第1 誕生
1 東シナ海上における誕生
大正の御代にもリモートワーク(remote work)というものはあったのでしょうか。
大正12年(1923年)4月28日,摂政宮裕仁親王は台湾行啓の帰途,御召艦金剛御座乗中でありました。
28日 土曜日 〔旗艦霧島,御召艦金剛及び供奉艦比叡の〕艦隊は沖縄北西海上を航行する。〔摂政宮裕仁親王は〕供奉員・士官等を御相手に,デッキゴルフなどにて過ごされる。〔略〕
(宮内庁『昭和天皇実録 第三』(東京書籍・2015年)859頁)
東シナ海波静か,ということですね。しかしながらこの日付で,摂政宮裕仁親王は,実は大正12年法律第52号等を裁可しておられたのでした。1923年4月30日付けの官報には次のようにあります。
朕枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ帝国議会ノ協賛ヲ経タル司法官試補及弁護士ノ資格ニ関スル法律ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム
御名 御璽
摂政名
大正12年4月28日
内閣総理大臣 男爵加藤友三郎
司法大臣 岡野敬次郎
法律第52号
明治26年司法省令第9号弁護士試験規則ニ依ル試験ノ受験ヲ出願シタル者ニシテ本法施行後5年内ニ勅令ヲ以テ定ムル試験ニ合格シタル者ハ弁護士法第2条第2号ノ規定〔「弁護士タラムト欲スル者ハ左ノ条件ヲ具フルコトヲ要ス/第二 裁判所構成法第58条ノ試験ニ合格シタルコト」〕ニ拘ラス弁護士タルコトヲ得
本法施行前ニ帝国大学法学部法律学科ヲ卒業シタル者ハ裁判所構成法第58条第1項〔「試補ハ成規ノ試験ニ合格シタル者ノ中ヨリ司法大臣之ヲ命ス」〕及弁護士法第2条第2号ノ規定ニ拘ラス試験ヲ要セスシテ司法官試補ヲ命セラレ及弁護士タルコトヲ得
附 則
本法ハ大正12年5月1日ヨリ之ヲ施行ス
1923年4月30日,御召艦金剛を含む艦隊はなお洋上にあり,室戸岬沖から潮岬を通過,夕刻御前崎沖に達しています(実録三860頁)。
2 由来:弁護士試験の高等試験司法科試験への統合及びそれに伴う無資格者救済策
この大正12年法律第52号(「司法官試補及び弁護士の資格に関する法律」というのは,件名であって,題名ではありません。)には,次のような由来があります。
(1)官尊民卑の差別撤廃:法曹資格試験の高等試験司法科試験への統合
すなわち,「明治以来の官尊民卑の思想を反映して,従来は判検事と弁護士との間には,資格試験において截然たる区別があった」(前者については判事検事登用試験規則(明治24年5月15日司法省令第3号)に基づく第一回試験及び第二回試験,後者については弁護士試験規則(明治26年5月12日司法省令第9号)に基づく弁護士試験)ところ(第一東京弁護士会会史編纂委員会『われらの弁護士会史』(第一東京弁護士会・1971年)65頁),「政府は大正7年〔1918年〕1月17日〔裁可・同月18日公布の〕勅令第7号をもって「高等試験令」を制定(〔司法科試験に関する規定は〕大正12年〔1923年3〕月1日施行),これによって判事,検事,弁護士のいずれを志すにせよ,志願者は右の高等試験令による単一の資格試験(司法科試験)に合格することを必要条件と定めた。そして,これに合格すれば,直ちに司法官試補に採用される資格を取得し,また弁護士となる資格を付与されるものとした」のでした(同66頁)。念願の差別撤廃です。
(2)高等試験受験資格(学歴又は予備試験等)問題及び大正12年法律第52号によるその救済
しかし「差別撤廃」によって,実はかえって困ることも生じたのでした。というのは,「右の高等試験令によれば,高等試験を予備試験と本試験に分け,予備試験に合格しないと本試験を受けられないことに定め,予備試験は論文と外国語(英独仏語のうち1カ国語)について行なう(第4条,第6条),予備試験を受けるものは中学を卒業したものでなければならない(第7条〔なお,同条は「文部大臣ノ定ムル所ニ依リ国語,漢文,歴史,地理,数学,物理及化学ノ7科目ニ就キ中学校卒業ノ程度ニ於テ行フ試験ニ合格シタル者」にも予備試験の受験資格を認めていました。〕),ただし高等学校,大学予科および文部大臣が認定したこれらの学校と同等以上の学校卒業生は予備試験を免除される(第8条)という規定」が設けられていたのでした(第一東京弁護士会66頁)。
そこで・・・
〔略〕いままでの弁護士試験では学歴の有無を問わないことになっていたので,受験者のなかには中学を卒業しないものも少なくなかったが,いまもし高等試験令が実施されるとすれば,生活のため何かの職業につきながら,将来は弁護士となることをめざして刻苦精励してきたこれらの受験者は,永久に試験を受けられないことになる。
また仮りに中学を卒業していても,もうひとつの上の高等学校や大学予科を卒業していないものには,予備試験という余計な関門が立ちはだかる。
長年,弁護士試験のみのために勉強してきたのに,これでは甚だ苛酷である。何とか救済策を施してほしいということで,受験者から猛烈な陳情が行なわれた。
そこで政府は,〔衆議院から提出され帝国議会両議院の議決を経た当該法案の奏上を受けたので,〕新制度が実施される年の大正12年4月28日〔裁可・同月30日公布の〕法律第52号をもって特例を設け(5月1日施行),従来弁護士試験規則で受験を出願したことのあるものに対してのみ,今後5年間に限り,別に定める試験に合格すれば弁護士の資格を与えることにした。
ということになったのでした(第一東京弁護士会67頁)。
(3)弁護士試験受験者らによる運動
なお,「受験者から猛烈な陳情が行なわれた」ことについては,1923年3月8日の衆議院陪審法案委員会において,山内確三郎政府委員(司法次官)が自らの体験につき述べたところがあります。1922年中の弁護士試験に際してのことでしょうが,いわく。「最初ニ試験ノ筆記試験ガ終ッテ,其日ニ試験場ノ外ニ於テモ余程大勢集ッテ運動シ,ソレカラ約ソ千人許リノ受験者ガ司法省ニ来タノデアリマス,サウシテ私ニ会ウテ陳情スルコトガアルト云フコトデアリマシテ,其中ノ二三十人ガ来タト考ヘテ居リマス,併シ正式ノ代表者トシテ十人許リデ宜カラウト言フタノデアリマスガ,二三十人来タノデアリマス,其際ニ二ツノ陳情ヲシタ,一ツハ救済ヲシテ呉レ,今回ノ試験ガ最終デアルカラ救済シテ呉レト云フコトデ,一ツハ試験制度ノ延期問題デアリマシタ」と(第46回帝国議会衆議院陪審法案委員会議録(速記)第12回2頁)。司法次官閣下も「猛烈な陳情」には緊張疲弊せられたことでしょう。
また,法律書生は凶暴なものとして懸念せられていた節もあり,「是等ノ法律学生ハ万一是等ノ者ニ受験セシメナイ,即チ受験資格ヲ与ヘナイト云フコトデモナリマスト云フト,往々ニシテ不平ノ念ニ駆ラレマシテ軽挙盲動ヲナス者モナイデハナイト云フヤウナコトモ多少斟酌スベキ社会的事情デハナイカト云フヤウニ考ヘマス」との発言が,1923年3月20日の貴族院司法官試補及弁護士ノ資格ニ関スル法律案特別委員会において馬場鍈一政府委員(法制局長官)からあったところです(第46回帝国議会貴族院司法官試補及弁護士ノ資格ニ関スル法律案特別委員会議事速記録第1号2頁)。
なお,受験者らのした「二ツノ陳情」のうち,「救済ヲシテ呉レ」の方は,後に4で見る1922年における弁護士試験合格者の激増の事態と関係します。
3 枢密院における評価
1923年4月20日の枢密院会議に,帝国議会の両議院の議決を既に経た大正12年法律第52号となるべきものたる法案の件が付議されています(なお,この日,摂政宮裕仁親王は台湾の台中を発ち,北回帰線を越え,台南を訪問しており(実録三837-841頁),枢密院会議の場には臨場していませんでした。)。しかして,枢密院における同法案の審査委員らは同法案について同情熱心を感じておらず,むしろ不体裁で困ったものだと思っていたようで,「〔1918年1月18日の高等試験令の公布から〕今日迄ニ既ニ5年間ノ猶予期間アリタルニ顧ミ且其ノ趣旨ニ於テ稍〻理義一貫セサル嫌アルニ考ヘ果シテ適当ナル立法ト為スヘキヤ否ヤ問題ナルモ業ニ両院ノ議ヲ経タル今日ニ於テ強テ御不裁可ヲ奏請スヘキ重大ナル理由アルニ非サルカ故ニ之ヲ可決スヘキモノト思料ス」と報告員である岡部長職枢密顧問官は消極的不反対の結論を述べています(結局,枢密院会議では質疑も議論もなく全会一致可決)。
馬場法制局長官は大正12年法律第52号の法案が「枢密院ヲ通過スルカドウカニ付テノ疑ハアリマスガ」と1923年3月8日に衆議院の陪審法案委員会で述べていたところですが(第46回帝国議会衆議院陪審法案委員会議録(速記)第12回1-2頁),さすがに議会で既成事実が作られてしまうと,元首にして統治権を総攬する天皇(=摂政)も大日本帝国憲法上の不裁可大権(6条)で抵抗することは至難となるわけです。
大正12年法律第52号の法案に関して,枢密院において,これは「全ク一時ノ特例ニ係ル措置トシテ本官等之ニ反対セサルニ外ナラス故ニ当局ニ於テ他日再ヒ世上ノ要求ニ逢ヒ同様ノ処置ヲ反復スルカ如キ事態ヲ生セサル様努メテ防範ノ途ヲ講セムコト本官等ノ切ニ希望ニ堪ヘサル所ナリ」との審査委員らによる希望事項がありましたが(1923年4月20日枢密院会議筆記(岡部報告員)),当該希望がかなったかどうかについては,後に見るところです。なお,5年の期間といえば,現在の司法試験法(昭和24年法律第140号)4条の期間が想起されるところです。
4 弁護士試験末期の椀飯振舞い及び取り残された者たち
1923年3月1日の高等試験司法科試験発足当時においては「従来ノ弁護士志望者ハ今後弁護士ノ試験ヲ受クルコト至難ト為リ殆ト其ノ素志ヲ抛擲セサルヘカラサルノ窮況ニ陥ルヘシ而シテ其ノ人数ハ約三千人内外ニ上ルヘキ見込ナリ」とのことでした(1923年4月20日枢密院会議筆記(岡部報告員)。なお,「三千人以上アルト云フコトデアリマシテ」と1923年3月20日の貴族院司法官試補及弁護士ノ資格ニ関スル法律案特別委員会で馬場政府委員は述べています(第46回帝国議会貴族院司法官試補及弁護士ノ資格ニ関スル法律案特別委員会議事速記録第1号1頁。また,同速記録2頁)。)。まだ三千人ほどが残っていたのでした。
「司法部では,〔略〕新制度実施前の大正11年〔1922年〕度は,最後の弁護士試験の門を思いきって広くするという特別の取計らいをした。つまり,この年の受験者には総花的に弁護士の資格を与えることにしたのである。/その結果,大正11年は驚くべき大量の弁護士が誕生した」ということ(第一東京弁護士会67頁)であったにもかかわらずです。ちなみに,全国の弁護士数は大正9年(1920年)が3082名,大正10年(1921年)が3369名,大正11年(1922年)が3914名,そして大正12年(1923年)が5266名と増加しています(第一東京弁護士会68頁)。また,弁護士試験の最終年である1922年には,当該試験が2回行われています(第46回帝国議会貴族院司法官試補及弁護士ノ資格ニ関スル法律案特別委員会議事速記録第1号3頁(黒崎定三政府委員(法制局参事官))及び同速記録第2号1頁(水上長次郎委員)参照)。
その1922年の2回の弁護士試験の結果について見ると,第1回の弁護士試験の受験者総数2880名,合格者262名,棄権者404名,不合格者2214名,第2回は受験者総数3734名,合格者842名,棄権者429名,そして不合格者2463名となっています(第46回帝国議会貴族院司法官試補及弁護士ノ資格ニ関スル法律案特別委員会議事速記録第2号1頁(黒崎政府委員及び水上委員)。黒崎政府委員は,「弁護士試験ノ受験者数ニ於キマシテハ,昨年〔1922年〕ノ第1次第2次ヲ合セマシテ6614人」と言っています(同頁)。)。
5 第2項:「可哀想」な帝大生
なお,大正12年法律第52号の第2項の趣旨は,易しくした弁護士試験にそれでも落第した受験生を折角救済するのであれば(同法第1項),毒を喰らわば皿までである,それまでその特権性を特に批判されていたはずの帝国大学法学部法律学科学生にも目をつぶっておまけをしてしまえ,ということであったようです。
「〔1923年3月1〕日以後帝国大学法学部法律学科ヲ卒業シタル者ハ無試験ニテ司法官試補ヲ命セラレ及弁護士タルコトヲ得ルノ従前ノ特典ヲ享有セサルコトト為レリ仍テ本年〔1923年〕3月末卒業スヘキ者ハ僅ニ約1箇月ノ差違ノ為ニ此ノ特典ニ均霑スルコトヲ得サルモノナルカ故ニ本案ノ法律第2項ヲ以テ本法施行前ニ帝国大学法学部法律学科ヲ卒業シタル者ハ矢張リ無試験ニテ司法官試補ヲ命セラレ及弁護士タルコトヲ得ル旨ヲ規定ス」ということでした(1923年4月20日枢密院会議筆記(岡部報告員))。5名の法案提出者中の筆頭である熊谷直太衆議院議員がそもそも,1923年3月8日の衆議院陪審法案委員会において「3月1日カラ施行セラレマスカラ,二十五六日ノ間ノ為ニ,今回ノ卒業生ト云フモノハ其資格ヲ奪ハレルコトニナル,是ハ人情ノ上カラ見テモ洵ニ可哀想デアル」と発言しています(第46回帝国議会衆議院陪審法案委員会議録(速記)第12回1頁)。この「可哀想」な1923年3月末の東京帝国大学法学部法律学科の卒業予定者は三百ないしは三百五十名,京都帝国大学法学部法律学科のそれは九十名だったそうです(1923年3月15日の貴族院本会議における岡野敬次郎司法大臣の答弁(第46回帝国議会貴族院議事速記録第22号549頁))。ただし,「既ニ大学令ニ依テ官立私立ノ間ニ,均シク大学卒業ニ付テハ区別ヲ設ケナイト云フ主義ヲ採リマシタ以上ハ,理論ニ於テハ甚ダ当ラヌ」ところではあります(第46回帝国議会貴族院司法官試補及弁護士ノ資格ニ関スル法律案特別委員会議事速記録第1号1頁(馬場政府委員))。
6 大正12年法律第52号による試験:大正12年勅令第196号
大正12年法律第52号第1項の規定する「勅令ヲ以テ定ムル試験」の勅令は,大正12年法律第52号による試験に関する勅令(件名)たる大正12年勅令第196号です(1923年4月28日摂政宮裕仁親王裁可)。
1923年4月20日の枢密院会議における岡部報告員の報告によれば,「此ノ試験ハ高等試験令ノ試験トハ全ク別物」ではあるものの「成ルベク高等試験令ニ準拠シテ之ヲ行フコト適当ナルカ故ニ其ノ趣意ヲ以テ〔当該〕試験ニ付高等試験令中或ル条項ヲ準用スルコトヲ規定シ」たものです。「而シテ当局ニ於テハ右ノ法律第1項ハ専ラ従前ノ弁護士志望者ノ為ニ受験ノ途ヲ存スルノ趣旨ニシテ試験ノ程度ヲ低下セムトスル意味ニ非サルカ故ニ此ノ特別試験令ノ司法科試験ト同一ノ程度ヲ以テ之ヲ執行スルノ意嚮ナル旨ヲ言明シタ」とのことです(1923年4月20日枢密院会議筆記(岡部報告員))。すなわち,1923年3月8日の衆議院陪審法案委員会において馬場政府委員は,「試験トシテハ高等試験,司法官試験デハナイノデアリマスケレドモ,実質ニ於テハ高等試験,司法官試験ノ本試験ト,問題並ニ施行日時,場所等モ同ジウシテ施行シタイト云フ考ヘ」であり,かつ,「採点其他ニ付テ斟酌ヲ加ヘルコトハ,恐ラクシナイ積リ」で政府はあるものと答弁していました(第46回帝国議会衆議院陪審法案委員会議録(速記)第12回1頁。また,1923年3月15日の貴族院本会議における岡野司法大臣の答弁(第46回帝国議会貴族院議事速記録第22号548頁))。ただし,1927年3月22日の貴族院権利者ヲ確知スルコト能ハザル運送品等ノ処分ニ関スル法律案外1件特別委員会において山川端夫政府委員(法制局長官)は,「52号ノ方ハ別ニ試験執行ヲ致シテ居リマス,ソレカラ是ト此司法科試験ハ別ニアリマス〔略〕是ハ別ニ試験ヲ致シテ居リマス,〔略〕52号ハ52号ダケ別ニ試験イタシテ居ルノデアリマス,〔略〕全ク別ニ試験ヲ致シマス」と答弁しています(第52回帝国議会貴族院権利者ヲ確知スルコト能ハザル運送品等ノ処分ニ関スル法律案外1件特別委員会議事速記録第7号1頁)。
高等試験司法科試験と「同一ノ程度」の試験ならば,大正12年法律第52号の試験の合格者には,弁護士資格のみならず司法官試補を命ぜられる資格も与えられてもよかったように思われるのですが,そうはされていません。やはり,高等試験予備試験(更には普通教育中の中学校卒業程度7科目に係る高等試験令7条の試験)を難しいとて忌避する法律知識ばかりの偏頗な人材は,人民の代理人やら弁護人やらを草莽においてする分には構わないが,天朝の官僚たるには欠けるところがあるということだったのでしょう。
7 高等試験予備試験とは
ところで,弁護士試験のベテラン受験生らから嫌われた高等試験予備試験とはどのようなものであったかというと,1923年試験のいわゆる過去問を見るに,次のとおりでした。
まず論文ですが,これは次の3題のうちから1題を選んで論ぜよ,ということになっていました。
「農村問題ヲ論ス」(泰山堂編輯部編『高等試験予備試験』(泰山堂・1925年)191頁)
「対支政策ヲ論ス」(泰山堂197頁)
「宗教に対する国家の政策を論ず」(泰山堂202頁)
論文においては,「日常時事問題に対し其是非善悪を批判鑑別して独立の一見地を立て之を一つの文章に纏めて主張発表する力」の有無が問われるのでした(泰山堂73頁)。
次に英語。「此試験問題の程度は大体中学5年教科書に多少新語を加味した位のものであつて世間で恐れる程決して困難なものではない」のでした(泰山堂62頁)。英文和訳と和文英訳とが出題されました。
“Even a child of eight or nine years old, if taught properly will be able to grasp conception of the nations working together for a common purpose of humanity.”
“The astute statesman of to-day will not lose sight of the lesson of the great war that military strength and strong geographical position can gain battle but do not always win the victory.”(泰山堂207頁)
「過般大阪ニ於テ開催セラレタル「オリンピツク」大会ニ於テ日本側選手ハ優勝シ大ニ其名声ヲ高メタリ」
「日本ノ官吏タルモノハセメテ一ツ位ハ外国語ヲ読ミ書キガ出来ナクテハ困ル」(泰山堂208頁)
第2 延命
1 昭和2年法律第54号:1928年4月30日までから1932年12月31日までへ
しかし,一旦優しくすると,それは当然かつ不可譲の権利と化して,優しくされた人は優しくした人をもう許してはくれません。昭和の御代となった1927年(昭和2年)5月2日に裁可・公布された昭和2年法律第54号(同日施行(同法附則))は,大正12年法律第52号第1項の「本法施行後5年内」を「昭和7年〔1932年〕12月31日迄」に改めたのでした。当初の特例の最終日であった1928年4月30日から4年8箇月間の延長です。
(1)帝国議会
1927年3月11日,衆議院本会議における大正12年法律第52号中改正法律案(横山勝太郎外8名提出)に係る第一読会における蔵園三四郎議員の演説は次のとおり。
〇蔵園三四郎君 本案ハ各派共同提出ニ係リマスル案デゴザイマス,私ヨリ極メテ簡単ニ其趣旨ヲ申述ベタイト存ジマス,大正12年法律第52号ニ依リマシテ弁護士タラントシテ,弁護士試験ノ受験ヲ志願スル所ノ人〻ガ,今尚ホ其数二千数百人ニ上ッテ居ルノデアリマス,然ルニ其受験者ノ資格ニ関シマスル有効年限タル第52号法律ハ,将ニ来年ノ4月ヲ以テ終了ヲ告ゲント致シテ居ルノデゴザイマス,不幸ニシテ未ダ及第ヲスルコトノ出来ナイ所ノ受験者ハ,将ニ1年ヲ以テ其前途ノ登竜門ヲ永久ニ閉サレントシテ居ルノデゴザイマス,是等不幸ナル受験者ニ取リマシテハ,非常ナル苦痛デゴザイマス,一大脅威デゴザイマス,独リ受験者本人ニ限ラズ,是等ノ父兄,是等ノ家族,尽ク其生活ノ不安ニ襲ハレテ居ル案デゴザイマス,ソレデ更ニ茲ニ延期ヲ致シマシテ,昭和7年〔1932年〕ノ12月31日マデ,之ヲ延期セントスルモノデアリマス,且ツ1項ヲ加ヘマシテ,筆記試験ニ及第ヲ致シマシタル者ハ,来年度ニ即チ翌年度ニ限ッテ,其筆記試験ヲ免除セントスル特例ヲ設ケタイノデアリマス,是ハ高等試験令ニ於テ,其例ヲ示シテ居ルノデアリマス,是ト均衡ヲ得セシムルコトハ,最モ必要デアルト存ジマス,茲ニ即チ本案ヲ提出致シマシテ,是等不幸ナル受験者ニ対スル相当ナル便宜ヲ与ヘントスルモノデアリマス,速ニ御審議ノ上,御賛成アランコトヲ希望致シマス(拍手)
(第52回帝国議会衆議院議事速記録第24号542-543頁)
「不幸ナル受験者」らがいて,彼らは「非常ナル苦痛」及び「一大脅威」を感じており,家族と共に「生活ノ不安」を覚えているから,「其前途ノ登竜門ヲ永久ニ閉」ざすことはしないでやってくれという,情に訴える演説です。「各派共同提出」ということですから,代議士諸賢にとってはこれで十分なのでしょう。横山勝太郎,蔵園三四郎,原惣兵衛らの法案提出者は弁護士であるところ,「既ニ試験ヲ通過致シテ居ル友人トノ関係」(横山),「私等ト一緒ニ試験ヲ受ケテ居ッタ連中」(原)といった口吻からしますと(第52回帝国議会衆議院大正12年法律第52号中改正法律案委員会議録(筆記速記)第1回2頁,3頁),弁護士試験受験生仲間であったという連帯の感情が,弁護士議員らを糾合せしめて,大正12年法律第52号による試験に挑む万年受験生を救うべしとする・議会における大きな力となったものでしょう。ただし,1927年3月15日の衆議院本会議における榊原経武委員長の報告では,「本案ハ申スマデモナク,弁護士試験規則ニ依ッテ試験ヲ出願致シマシタ受験者二千数百名ノ本人ト,其家族トヲ生活ノ不安ヨリ救済ヲ致シマス所ノ最モ社会政策ニ適シテ居ル其一ツデアリマス」ということで(第52回帝国議会衆議院議事速記録第26号654頁),「社会政策」ということになっています。
しかし,高等試験予備試験に合格しておけば「前途ノ登竜門」が「永久ニ閉」ざされることはないはずなのですが(高等試験令8条2項により,予備試験合格者は爾後予備試験を免ぜられます。),弁護士試験受験に一旦はまり込んでしまうと,論文問題に係る時事問題にも外国語問題に係る横文字にもその目を「永久ニ閉」ざすことになってしまうということなのでしょう。弁護士が時事にわたって天下国家を語ることは期待されておらず,ボワソナアドのフランス語著作,GHQの英語文献などを弄びつつ野に在って比較法的研究をなす必要もなし,ということが弁護士ら自身の認識だったのでしょう。
なお,法案に対する政府の態度は,1927年3月22日の貴族院権利者ヲ確知スルコト能ハザル運送品等ノ処分ニ関スル法律案外1件特別委員会における山川政府委員の答弁によれば,「今日高等試験令ト云フモノガ出来マシテ,成ルベク其方針ニ依ッテ試験ヲシヤウト云フノハ是ハ申ス迄モナイコトデアリマス,ソレニ対シマシテ例外ノコトトシテ特ニ此弁護士試験ニ付テノ或ル特別ノ規定ヲ設ケラレテ居ルノデアリマス,今日ニ於キマシテハ政府ハ之ヲ此制度ヲ現在ノ状態ヲ変更シヤウト云フ風ニハ考ヘテ居リマセヌノデアリマス,尤モ此案ガ帝国議会ヲ通過スルト云フコトニナリマスレバ,無論政府トシテハ之ヲ考慮シナケレバナラヌトハ考ヘテ居リマスルガ」云々というものでした(第52回帝国議会貴族院権利者ヲ確知スルコト能ハザル運送品等ノ処分ニ関スル法律案外1件特別委員会議事速記録第7号3頁)。
(2)1923年から1926年までの試験結果
大正12年法律第52号による試験の各年の出願者数及びそのうちの合格者数は,それぞれ,1923年には1889名中162名,1924年には1591名中123名,1925年には1479名中141名,1926年には1459名中141名ということで,4年間で567名が合格しています(第52回帝国議会衆議院大正12年法律第52号中改正法律案委員会議録(筆記速記)第1回3頁(山川政府委員)及び同議会貴族院権利者ヲ確知スルコト能ハザル運送品等ノ処分ニ関スル法律案外1件特別委員会議事速記録第7号1頁(同政府委員))。1922年2度目の最後の弁護士試験出願者数3734名から当該弁護士試験の合格者数(842名)及び1923年から1926年までの大正12年法律第52号による試験の合格者総数567名を差し引けば,2325名が残っている計算でした。
(3)筆記試験合格者に対する翌年の筆記試験免除:勅令事項
なお,横山衆議院議員らの当初法案にあった筆記試験の合格者に係る翌年筆記試験免除条項案は,1927年3月11日の委員会審議の場で山川政府委員から法律事項ではなく勅令事項である旨注意があり,同日当該委員会において法案から削られています(第52回帝国議会衆議院大正12年法律第52号中改正法律案委員会議録(筆記速記)第1回2頁,3-4頁)。
大正12年法律第52号による試験における筆記試験合格者に翌年の筆記試験を免除するための勅令上の手当ては,1929年3月27日に裁可され同月28日に公布された昭和4年勅令第17号によってされ,1928年の試験における筆記試験合格者から適用されています(同勅令附則2項)。
(4)枢密院会議:金子堅太郎の小言及び昭和天皇の欠席
ア 金子堅太郎の小言
両院ノ議決ヲ経タル大正12年法律第52号中改正法律案の件は,1927年5月2日,枢密院の会議に付されています(同日午前10時10分開議)。同件に係る審査委員長たる金子堅太郎枢密顧問官の報告において,同枢密顧問官は長々と小言を述べて,いわく。「抑〻現行規程〔1918年の高等試験令〕ノ施行ニ関シテハ当初5年ノ猶予期間ヲ存シタル後大正12年法律第52号〔略〕ヲ以テ従前ノ出願者ノ為ニ尚5年間之ヲ猶予スル旨ヲ定メタルヲ以テ足レリト為サス重ネテ本案ヲ以テ其ノ特例ノ期間ヲ数年間延伸シ従テ其間現行規程ノ厳正ナル施行ヲ遅延セシメムトスルハ固ヨリ妥当ノ措置ナリト謂フヘカラス曩ニ大正12年法律第52号〔略〕ノ案件カ本院ノ諮詢ニ付セラレタルトキ本院ニ在リテハ事全ク一時ノ特例ニ係ル措置トシテ之ニ反対セサルニ外ナラス故ニ当局ニ於テ他日再ヒ世上一部ノ要求ニ逢ヒテ同様ノ処置ヲ反復スルカ如キ事態ヲ生セサル様努メテ防範ノ途ヲ講セムコトヲ希望スル旨ヲ表明シタルニ今果シテ先憂ノ如ク本案ノ議ヲ見ルニ至リシコトハ真ニ遺憾禁スヘカラサル所ナリ然レトモ本件ノ法律案ハ既ニ帝国議会ノ議ヲ経タル今日ニ於テ強テ御不裁可ノ議ヲ以テ奉答セサルヘカラサル程ノ重大ナル事件ニ非サルカ故ニ先議ニ於ケルト同シク一時ノ特例ニ係ル暫行措置トシテ之ヲ是認スルノ外ナシト思料ス〔略〕但シ他日本案ノ特例期間ノ延長ヲ以テ足レリトセス重ネテ之ト同様ノ措置ヲ反復スルコトアラハ終ニ殆ト底止スル所ヲ知ラサルニ至ルヘシ当局ニ於テハ防範ノ途ヲ講スル為宜シク更ニ一層ノ注意ヲ払ハサルヘカラス是レ本官等ノ熱心希望ニ堪ヘサル所ニシテ之ニ関シ国務大臣ノ意嚮ヲ質シタルニ将来復タ此ノ如キ議ヲ生シタルトキハ内閣ニ於テ之ヲ阻止スルノ意図ヲ有スル旨ノ言明ヲ得タリ」と(下線は筆者によるもの)。結局当該枢密院会議においては,昭和2年法律第54号となる法案の件は全会一致をもって可決されています。
なお,石黒忠悳枢密顧問官の「政府カ此ノ法律案ニ同意セラレタル趣意如何」との質問に対して原嘉道司法大臣は,「政府ハ此ノ法律案ニ同意シタルニ非ス終始反対ヲ表明シタルニ拘ラス両院ノ可決ヲ見タルモノニシテ政府ニ於テハ遺憾ヲ感スル次第ナリ」と,見てきたように答えていますが(1927年5月2日枢密院会議筆記。原が司法大臣に就任したのは,第52回帝国議会閉会(1927年3月26日)後,台湾銀行救済問題で倒れた若槻禮次郎内閣に代わって田中義一内閣が成立した同年4月20日のことです。),第52回帝国議会における山川政府委員の前記答弁振りからは,政府が明瞭かつ決然と反対していたようには印象されません。
イ 昭和天皇の欠席:競馬とお茶と
ちなみに,「枢密院ハ天皇親臨シテ重要ノ国務ヲ諮詢スル所」(枢密院官制(明治21年勅令22号)1条)であるにもかかわらず,1927年5月2日の枢密院会議に昭和天皇は実は臨御していませんでした。さては御不例かとも思われたところですが,同日の聖上御動静は次のとおりでした。
2日 月曜日 午後,赤坂離宮内において側近等と共に競馬を行われる。全4班で競争し,天皇は初緑号に騎乗され,甘露寺受長・土屋正直・矢野機・永積寅彦と共に第2班に出場される。各班の1,2着には賞品を賜う。競馬会は皇后も御覧になる。終わって皇后・成子内親王及び競馬会参加者一同等と御茶屋において茶菓をお召しになる。〔略〕
夕刻,皇太后宮大夫入江為守参殿につき,謁を賜う。続いて大蔵大臣高橋是清に謁を賜い,約1時間にわたり言上をお聞きになる。〔略〕
この日大正天皇多摩陵において山陵起工奉告の儀挙行につき,侍従海江田幸吉を勅使として差し遣わされる。〔略〕
(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)695頁)
大正12年法律第52号による試験にいつまでも合格できない陰々滅々たる万年落第生の救済云々問題は確かに「重大ナル事件ニ非サル」ものであって,26歳となったばかりの青年君主にとっては,せっかくの初夏の一日,妻の見守る前で競馬を行い,妻及び幼い娘と共に仲間らとお茶をして健康に過ごす方が重要であったのでした。
とはいえあるいは,午前の枢密院会議に親臨しても午後の競馬には間に合ったようでもあるにもかかわらず当該会議への臨御がなかったということは,政府に対してした1923年4月20日の注意が結局無視されたような形となって恰好の悪い枢密院の側から,昭和天皇に対して御臨御不要云々との何らかの働きかけがあったのかもしれません。
しかし,大正12年法律第52号第1項の特例は,この後も枢密院の面子を更に2度潰す形で,昭和7年法律第21号によって1937年12月31日まで,昭和12年法律第83号によって1941年12月31日まで延長されます。(第一東京弁護士会73頁註2は「この〔大正12年法律第52号第1項の〕特例は受験者の要望によって昭和12年〔1937年〕12月31日まで,さらに2回にわたって有効期間が延期された。」と記しますが,実際には1941年12月31日まで3回延長されているので,不正確です。もっとも,旧弁護士法(昭和8年法律第53号)が1936年4月1日から施行(同法附則1項)されたことに応ずる同年5月25日裁可・同月26日公布の昭和11年法律第7号によって,同月26日以後(同法附則参照)は,大正12年法律第52号による試験に合格した者は直ちに弁護士資格を得るのではなく,その手前の弁護士試補たる資格を得るものと改められています。したがって,大正12年法律第52号による試験に合格して直ちに弁護士資格を得ることができたのは,1935年の試験までということになります。「昭和12年〔1937年〕12月31日までに,司法官試補及弁護士の資格に関する法律(大正12年4月法律第52号)の試験に合格した者」は弁護士法(昭和24年法律第205号)81条により弁護士の資格を有すると説くのは(日本弁護士連合会調査室『条解弁護士法(第2版補正版)』(弘文堂・1998年)588頁),弁護士試補たる資格のみを与える1936年及び1937年の試験については勇み足でしょう。)
2 昭和7年法律第21号:1932年12月31日までから1937年12月31日までへ
(1)帝国議会
昭和7年法律第21号の法案は,原惣兵衛衆議院議員外7名によって提出されています。1932年6月7日,衆議院本会議の同法案第一読会において原議員は,次のように演説しました。
〇原惣兵衛君 本案提出ノ理由ヲ簡単ニ私ヨリ申述ベタイト存ジマス,大正12年法律第52号ニ依リマシテ,弁護士タラントシテ弁護士試験ノ受験ヲ志願スル所ノ人人ガ,今尚ホ其数数千人ニ上ッテ居ルノデアリマス,然ルニ其受験者ノ資格ニ対スル有効年限ハ,将ニ本年12月ヲ以テ終リヲ告ゲントシテ居ルノデアリマス,不幸ニシテ未ダ及第スルコトノ出来得ナイ此受験者ハ,将ニ其前途ガ永久ニ閉ザサレント致シテ居ルノデアリマス,仍テ茲ニ更ニ延期ヲ致シマシテ,昭和12年〔1937年〕ノ12月31日マデ,之ヲ延期セラレンコトヲ望ムモノデアリマス,是等受験生ヲ救済スルコトハ,社会政策上ノ見地ヨリ緊急ナル案件ナリト思料スルノデアリマス,何卒満場一致ヲ以テ,速ニ御協賛ヲ与ヘラレンコトヲ偏ニ希フ次第デアリマス
(第62回帝国議会衆議院議事速記録第5号56-57頁)
「社会政策」です。手慣れたものです。
1927年4月末の段階では金子堅太郎枢密顧問官の詰問(「国務大臣〔筆者註:原嘉道司法大臣でしょう。〕ノ意嚮ヲ質シタルニ」)に対して「将来復タ此ノ如キ議ヲ生シタルトキハ内閣ニ於テ之ヲ阻止スルノ意図ヲ有スル旨ノ言明」があったところ,1932年6月の第62回帝国議会における政府の抵抗状況はいかんというに・・・
まず,1932年6月8日の衆議院大正12年法律第52号中改正法律案委員会。
〇八並〔武治〕政府委員〔司法政務次官〕 〔略〕〔受験者の〕其御身分ヤ御勉強ノ点ニ付キマシテハ,実ニ非常ニ心カラ同情ヲ表シテ居ルノデアリマス,〔略〕併ナガラ政府ノ立場ト致シマシテ,度々之ヲ延期スルト云フコトハ如何ナモノデアラウカト,色々協議モ致シタノデアリマスガ,御同情ハ致スガ,3回モ之ヲ延期致スト云フヤウナコトハ,政府ノ建前ト致シテ積極的ニ賛成ヲ表スルト云フ訳ニハドウモ行カヌノデアリマス,政府ノ建前ト致シマシテハ之ニ付テハ同意シ兼ネル,併シ両院ヲ通過致スト云フコトニナリマスナラバ,其時ニ又考慮ヲ致サウト考ヘテ居リマスガ,只今デハ此法案ニ対シテ賛成ノ意思ヲ表示スルコトガ出来ナイコトヲ洵ニ遺憾ニ存ズル次第デアリマス
(第62回帝国議会衆議院大正12年法律第52号中改正法律案委員会議録(速記)第1回3頁)
〇黒崎〔定三〕政府委員〔法制局参事官〕 〔略〕結果ト致シマシテハ,若シ両院デ本案ガ通過シテ愈〻法律トナルコトニナリマスレバ,其実行方法トシテハ是ハ考慮シナケレバナラヌ事ダト考ヘマスガ,差当リ本案ソレ自身ニ付キマシテハ,直ニ賛意ヲ表スルコトニハ参リマセヌコトヲ遺憾ト致シマス
(第62回帝国議会衆議院大正12年法律第52号中改正法律案委員会議録(速記)第1回3-4頁)
1932年6月11日の貴族院大正12年法律第52号中改正法律案特別委員会。
〇政府委員(八並武治君) 〔略〕政府ノ立前ト致シマシテハ余リニ延期ニ次グニ延期ヲ以テスルト云フコトハ賛成ヲ致シテ居ラヌノデアリマス,〔略〕試験制度ノ建前ト致シテ,政府カラシテ賛成ダト云フコトハ,如何トモ申上ゲニクイヤウナ立場ニ居リマスカラ,衆議院デモ矢張リ委員会ニ於テサウ云フ意味合ノコトヲ,政府ノ立前ヲ明カニ致スト云フ意味ニ於テ申上ゲタヤウナ次第デアリマス〔略〕
(第62回帝国議会貴族院大正12年法律第52号中改正法律案特別委員会議事速記録第1号3頁)
〇政府委員(八並武治君) 条件ヲ附ケルトカ,或ハ又今度1回ダケ許シ,此次ハ許サヌト云フヤウナコトハ,3回目デアリマスカラシテ,実ハ政府トシテハモウ1回ハ宜シカラウト云フ言葉ヲ言ヒニクイ立場ニアリマスカラ,先ヅ反対デアルト云フコトヲ速記録ノ上デ明カニ致シテ置キタイト思ヒマス
(第62回帝国議会貴族院大正12年法律第52号中改正法律案特別委員会議事速記録第1号3頁)
これら政府委員の軟弱答弁に,金子堅太郎枢密顧問官閣下は御憤慨でした。
(2)枢密院:金子堅太郎の憤慨
両院ノ議決ヲ経タル大正12年法律第52号中改正法律案(すなわち昭和7年法律第21号に係る法案)の件が付議された1932年8月10日の枢密院会議(なお,昭和天皇は那須で避暑中のため臨御せず。)において,同件の審査委員長である金子枢密顧問官はその報告においていわく,「当初ヨリ見レハ実ニ二十有余年間高等試験制度ノ厳正ナル施行ヲ遅延セシメムトスルハ固ヨリ妥当ノ処置ナリト謂フヘカラス曩ニ前後2回右特例期間伸長ノ案件〔筆者註:1923年の大正12年法律第52号の法案及び1927年の昭和2年法律第54号の法案の各件〕カ本院ノ詢議ニ付セラルルヤ本院ニ於テハ其ノ全ク一時ノ特例ニ係ル措置ナルヲ以テ同様ノ措置ヲ反復スルカ如キ事態ヲ生セサル様当局ニ於テ努メテ防範ノ途ヲ講セムコトヲ熱望シ特ニ第2次伸長ノ議〔1927年5月2日〕ニ際シテハ将来復タ此ノ如キ議ヲ生シタルトキハ内閣ニ於テ之ヲ阻止スルノ意図ヲ有スル旨ノ言明ヲ得タリ然ルニ今次ノ第62回帝国議会ニ於テ本法律案ノ発議セラルルヤ政府ハ断乎トシテ之ニ反対スルノ態度ニ出テス之カ防止ニ力ヲ致スノ形跡ナクシテ其ノ成立ヲ見ルニ至リシハ真ニ遺憾ニ堪ヘサル所ナリ」と(下線は筆者によるもの)。
ただし,例のごとく「然レトモ本法律案ハ既ニ帝国議会ノ議ヲ経タル今日ニ於テ強テ御不裁可ノ議ヲ以テ奉答スルハ穏ナラス又左迄ノ重大ナル理由アルモノニ非サルカ故ニ先議ニ於ケルト同シク一時ノ特例ニ属スル暫行措置トシテ之ヲ是認スルノ外ナシト思料ス」ということでしたから(1932年8月10日枢密院会議筆記(金子報告員)),当該案件は枢密院会議の全会一致で可決されています。
昭和7年法律第21号は,昭和天皇が那須から東京に戻った日の翌日である1932年8月16日に裁可され,同月17日に公布,同日施行されています(同法附則)。
(3)1927年から1931年までの出願状況等
なお,1927年以降の大正12年法律第52号による試験に対する出願状況ですが,1927年には1041名,1928年には834名,1929年には687名,1930年には527名,1931年には530名であったそうです(第62回帝国議会衆議院大正12年法律第52号中改正法律案委員会議録(速記)第1回3頁(黒崎政府委員)。ただし,1931年の出願者数「530人」については,「503名」との説明もあります(第71回帝国議会衆議院陪審法中改正法律案委員会議録(速記)第3回3頁(松阪広政政府委員(司法省刑事局長)))。)。1931年の合格者数は36名でした(第62回帝国議会貴族院大正12年法律第52号中改正法律案特別委員会議事速記録第1号2頁(黒崎政府委員))。1922年の最後の弁護士試験(同年2回目)に対する出願数が3734名で,その最後の弁護士試験及び1923年から1931年までの大正12年法律第52号による試験の合格者数が1734名になるそうですから(第62回帝国議会貴族院大正12年法律第52号中改正法律案特別委員会議事速記録第1号2頁(黒崎政府委員)),1927年から1931年までの5年間での大正12年法律第52号による試験の合格者数は325名になるようです。年平均65名ですが,1932年前数年間の合格率が「9分〔すなわち9パーセント〕位ノ割合カト思ッテ居リマス」ということですから(第62回帝国議会貴族院大正12年法律第52号中改正法律案特別委員会議事速記録第1号2頁(黒崎政府委員)),よいのでしょう。どうしても試験との相性の悪い人が残るのでしょうから,合格率は年を追うごとに減少するのでしょう。
3 昭和11年法律第7号:旧弁護士法施行への対応(弁護士資格から弁護士試補資格へ)
1936年4月1日からの旧弁護士法の施行に応ずる昭和11年法律第7号(同法により,大正12年法律第52号第1項の「弁護士」が「弁護士試補」に,「弁護士法第2条第2号」が「弁護士法第3条」に改まる。)の法案は,議院からではなく政府から提出されたものであって,枢密院による詢議は,第69回帝国議会への法案提出前の1936年4月22日に昭和天皇親臨下に行われています。
1936年5月18日の衆議院大正12年法律第52号中改正法律案委員会において,林頼三郎司法大臣は,大正12年法律第52号による試験に関するその頃の状況について,「受験ヲ致シマス者ハ年々減ッテ参ッテ居リマス,近年ノ事例カラ見マスト,二百人余リハマダ受験致シテ居リマス,其中カラ二十人前後合格致シテ居ルヤウナコトニナッテ居リマス,サウ云フ風ニ段々少ナクナッテ参ッテ居リマス」と述べています(第69回帝国議会衆議院大正12年法律第52号中改正法律案委員会議録(速記)第2回2頁)。
昭和11年法律第7号は,前記のとおり,1936年5月25日に裁可され,同月26日の公布とともに同日施行されました(同法附則)。
4 昭和12年法律第83号:1937年12月31日までから1941年12月31日までへの最後の延長
大正12年法律第52号第1項の最後の延長は昭和12年法律第83号によるもので,それまでの例であれば5年延長の「昭和17年〔1942年〕12月31日迄」となるべきところが4年延長の「昭和16年〔1941年〕12月31日迄」となっています。第71回帝国議会の衆議院において,手代木隆吉議員外3名及び紅露昭議員外3名から同法に係る同文の法案が2件提出されたものです。1937年9月1日に裁可され同月2日に公布された当該昭和12年法律第83号は,公布の日から施行されています(同法附則)。
(1)政府の抵抗
枢密院の御機嫌問題もあるので,政府は法案に不賛成でした。1937年8月3日の衆議院陪審法中改正法律案委員会で樋貝詮三政府委員(法制局参事官兼内閣恩給局長)は「政府ト致シマシテ,最初カラモウ延バサナイ延バサナイト云フコトデ,実ハ枢密院方面ナドニ参リマシテ,今日ニ至リマシテハ数遍延長致シマシタヤウナ訳デアリマスガ,政府ト致シマシテ之ニ同意致シテ,更ニ延バシテ行クノダト云フコトハ,申セナイ立場ニナッテ居リマス,〔略〕政府ノ立場トシマシテ是ハ御賛成ヲ申上ゲルト云フコトハ出来ナイ」と述べ(第71回帝国議会衆議院陪審法中改正法律案委員会議録(速記)第3回3頁),同月5日の貴族院大正12年法律第52号中改正法律案特別委員会においては藤田若水政府委員(司法参与官)がより端的に「本案ハ度々延シテ参リマシタノデ,此ノ以上延期スルコトニハ政府ハ反対デゴザイマス」と発言しています(第71回帝国議会貴族院大正12年法律第52号中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1頁)。
(2)貴族院の仕掛け:山川端夫再び
貴族院大正12年法律第52号中改正法律案特別委員会においては,1937年8月5日,昭和12年法律第83号の法案に全会一致で賛成するに際して「本法ニ定メタル期間ノ延長ハ今回ヲ以テ最終トシ将来更ニ延長スルコトナキヲ期ス」という希望条件が全会一致で付されています(第71回帝国議会貴族院大正12年法律第52号中改正法律案特別委員会議事速記録第1号2頁。また,第71回帝国議会貴族院議事速記録第10号111頁(秋月種英委員長報告))。また,5年延長ではなく4年延長である意味については,同月7日の貴族院本会議において,当該委員会委員長の秋月種英子爵が「前議会〔第70回帝国議会〕ニ更ニ5年間延長ヲスルト云フ法律案ガ衆議院カラ提出ニ相成リマシタノデゴザイマス,本院〔貴族院〕ニ於キマシテハ今日迄延期ニナリマシタ事情,並ニ現在ノ事情ヲ十分考慮致シマシテ,今直チニ之ヲ打切ルト云フコトハ社会上面白カラザル結果モ起リマス憂モアリマスノデ,此ノ度限リト云フコトニ認メラレマシテ,其ノ意味ヲ具体的ニ現ニ現ス為ニ5年間ヲ4年間延期スル,斯様ニ決リマシテ,本院ニ於キ成立ヲ致シマシテ衆議院ノ方ニ送リマシタ処ガ,〔1937年3月31日の〕解散ノ為ニ不成立トナリマシタノデ,此ノ度提出ニナリマシタノハ,本院ニ於テ修正セラレマシタ案,即チ4年間延期ヲスル,斯ウ云フ意味ニ於テノ改正案ガ提出ニナリマシタノデ,特別委員会ニ於キマシテハ何等ノ議論モナク本案ニ賛成ヲ致シマシタノデゴザイマス」と説明しています(第71回帝国議会貴族院議事速記録第10号111頁。下線は筆者によるもの)。
貴族院において,5年延長を4年延長に短縮し,また,「期間ノ延長ハ今回ヲ以テ最終トシ将来更ニ延長スルコトナキヲ期ス」との希望条件を付して,大正12年法律第52号の延長の無限進行の阻止に向けた仕掛けが講ぜられたのでした。
しかして当該仕掛けの発案者は,かつて昭和2年法律第54号の成立を阻止し得ず(又は,阻止しなかった)法制局長官たりし山川端夫貴族院議員でした。すなわち,1937年3月29日の第70回帝国議会貴族院大正12年法律第52号中改正法律案特別委員会において山川委員が,5年延長に代わる4年延長案及び「本法ニ定メタル期間ノ延長ハ今回ヲ以テ最終トシ将来更ニ延長スルコトナキ様政府ニ於テ善処セラレンコトヲ望ム」との希望条件を提案し,同委員会において全会一致の賛成を得たのでした(第70回帝国議会貴族院大正12年法律第52号中改正法律案特別委員会議事速記録第3号2-3頁)。なお,希望条件の文言が,第71回帝国議会の貴族院大正12年法律第52号中改正法律案特別委員会(1937年8月5日)において,「将来更ニ延長スルコトナキ様政府ニ於テ善処セラレンコトヲ望ム」から「将来更ニ延長スルコトナキヲ期ス」に改められていますが,これは,前回の希望条件を再び付したいという山川委員の提案を承けた,「是ハモウズット今迄同ジ文句デ来テ居ルノデアリマスノデ,更ニ何等効果モナイヤウニ思ハレマスルノデ,此ノ際ハ少シ変ヘ」ましょうとの秋月委員長の修正によるものです(第71回帝国議会貴族院大正12年法律第52号中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1-2頁)。
(3)1936年までの試験結果
おって,大正12年法律第52号による試験に係る1936年までの出願者数,合格者数等について,1927年は1141名出願,910名受験,87名合格であり,1931年には503名出願,417名受験,36名合格となり,1935年には259名出願,227名受験,20名合格であって,弁護士試補制度が導入された1936年には200名出願,178名受験,24名合格であった旨1937年中に帝国議会において報告されています(第71回帝国議会衆議院陪審法中改正法律案委員会議録(速記)第3回3頁(松阪政府委員))。1923年以来1936年までの合格者総数は1008名であったそうです(第70回帝国議会貴族院大正12年法律第52号中改正法律案特別委員会議事速記録第1号1頁(長島毅政府委員(司法次官)))。そうであれば,1923年から1935年まで,大正12年法律第52号による試験に合格して直ちに弁護士資格を得た者は984名であったことになります。
(4)枢密院:政府の決意表明
昭和12年法律第83号の法案に係る両院ノ議決ヲ経タル大正12年法律第52号中改正法律案の件は,昭和天皇の親臨下1937年9月1日に開催された枢密院会議に付議されています。
審査委員長たる河合操枢密顧問官の報告にいわく。「此ノ法律案ハ第71回帝国議会ニ於テ衆議院ノ提出ニ係リ政府ハ之ニ反対ナル旨ヲ言明シタルニ拘ラズ両院ノ議決ヲ経タルモノナリ尤モ貴族院ニ於テハ之ヲ可決スルニ当リ本法ニ定メタル期間ノ延長ハ今回ヲ以テ最終トシ将来更ニ延長スルコトナキヲ期スル旨〔略〕ノ附帯条件ヲ併セテ議決シタリ」,「延長ヲ為シタルモ尚足レリトセズ茲ニ復タ本案ヲ以テ其ノ特例ノ期間ヲ更ニ4年間延伸シ当初ヨリ見レバ実ニ二十数年間正規ノ試験制度ノ施行ヲ遅延セシメントスルハ固ヨリ妥当ノ処置ナリト謂フベカラズ然レドモ本件ノ法律案ハ既ニ帝国議会ノ議決ヲ経タル今日ニ於テ強テ御不裁可ノ議ヲ以テ奉答セザルベカラザルノ重大ナル理由アルモノニ非ズ且其ノ両院ノ可決ヲ得ルニ至レル経過並ニ政府ハ今次ノ延長ヲ以テ最終トスルノ決意ヲ公表シ残存受験資格者ヲシテ予メ期間後ノ受験ヲ断念セシムベキ適当ノ措置ヲ執ルベキ旨ノ審査委員会ニ於ケル当局大臣ノ言明ヲ諒トスベキニ由リ先議ニ於ケルト同ジク一時ノ特例タル暫行措置トシテ之ヲ是認スルノ外ナシト思料ス」と(下線は筆者によるもの)。枢密院会議においては議論なく,全会一致で可決されています。
第3 絶命:第76回帝国議会における手代木隆造の戦い
ということで,その後,第71回帝国議会(1937年8月8日閉会)中には北支事変であった大陸の戦火が第二次上海事変を経て拡大するまま戦時下の国家総動員体制(国家総動員法(昭和13年法律第55号)の施行は1938年5月5日から)に入ってしまった我が国においては,一億一心の熱狂を尻目に弁護士なんぞ目指してこつこつ勉強を続ける老書生がひたすら縋る大正12年法律第52号などは忘れ去られ,同法に係る1941年12月31日の最新延長期限は淡々と経過せられるに至ったものかと筆者は思っていました。しかし,そうではありませんでした。代議士というのは,やはり特別な人々だったのでした。
(1)手代木衆議院議員らによる法案提出
昭和12年法律第83号の法案提出者たりし手代木隆吉衆議院議員が,1941年2月,老書生らのために今度も敢然立ち上がったのでした。
手代木は,北海道は伊達紋鼈の出身。みちのくは阿武隈川河口の亘理の地から北海道に移住した亘理伊達家の家臣の子孫です。
第76回帝国議会(1940年12月26日開会)の衆議院に,手代木議員は他の9名と共に,大正12年法律第52号第1項の「昭和16年〔1941年〕12月31日迄」を「昭和21年〔1946年〕12月31日迄」に改め,同項の効力を更に5年間延長しようという法案を提出します。なかなかしつこく,かつ,くどい。
手代木議員が1941年2月20日の衆議院本会議でした同法案第一読会の演説(第76回帝国議会衆議院議事速記録第16号247頁)を読むと,当該法案は当該議会における唯一の議員提出法律案であったそうです。自粛せぬ蛮気愛すべしというべきか。「今期議会ハ政府ニ於キマシテモ法案ヲ出来得ル限リ縮減致シタノデアリマス,又議員提出ノ法律案ハ是ガ提出サレタ中ノ唯一ノモノデアリマス,私モ此ノ議会ニ鑑ミマシテ提案ヲ躊躇致シタノデハアリマスガ,御承知ノ通リ本年12月31日デ受験シ得ザルコトニナルノデアリマスカラ,ヤハリ緊急ニ此ノ法律ノ改正ヲナスノ必要ヲ痛感致シタ為ニ,敢テ茲ニ提案ヲ致シタ次第デアリマス」と手代木は述べていますところ,確かに1940年12月26日に帝国議会に下された昭和天皇の勅語には,「朕ハ国務大臣ニ命シテ昭和16年度及臨時軍事費ノ予算案ヲ各般ノ法律案ト共ニ帝国議会ニ提出セシム卿等其レ克ク時局ノ重大ニ稽ヘ和衷審議以テ協賛ノ任ヲ竭サンコトヲ期セヨ」とありました(宮内庁『昭和天皇実録 第八』(東京書籍・2016年)278頁)。
(2)帝国政府の逆襲
「今次ノ延長ヲ以テ最終トスルノ決意ヲ公表シ残存受験資格者ヲシテ予メ期間後ノ受験ヲ断念セシムベキ適当ノ措置ヲ執ルベキ旨」を当局大臣が枢密院の審査委員会に言明し,その旨昭和天皇親臨下の1937年9月1日の枢密院会議で披露された政府としては,手代木代議士らの大正12年法律第52号改正法案を認めるわけにはいきません。「情ニ於テハ如何ニモ御気ノ毒デアリマスケレドモ,〔1937年に〕第3回ノ改正ヲヤリマシタ時ニ於キマシテ,殊ニ貴族院ニ於キマシテハ希望決議ガアリマシテ,是ハモウ最後デアル,是以上ハ延バサナイト云フコトガアリ,而モ5年ノ延長ノ案ヲ4年ニ修正シタト云フ関係モアリマスシ,又其ノ案ガ枢密院ニ行キマシテ,政府ガ説明シタ際ニ於キマシテモ,モウ是ガ最後デアツテ延バサヌト云フヤウナ事情ガアリマスノデ,〔略〕更ニ之ヲ改正シテ延長スルト云フコトハ一寸政府トシテハ同意シ兼ネル所デアリマス」,「受験者ハ極メテ少クナツテ居ルシ,大局カラ見テ今度コソ原則ダケデ,例外ハ廃スル方ガ適当ト考ヘルノデアリマス」と,1941年2月21日の衆議院民法中改正法律案外2件委員会で佐藤基政府委員(法制局参事官)は答弁しています(第76回帝国議会衆議院民法中改正法律案外2件委員会議録(速記)第3回35頁,36頁)。同月22日の同委員会においては柳川平助司法大臣による「是マデノ行掛リデ延期シナイ,延期シナイト云フコトデ,是ハ各官庁其ノ方針デ来テ居リマスル関係等モゴザイマシテ,今直チニ両院ヲ通過スレバ司法省デ是ハスルト云フヤウナ言明ヲ申上ゲル訳ニハ行キマセヌ」との発言がありました(第76回帝国議会衆議院民法中改正法律案外2件委員会議録(速記)第4回39頁)。
(3)衆議院の皇道精神:「人ヲ助ケル所ノ法律」への賛成
ではありますが衆議院議員諸氏は人情深い。「本議会ハ特ニ色々ナ厳罰主義ノ罰則規定ヲ吾々ハ協賛シテ居リマスガ,一ツ位ハ惟神ノ皇道精神ニ基イタ立法精神ヲ持ツテ居ル人ヲ助ケル所ノ法律ニモ,御賛成ヲ申上ゲテ,其ノ通過ヲ図リタイト考ヘテ居ル」と述べつつ,1941年2月21日の民法中改正法律案外2件委員会において折衷的(「中間ヲ取リマシテ」)に庄司一郎委員が提案した「昭和19年12月31日迄」の3年間延長の修正案が,同日同委員会において全会一致で可決され(第76回帝国議会衆議院民法中改正法律案外2件委員会議録(速記)第4回40頁,41頁),同日の本会議において反対なく可決されています(第76回帝国議会衆議院議事速記録第17号259頁)。
(4)貴族院による握り潰し
しかし,手代木=庄司法案は,貴族院で握り潰され,審議未了で廃案となりました。貴族院の大正12年法律第52号中改正法律案特別委員会(委員長は西郷吉之助侯爵)の議事速記録は,1941年2月26日及び同月28日の2回分しか残されていません。しかるに第76回帝国議会の閉会は,当該特別委員会の第2回会合から更に約1箇月後の同年3月26日のことでした。
(5)1937年から1940年までの試験結果等
大正12年法律第52号による試験の合格者数は,「大正〔昭和〕15年〔1940年〕マデデ1039名アル」ということですから(第76回帝国議会衆議院民法中改正法律案外2件委員会議録(速記)第3回35頁(坂野千里政府委員(司法省民事局長))),1937年以降4年間で31名が合格していることになります。1937年が223名出願で11名合格,1938年は125名出願で11名合格,1939年は113名出願で4名合格,1940年は123名出願で5名合格であって,これについては,「段々質モ劣ツテ来テ居ルヤウニ考ヘラレルノデアリマス」との感想が付されています(第76回帝国議会衆議院民法中改正法律案外2件委員会議録(速記)第3回35頁(坂野政府委員))。
なお,貴族院の大正12年法律第52号中改正法律案特別委員会に1941年2月26日出席した中島弘道政府委員(司法省調査部長)は,大正12年法律第52号による試験の残存受験者に対してなかなか辛辣な評を加えています。いわく,「ドウモ素質トシテハ相当,今日ノ若イ人達ト較ベマシテ,非常ニ劣ルトモ見ナケレバナラヌト思フ人達ダト言ッテ宜シイカト思ヒマス」,「落チテ来タ人達ハ,大体国家ガ要求スルダケノ智能ガナイ人達ダト認メルヨリ仕方ガナイノデアリマス」,「〔昭和〕14年,15年〔1939年,1940年〕ト遽ニ合格者数ガ落チテ居リマス,此ノ理由デアリマスガ,御察シノ通リ是ハ素質ガ落チタト観察スルノガ先ヅ当ッテ居ルノヂヤナイカト思ヒマス〔略〕良イ人ガ篩ハレタ以外ニ,段々年ガ行ッテ来レバ,先ヅ素質ガ悪クナル,勉強モ出来ナクナルト云フヤウニ観察シテ,ソレデ又間違ガナインヂヤナイカト思ヒマス」,「将来モ此ノ率以上ノ良イ率ハ先ヅナイト考ヘテモ宜イノヂヤナイカ」,「ドチラカト云フト学問ガ古クナッテ居ル,ドウモ是以上ニ合格率ガ高マルト云フコトハ見込ガナイト申上ゲル外ナイト思ヒマス」と(第76回帝国議会貴族院大正12年法律第52号中改正法律案特別委員会議事速記録第1号2頁,3頁,3-4頁,4頁,5頁)。率直なお人柄なのでしょうが,現在であれば,一所懸命頑張って苦労している受験者の心を深く傷つけたということで,弾劾されてしまうかもしれません。
第4 葬送
1 最後の合格者たち
1941年10月29年日付け朝日新聞(東京)夕刊の第2面に「苦学力行に栄冠/高文司法科の合格者」という見出しの記事があり,「本年度の高等試験司法科合格者は28日午前10時司法省から発表された,司法科受験総数2501名中合格は約1割強の299名」云々と報じられています。しかして当該記事の附記のような形で,最後となった大正12年法律第52号による試験の結果も掲載されていたのでした。いわく,「なほ法律第52号による弁護士試験は本年で廃止されるが受験者総数301名中28名が合格,既報の京橋区銀座西二丁目富士写真フイルム会社の守衛渡邊英男さん(44)も見事に18回目の苦闘が酬いられた」と。
「15年〔1940年〕マデデ1039名アル」ところに最後の1941年分の28名が加わったのですから,1923年から1941年までの19年間における大正12年法律第52号による試験の合格者総数は1067名となるのでした。そのうち,1935年以前に合格して弁護士資格を直ちに得た者が984名,合格が1936年以後となって弁護士試補資格取得に留まった者が83名ということになります。弁護士試補は,更に「1年6月以上ノ実務修習ヲ了ヘ考試ヲ経」て初めて弁護士資格にたどり着くのでした(旧弁護士法2条1項2号)。
しかし,前々年の4名合格及び前年の5名合格からすると,1941年の28名合格は激増です。これが最後ということで,御当局からの「救済」が,ここでもあったのかもしれません。庄司一郎衆議院議員ならば,「惟神ノ皇道精神」が発揮されたものと言って寿ぐところでしょう。
2 廃止
その後大正12年法律第52号は,行政事務の簡素合理化に伴う関係法律の整理及び適用対象の消滅等による法律の廃止に関する法律(昭和57年法律第69号)38条8号によって,「適用対象等の消滅及び行政目的達成等による法律の廃止」(同法第2章の章名)の一環として,同法の公布された1982年7月23日に廃止されています(同法附則1項)。
なお,大正12年法律第52号の件名は,廃止時には「司法官試補及び弁護士試補の資格に関する法律」となっていました。これは,題名ならぬ件名については,「法令の内容が改正されることによって当初の公布文に書かれたところと異なることとなったときは,改正後の内容に即した件名を付けることができることとされている」からです(前田正道編『ワークブック法制執務〈全訂〉』(ぎょうせい・1983年)132頁)。同法の件名は,昭和11年法律第7号が施行された1936年5月26日に「司法官試補及び弁護士の資格に関する法律」から「司法官試補及び弁護士試補の資格に関する法律」に付け替えられたということになるのでしょう。
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