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1 三種ノ神器と後鳥羽天皇及び後醍醐天皇

 安徳天皇を奉じ三種ノ神器を具しての平家都落ちを承けて前年急遽践祚した第82代後鳥羽天皇の即位の大礼を,後白河法皇が翌七月に行おうとしていることに関する元暦元年(寿永三年)(1184年)六月廿八日の九条兼実日記(『玉葉』)の批判的記述。

 

 ・・・何況(なんぞいわんや)不帯剣璽(けんじをおびざる)即位之例出来者(いできたらば),後代乱逆之(もとい),只可在(このことに)此事(あるべし)・・・

 

 壇ノ浦の合戦において安徳天皇が崩御し,平家は滅亡,三種ノ神器のうち鏡及び璽は回収されたものの剣は失われてしまったのは,その翌年のことでした。
 承久三年の乱逆は,元暦元年から37年後のことです。九条家は,兼実の孫の道家の代となっていました。 

 また,頼山陽『日本外史』巻之五新田氏前記楠氏にいわく。

 

 〔建武三年(1336年),後醍醐〕帝の(けつ)(かえ)るや,〔足利〕尊氏(すで)に新帝〔光厳天皇〕の弟を擁立す。これを北朝光明帝となす。帝に神器を伝へんことを請ふ。〔後醍醐〕帝(ゆる)さず。尊氏,〔後醍醐〕帝を花山院に(とら)へ,従行の者僧(ゆう)(かく)らを殺し,その余を(こう)(しゅう)す。・・・〔三条〕(かげ)(しげ)(ひそか)に計を進め,(のが)れて大和に(みゆき)せしむ。〔後醍醐〕帝,夜,婦人の()を服し,(かい)(しょう)より出づ。(たす)けて馬に(のぼ)せ,景繁,神器を(にな)つて従ふ。・・・ここにおいて,行宮(あんぐう)を吉野に(),四方に号令す。(頼成一=頼惟勤訳『日本外史(上)』(岩波文庫・1976年)313314頁)

 

 同じく巻之七足利氏正記足利氏上にいわく。

 

 〔後醍醐〕帝,〔新田〕義貞をして,太子を奉じ越前に赴かしめ,(しこう)して()を命じて闕に還る。〔足利〕直義,兵に将としてこれを迎へ,(すなわ)ち新主〔光明天皇〕のために剣璽を請ふ。〔後醍醐〕帝,偽器(ぎき)を伝ふ。(頼成一=頼惟勤訳『日本外史(中)』(岩波文庫・1977年)26頁)

 

 しかし,偽器まで使って(あざむ)き給うのは,さすがにどうしたものでしょうか。

 

2 天皇の退位等に関する皇室典範特例法案要綱

昨日(2017年5月10日),京都新聞のウェッブ・サイトに「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案要綱」というものが掲載されていました。当該要綱(以下「本件要綱」といいます。)の第二「天皇の退位及び皇嗣の即位」には「天皇は,この法律の施行の日限り,退位し,皇嗣が,直ちに即位するものとすること。」とあり,第六「附則」の一「施行期日」には「1 この法律は,公布の日から起算して3年を超えない範囲内において政令で定める日から施行するものとすること。」とあります。すなわち,全国民を代表する議員によって組織された我が国会が,3年間の期間限定ながら,内閣(政令の制定者)に対し,在位中の天皇を皇位から去らしめ(「天皇は,この法律の施行の日限り,退位し」というのは,法律施行日の夜24時に天皇は退位の意思表示をするものとし,かつ,当該意思表示は直ちに効力を生ずるものとするという意味ではなくて,シンデレラが変身したごとく同時刻をもって天皇は自動的に皇位を失って上皇となるという意味でしょう。),皇嗣をもって天皇とする権限を授権するような形になっています。

 

3 「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承と三種ノ神器

「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承の際三種ノ神器はどうなるのかが気になるところです。

手がかりとなる規定は,本件要綱の第六の七「贈与税の非課税等」にあります。いわく,

 

第二により皇位の継承があった場合において皇室経済法第7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物については,贈与税を課さないものとすること。

 

 皇室経済法(昭和22年法律第4号)7条は,次のとおり。

 

 第7条 皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。

 

(1)皇室経済法7条をめぐる解釈論:相続法の特則か「金森徳次郎の深謀」か

 本件要綱の第六の七には「皇室経済法第7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物」とあります。ところで,これは,皇位継承があったときに,皇室経済法7条によって直接,三種ノ神器その他の「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」の所有権は,特段の法律行為を要さずに前天皇から新天皇に移転するということでしょうか。見出しには「贈与税の非課税等」とありますが,ここでの「等」は,皇室経済法7条のこの効力を指し示すものなのでしょうか。

 皇室経済法7条については,筆者はかつて(2014年5月)「「日本国民の総意に基づく」ことなどについて」と題するブログ記事で触れたことがあります。ここに再掲すると,次のごとし。

 

皇室経済法7条は「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。」と規定しています。同条の趣旨について,19461216日,第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会において,金森徳次郎国務大臣は次のように説明しています。天皇にも「民」法の適用があることが前提とされています。

 

次ぎに第7条におきまして,日本国の象徴である天皇の地位に特に深い由緒ある物につきましては,一般相続財産に関する原則によらずして,これらのものが常に皇位とともに,皇嗣がこれを受けらるべきものなる旨を規定いたしております,このことはだいたいこの皇室経済法で考えておりまするのは,民法等に規定せられることを念頭にはおかないのでありまするけれども,しかし特に天皇の御地位に由緒深いものの一番顕著なものは,三種の神器などが,物的な面から申しましてここの所にはいるかとも存じますが,さようなものを一般の相続法等の規定によつて処理いたしますることは,甚はだ目的に副わない結果を生じまするので,かようなものは特別なるものとして相続法より除外して,皇位のある所にこれが帰属するということを定めたわけであります。

 

  天皇に民法の適用があるのならば相続税法の適用もあるわけで,19461217日,第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会におけるその点に関する小島徹三委員の質疑に対し,金森徳次郎国務大臣は次のように答弁しています。

 

・・・だいたい〔皇室経済法〕第7条で考えております中におきましては,はつきり念頭に置いておりますのは,三種の神器でありますけれども,三種の神器を物の方面から見た場合でありますけれども,そのほかにもここに入り得る問題があるのではないか,かように考えております,所がその中におきまして,極く日本の古典的な美術の代表的なものというようなものがあります時に,一々それが相続税の客体になりますと,さような財産を保全することもできないというふうな関係になりまして,制度の関係はよほど考えなければなりませんので,これもまことに卑怯なようでありますけれども,今後租税制度を考えます時に,はっきりそこをきめたい,かように考えております

 

  相続税法12条1項1号に,皇室経済法7条の皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,相続税の非課税財産として掲げられています。

  三種の神器は,国有財産ではありません。19461221日,第91回帝国議会貴族院皇室経済法案特別委員会における大谷正男委員の質疑に対する金森徳次郎国務大臣の答弁は,次のとおり。

 

此の皇位に非常に由緒のあると云ふもの・・・今の三種の神器でありましても,皇位と云ふ公の御地位に伴ふものでありますが故に,本当から云へば国の財産として移るべきものと考ふることが,少くとも相当の理由があると思つて居ります,処がさう云ふ風に致しますると,どうしても神器などは,信仰と云ふものと結び付いて居りまする為に,国の方にそれは物的関係に於ては移つてしまふ,それに籠つて居る精神の関係に於ては皇室の方に置くと云ふことが,如何にも不自然な考が起りまして,取扱上の上にも面白くない点があると云ふのでありまするが故に,宗教に関しまするものは国の方には移さない方が宜いであらう,と致しますると,皇室の私有財産の方に置くより外に仕様がない,こんな考へ方で三種の神器の方は考へて居ります・・・

 

  http://donttreadonme.blog.jp/archives/1003236277.html

 

 要するに筆者の理解では,皇室経済法7条は民法の相続法の特則であって,崩御によらない皇位継承の場合(相続が伴わない場合)には適用がないはずのものでした。生前退位の場合にも適用があるとすれば(確かに適用があるように読み得る文言とはなっています。),これは,皇位継承の原因は崩御のみには限られないのだという理解が,皇室典範(昭和22年法律第3号)及び皇室経済法の起草者には実はあったということになりそうです(両法の昭和天皇による裁可はいずれも同じ1947年1月15日にされています。)。「金森徳次郎の深謀」というべきか。

 しかし,皇室経済法7条が生前退位をも想定していたということになると,現行皇室典範4条の規定(「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」)は崩御以外の皇位継承原因を排除しているのだという公定解釈の存立基盤があやしくなります。そうなると,本件要綱の第一にある「皇室典範(昭和22年法律第3号)第4条の規定の特例として」との文言は,削るべきことになってしまうのではないでしょうか。

 

(2)贈与税課税の原因となる贈与と所得税の課税対象となる一時所得

 更に困ったことには,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承に伴い直ちに皇室経済法7条によって「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」の所有権が前天皇から新天皇に移転するのであれば,これは新旧天皇間の贈与契約に基づく財産の授受ではなく,そもそも贈与税の課税対象とはならないのではないでしょうか。

相続税法(昭和25年法律第73号)1条の4第1項は,贈与税の納税義務者を「贈与により財産を取得した個人」としていますが,ここでいう「贈与」とは民法549条の贈与契約のことでしょう(金子宏『租税法(第17版)』(弘文堂・2012年)543頁参照)。相続税法5条以下には贈与により取得したものとみなす場合が規定されていますが,それらは,保険契約に基づく保険金,返還金等(同法5条),定期金給付契約に基づく定期金,返還金等(同法6条),著しく低い価額の対価での財産譲渡(同法7条),債務の免除,引受け及び第三者のためにする債務の弁済(同法8条),信託受益権(同法第1章第3節),並びにその他対価を支払わないで,又は著しく低い価額の対価で利益を受けること(同法9条)であるところ,皇室経済法7条による「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」の所有権の移転がみなし贈与であるためには, 相続税法9条の規定するところに該当するか否かが問題になるようです。しかしながら,相続税法9条の適用がある事例として挙げられているのは,同族会社等における跛行増資,同族会社に対する資産の低額譲渡及び妻が夫から無償で土地を借り受けて事業の用に供している場合(金子546頁)といったものですから,どうでしょうか。同条の「当該利益を受けさせた者」という文言からは,当該利益を受けさせた者の効果意思に基づき利益を受ける場合に限られると解すべきではないでしょうか。

むしろ新天皇(若しくは宮内庁内廷会計主管又は麹町税務署長若しくは麻布税務署長)としては,一時所得(所得税法(昭和40年法律第33号)34条1項)があったものとして所得税が課されるのではないか,ということを心配すべきではないでしょうか。一時所得とは「利子所得,配当所得,不動産所得,事業所得,給与所得,退職所得,山林所得及び譲渡所得以外の所得のうち,営利を目的とする継続的行為から生じた所得以外の一時の所得で労務その他の役務又は資産の譲渡の対価としての性質を有しないもの」をいいます。(ちなみに,所得税法上の各種所得中最後に定義される雑所得は,「利子所得,配当所得,不動産所得,事業所得,給与所得,退職所得,山林所得,譲渡所得及び一時所得のいずれにも該当しない所得」です(同法35条1項)。)個人からの贈与により取得する所得には所得税は課税されませんが(所得税法9条1項16号),そうではない所得については,所得税の課税いかんを考えるべきです。(なお,民法958条の3第1項の特別縁故者に対する相続財産の分与については,1964年の相続税法改正後は遺贈による取得とみなされることとなって相続税が課されることになっていますが(相続税法4条),1962年の制度発足当初は,「相続財産法人からの贈与とされるところから」ということで所得税法による課税対象となっていたとのことです(久貴忠彦=犬伏由子『新版注釈民法(27)相続(2)(補訂版)』(有斐閣・2013年)958条の3解説・767頁。また,阿川清道「民法の一部を改正する法律について」曹時14巻4号66頁)。ただし,「贈与」とした上で「法人からの贈与」だからという理由付けで贈与税非課税(相続税法21条の3第1項1号)とせずとも,所得税の課される一時所得であることの説明は可能であったように思われます。1964年3月26日の参議院大蔵委員会において泉美之松政府委員(大蔵省主税局長)は「従来は一時所得といたしておりました」と答弁していますが(第46回国会参議院大蔵委員会会議録第20号10頁),そこでは「法人からの贈与」だからとの言及まではされていません。そして,神戸地方裁判所昭和58年11月14日判決・行集34巻11号1947頁は「財産分与は,従前は,相続財産法人に属していた財産を同法人から役務又は資産の譲渡の対価としてではなく取得するものであるから,所得税法に規定する一時所得に該当するものとして,所得税が課税されていた。」と判示していて,「贈与」の語を用いていません。)

しかし,今井敬座長以下「高い識見を有する人々の参集」を求めて開催された天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(2016年9月23日内閣総理大臣決裁)の最終報告(2017年4月21日)のⅣ2には「天皇の退位に伴い,三種の神器(鏡・剣・璽)や宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)などの皇位と共に伝わるべき由緒ある物(由緒物)は,新たな天皇に受け継がれることとなるが,これら由緒物の承継は,現行の相続税法によれば,贈与税の対象となる「贈与」とみなされる。」と明言されてしまっています。贈与税課税規定非適用説は,今井敬座長らの高い識見に盾突く不敬の解釈ということになってしまいます。

 

(3)本件要綱の第六の七の解釈論:贈与契約介在説

そうであれば,三種ノ神器等の受け継ぎが相続税法上の贈与税の課税原因たる「贈与」に該当することになるように,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承に際しての三種ノ神器等の承継の法律構成を,本件要綱の第六の七の枠内で考えなければなりません。

 

第二により皇位の継承があった場合において皇室経済法第7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物については,贈与税を課さないものとすること。

 

とあるのは,

 

第二により皇位の継承があった場合において皇室経済法第7条の規定の趣旨に基づく前天皇との贈与契約により皇位とともに皇嗣が受けた物については,贈与税を課さないものとすること。

 

との意味であるものと理解すべきでしょうか。(「贈与税の対象となる「贈与」と見なされる。」との文言からは贈与それ自体ではないはずなのですが,みなし贈与に係る相続税法9条該当説は難しいと思われることは前記のとおりです。)

皇室経済法7条により直接三種ノ神器等の所有権が移転するとしても,その原因たる「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承は実のところ現天皇の「譲位意思」に基づくものなのだから広く解して贈与に含まれるのだ,と頑張ろうにも,そもそも「83歳と御高齢になられ,今後これらの御活動〔国事行為その他公的な御活動〕を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じ」ていること(本件要綱の第一)のみから一義的に退位の意思,更に三種ノ神器の贈与の意思までを読み取ってしまうのは,いささか忖度に飛躍があるように思われるところです。

新旧天皇間の贈与については日本国憲法8条の規定(「皇室に財産を譲り渡し,又は皇室が,財産を譲り受け,若しくは賜与することは,国会の議決に基かなければならない。」)の適用いかんが一応問題となりますが,同条は皇室内での贈与には適用がないものと解することとすればよいのでしょう。

贈与税の非課税措置の発効は「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日の午前零時からです(本件要綱の第六の一)。課税問題を避けるためには,新旧天皇間の贈与契約の効力発生(書面によらない贈与の場合はその履行の終了(金子543頁))はそれ以後でなければならないということになります(国税通則法(昭和37年法律第66号)15条2項5号は贈与による財産の取得の時に贈与税の納税義務が成立すると規定)。しかし,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日当日の24時間中においてはなおも皇位継承は生じないところ(本件要綱の第二参照),その日のうちに三種ノ神器の所有権が次期天皇に移ってしまうのはフライングでまずい。そうであれば,あらかじめ天皇と皇嗣との間で,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日の翌日午前零時をもって三種ノ神器その他の皇位とともに伝わるべき由緒ある物の所有権が前天皇から新天皇に移転する旨の贈与契約を締結しておくべきことになるのでしょう(午前零時きっかりに意思表示を合致させて贈与契約を締結するのはなかなか面倒でしょう。)。

ちなみに,上の行うことには下これに倣う。相続税については,皇室経済法7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物の価額は相続税の課税価格に算入しないものとされていること(相続税法12条1項1号)にあたかも対応するように,人民らの墓所,霊廟及び祭具並びにこれらに準ずるものの価額も相続税の課税価格に算入しないこととされています(同項2号)。そうであれば,贈与税について,「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」による皇位継承に際して皇嗣が贈与を受けた皇位とともに伝わるべき由緒ある物については贈与税を課さないものとするのであれば,人民向けにも同様の非課税措置(高齢による祭祀困難を理由とした祭祀主宰者からの墓所,霊廟及び祭具並びにこれらに準ずるものの贈与について非課税措置を講ずるといったようなもの)が考えられるべきなのかもしれません。

 

(4)三種ノ神器贈与の意思表示の時期

とここまで考えて,一つ難問が残っていることに気が付きました。

天皇から皇嗣に対する三種ノ神器の贈与は,正に皇室において新天皇に正統性を付与する行為(更に人によっては三種ノ神器の授受こそが「譲位」の本体であると思うかもしれません。)であって,三種ノ神器も国法的には天皇の私物にすぎないといえども,当該贈与の意思表示を華々しく天皇がすることは日本国憲法4条1項後段の厳しく禁ずるところとされている「国政に関する権能」の行使に該当してしまうのではないか,という問題です。皇位継承が既成事実となった後に,もはや天皇ではなくなった上皇からひそやかに贈与の意思表示があるということが憲法上望ましい,ということにもなるのではないでしょうか。(三種ノ神器の取扱いいかんによっては信教の自由に関する問題も生じ得るようなので,その点からも三種ノ神器を受けることが即位の要件であるという強い印象が生ずることを避けるべきだとする配慮もあり得るかもしれません。「天皇に対してはもろに政教分離の原則が及ぶ,と考えざるを得ない。なぜか。憲法第20条第3項は「国及びその機関は,宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定しているからである。実際のところ,神道儀式を日常的に公然とおこなう天皇が,神道以外のありとあらゆる宗教・宗派を信奉する国民たちの「統合の象徴」であるというのは,おかしな話である。天皇は「象徴」であるためには,宗教的に中立的であらねばならない。」と説く論者もあるところです(奥平康弘『「萬世一系」の研究(下)』(岩波現代文庫・2017年(単行本2005年))264頁)。)

しかしそうなると,新天皇は「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行日の翌日午前零時に即位した時点においては三種ノ神器の所有権を有しておらず,当該即位は,九条兼実の慨嘆した不帯剣璽(けんじをおびざる)即位之例となるということもり得るようです。ただし,後醍醐前天皇が光明天皇にしたような三種ノ神器を受けさせないいやがらせは,現在では考えられぬことでしょう。(後醍醐前天皇としては,光明天皇の贈与税御負担のことを忖度したのだと主張し給うのかもしれませんが。)

なお,三種ノ神器は,国法上は不融通物ではありませんが(世伝御料と定められた物件は分割譲与できないものとする明治皇室典範45条も1947年5月2日限り廃止されています。),天皇といえども任意に売却等できぬことは(ただし,日本国憲法8条との関係では,相当の対価による売買等通常の私的経済行為を行う限りにおいてはその度ごとの国会の議決を要しません(皇室経済法2条)。なお,相当の対価性確保のためには,オークション等を利用するのがよろしいでしょうか。),皇室の家法が堅く定めているところでしょう。

面倒な話をしてしまいました。しかし,源義経のように三種ノ神器をうっかり長州の海の底に取り落としてしまうようなわけにはなかなかいきません。

ところで,長州といえば,尊皇,そして明治維新。現在,政府においては,明治元年(1868年)から150年の来年(2018年)に向け「明治150年」関連施策をすることとしているそうです。明治期の立憲政治の確立等に貢献した先人の業績等を次世代に(のこ)す取組もされるそうですが,ここでの「先人」に大日本帝国憲法の制定者である明治大帝は含まれるものか否か。
 大日本帝国憲法3条は,規定していわく。

 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

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仲恭天皇九条陵(京都市伏見区)(2017年11月撮影)
(後鳥羽天皇の孫である仲恭天皇は,武装関東人らが京都に乱入した承久三年(1221年)の乱逆の結果,在位の認められぬ廃帝扱いとされてしまいました。)
 
(ところで,その仲恭天皇陵の手前の敷地に,長州出身の昭和の内閣総理大臣2名が記念植樹をしています。)
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「明治維新百年記念植樹 佐藤榮作」(佐藤は,東京オリンピック後の1964年11月9日から沖縄の本土復帰後の1972年7月6日まで内閣総理大臣在職)
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「明治維新百年記念植樹 岸信介」(岸は,1957年2月25日から現行日米安全保障条約発効後の1960年7月19日まで内閣総理大臣在職)
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(1868年1月27日(慶応四年一月三日)から翌日にかけての鳥羽伏見の戦いにおける防長殉難者之墓が実は仲恭天皇陵の手前にあるところ,1867年11月9日(慶応三年十月十四日)の大政奉還上表提出(有名な徳川慶喜の二条城の場面はその前日)から100年たったことを記念して,1967年(昭和42年)11月に信介・榮作の兄弟は東福寺(京都市東山区)の退耕庵に共に宿して秋の京都を楽しみ,かつ,長州・防州(山口県)の尊皇の先達の霊を慰めた,ということなのでしょう。当時現職の内閣総理大臣であった榮作は,この月12日から20日まで訪米し(米国大統領はジョンソン),15日ワシントンD.C.で発表された日米共同声明においては,沖縄返還の時期を明示せず,小笠原は1年以内に返還ということになりました。帰国後11月21日の記者会見において佐藤内閣総理大臣は,国民の防衛努力を強調しています。)

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東福寺の紅葉
(東福寺を造営した人物は,仲恭天皇の叔父にして,かつ,摂政だった九条道家。しかし,ふと思えば,承久の変の際箱根迎撃論を抑えて先制的京都侵攻を主張し,鎌倉方の勝利並びに仲恭天皇の廃位及び後鳥羽・順徳・土御門3上皇の配流に貢献してしまった大江広元は,長州藩主毛利氏の御先祖でした。その藩主の御先祖のいわば被害者である仲恭天皇の陵の前で,長州人らが自らの尊皇を誇り,明治維新百年を祝うことになったとは・・・。) 


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1 高輪会議(1887年3月20日)と内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文の「高裁」

1887年3月20日に内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文,賞勲局総裁柳原前光,宮内省図書頭井上毅及び伊藤の秘書官伊東巳代治が高輪の伊藤博文別邸において行った「高輪会議」は,柳原の同月14日付け伊藤宛て書簡によれば,当時柳原が起案していた「皇室典範再稿」等について「井上毅・前光等貴館へ参会,大小(るち)縷陳(んにおよび)(こう)高裁(さいをえ)(そうら)()()公私ノ幸也(さいわいなり)不堪仰望(ぎょうぼうにたえず)(そうろう)」という趣旨で行われたものです(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立(木鐸社・1988年)187頁(振り仮名,読点及び中黒は筆者によるもの))。皇室典範の成案作成に向け,松下村塾生徒利助たりし維新の元勲・内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文の「高裁」を得ようとするものですから,はなはだ重い。この高輪会議については,筆者も当ブログで何度か御紹介したところです。

 

「明治皇室典範10条に関して」

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.html

「続・明治皇室典範10条に関して」

http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060127005.html

 

 同会議において,柳原「皇室典範再稿」の「第1章 皇位継承」中「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」と規定する第12条が伊藤及び柳原の首唱で削られ(小嶋「明治皇室典範」190頁),それに伴い同「第2章 尊号践祚」中第17条の「天皇崩シ又ハ譲位ノ日皇嗣践祚シテ即チ尊号ヲ襲ヒ祖宗以来ノ神器ヲ承ク」との規定が伊藤の首唱によって「第10条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と修正されました(小嶋「明治皇室典範」191頁)(章名も伊藤の首唱で「第2章 践祚即位」に変更(小嶋「明治皇室典範」190頁))。その結果,天皇の生前退位は,明治天皇の裁定に係る1889年2月11日の皇室典範(第10条が「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定)及び昭和天皇の裁可(1947年1月15日)に係る昭和22年1月16日法律第3号の皇室典範(第4条が「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」と規定)を通じて一貫して認められないもの(無効である,ということでしょう。)とされているものと広く解されていることは周知のとおりです(ただし,岩井克己「宮中取材余話・皇室の風103」選択43巻3号(2017年3月1日号)88頁を参照)。

 伊藤博文の「高裁」の重みは()くの如し,というべきか。

 実務上,伊藤博文名義の『皇室典範義解』の記述(「本条〔明治皇室典範10条〕に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はる者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」(下線は筆者によるもの)。なお,筆者は岩波文庫版の宮沢俊義校註『憲法義解』(1940年)を用いています。)は,皇室典範の本文それ自体に勝るとも劣らぬ解釈上の権威を有するものなり,というべきでしょうか。

 しかしながら,伊藤の「高裁」ないしは『皇室典範義解』における託宣にも,動揺し,遂に後には撤回変更に至らざるを得なくなった例があるところです。長州出身の大宰相だからとて,なかなか信用し切るわけにはいきません。

 永世皇族制(皇族は子々孫々永世皇族であるものとする制度)の採否をめぐる問題がそれです。

 

2 高輪会議における臣籍降下制度の採用と伊藤の変心・食言

 1887年3月20日の高輪会議の冒頭,柳原前光は,伊藤博文の見解を質し,「皇玄孫以上ヲ親王ト称シ以下ヲ諸王ニ列シ皇系疎遠ナルモノハ逓次臣籍ニ降シ世襲皇族ノ制ヲ廃スル事。附山階宮久邇宮庶子ヲ臣籍ニ列セラルル事」との確認を得ています(小嶋「明治皇室典範」188頁)。すなわち,臣籍降下制度を伴うことのない永世皇族制を採らないとの言質を内閣総理大臣兼宮内大臣から取ったわけです。柳原の「皇室典範再稿」の第105条には「皇位継承権アル者10員以上ニ充ル時ハ皇玄孫以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍ニ列スルコトアルヘシ」とあり,高輪会議を経て「第64条 皇位継承権アル皇族ノ増加スルニ随ヒ皇玄孫以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍ニ列スヘシ」となっています(小嶋「明治皇室典範」199頁)。「臣籍ニ列スルコトアルヘシ」から「臣籍ニ列スヘシ」へと,天皇から遠縁の皇族にとっては厳しい表現になっています。(なお,明治天皇の権典侍柳原愛子の兄である柳原前光は,後の大正天皇である嘉仁親王(1887年3月当時満7歳)の実の伯父に当たります。)

高輪会議を承けて同年4月25日に伊藤博文に,同月27日に井上毅にそれぞれ提出された柳原の「皇室典範草案」では「第71条 皇位継承権アル者増加スルニ従ヒ皇位ヲ距ルコト5世以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍ニ列スヘシ」となっており,それを井上は同年8月より前の段階で「第 条 皇族ノ増加スルニ従ヒ5世以下ノ疎属ハ逓次臣籍ニ列スヘシ」と修正しています(小嶋「明治皇室典範」202頁・206頁・208頁。ここで修正された皇室典範案は「井上の七七ヶ条草案」と呼称されています。)。

 しかし高輪会議におけるこの伊藤の「高裁」は動揺し,食言となります。すなわち,井上毅の前記七七ヶ条草案に対し,伊藤は変心したのか,「皇族ヲ臣籍ニ列スル2条削ルベシ」と指示するに至っているところです(小嶋「明治皇室典範」209頁・220頁)。

 

3 永世皇族制論者井上毅の1888年3月20日「修正意見」

とはいえこれは,井上毅にとっては喜ぶべき食言だったでしょう。18821218日に岩倉具視が総裁心得となった宮内省の内規取調局(駐露公使であった柳原前光とも連絡)による1883年の皇族令案には「親王ヨリ5世ニ至リ姓ヲ賜ヒ華族ニ列シ家産ヲ賜ヒ帝室ノ支給ヲ止ム/但シ養子トナルモ(なお)其ノ世数ヲ変スルコトナシという規定があったのでしたが,同年7月付けの「参謀山県有朋」名義の文書を代筆して,井上は・・・果シテ然ラハ四親王家ノ如キモ終ニ之ヲ廃セントスル() 按スルニ伏見宮ハ崇光ノ皇子栄仁親王ヲ祖トシ其ノ後八条宮今ノ桂宮高松宮今ノ有栖川宮閑院宮ヲ立テラレ(おのおの)猶子親王ヲ以テ世襲ノサマトナリ来レルハ・・・朝議継嗣ヲ広メ皇基ヲ固ウスルノ深慮ヨリ創設セラレシ者ナラン ・・・五百年ノ久シキニ因襲シ来ルトキハ今日ニ在リテ容易ニ廃絶ス()キニ非ス ・・・将来皇胤縄々ノ盛ナルニ拘ラス旧ニ依テ此ノ四家ヲ存シ四家(もし)継嗣ナキトキハ(すなわち)他ノ皇親ヲ以テ之ヲ継カシメ永ク小宗支流トナサンコト遠大ノ計ナルヘキ() 又5世ニ至リ華族ニ列スルノ議ハ周ノ礼ニ五世而親尽トイヒ大宝令ニ自親王(しんのうより)五世(おうのな)(をえた)王名(りといえども)不在皇親之限(こうしんのかぎりにあらず)トイヘルニ拠レルカ 然ルニ右ニ親尽トイフモ族尽トイハス 不在皇親之限(こうしんのかぎりにあらず)トイフモ不在皇族之限(こうぞくのかぎりにあらず)トイハス 故ニ5世以下ハ挙ケテ皇族ニ非ストナスコト(また)古典ニ(そむ)クニ似タリ ・・・」と批判していたところでした(小嶋和司「帝室典則について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』119頁‐124頁。振り仮名は筆者によるもの)。

1888年3月20日の井上の「修正意見」においては,井上の七七ヶ条草案から「第70条 皇族増加スルニ従ヒ5世以下疎属ヨリ逓次臣籍ニ列スヘシ」及び「第71条 皇族臣籍ニ列スル時ハ姓ヲ賜ヒ爵ヲ授ク」の2箇条はざっくり削られています(小嶋「明治皇室典範」210頁・220頁)。

 

4 枢密院審議における議長・伊藤の動揺

ところが,枢密院における皇室典範案の審議が始まり,1888年6月4日午後,皇室典範案第33条(「皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ生レナカラ男ハ親王女ハ内親王ト称フ5世以下ハ生レナカラ王女王ト称フ」)に関し,三条実美内大臣が口火を切って臣籍降下制度の必要を説き(「或ハ但シ書キヲ以テスルモ可ナリ桓武天皇以来ノ成例ヲ存シ姓ヲ賜フテ臣下ニ列スルノ余地ヲ存シ置タシ」),枢密顧問官ら(土方久元宮内大臣兼枢密顧問官,山田顕義司法大臣,榎本武揚逓信大臣兼農商務大臣,佐野常民枢密顧問官及び吉井友実枢密顧問官並びに次の伊藤議長発言後には寺島宗則枢密院副議長及び大木喬任枢密顧問官)からも例外なき永世皇族制採用に対する疑問ないしは臣籍降下制度に賛成する意見が次々と提示されると,伊藤博文枢密院議長は動揺します(これらの枢密院の議事の筆記は,アジア歴史資料センターのウェッブ・サイトで見ることができます。)。

 

議長 各位ノ修正説モ種々起リタレトモ,本条ニハ決シテ人臣ニ下スヲ得スト云フ(こと)ナシ。説明モ人臣ニ下スヲ禁スルノ意ニアラス。抑モ典範ハ未タ人臣ニ下ラサル皇族以上ノ為メニ設クルモノニシテ,既ニ人臣ニ降リタル者ハ典範ノ支配スル所ニアラス。又外国ノ例ヲ引テ皇族ノ人臣ニ列スルノ可否ヲ論セラルレトモ,外国ニ於テハ皇族ノ臣ニ列スルニ姓ヲ賜フト云フカ如キ厳格ナルモノアラス。故ニ比類シテ論スヘキニアラス。要スルニ此問題ハ典範中ノ難件ニシテ,最初原案取調ノ際ニハ5世以下人臣ニ下スノ条ヲ設ケ漸次疎遠ノ皇族ヨリ人臣ニ下スヿヲ載セタリシカ,種々穏カナラサル所アリテ遂ニ削除シタリシナリ。(振り仮名及び句読点は筆者によるもの)

 

 要は,伊藤博文が言いたかったのは,皇室典範案の文言だけ見ると例外なき永世皇族制度であって皇族の臣籍降下はないように見えるがそうではないのだよ,現に我々も原案においては臣籍降下制度の明文化を考えていたけれども「種々穏カナラサル所アリテ遂ニ削除シタ」だけなのだよ,オレが悪いんじゃないよ,ということのようです。

 しかし,このような説明が通るのであれば,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定する明治皇室典範10条についても,「本条ニハ決シテ譲位スルヲ得スト云フヿナシ説明〔「上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり」〕モ譲位ヲ禁スルノ意ニアラス・・・要スルニ此問題ハ典範中ノ難件ニシテ最初原案取調ノ際ニハ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得ノ規定ヲ設ケ譲位ノヿヲ載セタリシカ種々穏カナラサル所アルト思ヒテツイ削除シタリシナリ」といい得てしまうことになりそうです。
 なお,皇室典範枢密院諮詢案
33条について伊藤博文が言及する「説明」は,『皇室典範義解』の基となった枢密院の審議資料として配布されたコンニャク版(小嶋「明治皇室典範」258頁)の「皇室典範義解草案 第一」のことでしょう(伊藤博文編,金子堅太郎・栗野愼一郎・尾佐竹猛・平塚篤校訂『帝室制度資料 上巻〔秘書類纂第19巻〕』(秘書類纂刊行会・1936年)81頁以下。なお,『秘書類纂』も国立国会図書館のウェッブ・サイトで見ることができます。)。「皇室典範義解草案 第一」における枢密院諮詢案第32条(「皇族ト称フルハ太皇太后皇太后皇后皇子孫皇女孫及皇子孫ノ妃ヲ謂フ」)の説明には,「凡ソ皇族ノ男子ハ皆皇位継承ノ権利ヲ有スルモノナリ。・・・蓋シ5世ノ内外ハ親等ヲ分ツ所以ニシテ,其ノ宗族ヲ絶ツニ非ザルナリ。故ニ中世以来,(かたじけなく)累封邑(ふうゆうをかさね)空費府庫(むなしくふこをついやす)ヲ以テ(嵯峨天皇詔)姓ヲ賜ヒ臣籍ニ列スルノ例ハ本条ノ取ラザル所ナリ。・・・(之ヲ外国ニ参照スルニ,凡ソ王位継承ノ権アル者ハ総テ王族ト称ス,而シテ君主ノ子孫兄弟伯叔姪ノミヲ称ヘテ専ラ王族ト謂ヘル場合アルハ,其ノ等親及ビ特別ノ敬礼ニ就テ謂ヘルナリ,・・・若シ(それ)姓ヲ改メテ臣ト為ルノ事ハ各国ノ見ザル所ナリ)とあります(伊藤編『帝室制度資料 上巻』109110頁。振り仮名は筆者によるもの)。「中世以来・・・ノ例ハ本条ノ取ラザル所ナリ」は,「中古以来・・・の慣例を改むる者なり」と酷似した理由付けです。

 1888年6月4日に続く同月6日午前の枢密院の審議において,永世皇族制の推奨者である井上毅枢密院書記官長の見解は,伊藤議長を厳しく叱咤するごとし。

 

 ・・・議長ト其意見ヲ異ニセサルヲ得ス。本条〔枢密院諮詢案第33条〕正文ノ構成ヲ正当ニ読下セハ,天皇ノ御子孫ハ万世王女王ナリ。(句読点は筆者によるもの)

 

「・・・5世以下ハ生レナカラ王女王ト称フ」なのですから,「本条正文ノ構成ヲ正当ニ読下セハ天皇ノ御子孫ハ万世王女王ナリ」であることは当然のことです。問題は,「本条ニハ決シテ人臣ニ下スヲ得スト云フヿナシ」と言う伊藤「議長ト其意見ヲ異ニセサルヲ得ス」の部分ですが,これは,「生レナカラ王女王」として皇室典範の条文上有する特権を皇室典範における明文の根拠なしに当人の意思を無視して一方的に剥奪して「人臣ニ下ス」ことができないことはもちろんだ,ということでしょう。天皇ないしは天皇及び皇嗣自らの意思に基づくものである生前退位ないしは譲位とは,問題の場面が異なるようです。

臣籍降下制度の規定を設けるかどうかに係る前記の問題は,1888年6月6日午前,ついに採決となり,当該規定を設けることに賛成する者は10名,原案そのままに賛成する者14名で,1889年2月11日の皇室典範においては皇族の臣籍降下の制度は設けられないこととなりました(なお,小嶋「明治皇室典範」244頁)。

さて,賛成者・反対者の色分けはどうだったのでしょうか。伊藤議長及び寺島副議長以外の皇族,国務大臣及び枢密顧問官の出席者は合計24名でした。これらのうち,臣籍降下制度条項に賛成する発言をしていた者は,三条,土方,山田,榎本,佐野,吉井及び大木の7名,臣籍降下制度条項を不要とする発言をしていた者は松方正義大蔵大臣,副島種臣枢密顧問官及び河野敏鎌枢密顧問官の3名。残り14票は,熾仁親王,彰仁親王,能久親王,威仁親王,黒田清隆内閣総理大臣,山県有朋内務大臣,大隈重信外務大臣,大山巌陸軍大臣,森有礼文部大臣,福岡孝弟枢密顧問官,佐々木高行枢密顧問官,東久世通禧枢密顧問官,元田永孚枢密顧問官及び吉田清成枢密顧問官。これら14票はどう分かれたものでしょうか。柳原,三条等に見られるように一般に永世皇族制に冷淡なような公家の出身者の東久世枢密顧問官は臣籍降下制度条項に賛成したでしょうか。永世皇族制度を説く井上毅に名義を貸したことのある山県有朋は不要論でしょう。審議中沈黙を守っていた宮様ブロックの4名は,一致して臣籍降下条項不要の側に立ったことでしょう。

5 明治皇室典範30条及び31条と井上毅及び柳原前光

 

(1)井上毅

最終的に,1889年2月11日の皇室典範の第30条及び第31条は,次のとおりとなりました。

 

30条 皇族ト称フルハ太皇太后皇太后皇后皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃内親王王王妃女王ヲ謂フ

31条 皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ内親王トシ5世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス

 

皇室典範に別に特則が設けられなければ,当該皇族の同意なき一方的臣籍降下はないわけですが,「本条ニハ決シテ人臣ニ下スヲ得スト云フヿナシ」との伊藤博文発言が飛び出すような状況では,永世皇族制論者としての井上毅は不安であったでしょう。また,後に皇室典範の改正又は増補がされてしまうかもしれません。条文の外に「説明」においても強固な防備をしておく必要が感じられたもののようです。明治皇室典範10条に係る「・・・中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」との説明だけでは天皇の終身在位論の理由付けとしては弱いものとつとに考えていたであろう井上は(注),「皇室典範義解草案 第一」にあった「・・・故ニ中世以来,辱累封邑空費府庫ヲ以テ(嵯峨天皇詔)姓ヲ賜ヒ臣籍ニ列スルノ例ハ本条ノ取ラザル所ナリ。」だけでは同様に不十分であると当然思ったことでしょう(1888年6月4日午後の枢密院会議において松方大蔵大臣は,「断言」する強い表現だと受け取ってくれていたのですが。)。

(注)ついでながら,明治皇室典範10条の説明は,「皇室典範義解草案 第一」では「・・・中古権臣ノ強迫ニ因リ,両統互譲十年ヲ限トスルニ至ル。而シテ南北朝ノ乱亦此ニ源因セリ。故ニ後醍醐天皇ハ遺勅シテ在世ノ中譲位ナク,又剃髪ナカラシム(細々要記)。本条ニ践祚ヲ以テ先帝崩御ノ後ニ行ハルルモノト定メタルハ,上代ノ恒典ニ因リ中古以来譲位ノ慣例ヲ改ムルモノナリ。」となっていました(伊藤編『帝室制度資料 上巻』93頁。下線は筆者によるもの)。非妥協的かつ戦闘的な御性格であらせられた『太平記』の大主人公・後醍醐天皇の遺勅であるから終身在位なのだ,持明院統には互譲などせず皇位は譲らないのだ,ということではかえって剣呑であるようです(現皇室は持明院統の裔)。そもそも後醍醐天皇(大覚寺統傍系)は,文保の和談を承けて,在位10年の花園天皇(持明院統)から譲位を受けることができたところです。『皇室典範義解』においては書き改められて,後醍醐天皇云々が消えているのはあるいは当然の措置でしょう。

 したがって,『皇室典範義解』においては,「凡そ皇族の男子は皆皇位継承の権利を有する者なり。故に,中古以来
空費府庫(むなしくふこをついやす)を以て姓を賜ひ臣籍に列するの例は本条の取らざる所なり。」との説明(第30条解説)に加えて,1888年6月4日午後の枢密院会議で井上が弁じた永世皇族制弁護論の要旨が第31条解説に次のように付加されています。「皇室典範義解草案 第一」の枢密院諮詢案33条解説にはなかったものです。

 

 大宝令5世以下は皇親の限に在らず。而して正親司(おおきみのつかさ)司る所は4世以上に限る。然るに,継体天皇の皇位を継承したまへるは実に応神天皇5世の孫を以てす。此れ(すなわ)ち中古の制は(かならず)しも先王の遺範に非ざりしなり。本条に5世以下王・女王たることを定むるは,宗室の子孫は5世の後に至るも,亦皇族たることを失はざらしめ,以て親々の義を広むるなり・・・。

 
 井上は,前記枢密院会議において,「不幸ニシテ皇統ノ微継体天皇ノ時ノ如キことアラハ5世6世ハ申スまでモナシ百世ノ御裔孫ニ至ル迠モ皇族ニテハサンヿヲ希望セサルベカラス」「姓ヲ賜フテ臣籍ニ列スルノヿハ大宝令ニモ之ヲ載セス畢竟中古以後王室式微ノ時代一時ノ便宜ニ従テ御処分アリシ事ナルカ如シ」「皇葉ノ御繁栄マシマサハ是レ誠ニ喜フベキ事ニシテ継体天皇宇多天皇ノ御場合ノ如キハ大ニ不祥ノ事ト云ハサルヘカラス然ラハ仮令多少ノ支障ハアラントモ成ルベク皇族ノ区域ヲ拡張スルヿ誠ニ皇室将来ノ御利益ト云フヘシ」等と熱弁をふるっていたところです。

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桓武天皇及び継体天皇ゆかりの交野天神社(大阪府枚方市)

(2)柳原前光

 臣籍降下制度設置論者である柳原前光は,当該制度を皇室典範に設けないという食言的決定に対して,1888年5月頃伊藤博文宛てに次のように書き送っていました(「皇室典範箋評」。小嶋「明治皇室典範」238頁。振り仮名は筆者によるもの)。

 

 拙者ハ祖宗ノ例ヲ保守シ疎属ヨリ逓次臣籍ニ列スルノ持説ナリ 但シ本案永世皇族ヲ設クルニ決セラレタル上ハ波瀾ヲ避ケ謹テ緘黙傍観ス (より)テ安意ヲ乞フ 但シ遅ク(さんじゅう)年以内ヲ出テス実際大ニ(くるし)ミ必ス此事件ヨリ典範修正アラン 若シ不幸ニシテ其事ニ()閣下(こいねがわ)クハ僕ノ先見者タルヲ保証セラレンコトヲ願フ(のみ) 恐(しょう)々々

 

柳原は,枢密顧問官になるには年齢が足りず,枢密院における皇室典範案の審議に参加することができませんでした。

 

6 1907年の皇室典範増補と臣籍降下制度の(再)導入

 

(1)1907年皇室典範増補

しかしてその後,1889年の明治皇室典範の裁定から18年しかたたぬ1907年2月11日,皇族の臣籍降下制度を定める皇室典範増補が明治天皇により裁定され,同日公布(公式令(明治40年勅令第6号)4条1項)されました。

 

第1条 王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムルコトアルヘシ

 第2条 王ハ勅許ニ依リ華族ノ家督相続人トナリ又ハ家督相続ノ目的ヲ以テ華族ノ養子トナルコトヲ得

 第4条 特権ヲ剥奪セラレタル皇族ハ勅旨ニ由リ臣籍ニ降スコトアルヘシ

  〔第2項略〕

 第5条 第1条第2条第4条ノ場合ニ於テハ皇族会議及枢密顧問ノ諮詢ヲ経ヘシ

 第6条 皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス

 

(2)草葉の陰

 

ア 山田顕義

 1888年6月6日午前の枢密院会議で,「種々穏カナラサル所」からの影響のゆえか何のゆえか臣籍降下制度不要論を強硬に吠えた河野敏鎌(この人物は,司馬遼太郎の『歳月』において,「いい親分がみつかると,河野はどんなことでもする」と書かれてしまっていて損をしています。筆者は『歳月』に関して本ブログに記事(「司馬遼太郎の『歳月』の謎の読み方」)を書いたことがあります。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1842010.html)の発言に関して,「・・・本条原案ノ(まま)ニ存シ置クハ典範上ノ体面ハ美ナルカ(ごと)シト(いえど)モ,18番〔河野敏鎌〕自身ニモ既ニ陳述シタル如ク,本条将来ノ変換ハ勢ヒ免レ難キ所トス。賜姓列臣ヲ明条ニ掲クルハ忍ヒサル所ナリト雖モ,皇室万世ノ為メニ模範ヲ(のこ)サントスル今日ニ於テ,姑息ニ流レ徒ラニ体面(よそおう)ハ本官ノ取ラサル所ナリ。其変換ニシテ予期スヘカラサラシメハ止マン。(いやしく)モ予期スヘクンハ,他日典範ヲ変換シテ賜姓列臣ノ例ヲ開カサルヘカラサルノ時期ニ際会シ,何ノ必要アリテ祖宗千年ノ習慣ヲ此ノ中間ニ特ニ変更シタルカヲ(わら)フヘシ・・・次ニ18番ハ,御先代ノ経験ヲ鑑ミ帝室将来ノ利益ヲ(おもんぱかっ)テ之ヲ今日ニ改ムルハ忠精ヲ(つく)所以(ゆえん)ナリト論シタリ。然レトモ,他日必ス御先代ノ例ニ復スヘキヲ期シナカラ差シタル必要ナクシテ(みだ)リニ之ヲ改ムルハ,遂ニ後世ノ(わらい)ヲ免レス。各位幸ヒニ18番ノ説ニ迷ハス,23番〔佐野常民〕6番〔三条実美〕ノ修正ニ賛成アリタシ」(振り仮名及び句読点は筆者によるもの)と,臣籍降下制度を結局は導入する破目になって嗤われ者になるなとの警告を発していたこちらは長州の武家出身の山田顕義は,18921111に急死していました。山田がボアソナアドの協力を得てその編纂に心血を注いだ(旧)民商法の施行延期法(明治25年法律第8号(民法及商法施行延期法律))が明治天皇によって裁可されたのは山田急死の月の22日(副署した内閣総理大臣は伊藤博文,司法大臣は山県有朋),公布されたのは同月24日でした。


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山田顕義胸像(東京都千代田区三崎町の日本大学法学部前)

イ 柳原前光

臣籍降下制度導入に係る「先見者タルヲ保証セラレ」ることを見ることなく,柳原前光は,日清戦争の対清宣戦布告の翌月,1894年9月2日に早逝しました。

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右から4行目に「俊德院殿頴譽巍寂大居士 明治二十七年九月二日薨光愛卿二男/正二位勲一等伯爵柳原前光行年四十五歳」と彫られてあります(祐天寺(東京都目黒区中目黒)の柳原家墓所。なお,右後方に見えるのは,大正天皇の生母である柳原愛子の墓です。)。
 

ウ 井上毅

 永世皇族制の防衛者たるべかりし井上毅は,1895年3月17日,宿痾の結核で不帰の客となりました。伊藤博文が陸奥宗光と共に下関・春帆楼で李鴻章と第1回日清講和会談を行う3日前のことでした。

 

 「国家多事の日に際して,蒲団の上に死す。斯る不埒者には,黒葬礼こそ相当なれ」(長尾龍一「陰沈たる鬼才の謀臣 井上毅」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)3738頁参照)

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井上毅の墓(東京都台東区瑞輪寺)

(3)生き残る男・伊藤博文

ところで,1907年の皇室典範増補裁定の仕掛け人はだれだったでしょうか。ほかでもない,高輪会議での決定を翻して井上毅の七七ヶ条草案に対し「皇族ヲ臣籍ニ列スル2条削ルベシ」と食言的な指示をするに至った夫子御自身――伊藤博文その人でした。

19041012日に帝室制度調査局総裁として伊藤博文が明治天皇に対して行った上奏にいわく。

 

  臣博文帝室制度調査ノ

大命ヲ(つつし)ミ伏シテ(おもんみ)ルニ,皇室典範ハ

陛下立憲ヲ経始(けいし)〔開始〕シタマヘル制作ノ一ニシテ,帝国憲法ト並ニ不刊(ふかん)〔摩滅しない〕ニ垂ル,(しこう)シテ国家ノ景運蒸々(じょうじょう)向上するさまトシテ()(へん)〔大いに変ずる〕シ,皇室ノ基礎益々鞏固ニシテ文経武緯国光(あまね)寰宇(かんう)〔天子の治める土地全体〕ニ顕揚スルコト,今ハ(はるか)(ちゅう)(せき)ノ比ニアラズ。・・・是ニ於テ()皇室ノ宝典モ(また)(いささ)カ其ノ未ダ備ハラザルモノヲ増補シテ以テ(こう)(こん)〔後の子孫〕ニ昭示スルノ必要ヲ生ズ。即チ皇族支胤ノ繁盛ト皇室費款ノ増益トニ視テ,其ノ疎通ヲ図ルガ如キ・・・ハ特ニ其ノ(ゆう)ナルモノニシテ,実ニ日新ノ時宜ニ鑑ミ乾健ノ宏綱ヲ進張スル所以(ゆえん)ノ道ナルコトヲ信ズ。(ここ)ニ別冊皇室典範増補条項ニ付キ慎重審議ヲ()ヘ,其ノ事由ヲ前条ノ下ニ注明セシメ謹デ上奏シ(うやうやし)

 聖裁ヲ仰グ。(伊藤博文編,金子堅太郎・栗野愼一郎・尾佐竹猛・平塚篤校訂『雑纂 其壱〔秘書類纂第24巻〕』(秘書類纂刊行会・1936年)2526頁。振り仮名は筆者によるもの

 

 「何が今更「是ニ於テ乎皇室ノ宝典モ亦聊カ其ノ未ダ備ハラザルモノヲ増補シテ以テ後昆ニ昭示スルノ必要ヲ生ズ」だ,最初から臣籍降下制度がのちのち必要になるって分かっていたくせに。自分の失敗を棚に上げて。」と,1888年6月4日午後及び同月6日午前の枢密院会議のいずれにも臨御していた明治天皇は,内心苦笑いしていたことでしょう。

 とはいえ,山田,柳原,井上らは既に亡し。「何ノ必要アリテ祖宗千年ノ習慣ヲ此ノ中間ニ特ニ変更シタ」んだったっけねと嗤われもせず,それみたことか「僕ノ先見者タルヲ保証セ」よと嫌味を言われもせず,「其意見ヲ異ニセサルヲ得ス」と叱られもせず,政治家たるもの,長生きするのが勝ちです。

 

7 皇室典範の「増補」について

 しかしながら,「改正」といわず,「亦聊カ其ノ未ダ備ハラザルモノヲ増補」という方が法典に手を入れやすいですね。「改正」ですと,被改正条項が将来のことをよく考えていなかったから状況の変化に対応しきれずに駄目になったので改めて正されねばならないのか,あるいは最初から駄目だったので改めて正されねばならないのか,ということでそもそもの立法者の面子の問題になってしまいます。その点を避けることのできる「増補」概念は,皇室典範自身の規定するものです。

 

 第62条 将来此ノ典範ノ条項ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要アルニ当テハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シテ之ヲ勅定スヘシ

 

状況が変化してしまったので足らざるところが生じたところ,当該変化に素直に応じた増補である,という方が,説明がしやすい。「増補」概念がそもそも組み込まれている点において,皇室典範は動的かつ柔軟ないわば開かれた規範体系である,ともいい得るかもしれません。伊藤博文は,自身の失敗指示の回復策である1907年皇室典範増補の実現に向けて,当該「増補」概念をうまく活用したということであるようにも思われます。(ただし,公式令4条1項における整理では,「増補」は「改正」に含まれるものとされているようです。)

 しかしてこの「増補」概念の導入者はだれでしょうか。

 柳原前光です。

1887年3月20日の高輪会議後の同年4月25日に伊藤博文に,同月27日に井上毅にそれぞれ提出された柳原の前記「皇室典範草案」において,「此典範ヲ改正増補セント欲スル時ハ皇族会議及ヒ内閣,宮中顧問官ニ諮詢シ之ヲ決定ス」との条項が新加されていたところです(小嶋「明治皇室典範」202203頁。下線は筆者によるもの)。井上毅はその七七ヶ条草案に至る過程において,当該条項については,「此ノ典範ハ改正増補スヘカラザル者ナリ 改正増補ハ不得已(やむをえざる)ノ必要ニ限ルヘキナリ 故ニ左ノ如ク修正スヘシ/将来此ノ典範ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要ヲ見ルニ当テハ皇族会議及内閣宮中顧問官ニ諮詢シ之ヲ決定スヘシ」とています(小嶋「明治皇室典範」207頁。振り仮名は筆者によるもの)。確かに「欲スル」だけで改正増補がされ得るのはおかしい。しかしながら,「増補」概念は維持されています。

上記高輪会議の結果としては「天皇譲位の制度の否認されたことがもっとも注目される」ところですが(小嶋「明治皇室典範」200頁),その直後における皇室典範に係る「増補」概念の導入に当たって柳原及び井上の念頭に共通にあったのは,生前退位ないしは譲位に関する規定の「増補」だったのかもしれません。(臣籍降下制度についてまず「増補」がされることになるとは,高輪会議の終了時点では予想されていなかったでしょう。)

 

・・・是ニ於テ乎皇室ニ関スル法典モ亦聊カ其ノ未タ備ハラサルモノヲ増補シテ以テ後昆ニ昭示スルノ必要ヲ生ス即チ 聖上及ヒ皇族ノ御長寿ト国事行為及ヒ象徴トシテノオ務メノ御増益トニ視テ皇位ノ疎通ヲ図ルカ如キハ特ニ其ノ尤ナルモノニシテ実ニ日新ノ時宜ニ鑑ミ乾健ノ宏綱ヲ進張スル所以ノ道ナルコトヲ信ス・・・

 

 無論,臣下による天皇の廃位に関する規定の増補ということは全く考えられていなかったはずです。
 また,そのような国賊的なことを,長州出身の元尊皇の志士・俊輔伊藤博文が許したわけがありません。文久二年十二月二十一日(1863年2月9日),和学講談所の塙忠宝は,「天皇廃立の先例を調べているとの風聞によって」,伊藤博文(当時21歳)らによって暗殺されています(伊藤博文伝(春畝公追頌会編)に基づく『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)の記載。塙は翌二十二日死亡)。
森鷗外の『澀江抽斎』(1916年)のその七十六には,「此年〔文久二年〕十二月二十一日の夜,塙次郎が三番町で刺客せきかくおとた。岡本さうである。次郎温古た。保己一四谷寺町祖父である。当時流言次郎安藤対馬のぶゆき廃立先例取り調わうくわである。遺骸大逆天罰があた。次郎文化十一年四十九歳わかであた。」とあす。

 
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 大勲位伊藤博文公墓所(東京都品川区西大井)

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19091026日午前狙撃を受け清国ハルビン駅の〕車室内に横臥した〔伊藤〕博文は,小山医師及び出迎への露国医師の応急手当てを受けながら,

大分(だいぶ)弾丸(たま)やうだ。何奴(どいつ)だ」た。

「朝鮮人ださうです。」

 中村〔是公〕満鉄総裁が説明すると,

「馬鹿」と言つたがその時,彼の顔色が急変して,脂汗が流れ出した。(久米正雄『伊藤博文伝』(改造社・1931年)384頁)

 

 同日午前10時死亡。享年69歳。190911月4日日比谷公園で国葬。

 

 葬儀が済む頃は雨になつた。濡れそぼつた柩は,数個中隊の騎兵に護られ,少数の親戚知友に送られて,大森なる恩賜館附近,(たに)(だれ)(うづ)められた。(久米390頁)


弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

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1 「譲位の慣例を改むる者」の強行規定性の有無

 明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)に関する前回のブログ記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.html)においては,同条に関する伊藤博文の『皇室典範義解』の解説(「本条に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はるゝ者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」(宮沢俊義校註『憲法義解』岩波文庫(1940年)137頁))をもって,同条及び現在の皇室典範(昭和22年法律第3号)4条には「天皇の生前譲位を排除する趣旨」があるものとあっさり記しました。しかしながらよく考えるとその先の問題として,「譲位の慣例を改むる」ことによって,実際に天皇が「退位」した場合(「・・・花山寺におはしましつきて御髪おろさせたまひ・・・」)に退位によってもはや天皇ではなくなるという法律効果までも無効になるものかどうか,なお議論の余地があるようです。

(なお,「譲位」というと皇嗣に皇位を譲るという先帝の意思の存在及び更には当該先帝の意思と皇位を譲られる皇嗣の意思との合致が含意されるようでもありますが,「退位」ならば先帝の単独の行為であり,かつ,皇嗣に皇位を譲る効果意思を必ずしも含まないものとするとのニュアンスがより強いようです。美濃部達吉は「皇位ノ継承ハ法律行為ニ非ズシテ法律上当然ニ発生スル事実ナリ」と述べていますが(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)183頁),皇位継承は天皇の効果意思に基づくものではないということでしょう。)

譲位を慣例とはしないということのみであれば,「例外的」譲位は有効にあり得るようにも思われます。明治皇室典範の性格に関して『皇室典範義解』は「祖宗国を肇め,一系相承け,天壌と与に無窮に垂る。此れ(けだし)言説を仮らずして既に一定の模範あり。以て不易の規準たるに因るに非ざるはなし。今人文漸く進み,遵由の路(かならず)憲章に依る。而して皇室典範の成るは実に祖宗の遺意を明徴にして子孫の為に永遠の銘典を(のこ)す所以なり。」と説いていますが(岩波文庫127頁),従来多くの天皇が行った生前譲位を有効と認める以上は,生前譲位は「不易の規準」に反して本来的に無効であるということにはならないでしょう。そもそも明治皇室典範については「既に君主の任意に制作する所に非ず。」とされていますから(『皇室典範義解』岩波文庫127頁),従来有効であった生前譲位ないしは退位を明治天皇の「任意に制作する所」の強行規定をもって1889年2月11日以降無効化したとまでいい得るものでしょうか。『皇室典範義解』の説明文は,退位の有効性を前提としつつも,あえて生前に退位はしないという「上代の恒典」への運用の復帰を求めているものというようにも解することができそうです。そう考えて明治皇室典範10条を見ると,確かに同条の文言自体は,それだけで退位有効論を完全に排除するものとまではいえません。また,現在の皇室典範の法案が審議された1946年12月の第91回帝国議会においても,政府は天皇の「退位」はおよそ無効であるとまでは答弁していません。同議会における金森徳次郎国務大臣の答弁の言葉尻を見てみると,「・・・天皇に私なし,すべてが公事であるという所に重点をおきまして,御譲位の規定は,すなわち御退位の規定は,今般の典範においてこれを予期しなかった次第でございます。」(第91回帝国議会衆議院議事速記録第6号67頁),「・・・かような〔天皇の〕地位は,その基本の原則に照して処置せらるべきものでありまするが故に,一人々々の御都合によつてこれをやめて,たとえば御退位になるというような筋合いのものではなかろうと思うのであります」(同議会衆議院皇室典範案委員会議録(速記)第4回20頁),「退位の問題につきましては,相当理論的にも実際的にも考慮すべき点が残されておるように思うのでありまして・・・」(同26頁),「・・・或はお叱りを受けるか知りませんが,まずそういう場面〔「天皇が自発的に退位されたいという場合」,「天皇が希望される婚姻をどうしても皇室会議が承認できないというような場合」〕が起らないように,適当に事実が実質において調節せらるゝものであろうということを仮定をして,この皇室典範ができておるわけでありまして・・・」(同33頁),「・・・しかして国民はかような場合におきまして,御退位のあることを制度の上に書くことは希望していない,かように考えます」(同33頁),「事実としてそういう考え〔「象徴の地位におられることを欲しないという精神作用」〕が起るかどうかということにつきましては,歴史の示す所は,事実としてかような考えが起つておることを認め得るがごとくであります,しかし事実ではない,かくあるべきものとしての姿としてそれを認めるかどうかということになりますれば,私自身の見解から言えば,日本の皇位は万世一系の血統を流れるものである,しかもそれは一定の原理に従つて流れるものであるということを前提として,憲法はこれを掲げております,従つてそれを打切ることはできないものであると,かように考えております」(34頁),「・・・細かい理窟を抜きに致しまして,国民は矢張り御退位を予想するやうな規定を設けないことに賛成をせらるゝのではなからうか,斯う云ふ前提の下に皇室典範の起草を致しました・・・」(同議会貴族院議事速記録第6号88頁)等々,生前退位はあるべきものではないとしつつ,そこから先は,「予期しなかった」ということで,必ずしも詰めてはいなかったようです。 

 

2 1887年3月20日の高輪会議再見

 伊藤博文,井上毅,柳原前光らの1887年3月20日の高輪会議(憲法案に係る同年1015日のものとは異なります。)において柳原前光の「皇室典範再稿」12条(「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」)が削られるに至った過程について,前回のブログでは,伊藤博文の削るべしとの首唱に柳原が「迎合」したと書きました。しかしながら,柳原前光は,何の考えもなしに伊藤に対して単純に迎合したわけではなかったようです。

柳原は「但書ヲ削除スルナレハ寧ロ全文ヲ削ルヘシ」と言っています。肥後人井上毅の「人間だもの」論(「至尊ト(いえども)人類ナレハ其欲セサル時ハ何時ニテモ其位ヨリ去ルヲ得ベシ」)くらいでは生前退位を排除しようとする長州藩の足軽出身の権力者・内閣総理大臣伊藤博文の翻意は無理と見て取った京都の公家出身の柳原は,「但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」として退位を容認することとしていたただし書のみならず,「天皇ハ終身大位ニ当ル」として終身在位を制度化する本文も併せて削られることを確保することとして,生前退位容認論と終身在位制度化論との間での法文上でのいわば相討ちを図ったのではないでしょうか。

高輪会議後の1887年4月25日に伊藤に提出された柳原の「皇室典範草案」では,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」との高輪会議決定案10条が二つの条に分割され,当該「皇室典範草案」を検討して井上毅が作成した「七七ヶ条草案」においても「第10条 天皇崩スル時ハ皇嗣即チ践()ス」及び「第11条 皇嗣践()スル時ハ祖宗ノ神器ヲ承ク」とされ崩御による践祚についての規定と践祚の際(先帝の崩御によるものに限定はされていません。)の剣璽渡御についての規定との別立て維持されていました。結局両条は再統合されますが,生前退位容認論者であったの立法技術的操作には,それなりの含意があったというべきでしょう。
 なお,「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」と規定する大日本帝国憲法2条に関する『憲法義解』の解説は,「恭て按ずるに,皇位ノ継承ハ祖宗以来既に明訓あり。以て皇子孫に伝へ,万世易ふること無し。若夫継承の順序に至つては,新に勅定する所の皇室典範に於て之を詳明にし,以て皇室の家法とし,更に憲法の条章に之を掲ぐることを用ゐざるは,将来に臣民の干渉を容れざることを示すなり。」というものです(岩波文庫25頁。下線は筆者によるもの)。井上毅が書いたものとして,新たな明治皇室典範は専ら皇位「継承の順序」を「詳明」にすべきものであって,継承の原因等は依然「祖宗以来」の「明訓」のままでよいのだという趣旨まで深読みしてよいものかどうか。はてさて。 


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 東京都港区高輪四丁目の伊藤博文高輪邸宅地跡(1889年,岩崎久弥に売却)
 

3 『皇室典範義解』の拘束力の射程

 現在の皇室典範4条の文言(「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」)は,剣璽渡御に関係する明治皇室典範10条後段を削ったことによって,むしろ井上毅の「七七ヶ条草案」10条と対応するものになっています。(なお,法文からは削られたもののやはり必要な儀式ということでしょうが,今上天皇践祚に当たって「剣璽等承継の儀」が新天皇の国事行為として行われています。これは先帝が崩じたから伝統的な意味での践祚をするために行われたものか,皇嗣が既に「直ちに即位」したから行われたものか。)

明治皇室典範10条に係る『皇室典範義解』の解釈に過度に拘束されずに,現在の皇室典範4条は,単に「皇位ノ継承ハ法律行為ニ非ズシテ法律上当然ニ発生スル事実」であること(また,「皇位の一日も曠闕すべからざる」こと(『皇室典範義解』岩波文庫137頁)),皇位継承に新天皇の宣誓(例えば,1831年のベルギー国憲法80条2項は「国王は,両議院合同会の前で,厳粛に次の宣誓をするまでは,王位につくことができない。/「余は,ベルギー国民の憲法および法律を遵守し,国の独立および領土の保全を維持することを誓う。」」と規定していました(清宮四郎訳『世界憲法集 第二版』(岩波文庫・1976年)89頁)。)は不要であるということ,先帝崩御は皇位継承をもたらす一つの法律事実であること,を意味するものにすぎないと解することは可か不可か。

 大日本帝国憲法と『憲法義解』との関係について,小嶋和司教授は,「『憲法義解』は法源ではないが,政府の憲法解釈を拘束した」が,大日本帝国憲法の「わずか4人の起草関係者の間に存した・・・解釈の対立は,それが法の指示においてさえ完璧でなかったことを断定せしめる」ところ,「今日,明治憲法典の起草趣旨を簡単に知る方法として『憲法義解』の参照がおこなわれる」が「しかし,それが叙述しないか,叙述を不明確にしている場合に,起草者は問題を知らなかったとか看過したと断定してはならない。それ〔は〕学問的には怠惰な即断となる」と述べています(小嶋和司「明治二三年法律第八四号の制定をめぐって」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)441頁,440頁)。明治皇室典範ないしは現在の皇室典範と『皇室典範義解』との関係も,同様に考えるべきでしょう。そう簡単ではありません。ちなみに,『皇室典範義解』における明治皇室典範10条解説の結語である「本条に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はるゝ者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」は,高輪会議の前月である1887年2月段階における井上毅の「皇室典範」案13条の「説明」案に「本条ハ実ニ上代ノ恒典ニ因リ断シテ中古以来ノ慣例ヲ改ムル者ナリ」とあったものを(園部逸夫『皇室法概論』(第一法規・2002年)438頁参照)承けたものでしょう。しかしながら,当の井上自身は当該理由付けをもって例外を許さないほど強いものとは評価していなかったところです。その上記「皇室典範」案13条は生前譲位についても定めているのです。いわく,「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ノ重患アルトキハ皇位継承法ニ因リ其位ヲ譲ルコトヲ得」と(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』185‐186頁参照)。明治皇室典範10条に関する『皇室典範義解』の解説について奥平康弘教授は「譲位制度はよろしくなく,「上古ノ恒典」に戻るべきであるとする説明に『皇室典範義解』は,十分に成功していないというのが,私の印象である。」と述べていますが(同「明治皇室典範に関する一研究―「天皇の退位」をめぐって―」神奈川法学第36巻第2号(2003年)159頁),当該「印象」は,井上毅の立場からすると,むしろ正しい読み方に基づくものということになるのかもしれません。

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 東京都台東区谷中の瑞輪寺にある井上毅の墓

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 「病弱な井上は,その後〔1893年・第2次伊藤内閣〕文部大臣にもなったが,明治28年〔1895年〕に逝去し,はやく忘れられた。」(小嶋「明治二三年法律第八四号」442頁)

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 瑞輪寺山門の扁額は井上毅の揮毫したもの 

 
4 英国における特別法による国王退位

 しかしながら,事実として,国王による単独の法律行為としての退位は無効であるとする法制は可能ではあります。

英国がその例です。

エドワード8世は,19361210日に退位声明を発しましたが(いわゆる「王冠を賭けた恋」事件),当該退位が効力を発するためには議会及び国王による同月11日の立法を要しました。次に,19361211日の「国王陛下の退位宣言に効力を与え,及び関連する事項のための法律(An Act to give effect to His Majesty’s declaration of abdication; and for purposes connected therewith.)」を訳出します。

 

  国王陛下は,本年1210日の勅語(His Royal Message)において陛下御自身及びその御子孫のために王位を放棄する不退転の御決意(irrevocably determined)である旨声明あそばされ,並びに当該目的のために本法の別記に掲載された退位詔書(Instrument of Abdication)を作成され,並びにそれに対して効力が直ちに与えられるべき旨の御要望を表明されたところ,

  並びに,国王陛下の前記声明及び要望の海外領土に対する伝達を承け,カナダは1931年のウェストミンスター憲章第4節の規定に従い本法の立法を要求しかつそれを承認し,並びにオーストラリア,ニュー・ジーランド及び南アフリカはそれに同意したところ,

  よって,至尊なる国王陛下により,現議会に召集された聖俗の貴族及び庶民の助言及び承認によりかつそれらと共に,並びに現議会の権威により,次のように立法されるべし。

  1(1)本法が裁可されたときに,現国王陛下が19361210日に作成した本法の別記に掲載されている退位詔書は直ちに効力を発し,並びにそれに伴い国王陛下は国王ではなくなり(His Majesty shall cease to be King),及び王位継承(a demise of the Crown)が生じ,並びにしたがって次の王位継承順位にある王族の一員が王位並びにそれに附随する権利,特権及び栄誉を承継する。

  (2)国王陛下の退位後には,陛下,もし誕生があればそのお子及び当該お子の子孫は,王位の継承において又はそれに対して何らの権利,権原又は利益を有さず,並びに王位継承法(Act of Settlement)第1節はそれに応じて読み替えられるものとする。

  (3)御退位後には,1772年の王室婚姻法は,陛下にも,もし誕生があれば陛下の子又は当該子の子孫にも適用されない。

  2 本法は,1936年の国王陛下退位宣言法(His Majesty’s Declaration of Abdication Act, 1936)として引用されることができる。

 

  別記

  

  余,グレート・ブリテン,アイルランド及び英国海外領土の王,インド皇帝であるエドワード8世は,王位を余自身及び余の子孫のために放棄する余の不退転の決意並びにこの退位詔書に直ちに効力が与えられるべしとの余の要望をここに宣言する。

  上記の証として,下記署名に係る証人の立会いの下,19361210日,ここに余が名を記したるものなり。

                           国王・皇帝 エドワード

  アルバート

  ヘンリー

  ジョージ

  の立会いの下,フォート・ベルヴェデールで署名

 

なお,英国の1689年の権利章典は,「ウエストミンスタに召集された前記の僧俗の貴族および庶民は,次のように決議する。すなわち,オレンヂ公および女公であるウィリアムとメアリは,イングランド,フランス,アイルランド,およびそれに属する諸領地の国王および女王となり,かれらの在世中,およびその一方が死亡した後は他の一方の在世中,前記諸王国および諸領地の王冠および王位を保有するものとし,かつその旨宣言される。王権は,公および女公双方の在世中は,王権は〔ママ〕,公および女公の名において,前記オレンヂ公が単独かつ完全に行使するものとし,公および女公ののちは,前記の諸王国および諸領地の王冠および王位は,女公の自然血族たる直系卑属の相続人に伝えられ」,「王権および王政は,両陛下とも在世のうちは,両陛下の名において,国王陛下のみによって,完全無欠に行使さるべきこと。両陛下とも崩御されたのちは,前記王位および諸事項は,女王陛下の自然血族たる直系卑属に帰すべきこと。」と規定しています(田中英夫訳『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)83‐84頁,86‐87頁)。議会によって,「在世中」(during their lives)は王位にあるべきもの(to hold the crown and royal dignity)とされ,法律となっています。
 エドワード8世の退位問題には昭和天皇が深い関心を持っていました。宮内庁の『昭和天皇実録第七』(東京書籍・2016年)の1936年12月4日の項には「侍従長百武三郎に対し,新聞報道されている英国皇帝エドワード8世に関する件につき,外務省とよく連絡を取り報告するよう命じられる。後刻,侍従長より,本日英国駐箚特命全権大使よりもたらされた情報として,同皇帝が米国人ウォリス・シンプソンとの御結婚に固執のため内閣と衝突状態にある旨の言上を受けられる。翌日午後,侍従長より,英国首相スタンリー・ボールドウィンの憲法上の理由により御結婚に反対する旨の声明につき言上を受けられる。また8日にも侍従長より,外務省からの情報の言上を受けられる。なお,エドワード8世は皇位放棄を決意され11日に御退位,皇弟ヨーク公がジョージ6世として皇位に就かれる。」とあります(240‐241頁)。立憲君主とその内閣とが衝突すれば,君主が引っ込まざるを得ないということでしょうか。ボールドウィンは,同月10日の英国庶民院における演説において"We have, after all, as the guardians of democracy in this little island to see that we do our work to maintain the integrity of that democracy and of the monarchy, which, as I said at the beginning of my speech, is now the sole link of our whole Empire and the guardian of our freedom."と述べています。『昭和天皇実録第七』の同月11日の項においては「午前,侍従長百武三郎が入手した英国皇帝エドワード8世の御退位に関する英国駐箚特命全権大使の電報を御覧になり,侍従長に対し,同皇帝御退位に関して発する電報の内容につき,式部職と連絡し処理するよう命じられる。13日,英国大使より外務省を経て新皇帝即位の公報到達につき,新皇帝ジョージ6世に対し祝電を御発送になる。なお,前皇帝御退位については触れられず,新皇帝即位に対する祝意のみを伝えられる。15日,答電が寄せられる。」と記録されています(244‐245頁)。

 

5 ベルギー国における憲法に規定のない国王退位の実例

大日本帝国憲法がその手本の一つとしたベルギー国憲法においては,明治皇室典範(及び現行の皇室典範)同様に崩御による王位継承に関する条項しかないにもかかわらず,同国においては国王の生前退位が認められています。

リエージュ大学教授クリスチャン・ベーレント(Christian Behrendt)及び同大学准教授フレデリック・ブオン(Frédéric Bouhon)の『一般国法学入門・教科書(Introduction à la Théorie générale de l’État. Manuel)』(Larcier, 2009年)には次のようにあります(138頁)。こちらの国では,国王の退位を有効ならしめるための立法までは必要としないようです。

 

 ベルギー法においては,国王の公的生活に係る全ての行為は,大臣副署の義務に服する。純粋に私的な行為のみが当該憲法規律に服さないところである。公的生活においては,退位が,大臣副署なしに国王が実現できる唯一の行為である。ベルギーの歴史において,レオポルド3世が,退位した(1951年7月16日)唯一の〔2013年7月21日のアルベール2世の退位前の記述です。〕国王である(註)。ベルギー国憲法が国王に対して退位する権利を明示的に認めていないとしても,そこでは条文の沈黙の中においても存在する権能(faculté)が問題となっていると考えることについて意見は一致している。もはや彼の務めを果たそうという気を全く失っている人物,又は――レオポルド3世が退く前がそうであったように――叛乱の雰囲気を醸成し,及び本格的内乱のおそれが国家の上に漂うことを許すまでに全国の国民を分極化せしめる人物を頭に戴き続けることは,実際のところ明らかに,国家の利益にかなうものではない。

 

(註)彼の退位詔書(acte d’abdication)は1951年7月1617日の官報(Moniteur belge)に掲載された。レオポルド3世が実際に退位した唯一の国王であるとしても,退位の権利の存在は,王国の始めに遡るようである。1859年に国王レオポルド1世は,彼の心に特にかかる事案に関して国会議員らに圧力を加えるために,退位に訴える旨威嚇した。当該君主は,本当に退位する気は恐らくなかったであろう。しかしながら,当該権利を有していることを彼が確信していたことは明らかである(ジャン・スタンジャ(Jean Stengers)『1831年以来のベルギー国における国王の行動 権力及び影響力(L’action du Roi en Belgique depuis 1831. Pouvoir et influence)』(第3版,ブリュッセル,Racine, 2008年)195頁参照)。ベルギー国王は退位する権限(prérogative)を有するという考えは,彼の息子のレオポルド2世の治下において更に確認された。1892年,深刻な消沈の際,当該国王は真剣に退位を考えたが,その後よりよい決意(à de meilleures résolutions)に立ち戻った(ジャン・スタンジャ・前掲書125頁参照)

 

 ド・ミュレネル(De Muelenaere)記者が2013年7月3日付けでベルギー国のLe Soir紙のウェッブ・ページに掲載した記事(“Abdication, comment ça marche?”)によると,同国における国王の生前退位から次期国王の即位への流れは次のようなものだそうです(同月のアルベール2世の生前退位及びフィリップ現国王の即位に関する予想記事)。

 

  1 首相によって査証された(visée)アルベール2世の退位宣言(Une déclaration d’abdication

  2 退位の日(7月21日)

  3 両議院合同会の前におけるフィリップの宣誓

  4 直ちに宣誓が行われれば「空位期間」は生じない。そうでない場合であっても,国王の憲法上の権限を内閣(le conseil des ministres)が確保するから,摂政の必要はない。

 

議会は新国王の宣誓(即位の効力要件)に立ち会うだけで,前国王の退位に効力を与えるための行為をすることはないようです。首相の「査証」と訳しましたが,これは憲法上の副署(contreseing)ではないわけです。退位宣言の詔書は,官報に掲載されたものでしょう。ド・ミュレネル記者によれば,前記のベーレント教授は「国王は退位詔書を作成し,当該詔書は決定の公式性(caractère public de la décision)を確保するために続いて官報に掲載されなければならない。」と述べていました。

 

6 ドイツにおける国王退位に関する学説など

 ベルギー国憲法の話が出たとなると,大日本帝国憲法のもう一つのお手本であったプロイセン憲法の話をせざるを得ません。19世紀のドイツ国法において国王の退位はどのように考えられていたものか。

ズーザン・リヒター(Susan Richter)及びディルク・ディルバッハ(Dirk Dirbach)編の『王位放棄 中世から近代までの君主政における退位(Thronverzicht: die Abdankung in Monarchien vom Mittelalter bis in die Neuzeit)』(Böhlau, 2010年)中のカロラ・シュルツェ(Carola Schulze)による論文「王権神授説からドイツ立憲主義までの法秩序観念における退位(Die Abdankung in den rechtlichen Ordnungsvorstellung vom Gottesgnadentum bis zum deutschen Konstitutionalismus)」には次のようにあります(68頁)。

 

  絶対王政の下では王室法(Hausgesetz)によってのみ規制された王位継承及び摂政の問題を,立憲国家は王室立法権(Hausgesetzgebung)から引き離し,憲法典(Verfassungsrecht)の領域に移管した。もっとも,憲法典に記載された君主の神聖不可侵性(Heiligkeit und Unverletzlichkeit)のゆえに,退位――及びそれと共に廃位(Absetzung)――は,ドイツ連邦諸国の国法自体においては明定されなかった(wurde…nicht fixiert)。したがって,国家元首としての君主の地位(Stellung des Monarchen als Staatsoberhaupt)及びその王位継承に関する規律との関連において退位の制度(das Rechtsinstitut der Abdikation)を定めてあった初期立憲主義憲法は存在しない。唯一,184812月5日の押し付けプロイセン憲法が,第55条において,国王が統治不能(in der Unmöglichkeit zu regieren)であるときは, 特別法によってそれらについて手当てされていない限りにおいて,次の王位継承権者又は王室法によりそれに代わる者が,合同会で摂政及び後見について第54条〔国王未成年の場合の摂政及び後見に関する規定〕に準じて定めるために両議院を召集する旨規定していた。当該規定は,改訂された1850年のプロイセン憲法にはもう既になくなっていたが,君主の統治不能は退位及び王位継承者に対する王位の移行の意味においても理解されるべきだ(auch im Sinne einer Abdankung und des Übergangs der Krone auf den Nachfolger zu verstehen ist)との確たる解釈を許すものであった。

     要するに,次のようにいうことができる。初期立憲主義諸憲法が退位について沈黙していたとしても,国民意識,国の歴史,学説の伝統又は思考の必然からして規範的地位(normativer Rang)を与えられていた19世紀の一般ドイツ国法において,退位は,正規の王位継承に対して補充的な(subsidiär)例外的王位継承の形式として(als Form der außerordentlichen Thronfolge)認められ,かつ,そのようにしてドイツ立憲主義の秩序観念中に位置付けられていたのである。

 

「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」だから譲位の規定はいらないのだ,とは伊藤博文の発想の源でもありました(「余ハ将ニ天子ノ犯冒スヘカラサルト均シク天子ハ位ヲ避クヘカラスト云ハントス」と高輪会議で発言しています。)。
 プロイセン国王ヴィルヘルム1世は議会との対立の中で退位を考えましたし,その孫ヴィルヘルム2世は第1次世界大戦の最終段階におけるドイツ革命の渦中で,ドイツ皇帝としては退位するがプロイセン国王としては退位しないと頑張ります。これらは生前退位が有効であるとの理解を前提としています。

ところで,シュルツェの議論では君主の統治不能(die Unmöglichkeit des Monarchen zu regiern)には退位(Abdankung)も含まれるということのようですが,そうだとすると1848年のプロイセン憲法的には,国王が「退位する。」と宣言した場合には統治不能の当該国王は押し込められ,両議院合同会によって摂政及び後見人が任命され,かつ,当該状況は国王の生存中続くということにはならなかったでしょうか。ちょっと分かりづらい。あるいは,1850年のプロイセン憲法56条は「国王が未成年であるとき又はその他継続的に自ら統治することが妨げられている(dauernd verhindert ist, selbst zu regieren)ときに」摂政を置くとの規定になっていますので,継続的な故障程度ではいまだ統治不能ではないから摂政設置で対応するが,退位されてしまうと統治不能であるので摂政どころではなくなって直ちに新国王即位になる,というように理解すべきなのでしょうか。
 この点明治皇室典範
19条2項は「天皇久シキニ亘ルノ故障ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルトキハ皇族会議及枢密顧問ノ議ヲ経テ摂政ヲ置ク」となっていて,1850年のプロイセン憲法56条的です。これは1889年1月18日の枢密院再審会議(小嶋「明治皇室典範」249250頁)を経た段階では「天皇未タ成年ニ達セサルカ又ハ精神若ハ身体ノ不治ノ重患ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサル間ハ摂政一員ヲ置ク」であったものが(同228頁),正にドイツ人であるロエスレルの修正意見に基づき(同251頁),同月24日に「精神若ハ身体ノ不治ノ重患」が「久シキニ亙ルノ故障」に修正され,更にその後最終的な形に修正されて(同254頁),同年2月5日の枢密院会議を経たものです(同255頁)。ロエスレルの修正案は「天皇未タ成年ニ達セサルカ又ハ其ノ他ノ故障ニ由リ久シク大政ヲ親ラスルコト能ハスシテ臨時ニ応スル為ニ予シメ親ラ計画ヲ為サス若クハ為シ能ハサルトキハ次条ノ明文ニ循ヒ摂政ヲ置クヘシ」というものでした(小嶋「明治皇室典範」251頁)。「其ノ他ノ故障」との文言は「疾病ノ外ニ於テモ亦他ノ事由ノ生スルコトアラン例ヘハ・・・」ということで用いられることになったもので(小嶋「明治皇室典範」251頁),「久シク本国ニ在ラサルトキ,戦時ニ当テ俘虜トナリタルトキ,又高齢ニナリタルトキノ如キ是ナリ」とされています(小林宏・島善高編著『明治皇室典範〔明治22年〕(下) 日本立法資料全集17』(信山社・1997年)642頁)。
  またそもそも「不治ノ重患」の「不治ノ」は「啻ニ贅字タルノミナラズ甚シキ危険アル」ことがロエスレルによって述べられていました(小嶋「明治皇室典範」
251頁)。しかし,「不治ノ」は「甚シキ危険アル」言葉であるのに,皇位継承順位の変更に係る明治皇室典範9条では「皇嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シ前数条ニ依リ継承ノ順序ヲ換フルコトヲ得」となっていて「不治ノ」が維持されています(現在の皇室典範3条も同様)。ということは,「不治ノ」は天皇についてだけ「甚シキ危険アル」言葉なのでしょう。しかしながら,天皇が「不治ノ重患」であると発表してしまうと摂政どころではなく譲位が問題になってしまうという意味での「甚シキ危険」であったのかとまで考えるのは考え過ぎで,飽くまでロエスレルは摂政を置くべきか否かを検討する場面に留まりつつ「凡ソ疾病ノ治不治ハ,医家ニ在テモ亦一ノ争論点ニシテ,之カ為ニ紛議ノ種因ヲ他日ニ貽スノ恐レアレハナリ。而シテ摂政ヲ置クノ当否ニ関スルコトヲ以テ,此ノ如キ曖昧ノ間ニ附シ去ルハ大ニ不可ナリ。」と「甚シキ危険」について述べ,更に「・・・大政ヲ親ラスルコト能ハスト謂ハ丶,先ツ疾病ノ有無ヲ問ハス,果シテ大政ヲ親ラスルコト能ハサルカ否ヲ立証セサルヘカラス。現ニ君主重病ニ罹リテ尚ホ大政ヲ自ラ総攬シ得ルコトアリ。又総攬スルノ精神ヲ有スルコト屢々之レ有リ。例ヘハ「ポーランド」瓦敦堡〔ヴュルテンベルク〕ノ今王及び「メクレンボルグ」大公等ハ,既ニ不治ノ重患ニ罹ルト雖,尚大政ヲ親ラスルニアラスヤ。・・・」と述べています(小林・島641頁)。

ロエスレルの修正意見に基づく1889年1月24日の修正前の明治皇室典範19条案にいう「精神若ハ身体ノ不治ノ重患ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサル間」という摂政設置の前提状態たる不治ノ重患は,実は,1887年3月20日の高輪会議にかけられた柳原前光の前記「皇室典範再稿」では天皇の譲位を可能とする状態(「精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時」)でした。柳原の「皇室典範再稿」39条では,摂政を置く場合は,「天皇幼年ノ時」,「天皇本邦ニ在サル時」又は「天皇ノ精神又ハ身体ノ重患アル時」が挙げられていました(小嶋「明治皇室典範」193頁)。柳原前光の段階論では,「精神又ハ身体ノ重患アル時」はまだ摂政設置相当だけれども,「精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時」まで至ってしまうとむしろ譲位すべきだという判断だったのでしょう。現在の皇室典範16条2項は「天皇が,精神若しくは身体の重患・・・により,国事に関する行為をみずからすることができないときは,皇室会議の議により,摂政を置く。」と規定していますが,柳原の「皇室典範再稿」39条における摂政設置の場合の考え方におおよそ符合しています(ちなみに,ロエスエルは「精神又ハ身体ノ重患」の字は「不快ノ感ヲ喚起スル」と述べており(小林・島641頁),明治皇室典範19条2項には当該表現は用いられませんでしたが,現在の皇室典範においては復活したわけです。)。

なお,カロラ・シュルツェは,ドイツの学者らしく,法的意味における退位の成立に必要な構成要件のメルクマールを次のように分析的に述べています。

 

単独の公的行為(einseitige obrigkeitliche Maßnahme)であって,

君主によってされ(eines Monarchen),

君主の位の放棄,すなわち王位及びそれに附随する権利の放棄に向けられたものであり(die auf die Niederlegung der monarchischen Würde bzw. auf den Verzicht des Throns sowie der damit verbundenen Rechte gerichtet ist),

自由意思性及び自主性により,並びに(die sich durch Freiwilligkeit und Selbständigkeit sowie durch

補充性によって特徴付けられるものであり(Subsidiarität auszeichnet),

並びに不可撤回性を有するもの(und die unwiderrufbar ist.),

 

ということだそうです(シュルツェ69頁)。
 さて,シュルツェによれば「絶対王政の下では王室法(Hausgesetz)によってのみ規制された王位継承及び摂政の問題を,立憲国家は王室立法権(Hausgesetzgebung)から引き離し,憲法典(Verfassungsrecht)の領域に移管した」わけですが,このことについては,1850年のプロイセン憲法53条を素材に,美濃部達吉が次のように説明しています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)108109頁)。

 

  プロイセン旧憲法53条にも略本条〔大日本帝国憲法2条「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」〕と同様に,Die Krone ist, den Königlichen Hausgesetzen gemäss, erblich in dem Mannesstamme des Königlichen Hauses nach dem Rechte der Erstgeburt und der agnatischen Linealfolgeといふ規定が有る。その他のドイツ諸邦にも同様の規定の有るものが尠くない。文言に於いては極めて本条の規定と類似して居るけれども,趣意に於いては甚だ異なつて居つて,ドイツの学者は一般に,憲法の此の規定に依つて従来の王室家法が憲法の内容の一部を為すに至つたもので,随つて此の以後に於いては王室家法の変更は,憲法改正の法律に依つてのみ為すことを得べく,勿論議会の議決を必要とする・・・。即ちドイツ諸邦の憲法に於いては『王室家法ノ定ムル所ニ依リ』といふ明文が有つても,それは王室の自律権を認めたものではなく,却つて王室家法をして憲法の一部たらしめたもの・・・。

 

日本国憲法2条は「皇位は,世襲のものであつて,国会の議決した皇室典範の定めるところにより,これを継承する。」と規定しています(下線は筆者によるもの)。(同条の英文は,“The Imperial Throne shall be dynastic and succeeded to in accordance with the Imperial House Law passed by the Diet.”です。)ここでの「国会の議決した」は,その第74条1項で「皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス」と規定していた大日本帝国憲法との違いを示すものでしょう。現在の皇室典範の法形式は(皇室典範の「法律案」を審議した第91回帝国議会で問題にする議員がありましたが)法律ですが,少なくともその皇位継承(日本国憲法2条)及び摂政(同5条)に係る部分の改正は,19世紀ドイツ国法学的には,憲法改正と同等の重みのある行為であるということになります。「而して皇位継承に関する法則は,決して皇室御一家の内事ではなく,最も重要なる国家の憲法の一部を為すもの」なのです(美濃部『憲法精義』110頁)。

この点,1946年2月13日に我が国政府に提示されたGHQの憲法改正草案には“Article II. Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.”(外務省罫紙に記された閣議提出の訳文では「第2条 皇位ノ継承ハ世襲ニシテ国会ノ制定スル皇室典範ニ依ルヘシ」)及び“Article IV. When a regency is instituted in conformity with the provisions of such Imperial House Law as the Diet may enact, the duties of the Emperor shall be performed by the Regent in the name of the Emperor; and the limitations on the functions of the Emperor contained herein shall apply with equal force to the Regent.”(「第4条 国会ノ制定スル皇室典範ノ規定ニ従ヒ摂政ヲ置クトキハ皇帝ノ責務ハ摂政之ヲ皇帝ノ名ニ於テ行フヘシ而シテ此ノ憲法ニ定ムル所ノ皇帝ノ機能ニ対スル制限ハ摂政ニ対シ等シク適用セラルヘシ」)とあって,“such Imperial House Law”は国会の単独立法に係るものですから,やはり法律が想定されていたようで,皇室の家法たることを強く含意する「皇室典範」との訳は余り良い訳ではなかったようです。ところで,“in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact”であって,“in accordance with the Imperial House Law enacted by the Diet”ではありませんから,第2条の訳としては「皇位ノ継承ハ世襲テアリ且ツ国会ノ制定スルコトアル皇室法ニ従フモノトス」というものもあり得なかったでしょうか。このように解すると,たとい皇室典範という法形式が日本国憲法の施行に伴い消滅しても,国会が別異に立法しない限りは皇位の継承は従来の慣習に従う,ということにはならなかったものでしょうか。

しかし,我が国政府は皇位の継承に関する成文規範の存在及び皇室典範という法形式の存続にこだわったものか,憲法改正に係るその1946年3月2日案においては次のような条文が用意されています。

 

  第1章 天皇

第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ世襲シテ之ヲ継承ス。

第3条 天皇ノ国事ニ関スル一切ノ行為ハ内閣ノ輔弼ニ依ルコトヲ要ス。内閣ハ之ニ付其ノ責ニ任ズ。

  第9章 補則

106条 皇室典範ノ改正ハ天皇第3条ノ規定ニ従ヒ議案ヲ国会ニ提出シ法律案ト同一ノ規定ニ依リ其ノ議決ヲ経ベシ。

  前項ノ議決ヲ経タル皇室典範ノ改正ハ天皇第7条ノ規定ニ従ヒ之ヲ公布ス。

 

これに対して,佐藤達夫法制局第一部長の記す次のような1946年「三月四,五両日司令部ニ於ケル顛末」を経て,皇室典範の議案に係る天皇の発議権は消え,憲法2条は少なくとも英文については現在の形になっています。

 

第2条 皇室典範ガ国会ノ議決ヲ経ベキ条項ナシトテ相当強硬ナル発言アリ,補則ニ規定セリ,今回ハ全面的ニ補則ニ依リ改正セラルルコトデモアリ茲ニ特記スル要ナシ,又法律ト同一手続ニ依ルハ当然ナルモ,皇室ノ家法故発議ハ天皇ニ依リ為サルルコトトシタリト言フモ第1章ハ交付案ガ絶対ナリトテ全然応ゼズ,「国会ノ議決ヲ()タル(○○)passed by the Diet)(交付案ハ(as the Diet may enact))トシテ挿入スルコトトス(「経タル」ガ将来提案権ノ問題ニ関聯シテ万一何等カノ手懸ニナリ得ベキカトノ考慮モアリテ)。
 

ただし,佐藤部長の「考慮」にもかかわらず,現在の日本国憲法2条の当該部分の文言は「国会の議決した皇室典範」であって,「国会の議決を経た皇室典範」ではありません。現在の皇室典範は,昭和22年法律第3号です。
 (以上の日本国憲法の制定経緯については,国立国会図書館ウェッブ・サイトの「電子展示会」における「日本国憲法の誕生」を参照)
 


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1 現在の皇室典範4条と明治皇室典範10

 昭和天皇の裁可に係る現在の皇室典範(昭和22年法律第3号。日本国憲法100条2項参照)4条は,「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」と規定しています。この規定の意味するところを知るためには,その前身規定に遡ることが捷径です。

明治天皇の裁定に係る皇室典範(明治22年2月11日。公布されず(ただし,後の公式令(明治40年勅令第6号)4条1項参照)。)10条が,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と定めていたところです。(なお,明治皇室典範は,1947年5月1日昭和天皇裁定(同日付け官報)の皇室典範及皇室典範増補廃止の件によって同月2日限り廃止されたものであり,昭和22年法律第3号の皇室典範によって廃止されたものではありません。)

明治皇室典範10条について伊藤博文の『皇室典範義解』は,「・・・(つつしみ)て按ずるに,神武天皇より舒明天皇に至る迄34世,嘗て譲位の事あらず。譲位の例の皇極天皇に始まりしは,(けだし)女帝仮摂より来る者なり(継体天皇の安閑天皇に譲位したまひしは同日に崩御あり。未だ譲位の始となすべからず)。聖武天皇・光仁天皇に至て遂に定例を為せり。此を世変の一とす。其の後権臣の強迫に因り両統互立を例とするの事あるに至る。而して南北朝の乱亦此に源因せり。本条に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はる者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」と説いています(宮沢俊義校註『憲法義解』(岩波文庫・1940年)137頁による。)。明治皇室典範10条を引き継いだ現在の皇室典範4条は,天皇の生前譲位を排除する趣旨をも有しているわけです。

7世紀の舒明天皇まで生前譲位がなかったことについては,「大和王権における大王位は基本的に終身制であり,大王は生前に新大王に譲位をすることはできなかった。記紀などの記述では,まれに,大王が生前に後継者を指名することもあるが,指名を受けた者が即位しない場合も多く,後継者指名の効力は,実際にはほとんどなかったとみてよい。・・・王位継承の候補者は常に複数おり,5世紀には,候補者同士の熾烈な殺し合いも繰り広げられたが,即位に際しては,大和政権を構成する豪族たちの広範な支持も必要であったことはいうまでもなかった。そして,より発達した政治機構としての畿内政権が形成される6世紀には,群臣による大王の推挙は,王位継承を行ううえで,不可欠の手続きとして確立していったのである。/『日本書記』などの文献から復元される王位継承の手続きでは,まず群臣の議によって大兄などの王族から候補者が絞られ,群臣による即位の要請がなされる。候補者の辞退などで擁立が失敗すると,別の候補者への要請が行われ,候補者がそれを受けた段階で,即位儀礼が挙行された。」と説明されています(大隅清陽「君臣秩序と儀礼」『日本の歴史08 古代天皇制を考える』(大津透・大隅清陽・関和彦・熊田亮介・丸山裕美子・上島享・米谷匡史,講談社・2001年)40‐41頁)。「ある種の選挙王制といってもよい王位継承のシステム」(大隅43頁。また同49頁)ではあるが,現職の大王の意思による「解散総選挙」のようなものは認められなかったということでしょう。なお,現行の皇室典範4条において三種の神器について言及されていないことの意味(皇室経済法7条の趣旨も含む。)及び「南北朝の乱」の「源因」たる「権臣の強迫」については,2014年5月21日付けの本ブログ記事「「日本国民の総意に基づく」ことなどについて」(その6の部分)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1003236277.htmlを御参照ください。

 美濃部達吉は,「皇位ノ継承ハ天皇ノ崩御ノミニ因リテ生ズ。天皇在位中ノ譲位ハ皇室典範ノ全ク認メザル所ニシテ,典範(10条)ニ『天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク』ト曰ヘルハ即チ此ノ意ヲ示スモノナリ。中世以来皇位ノ禅譲ハ殆ド定例ヲ為シ,時トシテハ権臣ノ強迫ニ因リテ譲位ヲ余儀ナクセシムルモノアルニ至リ,(しばしば)禍乱ノ源ヲ為セリ。皇室典範ハ此ノ中世以来ノ慣習ヲ改メタルモノニシテ,其ノ『天皇崩スルトキハ』ト曰ヘルハ,崩スルトキニ限リト謂フノ意ナリ。」と述べていました(美濃部達吉『改訂 憲法撮要』(有斐閣・1946年)183頁)。『皇室典範義解』の説明を承けたものでしょう。

 現行の皇室典範4条の解釈も,いわく。「天皇の「崩御」だけが皇位継承の原因とされる(典範4条)。天皇生前の退位に関しては,皇室典範の審議の際に積極論も主張されたが,結局のところ採用されなかった。皇室典範の改正によって退位制度を設けることは可能であるが,一般的な立法論としていえば,生前退位の可能性を認めることは,皇位を政治的ないし党派的な対立にまきこむおそれがあることを,考慮しなければならない。」と(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)132頁)。

 「女帝仮摂」のゆえならざる生前譲位が始まったことについては,インドからの外来宗教たる仏教の影響があったとは,上杉慎吉の指摘するところです。いわく。「皇位継承の行はるのは天皇崩御の時のみであります,譲位受禅は典範の認めざる所であります,之は我古代の法制であつて神武天皇以下武烈天皇に至りまする迄御譲位と云ふことは無かつた,継体天皇の25年皇太子を立て天皇(ママ)とせられ,天皇即日崩御せられた事があります,其後持統天皇,元明天皇,元正天皇の御譲位の事があります,元来女帝の御即位は皇太子尚幼くまします場合に其成長を待たる意味に出たものでありますから女帝の御譲位の事は例とすることは出来ぬのであります,聖武天皇が位を孝謙天皇に譲られたのが真の譲位の初としなければならぬのであつて,それ以来譲位受禅が頻に行はるに至つたのであります,之は主として仏教の影響に出るものであります,併ながら我皇位継承の本義ではありませぬ,それ故に典範は譲位の事を言はずして天皇崩御の場合にのみ皇位継承あるものとしたのであります,欧羅巴諸国では君主の譲位と云ふことは之を認むるを常とし,明文が無くとも譲位を為し得ることは当然としてあります,我国と制度の根本の趣旨が異ることを見ることが出来ます,多数の国の憲法では一定の原因ある場合には君主が位を譲つたものと認むるものとしてあります,又或は一定の場合には君主を廃することを得るものと定めてある憲法もある」と(上杉慎吉『訂正増補 帝国憲法述義 第九版』(有斐閣書房・1916年)257259頁)。東大寺等の造営で有名な8世紀・奈良時代の聖武天皇は自らを「三宝の奴」として仏教に深く帰依したところですが,確かに 現人神としては,少なくとも神仏分離を前提とすると,いかがなものでしょうか。

 父・聖武天皇からの生前譲位(天平感宝元年(749年))により皇位を継承した孝謙天皇は,自らもいったん大炊王(天武天皇の子である舎人親王の子)に生前譲位したものの(天平宝字二年(758年)),その後大炊王を皇位から追い,重祚します(称徳天皇)。女帝によって淡路に流謫せられた廃帝は,逃亡を図るも急死。この淡路廃帝に淳仁天皇との諡号が贈られたのは,ようやく明治になってからのことでした。

 皇嗣時代の大炊王の御歌にいわく。

 

 天地(あめつち)を照らす日月の極みなくあるべきものを何をか思はむ(万葉集4486

 

 河内出身の僧・道鏡が天皇になることは,和気清麻呂の宇佐八幡宮からの還奏(「我が国開闢より以来(このかた)君臣定まりぬ。臣を以て君となすことは未だこれあらず。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし。」)によって阻止されましたが,その後結局,聖武天皇,孝謙天皇,淳仁天皇らが属したところの,「極みなくあるべきもの」であった天武天皇系の皇統は,断絶しました。称徳天皇崩御後の後任である光仁天皇(天智天皇の孫であり,かつ,嗜酒韜晦の人であった白壁王)の皇子であって,女系で天武天皇系に連なっていた(おさ)()親王(聖武天皇を父とする井上(いのえ)内親王の子)も失脚し,その後急死しています(「光仁の即位も,当初は他戸への中継ぎとしての性格を持っていたのだろう」とされますが(大隅69頁),光仁天皇から譲位を受けることになったのは(天応元年(781年)),百済系の高野新笠の子である桓武天皇でした。)。

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皇居お濠端の和気清麻呂像(2016年9月10日撮影)一見入牢風のこの姿は,皇位継承に関する還奏に係る称徳天皇の勅勘が復活したわけではなく,地下の東京メトロ竹橋駅の工事のためです。 

 

2 明治皇室典範10条の起草過程

 明治皇室典範10条の起草過程をざっと見てみましょう。

(1)高輪会議まで

 187610月の元老院第1次国憲草案第4篇第2章の第11条には「皇帝崩シ又ハ其位ヲ辞スルニ当リ会マ元老院ノ開会セサルトキハ預メ召集ノ命ナクトモ直チニ自ラ集会ス可シ」とありましたから(小嶋和司「帝室典則について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)6970頁),生前譲位制が考えられていたわけです。

1878年3月の岩倉具視の「奉儀局或ハ儀制局開設建議」の「憲法」に関する「議目」には「太上太皇 法皇 贈太上天皇」というものがありました(小嶋「帝室典則」74頁)。これに関して,188212月段階での宮内省一等出仕伊地知正治の口述には「太上天皇並法皇 仙洞ニ被為入候得バ太上天皇尊号贈上ハ勿論ナリ。法皇ノ事ハ院号サヘ御廃止ノ今日ナレバ釈氏ニ出ル法号等ハ皇室ニ於テ口ヲ閉ヂテ可ナリ。」という発言が見られます(小嶋「帝室典則」78頁)。「仙洞(せんとう)」とは,『岩波国語辞典 第四版』(1986年)によれば,「上皇の御所。転じて,上皇の尊称。▷仙人のすみかの意から。」とあります。

 (史上初の太上天皇となったのは,孫の軽皇子(文武天皇)に生前譲位した女帝・持統天皇(在位690697年)です。「696年に太政大臣高市皇子(天武の長男)が亡くなると,持統は宮中に皇族や重臣を召集し,次の皇位継承者について諮問するが,群臣の意見はまとまらず,会議は紛糾した。この時,故大友皇子〔天武天皇に壬申の年に敗れた弘文天皇〕の子である葛野王は,皇位は「子孫相承」するのがわが国古来の法であり,継承が兄弟におよぶのは内乱のもとであるとして,草壁〔持統と天武との間の子〕の異母兄弟である天武天皇の諸皇子の即位に反対し,持統を喜ばせたという(『懐風藻』葛野王伝)。葛野王の発言が,どの程度当時の共通認識であったかには疑問がある・・・」ということですので(大隅6061頁),当時はなお皇位継承者の決定には群臣の議が必要であったようですが,「結局持統は,翌697年二月に軽皇子の立太子を強行し,同八月には皇太子に譲位して文武天皇とし」ています(同61頁)。「8世紀の天皇権力は,皇位継承に群臣を介在させず,独自に直系の継承を行おうとし」ますが(大隅62頁),その努力の始めである7世紀末の文武天皇の即位には,天皇の生前譲位が伴っていたのでした。なお,「太上天皇とは,おそらく大宝律令の制定にともない,譲位した元天皇の称号として新しく設けられたもので,律令の規定では,天皇と同じ待遇と政治的権限を有して」いました(大隅65頁)。「太上天皇制の成立により,8世紀には,天皇が生前のうちに譲位し,自らは太上天皇となって天皇を後見する,という形の皇位継承が一般化する。これは,皇位継承の過程に群臣が介在する余地を結果的に排除したとも言え,天皇権力の群臣からの自立という点で,大きな意味をもっていた」わけです(大隅65頁)。ただし,太上天皇の在り方は嵯峨上皇の時に変化します。「この政変〔薬子の変〕への反省から学んだ 嵯峨天皇は,823年(弘仁十四)に弟の淳和天皇に譲位すると,自らは「後院」とよばれる離宮的な施設に隠居して政治的権限を放棄し,天皇に対しては臣下の礼をとるという新しい試みをする。これをうけた淳和天皇は,嵯峨に「太上天皇」を尊号として奉上し,以後この手続きが通例になるが,この結果,太上天皇がたんなる称号となり,またその授与の権限が現役の天皇に帰したことの意義は大きかった。」ということでした(大隅75頁)。)

しかしながら,1885年又はそれ以前に宮内省で作成された(小嶋「帝室典則」129130頁。なお,1884年3月21日から宮内卿は伊藤博文(同月17日から制度取調局長官であったところに兼任(同局は1885年12月廃止)))「皇室制規」の第9条は「天皇在世中ハ譲位セス登遐ノ時儲君直ニ天皇ト称スヘシ」と規定して生前譲位を認めないものとしたところです(同125頁。ただし,「譲位の制は「皇室制規」の第2稿まで存した」とありますから(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』175頁),この「皇室制規」は第3稿以後のものなのでしょう。)。「登遐(とうか)」とは崩御のこと。これに対する井上毅の「謹具意見」1885年以前のものです(小嶋「帝室典則」130頁,135頁)。)には,「天子違予ニシテ政務ニ堪ヘ玉ハザルノ不幸アラバ,時宜ニ由テハ摂政ヲ置クコトアルベシト雖(議院ニ問ハズ),亦,叡慮次第ニハ並ニ時宜次第ニハ穏ニ譲位アラセ玉フコト尤モ美事タルベシ 起草第9条ノ上項ハ削去アリテ然ルベキカ」との批判がありました(同134頁)。この井上毅の譲位容認論の理由付けについて奥平康弘教授は,「非常に要約」して,「摂政には議会をつうじて人民に宣告し,なんらかの納得を得ることが不可避であるのに,譲位は人民による公知なしに―その理由など明らかにせずに―宮中内かぎりで片付けられ得る,代替りという線でやってのけられる利点があるではないかとする論理」があるものとしています(奥平康弘「明治皇室典範に関する一研究―「天皇の退位」をめぐって―」神奈川法学第36巻第2号(2003年)165‐166頁)。「「天子ノ失徳ヲ宣布スルニ至ラズ人民ヲ激動セズシテ外ハ譲位ノ美名ニ依リ容易ニ国難ヲ排除スル事ヲ得」たという事例〔陽成天皇譲位の例〕がある」旨「謹具意見」では述べられていたとされています(奥平165頁)。

 筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞ積もりて淵となりける(陽成院)
 

1885年の宮内省の「帝室典則」第2稿(小嶋「帝室典則」129頁)では「皇室制規」9条の規定は維持されていましたが,1886年6月10日の「帝室典則」では,同条に該当する規定は削られています(同140頁)。生前譲位がないことは当然とされたゆえ削られたのか(小嶋「皇室典範」175頁参照),それとも反対解釈すべきか(生前譲位を明示的に否認する「帝室典則」第2稿に対して井上毅は「謹具意見」の立場から改めて異議申立てをしています(奥平170‐171頁・註(14))。)。なお,井上毅の梧陰文庫蔵の「帝室家憲 スタイン起草」(用紙として「内閣罫紙」が使用されているため内閣制度が設けられた188512月以降に作成されたものと考えられています(小嶋「帝室典則」108頁)。ただし,小嶋教授は1887年以後に依頼され作成されたのではないかとも考えていました(同118119頁)。)の第7条(伊東巳代治遺文書中にあった下訳と認定される史料による(小嶋「帝室典則」108109頁)。)の第1項は「皇帝譲位セラレントスルノ場合ニ於テハ各高殿下,殿下及高等僧官ヲ招集シテ之ニ其旨ヲ言明シ必ス一定ノ公式ニ依リ書面ヲ以テ之ヲ証明シ譲位セントスル皇帝ノ家事モ亦タ之ニ因テ定ムヘキモノトス」と,第2項末段は「摂政5箇年ノ久シキニ渉リ仍ホ皇帝ノ疾病快癒ノ望ナキトキハ立法院ノ承認ヲ経タル上高殿下一同ニテ皇位継承ノ事ヲ布告スヘシ」と規定していました(小嶋「帝室典則」114115頁)。

 1887年1月25日に「帝室制度取調局総裁」柳原前光(大正天皇の生母・愛子の兄,白蓮の父)が宮内省図書頭・井上毅に提出した「皇室法典初稿」(小嶋「皇室典範」172173頁。伊藤博文(1885年12月22日から1888年4月30日まで内閣総理大臣,1887年9月16日まで宮内大臣兼任)に起草を命じられたものです(同172頁)。なお,小嶋教授は「柳原が当時,帝室制度取調局総裁の地位にあった」と記していますが(同頁),宮内庁の「宮内庁関係年表(慶応3年以後)」ウェッブ・ページを見ると,1885年12月22日に制度取調局が廃止された後,1888年5月31日に「臨時帝室制度取調局を置く。」とありますので,実は1887年初頭当時に「帝室制度取調局」があったものかどうか。岩波書店の『近代日本総合年表 第四版』(2001年)の1887年3月20日の項には「帝室制度取調局総裁柳原前光」との記載があり,これは稲田正次教授の『明治憲法成立史』に基づくものとされています。稲田教授の『明治憲法成立史』については「そこですべてが明らかにされたわけではなく,不明の断点が何ヶ所か残され,重要な事実の脱漏もある」との評価を加えつつも(小嶋「皇室典範」171頁),この部分については,小嶋教授は稲田教授の記述を踏襲したものでしょうか。ちなみに,国立国会図書館の「柳原前光関係文書」ウェッブ・ページの「旧蔵者履歴」欄を検すると,1887年当時,柳原は確かに総裁ではあったものの,賞勲局総裁であったところです。)の第8条には「天皇ハ皇極帝以前ノ例ニ依リ終身其位ニ((ママ))ヲ正当トス但シ心性又ハ外形ノ虧缺(きけつ)ニ係リ快癒シ難ク而シテ嫡出ノ皇太子又ハ皇太孫成年ニ達スル時ハ位ヲ譲ルコトヲ得とありました(小嶋「皇室典範」175頁)。再び生前譲位制が認められています。ただし,例外としての位置付けです。

 1887年2月26日に井上毅が伊藤博文に提出した「皇室典範」(小嶋「皇室典範」179頁)の第13条にも天皇の生前退位の制度が定められていました(同183頁)。「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ノ重患アルトキハ皇位継承法ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」というものでした(小嶋「皇室典範」185186頁)。附属の「説明案」において井上毅は,「天皇重患ニ因リ大位ヲ遜ルゝハ亦一時ノ権宜ニシテ実ニ已ムヲ得サルニ出ルモノアリ」と断じた上で,「大位ヲ遜譲シテ国家ノ福ヲ失ハズ是レ亦変通ノ道ナリ」と述べています(奥平172頁)。

 1887年3月14日に柳原前光から伊藤博文に提出された「皇室典範再稿」(小嶋「皇室典範」184頁)の第12条には「天皇ハ終身大位ニ当ル但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」とありました(同185186頁,190頁)。当該「皇室典範再稿」では更に,第15条において「譲位ノ後ハ太上天皇ト称スルコト文武天皇大宝令ノ制ニ依ル」と,第16条において「天皇崩後諡号ヲ奉ルコト文武天皇以来ノ制ニ依ル太上天皇ヘモ亦同シ」と,第17条において「天皇崩シ又ハ譲位ノ日皇嗣践祚シテ即チ尊号ヲ襲ヒ祖宗以来ノ神器ヲ承ク」と,第23条において「天皇及皇族ノ位次ヲ定メ左ニ開列ス/第一天皇 第二太上天皇 第三太皇太后〔以下略〕」と,第31条において「天皇太上天皇太皇太后皇太后皇后ヘノ敬称ハ陛下ト定ム」と,第37条において「皇室ノ徽章ハ歴代ノ例ニ依リ菊花ヲ用ヒ桐之ニ亜ク太上天皇ハ菊唐草ヲ用ユ」とも規定していました(小嶋「皇室典範」190193頁)。

 

(2)1887年3月20日高輪会議及びその後

 天皇の生前譲位制が排されたのは,1887年3月20日午前10時半から伊藤博文の高輪別邸において開催された伊藤博文,柳原前光,井上毅及び伊東巳代治による会議(小嶋「皇室典範」187頁)においてでした。すなわち,「典範・皇族令体制の骨子」が定められた当該会議(小嶋「皇室典範」200頁)において,前記柳原「皇室典範再稿」12条の生前譲位規定は,伊藤博文及び柳原前光の首唱により削られることになったのでした(同190頁)。原案作成者の柳原前光が削ることを首唱したというのも不思議ですが,伊藤博文の首唱に対して,なるほどもっともと積極的に賛成したところです。「皇室典範再稿」の第15条及び第16条を削ること並びに第17条を「第10条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と修正すること(この高輪会議決定案は既に明治皇室典範10条と同じですね。)の首唱者も伊藤博文となっています(小嶋「皇室典範」190191頁)。奥平康弘教授の引用する伊東巳代治の「皇室典範・皇族令草案談話要録」によれば,「皇室典範再稿」12条に係る議論においては,まず伊藤博文が「本案ハ其意ノ存スル所ヲ知ルニ困シム天皇ノ終身大位ニ当ルハ勿論ナリ又一タヒ践祚シ玉ヒタル以上ハ随意ニ其位ヲ遜レ玉フノ理ナシ抑継承ノ義務ハ法律ノ定ムル所ニ由ル精神又ハ身体ニ不治ノ重患アルモ尚ホ其君ヲ位ヨリ去ラシメズ摂政ヲ置テ百政ヲ摂行スルニアラスヤ昔時ノ譲位ノ例ナキニアラスト雖モ是レ浮屠氏ノ流弊ヨリ来由スルモノナリ余ハ将ニ天子ノ犯冒スヘカラサルト均シク天子ハ位ヲ避クヘカラスト云ハントス前上ノ理由ニ依リ寧ロ本条ハ削除スヘシ」と宣言し(なお,「浮屠」とは,仏のことです。),これに対して井上毅が抗弁して「『ブルンチェリー』氏ノ説ニ依レハ至尊ト雖人類ナレハ其欲セサル時ハ何時ニテモ其位ヨリ去ルヲ得ベシト云ヘリ」と言ったものの,柳原前光は伊藤内閣総理大臣に迎合して「但書ヲ削除スルナレハ寧ロ全文ヲ削ルヘシ其『ブルンチェリー』氏ノ説ハ一家ノ私語ナリ」と自らの原案を否定し,結論として伊藤博文が「然リ一家ノ学説タルニ相違ナシ本条不用ニ付削除スヘシ」と述べています(奥平177頁)。「至尊ト雖人類ナ(リ)」という議論は斥けられたのでした。
 (「皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは,摂政は,天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には前条第1項の規定〔「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」〕を準用する。」と規定する現行憲法5条を前提とすれば, 摂政は国事行為に係る代理機関にすぎず(また,「摂政は天皇ではないから,「象徴」としての役割を有しない。」とも説かれています(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院・1995年)259頁)。)祭祀については困る,とあるいは更に反論できたのでしょうが, 大日本帝国憲法下では(その第17条2項は「摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ」と規定。『皇室典範義解』には「摂政は以て皇室避くべからざるの変局を救済し,一は皇統の常久を保持し,二は大政の便宜を疎通し,両つながら失墜の患を免るゝ所以なり。摂政は天皇の天職を摂行し,一切の大政及皇室の内事皆天皇に代り之を総攬す。而して至尊の名位に居らざるなり。」と説明されていました(岩波文庫147頁)。), 「祭祀ニ付テ」も「天皇ノ出御アルコト能ハザル場合ニ於テ摂政之ヲ代行スル」こととなっていました(美濃部239頁。ただし,「祭祀ニ付テ・・・皇室祭祀令ニハ天皇幼年ノ場合ニモ親ラ出御アルベキコトヲ定メ,以テ摂政ノ必ズシモ代行スル所ニ非ザルコト」が示されていたそうです(美濃部239頁)。確かに,皇室祭祀令(明治41年皇室令第1号)の附式には「天皇襁褓ニ在ルトキハ女官之ヲ奉抱ス」等の「注意」が記されています。)。ちなみに,摂政令(明治42年皇室令第2号)1条は「摂政就任スル時ハ附式ノ定ムル所ニ依リ賢所ニ祭典ヲ行ヒ且就任ノ旨ヲ皇霊殿神殿ニ奉告ス」と規定していました。これは,1909年1月27日の枢密院会議における奥田義人宮中顧問官の案文説明によれば,「其〔摂政〕ノ誠実ヲ表明スル為メ設ケタル規定」です。いずれにせよ,大日本帝国憲法下の摂政の制度は特殊なもので,同日の奥田宮中顧問官の説明においてはまた「然ルニ摂政ニツキテハ古来依ルヘキ例ナシ故ニ此ノ〔摂政令〕案ノミハ全ク新タニ出来タルモノト御承知ヲ乞フ」と述べられていました。なお,1945年12月15日のGHQのいわゆる神道指令後には天皇の「祭祀大権は全く失は」れ,宮中祭祀は「純然たる皇室御一家の祭祀」となって「皇室の家長たる御地位に於いて天皇の行はせらるる所」とされています(美濃部555頁)。皇室の家長の交代には,譲位が必要ということになるのでしょうか。)

 明治天皇裁定の皇室「典範は,無能不適格な天皇が位に即く危険を冒し,指名権も譲位も否定して,血統原理をもって一貫した。そのような場合の能力の補充者たるべき摂政についてさえ,天皇の未成年及び「久シキニ亘ルノ故障ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルトキ」という厳重な条件を附し,しかも就任順位を血統原理に従って厳重に法定し,能力原理の介在を一切斥けた。天皇主権の憲法を,天皇の能力に全く依存しない仕方で運用しようとする立法者の強い意思の表明であり,この皇室制度は一番の「利害関係者」である天皇の意思を殆んど徴さないままに創り出された。」と評されていますが(長尾龍一「井上毅と明治皇室典範」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)5152頁),当該「立法者」ないしは「天皇制の完全な制度化を実現した人物」は,「謹具意見」で生前譲位容認説を唱えていた井上毅ではなく,やはり,長州藩の足軽から「能力原理」で立身出世を遂げた伊藤博文だったのでした(同52頁参照)。皇位に係る血統原理の貫徹及び能力原理の排斥は,「下級武士と下級貴族によって形成された明治政府が,幕府や大名などの旧勢力に対する支配の正統性を取得するために,天皇に,実際には与えるつもりのない巨大な権力を帰した」(長尾龍一「天皇制論議の脈絡」『思想としての日本憲法史』207頁)過程における必要な手当てだったわけです。

 前記高輪会議の後1887年4月に,柳原前光は「皇室典範草案」と題するものを作成して伊藤博文(同月25日)及び井上毅(同月27日)に提出しています(小嶋「皇室典範」202頁)。そこでは,高輪会議決定案の前記第10条が2箇条に分割されてしまっており(小嶋「皇室典範」204頁),当該柳原案に手を入れた井上毅の「七七ヶ条草案」では,「第10条 天皇崩スル時ハ皇嗣即チ践()ス」及び「第11条 皇嗣践阼スル時ハ祖宗ノ神器ヲ承ク」となっています(同212頁)。ただし,1888年3月20日の井上毅修正意見においては,「第10条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践阼シ祖宗ノ神器ヲ承ク」に戻っています(小嶋「皇室典範」212頁)。確かに2箇条に分かれていると,先帝崩御に基づかない皇嗣の践祚もあるように解釈する余地がより多く出てきます。

 

(3)枢密院における審議

 皇室典範の枢密院御諮詢案は,1888年3月25日に伊藤博文出席の夏島の会議で決定しています(小嶋「皇室典範」222頁)。御諮詢案の第10条は「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」となっていて,枢密院において修正されることはありませんでした(小嶋「皇室典範」227頁)。なお,柳原前光は枢密顧問官になるには年齢が足らず(枢密院官制(明治21年勅令第22号)4条により40歳に達していることが必要),枢密院における審議には出席できませんでした(小嶋「皇室典範」236頁参照)。

 枢密院の審議において,明治皇室典範10条は,1888年5月25日に第一読会,同月28日に第二読会,同年6月15日に第三読会に付されています(小嶋「皇室典範」240241頁)。しかしながら,それらの読会において同条に関する議論は一切ありませんでした。アジア歴史資料センターのウェッブ・サイトにある枢密院の「皇室典範議事筆記」によれば,第一読会においては「〔伊藤博文〕議長 第10条ニ質問ナケレハ第11条ニ移ルヘシ」とのみあり(第17コマ),第二読会においては「議長 本条ニ付別ニ意見ナケレハ直ニ原案ノ表決ヲ取ルヘシ原案同意者ノ起立ヲ請フ」に対して「総員一致」となって「議長 総員一致ニ付原案ニ決シ本日ハ最早時刻モ後レタレハ是ニテ閉会スヘシ・・・」で終わっており(第65コマ),第三読会では井上毅書記官長による条文朗読のみでした(第294コマ)。
 しかし,同年6月18日の午前,枢密院が大日本帝国憲法の草案の審議に入るに当たって議長・伊藤博文が行った演説中における次の有名なくだりに,明治典憲体制において天皇の生前譲位が排除されることとなった理由が見いだされるように思われます。確かに,我が国未曽有の変革である憲法政治に乗り出したとき,宗教(ヨーロッパ諸国においてはキリスト教)に代わってどっしりと我が日本国家の機軸であることが求められる皇室の長たる天皇が,生前譲位(更には煩悩を逃れての仏門入り)等の非religious institution的な振る舞いをしてしまうということでは,いささか心もとなかったわけでしょう。それはともかく,いわく。「・・・抑欧洲ニ於テハ憲法政治ノ萠芽セルヿ千余年独リ人民ノ此制度ニ習熟セルノミナラス又タ宗教ナル者アリテ之カ機軸ヲ為シ深ク人心ニ浸潤シテ人心此ニ帰一セリ然ルニ我国ニ在テハ宗教ナル者其力微弱ニシテ一モ国家ノ機軸タルヘキモノナシ仏教ハ一タヒ隆盛ノ勢ヲ張リ上下ノ人心ヲ繋キタルモ今日ニ至テハ已ニ衰替ニ傾キタリ神道ハ祖宗ノ遺訓ニ基キ之ヲ祖述スト雖宗教トシテ人心ヲ帰向セシムルノ力ニ乏シ我国ニ在テ機軸トスヘキハ独リ皇室アルノミ是ヲ以テ此憲法草案ニ於テハ専ラ意ヲ此点ニ用ヰ君権ヲ尊重シテ成ルヘク之ヲ束縛セサランコトヲ勉メタリ・・・」と(アジア歴史資料センターのウェッブ・サイトにある「憲法草案枢密院会議筆記」第6コマ)。

 

3 皇位継承の根本義

 ところで,皇位継承の根本義とは何でしょうか。

 

  以上,皇位継承とは,位が主に非ずして(くらゐ)種子(たね)が主である。皇位(みくら)の中核とまします「皇天不二の御神霊」を当然継承し給ひ,此の人格者は即神格者として皇位にましますのである。「御人格(○○○)()()もの(○○)()()()にま(○○)します(○○○)()より(○○)自然(○○)()事実(○○)()変遷(○○)()応じ(○○)自然(○○)()()ながらに(○○○○)皇天二(○○○)()()御延長(○○○)たり(○○)()()」実を,発揮し給ふのである。位といふ有形・無形の座が外に在りて夫を占領し給ふ一種の作用を申すのではない。(筧克彦『大日本帝国憲法の根本義』(岩波書店・1936年)268269頁)

 

 「自然の事実の変遷に応じ」,「御神霊」の「当然継承」がされるのが皇位継承であって,皇嗣たる人格者による皇位の「占領」とは違うということになると,生前譲位は本来の皇位継承ではないということになりそうです。しかし,従来の生前譲位は無効ということになると,万世一系はどうなるのでしょうか。

 

 然しながら,是は第一段の根本につき申すこと故,第二段(○○○)第三段(○○○)()()ては(、、)()()いふ(、、)形式(、、)から(、、)()人格者(、、、)()制約(、、)する(、、)こと(、、)()()つて(、、)来る(、、)。史実としても,皇胤たり給ふ御方様の数多ましませし時には,皇胤ではあらせられても皇位を得給はざりし御方は,具体的には 皇祖の御本系を成就され給ふものといふことが出来ざりし次第であつた。皇胤中に於て御本系を明らかにするには神器(かむだから)の正当なる授受の事実によりて決すべき史実も在つたのである。(筧269頁)

 

「皇天不二の御神霊」の継承は,「神器の正当なる授受」によって生ずるものと考えてよいのでしょうか。

ところが,そうなると,現行の皇室典範4条から「祖宗ノ神器ヲ承ク」を削ってしまったのは早計だったものか。

 しかしながら,今上帝の即位に際しては「臨時閣議において,憲法7条10号,皇室典範4条,皇室経済法7条を根拠に,「剣璽等承継の儀」・・・が()天皇の国事行為と決定され」(昭和64年1月7日内閣告示第4号),1989年1月7日午前10時に行われています(平成元年1月11日宮内庁告示第1号)(佐藤247248頁)。憲法7条10号は「儀式を行ふこと」を天皇の国事行為としています。けれども,現行の皇室典範4条は,信仰にかかわるということから意図的に三種の神器に触れなかったのではないでしょうか。「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。」との皇室経済法7条の規定は,民法の相続に関する規定の例外規定にすぎなかったのではないでしょうか。「神器の正当なる授受」が皇位継承の要素であることは,憲法7条10号に包含された不文の憲法的規範であるということでしょうか。なお,「一定の準備期間を必要とする即位儀とは別に,天皇から皇太子への譲位が決定されると,すぐに剣璽などの宝器(レガリア)を皇太子=新天皇の居所に運んでしまい,それをもって一応の皇位継承が行われたとする「剣璽渡御」(践祚)の儀が成立」するのは「桓武朝以後」と考えられているそうですが(大隅71頁),そうだとすると,「剣璽等承継の儀」は本来的には生前譲位の場合における儀式として始まったということにもなるように思われます。
 ところで,明治天皇は,「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚」するものと自ら明治皇室典範10条を裁定したのですが,早くも明治天皇から大正天皇への皇位の継承に当って齟齬が生じています。当時内務大臣であった原敬の記す明治最後の日・1912年7月29日の日記にいわく。
 「午後10時40分天皇陛下崩御あらせらる。実に維新後始めて遭遇したる事として種々に協議を要する事多かりしなり。/崩御は30日零時43分として発表することに宮中に於て御決定ありたり,践祚の御式挙行の時間なき為めならんかと拝察せり」(隅谷三喜男『日本の歴史22 大日本帝国の試煉』(中央公論社・1966年)456頁)
 明治天皇は,現実の崩御後なお2時間3分の間「在位」していることになっており,「死後譲位」がされたのでした。
 なるほど,明治皇室典範10条以来,皇位継承は,天皇自らの意思によってすることのできないことはもちろん,実は崩御によって直ちに生ずるものでもなく,決定的なのは儀式をつかさどる臣下らの都合なのでした。その後も明治天皇祭の祭祀が行われる日は,7月29日ではなく7月30日で一貫します。

柳原家墓
俊德院殿頴譽巍寂大居士正二位勲一等伯爵柳原前光(1894年9月2日死去・行年四十五歳)の眠る東京都目黒区中目黒の祐天寺にある柳原伯爵家の墓(隣には,大正天皇の生母である智孝院殿法譽妙愛日實大姉従一位勲一等柳原愛子の墓があります。)


弁護士 齊藤雅俊
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 1 自由民主党憲法改正草案1条

 日本国憲法1条は,「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く。」と規定しています。これに対し,2012年4月27日決定の自由民主党の日本国憲法改正草案では,「天皇は,日本国の元首であり,日本国及び日本国民統合の象徴であって,その地位は,主権の存する日本国民の総意に基づく。」と改めるものとしています。


2 元首

 自由民主党の日本国憲法改正草案では,元首という言葉が用いられています。

同党の上記草案に係るQ&Aによると,「元首とは,英語ではHead of Stateであり,国の第一人者を意味します。明治憲法には,天皇が元首であるとの規定が存在していました。また,外交儀礼上でも,天皇は元首として扱われています。」といったことから,「したがって,我が国において,天皇が元首であることは紛れもない事実」であるという同党の認識の下,「世俗の地位である「元首」をあえて規定することにより,かえって天皇の地位を軽んずることになるといった意見」はあったものの,同党内の「多数の意見を採用して,天皇を元首と規定することとし」たものとされています。

 ただし,そもそも「『天皇ハ国ノ元首』なりといふ語は,正確なる法律上の観念を言ひ表は」すものではない(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)123頁)ようです。「国の元首といふ語はchef d’état, Staatsoberhauptの語に相当するもので,それは国家を人間に比較し,人間の総ての働きが頭脳にその源を発して居ると同様に,国家の総ての活動は君主にその源を発するが故に,君主は国家の頭脳であり,元首であるといふのである。」とされていますから(美濃部122頁),元首というのは比喩表現なのでしょう。伊藤博文の『憲法義解』の冒頭部分には「・・・上元首の大権を統べ,下股肱の力を展べ・・・」という表現がありますから,元首は股肱(また及びひじ)と対になるべきもののようです。自由民主党憲法改正草案においては,元首たる天皇の股肱として,どのような存在が考えられているのでしょうか。ちなみに,「立法・行政百揆の事,凡そ以て国家に臨御し,臣民を綏撫する所の者,一に皆之を至尊に総べて其の綱領を攬らざることなきは,譬へば,人身の四支百骸ありて,而して精神の経絡は総て皆其の本源を首脳に取るが如きなり。」という『憲法義解』による大日本帝国憲法4条(「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」)の説明は,天皇は統治権を総攬するからこそ元首であるという認識を意味するものでしょう。アジア歴史資料センターのウェッブ・サイトの『憲法草案枢密院会議筆記』によれば,1888年6月18日午後の枢密院の憲法草案第二読会において,東久世通禧顧問官から「国ノ元首ニシテ」の文字の削除論(「本邦ノ天皇ハ憲法ニ記セストモ国ノ元首タルコト天下ノ人皆之ヲ熟知スルモノナリ然ルニ外国ニ於テハ或ハ人民ノ撰挙ニ依リ帝位ニ登リシ者アリ或ハ外国ヨリ来テ帝位ヲ継キタルモノアリテ人民往往主権ノ所在ニ付キ争ヲ惹起シ疑ヲ生シタルモノア〔ママ〕之ヲ憲法ニ明記スルノ必要アリ」との理由付け。山田顕義司法大臣も賛成)が提議されたところ,それに対して議長の伊藤博文は,「国ノ元首ノ文字ハ無用ナリトノ説アレトモ決シテ然ラス天皇ハ国ノ元首ナレハコソ統治権ヲ総攬シ給フモノナリ国ノ元首ト統治権トハ常ニ密着シテ離レサルモノナリ」と説明していました(第37コマから第39コマまで)。元首でなければ統治権を総攬しないというわけです。なお,統治権の総攬者たる元首としての天皇の地位に係る大日本帝国憲法4条は,天皇の「国家機関としての地位を規定せるもの」とされていましたので(美濃部121頁),この「国家機関としての地位」が,自由民主党内の少数意見にいうところの「世俗の地位」なのでしょう。
 ところで,『憲法義解』の原案作成者である井上毅も,「元首」の語には実は反対だったようです。国立国会図書館ウェッブ・サイトにある伊東巳代治関係文書の『井上毅子爵 逐条意見』(1887年8月)には,「帝国ノ元首トハ学理上ノ語ニシテ憲法ノ成文ニ必要ナラス但独乙各邦ノ憲法ニハ多クハ此語ヲ以テ本条ト同一ナル条則ニ冠冒セシメタルハ各邦ニ於テ僅ニ独乙帝国ノ管制ヲ離レテ独立ノ主権ヲ得タルノ時ニ当レルヲ以テ此ノ一句ヲ確定シテ国主無上ノ独立権ヲ表明シタルカ故ニ由レルナリ我邦ハ固ヨリ独乙各小邦ノ如キ歴史上ノ関係アルニ非サレバ此ノ一句ハ幾ト要用ナキノミナラズ亦第1条ト重複ノ意義ヲ顕ス者ニ疑ハシ」とあります(第6コマ)。自由民主党の意識下の認識においては,「独乙帝国」ならぬ「某帝国」に「管制」されている「小邦」のように我が国は見えているから,せっかくの憲法の改正に際して当該「某帝国」に「管制」されるものではない「独立ノ主権」のあることをくどいながらもあえて表明してそのこだわっていたところの鬱懐を晴らそう,という思いもあるものでしょうか。

3 「日本国民の総意に基づく」

 いずれにせよ,自由民主党憲法改正草案においても,天皇の地位が日本国民の総意に基づくものであることには変化はないようです。これこそ,「日本らしい日本の姿」ということなのでしょう。

 『憲法義解』は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定する大日本帝国憲法1条について「・・・本条首めに立国の大義を掲げ,我が日本帝国は一系の皇統と相依て終始し,古今永遠に亙り,一ありて二なく,常ありて変なきことを示し,以て君民の関係を万世に昭かにす。/統治は大位に居り,大権を統べて国土及臣民を治むるなり。古典に天祖の勅を挙げて「瑞穂国是吾子孫可王之地宜爾皇孫就而治焉〔瑞穂の国は,是れ吾が子孫の王たるべきの地なり,宜しく爾皇孫就いて治せ〕」と云へり。・・・」と述べていますが,自由民主党の憲法改正草案は,天皇の地位は神意に基づくものとは解さないものでしょう。美濃部達吉は「わが万世一系の帝位は,民意に基いたものでもなければ,又敢て超人的の神意に基いたものとしても認められぬ,それは一に皇祖皇宗から伝はつた歴史的成果であつて,〔大日本帝国憲法の上諭に〕『祖宗ノ遺烈ヲ承ケ』とあるのは即ち此の意を示されたものである。」と述べており(美濃部54頁),また,「皇嗣が皇位に就きたまふのは,専ら血統上の権利に基くのであつて,民意に基くものでもなければ,西洋の基督教国の思想の如くに神意に基くものでもない。」とされています(同102頁)。この説明に対して,自由民主党憲法改正草案にいう「日本国民の総意」は,どう解されるものか。美濃部的な解釈としては歴史的なものとしての総意ということになりそうですが,畢竟,現在の総意(民意)の方が強そうでもあります。

 なお,1946年1月1日の昭和天皇の詔書においては「朕ト爾等臣民トノ間ノ紐帯ハ,終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ,単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」とされています。我が国民は,終始天皇を信頼し,かつ,敬愛してきたものであり,「日本国民の総意」には,この点も読み込むべきものでしょうか。
 第90回帝国議会において,金森徳次郎憲法担当国務大臣は,1946年7月3日の衆議院帝国憲法改正案委員会で「第1条ニアリマスル日本国民ト申シマスルノハ,理念的ニ申シマスレバ,現在ノ瞬間ニ生キテ居ル日本国民デハナクテ,是ト同一性ヲ認識シ得ル過去及ビ将来ノ人ヲモ併セ考フル考ヘ方デアリマス」と,同月12日の同委員会で「日本国民ノ総意ト云フモノハ,統合シテ一ツニナツテ居ルモノデアリマシテ,一人々々ノ人間ニ繋ガリハ持ツテ居リマスルケレドモ,一人々々ノ人間其ノモノデハアリマセヌ,サウ云フモノガ過去,現在,未来ト云フ区別ナク,一ツノ総意ガアル訳デアルト思ツテ居リマス」と答弁しています(内閣総理大臣の「皇室典範に関する有識者会議」第5回会合(2005年5月11日)資料)。


4 後光厳天皇の践祚

 天皇の地位は歴史的に「日本国民の総意に基く」ものであって「単ナル神話ト伝説トニ」基づくものではないとして,そのようなものであるということの歴史上の根拠を示す事例としてはどのようなものが考えられるでしょうか。

 話は14世紀の南北朝時代にさかのぼります。

 南北朝時代の観応二年(1351年)の正平一統によって,京都の崇光天皇及び皇太子直仁親王が廃され(同年十一月),神器は後村上天皇の吉野方に接収され(同年十二月),3上皇(光厳・光明・崇光)及び廃太子(直仁親王)が京都から吉野方に連れ去られる(正平七年(1352年)閏二月)という事態が生じました。そのため,皇位が空白となった京都の朝廷では,足利義詮の要請により,光厳上皇の第三皇子(光明上皇の甥,崇光上皇の弟)である弥仁王を新天皇(後光厳天皇)に立てることになりましたが,三種の神器もなければ皇位を与えるべき上皇もいないという異例の事態での践祚となりました(観応三年(1352年)八月)。上皇の代わりは新天皇の祖母の広義門院が務め,神器の代わりには神器の容器であった小唐櫃が用いられました。「何事も先例なしではすまない貴族は,継体天皇の例を持ちだしてこの手続きを合理化しようとした」といいます(佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中央公論社・1965年)276頁)。

6世紀初めの継体天皇の即位の事情はどうかというと,「武烈天皇には子がなかったので,大伴金村は,まず丹波の桑田の倭彦王を天皇にしようとして,兵仗を設けて迎えに行った。ところが,その兵を遠くから見た王は色を失って逃げ,ゆくえがわからなくなったので,つぎに〔越前三国出身の〕男大迹王〔継体天皇〕に白羽の矢をたてた。」「使者に迎えられた男大迹王が河内の樟葉宮に到着すると,金村は神器を奉った。王は位につき,金村を大連,許勢男人を大臣,物部麁鹿火を大連とした。」と概略日本書紀では伝えられています(井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』(中央公論社・1965年)450頁)。王朝交替論のうち水野祐説は,「当時,大和朝廷で最大の権力を握っていた大伴金村は,前王朝とは血縁関係のない継体天皇を擁立したのであろう」としています(井上452頁)。「時の権臣豪族の集議に依つて新帝を推戴した」ものです(美濃部102頁)。

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伝継体天皇大阪府枚方神社内
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 こちらの碑は「樟葉宮」
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高龗たかおかみのかみ継体天皇る末社貴船神社

  二月の辛卯の(つきたち)甲午金村大連(おほむらじ)(すなは)(ひざまづ)天子(すめらみこと)(みかがみ)(みつるぎ)(みし)(るし)(たてまつ)再拝(をろが)る。男大迹(をほどの)天皇(すめらみこと)(いな)(のたま)(いか)(わざ)り。寡人(われ)不才(かな)願請(ねが)(おもひ)(めぐら)賢者(さかしきひと)(えら)寡人(われ)ふ。大連(おほむらじ)(つち)固くる。男大迹(をほどの)天皇(すめらみこと)西(みたび)(ふたたび)ふ。大伴大連(たち)(まを)(やつこ)(はかりみ)大王(おほきみ)宜称(かな)り。(やつこ)()()()社稷(いへ)(はか)(いるかせ)ず。(さきはひ)(もろもろ)(ねがひ)()()(ゆるし)()へ」す。天皇(のたま)大臣(おほおみ)大連(おほむらじ)(いくさのきみ)(まへつきみ)諸臣(もろもろのおみたち)(みな)寡人(われ)(そむ)じ」(すなは)(みし)(るし)ふ。

 あまつ天皇ひつぎしろしめす。日本書紀小学館・1996年)289291頁) 

しかし,観応三年当時の宮廷では,「天皇がなければ,幕府以上に皇室・貴族が困る」ところではありつつも(佐藤276頁),継体天皇の前例だけでは,公卿らはなお落ち着かなかったようです。

ここで,我が国のconstitutional historyにおいて注目すべき名啖呵が飛び出します。


・・・公卿,剣璽なくして〔弥仁王の〕位に即くの不可なるを議す。関白藤原良基曰く,

「尊氏,剣となり,良基,璽となる。何ぞ不可ならん」

と。遂に立つ。これを後光厳院となす。(頼山陽『日本外史』巻之七(頼成一・頼惟勤訳))


すなわち足利尊氏が代表する民と二条(藤原)良基が代表する官とによって構成される我が国民の総意こそが天皇の地位が基づくべき最重要の要素であって,上皇の意思表示及び神器の所在といったものによって代表される皇室自律主義は二次的なものにすぎないというのでしょう(なお,神器の無いまま上皇(後白河法皇)の意思に基づいて即位した前例としては,既に寿永二年(1183年),平家都落ち後の後鳥羽天皇の例がありました。)。

二条良基は,文和五年(1356年)に『菟玖波集』を撰し,応安五年(1372年)には「連歌新式追加(応安新式)を定めて,ことばのかけ合いに興味の中心をおいた自由な詠みかたに枠をはめて,連歌の高踏化に一歩をふみ出し」た(佐藤408頁)連歌の大成者であり,能の分野では世阿弥(藤若)を保護したほか,師として足利義満に「宮廷の儀式典礼,貴族の教養と見なされていた和歌・管弦・書道その他」を教えて義満が「儀式に参列するばかりか,節会などの儀式で主役を演じさえ」できるようにする(佐藤447頁)など,主に文化史上の人物としてとらえられているようです。しかしながら,やはりまず,日本の歴史に影響を与えた政治家でありました。

なお,継体天皇推戴の功労者である大伴金村は,二条良基が位人臣を極め,かつ,我が文化史上に名を遺したのとは対照的に,没落しました。大伴金村は,欽明天皇(継体天皇の子)の代には,朝鮮政策の失敗で力を失っていたようです。日本書紀によれば,欽明天皇元年に新羅対策が問題になったとき,「大伴金村は住吉の宅にいて朝廷には出仕していなかった。天皇は人をやってねぎらったが,金村は言った。「わたくしが病気と称して出仕しないわけはほかでもありません。諸臣らは,わたくしが任那を滅ぼしたのだと申しており,わたくしは恐れて出仕しないのです。」と。」いう出来事があったそうです(井上479頁)。我が半島政策は,いつも難しいものです。


5 「南北朝の合体」の意味

 後光厳天皇の皇統(その子である後円融天皇,孫である後小松天皇(一休さんの父)へと続く。)の話に戻ると,「南朝が正平一統のとき,北朝の〔崇光〕天皇を廃して神器を接収したため,その後の北朝は皇位のシンボルを欠くことからくる正統性への不安をいつまでも解消できなかった」ということになり(佐藤441442頁),明徳三年(1392年)閏十月の「南北朝の合体」に当たって足利義満が承諾した条件は「〔南朝〕後亀山天皇は譲国の儀式をもって三種の神器を後小松天皇に渡す。」という「南朝の正統を認めたもの」とならざるを得ませんでした(佐藤443頁)。しかしながら,足利義満がした約束は義満の約束であって,実行においては,三種の神器は後小松天皇が吉野方から回収したものの,後亀山天皇から後小松天皇に対する譲国の儀による「譲位」はされませんでした。


  三種の神器の受け渡しにしても,「譲国之儀式」は実際には行われず,義満の命によって「文治之例」,つまり源平合戦の際に平家方によって安徳天皇とともに西国に持ち去られた神器が平家滅亡の後に京都の後鳥羽天皇のもとに返ってきた際の例,に準拠するとされている。これでは,皇位の受け渡しではなく,正統な天皇のもとから離れていた神器が本来の場所に帰還した,という解釈を許すことになる。さらに実際には「文治之例」そのままではなく,幾つかの儀礼が義満の命によって省略されており,その結果随分と軽い扱いにな〔った。〕(河内祥輔=新田一郎『天皇の歴史04 天皇と中世の武家』(講談社・2011年)246頁(新田一郎執筆))


正に後小松天皇の宮廷は,後亀山天皇と後小松天皇との間に「皇位の受け渡し」があったものとは解釈していませんでした。


〔明徳五年(1394年)に後亀山天皇に太上天皇の尊号が贈られるに際し〕廷臣の間では,皇位に就かず天皇の父でもない人物に尊号を贈ることの是非が議論となり,結局詔書の文面も「準的ノ旧蹤無シトイヘドモ,特ニ礼敬ノ新制ヲ垂レ,ヨロシク尊号ヲタテマツリテ太上天皇トナスベシ」と,前例のない特例であることを強調したものになっている。

  〔左大臣一条〕経嗣はまた,「此ノ尊号,希代ノ珍事ナリ」として,後醍醐天皇の皇胤を断絶させぬことへの批判を記している。後世にはこの尊号一件は「帝位ニアラザル人ノ尊号ノ例」として挙げられており,北朝方廷臣には,後亀山を天皇とし南朝を皇統とする認識は,〔南北朝の〕合一の前にも後にも,なかったに違いない。(河内=新田246頁(新田))


足利幕府の不安がどのようなものであったかはともかく,京都の朝廷内の意識においては,その「正統性への不安」は,正に三種の神器という「皇位のシンボルを欠く」ことだけだったようです。すなわち,臣民が協力輔翼して新たに後光厳天皇を擁立した二条良基的正統性は,それ自体で天皇の地位が基づくに十分であるものと考えられていて,三種の神器が無いことは不安の種ではあったものの,あえて正平一統時の統一天皇である後村上天皇の子孫から譲位を受ける形で正統性を承継し,又は注入・補強する必要は更になかったということでしょう。この二条良基的なものとして始まった後光厳天皇の正統性が継承せられているのが,現在の皇統であります。

南朝正統論を採って少なくとも後光厳天皇以降数代の天皇の正統性を否定する場合には,吉野方から現在の皇統への正統性の接続を,後亀山天皇から後小松天皇への譲位ないしは譲国の儀式による神器の授受をもって説明しなければならないことになります。この点については,「この年〔明徳三年〕冬,〔後亀山天皇は〕遂に法駕を備へて吉野を発し,大覚寺に御し,父子の礼を以て,神器を後小松帝に授く」(『日本外史』巻之五)というのが,幕末維新期までの南朝正統尊王論者の認識だったようです。これならば,現在の皇統の正統性に問題はないですね。1911年段階でも「北朝は辞を厚くして合体の儀を申入れ,南朝の後亀山天皇は父子禅譲の儀にて御承諾ありたるなり。父子禅譲の伝説は固より信ずべし。」と頑張っている者がいます(笹川臨風『南朝正統論』(春陽堂・1911年)21頁)。しかしながら,さきに見たように,歴史学的にはなかなかそのような事実があったとはいいにくいようです。ということで,後亀山天皇から後小松天皇への譲位の儀式がなかったにもかかわらず南朝の正統性が後小松天皇に継承されたことを説明するために,南朝正統論者は次のように工夫して論じます。


 かくて南北合一神器之〔後小松天皇〕に帰し且つ南帝〔後亀山天皇〕好意の承認を経たる上は,また南朝もなく北朝もなく,〔後小松天皇は〕一点曇りなき万世一系の天津日嗣と成らせ給うたのである。此意味に於て余は北朝の御系統を今日に伝へられたる皇室の尊厳が聊も減ずることなく,天壌と共に窮まりなからんことを断言する。(黒板勝美「南北両朝の由来と其正閏を論ず」友声会編『正閏断案国体之擁護』(松風書院・1911年)41頁)


 これは,後小松天皇側からあった正統性移転の黙示の申込みに対して,後亀山天皇が承諾(「好意の承認」)をしたことにより契約が成立し(「接続取引」ということになるのでしょうか。),その効力として正統性が後小松天皇に移ったとするものでしょうか。しかし,前記のとおり,後小松天皇側は,三種の神器の返還は求めたけれども,そもそも正統性を認めていない相手方からの正統性の授与など求めるわけがない,という態度であったようです。

 後小松天皇と後亀山天皇との間の契約構成が採り得ない場合には,後亀山天皇の単独行為としての説明が試みられます。


  ・・・後小松帝が正当の天子と為られたることは,先帝〔後円融天皇〕よりの位を継承せられたるが為めにあらずして,唯後亀山天皇が其の位を抛棄せられ,既に天皇にあらざるが為めに此時より正当の天皇と為られたるなり・・・(副島義一「法理上より観たる南北正閏論争」友声会67頁)


これは,二人共有の場合に,一方がその持分を放棄すると,他の一方の持分がその分膨らんで完全な所有者になる,という共有の性質(民法255条参照)を連想させる説明ですね。しかしながら,そうだとすると,後小松天皇の有していた「持分」は何に由来したのでしょうか。やはり,後光厳天皇即位に当たっての二条良基的正統性ではなかったでしょうか。

 

6 三種の神器など

 なお,三種の神器については,明治22年の皇室典範ではその第10条で「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定していました。同条については,伊藤博文の『皇室典範義解』において,「恭て按ずるに,神祖以来鏡,剣,璽三種の神器を以て皇位の御守と為したまひ,歴代即位の時は必神器を承くるを以て例とせられたり。・・・本条は皇位の一日も曠闕すべからざるを示し,及神器相承の大義を掲げ,以て旧章を昭明にす。若乃継承の大義は践祚の儀文の有無を問はざるは,固より本条の精神なり。」と説かれていました。「践祚に伴うて行はせらる践祚の儀式及び詔勅は,唯皇位継承の事実を公に確認し宣言したまふに止まり,その効力発生の要件ではない」わけです(美濃部104105頁)。

南北朝時代の乱の原因に関して『皇室典範義解』は,「・・・聖武天皇・光仁天皇に至て遂に〔譲位が〕定例を為せり。此を世変の一とす。其の後権臣の強迫に因り両統互立を例とするの事あるに至る。而して南北朝の乱亦此に源因せり。本条〔明治22年皇室典範10条〕に践祚を以て先帝崩御の後に即ち行はる者と定めたるは,上代の恒典に因り中古以来譲位の慣例を改むる者なり。」と述べています。選定主義がまずかったということのようです。そこで,明治22年の皇室典範においては「皇位の継承は法律上当然に発生する事実であつて,法律行為ではない」ものとされたわけです(美濃部104頁)。


なお,「権臣の強迫」というのでは,北条時宗に気の毒ですね。持明院統・大覚寺統の両統迭立の始まりについて,『増鏡』第九「草枕」は次のように伝えています。


〔北条〕時宗朝臣もいとめでたきものにて,「本院〔後深草上皇。持明院統の祖〕のかく世を思し捨てんずる〔弟である亀山上皇(大覚寺統の祖)の系統が皇統を継ぐことになることをはかなんで出家しようとする〕,いとかたじけなくあはれなる御ことなり。故院〔後嵯峨上皇。後深草上皇の父〕の御掟〔皇統を亀山天皇系に伝えたいとするもの〕は,やうこそあらめなれど,〔後深草上皇は〕そこらの御このかみ〔兄〕にて,させる御誤りもおはしまさざらん。いかでかはたちまちに,名残なくは物し給ふべき。いと怠々しきわざなり」とて,新院〔亀山上皇〕へも奏し,かなたこなた宥め申して,東御方の若宮〔後深草上皇の子である後の伏見天皇〕を坊〔亀山上皇の子である後宇多天皇の皇太子〕にたてまつりぬ。


怖い顔の人が「誠意を見せろ。」というと恐喝(刑法2491項「人を恐喝して財物を交付させた者は,10年以下の懲役に処する。」)になりますが,鎌倉幕府の執権がマアマアと「かなたこなた宥め申」すのも「強迫」になったようです。北条時宗は,モンゴル大帝国の侵略を受けた国々を助ける集団的自衛権を行使する余裕もあらばこそ,個別的自衛権の発動のみで大陸及び半島からの我が国に対する安全保障上の危険に対処してしまったような強面の人でした。


現在の昭和22年法律第3号「皇室典範」4条は「天皇が崩じたときは,皇嗣が,直ちに即位する。」と規定しており,そこでは神器に言及されていません。これについては,194612月5日の第91回帝国議会衆議院本会議において,吉田安議員の質疑に対して金森徳次郎国務大臣が次のように答弁しています。すなわち,政教分離原則に由来する沈黙であるとされているわけです。


 次ぎに皇位の継承と,三種の神器との関係がいかになるかというお尋ねでありましたが,これは皇位が継承せられますれば,三種の神器がそれに追随するということは,こととして当然のことと考えてをります。しかしながらこれに関しまする規定を,皇室典範の中には設けておりません。その次第は,他に考うべき点もありますけれども,主たる点は,三種の神器は一面におきまして信仰ということと結びつけておる場面が非常に多いのでありますから,これを皇室典範そのものの中に表わすことが必ずしも適当でないというふうに考えまして,皇室典範の上にその規定が現れてはいないわけであります。しかしながら三種の神器が皇位の継承と結びついておることはもとよりでありまするので,その物的の面,詰まり信仰の面ではなくして,物的の面におきましての結びつきを,何らか予想しなければなりませんので,その点は,恐らく後に御審議を煩わすことになるであろうと存じまするところの皇室経済法の中に,片鱗を示す規定があることと考えております。


 皇室経済法7条は「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,皇位とともに,皇嗣が,これを受ける。」と規定しています。同条の趣旨について,19461216日,第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会において,金森徳次郎国務大臣は次のように説明しています。天皇にも「民」法の適用があることが前提とされています。


  次ぎに第7条におきまして,日本国の象徴である天皇の地位に特に深い由緒ある物につきましては,一般相続財産に関する原則によらずして,これらのものが常に皇位とともに,皇嗣がこれを受けらるべきものなる旨を規定いたしております,このことはだいたいこの皇室経済法で考えておりまするのは,民法等に規定せられることを念頭にはおかないのでありまするけれども,しかし特に天皇の御地位に由緒深いものの一番顕著なものは,三種の神器などが,物的な面から申しましてここの所にはいるかとも存じますが,さようなものを一般の相続法等の規定によつて処理いたしますることは,甚はだ目的に副わない結果を生じまするので,かようなものは特別なるものとして相続法より除外して,皇位のある所にこれが帰属するということを定めたわけであります。


 天皇に民法の適用があるのならば相続税法の適用もあるわけで,19461217日,第91回帝国議会衆議院皇室典範案委員会におけるその点に関する小島徹三委員の質疑に対し,金森徳次郎国務大臣は次のように答弁しています。


 ・・・だいたい〔皇室経済法〕第7条で考えております中におきましては,はつきり念頭に置いておりますのは,三種の神器でありますけれども,三種の神器を物の方面から見た場合でありますけれども,そのほかにもここに入り得る問題があるのではないか,かように考えております,所がその中におきまして,極く日本の古典的な美術の代表的なものというようなものがあります時に,一々それが相続税の客体になりますと,さような財産を保全することもできないというふうな関係になりまして,制度の関係はよほど考えなければなりませんので,これもまことに卑怯なようでありますけれども,今後租税制度を考えます時に,はっきりそこをきめたい,かように考えております


 相続税法12条1項1号に,皇室経済法7条の皇位とともに伝わるべき由緒ある物は,相続税の非課税財産として掲げられています。

 三種の神器は,国有財産ではありません。19461221日,第91回帝国議会貴族院皇室経済法案特別委員会における大谷正男委員の質疑に対する金森徳次郎国務大臣の答弁は,次のとおり。


  此の皇位に非常に由緒のあると云ふもの・・・今の三種の神器でありましても,皇位と云ふ公の御地位に伴ふものでありますが故に,本当から云へば国の財産として移るべきものと考ふることが,少くとも相当の理由があると思つて居ります,処がさう云ふ風に致しますると,どうしても神器などは,信仰と云ふものと結び付いて居りまする為に,国の方にそれは物的関係に於ては移つてしまふ,それに籠つて居る精神の関係に於ては皇室の方に置くと云ふことが,如何にも不自然な考が起りまして,取扱上の上にも面白くない点があると云ふのでありまするが故に,宗教に関しまするものは国の方には移さない方が宜いであらう,と致しますると,皇室の私有財産の方に置くより外に仕様がない,こんな考へ方で三種の神器の方は考へて居ります・・・


 さて,話は14世紀に戻りますが,後光厳天皇は,吉野方から攻撃されていたばかりではなく,延文二年(1357年)二月に崇光上皇が吉野方に許されて帰京してからは,その正統性について兄の上皇からも圧迫を受けていたようです。


・・・〔崇光上皇及び後光厳天皇の父である〕光厳院の没後の応安四年(1371)になって,〔後光厳〕天皇は皇子緒仁親王への譲位を図るが,持明院統の正嫡を自任する崇光院は,皇子栄仁親王の立太子を望んで武家に働きかけた。これに対し,若年の将軍義満を補佐する管領細川頼之は「聖断たるべし」として天皇に判断を返上し,天皇は緒仁親王(後円融天皇)に譲位して院政を執り,その3年後に没した。・・・「天照大神以来一流の正統」を自任する崇光院流の存在は,皇位継承をめぐってなお紛れの余地を残すことになる。(河内=新田207頁(新田))


ところでこの崇光上皇の系統が世襲親王家の伏見宮家で,先の大戦後に至って,この流れの宮家は,皇籍を離脱することになりました。皇籍復帰いかんが時に話題になる旧宮家です(ただし,明治天皇裁定の明治40年皇室典範増補6条は「皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス」と規定していました。)。

 いずれにせよ,そもそもは,足利尊氏が悪いのです。


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 深草北陵(深草十二帝陵)(京都市伏見区)
 後光厳天皇を含む持明院統の12天皇が合葬されています。

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