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1 第一次世界大戦勃発及びサライェヴォ事件の百周年

 今年(2014年)の6月28日は,第一次世界大戦の発端となったサライェヴォ事件から百周年に当たりますから,いろいろ記念行事がされるものと思います。

 当該事件は,1914年6月28日,快晴の日曜日,オーストリア=ハンガリー帝国領ボスニア(1908年に正式に併合)の主都サライェヴォ市を訪問中の同帝国皇嗣フランツ・フェルディナント大公及びその妻ゾフィーが無蓋自動車で移動中,同夫妻を,セルビア民族主義者の19歳の青年ガヴリロ・プリンツィプがピストルで撃って殺害したというもの。当該暗殺には隣国セルビアが関与していたとしてオーストリア=ハンガリー帝国政府はセルビア王国政府を非難。オーストリア=ハンガリー帝国からセルビア王国への最後通牒(同年7月23日)及びセルビア王国の最後通牒一部受諾拒否(同月25日)を経て,1914年7月28日,オーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に宣戦,第一次世界大戦が始まります。

 


2 サライェヴォ事件の事実関係に係る様々な記述

 サライェヴォ事件の具体的な事実関係を見てみましょう。まずは,我が国の標準的な歴史書における記述から。

 


  途中の道筋の変更されたことが運転手には徹底していなかった。陪乗の総督の声に注意され,あわてて方向転換するために車が速度をゆるめたとき,街路からこんどは銃声がおこった。やっぱり,この町は刺客でいっぱいなのだった。〔同じ午前,この前にも,大公夫妻の自動車にカブリノウィッチによって爆弾が投げつけられている。〕皇太子夫妻はしばらく端然としているように見えたが,妃のゾフィーは皇太子の胸に倒れかかり,やがて皇太子の口からは血がほとばしり出て,二人は折り重なって車中に倒れた。自動車はただちに病院に走ったが,傷は致命的だった。大公は,その途中でもみずからの痛みに耐えながら,

  「ゾフィー,ゾフィー,生きていておくれ,子供たちのために!」

 と妃を力づけていたが,まず大公妃が,数分後皇太子が絶命した。銃声がおこってから,わずかに15分ばかりののち,午前1130分ごろであった。

  犯人はガブリエル=プリンチプという19歳の学生であった。セルビア人であったが,国籍はオーストリアにあった。カブリノウィッチもプリンチプも,オーストリアの横暴とボスニアにおけるセルビア人の解放計画とを心にきざみつけられている民族主義者であった。(江口朴郎編『世界の歴史14 第一次世界大戦後の世界』(中公文庫・1975年(1962年))56頁(江口朴郎))

 


 さて,ここで法律家として気になるのは,銃声は1回(観念的競合)だったのか,複数回(併合罪)だったのか。

 


  ・・・しかし,彼の運転手は指示を受けていなかった。彼は間違った角を曲がり,そして車を止め,後退した。〔暗殺団の〕生徒の一人であるガヴリロ・プリンツィプ(Gavrilo Princip)は,自分でも驚いたことに,目の前に車が止まっているのを見た。彼は踏み板に上り(stepped on to the running-board),1弾でもって大公を殺し,前部座席のお付き(an escort)を狙ったが後部座席に座っていた大公の妻を2弾目で撃った。彼女もまた,即死に近い形で死亡した。サライェヴォにおける暗殺は,このようなものであった。(Taylor, A.J.P, The First World War (London, 1963), p.14

 


 2回のようです。

なお,プリンツィプの名がガブリエルであったりガヴリロであったりしますが,どちらも大天使ガブリエルと同じ名ということです。ガヴリロは,セルビア語形でしょうか。英語ならばガブリエルですから,前記日本の歴史書は,ひょっとすると英語文献に基づいて書かれたものなのでしょう。

しかしながら,サライェヴォ事件の顛末については,いろいろと脚色が加えられるに至っているようです。日本語版ウィキペディアで「サラエボ事件」の記事を見てみると,次のようにあります。

 


  ・・・一方,食事を摂るためにプリンツィプが立ち寄った店の前の交差点で,病院へ向かう大公の車が道を誤り方向転換をした事で,プリンツィプはその車に大公が乗っていることに偶然気がついた。ちょうどサンドイッチを食べた後だった彼はピストルを取り出して,車に駆け寄って1発目を妊娠中の妃ゾフィーの腹部に,2発目を大公の首に撃ち込んだ。大公夫妻はボスニア総督官邸に送られたが,2人とも死亡した。

 


 プリンツィプがサンドウィッチを食べていたという話が加えられ(世界史を変えたサンドウィッチということになりますから,大変興味深いエピソードですね。),撃たれた順序が,「大公が先,その妻が後」(Taylor)から「妻が先,大公が後」に変わり,更にフランツ・フェルディナントの妻ゾフィーは妊娠していたことにされています。ゾフィーはプリンツィプの狙撃目標でなかったように読めましたが(Taylor),プリンツィプは胎児もろとも意図的にその命を奪おうとしていたように読めます(後に見るようにゾフィーはオーストリア=ハンガリー帝国の皇族ではなく,その子に同帝国の皇位継承権はありませんでしたから,オーストリア=ハンガリー帝国にのみ抵抗する国事犯ならば,ゾフィー及びその胎児に危害を加えるべきものではなかったはずです。これではただの残忍な手当り次第の人殺しであって,犯情がはなはだ悪いです。)。(なお, キッシンジャーのDiplomacy (1994)では, 最初の暗殺失敗も含めて同一単独犯の犯行ということになっていて, サンドウィッチを食べているどころか, 午前中からカフェでお酒をあおっていたことになっています(Touchstone, p.209)。)

 有名な事件でも,事実認定の細部となると混乱していますね。

 しかし,この事実認定,外国での事件なので外国語での資料を見てみなければなりません。

 


3 外国語で作成された文書の証拠調べについて

ところで,ここで脱線ですが,我が国の裁判所での外国語の文書の取扱いについては,裁判所法74条が「裁判所では,日本語を用いる。」と規定していることとの関係で問題となります。

 


(1)民事訴訟の場合

 民事訴訟については,民事訴訟規則138条が次のように規定しています。

 


  (訳文の添付等)

 第138条 外国語で作成された文書を提出して書証の申出をするときは,取調べを求める部分についてその文書の訳文を添付しなければならない。〔後段略〕

 2 相手方は,前項の訳文の正確性について意見があるときは,意見を記載した書面を裁判所に提出しなければならない。

 


 「訳文の内容について当事者間に争いがないときは,基本的には訳文の正確性は問題にしないで,裁判所もその訳文に基づき審理を行うことが一般的であった」実務の取扱いが,明文で追認されています(最高裁判所事務総局民事局監修『条解民事訴訟規則』(司法協会・1997年)294頁)。すなわち,「訳文の正確性」は,当事者が気にしなければ裁判所は原則的に気にしないことになっているのですね。いちいち偉い翻訳者を雇わずとも,英語やらフランス語やらドイツ語について当ブログでよくあるように,訴訟代理人弁護士が自力で訳を作るということでよいようです。なお,訴状や準備書面については日本語を使用しなければならないことは,裁判所法74条により当然のこととされています(最高裁判所民事局監293頁)。

 


(2)刑事訴訟の場合

 刑事訴訟については,証拠書類又は証拠物中書面の意義が証拠となるものの取調べは公判廷において(刑事訴訟法2821項)その朗読(同法30512項,307条)又は要旨の告知(刑事訴訟規則203条の2)によってするものとされていますが,外国語による証拠書類等については,日本語の訳文の朗読(又はそれについての要旨の告知)がされなければならないことになります。「原文を合わせて朗読しなければならないかどうかについては,見解が分かれている」とされており,最高裁判所の昭和271224日判決(刑集6111380)を参照すべきものとされています(松本時夫=土本武司編著『条解 刑事訴訟法〔第3版増補版〕』(弘文堂・2006年)600頁)。当該昭和27年最高裁判所判決の「裁判要旨」は,「英文で記載した証拠書類がその訳文とともに朗読されている場合には,その証拠調をもつて裁判所法第74条に違反するものということはできない。」というものですから,原文の朗読は許容されているものであって必須ではないということでしょうか。ただし,当該判決の「裁判要旨」は敷衍されたものであって,判決の本文自体においては,「(なお,第一審判決が証拠としているCIDの犯罪捜査報告書とは犯罪調査報告として訳文のある調査報告書の一部を意味すること明らかであつて,これについては適法に証拠調べをしたことが認められる。)」と括弧書きで述べられているだけです。なお,訳文が添付されていない外国語による証拠書類等については,「国語でない文字又は符号は,これを翻訳させることができる。」とする刑事訴訟法177条に基づいて,裁判所は翻訳人に翻訳させることができます。上告趣意書(上告の申立ての理由を明示するもの(刑事訴訟法407条))について,「被告人本人は,上告趣意書と題する書面を提出したが,その内容は中国語で記載されており,日本語を用いていないから,裁判所法74条に違反し不適法である。従てこれに対し説明を与える限りでない。」と多数意見において判示した判例があります(最決昭和35年3月23日・刑集144439)。すなわち,日本語は,the Chinese languageの一種の方言であるわけではありません。

 


4 ウィキペディアと形式的証拠力

 また,民事訴訟法228条1項は,「文書は,その成立が真正であることを証明しなければならない。」と規定しています。ここでいう真正とは,「文書が挙証者の主張する特定人の意思に基づいて作成された場合に,訴訟上,その文書の成立が真正であるという」というものです(新堂幸司『新民事訴訟法 第二版』(弘文堂・2001年)541頁)。文書とは,「概ね,文字その他の記号の組合せによって,人の思想を表現している外観を有する有体物」と定義されています(司法研修所編『民事訴訟における事実認定』(法曹会・2007年)5253頁)。

 ウィキペディアの記事をプリント・アウトしたものを民事訴訟の場に証拠として提出する場合はどうなるのでしょうか。前記の「文書」の定義からすると,当該プリント・アウトは文書ということになるようです。そうなると,民事訴訟法228条1項によってその成立の真正を証明しなければならないようなのですが,ウィキペディアの記事は不特定の人々によって書かれたものですから,「特定人の意思に基づいて作成された」ものとはいえないようです。「例外的に,文書を特定人の思想の表現としてでなく,その種の文書の存在を証拠にする場合(たとえば,ビラや落書を当時の流行や世論の証拠として用る場合)は,それに該当する文書であれば足り,だれの思想の表現であるかは問題にならない」から,形式的証拠力(「文書の記載内容が,挙証者の主張する特定人の思想の表現であると認められること」)は問題にならない(新堂541頁),との解釈でいくべきでしょうか。なお,「現行民訴法には証拠能力の制限に関する一般的な規定はおかれておらず,自由心証主義の下,・・・証拠調べの客体となり得ない文書(証拠として用いられるための適格を欠く文書)は基本的に存在しないと解されてい」ます(司法研修所編72頁)。

 


5 サライェヴォ事件の事実関係に係るプリンツィプの伝記作家ティム・ブッチャーの主張 

 プリンツィプの伝記であるThe Trigger: Hunting the Assassin Who Brought the World to War” Chatto&Windus, 2014)を書いたティム・ブッチャーによれば(すなわち形式的証拠力のある(インターネット上の)文書(centenarynews.com, 28 May 2014)によれば),暗殺前にプリンツィプが街角のカフェにサンドウィッチを食べに立ち寄ったという事実はなく,プリンツィプは大公の車の踏み板に上ってはおらず(A.J.P. Taylorも余計なことを書いているわけです。),大公の妻ゾフィーは暗殺された時に妊娠しておらず,暗殺された夫妻の結婚記念日は6月28日ではなかったとされています。さらにブッチャーによれば,「逮捕されるプリンツィプ」として広く流布されている有名な写真に写っている人物は,実はプリンツィプではなく,別人であって,プリンツィプが群衆に殺されそうになっているのを止めようとして警察官に阻止されているサライェヴオの一市民Ferdinand Behrであるそうです。

 プリンツィプが暗殺前にサンドウィッチを食べていたという話は,暗殺の現場が,Schillerのデリカテッセン屋の前であったことから思いつかれたもののようです。英語でデリカテッセンといえば,まずはサンドウィッチが連想されるということでしょう。マイク・ダッシュ氏は(smithsonianmag.com, 15 September 2011),サンドウィッチのエピソードが広く流布したのは2003年の英国のテレビ・ドキュメンタリー番組“Days That Shook the World”で紹介されてからであろうとし,それ以前の段階では,ブラジルの娯楽小説『十二本指』(英訳本は2001年出版)において,フランツ・フェルディナントの暗殺直前に当該小説の主人公(左右の手それぞれに6本の指を持つプロの暗殺者。我がゴルゴ13のようなものか。)にサライェヴォの現場の街角で遭ったものとされたプリンツィプが,ちょうどサンドウィッチを食べていたというお話が描かれていた,と報告しています。

 ゾフィーの妊娠も,暗殺された時の年齢が,夫50歳,妻46歳であったことからすると,考えられにくいですね。

 


6 プリンツィプの犯罪に対する適用法条

 第一次世界大戦では何百万という人が命を落とすことになりましたが,この大惨事を惹き起こした当のプリンツィプはどうなったのでしょうか。暗殺直後にオーストリア=ハンガリー帝国の官憲に逮捕されたといいますから,裁判を経て死刑でしょうか。

これが当時の大日本帝国であれば,当然,死刑及びピストル没収でしょう。

 


(1)当時の日本法に準じた場合

 すなわち,フランツ・フェルディナントの殺害は我が刑法(明治40年法律第45号)旧75条(「皇族ニ対シ危害ヲ加ヘタル者ハ死刑ニ処シ危害ヲ加ヘントシタル者ハ無期懲役ニ処ス」)前段に当たり,ゾフィーの殺害は同法199条(「人ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ3年以上ノ懲役ニ処ス」)に当たり,両者は併合罪(同法45条)の関係になって(ピストルから1回撃った1個の銃弾で二人を殺したのではないから,観念的競合の場合(同法541項前段)には当たりません。),同法旧75条前段の死刑が科されて同法199条の刑は科されず(同法461項本文),暗殺に用いられたピストルは犯罪行為の用に供した物(同法1911号)ですから,当該ピストルが犯人以外の者に属するものでない限り(同条2項)没収され得ます(同条1項柱書き)。1914年当時,いまだ(旧)少年法(大正11年法律第42号)は制定されていません。

 なお,フランツ・フェルディナントはオーストリア=ハンガリー帝国の皇嗣ではありましたが,皇帝フランツ・ヨーゼフの甥ではあっても子でも孫でもないので,刑法旧73条(「天皇,太皇太后,皇太后,皇后,皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」)の適用はありません。明治の皇室典範15条は「儲嗣タル皇子ヲ皇太子トス皇太子在ラサルトキハ儲嗣タル皇孫ヲ皇太孫トス」と規定し,伊藤博文の『皇室典範義解』は同条につき「今既に皇位継承の法〔皇室典範〕を定め,明文の掲ぐる所と為すときは,立太子・立太孫の外,支系より入て大統を承くるの皇嗣は立坊の儀文に依ることを須ゐず。而して皇太子・皇太孫の名称は皇子皇孫に限るべきなり。」と解説しています。

 ゾフィーは身分が低いため皇族扱いされていなかったそうですから,皇族に係る刑法旧75条の保護対象にはなりません。明治皇室典範30条は,親王妃及び王妃(親王の妻及び王の妻)も皇族と称えるものとしていましたが,同39条は「皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ル」としており,正式な配偶者となり得る者の範囲は我が皇族についても限定されていました。とはいえ,我が明治皇室典範4条は「皇子孫ノ皇位ヲ継承スルハ嫡出ヲ先ニス皇庶子孫ノ皇位ヲ継承スルハ皇嫡子孫皆在ラサルトキニ限ル」と,同8条は「皇兄弟以上ハ同等内ニ於テ嫡ヲ先ニシ庶ヲ後ニシ長ヲ先ニシ幼ヲ後ニス」と規定しており,庶出であっても皇位継承権が否定されていたわけではありませんでした。しかしながら,これに対して,ハプスブルク家のフランツ・フェルディナントとゾフィーとの間に生まれる子については,オーストリア=ハンガリー帝国においては,厳しく,皇位継承権はないものとされていました。

 刑法199条の懲役刑の短期が3年から5年になったのは,平成16年法律第156号によるもので,2005年1月1日からの施行です(同法附則1条,平成16年政令第400号)。

 


(2)19世紀オーストリア=ハンガリー帝国法の実際

 しかしながら,オーストリア=ハンガリー帝国においては,プリンツィプは死刑にはなりませんでした。

 


  のちに二人〔プリンチプ及びカブリノウィッチ〕は未成年のため死刑をまぬかれ,20年の懲役を宣告されて入獄したが,いずれも肺結核患者であり,カブリノウィッチは1916年1月に,プリンチプは1918年春に病死して,この大戦の放火者たちは大戦の終結を知らずして短い生命を終わった。(江口編6頁(江口))

 


 当時のオーストリア=ハンガリー帝国の刑法はどうなっていたのか,ということが問題になります。訴訟の場面において,「法規を知ることは裁判官の職責であるから,裁判官は,当事者の主張や証明をまたずに知っている法を適用して差しつかえない」のですが,「外国法,地方の条例,慣習法などを知っているとは限らず,そのままではこれを適用されないおそれがあ」り,「そこで,その適用を欲する者は,その法の存在・内容を証明する必要があ」ります(新堂463頁)。

 1852年のオーストリア刑法52条後段は,次のとおり。

 


 Wenn jedoch der Verbrecher zur Zeit des begangenen Verbrechens das Alter von zwanzig Jahren noch nicht zurückgelegt hat, so ist anstatt der Todes- oder lebenslangen Kerkerstrafe auf schweren Kerker zwischen zehn und zwanzig Jahren zu erkennen.

 


 民事訴訟規則138条1項に従って訳文を添付すると,次のとおり。

 


 ―ただし,犯人が罪を犯す時20歳に満たない場合は,死刑又は無期禁錮刑に代えて,10年以上20年以下において重禁錮に処する。

 


 プリンツィプは1894年7月25日の生まれということですから,1箇月弱の差で死刑を免れました。(なお,プリンツィプが獄死したのは1918年4月28日とされていますが,「29日」とする人名事典が書店で見かけられたところです。)

 我が少年法(昭和23年法律第168号)51条1項は「罪を犯すとき〔ママ〕18歳に満たない者に対しては,死刑をもつて処断すべきときは,無期刑を科する。」と規定しています。これに比べて,オーストリア帝国は18歳と19歳とに対して優しかったわけです。

 しかし,我が旧刑法(明治13年太政官布告第36号)は次のように規定しており,その第81条を見ると,やはり犯行時満20歳になっていなかった者は最高刑の死刑にはならなかったようです(「本刑ニ1等ヲ減」じられてしまう。)。オーストリア刑法ばかりが20歳未満の者に対して優しいものであったというわけではありません。

 


79条 罪ヲ犯ス時12歳ニ満サル者ハ其罪ヲ論セス但満8歳以上ノ者ハ情状ニ因リ満16歳ニ過キサル時間之ヲ懲治場ニ留置スルヲ得

80条 罪ヲ犯ス時満12歳以上16歳ニ満サル者ハ其所為是非ヲ弁別シタルト否トヲ審案シ弁別ナクシテ犯シタル時ハ其罪ヲ論セス但情状ニ因リ満20歳ニ過キサル時間之ヲ懲治場ニ留置スルヲ得

若シ弁別アリテ犯シタル時ハ其罪ヲ宥恕シテ本刑ニ2等ヲ減ス

81条 罪ヲ犯ス時満16歳以上20歳ニ満サル者ハ其罪ヲ宥恕シテ本刑ニ1等ヲ減ス

 


 なお,1923年1月1日から施行された旧少年法は,次のように規定していました。16歳未満について原則として死刑及び無期刑がないものとされています。

 


 第7条 罪ヲ犯ス時16歳ニ満タサル者ニハ死刑及無期刑ヲ科セス死刑又ハ無期刑ヲ以テ処断スヘキトキハ10年以上15年以下ニ於テ懲役又ハ禁錮ヲ科ス

刑法第73条,第75条又ハ第200条ノ罪ヲ犯シタル者ニハ前項ノ規定ヲ適用セス

 


 ただし,第2項によれば,天皇及び皇族に対し危害を加え,若しくは加えようとし,又は尊属殺人を犯したときは,14歳以上でさえあれば(刑法41条),16歳未満であっても容赦はされなかったわけです。

 


7 暗殺者プリンツィプの情状に係る弁論

 現行犯ですから,フランツ・フェルディナント夫妻を殺害したという事実はなかなか争えません。プリンツィプの弁護人は,20年の重禁錮を何とか10年に近づけるべく,情状弁護で頑張ろうと考えたものでしょうか。

 情状として,どのような事項に着目すべきかについては,検察官の起訴裁量に係る刑事訴訟法248条がよく挙げられます。

 


 248条 犯人の性格,年齢及び境遇,犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは,公訴を提起しないことができる。

 


なるほど,ということになるわけですが。なおまだまだ抽象的です。この点,刑法並監獄法改正調査委員会総会決議及び留保条項に係る未定稿の改正刑法仮案(1940年)の次の条項は,具体的なものとなっており,参考になります。

 


 57条 刑ノ適用ニ付テハ犯人ノ性格,年齢及境遇並犯罪ノ情状及犯罪後ノ情況ヲ考察シ特ニ左ノ事項ヲ参酌スヘシ

  一 犯人ノ経歴,習慣及遺伝

  二 犯罪ノ決意ノ強弱

  三 犯罪ノ動機カ忠孝其ノ他ノ道義上又ハ公益上非難スヘキモノナリヤ否又ハ宥恕スヘキモノナリヤ否

  四 犯罪カ恐怖,驚愕,興奮,狼狽,挑発,威迫,群集暗示其ノ他之ニ類似スル事由ニ基クモノナリヤ否

  五 親族,後見,師弟,雇傭其ノ他之ニ類似スル関係ヲ濫用又ハ蔑視シテ罪ヲ犯シ又ハ罪ヲ犯サシメタルモノナリヤ否

  六 犯罪ノ手段残酷ナリヤ否及巧猾ナリヤ否

  七 犯罪ノ計画ノ大小及犯罪ニ因リ生シタル危険又ハ実害ノ軽重

  八 罪ヲ犯シタル後悔悟シタリヤ否損害ヲ賠償シ其ノ他実害ヲ軽減スル為努力シタリヤ否

 


 被告人プリンツィプの犯罪の決意は強いものでした(第2号)。オーストリア=ハンガリー帝国の統治を否認して,帝国の皇嗣を殺したのであるから帝国臣民としての忠の道に反するものであって,道義において言語道断(第3号),多文化多民族のヨーロッパ主義という公益にも反します(同号)。セルビア民族主義は,オーストリア=ハンガリー帝国当局の立場からすれば危険思想であって,それをもって宥恕するわけにはいかないでしょう。計画的犯行であって,恐怖,驚愕等によって犯されたものでは全くありません(第4号)。セルビア王国の要人の影までが背後にちらつく国際的陰謀の一環ということになれば,犯罪の計画は大であって,当該犯罪は帝国に危険をもたらし,かつ,害をなしたものであります(第7号)。また,プリンツィプは,セルビア民族主義の志士たらんと欲せば,当然悔悟の情など示さなかったものでしょう(第8号)。何だか検察官の論告になってきましたね,これでは。

 被告人プリンツィプは,本件犯行において,親族,後見,師弟,雇傭等の関係を濫用し,又は蔑視したわけではありません(第5号),と言ってはみても,だからどうした,マイナスがないだけだろう,ということになるようです。被告人プリンツィプは貧乏で,結核にかかった可哀想な少年なのです(第1号),本件犯行は失敗しかかっていた暗殺計画が偶然によって成功してしまったものであって,巧猾なものでは全くありません(第6号),といったことを強調したのでしょう,プリンツィプの弁護人は。

 


8 第一次世界大戦とオーストリア=ハンガリー帝国の実力

 さて,1914年7月28日のオーストリア=ハンガリー帝国のセルビア王国に対する宣戦布告に続く諸国の動きはどうだったかというと,同月30日にロシアが総動員を発令,2日後の8月1日にはフランス及びドイツがそれぞれ総動員を発令して,同日,ドイツはロシアに宣戦を布告します。有名なシュリーフェン・プラン下にあったドイツ軍は,同月2日にルクセンブルクに,同月3日にはベルギーに侵入して,同日ドイツはフランスに宣戦を布告しました。同月4日には,英国の対独宣戦,ドイツの対ベルギー宣戦が続きます。しかして,そもそもの出火元であるオーストリア=ハンガリー帝国は,何をしていたのか。

 


  哀れな老オーストリア=ハンガリーは一番もたついた(took longest to get going)。すべての激動を始めた(started all the upheaval)のは同国であったのにもかかわらず,交戦状態に入ったのは最後になった(the last to be involved)。ドイツに促されてロシアに宣戦したのは,やっと8月6日だった。オーストリア=ハンガリー軍がセルビア侵攻のためにドナウ川を渡ったのは8月11日であったが,結果は芳しくなかった(to no good purpose)。2箇月ほどのうちにオーストリア=ハンガリー軍は撃退され(thrown out),セルビア軍はハンガリー南部に侵入した。(Taylor, p.21

 


 ドイツはなぜ,上記「ぬるい」有様であるオーストリア=ハンガリー帝国の側に立って,第一次世界大戦のドンパチを始めてしまったのでしょうかねぇ。7月28日の宣戦に続くべき大国オーストリア=ハンガリー帝国から小国セルビア王国への武力攻撃に対して,スラヴ民族・正教徒仲間のロシア帝国がセルビア王国のための集団的自衛権発動の準備として総動員を発令したところ,それがドイツ帝国の軍部を刺激して,対仏露二正面作戦のシュリーフェン・プラン発動のボタンを押させてしまったということでしょうか。結果として見れば,ロシアの助太刀がなくとも,セルビア軍はオーストリア=ハンガリー帝国軍相手に結構いい勝負ができていたかもしれないように思われます。

 


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(後記)上掲の写真のサンドウィッチは,世界史を大きく変えたものではありませんが,依頼者さまの正当な利益の実現のために入念の訴状を仕上げるに当たって,精力的に仕事をこなすために必要なエネルギーを補給してくれたものです。ただし,弁護士(avocat)がアボカド(avocat)・サンドウィッチを食べたのですから,フランス語的には共食いですね。(相手方の訴訟代理人弁護士(avocat)の先生には申し訳ありません。)

 赤くつややかな大粒のさくらんぼは,以前の法律相談の依頼者の方から,お礼にということで頂いたものです。今後とも,依頼者の皆さまの信頼に応え,満足していただける仕事を続けていこうと,甘くおいしいさくらんぼを次々と口に運びながら,改めて心に誓ったものでした。

 本ブログの読者の方の中にも,法律関係で何か問題等を抱えることになってしまった方がいらっしゃいましたら,お一人で悩まずに,ぜひお気軽にお電話ください。

 


弁護士 齊藤雅俊

 大志わかば法律事務所

 東京都渋谷区代々木一丁目57番2号ドルミ代々木1203

 電話: 0368683194

 電子メール: saitoh@taishi-wakaba.jp

 

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1 大同の元号

 9世紀初めの我が平城天皇時代の元号は,大同でした。

 ところでこの大同という元号はなかなか人気があり,我が国のほか,六朝の梁においても(535546年),契丹族の遼においても(947年)採用されています。

 最近の例としては,1932年3月1日の満洲国建国宣言発表に当たって採用されています(1934年に満洲国の帝制移行とともに康徳に改元)。

 


2 大同元年の日満議定書

 この満洲国の大同元年の9月15日,同国と我が国との間で議定書(日満議定書)が署名調印され,条約として即日発効しました(昭和7年条約第9号)。日満議定書の内容は,次のとおりです。

 


         議 定 書

 日本国ハ満洲国ガ其ノ住民ノ意思ニ基キテ自由ニ成立シ独立ノ一国家ヲ成スニ至リタル事実ヲ確認シタルニ因リ

 満洲国ハ中華民国ノ有スル国際約定ハ満洲国ニ適用シ得ベキ限リ之ヲ尊重スベキコトヲ宣言セルニ因リ

 日本国政府及満洲国政府ハ日満両国間ノ善隣ノ関係ヲ永遠ニ鞏固ニシ互ニ其ノ領土権ヲ尊重シ東洋ノ平和ヲ確保センガ為左ノ如ク協定セリ

 一 満洲国ハ将来日満両国間ニ別段ノ約定ヲ締結セザル限リ満洲国領域内ニ於テ日本国又ハ日本国臣民ガ従来ノ日支間ノ条約,協定其ノ他ノ取極及公私ノ契約ニ依リ有スル一切ノ権利利益ヲ確認尊重スベシ

 二 日本国及満洲国ハ締約国ノ一方ノ領土及治安ニ対スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約国ノ他方ノ安寧及存立ニ対スル脅威タルノ事実ヲ確認シ両国共同シテ国家ノ防衛ニ当ルベキコトヲ約ス之ガ為所要ノ日本国軍ハ満洲国内ニ駐屯スルモノトス

 本議定書ハ署名ノ日ヨリ効力ヲ生ズベシ

本議定書ハ日本文及漢文ヲ以テ各2通ヲ作成ス日本文本文ト漢文本文トノ間ニ解釈ヲ異ニスルトキハ日本文本文ニ依ルモノトス

 


右証拠トシテ下名ハ各本国政府ヨリ正当ノ委任ヲ受ケ本議定書ニ署名調印セリ

 


昭和7年9月15日即チ大同元年9月15日新京ニ於テ之ヲ作成ス

 


               日本帝国特命全権大使 武藤信義(印)

 


               満洲国国務総理    鄭 孝胥(印)

 


3 日満議定書と日米安保条約

 


(1)旧日米安保条約

 日満議定書については,旧日米安全保障条約との「類似性」がしばしば指摘されました。

1951年9月8日にサンフランシスコで調印され,1952年4月28日に発効した旧日米安保条約1条は次のとおり。

 


  平和条約及びこの条約の効力発生と同時に,アメリカ合衆国の陸軍,空軍及び海軍を日本国及びその附近に配備する権利を,日本国は許与し,アメリカ合衆国はこれを受諾する。この軍隊は極東における国際の平和と安全の維持に寄与し,並びに,1又は2以上の外部の国による教唆又は干渉によって引き起こされた,日本国における大規模の内乱及び騒擾を鎮圧するため,日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて,外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。

 


旧日米安保条約は,「「アメリカの日本防衛義務」を欠落させるという「本質的欠陥」を残したまま,単なる駐軍協定となった」と評されています(原彬久『岸信介―権勢の政治家―』(岩波新書・1995年)227頁)。同条約において日本が「従属的地位」にあることが日本国民の怒りをかっているとは,1957年,内閣総理大臣就任時の岸信介が米国側に述べた認識でもありました(原187頁)。

なるほど,日満議定書が旧日米安保条約と類似しているのならば,我が国は満洲国内に駐軍権を確保しつつもうまい具合に満洲国防衛の義務は免れていたのか,とも思われるところです。しかし,日満議定書の文言からは直ちにはそうともいえないようです。

19511018日,第12回国会衆議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会において,西村榮一衆議院議員は,片務的(米国に日本防衛義務が無い。)な旧日米安保条約に比べて,(少なくとも文言上は)双務的な日満議定書の方が「平等にして友好的にして,また筋道が立つて」いる旨指摘して,吉田内閣の見解を問うています。

 


○西村(榮)委員 ・・・その日満議定書の共同防衛の中には,満洲国の攻撃は日本に対する攻撃と見なし,日本国に対する攻撃は,満洲国また共同の責任をもつてこの日満両国の防衛に当らねばならぬということが,明確にされておるのでありまして,今から20年前に締結されたこの日満議定書には,日満両国は平等の立場に立つて,領土権は尊重して,同時に満洲国の一寸の土といえども侵された場合においては,日本は全生命を賭してこれを防衛するということが明示せられておるのであります。・・・少くとも日本が満洲国にとつた日満議定書の方が,この日米防衛協定よりもはるかに平等にして友好的にして,また筋道が立つて,共同防衛の立場に立つておるということだけは,私は申し上げておきたいのでありますが。総理大臣のこの日満議定書をごらんになつての御感想はいかがですか。

 


 答弁の難しい質疑であって,西村熊雄外務省条約局長も吉田茂内閣総理大臣も,日満議定書は実は日本が駐軍権を持つだけの片務的なものだったとも,旧日米安保条約は米国が日本防衛義務をしっかり負う双務的なものだとも言わずに,いわゆるすれ違い答弁に徹しています。(なお,我が国に満洲国防衛義務が無かったのならば,我が軍苦戦の1938年の張鼓峰事件,大損害を受けた1939年のノモンハン事件等は何だったのかということになりかねません。)

 


 ○西村(熊)政府委員 私は日満議定書における満洲国の立場に立つよりも,日米間の保障条約における日本の立場に立つことを,今日の日本国民の絶対多数は支持すると思います。

 


  ・・・

 


 ○吉田国務大臣 西村条約局長の申したところ,すなわち私の所見であります。

 


旧日米安保条約作成の過程においては,「吉田〔茂内閣総理大臣〕がアメリカ側に「対等の協力者」でありたいと申し出たとき,アメリカはこれを一蹴した。日本が米軍を受け入れることと,米軍が日本を防衛することとを等価交換することによって,「日米対等」を立証しようとした吉田の提案は完全に斥けられた。アメリカはいわゆるバンデンバーグ決議(1948年,上院で採択)第3項によって,「自助および相互援助」の力を日本が備えない限り,「対等の協力者」として日本を遇することはできないと主張したのである。/しかも,この「自助および相互援助」の力とは軍事力そのものであって,それ以外の何物でもない,というのがアメリカの立場であった。」という事情があったそうです(原226227頁)。満洲国ですら,西太平洋に広がる大日本帝国の「領土及治安ニ対スル一切ノ脅威」に対して健気に「両国共同シテ国家ノ防衛ニ当ルベキコトヲ約」したのにお前は何だ,とでもいうことでしょうか。

なお,日米安保条約体制の文脈でいわれる「日米対等」とは,我が国の敗戦以来の米軍の我が国土への駐留を所与のものとしつつ,その見返りに確実に米国に日本防衛義務を負わせる,ということのように解されます。

 


(2)新日米安保条約

前記のような情況下,1960年の新日米安保条約(同年119日ワシントンで署名,同年623日発効)に向けた内閣総理大臣「岸〔信介〕の狙いは,第1に「対等の協力者」の証しとして「アメリカの日本防衛義務」を条文化することであり,そのためには第2に,「自助および相互援助」の力すなわち日本の防衛力増強の努力をアメリカに認めさせて,新しく「相互防衛条約」をつくろうということであった」そうです(原227228頁)。

それでは,新日米安保条約における米国の「日本防衛義務」はどのようなものになったのでしょうか。

 


・・・第一に新条約に「日米対等」を求めるとすれば,「アメリカの日本防衛義務」を同条約に組み込むことは,論理必然的に「日本のアメリカ防衛義務」を何らかの形で条文化することにつながるはずである。しかし「日本のアメリカ防衛義務」が,「戦力」と「海外派兵」を許さない日本国憲法に阻まれるのは当然であった。したがって新条約第5条は,・・・アメリカが日本領土を防衛し,日本が日本の施政下にある米軍基地を防衛するという,いささかトリッキーな内容をもつことになるのである。

 ところが,第5条はそれだけをみれば確かにトリッキーだが,この第5条の仕掛けをそれでよしとするほどアメリカは甘くない。第6条のいわゆる極東条項がこの「仕掛け」を十分説明している。つまりアメリカは,この第6条によって,「極東における国際の平和と安全の維持に寄与するため」に在日基地を使用することができるとなれば,同国は「極東の平和と安全」の「ため」とみずから判断して,その世界戦略に在日基地を利用できる。第5条におけるアメリカの日本にたいする「貸し」は,第6条の極東条項によって埋め合わせがつくという仕組みである。・・・(原229頁)

 


 「トリッキー」ではありますが,一応つじつまを合わせて「アメリカの日本防衛義務」を認めさせているようではあります。岸信介は鼻高々であったでしょうか。実はそうではありませんでした。

 


 ・・・みずから「命をかけた」安保改定がいかに不十分,不本意であるかは,彼〔岸〕自身が最もよく知っている。彼はこういう。「もし憲法の制約がなければ,日本が侵略された場合にアメリカが,アメリカが侵略された場合に日本が助けるという完全な双務条約になっただろう」(〔原彬久による岸インタビュー〕)。岸にとって現行憲法は,ここでも「独立の完成」を妨げる「元凶」としてあらわれるのである。新安保条約が完成されたとはいえ,同条約への新たなフラストレーションが,ほかでもない,「憲法改正」にたいする岸の執念を膨らませていく。(原230頁)

 


 岸信介の不満は,双務性の不十分性にあるようですが,やはり「アメリカの日本防衛義務」がなお不十分であるということでしょうか。

現在の日米安保条約の第5条1項及び第6条1項は次のとおりです。

 


 第5条1項 各締約国は,日本国の施政の下にある領域における,いずれか一方に対する武力攻撃が,自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め,自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。

 


 第6条1項 日本国の安全に寄与し,並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため,アメリカ合衆国は,その陸軍,空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。

 


(3)日米安保条約5条1項とNATO条約5条1項との比較

現行日米安保条約5条1項の日本語は,一見,米国の日本防衛義務をきちんと規定しているようですが,岸信介はどこが不満だったのか。同項の英文を見てみましょう。

 


Each Party recognizes that an armed attack against either Party in the territories under the administration of Japan would be dangerous to its own peace and safety and declares that it would act to meet the common danger in accordance with its constitutional provisions and processes.

 


 これを,次の北大西洋条約(NATO条約)5条1項と比較してみましょう。

 


The Parties agree that an armed attack against one or more of them in Europe or North America shall be considered an attack against them all and consequently, they agree that, if such an armed attack occurs, each of them, in exercise of the right of individual or collective self-defence recognised by Article 51 of the Charter of the United Nations, will assist the Party or Parties so attacked by taking forthwith, individually and in concert with the other Parties, such action as it deems necessary, including the use of armed force, to restore and maintain the security of the North Atlantic area.

  (加盟国は,欧州又は北米における1又は2以上の加盟国に対する武力攻撃は全加盟国に対する攻撃であるものととみなすことに合意し,したがって,加盟国は,そのような攻撃が発生したときは,各加盟国が,国際連合憲章第51条によって認められた個別的又は集団的自衛権の行使として,個別に及び他の加盟国と協力して,北大西洋地域における安全の回復及び維持のためにその必要と認める行動(武力の使用を含む。)を直ちに執って,そのように攻撃を受けた加盟国を援助するものとすることに合意する。)

 


なるほど。北大西洋条約5条1項前段の場合には欧州又は北米における1又は2以上の加盟国に対する武力攻撃は全加盟国に対する攻撃であるものとみなす(shall be considered an attack against them all)旨合意する(agee)と端的に規定されているのに対して,日米安保条約5条1項前段の場合,「各締約国は,日本国の施政の下にある領域における,いずれか一方に対する武力攻撃が,自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め」の部分における「危うくするものであること」とは,would be dangerous”であって,これは推量のwouldを用いた表現ですね。だから両締約国が合意(agee)するのではなくて,各締約国が各別に認める(recognizes(三単現のs付き))わけなのですか。となると,北大西洋条約の「みなす」との相違が明らかになるように訳するとなると,「各締約国は,日本国の施政の下にある領域における,いずれか一方に対する武力攻撃が,自国の平和及び安全を危うくするものと推定されるものであることを認め」でしょうか。英文ではshallではなく,せっかくwouldが用いられているのですから,日米安保条約の適用を受ける「日本国の施政の下にある領域」における日本に対する武力攻撃であっても,米国の平和及び安全にとっては危険を及ぼさないものであるとされる可能性はなお排除されないわけです。

北大西洋条約5条1項後段では,端的に,攻撃を受けた加盟国を直ちに援助する(will assist the Party or Parties so attacked….forthwith)」旨合意(agee)されています。これに対して,日米安保条約5条1項後段は,ここでも両締約国の合意ではなく各締約国個別の宣言(declares)となっており,さらに,「直ちに(forthwith)」援助してくれるのではなく,「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」から「共通の危険に対処するように行動する」ものとされています。日本のために宣戦してあげましょう,ということになると,合衆国大統領の一存というわけにはいかず,合衆国憲法上,連邦議会が決定権を持つことになります。(また,更に1973年戦争権限法が連邦議会の関与について定めています。)最後にまた,「共通の危険に対処するように行動」するといっても,そこでの助動詞は,北大西洋条約のように端的なwillではなく,またまたwouldであって不確実です(would act to meet the common danger)。英和辞典には,“I would if I could.”などという頼りなげな例文が出ています。ここでも,せっかくのwouldを強調して訳すると,「自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動するであろうことを宣言する。」となりましょうか。

「各締約国は,日本国の施政の下にある領域における,いずれか一方に対する武力攻撃が,自国の平和及び安全を危うくするものと推定されるものであることを認め,自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動するであろうことを宣言する。」ということになると,確かに,「アメリカの日本防衛義務」は,文言上はなお頼りないものです。対処の対象は飽くまでも「共通の危険」なので,日本国の施政の下にある領域における日本に対する武力攻撃であっても,米国の平和及び安全にとっては危険を及ぼさないものであるとされた場合には,日本単独の危険であっても共通の危険ではないものとされ,また,共通の危険であると認められても,「直ちに(forthwith)」ではなく「自国の憲法上の規定及び手続」を経た上で援助が与えられ,しかもとどのつまりが,“I would if I could.”なのですから。

無論,以上は英語の素人の素人考えであって,外務省等の英語の達人の方々が別異に解釈されるのならば,それに従うべきことはもちろんです。(しかし,1854年の日米和親条約では,和文と英文との相違による混乱がありましたね。)

 


(4)岸信介の憲法改正構想と日米安保条約「再改定」

岸信介の憲法改正構想は,なお米軍の我が国土への駐留を所与のものとしつつ,その見返りである米国による日本防衛義務を,北大西洋条約加盟国に対する米国の防衛義務と同程度に完全ならしめるため,同条約5条1項にいう「国際連合憲章第51条によって認められた・・・集団的自衛権の行使」が我が国もできるようにしよう,というものだったのでしょう。(なお,2012年4月27日決定の自由民主党憲法改正草案では,憲法9条2項を「前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。国の交戦権は,これを認めない。」から「前項の規定は,自衛権の発動を妨げるものではない。」に改め,憲法上「自衛権の行使には,何らの制約もないように規定し」たとし(同党『QA』),集団的自衛権の行使が可能になるようにするものとされています。これも同様のねらいを有するものでしょう。)

日本の集団的自衛権行使を前提として,米国の日本防衛義務を完全ならしめるため,現在の日米安保条約5条1項及び6条1項を合わせて,北大西洋条約5条1項に倣って再改定すると,次のようになるのでしょうか。

 


 締約国は,日本国又はアメリカ合衆国の施政の下にある領域における,いずれか一方に対する武力攻撃が,両締約国に対する攻撃であるものととみなすことに合意し,したがって,締約国は,そのような攻撃が発生したときは,各締約国が,国際連合憲章第51条によって認められた個別的又は集団的自衛権の行使として,個別に及び他の締約国と協力して,北太平洋地域における安全の回復及び維持のためにその必要と認める行動(武力の使用を含む。)を直ちに執って,そのように攻撃を受けた締約国を援助するものとすることに合意する。

 前項の目的のため,アメリカ合衆国は,その陸軍,空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。

 


 日満議定書第2項に倣った場合は,次のとおり。

 


日本国及亜米利加合衆国ハ締約国ノ一方ノ領土及治安ニ対スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約国ノ他方ノ安寧及存立ニ対スル脅威タルノ事実ヲ確認シ両国共同シテ国家ノ防衛ニ当ルベキコトヲ約ス之ガ為所要ノ合衆国軍ハ日本国内ニ駐屯スルモノトス

 


 集団的自衛権を行使できるようにすることによって初めて,米国との関係で我が国は,日満議定書における満洲国並みの地位を確保できることになるということでしょうか。米軍の我が国駐留を出発点としつつ,せっかくの在日米軍を活用して米国に我が国防衛義務を負わせようとすると,かえって我が国が,大西洋・カリブ海にまで及ぶ米国の共同防衛義務を負わされることになるというのは,なかなかですね。

 しかし,「私は日満議定書における満洲国の立場に立つよりも,日米間の〔旧安全〕保障条約における日本の立場に立つことを,今日の日本国民の絶対多数は支持すると思います。」との前記西村外務省条約局長の答弁は,問題は,条約の一条項における文面上の対等性ばかりではないということをかえって証するものでしょう。

 


4 鄭孝胥国務総理の煩悶

 日本軍駐屯の見返りに(日本に対する共同防衛義務も負うものの)しっかり日本の満洲国防衛義務を確保したのであったなら,日満議定書は,日米安保条約における吉田茂及び岸信介両内閣総理大臣に比すれば,満洲国国務総理鄭孝胥の外交的大成功であったということになるようですが,そうでもなかったようです。

 


 ・・・1932年9月15日の日満議定書調印式に「武藤全権大使随員として立ち会った米沢菊二一等書記官が書き残したメモによれば,武藤の挨拶に対して鄭孝胥が示した反応は・・・。

   鄭総理は早速に答辞を陳べんとして陳べ得ず,いたずらに口をもぐもぐさせ,顔面神経を極度にぴりぴり動かし,泣かんばかりの顔を5秒,10秒,30秒,発言せんと欲して能はず。心奥の動揺,暴風の如く複雑なる激情の交錯するを思わせるに十分であった。(米沢『日満議定書調印記録』)

鄭孝胥は調印6日前になって突然辞任を申し出,国務院への登院を拒んでいた・・・。・・・米沢は鄭孝胥の辞意は単なる駒井〔徳三総務長官〕排斥の意図にとどまらないのではないか,との判断をもっていた。すなわち「調印により売国奴の汚名を冠せられ,支那4億の民衆よりのちのちに至るまで満洲抛棄の元凶と目されんことを恐れ,調印の日の切迫するにつれ煩悶の末,その責任を遁れんがため,辞職を申し出たるにあらざるか」(同前)と推測していたのである。そのため,最終局面で鄭孝胥が調印を拒絶するのではないかとの危惧が去らず,鄭総理の顔面の異常な痙攣を見て,米沢は一刻も早く調印をすませるべく,本来先に行なうべき日付の記入を後回しにしてまず署名を求めたという。」(山室信一『キメラ―満洲国の肖像』(中公新書・1993年)211212頁)

 


 鄭孝胥は,「満洲国は抱かれたる小児の如し。今手を放してこれを歩行せしめんと欲す。・・・然るに児を抱く者,もしいたずらに長くこれを手に抱かんか児ついに自立の日なし。・・・ここに至りて我満洲国の未だよく立つあたわざるの状,日本政府あえて手を放して立たしめざるの状況,これ今日自明の所ならん。」程度の日本批判を関東軍にとがめられて,1935年辞任。憲兵の監視下にあって,家に閉じこもって書道に歳月を費やし,1938年,風邪に腸疾を併発し,新京で死亡しました。(山室218219頁)

日本人は真面目なのですが,真面目な分だけちょっとした当てこすりにも過敏に反応して,陰険な意地悪をするものです。戒心しましょう。


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