」)関中の軍事上の有利さを説くとともに,黄河・渭水の漕運の便についても,諸侯が安定していれば黄河及び渭水を用いて天下の産物を運搬して西の(かた)京師に給し,諸侯に変があれば流れに(したが)って下すことにより変に応ずるための物資を運送することができる(「諸侯安定,河渭漕輓天下,西給京師。諸侯有変,順流而下,足以委輸。」),と述べています(『史記』留侯世家第25)。

ここで話は我が国に戻ります。

 

6 大阪の「ジンクス」

 

(1)『歴史を紀行する』と孝徳天皇政権と

またまた大阪なのですが,司馬遼太郎によると,大阪は「政権を亡ぼす宿命の都」であるそうです(司馬遼太郎『歴史を紀行する』(文藝春秋・1969年)231-252頁)。

このジンクス(「「大阪に腰をおろした権力者はかならずほろぶ」というあのジンクス」(司馬243頁),「虚心にみればたれが考えても日本の首都は大阪であるべきであった。ところがこの最高の地政学的条件の地が首都にならなかった(ときにはなる。しかしすぐほろぶ)のはふしぎなほどであ」る(同233-234頁))の発現は――司馬遼太郎は大阪に腰をおろした権力者として,平清盛(同234頁),蓮如(同235-238頁),織田信長(同238-239頁)及び豊臣秀吉(同240-242頁)を挙げていますが(ただし,このうち蓮如及びその石山本願寺は「平家,織田氏,豊臣氏と同様,一代かぎりの悲運に見まわれ」たものとは見ていないようです(同249頁参照)。)――7世紀半ばの時代,孝徳天皇に率いられていた大化の改新政権の分裂からでありましょうか。すなわち,前年九月に難波長柄豊碕宮が完成したばかりの白雉四年(西暦653年にほぼ相当)において,

 

  是の歳に,太子(ひつぎのみこ)〔中大兄皇子〕奏請(まを)して(まを)さく,「(ねが)はくは(やまとの)(みやこ)(うつ)らむ」とまをしたまふ。〔孝徳〕天皇,許したまはず。皇太子,(すなは)ち皇祖母尊・間人(はしひと)皇后(のきさき)(ゐたてまつ)り,幷せて(すめ)(いろど)(たち)()て,往きて(やまとの)飛鳥(あすかの)河辺(かはへの)行宮(かりみや)()します。時に(まえ)(つき)大夫(みたち)・百官の人等,皆随ひて遷る。是に由りて,天皇,恨みて(くにの)(みくらい)()りたまはむと(おもほ)し,(おほみや)を山碕に造らしめたまひ,乃ち歌を間人皇后に送りて曰はく,

 

   金木着け ()が飼ふ駒は 引き()せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか

 

 とのたまふ。

 (新編日本古典文学全集4195-196頁)

 

という出来事がありました。偉大なる政治家たる姉貴(皇祖母尊=皇極前天皇),その娘である妻(間人皇后),甥ら(中大兄皇子,大海人皇子ら),部下たち(公卿大夫・百官の人等)に打ち捨てられ,一人置き去りにされてしまって寂しい孝徳天皇は,翌白雉五年十月十日に難波長柄豊碕宮で崩御しています。

孝徳天皇の難波長柄豊碕宮における在位期間は3年足らずということになります。しかしそれでも,「かれは天正八年に大坂を手に入れ,ここに一大首都を建設しようとしたが,2年後の同十年には本能寺で死なねばならない」ことになった織田信長(司馬239頁)よりは長く大阪の地に君臨しておられたわけです。

なお,倭飛鳥河辺行宮の場所については「明日香村大字稲淵で1976年にコの字形の掘立柱遺構と石敷広場とが発掘され,7世紀後半の土器と硯が出土。飛鳥河辺行宮に比定されるが異論もある。」と註されていますところ(新編日本古典文学全集4194-195頁註14(西宮=小島)),明日香村は高市郡に属します。

 聖武天皇は,1年もたたぬうちに難波からまた遷都しておられて結構なことでした。

 大阪に深入りしなくて結構だったことは,一旦は明治新政府の大阪遷都を考えたものの結局は東京遷都に切り替えた大久保利通(司馬246-248頁)に関しても同様でしょう。

 

  いずれにせよ,維新政府は大阪を経済都市としてのみにとどめた。もしこれを首都にしておれば,例のジンクスによって平家,織田氏,豊臣氏と同様,一代かぎりの悲運に見まわれ,日ならず第二革命がわきおこってつぶされていたかもしれない。げんに土佐の自由民権家の林有造らがそれをくわだてているのである。かれらは西南戦争の前,薩摩の西郷〔隆盛〕と連絡しつつ大阪を襲撃し,ここを占拠して日本の東西を遮断し,大阪の経済力をもって東京政府を圧倒覆滅しようと企画した。この企画は西郷がのらなかったため実施以前につぶれた〔後略〕。

  (司馬249頁)

 

(2)仁徳天皇政権について

 

ア 86年間の聖代

 

(ア)86年間の長期政権

 しかし,難波にあっても例外的に長期政権を達成した帝王がおられます。

 仁徳天皇です。

 

  元年春正月丁丑朔己卯〔三日〕,大鷦鷯(おほさざきの)(みこと)即天皇位。〔略〕都難波。是謂高津宮

 

  八十七年春正月戊子朔癸卯〔十六日〕,天皇崩。

 

と『日本書紀』にありますから,難波(高津宮)に都して86年間ほど在位しておられたということでしょう。これは,長い。したがってさすがの司馬遼太郎も,仁徳天皇政権が難波にあったことを認識しつつも(司馬237頁),同政権が大阪の「ジンクス」によって亡んだとは述べていません。

 

(イ)民の竈

 しかして仁徳天皇といえば,次の挿話が有名です(『日本書紀』)。

 

  四年春二月己未朔甲子〔六日〕,詔群臣曰,朕登高台以遠望之,烟気不起於域中。以為,百姓既貧,而家無炊者。〔略〕

  三月己丑朔己酉〔二十一日〕,詔曰,自今之後,至于三載,悉除課役,息百姓之苦。

 

高台に登って遠望してみると家に(かし)ぐ者なく炊烟が域中に起っていない,思うに人民は貧しいのだなあ,と言われる場合の貧しさの原因は,現在の我が国のように食料品価格の高騰でしょうか(ただし,仁徳天皇の時代には通貨はまだありませんが。)。

価格は需要と供給とで決まるものとされています。人口を減らさない前提下では食糧需要を減らすことはできないでしょうから,食料品価格引下げのための対策としては,供給増加策が王道でしょう(1846年の英国穀物法の廃止参照)。

仁徳天皇は,これから3年間課役を全て免除して人民を苦しみから(やす)ませろ,と命じましたが,ここでの「課役」が税金であると(ただし,仁徳天皇の時代には通貨はまだありませんが。),食料品の供給が増えないまま所得増に伴い需要が増えて,かえって食料品価格が上昇しそうでもあります(又は品不足の発生)。しかし,ここでの「課役」が物の貢納及び労役であれば,朝廷のための貢納物の生産及び労役が免ぜられることによって生ずる農業等労働力の拡大による食糧供給の増加が見込まれるということだったのでしょうか。

「自由民主党・日本維新の会 連立政権合意書」には次のようにあります。

 

  1. 経済財政関連施策

     〔略〕

    飲食料品については,2年間に限り消費税の対象としないことも視野に,法制化につき検討を行う。

     〔略〕

 

 仁徳天皇の難波政権による3年間の課役全免策の効果は次のとおりでした(『日本書紀』)。

 

七年夏四月辛未朔〔一日〕,天皇居台上,而遠望之,烟気多起。是日,語〔磐之媛(いはのひめの)(みこと)〕皇后曰,朕既富矣。豈有愁乎。皇后対諮,何謂富焉。天皇曰,烟気満国。百姓自富歟。皇后且言,宮垣壊而不得脩。殿屋破之衣・被露。何謂富乎。天皇曰,其天之立君,是為百姓。然則君以百姓為本。是以古聖王者一人飢寒,顧之責身。今百姓貧之則朕貧也。百姓富之則朕富也。未之有百姓富之君貧矣。

 

 (うてな)に上って遠くを見ていた貧乏な夫(垣根が壊れても修理できず,家屋も破れ,衣や(おほみふすま)も露に濡れている状態(「宮垣壊而不得脩。殿屋破之衣・被露。」なお,ここでの「「之」は,順接の「以・而」と同じ意の助字」です(小島憲之=直木孝次郎=西宮一民=蔵中進=毛利正守校註・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』(小学館・1996年)34頁註3(西宮執筆=小島補訂))。)がいきなり「おれはもう富んでいる。心配はいらない。」と語りかけてくれば,妻としてはびっくりして「何であなたは富んでいるとおっしゃるのですか(「何謂富焉。」)」と反問することは当然でしょう。炊烟が多く立ち上って国に満ちているということは,人民が豊かになったということだよ(「烟気多起。」「烟気満国。百姓自富歟。」),というのが仁徳天皇による謎解きでした。人が富めばおれも富む(「百姓富之則朕富也。」)と一応は言ってはいますが,しかし仁徳天皇は,『ドラえもん』のジャイアンのように強欲な「人の物はおれの物」主義者ではありませんでした。(すなわち,人が貧しければおれも貧しいのであって(「百姓貧之則朕貧也。」),人が貧しくてもおれは富む,ではありません。)飽くまでも,民本主義を奉ずる君主(「君以百姓為本。」)としての己が統治の成果に係る満足を表明する発言であった,ということになっています。

 なお,「高屋(たかきや)にのぼりてみれば(けぶり)(たつ)民のかまどはにぎはひにけり」との「御製」は,「延喜六年906)の日本紀竟宴〔延喜四年八月に開講し,藤原春海を博士に,矢田部公望を尚復(博士の補佐)として同六年十月まで行われた朝廷主催の『日本書紀』講読の終講を祝うため同年閏十二月に行われたもの(神野志隆光『「日本」国号の由来と歴史』(講談社学術文庫・2016年)89-91頁)〕の際,藤原時平の奉詠歌〔竟宴和歌は,神や人物を主題に詠まれ,延喜六年のものは40首『日本紀竟宴和歌』に収められています(神野志91頁)。〕「高どのに登りて見れば天の下四方にけぶりて今ぞ富みぬる」が伝承されているうちに,仁徳天皇の仁政とからみ合って御製として伝わったものと思われる。」とされています(岩佐正校註『神皇正統記』(岩波文庫・1975年)214頁註15)。

 

イ 息子たち

 しかし,仁徳天皇の難波政権も,やはり一代限りだったのではないでしょうか。仁徳天皇の息子たちの代において,同政権はグダグダになっています。

すなわち,跡継ぎの履中天皇はその弟の住吉(すみのえの)(なかつ)皇子(みこ)の叛逆に遭い,炎上する難波から蒙塵して大和に逃亡するに至り(後に磐余稚(いはれのわか)(さくらの)宮で即位),②履中天皇を逐って難波の主となった住吉仲皇子をその家臣に暗殺させた上で当該暗殺者の命を奪い,その後履中天皇の儲君となってその跡を継いだ同天皇及び住吉仲皇子の弟である反正天皇は4年余ほどのみ河内の丹比(たぢひ)柴籬(しばかきの)宮に都した後崩御し(柴籬宮の場所については,「所在未詳。『帝王編年記』は「丹比柴籬宮。河内国丹比郡,今宮坂上路北宮地是也」,『河内志』は「丹比郡松原荘植田村(大阪府松原市上田)広庭神祠の東北にあり」とする。」と註されています(新編日本古典文学全集3:97頁註16(西宮=小島))。)最終的には,履中天皇,住吉仲皇子及び反正天皇の弟である允恭天皇が群臣の推戴によって即位しますが,その都は最早難波ないしは河内にではなく,(とほつ)飛鳥にあったとされているのでした(『古事記』)。