1 日本国内閣総理大臣の中南米的指導者化傾向
岸田文雄首相は〔2024年6月〕21日に〔内閣総理大臣〕官邸で記者会見を開き,物価高対策として,〔同年〕5月使用分を最後に終了した電気・ガス料金の負担軽減策を「8月からの3カ月間行う」と述べ,補助を再開する方針を明らかにした。ガソリンや灯油など燃料価格の抑制策は年内に限り継続する。今年秋に経済対策の策定を目指すとした上で,年金世帯や低所得者を対象に給付金を支給することを検討する考えも示した。
内閣支持率が低迷する中,物価高に直面する家計負担の軽減策を追加し,政権浮揚につなげる思惑もありそうだ。ただ国の財政負担はさらに膨らむ恐れがあり,政策の一貫性を欠く迷走ぶりも浮かぶ。〔後略〕
(2024年6月21日22時8分共同通信配信記事・東京新聞ウェブサイトから。下線は筆者によるもの)
「日本も中南米化しつつあるなぁ」とは筆者の感慨です。
口に苦い良薬の・真の構造的問題に対する厳しい取組からは目をそむけ,一見分かりやすく,かつ,人気につながりそうな甘く安易な目先のばら撒き施策に走って国家財政を破綻させ,やがて民心は腐敗し,国内は混乱し,若者は米国に向け脱出し,せっかくの国家的・国民的な潜在力が無慙にも無駄になってしまう,との道筋を思わず知らず描いてしまうのは,筆者の偏見でしょう(偏見であって欲しいものです。)。――無論,現在の日本国は既に高度に老化していますから,混乱といっても,若い男性の群れが暴れ回るといったギラギラと暑苦しいものではなく,黄昏の中,もはや福祉の手が回らなくなっていかんともしがたくなった無残な姿の認知症老人がおぼつかない足取りでふらふらと大量に,かつ,あまねく徘徊するといった形で顕在化されるのでしょう。また,「せっかくの潜在力」というほどの精神的・肉体的力ももう我が衰廃民族には残されてはいないのでしょうが・・・。(なお,多くの日本人には米国の食事🍔は舌に合わないようで,“America, or bust”的な米国移住に向けた憧れは,我が国においては依然として大きくはないように観察されます。)
というような思いを触発させる,日本国の内閣総理大臣の中南米的指導者化傾向という事態に直面するとき,不図,四半世紀前の我が内閣総理大臣官邸において生じた,次のような印象深い親和力の作用が想起されるのでした。
2 小渕総理とチャベス大統領と
(1)小渕総理の羨望
大統領の球は5倍速い/ベネズエラ大統領と小渕首相が野球談議
小渕〔恵三〕首相は〔1999年10月〕13日,首相官邸で,ベネズエラのチャベス大統領と会談し,経済協力などについて意見交換した〔https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1079833/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/99_1001/1001_13b.html〕。引き続いて行われた首相主催の昼食会には,ベネズエラ出身で日本のプロ野球で活躍中のペタジーニ選手(ヤクルト)も出席し,両首脳は野球談議に花を咲かせた。
45歳のチャベス大統領は大の野球好きで,少年時代の夢は「米大リーグで投げること」。2月には大リーグのホームランバッター,サミー・ソーサ選手に真剣勝負を挑んだという。歓迎のあいさつで首相が「私も5月に訪米した際,(始球式で)ソーサ選手に投げ込んだが〔https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1079833/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/99_0501/0501.html〕,大統領の球は私の5倍は速いと思う」とエールを送ると,大統領は「そんなに速くはない」と苦笑い。〔後略〕
(読売新聞1999年10月14日14版4面)
和気藹々です⚾
バリナス州の貧しい教師の家に6人兄弟の一人として生まれたチャベス大統領は,「地方の無名の子として生まれたが,一般ベネズエラ人から感情移入され得る無比の能力を有し,かつ,巧妙な策をも多々弄するところの,天性の演技者兼交感能力者として頭角を現した。(Born in provincial obscurity, he proved to be a natural performer and communicator, with an unmatched ability to empathise with ordinary Venezuelans, combined with plenty of cunning.)」ということですから(“Hugo Chávez’s rotten legacy”, The Economist, March 9th, 2013),小渕総理もその魅力に抗うことができなかったものでしょう。メキシコの左翼作家であるカルロス・フエンテスは,チャベス大統領を「熱帯のムッソリーニ」と呼んでいたそうです(“Venezuela after Chávez / Now for the reckoning”, The Economist, March 9th, 2013)。また,コロンビアのノーベル賞作家であるガブリエル・ガルシア・マルケスは,ベネズエラ大統領に当選後のチャベス次期大統領について,「他と同様の専制者として歴史書に残ることになるのであろう幻想家」であるキューバのフィデル・カストロとの対比において,「運命の気まぐれにより,その国を救う機会を与えられた者」との印象を記していました(Michael Shifter, “In Search of Hugo Chávez”, Foreign Affairs, May/June 2006: p.45)。
小渕首相の一日 〔1999年10月〕13日 「小渕恵三も20年ぐらい若ければなあ」
〔前略〕
1時56分,チャベス大統領との会談の感想を聞かれ,「若い大統領のはつらつとした意欲を感じました。小渕恵三も二十年ぐらい若ければなあ・・・。あちらは45歳ですからね」
〔後略〕
(読売新聞1999年10月14日14版4面)
首相日々
〔前略〕
(記者団の「会談を終えた感想は」に「若い大統領ですから,新ベネズエラをつくろうという熱心さを感じました。はつらつとした意欲を感じました。小渕恵三も20年ぐらい若ければなあ・・・。あちらは45歳ですからね。」)
〔後略〕
(毎日新聞1999年10月14日14版2面)
小渕総理の一日(1999年10月13日・内閣総理大臣官邸ホームページ)
(2)小渕総理の年齢及び死
1937年6月25日生まれの小渕総理は,1999年10月13日には,62歳3箇月と19日という年齢でした(明治35年法律第50号(年齢計算に関する法律)の第1項によって出生の日から起算し,同法2項により,暦に従って年及び月を数えた上(民法(明治29年法律第89号)143条),日数については最終日を含めて計算しています。以下同様です。なお,余計なことながら,明治35年法律第50号の第3項によって廃止された明治6年太政官布告第36号は「自今年齢ヲ計算候儀幾年幾月ト可相数事/但旧暦中ノ儀ハ1干支ヲ以テ1年トシ其生年ノ月数ハ本年ノ月数ト通算シ12ヶ月ヲ以テ1年ト可致事」と規定していたものです。新旧の暦(明治6年(1873年)1月1日から新暦採用)の間の通算方法に苦心している様子が窺われます。)。頽齢をかこつにはまだ早かったようにも思われますが,その翌年の2000年4月に脳梗塞で倒れ同月2日に入院し,同年5月14日に62歳10箇月と20日で死去しています。1999年10月には,既に何らかの体調不良を覚えていたのでしょう。また,小渕総理は1999年(平成11年)11月12日に挙行された天皇陛下御在位十年記念式典の式典委員長を務めており(https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1079833/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/99_1101/1101_12.html),当該式典の一部参列者間においては「実は小渕総理も,絶対,在職十年超えを狙っているよな」という口さがないささやきがありましたが,小渕内閣の存続期間は結局,1998年7月30日から2000年4月5日までの1年8箇月と6日ということで終わりました(初日不算入とし(民法140条),後継の第1次森内閣が成立した日を含めて計算。小渕内閣の総辞職は2000年4月4日)。
なお,1957年7月29日生まれの岸田総理は,2024年6月21日には既に66歳10箇月と24日でありました。
(3)チャベス大統領の年齢及び死
ところで,その若さを小渕総理に羨ましがられたベネズエラのウゴ・チャベス大統領ですが(1954年7月28日生まれなので,1999年10月13日には45歳2箇月と16日。同年2月2日に44歳6箇月と6日で大統領に就任していました。),在職十年は悠々突破したものの(「チャベス氏は,圧倒的であるものから余裕があるものまでの差をつけて四つの選挙に勝利し,6回行われた国民投票のうちわずか1回失敗しただけだった。」とのことです(“Hugo Chávez’s rotten legacy”, The Economist)。ただし,2002年4月の首都騒乱の際には,一時大統領職を辞しています。),しかし面会時の小渕総理の年齢まで生きることはできませんでした。癌を患い(2011年に公表),2013年3月5日,ベネズエラ・ボリバル共和国大統領在任のまま,58歳7箇月と6日で死亡しています。
チャベス氏の死は,何百万ものベネズエラ人によって悼まれた。彼らにとって彼は,天恵により増大した石油収入をばら撒いてくれる(handing out)とともに,「帝国」(またも米国)及び「寡頭勢力」(すなわち富裕層)に対して挑戦的な言辞を浴びせかける,一種のロビン・フッドであったのである。
(“Venezuela after Chávez”, The Economist)
3 ベネズエラの経済政策(ボリバル革命)と我が経済政策(失われた三十年)と
2000年から2012年までのベネズエラの石油輸出による総収入は,2000年以降は産出量が減少していたにもかかわらず,実質額においてその前13年間のそれの2倍半以上になっていたそうです(“Venezuela after Chávez”, The Economist)。これに対して我が国は石油産出国ではないので,ばら撒こうと思えば国債を発行することになりますが,財務省資料によれば,2000年度末の普通国債残高が367兆5547億円であったのに対し,2012年度末のそれは705兆0072億円と2倍近くになっています。2024年度末には1105兆円になる見込みであるそうです。橋本内閣期の1997年度の国債発行額は49兆8900億円(借換債の31兆4320億円を除くいわゆる新規国債は18兆4580億円)でしたが,小渕内閣期の1999年度には77兆5979億円(借換債の40兆0844億円を除くいわゆる新規国債は37兆5136億円)になっています。既に小渕総理は当時,世界一の借金王となってしまった,とぼやいていたところです。したがって,自身の政策の安易な前例化は受け付け得なかったものでしょう。ちなみに,2024年度の国債発行予定額は181兆9956億円(そのうちいわゆる新規国債は35兆4490億円)であるそうです。嗚呼,失われた三十年。
岸田総理は経済対策及び給付金支給を現在計画しているわけですが,これらは,早稲田大学の先輩である小渕総理的な施策というべきものでしょう(https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1079833/www.kantei.go.jp/jp/obutisouri/obuchiyear/obuchi_oneyear_02.html)。1998年11月16日に小渕内閣は「過去最大」の経済対策を決定し,更に1999年1月29日には,全国で対象者約三千五百万人,一人当たり2万円の地域振興券の交付が始まっています(https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1079833/www.kantei.go.jp/jp/obutiphoto/99_0216/02202.html)。(なお,公明党と自由民主党との連立は,小渕政権下の1999年10月以来のことです。)
ばら撒きのほかにチャベス大統領がしたベネズエラ人民喜ばせ策は,盟邦のキューバ政府肝煎りの「ミッションズ(missions)」であって,「実質的に無料の石油との引換えに,キューバは,何千人もの医師及びスポーツ指導者をベネズエラに派遣した。」とのことです(“Venezuela after Chávez”, The Economist)。無論,我ら病弱な日本の老国民も,医療及び福祉並びにスポーツ(観戦)は大好きです。来月(2024年7月)にはパリでオリンピックが開催されますところ,毎度のことながら,がんばれニッポン!
しかしながら,「広報宣伝の背後において,ボリバル革命は,腐敗し,不手際に運営された事業であった」ところです。「経済は,石油と輸入品にますます依存するようになった。農場の国有化は農業生産を減少させた。物価及び外国為替の管理は執拗なインフレーション及び生活必需品の不足を防止することができなかった。インフラストラクチャーは崩壊し,もう何年も,国の大部分において,頻繁な停電を忍ばねばならないことになっている。病院は腐敗し,「ミッションズ」すら,その多くが停頓した。犯罪は増加し,カラカスは世界で最も暴力的な首都の一つである。治安部隊の一部による関与の下,ベネズエラは薬物取引の一経路となっている。」とのことでした(“Venezuela after Chávez”, The Economist)。大統領官邸のチャベス大統領専用エレベータも水漏れがするようになっていたそうです(“Goodbye, Presidente”, The Economist, March 9th, 2013)。当局の無能・脆弱,製造業の空洞化,国家の保護下にある農業の不振,物価高及び通貨安,電力供給等に係る不安,医療不信並びに薬物事犯その他の犯罪の増加・・・と並べてみると,身につまされますね。ただし,「チャベス氏のなした至高の政治的達成は,多くの普通のベネズエラ人はばら撒きをもってチャベス氏を評価し,諸々の不手際について彼を非難することはしなかったということである。彼らは彼を彼らの一員,彼らの側に立つ者とみなしていた。彼の支持者ら,なかんずく女性たちは,言ったものである。「この人は,貧しい人々を助けるために神から遣わされたのです。」と。」ということでありました(ibidem)。我が国においても,政府からの給付金等を期待し歓迎する人々の層が厚みを増しているように感じられます。また,岸田総理も,女性におもてになるのでしょう。
ところで,主権者たる国民についてですが,「14年間,ベネズエラ人らは,彼らの問題はだれか別の者――米国又は「寡頭勢力」――によって生ぜしめられたものであると告げられ続けてきた。生活の向上は,能力ではなく,政治的忠誠のいかんによった。主に広報宣伝を教え込むものであるところの「大学」に何百万人もの者を大規模に在籍させたことは,実らないことがほぼ確実な期待のみを高めた。」とは(“Venezuela after Chávez”, The Economist),微妙な意地の悪さが感じられる口吻です。とはいえ無論,普通の人々が悪い(自己責任を負う)ということは全くあり得ない一方,能力を鼻にかけた鼻持ちならないThe Economistの読者的なエリートは粉砕されるべく,大学の無償化は異論の余地なく素晴らしいことであります。
4 蛇足🐍👣
以上,いずれも在職中に病に倒れた小渕総理とチャベス大統領とに関して雑文を草したところですが,ここでかねてから筆者にとって気になっていた点に関して蛇足を付しておきましょう。
(1)受任者による事務処理の不能と委任契約の存否と
小渕内閣の総辞職は,内閣総理大臣が脳梗塞で倒れて再起不能となったことをもって日本国憲法70条の「内閣総理大臣が欠けたとき」(英語文では,“when there is a vacancy in the post of Prime Minister”)に該当するものとする,という解釈の下に行われたわけですが,民法上の委任との比較でいえば,受任者が意思能力を喪失したときには直ちに当該受任者が「欠けたとき」となって委任契約が終了することにはならないもののように一応解されます。民法653条は,委任の終了事由として「委任者又は受任者の死亡」(第1号),「委任者又は受任者が破産手続開始の決定を受けたこと」(第2号)及び「受任者が後見開始の審判を受けたこと」(第3号)を挙げておりますところ,同条3号によれば,受任者が「精神上の障害により事理を弁識する能力を欠」いただけでは委任は終了せず,更に家庭裁判所による後見開始の審判が必要であることになるようではあるところです(同法7条参照。なお「精神上の障害により」とはくどい表現であるようですが,これは,刑事禁治産(旧民法人事編(明治23年法律第98号)236条及び237条,旧刑法(明治13年太政官布告第36号)旧10条3号並びに旧35条及び旧36条並びに民法施行法(明治31年法律第11号)14条から16条まで参照)との関係によるものであって,刑事禁治産ではないこと明らかにするための表現でしょう(梅謙次郎『訂正増補民法要義巻之一 総則編』(法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1911年(第33版))23-24頁参照)。)。このことは,「精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く常況にある者」も,意思能力を回復することが時々あり得るからでしょう。
しかして,「委任は,契約に共通な終了原因,例えば,〔略〕委任事務の履行不能〔略〕などによつて終了する」とされています(我妻榮『債権各論中巻二(民法講義Ⅴ₃)』(岩波書店・1962年)688頁。また,星野英一『民法概論Ⅳ(契約)』(良書普及会・1994年)290頁)。これについては,意識を不可逆的に全く失っていれば,法律行為の外観のある行為すら行うことができず,正に完全に委任事務の履行不能となるものと解してよいのでしょう。報酬支払特約(民法648条)のある双務契約たる委任契約における危険負担について考えてみても,平成29年法律第44号による改正前の民法536条1項(「〔略〕当事者双方の責めに帰することができない事由によって債務を履行することができなくなったときは,債務者は,反対給付を受ける権利を有しない。」)においては,当事者双方の責めに帰することのできない事由によって受任者の事務処理が不能になった場合は反対給付たる報酬を受ける権利を当該受任者は失い,すなわち委任者も債務を免れ,当該委任契約は債権発生原因として結局無意味なものであることに帰することになりますから,委任契約終了ということでよいのでしょう。
しかしながら,平成29年法律第44号による改正以後の民法536条1項は「当事者双方の責めに帰することができない事由によって債務を履行することができなくなったときは,債務者は,反対給付の履行を拒むことができる。」と規定して,事務処理をすることが不能になった受任者であっても名目的にはなお報酬請求権を有し,委任者はその支払を拒むことができるだけ,ということになるようです。すなわち,委任契約はなお生きており,その終了のためには解除が必要となるわけです。ところが,契約の解除は相手方に対する意思表示でされるものであるところ(民法540条1項),意思能力のない相手方に対する意思表示は当該相手方に対して対抗できないものとされています(同法98条の2本文)。(なお,「対抗することができない」とは,無効の主張は当該相手方にのみ許されるという趣旨です(梅250頁)。)そうであるとすれば,やはり家庭裁判所の手を煩わして,意思能力を失った受任者のために成年後見人を付さねばならないことになるようです(民法98条の2第1号及び859条)。何だか面倒なことになっています。
ちなみに,現行の民法536条1項に関して「債権者は,債務者に帰責事由がない場合には,危険負担制度に基づき当然に反対給付債権の履行を拒むことができる上,契約の解除をすることにより,反対給付債務を確定的に消滅させることもできることになる。」と説かれていますが(筒井健夫=村松秀樹編著『一問一答 民法(債権関係)改正』(商事法務・2018年)228頁),解除に遡及効のない委任契約の場合(民法652条及び620条),既発生の報酬支払債務は,履行拒絶権と共に気持ち悪く残ってしまうことになるのでしょう。消滅時効の適用も,受任者はそもそも当該債権を行使できないのですから無理であるように思われます(民法166条1項及び破産免責決定の効力を受ける債権に係る最判平成11年11月9日民集53巻8号1403頁参照)。
(2)米国憲法修正25条4節など
小渕総理の不可逆的執務不能は,小渕内閣の他の閣僚の一致した見解によって認定され,「内閣総理大臣が欠けた」として国会法(昭和22年法律第79号)64条に基づき同内閣から両議院に通知されたということになるのでしょう。
これに対して,米国憲法の修正25条4節(ウッドロー・ウィルソン大統領が1919年10月に脳内出血のため執務不能に陥ったところ,その後17箇月間同大統領夫人が大統領職を代行していたという不祥事例に対応するものです(飛田茂雄『アメリカ合衆国憲法を英文で読む』(中公新書・1998年)237頁参照)。)1項は,米国大統領の執務不能は,副大統領と,行政部諸長官又は議会が法律で設けることある機関の構成員の過半数との意見の一致によって決定され,その旨書面で元老院(上院)臨時議長(註:同院の議長職は,副大統領が務めます。)及び代議院(下院)議長に通知された上で副大統領が大統領心得(Acting President)として執務を開始するということになっています(副大統領が大統領になるのは大統領が解任され,又は死亡し,若しくは辞職した場合であって(同条1節),意識不明であっても大統領が生きている限りは,飽くまでも大統領心得です。)。日本国政府の閣議は全会一致が原則である分,米国政府における大統領の執務不能認定よりも手続が厳重であることになるのでしょう。
米国憲法修正25条4節2項は,副大統領と行政部諸長官又は議会が法律で設けることある機関の構成員の過半数とによる上記執務不能の通知に対抗して大統領が執務不能の不存在を元老院臨時議長及び代議院議長に書面で通知した場合についてのもので,副大統領と行政部諸長官又は議会が法律で設けることある機関の構成員の過半数とがなおも大統領に係る執務不能の認定を維持するときには,最終的に議会が裁定することになる旨の規定です(21日以内に両議院がいずれも3分の2以上の多数で大統領の執務不能を認定すれば副大統領による大統領職の代行は継続,それ以外の場合は大統領による執務が再開)。日本国においては,内閣総理大臣以外の閣僚の全員一致による判断を一応受け容れた上で,内閣総理大臣はなおも執務可能であると国会(衆議院)が自ら判断すれば,再び同人を内閣総理大臣に指名すればよいということになるのでしょう(日本国憲法67条)。
余計なことながら,高齢のバイデン大統領は,お元気でしょうか。
(3)内閣総理大臣の辞職と任命者(天皇)との関係
内閣総理大臣は天皇によって任命されるところ(日本国憲法6条1項),内閣総理大臣が辞職するときには,その辞表が天皇に奉呈されるべきものかどうか。
大日本帝国憲法下では,国務大臣を免ずることも天皇の大権事項でありました。すなわち,大日本帝国憲法10条は「天皇ハ〔略〕文武官ヲ任免ス〔後略〕」と規定していたところ,「国務大臣の任免は,憲法上,天皇の大権事項に属する。従つて内閣総理大臣の罷免――内閣の退陣は,一に聖旨に存する。例へば内閣総理大臣が,闕下に伏して骸骨を乞ひ奉るが如き場合に於ても,其の之を聴許し給ふと否とは,全く天皇の御自由である。また仮令内閣総理大臣の側に於て,進んで骸骨を乞ひ奉るが如きことなしとするも,天皇に於て之を免じ給ふことも亦全く御自由である。即ち〔略〕,内閣存続の基礎は,専ら至尊の信任に存するのである。」ということでありました(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)326頁)。このことに関する公務員法理論的な説明は次のとおりでしょう。いわく,「公務員関係の特色としては,辞職の意思表示ではなく,辞職願いを任命権者が承認することによって,始めて関係が消滅することがある。この点は,法律のレベルでは必ずしも明確ではないが,人事院規則はこのことを前提として,書面による辞職の申出があったときは,特に支障のない限り,これを承認するものとするとしている(人規8-12第73条〔現在は第51条に「任命権者は,職員から書面をもって辞職の申出があったときは,特に支障のない限り,これを承認するものとする。」と規定。〕。地方公務員法には特段の規定がない)。この点は行政法関係において,行政行為によって成立した関係の消滅も行政行為(行政法一般理論における行政行為の撤回)によるという一般的了解の公務員関係への適用とも考えられるが,公務の突発的停廃を防止するのがその趣旨であろう。」と(塩野宏『行政法Ⅲ』(有斐閣・1995年)208頁)。
以上の公法的規整に対して,私法における民法651条による受任者による委任契約の解除は,同法540条1項に基づき委任者に対する意思表示によりされ,同法97条1項によって委任者に到達した時に効力を生ずることになります。なお,民法655条は,解除の場合には適用がありません(我妻699頁。ドイツ民法674条は„Erlischt der Auftrag in anderer Weise als durch Widerruf, so gilt er zugunsten des Beauftragten gleichwohl als fortbestehend, bis der Beauftragte vom dem Erlӧschen Kenntnis erlangt oder das Erlӧschen kennen muss.“と規定しています(イタリック体は筆者によるもの)。)。解除の時期の不都合(事務処理の「突然の停廃」)によって生じた問題は,金銭賠償をもって清算されることになります(民法651条2項1号)。
ところで,日本国憲法下での内閣総辞職の手続については,実は当初は,内閣総理大臣から天皇に対する辞表の奉呈がface-to-faceでされていました。
〔1947年5月〕20日 火曜日 第1回国会特別会召集日につき,午前10時より表拝謁の間において内閣総理大臣吉田茂の拝謁を受けられ,日本国憲法第70条中の「衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは,内閣は,総辞職をしなければならない」の規定に基づき,辞表の奉呈を受けられる。〔以下略〕
(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)330頁)
〔1948年2月〕10日 火曜日 正午前より表拝謁の間において内閣総理大臣片山哲の拝謁を受けられ,奏上並びに内閣総理大臣の辞表の奉呈を受けられる。〔後略〕
(宮内庁615頁)
これが,1948年3月の芦田均内閣成立の際,以後改められるということになりました。
〔1948年3月〕10日 水曜日 午後,表拝謁の間において,法務総裁鈴木義男の拝謁を受けられ,片山内閣の総辞職及び芦田内閣の成立について法律面からの説明をお聞きになる。これより先,鈴木は「内閣総辞職の際の手続並慣行について」と題する意見書を閣議に提出し,去る2日閣議了解となる。同意見書によれば,日本国憲法上の天皇の地位に鑑み,辞意を表明した首相の参内・拝謁等は行うべきではなく,今後天皇に対する儀礼上の慣行として,新首相の親任式及び閣僚の認証官任命式の式前或いは式後に,適宜御挨拶を申し上げることが適当とされた。〔略〕
午後,表拝謁の間において,内閣総理大臣片山哲より内閣の総辞職及び新内閣の成立についての内奏をお聞きになり,ついで午後2時30分,同所に出御され,内閣総理大臣芦田均の親任式を行われる。〔略〕
表拝謁の間において,内閣総理大臣芦田均より新内閣の認証官任命についての内奏をお聞きになる。なお,内奏の後,芦田より共産党への対策や宮内府に対する連合国最高司令部の意見についてお聞きになる。ついで午後3時より同所において,国務大臣西尾末広以下15名の認証官任命式に臨まれる。〔中略〕なお,内閣総理大臣から官記を受領した各任官者に対し,この度よりそれぞれお言葉を賜うこととされる。〔略〕
(宮内庁623-624頁)
上記鈴木法務総裁の「内閣総辞職の際の手続並慣行について」意見書の由来は,「昭和23年〔1948年〕3月1日,「内閣総辞職の際辞意表明の相手方退任の手続等に関し実際上ならびに法律上疑義あるやにつき」ということで,法務総裁から内閣総理大臣あて次に述べるような意見(抄)が提出されたことがある。そして,その後における内閣の総辞職はこの意見を参考に行われるようになり,現在では,このような内閣総辞職の慣行は確立されているといえよう。」ということであるそうです(内閣制度百年史編纂委員会編集『内閣制度百年史 上巻』(大蔵省印刷局・1985年)132-133頁)。
鈴木意見書の内容(抄)は,次のとおり。
一 実際上の手続
(一)内閣が総辞職を決定したときは(閣議決定後)その旨文書をもつて衆参両院議長に通告すること。
(二)内閣総理大臣および各国務大臣の文書による辞表の提出はこれをなす必要のないものと解する。
(三)従つて新憲法上の天皇の地位にかんがみ誤解を生ずる虞あるをもつて辞意を表明した首相の参内拝謁等はその際は行わざるを適当と信ずる。
(四)今後の政治上の慣行としては以下の如く取運ぶべきであろう。(1)総辞職の決定(2)国会への通告 (3)国会における後継内閣総理大臣の指名 (4)組閣完了 (5)組閣完了を国会および辞意を表明したる内閣総理大臣に通告 (6)閣議開催,新総理任命の助言と承認決定 (7)宮中の都合を打合せ旧新両首相ならびに新国務大臣参内,任命式ならびに認証式執行 (8)右式を終れば辞令等を用いずして前首相ならびに旧閣僚は当然退任となる(註,留任する大臣も一旦退任し新内閣の閣員として新に任命認証を受けるのである) (9)新内閣の成立を正式に国会へ通告。
(五)天皇に対する儀礼上の慣行としては右任命式に参内の節式前または式後において御挨拶申上ぐることとするのが適当であろう。退任した国務大臣はその後個別的に参内記帳等適当に御挨拶申上ぐること。(ただしこれは勿論各前大臣の任意である)
二 法的根拠
憲法の解釈として内閣総辞職の際退任する内閣総理大臣および各国務大臣に対し免官の式等を行わずまた特に辞令等を用うる必要のない理由はおおむね次の如くである。
内閣の総辞職は,内閣から国会に対し総辞職する旨を通告してなされる内閣自体の一方的行為であり,その結果として内閣総理大臣および各大臣は当然に退任するのであつて,内閣総理大臣に対する免官の辞令その他各大臣の単独の退任の場合の如く各国務大臣より内閣総理大臣に対する辞表の提出,各大臣に対する免官の辞令,天皇の認証等特段の手続を必要としない。
(内閣制度百年史編纂委員会133-134頁)
一(一)は,国会法64条の「内閣は,内閣総理大臣が〔略〕辞表を提出したときは,直ちにその旨を両議院に通知しなくてはならない。」との規定に対応するものでしょう。同条の「辞表の提出」は,本来は内閣総理大臣から天皇への「辞表の提出」を意味するものと解されていたのでしょうが(吉田茂(第1次)及び片山哲の前例),ここで読替えがされたわけです。なお,「内閣の存立が内閣総理大臣の在任意思にかかるものであるのは自明のことであって,内閣総理大臣が自ら辞意を表明したとき(国会法64条)が右〔日本国憲法70条〕の「欠けたとき」に含まれるかどうかは,あえて論ずるまでもない。」(内閣制度百年史編纂委員会132頁)ということですが,「内閣の総辞職は,内閣から国会に対し総辞職する旨を通告してなされる内閣自体の一方的行為」(二)であるところ,厳密にいえば,内閣総理大臣の辞職の意思表示が両議院に到達した時に日本国憲法70条の「内閣総理大臣が欠けたとき」になるのでしょう。国家法人説的には,内閣総理大臣を任命する行為をする国家機関は天皇であるものの,内閣総理大臣の辞職の意思表示を受領する機関は専ら国会であることにしたということになるのでしょう。
一(二)における「内閣総理大臣の文書による辞表の提出」の要否が天皇との関係で問題となったわけですが(内閣総理大臣以外の国務大臣に係る辞表の提出先は内閣総理大臣となります(日本国憲法68条)。),国会法64条の通知で辞職の意思表示は実行済みなので屋上屋を架する必要なし,ということになったわけでしょう。
一(四)に関しては,内閣総理大臣の指名に係る衆議院議長から内閣を経由しての天皇への奏上(国会法65条2項)が,(3)と(7)との間にあるはずです。
一(四)(8)に関して一言すれば,内閣総理大臣の辞職は,その単独行為であるものの,次の内閣総理大臣の任命時に効力が生ずる不確定期限付きの法律行為であるということになるのでしょう。委任の終了後の処分に係る民法654条の場合についても,「立法の趣旨は,その間委任を継続させようとするものと見るのが妥当」であるものとされています(我妻698頁。ドイツ民法673条の„der Auftrag gilt insoweit als fortbestehend“(この場合において,委任は,継続しているものとみなされる。)との規定をもって,「ド民〔略〕673条」は「委任は継続すると規定する」と同所で紹介されています。)。
内閣総理大臣が突然辞職しても「公務の突発的停廃」は起らないものでしょうか。起る可能性があるとしても,その防止を担保するのに天皇の聴許権をもってすることは筋違いだということでしょう。既に美濃部達吉が,自らの進退に関する国務大臣の責任の重さを強調していました。いわく,「従来の実例に於いては,国務大臣が往々進退伺を陛下に奉呈することが行はれて居るけれども,是も国務大臣の地位とは相容れないものと言はねばならぬ。国務大臣は自己の進退に付いては,自己の責任を以て,自ら処決すべきもので,自分の進退に付き自ら処決せずして聖断を待つが如きは,自己の責任を回避し,責を至尊に帰するものである。」と(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)513-514頁)。
なお,内閣総理大臣と並んで天皇により任命される最高裁判所長官(日本国憲法6条2項)の辞職の意思表示は,やはりこれも天皇に対してすべきものではなく,指名権者である内閣に対してすべきものとされるのでしょう。
ところで,次の事実はどう考えるべきでしょうか。
〔1948年10月〕6日 水曜日 〔略〕
表拝謁の間において,内閣総理大臣芦田均・文部大臣森戸辰男・厚生大臣竹田儀一・商工大臣水谷長三郎・労働大臣加藤勘十・逓信大臣富吉栄二・国務大臣野溝勝地方財政委員会委員長・農林大臣永江一夫・国務大臣船田亨二行政管理庁長官兼賠償庁長官をお招きになり,茶菓を賜う。〔略〕
表御座所において,内閣総理大臣芦田均の拝謁をお受けになる。その際,芦田は,内閣総辞職の決意を言上する。翌7日,芦田内閣は総辞職する。〔後略〕
(宮内庁709頁)
昭和天皇は偉大な立憲君主であり,政治的人間でありました。昭和天皇崩御時の内閣官房長官であった小渕総理(「平成おじさん」)も,尊敬する人物として昭和天皇を挙げていました。
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