第1 ワシントン体制下における幣原外交
1 ワシントン体制の通説的評価
1921年11月12日から1922年2月6日まで,ハーディング政権下の米国の首都ワシントンで開催された・我が国並びに米英仏伊白蘭葡及び中華民国の9箇国によるワシントン会議において構築された軍備制限問題並びに東アジア問題及び太平洋問題に関するワシントン体制(それぞれ五ヵ国条約,九ヵ国条約及び四ヵ国条約が対応)についての通説的評価は,次のようなものでしょう。
さて,かくしてワシントン会議は無事終了,当時国際協調の成果の最もあがれるものとして,その成功はひろくうたわれたものである。〔略〕
〔略〕
〔略〕日本政府の意向はアメリカ政府の意図と本質的対立はなかった。それゆえワシントン会議の成果は,当時海軍関係者をのぞけば,おおかた国の内外から好感をもって迎えられたのである。
〔略〕
もしワシントン会議の招請に応じなかったらとか,もし会議の決裂をかけて〔海軍主力艦の排水総量につき米英日それぞれ5・5・3ではなく,〕10・10・7の比率を固執したらとか,もし山東問題について〔我が国が第一次世界大戦中に得た同地におけるドイツの旧〕権益〔の中華民国に対する〕返還を拒否したらなど,いくつかの取りえたであろう可能性がかんがえられる。しかし,いずれをとってみても,いっそう日本を孤立せしめたであろう点ではかわりない。まったく質のちがった革命政権ででもないかぎり,当時の「大日本帝国」の政府としては,おそらくこの結末が一番穏当な方策であったのではあるまいか。
ワシントン会議以後,1927(昭和2)年4月〔20日〕田中〔義一〕内閣の成立まで,日本政府が国際政局においてじゅうぶんの威信と信頼をかちえたのは,やはりワシントン会議の成果として評価すべきである。
(江口朴郎編『世界の歴史14 第一次大戦後の世界』(中公文庫・1975年(単行本1962年))452-454頁(衛藤瀋吉))
1924年6月11日から1927年4月20日までの間,加藤高明内閣及び第1次若槻禮次郎内閣の外務大臣は,幣原喜重郎でした(幣原は,ワシントン会議における我が国全権委員の一人でした。)。田中義一内閣の外務大臣は,田中内閣総理大臣が自ら兼任しています。田中の外務大臣兼任については,1927年4月19日に「11時30分,〔昭和天皇は〕田中に謁を賜い,内閣組織を命じられる。その際,支那問題,経済問題は目下最も憂慮すべき状況にある故,一昨日〔同日の枢密院会議における台湾銀行救済緊急勅令案(日本銀行ノ特別融通及之ニ因ル損失ノ補償ニ関スル財政上必要処分ノ件)の否決を承けて閣員全員の辞表を捧呈した〕若槻に対しても特に尽瘁するよう言って置いたが,この2問題については十分考慮せよとの御沙汰を賜う。」ということがあったので(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)686頁),田中義一は,それでは幣原に代わっておらが自ら支那問題に尽瘁しなければ,と考えたものでもあるのでしょうか。ちなみに大蔵大臣は,片岡直温(1927年3月14日の衆議院予算員会で「現ニ今日正午頃ニ於テ渡邊銀行ガ到頭破綻ヲ致シマシタ」と発言した当の大臣(第52回帝国議会衆議院予算委員会議録(速記)第9回19頁))から,田中義一内閣では高橋是清に代わっています。
2 国民革命軍の北伐及び1927年の南京事件に対する幣原外交
(1)「支那問題」
「支那問題」とは具体的には何かといえば,広東から発した国民革命軍の北伐及びそれに伴う諸外国との紛争です(北伐の結果,中華民国は,国号は変わらずとも国旗は異なる別の国となったというべきでしょう。)。
第1次若槻内閣の末期の1927年3月24日には,北伐の途次南京を占領した国民革命軍による南京事件(「〔1927年4月〕2日 土曜日 午後,外務大臣幣原喜重郎参殿につき,〔昭和天皇は〕約50分間にわたり謁を賜い,南京事件昨月24日,南京において南軍(国民革命軍)の一部や民間人により各国外交機関や居留民が襲撃を受け,在南京日本領事館もまた略奪,暴行を受けたに関する奏上をお聞きになる。」(実録第四675頁))が生じ,これに対して「長江上にあったイギリス,アメリカの軍艦は,南京市内に約2時間にわたって砲弾をぶちこんだ。日本の駆逐艦もいたが,へたに砲撃するとかえって国民革命軍を激昂せしめ,居留民が殺害されるおそれありとして共同動作を拒否した。」という事態となっていました(江口編481頁(衛藤))。
更に同年「4月3日,中国側の大衆デモが漢口日本租界内に入って暴行をはたらき,警備中の日本陸戦隊と小ぜり合いをやる事件がおこった」ところ,「この事件は日本国内にはねかえった。南京事件,つづいて漢口事件とことをおこしながら,なんら対策をたてえぬ無能軟弱の幣原を倒せの声は,いやがうえにもたかまってきた。大新聞は比較的おだやかであったが,野党政友会〔総裁は田中義一〕,軍,そして右翼からの非難ははげしかった。」ということでしたので(江口編487頁(衛藤)),昭和天皇が宸襟を悩ませ給うに至ったことは,当然の成り行きでしょう。(ちなみに,南京事件発生の3月24日から田中義一内閣成立の翌4月20日までの間,幣原外務大臣が昭和天皇に奏上を行ったのは4月2日の1回のみです(実録第四670-687頁参照)。)
(2)幣原「軟弱」外交
ところで,1926年7月9日からの国民革命軍の北伐(同日,蒋介石が同軍総司令に就任)に対し「イギリスは陸軍3個旅団を上海防備の増援軍として派遣することに決定,日本とアメリカにむかってしきりに共同出兵をうながし」ていたものの,かつての日英同盟及び現在の四ヵ国条約(日米英仏の四国協商)の精神もあらばこそ,「ときの外相幣原喜重郎は,ほとんど毎日のように外務省をおとずれるイギリス大使ティレーの説得にも動かず,対華不干渉の原則を主張して出兵に応じなかった。」という状況であったとのことです(江口編482頁(衛藤))。しかしてそこに南京事件。かねてからの対北伐武力干渉論の「イギリスは,南京事件責任者の処罰と謝罪を期限つき最後通牒で要求すべし」と強硬でした(同頁)。
ここにおいて,英米追随に単にとどまるものではない・幣原「軟弱」外交の真価が燦然と輝いた,というのが衛藤瀋吉教授の評価なのでしょう。
幣原は,北京公使芳沢謙吉をはじめ,ロンドンやワシントンの駐在大使をはげまして英・米両国政府を説得させるとともに,自分も東京で両国の使臣に条理をつくして説いた〔期限付き最後通牒を突き付けて期限内に回答がなく,拒否された場合,①沿岸封鎖をしても中華民国側は苦痛を感じないで,むしろ困るのは外国人居留民ではないか,②中華民国側を屈服させるべき兵要地点に砲撃を加えるといっても,国民革命軍の支配下にそのような兵要地点は存在せず,むしろ奔命に疲れるだけであろう,③軍事占領といっても,多数の小さな兵要地点を広い範囲にわたって占領することは事実上不可能,④仮に国民政府を倒しても,共産派や不正規兵は依然として残り,かえって無政府状態のまま混乱が激しくなるであろう(江口編483-484頁(衛藤)及び1927年4月2日幣原外務大臣ティリー英国大使会談記録(外務省『日本外交文書 昭和期Ⅰ第一部第一巻(昭和二年)』(1989年)542-545頁)並びに当該会談及び同月5日の駐日米国大使との外務大臣会談に係る同月6日付け幣原大臣発・在中華民国芳沢公使宛て電報第168号(『日本外交文書 昭和期Ⅰ第一部第一巻』563-564頁)参照)。〕。なんとかして破局をもたらすような,そして蒋〔介石〕を没落させるような期限つきの最後通牒を出させまいとしたのである。と同時に,それと並行して在上海総領事矢野七太郎をして蒋介石の説得にあたらせた。
とにかく,はやくあやまれ,列国の鋭鋒をさけるために,南京事件のあと始末について誠意をしめせ,そして共産党とはやく分離せよ。
(江口編485頁(衛藤))
〔1927年〕4月11日,ついに北京公使団は南京事件に関する共同通牒を,期限つきの最後通牒というかたちをとらず,もっとおだやかなかたちでまとめあげ,〔容共左派の〕武漢政府と〔国民政府の中枢において少数派(3月11日には国民革命軍総司令部廃止)となってしまっていた上海の〕蒋介石と双方にあてて送付した。日本側の説得が功を奏したのである。
4月12日,蒋介石は上海ブルジョワジーのやとった武装した連中と相呼応し,あらかじめ外国租界当局の諒解を得て猛烈な反共クーデタをおこなった。共産系の指導者のほとんどが逮捕処分され,その他犠牲は数千と称せられる。この一挙によって,上海・南京地区の共産系組織は壊滅した。
霞ヶ関の大臣室で矢田からこのしらせをうけとった幣原は,ほーっと安堵のため息をもらしたであろうか。
〔略〕
かくて,中国革命の主導権をにぎるときがきたとのコミンテルンの判断にもかかわらず,この四・一二クーデタを転機として,共産革命の潮はグーッとひきはじめる。
4月20日〔18日〕,蒋介石の手による反共南京国民政府の樹立,5月21日,武漢政府支配下の長沙での反共クーデタ,7月,武漢政府の共産党員放逐,9月,武漢政府と南京政府との合体というふうに。
(江口編487-488頁(衛藤))
しかし,「日本政府が国際政局においてじゅうぶんの威信と信頼をかちえた」期間は,ワシントン会議閉幕から第1次若槻内閣退陣までの5年2箇月余限りであったというのであれば,これは短かったというべきでしょう。
(3)1927年の南京事件の具体像
なお,南京事件は具体的にはどのようなものであったかといえば,在南京日本領事館の襲撃については,海軍無線経由で1927年3月26日に外務本省に到着した当該領事発・幣原外務大臣宛ての電報においては次のように報ぜられています。
昨24日前7時頃ヨリ11時半ニ亙リ党軍第2軍6軍所属支那兵約150名驢馬車等ノ運搬具ヲ用意シ来タリ入替リ立替リ制服制帽ニテ小銃ヲ携ヘ当館ニ乱入シテ直ニ武力掠奪ニ移リ一隊ハ事務所及館員官舎ヲ一隊ハ領事官邸ヲ襲ヒ本官以下館員家族上陸中ノ海軍士官水兵及避難中ノ男女在留邦人100余名ニ向ヒ間断ナク実弾ヲ発射シ或ハ「ベイヨネット」ヲ擬シ甚シキニ至リテハ足ノ病気ニテ臥床中ノ本官寝具寝巻キヲ剥取リタル後枕元ヨリ前後2回実弾狙撃ヲ為シ或ハ婦人連中ニ対シ幾回トナク忍フヘカラサル身体検査ヲ行ヒ之ニ附随シテ数百ノ無頼漢乗込ミ当館備品及館員ノ私有品及引揚在留民荷物等ヲ徹底的ニ掠奪シテ以テ余サス床板,便器,空瓶迄持去リタリ此騒動中ニ木村〔三衣警察〕署長右腕ニ貫通銃創ト左胸側ニ刺創ヲ根本〔博〕少佐ハ左胸部ニ刺創腰部ニ打撲傷ヲ受ケタル処兵士ノ暴力ハ停止スル処ナク自動車庫ヨリ「ガソリン」ヲ持チ出シ当館ニ放火シ一同ヲ焼殺サント放言スルニ至〔る〕〔中略〕本件急変ニ際シ在留官民一同終始沈着ナル態度ト周到ナル用意トヲ以テ御真影ト運命ヲ共ニスル決心ヲ為シ一糸乱サス行動シ得タルコトハ本官ノ特ニ満足スル所ナルト同時ニ有ラユル迫害ノ下ニ御真影及極秘書類入金庫ノ鍵ヲ苦心監督シテ絶対安全ヲ保チ得タルコトハ実ニ 天皇陛下ノ稜威ニ依ルモノニシテ一同ノ恐懼感泣ニ堪ヘサル所ナリ〔以下略〕
(『日本外交文書 昭和期Ⅰ第一部第一巻』515-516頁)
更に同年4月5日付けの同領事発・外務大臣宛ての公信第272号「南京事件真相ニ関シ報告ノ件」には,次のようにあります。
〔前略〕少数ナル水兵ヲ以テ幾千ノ支那兵ニ武力対抗ヲ為スコトハ絶対不可能ノコトニ属シ結局如何ナル事件起ルモ無抵抗主義ヲ取ルノ外ナキヲ以テ寧ロ党軍及民衆ノ敵愾心ヲ挑発セサルカ為早キニ及ンテ土嚢及機関銃ハ撤去スル方有利ナリト考ヘ右撤去方荒木〔亀男〕大尉ニ要求シタルニ大尉モ同感ニテ言下ニ之ヲ撤去シ同時ニ正門門扉ヲ開キタリ然ルニ〔午前〕7時頃ニ至リ〔後略〕
(『日本外交文書 昭和期Ⅰ第一部第一巻』558頁)
〔前略〕荒木大尉外兵員10名ハ軍装ナル為暴兵ノ敵愾心ヲ挑発シ反ツテ在留民ニ迷惑ヲ及ホスヘキヲ恐レ官邸北側ノ「ボーイ」室ニ避難シ居リタルカ在留民一同ハ飽迄陸戦隊ノ無抵抗主義ヲ懇請シ且正服正帽ノ儘在留民ト一緒ニ居ルコトハ一同ノ生命安全ノ為甚タ好マシカラサルヲ以テ気ノ毒乍ラ各兵階級章及帽子ノ如キ標識ヲ一時取リ去ラレ度旨本官ニ懇望シ来レルヲ以テ本官ハ已ニ絶対無抵抗主義ニ決シ加之在留民ノ生命カ風前ノ燈火ニモ比スヘキ時ニ当リ右ハ不得已ル要求ナリトナシ荒木大尉ニ協議シタル処大尉モ一同ノ要求ヲ諒トシ在留民安全ノ為ニ忍フヘカラサルヲ忍ヒテ其請ヲ容レタルハ本官及在留民一同ノ感謝ニ不堪ヘサル処〔後略〕
((『日本外交文書 昭和期Ⅰ第一部第一巻』559頁)
軍人の名誉もあらばこそですが,我が国民性としては,命あっての物種なのでした。
ただし,日本領事館にいた避難民の一人である須藤理助氏によれば,無抵抗主義は,在留民発のものではないそうです。いわく,「23日,土嚢を築いた防備を,24日朝になつて撤廃すべく領事から要求されたことは事実であらうが,それが在留民全体の要求として無抵抗主義を取るべく要求したものではない,事件の突発は瞬間であつて,事前に左様な協議の暇の在り得やう筈がない。少なくとも私共同室の38名は,左様な無抵抗主義を主張した覚えはない。又その混乱の最中に於て,私は荒木大尉をも水兵をも見受けなかつたのである。無抵抗主義によつて,生命が安全であつたことは,偶然の結果であつ〔た〕」と(中支被難者聯合会編『南京漢口事件真相――揚子江流域邦人遭難実記――』(岡田日栄堂・1927年)44頁)。
とはいえ,武力をもって抵抗したならばどうなったか。7年前の1920年3月12日に発生した後記の尼港事件の前例もあったところです。
また,実際には,「終始沈着ナル態度」をもって「一糸乱サス行動」がされたわけでもありません。前記公信第272号にいわく。
〔前略〕避難者ハ虎狼ニ襲ハレタル群羊ノ如ク四方八方ニ追ヒ廻サレ婦人ハ幾回トナク忍フヘカラサル身体検査ヲ受ケ叫喚悲鳴聞クニ忍ヒス〔後略〕
(『日本外交文書 昭和期Ⅰ第一部第一巻』559頁)
「身体検査」とは何ぞや,ということになるのですが,これについては,民間出版物に次のようにありました。
更に婦女子に加へた暴虐に至つては,全く正視するに忍びなかつたと云ふ。髪を解かせ帯を解かせ,肌着を脱がせ足袋を脱がせ,最後には〇〇〇〇〇奪去り,言語に絶した〇〇〇加へんとした。最初腕時計を取られた或夫人は,次に来た暴兵に指輪を強要されたが急に脱げぬので,危くナイフで指を斬去られやうとした。或夫人は別室に連行かれ〇〇〇〇〇〇〇〇〇貴重品を隠してゐると云ふので無遠慮極まる検査を受けた。暴兵に手を捉られ頻りに助けを呼んだが,傍に居た人々にも顧みられなかつた某夫人は,やはり〇〇〇〇〇〇〇〇〇指のさきや銃剣で突かれた。〔中略〕裸形にされた母親は必死となつて暴徒と争ふ,子供は火のつく様に泣叫ぶ。暴兵に引ずり行かるゝ婦人が,髪振乱して助けを叫ぶも誰一人として手も出せない。其処には銃剣が睨んでゐるのだ。銃弾が血を喚んでゐるのだ。之が地獄でなくて何であらう。
嗟乎,獰猛残忍其の者のやうな,しかも塵垢だらけの薄汚ない蛮兵の前に,一糸残らず奪去られて戦き慄えつゝある雪白の一塊を想へ。而かも其れは我同胞の婦女子なのだ。こうして筆を走らせてゐても,肉戦き血湧くを禁じ得ない。
(中支被難者聯合会編14-15頁)
最後に,当時の在南京大日本帝国領事殿に対する須藤理助氏の評価は,厳しい。
殊に事件の突発に際して,最善の方法を講ぜず,その暴行を受くるに当つて,たとへ病中であつた,実見者の談によると,領事は暴行兵に対して△を△はして△△△△の礼を取つた,それでも暴行兵が威嚇的に実弾2発を発射するや,命中してゐないにも拘らず,領事は△△に△△するの態度を執つたさうである。その醜態は多く語るに忍びない。苟くも帝国を代表する在外官吏としては,今少しく立派なる態度を執つて貰ひたかつたと思ふのである。
又更らに事件後の在留民の処置は,領事として最も重大なる責任ありと思ふのであるが,その処置は如何であつたか。領事館に避難することを得なかつた城内の日本人を探し求めて安全に避難せしむべきが至当であるにも拘らず,何等その挙措に出づることなく,領事は引揚に際し真先に自動車で軍艦に避難してしまつた。〔後略〕
(中支被難者聯合会編46-47頁)
(4)南京事件の後始末
南京事件解決のための我が国芳沢謙吉全権公使と中華民国国民政府王正廷外交部長との間の往復文及び損害賠償に関する了解事項は1929年5月2日付けで作成されています。王外交部長からの来翰に対する芳沢公使の往翰の内容は次のとおりでした。悪いのは,共産党だったのです。
以書翰啓上致候陳者本日附貴翰ヲ以テ左ノ通御照会相成了承致候
一昨年3月24日発生セル南京事件ニ関シ本部長ハ茲ニ特ニ貴公使ニ対シ国民政府ハ中日両国人民固有ノ友誼ヲ増進セント欲スルガ為ニ該事件ヲ速ニ解決スルノ準備ヲ有スルコトヲ声明致候
茲ニ本部長ハ国民政府ノ名義ヲ以テ本事件ニ於テ日本国領事館,官吏及其ノ他ノ日本人ニ対シテ加ヘラレタル侮慢非礼並ニ其ノ財産上ノ損失及身体上ノ傷害ニ対シ極メテ誠懇ノ態度ヲ以テ貴国政府ニ向テ深ク遺憾ノ意ヲ表示致候該事件ハ調査ノ結果完全ニ共産党ガ国民政府南京建都以前ニ於テ煽動シテ発生セシメタルモノナルコトヲ実証シ得タリト雖モ国民政府ハ之ニ対シ責任ヲ負フベク候
国民政府ハ在支日本人ノ生命財産ニ対シテハ既ニ其ノ抱持セル政策ニ基キ数次軍民長官ニ対シ継続的ニシテ切実ナル保護方ヲ通令シ居レルガ現在共産党及其ノ中日人民ニ関スル友誼ヲ破壊スベキ悪勢力ハ既ニ消滅シタルニ依リ国民政府ハ今後外国人ノ保護ニ付テハ自ラ力ヲ尽シ易カルベク国民政府ハ特ニ責任ヲ負ヒテ日本人ノ生命財産及其ノ正当ナル事業ニ対シ再ビ同様ノ暴行及煽動ハ之ヲ発生セシメザルベキコトヲ併セテ声明致候
尚本部長ハ当時共産党ノ煽動ヲ受ケ此ノ不幸ナル事件ニ参加シタル当該軍隊ヲ既ニ解散シタルコト並ニ国民政府ガ既ニ切実ナル辨法ヲ施行シ事件ニ関係アル兵卒及其ノ他ノ関係者ヲ処罰シタルコトヲ茲ニ併セテ貴公使ニ通知致候
国民政府ハ国際公法ノ一般的原則ニ従ヒ日本国領事館,日本国官吏及其ノ他ノ日本人ノ受ケタル身体上ノ傷害及財産上ノ損失ニ対シ速ニ充分ナル賠償ニ応ズルノ準備有之此ノ為国民政府ハ中日調査委員会ヲ組織シ以テ日本人ノ支那人方面ヨリ受ケタル傷害及損失ヲ実証スルト共ニ毎件ニ付賠償スベキ数目ヲ査定センコトヲ提議致候
依テ本使ハ前記貴翰ニ於テ表示セラレタル提議ニ対シ同意ヲ表シ且国民政府ニ於テ前記貴翰御来示ノ責任ヲ最短期間内ニ於テ完全ニ履行セラルルニ於テハ南京事件ニ依リ発生セル各種問題ハ根本的解決ヲ告グルモノト認定致候
此段回答得貴意候 敬具
昭和4年5月2日
日本帝国特命全権公使 芳沢謙吉
国民政府外交部長 王正廷殿
(外務省『日本外交文書 昭和第Ⅰ期第一部第三巻(昭和四年)』(1993年)533-534頁)
日本語では「遺憾ノ意」と訳されている部分は,原文では「歉意」となっています。
また,「事件ニ関係アル兵卒及其ノ他ノ関係者ヲ処罰シタルコト」とあるので,将校はどうなのかという問題がありますが,これについては1929年5月1日の枢密院会議において田中義一内閣総理大臣兼外務大臣が「暴行ニ参加シタル軍隊ヲ指揮シタル将校ニ対シテハ逮捕命令ヲ発シタルモ未タ逮捕ニ至ラス」と回答しています(『枢密院会議筆記』)。とはいえ,「南京事件解決方ニ関スル件」は当該枢密院会議において全会一致をもって可決されています。同月14日には「午後2時30分,〔昭和天皇は〕表内謁見所に出御され,お召しにより参内の支那国駐箚特命全権公使芳沢謙吉に謁を賜い,最近の支那問題についての講話を御聴取になる。宮内大臣・次官・侍従長・侍従武官長その他が陪聴し,終わって賜茶あり。」という運びとなっています(宮内庁『昭和天皇実録 第五』(東京書籍・2016年)357頁)。
第2 ワシントン体制崩壊後の奥村広報
1 1941年12月8日の「宣戦の布告に当り国民に愬ふ」
ところで,第1次若槻内閣退陣から14年と8箇月弱,ワシントン会議閉会から19年10箇月余の1941年12月8日となると,既にワシントン体制は,「国策遂行ノ基礎タル事項ニ関スル情報蒐集,報道及啓発宣伝」(情報局官制(昭和15年勅令第846号)1条1項1号)を担当する我が国政府機関の高官閣下から最低の評価を受けるに至っています。対英米蘭戦が開始せられた同日(日本時間)の19時30分から(19時の時報,君が代,宣戦の詔書の奉読,東條内閣総理大臣の謹話(同日昼の「大詔を拝し奉りて」を録音したものの再放送),愛国行進曲及びニュースに続くもの),情報局の奥村喜和男次長は,「宣戦の布告に当り国民に愬ふ」という自らの演説を,社団法人日本放送協会に放送せしめていますが,そこにおいて,いわく。
米国の日本に対する暴戻なる態度は,決して今日に始つたものではないのであります。日露戦争以来,ハリマン協定以来,米国の日本の進路に対する執拗なる妨害は,殆ど例を挙げて数ふるの煩に堪へないのであります。〔後略〕
〔略〕
わけても,アジアにおいて彼の意図するところは,支那市場の完全なる独占であり,アジアの犠牲においてする帝国主義的膨張であります。思へば米国の東亜への侵略は,ジョン・ヘイの門戸開放要求以来,既に四十年の生々しき歴史を持つてゐるのであります。今日までアメリカが太平洋において着々と計画を進めて参りましたことは,一にはアジアの政治的支配に在り,二にはアジア資源の経済的独占に在つたのであります。過去二百年に亘る白人のアジア搾取は,米国のアジア侵略の計画において絶頂に達するのであります。
日露戦争の講和条約の調印もまだ終らぬうちに起つたハリマン協定は,早くもアメリカの野望をあからさまに暴露したものでありました。これに引き続いて執拗に繰り返された満鉄共同経営の提議にいたしましても,満洲中立の要求にいたしましても,いづれも米国がアジアに挑んだ血を見ざる侵略の戦でありました。二十億の国帑と十万同胞の血を流して漸く確保したる満洲の権益を,そつくり横合ひから奪ひ取らうとしたのであります。さらに1910年の錦愛鉄道協定といひ,1914年の福建省におけるアメリカの軍港設置問題といひ,陝西省における石油掘鑿権の獲得といひ,更に又シベリア出兵の理由なき干渉といひ,どれ一つとして,米国の周到なるアジア侵略計画を示さぬは無いのであります。
しかしながら,これらのことは未だよい方であります。日本国民の断じて忘れてならぬことはヴェルサイユ講和会議後に開かれたるワシントン会議におけるアメリカの仕打ちであります。この会議における暴戻なるアメリカの態度と仕打ちこそは,断じて日本人の忘れ得ざるところであります。
米国は英国と共謀して,帝国海軍を五・五・三の劣勢比率に蹴落しました。己等はパナマとシンガポールに世界的に誇るに足る大規模の要塞の建造計画を樹立してをりながらも,日本に対しては却つて太平洋無防衛の美名のもとに,日本の皇土たる千島列島と小笠原群島においてさへ,日本自身の防備の制限を強制いたしたのであります。いはゆる九ヶ国条約によりまして,日本と支那との歴史的,地理的,政治的,経済的の緊密な関係を切断して,支那の独立及び領土保全の美名の下に,両国をして骨肉相抗し相争ふの不和の関係に追ひ込んだのであります。更に四ヶ国条約によりましては,太平洋現状維持に藉口して帝国の海洋発展を封じたのであります。かやうにして,帝国の手足を束縛し,帝国の武力を封じて,アジアと太平洋とを彼がほしいまゝなる支配のもとに置かんとしたのであります。このワシントン会議こそは,かの日清戦争後の三国干渉にも優るとも劣らざる屈辱であります。私は今,このことを語りながらも当時の米国の暴戻なる仕打ちに忿懣やる方なく,正に血の逆流するのを覚ゆるのであります。
その後十年にして起つた満洲事変は,かやうな英米の利己的なアジア支配体制の強化に対する止むを得ざるに出でたる帝国の反撃であつたのであります。米英両国――特にアメリカの太平洋における日本圧迫と,その援助を恃む支那の暴戻とは,遂に帝国をして自衛の戦ひに出づるの止むなきに至らしめたのであります。国際聯盟の脱退も,ワシントン条約の廃棄も,帝国が自身の危急を認識し,自身の使命に眼覚めたからにほかならぬのであります。
支那事変は,この満洲事変の意義をそのまゝ承け継いでゐるのであります。〔後略〕
(奥村喜和男『尊皇攘夷の血戦』(旺文社・1943年)4-7頁)
戦争に負けるとは哀れなことで,「支那市場の完全なる独占」,「アジアの犠牲においてする帝国主義的膨張」,「アジアの政治的支配」,「アジア資源の経済的独占」等を意図し,計画していたのはむしろ大日本帝国であっただろうと現在では言われているところです(日本国国民に係る「世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤」を指摘するポツダム宣言(1945年7月26日)第6項参照)。
2 情報局について
ところで,情報局とは何かといえば,1940年11月27日枢密院可決(宮内庁『昭和天皇実録第八』(東京書籍・2016年)247頁参照),同年12月5日裁可(しかし,この日昭和天皇は「故従一位大勲位公爵西園寺公望の国葬当日につき,廃朝を仰せ出される。」ということでしたが(実録第八257頁),どうしたものでしょうか。),同月6日公布,同日施行の情報局官制の第1条が,次のように規定していました。
第1条 情報局ハ内閣総理大臣ノ管理ニ属シ左ノ事項ニ関スル事務ヲ掌ル
一 国策遂行ノ基礎タル事項ニ関スル情報蒐集,報道及啓発宣伝
二 新聞紙其ノ他ノ出版物ニ関スル国家総動員法第20条ニ規定スル処分
三 電話ニ依ル放送事項ニ関スル指導取締
四 映画,蓄音機レコード,演劇及演芸ノ国策遂行ノ基礎タル事項ニ関スル啓発宣伝上必要ナル指導取締
前項ノ事務ヲ行フニ付必要アルトキハ情報局ハ関係各庁ニ対シ情報蒐集,報道及啓発宣伝ニ関シ共助ヲ求ムルコトヲ得
ここで,国家総動員法(昭和13年法律第55号)20条は,次のとおり。
第20条 政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ新聞紙其ノ他ノ出版物ノ掲載ニ付制限又ハ禁止ヲ為スコトヲ得
政府ハ前項ノ制限又ハ禁止ニ違反シタル新聞紙其ノ他ノ出版物ニシテ国家総動員上支障アルモノノ発売及頒布ヲ禁止シ之ヲ差押フルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ併セテ其ノ原版ヲ差押フルコトヲ得
また,同条には,次のような罰則が付いていました。
第39条 第20条第1項ノ規定ニ依ル制限又ハ禁止ニ違反シタルトキハ新聞紙ニ在リテハ発行人及編輯人,其ノ他ノ出版物ニ在リテハ発行者及著作者ヲ2年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ2000円以下ノ罰金ニ処ス
新聞紙ニ在リテハ編輯人以外ニ於テ実際編輯ヲ担当シタル者及掲載ノ記事ニ署名シタル者亦前項ニ同ジ
第40条 第20条第2項ノ規定ニ依ル差押処分ノ執行ヲ妨害シタル者ハ6月以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ500円以下ノ罰金ニ処ス
第41条 前2条ノ罪ニハ刑法併合罪ノ規定ヲ適用セズ
しかして「国家総動員」とはそもそも何かといえば,国家総動員法1条が定義規定でした。
第1条 本法ニ於テ国家総動員トハ戦時(戦争ニ準ズベキ事変ノ場合ヲ含ム以下之ニ同ジ)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ
情報局の次長は勅任官であり(情報局官制2条),「局務ヲ統理シ所部ノ職員ヲ指揮監督シ判任官ノ進退ヲ専行スル」ところの総裁(同官制6条。ちなみに,総裁は親任官です(同官制2条)。)を「佐ケ局務ヲ掌理ス」るものとされていました(同官制7条)。
1941年12月8日の奥村喜和男による「宣戦の布告に当り国民に愬ふ」演説は,情報局官制1条1項3号に基づいて当該事項に係る放送の行われるべきことを社団法人日本放送協会に指導した上で,情報局による啓発宣伝の事務(同項1号)を同局の次長閣下が自ら行った,ということでしょう。
3 「国民に愬ふ」演説註釈
奥村情報局次長の前記「国民に愬ふ」演説における米国非難及びワシントン体制罵倒に係る事項のうち,今となっては分かりづらいものに註を付してみましょう。
(1)ハリマン協定問題
まず,1905年のハリマン協定問題(ただし,「協定」といっても本協定の成立には至っておらず,しかして当該本協定成立の阻止は,小村寿太郎外務大臣の「功績」とされています。)。
日本国内閣総理大臣桂太郎と米国の鉄道王ハリマンとの間の予備協定覚書(1905年10月12日に双方関係者調印の予定でしたが,当該調印は延期されています。)の要領は,次のとおりでした(外務省編纂『小村外交史 下』(1953年)207-208頁・209頁)。
一 南満洲鉄道及び附属財産の買収,改築,整備,延長,並に大連に於ける鉄道終端の改善及び完成のため資金を充実せしむる目的で,一の日米シンヂケートを組織すること。
二 日米両当事者は南満洲鉄道及び附属財産に対し共同かつ均等の所有権を有すること。
三 特別の協議により,該シンヂケートは鉄道附属地内の炭鉱採掘権を獲ること。その利益及び代表者は共同かつ均等たるべきこと。
四 満洲に於ける諸般企業の発展に関しては,両当事者は原則として均等の利益を受くべき権利を有すること。
五 南満洲鉄道及び附属財産は,両当事者の共同代表者の決定すべき実価を以て買収すること。
六 該シンヂケートの組織は,その時期に現存する事情を斟酌してこれに適応すべき基礎の上に定むること。
七 右は日本に於ける事情に適応せしむるを得策なりと認め,日本の管理の下にこれを組織すること。但し事情の許す限り随時これに変更を加え,結局代表権及び管理権の均等を期すること。
八 該シンヂケートは日本法律により事業を行うことにハリマン氏同意せしに付,残るは氏の組合員の同意なるが,氏はその同意を得らるべきを信ずること。
九 両当事者間の仲介者としては,日本外務省顧問デニソンに委嘱すること。
一〇 日支間また日露間に開戦の場合には,南満洲鉄道は軍隊及び軍需品の輸送に関し常に日本政府の命令に従うべきこと。日本政府はこれに対し鉄道に報償を為すべく,かつ他の攻撃に対し常に鉄道防護の責に任ずること。
一一 自今日本興業銀行総裁添田壽一を以て両当事者間の通信の仲介者と為すこと。
一二 両当事者以外の者をシンヂケートに加入せしめんとする場合には,双方間の協議及び承諾を経るを要すること。
これが,「我国の側からいえば,満洲に於て数十万の血を流し,幾億の国帑を費し,ポーツマスの談判に於て百難を排して漸く獲た南満洲経営の大動脈を他の手中に委し,軍事及び経済上の利益を一朝にして抛棄する結果となるはいう迄もない。」ということ(『小村外交史 下』208-209頁)に直ちになるものかどうか。「抛棄」といえば零になるようですが,共有持分は半々ですし(第2項),利益は両者均等に分けられるのですし(第4項。また,第3項),代表権及び管理権も均等ですし(第7項。また,第3項),軍事上の利益としては戦時の日本政府命令権が確保されているのですから(第10項),「抛棄」は言い過ぎであるように思われます(無論これは,鉄道等経営の実務を自分たちだけでやりたいという前向きな経営者的観点というよりは,怠惰な株主的観点からする思考にすぎないものなのでしょうが。)。
また,「当時元老は総じて,特に井上〔馨〕は甚しく,満洲経営を以て日本の重荷とする悲観説を抱き,また米国を以て将来満洲における日露両国間の緩衝たらしめんとの苟安〔コウアン。一時の安楽をむさぼること。一時のがれ。〕論を有し,別して外資の輸入を大旱の雲霓視する際であつたので,いづれもハリマンの言に耳を傾け,主義に於て賛意を表し」たこと(『小村外交史 下』206-207頁)についても,令和の今からすると理由なきにしもあらずでしょう。というのは,現在の老廃日本国としては,北海道経営すらも重荷であるようであり,尖閣諸島の保持についても最終的には米国の庇蔭に頼らんとしているようであり,インバウンド外国人観光客の落としてくれるお金が旱天の慈雨であるのならば,外資の潤沢な輸入確保があればこれすなわち,天恵これに勝るものなしということになるはずだからです。更には,日本人だけで偉大な事業の経営をしようにも,平成以来の「ゆとり」ある「失われた三十年」を経て,人材もポンコツ化してしまっているようです。(ところで,2024年8月14日に岸田文雄内閣総理大臣は骸骨を乞わんとするの意を表明されましたが(ただし,骸骨を乞うといっても,内閣総理大臣が辞職する際天皇に辞表を奉呈しないことについて,「中南米の方角から見る日本国内閣総理大臣論」記事の4(3)の部分を御参照ください(https://donttreadonme.blog.jp/archives/1081878282.html)。),次の自由民主党総裁にはどなたがなられるのでしょうか。)