五月雨式ですが(しかし,blogという発表形式は本来こうしたものでしょう。),本稿は,前稿である「1818年のオレゴン協定3条と樺太島仮規則との比較に関して」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081497363.html)の続稿となります。
a fountain from Oregon (in Sapporo, Hokkaido)
改めて確認すると,1818年の米英条約の第3条(オレゴン協定)は次のとおりです。
ARTICLE III. It is agreed, that any Country that may be claimed by either Party on the North West Coast of America, Westward of the Stony Mountains, shall, together with it's Harbours, Bays, and Creeks, and the Navigation of all Rivers within the same, be free and open, for the term of ten Years from the date of the Signature of the present Convention, to the Vessels, Citizens, and Subjects of the Two Powers: it being well understood, that this Agreement is not to be construed to the Prejudice of any Claim, which either of the Two High Contracting Parties may have to any part of the said Country, nor shall it be taken to affect the Claims of any other Power or State to any part of the said Country; the only Object of The High Contracting Parties, in that respect, being to prevent disputes and differences amongst Themselves.
(ストーニー山脈から西側のアメリカ北西岸の地方であって,いずれかの締約国によって領有が主張されることのある地方は,その港,湾及び入江並びに当該地方内の全ての河川の航行を含めて,本協定の調印の日から10年間,両国の船舶,市民及び臣民に対して自由かつ開かれたもの(free and open)とされる。ただし,この合意については,当該地方のどの部分についても,それについて条約締結両国のうちの一が有することのある領有権の主張の当否について予断を与えるものとして解釈されるべきものではなく,かつ,当該地方のどの部分についても,他のいずれかの列強又は国家による領有権の主張について影響を与えるべきものではない旨十分の理解がされているものである。当該事項に係る条約締結両国の唯一の目的は,両国間における論争及び紛争を防止することである。)
米国の北西方面たるオレゴン地方における同国の領土権主張に関する1818年のオレゴン協定,1819年の米西間アダムズ=オニス協定及び1824年の米露条約は,いずれも米国モンロー政権(1817-1825年)下で締結されたものです。しかして,当該地方に係る米国の領有権原については,1818年のオレゴン協定との関係で,同政権の国務長官であったジョン・クインジー・アダムズ(JQA)が,1846年2月9日(この日,1767年7月11日生まれのJQAは78歳でした。),米国連邦代議院(下院)において,本稿でこれから御紹介するように述べていたところです(cf. James Traub, John Quincy Adams: militant spirit (New York, Basic Books, 2016): pp.512-513. ただし,同所でトラウブが「1845年2月9日」と記しているのは1年違いの誤りです。)。(ちなみにJQAは,第6代米国大統領を1期のみ(1825-1829年)務めて7代目のアンドリュー・ジャクソン(20ドル札)に敗れて下野した後,1830年12月6日にマサチューセッツ州プリマスから連邦代議員(下院議員)に選出され(Traub: p.390),1848年2月23日に同議院議長室内で死亡するまで,2年ごとに当選を重ねて(選挙区は変動します。)連邦代議員職に在任していました。JQAについては,「いわゆるアダムズ方式に関して」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078277830.html)も御参照ください。)
そこにおいてJQAは,1818年の米英オレゴン協定3条の意味するところに関し,「当該協定を共同占領(joint occupation)の協定であると宣明する誤称」があるとした上で,「委員長,それは共同占領の協定ではありません。それは非占領(NON-occupation)の協定,すなわち,両当事国において,いずれの当事国も,不定の期間――最初は10年間,次には一方当事国から相手方当事国に対して当該協定は終了せられるべしとの申入れがされるまでの間――当該地域を占領しない(will not occupy)との約束なのであります。」と述べ(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.340 (right column)),その後再び「それは共同占領でありましょうか,各別の占領でありましょうか?(Is that joint occupation, or separate occupation?)」と自問した上で,「そのようなものではありません。それは,非占領(non-occupation)であります。当該地域は,全世界に対して,自由かつ開かれたものたるべきなのであります。」と言明しています(ditto: p.342 (left column))。1818年当時の担当国務長官閣下御自身は,同年の当該条約によってオレゴン地方が米英の「共同領有」(『世界史小辞典』(山川出版社・第2版第19刷(1979年))113頁(有賀貞執筆)参照)になったものとはつゆ思っていなかったわけです。また,北緯42度以北の北米大陸における領有権をスペインが失う1819年のアダムズ=オニス協定の前のものであったところの1818年条約3条にいう「他のいずれかの列強又は国家」は,スペインであったものとJQAは明言しています(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.342 (left column))。自らが国務長官として交渉に臨んで哀れなオニスを締め上げた,勝者の余裕というものでしょう。
日露間における1867年の樺太島仮規則においては,樺太島は日露「両国の所領」であるものとされ(前文末段及び第2条),すなわち同島はロシア語でいうところの“общее владение”(共同の所有地,共同の領土)であり,かつ,そこにおいては“общность владения”(所有の共通,支配の共通)が認められていたことになっています(前々稿である「北海道と樺太との分離並びに日魯通好条約2条後段及び樺太島仮規則について」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1081414643.html)第2の3(2)参照。なお,同仮規則添付の英語訳ではいずれも“common possession”です。)。1867年の仮規則下の樺太島は,1818年の米英協定下のオレゴン地方とは異なり,日本の武士団(征夷大将軍直参及び奥羽諸藩抱え)とロシアの軍隊とが駐屯する両国の「共同領有」地であったわけでしょう。
更にJQAによれば,1818年条約3条においては時間軸が重要でありました。いわく,「さて,この協定は10年間のものとして約束されました。そして,私は本〔全院〕委員会にここのところの表現に注目してもらいたいのですが――これは,それぞれの領有権の主張に係る問題は当該10年の期間中において解決するものではないこと,当該期間の満了と共に再び問題となることを両当事国は理解していたことを示すものであります。これは,我々の〔国務〕長官が現在行っているのと同様の,当該地域全体に対する十全かつ明白な領有権主張(a full, plain claim to the whole territory)に等しいものであります。しかし,そこでいわれていたのは,両当事国はその紛争を解決することを選択せずに,むしろ,10年間――当該期間中はいずれの当事国も排他的管轄権を主張しないものとしつつ(without claiming exclusive jurisdiction)――当該地方はその港,湾,入江及び河川と共に両当事国の航行に対して開かれたものであることに合意する,ということなのであります。それが全てであったのであります。」と(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.342 (left column))。
いわゆる問題の棚上げがされたのだということでしょう。
これに対して,1855年の日魯通好条約2条後段では樺太島は日露間で「界を分たす」,“ongedeeld (ungeteilt)”ないしは“неразделённый”であるもの(分割されていないもの=未分割=両国「共有」のもの)とされています(「北海道と樺太との分離並びに日魯通好条約2条後段及び樺太島仮規則について」第2の2及び5参照)。したがって,ロシアの(「共有」)持分の存在が現に認められてしまったことになりますので,樺太全島に係り,かつ,排他的なものたる「当該地域全体に対する十全かつ明白な領有権主張(a full, plain claim to the whole territory)」の留保は(後日のためにも)されていなかった,ということになるのでしょう。
ところで1846年2月9日には,領土に係る権原(title)について,JQAは次のような理論を述べています。
これらの全ての権原は不完全であります。したがって,発見は,それ自体では権原ではありません。河川及び土地の発見は,それ自体では権原ではありません。探検が次に来ます。それによって,権原においていくらか付加されるものがあります。連続性及び隣接性の両者は,権原を与えるものとして,共同して働きます。それらは,それらのいずれも,それら自体では完全ではありません。権原ということにおいては,現実の占有(actual possession)以外に全きものはありません。しかしてそれこそが,オレゴン地域に対する完全,明確,不可争かつ疑いのない権利を取得するために,我々が現在欲する唯一のものなのであります。それは,占有,もしよろしければ占領(occupation)であります。ところで,委員長,我々は英国と二つの協定を結びましたが――一つは1818年に,もう一つは1827年にです――これらによって我々は,共同占領(joint occupation)というようなものに合意していないのであります。〔中略〕現在,占領は存在しておりません。占領こそが我々が欲するものなのであります。占領こそが,かの協定の終了をもたらすため,私が賛成しているものなのであります。なぜならば,当該協定は,我々は当該地域を占領しないものと定めているからであります。
(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.341 (right column))
上記引用部分冒頭の「不完全」な「これら全ての権原」には,発見,探検並びに連続性及び隣接性によるもののほか,詩篇第2篇第8節(「われに求めよ さらば汝にもろもろの國を嗣業としてあたへ地の極をなんぢの有としてあたへん」)に由来する,教皇(及びそれに倣った王)から付与された権原(教皇についてはアレクサンデル6世による1493年のスペイン=ポルトガル発見地間境界設定の事例が,王についてはイングランド国王による北米大陸における土地の付与の例が言及されています。)が含まれます(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.340 (right column) - p.341 (right column))。
美濃部達吉は,領土の変更について「領土の変更は新領土を取得する場合と現在の領土の一部を喪失する場合とを含むが,その何れに於いても国際的交渉の結果として国際条約に依つて行はるゝことを普通とする。条約以外の原因に依る場合は,取得原因としては唯無主地を占領して之を領土に編入する場合を,喪失原因としては領土の抛棄及びその自然消滅の場合を想像し得るのみである。」と述べています(同『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)82頁)。無主地の領土編入には占領までが必要であって,発見,探検又は連続性及び隣接性のようなものでは不十分であるということのようです。また,神又はその代理人の命令といったものには出番はないようです(ただし,伊藤博文の『憲法義解』の大日本帝国憲法1条(「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」)解説は,「瑞穂国是吾子孫可王之地宜爾皇孫就而治焉」(小学館『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』(1994年)130頁(一書第一))との「天祖の勅」を引用しています。)。なお,美濃部の上記説明は1927年当時の国際法に基づくものでしょうが,その81年前,領土に係る国際法に関する己れの認識を述べてJQAはいわく,「土地に関するいかなる権利も,個人の間では,立法によって規整されるべきものでありました。諸国間においては,同意により,協約によって規整されるべきものでありました。しかしてそのようにして,そう呼ばれるところの諸国民の法(これは,諸国間の慣習にすぎません。)並びに諸国による条約及び協約が,どのように各地点,各尺土が占領されるべきかを規整してきたのでありました。」と(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.341 (central column))。無主地の占領による領土編入は,条約又は協約ではなく,諸国民の法に基づくものでしょう。なお,1846年段階において,JQAは征服(conquest)も領土の権原に含めていましたが(ibidem),現在の国際法ではどうでしょうか。
しかしてオレゴン地方については,英国は権原に値するものを実は有していないものとJQAは考えていました。いわく。
あの〔1818年条約の〕交渉において,そしてそれ以来その後の,私の信ずるところによれば,恐らく今日に至るまでの諸交渉において,当該地域のいかなる部分についても英国は排他的管轄権を主張していないのであります。同国自身が,同国は同地に係る権原(title)を有していないことを認めております。同国は,無権原であると称しているのです。しかしそれでは,同国は何と言っているのでしょうか。同国は,同地は開かれた地方(an open country)であると言っています。同地は,何らかの占領がされているとしても野蛮民族によってのみ占領されているところのかの諸地方の一つであるもの――全ての関係者に対して開かれている(open to all parties)地方であるものと。同国は,排他的管轄権を主張していないのであります。〔中略〕同国の主張は,そしてそれは当該協定に基づくものですが,当該地方は自由かつ開かれたもの(free and open)たるべしということです――すなわち,同国の狩猟者らのために――ハドソン湾会社の利益のための狩猟のために――同地を未開かつ野蛮な状態のままに留め置くべしということであります。現時においては,同国は,土地の耕作者が同地に入植する日から,同地は同国にとっての価値を全く失うものであることを知っています。その時から,当該価値の破壊が,事物の性質のしからしめるところによって生ずるのです。しかしてここに,同国の主張と我が国の主張との間の相違が存するのであります。
(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.342 (left column))。
無論,英国が権原の主張をしていないというJQAの発言は,英国が行ってきた外交上の主張の意味するところを外交の玄人たるJQAが自分流に解釈した結果を述べているものです。これに対して,一般に分かりやすい言葉として表明された英国の外交姿勢自体は,「英国首相のロバート・ピール卿は,彼の国家はオレゴンについて「明確かつ疑問の余地のない」権原(“clear and unquestionable” title)を有しており,かつ,当該権原を守るためには戦争をも辞さないと言明していた。」というものであって(Traub: p.512),見たところ実に勇ましいものでありました。それはともかく,英国の無権原に対する米国の権原とは何でしょうか。JQAは詩的になります。
我々はかの地方を欲する――そも何のためにか?原始の自然を咲き誇る薔薇となすため,法を定立するため,全能の神の最初の指令において我々が行うことを命ぜられたる事業,すなわち,生み(increase),繁殖え(multiply),地を服従わせる(subdue the earth)ため〔創世記第1章第28節参照〕であります。これが,かの地の領有を我々が主張する理由であります。英国は,航行に開かれた状態を保つために,同国の狩猟者らが野生動物を捕獲するために同地の領有を主張しています。また,もちろん,未開民族に加えて野生動物の利益のためにかの国は主張をしているところであります。我々の主張の間には,かかる相違があるのであります。
(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.342 (left column))
〔前略〕私は,当該地方を,我が国の西部開拓者たちのために欲するのであります。我々の西部地域の住民によって最も典型的に示されている,人間の有するかの資質が発揮せられるための領域を与えんがため,彼らをしてかの地に赴き,その地において興起すべき偉大な国民たらしめるためであります。しかして当該国民は,泉(a fountain)がその水源から由来するように,我々から,自由,独立かつ主権的な共和国の我々から由来しなければならないのであります。バッファロー,インディアン戦士及び砂漠の未開人のために,狩猟地から由来すべきものではありません。
(ditto: p.342 (left-central columns))
続いてJQAは,自身が米国大統領であった時代の1827年協定の解説に移ろうとしましたが,そこでJQAの持ち時間が尽きてしまいました。(なお,要するに1827年協定は――1818年協定が10年間という期間の定めのあるものであったのに対し――期間の定めのないものとされ,ただし一の当事国から相手方当事国に対して終了の申入れがあればその12箇月後に効力を失うものとされていたものです。)
「生み,繁殖え,地を服従わせ」云々と,創世記第1章第28節の引用がありました。
実はあらかじめJQAは,創世記第1章第26節から第28節までを議院の書記に読み上げさせ,「これが,委員長,私の判断では,オレゴン地域に対する我々の権原の基礎であるのみならず,全ての人的所有(human possessions)に係る全ての人的権原(human title)の基礎なのであります。これが,あなたが委員長席に,それによってすわっている(occupy)ところの権原の基礎であります。これが,オレゴン地域を占領(occupy)すべしと,それによって我々が現在呼びかけられているところの権原の基礎なのであります。」との註釈を加えていたところです(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.340 (right column))。
26 神いひ給ひけるは我儕に象りて我儕の像の如くに我儕人を造り之に海の魚と天空の鳥と家畜と全地と地に匍ふ所の諸の昆蟲を治めしめんと
27 神其像の如くに人を創造たまへり即ち神の像の如くに之を造り之を男と女に創造たまへり
28 神彼等を祝し神彼等に言たまひけるは生よ繁殖よ地に滿盈よ之を服從せよ又海の魚と天空の鳥と地に動く所の諸の生物を治めよ
「生よ繁殖よ地に滿盈よ之を服從せよ」との神の命令のうち,領土に係る権原にとって最も重要であるのは,「(土地を)服從せよ」の部分でしょう。「さて,人に与えられた,生み,繁殖え,並びに地(the earth)に満盈ち,及びそれを服従せる(subdue it)というかの一般的権威は,人としての人に対して創造主から下賜されたものだったのであります。それは,人類に属する各個人に対して,彼の個人としての資格において下賜されたものだったのであります。」とJQAが語った際(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.341 (left-central columns)),イタリック体によって強調されたのは「服従せる(subdue)」の語だったのでした。河川を遡り若しくは流れ下り,又は未開の土地の上を走り回って狩猟するだけでは,当該土地を服従せること(terram subicere)にはならないものでしょう。「「現実の占有」(“Actual possession”)は,耕作及び管理(tillage and husbandry)を要素とした。したがって,インディアンらは,太古からその上を歩き回っていた土地を占有していたものとの主張ができなかったのである。英国は,インディアンらと同様,毛皮のための獣を狩ることのためにオレゴンを使用していたのである。」とは(Traub: pp.512-513),JQAの思考が敷衍されたものです。ローマ法では,「他人の土地で所有者の意思に反して狩猟をなすときは,否認訴権〔ドイツ普通法時代には占有侵奪以外のあらゆる妨害排除の訴権に高められた役権否認の訴権〕,不動産占有保持の特示命令〔法務官の命令の発せられたときにおいて現占有者に対する暴力を禁止するもの〕,人格権侵害訴権〔窃盗の未遂にも適用が認められた訴権〕の責任を負うことあるも,捕獲した鳥獣は狩猟者の所有に属する。」ということだったそうですが(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)107頁),これは,狩猟者は必ずしも狩猟地の所有権者であるものではないし,そもそも捕獲物の所有権を取得するために狩猟地の所有権が必須の前提であるわけでもないということでしょう。
土地の上での狩猟が領土に係る権原(土地を服従せること)とならないのならば,いわんや海ないしは河川における捕魚においてをやということになるものでしょう。ここで,ロシア側の対日提案を記す樺太島仮規則前文第1が「両国の間にある天然の国界「アニワ」と唱ふる海峡〔宗谷海峡〕を以て両国の境界と為し「カラフト」全島を魯西亜の所領とすへし」としつつ(樺太島の領有に係る我が国の権原を認めないということでしょう。),同第2に「右島上にて方今日本へ属せる漁業等は向後とも総て是まての通り其所得とすへし」,すなわち“Всѣ принадлежащіе въ настоящее время Японцамъ на Сахалинѣ рыбные промыслы и на будущее время оставить въ ихъ пользованіи.(現在樺太において日本人らに(Японцамは,Японецの複数与格形です。)属している(принадлежащиеは,принадлежатьの能動現在分詞複数形です。)全ての漁獲(рыбные промыслыは複数形ですが,単数形ですと「漁業」と訳されます。)は,将来も彼らの利益のために(пользованиеは「利用」,「使用」の意味です。)供されるものとすること。)”とあるところが,米国のインディアン諸部族が,連邦政府との条約下において,保留地外においても固有の狩猟・漁撈権を留保している例と併せて想起されるところです。
(ちなみに,我が国のアイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(平成31年法律第16号。以下「アイヌ施策推進法」と略称します。)によれば,同法10条5項の内水面さけ採捕事業(アイヌにおいて継承されてきた儀式若しくは漁法(「儀式等」)の保存若しくは継承又は儀式等に関する知識の普及及び啓発に利用するためのさけを内水面において採捕する事業)であって認定アイヌ施策推進地域計画に記載されたものについては,農林水産大臣又は都道府県知事はそれが「円滑に実施されるよう適切な配慮をするもの」とされていますが(同法17条。要は,漁業法(昭和24年法律第267号)119条1項若しくは2項又は水産資源保護法(昭和26年法律第313号)4条1項の規定に基づく農林水産省令又は都道府県の規則による許可が必要とされる場合であっても,不許可処分をせずに許可をするように工夫せよ,ということでしょう。),認定アイヌ施策推進地域計画に記載された内水面さけ採捕事業の主体は専らアイヌ部族であるというわけではなく(ただし,国はアイヌ施策推進地域計画の作成主体である市町村に対し「アイヌの人々の要望等が十分反映されるよう,適切な指導を行」い(アイヌ施策推進法7条1項の政府の基本方針たる「アイヌ施策の総合的かつ効果的な推進を図るための基本的な方針」(令和元年9月6日閣議決定)1(1)),「反社会的勢力やその関係者の行う又は行うことが想定される事業が記載されている」アイヌ施策推進地域計画は内閣総理大臣によって認定されないものとされています(同「基本的な方針」4(1)②)。),また,その目的もアイヌにおいて継承されてきた儀式若しくは漁法の保存若しくは継承又は当該儀式若しくは漁法に関する知識の普及及び啓発に限定されていて,端的な漁業を行うこととはされていません。川ならぬ山を見れば,アイヌ施策推進法10条4項にいう「アイヌにおいて継承されてきた儀式の実施その他のアイヌ文化〔アイヌ語並びにアイヌにおいて継承されてきた生活様式,音楽,舞踊,工芸その他の文化的所産及びこれらから発展した文化的所産(同法2条1項)〕の振興等〔ここの「等」は,アイヌの伝統等(アイヌの伝統及びアイヌ文化)に関する知識の普及及び啓発(同条2項,同法1条第1括弧書き)〕に利用するための林産物を国有林野において採取する事業」に関して,当該事項を記載した認定アイヌ施策推進地域計画を作成した市町村の住民又は当該市町村の一定の区域に住所を有する者に対し,農林水産大臣は,契約により,「国有林野をアイヌにおいて継承されてきた儀式の実施その他のアイヌ文化の振興等に利用するための林産物の採取に共同して使用する権利」を取得させることができるものとされていますが(同法16条1項),当該権利の主体は飽くまでも当該市町村の住民又は当該市町村の一定の区域に住所を有する者であってアイヌ部族ないしは当該部族の所属員ではなく,また,農林水産大臣と契約を締結する相手方も当該共用者の住所地の属する市町村(ただし,市町村内の一定の区域に住所を有する者を共用者とする場合には,当該共用者の全員を契約当事者とすることも可能)であって(同条2項によって適用される国有林野の管理経営に関する法律(昭和26年法律第246号)18条3項),インディアン部族ならぬアイヌ部族ではありません。)
なお,捕魚や狩猟ということになると,「De Comoedia Plauti et Institutionibus Justiniani」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1075842975.html)やら「蜜蜂ノオト」(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1076108312.html)といった記事をかつて筆者は書いたことがある旨申し添えます。
1818年(1827年改訂)の米英オレゴン協定は,締結責任者であったJQAにとっても,1846年2月当時には今や米国による「占領(occupation)を妨げ」,前記の「神の法を施行することを妨げる」ところの「制約,我々の手枷」となっていたのでした(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.340 (right column))。なお,米英両国はキリスト教国であって,当時の清国人でも未開のインディアンでもありませんでしたから,「創世記の第1章において土地に対する権原が基礎付けられるのはキリスト教国間でのことであり,また,管轄権(jurisdiction),収用権(eminent domain),個人財産に係る権原がそこに基礎を置くのは聖書なのであります――これら全ては,書記が朗読した部分に続く箇所の他の源から流出しているものであります。」ということで(ibidem),オレゴン地方問題についてはよかったのでしょう。とはいえ,当該創世記的権原基礎論も,諸国間の慣習たる諸国民の法となるまで普及すれば,宗教の違いを超えた適用を見ることとなるものでしょう。
なお,オレゴン協定の終了を主張しつつも,JQA(父である第2代米国大統領のジョンと同様,駐英公使を務めていました。息子のチャールズ・フランシスも第16代リンカン大統領の下で駐英公使となります。)は英国に対してなお宥和的でした。いわく。
私は,当該協定の終了を求めます。それを行う形式及び態様については,私は英国に対する最も宥和的な態様(most conciliatory manner)で行いたいところであります。
(The Congressional Globe, 29th Congress, 1st Session: p.340 (right column))
勃発しなかったもう一つの戦争は,オレゴンをめぐる英国とのそれであった。〔第11代米国大統領〕ポークが彼の当初の要求である北緯54度40分の国境線にこだわっていたならば,戦闘が開始され得たところであった。英国側は,既に何度も彼らに対して提案されてきていた北緯49度の国境線を期待する権利を有していたからである。従来彼らは,コロンビア川の北方には米国勢力の存在は全く無いことを理由にそれらを拒絶していた。1846年にはこのことはなおも事実であった。しかしながら,当該方面全域の人口バランスが急速に彼らに不利に傾いてきているのを見て,賢明にも英国側は,ヴァンクーヴァー島全体を保持できるのであれば49度で妥協する旨提議した。ポークはこれでは十分ではないと考えたが,元老院(上院)は,メキシコとの敵対状勢が既に進行中であるという事実に鑑み,当該合意〔1846年のオレゴン協定〕を批准した。
(Colin McEvedy, The Penguin Atlas of North American History to 1870; Penguin Books, 1988: p.74)
1846年の米英オレゴン協定は,同年6月15日にワシントン, D.C.で調印され,同年7月17日にロンドンで批准書が交換されています。
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