Glockenklang und Chorgesang
CHOR DER ENGEL.
Christ ist erstanden!
Freude dem Sterblichen,
Den die verderblichen,
Schleichenden, erblichen
Mängel umwanden.
FAUST.
Welch tiefes Summen, welch ein heller Ton,
Zieht mit Gewalt das Glas von meinem Munde?
Verkündiget ihr dumpfen Glocken schon
Des Osterfestes erste Feierstunde?
Ihr Chöre singt ihr schon den tröstlichen Gesang?
Der einst, um Grabes Nacht, von Engelslippen klang,
Gewißheit einem neuen Bunde.
多くの人々にとって神聖かつ意義深いであろう春の一週末👼🥚🐇を迎え,またも季節物の記事を書いてしまいました。(2021年には「De Falsis Prophetis(旧刑法及び警察犯処罰令における若干の条項に関して)」(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1078468873.html)という記事を書きましたが,今見ると非常に読みづらいですね。本稿もその二の舞になりそうです。)
1 違法勾引
Et adhuc eo [Jesu] loquente venit Judas Scarioth unus ex duodecim
et cum illo turba cum gladiis et lignis
a summis sacerdotibus et a scribis et a senioribus
…..
et cum venisset statim accedens ad eum [Jesum] ait rabbi
et osculatus est eum
at illi manus injecerunt in eum et tenuerunt eum
(Mc 14,43; 14,45-46)
これは違法勾引です(逮捕ではなく勾引であると判断した理由は,裁判所の(a summis sacerdotibus et a scribis et a senioribus(祭司長ら,律法学者ら及び長老らの))手の者ら(turba)たる「彼らは(illi)彼に(in eum)手をかけ(manus injecerunt),かつ,彼を確保した(et tenuerunt eum)」ということだからです。身柄被拘束者が裁判所に引致されるべき勾引(刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)73条1項参照)であって,検察官,検察事務官又は司法警察職員による逮捕(同法199条1項参照)ではないでしょう(検察事務官又は司法巡査が逮捕したときの被疑者の引致先は検察官又は司法警察員です(同法202条)。)。剣及び棒を持っていた(cum gladiis et lignis)というのですから直接強制性は歴然としており,召喚(刑事訴訟法57条)ではないですね(「召喚は強制処分ではあるけれども直接強制力を使うことはできず,不出頭の制裁もな」いものです(田宮裕『刑事訴訟法(新版)』(有斐閣・1996年)254頁)。)。ちなみに,旧治罪法(明治13年太政官布告第37号)の下では告訴・告発を直接受けた予審判事(同法93条1項・97条)の発した勾引状による勾引があり得たこと(同法93条2項・115条)を御紹介申し上げ置きます(荻村慎一郎「比較法・外国法で学べることの活かし方――スペイン法における「起訴」を題材として――」,岩村正彦=大村敦志=齋藤哲志編『現代フランス法の論点』(東京大学出版会・2021年)380頁参照)。)。ここでは,然るべき令状が被告人に示されていません(刑事訴訟法73条1項前段には「勾引状を執行するには,これを被告人に示した上,できる限り速やかに且つ直接,指定された裁判所その他の場所に引致しなければならない。」とあります。)。日本国憲法33条は「何人も,現行犯として逮捕される場合を除いては,権限を有する司法官憲が発し,且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ,逮捕されない。」と規定しており,「ここに「逮捕」とは,刑事訴訟法による被疑者の逮捕のみならず,勾引・勾留をも含むと解される」ものです(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)592頁)。令状を所持しないためこれを示すことができない場合において急速を要するときは,被告人に対して公訴事実の要旨及び令状が発せられている旨を告げて,その執行をすることができますが(刑事訴訟法73条3項),「到着したので(cum venisset),直ちに被告人に近付いて(statim accedens ad eum)「先生」と呼びかけ(ait rabbi),そして同人に接吻した(et osculatus est eum)」ということをもって当該告知があったものとするわけにはいかないでしょう。
なお,「なおも彼(被告人)が話していたところ(adhuc eo loquente)」において12人中の一人がやって来て(venit … unus ex duodecim)の身柄確保ですが,当該話の内容が犯罪を構成することを理由とした現行犯逮捕(刑事訴訟法212条以下)というわけではないでしょう。
2 土着法における瀆神の罪
引致された先の裁判所における手続はグダグダになりかけたようですが(公訴事実自体がはっきりしていなかったのでしょう。),被告人が自爆的供述をして,裁判所の面子は確保されました。
ille autem tacebat et nihil respondit
rursum summus sacerdos interrogabat eum et dicit ei
tu es Christus Filius Benedicti
Jesus autem dixit illi
ego sum
et videbitis Filium hominis a dextris sedentem Virtutis
et venientem cum nubibus caeli
Summus autem sacerdos scindens vestimenta sua ait
Quid adhuc desideramus testes
audivistis blasphemiam quid vobis videtur
qui omnes condemnaverunt eum esse reum mortis
(Mc 14,61-64)
「しかし彼(被告人)は沈黙しており,何も答えなかったので,/裁判長(summus sacerdos)は彼に改めて質問を行い,彼に言うには」ということで被告人に対して君はこれこれの者かねと誘導的に訊いたところ,被告人は当該誘導に応えて,そうなのだ(ego sum),俺は油を塗られた者で,かつ,祝福されたる高き存在の息子なのだ,「で,お前さん方は人の子たるおらが至徳の存在の右側に座しておって,/そして天の雲と一緒にやって来るのを見るんだずら。」と,今度は彼(裁判長)に供述したので(autem dixit illi),そこで裁判長は「自らの法服を引き裂き言うには,/これ以上証人の不足を嘆く理由があろうか,/諸君は瀆神の言を聞いたのである,諸君はどうすべきと思われるのか(quid vobis videtur)。/そこで全会一致で,被告人は死刑に処せられるべき者であるとの有罪判決が下された。」というわけです。法廷でいきなり裁判官が自分で自分の法服を引き裂くのは,その「品位を辱める行状」(裁判所法(昭和22年法律第59号)49条)にならないのかどうかちと心配ですが,この場合は問題がなかったのでしょう。
瀆神罪を犯した者は死刑に処せられる旨律法に規定されています。
et qui blasphemaverit nomen Domini morte moriatur
lapidibus opprimet eum omnis multitudo
sive ille civis seu peregrinus fuerit
qui blasphemaverit nomen Domini morte moriatur
(Lv 24,16)
しかして,主の名を冒瀆した者は死刑に処せられるべし。
全ての民が彼を石打ちにする。
国民であっても外国人であっても,
主の名を冒瀆した者は死刑に処せられるべし。
当該の神(主=Dominus)を信じない外国人(peregrinus)に対しても瀆神罪が成立するものとされています。なお,この点我が刑法(明治40年法律第45号)のかつての不敬罪(同法旧74条及び旧76条(天皇,太皇太后,皇太后,皇后,皇太子若しくは皇太孫又は神宮若しくは皇陵に対するものについては3月以上5年以下の懲役(旧74条),皇族に対するものについては2月以上4年以下の懲役(旧76条)))は更に一歩念入りに規定されていて,日本国内及び日本国外の日本船舶内で不敬行為を行った外国人に対して成立する(同法1条)のみならず(ここまでならば,上記律法並びに礼拝所不敬及び説教等妨害に係る刑法188条と同じ。),日本国外において不敬行為を行った全ての者についても成立したのでした(昭和22年法律第124号による削除前の刑法2条1号)。
ちなみに,公判廷において重罪(死刑が主刑である罪は重罪です(旧刑法(明治13年太政官布告第36号)7条1号)。)が発生したときの取扱いについて旧治罪法275条は「公廷ニ於テ重罪ヲ犯シタル者アル時ハ裁判長被告人及ヒ証人ヲ訊問シ調書ヲ作リ裁判所ニ於テ検察官ノ意見ヲ聴キ通常ノ規則ニ従ヒ裁判スル為メ予審判事ニ送付スルノ言渡ヲ為ス可シ」と規定していました。
3 刑の執行権の所在問題及び適用される法の問題
しかし,前記石打刑の執行は当時の当該地においては停止されていたようです。
dixit ergo eis Pilatus
accipite eum vos et secundum legem vestram judicate eum
dixerunt ergo ei Judaei
nobis non licet interficere quemquam
(Io 18,31)
そこで(ergo)総督が彼らに(eis)言ったには(dixit),「君らが彼を引き取って,君らの法律に従って彼を裁きなさい。」と。そこで(ergo),彼に対して(ei)彼ら土着民が言ったには(dixerunt),「いかなる者についても我々は死刑を行う(interficere=殺す)ことを許されておりません。」と。
二つの解釈が可能であるようです。①専ら死刑執行の権限が土着民政府から総督府に移されていたという趣旨か,②土着刑法に基づいては死刑を科することができず,被告人を死刑に処し得る法は当該地に施行されている総督の本国法に限られるという趣旨か。
4 死刑の執行命令制度の機能
(1)旧治罪法460条と恩赦大権と
前記①については,裁判所による死刑の裁判と行政機関によるその執行との関係ということでは,刑事訴訟法475条(「死刑の執行は,法務大臣の命令による。/前項の命令は,判決確定の日から6箇月以内にこれをしなければならない。但し,上訴権回復若しくは再審の請求,非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間は,これをその期間に算入しない。」)が不図想起されるところです。同条は,そもそもは旧治罪法460条(「死刑ノ言渡確定シタル時ハ検察官ヨリ速ニ訴訟書類ヲ司法卿ニ差出ス可シ/司法卿ヨリ死刑ヲ執行ス可キノ命令アリタル時ハ3日内ニ其執行ヲ為ス可シ」)に由来します。
ボワソナアドのProjet de Code de Procédure Criminelle (1882)を見ると,旧治罪法460条に対応するボワソナアド案は次のとおりです(pp. 916-917)。(なお,これらボワソナアド案622条及び623条にはフランス治罪法(1808年法)の対応条文が掲げられていません。これに対して旧治罪法461条(「死刑ヲ除クノ外刑ノ言渡確定シタル時ハ直チニ之ヲ執行スヘシ」)の原案であったボワソナアド案624条については(ただし,そこでは刑の執行時期は「直チニ」ではなく「3日以内」になっています。),フランス治罪法375条(同条では刑の執行期限は24時間以内です。)が対応条文として掲げられています(Boissonade, p.917)。)
Art. 622. En cas de condamnation à mort, s’il n’y a pas eu de pourvoi en cassation, soit du condamné, soit du ministère public, et qu’il y ait, ou non, recours en grâce, le commissaire du Gouvernement près le tribunal qui a statué transmettra, sans délai, au Ministre de la justice les pièces de la procédure.
第622条 死刑判決の場合において,被告人からも検察局からも破毀上告がされないときは,恩赦申立ての有無を問わず,当該裁判をした裁判所に対応する検察官は,遅滞なく,訴訟書類を司法卿に送付するものとする。
623. S’il n’y a pas eu recours en grâce et que le Ministre de la justice ne croye pas devoir proposer à l’Empereur la grâce ou une commutation de peine, comme il est prévu au Chapitre IIIe, ci-après, il renverra les pièces, dans les dix jours, audit commissaire du Gouvernement, avec l’ordre d’exécution, laquelle aura lieu dans les trois jours.
第623条 恩赦申立てがなく,かつ,後の第3章に規定されるところにより天皇に特赦又は減刑の上奏をしなければならないものではないと司法卿が信ずるときは,同卿は,執行の命令と共に当該検察官に対して10日以内に書類を返付するものとする。当該執行は3日以内に行われるものとする。
ボワソナアド案622条及び623条に関する解説は次のとおり(Boissonade, pp.923-924)。
ここにおいて死刑の有罪判決は,被告人の利益のためにする,共同の権利に対する一つの例外を提示するが,それはその絶対的不可修復性によるものである。破毀上告の棄却後にも,行使されなかった上告の期限の経過後にも,すぐに刑の執行がされるものではない。
裁判をした裁判所に対応する検察局は全ての訴訟書類を司法卿に送付しなければならず,同卿は,それを取り調べて,第3章において取り扱われている特赦又は減刑を天皇に上奏する余地があるかどうかを判断する。同卿が特赦も減刑も上奏しないときは,刑法(〔旧刑法13条〕)に則った執行の命令と共に,10日以内に当該書類を返付する。当該命令の到達から3日以内に執行がされなければならない。
司法卿による当該特別命令の必要性の正当化は容易である。もし執行が,特別な命令の到達までは延期されるものではなく,反対に,猶予命令のない限りは当該官吏にとって義務的なものであったならば,(不幸なことにこの事象の発生は1箇国にとどまらないが)猶予命令が発送されたものの到達せず,しかして取り返しのつかない不幸が実現せしめられたということが起り得るのである。
死刑判決に対する破毀上告が棄却され,又は大審院が自ら死刑判決をしたときも同様の手続(ボワソナアド案622条及び623条の手続)が採られるものとされていました(ボワソナアド案625条(Boissonade, p.917))
執行権者による恩赦の許否の判断過程が,裁判所の死刑判決と当該裁判の執行との間に介在するわけです。なお,当該判断の量的重大度をボワソナアドがどのように見ていたかといえば,ボワソナアドがその11月15日に来日した1873年(大久保泰甫『日本近代法の父 ボワソナアド』(岩波新書・1977年(第3刷・1998年))50頁)当時のフランスでは,「1873年を境に,死刑判決にたいする恩赦の数が,実際の執行の数を上回るようになった」ところであって(福田真希「フランスにおける恩赦の法制史的研究(八・完)」法政論集244号(2012年)120頁),すなわち,死刑判決を受けた者の少なくとも半数近くは減刑(さすがに特赦にまではいかないでしょうが)の恩典に浴するものとボワソナアドは考えていたのではないでしょうか。ちなみに,フランス七月王制の「1830年の憲章第58条は,1814年の憲章と同じように,国王による恩赦と減刑を認めた」ところ「国王ルイ=フィリップ(在位1830年~1848年)は積極的に恩赦を与え,1830年9月27日の通達からは,死刑判決の場合には,たとえ嘆願がなかったとしても,恩赦の可能性が検討されることとな」り(福田真希「フランスにおける恩赦の法制史的研究(七)」法政論集243号(2012年)122頁),第二帝制及び第三共和制の下においても同様に「死刑の場合には,嘆願がなかったとしても,恩赦の可能性が検討された」ところです(同124頁)。
我が国では恩赦については,大日本帝国憲法16条(「天皇ハ大赦特赦減刑及復権ヲ命ス」)の恩赦大権がかかわっていました。旧治罪法477条3項は「特赦ノ申立アリタル時ハ司法卿ヨリ其書類ニ意見書ヲ添ヘ上奏ス可シ」と,同法478条1項は「司法卿ハ刑ノ言渡確定シタル後何時ニテモ特赦ノ申立ヲ為スヿヲ得」と,旧恩赦令(大正元年勅令第23号)12条は「特赦又ハ特定ノ者ニ対スル減刑若ハ復権ハ司法大臣之ヲ上奏ス」と規定していました。
なお,旧恩赦令13条1項はまた「刑ノ言渡ヲ為シタル裁判所ノ検事又ハ受刑者ノ在監スル監獄ノ長ハ司法大臣ニ特赦又ハ減刑ノ申立ヲ為スコトヲ得」と規定していたところ,いわゆる朴烈事件に係る大逆罪(刑法旧73条)による大審院(旧裁判所構成法(明治23年法律第6号)50条第2号により大逆罪についての第一審にして終審の裁判所)の朴烈及び金子文子に対する死刑判決(1926年3月25日)については,直ちに「検事総長〔旧裁判所構成法56条1項により大審院の検事局に置かれていました。〕ヨリ恩赦ノ上申ガアリマスルヤ,内閣ニ於キマシテハ10日ニ亙リマシテ仔細ノ情状ヲ調査致シマシテ,而シテ後ニ総理大臣ハ〔摂政に対して減刑の〕奏請ヲセラレタ」(1927年1月18日の衆議院本会議における江木翼司法大臣の答弁(第52回帝国議会衆議院議事速記録第4号30頁))という運びとなり(すなわち,1926年4月5日に摂政宮裕仁親王は「午前,内閣総理大臣若槻礼次郎参殿につき謁を賜い,言上を受けられ」ています(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)439頁)。),1926年4月5日,朴・金子に対する無期懲役への減刑がされています。また,恩赦をするについては,有罪判決を受けた者について「決シテ改悛ノ情ガ必ズシモ必要デナイ」旨が明らかにされています(江木司法大臣(第52回帝国議会衆議院議事速記録第4号30頁))。朴・金子に係る減刑問題は内閣で取り扱われ,内閣総理大臣から上奏がされていますが,これは,事件が大きくて司法大臣限りでは処理できなかったからでしょう。
(2)日本国憲法下における恩赦法等との関係
しかしながら,日本国憲法73条7号は「大赦,特赦,減刑,刑の執行の免除及び復権を決定すること」を内閣の事務としており,更に恩赦法(昭和22年法律第20号)12条は「特赦,特定の者に対する減刑,刑の執行の免除及び特定の者に対する復権は,中央更生保護審査会の申出があつた者に対してこれを行うものとする。」と規定しています(「中央更生保護審査会の申出があった者についてのみ行なうものとされている」わけです(佐藤213頁。下線は筆者によるもの)。)。しかして恩赦法15条に基づき同法の施行に関し必要な事項を定める恩赦法施行規則(昭和22年司法省令第78号)1条を見ると,恩赦法12条の規定に拠る中央更生保護審査会の申出は刑事施設若しくは保護観察所の長又は検察官の上申があった者に対してこれを行うものとする,ということにされていて,法務大臣閣下の直接の出番はないようです(なお,本人から特赦,減刑若しくは刑の執行の免除又は復権の出願があったときは,刑事施設の長,保護観察所の長又は検察官は,意見を付して「中央更生保護審査会にその上申をしなければならない」と規定されています(同規則1条の2第2項,3条2項)。)。恩赦に係る司法卿ないしは司法大臣の上奏権に基づくボワソナアド的ないしは旧治罪法460条的な理由付けは,現在の刑事訴訟法475条1項には妥当しづらいようです。(ただし,刑事訴訟法の施行(1949年1月1日から)の後6箇月間(同年6月30日まで)は,恩赦法12条は「特赦,特定の者に対する減刑,刑の執行の免除及び特定の者に対する復権は,検察官又は受刑者の在監する監獄の長の申出があつた者に対してこれを行うものとする。」と規定されていました(下線は筆者によるもの。犯罪者予防更生法施行法(昭和24年法律第143号)6条によって申出をする機関が「中央更生保護委員会」に改められ(同委員会は,国家行政組織法(昭和23年法律第120号)3条2項の委員会でした(旧犯罪者予防更生法(昭和24年法律第142号)3条1項)。),1952年8月1日からは更に「中央更生保護審査会」に改められています(法務府設置法等の一部を改正する法律(昭和27年法律第268号)5条)。)。)
現在は「まず執行指揮検察官の所属する検察庁から,検事長ないし検事正の名義で,死刑執行に関する上申書が法務大臣に提出される。法務省では,裁判の確定記録など関係資料を取り寄せ,再審,非常上告,あるいは刑の執行の停止の事由がないかどうか,また,恩赦を認める余地がないかどうかを綿密に審査した上で,執行起案書を作成する。刑事局,矯正局,保護局のすべてが関与して,誤りなきを期するための努力が払われ,最後に大臣の命令が発せられるのである。」ということですが(松尾浩也『刑事訴訟法(下)新版』(弘文堂・1993年)310頁),恩赦について中央更生保護審査会に上申するのは前記のとおり法務大臣ではなく刑事施設若しくは保護観察所の長又は検察官ですし,再審の請求ができる者は検察官並びに有罪の言渡しを受けた者,有罪の言渡しを受けた者の法定代理人及び保佐人並びに有罪の言渡しを受けた者が死亡し,又は心神喪失の状態に在る場合の配偶者,直系の親族及び兄弟姉妹に限られており(刑事訴訟法439条),非常上告ができる者は専ら検事総長であり(同法454条),死刑の執行停止を命ずる者は法務大臣ですが,当該停止事由である心神喪失及び女子の懐胎(同法479条)の有無の判断は医師の診断に頼ればよいようです(なお,当該死刑の執行停止制度は,刑法施行法(明治41年法律第29号)48条によって旧々刑事訴訟法(明治23年法律第96号)318条ノ3として追加されています。懐胎した女子のそれは,旧刑法15条(分娩後100日経過まで執行停止)に既にあったものです。)。法務大臣閣下が御自らくよくよされる必要は余りないのではないでしょうか。
5 死刑判決執行前の特赦か
本件における総督閣下も,特赦の可否を考えたようです。
Per diem autem sollemnem consueverat praeses dimittere populo unum vinctum quem voluissent
Habebat autem tunc vinctum insignem qui dicebatur (Jesus) Barabbas
congregatis ergo illis dixit Pilatus
quem vultis dimittam vobis
(Jesum) Barabban an Jesum qui dicitur Christus
(Mt 27,15-17)
括弧内の語は,これを記さない写本も多いそうです。
「ところで(autem)長官は(praeses),祭日には(per diem sollemnem),人民に対して(populo)彼らの欲する囚人を一人(unum vinctum quem voluissent)特赦してやる習慣であった(consueverat dimittere)」ということです。当該総督は自ら特赦することができる点で,天皇への特赦上奏権までしかなかった大日本帝国の朝鮮総督・台湾総督(旧恩赦令12条・19条)よりも権限が大きかったようですが,中央更生保護審査会ならぬ群衆に(congregatis illis)だれを特赦すべきか(「JBかJCか,諸君のためにどちらを特赦するのを諸君は希望するのかな(quem vultis dimittam vobis J.B. an J. … C.)」)と諮る必要があった点では権限が制限されていたというべきでしょう。(なお,barabbasの意味は,インターネットを処々検するに,何のことはない,「親父(abba)の息子(bar)」ということであるそうです。)
6 本国法による裁判か
しかし,当該地における法の適用は,前記②(土着刑法に基づいては死刑を科することができず,被告人を死刑に処し得る法は当該地に施行されている総督の本国法に限られる)のようなものだったようでもあります。土着裁判官団は,総督に対し,瀆神の罪ではなく,帝国の支配を排せんとする内乱関係罪の成立を主張していたという記録もあるからです。ちなみに,大日本帝国を構成していた朝鮮及び台湾においては,日本刑法(内乱罪の規定(同法77条以下)を含む。)が,それぞれ朝鮮刑事令(明治45年制令第11号)1条1号及び台湾刑事令(明治41年律令第9号)1条によって依用されていました。
Et surgens omnis multitudo eorum
duxerunt eum ad Pilatum
Coeperunt autem accusare illum dicentes
hunc invenimus subvertentem gentem nostram
et prohibentem tributa dari Caesari
et dicentem se Christum regem esse
Pilatus autem interrogavit eum dicens
tu es rex Judaeorum
at ille respondens ait
tu dicis
Ait autem Pilatus ad principes sacerdotum et turbas
nihil invenio causae in hoc homine
At illi invalescebant dicentes
commovet populum docens per universam Judaeam
et incipiens a Galilaea usque huc
(Lc 23,1-5)
土着裁判官団(omnis multitudo eorum(彼ら皆大勢))が立ち上がって(surgens)総督閣下の許に被告人を引致し(duxerunt eum ad Pilatum),「こいつが(hunc),我が民族を煽動し(subvertentem gentem nostram),皇帝に租税が納付されることを妨げ(prohibentem tributa dari Caesari),自分は救世主たる王だと称している(dicentem se Christum regem esse)のを我々は現認しております(invenimus)。」と言いつつ(dicentes)同人に対する訴追を始めた(coeperunt accusare illum),というわけです。「こいつは,教宣しつつ全土で人民を動揺させています(commovet populum docens per universam Judaeam),こいつの田舎から始まって,事ここにまで至っているのです(incipiens a Galilaea usque huc)。」と語るうち(dicentes),土着裁判官団の彼らは激昂したのでした(illi invalescebant)。
そこで,総督は,次のように言って被告人を尋問した。
「君,ここの人たちの王なの?」
それに対して,被告人が答えて言うには,
「そうあんたは言うずら」。
そこで総督が,幹部祭司ら及びその手下の人々に言うには,
「この人を有罪にするのは無理だよ」と。
総督閣下と被告人とのこのやり取りの部分は,筆者に,フランスはシャラントン精神病院における措置入院中の「変態小説家」サド侯爵と,見舞いに来て,手続中だからもうすぐ退院できると言う「サン=ジュスト」とに係る次の漫画の場面を不図想起させます(長谷川哲也『ナポレオン―覇道進撃―第23巻』(少年画報社・2022年)122-123頁)。
サン=ジュスト 外の世界はここと変わらんかもしれないぞ。
サド侯爵 そんな悲しいこと言うな。
ここにいるのは・・・
(ナポレオンの三角帽子をかぶった人物が一人近付いて来る。)
三角帽子 諸君。
(視線が定まっていない。だらしのないガウンを着て,ナポレオンのように懐手をしている。)
三角帽子 大陸軍は地上最強オオ。
余の辞書に不可能という・・・
(サド侯爵,当該三角帽の患者を殴り倒す。)
ガッ
サド侯爵 ここで正常なのは俺だけだ。
サン=ジュスト そうか。
サド侯爵 ああ,早く出たい。
7 公開された裁判手続
(1)1世紀
我らの内乱罪被告人に対する総督閣下の裁判手続は,公開されていました(大日本帝国59条並びに日本国憲法37条1項及び82条)。裁判の公開の意義は,教科書的には,『憲法義解』の大日本帝国憲法59条(「裁判ノ対審判決ハ之ヲ公開ス但シ安寧秩序又ハ風俗ヲ害スルノ虞アルトキハ法律ニ依リ又ハ裁判所ノ決議ヲ以テ対審ノ公開ヲ停ムルコトヲ得」)解説が述べているものでしょう。いわく,「裁判を公開し,公衆の前に於て対理口審するは,人民の権利に対し尤効力あるの保障たり。裁判官をして自ら其の義務を尊重し正理公道の代表と為らしむるは,蓋亦公開の助に倚る者少しとせざるなり。我が国従来白洲裁判の習久しく慣用する所たりしに,明治8年以来始めて対審判決の公開を許したるは,実に司法上の一大進歩たり。」ということでした。
しかし,
…et ecce nihil dignum morte actum est ei
Emendatum ergo illum dimittam
(necesse autem habebat dimittere eis per diem festum unum)
Exclamavit autem simul universa turba dicens
tolle hunc
et dimitte nobis Barabban
…..
At illi instabant vocibis magnis postulantes ut crucifigeretur
et invalescebant voces eorum
Et Pilatus adjudicavit fieri petitionem eorum
…..
Jesum … tradidit voluntati eorum
(Lc 23,15-18; 23,23-25)
括弧内の部分は,多くの古い写本において欠落しているそうです。しかし,これは,「ところで,祝日には彼らのために一人特赦を与える必要があった」ということですから,その少し後に傍聴人らが,目の前の裁判とは直接の関係がないのではあるものの,彼らの推す囚人の特赦を求めて“dimmite nobis Barabban”と叫んだ理由を示すために挿入されたものでしょう。
せっかく総督閣下が「見なさい(ecce),彼に(ei)死刑に値する行為は(dignum morte actum)ありません(nihil est)。ですから(ergo),懲らしめを与えた上で彼を釈放します(emendatum ergo illum dimittam)。」と言ってくれたのに,傍聴の全群衆が(universa turba)一斉に(simul)叫んで言うには(exclamavit dicens),「そいつを片付けろ(tolle hunc)。」だったのでした。「彼らは(illi)大声で主張し(vocibis magnis postulantes),彼が十字架刑に処せられることを(ut crucifigeretur)しつこく要求した(instabant)。そして,彼らの怒号は激しさを増した(et invalescebant voces eorum)。」ということですから総督閣下の心も折れ,彼らの願いの実現を認め(adjudicavit fieri petitionem eorum),被告人を彼らの意思に委ねたのでした(Jesum tradidit voluntati eorum)。実質を踏まえた事実認定及び量刑判断がされたということでしょう。
(2)18世紀
裁判の場を取り囲む群衆の圧力下における死刑判決といえば,次の情景も想起されます。
〔略〕ジロンド党員にとって,不安要因もないではなかった。過激な民衆たちが議会の周りに大挙して押しかけ,死刑反対に投票した議員は生きて議場を出ることはできないぞ,と,すさまじい脅しをかけていたからである。いわば,国民公会議員はナイフを喉元に突きつけられて投票するようなものだったのである。議会過激派のモンターニュ(山岳)派も,ここぞとばかりに態度不明な議員に接近し,「すでに国民公会の過半数はモンターニュ派についている。君も勝つほうに賭けろ」と強烈な揺さぶりをかけていた。保身に汲々とする陣笠議員の間にはすでにして「もし,死刑反対に投票したら,どんな報復が待っているのだろう」という不安が生じていた。
不安は,最初に名を呼ばれて演壇に立ったジロンド派の首領の一人ヴェルニオーが,日ごろの雄弁とは打って変わって,苦しげにただひとこと「死刑」とつぶやいたときに一気に現実のものとなった。あのヴェルニオーまでが,という動揺がジロンド派の間を駆け巡った。
(鹿島茂『ナポレオン フーシェ タレーラン 情念戦争1789-1815』(講談社学術文庫・2009年(単行本2003年))95-96頁)
ということで,1793年1月14日に国民公会に提出された3件の議題すなわち,(a)ルイ16世は叛逆罪及び国家の一般的安全侵害未遂罪について有罪か無罪か,(b)人民投票が必要か否か並びに(c)彼はいずれの刑に処せられるべきかのうち(a)及び(b)は同月15日に前者は有罪,後者は不要と決せられ,同月16日から翌日にかけての投票で(c)ルイ16世の刑は死刑と決まり,同月19日の公会決議に基づき同月20日14時過ぎに公会の執行委員会は判決をルイ16世に通知し(同月19日の決議は,刑の執行は当該通知から24時間以内にされるべきものとしていました。),そして同月21日10時22分にルイ16世の処刑という運びになっています(Trial of Louis XVI. late King of France; by the National Convention, at several adjourned sittings. Translated from the French. pp.22-(University of Michigan Library Digital Collections))。なお,1月18日は,同月16日20時頃から17日夜にかけての「第3回目の採決結果の数え直しに費やされた」そうであり,また,同月19日には「ルイ・カペーへの判決の執行は延期されるべきか」についての投票も行われ,否決されています(石井三記「フランス革命期の国王裁判における法的側面」法政論集186号(2001年)230頁)。
〔略〕そして1月20日に市の役人がマリー・アントワネットのところにやってきて,いくらか沈んだ声で,今日は特別に家族ともども階下の夫のところに行くことが許されると伝えたとき,彼女はすぐにこの恩典のおそろしさを理解した。ルイ16世は死刑の判決を受けたのであって,彼女と子供たちが夫であり父である人に会うのはこれが最後なのだ。悲劇的な瞬間を思いやって――明日断頭台に上る者はもう危険ではない――4人の市の役人は,妻,夫,妹,子供たちという一家が最後に顔を合せたこのときに,はじめて部屋に彼らだけを残して出て行った。ただガラス戸越しに別れの場面を監視しただけである。
(ツワイク,関楠生訳『マリー・アントワネット――凡人の肖像――』(河出書房・1967年)362頁)
8 死刑判決の確定とその執行との間の期間
(1)18世紀の共和国
ルイ16世の死刑の執行は,それでもその言渡しから日を跨いでの翌日となりました。
マリー・アントワネットの処刑は速やかで,午前4時過ぎに死刑判決の言渡しを受けた1793年10月16日その日の昼に行われています。
〔略〕刑吏たちはうしろから彼女をひっつかんで板の上にさっと投げ,首を刃の下に置く。綱をぐっと引くと,刃がきらりと光って落ち,にぶい音を立てる。するともうサンソンは血のしたたる首の髪をつかんで,広場の上に高々と上げてみせる。何万もの人々は息を殺して戦慄していたが,それがいっぺんに開放されて,荒々しい叫び声に変わった。「共和国万歳」の叫びが,まるで狂暴な手で絞められていたのを解かれた咽喉から出たもののようにとどろいた。それから,群衆はあわててと言ってもいいほどのいそぎようで散って行った。やれやれ,ほんとうにもう12時15分すぎになってしまった。ちょうど昼飯どきだ。さあ,すぐ家に帰らなくては。これ以上何をぐずぐずすることがあろう。明日も,それから毎週,毎月,同じ広場でほとんど毎日のように同じ見ものを何度でも見ることができるではないか。
お昼である。群衆はもう散ってしまっていた。刑吏が小さな手押車に死体をのせ,血のしたたる首を両脚のあいだに置いて,運び去った。数名の憲兵がなおも断頭台を監視していた。しかし,ゆっくりと地面に吸いこまれる血のことを気にかける者は一人もなく,広場は再び空になった。
(ツワイク435頁)
(2)1世紀の帝国
我々の主人公も勾引された金曜日(なお,当時の当該地においては日と日との間の区切りは日没時でしたので,我々のいう木曜日の晩の時間は既に金曜日になっていました(この問題に関しては,「カエサルのルビコン川渡河の日付について」記事の1(2)(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1063677215.html)において触れたことがあります。)。)のその日のうちに裁判があり,同日中(“Good Friday”です。)に処刑され,かつ,絶命しています。
Erat autem hora tertia et crucifixerunt eum
Et erat titulus causae ejus inscriptus rex Judaeorum
…..
Et hora nona exclamavit Jesus voce magna dicens
Heloi Heloi lama sabacthani
quod est interpretatum
Deus meus Deus meus ut quid dereliquisti me
et quidam de circumstantibus audientes dicebant
ecce Heliam vocat
Currens autem unus et implens spongiam aceto
circumponensque calamo potum dabat ei dicens
sinite videamus si veniat Helias ad deponendum eum
Jesus autem emissa voce magna exspiravit
(Mc 15,25-26; 15,34-37)
日の出から日没までを12等分した上での第3時(hora tertia)に十字架刑が執行されました(crucifixerunt eum)。午前8時頃から9時頃にかけての頃だったということでしょう。
しかし,執行は早くとも,受刑状態は6時間程度長々と続いたようです。大声が発せられて(emissa voce magna),受刑者が絶息した(exspiravit)のは第9時(hora nona)になってからのことでした。
受刑者が叫んで(exclamavit)「Heloi Heloi lama sabacthani!」と大声で言った(voce magna dicens)のを聞いた野次馬中のある者ら(quidam de circumstantibus audientes)が「ほら見ろよ(ecce),大預言者を呼んでるぜ(Heliam vocat)」と言った(dicebant)ところから,おっちょこちょいな一人(unus)が駆けて来て(currens),海綿に酢を含ませて(implens spongiam aceto)それを茎に巻き付け(circumponens calamo),「こいつを降ろしてやるために(ad deponendum eum)大預言者が(Helias)やって来るのかどうか(si veniat)見てみたいから(videamus),許してしてちょうだい(sinite)。」と行刑担当者らに言いながら(dicens),受刑者に(ei)飲み物を与えた(potum dabat)わけですが,これは人道的親切心でしているというよりも,好奇心でやっていますね。受刑者をおもちゃにしてはいけません。
正に受刑者としては,「Heloi Heloi lama sabacthani!」,すなわち訳されたところ(quod est interpretatum)では,「おらが神様,おらが神様よぉ,何でおらを見捨ててしまったずら(Deus meus Deus meus ut quid dereliquisti me)。」と嘆き叫びたくなるでしょう。本稿には引用しませんでしたが,当該受刑者は,十字架刑受刑中,罵声と嘲笑とにさらされ続けていたところです。受刑者仲間からも悪口を言われるのですから,ひどい。
Et qui cum eo crucifixi erant conviciabantur ei (Mc 15,32)
彼と共に十字架にかけられた者らも彼を罵った。
なお,我々の受刑者の罪状書(titulus causae ejus)に書かれていた(inscriptus)文言は“rex Judaeorum”ですが,見物人らに対して「きみたちみんなの王さま」と示していたということならば,これも何だかふざけているみたいですね。確かに,祭司長ら(pontifices Judaeorum)は,そう書かないでくれ(noli scribere rex Judaeorum)と総督閣下に対して抗議の言明を行っています(dicebant)。こいつは王だと自称したから(quia ipse dixit rex sum)処刑されるのでというわけです。しかしながら総督閣下は「俺が書いたものは俺が書いたのだ(quod scripsi scripsi)」と断乎拒否の回答をしておられます(respondit)。この哀れな兄ちゃんはシャラントン病院送りぐらいが相当だと俺は思っていたのに,じじいども内乱罪だ大罪だと深刻ぶりやがって,それを今更何を言うか,とでも考えたものでしょうか。
dicebant ergo Pilato pontifices Judaeorum
noli scribere rex Judaeorum
sed quia ipse dixit rex sum Judaeorum
respondit Pilatus
quod scripsi scripsi
(Io 19,21-22)
いずれにせよ,18世紀の共和国も1世紀の帝国も,皆執行が早かったのですね。
(3)20-21世紀の日本国
しかしてこの点,我が刑事訴訟法475条2項の死刑判決の確定の日から6箇月以内に法務大臣は死刑執行の命令をせよ規定はどう考えられるべきでしょうか。旧刑事訴訟法(大正11年法律第75号)にはなかった当該規定の趣旨について,1948年5月29日の第2回国会参議院司法委員会において木内曽益政府委員(検務長官)は説明していわく。
死刑の執行につきまして,今までは判決確定後,一定の期間内にその執行をしなければならないというような規定はなかつたのでありますが,確定判決を尊重しなければならないという趣旨から,一応6ヶ月の期限を設けることといたした〔後略〕
(第2回国会参議院司法委員会会議録第34号11頁)
「確定判決を尊重しなければならない」という同様の説明が,同政府委員から同月31日の衆議院司法委員会においてもされています(第2回国会衆議院司法委員会議録第23号10頁)。
しかし,1948年6月28日の参議院司法委員会における宮下明義政府委員(検務局刑事課長)の次の説明がより興味深いところです。
475条は現行法の538条に相当する規定でございまして,死刑の執行に関する規定であります。その第2項の規定は全く新らしい規定でございまして,即ち法務総裁が死刑執行の命令をするのは,判決確定の日から6ヶ月以内にこれをしなければならない。但し,上訴権回復若しくは再審の請求,非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がなされまして,その手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間は,只今申上げました6ヶ月の期間にこれを算入しないということにいたしたのであります。現在におきましては,死刑の判決が確定いたしましてから相当な日数を経過いたして後に,初めて死刑執行の命令が出ておるのでありまするが,すでに死刑の判決を受けた者に対して,長い期間その執行をいたしませんで,いつまでも眼の前に死刑ということを考えながら拘禁されておるということは,如何にも残酷でありまして,憲法が残酷な刑罰を禁止しておる趣旨にも反すると考えまして,死刑の判決が確定した後は,その確定の日から6ヶ月以内に法務総裁は,その執行の命令をしなければならない,というふうに規定いたしたわけでございます。勿論但書にございまするように,再審とか非常上告とか,恩赦というようなことについては,十分な考慮が払われるわけでございます。
(第2回国会参議院司法委員会会議録第49号3頁。下線は筆者によるもの)
確かに旧治罪法,旧々刑事訴訟法及び旧刑事訴訟法には「規定はなかつた」ところです。しかし,前記ボワソナアド治罪法案623条においては,天皇に対して特赦又は減刑に係る上奏をしなければならないものではないとの結論に司法卿が至れば,10日以内に死刑の執行命令が出されるべきものとされていました。これに対して現行刑事訴訟法475条2項は,恩赦の出願又は申出がされてその手続が終了するまでの期間を除いて,なお6箇月の猶予を法務大臣に与えるような形になっています。この10日と6箇月との違いは,大きい。これは,おフランス人と日本人との間の思い切りのよしあしないしは死刑観の違いに由来するものかどうか。ボワソナアドは死刑全廃論者でしたが(大久保117-118頁),死刑が廃止されない以上,死刑の執行確定からその執行までの期間の在り方については当時のフランス的常識に従ったものなのでしょう。(なお,「民法旧822条の懲戒権及び懲戒場に関して(後編):日本民法(附:ラヴァル政権及びド=ゴール政権による民法改正)」記事(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1080442886.html)に出て来たフランスのピエール・ラヴァルの銃殺は1945年10月15日に行われましたが,その判決が言い渡されたのは同月9日であったことが想起されます。日本語のウィキベディア先生の「ピエール・ラヴァル」解説では「1945年7月に大逆罪(国家反逆罪)で死刑判決を受けた。」と,死刑執行までに3箇月ほど待機期間があったように記されていますが,どうしたものでしょうか。)
「命はもう救うことができない,救えるのはただ名誉だけだ,ということを彼女は知っているのである。今はただ,だれにも弱みを見せないことだ。ただ,しっかりとした態度を守って,見たがっているすべての人間に,マリア・テレジアの娘の死にかたを見せてやるだけだ。」とフランスの元王妃が気を張っていられたのは(ツワイク430頁),やはり判決言渡しから死刑執行までの時間が短いものだったから可能であったのでしょう。
しかし,拘禁反応が生じては可哀想だとて必ず早々に死刑を執行してしまうわけにはいかないでしょう。死刑の判決の言渡しを受けた者が,長年の頑張りの末再審無罪となったこともあるところです。
刑事訴訟法475条2項は訓示規定であって,「必ずしも厳格に守られてはいない」とされています(松尾311頁)。1962年版の法務省の『犯罪白書』第1編第7章三「2 死刑の執行」によると,1957年から1961年までの5年間に死刑を執行された121人について,判決確定から死刑の執行までの期間の平均は2年11月であったそうです。同白書のⅠ-144表に当たって詳しく見ると,判決確定から執行までの期間が6月以内であった者は121人中2名にすぎず,6月を超え1年以内が7名,1年を超え2年以内が31名,2年を超え3年以内が31名,3年を超え5年以内が39名,5年を超え7年以内が7名,そして7年を超えた者が4名となっています。1957年初めから1961年末までの法務大臣は,中村梅吉(1957年7月10日まで),唐沢俊樹(1958年6月12日まで),愛知揆一(1959年6月18日まで),井野碩哉(1960年7月19日まで),小島徹三(1960年12月8日まで)及び植木庚子郎の6名です。
2022年7月26日の古川禎久法務大臣の臨時記者会見では,2012年から2021年までの10年間においてされた死刑の執行に係る判決の確定からの平均期間は約7年9月であるものと同大臣は述べています。当該記者会見の日に執行された死刑に係る執行命令書は同月22日に作成されたものとのことですから,刑事訴訟法476条の規定(「法務大臣が死刑の執行を命じたときは,5日内にその執行をしなければならない。」)は,律儀に守られているのでしょう。
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