1 アメリカ独立宣言採択250周年

今年(2026年)74日に,アメリカ合衆国は,その独立宣言採択の250周年を祝います(なお,独立宣言案の審議模様については,「ジェファソン原案の「毀損」:大陸会議におけるアメリカ独立宣言案修正について」及び「看板は簡潔たるべきこと」も御参照ください。)。“The United States Semiquincentennial”ということで,五百年祭(quincentennial)の半分(semi)の半五百年(=二百五十年)祭ということですか。米国人らしからぬ,暗算をするのが面倒(500÷2=250)な呼称です。ちなみにラテン語で5quinque100centum,年はannusです。

しかし,要は50年を1単位としてのお祝いでしょう。

ということで,本稿は,今からちょうど200年前に祝われた最初の独立宣言採択50周年記念日(182674日=文政九年五月二十九日)当時の状況にちなんだ種々の余計な御紹介をしようとするものです。

 

2 18267月のワシントンD.C.

 

   〔1826年〕74日,独立宣言の50周年記念日に,〔現職の第6代ジョン・クインジー・〕アダムズ大統領はホワイト・ハウスから連邦(キャ)議会()議事堂(トル)までの厳粛な行進を先導した。キャピトルでは,当時重篤な状態で床に伏していた〔独立宣言の起草者であり,かつ,第3代大統領であった〕トーマス・ジェファソンのための醵金を求める特別な訴えをも含む式辞をジェイムズ・バーバー(James Barbour)戦争長官が述べた。ジェファソンは,輝かしい生涯の哀しむべき結末(コーダ)において,実質的に破産しており,彼の娘をも〔筆者註:Martha (Patsy),すなわち,Thomas Mann Randolph Jr.夫人。ランドルフは,ヴァジニア州知事も務めましたが,債権者たちを満足させるために,1826年初めには,その資産を競売にかけることを余儀なくされるに至っていました(Willard Sterne Randall, Thomas Jefferson: a life (New York: HarperPerennial, 1994): p.589)。〕もう扶養できないようになっていたのである。2日後,ジェファソンは4日に死んだということをアダムズは知った。8日に,彼は弟のトーマス及び姪の一人から,〔第6代大統領の父であり,かつ,第2代大統領であった〕ジョン・アダムズも死の間際にあるとの手紙を受け取った。大統領と〔その息子の〕ジョンとは,翌日の夜明けに〔マサチューセッツ州の〕クインジーに向けて出立した。その午前遅く,ボルティモアから来た人物が,アダムズに対し,ジョン・アダムズが4日の晩,ジェファソンの僅か数時間後に死んだ,とのニュースを諸新聞が報じていると告げた。彼の言葉を聴こうとして身を屈めた孫娘に対して,「トーマス・ジェファソンはまだ生き・・・(Thomas Jefferson still surv――)」と老人はささやいた,と。

  (James Traub, John Quincy Adams: militant spirit (NewYork: Basic Books, 2016): p.335

 

奇しくも独立宣言採択の50周年記念の当日である182674日に,当該宣言の起草にかかわった第3代大統領と第2代大統領とが共に死去したという事実は,米国史における有名な挿話です。

 

3 独立宣言起草者ジェファソンの家計破綻及び死

 

(1)独立宣言案準備委員会

1776611日に大陸会議が選任した独立宣言案準備のための委員会は,ヴァジニアのジェファソン及びマサチューセッツのジョン・アダムズのほか,ペンシルヴェニアのベンジャミン・フランクリン,コネティカットのロジャー・シャーマン(Roger Sherman)及びニュー・ヨークのロバート・リヴィングストン(Robert Livingston)の5名から構成されていました(cf. Randall: p.266 & John Ferling, John Adams: a life (New York: Oxford University Press, 2010): p.147)。

 

  マディソン宛ての1823年の書簡において彼が引用した覚書によれば,ジェファソンは〔独立宣言案に係る〕彼の粗い草稿を書き上げた際「私は,委員会にそれを報告する前に,彼らによる修正を求めて,フランクリン博士及びアダムズ氏それぞれの校閲に供しました」とのことである。フランクリン及びアダムズは,自筆で草稿に行間挿入しつつ,ここで一語,かしこで一語というような小変更――「単に用語の上でのもの」とジェファソンは書いている――を加えた。委員会は,内容上の変更を加えずに,清書された宣言案を628日に大陸会議に提出した。

 (Randall: p.276

 

(2)ジェファソンの家計破綻

ジェファソンの破産については,簡単にいえば,「彼の習慣は贅沢に過ぎ(too rich),彼の土地は貧し過ぎた。彼の利益のためにヴァジニア州が認めた特別な富籤(special lottery)が彼の最後の頼りであったが,それは彼を救うために十分な金銭を生み出すことに失敗した。」(Richard Brookhiser, John Marshall: the man who made the Supreme Court (New York: Basic Books, 2018): p.211)ということでよいのでしょうか。大統領在職中の様子については,「彼〔ジェファソン〕は高価な政府を批判した。しかし,彼は,大統領職にあって,共和的国家元首であるとしてもそれに相応しいものと彼が考えるスタイルで生活するために,彼の個人資産を使い込んだ。その過程において,奴隷労働農園からの収入にますます頼りつつ――表向き彼は奴隷制に反対していたのだが――彼は負債の淵にますます深く沈み込んだ。」と述べられています(Randall: p.565)。大統領の年俸は25000ドルでしたが,ジェファソンは,大統領在職中(1801年から1809年まで)毎年平均して4千ドル借金を増やしていたそうです(Randall: p.555)。

 

(3)富籤企画及びその失敗

ヴァジニア州が認めた特別な富籤とは何ぞやといえば,「〔1826年の〕119日の夜,「至福の境域からの霊感のよう」なアイデアが彼〔ジェファソン〕を訪れた。夜明けに,彼は孫のジェフ(Jeff=Thomas Jefferson Randolph〕)を呼びにやった。そして,彼の負債を片付けるために彼の釘製作所及び約千エーカーの土地を売却する富籤を提案した。」(Randall: p.589)との夫子自身の霊妙な案出に係るものです。祖父の土地売却に向けたそれまでのジェフの努力は全て徒労に終わっていたものの,「興奮したジェファソンは,土地を賞品にした低価格の富籤券を大量に売ることができるはずだと請け合った。」ということでしたが,「しかし,およそ富籤は,州の議会によって承認されなければならないのであった」ところです(ibidem)。「官許ヲ得サル富籤(loteries)ハ訴権ナキ博戯及ヒ賭事ト同視ス」(旧民法財産取得編(明治23年法律第28号)1621項)及び「財物ヲ醵集シ富籤ヲ以テ利益ヲ僥倖スルノ業ヲ興行シタル者ハ1月以上6月以下ノ重禁錮ニ処シ5円以上50円以下ノ罰金ヲ附加ス」(旧刑法(明治13年太政官布告第36号)262条)ですね。

富籤とはそもそも何かといえば,いわく,「富籤とは一定の発売者があらかじめ番号札を発売して購買者から金銭その他の財物を集め,その後抽籤その他の偶然的方法によって――当籤者だけが利益を得るというような形で――その購買者のあいだに不平等な利益を分配することである。偶然の事由によって財物の得喪がきまる点で賭博と同一であるが,賭博においては当事者の全員が財物得喪の危険を負担するのに反して,富籤においては購買者が危険を負担するだけで発売者はこれを負担しない点に,両者の区別がある。」と(団藤重光『刑法各論』(有斐閣・1961年)206頁)。

なお,富籤が「彼を救うために十分な金銭を生み出すことに失敗した」というのは,つづめていえば,「法案は,議決された形において,彼が全財産everything)を売却することを求めていた。彼の製作所及び相当の土地のみではなく,〔ヴァジニア州にある自宅の〕モンティセロー,その家具,彼の全ての奴隷,彼の馬たち,全て,である。富籤券が印刷され発売される間,彼はその死までモンティセローに住むことができる,しかし,彼の一人娘であるマーサは彼の死後2年以内にそこから退去しなくてはならず,モンティセローは彼の家族の手から取りられる。そのとおり,彼の死後モンティセローは売却され,半世紀の間家族の手から離れていた。」ということだったそうですが(Randall: p.590),これだけではなおよく分かりません。この間のことについては,追加説明が必要であるようです。

どういうことかといえば,まず,成立した法律は,「〔前略〕前記トーマス・ジェファソンは,彼の負債の支払のために,彼の不動産のいずれをも富籤により処分することが認められるべきであり,かつ,ここに認められる。ただし,そのようにして処分された財産から,ここに定められる方法によって確定される当該財産の正当な価額を超えた正味価額を彼が調達することはないものとする。〔後略〕」というものだったのでした(James A. Bear Jr., Jeffeson Lottery https://www.monticello.org/encyclopedia/jefferson-lottery)の註7参照)。正当な価額(fair value)での不動産の処分を富籤券の購入者の射倖心に訴えて実現することまでは許すが,当該射倖心に更に付け込んでそれを超えた利得をすることは許さないということになります。富籤券の発売者に余計な利得が無い分罪が浅いので当該富籤はなお許可し得る,ということでしょう。

ジェファソンの死亡時の負債額は107000ドル($107,000 in debt)だったそうですが(Randall: p.589),彼のための富籤運営業者(Yates and McIntyre)が広告した目論見書によれば,富籤券は110ドルで11477枚発売され,賞品は,モンティセローの不動産(評価額71000ドル),シャドウェル(Shadwell)の製作所(評価額3万ドル)及びアルベマール(Albemarle)の不動産(評価額11500ドル)の計112500ドル分だったのでした(Bear)。ジェファソンらはシャドウェルだけで6万ドルを調達しようと当初考えていたそうですが,モンティセローも手放さなければならないだろうと聞いた時,ジェファソンは蒼白になった(turned white)そうです(ibidem)。

しかし,当該富籤は直ちに実行されなかったのでした。第3代大統領の苦境を知って,フィリップ・ホーン(Philipp Hone)ニュー・ヨーク市長らの主唱によるジェファソンのための献金運動が全米的に起こったので,富籤企画はその間棚上げにされたのでした(Bear)。バーバー戦争長官の前記醵金の訴えは,この献金運動に関係するものでしょう。当該献金運動は,合計16500ドルほどを集めたそうです(Bear)。

182674日のジェファソンの死亡後,献金運動は尻すぼみになってしまい,また,改めて富籤企画を進めてもうまくいかない事態となりました。「ジェファソンを助けたいと思う者は大勢いたが,多くは彼の家族のために同じことをしようとはしなかった。」というわけです(Bear)。更に富籤については,「その賞品は,平均的富籤券購入者にとって特に魅力的というわけではなかった。つまるところ,それらは,当該富籤における評価価額では本来とても処分できない過大評価された土地のみであったからである。」ともいわれています(ibidem)。1828220日付けのラファイエット侯爵宛ての書簡においてジェームズ・マディソンは,「あの富籤は,いろいろな原因があって,全く失敗しました。」と報じています(ibidem)。結局抽籤はされず,富籤券購入者には返金がされたのでした(Bearの引用するトーマス・ショーア(Shore)の183938日付けトーマス・ジェファソン・ランドルフ宛て書簡参照)。

 

   土地,邸宅,家具及び奴隷人口の大変大きな部分を含めてモンティセローは,彼の死の翌年に競売された。しかして,残された彼の娘であるマーサは,彼女の家族を養うために慈善的寄附(charitable contributions)を受け取ることを余儀なくされた。

  (Encyclopædia Britannica, Founding Fathers: the essential guide to the men who made America (New Jersey: John Wiley & Sons, 2007): p.136


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ジェファソン旧邸モンティセロー(Monticello, VA

 

(4)ジェファソンの病及び死

老ジェファソンを苦しめていたものは,また,借金だけではありませんでした。182611日のジェファソンの知人宛て書簡によると,当時ジェファソンは「繰り返される下痢(彼は大腸癌を患っていたらしい。)並びに糖尿病及び尿管感染症」で弱っていたようです(Randall: p.588)。

 ジェファソン最期の日々は次のようなものでした。

 

6月の終わりまでには,彼は自分が最早モンティセローを離れることができないことを知った。彼の独立宣言の50周年記念式典への出席を求めるワシントン, D. C.市民からの招待を彼は謝絶した。しかし,彼は『ナショナル・インテリジェンサー』紙のために公開書簡を執筆した。これは彼の書いた最後の書簡となるべきものであった。しかしてそこにおいて,彼はかの宣言の諸原則に対する彼の信仰を再確認したのである。「それが,世界にとって,それがそうなるものと私が信じたものとなるように」と彼は624日に書いた。

 

  ある地には早く,他の地には遅く,しかし最終的には全地において,自己統治の祝福と安全とを獲得せよとの合図・・・人間の権利に対して,全ての目が開かれ,開きつつあります。科学の光の一般的普及によって,触知可能な真理が全ての視界に対して既に開かれております。すなわち,神の恩寵によって人類の大部分が鞍を背に付けて生まれたわけではなく,また,恵まれた少数者が,そこに正統な権利をもって乗駕すべく長靴及び拍車と共に生まれたものでもないという真理が。これらは,他の人々に対しては希望の(もとい)であります。我々自身のためには,この日が毎年巡り来て,これらの権利に係る我々の記憶及びそれらに対する減ずることのない献身が永久(とわ)に新たにされるようにいたしましょう。

 

  この書簡〔筆者註:Merrill D. Peterson編のThe Portable Thomas Jefferson (New York: Penguin Books, 1977): pp.584-585では,ロジャー・C・ウェイトマン(Roger C. Weightman)宛ての書簡として紹介されています(文言は少し違います。)。〕の執筆を了えた後,彼はダングリスン(Dunglison)医師を呼んだ。1週間後,182671日,トーマス・ジェファソン――83歳になっていた――は,意識不明に陥った。彼は,もう74日かどうか訊くために,何度か意識を取り戻した。彼が好むように高く枕を整えるために〔奴隷の〕バーウェル(Burwell)が来るまで,彼はバーウェルをじっと見つめた。

   72日,彼は,彼が死ぬまでは開けてはならないものとして小さな宝石箱を娘のマーサに与えた〔筆者註:貧乏になっていたジェファソンがそこに宝石を入れていたわけはなく,マーサ宛てのジェファソンの詩が書かれた紙片が入っていました。73日の朝,彼は茶を少し飲んだ。彼はその日はほとんど眠っており,そして7時頃に起きて,ダングリスン医師に「4日か?」と訊いた。同医師は,彼の眠りを助けるためのいつものロードナム(阿片と蜂蜜とを混ぜた物)を与えるために9時に彼を起した〔筆者註:このロードナムは,慢性的な尿管異常の痛み止めのためのものだったそうです(Ferling: p.444)。〕。彼はそれを断った。「いや,先生。もう何もいらない。」彼は輾転反側した。真夜中過ぎ,彼は起き上がり,右手及び肱を上げ,あたかも物を書くようにゆっくり横に動かしていた。それから,彼は再び枕に沈み込んだ。午前4時,彼は短い間目覚め,彼の家族と召使らとを部屋に呼ぶように求めた。74日の午前11時,彼は今一度ジェフを見つめ,ジェフが海綿に含ませた少量の水で彼の唇を湿すまで無言で唇を動かした。彼が再び動くことはなかった。182674日午後1250分,彼の呼吸が止まり,ダングリスン医師が彼の死亡を告げた。

  (Randall: pp.593-594

 

4 独立宣言案準備委員ジョン・アダムズの老衰及び死並びに資産運用上の事故

 

(1)ジョン・アダムズの老衰及び死

 長男のジョン・クインジー・アダムズ国務長官が連邦代議院(下院)における決戦投票(米国憲法修正12条参照)によって第6代米国大統領に選出されたのは182529日のことでしたが,「その件が最終的に代議院によって決定された際には彼は89歳であったが,ジョン〔・アダムズ〕は当該選挙を注意深くフォローしていた」そうです(Ferling: p.442)。とはいえ,「1823年の早い時期が過ぎた後,彼の衰弱の増進は急速であり,彼の生活の質は悪化した。間もなく彼の視力はほとんど失われ,聴力も辛うじてのものとなった。体が弱り,大層な困難と共にでなければ動けないようになった。震えがひどく,彼の姪に給餌してもらわなければならなかった。」ということに既になっていたそうです(ibidem)。「しかし,1824年頃までは彼の精神能力はしっかりしていた。その後,初めてのことであるが,「痴呆」が彼に対して這い上がって来ることを感ずると彼は述べるに至った」ところです(ibidem)。「〔大統領選挙の年である1824年の〕9月初めの数日をかけて〔ジョン・クインジー・〕アダムズはボストンまで旅行した。彼の父の齢は今や九十に達していた〔筆者註:ジョン・アダムズは17351019日生まれなので,精確にはこの時88歳〕。「彼の眼は,書くことも読むこともできないほどかすんでいる。」ということをアダムズは見出した。しかし,精神的には,この非凡な老人は障碍されてはいなかった。「彼の記憶力はなおも強い状態にある,彼の判断力は健全である,そして会話に対する彼の関心は相当のものである。」ジョン・アダムズは手紙の口述を――特に孫たちを相手に――続けていた。二人は,それぞれがそれぞれ生まれた道路を挟むささやかな家屋を尋ねつつ近隣を乗馬した。彼らが現在生きているものよりもより純粋かつ高貴な18世紀の世界を両者に思い起こさせる場所立てであった」(Traub: pp.298-299)。

 

   独立の五十年(ジュービ)(リー)まで〔ジョン・〕アダムズが生き延びることは難しいことのように思われた。1825年を通じて,彼の状態は急速に悪化した。1815年から毎年彼を訪問していた会衆派のジョン・ピアス(Pierce)牧師は,1825年のクリスマスの少し前にアダムズと面会したが,彼が衰弱しており,かつ,初めてのことであるが,会話に関心がない様子であることを見出した。1826年の春には,彼は更に弱って行った。5月までの弱り方では同月末まで彼は生き延びられるものかどうか,彼の医師は疑った。彼は生きるには生き延びたけれども,夏の初めには,正常に嚥下できなくなるまで弱っていた。ウォーターハウス(Waterhouse)医師は,アダムズは睡眠中に窒息するのではないかと心配した。

  (Ferling: p.444

 

   〔74日の〕4日前,彼は家族以外からの最後の訪問者と会っていた。クインジーの七月四日祝賀委員会の代表者であった。来たるべき祝典に対する祝辞を求められて,アダムズは簡潔をもって答えた。「独立よ永遠なれ!(Independence Forever!)」と。

   寝たきりとなり,かつ,呼吸困難となっていたが,彼は生存の維持のために戦った。74日まで頑張ったのである。彼はその日が74日であることを知っていた。その早朝,彼の苦悶は終わりを迎え,彼は意識を失った。正午近く,ジェファソンの死亡時刻が近くなって,彼は意識を取り戻し,多大な努力と共に主張した。「トーマス・ジェファソンは生き残る(Thomas Jefferson survives)。」と。

   これが彼の最後の言葉であった。その後すぐに彼は昏睡状態に陥った。そこからの身動きを,彼は,束の間,もう一度見せただけであった。

   6時頃,一日の終わりの長く,涼しい影がピースフィールド〔アダムズ家の屋敷の名〕を包み始める時,ジョン・アダムズは死んだ。

  (ibidem

 

182674日の死の床にあって,ジェファソンが自分の死後も生き延びるかどうかをジョン・アダムズが気にしたのは,1800年の大統領選挙に続いて,長生き競争でもジェファソンに負けてしまうのは悔しいと思ったものか1800年の大統領選挙では,連邦党の現職大統領のジョン・アダムズは,共和党(米国史の厄介なところですが,今の共和党ではなく,民主党の御先祖である政党です。)のジェファソン(現職副大統領)=アーロン・バー(Aaron Burr)組に敗れています。ジェファソンが第3代大統領になったのは,1801年に入ってからの連邦代議院におけるバーとの決選投票の結果です(第12修正の発効前の,米国憲法21節原3項の下での出来事です。)。)

それともあるいは,自分は奇しくも独立宣言採択の50周年の日に神慮により遷化して,米国の独立に係る栄光に特権的に包まれながら今や長男が大統領として率いる米国人らの記憶の中に正しく“Atlas of Independence独立のアトラスとして永久に残ることができるが,起草者でございと人気者(“Apostle of Liberty”)だったかのジェファソンはうっかり長生きし過ぎてつまらない日に死んで自分と同様の栄光に与り損ねるのだろうな,との少々屈折したSchadenfreudeを味わったものか。

 

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