1 春日に筑波嶺を仰ぐ

 いよいよもう4月の新学年・新学期の季節です。

 今年(2025年)4月の新学年の準備が特に大変なのは,筑波大学でしょうか。

 ところで,筑波といえば関東の名峰・筑波山及びそこに棲息する蝦蟇🐸なのでしょうが,次の御製も有名であるところです。

 

                      陽成院

  筑波嶺の峰より落つる男女(みなの)川恋ぞ積りて淵となりぬる

 

 と陽成天皇の話が出てくると,同天皇とその次の光孝天皇との間の代替わりに係る事情に関連して,つい次のような光景を想起してしまうところが筆者の余計なところです。


野津幌川
 
こちらは,男女川ならぬ野津幌川。

野津幌川蛙
 川に恋を積もらせるのはよいとしても,ゴミをすててはなりません。


2 平成31430日末及び元慶八年二月四日の各代替わりに関して

 

(1)平成31年4月30

平成31年(2019年)430日の国民代表の辞。

 

謹んで申し上げます。

   天皇陛下におかれましては,皇室典範特例法の定めるところにより,本日をもちまして御退位されます。〔すなわち,全国民を代表する議員によって構成される衆議院及び参議院からなる国会が制定した(天皇は,公布するのみ)平成29616日法律第63号(いわゆる皇室典範特例法)2条が「天皇は,この法律の施行の日限り,退位し,皇嗣が,直ちに即位する。」と,同法附則11項が「この法律は,公布の日から起算して3年を超えない範囲内において政令で定める日から施行する。」とそれぞれ規定し,第4次安倍晋三内閣が制定した平成291213日政令第302号が本日平成31430日をもって同法の施行日としているから,同日の終了に伴い同法により現天皇は皇位を失うのだ。〕

   〔竹下登内閣制定の昭和6417日政令第1号に基づく元号である〕平成の三十年,『(うち)(たい)らかに(そと)()る』との思いの下,私たちは天皇陛下と共に歩みを進めてまいりました。この間,天皇陛下は,国の安寧(あんねい)と国民の幸せを願われ,一つ一つの御公務を,心を込めてお務めになり,日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たしてこられました。

   我が国は,平和と繁栄〔😲 「アベノミクス」がもたらしたものは,日本の経済,国家及び人民衰退の現実に対するその茹で蝦蟇蛙♨🐸的無痛化ばかりだったものでしょう。〕を享受する一方で,相次ぐ大きな自然災害など,幾多の困難にも直面しました。そのような時,天皇陛下は,皇后陛下と御一緒に,国民に寄り添い,被災者の身近で励まされ,国民に明日への勇気と希望を与えてくださいました。

   本日ここに御退位の日を迎え,これまでの年月(としつき)(かえり)み,いかなる時も国民と苦楽を共にされた天皇陛下の御心(みこころ)に思いを致し,深い敬愛と感謝の念を今一度新たにする次第であります。

   私たちは,これまでの天皇陛下の歩みを胸に刻みながら,平和で,希望に満ちあふれ,誇りある日本の輝かしい未来を創り上げていくため,更に最善の努力を尽くしてまいります。

   天皇皇后両陛下には,末永くお(すこ)やかであらせられますことを願ってやみません。

   ここに,天皇皇后両陛下に心からの感謝を申し上げ,皇室の一層の御繁栄をお祈り申し上げます。

 

同日の国民統合の象徴によるおことば。

 

今日(こんにち)をもち,天皇としての務めを終えることになりました。

ただ今,国民を代表して,安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に,深く謝意を表します。

即位から30年,これまでの天皇としての務めを,国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは,幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ,支えてくれた国民に,心から感謝します。

明日(あす)から始まる新しい令和の時代が,平和で実り多くあることを,皇后と共に心から願い,ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。

 

 ここで本稿の時代は,千百年以上遡ります。

 

(2)元慶八年二月四日

 

ア 正史

 元慶八年(西暦884年にほぼ相当)二月四日条(『日本三代実録』)。

 

  先是。 天皇手書。送呈太政大臣(〔藤原基経〕)曰。朕近身病数発。動多疲頓。社稷事重。神器叵〔「ハ」,できない〕守。所願速遜此位焉。宸筆再呈。旨在難忤〔「ゴ」,さからう〕。是日。 天皇出自綾綺(りょうき)殿,遷幸二条院。〔略〕扈従文武百官供奉如常。〔略〕会文武百官於院南門。 詔曰。〔略〕食国の政を永遠聞食へきを。御病時々発こと有て。万機滞こと久成ぬ。天神地祇之祭をも闕怠こと有なむかと。危み畏り念ほして。天皇位を譲遜給て。別宮に遷御坐ぬと宣ふ御命を。親王等大臣等聞給ふ。承給て。恐み畏も国典に(より)て。太上天皇之尊号を(たてまつ)る。又皇位は一日も(むな)しかる不可(へからす)。一品行式部卿親王は諸親王中に貫首にも御坐。又前代に太子無き時には。此の如き老徳を立奉之例在。加以御齢も長給ひ。御心も正直く慈厚く慎深御在て。四朝に佐け仕給て政道をも熟給り。百官人天下公民まてに謳歌帰す所咸異望無し。故是以 天皇璽綬を奉て。天日継位に定奉らくを。親王等王等臣等百官人天下公民衆聞給ふと宣ふ。中納言在原朝臣行平於庭誥之。〔略〕事畢。王公已下拝舞而退。於是以神璽宝鏡剣等。付於王公。即日。親王公卿歩行。奉天子神璽宝鏡剣等 今皇帝(〔光孝〕)於東二条宮。百官諸仗囲繞相従。〔後略〕

 

  〔前略〕親王公卿奉天子璽綬神鏡宝剣等。 天皇(〔光孝〕)再三辞譲。曽不肯受。二品行兵部卿本康親王起座跪奏言。〔略〕伏願 陛下在此楽推。幸聴於群臣矣。是夜。親王公卿侍宿於行在所。

 

「朕近身病数発。動多疲頓。社稷事重。神器叵守。」及び「御病時々発こと有て。万機滞こと久成ぬ。天神地祇之祭をも闕怠こと有なむかと。危み畏り念ほして。」の部分は,皇室典範特例法1条の「今後これらの御活動〔国事行為のほか,全国各地への御訪問,被災地のお見舞いをはじめとする象徴としての公的な御活動〕を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じておられること」の部分を,「御齢も長給ひ。御心も正直く慈厚く慎深御在て。四朝に佐け仕給て政道をも熟給り。」の部分は,同条の「皇太子殿下は,57歳となられ,これまで国事行為の臨時代行等の御公務に長期にわたり精勤されておられる」の部分を彷彿とさせます。

なお,元慶当時の「国典」では太上天皇であったものが,平成の皇室典範特例法31項では上皇となっています。

しかし,元慶八年二月四日の手続は,前天皇の遜位及び新天皇の即位受諾の各意思表示が要素となっている点で日本国憲法41項(「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」)違反でしょう。

 日本国憲法的には,次のような手続の方が正統なものでしょう。

 

イ 別伝

 

   かくてその日〔元慶八年二月四日〕になりければ,基経公の計らひとして上達部殿上人の中にてよき人々をえり残し,年老いて末短かかるべき人々を供奉として帝を御輿に召させ,陽成院といふ御殿へ行幸なさせ奉り,そこに御輿を下させて後基経公威儀を正して奏し申させ給ひけるは,君には万乗の御主として,御悩故とは申しながら妄りに罪なき者を殺させ給へば,万民歎きて世は尽きなんと危ぶみ候故,止む事を得ず御位を下ろし奉るなりと申さるゝを聞かせ給ひて,悲しき事かなとてをう〔をう〕とをめかせ給ふがいたはしけれど,基経公かく申し置きて退出し急ぎて百官を引連れ,御輿を備へて小松殿へ参り時康親王を迎へ奉りて,たちに儀式を調へ御位に即け奉らる。これを光孝天皇と申し奉れり。

  (尾崎雅嘉著,古川久校訂『百人一首一夕話(上)』(1833年)(岩波文庫・1972年)138頁)

 

  〔前略〕果ては桀紂に似たる御振舞もましませしにより,つひに基経公霍光にならひ,御位を廃し光孝天皇を立てらる。公は実に伊周の亜匹といふべし。

  (尾崎137頁・138頁)

 

桀紂とは何ぞやといえば,『角川新字源』(第123版・1978年)に,「夏の桀王と殷の紂王。暴君の代表者。」とあります。

霍光及び伊周とは何ぞやといえば,同じ漢和辞典に,「伊霍」の説明として「殷の伊尹と漢の霍光。伊尹は〔殷初代の〕湯王の孫の太甲の悪行を改めさせるために,一時,太甲を桐宮に押しこめ,霍光は〔前漢第9代皇帝の〕昌邑王賀の悪行がはなはだしいのでこれを廃して宣帝を立てた。転じて,君主をこらしめたり廃立したりして国家の安泰をはかる臣下。」とあり,「伊周」の説明として「殷の伊尹と,周の賢相の周公旦」とあります。伊尹は,上記押し込めをしたことのみならず,「殷の賢人。湯王を助けて夏の桀王を討ち,殷の開国の政治に大功があった。」という人物です。周公旦は「文王の子で〔周初代の〕武王の弟。武王の子の成王を助けて周の制度文物を定め,周王朝の基礎を築いた。孔子の理想とした聖人。周(陝西省岐山県)を治めたので周公という。」と紹介されています。

伊尹については,また,『孟子』の「巻第九 万章章句上」の6に「伊尹相湯以王於天下。湯崩。大丁未立,外丙四年,仲壬四年。太甲顚覆湯之典刑,伊尹放之於桐三年。太甲悔過自怨自艾,於桐処仁遷義三年,以聴伊尹之訓己也。復帰于亳。」とあります。(はく)から追放された太甲の桐における反省期間は3年だったのでしょう(更に同書「巻第十三尽心章句上」の31には,「公孫丑曰,『伊尹曰《予不狎于不順》,放太甲於桐。民大悦。太甲賢,又反之。賢者之為人臣也,其君不賢,則固可放与』。孟子曰,『有伊尹之志則可。無伊尹之志則簒也』。」とあります。)。『孫子』の「用間篇第十三」には,「昔殷之興也,伊摯在夏,周之興也,呂牙在殷。故明君賢将,能以上智為間者,必成大功。此兵之要,三軍之所恃而動也。」とありますから,伊尹(伊摯)は夏の桀王のところでスパイのようなこともしていたのでしょう。

 

  此天皇性悪にして人主の(うつわもの)にたらず見え給ければ,摂政〔太政大臣藤原基経〕なげきて廃立のことをさだめられにけり。昔漢の霍光,昭帝をたすけて摂政せしに,昭帝世をはやく給しかば,昌邑王を立て天子とす。昌邑不徳にして器にたらず。(すなはち)廃立をおこなひて宣帝を立奉りき。霍光が大功とこそしるし(つたへ)はべるめれ。此大臣まさしき外戚の臣にて政をもはらにせられしに,天下のため大義をおもひてさだめおこなはれける,いとめでたし。

 (北畠親房著,岩佐正校註『神皇正統記』(1339年)(岩波文庫・1975年)110頁)

 

 臣下の分際で,畏くも天皇を廃立するとは,藤原基経は霍光の後輩にして,北条義時の先輩ということになります。「乱臣賊子」たる義時と一緒にされるとなれば,基経には迷惑でしょう。しかしながら,北畠親房は義時に同情的であって,「頼朝高官にのぼり,守護の職を(たまはる),これみな〔後白河〕法皇の勅裁也。わたくしにぬすめりとはさだめがたし。後室〔北条政子〕その跡をはからい,義時久く彼が権をとりて,人望にそむかざりしかば,下にはいまだきず有といふべからず。一往のいはればかりにて追討せられんは,上の御とがとや申べき。」と承久の変について論じています(北畠153頁)。

 とはいえ,藤原基経自身は天皇廃立を行った者として歴史に名を残したくはなかったのでしょう。基経の息子である藤原時平らが撰んだ正史である『日本三代実録』においては,前記のとおり,病気の陽成天皇が自発的に退位し,群臣の推戴を承けて光孝天皇が践祚したということになっています。

 

                      光孝天皇

  君が為春の野に出でて若菜摘む我が衣手に雪は降りつゝ

 

 しかし,元慶八年の段階では,藤原基経の辣腕を論ずるときには,どうしても伊尹・霍光の故事が想起されてしまっていたようです。

 

3 元慶八年六月五日の詔

 

(1)関白の職の始まり

 元慶八年六月五日の光孝天皇の詔にいわく(『日本三代実録』)。

 

  〔前略〕太政大臣藤原〔基経〕朝臣。先御世々々より天下を済助け朝政を総摂奉仕れり。国家の為に大義を建て。社稷の為に忠謀を立てて。不意外に万機之政を朕か身に授任て。閑退之心を存す。〔略〕大臣功績既に高て。古之伊霍よりも。乃祖淡海公〔藤原不比等〕。叔父美濃公〔藤原良房〕よりも益さり。朕将に其賞を議せんとするに。大臣素謙(いふ)心を懐く。必固辞退て政事若壅せむかと也也美〔心悩む,思いわずらう〕思ほして。本官〔太政大臣〕の(まま)に其職(おこなはせ)むと思ほして。所司〔博士たち〕(かんが)()むるに。師範訓導〔天皇に対するもの〕のみには(あらず)ありけり。内外之政統べ()()くも有へかりけり。仮使に職とする所無く有る可くも。朕か耳目腹心に侍る所なれは。特に朕か憂を分とも思ほすを。今日()り官庁に坐て就て万政を(すべ)行ひ。入ては朕か躬を輔け。出ては百官を(すぶ)へし。応に奏すべき之事。応に下すべき之事。必す先す(はかり)(うけ)〔相談せよ〕。朕将に垂拱し()〔手をこまぬいて〕成を仰かむとすと宣ふ御命を衆聞給と宣ふ。

 

これについての解説にいわく。「〔光孝天皇は〕まずは〔基経の〕太政大臣という令制のポストに具体的な職掌を結びつけることを考えたようである。そのために元慶八年五月二十九日,菅原道真・大蔵善行らの文人官僚や法律の専門家たちに太政大臣の職掌について検討させた。しかしその結果,太政大臣は唐の三師三公に当たり,具体的な職掌を想定されていない,という結論に達してしまった(『三代実録』)。そこで仕方がないので天皇は,同年六月五日,〔上記の〕命令を下した。この命令文の中には「関白」という言葉は出ていない。しかし,光孝天皇の次に即位した宇多天皇が,即位直後の仁和三年(887)十一月二十一日に出した命令には「万機巨細にわたって,百官を指揮し,案件は皆太政大臣(基経)に『関白』し,そののちに奏し下すこと,すべて従来通りにせよ」(『政事要略』巻三十,阿衡事。(意訳))とある。ここでいう「すべて従来通りにせよ」(「一に旧事のごとくせよ」)は,先に触れた元慶八年六月の光孝天皇の命令を承けているので,仁和三年の方が「関白」(関与し,申し上げる)という語の初見ではあるが,実質的には,光孝天皇が元慶八年六月に基経に与えた権限を,後世の関白の職掌と同一とみなすことができる。」と(坂上康俊『日本の歴史第05巻 律令国家の転換と「日本」』(講談社・2001年)234-235頁)。

 

(2)「伊霍」の霍

あるいは関白の職掌及び職名については,「大臣功績既に高て。古之伊霍よりも〔略〕益さり」における「伊霍」の「霍」の字が効いているものとも思われます。

「〔光孝天皇の〕践祚のはじめ摂政を改て関白とす。これ我朝関白の始なり。漢の霍光摂政たりしが,宣帝の時(まつりこと)をかへして退けるを,「万機の(まつりこと)猶霍光に関白(アヅカリマウサ)しめよ。」とありし,その名を取りてさづけられにけり。」と説かれています(北畠111頁)。『漢書』の霍光伝には「光自後元秉持万機,及上即位,迺帰政。上謙譲不受,諸事皆先関白光,然後奏御天子。」とあります。「光」は霍光,「後元」は漢の武帝の最後の元号,ここの「上」は宣帝,(だい)はここでは「すなはち」と読むのでしょうから,「霍光は武帝末の後元期から万機を秉持(へいじ)しており,宣帝の即位に及んですなわち政務をかえそうとした。しかし宣帝は謙譲して受けず,諸事は皆まず霍光に関白し,しかる後に天子に奏御していた。」ということになります。

光孝天皇が自らを,昌邑王賀(陽成天皇)が廃された後に霍光によって立てられた前漢の宣帝になぞらえて考えることは自然ではあります。

 

(3)「伊霍」の伊

それでは更に,「伊霍」における「伊」の文字は何を意味するかを考えるに,「伊尹は湯王の孫の太甲の悪行を改めさせるために,一時,太甲を桐宮に押しこめ」ということであったところ,太甲ならぬ陽成天皇は廃位・押し込めの憂き目に遭ったものの,それは「一時」のこらしめで,将来文徳=清和系(すなわち,光孝天皇の兄である文徳天皇からその子清和天皇(清和の子が陽成)以下に続く皇統)への皇位奉還あり得べし,という趣旨を含意したものとも解し得ないでしょうか。元慶八年六月五日の「この勅の発布より2ヵ月も前に,〔光孝〕天皇は不本意ながら息子・皇女を臣籍に降すことを予告し,六月にそれらのもの29人に源朝臣の氏姓をあたえた〔この29人には後の宇多天皇・源定省(さだみ)も含まれます。〕。このおもいきった処置は,近い将来に,基経がその外孫にあたる親王を皇嗣にたてるばあいのことを考慮したためであろうと考えられている。」と説かれているところです(北山茂夫『日本の歴史4 平安京』(中公バックス・1983年)268頁)。当該「外孫」は基経の娘・佳珠子と清和天皇との間に生まれた(したがって文徳=清和系の)貞辰親王です(北山265頁参照。ただし,同頁では,貞辰親王の父は陽成天皇であるものとされています。)。しかし,こじつけが過ぎるでしょうか。実質を踏まえていない,とお叱りを受けそうです。

 

(4)基経の抗表に対する勅語

『日本三代実録』によれば,元慶八年六月五日の詔に対して基経は同年七月六日に拝辞の抗表を奉ります。病弱でその任に堪えないと言います(「天資尫弱。病累稍仍。」)。これに対する同月八日の勅語は,偉い人である基経にそんなにきつい仕事はさせないよと述べるものの如くです。

 

 如何責阿衡。以忍労力疾。役冢宰以侵暑冒寒乎。公其頤養精神。臥治職務。

 (いかんぞ阿衡を責むるに労を忍び疾を力むるをもってし,冢宰を役するに暑を侵し寒を冒すをもってせんや。公其れ精神を頤養し,臥して職務を治む。)

 

阿衡の語については,後に論じます。(ちょう)(さい)は,「周代の官名。天子を助けて百官を統べる。今の首相。」です(角川新字源)。

 

4 源定省による皇位継承

 

(1)仁和三年八月二十五日から同月二十六日まで

光孝天皇は仁和三年(西暦887年にほぼ相当)八月二十六日に崩御しますが,その前日にその息子・源定省が皇族に復帰して親王となり,光孝天皇が崩御する当日に皇太子に立てられています。

仁和三年八月二十五日の詔(『日本三代実録』)。

 

 朕之諸児,皆朝臣之姓を(たまは)る。(これ)誠に国用を節し,民労を(やすむ)之計也。今台𣂰(てい)〔鼎〕之昌言に驚く。仰て(てう)遠い祖先の廟〕祐之重業を思ふに,天潢(あに)一派無かる可く若華(あに)片枝無かる可けんや億兆之平安を図り盤石()漢典に尋ぬ。〔略〕第七息定省年廿一朕か躬に扶侍し未た曽て閤を出てす。寛仁孝悌朕の鍾憐する所前に昆〔兄〕弟之鴈行に混(せられ),遽に一戸を編む。今祖宗之駿命を伝へんと欲するに,何そ諸任に歯せん。苟も身の為にせざれば,誰か反汗を嫌はむ。其臣姓を削り,以て親王に列す。〔略〕

 

 我が皇子女の臣籍降下は専ら国費節約のためであったところ(だから皇位継承放棄のためとまで解しないでくれ),大臣ら(台𣂰〔鼎〕)が道理にかなったよいこと(昌言)を言った。古き昔からの我が皇室の歴史に鑑みるに,時には皇統の枝分かれもあるべしなのだ(仁明=文徳=清和=陽成系から仁明=光孝=宇多系へ)。だから億兆臣民の平安を図り,かつ,祖宗の駿命を伝えるために,漢土の例も参考にし,我が子源定省の臣籍を削って親王に列するのだ。汗の如き綸言を食言したとは言うなよ,云々。

 ここで注目すべきは,「扶侍朕躬。未曽出閤。」の部分でしょうか。

 これは,『大鏡』の伝える,陽成天皇の後継者を選定する際の次のエピソードに関連します。

 

  嵯峨天皇の皇子で,げんに左大臣の職にあった源融が,太政大臣にたいして「近き皇胤をたづぬれば,融らも(はべ)るは」といったところ,基経は,「皇胤なれど,姓(たまい)てただにてつかへて,位(皇位)に()きたる例やある」ときりかえして黙らせたということだ。

  (北山266頁)

 

源融の皇位継承が認められないのは「姓給て」しまったことのみでそうなのではなく,それに加えて「ただにてつかへて」しまったからなのでしょう。源定省は,「姓給て」いたものの,部屋住みであって,いまだ「ただにてつかへて」いなかったから,皇位継承が可能だったのではないでしょうか(これに対して定省の同母の兄である源是忠及び源是貞は,(とう)が立ってしまっていたということになるのでしょう。)。旧皇族も,国民として既に社会の俗塵にまみれてしまっていると,皇族に復帰しても皇位は継承できないということになるのでしょう。

 

(2)源融の幽霊

なお,「融は,源定省推挙のときも左大臣として廟議に列していたのだが,ことさらにはことを荒らだてなかったようである。」といわれてはいますが(北山273頁),宇多天皇に対しては依然含むところがあったようです。

 

 〔源融の〕河原院は融公薨ぜられし後,宇多法皇の御領となりたり。しかるに法皇或時京極御息所と同車にて河原院に渡らせ給ひ,風景を御覧ありけるに夜になりて月の明らかなりければ,御車の畳を取下ろさせて仮りに御座とし給ひ御息所と臥させ給ひしに,この院の(ぬり)(ごめ)の戸を開きて出で来る者の音しければ,法皇何者なるぞと咎めさせ給へば,融にて候御息所賜はらんといふ。法皇宣はく汝存生の時臣下たり,何ぞ不礼の言葉を出だせるや早く帰り去れと宣ふに,かの霊物たちまち法皇の御腰を抱きければ,大いに恐れ給ひて半死半生の体にておはします。今日前駆の(ともがら)は皆中門のほかに候したる故御声遠きに到らず,(うし)(わらは)のすこぶる近く(さぶら)ひて牛に物食はせ居たれば,件の童を召して人々をして御車差しよせしめ給ひて乗らせ給ふに,御息所の顔色青ざめ給ひて起き立ち給ふ事あたはざりしを,とかくに助け抱き乗せしめ還御の後,浄蔵大法師を召して加持せしめ給ひければ蘇生し給へりとぞ。このことは古事談に載せて,河海抄にも略して記されたり。

 (尾崎141頁)

 

 退位出家の後も美女と深夜デートとは,恐れながらも生臭と申し上げるべきかどうか。有り難い仏法の教えも,御息所を求めての幽霊の出現という乱れを予防・排除することはできなかったようです。

 

                    河原左大臣

  陸奥の忍ぶもぢ摺り誰故に乱れ初めにし我ならなくに


 なお,『扶桑略記』によって伝えられた寛平元年(西暦889年にほぼ相当)八月十日の宇多天皇日記を読むと,同天皇の早期退位の理由としては天皇であることのプレッシャーないしはストレスに苦しんでおられたことも考えられるということになりますとともに,源融としては女性と親密にデートをされている元気な宇多天皇ないしは法皇を見かけるとつい先達ぶって声をかけたくなる事情があったことが看取されます。すなわち当該日記文にいわく,「今乱国之主而莫不日致愚慮。毎念万機寝膳不安。爾来玉茎不発只如老人。依精神疲極当有此事也。左丞相〔源融〕答云,有露蜂〔蜂の巣の外側の薄い膜〕者。命〔藤原〕宗継調進。其後依彼詞服之。其験真可言也。」と(倉本一宏『平安時代の男の日記』(角川選書・2024122(また,123頁・125))。寛平元年に宇多天皇は,二十三歳であらせられました。


(3)元良親王と京極御息所との恋

 ところで京極御息所をめぐっては,陽成系皇族による宇多天皇に対する一種の復讐の一幕もあったというべきでしょうか。陽成天皇の皇子である元良親王の歌。

 

  侘びぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はんとぞ思ふ

 

   さて後撰集に侘びぬれば今はた同じといふ歌を入れて,京極の御息所に遣わされし由の事書あり。この御息所と申すは藤原褒子と申して,時平公の御(むすめ)にて,宇多天皇寵愛し給ひ女御にて雅明親王・載明親王などを生せ給へり。元良親王この女御に通じ給ひしに,その事現れて憂き目を見給ひし時の歌なり。

  (尾崎169頁)

 

 宇多天皇即位後,同天皇と藤原基経との間で有名な阿衡の紛議が発生します。

 

5 阿衡の紛議をめぐって

 

(1)阿衡の紛議

阿衡の紛議といえば,高等学校の日本史の授業で,担当教諭がいかにも嬉しそうにアコウと発声していたことと,当該教諭の丸い太鼓腹とが妙に筆者の記憶に残っています。その後もあこう鯛の煮付けなど食べる都度,アコウとの不思議な語の響きが気になっていました。

紛議は,前記(31))仁和三年十一月二十一日の宇多天皇の詔書に「其万機巨細。百官惣己。皆関白於太政大臣。然後奏下。一如旧事。主者施行。」(それ万機巨細,百官己れを()〔全ての官吏は自分の仕事を取りまとめて(金谷治訳註『論語』(岩波文庫・1963年)206頁(「憲問第十四」の42)参照)〕,皆太政大臣に関白(あづかりまう)し,然る後に奏し・下すこと,一に旧事のごとし。主者施行せよ。)とあって,光孝天皇時代と同じ職務(ただし,関白の語はこの詔書で初めて出て来たことになります。)を基経に与えることを一旦明らかにしていたのに,同年閏十一月二十六日の基経からの儀礼的辞表に対して翌日出された同月二十七日の勅書において,「宜以阿衡之任為卿任」(宜しく阿衡の任をもって卿の任となすべし。)との言い換えを行ってしまったことから生じました。「関白」の任と「阿衡」の任との異同が問題となってしまったのです。

「阿衡」については,「殷の伊尹が任じられた官名。阿はよりかかる,衡は平の意。王がこれにたよって公正を得る意。」とあります(角川新字源)。

この阿衡の官は「儒教の古典によれば,天子と道を論ずることを務めとするもので,具体的な職掌はないとされるもの」でした(古藤真平『日記で読む日本史3 宇多天皇の日記を読む 天皇自身が記した皇位継承と政争』(臨川書店・2018年)125頁)。そこで,「『北山抄』巻十,吏途指南,私曲相須事の裏書「阿衡事」に」よれば,「藤原(〔すけ)(よ〕)が「阿衡には典職がないのですから,それに任じられた基経様は太政官政務の関白を受けることができないということになります」と注進した。そのため,太政官の官人が官奏の文を持参しても,基経は閲覧(して決裁)することを拒絶した」ということになったのでした(古藤126頁)。

 

  こうして基経は,佐世(ほかの学者達)の意見を参考にし,関白として天皇の政務補佐に当たることを承諾しない態度を取ることにした。〔参議左大弁文章博士の橘〕広相(〔ひろみ〕)が〔その作成した「阿衡之任」の〕勅答で阿衡を用いたことを誤りとする学者達の意見があるとして天皇の政務を補佐せず,窮地に追い込み,譲歩を勝ち取ろうと判断したのであろう。基経が天皇に求めた譲歩とは,〔〕関白として行う天皇の政務補佐をより明確に位置付けることと共に,〔〕天皇が広相を側近から外し,〔広相の娘である〕義子所生の皇子達を遠ざけ,基経の外戚政策(娘を後宮に入れ,皇子が誕生すれば皇太子の最有力候補とすること)を受け容れることであったろう。天皇が譲歩すれば,基経は関白として天皇を補佐することになるはずでる。

 (古藤127頁)

 

 本稿の関心は,専ら基経の①の求めに係るものです。

 『政事要略』にある仁和四年(西暦888年にほぼ相当)五月十五日の宇多天皇の日記によれば,基経から奏状が当時届いていたそうです。当該奏状にいわく。

 

  〔前略〕閏(ママ)月〔閏十一月〕廿七日の勅旨を(うけたまは)るに,『宜しく阿衡の任を以て汝の任と為すべし』とのたまへり。その臣を(うやま)ふに阿衡の任を以てするは,これ臣に増すに素飱(そそん)〔職責を果たさずに俸禄をうけること〕の責を以てしたまふならん。但し,未だ阿衡の任を知らず。関白と〔の関係〕は如何。仍りて疑ひを持つこと久しくなりぬ。伏して聞けり。左大臣,明経博士等をして勘申せしむるに云はく,『阿衡の任,典職なかるべし』といへり。其の典職無かるべきを以て,阿衡の貴きものたることを知れり。臣を以て比べ(なずら)ふるに,〔臣は阿衡に〕()く堪ふる所に非ず。抑も分職無きに至りては,暗に臣が願ひ,事少なき臣となるの請ひに合ふことを知れり。伏して望らくは,早く執奏の官〔太政官〕に仰せて,万機を擁滞せしむることなからむことを。

  (古藤130頁。また131-132頁)

 

典職がない,すなわち具体的な職掌を想定されていないのは太政大臣も同じはずですが,基経は,太政大臣は続けつつ,阿衡については「貴きもの」過ぎるので「克く堪ふる所に非ず」と言っています。

 

(2)仁和四年六月一日の勅旨不奏功の謎

しかして「関白として行う天皇の政務補佐をより明確に位置付けること」ことに関しては,実は仁和四年六月一日に結論が出ていたはずです。すなわち同日,阿衡の任は関白の職を排除するものではなく,仁和三年閏十一月二十七日の勅答にかかわらず同年十一月二十一日の詔書(「前詔」)は有効であることが,天皇の意思として,基経に対して明らかにされていたのでした。

仁和四年六月一日の宇多天皇日記の最終部分には次のようにあります(『政事要略』)。

 

 左大臣〔源融〕をして太政大臣の第に就かしめて曰はく,「前詔の心の如く,且万事を行へ」と。

 (古藤135頁)

 

 原文は「使左大臣就太政大臣之第曰。如前詔心且行万事。」です。

 左大臣閣下を煩わせての天皇陛下からの畏き仰せですから,基経も納得すればよいようなものです。しかし,基経は「阿衡」の語に依然としてこだわっています。

 仁和四年六月二日の宇多天皇日記の冒頭部分。

 

  早朝,左大臣還り(まう)して曰はく,「昨の暮,彼の太政大臣に仰す。〔それに対して基経は〕『詔を(うけたまは)ること已に畢んぬ』といへり。〔しかし基経は〕後にこの事を奏す。『未だ阿衡の趣を定めずんば,政を行ふこと(あた)はず』」と。朕,おもへらく,然るべからず。

  (古藤140-141頁)

 

『政事要略』の原文は「早朝左大臣還奏曰。昨暮仰彼太政大臣奉詔已畢。後語奏此事。未定阿衡之趣者。不能行政。朕以為不可然。」です。

「阿衡」の語に対する基経のこだわりは,学者たちの論じていた阿衡の職掌の有無・範囲についてのものとはまた別のものだったのでしょうか。

 

(3)橘広相の阿衡有典職論:阿衡=伊尹

なお,仁和三年閏十一月二十七日の勅答の作成者である橘広相は,当該勅答における「阿衡」には典職があると主張し,その理由として,阿衡とはすなわち,殷の政治を執り行う(という典職を有していた)伊尹であるからである(阿衡=伊尹)と説いています。

仁和四年六月五日の宇多天皇日記に録されている橘広相の「五条愁文」の第1条では「〔阿衡は常人の官名ではないところ,〕既に《常人の官名にあらず。当時特に伊尹を号するなり》と()へり。然れば則ち殷国の世に,ただ伊尹一人在りて殊にこの号を受く。なんぞ更に他の三公の道を論ずるの議を引かんや。」と(古藤144-145頁),第5条では「〔藤原〕佐世申して云はく,『勅答にてもし伊尹の任と()はば,則ち典職有りと云ふべし。今阿衡の任と()ふ。則ち典職無しと謂ふべし。云々』と。これ最も安からず。なんとなれば,史記に曰はく,《伊尹,阿衡と名づく》と。また,伊尹を除くの外,他に阿衡無きの状,申し(をは)んぬ。而してなんぞ伊尹・阿衡を以て別と為さん。最も以て安からざるなり。恐らくは書を判じて省みざると為す」と。」と述べられています(古藤153-154頁)。同年の広相の「勘申阿衡事」勘文(日付はありませんが,『政事要略』における掲載の順序からすると,四月二十八日の後,五月二十三日の前に作成されたもののようです。)には,「伊尹,殷の三公と為り,殊に阿衡と号し,冢宰を搆へ卿士を兼ぬ。職務統べざる所()し。」と説く部分があります(一人で三公というのも変ですが,ここでの「三公」は,臣下として最高の位(周では太師・太傅・太保の三つの位(角川新字源))という意味でしょう。)。

 

(4)仁和四年六月二日付けの宣命:「阿衡」の排除

ところで理論上は,橘広相流の阿衡=伊尹論を採れば阿衡には殷の伊尹と同じ典職があるということになり,仁和四年六月一日晩の詔に基づけば阿衡之任はその典職性の有無とかかわりなく関白の職と両立するはずでしょう。こう考えれば――繰り返しになりますが――仁和三年閏十一月二十七日の勅答に阿衡の語があったことによる問題は,いずれにせよ仁和四年六月二日以後は消滅していたはずのところです。

しかしながら現実には,『政事要略』に収載された仁和四年六月二日付けのやり直し宣命(なお,「二日付け」と筆者が含みのある表現をするのは,当該宣命の実際の宣布日については,同月七日又は六日の可能性もあるからです(古藤183-184頁参照)。)においては,仁和三年閏十一月二十七日の勅答における阿衡の語が排除されました。いわく。「〔前略〕是に於て明経紀伝()道の人々等をして之を(かんが)使()むるに,申して云はく,阿衡は是,殷の世の三公の官名なり,三公は坐し()道を論じ,典職()しと申せり。然れば則ち三公()貴を以て,更に煩砕()務を聞(たまふ)べくも在らざるなりぬ。然し()()本意は,万政を関白(あづかりまうし)て其の輔導に頼らんと欲するとしてなも前詔は下せる。而して旨を奉じて勅答を作る()人広相が阿衡を引くは,已に朕が本意に(もとり)たるなり。〔略〕更に重ねて御意を述べて宣はく,太政大臣自今以後,衆務を(たすけ)行ひ,百官を統べ賜へ。応に奏すべき()事,応に下すべき()事,先の如く(はかり)(うけ)よ。朕将に垂拱し()成を仰かむとすと宣ふ御命を衆(きこしめせ)と宣ふ。」と。藤原佐世等の主張に対する抵抗は放棄されています。「とどのつまりは,天皇は阿衡の言葉の失当を認める宣命をくだして,基経の圧力に屈服せざるを得なかった。」というわけです(北山276頁)。

やはり阿衡の語自体に問題があったものか。

 

ここで改めて,橘広相の例の「勘申阿衡事」勘文を見ると,広相は,そもそもは,官職の固有名詞としてではなく,「三公にして万機を摂する者」の総称として仁和三年閏十一月二十七日の勅答における「阿衡」の語を用いたようです。すなわち,当該勘文に広相の書くところによれば――『晋書』を見ると,後に東晋8代目の簡文帝となる司馬(いく)が,東晋の5代目ないしは7代目の穆帝,哀帝及び海西帝の3世にわたって,録尚書事,司徒ないしは丞相録尚書事の官職にあって「専ら万機を捴ぶ」ないしは「内外の衆務を統ぶ」るところの「阿衡」であったとの記事があり,また,西晋の八王(例の八王の乱の八王です。)の一人の成都王司馬(えい)が,「〔同王を〕宜しく宰輔と為して斉王〔司馬(けい)〕に代へ,阿衡之任を同じくすべし」との推薦を得て,大将軍都督中外諸軍事仮節録尚書事の官職に進められて「朝政を執り,巨細()く皆就き(はか)る」ということになったという記事があるところから,「(くだん)等の文に拠れば,三公にして万機を摂する者,之を阿衡と謂ふ。広相,偏に其の成文を見て,詔章に著す」ということだったのだということでした。

しかし,「三公にして万機を摂する者」の総称としての阿衡の語の用法は,橘広相の当該勘文に続く仁和四年五月二十三日付けの紀長谷雄,三善清行及び藤原佐世の連名勘文において批判されています。いわく,「今諸史を(かんが)へるに,斯文〔「阿衡」の用例〕甚だ多く,()げて記す()からず。或いは丞相を以て阿衡と称し,或いは太司馬を以て阿衡と称し,或いは摂政を以て阿衡と称し,或いは録尚書事を以て阿衡と称す。凡そ文を作る()章を断ち義を為すは,(しばしば)不同有りて,適従す()くも()し。未だ(くだん)()文に拠りて其の任を決定す()からず。然らば則ち阿衡の職は,経()義に依る()し。」と。いろいろな史上の前例から推して「阿衡」=「三公にして万機を摂する者」といわれても漠然としていて,その内実はなお多種多様であって当該定義は役に立たない,一義的な定義が必要であるが,当該一義的定義としては,正典に係る経学(孔子の教えを書いた経書を研究する学問(新字源))により決まる「経家之義」を採るべきだ,というのでしょう。「関白として行う天皇の政務補佐をより明確に位置付けること」を求める立場からすればもっともな主張です。(ただし,阿衡の紛議において勘文を提出している明経学者は中原月雄及び善淵愛成であったところ(古藤127頁),両者の仁和四年四月二十八日の勘文は,阿衡が『正義』君奭(くんせき)『尚書正義』(古藤146頁))において「三公官名」とされており,かつ,「『尚書』云。太師,太傅,太保,玆三公()り。道を論じ,邦を経し,陰陽を燮理す。是の三公道を論じ職()し。」であるところから「阿衡()三公之官也。坐し()道を論ず,是れ其の任也。」と結論しており,長谷雄,清行及び佐世にとって都合のよいものでありました。しかし,いわゆる法律家的議論といわれるものではよくあることではあるものの,本来個別具体的な官である阿衡並びに太師,太傅及び太保を抽象名辞である「三公」の語をもって便宜的に概括する分類学上の整理の結果から,同一範疇に分類された官は実質においても皆同一のものとなるのだとの実体的効果までをも導き出す(尻尾に犬を振らせる)のも変なはなしです。)

月雄及び愛成の上記勘文に対する「五条愁文」第1条における橘広相の反論は,当該両名が,『正義』は阿衡を「三公官名」としつつ更に続けて「〔それは〕常人之官名に非ず。蓋し当時特に此の官を以て伊尹を号したる也。」と述べている,とまでの引用をしてくれていましたから,そこを捉えて,同じ三公でも常人に係るもの(太師,太傅,太保)と非常人たる伊尹一人に特に与えられた阿衡とは違うのであって,後者は直ちに前者のように「道を論じ職()」となるものではない,と反駁するものです。この点,既に勘文においても広相は,周の三公に係る()典職性をそのまま前代の殷の阿衡に推及することの不当性を指摘しています。

前例が多過ぎてかえって阿衡の任の内容が曖昧となり,阿衡の語が無意味になっているとの長谷雄,清行及び佐世の五月二十三日の勘文による批判に応えるものとして,橘広相は「五条愁文」(の第4条では総称論についてなおも弁明しつつも第5条)で,阿衡=伊尹論を改めて採用し,阿衡を一義化しようとしたものとも解することができそうです。しかし,考え過ぎでしょうか。「五条愁文」第5条は,直接的には佐世の「もし伊尹之任と()はば,則ち典職有りと謂ふべし」発言に触発され,それをつかまえたものでしょう。

それでは伊尹の職掌は何であったかといえば,『書経』の「伊訓」には,「百官捴己以聴冢宰(=伊尹)」とあり,これは「百官惣己。皆関白於太政大臣(=基経)」に対応します。ここで橘広相は,阿衡→伊尹→冢宰→関白と考えるのでしょう(冢宰の職をも兼ねるものであるから阿衡なのだとする。)。しかし,藤原佐世らは,阿衡←伊尹→冢宰→関白と考えます(阿衡と冢宰とを分離する。)。仁和四年五月三十日の紀長谷雄,三善清行及び藤原佐世の連名勘文は「伊尹は卿を兼ぬ。尚周制の如し。但し阿衡を説くは,指して(この)三公の官名を謂ひ,卿士を兼ぬる者()惣号を謂はず。然れば則ち三公にして卿を兼ぬる者には典職有る()く,其の兼ね()る者には典()かる()し。是れ伊尹が百官を制する()時を知るは,其の暫く冢宰を摂するを以て也。阿衡之職に拠るに非ず。今阿衡と称するは,即ち是れ三公。更に亦何の典職有らむ。」と説いています。

以上が阿衡の紛議における学者間の争点の分析です。以下においては,阿衡の語の含意ないしはその与える印象に関して御幣担ぎ的に考えてみましょう。

橘広相がその勘文において前例として挙げた晋代の「阿衡」は,実は当の晋の天子にとっては不祥でした。というのは,司馬昱をその「阿衡」とした海西帝は臣下の桓温に廃されてしまっていますし(次の皇帝は当の司馬昱),司馬頴をその「阿衡」とした西晋2代目の恵帝は,八王の乱の渦中において,当該「阿衡」たる司馬頴と戦うことになっているからです。

基経に「阿衡之任」を与える勅答を作成する際に「阿衡」の具体例として念頭にあったのは司馬昱及び司馬頴でしたと,あっけらかんと言われてしまうと,おいおい藤原基経は司馬昱及び司馬頴の同類なのかよ,ということになってしまいます。

その後,「五条愁文」の第4条で広相は,大尉録尚書事であった楊駿及び大司馬であった斉王司馬冏を「阿衡」の例として更に追加しています。この両名は,司馬頴同様,西晋を没落させたその八王の乱における登場人物であって,いずれも恵帝の下で殺害されています。どうしても,暗い。

ところで段々気になって来るのですが,宇多天皇においては,橘広相の「勘申阿衡事」及び「五条愁文」を読み,かつ,晋史をも併せ按ずるうちに,「さて,「阿衡」=藤原基経=楊駿+司馬冏+司馬頴ということになると,その反面,宇多天皇ことオレ源定省=恵帝司馬衷ということになるようであるが,西晋の恵帝といえば,その「(しゅく)(ばく)を弁ぜざる庸愚」(宮崎市定『中国史(上)』(1977年)(岩波文庫・2015年)282頁。なお,菽は豆のことです。また『晋書』の孝恵帝(恵帝)紀には「帝又嘗在華林園,聞蝦蟇🐸声,謂左右曰,「此鳴者為官乎,私乎」。或対曰,「在官地為官,在私地為私」。及天下荒乱,百姓餓死,帝曰,「何不食肉糜」。」との逸話が記録されています。糜(び)は粥の意味です。恵帝は,マリー=アントワネットの千五百年の先輩でした。で有名な愚帝ではないか。しかし,えっ,そんな奴と対になる・・・オレってバカなのか。」ということには思い至らなかったものでしょうか。(確かに,恵帝の庸愚を心配して・太甲に対する伊尹の指導のような指導が同帝の母の一族からされることを期待したということになるのか,恵帝の父である西晋初代皇帝武帝司馬炎の遺詔に「宜しく〔楊駿の〕位を上台に正し,跡を阿衡に擬ふべし。」とあったところです(『晋書』楊駿伝)。)しかし無論,このようなことは筆者の余計な心配であって,自らの妻(の一人)の父たる橘広相を信頼する宇多天皇としては広相の説くところを超えてまで自分で調べ・考えることはなかったのでしょう。

なお,橘広相がその勘文において(筆者の目から見ると)自滅的に,天子にとって不祥な「阿衡」の例を挙げて来たのを承けてのことでしょうか,当該勘文に続く仁和四年五月二十三日付けの前記長谷雄,清行及び佐世の連名勘文においては,「阿衡」は実は臣下にとっても不祥なものなのだよ,という趣旨と解釈し得る例が挙げられているように筆者には思われます。すなわち,「後漢書廿八将論曰。或崇以連賞。或任以阿衡之地。注云。樊噲封為舞陽侯。灌嬰為丞相。封為頴陽侯。」と当該勘文にありますが(下線は筆者によるもの),『後漢書』の「列伝第十二」にある原文を見ると,「亦有粥繒屠狗軽猾之徒,或崇以連城之賞,或任以阿衡之地,故執疑則隙生,力侔則乱起。蕭・樊且猶縲紲,信・越終見菹戮,不其然乎。」となっています。蕭何及び樊噲並びに韓信及び彭越は,いずれも前漢王朝を興した高祖劉邦の功臣であって阿衡の地を賜わって厚く賞された者たちですが,その後皇帝劉邦に猜疑されて,蕭何及び樊噲は一時投獄され,韓信及び彭越は誅殺されています(なお,(ゐく)(そう)之徒とは絹商人であった灌嬰のことでしょう(屠狗之徒は樊噲)。ただし,灌嬰は,難に遭った者には含まれていません。)。「ご褒美だからとて基経様もうっかり「阿衡之地」ならぬ「阿衡之任」を受けてしまうと,お上に疑われるようになって,累紲(るいせつ)の辱めを受けるか(牢獄につながれること),菹戮(そりく)(殺戮)されるという縁起の悪いことになるかもしれませんよ。」などと藤原佐世あたりが心配顔をして注進したかもしれぬとは,これまた筆者の余計な空想です(なお,菹醢(そかい)は,人を殺しその肉を塩漬けにする刑です(角川新字源)。)。

 

(5)漢土の歴史を補助線としての仁和三年閏十一月二十七日の勅答再読

阿衡の語は漢土の故事に由来するところ,その観点から仁和三年閏十一月二十七日の勅答の中から関係部分を拾ってみると,次のとおり。

 

 ・・・卿・・・爰従貞観。化諧蕭曹。洎乎元慶。寄重周霍。・・・先帝承渭橋之拝。是卿之功。朕辱翼室之延。亦誰之力。・・・卿・・・所謂社稷之臣非朕之臣。宜以阿衡之任為卿任。・・・

 

ア 蕭何及び曹参並びに周公旦及び霍光に比せられる基経

基経について,「(ここ)に貞観()化するに蕭曹に(かな)ふ。元慶に(およ)んで寄するに周霍に重ぬ。」という表現が見られます。蕭曹は,前漢の高祖劉邦及び2代目恵帝に仕えた蕭何及び曹参であり,周霍は,周公旦及び霍光でしょう。

しかし,高祖か恵帝かということに関しては,「どれほどの指導性があったかは疑問である。九歳で即位した天皇は,その治世の大半を外祖父良房に牛耳られて嫌気がさしたか,貞観十八年(876)十一月,二十七歳の時,息子で二歳の時に立太子を済ませていた皇太子貞明に譲位した」(坂上233頁)ところの貞観の清和天皇は,脂ぎった劉邦に似ている感じはしませんね,むしろ母の呂太后に「人豚」を見せられて心を病んでしまったという息子の恵帝劉盈の方が近そうです。

元慶時代の幼帝たりし陽成天皇には周公旦でもよいのでしょうが,同天皇廃位・光孝天皇擁立期以後は確かに霍光でしょう。

 

イ 易姓革命の功臣たる基経

「先帝承渭橋之拝。是卿之功。朕辱翼室之延。亦誰之力。」の部分は(渭水の橋があるのは鎬京=咸陽=長安ですね。),本流たるべき文徳=清和=陽成系に属さない光孝・宇多両天皇の各例外的即位は,基経の功であり,かつ,基経の力によったものとして,基経に感謝する部分です。しかし,余り感謝が過ぎると,文徳=清和=陽成系の王氏から光孝源氏(確かに,宇多天皇は源氏でした。)への易姓革命があり,藤原基経はその立役者であったという余計な印象が読者に残りそうです。

易姓革命といえば夏の桀及び殷の紂に対する湯武放伐ということになりますが,周の功臣である太公望呂尚は斉(今の山東省)に封ぜられたので,易姓革命後も引き続いて国政を指導した功臣は殷の伊尹ということになります。

 

ウ 社稷の臣(国の柱石)たる基経

「所謂社稷之臣非朕之臣」(いわゆる社稷の臣にして,朕の臣にあらず)の部分は,筆者に,『漢書』霍光伝の次の部分を想起させます。淫乱天子劉賀の行状に頭を悩ました霍光が,どうしようかと大司農田の延年に相談する場面です。

 

 賀者,武帝孫,昌邑哀王子也。既至,即位,行淫乱。光憂懣,独以問所親故吏大司農田延年。延年曰,「将軍為国柱石,審此人不可,何不建白太后,更選賢而立之」。光曰,「今欲如是,於古甞有此否」。延年曰,「伊尹相殷,廃太甲以安宗廟,後世称其忠。〈師古曰,「商書太甲篇曰『太甲既立,弗明,伊尹放諸桐』是也」。将軍若能行此,亦漢之伊尹也」。

 

 延年が「霍将軍,あんたは国の柱石なんだから,あいつ(劉賀皇帝)はどうにも駄目だと分かったら,どうして皇太后に建白して別のいい人を探し出して天子にしないんですか。」と答えたところ,霍光は「そうしたいけど,前例があるかなぁ。」と不安がります。そこで延年が前例として挙げたのが,我らが阿衡こと伊尹です。「伊尹,殷に相たり。太甲を廃して以て宗廟を安んじ,後世其の忠を称す。将軍()()れを()く行はば,(また)()伊尹(なり)。」と。

 「国柱石」たる霍光は,専ら「所謂社稷之臣」であって,皇帝の臣ではなかったわけです。

 

エ 阿衡=伊尹たる基経

 ということで,漢土のいろいろな名臣の姿を頭に浮かべつつ仁和三年閏十一月二十七日の勅答を読み進んで「宜以阿衡之任為卿任」の部分にまで至ると,ここでいよいよ本命登場でしょう。すなわち当該勅答は,暴君追放の易姓革命の英雄にして,かつ,社稷の臣としてあえて主君の押し込めをも辞さない伊尹=阿衡の日本版たることを,宇多天皇が藤原基経に求めているものと読むべき文章であるように筆者には印象されます。

 

なお,伊尹(阿衡)と基経とが精確に等号をもって結ばれたのはこれが最初でしょう。元慶八年六月五日の光孝天皇の詔においては,基経は伊尹・霍光を超えた存在でした(「大臣功績既に高て。古之伊霍よりも・・・益さり」)。同年七月八日の勅語に出て来る「阿衡」は,高い身分の臣下の心身を酷使するようなことはしませんよと言う際に,当該高い身分の例として冢宰と共に挙げられていたもので,基経をもって直ちに阿衡としたものとまでは解されないでしょう。

 

 しかし,「阿衡(=伊尹)之任」を授ける当該勅答は,考えてみると,delicacyの不足した剣呑な文書ではないでしょうか。

 

(ア)押し込められることについての宸念の可能性

 「卿・・・所謂社稷之臣非朕之臣。宜以阿衡之任為卿任。」と言われて,そのまま何も言わずに出仕すると,そのうち,時を経て即位当初の素直さを失った宇多天皇から,「そういえば,社稷の臣気取りの基経は,オレ自身から忠誠の解除を得て(非朕之臣),オレを廃し得る押し込めのライセンス(阿衡之任)を貰ったつもりでいるんだろうな。仁和三年閏十一月二十七日のあの勅答を蝦蟇蛙🐸が虫を食うように平然と丸呑みして,そのまま何も言わずに高々と当然のように朝廷に出て来て一人で万事を取り仕切っていやがって,小づら憎いわい。陽成院に対して一度やっているのだから,オレに対してもためらいなく廃位を迫ることが当然あるだろう。一回裏切った人間は何度でも裏切るとも言うからな。」と,謀反心を猜疑されるようになるかもしれません。

 

(イ)殺される伊尹(阿衡)

 勅答の起草者である橘広相は『晋書』を読んでいたわけですが,同書の束皙伝には,次のようにあります(下線は筆者によるもの)。

 

  初,太康二年,汲郡人不准盗発魏襄王墓,或言安釐王塚,得竹書數十車。其《紀年》十三篇,記夏以来至周幽王為犬戎所滅,以事接之,三家分,仍述魏事至安釐王之二十年。蓋魏国之史書,大略与《春秋》皆多相応。其中経伝大異〔略〕。益幹啓位,啓殺之。太甲殺伊尹。文丁殺季暦。自周受命,至穆王百年,非穆王寿百歳也。幽王既亡,有共伯和者摂行天子事,非二相共和也

 

 太康二年(西暦281年にほぼ相当)にいわゆる『竹書紀年』が盗掘された墓から出て来て,その内容は『春秋』とほぼ同じではあるものの,当該『竹書紀年』によれば――桐における太甲の矯正教育は失敗だったのでしょうか――実は伊尹は,当の押し込め対象の太甲に殺されたのだということだそうです(「太甲殺伊尹」)。

太甲=宇多天皇だとすると,日本の伊尹とされる基経の命も危うしということになります。

 

(ウ)簒奪王朝晋の祖たる司馬仲達

 また更に同じ『晋書』景帝紀を見ると,「及宣帝薨,議者咸云「伊尹既卒,伊陟嗣事」,天子命帝以撫軍大将軍輔政。」とあります。「司馬()(宣帝)が薨じたので,魏の朝議参加者は(みな),「伊尹が既に卒したので,(その子の)伊(ちょく)が事を嗣ぐべきだ」と云った。天子曹芳は(司馬懿の子の)司馬師(景帝)に撫軍大将軍輔政を命じた。」というわけです。

日本の伊尹が藤原基経ならば,魏の伊尹は司馬懿(仲達)だったことになりますが(魏の伊陟は司馬師),司馬仲達は三国志では諸葛孔明の敵役ですし,その孫の司馬炎(西晋の武帝)が魏の曹氏から暗く皇位を簒奪してしまっています。司馬仲達=伊尹=藤原基経ということになって,日本の仲達と言われては,基経も我が朝廷内で余り肩身は広くはないでしょう。また,魏に伊尹があったのであれば太甲もいた道理なのですが,魏の伊尹たる司馬懿の主君たりし若き曹芳皇帝は,結局司馬師によって廃せられています。

 

(エ)暴君桀とされる太上天皇

 日本の伊尹を臣下とする宇多天皇は,日本の湯王ということになります(本人は,押し込めを喰らう太甲のつもりではないでしょう。)。であれば,前王朝(文徳=清和=陽成朝)最後の王たる陽成天皇は,日本の桀です。しかし,しつこく陽成太上天皇を暴君桀呼ばわりしてそのお気持ちをかき乱し続けるのはいかがなものでしょうか。「〔陽成〕天皇に関しては,宮中で自分の乳母の子を殴り殺したという芳しくない噂があり(『三代実録』元慶七年〈883〉十一月十日条),後に譲位させられてからも暴行事件の容疑者になったりして評判がよろしくない」方でしたから(坂上233頁),何が起こるか分かりません。

 

(6)阿衡の語を取り除くための方法論

 仁和三年閏十一月二十七日の勅答の文から剣呑な阿衡の語を除くために,「天皇・太上天皇からの誤解を招きそうな伊尹呼ばわりされるのは嫌だ」という端的な理由(なお,その後の紛議の進行に伴い,「阿衡=楊駿・司馬冏・司馬頴&司馬昱⇔西晋恵帝&東晋海西帝」問題,「阿衡之地→蕭何・樊噲投獄及び韓信・彭越誅殺」問題,「太甲殺伊尹」問題,「伊尹=司馬懿」問題も加わっていたかもしれません。)を直截挙げると,歴史における伊尹及び藤原基経の位置付けいかんをまずあからさまに論じなければならないという難しい事態となるということが懸念されたのではないでしょうか(両者が全く似ていないのならば「折角の修辞上の工夫であるけれど,似てないよね」と嗤って済むのでしょうが,基経の場合,その事績がなまじい伊尹に似ているだけに深刻です。)。そこで,より穏便でテクニカルな論点である阿衡=三公=無典職論を藤原佐世あたりが発明して基経はそれに乗り,史上の阿衡の紛議はその線上で難解に進行したと考えるのはどうでしょうか。現実の実質から遊離したこういう空想は,いかにも筆者らしいところではあります。

 

   その後,仁和四年十月二十七日の宇多天皇の日記が記録する藤原基経からの天皇宛て書状には「御書(〔つぶさ〕)(うけたまはる)る。云々。また広相朝臣の事,先日奉り了んぬ。而して重ねて仰せ示しを賜はる。基経,始めより何の意も無し。然れども前詔は大少の事を関白すべきの恩命あり。後詔は阿衡の任を以て卿の任と為よといへるなり。微臣,先後の詔,その趣同じからざるかと疑ひ,暫らく官奏を()ず。敬慎の(おもひ)にして,さらに他の(こころ)無し。而るに去ぬる六月に不善の宣命有り。当時の一失と謂ふべし。謹んで(まう)す」とありました(古藤167頁)。「関白」の職掌と「阿衡」に係る典職の有無いかんとの関係が専ら問題だったのだ,という総括でしょう。しかし,純粋な職掌問題であれば同年六月一日晩に源融から伝達された勅旨(「如前詔心且行万事」)で解決しているはずであったところ,その勅旨を承っても更に「未定阿衡之趣者。不能行政。」と抵抗した「阿衡之趣」に係る自らのこだわりが意味したところについては触れられてはいません。

   なお,「去ぬる六月に不善の宣命有り。当時の一失と謂ふべし。」の部分については,「〔同月二日付けの宣命について〕基経としても思いもよらぬ相手方の失策という感を抱いていたようにも受け取れる。つまり,宣命を出すこと自体はよいとしても,広相は断罪に値すると認めてしまうかのような内容を盛り込んでしまったら,こちら側としても断罪しない訳にはいかなくなるではないか,ということである。基経はそのことを「当時の一失と謂ふべし」という一節に込めたのではないかと思われるのである。皮肉を込めた教育的配慮を示した,と言うことができるかもしれない。」との解釈が示されています(古藤171頁)。


 あこう鯛の焼魚定食

 あこう鯛の焼魚定食


6 つけたり

百人一首の歌を挿入などしつつ本稿を書き進めて来たのですが,本稿終盤の主人公の一人たる宇多天皇の御製は百首中に含まれていません。あえて宇多天皇ゆかりの歌を代わりに選べば,基経の息子である藤原忠平が詠んだ次の一首でしょうか。

 

                     貞信公

  小倉山峰のもみじ葉心あらば今一度の行幸(みゆき)たなむ

 

 「心は寛平法皇〔退位出家後の宇多天皇〕大堰川へ御幸し給ひて,小倉山の紅葉の景色を御覧あり当今延喜帝〔醍醐天皇〕も行幸あるべき所ぞと仰せられしを,この忠平公御供にてありければ,帰り候はばその由帝へ奏聞仕るべしと申し上げて詠まれたりといふ事なり。」ということです(尾崎226頁)。麗しい父子愛の現れというべきか,それとも押し付けがましいと感ずべきか。息子としては,オレに仕事を押し付けて引退した親父がいろいろ遊び回って,これは面白かったからお前もやれ云々と指図がましいことを言ってくるのは何だ,誰のおかげで遊び暮らしていられるのか,趣味まで偉そうに押し付けてくるとは何だ,しかもオレが行幸しても二番煎じだし,親父に食い散らかされた現地は既に消耗し尽くしていて人民に更に迷惑をかけることになってしまいしかもその恨みをぶつけられることになるのはこのオレではないか云々と面白からず思ったのではないかしら,と想像するのは不逞不敬というものでしょうか。しかし,菅原道真左遷の昌泰の変の際「帝と申せども我が子なり行きて申さんになどか叶はざらん」とて(尾崎197200頁)道真擁護のためのこのこやって来た宇多法皇の甘い面会要求を醍醐天皇側は峻拒していますから,このお二人の関係は常に円満優美ではなかったわけです。