1 1860年春のカリフォルニア州における福沢諭吉のワシントンの「子孫」問答
福沢諭吉の『福翁自伝』(1899年)に,次の有名なくだりがあります。
時は1860年3月18日(安政七年二月二十六日)ないしは5月9日(万延元年閏三月十九日),所はアメリカ合衆国カリフォルニア州(1848年3月メキシコから割譲。1850年9月州昇格)のサン・フランシスコ又はその近郊(咸臨丸の一行はサン・フランシスコ近傍メールアイランドの米国海軍港官舎に止宿)。
ところで私がふと胸に浮んである人に聞いてみたのは,ほかでない,いまワシントンの子孫はどうなっているかと尋ねたところが,その人の言うに,ワシントンの子孫には女があるはずだ,いまどうしているか知らないが,なんでもだれかの内室になっている様子だと,いかにも冷淡な答でなんとも思っておらぬ。これは不思議だ。もちろん私もアメリカは共和国,大統領は4年交代ということは百も承知のことながら,ワシントンの子孫といえばたいへんな者に違いないと思うたのは,こっちの脳中には源頼朝,徳川家康というような考えがあってソレから割り出して聞いたところが,いまのとおりの答に驚いてこれは不思議と思うたことはいまでもよく覚えている。理学上のことについては少しも肝をつぶすということはなかったが,一方の社会上のことについては全く方角がつかなかった。(テキストは,慶応義塾創立百年記念版(1958年)104頁)
これは質問がよろしくないです。日本人のアメリカ合衆国理解に,若干の不正確を生じさせたように思われる問答です。また,サン・フランシスコ(又はその近傍)の「ある人」も,親切なようでいて知ったかぶりはいけない。「いかにも冷淡」だったのは,知識が必ずしも十分ではなかったゆえでしょう。
アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンには子どもが生まれませんでした。子どものいないワシントンの「子孫」について訊かれても,本来答えようがありません。
2 初代アメリカ合衆国大統領にとっての子の不在の意味
実は,子どもがいなかったからこそ,ワシントンが初代大統領に選ばれたふしがあります。
ワシントンが大統領になるべきだとの輿論は,彼の英雄的行動,彼の無私の愛国心及び戦時の統帥権を進んで返上した彼の意志から生じた。もう一つの――大きなものではないにしても――要因は,彼には見たところ生殖能力が欠けており(apparent sterility),かつ,子どもがいないことであった。このことは,彼は,神意によって,彼の国の国父(the Father of His Country)となるべき清浄なる地位(immaculate
state)に定められているように思わせるものであった。1788年3月に「マサチューセッツ・センティネル」紙は,ワシントンを選出すべき理由を枚挙して掲載したが,その中には「息子がいない――したがって,世襲の後継者という危険に我々をさらすことがない」というものが含まれていた。このことは,諸君主が政略結婚を当然のこととし(routinely made dynastic marriages),また,欧州列強による新しい共和制政府の転覆を人々がおそれていた当時にあっては,もっともな懸念であった。ジョン・アダムズは,ジェファソンに対して,ワシントンが子どものいない大統領となることに覚えた安堵について述べている。「ワシントン将軍に娘がいたら,フランスかイングランドの王室,若しくはおそらく両方から,求婚されたものと私は堅く信じます。また,もし彼に息子がいたら,彼は花嫁さがしの旅にヨーロッパに招待されたことでしょう。」と。ワシントンに出馬を説得するため,彼に子どもがいない事実を示唆しつつ,グーヴェルヌール・モリスは茶目に言った。いわく,「あなたは三百万人を超える子どもらの父になるのですぞ。〔1788年12月6日付け書簡〕」(Chernow,
Ron. Washington: a life. Penguin,
2010. pp.549-550)
ワシントンに子どもができなかったのは,マーサ夫人に原因があったのか,ワシントン自身の若いころの病気によるものか,議論があるようです。
・・・この子どもの生まれなかった婚姻について説明する多くの仮説(theories)が提示された。マーサは,彼女の最後の子であるパッツィー(Martha Parke
Custis)の分娩の際に傷害を負い,その後の出産が不可能になったのかもしれない。ジョージの若いころの天然痘又は他の病気が, 彼から生殖能力を奪ったのではないかと考える学者もいる。・・・(Chernow, p.103)
ワシントンと結婚した時(1759年1月6日),マーサ・ダンドリッジは二人の子持ちの富裕な未亡人でした(亡夫はDaniel Parke Custis)。二人の連れ子のうち,兄のジャッキー(John
Parke Custis)は,1781年10月のヨークタウン戦に参加しますが陣中で病を得て翌11月に幼い3人の娘と一人の息子(George Washington Parke Custis)を残して死亡しました。妹のパッツィーは,てんかんに苦しんで早逝しています。
3 息子の不在と人妻:初期アメリカ合衆国大統領の妻子について
(1)息子の不在
どうもアメリカ合衆国大統領は,息子と縁のない人物が多いようです。福沢諭吉の渡米時までに2期8年を務め上げた大統領はワシントンのほか次の4名がいますが,みな男児には恵まれていません。
第3代(1801‐1809年)のジェファソンには娘はいましたが,アメリカ独立宣言起草後の9月にジェファソンがMonticelloの妻のもとに戻った時に懐胎され,1777年5月28日に生まれたただ一人の息子は,洗礼を受ける間もなく死亡してしまいました(Randall, Willard Sterne. Thomas
Jefferson: a life. HarperPerennial, 1994 (H. Holt, 1993). pp.282, 305)。
第4代(1809年‐1817年)の虚弱なマディソンには子どもがありませんでした。
第5代(1817‐1825年)のモンローの一人息子は夭折しています。
第7代(1829‐1837年)の武闘派ジャクソンにも子どもがいませんでした。
(2)人妻ないしは未亡人
ちなみにこれらの大統領は,5代目のモンローを除いて,人妻であった女性と結婚しています。
ジェファソン夫人もマーサですが,また未亡人でもありました(亡夫はBathhurst Skelton)。マディソン夫人のドリーも未亡人で(亡夫はJohn Todd),連れ子のジョン・ペイン(John Payne Todd)は浪費家となってマディソン家の頭痛の種になりました。ジャクソン夫人のレイチェルもジャクソンと婚姻する前から人妻でした(夫はLewis Robards)。文字どおりの人妻で,レイチェルに懸想しているジャクソンが「おれにこんな素敵な女房がいたら,かわいい瞳に涙を浮かべさせるようなことをわざわざしたりはしないぜ。」と言えば,「ほう,多分な・・・けれど,あの女はてめえの女房じゃないよ。」と亭主のロバーズが言い返すという西部劇的場面もテネシーはナッシュヴィルの街であったそうです(Meacham, Jon. American Lion.
Random House, 2008. p.22)。ジャクソン夫妻は,妻の前夫との離婚が法的に完了する前に結婚してしまい,その後不倫・重婚の非難に悩まされることになりました。1828年の大統領選挙の時のネガティヴ・キャンペーンは大変なもので,心痛のレイチェル夫人は,ジャクソンの大統領当選後,ホワイト・ハウス入りすることなく亡くなりました。
4 福沢諭吉のワシントンの「子孫」架空問答
(1)ヴァジニア州編
ところで,1860年の春,福沢諭吉が太平洋岸のカリフォルニア州ではなく,首都ワシントンに隣接する南部のヴァジニア州(アーリントン付近)にいたらどうだったでしょうか。
・・・私がふと胸に浮んである人に聞いてみたのは,ほかでない,いまワシントンの子孫はどうなっているかと尋ねたところが,その人の言うに,ワシントンにはそもそも子どもが生まれなかった,ただ内室の連れ子から,男児の孫が一人いて,それに女(むすめ)がある,その女がいまどうしているかといえば,メキシコとの戦争で手柄を立て,去年当州のハーパーズ・フェリーで黒人奴隷解放の叛乱の陰謀を粉砕した当州出身のロバート・リーという陸軍軍人の内室になっていると。なるほどワシントンの縁者だけあって武門の家柄のようだ。・・・
ロバート・E・リー将軍は,1861年からの米国の南北戦争において,南軍の総司令官になる人物ですね。妻は前記のGeorge Washington Parke Custisの娘です。
(2)マサチューセッツ州編
それではヴァジニア州ではなく,北東部ニュー・イングランドのマサチューセッツ州(ボストン近辺)だったらどうでしょうか。
・・・私がふと胸に浮んである人に聞いてみたのは,ほかでない,いまワシントンの子孫はどうなっているかと尋ねたところが,その人の言うに,ワシントンには子どもが生まれなかったと。こっちの脳中には源頼朝,徳川家康というような考えがあってソレから割り出して聞いたところがいかにも淡泊な答で拍子抜けだ。これは参った。そこで初代に子孫がいないのなら,2代目はどうかと聞いてみたところが,その人が嬉しそうに言うには,2代目大統領はアダムズというが,当地の出身で,その同名の長男は6代目の大統領になったと。6代目も今は亡くなったが,その息子も政事家であって,黒人奴隷の解放を主張する党派に属して大統領の札入れの際副大統領候補に推されたことがあり,現在は当地からの代議員としてワシントン府で公議に参与している,これもナカナカの人物だという。これは不思議だ。私は,アメリカは共和国,大統領は4年交代ということを承知していたが,アメリカでも大統領の子が大統領になるということで,いまのとおりの答に驚いてこれは不思議と思うたことはいまでもよく覚えている。理学上のことについては少しも肝をつぶすということはなかったが,一方の社会上のことについてはそれまで全く方角がつかなかったのだけれども,子は親に似て親の稼業を継ぐものであるということは不思議なことにやはり東西変わらぬものだと思うたわけだ。
2代目のジョン・アダムズと区別するため,6代目はジョン・クインジー・アダムズ又はジョン・Q・アダムズと表記されることになります(6代目はQですが,41代目H.Wの子の43代目はWですね。)。ジョン・クインジー・アダムズの人となりについては,「少年期から(あるいは外交官であった父に随行しあるいは単独で留学して)しばしばヨーロッパで生活し,アメリカに帰ってはハーヴァード大学を卒業し,11歳の時から名文で自己反省に満ちた日記をつけ,大統領となってからも早朝4時に起きて読書を楽しんでいた物静かで学究的」な人物であったと紹介されています(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)258頁)。
6代目大統領ジョン・Q・アダムズの息子で1860年当時マサチューセッツ州選出の連邦下院議員(1858年当選)をしていたのは,三男のチャールズ・フランシスです。チャールズ・フランシスが,奴隷制の新しい州への拡大に反対する自由土地党(Free Soil Party)から副大統領候補として,同党の大統領候補である元大統領(8代目)ヴァン・ビューレンと共に出馬したのは,1848年の大統領選挙です。チャールズ・フランシス・アダムズは,南北戦争中には,リンカン大統領に駐英公使に任命されて活躍しています(なお,祖父のジョン及び父のジョン・クインジーも駐英公使経験者でした。)。
5 米国における自然の貴族
(1)ジェファソン書簡
米国にも名家名門というものがあるのですね。4代目マディソン大統領時代の1813年,ジョン・クインジーの父にしてチャールズ・フランシスの祖父たる前々大統領ジョン・アダムズあての書簡(同年10月28日付け)において,前大統領トーマス・ジェファソンは,自然の貴族(natural aristocracy)と人造の貴族(artificial
aristocracy)に関して次のように論じています。
・・・というのは,私は,人々の間には自然の貴族がいるのだということについてあなたに同意するからです。徳と才と(virtue and talents)に基づくものです。・・・また,徳も才もないのではあるが,富と家柄と(wealth and birth)に基づいた人造の貴族もいます。・・・社会の教化,信託及び統治のため,自然の貴族は,自然の与える最も貴重な賜物であると思います。・・・政府の官職にこれら自然の貴族たち(natural aristoi)をこそ選任するために最も効果的な方策を講じた政府の形体が最善のものであるとまで,我々は言わないものでしょうか。人造の貴族は,政府にとって有害な分子であって,その進出を抑える方策が講じられるべきです。何が最善の方策かという問題においては,あなたと私の意見は分かれます。・・・あなたは,擬似貴族(pseudo-aristoi)を立法府の一院に置くのが最善だと考えています。そこでは,彼らの策謀は他の部門(co-ordinate branches)によって妨げられるのでしょうし,また,彼らは人民の多数による土地分配的かつ収奪的な試みに対する富のための防壁となるのでしょう。私の方は,彼らの策謀を抑えるために彼らに権力を与えることは,そのために彼らを武装させるものであり,害悪を匡正するのではなくかえって増大させるものだと考えます。というのは,他の部門が彼らの行動を停止させることができるのならば,彼らも他の部門に対して同じことができるだろうからです。策謀は,積極的にのみならず,消極的にも行い得るものです。このことについては,合衆国元老院(Senate)における一徒党が多くの証拠を提供しています。富者を守るために必要だとも思われません。すなわち,彼らのうちから十分な数の者が,彼ら自身を守るため,立法府の全ての部門に入り込むことだろうからです。・・・最善の解決策は,正に全ての我々の憲法において講じられているところのものであると考えます。すなわち,市民に,自由な選挙及び擬似貴族からの貴族のより分け,小麦のもみ殻からのより分けを委ねることです。一般的に,彼らは真に善い者及び賢い者を選ぶものです。時には富が彼らを腐敗させ,家柄が彼らの目を曇らせることがあるでしょう。しかしながら,社会を危険に陥らせるほどのものではありません。
私たちの意見の相違は,ある程度は,我々の住む地域の人々の性格の相違に由来するものでもあるようです。私自身がマサチューセッツ及びコネチカットで見たところ,並びに更に私が聞いたところ,及び両州についてよりよく御存じのあなたが御自身の著作において示された前者の性格によりますと,これらの両州においてはいくつかの名家に対する伝統的な崇敬(traditionary reverence)があるようで,それによって政府の官職がこれらの名家にとって世襲のものに近いものになっているようです。あなたがたの歴史の初期の段階から,たまたまこれらの名家の人々は徳と才との所有者であって,人民の利益のためにそれらを公正に行使し,そして彼らの奉仕によって彼らの家名を人民にとって親しいものにしたものであると想像します。・・・しかしながら,あなたがたのもとにおけるこの官職の世襲的継承は,ある程度は真の一族の実力に基づくものでしょうが,より多くは,あなたがたのもとにおける政教の緊密な協調関係(your strict alliance of Church and State)に由来するものです。それらの名家は,人民の見るところにあっては,「あなたが私を掻き,私はあなたを掻いてあげよう。」との共通原則において列聖されているのです。我々のヴァジニアにあっては,そのようなことは全くありません。革命前,我々の聖職者たちは,固定給によって競争者から保護されていて,人民に対する影響力を獲得しようとする努力をしませんでした。富については,イングランドの継嗣限定法の下,世代から世代に受け継がれて特定の家への大きな集中が存在していました。しかしながら,富裕者の唯一の野心の目標は,政府の参議会(King’s Council)における議席でした。彼らは王冠とその取り巻きの機嫌ばかり伺っていました。・・・したがって,彼らは不人気でした。そして,その不人気は彼らの家名になおも付着しています。・・・独立宣言後最初に開かれた我々の議会の会期においては,継嗣限定法を廃止する法律を制定しました。長子の特権を廃止するとともに無遺言被相続人の土地を全ての子又は他の相続人に平等に分割するものとする法律が続きました。私自身によって起草されたこれらの法律は,擬似貴族(pseudo-aristocracy)の根本に大なたをふるったものです。そして,私の準備したもう一つの法案が議会によって採択されていれば,我々の仕事は完了していたところでした。それは,より全般的に知識を広めるための法案でした。・・・各学区に読み書き及び基礎的な算数のための無料の学校を設立するようにします。これらの学校から最優秀の生徒を毎年選抜するようにし,それらの生徒は公費でより高等な教育を地区の学校で受けることができるようにします。そして,これらの地区学校から,一定数の最も前途有望な生徒を選ぶようにし,全ての有益な科学が教授される大学において学業を完了させるようにします。このようにして,あらゆる境遇の中から,ふさわしい者及び天才が探し出され,公共の信託をめぐる競争において富と家柄とに基づく競争者を打ち倒すべく教育によって完全に準備されるのです。・・・聖職貴族(aristocracy of the clergy)を押さえ付けることによってこのシステムの一部をなすとともに市民に精神の自由を回復させた信教自由法並びに市民間の条件の平等を促進する継嗣限定及び不動産相続に関する各法律。この教育に関する法律は,人民大衆を,彼ら自身の安全及び秩序ある統治のために必要な道徳的立派さの高みにまで向上させるはずのものであって,偽者(pseudalists)を排除し,統治の信託のために真の貴族を選び得る資質を彼らに備えさせるという大目標を完結させるはずのものでありました。・・・
貴族というもの(aristocracy)については,我々は更に次のことを考えなければなりません。すなわち,アメリカ各邦の成立前には,歴史において,狭く又は混雑した境界内にあくせくし,そのような環境がもたらす悪習に染まった旧世界の人間しか知られていなかったということです。そのような連中に適合する政府というものは一つあります。しかし,我らが各州の人間に適合する政府とは非常に異なったものです。こちらにおいては,そう望めば,だれもがそこで自らのために働くべき土地を取得することができます。また,他の仕事をするのが好みであれば,相当の生活(comfortable subsistence)ができるのみならず仕事をやめた老後に備えることもできるだけの収入をそこから得ることができます。全ての人が,彼の財産ないしは満足すべき境遇からして,法と秩序との擁護に利益を有しています。そして,そのような人々は,安全かつ有益に,彼らの公共事務に係る堅実な監理並びに,ヨーロッパの都市のごろつきどもの手に落ちたならば公私にわたる全てのものの解体及び破壊に直ちに変ぜられてしまうこととなるところの高度の自由までを自ら保持することができるのです。過去25年間のフランスの歴史及び過去40年,否,過去二百年間のアメリカの歴史は,この観察の双方の真実を証明してくれます。
しかし,ヨーロッパでも,目立って人間の精神に変化が生じています。科学が,読みかつ考える人たちの考え方を解放し,アメリカの範例が,人民の権利の感情を喚起しました。続いて,軽蔑されるようになった地位及び家柄に対する,科学,才能及び勇気の叛乱が始まりました。それは,最初の試みにおいては失敗しました。というのは,その達成のために使われた道具たる都市の群衆(mobs)は,無知,貧困及び悪習によって堕落しており,理性的な行動の枠内にとどめることができなかったからです。しかしながら,世界はこの最初の惨害の恐慌から回復するでしょう。科学は進歩しつつあり,才能と企業心は覚醒しています。かれらの節操及び従順からしてより統御可能な勢力であるところの地方人民に対する働きかけがされることでしょう。そして,地位及び家柄並びに虚飾の貴族制度(tinsel-aristocracy)は,かの地においても小さなものとなって最終的に意義薄きものとなるでしょう。しかしながら,このことには,我々は介入する権利を有しておりません。我々にとっては,不忠実なしもべが企む策謀が取り返しのつかない段階に進む前に彼を取り除くことができるように短い期間を置いて行われるものとされた選挙制度の下,我々自身の市民の精神的及び物質的な条件(moral and physical condition)が,彼らを彼らの政府の運営のために有能かつ善良な者を選ぶことができるものと資格づけるものであれば,十分です。
私はこのようにして,我々の意見が相違する点について私の意見を申し述べましたが,これは論争のためではありません。研究及び思索に過ごした長い人生の結果である意見を変えるには,我々は齢を取り過ぎているからです。あなたの以前のお手紙にあった,我々は我々自身をお互いに説明する前には死ぬべきではない,との御提案に従った次第です。・・・
1813年10月といえば,同月16日からのライプツィヒにおける「諸国民の戦いVölkerschlacht」でナポレオンは敗れ,フランス第一帝政は既に終末期となっていました。しかし,この段階ではジェファソンも,フランス革命は失敗だったと認めていたのですね。ワシントン政権内におけるアレグザンダー・ハミルトンとの抗争の際には,ジェファソンはフランス革命を支持していたはずであり,1792年に王政が廃止されて共和国となり過激化するフランス革命について,「全地上の自由は,この抗争の結果いかんにかかっていたのです。そして,このように貴重な獲得物が,かつてこれほど少ない無辜の血によってあがなわれたことがあったでしょうか。」,「かの地における停滞は,他の諸国における自由の回復を遅らせるでしょう。私は,彼らの政府の確立とその成功とを,我々自身の政府を支持し,かつ,それが英国的国制なる中途半端なものへ転落することを防ぐために必要なものであるとみなしています。」と言って弁護していたのですが(1793年1月3日付けWilliam Shortあて書簡。Randall, p.512)。
ジェファソンを創立者とするヴァジニア大学 (ヴァジニア州シャーロッツヴィル)
(2)ジョン・アダムズ家の場合
ジョン・アダムズの長男の第6代アメリカ合衆国大統領ジョン・クインジーは,徳と才とに満ちた自然の貴族(natural
aristocrat)だったのでしょう。ところでそれでは,ジョン・クインジーの二人の弟たちはどのような人物だったのでしょうか。
第2代大統領の次男のチャールズは,十代の半ばには既に両親の心配の種で,ハーヴァード大学の学部学生時代にはアルコール中毒(母方に,アルコール中毒で若くして死んだおじがいました。)の兆候を示しており,更に独立戦争の功労者ながら同性愛者であると見られていたフォン・シュトイベン将軍とニュー・ヨークで同居するなど一般的ならざる性癖を示していたようです(Ferling, John. John Adams: a
life. Oxford University Press, 2010 (The University of Tennessee Press,
1992), pp.322-323)。1792年には弁護士業を始めましたが,結局アルコール中毒で肝臓を壊し,父のジョンが大統領選挙でジェファソンのリパブリカン党に敗れた年である1800年の11月30日に30歳で死亡しました。チャールズの死の前年の秋,回復不能のダメ人間になっていた次男をニュー・ヨークで見たアダムズ大統領は激怒し,「放蕩者」,「けだもの」,「悪魔に取りつかれた狂人」とののしり,もう二度と会わないし,かかわりも持たないと宣言して,結局そのとおりとなってしまっています(Ferling, p.386)。
「幸せなワシントン!子どもがないのは幸せだ!」「私の子どもたちは,私の敵全体からよりも多くの苦痛を私に与える。」とは,妻アビゲイルへの書簡中におけるジョン・アダムズの嘆きです(Ferling, p.388)。
三男のトーマス・ボイルストンも弁護士になりましたが,結局当該稼業は好きになれず,フィラデルフィアからマサチューセッツの地元に移って「青い悪魔」と自ら呼んだ憂鬱の発作に悩まされるようになりました。33歳で結婚し,それから偉大な親のプレッシャーを感じてマサチューセッツ州議会議員となりますが,1年もたたないうちに辞任しています。彼をも蝕むようになったアルコール中毒に関係があるようです。(Ferling, pp.420-421)1818年10月28日に母アビゲイルが亡くなった後,父の住むピースフィールド(マサチューセッツ州クインジーにある1788年からのアダムズ邸)に妻と6人の子どもと共に移って来ますが,それには,老父を介助するという目的だけではなく,経済的な理由もあったところです。長兄のジョン・クインジーはワシントンでモンロー政権の国務長官になっていましたが,トーマス・ボイルストンはアルコール中毒が進み,頼りない初老の男になっていました。父の元大統領は,次男チャールズに係る辛い思い出のゆえか,三男のアルコール中毒にかかわることから逃げています。(Ferling, p.438)
酒は恐ろしく,子育ては難しい。
6 再び福沢諭吉
(1)酒
ところで,酒といえば,我らが福沢諭吉先生も大変なものでした。『福翁自伝』にいわく。
・・・そもそも私の酒癖は,年齢の次第に成長するにしたがって飲み覚え飲み慣れたというでなくして,生まれたまま物心のできたときから自然に好きでした。いまに記憶していることを申せば,幼少のころ月代をそるとき頭のぼんのくぼをそると痛いからいやがる。スルトそってくれる母が「酒をたべさせるからここをそらせろ」というその酒が飲みたさばかりに,痛いのをがまんして泣かずにそらしていたことは,かすかに覚えています。天性の悪癖,まことに恥ずべきことです。・・・(慶応義塾創立百年記念版48頁)
・・・年25歳のとき江戸に来て以来,嚢中も少し暖かになって酒を買うくらいのことはできるようになったから,勉強のかたわら飲むことを第一の楽しみにして,朋友の家に行けば飲み,知る人が来ればスグに酒を命じて,客に勧めるよりも主人の方がうれしがって飲むというようなわけで,朝でも昼でも晩でも時をきらわずよくも飲みました。(同293頁)
しかしながら,福沢諭吉は,32ないし33歳のころ,節酒を決意し,3年ほどかけて成功します。健康な人物です。
・・・支那人が阿片をやめるようなものでずいぶん苦しいが,まず第一に朝酒を廃し,しばらくして次に昼酒を禁じたが,客のあるときはやはり客来を名にして飲んでいたのを,ようやくがまんして,のちにはその客ばかりにすすめて自分は一杯も飲まぬことにして,これだけはどうやらこうやら首尾よくできて,サア今度は晩酌の一段になって,その全廃はとても行われないから,そろそろ量を減ずることにしようと方針を定め,口では飲みたい,心では許さず,口と心と相反してけんかをするように争いながら,次第次第に減量して,やや穏やかになるまでには3年もかかりました・・・私が生涯鯨飲の全盛はおよそ10年間と思われる。その後酒量は減ずるばかりで増すことはない。初めの間はみずから制するようにしていたが,自然に減じて飲みたくも飲めなくなったのは,道徳上の謹慎というよりも年齢老却のせいでしょう。・・・(同293頁)
(2)子どもの教育
さて,子どもの教育は,自然の貴族たるべく厳しくしつけるべきかどうか。
・・・長男一太郎と次男捨次郎と両人を帝国大学の予備門に入れて修学させていたところが,とかく胃が悪くなる,ソレカラ宅に呼び返していろいろ手当すると次第によくなる。よくなるからまた入れるとまた悪くなる。とうとう3度入れて3度失敗した。・・・なにぶんらちがあかず,子供は相変わらず3ヵ月やっておけば3ヵ月引かしておかなければならぬというようなわけで,なんとしても予備門の修業に堪えず,私もついに断念してしもうて,それからこちらの塾(慶応義塾なり)に入れて普通の学科を卒業させて,アメリカにやって,かの大学校の世話になりました。・・・なんとしてもからだが大事だと思います。(『福翁自伝』慶応義塾創立百年記念版269頁)
優しいお父さんでよかったですね。
まずは独立自尊。
「心身の独立を全うし,自ら其身を尊重して,人たるの品位を辱めざるもの,之を独立自尊の人と云ふ。」ですね(修身要領第2条『福沢諭吉選集第3巻』(岩波書店・1980年)293頁)。自然の貴族となるまでの無理はしなくともよいのでしょう。
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