1 米国の外交的関心はどこに向いているのか

ドナルド・トランプ米国前大統領は,2024年の同国大統領選挙における共和党の候補者としての指名受諾演説を同年718日,ウィスコンシン州ミルウォーキー市で行いました。当該演説の全文がThe New York Timesのウェブサイトに掲載されていますので(同月19日付け),筆者はPCの検索機能を用いて,荒っぽいながらもそこから同氏(及び現在の米国)の外交的関心を探る試みをしてみました。単純に,どの国ないしは地域の名が最も頻繁に言及されるのかを知ろうとしたのです。

結果は,中華()人民()共和()()14回で一番でした。いわく,「中華()人民()共和()()――我々〔トランプ政権〕は,〔経済分野において〕信じられないような諸々のレヴェルにおいて彼らを叩いていた。そして彼らはそのことを知っているのである。」,「〔トランプ政権時代に〕我々は,〔経済的に〕中華()人民()共和()()を含めた全ての国をとんとん拍子に打ち負かしていた。」,「実際のところ,最高の貿易協定は恐らく私が中華()人民()共和()()とした取引であって,彼らは我々の製品500億ドル相当を買うことになったのである。」,「20ないし25年前を振り返れば,我々の自動車産業の約68パーセントが,中華()人民()共和()()及びメキシコに移されることによって盗まれたのである。」,「しかし,ヴィクトル・オルバン〔ハンガリー首相〕は言ったのである。「ロシアは彼〔トランプ〕を恐れている。中華()人民()共和()()は彼を恐れている。全ての人が彼を恐れている。何も起こることはない。」と。」,「我々〔トランプ政権〕は〔アフガニスタンの〕バグラム基地を維持していた〔註:トランプ前大統領は,同基地は今や中華()人民()共和()()の手に落ちたものと主張しています。〕。しかして現在,中華()人民()共和()()は同様に台湾を取り巻きつつあるのである。また,ロシアの軍艦及び原子力潜水艦がキューバ沖60マイルで行動しているのである。」等々と。

続いてロシアが9回,イランが8回,メキシコが6回,ベネズエラが5回,ウクライナ,イスラエル,アフガニスタン,ISIS(イスラム国)及び北朝鮮が各4回(北朝鮮については,単なる“Korea”1回を含みます。),キューバ及びアジアが各3回並びにエル・サルバドル,台湾,ハンガリー,中東及びヨーロッパが各2回というようなものでした。(ちなみに日本は,1回だけ言及されています。「我々はこれをもって未だかつて見られたことのない黄金時代を〔米国に〕到来せしめるのである。記憶すべし。中華()人民()共和()()がそれをなそうと欲しているのである。日本がそれをなそうと欲しているのである。これらの国の全てがそれをなそうと欲しているのである。」との部分です。また,ミッドウェイの名が,ヨークタウン(アメリカ独立戦争)及びゲティスバーグ(アメリカ南北戦争)と共にアメリカの不滅の英雄ら(immortal heroes)が戦った場所として挙げられています。ミッドウェイ海戦の方がノルマンジー上陸大作戦よりも高く評価されているということでしょうか,興味深いことです。)

寥々たるのは西欧諸国で,ドイツの名が1回出て来たほかは(同国の百年前のインフレーションと米国現時のそれとを比較),英国も,フランスも,イタリアも,更にはNATO(北大西洋条約機構)も,全く話頭に上っていなかったのでした。(ただし,英国は,デラウエア川,フォージ谷及びヨークタウンの名とともにアメリカ独立戦争が語られた際,“a mighty empire(強大な帝国)として間接的に言及されてはいます。なお,ヨークタウン戦においては,ルイ16世のフランス軍が北米十三邦側に立って戦っています。)

トランプ前大統領及びその支持者の抱く世界像は,専ら米国を中心とするものであって(“America first),その裏庭に中南米があり,太平洋の向こうには強大な中華()人民()共和()()及びその周辺諸国(北朝鮮,台湾,日本等)があり,その他ロシア,イラン等の紛争惹起諸国群があってこれらは迷惑である,というようなものでしょうか。西欧には余り関心がないようです。

 

2 ワシントン会議

 

(1)パリ講和会議かワシントン会議か

無論,西欧は,悲惨な第一次世界大戦(1914-1918年)を自ら起して既に百年も前に没落していますから,トランプ前大統領の無関心も,不思議ではないといえば不思議ではないわけです。米国のウィルソン大統領の「理想主義」とともに華々しく喧伝されるパリ講和会議(1919年)も,要は没落した西欧の後始末(さすがに終活ではないでしょうが。)のための後ろ向きの会議であったのであって(したがって,米国元老院(上院)にしてみれば,ヴェルサイユ条約に基づくジュネーヴの国際聯盟など,同国にとっては確かに無用のものであったわけです。),それに比べれば,その裏番組のようにうっかり印象されてしまっている(少なくとも高等学校の世界史の教科書などでは,筆者にはそのように感じられました。)ワシントン会議(1921-1922年)の方が,太平洋を挟んだ隆昌の米国と新興のアジア(当時のアジアの新興大国は,中華(チャ)民国(イナ)ではなくて,何と日本国でした。)との将来構想に係る前向きかつ歴史的な会議であったはずです。

 

  共和党の大統領候補者であるウォーレン・ハーディングは,合衆国に係る直接の利害の問題に同国として集中するものである・より伝統的な外交政策を追求すると誓いつつ,1920年に当選した暁には平常への復帰(a return to normalcy)をもたらす旨米国人に約束した。大衆の多くからは,それは孤立主義への復帰を意味するものと解されていたが,ハーディング政権は,高度に工業化された経済の下,20世紀の米国は,農業国であったジェファソン及びジャクソンの時代向けのものであった外交政策を採ることはできないことを認識していた。

  1920年代の新たな孤立主義の下においても,米国は,極東の諸問題に対処しなければならなかった。保守的な大統領も,門戸(オー)開放(プン・)政策(ドア)に熱心であることにおいては,進歩主義的な先任者たち――ルーズベルト及びウィルソン―に劣らなかった。したがって,ハーディング政権は,国際聯盟加入問題〔米国は不参加〕のようにたやすくアジアの問題を片付けてしまうことはできなかった。かえって,ハーディングとチャールズ・ヒューズ国務長官とは,主に太平洋地域の問題を取り扱うべき大会議の開催を主唱したのであった。1921年から1922年までのワシントン会議は,ハーディングの時代における,多からざる主要業績のうちの一つである。

 (Ralph E. Shaffer, ed., Toward Pearl Harbor: The Diplomatic Exchange between Japan and the United States, 1899-1941; Markus Wiener Publishing, Princeton, NJ, 1991: p.15

 

米国にとってはそのgreatnessnormalcyであるのならば(トランプ前大統領は,前記演説において“Greatness is our birthright.”と言っています。),“Make America Great Again”は,ハーディング的標語でもあるわけです。ロシアとウクライナとの戦争は,20222月の前者の後者に対する侵攻開始以来,第一次世界大戦のように長々と続いていますが,米国としては,ヨーロッパの戦争はヨーロッパの問題としてそこから手を引いて,太平洋・東アジアにおける課題に集中したいというのが,百年後の今日も変わらぬ国家的本能なのでしょうか。

 

(2)ハーディング

なお,ハーディング大統領は「堂々たる美丈夫」であったものの,「これまで上院議員をつとめていたハーディングは,風貌こそ合衆国大統領たるにふさわしかったが,がんらいが政治家としては凡庸であり,大統領となりえたのも,共和党として利用できる人物であったからだという。」と言われるような余り冴えた人物ではなかったもののようで,ハーディング政権において「実権をにぎっていたのは国務長官ヒューズ,財務長官メロン,商務長官フーヴァーだったが,このメロンは彼自身も大財閥であり,政策としても共和党伝統の大企業保護政策にかえっ」ていたそうです(江口朴郎編『世界の歴史14 第一次大戦後の世界』(中公文庫・1975年(単行本1962年))311頁(山上正太郎))。凡庸であるだけならばともかく,ハーディング大統領の下では,「復員軍人局長官,司法長官,内務長官,海軍長官など政府の要職者たちが,公金着服,収賄をおかして」いたとは困ったことです(江口編313頁(山上))。また,美丈夫であるからには艶福家でもあったわけで,192382日に死亡したハーディングの死因については,「夫とその愛人ナン=ブリトンとの関係や,二人のあいだに子供があることをかぎつけて,嫉妬に狂っていた」大統領夫人による毒殺との説もあるところです(同頁)。

 

(3)五ヵ国条約と海軍軍縮と

ところで,ワシントン会議に対する印象が我が国において精彩を欠いているのは,主に,192226日調印の五ヵ国条約のゆえなのでしょう。その第4条において,主要艦(排水量1万トン超の艦又は口径8インチ超の砲を装備するもの)の排水総量を米国525000トン,英国525000トン,フランス175000トン,イタリア175000トン及び日本315000トンまでとした同条約(なお,航空母艦については,同条約7条において,米英各135000トン,仏伊各6万トン及び日本81000トンまでとされています。)に対する我が海軍贔屓の方々の反感があるからでしょう。

しかし,海軍の欲しがるものを無批判にそのまま買い与えるのは,国家財政的に危険なことです。

 

  ことに,海軍の建艦費が問題であった。なにしろ,ちっぽけな排水量1千トンぐらいの駆逐艦でも,その製作費は東京の国会議事堂の建築費総額ぐらいかかる。

 (江口編439頁(衛藤瀋吉))

 

したがって,実は,ワシントン会議当時の我が輿論は,帝国海軍に対して冷淡ともいうべきものだったのでした。

 

  日本海軍はもちろん〔五・五・三ではなく〕107を強硬に主張した。しかし,当時の日本の新聞などの論調は,むしろ106をとっても軍縮の実現をはかれという方が多かった。いわゆる有識者も,東京帝大教授(たち)作太郎が,原案をまず受諾してのち得策をはかれ,と主張し,京都帝大教授末広重雄が,アメリカの提案は誠意あるもので受諾するのが当然である,と説いたのをはじめ,多くはきわめて協調的であった。

  『東京朝日』〔1921年〕122日付「今日の問題」欄から一節をひいてみよう。

  「海軍当局,日本の主張に対する国民の声援乏しきをかこつ,(それ)は気の毒だ,国のために(おこな)ってくれることに誰が冷淡であるものか。唯,日頃国民に対する態度に遺憾の点はなかったか。ぢゃによってつねが大事ぢゃ。」

  強硬論の日本海軍は,むしろ国内において孤立する情勢にあ〔った。〕

  (江口編448-449頁(衛藤))

 

 立作太郎は,皇太子裕仁親王の学問研鑽のための東宮職御用掛(国際公法及び外交史担当)に1921930日に任命されていました(宮内庁『昭和天皇実録第三』(東京書籍・2015年)468頁・544頁)。

 

3 四ヵ国条約

 

(1)日英同盟の消滅

 なお,ワシントン会議については,19211213日に調印された日米英仏の四ヵ国条約によって日英同盟協約(1911713日にロンドンで締結されたもの)が廃棄されたこと(四ヵ国条約4条)を問題視する向きもあるようです。当該問題視の理由は,米国による日英分断策を,むざむざとその希望どおりに成功させてしまって悔しい,ということなのでしょう。すなわち,「もし日本がアメリカと戦うとすれば,イギリスは当然に日英同盟によって日本側につかざるをえない。すなわち日・英(がっ)してアメリカにあたるのではないか,という疑惑はアメリカの側に存在した。たとえ戦争とはいかないまでも,軍縮を論議するばあいにおいて,アメリカとしては日英同盟が存在していれば,日・英両国の軍事力の和を念頭におかなければならないから,じゅうぶんに軍縮の実をあげられないということもあった。〔略〕このような理由から,アメリカは日英同盟の消滅を切望し」ていたところです(江口編442頁(衛藤))。

しかし,「日英同盟については,当面ロシアもドイツもくずれさった今日,日本政府にとってさほど必要なものではなくなった。その存続にあまり熱意をしめさず,したがってその廃棄によってこうむる損失はほとんどなかった。」ということでありました(江口編452頁(衛藤))。「太平洋方面ニ於ケル島嶼タル属地及島嶼タル領地ニ関スル四国条約並追加協定御批准ノ件」は,1922624日の枢密院会議において,摂政宮裕仁親王臨席の下,「審査委員長の伊東巳代治より,本件が委員会において全会一致を以て議決されたことが報告され」た後,全会一致をもって可決されています(実録第三654-655頁)。

 

(2)伊東巳代治の小言

ということであれば,日英同盟協約から四ヵ国条約への差し替えは,異議無く円満に行なわれたものであるようにも印象されるのですが,かの「憲法の番人」伊東巳代治がそう優しいおぢいさんであったものかどうか。実は,伊東委員長の審査報告には,やはり小言が含まれていました。『枢密院会議筆記』にいわく。

 

 〔前略〕茲ニ於テ帝国ニ於テハ前来ノ経過ト刻下ノ情勢トニ顧ミ如上ノ旨意ヲ酌ミ本条約及追加協定ヲ御批准アラセラルルノ外ナシト思料ス但小官等ハ此ノ議ヲ定ムルニ方リ特ニ一言シテ当局ノ注意ヲ喚起セムト欲スルモノ2件アリ

(一)曩ニ外務大臣カ本院ニ於テ本条約締結ノ交渉経過ニ付報告セラレタル所ニ依レハ始メ英国全権委員ハ帝国全権委員ニ日英米三国協約ノ一私案ヲ呈示シタルカ英国案ニ於テハ締約国ノ領土権カ別国ニ依リ脅威セラルルトキハ締約国中ノ2国ハ純然タル防禦的性質ヲ有スル軍事同盟ヲ締結シテ両国ヲ防護スル自由ヲ有スル旨ノ一条ヲ掲ケ現行日英協約ハ茲ニ之ヲ終了セシムルモ他日或ハ必要ニ応シテ之ヲ復活セシムルコトアルヘキ素地ヲ存シタリ然ルニ帝国全権委員ハ英国案ヲ以テシテハ到底米国ノ同意ヲ得難カルヘキコトヲ顧慮シ別ニ右軍事同盟ニ関スル条項ヲ挿入セサル一私案ヲ立テテ之ヲ英国全権委員ニ交付シ之ヲ底案トシテ日英米三国間ニ商議ヲ進ムルコトト為レリト言フ右交渉ノ経過ノ迹ニ就キ考フルニ当初ノ英国案ニ対スル米国ノ意嚮如何ハ姑ク別論トシ英国委員ヲシテ此ノ英国案ヲ先ツ米国委員ニ呈示セシメ其ノ案ヲ一応三国商議ノ基礎ト為スヘキコト寧ロ帝国委員ノ執ルヘキ当然ノ措置ナリト信ス帝国委員ノ所為此ニ出テス早ク自己ノ私案ヲ示シテ英国案ヲ拒ミタルノ嫌アルハ本官等ノ甚タ遺憾トスル所ナリ

(二)日英協約ノ終了ハ今日ノ場合已ムヲ得サルモノニシテ又本条約ノ成立ト密接ノ連繋アリトスルモ此ノ事タルヤ日英両国ニ専属スルモノナルカ故ニ独リ両国ノ間ニ之ヲ処理スヘク別国ヲシテ之ニ関与セシムヘキ限ニ在ラサルコト言ヲ俟タサルナリ然ルニ今回日英米仏ノ4国間ニ成立シタル本条約ニ於テ日英協約ヲ終了セシムルコトヲ規定シタルハ啻ニ法理ニ照シテ失当ノ譏ヲ免レサルノミナラス之ヲ本協約締結国ノ体面ニ考ヘ其ノ前来ノ沿革ニ顧ミ決シテ妥正ノ処置ナリト謂フヘカラス是レ本官等ノ切ニ遺憾ノ念ヲ禁スルコト能ハサル所ナリ加之本条約ニ日英協約ノ終了ヲ明記シタルノ結果本条約ノ存続スル限リ日英両国ハ旧時ノ協約ヲ復活スルコトヲ得サルノ拘束ヲ受クルモノト解セラルルノ疑ナシトセス是レ帝国将来ノ大策ニ至重ノ関係アルコト論ヲ須ヒス想ヒテ此ニ到レハ本官等遺憾ノ意実ニ一層切実ナラサルコト能ハサルナリ

 

我が全権委員は,折角の英国案にもかかわらず,小賢しく米国に対する先走り忖度をした挙句,四ヵ国条約において,集団的自衛権(現在の国際連合憲章51条第1文に「この憲章のいかなる規定も,国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には,安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間,個別的又は集団的自衛の固有の権利(the inherent right of individual or collective self-defence)を害するものではない。」とあります。)に基づく日英両国の軍事同盟締結権までをも漫然放棄する結果をもたらしてしまったものではないか,という趣旨の非難であるものと解せられます。

 

(3)幣原喜重郎と四ヵ国条約と(外務省による説明)

伊東巳代治に毒気を吹きかけられた当該全権委員はだれであったかといえば,幣原喜重郎でした。我が外務省ウェブサイト中「特別展示「幣原外交の時代」展示資料解説」の「ワシントン会議全権時代(19219月~19222月)」ウェブページに次のようにあります。

 

会議開催当時,駐米大使であった幣原喜重郎は,全権としてこの「ワシントン体制」の構築に深く関与しました。とりわけ幣原が心血を注いで取り組んだのが、太平洋問題(四国条約)と中国問題でした。

〔略〕

 そもそも,この条約が検討された発端は,日英間で懸案となっていた日英同盟更新問題を処理するためでした。イギリスは当初,日英同盟の内容を実質的には変更せずに,アメリカを加えた「日英米三国協商」を提唱しましたが,これに対して幣原は,イギリス提案から軍事色を取り払い,何か問題が起きた際には関係国間で互いに協議するという試案を英米両国に提示しました。この「幣原試案」をもとに日本・イギリス・アメリカ・フランスの4カ国で協議が進められ,19211213日に4カ国代表が本条約に調印,日英同盟はこれに吸収される形で解消されました。四国条約について,当時の新聞は,「太平洋の平和維持の基礎となるべきもの」であり,「悲観されつゝあった我が国の孤立に陥る事を救はれ,又しても危険視された日米関係の不安を除き去り茲に四国協同して世界の平和と人類の幸福の為に尽くす事となったのは、啻(ただ)に我が国の喜びのみではない」と,大きな歓迎を示しています。

 

 筆者は伊東巳代治のように嫌味な人柄ではないのですが,上記解説文は,1922年当時に外務省が枢密顧問閣下らにしたであろう説明と齟齬していることを指摘せざるを得ません。

「イギリスは当初,日英同盟の内容を実質的には変更せずに,アメリカを加えた「日英米三国協商」を提唱し」たとは何事でしょう。英国案は,「英国案ニ於テハ締約国ノ領土権カ別国ニ依リ脅威セラルルトキハ締約国中ノ2国ハ純然タル防禦的性質ヲ有スル軍事同盟ヲ締結シテ両国ヲ防護スル自由ヲ有スル旨ノ一条ヲ掲ケ現行日英協約ハ茲ニ之ヲ終了セシムルモ他日或ハ必要ニ応シテ之ヲ復活セシムルコトアルヘキ素地ヲ存シタリ」ということにとどまるものだったはずです。そもそも当時の米国は孤立主義国であって(これについては,伊東報告においても,「米国ニ於テハ上院カ本年〔1922年〕3月米国ハ本〔四ヵ国〕条約ノ前文及各条ノ規定ノ下ニ於テハ武力ニ関スル約定ナク同盟ナク又防禦ニ参加スヘキ義務ナキモノト了解スル旨ノ留保ヲ附シテ本条約ノ批准ニ同意シ」たということです。),米国が受け入れる可能性がはなから無い日英同盟の拡大版たる軍事的「日英米三国協商」案などという提案を英国全権委員はしていません。前記外務省ウェブページ解説は,伊東巳代治の小言に対する弁解どころか,四ヵ国条約の原案作成者たる栄誉を英国全権委員から奪うこととなる幣原賛美の手前味噌的記述ということになるようです。

また,交渉経緯についても,フランス代表が加わったのは最後の段階であったようです。伊東報告によれば,「果シテ英国全権委員ヨリ華盛頓ニ於テ本件ノ交渉ヲ発議シ来リ帝国全権委員之ニ応諾シテ客年〔1921年〕1122日以来新条約ノ締結ニ付日英米三国全権委員ノ間ニ折衝ヲ重ネ127日三国間ニ略意見ノ一致ヲ見タル後仏国全権委員ヲ加ヘテ更ニ商議ヲ進メ同月9日四国間ノ協定成立シ終ニ同月13日日米仏並英本国及五英領殖民地〔カナダ,オーストラリア,ニュー・ジーランド,南アフリカ及びインド〕代表者ニ於テ本条約ノ調印ヲ了スルニ至」ったものです。

 

(4)「精神ニ於テハ日英同盟ニ代ハルノ意味」及び「各締約国ト円満ナル協調」

1922624日の枢密院会議においては,伊東報告に続いて,加藤友三郎内閣総理大臣兼海軍大臣が,「本条約は日英同盟協約とは内容に相違があっても精神上はこれに代わるものであり,政府は各締約国と円満なる協調を保ち,意思を疎通し,もって大局上の平和の維持に貢献することを望むとして,委員長の報告どおり速やかに可決されることを請う旨」を述べ,「議論の結果,〔枢密院〕会議においては原案が全会一致を以て可決され」たとのことです(実録第三654-655頁)。加藤友三郎は,自らもワシントン会議における我が国全権委員であって四ヵ国条約にも調印をした立場ですから,伊東の小言に対して,外務大臣ではないものの一言弁明的発言をする必要があったものでしょう(外務大臣内田康哉も出席はしていました。)。なお,『枢密院会議筆記』によれば,加藤の発言は正確には「只今委員長ヨリ御報告アリタル本条約ハ内容ニ於テハ相違アルモ精神ニ於テハ日英同盟ニ代ハルノ意味ヲ以テ之ヲ締結シタルナリ而シテ本条約ヲ通読スレハ其ノ条文ノ意味ヨリモ条約全体ノ精神カ本条約ノ骨子ナルコト明瞭ナリト信ス政府ハ各締約国ト円満ナル協調ヲ保チ其ノ意思ヲ疎通シ以テ大局上ノ平和ヲ維持スルニ貢献セムコトヲ望ム右ノ趣旨ナルカ故ニ委員長御報告ノ通リ速ニ可決セラレムコトヲ請フ」というものであり,当該発言後「議論」がされることはなく,直ちに「議長(清浦〔奎吾〕) 別ニ御発議ナキニ由リ直ニ採決スヘシ本案賛成ノ各位ノ起立ヲ請フ/(全会一致可決)」ということになっています。

1922624日の枢密院会議終了後,同日中に摂政宮裕仁親王においては「外務大臣内田康哉参殿につき謁を賜う。」ということがありました(実録第三655頁)。あるいはそこでは,伊東の小言に関する追加的弁解が内田からせられたものでもありましょうか。

 

(5)四ヵ国条約調印に至る交渉経緯

内田外務大臣に代わって筆者が,四ヵ国条約調印に至る交渉経緯を外務省の『日本外交文書 ワシントン会議 上(大正期第三十六冊ノ一)』(1977年)に基づき説明すると,次のようになります。

 

ア バルフォア私案(19211122日)

まず,日英同盟問題に関する日英全権委員の初会談は,英国全権委員のバルフォア元首相が「一日モ早ク会談シタキ内意ヲ通シ来タリタルニ付」,19211122日に日本全権委員の加藤友三郎海軍大臣及び埴原正直外務次官が「「バ」氏ヲ其ノ宿舎ニ訪ヒ」,行われています。

その際バルフォアは大要「露独ノ崩潰ニ依リ日英同盟成立ヲ促シタル本来ノ理由ハ差当リ消滅シタルモ両国ノ為ニ多大ノ利益ヲ供シタル貴重ノ歴史ヲ有スル該同盟ハ猥ニ之ヲ棄ツ可ラス且今日一時消滅シタル理由ハ将来再ビ発生スルナキヲ保セサルニ於テ特ニ然リ」と日英同盟は存続されるべきであるとの方向の認識を示唆しつつも「然レトモ今日ノ新ナル事態ニ照ラシテ之ヲ考慮スルハ又極メテ必要ノ事ナル可」きことからとて,その考慮の結果の私案を我が方全権委員に対して示し,かつ,その趣旨について「右ハ日,英,米三国協商ヲ主眼トスルモノニシテ米国カ積極的義務ヲ負フ同盟ヲ締結セサル可キハ明ナルニ付米国ノ同意シ得ヘキ形式ヲ採用スルト共ニ将来必要発生ノ場合ハ日,英両国ニ関スル限日英同盟ヲ復活シ得ヘキ自由ヲ留保シ置クノ」ものであると説明しています。また,実は我が方全権委員に対するより先に同案は米国政府に内示されており,バルフォアが述べるには「又既ニ内密米国国務長官〔ヒューズ〕ニモ示シ同官ヨリ「又米国全権ニモ内示シタルモ之ニ対シ何等ノ意見ヲ述ヘス云々」」とのことだったそうです。(外務省・上547-548頁)

バルフォア私案は次のとおりでした。

 

With object of maintaining general peace in regions of eastern Asia and of protecting existing territorial rights of the High Contracting Parties in islands of the Pacific Ocean and territories bordering thereon, it is agreed

(1) That each of High Contracting Parties shall respect such rights themselves and shall consult fully and frankly with each of them as to best means of protecting them whenever in opinion of any of them they are imperilled by action of another power.

(2) If in future territorial rights (referred to in Article 1) of any of the High Contracting Parties are threatened by any of other power or combination of powers, any two of the High Contracting Parties shall be at liberty to protect themselves by entering into military alliance provided (a) this alliance is purely defensive in character and (b) that it is communicated to other High Contracting Parties.

(3) This arrangement shall supersede any Treaty of earlier date dealing with defence of territorial rights in regions to which this arrangement refers.

  (外務省・上548-549頁)

 

日英同盟を継続すれば米国において誤解が生じ,無用となったからとて破棄すれば日本において誤解を生ずるというディレンマに陥った英国が採るべき方策は「この古く有効期間が過ぎ,かつ,不要となった合意をいわば無効とし,融合させ,破壊し,そして,広大な太平洋地域における全ての関係諸国を包含すべき何か新しく,何か有効なものをもって置き換えること」であったものです(外務省・上603-607頁掲載の19211210日にされたワシントン会議総会におけるバルフォア演説参照)。

 

イ 幣原私案(19211126日)

バルフォア私案を承けた幣原私案が英米全権委員に示されたのは19211126日であるものと一応解されます。『日本外交文書 ワシントン会議 上(大正期第三十六冊ノ一)』においては,「(ママ)月二十七日ワシントン発」とされる公電の内容として「幣原大使一個ノ試案トシテ十一月二十(ママ)日佐分利参事官ヲシテ「バルフォア」氏ヲ訪ヒ次イデ「ヒューズ」氏ヲ訪ヒ夫々手交方取計ラハシメタリ」とあるところ,同公電の後の部分では「「ヒ」氏は〔略〕明日ハ幸ヒ日曜日ナルヲ以テ篤ト〔略〕研究スベキ旨ヲ答ヘタ」そうですから(552-553頁),土曜日たる19211126日がその日でしょう。

幣原私案は「大局ノ帰趨並ニ四囲ノ状況ニ照シ我方ニ於テモ日英同盟ニ換フルニ三国協商ヲ以テスルニ異議ナキ旨ヲ遅滞ナク英国側ニ知ラシメ置クコト緊要ナリト認メタルヲ以テ不取敢〔とりあえず〕」作成したものであるそうです(外務省・上552頁)。方向として異議はないものの,東京の外務本省から何らの訓令もなしでは,手ぶらで,バルフォア案を丸呑みするよと端的に回答しには行けずにいるところ,時期切迫の折柄,ワシントン会議出席の日本全権委員団としては賛成であって・それが証拠に東京からの訓令を待ちつつ真面目にこのように内容の研究もしているよ,ということをまずは示す手土産としての私案作成だったのでしょうか。「「バルフォア」氏ニ手交セシムルニ当リ本案文ハ幣原大使ガ「バ」氏ノ案ヲ参照シタル上作製シタルモノニテ成ルベク米国側ノ承諾ヲ容易ナラシムル様文句ニ注意シタル事右ハ特ニ政府ノ訓令ニ依リ起案シタルモノニ非ズ然レ共今日迄受ケ居ル訓令ニ反スルモノニモ非ザル事及他ノ全権ニ於テモ之ヲ試案トシテ「バルフォア」及「ヒューズ」両氏ニ示スニ異存ナキコト政府ノ適確ナル意見ハ案文ヲ政府ニ電報シテ回訓ニ接シタル上ニ非ザレバ明カナラザル事ヲ述ベシメタリ」という留保の多い・言い訳的説明とともに手交がされています(外務省・上552頁)。

しかし,確かに伊東の指摘するように,日英同盟の存続いかんは本来専ら日英間の問題であって,バルフォアとしても「該同盟問題カ直接ノ形ニ於テ華府会議ニ持チ出サル可キ筈ナシト思考スル」(ただし,「間接ノ関係ニ於テハ論議ヲ免レサル可シ」)と1122日には加藤・埴原両全権委員に話していたところです(外務省・上547頁)。にもかかわらず,その辺の()に安心することもなく,いきなり米国本位に「成ルベク米国側ノ承諾ヲ容易ナラシムル様文句ニ注意」して起案したとは,確かに前のめりの印象ではありました。(なお,19211211日にワシントンの我が全権委員から内田外務大臣宛てに発せられ,同月14日に到達した公電では,幣原私案が四ヵ国条約成立に向けて果たした役割について,「「バルフォア」当地着後間モ無ク三国協商ニ関スル同氏ノ私案ヲ「ヒューズ」ニ提出シ米国政府ノ内意ヲ探リタルガ右私案ノ明文中ニハ軍事同盟ヲ復活スルコトアルベキ場合ヲ予想シアリ「ヒューズ」ハ斯ノ如キ条項ガ米国輿論ノ誤解ヲ招クヘキヲ恐レ且他ノ一方ニ於テ日本側ノ意嚮モ全然不明ナリシ為暫ク本問題ヲ考量中ナリシ折柄当方ヨリ幣原試案トシテ内示セル三国協商案ハ「ヒューズ」を始め「ロッヂ」及び「ルート」ヲシテ意ヲ決セシムルノ動機ヲ与ヘ急ニ本件ノ交渉ヲ進捗スルコトトナリタルモノト察セラル以上ノ消息ハ「ヒューズ」ノ127日提出セル協商案ガ我方ノ試案ヲ骨子トセルニ依リテモ推測スルニ難カラズ」と述べられています(外務省・上590頁)。)

 幣原案は,次のとおりでした。

 

(1) If, in the future, the territorial rights or vital interests of any of the High Contracting Parties in the regions of the Pacific Ocean and of the Far East should be threatened either by the aggressive action of any third power or powers, or by a turn of events which may occur in those regions, the High Contracting Parties shall communicate with one another fully and frankly, in order to arrive at an understanding as to the most efficient measures to be taken, jointly or separately, to meet the exigencies of the particular situation.

(2) If in the matters affecting regions aforesaid, there should develop between any two of the High Contracting Parties controversies which are likely to affect the relations of harmonious accord now happily subsisting between them, it shall be open to such Contracting Parties, in mutual agreement with each other, to invite the other Contracting Party to a joint conference, to which the whole subject matters will be referred for consideration and adjustment.

(3) The present agreement shall supersede the Agreement of Alliance hitherto in force between Japan and Great Britain.

  (外務省・上553-554頁)

 

1条に“an understanding as to the most efficient measures to be taken, jointly or separatelyとあるところ,「共同で又は各個に執られるべき最も効率的な措置に係る了解」には日英2国による共同軍事行動に係るものが含まれるのだ,ということでしょうか。しかし,“to meet the exigencies of the particular situation”ということで,「当該個別事態の必要に応ずるため」の措置に係る了解ということですから,軍事同盟というほどの永続性は有さないものという含意があるのでしょう。なお,四ヵ国条約に関する19211214日の内田外務大臣の記者会見談話は,四ヵ国条約に係る平和主義的な解釈を示すものであって,「第三国ノ侵略的脅威ヲ被リタル場合之ニ応スル手段措置ニ就キ其都度意見ノ交換ヲ行ヒ以テ平和的手段ニヨリ解決セントスルモノナリ」,「第三国ノ侵略的行為ニ依リ脅威セラルル場合ニハ共同又ハ各別ニ其ノ執ルヘキ最有効ナル措置ニ関シテ了解ヲ遂ケン為隔意ナク交渉スルモノニシテ協約国カ共同シテ軍事行動ニ出ツルカ如キハ協約ノ解釈上当然ニ予想サルル所ニ非ラサルナリ強イテ軍事行動ヲ執ルカ如キ場合ヲ想像スレハ協商国カ隔意ナキ協議ノ上共同軍事行動ヲ執ルヲ最善トスルニ一致セル場合ナリトス」と述べられています(外務省・上592頁)。

また,幣原案の第3条では,バルフォア案の第3条ではそれとしてなお明示されていなかった日英同盟協約が,日英米三国協商によって取って代わられるものとしてはっきり示されています。

 

ウ バルフォア修正案(19211126日)

幣原案を示されたバルフォアは,その場でそれに修正を加えますが(外務省・上552-553頁),その結果は次のとおりです。

 

(1) If, in the future, In regard to the territorial rights or vital interests of any of the High Contracting Parties in the regions of the Pacific Ocean and of the Far East, it is agreed that should be if these are threatened either by the aggressive action of any third power or powers, or by a turn of events which may occur in those regions, the High Contracting Parties shall communicate with one another fully and frankly, in order to arrive at an understanding as to the most efficient measures to be taken, jointly or separately, to meet the exigencies of the particular situation.

(2) If in the matters affecting regions aforesaid, The High Contracting Parties further engage to respect these rights as between themselves and if there should develop between any two of the High Contracting Parties them controversies on any matter in the aforementioned regions which are is likely to affect the relations of harmonious accord now happily subsisting between them, it shall be open to such Contracting Parties, in mutual agreement with each other, they agree to invite the other Contracting Party to a joint conference, to which the whole subject matters will be referred for consideration and adjustment.

(3) The present agreement shall supersede the Agreement of Alliance hitherto in force between Japan and Great Britain.

  (外務省・上554-555頁)

 

エ フランスの参加を求める米国の希望(19211128日)

日英米三国協商にフランスを加えることは,19211128日のバルフォアとヒューズとの英米会談において米国のヒューズ国務長官から持ち出されたものです。英国のハンケー事務総長の説明によれば「国務長官ハ米国内ニ於テ今尚ホ強キ反英及排日思想ノ存在スル事実ハ之ヲ無視スルヲ得サルヲ以テ日英両国ノミヲ相手トシテ協定ヲ為ストキハ之ニ対シ有力ナル反対ヲ誘致スル危険決シテ尠シトセス故ニ之ヲ緩和スル為仏国ヲモ加フルコト得策ナルヘク尤モ他ノ一面ニ於テ多数ノ国ヲ交ヘテ協定ノ効力ヲ薄弱ナラシムルヲ欲セストノ日本側ノ意見モ十分之ヲ諒トスルカ故ニ仏国以外ノ国ハ之ヲ除外スルコト然ルヘク之カ為ニハ協定ノ目的及範囲ヲ単ニ太平洋ノミン限リ支那ニ関シテハ関係諸国間ニ別ニ一ノ協定ヲ挙クルコトトスヘク」云々ということだったそうです(外務省・上565頁)。米国内の「反英及排日思想」緩和のためのおフランスであり,それ以外の他国謝絶のための太平洋限定だったのでした。


オ 日本政府案(1921126日)

1921126日発の電信により,東京の外務省からワシントンの我が全権委員に対し,四国協商案が送付されています。同日,外交調査会において決定され,かつ,「摂政殿下ニ拝謁言上」(「夕刻には外務大臣内田康哉参殿につき謁を賜い,外交調査会に関する報告をお聞きになる。」(実録第三535-536頁))されたものです。(外務省・上574-575頁)

 その内容は,次のとおり。

 

With a view to the maintenance and consolidation of the general and permanent peace of the Pacific Ocean, the High Contracting Parties have agreed upon the following stipulations:

(1) In regard to the territorial rights of the The High Contracting Parties in the Pacific Ocean and the Far East, it is agreed agree that, if these are any insular and detached overseas territory in the possession or under the control of any of them in the Pacific Ocean shall be threatened by the aggressive action of any third power, the High Contracting Parties shall they will communicate with one another fully and frankly, in order to arrive at an understanding as to the most efficient measures to be taken, jointly or separately, to meet the exigencies of the particular situation.

(2) The High Contracting Parties further engage to respect these rights as between themselves all insular and detached overseas territory in the possession or under the control of each other in the Pacific Ocean and to encourage the free and peaceful development of each other’s commerce there. and if If there should develop between any two or more of them controversies on of any matter in the aforementioned beforementioned regions which is likely to affect the relations of harmonious accord now happily subsisting between them, they those Powers agree to shall invite the other Contracting Party Parties to a joint conference, to which the whole subject matters will be referred for consideration and adjustment.

(3) The present agreement shall supersede the Agreement of Alliance dated the 13th of July, 1911 hitherto in force between Japan and Great Britain.

  (外務省・上576-577頁)

 

カ ヒューズ案(1921127日)

1921127日の日英米(加藤,バルフォア及びヒューズ)会合に米国国務長官から提出された案文は,次のとおりでした。第1条と第2条との順番が入れ替えられ,第3条が第4条となって,新第3条が挿入されています。(なお,「ワシントン会議開催中,日本側の電報約五千通が〔米国によって〕ことごとく解読されていたという」ことです(江口編443頁(衛藤))。したがって,上記オの日本政府案も米国側はあらかじめ承知していたものでしょう。)

 

With a view to the maintenance and consolidation preservation of the general and permanent peace and the maintenance of their rights with respect to their insular possessions and dominions of the Pacific Ocean, the High Contracting Signatory Parties have agreed upon the following stipulations agree as follows:

(1) The High Contracting Parties They engage to respect as between themselves to respect the said rights, all insular and detached overseas territory in the possession or under the control of each other in the Pacific Ocean and to encourage the free and peaceful development of each other’s commerce there. If and if there should develop between any two or more of them the High Contracting Parties controversies of on any matter in the beforementioned above-mentioned regions region which is likely to affect the relations of harmonious accord now happily subsisting between them, they those Powers shall invite the other Contracting Parties to a joint conference to which the whole subject matters will be referred for consideration and adjustment.

(2) The High Contracting Parties agree that, if If any insular and detached overseas territory in the possession or under the control of any of them in the Pacific Ocean shall be the said rights are threatened by the aggressive action of any third other power, they will the High Contracting Parties shall communicate with one another fully and frankly in order to arrive at an understanding as to the most efficient measures to be taken, jointly or separately, to meet the exigencies of the particular situation.

(3) This agreement shall remain in force for ten years from the time it shall take effect, and after the expiration of said period it shall continue to be in force subject to the right of any of the High Contracting Parties to terminate it upon one year’s notice.

(4) This agreement shall be ratified as soon as possible in accordance with the constitutional methods of the High Contracting Parties and shall take effect on the exchange of ratifications, which shall take place at Washington, and The present agreement shall supersede thereupon the Agreement of Alliance dated agreement between Great Britain and Japan, which was concluded at London on the 13th of July 13, 1911 hitherto in force between Japan and Great Britain. , shall terminate.

(外務省・上588-589頁)

 

我が外務省が色気を出した“[The High Contracting Parties engage] to encourage the free and peaceful development of each other’s commerce there”との文言は,そのような文言があるとイタリアを排除することができなくなるというバルフォアの反対があり,ヒューズもそれに和して,採用されずに終わりました(外務省・上582頁)。

 

キ ヒューズ修正案(1921128日及び同月9日)

フランス代表も加わった1921128日の日英米仏会合(加藤及び幣原,バルフォア,ヒューズ並びにビビアニ及びジョスラン)にヒューズが提出した案文は,次のとおりでした。

 

With a view to the preservation of the general peace and the maintenance of their rights with respect to their insular possessions and insular dominions in the region of the Pacific Ocean, the Signatory Parties the United State of America, the British Empire, France and Japan agree as follows:

(1) They engage as between themselves to respect the said rights, and if there should develop between any two of the High Contracting Parties controversies a controversy on any matter in the above-mentioned region which is not satisfactorily settled by diplomacy and is likely to affect the relations of harmonious accord now happily subsisting between them, they shall invite the other Contracting Parties to a joint conference to which the whole subject will be referred for consideration and adjustment.

(2) If the said rights are threatened by the aggressive action of any other power, the High Contracting Parties shall communicate with one another fully and frankly in order to arrive at an understanding as to the most efficient measures to be taken, jointly or separately, to meet the exigencies of the particular situation.

(3) This agreement shall remain in force for ten years from the time it shall take effect, and after the expiration of said period it shall continue to be in force subject to the right of any of the High Contracting Parties to terminate it upon one year’s twelve months’ notice.

(4) This agreement shall be ratified as soon as possible in accordance with the constitutional methods of the High Contracting Parties and shall take effect on the exchange deposit of ratifications, which shall take place at Washington, and thereupon the agreement between Great Britain and Japan, which was concluded at London on July 13, 1911, shall terminate.

  

同日の会合で,我が国の提案により,第1条は権利尊重の項と争議処理法の項との2項に分けて規定することとなりました(外務省・上584-585頁)。また,我が国代表は“insular possessions”には日本本土は含まれざることを主張して,「本協約ノ適用ノ範囲内ニ入ルコトハ一の利益ノprivilegeト認ムヘキモノト思考シ居リタルニ日本側ハ却テ不快ノ感ヲ抱カルルハ解シ難キ処ナリ」とバルフォアをして訝しがらせています(外務省・583-584頁)。尖閣諸島に日米安全保障条約の適用がある旨の米国政府高官の発言を聞きたくてうずうずしている今日の日本政府の様子からすると隔世の感があります。(結局,“insular possessions and insular dominions”については,日本との関係においては樺太,台湾及び澎湖諸島並びに南洋の委任統治領のみを意味するものとする四ヵ国条約の追加協定が,192226日に四国間において結ばれています。)

1921129日の日英米仏会合(出席者は前日と同じ。)では,第1条中の“a controversy on any matter in the above-mentioned region”“a controversy arising out of any Pacific question and involving their said rights”へと,より制限的に改められることになりました(外務省・上587頁)。

 

ク 条約文(19211213日)

19211213日に調印された四ヵ国条約は,次のとおりです。

 

The United States of America, the British Empire, France and Japan,

With a view to the preservation of the general peace and the maintenance of their rights with respect in relation to their insular possessions and insular dominions in the region of the Pacific Ocean,

Have determined to conclude a Treaty to this effect and have appointed as their Plenipotentiaries:

[…]

Who, having communicated their Full Powers, found in good and due form, the United State of America, the British Empire, France and Japan agree have agreed as follows:

I.

They The High Contracting Parties engage agree as between themselves to respect the said their rights, in relation to their insular possessions and insular dominions in the region of the Pacific Ocean.

and if If there should develop between any two of the High Contracting Parties a controversy on any matter in the above-mentioned region arising out of any Pacific question and involving their said rights which is not satisfactorily settled by diplomacy and is likely to affect the relations of harmonious accord now happily subsisting between them, they shall invite the other Contracting Parties to a joint conference to which the whole subject will be referred for consideration and adjustment.

II.

If the said rights are threatened by the aggressive action of any other power Power, the High Contracting Parties shall communicate with one another fully and frankly in order to arrive at an understanding as to the most efficient measures to be taken, jointly or separately, to meet the exigencies of the particular situation.

                      III.

This agreement Treaty shall remain in force for ten years from the time it shall take effect, and after the expiration of said period it shall continue to be in force subject to the right of any of the High Contracting Parties to terminate it upon twelve months’ notice.

                      IV.

This agreement Treaty shall be ratified as soon as possible in accordance with the constitutional methods of the High Contracting Parties and shall take effect on the deposit of ratifications, which shall take place at Washington, and thereupon the agreement between Great Britain and Japan, which was concluded at London on July 13, 1911, shall terminate. The Government of the United States will transmit to all the Signatory Powers a certified copy of the procès-verbal of the deposit of ratifications.

The present Treaty, in French and in English, shall remain deposited in the Archives of the Government of the United States, and duly certified copies thereof will be transmitted by that Government to each of the Signatory Powers.

[…]

 

ケ 小括

 結局のところ,伊東巳代治の小言は,枝葉末節にこだわるうるさい意地悪ぢいさんの嫌味に過ぎなかったというべきでしょうか。

ヨーロッパが没落した第一次世界大戦後の世界においては米国との友好関係が最重要となっているところ,いかに愛惜すべき日英同盟であっても,そのための障害となっているのであれば,未練たらしくそのままの形で存続させるわけにはいかなかったわけです。かかる難しい情況において,重荷となっていた日英同盟を,米国を引き込んでの三国協商に発展的に解消(アウフヘーベン)させてしまうとは――さすが老獪な英国外交でありました日英同盟をただで捨てるのではなく,米国との協商関係をそこでちゃっかり確保するとともに,日本には代替となる条約を与えて慰撫したというわけです。

加藤友三郎の言ったように四ヵ国条約は「其ノ条文ノ意味ヨリモ条約全体ノ精神カ本条約ノ骨子ナルコト明瞭ナリ」であるところ,そこでの骨子たる「条約全体ノ精神」としては,「精神ニ於テハ日英同盟ニ代ハルノ意味」を担うことに当初は重きが置かれたのでしょうが,やはり新興超大国たる米国との友好関係を確保することこそが最重要だったのでしょう(少なくとも,日英同盟の有用性の低下を認識していた英国は,そう考えていたのではないでしょうか。)。

おフランスは,反英排日の米国的偏見を前にして,米国政府としては単独で日英の協商の輪に加わることにきまりの悪さがあったから呼び込まれたということのようですが,学校でおトイレに行くときに友達を誘う,というような光景を想像すべきものでしょうか。

また,四ヵ国条約といえば専ら太平洋問題に関するものということになっていますが,この太平洋限定性は,実は太平洋が問題だったからというよりは,四国協商にイタリアや中華(チャ)民国(イナ)が加入して日英米協商の内実が稀薄化するのを防止するためだったのでした。

なお,キッシンジャー元米国国務長官は,四ヵ国条約について,「実力による強制(enforcement)に係る条項を欠く条約によって,フィリピンのように豊かな獲得物を防護することがどのようにして可能であったのであろうか。」と言ってそこにおける実力による強制力の欠如を批判していましたが(Henry Kissinger, Diplomacy; Touchstone, New York, NY, 1994: p.374),これは,要は当時の自国の孤立主義に対する批判ということになるものでしょう。専ら日英同盟を廃棄させることが米国の本来的目標であったはずであって,それ以上の達成は余得というものであったはずです。

 

(6)四ヵ国条約の精神

 

ア 対英国

ところで,いずれにせよ,日英のそれぞれ将来の天皇及び国王の間では,日英同盟協約が四ヵ国条約に置き換えられても(当該置き換えの発効は,1923817日のこととなりました(大正12年外務省告示第34号参照)。),両国の友好関係は不変であるとの了解があったところです。1922412日,同日横浜港に到着した英国皇太子エドワード親王を歓迎する宮中晩餐会における摂政宮裕仁親王の御挨拶中に次のくだりがあります。

 

  最近華盛頓ニ於ケル維新的会議ノ際,四国条約ノ調印セラレタルニ顧ミ日英同盟カ過去ニ於テ東洋平和ノ為メニ效シタル崇高ニシテ光栄アル事績及両国カ其同盟ノ義務ヲ履行センカ為メ発揚シタル歎賞スヘキ忠信ノ精神ニ言及スルハ時宜ニ適スルモノト信ジマス。予ハ将来本同盟カ更ニ広汎ナル範囲ノ新協定ニ移ル場合ニ於テモ締約四国カ必スヤ等シク忠信ノ精神ヲ発揚スヘキコトヲ疑ハサルト同時ニ,両島帝国間ノ伝統的友情ハ多年ノ試練ニ堪ヘ世界大戦後ノ苦艱ヲ経テ益々其神聖ヲ致シタルニ鑑ミ永ク我国民ノ胸臆ニ尊重セラルヘキコトヲ信シマス。従テ今回殿下ノ来訪カ必スヤ此ノ敦厚不変ノ友情ヲシテ益々鞏固ナラシムルノ効果アルヲ疑ヒマセン。〔後略〕

  (実録第三610-611頁)

 

 後のエドワード8世国王の答辞においては,次のように応答せられました。

 

  殿下ハ日英同盟ニ言及シ其ノ功績ヲ頌セラレマシタカ,同盟成立以来東西共ニ多事多端ナル廿年ヲ経過シ,其ノ間貴国カ終始渝ラス同盟ニ基ク情誼ト義務トヲ恪守セルヲ想ヘハ,私ハ実ニ感謝ノ念ヲ禁シ得ナイノテアリマス。又最近発生セル国際的変化ニヨリテ貴我ノ友好カ毫モ減殺セラルコトナカルヘキハ私ノ信シテ疑ハサル所テアリマシテ,同盟協約ハ将ニ四国条約中ニ影ヲ没セントスルモ,私ハ之ニ依リテ却ツテ日英両国間ノ伝統的好感ヲ深ムヘキノミナラス,関係四国間ノ親善ヲモ奨ムルノ結果ヲ見ルヘキヲ確信致シマス。私ハ文明ト人道トノ為メニハ日本ハ常ニ英国ト親密ナル協力ヲ保ツヘキヲ信シマス。私ノ今回ノ貴国訪問カ何等カ両国間ニ現存スル友好関係ヲ助長スルニ与ツテ力アラバ私ノ幸之ニ如クモノハアリマセン。〔後略〕

  (実録第三613頁)

 

「関係四国〔日英米仏〕間ノ親善ヲモ奨ムルノ結果ヲ見ルヘ」く,かつ,「文明ト人道トノ為メニハ日本ハ常ニ英国ト親密ナル協力ヲ保ツヘ」し,ですか。

 

イ 対フランス

フランスについては,1922121日に宮城において摂政宮裕仁親王が同国特派使節団長たるジョッフル元帥に与えた令旨に次のようにありました。(なお,同使節団の使命とするところは,「大戦中の同盟の好誼に対する仏国政府の謝意の伝達並びに昨年の皇太子フランス国訪問に対する答礼」でした(実録第三568頁)。)

 

 予ハ曩ニ仏国ヲ訪問セリ。而シテ予ハ其ノ荒廃セル地方ニ於テ栄誉アル仏国軍隊ノ武勲ヲ記念スル勇烈ナル努力ノ跡ヲ発見セリ。貴我両国ハ相携ヘテ戦ヘリ。斯クシテ正義ノ勝利ヲ確保スルニ協力セル国民ハ敬意友情及信頼ノ連鎖ヲ以テ互ニ相結合スルニ至レリ。此ノ連鎖タル実ニ国際協調ノ制度ニ対シ最モ確実ナル保障タリ。

 日仏両国人ノ提携ハ容易ニシテ且有益ナリ。蓋シ両国人ハ孰レモ同一ノ精神ヲ以テ同一理想ノ実現即チ平和ノ維持並ニ貴我両国カ常ニ喜テ努力ヲ払ヘル文化事業ノ発展ニ務メツツアレハナリ。是レ卿ト全然感想ヲ同ウスル。〔後略〕

 (実録第三570頁)

 

ウ 摂政宮御歌と米国大使らと

 ところで,四ヵ国条約調印の翌年・1922118日の歌御会始めの御題は,折柄の太平洋の新時代到来に合わせたものか,「旭光照波」。

摂政宮裕仁親王の御歌は,

 

  世の中もかくあらまほしおたやかに朝日にほへるおほうみのはら

 

でした(実録第三567頁)。なお,当該「歌御会始には,米国大使チャールズ・B・ウォレン及び同大使館附陸軍武官バーネット中佐夫人フランセス・HC・バーネットが和歌に熱心の故をもって特に陪聴を許される。歌御会始に外国人が召されるのは今回が初めてである。」ということがありました(同頁)。これで英仏米が揃いました。

 

エ その後

しかし,その後我が国は,ワシントン会議において締結された九ヵ国条約に示された対中華民国(チャイナ)国際協調主義から逸脱して大陸に妙な形で深入りし(九ヵ国条約に関しては,「La Chine, Qu’est-ce Que C’est?」(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1077950740.html)記事を御参照ください。),更には,1940年にナチス・ドイツに敗れてしまったフランスを同年及びその翌年の両度の仏印進駐によっていじめた挙句,1941128日には「今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端ヲ開クニ至ル」こととなります。「豈朕カ志ナラムヤ」とは,昭和天皇当然の感慨でしょう。

 

 よもの海みなはらからと思ふ世になと波風のたちさわくらむ

 

とは,帝国国策遂行要領が可決された194196日の御前会議において昭和天皇が読み上げた明治天皇の御製です(宮内庁『昭和天皇実録第八』(東京書籍・2016年)471頁)。

 

4 1921年の皇太子裕仁親王の訪米見合せに関して

ところで,四ヵ国条約における我が国の協商国である米国,英国及びフランスのうち・英国及びフランスについては,昭和天皇は皇太子時代の1921年に両国を訪問し,大歓迎を受けています。英国王室による歓待ぶりは有名ですが(「若き日に会ひしはすでにいそとせまへけふなつかしくも君とかたりぬ」とは,元英国国王エドワード8世たるウィンザー公とブーローニュの森の中の同公邸で1971104日に再会した際の昭和天皇の御製です(宮内庁『昭和天皇実録第十五』(東京書籍・2017年)353頁)。),フランスでも様々なエピソードがありました。そのうちの一つ。

 

 〔19216月〕10日 金曜日 午前1120分,ベルギー・オランダ両国御訪問のため,モーニングコート・山高帽にて大使官邸を御出門,〔略〕パリ北駅に向かわれる。〔略〕第4番線に準備された特別列車に進まれる。このとき,年齢145歳と思われる一少女が御前に進み,簡単な挨拶を言上した後“Au nom des ouvrières parisiennes”パリ女子労働者の名に於てと記された花束を奉呈する。皇太子はこれを受け取られ,その際Merci bienたいへん有り難うと仏語にて謝意を評され,御握手を賜う。〔略〕午後零時2分,奉送者一同の最敬礼の裡に特別列車は発車し,駅構内に集まった多数群衆は歓呼を繰り返し見送る。〔後略〕

 (実録第三290頁)

 

ところが同年の裕仁親王の折角の外遊は欧州止まりで,米国に足を延ばすということはありませんでした。勿体ないことでありました。この間の事情については,次のように説明されています。

 

 〔略〕今回〔1921年〕の海外御巡遊の計画に際し,当初は米国も御予定にあったものの,29日外務大臣は米国駐箚特命全権大使幣原喜重郎に宛てて,皇太子の海外御巡遊は欧洲中45箇国のみに止められることとなった旨を通告し,以て御訪米案の廃案を公式に通報した。しかしその後,親日米国人の弁護士ホプキンスなどの運動により,米国新大統領ハーディングは,大統領就任〔192134日〕を機に,日米親交増進のため,皇太子の御訪米を正式に招請することに同意した。そのため国務長官ヒューズは324日,幣原大使を招き,予め非公式に日本政府の意向を承知したいと打診した。この件は外務大臣より〔牧野伸顕〕宮内大臣を経て天皇に奏上されたが,大統領の好意に対しては深く感謝するものの,皇太子の欧洲御旅程の都合上遺憾ながらお請けになり難しと回答される。〔後略〕

 (実録第三70-71頁)

 

 皇太子裕仁親王は,旗艦鹿島及び御召艦香取からなる第三艦隊と共に,192133日午前1130分,欧州に向けて横浜港を出港しています(実録第三32頁)。同月24日には,第三艦隊はスマトラ島北岸沖を通過し,午後にインド洋に入っています(実録第三58頁)。

しかし,「当初は米国も御予定にあったものの,29日外務大臣は米国駐箚特命全権大使幣原喜重郎に宛てて,皇太子の海外御巡遊は欧洲中45箇国のみに止められることとなった旨を通告し,以て御訪米案の廃案を公式に通報した。」というだけでは,なぜ米国訪問計画が取りやめになったのかが分かりません。そこで,当時の内閣総理大臣であった原敬の日記を検すると,以下に見るような記述があります。裕仁親王の海外巡遊は本来的には宮中の問題であって政府の問題ではなかったところ,結局宮中(大正天皇が病気であったので,貞明皇后が中心)において,政府は米国訪問も勧めているが,やはり同国は危険なのでやめておこう,ということになったようです。背景となる経緯としては,「大正9年〔1920年〕81日,元老の意を受けた宮内大臣中村雄次郎は,天皇病気御静養中につき,皇太子御外遊の御内許を得るべく皇后に言上するも,皇后は,天皇御病気中の故と,外遊先における皇太子の御身辺を案じ,容易に聴されず。その後,皇后は各元老よりもそれぞれ言上を受けて熟慮され,10月に至り,国家の問題として皇太子外遊が必要であるなら反対しないとの意を示されるも,諸事情により決定をみないまま越年する。」というようなことがあったところです(実録第三7頁)。

 

 〔19211月〕18

 〔略〕

  中村〔雄次郎〕宮相来訪。去16日松方〔正義〕内大臣葉山に於て皇太子殿下御洋行の事申上げ,〔大正天皇の〕御裁可を得たるに因り,中村は直に沼津に往き皇太子殿下に其次第を言上したる趣にて其次第を告げ,政府の意見をも聞きに来訪せしなりと云ふに付,御発程の御期日を聞きたるに確定の事も之なく,軍艦の都合もあらんと云ふに付,直に加藤海相及び内田外相を立会せ談合の末,政府の意見として御発程は2月中旬にして軍艦にて先づ英国に赴かせられ,夫れより米国を経て御帰朝相成る方然るべし,余は米国は御見合せにても可ならんと元老其他に云ひたる事あるも,米国のみ残さるゝは同国の感情も如何あらんかとの外相の注意もあり,又御航海は米国を経由さるゝ方は静穏にもあるべく,又再び米国のみに赴せらるゝ事も不可能なるべきに因り,今回米国にも御出相成る事然るべしと云ひたるに,中村は米国は閣下の御話もあり,実際は御見合せの積なりしも,御裁可は欧米と相成居るに付,米国御経由差支なしと云ひ,又御随員は珍田捨巳を是非にと元老も言ひ又皇后陛下にも珍田なれば御承知の事にもあり,政府より勧告ありたし(本人は健康上辞退し居れり)と云ふに付,先ず以て内田外相より懇談する事となしたり。〔中略〕実際の御日程は海相に於て一と通調製,更に相談を進むることとなしたり。何れにしても早く御出発なくしては海上及び暑中休暇等色々の御不便ありとて,余等は2月中旬遅くも下旬ならざるべからざる事を切言したるに,中村は東宮職の濱尾〔新〕等は3月御学問〔所〕御卒業の上との希望なれ共,是は希望の事に付,政府の御見込然らば其事に談合すべしと云ひ,中村丈けは賛成の様子なりき。御決定は軍艦の手配もあり,又外相より英国朝廷に申入れの都合もあり,至急決定あらん事を繰返し懇談したり(珍田を主任とし奈良陸軍中将侍従武官竹下海軍中将御随員の筈内談)(軍艦等の費用は五百万余ならん)

〔略〕

  (原奎一郎編『原敬日記(第9巻)』(乾元社・1950年)194-196頁)

 

 「直に」とはいえ,中村宮内大臣の裕仁親王への言上は,17日のことです(実録第三7頁)。

 

 〔同月〕21

閣議(官邸)東宮御洋行御日程に付,始めて我皇太子御洋行と云ふ次第なれば,多少費用多きも軍艦2隻にて御渡英は勿論,大西洋を御通過あり,御帰途紐育より殿下は御陸行相成るべく,左すれば軍艦はパナマより廻航すべきも日数多く,夫れが為め米国御滞在長きも妙ならざる事に付,寧ろ太平洋岸には更に御迎の軍艦差立つるを可とし,其事を早速海相より宮相に申送る事となしたり。

   〔略〕

   (原197頁)

 

閣議では,皇太子裕仁親王の米国訪問及び鉄道での同国横断が構想されています。大西洋から太平洋まで,道中の米国各州で,勲章やら贈り物をばら撒きつつのcharm offensiveを密度濃く遂行したとしたならば,果たしてその成果はどうだったものか。単に物珍しい東洋からの王子ということだけで終ったものか。それとも,米国における排日偏見の是正に,相当程度寄与はしなかったものでしょうか。

 

 〔同月〕22

  〔略〕

加藤海相より東宮御洋行日程並調書を宮内次官に申入れさせたるに,丁度中村も葉山より帰り,又濱尾〔東宮〕大夫も来会し,其談合の結果2月廿五六日御発程の事に致たし,又紐育よりは御陸行なく,再び軍艦にてパナマ御廻航ありては如何と云ふに付,其調をなして送付する筈なり,但一日も御早く御出発の方万事に好都合なる次第を繰返し内談し置けりと云ひたり。

 

 米国の民間鉄道に乗って米国及び米国人の只中に長期間皇太子殿下がい続けることになるのは,やはり宮内省高官としては歓迎できない事態だったのでしょう。日数がかかっても我が国の軍艦に守られてパナマ運河を廻航する方が安全にして穏便なり,ということだったのでしょう。

 

 〔同月〕24

加藤海相の内話によれば,皇太子殿下御旅程は紐育より軍艦にてパナマ経由御帰朝の事に内定ありたりと云ふに付,余は内田外相に注意し,宮内省より速に通牒を得て先づ英国に交渉する事となさしめたり。

   〔略〕

   (原199頁)

 

 〔同月〕25

〔略〕内田外相の報告によれば,皇太子殿下御附として珍田捨巳供奉の事承諾したりと云へり,殿下は224日御発途の御内定なりと云ふ。

   (原199-200頁)

 

 〔19212月〕4

西園寺〔公望〕を訪問したり(皇太子御洋行御旅程等万事御決定の為め各元老を代表して宮中の御諮詢に奉答の為め一昨日上京せしなり)御洋行に付宮相の相談に応じ,彼等に一任し置きては徒らに遷延するばかりにて,3月御卒業後などと尤も御途中も又欧洲にてでも不都合なる時などとなるの虞もあるに付,差出がましかりしも御旅程に付政府の意見を提出したる次第を告げたり。

   〔略〕

閣議(官邸)東宮御洋行に付珍田捨巳供奉承諾にて打合の次第,内田外相より報告ありたり。〔後略〕

   (原209頁)

 

原が「差出がましかりしも御旅程に付政府の意見を提出したる次第を告げた」(この「政府の意見」には米国訪問が含まれていました。)のに対して西園寺が何も言わなかったのならば,この段階では,米国訪問見合せはまだ決まっていなかったように思われます。

 

 〔同月〕8

夕に閣議(官邸)皇太子殿下欧洲に御発程は33日に決定の旨宮内省の内通知に接したる旨海相談話あり。〔後略〕

(原213頁)

 

 192128日の裕仁親王の動静については,「この日,皇太子の海外御巡歴の御出発が33日と内定する。午後145分,伯爵珍田捨巳参殿につき謁を賜い,御巡遊随員の内命拝受の御礼を受けられ,御言葉を賜う。ついで珍田に椅子を賜い,御巡遊に関する諸事を御聴取になる。」と記録されています(実録第三11頁)。この時には既に,宮中において訪米見合せは決まっていたのでしょう。19歳の健康な裕仁親王が自ら珍田に対して,米国に行きたくはないなどと言ったわけはないでしょう。

 

  〔同月〕9

   〔略〕

   珍田来訪,東宮御旅程に付内談ありたり。米国は御見合の考なり,余等も最初は其積なりしも,此機会に米国を除かるゝ時は将来御渡米の機もなかるべく,又日米国交上にも良好なりと思ひたり,無論に危険の有無は結局見解の相違にて,実際の事は判断出来ぬ事なり,又珍田は東宮御渡航に付万事元老との相談は山縣も松方も西園寺に一任と云ふ事にて,西園寺のみに相談せしが,其際例の色盲問題に付御内定通御変更なき事然るべき意味の内話を試みたるに,西園寺は断乎として其不可を主張したりとて珍田は意外らしき口気にて内話したり。

   〔略〕

   (原214頁)

 

西園寺も,是非米国に行くべきだ,と頑張ってはくれなかったものでしょう。若き日にフランスに留学したおフランス派の西園寺としては,英国に加えてフランス訪問があれば十分であると考えたものでしょうか。

なお,「例の色盲問題」(宮中某重大事件)については,1921210日に宮内省から「良子女王東宮妃御内定の事に関し世上種々の噂あるやに聞くも右御決定は何等変更せず」との発表があり,同日中村宮内大臣が辞職を表明しています(実録第三12-13頁)。

結局,昭和天皇の訪米実現は,54年後の1975年を待たねばなりませんでした(ただし,1971926日(現地時間)には,訪欧の途次アラスカに立ち寄っています。)。



(202483追記)
 1921年の皇太子裕仁親王の外遊先決定過程については,既に詳しい先行研究がありました。20063月の『書陵部紀要』第57号に掲載された梶田明宏・現昭和天皇記念館副館長の「大正十年皇太子御外遊における訪問国決定の経緯について」です。
 それによると,1921127日,内田外相は駐米大使幣原喜重郎に電報を発し,皇太子が欧洲よりの帰途,米国経由にて帰国する「内議」があることを伝え,それに関する見込と意見を至急回電するよう求めた」ところ48頁。出典は,筆者が当たってみた『日本外交文書 大正十年第一冊上巻(大正期第二十九冊ノ一)』(外務省・1974508頁以下の「皇太子裕仁親王欧洲諸国訪問一件」ではなく,外務省外交史料館所蔵外務省記録L.1.3.0.6「皇太子裕仁親王殿下御渡欧一件」です(梶田60頁註30)。,同月「31日,内田外相は,幣原大使よりの返電に接した〔上記「L.1.3.0.6」中の電報第48号(梶田60頁註31。幣原は,皇太子が訪米した場合,官民ともに及ぶ限りを尽して歓迎することは間違いなく,欧洲と趣を異にする米国の国情を視察することは御見学の目的からしても好ましいとしながらも,一昨年の英国皇太子の訪米において,衆人の握手攻勢に両手を痛められたこと,新聞記者の無遠慮な取材と野卑な言動などの実例を挙げ,皇太子にこうした苦痛に御忍耐を願わなければならないのみならず,たとえ米国人に何等の悪意がないとしても,日本においてそれが報道された場合,意外の問題を生ずるのではないかとの懸念を伝えた。」とのことでした梶田48。マスコミ関係者の無作法は古今東西変わらず・困ったものですが,しかしこの幣原返電は,どちらかといえばやはり,官僚的事なかれ主義(による書き過ぎ)文書に分類されるべきものでしょう。このような「懸念」が現地の在外公館トップから示されれば,宮中の御外遊消極派は当然ぱっくりと喰いついたはずです。
 「その後,米国御訪問についての具体的な議論は不明であるが,27日,宮内省より海軍省に「御訪問ハ英仏伊白蘭ノ5国ノミトス,米ハ取リ止ム」と伝えられた」そうです梶田48-49。出典は,防衛庁(当時)防衛研究所所蔵の「大正10年公文備考」巻12・儀制1「皇太子殿下御外遊ニ関シ第三艦隊欧洲派遣1 準備ニ関スル諸件」です(梶田60頁註32)。)192128日の『原敬日記』に「皇太子殿下欧洲に御発程」とあって「欧に御発程」ではなかったことについては,このような事情があったのでした。
 なお,梶田論文においては192129日の珍田・原内談に関連して「北米に住む朝鮮独立運動家が少なからず存在することも問題となったようである。」と記されていますが49,そうであるとすると,1910822日の条約は,我が国にとって必ずしも万事結構なものではなかったわけです。

(202485日更に追記)
 おって,我が国側が断った・ヒューズ国務長官による裕仁親王訪米招請非公式打診に関して,『昭和天皇実録第三』は,「なお,幣原大使は,国務長官との会見内容を外務大臣に伝える電報中,本案件は大統領が日米親交増進の目的をもって特に意を用いたものであることは疑いを容れず,招請に応じ難き場合は,少なくとも大統領の好意を謝する趣旨を徹底するよう適当の措置をとるべき旨の進言あり。」と伝えています(71頁)。これは,穿って考えれば,1921131日内田外務大臣着の自らの電報において・裕仁親王の訪米に対して消極的な見解を示してしまっていたことについて,「あっ,しまった」と・幣原としては今更ながら気が咎めたからではないでしょうか。
 192145日に大正天皇からハーディング大統領に親電(「閣下ガ,朕ノ皇太子ノ米国訪問ヲ,歓迎スルヲ喜バルル旨,貴国々務長官ヨリ,我ガ駐米大使ヘ非公式談話アリタルヲ聞クハ,朕ノ大イニ満足スル所ナリ。/朕ハ此ノ通牒ヲ,斯ノ如クニシテ朕ニ達セシムルニ至リタル,閣下ノ懇請ニ対シテ深ク感佩シ,而シテ唯全ク,朕自身ニ関スル某事情ノ為,此ノ際,朕ノ皇子ニ代リ,閣下ヨリ御申入アリタル招待ヲ,請諾スルコト能ハザル旨,回答セザルベカラザルヲ遺憾トス。」)が発せられ(なお,米国訪問見合せの理由を「貴国民(特に新聞記者)は無作法であり,かつ,貴国は危険であるから」とは当然言えないので,「朕自身ニ関スル某事情ノ為」と書かざるを得なかったものでしょう。),「411日ホワイトハウスにおいてハーディング大統領は,天皇へ皇太子の米国お立ち寄りを招請したものの,今回は皇室において受諾が困難な事情があった旨を説明し,さらに将来特に米国へ御来遊の機会があることを信ずる旨を付言して天皇親電の全文を発表した。このことは欧米諸国の新聞にて報道され,幣原大使は〔同月〕14日,何れの報道もこれをもって両国間に存する最も親善なる関係の表徴であるとし,極めて好印象を与えたと外務大臣に報告した。」とのことですが(実録第三71-72),ヒューズの非公式打診を外務大臣に報告するに当たっての幣原の進言が適切であったと,ここでわざわざ幣原を称える必要はないでしょう。1921131日内田外務大臣着の幣原電報の後始末には,結局大正天皇の手まで煩わせることとなったのでした。(なお,シャム国王自らの我が国公使に対する裕仁親王シャム立ち寄りの招請を断るについては,大正天皇から同国王に対して親電は発せられていません(実録第三58-59)。スウェーデン国王及び同国政府からの招請を辞退するについても,大正天皇からの親電はありませんでした(同419-420。)