1 序説
(1)日本国及び日本国民統合の象徴
1946年10月30日14時3分に昭和天皇が裁可した日本国憲法(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)219頁参照)の第1条は,次のように規定します。
第1条 天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く。
日本列島に居住する人民が日本国民として統合するには日本国の存在が前提されます。しかしてそれと同時に,日本国自体が日本国民の統合したものでもあります(「「日本国」と「日本国民統合」と」の関係については,両者「の間には,特に有意味な差があるとは解されない。「日本国」は,領土ほかの物的要素に,「日本国民統合」とは,国民という人的要素に着眼したもの,あるいは,前者は,時間的な継続のなかでとらえられる国家それ自体,後者は,それを成立させている国民の統合体に着目したものという,観点の差があるにとどまる。」と説かれています(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)125頁)。)。
「象徴とは,抽象的で無形ないし無定形な何ものかに対応しそれをあらわす具体的で有形なもののこと」であります(樋口124頁)。「抽象的で無形ないし無定形な」ものたる日本国ないしは日本国民統合について,日本国憲法1条前段は,天皇をもってその象徴としているということになります。しかしここで筆者に気になるのは,これは創設的規定であるのか,それとも確認的規定であるのかということです。日本国憲法1条後段に規定されている国民主権との関係で,「天皇が国民主権を前提とした「国民統合の象徴」でありうるためには,国民自身の手による「統合」が先行しなければならない」と説かれていますところ(樋口126頁),天皇抜きでの「日本国民統合」が先行していたのならば,天皇が日本国民統合(ひいては日本国)の象徴であるということは日本国憲法1条前段が創設した規範命題ということになります。しかし,少なくとも1946年10月30日14時3分の時点においては,既に社会心理的事実として「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつ」たのでしょう。論者も「日本国憲法が天皇を「象徴」としたのは,何よりも,1条の文章構成どおり,天皇の正統性根拠が神勅から「主権の存する国民の総意」に転換したことに対応して,旧憲法下の天皇のあり方を否定する消極的文脈でうけとられなければならない」ものとしています(樋口125頁。下線は筆者によるもの)。万世一系の統治者(大日本帝国1条)であることは否定されたものの全否定ではなく,日本国及び日本国民統合に係る各象徴性だけは天皇に残された,ということなのでしょう。
(2)王朝の「物語」
天皇をそこにおいて日本国ないしは日本国民統合と結び付けている日本国民の社会心理はどこから生ずるかといえば,天皇と日本国民とが共有する物語からでしょう。長谷川哲也師の描く1814年4月のフランスにおけるタレイランとダールベルク公爵との次の会話においては,「著作権」という表現が登場します。当該「著作権」は,物語(言語の著作物)に係るものでしょう。
タレイラン 国家には正統性が必要だ
それは長年かけて作られ相続される
著作権のようなものだと思う
共和国のような集団システムでは政治機構が崩れるとその正統性は失われる
君主制の場合国王が死んでも家族の誰かがそれを受け継ぐ
わたしは共和国より君主制が安定していると思う
これは国民がその王朝を信任している限りにおいてだが
〔略〕
ダールベルク ・・・
成る程
それで納得がいった
今の話で君の行動は全部つじつまが合う
かつてナポレオンに皇帝即位を勧めたこと
先日までマリー=ルイーズ皇后の摂政政府を作ろうとしたこと
ここに至ってブルボン王朝の復活を決めたこと
全て矛盾しない
君は変節漢と呼ばれながらも
実はひたすら国家の安定のために行動していたんだな
タレイラン わたしはいつもフランスから得た以上のものをフランスに与えてきた
(長谷川哲也『ナポレオン~覇道進撃~ 第21巻』(少年画報社・2021年)90-93頁)
しかし,「長年かけて作られ相続される」点については,「スマホ」いじりにその日を暮らして記憶力も弱化した21世紀の人民の嗜好に投ずるとなると物語づくりも自転車操業となって,スキンシップ的「寄り添い」及び「交流」,「幸福を常に願」っているよとの語りかけ並びに「苦楽を共に」しているよとの姿勢の維持が常時必要になっているようです。
皇室の活動は,このような国際親善のほかにも,地方への訪問や被災地のお見舞いなどを通して,国民の皆さんに寄り添い,あるいは多くの国民の皆さんと交流することを始め,多岐にわたっております。こうした皇室の活動を,将来にわたり安定的に続けていくための皇族数の確保の在り方については,現在,議論されているものと承知しています。制度に関わる事項については,私から言及することは控えたいと思いますが,皇室の在り方や活動の基本は,国民の幸福を常に願い,国民と苦楽を共にすることだと考えており,こうした皇族数の確保の在り方についての議論においても,国民の皆さんの理解が得られるものとなることを望んでおります。
(2026年6月11日の記者会見における今上天皇の御発言)
2 大日本帝国の天皇制の「物語」
ところで,明治典憲体制における天皇制の正統性の物語は何であったのでしょうか。
(1)神勅ないしは祖宗ノ遺烈
「天皇の正統性根拠が神勅」にあったといわれるときの神勅は,『憲法義解』の第1条解説の引用する瓊瓊杵尊に対する天照大神の「瑞穂国是吾子孫可王之地宜爾皇孫就而治焉」(瑞穂国は,是,吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫就きて治らせ。)との勅でしょう(『日本書紀』巻第二神代下(第9段)一書第1)。
1889年2月11日発布の大日本帝国憲法の上諭には「朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ」とあります。「祖宗」は「①君主の始祖と,中興の祖。②初代から先代までの代々の君主。」,「遺烈」は「後世に残る功績。」です(『角川新字源』(1968年))。同日の憲法発布勅語には「惟フニ我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼ニ倚リ我カ帝国ヲ肇造シ以テ無窮ニ垂レタリ此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威徳ト並ニ臣民ノ忠実勇武ニシテ国ヲ愛シ公ニ殉ヒ以テ此ノ光輝アル国史ノ成跡ヲ貽シタルナリ」とあります。明治天皇は「我カ祖我カ宗」のことを語って自分のことを語ってはいませんから,当該勅語では明治維新のことが説かれているわけではないことになります。「帝国ヲ肇造」するのに「臣民ノ忠実勇武」が必要であったのですから,「我カ祖」は,天下っただけの瓊瓊杵尊ではなく,猛々しい南九州人を率いて現在の奈良県地方を征服した神武天皇のことでしょう。「我カ宗」は,「中興の祖」というよりは,ひとまずは代々の天皇であるものと理解しておきましょう。
天照大神の神勅に従い,ないしは神武天皇の遺烈を承けて「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」ということになったわけです。
(2)万世一系の経路
ア 北朝正統論
今上天皇につながる万世一系については,仁治三年(1242年)の後嵯峨天皇即位以来の本筋は――すなわち一系なのですから――後嵯峨天皇,後深草天皇,伏見天皇,後伏見天皇,光厳天皇,崇光天皇,栄仁親王,貞成親王,後花園天皇(中略)光格天皇,仁孝天皇,孝明天皇,明治天皇,大正天皇,昭和天皇,上皇,今上天皇という代々の自然の父子関係でつながっているのだな,と考えられるところです(なお,栄仁・貞成両親王が天皇になっていないのは,弟の直義との兄弟喧嘩に苦戦していた足利尊氏が南朝に降参して北朝が一時廃された正平一統(1351-1352年)のハプニングの結果,北朝の皇統が崇光天皇の弟の後光厳天皇の系列に移ってしまったからです。)。すなわち,北朝正統論が素直な結論になります。(なお,後光厳の系列は,後光厳,後円融,後小松,称光と順次父子継承がされ,後小松天皇の時に南朝の後亀山天皇との間で南北朝合一がされ,称光崩御後は,後小松太上天皇の猶子として後花園天皇(実父は貞成親王)が即位しています。)
したがって,「両朝合一より江戸時代の初期に至る間,南北朝御歴代は北朝によりて数へられたるのみならず,史家の皇統を記す者亦多く北朝を正統とせり」ということであり(野村玄「安定的な皇位継承と南北朝正閏問題――明治天皇による「御歴代ニ関スル件」の「聖裁」とその歴史的影響――」大阪大学大学院文学研究科紀要59巻(2019年)8頁の引用する『明治天皇紀 第十二』(吉川弘文館・1975年)563-564頁から),また,「明治以前ノ宮中内ノ風習ハ北朝ヲ尊重」していたそうです(野村20頁の引用する1911年3月1日の枢密院総委員会における東久世通禧副議長の発言)。
イ 南朝正統との勅定
しかし,1911年(明治44年)3月3日,徳大寺実則侍従長から,内閣総理大臣桂太郎及び宮内大臣渡邊千秋に対し,次のような明治天皇の認定が伝達されています。
御歴代ニ関スル明治44年2月28日内閣総理大臣ノ上奏及右御諮詢ニ対スル枢密顧問ノ奉答並宮内大臣ノ上奏ヲ御採納アラセラレ後醍醐天皇ヨリ後小松天皇ニ至ルノ皇統ハ後醍醐天皇後村上天皇後亀山天皇後小松天皇ナルコトヲ御認定アラセラレタリ
いわゆる南朝正統論の採用です(ちなみに,この時点では長慶天皇の在位が未確認であったので,念のため。)。
なお,閏統墜ちした北朝天皇の処遇はどうなったかというに,「此の御裁定に際し,宮内大臣,北朝の天皇に対する宮中の取扱方に就きて聖旨を候せしに,光厳・光明・崇光・後光厳・後円融の各天皇に対しては尊崇の思召により,尊号・御陵・御祭典等総て従来の儘たるべき旨を命じたまふ」ということでした(野村22頁の引用する『明治天皇紀 第十二』565頁)。歴代天皇からは外れたものの尊号は「天皇」のままとする,しかしこれは「宮中の取扱方」に限られるということです。
政務面では,光厳・光明・崇光・後光厳・後円融は歴代天皇扱いされないことになったのでした。すなわち,2月28日の桂内閣総理大臣の上奏の際明治天皇に見せたという閣議書(同月27日決定)には次のようにありました(下線は筆者によるもの)。
謹テ案スルニ皇統一系ニシテ天ニ二日ナキハ我国体ノ基本ニシテ国民道義ノ源泉タリ然ルニ後醍醐天皇ヨリ後小松天皇ニ至ルノ間北条氏ノ奉セル光厳天皇及足利氏ノ奉セル光明天皇以下5世トノ6朝相対シテ存在セルノ現象アリ従テ後世ニ至リ史家ノ所謂南北両朝ノ正閏論ヲ生シテ帰一スル所ナク又維新以降公文書中孰レノ朝ノ正統ナルヤニ付劃然明記スルモノナシ小学校歴史教科書教師用書中偶〻両朝ノ正閏ヲ論議セサルノ主旨ヲ記述シタル為現ニ世論ヲ惹起スルニ至レリ就テハ此際世論ヲ一定シ国民ヲシテ疑惑ナカラシムルハ最モ重要ノコトニ属ス思フニ維新以降朝廷ニ於テ南朝(史家ノ指称スル)ノ忠臣及南朝正統論ヲ主持セル者ニ優旨ヲ賜リタル
聖旨ニ副ヒ我国民普通ノ信念ヲ維持スルハ至当ノ儀ナルニ付爾後教科用書其他皇統ヲ明記スル場合ニ於テハ後醍醐天皇ヨリ後小松天皇ニ至ル間ノ皇統ヲ
後醍醐天皇
後村上天皇
後亀山天皇
後小松天皇
トシ光厳光明崇光後光厳後円融ノ各天皇ハ御歴代中ニ記載セサルコトトシ政務上ノ関係ハ総テ此方針ニ依リ処理相成ルコトニ
聖裁ヲ仰カレ然ルベクヤ
〔後略。長慶天皇の在位があったかどうかが未確定なので,確定後同天皇を歴代に加えたき旨のおって書き〕
『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)の1911年の「学術・教育・思想」欄には「7.21 文部省教科用図書調査委員会総会,南朝正統論に立つ国定小学日本歴史教科書の改訂を決定(南北朝正閏問題,終息)。」とあります。しかしそもそも,明治天皇までをも巻き込んだ南北朝正閏問題は政務の問題であって,専ら教科用書に関するものとして文部省の一委員会の総会決定で終息するような矮小なものではありませんでした。しかして,当該委員会総会決定による改訂はなお不十分と見られており,同年8月11日には更に閣議決定がされており,「光厳天皇」,「光明天皇」及び「後光厳天皇」との記載がそれぞれ「光厳院」,「光明院」及び「後光厳院」と改められることになり(小学生に,「「天皇」と言われるけれど天皇ではないんだよ」と説明するのはさすがに無理ですからね。),かつ,光厳以下5主に関する説明を次の旨趣で教師用教科書に記載することになりました。
光厳院は御追号なり。又これを光厳天皇と称することあれどもこれ嘗て皇位に即き給ひしとの義にあらず一の尊称なり。皇位に即き給はざる文武天皇御父草壁皇子を岡宮天皇と称し,光格天皇御父典仁親王を慶光天皇と称するが如し。此の書御歴代の天皇と区別するが為に御追号のままに光厳院と記せり。後に足利氏の擁立せる光明院等亦同じ。
筆者は前稿(「令和の皇室典範改正論議から仁和の阿衡の紛議まで(改正法案骨子の発表を承けて)」)において,今次の「皇室典範等の一部を改正する法律案」(2026年6月30日に内閣から国会に提出された第221回国会閣法第64号)にいう養子皇族男子(同法案が法律として施行された場合の昭和22年法律第3号である皇室典範の第38条4項参照)が「崇光天皇の〇〇世の子孫」と紹介される場合には,「「崇光天皇?それ誰?北朝!じゃ,それってニセ天皇の子孫ってこと?」などととんでもないことを言い出す輩もいそうで」云々という心配があると述べたところです(第3の1(2))。当該心配は衷心からのものなのですが,ニセ巻機山ならぬ「ニセ天皇」という表現はさすがに不敬であるなと反省しておりました。今回南朝正統論の帰結について学ぶところがありましたので,ここに謹んで,「崇光天皇?それ誰?北朝!あぁ,「天皇」の尊号は有してはおられるものの皇位に即き給うたことはない興仁王の御子孫ですね。」との表現に改めます。
1911年3月3日の明治天皇の認定及び当時の桂内閣の閣議決定を前提とすると,やはり今日の高市早苗内閣においても,後伏見天皇の御子孫として養子皇族男子の世数が数えられるべきもののようです。ただし,明治天皇の当該認定が侍従長の伝宣書をもって通知されたことに関して,「〔公式令(明治40年勅令第6号)に基づく〕詔書の形式を避け,勅書の形式をも採らなかった背景・意図が問題なのではなかろうか。南朝正統論に基づく皇統の歴代確定については,国民に宣誥できないとの判断があったか,あるいは積極的には確定させたくないとの明治天皇の意図があったとは考えられないだろうか。なぜなら,当時の内閣の命運を懸けて決定された事項は,官報にも告示されていないからである。」と評されています(野村23頁)。しかしいずれにせよ,養子皇族男子の子孫は,遠いながらも後伏見天皇の子孫として,皇位継承資格を得るのでしょう。
ウ 南朝正統論の場合
南朝正統論であると,後伏見天皇以降の万世一系は,持明院統の後伏見天皇から大覚寺統の後二条天皇に譲位がされ,後二条天皇から持明院統の花園天皇(後伏見天皇の弟)に譲位がされ,花園天皇から大覚寺統の後醍醐天皇(後二条天皇の弟)に譲位がされて(以上両統迭立),後醍醐天皇から後村上天皇を経て長慶天皇まで3代は父子相伝で,長慶天皇から後亀山天皇へは兄弟継承,最後の南朝天皇である後亀山天皇から持明院統後光厳天皇流の後小松天皇へはまた譲位(南北朝合一),後小松天皇から,早逝したその子の称光天皇を経て持明院統崇光天皇流出身の後花園天皇へは同天皇が後小松太上天皇の猶子となってつながったということになります。正統性の流れもまた同じですね。
1889年2月11日の皇室典範(以下「明治皇室典範」といいます。)以来排斥されている制度である譲位(天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)2条は譲位ではなく廃立についての定めでしょう。)及び養子(猶子)縁組による皇位継承によって正統性が継承されていますが,まあ昔はよかったのでしょう。
しかし,何でまたわざわざ,万世一系性やら正統性の継承経路が複雑になる南朝正統論が採用されたのでしょうか。
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