Bureau de Saitoh, Avocat (弁護士 齊藤雅俊)

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 かつて住んでいた集合住宅で,夜間ないしは早朝の人気(ひとけ)あるべくもない時刻に階段を上って又は下ってつと曲がると,薄明りの中で人目を忍び,かつ,(いと)しげにたばこを吸いいる近くの住人にばったり鉢合わせしてドッキリびっくりさせられたことが何度かありました。ヴェランダ(ほたる)族も昔の話。自らが夫であり父である家族の住むアパートメントの室内はおろかヴェランダでの喫煙すらも許されず(洗濯物等にたばこの臭いがうつることが当然許されないのでしょう。),とうとう廊下ないしは階段に流謫の身をかこつこととはなった可哀想なニコチン好きの(わび)しい姿でありました。

 たばこは東洋における文明と強兵との(さきがけ)たる我が日本帝国人民の元気の敵なりと,国を愛し国を憂うる議員諸賢の怒号する帝国議会の協賛を得,明治大帝の裁可を得たる未成年者喫煙禁止法(明治33年法律第33号)が施行せられて117回目の春,同法に関して不図(ふと)調査の思いを発し,いささか調べ得たことを文字にしてはみたのですが,以下思わず長いものとなりました。

 

1 法文及び若干の註

 

朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル未成年者喫煙禁止法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 

  御 名  御 璽

 

     明治33年3月6日(官報3月7日)

          内閣総理大臣 侯爵山縣有朋

          内務大臣 侯爵西郷從道

法律第33

未成年者喫煙禁止法

第1条 20年ニ至ラサル者(1)②ハ煙草ヲ喫スルコトヲ得ス

第2条 前条ニ違反シタル者アルトキハ行政ノ処分ヲ以テ喫煙ノ為ニ所持スル煙草及器具ヲ没収ス

第3条 未成年者ニ対シテ親権ヲ行フ者情ヲ知リテ其ノ喫煙ヲ制止セサルトキハ(2)④科料ニ処ス 

 親権ヲ行フ者ニ代リテ未成年者ヲ監督スル者亦前項ニ依リテ処断ス

第4条 煙草又ハ器具ヲ販売スル者ハ満20年ニ至ラザル者ノ喫煙ノ防止ニ資スル為年齢ノ確認其ノ他ノ必要ナル措置ヲ講ズルモノトス(3)

第5条(4) 20年ニ至ラサル者(1)⑤ニ其ノ自用ニ供スルモノナルコトヲ知リテ煙草又ハ器具ヲ販売シタル者ハ50万円(5)⑥以下ノ罰金ニ処ス

第6条(4) 法人ノ代表者又ハ法人若ハ人ノ代理人,使用人其ノ他ノ従業者ガ其ノ法人又ハ人ノ業務ニ関シ前条ノ違反行為ヲ為シタルトキハ行為者ヲ罰スルノ外其ノ法人又ハ人ニ対シ同条ノ刑ヲ科ス(6)

   附 則

本法ハ明治33年4月1日ヨリ之ヲ施行ス

 

条文中の(1)から(6)までの註は,1900年3月6日に明治天皇の裁可により成立(大日本帝国憲法5条・6条)した時の未成年者喫煙禁止法の原始規定と現行規定との相違に係るものです。(また,①から⑥までの註は,後記のとおり,第14回帝国議会の衆議院に茨城県選出の根本(しょう)衆議院議員らが提出した当初の法案に係るものです。

註(1)の部分は,立法時の原始規定では「未成年者」でした。昭和22年法律第223号(「民法の改正に伴う関係法律の整理に関する法律」は件名)23条により,1948年1月1日から改められています(同法29条参照)。現在,民法753条は「未成年者が婚姻をしたときは,これによって成年に達したものとみなす。」と規定していますが,これは昭和22年法律第222号による新しい規定で,同法による改正前の民「法は,一方,未成年者は親権または後見に服し,婚姻をしてもこの状態は変わらないものとするとともに,他方,妻は無能力者として夫の支配の下に立つものとし」ていたところです(我妻榮『親族法』(有斐閣・1961年)93頁)。「公職選挙法,未成年者喫煙禁止法,未成年者飲酒禁止法などの適用では,依然として未成年者とされることはいうまでもない。」とされていますが(我妻95頁註(4)),解釈論以前に,昭和22年法律第223号によって法律の条文自体に改正が加えられていたわけです。

註(2)の部分に,原始規定では「1円以下ノ」が入っていました。なお,1900年当時施行されていた旧刑法(明治13年太政官布告第36号)29条には「科料ハ5銭以上1円95銭以下ト為シ仍ホ各本条ニ於テ其多寡ヲ区別ス」と規定されていました。「1円以下ノ」は,平成1212月1日法律第134号(「未成年者喫煙禁止法及び未成年者飲酒禁止法の一部を改正する法律」との題名)1条によって,20001231日から削られています(同法附則参照)。当該改正より前において「科料は,1000円以上1万円未満とする。」と規定する刑法17条との折り合いは,罰金等臨時措置法(昭和23年法律第251号)2条3項によって,額の定めのない科料ということにされていてついていたものです。

註(3)の条項(現行4条の規定)は,原始規定にはありませんでした。平成131212日法律第152号(「未成年者喫煙禁止法及び未成年者飲酒禁止法の一部を改正する法律」との題名)1条によって,20011212日から現行4条が加えられたものです(同法附則1項参照)。

註(4)に係る「第5条」及び「第6条」は,原始規定にはありませんでした。未成年者喫煙禁止法の原始規定では,現行5条が第4条であり,かつ,同法は第4条までしかありませんでした。上記平成13年法律第152号1条により,当時の第4条及び第5条がそれぞれ新しい第5条及び第6条に,20011212日から移されています。

註(5)の部分は,原始規定では「10円」でした。罰金刑なので,旧刑法上の軽罪です(同法8条3号)。190810月1日施行の現行刑法15条本文では当初「罰金ハ20円以上トス」とされていたので10円以下の罰金規定が存続し得たかどうかというと,平成3年法律第31号による改正以前の刑法施行法(明治41年法律第29号)20条は「他ノ法律ニ定メタル刑ニ付テハ其期間又ハ金額ヲ変更セス但他ノ法律中特ニ期間又ハ金額ヲ定メサル刑ニ付テハ仍ホ旧刑法総則中期間又ハ金額ニ関スル規定ニ従フ」と規定していました。しかし,罰金等臨時措置法の旧4条1項本文により,科刑上,1949年2月1日からは(同法附則1項参照),未成年者喫煙禁止法の「10円以下ノ罰金」は2000円以下の罰金ということになりました。1972年7月1日からは8000円以下の罰金となり(昭和41年法律第61号),平成3年法律第31号による改正により1991年5月7日からは2万円以下の罰金となっています(罰金等臨時措置法2条1項本文)。最終的には前記平成12年法律第134号1条によって,20001231日から,未成年者喫煙禁止法自身の条文において「10円以下ノ罰金」が「50万円以下ノ罰金」に改められています。

註(6)の条項(現行6条の規定)は,両罰規定ですが,原始規定にはありませんでした。前記平成12年法律第134号1条によって20001231日から,当初は「第5条」として加えられたものです。

未成年者喫煙禁止法は,議員立法でした(大日本帝国憲法38条後段)。189912月6日付けで衆議院に根本正代議士外4名によって提出された法案の当初の題名は「幼者喫煙禁止法」で,第1条冒頭は「18歳未満ノ幼者」とされ(現在であれば「幼者」ではなく「児童」との語が用いられたでしょう(児童福祉法(昭和22年法律第164号)4条1項等参照)。),喫煙制止義務者は「第1条ノ幼者ヲ監督スル責任アル者」であって,第3条に第2項はなく,科料の額は「10銭以上1円以下」,たばこ又は器具を売ってはならない相手は「第1条ノ幼者」であり,罰金の額は「2円以上10円以下」とされていました。

 

2 根本正衆議院議員の法案提出趣旨

18991212日の衆議院本会議における根本正代議士による堂々の法案趣旨説明は次のとおりでした(第14回帝国議会衆議院議事速記録第7号83頁。なお,原文は片仮名書き)。

 

 諸君,茲に本員等が喫煙禁止法案を提出致しました理由を極簡短に述べます,此法案は近来小学校の子供が輸入の巻煙草を吸ふ者が日々増加しまして,此儘に棄置きましたならば我帝国人民をして,或は支那の今日に於ける有様,又遂に印度の如き結果を見ねばならぬと大に憂ふる所であります,それはどう云ふ訳であるかと申しまするなれば,此煙草と云ふものは阿片の如く「ナコチック」及「ニコチン」を含有するものでありまして,若し此の如き神経を麻痺し智覚を遅鈍にするものを,幼少の子供が喫しますれば,日本帝国人民の元気を消滅するに至る訳であります,それ故に此子供が煙草を喫むと云ふことは,国是として廃さねばならぬことでございます,此事と云ふものは実に文明の各国に於て行れる法律であります,既に独逸に於ては16歳以下の子供に煙草を喫ませませぬです,それはどう云ふ訳であるかと云ひますると,唯今申上げたる訳で,第一軍人たるに不適当たらしむる故であります,又亜米利加の一新報を見ますれば,西班牙と亜米利加が戦争をしました時分に各地方から兵卒を呼びまして,其内取除けられた青年があります,其取除けられた青年の100人の中90人は幼少より煙草を喫んだものであると云ふことが書いてあります,加之(しかのみ)ならず現に東京に駐在する所の米国特命全権公使「バック」君の御話を聴きました所が,先生が生れた故郷なるヴォルヂニア州と云ふ所は,諸君が御承知の通,煙草を製造して外国に輸(ママ)する大なる一煙草国であります,然れども20歳以上の人には害は少いが,18歳以下の人には宜しくないものであると云ふて,ヴォルヂニア州では18歳以下の子供には,一切煙草を売ることを法律を以て禁じてあると云ふことを,実に此公使より私が承った所であります,独りヴォルヂニア州のみならず,紐育(ニューヨーク)州でも通である,紐育州では1889年,即ち今を距ること10年前に此法律を施行致しました,又アイオ()州でも其通であります,斯の如き好き例が沢山ありますからして,此等のことは詳しく御話しませぬけれども,実に(いやしく)も国庫の補助を受けて居る学校の生徒が,煙草を喫むと云ふことは実に宜しくないこと思ひます(「同感」と呼(ママ)者あり)唯一言を御話します,1891年に亜米利加の「エール」大学校に於て,生徒が147人の一組の生徒があります,此4年間の結果を調べて見ました所が煙草を喫む人が70人あって,禁煙した者が77人あります,それで色調べて見ました所が,丈の高さが煙草を喫まない人は2割4分高くなって居る,又胸の囲りを計って見ますれば,2割6分7厘広くなって居ったと云ふことであります,殊更に肺に関係したことは(おびただ)しいものであって,7割7分5厘程のものになって居る,其他ボルマント州の如きは,小学校に於て教師と生徒と共に禁じてあります,又米国ウヱスト,ポエント陸軍兵学校に於ても禁じてある,又アナポリス海軍兵学校に於ても禁じてある,実に此法律は日本をして東洋に於て欧米列国に優る所の国にするならば,他日此国の父母と為る小学校の生徒に煙草を喫ませると云ふことはありませぬです,どうか此帝国をして世界に輝く国とせんとするならば,支那や印度の真似をせずに,どうか此文明国の法律を御採用あらんことを希望します

 

たばこを吸うと(から)天竺(てんじく)の人のようになっちゃうぞ,ということだったようです。無論,大昔の孔子も釈迦もたばこは吸っていなかったはずですから,米国留学経験者たる根本代議士とても儒教・仏教の排斥までは考えてはいなかったのでしょう。19世紀末の興隆する大日本帝国の臣民の眼から見ると,唐・天竺は衰亡文明の代名詞のようなものだったごとし。しかし,21世紀の今日,新興経済大国たる中華人民共和国及びインドの両国民から見ると,むしろ我が日本国こそが停滞ないしは衰退の中に恍惚とした活力のない過去の経済大国として印象されているようにも懸念されます。たばこさえ吸えば中華人民共和国経済及びインド経済のごとき活力を我が日本経済も取り戻すというのならば,日本国民こぞって煙突のごとくたばこを猛然と吸ってみるということもあり得るでしょうか。しかし,税収面での貢献はともかくも(国の平成28年度予算案に係る財務省資料を見ると,2016年度におけるたばこ税徴収概算額は9230億円でした。),経済政策としては相手にされないでしょう。

「どうか此帝国をして世界に輝く国とせんとするならば」,随分先のことを考えて子供の心配もよいのですが,今の大人が現下のそれぞれの課題に自ら全力で取り組み,立派な仕事をして来るべき世代にまず範を示し置くべきことも重要であるようにも思われます。

それはともかくとして,まずは強兵論なのでしょう。カイゼルのドイツでは,子供が軍人として不適当とならぬように16歳以下の子供にはたばこを吸わせない,米国の陸軍士官学校及び海軍兵学校はいずれも生徒にたばこを吸わせない,たばこを吸わない方が身体が強健になる(「エール」大学校の統計の数字の意味は根本代議士の説明の速記からは分かりにくいのですが,189912月6日に衆議院に提出された法案に付された理由(『衆議院議員根本正第十四回帝国議会報告』(根本正・1900年)1011頁参照)においては「禁煙者77人は喫煙者70人に勝ること重量2割4分・・・の増加」ということで,「2割4分」背が高いのではなく,体重が「2割4分」より増えているということだったようです。とすると,胸囲のみならず腹囲も非喫煙者の方が増加が大きかったのでしょうか。また,「肺に関係したこと」とは「肺量」であって,「肺量」が「禁煙者は喫煙者よりも平均多量なること7割7分5厘なり」ということだったそうです。),たばこを吸うと現役として兵役に服さないようになってしまうぞ(ただし,1898年の米西戦争の際の米軍兵士が全員非喫煙者であったわけではないでしょうし,むしろ喫煙者の方が兵士中の多数者だったかもしれません。上記衆議院提出の法案理由では「米西戦争に於て軍医の為に兵役より排斥せられたる青年の100分の90は喫煙の悪結果に基くと云ふ」ということではありました。なお,当該法案理由には,「「バック」君の言に「ヴヲルジニア」州及「アイオワ」州の如く18歳以下の者に対し煙草販売禁止法を施行せる各州の少年を喫煙する他州に比するに徴兵検査の成蹟頗る良結果を呈せりと云ふ」ともありました。)その他云々。

Peaceというたばこの銘柄がありますが,そこでの平和(ピース)は,健全な愛国的兵士像に背を向けた兵役忌避者的平和ということでしょうか。民族間闘争の世界に喜々として飛び込む,溢るる健康はそこにはないのでしょう。

 ・・・〔1914年の〕クリスマスの日,フランスの前線では銃砲撃が止まった。英国及びドイツの兵士らは無人(ノーマンズ)地帯(ランド)言葉たばこ(シガレット)交換た。サッカ試合た。翌日た。司令部強硬叱責銃砲撃徐々た。銃後におい戦勝交換てい殺戮for the slaughter of the men who were exchanging cigarettes)を求めて捧げられていた。・・・(A.J.P. Taylor, The First World War (Penguin Books, 1963) p.65

ところで,「実に苟も国庫の補助を受けて居る学校の生徒が,煙草を喫むと云ふことは実に宜しくないこと思ひます(「同感」と呼ふ者あり)」というくだりはどうでしょうか(このくだりは,衆議院提出の法案理由には書かれてありません。)。「苟も国庫の補助を受けて居る」のは19世紀末の当時は学校の生徒だけだったのかもしれませんが,現在の我が福祉国家においては,「国庫の補助を受けて居る」者は数多く,特別視して直ちに特に厳重な生活規制の対象とするわけにもいかないでしょう。結局は,学生の本分として「煙草を喫むと云ふことは実に宜しくない」ということに話は収斂し,しからば当該「学生の本分」は何かということになれば,良き貔貅(ひきゅう)たれ,ということになるのでしょう。しかし,ユーラシアの残酷を離れての太古からの平和国家たる我が国の代議士諸賢が, そこまで徹底したスパルタ的軍国主義者だったと考えてよいものかどうか。単に,学生のくせに偉そうにたばこなんか吸いやがって生意気だ,行儀が悪い,ということだったのかもしれません。

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In terra pax hominibus bonae voluntatis qui mutuo tabacum dant!  (photographed on 11 November 2018)


3 第14回帝国議会貴族院における議論

 

(1)未成年者喫煙禁止法案反対論

14回帝国議会の審議においては,貴族院本会議における未成年者喫煙禁止法案(衆議院から貴族院に18991219日付けで提出された法案における題名。なお,衆議院からの提出の際には,法案は成立時の原始規定と同じ形になっていました。)に対する反対意見及びそれをめぐる議論(1900年2月19日)が,まず興味深いところです。

 

ア 二条基弘委員長報告

実は,貴族院の未成年者喫煙禁止法案特別委員会においては,未成年者喫煙禁止法案は否決されていました。未成年者喫煙禁止法案特別委員長の二条基弘公爵(後光厳天皇を擁立したあの二条良基http://donttreadonme.blog.jp/archives/1003236277.htmlの子孫ですね。)が1900年2月19日の貴族院本会議で報告するには,「先づ此条文を皆読みました所が,中に之を解釈するにもむづかしい話で,実際今日の有様に於て此案の通りに,此案を出して十分に取締が出来るかと云ふことは甚だ疑はしい話で,到底是はむづかしいことであらう」,「若し此法のやうなことにしますれば子供が煙草を持って歩いた所がそれが果して自分が喫むのか否やは中管理者の分ることではありますまい,又果して聞いた所が(いつわ)って是はさうでないと言へばそれまでの話で,即ち認定問題に移って来ることでありますから,即ち到底其成績を顕すことはむづかしいことである,「然るに此未成年者ばかりの喫煙を禁ずると云ふことは主意に於ては誰も皆賛成をして居るので,さりながら此事柄は法律を以て制裁を加ふべきものであるや否やと云ふ所に於きましては(いず)も皆法律を以てやるべきものではあるまい,是は必ず学校とか又は即ち家庭教育の父兄たる者の責任に於てやるべきことが至当のことであらう」,「若し是は大体の目的として衛生上に害があると云ふやうなことになればまだ是よりも他に非常に害になるものもありまする,それを止めずして単に之を止むると云ふことは行くまい」,「若しもそれが行政命令〔文部省令〕で出来ると云ふやうなことになれば斯様なる法律を今出してやるのは甚だ宜しくないからして,是は行政命令の方に任せた方が宜しからうと云ふので,是は政府の方で断然其手続をやって貰ひたいと云ふ精神からして,委員会に於きまして是は否決になった訳であります」というようなことでありました(第14回帝国議会貴族院議事速記録第28639頁。原文は片仮名書き。なお,国立国会図書館のウェッブ・サイトを見ても貴族院未成年者喫煙禁止法案特別委員会の速記録はないようです。)。取締りの実効性の問題のほか,親権の行使ないしは学校教育に係る文部省令等で対応すべきであって法律を用いるまでもないこと,及びより有害ではあるが禁止されていない物がたばこのほかにあることとの衡量論が否決の理由とされているということでしょう。

 

イ 『学問のすゝめ』の小幡篤次郎

かつて福沢諭吉の『学問のすめ』初篇に共著者として名を連ねていた小幡篤次郎議員は,未成年者喫煙禁止法案特別委員会の法案否決論に賛成でした。いわく,「・・・如何にも煙草を未成年者が呑むと云ふは宜しくないと云ふことは勿論(もちろん)御同意でございますが,之を親の権柄で禁ずることは当り前で,それを親の権柄が通らない為に政府の力を借りて止める(など)と云ふことは甚だどうも教育上の主義を得ない,又今一つは之を制しまするには巡査の力を借らなくてはならぬ,子供が途中で巡査に(とが)られて煙草を取上げられる抔と云ふことは煙草を呑むよりも一層恥づべきことと思ふ,是は否決すべきものと思ひます」と(前記貴族院議事速記録第28641頁)。家庭内でしつけるべきことについてまで,法が家に入ってはならぬということでしょう。

 

(2)未成年者喫煙禁止法案賛成論

 

ア 後の文部大臣たる久保田譲

しかし,我が国の為政者は,我が人民の自主的しつけ力・自律力には悲観的です。後に文部大臣となる久保田譲議員はいわく。

 

・・・私は此事は衛生上の関係よりも(むし)ろ青年風紀を維持する上から本案の成立することを希望致します,成る程特別委員長の申されましたやうに斯の如きことは社会の制裁並に家庭の取締等が能く届いてある国であるならば必ず法律を以て制定するには及びますまい,小さい小学の子供抔が一家の内で煙草を吸ったり或は往来で煙草を吸ふやうなことは文明の諸国では其例を見ない所である,それで父兄なり家庭なりで能く是等の教訓が届いて取締の届くことであれば決して法律抔の世話になることはありますまい,(しかし)ながら我国に於ては家庭の有様がなかなかさう云ふ訳には参りませぬ,中以上の所では或は制裁もあるか知りませぬが,中以下の家庭に於てはなかなか左様なことは一向頓著をして居らぬ,それ故に小学校の子供が十や十二三の子供が往来を煙草を(くわ)へて歩いて居ると云ふのは如何にも一国の風紀を(みだ)る,それから一見して其国民の遊惰なることを知らる有様であります,誠に慨歎に堪へぬのであります・・・若し又之を今日此処(ここ)で断じて否決をしたならば其影響は如何でありませう,斯の如きことは帝国議会に於ては必要を認めぬと云ふことになる,さうすると其反動は益〻斯の如き風儀の悪いことが盛に行はるやうになりますから最も恐るべきことである・・・(前記貴族院議事速記録第28640頁)

 

イ 「鬼門」村田保と慶安御触書

フランス人ボアソナードらの旧民法は「倫常を紊」り,「慣習に(もと)る」と主張した執拗で徹底的な法典延期論者にして,「性格が執拗,偏狭」,「貴族院における「鬼門」」たる村田保議員(大久保泰甫『ボアソナアド』(岩波新書・1998年)178頁,163164頁参照)も,未成年者喫煙禁止法案に賛成でした。しかし,法案に対する賛成意見を述べる際の村田議員の口吻からは,旧民法人事編を排してせっかく制定された明治31年法律第9号の民法第4編に規定された親権は必ずしも強いものではないものと認識していたことが窺われます。

 

・・・未成年者ニ対シテ親権ヲ行フ者ガ情ヲ知ッテ制シナイトキハ科料ニ処スとあります,若し此法案がなければ自分の子が煙草を呑んで居っても止めることは出来ない,御同様に同じことである,所が此法案が出来れば未成年者は煙草を呑むことが出来ぬと云ふことが出来る,さうして若し幼年者が煙草呑んだらば親が罰されると云ふことになるから,子として自分の親が罰せらると云ふことになれば子たる者はどうしても呑むことは出来まいと思ひます・・・(前記貴族院議事速記録第28640頁)

 

 親権者たる明治の親父(民法旧877条によれば親権者は原則その子の家に在る父)も,監護ないしは教育の方針に係る親権者たる自己の権威のみをもってしては子に対して「こらっ,子供のくせにたばこなんか吸うんじゃない。」と言えず,「何だよぉ,オヤジィ,自分がたばこ吸っているくせに勝手なこと言うなよぉ。」と反論(「御同様に同じことである」)をされればたちまち腰砕けになっていたということのようです。そうであれば,村田議員の認識は甘い。そもそも親権者の権威に服さぬ反抗的な子は,「あのぉ,たばこを吸われちゃうと,私が警察に科料1円を取られちゃうんで,止めてくれませんでしょうか・・・」と父親におずおずと言われても,かえって,「ハァ,このオヤジ,何言ってんの?わけわかんねー。1円払えばいいじゃん,うぜぇなぁ,払えよォ。」とあきれて笑い,たばこの煙を吹きかけるだけでしょう。(ちなみに,警察が科料を支払わせることについては,1900年当時は,違警罪即決例(明治18年太政官布告第31号)により,違警罪たる科料の罪(旧刑法9条2号)については警察署長若しくは分署長又はその代理たる官吏が即決することができ(同例1条),必要なときは科料を仮納させることができたところです(同例8条,9条)。即決の言渡しに対しては,正式の裁判を請求できることとなってはいました(同例3条)。)

 なお,村田議員にとっての未成年者が喫煙することに伴う弊害は,「内証で煙草を呑んで之が為に金を費すことが非常である,それのみならず学校の生徒は煙草の為にまるで学費を費したと云ふことを聞いて居る,それで随分此弊害と云ふものは恐ろしいものである」ということで(前記貴族院議事速記録第28640頁),実は子供によるお小遣いの無駄遣いでした。

 「中以下の家庭」の「遊惰」なる人民に対しては,徳川幕府がその百姓らに対してしたように,明治国家が自ら細かく生活に介入して啓蒙せざるを得ず,かつ,たばこはそもそも代物(だいもつ)(代金)多く()不経済なものでありました。

 

 一 たは(たば)()のみ申間敷(もうすまじく)(そうろう),是ハ食にも不成(ならず),結句以来(わずらい)(なる)ものに候,其上(ひま)もかけ代物(だいもつ)(ママ),火の用心も(あしく)候,万事ニ損成ものニ候事(慶安御触書)

 

後編に続く(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1056356752.html

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1 第一次世界大戦勃発及びサライェヴォ事件の百周年

 今年(2014年)の6月28日は,第一次世界大戦の発端となったサライェヴォ事件から百周年に当たりますから,いろいろ記念行事がされるものと思います。

 当該事件は,1914年6月28日,快晴の日曜日,オーストリア=ハンガリー帝国領ボスニア(1908年に正式に併合)の主都サライェヴォ市を訪問中の同帝国皇嗣フランツ・フェルディナント大公及びその妻ゾフィーが無蓋自動車で移動中,同夫妻を,セルビア民族主義者の19歳の青年ガヴリロ・プリンツィプがピストルで撃って殺害したというもの。当該暗殺には隣国セルビアが関与していたとしてオーストリア=ハンガリー帝国政府はセルビア王国政府を非難。オーストリア=ハンガリー帝国からセルビア王国への最後通牒(同年7月23日)及びセルビア王国の最後通牒一部受諾拒否(同月25日)を経て,1914年7月28日,オーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に宣戦,第一次世界大戦が始まります。

 


2 サライェヴォ事件の事実関係に係る様々な記述

 サライェヴォ事件の具体的な事実関係を見てみましょう。まずは,我が国の標準的な歴史書における記述から。

 


  途中の道筋の変更されたことが運転手には徹底していなかった。陪乗の総督の声に注意され,あわてて方向転換するために車が速度をゆるめたとき,街路からこんどは銃声がおこった。やっぱり,この町は刺客でいっぱいなのだった。〔同じ午前,この前にも,大公夫妻の自動車にカブリノウィッチによって爆弾が投げつけられている。〕皇太子夫妻はしばらく端然としているように見えたが,妃のゾフィーは皇太子の胸に倒れかかり,やがて皇太子の口からは血がほとばしり出て,二人は折り重なって車中に倒れた。自動車はただちに病院に走ったが,傷は致命的だった。大公は,その途中でもみずからの痛みに耐えながら,

  「ゾフィー,ゾフィー,生きていておくれ,子供たちのために!」

 と妃を力づけていたが,まず大公妃が,数分後皇太子が絶命した。銃声がおこってから,わずかに15分ばかりののち,午前1130分ごろであった。

  犯人はガブリエル=プリンチプという19歳の学生であった。セルビア人であったが,国籍はオーストリアにあった。カブリノウィッチもプリンチプも,オーストリアの横暴とボスニアにおけるセルビア人の解放計画とを心にきざみつけられている民族主義者であった。(江口朴郎編『世界の歴史14 第一次世界大戦後の世界』(中公文庫・1975年(1962年))56頁(江口朴郎))

 


 さて,ここで法律家として気になるのは,銃声は1回(観念的競合)だったのか,複数回(併合罪)だったのか。

 


  ・・・しかし,彼の運転手は指示を受けていなかった。彼は間違った角を曲がり,そして車を止め,後退した。〔暗殺団の〕生徒の一人であるガヴリロ・プリンツィプ(Gavrilo Princip)は,自分でも驚いたことに,目の前に車が止まっているのを見た。彼は踏み板に上り(stepped on to the running-board),1弾でもって大公を殺し,前部座席のお付き(an escort)を狙ったが後部座席に座っていた大公の妻を2弾目で撃った。彼女もまた,即死に近い形で死亡した。サライェヴォにおける暗殺は,このようなものであった。(Taylor, A.J.P, The First World War (London, 1963), p.14

 


 2回のようです。

なお,プリンツィプの名がガブリエルであったりガヴリロであったりしますが,どちらも大天使ガブリエルと同じ名ということです。ガヴリロは,セルビア語形でしょうか。英語ならばガブリエルですから,前記日本の歴史書は,ひょっとすると英語文献に基づいて書かれたものなのでしょう。

しかしながら,サライェヴォ事件の顛末については,いろいろと脚色が加えられるに至っているようです。日本語版ウィキペディアで「サラエボ事件」の記事を見てみると,次のようにあります。

 


  ・・・一方,食事を摂るためにプリンツィプが立ち寄った店の前の交差点で,病院へ向かう大公の車が道を誤り方向転換をした事で,プリンツィプはその車に大公が乗っていることに偶然気がついた。ちょうどサンドイッチを食べた後だった彼はピストルを取り出して,車に駆け寄って1発目を妊娠中の妃ゾフィーの腹部に,2発目を大公の首に撃ち込んだ。大公夫妻はボスニア総督官邸に送られたが,2人とも死亡した。

 


 プリンツィプがサンドウィッチを食べていたという話が加えられ(世界史を変えたサンドウィッチということになりますから,大変興味深いエピソードですね。),撃たれた順序が,「大公が先,その妻が後」(Taylor)から「妻が先,大公が後」に変わり,更にフランツ・フェルディナントの妻ゾフィーは妊娠していたことにされています。ゾフィーはプリンツィプの狙撃目標でなかったように読めましたが(Taylor),プリンツィプは胎児もろとも意図的にその命を奪おうとしていたように読めます(後に見るようにゾフィーはオーストリア=ハンガリー帝国の皇族ではなく,その子に同帝国の皇位継承権はありませんでしたから,オーストリア=ハンガリー帝国にのみ抵抗する国事犯ならば,ゾフィー及びその胎児に危害を加えるべきものではなかったはずです。これではただの残忍な手当り次第の人殺しであって,犯情がはなはだ悪いです。)。(なお, キッシンジャーのDiplomacy (1994)では, 最初の暗殺失敗も含めて単独犯の犯行ということになっていて, サンドウィッチを食べているどころか, 午前中からカフェでお酒をあおっていたことになっています(Touchstone, p.209)。)

 有名な事件でも,事実認定の細部となると混乱していますね。

 しかし,この事実認定,外国での事件なので外国語での資料を見てみなければなりません。

 


3 外国語で作成された文書の証拠調べについて

ところで,ここで脱線ですが,我が国の裁判所での外国語の文書の取扱いについては,裁判所法74条が「裁判所では,日本語を用いる。」と規定していることとの関係で問題となります。

 


(1)民事訴訟の場合

 民事訴訟については,民事訴訟規則138条が次のように規定しています。

 


  (訳文の添付等)

 第138条 外国語で作成された文書を提出して書証の申出をするときは,取調べを求める部分についてその文書の訳文を添付しなければならない。〔後段略〕

 2 相手方は,前項の訳文の正確性について意見があるときは,意見を記載した書面を裁判所に提出しなければならない。

 


 「訳文の内容について当事者間に争いがないときは,基本的には訳文の正確性は問題にしないで,裁判所もその訳文に基づき審理を行うことが一般的であった」実務の取扱いが,明文で追認されています(最高裁判所事務総局民事局監修『条解民事訴訟規則』(司法協会・1997年)294頁)。すなわち,「訳文の正確性」は,当事者が気にしなければ裁判所は原則的に気にしないことになっているのですね。いちいち偉い翻訳者を雇わずとも,英語やらフランス語やらドイツ語について当ブログでよくあるように,訴訟代理人弁護士が自力で訳を作るということでよいようです。なお,訴状や準備書面については日本語を使用しなければならないことは,裁判所法74条により当然のこととされています(最高裁判所民事局監293頁)。

 


(2)刑事訴訟の場合

 刑事訴訟については,証拠書類又は証拠物中書面の意義が証拠となるものの取調べは公判廷において(刑事訴訟法2821項)その朗読(同法30512項,307条)又は要旨の告知(刑事訴訟規則203条の2)によってするものとされていますが,外国語による証拠書類等については,日本語の訳文の朗読(又はそれについての要旨の告知)がされなければならないことになります。「原文を合わせて朗読しなければならないかどうかについては,見解が分かれている」とされており,最高裁判所の昭和271224日判決(刑集6111380)を参照すべきものとされています(松本時夫=土本武司編著『条解 刑事訴訟法〔第3版増補版〕』(弘文堂・2006年)600頁)。当該昭和27年最高裁判所判決の「裁判要旨」は,「英文で記載した証拠書類がその訳文とともに朗読されている場合には,その証拠調をもつて裁判所法第74条に違反するものということはできない。」というものですから,原文の朗読は許容されているものであって必須ではないということでしょうか。ただし,当該判決の「裁判要旨」は敷衍されたものであって,判決の本文自体においては,「(なお,第一審判決が証拠としているCIDの犯罪捜査報告書とは犯罪調査報告として訳文のある調査報告書の一部を意味すること明らかであつて,これについては適法に証拠調べをしたことが認められる。)」と括弧書きで述べられているだけです。なお,訳文が添付されていない外国語による証拠書類等については,「国語でない文字又は符号は,これを翻訳させることができる。」とする刑事訴訟法177条に基づいて,裁判所は翻訳人に翻訳させることができます。上告趣意書(上告の申立ての理由を明示するもの(刑事訴訟法407条))について,「被告人本人は,上告趣意書と題する書面を提出したが,その内容は中国語で記載されており,日本語を用いていないから,裁判所法74条に違反し不適法である。従てこれに対し説明を与える限りでない。」と多数意見において判示した判例があります(最決昭和35年3月23日・刑集144439)。すなわち,日本語は,the Chinese languageの一種の方言であるわけではありません。

 


4 ウィキペディアと形式的証拠力

 また,民事訴訟法228条1項は,「文書は,その成立が真正であることを証明しなければならない。」と規定しています。ここでいう真正とは,「文書が挙証者の主張する特定人の意思に基づいて作成された場合に,訴訟上,その文書の成立が真正であるという」というものです(新堂幸司『新民事訴訟法 第二版』(弘文堂・2001年)541頁)。文書とは,「概ね,文字その他の記号の組合せによって,人の思想を表現している外観を有する有体物」と定義されています(司法研修所編『民事訴訟における事実認定』(法曹会・2007年)5253頁)。

 ウィキペディアの記事をプリント・アウトしたものを民事訴訟の場に証拠として提出する場合はどうなるのでしょうか。前記の「文書」の定義からすると,当該プリント・アウトは文書ということになるようです。そうなると,民事訴訟法228条1項によってその成立の真正を証明しなければならないようなのですが,ウィキペディアの記事は不特定の人々によって書かれたものですから,「特定人の意思に基づいて作成された」ものとはいえないようです。「例外的に,文書を特定人の思想の表現としてでなく,その種の文書の存在を証拠にする場合(たとえば,ビラや落書を当時の流行や世論の証拠として用る場合)は,それに該当する文書であれば足り,だれの思想の表現であるかは問題にならない」から,形式的証拠力(「文書の記載内容が,挙証者の主張する特定人の思想の表現であると認められること」)は問題にならない(新堂541頁),との解釈でいくべきでしょうか。なお,「現行民訴法には証拠能力の制限に関する一般的な規定はおかれておらず,自由心証主義の下,・・・証拠調べの客体となり得ない文書(証拠として用いられるための適格を欠く文書)は基本的に存在しないと解されてい」ます(司法研修所編72頁)。

 


5 サライェヴォ事件の事実関係に係るプリンツィプの伝記作家ティム・ブッチャーの主張 

 プリンツィプの伝記であるThe Trigger: Hunting the Assassin Who Brought the World to War” Chatto&Windus, 2014)を書いたティム・ブッチャーによれば(すなわち形式的証拠力のある(インターネット上の)文書(centenarynews.com, 28 May 2014)によれば),暗殺前にプリンツィプが街角のカフェにサンドウィッチを食べに立ち寄ったという事実はなく,プリンツィプは大公の車の踏み板に上ってはおらず(A.J.P. Taylorも余計なことを書いているわけです。),大公の妻ゾフィーは暗殺された時に妊娠しておらず,暗殺された夫妻の結婚記念日は6月28日ではなかったとされています。さらにブッチャーによれば,「逮捕されるプリンツィプ」として広く流布されている有名な写真に写っている人物は,実はプリンツィプではなく,別人であって,プリンツィプが群衆に殺されそうになっているのを止めようとして警察官に阻止されているサライェヴオの一市民Ferdinand Behrであるそうです。

 プリンツィプが暗殺前にサンドウィッチを食べていたという話は,暗殺の現場が,Schillerのデリカテッセン屋の前であったことから思いつかれたもののようです。英語でデリカテッセンといえば,まずはサンドウィッチが連想されるということでしょう。マイク・ダッシュ氏は(smithsonianmag.com, 15 September 2011),サンドウィッチのエピソードが広く流布したのは2003年の英国のテレビ・ドキュメンタリー番組“Days That Shook the World”で紹介されてからであろうとし,それ以前の段階では,ブラジルの娯楽小説『十二本指』(英訳本は2001年出版)において,フランツ・フェルディナントの暗殺直前に当該小説の主人公(左右の手それぞれに6本の指を持つプロの暗殺者。我がゴルゴ13のようなものか。)にサライェヴォの現場の街角で遭ったものとされたプリンツィプが,ちょうどサンドウィッチを食べていたというお話が描かれていた,と報告しています。

 ゾフィーの妊娠も,暗殺された時の年齢が,夫50歳,妻46歳であったことからすると,考えられにくいですね。

 


6 プリンツィプの犯罪に対する適用法条

 第一次世界大戦では何百万という人が命を落とすことになりましたが,この大惨事を惹き起こした当のプリンツィプはどうなったのでしょうか。暗殺直後にオーストリア=ハンガリー帝国の官憲に逮捕されたといいますから,裁判を経て死刑でしょうか。

これが当時の大日本帝国であれば,当然,死刑及びピストル没収でしょう。

 


(1)当時の日本法に準じた場合

 すなわち,フランツ・フェルディナントの殺害は我が刑法(明治40年法律第45号)旧75条(「皇族ニ対シ危害ヲ加ヘタル者ハ死刑ニ処シ危害ヲ加ヘントシタル者ハ無期懲役ニ処ス」)前段に当たり,ゾフィーの殺害は同法199条(「人ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ3年以上ノ懲役ニ処ス」)に当たり,両者は併合罪(同法45条)の関係になって(ピストルから1回撃った1個の銃弾で二人を殺したのではないから,観念的競合の場合(同法541項前段)には当たりません。),同法旧75条前段の死刑が科されて同法199条の刑は科されず(同法461項本文),暗殺に用いられたピストルは犯罪行為の用に供した物(同法1911号)ですから,当該ピストルが犯人以外の者に属するものでない限り(同条2項)没収され得ます(同条1項柱書き)。1914年当時,いまだ(旧)少年法(大正11年法律第42号)は制定されていません。

 なお,フランツ・フェルディナントはオーストリア=ハンガリー帝国の皇嗣ではありましたが,皇帝フランツ・ヨーゼフの甥ではあっても子でも孫でもないので,刑法旧73条(「天皇,太皇太后,皇太后,皇后,皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」)の適用はありません。明治の皇室典範15条は「儲嗣タル皇子ヲ皇太子トス皇太子在ラサルトキハ儲嗣タル皇孫ヲ皇太孫トス」と規定し,伊藤博文の『皇室典範義解』は同条につき「今既に皇位継承の法〔皇室典範〕を定め,明文の掲ぐる所と為すときは,立太子・立太孫の外,支系より入て大統を承くるの皇嗣は立坊の儀文に依ることを須ゐず。而して皇太子・皇太孫の名称は皇子皇孫に限るべきなり。」と解説しています。

 ゾフィーは身分が低いため皇族扱いされていなかったそうですから,皇族に係る刑法旧75条の保護対象にはなりません。明治皇室典範30条は,親王妃及び王妃(親王の妻及び王の妻)も皇族と称えるものとしていましたが,同39条は「皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ル」としており,正式な配偶者となり得る者の範囲は我が皇族についても限定されていました。とはいえ,我が明治皇室典範4条は「皇子孫ノ皇位ヲ継承スルハ嫡出ヲ先ニス皇庶子孫ノ皇位ヲ継承スルハ皇嫡子孫皆在ラサルトキニ限ル」と,同8条は「皇兄弟以上ハ同等内ニ於テ嫡ヲ先ニシ庶ヲ後ニシ長ヲ先ニシ幼ヲ後ニス」と規定しており,庶出であっても皇位継承権が否定されていたわけではありませんでした。しかしながら,これに対して,ハプスブルク家のフランツ・フェルディナントとゾフィーとの間に生まれる子については,オーストリア=ハンガリー帝国においては,厳しく,皇位継承権はないものとされていました。

 刑法199条の懲役刑の短期が3年から5年になったのは,平成16年法律第156号によるもので,2005年1月1日からの施行です(同法附則1条,平成16年政令第400号)。

 


(2)19世紀オーストリア=ハンガリー帝国法の実際

 しかしながら,オーストリア=ハンガリー帝国においては,プリンツィプは死刑にはなりませんでした。

 


  のちに二人〔プリンチプ及びカブリノウィッチ〕は未成年のため死刑をまぬかれ,20年の懲役を宣告されて入獄したが,いずれも肺結核患者であり,カブリノウィッチは1916年1月に,プリンチプは1918年春に病死して,この大戦の放火者たちは大戦の終結を知らずして短い生命を終わった。(江口編6頁(江口))

 


 当時のオーストリア=ハンガリー帝国の刑法はどうなっていたのか,ということが問題になります。訴訟の場面において,「法規を知ることは裁判官の職責であるから,裁判官は,当事者の主張や証明をまたずに知っている法を適用して差しつかえない」のですが,「外国法,地方の条例,慣習法などを知っているとは限らず,そのままではこれを適用されないおそれがあ」り,「そこで,その適用を欲する者は,その法の存在・内容を証明する必要があ」ります(新堂463頁)。

 1852年のオーストリア刑法52条後段は,次のとおり。

 


 Wenn jedoch der Verbrecher zur Zeit des begangenen Verbrechens das Alter von zwanzig Jahren noch nicht zurückgelegt hat, so ist anstatt der Todes- oder lebenslangen Kerkerstrafe auf schweren Kerker zwischen zehn und zwanzig Jahren zu erkennen.

 


 民事訴訟規則138条1項に従って訳文を添付すると,次のとおり。

 


 ―ただし,犯人が罪を犯す時20歳に満たない場合は,死刑又は無期禁錮刑に代えて,10年以上20年以下において重禁錮に処する。

 


 プリンツィプは1894年7月25日の生まれということですから,1箇月弱の差で死刑を免れました。(なお,プリンツィプが獄死したのは1918年4月28日とされていますが,「29日」とする人名事典が書店で見かけられたところです。)

 我が少年法(昭和23年法律第168号)51条1項は「罪を犯すとき〔ママ〕18歳に満たない者に対しては,死刑をもつて処断すべきときは,無期刑を科する。」と規定しています。これに比べて,オーストリア帝国は18歳と19歳とに対して優しかったわけです。

 しかし,我が旧刑法(明治13年太政官布告第36号)は次のように規定しており,その第81条を見ると,やはり犯行時満20歳になっていなかった者は最高刑の死刑にはならなかったようです(「本刑ニ1等ヲ減」じられてしまう。)。オーストリア刑法ばかりが20歳未満の者に対して優しいものであったというわけではありません。

 


79条 罪ヲ犯ス時12歳ニ満サル者ハ其罪ヲ論セス但満8歳以上ノ者ハ情状ニ因リ満16歳ニ過キサル時間之ヲ懲治場ニ留置スルヲ得

80条 罪ヲ犯ス時満12歳以上16歳ニ満サル者ハ其所為是非ヲ弁別シタルト否トヲ審案シ弁別ナクシテ犯シタル時ハ其罪ヲ論セス但情状ニ因リ満20歳ニ過キサル時間之ヲ懲治場ニ留置スルヲ得

若シ弁別アリテ犯シタル時ハ其罪ヲ宥恕シテ本刑ニ2等ヲ減ス

81条 罪ヲ犯ス時満16歳以上20歳ニ満サル者ハ其罪ヲ宥恕シテ本刑ニ1等ヲ減ス

 


 なお,1923年1月1日から施行された旧少年法は,次のように規定していました。16歳未満について原則として死刑及び無期刑がないものとされています。

 


 第7条 罪ヲ犯ス時16歳ニ満タサル者ニハ死刑及無期刑ヲ科セス死刑又ハ無期刑ヲ以テ処断スヘキトキハ10年以上15年以下ニ於テ懲役又ハ禁錮ヲ科ス

刑法第73条,第75条又ハ第200条ノ罪ヲ犯シタル者ニハ前項ノ規定ヲ適用セス

 


 ただし,第2項によれば,天皇及び皇族に対し危害を加え,若しくは加えようとし,又は尊属殺人を犯したときは,14歳以上でさえあれば(刑法41条),16歳未満であっても容赦はされなかったわけです。

 


7 暗殺者プリンツィプの情状に係る弁論

 現行犯ですから,フランツ・フェルディナント夫妻を殺害したという事実はなかなか争えません。プリンツィプの弁護人は,20年の重禁錮を何とか10年に近づけるべく,情状弁護で頑張ろうと考えたものでしょうか。

 情状として,どのような事項に着目すべきかについては,検察官の起訴裁量に係る刑事訴訟法248条がよく挙げられます。

 


 248条 犯人の性格,年齢及び境遇,犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは,公訴を提起しないことができる。

 


なるほど,ということになるわけですが。なおまだまだ抽象的です。この点,刑法並監獄法改正調査委員会総会決議及び留保条項に係る未定稿の改正刑法仮案(1940年)の次の条項は,具体的なものとなっており,参考になります。

 


 57条 刑ノ適用ニ付テハ犯人ノ性格,年齢及境遇並犯罪ノ情状及犯罪後ノ情況ヲ考察シ特ニ左ノ事項ヲ参酌スヘシ

  一 犯人ノ経歴,習慣及遺伝

  二 犯罪ノ決意ノ強弱

  三 犯罪ノ動機カ忠孝其ノ他ノ道義上又ハ公益上非難スヘキモノナリヤ否又ハ宥恕スヘキモノナリヤ否

  四 犯罪カ恐怖,驚愕,興奮,狼狽,挑発,威迫,群集暗示其ノ他之ニ類似スル事由ニ基クモノナリヤ否

  五 親族,後見,師弟,雇傭其ノ他之ニ類似スル関係ヲ濫用又ハ蔑視シテ罪ヲ犯シ又ハ罪ヲ犯サシメタルモノナリヤ否

  六 犯罪ノ手段残酷ナリヤ否及巧猾ナリヤ否

  七 犯罪ノ計画ノ大小及犯罪ニ因リ生シタル危険又ハ実害ノ軽重

  八 罪ヲ犯シタル後悔悟シタリヤ否損害ヲ賠償シ其ノ他実害ヲ軽減スル為努力シタリヤ否

 


 被告人プリンツィプの犯罪の決意は強いものでした(第2号)。オーストリア=ハンガリー帝国の統治を否認して,帝国の皇嗣を殺したのであるから帝国臣民としての忠の道に反するものであって,道義において言語道断(第3号),多文化多民族のヨーロッパ主義という公益にも反します(同号)。セルビア民族主義は,オーストリア=ハンガリー帝国当局の立場からすれば危険思想であって,それをもって宥恕するわけにはいかないでしょう。計画的犯行であって,恐怖,驚愕等によって犯されたものでは全くありません(第4号)。セルビア王国の要人の影までが背後にちらつく国際的陰謀の一環ということになれば,犯罪の計画は大であって,当該犯罪は帝国に危険をもたらし,かつ,害をなしたものであります(第7号)。また,プリンツィプは,セルビア民族主義の志士たらんと欲せば,当然悔悟の情など示さなかったものでしょう(第8号)。何だか検察官の論告になってきましたね,これでは。

 被告人プリンツィプは,本件犯行において,親族,後見,師弟,雇傭等の関係を濫用し,又は蔑視したわけではありません(第5号),と言ってはみても,だからどうした,マイナスがないだけだろう,ということになるようです。被告人プリンツィプは貧乏で,結核にかかった可哀想な少年なのです(第1号),本件犯行は失敗しかかっていた暗殺計画が偶然によって成功してしまったものであって,巧猾なものでは全くありません(第6号),といったことを強調したのでしょう,プリンツィプの弁護人は。

 


8 第一次世界大戦とオーストリア=ハンガリー帝国の実力

 さて,1914年7月28日のオーストリア=ハンガリー帝国のセルビア王国に対する宣戦布告に続く諸国の動きはどうだったかというと,同月30日にロシアが総動員を発令,2日後の8月1日にはフランス及びドイツがそれぞれ総動員を発令して,同日,ドイツはロシアに宣戦を布告します。有名なシュリーフェン・プラン下にあったドイツ軍は,同月2日にルクセンブルクに,同月3日にはベルギーに侵入して,同日ドイツはフランスに宣戦を布告しました。同月4日には,英国の対独宣戦,ドイツの対ベルギー宣戦が続きます。しかして,そもそもの出火元であるオーストリア=ハンガリー帝国は,何をしていたのか。

 


  哀れな老オーストリア=ハンガリーは一番もたついた(took longest to get going)。すべての激動を始めた(started all the upheaval)のは同国であったのにもかかわらず,交戦状態に入ったのは最後になった(the last to be involved)。ドイツに促されてロシアに宣戦したのは,やっと8月6日だった。オーストリア=ハンガリー軍がセルビア侵攻のためにドナウ川を渡ったのは8月11日であったが,結果は芳しくなかった(to no good purpose)。2箇月ほどのうちにオーストリア=ハンガリー軍は撃退され(thrown out),セルビア軍はハンガリー南部に侵入した。(Taylor, p.21

 


 ドイツはなぜ,上記「ぬるい」有様であるオーストリア=ハンガリー帝国の側に立って,第一次世界大戦のドンパチを始めてしまったのでしょうかねぇ。7月28日の宣戦に続くべき大国オーストリア=ハンガリー帝国から小国セルビア王国への武力攻撃に対して,スラヴ民族・正教徒仲間のロシア帝国がセルビア王国のための集団的自衛権発動の準備として総動員を発令したところ,それがドイツ帝国の軍部を刺激して,対仏露二正面作戦のシュリーフェン・プラン発動のボタンを押させてしまったということでしょうか。結果として見れば,ロシアの助太刀がなくとも,セルビア軍はオーストリア=ハンガリー帝国軍相手に結構いい勝負ができていたかもしれないように思われます。

 


DSCF0077
 


(後記)上掲の写真のサンドウィッチは,世界史を大きく変えたものではありませんが,依頼者さまの正当な利益の実現のために入念の訴状を仕上げるに当たって,精力的に仕事をこなすために必要なエネルギーを補給してくれたものです。ただし,弁護士(avocat)がアボカド(avocat)・サンドウィッチを食べたのですから,フランス語的には共食いですね。(相手方の訴訟代理人弁護士(avocat)の先生には申し訳ありません。)

 赤くつややかな大粒のさくらんぼは,以前の法律相談の依頼者の方から,お礼にということで頂いたものです。今後とも,依頼者の皆さまの信頼に応え,満足していただける仕事を続けていこうと,甘くおいしいさくらんぼを次々と口に運びながら,改めて心に誓ったものでした。

 本ブログの読者の方の中にも,法律関係で何か問題等を抱えることになってしまった方がいらっしゃいましたら,お一人で悩まずに,ぜひお気軽にお電話ください。

 


弁護士 齊藤雅俊

 大志わかば法律事務所

 東京都渋谷区代々木一丁目57番2号ドルミ代々木1203

 電話: 0368683194

 電子メール: saitoh@taishi-wakaba.jp

 

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画像 001
(Champagne, France)


 19181111日午前11時に連合国とドイツとの間の休戦協定が発効し,第一次世界大戦の戦闘は終了しました。

昨日はその記念日でした。

1111日を休日として今も記念式典を行うフランスにとっては,第一次世界大戦こそが悲惨な大戦争であって,第二次世界大戦2年目の1940年にフランスがドイツにいわばあっさりと降参してしまったのは,ヴェルサイユ条約の恨みを抱いていたドイツとは異なり,第一次世界大戦でもう戦争は懲り懲りになっていたからだ,と以前英国の歴史家の本で読んだ記憶があります。

今でもフランスのシャンパーニュ地方の田舎道をドライブすると,白い墓標の群れが各所に現われ,町々の広場にはフランス軍兵士の像が東方をにらんで立っているのが見られます。

 第一次世界大戦には,日本も連合国側に立って参戦しました。中学校・高等学校で教わったところを思い返すと,日英同盟のよしみで参戦した日本は,少ない犠牲で山東省青島のドイツ租借地及びドイツ領南洋群島を占領し,他方国内では戦争景気で成金続出,戦後のパリ講和会議では,欧州正面での苛烈な戦闘には参加しなかったにもかかわらず,米国,英国,フランス及びイタリアと並んで,五大国の一つに数えられるに至った,というようなところでしょうか。

 

 日本の対独宣戦の理由に関しては,大正3年(1914年)8月23日付けの大正天皇の詔書は次のように述べています。


  ……朕ハ深ク現時欧州戦乱ノ殃禍ヲ憂ヒ専ラ局外中立ヲ恪守シ以テ東洋ノ平和ヲ保持スルヲ念トセリ此ノ時ニ方リ独逸国ノ行動ハ遂ニ朕ノ同盟国タル大不列顛国ヲシテ戦端ヲ開クノ已ムナキニ至ラシメ其ノ租借地タル膠州湾ニ於テモ亦日夜戦備ヲ修メ其ノ艦隊荐ニ東亜ノ海洋ニ出没シテ帝国及与国ノ通商貿易為ニ威圧ヲ受ケ極東ノ平和ハ正ニ危殆ニ瀕セリ是ニ於テ朕ノ政府ト大不列顛国皇帝陛下ノ政府トハ相互隔意ナキ協議ヲ遂ケ両国政府ハ同盟協約ノ予期セル全般ノ利益ヲ防護スルカ為必要ナル措置ヲ執ルニ一致シタリ朕ハ此ノ目的ヲ達セムトスルニ当リ尚努メテ平和ノ手段ヲ悉サムコトヲ欲シ先ツ朕ノ政府ヲシテ誠意ヲ以テ独逸帝国政府ニ勧告スル所アラシメタリ然レトモ所定ノ期日ニ及フモ朕ノ政府ハ終ニ其ノ応諾ノ回牒ヲ得ルニ至ラス……


ドイツ艦隊がしきりに「東亜ノ海洋ニ出没」シテ「帝国及与国ノ通商貿易」を「威圧」したために「極東ノ平和」が「正ニ危殆ニ瀕」したことが日本の対独開戦の直接の理由であり,攻撃目標はまず「東亜ノ海洋」のドイツ艦隊及びその根拠地であるということでしょうか。


 当時の第三回日英同盟協約(1911713日ロンドンで調印。「日本外交文書」明治44年第12110377頁以下))は,その目的を「東亜及印度ノ地域ニ於ケル全局ノ平和ヲ確保スルコト」,「清帝国ノ独立及領土保全並清国ニ於ケル列国ノ商工業ニ対スル機会均等主義ヲ確実ニシ以テ清国ニ於ケル列国ノ共通利益ヲ維持スルコト」及び「東亜及印度ノ地域ニ於ケル両締盟国ノ領土権ヲ保持シ並該地域ニ於ケル両締盟国ノ特殊利益ヲ防護スルコト」と定めていました(前文)。

したがって,「両締盟国ノ一方カ挑発スルコトナクシテ(unprovoked)一国若ハ数国ヨリ攻撃(attack)ヲ受ケタルニ因リ又ハ一国若ハ数国ノ侵略的行動(aggressive action)ニ因リ該締盟国ニ於テ本協約前文ニ記述セル其ノ領土権又ハ特殊利益ヲ防護セムカ為交戦スルニ至リタルトキハ前記ノ攻撃又ハ侵略的行動カ何レノ地ニ於テ発生スルヲ問ハス他ノ一方ノ締盟国ハ直ニ(will at once)来リテ其ノ同盟国ニ援助ヲ与ヘ協同戦闘ニ当リ講和モ亦双方合意ノ上ニ於テ之ヲ為スヘシ」との規定(同協約2条)があったものの,東アジア及びインドの地域(the regions of Eastern Asia and of India)以外の地域,すなわち欧州等は,その守備範囲外であったところです。


 しかし,日本海軍は,地中海にまで駆逐艦等による特務艦隊を派遣して,連合国から感謝されています。また,陸軍についても対独苦戦の連合諸国から累次の欧州派兵要請が我が国政府にあり,歴史のifとしては,シャンパーニュの美しくなだらかな丘陵地帯のあちらこちらに,日本兵の墓標が並んでいるという可能性もあったところでした。


 これら連合国からの欧州派兵要請に対して19141114日,時の大隈内閣の外務大臣加藤高明は,駐日英国大使に派兵不可の旨覚書を手交しています(「日本外交文書」大正3年第310621643頁以下)参照)。


 当該加藤メモランダムが,昨今の政治の動きをめぐる最近の論説において,次のように紹介されています。



  いったん国防の役割を越えた国防軍が,それこそ地球の裏側まで戦闘行為をしに行くことを押しとどめる力量を,日本の議会政治が発揮できるのか。対イラク戦争でのブッシュ政権への協力についての総括をも果たしていない中で,9条の歯止めを取り払おうという主張はあまりに無責任ではないでしょうか。かつて第一次大戦の開戦直後,どこまで積極的に連合諸国側に立ってドイツと戦うかの真剣な議論の中で,当時の外務大臣は,日英同盟の相手方の出兵要請に対し,「帝国軍隊ノ唯一ノ目的ハ国防ニ在ルカ故ニ,国防ノ性質ヲ完備セサル目的ノ為帝国軍隊ヲ遠ク国外ニ出征セシムルコトハ其組織ノ根本タル主義ト相容レサル所」という覚書を英国大使に手交しています(加藤高明)。日米同盟一本槍の今の政治家たちと違って,そのような認識を持ちながらも,その後の大日本帝国がどんな途に突き進んだか,痛切な教訓ではないでしょうか。(樋口陽一「なぜ立憲主義を破壊しようとするのか―現状を見定めることの責任」『世界』201312月号66-67頁)



 日本はかつて,大日本帝国憲法下において,
“The dispatch of the Imperial army far away from home for purposes other than those partaking of the nature of national defence is  .incompatible with the fundamental principle of its system and was never contemplated in its organization.” との主義を,世界に対して明らかにしていたところでありました。


 それでは特務艦隊の地中海派遣はどのように説明されたのでしょうか。1917年6月26日,第39回帝国議会衆議院本会議において,島田三郎議員の問いに対し,加藤友三郎海軍大臣は,「我国旗ヲ樹ッテ居リマストコロノ船舶ガ,欧洲海面ニ於テ沈没ヲ致シマスル数ガ漸次殖エテ」いるので「軍事当局者ト致シマシテハ,是等我船舶ヲ保護致シマスル上ニ,多少ノ考慮ヲ費サナクテハナラナイ」と考え「腹案」を立てていたところ,「英国政府ヨリ地中海方面ニ或一隊ノ派遣方ノ交渉」が「敵ノ潜水艦ニ対スル作戦上必要」であるところからあったため,「或一隊ヲ地中海ニ派遣シタト云フ次第デゴザイマス」と答弁しており,「聯合作戦ヲ実施」するためという理由のみをもっては説明していなかったところです(第39回帝国議会衆議院議事速記録316-17頁)。本野一郎外務大臣も,「共同作戦ノ必要」に加えて「帝国ノ航海ノ保護ノ必要」を特務艦隊派遣の理由として挙げています(同速記録17頁)。「共同作戦ノ必要」だけでは,島田前衆議院議長以下の議会政治家たちを納得させられなかったということでしょう。


 日本が戦間期「いわゆるワシントン体制の枠組みの中で逐次孤立」していったことについて,「一次大戦における欧州派兵問題もその原因の一つではあるまいか」,「言を左右にして小さな艦隊しか援軍を派遣しなかった「頼りにならない同盟国」日本と,一度参戦するや2百万の将兵を始め陸海軍の総力を挙げて救援に馳せ参じた「頼りになる同盟国」アメリカとの「信頼性の差」は影響していないか」とする意見があります(永井煥生「第一次世界大戦における欧州戦線派兵要求と日本の対応」防衛研究所戦史部年報1号(19983月)18頁)。


 しかし,米国は,第一次世界大戦で約12万人の戦死者(American Battle Monuments Commissionのウェッブサイトによれば116,516人)を出し,戦間期は孤立主義に回帰。国際連盟にも加盟していません。欧州で第二次世界大戦が始まり,フランスが敗れ,英国が苦戦していても,「頼りになる同盟国」は,なお欧州戦線派兵を行いませんでした。苦戦中の英国宰相チャーチルがこれで勝ったと歓喜したのは,実は日本の真珠湾攻撃(1941127日(ハワイ現地時間))のニュースを聞いた時でした。

19411211日に,日独伊三国同盟条約の当事国であるドイツ及びイタリアが米国に対して宣戦。これは,ヒトラーの失敗だといわれています。ドイツの対米国宣戦通告文では,米国軍によるドイツ潜水艦の攻撃及びドイツ商船の拿捕を挙げて,米国がドイツに対してopen acts of warを行っているものと主張していますが,同日ヒトラーがドイツ国会議事堂でした長い演説が同じ月の30日付けで日独旬刊社出版局から『一千年の歴史を作らん』(「ヒトラー総統の対米宣戦布告の大演説」)との題名で出版されているところ,そこには次のようなくだりがあります。いわく,「茲に於いて独伊両国は,遂ひに,1940年9月27日附の三国条約の規定に遵ひ(getreu den Bestimmungen des  Dreimaechtepakts vom 27. September 1940),日本と相携へて,それら三国とその国民とを防衛し,且つそれに依つてその自由と独立とを維持せんがために,アメリカ合衆国と英国とに対する戦ひを開始するの止むなきに至つたのである(haben...sich...gezwungen gesehen)。」と(61頁。ドイツ文はWorld Future Fundのウェッブページから)。)


 また,12万の戦死者数は,日露戦争における我が戦死者数約8万4千人を大きく超えるものです(約84千人は,アジア歴史資料センターの「日露戦争特別展」ウェッブサイトの「はやわかり」ウェッブページが紹介する数字。当該サイトの「統計」ウェッブページには別に戦死者数55,655人という数字が出ています。)。旅順で苦戦中の乃木希典将軍の留守邸が投石を受け,ポーツマス条約の講和条件が「勝者」にとって不十分であるとして日比谷で焼き打ち事件が起こったのは,第一次世界大戦の当時,遠い昔の話ではありませんでした。


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(ヴェルダンの地下要塞見学コース)


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