Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

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1 三種ノ神器と後鳥羽天皇及び後醍醐天皇

 安徳天皇を奉じ三種ノ神器を具しての平家都落ちを承けて前年急遽践祚した第82代後鳥羽天皇の即位の大礼を,後白河法皇が翌七月に行おうとしていることに関する元暦元年(寿永三年)(1184年)六月廿八日の九条兼実日記(『玉葉』)の批判的記述。

 

 ・・・何況(なんぞいわんや)不帯剣璽(けんじをおびざる)即位之例出来者(いできたらば),後代乱逆之(もとい),只可在(このことに)此事(あるべし)・・・

 

 壇ノ浦の合戦において安徳天皇が崩御し,平家は滅亡,三種ノ神器のうち鏡及び璽は回収されたものの剣は失われてしまったのは,その翌年のことでした。
 承久三年の乱逆は,元暦元年から37年後のことです。九条家は,兼実の孫の道家の代となっていました。 

 また,頼山陽『日本外史』巻之五新田氏前記楠氏にいわく。

 

 〔建武三年(1336年),後醍醐〕帝の(けつ)(かえ)るや,〔足利〕尊氏(すで)に新帝〔光厳天皇〕の弟を擁立す。これを北朝光明帝となす。帝に神器を伝へんことを請ふ。〔後醍醐〕帝(ゆる)さず。尊氏,〔後醍醐〕帝を花山院に(とら)へ,従行の者僧(ゆう)(かく)らを殺し,その余を(こう)(しゅう)す。・・・〔三条〕(かげ)(しげ)(ひそか)に計を進め,(のが)れて大和に(みゆき)せしむ。〔後醍醐〕帝,夜,婦人の()を服し,(かい)(しょう)より出づ。(たす)けて馬に(のぼ)せ,景繁,神器を(にな)つて従ふ。・・・ここにおいて,行宮(あんぐう)を吉野に(),四方に号令す。(頼成一=頼惟勤訳『日本外史(上)』(岩波文庫・1976年)313314頁)

 

 同じく巻之七足利氏正記足利氏上にいわく。

 

 〔後醍醐〕帝,〔新田〕義貞をして,太子を奉じ越前に赴かしめ,(しこう)して()を命じて闕に還る。〔足利〕直義,兵に将としてこれを迎へ,(すなわ)ち新主〔光明天皇〕のために剣璽を請ふ。〔後醍醐〕帝,偽器(ぎき)を伝ふ。(頼成一=頼惟勤訳『日本外史(中)』(岩波文庫・1977年)26頁)

 

 しかし,偽器まで使って(あざむ)き給うのは,さすがにどうしたものでしょうか。

 

2 天皇の退位等に関する皇室典範特例法案要綱

昨日(2017年5月10日),京都新聞のウェッブ・サイトに「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案要綱」というものが掲載されていました。当該要綱(以下「本件要綱」といいます。)の第二「天皇の退位及び皇嗣の即位」には「天皇は,この法律の施行の日限り,退位し,皇嗣が,直ちに即位するものとすること。」とあり,第六「附則」の一「施行期日」には「1 この法律は,公布の日から起算して3年を超えない範囲内において政令で定める日から施行するものとすること。」とあります。すなわち,全国民を代表する議員によって組織された我が国会が,3年間の期間限定ながら,内閣(政令の制定者)に対し,在位中の天皇を皇位から去らしめ(「天皇は,この法律の施行の日限り,退位し」というのは,法律施行日の夜24時に天皇は退位の意思表示をするものとし,かつ,当該意思表示は直ちに効力を生ずるものとするという意味ではなくて,シンデレラが変身したごとく同時刻をもって天皇は自動的に皇位を失って上皇となるという意味でしょう。),皇嗣をもって天皇とする権限を授権するような形になっています。

 

3 「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承と三種ノ神器

「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承の際三種ノ神器はどうなるのかが気になるところです。

手がかりとなる規定は,本件要綱の第六の七「贈与税の非課税等」にあります。いわく,

 

第二により皇位の継承があった場合において皇室経済法第7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物については,贈与税を課さないものとすること。

 

 皇室経済法(昭和22年法律第4号)7条は,次のとおり。

 

 第7条 皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。

 

(1)皇室経済法7条をめぐる解釈論:相続法の特則か「金森徳次郎の深謀」か

 本件要綱の第六の七には「皇室経済法第7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物」とあります。ところで,これは,皇位継承があったときに,皇室経済法7条によって直接,三種ノ神器その他の「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」の所有権は,特段の法律行為を要さずに前天皇から新天皇に移転するということでしょうか。見出しには「贈与税の非課税等」とありますが,ここでの「等」は,皇室経済法7条のこの効力を指し示すものなのでしょうか。

 皇室経済法7条については,筆者はかつて(2014年5月)「「日本国民の総意に基づく」ことなどについて」と題するブログ記事で触れたことがあります。ここに再掲すると,次のごとし。

 

皇室経済法7条は「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。」と規定しています。同条の趣旨について,19461216日,第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会において,金森徳次郎国務大臣は次のように説明しています。天皇にも「民」法の適用があることが前提とされています。

 

次ぎに第7条におきまして,日本国の象徴である天皇の地位に特に深い由緒ある物につきましては,一般相続財産に関する原則によらずして,これらのものが常に皇位とともに,皇嗣がこれを受けらるべきものなる旨を規定いたしております,このことはだいたいこの皇室経済法で考えておりまするのは,民法等に規定せられることを念頭にはおかないのでありまするけれども,しかし特に天皇の御地位に由緒深いものの一番顕著なものは,三種の神器などが,物的な面から申しましてここの所にはいるかとも存じますが,さようなものを一般の相続法等の規定によつて処理いたしますることは,甚はだ目的に副わない結果を生じまするので,かようなものは特別なるものとして相続法より除外して,皇位のある所にこれが帰属するということを定めたわけであります。

 

  天皇に民法の適用があるのならば相続税法の適用もあるわけで,19461217日,第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会におけるその点に関する小島徹三委員の質疑に対し,金森徳次郎国務大臣は次のように答弁しています。

 

・・・だいたい〔皇室経済法〕第7条で考えております中におきましては,はつきり念頭に置いておりますのは,三種の神器でありますけれども,三種の神器を物の方面から見た場合でありますけれども,そのほかにもここに入り得る問題があるのではないか,かように考えております,所がその中におきまして,極く日本の古典的な美術の代表的なものというようなものがあります時に,一々それが相続税の客体になりますと,さような財産を保全することもできないというふうな関係になりまして,制度の関係はよほど考えなければなりませんので,これもまことに卑怯なようでありますけれども,今後租税制度を考えます時に,はっきりそこをきめたい,かように考えております

 

  相続税法12条1項1号に,皇室経済法7条の皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,相続税の非課税財産として掲げられています。

  三種の神器は,国有財産ではありません。19461221日,第91回帝国議会貴族院皇室経済法案特別委員会における大谷正男委員の質疑に対する金森徳次郎国務大臣の答弁は,次のとおり。

 

此の皇位に非常に由緒のあると云ふもの・・・今の三種の神器でありましても,皇位と云ふ公の御地位に伴ふものでありますが故に,本当から云へば国の財産として移るべきものと考ふることが,少くとも相当の理由があると思つて居ります,処がさう云ふ風に致しますると,どうしても神器などは,信仰と云ふものと結び付いて居りまする為に,国の方にそれは物的関係に於ては移つてしまふ,それに籠つて居る精神の関係に於ては皇室の方に置くと云ふことが,如何にも不自然な考が起りまして,取扱上の上にも面白くない点があると云ふのでありまするが故に,宗教に関しまするものは国の方には移さない方が宜いであらう,と致しますると,皇室の私有財産の方に置くより外に仕様がない,こんな考へ方で三種の神器の方は考へて居ります・・・

 

  http://donttreadonme.blog.jp/archives/1003236277.html

 

 要するに筆者の理解では,皇室経済法7条は民法の相続法の特則であって,崩御によらない皇位継承の場合(相続が伴わない場合)には適用がないはずのものでした。生前退位の場合にも適用があるとすれば(確かに適用があるように読み得る文言とはなっています。),これは,皇位継承の原因は崩御のみには限られないのだという理解が,皇室典範(昭和22年法律第3号)及び皇室経済法の起草者には実はあったということになりそうです(両法の昭和天皇による裁可はいずれも同じ1947年1月15日にされています。)。「金森徳次郎の深謀」というべきか。

 しかし,皇室経済法7条が生前退位をも想定していたということになると,現行皇室典範4条の規定(「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」)は崩御以外の皇位継承原因を排除しているのだという公定解釈の存立基盤があやしくなります。そうなると,本件要綱の第一にある「皇室典範(昭和22年法律第3号)第4条の規定の特例として」との文言は,削るべきことになってしまうのではないでしょうか。

 

(2)贈与税課税の原因となる贈与と所得税の課税対象となる一時所得

 更に困ったことには,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承に伴い直ちに皇室経済法7条によって「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」の所有権が前天皇から新天皇に移転するのであれば,これは新旧天皇間の贈与契約に基づく財産の授受ではなく,そもそも贈与税の課税対象とはならないのではないでしょうか。

相続税法(昭和25年法律第73号)1条の4第1項は,贈与税の納税義務者を「贈与により財産を取得した個人」としていますが,ここでいう「贈与」とは民法549条の贈与契約のことでしょう(金子宏『租税法(第17版)』(弘文堂・2012年)543頁参照)。相続税法5条以下には贈与により取得したものとみなす場合が規定されていますが,それらは,保険契約に基づく保険金,返還金等(同法5条),定期金給付契約に基づく定期金,返還金等(同法6条),著しく低い価額の対価での財産譲渡(同法7条),債務の免除,引受け及び第三者のためにする債務の弁済(同法8条),信託受益権(同法第1章第3節),並びにその他対価を支払わないで,又は著しく低い価額の対価で利益を受けること(同法9条)であるところ,皇室経済法7条による「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」の所有権の移転がみなし贈与であるためには, 相続税法9条の規定するところに該当するか否かが問題になるようです。しかしながら,相続税法9条の適用がある事例として挙げられているのは,同族会社等における跛行増資,同族会社に対する資産の低額譲渡及び妻が夫から無償で土地を借り受けて事業の用に供している場合(金子546頁)といったものですから,どうでしょうか。同条の「当該利益を受けさせた者」という文言からは,当該利益を受けさせた者の効果意思に基づき利益を受ける場合に限られると解すべきではないでしょうか。

むしろ新天皇(若しくは宮内庁内廷会計主管又は麹町税務署長若しくは麻布税務署長)としては,一時所得(所得税法(昭和40年法律第33号)34条1項)があったものとして所得税が課されるのではないか,ということを心配すべきではないでしょうか。一時所得とは「利子所得,配当所得,不動産所得,事業所得,給与所得,退職所得,山林所得及び譲渡所得以外の所得のうち,営利を目的とする継続的行為から生じた所得以外の一時の所得で労務その他の役務又は資産の譲渡の対価としての性質を有しないもの」をいいます。(ちなみに,所得税法上の各種所得中最後に定義される雑所得は,「利子所得,配当所得,不動産所得,事業所得,給与所得,退職所得,山林所得,譲渡所得及び一時所得のいずれにも該当しない所得」です(同法35条1項)。)個人からの贈与により取得する所得には所得税は課税されませんが(所得税法9条1項16号),そうではない所得については,所得税の課税いかんを考えるべきです。

しかし,今井敬座長以下「高い識見を有する人々の参集」を求めて開催された天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(2016年9月23日内閣総理大臣決裁)の最終報告(2017年4月21日)のⅣ2には「天皇の退位に伴い,三種の神器(鏡・剣・璽)や宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)などの皇位と共に伝わるべき由緒ある物(由緒物)は,新たな天皇に受け継がれることとなるが,これら由緒物の承継は,現行の相続税法によれば,贈与税の対象となる「贈与」とみなされる。」と明言されてしまっています。贈与税非適用説は,今井敬座長らの高い識見に盾突く不敬の解釈ということになってしまいます。

 

(3)本件要綱の第六の七の解釈論:贈与契約介在説

そうであれば,三種ノ神器等の受け継ぎが相続税法上の贈与税の課税原因たる「贈与」に該当することになるように,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承に際しての三種ノ神器等の承継の法律構成を,本件要綱の第六の七の枠内で考えなければなりません。

 

第二により皇位の継承があった場合において皇室経済法第7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物については,贈与税を課さないものとすること。

 

とあるのは,

 

第二により皇位の継承があった場合において皇室経済法第7条の規定の趣旨に基づく前天皇との贈与契約により皇位とともに皇嗣が受けた物については,贈与税を課さないものとすること。

 

との意味であるものと理解すべきでしょうか。

皇室経済法7条により直接三種ノ神器等の所有権が移転するとしても,その原因たる「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承は実のところ現天皇の「譲位意思」に基づくものなのだから広く解して贈与に含まれるのだ,と頑張ろうにも,そもそも「83歳と御高齢になられ,今後これらの御活動〔国事行為その他公的な御活動〕を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じ」ていること(本件要綱の第一)のみから一義的に退位の意思,更に三種ノ神器の贈与の意思までを読み取ってしまうのは,いささか忖度に飛躍があるように思われるところです。

新旧天皇間の贈与については日本国憲法8条の規定(「皇室に財産を譲り渡し,又は皇室が,財産を譲り受け,若しくは賜与することは,国会の議決に基かなければならない。」)の適用いかんが一応問題となりますが,同条は皇室内での贈与には適用がないものと解することとすればよいのでしょう。

贈与税の非課税措置の発効は「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日の午前零時からです(本件要綱の第六の一)。課税問題を避けるためには,新旧天皇間の贈与契約の効力発生(書面によらない贈与の場合はその履行の終了(金子543頁))はそれ以後でなければならないということになります(国税通則法(昭和37年法律第66号)15条2項5号は贈与による財産の取得の時に贈与税の納税義務が成立すると規定)。しかし,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日当日の24時間中においてはなおも皇位継承は生じないところ(本件要綱の第二参照),その日のうちに三種ノ神器の所有権が次期天皇に移ってしまうのはフライングでまずい。そうであれば,あらかじめ天皇と皇嗣との間で,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日の翌日午前零時をもって三種ノ神器その他の皇位とともに伝わるべき由緒ある物の所有権が前天皇から新天皇に移転する旨の贈与契約を締結しておくべきことになるのでしょう(午前零時きっかりに意思表示を合致させて贈与契約を締結するのはなかなか面倒でしょう。)。

ちなみに,上の行うことには下これに倣う。相続税については,皇室経済法7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物の価額は相続税の課税価格に算入しないものとされていること(相続税法12条1項1号)にあたかも対応するように,人民らの墓所,霊廟及び祭具並びにこれらに準ずるものの価額も相続税の課税価格に算入しないこととされています(同項2号)。そうであれば,贈与税について,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承に際して皇嗣が贈与を受けた皇位とともに伝わるべき由緒ある物については贈与税を課さないものとするのであれば,人民向けにも同様の非課税措置(高齢による祭祀困難を理由とした祭祀主宰者からの墓所,霊廟及び祭具並びにこれらに準ずるものの贈与について非課税措置を講ずるといったようなもの)が考えられるべきなのかもしれません。

 

(4)三種ノ神器贈与の意思表示の時期

とここまで考えて,一つ難問が残っていることに気が付きました。

天皇から皇嗣に対する三種ノ神器の贈与は,正に皇室において新天皇に正統性を付与する行為(更に人によっては三種ノ神器の授受こそが「譲位」の本体であると思うかもしれません。)であって,三種ノ神器も国法的には天皇の私物にすぎないといえども,当該贈与の意思表示を華々しく天皇がすることは日本国憲法4条1項後段の厳しく禁ずるところとされている「国政に関する権能」の行使に該当してしまうのではないか,という問題です。皇位継承が既成事実となった後に,もはや天皇ではなくなった上皇からひそやかに贈与の意思表示があるということが憲法上望ましい,ということにもなるのではないでしょうか。(三種ノ神器の取扱いいかんによっては信教の自由に関する問題も生じ得るようなので,その点からも三種ノ神器を受けることが即位の要件であるという強い印象が生ずることを避けるべきだとする配慮もあり得るかもしれません。「天皇に対してはもろに政教分離の原則が及ぶ,と考えざるを得ない。なぜか。憲法第20条第3項は「国及びその機関は,宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定しているからである。実際のところ,神道儀式を日常的に公然とおこなう天皇が,神道以外のありとあらゆる宗教・宗派を信奉する国民たちの「統合の象徴」であるというのは,おかしな話である。天皇は「象徴」であるためには,宗教的に中立的であらねばならない。」と説く論者もあるところです(奥平康弘『「萬世一系」の研究(下)』(岩波現代文庫・2017年(単行本2005年))264頁)。)

しかしそうなると,新天皇は「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日の翌日午前零時に即位した時点においては三種ノ神器の所有権を有しておらず,当該即位は,九条兼実の慨嘆した不帯剣璽(けんじをおびざる)即位之例となるということもり得るようです。ただし,後醍醐前天皇が光明天皇にしたような三種ノ神器を受けさせないいやがらせは,現在では考えられぬことでしょう。(後醍醐前天皇としては,光明天皇の贈与税御負担のことを忖度したのだと主張し給うのかもしれませんが。)

なお,三種ノ神器は,国法上は不融通物ではありませんが(世伝御料と定められた物件は分割譲与できないものとする明治皇室典範45条も1947年5月2日限り廃止されています。),天皇といえども任意に売却等できぬことは(ただし,日本国憲法8条との関係では,相当の対価による売買等通常の私的経済行為を行う限りにおいてはその度ごとの国会の議決を要しません(皇室経済法2条)。なお,相当の対価性確保のためには,オークション等を利用するのがよろしいでしょうか。),皇室の家法が堅く定めているところでしょう。

面倒な話をしてしまいました。しかし,源義経のように三種ノ神器をうっかり長州の海の底に取り落としてしまうようなわけにはなかなかいきません。

ところで,長州といえば,尊皇,そして明治維新。現在,政府においては,明治元年(1868年)から150年の来年(2018年)に向け「明治150年」関連施策をすることとしているそうです。明治期の立憲政治の確立等に貢献した先人の業績等を次世代に(のこ)す取組もされるそうですが,ここでの「先人」に大日本帝国憲法の制定者である明治大帝は含まれるものか否か。
 大日本帝国憲法3条は,規定していわく。

 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

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仲恭天皇九条陵(京都市伏見区)(2017年11月撮影)
(仲恭天皇は,武装関東人らが京都に乱入した1221年の承久の変の結果,在位の認められぬ廃帝扱いとされてしまいました。)
 
(ところで,その仲恭天皇陵の手前の敷地に,長州出身の昭和の内閣総理大臣2名が記念植樹をしています。)
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「明治維新百年記念植樹 佐藤榮作」(佐藤は,東京オリンピック後の1964年11月9日から沖縄の本土復帰後の1972年7月6日まで内閣総理大臣在職)
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「明治維新百年記念植樹 岸信介」(岸は,1957年2月25日から現行日米安全保障条約発効後の1960年7月19日まで内閣総理大臣在職)
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(1868年1月27日(慶応四年一月三日)から翌日にかけての鳥羽伏見の戦いにおける防長殉難者之墓が実は仲恭天皇陵の手前にあるところ,1867年11月9日(慶応三年十月十四日)の大政奉還上表提出(有名な徳川慶喜の二条城の場面はその前日)から100年たったことを記念して,1967年(昭和42年)11月に信介・榮作の兄弟は東福寺(京都市東山区)の退耕庵に共に宿して秋の京都を楽しみ,かつ,長州・防州(山口県)の尊皇の先達の霊を慰めた,ということなのでしょう。当時現職の内閣総理大臣であった榮作は,この月12日から20日まで訪米し(米国大統領はジョンソン),15日ワシントンD.C.で発表された日米共同声明においては,沖縄返還の時期を明示せず,小笠原は1年以内に返還ということになりました。帰国後11月21日の記者会見において佐藤内閣総理大臣は,国民の防衛努力を強調しています。)

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東福寺の紅葉
(東福寺を造営した人物は,仲恭天皇の叔父にして,かつ,摂政だった九条道家。しかし,ふと思えば,承久の変の際箱根迎撃論を抑えて先制的京都侵攻を主張し,鎌倉方の勝利並びに仲恭天皇の廃位及び後鳥羽・順徳・土御門3上皇の配流に貢献してしまった大江広元は,長州藩主毛利氏の御先祖でした。その藩主の御先祖のいわば被害者である仲恭天皇の陵の前で,長州人らが自らの尊皇を誇り,明治維新百年を祝うことになったとは・・・。) 

1 序

 筆者は,かつて「「法の下の平等」(日本国憲法14条1項)の由来に関する覚書」などという大仰な題名を掲げたブログ記事(2015年9月26日)を書きましたが,当該記事の中にあって筆者の主観において主役を務めていたのは,「1946年2月28日の松本大臣の決断によって,19世紀トニセン流の狭い射程しかない法律の前の平等概念を超えた,広い射程の「法(律)の下の平等」概念が我が国において生まれたと評価し得るように思われます。」との評価を呈上することとなった憲法担当国務大臣松本烝治でした。松本烝治こそが,日本国憲法14条1項の前段と後段との連結者であって,その結果,同項の「法の下の平等」概念はその後松本自身も予期しなかったであろう大きな発展を遂げることになった,というのが筆者の観察でした。

 松本大臣の筆先からは,思いもかけぬ日本国憲法上の論点がひょこりひょこりと飛び出して来るようです。

 今回筆者が逢着したのは,天皇に係る日本国憲法4条1項後段の「国政に関する権能」概念でした。

 

天子さま――という表現を,松本国務相は使う。

  〔中略〕

  「父にしてみれば,ほかの明治人と同じように,ひたすら天子さまでしょ。終戦にしても,天皇制を護持するために終戦にしたんで,日本人民のためにだけ終戦にしたのじゃないという考え方ですよ」

  と,松本正夫がいい〔後略〕

   (児島襄『史録 日本国憲法』(文春文庫・1986年(単行本1972年))88頁,90頁)

 

 ということで,松本烝治は天皇及び皇室のためを思って仕事をしていたようなのですが,天皇の意思表示と「天皇は,国政に関する権能を有しない。」とする日本国憲法4条1項後段との関係を検討しているうちに,筆者は,忠臣小楠公・楠木正行の奮闘がかえって不敬の臣・高師直の増長を招いてしまったようなことがあったなぁというような感慨を覚えるに至ったのでした。

 

「「法の下の平等」(日本国憲法14条1項)の由来に関する覚書」

(松本烝治は後編に登場します。)

前編http://donttreadonme.blog.jp/archives/1041144048.html

後編http://donttreadonme.blog.jp/archives/1041144259.html

 

2 関係条文

 日本国憲法4条1項は「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」と規定しています。三省堂の『模範六法』にある英文では“The Emperor shall perform only such acts in matters of state as are provided for in this Constitution and he shall not have powers related to government.”となっています。

 下らない話ですが,日本語文では,天皇は「この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ」という表現になっているので,天皇は当該国事行為をする以外は食事睡眠等を含めて何もしてはならないのかという余計な心配をしたくなるのですが,英語文では,国事(matters of state)についてはこの憲法の定める行為しかしないのだよと読み得るので一安心です。政府見解的には「国事行為は,天皇の国家機関としての地位に基づく行為」であるそうですから(園部逸夫『皇室法概論』(第一法規・2002年)124頁),換言すると,日本国憲法4条1項前段は,天皇が国家機関としての地位に基づき行う行為は「この憲法の定める国事に関する行為のみ」だということのようです。(ちなみに,「宮廷費で賄うこととされている」天皇の「公的行為」は,「天皇の自然人としての行為であるが,象徴としての地位に基づく行為」です(園部131頁,126頁)。)

日本国の日本国憲法の解釈に英語が出てくるのはわずらわしくありますが,1946年の日本国憲法制定当時の法制局長官である入江俊郎は,日本国憲法の英語文について「アメリカとの折衝では,英文で意見を合致した。憲法解釈上有力な参考になる。」と同年の枢密院審査委員会で述べていたところです(佐藤達夫(佐藤功補訂)『日本国憲法成立史 第三巻』(有斐閣・1994年)387頁)。

 

3 GHQ草案

 話を1946年2月13日,東京・麻布の外務大臣官邸において松本烝治憲法担当国務大臣,吉田茂外務大臣らにGHQ民政局のホイットニー准将,ケーディス陸軍大佐,ハッシー海軍中佐及びラウエル陸軍中佐から手交されたいわゆるGHQ草案から始めましょう。

同日のGHQ草案では,日本国憲法4条に対応する第3条の規定は次のとおりとなっていました(国立国会図書館ウェッブ・サイトの電子展示会「日本国憲法の誕生」の「資料と解説」における「315 GHQ草案 1946年2月13日」参照)。

 

Article III.     The advice and consent of the Cabinet shall be required for all acts of the Emperor in matters of State, and the Cabinet shall be responsible therefor.

The Emperor shall perform only such state functions as are provided for in this Constitution. He shall have no governmental powers, nor shall he assume nor be granted such powers.

The Emperor may delegate his functions in such manner as may be provided by law.

      

日本国憲法4条1項に対応する部分は,「天皇は,この憲法の定める国の職務(state functions)のみを行う。天皇は,政治の大権(governmental powers)を有さず,かつ,そのような大権を取得し,又は与えられることはない。」となっています。「天皇は,この憲法の定める国の職務のみを行う。」の部分は,「天皇は,国の職務を行うが,この憲法の定めるものに限られる。」と敷衍して意訳しないと,天皇の食事睡眠等がまた心配になります。この点については,それとも,その前の項では天皇の行う国事に関する行為(acts of Emperor in matters of State)が問題になっていますから,「国事に関する行為(acts in matters of State)であって天皇が行うものは,この憲法の定める国の職務(state functions)のみである」という意味(こころ)なのでしょうか。(State functionsは,国家機関としての地位に基づき行う行為だということになるのでしょう。)

 後に日本国憲法4条1項となるこのGHQ草案3条2項は,大日本帝国憲法4条(「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ従ヒ之ヲ行フ」)の清算規定でしょう。

大日本帝国憲法4条の伊東巳代治による英語訳文は次のとおり(Commentaries on the Constitution of the Empire of Japan(中央大学・1906年(第2版))。同書は『憲法義解』の英訳本です。)。

 

ARTICLE IV

 The Emperor is the head of the Empire, combining in Himself the rights of sovereignty, and exercises them, according to the provisions of the present Constitutions(sic).

 

ちなみに,米国人らは真面目で熱心であるので,当然伊東巳代治による英語訳『憲法義解』を研究していました。

1946年7月15日にGHQを訪問した佐藤達夫法制局次長は,次のようなケーディス大佐の姿を描写しています(佐藤達夫(佐藤功補訂)『日本国憲法成立史 第四巻』(有斐閣・1994年)681頁。下線は筆者によるもの)。

 

 第1条についての政府の説明は,かつて松本博士がその試案における天皇の地位について自分に説明した考え方と同じだ・といって,英訳〈憲法義解〉をもち出し次のように述べた。〔後略〕

 

この点については,既に同年3月4日の段階で,「先方〔GHQ民政局〕は伊東巳代治の明治憲法の英訳を持っており」と観察されていたところです(佐藤達・三112頁)。
 GHQ草案3条は外務省によって次のように訳されました(佐藤達・三
34頁)。

 

国事ニ関スル(in matters of State)皇帝ノ一切ノ行為ニハ内閣ノ輔弼及協賛ヲ要ス而シテ内閣ハ之カ責任ヲ負フヘシ

皇帝ハ此ノ憲法ノ規定スル国家ノ機能(state functions)ヲノミ行フヘシ彼ハ政治上ノ権限(governmental powers)ヲ有セス又此ヲ把握シ又ハ賦与セラルルコト無カルヘシ

皇帝ハ其ノ権能ヲ法律ノ定ムル所ニ従ヒ委任スルコトヲ得

 

Governmental powersとは,国家機関としての権力的な権限のことだと思われます(日本国憲法の英語文をざっと見ると,powerは,主,国政の権力,全権委任状の全,国,行政,最高裁判所の規則を定める権限,憲法に適合するかしないかを決定する権限,国の財政を処理する権限といった語の対応語となっています。)。「政治上ノ権限」は外務省の訳語ですが,いずれにせよ「国政権」,「政府に係る権限」などとそれらしく重く訳されるべきでした。「政治」はなお,筆者の感覚では,卑俗ないしは非公的なものとなり得ますが,「政治の大権」は,12世紀以来武士どもの棟梁が天皇から奪い取ったものを指称する軍人勅諭(1882年1月4日)における明治天皇の用語です。

日本国憲法88条に基づき皇室財産が国有化されて皇室が財産を失ったように,同4条1項についても,同項で天皇も「この憲法の定める国事に関する行為」をする仕事を残して政治の大権を失っており,今や後堀河院以降の時代と同様であって政治の大権は天皇から臣下の手に落ちているところ(軍人勅諭的表現),願わくは当該臣下が北条泰時のような者ならんことを,といい得ることになっていれば,依然同項後段に関する解釈問題がなお今日的なものとなっているという事態とはなっていなかったものでしょうか。天皇ないしは皇族の少々の発言等では天皇の政治の大権という巨大なものは回復したことに到底ならずしたがって天皇が政治の大権を有する違憲状態となったとの問題も発生せず,天皇及び皇族の振る舞い方の問題は日本国憲法4条1項後段の憲法論とは別の次元で(例えば皇室の家法における行為規範の問題として)論じられるようになっていたのではないでしょうか。しかしながら, 日本国憲法4条1項の規定については,「国家機関としての天皇は,憲法に定める国事に関する行為のみを行い,国政に関与する権能を全く持たない旨を定めるものである」のみならず,「一般に天皇の行為により事実上においても国政の動向に影響を及ぼすようなことがあってはならないという趣旨を含むものと解されている」ところです(園部128‐129頁)。

 

4 日本側3月2日案と松本モデル案

 

(1)3月2日案

GHQ草案を承けた日本側1946年3月2日案の第4条は次のようになりました(佐藤達・三94頁)。

 

第4条 天皇ハ此ノ憲法ノ定ムル国務ニ限リ之ヲ行フ。政治ニ関スル権能ハ之ヲ有スルコトナシ。

 天皇ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ権能ノ一部ヲ委任シテ行使セシムルコトヲ得。

 

(2)松本モデル案

 

ア 文言

3月2日案の第4条は,松本国務大臣が1946年2月26日に佐藤達夫法制局第一部長に渡したモデル案どおりなのです。GHQ草案の「一応大ナル(いが)ヲ取リ一部皮ヲ剥クべしとの意図をもって作成された松本大臣のモデル案の調子を見るため,その第1条から第4条までを次に記載します(佐藤達・三72頁,6970頁)。

 

第1条 天皇ハ民意ニ基キ国ノ象徴及国民統合ノ標章タル地位ヲ保有ス

第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ世襲シテ之ヲ継承ス

第3条 天皇ノ国事ニ関スル一切ノ行為ハ内閣ノ輔弼ニ依ルコトヲ要ス内閣ハ之ニ付其ノ責ニ任ス

第4条 天皇ハ此ノ憲法ノ定ムル国務ニ限リ之ヲ行フ政治ニ関スル権能ハ之ヲ有スルコトナシ

 天皇ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ権能ノ一部ヲ委任シテ行使セシムルコトヲ得

 

イ ちょっと小説

 冒頭の「天皇ハ民意ニ基キ」で松本大臣はがっくり元気がなくなり,続く「国ノ象徴及国民統合ノ標章タル地位」で頭が痛くなり,皇室典範については議会の関与に係る規定を後ろの条項に回して少し気が楽になり,内閣の輔弼(advice)は当然あるべきことと認めても生意気な同意(consent)は毅然として認めず,内閣が天皇の行為について責任を負うとあからさまに書くと天皇が被保護者みたいであるから「之ニ付其ノ責ニ任ス」とうまく表現し,国務を行うのは当然でも「ニ限リ」はちょっと嫌だなぁと眉をしかめたところで,「天皇ハ此ノ憲法ノ定ムル国務ニ限リ之ヲ行ヒ政治ノ大権ヲ有スルコトナシ」とはとても書けなかったものでしょう。

 「・・・ニ限リ之ヲ行フ政治ニ関スル権能ハ之ヲ有スルコトナシ」と書いた松本大臣の心理はどういうものであったか。

 「政治上ノ権限」というのがgovernmental powersに対応する外務省の訳語だったのですが,どうしてこれをそのまま採らずに「政治ニ関スル権能」を採用したのか。

 

ウ 「権能」

まず,「権能」ですが,これは,「権限」よりは「融通性の広い」,その意味ではやや輪郭がぼやけ,かつ,微温的な語として採用されたのではないでしょうか。日本国憲法の英語文でpowerが「権能」と対応するものとされているのは第4条1項だけです。「権能」とは,「法律上認められている能力をいう。あるいは権限,職権と同じように,あるいは権利に近い意味で用いられる。「権限」,「権利」というような用語よりは融通性の広い,いずれかといえば,能力の範囲ないし限界よりは,その内容ないし作用に重きを置いた用語であるといえよう。」と定義されており,かつ,用例として正に日本国憲法4条が挙げられています(吉国一郎等編『法令用語辞典〈第八次改訂版〉』(学陽書房・2001年)橘武夫執筆)。

 

エ 「政治」

「政治」という語の維持は,政治家の方々には悪いのですが,dirty imageがあることはかえって結構であって,否定の対象語として適当であると思われたのかもしれません。ちなみに,1946年7月11日付けのGHQ民政局長宛てビッソン,ピーク及びコールグローヴ連名覚書「憲法草案の日本文と英文の相違」では「日本人は天皇が政治的(ポリテイクス)な意味で政治(ガバメント)に積極的にたずさわったり,政府の行政そのものに直接介入することを望んだことはこれまで一度もなかった。したがって,日本人は憲法にこのような禁止条項がはいることにはなんら反対していない。」と観察していました(佐藤達・四700702頁)。「統治」であれば,大日本帝国憲法告文(「皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範」)及び上諭(「国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所」)並びに1条(「天皇之ヲ統治ス」)及び3条(「国ノ統治権ヲ総攬」)の真向否定になるのであって論外であり(伊東巳代治の訳するところでは統治権は“the rights of sovereigntyであって,統治=主権ということになっていました。),「政府に係る権限」も天皇ノ政府を失うとの文言であって寂しい。

 

オ 「ニ関スル」

しかし,「政治上ノ権能ハ之ヲ有サス」と,失う権能の対象を比較的くっきりはっきり書くと,たといそれがdirty imageを伴うものであっても,やはり喪失感が辛く厳しい。そこで「上ノ」に代えて「ニ関スル」が出て来ての更に朧化した表現となったのではないでしょうか。

「政治ニ関スル権能」ということになると,しかし,外延が弛緩します。「政治」は必ずしも国家の機関の公的活動をのみ意味しませんし,「に関する」は「に係る」よりも更に広い対象を含み得るからです。「に係る」に関して,「に係る」は「「・・・に関する」又は「・・・に関係する」に近い意味であるが,これらより直接的なつながりがある場合に用いられる。」とされているところです(吉国等編『法令用語』澄田智執筆)。換言すると,「に係る」が「・・・より直接的」であるということは,「に関する」は「に係る」より間接的であるわけです。

「国政に関する(related to government)」の「に関する」のせいで日本国憲法4条1項の解釈について後日紛糾が生ずるのですが,その紛糾の種は松本大臣がまいたものだったのでした。

 

5 佐藤・GHQ折衝及び3月6日要綱から4月13日草案まで

 

(1)佐藤・GHQ折衝および3月6日要綱

1946年3月4日から同月5日にかけての佐藤達夫部長とGHQ民政局との折衝においては,日本側3月2日案の第4条については「その中で,天皇の権能の委任について,マ草案では単に「其ノ権能ヲ法律ノ定ムル所ニ従ヒ委任スルコトヲ得」となっていたのに対し日本案で「其ノ権能ノ一部ヲ委任・・・」としていたことが問題となり,その「一部」を削ることとした」だけでした(佐藤達・三112113頁)。その結果の第4条の第1項の英語文は,次のとおりです(佐藤達・三178頁)。

 

The Emperor shall perform only such functions as are provided for in this constitution. Nor shall he have powers related to government.

 

英語文においても,GHQ草案にあったgovernmental powersが,松本大臣の手を経た結果,将来紛糾をもたらすこととなる,より幅広いものと日本側が解釈するpowers related to governmentになってしまっていたわけです。

1946年3月6日内閣発表の憲法改正草案要綱の第4は,次のとおりです(佐藤達・三189頁)。

 

第4 天皇ハ此ノ憲法ノ定ムル国務ヲ除クノ外政治ニ関スル権能ヲ有スルコトナキコト

 天皇ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ権能ヲ委任スルコトヲ得ルコト

 

このうち第1項は,3月2日案(及びそこから変更の無かった3月5日案(佐藤達・三164頁))とは異なった表現となっています。「これは,この憲法に列挙される天皇の権能も,一応は「政治ニ()スル(﹅﹅)権能(﹅﹅)」と見られるから,「除クノ外」でつなぐ方が論理的だ・という考えによるものであったと思う。」ということですが(佐藤達・三178頁),松本大臣の毒がまわってきたわけです。「邪推するならば,政府は天皇の権能にかんして,民政局にたいする関係においてはその政治的権能を否定しながら,日本国民にたいする関係においてはそれを復活させたと考えることもできるし,また,すくなくとも民政局発案のものをただしく把握していなかったことだけは疑ない。」(小嶋和司「天皇の権能について」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』(木鐸社・1988年)92頁)というのはやはり「邪推」で,「政治的権能」よりも「政治ニ関スル権能」の方が意味する範囲がはるかに広かっただけであり(天皇の「政治的権能」プラス・アルファが否定されたことになります。「此ノ憲法ノ定ムル国務」はプラス・アルファの部分に含まれてしまうのでしょう。),また,文句を言われようにも,“governmental powers”から“powers related to government”への用語の変更をGHQが十分重く受け止めていなかっただけだということのようです。

 

(3)4月13日草案まで

とはいえ,1946年4月2日に法制局とGHQ民政局との打合せがあったのですが,前記の点は,「第4条の「国務ヲ除クノ外」は,要綱作成のときに入れたのであったけれども,この打ち合せの段階で,それは英文にもないし,また「国務」が形式的な仕事をあらわしている点からいって,「除クノ外」でつなぐことは反って適切ではなかろうという意見が出たが,これは成文化のときの考慮に残した。」というように再び問題となり(佐藤達・三289頁),同月13日の日本国草案作成段階では,「英文との関係もあっていろいろと迷った」結果,日本側限りで「国務ヲ除クノ外」を「国務のみを行(ママ),」としています(佐藤達・三326頁)。1946年4月13日の憲法改正草案4条は,次のとおり(佐藤達・三336頁)。

 

第4条 天皇は,この憲法の定める国務のみを行ひ,政治に関する権能を有しない。

  天皇は,法律の定めるところにより,その権能を委任することができる。

 

6 枢密院審査委員会

とはいえ,憲法改正草案4条1項後段から「その他の」を完全に切り捨てる割り切りは難しかったようで,1946年4月22日の第1回の枢密院審査委員会における幣原喜重郎内閣総理大臣の説明要旨では「改正案においては,天皇は一定の国務のみを行ひ,その他においては,政治に関する権能を有せられないこととしてゐるのである。」と述べています(佐藤達・三381382頁。下線は筆者によるもの)。(ここでの「一定の国務」の範囲については,1946年4月の法制局「憲法改正案逐条説明(第1輯)」では「天皇が具体的に統治権の実施に当たらるる範囲」と観念されていました(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「44 「憲法改正草案に関する想定問答・同逐条説明」1946年4月~6月」参照。下線は筆者のもの)。)同年5月3日の委員会においては林頼三郎枢密顧問官も「第4条の国務と政治とは別なやうによめる。国務即政治なり。要綱のときの「除くの外政治に関する・・・」の方がよくわかつた。」と発言し,これに対して入江法制局長官が「その国務だけで,それ以外は政治に関する権能を有せずといふ意なるもこの国務のみを行ふといふこととそれ以外は行はぬといふ2点をかきたかつたのである。」と答弁すると,更に「そういふ意味ならそれ以外といふ字を入れたらどうか。」と二の矢を放っています(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「41 枢密院委員会記録 1946年4月~5月」)。

しかしながら,枢密院審査委員会においては草案4条1項の文言は修正されませんでした。とはいえ1946年5月の法制局「憲法改正草案逐条説明(第1輯)」は,なお第4条1項について「天皇が行はせられる国務の範囲は第6条及び第7条に規定されて居りますが,本条はそこに定められた国務のみを行はせられることを明らかにし,その他の政治に関する権能を有せられないことを定めたのであります。」と述べています(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「44 「憲法改正草案に関する想定問答・同逐条説明」1946年4月~6月」参照。下線は筆者によるもの)。「その他の」の挿入等何らかの手当ての必要性は決して消えてはいませんでした。

問題解決は先延ばしにされ,その後の修正作業は,帝国議会の審議期間中において概略後記のような経緯で行われていきます。

7 第90回帝国議会会期中の修正及びその意味

 

(1)芦田小委員会修正

 第90回帝国議会衆議院の憲法小委員会(芦田均小委員長)において1946年8月2日までに修正を経た日本国憲法案4条は,次のとおりでした(佐藤達・四783頁参照)。下線部が小委員会による修正後の文言で,括弧内が被修正部分です。

 

 第4条 天皇は,この憲法の定める国務のみを行ひ,その他の国政(政治)に関する権能を有しない。

 

   天皇は,法律の定めるところにより,前項の国務に関する(その)権能を委任することができる。

 

 上記第1項の英語文は,次のとおりでした(佐藤達・四802頁)。

 

    The Emperor shall perform only such state functions as are provided for in this Constitution. Never shall he have powers related to government.

 

第4条1項の「政治に関する権能を有しない」を「その他の国政に関する権能を有しない」と改めることは,同年7月25日に芦田小委員長から提案されていました(佐藤達・四715頁)。

 

(2)7月29日の入江・ケーディス会談

 

ア GHQ側の認識:本来的形式説

前記のように第4条1項の「政治に関する権能を有しない。」を「その他の国政に関する権能・・・」と改めようとしている点については,1946年7月29日,入江俊郎法制局長官がGHQ民政局のケーディス大佐を訪問した際GHQ側が,「何故に「その他の」を加えるのか,それでは,国務(state function)と国政(government)とが同一レベルのものとなり,天皇が儀礼的国務のみを行うという意味がぼやけてしまう。せっかく,前文及び第1条で主権在民を明文化しても,第4条において,あたかも天皇がそれを行使するかのように規定したのでは何にもならない。」とおかんむりだったそうです(佐藤達・四757頁)。

第4条1項前段の天皇の「国務」は儀礼的な行為にすぎないものであるというのがGHQの認識であり,儀礼的な行為にすぎないから国政(government)とは同一レベルにはない,すなわちそもそも国政に含まれるものではない,ということのようです。「4条は,天皇に単なる「行為」権のみを認め,「国政に関する権能」を認めていないのであって,6条,7条の「国事に関する行為」は本来的に形式的・儀礼的行為にとどまるものと解す」る「本来的形式説」が採用されているわけです(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)253254頁)。

 

イ 日本側の認識:国政に関する権能による国事行為の権能の包含

日本側のその場における反論は,「それに対して,「国政」のほうが意味がひろく,「国務」も国政のなかに含まれる。したがって「その他の国政・・・」としないと,第1項前段の「天皇は,この憲法の定める国務のみを行ひ」と矛盾する」というものだったそうですが(佐藤達・四757頁),なお言葉足らずだったでしょう。より精確には,「「その他の」を加える理由として,「国政に関する」とあるために,事務的,儀礼的の仕事でも,およそ「国政」に関連するものは含まれることとなる。したがって「その他の」を入れることが論理上正確であり,且つ,天皇の権能として許されない事がらが一層明確となる」ということが日本の法制局の思考だったようです(佐藤達・四758頁)。「国政に関する」の「に関する」こそが問題であって,この文言があるばかりに,国政自体に係る権能のみならず国政に関連するだけの仕事に係る権能をも含むこととなって,「国政に関する権能」の行使となる仕事のレベルは上下分厚く,「国務」のレベルの仕事もそこに含まれてしまうことになっているのだ,ということだったようです。しかし,こう理屈を明らかにすればするほど「その他の」の文言が必要不可欠ということになり,結局「その他の」がない場合には矛盾が生じ,「そのような理解は4条の文言からいって無理」(佐藤幸253頁)ということになるようです。

なお,第4条1項のgovernmentが「政治」から「国政」に改まることについては,1946年7月15日に佐藤達夫法制局次長がケーディス大佐に対して,努力する旨約束していたところでした(佐藤達・四682頁,683頁)。これは,同月11日付けの前記ビッソンらの民政局長宛て覚書で,「政治」の語にはgovernmentのほかpoliticsの意味がある旨指摘されていたところ(佐藤達・四702頁),それを承けてケーディス大佐から一義的にgovernmentと理解されるような語を用いるように要求されたからでしょうか。

 

(3)8月6日の入江・ケーディス会談

 

ア 日本側妥協による日本国憲法4条1項の日本語文言の成立

1946年7月29日には対立解消に至らなかったものの,しかしながら,同年8月6日,入江長官はケーディス大佐を訪問し,「天皇の章について,「国務」等の語を「国事に関する行為」に改め,〔芦田小委員会の修正した第4条1項の〕「その他の国政」の「その他」〔ママ〕を削ることにしたい,もしこれに同意ならば,政府として議会側に働きかける用意がある・と述べ」るに至りました(佐藤達・四801頁)。「ケーディス大佐は,ゴルドン中尉を呼び入れて用語の適否を確かめた上,これに賛成し,「国事に関する行為」は,英文がまちまちの表現をしているにくらべて改善であると述べた」そうです(佐藤達・四801頁。なお,「国務」の語については,英語に戻すとstate affairsとなり「functionよりもいっそう積極的で強い語感を含む言葉」となっているとの指摘が同年7月11日付けのビッソンらの民政局長宛て覚書でされていました(佐藤達・四702頁)。)。第4条1項の文言は,「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ, 国政に関する権能を有しない。」という現在の日本国憲法4条1項の文言となることになったわけです。(なお,ジョゼフ・ゴードン陸軍中尉は,GHQ草案作成時26歳でGHQの翻訳委員会のスタッフであり,また,後に日本国憲法24条関係で有名となるベアテ・シロタ嬢と結婚します。「エール大学の民事要員訓練所でみっちり学んだというゴードン氏の日本語は,読み書きは立派なものだが,会話はまったく駄目。妻のベアテさんは,会話は日本人と変わりないが,読み書きは苦手。ベアテさんに来た日本語の手紙を,ご主人が読んで英語で聞かせてあげるというから,なんとも不思議な夫婦だ。」と紹介されています。(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川文庫・2014年(単行本1995年))6970頁))

 

イ 4条1項前段と同項後段との関係に係るGHQの認識:逆接

第4条1項の前段と後段とは英文では二つの文になっていたところ,前記合意成立の際,「ケーディス大佐〔は〕,この二つの語句は,althoughbutで結ばれる関係にある,日本文がandで結ばれているような感じになっているのはおもしろくない・と述べた」そうです(佐藤達・四802頁)。すなわち,日本国憲法4条1項後段は,前段で国事行為(前記のとおり,これは儀礼的なものなので国政とは別レベルである,というのがGHQの認識でした。)を行う旨規定しているのでそれらの行為を通じて天皇が国政の権能を有するもののように誤解される恐れがあるから,天皇の国事行為の性格についてのそのような誤解を打ち消すために(「althoughbutで結ばれる関係」ということはこういう意味でしょう。)書かれた文言である,ということのようです。

 

ウ 4条1項前段と同項後段との関係に係る日本側の認識:順接

ただし,「これに対しては,日本側からalthough又はbutというのはonlyを見落としているもので,むしろ,論理上thereforeと解すべきである。また,もし日本文で二つの文章に分けるとすれば,短い文章で「天皇」の主語をくり返すことになり翻訳臭がでてきわめておかしなものとなる・と反対した結果,先方はその提案を撤回した。」との落着となりました(佐藤達・四802頁)。

第4条1項前段の「のみ(only)」の語に天皇に対する制限ないしは禁止規範の存在が見出されたところ,therefore,当該制限ないしは禁止規範の内容たる「天皇の権能として許されない事がら」が明文化されることとなったのが同項後段である,というのが日本の法制局の理解なのでしょう。(これに対して,あるいはGHQの理解は,第4条1項前段の「のみ(only)」による天皇に対する制限ないしは禁止は同項前段自体の内部で閉じている,すなわち,同項前段の意味は「天皇は,国事に関する行為を行う。ただし,この憲法の定めるものに限る。」というものである,同項後段は具体的な制限ないしは禁止規範ではなくて天皇に政治の大権が無いことを改めて確認する為念規定である(「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ふ。この国事に関する行為を行ふ権限は,政治の大権のために認められたものと解釈してはならない。」),ということででもあったのでしょうか。)GHQの理解では日本国憲法4条1項後段は同項前段に向かっているものであるのに対して,日本の法制局の理解では同項後段は天皇に向かっている,と比喩的に表現できるでしょうか。

日本側は第4条1項をどのように解釈することにしたのでしょうか。「国政に関する権能(powers related to government)」を「国政の権能(governmental powers)」と解釈することにしたのでしょうか。しかし,当座のところは,むしろ原案復帰にすぎないということで,「その他の国政に関する権能を有しない。」の「その他の」を元のとおり解釈で補うことにした,ということの方があり得ることではないでしょうか。帝国議会で政府は,「此処の意味は,天皇は政治に関する権能を有せられない,併しながら其の政治に関する権能の中でも,此の憲法にはつきり書いてある部分は行はせらるゝことが出来る,斯う云ふ意味であります」との答弁を行っていたところです(小嶋「天皇の権能について」9192頁参照)。

 

エ Governmentの訳語:「国政」か「統治」か

なお,日本国憲法4条1項後段の「国政に関する権能」(powers related to government)の語について当該会談において「ゴルドン中尉は,「国政に関する権能を有しない」の「国政」を「統治」と改めることを提案したが,日本側はこれに反対し,またケーディス大佐も「統治」とすると,天皇はrulingに関する権能はもたないが,もっと軽易なadministrativeな権能はもち得るように解せられる恐れがあるから「国事」に対するものとして「国政」とした方がいい・と述べ,「国政」とすることに落ち着いた」そうです(佐藤達・四802頁)。

大日本帝国憲法の完全否定になる「統治」の語の採用を日本側が拒んだことは分かります。大日本帝国憲法の告文及び上諭並びに1条及び3条は,天皇は大日本帝国の統治の大権を有してきたものであり,また今後も有するものであることを規定していましたし,伊東巳代治の英語訳(統治=sovereignty)からしても, 「統治」の語は主権論争を惹起せざるを得なかったからです。

天皇に対する制約規範として,「統治に関する権能を有しない」と「国政に関する権能を有しない」とを比較すると,権能を有しないものとされるものの範囲は後者(「国政」)の方が前者(「統治」)より広いのです(というのが筆者及びケーディス大佐の理解です。)。だからこそ,ケーディス大佐は軽易なadministrative権能まで天皇に与えまいとして日本側の「国政」説に与したのでした。

 

オ 英語文の修正

1946年8月24日の段階で,日本国憲法案4条1項の英語文は,“The Emperor shall perform only such acts in matters of state as are provided for in this Constitution. Never shall he have powers related to government.”という形になっていたもののようです(佐藤達・四876頁)。

8 「結果的形式説」の妥当性

 

(1)当初の政府説明の維持不能性:「その他の」の不在

 日本国憲法4条1項における,天皇が「国政に関する権能を有しない」こと(同項後段)とその同じ天皇が「この憲法の定める国事に関する行為」を行うこと(同項前段)との関係に係る「此処の意味は,天皇は政治に関する権能を有せられない,併しながら其の政治に関する権能の中でも,此の憲法にはつきり書いてある部分は行はせらるゝことが出来る,斯う云ふ意味であります」との第90回帝国議会における政府説明は,確かに,同項後段は「その他の国政に関する権能を有しない」と規定していておらず,かつ,そのことは再三公然と指摘されていたことでもあるので,いつまでも維持され得るものではありませんでした。

 

(2)本来的形式説の難点:松本烝治元法制局長官の「ニ関スル」の呪縛

 しかし,日本国憲法4条1項前段の国事行為を行うことに係る天皇の権能は同項後段の国政に関する権能には含まれない,との解釈(天皇の国事行為に係る本来的形式説の前提となる解釈)は,我が日本国の法制局参事官の頑として受け付けないところでした。

 

ア 「国事に関する行為」を行う権能と「国政に関する権能」と

日本国憲法4条1項の前段と後段との関係を後段冒頭に「その他の」の無いまま整合的に説明するための努力に関してでしょうが,「多くの論者は「国事に関する行為」と「国政に関する権能」とを単純に相排斥する対立的概念であるとして,その区分基準を「国事」と「国政」との相違にもとめ,ここで敗退する。」との指摘があります(小嶋和司「再び天皇の権能について」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』113頁)。当該指摘に係る状況について精密に見てみると,国事行為を行う権能は国政に関する権能に含まれるのだ,と言う主張の壁の前に当該論者らは敗退したということでしょう。

 

イ 「国政に関する権能」概念の縮小解釈の可能性いかん

 

(ア)「国政の動向を決定するような権能」:小嶋和司教授

そこで,本来的形式説の首唱者(小嶋和司教授)は,本丸の「国政に関する権能」概念を操作することにします。当該概念を縮小せしめることとして,「国政に関する権能」は「国政の動向を決定(﹅﹅)する(﹅﹅)ような権能」であるものと主張します(小嶋「再び」113頁。「国政運営に影響を及ぼすような権能」との理解から改説)。そこには「「国事に関する行為」を行う権能」は含まれないのだ,と主張するわけです。しかし,「国政の権能」,せめて「国政に係る権能」との文言であったのならばともかくも,「に関する」がそこまでの縮小を認めるものかどうか。内閣法制局は,無理だと考えているのでしょう。

 

(イ)「国政に関して実質的な影響を与えるような行為をする権能」:内閣法制局

「国政」に関して,元法制局参事官の佐藤功教授は,「国政」とは「国の政治を意味する。」としつつ,「憲法4条は,天皇が憲法の定める国事に関する行為のみを行い国政に関する権能を有しない旨を定めている。この場合に「国政に関する権能」とあるのは,国家意思を決定する国政に関して実質的な影響を与えるような行為をする権能という意味である。」と,なおも「国政に関する権能」を広く定義しています(吉国等編『法令用語辞典』。下線は筆者によるもの)。松本烝治元法制局長官の筆にした「ニ関スル」は,実に重いものなのです。

日本国憲法4条1項の前段と後段との関係の解釈については,憲法学界の大勢は本来的形式説を採るようなのですが,内閣法制局筋の実務家から見るとどういうものなのでしょうか。

 

ウ またも小説

「ここは,「関する」ですか,若しくは「係る」ですか,又は「の」なのですか。」

と夜半, 霞が関の中央合同庁舎第4号館の内閣法制局の大部屋において内閣法制局参事官に「詰め」られたとき,

「いやぁ,そこは作文ですから,よくご存じの参事官が文学的フィーリングで決めてくださいよ。」

などと学識不足のゆえか疲労に由来する横着のゆえかうっかり言おうものなら,法令案の審査がストップして大騒ぎになります。

「なんですかそれは。それが審査を受ける者の態度ですか。」

担当官庁の法案作成担当チームの頑冥無学迷走ぶりに憤然として大机の前で御機嫌斜めの内閣法制局参事官殿のところに本省局長閣下がちょこちょことやって来て,御免お願い機嫌を直して審査を再開してちょうだいよこちらは死ぬ気で頑張るからさと懇願している様子を実見した者の言うには,「ふぅーん,人間の頭の使い方には2種類あるんだな。」と思ったとの由。

「考える」と「下げる」。

無論,後者の方が前者よりもはるかに高い価値があるものです。

 

(3)結果的形式説

 本来的形式説が,「に関する」に伴う「国政に関する権能」概念の広さゆえ採用が難しいところから,別の解決策が求められざるを得ません。

日本国憲法4条1項前段の国事行為には「すべて内閣の助言と承認が要求され,この助言と承認権には実質的決定権が含まれるから,結果的には「国事に関する行為」は形式的・儀礼的になる,というように説く見解」たる「結果的形式説」(佐藤幸254頁参照)が,アポリアからの最後の脱出路となるわけです。

ただし,「行為」が「形式的・儀礼的になる」と落着するのだと述べるだけで説明を打ち切るのは,なお議論が行為レベルにとどまっていて不親切です。「形式的・儀礼的」な行為を行う権能であっても「国政に関する権能」ではないわけではなかったのですから。より正確には,日本国憲法4条1項前段の国事行為を行う権能「のうち『国政に関する』部分は『内閣の助言と承認』の中にあって,天皇にはないのであって,その形式的宣布の部分だけが天皇の権能として現れてくるのである」というように(小嶋「天皇の権能について」96頁の引用する佐藤功教授の論説参照),権能のレベルで問題を処理しておく必要があります。

結果的形式説であれば,日本国憲法4条1項前段の国事行為を行う天皇の権能については,当該国事行為に係る内閣の助言と承認を経ることによって,そのうち国政に関する部分はいわば内閣に吸収されて失われ,そもそも国政に関しない部分しか残らないものとなっている,ということになります。したがって,同項後段の天皇は「国政に関する権能を有しない」規定との抵触は存在せず,同項後段冒頭に「その他の」を置く必要も無い,ということになります。

 

9 その他

本稿では,日本国憲法4条1項をめぐる紛糾や論争を追ってきたのですが,時代はまた,第90回帝国議会において日本国憲法案が審議中の時期に戻ります。

 

(1)日本国憲法4条1項後段不要論

1946年7月23日に行われた金森徳次郎憲法担当国務大臣とGHQのケーディス大佐との会談において,当該規定の生みの親の一人であったはずのケーディス大佐は,日本国憲法案4条1項後段はそもそも実は不要だったという意味の重大発言をしていたという事実があります。

 

〔日本側から天皇の章の〕第4条第1項の後段「政治に関する権能を有しない」を削るという修正意見があることを述べたところ,先方は,はじめからこの字句がなかったとすれば,その方がいいと考えるが,すでにあるものを削るとなると,それによって天皇が政治に関する権能を有することになるというような誤解を与えるおそれがあるから,その削除には賛成できない・と述べた。(佐藤達・四693頁)

 

思い返せば,初めからこの字句がなければその方がよかったのだ,というわけです。

これは,GHQにとっては,天皇の権能の制限は他の条項で既に十分であって,日本国憲法4条1項後段は実はいわば添え物のような宣言的規定だったのだ,ということでしょうか。同項後段の今日の日本における現実の働きぶりを見ると,隔世の感がします。

 

(2)日本国憲法4条1項の当初案起草者:リチャード・A・プール少尉

そうなると,GHQ民政局内で当該まずい添え物規定をそもそも最初に起草したのはだれなのだとの犯人捜しが始まります。

下手人は,割れています。

本職は米国国務省の外交官であったところのリチャード・A・プール海軍少尉です(当時26歳)。

日本国憲法4条1項の規定の濫觴としては,GHQ草案の作成過程の初期において,1946年2月6日の民政局運営委員会(ケーディス大佐,ハッシー中佐及びラウエル中佐並びにエラマン女史)との会合に,プール少尉及びネルソン陸軍中尉の天皇,条約及び授権員会から次のような案文が提出されていました(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「314 GHQ原案」参照。下線はいずれも筆者によるもの)。

 

Article IV.  All official Acts and utterances of the Emperor shall be subject to the advice and consent of the Cabinet. The Emperor shall have such duties as are provided for by this Constitution, but shall have no governmental powers, nor shall he assume or be granted such powers. The Emperor may delegate his duties in such manner as may be provided by Law.

When a regency is instituted in conformity with the provisions of such Imperial Home Law as the Diet may enact, the duties of the Emperor shall be performed by the Regent in the name of the Emperor; and the limitations on the functions of the Emperor contained herein shall apply with equal force to the Regent.

 

 日本国憲法4条1項に対応する部分は,「天皇は,この憲法の定める義務を有するが(but),政治の大権(governmental powers)を有さず,かつ,そのような大権を取得し,又は与えられることはない。」となっています。天皇はこの憲法の定める仕事をする,しかしながら(but)政治の大権は有さないのである,というのですから,同年8月6日のケーディス大佐の前記発言に至るまで,当該条文の構造に係るGHQの論理(逆接とするもの)は一貫していたわけです。

 これが,GHQ草案の前の天皇,条約及び授権委員会の最終報告書では次のようになります。

 

 Article     The advice and consent of the Cabinet shall be required for all acts of the Emperor in matters of State, and the Cabinet shall be responsible therefor. The Emperor shall perform such state functions as are provided for in this Constitution. He shall have no governmental powers, nor shall he assume or be granted such powers. The Emperor may delegate his functions in such manner as may be provided by law.

       When a regency is instituted in conformity with the provisions of such Imperial House Law as the Diet may enact, the duties of the Emperor shall be performed by the Regent in the name of the Emperor; and the limitations on the functions of the Emperor contained herein shall apply with equal force to the Regent.

 

「天皇は,この憲法の定める国の職務(state functions)を行う。天皇は,政治の大権を有さず,かつ,そのような大権を取得し,又は与えられることはない。」ということで,「義務(duties)」の代わりに「国の職務」という言葉が出てきます。また,butでつながれた一つの文であったものが,二つの文に分割されています。

日本国憲法4条1項前段の「のみ(only)」の文言はなお欠落していましたが,当該文言は1946年2月13日のGHQ草案には存在します。すなわち,天皇,条約及び授権委員会からの最終報告の後,同月12日の最終の運営委員会あたりでこの「のみ(only)」は挿入されたものでしょう。ホイットニー准将か,ケーディス大佐か,ハッシー中佐か,ラウエル中佐か。だれの手によるものかは筆者には不明です。

 

(3)最後の小説

Governmental powersとの語は,プール少尉らの最初の案から使用されていたものです。

プール少尉の高祖父であるエリシャ・ライス大佐は幕末における箱館の初代米国領事ですから,当然プール少尉は,自分の高祖父が箱館にいた時代の日本は「政治の大権」を江戸幕府が把持していて軍人勅諭のいうところの「浅間しき次第」ではあったが,天皇はやはりなお天皇であった,ということは知っていたことでしょう。

高祖父以来代々日本に住んで仕事をしていた一族の家系に生まれ,少年時代を横浜で過ごした1919年生まれのプール少尉が最初の案を起草した天皇のgovernmental powers放棄規定を受け取るに至った1877年生まれの松本烝治憲法担当国務大臣が,自らのモデル案を作成の際,「なにぃ,「天皇ハ政治ノ大権ヲ有セス又此ヲ把握シ又ハ賦与セラルルコト無カルヘシ」だとぉ。GHQはワシントン幕府の東京所司代のつもりかぁ。増長しおって。後水尾天皇の御宸念がしのばれることだわい。」と憤然口汚くののしりつつも,あっさり尊皇的闘争をあきらめて,「政治ニ関スル権能」ではなくあえておおらかに「政治ノ大権」の語を採用していたならばどうだったでしょうか。

 

芦原やしげらば繁れ荻薄とても道ある世にすまばこそ

 

天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,政治の大権を有しない。

 

日本国憲法4条1項の前段と後段との関係をめぐる議論は本来的形式説で片が付き,同項後段は政体の転換を闡明するための宣言的規定と解されて天皇の日常を規制するinstructionとまでは受け取られなかった,ということになったかどうか。

「天皇は,国政に関する権能を有さない」という規範の存在は,天皇を寡黙にさせるものなのでしょう。しかしながら,更に当該規範を積極的に振り回す横着な実力者が登場して寡黙が沈黙にまで至ると・・・木を以て作るか,金を以て鋳るかした像を連想するような者も出て来る可能性があり・・・本稿冒頭での高師直想起につながるわけです。

 

 「「木を以て作るか,金を以て鋳るかして,生きたる院,国王をば,いづくへも皆流し捨てばや」発言とそれからの随想」(20161030日)

  http://donttreadonme.blog.jp/archives/1062095479.html

 

10 跋

ところで,実は,1994年6月12日,米国コロンビア特別区ワシントン市で,米国訪問中の今上天皇と「知日派の米国人」プール少尉とが会話する機会があったという事実があります。

しかし,日本国憲法4条1項後段規定の現在唯一の名宛人被規律者である今上天皇と当該規定の立案責任者であった元日本占領軍士官との間で,本稿で以上論じたようなことどもを十分語り尽くすだけの時間があったものかどうか・・・。

松本烝治は,「実は,私は今の憲法に何と書いてあるか見たことがないのです。それほど私は憲法が嫌いになったのです・・・」(児島380頁)と日本国憲法に背を向け,195410月8日に死去していました。

 

「「知日派の米国人」考」(2014年3月4日)

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1000220558.html

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

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1 「譲位の慣例を改むる者」の強行規定性の有無

 明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)に関する前回のブログ記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.html)においては,同条に関する伊藤博文の『皇室典範義解』の解説(「本条に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はるゝ者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」(宮沢俊義校註『憲法義解』岩波文庫(1940年)137頁))をもって,同条及び現在の皇室典範(昭和22年法律第3号)4条には「天皇の生前譲位を排除する趣旨」があるものとあっさり記しました。しかしながらよく考えるとその先の問題として,「譲位の慣例を改むる」ことによって,実際に天皇が「退位」した場合(「・・・花山寺におはしましつきて御髪おろさせたまひ・・・」)に退位によってもはや天皇ではなくなるという法律効果までも無効になるものかどうか,なお議論の余地があるようです。

(なお,「譲位」というと皇嗣に皇位を譲るという先帝の意思の存在及び更には当該先帝の意思と皇位を譲られる皇嗣の意思との合致が含意されるようでもありますが,「退位」ならば先帝の単独の行為であり,かつ,皇嗣に皇位を譲る効果意思を必ずしも含まないものとするとのニュアンスがより強いようです。美濃部達吉は「皇位ノ継承ハ法律行為ニ非ズシテ法律上当然ニ発生スル事実ナリ」と述べていますが(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)183頁),皇位継承は天皇の効果意思に基づくものではないということでしょう。)

譲位を慣例とはしないということのみであれば,「例外的」譲位は有効にあり得るようにも思われます。明治皇室典範の性格に関して『皇室典範義解』は「祖宗国を肇め,一系相承け,天壌と与に無窮に垂る。此れ(けだし)言説を仮らずして既に一定の模範あり。以て不易の規準たるに因るに非ざるはなし。今人文漸く進み,遵由の路(かならず)憲章に依る。而して皇室典範の成るは実に祖宗の遺意を明徴にして子孫の為に永遠の銘典を(のこ)す所以なり。」と説いていますが(岩波文庫127頁),従来多くの天皇が行った生前譲位を有効と認める以上は,生前譲位は「不易の規準」に反して本来的に無効であるということにはならないでしょう。そもそも明治皇室典範については「既に君主の任意に制作する所に非ず。」とされていますから(『皇室典範義解』岩波文庫127頁),従来有効であった生前譲位ないしは退位を明治天皇の「任意に制作する所」の強行規定をもって1889年2月11日以降無効化したとまでいい得るものでしょうか。『皇室典範義解』の説明文は,退位の有効性を前提としつつも,あえて生前に退位はしないという「上代の恒典」への運用の復帰を求めているものというようにも解することができそうです。そう考えて明治皇室典範10条を見ると,確かに同条の文言自体は,それだけで退位有効論を完全に排除するものとまではいえません。また,現在の皇室典範の法案が審議された1946年12月の第91回帝国議会においても,政府は天皇の「退位」はおよそ無効であるとまでは答弁していません。同議会における金森徳次郎国務大臣の答弁の言葉尻を見てみると,「・・・天皇に私なし,すべてが公事であるという所に重点をおきまして,御譲位の規定は,すなわち御退位の規定は,今般の典範においてこれを予期しなかった次第でございます。」(第91回帝国議会衆議院議事速記録第6号67頁),「・・・かような〔天皇の〕地位は,その基本の原則に照して処置せらるべきものでありまするが故に,一人々々の御都合によつてこれをやめて,たとえば御退位になるというような筋合いのものではなかろうと思うのであります」(同議会衆議院皇室典範案委員会議録(速記)第4回20頁),「退位の問題につきましては,相当理論的にも実際的にも考慮すべき点が残されておるように思うのでありまして・・・」(同26頁),「・・・或はお叱りを受けるか知りませんが,まずそういう場面〔「天皇が自発的に退位されたいという場合」,「天皇が希望される婚姻をどうしても皇室会議が承認できないというような場合」〕が起らないように,適当に事実が実質において調節せらるゝものであろうということを仮定をして,この皇室典範ができておるわけでありまして・・・」(同33頁),「・・・しかして国民はかような場合におきまして,御退位のあることを制度の上に書くことは希望していない,かように考えます」(同33頁),「事実としてそういう考え〔「象徴の地位におられることを欲しないという精神作用」〕が起るかどうかということにつきましては,歴史の示す所は,事実としてかような考えが起つておることを認め得るがごとくであります,しかし事実ではない,かくあるべきものとしての姿としてそれを認めるかどうかということになりますれば,私自身の見解から言えば,日本の皇位は万世一系の血統を流れるものである,しかもそれは一定の原理に従つて流れるものであるということを前提として,憲法はこれを掲げております,従つてそれを打切ることはできないものであると,かように考えております」(34頁),「・・・細かい理窟を抜きに致しまして,国民は矢張り御退位を予想するやうな規定を設けないことに賛成をせらるゝのではなからうか,斯う云ふ前提の下に皇室典範の起草を致しました・・・」(同議会貴族院議事速記録第6号88頁)等々,生前退位はあるべきものではないとしつつ,そこから先は,「予期しなかった」ということで,必ずしも詰めてはいなかったようです。 

 

2 1887年3月20日の高輪会議再見

 伊藤博文,井上毅,柳原前光らの1887年3月20日の高輪会議(憲法案に係る同年1015日のものとは異なります。)において柳原前光の「皇室典範再稿」12条(「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」)が削られるに至った過程について,前回のブログでは,伊藤博文の削るべしとの首唱に柳原が「迎合」したと書きました。しかしながら,柳原前光は,何の考えもなしに伊藤に対して単純に迎合したわけではなかったようです。

柳原は「但書ヲ削除スルナレハ寧ロ全文ヲ削ルヘシ」と言っています。肥後人井上毅の「人間だもの」論(「至尊ト(いえども)人類ナレハ其欲セサル時ハ何時ニテモ其位ヨリ去ルヲ得ベシ」)くらいでは生前退位を排除しようとする長州藩の足軽出身の権力者・内閣総理大臣伊藤博文の翻意は無理と見て取った京都の公家出身の柳原は,「但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」として退位を容認することとしていたただし書のみならず,「天皇ハ終身大位ニ当ル」として終身在位を制度化する本文も併せて削られることを確保することとして,生前退位容認論と終身在位制度化論との間での法文上でのいわば相討ちを図ったのではないでしょうか。

高輪会議後の1887年4月25日に伊藤に提出された柳原の「皇室典範草案」では,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」との高輪会議決定案10条が二つの条に分割され,当該「皇室典範草案」を検討して井上毅が作成した「七七ヶ条草案」においても「第10条 天皇崩スル時ハ皇嗣即チ践()ス」及び「第11条 皇嗣践()スル時ハ祖宗ノ神器ヲ承ク」とされ崩御による践祚についての規定と践祚の際(先帝の崩御によるものに限定はされていません。)の剣璽渡御についての規定との別立て維持されていました。結局両条は再統合されますが,生前退位容認論者であったの立法技術的操作には,それなりの含意があったというべきでしょう。
 なお,「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」と規定する大日本帝国憲法2条に関する『憲法義解』の解説は,「恭て按ずるに,皇位ノ継承ハ祖宗以来既に明訓あり。以て皇子孫に伝へ,万世易ふること無し。若夫継承の順序に至つては,新に勅定する所の皇室典範に於て之を詳明にし,以て皇室の家法とし,更に憲法の条章に之を掲ぐることを用ゐざるは,将来に臣民の干渉を容れざることを示すなり。」というものです(岩波文庫25頁。下線は筆者によるもの)。井上毅が書いたものとして,新たな明治皇室典範は専ら皇位「継承の順序」を「詳明」にすべきものであって,継承の原因等は依然「祖宗以来」の「明訓」のままでよいのだという趣旨まで深読みしてよいものかどうか。はてさて。 


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 東京都港区高輪四丁目の伊藤博文高輪邸宅地跡(1889年,岩崎久弥に売却)
 

3 『皇室典範義解』の拘束力の射程

 現在の皇室典範4条の文言(「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」)は,剣璽渡御に関係する明治皇室典範10条後段を削ったことによって,むしろ井上毅の「七七ヶ条草案」10条と対応するものになっています。(なお,法文からは削られたもののやはり必要な儀式ということでしょうが,今上天皇践祚に当たって「剣璽等承継の儀」が新天皇の国事行為として行われています。これは先帝が崩じたから伝統的な意味での践祚のために行われたものか,皇嗣が既に「直ちに即位」したから行われたものか。)

明治皇室典範10条に係る『皇室典範義解』の解釈に過度に拘束されずに,現在の皇室典範4条は,単に「皇位ノ継承ハ法律行為ニ非ズシテ法律上当然ニ発生スル事実」であること(また,「皇位の一日も曠闕すべからざる」こと(『皇室典範義解』岩波文庫137頁)),皇位継承に新天皇の宣誓(例えば,1831年のベルギー国憲法80条2項は「国王は,両議院合同会の前で,厳粛に次の宣誓をするまでは,王位につくことができない。/「余は,ベルギー国民の憲法および法律を遵守し,国の独立および領土の保全を維持することを誓う。」」と規定していました(清宮四郎訳『世界憲法集 第二版』(岩波文庫・1976年)89頁)。)は不要であるということ,先帝崩御は皇位継承をもたらす一つの法律事実であること,を意味するものにすぎないと解することは可か不可か。

 大日本帝国憲法と『憲法義解』との関係について,小嶋和司教授は,「『憲法義解』は法源ではないが,政府の憲法解釈を拘束した」が,大日本帝国憲法の「わずか4人の起草関係者の間に存した・・・解釈の対立は,それが法の指示においてさえ完璧でなかったことを断定せしめる」ところ,「今日,明治憲法典の起草趣旨を簡単に知る方法として『憲法義解』の参照がおこなわれる」が「しかし,それが叙述しないか,叙述を不明確にしている場合に,起草者は問題を知らなかったとか看過したと断定してはならない。それ〔は〕学問的には怠惰な即断となる」と述べています(小嶋和司「明治二三年法律第八四号の制定をめぐって」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)441頁,440頁)。明治皇室典範ないしは現在の皇室典範と『皇室典範義解』との関係も,同様に考えるべきでしょう。そう簡単ではありません。ちなみに,『皇室典範義解』における明治皇室典範10条解説の結語である「本条に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はるゝ者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」は,高輪会議の前月である1887年2月段階における井上毅の「皇室典範」案13条の「説明」案に「本条ハ実ニ上代ノ恒典ニ因リ断シテ中古以来ノ慣例ヲ改ムル者ナリ」とあったものを(園部逸夫『皇室法概論』(第一法規・2002年)438頁参照)承けたものでしょう。しかしながら,井上自身は当該理由付けをもって例外を許さないほど強いものとは評価していなかったところです。その上記「皇室典範」案13条は生前譲位についても定めているのです。いわく,「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ノ重患アルトキハ皇位継承法ニ因リ其位ヲ譲ルコトヲ得」と(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』185‐186頁参照)。明治皇室典範10条に関する『皇室典範義解』の解説について奥平康弘教授は「譲位制度はよろしくなく,「上古ノ恒典」に戻るべきであるとする説明に『皇室典範義解』は,十分に成功していないというのが,私の印象である。」と述べていますが(同「明治皇室典範に関する一研究―「天皇の退位」をめぐって―」神奈川法学第36巻第2号(2003年)159頁),当該「印象」は,井上毅の立場からすると,むしろ正しい読み方に基づくものということになるのかもしれません。

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 東京都台東区谷中の瑞輪寺にある井上毅の墓

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 「病弱な井上は,その後〔1893年・第2次伊藤内閣〕文部大臣にもなったが,明治28年〔1895年〕に逝去し,はやく忘れられた。」(小嶋「明治二三年法律第八四号」442頁)

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 瑞輪寺山門の扁額は井上毅の揮毫したもの 

 
4 英国における特別法による国王退位

 しかしながら,事実として,国王による単独の法律行為としての退位は無効であるとする法制は可能ではあります。

英国がその例です。

エドワード8世は,19361210日に退位声明を発しましたが(いわゆる「王冠を賭けた恋」事件),当該退位が効力を発するためには議会及び国王による同月11日の立法を要しました。次に,19361211日の「国王陛下の退位宣言に効力を与え,及び関連する事項のための法律(An Act to give effect to His Majesty’s declaration of abdication; and for purposes connected therewith.)」を訳出します。

 

  国王陛下は,本年1210日の勅語(His Royal Message)において陛下御自身及びその御子孫のために王位を放棄する不退転の御決意(irrevocably determined)である旨声明あそばされ,並びに当該目的のために本法の別記に掲載された退位詔書(Instrument of Abdication)を作成され,並びにそれに対して効力が直ちに与えられるべき旨の御要望を表明されたところ,

  並びに,国王陛下の前記声明及び要望の海外領土に対する伝達を承け,カナダは1931年のウェストミンスター憲章第4節の規定に従い本法の立法を要求しかつそれを承認し,並びにオーストラリア,ニュー・ジーランド及び南アフリカはそれに同意したところ,

  よって,至尊なる国王陛下により,現議会に召集された聖俗の貴族及び庶民の助言及び承認によりかつそれらと共に,並びに現議会の権威により,次のように立法されるべし。

  1(1)本法が裁可されたときに,現国王陛下が19361210日に作成した本法の別記に掲載されている退位詔書は直ちに効力を発し,並びにそれに伴い国王陛下は国王ではなくなり(His Majesty shall cease to be King),及び王位継承(a demise of the Crown)が生じ,並びにしたがって次の王位継承順位にある王族の一員が王位並びにそれに附随する権利,特権及び栄誉を承継する。

  (2)国王陛下の退位後には,陛下,もし誕生があればそのお子及び当該お子の子孫は,王位の継承において又はそれに対して何らの権利,権原又は利益を有さず,並びに王位継承法(Act of Settlement)第1節はそれに応じて読み替えられるものとする。

  (3)御退位後には,1772年の王室婚姻法は,陛下にも,もし誕生があれば陛下の子又は当該子の子孫にも適用されない。

  2 本法は,1936年の国王陛下退位宣言法(His Majesty’s Declaration of Abdication Act, 1936)として引用されることができる。

 

  別記

  

  余,グレート・ブリテン,アイルランド及び英国海外領土の王,インド皇帝であるエドワード8世は,王位を余自身及び余の子孫のために放棄する余の不退転の決意並びにこの退位詔書に直ちに効力が与えられるべしとの余の要望をここに宣言する。

  上記の証として,下記署名に係る証人の立会いの下,19361210日,ここに余が名を記したるものなり。

                           国王・皇帝 エドワード

  アルバート

  ヘンリー

  ジョージ

  の立会いの下,フォート・ベルヴェデールで署名

 

なお,英国の1689年の権利章典は,「ウエストミンスタに召集された前記の僧俗の貴族および庶民は,次のように決議する。すなわち,オレンヂ公および女公であるウィリアムとメアリは,イングランド,フランス,アイルランド,およびそれに属する諸領地の国王および女王となり,かれらの在世中,およびその一方が死亡した後は他の一方の在世中,前記諸王国および諸領地の王冠および王位を保有するものとし,かつその旨宣言される。王権は,公および女公双方の在世中は,王権は〔ママ〕,公および女公の名において,前記オレンヂ公が単独かつ完全に行使するものとし,公および女公ののちは,前記の諸王国および諸領地の王冠および王位は,女公の自然血族たる直系卑属の相続人に伝えられ」,「王権および王政は,両陛下とも在世のうちは,両陛下の名において,国王陛下のみによって,完全無欠に行使さるべきこと。両陛下とも崩御されたのちは,前記王位および諸事項は,女王陛下の自然血族たる直系卑属に帰すべきこと。」と規定しています(田中英夫訳『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)83‐84頁,86‐87頁)。議会によって,「在世中」(during their lives)は王位にあるべきもの(to hold the crown and royal dignity)とされ,法律となっています。
 エドワード8世の退位問題には昭和天皇が深い関心を持っていました。宮内庁の『昭和天皇実録第七』(東京書籍・2016年)の1936年12月4日の項には「侍従長百武三郎に対し,新聞報道されている英国皇帝エドワード8世に関する件につき,外務省とよく連絡を取り報告するよう命じられる。後刻,侍従長より,本日英国駐箚特命全権大使よりもたらされた情報として,同皇帝が米国人ウォリス・シンプソンとの御結婚に固執のため内閣と衝突状態にある旨の言上を受けられる。翌日午後,侍従長より,英国首相スタンリー・ボールドウィンの憲法上の理由により御結婚に反対する旨の声明につき言上を受けられる。また8日にも侍従長より,外務省からの情報の言上を受けられる。なお,エドワード8世は皇位放棄を決意され11日に御退位,皇弟ヨーク公がジョージ6世として皇位に就かれる。」とあります(240‐241頁)。立憲君主とその内閣とが衝突すれば,君主が引っ込まざるを得ないということでしょうか。ボールドウィンは,同月10日の英国庶民院における演説において"We have, after all, as the guardians of democracy in this little island to see that we do our work to maintain the integrity of that democracy and of the monarchy, which, as I said at the beginning of my speech, is now the sole link of our whole Empire and the guardian of our freedom."と述べています。『昭和天皇実録第七』の同月11日の項においては「午前,侍従長百武三郎が入手した英国皇帝エドワード8世の御退位に関する英国駐箚特命全権大使の電報を御覧になり,侍従長に対し,同皇帝御退位に関して発する電報の内容につき,式部職と連絡し処理するよう命じられる。13日,英国大使より外務省を経て新皇帝即位の公報到達につき,新皇帝ジョージ6世に対し祝電を御発送になる。なお,前皇帝御退位については触れられず,新皇帝即位に対する祝意のみを伝えられる。15日,答電が寄せられる。」と記録されています(244‐245頁)。

 

5 ベルギー国における憲法に規定のない国王退位の実例

大日本帝国憲法がその手本の一つとしたベルギー国憲法においては,明治皇室典範(及び現行の皇室典範)同様に崩御による王位継承に関する条項しかないにもかかわらず,同国においては国王の生前退位が認められています。

リエージュ大学教授クリスチャン・ベーレント(Christian Behrendt)及び同大学准教授フレデリック・ブオン(Frédéric Bouhon)の『一般国法学入門・教科書(Introduction à la Théorie générale de l’État. Manuel)』(Larcier, 2009年)には次のようにあります(138頁)。こちらの国では,国王の退位を有効ならしめるための立法までは必要としないようです。

 

 ベルギー法においては,国王の公的生活に係る全ての行為は,大臣副署の義務に服する。純粋に私的な行為のみが当該憲法規律に服さないところである。公的生活においては,退位が,大臣副署なしに国王が実現できる唯一の行為である。ベルギーの歴史において,レオポルド3世が,退位した(1951年7月16日)唯一の〔2013年7月21日のアルベール2世の退位前の記述です。〕国王である(註)。ベルギー国憲法が国王に対して退位する権利を明示的に認めていないとしても,そこでは条文の沈黙の中においても存在する権能(faculté)が問題となっていると考えることについて意見は一致している。もはや彼の務めを果たそうという気を全く失っている人物,又は――レオポルド3世が退く前がそうであったように――叛乱の雰囲気を醸成し,及び本格的内乱のおそれが国家の上に漂うことを許すまでに全国の国民を分極化せしめる人物を頭に戴き続けることは,実際のところ明らかに,国家の利益にかなうものではない。

 

(註)彼の退位詔書(acte d’abdication)は1951年7月1617日の官報(Moniteur belge)に掲載された。レオポルド3世が実際に退位した唯一の国王であるとしても,退位の権利の存在は,王国の始めに遡るようである。1859年に国王レオポルド1世は,彼の心に特にかかる事案に関して国会議員らに圧力を加えるために,退位に訴える旨威嚇した。当該君主は,本当に退位する気は恐らくなかったであろう。しかしながら,当該権利を有していることを彼が確信していたことは明らかである(ジャン・スタンジャ(Jean Stengers)『1831年以来のベルギー国における国王の行動 権力及び影響力(L’action du Roi en Belgique depuis 1831. Pouvoir et influence)』(第3版,ブリュッセル,Racine, 2008年)195頁参照)。ベルギー国王は退位する権限(prérogative)を有するという考えは,彼の息子のレオポルド2世の治下において更に確認された。1892年,深刻な消沈の際,当該国王は真剣に退位を考えたが,その後よりよい決意(à de meilleures résolutions)に立ち戻った(ジャン・スタンジャ・前掲書125頁参照)

 

 ド・ミュレネル(De Muelenaere)記者が2013年7月3日付けでベルギー国のLe Soir紙のウェッブ・ページに掲載した記事(“Abdication, comment ça marche?”)によると,同国における国王の生前退位から次期国王の即位への流れは次のようなものだそうです(同月のアルベール2世の生前退位及びフィリップ現国王の即位に関する予想記事)。

 

  1 首相によって査証された(visée)アルベール2世の退位宣言(Une déclaration d’abdication

  2 退位の日(7月21日)

  3 両議院合同会の前におけるフィリップの宣誓

  4 直ちに宣誓が行われれば「空位期間」は生じない。そうでない場合であっても,国王の憲法上の権限を内閣(le conseil des ministres)が確保するから,摂政の必要はない。

 

議会は新国王の宣誓(即位の効力要件)に立ち会うだけで,前国王の退位に効力を与えるための行為をすることはないようです。首相の「査証」と訳しましたが,これは憲法上の副署(contreseing)ではないわけです。退位宣言の詔書は,官報に掲載されたものでしょう。ド・ミュレネル記者によれば,前記のベーレント教授は「国王は退位詔書を作成し,当該詔書は決定の公式性(caractère public de la décision)を確保するために続いて官報に掲載されなければならない。」と述べていました。

 

6 ドイツにおける国王退位に関する学説など

 ベルギー国憲法の話が出たとなると,大日本帝国憲法のもう一つのお手本であったプロイセン憲法の話をせざるを得ません。19世紀のドイツ国法において国王の退位はどのように考えられていたものか。

ズーザン・リヒター(Susan Richter)及びディルク・ディルバッハ(Dirk Dirbach)編の『王位放棄 中世から近代までの君主政における退位(Thronverzicht: die Abdankung in Monarchien vom Mittelalter bis in die Neuzeit)』(Böhlau, 2010年)中のカロラ・シュルツェ(Carola Schulze)による論文「王権神授説からドイツ立憲主義までの法秩序観念における退位(Die Abdankung in den rechtlichen Ordnungsvorstellung vom Gottesgnadentum bis zum deutschen Konstitutionalismus)」には次のようにあります(68頁)。

 

  絶対王政の下では王室法(Hausgesetz)によってのみ規制された王位継承及び摂政の問題を,立憲国家は王室立法権(Hausgesetzgebung)から引き離し,憲法典(Verfassungsrecht)の領域に移管した。もっとも,憲法典に記載された君主の神聖不可侵性(Heiligkeit und Unverletzlichkeit)のゆえに,退位――及びそれと共に廃位(Absetzung)――は,ドイツ連邦諸国の国法自体においては明定されなかった(wurde…nicht fixiert)。したがって,国家元首としての君主の地位(Stellung des Monarchen als Staatsoberhaupt)及びその王位継承に関する規律との関連において退位の制度(das Rechtsinstitut der Abdikation)を定めてあった初期立憲主義憲法は存在しない。唯一,184812月5日の押し付けプロイセン憲法が,第55条において,国王が統治不能(in der Unmöglichkeit zu regieren)であるときは, 特別法によってそれらについて手当てされていない限りにおいて,次の王位継承権者又は王室法によりそれに代わる者が,合同会で摂政及び後見について第54条〔国王未成年の場合の摂政及び後見に関する規定〕に準じて定めるために両議院を召集する旨規定していた。当該規定は,改訂された1850年のプロイセン憲法にはもう既になくなっていたが,君主の統治不能は退位及び王位継承者に対する王位の移行の意味においても理解されるべきだ(auch im Sinne einer Abdankung und des Übergangs der Krone auf den Nachfolger zu verstehen ist)との確たる解釈を許すものであった。

     要するに,次のようにいうことができる。初期立憲主義諸憲法が退位について沈黙していたとしても,国民意識,国の歴史,学説の伝統又は思考の必然からして規範的地位(normativer Rang)を与えられていた19世紀の一般ドイツ国法において,退位は,正規の王位継承に対して補充的な(subsidiär)例外的王位継承の形式として(als Form der außerordentlichen Thronfolge)認められ,かつ,そのようにしてドイツ立憲主義の秩序観念中に位置付けられていたのである。

 

「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」だから譲位の規定はいらないのだ,とは伊藤博文の発想の源でもありました(「余ハ将ニ天子ノ犯冒スヘカラサルト均シク天子ハ位ヲ避クヘカラスト云ハントス」と高輪会議で発言しています。)。
 プロイセン国王ヴィルヘルム1世は議会との対立の中で退位を考えましたし,その孫ヴィルヘルム2世は第1次世界大戦の最終段階におけるドイツ革命の渦中で,ドイツ皇帝としては退位するがプロイセン国王としては退位しないと頑張ります。これらは生前退位が有効であるとの理解を前提としています。

ところで,シュルツェの議論では君主の統治不能(die Unmöglichkeit des Monarchen zu regiern)には退位(Abdankung)も含まれるということのようですが,そうだとすると1848年のプロイセン憲法的には,国王が「退位する。」と宣言した場合には統治不能の当該国王は押し込められ,両議院合同会によって摂政及び後見人が任命され,かつ,当該状況は国王の生存中続くということにはならなかったでしょうか。ちょっと分かりづらい。あるいは,1850年のプロイセン憲法56条は「国王が未成年であるとき又はその他継続的に自ら統治することが妨げられている(dauernd verhindert ist, selbst zu regieren)ときに」摂政を置くとの規定になっていますので,継続的な故障程度ではいまだ統治不能ではないから摂政設置で対応するが,退位されてしまうと統治不能であるので摂政どころではなくなって直ちに新国王即位になる,というように理解すべきなのでしょうか。
 この点明治皇室典範
19条2項は「天皇久シキニ亘ルノ故障ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルトキハ皇族会議及枢密顧問ノ議ヲ経テ摂政ヲ置ク」となっていて,1850年のプロイセン憲法56条的です。これは1889年1月18日の枢密院再審会議(小嶋「明治皇室典範」249250頁)を経た段階では「天皇未タ成年ニ達セサルカ又ハ精神若ハ身体ノ不治ノ重患ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサル間ハ摂政一員ヲ置ク」であったものが(同228頁),正にドイツ人であるロエスレルの修正意見に基づき(同251頁),同月24日に「精神若ハ身体ノ不治ノ重患」が「久シキニ亙ルノ故障」に修正され,更にその後最終的な形に修正されて(同254頁),同年2月5日の枢密院会議を経たものです(同255頁)。ロエスレルの修正案は「天皇未タ成年ニ達セサルカ又ハ其ノ他ノ故障ニ由リ久シク大政ヲ親ラスルコト能ハスシテ臨時ニ応スル為ニ予シメ親ラ計画ヲ為サス若クハ為シ能ハサルトキハ次条ノ明文ニ循ヒ摂政ヲ置クヘシ」というものでした(小嶋「明治皇室典範」251頁)。「其ノ他ノ故障」との文言は「疾病ノ外ニ於テモ亦他ノ事由ノ生スルコトアラン例ヘハ・・・」ということで用いられることになったもので(小嶋「明治皇室典範」251頁),「久シク本国ニ在ラサルトキ,戦時ニ当テ俘虜トナリタルトキ,又高齢ニナリタルトキノ如キ是ナリ」とされています(小林宏・島善高編著『明治皇室典範〔明治22年〕(下) 日本立法資料全集17』(信山社・1997年)642頁)。またそもそも「不治ノ重患」の「不治ノ」は「啻ニ贅字タルノミナラズ甚シキ危険アル」ことがロエスレルによって述べられていました(小嶋「明治皇室典範」251頁)。しかし,「不治ノ」は「甚シキ危険アル」言葉であるのに,皇位継承順位の変更に係る明治皇室典範9条では「皇嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シ前数条ニ依リ継承ノ順序ヲ換フルコトヲ得」となっていて「不治ノ」が維持されています(現在の皇室典範3条も同様)。ということは,「不治ノ」は天皇についてだけ「甚シキ危険アル」言葉なのでしょう。しかしながら,天皇が「不治ノ重患」であると発表してしまうと摂政どころではなく譲位が問題になってしまうという意味での「甚シキ危険」であったのかとまで考えるのは考え過ぎで,飽くまでロエスレルは摂政を置くべきか否かを検討する場面に留まりつつ「凡ソ疾病ノ治不治ハ,医家ニ在テモ亦一ノ争論点ニシテ,之カ為ニ紛議ノ種因ヲ他日ニ貽スノ恐レアレハナリ。而シテ摂政ヲ置クノ当否ニ関スルコトヲ以テ,此ノ如キ曖昧ノ間ニ附シ去ルハ大ニ不可ナリ。」と「甚シキ危険」について述べ,更に「・・・大政ヲ親ラスルコト能ハスト謂ハ丶,先ツ疾病ノ有無ヲ問ハス,果シテ大政ヲ親ラスルコト能ハサルカ否ヲ立証セサルヘカラス。現ニ君主重病ニ罹リテ尚ホ大政ヲ自ラ総攬シ得ルコトアリ。又総攬スルノ精神ヲ有スルコト屢々之レ有リ。例ヘハ「ポーランド」瓦敦堡〔ヴュルテンベルク〕ノ今王及び「メクレンボルグ」大公等ハ,既ニ不治ノ重患ニ罹ルト雖,尚大政ヲ親ラスルニアラスヤ。・・・」と述べています(小林・島641頁)。

ロエスレルの修正意見に基づく1889年1月24日の修正前の明治皇室典範19条案にいう「精神若ハ身体ノ不治ノ重患ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサル間」という摂政設置の前提状態たる不治ノ重患は,実は,1887年3月20日の高輪会議にかけられた柳原前光の前記「皇室典範再稿」では天皇の譲位を可能とする状態(「精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時」)でした。柳原の「皇室典範再稿」39条では,摂政を置く場合は,「天皇幼年ノ時」,「天皇本邦ニ在サル時」又は「天皇ノ精神又ハ身体ノ重患アル時」が挙げられていました(小嶋「明治皇室典範」193頁)。柳原前光の段階論では,「精神又ハ身体ノ重患アル時」はまだ摂政設置相当だけれども,「精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時」まで至ってしまうとむしろ譲位すべきだという判断だったのでしょう。現在の皇室典範16条2項は「天皇が,精神若しくは身体の重患・・・により,国事に関する行為をみずからすることができないときは,皇室会議の議により,摂政を置く。」と規定していますが,柳原の「皇室典範再稿」39条における摂政設置の場合の考え方におおよそ符合しています(ちなみに,ロエスエルは「精神又ハ身体ノ重患」の字は「不快ノ感ヲ喚起スル」と述べており(小林・島641頁),明治皇室典範19条2項には当該表現は用いられませんでしたが,現在の皇室典範においては復活したわけです。)。

なお,カロラ・シュルツェは,ドイツの学者らしく,法的意味における退位の成立に必要な構成要件のメルクマールを次のように分析的に述べています。

 

単独の公的行為(einseitige obrigkeitliche Maßnahme)であって,

君主によってされ(eines Monarchen),

君主の位の放棄,すなわち王位及びそれに附随する権利の放棄に向けられたものであり(die auf die Niederlegung der monarchischen Würde bzw. auf den Verzicht des Throns sowie der damit verbundenen Rechte gerichtet ist),

自由意思性及び自主性により,並びに(die sich durch Freiwilligkeit und Selbständigkeit sowie durch

補充性によって特徴付けられるものであり(Subsidiarität auszeichnet),

並びに不可撤回性を有するもの(und die unwiderrufbar ist.),

 

ということだそうです(シュルツェ69頁)。
 さて,シュルツェによれば「絶対王政の下では王室法(Hausgesetz)によってのみ規制された王位継承及び摂政の問題を,立憲国家は王室立法権(Hausgesetzgebung)から引き離し,憲法典(Verfassungsrecht)の領域に移管した」わけですが,このことについては,1850年のプロイセン憲法53条を素材に,美濃部達吉が次のように説明しています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)108109頁)。

 

  プロイセン旧憲法53条にも略本条〔大日本帝国憲法2条「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」〕と同様に,Die Krone ist, den Königlichen Hausgesetzen gemäss, erblich in dem Mannesstamme des Königlichen Hauses nach dem Rechte der Erstgeburt und der agnatischen Linealfolgeといふ規定が有る。その他のドイツ諸邦にも同様の規定の有るものが尠くない。文言に於いては極めて本条の規定と類似して居るけれども,趣意に於いては甚だ異なつて居つて,ドイツの学者は一般に,憲法の此の規定に依つて従来の王室家法が憲法の内容の一部を為すに至つたもので,随つて此の以後に於いては王室家法の変更は,憲法改正の法律に依つてのみ為すことを得べく,勿論議会の議決を必要とする・・・。即ちドイツ諸邦の憲法に於いては『王室家法ノ定ムル所ニ依リ』といふ明文が有つても,それは王室の自律権を認めたものではなく,却つて王室家法をして憲法の一部たらしめたもの・・・。

 

日本国憲法2条は「皇位は,世襲のものであつて,国会の議決した皇室典範の定めるところにより,これを継承する。」と規定しています(下線は筆者によるもの)。(同条の英文は,“The Imperial Throne shall be dynastic and succeeded to in accordance with the Imperial House Law passed by the Diet.”です。)ここでの「国会の議決した」は,その第74条1項で「皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス」と規定していた大日本帝国憲法との違いを示すものでしょう。現在の皇室典範の法形式は(皇室典範の「法律案」を審議した第91回帝国議会で問題にする議員がありましたが)法律ですが,少なくともその皇位継承(日本国憲法2条)及び摂政(同5条)に係る部分の改正は,19世紀ドイツ国法学的には,憲法改正と同等の重みのある行為であるということになります。「而して皇位継承に関する法則は,決して皇室御一家の内事ではなく,最も重要なる国家の憲法の一部を為すもの」なのです(美濃部『憲法精義』110頁)。

この点,1946年2月13日に我が国政府に提示されたGHQの憲法改正草案には“Article II. Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.”(外務省罫紙に記された閣議提出の訳文では「第2条 皇位ノ継承ハ世襲ニシテ国会ノ制定スル皇室典範ニ依ルヘシ」)及び“Article IV. When a regency is instituted in conformity with the provisions of such Imperial House Law as the Diet may enact, the duties of the Emperor shall be performed by the Regent in the name of the Emperor; and the limitations on the functions of the Emperor contained herein shall apply with equal force to the Regent.”(「第4条 国会ノ制定スル皇室典範ノ規定ニ従ヒ摂政ヲ置クトキハ皇帝ノ責務ハ摂政之ヲ皇帝ノ名ニ於テ行フヘシ而シテ此ノ憲法ニ定ムル所ノ皇帝ノ機能ニ対スル制限ハ摂政ニ対シ等シク適用セラルヘシ」)とあって,“such Imperial House Law”は国会の単独立法に係るものですから,やはり法律が想定されていたようで,皇室の家法たることを強く含意する「皇室典範」との訳は余り良い訳ではなかったようです。ところで,“in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact”であって,“in accordance with the Imperial House Law enacted by the Diet”ではありませんから,第2条の訳としては「皇位ノ継承ハ世襲テアリ且ツ国会ノ制定スルコトアル皇室法ニ従フモノトス」というものもあり得なかったでしょうか。このように解すると,たとい皇室典範という法形式が日本国憲法の施行に伴い消滅しても,国会が別異に立法しない限りは皇位の継承は従来の慣習に従う,ということにはならなかったものでしょうか。

しかし,我が国政府は皇位の継承に関する成文規範の存在及び皇室典範という法形式の存続にこだわったものか,憲法改正に係るその1946年3月2日案においては次のような条文が用意されています。

 

  第1章 天皇

第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ世襲シテ之ヲ継承ス。

第3条 天皇ノ国事ニ関スル一切ノ行為ハ内閣ノ輔弼ニ依ルコトヲ要ス。内閣ハ之ニ付其ノ責ニ任ズ。

  第9章 補則

106条 皇室典範ノ改正ハ天皇第3条ノ規定ニ従ヒ議案ヲ国会ニ提出シ法律案ト同一ノ規定ニ依リ其ノ議決ヲ経ベシ。

  前項ノ議決ヲ経タル皇室典範ノ改正ハ天皇第7条ノ規定ニ従ヒ之ヲ公布ス。

 

これに対して,佐藤達夫法制局第一部長の記す次のような1946年「三月四,五両日司令部ニ於ケル顛末」を経て,皇室典範の議案に係る天皇の発議権は消え,憲法2条は少なくとも英文については現在の形になっています。

 

第2条 皇室典範ガ国会ノ議決ヲ経ベキ条項ナシトテ相当強硬ナル発言アリ,補則ニ規定セリ,今回ハ全面的ニ補則ニ依リ改正セラルルコトデモアリ茲ニ特記スル要ナシ,又法律ト同一手続ニ依ルハ当然ナルモ,皇室ノ家法故発議ハ天皇ニ依リ為サルルコトトシタリト言フモ第1章ハ交付案ガ絶対ナリトテ全然応ゼズ,「国会ノ議決ヲ()タル(○○)passed by the Diet)(交付案ハ(as the Diet may enact))トシテ挿入スルコトトス(「経タル」ガ将来提案権ノ問題ニ関聯シテ万一何等カノ手懸ニナリ得ベキカトノ考慮モアリテ)。
 

ただし,佐藤部長の「考慮」にもかかわらず,現在の日本国憲法2条の当該部分の文言は「国会の議決した皇室典範」であって,「国会の議決を経た皇室典範」ではありません。現在の皇室典範は,昭和22年法律第3号です。
 (以上の日本国憲法の制定経緯については,国立国会図書館ウェッブ・サイトの「電子展示会」における「日本国憲法の誕生」を参照)
 

 1 自由民主党憲法改正草案1条

 日本国憲法1条は,「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く。」と規定しています。これに対し,2012年4月27日決定の自由民主党の日本国憲法改正草案では,「天皇は,日本国の元首であり,日本国及び日本国民統合の象徴であって,その地位は,主権の存する日本国民の総意に基づく。」と改めるものとしています。


2 元首

 自由民主党の日本国憲法改正草案では,元首という言葉が用いられています。

同党の上記草案に係るQ&Aによると,「元首とは,英語ではHead of Stateであり,国の第一人者を意味します。明治憲法には,天皇が元首であるとの規定が存在していました。また,外交儀礼上でも,天皇は元首として扱われています。」といったことから,「したがって,我が国において,天皇が元首であることは紛れもない事実」であるという同党の認識の下,「世俗の地位である「元首」をあえて規定することにより,かえって天皇の地位を軽んずることになるといった意見」はあったものの,同党内の「多数の意見を採用して,天皇を元首と規定することとし」たものとされています。

 ただし,そもそも「『天皇ハ国ノ元首』なりといふ語は,正確なる法律上の観念を言ひ表は」すものではない(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)123頁)ようです。「国の元首といふ語はchef d’état, Staatsoberhauptの語に相当するもので,それは国家を人間に比較し,人間の総ての働きが頭脳にその源を発して居ると同様に,国家の総ての活動は君主にその源を発するが故に,君主は国家の頭脳であり,元首であるといふのである。」とされていますから(美濃部122頁),元首というのは比喩表現なのでしょう。伊藤博文の『憲法義解』の冒頭部分には「・・・上元首の大権を統べ,下股肱の力を展べ・・・」という表現がありますから,元首は股肱(また及びひじ)と対になるべきもののようです。自由民主党憲法改正草案においては,元首たる天皇の股肱として,どのような存在が考えられているのでしょうか。ちなみに,「立法・行政百揆の事,凡そ以て国家に臨御し,臣民を綏撫する所の者,一に皆之を至尊に総べて其の綱領を攬らざることなきは,譬へば,人身の四支百骸ありて,而して精神の経絡は総て皆其の本源を首脳に取るが如きなり。」という『憲法義解』による大日本帝国憲法4条(「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」)の説明は,天皇は統治権を総攬するからこそ元首であるという認識を意味するものでしょう。アジア歴史資料センターのウェッブ・サイトの『憲法草案枢密院会議筆記』によれば,1888年6月18日午後の枢密院の憲法草案第二読会において,東久世通禧顧問官から「国ノ元首ニシテ」の文字の削除論(「本邦ノ天皇ハ憲法ニ記セストモ国ノ元首タルコト天下ノ人皆之ヲ熟知スルモノナリ然ルニ外国ニ於テハ或ハ人民ノ撰挙ニ依リ帝位ニ登リシ者アリ或ハ外国ヨリ来テ帝位ヲ継キタルモノアリテ人民往往主権ノ所在ニ付キ争ヲ惹起シ疑ヲ生シタルモノア〔ママ〕之ヲ憲法ニ明記スルノ必要アリ」との理由付け。山田顕義司法大臣も賛成)が提議されたところ,それに対して議長の伊藤博文は,「国ノ元首ノ文字ハ無用ナリトノ説アレトモ決シテ然ラス天皇ハ国ノ元首ナレハコソ統治権ヲ総攬シ給フモノナリ国ノ元首ト統治権トハ常ニ密着シテ離レサルモノナリ」と説明していました(第37コマから第39コマまで)。元首でなければ統治権を総攬しないというわけです。なお,統治権の総攬者たる元首としての天皇の地位に係る大日本帝国憲法4条は,天皇の「国家機関としての地位を規定せるもの」とされていましたので(美濃部121頁),この「国家機関としての地位」が,自由民主党内の少数意見にいうところの「世俗の地位」なのでしょう。
 ところで,『憲法義解』の原案作成者である井上毅も,「元首」の語には実は反対だったようです。国立国会図書館ウェッブ・サイトにある伊東巳代治関係文書の『井上毅子爵 逐条意見』(1887年8月)には,「帝国ノ元首トハ学理上ノ語ニシテ憲法ノ成文ニ必要ナラス但独乙各邦ノ憲法ニハ多クハ此語ヲ以テ本条ト同一ナル条則ニ冠冒セシメタルハ各邦ニ於テ僅ニ独乙帝国ノ管制ヲ離レテ独立ノ主権ヲ得タルノ時ニ当レルヲ以テ此ノ一句ヲ確定シテ国主無上ノ独立権ヲ表明シタルカ故ニ由レルナリ我邦ハ固ヨリ独乙各小邦ノ如キ歴史上ノ関係アルニ非サレバ此ノ一句ハ幾ト要用ナキノミナラズ亦第1条ト重複ノ意義ヲ顕ス者ニ疑ハシ」とあります(第6コマ)。自由民主党の意識下の認識においては,「独乙帝国」ならぬ「某帝国」に「管制」されている「小邦」のように我が国は見えているから,せっかくの憲法の改正に際して当該「某帝国」に「管制」されるものではない「独立ノ主権」のあることをくどいながらもあえて表明してそのこだわっていたところの鬱懐を晴らそう,という思いもあるものでしょうか。

3 「日本国民の総意に基づく」

 いずれにせよ,自由民主党憲法改正草案においても,天皇の地位が日本国民の総意に基づくものであることには変化はないようです。これこそ,「日本らしい日本の姿」ということなのでしょう。

 『憲法義解』は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定する大日本帝国憲法1条について「・・・本条首めに立国の大義を掲げ,我が日本帝国は一系の皇統と相依て終始し,古今永遠に亙り,一ありて二なく,常ありて変なきことを示し,以て君民の関係を万世に昭かにす。/統治は大位に居り,大権を統べて国土及臣民を治むるなり。古典に天祖の勅を挙げて「瑞穂国是吾子孫可王之地宜爾皇孫就而治焉〔瑞穂の国は,是れ吾が子孫の王たるべきの地なり,宜しく爾皇孫就いて治せ〕」と云へり。・・・」と述べていますが,自由民主党の憲法改正草案は,天皇の地位は神意に基づくものとは解さないものでしょう。美濃部達吉は「わが万世一系の帝位は,民意に基いたものでもなければ,又敢て超人的の神意に基いたものとしても認められぬ,それは一に皇祖皇宗から伝はつた歴史的成果であつて,〔大日本帝国憲法の上諭に〕『祖宗ノ遺烈ヲ承ケ』とあるのは即ち此の意を示されたものである。」と述べており(美濃部54頁),また,「皇嗣が皇位に就きたまふのは,専ら血統上の権利に基くのであつて,民意に基くものでもなければ,西洋の基督教国の思想の如くに神意に基くものでもない。」とされています(同102頁)。この説明に対して,自由民主党憲法改正草案にいう「日本国民の総意」は,どう解されるものか。美濃部的な解釈としては歴史的なものとしての総意ということになりそうですが,畢竟,現在の総意(民意)の方が強そうでもあります。

 なお,1946年1月1日の昭和天皇の詔書においては「朕ト爾等臣民トノ間ノ紐帯ハ,終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ,単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」とされています。我が国民は,終始天皇を信頼し,かつ,敬愛してきたものであり,「日本国民の総意」には,この点も読み込むべきものでしょうか。
 第90回帝国議会において,金森徳次郎憲法担当国務大臣は,1946年7月3日の衆議院帝国憲法改正案委員会で「第1条ニアリマスル日本国民ト申シマスルノハ,理念的ニ申シマスレバ,現在ノ瞬間ニ生キテ居ル日本国民デハナクテ,是ト同一性ヲ認識シ得ル過去及ビ将来ノ人ヲモ併セ考フル考ヘ方デアリマス」と,同月12日の同委員会で「日本国民ノ総意ト云フモノハ,統合シテ一ツニナツテ居ルモノデアリマシテ,一人々々ノ人間ニ繋ガリハ持ツテ居リマスルケレドモ,一人々々ノ人間其ノモノデハアリマセヌ,サウ云フモノガ過去,現在,未来ト云フ区別ナク,一ツノ総意ガアル訳デアルト思ツテ居リマス」と答弁しています(内閣総理大臣の「皇室典範に関する有識者会議」第5回会合(2005年5月11日)資料)。


4 後光厳天皇の践祚

 天皇の地位は歴史的に「日本国民の総意に基く」ものであって「単ナル神話ト伝説トニ」基づくものではないとして,そのようなものであるということの歴史上の根拠を示す事例としてはどのようなものが考えられるでしょうか。

 話は14世紀の南北朝時代にさかのぼります。

 南北朝時代の観応二年(1351年)の正平一統によって,京都の崇光天皇及び皇太子直仁親王が廃され(同年十一月),神器は後村上天皇の吉野方に接収され(同年十二月),3上皇(光厳・光明・崇光)及び廃太子(直仁親王)が京都から吉野方に連れ去られる(正平七年(1352年)閏二月)という事態が生じました。そのため,皇位が空白となった京都の朝廷では,足利義詮の要請により,光厳上皇の第三皇子(光明上皇の甥,崇光上皇の弟)である弥仁王を新天皇(後光厳天皇)に立てることになりましたが,三種の神器もなければ皇位を与えるべき上皇もいないという異例の事態での践祚となりました(観応三年(1352年)八月)。上皇の代わりは新天皇の祖母の広義門院が務め,神器の代わりには神器の容器であった小唐櫃が用いられました。「何事も先例なしではすまない貴族は,継体天皇の例を持ちだしてこの手続きを合理化しようとした」といいます(佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中央公論社・1965年)276頁)。

6世紀初めの継体天皇の即位の事情はどうかというと,「武烈天皇には子がなかったので,大伴金村は,まず丹波の桑田の倭彦王を天皇にしようとして,兵仗を設けて迎えに行った。ところが,その兵を遠くから見た王は色を失って逃げ,ゆくえがわからなくなったので,つぎに〔越前三国生まれの〕男大迹王〔継体天皇〕に白羽の矢をたてた。」「使者に迎えられた男大迹王が河内の樟葉宮に到着すると,金村は神器を奉った。王は位につき,金村を大連,許勢男人を大臣,物部麁鹿火を大連とした。」と日本書紀では伝えられています(井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』(中央公論社・1965年)450頁)。王朝交替論のうち水野祐説は,「当時,大和朝廷で最大の権力を握っていた大伴金村は,前王朝とは血縁関係のない継体天皇を擁立したのであろう」としています(井上452頁)。「時の権臣豪族の集議に依つて新帝を推戴した」ものです(美濃部102頁)。

しかし,観応三年当時の宮廷では,「天皇がなければ,幕府以上に皇室・貴族が困る」ところではありつつも(佐藤276頁),継体天皇の前例だけでは,公卿らはなお落ち着かなかったようです。

ここで,我が国のconstitutional historyにおいて注目すべき名啖呵が飛び出します。


・・・公卿,剣璽なくして〔弥仁王の〕位に即くの不可なるを議す。関白藤原良基曰く,

「尊氏,剣となり,良基,璽となる。何ぞ不可ならん」

と。遂に立つ。これを後光厳院となす。(頼山陽『日本外史』巻之七(頼成一・頼惟勤訳))


すなわち足利尊氏が代表する民と二条(藤原)良基が代表する官とによって構成される我が国民の総意こそが天皇の地位が基づくべき最重要の要素であって,上皇の意思表示及び神器の所在といったものによって代表される皇室自律主義は二次的なものにすぎないというのでしょう(なお,神器の無いまま上皇(後白河法皇)の意思に基づいて即位した前例としては,既に寿永二年(1183年),平家都落ち後の後鳥羽天皇の例がありました。)。

二条良基は,文和五年(1356年)に『菟玖波集』を撰し,応安五年(1372年)には「連歌新式追加(応安新式)を定めて,ことばのかけ合いに興味の中心をおいた自由な詠みかたに枠をはめて,連歌の高踏化に一歩をふみ出し」た(佐藤408頁)連歌の大成者であり,能の分野では世阿弥(藤若)を保護したほか,師として足利義満に「宮廷の儀式典礼,貴族の教養と見なされていた和歌・管弦・書道その他」を教えて義満が「儀式に参列するばかりか,節会などの儀式で主役を演じさえ」できるようにする(佐藤447頁)など,主に文化史上の人物としてとらえられているようです。しかしながら,やはりまず,日本の歴史に影響を与えた政治家でありました。

なお,継体天皇推戴の功労者である大伴金村は,二条良基が位人臣を極め,かつ,我が文化史上に名を遺したのとは対照的に,没落しました。大伴金村は,欽明天皇(継体天皇の子)の代には,朝鮮政策の失敗で力を失っていたようです。日本書紀によれば,欽明天皇元年に新羅対策が問題になったとき,「大伴金村は住吉の宅にいて朝廷には出仕していなかった。天皇は人をやってねぎらったが,金村は言った。「わたくしが病気と称して出仕しないわけはほかでもありません。諸臣らは,わたくしが任那を滅ぼしたのだと申しており,わたくしは恐れて出仕しないのです。」と。」いう出来事があったそうです(井上479頁)。我が半島政策は,いつも難しいものです。


5 「南北朝の合体」の意味

 後光厳天皇の皇統(その子である後円融天皇,孫である後小松天皇(一休さんの父)へと続く。)の話に戻ると,「南朝が正平一統のとき,北朝の〔崇光〕天皇を廃して神器を接収したため,その後の北朝は皇位のシンボルを欠くことからくる正統性への不安をいつまでも解消できなかった」ということになり(佐藤441442頁),明徳三年(1392年)閏十月の「南北朝の合体」に当たって足利義満が承諾した条件は「〔南朝〕後亀山天皇は譲国の儀式をもって三種の神器を後小松天皇に渡す。」という「南朝の正統を認めたもの」とならざるを得ませんでした(佐藤443頁)。しかしながら,足利義満がした約束は義満の約束であって,実行においては,三種の神器は後小松天皇が吉野方から回収したものの,後亀山天皇から後小松天皇に対する譲国の儀による「譲位」はされませんでした。


  三種の神器の受け渡しにしても,「譲国之儀式」は実際には行われず,義満の命によって「文治之例」,つまり源平合戦の際に平家方によって安徳天皇とともに西国に持ち去られた神器が平家滅亡の後に京都の後鳥羽天皇のもとに返ってきた際の例,に準拠するとされている。これでは,皇位の受け渡しではなく,正統な天皇のもとから離れていた神器が本来の場所に帰還した,という解釈を許すことになる。さらに実際には「文治之例」そのままではなく,幾つかの儀礼が義満の命によって省略されており,その結果随分と軽い扱いにな〔った。〕(河内祥輔=新田一郎『天皇の歴史04 天皇と中世の武家』(講談社・2011年)246頁(新田一郎執筆))


正に後小松天皇の宮廷は,後亀山天皇と後小松天皇との間に「皇位の受け渡し」があったものとは解釈していませんでした。


〔明徳五年(1394年)に後亀山天皇に太上天皇の尊号が贈られるに際し〕廷臣の間では,皇位に就かず天皇の父でもない人物に尊号を贈ることの是非が議論となり,結局詔書の文面も「準的ノ旧蹤無シトイヘドモ,特ニ礼敬ノ新制ヲ垂レ,ヨロシク尊号ヲタテマツリテ太上天皇トナスベシ」と,前例のない特例であることを強調したものになっている。

  〔左大臣一条〕経嗣はまた,「此ノ尊号,希代ノ珍事ナリ」として,後醍醐天皇の皇胤を断絶させぬことへの批判を記している。後世にはこの尊号一件は「帝位ニアラザル人ノ尊号ノ例」として挙げられており,北朝方廷臣には,後亀山を天皇とし南朝を皇統とする認識は,〔南北朝の〕合一の前にも後にも,なかったに違いない。(河内=新田246頁(新田))


足利幕府の不安がどのようなものであったかはともかく,京都の朝廷内の意識においては,その「正統性への不安」は,正に三種の神器という「皇位のシンボルを欠く」ことだけだったようです。すなわち,臣民が協力輔翼して新たに後光厳天皇を擁立した二条良基的正統性は,それ自体で天皇の地位が基づくに十分であるものと考えられていて,三種の神器が無いことは不安の種ではあったものの,あえて正平一統時の統一天皇である後村上天皇の子孫から譲位を受ける形で正統性を承継し,又は注入・補強する必要は更になかったということでしょう。この二条良基的なものとして始まった後光厳天皇の正統性が継承せられているのが,現在の皇統であります。

南朝正統論を採って少なくとも後光厳天皇以降数代の天皇の正統性を否定する場合には,吉野方から現在の皇統への正統性の接続を,後亀山天皇から後小松天皇への譲位ないしは譲国の儀式による神器の授受をもって説明しなければならないことになります。この点については,「この年〔明徳三年〕冬,〔後亀山天皇は〕遂に法駕を備へて吉野を発し,大覚寺に御し,父子の礼を以て,神器を後小松帝に授く」(『日本外史』巻之五)というのが,幕末維新期までの南朝正統尊王論者の認識だったようです。これならば,現在の皇統の正統性に問題はないですね。1911年段階でも「北朝は辞を厚くして合体の儀を申入れ,南朝の後亀山天皇は父子禅譲の儀にて御承諾ありたるなり。父子禅譲の伝説は固より信ずべし。」と頑張っている者がいます(笹川臨風『南朝正統論』(春陽堂・1911年)21頁)。しかしながら,さきに見たように,歴史学的にはなかなかそのような事実があったとはいいにくいようです。ということで,後亀山天皇から後小松天皇への譲位の儀式がなかったにもかかわらず南朝の正統性が後小松天皇に継承されたことを説明するために,南朝正統論者は次のように工夫して論じます。


 かくて南北合一神器之〔後小松天皇〕に帰し且つ南帝〔後亀山天皇〕好意の承認を経たる上は,また南朝もなく北朝もなく,〔後小松天皇は〕一点曇りなき万世一系の天津日嗣と成らせ給うたのである。此意味に於て余は北朝の御系統を今日に伝へられたる皇室の尊厳が聊も減ずることなく,天壌と共に窮まりなからんことを断言する。(黒板勝美「南北両朝の由来と其正閏を論ず」友声会編『正閏断案国体之擁護』(松風書院・1911年)41頁)


 これは,後小松天皇側からあった正統性移転の黙示の申込みに対して,後亀山天皇が承諾(「好意の承認」)をしたことにより契約が成立し(「接続取引」ということになるのでしょうか。),その効力として正統性が後小松天皇に移ったとするものでしょうか。しかし,前記のとおり,後小松天皇側は,三種の神器の返還は求めたけれども,そもそも正統性を認めていない相手方からの正統性の授与など求めるわけがない,という態度であったようです。

 後小松天皇と後亀山天皇との間の契約構成が採り得ない場合には,後亀山天皇の単独行為としての説明が試みられます。


  ・・・後小松帝が正当の天子と為られたることは,先帝〔後円融天皇〕よりの位を継承せられたるが為めにあらずして,唯後亀山天皇が其の位を抛棄せられ,既に天皇にあらざるが為めに此時より正当の天皇と為られたるなり・・・(副島義一「法理上より観たる南北正閏論争」友声会67頁)


これは,二人共有の場合に,一方がその持分を放棄すると,他の一方の持分がその分膨らんで完全な所有者になる,という共有の性質(民法255条参照)を連想させる説明ですね。しかしながら,そうだとすると,後小松天皇の有していた「持分」は何に由来したのでしょうか。やはり,後光厳天皇即位に当たっての二条良基的正統性ではなかったでしょうか。

 

6 三種の神器など

 なお,三種の神器については,明治22年の皇室典範ではその第10条で「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定していました。同条については,伊藤博文の『皇室典範義解』において,「恭て按ずるに,神祖以来鏡,剣,璽三種の神器を以て皇位の御守と為したまひ,歴代即位の時は必神器を承くるを以て例とせられたり。・・・本条は皇位の一日も曠闕すべからざるを示し,及神器相承の大義を掲げ,以て旧章を昭明にす。若乃継承の大義は践祚の儀文の有無を問はざるは,固より本条の精神なり。」と説かれていました。「践祚に伴うて行はせらる践祚の儀式及び詔勅は,唯皇位継承の事実を公に確認し宣言したまふに止まり,その効力発生の要件ではない」わけです(美濃部104105頁)。

南北朝時代の乱の原因に関して『皇室典範義解』は,「・・・聖武天皇・光仁天皇に至て遂に〔譲位が〕定例を為せり。此を世変の一とす。其の後権臣の強迫に因り両統互立を例とするの事あるに至る。而して南北朝の乱亦此に源因せり。本条〔明治22年皇室典範10条〕に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はる者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」と述べています。選定主義がまずかったということのようです。そこで,明治22年の皇室典範においては「皇位の継承は法律上当然に発生する事実であつて,法律行為ではない」ものとされたわけです(美濃部104頁)。


なお,「権臣の強迫」というのでは,北条時宗に気の毒ですね。持明院統・大覚寺統の両統迭立の始まりについて,『増鏡』第九「草枕」は次のように伝えています。


〔北条〕時宗朝臣もいとめでたきものにて,「本院〔後深草上皇。持明院統の祖〕のかく世を思し捨てんずる〔弟である亀山上皇(大覚寺統の祖)の系統が皇統を継ぐことになることをはかなんで出家しようとする〕,いとかたじけなくあはれなる御ことなり。故院〔後嵯峨上皇。後深草上皇の父〕の御掟〔皇統を亀山天皇系に伝えたいとするもの〕は,やうこそあらめなれど,〔後深草上皇は〕そこらの御このかみ〔兄〕にて,させる御誤りもおはしまさざらん。いかでかはたちまちに,名残なくは物し給ふべき。いと怠々しきわざなり」とて,新院〔亀山上皇〕へも奏し,かなたこなた宥め申して,東御方の若宮〔後深草上皇の子である後の伏見天皇〕を坊〔亀山上皇の子である後宇多天皇の皇太子〕にたてまつりぬ。


怖い顔の人が「誠意を見せろ。」というと恐喝(刑法2491項「人を恐喝して財物を交付させた者は,10年以下の懲役に処する。」)になりますが,鎌倉幕府の執権がマアマアと「かなたこなた宥め申」すのも「強迫」になったようです。北条時宗は,モンゴル大帝国の侵略を受けた国々を助ける集団的自衛権を行使する余裕もあらばこそ,個別的自衛権の発動のみで大陸及び半島からの我が国に対する安全保障上の危険に対処してしまったような強面の人でした。


現在の昭和22年法律第3号「皇室典範」4条は「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」と規定しており,そこでは神器に言及されていません。これについては,194612月5日の第91回帝国議会衆議院本会議において,吉田安議員の質疑に対して金森徳次郎国務大臣が次のように答弁しています。すなわち,政教分離原則に由来する沈黙であるとされているわけです。


 次ぎに皇位の継承と,三種の神器との関係がいかになるかというお尋ねでありましたが,これは皇位が継承せられますれば,三種の神器がそれに追随するということは,こととして当然のことと考えてをります。しかしながらこれに関しまする規定を,皇室典範の中には設けておりません。その次第は,他に考うべき点もありますけれども,主たる点は,三種の神器は一面におきまして信仰ということと結びつけておる場面が非常に多いのでありますから,これを皇室典範そのものの中に表わすことが必ずしも適当でないというふうに考えまして,皇室典範の上にその規定が現れてはいないわけであります。しかしながら三種の神器が皇位の継承と結びついておることはもとよりでありまするので,その物的の面,詰まり信仰の面ではなくして,物的の面におきましての結びつきを,何らか予想しなければなりませんので,その点は,恐らく後に御審議を煩わすことになるであろうと存じまするところの皇室経済法の中に,片鱗を示す規定があることと考えております。


 皇室経済法7条は「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。」と規定しています。同条の趣旨について,19461216日,第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会において,金森徳次郎国務大臣は次のように説明しています。天皇にも「民」法の適用があることが前提とされています。


  次ぎに第7条におきまして,日本国の象徴である天皇の地位に特に深い由緒ある物につきましては,一般相続財産に関する原則によらずして,これらのものが常に皇位とともに,皇嗣がこれを受けらるべきものなる旨を規定いたしております,このことはだいたいこの皇室経済法で考えておりまするのは,民法等に規定せられることを念頭にはおかないのでありまするけれども,しかし特に天皇の御地位に由緒深いものの一番顕著なものは,三種の神器などが,物的な面から申しましてここの所にはいるかとも存じますが,さようなものを一般の相続法等の規定によつて処理いたしますることは,甚はだ目的に副わない結果を生じまするので,かようなものは特別なるものとして相続法より除外して,皇位のある所にこれが帰属するということを定めたわけであります。


 天皇に民法の適用があるのならば相続税法の適用もあるわけで,19461217日,第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会におけるその点に関する小島徹三委員の質疑に対し,金森徳次郎国務大臣は次のように答弁しています。


 ・・・だいたい〔皇室経済法〕第7条で考えております中におきましては,はつきり念頭に置いておりますのは,三種の神器でありますけれども,三種の神器を物の方面から見た場合でありますけれども,そのほかにもここに入り得る問題があるのではないか,かように考えております,所がその中におきまして,極く日本の古典的な美術の代表的なものというようなものがあります時に,一々それが相続税の客体になりますと,さような財産を保全することもできないというふうな関係になりまして,制度の関係はよほど考えなければなりませんので,これもまことに卑怯なようでありますけれども,今後租税制度を考えます時に,はっきりそこをきめたい,かように考えております


 相続税法12条1項1号に,皇室経済法7条の皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,相続税の非課税財産として掲げられています。

 三種の神器は,国有財産ではありません。19461221日,第91回帝国議会貴族院皇室経済法案特別委員会における大谷正男委員の質疑に対する金森徳次郎国務大臣の答弁は,次のとおり。


  此の皇位に非常に由緒のあると云ふもの・・・今の三種の神器でありましても,皇位と云ふ公の御地位に伴ふものでありますが故に,本当から云へば国の財産として移るべきものと考ふることが,少くとも相当の理由があると思つて居ります,処がさう云ふ風に致しますると,どうしても神器などは,信仰と云ふものと結び付いて居りまする為に,国の方にそれは物的関係に於ては移つてしまふ,それに籠つて居る精神の関係に於ては皇室の方に置くと云ふことが,如何にも不自然な考が起りまして,取扱上の上にも面白くない点があると云ふのでありまするが故に,宗教に関しまするものは国の方には移さない方が宜いであらう,と致しますると,皇室の私有財産の方に置くより外に仕様がない,こんな考へ方で三種の神器の方は考へて居ります・・・


 さて,話は14世紀に戻りますが,後光厳天皇は,吉野方から攻撃されていたばかりではなく,延文二年(1357年)二月に崇光上皇が吉野方に許されて帰京してからは,その正統性について兄の上皇からも圧迫を受けていたようです。


・・・〔崇光上皇及び後光厳天皇の父である〕光厳院の没後の応安四年(1371)になって,〔後光厳〕天皇は皇子緒仁親王への譲位を図るが,持明院統の正嫡を自任する崇光院は,皇子栄仁親王の立太子を望んで武家に働きかけた。これに対し,若年の将軍義満を補佐する管領細川頼之は「聖断たるべし」として天皇に判断を返上し,天皇は緒仁親王(後円融天皇)に譲位して院政を執り,その3年後に没した。・・・「天照大神以来一流の正統」を自任する崇光院流の存在は,皇位継承をめぐってなお紛れの余地を残すことになる。(河内=新田207頁(新田))


ところでこの崇光上皇の系統が世襲親王家の伏見宮家で,先の大戦後に至って,この流れの宮家は,皇籍を離脱することになりました。皇籍復帰いかんが時に話題になる旧宮家です(ただし,明治天皇裁定の明治40年皇室典範増補6条は「皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス」と規定していました。)。

 いずれにせよ,そもそもは,足利尊氏が悪いのです。


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 深草北陵(深草十二帝陵)(京都市伏見区)
 後光厳天皇を含む持明院統の12天皇が合葬されています。

1 はじめに

 日本国憲法74条は,「法律及び政令には,すべて主任の国務大臣が署名し,内閣総理大臣が連署することを必要とする。」と規定しています。

 同条にいう主任の国務大臣の署名及び内閣総理大臣の連署とは何だ,ということが今回の主題です。

 例のごとく,またまた長大なものになってしまいましたが,御寛恕ください。

  ただし,お急ぎの方のために憲法74条の由来に関する本件小咄の主要点のみ述べれば,19462月のGHQ内における日本国憲法の草案作成作業段階においては,①同条の前身規定は,当初は「首相」による法令の公布に関するものであったこと及び②できあがった同条においては主任の国務大臣が署名して内閣総理大臣が連署するということで主従が逆転したような規定になっていますが,この逆転については,GHQ内において強い首相(a strong executive)を設けるべきだとする意見がある程度認められかけて条文が作成された後に逆転があって,連帯責任制の集団である内閣に行政権が属するものとする現行憲法65条等の条文ができた,という流れの中で解釈論を考える必要性があるのではないか,ということです。


2 政府の憲法74条解釈


(1)現行解釈

 憲法74条の署名及び連署は,官庁筋においては,次のように解されています。

 


・・・主任の国務大臣の署名が,当該法律又は政令についての執行責任(この場合の「執行」とは,憲法73条でいう「執行」と同様に,法律制定の目的が具体的に達せられるために必要と考えられるあらゆる措置をとることをいうと考えられる。)を明らかにするものであるのに対して,内閣総理大臣の連署は,内閣の首長であり,代表者である資格において,その責任を明らかにするためにするものである。内閣総理大臣も,その法律又は政令について「主任の国務大臣」である場合は,署名の順位は,内閣総理大臣を冒頭とし,その他の主任の大臣は,これに次ぐものとする取扱いである。・・・(吉国一郎ほか共編『法令用語辞典
<第八次改訂版>』(学陽書房・2001年)759頁)


・・・右の署名とは自らその氏名を記すことをいい,連署とは他の者の署名に添えて自らその氏名を記すことをいう。法律及び政令について,主任の国務大臣の署名及び内閣の首長たる内閣総理大臣の連署が必要とされるのは,法律にあってはその執行の責任を,政令にあってはその制定及び執行の責任を明らかにするためにほかならない。(前田正道編『ワークブック法制執務<全訂>』(ぎょうせい・1983年)26頁)


・・・「副署」は,憲法74条によつて法律及び政令についてされる主任の国務大臣の「署名」及び内閣総理大臣の「連署」とは,その性質を異にする。前者は,内閣の助言と承認があつた証拠としてされるものであり,後者は,法律及び政令の執行責任・・・を明らかにするためにされるものである。したがつて,法律及び政令については,まず主任の国務大臣の署名及び内閣総理大臣の連署がされた後,その公布をするについて更に天皇の親署に添えて内閣総理大臣の副署がされることが必要である(なお,公布されるべき条約についても,同様の取扱いがされており,憲法改正の際にも同様の取扱いがされるべきものであろう。けだし,憲法改正及び条約についても,法律及び政令の場合と取扱いを異にすべき理由はないからである。)。(吉国ほか・前掲643頁)


 法律及び政令を公布するに当たって必要とされる主任の国務大臣の署名及び内閣総理大臣の連署は,法令の末尾においてされる。(前田・前掲660頁)


 そもそもにさかのぼると,1946921日,第90回帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員会において,子爵松平親義委員の質疑に対する金森徳次郎国務大臣の答弁は,次のとおりでした。



・・・今回の法律及び政令と,是は天皇の御裁可を本質的には要しないものであります,公布は天皇の御権能に属して居りまするけれども,決定は天皇の御権能に属して居りませぬ,そこで国務大臣が署名すると云ふことは,在来の如く,
法律勅令の裁可に対する輔弼と云ふ意味を直接には持ち得ない訳でありますけれども,既に法律及び政令が出来ますれば,それに対して十分執行の責任を負はなければならぬのであります,法律に付きましては,是はまあ国会で出来ましたものでありますから,執行責任と云ふことに重点が置かれるものと思ふのであります,政令に付きましては,是は内閣が議決したものでありますが故に,其の方面の責任と,執行の責任と云ふものを明かにする何等かの形式上の要請があると思ひます,併し是は勿論署名したから責任が出るかと云ふことではありませぬけれども,署名した限りは,責任の所在は非常にはつきりして居る,詰り自分の知らない書類ではありませぬ,署名すれば必ず中身に付いて熟知して判断して居る筈でありますから,それで法律の場合には執行責任を明かにすることになり,政令の場合にはその制定と執行との両面に於て,責任を或意味に於て明かにする,斯う云ふ効果を持つものと考ふる次第であります(第90回帝国議会帝国憲法改正案特別委員会議事速記録第1941頁。原文は片仮名書き)


 法律の執行責任については,従来は,大日本帝国憲法6条(「天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス」)に関して「併し法律の執行を命ずる行為は,各個の法律に付いて別々に行はるのではなく,官制現在の各省設置法等に対応に依つて一般的に命ぜられて居るに止まる。官制に依り法律を執行すべき職務を有つて居る者は,各個の法律に付き特別の命令あるを待たずして,当然にその執行の任に当るのである。」とされていたのですが(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)178頁),敗戦を経ると,やはり,国務大臣以下敗戦国政府の行政各部がちゃんと法律を執行するのか信用ならぬ,署名せよ,ということになったのでしょうか。

 また,金森国務大臣の答弁がところどころにおいて,「ものと思ふのであります」,「あると思ひます」,「或意味に於て」等断定口調になり得ていないのは,同国務大臣が自ら起草したわけではないことによる心のひるみの現れでしょうか。

 この点,確かに,大日本帝国憲法改正案の帝国議会提出に先立って,政府の法制局内部においても,見解は当初から一定のものとして確立してはいなかったようです。


(2)政府解釈確立までの揺らぎ


ア 1946年4月

 大日本帝国憲法改正案審議に向けた,19464月の法制局の「憲法改正草案逐条説明(第4輯)」には,いわく。



70日本国憲法74

 本条は法律及び政令の形式の一端を規定致したものでありまして,此等には,すべて主任の国務大臣が署名し尚内閣総理大臣が連署すべきものと致したのであります。これは,特に政令については,現行制度の下に於ける副署と同じ様に国務大臣の責任を明ならしめるものであると共に,国の法律及び政令としての体を整備せしめんとするものであります。


 (なお,以下,日本国憲法制定経緯に係る関係資料については,国立国会図書館ウェッブサイト電子展示会「日本国憲法の誕生」参照。関係資料がこのように使いやすい形で提供されている以上は使わなければならず,便利であるということはかえって大変になるということでもあります。) 


 「現行制度の下に於ける副署と同じ様に国務大臣の責任を明ならしめるものである」というのは,「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」と規定する大日本帝国憲法552項の規定に係る国務大臣の責任と同じ,ということでしょうか。しかし,同項の副署に係る国務大臣の責任は,統治権の総攬者にして神聖不可侵である天皇に対する輔弼責任でしょう。上記「逐条説明」の文言は,日本国憲法下では,ちょっと問題のある言い回しのようです。

 帝国憲法552項については,「副署を為した大臣はそれに依つて当然その責任者であることが証明せられるのであるが,副署に依つて始めて責任を生ずるのではなく,輔弼したことに因つて責任を生ずるので,輔弼者としてその議に預つた者は仮令副署せずとも,その責を免ることを得ないのである。此の点に於いても,憲法義解に『副署ハ以テ大臣ノ責任ヲ表示スヘキモ副署ニ依テ始メテ責任ヲ生スルニ非サルナリ』と曰つて居るのは,正当な説明である。」(美濃部・前掲519-520頁),「副署は輔弼を外形的に証明するもので,輔弼の範囲と副署すべき範囲とは当然一致しなければならぬことは,言ふまでもない。」(同516頁)と説明されていました。『憲法義解』の解説は,「大臣の副署は左の二様の効果を生ず。一に,法律勅令及其の他国事に係る詔勅は大臣の副署に依て始めて実施の力を得。大臣の副署なき者は従て詔命の効なく,外に付して宣下するも所司の官吏之を奉行することを得ざるなり。二に,大臣の副署は大臣担当の権と責任の義を表示する者なり。蓋国務大臣は内外を貫流する王命の溝渠たり。而して副署に依て其の義を昭明にするなり。」となっています。

 「特に政令」といわれているのは,政令という法形式が日本国憲法によって初めて導入されたからでしょう。


 また,同じく19464月付けの法制局「憲法改正草案に関する想定問答」(第6輯)には日本国憲法74条の規定について,次のように記されていました。



問 法律の署名は,いかなる意味をもつか。

答 法律は,原則として,両院の可決のあつたときに成立する(5559)。

 そこでこの署名は法律成立後の手続となるのであるが,法律公布の際,天皇に対し補佐と同意に任ずる者は,内閣であるし,又法律を施行し,その実施のための政令を制定するのも,内閣であるので,成立後主任の大臣に副署させ,成立の事実を確認して,次の事実に移らせることとしたのである。


問 政令はこの署名のあつたときに成立するか。

答 然り,この点法律と異なる


問 主任の国務大臣の意義如何

答 各国務大臣は,それぞれ主務をもつことを予定した規定である。従つて各省大臣の制か,これに近き制度が新憲法でも考へられてゐると見ねばならない。なほ内閣総理大臣もその主務については,ここにいはゆる主任の国務大臣であることは,言をまたない。


問 内閣総理大臣の連署はいかなる意味か。

答 内閣総理大臣は内閣の首長だからであるとともに,またその行政各部の指揮監督権に基くものである。


 2番目の問答では,政令は主任の国務大臣の署名(及び内閣総理大臣の連署)があった時に成立するものとしていますが,この見解は,帝国議会における前記の金森国務大臣答弁においては放棄されています(「既に法律及び政令が出来ますれば」,「政令に付きましては,是は内閣が議決したもの」)。 

 1番目の問答には,「法律公布の際,天皇に対し補佐と同意に任ずる者は,内閣であるし」及び「副署」という文言があります。憲法74条の署名及び連署は天皇の公布行為に対する助言と承認の証拠であるという方向での解釈のようです。ここでの副署の語は,「西洋諸国のcounter-signature, contreseing, Gegenzeichnungの制に倣つたもので,副署とは天皇の御名に副へて署名することを謂ひ,単純な署名とは異なり,御名の親署あることを前提とするのである。」という解説(美濃部・前掲514頁)における意味で使われているものでしょう。


イ 1946年6月

 現在は,天皇に対する内閣の助言と承認に係る内閣総理大臣の副署と憲法74条の署名及び連署とは別のものであるという整理になっていますが,当該整理に至るまでには,なかなか時間がかかっています。

 19466月の法制局の「憲法改正草案に関する想定問答(増補第1輯)」には,なお次の記述(「備考」の部分)があります。



問 国務大臣が,天皇の行為に副署する規定をなぜ置かぬか。(現行
帝国憲法55Ⅱ参照

答 副署といふ制度は,内閣の助言と承認のあつたことの公証方法として今後もこれを残すことは考へられる。しかしかかる形式的制度は,憲法に明文ををく必要はなく,公式法とでもいつた法律で規定すれば十分である。

(備考)

 なほ法律及び政令については,70日本国憲法74の署名及び連署と公布の副署とをいかに考へるか研究を要する。


 憲法改正草案は19464月から5月にかけて既に枢密院審査委員会にかけられていたのですが,6月になっても依然考え中です。ちなみに,当該審査委員会においては,日本国憲法74条の署名及び連署についての直接の議論はありませんでした。


3 学説の憲法74条批判

 憲法74条の署名及び連署について,政府当局は苦心の末現行解釈にたどり着いたわけですが,苦労するということは実はそもそもの条文に問題があるということで,せっかくの苦労にもかかわらず,結局同条はよく分からん,という次のような学説の批判があります(宮沢俊義著・芦部信喜補訂『全訂 日本国憲法』(日本評論社・1978年))。



 法律および政令に対し,「主任の国務大臣」が署名することが,どういう意味をもつかは,かならずしも明確でない。

 法律についていえば,法律の制定者は国会である。したがって,制定者として署名するならば,国会の代表者としての衆議院議長が署名するのが適当であり,「主任の国務大臣」の署名は適当でないと考えられる。法律を執行することは,内閣の職務であるから,その法律の執行の責任者を示すことが趣旨であるならば,その内閣の代表者としての内閣総理大臣が署名することが適当と考えられるであろう。本条が特に「主任の国務大臣」の署名を必要としているのは,内閣の指揮監督のもとにおいて,その法律の執行を分担管理する責任者としての署名ということになるのであろう。(582頁)


 政令は内閣が制定するものであるから,制定者を明らかにするためには,内閣の代表者としての内閣総理大臣の署名が適当であると考えられる。それに対して「主任の大臣」の署名を必要とするのは,法律の場合についてのべられたと同様の趣旨と解するほかはない。(583頁)


 本条の定める「署名」または「連署」は,「主任の国務大臣」および内閣総理大臣にとって義務であり,これを拒否することは許されない。法律または政令は,それぞれ国会または内閣によって制定されるものであり,それらによって議決された以上,完全に成立したものである。本条に定める「主任の国務大臣」および内閣総理大臣の「署名」および「連署」は,まったく形式的なものにすぎず,これを拒否することはできないものと見るべきである。(584頁)


・・・「主任の国務大臣」または内閣総理大臣の署名または連署の有無が,その効力に影響をおよぼし得るものと解するのは妥当ではない。本条のいう「主任の国務大臣」の署名および内閣総理大臣の連署は,単に公証の趣旨をもつだけであり,それが欠けたとしても(実際問題としては,ほとんど生じ得ないことであるが),その効力には関係がないと見るのが正当であろう。(584頁) 


 かように,公布文における天皇の署名および内閣総理大臣の副署のほかに,本条による署名および連署が必要とされる理由は,十分とはいえないようである。

 ・・・要するに,本条の趣旨は十分に明確とはいいがたい。

 さきに指摘されたように,もしそれが制定者による公証の意味であるならば,法律の場合は,国会を代表して衆議院議長が署名するのが相当であろうし,政令の場合は,内閣を代表して内閣総理大臣が署名するのが相当であろう。また,執行の責任者としての公証の趣旨であるならば,行政権の主体である内閣の代表者としての内閣総理大臣が署名するのが相当であろう。すくなくとも,まず内閣総理大臣が署名し,第二次的に,主任の国務大臣が署名(連署)するほうが合理的なようにおもわれる。(585頁)


4 憲法74条の制定経緯


(1)1946年3月以降の案文の変遷

 法令における変な条文というのは,畢竟,その制定経緯に原因があります。

 そこで,日本国憲法74条の由来をさかのぼって行きましょう。

 同条の規定は,194632日の日本政府の憲法案(「松本烝治国務大臣案」)において既に次のようにあります。



77条 凡テノ法律及命令ハ主務大臣署名シ,内閣総理大臣之ニ副署スルコトヲ要ス


 同月4日から5日にかけてのGHQにおける法制局の佐藤達夫部長とGHQ民政局(Government Section)との折衝においては,「同年213日のGHQ草案66条(同年36日の要綱第70)問題ナシ 松本案ニアリ」ということで(佐藤達夫「三月四,五両日司令部ニ於ケル顛末」),その結果,日本政府の憲法改正草案要綱(同月6日)では次のとおりとなっています。



70 法律及命令ハ凡テ主務大臣署名シ内閣総理大臣之ニ副署スルコトヲ要スルコト


 現在の第74条の姿となったのは,194645日の口語化第1次草案で,これが同月17日に憲法改正草案として発表されています。次のとおり。



70条 法律及び政令には,すべて主任の国務大臣が署名し,内閣総理大臣が連署することを必要とする。


 英文は,次のとおり。



All laws and cabinet orders shall be signed by the competent Minister of State and countersigned by the Prime Minister.


 上記憲法改正草案70条(現行憲法74条)と同年36日の要綱とは,「命令」が「政令」に代わったところが大きな変化ですが,これは同年42日に法制局幹部がGHQに民政局次長のケーディス大佐を訪問して了解を取ったようで,同日の訪問に係る「要綱の一部訂正の入江・佐藤・ケーヂス会談の覚」に挟まれた英文記載紙に"Following the discussion at the GHQ we have studied the draft constitution and desire to present the following observations:……Article 70. "Orders" is understood to be "cabinet orders"."とタイプ打ちされていました。


 結局,憲法74条の淵源は,1946213日に日本政府に交付されたGHQ草案66条にあって,「松本烝治国務大臣案」以降それが踏襲されているわけです。松本国務大臣が既に呑んでいたのですから,同年34日から5日にかけての折衝で「問題ナシ」であったのは当然でした。


(2)1946年2月のGHQ草案


ア 案文

 1946213日のGHQ草案66条は,次のとおりでした。



Article LXVI. The competent Minister of State shall sign and the Prime Minister shall countersign all acts of the Diet and executive orders.


一切ノ国会制定法及行政命令ハ当該国務大臣之ヲ署名シ総理大臣之ニ副署スヘシ(外務省罫紙の日本政府仮訳) 


イ ピーク委員会における案文作成

 GHQ民政局のPublic Administration Division内における憲法改正草案起草のための執行部担当委員会(The Committee on the Executive. Chairman: Cyrus H. Peake)での検討の跡を見てみましょう(Hussey Papers: Drafts of the Revised Constitution)。

 なお,同委員会委員長のサイラス・ピークは,コロンビア大学教授であったそうで(児島襄『史録 日本国憲法』(文春文庫・1986年(単行本は1972年))270頁),インターネットを調べると,同氏は,1933年には『フォーイン・アフェアーズ』誌に"Nationalism and Education in Modern China"という論説を発表しており,1961年にはコロンビア大学の企画に応じて,日本占領の思い出についてインタヴュー記録を残しているようです。

 さて,憲法74条に相当する条項のピーク委員会における最初の案は,タイプ打ちで次のとおりでした。



Article 8. Acts of the legislature and Executive Orders shall be promulgated by the Prime Minister after they are signed by him and countersigned by the competent Minister of State.

(第8条 立府部制定法及び執行部命令は,Prime Minister(首相)によって署名され,及び主任の国務大臣によって副署された後に,首相によって公布される。)


 これが,手書きで次のように直されて,日本国政府に交付されたGHQ草案になったようです(手書き部分はイタリック)。



Article 
6.  Acts of the Diet and Executive Orders shall be signed by the competent M. of State & countersigned by the P.M.

(第6条 国会制定法及び執行部命令は,主任の国務大臣によって署名され,及び首相によって連署されるものとする。)


 民政局のホイットニー局長に提出された報告書では,清書されて,次のようになっていました。



Article XXXIII. Acts of the Diet and executive orders shall be signed by the competent Minister of State and countersigned by the Prime Minister.


 単純に見ると,元々は法律及び命令の公布に関する規定ですね。執行部担当委員会では当初,法律及び命令はPrime Minister(首相)が公布(promulgate)するものと考えていたようです。

  (なお,"Prime Minister"をどう訳すかも実は頭をひねるところで,伊東巳代治による『憲法義解』の英訳では,内閣総理大臣は"Minister President of State"であって"Prime Minister"ではありません。そして,最初の日本政府のGHQ草案仮訳ではPrime Ministerは「総理大臣」であって,「内閣総理大臣」ではありませんでした。また,議院内閣制の本家である英国の首相のofficial title"First Lord of the Treasury"であると同国庶民院はウェッブサイトで紹介しており,10 Downing StreetFirst Lord of the Treasuryの官邸であると同国政府のウェッブサイトは説明しています。)

 これが,主任の国務大臣の署名及び首相の副署ないしは連署(countersign)のみに関し規定し,公布については言及しない形の条項となったのは,法律及び政令は天皇が御璽を鈐して公布(proclaim)するという天皇,条約及び授権担当委員会(Emperor, Treaties and Enabling Committee)の次の条項(手書きで"1st draft"と記入あり。前掲Hussey Papers: Drafts of the Revised Constitution)との調整の結果,修正されたものでしょうか。



Article V. The Emperor's duties shall be:

To affix his official seal to and proclaim all Laws enacted by the Diet, all Cabinet Ordinances, all Amendments to this Constitution, and all Treaties and international Conventions;以下略

(第5条 天皇の義務は,

国会によって制定されたすべての法律,すべての内閣の命令,すべての憲法改正,並びにすべての条約及び国際協定に御璽を鈐し,並びに布告すること。以下略


 GHQによる日本国憲法草案の作成作業の開始に当たって194624日に行われた民政局の冒頭会議の議事記録(Summary Report on Meeting of the Government Section, 4 February 1946)の自由討議の概要(Points in Open Discussion)として,「憲法の起草に当たっては,民政局は,構成,見出し等(structure, headings, etc.)については現行の日本の憲法に従う。」,「・・・新しい憲法は,恐らく英国のものほど柔軟なものであるべきでない。なぜならば,英国のものは,憲法的権利についての単一かつな基本的な定義(single and cardinal definition of constitutional rights)を有していないからである。しかし,フランスのものほど精細に起草されたものではあるべきではない(but less precisely drawn-up than the French)。」などという発言が記録されていますから(児島・前掲269頁によればケーディス大佐の発言),GHQとしては,少なくとも成文憲法として,大日本帝国憲法及びフランスの憲法は参照したようです。

 そうなると,GHQ草案66条は,やはり,「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」と規定する大日本帝国憲法552項の規定を引き継いだものと解すべきでしょうか。同項の伊東巳代治による英訳は,次のとおり。



All Laws, Imperial Ordinances and Imperial Rescripts of whatever kind, that relate to the affairs of the State, require the countersignature of a Minister of State.


 公式令61項によれば「法律ハ上諭ヲ附シテ之ヲ公布ス」るものとされ,同条2項は「前項ノ上諭ニハ帝国議会ノ協賛ヲ経タル旨ヲ記載シ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ国務各大臣若ハ主任ノ国務大臣ト倶ニ之ニ副署ス」と規定していました。帝国憲法552項は,法律の公布に係る同憲法6条と関連した規定だったわけです。

 フランス第三共和政の1875225日の公権力の構成に関する法律3条は,大統領は「両議院によって可決されたときは法律を公布し,それら法律に注意し,かつ,それらの執行を確保する。」,「共和国大統領のすべての文書は,大臣によって副署されなければならない。(Chacun des actes du président de la République doit être contresigné par un ministre.)」と規定していました。同法6条によれば,大臣が政府の一般政策について両議院に対して連帯して責任を負うものとされる一方,大統領は国家反逆罪の場合以外は無答責とされているので(Le Président de la République n'est responsable que dans le cas de haute trahison.),同法3条の大臣の副署は,輔弼の副署ということであったようです。

 

 法律の公布をだれが行うかは,ピーク教授が気にしていたところです。GHQにおける日本の憲法草案起草作業開始直後の194625日の民政局の会議で,次のようなやり取りがありました(Ellerman Notes on Minutes of Government Section, Public Administration Division Meetings and Steering Committee Meetings between 5 February and 12 February inclusive)。



 ピーク氏が,執行権者(the executive)のいくつかの権限について,憲法に書き込むべきかどうかの問題を提起した。例えば,執行権者が首相の任命を宣すべきことを明記すべきかどうか?執行権者がすべての法律に押印し,それらを彼の名で公布する(promulgate)のか?ケーディス大佐は,これらの比較的重要でない権限は明記されるべきものではないと発言した。もしそれらの事項が憲法に書かれてしまうと,将来の手続変更は正式の憲法改正によってしかできないことになると。ハッシー中佐は,天皇又は執行権者は立法府に責任を負う内閣(Cabinet)の助言と承認とに基づいてのみ行為するということが明確に示されれば,国璽を鈐すること(the affixing of the state seal)は儀礼的手続と同様のものになる,と指摘した。


 アルフレッド・R・ハッシー中佐は,主に会社法専攻の民事弁護士であったそうです(児島・前掲270頁)。

  ピーク教授の委員会は,ハッシー中佐の意見を採り入れて,まず天皇ではなく内閣の首相(Prime Minister)を執行権者(the executive)として法律の公布者とした上で,当該公布に対する責任を明らかにするために主任の国務大臣による副署(countersigned by the competent Minister of State)を要するものとする第1次案を作成したのでしょうか。これは一つの仮説です。


ウ 強い首相の個人責任か内閣の集団責任か(エスマン中尉対ハッシー中佐)

 当初は首相が署名して主任の国務大臣が副署するものとされていたピーク委員会の案が,主任の国務大臣の署名があってそれに首相が連署するものという主従逆転の形になったことについては,GHQ草案作成の最終段階である1946212日の運営委員会(Steering Committee)における, 修正後草案の見直しに係る下記の逆転劇の前段階におけるピーク委員会における整理について考えるべきものと思われます。

 当該逆転劇の前提段階における事情としては,上記会合に先立つ同月8日の運営委員会とピーク委員会との打合せにおいて,ピーク委員会のミルトン・J・エスマン中尉が「執行権(the executive power)は,彼の内閣(his Cabinet)の首長としての首相に明確に属すべきものであって,集合体(a collective body)としての内閣に属すべきではない。」と強い執行権者(a strong executive)を求めて頑張り,ケーディス大佐及びピーク教授は同意はしなかったものの,ケーディス大佐は譲歩はして,「明確に他に配分されていない執行権(the residual executive power)は首相に属すべきものとし,執行権の章の最初の条は"The executive power is vested in the Cabinet."から「執行権は,内閣の首長としての首相に属する。(The executive power is vested in the Prime Minister as the head of the Cabinet.)」となるように改めればよい」と勧告していたところです。

  ケーディス大佐の上記譲歩を得て,ピーク委員会は勇躍,最終報告書作成に向けて,次のような修正案を起草します(以下この修正を「エスマン修正」といいましょう。)。

 まず,執行権の所在。執行権は,内閣にではなく,「他の国務大臣とともに内閣を構成する首相」に属するものとされます。


 The executive power is vested in the Prime Minister who together with other Ministers of State shall constitute the Cabinet. In the exercise of its power the Cabinet shall be collectively responsible to the Diet.

(執行権は,他の国務大臣とともに内閣を構成する首相に属する。その権限の行使において,内閣は,国会に対し連帯して責任を負う。)


 執行権者は首相なので,現行憲法731号(内閣は「法律を誠実に執行し,国務を総理する」。)及び第6号(内閣による政令の制定)に相当する規定は,主語が異なり,内閣の首長としての首相が主語になっています。


 In addition to other executive responsibilities, the Prime Minister as the head of the Cabinet shall:

  ...

 Faithfully execute laws and administer the affairs of State;

  ...

  Issue orders and regulations to carry out the provisions of this Constitution and the law, but no such order or regulation shall contain a penal provision;

 ...

(他の執行上の任務のほか,首相は,内閣の首長として,・・・法を誠実に執行し,及び国務を総理する・・・この憲法及び法律の規定を実行するために命令及び規則を発する。ただし,当該命令又は規則には罰則を設けることができない・・・)


 以上のような条項が設けられた一方,現行憲法74条に相当する条項は,既にこの段階で現在の姿に近い形に出来上がっていました。


 Acts of the Diet and executive orders shall be signed by the competent Minister of State and countersigned by the Prime Minister.

(国会制定法及び執行部命令は,主任の国務大臣によって署名され,及び首相によって連署されるものとする。)


 「エスマン修正」によれば,法の執行及び執行部命令の発出は内閣ではなくその首長である首相の任務なので,上記条項における主任の国務大臣の署名は,閣外に向けた意義を有するものというよりも,まず首相向けのものでしょう。国会に対する内閣の連帯責任とも関係はするのでしょうが,第一には閣内統制手続ということになりそうです。この考え方の元となるべき発想は,「エスマン修正」前のピーク委員会の当初の原案における,首相と国務大臣との関係についての次のような規定に既に表れていたというべきでしょう。



 The Prime Minister and his Cabinet discharge the following functions:

  ...

  See that the laws are faithfully and efficiently enforced. The efficient management of public business by the Ministers of State shall be his ultimate responsibility.

  ...

(首相及びその内閣は,次の事務を行う。・・・法律が誠実かつ効率的に施行されるようにすること。国務大臣による公務の効率的運営について,首相は最終責任を負う。・・・)


 Each Minister of State shall be guided by and personally responsible to the Prime Minister for the administration of his department.

(各国務大臣は,その主任の行政部門の管理について,首相の指示を受け,かつ,個別に首相に責任を負う。)


 ピーク委員会の案においては,章名は「執行権(The Executive)」とされていたので,その点執行権者が首相であっても問題がなかったところです。この点,GHQ草案以降は章名が「内閣(The Cabinet)」になってしまい,「エスマン修正」的考え方の余地が無くなっています。

 同月12日の運営委員会で,ハッシー中佐が,上記「エスマン修正」を覆します(児島・前掲294頁参照)。



 金曜午後の「執行権」についての会合に出席していなかったハッシー中佐が,文言の修正に対して重大な反対を表明した。ハッシー中佐は,我々は国会に連帯して責任を負う内閣制度(a cabinet system collectively responsible to the Diet)を設立しなければならないものであって,首相であろうが天皇であろうが,独任制の執行権者によって支配される政府の制度(a system of government dominated by the individual executive)を設立してはならない,と主張した。集団的ではなく個人的な責任(individual rather than collective responsibility)は,SWNCC228に反するばかりではなく,日本において物事がなされる流儀に全く一致しないのである(entirely inconsistent with the way things are done in Japan)。執行権の章の第1条は,最初の形の「執行権は,内閣に属する。(The executive power is vested in a Cabinet.)」に戻された。


 日本人は集団主義者であるから,個人責任には耐えられないだろう,ということでしょうか。

 ハッシー中佐は,親切な人だったのでしょう。

 ハッシー中佐による上記再修正によって振り子が逆方向に大きく振れて首相権限縮小の方向で見直しがされたので,法律命令すべてを首相一人が個人責任を負う形で署名するのは精神的,更には肉体的に耐えられないだろうから,主任の国務大臣にそれぞれ署名を割り振って首相は連署にとどまるということにすれば集団責任的でよいではないか,という発想で現行憲法74条の文言をあるいは解釈し直すべきことになったのではないか,という仮説が,ここで可能になるように思われます。(とはいえ,そもそもの「エスマン修正」をも踏まえて考えると,現在の政府の憲法74条解釈は,なかなか落ち着くべきところに落ち着いているようでもあります。)

 ちなみに,主任の国務大臣は,GHQ草案では,現行憲法の条項におけるものよりも国会に対してより直接的に責任を負い得るような形になっていました。すなわち,日本政府の仮訳で説明すると,「国会ハ諸般ノ国務大臣ヲ設定スヘシ(The Diet shall establish the several Ministers of State.)」(第552項),「内閣ハ其ノ首長タル総理大臣及国会ニ依リ授権セラルル其ノ他ノ国務大臣ヲ以テ構成ス(The Cabinet consists of a Prime Minister, who is its head, and such other Ministers of State as may be authorized by the Diet.)」(第611項),「総理大臣ハ国会ノ輔弼及協賛ヲ以テ国務大臣ヲ任命スヘシ(The Prime Minister shall with the advice and consent of the Diet appoint Ministers of State.)」(第621項)のような条項が存在していました。

 なお,SWNCC228はアメリカ合衆国の国務・陸軍・海軍調整委員会(State-War-Navy Coordinating Committee)のGHQあて指令文書「日本の統治体制の改革(Reform of the Japanese Governmental System)」(19461月7日改訂)で,そこでは,天皇制が維持される場合には,代議制立法部の助言と同意によって選ばれた国務大臣らが,立法部に連帯して責任を負う内閣を組織すべきもの(That the Ministers of State, chosen with the advice and consent of the representative legislative body, shall form a Cabinet. )とされていました(4.d.(1))。ここで国務大臣を任命する者としては,やはり通常の立憲君主制の例に倣い,天皇が想定されていたのでしょうか。憲法上のPrime-Ministershipは,ピーク委員会の発意によるものだったようです。SWNCCは,形式的とはいえ執行権者が天皇である場合を想定しており,執行権者を民主的正統性を持つPrime Ministerにする可能性までは考えていなかったとすれば,エスマン中尉的な強力な首相制度も,前提が異なるのであるからあえてSWNCC228に反するもの(hostile)ではないと解する余地があったように思われます。そうであれば,1946212日の運営委員会において現行憲法65条の規定を実質的に確定したハッシー中佐の議論の結局の決め手は,「日本において物事がなされる流儀」だったということが言い得るようにも思われます。

  ところで,エスマン中尉は,1918915日ペンシルヴァニア州ピッツバーグ市生まれで当時は27歳。実は問題の1946年2月12日には職務命令で日光観光中でした(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川文庫・2014年(単行本は1995年))317頁,267-268頁)。現在はコーネル大学の政治学名誉教授として,まだ存命のようです。((注)2015年2月7日に96歳で亡くなりました。)


5 おわりに:現代日本に生きる「良き伝統」


(1)自由民主党改憲草案

 ここで,「占領体制から脱却」した「自主憲法」を制定すべく2012427日に自由民主党が決定した同党の日本国憲法改正草案を見ると,第65条は「行政権は,この憲法に特別の定めのある場合を除き,内閣に属する。」と,第74条は「法律及び政令には,全て主任の国務大臣が署名し,内閣総理大臣が連署することを必要とする。」となっています。

 第74条は平仮名を漢字に改めただけですね。(しかし,非常事態における法律に代わる政令について,特別の規定は不要なのでしょうか。)

  第65条の改正については,これは,会計検査院及び地方自治の存在との関係をはっきりさせるためだけのものだというのならば,現在と実質的な変りはないということになります。しかし,これは,新たに規定されようとしている内閣総理大臣の権限,すなわち国防軍の最高指揮官としての権限,衆議院の解散の決定権及び行政各部の指揮監督・総合調整権との関係で改められるものとされています。これらの権限は,内閣総理大臣が内閣とは独立に行使するものとされているものです。確かに,天皇による衆議院の解散に対する「進言」は,内閣ではなく内閣総理大臣が単独でするという規定になっています(しかし,衆議院解散の進言について「内閣総理大臣がその責任を負う」とまで書いてないのはなぜでしょうか。天皇が責任を負うわけにはいかないので,やはり内閣が連帯責任で責任をかぶるのでしょうか。それとも,どうせ総選挙後に総辞職するからいいんでしょうか。)。そうであれば,内閣総理大臣は,憲法上,内閣の首長及び国務大臣であるだけの存在ではないことになるのでしょうから,第5章の章名が「内閣」のままでよいことにはならないのではないでしょうか。「内閣総理大臣及び内閣」とでも改めた方がよいのではないでしょうか。

 ただし,第5章の章名に変更がない以上は,上記の例外を除けば,いずれにせよ,「日本において物事がなされる流儀」である集団責任主義は,やはり,「和を尊び」,「互いに助け合う」我が国のなお「良き伝統」であるもの(自由民主党改憲草案の前文参照)として,少なくとも形式的には原則として尊重されているように思われます。

 ところでちなみに,現在の諸六法においては,日本国憲法及び大日本帝国憲法のいずれについても上諭が掲載され,それぞれ副署した吉田内閣及び黒田内閣の全閣僚の名前が冒頭において壮観に並ぶということになっています。しかしながら,現在の運用を前提にした現行憲法74条が憲法改正の場合にも類推適用されるとすれば,成立した憲法改正に係る天皇の公布文に副署者として名前が出るのは内閣総理大臣だけで,閣僚の署名は末尾に回るということになります。しかも,日本国憲法の改正手続に関する法律1411号などを見ますと,憲法改正案とは別にその新旧対照表が存在するものとされていますから,憲法の一部改正案は「改める」文によって作成されるもののように思われます。すなわち,そうであると,憲法の一部改正も「溶け込み方式」によるわけでして,苦心の末日本国憲法を改正し,各閣僚が力を込めてその末尾に署名をしてみても,憲法がいったん「溶け込み」を受けてしまうとそれらは行き場を失い,六法編集者によって,公布文ともども無情にも切り捨てられる運命をたどることになるようです(憲法改正の附則中の必要部分は編集者の判断を経て掲載されるでしょうが。)。「溶け込み」を受けつつも,「マッカーサー憲法」は形式においてなお健在というような出来上がりの姿になります。内閣の全精力を傾けてせっかく憲法を改正しても,だれの名前も六法には残らずに,結局相変わらず吉田内閣の閣僚名が冒頭に鎮座するというのでは,ちょっと悔しく,がっかりですね。そうであれば,全部改正の形式を採るべきか(しかし,自由民主党自身シングル・イシューごとの改正になろうと考えているようで,全部改正ということにはならないようです。また,国会法68条の3),又は帝国憲法時代の皇室典範が皇室典範増補という形で改正を受けたように,日本国憲法増補というような形式を考えるべきか。確かに,少なくとも,「日本国憲法の一部を改正する憲法案」という議案名や「日本国憲法の一部を改正する憲法」という題名は,ちょっと耳慣れないですね(「憲法改正」ということになるのでしょう。)。憲法96条2項の「この憲法と一体を成すものとして」という規定も考慮する必要があります。アメリカ合衆国憲法の改正は, 増補方式ですね。

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(黒田清隆銅像・札幌市大通公園)

(2)和を尊び,互いに助け合う日本人

 ところで,世界に冠たるそのharakiriが米国でも有名なはずの日本人が,個人責任主義者であると錯覚されなかったのはどういうことだったのでしょう。ハッシー中佐は,日本人のハラキリは,個人責任の結果ではなく,実は集団主義の意地悪のしわ寄せの結果なのではないか,と見るような,うがった観察眼を持つ嫌味な人物だったのでしょうか。しかし,そのような嫌味な知性の働きは,少なくとも今の日本社会では,パワハラでしょう。

 和を尊び,互いに助け合う日本人。

 しかし,皆が優秀,正直かつ優しく麗しくて,仕事は順調,したがって,割拠独善反目嫉視悪口告げ口サボタージュ,出る釘を叩き打ち,足を引っ張るなどは思いもよらず,そもそも鬱病になるような人など更に無い理想社会のお花畑にあっては,因果な話ではありますが,弁護士は居場所が無くなってしまうかもしれません。痛し痒しです。しかし,ハッシー弁護士ならば,「そりや洋の東西を問わず,杞憂だよ。日本人には独特なところもあるけど,だからといって特別上等なわけじゃないよ。」と嫌味に笑ってすましてくれたような気がします。

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1 はじめに

 

 今年(2013年)1031日の赤坂御苑での園遊会以来,天皇に対する請願の可否に関する議論がかまびすしいようです。
 しかしながら,インターネット検索をしてみると,「請願法違反で逮捕か」というような見出しが躍っており,請願法(昭和
22313日法律第13号)の条文に実際に当たらないまま勇ましい議論が先行してしまっていたようです。逮捕というのは刑事訴訟法に基づく犯罪被疑者の逮捕のことでしょうが,請願法には罰則の定めはありません(請願法違反の罪はない。)。したがって,直ちに「請願法違反で逮捕」ということはありません。
 司法試験合格者の増員,裁判員制度の導入等の司法制度改革が進められてきましたが,法はなお国民に身近なものとはなっていないようです。法律イコール国民を縛り,罰するもの,という意識には根強いものがあるようです。せっかく増強された法曹関係者としては,機会あるごとに,法を真に国民のものとすべく,法知識の普及に協力すべきでしょう。


 もちろん,請願法の条文に実際に当たった上での記事も見出すことができます。ただし,いわゆる憲法基本書において日本国憲法16条の請願権及び請願法に関する説明は簡略に済まされている傾向があるせいか,立法経緯に現われた政府見解等までを具体的に踏まえた議論は必ずしも多くはないようです。
 しかしながら,2000年に森内閣がIT革命を唱導して以来,インターネット上での情報提供サービスは充実してきています。国立国会図書館のウェッブサイトからは新旧の法令,帝国議会及び国会の議事録等の資料に容易にアクセスすることができます。国立公文書館のアジア歴史資料センターのウェッブサイトからは,枢密院の会議の議事筆記等にもアクセスすることができます。
 これらの興味深い資料を紹介し,現在の議論に若干なりとも広がりをもたらすことに寄与することは,
IT革命を,日本経済の発展という物的方面においてのみならず,知的方面においても公の議論の充実という形で更に前進させるための,ささやかながらも具体的な一つの実践であり得るものと思われます。


 以上前置きが長くなりました。
 要は本稿は,つい関心の赴くままにしてしまった天皇に対する請願に関する法的問題に係る調査結果を,中途半端かつお節介ながらも,法律業及びIT革命にかかわる一関係者として,「つまらないものですが,御興味があればどうぞ」と皆さんに御提供するものです。
 ただし,無論,現実の問題は複雑微妙であって,在野の一処士が,そのわずかに管見し得たところをもって,すべてについて正確に論じ得る限りではありません。したがって本稿も,何らかの具体的な問題について快刀乱麻を断たんというような大それたことを意図していないことはもちろんです。



2 参考条文

 法令の条文は,ややもすれば非常に読みづらいものです。しかしながら,日常の「法律論」においてあやふやな自説を得々と展開し,議論を
長引かせてしまう人は実は関係条文に丁寧に当たっていなかった,ということはよくある話です。換言すると,長々思案するよりも,さっさと関係条文を見た方が早い場合は少なくありません。

 請願法は全条文を掲げます。請願法には罰則規定は「無い」ということを立証するためには,その全部を見てみなければならないからです。

   
請願法

第1条 請願については,別に法律の定める場合を除いては,この法律の定めるところによる。

第2条 請願は,請願者の氏名(法人の場合はその名称)及び住所(住所のない場合は居所)を記載し,文書でこれをしなければならない。

第3条 請願書は,請願の事項を所管する官公署にこれを提出しなければならない。天皇に対する請願書は,内閣にこれを提出しなければならない。

②請願の事項を所管する官公署が明らかでないときは,請願書は,これを内閣に提出することができる。

第4条 請願書が誤つて前条に規定する官公署以外の官公署に提出されたときは,その官公署は,請願者に正当な官公署を指示し,又は正当な官公署にその請願書を送付しなければならない。

第5条 この法律に適合する請願は,官公署において,これを受理し誠実に処理しなければならない。

第6条 何人も,請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。

    附 則

  この法律は,日本国憲法施行の日194753日〕から,これを施行する。

 請願法の前提として,憲法16条で請願権が保障されています。

   日本国憲法
(昭和21113日公布,昭和2253日施行)(抄) 
第16条 何人も,損害の救済,公務員の罷免,法律,命令又は規則の制定,廃止又は改正その他の事項に関し,平穏に請願する権利を有し,何人も,かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。

 旧大日本帝国憲法においても請願権が認められていました。ただし,文言は異なります。


  大日本帝国憲法
(明治22211日発布,明治231129日発効)(抄)
第30条 日本臣民ハ相当ノ敬礼ヲ守リ別ニ定ムル所ノ規程ニ従ヒ請願ヲ為スコトヲ得


 旧大日本帝国憲法30条の請願権を実質化する同条の「別ニ定ムル所ノ規程」としての旧請願令は,1917年に至って制定されました。現在の請願法の前の法規です。
 天皇等に対する「直訴(直願)の処罰」が,旧請願令
16条に定められていましたが,現行憲法が施行された1947年5月3日から旧請願令は廃止されています(したがって天皇等に対する直願の処罰規定も廃止)。


請願令(大正645日勅令第37号(施行同月25日),昭和2253日政令第4号により同日から廃止。〔 〕は,昭和201124日勅令第654号による改正(同日施行))(抄)

第10条 天皇ニ奉呈スル請願書ハ封皮ニ請願ノ二字ヲ朱書シ内大臣府〔宮内省〕ニ宛テ其ノ他ノ請願書ハ請願ノ事項ニ付職権ヲ有スル官公署ニ宛テ郵便ヲ以テ差出スヘシ

第14条 天皇ニ奉呈スル請願書ハ内大臣〔宮内大臣〕奏聞シ旨ヲ奉シテ之ヲ処理ス

第16条 行幸ノ際沿道又ハ行幸地ニ於テ直願ヲ為サムトシタル者ハ1年以下ノ懲役ニ処ス行啓ノ際沿道又ハ行啓地ニ於テ直願ヲ為サムトシタル者亦同シ


行幸は天皇のお出ましのこと,行啓は現在の警衛規則(昭和5421日国家公安委員会規則第1号)1条によれば皇后,皇太后,皇太子及び皇太子妃のお出ましのことです。
 「行幸ノ際沿道又ハ行幸地ニ於テ」天皇に直願をしようとするものでなければ旧請願令
16条には当たらなかったところです。

「不敬罪」という言葉は現在でも生きていますが,現実の当該罰則規定は,昭和22年法律第124号により19471115日から削除されています。天皇に対する不敬罪に係る削除前の条文は,次のとおりです。


刑法74条1項 天皇,太皇太后,皇太后,皇后,皇太子又は皇太孫ニ対シ不敬ノ行為アリタル者ハ3月以上5年以下ノ懲役ニ処ス


3 天皇に対する請願の可能


日本国憲法4条1項が「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」と規定していることから,請願権に係る憲法16条に関し,天皇に対する請願があり得るのか,そもそもそのような請願に意味があるのかが問題になります。
 これについては,旧大日本帝国憲法の改正案を審議した
1946年の第90回帝国議会において,既に英米法学者である高柳賢三貴族院議員から疑問が呈されていたところです。
 しかしながら,憲法担当の金森徳次郎国務大臣は,「天皇ニ対シテ請願ヲスルト云フコトノ実際的ナ効果ハ非常ニナクナルト申シマスルカ,或ハ絶無ニ近キモノトナルト思ツテ居リ」つつも,天皇に対する請願のあるべきことを力説し,肯定説で当該議論を押し切ったところです。


1946年9月17日貴族院帝国憲法改正案特別委員会


○高柳賢三君 ……天皇ハ国政ニハ干与シナイト云フ建前デアリマスガ,請願ハ総テ国政ニ関スルコトデハナイカ,サウ云フヤウナ点カラ天皇ニ請願ヲスルト云フコトハ出来ナイト云フヤウナ解釈ガ取レナイモノデスカ,其ノ点ヲ御答ヘ願ヒマス

○国務大臣(金森徳次郎君) 天皇ハ第6条,及ビ第7条ニ於テ権能ヲ御持チニナツテ居ルノデアリマシテ,其ノ範囲ニ於テ現レテ来マスル請願ニ付テハ,殊に其ノ範囲ニ於テ天皇ノ御耳ニ達スルコトノ必要ノアルコトニ付テハ,請願ヲ天皇ニ差出スコトハ許サレテ居ルト考ヘテ居リマス,併シナガラ之ガ内容ニ付テノ実行ノ面ニ動ク場合ニ於テハ,総テ内閣ノ助言ト承認ト云フ段階ニ入ツテ行クモノト想ヒマシテ,其ノ点ニ於テ矛盾ナク説明ガ出来ルモノト考ヘマス

○高柳賢三君 大体6条,7条ニ関スルコトハ天皇ノ広イ意味ノ儀礼的ナル御権能デアルヤウニ取レマスガ,請願ノ客体トナルコトハサウ云フコトヂヤナクテ,寧ロ実質的ナ国政ニ関スルコトデ,色々斯ウヤツテ欲シイト云フヤウナコトガ請願ニ関スル大部分ヂヤナイカ,サウ云フヤウナコトハ,矢張リ天皇ガサウ云フコトニ捲込マレルト云フコトハ,ソレハ天皇ノ御地位ト矛盾スルコトニナルノデハナイカ,従ツテ請願ト云フモノハ,大部分ハ陛下ニ対スル請願ト云フモノハナクナルノダ,斯ウ云フ風ニ解釈シテ宜イノデハナイカ,其ノ点ヲ御伺ヒ致シマス

○国務大臣(金森徳次郎君) 大体御説ノ通リ,天皇ニ対シテ請願ヲスルト云フコトノ実際的ナ効果ハ非常ニナクナルト申シマスルカ,或ハ絶無ニ近キモノトナルト思ツテ居リマス,併シ此ノ第6条,第7条ノ天皇ノ権能ハ,勿論大キイ目デ見レバ儀礼的要素ヲ主ニシテ居リマスケレドモ,憲法ノ規定ノ建前ト致シマシテハ,例ヘバ第7条第7号ノ栄典ヲ授与スルコト,ト云フガ如キコトハ,政治的ニ儀礼デアルト云フコトハ固ヨリ正常デアリマスルケレドモ,憲法自身ニ於キマシテハ左様ナ言葉ヲ使ツテハ居リマセヌ,従ツテ請願ノ場面ニ於キマシテモ,ソレト関聯スル程度ニ於テ,観念的ニ請願ハ成リ立ツモノト存ジテ居ル次第デアリマス

○高柳賢三君 其ノ点ハ相当重要ナ,7条ノ解釈トシテモ,例ヘバ栄典ノ授与ノ場合デモ之ヲ決定スルノハ内閣ガスル,実質的ニハ内閣ガスルト云フコトニナルノダト思ヒマスノデ,是等ノコトモサウ云フ見地カラ致シマスレバ,天皇ニ対スル請願ノ問題ハ,天皇ノ御地位ニ非常ニ影響ノアル論点ヲ含ンデ居ルノダト云フコトヲ十分ニ御注意ヲ御願ヒシタイト思ヒマス……

○国務大臣(金森徳次郎) ……天皇ニ関スル請願ノ場合デアリマスルガ,是ハ現行制度ニ於キマシテモ,天皇ニ対スル請願ト云フモノハ存在シテ居リマスケレドモ,併シ是ガ国務大臣ノ輔弼ト云フコトト矛盾シナイヤウニ扱ハレテ居ルト私ハ存ジテ居リマス,寧ロ主タル点ハ形ノ問題デアリマス,今回ノ場合ニ於キマシテモ主タル点ハ形ノ問題デアリマシテ,ドウ云フ風ニナツテ行クカト云フコトヲ今ハツキリハ申上ゲラレマセヌケレドモ,結局サウ云フモノハ,事ノ性質ニ応ジテ内閣ニ移シテ研究ヲセシメラレルト云フノガ筋ニナツテ居リマシテ,天皇自ラ之ヲ御処置ニナルト云フコトハ,其ノ点ハ余程能ク考ヘテ行カナケレバナラヌコトハ御説ノ通リト存ジテ居リマス……(第90回帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員会議事速記録1545頁)


ここで金森大臣がこだわった「形ノ問題」とは何でしょうか。実体においては「内閣ニ移シテ研究」するが,形としては天皇が国民から請願を受けるということにしたいということでしょうか。

確かに,旧大日本帝国憲法30条において臣民から請願を受ける者は,本来的には天皇が想定されていたところです。伊藤博文の『憲法義解』は,同条について次のように説明しています(岩波文庫版61-62頁)。


  請願の権は至尊仁愛の至意に由り言路を開き民情を通る所以なり。孝徳天皇の時に鐘を懸け匱を設け諫言憂訴の道を開きたまひ,中古以後歴代の天皇朝殿に於て百姓の申文を読ませ,大臣納言の輔佐に依り親く之を聴断したまへり……之を史乗に考ふるに,古昔明良の君主は皆言路を洞通し冤屈を伸疏することを力めざるはあらず。……猶臣民請願の権を存し匹夫匹婦疾苦の訴と父老献芹の微衷とをして九重の上に洞達し阻障する所なきを得せしむ。此れ憲法の民権を貴重し民生を愛護し一の遺漏なきを以て終局の目的と為すに由る。而して政事上の徳義是に至て至厚なりと謂ふことを得べし。

  ……

  請願の権は君主に進むるに始まり,而して推広して議院及官衙に呈出するに及ぶ。……


「明良の君主」を戴く国家としては,当然その君主に対する人民の言路を洞通する仕組みが整っていなければ,その形をなさないということでしょう。

この点,旧請願令の制定が,内閣総理大臣以下の政府のイニシャティヴによってではなく,天皇周辺の宮中(帝室制度審議会)のイニシャティヴによってされたことは示唆的です。
 旧「請願令ハ至尊御仁愛ヲ発露スルモノニシテ実ニ治国上重大ナル関係アリ」との位置付けが確認されていたところです(1917328日の枢密院会議における寺内正毅内閣総理大臣の発言)。

あるいは,現行憲法制定時にも,天皇制が存続される以上,「明良の君主」を戴くことに伴う形の一つとして,天皇に対する請願が認められなければならないものと考えられていたのでしょうか。
 しかしながら,その後
1947年の請願法案の国会審議において金森大臣は,上記の点に触れずに,天皇がその国務上の権能を行使するに当たって意思を用いるということから,天皇に対する請願のあるべきことを説明しています。
 いわく,「何故天皇に対して請願が出来るかと云へば,天皇は此の憲法に基きまして国務上の権能を御持になつて居る,既に権能を御持になるとすれば,其処に何等かの形に於て天皇の御意思が働く面があると云ふことの考を持たなければならぬ,……従つて天皇が此の憲法に依つて理論的に御意思を御用ひになる範囲があるものと云ふ解釈を執りますれば矢張り天皇に対して請願の途を設くることが正当であらうと云ふことで考へて居つた訳であります……」(第
92回帝国議会貴族院請願法案特別委員会議事速記録19頁)。

現行の請願法3条1項後段は,天皇に対する請願書は内閣(内閣官房の方であって,内閣府ではない。)に提出すべきことのみを定め,その後の当該請願書の処理がどうされるかは明らかに規定していません。
 これに対して旧請願令
14条は,行き届いた規定になっています。同条の趣旨は,1917年3月19日の枢密院請願令第1回審査委員会で岡野敬次郎帝室制度審議会委員から次のように説明されています。いわく,「受理セラルルモ之ニ対シテ別ニ指令ヲ与ヘサルコトヲ定ルカ故ニ臣民ハ其ノ呈出セル請願書カ如何ニ処理セラレタル乎ヲ知ル由ナキヲ以テ其ノ請願書ハ徒ラニ高閣ニ束ネラルルコトナク夫々相当ニ処理セラルヘキモノナルコトヲ一般ニ公示スル必要アリ……「之ヲ処理ス」ト謂フハ単ニ其ノ事ノ内容ニ依リ之ヲ内閣総理大臣又ハ宮内大臣ニ下付スルノ義ナリ内閣ニ於テ天皇ヨリ下付セラレタル請願書ヲ審査スルハ明カニ内閣官制ノ定ムル所ナリ〔同官制55号参照〕即チ内大臣旨ヲ奉シテ直ニ左右ヲ決定スルノ謂ニ非サルナリ」。
 天皇あての請願書は単に機械的に処理されていたわけではないようで,同じ委員会で,当時の請願処理の統計表を示しながら岡野委員は,「統計表中上奏シテ留置トアルハ思召ニ依リ御手許ニ留置カレタルモノ又上奏ニ至ラスシテ留置トアルハ内大臣府ニ留置カレタルモノナリ今後ト雖上奏後御手許ニ留置カルルモノナキニ非サルヘキモ是レ一ニ思召ニ属ス」と説明しています。

現行請願法3条1項後段の規定に関しては,金森大臣が次のように説明しています。


……内閣は何と考へても経由機関であると云ふことに帰著する訳であります,併し経由機関ではあると申しまするけれども,単純なる経由機関ではなくて是は憲法の規定から考へまして,内閣と天皇とが複雑なる組合せの下に第6条第7条の天皇の権能が行はれて行きまするので,それに合せるやうに内閣に於て処理して行かなければならぬ……此の請願書は天皇に御届けをしなければならぬ,併しながら之に付きまして,内閣が「助言と承認」〔憲法3条〕と云ふ其の字句に当るだけの働きをしなければならぬ……現実に処理されて行きます時も,矢張り内閣の助言と承認を基本としての天皇の御働きに依つて処理せられて行くと云ふやうに考へて居ります,唯それが婉曲な所でありますから,第3条の規定にはあつさりと内閣に提出する,斯う云ふ風に書いて居る訳であります(第92回帝国議会貴族院請願法案特別委員会議事速記録19頁)


4 天皇に対する直願の否定


天皇に対する直訴(正確な法令用語では直願)は不敬罪になったのでしょうか(不敬罪は,前記のとおり,現行憲法施行後の19471115日から廃止)。
 必ずしもそうではなかったようです。
 1917年の旧請願令制定の際刑法旧74条1項に天皇等に対する不敬罪が既に存在していたのに,新たに同令16条は天皇等に対する直願の罪を定め,不敬罪よりも軽く罰するものとしているからです。すなわち,同条の直願の「所為ハ直チニ刑法ニ所謂不敬罪を以テ論シ難キ場合アルヘキ」ものとの認識の下,「サリトテ之ヲ不問ニ附シ難キハ勿論」であることから,直願の罪が定められたものとされているところです(枢密院請願令第1回審査委員会での岡野委員の説明)。不敬罪に当たらない直願はあり得るが,やはり直願は迷惑なので罰しておこう,ということだったのでしょうか。

現行の請願法下における天皇への直願については,金森大臣の次の国会答弁があります。


天皇に対する直訴と云ふ点に付きましては,固より現行の制度〔旧請願令〕に於きまして之を規律致しておりますが,今回の請願法に於きましては,第3条にありまするやうに,「天皇に対する請願書は,内閣にこれを提出しなければならない。」と云ふことになつて居りますから,直訴を致しますれば,此の請願法に於いては適法ならざることは,是は一点の疑はございませぬ,従つて左様な請願と云ふものに付きましては,此の請願法に依る処置をすべき限りでないことは固よりでありまするが,唯行幸の途中を御妨げをしましたり,其の外紛擾を惹き起しまする,斯う云ふものをどう扱うかと云ふことになりますれば,此の請願法はそれに触れて居りませぬ,一般の取締と同じ立場になる訳であります,従つて文書を差出す為に行幸を紊つた場合,其の外の考から行幸を紊りました場合と同じ扱ひにならうと存じて居ります,又現実にそれが如何に処理されて行くかと云ふことは,其の時々の情勢に依りまして,之に当て嵌る一般法規で臨むと云ふ風になります,左様な法規があるかと云ふことに今度はなりまするけれども,其の点は今の処まだはつきりは致して居りませぬ,不敬罪になりますればそれはなりまするし19472月段階では不敬罪はなお存続〕,公務妨害と云ふことになりますればなりまするし,其の外一般的に処置するより外に別段の考を致して居りませぬ(第92回帝国議会貴族院請願法案特別委員会議事速記録13頁)


 請願法の保護を受けない請願として提出された文書の処置は,「一般の法規に従つて解決して行く」ものと考えられており,当該処置は「其の時の自由」であって,「却下するのも宜しいし,持つて居つて其の儘にして置くと云ふのも宜い」ものとされています(第92回帝国議会貴族院請願法案特別委員会議事速記録13頁・金森大臣)。「請願法に依る処置をすべき限りでない」のであるから,同法5条に基づき受理され,誠実に処理されることはないわけです。

 天皇への直願は,憲法16条により保護される「平穏に請願する」ことには当たらないのでしょうか。「単に請願をするのではなくて,之に力,暴力と云ふものを伴つて行」われるものが平穏な請願でないことは明らかです(第92回帝国議会貴族院請願法案特別委員会議事速記録13頁・金森大臣)。そのほか,天皇に対しては,力を伴わないものであっても,直願それ自体がそれだけで平穏ではないことになるのでしょうか。しかしながら,天皇に対する平穏でない直願は不敬罪を犯すものとされ得たものと思われる一方,天皇に対する不敬罪に当たらない直願はあり得るものとされていたところです。

 実は,天皇のみならず,公務員個人に直接請願書を出すことも,請願法に適合しない請願であるとされています。
 請願書を「どこかに出すならば,官公署に出すということが原則で,不思議はないように思いますが,これにも若干の事情がありまして,たとえば外を歩いておる役人に対して,いきなり請願書を出すということは,請願の慎重なる手続に反しますので,まず常識的にそれは官公署に出すべきものであるということ」が定められている(請願法
3条),と金森大臣から説明されています(第92回帝国議会衆議院華族世襲財産法を廃止する法律案委員会議録(速記)第12頁)。官公署とは,いわゆる役所という意味です。
 平穏でないからではなく,「請願の慎重なる手続」に反するので,「外を歩いておる役人に対して,いきなり請願書を出す」ことは請願法の手続には乗らない(受理され,誠実に処理されることはない。)ということのようです。
 金森大臣は続いて,「助言と承認とによつて行動せられます天皇に,直ちに請願書を出すことは不適当でありますし,それかと申しまして現在の〔旧請願令の〕如く内閣抜きに出るということも不合理でありまして,そこで助言と承認の責任を持つております内閣に提出すべきものであるといたしておるわけであります。」と説明していますが(同会議録(速記)
2頁),この説明だけからでは,天皇に対する直願が認められないのは天皇に対する直願は平穏な請願ではないからである,ということにはならないようです。
 「施行法律と云ふものとして書き得る事項は相当に幅のあるもの」であり,「憲法は国民の願を国家に申出ると云ふ所に重点がありますので,其の願を申出る時に,社会の一般の通念に照らしまして妥当と認めらるゝ方法を選ばせると云ふことは,是は施行法律で出来る」ということでしょう(第
92回帝国議会貴族院請願法案特別委員会議事速記録14頁・金森大臣(請願の形式が文書によるものに制限されることについて))。


5 請願者に対する差別待遇の憲法による禁止


憲法16条の「何人も,かかる〔平穏な〕請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。」の意味については,金森大臣は次のように説明しています。


……差別待遇ヲ受ケルト云フコトハ,是ハ沿革的ニ考ヘテ見マシテ,請願ハ国民ノ重大ナル権利デアリマスルケレドモ,併シ請願ハ封建思想ノ強イ時代ニ於キマシテハ,当局者ガ甚ダシク嫌ツタモノデアリマシテ,物語ニ伝ツテ居リマスル佐倉宗五郎ノ事件ト云フノハ,即チ其ノ請願ガ其ノ請願者ノ生命ヲ奪フト云フヤウナ結果ニナツテ居ル,ダカラ請願ヲシタカラトテ,何等不利益ナル取扱ヒヲ受ケナクチヤナラヌ〔ママ〕,刑罰ハ固ヨリ,刑罰デナクテモ,何処カノ処置デ或ル利益ヲ奪ハレタリスルヤウナ不利益ヲ受ケテハナラヌ,斯ウ云フ趣旨デアリマス……(第90回帝国議会衆議院帝国憲法改正案委員会議録(速記)第332頁)


何等の不利益をも受けない」というのですから(第92回帝国議会貴族院請願法案特別委員会議事速記録16頁・金森大臣),1689年の英国の権利章典における請願権の保障よりも手厚いものになっています。英国の権利章典では,国王に対する請願を理由とした拘禁及び訴追が違法であるとされているだけです。
   … 
it is the right of the subjects to petition the king, and all commitments and prosecutions for such petitioning are illegal


 また,国家機関の側は,その「人間ノ弱点」を克服して,請願者に対して寛容であることが求められています。


……併シナガラ請願ヲ受ケルコトニ依ツテ或ル行政部局担任者等ガ自然不利益ナル立場ニ置カルヽコトノアルコトモ亦予想サレマス,例ヘバ自己ノ措置ガ悪カツタト云フコトニ対シテ請願ガアルト云フコトニナリマスト,人間ノ弱点カラ何トナク此ノ請願ニ対シテ不愉快ナル思ヒヲスルト云フ虞ガアル訳デアリマス,其ノ結果ト致シマシテ請願者ニ何等カノ不利益ヲ掛ケルソレガ行政上ノ手加減或ハ取締規定トカ云フモノニ依リマシテ不利益ヲ与フルコトナシト言ヘナイ訳デアリマス,例ヘテ申シマスレバ請願ヲシタ為其ノ人ヲ官庁ニ採用スル時ニハ後廻シニスルト云フヤウナコトガ考ヘラレマス,サウ云フ不届キナ考ヘヲ起スコトハ,予メ憲法ニ於テハツキリ区別シテ置カナケレバナリマセヌ,正キ請願ヲシタ者ニ対シテ,如何ナル関係ニ於テモ差別待遇ヲシテハナラナイト云フ意味ヲ之ニ表ハシテ居ル訳デアリマス(第90回帝国議会衆議院帝国憲法改正案委員会議録(速記)第14254頁・金森大臣)


……不利益ヲ受ケルコトガナイト,斯ウ云フコトニナラウト思ヒマス,例ヘバ官吏ガ請願ヲシタ,而モソレハ仕事ニ関シテ他ノ権限ヲ批評シタト云フヤウナコトガアツタト致シマシテモ,ソレガ為ニ官吏秩序ノ中ニ於テ不利益ヲ受ケルト云フコトガアツテハ相成ラヌノデアリマス……(第90回帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員会議事速記録155頁・金森大臣)


現行請願法の法案の国会審議に当たっても,金森大臣は,「国の側と致しましては,其の請願に対しては出来るだけ深切な態度をとるべきものであるという趣旨を明らかにする」ことが同法の「眼目」の一つであると表明していたところです(第92回帝国議会貴族院請願法案特別委員会議事速記録12頁)。

なお,いわゆる関ヶ原町署名調査事件に係る最近の名古屋高等裁判所平成24年4月27日判決(平22(ネ)1473号・平23(ネ)452号)は,「請願権は,国民の政治参加のための重要な権利であり,請願をしたことにより処罰されたり不利益を課されたり,その他差別を受けることはないとされるべきであり,官公署は請願を受理し,誠実に処理する義務を負う(請願法5条)。官公署において,これを「誠実に」処理するとは,放置したりしてはならないことであり,誠実に処理するという名の下に,将来の請願行為をしにくくすることや請願をした者を萎縮させることが許されないのはいうまでもない。」と判示しています。


6 非国民の請願権


 非国民には請願権は認められないのでしょうか。
 しかし,「外国人でも請願が出来る」と考えられているところです(第
92回帝国議会貴族院請願法案特別委員会議事速記録15頁・金森大臣)。

                                              




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