第1 ワシントン体制下における幣原外交
1 ワシントン体制の通説的評価
1921年11月12日から1922年2月6日まで,ハーディング政権下の米国の首都ワシントンで開催された・我が国並びに米英仏伊白蘭葡及び中華民国の9箇国によるワシントン会議において構築された軍備制限問題並びに東アジア問題及び太平洋問題に関するワシントン体制(それぞれ五ヵ国条約,九ヵ国条約及び四ヵ国条約が対応)についての通説的評価は,次のようなものでしょう。
さて,かくしてワシントン会議は無事終了,当時国際協調の成果の最もあがれるものとして,その成功はひろくうたわれたものである。〔略〕
〔略〕
〔略〕日本政府の意向はアメリカ政府の意図と本質的対立はなかった。それゆえワシントン会議の成果は,当時海軍関係者をのぞけば,おおかた国の内外から好感をもって迎えられたのである。
〔略〕
もしワシントン会議の招請に応じなかったらとか,もし会議の決裂をかけて〔海軍主力艦の排水総量につき米英日それぞれ5・5・3ではなく,〕10・10・7の比率を固執したらとか,もし山東問題について〔我が国が第一次世界大戦中に得た同地におけるドイツの旧〕権益〔の中華民国に対する〕返還を拒否したらなど,いくつかの取りえたであろう可能性がかんがえられる。しかし,いずれをとってみても,いっそう日本を孤立せしめたであろう点ではかわりない。まったく質のちがった革命政権ででもないかぎり,当時の「大日本帝国」の政府としては,おそらくこの結末が一番穏当な方策であったのではあるまいか。
ワシントン会議以後,1927(昭和2)年4月〔20日〕田中〔義一〕内閣の成立まで,日本政府が国際政局においてじゅうぶんの威信と信頼をかちえたのは,やはりワシントン会議の成果として評価すべきである。
(江口朴郎編『世界の歴史14 第一次大戦後の世界』(中公文庫・1975年(単行本1962年))452-454頁(衛藤瀋吉))
1924年6月11日から1927年4月20日までの間,加藤高明内閣及び第1次若槻禮次郎内閣の外務大臣は,幣原喜重郎でした(幣原は,ワシントン会議における我が国全権委員の一人でした。)。田中義一内閣の外務大臣は,田中内閣総理大臣が自ら兼任しています。田中の外務大臣兼任については,1927年4月19日に「11時30分,〔昭和天皇は〕田中に謁を賜い,内閣組織を命じられる。その際,支那問題,経済問題は目下最も憂慮すべき状況にある故,一昨日〔同日の枢密院会議における台湾銀行救済緊急勅令案(日本銀行ノ特別融通及之ニ因ル損失ノ補償ニ関スル財政上必要処分ノ件)の否決を承けて閣員全員の辞表を捧呈した〕若槻に対しても特に尽瘁するよう言って置いたが,この2問題については十分考慮せよとの御沙汰を賜う。」ということがあったので(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)686頁),田中義一は,それでは幣原に代わっておらが自ら支那問題に尽瘁しなければ,と考えたものでもあるのでしょうか。ちなみに大蔵大臣は,片岡直温(1927年3月14日の衆議院予算員会で「現ニ今日正午頃ニ於テ渡邊銀行ガ到頭破綻ヲ致シマシタ」と発言した当の大臣(第52回帝国議会衆議院予算委員会議録(速記)第9回19頁))から,田中義一内閣では高橋是清に代わっています。
2 国民革命軍の北伐及び1927年の南京事件に対する幣原外交
(1)「支那問題」
「支那問題」とは具体的には何かといえば,広東から発した国民革命軍の北伐及びそれに伴う諸外国との紛争です(北伐の結果,中華民国は,国号は変わらずとも国旗は異なる別の国となったというべきでしょう。)。
第1次若槻内閣の末期の1927年3月24日には,北伐の途次南京を占領した国民革命軍による南京事件(「〔1927年4月〕2日 土曜日 午後,外務大臣幣原喜重郎参殿につき,〔昭和天皇は〕約50分間にわたり謁を賜い,南京事件昨月24日,南京において南軍(国民革命軍)の一部や民間人により各国外交機関や居留民が襲撃を受け,在南京日本領事館もまた略奪,暴行を受けたに関する奏上をお聞きになる。」(実録第四675頁))が生じ,これに対して「長江上にあったイギリス,アメリカの軍艦は,南京市内に約2時間にわたって砲弾をぶちこんだ。日本の駆逐艦もいたが,へたに砲撃するとかえって国民革命軍を激昂せしめ,居留民が殺害されるおそれありとして共同動作を拒否した。」という事態となっていました(江口編481頁(衛藤))。
更に同年「4月3日,中国側の大衆デモが漢口日本租界内に入って暴行をはたらき,警備中の日本陸戦隊と小ぜり合いをやる事件がおこった」ところ,「この事件は日本国内にはねかえった。南京事件,つづいて漢口事件とことをおこしながら,なんら対策をたてえぬ無能軟弱の幣原を倒せの声は,いやがうえにもたかまってきた。大新聞は比較的おだやかであったが,野党政友会〔総裁は田中義一〕,軍,そして右翼からの非難ははげしかった。」ということでしたので(江口編487頁(衛藤)),昭和天皇が宸襟を悩ませ給うに至ったことは,当然の成り行きでしょう。(ちなみに,南京事件発生の3月24日から田中義一内閣成立の翌4月20日までの間,幣原外務大臣が昭和天皇に奏上を行ったのは4月2日の1回のみです(実録第四670-687頁参照)。)
(2)幣原「軟弱」外交
ところで,1926年7月9日からの国民革命軍の北伐(同日,蒋介石が同軍総司令に就任)に対し「イギリスは陸軍3個旅団を上海防備の増援軍として派遣することに決定,日本とアメリカにむかってしきりに共同出兵をうながし」ていたものの,かつての日英同盟及び現在の四ヵ国条約(日米英仏の四国協商)の精神もあらばこそ,「ときの外相幣原喜重郎は,ほとんど毎日のように外務省をおとずれるイギリス大使ティレーの説得にも動かず,対華不干渉の原則を主張して出兵に応じなかった。」という状況であったとのことです(江口編482頁(衛藤))。しかしてそこに南京事件。かねてからの対北伐武力干渉論の「イギリスは,南京事件責任者の処罰と謝罪を期限つき最後通牒で要求すべし」と強硬でした(同頁)。
ここにおいて,英米追随に単にとどまるものではない・幣原「軟弱」外交の真価が燦然と輝いた,というのが衛藤瀋吉教授の評価なのでしょう。
幣原は,北京公使芳沢謙吉をはじめ,ロンドンやワシントンの駐在大使をはげまして英・米両国政府を説得させるとともに,自分も東京で両国の使臣に条理をつくして説いた〔期限付き最後通牒を突き付けて期限内に回答がなく,拒否された場合,①沿岸封鎖をしても中華民国側は苦痛を感じないで,むしろ困るのは外国人居留民ではないか,②中華民国側を屈服させるべき兵要地点に砲撃を加えるといっても,国民革命軍の支配下にそのような兵要地点は存在せず,むしろ奔命に疲れるだけであろう,③軍事占領といっても,多数の小さな兵要地点を広い範囲にわたって占領することは事実上不可能,④仮に国民政府を倒しても,共産派や不正規兵は依然として残り,かえって無政府状態のまま混乱が激しくなるであろう(江口編483-484頁(衛藤)及び1927年4月2日幣原外務大臣ティリー英国大使会談記録(外務省『日本外交文書 昭和期Ⅰ第一部第一巻(昭和二年)』(1989年)542-545頁)並びに当該会談及び同月5日の駐日米国大使との外務大臣会談に係る同月6日付け幣原大臣発・在中華民国芳沢公使宛て電報第168号(『日本外交文書 昭和期Ⅰ第一部第一巻』563-564頁)参照)。〕。なんとかして破局をもたらすような,そして蒋〔介石〕を没落させるような期限つきの最後通牒を出させまいとしたのである。と同時に,それと並行して在上海総領事矢野七太郎をして蒋介石の説得にあたらせた。
とにかく,はやくあやまれ,列国の鋭鋒をさけるために,南京事件のあと始末について誠意をしめせ,そして共産党とはやく分離せよ。
(江口編485頁(衛藤))
〔1927年〕4月11日,ついに北京公使団は南京事件に関する共同通牒を,期限つきの最後通牒というかたちをとらず,もっとおだやかなかたちでまとめあげ,〔容共左派の〕武漢政府と〔国民政府の中枢において少数派(3月11日には国民革命軍総司令部廃止)となってしまっていた上海の〕蒋介石と双方にあてて送付した。日本側の説得が功を奏したのである。
4月12日,蒋介石は上海ブルジョワジーのやとった武装した連中と相呼応し,あらかじめ外国租界当局の諒解を得て猛烈な反共クーデタをおこなった。共産系の指導者のほとんどが逮捕処分され,その他犠牲は数千と称せられる。この一挙によって,上海・南京地区の共産系組織は壊滅した。
霞ヶ関の大臣室で矢田からこのしらせをうけとった幣原は,ほーっと安堵のため息をもらしたであろうか。
〔略〕
かくて,中国革命の主導権をにぎるときがきたとのコミンテルンの判断にもかかわらず,この四・一二クーデタを転機として,共産革命の潮はグーッとひきはじめる。
4月20日〔18日〕,蒋介石の手による反共南京国民政府の樹立,5月21日,武漢政府支配下の長沙での反共クーデタ,7月,武漢政府の共産党員放逐,9月,武漢政府と南京政府との合体というふうに。
(江口編487-488頁(衛藤))
しかし,「日本政府が国際政局においてじゅうぶんの威信と信頼をかちえた」期間は,ワシントン会議閉幕から第1次若槻内閣退陣までの5年2箇月余限りであったというのであれば,これは短かったというべきでしょう。
(3)1927年の南京事件の具体像
なお,南京事件は具体的にはどのようなものであったかといえば,在南京日本領事館の襲撃については,海軍無線経由で1927年3月26日に外務本省に到着した当該領事発・幣原外務大臣宛ての電報においては次のように報ぜられています。
昨24日前7時頃ヨリ11時半ニ亙リ党軍第2軍6軍所属支那兵約150名驢馬車等ノ運搬具ヲ用意シ来タリ入替リ立替リ制服制帽ニテ小銃ヲ携ヘ当館ニ乱入シテ直ニ武力掠奪ニ移リ一隊ハ事務所及館員官舎ヲ一隊ハ領事官邸ヲ襲ヒ本官以下館員家族上陸中ノ海軍士官水兵及避難中ノ男女在留邦人100余名ニ向ヒ間断ナク実弾ヲ発射シ或ハ「ベイヨネット」ヲ擬シ甚シキニ至リテハ足ノ病気ニテ臥床中ノ本官寝具寝巻キヲ剥取リタル後枕元ヨリ前後2回実弾狙撃ヲ為シ或ハ婦人連中ニ対シ幾回トナク忍フヘカラサル身体検査ヲ行ヒ之ニ附随シテ数百ノ無頼漢乗込ミ当館備品及館員ノ私有品及引揚在留民荷物等ヲ徹底的ニ掠奪シテ以テ余サス床板,便器,空瓶迄持去リタリ此騒動中ニ木村〔三衣警察〕署長右腕ニ貫通銃創ト左胸側ニ刺創ヲ根本〔博〕少佐ハ左胸部ニ刺創腰部ニ打撲傷ヲ受ケタル処兵士ノ暴力ハ停止スル処ナク自動車庫ヨリ「ガソリン」ヲ持チ出シ当館ニ放火シ一同ヲ焼殺サント放言スルニ至〔る〕〔中略〕本件急変ニ際シ在留官民一同終始沈着ナル態度ト周到ナル用意トヲ以テ御真影ト運命ヲ共ニスル決心ヲ為シ一糸乱サス行動シ得タルコトハ本官ノ特ニ満足スル所ナルト同時ニ有ラユル迫害ノ下ニ御真影及極秘書類入金庫ノ鍵ヲ苦心監督シテ絶対安全ヲ保チ得タルコトハ実ニ 天皇陛下ノ稜威ニ依ルモノニシテ一同ノ恐懼感泣ニ堪ヘサル所ナリ〔以下略〕
(『日本外交文書 昭和期Ⅰ第一部第一巻』515-516頁)
更に同年4月5日付けの同領事発・外務大臣宛ての公信第272号「南京事件真相ニ関シ報告ノ件」には,次のようにあります。
〔前略〕少数ナル水兵ヲ以テ幾千ノ支那兵ニ武力対抗ヲ為スコトハ絶対不可能ノコトニ属シ結局如何ナル事件起ルモ無抵抗主義ヲ取ルノ外ナキヲ以テ寧ロ党軍及民衆ノ敵愾心ヲ挑発セサルカ為早キニ及ンテ土嚢及機関銃ハ撤去スル方有利ナリト考ヘ右撤去方荒木〔亀男〕大尉ニ要求シタルニ大尉モ同感ニテ言下ニ之ヲ撤去シ同時ニ正門門扉ヲ開キタリ然ルニ〔午前〕7時頃ニ至リ〔後略〕
(『日本外交文書 昭和期Ⅰ第一部第一巻』558頁)
〔前略〕荒木大尉外兵員10名ハ軍装ナル為暴兵ノ敵愾心ヲ挑発シ反ツテ在留民ニ迷惑ヲ及ホスヘキヲ恐レ官邸北側ノ「ボーイ」室ニ避難シ居リタルカ在留民一同ハ飽迄陸戦隊ノ無抵抗主義ヲ懇請シ且正服正帽ノ儘在留民ト一緒ニ居ルコトハ一同ノ生命安全ノ為甚タ好マシカラサルヲ以テ気ノ毒乍ラ各兵階級章及帽子ノ如キ標識ヲ一時取リ去ラレ度旨本官ニ懇望シ来レルヲ以テ本官ハ已ニ絶対無抵抗主義ニ決シ加之在留民ノ生命カ風前ノ燈火ニモ比スヘキ時ニ当リ右ハ不得已ル要求ナリトナシ荒木大尉ニ協議シタル処大尉モ一同ノ要求ヲ諒トシ在留民安全ノ為ニ忍フヘカラサルヲ忍ヒテ其請ヲ容レタルハ本官及在留民一同ノ感謝ニ不堪ヘサル処〔後略〕
((『日本外交文書 昭和期Ⅰ第一部第一巻』559頁)
軍人の名誉もあらばこそですが,我が国民性としては,命あっての物種なのでした。
ただし,日本領事館にいた避難民の一人である須藤理助氏によれば,無抵抗主義は,在留民発のものではないそうです。いわく,「23日,土嚢を築いた防備を,24日朝になつて撤廃すべく領事から要求されたことは事実であらうが,それが在留民全体の要求として無抵抗主義を取るべく要求したものではない,事件の突発は瞬間であつて,事前に左様な協議の暇の在り得やう筈がない。少なくとも私共同室の38名は,左様な無抵抗主義を主張した覚えはない。又その混乱の最中に於て,私は荒木大尉をも水兵をも見受けなかつたのである。無抵抗主義によつて,生命が安全であつたことは,偶然の結果であつ〔た〕」と(中支被難者聯合会編『南京漢口事件真相――揚子江流域邦人遭難実記――』(岡田日栄堂・1927年)44頁)。
とはいえ,武力をもって抵抗したならばどうなったか。7年前の1920年3月12日に発生した後記の尼港事件の前例もあったところです。
また,実際には,「終始沈着ナル態度」をもって「一糸乱サス行動」がされたわけでもありません。前記公信第272号にいわく。
〔前略〕避難者ハ虎狼ニ襲ハレタル群羊ノ如ク四方八方ニ追ヒ廻サレ婦人ハ幾回トナク忍フヘカラサル身体検査ヲ受ケ叫喚悲鳴聞クニ忍ヒス〔後略〕
(『日本外交文書 昭和期Ⅰ第一部第一巻』559頁)
「身体検査」とは何ぞや,ということになるのですが,これについては,民間出版物に次のようにありました。
更に婦女子に加へた暴虐に至つては,全く正視するに忍びなかつたと云ふ。髪を解かせ帯を解かせ,肌着を脱がせ足袋を脱がせ,最後には〇〇〇〇〇奪去り,言語に絶した〇〇〇加へんとした。最初腕時計を取られた或夫人は,次に来た暴兵に指輪を強要されたが急に脱げぬので,危くナイフで指を斬去られやうとした。或夫人は別室に連行かれ〇〇〇〇〇〇〇〇〇貴重品を隠してゐると云ふので無遠慮極まる検査を受けた。暴兵に手を捉られ頻りに助けを呼んだが,傍に居た人々にも顧みられなかつた某夫人は,やはり〇〇〇〇〇〇〇〇〇指のさきや銃剣で突かれた。〔中略〕裸形にされた母親は必死となつて暴徒と争ふ,子供は火のつく様に泣叫ぶ。暴兵に引ずり行かるゝ婦人が,髪振乱して助けを叫ぶも誰一人として手も出せない。其処には銃剣が睨んでゐるのだ。銃弾が血を喚んでゐるのだ。之が地獄でなくて何であらう。
嗟乎,獰猛残忍其の者のやうな,しかも塵垢だらけの薄汚ない蛮兵の前に,一糸残らず奪去られて戦き慄えつゝある雪白の一塊を想へ。而かも其れは我同胞の婦女子なのだ。こうして筆を走らせてゐても,肉戦き血湧くを禁じ得ない。
(中支被難者聯合会編14-15頁)
最後に,当時の在南京大日本帝国領事殿に対する須藤理助氏の評価は,厳しい。
殊に事件の突発に際して,最善の方法を講ぜず,その暴行を受くるに当つて,たとへ病中であつた,実見者の談によると,領事は暴行兵に対して△を△はして△△△△の礼を取つた,それでも暴行兵が威嚇的に実弾2発を発射するや,命中してゐないにも拘らず,領事は△△に△△するの態度を執つたさうである。その醜態は多く語るに忍びない。苟くも帝国を代表する在外官吏としては,今少しく立派なる態度を執つて貰ひたかつたと思ふのである。
又更らに事件後の在留民の処置は,領事として最も重大なる責任ありと思ふのであるが,その処置は如何であつたか。領事館に避難することを得なかつた城内の日本人を探し求めて安全に避難せしむべきが至当であるにも拘らず,何等その挙措に出づることなく,領事は引揚に際し真先に自動車で軍艦に避難してしまつた。〔後略〕
(中支被難者聯合会編46-47頁)
(4)南京事件の後始末
南京事件解決のための我が国芳沢謙吉全権公使と中華民国国民政府王正廷外交部長との間の往復文及び損害賠償に関する了解事項は1929年5月2日付けで作成されています。王外交部長からの来翰に対する芳沢公使の往翰の内容は次のとおりでした。悪いのは,共産党だったのです。
以書翰啓上致候陳者本日附貴翰ヲ以テ左ノ通御照会相成了承致候
一昨年3月24日発生セル南京事件ニ関シ本部長ハ茲ニ特ニ貴公使ニ対シ国民政府ハ中日両国人民固有ノ友誼ヲ増進セント欲スルガ為ニ該事件ヲ速ニ解決スルノ準備ヲ有スルコトヲ声明致候
茲ニ本部長ハ国民政府ノ名義ヲ以テ本事件ニ於テ日本国領事館,官吏及其ノ他ノ日本人ニ対シテ加ヘラレタル侮慢非礼並ニ其ノ財産上ノ損失及身体上ノ傷害ニ対シ極メテ誠懇ノ態度ヲ以テ貴国政府ニ向テ深ク遺憾ノ意ヲ表示致候該事件ハ調査ノ結果完全ニ共産党ガ国民政府南京建都以前ニ於テ煽動シテ発生セシメタルモノナルコトヲ実証シ得タリト雖モ国民政府ハ之ニ対シ責任ヲ負フベク候
国民政府ハ在支日本人ノ生命財産ニ対シテハ既ニ其ノ抱持セル政策ニ基キ数次軍民長官ニ対シ継続的ニシテ切実ナル保護方ヲ通令シ居レルガ現在共産党及其ノ中日人民ニ関スル友誼ヲ破壊スベキ悪勢力ハ既ニ消滅シタルニ依リ国民政府ハ今後外国人ノ保護ニ付テハ自ラ力ヲ尽シ易カルベク国民政府ハ特ニ責任ヲ負ヒテ日本人ノ生命財産及其ノ正当ナル事業ニ対シ再ビ同様ノ暴行及煽動ハ之ヲ発生セシメザルベキコトヲ併セテ声明致候
尚本部長ハ当時共産党ノ煽動ヲ受ケ此ノ不幸ナル事件ニ参加シタル当該軍隊ヲ既ニ解散シタルコト並ニ国民政府ガ既ニ切実ナル辨法ヲ施行シ事件ニ関係アル兵卒及其ノ他ノ関係者ヲ処罰シタルコトヲ茲ニ併セテ貴公使ニ通知致候
国民政府ハ国際公法ノ一般的原則ニ従ヒ日本国領事館,日本国官吏及其ノ他ノ日本人ノ受ケタル身体上ノ傷害及財産上ノ損失ニ対シ速ニ充分ナル賠償ニ応ズルノ準備有之此ノ為国民政府ハ中日調査委員会ヲ組織シ以テ日本人ノ支那人方面ヨリ受ケタル傷害及損失ヲ実証スルト共ニ毎件ニ付賠償スベキ数目ヲ査定センコトヲ提議致候
依テ本使ハ前記貴翰ニ於テ表示セラレタル提議ニ対シ同意ヲ表シ且国民政府ニ於テ前記貴翰御来示ノ責任ヲ最短期間内ニ於テ完全ニ履行セラルルニ於テハ南京事件ニ依リ発生セル各種問題ハ根本的解決ヲ告グルモノト認定致候
此段回答得貴意候 敬具
昭和4年5月2日
日本帝国特命全権公使 芳沢謙吉
国民政府外交部長 王正廷殿
(外務省『日本外交文書 昭和第Ⅰ期第一部第三巻(昭和四年)』(1993年)533-534頁)
日本語では「遺憾ノ意」と訳されている部分は,原文では「歉意」となっています。
また,「事件ニ関係アル兵卒及其ノ他ノ関係者ヲ処罰シタルコト」とあるので,将校はどうなのかという問題がありますが,これについては1929年5月1日の枢密院会議において田中義一内閣総理大臣兼外務大臣が「暴行ニ参加シタル軍隊ヲ指揮シタル将校ニ対シテハ逮捕命令ヲ発シタルモ未タ逮捕ニ至ラス」と回答しています(『枢密院会議筆記』)。とはいえ,「南京事件解決方ニ関スル件」は当該枢密院会議において全会一致をもって可決されています。同月14日には「午後2時30分,〔昭和天皇は〕表内謁見所に出御され,お召しにより参内の支那国駐箚特命全権公使芳沢謙吉に謁を賜い,最近の支那問題についての講話を御聴取になる。宮内大臣・次官・侍従長・侍従武官長その他が陪聴し,終わって賜茶あり。」という運びとなっています(宮内庁『昭和天皇実録 第五』(東京書籍・2016年)357頁)。
第2 ワシントン体制崩壊後の奥村広報
1 1941年12月8日の「宣戦の布告に当り国民に愬ふ」
ところで,第1次若槻内閣退陣から14年と8箇月弱,ワシントン会議閉会から19年10箇月余の1941年12月8日となると,既にワシントン体制は,「国策遂行ノ基礎タル事項ニ関スル情報蒐集,報道及啓発宣伝」(情報局官制(昭和15年勅令第846号)1条1項1号)を担当する我が国政府機関の高官閣下から最低の評価を受けるに至っています。対英米蘭戦が開始せられた同日(日本時間)の19時30分から(19時の時報,君が代,宣戦の詔書の奉読,東條内閣総理大臣の謹話(同日昼の「大詔を拝し奉りて」を録音したものの再放送),愛国行進曲及びニュースに続くもの),情報局の奥村喜和男次長は,「宣戦の布告に当り国民に愬ふ」という自らの演説を,社団法人日本放送協会に放送せしめていますが,そこにおいて,いわく。
米国の日本に対する暴戻なる態度は,決して今日に始つたものではないのであります。日露戦争以来,ハリマン協定以来,米国の日本の進路に対する執拗なる妨害は,殆ど例を挙げて数ふるの煩に堪へないのであります。〔後略〕
〔略〕
わけても,アジアにおいて彼の意図するところは,支那市場の完全なる独占であり,アジアの犠牲においてする帝国主義的膨張であります。思へば米国の東亜への侵略は,ジョン・ヘイの門戸開放要求以来,既に四十年の生々しき歴史を持つてゐるのであります。今日までアメリカが太平洋において着々と計画を進めて参りましたことは,一にはアジアの政治的支配に在り,二にはアジア資源の経済的独占に在つたのであります。過去二百年に亘る白人のアジア搾取は,米国のアジア侵略の計画において絶頂に達するのであります。
日露戦争の講和条約の調印もまだ終らぬうちに起つたハリマン協定は,早くもアメリカの野望をあからさまに暴露したものでありました。これに引き続いて執拗に繰り返された満鉄共同経営の提議にいたしましても,満洲中立の要求にいたしましても,いづれも米国がアジアに挑んだ血を見ざる侵略の戦でありました。二十億の国帑と十万同胞の血を流して漸く確保したる満洲の権益を,そつくり横合ひから奪ひ取らうとしたのであります。さらに1910年の錦愛鉄道協定といひ,1914年の福建省におけるアメリカの軍港設置問題といひ,陝西省における石油掘鑿権の獲得といひ,更に又シベリア出兵の理由なき干渉といひ,どれ一つとして,米国の周到なるアジア侵略計画を示さぬは無いのであります。
しかしながら,これらのことは未だよい方であります。日本国民の断じて忘れてならぬことはヴェルサイユ講和会議後に開かれたるワシントン会議におけるアメリカの仕打ちであります。この会議における暴戻なるアメリカの態度と仕打ちこそは,断じて日本人の忘れ得ざるところであります。
米国は英国と共謀して,帝国海軍を五・五・三の劣勢比率に蹴落しました。己等はパナマとシンガポールに世界的に誇るに足る大規模の要塞の建造計画を樹立してをりながらも,日本に対しては却つて太平洋無防衛の美名のもとに,日本の皇土たる千島列島と小笠原群島においてさへ,日本自身の防備の制限を強制いたしたのであります。いはゆる九ヶ国条約によりまして,日本と支那との歴史的,地理的,政治的,経済的の緊密な関係を切断して,支那の独立及び領土保全の美名の下に,両国をして骨肉相抗し相争ふの不和の関係に追ひ込んだのであります。更に四ヶ国条約によりましては,太平洋現状維持に藉口して帝国の海洋発展を封じたのであります。かやうにして,帝国の手足を束縛し,帝国の武力を封じて,アジアと太平洋とを彼がほしいまゝなる支配のもとに置かんとしたのであります。このワシントン会議こそは,かの日清戦争後の三国干渉にも優るとも劣らざる屈辱であります。私は今,このことを語りながらも当時の米国の暴戻なる仕打ちに忿懣やる方なく,正に血の逆流するのを覚ゆるのであります。
その後十年にして起つた満洲事変は,かやうな英米の利己的なアジア支配体制の強化に対する止むを得ざるに出でたる帝国の反撃であつたのであります。米英両国――特にアメリカの太平洋における日本圧迫と,その援助を恃む支那の暴戻とは,遂に帝国をして自衛の戦ひに出づるの止むなきに至らしめたのであります。国際聯盟の脱退も,ワシントン条約の廃棄も,帝国が自身の危急を認識し,自身の使命に眼覚めたからにほかならぬのであります。
支那事変は,この満洲事変の意義をそのまゝ承け継いでゐるのであります。〔後略〕
(奥村喜和男『尊皇攘夷の血戦』(旺文社・1943年)4-7頁)
戦争に負けるとは哀れなことで,「支那市場の完全なる独占」,「アジアの犠牲においてする帝国主義的膨張」,「アジアの政治的支配」,「アジア資源の経済的独占」等を意図し,計画していたのはむしろ大日本帝国であっただろうと現在では言われているところです(日本国国民に係る「世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤」を指摘するポツダム宣言(1945年7月26日)第6項参照)。
2 情報局について
ところで,情報局とは何かといえば,1940年11月27日枢密院可決(宮内庁『昭和天皇実録第八』(東京書籍・2016年)247頁参照),同年12月5日裁可(しかし,この日昭和天皇は「故従一位大勲位公爵西園寺公望の国葬当日につき,廃朝を仰せ出される。」ということでしたが(実録第八257頁),どうしたものでしょうか。),同月6日公布,同日施行の情報局官制の第1条が,次のように規定していました。
第1条 情報局ハ内閣総理大臣ノ管理ニ属シ左ノ事項ニ関スル事務ヲ掌ル
一 国策遂行ノ基礎タル事項ニ関スル情報蒐集,報道及啓発宣伝
二 新聞紙其ノ他ノ出版物ニ関スル国家総動員法第20条ニ規定スル処分
三 電話ニ依ル放送事項ニ関スル指導取締
四 映画,蓄音機レコード,演劇及演芸ノ国策遂行ノ基礎タル事項ニ関スル啓発宣伝上必要ナル指導取締
前項ノ事務ヲ行フニ付必要アルトキハ情報局ハ関係各庁ニ対シ情報蒐集,報道及啓発宣伝ニ関シ共助ヲ求ムルコトヲ得
ここで,国家総動員法(昭和13年法律第55号)20条は,次のとおり。
第20条 政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ新聞紙其ノ他ノ出版物ノ掲載ニ付制限又ハ禁止ヲ為スコトヲ得
政府ハ前項ノ制限又ハ禁止ニ違反シタル新聞紙其ノ他ノ出版物ニシテ国家総動員上支障アルモノノ発売及頒布ヲ禁止シ之ヲ差押フルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ併セテ其ノ原版ヲ差押フルコトヲ得
また,同条には,次のような罰則が付いていました。
第39条 第20条第1項ノ規定ニ依ル制限又ハ禁止ニ違反シタルトキハ新聞紙ニ在リテハ発行人及編輯人,其ノ他ノ出版物ニ在リテハ発行者及著作者ヲ2年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ2000円以下ノ罰金ニ処ス
新聞紙ニ在リテハ編輯人以外ニ於テ実際編輯ヲ担当シタル者及掲載ノ記事ニ署名シタル者亦前項ニ同ジ
第40条 第20条第2項ノ規定ニ依ル差押処分ノ執行ヲ妨害シタル者ハ6月以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ500円以下ノ罰金ニ処ス
第41条 前2条ノ罪ニハ刑法併合罪ノ規定ヲ適用セズ
しかして「国家総動員」とはそもそも何かといえば,国家総動員法1条が定義規定でした。
第1条 本法ニ於テ国家総動員トハ戦時(戦争ニ準ズベキ事変ノ場合ヲ含ム以下之ニ同ジ)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ
情報局の次長は勅任官であり(情報局官制2条),「局務ヲ統理シ所部ノ職員ヲ指揮監督シ判任官ノ進退ヲ専行スル」ところの総裁(同官制6条。ちなみに,総裁は親任官です(同官制2条)。)を「佐ケ局務ヲ掌理ス」るものとされていました(同官制7条)。
1941年12月8日の奥村喜和男による「宣戦の布告に当り国民に愬ふ」演説は,情報局官制1条1項3号に基づいて当該事項に係る放送の行われるべきことを社団法人日本放送協会に指導した上で,情報局による啓発宣伝の事務(同項1号)を同局の次長閣下が自ら行った,ということでしょう。
3 「国民に愬ふ」演説註釈
奥村情報局次長の前記「国民に愬ふ」演説における米国非難及びワシントン体制罵倒に係る事項のうち,今となっては分かりづらいものに註を付してみましょう。
(1)ハリマン協定問題
まず,1905年のハリマン協定問題(ただし,「協定」といっても本協定の成立には至っておらず,しかして当該本協定成立の阻止は,小村寿太郎外務大臣の「功績」とされています。)。
日本国内閣総理大臣桂太郎と米国の鉄道王ハリマンとの間の予備協定覚書(1905年10月12日に双方関係者調印の予定でしたが,当該調印は延期されています。)の要領は,次のとおりでした(外務省編纂『小村外交史 下』(1953年)207-208頁・209頁)。
一 南満洲鉄道及び附属財産の買収,改築,整備,延長,並に大連に於ける鉄道終端の改善及び完成のため資金を充実せしむる目的で,一の日米シンヂケートを組織すること。
二 日米両当事者は南満洲鉄道及び附属財産に対し共同かつ均等の所有権を有すること。
三 特別の協議により,該シンヂケートは鉄道附属地内の炭鉱採掘権を獲ること。その利益及び代表者は共同かつ均等たるべきこと。
四 満洲に於ける諸般企業の発展に関しては,両当事者は原則として均等の利益を受くべき権利を有すること。
五 南満洲鉄道及び附属財産は,両当事者の共同代表者の決定すべき実価を以て買収すること。
六 該シンヂケートの組織は,その時期に現存する事情を斟酌してこれに適応すべき基礎の上に定むること。
七 右は日本に於ける事情に適応せしむるを得策なりと認め,日本の管理の下にこれを組織すること。但し事情の許す限り随時これに変更を加え,結局代表権及び管理権の均等を期すること。
八 該シンヂケートは日本法律により事業を行うことにハリマン氏同意せしに付,残るは氏の組合員の同意なるが,氏はその同意を得らるべきを信ずること。
九 両当事者間の仲介者としては,日本外務省顧問デニソンに委嘱すること。
一〇 日支間また日露間に開戦の場合には,南満洲鉄道は軍隊及び軍需品の輸送に関し常に日本政府の命令に従うべきこと。日本政府はこれに対し鉄道に報償を為すべく,かつ他の攻撃に対し常に鉄道防護の責に任ずること。
一一 自今日本興業銀行総裁添田壽一を以て両当事者間の通信の仲介者と為すこと。
一二 両当事者以外の者をシンヂケートに加入せしめんとする場合には,双方間の協議及び承諾を経るを要すること。
これが,「我国の側からいえば,満洲に於て数十万の血を流し,幾億の国帑を費し,ポーツマスの談判に於て百難を排して漸く獲た南満洲経営の大動脈を他の手中に委し,軍事及び経済上の利益を一朝にして抛棄する結果となるはいう迄もない。」ということ(『小村外交史 下』208-209頁)に直ちになるものかどうか。「抛棄」といえば零になるようですが,共有持分は半々ですし(第2項),利益は両者均等に分けられるのですし(第4項。また,第3項),代表権及び管理権も均等ですし(第7項。また,第3項),軍事上の利益としては戦時の日本政府命令権が確保されているのですから(第10項),「抛棄」は言い過ぎであるように思われます(無論これは,鉄道等経営の実務を自分たちだけでやりたいという前向きな経営者的観点というよりは,怠惰な株主的観点からする思考にすぎないものなのでしょうが。)。
また,「当時元老は総じて,特に井上〔馨〕は甚しく,満洲経営を以て日本の重荷とする悲観説を抱き,また米国を以て将来満洲における日露両国間の緩衝たらしめんとの苟安〔コウアン。一時の安楽をむさぼること。一時のがれ。〕論を有し,別して外資の輸入を大旱の雲霓視する際であつたので,いづれもハリマンの言に耳を傾け,主義に於て賛意を表し」たこと(『小村外交史 下』206-207頁)についても,令和の今からすると理由なきにしもあらずでしょう。というのは,現在の老廃日本国としては,北海道経営すらも重荷であるようであり,尖閣諸島の保持についても最終的には米国の庇蔭に頼らんとしているようであり,インバウンド外国人観光客の落としてくれるお金が旱天の慈雨であるのならば,外資の潤沢な輸入確保があればこれすなわち,天恵これに勝るものなしということになるはずだからです。更には,日本人だけで偉大な事業の経営をしようにも,平成以来の「ゆとり」ある「失われた三十年」を経て,人材もポンコツ化してしまっているようです。(ところで,2024年8月14日に岸田文雄内閣総理大臣は骸骨を乞わんとするの意を表明されましたが(ただし,骸骨を乞うといっても,内閣総理大臣が辞職する際天皇に辞表を奉呈しないことについて,「中南米の方角から見る日本国内閣総理大臣論」記事の4(3)の部分を御参照ください(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1081878282.html)。),次の自由民主党総裁にはどなたがなられるのでしょうか。)
(2)錦愛鉄道協定問題
次に,1910年の錦愛鉄道協定問題。
この問題は,初代米国奉天総領事のストレート(W.D. Straight。ハリマンの女婿〔ではなく,正確には,娘と恋仲になったことがあるそうです。〕)が,イギリス貴族フレンチ(French)と共に,1909年10月2日,米国にとっての満洲における最初の鉄道権益たる・錦州(渤海湾沿い)と愛琿(黒龍江沿い)との間の鉄道敷設に係る錦愛鉄道借款予備契約を清国との間で獲得したこと(井上勇一「錦愛鉄道をめぐる国際関係――日露協商の展開と日英同盟の変質――」法学研究58巻1号(1985年1月)65頁・68頁)から始まります。直ちに米国から英国に対する外交的働きかけがあって,その内容は,「明治42年〔1909年〕11月9日〔6日〕,ロンドン駐在のアメリカ大使レイド(W. Reid)は,グレー外相(E. Grey)に会見を求め,ノックス〔米国国務長官〕の提案を伝えた。これがいわゆる満州鉄道中立化案の最初であった。ノックスの提案は,第1に,満州の門戸開放と機会均等を実現するために,満州の諸鉄道に関心を持つ列強の出資金によって国際借款団を組織し,他方,鉄道所有権を日露両国から買収して清国に移し,その経営を借款団において行うこと,また第2に,もし第1案が実行不能の場合には,とりあえず錦愛鉄道の借款についてのみ列強の参加を求めて建設し,将来において満州に建設する諸鉄道の資金を調達する一方,既設の鉄道についても買収を進めるというものであった。」とのことです(井上67頁)。当該二つの案は,1909年12月18日,オブライエン(T.J. O’Brien)駐日米国大使から小村寿太郎外務大臣に示されています(井上68頁)。
当該満洲鉄道中立化案に対しては,1910年1月21日,小村外務大臣から在京米国大使に対し回答が手交されていますが(井上71頁),その内容は,「日本は原則として錦愛鉄道の建設に参加するが,建設計画の詳細はまだ明らかではないので,後日にそれを協議すること,しかし将来建設される未確定の計画に今から拘束されることは不可能であること,次いで満州鉄道の中立化は,ポーツマス条約の規定に反すること,満州の鉄道についてだけアメリカが提案するような特殊な経営形態とする理由はないこと,列強の共同管理には利点が見い出せないこと,日本はすでに満州の開発のために多額の投資を行っているために,アメリカ提案には応じられない」というものでした(井上70頁・71頁)。結局同年,満洲鉄道中立化に係る「ノックスの提議は列強の支持をえられないまま失敗に終ることとな」ります(井上72頁)。
ノックスの上司であるタフト大統領においては「満州が日露間の緩衝地帯となることを希望し,このためには,満州の諸鉄道が国際化され,いずれの列強の利益ともならないようにするのが望ましい」という考えを持っていたところではあります(井上82-83頁)。恐ろしいロシアに対して米国が緩衝勢力となってくれるのであれば,確かに一見有り難いようでもあります。しかし,満洲をめぐる・その領有国たる当の清国をよそにした直接取引的日露協商関係に信頼していた当時の我が国政府においては,余計なお世話であったのでしょう。
錦愛鉄道自体についてですが,その借款予備契約は1910年1月20日に清国皇帝の批准を得ます(井上77頁)。しかしながら,同年2月24日に至って,ロシアは,米国主導の同鉄道の建設に反対し,代替路線として張家口から庫倫を経て恰克図に達する張恰鉄道の建設を提案する旨の覚書を米英両国に送ります(井上80-81頁)。当該提案は,日本には同月26日に通告され,第2次桂内閣は,同年「3月2日の閣議において,日本は,ロシアの張恰鉄道計画によって錦愛鉄道計画が廃棄されることは,満州への列強の進出を阻止することとなり,日本にとっては都合のよいこと,またその反面で,張恰鉄道の完成によって,ロシアは満州を経由することなく直接北京へ進出することが可能になること,しかし,日本としてはロシアの代替路線計画に反対する理由を持っていないこと,以上のような観点から,英米とともに,張家口-庫倫間の鉄道建設に参加すべきことを決定し」,同月4日に在京ロシア大使に通告しています(井上81-82頁)。ロシアの反対で難しくなった錦愛鉄道の建設は,ロシアに対するフレンチによる1910年秋の路線変更提案(斉斉哈爾経由から哈爾賓経由へ)並びに1911年4月21日の哈北鉄道(北京・哈爾賓間)及び斉墨鉄道(斉斉哈爾・墨爾根(嫩江)間)の2鉄道との差替えの提案を経て,結局は実現されずに終わりました(井上84-86頁)。
なお,奥村のいう「満洲中立の要求」とは,満洲鉄道中立化の提案のことだったのでしょうか。
(3)福建省における米軍軍港設置問題
三つ目は「1914年の福建省におけるアメリカの軍港設置問題」ですが,これについては,奥村において時間軸上の錯誤があるようです。
実は1914年にあった出来事は,「福建省におけるアメリカの軍港設置問題」ではなく,第一次世界大戦参戦に際しての我が陸軍による福建省三都澳への派兵計画の途中中止(衛戍地の打狗(高雄)から8月12日に我が兵千名の出動はみたものの,同月14日に作戦中止)でした(日台礟一「華南の真珠湾:福建省三都澳をめぐる日米の過去――第1次大戦参戦時における三都澳占領作戦の中止に関連して――」東アジア研究(大阪経済法科大学)18号(1997年12月)49頁・53頁)。「この中止は外交的顧慮から出た外務省の勧告によるものとされているが,この外交的顧慮とは,かつて米国が獲得を企図し,日本に阻まれた三都澳を,大戦のいわばどさくさまぎれに日本が手中に収めることは,米国に日本の対華政策に対する反対気運を,いっそう強めさせることになるのを憂いたからにほかならなかった」からだそうです(日台53-54頁)。
しかして,三都澳について「かつて米国が獲得を企図し,日本に阻まれた」とはどういうことかというと,次のとおり。
まず,1899年9月6日「米国国務長官ヘイ,英・独・露に中国の〈門戸開放〉覚書を通告。11.13日本,11.17イタリア,11.21フランスに通告」ということがあり,1900年7月3日にはまた「国務長官ヘイ,中国の領土保全・門戸開放を再び列国に要請」ということになりました(『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年))。「ところが,清国の領土保全を日本に対して〔1900年〕7月に申し入れてから半年も経たない12月,米国国務長官ヘイは,秘かに清国駐箚の米国公使コンジャーに対し,(台湾の対岸)福建省の三沙澳(Samsah Bay)〔三都澳〕の中の一島を石炭集積所の名目で米海軍の基地として租借し,その周囲20哩以内は第三国に割譲しないことを約させる条約を締結すべく清国政府と秘密裏に交渉させた」(日台54頁)という矛盾的挙動が行われます。その際,「秘密裏に交渉」とはいっても,福建不割譲につき我が国は清国と公文を交換していたので(1898年4月),我が国に対しては米国から内意の打診があったところ(日台54頁),「加藤〔高明〕外務大臣は,米国の申し出を認めれば,かねて清国政府に対し,福建省の地は一切他国に分譲しない旨の約定をさせていることが廃棄同然となり,さらに他国からの領土要求に口実を与えることになる。しかも,そもそも米国が唱えている清国の「領土保全」は,他の領土要求の口実となるような一切の利益を領収することを避けてこそ,最も善く「領土保全」を遂行することができる筈であるとして,米国がその企図を放棄するよう申し入れをさせ,かくして米国の計画は失敗に了った。」ということになっていたのでした(日台55頁)。
きれいごとを言いつつもやはりそれとは矛盾する助平心はある,というのは人情の常ですが,その辺を指摘されるに及び,米国は素直に引き下がったわけでした。
(4)陝西省における石油掘鑿権の獲得問題
第4の陝西省における石油掘鑿権の獲得問題は,次のような経緯について奥村次長が悲憤慷慨したということになるのでしょう。しかし,結局日米いずれの側も儲けとなる油田を見つけることはできなかったわけで,そう悔しがる必要はないのではないかい,とは筆者の個人的感想です。
まずは日本側の経緯です。
20世紀に入った直後に,ドイツ系企業が延長周辺での石油利権獲得の動きをしたが,このような動きは中国側に石油事業の有利さを目覚めさせる結果となり,オルドスの広い部分を占める陝西省が1901年(明34)に石油鉱務局を新設し,自らの手で石油開発に乗り出すこととなった。
1904年(明37),同局は延長の油兆地からの石油試料を武晶学堂(湖北省武昌にあった上級学問所)の教授であった稲並幸吉氏(明34,東大化学卒)に送り,その分析とコメントを求めた。同氏は〔中略〕まず試掘井を掘るべしとの進言をした。これを受けた陝西省は稲並氏に対し日本での掘削機の購入と掘削手の派遣を依頼した。
日本側(日本の受け皿不明,日石でも宝田石油でもない)の対応は極めて早かった。1906年(明39)8月には,日本で調達した掘削機などと,越後よりきた掘削手の一団は揚子江に沿う漢口に集結し,〔中略〕延長の掘削現場に到着したのは翌年(1907年)の1月であった。この日本製の掘削機で日本人掘削手も加わった延長1号井は4月に開坑し,その年の10月に深度250フィートにて掘止め,230フィートの油層を仕上げて日産60バレルの石油を生産した。
この生産量は価格17,000ドルの価値(根拠不明)ありとして,関係者は大いに歓喜し,小製油所(2基の蒸留釜のみ)をも建設したものの,中国側の人事確執,資金調達の難航もあってその後の掘削作業は中断した。このころ石油産業研修のため日本に派遣されていた中国留学生達(日石の製油所,油田で実習)が帰国するに及び,広く省民より資金を集めて陝西石油会社を1909年(明42)に設立した。この会社は〔略〕1910年(明43)1月に日本石油(株)の内藤久寛社長に対し地質技師の派遣と掘削資機材の調達を要請した。日本石油は直ちにこれを受け入れて同社の地質技師の理博・大塚専一氏他の派遣を決め,〔略〕大塚氏一行は〔その年〕7月に延長に達し,1ヵ月余にわたる周辺の地質調査のうえ今後の掘削位置を決めて帰国した。〔後略〕
大塚氏の調査結果にもとづき,日本からの掘削手も加わって延長2,3号井が掘られたが,2号井で数バレルの石油を,3号井で油兆を見たにとどまり,その後は中国側だけによって4号井も掘られたが不成功に終わり,以後の掘削は再び中断した。
1913年(大2),あらたに中国側より日本公使・山座円次郎氏に対し延長油田の開発を日本との合弁事業(50:50)で行いたいとの提案があり,500万円の借款と50万円の運動費を要請してきたが,日本側では官民協議の上これを断ったため,それ以後オルドスにおける日本と中国との関わりは閉ざされることとなった。
(岩佐三郎「中国・オルドスにおける石油史の断片」石油の開発と備蓄(石油公団)24巻6号(1991年12月)78-79頁)
次は米国側からするかかわりです。
〔米国の〕スタンダード社は,かねて中国政府に対し巨額の借款供与の引き換えとして中国での石油利権を狙っていたが,日本と中国との間でのオルドスの話し合いが実を結ばないのを見て,1914年(大3)直ちに中国政府(北洋軍閥政府)と延長油田を含む陝西省と直隷省(現河北省)の一部における石油の探鉱・開発から精製・販売までを包括する協定を締結した。
〔略〕
この協定調印後にス社は6名の地質技師を含む調査団を派遣した。その結果は直隷省地域には石油の可能性がないが,陝西省の延長・延安付近をやや有望としていくつかの掘削候補の位置を決めた。ス社は直ちに3基の掘削機と約20名の掘削手を送り込んで6坑の坑井を延長及びその他の構造に掘削したものの,若干の坑井で油兆を発見しただけで何れも不成功であった。ス社は陝西省・直隷省の石油が期待外れであったため,中国政府に対し中国全土における石油探鉱・開発から精製・販売までの独占権を再三にわたり要求したが,中国側は他国への思惑もあってこれを拒絶した。この交渉の成り行きを見守りながら延長地域で掘削作業を続けていたス社の従業員は,交渉の決裂後1916年(大5)にオルドスより撤退したが,この事業に投じた資金は125万ドル以上という。
ス社の撤退以降,新中国誕生までの30余年間のオルドスでの石油開発は,〔略〕低迷したが,1935年(昭10)に中国共産党が延安に根拠地をおくと「延長石油廠」をつくって油田の開発・管理を行った。
(岩佐79-81頁)
(5)シベリア出兵問題
ア シベリア出兵それ自体の問題:人命及び財貨の浪費(附:新型コロナウイルスとの戦いとの比較)
5番目の「シベリア出兵の理由なき干渉」とは,あるいは,ロシアに対する当該「理由なき干渉」を,米国の口車に乗って日本もやってしまっちゃったことに対する苦情でしょうか。
多大な人命と財貨を費やしながら,得るものの少なかったシベリア出兵。〔後略〕
(麻田雅文『シベリア出兵』(中公新書・2016年)243頁)
『靖国神社忠魂史』によれば,シベリア出兵の全期間〔1918年から1925年まで〕にわたる陸海軍の軍人,軍属の戦病死者数を合計すると,戦死2643人,病死690人,計3333人である。戦没者の出身地は,北海道から沖縄まで全国に広がっている。
しかしここには,尼港事件の民間人犠牲者は含まれていない。〔後略〕
(麻田238頁)
パルチザンに抵抗を試みて失敗し,虐殺された1920年3月12日の尼港事件における日本人犠牲者の数は,我が外務省の文書によると735名であって,その内訳は民間人384人(うち女性183名,性別不明1名),軍人351名(陸軍307名,海軍44名)であるそうです(麻田160頁)。
シベリア出兵における陸海軍の作戦行動に必要な経費は,一般会計から切り離して,臨時軍事費特別会計によって賄われた。このうち,陸軍省のシベリア出兵分は5億7940万円で,海軍省は1億2470万円である。合計すると,7億410万円になる(「第一次大戦・シベリア出兵の戦費と大正期の軍事支出」)。
(麻田240頁)
大正時代の後期(1920年から25年)に,日本の歳入は決算額で毎年ほぼ20億円で推移していた。その一般会計でも,1920年には軍事費に9億円あまりを費やしている。臨時軍事費特別会計と一般会計の両方を合わせると,この時期の日本の国家財政は,シベリア出兵を推し進めた陸海軍によって大部分が費やされていた。
(麻田241-242頁)
しかし,挙国一致・思いやりの心をもって最兇の新型コロナウイルスと英雄的に戦った令和の時代の財政事情と比較すると,シベリア出兵にかかった軍事支出は,まあ大したことではないと考えてよいのでしょう。
2024年7月2日付けで内閣感染症危機管理統括庁・内閣府(経済財政運営担当)が作成した資料である「新型コロナウイルス感染症対策関連事業の執行状況等について」を見ると,令和元年度から令和4年度(2019年度から2022年度まで)の新型コロナウイルス感染症関連事業に係る予算を通算した執行状況は,支出済額91兆5271億3千万円であるということです。これに対して,令和4年度(2022年度)決算における一般会計の歳入総額は153兆7294億63百万円,そのうち租税及び印紙収入は71兆1373億95百万円であったところです。(なお参考までに,同年度の消費税の収納額は23兆0793億円,地方消費税の収納額は6兆4151億円でした。いわゆる消費税のうち,地方消費税は国の歳入とはなりません。)大正期の20億円に対する7億円ならば,令和の御代の153兆7294億63百万円に対しては約53兆8千億円ということになりますから,新型コロナウイルスとの戦いは,シベリア出兵に少なくとも倍する厳しさであったものと財政的には評価できるのだ,と荒っぽいながらも言うことができるのでしょう。
なお,新型コロナウイルスとの戦いにおける尊い犠牲ともいうべき新型コロナウイルス感染症予防接種の結果亡くなった方々の数はどれくらいかというに,2024年8月19日の厚生労働省疾病・障害認定審査会感染症・予防接種審査分科会新型コロナウイルス感染症予防接種健康被害審査第三部会に提出された資料によれば,同日現在における死亡一時金又は葬祭料に係る件数は,進達受理件数が1461件,認定件数が773件,否認件数が327件及び保留件数が3件であるそうです。また,予防接種法(昭和23年法律第68号)に基づく副反応の疑い報告制度というものもあるそうですが,岡山県保健医療部疾病感染症対策課がまとめた同県ウェブページ「新型コロナワクチン接種に係る副反応疑い報告の状況について」(2024年8月2日更新)を見ると(なぜ厚生労働省の資料を直接紹介しないかというと,同省のウェブサイトに掲載される情報は,何が何だか分かりづらいのです。),2024年4月21日までのところ,死亡事例として2204件が報告されているようです。まあ,いずれにせよ,シベリア出兵における我が戦死者数より,まだ少ないようです。
ところで,「シベリア出兵で日本が唯一獲得した利権である,北サハリンの石油や石炭」(麻田236頁)のその後ですが,「「順調な発展を遂げたのは初期〔1926年以来〕の数年間でしかなく,ほとんどの時期はソ連関係当局による圧迫の歴史であったといっても過言ではない」(『北樺太石油コンセッション』)」状態だったそうで(麻田237-238頁),「まず〔石炭を主に採掘する〕北樺太鉱業が,1937年にほぼ操業を停止し」,「北樺太石油も,日本が1941年に日ソ中立条約を結ぼうとした際に,利権の解消がソ連側からの条件として提示され」,「アジア・太平洋戦争が激化してゆくなかで,ソ連に中立を維持させたい日本も交渉に応じ」,結局「1944年3月10日〔30日〕に,北サハリンの利権移譲の協定が結ばれてい」ます(同238頁)。ちなみに,新型コロナウイルスとの戦いにおいて,大切な人を守る・思いやりワクチンの供与に大きな役割を果たしたところの世界人類の命の恩人たる米国の製薬会社ファイザーの株価ですが,新型コロナウイルス騒動発生前の2019年12月31日の終値39ドル18セントが,2021年12月20日には61ドル71セントにまで,高々と6割近く上昇しています。ただし,2024年8月23日の終値は28ドル90セントであって最高値の半値を割り込んでおり,これは,〇銭身に付かずの一例のようでもあり,やはり世の中稼げるときには稼げるうちに貪婪,無慈悲かつ阿漕に稼いでおかなければならないのだよという人世の厳しい真実の一端のようでもあります。
イ 米国の提案に基づく我がシベリア出兵
しかしてそもそも,1918年8月に始まるシベリア出兵については,実は当初我が国は,必ずしも派兵に積極的ではなかったのでした(無論,積極論者はいましたが。)。
〔チェコ及びスロバキアからのロシアへの移民の子孫並びに第一次世界大戦でロシア軍の捕虜となったオーストリア=ハンガリー帝国の兵士中のチェコ人やスロバキア人からなるロシアのチェコ軍団は,1918年3月3日のブレスト=リトフスク条約によるロシアの同大戦からの脱落後,シベリア鉄道で東に向かい,ウラジオストクを出航してフランスの西部戦線に赴こうとしていたところ,同年5月14日にシベリア西部のチェリヤビンスク駅で起きたハンガリー人捕虜との間のいざこざをきっかけに現地のソヴィエト当局と衝突,ウラジオストクに向かうのならば武装解除せよと命ずるボリシェビキ政権に対して叛旗を翻し,シベリア鉄道沿線を占領,〕チェコ軍団の蜂起は予想外だったが,英仏はチェコ軍団を利用して,ドイツと戦う戦線をロシアに再建しようとする。連合国の期待に応えようと,ワシントンでアメリカ政府に〔チェコスロバキアのオーストリア=ハンガリー帝国からの〕独立を働きかけていた〔トマーシュ・〕マサリク〔チェコ軍団の旗揚げをロシア帝国に働きかけた当人〕も「当面ロシアにとどまり,共通の敵と戦うよう」,7月21日の電報でチェコ軍団に命じた。
チェコ軍団はシベリアを席巻した。だが,軍団でもウラジオストクに到着していた部隊とバイカル湖よりも西にいた部隊の間で連絡が途絶えたために,オーストリアやドイツの捕虜たちにチェコ軍団が攻撃されているのでは,という憶測が流れる。
連合国に「チェコ軍団の危機」の噂が流れる。これを口実に,英仏伊の連合国は,救援のための出兵を日米に強く求めた。1918年6月1日から3日まで,フランスで開催された連合国最高軍事会議では,日本政府に対し,シベリアへの出兵を要請することが決議される。イギリスのアーサー・バルフォア外相も珍田〔捨巳〕大使に出兵を勧告した。だが,アメリカが同意しなければ,と日本政府は回答するのみだった。
アメリカへの働きかけも続けられた。6月19日,ワシントンでマサリクがウィルソン大統領と会談し,チェコ軍の救助を要請している。さらに7月3日に連合国最高軍事会議が,ウィルソン大統領にチェコ軍団救出のため,出兵を強く要請した。
(麻田52-55頁)
ここでウィルソンは,自らが唱える(ヨーロッパにおける)民族自決の夢に酔ってしまったのでしょうか。
ウィルソン大統領もついに屈した。7月6日にホワイトハウスへ閣僚を招く。大統領は,「チェコ軍の救援に限定し,日米両国ともに7000名の兵力を限定した地域に派遣」する方針を決める。7000名というのは,アメリカ陸軍が植民地のフィリピンから動員できる兵数としてはじき出された。
(麻田55頁)
〔略〕7月8日にランシング国務長官が石井菊次郎駐米大使を招き,アメリカの派兵を伝えた。そしてシベリアに干渉するのではなく,チェコ人を救助するため,日米同数の7000人の陸軍をウラジオストクに送りたい,と提案する。それは出兵の呼びかけではあったが,同時に日本軍の出兵地域と兵数を制限してもいた。
(麻田56-57頁)
ウ 米国の干渉及びそれに対する我が国政府の見切り
「アメリカが同意しなければ」とかねて日本国政府は聯合国仲間に言っていたのですから,米国としても,日本のシベリア出兵の目的,兵員及び派遣地が米国の「同意」の範囲内(それぞれ,「チェコ部隊の救助」,「7000人」及び「ウラジオストク」)にとどまるように意見することは当然可能であると考え,それが「理由なき干渉」になるものなどとは思っていなかったわけでしょう。
これに対して日本の「寺内〔正毅〕首相は,〔出兵兵力及び出兵地域に係る〕アメリカとの合意を無視したものの〔最大兵力は約7万2400人に達し(1918年8月),同「月22日に後藤〔新平〕外相は,ウスリー(沿海州南部)およびザバイカル方面へ,3万人を増兵することをアメリカ政府に通告するよう,石井駐米大使に訓電」しています。〕,楽観的だった。第三師団〔名古屋〕の動員が決まった〔1918年〕8月24日には,長州の先輩軍人である枢密顧問官の三浦梧楼へ,次のように書き送っている。アメリカとの関係は,いまのところ格別の難関はありません。今後,アメリカから多少の「論難」は免れないでしょうが,やむをえない行きがかりというものです(『三浦梧楼関係文書』)。」と(麻田77頁並びに73頁及び76頁),ということですから,我が国のシベリア出兵に対する米国からの「論難」をもって直ちに「理由なき干渉」であるものと深刻に非難し,後の奥村次長のように大仰に騒ぎ立てる気は我が国政府にはなかったのでしょう。1918年「11月初め,ウィルソン大統領は石井大使に,「兵力数と派遣地域」について注意を勧告し」,同「月16日にはランシング国務長官も石井大使に,「日本軍兵数の過大なるを見て驚愕禁ずる能わず」と抗議文を提出」したことも(麻田87頁),「やむをえない行きがかり」にすぎないとあらかじめ見切っていたわけです。
なお,1918年11月11日にドイツと聯合国との間で休戦が実現し,第一次世界大戦は終了しています。西部戦線への参戦も東部戦線の再建も,不要のこととなったわけです。
エ 米国の「理由なき不干渉」:白軍コルチャーク政権の崩壊
ところで,次のような米国政府の対応は,「理由なき干渉」ではなく,我が国政府としてはむしろ「理由なき不干渉」と言いたかったことでしょう。
オムスクからイルクーツクへ移っていた〔当時崩壊寸前であった白軍コルチャーク政権(「全ロシア政府」)に対する我が〕加藤恒忠大使〔正岡子規の叔父〕は,〔1919年〕12月25日に内田康哉外相に派兵を要請した。外務省はコルチャークの救援にアメリカの力を借りようとする。11月末から12月にかけて,内田外相と幣原喜重郎駐米大使(のち首相)は,ランシング国務長官などにシベリア派遣軍の増強を要請した。しかし,〔略〕すでに撤兵を決定していたランシングは応じなかった。
(麻田123頁)
1918年11月18日のクーデタ以来「全ロシア政府」の所在地たる西シベリアのオムスクにおいて「全ロシア最高執政官」兼「全ロシア軍最高総司令官」たりしコルチャーク提督(麻田109頁。ただし,同政府は,労農赤軍の大攻勢の前に1919年11月11日,バイカル湖の西のイルクーツクに東遷しています(同121頁)。)は,チェコ軍団の裏切りによって1920年1月15日にイルクーツクの革命政権にその身柄を引き渡され,同年2月7日には同地で銃殺されています(同124頁)。
オ チェコ軍団及び米国軍の各撤兵
そもそもその救援を名目として諸国がシベリアに出兵したチェコ軍団ですが,彼らはチェコスロバキアが既に独立した後もなおもシベリアにとどめられていたところ,1919年9月28日にロシアからの撤退を決定しており,1920年2月7日にはソヴィエト政府との休戦協定に調印,同年9月に撤兵を完了させています(麻田130頁)。米国政府も,チェコ軍団の撤退決定及びコルチャーク政権の没落を承け,1920年1月5日に撤兵を決定しており,同月8日に米国派遣軍司令官のグレイブス少将が我が浦潮派遣軍に撤兵を通告(ただし,我が国政府に対する外交ルートでの正式通告は同月9日)という運びとなりました(麻田131頁)。その結果,「日本政府はアメリカの撤兵を認めざるをえない。しかし内田外相はモリス駐日大使に,今後は日本軍が単独でシベリア駐留することや,日本軍の増兵や撤兵は自由にさせてもらう,と1月9日に伝える。本国のランシング国務長官はそれを認めざるをえなかった。/こうして日米の共同出兵は,最後までかみ合わないまま終わった。」ということになりました(麻田132頁)。米国軍のシベリア撤兵は,1920年4月1日に完了しています(麻田139頁)。
しかしてその後の状況は,やはり米国は米国であって,「アメリカは自国が撤兵を完了してからも,なおも出兵を続ける日本に,再三にわたり抗議していた。それは,ウィルソンからハーディングへと大統領が交代しても変わらない。1921年6月3日にも,ヒューズ国務長官が,日本がシベリアの占領地で,今後いかなる利権を得ることも認めないという,強い語調の覚え書きを幣原駐米大使に手渡している。」というものであったところ(麻田192頁),1921年11月12日にはワシントン会議が始まります。
カ ワシントン会議における我が国の弁明及び「さほど深追いしていない」ヒューズ議長
ワシントン会議〔において,〕日本のシベリア出兵については,1922年1月23日に取り上げられた。会議の全権委員の一人,幣原喜重郎の回想によれば,事前にヒューズ議長が日本側の弁明を求めてきたためだという。
幣原は訓令にそって,シベリアには多数の日本人が居住しているため,日本軍の活動は彼らを守るためで,自衛の範囲を出るものではないと正当化した。また現地の日本人の生命と財産の保護や,企業活動の自由などがロシア側から認められれば,撤退すると述べた。ヒューズ議長は,翌日の会議で幣原演説を歓迎し,さほど深追いしていない。
ただ幣原の発言が新聞で報じられると,日本は撤兵を国際的に公約した,とソヴィエト政府をはじめ世界各国で見なされるようになった。
(麻田198頁)
「国務省ロシア部の専門顧問たち」からの「「日本の侵略的,帝国主義的政策」に対して激しい道徳的非難を日本に浴びせるように」との要請を斥けた上での(麻田197-198頁)「さほど深追いしていない」なので,ヒューズ国務長官の態度は,「理由なき干渉」というよりは,むしろ武士の情けと評すべきもののように思われます。
その後我が国のシベリア出兵からの撤兵は,沿海州(最後はウラジオストク)からは1922年10月25日をもって,北樺太からは1925年5月15日をもってのこととなりました。
やっとまた,ワシントン体制に戻ってきました。
(6)ワシントン体制の評価の問題
自らのワシントン体制評価を縷々語る奥村情報局次長閣下の熱弁に対して,その愛国的かつ反米的暑苦しさを緩和すべく若干の茶々を入れると,次のとおりとなります。
ア 五ヵ国条約その1:「五・五・三」問題
「米国は英国と共謀して,帝国海軍を五・五・三の劣勢比率に蹴落しました。」と言われても,ヒューズが「五・五・三」の当該提案をした1921年11月12日の段階ではなお日英同盟協約は健在だったのですから,米国としてはむしろ,日英同盟軍の合計8に対する己れの5という「劣勢比率」を覚悟してもいたはずです。また,米国がその5の海軍兵力を大西洋と太平洋とに均等に配分した場合には,3の力をもって専ら太平洋を遊弋する我が帝国海軍に対して,当該方面においては2.5の力しかないということになる計算です。我が海軍が米国海軍に対して一方的に「劣勢」である,ということにはならないでしょう。
イ 五ヵ国条約その2:太平洋防備問題
「己等はパナマとシンガポールに世界的に誇るに足る大規模の要塞の建造計画を樹立してをりながらも,日本に対しては却つて太平洋無防衛の美名のもとに,日本の皇土たる千島列島と小笠原群島においてさへ,日本自身の防備の制限を強制いたしたのであります。」とは,五ヵ国条約19条に言及するものでしょう。
確かに,五ヵ国条約19条3号を見ると,千島列島(Kurile Islands)及び小笠原諸島(Bonin Islands)のほか,奄美大島,琉球諸島(Loochoo Islands),台湾(Formosa)及び澎湖諸島(Pescadores)並びに今後太平洋において取得する島嶼的領土及び属地における要塞及び海軍基地に係る条約調印時の現状(status quo)を我が国は維持することとなっています。しかして,米国は,米国本土,アラスカ及びパナマ運河地帯それぞれに近接するもの(ただし,アリューシャン列島を除く。)並びにハワイ諸島を除き,今後取得するものを含む太平洋上の島嶼的属地(すなわち,アリューシャン列島のほか,グアム,フィリピン等)について(同条1号),英国は,香港及び現在領有し,又は今後取得する東経110度より東の太平洋上の島嶼的属地であって,カナダに近接するもの,オーストラリア及びその領域並びにニュー・ジーランド以外のものについて(同条2号)同様の義務を負うことになっています(なお,シンガポールは東経110度より西にあります。)。
しかし,五ヵ国条約19条は我が全権委員の提唱にかかるものであることを奥村次長閣下は御存知なかったのでしょうか。
まず,1921年10月13日のワシントン会議日本全権委員に対する訓令において,「太平洋諸島防備ノ撤廃若ハ制限ニ関シテハ平和維持上ノ見地ヨリ適当ノ機会ニ於テ帝国ヨリ之ヲ提議シ少クモ現状維持ノ程度ニ協定ヲ成立スルコトニ努メラレ度シ」とあったところです(横山隆介「ワシントン会議と太平洋防備問題」防衛研究所紀要第1巻第2号(1998年11月)117頁)。
ワシントン会議開催中の1921年11月28日内田外務大臣発の我が全権委員への回訓においては,同月12日のヒューズの提案に係る主要艦排水総量比率の米英日「五・五・三」問題について「割合ヲ十対六トシ〔戦艦〕陸奥ヲ加フル事」で妥協せざるを得ない場合においては,「太平洋問題〔防備〕ノ減縮又ハ少クトモ現状維持ノ了解ヲ確保シ以テ米国艦隊ノ太平洋ニ於ケル集中活動ヲ減殺シ之ト均衡ヲ保チ」という条件の下でされるべきものとされています(横山120頁)。
しかして「〔1921年〕12月1日,憂慮した〔英国の〕バルフォアは加藤友三郎を訪ねた。加藤友三郎は,主力艦7割比率は議会および国民の支持を得たものであり,米国が防備問題で現状維持を確約しない限り,〔五・五・三では〕国民は納得しないと述べた。彼は,米国がマニラ,グアムおよびハワイを防備しない,代わりに日本は台湾,澎湖島および奄美大島の防護の意思を放棄するという最終要求を提示した。また,加藤友三郎は,完成間近い新鋭戦艦「陸奥」を残すことが日本にとって重要であると主張した。しかしながら,バルフォアは,ハワイとマニラおよびグアムを同等に扱うことはできないと述べた。加藤友三郎も,ハワイの防備現状維持案は,米国に受け入れられないであろうことを認めた。」ということになっています(横山121頁)。すなわち五ヵ国条約19条の規定は,この加藤要求に源を発するものであったわけです。
奥村次長はパナマやシンガポールにこだわりましたが,我が国にとって重要だったのは,米国領であるグアム及びフィリピンの現状維持の確保でした。1922年1月12-13日に東京に到着した請訓電報において,加藤友三郎は,「本協定ニ拠リ我ハ広大ナル比律賓及『ガム』ニ対シ現状維持ノ義務ヲ負ハシメ得タル以上議論トシテハ兎モ角事実上我ニ於テ得ル所其ノ失フ所ヲ償フニ足ルト確信セラル」と述べています(横山128頁)。要するに「日本は〔ワシントン会議における〕国際協定によって,守勢には十分な武力を保障されたのである。仮に,米国が,太平洋において武力行使をしようとすれば,フィリピンおよびグアムの海軍根拠地を現状維持とした以上は,ハワイを基地とせざるを得ない。ハワイを拠点に米国海軍が行動して勝利を得ることは,至難の技である。同様に,英米が合同して日本を攻撃しようとすれば,シンガポールを基地とする他ない。要するに,海軍軍備制限条約は,米国が軍事力を背景として東洋の問題に干渉できないことを約したものと解釈できるのである。/それは,日本がアジアにおいて国際条約上の優越権を認められたことを示すものでもあった。」というわけです(横山135-136頁)。
ウ 九ヵ国条約に基づく「支那の暴戻」問題
「いはゆる九ヶ国条約によりまして,日本と支那との歴史的,地理的,政治的,経済的の緊密な関係を切断して,支那の独立及び領土保全の美名の下に,両国をして骨肉相抗し相争ふの不和の関係に追ひ込んだのであります。」との奥村次長の言明は,「米英両国――特にアメリカの太平洋における日本圧迫と,その援助を恃む支那の暴戻」という同次長の認識に照らし合わせて考えると,大日本帝国と中華民国との2国間限りの密室的場面であれば,(力を背景に)日本の要求を無理やり呑ませることができ,かつ,それを「歴史的,地理的,政治的,経済的の緊密な関係」を言い立てることによって独善的に正当化できるのであるが,米英等の第三国の干渉があるとなると,それを恃んだ中華民国が己れの本来欲するところをあからさまに日本に示すというけしからんこと(「支那の暴戻」)になってしまう,ということでしょう。
しかし,現在においてはかえって,中華人民共和国と日本国との2国間限りの場面においては,「歴史的,地理的,政治的,経済的の緊密な関係」を有する中華人民共和国さまからの要求を,衰退途下国たる我が国は――米英等の支援を恃み得ない限り――素直に呑まねばならないということになるのでしょう。諸行無常盛者必衰ということであって,なかなか感慨深い成り行きです。(なお余計なことながら,九ヵ国条約については,新型コロナウイルス騒動が真っ盛りの4年近く前のものですが,“La Chine, Qu-est-ce Que C’est?”記事(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1077950740.html)も御参照ください。)
エ 四ヵ国条約の意義付け問題
「四ヶ国条約によりましては,太平洋現状維持に藉口して帝国の海洋発展を封じたのであります。」なる四ヵ国条約理解については,前回の「米国,ワシントン会議及び四ヵ国条約と我が国と」記事(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1081972102.html)を御参照ください。「太平洋現状維持に藉口」したのは,日英同盟に代わる日英米(及び仏)の特権的協商関係にイタリア王国又は中華民国が押し入ろうとすることを防止するためであったのでした。また,大日本帝国による赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島委任統治が,四ヵ国条約によって無効化されたということはありませんでした。
4 清沢洌の奥村喜和男論
奥村喜和男(1900年-1969年)は,東京帝国大学法学部卒業・逓信省入省の名物革新官僚であって,『郵便法論』(克明堂書店・1927年),『電信電話法論』(克明堂書店・1928年)等の著書を残し,電力管理法(昭和13年法律第76号)等に基づく電力国家管理の実現等において勇名をはせています。しかし,輝けるエリート官僚たる奥村閣下の知識等の程度に係る在野の外交評論家・清沢洌の評価は,厳しい。
昨日は大東亜戦争記念日〔大詔奉戴日〕だった。ラジオは朝の賀屋〔興宣〕大蔵大臣の放送に始めて,まるで感情的叫喚であった。夕方は僕は聞かなかったが,米国は鬼畜で英国は悪魔でといった放送で,家人でさえもラジオを切ったそうだ。斯く感情に訴えなければ戦争は完遂できぬか。奥村〔喜和男〕情報局次長が先頃,米英に敵愾心を持てと次官会議で提議した。その現れだ。
〔略〕
大東亜戦争を通じて最も表象的な人間は奥村情報局次長である。予は奥村情報局次長の説を愛読す。かれの説が,現在のイデオロギーを代表するがゆえに。奥村の知識は日本国民を代表す。おそらくは世界には通用せず。
(清沢洌『暗黒日記Ⅰ』(ちくま学芸文庫・2002年(評論社・1970年))21頁・23頁(1942年12月9日条))
インテリの間では奥村情報部〔局〕次長が極めて不評判だ。かれをヘートはしないが軽蔑はすると今井登志喜博士(帝大教授〔西洋史〕)がいった。学問と智恵を超越する言論に対しては,学問のあるものは大体そういう。これで知識階級を率うることは困難だ。
(清沢38-39頁(1943年1月12日条))
奥村情報局次長は日本の対外宣伝は非常にうまくいっているといっている。この人々は対手の心理を知らず,自己満足がすなわち対手の満足だと考えている。彼等は永遠に覚るところはあるまい。悲しむべし。
(清沢52-53頁(1943年2月10日条))
奥村は議会演説において(2,3日以前)『紐育〔ニューヨーク〕タイムス』が何とか論じたから,これは政府の黙諾する方針であるといった。今更ならねど,かれの無知救うべからず。
(清沢61頁(1943年2月19日条))
イデオロギー及び知識において「日本国民を代表」し,もって正統的に広報(最近はSNSなどを利用するのでしょうか)をするためには,反米的味付けをしつつ感情に訴え,独善であり,無知であり,学問及び智恵を無視しておればよいということになるようです。
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